太平記(国民文庫)
太平記巻第二十一
○天下(てんが)時勢粧(じせいさうの)事(こと) S2101
暦応(りやくおう)元年の末に、四夷八蛮(しいはちばん)悉(ことごと)く王化を助(たすけ)て大軍同時に起(おこ)りしかば、今はゝや聖運(せいうん)啓(ひらけ)ぬと見へけるに、北畠顕家(あきいへの)卿(きやう)、新田(につた)義貞(よしさだ)、共に流矢の為に命(いのち)を墜(おと)し、剰(あまつさへ)奥州(あうしう)下向の諸卒、渡海(とかい)の難風に放されて行方知(ゆきがたしら)ずと聞へしかば、世間(よのなか)さてとや思(おもひ)けん。結城上野入道が子息大蔵(おほくらの)少輔(せう)も、父が遺言(ゆゐごん)を背(そむい)て降人(かうにん)に出(いで)ぬ。芳賀(はが)兵衛(ひやうゑの)入道禅可(ぜんか)も、主(しう)の宇都宮(うつのみや)入道が子息加賀寿丸(かがじゆまる)を取篭(とりこめ)て将軍方(しやうぐんがた)に属(しよく)し、主従の礼儀を乱(みだ)り己(おのれ)が威勢を恣(ほしいまま)にす。此(この)時新田(につたの)氏族(しぞく)尚(なほ)残(のこつ)て城々に楯篭(たてこも)り、竹園(ちくゑん)の連枝(れんし)時を待(まつ)て国々に御座(ござ)有(あり)といへ共(ども)、猛虎(まうこ)の檻(かん)に篭り、窮鳥の翅(つばさ)を削(そが)れたるが如(ごとく)に成(なり)ぬれば、戻眼空(むなし)く百歩(はくほ)の威(ゐ)を闔(おほひ)、悲心遠く九霄の雲を望(のぞん)で、只時々の変有(あら)ん事を待計(まつばかり)也(なり)。天下(てんが)の危(あやふ)かりし時だにも、世の譏(そしり)をも不知侈(おごり)を究め欲を恣(ほしいまま)にせし大家(たいか)の氏族、高・上杉の党類(たうるゐ)なれば、能(のう)なく芸(げい)無くして乱階(らんかい)不次の賞に関(あづか)り、例に非(あら)ず法に非(あらず)して警衛判断の識(しよく)を司(つかさど)る。初(はじめ)の程こそ朝敵(てうてき)の名を憚(はばか)りて毎事(まいじ)天慮を仰ぎ申体(まうすてい)にて有(あり)しが、今は天下(てんが)只武徳に帰(き)して、公家(くげ)有(あつ)て何の用にか立(たつ)べきとて、月卿(げつけい)雲客(うんかく)・諸司格勤(しよしかくご)の所領は云(いふ)に及(およば)ず、竹園椒房(せうばう)・禁裡仙洞(きんりせんとう)の御領までも武家の人押領(あふりやう)しける間、曲水重陽(きよくすゐちようやう)の宴も絶(たえ)はて、白馬蹈歌(あをむまたふか)の節会(せちゑ)も行(おこなは)れず、如形儀計(ぎばかり)也(なり)。禁闕(きんけつ)仙洞さびかへり、参仕拝趨(さんしはいすう)の人も無(なか)りけり。況(いはん)や朝廷の政(まつりごと)、武家の計(はからひ)に任(まかせ)て有(あり)しかば、三家(さんけ)の台輔(たいふ)も奉行頭人(ぶぎやうとうにん)の前に媚(こび)を成し、五門の曲阜(きよくふ)も執事(しつじ)侍所の辺(へん)に賄(まひな)ふ。されば納言(だうげん)宰相(さいしやう)なんど路次(ろし)に行合(ゆきあひ)たるを見ても、声を学(まな)び指を差(さし)て軽慢(きやうまん)しける間、公家の人々、いつしか云(いひ)も習はぬ坂東声(ばんどうごゑ)をつかい、著(き)もなれぬ折烏帽子に額を顕(あらは)して、武家の人に紛(まぎれ)んとしけれ共(ども)、立振舞(たちふるま)へる体(てい)さすがになまめいて、額付(ひたひつき)の跡以外(もつてのほか)にさがりたれば、公家にも不付、武家にも不似、只都鄙(とひ)に歩(あゆみ)を失(うしなひ)し人の如し。
○佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道流刑(るけいの)事(こと) S2102
此比(このころ)殊に時を得て、栄耀(えいえう)人の目を驚(おどろか)しける佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)が一族(いちぞく)若党共(わかたうども)、例のばさらに風流を尽(つく)して、西郊(にしのをか)東山の小鷹狩(こたかがり)して帰りけるが、妙法院(めうほふゐん)の御前(おんまへ)を打過(うちすぐ)るとて、跡にさがりたる下部共(しもべども)に、南底(なんてい)の紅葉(もみぢ)の枝をぞ折(をら)せける。時節(をりふし)門主御簾(みす)の内よりも、暮(くれ)なんとする秋の気色(けしき)を御覧ぜられて、「霜葉(さうえふは)紅於二月花なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給(たまひ)けるが、色殊なる紅葉(もみぢ)の下枝を、不得心(ふとくしん)なる下部共(しもべども)が引折りけるを御覧ぜられて、「人やある、あれ制せよ。」と仰られける間、坊官(ばうくわん)一人庭に立出(いで)て、「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折(をる)ぞ。」と制しけれ共(ども)、敢て不承引。「結句(けつく)御所とは何(なん)ぞ。かたはらいたの言(こと)や。」なんど嘲哢(てうろう)して、弥(いよいよ)尚(なほ)大なる枝をぞ引折りける。折節(をりふし)御門徒の山法師(やまほふし)、あまた宿直(とのゐ)して候(さふらひ)けるが、「悪(にく)ひ奴原(やつばら)が狼籍(らうぜき)哉(かな)。」とて、持(もつ)たる紅葉の枝を奪取(うばひとり)、散々(さんざん)に打擲(ちやうちやく)して門より外(そと)へ追出(おひいだ)す。道誉聞之、「何(いか)なる門主にてもをわせよ、此比(このころ)道誉が内の者に向(むかつ)て、左様の事翔(ふるまは)ん者は覚(おぼえ)ぬ物を。」と忿(いかつ)て、自ら三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、妙法院(めうほふゐん)の御所へ押寄(おしよせ)て、則(すなはち)火をぞ懸(かけ)たりける。折節(をりふし)風烈(はげし)く吹(ふき)て、余煙十方に覆(おほひ)ければ、建仁寺の輪蔵(りんざう)・開山堂(かいさんだう)・並(ならびに)塔頭(たつちゆう)・瑞光菴(ずゐくわうあん)同時に皆焼上(やけあが)る。