太平記(国民文庫)
太平記巻第二十四

○朝儀年中行事(てうぎねんぢゆうぎやうじの)事(こと) S2401
暦応(りやくおう)改元(かいげん)の比(ころ)より兵革(ひやうがく)且(しばら)く静(しづま)り、天下(てんが)雖属無為京中(きやうぢゆう)の貴賎(きせん)は尚(なほ)窮困(きゆうこん)の愁(うれへ)に拘(かかは)れり。其(その)故は国衙(こくが)・荘園(しやうゑん)も本所の知行(ちぎやう)ならず。正税官物(せいぜいくわんぶつ)も運送の煩(わづらひ)有(あつ)て、公家は逐日狼戻(らうれい)せしかば、朝儀(てうぎ)悉(ことごとく)廃絶(はいぜつ)して政道さながら土炭(どたん)に堕(おち)にける。夫(それ)天子は必(かならず)万機(ばんき)の政(まつりごと)を行(おこな)ひ、四海(しかい)を治(をさめ)給ふ者也(なり)。其(その)年中行事(ねんぢゆうぎやうじ)と申(まうす)は、先(まづ)正月には、平旦(へいたん)に天地四方拝(しはうはい)・屠蘇白散(とそびやくさん)・群臣(ぐんしん)の朝賀(てうが)・小朝拝(こでうはい)・七曜(しちえう)の御暦(ごりやく)・腹赤(はらか)の御贄(みにへ)・氷様(ひのためし)・式兵(しきひやう)二省内外官(にしやうないげくわん)の補任帳(ふにんちやう)を進(たてまつ)る。立春の日は、主水司(もんどつかさ)立春の水(わかみづ)を献(たてまつ)る。子日(ねのひ)の若菜(わかな)・卯(うの)日(ひ)の御杖(みつゑ)・視告朔(かうさく)の礼・中春両宮(ちゆうとうりやうぐう)の御拝賀(ごはいが)。五日(いつかは)東寺の国忌(こつき)・叙位(じよい)の議白(ぎびやく)。七日(なぬかは)兵部(ひやうぶの)省御弓(おんたらし)の奏(そう)。同日白馬節会(あをむまのせちゑ)。八日(やうかは)大極殿(だいこくでん)の御斉会(みさいゑ)。同日真言院(しんごんゐん)の御修法(みしほ)・太元の法・諸寺の修正(しゆしやう)・女叙位(によじよゐ)。十一日(じふいちにちは)外官(げくわん)の除目(ぢもく)。十四日(じふしにちは)殿上(てんしやう)の内論議(うちろんぎ)。十五日(じふごにちは)七種(ななくさ)の御粥(みかゆ)・宮内(くないの)省の御薪(みかまぎ)。十六日(じふろくにちは)蹈歌節会(たうかのせちゑ)・秋冬の馬料(むまれう)・諸司(しよし)の大粮(おほがて)・射礼(しやれい)・賭弓(のりゆみ)・年給(ねんきふ)の帳(ちやう)・神祇官(じんぎくわん)の御麻(みぬさ)。晦日(つごもり)には御巫(みかんのこ)御贖(みあかもの)を奉る。院の尊勝陀羅尼(そんしようだらに)。二月には上(かみ)の丁日(ひのとのひ)尺奠(しやくてん)・上(かみ)の申(さるの)日(ひ)春日祭(かすがのまつり)。翌日(つぎのひ)卒川祭(いさがはのまつり)。上(かみ)の卯(うの)日(ひ)大原野祭(おほはらののまつり)・京官の除目(ぢもく)・祈年(としこひ)の祭(まつり)・三省考選(さんしやうかうせん)の目録(もくろく)・列見(れつけん)の位禄(ゐろく)・季(き)の御読経(みどつきやう)・仁王会(にんわうゑ)を被行。三月には三日(みつかの)御節供(ごせつく)・御灯(ごとう)・曲水(きよくすゐ)の宴(えん)。七日(なぬかは)薬師(やくし)寺の最勝会(さいしようゑ)・石清水(いはしみづ)の臨時(りんじ)の祭(まつり)・東大寺の花厳会授戒(けごんゑじゆかい)。同日鎮花祭(はなしづめのまつり)あり。四月には朔日(ついたち)の告朔(かうさく)。同日掃部寮(かもんれう)冬の御座(ござ)を徹(てつ)して夏の御座を供(くう)ず。主水司(もんどづかさ)始(はじめ)て氷を献(たてまつ)り、兵衛(ひやうゑの)府(ふ)御扇(みあふぎ)を進(たてまつ)る。山科(やましな)・平野(ひらの)・松尾(まつのを)・杜本(もりもと)・当麻(たいま)・当宗(まさむね)・梅(むめの)宮(みや)・大神(おほわ)の祭・広瀬立田(ひろせたつた)の祭あり。五日は中務省(なかつかさのしやう)妃(ひ)・夫人(ふじん)・嬪(よめづかひ)。女御(にようご)の夏の衣服(いふく)の文(もん)を申す。同日准蔭(じゆおん)の位記(ゐき)。七日は擬階(ぎかい)の奏(そう)也(なり)。八日は潅仏(くわんぶつ)。十日は女官、春夏の時の飾(かざ)り物(もの)の文(もん)を奏す。内の弓場(ゆば)の埒(らち)。斉内親(いつきのないしん)王の御禊(みそぎ)。中の申(さるの)日(ひ)国(くにの)祭(まつり)。関白の賀茂詣(かものまうで)。中の酉(とりの)日(ひ)賀茂(かも)の祭。男女の被馬(かざりむま)。下(しも)の子(ねの)日(ひ)吉田(よしたの)宮(みやの)祭(まつり)。東大寺の授戒(じゆかい)の使。駒牽神衣(こまひきかんみそ)の三枝(さいぐさ)の祭(まつり)あり。五月には、三日六衛府(ろくゑふ)、菖蒲(あやめ)并(ならびに)花を献(たてまつ)る。四日は走馬(はしりむま)の結番(つがひ)、并(ならびに)毛色(けいろ)を奏(そう)す。五日(いつかは)端午(たんご)の祭、薬玉御節供(くすだまのおんせく)・競馬(くらべむま)・日吉(ひよしの)祭・最勝講を被行。六月には、内膳司(ないぜんのつかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)ず。中務省(なかつかさのしやう)暦(れき)を奏す。造酒司(さけのつかさ)の醴酒(ひとよざけ)。神祇官(じんぎくわん)の御体(みたい)の御占(みうら)。月次(つきなみ)。神今食(じんごんじき)。道饗(みあい)。鎮火(ひしづめ)の祭。神祇官(じんぎくわん)の荒世(あらよ)の御贖(みあかもの)を奏す。東西(やまとかはち)の文部(ふんひとべ)、祓(はらへ)の刀(たち)を奏(そう)す。十五日(じふごにちは)祇薗(ぎをん)の祭(まつり)。晦日の節折(よをり)、大祓(おほはらひ)。七月には、朔日の告朔(かうさく)。広瀬竜田(ひろせたつた)の祭(まつり)に可向。五位の定め。女官の補任帳(ふにんちやう)。二日(ふつかは)最勝寺(さいしようじ)の八講(はつかう)・七夕(たなばた)の乞巧奠(きつかうてん)。八日の文殊会(もんじゆゑ)。十四日(じふしにちは)盂蘭盆(うらぼん)。十九日(じふくにちは)尊勝寺(そんしようじ)の八講(はつかう)。二十八日(にじふはちにちは)相撲節会(すまうのせちゑ)。八月には、上(かみ)の丁(ひのと)の尺奠(しやくてん)。明る日内論議(うちろんぎ)。四日(よつかは)北野祭(きたののまつり)。十一日(じふいちにちは)官(くわん)の定考(かうぢやう)・小定考(こかうぢやう)。十五日(じふごにちは)八幡放生会(やはたのはうじやうゑ)。十六日(じふろくにちは)駒引(こまひき)・仁王会(にんわうゑ)・季御読経(きのみどつきやう)あり。九月には、九日(ここのか)重陽(ちようやう)の宴(えん)。十一日(じふいちにちは)伊勢の例幣(れいへい)・祈年(としこひ)・月次(つきなみ)・神甞(かんなめ)・新甞(にひなめ)・大忌風神(おほみかざかん)。十五日(じふごにちは)東寺の灌頂(くわんぢやう)。鎮花(はなしづめ)・三枝(さいぐさ)・相甞(あひなめ)・鎮魂(たましづめ)・道饗(みあい)の祭(まつり)あり。十月には、掃部寮(かもんれう)夏の御座を徹(てつ)して、冬の御座を供(くう)ず。兵庫寮(ひやうごのれう)鼓吹(つづみふえ)の声を発(おこ)し、刑部(ぎやうぶの)省(しやう)年終(ねんしゆう)断罪(たえづみ)の文(ふん)を進(たてまつ)る。亥(ゐの)日(ひ)三度(みたび)の猪子(ゐのこ)。五日(いつかは)弓場始(ゆばはじめ)。十日(とをかは)興福寺(こうぶくじ)の維摩会(ゆゐまゑ)。競馬(くらべむま)の負方(まけかた)の献物(こんぶつ)。大歌始(おほうたはじめ)あり。十一月には、朔日に内膳(ないぜんの)司(つかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)じ、中務省(なかつかさのしやう)御暦(おんれき)を奏(そう)す。神祇官(じんぎくわん)の御贖(みあかもの)。斎院(さいゐん)の御神楽(みかくら)。山科(やましな)・平野(ひらの)・春日(かすが)・森本(もりもと)・梅宮(うめのみや)・大原野(おほはらのの)祭。新甞会(しんじやうゑ)。賀茂(かもの)臨時(りんじの)祭(まつり)あり。十二月には、自朔日同十八日まで内膳(ないぜんの)司(つかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)ず。御体(みたい)の御占(みうら)。陰陽寮(おんやうれう)来年の御忌(おんき)を勘禄(かんろく)して、内侍(ないし)に是(これ)を進(たてまつ)る。荷(にの)前(さき)の使(つかひ)。御仏名(おんぶつみやう)。大寒(たいかん)の日、土牛(とご)の童子を立(たて)、晦日に宮内(くないの)省御薬を奏す。大禊(おほはらひ)。御髪上(みくしあげ)。金吾(きんご)四隊(したい)に列(つらなつ)て、院々(ゐんゐん)の焼灯(せうとうは)不異白日。沈香火底(ちんかうくわてい)に坐して吹笙と云(いひ)ぬる追儺(つゐな)の節会(せちゑ)は今夜也(なり)。委細に是(これ)を註(しる)さば、車に載(のす)とも不可尽。唯(ただ)大綱(たいかう)を申許(まうすばかり)也(なり)。是等(これら)は皆代々(だいだい)の聖主賢君の受天奉地、静世治国枢機(すうぎ)なれば、一度(いちど)も不可断絶事なれ共(ども)、近年は依天下(てんが)闘乱一事(いちじ)も不被行。されば仏法も神道も朝儀(てうぎ)も節会(せちゑ)もなき世と成(なり)けるこそ浅猿(あさまし)けれ。政道一事(いちじ)も無きに依(よつ)て、天も禍(わざはひ)を下す事を不知(しらず)。斯(かかりけ)れ共道を知(しる)者無(なけ)れば、天下(てんが)の罪を身に帰(き)して、己(おのれ)を責(せむ)る心の無(なか)りけるこそうたてけれ。されば疾疫飢饉(しつえきききん)、年々に有(あつ)て、蒸民(じようみん)の苦(くるし)みとぞ成(なり)にける。
○天竜寺(てんりゆうじ)建立(こんりふの)事(こと) S2402
武家の輩(ともが)ら如此諸国を押領(あふりやう)する事も、軍用を支(ささへ)ん為ならば、せめては無力折節(をりふし)なれば、心をやる方も有(ある)べきに、そゞろなるばさらに耽(ふけり)て、身には五色を飾(かざ)り、食には八珍(はつちん)を尽し、茶の会酒宴(しゆえん)に若干(そくばく)の費(つひえ)を入(いれ)、傾城田楽(けいせいでんがく)に無量(むりやう)の財(たから)を与(あた)へしかば、国費(つひ)へ人疲(つかれ)て、飢饉疫癘(ききんえきれい)、盜賊(たうぞく)兵乱止(やむ)時なし。是(これ)全く天の災(わざはひ)を降(くだ)すに非(あら)ず。只国の政(まつりこと)無(なき)に依(よる)者也(なり)。而(しかる)を愚(おろか)にして道を知(しる)人無(なか)りしかば、天下(てんが)の罪を身に帰(き)して、己(おのれ)を責(せむ)る心を弁(わきま)へざりけるにや。夢窓(むさう)国師左武衛(さひやうゑの)督(かみ)に被申けるは、「近〔年〕天下(てんが)の様を見候に、人力を以て争(いかで)か天災(てんさい)を可除候。何様(いかさま)是(これ)は吉野の先帝崩御(ほうぎよ)の時、様々の悪相を現(げん)し御座候(ござさふらひ)けると、其神霊(そのじんれい)御憤(おんいきどほり)深(ふかく)して、国土に災(わざはひ)を下し、禍(わざはひ)を被成候と存(ぞんじ)候。去(さる)六月二十四日の夜(よの)夢に吉野の上皇鳳輦(ほうれん)に召(めし)て、亀山(かめやま)の行宮(あんきゆう)に入御座(じゆぎよまします)と見て候(さふらひ)しが、幾程無(いくほどなく)て仙去(せんきよ)候。又其(その)後時々(よりより)金龍(きんりよう)に駕(が)して、大井河(おほゐがは)の畔(ほとり)に逍遥(せうえう)し御座(おはしま)す。西郊(さいかう)の霊迹(れいせき)は、檀林皇后(だんりんくわうぐう)の旧記に任せ、有謂由区々(まちまち)に候。