太平記(国民文庫)
太平記巻第二十二
○畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもんが)事(こと) S2201
去(さる)程(ほど)に京都の討手大勢にて攻下(せめくだり)しかば、杣山(そまやま)の城も被落、越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国(ごかこく)の間に、宮方(みやがた)の城一所(いつしよ)も無(なか)りけるに、畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)時能(ときよし)、僅(わづか)に二十七人(にじふしちにん)篭(こも)りたりける鷹巣(たかのす)の城計(じやうばかり)ぞ相残りたりける。一井(いちのゐ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏政(うぢまさ)は、去年杣山(そまやま)の城より平泉寺(へいせんじ)へ越(こえ)て、衆徒(しゆと)を語(かたら)ひ、挙旗と被議けるが、国中(こくぢゆう)宮方(みやがた)弱(よわく)して、与力(よりき)する衆徒も無(なか)りければ、是(これ)も同(おなじ)く鷹巣(たかのすの)城(じやう)へぞ引篭(ひきこも)りける。時能(ときよし)が勇力(ゆうりよく)、氏政が機分(きぶん)、小勢なりとて閣(さしお)きなば、何様(いかさま)天下(てんが)の大事(だいじ)に可成とて、足利尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)・高(かうの)上野(かうづけの)介(すけ)師重(もろしげ)、両大将として、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、鷹巣城の四辺(しへん)を千百重(せんひやくぢゆう)に被囲、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の向ひ城(じやう)をぞ取(とつ)たりける。彼(かの)畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)と申(まうす)は、武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)にて有(あり)けるが、歳十六(じふろく)の時より好(このんで)相撲(すまふを)取(とり)けるが、坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)に更に勝(かつ)者無(なか)りけり、腕の力筋太(すぢふとく)して股(もも)の村肉(むらにく)厚(あつ)ければ、彼薩摩(かのさつま)の氏長(うぢなが)も角(かく)やと覚(おぼえ)て夥(おびたた)し。其後(そののち)信濃(しなのの)国(くに)に移住して、生涯山野江海(さんやかうかいの)猟漁(かりすなどり)を業(げふ)として、年久(ひさし)く有(あり)しかば、馬に乗(のつ)て悪所岩石(あくしよがんぜき)を落す事、恰も神変(じんべん)を得るが如し。唯造父(ざうほ)が御(ぎよ)を取(とつ)て千里に不疲しも、是(これ)には不過とぞ覚(おぼ)へたる。水練は又憑夷(ひようい)が道を得たれば、驪龍頷下(りりようがんか)の珠(たま)をも自(みづから)可奪。弓は養由(やういう)が迹(あと)を追(おひ)しかば、弦(つる)を鳴(なら)して遥(はるか)なる樹頭(じゆとう)の栖猿(せいゑん)をも落(おと)しつべし。謀(はかりこと)巧(たくみ)にして人を眤(むつび)、気健(すこやか)にして心不撓しかば、戦場に臨むごとに敵を靡(なび)け堅(かたき)に当る事、樊■(はんくわい)・周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚(あつま)る習ひなれば、彼が甥に所大夫房(ところのだいぶばう)快舜(くわいしゆん)とて、少しも不劣悪僧(あくそう)あり。又中間(ちゆうげん)に悪(あく)八郎(はちらう)とて、欠脣(いぐち)なる大力(だいぢから)あり。又犬獅子(けんじし)と名を付(つけ)たる不思議(ふしぎ)の犬一疋(いつぴき)有(あり)けり。此(この)三人(さんにん)の者共(ものども)、闇にだになれば、或(あるひは)帽子甲(ばうしかぶと)に鎖(くさり)を著(き)て、足軽(あしがる)に出立(いでたつ)時もあり。或(あるひ)は大鎧(おほよろひ)に七物(ななつもの)持(もつ)時もあり。様々質(てだて)を替(かへ)て敵の向城(むかひじやう)に忍入(しのびいる)。先(まづ)件(くだん)の犬を先立(さきだて)て城の用心(ようじん)の様を伺(うかが)ふに、敵の用心(ようじん)密(きびしく)て難伺隙時は、此(この)犬一吠(ひとほえ)々(ほえて)走出(わしりいで)、敵の寝入(ねいり)、夜廻(よまはり)も止(やむ)時は、走出(わしりいで)て主に向(むかつ)て尾を振(ふつ)て告(つげ)ける間、三人(さんにん)共(とも)に此(この)犬を案内者(あんないしや)にて、屏(へい)をのり越(こえ)、城の中へ打入(うちいつ)て、叫喚(をめきさけん)で縦横無碍(むげ)に切(きつ)て廻りける間、数千(すせん)の敵軍驚騒(おどろきさわい)で、城を被落ぬは無(なか)りけり。「夫(それ)犬は以守禦養人。」といへり。誠(まこと)に無心禽獣も、報恩酬徳(はうおんしうとく)の心有(ある)にや、斯(かか)る事は先言(せんげん)にも聞(きき)ける事あり。昔周(しう)の世衰へんとせし時、戎国(じゆうこく)乱(みだれ)て王化に不随、兵を遣(つかは)して是(これ)を雖責、官軍(くわんぐん)戦(たたかひ)に無利、討(うた)るゝ者三十万人、地を被奪事七千(しちせん)余里(より)、国危(あやふ)く士辱(はづか)しめられて、諸侯皆彼に降(くだらん)事を乞(こふ)。爰(ここ)に周王是(これ)を愁(うれへ)て■(い)を安(やすん)じ給はず。時節(をりふし)御前(おんまへ)に犬の候(さふらひ)けるに魚肉を与(あたへ)、「汝若(もし)有心、戎国(じゆうこく)に下(くだつ)て、窃(ひそか)に戎王(じゆうわう)を喰殺(くひころ)して、世の乱を静めよ。然らば汝に三千(さんぜん)の宮女を一人下(くだし)て夫婦となし、戎国の王たら[し]めん。」と戯(たはむれ)て被仰たりけるを、此狗(このいぬ)勅命を聞(きき)て、立(たち)て三声(みこゑ)吠(ほえ)けるが、則(すなはち)万里の路を過(すぎ)て戎国に下(くだつ)て、偸(ひそか)に戎王(じゆうわう)の寐所(ねところ)へ忍入(しのびいつ)て、忽(たちまち)に戎王(じゆうわう)を喰(くひ)殺し、其(その)頚を咆(くは)へて、周王の御前(おんまへ)へぞ進(まゐり)ける。等閑(なほざり)に戯れて勅定(ちよくぢやう)ありし事なれ共(ども)、綸言(りんげん)難改とて、后宮(こうきゆう)を一人此狗(このいぬ)に被下て、為夫婦、戎国を其(その)賞にぞ被行ける。后(きさき)三千(さんぜん)の列(れつ)に勝(すぐ)れ、一人(いちじん)の寵(ちよう)厚かりし其(その)恩情を棄(すて)て、勅命なれば無力、彼(かの)犬に伴(ともなひ)て泣々(なくなく)戎国に下(くだつ)て、年久(ひさしく)住給(すみたまひ)しかば、一人の男子を生(うめ)り。其形(そのかたち)頭(かしら)は犬にして身は人に不替。子孫相続(あひつづい)て戎国を保ちける間、依之(これによつて)彼(かの)国(くに)を犬戎国(けんじゆうこく)とぞ申(まうし)ける。以彼思之、此犬獅子(このけんじし)が行(ゆく)をも珍しからずとぞ申(まうし)ける。されば此(この)犬城中(じやうちゆう)に忍入(しのびいつ)て機嫌(きげん)を計(はかり)ける間、三十七(さんじふしち)箇所(かしよ)に城を拵(こしら)へ分(わかつ)て、逆木(さかもぎ)を引屏(ひきへい)を塗(ぬり)ぬる向城(むかひじやう)共(ども)、毎夜一二(ひとつふたつ)被打落、物具(もののぐ)を捨(す)て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵の強きをば不顧、御方(みかた)に笑(わらは)れん事を恥(はぢ)て、偸(ひそか)に兵粮を入(いれ)、忍々(しのびしのび)酒肴(さかな)を送(おくつ)て、可然は我(わが)城(じやう)を夜討になせそと、畑を語(かたら)はぬ者ぞ無(なか)りける。