太平記(国民文庫)
太平記巻第二十八
○義詮(よしのり)朝臣(あそん)御政務(ごせいむの)事(こと) S2801
貞和六年月二十七日(にじふしちにち)に改元(かいげん)有て、観応(くわんおう)に移る。去年八月十四日に、武蔵守(むさしのかみ)師直・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰等(もろやすら)、将軍の御屋形を打(うち)囲(かこみ)て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)を責出(せめいだ)し、配所(はいしよ)にて死罪に行ひたりし後、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)卿(きやう)出家して、隠遁(いんとん)の体(てい)に成給ひしかば、将軍の嫡男(ちやくなん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮(よしのり)、同(おなじき)十月二十三日(にじふさんにち)鎌倉(かまくら)より上洛(しやうらく)有て、天下(てんか)の政道を執行(とりおこな)ひ給ふ。雖然万事只師直・師泰が計(はから)ひにて有しかば、高家の人々の権勢恰(あたかも)魯(ろ)の哀公(あいこう)に季桓子(きくわんしが)威(ゐ)を振(ふる)ひ、唐の玄宗に楊国忠(やうこくちゆう)が驕(おごり)を究(きは)めしに不異。
○太宰少弐(だざいのせうに)奉聟直冬事(こと) S2802
右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬は、去年の九月に備後を落(おち)て、河尻肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が許(もと)に坐(おは)しけるを、可奉討由(よし)自将軍御教書(みげうしよ)を被成たりけれ共(ども)、是は只武蔵守(むさしのかみ)師直が申沙汰する処也(なり)。誠(まこと)に将軍の御意より事興(おこつ)て被成御教書に非(あら)ずと、人皆推量を廻(めぐら)しければ、後の禍(わざはひ)を顧(かへりみ)て、奉討する人も無(なか)りけり。斯(かかる)処に太宰(だざいの)少弐(せうに)頼尚(よりひさ)如何思(おもひ)けん、此(この)兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を聟(むこ)に取て、己(おのれ)が館(たち)に奉置ければ、筑紫九国(つくしくこく)の外も随其催促重彼命人多かりけり。是に依て宮方(みやがた)、将軍方(しやうぐんがた)、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)方とて国々三(みつ)に分れしかば、世中(よのなか)の総劇(そうげき)弥(いよいよ)無休時。只漢の代傾(かたぶき)て後、呉魏蜀(ごぎしよく)の三国鼎(かなへ)の如くに峙(そばたち)て、互(たがひ)に二(ふたつ)を亡(ほろぼ)さんとせし戦国の始に相似たり。
○三角(みすみの)入道(にふだう)謀叛(むほんの)事(こと) S2803
爰(ここに)石見(いはみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、三角(みすみの)入道(にふだう)、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬の随下知、国中(こくぢゆう)を打順(うちしたが)へ、庄園を掠領(かすめりやう)し、逆威(ぎやくゐ)を恣(ほしいまま)にすと聞へければ、事の大(おほい)に成(なら)ぬ前に退治(たいぢ)すべしとて、越前守(ゑちぜんのかみ)師泰六月二十日都を立て、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)を卒(そつ)し石見(いはみの)国(くに)へ発向(はつかう)す。七月二十七日(にじふしちにち)の暮程に江河(がうのかは)へ打臨(うちのぞ)み、遥(はるかに)敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和(さわの)善四郎が楯篭(たてこもり)たる城よと覚(おぼえ)て、青杉(あをすぎ)・丸屋(まるや)・鼓崎(つづみがさき)とて、間(あひだ)四五町(しごちやう)を隔(へだて)たる城三(み)つ、三壷(さんこ)の如(ごとく)峙(そばだつ)て麓(ふもと)に大河(たいが)流(ながれ)たり。城より下向(おりむか)ふたる敵三百(さんびやく)余騎(よき)、河より向(むかひ)に扣(ひかへ)てこゝを渡せやとぞ招(まねき)たる。寄手(よせて)二万(にまん)余騎(よき)、皆河端(かはばた)に打臨(うちのぞん)で、何(いづ)くか渡さましと見るに、深山(みやま)の雲を分て流(ながれ)出たる河なれば、松栢(しようはく)影を浸(ひた)して、青山(せいざん)も如動、石岩(せきがん)流(ながれ)を徹(とほし)て、白雪(はくせつ)の翻(ひるが)へるに相似たり。「案内も知(しら)ぬ立河(たてかは)を、早(はや)りの侭(まま)に渡し懸(かけ)て、水に溺(おぼれ)て亡びなば、猛(たけ)く共何の益(えき)かあらん。日已(すで)に晩(ばん)に及(および)ぬ。夜に入らば水練(すゐれん)の者共(ものども)を数(あま)た入(いれ)て、瀬踏(せぶみ)を能々(よくよく)せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣(ひか)へたる処に、森(もりの)小太郎・高橋九郎左衛門(くらうざゑもん)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて一陣に進(すすん)だりけるが申けるは、「足利(あしかがの)又太郎(またたらう)が治承(ぢしよう)に宇治河を渡し、柴田橘六(しばたきちろく)が承久(しようきう)に供御(くご)の瀬を渡したりしも、何(いづ)れか瀬踏をせさせて候(さうらひ)し。思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防(ふせが)んとて敵は向(むかひ)に扣(ひか)へたるらめ。此(この)河の案内者(あんないしや)我に勝(まし)たる人不可有。つゞけや殿原(とのばら)。」とて、只二騎真先(まつさき)に進(すすん)で渡せば、二人(ににん)が郎等(らうどう)三百(さんびやく)余騎(よき)、三吉(みよし)の一族(いちぞく)二百(にひやく)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と馬を打(うち)入(いれ)て、弓の本弭末弭(もとはずうらはず)取違(とりちがへ)疋馬(ひつば)に流(ながれ)をせき上(あげ)て、向(むかひ)の岸へぞ懸襄(かけあがつ)たる。善四郎が兵暫(しばらく)支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、散々に懸(かけ)立(たて)られて後(うしろ)なる城へ引退(ひきしりぞ)く。寄手(よせて)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗て続(つづい)て城へ蒐入(かけいら)んとす。三(みつ)の城(じやう)より木戸を開て、同時に打出て、前後左右より取篭(とりこめ)て散々に射る。森・高橋・三吉が兵百(ひやく)余人(よにん)、痛手を負(おひ)、石弓に被打、進(すすみ)兼(かね)たるを見て、越後(ゑちごの)守(かみ)、「三吉討(うた)すな、あれつゞけ。」と被下知ければ、山口(やまぐちの)七郎左衛門(しちらうざゑもん)、赤旗・小旗・大旗の一揆(いつき)、千(せん)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)て懸(かか)る。荒手(あらて)の大勢に攻(せめ)立(たて)られて、敵皆城中(じやうちゆう)へ引(ひき)入れば、寄手(よせて)皆逆木(さかもぎ)の際(きは)まで攻(せめ)寄(よせ)て、掻楯(かいだて)かひてぞ居たりける。手合(てあはせ)の合戦に打(うち)勝(かつ)て、敵を城へは追篭(おひこめ)たれ共(ども)、城の構(かまへ)密(きび)しく岸高く切(きり)立(たち)たれば、可打入便(たより)もなく、可攻落様もなし。只徒(いたづら)に屏(へい)を隔(へだ)て掻楯(かいだて)をさかうて、矢軍(やいくさ)に日をぞ送(おくり)ける。或(ある)時(とき)寄手(よせて)の三吉一揆(いつき)の中に、日来(ひごろ)より手柄を顕(あらは)したる兵共(つはものども)三四人寄(より)合(あひ)て評定しけるは、「城の体(てい)を見るに如今責(せめ)ば、御方(みかた)は兵粮(ひやうらう)につまりて不怺共(とも)、敵の軍に負(まけ)て落(おつ)る事は不可有。其(その)上(うへ)備中・備後・安芸・周防の間に、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に心を通(かよは)する者多しと聞ゆれば、後(うしろ)に敵の出来(いできた)らんずる事無疑。