哀(あはれ)可然伽藍(がらん)一所御建立(ごこんりふ)候(さふらひ)て、彼御菩提(かのおんぼたい)を吊(とふら)ひ進(まゐら)せられ候はゞ、天下(てんが)などか静(しづま)らで候べき。菅原(すがはら)の聖廟(せいべう)に贈爵(ぞうしやく)を奉り、宇治の悪左府(あくさふ)に官位を贈(おく)り、讃岐(さぬきの)院(ゐん)・隠岐(おきの)院(ゐん)に尊号を諡(おくりな)し奉り、仙宮(せんきゆう)を帝都に遷進(うつしまゐらせ)られしかば、怨霊(をんりやう)皆静(しづまつ)て、却(かへつ)て鎮護(ちんご)の神(しん)と成(なら)せ給候(たまひさふらひ)し者を。」と被申しかば、将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、「此(この)儀尤(もつとも)。」とぞ被甘心ける。されば頓(やが)て夢窓(むさう)国師を開山(かいさん)として、一寺を可被建立とて、亀山殿(かめやまどの)の旧跡(きうせき)を点(てん)じ、安芸・周防を料国(れうこく)に被寄、天竜寺(てんりゆうじ)をぞ被作ける。此(この)為に宋朝(そうてう)へ宝(たから)を被渡しかば、売買(ばいばい)其利(そのり)を得て百倍(ひやくばい)せり。又遠国の材木をとれば、運載(うんたい)の舟更に煩(わづらひ)もなく、自(おのづから)順風を得たれば、誠(まこと)に天竜八部(てんりゆうはちぶ)も是(これ)を随喜(ずゐき)し、諸天善神も彼(かれ)を納受(なふじゆ)し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂(はつたう)・庫裏(くり)・僧堂・山門・総門・鐘楼(しゆろう)・方丈(はうぢやう)・浴室(よくしつ)・輪蔵(りんざう)・雲居庵(うんこあん)・七十(しちじふ)余宇(よう)の寮舎(れうしや)・八十四間の廊下(らうか)まで、不日(ふじつ)の経営(けいえい)事成(なつ)て、奇麗(きれい)の装(よそほひ)交(まじ)へたり。此開山(このかいさん)国師、天性(てんせい)水石に心を寄せ、浮萍(ふへい)の跡を為事給(たまひ)しかば、傍水依山十境(じつきやう)の景趣(けいしゆ)を被作たり。所謂(いはゆる)大士応化(おうけ)の普明閣(ふみやうかく)、塵々和光(ぢんぢんわくわう)の霊庇廟(れいひべう)、天心浸秋曹源池(さうげんち)、金鱗(こんりん)焦尾三級岩(さんきふがん)、真珠(じんしゆ)琢頷龍門亭(りようもんちん)、捧三壷亀頂塔(きちやうだふ)、雲半間(うんはんけん)の万松洞(まんしようとう)、不言開笑拈花嶺(ねんげれい)、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋(とげつけう)。此(この)十景(じつけい)の其(その)上(うへ)に、石を集(あつめ)ては烟嶂(えんしやう)の色を仮(か)り、樹(き)を栽(うゑ)ては風涛(ふうたう)の声(こゑを)移(うつ)す。慧崇(ゑそう)が烟雨(えんう)の図(づ)、韋偃(ゐえん)が山水の景(けい)にも未得(いまだえざりし)風流也(なり)。康永(かうえい)四年に成風(せいふう)の功(こう)終(をはつ)て、此(この)寺五山第二(だいに)の列(れつ)に至りしかば、惣じては公家の勅願寺(ちよくぐわんじ)、別しては武家の祈祷所(きたうじよ)とて、一千人の僧衆(しゆ)をぞ被置ける。
○依山門嗷訴公卿僉議(くぎやうせんぎの)事(こと) S2403
同八月に上皇臨幸(りんかう)成(なつ)て、供養(くやう)を可被逐とて、国々の大名共(だいみやうども)を被召(めされ)、代々(だいだい)の任例其役(そのやく)を被仰合。凡(およそ)天下(てんが)の鼓騒(こさう)、洛中(らくちゆう)の壮観(さうくわん)と聞へしかば、例の山門の大衆忿(いかり)をなし、夜々の蜂起(ほうき)、谷々(たにだに)の雷動(らいどう)無休時。あはや天魔の障碍(しやうげ)、法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)出来(いできたり)ぬるとぞみへし。三門跡(さんもんぜき)是を為静御登山(ごとうさん)あるを、若大衆(わかだいしゆ)共(ども)御坊(ごばう)へ押寄(おしよせ)て、不日(ふじつ)に追下(おひくだ)し奉り、頓(やが)て三塔(さんたふ)会合(くわいがふ)して大講堂の大庭(おほには)にて僉議(せんぎ)しける。其詞(そのことば)に云(いはく)、「夫王道之盛衰者、依仏法之邪正、国家之安全者、在山門之護持。所謂桓武(くわんむの)皇帝(くわうてい)建平安城(へいあんじやう)也(なり)。契将来於吾山、伝教(でんげう)大師(だいし)開比叡山(ひえいさん)也(なり)。致鎮守於帝城。自爾以来、釈氏化導之正宗、天子本命之道場偏在真言止観之繁興。被専聖代明時之尊崇者也(なり)。爰頃年禅法之興行喧於世、如無顕密弘通。亡国之先兆、法滅之表事、誰人不思之。吾山殊驚嘆也(なり)。訪例於異国、宋朝幼帝崇禅宗、奪世於蒙古。引証於吾朝、武臣相州(さうしう)尊此法、傾家於当今。覆轍不遠、後車盍誡。而今天竜寺(てんりゆうじ)供養之儀、既整勅願之軌則、可及臨幸之壮観云々。事如風聞者、奉驚天聴、遠流踈石法師、於天竜寺(てんりゆうじ)以犬神人可令破却。裁許若及猶予者、早頂戴七社(しちしや)之神輿、可奉振九重之帝闕。」と僉議(せんぎ)しければ、三千(さんぜんの)大衆(だいしゆ)一同に皆尤(もつとも)々とぞ同じける。同(おなじき)七月三日谷々(たにだに)の宿老(しゆくらう)捧款状陳参(ちんさん)す。其(その)奏状に云(いはく)、延暦寺(えんりやくじ)三千(さんぜん)大衆法師等、誠恐誠惶謹言請特蒙天裁、因准先例、忽被停廃踈石法師邪法、追放其身於遠島、至天竜寺(てんりゆうじ)者、止勅供養儀則、恢弘顕密両宗教迹、弥致国家護持精祈状。右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台(てんだい)顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也(なり)。亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居(くわうきよ)之(の)遺基、為人処之栖界、何不傷哉(かな)。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居(くわうきよ)哉(かな)。聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也(なり)。疎石独背之。山櫛藻■、自安居所、俗士之奢侈也(なり)。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。天下(てんが)言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千(さんぜん)学侶忽為雷動、一紙(いつし)表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺(てんりゆうじ)供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、為御聴聞密々可有臨幸歟之(の)由(よし)、所有其沙汰也(なり)。山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王(みやうわう)之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門(しやもん)、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也(なり)。望請天裁急断葛藤、於天竜寺(てんりゆうじ)者、須令削勅願之号停止勅会之儀、流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳(ごごひやくさい)之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等(しゆとら)誠恐誠惶謹言。康永四年七月日三千(さんぜん)大衆法師等上とぞ書(かき)たりける。奏状内覧に被下て後、諸卿参列して此(この)事可有如何と僉議あり。去(され)共(ども)大儀なれば満座閉口の処に、坊城(ばうじやうの)大納言(だいなごん)経顕(つねあき)卿(きやう)進(すすん)で被申けるは、「先(まづ)就山門申詞案事情、和漢の例を引(ひい)て、此宗(このしゆう)を好む世は必(かならず)不亡云(いふ)事なしと申(まうす)条、愚案短才の第一(だいいち)也(なり)。其(その)故は異国に此(この)宗を尊崇せし始(はじめ)を云(いへ)ば、梁(りやうの)武帝、対達磨聞無功徳話を、大同寺(だいどうじ)に禅坐し給(たまひ)しより以来(このかた)、唐(たうの)代二百八十八年、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静也(なり)。我朝(わがてう)には武臣相摸守(さがみのかみ)此(この)宗に傾(かたむい)て、九代累葉(るゐえふ)を栄(さか)へたり。而(しかる)に幼帝の時に至(いたつ)て、大宋は蒙古に被奪、本朝には元弘の初(はじめ)に当(あたつ)て、高時一家(いつけ)を亡(ほろぼせる)事は、全(まつたく)非禅法帰依咎、只政を乱り驕(おごり)を究(きはめ)し故(ゆゑ)也(なり)。何(なんぞ)必(かならず)しも治(をさま)りし世を捨(すて)て、亡びし時をのみ取(とら)んや。是(これ)■濫謀訴(かんらんのぼうそ)也(なり)。豈(あに)足許容哉(かな)。其(その)上(うへ)天子武を諱(いみな)とし給ふ時は、世の人不謂武名、況乎(いはんや)此(この)夢窓は三代の国師として四海(しかい)の知識たり。山門縱(たとひ)訴(うつたへ)を横(よこたへ)すとも、義を知(しり)礼を存せば、過言を止(とどめ)て可仰天裁。漫(みだりに)疎石法師を遠島へ遣(しかは)し、天竜寺(てんりゆうじ)を犬神人(いぬじんにん)に仰(おほせ)て可破却と申(まうす)条、奇怪至極也(なり)。罪科不軽。此(この)時若(もし)錯刑者向後(きやうこう)の嗷訴(がうそ)不可絶。早(はやく)三門跡(さんもんぜき)に被相尋、衆徒の張本(ちやうほんを)召出(めしいだ)し、断罪流刑(るけい)にも可被行とこそ存(ぞんじ)候へ。」と、誠(まこと)に無余儀被申ける。此(この)義げにもと覚(おぼゆ)る処に、日野(ひのの)大納言(だいなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)被申けるは、「山門聊(いささか)嗷訴(がうそ)に似て候へ共、退(しりぞい)て加愚案一義有(あり)と存(ぞんじ)候。其(その)故は日本(につぽん)開闢は自天台山起り、王城の鎮護は以延暦寺(えんりやくじ)専(もつぱら)とす。故(ゆゑ)に乱政行朝日は山門是(これ)を諌(いさめ)申し、邪法世に興る時は衆徒是(これ)を退(しりぞく)る例其来(そのきたること)尚(ひさし)矣。先(まづ)後宇多院(ごうだのゐんの)御宇(ぎよう)に、横岳(よこだけの)太応国師嘉元寺を被造時、山門依訴申其(その)儀を被止畢(をはんぬ)。又以往(いわう)には土御門院(つちみかどのゐんの)御宇(ぎよう)元久三年に、沙門(しやもん)源空専修(げんくうせんじゆ)念仏敷演(ふえん)の時、山門訴申(うつたへまうし)て是(これ)を退治(たいぢ)す。後堀河(ごほりかはの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)嘉禄(かろく)三年(さんねんに)尚(なほ)専修(せんじゆ)の余殃(よあう)を誡(いましめ)て、法然(ほふねん)上人の墳墓を令破却。又御鳥羽(ごとばの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)建久年中に、栄西(えいさい)・能忍等(のうにんら)禅宗を洛中(らくちゆう)に弘めし時、南都北嶺共(ともに)起(おこつ)て及嗷訴。