爰(ここ)に寄手(よせて)の中に、上木(うへき)九郎家光(いへみつ)と云(いひ)けるは、元(もと)は新田左中将(さちゆうじやう)の侍也(なり)けるが、心を翻(ひるがへ)して敵となり、責口(せめくち)に候(さふらひ)けるが、数百(すひやく)石(こく)の兵粮を通して畑に内通(ないつう)すと云(いふ)聞(きこ)へ有(あり)しかば、何(いか)なる者か為(したり)けん、大将尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)の陣の前に、「畑を討(うた)んと思はゞ、先(まづ)上木(うへき)を伐(きれ)。」と云(いふ)秀句(しうく)を書(かい)て高札(たかふだ)をぞ立(たて)たりける。是(これ)より大将も上木(うへき)に心を被置、傍輩(はうばい)も是(これ)に隔心(きやくしん)ある体(てい)に見(みえ)ける間、上木口惜(くちをしき)事に思(おもひ)て、二月二十七日(にじふしちにち)の早旦(さうたん)に、己(おのれ)が一族(いちぞく)二百(にひやく)余人(よにん)、俄(にはか)に物具(もののぐ)ひし/\しと堅め、大竹をひしいで楯の面(おもて)に当(あて)、かづき連(つれ)てぞ責(せめ)たりける。自余(じよ)の寄手(よせて)是(これ)を見て、「城の案内知(しつ)たる上木が俄(にはか)に責(せむ)るは、何様(いかさま)可落様(やう)ぞ有(ある)らん。上木一人が高名(かうみや)になすな。」とて、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の向城(むかひじやう)の兵共(つはものども)七千人(しちせんにん)、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、岩根(いはね)を伝ひ、木の根に取付(とりつき)て、差(さし)も嶮(けは)しき鷹巣城(たかのすのじやう)の坂十八町(じふはちちやう)を一息(ひといき)に責上(せめあが)り、切岸(きりきし)の下にぞ著(つき)たりける。され共城には鳴(なり)を静めて、「事の様(やう)を見よ。」とて閑(しづま)り却(かへつ)て有(あり)けるが、已(すで)に鹿垣(ししかき)程近く成(なり)ける時、畑六郎(ろくらう)・所大夫(ところのだいぶ)快舜(くわいしゆん)・悪(あく)八郎(はちらう)・鶴沢源蔵人(げんくらうど)・長尾新左衛門(しんざゑもん)・児玉五郎左衛門(ごらうざゑもん)五人(ごにん)の者共(ものども)、思々(おもひおもひ)の物具(もののぐ)に、太刀長刀の鋒(きつさき)を汰(そろ)へ、声々に名乗(なのつ)て、喚(をめい)て切(きつ)てぞ出(いで)たりける。誠(まこと)に人なしと由断(ゆだん)して、そゞろに進み近づきたる前懸(さきがけ)の寄手(よせて)百(ひやく)余人(よにん)、是(これ)に驚散(おどろきちつ)て、互の助(たすけ)を得んと、一所(いつしよ)へひし/\と寄(よせ)たる処を、例(れい)の悪(あく)八郎(はちらう)、八九尺(はちくしやく)計(ばかり)なる大木(たいぼく)を脇(わき)にはさみ、五六十しても押(おし)はたらかしがたき大磐石(だいばんじやく)を、転懸(ころばしかけ)たれば、其(その)石に当(あた)る有様、輪宝(りんばう)の山を崩し磊石(らいせき)の卵(かひご)を圧(お)すに不異。斯(かか)る処に理を得て左右に激(げき)し、八方(はつぱう)を払(はらひ)、破(わつ)ては返し帰(かへし)ては進み、散々(さんざん)に切廻(きりまは)りける間、或(あるひは)討(うた)れ或(あるひは)疵(きず)を被(かうむ)る者、不知其数。乍去其(その)後は、弥(いよいよ)寄手(よせて)攻上(せめあが)る者も無(なく)て、只山を阻(へだて)川を境(さかう)て、向(むかひ)陣を遠く取(とり)のきたれば、中々(なかなか)兎角(とかう)もすべき様(やう)無し。懸(かかり)し程(ほど)に、畑つく/゛\と思案して、此侭(このまま)にては叶ふまじ、珍(めづら)しき戦(たたか)ひ今一度(いちど)して、敵を散(ちら)すか散(ちら)さるゝか、二(ふたつ)の間に天運を見んと思(おもひ)ければ、我(わが)城(じやう)には大将一井(いちのゐ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)に、兵十一人を著(つけ)て残し留(とど)め、又我(わが)身は宗徒(むねと)の者十六人を引具(ひきぐ)して、十月二十一日の夜半(やはん)に、豊原(といはら)の北に当(あたり)たる伊地(いづち)山に打上(うちあがり)て、中黒(なかぐろ)の旌(はた)二流(ふたながれ)打立(うちたて)て、寄手(よせて)遅しとぞ待(まち)たりける。尾張(をはりの)守(かみ)高経是(これ)を聞(きき)て、鷹巣城(たかのすのじやう)より勢を分(わかつ)て、此(ここ)へ打出(うちいで)たるとは不寄思、豊原(といはら)・平泉寺(へいせんじ)の衆徒(しゆと)、宮方(みやがた)と引合(ひきあひ)て旌(はた)を挙(あげ)たりと心得(こころえ)て、些(ちつと)も足をためさせじと、同(おなじき)二十二日の卯刻(うのこく)に、三千(さんぜん)余騎(よき)にてぞ押寄(おしよせ)られける。寄手(よせて)初(はじめ)の程は敵の多少を量兼(はかりかね)て、無左右不進けるが、小勢也(なり)けりと見て、些(ちつと)も無恐処、我前(われさき)にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、敵外(そと)に引(ひか)へたる程は、態(わざと)あり共(とも)被知ざりけるが、敵已(すでに)一二町(いちにちやう)に責(せめ)寄せたりける時、金筒(かなどう)の上に火威(ひをどし)の胄(よろひ)の敷目(しきめ)に拵(こしら)へたるを、草摺長(くさずりなが)に著下(きくだし)て、同毛(おなじけ)の五枚甲(ごまいかぶと)に鍬形(くはがた)打(うつ)て緒(を)を縮(しめ)、熊野打(くまのうち)の肪当(ほうあて)に、大立揚(おほたてあげ)の脛当(すねあて)を、脇楯(わいだて)の下(した)まで引篭(ひきこめ)て、四尺(ししやく)三寸(さんずんの)太刀に、三尺(さんじやく)六寸(ろくすん)の長刀茎短(くきみじか)に拳(にぎ)り、一引両(ひとつひきりやう)に三■(みつすはま)の笠符(かさじるし)、馬の三頭(さんづ)に吹懸(ふきかけ)させ、塩津黒(しほづくろ)とて五尺(ごしやく)三寸(さんずん)有(あり)ける馬に、鎖(くさり)の胄(よろひ)懸(かけ)させて、不劣兵十六人、前後左右に相随(あひしたが)へ、「畑将軍此(ここ)にあり、尾張(をはりの)守(かみ)は何(いづ)くに坐(ましま)すぞ。」と呼(よばはつ)て、大勢の中へ懸入(かけいり)、追廻(おひまは)し、懸乱(かけみだ)し、八方(はつぱう)を払(はらつ)て、四維(しゆゐ)に遮りしかば、万卒(ばんそつ)忽(たちまち)に散じて、皆馬の足をぞ立兼(たてかね)たる。是(これ)を見て、尾張(をはりの)守(かみ)高経・鹿草(かくさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)旗の下(もと)に磬(ひかへ)て、「無云甲斐者共(ものども)哉(かな)。敵縦(たとひ)鬼神(おにかみ)也(なり)とも、あれ程の小勢を見て引(ひく)事や有(ある)べき。唯(ただ)馬の足を立寄(たちよ)せて、魚鱗(ぎよりん)に引(ひか)へて、兵(つはもの)を虎韜(こたう)になして取篭(とりこめ)、一人も不漏打留(うちとめ)よや。」と、透間(すきま)も無(なく)ぞ被下知ける。懸(かかり)しかば三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、大将の諌言(かんげん)に力を得て、十六騎(じふろくき)の敵を真中(まんなか)にをつ取篭(とりこめ)、余(あま)さじとこそ揉(もう)だりけれ。