前には数十箇所(すじつかしよ)の城(じやう)を一(ひとつ)も落さで、後(うし)ろには又敵道を塞(ふさぎ)ぬと聞(きこえ)なば、何(いか)なる樊■(はんくわい)・張良(ちやうりやう)ともいへ、片時も不可怺。いざや事の難儀に成(なら)ぬ前に、此(この)城(じやう)を夜討に落(おと)して、敵に気を失はせ、宰相殿に力を付(つけ)進(まゐら)せん。」と申ければ、「此(この)義尤(もつとも)可然。されば手柄(てがら)の者共(ものども)を集(あつめ)よ。」とて、六千(ろくせん)余騎(よき)の兵の中より、世に勝(すぐれ)たる剛(かう)の者をえり出すに、足立(あだち)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・子息又五郎・杉田弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)・後藤左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)種則(たねのり)・同兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則・熊井(くまがゐ)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)政成(まさなり)・山口新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・城所(きところの)藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田(かんだの)八郎(はちらう)・奴可(ぬかの)源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生(うりふ)源左衛門(げんざゑもん)・富田(とた)孫四郎(まごしらう)・大庭(おほには)孫三郎(まごさぶらう)・山田又次郎・甕(もたひ)次郎左衛門(じらうざゑもん)・那珂(なか)彦五郎、二十七人(にじふしちにん)をぞすぐりたる。是等は皆一騎当千(いつきたうぜん)の兵にて、心きゝ夜討に馴(なれ)たる者共(ものども)也(なり)とは云(いひ)ながら、敵千(せん)余人(よにん)篭(こもつ)て用心(ようじん)密(きび)しき城共を、可落とは不見ける。八月二十五日の宵(よひ)の間(ま)に、えい声を出して、先立(さきだつ)人を待調(まちそろ)へさせ筒(どう)の火(ひ)を見せて、さがる勢を進ませて、城の後(うしろ)なる自深山匐々(はふはふ)忍(しのび)寄(より)て、薄(すすき)・苅萱(かるかや)・篠竹(しのだけ)なんどを切て、鎧(よろひ)のさね頭(がしら)・胄(かぶと)の鉢付(はちつけ)の板にひしと差(さし)て、探竿影草(たんかんえいさう)に身を隠し、鼓(つづみ)が崎(さき)の切岸(きりぎし)の下、岩尾(いはほ)の陰(かげ)にぞ臥(ふし)たりける。かるも掻(かき)たる臥猪(ふすゐ)、朽木(くちき)のうつぼなる荒熊(あらくま)共(ども)、人影に驚(おどろき)て、城の前なる篠原(ささはら)を、二三十つれてぞ落(おち)たりける。城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)始(はじめ)は夜討の入(いる)よと心得(こころえ)て、櫓々(やぐらやぐら)に兵共(つはものども)弦音(つるおと)して、抛続松(なげだいまつ)屏(へい)より外へ投出々々(なげだしなげだし)、静返(しづまりかへつ)て見(みえ)けるが、「夜討にては無(なく)て後(うし)ろの山より熊の落(おち)て通(とほ)りけるぞ、止(とどめ)よ殿原。」と呼(よば)はりければ、我先に射て取らんと、弓押(おし)張(はり)靭(うつぼ)掻著々々(かつつけかつつけ)、三百(さんびやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、落(おち)行(ゆく)熊の迹を追(おう)て、遥(はるか)なる麓へ下(さがり)ければ、城に残る兵纔(わづか)に五十(ごじふ)余人(よにん)に成(なり)にけり。夜は既(すで)に明(あけ)ぬ。木戸は皆開(ひらき)たり。なじかは少しも可議擬、二十七人(にじふしちにん)の者共(ものども)、打物(うちもの)の鞘(さや)を迦(はづ)して打(うちて)入(いる)。城の本人佐和(さわ)善四郎並(ならびに)郎等(らうどう)三人(さんにん)、腹巻取(とつ)て肩に投(なげ)懸(かけ)、城戸口(きどぐち)に下合(おりあう)て、一足(ひとあし)も不引戦(たたかひ)けるが、善四郎膝口切(きら)れて犬居(いぬゐ)に伏せば、郎等(らうどう)三人(さんにん)前に立塞(たちふさ)ぎ暫し支(ささへ)て討死す。其(その)間に善四郎は己(おのれ)が役所(やくしよ)に走(はしり)入(いり)、火を懸(かけ)て腹掻(かき)切(きつ)て死(しに)にけり。其(その)外四十(しじふ)余人(よにん)有ける者共(ものども)は、一防(ひとふせぎ)も不防青杉の城(じやう)へ落(おち)て行(ゆく)。熊狩(くまがり)しつる兵共(つはものども)は熊をも不追迹へも不帰、散々(ちりぢり)に成てぞ落(おち)行(ゆき)ける。憑切(たのみきつ)たる鼓崎(つづみがさき)の城(じやう)を被落のみならず、善四郎忽(たちまちに)討れにければ、残(のこり)二(ふたつ)の城(じやう)も皆一日有て落(おち)にけり。兵、伏野飛雁(ひがん)乱行と云(いふ)、兵書の詞(ことば)を知(しら)ましかば、熊(くま)故(ゆゑ)に城をば落されじと、世の嘲(あざけり)に成(なり)にけり。其(その)後越後(ゑちごの)守(かみ)、石見勢(いはみぜい)を相順(あひしたがへ)て国中(こくぢゆう)へ打(うち)出(いで)たるに、責(せめ)られては落(おち)得じとや思(おもひ)けん、石見(いはみの)国中(こくぢゆう)に、三十二箇所(さんじふにかしよ)有ける城共、皆聞落(ききおち)して、今は只三角(みすみ)入道が篭(こもり)たる三隅(みすみ)城(じやう)一(ひとつ)ぞ残(のこり)ける。此(この)城(じやう)山嶮(けはし)く用心(ようじん)深ければ、縦(たとひ)力責(ちからぜめ)に攻(せむ)る事こそ不叶共、扶(たすけ)の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何(いつ)までか怺(こらへ)て城にもたまるべき。只四方(しはう)の峯々に向城(むかひじやう)を取(とつ)て、二年三年にも攻(せめ)落せとて、寄手(よせて)の構(かまへ)密(きび)しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚(おぼえ)ける。
○直冬朝臣(ただふゆあそん)蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)将軍(しやうぐん)御進発(ごしんぱつの)事(こと) S2804
中国は大略静謐(せいひつ)の体(てい)なれ共(ども)、九州又蜂起(ほうき)しければ、九月二十九日、肥後(ひごの)国(くに)より都へ早馬(はやうま)を立(たて)て注進しければ、「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬、去月十三日(じふさんにち)当国に下著(げちやく)有て、川尻(かはじり)肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が館(たち)に居(きよ)し給ふ処に、宅磨(たくま)別当太郎守直(もりなほ)与力(よりき)同心して国中(こくぢゆう)を駆催(かりもよほす)間、御方(みかた)に志を通ずる族(やから)有といへ共、其(その)責(せめ)に不堪して悉(ことごとく)付(つき)順(したが)はずと云(いふ)者なし。然(しかる)間川尻(かはじり)が勢如雲霞成て宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)守(かみ)が城を囲むに、一日(いちにち)一夜(いちや)合戦して討るゝ者百(ひやく)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る兵不知数。遂(つひ)に三河(みかはの)守(かみ)城(じやう)を被責落、未(いまだ)死生の堺を不知分。宅磨・河尻、弥(いよいよ)大勢に成て鹿子木大炊助(かのこぎおほひのすけ)を取(とり)巻(まく)間、後攻(ごづめ)の為少弐(せうに)が代官宗利(むねとし)近国を相催(あひもよほ)すといへ共、九国二島(くこくにたう)の兵共(つはものども)、太半兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に心を通ずる間、催促に順(したが)ふ輩(ともがら)多からず。事已(すで)に及難儀候、急(いそぎ)御勢(おんせい)を被下べし。」とぞ申ける。将軍此(この)注進に驚(おどろき)て、「さても誰をか討手に可下。」