太平記(国民文庫)
太平記巻第二十三
○大森彦七(おほもりひこしちが)事(こと) S2301
暦応(りやくおう)五年の春(はる)の比、自伊予国飛脚(ひきやく)到来して、不思議(ふしぎ)の註進(ちゆうしん)あり。其(その)故を委(くはし)く尋(たづぬ)れば、当国の住人(ぢゆうにん)大森彦七盛長と云(いふ)者あり。其(その)心飽(あく)まで不敵にして、力尋常(よのつね)の人に勝(すぐれ)たり。誠(まこと)に血気(けつき)の勇者(ようしや)と謂(いひ)つべし。去(さん)ぬる建武三年五月に、将軍自九州攻上(せめのぼ)り給(たまひ)し時、新田(につた)義貞(よしさだ)兵庫(ひやうごの)湊河にて支(ささ)へ合戦の有(あり)し時、此(この)大森の一族共(いちぞくども)、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)に随(したがつ)て手痛(ていた)く軍(いくさ)をし、楠正成に腹を切(きら)せし者也(なり)。されば其(その)勲功異他とて、数箇所(すかしよ)の恩賞(おんしやう)を給(たまは)りてんげり。此悦(このよろこび)に誇(ほこつ)て、一族共(いちぞくども)、様々の遊宴(いうえん)を尽(つく)し活計(くわつけい)しけるが、猿楽(さるがく)は是(これ)遐齢延年(かれいえんねん)の方なればとて、御堂(みだう)の庭に桟敷(さじき)を打(うつ)て舞台を布(しき)、種々の風流を尽(つく)さんとす。近隣の貴賎是(これ)を聞(きき)て、群集(くんじゆ)する事夥(おびたた)し。彦七も其(その)猿楽の衆(しゆ)也(なり)ければ、様々の装束(しやうぞく)共(ども)下人(げにん)に持せて楽屋(がくや)へ行(ゆき)けるが、山頬(やまぎは)の細道を直様(すぐさま)に通るに、年の程十七八許(ばかり)なる女房の、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の五衣(いつつぎぬ)著て、鬢(びん)深く削(そぎ)たるが、指出(さしいで)たる山端(やまのは)の月に映じて、只独(ひとり)たゝずみたり。彦七是(これ)を見て、不覚(おぼえず)、斯(かか)る田舎(ゐなか)などに加様(かやう)の女房の有(ある)べしとは。何(いづ)くよりか来(きた)るらん、又何(いか)なる桟敷へか行(ゆく)らんと見居たれば、此(この)女房彦七に立(たち)向ひて、「路芝(みちしば)の露払(はらふ)べき人もなし。可行方をも誰に問はまし。」とて打(うち)しほれたる有様、何(いか)なる荒夷(あらえびす)なりとも、心を不懸云(いふ)事非(あら)じと覚(おぼえ)ければ、彦七あやしんで、何(いか)なる宿(やど)の妻(つま)にてか有(ある)らんに、善悪(あやめ)も不知わざは如何(いか)がと乍思、無云量わりなき姿に引(ひか)れて心ならず、「此方(こなた)こそ道にて候へ。御桟敷など候はずば、適(たまたま)用意(ようい)の桟敷候。御入(おんいり)候へかし。」と云(いひ)ければ、女些(ちと)打笑(うちわらう)て、「うれしや候。さらば御桟敷へ参り候はん。」と云(いひ)て、跡に付(つき)てぞ歩(あゆみ)ける。羅綺(らき)にだも不勝姿、誠(まこと)に物痛(いたは)しく、未(いまだ)一足(ひとあし)も土(つち)をば不蹈人よと覚(おぼ)へて、行難(ゆきなやみ)たる有様を見て、彦七不怺、「余(あまり)に露も深く候へば、あれまで負進(おひまゐら)せ候はん。」とて、前(まへ)に跪(ひざまつき)たれば、女房些(すこし)も不辞、「便(びん)なう如何(いか)が。」と云(いひ)ながら、軈(やが)て後(うし)ろにぞ靠(よりかかり)ける。白玉か何ぞと問(とひ)し古(いにし)へも、角(かく)やと思知(おもひしら)れつゝ、嵐のつてに散(ちる)花の、袖に懸(かか)るよりも軽(かろ)やかに、梅花の匂(にほひ)なつかしく、蹈(ふむ)足もたど/\しく心も空(そら)にうかれつゝ、半町許(ばかり)歩(あゆみ)けるが、山陰(やまかげ)の月些(すこし)暗(くら)かりける処にて、さしも厳(いつく)しかりつる此(この)女房、俄(にはか)に長(たけ)八尺(はつしやく)許(ばかり)なる鬼と成(なつ)て、二(ふたつ)の眼(まなこ)は朱(しゆ)を解(とい)て、鏡の面(おもて)に洒(そそき)けるが如く、上下の歯くひ違(ちがう)て、口脇耳の根まで広く割(さけ)、眉は漆(うるし)にて百入(ももしほ)塗(ぬつ)たる如(ごとく)にして額(ひたひ)を隠(かく)し、振分髪(ふりわけがみ)の中より五寸(ごすん)許(ばかり)なる犢(こうし)の角(つの)、鱗(いろこ)をかづひて生出(おひいで)たり。其重(そのおもき)事大磐石(だいばんじやく)にて推(おす)が如し。彦七屹(きつ)と驚(おどろい)て、打棄(うちすて)んとする処に、此化物(このばけもの)熊の如くなる手にて、彦七が髪を掴(つかん)で虚空(こくう)に挙(あが)らんとす。彦七元来したゝかなる者なれば、むずと引組(ひつくん)で深田(ふかた)の中へ転落(ころびおち)て、「盛長化物(ばけもの)組留(くみと)めたり。よれや者共(ものども)。」と呼(よばは)りける声に付(つい)て、跡(あと)にさがりたる者共(ものども)、太刀・長刀の鞘(さや)を放(はづ)し、走寄(はしりよつ)て是(これ)を見れば、化物(ばけもの)は書(かき)消す様(やう)に失(うせ)にけり。彦七は若党(わかたう)・中間共に引(ひき)起されたれ共(ども)、忙然(ばうぜん)として人心地もなければ、是(これ)直事(ただこと)に非(あら)ずとて、其(その)夜の猿楽は止(やめ)にけり。さればとて、是(これ)程まで習(なら)したる猿楽を、さて可有に非(あら)ずとて、又吉日(きちにち)を定(さだ)め、堂の前に舞台をしき、桟敷を打双(うちなら)べたれば、見物の輩(ともがら)群(ぐん)をなせり。猿楽已(すで)に半(なか)ば也(なり)ける時、遥(はるか)なる海上に、装束の唐笠(からかさ)程なる光物(ひかりもの)、二三百出来(いでき)たり。