門主は御行法(きやうぼふ)の最中(さいちゆう)にて、持仏堂に御座(ござ)有(あり)けるが、御心(おんこころ)早く後(うしろ)の小門より徒跣(かちはだし)にて光堂(ひかりだう)の中へ逃入せ給ふ。御弟子(おんでし)の若宮は、常の御所に御座(ござ)有(あり)けるが、板敷の下へ逃入(にげいら)せ給ひけるを、道誉が子息源三(げんさん)判官走懸(わしりかかつ)て打擲(ちやうちやく)し奉る。其外(そのほか)出世(しゆつせ)・坊官(ばうくわん)・児(ちご)・侍(さぶらひ)法師共、方々へ逃(にげ)散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火(ひやうくわ)四方(しはう)に吹覆(ふきおほふ)。在京の武士共(ぶしども)、「こは何事ぞ。」と遽騒(あわてさわい)で、上下に馳(は)せ違(ちが)ふ。事の由を聞定(ききさだめ)て後(のち)に馳(はせ)帰りける人毎(ひとごと)に、「あなあさましや、前代未聞(ぜんだいみもん)の悪行哉(かな)。山門の嗷訴(がうそ)今に有(あり)なん。」と、云(いは)ぬ人こそ無(なか)りけれ。山門の衆徒此(この)事を聞て、「古より今に至(いたる)まで、喧嘩不慮(ふりよ)に出来(いでく)る事多(おほし)といへ共、未(いまだ)門主・貫頂(くわんちやう)の御所を焼払(やきはら)ひ、出世・坊官を面縛(めんばく)する程の事を聞(きか)ず。早(はやく)道誉・秀綱(ひでつな)を給(たまはり)て、死罪に可行。」由を公家へ奏聞(そうもん)し、武家に触れ訴ふ。此(この)門主と申(まうす)も、正(まさし)き仙院の連枝(れんし)にて御座(ござ)あれば、道誉が翔(ふるまひ)無念の事に憤(いきどほ)り思召(おぼしめし)て、あわれ断罪流刑(だんざいるけい)にも行(おこなは)せばやと思召(おぼしめし)けれ共(ども)、公家の御計(おんはからひ)としては難叶時節(をりふし)なれば、無力武家へ被仰処に、将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、飽(あく)まで道誉を被贔負ける間、山門は理訴(りそ)も疲(つかれ)て、款状(くわじやう)徒(いたづら)に積り、道誉は法禁を軽(かろん)じて奢侈(しやい)弥(いよいよ)恣(ほしいまま)にす。依之(これによつて)嗷儀(がうぎ)の若輩(じやくはい)、大宮(おほみや)・八王子の神輿(しんよ)を中堂へ上奉(あげたてまつ)て、鳳闕(ほうけつ)へ入れ奉(たてまつら)んと僉儀(せんぎ)す。則(すなはち)諸院・諸堂の講莚(かうえん)を打停(うちとど)め、御願を停廃(ちやうはい)し、末寺・末社の門戸(もんこ)を閇(とぢ)て祭礼を打止(うちとどむ)。山門の安否(あんぷ)、天下(てんが)の大事(だいじ)、此(この)時にありとぞ見へたりける。武家もさすが山門の嗷訴(がうそ)難黙止覚(おぼ)へければ、「道誉が事、死罪一等を減じて遠流(をんる)に可被処歟(か)。」と奏聞しければ、則(すなはち)院宣(ゐんぜん)を成(なさ)れ山門を宥(なだめ)らる。前々ならば衆徒の嗷訴は是(これ)には総(すべ)て休(やすま)るまじかりしか共(ども)、「時節(をりふし)にこそよれ、五刑の其一(そのひとつ)を以て山門に理(り)を付(つけ)らるゝ上は、神訴(しんそ)眉目(びぼく)を開くるに似たり。」と、宿老是(これ)を宥(なだめ)て、四月十二日に三社の神輿(しんよ)を御帰座(きざ)成し奉(たてまつ)て、同二十五日道誉・秀綱(ひでつな)が配所(はいしよ)の事定(さだまり)て、上総(かづさの)国(くに)山辺郡(やまのべこほり)へ流さる。道誉近江の国分寺迄、若党(わかたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、打送(うちおくり)の為にとて前後に相順ふ。其輩(そのともがら)悉(ことごとく)猿(さるの)皮(かは)をうつぼにかけ、猿(さるの)皮(かは)の腰当(こしあて)をして、手毎(てごと)に鴬篭(うぐひすこ)を持(もた)せ、道々に酒肴(さかな)を設(まうけ)て宿々に傾城(けいせい)を弄(もてあそ)ぶ。事の体(てい)尋常(よのつね)の流人(るにん)には替(かは)り、美々敷(びびしく)ぞ見へたりける。是(これ)も只公家(くげ)の成敗(せいばい)を軽忽(きやうこつ)し、山門の鬱陶(うつたう)を嘲弄(てうろう)したる翔(ふるまひ)也(なり)。聞(きか)ずや古より山門の訴訟を負(おひ)たる人は、十年(じふねん)を過(すぎ)ざるに皆其(その)身を滅(ほろぼ)すといひ習(ならは)せり。治承には新大納言成親(なりちかの)卿(きやう)、西光・西景(さいけい)、康和には後二条(ごにでうの)関白、其外(そのほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)は不可勝計。されば是(これ)もいかゞ有(あら)んずらんと、智ある人は眼(め)を付(つけ)て怪(あやし)み見けるが、果して文和三年の六月十三日(じふさんにち)に、持明院新帝、山名左京(さきやうの)大夫(だいぶ)時氏に被襲、江州へ臨幸成(なり)ける時、道誉が嫡子(ちやくし)源三(げんさん)判官秀綱(ひでつな)堅田にて山法師(やまほふし)に討(うた)る。其弟(そのおとと)四郎左衛門(しらうざゑもん)は、大和(やまとの)内郡(うちのこほり)にて野伏共(のぶしども)に殺(ころさ)れぬ。嫡孫(ちやくそん)近江(あふみの)判官(はうぐわん)秀詮(ひであきら)・舎弟次郎左衛門(じらうざゑもん)二人(ににん)は、摂津国(つのくに)神崎(かんざき)の合戦の時、南方の敵に誅(ちゆう)せられにけり。弓馬の家なれば本意とは申(まうし)ながら、是等(これら)は皆医王山王の冥見(みやうけん)に懸(かけ)られし故(ゆゑ)にてぞあるらんと、見聞(けんもん)の人舌を弾(ふるは)して、懼(おそ)れ思はぬ者は無(なか)りけり。
○法勝寺塔(ほつしようじのたふ)炎上(えんしやうの)事(こと) S2103