と執事武蔵守(むさしのかみ)に間給ひければ、師直、「遠国の乱を鎮めんが為には、末々(すゑずゑ)の御一族(ごいちぞく)、乃至(ないし)師直なんどこそ可罷下にて候へ共、是はいかにも上さまの自(みづから)御下(おんくだり)候(さうらひ)て、御退治(ごたいぢ)なくては叶(かなふ)まじきにて候。其故は九国の者共(ものども)が兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に奉付事は、只将軍の君達にて御座候へば、内々御志(おんこころざし)を被通事は候はんと存ずる者にて候也(なり)。天下の人(ひとの)案に相違して、直(ぢき)に御退治(ごたいぢ)の御合戦候はゞ、誰か父子の確執(かくしつ)に天の罰(ばつ)を顧(かへりみ)ぬ者候べき。将軍の御旗下(おんはたもと)にて、師直命を軽(かろん)ずる程ならば、九国・中国悉(ことごとく)御敵(おんてき)に与(くみ)すと云共、何の恐か候べき。只夜を日に継で御下候へ。」と、強(あながち)に勧(すす)め申ければ、将軍一義にも不及給、都の警固には宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮を残(のこし)置(おき)奉て、十月十三日(じふさんにち)征夷(せいい)大将軍正二位(しやうにゐの)大納言源尊氏(みなもとのたかうぢ)卿(きやう)、執事武蔵守(むさしのかみ)師直を召具し、八千(はつせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)し、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬為誅罰とて、先(まず)中国へとぞ急(いそぎ)給ける。
○錦小路(にしきのこうぢ)殿(どの)落南方事(こと) S2805
将軍、已(すでに)明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)は、石堂(いしたう)右馬助(うまのすけ)頼房許(ばかり)を召具(めしぐ)して、いづち共不知落(おち)給(たまひ)にけり。是を聞(きき)て世の危(あやぶみ)を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類(いちるゐ)今に滅(ほろび)ん。」とぞ囁(ささやき)ける。事の様を知らぬ其(その)方様(かたさま)の人々女姓(によしやう)なんどは、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、こはいかに成(なり)ぬる世中(よのなか)ぞや。御共に参(まゐり)たる人もなし。御馬(おんむま)も皆厩(むまや)に繋(つなが)れたり。徒洗(かちはだし)にては何(いづ)くへか一足(ひとあし)も落(おち)させ給ふべき。是は只武蔵守(むさしのかみ)の計(はからひ)として、今夜忍(しのび)やかに奉殺者也(なり)。」と、声も不惜泣(なき)悲(かなし)む。仁木(につき)・細川の人々も執事の尾形に馳集(はせあつまつ)て、「錦小路殿(にしきのこうぢどの)落(おち)させ給ひて候事、後の禍(わざはひ)不遠と覚(おぼえ)候へば、暫(しばらく)都に御逗留(ごとうりう)有て在所(ざいしよ)をも能々(よくよく)可被尋や候(さうらふ)らん。」と被申ければ、師直、「穴(あな)こと/゛\し、縦(たとひ)何(いか)なる吉野十津河(とつかは)の奥、鬼海(きかい)高麗(かうらい)の方へ落(おち)給ひたり共、師直が世にあらん程は誰か其人に与(くみ)し奉(たてまつる)べき。首を獄門(ごくもん)の木に曝(さら)し、尸(かばね)を匹夫(ひつぷ)の鏃(やじり)に止(とど)め給はん事、三日が内を不可出。其(その)上(うへ)将軍(しやうぐん)御進発(ごしんぱつ)の事、已(すで)に諸国へ日を定(さだめ)て触遣(ふれつかは)しぬ。相図(あいづ)相違せば事の煩(わづらひ)多かるべし。暫(しばらく)も非可逗留(とうりう)処。」とて、十月十三日(じふさんにち)の早旦に師直遂(つひ)に都を立て、将軍を先立(さきだて)奉り、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)駆具(かけぐ)して、十一月十九日に備前の福岡に著(つき)給ふ。爰(ここ)にて四国中国の勢を待(まち)けれ共(ども)、海上は波風荒(あれ)て船も不通山陰道(せんおんだう)は雪降積(ふりつもつ)て馬の蹄も立(たた)ざれば、馳(はせ)参る勢不多。さては年明(あけ)てこそ筑紫へは向はめとて、将軍備前の福岡にて徒(いたづら)に日をぞ送られける。
○自持明院殿(ぢみやうゐんどの)被成院宣事(こと) S2806
左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)は、師直が西国へ下らんとしける比(ころ)をひ、潜(ひそか)に殺し可奉企(くはたて)有(あり)と聞へしかば、為遁其死忍(しのん)で先(まづ)大和国へ落て、越智(をち)伊賀(いがの)守(かみ)を憑(たの)まれたりければ、近辺の郷民(きやうみん)共(ども)同心に合力して、路々を切塞(きりふさ)ぎ四方(しはう)に関を居(すゑ)て、誠(まこと)に弐(ふたごころ)なげにぞ見へたりける。後一日有て、石堂(いしたう)右馬助(うまのすけ)頼房以下、少々志を存(ぞんず)る旧好(きうかう)の人々馳(はせ)参りければ、早(はや)隠れたる気色もなし。其聞へ都鄙(とひ)の間に区(まちまち)也(なり)。何様天気ならでは私の本意を難達とて、先(まづ)京都へ人を上せ、院宣を伺(うかがひ)申されければ、無子細軈(やが)て被宣下、剰(あまつさへ)不望鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)に被補。其(その)詞(ことばに)云(いはく)、被院宣云(いはく)、斑鳩宮之誅守屋、朱雀院之戮将門、是豈非捨悪持善之聖猷哉(かな)。爰退治(たいぢ)凶徒(きようと)、欲息父叔両将之鬱念、叡感甚不少。仍補鎮守府将軍、被任左兵衛督畢。早卒九国二島並五畿七道(ごきしちだう)之軍勢(ぐんぜい)企上洛(しやうらく)、可令守護(しゆご)天下。者依院宣執達如件。観応元年十月二十五日権中納言国俊奉足利左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)
○慧源禅巷(ゑげんぜんかう)南方合体(なんぱうがつていの)事(こと)付(つけたり)漢楚(かんそ)合戦(かつせんの)事(こと) S2807
左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道、都を仁木(につき)・細川・高家の一族共(いちぞくども)に背(そむ)かれて浮れ出ぬ。大和・河内・和泉・紀伊(きいの)国(くに)は、皆吉野の王命に順(したがう)て、今更武家に可付順共不見ければ、澳(おき)にも不著礒にも離(はなれ)たる心地して、進退歩(あゆみ)を失へり。越智(をち)伊賀(いがの)守(かみ)、「角(かく)ては何様(いかさま)難儀なるべしと覚へ候。只吉野殿(よしのどの)の御方(みかた)へ御参候(さふらひ)て、先非(せんぴ)を改め、後栄(こうえい)を期(ご)する御謀(はかりこと)を可被廻とこそ存(ぞんじ)候へ。」と申ければ、「尤此(この)儀可然。」とて、軈(やが)て専使(せんし)を以て、吉野殿(よしのどの)へ被奏達けるは、元弘初、先朝為逆臣被遷皇居(くわうきよ)於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏(たかうぢの)卿(きやう)企上洛(しやうらく)、応勅決戦、帰天下於一統(いつとう)皇化候事、乾臨定被残叡感候歟(か)。其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類(いちるゐ)悉残朝敵(てうてき)之名条歎有余処也(なり)。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海(しかい)之(の)逆乱、可戴聖朝之安泰候。此旨内内得御意、可令奏聞給候。恐惶謹言。十二月九日(ここのか)沙弥慧源進上四条(しでうの)大納言殿(だいなごんどの)と委細の書状を捧(ささげ)て、降参の由をぞ被申たる。則(すなはち)諸卿参内して、此事如何(いか)が可有と僉議ありけるに、先(まづ)洞院(とうゐんの)左大将実世(さねよ)公(こう)被申けるは、「直義入道が申処、甚(はなはだ)以(もつて)偽(いつは)れり。相伝譜代(ふだい)の家人(けにん)、師直・師泰が為に都を被追出身の措(おき)処なき間、聊(いささか)借天威己(おのれが)為達宿意、奉掠天聴者也(なり)。二十(にじふ)余年(よねん)の間一人(いちじん)を始(はじめ)進(まゐら)せて百司千官悉(ことごとく)望鳳闕之雲、■飛鳥之翅事、然(しかしながら)直義入道が不依悪逆乎。而(しかるに)今幸(さいはひに)軍門に降(くだ)らん事を請(こ)ふ、此(これ)天の与(あたふ)る処也(なり)。乗時是を不誅後の禍(わざはひ)噛臍無益。