海人(あま)の縄(なは)焼(たく)居去火(いさりび)か、鵜舟(うぶね)に燃(とぼ)す篝火(かがりび)歟(か)と見れば、其(それ)にはあらで、一村(ひとむら)立(たつ)たる黒雲の中に、玉の輿(こし)を舁連(かきつら)ね、懼(おそろ)し気(げ)なる鬼形(きぎやう)の者共(ものども)前後左右に連(つら)なりたり。其迹(そのあと)に色々に胄(よろう)たる兵(つはもの)百騎(ひやくき)許(ばかり)、細馬(さいば)に轡(くつわ)を噛(かま)せて供奉(ぐぶ)したり。近く成(なり)しより其貌(そのかたち)は不見。黒雲の中に電光(いなびかり)時々して、只今猿楽(さるがく)する舞台(ぶたい)の上に差覆(さしおほ)ひたる森の梢にぞ止(とどま)りける。見物衆みな肝を冷(ひや)す処に、雲の中より高声(かうじやう)に、「大森彦七殿(おほもりひこしちどの)に可申事有(あつ)て、楠正成参(さん)じて候也(なり)。」とぞ呼(よばは)りける。彦七、加様(かやう)の事に曾(かつて)恐れぬ者也(なり)ければ、些(すこし)も不臆、「人死して再び帰る事なし。定(さだめ)て其魂魄(そのこんばく)の霊鬼と成(なり)たるにてぞ有(ある)らん。其(それ)はよし何にてもあれ、楠殿(くすのきどの)は何事の用有(あつ)て、今此(ここ)に現(げん)じて盛長をば呼給(よびたまふ)ぞ。」と問へば、楠申(まうし)けるは、「正成(まさしげ)存命(ぞんめい)の間、様々の謀(はかりこと)を廻(めぐら)して、相摸(さがみ)入道(にふだう)の一家(いつけ)を傾(かたぶけ)て、先帝の宸襟を休(やす)め進(まゐら)せ、天下(てんが)一統(いつとう)に帰(き)して、聖主の万歳(ばんぜい)を仰(あふぐ)処に、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義(ただよし)朝臣(あそん)、忽(たちまち)に虎狼(こらう)の心を挿(さしはさ)み、遂に君を傾(かたぶけ)奉る。依之(これによつて)忠臣義士尸(かばね)を戦場に曝(さら)す輩(ともがら)、悉(ことごと)く脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)に成(なつ)て瞋恚(しんい)を含む心無止時。正成彼と共に天下(てんが)を覆(くつかへ)さんと謀(はかる)に、貪瞋痴(とんじんち)の三毒を表(へう)して必(かならず)三剣(みつつのつるぎ)を可用。我等(われら)大勢(おほぜい)忿怒(ふんぬ)の悪眼(あくがん)を開(ひらい)て、刹那(せつな)に大千界を見るに、願ふ処の剣(つるぎ)適(たまたま)我朝(わがてう)の内に三(みつつ)あり。其一(そのひとつ)は日吉大宮(ひよしのおほみや)に有(あり)しを法味(ほふみ)に替(かへ)て申給(まうしたまは)りぬ。今一(ひとつ)は尊氏の許(もと)に有(あり)しを、寵愛(ちようあい)の童(わらは)に入り代(かはつ)て乞取(こひとり)ぬ。今一つは御辺(ごへん)の只今腰に指(さし)たる刀也(なり)。不知哉(や)、此(この)刀は元暦(げんりやく)の古(いにし)へ、平家壇(だん)の浦にて亡(ほろび)し時、悪(あく)七兵衛(しちひやうゑ)景清(かげきよ)が海へ落(おと)したりしを江豚(いるか)と云(いふ)魚(うを)が呑(のみ)て、讃岐の宇多津(うたつ)の澳(おき)にて死(しし)ぬ。海底に沈(しづん)で已(すで)に百(ひやく)余年(よねん)を経て後、漁父(ぎよふ)の綱(あみ)に被引て、御辺(ごへん)の許(もと)へ伝へたる刀也(なり)。所詮(しよせん)此(この)刀をだに、我等(われら)が物と持(もつ)ならば、尊氏の代(よ)を奪はん事掌(たなごころ)の内なるべし。急ぎ進(まゐら)せよと、先帝の勅定(ちよくぢやう)にて、正成罷向(まかりむかつ)て候也(なり)。早く給(たまは)らん。」と云(いひ)もはてぬに、雷(いかづち)東西に鳴度(なりわたつ)て、只今落懸(おちかか)るかとぞ聞(きこ)へける。盛長是(これ)にも曾(かつ)て不臆、刀の柄(つか)を砕(くだけ)よと拳(にぎつ)て申(まうし)けるは、「さては先度(せんど)美女に化(ばけ)て、我を誑(たぶらか)さんとせしも、御辺達(ごへんたち)の所行(しよぎやう)也(なり)けるや。御辺(ごへん)存日(ぞんじつ)の時より、常に申通(まうしとほ)せし事なれば、如何なる重宝(ちようはう)なり共、御用(ごよう)と承(うけたまは)らんに非可奉惜。但(ただし)此(この)刀をくれよ、将軍の世を亡(ほろぼ)さんと承(うけたまはり)つる、其(それ)こそえ進(まゐら)すまじけれ。身雖不肖、盛長将軍の御方(みかた)に参じ、無弐者と知(しら)れ進(まゐら)せし間、恩賞厚く蒙(かうむつ)て、一家(いつけ)の豊(ゆたか)なる事日比(ひごろ)に過(すぎ)たり。されば此(この)猿楽をして遊ぶ事も偏(ひとへ)に武恩の余慶(よけい)也(なり)。凡(およそ)勇士(ゆうし)の本意、唯心を不変を以て為義。されば縦(たと)ひ身を寸々(つだつだ)に割(さか)れ、骨を一々に被砕共、此(この)刀をば進(まゐら)すまじく候。早御帰(おんかへり)候へ。」とて、虚空(こくう)をはたと睨(にらん)で立(たち)たりければ、正成以外(もつてのほか)忿(いか)れる言ばにて、「何共(なにとも)いへ、遂には取(とら)ん者を。」と罵(ののしつ)て、本(もと)の如く光(ひかり)渡り、海上遥(はるか)に飛去(とびさり)にけり。見物の貴賎是(これ)を見て、只今天へ引(ひき)あげられて挙(あが)る歟(か)と、肝魂(きもたましひ)も身に添(そは)ねば、子は親を呼び、親は子の手を引(ひい)て、四角(しかく)八方(はつぱう)へ逃去(にげさり)ける間、又今夜の猿楽も、二三番にて休(やめ)にけり。其(その)後四五日を経て、雨一通(ひととほり)降過(ふりすぎ)て、風冷(すさまじく)吹(ふき)騒ぎ、電(いなびかり)時々しければ、盛長、「今夜何様(いかさま)件(くだん)の化物(ばけもの)来(きたり)ぬと覚ゆ。遮(さへぎつ)て待(また)ばやと思ふ也(なり)。」とて、中門(ちゆうもん)に席皮敷(しきかはしい)て胄(よろひ)一縮(いつしゆく)し、二所藤(ふたところどう)の大弓に、中指(なかざし)数(あまた)抜散(ぬきちら)し、鼻膏(はなあぶら)引(ひい)て、化物遅(おそし)とぞ待懸(まちかけ)たる。