康永元年三月二十日に、岡崎の在家(ざいけ)より俄(にはかに)失火出来(いできたつ)て軈(やが)て焼(やけ)静まりけるが、纔(わづか)なる細■(ほそくづ)一つ遥(はるか)に十(じふ)余町(よちやう)を飛去(とびさつ)て、法勝寺の塔の五重(ごぢゆう)の上に落留(おちとま)る。暫(しばし)が程は燈篭の火の如(ごとく)にて、消(きえ)もせず燃(もへ)もせで見へけるが、寺中の僧達(そうたち)身を揉(もう)で周章迷(あわてまよひ)けれ共(ども)、上(のぼる)べき階(はし)もなく打消(うちけす)べき便(たより)も無(なけ)れば、只徒(いたづら)に虚(そら)をのみ見上(あげ)て手撥(ひろげ)てぞ立(たた)れたりける。さる程(ほど)に此細■(このほそくづ)乾(かわき)たる桧皮(ひはだ)に焼付(やけつき)て、黒煙(けぶり)天を焦(こがし)て焼(や)け上(あが)る。猛火(みやうくわ)雲を巻(まい)て翻る色は非想天の上までも上(のぼ)り、九輪(くりん)の地に響(ひびい)て落(おつる)声は、金輪際(こんりんざい)の底迄も聞へやすらんとをびたゝし。魔風(まふう)頻(しきり)に吹(ふい)て余煙四方(しはう)に覆(おほひ)ければ、金堂(こんだう)・講堂・阿弥陀堂・鐘楼(しゆろう)・経蔵・総社宮(そうしやのみや)・八足(やつあし)の南大門(なんだいもん)・八十六間の廻廊(くわいらう)、一時の程(ほど)に焼失して、灰燼(くわいじん)忽(たちまち)地に満(みて)り。焼(やけ)ける最中外(よそ)より見れば、煙の上に或(あるひ)は鬼形(きぎやう)なる者火を諸堂に吹(ふき)かけ、或(あるひ)は天狗(てんぐ)の形なる者松明(たいまつ)を振上(ふりあげ)て、塔の重々(ぢゆうぢゆう)に火を付(つけ)けるが、金堂(こんだう)の棟木(むなぎ)の落(おつ)るを見て、一同に手を打(うつ)てどつと笑(わらう)て愛宕(あたご)・大岳(おほだけ)・金峯山(きんふせん)を指(さし)て去(さる)と見へて、暫(しばし)あれば花頂山(くわちやうざん)の五重(ごぢゆう)の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼(やけ)ける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。院は二条河原(にでうがはら)まで御幸成(ごかうなつ)て、法滅(ほふめつ)の煙に御胸を焦(こが)され、将軍は西門の前に馬を控(ひかへ)られて、回禄(くわいろく)の災(さい)に世を危(あやぶ)めり。抑(そもそも)此(この)寺と申(まうす)は、四海(しかい)の泰平を祈(いのつ)て、殊(ことに)百王の安全を得せしめん為に、白河(しらかはの)院(ゐん)御建立(ごこんりふ)有(あり)し霊地(れいち)也(なり)。されば堂舎の構(かまへ)善(ぜん)尽(つく)し美(び)尽(つく)せり。本尊の錺(かざり)は、金を鏤(ちりば)め玉を琢(みが)く。中にも八角九重(はちかくくぢゆう)の塔婆(たふば)は、横竪(よこたて)共(とも)に八十四丈にして、重々(ぢゆうぢゆう)に金剛九会(こんがうきうゑ)の曼陀羅(まんだら)を安置(あんぢ)せらる。其奇麗崔嵬(そのきれいさいぐわい)なることは三国無双(ぶさう)の鴈塔(がんたふ)也(なり)。此(この)塔婆始(はじめ)て造出(つくりいだ)されし時、天竺(てんぢく)の無熱池(むねつち)・震旦(しんだん)の昆明池(こんめいち)・我朝(わがてう)の難波(なんばの)浦(うら)に、其(その)影明(あきらか)に写(うつり)て見へける事こそ奇特(きどく)なれ。かゝる霊徳不思議(ふしぎ)の御願所(ごぐわんしよ)、片時(へんし)に焼滅する事、偏(ひとへ)に此(この)寺計(ばかり)の荒廃には有(ある)べからず。只今より後弥(いよいよ)天下(てんが)不静して、仏法も王法も有(あつ)て無(なき)が如(ごとく)にならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、兼(かね)て呈(あらは)す物也(なり)と、歎(なげか)ぬ人は無(なか)りけり。
○先帝崩御(ほうぎよの)事(こと) S2104
南朝の年号延元三年八月九日(ここのか)より、吉野の主上(しゆしやう)御不予(ごふよ)の御事(おんこと)有(あり)けるが、次第に重(おも)らせ給(たまふ)。医王善逝(ぜんぜい)の誓約も、祈(いのる)に其験(そのしるし)なく、耆婆扁鵲(ぎばへんじやく)が霊薬も、施すに其験(そのしるし)をはしまさず。玉体日々に消(きえ)て、晏駕(あんか)の期(ご)遠からじと見へ給(たまひ)ければ、大塔(おほたふの)忠雲(ちゆううん)僧正(そうじやう)、御枕(おんまくら)に近付奉(ちかづきたてまつ)て、泪(なみだ)を押(おさへ)て申されけるは、「神路山(かみぢやま)の花(はな)二たび開(ひらく)る春を待(まち)、石清水(いはしみず)の流れ遂(つひ)に澄(すむ)べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進(すてまゐら)せらるゝ事はよも候はじとこそ存候(ぞんじさふらひ)つるに、御脈(おんみやく)已(すで)に替(かはら)せ給(たまひ)て候由(よし)、典薬頭(てんやくのかみ)驚申(おどろきまうし)候へば、今は偏(ひとへ)に十善の天位を捨(すて)て、三明(さんみやう)の覚路(がくろ)に趣(おもむか)せ給ふべき御事(おんこと)をのみ、思召(おぼしめし)被定候べし。さても最期(さいご)の一念に依(よつ)て三界に生(しやう)を引(ひく)と、経文(きやうもん)に説(とか)れて候へば、万歳(ばんぜい)の後の御事(おんこと)、万(よろ)づ叡慮に懸(かか)り候はん事をば、悉(ことごと)く仰置(おほせおか)れ候(さふらひ)て、後生善所(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)をのみ、叡心に懸(かけ)られ候べし。」と申されたりければ、主上(しゆしやう)苦(くるし)げなる御息を吐(はか)せ給(たまひ)て、「妻子珍宝及王位(さいしちんはうきふわうゐ)、臨命終時不随者(りんみやうじゆうじふずゐしや)、是(これ)如来(によらい)の金言にして、平生(へいぜい)朕(ちん)が心に有(あり)し事なれば、秦(しんの)穆公(ぼくこう)が三良(さんりやう)を埋(うづ)み、始皇帝(しくわうてい)の宝玉を随へし事、一(ひとつ)も朕が心に取(とら)ず。