只速(すみやか)に討手を差(さし)遣(はし)て首を禁門の前に可被曝とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ける。次に二条(にでうの)関白左大臣殿(くわんばくさだいじんどの)暫(しばらく)思案して被仰けるは、「張良(ちやうりやう)が三略の詞(ことば)に、推慧施恩士力日新戦如風発といへり。是己(おのれが)謝罪者は忠貞に不懈誠以尽事、却(かへつ)て無弐故(ゆゑ)也(なり)。されば章邯(しやうかん)楚に降(くだつ)て秦忽(たちまち)に破れ、管仲許罪斉(せい)則治(をさまりし)事、尤(もつとも)今の世に可為指南。直義入道御方(みかた)に参る程ならば、君天下を保(たもた)せ給はん事万歳是より可始。只元弘の旧功を不被捨、官職に復して被召仕より外の義は非じとこそ覚へ候へ。」と異儀区(まちまち)にこそ被申けれ。諌臣両人の異儀、得失互に備(そな)ふ。是非難分。君も叡慮を被傾、末座の諸卿も言を出さで良(やや)久(ひさしく)ある処に、北畠(きたばたけの)准后禅閤(じゆごうぜんかふ)喩(たとへ)を引て被申けるは、「昔秦の世已(すで)に傾(かたぶ)かんとせし時、沛公(はいこう)は沛郡(はいぐん)より起り項羽(かうう)は楚より起る。六国(りくこく)の諸候の秦を背(そむ)く者彼両将に付(つき)順(したがひ)しかば、共に其(その)威漸(やうやく)振(ふるう)て、沛公(はいこう)が兵十万(じふまん)余騎(よき)、漢の濮陽(ぼくやう)の東に軍(いくさ)だちし、項羽(かうう)が勢(せい)は四十万騎(しじふまんぎ)、定陶(ていたう)を攻(せめ)て雍丘(ようきう)の西に至る。沛公(はいこう)、項羽(かうう)相共(あひとも)に古(いにしへ)の楚王の末孫心(そんしん)と云(いひ)し人、民間に下て羊を飼(かひ)しを、取立(とりたて)義帝(ぎてい)と号し、其(その)御前(おんまへ)にて、先(まづ)咸陽(かんやう)に入て秦を亡(ほろぼ)したるらん者、必(かならず)天下に王たるべしと約諾(やくだく)して、東西に分れて責(せめ)上る。角(かく)て項羽(かうう)已(すで)に鉅鹿(きよろく)に至(いたる)時(とき)、秦の左将軍(さしやうぐん)章邯(しやうかん)、百万騎にて相(あひ)待(まち)ける間、項羽(かうう)自(みづから)二十万騎(にじふまんぎ)にて河を渡て後(のち)、船を沈(しづ)め釜甑(ふぞう)を破て盧舎(ろしや)を焼(やく)。是(これ)は敵大勢にて御方(みかた)小勢也(なり)。一人も生(いき)ては不返と心を一にして不戦ば、千に一も勝(かつ)事非じと思ふ故(ゆゑ)に、思(おもひ)切(きつ)たる心中を士卒に為令知也(なり)。於是秦の将軍と九たび遇(あう)て百たび戦(たたかふ)。忽(たちまち)に秦の副将軍(ふくしやうぐん)蘇角(そかく)を討て王離を生虜(いけどり)しかば、討(うた)るゝ秦の兵四十(しじふ)余万人(よまんにん)、章邯(しやうかん)重(かさね)て戦ふ事を不得、終(つひ)に項羽(かうう)に降(くだつ)て還(かへつ)て秦をぞ責(せめ)たりける。項羽(かうう)又新安城(しんあんじやう)の戦(たたかひ)に打(うち)勝(かつ)て首を切(きる)事二十万(にじふまん)、凡(すべ)て項羽(かうう)が向ふ処不破云(いふ)事なく、攻(せむ)る城は不落云(いふ)事無(なか)りしか共、至(いたる)所ごとに美女を愛し酒に淫(いん)し、財を貪(むさぼ)り地を屠(はふり)しかば、路次(ろし)に数月(すげつ)の滞(とどこほり)有て、末だ都へは不責入。漢の元年十一月に、函谷関(かんこくくわん)にぞ著(つき)にける。沛公(はいこう)は無勢(ぶせい)にして而(しか)も道難処(なんしよ)を経(へ)しか共、民を憐み人を撫(ぶ)する心深(ふかく)して、財をも不貪人をも不殺しかば、支(ささへ)て防ぐ城もなく、不降云(いふ)敵もなし。道開けて事安かりしかば、項羽(かうう)に三月先立(さきだち)て咸陽宮(かんやうきゆう)へ入にけり。而共(しかれども)沛公(はいこう)志(こころざし)天下に有しかば、秦の宮室をも不焼、驪山(りざん)の宝玉をも不散、剰(あまつさへ)降(くだ)れる秦の子嬰(しえい)を守護(しゆご)し奉て、天下の約を定めん為に、還(かへつ)て函谷(かんこく)へ兵を差(さし)遣(つかは)し、項羽(かうう)を咸陽へ入(いれ)立(たて)じと関の戸を堅(かたく)閉(とぢ)たりける。数月(すげつ)有て項羽(かうう)咸陽へ入らんとするに、沛公(はいこう)の兵函谷関を閉(とぢ)て項羽(かうう)を入(いれ)ず。項羽(かうう)大(おほい)に怒(いかつ)て当陽君(たうやうくん)に十二万騎(じふにまんぎ)の兵を差副(さしそへ)、函谷関を打(うち)破(やぶつ)て咸陽宮へ入(いり)にけり。則(すなはち)降(くだ)れる子嬰(しえい)皇帝(くわうてい)を殺(ころし)奉(たてまつつ)て咸陽宮に火を懸(かけ)たれば、方三百七十里(さんびやくしちじふり)に作(つくり)双(ならべ)たる宮殿楼閣(くうでんろうかく)一(ひとつ)も不残焼(やけ)て、三月まで火不消、驪山(りざん)の神陵(しんりやう)忽(たちまち)に灰塵(くわいぢん)と成(なる)こそ悲しけれ。此(この)神陵と申は、秦(しんの)始皇帝(しくわうてい)崩御(ほうぎよ)成(なり)し時、はかなくも人間の富貴(ふつき)を冥途(めいど)まで御身(おんみ)に順(したが)へんと思して、楼殿(ろうでん)を作(つくり)瑩(みが)き山川(さんせん)をかざりなせり。天には金銀を以て日月を十丈(じふぢやう)に鋳(い)させて懸け、地には江海を形取(かたどつ)て銀水を百里に流せり。人魚の油十万(じふまん)石(ごく)、銀の御錠(あぶらつき)に入(いれ)て長時(ぢやうじ)に灯(とぼしび)を挑(かかげ)たれば、石壁(せきへき)暗しといへ共青天白日の如く也(なり)。此中に三公(さんこう)已下の千官六千人(ろくせんにん)、宮門守護(しゆご)の兵一万人、後宮(こうきゆう)の美人三千人(さんぜんにん)、楽府(がくふ)の妓女(ぎによ)三百人(さんびやくにん)、皆生(いき)ながら神陵の土に埋(うもれ)て、苔(こけ)の下にぞ朽(くち)にける。始作俑人無後乎と文宣(ぶんせん)王の誡(いましめ)しも、今こそ思(おもひ)知(しら)れたれ。始皇帝(しくわうてい)如此執覚(しつしおぼして)様々の詔(せう)を被残神陵なれば、さこそは其妄執(まうしふ)も留(とどめ)給(たまふ)らんに、項羽(かうう)無情是(これ)を堀(ほり)崩して殿閣(でんかく)悉(ことごとく)焼払(やきはらひ)しかば、九泉(きうせん)の宝玉二度(ふたたび)人間に返るこそ愍(あはれ)なれ。此時項羽(かうう)が兵は四十万騎(しじふまんぎ)新豊(しんほう)の鴻門(こうもん)にあり。沛公(はいこう)が兵は十万騎(じふまんぎ)咸陽の覇上(はじやう)にあり。其間相(あひ)去(さる)事三十里(さんじふり)、沛公(はいこう)項羽(かうう)に未(いまだ)相(あひ)見(まみえず)。於是(ここに)范増(はんぞう)といへる項羽(かうう)が老臣、項羽(かうう)に口説(くどい)て云(いひ)けるは、「沛公(はいこう)沛郡に有(あり)し時、其(その)振舞(ふるまひ)を見しかば、財を貪(むさぼり)美女を愛する心尋常(よのつね)に越(こえ)たりき。今咸陽に入て後、財をも不貪美女をも不愛。是(これ)其(その)志天下にある者也(なり)。我人を遣(つかは)して窃(ひそか)に彼(かの)陣中(ぢんちゆう)の体(てい)を見するに、旗(はたの)文(もんに)竜虎(りようこ)を書けり。是(これ)天子の気に非(あらず)や。速(すみやか)に沛公(はいこう)を不討ば、必天下為沛公(はいこう)可被傾。」と申ければ、項羽(かうう)げにもと聞(きき)ながら、我(わが)勢の強大なるを憑(たのみ)て、何程の事か可有と思(おもひ)侮(あなどつ)てぞ居たりける。斯(かか)る処に沛公(はいこう)が臣下(しんかに)曹無傷(さうぶしやう)と云ける者、潜(ひそか)に項羽(かうう)の方へ人を遣(つかは)して、沛公(はいこう)天下に王たらんとする由をぞ告(つげ)たりける。項羽(かうう)是を聞て、此(この)上は無疑とて四十万騎(しじふまんぎ)の兵共(つはものども)に命(めい)じて、夜明ば則(すなはち)沛公(はいこう)の陣へ寄せ、一人も不余可討とぞ下知しける。爰(ここ)に項羽(かうう)が季父(をぢ)に項伯(かうはく)と云(いひ)ける人、昔より張良(ちやうりやう)と知音(ちいん)也(なり)ければ、此(この)事を告(つげ)知(しら)せて落さばやと思(おもひ)ける間、急(いそぎ)沛公(はいこう)の陣へ行(ゆき)向ひ張良を呼出して、「事の体(てい)已(すで)に急也(なり)。今夜急ぎ逃(にげ)去て命許(ばかり)を助かれ。」とぞ教訓したりける。張良元来(もとより)義を重(おもん)じて、節に臨(のぞ)む時命を思ふ事塵芥(ぢんかい)よりも軽(かろく)せし者也(なり)ければ、何故(なにゆゑ)か事の急なるに当(あたつ)て、高祖(かうそ)を捨(すて)て可逃去とて、項伯が云(いふ)処を沛公(はいこう)に告ぐ。沛公(はいこう)大(おほい)に驚て、「抑(そもそも)我兵を以て項羽(かうう)と戦(たたかは)ん事、勝負(しようぶ)可依運や。」