而(しかる)に建仁寺建立(こんりふ)に至(いたつ)て、遮那(しやな)・止観(しくわん)の両宗を被置上(う)へ、開山以別儀可為末寺由(よし)、依被申請被免許候き。惣(すべ)て仏法の一事(いちじ)に不限。百王の理乱(りらん)四海(しかい)の安危、自古至今山門是(これ)を耳外(にぐわい)に不処、所謂(いはゆる)治承の往代に、平相国(へいしやうこく)清盛公(きよもりこう)、天下(てんが)の権(けん)を執(とつ)て、此(この)平安城(へいあんじやう)を福原の卑湿(ひしつ)に移せし時も、山門独(ひとり)捧奏状、終(つひ)に遷都(せんと)の儀を申止畢(まうしとどめをはん)ぬ。是等(これら)は皆山門の大事(だいじ)に非(あら)ずといへども、仏法(ぶつぽふと)与王法以相比故(ゆゑに)、被裁許者也(なり)。抑(そもそも)禅宗の摸様とする処は、宋朝の行儀、貴(たつと)ぶ処は祖師(そし)の行迹(かうせき)也(なり)。然(しかる)に今の禅僧之心操法則(しんさうほつそく)、皆是(これ)に相違(さうゐ)せり。其(その)故は、宋朝には西蕃(せいばん)の帝師とて、摩訶迦羅(まかから)天の法を修して朝家(てうか)の護持を致す真言師(しんごんし)あり。彼(か)れ上天(しやうてん)の下(した)、一人(いちじん)の上(うへ)たるべき依有約、如何なる大刹(だいせつ)の長老、大耆旧(ぎきう)の人も、路次(ろし)に行会(ゆきあふ)時は膝をかゞめて地に跪(ひざまづ)き、朝庭(てうてい)に参会する時は伸手沓(くつ)を取(とり)致礼といへり。我朝(わがてう)には不然、無行(ぶきやう)短才なれども禅僧とだに云(いひ)つれば、法務・大僧正(だいそうじやう)・門主・貫頂の座に均(ひとし)からん事を思へり。只今父母の養育(やういく)を出(いで)たる沙弥喝食(しやみかつしき)も、兄を超(こえ)父を越(こえ)んと志あり。是先(これまづ)仁義礼智信の法にはづる。曾(かつ)て宋朝に無例我朝(わがてう)に始(はじま)れり。言(ことば)は語録(ごろく)に似て、其(その)宗旨を説(とく)時は、超仏越祖(てうぶつをつそ)の手段有(あり)といへども、向利に、他之権貴(ごんき)に媚(こぶ)る時は、檀那(だんな)に諂(へつら)ひ富人(とめるひと)に不下と云(いふ)事なし。身には飾五色食には尽八珍(はつちん)、財産を授(うけ)て住持を望み、寄進(きしん)と号して寄沙汰をする有様、誠(まこと)に法滅の至りと見へたり。君子(くんしは)恥其言過其行と云(いへ)り。是(これ)豈(あに)知恥云乎(いはんや)。凡(およそ)有心人は信物化物(けもつ)をみじと可思。其(その)故は戒行(かいぎやう)も欠(かけ)、内証(ないしよう)も不明ば、所得の施物(せもつ)、罪業(ざいごふ)に非(あらず)と云(いふ)事なし。又道学の者に三機あり。上機は人我無相(じんがむさう)なれば心に懸(かか)る事なし。中機は一念浮(うか)べ共(ども)、人我無理を観(くわん)ずる故(ゆゑ)に二念と相続(あひつい)で無思事。下機(げき)は無相の理までは弁(べん)ぜね共(ども)、慙愧懺悔(ざんぎさんげ)の心有(あつ)て諸人を不悩慈悲の心あり。此外(このほか)に応堕地獄者有(ある)べしと見へたり。人の生渡を失はん事を不顧、他の難非(なんひ)を顕(あらは)す此等(これら)也(なり)。凡(およそ)寺を被建事も、人法(にんぼふ)繁昌(はんじやう)して僧法相対(あひたい)せば、真俗道(みち)備(そなはつ)て尤(もつとも)可然。宝堂荘厳(しやうごん)に事を寄(よせ)、奇麗厳浄(ごんじやう)を雖好と、僧衆無慈悲不正直にして、法を持(ぢ)し人を謗(ばう)して徒(いたづら)に明(あか)し暮(くら)さば、仏法興隆とは申難(まうしがた)かるべし。智識とは身命を不惜随逐給仕(ずゐちくきふじ)して諸有(しよう)所得の心を離(はなれ)て清浄(しやうじやう)を修すべきに、今禅の体(てい)を見るに、禁裏仙洞(きんりせんとう)は松門茅屋(しようもんばうをく)の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客(けいしやううんかく)は木食草衣(もくじきさうえ)なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽(あ)けり。祖師(そしの)行儀如此ならんや。昔(むかし)摩羯陀国(まかだこく)の城中(じやうちゆう)に一人の僧あり。毎朝(まいてう)東に向(むかつ)ては快悦(くわいえつ)して礼拝(らいはい)し、北に向(むかつ)ては嗟嘆(さたん)して泪(なみだ)を流す。人怪(あやし)みて其謂(そのいはれ)を問(とふ)に答(こたへ)て云(いはく)、「東には山中に乗戒(じようかい)倶(とも)に急なる僧、樹下(じゆげ)石上に坐して、已(すで)に証(しよう)を得て年久し。仏法繁昌(はんじやう)す。故(ゆゑ)に是(これ)を礼(らい)す。北には城中(じやうちゆう)に練若(れんにや)あり。数十の堂塔甍(いらか)を双(なら)べ、仏像経巻(きやうくわん)金銀を鏤(ちりばめ)たり。此(ここ)に住する百千の僧俗、飲食衣服(おんじきえぶく)一(ひとつ)として乏(とぼ)しき事なし。雖然如来の正法を究(きは)めたる僧なし。仏法忽(たちまち)に滅(ほろぼ)しなんとす。故(ゆゑ)に毎朝嗟傷(さしやう)す。」と、是(これ)其証(そのしよう)也(なり)。如何に寺を被造共人の煩(わづら)ひ歎(なげき)のみ有(あつ)ては其益(そのえき)なかるべし。朝廷の衰微歎(なげい)て有余。是(これ)を見て山門頻(しきり)に禁廷(きんてい)に訴ふ。言之者(は)無咎、聞之者足以誡乎。然らば山門訴申(うつたへまうす)処有其謂歟(か)とこそ存(ぞんじ)候へ。」と、無憚処ぞ被申ける。此(この)両義相(あひ)分れて是非何れにかあると諸卿傾心弁旨かねたれば、満座鳴(なり)を静めたり。良有(ややあつ)て三条(さんでうの)源(げん)大納言(だいなごん)通冬(みちふゆ)卿(きやう)被申けるは、「以前の義は只天地各別の異論にて、可道行とも不存。縦(たとひ)山門(さんもんの)申(まうす)処雖事多、肝要は只正法(しやうほふと)与邪法の論也(なり)。然らば禅僧(ぜんそうと)与聖道召合(めしあは)せ宗論(しゆうろん)候へかしとこそ存(ぞんじ)候へ。さらでは難事行こそ候へ。凡(およそ)宗論(しゆうろん)の事は、三国の間先例(せんれい)多く候者を。朝参(てうさん)の余暇(よか)に、賢愚因縁経(いんねんきやう)を開(ひらき)見候(さふらひ)しに、彼祇園精舎(かのぎをんしやうじや)の始(はじめ)を尋(たづぬ)れば、舎衛国(しやゑこく)の大臣、須達長者(しゆだつちやうじや)、此(この)国(くに)に一(ひとつ)の精舎(しやうじや)を建(たて)仏を安置(あんち)し奉らん為に、舎利弗(しやりほつ)と共に遍(あまね)く聚落園林(しゆらくゑんりん)を廻(まはり)て見給ふに、波斯匿王(はしのくわう)の太子遊戯経行(いうげきやうぎやう)し給ふ祇陀園(ぎだゑん)に勝(すぐ)れたる処なしとて、長者、太子に此(この)地を乞(こひ)奉る。祇陀(ぎだ)太子(たいし)、「吾(われ)逍遥優遊(せうえういういう)の地也(なり)。容易(たやすく)汝(なんぢ)に難与。但(ただし)此(この)地に布余(しきあま)す程の金(きん)を以て可買取。」とぞ戯(たはむ)れ給(たまひ)ける。長者此(この)言誠(まこと)ぞと心得(こころえ)て、軈(やが)て数箇(すか)の倉庫を開き、黄金(わうごん)を大象に負(おふ)せ、祇陀園(ぎだゑん)八十頃(はちじつきやう)の地に布満(しきみち)て、太子に是(これ)を奉る。祇陀(ぎだ)太子(たいし)是(これ)を見給(たまひ)て、「吾言(わがことば)戯(たはむ)れ也(なり)。汝大願を発(おこ)して精舎を建(たて)ん為に此(この)地を乞(こふ)。何の故(ゆゑ)にか我(われ)是(これ)を可惜。早(はやく)此金(このこがね)を以て造功(ざうこう)の資(たすけ)に可成。」被仰ければ、長者掉首曰(いはく)、「国を可保太子たる人は仮(かり)にも不妄語。臣又苟(いやしくも)不可食言、何ぞ此金(このこがね)を可返給。」とて黄金(わうごん)を地に棄(すて)ければ、「此(この)上は無力。」とて金を収取(をさめとつ)て地を被与。長者大(おほき)に悦(よろこん)で、軈(やが)て此精舎(このしやうじや)を立(たて)んと欲(ほつ)する処に、六師外道(りくしげだう)、波斯匿王(はしのくわう)に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「祇陀(ぎだ)太子(たいし)、為瞿曇沙門(しやもん)須達(しゆたつ)に祇陀園(ぎだゑん)を与(あたへ)て精舎を建(たて)んとし給(たまふ)。此(この)国(くに)の弊(つひえ)民の煩(わづらひ)のみに非(あら)ず。世を失ひ国を保(たもち)給ふまじき事の瑞(ずゐ)也(なり)。速(すみやか)に是(これ)を停(とどめ)給へ。」とぞ訴へける。波斯匿王(はしのくわう)、外道(げだう)の申(まうす)処も有其謂、長者の願力も難棄案じ煩ひ給(たまひ)て、「さらば仏弟子(ぶつでし)と外道(げだう)とを召合(めしあは)せ神力を施(ほどこ)させ、勝負(しようぶ)に付(つけ)て事を可定。」被宣下しかば、長者是(これ)を聞(きい)て、「仏弟子(ぶつでし)の通力我(わが)足の上の一毛(いちもう)にも、外道は不及。」とぞ欺(あざむき)給ひける。さらばとて「予参(よさん)の日を定め、通力の勝劣を可有御覧。」被宣下。既(すでに)其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、金鼓(きんこ)を打(うつ)て見聞(けんもん)の衆を集め給ふ。舎衛国(しやゑこく)の三億悉(ことごとく)集(あつまり)、重膝連座。斯(かか)る処に六師外道(りくしげだう)が門人、如雲霞早(はやく)参じて著座したるに、舎利弗(しやりほつ)は寂場樹下(じやくぢやうじゆげ)に禅座して定(ぢやう)より不出給。外道が門徒、「さればこそ、舎利弗(しやりほつ)我(わが)師の威徳に臆して退復(たいふく)し給ふ。」と笑欺(わらひあざむ)ける処に、舎利弗定(ぢやう)より起(たつ)て衣服を整(ととの)へ、尼師壇(にしだん)を左の肩に著け、歩(あゆ)む事如師子王来り給ふ。此(この)時不覚外道共五体(ごたい)を地に著(つけ)て臥(ふし)ける。座定(さだまつ)て後(のち)外道が弟子(でし)労度差(らうとしや)禁庭に歩出(あゆみいで)て、虚空(こくう)に向ひ目を眠(ねぶ)り口に文咒(もんをしゆ)したるに、百囲(ひやくゐ)に余る大木(たいぼく)俄(にはか)に生出(おひいで)て、花散春風葉酔秋霜。見(みる)人奇特(きどく)の思(おもひ)をなす。後に舎利弗(しやりほつ)口(くち)をすぼめて息を出し給ふに、旋嵐風(せんらんふう)となり、此(この)木を根より吹抜(ふきぬい)て地に倒(たふし)ぬ。労度差(らうとしや)又空に向(むかつ)て呪(しゆ)する。周囲三百里にみへたる池水俄(にはか)に湧出(ゆしゆつ)して四面皆七宝の霊池(れいち)となる。舎利弗(しやりほつ)又目を揚(あげ)て遥(はるか)に天を見給へば、一頭(いちづ)六牙(ろくげ)の白象(びやくざう)空中より下(くだ)る。一牙(いちげ)の上に各(おのおの)七宝の蓮花(れんげ)を生じ、一々の花の上に各七人(しちにん)の玉女あり。此象(このざう)舌を延(のべ)て、一口に彼(かの)池水を呑尽(のみつく)す。外道(げだう)又虚空(こくう)に向(むかつ)て且(しばらく)咒(しゆ)したるに、三(みつつ)の大山出現して上に百(ひやく)余丈(よぢやう)の樹木(うゑき)あり。其(その)花雲を凝(こら)し、其菓(そのこのみ)玉を連(つらね)たり。舎利弗(しやりほつ)爰(ここ)に手を揚(あげ)て、空中を招き給ふに、一(ひとり)の金剛力士、以杵此(この)山を如微塵打砕(うちくだ)く。又外道如先呪(しゆ)するに、十頭(じふづ)の大龍雲より下(くだつ)て雨を降(ふらし)雷(いかつち)を振(ふる)ふ。舎利弗又頭を挙(あげ)て空中を見給ふに、一の金翅鳥(こんじてう)飛来(とびきたり)、此(この)大龍を割喰(さきくらふ)。