如案夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に、さしも無隈つる中空(なかぞら)の月、俄(にはか)にかき曇(くもり)て、黒雲一村(ひとむら)立覆(たちおほ)へり。雲(くもの)中に声有(あつ)て、「何(いか)に大森殿(おほもりどの)は是(ここ)に御座(おはし)ぬるか、先度(せんど)被仰し剣(けん)を急ぎ進(まゐら)せられ候へとて、綸旨(りんし)を被成て候間、勅使に正成又罷向(まかりむかつ)て候は。」と云(いひ)ければ、彦七聞(きき)も不敢庭へ立出(たちいで)て、「今夜は定(さだめ)て来給(きたりたまひ)ぬらんと存じて、宵より奉待てこそ候へ。初(はじめ)は何共なき天狗(てんぐ)・化物などの化(け)して候事ぞと存ぜし間、委細(ゐさい)の問答にも及(および)候はざりき。今慥(たしか)に綸旨(りんし)を帯(たい)したるぞと奉(うけたまはり)候へば、さては子細なき楠殿(くすのきどの)にて御座候(おはしさふらひ)けりと、信(しん)を取(とつ)てこそ候へ。事長々しき様(やう)に候へ共、不審(ふしん)の事共(ことども)を尋(たづ)ぬるにて候。先(まづ)相伴(あひともな)ふ人数(あまた)有(あり)げに見へ候ば、誰人にて御渡(おんわたり)候ぞ。御辺(ごへん)は六道(ろくだう)四生(ししやう)の間、何(いか)なる所に生(うまれ)てをわしますぞ。」と問(とひ)ければ、其(その)時正成庭前(ていぜん)なる鞠(まり)の懸(かかり)の柳の梢に、近々と降(さがつ)て申(まうし)けるは、「正成が相伴(あひともなふ)人々には、先(まづ)後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)・兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)・新田左中将(さちゆうじやう)義貞・平馬助忠政(へいまのすけただまさ)・九郎大夫判官義経(よしつね)・能登(のとの)守(かみ)教経(のりつね)、正成を加へて七人(しちにん)也(なり)。其外(そのほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)、計(かぞふ)るに不遑。」とぞ語(かたり)ける。盛長重(かさね)て申(まうし)けるは、「さて抑(そもそも)先帝は何(いづ)くに御座(ござ)候ぞ。又相随(あひしたがひ)奉る人々何(いか)なる姿にて御座(おはします)ぞ。」と問へば、正成答(こたへ)て云(いはく)、「先朝(せんてう)は元来(ぐわんらい)摩醯首羅王(まけいしゆらわう)の所変(しよへん)にて御座(おはすれ)ば、今還(かへつ)て欲界の六天に御座(ござ)あり。相順(あひしたがひ)奉る人人は、悉(ことごとく)脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)と成(なつ)て、或時は天帝と戦(たたかひ)、或時は人間に下(くだつ)て、瞋恚強盛(しんいがうせい)の人の心に入替(いれかは)る。」「さて御辺(ごへん)は何(いか)なる姿にて御座(おはしまし)ぬる。」と問へば、正成、「某(それがし)も最期の悪念に被引て罪障(ざいしやう)深かりしかば、今千頭王鬼(せんづわうき)と成(なつ)て、七頭(しちづ)の牛に乗れり。不審あらば其(その)有様を見せん。」とて、続松(たいまつ)を十四五同時にはつと振挙(ふりあげ)たる、其(その)光に付(つい)て虚空(こくう)を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、一村立(ひとむらだつ)たる雲の中に、十二人(じふににん)の鬼共玉の御輿(おんこし)を舁捧(かきあげ)たり。其(その)次には兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)、八竜に車を懸(かけ)て扈従(こしよう)し給ふ。新田左中将(さちゆうじやう)義貞は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて前陣に進み、九郎大夫判官義経は、混甲(ひたかぶと)数百騎(すひやくき)にて後陣(ごぢん)に支(ささへ)らる。其迹(そのあと)に能登(のとの)守(かみ)教経(のりつね)、三百(さんびやく)余艘(よさう)の兵船(ひやうせん)を雲の浪に推浮(おしうか)べ給へば、平馬助(へいまのすけ)忠政、赤旗一流(ひとながれ)差挙(さしあげ)て、是(これ)も後陣(ごぢん)に控(ひか)へたり。又虚空(こくう)遥(はるか)に引(ひき)さがりて、楠正成湊川にて合戦の時見しに些(すこし)も不違、紺地錦(こんぢにしきの)胄直垂(よろひひたたれ)に黒糸(くろいと)の胄(よろひ)著て、頭(かしら)の七(ななつ)ある牛にぞ乗(のり)たりける。此外(このほか)保元(ほうげん)平治に討(うた)れし者共(ものども)、治承養和(ぢしようやうわ)の争(あらそひ)に滅(ほろび)し源平両家(りやうけ)の輩(ともがら)、近比(このごろ)元弘建武(けんむ)に亡(ほろび)し兵共(つはものども)、人に知(しら)れ名を顕(あらは)す程の者は、皆甲胄(かつちう)を帯し弓箭(ゆみや)を携(たづさ)へて、虚空十里(じふり)許(ばかり)が間に無透間ぞ見へたりける。此(この)有様、只盛長が幻(まぼろし)にのみ見へて、他人の目には見へざりけり。盛長左右を顧(かへりみ)て、「あれをば見ぬか。」と云はんとすれば、忽(たちまち)に風に順(したがふ)雲の如(ごとく)、漸々(ぜんぜん)として消失(きえうせ)にけり。只楠が物云ふ声許(ばかり)ぞ残(のこり)ける。盛長是(これ)程の不思議(ふしぎ)を見つれ共(ども)、其(その)心猶も不動、「「一翳(いちえい)在眼空花(くうげ)乱墜(らんつゐ)す」といへり。千変百怪何ぞ驚くに足(たら)ん。縦(たとひ)如何なる第六天の魔王共が来(きたつ)て謂(い)ふ共、此(この)刀をば進(しん)ずまじきにて候。