太平記(国民文庫)
太平記巻第二十六
○正行(まさつら)参吉野事(こと) S2601
安部野(あべの)の合戦は、霜月(しもつき)二十六日(にじふろくにち)の事なれば、渡辺(わたなべ)の橋よりせき落されて流るゝ兵五百(ごひやく)余人(よにん)、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共(ども)、秋(あきの)霜(しも)肉を破り、暁(あかつき)の氷膚(はだへ)に結(むすん)で、可生共不見けるを、楠有情者也(なり)ければ、小袖を脱替(ぬぎかへ)させて身を暖め、薬を与へて疵(きず)を令療。如此四五日皆労(いたは)りて、馬に乗る者には馬を引(ひき)、物具(もののぐ)失へる人には物具をきせて、色代(しきだい)してぞ送りける。されば乍敵其(その)情(なさけ)を感ずる人は、今日より後(のち)心を通(つうぜ)ん事を思ひ、其(その)恩を報ぜんとする人は、軈(やが)て彼(かの)手に属(しよく)して後、四条(しでう)縄手(なはて)の合戦に討死をぞしける。さても今年(ことし)両度の合戦に、京勢(きやうぜい)無下(むげ)に打負(うちまけ)て、畿内(きない)多く敵の為に犯(をか)し奪はる。遠国(をんごく)又蜂起(ほうき)しぬと告(つげ)ければ、将軍左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の周章(しうしやう)、只熱湯(ねつたう)にて手を濯(あらふ)が如し。今は末々の源氏国々の催勢(もよほしぜい)なんどを向(むけ)ては可叶共不覚とて、執事(しつじ)高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰兄弟を両大将にて、四国・中国・東山(とうせん)・東海二十(にじふ)余箇国(よかこく)の勢をぞ被向ける。軍勢(ぐんぜい)の手分(てわけ)事定(さだまつ)て、未(いまだ)一日も不過に、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は手勢(てぜい)三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、十二月十四日の早旦(たん)に先(まづ)淀(よど)に著く。是(これ)を聞て馳加(はせくはは)る人々には、武田(たけだの)甲斐(かひの)守(かみ)・逸見(へんみ)孫六入道・長井(ながゐ)丹後(たんごの)入道(にふだう)・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)三川(みかはの)入道(にふだう)・赤松信濃(しなのの)守(かみ)・小早河(こばやかは)備後(びんごの)守(かみ)、都合其(その)勢二万(にまん)余騎(よき)、淀・羽束使(はつかし)・赤井・大渡(おほわたり)の在家に居余て、堂舎仏閣に充満(みちみち)たり。同二十五日武蔵守(むさしのかみ)手勢七千(しちせん)余騎(よき)を卒して八幡(やはた)に著(つ)く。此(この)手に馳加(はせくはは)る人々には、細川阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(だいぶ)頼章(よりあきら)・今河五郎入道・武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・同播磨(はりまの)守(かみ)・南部(なんぶ)遠江守(とほたふみのかみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・千葉(ちばの)介(すけ)・宇都宮(うつのみや)遠江(とほたふみの)入道(にふだう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)・同六角判官・同黒田判官・長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・松田備前(びぜんの)三郎・須々木(すずき)備中(びつちゆうの)守(かみ)・宇津木(うつき)平三・曾我(そが)左衛門・多田院(ただのゐんの)御家人(ごけにん)、源氏二十三人(にじふさんにん)、外様(とざまの)大名四百(しひやく)三十六人、都合其(その)勢六万(ろくまん)余騎(よき)、八幡(やはた)・山崎・真木(まき)・葛葉(くずは)・鹿島(かしま)・神崎(かんざき)・桜井(さくらゐ)・水無瀬(みなせ)に充満(じゆうまん)せり。京勢(きやうぜい)如雲霞淀・八幡に著(つき)ぬと聞へしかば、楠(くすのき)帯刀(たてはき)正行(まさつら)・舎弟(しやてい)正時一族(いちぞく)打連(うちつれ)て、十二月二十七日(にじふしちにち)芳野の皇居(くわうきよ)に参じ、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)を以て申けるは、「父正成■弱(わうじやく)の身を以て大敵の威(ゐ)を砕(くだ)き、先朝の宸襟(しんきん)を休め進(まゐら)せ候(さふらひ)し後、天下無程乱(みだれ)て、逆臣(げきしん)西国(さいこく)より責(せめ)上り候間、危(あやふき)を見て命(めい)を致す処、兼(かね)て思(おもひ)定(さだめ)候(さふらひ)けるかに依て、遂(つひ)に摂州(せつしう)湊河にして討死仕(つかまつり)候(さうらひ)了(をはんぬ)。其(その)時正行十三歳に罷成(まかりなり)候(さふらひ)しを、合戦の場へは伴(ともな)はで河内へ帰し死残(しにのこり)候はんずる一族(いちぞく)を扶持(ふち)し、朝敵(てうてき)を亡(ほろぼ)し君を御代に即進(つけまゐら)せよと申置て死て候。然(しかる)に正行・正時已(すでに)壮年に及(および)候(さふらひ)ぬ。此度(このたび)我と手を砕き合戦仕(つかまつり)候はずは、且(かつう)は亡父(ばうふ)の申しし遺言(ゆゐごん)に違ひ、且は武略の無云甲斐謗(そし)りに可落覚(おぼえ)候。有待(うだい)の身(み)思ふに任せぬ習にて、病に犯され早世(さうせい)仕(つかまつる)事候なば、只君の御為には不忠の身と成(なり)、父の為には不孝(ふかう)の子と可成にて候間、今度師直・師泰に懸(かかり)合(あひ)、身命を尽(つく)し合戦仕て、彼等(かれら)が頭(かうべ)を正行が手に懸(かけ)て取(とり)候歟(か)、正行・正時が首(くび)を彼等に被取候か、其(その)二(ふたつ)の中に戦の雌雄(しゆう)を可決にて候へば、今生にて今一度(いちど)君の竜顔(りようがん)を奉拝為に、参内仕て候。」と申しも敢(あへ)ず、涙を鎧の袖にかけて義心其(その)気色(きしよく)に顕(あらは)れければ、伝奏(てんそう)未(いまだ)奏せざる先(さき)に、まづ直衣(なほし)の袖をぞぬらされける。主上(しゆしやう)則(すなはち)南殿(なでん)の御簾(みす)を高く巻(まか)せて、玉顔殊に麗(うるはし)く、諸卒を照臨(せうりん)有て正行を近く召て、「以前両度の戦に勝つ事を得て敵軍に気を屈せしむ。叡慮(えいりよ)先(まづ)憤(いきどほり)を慰(ゐ)する条、累代の武功返返(かへすがへす)も神妙(しんべう)也(なり)。大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否(あんぴ)たるべし。進退(しんたい)当度反化(へんくわ)応機事は、勇士(ゆうし)の心とする処なれば、今度の合戦手を下すべきに非(あら)ずといへ共、可進知て進むは、時を為不失也(なり)。可退見て退(しりぞく)は、為全後也(なり)。朕(ちん)以汝股肱(ここう)とす。慎(つつしん)で命を可全。」と被仰出ければ、正行首(かうべ)を地(ぢ)に著(つけ)て、兔角(とかく)の勅答(ちよくたふ)に不及。只是(これ)を最後の参内(さんだい)也(なり)と、思定(おもひさだめ)て退出す。正行・正時・和田新発意(わだしんぼち)・舎弟(しやてい)新兵衛・同紀(きの)六左衛門子息二人(ににん)・野田四郎子息二人(ににん)・楠将監(しやうげん)・西河子息・関地良円(せきぢりやうゑん)以下今度の軍に一足(ひとあし)も不引、一処にて討死せんと約束したりける兵百四十三人(しじふさんにん)、先皇(せんくわう)の御廟(ごべう)に参て、今度の軍(いくさ)難義ならば、討死仕(つかまつる)べき暇(いとま)を申て、如意輪堂(によいりんだう)の壁板(かべいた)に各名字を過去帳(くわこちやう)に書連(つらね)て、其(その)奥に、返らじと兼(かね)て思へば梓弓(あづさゆみ)なき数にいる名をぞとゞむると一首(いつしゆ)の哥を書留(かきとど)め、逆修(ぎやくしゆ)の為と覚敷(おぼしく)て、各鬢髪(びんはつ)を切て仏殿に投入(なげいれ)、其(その)日(ひ)吉野を打出て、敵陣へとぞ向(むかひ)ける。
○四条縄手(しでうなはて)合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)上山(うへやま)討死(うちじにの)事(こと) S2602
師直・師泰は、淀・八幡(やはた)に越年(をつねん)して、猶(なほ)諸国の勢を待調(まちそろへ)て、河内へは可向と議しけるが、楠已(すで)に逆(さ)か寄(よせ)にせん為に、吉野へ参て暇(いとま)申し、今日河内の往生院(わうじやうゐん)に著(つき)ぬと聞へければ、師泰先(まづ)正月二日淀を立て二万(にまん)余騎(よき)和泉の堺(さかひ)の浦に陣を取る。師直も翌日(よくじつ)三日の朝八幡を立て六万(ろくまん)余騎(よき)四条(しでう)に著く。此侭(このまま)軈(やが)て相近付(あひちかづく)べけれ共(ども)、楠定(さだめ)て難所(なんじよ)を前に当(あて)てぞ相待(あひまつ)らん。寄せては可悪、被寄ては可有便とて、、三軍五所に分れ、鳥雲(てううん)の陣をなして、陰(いん)に設(まう)け陽(やう)に備(そな)ふ。白旗一揆(いつき)の衆には、県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)を旗頭(はたがしら)として、其(その)勢五千(ごせん)余騎(よき)飯盛山(いひもりやま)に打上(うちあがり)て、南の尾崎(をさき)に扣(ひかへ)たり。大旗一揆(いつき)の衆には、河津(かはづ)・高橋二人(ににん)を旗頭として、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、秋篠(あきしの)や外山(とやま)の峯に打上(うちあがり)て、東の尾崎に控(ひか)へたり。武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)は千(せん)余騎(よき)にて、四条縄手の田中に、馬の懸場(かけば)を前に残して控(ひか)へたり。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)は、二千(にせん)余騎(よき)にて、伊駒(いこま)の南の山に打上り、面(おもて)に畳楯(でふだて)五百(ごひやく)帖(でふ)突並(つきなら)べ、足軽の射手(いて)八百人(はつぴやくにん)馬よりをろして、打て上る敵あらば、馬の太腹(ふとばら)射させて猶予(いうよ)する処あらば、真倒(まつさかさま)に懸落さんと、後(うし)ろに馬勢控(ひか)へたり。大将武蔵守(むさしのかみ)師直は、二十(にじふ)余町(よちやう)引殿(ひきおくれ)て、将軍の御旗下(おんはたもと)に輪違(わちがひ)の旗打立て、前後左右に騎馬の兵二万(にまん)余騎(よき)、馬回(うままはり)に徒立(かちだち)の射手(いて)五百人(ごひやくにん)、四方(しはう)十(じふ)余町(よちやう)を相支(ささへ)て、如稲麻の打囲(うちかこ)ふだり。手分(てわけ)の一揆(いつき)互(たがひ)に勇争(いさみあらそう)て陣の張様(はりやう)密(きび)しければ、項羽(かうう)が山を抜く力、魯陽(ろやう)が日を返す勢(いきほひ)有共、此(この)堅陣(けんぢん)に懸(かけ)入て可戦とは見へざりけり。去(さる)程(ほど)に正月五日の早旦に、先(まづ)四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)大将として、和泉・紀伊(きいの)国(くに)の野伏(のぶし)二万(にまん)余人(よにん)引具(ひきぐ)して、色々の旗を手に差上(さしあげ)、飯盛山にぞ向ひ合ふ。是(これ)は大旗・小旗両一揆(いつき)を麓(ふもと)へをろさで、楠を四条縄手へ寄(よせ)させん為の謀(はかりこと)也(なり)。如案大旗・小旗の両一揆(いつき)是(これ)を忻(たばか)り勢(ぜい)とは不知、是(これ)ぞ寄手(よせて)なるらんと心得(こころえ)て、射手(いて)を分て旗を進めて坂中までをり下(さがつ)て、嶮岨(けんそ)に待て戦(たたかは)んと見繕(みつくろ)ふ処に、楠帯刀(たてはき)正行・舎弟(しやてい)正時・和田新兵衛高家・舎弟(しやてい)新発意(しんぼち)賢秀(けんしう)、究竟(くつきやう)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、霞隠(かすみがく)れより驀直(まつしぐら)に四条縄手へ押寄せ、先(まづ)斥候(せきこう)の敵を懸散(かけちら)さば、大将師直に寄合て、勝負を決(けつ)せざらんと、少(すこし)も擬議(ぎぎ)せず進(すすん)だり。