只生々世々(しやうじやうせぜ)の妄念(まうねん)ともなるべきは、朝敵(てうてき)を悉(ことごとく)亡(ほろぼ)して、四海(しかい)を令泰平と思計(おもふばかり)也(なり)。朕則(すなはち)早世の後(のち)は、第七(だいしち)の宮(みや)を天子の位に即奉(つけたてまつ)て、賢士(けんし)忠臣事を謀(はか)り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行(おこなひ)なくば、股肱(ここう)の臣として天下(てんが)を鎮(しづむ)べし。思之故(ゆゑ)に、玉骨(ぎよくこつ)は縦(たとひ)南山の苔に埋(うづも)るとも、魂魄(こんばく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望(のぞま)んと思ふ。若(もし)命(めい)を背(そむき)義を軽(かろん)ぜば、君も継体(けいたい)の君に非(あら)ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細(ゐさい)に綸言を残されて、左の御手(おんて)に法華経(ほけきやう)の五(ごの)巻(まき)を持(もた)せ給(たまひ)、右の御手(おんて)には御剣(ぎよけん)を按(あんじ)て、八月十六日の丑剋(うしのこく)に、遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)成(なり)にけり。悲(かなしい)哉(かな)、北辰(ほくしん)位(くらゐ)高(たかく)して百官星の如(ごとく)に列(つらなる)と雖も、九泉(きうせん)の旅の路には供奉(ぐぶ)仕(つかまつる)臣一人もなし。奈何(いかんが)せん、南山地僻(さがり)にして、万卒(ばんそつ)雲の如(ごとく)に集(あつまる)といへ共、無常の敵の来(きたる)をば禦止(ふせぎとど)むる兵(つはもの)更になし。只中流(ちゆうる)に舟を覆(くつがへし)て一壷(こ)の浪に漂(ただよ)ひ、暗夜(あんや)に燈(ともしび)消(きえ)て、五更(ごかう)の雨に向(むかふ)が如し。葬礼(さうれい)の御事(おんこと)、兼(かね)て遺勅(ゆゐちよく)有(あり)しかば、御終焉(ごじゆうえん)の御形(おんかたち)を改めず、棺槨(くわんくわく)を厚(あつく)し御坐(ござ)を正(ただしう)して、吉野山の麓、蔵王堂(ざわうだう)の艮(うしとら)なる林の奥に、円丘(ゑんきう)を高く築(つい)て、北向(きたむき)に奉葬。寂寞(じやくまく)たる空山(くうざん)の裏(うち)、鳥啼(なき)日(ひ)已(すでに)暮(くれ)ぬ。土墳(どふん)数尺(すしやく)の草(くさ)、一経(いつけい)涙(なんだ)尽(つき)て愁(うれへ)未尽(いまだつきず)。旧臣后妃(こうひ)泣々(なくなく)鼎湖(ていご)の雲を瞻望(せんばう)して、恨(うらみ)を天辺の月に添へ、覇陵(はりよう)の風に夙夜(しゆくや)して、別(わかれ)を夢裡(むり)の花(はな)に慕ふ。哀(あはれ)なりし御事(おんこと)也(なり)。天下(てんが)久(ひさしく)乱(らん)に向ふ事は、末法(まつぼふの)風俗なれば暫く言(いふ)に不足。延喜天暦(えんぎてんりやく)より以来(このかた)、先帝程の聖主(せいしゆ)神武(じんむ)の君は未(いまだ)をはしまさざりしかば、何と無(なく)共(とも)、聖徳一(ひと)たび開(ひらけ)て、拝趨(はいすう)忠功の望(のぞみ)を達せぬ事は非じと、人皆憑(たのみ)をなしけるが、君の崩御(ほうぎよ)なりぬるを見進(まゐらせ)て、今は御裳濯河(みもすそがは)の流(ながれ)の末も絶(たえ)はて、筑波山の陰(かげ)に寄(よる)人も無(なく)て、天下(てんが)皆魔魅(まみ)の掌握に落(おつ)る世に成(なら)んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進(つきまとひまゐ)らせし卿相雲客(けいしやううんかく)、或(あるひ)は東海の波を蹈(ふん)で仲連(ちゆうれん)が跡(あと)を尋(たづね)、或(あるひ)は南山の歌を唱(となへ)て■戚(ねいせき)が行(おこなひ)を学(まなば)んと、思々(おもひおもひ)に身の隠家(かくれが)をぞ求給(もとめたまひ)ける。爰(ここ)に吉野(よしのの)執行(しゆぎやう)吉水(よしみづの)法印宗信(そうしん)、潜(ひそか)に此形勢(このありさま)を伝聞(つたへきき)て、急(いそぎ)参内(さんだい)して申(まうし)けるは、「先帝崩御(ほうぎよ)の刻(きざみ)被遺々勅、第七(だいしち)の宮(みや)を御位に即進(つけまゐら)せ、朝敵(てうてき)追伐(つゐばつ)の御本意を可被遂と、諸卿親(まのあた)り綸言(りんげん)を含(ふくま)せ給(たまひ)し事也(なり)。未(いまだ)日(ひ)を経(へ)ざるに退散隠遁(いんとん)の御企(おんくはたて)有(あり)と承及(うけたまはりおよび)候こそ、心ゑがたく存(ぞんじ)候へ。異国の例(れい)を以(もつて)吾朝(わがてう)の今を計(はかり)候に、文王草昧(さうまい)の主(あるじ)として、武王周(しう)の業(げふ)を起し、高祖(かうそ)崩(ほう)じ給(たまひ)て後(のち)、孝景(かうけい)漢の世を保(たもち)候はずや。今一人(いちじん)万歳(ばんぜい)を早(はやう)し給ふとも、旧労(きうらう)の輩(ともがら)其(その)功を捨(すて)て敵に降(くだら)んと思(おもふ)者は有(ある)べからず。就中(なかんづく)世の危(あやふき)を見て弥(いよいよ)命(めい)を軽(かろん)ぜん官軍(くわんぐん)を数(かぞふ)るに、先(まづ)上野(かうづけの)国(くに)に新田左中将(さちゆうじやう)義貞の次男左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興、武蔵(むさしの)国(くに)に其家嫡(そのかちやく)左少将義宗(よしむね)、越前国(ゑちぜんのくに)に脇屋(わきや)刑部卿義助、同子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治、此外(このほか)江田・大館・里見(さとみ)・鳥山・田中・羽河(はねかは)・山名・桃井(もものゐ)・額田(ぬかだ)・一井(いちのゐ)・金谷(かなや)・堤・青竜寺(しやうりゆうじ)・青襲(あをそひ)・小守沢(こもりさは)の一族(いちぞく)都合(つがふ)四百(しひやく)余人(よにん)、国々に隠謀し所々に楯篭(たてごも)る。