と問(とひ)給へば、張良暫く案じて、「漢の兵は十万騎(じふまんぎ)、楚は是(これ)四十万騎(しじふまんぎ)也(なり)。平野にて戦(たたかは)んに、漢勝(かつ)事を難得。」とぞ答へける。沛公(はいこう)、「さらば我(われ)項伯を呼(よび)て、兄弟の交(まじはり)をなし婚姻(こんいん)の義を約して、先(まづ)事の無為(ぶゐ)ならんずる様を謀(はか)らん。」とて項伯を帷幕(ゐばく)の内へ呼(よび)給(たまひ)て、先(まづ)旨酒(ししゆ)を奉じ自(みづから)寿(ことほぎ)をなして宣ひけるは、「初(はじめ)我と項王と約を成(なし)て先(まづ)咸陽に入らん者を王とせんと云(いひ)き。我項王に先立(さきだつ)て咸陽に入(いる)事七十(しちじふ)余日(よにち)、而(しか)れ共約を以て我天下に王たらん事を不思、関(せき)に入て秋毫(しうがう)も敢(あへ)て近付(ちかづくる)処に非(あら)ず。吏民(りみん)を籍(せき)し府庫(ふこ)を封(ほう)じて項王の来(きたり)給はん日を待(まつ)。是(これ)世の知る処也(なり)。兵を遣(つかは)して函谷関を守らせし事は、全く項王を防(ふせぐ)に非(あら)ず。他(たの)盜人(ぬすびと)の出入と非常とを備へん為也(なり)き。願(ねがはく)は公速(すみやか)に帰て、我が徳に不倍処を項王に語て明日の戦を留給へ。我則(すなはち)旦日(たんじつ)項王の陣に行(ゆき)て自(みづから)無罪故を可謝。」と宣(のたまへ)ば、項伯則(すなはち)許諾(きよだく)して馬に策(むちうつ)てぞ帰にける。項伯則(すなはち)項王の陣に行て具(つぶさ)に沛公(はいこう)の謝(しや)する処を申けるは、「抑(そもそも)沛公(はいこう)先(まづ)関中を破らざらましかば、項王今咸陽に入て枕を高(たかく)し食を安(やすん)ずる事を得ましや。今天下の大功は然(しかしながら)沛公(はいこう)にあり。而(しか)るを小人の讒(ざん)を信じて有功人を討(うた)ん事大なる不義也(なり)。不如沛公(はいこう)と交(まじはり)を深(ふかく)し功を重(おもん)じて天下を鎮(しづ)めんには。」と、理を尽して申ければ、項羽(かうう)げにもと心服して顔色(がんしよく)快(こころよ)く成(なり)にけり。暫(しばし)あれば沛公(はいこう)百(ひやく)余騎(よき)を随(したが)へて来て項王に見(まみ)ゆ。仍(すなはち)礼謝して曰(いはく)、「臣項王と力を勠(あはせ)て秦を攻(せめ)し時、項王は河北(かほく)に戦ひ臣は河南(かなん)に戦ふ。不憶き、万死を秦(しん)の虎口(ここう)に逋(のが)れて、再会を楚の鴻門(こうもん)に遂(とげ)んとは。而(しか)るに今佞人(ねいじん)の讒(ざん)に依(よつ)て臣項王と胡越(こゑつ)の隔(へだて)有らん事豈可不悲乎。」と首(かうべ)を著地宣へば、項羽(かうう)誠(まこと)に心解(とげ)たる気色(けしき)にて、「是(これ)沛公(はいこう)の左司馬曹無傷(さうぶしやう)が告(つげ)知(しら)せしに依(よつ)て頻(しきり)に沛公(はいこう)を疑(うたがひ)き。不然何(なにを)以(もつ)てか知(しる)事あらん。」と、忽(たちまち)に証人(しようにん)を顕(あらは)して誠(まこと)に所存なげなる体(てい)、心浅くぞ見へたりける。項羽(かうう)頻(しきり)に沛公(はいこう)を留めて酒宴に及ぶ。項王項伯とは東に嚮(むい)て坐し、范増(はんぞう)は南に嚮(むき)たり。沛公(はいこう)は北に嚮て坐し、張良は西(にしに)嚮て侍り。范増(はんぞう)は兼(かね)てより、沛公(はいこう)を討(うた)ん事非今日ば何(いつ)をか可期と思(おもひ)ければ、項羽(かうう)を内へ入(いれ)て、沛公(はいこう)と刺(さし)違(ちが)へん為に、帯(はい)たる所の太刀を拳(にぎつ)て、三度(さんど)まで目加(めくはせ)しけれ共(ども)、項羽(かうう)其心を不悟只黙然(もくねん)としてぞ居たりける。范増(はんぞう)則(すなはち)座を立て、項荘(かうさう)を呼(よび)て申けるは、「我為項王沛公(はいこう)を討(うた)んとすれ共項王愚(おろか)にして是を不悟。汝早(はやく)席に帰て沛公(はいこう)を寿(ことぶき)せよ。沛公(はいこう)盃(さかづき)を傾(かたぶけ)ん時、我(われと)与汝剣を抜(ぬい)て舞ふ真似(まね)をして、沛公(はいこう)を坐中にして殺(ころさ)ん。而(しか)らずは汝が輩(ともがら)遂(つひ)に沛公(はいこう)が為に亡(ほろぼ)されて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を不可出。」と涙を流(ながし)て申ければ、項荘一義に不及。則(すなはち)席に帰て、自(みづから)酌を取て沛公(はいこう)を寿(ことぶき)す。沛公(はいこう)盃を傾(かたぶく)る時、項荘、「君王今沛公(はいこう)と飲酒(いんしゆ)す。軍中楽(がく)を不為事久し。請(こふ)臣等(しんら)剣を抜(ぬい)て太平の曲を舞(まは)ん。」とて、項荘剣を抜(ぬい)て立(たつ)。范増(はんぞう)も諸共に剣を指(さし)かざして沛公(はいこう)の前に立(たち)合(あひ)たり。項伯彼等が気色(けしき)を見、沛公(はいこう)を討せじと思(おもひ)ければ、「我(われ)も共に可舞。」とて同(おなじく)又剣を抜(ぬい)て立(たつ)。項荘南に向へば項伯北に向(むかつ)て立。范増(はんぞう)沛公(はいこう)に近付(ちかづけ)ば項伯身を以て立(たち)隠す。依之(これによつて)楽已(すで)に徹(をはら)んとするまで沛公(はいこう)を討(うつ)事不能。少し隙(ひま)ある時に張良門前に走(はしり)出て誰かあると見るに、樊■(はんくわい)つと走(はしり)寄て、坐中(ざちゆう)の体(てい)如何と問ければ、張良、「事甚(はなはだ)急也(なり)。今項荘剣を抜(ぬい)て舞ふ。其意常に沛公(はいこう)に在(あり)。」と答(こたへ)ければ、樊■(はんくわい)、「此(これ)已(すで)に喉(のんどに)迫(せま)る也(なり)。速(すみやか)に入て沛公(はいこう)と同(おなじく)命を失(うしなは)んにはしかじ。」とて、胄(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、鉄(くろがね)の楯(たて)を挟(はさみ)て、軍門の内へ入(いら)んとす。門の左右に交戟(かうげき)の衛士(ゑいし)五百(ごひやく)余人(よにん)、戈(ほこ)を支(ささ)へ太刀を抜(ぬい)て是を入(いれ)じとす。樊■(はんくわい)大に忿(いかつ)て、其(その)楯を身に横(よこた)へ門の関(くわん)の木七八本押(おし)折(をつ)て、内へつと走(はしり)入れば、倒(たふ)るゝ扉(とびら)に打(うち)倒され、鉄(くろがね)の楯につき倒されて、交戟(かうげき)の衛士(ゑいし)五百人(ごひやくにん)地に臥(ふ)して皆起(おき)あがらず。樊■(はんくわい)遂(つひ)に軍門に入て、其(その)帷幕(ゐばく)を掲(かかげ)て目を嗔(いから)し、項王をはたと睨(にらん)で立(たち)けるに、頭(かしら)の髪(かみ)上にあがりて胄の鉢(はち)をゝひ貫(つらぬ)き、師子(しし)のいかり毛(げ)の如く巻て百千万の星となる。眦(まなじり)逆(さかさま)に裂(さけ)て、光(ひかり)百練(ひやくれん)の鏡に血をそゝぎたるが如(ごとく)、其(その)長(たけ)九尺(くしやく)七寸(しちすん)有て忿(いか)れる鬼鬚(ひげ)左右に分れたるが、鎧突(よろひづき)して立(たつ)たる体(てい)、何(いか)なる悪鬼羅刹(あくきらせつ)も是には過(すぎ)じとぞ見へたりける。項王是を見給(たまひ)て、自(みづから)剣を抜懸(ぬきかけ)て跪(ひざまづい)て、「汝何者(なにもの)ぞ。」と問(とひ)給へば、張良、「沛公(はいこう)の兵に樊■(はんくわい)と申(まうす)者にて候也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。項羽(かうう)其時に居直(ゐなほつ)て、「是(これ)天下の勇士(ゆうし)也(なり)。彼(かれ)に酒を賜(たま)はん。」とて、一斗(いつと)を盛る巵(さかづき)を召(めし)出して樊■(はんくわい)が前にをき、七尾許(ななつをばかり)なる■(きのこ)の肩を肴(さかな)にとつて出されたり。樊■(はんくわい)楯を地に覆(ふせ)剣を抜(ぬき)て■(きのこ)の肩を切て、少(すこし)も不残噛食(かみくう)て巵(さかづき)に酒をたぶ/\と受て三度(さんど)傾(かたぶ)け、巵(さかづき)を閣(さしおい)て申(まうし)けるは、「夫(それ)秦王虎狼(こらう)の心有て人を殺し民を害する事無休時。天下依之(これによつて)秦を不背云(いふ)者なし。爰(ここ)に沛公(はいこう)と項王と同(おなじ)く義兵を揚(あげ)、無道(ぶだう)の秦を亡(ほろぼ)して天下を救はん為に、義帝(ぎてい)の御前(おんまへ)にして血をすゝりて約せし時、先(まづ)秦を破(やぶり)て咸陽に入らん者を王とせんと云(いひ)き。然るに今沛公(はいこう)項王に先立(さきだつ)て咸陽に入(いる)事数月(すげつ)、然共(しかれども)秋毫(しうがう)も敢(あへ)て近付(ちかづく)る所非(あら)ず。