県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)は白旗一揆(いつき)の旗頭にて、遥(はるか)の峯に控(ひかへ)たりけるが、菊水の旗只(ただ)一流(ひとながれ)、無是非武蔵守(むさしのかみ)の陣へ懸入(かけいら)んとするを見て、北(きた)の岡より馳(はせ)下(くだり)馬よりひた/\と飛下(とびおり)て、只今敵のましぐらに懸入(かけいら)んとする道の末を一文字(いちもんじ)に遮(さへぎつ)て、東西に颯(さつ)と立渡り、徒立(かちだち)に成てぞ待懸(まちかけ)たる。勇気尤盛(さかん)なる楠が勢、僅(わづか)に徒立なる敵を見て、何故か些(すこし)もやすらふべき。三手(みて)に分たる前陣の勢五百(ごひやく)余騎(よき)、閑々(しづしづ)と打て蒐(かか)る。京勢(きやうぜい)の中秋山弥次郎(やじらう)・大草(おほくさ)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)二人(ににん)、真前(まつさき)に進て射落さる。居野(ゐの)七郎(しちらう)是を見て、敵に気を付(つけ)じと、秋山が臥(ふし)たる上をつと飛越(とびこえ)て、「爰(ここ)をあそばせ。」と射向(いむけ)の袖を敲(たたい)て、小跳(こをどり)して進(すすん)だり。敵東西より差合(さしあは)せて雨の降様(ふるやう)に射る矢に、是(これ)も内甲草摺(うちかぶとくさずり)のはづれ二所箆深(のぶか)に被射、太刀を倒(さかさま)につき、其(その)矢を抜(ぬか)んとすくみて立たる所を、和田新発意(しんぼち)つと蒐(かけ)寄て、甲(かぶと)の鉢(はち)をしたゝかにうつ。打(うた)れて犬居(いぬゐ)に倒れければ、和田が中間走(はしり)寄て、頚(くび)掻(かき)切て差上(さしあげ)たり。是(これ)を軍の始として、楠が騎馬の兵五百(ごひやく)余騎(よき)と、県(あがた)が徒立(かちだち)の兵三百(さんびやく)余人(よにん)と、喚(をめ)き叫(さけん)で相戦ふに、田野(でんや)ひらけ平にして馬の懸引(かけひき)自在なれば、徒立の兵汗馬(かんば)に被懸悩、白旗一揆(いつき)の兵三百(さんびやく)余騎(よき)太略討(うた)れにければ、県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)も深手(ふかで)五所まで被(かうむつ)て叶はじとや思(おもひ)けん、被討残たる兵と師直の陣へ引て去る。二番に戦屈(くつ)したる楠が勢を弊(つひえ)に乗て討んとて、武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて進(すすん)だり。楠が二陣の勢千(せん)余騎(よき)にて蒐(かかり)合ひ二手(ふたて)に颯(さつ)と分て、一人も余さじと取篭(とりこむ)る。汗馬(かんば)東西に馳(はせ)違(ちがひ)、追(おつ)つ返(かへし)つ旌旗(せいき)南北に開(ひらき)分れて、巻(まくつ)つ巻られつ互に命を惜(をし)まで、七八度(しちはちど)まで揉(もみ)合たるに、武田(たけだ)が七百(しちひやく)余騎(よき)残(のこり)少なに討るれば、楠が二陣の勢も大半疵(きず)を被(かうむつ)て、朱(あけ)に成てぞ控(ひかへ)たる。小旗一揆(いつき)の衆は、始より四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)の偽(いつはつ)て控(ひかへ)たる見せ勢(ぜい)に対して、飯盛山に打上て、大手の合戦をば、徒(いたづら)によそに直下(みおろし)て居たりけるが、楠が二陣の勢の戦ひ疲(つかれ)て麓(ふもと)に扣(ひかへ)たるを見て、小旗一揆(いつき)の中より、長崎彦九郎資宗(すけむね)・松田左近(さこんの)将監(しやうげん)重明(しげあきら)・舎弟(しやてい)七郎五郎(しちらうごらう)・子息太郎三郎・須々木(すずき)備中(びつちゆうの)守(かみ)高行・松田小次郎・河勾(かうわ)左京(さきやうの)進(しん)入道・高橋新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・青砥左衛門(あをとさゑもんの)尉(じよう)・有元(ありもと)新左衛門(しんざゑもん)・広戸(ひろと)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・舎弟(しやてい)八郎次郎・其(その)弟太郎次郎以下勝(すぐ)れたる兵四十八騎、小松原(こまつばら)より懸下りて、山を後(うしろ)に当て敵を麓に直下(みおろ)して、懸合々々(かけあひかけあひ)戦ふに、楠が二陣千(せん)余騎(よき)僅(わづか)の敵に被遮、進(すすみ)かねてぞ見へたりける。佐佐木佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)道誉(だうよ)は、楠が軍の疲足(つかれあし)、推量(おしはか)るに自余(じよ)の敵にはよも目も懸じ。大将武蔵守(むさしのかみ)の旗を見てぞ蒐(かか)らんずらん。去(さる)程ならば少し遣過(やりすご)して、迹(あと)を塞(ふさい)で討(うた)んと議(ぎ)して、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、飯盛山の南なる峯(みね)に打上(うちあがり)て、旗打立(うちたて)控(ひかへ)たりけるが、楠が二陣の勢の両度数剋(すこく)の戦ひに、馬疲れ気屈(くつ)して、少し猶予(いうよ)したる処を見澄(みすま)して、三千(さんぜん)余騎(よき)を三手(みて)に分て、同時に時をどつと作て蒐下(かけおろ)す。楠が二陣の勢暫(しばらく)支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、敵は大勢也(なり)。御方(みかた)は疲(つか)れたり。馬強(むまづよ)なる荒手(あらて)に懸立(かけたて)られて叶はじとや思けん、大半討れて残る勢南を差(さし)て引て行く。元来小勢なる楠が兵、後陣(ごぢん)既(すで)に破れて、残止る前陣の勢、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にも足(たら)じと見へたれば、怺(こらへ)じと見る処に、楠帯刀・和田新発意(しんぼち)、未(いまだ)討れずして此(この)中に有ければ、今日の軍に討死せんと思て、過去帳に入たりし連署(れんしよ)の兵百四十三人(しじふさんにん)、一所に犇々(ひしひし)と打寄て、少しも後陣(ごぢん)の破れたるをば不顧、只敵の大将師直は迹(あと)にぞ控(ひかへ)て有らんと、目に懸てこそ進みけれ。武蔵守(むさしのかみ)が兵は、御方(みかた)軍に打勝て、敵しかも小勢なれば、乗機勇み進(すすん)で是(これ)を打取(うちとら)んとて、先(まづ)一番に細川阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏、五百(ごひやく)余騎(よき)にて相当(あたる)。楠が三百騎(さんびやくき)の勢、些(すこし)も不滞相蒐(かか)りに懸て、面も不振戦ふに、細川が兵五十(ごじふ)余騎(よき)討れて北をさして引退く。二番に仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて入替て責(せむ)るに、又楠が三百(さんびやく)余騎(よき)、轡(くつばみ)を双(ならべ)て真中(まんなか)に懸入り、火を散して戦ふに、左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章、四角(しかく)八方(はつぱう)へ懸立られて一所へ又も打寄らず。三番に千葉(ちばの)介(すけ)・宇都宮(うつのみや)遠江(とほたふみの)入道(にふだう)・同参河(みかはの)入道(にふだう)両勢合(あはせ)て五百(ごひやく)余騎(よき)、東西より相近(ちかづい)て、手崎(てさき)をまくりて中を破(わらん)とするに、楠敢(あへ)て破られず。敵虎韜(こたう)に連(つらなつ)て囲(かこ)めば、虎韜に分れて相当り、竜鱗(りようりん)に結て蒐(かか)れば竜鱗に進(すすん)で戦ふ。三度(さんど)合て三度(さんど)分れたるに、千葉・宇都宮(うつのみや)が兵若干(そくばく)討れて引返す。此(この)時和田・楠が勢百(ひやく)余騎(よき)討れて、馬に矢の三筋(さんすぢ)四筋射立(いたて)られぬは無りければ、馬を蹈放(ふみはなし)て徒立に成て、とある田の畔(くろ)に後(うしろ)を差宛(さしあて)て、箙(えびら)に差たる竹葉(ちくえふ)取出して心閑(こころしづか)に兵粮(ひやうらう)仕(つか)ひ、機(き)を助(たすけ)てぞ並居(なみゐ)たる。是(これ)程(ほど)に思切たる敵を取篭(とりこめ)て討んとせば、御方(みかた)の兵若干(そくばく)亡(ほろび)ぬべし。只後(うし)ろをあけて、落ちば落せとて、数万騎の兵皆一処に打寄て、取巻(とりまく)体(てい)をば見せざりけり。されば楠縦(たとひ)小勢也(なり)とも、落(おち)ば落(おつ)べかりけるを、初より今度の軍に、師直が頚(くび)を取て返り参(さん)ぜずは、正行が首を六条河原(ろくでうかはら)に曝(さら)されぬと被思食候へと、吉野殿(よしのどの)にて奏(そう)し申たりしかば、其(その)言(ことば)をや恥(はぢ)たりけん、又運命爰(ここ)にや尽(つき)けん、和田も楠も諸共に、一足(ひとあし)も後(うしろ)へは不退、「只師直に寄合て勝負を決せよ。」と声声に罵呼(ののしりよばは)り、閑(しづか)に歩(あゆみ)近付(ちかづき)たり。是を見て細川讃岐守(さぬきのかみ)頼春(よりはる)・今河五郎入道・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)・南(みなみの)遠江守(とほたふみのかみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・佐々木(ささきの)六角判官・同黒田判官・土岐周済房(ときしゆさいばう)・同明智(あけち)三郎・荻野(をぎの)尾張(をはりの)守(かみ)朝忠・長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)・松田備前(びぜんの)次郎・宇津木(うつき)平三・曾我(そが)左衛門・多田(ただの)院(ゐん)の御家人(ごけにん)を始として、武蔵守(むさしのかみ)の前後左右に控(ひかへ)たる究竟(くつきやう)の兵共(つはものども)七千(しちせん)余騎(よき)、我(われ)先(さき)に打取らんと、喚(をめ)き呼(さけん)で蒐(かけ)出たり。楠是(これ)に些(すこし)も不臆して、暫(しばらく)息(いき)継(つが)んと思ふ時は、一度(いちど)に颯(さつ)と並居(なみゐ)て鎧(よろひ)の袖をゆり合せ、思様(おもふさま)に射させて、敵近付(ちかづけ)ば同時にはつと立あがり、鋒(きつさき)を双(ならべ)て跳(をど)り蒐(かか)る。一番に懸寄せける南次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)、馬の諸膝(もろひざ)薙(なが)れて落る処に、起(おこ)しも立(たて)ず討(うたれ)にけり。二番に劣(おと)らじと蒐入(かけいり)ける松田次郎左衛門(じらうざゑもん)、和田新発意(しんぼち)に寄合て、敵を切んと差(さし)うつぶく処を、和田新発意長刀の柄(え)を取延(とりのべ)て、松田が甲(かぶと)の鉢(はち)をはたとうつ。打(うた)れて錣(しころ)を傾(かたぶく)る処に、内甲(うちかぶと)を突(つか)れて、馬より倒(さかさま)に落(おち)て討(うた)れにけり。此(この)外目の前に切て落さるゝ者五十(ごじふ)余人(よにん)、小腕(こうで)打落されて朱(あけ)になる者二百(にひやく)余騎(よき)、追立々々(おつたておつたて)責(せめ)られて、叶はじとや思ひけん、七千(しちせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、開靡(ひらきなびい)て引(ひき)けるが、淀・八幡(やはた)をも馳(はせ)過て、京まで逃(にぐ)るも多かりけり。此時若(もし)武蔵守(むさしのかみ)一足(ひとあし)も退(しりぞ)く程ならば、逃る大勢に引立(ひきたて)られて洛中(らくちゆう)までも追著(おひつけら)れぬと見へけるを、少(すこし)も漂(ただよ)ふ気色無(なく)して、大音声を揚(あげ)て、「蓬(きたな)し返せ、敵は小勢ぞ師直爰(ここ)にあり。見捨て京へ逃(にげ)たらん人、何の面目有てか将軍の御目にも懸るべき。運命天にあり。名を惜(をし)まんと思はざらんや。」と、目をいらゝげ歯嚼(はがみ)をして、四方(しはう)を下知せられけるにこそ、恥(はぢ)ある兵は引留(ひきとどま)りて師直の前後に控(ひかへ)けれ。斯(かか)る処に土岐周済房(ときしゆさいばう)の手(て)の者共(ものども)は、皆打散(うちちら)され、我身も膝口切(きら)れて血にまじり、武蔵守(むさしのかみ)の前を引て、すげなう通(とほ)りけるを、師直吃(きつ)と見て、「日来(ひごろ)の荒言(くわうげん)にも不似、まさなうも見へ候者哉(かな)。」