大敵雖難欺、畑が乗(のつ)たる馬は、項羽(かうう)が騅(すゐ)にも不劣程の駿足(しゆんそく)也(なり)しかば、鐙(あぶみ)の鼻に充落(あておと)され蹄(ひづめ)の下(した)にころぶをば、首(くび)を取(とつ)ては馳(はせ)通(とほ)り、取(とつ)て返しては颯(さつ)と破る。相順(あひしたが)ふ兵も、皆似(に)るを友とする事なれば、目に当(あたる)敵をば切(きつ)て不落云(いふ)事なし。其膚(そのはだへ)不撓目(め)不瞬勇気に、三軍敢(あへ)て当(あた)り難く見へしかば、尾張(をはりの)守(かみ)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)、東西南北に散乱(さんらん)して、河より向(むかう)へ引退(ひきしりぞ)く。軍(いくさ)散じて後(のち)、畑帷幕(ゐばく)の内に打帰(うちかへり)て、其(その)兵を集(あつむ)るに、五騎は被討九人(くにん)は痛手(いたで)を負(おう)たりけり。其(その)中に殊更憑(たのみ)たる大夫房(だいぶばう)快舜(くわいしゆん)、七所まで痛手負(おう)たりしが、其(その)日(ひ)の暮程(ほど)にぞ死(しに)にける。畑も脛当(すねあて)の外(はづれ)、小手(こて)の余(あま)り、切(きら)れぬ所ぞ無(なか)りける。少々(せうせう)の小疵(こきず)をば、物(もの)の数(かず)とも不思けるに、障子の板の外(はづれ)より、肩崎(かたさき)へ射篭(こめ)られたりける白羽(しらは)の矢一筋(ひとすぢ)、何(いか)に脱(ぬき)けれ共(ども)、鏃(やじり)更に不脱けるが、三日の間苦痛を責(せめ)て、終(つひ)に吠(ほ)へ死(じに)にこそ失(うせ)にけれ。凡(およそ)此(この)畑は悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして、罪障(ざいしやう)を不恐のみならず、無用なるに僧法師を殺し、仏閣社壇を焼壊(やきこぼ)ち、修善(しゆぜん)の心は露許(ばかり)もなく、作悪業事(ことは)如山重(かさなり)しかば、勇士(ゆうし)智謀の其芸(そのげい)有(あり)しか共(ども)、遂(つひ)に天の為にや被罰けん、流矢(ながれや)に被侵て死(しに)にけるこそ無慙(むざん)なれ。君不見哉(や)、舁(げい)控弓、天に懸(かか)る九(ここのつ)の日を射て落し、■(がう)盪舟、無水陸地(くがぢ)を遣(やり)しか共(ども)、或(あるひ)は其(その)臣寒■(かんさく)に被殺、或(あるひ)は夏后小康(かこうせうかう)に被討て皆死名を遺(のこ)せり。されば開元(かいげん)の宰相宋開府(そうかいふ)が、幼君の為に武を黷(けが)し、其辺功(そのへんこう)を不立しも、無智慮忠臣と可謂と、思(おもひ)合(あは)せける許(ばかり)也(なり)。畑已(すで)に討(うた)れし後は、北国の宮方(みやがた)気を撓(たわま)して、頭(かしら)を差出(さしいだ)す者も無(なか)りけり。
○義助被参芳野事并(ならびに)隆資(たかすけ)卿(きやう)物語(ものがたりの)事(こと) S2202
爰(ここ)に脇屋(わきや)刑部卿義助(よしすけ)は、去(さんぬる)九月十八日、美濃の根尾(ねを)の城に立篭(たてこもり)しか共(ども)、土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠(よりとほ)・刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)頼康(よりやす)に責(せめ)落されて、郎等(らうどう)七十三人(しちじふさんにん)を召具(めしぐ)し、微服潜行(びふくせんかう)して、熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)が城尾張(をはりの)国(くに)波津(はづ)が崎へ落(おち)させ給(たまひ)て、十(じふ)余日(よにち)逗留(とうりう)して、敗軍の兵を集めさせ給(たまひ)て、伊勢伊賀を経(へ)て、吉野殿(よしのどの)へぞ被参ける。則(すなはち)参内(さんだい)し、竜顔(りようがん)に奉謁しかば、君玉顔殊に麗(うるは)しく照(てら)して前席、此(この)五六年が間の北征(ほくせい)の忠功、異他由を感じ被仰て、更に敗北の無念なる事をば不被仰出、其(その)命無恙して今此(ここ)に来(きた)る事、君臣水魚の忠徳再(ふたたび)可露故(ゆゑ)也(なり)と、御涙(おんなみだ)を浮(うかべ)させ御座(おはしまし)て被仰下。次(つぎの)日(ひ)臨時(りんじ)の宣下(せんげ)有(あつ)て一級を被加。加之(しかのみならず)当参の一族(いちぞく)、並(ならびに)相順(あひしたが)へる兵共(つはものども)に至るまで、或(あるひ)は恩賞を給(たまひ)、或(あるひは)官位を進められければ、面目人に超(こえ)てぞ見へたりける。其(その)時分殿上(てんしやう)の上口(かみくち)に、諸卿被参候たりけるが、物語の次(ついで)に、洞院(とうゐんの)右大将実世(さねよ)未(いまだ)左衛門(さゑもんの)督(かみ)にて坐(ましませ)しが、被欺申けるは、「抑(そもそも)義助越前の合戦に打負(うちまけ)て美濃(みのの)国(くに)へ落(おち)ぬ。其(その)国(くに)をさへ又被追落て、身の置処(おきどころ)なき侭(まま)に、当山へ参りたるを、君御賞翫(ごしやうくわん)有(あつ)て、官禄を進ませらる事返々(かへすがへす)も不心得(こころえず)。是(これ)唯(ただ)治承の昔、権佐三位(ごんのすけさんみの)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)が、東国の討手(うつて)に下(くだつ)て、鳥の羽音(はおと)に驚(おどろい)て逃上(にげのぼり)たりしを、祖父清盛入道が計(はから)ひとして、一級を進ませしに不異。」とぞ被笑ける。四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)、つく/\と是(これ)を聞(きき)給ひけるが、退(しりぞい)て被申けるは、「今度の儀、叡慮の趣(おもむ)く処、其理(そのり)当(あた)るかとこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)故は、義助北国の軍(いくさ)に失利候(さふらひ)し事は全(まつたく)彼が戦(たたかひ)の拙(つたな)きに非(あら)ず。只聖運、時未到(いまだいたらず)、又勅裁(ちよくさい)の将の威を軽(かろ)くせられしに依(よつ)て也(なり)。高才(かうさい)に対して加様(かやう)の事を申せば、以管窺天、听途説塗風情(ふぜい)にて候へ共(ども)、只其の一端(いつたん)を申(まうす)べし。昔周(しう)の未(いまだ)戦国の時に当(あたつ)て、七雄(しちゆう)の諸侯相争(あひあらそ)ひ互に国を奪はんと謀(はかり)し時、呉王闔廬(かふりよ)、孫子(そんし)と云(いひ)ける勇士(ゆうし)を大将として、敵国を伐(うた)ん事を計る。時に孫氏、呉王闔廬に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「夫(それ)以不教之民戦(たたかは)しむる事、是(これ)を棄(すて)よといへり。若(もし)敵国を伐(うた)しめんとならば、先(まづ)宮中にあらゆる所の美人を集(あつめ)て、兵(つはもの)の前に立(たて)て、陣を張(は)り戈(ほこ)を持(もた)しめて後、我(われ)其命(そのめい)を司(つかさど)らむ。一日の中に、三度(さんど)戦(たたかひ)の術(じゆつ)を教へんに、命(めい)に随ふ事を得ば、敵国を滅(ほろぼ)さん事、立(たちどころ)に得つべし。」とぞ申(まうし)ける。呉王則(すなはち)孫子(そんし)が任申請、宮中の美人三千人(さんぜんにん)を南庭(なんてい)に出して、皆兵の前陣(ぜんぢん)に立(たて)らる。時に孫氏甲胄を帯し、戈(ほこ)を取(とつ)て、「鼓(つづみ)うたば進んで刃(やいば)を交(まじ)へよ。金(かね)をうたば退(しりぞい)て二陣の兵に譲(ゆづ)れ。敵ひかば急に北(にぐ)るを追へ。敵返さば堪(こらへ)て弱(よわき)を凌(しの)げ。