然らば例の手(て)の裏を返すが如なる綸旨(りんし)給(たまはり)ても無詮。早々(さうさう)面々(めんめん)御帰(おんかへり)候へ。此(この)刀をば将軍へ進(まゐらせ)候はんずるぞ。」と云捨(いひすて)て、盛長は内へ入(いり)にけり。正成大(おほき)に嘲(あざわらう)て、「此(この)国(くに)縱(たとひ)陸地(くがち)に連(つら)なりたり共(とも)道をば輒(たやす)く通すまじ。況(まし)て海上を通るには、遣(やる)事努々(ゆめゆめ)有(ある)まじき者を。」と、同音にどつと笑(わらひ)つゝ、西を指(さし)てぞ飛去(とびさり)にける。其(その)後より盛長物狂敷(くるはしく)成(なつ)て、山を走(わが)り水を潜(くく)る事無休時。太刀を抜き矢を放(はな)つ事間無(ひまなか)りける間、一族共(いちぞくども)相集(あひあつまつ)て、盛長を一間(ひとま)なる所に推篭(おしこめ)て、弓箭兵杖(きゆうせんひやうぢやう)を帯(たい)して警固の体(てい)にてぞ居たりける。或夜又雨風一頻(ひとしきり)通(とほつ)て、電(いなづま)の影(かげ)頻(しきり)なりければ、すはや例の楠こそ来(きた)れと怪(あやし)む処に、如案盛長が寝(ね)たる枕の障子をかはと蹈破(ふみやぶつ)て、数十人(すじふにん)打入(うちいる)音しけり。警固の者共(ものども)起周章(おきふためい)て太刀長刀の鞘(さや)を外(はづ)して、夜討入(うちいり)たりと心得(こころえ)て、敵は何(いづ)くにかあると見れ共更になし。こは何(いか)にと思(おもふ)処に、自天井熊の手(て)の如くなる、毛生(おひ)て長き手を指下(さしおろ)して、盛長が本鳥(もとどり)を取(とつ)て中(ちゆう)に引(ひつ)さげ、破風(はふ)の口より出(いで)んとす。盛長中(ちゆう)にさげられながら件(くだん)の刀を抜(ぬい)て、化物(ばけもの)の真只中(まつただなか)を三刀(みかたな)指(さし)たりければ、被指て些(ちと)弱りたる体(てい)に見へければ、むずと引組(ひつくん)で、破風(はふ)より広庇(ひろびさし)の軒の上にころび落(おち)、取(とつ)て推付(おしつ)け、重(かさね)て七刀(ななかたな)までぞ指(さし)たりける。化物(ばけもの)急所を被指てや有(あり)けん、脇の下より鞠(まり)の勢(せい)なる物ふつと抜出(ぬけいで)て、虚空を指(さし)てぞ挙(あが)りける。警固の者共(ものども)梯(はし)を指(さし)て軒の上に登(のぼつ)て見れば、一(ひとつ)の牛の頭(かしら)あり。「是(これ)は何様(いかさま)楠が乗(のり)たる牛か、不然ば其魂魄(そのこんぱく)の宿(やど)れる者歟(か)。」とて、此(この)牛の頭(かしら)を中門(ちゆうもん)の柱に結著(ゆひつけ)て置(おき)たれば、終夜(よもすがら)鳴(なり)はためきて動(うごき)ける間、打砕(うちくだい)て則(すなはち)水底にぞ沈(しづ)めける。其(その)次の夜も月陰(くもり)風悪(あらう)して、怪しき気色(けしき)に見へければ、警固の者共(ものども)大勢遠侍(とほさぶらひ)に並居(なみゐ)て、終夜(よもすがら)睡(ねむ)らじと、碁双六(ごすごろく)を打(うつ)てぞ遊びける。夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に、上下百(ひやく)余人(よにん)有(あり)ける警固の者共(ものども)、同時にあつと云(いひ)けるが、皆酒に酔(ゑへ)る者の如く成(なつ)て、頭(かう)べを低(たれ)て睡(ねぶ)り居たり。其(その)座中に禅僧一人眠(ねぶ)らで有(あり)けるが、灯(ともしび)の影(かげ)より見れば、大(おほき)なる寺蜘蛛(やまぐも)一つ天井より下(さがり)て、寝入(ねいり)たる人の上を這行(はひゆき)て、又天井へぞ挙(あが)りける。其(その)後盛長俄(にはか)に驚(おどろい)て、「心得(こころえ)たり。」と云侭(いふまま)に、人と引組(ひつくん)だる体(てい)に見へて、上が下にぞ返(かへ)しける。叶はぬ詮(せん)にや成(なり)けん、「よれや者共(ものども)。」と呼(よび)ければ、傍(そば)に臥(ふし)たる者共(ものども)起挙(おきあが)らんとするに、或(あるひ)は柱に髻(もとどり)を結著(ゆひつけ)られ、或(あるひ)は人の手を我(わが)足に結合(ゆひあは)せられて、只綱(あみ)に懸(かか)れる魚(うを)の如く也(なり)。此(この)禅僧余(あま)りの不思議(ふしぎ)さに、走立(わしりたち)て見れば、さしも強力(かうりき)の者ども、僅(わづか)なる蜘(くも)のゐに手足を被繋て、更にはたらき得ざりけり。されども盛長、「化物をば取(とつ)て押(おさ)へたるぞ。火を持(もつ)てよれ。」と申(まうし)ければ、警固の者共(ものども)兎角して起挙(おきあが)り、蝋燭(らふそく)を灯(とぼい)て見(みる)に、盛長が押(おさ)へたる膝を持挙(もちあげ)んと蠢動(むぐめき)ける。諸人手に手を重(かさね)て、逃(にが)さじと推(おす)程(ほど)に、大(おほき)なる土器(かはらけ)の破(やぶ)るゝ音して、微塵(みぢん)に砕(くだ)けにけり。其(その)後手をのけて是(これ)を見れば、曝(され)たる死人の首(かうべ)、眉間(みけん)の半(なか)ばより砕(くだけ)てぞ残りける。盛長大息(おほいき)を突(つい)て、且(しば)し心を静めて腰を探(さぐつ)て見れば、早此(この)化物に刀を取(とら)れ、鞘許(さやばかり)ぞ残(のこり)にける。是(これ)を見て盛長、「我已(すで)に疫鬼(えきき)に魂(たましひ)を被奪、今は何(いか)に武(たけ)く思ふ共(とも)叶(かなふ)まじ。我(わが)命の事は物(もの)の数ならず、将軍の御運如何。」と歎(なげき)て、色を変(へん)じ泪(なみだ)を流(なが)して、わな/\と振ひければ、聞(きく)者見(みる)人、悉(ことごとく)身(みの)毛(け)よ立(だつ)てぞ候(さふらひ)ける。角(かく)て夜少し深(ふけ)て、有明(ありあけ)の月中門(ちゆうもん)に差入(さしいり)たるに、簾(みす)を高く捲上(まきあげ)て、庭を見出(いだ)したれば、空より毬(てまり)の如くなる物光(ひかり)て、叢(くさむら)の中へぞ落(おち)たりける。