と言(ことば)を懸(かけ)られて、「何か見苦(みぐるしく)候べき。さらば討死して見せ申さん。」とて、又馬を引返し敵の真中(まんなか)へ蒐(かけ)入て、終(つひ)に討死してけり。是を見て雑賀(さいが)次郎も蒐入(かけい)り打死す。已(すでに)楠と武蔵守(むさしのかみ)と、あはひ僅(わづか)に半町計(ばかり)を隔(へだて)たれば、すはや楠が多年の本望爰(ここ)に遂(とげ)ぬと見(みえ)たる処に、上山(うへやま)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、師直の前に馳塞(はせふさが)り、大音声を挙(あげ)て申けるは、「八幡(はちまん)殿(どの)より以来(このかた)、源家累代(るゐだい)の執権(しつけん)として、武功天下に顕(あらは)れたる高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直是に有(あり)。」と名乗(なのつ)て、討死しける其(その)間に、師直遥(はるか)に隔(へだたつ)て、楠本意を遂(とげ)ざりけり。抑(そもそも)多勢の中に、上山一人師直が命に代(かはつ)て、討死しける所存何事ぞと尋(たづぬ)れば、只一言の情(なさけ)を感じて、命を軽くしけるとぞ聞へし。只今楠此(この)陣へ可寄とは不思寄、上山閑(しづか)に物語せんとて、執事(しつじ)の陣へ行(ゆき)ける処に、東西南北騒ぎ色めきて、敵寄(よせ)たりと打立(うちたち)ける間、上山我屋(わがや)に帰り物具せん逗留(とうりう)無(なか)りければ、師直がきせながの料(れう)に、同(おなじ)毛の鎧を二両まで置たりけるを、上山走(はしり)寄て、唐櫃(からひつ)の緒(を)を引切て鎧(よろひ)を取て肩に打懸(うちかけ)けるを、武蔵守(むさしのかみ)が若党(わかたう)、鎧の袖を控(ひかへ)て、「是(これ)は何(いか)なる御事(おんこと)候ぞ。執事の御きせながにて候者を、案内をも申され候はで。」と云て、奪止(うばひとどめ)んと引合(ひきあひ)ける時、師直是(これ)を聞て馬より飛で下り、若党(わかたう)をはたと睨(にらん)で、「無云甲斐者の振舞哉(かな)。只今師直が命に代らん人々に、縦(たとひ)千両万両の鎧也(なり)共(とも)何か惜かるべきぞ。こゝのけ。」と制して、「いしうもめされて候者哉(かな)。」と還(かへつ)て上山を被感ければ、上山誠(まこと)にうれしき気色にて、此(この)詞(ことば)の情(なさけ)を思入たる其(その)心地(ここち)、いはねども色に現れたり。されば事の儀(ぎ)を不知して鎧を惜みつる若党(わかたう)は、軍の難義なるを見て先(まづ)一番に落けれ共(ども)、情(なさけ)を感ずる上山は、師直が其(その)命に代(かはつ)て討死しけるぞ哀(あはれ)なる。加様の事異国(いこく)にも其(その)例(れい)あり。秦(しんの)穆公(ぼくこう)と申す人、六国(りくこく)の諸侯と戦(たたかひ)けるに、穆公軍破(やぶれ)て他国へ落給ふ。敵の追(おふ)事甚(はなはだ)急にして、乗給へる馬疲れにければ、迹(あと)にさがりたる乗替(のりがへ)の馬を待給ふ処に、穆公の舎人(とねり)共(ども)馬をば引て不来して、疲(つかれ)たる兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、皆高手小手(たかてこて)に縛(しば)りて、軍門の前に引居(ひきすゑ)たり。穆公自ら事の由(よし)を問ふに、舎人答(こたへ)て申(まうす)様、「召し替への御馬(おんむま)を引進(ひきまゐ)り候処に、戦に疲れ飢(うゑ)たる兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、此(この)御馬(おんむま)を殺して皆食(くらふ)て候間、死罪に行(おこな)ひ候はんが為に生虜(いけどり)て参て候。」とぞ申(まうし)ける。穆公さしも忿(いか)れる気色なく、「死せる者は二度(ふたたび)生(いく)べからず。縦(たとひ)二度(ふたたび)生(いく)る共、獣(けだもの)の卑(いやし)きを以て人の貴きを失はんや。我れ聞く、飢(うゑ)て馬を食せる人は必(かならず)病む事有(あり)。」とて其(その)兵共(つはものども)に酒を飲(のま)せ薬を与へて医療(いれう)を加(くはへ)られける上は、敢(あへ)て罪科(ざいくわ)に不及。其(その)後穆公軍に打負(うちまけ)て、大敵に囚(とら)はれ已(すでに)討れんとし給(たまひ)し時、馬を殺して食(くう)たりし兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、穆公の命に代り戦(たたかひ)ける程(ほど)に、大敵皆散じて穆公死を逃(のが)れ給ひにけり。されば古も今も大将たらん人は、皆罰(ばつ)をば軽(かろ)く行ひ宥(なだ)め賞(しやう)をば厚く与へしむ。若(もし)昔の穆公馬を惜み給はゞ、大敵の囲(かこみ)を出給はんや。今の師直鎧を不与は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様の事をぞ申(まうす)べき。楠、上山を討て其(その)頭(くび)を見るに、太(ふとく)清(きよ)げなる男也(なり)。鎧を見るに輪違(わちがひ)を金物に掘透(ほりすか)したり。「さては無子細武蔵守(むさしのかみ)を討てげり。多年の本意今日已(すでに)達しぬ。是(これ)を見よや人々。」とて、此(この)頚を中(ちう)に投上(なげあげ)ては請取(うけとり)、請取ては手玉についてぞ悦(よろこび)ける。楠が弟(おとと)次郎走(わしり)寄て、「何(いか)にやあたら首の損(そん)じ候に、先(まづ)旗の蝉本(せみもと)に著(つけ)て敵御方(みかた)の者共(ものども)に見せ候はん。」と云て、太刀の鋒(きつさき)に指貫(さしつらぬき)差上(さしあげ)て是(これ)を見(みす)るに、「師直には非(あら)ず、上山(うへやま)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)が首也(なり)。」と申(まうし)ければ、大に腹立(ふくりふ)して、此(この)頭を投(なげ)て、「上山六郎左衛門(ろくらうざゑもん)とみるはひが目か、汝は日本一(につぽんいち)の剛(かう)の者哉(かな)。我(わが)君の御為に無双(ぶさう)の朝敵(てうてき)也(なり)。乍去余(あまり)に剛にみへつるがやさしさに、自余(じよ)の頭共には混(こん)ずまじきぞ。」とて、著たる小袖の片袖を引切て、此首を押裹(おしつつん)で岸の上にぞ指(さし)置たる。鼻田(はなた)弥次郎(やじらう)膝口を被射、すくみ立たりけるが、「さては師直未(いまだ)討(うた)れざりけり。安からぬ者哉(かな)。師直何(いづ)くにか有らん。」と云(いふ)声を力にして、内甲(うちかぶと)にからみたる鬢(びん)の髪を押のけ、血眼(ちまなこ)に成て遥(はるか)に北(きた)の方(かた)を見るに、輪違(わちがひ)の旗一流(ひとながれ)打立て、清(きよ)げなる老武者を大将として七八十騎が程控(ひか)へたり。「何様師直と覚(おぼゆ)る。いざ蒐(かか)らん。」と云(いふ)処に、和田新兵衛鎧の袖を引(ひか)へて、「暫(しばらく)思(おもふ)様(やう)あり。余(あまり)に勇(いさ)み懸て大事(だいじ)の敵を打漏(うちもら)すな。敵は馬武者也(なり)。我等(われら)は徒立(かちだち)也(なり)。追(おは)ば敵定(さだめ)て可引。ひかば何として敵を可打取。事の様を安ずるに、我等(われら)怺(こら)へで引退(ひきしりぞ)く真似(まね)をせば、此(この)敵、気に乗て追蒐(おつかけ)つと覚(おぼゆ)るぞ。敵を近々と引寄(ひきよせ)て、其中に是(これ)ぞ師直と思はん敵を、馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)で切居(きりす)へ、落る処にて細頚(ほそくび)打落(うちおと)し、討死せんと思ふは如何に。」と云(いひ)ければ、被打残たる五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、「此(この)義可然。」と一同して、楯を後(うしろ)に引かづき、引退(ひきしりぞ)く体(てい)をぞみせたりける。師直思慮深き大将にて、敵の忻(たばかつ)て引(ひく)処を推(すゐ)して、些(すこし)も馬を動かさず。高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)西なる田中に三百(さんびやく)余騎(よき)にて控(ひかへ)たるが、是を見て引(ひく)敵ぞと心得(こころえ)て、一人も余さじと追蒐(おつかけ)たり。元来剛(かう)なる和田・楠が兵なれば、敵の太刀の鋒(きつさき)の鎧の総角(あげまき)、甲の錣(しころ)二(ふた)つ三(み)つ打あたる程近付て、一同に咄(どつ)と喚(をめい)て、礒打(いそうつ)波の岩に当て返るが如(ごとく)取て返し、火出る程ぞ戦ひける。高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)が兵共(つはものども)、可引帰程の隙もなければ、矢庭(やには)に討(うた)るゝ者五十(ごじふ)余人(よにん)、散々に切立(きりたて)られて、馬をかけ開(ひらい)て逃(にげ)けるが、本陣をも馳過(はせすぎ)て、二十(にじふ)余町(よちやう)ぞ引たりける。
○楠正行最期(さいごの)事(こと) S2603
去(さる)程(ほど)に師直と楠とが間、一町(いつちやう)許(ばかり)に成(なり)にけり。是(これ)ぞ願ふ処の敵よと見澄(みすま)して、魯陽(ろやう)二度(にど)白骨を連(つらね)て韓構(かんこう)に戦(たたかひ)ける心も、是(これ)には過(すぎ)じと勇(いさみ)悦(よろこび)て、千里を一足(ひとあし)に飛て懸らんと、心許(ばかり)は早(はや)りけれども、今朝の巳(みの)刻(こく)より申(さるの)時の終まで、三十(さんじふ)余度(よど)の戦に、息(いき)絶(たえ)気疲るゝのみならず、深手浅手負(おは)ぬ者も無りければ、馬武者を追攻(おつつめ)て可討様ぞ無りける。され共多(おほく)の敵共(てきども)四角(しかく)八方(はつぱう)へ追散(おひちらし)て、師直七八十騎にて控(ひかへ)たれば、何程の事か可有と思ふ心を力にて、和田・楠・野田・関地良円(せきぢりやうゑん)・河辺石掬丸(かはべいしきくまる)、我先(さき)我先(さき)とぞ進たる。余(あまり)に辞理(じり)なく懸(かけ)られて、師直已(すでに)引色(ひきいろ)に見へける処に、九国(くこく)の住人(ぢゆうにん)須々木四郎とて、強弓(つよゆみ)の矢つぎ早(ばや)、三人(さんにん)張(ばり)に十三束二伏(じふさんぞくふたつぶせ)、百歩(ひやつぽ)に柳の葉を立て、百矢(ももや)をはづさぬ程の射手(いて)の有けるが、人の解捨(ときすて)たる箙(えびら)、竹尻篭(しこ)・■(やなぐひ)を掻抱(かきだ)く許(ばかり)取集(とりあつめ)て、雨の降(ふる)が如く矢坪(やつぼ)を指てぞ射たりける。一日著暖(きあたため)たる物具なれば、中(あたる)と当る矢、箆深(のぶか)に立(たた)ぬは無りけり。楠次郎眉間(みけん)ふえのはづれ射られて抜(ぬく)程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎(さき)、左の目尻(まじり)、箆深(のぶか)に射られて、其(その)矢、冬野の霜に臥(ふし)たるが如く折懸(をりかけ)たれば、矢すくみに立てはたらかず。其(その)外三十(さんじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、矢三筋(さんすぢ)四筋射立(いたて)られぬ者も無りければ、「今は是(これ)までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違(さしちが)へ北枕(きたまくら)に臥(ふし)ければ、自余(じよ)の兵三十二人(さんじふににん)、思々(おもひおもひ)に腹掻(かき)切て、上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り臥す。和田新発意(しんぼち)如何して紛(まぎ)れたりけん、師直が兵の中に交(まじ)りて、武蔵守(むさしのかみ)に差違(さしちがへ)て死(しな)んと近付(ちかづき)けるを、此(この)程河内より降参したりける湯浅本宮(ゆあさほんぐう)太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後(うしろ)へ立回(まはり)、諸膝切て倒(たふるる)所を、走寄て頚を掻(かか)んとするに、和田新発意(しんぼち)朱(しゆ)を酒(そそ)きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨(にら)む。