命を背(そむ)かば我(われ)汝等(なんぢら)を斬らん。」と、馬を馳(はせ)てぞ習はしける。三千(さんぜん)の美人君の命(めい)に依(よつ)て戦(たたか)ひを習はす戦場へ出(いで)たれども、窈窕(えうてう)たる婉嫋(ゑんじやく)、羅綺(らき)にだもたへざる体(てい)なれば、戈をだにも擡(もたげ)得ざれば、まして刃を交(まじふ)るまでもなし。あきれたる体(てい)にて打笑(うちわらひ)ぬる計(ばかり)也(なり)。孫氏是(これ)を忿(いかつ)て、殊更呉王闔廬(かふりよ)が最愛の美人三人(さんにん)を忽(たちまち)に斬(きつ)てぞ捨(すて)たりける。是(これ)を見、自余(じよ)の美人相順(あひしたがう)て、「士卒(じそつ)と共に懸(かけ)よ。」といへば進み、「返せ。」といへば止(とどま)る。聚散(しゆさん)応変、進退当度。是(これ)全(まつたく)孫氏が美人の殺す事を以て兵法(ひやうはふ)とはせず、只大将の命(めい)を士卒(じそつ)の重んずべき処を人にしらしめんが為也(なり)。呉王も最愛の美人を三人(さんにん)まで失ひつる事は悲しけれ共(ども)、孫氏が教へたる謀(はかりこと)誠(まこと)に当(あた)れりと被思ければ、遂に孫氏を以て、多くの敵国を亡(ほろぼ)されてげり。されば周(しう)の武王、殷の紂王を伐(うた)ん為に、大将を立(たて)ん事を太公望(たいこうばう)に問(とひ)給ふ。太公望答曰(こたへていはく)、「凡国有難、君避正殿、召将而詔之曰、社稷安危、一在将軍。願将軍帥師応之。将既受命、乃命大史卜。斎三日、之大廟鑽霊亀卜吉日以授斧鉞。君入廟門西面而立、将入廟門北面而立。君親操鉞持首、授将其柄曰、従此上至天者、将軍制之。復操斧持柄授将其刃曰、従此下至淵者、将軍制之。見其虚則進、見其実則止。勿以三軍為衆而軽敵。勿以受命為重而必死。勿以身貴而賎人。勿以独見而違衆。勿以弁舌為必然。士未坐勿坐。士未食勿食。寒暑必同。如此則士衆必尽死力。将已受命拝而報君曰、臣聞国不可以外治、軍不可以中禦。二心不可以事君。疑志不可以応敵。臣既受命専斧鉞之威。臣不敢将。君許之。乃辞而行。軍中之事不聞君命、皆由将出。臨敵決戦、無有二心。若如則無天於上、無地於下。無敵於前、無君於後。是故智者為之謀、勇者(ようしや)為之闘。気励青雲疾若馳々。兵不接刃而敵降服。戦勝於外、功立於内。吏遷士賞百姓懽悦、将無咎殃。是故風雨時節、五穀豊熟、社稷安寧也(なり)。」といへり。古より今に至るまで、将を重んずる事如此にてこそ、敵を亡(ほろぼ)し国を治(をさむ)る道は候事なれ。去(さる)程(ほど)に此間(このあひだ)北国の有様を伝へ承(うけたまは)るに、大将の挙状(きよじやう)を不帯共、士卒直(ぢき)に訴(うつたふ)る事あれば、軈(やが)て勅裁を被下、僅(わづか)に山中を伺ひ以祗候労を、軍用を支(ささ)へらる。北国の所領共を望む人あれば、不事問被成聖断。依之(これによつて)大将威軽(かろく)、士卒(じそつの)心恣(ほしいまま)にして、義助遂に百戦の利を失へり。是(これ)全(まつたく)戦ふ処に非(あら)ず。只上(かみ)の御沙汰(ごさた)の違(たがふ)処に出たり。君忝(かたじけなく)も是(これ)を思召(おぼしめし)知るに依(よつ)て、今其(その)賞を被重者也(なり)。秦(しんの)将(しやう)孟明視・西乞術(せいきつじゆつ)・白乙丙(はくいつへい)、鄭(ていの)国(くに)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て帰(かへり)たりしを秦(しんの)穆公(ぼつこう)素服郊迎(そぶくかうげい)して、「我(われ)不用百里奚・■叔(けんしゆく)言辱(はづか)しめられたり。三子(さんし)は何の罪かある。其(その)専心毋懈。」と云(いひ)て三人(さんにん)の官禄を復せしにて候はずや。」と、理を尽(つくし)て宣(のべ)られければ、さしも大才の実世(さねよの)卿(きやう)、言(ことば)なくしてぞ立(たた)れける。「何ぞ古の維盛(これもり)を入道相国賞せしに同(おなじく)せん哉(や)。」と被申しかば、実世(さねよの)卿(きやう)言(こと)ば無(なく)して被退出けり。
○作々木信胤(ささきのぶたね)成宮方(みやがた)事(こと) S2203
懸(かか)る処に伊予(いよの)国(くに)より専使(せんし)馳来(はせきたつ)て、急ぎ可然大将を一人撰(えらび)て被下、御方(みかた)に対して忠戦を可致之(の)由(よし)を奏聞(そうもん)したりしかば、脇屋(わきや)刑部卿義助朝臣(あそん)を可被下公議定(さだまり)けり。され共(ども)下向(げかう)の道、海上も陸地(くがぢ)も皆敵陣也(なり)。如何して可下、僉議(せんぎ)不一ける処に、備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、佐々木(ささきの)飽浦(あくら)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)信胤(のぶたね)早馬(はやむま)を打て(うつ)て、「去月二十三日(にじふさんにち)小豆島(せうどしま)に押(おし)渡り、義兵を挙(あぐ)る処に、国中(こくぢゆう)の忠ある輩(ともがら)馳加(はせくははつ)て、逆徒(ぎやくと)少々打順(うちしたが)へ、京都運送の舟路(ふなぢ)を差塞(さしふさい)で候也(なり)。急(いそぎ)近日大将御下向有(ある)べし。」とぞ告(つげ)たりける。諸卿是(これ)を聞(きき)て、大将進発(しんばつ)の道開(ひらけ)て、天運機を得たる時至りぬと、悦給(よろこびたまふ)事限(かぎり)なし。抑(そもそも)此(この)信胤と申(まうす)は、去建武(さんぬるけんむの)乱の始(はじめ)に、細川卿律師(きやうのりつし)定禅(ぢやうぜん)に与力(よりき)して、備前備中の両国を平(たひら)げ、将軍の為に忠功有(あり)しかば、武恩に飽(あき)て、恨(うらみ)を可含事も無(なか)りしに、依何今俄(にはか)に宮方(みやがた)に成(なる)ぞと、事の根元(こんげん)を尋ぬれば、此比(このころ)天下(てんが)に禍(わざはひ)をなす例(れい)の傾城(けいせい)故とぞ申(まうし)ける。其比(そのころ)菊亭(きくてい)殿(どの)に御妻(おさい)とて、見目貌(みめかたち)無類、其品(そのしな)賎(いやし)からで、なまめきたる女房ありけり。しかあれ共(ども)、元来心軽(かろ)く思定(おもひさだ)めたる方もなければ、何(なに)となく引手数(ひくてあま)たのうき綱(あみ)の、目もはづかなる其喩(そのたと)へも猶(なほ)事過(すぎ)て、寄瀬(よるせ)何(いづ)くにかと我(われ)ながら思分(おもひわか)でぞ有(あり)渡りける。さはありながら、をぼろけにては、人の近付(ちかづく)べきにもあらぬ宮中(きゆうちゆう)の深棲(ふかきすまひ)なるに、何(いか)がして心を懸(かけ)し玉垂(たまだれ)の、間(ひま)求(もとめ)得たる便(たより)にか有(あり)けん、今の世に肩を双(ならぶ)る人もなき高(かうの)土佐(とさの)守(かみ)に通馴(かよひなれ)て、人しれず思結(おもひむすぼ)れたる下紐(したひぼ)の、せきとめがたき中なれば、初(はじめ)の程こそ忍(しのび)けれ、後は早山田(やまた)に懸(かか)るひたふるに打(うち)ひたゝけて、あやにくなる里居(さとゐ)にのみまかでければ、宮仕(みやづか)ひも常には疎(おろ)そかなる事のみ有(あり)て、主(あるじ)の左(ひだん)のをほゐまうち公(きみ)も、かく共(とも)しらせ給(たまひ)しかば、むつかしの人目を中の関守(せきもり)や、よひ/\ごとの深過(ふけすぐ)るをまたず共(とも)あれかしと被許、まかで出(いで)ける時もあり。懸(かかり)し程(ほど)に、此(この)土佐(とさの)守(かみ)に元(もと)相馴(あひなれ)て、子共数(あま)た儲(まうけ)たる鎌倉(かまくら)の女房有(あり)ける。是(これ)は元来(もとより)田舎人(ゐなかうど)也(なり)ければ、物妬(ものねたみ)はしたなく心武々敷(たけだけしく)て、彼(かの)源氏の雨夜(あまよ)の物語に、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)の指をくひ切(きり)たりし有様共多かりけり。