外道又咒(しゆ)するに、肥壮(ひさう)多力の鉄牛(てつぎう)一頭(いちづ)出来(いできたつ)て、地を■(はう)て吼(ほ)へ忿(いか)る。舎利弗一音(いちおん)を出(いだ)して咄々(とつとつ)と叱(しつ)し給ふに、奮迅(ふんじん)の鉄師子(くろがねのしし)走出(はしりいで)て此(この)牛を喰殺(くひころ)す。外道又座を起(たつ)て咒(しゆ)するに、長(たけ)十丈(じふぢやう)余(あまり)の一(ひとつの)鬼神を現(げん)ぜり。頭(かうべ)の上より火出(いで)て炎(ほのほ)天にあがり、四牙(よつのきば)剣(けん)よりも利(するど)にして、眼(まなこ)日月を掛(かけ)たるが如し。人皆怖(おそ)れ倒れて魂を消(けす)処に、舎利弗黙然(もくねん)として座し給ひたるに、多門天王(たもんてんわう)身には金色(こんじき)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、手に降伏(がうぶく)の鋒(ほこ)をつきて出現し給ふに、此(この)鬼神怖畏(ふゐ)して忽(たちまち)に逃去(にげさり)ぬ。其後(そののち)猛火(みやうくわ)俄(にはか)に燃出(もえいで)、炎(ほのほ)盛(さかん)に外道が身に懸(かか)りければ、外道が門人悉(ことごと)く舎利弗(しやりほつ)の前に倒れ臥(ふし)て、五体(ごたい)を地に投(なげ)、礼(らい)をなし、「願(ねがはく)は尊者(そんじや)慈悲の心を起して哀愍(あいみん)し給へ。」と、己(おの)が罪をぞ謝(じや)し申(まうし)ける。此(この)時舎利弗慈悲忍辱(にんにく)の意を発(おこ)し、身を百千に化(け)し、十八(じふはち)変(へん)を現(げん)して、還(かへつ)て大座に著(つき)給ふ。見聞の貴賎(きせん)悉(ことごとく)宿福(しゆくふく)開発(かいほつ)し、随喜感動す。六師外道(りくしげだう)が徒(と)、一時に皆出家して正法宗(しやうほふしゆう)に帰服す。是(これ)より須達(しゆだつ)長者願望(ぐわんまう)を遂(とげ)て、祇園精舎(ぎをんしやうじやを)建(たて)しかば、厳浄(ごんじやう)の宮殿微妙(みめう)の浄刹(じやうせつ)、一生(いつしやう)補処(ふしよ)の菩薩(ぼさつ)、聖衆(しやうじゆ)此(この)中に来至(らいし)し給(たま)へば、人天大会(にんてんだいゑ)悉(ことごとく)渇仰(かつがう)の頭(かうべ)を傾(かたぶけ)ける。又異朝に後漢の顕宗(けんそう)皇帝(くわうてい)、永平十四年八月十六日(じふろくにち)の夜、如日輪光明を帯(おび)たる沙門(しやもん)一人、帝(みかど)の御前(おんまへ)に来(きたつ)て空中に立(たち)たりと御夢(おんゆめ)に被御覧、夙(つと)に起(おき)て群臣(ぐんしん)を召(めし)て御夢(おんゆめ)を問給(とひたまふ)に、臣傅毅(ふぎ)奏曰(そうしていはく)、「天竺(てんぢく)に大聖(だいしやう)釈尊とて、独(ひとり)の仏出世(しゆつせ)し給ふ。其(その)教法此(この)国(くに)に流布(るふ)して、万人彼化導(かのけだう)に可預御瑞夢(ずゐむ)也(なり)。」と合(あは)せ申(まうし)たりしが、果して摩騰(まとう)・竺法蘭(ぢくほふらん)、仏舎利(ぶつしやり)、並(ならびに)四十二章経(しやうきやう)を渡す。帝(みかど)尊崇し給(たまふ)事無類。爰(ここ)に荘老の道を貴(たつとん)で、虚無自然理(きよぶしぜんのり)を専(もつぱら)にする道士(だうし)列訴(れつそ)して曰(いはく)、「古(いにしへ)五帝三皇の天下(てんが)に為王より以来(このかた)、以儒教仁義を治(をさ)め、以道徳淳朴(じゆんぼく)に帰(き)し給ふ。而(しか)るに今摩騰(まとう)法師等(ほふしら)、釈氏(しやくし)の教(をしへ)を伝へて、仏骨の貴(たつと)き事を説く。内聖外王(だいせいぐわいわう)の儀に背(そむ)き、有徳無為(いうとくぶゐ)の道に違(たが)へり。早く彼(かの)法師を流罪(るざい)して、太素(たいそ)の風(ふう)に令復給(たまふ)べし。」とぞ申(まうし)ける。依之(これによつて)、「さらば道士(だうし)と法師とを召合(めしあは)せて、其(その)威徳の勝劣を可被御覧。」とて、禁闕(きんけつ)の東門(とうもん)に壇(だん)を高く築(つい)て、予参(よさん)の日をぞ被定ける。既(すでに)其の日に成(なり)しかば、道士(だうし)三千七百人(さんぜんしちひやくにん)胡床(こしやう)を列(つらね)て西に向ひ座す。沙門(しやもん)摩騰(まとう)法師は、草座(さうざ)を布(しい)て東に向ひ座したりけり。其後(そののち)道士等(だうしら)、「何様(いかやう)の事を以て、勝負を可決候や。」と申せば、「唯(ただ)上天入地擘山握月術(じゆつ)を可致。」とぞ被宣下ける。道士等(だうしら)是(これ)を聞(きい)て大(おほき)に悦び、我等(われら)が朝夕為業所なれば、此(この)術不難とて、玉晨君(ぎよくしんくん)を礼(らい)し、焚芝荻呑気向鯨桓審、昇天すれども不被上、入地すれども不被入、まして擘山すれども山不裂、握月すれども月不下。種々の仙術(せんじゆつ)皆仏力に被推不為得しか、万人拍手笑之。道士(だうし)低面失機処に、摩騰(まとう)法師、瑠璃(るり)の宝瓶(はうびやう)に仏舎利を入(いれ)て、左右の手に捧(ささげ)て虚空(こくう)百(ひやく)余丈(よぢやう)が上に飛上(とびあがつ)てぞ立(たち)たりける。上(うへ)に著(つく)所なく下(した)に踏(ふむ)所なし。仏舎利より放光明、一天(いつてん)四海(しかい)を照(てら)す。其(その)光金帳(きんちやう)の裏(うち)、玉■(ぎよくい)の上まで耀(かかや)きしかば、天子・諸侯・卿大夫(けいたいふ)・百寮(ひやくれう)・万民悉(ことごとく)金色(こんじき)の光に映(えい)ぜしかば、天子自(みづから)玉■(ぎよくい)を下(おり)させ給(たまひ)て、五体(ごたい)を投地礼(らい)を成し給へば、皇后(くわうぐう)・元妃(げんび)・卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)、悉(ことごとく)信仰(しんがう)の首(かうべ)を地に著(つけ)て、随喜(ずゐき)の泪(なみだ)を袖に余す。懸(かか)りしかば確執(かくしつ)せし道士共(だうしども)も翻邪信心銘肝つゝ、三千七百(さんぜんしちひやく)余人(よにん)即時(そくじ)に出家して摩騰(まとう)の弟子(でし)にぞ成(なり)にける。此(この)日(ひ)頓(やが)て白馬寺(はくばじ)を建(たて)て、仏法を弘通(ぐづう)せしかば、同時に寺を造(つくる)事、支那四百州の中に一千七百三箇所(いつせんしちひやくさんかしよ)なり。自是漢土の仏法は弘(ひろま)りて遺教(ゆゐけう)于今流布(るふ)せり。又我朝(わがてう)には村上天皇(むらかみてんわう)の御宇(ぎよう)応和元年に、天台(てんだい)・法相(ほつさう)の碩徳を召(めし)て宗論(しゆうろん)有(あり)しに、山門よりは横川(よかはの)慈慧(じゑ)僧正(そうじやう)、南都よりは松室(まつむろの)仲■已講(ちゆうざんいかう)ぞ被参ける。予参(よさんの)日(ひ)に成(なり)しかば、仲■(ちゆうざん)既(すでに)南都を出(いで)て上洛(しやうらく)し給(たまひ)けるに、時節(をりふし)木津河(きづかは)の水出(いで)て舟も橋もなければ、如何せんと河の辺(ほとり)に輿(こし)を舁居(かきすゑ)させて、案じ煩給(わづらひたまひ)たる処に、怪気(あやしげ)なる老翁一人現(げん)して、「何事に此(この)河の辺(ほとり)に徘(やす)らひ給(たまふ)ぞ。」と問(とひ)ければ、仲■(ちゆうざん)、「宗論(しゆうろん)の為に召(めさ)れて参内(さんだい)仕るが、洪水(こうずゐ)に河を渡り兼(かね)て、水の干落(ひおつ)る程を待(まつ)也(なり)。」とぞ答(こたへ)給ひける。老翁笑(わらつ)て、「水は深し智は浅し、潜鱗水禽(せんりんすゐきん)にだにも不及、以何可致宗論(しゆうろん)。」と恥(はぢ)しめける間、仲■(ちゆうざん)誠(げにも)と思(おもひ)て、十二人(じふににん)の力者(りきしや)に、「只水中を舁通(かきとほ)せ。」とぞ下知(げぢ)し給ひける。輿舁(こしかき)、「さらば。」とて水中を舁(かい)て通るに、さしも夥(おびたた)しき洪水左右に■(ばつ)と分れて、大河俄(にはか)に陸地(くがち)となる。供奉(ぐぶ)の大衆(だいしゆ)悉(ことごとく)足をも不濡渡(わたり)けり。慈慧(じえ)僧正(そうじやう)も、比叡山(ひえいさん)西坂下松(さがりまつ)の辺(へん)に車を儲(まうけ)させて下洛し給ふに、鴨河の水漲出(みなぎりいで)、逆浪(さかなみ)浸岸茫茫たり。牛童(うしわらは)扣轅如何と立(たち)たる処に、水牛(すゐぎう)一頭(いちづ)自水中游出(およぎいで)て車の前にぞ喘(あへ)ぎける。僧正(そうじやう)、「此(この)牛に車を懸替(かけかへ)て水中を遣(やれ)。」とぞ被仰ける。牛童(うしわらは)随命水牛に車を懸け一鞭(いちべん)を当(あて)たれば、飛(とぶ)が如く走出(はしりいで)て、車の轅(ながえ)をも不濡、浪の上三十(さんじふ)余町(よちやう)を游(およぎ)あがり、内裏(だいり)の陽明門(やうめいもん)の前にて、水牛は書消様(かきけすやう)に失(うせ)にけり。両方の不思議(ふしぎ)奇特(きどく)、皆権者(ごんじや)とは乍云、類(たぐひ)少(すくな)き事共(ことども)也(なり)。去(さる)程(ほど)に清涼殿に師子(しし)の座を布(しい)て、問者(もんじや)・講師(かうし)東西に相対(あひたい)す。天子は南面にして、玉■(ぎよくい)に統■(とうくわう)を挑(かか)げさせ給へば、臣下は北面にして、階下(かいか)に冠冕(くわんべん)を低(うちた)る。法席既(すで)に定(さだまつ)て、僧正(そうじやう)は草木成仏(さうもくじやうぶつ)の義を宣(のべ)給へば、仲■(ちゆうざん)は五性(ごしやう)各別の理を立(たて)て難じて曰(いはく)、「非情草木雖具理仏性、無行仏性、無行仏性何有成仏義。但有文証者暫可除疑。」と宣(のたまひ)しかば、慈慧僧正(そうじやう)則(すなはち)円覚経(ゑんかくきやう)の文を引(ひい)て、「地獄天宮皆為浄土(じやうど)、有性無性斉成仏道。」と誦(じゆ)し給ふ。仲■(ちゆうざん)此(この)文に被詰て暫(しばらく)閉口し給(たまふ)処に、法相擁護(ほつしやうおうご)の春日(かすが)大明神(だいみやうじん)、高座の上に化現坐(けげんましまし)て、幽(かすか)なる御声(みこゑ)にて此(この)文点(もんてん)を読替(よみかへ)て教(をしへ)させ給(たまひ)けるは、「地獄天宮皆為浄土(じやうど)、有性も無性も斉(ひとしく)成仏道。」と、慈慧僧正(そうじやう)重(かさね)て難じて曰(いはく)、「此(この)文点(もんてん)全(まつたく)法文(ほふもん)の心に不叶。一草(いつさう)一木各(かく)一因果、山河大地同一仏性の故(ゆゑ)に、講答(かうたふ)既(すで)に許具理仏性。若(もし)乍具理仏性、遂(つひに)無成仏時ば、以何曰仏性耶(や)。若(もし)又雖具仏性、言不成仏者、有情(うじやう)も不可成仏、有情(うじやう)の成仏(じやうぶつ)は依具理仏性故(ゆゑ)也(なりと)。」難じ給(たまひ)しかば、仲■(ちゆうざん)無言黙止給(もだしたまひ)けるが、重(かさね)て答(こたへ)て曰(いはく)、「草木成仏無子細、非情までもあるまじ。先(まづ)自身成仏(じやうぶつ)の証(しよう)を顕(あらは)し給はずば、以何散疑。」と宣(のたま)ひしかば、此(この)時慈慧僧正(そうじやう)言(ことば)を不出、且(しばし)が程黙座(もだしざ)し給ふとぞ見へし。香染(かうぞめ)の法服(ほふふく)忽(たちまち)に瓔珞細■(やうらくさいなん)の衣(ころも)と成(なつ)て、肉身卒(にはか)に変じて、紫磨黄金(しまわうごん)の膚(はだへ)となり、赫奕(かくやく)たる大光明十方に遍照(へんぜう)す。されば南庭(なんてい)の冬木(とうぼく)俄(にはか)に花開(ひらい)て恰(あたかも)春二三月の東風に繽紛(ひんぶん)たるに不異。列座(れつざ)の三公(さんこう)九卿(きうけい)も、不知不替即身、至華蔵世界土、妙雲如来下(によらいのもと)に来(きたる)かとぞ覚(おぼえ)ける。