其(その)眼終(つひ)に塞(ふさが)ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛(たいかう)の者に睨まれて、湯浅臆(おく)してや有けん、其日より病付て身心悩乱(なうらん)しけるが、仰(あふの)けば和田が忿(いかり)たる顔天に見へ、俯(うつぶ)けば新発意(しんぼち)が睨める眼地に見へて、怨霊(をんりやう)五体(ごたい)を責(せめ)しかば、軍(いくさ)散(さん)じて七日と申に、湯浅あがき死(じに)にぞ死にける。大塚掃部助(かもんのすけ)手負(ておう)たりけるが、楠猶跡(あと)に有共しらで、放馬(はなれうま)の有けるに打乗て、遥(はるか)に落延(おちのび)たりけるが、和田・楠討れたりと聞て、只一騎馳帰(はせかへり)、大勢の中へ蒐(かけ)入て、切死(きりじに)にこそ死にけれ。和田新兵衛正朝(まさとも)は、吉野殿(よしのどの)に参て事の由を申さんとや思(おもひ)けん、只一人鎧一縮(いつしゆく)して、歩立(かちだち)に成て、太刀を右の脇(わき)に引側(ひきそば)め、敵の頚一つ取て左の手に提(ひつさげ)て、東条の方へぞ落行(おちゆき)ける。安保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実(ただざね)只一騎馳(はせ)合て、「和田・楠の人々皆自害せられて候に、見捨(みすて)て落られ候こそ無情覚(おぼえ)候へ。返され候へ。見参に入らん。」と詞(ことば)を懸(かけ)ければ、和田新兵衛打笑(うちわらう)て、「返(かへす)に難き事か。」とて、四尺(ししやく)六寸(ろくすん)の太刀の貝(かひ)しのぎに、血の著たるを打振て走(はしり)懸る。忠実一騎相(いつきあひ)の勝負(しようぶ)叶はじとや思けん、馬をかけ開て引返す。忠実留(とどま)れば正朝又落(おつ)、落行(おちゆけ)ば忠実又追懸(おつかけ)、々々(おつかく)れば止(とどま)り、一里許(ばかり)を過(すぐ)る迄、互(たがひに)不討不被討して日已(すで)に夕陽(せきやう)に及ばんとす。斯(かか)る処に青木(あをき)次郎・長崎彦九郎二騎、箙(えびら)に矢少し射残して馳(はせ)来る。新兵衛を懸のけ/\射ける矢に、草摺(くさずり)の余(あまり)引合(ひきあはせ)の下、七筋(しちすぢ)まで射立(いたて)られて、新兵衛遂(つひ)に忠実に首をば取(とら)れにけり。総(すべ)て今日一日の合戦に、和田・楠が兄弟四人、一族(いちぞく)二十三人(にじふさんにん)、相順(あひしたが)ふ兵百四十三人(しじふさんにん)、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双(ぶさう)の功に残せり。先年奥州(あうしう)の国司顕家(あきいへの)卿(きやう)、安部野にて討(うた)れ、武将新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、越前にて亡(ほろび)し後は、遠国に宮方(みやがた)の城郭(じやうくわく)少々有といへ共、勢未(いまだ)振(ふる)はざれば今更驚(おどろく)に不足。唯(ただ)此(この)楠許(ばかり)こそ、都近き殺所(せつしよ)に威(ゐ)を逞(たくまし)くして、両度まで大敵を靡(なび)かせぬれば、吉野の君も、魚の水を得たる如く叡慮(えいりよ)を令悦、京都の敵も虎の山に靠(よりかかる)恐懼(きようく)を成(なさ)れつるに、和田・楠が一類(いちるゐ)皆片時(へんし)に亡びはてぬれば、聖運已(すで)に傾(かたぶき)ぬ。武徳誠(まこと)に久しかるべしと、思はぬ人も無りけり。
○芳野炎上(えんしやうの)事(こと) S2604
去(さる)程(ほど)に楠が館(たち)をも焼払(やきはら)ひ、吉野の君をも可奉取とて、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰六千(ろくせん)余騎(よき)にて、正月八日和泉(いづみ)の堺の浦を立て、石川(いしかは)河原(かはら)に先(まづ)向城(むかひじやう)をとる。武蔵守(むさしのかみ)師直は、三万(さんまん)余騎(よき)の勢(せい)を卒(そつ)して、同十四日平田(ひらた)を立て、吉野の麓(ふもと)へ押寄する。其(その)勢已(すで)に吉野郡(こほり)に近付(ちかづき)ぬと聞へければ、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)、急ぎ黒木(くろき)の御所に参て、「昨日正行已(すで)に討(うた)れ候。又明日師直皇居(くわうきよ)へ襲来仕(しふらいつかまつる)由聞へ候。当山(たうざん)要害(えうがい)の便(たより)稀(まれ)にして、可防兵更(さら)に候はず。今夜急ぎ天河(てんのかは)の奥加納(あなふ)の辺へ御忍(おんしのび)候べし。」と申(まうし)て、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を内侍典司(ないしのすけ)に取出させ、寮(れう)の御馬(おんむま)を庭前(ていぜん)に引立(ひきたて)たれば、主上(しゆしやう)は万づ思食分(おぼしめしわけ)たる方なく、夢路をたどる心地して、黒木(くろき)の御所を立出させ給へば、女院(によゐん)・皇后・准后(じゆごう)・内親王(ないしんわう)・宮々を始進(はじめまゐら)せて、内侍・上童(うへわらは)・北(きたの)政所(まんどころ)・月卿(げつけい)雲客(うんかく)・郎吏(らうり)・従官・諸寮の頭(かみ)・八省(はつしやう)の輔(すけ)・僧正(そうじやう)・僧都・児(ちご)・房官に至るまで、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、周章(あわて)騒ぎ倒(たふ)れ迷(まよひ)て、習はぬ道の岩根を歩み、重なる山の雲を分(わけ)て、吉野の奥へ迷入る。思へば此(この)山中とても、心を可留所ならねども、年久(ひさしく)住狎(なれ)ぬる上、行末は猶(なほ)山深き方なれば、さこそは住うからめと思遣(おもひやる)に付(つけ)ても、涙は袖にせき敢(あへ)ず。主上(しゆしやう)勝手(かつて)の宮(みや)の御前(おんまへ)を過(すぎ)させ給ひける時、寮(れう)の御馬(おんむま)より下(おり)させ給て、御泪の中に一首(いつしゆ)かくぞ思召つゞけさせ給ひける。憑(たのむ)かひ無(なき)に付ても誓ひてし勝手の神の名こそ惜(をし)けれ異国の昔は、唐の玄宗(げんそう)皇帝(くわうてい)、楊貴妃(やうきひ)故(ゆゑ)に安禄山に傾(かたむけ)られて、蜀(しよく)の剣閣山(けんかくさん)に幸(みゆき)なる。我朝(わがてう)の古(いにしへ)は、清見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大友(おほとも)の宮(みや)に襲(おそ)はれて、此(この)吉野山に隠(かくれ)給(たまひ)き。是(これ)皆逆臣(げきしん)暫(しばらく)世を乱るといへども、終(つひ)には聖主大化を施(ほどこ)されし先蹤(せんしよう)なれば、角(かく)てはよも有(あり)はてじと思食准(おぼしめしなぞらふ)る方(かた)は有ながら、貴賎男女周章騒(あわてさわい)で、「こはそも何(いづ)くにか暫(しばし)の身をも可隠。」と、泣悲む有様を御覧ぜらるゝに、叡襟(えいきん)更に無休時。去(さる)ほどに武蔵守(むさしのかみ)師直、三万(さんまん)余騎(よき)を卒(そつ)して吉野山に押寄せ、三度(さんど)時の声を揚(あげ)たれ共(ども)、敵なければ音もせず。さらば焼払(やきはら)へとて、皇居(くわうきよ)並(ならびに)卿相雲客(けいしやううんかく)の宿所(しゆくしよ)に火を懸(かけ)たれば、魔風(まふう)盛に吹懸て、二丈(にぢやう)一基(いつき)の笠鳥居(かさとりゐ)・二丈(にぢやう)五尺(ごしやく)の金の鳥居・金剛(こんがう)力士の二階(にかい)の門・北野天神示現(じげん)の宮(みや)・七十二間の回廊(くわいらう)・三十八所の神楽屋(かぐらや)・宝蔵(はうざう)・竃殿(へついどの)・三尊(さんぞん)光を和(やはら)げて、万人(ばんにん)頭(かうべ)を傾(かたぶく)る金剛蔵王(こんがうざわう)の社壇(しやだん)まで、一時に灰燼(くわいじん)と成ては、烟(けむり)蒼天(さうてん)に立登る。浅猿(あさまし)かりし有様也(なり)。抑(そもそも)此(この)北野天神の社壇と申(まうす)は、承平四年八月朔日に、笙(しやう)の岩屋(いはや)の日蔵(にちざう)上人頓死(とんし)し給たりしを、蔵王(ざわう)権現左の御手(おんて)に乗(の)せ奉て、炎魔王宮(えんまわうぐう)に至(いたり)給ふに、第一(だいいち)の冥官(みやうくわん)、一人の倶生神(くしやうじん)を相副(そへ)て、此(この)上人に六道(ろくだう)を見せ奉る。鉄窟苦所(てつくつくしよ)と云(いふ)所に至て見給ふに、鉄湯(てつたうの)中に玉(たまの)冠(かぶり)を著て天子の形なる罪人あり。手を揚(あげ)て上人を招(まねき)給ふ。何(いか)なる罪人ならんと怪(あやしみ)て立寄て見給へば、延喜(えんぎ)の帝(みかど)にてぞ御座(おはしま)しける。上人御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て、「君御在位(ございゐ)の間、外には五常(ごじやう)を正して仁義を専(もつぱら)にし、内には五戒(ごかい)を守て慈悲(じひ)を先(さき)とし御坐(おはせ)しかば、何(いか)なる十地等覚(じふぢとうがく)の位にも到らせ給(たまひ)ぬらんとこそ存(ぞんじ)候(さうらひ)つるに、何故(なにゆゑ)に斯(かか)る地獄には堕(おち)させ給(たまひ)候やらん。」と尋(たづね)申されければ、帝は御涙(おんなみだ)を拭(のご)はせ給て、「吾(われ)在位の間、万機(ばんき)不怠撫民治世しかば、一事(いちじ)も誤(あやま)る事無りしに、時平(しへい)が讒(ざん)を信じて、無罪菅丞相(くわんしようじやう)を流したる故(ゆゑ)に、此(この)地獄に堕(おち)たり。上人今冥途(めいど)に趣(おもむき)給ふといへ共、非業(ひごふ)なれば蘇生(そせい)すべし。朕(ちん)上人と師資(しし)の契(ちぎり)不浅、早(はやく)娑婆(しやば)に帰(かへり)給はゞ、菅丞相(くわんしようじやう)の廟(べう)を建(たて)て化導利生(けだうりしやう)を専(もつぱら)にし給(たまふ)べし。さてぞ朕(ちん)が此(この)苦患(くげん)をば可免。」と、泣々(なくなく)勅宣(ちよくせん)有けるを、上人具(つぶさ)に承(うけたまはり)て、堅(かたく)領状(りやうじやう)申(まうす)と思へば、中十二日と申(まうす)に、上人生(いき)出給(たまひ)にけり。冥土(めいど)にて正(まさし)く勅(ちよく)を承(うけたまは)りし事なればとて、則(すなはち)吉野山に廟(べう)を建(たて)、利生方便(はうべん)を施(ほどこ)し給(たまひ)し天神の社壇(しやだん)是(これ)也(なり)。蔵王権現と申(まうす)は、昔役優婆塞(えんのうばそく)済度(さいど)利生の為に金峯山(きんぶせん)に一千日篭(こもつ)て、生身(しやうじん)の薩■(さつた)を祈(いのり)給(たまひ)しに、此(この)金剛蔵王、先(まづ)柔和忍辱(にうわにんにく)の相(さう)を顕(あらは)し、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の形にて地より涌出(ゆしゆつ)し玉ひたりしを、優婆塞(うばそく)頭(かうべ)を掉(ふつ)て、未来悪世の衆生を済度(さいど)せんとならば、加様(かやう)の御形にては叶(かなふ)まじき由を被申ければ、則(すなはち)伯耆の大山(たいせん)へ飛去(さり)給(たまひ)ぬ。其(その)後忿怒(ふんど)の形を顕(あらは)し、右の御手(おんて)には三鈷(さんこ)を握(にぎつ)て臂(ひぢ)をいらゝげ、左の御手(おんて)には五(いつつの)指(ゆび)を以て御腰(おんこし)を押へ玉ふ。一睨(いちげい)大に忿(いかつ)て魔障降伏(ましやうがうぶく)の相(さう)を示し、両脚(りやうきやく)高く低(たれ)て天地経緯(けいゐ)の徳を呈(あらは)し玉へり。示現(じげん)の貌(かたち)尋常(よのつね)の神に替(かはつ)て、尊像(そんざう)を錦帳(きんちやう)の中に鎖(とざ)されて、其(その)涌出(ゆしゆつ)の体(てい)を秘せん為に、役(えん)の優婆塞(うばそく)と天暦(てんりやく)の帝(みかど)と、各手自(てづから)二尊(にそん)を作(つくり)副(そへ)て三尊(さんぞん)を安置し奉(たてまつり)玉ふ。悪愛(をあい)を六十(ろくじふ)余州(よしう)に示して、彼(かれ)を是(ぜ)し此(これ)を非(ひ)し、賞罰(しやうばつ)を三千(さんぜん)世界に顕(あらは)して、人を悩(なやま)し物を利(り)す。総(すべ)て神明権迹(しんめいごんせき)を垂(たれ)て七千(しちせん)余坐、利生の新(あらた)なるを論ずれば、無二亦無三(むにやくむさん)の霊験(れいげん)也(なり)。斯(かか)る奇特(きどく)の社壇仏閣を一時に焼払(やきはらひ)ぬる事誰か悲(かなしみ)を含(ふく)まざらん。されば主(ぬし)なき宿の花は、只露に泣ける粧(よそほひ)をそへ、荒(あれ)ぬる庭の松までも、風に吟(ぎん)ずる声を呑(のむ)。天の忿(いか)り何(いづ)れの処にか帰(き)せん。此(この)悪行(あくぎやう)身に留(とま)らば、師直忽(たちまち)に亡(ほろび)なんと、思はぬ人は無りけり。