宮室(きゆうしつ)を封閉(ほうへい)して以て項王の来(きたり)給はん事を待(まつ)、是(これ)豈(あに)沛公(はいこう)の非仁義乎。兵を遣(つかは)して函谷関を守(まもら)しめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へん為也(なり)き。其功の高(たかき)事如此。未(いまだ)封侯(ほうこう)の賞(しやう)非(あら)ずして剰(あまつさへ)有功(いうこう)の人を誅(ちゆう)せんとす。是(これ)亡秦(ばうしん)の悪を続(つい)で自(みづから)天の罰を招く者也(なり)。」と、少(すこし)も不憚項王を睨(にらみ)て申せば、項王答(こたふ)るに言(こと)ば無(なく)して只首(かうべ)を低(たれ)て赤面す。樊■(はんくわい)は加様(かやう)に思(おもふ)程云(いひ)散(ちら)して、張良が末座に著(つく)。暫(しばらく)有て沛公(はいこう)厠(かはや)に行(ゆく)真似して、樊■(はんくわい)を招(まねい)て出給ふ。潜(ひそか)に樊■(はんくわい)に向(むかつ)て、「先(さき)に項荘が剣を抜(ぬい)て舞つる志偏(ひとへ)に吾を討(うた)んと謀(はか)る者也(なり)。座久(ひさしく)して不帰事危(あやふき)に近し。是より急(いそぎ)我(わが)陣へ帰らんと思ふが、不辞出ん事非礼。如何すべき。」と宣へば、樊■(はんくわい)、「大行(かう)は不顧細謹、大礼(たいれい)は不必辞譲、如今人は方(まさ)に為刀俎、我は為魚肉、何ぞ辞(じ)することをせんや。」とて、白璧(はくへき)一双(いつさう)と玉の巵(さかづき)一双(いつさう)とを張良に与(あたへ)て留(とどめ)置き、驪山の下より間道(かんだう)を経て、竜蹄(りようてい)に策(むち)を進め給へば、■強(きんきやう)・紀信(きしん)・樊■(はんくわい)・夏侯嬰(かこうえい)四人、自(みづから)楯を挟(はさ)み戈(ほこ)を採(とつ)て、馬の前後に相(あひ)順(したが)ふ。其(その)道二十(にじふ)余里(より)、嶮(けはし)きを凌(しの)ぎ絶(たえ)たるを渡て、半時を不過(すぎ)覇上(はじやう)の陣に行(ゆき)至りぬ。初め沛公(はいこう)に順(したが)ひし百(ひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)は、猶(なほ)項王の陣の前に並居(なみゐ)て、張良未(いまだ)鴻門にあれば人皆沛公(はいこう)の帰(かへり)給へるを不知(しらず)。暫(しばらく)有(あつて)張良座に返て謝(しや)して曰、「沛公(はいこう)酔(ゑひ)て坏(さかづき)を酌(くむ)に不堪、退出し給ひ候つるが、臣良(りやう)をして、謹(つつしん)で足下(そつか)に可献之と被申置。」とて、先(まづ)白璧(はくへき)一双(いつさう)を奉て、再拝して項王の前にぞ置たりける。項王白璧を受て、「誠(まこと)に天下の重宝也(なり)。」と感悦して、坐上に置て自(みづから)愛し給ふ事無類。其(その)後張良又玉斗(ぎよくと)一双(いつさう)を捧(ささげ)て范増(はんぞう)が前にぞ置たりける。范増(はんぞう)大に忿(いかつ)て、玉斗を地に投(なげ)剣を抜(ぬい)て突摧(つきくだ)き、項王をはたと睨(にらみ)て、「嗟(ああ)豎子(じゆし)不足与謀奪項王之天下者必沛公(はいこう)なるべし。奈何(いかんか)せん吾(わが)属(ともがら)今為之虜(とりこ)とならん事。白璧(はくへき)重宝也(なり)といへ共豈(あに)天下に替(かへ)んや。」とて、怒(いかる)る眼に泪を流し半時ばかりぞ立たりける。項王猶(なほ)も范増(はんぞう)が心を不悟、痛く酔(ゑひ)て帳中に入(いり)給へば、張良百(ひやく)余騎(よき)を順(したがへ)て覇上に帰りぬ。沛公(はいこう)の軍門に至て、項王の方へ返忠(かへりちゆう)しつる曹無傷を斬(きつ)て、首を軍門に被懸。浩(かか)りし後は沛公(はいこう)項王互に相(あひ)見(まみ)ゆる事なし。天下は只項羽(かうう)が成敗(せいばい)に随て、賞罰(しやうばつ)共(とも)に明(あきらか)ならざりしかば、諸侯万民皆共(ともに)、沛公(はいこう)が功の隠れて、天下の主たらざる事をぞ悲みける。其後項羽(かうう)と沛公(はいこう)と天下を争(あらそふ)気已(すで)に顕(あらは)れて、国々の兵両方に属(しよく)せしかば、漢楚二(ふたつ)に分れて四海(しかい)の乱無止時。沛公(はいこう)をば漢の高祖(かうそ)と称(しよう)す。其手に属(しよく)する兵には、韓信・彭越(はうゑつ)・蕭何(せうか)・曹参(さうさん)・陳平(ちんぺい)・張良・樊■(はんくわい)・周勃(しうぼつ)・黥布(げいほ)・盧綰(ろくわん)・張耳(ちやうじ)・王陵(わうりよう)・劉賈(りうか)・■商(れきしやう)・潅嬰(くわんえい)・夏侯嬰・傅寛(ふくわん)・劉敬(さいけい)・■強(きんきやう)・呉■(ごぜい)・■食其(れきいき)・董公(とうこう)・紀信・轅生(ゑんせい)・周苛(しうか)・侯公(こうこう)・随何(ずゐか)・陸賈(りくか)・魏(ぎの)無知(ぶち)・斉孫通(しゆくそんつう)・呂須(りよしゆ)・呂巨(りよこ)・呂青(りよせい)・呂安(りよあん)・呂禄(りよろく)以下の呂氏三百(さんびやく)余人(よにん)都合其(その)勢三十万騎(さんじふまんぎ)、高祖(かうそ)の方にぞ属(しよく)しける。楚の項羽(かうう)は元来(もとより)代々(だいだい)将軍(しやうぐん)の家也(なり)ければ、相(あひ)順(したが)ふ兵八千人(はつせんにん)あり。其外今馳著(はせつき)ける兵には、櫟陽(やくやうの)長史欣(ちやうしきん)・都尉(とゐ)董翳(とうえい)・塞王(さいわう)司馬欣(しばきん)・魏王(ぎわう)豹(へう)・瑕丘(かきうの)申陽(しんやう)・韓王(かんわう)・成(せい)・趙(てうの)司馬■(しばがう)・趙(てうの)王歇(わうけつ)・常山王(じやうざんわう)張耳(ちやうじ)・義帝(ぎてい)柱国共敖(ちゆうこくきようがう)・遼東(れうとうの)韓広(かんくわう)・燕(えんの)将臧荼(ざうと)・田市(でんし)・田都(でんと)・田安(でんあん)・田栄(でんえい)・成安君(せいあんくん)陳余(ちんよ)・番君将(ばんくんがしやう)梅■(ばいけん)・雍王(ようわう)章邯(しやうかん)、是は河北の戦ひ破れて後、三十万騎(さんじふまんぎ)の勢にて項羽(かうう)に降(くだつ)て属(しよく)せしかば、項氏十七人(じふしちにん)、諸侯五十三人(ごじふさんにん)、都合其(その)勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加(くは)りける。漢の二年に項王城陽(せいやう)に至て、高祖(かうそ)の兵田栄(でんえい)と戦ふ。田栄が軍破れて降人(かうにん)に出ければ、其老弱婦女(らうじやくふぢよ)に至るまで、二十万人を土の穴に入て埋(うづめ)て是を殺す。漢王又五十六万人を卒(そつ)して彭城(はうせい)に入る。項羽(かうう)自(みづから)精兵(せいびやう)三万人を将(ひきゐ)て胡陵(こりよう)にして戦ふ。高祖(かうそ)又打負(うちまけ)ければ、楚則(すなはち)漢の兵十(じふ)余万人(よまんにん)を生虜(いけどつ)て■水(すゐすゐ)の淵(ふち)にぞ沈めける。■水為之不流。高祖(かうそ)二度(にど)戦負(まけ)て霊壁(れいへき)の東に至る時、其(その)勢纔(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)也(なり)。項王の兵三百万騎、漢王を囲(かこみ)ぬる事三匝(さんさふ)、漢可遁方も無(なか)りける処に、俄(にはか)に風吹(ふき)雨荒(あらう)して、白日忽(たちまち)に夜よりも尚(なほ)暗かりければ、高祖(かうそ)数十騎(すじつき)と共に敵の囲(かこみ)を出て、豊沛(ほうはい)へ落(おち)給ふ。是を追て沛郡へ押(おし)寄(よせ)ければ、高祖(かうその)兵共(つはものども)爰(ここ)に支(ささ)へ彼(かし)こに防(ふせい)で、打死する者二十(にじふ)余人(よにん)、沛郡の戦にも又漢王打(うち)負(まけ)給ひければ、高祖(かうそ)の父大公、楚の兵に虜(とらは)れて項王の前に引出さる。漢王又周呂侯(しうりよこう)と蕭何(せうか)が兵を合(あは)せて二十万(にじふまん)余騎(よき)、■陽(けいやう)に至る。項王勝(かつ)に乗て八十万騎(はちじふまんぎ)彭城(はうせい)より押(おし)寄(よせ)て相(あひ)戦ふ。此時漢の戦纔(わづか)に雖有利、項王更に物共せず。漢楚互に勢(いきほひ)を振(ふつ)て未(いまだ)重(かさね)て不戦、共に広武(くわうぶ)に張陣川を隔(へだて)てぞ居たりける。或(ある)時(とき)項王の陣に高き俎(まないた)を作て、其(その)上(うへ)に漢王の父大公を置て高祖(かうそ)に告(つげ)て云(いは)く、「是(これ)沛公(はいこう)が父に非(あらず)や。沛公(はいこう)今首を延(のべ)て楚に降(くだ)らば太公と汝が命を助(たすけ)ん。沛公(はいこう)若(もし)楚に降らずは、急に大公を可烹殺。」とぞ申ける。