爰(ここ)に仲■(ちゆうざん)少(すこし)欺(あざむけ)る気色(きしよく)にて、揚如意敲席云(いはく)、「止々、不須説、我法妙難思。」と誦(じゆ)し給ふ。此(この)時慈慧僧正(そうじやう)の大光明忽(たちまちに)消(きえ)て、本(もと)の姿(すがた)に成(なり)給ひにけり。是(これ)を見て、藤氏(とうし)一家(いつけ)の卿相雲客(けいしやううんかく)は、「我氏寺(わがうぢでら)の法相宗(ほつさうしゆう)こそ勝(すぐ)れたれ。」と我慢の心を起して、退出し給(たまひ)ける処に、門外に繋(つながれ)たる牛、舌を低(たれ)て涎(よだれ)を唐居敷(からゐしき)に残(のこ)せるを見給へば、慥(たしか)に一首(いつしゆ)の歌にてぞ有(あり)ける。草も木も仏になると聞(きく)時は情(こころ)有(ある)身のたのもしき哉(かな)是則(これすなはち)草木成仏(じやうぶつ)の証歌也(なり)。春日(かすが)大明神(だいみやうじん)の示(しめし)給ひけるにや。何(いづ)れを勝劣(しようれつ)とも難定(さだめがたし)。理(ことわりなる)哉(かな)、仲■(ちゆうざん)は千手(せんじゆ)の化身(けしん)、慈慧は如意輪(によいりん)の反化(へんげ)也(なり)。されば智弁言説(ちべんごんせつ)何(いづ)れもなじかは可劣、唯(ただ)雲間(うんかん)の陸士竜(りくしりよう)、日下(じつか)の荀鳴鶴(しゆんめいかく)が相逢(あひあふ)時の如く也(なり)。而(しかれ)ば法相(ほつさう)者(は)六宗の長者たるべし。天台(てんだい)者(は)諸宗の最頂(さいちやう)也(なり)と被宣下、共に眉目(びぼく)をぞ開(ひらき)ける。抑(そもそも)天台(てんだい)の血脈(けつみやく)は、至師子尊者絶(たえ)たりしを、緬々(はるばる)世隔(へだたつ)て、唐朝の大師(だいし)南岳(なんがく)・天台(てんだい)・章安(しやうあん)・妙楽、自解仏乗(じげぶつじよう)の智を得て、金口(こんく)の相承(さうじよう)を続(つぎ)給ふ。奇特(きどく)也(なり)といへども、禅宗は是(これ)を髣髴(はうふつ)也(なり)と難じ申(まうす)。又禅の立(たつ)る所は、釈尊大梵王(だいほんわん)の請(しやう)を受(うけ)て、於■利天(たうりてん)法を説(とき)給ひし時、一枝(いつし)の花を拈(ねん)じ給ひしに、会中(ゑちゆうの)比丘衆(びくしゆ)無知事。爰(ここに)摩訶迦葉(まかかせふ)一人破顔微笑(はがんみせう)して、拈花瞬目(ねんげしゆんもく)の妙旨(めうし)を以心伝心たり。此(この)事大梵天王(てんわう)問仏決疑経(もんぶつけつぎきやう)に被説たり。然るを宋朝の舒王(じよわう)翰林(かんりん)学士たりし時、秘して官庫に収めし後、此(この)経失(うしなひ)たりと申(まうす)条、他宗の証拠(しようご)に不足と、天台(てんだい)は禅を難じ申(まうし)て邪法と今も訴へ候上は、加様(かやう)の不審をも此次(このついで)に散度(さんじたく)こそ候へ。唯禅(ぜんと)与天台(てんだい)被召合宗論(しゆうろん)を被致候へかし。」とぞ被申ける。此(この)三儀是非(ぜひ)区(まちまち)に分れ、得失互に備(そなは)れり。上衆(じやうしゆ)の趣(おもむき)何(いづ)れにか可被同と、閉口屈旨(くつしし)たる処に、二条(にでうの)関白殿(くわんばくどの)申させ給(たまひ)けるは、「八宗派(はちしゆうは)分れて、末流道(みち)異(こと)也(なり)といへども、共に是(これ)師子吼無畏(ししくむゐ)の説に非(あらず)と云(いふ)事なし。而(しか)るに何(いづ)れを取り何(いづ)れを可捨。縦(たとひ)宗論(しゆうろん)を致す共、天台(てんだい)は唯受(ゆゐじゆ)一人の口決(くけつ)、禅家は没滋味(もつじみ)の手段、弁理談玄とも、誰か弁之誰か会之。世澆季(げうき)なれば、如摩騰虚空(こくう)に立(たつ)人もあらじ、慈恵大師(だいし)の様(やう)に、即身(そくしん)成仏(じやうぶつ)する事もあるべからず。唯(ただ)如来(によらい)の権実(ごんじつ)徒(いたづら)に堅石(けんせき)白馬の論となり、祖師(そし)の心印空(むなし)く叫騒怒張(けうさうどちやう)の中に可堕。凡(およそ)宗論(しゆうろん)の難(かた)き事我(われ)曾(かつて)听(きき)ぬ。如来滅後(めつご)一千一百年(いつせんいつぴやくねん)を経(へ)て後、西天(さいてん)に護法(ごほふ)・清弁(じやうべん)とて二人(ににん)の菩薩(ぼさつ)坐(ましまし)き。護法菩薩(ごほふぼさつ)は法相宗(ほつさうしゆう)の元祖(ぐわんそ)にて、有相(うさう)の義を談(だん)じ、清弁(じやうべん)菩薩(ぼさつ)は三論宗(さんろんしゆう)の初祖(しよそ)にて、諸法の無相なる理を宣(のべ)給ふ。門徒二(ふたつ)に分れ、是彼非此。或時此(この)二菩薩(にぼさつ)相逢(あひあう)て、空有(くうう)の法論を致し給ふ事七日七夜(なぬかななよ)也(なり)。共に富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)を仮(かつ)て、智三千界を傾(かたぶけ)しかば、無心の草木も是(これ)を随喜(ずゐき)して、時ならず花を開(ひら)き、人を恐るゝ鳥獣も、是(これ)を感嘆(かんたん)して可去処を忘れたり。而(しか)れども論義遂(つひ)に不休、法理両篇に分れしかば、よしや五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんさい)を経(へ)て、慈尊の出世し給はん時、臨会座可散此疑とて、護法菩薩(ごほふぼさつ)は蒼天の雲を分ち遥(はるか)に都率天宮(とそつてんぐう)に上(のぼ)り給へば、清弁(じやうべん)菩薩(ぼさつ)は青山の岩を擘(つんざき)、脩羅窟(しゆらくつ)に入給(いりたまひ)にけり。其後(そののち)花厳(けごん)の祖師(そし)香象(かうざう)、大唐(だいたう)にして此空有(このくうう)の論を聞(きき)て、色即是空(しきそくぜくう)なれば護法の有(う)をも不嫌、空即是色(くうそくぜしき)なれば清弁(じやうべん)の空(くう)をも不遮と、二宗を会(ゑ)し給(たまひ)けり。上古の菩薩(ぼさつ)猶(なほ)以(もつて)如斯、況(いはんや)於末世比丘哉(や)。されば宗論(しゆうろん)の事は強(あながち)に無其詮候歟(か)。とても近年天下(てんが)の事、小大(なに)となく皆武家の計(はからひ)として、万(よろ)づ叡慮にも不任事なれば、只山門の訴申(うつたへまうす)処如何可有と、武家へ被尋仰、就其返事聖断(せいだん)候べきかとこそ存(ぞんじ)候へ。」とぞ被申ける。諸卿皆此義(このぎ)可然と被同、其(その)日(ひ)の議定(ぎじやう)は終(はて)にけり。さらばとて次(つぎの)日(ひ)軈(やが)て山門の奏状(そうじやう)を武家へ被下、可計申由被仰下しかば、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)諸共(もろとも)に、山門の奏状を披見(ひけん)して、「是(これ)はそも何事ぞ。建寺尊僧とて山門の所領をも不妨、衆徒の煩(わづらひ)にもならず、適(たまたま)公家(くげ)武家帰仏法大善事を修(しゆ)せば、方袍円頂(はうはうゑんちやう)の身としては、共に可悦事にてこそあるに、障碍(しやうげ)を成(なさ)んとする条返々(かへすがへす)不思議(ふしぎ)也(なり)。所詮神輿入洛(しんよじゆらく)あらば、兵(つはもの)を相遣(あひつかは)して可防。路次に振棄(ふりすて)奉らば、京中(きやうぢゆう)にある山法師(やまほふし)の土蔵(どざう)を点(てん)じ、造替(つくりかへ)させんに何(なん)の痛(いたみ)か可有。非拠(ひぎよ)の嗷訴(がうそ)を被棄置可被遂厳重供養。」と奏聞(そうもん)をぞ被経ける。武家如斯申沙汰(まうしさた)する上は、公家何(なん)ぞ可及異儀とて、已(すで)に事厳重なりしかば、列参(れつさん)せし大衆(だいしゆ)、徒(いたづら)に款状(くわじやう)を公庭(きんてい)に被棄て、失面目登山(とうさん)ず。依之(これによつて)三千(さんぜん)の大衆(だいしゆ)憤(いきどほり)不斜(なのめならず)。されば可及嗷訴とて、康永四年八月十六日(じふろくにち)、三社の神輿(しんよ)を中堂へ上(あげ)奉り、祇園(ぎをん)・北野(きたの)の門戸(もんこ)を閉(とぢ)、師子(しし)・田楽(でんがく)庭上(ていじやう)に相列(あひつらな)り、神人(じんにん)・社司(しやし)御前(ごぜん)に奉仕(ぶし)す。公武の成敗(せいばい)拘(かかは)る処なければ、山門の安否(あんぴ)此(この)時に有(あり)と、老若(らうにやく)共(ども)に驚嘆す。角(かく)ては猶(なほ)も不叶とて、同(おなじき)十七日(じふしちにち)、剣(つるぎ)・白山(しらやま)・豊原(とよはら)・平泉寺(へいせんじ)・書写(しよしや)・法花寺(ほつけじ)・多武峯(たふのみね)・内山(うちやま)・日光・太平寺(たいへいじ)、其外(そのほか)の末寺末社(まつじまつしや)、三百七十(さんびやくしちじふ)余箇所(よかしよ)へ触送(ふれおく)り、同(おなじき)十八日、四箇の大寺に牒送(てふそう)す。先(まづ)興福寺(こうぶくじ)へ送る。其牒状(そのてふじやうに)云(いはく)、延暦寺(えんりやくじ)牒興福寺(こうぶくじ)衙。可早任先規致同心訴被停止天竜寺(てんりゆうじ)供養儀■令断絶禅室興行子細状。右大道高懸、均戴第一(だいいち)義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。爰近年禅法之興行喧天下(てんが)、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。■火不消、忽起燎原之烟■。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。今般先蹤弗遠。而今就天竜寺(てんりゆうじ)供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之(の)由(よし)有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。天下(てんが)之(の)謗議、言以不可欺。吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺(てんりゆうじ)供養、院中之御沙汰(ごさた)、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中(らくちゆう)洛外大小寺院、悉以破却之、永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也(なり)。尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿(げつけい)雲客(うんかく)等、供養以前悉以被放氏、其(その)上(うへ)猶押而有出仕之人者、貴寺■山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之(の)由(よし)、不日可被触送也(なり)。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆(いつき)之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。康永四年八月日とぞ書(かき)たりける。山門既(すで)に南都に牒送すと聞へしかば、返牒(へんでふ)未送(いまだおくらざる)以前にとて、院司(ゐんし)の公卿(くぎやう)藤氏の雄臣等(ゆうしんら)参列して被歎申けるは、「自古山門の訴訟者(は)以非為理事不珍候。其(その)上(うへ)今度の儀は、旁(かたかた)申(まうす)処有其謂歟(かと)存(ぞんじ)候。就中(なかんづく)行仏事貴僧法事も天下(てんが)無為(ぶゐ)にてこそ其詮(そのせん)も候へ。神輿神木入洛有(じゆらくあつ)て、南都北嶺及嗷訴者、武家何(なん)と申共(まうすとも)、静謐の儀なくば法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)なるべし。角(かく)て又叡願も徒(いたづら)に成(なり)ぬと存(ぞんじ)候。只速(すみやか)に有聖断衆徒の鬱訴(うつそ)を被宥、其後(そののち)御心(おんこころ)安く法義大会(ほふぎだいゑ)をも被行候へかし。」と様々に被申しかば、誠(げ)にも近年四海(しかい)半(なかば)は乱(みだれ)て一日も不安居、此(この)上に又南北神訴(しんそ)に及び、衆徒鬱憤(うつふん)して忿(いか)らば、以外の珍事(ちんじ)なるべしとて、枉諸事先(まづ)院宣を被成下、「勅願の義を被停止、為御結縁翌日に御幸(ごかう)可成。」被仰ければ、山門是(これ)に静りて、神輿忽(たちまち)に御帰座有(きざあり)しかば、陣頭警固(けいご)の武士も皆馬の腹帯(はるび)を解(とい)て、末寺末社の門戸(もんこ)も参詣の道をぞ開きける。