○賀名生(あなふ)皇居(くわうきよの)事(こと) S2605
貞和(ぢやうわ)五年正月五日、四条縄手の合戦に、和田・楠が一族(いちぞく)皆亡びて、今は正行が舎弟(しやてい)次郎左衛門(じらうざゑもん)正儀許(ばかり)生残(いきのこり)たりと聞へしかば、此(この)次(ついで)に残る所なく、皆退治(たいぢ)せらるべしとて、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰三千(さんぜん)余騎(よき)にて、石河々原に向城(むかひじやう)を取て、互(たがひ)に寄(よせ)つ被寄つ、合戦の止(やむ)隙(ひま)もなし。吉野の主上(しゆしやう)は、天の河の奥賀名生(あなふ)と云(いふ)所に僅(わづか)なる黒木(くろき)の御所を造(つく)りて御座(ござ)あれば、彼唐尭虞舜(かのたうげうぐしゆん)の古へ、茅茨(ばうし)不剪柴椽(さいてん)不削、淳素(じゆんそ)の風も角(かく)やと思知(おもひしら)れて、誠なる方も有ながら、女院(にようゐん)皇后は、柴(しば)葺(ふく)庵(いほ)のあやしきに、軒(のき)漏(もる)雨を禦(ふせ)ぎかね、御袖(おんそで)の涙ほす隙(ひま)なく、月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、木の下岩の陰に松葉を葺(ふき)かけ、苔(こけ)の筵(むしろ)を片敷(かたしき)て、身を惜(お)く宿とし給へば、高峯(たかね)の嵐吹落(ふきおち)て、夜(よる)の衣(ころも)を返せども、露の手枕(たまくら)寒ければ、昔を見する夢もなし。況乎(いはんや)其郎従眷属(そのらうじゆうけんぞく)たる者は、暮山(ぼさん)の薪(たきぎ)を拾(ひろう)ては、雪を戴(いただ)くに膚(はだへ)寒く、幽谷(いうこく)の水を掬(むすん)では、月を担(にな)ふに肩やせたり。角(かく)ては一日片時(いちにちへんし)も有ながらへん心地(ここち)もなけれ共(ども)、さすがに消(きえ)ぬ露の身の命あらばと思ふ世に、憑(たのみ)を懸(かけ)てや残るらん。
○執事兄弟奢侈(しやしの)事(こと) S2606
夫(それ)富貴(ふつき)に驕(おご)り功に侈(おごつ)て、終(をはり)を不慎は、人の尋常(よのつね)皆ある事なれば、武蔵守(むさしのかみ)師直今度南方の軍に打勝て後、弥(いよいよ)心奢(おご)り、挙動(ふるまひ)思ふ様に成て、仁義をも不顧、世の嘲弄(てうろう)をも知(しら)ぬ事共(ことども)多かりけり。常の法には、四品(しほん)以下の平侍(ひらざむらひ)武士なんどは、関板(せきいた)打(うた)ぬ舒葺(のしぶき)の家にだに居ぬ事にてこそあるに、此(この)師直は一条今出川に、故(こ)兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)の御母堂(ごぼだう)、宣旨(せんじ)の三位(さんみ)殿(どの)の住荒(すみあら)し給ひし古御所(ふるごしよ)を点(てん)じて、棟門唐門(むねもんからもん)四方(しはう)にあけ、釣殿(つりどの)・渡殿(わたりどの)・泉殿(いづみどの)、棟梁(むねうつばり)高(たかく)造り双(ならべ)て、奇麗(きれい)の壮観を逞(たくまし)くせり。泉水(せんすゐ)には伊勢・島(しま)・雑賀(さいが)の大石共を集(あつめ)たれば、車輾(きしり)て軸を摧(くだ)き、呉牛(ごぎう)喘(あへぎ)て舌を垂る。樹(うゑき)には月中の桂・仙家の菊・吉野の桜・尾上(をのへ)の松・露霜染(そめ)し紅(くれなゐ)の八(や)しほの岡(をか)の下紅葉(したもみぢ)・西行法師が古(いにしへ)枯葉の風を詠(ながめ)たりし難波(なには)の葦(あし)の一村・在原(ありはらの)中将(ちゆうじやう)の東(あづま)に旅に露分(わけ)し宇津の山辺(やまべ)のつた楓(かへで)、名所々々の風景を、さながら庭に集(あつめ)たり。又月卿(げつけい)雲客(うんかく)の御女(おんむすめ)などは、世を浮草の寄方(よるかた)無(なく)て、誘引(さそふ)水あらばと打佗(わび)ぬる折節なれば、せめてはさも如何せん。申(まうす)も無止事宮腹(みやはら)など、其(その)数を不知、此彼(ここかしこ)に隠(かくし)置奉て、毎夜通ふ方多かりしかば、「執事の宮廻(みやめぐり)に、手向(たむけ)を受(うけ)ぬ神もなし。」と、京童部(わらんべ)なんどが咲種(わらひぐさ)なり。加様(かやう)の事多かる中にも、殊更冥加(みやうが)の程も如何(いか)がと覚(おぼえ)てうたてかりしは、二条(にでうの)前(さきの)関白殿(くわんばくどの)の御妹(おんいもと)、深宮(しんきゆう)の中に被冊、三千(さんぜん)の数にもと思召(おぼしめし)たりしを、師直盜(ぬすみ)出し奉て、始は少し忍たる様なりしが、後は早打顕(うちあらは)れたる振舞にて、憚(はばか)る方も無りけり。角(かく)て年月を経(へ)しかば、此(この)御腹(おんはら)に男子一人出来て、武蔵(むさし)五郎とぞ申(まうし)ける。さこそ世の末ならめ。忝(かたじけなく)も大織冠(たいしよくわん)の御末太政大臣(だいじやうだいじん)の御妹(おんいも)と嫁(か)して、東夷(とうい)の礼なきに下らせ給ふ。浅猿(あさまし)かりし御事(おんこと)なり。是等(これら)は尚(なほ)も疎(おろそ)か也(なり)。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰が悪行(あくぎやう)を伝(つたへ)聞(きく)こそ不思議(ふしぎ)なれ。東山の枝橋(えだはし)と云(いふ)所に、山庄(さんさう)を造らんとて、此(この)地の主を誰(たれ)ぞと問(とふ)に、北野の長者(ちやうじや)菅(くわんの)宰相(さいしやう)在登卿(ありのりきやう)の領地(りやうち)也(なり)と申ければ、軈(やが)て使者を立て、此(この)所を可給由を所望しけるに、菅(くわんの)三位(さんみ)、使に対面して、「枝橋(えだはし)の事御山庄(さんさう)の為に承(うけたまはり)候上は、子細あるまじきにて候。但(ただし)当家の父祖(ふそ)代々(だいだい)此(この)地に墳墓(ふんむ)を卜(しめ)て、五輪(ごりん)を立(たて)、御経を奉納(ほうなふ)したる地にて候へば、彼墓(かのはか)じるしを他所へ移し候はむ程は、御待(おんまち)候べし。」とぞ返事をしたりける。師泰是(これ)を聞て、「何条(なんでう)其(その)人惜まんずる為にぞ、左様(さやう)の返事をば申(まうす)らん。只其(その)墓共皆掘崩(ほりくづ)して捨(すて)よ。」とて、軈(やが)て人夫(にんぶ)を五六百人(ごろつぴやくにん)遣(つかはし)て、山を崩し木を伐(きり)捨て地(ぢ)を曳(ひく)に、塁々(るゐるゐ)たる五輪(ごりん)の下に、苔(こけ)に朽(くち)たる尸(かばね)あり。或(あるひ)は■々(せんせん)たる断碑(だんひ)の上(うへに)、雨に消(きえ)たる名もあり。青塚(せいちよ)忽(たちまち)に破て白楊(はくやう)已(すで)に枯(かれ)ぬれば、旅魂幽霊(りよこんいうれい)何(いづ)くにか吟(さまよ)ふらんと哀(あはれ)也(なり)。是(これ)を見て如何なるしれ者か仕(し)たりけん、一首(いつしゆ)の歌を書て引土(ひきつち)の上にこそ立たりける。無(なき)人のしるしの率都婆(そとば)堀棄(ほりすて)て墓なかりける家作(いへつくり)哉越後(ゑちごの)守(かみ)此(この)落書(らくしよ)を見て、「是は何様(なにさま)菅三位(くわんのさんみ)が所行(しよぎやう)と覚(おぼゆ)るぞ。当座の口論に事を寄(よせ)て差(さし)殺せ。」とて、大覚寺殿(だいかくじどの)の御寵童(ごちようどう)に吾護殿(ごごどの)と云ける大力(だいりき)の児(ちご)を語(かたらひ)て、無是非菅(くわんの)三位(さんみ)を殺させけるこそ不便(ふびん)なれ。此(この)人聖廟(せいべう)の祠官(しくわん)として文道(ぶんだう)の大祖(たいそ)たり。何事の神慮に違(ちが)ひて、無実(むじつ)の死刑に逢(あひ)ぬらん。只是(これ)魏(ぎ)の弥子瑕(びしか)が鸚鵡州(あうむしう)の土に埋(うづ)まれし昔の悲(かなしみ)に相似たり。又此(この)山庄(さんさう)を造りける時、四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆陰(たかかげ)卿(きやう)の青侍(あをざぶらひ)大蔵(おほくらの)少輔(せう)重藤(しげふぢ)・古見(こみの)源左衛門(げんざゑもん)と云ける者二人(ににん)此(この)地を通(とほ)りけるが、立寄て見るに、地を引(ひく)人夫(にんぶ)共(ども)の汗を流し肩を苦しめて、休む隙(ひま)なく仕(つか)はれけるを見て、「穴(あな)かはゆや、さこそ卑(いや)しき夫(ぶ)也(なり)とも、是(これ)程までは打はらず共あれかし。」と慙愧(ざんき)してぞ過(すぎ)行(ゆき)ける。作事奉行(さくじぶぎやう)しける者の中間是(これ)を聞て、「何者(なにもの)にて候哉覧(やらん)、爰(ここ)を通る本所(ほんじよ)の侍が、浩(かかり)ける事を申て過(すぎ)候(さうらひ)つる。」と語りければ、越後(ゑちごの)守(かみ)大に忿(いかつ)て、「安き程の事哉(かな)。夫(ぶ)を労(いたは)らば、しやつ原(ばら)を仕(つか)ふべし。」とて、遥(はるか)に行(ゆき)過(すぎ)たりけるを呼返して、夫(ぶ)の著たるつゞりを着替(きかへ)させ、立烏帽子(たてゑぼし)を引こませて、さしも熱(あつ)き夏の日に、鋤(すき)を取ては土を掻寄(かきよせ)させ石を掘(ほつ)ては■(あをた)にて運ばせ、終日(ひねもす)に責仕(せめつか)ひければ、是(これ)を見る人々皆爪弾(つまはじき)をし、「命は能(よく)惜(をし)き者哉、恥を見んよりは死ねかし。」と、云はぬ人こそ無りけれ。是等(これら)は尚(なほ)し少事(せうじ)也(なり)。今年石河川原(かはら)に陣を取て、近辺(きんぺん)を管領(くわんりやう)せし後は、諸寺諸社の所領、一処も本主に不充付、殊更天王寺(てんわうじ)の常燈料(じやうとうれう)所の庄を押(おさ)へて知行せしかば、七百年より以来(このかた)一時も更に不絶仏法常住の灯(とぼしび)も、威光と共に消はてぬ。又如何なる極悪(ごくあく)の者か云出しけん。「此(この)辺の塔の九輪(くりん)は太略(たいりやく)赤銅(しやくどう)にてあると覚(おぼゆ)る。哀(あはれ)是を以て鑵子(くわんす)に鋳(い)たらんに何(いか)によからんずらん。」と申(まうし)けるを、越後(ゑちごの)守(かみ)聞てげにもと思(おもひ)ければ、九輪(くりん)の宝形(はうぎやう)一(ひとつ)下(おろし)て、鑵子(くわんす)にぞ鋳(い)させたりける。げにも人の云(いひ)しに不差。膚(はだへ)■(くぼみ)無くして磨(みが)くに光(ひかり)冷々(れいれい)たり。芳甘(はうかん)を酌(くみ)てたつる時、建渓(けんけい)の風味濃(こまやか)也(なり)。東坡(とうば)先生が人間第一(だいいち)の水と美(ほめ)たりしも、此(この)中よりや出たりけん。上(かみ)の好む所に下(しも)必(かならず)随(したが)ふ習(ならひ)なれば、相集(あひあつま)る諸国の武士共(ぶしども)、是(これ)を聞傅(ききつたへ)て、我劣らじと塔の九輪(くりん)を下(おろし)て、鑵子(くわんす)を鋳させける間、和泉・河内の間、数百(すひやく)箇所(かしよ)の塔婆(たふば)共(ども)一基(いつき)も更に直(すぐ)なるはなく、或(あるひ)は九輪(くりん)を被下、ます形許(がたばかり)あるもあり。或(あるひ)は真柱(しんばしら)を切(きら)れて、九層許(きうぞうばかり)残るもあり。二仏の並座(ならびざす)瓔珞(やうらく)を暁の風に漂(ただよ)はせ、五智の如来は烏瑟(うしつ)を夜の雨に潤(うるほ)せり。只守屋(もりや)の逆臣(げきしん)二度(ふたたび)此(この)世に生(うま)れて、仏法を亡(ほろぼ)さんとするにやと、奇(あやし)き程(ほど)にぞ見へたりける。
○上杉畠山讒高家事(こと)付(つけたり)廉頗(れんぱ)藺相如(りんしやうじよが)事(こと) S2607