何やらんと走出(わしりいで)て見れば、先(さき)に盛長に推砕(おしくだ)かれたりつる首(かうべ)の半(なかば)残(のこり)たるに、件(くだん)の刀自(みづから)抜(ぬけ)て、柄口(つかぐち)まで突貫(つきつらぬかれ)てぞ落(おち)たりける。不思議(ふしぎ)なりと云(いふ)も疎(おろ)か也(なり)。軈(やが)て此頭(このかうべ)を取(とつ)て火に抛入(なげいれ)たれば、跳出(をどりいで)けるを、金鋏(かなはさみ)にて焼砕(やきくだい)てぞ棄(すて)たりける。事静(しづまつ)て後、盛長、「今は化物よも不来と覚(おぼゆ)る。其(その)故は楠が相伴(あひともな)ふ者と云(いひ)しが我に来(きたる)事已(すで)に七度(しちど)也(なり)。是(これ)迄にてぞあらめ。」と申(まうし)ければ、諸人、「誠(げに)もさ覚ゆ。」と同ずるを聞(きき)て、虚空にしはがれ声にて、「よも七人(しちにん)には限(かぎり)候はじ。」と嘲(あざわらう)て謂(いひ)ければ、こは何(いか)にと驚(おどろい)て、諸人空を見上(あげ)たれば、庭なる鞠(まり)の懸(かかり)に、眉太(まゆぶと)に作(つくり)、金黒(かねくろ)なる女の首(くび)、面(おもて)四五尺(しごしやく)も有(ある)らんと覚(おぼえ)たるが、乱れ髪を振挙(ふりあげ)て目もあやに打笑(うちわらう)て、「はづかしや。」とて後(うし)ろ向(む)きける。是(これ)を見(みる)人あつと脅(おびえ)て、同時にぞ皆倒臥(たふれふし)ける。加様(かやう)の化物(ばけもの)は、蟇目(ひきめ)の声に恐(おそ)るなりとて、毎夜番衆(ばんしゆ)を居(すゑ)て宿直(とのゐ)蟇目(ひきめ)を射させければ、虚空にどつと笑(わらふ)声毎度に天を響(ひびか)しけり。さらば陰陽師(おんやうし)に門を封ぜさせよとて、符(ふう)を書(かか)せて門々に押(お)せば、目にも見へぬ者来(きたつ)て、符(ふう)を取(とつ)て棄(すて)ける間、角(かく)ては如何(いかが)すべきと思煩(おもひわづらひ)ける処に、彦七が縁者に禅僧の有(あり)けるが来(きたつ)て申(まうし)けるは、「抑(そもそも)今現(げん)ずる所の悪霊(あくりやう)共(ども)は、皆脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)たり。是を静(しづ)めん謀(はかりこと)を案ずるに、大般若経(だいはんにやきやう)を読(よむ)に不可如。其(その)故は帝釈(たいしやく)と、脩羅(しゆら)と須弥(しゆみ)の中央にて合戦を致す時、帝釈(たいしやく)軍(いくさ)に勝(かつ)ては、脩羅小身を現(げん)じて藕糸(ぐうし)の孔(あな)の裏(うち)に隠(かく)れ、脩羅又勝(かつ)時は須弥(しゆみ)の頂(いただき)に座して、手に日月を握り足に大海を蹈(ふむ)。加之(しかのみならず)三十三天(さんじふさんてん)の上に責上(せめのぼつ)て帝釈の居所を追落(おひおと)し、欲界の衆生(しゆじやう)を悉(ことごと)く我有(わがう)に成(な)さんとする時、諸天善神善法堂に集(あつまつ)て般若(はんにや)を講じ給ふ。此(この)時虚空より輪宝(りんはう)下(くだつ)て剣戟(けんげき)を雨(ふら)し、脩羅の輩(ともがら)を寸々(つだつだ)に割切(さきき)ると見へたり。されば須弥の三十三天(さんじふさんてん)を領(りやう)し給ふ帝釈だにも、我叶(わがかなは)ぬ所には法威を以て魔王を降伏(がうぶく)し給ふぞかし。況乎(いはんや)薄地(はくち)の凡夫(ぼんぶ)をや。不借法力難得退治(たいぢ)。」と申(まうし)ければ、此(この)義誠(げに)も可然とて、俄(にはか)に僧衆を請(しやう)じて真読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を日夜六部(ろくぶ)迄ぞ読(よみ)たりける。誠(まこと)に依般若(はんにや)講読力脩羅威を失ひけるにや。五月三日の暮(くれ)程(ほど)に、導師(だうし)高座(かうざ)の上にて、啓白(けいびやく)の鐘打鳴(なら)しける時より、俄(にはか)に天掻曇(かきくもり)て、雲(くもの)上に車を轟(とどろ)かし馬を馳違(はせちがふ)る声無休時。矢さきの甲胄(かつちう)を徹(とほ)す音は雨の下(ふる)よりも茂(しげ)く、剣戟を交(まじふ)る光(ひかり)は燿(かかや)く星に不異。聞(きく)人見(みる)者推双(おしなべ)て肝を冷(ひや)して恐合(おそれあ)へり。此闘(このたたかひ)の声休(やみ)て天も晴(はれ)にしかば、盛長が狂乱本復(ほんぶく)して、正成が魂魄(こんぱく)曾(かつて)夢にも不来成(なり)にけり。さても大般若経(だいはんにやきやう)真読(しんどく)の功力(くりき)に依(よつ)て、敵軍に威を添(そへ)んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋(わきや)刑部卿義助、大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)を始(はじめ)として、土居・得能に至るまで、或(あるひ)は被誅或(あるひ)は腹切(きつ)て、如無成(なり)にけり。誠(まことなる)哉(かな)、天竺の班足王(はんぞくわう)は、仁王経(にんわうきやう)の功徳(くどく)に依(よつ)て千王を害する事を休(や)め、吾(わが)朝の楠正成は、大般若(だいはんにや)講読(かうどく)の結縁(けちえん)に依(よつ)て三毒を免(まぬが)るゝ事を得たりき。誠(まことに)鎮護(ちんご)国家の経王(きやうわう)、利益(りやく)人民の要法也(なり)。其(その)後此(この)刀をば天下(てんが)の霊剣なればとて、委細の註進を副(そへ)て上覧に備(そなへ)しかば、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)是(これ)を見給(たまひ)て、「事実(まこと)ならば、末世(まつせ)の奇特(きどく)何事か可如之。」とて、上を作直(つくりなほ)して、小竹作(こたけつくり)と同(おなじ)く賞翫(しやうぐわん)せられけるとかや。沙(いさご)に埋(うづも)れて年久(ひさしく)断剣如(だんけんのごとく)なりし此(この)刀、盛長が註進に依(よつ)て凌天(りようてん)の光を耀(かかやか)す。不思議(ふしぎ)なりし事共(ことども)也(なり)。