○天竜寺(てんりゆうじ)供養(くやうの)事(こと)付(つけたり)大仏供養(くやうの)事(こと) S2404
此(この)上は武家の沙汰として、当日の供養をば執行(とりおこな)ひ、翌日に御幸(ごかう)可有とて、同(おなじき)八月二十九日、将軍並(ならびに)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)路次の行装(ぎやうさう)を調(ととのへ)て、天竜寺(てんりゆうじ)へ被参詣けり。貴賎岐(ちまた)に充満(みちみち)て、僧俗彼(か)れに成群、前代未聞(ぜんだいみもん)の壮観(さうくわん)也(なり)。先(まづ)一番に時の侍所(さむらひどころ)にて山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏、声花(はなやか)に冑(よろ)ふたる兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)を召具(めしぐ)して先行(せんかう)す。其(その)次に随兵(ずゐひやう)の先陣にて、武田(たけだの)伊豆(いづの)前司(ぜんじ)信氏・小笠原兵庫(ひやうごの)助(すけ)政長・戸次(とつきの)丹後(たんごの)守(かみ)頼時・伊東大和(やまとの)八郎左衛門(はちらうざゑもんの)尉(じよう)祐煕(すけひろ)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)範遠(のりとほ)・東中務(ひがしのなかつかさの)丞(じよう)常顕(つねあき)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道(にふだうが)息男四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)秀定・同近江(あふみの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)氏綱・大平(おほひら)出羽(ではの)守(かみ)義尚(よしなほ)・粟飯原(あひばら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤・吉良(きら)上総(かづさの)三郎満貞・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)師兼(もろかぬ)、以上十二人(じふににん)、色々の糸毛(いとげ)の胄(よろひ)に烏帽子懸(ゑぼしかけ)して、太く逞(たくまし)き馬に、厚総(あつふさ)懸(かけ)て番(つがひ)たり。三番には帯刀(たてはき)にて武田(たけだの)伊豆(いづの)四郎・小笠原七郎(しちらう)・同又三郎(またさぶらう)・三浦駿河(するがの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・同越中(ゑつちゆうの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)美作次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・同対馬(つしまの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)・同佐渡(さどの)四郎・海老名(えびなの)尾張(をはりの)六郎(ろくらう)・平賀(ひらがの)四郎・逸見(へんみの)八郎(はちらう)・小笠原太郎次郎、以上十六人、染尽(そめつく)したる色々の直垂(ひたたれ)に、思々(おもひおもひ)の太刀帯(はい)て、二行に歩(あゆ)み連(つらね)たり。其(その)次に正(じやう)二位(にゐ)大納言征夷大将軍源(みなもとの)朝臣(あそん)尊氏(たかうぢ)卿(きやう)、小八葉(こはちえふ)の車の鮮(あざやか)なるに簾(すだれ)を高く揚(あげ)げ、衣冠(いくわん)正く乗給(のりたまひ)ける。五番には後陣(ごぢん)の帯刀(たちはき)にて設楽(しだら)五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)・同六郎(ろくらう)、寺岡兵衛五郎・同次郎・逸見(へんみの)又三郎(またさぶらう)・同源太・小笠原蔵人・秋山新(しん)蔵人(くらんど)・佐々木(ささきの)出羽(ではの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・同近江(あふみの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・富永四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・宇佐美三河(みかはの)守(かみ)・清久(きよくの)左衛門次郎(さゑもんじらう)・森(もりの)長門(ながとの)四郎・曾我左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・伊勢(いせの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)、以上十六人、衣服帯剣(たいけん)如先、行列の次等をぞ守(まもり)ける。其(その)次に参議正三位(じやうさんみ)行兼(ぎやうけん)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)源(みなもとの)朝臣(あそん)直義(ただよし)、巻纓(まきふさの)老懸(おいかけ)に蒔絵(まきゑ)の細太刀帯(はい)て、小八葉(こはちえふ)の車に乗れり。七番には役人にて、南部遠江守(とほたふみのかみ)宗継・高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)師冬二人(ににん)は御剣(ぎよけん)の役。長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)広秀・同治部(ぢぶの)少輔(せう)時春御沓(おんくつ)の役。佐々木(ささきの)吉田(よしだの)源左衛門(げんざゑもんの)尉(じよう)秀長・同加地(かぢの)筑前三郎左衛門(さぶらうざゑもん)貞信は御調度(おんてうど)の役。和田越前守(ゑちぜんのかみ)宣茂(のぶしげ)・千秋(せんしう)三河(みかはの)左衛門大夫惟範(これのり)は御笠(おんかさ)の役、以上八人(はちにん)、布衣(ほい)に上括(うはくくり)して列を引(ひく)。八番には高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・上杉弾正少弼(せうひつ)朝貞(ともさだ)・高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)重成・上杉左馬(さまの)助(すけ)朝房(ともふさ)、布衣(ほい)に下括(したくくり)して、半靴(はんくつ)著(はい)て、二騎充(づつ)左右に打並(うちならび)たり。九番には、後陣(ごぢん)の随兵(ずゐひやう)、足利尾張(をはりの)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)氏頼・千葉(ちばの)新介(しんすけ)氏胤・二階堂(にかいだう)美濃(みのの)守(かみ)行通(ゆきみち)・同山城三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)行光(ゆきみつ)・佐竹掃部(かもんの)助(すけ)師義・同和泉(いづみの)守(かみ)義長・武田(たけだの)甲斐(かひの)前司(ぜんじ)盛信・伴野(ともの)出羽(ではの)守(かみ)長房・三浦遠江守(とほたふみのかみ)行連(ゆきつら)・土肥(とひの)美濃(みのの)守(かみ)高実(たかさね)、以上十人(じふにん)、戎衣甲冑(じういかつちう)何(いづ)れも金玉を磨(みがき)たり。十番には外様(とざま)の大名五百(ごひやく)余騎(よき)、直垂著(ひたたれぎ)にて相随(あひしたがふ)。土佐(とさの)四郎・長井(ながゐ)修理(しゆりの)亮(すけ)・同丹波(たんばの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・摂津(つの)左近(さこんの)蔵人(くらんど)・城(じやうの)丹後(たんごの)守(かみ)・水谷刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・二階堂(にかいだう)安芸(あきの)守(かみ)・同山城(やましろの)守(かみ)・中条(ちゆうでう)備前(びぜんの)守(かみ)・薗田(そのた)美作(みまさかの)権(ごんの)守(かみ)・町野加賀(かがの)守(かみ)・佐々木(ささきの)豊前(ぶぜんの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・結城三郎・梶原河内(かはちの)守(かみ)・大内民部(みんぶの)大夫(たいふ)・佐々木(ささきの)能登(のとの)前司(ぜんじ)・太平(おほひら)六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じよう)・狩野(かのの)下野三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・里見(さとみ)蔵人(くらんど)・島津下野(しもつけの)守(かみ)・武田(たけだの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同八郎(はちらう)・安保(あぶ)肥前(ひぜんの)守(かみ)・土屋三河(みかはの)守(かみ)・小幡(をばた)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)・疋田(ひきだ)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・寺岡九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・田中下総(しもふさの)三郎・須賀(すかの)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・赤松美作(みまさかの)権(ごんの)守(かみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・寺尾新蔵人、以上三十二人(さんじふににん)打混(うちこみ)に、不守次第打(うつ)たりけり。此(この)後は吉良(きら)・渋河・畠山・仁木(につき)・細川を始(はじめ)として、宗(むね)との氏族、外様(とさま)の大名打混(うちこみ)に弓箭兵杖(きゆうせんひやうぢやう)を帯(たい)し、思々(おもひおもひ)の馬鞍(むまくら)にて、大宮(おほみや)より西郊(にしのをか)まで、無透間袖を連(つらね)て支(ささ)へたり。薄馬場(すすきのばば)より、随兵(ずゐひやう)・帯刀(たてはき)・直垂著(ひたたれぎ)・布衣(ほい)の役人、悉(ことごとく)守次第列を引く。