此(この)時上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗(なほむね)と云(いふ)人あり。才短(たん)にして、官位人よりも高からん事を望み、功(こう)少(すくなく)して忠賞(ちゆうしやう)世に超(こえ)ん事を思(おもひ)しかば、只師直・師泰が将軍御兄弟(ごきやうだい)の執事(しつじ)として、万づ心に任せたる事を猜(そね)み、境節(をりふし)に著(つけ)ては吹毛(すゐもう)の咎(とが)を争(あらそう)て、讒(ざん)を構(かまゆ)る事無休時。されども将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、執事兄弟無(なく)ては、誰(たれ)か天下の乱を静むる者可有と、異于他被思ければ、少々の咎(とが)をば耳にも不聞入給、只佞人讒者(ねいじんざんしや)の世を乱らん事を悲まる。夫(それ)天下を取て、世を治(をさむ)る人には、必(かならず)賢才輔弼(けんさいほひつ)の臣下有て、国の乱を鎮(しづ)め君の誤(あやまり)を正(ただ)す者也(なり)。所謂(いはゆる)■尭(げう)の八元(はちげん)・舜(しゆん)の八凱(はちがい)・周(しう)の十乱・漢の三傑・世祖(せいそ)の二十八将・太宗の十八学士(じふはちがくし)皆禄(ろく)厚く官高しといへ共、諸(もろもろ)に有て争(あらそ)ふ心(ここ)ろ無りしかば、互(たがひ)に非(ひ)を諌(いさ)め国をしづめて、只天下の無為(ぶゐ)ならん事をのみ思へり。是(これ)をこそ呼(よん)で忠臣とは申(まうす)に、今高(かう)・上杉(うへすぎ)の両家(りやうけ)中悪(なかあし)くして、動(やや)もすれば得失を差(さし)て其権(そのけん)を奪はんと、心に挿(さしはさみ)て思へる事、豈(あに)忠烈を存ずる人とせんや。言長(ながく)して聞(きく)に懈(おこたり)ぬべしといへ共、暫(しばらく)譬(たとへ)を取て愚(おろか)なる事を述(のぶ)るに、昔異朝(いてう)に卞和(べんくわ)と申(まうし)ける賎(いやし)き者、楚山(そざん)に畑(はた)を打(うち)けるが、廻(まは)り一尺(いつしやく)に余れる石の磨(みが)かば玉に可成を求(もとめ)得たり。是(これ)私に可用物に非(あら)ず、誰にか可奉と人を待(まち)ける処に、楚(そ)の武王楚山に御狩(みかり)をし給ひけるに、卞和(べんくわ)此(この)石を奉て、「是(これ)は世に無類程の玉にて候べし。琢(みが)かせて御覧候べし。」とぞ申ける。武王大に悦て、則(すなはち)玉磨(たまみがき)を召(めし)て是(これ)を被磨に、光更(さらに)無りければ、玉磨、「是は玉にては候はず、只尋常(よのつね)の石にて候也(なり)。」とぞ奏しける。武王大に忿(いかつ)て、「さては朕(ちん)を欺(あざむ)ける者也(なり)。」とて、卞和(べんくわ)を召出して其(その)左の足を切て、彼(かの)石を背(せなか)に負(おほ)せて楚山にこそ被追放けれ。卞和無罪して此(この)刑(けい)に合へる事を歎(なげき)て、楚山の中に草庵(さうあん)を結て、此石を乍負、世に玉を知(しる)人のなき事をのみ悲(かなしん)で、年月久く泣居たり。其(その)後三年有て武王隠(かく)れ給(たまひ)しが、御子文王の御代に成て、文王又或時楚山に狩をし給ふに、草庵の中に人の泣(なく)声あり。文王怪(あやしみ)て泣(なく)故を問給へば、卞和(べんくわ)答(こたへ)て申さく、「臣昔此(この)山に入て畑(はた)を打(うち)し時一(ひとつ)の石を求(もとめ)得たり。是(これ)世に無類程の玉なる間、先朝(せんてう)武王に奉りたりしを、玉磨(たまみが)き見知らずして、只石にて候と申(まうし)たりし間、我(わが)左の足を被斬進(まゐら)せて不慮(ふりよ)の刑に逢(あひ)候(さうらひ)き、願(ねがはく)は此(この)玉を君に献(けん)じて、臣が無罪所を顕(あらは)し候はん。」と申(まうし)ければ、文王大に悦て、此(この)石を又或玉琢(あるたまみがき)にぞ磨(みが)かせられける。是も又不見知けるにや、「是(これ)全(まつた)く玉にては候はず。」と奏(そう)しければ、文王又大に忿(いかつ)て、卞和が右の足を切(きら)せて楚山の中にぞ被棄ける。卞和両(りやうの)足を切られて、五体(ごたい)苦(くるしみ)を逼(せめ)しか共、只二代の君の眼拙(つたな)き事をのみ悲(かなしん)で、終(つひ)に百年の身の死を早くせん事を不痛、落る涙の玉までも血の色にぞ成(なり)にける。角(かく)て二十(にじふ)余年(よねん)を過(すぎ)けるに、卞和尚(なほ)命強面(つれなう)して、石を乍負、只とことはに泣居たり。去(さる)程(ほど)に文王崩(ほう)じ給(たまひ)て太子成王(せいわう)の御代に成(なり)にけり。成王(せいわう)又或時楚山に狩(かり)し給(たまひ)けるに、卞和尚(なほ)先(さき)にもこりず、草庵の内より這(はひ)出て、二代の君に二の足を切(きら)れし故を語て、泣々(なくなく)此(この)石を成王(せいわう)に奉りける。成王(せいわう)則(すなはち)玉磨きを召(めし)て、是(これ)を琢(みが)かせらるゝに、其(その)光天地に映徹(えいてつ)して、無双(ぶさうの)玉に成(なり)にけり。是(これ)を行路(あんろ)に懸(かけ)たるに、車十七両を照しければ、照車(せうしや)の玉共名付け、是(これ)を宮殿にかくるに、夜十二街を耀(かかや)かせば、夜光の玉とも名付たり。誠(まこと)に天上の摩尼珠(まにしゆ)・海底の珊瑚樹(さんごじゆ)も、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へし。此(この)玉代代天子の御宝と成て、趙(てう)王の代に伝(つたは)る。趙王是(これ)を重(おもん)じて、趙璧(てうへき)と名を替(かへ)て、更に身を放ち給はず。学窓に蛍を聚(あつめ)ね共(ども)書を照す光不暗、輦路(れんろ)に月を不得共(ども)路を分つ影(かげ)明(あきらか)也(なり)。此比(このころ)天下大(おほい)に乱(みだれ)て、諸侯皆威(ゐ)あるは弱きを奪(うば)ひ、大なるは小を亡(ほろぼ)す世に成(なり)にけり。彼(かの)趙国の傍(かたはら)に、秦王(しんわう)とて威勢の王坐(おはし)けり。秦王此(この)趙璧の事を伝(つたへ)聞て、如何にもして奪取(うばひとら)ばやとぞ被巧ける。異国には会盟(くわいめい)とて隣国(りんごく)の王互(たがひ)に国の堺(さかひ)に出合て、羊を殺して其(その)血をすゝり、天神地祇(てんじんちぎ)に誓(ちかひ)て、法を定め約を堅(かたく)して交(まじは)りを結ぶ事あり。此(この)時に隣国(りんごく)に見落されぬれば、当座(たうざ)にも後日にも国を傾けられ、位を奪(うばは)るゝ事ある間、互に賢才(けんさい)の臣、勇猛(ゆうまう)の士を召具(めしぐ)して才を■(たくら)べ武を争(あらそふ)習(ならひ)也(なり)。或時秦王会盟可有とて、趙王に触送(ふれおく)る。趙王則(すなはち)日(ひ)を定(さだめ)て国の堺へぞ出合ひける。会盟事未定(いまださだまらず)血未啜(いまだすすらざる)先(さき)に、秦王宴(えん)を儲(まうけ)て楽(がく)を奏し酒宴終日(ひねもす)に及べり。酒(さけ)酣(たけなは)にして秦王盃(さかづき)を挙(あげ)給ふ時、秦の兵共(つはものども)酔狂(すゐきやう)せる真似(まね)をして、座席(ざせき)に進(すすみ)出て、目を瞋(いからか)し臂(ひぢ)を張(はり)て、「我(わが)君今興(きよう)に和(くわ)して盃(さかづき)を傾(かたぶけ)むとし給ふ。趙王早く瑟(しつ)を調(しらべ)て寿(ことぶき)をなし給へ。」とぞいらで申(まうし)ける。趙王若(もし)辞(じ)せば、秦の兵の為に殺されぬと見へける間、趙王力なく瑟(しつ)を調べ給ふ。君の傍(かたはら)には必(かならず)左史右史(さしいうし)とて、王の御振舞(おんふるまひ)と言(ことば)とを註(しる)し留(とどむ)る人あり。時に秦の左太史筆を取て、秦趙両国の会盟に、先(まづ)有酒宴、秦王盃を挙(あげ)給ふ時、趙王自(みづから)為寿、調瑟とぞ書付(かきつけ)ける。趙王後記に留(とどま)りぬる事心憂(こころう)しと被思けれ共(ども)、すべき態(わざ)なければ力なし。盃回(めぐつ)て趙王又飲(のみ)給ひける時に、趙王の臣下に、始(はじめ)て召仕(めしつか)はれける藺相如(りんしやうじよ)と云(いひ)ける者秦王の前に進出て、剣を拉(ぬ)き臂(ひぢ)をいらゝげて、「我(わが)王已(すで)に秦王の為に瑟(しつ)を調(しらべ)ぬ。秦王何ぞ我(わが)王の為に寿(ことぶき)を不為べき。秦王若(もし)此(この)事辞(じ)し給はゞ、臣必ず君王の座に死すべし。」と申(まうし)て、誠(まこと)に思切たる体をぞ見せたりける。秦王辞(じ)するに言(ことば)無ければ自(みづか)ら立て寿(ことぶき)をなし、缶(ほとぎ)を打(うつて)舞(まひ)給ふ。則(すなはち)趙の左大史進(すすみ)出て、其(その)年月の何日(いくか)の日秦趙両国の会盟あり。趙王盃を挙(あげ)給ふ時、秦王自ら酌(しやく)を取て缶(ほとぎ)を打畢(をはん)ぬと、委細の記録を書留(かきとどめ)て、趙王の恥をぞ洗(すすぎ)ける。右(かく)て趙王帰らんとし給(たまひ)ける時、秦王傍(かたはら)に隠せる兵二十万騎(にじふまんぎ)、甲胄(かつちう)を帯して馳(はせ)来れり。秦王此(この)兵を差招(さしまねき)て、趙王に向て宣(のたまひ)けるは、「卞和(べんくわ)が夜光の玉、世に無類光ありと伝(つたへ)承(うけたまは)る。願(ねがはく)は此(この)玉を給て、秦の十五城を其(その)代(かわり)に献(けん)ぜん。君又玉を出し給はずは、両国の会盟忽(たちまち)に破(やぶれ)て永く胡越(こゑつ)を隔(へだつ)る思(おもひ)をなすべし。」とぞをどされける。異国の一城(いちじやう)と云は方三百六十里(ろくじふり)也(なり)。其を十五合(あは)せたらん地は宛(あだかも)二三箇国(さんかこく)にも及(およぶ)べし。縦(たとひ)又玉を惜(をしみ)て十五城に不替共、今の勢にては無代(むたい)に奪(うばは)れぬべしと被思ければ、趙王心ならず十五城に玉を替(かへ)て、秦王の方へぞ被出ける。秦王是(これ)を得て後十五城に替(かへ)たりし玉なればとて、連城(れんじやう)の玉とぞ名付(なづけ)ける。其(その)後趙王たび/\使を立て、十五城を被乞けれ共秦王忽(たちまちに)約を変(へんじ)て、一城(いちじやう)をも不出、玉をも不被返、只使を欺(あざむ)き礼を軽(かろく)して、返事にだにも及ばねば、趙王玉を失ふのみならず、天下の嘲(あざけ)り甚(はなはだ)し。爰(ここ)に彼(かの)藺相如(りんしやうじよ)、趙王の御前(おんまへ)に参て、「願(ねがはく)は君(きみ)臣(しん)に被許ば、我(われ)秦王の都に行向(ゆきむかつ)て、彼(かの)玉を取返して君の御憤(おんいきどほり)を休め奉るべし。」と申(まうし)ければ、趙王、「さる事やあるべき、秦は已(すでに)国(くに)大に兵多(おほく)して、我が国の力及(および)がたし。縦(たとひ)兵を引て戦を致す共、争(いかで)か此(この)玉を取返(とりかへす)事を得んや。」と宣(のたま)ひければ、藺相如、「兵を引(ひき)力を以て玉を奪はんとには非(あら)ず。我(われ)秦王を欺(あざむい)て可取返謀(はかりこと)候へば、只御許容(きよよう)を蒙(かうむつ)て、一人(いちにん)罷向(まかりむかふ)べし。」と申(まうし)ければ、趙王猶(なほ)も誠しからず思(おもひ)給(たまひ)ながら、「さらば汝(なんぢ)が意に任すべし。」とぞ被許ける。藺相如悦て、軈(やが)て秦(しんの)国(くに)へ越けるに、兵の一人も不召具、自ら剣戟(けんげき)をも不帯、衣冠(いくわん)正しくして車に乗(のり)専使(せんし)の威儀を調(ととのへ)て、秦王の都へぞ参(まゐり)ける。宮門に入て礼儀をなし、趙王の使に藺相如、直(ぢき)に可奏事有て参たる由を申入(まうしいれ)ければ、秦王南殿(なでん)に出御(しゆつぎよ)成て、則(すなはち)謁を成し給ふ。藺相如畏(かしこまつ)て申けるは、「先年君王に献(けん)ぜし夜光の玉に、隠(かく)れたる瑕(きず)の少し候を、角共(かくとも)知(しら)せ進(まゐら)せで進(しんじ)置(おき)候(さふらひ)し事、第一(だいいち)の越度(をつど)にて候。凡(およそ)玉の瑕(きず)をしらで置ぬれば、遂(つひ)に主の宝(たから)に成らぬ事にて候間、趙王臣をして此(この)玉の瑕(きず)を君に知(しら)せ進(まゐ)らせん為に参て候也(なり)。」と申(まうし)ければ、秦王悦て彼(かの)玉を取出し、玉盤(ぎよくばん)の上にすへて、藺相如が前に被置たり。藺相如、此(この)玉を取て楼閣(ろうかく)の柱に押あて、剣を抜て申けるは、「夫(それ)君子(くんし)は食言(しよくげん)せず、約の堅き事如金石。抑(そもそも)趙王心あきたらずといへ共、秦王強(しひ)て十五城を以て此玉に替(かへ)給ひき。而(しかる)に十五城をも不被出、又玉をも不被返、是(これ)盜跖(たうせき)が悪(あく)にも過(すぎ)、文成(ぶんせい)が偽(いつはり)にも越(こえ)たり。此(この)玉全(まつた)く瑕(きず)あるに非(あら)ず。只臣が命を玉と共に砕(くだき)て、君王の座に血を淋(そそ)がんと思ふ故(ゆゑ)に参て候也(なり)。」と忿(いかつ)て、玉と秦王とをはたと睨(にら)み、近づく人あらば、忽(たちまちに)玉を切破て、返す刀に腹を切らんと、誠(まこと)に思切たる眼(まな)ざし事(こつ)がら、敢て可遮留様も無りけり。王秦あきれて言(ことば)なく、群臣(ぐんしん)恐れて不近付。藺相如遂(つひ)に連城(れんじやう)の玉を奪取て、趙の国へぞ帰りにける。趙王玉を得て悦び給ふ事不斜(なのめならず)。是(これ)より藺相如を賞翫(しやうくわん)せられて、大禄(たいろく)を与へ、高官を授(さづけ)給しかば、位外戚(ぐわいせき)を越(こえ)、禄(ろく)万戸(ばんこ)に過(すぎ)たり。軈(やが)て牛車(ぎつしや)の宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)り、宮門を出入するに、時の王侯貴人も、目を側(そばめ)て皆道を去る。