○就直義病悩上皇御願書(ぐわんしよの)事(こと) S2302
去(さる)程(ほど)に諸国の宮方(みやがた)力衰(おとろへ)て、天下(てんが)武徳に帰(き)し、中夏静まるに似たれ共(ども)、仏神三宝(さんばう)をも不敬、三台(さんたい)五門の所領をも不渡、政道さながら土炭(どたん)に堕(おち)ぬれば、世中(よのなか)如何(いか)がと申合(まうしあ)へり。吉野の先帝崩御(ほうぎよ)の後、様々の事共(ことども)申せしが、車輪(しやりん)の如くなる光物(ひかりもの)都を差(さ)して夜々(よなよな)飛度(とびわた)り、種々の悪相(あくさう)共(ども)を現(げん)じける間、不思議(ふしぎ)哉(かな)と申(まうす)に合(あは)せて、疾疫(しつえき)家々に満(みち)て貴賎苦(くるし)む事甚(はなはだ)し。是(これ)をこそ珍事(ちんじ)哉(かな)と申(まうす)に、同(おなじき)二月五日の暮(くれ)程より、直義朝臣(あそん)俄(にはか)に邪気に被侵、身心悩乱(なうらん)して、五体(ごたい)逼迫(ひつぱく)しければ、諸寺の貴僧・高僧に仰(おほせ)て御祈(おんいのり)不斜(なのめならず)。陰陽寮(おんやうれう)、鬼見(きけん)・泰山府君(たいさんぶくん)を祭(まつり)て、財宝を焼尽(やきつく)し、薬医(やくい)・典薬(てんやく)、倉公・華佗(くわた)が術(じゆつ)を究(きはめ)て、療治すれ共不痊。病(やまひ)日々に重(おもつ)て今はさてと見へしかば、京中(きやうぢゆう)の貴賎驚き合(あ)ひて、此(この)人如何にも成給(なりたまひ)なば、只小松大臣(こまつのおとど)重盛(しげもり)の早世(さうせい)して、平家の運命忽(たちまち)に尽(つき)しに似たるべしと思(おもひ)よりて、弥(いよいよ)天下(てんが)の政道は徒事(いたづらごと)なるべしと、歎(なげか)ぬ者も無(なか)りけり。持明上皇此由(このよし)を聞召(きこしめ)し殊に歎き思食(おぼしめし)しかば、潜(ひそか)に勅使を被立て八幡宮(はちまんぐう)に一紙(いつし)の御願書(ごぐわんしよ)を被篭て、様々の御立願(ごりふぐわん)あり。其詞(そのことばに)云(いはく)、敬白祈願事右神霊之著明徳也(なり)。安民理国為本。王者之施政化也(なり)。賞功貴賢為先。爰左兵衛督直義朝臣(あそん)者、匪啻爪牙之良将、已為股肱之賢弼。四海(しかい)之(の)安危、偏嬰此人之力。巨川之済渉、久沃眇身之心。義為君臣。思如父子。而近日之間、宿霧相侵、薬石失験。驚遽無聊。若非幽陵之擁護者、争得病源之平愈乎。仍心中有所念、廟前将奉祷請。神霊縦有忿怒之心、眇身已抽祈謝之誠、懇棘忽酬、病根速消者、点七日之光陰、課弥天之碩才、令講讃妙法偈、可勤修尊勝供。伏乞尊神哀納叡願、不忘文治撥乱之昔合体、早施経綸安全之今霊験。春秋鎮盛、華夏純煕。敬白。暦応五年二月日勅使勘解由(かげゆの)長官公時(きんとき)、御願書(ごぐわんしよ)を開(ひらい)て宝前(はうぜん)に跪(ひざまつ)き、泪(なみだ)を流(ながし)て、高らかに読上(よみあげ)奉るに、宝殿且(しばら)く振動して、御殿の妻戸(つまど)開く音幽(かすか)に聞へけるが、誠(まこと)に君臣合体(がつてい)の誠を感じ霊神擁護(おうご)の助(たすけ)をや加へ給(たまひ)けん。勅使帰参して三日(みつかの)中に、直義朝臣(あそん)病(やまひ)忽(たちまち)平愈(へいゆう)し給ひけり。是(これ)を聞(きく)者、「難有哉(かな)、昔周(しうの)武王病(やまひ)に臥(ふし)て崩(ほう)じ給はんとせし時、周公旦(しうこうたん)天に祈(いのつ)て命に替(かは)らんとし給(たまひ)しかば、武王の病忽(たちまち)痊(いえ)て、天下(てんが)無為の化に誇(ほこる)に相似(あひに)たり。」と、聖徳を感ぜぬ者こそ無(なか)りけれ。又傍(かたはら)に吉野殿(よしのどの)方(がた)を引(ひく)人は、「いでや徒(いたづら)事な云(いひ)そ。神不享非礼、欲宿正直頭、何故か諂諛(てんゆ)の偽(いつはり)を受(うけ)ん。只時節(をりふし)よく、し合(あは)せられたる願書也(なり)。」と、欺(あざむ)く人も多かりけり。
○土岐頼遠(ときよりとほ)参合御幸致狼籍事(こと)付(つけたり)雲客(うんかく)下車事(こと) S2303
同(おなじき)九月三日は故伏見(ふしみの)院(ゐんの)御忌日(ごきにち)也(なり)しかば、彼(かの)御仏事殊更故院(こゐん)の御旧迹にて、執行(とりおこな)はせ給はん為に、持明院上皇伏見殿へ御幸(ごかう)なる。此(この)離宮はさしも紫楼紺殿(しろうこんでん)を彩(いろど)り、奇樹怪石を集(あつめ)て、見所(みどころ)有(あり)し栖■(せいち)なれ共(ども)、旧主去座を、年久(ひさし)く成(なり)ぬれば、見しにも非(あら)ず荒(あれ)はて、一村薄(ひとむらずすきの)野(の)と成(なつ)て、鶉(うづら)の床(とこ)も露滋(しげ)く、八重葎(やへむぐら)のみ門を閉(とぢ)て、荻吹(ふき)すさむ軒端(のきば)の風、苔もり兼(かぬ)る板間(いたま)の月、昔の秋を思出(おもひいで)て今の泪(なみだ)をぞ催(もよほ)しける。毎物曳愁添悲秋の気色(けしき)、光陰不待人無常迅速なる理(ことわり)、貴きも賎きも皆古(いにしへ)に成(なり)ぬる哀(あはれ)さを、導師富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)を借(かつ)て数刻(すごく)宣説(せんぜつ)し給(たま)へば、上皇を奉始旧臣老儒悉(ことごとく)直衣(なほし)・束帯(そくたい)の袖を絞許(しぼるばかり)にぞ見へたりける。種々の御追善(ごつゐぜん)端多(はしおほく)して、秋の日無程昏(くれ)はてぬ。