漢王是を聞て、大に嘲(あざわらう)て云(いはく)、「吾項羽(かうう)と北面にして命(めい)を懐王(くわいわう)に受(うけ)し時、兄弟たらん事を誓(ちかひ)き。然れば吾(わが)父は即(すなはち)汝が父也(なり)。今而(しかる)に父を烹殺(にころ)さば幸(さいはひ)に我に一盃(いつぱい)の羹(あつもの)を分(わか)て。」と、欺(あざむか)れければ、項王大(おほい)に怒(いかつ)て即(すなはち)大公を殺さんとしけるを、項伯堅(かたく)諌(いさめ)ければ、「よしさらば暫(しば)し。」とて、大公を殺(ころす)事をば止めてけり。漢楚久(ひさしく)相支(ささへ)て未勝負を決、丁壮(ていさう)は軍旅(ぐんりよ)に苦(くるし)み老弱(らうじやく)は転漕(てんさう)に罷(つか)る。或(ある)時(とき)項羽(かうう)自(みづから)甲胄を著し戈(ほこ)を取、一日に千里を走(わし)る騅(すゐ)と云(いふ)馬に打(うち)乗(のり)て、只一騎(いつき)川の向(むかひ)の岸に控(ひかへ)て宣(のたまひ)けるは、「天下の士卒戦に苦む事已(すで)に八箇年(はちかねん)、是我と沛公(はいこう)と只両人を以ての故(ゆゑ)也(なり)。そゞろに四海(しかい)の人民を悩(なやま)さんよりは、我と沛公(はいこう)と独身(ひとりみ)にして雌雄(しゆう)を決すべし。」と招(まねい)て、敵陣を睨(にらん)でぞ立たりける。爰(ここ)に漢皇(かんくわう)自(みづから)帷幕(ゐばく)の中より出て、項王をせめて宣(のたまひ)けるは、「夫(それ)項王自(みづから)義無(なく)して天罰を招く事其罪非一。始(はじめ)項羽(かうう)と与(とも)に命を懐王に受(うけ)し時、先(まづ)入て関中を定(しづ)めたらん者を王とせんと云(いひ)き。然(しかる)を項羽(かうう)忽(たちまち)に約を背(そむい)て、我を蜀漢(しよくかん)に主たらしむ。其(その)罪一(ひとつ)。宋義、懐王の命を受て卿子(けいし)冠軍(くわんぐん)となる処に、項羽(かうう)乱(みだり)に其(その)帷幕(ゐばく)に入て、自(みづから)卿子冠軍の首を斬(きつ)て、懐王我をして是を誅(ちゆう)せしめたりと偽(いつはつ)て令(れい)を軍中に出す。其(その)罪二(ふたつ)。項羽(かうう)趙(てう)を救(すくう)て戦(たたかひ)利有(あり)し時、還(かへつ)て懐王に不報(ほうぜず)、境内(きやうだい)の兵を掃(はらう)て自(みづから)関に入る。其(その)罪三(みつ)。懐王堅(かた)く令(れい)すらく、秦に入らば民を害し財を貪(むさぼ)る事なかれと。項羽(かうう)数月(すげつ)をくれて秦に入し後、秦の宮室(きゆうしつ)を焼き、驪山(りざん)の塚を堀(ほり)て其(その)宝玉を私にせり。其(その)罪四(よつ)。又降(くだ)れる秦王子(わうじ)嬰(しえい)を殺して、天下にはびこる。其(その)罪五(いつつ)。詐(いつはつ)て秦の子弟を新安城(しんあんじやう)の坑(あな)に埋(うづめ)て殺せる事二十万(にじふまん)。其(その)罪六(むつ)。項羽(かうう)のみ善(よき)地に王として故主を逐誅(ちくちゆうし)たり。畔逆(はんげき)是より起る。其(その)罪七(ななつ)。懐王を彭城(はうせい)に移して韓王の地を奪(うばひ)、合(あは)せて梁楚に王として自(みづから)天下を与(あづか)り聞く。其(その)罪八(やつ)。項羽(かうう)人をして陰(ひそか)に懐王を江南に殺せり。其(その)罪九(ここのつ)。此(この)罪は天下の指(さす)所、道路(だうろ)目を以てにくも者也(なり)。大逆(たいぎやく)無道(ぶだう)の甚(はなはだしき)事、天豈(あに)公(こう)を誡(いましめ)刑(けい)せざらんや。何ぞいたづがはしく、項羽(かうう)と独(ひとり)身にして戦ふ事を致さん。公が力山を抜(ぬく)といへ共我(わが)義の天に合(かなへ)るには如(しか)じ。而(しか)らば刑余(けいよ)の罪人をして甲兵(かふへい)金革(きんかく)をすて、挺楚(ていそ)を制して、項羽(かうう)を可撃殺。」と欺(あざむい)て、百万の士卒、同音に箙(えびら)を敲(たたい)てどつと笑ふ。項羽(かうう)大(おほい)に怒(いかつ)て自(みづから)強弩(きやうど)を引て漢王を射る。其(その)矢河の面(おも)て四町(しちやう)余を射越して漢王の前に控(ひかへ)たる兵の、鎧の草摺(くさずり)より引敷(ひつしき)の板(いたの)裏(うら)をかけず射徹(いとほ)し、高祖(かうそ)の鎧の胸板(むないた)に、くつまき責(せめ)てぞ立たりける。漢の兵に楼煩(ろうはん)と云けるは、強弓(つよゆみ)の矢継早(やつぎばや)、馬の上の達者にて、三町(さんちやう)四町(しちやう)が中の物をば、下針(さげばり)をも射る程の者也(なり)けるが、漢王の当(たう)の矢を射んとて矢比(やごろ)過(すぎ)て懸(かけ)出たりけるを、項羽(かうう)自(みづから)戟(ほこ)を持て立(たち)向ひ、目を瞋(いから)かし大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て、「汝何者(なにもの)なれば、我に向(むかつ)て弓を引(ひか)んとはするぞ。」と怒(いかつ)てちやうどにらむ。其(その)勢(いきほひ)に僻易(へきえき)して、さしもの楼煩(ろうはん)目敢(あへ)て物を不見、弓を不引得人馬共に振(ふる)ひ戦(わなない)て、漢王の陣へぞ逃(にげ)入(いり)ける。漢王疵(きず)を蒙(かうむつ)て愈を待(まつ)程(ほど)に、其(その)兵皆気を失ひしかば、戦毎(たたかふごと)に楚勝(かつ)に不乗云(いふ)事なし。是(これ)只范増(はんぞう)が謀(はかりこと)より出て、漢王常に囲まれしかば、陳平・張良等、如何(いか)にもして此(この)范増(はんぞう)を討(うた)んとぞ計りける。或(ある)時(とき)項王の使者漢王の方に来れり。陳平是に対面して、先(まづ)酒を勧(すす)めんとしけるに、大■(たいらう)の具(そな)へを為(なし)て山海の珍(ちん)を尽(つく)し旨酒(ししゆ)如泉湛(たたへ)て、沙金四万(しまん)斤(きん)、珠玉・綾羅(りようら)・錦綉(きんしう)以下の重宝、如山積(つみ)上(あげ)て、引出物(ひきでもの)にぞ置たりける。陳平が語る詞毎(ことばごと)に、使者敢(あへ)て不心得(こころえず)、黙然(もくねん)として答(こたふ)る事無(なか)りける時に、陳平詐(いつはり)驚(おどろい)て、「吾公を以て范増(はんぞう)が使也(なり)と思て密事(みつじ)を語(かたる)、今項王の使なる事を知て、悔(くゆ)るに益(えき)なし。是(これ)命(めい)を伝(つたふ)る者の誤(あやまり)也(なり)。」と云て、様々に積(つみ)置(おき)ける引出物(ひきでもの)を皆取(とり)返(かへ)し、大■(らう)の具(そな)へを取入て、却(かへり)て飢口(きこう)にだにもあきぬべき、悪食をぞ具へける。使者帰(かへつ)て此(この)由(よし)を項王に語る。項王是より范増(はんぞう)が漢王と密儀を謀(はかつ)て、返忠(かへりちゆう)をしけるよと疑(うたがひ)て、是が権を奪(うばひ)て誅(ちゆう)せん事を計る。范増(はんぞう)是(これ)を聞て、一言も遂に不陳謝。「天下の事大に定(さだまり)ぬ。君王自(みづから)是(これ)を治(をさ)め給へ。我已(すで)に年八十(はちじふ)余、命の中に君が亡(ほろび)んを見ん事も可悲。只願(ねがはく)は我首を刎(はね)て市朝(してう)に被曝歟(か)、不然鴆毒(ちんどく)を賜(たまう)て死を早(はやう)せん。」と請(こひ)ければ、項王弥(いよいよ)瞋(いかつ)て鴆毒を呑(のま)せらる。范増(はんぞう)鴆(ちん)を呑(のみ)て後未(いまだ)三日を不過血を吐てこそ死にけれ。楚漢相戦て已(すで)に八箇年(はちかねん)自(みづから)相(あひ)当る事七十(しちじふ)余度(よど)に及ぶまで、天下楚を背(そむく)といへ〔共〕、項羽(かうう)度(たび)ごとに勝(かつ)に乗(のり)し事は、只楚の兵の猛(たけ)く勇めるのみに非(あら)ず。范増(はんぞう)謀(はかりこと)を出して民をはぐゝみ、士を勇(いさ)め敵の気を察(さつ)し、労(らう)せる兵を助け化(くわ)を普(あまね)く施(ほどこ)して、人の心を和(くわ)せし故(ゆゑ)也(なり)。されば范増(はんぞう)死を賜(たまひ)し後、諸侯悉(ことごとく)楚を負(そむい)て漢に属(しよく)せる者甚(はなはだ)多し。漢楚共に■陽の東に至て久(ひさしく)相(あひ)支へたる時に、漢は兵盛(さかり)に食多(おほく)して楚は兵疲(つか)れ食絶(たえ)ぬ。此(この)時(とき)漢の陸賈(りくか)を楚に使して曰(いはく)、「今日より後は天下を中分(ちゆうぶん)して、鴻溝(こうこう)より西をば漢とし東をば楚とせん。」と和を請(こひ)給ふに、項王悦(よろこび)て其(その)約を堅(かたく)し給ふ。仍(よつて)先に生取(いけどつ)て戦の弱き時には、是を烹殺(にころ)さんとせし漢王の父太公を緩(ゆる)して、漢へぞ送られける。軍勢(ぐんぜい)皆万歳を呼(よば)ふ。角(かく)て楚は東に帰り漢は西に帰らんとしける時、陳平・張良共に漢王に申けるは、「漢今天下の太半を有(たもつ)て諸侯皆付(つき)順(したが)ふ。楚は兵罷(つかれ)て食尽(つき)たり。是天の楚を亡(ほろぼ)す時也(なり)。