されども子共の親なれば、けしからずの有様哉(や)とは乍思、いなと云(いふ)べき方も無(なく)て、年を送(おくり)ける処に、土佐(とさの)守(かみ)伊勢(いせの)国(くに)の守護(しゆご)に成(なつ)て下向しけるが、二人(ににん)の女房を皆具足(ぐそく)して下らんとて、元(もと)の女房をば先(まづ)くだしぬ。御妻(おさい)を同様(おなじやう)にと待(まち)しか共(ども)、今日よ明日(あす)よとて少しうるさげなる気色(けしき)に見へしかば、土佐(とさの)守(かみ)猶(なほ)も思(おもひ)の色増(まし)て、伴行(ともなひゆ)かでは叶(かなふ)まじきとて、三日まで逗留(とうりう)して、兎角(とかく)云恨(いひうらみ)ける程(ほど)に、さらばとて、夜半許(やはんばかり)に輿指(こしさし)寄せ、几帳(きちやう)指隠(さしかく)して扶乗(たすけのせ)られぬ。土佐(とさの)守(かみ)無限うれしくて、道に少しも不休、軈(やが)て伊勢路(いせぢ)に趣(おもむき)けり。まだ夜を篭(こめ)て、逢坂(あふさか)の関(せき)の岩かど蹈鳴(ふみなら)し、ゆう付鳥(つけどり)に被送て、水の上なる粟津野(あはづの)の、露分行(ゆ)けばにほの海、流(ながれ)の末(すゑ)の河となる、勢多(せた)の橋を打渡れば、衣手(ころもで)の田上河(たながみがは)の朝風に、比良(ひら)の峯わたし吹来(ふききたつ)て、輿(こし)の簾(すだれ)を吹揚(ふきあげ)たり。出絹(だしぎぬ)の中(うち)を見入(みいれ)たれば、年の程八十許(ばかり)なる古尼(ふるあま)の、額(ひたひ)には皺(しわ)のみよりて、口には歯一(ひとつ)もなきが、腰二重(ふたへ)に曲(かがめ)てぞ乗(のつ)たりける。土佐(とさの)守(かみ)驚(おどろい)て、「是(これ)は何様(いかさま)古狸(ふるたぬき)か古狐(ふるきつね)かの化(ばけ)たるにてぞ有(ある)らん。鼻をふすべよ。蟇目(ひきめ)にて射て見よ。」と申(まうし)ければ、尼泣々(なくなく)、「是(これ)は媚者(ばけもの)にても候はず。菊亭殿(きくていどの)へ年来(としごろ)参通(まゐりかよふ)者にて候を、御妻(おさい)の局(つぼね)へ被召(めされ)て、「加様(かやう)にて京に住(すみ)わびんよりは、我が下(くだ)る田舎へ行(ゆき)て、且(しばら)くも慰めかし。」と被仰候(さふらひ)し間、さそふ水もがなと思ふ憂(うき)身にて候へば、うれしき事に思(おもひ)て昨日(きのふ)御局へ参りて候へば、被留進(まゐら)せて、妻戸(つまど)に輿(こし)を寄(よせ)たりしに、それに乗れと仰候(おほせさふらひ)しかば、何(なに)心もなく乗(のり)たる許(ばかり)にて候ぞ。」と申(まうし)ける。土佐(とさの)守(かみ)、「さては此(この)女房に出抜(だしぬか)れたる者也(なり)。彼御所(かのごしよ)に打入(うちいつ)て、奪取(うばひとら)ずば下(くだ)るまじき者を。」とて、尼をば勢多(せた)の橋爪(はしづめ)に打捨(うちすて)て、空輿(あきこし)を舁返(かきかへ)して、又京へぞ上(のぼ)りける。元来(もとより)思慮なき土佐(とさの)守(かみ)、菊亭殿(きくていどの)に推寄(おしよせ)て、四方(しはう)の門を差篭(さしこめ)て、無残所捜(さが)しける。御所中の人々、「こは何(いか)なる事ぞ。」とて、上下周章騒(あわてさわぐ)事無限。何(いか)に求(もとむ)れ共(ども)なければ、此(この)女房の住(すみ)しあたりなる局(つぼね)に有(あり)ける女(め)の童(わらは)を囚(とら)へて、責問(せめとひ)ければ、「其(その)女房は通(かよふ)方(かた)多かりしかば、何(いづ)くとも差(さし)ては知(しり)がたし。近来(このころ)は飽浦(あくら)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)とかや云(いふ)者にこそ、分(わき)て志深く、人目も憚(はばか)らぬ様(やう)に承(うけたまはり)候(さふらひ)しか。」と語りければ、土佐(とさの)守(かみ)弥(いよいよ)腹を居兼(すゑかね)て、軈(やが)て飽浦(あくら)が宿所へ推寄(おしよせ)て討(うた)んと議(たばか)りけるを聞(きき)て、自科(じくわ)依難遁、身を隠(かく)しかね、多年粉骨(ふんこつ)の忠功を棄(すて)て、宮方(みやがた)の旗をば挙(あげ)ける也(なり)。折(をり)得ても心許すな山桜さそふ嵐に散(ちり)もこそすれと歌に読(よみ)たりしは、人(ひとの)心の花なりけりと、今更思知(おもひしつ)ても、浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)也(なり)。
○義助予州(よしうへ)下向(げかうの)事(こと) S2204
去(さる)程(ほど)に四国の通路(つうろ)開(ひらき)ぬとて、脇屋(わきや)刑部卿義助は、暦応三年四月一日勅命を蒙(かうむつ)て、四国西国の大将を奉(うけたまはつ)て、下向とぞ聞(きこ)へし。年来(としころ)相順(あひしたが)ふ兵其数(そのかず)多しといへ共、越前美濃の合戦に打負(うちまけ)し時、大将の行末(ゆくへ)を不知して山林に隠忍(かくれしの)び、或(あるひ)は危難を遁(のがれ)て堺(さかひ)を隔(へだ)てしかば、芳野(よしの)へ馳来(はせきた)る兵五百騎(ごひやくき)にも不足けり。され共(ども)四国中国に心を通ずる官軍(くわんぐん)多く有(あり)しかば、今一日も可急とて、未明(びめい)に芳野を打立(うつたつ)て、紀伊(き)の路(ぢ)に懸(かか)り被通けるに、加様(かやう)の次(ついで)ならでは早晩(いつ)か参詣の志をも遂(と)げ、当来値遇(ちぐ)の縁(えん)をも可結と被思ければ、先(まづ)高野山(かうやさん)に詣(まうで)て、三日逗留(とうりう)し、院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)拝(をが)み廻(まは)るに、聞(きき)しより尚貴(たつと)くて、八葉(はちえふ)の峯空にそびへ、千仏(せんぶつ)の座雲(くも)に捧(ささ)げたり。無漏(むろ)の扉(とぼそ)苔閉(とぢ)て、三会(さんゑ)の暁(あかつき)に月を期(ご)す。或(あるひ)は説法衆会(しゆゑ)の場(ぢやう)もあり、或(あるひ)は念仏三昧の砌(みぎり)もあり。飛行(ひぎやう)の三鈷(さんこ)地に堕(おち)、験(しるし)に生(おひ)たる一株(ちう)の松、回禄の余烟風(ほのか)に去(さつ)て、軒を焦(こが)せる御影堂(みえいだう)、香烟(かうのけぶり)窓(まど)を出(いで)て心細く、鈴(れい)の声(こゑ)霧に篭(こもつ)て物冷(さび)し。此(ここ)は昔滝口入道が住(すみ)たりし菴室(あんじつ)の迹(あと)とて尋(たづぬ)れば、旧き板間(いたま)に苔むして、荒(あれ)ても漏(もれ)ぬ夜の月、彼(かしこ)は古(いにしへ)西行法師が結置(むすびおき)し、柴の庵(いほり)の名残(なごり)とて立寄(たちよ)れば、払(はら)はぬ庭に花散(ちり)て、蹈(ふむ)に迹(あと)なき朝(あした)の雪、様々の霊場(れいぢやう)所々(ところどころ)の幽閑(いうかん)を見給(たまふ)にぞ、「遁(のがれ)ぬべくは角(かく)てこそあらまほしく。」と宣(のたまひ)し、維盛(これもり)卿(きやう)の心(こころの)中、誠(げにも)と被思知たる。且(しばら)くも懸(かか)る霊地に逗留(とうりう)して、猶も憂(うき)身の汚れを濯度(すすぎたく)思はれけれ共(ども)、軍旅(ぐんりよ)に趣(おもむき)給ふ事なれば不協して、高野(かうや)より紀伊(き)の路(ぢ)に懸(かか)り、千里(せんり)の浜を打過(うちすぎ)て、田辺(たなべ)の宿(しゆく)に逗留(とうりう)し、渡海の舟を汰(そろ)へ給(たまふ)に、熊野の新宮別当(じんぐうのべつたう)湛誉(たんよ)・湯浅入道定仏(ぢやうぶつ)・山本(やまもとの)判官(はうぐわん)・東四郎(とうしらう)・西四郎(さいしらう)以下(いげ)の熊野人共(くまのとども)、馬・物具(もののぐ)・弓矢・太刀・長刀・兵粮等に至るまで、我(われ)不劣と奉りける間、行路(かうろ)の資(たす)け卓散(たくさん)也(なり)。