爰(ここ)に廉頗(れんぱ)将軍(しやうぐん)と申(まうし)ける趙王の旧臣、代々(だいだい)功を積み忠を重(かさね)て、我に肩を双(なら)ぶべき者なしと思けるが、忽(たちまち)に藺相如に権(けん)を被取、安からぬ事に思(おもひ)ければ、藺相如が参内しける道に三千(さんぜん)余騎(よき)を構(かま)へて是を討(うた)んとす。藺相如も勝(すぐれ)たる兵千(せん)余騎(よき)を召具(めしぐ)して、出仕しけるが、遥(はるか)に廉頗が道にて相待(あひまつ)体(てい)を見て戦(たたかは)むともせず、車を飛(とば)せ兵を引て己が館(たち)へぞ逃去(にげさり)ける。廉頗が兵是(これ)を見て、「さればこそ藺相如、勢(いきほ)ひ只他の力をかる者也(なり)。直(ぢき)に戦を決せん事は、廉頗将軍の小指(こゆび)にだにも及ばじ。」と、笑欺(わらひあざむ)ける間、藺相如が兵心憂(こころうき)事に思(おもひ)て、「さらば我等(われら)廉頗が館(たち)へ押寄せ、合戦の雌雄(しゆう)を決して、彼(かの)輩(ともがら)が欺(あざむき)を防がん。」とぞ望(のぞみ)ける。藺相如是(これ)を聞て、其(その)兵に向て涙を流(ながし)て申(まうし)けるは、「汝等未知(いまだしらず)乎、両虎(りやうこ)相闘(たたかう)て共に死する時、一狐(いつこ)其(その)弊(つひえ)に乗て是(これ)を咀(かむ)と云(いふ)譬(たとへ)あり。今廉頗と我とは両虎也(なり)。戦(たたかは)ば必ず共に死せん。秦の国は是一狐(いつこ)也(なり)。弊(つひえ)に乗て趙をくらはんに、誰か是(これ)をふせがん。此(この)理を思う故(ゆゑ)に、我廉頗に戦(たたかは)ん事を不思一朝の欺(あざむき)を恥(はぢ)て、両国の傾(かたぶか)ん事を忘れば、豈(あに)忠臣にあらん哉(や)。」と、理を尽して制しければ、兵皆理に折れて、合戦の企(くはたて)を休(やめ)てけり。廉頗又此(この)由を聞て黙然(もくねん)として大に恥(はぢ)けるが、尚(なほ)我が咎(とが)を直(ぢき)に謝(しや)せん為に、杖(つえ)を背(せなか)に負(おう)て、藺相如が許(もと)に行(ゆき)、「公が忠貞の誠を聞て我が霍執(くわくしつ)の心を恥づ、願(ねがはく)は公我を此(この)杖にて三百打(うち)給へ、是(これ)を以て罪を謝せん。」と請(こう)て、庭に立(たち)てぞ泣居たりける。藺相如元来有義無怨者なりければ、なじかは是(これ)を可打。廉頗を引て堂上(だうじやう)に居(す)へ、酒を勧(すす)め交(まじはり)を深(ふかく)して返しけるこそやさしけれ。されば趙国は秦・楚に挟(はさまれ)て、地せばく兵少しといへども、此二人(ににん)文を以て行(おこな)ひ、武を以て専にせしかば、秦にも楚にも不被傾、国家を持つ事長久也(なり)。誠(まこと)に私を忘て忠を存する人は加様にこそ可有に、東夷南蛮(とういなんばん)は如虎窺(うかが)ひ、西戎北狄(せいじゆうほくてき)は如竜見る折節、高(かう)・上杉の両家(りやうけ)、差(さし)たる恨(うらみ)もなく、又とがむべき所もなきに、権(けん)を争ひ威(ゐ)を猜(そねみ)て、動(ややもす)れば確執(かくしつ)に及ばんと互に伺隙事豈(あに)忠臣と云(いふ)べしや。
○妙吉侍者(めうきつじしやの)事(こと)付(つけたり)秦(しんの)始皇帝(しくわうていの)事(こと) S2608
近来(このころ)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)、将軍に代(かはつ)て天下の権を取給し後、専ら禅の宗旨(しゆうし)に傾(かたむい)て夢窓(むさう)国師の御弟子(おんでし)と成り、天竜寺(てんりゆうじ)を建立(こんりふ)して陞座拈香(しんそねんかう)の招請(てうしやう)無隙、供仏施僧(くぶつせそう)の財産不驚目云(いふ)事無りけり。爰(ここ)に夢窓国師の法眷(はつけん)に、妙吉侍者と云ける僧是(これ)を見て浦山敷(うらやましき)事に思ひければ、仁和寺(にんわじ)に志一房(しいちばう)とて外法成就(げほふじやうじゆ)の人の有(あり)けるに、荼祇尼天(だぎにてん)の法を習(ならひ)て三七日行(おこな)ひけるに、頓法(とんぼふ)立(たちどころ)に成就(じやうじゆ)して、心に願ふ事の聊(いささか)も不叶云(いふ)事なし。是より夢窓和尚(むさうをしやう)も此(この)僧を以て一大事(いちだいじ)に思ふ心著(つき)給ひにければ、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の被参たりける時、和尚(をしやう)宣(のたまひ)けるは、「日夜の参禅(さんぜん)、学道の御為に候へば、如何にも懈(おこた)る処をこそ勧め申(まうす)べく候へ共、行路(かうろ)程遠(とほう)して、往還(わうくわん)の御煩(おんわづらひ)其(その)恐(おそれ)候へば、今より後は、是に妙吉侍者と申(まうす)法眷(はつけん)の僧の候(さうらふ)を参らせ候べし。語録(ごろく)なんどをも甲斐々々敷(かひがひしく)沙汰し、祖師(そし)の心印をも直(ぢき)に承当(しようたう)し候はんずる事、恐らくは可恥人も候はねば、我に不替常に御相看(ごしやうかん)候(さふらひ)て御法談候べし。」とて、則(すなはち)妙吉侍者を左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の方へぞ被遣ける。直義(ただよし)朝臣(あそん)一度(いちど)此(この)僧を見奉りしより、信心胆(きも)に銘(めい)じ、渇仰(かつがう)無類ければ、只西天(てんの)祖達磨(だるま)大師(だいし)、二度(にど)我国に西来して、直指人心(ぢきしじんしん)の正宗(しようしゆう)を被示かとぞ思はれける。軈(やがて)一条堀川(いちでうほりかは)村雲(むらくも)の反橋(もどりばし)と云(いふ)所に、寺を立て宗風(しゆうふう)を開基(かいき)するに、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)日夜の参学(さんがく)朝夕の法談無隙ければ、其(その)趣(おもむき)に随(したが)はん為に山門寺門の貫主(くわんじゆ)、宗(しゆう)を改めて衣鉢(えはつ)を持ち、五山十刹(ごさんじつさつ)の長老も風(ふう)を顧(かへりみ)て吹挙(すゐきよ)を臨(のぞ)む。況乎(いはんや)卿相雲客(けいしやううんかく)の交(まじは)り近づき給ふ有様、奉行頭人(とうにん)の諛(へつらう)たる体(てい)、語るに言(ことば)も不可及。車馬門前に立列(たちつらね)僧俗堂上(だうじやう)に群集(くんじゆ)す。其(その)一日の布施物(ふせもつ)一座の引手物(ひきでもの)なんど集めば、如山可積。只釈尊(しやくそん)出世の其(その)古(いにしへ)、王舎城(わうしやじやう)より毎日五百(ごひやく)の車に色々の宝を積(つん)で、仏に奉り給ひけるも、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へたりける。加様(かやう)に万人崇敬(そうぎやう)類(たぐ)ひ無りけれ共(ども)、師直・師泰兄弟は、何条(なんでう)其(その)僧の知慧(ちえ)才学(さいかく)さぞあるらんと欺(あざむい)て一度(いちど)も更(さらに)不相看、剰(あまつさ)へ門前を乗打(のりうち)にして、路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)時も、大衣(だいえ)を沓(くつ)の鼻に蹴さする体(てい)にぞ振舞ける。吉侍者是(これ)を見て安からぬ事に思(おもひ)ければ、物語の端(はし)、事の次(ついで)には、只執事兄弟の挙動(ふるまひ)、穏便(をんびん)ならぬ者哉と云沙汰(いひさた)せられけるを聞て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)、畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)、すはや究竟(くつきやう)の事こそ有(あり)けれ。師直・師泰を讒(ざん)し失はんずる事は、此(この)僧にまさる人非じと被思ければ、軈(やが)て交(まじはり)を深(ふかく)し媚(こび)を厚(あつう)して様々讒をぞ構へける。吉侍者も元来悪(にく)しと思ふ高家の者共(ものども)の挙動(ふるまひ)なれば、触事彼等が所行の有様、国を乱り政(まつりこと)を破る最(さい)たりと被讒申事多かりけり。中にも言(こと)ば巧(たくみ)に譬(たとへ)のげにもと覚(おぼゆ)る事ありけるは、或時首楞厳経(しゆりようごんきやう)の談義(だんぎ)已(すで)に畢(をはつ)て異国本朝の物語に及(および)ける時、吉侍者、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に向て被申けるは、「昔秦の始皇帝(しくわうてい)と申(まうし)ける王に、二人(ににん)の王子(わうじ)坐(おはし)けり。兄をば扶蘇(ふそ)、弟をば胡亥(こがい)とぞ申(まうし)ける。扶蘇は第一(だいいち)の御子にて御座(おはせし)か共、常に始皇帝(しくわうてい)の御政(まつりこと)の治(をさま)らで、民をも愍(あはれ)まず仁義を専にし給はぬ事を諌(いさめ)申されける程(ほど)に、始皇帝(しくわうてい)の叡慮(えいりよ)に逆(さからう)てさしもの御覚(おんおぼ)へも無りけり。第二(だいに)の御子胡亥は、寵愛(ちようあい)の后の腹にて御座(おは)する上、好驕悪賢、悪愛(をあい)異于他して常に君の傍(そば)を離れず、趙高(てうかう)と申ける大臣を執政(しつせい)に被付、万事只此(この)計(はから)ひにぞ任せられける。彼(かの)秦の始皇と申(まうす)は、荘襄王(さうじやうわう)の御子也(なり)しが、年十六(じふろく)の始め魏(ぎ)の畢万(ひつばん)、趙の襄公(じやうこう)・韓(かん)の白宣(はくせん)・斉(せい)の陳敬仲(ちんけいちゆう)・楚王・燕(えん)王の六国(りくこく)を皆滅(ほろぼ)して天下を一にし給へり。諸侯を朝(てう)せしめ四海(しかい)を保(たも)てる事、古今第一(だいいち)の帝(みかど)にて御坐(おはせし)かば、是(これ)をぞ始(はじめ)て皇帝(くわうてい)とは可申とて、始皇とぞ尊号(そんがう)を献(たてまつ)りける。爰(ここ)に昔洪才(こうさい)博学の儒者共が、五帝三王の迹(あと)を追ひ、周公・孔子(こうし)の道を伝(つたへ)て、今の政(まつりこと)古(いにし)へに違(たがひ)ぬと毀(そしり)申(まうす)事、只書伝の世にある故(ゆゑ)也(なり)とて、三墳(さんふん)五典(ごてん)史書全経、総(すべ)て三千七百六十(さんぜんしちひやくろくじふ)余巻(よくわん)、一部も天下に不残、皆焼捨(やきすて)られけるこそ浅猿(あさまし)けれ。又四海(しかい)の間に、宮門警固(けいご)の武士より外は、兵具(ひやうぐ)を不可持、一天下(いちてんが)の兵共(つはものども)が持(もつ)処の弓箭兵仗(きゆうせんひやうぢやう)一(ひとつ)も不残集(あつめ)て是(これ)を焼棄て、其(その)鉄(くろがね)を以て長(たけ)十二丈(じふにぢやうの)金人(こんじん)十二人(じふににん)を鋳(い)させて、湧金門(ゆうきんもん)にぞ被立ける。加様(かやう)の悪行(あくぎやう)、聖に違(たが)ひ天に背(そむ)きけるにや、邯鄲(かんたん)と云(いふ)所へ、天より災(わざはひ)を告(つぐ)る悪星(あくせい)一落て、忽(たちまち)に方十二丈(じふにぢやう)の石となる。面に一句の文字有て、秦の世滅(ほろび)て漢の代になるべき瑞相(ずゐさう)を示したりける。始皇是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「是(これ)全(まつた)く天のする所に非(あら)ず、人のなす禍(わざはひ)也(なり)。さのみ遠き所の者はよも是(これ)をせじ四方(しはう)十里(じふり)が中を不可離。」とて、此(この)石より四方(しはう)十里(じふり)が中に居たる貴賎の男女一人も不残皆首を被刎けるこそ不便(ふびん)なれ。東南には函谷(かんこく)二■(じかう)の嶮(けわしき)を峙(そばた)て、西北には洪河■渭(こうがけいゐ)の深(ふかき)を遶(めぐ)らして、其(その)中に回(まはり)三百七十里(さんびやくしちじふり)高さ三里の山を九重に築上(つきあげ)て、口六尺(ろくしやく)の銅柱(あかがねのはしら)を立(たて)、天に鉄(くろがね)の網(あみ)を張(はり)て、前殿四十六(しじふろく)殿(どの)・後宮(こうきゆう)三十六(さんじふろく)宮(みや)・千門万戸(ばんこ)とをり開き、麒麟(きりん)列(つらなり)鳳凰(ほうわう)相対(あいむか)へり。虹(こう)の梁(うつばり)金の鐺(こじり)、日月光を放(はなち)て楼閣(ろうかく)互に映徹(えいてつ)し、玉の砂(いさご)・銀の床(ゆか)、花柳(くわりう)影を浮(うかべ)て、階闥(かいたつ)品々(しなじな)に分れたり。其(その)居所を高(たかく)し、其(その)歓楽(くわんらく)を究(きはめ)給ふに付(つけ)ても、只有待(うだい)の御命有限事を歎(なげき)給ひしかば、如何(いかにも)して蓬莱(ほうらい)にある不死の薬を求(もとめ)て、千秋万歳(まんぜい)の宝祚(はうそ)を保(たも)たんと思(おもひ)給ひける処に、徐福(じよふく)・文成(ぶんせい)と申(まうし)ける道士(だうし)二人(ににん)来て、我不死の薬を求(もとむ)る術(じゆつ)を知たる由申(まうし)ければ、帝無限悦(よろこび)給(たまひ)て、先(まづ)彼(かれ)に大官を授けて、大禄(たいろく)を与へ給ふ。