造次(ざうじ)にも忠戦を不計と云(いふ)事なし。他家の輩(ともがら)には、筑紫(つくし)に菊池(きくち)・松浦鬼(まつらき)八郎(はちらう)・草野(くさの)・山鹿(やまが)・土肥(とひ)・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床(はねゆか)、淡路に阿間(あま)・志知(しうち)、安芸(あき)に有井、石見には三角(みすみの)入道・合(がふの)四郎、出雲伯耆に長年が一族共(いちぞくども)、備後には桜山、備前に今木(いまき)・大富(おほどみ)・和田・児島、播磨に吉河(よしかは)、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪(みわ)の西阿(せいあ)・真木(まき)の宝珠丸(はうじゆまる)、紀伊(きの)国(くに)に湯浅・山本・井遠(ゐとほの)三郎・賀藤(かとう)太郎、遠江には井介(ゐのすけ)、美濃に根尾(ねをの)入道、尾張(をはり)に熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)、越前には小国(をくに)・池・風間(かざま)・禰津(ねづ)越中(ゑつちゆうの)守(かみ)・大田信濃(しなのの)守(かみ)、山徒(さんと)には南岸(なんがん)の円宗院(ゑんじゆうゐん)、此外(このほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)は数(かぞふる)に不遑。皆義心金石の如(ごとく)にして、一度(いちど)も変ぜぬ者共(ものども)也(なり)。身不肖に候へども、宗信右(かく)て候はん程は、当山に於て又何(なん)の御怖畏(ごふゐ)か候べき。何様先(まづ)御遺勅(ごゆゐちよく)に任(まかせ)て、継体(けいたい)の君を御位(おんくらゐ)に即進(つけまゐら)せ、国々へ綸旨を成下(なしくださ)れ候へかし。」と申(まうし)ければ、諸卿皆げにもと思(おもは)れける処に、又楠帯刀(たてはき)・和田和泉(いづみの)守(かみ)二千(にせん)余騎(よき)にて馳(はせ)参り、皇居(くわうきよ)を守護(しゆご)し奉(たてまつ)て、誠(まこと)に他事なき体(てい)に見へければ、人々皆退散の思(おもひ)を翻(ひるがへし)て、山中は無為(ぶゐ)に成(なり)にけり。
○南帝受禅(じゆぜんの)事(こと) S2105
同十月三日に、太神宮へ奉幣使(ほうへいし)を下され、第七(だいしち)の宮(みや)天子の位に即(つか)せ給ふ。夫(それ)継体君(けいたいのきみ)登極の御時(おんとき)、様々の大礼(たいれい)有(ある)べし。先(まづ)新帝受禅(じゆぜん)の日、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を被伝て、御即位(ごそくゐ)の儀式あり。其(その)明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士(うらべのしゆくねおんやうのはかせ)、軒廊(こんらう)にして国郡を卜定(ぼくぢやう)す。則(すなはち)行事所始(ぎやうじところはじめ)ありて、百司(はくし)千官次第の神事(じんじ)を執行(とりおこなは)る。同年の十月に、東の河原(かはら)に成(なつ)て御禊(おんはらひ)あり。又神泉苑(しんぜんゑん)の北に斎庁所(さいちやうしよ)を作(つくつ)て、旧主一日抜穂(ぬきぼ)を御覧ぜらる。竜尾堂(りようびだう)を立(たて)られ、壇上にして御行水有(おんぎやうずゐあり)て、回立殿(くわいりふでん)を建(たて)、新帝大甞宮(だいじやうきゆう)に行幸(ぎやうがう)あり。其(その)日(ひ)殊に堂上(だうじやう)の伶倫(れいりん)、正始(せいし)の曲(きよく)を調(しらべ)て一たび雅音(がいん)を奏すれば、堂下(だうか)の舞人(まひびと)、をみの衣(ころも)を袒(かたぬい)て、五たび袖を翻(ひるがへ)す。是(これ)を五節(ごせち)の宴酔(えんすゐ)と云(いふ)。其後(そののち)大甞宮に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て御牲(おんにへ)の祭を行(おこなは)る程(ほど)に、悠紀(ゆうき)・主基(しゆき)、風俗の歌を唱(となへ)て帝徳を称じ、童女(いんご)・八乙女(やをとめ)、稲舂(いなつき)の歌を歌(うたう)て神饌(しんせん)を献(たてまつ)る。是(これ)皆代々(だいだい)の儲君(ちよくん)、御位(おんくらゐ)を天に継(つが)せ給ふ時の例なれば、三載(さんさい)数度(すど)の大礼、一も欠(かけ)ては有(ある)べからずといへども、洛外(らくぐわい)山中の皇居(くわうきよ)の事、可周備にあらざれば、如形三種(さんじゆの)神器(じんぎ)を拝せられたる計(ばかり)にて、新帝位(くらゐ)に即(つか)せ給ふ。
○任遺勅被成綸旨事(こと)付(つけたり)義助攻落黒丸城事(こと) S2106