可憐九月初三(しよさん)の夜の月、出(いづ)る雲間(くもま)に影消(きえ)て、虚穹(こきゆう)に落(おつ)る雁(かり)の声、伏見の小田(をだ)も物すごく、彼方人(をちかたびと)の夕と、動(うごき)静まる程(ほど)にも成(なり)しかば、松明(たいまつ)を秉(とつ)て還御なる。夜はさしも深(ふけ)ざるに、御車(おんくるま)東洞院(ひがしのとうゐん)を登(のぼ)りに、五条(ごでう)辺(あたり)を過(すぎ)させ給ふ。斯(かか)る処に土岐弾正少弼(ときだんじやうせうひつ)頼遠・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)判官(はうぐわん)行春(ゆきはる)、今(いま)比叡(ひえ)の馬場にて笠懸(かさがけ)射て、芝居の大酒に時刻を移し、是(これ)も夜深(ふけ)て帰(かへり)けるが、無端樋口(ひぐち)東洞院(ひがしのとうゐん)の辻にて御幸(ごかう)にぞ参り合(あひ)ける。召次(めしつぎ)御前(おんさき)に走散(わしりちつ)て、「何者ぞ狼籍(らうぜき)也(なり)。下(おり)候へ。」とぞ罵(ののしり)ける。下野(しもつけの)判官(はうぐわん)行春は是(これ)を聞(きい)て御幸(ごかう)也(なり)けりと心得(こころえ)て、自馬飛下(とんでおり)傍(かたはら)に畏(かしこま)る。土岐弾正少弼頼遠は、御幸(ごかう)も不知けるにや、此比(このころ)時を得て世をも不恐、心の侭(まま)に行迹(ふるまひ)ければ、馬をかけ居(すゑ)て、「此比(このころ)洛中(らくちゆう)にて、頼遠などを下(おろ)すべき者は覚(おぼえ)ぬ者を、云(いふ)は如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原(きやつばら)蟇目(ひきめ)負(おふ)せてくれよ。」と罵(ののし)りければ、前駈御随身(せんぐみずゐじん)馳散(はせちつ)て声々に、「如何なる田舎人(ゐなかうど)なれば加様(かやう)に狼籍をば行迹(ふるまふ)ぞ。院の御幸(ごかう)にて有(ある)ぞ。」と呼(よばは)りければ、頼遠酔狂(すゐきやう)の気や萌(きざ)しけん、是(これ)を聞(きい)てから/\と打笑ひ、「何(な)に院と云ふか、犬と云(いふ)か、犬ならば射て落さん。」と云侭(いふまま)に、御車(おんくるま)を真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て馬を懸(かけ)寄せて、追物射(おふものい)にこそ射たりけれ。竹林院の中納言公重(きんしげ)卿(きやう)、御後(おんうしろ)に被打けるが、衛府(ゑふ)の太刀を抜馳寄(ぬきはせよ)せ、「懸(かか)る浅猿(あさまし)き狼籍こそなけれ。御車(おんくるま)をとく懸破(かけわつ)て仕れ。」と、被下知けれ共(ども)、牛の胸懸(むながい)被切て首木(くびき)も折れ、牛童共(うしわらはども)も散々(ちりぢり)に成(なり)行き、供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)も皆打落(うちおと)されて、御車(おんくるま)に当る矢をだに、防ぎ進(まゐ)らする人もなし。下簾(したすだれ)皆撥(かなぐり)落され三十輻(みそのや)も少々(せうせう)折(をれ)にければ、御車(おんくるま)は路頭に顛倒(てんたう)す。浅猿(あさまし)しと云(いふ)も疎(おろ)か也(なり)。上皇は只御夢(おんゆめ)の心地(ここち)座(ましまし)て、何とも思召分(おぼしめしわけ)たる方も無(なか)りけるを、竹林院(ゐんの)中納言(ちゆうなごん)公重(きんしげ)卿(きやう)御前(おんまへ)に参られたりければ、上皇、「何(いかに)公重か。」と許(ばかり)にて、軈(やが)て御泪にぞ咽(むせ)び座(ましま)しける。公重卿も進む泪(なみだ)を押へて、「此比(このころ)の中夏の儀、蛮夷僭上(ばんいせんじやう)無礼の至極(しごく)、不及是非候。而(しか)れ共(ども)日月未(いまだ)天に掛らば、照鑒(せうかん)何の疑か候べき。」と被奏ければ、上皇些(すこし)叡慮を慰(なぐさま)させ御座(おはしま)す。「されば其(その)事よ。聞(きけ)や何(いか)に、五条(ごでう)の天神は御出(おんいで)を聞(きい)て宝殿より下(くだ)り御幸(ごかう)の道に畏(かしこま)り、宇佐八幡は、勅使の度毎(たびごと)に、威儀を刷(つくろひ)て勅答を被申とこそ聞け。さこそ武臣の無礼の代(よ)と謂(いふ)からに、懸(かか)る狼籍を目(ま)の当(あたり)見つる事よ。今は末代(まつだい)乱悪(らんあく)の習俗にて、衛護(ゑご)の神もましまさぬかとこそ覚(おぼゆ)れ。」と被仰出て、袞衣(こんえ)の御袖(おんそで)を御顔に押当(おしあて)させ御座(おはしま)せば、公重卿も涙の中に書闇(かきくれ)て、牛童(うしわらは)少々(せうせう)尋出(たづねいだ)して泣々(なくなく)還御成(なり)にけり。其比(そのころ)は直義(ただよし)朝臣(あそん)、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の政務に代(かはつ)て天下(てんが)の権柄(けんぺい)を執(とり)給ひしかば、此(この)事を伝へ承(うけたまはつ)て、「異朝にも未(いまだ)比類を不聞。況(まし)て本朝に於ては、曾(かつて)耳目(じぼく)にも不触不思議(ふしぎ)也(なり)。其(その)罪を論ずるに、三族(さんぞく)に行(おこなう)ても尚(なほ)不足、五刑に下(くだ)しても何ぞ当らん。直(ぢき)に彼輩(かのともがら)を召出(めしいだ)して車裂(くるまざき)にやする、醢(ししびしほ)にやすべき。」と、大(おほき)に驚嘆(きやうたん)申されけり。頼遠も行春も、角(かく)ては事悪(あし)かりなんと思(おもひ)ければ、皆己(おの)が本国へぞ逃下(にげくだり)ける。此(この)上はとて、軈(やが)て討手を差下(さしくだ)し、可被退治(たいぢ)評定一決したりければ、下野(しもつけの)判官(はうぐわん)は不叶とや思(おもひ)けん、頚(くび)を延(のべ)て上洛(しやうらく)し、無咎由を様々陳(ちん)じ申(まうし)ける間、事の次第委細に糾明有(きうめいあつ)て、行春をば罪の軽(かろき)に依(よつ)て死罪を被宥讃岐(さぬきの)国(くに)へぞ被流ける。