軈(やが)て彼が申(まうす)旨に任(まかせ)て、年未(いまだ)十五に不過童男丱女(どうなんくわんじよ)、六千人(ろくせんにん)を集め、竜頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟に載(の)せて、蓬莱(ほうらい)の島をぞ求めける。海漫々(まんまん)として辺(ほとり)なし。雲の浪・烟(けぶり)の波最(いと)深く、風浩々(かうかう)として不閑、月華星彩(せいさい)蒼茫(さうばう)たり。蓬莱は今も古へも只名をのみ聞ける事なれば、天水茫々(ばうばう)として求(もとむ)るに所なし。蓬莱を不見否(いな)や帰らじと云(いひ)し童男丱女は、徒(いたずら)に舟の中にや老(おい)ぬらん。徐福文成(じよふくぶんせい)其(その)偽(いつはり)の顕(あらわ)れて、責(せめ)の我(わが)身に来らんずる事を恐(おそれ)て、「是(これ)は何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の成祟と覚(おぼえ)候。皇帝(くわうてい)自(みづから)海上に幸(みゆき)成て、竜神(りゆうじん)を被退治(たいぢ)候(さうらひ)なば、蓬莱の島をなどか尋(たづね)得ぬ事候べき。」と申(まうし)ければ、始皇帝(しくわうてい)げにもとて、数万艘(すまんさう)の大船を漕双(こぎなら)べ、連弩(れんど)とて四五百人(しごひやくにん)して引て、同時に放(はな)つ大弓大矢を船ごとに持せられたり。是(これ)は成祟竜神(りゆうじん)、若(もし)海上に現(げん)じて出たらば、為射殺用意(ようい)也(なり)。始皇帝(しくわうてい)已(すで)に之罘(しふ)の大江を渡(わたり)給ふ道すがら、三百万人(さんびやくまんにん)の兵共(つはものども)、舷(ふなばた)を叩(たた)き大皷(たいこ)を打て、時を作る声止(やむ)時なし。礒山嵐(いそやまあらし)・奥津浪(おきつなみ)、互に響(ひびき)を参(まじ)へて、天維坤軸(てんゐこんぢく)諸共(もろとも)に、絶(た)へ砕(くだけ)ぬとぞ聞へける。竜神(りゆうじん)是(これ)にや驚(おどろ)き給(たまひ)けん。臥長(ふしたけ)五百丈(ごひやくぢやう)計(ばかり)なる鮫大魚(かうたいぎよ)と云(いふ)魚に変(へん)じて、浪の上にぞ浮出たる。頭(かしら)は如師子遥(はるか)なる天に延揚(のびあが)り、背(せなか)は如竜蛇万頃(ばんきやう)の浪に横(よこたは)れり。数万艘(すまんさう)の大船四方(しはう)に漕分(こぎわか)れて同時に連弩(れんど)を放(はな)つに、数百万の毒(どく)の矢にて鮫大魚(かうたいぎよ)の身に射立ければ、此(この)魚忽(たちまち)に被射殺、蒼海(さうかい)万里の波の色、皆血に成てぞ流れける。始皇帝(しくわうてい)其(その)夜龍神と自(みづから)戦ふと夢を見給(たまひ)たりけるが、翌日より重き病を請(うけ)て五体(ごたい)暫(しばらく)も無安事、七日の間苦痛逼迫(ひつぱく)して遂(つひ)に沙丘(しやきう)の平台(へいだい)にして、則(すなはち)崩御(ほうぎよ)成(なり)にけり。始皇帝(しくわうてい)自詔(じぜう)を遺(のこ)して、御位をば第一(だいいち)の御子扶蘇(ふそ)に譲(ゆづ)り給(たまひ)たりけるを、趙高(てうかう)、扶蘇(ふそ)御位に即(つき)給ひなば、賢人才人(さいじん)皆朝家(てうか)に被召仕、天下を我(わが)心に任する事あるまじと思(おもひ)ければ、始皇帝(しくわうてい)の御譲(おんゆづり)を引破て捨(すて)、趙高が養君(やうくん)にし奉りたる第二(だいに)の王子(わうじ)胡亥(こがい)と申(まうし)けるに、代(よ)をば譲(ゆづり)給(たまひ)たりと披露(ひろう)して、剰(あまつさへ)討手を咸陽宮(かんやうきゆう)へ差遣(さしつかは)し、扶蘇(ふそ)をば討奉りてげり。角(かく)て、幼稚(えうち)に坐(おは)する胡亥(こがい)を二世皇帝(にせいくわうてい)と称して、御位に即(つけ)奉り、四海(しかい)万機の政(まつりこと)、只趙高が心の侭(まま)にぞ行(おこな)ひける。此(この)時天下初(はじめ)て乱(みだれ)て、高祖(かうそは)沛郡(はいぐん)より起(おこ)り、項羽(かううは)楚より起て、六国(りくこく)の諸侯悉(ことごとく)秦を背(そむ)く。依之(これによつて)白起(はくき)・蒙恬(もうてん)、秦の将軍として戦(たたかふ)といへ共、秦の軍(いくさ)利(り)無(なく)して、大将皆討れしかば、秦又章邯(しやうかん)を上将軍(じやうしやうぐん)として重(かさね)て百万騎の勢を差下し、河北(かほく)の間に戦(たたかは)しむ。百般(ももたび)戦(たたかひ)千般(ちたび)遭(あふ)といへ共雌雄(しゆう)未決(いまだけつせず)、天下の乱止(やむ)時なし。爰(ここ)に趙高、秦の都咸陽宮(かんやうきゆう)に兵の少き時を伺見(うかがひみ)て二世皇帝(にせいくわうてい)を討奉り、我(われ)世を取(とら)んと思(おもひ)ければ、先(まづ)我が威勢(ゐせい)の程を為知、夏毛(なつけ)の鹿に鞍(くら)を置て、「此(この)馬に召(めさ)れて御覧候へ。」と、二世皇帝(にせいくわうてい)にぞ奉りける。二世皇帝(にせいくわうてい)是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)非馬、鹿也(なり)。」と宣(のたま)ひければ趙高、「さ候はゞ、宮中の大臣共を召(めさ)れて、鹿(しか)・馬(むま)の間を御尋(おんたづね)候べし。」とぞ申(まうし)ける。二世則(すなはち)百司千官公卿(くぎやう)大臣悉(ことごと)く召集(めしあつめ)て、鹿・馬の間を問(とひ)給ふ。人皆盲者(めしひるもの)にあらざれば、馬に非(あら)ずとは見けれ共(ども)、趙高が威勢に恐(おそれ)て馬也(なり)と申さぬは無りけり。二世皇帝(にせいくわうてい)一度(いちど)鹿・馬の分(わかち)に迷(まよひ)しかば、趙高大臣は忽(たちまち)に虎狼(こらう)の心を挿(さしはさ)めり。是(これ)より趙高、今は我が威勢をおす人は有らじと兵を宮中へ差遣(さしつかは)し、二世皇帝(にせいくわうてい)を責(せめ)奉るに、二世趙高が兵を見て、遁(のが)るまじき処を知(しり)給(たまひ)ければ、自(みづから)剣の上に臥(ふし)て、則(すなはち)御自害(ごじがい)有てけり。是(これ)を聞て秦の将軍にて、漢・楚と戦(たたかひ)ける章邯(しやうかん)将軍(しやうぐん)も、「今は誰をか君として、秦の国をも可守。」とて、忽(たちまち)に降人(かうにん)に成て、楚の項羽(かうう)の方へ出ければ、秦の世忽(たちまち)に傾(かたぶい)て、高祖(かうそ)・項羽(かうう)諸共(もろとも)に咸陽宮(かんやうきゆう)に入(いり)にけり。趙高世を奪(うばひ)て二十一日と申(まうす)に、始皇帝(しくわうてい)の御孫子嬰(しえい)と申(まうせ)しに被殺、子嬰は又楚(その)項羽(かうう)に被殺給(たまひ)しかば、神陵(しんりよう)三月の火九重(きうちよう)の雲を焦(こが)し、泉下(せんか)多少(たせう)の宝玉人間の塵(ちり)と成(なり)にけり。さしもいみじかりし秦の世、二世に至て亡(ほろび)し事は、只趙高が侈(おごり)の心より出来(いでくる)事にて候(さうらひ)き。されば古(いにしへ)も今も、人の代を保(たも)ち家を失ふ事は、其(その)内の執事管領の善悪による事にて候。今武蔵守(むさしのかみ)・越後(ゑちごの)守(かみ)が振舞(ふるまひ)にては、世中(よのなか)静(しづま)り得じとこそ覚(おぼえ)て候へ。我(わが)被官(ひくわん)の者の恩賞(おんしやう)をも給(たまは)り御恩をも拝領して、少所(せうしよ)なる由を歎(なげき)申せば、何を少所と歎(なげき)給ふ。其(その)近辺に寺社本所(ほんじよ)の所領(しよりやう)あらば、堺を越て知行せよかしと下知(げぢ)す。又罪科(ざいくわ)有て所帯を被没収たる人以縁書執事兄弟に属(しよく)し、「如何(いかが)可仕。」と歎けば、「よし/\師直そらしらずして見んずるぞ。縦(たとひ)如何(いか)なる御教書(みげうしよ)也(なり)とも、只押(おさ)へて知行せよ。」と成敗(せいばい)す。又正(まさし)く承(うけたまはり)し事の浅猿(あさま)しかりしは、都に王と云(いふ)人のまし/\て、若干(そくばく)の所領をふさげ、内裏(だいり)・院(ゐん)の御所(ごしよ)と云(いふ)所の有て、馬より下(おる)る六借(むつかし)さよ。若(もし)王なくて叶(かなふ)まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳(い)るかして、生(いき)たる院(ゐん)、国王をば何方(いづかた)へも皆流し捨(すて)奉らばやと云(いひ)し言(ことば)の浅猿(あさまし)さよ。一人天下に横行するをば、武王是(これ)を恥(はぢ)しめりとこそ申(まうし)候。況乎(いはんや)己(おのれ)が身申沙汰(まうしさた)する事をも諛(へつらふ)人あれば改(あらため)て非を理になし、下(しも)として上を犯(をか)す科(とが)、事既(すで)に重畳(ぢゆうでふ)せり。其(その)罪を刑罰(けいばつ)せられずは、天下の静謐(せいひつ)何(いづ)れの時をか期(ご)し候べき。早く彼等(かれら)を討(うた)せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚(えうち)の若御(わかご)に天下を保(たも)たせ進(まゐら)せんと思召す御心(おんこころ)の候はぬや。」と、言(ことば)を尽(つく)し譬(たとへ)を引て様々に被申ければ、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)倩(つらつら)事の由を聞給(たまひ)て、げにもと覚(おぼゆ)る心著(つき)給(たまひ)にけり。是(これ)ぞ早仁和寺(にんわじ)の六本杉の梢(こずゑ)にて、所々の天狗共(てんぐども)が又天下を乱らんと様々に計りし事の端(はし)よと覚へたる。
○直冬(ただふゆ)西国下向(げかうの)事(こと) S2609
先(まづ)西国静謐(せいひつ)の為とて、将軍の嫡男(ちやくなん)宮内(くないの)大輔(たいふ)直冬を、備前(びぜんの)国(くに)へ下さる。抑(そもそも)此(この)直冬と申(まうす)は、古へ将軍の忍て一夜(いちや)通ひ給たりし越前(ゑちぜん)の局(つぼね)と申(まうす)女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵(むさしの)国(くに)東勝寺(とうしようじ)の喝食(かつしき)なりしを、男に成(なし)て京へ上せ奉し人也(なり)。此由(よしの)内々申入るゝ人有(あり)しか共、将軍曾(かつて)許容(きよよう)し給はざりしかば、独清軒玄慧(どくせいけんげんゑ)法印が許(もと)に所学して、幽(かすか)なる体にてぞ住佗(すみわび)給ひける。器用事(こつ)がら、さる体に見へ給(たまひ)ければ、玄慧法印事の次(ついで)を得て左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に角(かく)と語り申(まうし)たりけるに、「さらば、其(その)人是(これ)へ具足して御渡(おんわたり)候へ。事の様能々(よくよく)試(こころみ)て、げにもと思(おもふ)処あらば、将軍へも可申達。」と、始(はじめ)て直冬を左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の方へぞ被招引ける。是にて一二年過けるまでもなを将軍許容(きよよう)の儀無りけるを、紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)共(ども)蜂起(ほうき)の事及難義ける時、将軍始(はじめ)て父子の号(がう)を被許、右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)に補任(ふにん)して、此(この)直冬を討手の大将にぞ被差遣ける。紀州暫(しばらく)静謐(せいひつ)の体にて、直冬被帰参しより後(のち)、早(はや)、人々是(これ)を重(おもん)じ奉る儀も出来り、時々将軍の御方へも出仕し給(たまひ)しか共、猶(なほ)座席(ざせき)なんどは仁木(につき)・細川の人々と等列(とうれつ)にて、さまで賞翫(しやうくわん)は未(いまだ)無りき。而るを今左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の計(はから)ひとして、西国の探題(たんだい)になし給ひければ、早晩(いつ)しか人皆帰服(きふく)し奉りて、付順(つきしたが)ふ者多かりけり。備後の鞆(とも)に座(おは)し給て、中国の成敗を司(つかさ)どるに、忠ある者は不望恩賞を賜(たまは)り、有咎者は不罰去其堺。自是多年非(ひ)をかざりて、上を犯(をか)しつる師直・師泰が悪行、弥(いよいよ)隠れも無りけり。