同十一月五日、南朝の群臣(ぐんしん)相義(あひぎ)して、先帝に尊号を献(たてまつ)る。御在位(ございゐ)の間、風教(ふうかう)多(おほく)は延喜の聖代を被追しかば、尤も其寄(そのよせ)有(あり)とて、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)と諡(おくりな)し奉る。新帝幼主(えうしゆ)にて御座(ござ)ある上、君崩じ給(たまひ)たる後、百官冢宰(ちよさい)に総(すべ)て、三年政(まつりごと)を聞召(きこしめさ)れぬ事なれば、万機(ばんき)悉(ことごと)く北畠(きたばたけの)大納言(だいなごん)の計(はからひ)として、洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけの)卿(きやう)、二人(ににん)専(もつばら)諸事を被執奏。同十二月先(まづ)北国にある脇屋(わきや)刑部卿義助朝臣(あそん)の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅(ごゆゐちよく)異于他上は、不替故義貞之例、官軍(くわんぐん)恩賞以下(いげ)の事相計(あひはかつ)て、可経奏聞之(の)由(よし)被宣下。其外(そのほか)筑紫の西征(せいせい)将軍(しやうぐんの)宮(みや)、遠江(とほたふみの)井城(ゐのしろ)に御座(ござ)ある妙法院(めうほふゐん)、奥州(あうしうの)新国司(しんこくし)顕信(あきのぶ)卿(きやう)の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦之(の)由(よし)、綸旨をぞ下されける。義助は義貞討(うた)れし後勢(いきほひ)微(び)也(なり)といへども、所々の城郭(じやうくわく)に軍勢(ぐんぜい)を篭置(こめおき)、さまでは敵に挟(せば)められざりければ、何(いつ)まで右(かく)ても有(ある)べきぞ。城々の勢を一(ひとつ)に合(あはせ)て、黒丸(くろまる)の城に楯篭(たてこも)られたる尾張(をはりの)守(かみ)高経を責落(せめおと)さばやと評定有(あり)ける処に、先帝崩御(ほうぎよ)の御事(おんこと)を承(うけたまはつ)て、惘然(ばうぜん)たる事闇夜(あんや)に灯(ともしび)を失(うしな)へるが如し。さは有(あり)ながら、御遺勅(ゆゐちよく)他に異(こと)なる宣旨(せんじ)の忝(かたじけな)さに、忠義弥(いよいよ)心肝(しんかん)に銘(めい)じければ、如何にもして一戦(いつせん)に利を得、南方祠候(しこう)の人々の機(き)をも扶(たすけ)ばやと、御国忌(みこつき)の御中陰(ごちゆういん)の過(すぐる)を遅(おそし)とぞ相待(あひまち)ける。此(この)両三年越前の城三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)相交(あひまじはつ)て合戦の止日(やむとき)なし。中にも湊(みなとの)城(じやう)とて、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢共(せいども)が終(つひ)に攻(せめ)落さゞりし城は、義助の若党(わかたう)畑(はたの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)時能(ときよし)が、纔(わづかに)二十三人(にじふさんにん)にて篭(こもつ)たりし平城(ひらじやう)也(なり)。南帝(なんてい)御即位の初(はじめ)天運図(と)に膺(あた)る時なるべし。諸卒同(おなじく)城(じやう)を出(いで)て一所(いつしよ)に集(あつま)り、当国の朝敵(てうてき)を平(たひら)げ他国に打越(うちこゆ)べき由を大将義助の方より牒(てふ)せられければ、七月三日に畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)三百(さんびやく)余騎(よき)にて湊(みなとの)城(じやう)を出(いで)て、金津(かなつ)・長崎・河合(かはひ)・河口にあらゆる所の敵の城十二箇所(じふにかしよ)を打落(おとし)て、首を切(きる)事八百(はつぴやく)余人(よにん)、女童(をんなわらは)三歳の嬰児(えいじ)迄のこさず是(これ)を差(さし)殺す。同五日に、由良(ゆら)越前守(ゑちぜんのかみ)光氏(みつうぢ)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて西方寺(さいはうじ)の城より出(いで)て、和田・江守(えもり)・波羅密(はらみ)・深町(ふかまち)・安居(はこ)の庄内に、敵の稠(きびし)く構(かま)へたる六箇所(ろくかしよ)の城を二日に攻(せめ)落し、則(すなはち)御方(みかた)の勢を入替(いれかへ)て六箇所(ろくかしよ)の城を守らしむ。同五日、堀口兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)氏政、五百(ごひやく)余騎(よき)にて居山(ゐやま)の城より出(いで)て、香下(かした)・鶴沢・穴間(あなま)・河北(かはぎた)、十一箇所(じふいちかしよ)の城を五日が中(うち)に攻(せめ)落して、降人(かうにん)千(せん)余人(よにん)を引率(いんぞつ)し、河合(かはひの)庄(しやう)へ出合(いであ)はる。惣大将(そうだいしやう)脇屋(わきや)刑部卿義助は、禰津(ねづ)・風間(かざま)・瓜生(うりふ)・川島・宇都宮(うつのみや)・江戸・波多野(はだの)が勢、三千(さんぜん)余騎(よき)の将として、国府(こふ)より三手(みて)に分(わかれ)て、織田・々中・荒神峯(くわうじんがみね)・安古渡(はこのわたり)の城十七(じふしち)箇所(かしよ)を三日三夜に攻(せめ)落して、其(その)城(じやう)の大将七人(しちにん)虜(いけど)り士卒(じそつ)五百(ごひやく)余人(よにん)を誅(ちゆう)して、河合(かはひの)庄(しやう)へ打出(いで)らる。同十六日四方(しはう)の官軍(くわんぐん)一所に相集(あひあつまつ)て、六千(ろくせん)余騎(よき)三方(さんぱう)より黒丸(くろまる)を相挟(はさみ)て未戦(いまだたたかはず)。河合孫五郎種経(たねつね)降人に成(なつ)て畑に属(しよく)す。其(その)勢を率(そつし)て、夜半に足羽(あすは)の乾(いぬゐ)なる小山の上に打上(のぼつ)て、終夜(よもすがら)城(じやう)の四辺(しへん)を打廻(うちまは)り、時を作り遠矢を射懸(かけ)て、後陣(ごぢん)の大勢集(あつま)らば、一番に城へ攻入(いら)んと勢(いきほひ)を見せて待明(まちあか)す。爰(ここ)に上木平九郎家光は、元は新田左中将(さちゆうじやう)の兵(つはもの)にて有(あり)しが、近来(このごろ)将軍方(しやうぐんがた)に属(しよく)して、黒丸の城に在(あり)けるが、大将尾張(をはりの)守(かみ)高経の前に来(き)て申(まうし)けるは、「此(この)城(じやう)は先年新田殿(につたどの)の攻られしに、不思議(ふしぎ)の御運(ごうん)に依(よつ)て打勝(うちかた)せ給(たまひ)しに御習(ならひ)候(さふらひ)て、猶子細あらじと思召(おぼしめし)候はんには、疎(おろか)なる御計(おんはからひ)にて候べし。