角(かく)て順風に成(なり)にければ、熊野人(くまのと)共(ども)兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)調(そろ)へ立(たて)、淡路の武島(むしま)へ送(おくり)奉る。此(ここ)には安間(あま)・志知(しうち)・小笠原の一族共(いちぞくども)、元来(ぐわんらい)宮方(みやがた)にて城を構(かまへ)て居たりしかば、様々の酒肴(さかな)・引出物(ひきでもの)を尽(つく)して、三百(さんびやく)余艘(よさう)の舟を汰(そろ)へ、備前の小島(こじま)へ送(おくり)奉る。此(ここ)には佐々木(ささきの)薩摩(さつまの)守(かみ)信胤(のぶたね)・梶原三郎自去年宮(みや)方(がた)に成(なつ)て、島の内には又交(まじは)る人もなし。されば大船(だいせん)数(あま)た汰(そろ)へて、四月二十三日(にじふさんにち)伊予(いよの)国(くに)今張(いまばりの)浦(うら)に送著(おくりつけ)奉る。大館(おほたて)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)は、先帝(せんてい)自山門京へ御出(おんいで)有(あり)し時、供奉(ぐぶ)仕(つかまつつ)て有(あり)しが、如何(いかが)思(おもひ)けん降人(かうにん)になり、且(しばら)くは将軍に属(しよく)して居たりけるが、先帝偸(ひそか)に楼(ろう)の御所(ごしよ)を御出(おんいで)有(あつ)て、吉野に御座(ござ)有(あり)と聞(きき)て、軈(やが)て馳参(はせまゐり)たりしかば、君御感(ぎよかん)有(あつ)て伊予(いよの)国(くに)の守護(しゆご)に被補しかば、自去年春当国に居住してあり。又四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆資(たかすけ)子息少将有資(ありすけ)は此(この)国(くに)の国司(こくし)にて自去々年在国せらる。土居(どゐ)・得能(とくのう)・土肥(とひ)・河田・武市(たけいち)・日吉(ひよし)の者共(ものども)、多年の宮方(みやがた)にして、讃岐の敵を支(ささ)へ、西は土佐(とさ)の畑(はた)を堺(さか)ふて居たりければ、大将下向に弥(いよいよ)勢(いきほ)ひを得て、竜(りよう)の水を得、虎の山に靠(よりかかる)が如し。其(その)威漸(やうやく)近国に振ひしかば、四国は不及申、備前・備後・安芸・周防・乃至(ないし)九国の方までも、又大事(だいじ)出来(いでき)ぬと云はぬ者こそ無(なか)りけれ。されば当国の内にも、将軍方(しやうぐんがた)の城僅(わづか)に十(じふ)余箇所(よかしよ)有(あり)けるも、未(いまだ)敵も向はぬ先に皆聞落(ききおち)してんげれば、今は四国悉(ことごとく)一統(いつとう)して、何事か可有と憑敷(たのもしく)思(おもひ)あへり。
○義助朝臣(あそん)病死(びやうしの)事(こと)付(つけたり)鞆(とも)軍(いくさの)事(こと) S2205
斯(かか)る処に、同(おなじき)五月四日、国府(こふ)に被坐たる脇屋(わきや)刑部卿義助、俄(にはか)に病(やまひ)を受(うけ)て、身心悩乱(なうらん)し給ひけるが、僅(わづか)に七日過(すぎ)て、終(つひ)に無墓成給(なりたまひ)にけり。相順(あひしたが)ふ官軍共(くわんぐんども)、始皇(しくわう)沙丘(さきう)に崩じて、漢(かん)・楚(そ)機に乗(のる)事を悲(かなし)み、孔明(こうめい)籌筆駅(ちうひつえき)に死して、呉(ご)・魏(ぎ)便(たよ)りを得し事を愁(うれへ)しが如く、五更(ごかう)に灯(ともしび)消(きえ)て、破窓(はさう)の雨に向ひ、中流(ちゆうる)に舟を失(うしなひ)て、一瓢(いつぺう)の浪に漂ふらんも、角(かく)やと覚(おぼ)へて、此(この)事外(よそ)に聞(きこ)へなば、敵に気を得られつべしとて、偸(ひそか)に葬礼(さうれい)を致(いたし)て、隠悲呑声いへ共(ども)、さすが隠無(かくれなか)りしかば、四国の大将軍にて、尊氏の被置たる、細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春、此(この)事を聞(きき)て、「時をば且(しばら)くも不可失。是(これ)司馬仲達が弊(つひえ)に乗(のつ)て蜀(しよく)を亡(ほろぼ)せし謀なり。」とて、伊予・讃岐・阿波・淡路の勢七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、先(まづ)伊予の堺(さかひ)なる河江城(かはえのじやう)へ押寄(おしよせ)て、土肥(とひの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)を責(せめ)らる。義助に順付(したがひつき)たりし多年恩顧の兵共(つはものども)、土居・得能・合田(あひだ)・二(にの)宮(みや)・日吉・多田・三木・羽床(はゆか)・三宅(みやけ)・高市(たけいち)の者共(ものども)、金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)経氏(つねうぢ)を大将にて、兵船(ひやうせん)五百(ごひやく)余艘(よさう)にて、土肥(とひ)が後攻(ごづめ)の為に海上に推浮(おしうか)ぶ。是(これ)を聞(きき)て、備後の鞆(とも)・尾(を)の道(みち)に舟汰(ふなぞろへ)して、土肥が城へ寄(よ)せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千(せん)余艘(よさう)にて推出(おしいだ)す。両陣の兵船(ひやうせん)共(ども)、渡中(となか)に帆を突(つい)て、扣舷時を作る。塩(しほ)に追ひ風に随(したがつ)て推合(おしあひ)々々(おしあひ)相戦ひける。其(その)中に大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)が執事(しつじ)、岡部出羽(ではの)守(かみ)が乗(のり)たる舟十七艘、備後の宮(みや)下野(しもつけの)守(かみ)兼信(かねのぶ)、左右に別(わかれ)て漕双(こぎなら)べたる舟四十(しじふ)余艘(よさう)が中へ分入(わけいり)て、敵の船に乗遷(のりうつり)々々(のりうつり)、皆引組(ひつくん)で海中へ飛入(とびいり)けるこそ、いかめしかりし行迹(ふるまひ)なれ。備後・安芸・周防の舟は皆大船なれば、艫(とも)・舳(へ)に櫓(ろ)を高く掻(かい)て、指下(さしおろ)して散々(さんざん)に射る。伊予・土佐(とさ)の舟は皆小舟なれば、逆櫓(さかろ)を立(たて)て縦横に相当(あひあた)る。両方の兵(つはもの)、よしや死して海底の魚腹に葬(さう)せらるゝ共、逃(にげ)て天下(てんが)の人口(じんこう)には落(おち)じ者をと、互に機を進め、一引(ひとひき)も不引終日(ひねもす)戦ひ暮(くら)しける処に、海上俄(にはか)に風来(きたつ)て、宮方(みやがた)の舟をば悉(ことごと)く西を差(さし)て吹(ふき)もどす。寄手(よせて)の舟をば悉(ことごと)く伊予の地へ吹(ふき)送る。夜に入(いり)て風少(すこし)静まりければ、宮方(みやがた)の兵共(つはものども)、「是(これ)程(ほど)に運のきかぬ時なれば、如何に思ふ共不可叶。只元(もと)の方へ漕返(こぎかへす)べき歟(か)。」と申(まうし)けるを、大将金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)、「運(うん)を計(はか)り勝つ事を求(もとむ)る時こそ、身を全(まつたう)して功をなさんとは思へ。只一人憑(たのみ)たる大将軍脇屋(わきや)義助は病(やまひ)に被侵失給(うせたまひ)ぬる上は、今は可為方なき微運(びうん)の我等(われら)が、生(いき)てあらば何許(いかばかり)の事か可有。命(いのち)を限(かぎり)の戦(たたかひ)して、弓矢の義を専にする許(ばかり)なるべし。されば運の通塞(つうそく)も軍(いくさ)の吉凶も非可謂処。いざや今夜備後の鞆(とも)へ推寄(おしよせ)て、其(その)城(じやう)を追落(おひおと)して、中国の勢著(つ)かば西国を責随(せめしたが)へん。」