此時不討只虎を養(やしなう)て自(みづから)患(うれへ)を遺(のこし)侯者なるべし。」漢王此(この)諌(いさめ)に付(つき)て即(すなはち)諸候に約し、三百(さんびやく)余万騎(よまんぎ)の勢にて項王を追懸給ふ。項羽(かうう)僅(わづか)十万騎(じふまんぎ)の勢を以て固陵(こりよう)に返し合(あはせ)て漢と相(あひ)戦ふ。漢の兵四十(しじふ)余万人(よまんにん)討(うた)れて引退(ひきしりぞ)く。是を聞て韓信、斉(せいの)国(くに)の兵三十万騎(さんじふまんぎ)を卒(そつ)して、寿春(じゆしゆん)より廻(まはつ)て楚と戦ふ。彭越(はうゑつ)、彭城(はうせい)の兵二十万騎(にじふまんぎ)を卒(そつ)して、城父(せいほ)を経(へ)て楚の陣へ寄せ、敵の行(ゆく)前(さき)を遮(さえぎつ)て張陣。大司馬周殷(しういん)、九江の兵十万騎(じふまんぎ)を卒(そつ)して、楚の陣へ押(おし)寄せ水を阻(へだて)て取(とり)篭(こむ)る。東南西北悉(ことごとく)百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取(とり)巻(まき)たれば、項羽(かうう)可落方無(なく)て、垓下(がいか)の城(じやう)にぞ被篭ける。漢の兵是を囲める事数百重(すひやくぢゆう)、四面皆楚歌するを聞て項羽(かうう)今宵(こよひ)を限(かぎり)と思はれければ、美人虞氏(ぐし)に向て、泪(なみだ)を流し詩を作(つくつ)て悲歌慷慨(ひかかうがい)し給ふ。虞氏悲(かなしみ)に不堪、剣を給(たまはつ)て自(みづから)其(その)刃(やいば)に貫(つらぬか)れて臥(ふし)ければ、項羽(かうう)今は浮世に無思事と悦(よろこび)て、夜明(あけ)ければ、討残されたる兵二十八騎を伴ふて、先(まづ)四面を囲みぬる漢の兵百万余騎(よき)を懸(かけ)破り、烏江(をうがう)と云川の辺に打出給ひ、自(みづから)泪(なみだ)を押(おさへ)て其(その)兵に語(かたつ)て曰(いはく)、「吾兵を起してより以来、八箇年(はちかねん)の戦に、自(みづから)逢(あふ)事七十(しちじふ)余戦、当る所は必(かならず)破る、撃つ所は皆服す。未(いまだ)嘗(はじめ)より一度(いちど)も不敗北遂に覇(は)として天下を有(たも)てり。然(しかれ)共(ども)今勢(いきほ)ひ尽(つき)力衰(おとろ)へて漢の為に被亡ぬる事、全(まつたく)非戦罪只天我を亡(ほろぼ)す者也(なり)。故(ゆゑ)に今日の戦に、我必(かならず)快(こころよ)く三度(さんど)打勝て、而も漢の大将の頚を取(とり)、其旗を靡(なび)かして、誠(まこと)に我(わが)言(いふ)処の不誤事を汝等にしらすべし。」とて、二十八騎を四手に分(わけ)、漢の兵百万騎を四方(しはう)に受て控(ひか)へたる処に、先(まづ)一番に漢の将軍淮陰侯(わいいんこう)、三十万騎(さんじふまんぎ)にて押(おし)寄(よせ)たり。項羽(かうう)二十八騎を迹(あと)に立て、真前(まつさき)に懸(かけ)入(いつ)て、自(みづから)敵三百(さんびやく)余騎(よき)斬(きつ)て落(おと)し、漢(かんの)大将の首を取て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、本(もと)の陣へ馳(はせ)返り、山東にして見給へば、二十八騎の兵、八騎討れて二十騎(にじつき)に成にけり。其(その)勢を又三所に控(ひか)へさせて、近(ちかづ)く敵を待(まち)懸(かけ)たるに、孔(く)将軍(しやうぐん)二十万騎(にじふまんぎ)、費(ひ)将軍(しやうぐん)五十万騎(ごじふまんぎ)にて東西より押(おし)寄(よせ)たり。項王又大(おほい)に呼(をめい)て山東より馳(はせ)下(くだり)、両陣の敵を四角(しかく)八方(はつぱう)へ懸(かけ)散(ちら)し、逃(にぐ)る敵五百(ごひやく)余人(よにん)を斬(きつ)て落(おと)し、又大将都尉(とゐ)が頭を取(とり)、左の手に提(ひつさげ)て、本の陣へ馳(はせ)返り、其(その)兵を見給ふに纔(わづか)七騎に成(なり)にけり。項羽(かうう)自(みづから)漢の大将軍三人(さんにん)の頭を鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て指(さし)揚(あげ)、七騎の兵に向て、「何(いか)に汝等(なんぢら)我(わが)言(いふ)所に非(あら)ずや。」と問(とひ)給へば、兵皆舌を翻(ひるがへし)て、「誠(まこと)に大王の御言(おんことば)の如し。」と感じける。項羽(かうう)已(すで)に五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)疵(きず)を被(かうむり)てければ、「今は是までぞ、さらば自害をせん。」とて、烏江(をうがう)の辺に打臨(うちのぞみ)給ふ。爰(ここ)に烏江の亭(てい)の長(ちやう)と云(いふ)者、舟を一艘(いつさう)漕(こぎ)寄せて、「此(この)川の向は項王の御手(おんて)に属(しよく)して、所々の合戦に討死仕りし兵共(つはものども)の故郷にて候。地狭(せば)しといへ共其(その)人数十万人あり。此(この)舟より外は可渡浅瀬もなく、又橋もなし。漢の兵至る共、何を以てか渡る事を得ん。願(ねがはく)は大王急ぎ渡て命をつぎ、重(かさね)て大軍を動かして、天下を今一度(ひとたび)覆(くつがへ)し給へ。」と申ければ、項王大(おほい)に哈(あざわらう)て、「天我を亡(ほろぼ)せり。我何(いか)んか渡る事をせん。我昔江東(かうとう)の子弟八千人(はつせんにん)と此(この)川を渡(わたつ)て秦を傾(かたぶ)け、遂(つひ)に天下に覇(は)として賞(しやう)未(いまだ)士卒に不及処に、又高祖(かうそ)と戦ふ事八箇年(はちかねん)、今其子弟一人も還(かへ)る者無(なく)して、我独(ひとり)江東に帰らば、縦(たとひ)江東の父兄(ふけい)憐(あはれん)で我を王とすとも、我何の面目有てか是(これ)に見(まみ)ゆる事を得ん。彼(かれ)縦(たとひ)不言共、我独(ひとり)心に不愧哉(や)。」とて、遂(つひ)に河を不渡給。され共(ども)、亭の長が其(その)志を感じて、騅(すゐ)と云(いひ)ける馬の一日に千里を翔(かけ)るを、只今(ただいま)まで乗(のり)給ひたるを下(くだし)て、亭の長にぞたびたりける。其(その)後歩立(かちだち)に成て、只三人(さんにん)猶(なほ)忿(いかつ)て立(たち)給へる所へ、赤泉侯(せきせんこう)騎将として二万(にまん)余騎(よき)が真前(まつさき)に進み、項王を生取(いけどら)んと馳(はせ)近付(ちかづく)。項王眼を瞋(いからか)し声を発(はつ)して、「汝何者(なにもの)なれば我を討(うた)んとは近付(ちかづく)ぞ。」と忿(いかつ)て立(たち)向(むかひ)給ふに、さしもの赤泉侯其(その)人こそあらめ、意(こころ)なき馬さへ振(ふる)ひ戦(わなない)て、小膝(こひざ)を折(をつ)てぞ臥(ふし)たりける。爰(ここ)に漢の司馬呂馬童(りよばどう)が遥(はるか)に控(ひかへ)たりけるを、項王手を挙(あげ)て招き、「汝は吾年来(としごろ)の知音(ちいん)也(なり)。我聞(きく)、漢我(わが)頭(くび)を以て千金の報(はう)万戸(ばんこ)の邑(いふ)に購(あがなふ)と、我今汝が為に頭を与(あたへ)て、朋友(ほういう)の恩を謝すべし。」と云。呂馬童(りよばどう)泪を流して敢(あへ)て項羽(かうう)を討んとせず。項羽(かうう)、「よしやさらば我と我(わが)頚(くび)を掻(かき)切(きつ)て、汝に与へん。」とて、自(みづから)剣を抜(ぬい)て己が首を掻(かき)落(おと)し、左の手に差(さし)挙(あげ)て立(たち)すくみにこそ死(しに)給ひけれ。項王遂(つひ)に亡(ほろび)て、漢七百(しちひやく)の祚(そ)を保(たもち)し事は、陣平・張良が謀(はかりこと)にて、偽(いつはつ)て和睦(わぼく)せし故(ゆゑ)也(なり)。其智謀今又当れり。然れば只直義入道が申(まうす)旨に任(まかせ)て先(まづ)御合体(ごがつてい)あらば、定(さだめ)て君を御位に即進(つけまゐら)せて、万機(ばんき)の政(まつりこと)を四海(しかい)に施(ほどこ)されん歟(か)。聖徳普(あまねく)して、士卒悉(ことごとく)帰服し奉らば、其(その)威(ゐ)忽(たちまち)に振(ふるひ)て逆臣等(げきしんら)を亡(ほろぼ)されんに、何の子細か候べき。」と、次での才学(さいかく)と覚へて、言(こと)ば巧(たくみ)に申されければ、諸卿げにもと同心して、即(すなはち)勅免の宣旨をぞ被下ける。被綸言云(いはく)、温故知新者、明哲之所好也(なり)。撥乱復正者、良将之所先也(なり)。而不忘元弘之旧功奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞。早揚義兵可運天下静謐之策。者綸旨如此、仍執達如件。正平五年十二月十三日(じふさんにち)左京権大夫正雄奉足利左兵衛督入道殿(にふだうどの)とぞ被成ける。是ぞ誠(まこと)に君臣永(ながく)不快(ふくわい)の基(もとゐ)、兄弟忽(たちまち)向背の初(はじめ)と覚へて、浅猿(あさまし)かりし世間(よのなか)なり。