已(すで)に寺門に至(いたり)しかば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)秀綱検非違使(けびゐし)にて、黒袴著(ちやく)せる走下部(わしりしもべ)、水干(すいかん)直垂(ひたたれ)、金銀を展(のべ)たる如木(しよぼく)の雑色(ざふしき)、粲(さわやか)に胄(よろう)たる若党(わかたう)三百(さんびやく)余人(よにん)、胡床布衣(こしやうほい)の上に列居して山門を警固(けいご)す。其行装(そのぎやうさう)辺(あた)りを払(はらつ)て見へたり。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義朝臣(あそん)既(すで)に参堂有(あり)しかば、勅使藤(とうの)中納言(ちゆうなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)、院司(ゐんじ)の高(かうの)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)泰成(やすなり)陣参して、即(すなはち)法会(ほふゑ)を被行。其(その)日(ひ)は無為(ぶゐ)に暮(くれ)にけり。明(あく)れば八月晦日(つごもり)也(なり)。今日は又為御結縁両上皇御幸(ごかう)なる。昨日には事の体(てい)替(かはつ)て、見物の貴賎も閭巷(りよかう)に足を立兼(たてかね)たり。御車(おんくるま)総門(そうもん)に至(いたり)しかば、牛を懸放(かけはな)して手引(ひき)也(なり)。御牛飼(うしかひ)七人(しちにん)、何(いづ)れも皆持明党(ぢみやうたう)とて綱取(とり)て名誉の上手(じやうず)共(ども)也(なり)。中にも松一丸(まついちまる)は遣手(やりて)にて、綾羅(りようら)を裁(た)ち金銀を鏤(ちりば)めたり。上皇御簾(みす)を揚(あげ)て見物の貴賎(きせん)を叡覧あり。黄練貫(きねりぬき)の御衣(ぎよい)に、御直衣(おんなほし)、雲立涌(くもたてわき)、生(すずし)の織物、薄色(うすいろ)の御指貫(おんさしぬき)を召(めさ)れたり。竹林院(ゐんの)大納言(だいなごん)公重(きんしげの)卿(きやう)、濃香(こいかう)に牡丹(ぼたん)を織(おり)たる白裏(しろうら)の狩衣(かりぎぬ)に、薄色の生(すずし)の衣(きぬ)、州流(すながし)に鞆絵(ともゑ)の藤(ふぢ)の丸(まる)、青鈍(せいどん)の生(すずし)の織物(もの)の指貫(さしぬき)にて、御車寄(みくるまよせ)に被参たり。左(ひだりの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)忠季卿、薄色の織襖(おりあう)の裏無(なし)に、蔦(つた)を紋にぞ織(おり)たりける。女郎花(をみなへし)の衣(きぬ)、浮紋(うきもん)に浅黄(あさぎ)の指貫(さしぬき)にて供奉(ぐぶ)せらる。殿上人(てんじやうびと)には左中将(さちゆうじやう)宗雅(むねまさ)朝臣(あそん)、■線綾(ふせんりよう)の女郎花(をみなへし)の狩衣(かりぎぬ)に、槿(あさがほ)を紋(もん)にぞ織(おり)たりける。薄色の生(すずし)の衣(きぬ)、藤の丸の指貫(さしぬき)也(なり)。頭(とうの)左中弁宗光(むねみつ)朝臣(あそん)、■線綾(ふせんりよう)の比金襖(ひきんあう)の狩衣、珍(めづら)しく見へたりける。右少将教貞(のりさだ)朝臣(あそん)、紫苑唐草(しをんからくさ)を織(おり)たる生青裏(すずしのあをうら)、紅(くれなゐ)の引繕木(ひきへぎ)はえ/゛\敷(しく)ぞ見へし。春宮権大進(とうぐうごんのたいしん)時光は、■線綾(ふせんりよう)に萩を経青緯紫段(たてあをぬきむらさきのだん)にして、青く織(おり)たる女郎花の生(すずし)の衣(きぬ)二藍(ふたあゐ)の指貫也(なり)。此(この)後は下北面(げほくめん)の輩(ともがら)、中原(なかはらの)季教(すゑのり)・源(みなもとの)康定・同康兼・藤原(ふぢはらの)親有(みつあり)・安部(あべの)親氏(みつうぢ)・豊原(といはらの)泰長、御随身(みずゐじん)には、秦久文(はだのひさふん)・同久幸此等(ひさゆきこれら)也(なり)。参会の公卿(くぎやう)には三条(さんでうの)帥(そつの)公季(きんすゑの)卿(きやう)・日野(ひのの)中納言(ちゆうなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)・別当四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆蔭(たかかげの)卿(きやう)・春宮大夫(とうぐうのだいぶ)実夏(さねなつ)・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)、何(いづ)れも皆行装(ぎやうさう)当(あた)りを耀(かかや)かす。仏殿の北(きた)の廊(らう)四間(しま)を餝(かざつ)て、大紋(だいもん)の畳を重(かさ)ね布(し)き、其(その)上(うへ)に氈(せん)を被展たり。平敷(ひらしき)の御座其(その)北にあり。西の間(ま)に屏風(びやうぶ)を立隔(たてへだて)て御休所(みやすみところ)に構(かま)へたり。御前(おんまへ)に風流の島形(しまがた)を被居たり。表大井河(おほゐがは)景趣、水紅錦(こうきん)を洗ひて、感興の心をぞ添(そへ)たりける。是(これ)は三宝院僧正(そうじやう)賢俊、依武命儲進(ちよしん)す。仏殿の裏二間(うちふたま)を拵(こしらへ)て御簾(みす)を懸(かけ)、御聴聞所(ごちやうもんところ)にぞ構(かま)へたる。其(その)北に畳を布(しき)て、公卿(くぎやう)の座にぞ被成たる。仏殿の庭の東西に幄(まく)を打(うつ)て、左右の伶倫(れいりん)十一人、唐装束(からしやうぞく)にて胡床(こしやう)に坐す。左には光栄(みつよし)・朝栄(ともなが)・行重(ゆきしげ)・葛栄(かつよし)・行継(ゆきつぐ)・則重(のりしげ)也(なり)。右には久経(ひさつね)・久俊・忠春・久家・久種(ひさたね)也(なり)。鳳笙(ほうしやう)・竜笛(りようてき)の楽人(がくじん)十八人(じふはちにん)、新秋(にひあき)・則祐・信秋・成秋・佐秋(すけあき)・季秋・景朝(かげとも)・景茂(かげもち)・景重(かげしげ)・栄敦(よしあつ)・景宗(かげむね)・景継(かげつぐ)・景成(かげなり)・季氏(すゑうぢ)・茂政(みちまさ)・重方(しげかた)・重時是等(これら)也(なり)。国師既(すで)に自山門進出(すすみいで)させ給へば、楽人(がくじん)巻幄乱声(らんじやう)を奏する事、時をぞ移しける。聴聞(ちやうもん)の貴賎、此(この)時感涙を流しけり。導師は金襴(きんらん)の袈裟(けさ)・鞋(くつ)著(はい)て、莚道(えんだう)に進ませ給へば、二階堂(にかいだう)丹後(たんごの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)執蓋(しつかい)、島津常陸(ひたちの)前司(ぜんじ)・佐々木(ささきの)三河(みかはの)守(かみ)両人執綱(しつかう)にて、同(おなじ)く歩出(あゆみいで)たり。左右の伶倫(れいりん)何(いづ)れも皆幄(まく)より起(たつ)て、参向の儀有(あつ)て、万秋楽(まんじゆらく)の破(は)を奏して、舞台(ぶたい)の下に列を引けば、古清衆(こしやうじゆ)導師に従(したがう)て入堂あり。南禅寺の長老智明(ちみやう)・建仁寺の友梅・東福寺の一鞏(いちきよう)・万寿寺の友松(いうしよう)・真如寺の良元(りやうげん)・安国寺の至孝(しかう)・臨川寺の志玄(しげん)・崇福寺の慧聰(ゑそう)・清見寺(せいけんじ)の智琢(ちたく)、本寺当官にて、士昭首座(しせうしゆざ)、是等(これら)は皆江湖の竜象(りようざう)也(なり)。釈尊の十大弟子(でし)に擬して、扈従(こしよう)の装(よそほひ)厳重なり。其(その)後正面の戸■(こよう)を閉(とぢ)て、願文(ぐわんもん)の説法数剋(すこく)也(なり)。法会(ほふゑ)終(はて)しかば、伶人本幄(ほんまく)に帰(かへつ)て舞(まひ)あり。左に蘇合(そかふ)右に古鳥蘇(ことりそ)、陵王荒序(りようわうくわうじよ)・納蘓利(なつそり)・太平楽(らく)・狛杵(こまほこ)也(なり)。中にも荒序は当道の深秘(しんひ)にて容易(たやすく)雖不奏之、適(たまたま)聖主臨幸の法席也(なり)。非可黙止とて、朝栄(ともなが)荒序を舞(まひ)しかば、笙は新秋(にひあき)、笛は景朝(かげとも)、太鼓は景茂(かげもち)ぞ仕(つかまつり)たる。当道の眉目(びぼく)、天下(てんが)の壮観無比し事共(ことども)也(なり)。此(この)後国師一弁(いちべん)の香を拈(ねん)じて、「今上皇帝(くわうてい)聖躬万歳(せいきゆうばんぜい)。」と祝(しゆく)し給へば、御布施(おんふせ)の役にて、飛鳥井(あすかゐ)新中納言雅孝(まさたかの)卿(きやう)・大蔵卿雅仲(まさなか)・一条(いちでうの)二位(にゐ)実豊(さねとよ)卿(きやう)・持明院三位(さんみ)家藤卿、殿上人(てんじやうびと)には、難波(なんばの)中将(ちゆうじやう)宗有(むねあり)朝臣(あそん)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)資将(すけまさ)卿(きやう)・難波(なんばの)中将(ちゆうじやう)宗清朝臣(あそん)・紙屋川(かみやがは)中将(ちゆうじやう)教季・持明院少将基秀・姉少路(あねがこうちの)侍従(じじゆう)基賢(もとかた)・二条(にでうの)少将(せうしやう)雅冬(まさふゆ)・持明院前(さきの)美作(みまさかの)守(かみ)盛政、諸大夫には、千秋(せんじゆ)駿河(するがの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・星野刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・佐脇(さわき)左近(さこんの)大夫(たいふ)、金銀珠玉を始(はじめ)として綾羅綿繍(りようらきんしう)はさて置(おき)ぬ。倭漢(わかん)の間に名をのみ聞(きい)て未(いまだ)目には不見珍宝を持連立(もちつらねたて)て如山積上(つみあげ)たり。只是(これ)王舎城(わうしやじやう)の昔年(そのかみ)、五百(ごひやく)の車(くるま)に珍貨(ちんくわ)を積(つん)で、仏に奉りしも是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へし。総(すべ)て此(この)両日の儀を見る者、悉(ことごとく)福智(ふくち)の二報を成就(じやうじゆ)して、済度利生(りしやう)の道を広(ひろく)せし事、此(この)国師に過(すぎ)たる人は非じとて、改宗帰法、偏執(へんしふ)の心をぞ失(うしなひ)ける。さしも違乱(ゐらん)に及びし大法会(ほふゑ)の無事故遂(とげ)て、天子の叡願、武家の帰依(きえ)、一時に望み足(たん)ぬと喜悦(きえつ)の眉をぞ被開ける。夫(それ)仏を作り堂を立つる善根(ぜんこん)誠(まこと)に勝(すぐ)れたりといへ共(ども)、願主聊(いささか)も■慢(けうまん)の心を起す時は法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)出来(しゆつたい)して三宝の住持(ぢゆうぢ)不久。されば梁の武帝、対達磨、「朕(ちん)建寺事一千七百(いつせんしちひやく)箇所(かしよ)、僧尼を供養(くやう)する事十万八千人(じふまんはつせんにん)、有功徳乎(や)。」と問給(とひたまひ)しに、達磨、「無功徳(むくどく)。」と答(こたへ)給ふ。是(これ)誠(まこと)に無功徳云(いふ)には非(あら)ず。叡信(えいしんの)■慢(けうまん)を破(やぶつ)て無作(むさ)の大善に令帰なり。吾朝(わがてう)の古(いにしへ)、聖武(しやうむ)天皇(てんわう)東大寺(とうだいじ)を造立(ざうりふ)せられ、金銅(こんどう)十六丈(じふろくぢやう)の廬舎那仏(るしやなぶつ)を安置(あんぢ)して、供養を被遂しに、行基(ぎやうぎ)菩薩(ぼさつ)を導師に請(しやう)じ給ふ。