とて、其(その)夜の夜半許(やはんばかり)に、備後の鞆へ押寄する。城中(じやうちゆう)時節(をりふし)無勢(ぶせい)也(なり)ければ、三十(さんじふ)余人(よにん)有(あり)ける者共(ものども)、且(しばら)く戦(たたかひ)て皆討死しければ、宮方(みやがた)の士卒(じそつ)是(これ)に機(き)を挙(あげ)て、大可島(おほかしま)を攻城(つめのじやう)に拵(こしら)へ、鞆の浦に充満して、武島(むしま)や小豆島(せうどしま)の御方(みかた)を待(まつ)処に、備後・備中・安芸・周防四箇国(しかこく)の将軍の勢、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。宮方(みやがた)は大可島(おほかしま)を後(うし)ろに当(あて)て、東西の宿(しゆく)へ舟を漕寄(こぎよせ)て、打(うつ)てはあがり/\、荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦(たたかひ)たり。将軍方(しやうぐんがた)は小松寺(こまつでら)を陣に取(とり)て、浜面(はまおもて)へ騎馬の兵(つはもの)を出し、懸合合(かけあひあひ)揉合(もみあはせ)たり。互に戦屈(たたかひくつ)して、十(じふ)余日(よにち)を経ける処に、伊予の土肥(とひ)が城被責落。細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春は、大館左馬(さまの)助(すけ)氏明の被篭たる世田(せた)の城へ懸(かか)ると聞(きこ)へければ、土居・得能以下(いげ)の者共(ものども)、同(おなじ)く死なば、我(わが)国(くに)にてこそ尸(かばね)を曝(さら)さめとて、大可島(おほかしま)を打棄(うちすて)て、伊予(いよの)国(くに)に引返(ひつかへ)す。敗軍の士卒(じそつ)相集(あひあつまつ)て、二千(にせん)余騎(よき)有(あり)ける其(その)中より、日来(ひごろ)手柄(てがら)露(あら)はし名を被知たる兵を、三百(さんびやく)余騎(よき)勝(すぐ)り出(いだ)して、懸合(かけあひ)の合戦に勝負を決せんと云(いふ)。是(これ)は細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)目に余る程の大勢也(なり)と聞(きき)、「中々何ともなき取集勢(とりあつめぜい)を対揚(たいやう)して合戦をせば、臆病武者(むしや)に引立(ひきたて)られて、御方(みかた)の負(まけ)をする事有(ある)べし。只一騎当千の兵を勝(すぐつ)て敵の大勢を懸破(かけやぶ)り、大将細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)と引組(ひつくん)で差違(さしちが)へんとの謀也(なり)。さらば敵の国中(こくぢゆう)へ入(いら)ぬ先(さき)に打立(うつたて)。」とて、金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)経氏を大将として、勝(すぐつ)たる兵三百騎(さんびやくき)、皆一様(いちやう)に曼荼羅(まんだら)を書(かき)て母衣(ほろ)に懸(かけ)て、兎(と)ても生(いき)ては帰(かへる)まじき軍(いくさ)なればとて、十死一生(じつしいつしやう)の日を吉日(きちにち)に取(とつ)て、大勢の敵に向ひける心の中(うち)、樊■(はんくわい)も周勃(しうぼつ)も未得(いまだえざる)振舞(ふるまひ)也(なり)。あはれ只勇士(ゆうし)の義を存する志程、やさしくも哀(あはれ)なる事はあらじとて、是(これ)を聞(きき)ける者は、皆胄(よろひ)の袖をぞぬらしける。去(さる)程(ほど)に細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、敵已(すで)に打出(うちいづ)るなれば、心よく懸合(かけあひ)の合戦を可致とて、千町(せんちやう)が原へ打出(うちいで)て、敵の陣を見渡せば、渺々(べうべう)たる野原に、中黒の旗一流(ひとながれ)幽(かすか)に風に飛揚して、僅(わづか)に勢の程三百騎(さんびやくき)許(ばかり)ぞ磬(ひか)へたる。細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)是(これ)を見給(たまひ)て、「当国の敵是(これ)程の小勢なるべしとは思はぬに、余(あまり)に無(ぶ)勢に見(みえ)ければ、一定(いちぢやう)究竟(くつきやう)の者共(ものども)を勝(すぐつ)て、大勢の中を懸破(かけやぶり)、頼春に近づかば、組(くん)で勝負を決せん為にてぞあるらん。然者(しからば)思切(おもひきつ)たる小勢を一息(ひといき)に討(うた)んとせば、手に余(あまつ)て討(うた)れぬ事有(ある)べし。只敵破(やぶ)らんとせば被破(やぶられ)て然(しか)も迹(あと)を塞(ふさ)げ、轡(くつばみ)を双(ならべ)て懸(かか)らば、偽(いつはつ)て引退(ひきしりぞい)て敵の馬の足を疲(つか)らかせ、打物(うちもの)に成(なつ)て一騎合(あひ)に懸(かか)らば、あひの鞭(むち)を打(うつ)て推(おし)もぢりに射て落せ。敵疲(つかれ)ぬと見ば、荒手(あらて)を替(かへ)て取篭(とりこめ)よ。余(あまり)に近付(ちかづい)て敵に組(くま)るな。引(ひく)とも御方(みかた)を見放(みはなす)な。敵の小勢に御方(みかた)を合(あは)すれば、一騎に十騎を対(たい)しつべし。飽(あく)まで敵を悩(なや)まして、弊(つひえ)に乗(のつ)て一揉(ひともみ)々(もみ)たらんに、などか是等(これら)を可不討。」と、委細に手段(てだて)を成敗(せいはい)して、旗の真前(まつさき)に露(あらは)れて、閑々(しづしづ)とぞ進まれたる。金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)是(これ)を見て、「すはや敵は懸(かか)ると見へたるは。」とて、些(ちつと)も見繕(みつくろ)ふ処もなく、相懸(あひかか)りにむずと攻(せめ)て、矢一(ひとつ)射違(いちがふ)る程こそ有(あり)けれ、皆弓矢をば■(はづ)し棄(すて)、打物(うちもの)に成(なつ)て、喚叫(をめきさけん)で真闇(まつくろ)にぞ懸(かけ)たりける。細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)馬廻(むままはり)に、藤(とう)の一族(いちぞく)五百(ごひやく)余騎(よき)にて磬(ひか)へたるが、兼(かね)ての謀(はかりこと)也(なり)ければ、左右へ颯(さつ)と分れて引(ひか)へたり。此(この)中に大将有(あり)と思(おもひ)も不寄、三百騎(さんびやくき)の者共(ものども)是(これ)をば目にも懸(かけ)ず、裏へつと懸抜(かけぬけ)、二陣の敵に打(うつ)て懸る。此(この)陣には三木(みき)・坂西(ばんせい)・坂東(ばんとう)の兵共(つはものども)相集(あひあつまつ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)甲(かぶと)の錣(しころ)を傾(かたぶけ)て、馬を立納(たてをさ)め、閑(しづ)まり却(かへつ)て磬(ひか)へたりけるが、勇猛強力(かうりき)の兵共(つはものども)に懸散(かけちら)されて、南なる山の峯へ颯(さつ)と引(ひい)て上(あが)りけるが、是(これ)もはか/゛\しき敵は無(なか)りけりとて、三陣の敵に打(うつ)て懸る。是(これ)には詫間(たくま)・香西(かうさい)・橘家(きつけ)・小笠原の一族共(いちぞくども)、二千(にせん)余騎(よき)にて引(ひか)へたり。是(これ)にぞ大将は御座(おはす)らんと見澄(みすま)して、中を颯(さつ)と懸破(かけやぶつ)て、取(とつ)て返(かへ)し、引組(ひつくん)では差違(さしちがへ)、落重(おちかさなつ)ては頚を取らる。一足(ひとあし)も不引戦(たたかひ)けるに、宮方(みやがた)の兵三百(さんびやく)余騎(よき)忽(たちまち)に蹄(ひづめ)の下に討死して、僅(わづか)十七騎にぞ成(なり)たりける。其(その)十七騎と申(まうす)は、先(まづ)大将金谷経氏(かなやつねうぢ)・河野(かうの)備前(びぜんの)守(かみ)通郷(みちさと)・得能弾正(とくのうだんじやう)・日吉大蔵(ひよしおほくら)左衛門・杉原与一・富田(とんだ)六郎(ろくらう)・高市(たかいち)与三左衛門・土居備中(びつちゆうの)守(かみ)・浅海(あさみ)六郎(ろくらう)等(ら)也(なり)。彼等は一騎当千の兵(つはもの)なれば、自(みづから)敵に当(あた)る事十(じふ)余箇度(よかど)、陣を破る事六箇度(ろくかど)也(なり)といへ共(ども)、未(いまだ)痛手をも負(おは)ず又疲れける体(てい)も無(なか)りけり。一所に馬を打寄(うちよせ)て、馬も物具(もののぐ)も見知(しら)ねば、大将何共(いづれとも)知(しり)がたし。差(さ)せる事もなき国勢共(こくぜいども)に逢(あう)て、討死せんよりは、いざや打破(やぶつ)て落(おち)んとて、十七騎の人々は、又馬の鼻を引返(ひつかへ)し、七千(しちせん)余騎(よき)が真中(まんなか)を懸破(かけやぶつ)て、備後を差(さし)て引(ひい)て行(ゆく)。いかめしかりし振舞(ふるまひ)也(なり)。