其(その)故は先年此(この)所へ向(むかひ)候(さふらひ)し敵共(てきども)、皆東国西国の兵にて、不知案内(ふちあんない)に候(さふらひ)し間、深田(ふかた)に馬を馳(はせ)こみ、堀溝(ほりみぞ)に堕入(おちいつ)て、遂(つひ)に名将流矢(ながれや)の鏑(かぶら)に懸(かか)り候(さふらひ)き。今は御方(みかた)に候(さふらひ)つる者共(ものども)が多く敵に成(なつ)て候間、寄手(よせて)も城の案内は能(よく)存知(ぞんちして)候。其(その)上(うへ)畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)と申(まうし)て日本一(につぽんいち)の大力(おほちから)の剛(かうの)者、命を此(この)城(じやう)に向(むかつ)て止(とどめ)んと思定(おもひさだめ)て向(むかひ)候なる。恐(おそら)くは今時(いまどき)の御方(みかた)に、誰か是(これ)と牛角(ごかく)の合戦をし候べき。後攻(ごづめ)もなき平城(ひらじやう)に名将の小勢にて御篭(おんこもり)候(さふらひ)て、命を失(うしな)はせ給はん事、口惜(くちをし)かるべき御計(おんはからひ)にて候。只今夜の中(うち)に加賀(かがの)国(くに)へ引退(ひきしりぞか)せ給(たまひ)て、京都の御勢(おんせい)下向の時、力を合(あは)せ兵を集(あつめ)て、還(かへつ)て敵を御退治(ごたいぢ)候はんに、何(なん)の子細か候べき。」とぞ申(まうし)ける。細川出羽(ではの)守(かみ)・鹿草(かぐさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・浅倉・斉藤等(さいとうら)に至(いたる)まで、皆此(この)義に同(どう)じければ、尾張(をはりの)守(かみ)高経、五の城に火を懸(かけ)て、其(その)光を松明(たいまつ)に成(なし)て、夜間(よのま)に加賀(かがの)国(くに)富樫(とがし)が城へ落(おち)給ふ。畑が謀(はかりこと)を以て、義助黒丸の城(じやう)を落(おと)してこそ、義貞の討(うた)れられたりし会稽(くわいけい)の恥をば雪(きよめ)けれ。
○塩冶判官(えんやはうぐわん)讒死(ざんしの)事(こと) S2107
北国の宮方(みやがた)頻(しきり)に起(おこつ)て、尾張(をはりの)守(かみ)黒丸の城を落されぬと聞へければ、京都以外(もつてのほか)に周章(しうしやう)して、助(たすけ)の兵を下さるべしと評定(ひやうぢやう)あり。則(すなはち)四方(しはう)の大将を定(さだめ)て、其(その)国々へ勢をぞ添(そへ)られける。高(かうの)上野(かうづけの)介(すけ)師治(もろはる)は、大手の大将として、加賀・能登・越中(ゑつちゆう)の勢を率(そつ)し、加賀(かがの)国(くに)を経(へ)て宮(みや)の腰より向はる。土岐弾正少弼(せうひつ)頼遠は、搦手(からめて)の大将として、美濃・尾張(をはり)の勢を率(そつ)し、穴間(あなま)・郡上(ぐじやう)を経(へ)て大野郡(おほののこほり)へ向はる。佐々木(ささきの)三郎判官氏頼は江州の勢を率(そつ)して、木目岳(きのめたうげ)を打越(うちこえ)て敦賀の津より向はる。塩冶判官高貞は船路(ふなぢ)の大将として、出雲・伯耆の勢を率(そつ)し兵船(ひやうせん)三百艘を調(そろ)へ、三方(さんぱう)の寄手(よせて)の相近付(ちかづか)んずる黎(ころほひに)、津々浦々より上(あがり)て敵の後(うしろ)を襲(おそひ)、陣のあはいを隔(へだて)て、戦(たたかひ)を機変(きへん)の間に致すべしと、合図を堅く定(さだめ)らる。陸地(くがち)三方(さんぱう)の大将已(すで)に京を立(たち)て、分国(ぶんこく)の軍勢(ぐんぜい)を催(もよほさ)れければ、塩冶(えんや)も我(わが)国(くに)へ下(くだつ)て、其(その)用意(ようい)を致さんとしける最中(さいちゆう)に、不慮(ふりよ)の事出来(いでき)て、高貞忽(たちまち)に武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が為に討(うた)れにけり。其宿意(そのしゆくい)何事ぞと尋(たづぬ)れば、高貞多年相馴(あひなれ)たりける女房を、師直に思懸(おもひかけ)られて、無謂討(うた)れけるぞと聞(きこ)へし。其比(そのころ)師直ちと違例(ゐれい)の事有(あつ)て、且(しばら)く出仕をもせで居たりける間、重恩(ぢゆうおん)の家人共(けにんども)是(これ)を慰(なぐさ)めん為に、毎日酒肴(さかな)を調(ととのへ)て、道々の能者(のうしや)共(ども)を召集(めしあつめ)て、其(その)芸能を尽(つく)させて、座中の興(きよう)をぞ促(もよほ)しける。或時(あるとき)月深(ふけ)夜閑(しづまつ)て、荻(をぎの)葉を渡(わたる)風身に入(しみ)たる心地しける時節(をりふし)、真都(しんいち)と覚都検校(かくいちけんげう)と、二人(ににん)つれ平家を歌(うたひ)けるに、「近衛(こんゑの)院(ゐん)の御時(おんとき)、紫宸殿(ししんでん)の上に、鵺(ぬえ)と云(いふ)怪鳥(けてう)飛来(とびきたつ)て夜な/\鳴(なき)けるを、源三位(げんざんみ)頼政(よりまさ)勅(ちよく)を承(うけたまはつ)て射て落したりければ、上皇限(かぎり)なく叡感有(あつ)て、紅(くれなゐ)の御衣(ぎよい)を当座(たうざ)に肩に懸(かけ)らる。「此勧賞(このけんじやう)に、官位も闕国(けつこく)も猶(なほ)充(あたる)に不足。誠やらん頼政(よりまさ)は、藤壷の菖蒲(あやめ)に心を懸(かけ)て堪(たへ)ぬ思(おもひ)に臥(ふし)沈むなる。今夜(こんや)の勧賞(けんじやう)には、此(この)あやめを下さるべし。但し此(この)女を頼政(よりまさ)音(おと)にのみ聞(きい)て、未(いまだ)目には見ざんなれば、同様(おなじやう)なる女房をあまた出(いだ)して、引煩(わづら)はゞ、あやめも知(しら)ぬ恋をする哉(かな)と笑(わらは)んずるぞ。」