土岐頼遠は、弥(いよいよ)罪科遁(のが)るゝ所無(なか)りければ、美濃(みのの)国(くに)に楯篭(たてこもつ)て謀反(むほん)を起さんと相議(あひぎ)して、便宜(びんぎ)の知音(ちおん)一族共(いちぞくども)を招寄(まねきよす)と聞へしかば、急ぎ討手を差下(さしくだ)し、可被退治(たいぢ)とて、先(まづ)甥の刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼康(よりやす)を始(はじめ)として、宗(むね)との一族共(いちぞくども)に御教書(みげうしよ)を被成下しかば、頼遠謀反も不事行、角(かく)ては如何と思案して、潜(ひそか)に都へ上(のぼり)、夢窓国師をぞ憑(たのみ)ける。夢窓は此比(このころ)天下(てんが)の大善知識(だいぜんちしき)にて、公家武家崇敬類(たぐ)ひ無(なか)りしかば、さり共(とも)と被憑仰しか共(ども)、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、是(これ)程の大逆(だいぎやく)を緩(ゆる)く閣(さしお)かば、向後(きやうこう)の積習(せきしふ)たるべし。而(しか)れ共(ども)御口入(ごこうじゆ)難黙止(もだしがた)ければ、無力其(その)身をば被誅て、子孫の安堵(あんど)を可全と返事被申、頼遠をば侍所細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)に被渡て、六条河原(ろくでうかはら)にて終(つひに)被刎首けり。其弟(そのおとと)に周済房(しゆさいばう)とて有(ある)をも、既(すで)に可被切と評定有(あり)けるが、其(その)時の人数にては無(なか)りける由(よし)、証拠分明也(なり)ければ、死刑の罪を免(ゆるし)て、軈(やが)て本国へぞ下(くだ)りける。夢窓和尚(むさうをしやう)の武家に出(いで)て、さりともと口入(こうじゆ)し給(たまひ)し事不叶しを、欺(あざむ)く者や仕(し)たりけん、狂歌を一首(いつしゆ)、天竜寺(てんりゆうじ)の脇壁(わきかべ)の上にぞ書(かき)たりける。いしかりしときは夢窓にくらはれて周済計(しゆさいばかり)ぞ皿に残れる此(この)頼遠は、当代故(ことさ)ら大敵を靡(なび)け、忠節を致(いたせ)しかば、其(その)賞翫(しやうぐわん)も人に勝(すぐ)れ、其(その)恩禄も異他。さるを今浩(かか)る行迹(ふるまひ)に依(よつ)て、重(かさね)て吹挙(すゐきよ)をも不被用、忽(たちまち)に其(その)身を失ひぬる事、天地日月未(いまだ)変異(へんい)は無(なか)りけりとて、皆人恐怖して、直義(ただよし)の政道をぞ感じける。頃比(このごろの)習俗、華夷(くわい)変じて戎国の民と成(なり)ぬれば、人皆院・国王と云(いふ)事をも不知けるにや。「土岐頼遠こそ御幸(ごかう)に参会(まゐりあひ)て、狼籍したりとて、被切進(まゐら)せたれ。」と申(まうし)ければ、道を過(すぐ)る田舎人(ゐなかうど)共(ども)是(これ)を聞(きき)て、「抑(そもそも)院(ゐん)にだに馬より下(おり)んには、将軍に参会(まゐりあひ)ては土を可這か。」とぞ欺(あざむ)きける。さればをかしき事共(ことども)浅猿(あさまし)き中にも多かりけり。爰(ここ)に如何なる雲客(うんかく)にてか有(あり)けん、破(や)れたる簾(みす)より見れば、年四十(しじふ)余(あま)りなりけるが、眉(まゆ)作り金(かね)付(つけ)て、立烏帽子(たてゑぼし)引(ひき)かづき著たる人の、轅(ながえ)はげたる破車(やれぐるま)を、打てども行(ゆか)ぬ疲牛(つかれうし)に懸(かけ)て、北野の方へぞ通(とほ)りける。今程洛中(らくちゆう)には武士共(ぶしども)充満(じゆうまん)して、時を得る人其(その)数を不知(しらず)。誰とは不見、太く逞(たくま)しき馬共に思々(おもひおもひ)の鞍(くら)置(おい)て、唐笠(からかさ)に毛沓(けくつ)はき、色々の小袖ぬぎさげて、酒あたゝめ、たき残したる紅葉(もみぢ)の枝、手毎(てごと)に折(をり)かざし、早歌交(さうかまじ)りの雑談(ざふだん)して、馬上二三十騎(にさんじつき)、大内野(おほうちの)の芝生(しばふ)の花、露と共に蹴散(けちら)かし、当(あた)りを払(はらつ)て歩(あゆ)ませたり。主人と覚(おぼ)しき馬上の客(きやく)、此(この)車を見付(みつけ)て、「すはや是(これ)こそ件(くだん)の院と云(いふ)くせ者よ。頼遠などだにも懸(かか)る恐(おそろしき)者に乗会(のりあ)ひして生涯を失ふ。まして我等(われらが)様(やう)の者いかにとゝがめられては叶(かなふ)まじ。いざや下(おり)ん。」とて、一度(いちど)にさつと自馬下(おり)、ほうかぶりはづし笠ぬぎ、頭(かうべ)を地に著(つけ)てぞ畏(かしこま)りける。車に乗(のり)たる雲客(うんかく)は、又是(これ)を見て、「穴(あな)浅猿(あさまし)哉(や)。若(もし)是(これ)は土岐が一族(いちぞく)にてやあるらん。院をだに散々(さんざん)に射進(まゐ)らする、況(まし)て吾等こゝを下(おり)では悪(あし)かりぬべし。」と周章騒(あわてさわ)ぎ、懸(かけ)もはづさぬ車より飛下(とびおり)ける程(ほど)に、車は生強(なまじひ)に先(さき)へ行馳(ゆきはす)るに、軸(ぢく)に当(あたつ)て立烏帽子(たてゑぼし)を打落し、本鳥放(もとどりはな)ちなる青陪従(あをばいじゆう)片手にては髻(もとどり)をとらへ、片手には笏(しやく)を取(とり)直し、騎馬の客の前に跪(ひざまつ)き、「いかに/\。」と色代(しきたい)しけるは、前代未聞(ぜんだいみもん)の曲事(くせごと)なり。其(その)日(ひ)は殊更聖廟(せいべう)の御縁日(ごえんにち)にて、参詣の貴賎布引(ぬのひ)き也(なり)けるが、是(これ)を見て、「けしからずの為体(ていたらく)哉(や)、路頭の礼は弘安の格式(かくしき)に被定置たり。其(それ)にも雲客(うんかく)武士に対(たい)せば、自車をり髻(もとどり)を放(はなせ)とはなき物を。」とて、笑はぬ者も無(なか)りけり。