行基(ぎやうぎ)勅使に向(むかつ)て申させ給(たまひ)けるは、「倫命(りんめい)重(おもう)して辞(じ)するに言(ことば)なしといへ共(ども)、如此の御願(ごぐわん)は、只冥顕(みやうけん)の所帰可被任にて候へば、供養の当日香花(かうげ)を備へ唱伽陀を、自天竺梵僧(ぼんそう)を奉請供養をば可被遂行候。」とぞ計(はから)ひ申されける。天子を始進(はじめまゐら)せて諸卿悉(ことごとく)世既(すでに)及澆季、如何(いかん)してか百万里の波涛(はたう)を隔(へだて)たる天竺より、俄(にはか)に導師来(きたつ)て供養をば可被遂と大(おほき)に疑(うたがひ)をなしながら、行基(ぎやうぎ)の被計申上は、非可及異儀とて明日供養と云迄(いふまで)に、導師をば未被定。已(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)ける朝(あさ)、行基(ぎやうぎ)自(みづから)摂津国(つのくに)難波(なんば)の浦に出(いで)給ひ、西に向(むかつ)て香花(かうげ)を供(くう)じ、坐具(ざぐ)を延(のべ)て礼拝(らいはい)し給ふに、五色の雲天に聳(そびえ)て、一葉(いちえふ)の舟浪に浮(うかん)で、天竺の婆羅門(ばらもん)僧正(そうじやう)忽然(こつぜん)として来(きたり)給ふ。諸天蓋(かい)を捧(ささげ)て、御津(みつ)の浜松、自(みづから)雪に傾(かたぶく)歟(か)と驚き、異香(いきやう)衣(い)を染(そめ)て、難波津(なにはつ)の梅(むめ)忽(たちまち)に春を得たるかと怪(あや)しまる。一時の奇特(きどく)こゝに呈(あらは)れて、万人の信仰(しんがう)不斜(なのめならず)。行基菩薩(ぼさつ)則(すなはち)婆羅門(ばらもん)僧正(そうじやう)の御手(おんて)を引(ひい)て、伽毘羅会(かびらゑ)に共に契(ちぎり)しかい有(あり)て文殊(もんじゆ)の御貌(みかほ)相(あひ)みつる哉(かな)と一首(いつしゆ)の謌(うた)を詠(えい)じ給へば、婆羅門僧正(そうじやう)、霊山(りやうぜん)の釈迦の御許(みもと)に契(ちぎり)てし真如(しんによ)朽(くち)せず相(あひ)みつる哉(かな)と読(よみ)給ふ。供養の儀則(ぎそく)は、中々(なかなか)言(ことば)を尽(つく)すに不遑。天花(てんげ)風に繽紛(ひんぷん)として梵音(ぼんおん)雲に悠揚(いうやう)す。上古(しやうこ)にも末代にも難有かりし供養也(なり)。仏閣供養の有様は、尤(もつとも)如此こそ有(ある)べきに、此の天竜寺(てんりゆうじ)供養(くやうの)事に就(つい)て、山門強(あながち)に致嗷訴、遂(つひ)に勅会(ちよくゑ)の儀を申止(まうしや)めつる事非直事、如何様(いかさま)真俗共(とも)に■慢(けうまん)の心あるに依(よつ)て、天魔波旬(はじゆん)の伺ふ処あるにやと、人皆是(これ)を怪(あやし)みけるが、果して此(この)寺二十(にじふ)余年(よねん)の中に、二度(にど)まで焼(やけ)ける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。
○三宅(みやけ)・荻野(をぎの)謀叛(むほんの)事(こと)付(つけたり)壬生地蔵(みぶぢざうの)事(こと) S2405
其比(そのころ)備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)三宅(みやけ)三郎高徳(たかのり)は、新田(につた)刑部卿義助(よしすけ)に属(しよく)して伊予(いよの)国(くに)へ越(こえ)たりけるが、義助死去の後、備前(びぜんの)国(くに)へ立帰(たちかへ)り児島に隠れ居て、猶(なほ)も本意を達せん為に、上野(かうづけの)国(くに)に坐(おはし)ける新田左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)を喚(よび)奉り、是(これ)を大将にて旗を挙(あげ)んとぞ企(くはたて)ける。此比(このころ)又丹波(たんばの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)荻野(をぎの)彦六朝忠(ともただ)、将軍を奉恨事有(あり)と聞へければ、高徳(たかのり)潜(ひそか)に使者を通(つう)じて触送(ふれおく)るに、朝忠(ともただ)悦(よろこん)で許諾(きよだく)す。両国已(すで)に日を定(さだめ)て打立(うちたた)んとしける処に、事忽(たちまち)に漏聞(もれきこ)へて、丹波へは山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏三千(さんぜん)余騎(よき)にて押(おし)寄せ、高山寺(かうせんじ)の麓四方(しはう)二三里を屏(へい)にぬり篭(こめ)て食攻(じきせめ)にしける間、朝忠終(つひ)に戦屈(たたかひくつ)して降人(かうにん)に成(なつ)て出(いで)にけり。児島へは備前・備中・備後三箇国(さんかこく)の守護(しゆご)、五千(ごせん)余騎(よき)にて寄(よせ)ける間、高徳(たかのり)爰(ここ)にては本意を遂(とぐ)る程の合戦叶はじとや思(おもひ)けん、大将義治を引具(ひきぐ)し、海上より京へ上(のぼつ)て、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・高(かう)・上杉の人々を夜討にせんとぞ巧(たくみ)ける。「勢(せい)少(すくな)くては叶(かなふ)まじ、廻文(くわいぶん)を遣(つかは)して同意の勢を集(あつめ)よ。」とて、諸国へ此(この)由を触遣(ふれつかは)すに、此彼(ここかしこ)に身を側(そば)め形(かたち)を替(かへ)て隠れ居たる宮方(みやがた)の兵千(せん)余人(よにん)、夜を日に継(つい)でぞ馳(はせ)参りける。此勢(このせい)一所に集(あつま)らば、人に怪(あや)しめらるべしとて、二百(にひやく)余騎(よき)をば大将義治(よしはる)に付奉(つけたてまつ)て、東坂本(ひがしさかもと)に隠(かく)し置き、三百(さんびやく)余騎(よき)をば宇治・醍醐・真木(まき)・葛葉(くずは)に宿(やど)し置き、勝(すぐ)れたる兵三百人(さんびやくにん)をば京白河に打散(うちちら)し、態(わざ)と一所(いつしよ)には不置けり。已(すで)に明夜(みやうや)木幡峠(こはたたうげ)に打寄(うちよせ)て、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・高・上杉が館(たち)へ、四手に分(わけ)て夜討に可寄と、相図(あひづ)を定(さだめ)たりける前の日、如何(いかが)して聞(きこ)へたりけん、時の所司代(しよしだい)都筑(つづき)入道二百(にひやく)余騎(よき)にて夜討の手引(てびき)せんとて、究竟(くつきやう)の忍び共(ども)が隠れ居たる四条(しでう)壬生(みぶ)の宿(やど)へ未明(びめい)に押寄(おしよす)る。楯篭(たてごも)る所の兵共(つはものども)、元来死生(ししやう)不知の者共(ものども)なりければ、家の上へ走(わし)り上(あが)り、矢種(やだね)のある程射尽(いつく)して後、皆腹掻破(かきやぶつ)て死(し)にけり。是(これ)を聞(きい)て、処々(しよしよ)に隠(かくれ)居たる与党(よたう)の謀反人共(むほんにんども)も皆散々(ちりぢり)に成(なり)ければ、高徳が支度(したく)相違(さうゐ)して、大将義治相共(あひとも)に、信濃(しなのの)国(くに)へぞ落行(おちゆき)ける。さても此(この)日(ひ)壬生(みぶ)の在家に隠れ居たる謀反人共、無被遁処皆討(うた)れける中に、武蔵(むさしの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に、香勾(かうわ)新左衛門(しんざゑもん)高遠(たかとほ)と云(いひ)ける者只一人、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の命に替らせ給ひけるに依(よつ)て、死を遁(のが)れけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。所司代(しよしだい)の勢已(すで)に未明(びめい)に四方(しはう)より押寄(おしよせ)て、十重二十重(とへはたへ)に取巻(とりまき)ける時、此(この)高遠只一人敵の中を打破(うちやぶつ)て、壬生(みぶ)の地蔵堂の中へぞ走入(わしりいつ)たりける。何方(いづかた)にか隠(かくれ)ましと彼方此方(かなたこなた)を見る処に、寺僧(じそう)かと覚(おぼ)しき法師一人、堂の中より出(いで)たりけるが、此(この)高遠を打(うち)見て、「左様(さやう)の御姿(おんすがた)にては叶(かなふ)まじく候。此念珠(このねんじゆ)に其(その)太刀を取代(とりかへ)て、持(もた)せ給へ。」と云(いひ)ける間、げにもと思ひて、此(この)法師の云侭(いふまま)にぞ随(したがひ)ける。斯(かか)りける処に寄手共(よせてども)四五十人(しごじふにん)堂の大庭へ走入(わしりいつ)て、門々をさして無残処ぞ捜(さが)しける。高遠は長念珠(ながねんじゆ)を爪繰(つまぐり)て、「以大神通方便力(いだいじんづうはうべんりき)、勿令堕在諸悪趣(もつりやうだざいしよあくしゆ)。」と、高らかに啓白(けいびやく)してぞ居たりける。寄手(よせて)の兵共(つはものども)皆見之、誠(まこと)に参詣の人とや思(おもひ)けん、敢(あへ)て怪(あやし)め咎むる者一人もなし。只仏壇の内天井(てんじやう)の上まで打破(うちやぶつ)て探(さが)せと許(ばかり)ぞ罵(ののし)りける。爰(ここ)に只今物切(ものきり)たりと覚(おぼ)しくて、鉾(きつさき)に血の著(つき)たる太刀を、袖の下に引側(ひきそば)めて持(もつ)たる法師、堂の傍(かたはら)に立(たち)たるを見付(みつけ)て、「すはや此(ここ)にこそ落人(おちうと)は有(あり)けれ。」とて、抱手(だきて)三人(さんにん)走寄(わしりよつ)て、中(ちゆう)に挙(あげ)打倒(うちたふ)し、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)て、侍所(さぶらひところ)へ渡せば、所司代(しよしだい)都筑(つづき)入道是(これ)を請取(うけとつ)て、詰篭(つめろう)の中にぞ入(いれ)たりける。翌日(つぎのひ)一日有(あつ)て、守手(まもりて)目も不放、篭(ろう)の戸も不開して、此召人(このめしうと)くれに失(うせ)にけり。預人(あづかりうど)怪(あやし)み驚(おどろき)て其迹(そのあと)を見るに、馨香(けいきやう)座に留(とどま)りて恰(あたか)も牛頭旃檀(ごづせんだん)の薫(にほひ)の如し。是(これ)のみならず、「此召人(このめしうと)を搦捕(からめとり)し者共(ものども)の左右(さうの)手、鎧の袖草摺(くさずり)まで異香(いきやう)に染(そみ)て、其(その)匂(にほひ)曾(かつ)て不失。」と申合(まうしあひ)ける間、さては如何様(いかさま)非直事とて、壬生(みぶ)の地蔵堂の御戸(みと)を開かせて、本尊を奉見、忝(かたじけなく)も六道能化(りくだうのうげ)の地蔵薩■(さつた)の御身(おんみ)、所々為刑鞭■黒(つしみくろみて)、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)し其縄(そのなは)、未(いまだ)御衣の上に著(つき)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。是(これ)を誡(いまし)め奉りぬる者共(ものども)三人(さんにん)、発露涕泣(はつろていきふ)して、罪障(ざいしやう)を懺悔(さんげ)するに猶(な)を不堪、忽(たちまち)に本鳥(もとどり)切(きつ)て入道し、発心修行(ほつしんしゆぎやう)の身と成(なり)にけり。彼(かれ)は依順縁今生(こんじやう)に助命、是(これ)は依逆縁来生(らいしやう)の得値遇事誠(まこと)に如来附属(によらいふぞく)の金言(きんげん)不相違、今世後世(こんぜごせ)能(よく)引導(いんだうす)、頼(たのも)しかりける悲願也(なり)。