○大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)討死(うちじにの)事(こと)付(つけたり)篠塚(しのづか)勇力(ゆうりよくの)事(こと) S2206
斯(かか)りしかば、大将細川頼春は、今戦ひ事散(さん)じて、御方(みかた)の手負(ておひ)死人を注(しる)さるゝに、七百人(しちひやくにん)に余(あま)れりといへ共(ども)、宗徒(むねと)の敵二百(にひやく)余人(よにん)討(うた)れにければ、人皆気を挙(あ)げ勇(いさみ)をなせり。「さらば軈(やが)て大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)が篭(こもつ)たる世田(せた)の城へ寄(よせ)よ。」とて、八月二十四日早旦(さうたん)に、世田(せた)の後(うし)ろなる山へ打上(うちあがり)て、城を遥(はるか)に直下(みおろし)、一万(いちまん)余騎(よき)を七手に分(わけ)て、城の四辺(しへん)に打寄(うちよ)り、先(まづ)己(おのれ)が陣々をぞ構へたる。対陣(むかひぢん)已(すで)に取巻(とりまか)せければ、四方(しはう)より攻寄(せめよ)せて、持楯(もつだて)をかづき寄(よ)せ、乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて、夜昼(よるひる)三十日迄ぞ責(せめ)たりける。城の内には宗徒(むねと)の軍(いくさ)をもしつべき兵(つはもの)と憑(たのま)れし岡部(をかべ)出羽(ではの)守(かみ)が一族(いちぞく)四十(しじふ)余人(よにん)、皆日比の与(くみ)にて自害しぬ。其外(そのほか)の勇士共(ゆうしども)は、千町が原の戦(たたかひ)に討死しぬ。力尽(つき)食(じき)乏(とぼしう)して可防様(やう)も無(なか)りければ、九月三日の暁、大館左馬(さまの)助(すけ)主従十七騎、一の木戸口(きどぐち)へ打出(うちいで)て、屏(へい)に著(つき)たる敵五百(ごひやく)余人(よにん)を、遥(はるか)なる麓へ追下(おひおろ)し、一度(いちど)に腹を切(きつ)て、枕を双(ならべ)てぞ臥(ふし)たりける。防矢(ふせぎや)射ける兵共(つはものども)是(これ)を見て、今は何をか可期とて、或(あるひ)は敵に引組(ひつくん)で差違(さしちがふ)るもあり、或(あるひ)は己(おのれ)が役所に火を懸(かけ)て、猛火(みやうくわ)の底に死するもあり。目も当(あて)られぬ有様也(なり)。加様(かやう)に人々自害しける其(その)中に、篠塚伊賀(いがの)守(かみ)一人は、大手の一二の木戸(きど)無残押開(おしひらき)て、只一人ぞ立(たち)たりける。降人(かうにん)に出(いづ)る歟(か)と見ればさは無(なく)て、紺糸(こんいと)の胄(よろひ)に、鍬形(くはがた)打(うつ)たる甲(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、四尺(ししやく)三寸(さんずん)有(あり)ける太刀に、八尺(はつしやく)余(あま)りの金撮棒(かなさいぼう)脇に挿(さしはさみ)て、大音(だいおん)揚(あげ)て申(まうし)けるは、「外(よそ)にては定(さだめ)て名をも聞(きき)つらん。今近付(ちかづい)て我をしれ。畠山庄司(しやうじ)次郎重忠(しげただ)に六代の孫(そん)、武蔵(むさしの)国(くに)に生長(そだつ)て、新田殿(につたどの)に一人当千と憑(たのま)れたりし篠塚伊賀(いがの)守(かみ)爰(ここ)にあり。討(うつ)て勲功に預(あづか)れ。」と呼(よばはり)て、百騎(ひやくき)許(ばかり)磬(ひか)へたる敵の中へ、些(ちつと)も擬議(ぎぎ)せず走(わし)り懸る。其(その)勢(いきほひ)事柄(ことがら)勇鋭たるのみならず、兼(かね)て聞(きこえ)し大力(だいりき)なれば、誰かは是(これ)を可遮止。百(ひやく)余騎(よき)の勢東西へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞい)て、中を開(ひらい)てぞ通しける。篠塚馬にも不乗弓矢を持(もた)ず、而(しか)も只一人なれば、「何程の事か可有。只近付(ちかづく)事無(なく)て遠矢に射殺せ。返合(かへしあは)せば懸悩(かけなやま)して討(うて)。」とて、藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者ども、二百(にひやく)余騎(よき)迹(あと)に付(つい)て追懸(おつかく)る。篠塚些(ちつと)も不騒、小歌(こうた)にて閑々(しづしづ)と落行(おちゆき)けるを、敵、「あますな。」とて追懸(おつかく)れば立止(たちどまつ)て、「嗚呼(ああ)御辺達(ごへんたち)、痛く近付(ちかづい)て頚に中違(なかちがひ)すな。」とあざ笑(わらう)て、件(くだん)の金棒(かなぼう)を打(うち)振れば、蜘(くも)の子を散(ちら)すが如く颯(さつ)とは逃げ、又村立(むらだつ)て迹(あと)に集(あつま)り、鏃(やじり)を汰(そろ)へて射れば、「某が胄(よろひ)には旁(かたがた)のへろ/\矢はよも立(たち)候はじ。すは此(ここ)を射よ。」とて、後(うし)ろを差向(さしむけ)てぞ休みける。されども名誉の者なれば、一人なり共(とも)若(もし)や打止(うちとむ)ると、追懸(おつかけ)たる敵二百(にひやく)余騎(よき)に、六里の道を被送て、其(その)夜の夜半許(やはんばかり)に、今張(いまばりの)浦(うら)にぞ著(つき)たりける。自此舟に乗(のり)て、陰の島へ落(おち)ばやと志し、「舟やある。」と見るに、敵の乗棄(のりすて)て水主許(かこばかり)残れる舟数多(あまた)あり。是(これ)こそ我(わが)物よと悦(よろこん)で、胄(よろひ)著(き)ながら浪の上五町(ごちやう)許(ばかり)を游(およ)ぎて、ある舟に岸破(がは)と飛乗(とびの)る。水主(かこ)・梶取(かんどり)驚(おどろい)て、「是(これ)は抑(そもそも)何者ぞ。」と咎めければ、「さな云ひそ。是(これ)は宮方(みやがた)の落人(おちうと)篠塚と云(いふ)者ぞ。急(いそぎ)此(この)舟を出(いだ)して、我(われ)を陰の島へ送(おくれ)。」と云(いひ)て、二十(にじふ)余人(よにん)してくり立(たて)ける碇(いかり)を安々(やすやす)と引挙(ひきあ)げ、四十五尋(しじふごひろ)ありける檣(ほばしら)を軽々(かるがる)と推立(おしたて)て、屋形の内に高枕して、鼾(いびき)かきてぞ臥(ふし)たりける。水主(かこ)・梶取(かんどり)共(ども)是(これ)を見て、「穴(あな)夥(おびたたし)、凡夫(ぼんぶ)の態(わざ)にはあらじ。」と恐怖して、則(すなはち)順風に帆を懸(かけ)て、陰の島へ送(おくり)て後、暇(いとま)を請(こう)てぞ帰(かへり)にける。昔も今も勇士(ゆうし)多しといへ共(ども)、懸(かか)る事をば不聞とて、篠塚を誉(ほめ)ぬ者こそ無(なか)りけれ。