と仰(おほせ)られて、後宮(こうきゆう)三千人(さんぜんにん)の侍女(じぢよ)の中より、花(はな)を猜(そね)み月を妬(ねた)む程の女房達(にようばうたち)を、十二人(じふににん)同様(おなじやう)に装束(しやうぞく)せさせて、中々(なかなか)ほのかなる気色(けしき)もなく、金沙(きんしや)の羅(うすもの)の中(うち)にぞ置(おか)れける。さて頼政(よりまさ)を清涼殿の孫廂(まごひさし)へ召(めさ)れ、更衣(かうい)を勅使にて、「今夜(こんや)の抽賞(ちうしやう)には、浅香(あさか)の沼のあやめを下さるべし。其(その)手は緩(たゆむ)とも、自ら引(ひい)て我宿(わがやど)の妻と成(なせ)。」とぞ仰(おほせ)下されける。頼政(よりまさ)勅(ちよく)に随(したがつ)て、清涼殿の大床(おほゆか)に手をうち懸(かけ)て候(さふらひ)けるが、何(いづれ)も齢(よはひ)二八計(ばかり)なる女房の、みめ貌(かたち)絵に書共(かくとも)筆も難及程なるが、金翠(きんすゐ)の装(よそほひ)を餝(かざ)り、桃顔(たうがん)の媚(こび)を含(ふくん)で並居(なみゐ)たれば、頼政(よりまさ)心弥(いよいよ)迷ひ目うつろいて、何(いづれ)を菖蒲(あやめ)と可引心地(ここち)も無(なか)りけり。更衣打笑(うちわらう)て、「水のまさらば浅香(あさか)の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政(よりまさ)、五月雨(さみだれ)に沢辺(さはべ)の真薦(まこも)水越(こえ)て何(いづれ)菖蒲(あやめ)と引(ひき)ぞ煩(わづら)ふとぞ読(よみ)たりける。時に近衛(こんゑ)関白殿(くわんばくどの)、余(あまり)の感に堪(たへ)かねて、自ら立(たつ)て菖蒲の前の袖を引(ひき)、「是(これ)こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政(よりまさ)にこそ下されけれ。頼政(よりまさ)鵺(ぬえ)を射て、弓箭(ゆみや)の名を揚(あげ)たるのみならず、一首(いつしゆ)の歌の御感(ぎよかん)に依(よつ)て、年月久(ひさしく)恋忍(こひしのび)つる菖蒲の前を給(たまはり)つる数奇(すき)の程こそ面目なれ。」と、真都(しんいち)三重(さんぢゆう)の甲(かふ)を上(あぐ)れば、覚一初重(しよぢゆう)の乙に収(をさめ)て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞(きく)に、簾中(れんちゆう)庭上諸共(もろとも)に、声を上(あげ)てぞ感じける。平家はてゝ後(のち)、居残(ゐのこつ)たる若党(わかたう)・遁世(とんせいの)者共(ものども)、「さても頼政(よりまさ)が鵺(ぬえ)を射たる勧賞(けんじやう)に、傾城(けいせい)を給(たまはり)たるは面目なれ共(ども)、所領か御引出(おんひきで)物かを給(たまは)りたらんずるには、莫太(ばくたいの)劣(おとり)哉(かな)。」と申(まうし)ければ、武蔵守(むさしのかみ)聞(きき)もあへず、「御辺達(ごへんたち)は無下(むげ)に不当なる事を云(いふ)物哉(かな)。師直はあやめほどの傾城(けいせい)には、国の十箇国(じつかこく)計(ばかり)、所領の二三十箇所(にさんじつかしよ)也(なり)とも、かへてこそ給(たまは)らめ。」とぞ恥(はぢ)しめける。かゝる処に、元は公家(くげ)のなま上達部(かんたちめ)に仕(つかへ)て、盛(さかん)なりし御代(みよ)を見たりし女房、今は時と共に衰(おとろへ)て身の寄辺無(よるべなき)まゝに、此(この)武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)へ常に立寄(より)ける侍従(じじゆう)と申(まうす)女房、垣越(かきごし)に聞(きい)て、後(うしろ)の障子を引(ひき)あけて無限打笑(うちわらう)て、「あな善悪無(さがな)の御心(おんこころ)あて候や。事の様(やう)を推量候に、昔の菖蒲(あやめ)の前は、さまで美人にては無(なか)りけるとこそ覚(おぼえ)て候へ。楊貴妃(やうきひ)は、一笑(ひとたびゑめ)ば六宮(りくきゆう)に顔色無(なし)と申(まうし)候。縦(たとひ)千人(せんにん)万人の女房を双(なら)べ居(す)へて置(おか)れたり共、あやめの前誠(まこと)に世に勝(すぐ)れたらば、頼政(よりまさ)是(これ)を引(ひき)かね候べしや。是(これ)程の女房にだに、国の十箇国(じつかこく)計(ばかり)をばかへても何か惜(をし)からんと仰(おほせ)候はゞ、先帝の御外戚早田宮(はやたのみや)の御女(おんむすめ)、弘徽殿(こうきでん)の西の台(たい)なんどを御覧ぜられては、日本国・唐土(たうど)・天竺(てんぢく)にもかへさせ給はんずるや。此(この)御方は、よく世に類(たぐひ)なきみめ貌(かたち)にて御渡(おんわた)りありと思食知(おぼしめししり)候へ。いつぞや雲の上人(うへびと)、花(はな)待(まち)かねし春(はる)の日のつれ/゛\に、禁裏仙洞(きんりせんとう)の美夫人、九嬪更衣達(きうひんかういたち)を、花(はな)の譬(たとへ)にせられ候(さふらひ)しに、桐壷の御事(おんこと)は、あてやかにうちあらはれたる御気色(おんけしき)を奉見たる事なければ、譬(たとへ)て申さんもあやなかるべけれ共(ども)、雲井の外目(よそめ)も異(こと)なれば、明(あけ)やらぬ外山(とやま)の花(はな)にやと可申。梨壷(なしつぼ)の御事(おんこと)は、いつも臥沈(ふししづ)み給へる御気色(おんけしき)物がなしく、烽(とぶひ)の昔も理(ことわり)にこそ御覧ぜらるらめと、君の御心(おんこころ)も空(そら)に知(しら)れしかば、「玉顔(ぎよくがん)寂寞(せきばく)として涙(なんだ)欄干(らんかん)たり。」と喩(たと)ゑし、雨の中の梨壷と名にほふ御様(おんさま)なるべし。或(あるひ)は月もうつろふ本(もと)あらの小萩(こはぎ)、波も色ある井出(ゐで)の山吹、或(あるひ)は遍照(へんぜう)僧正(そうじやう)の、「我(われ)落(おち)にきと人に語るな。」と戯(たはむれ)し嵯峨野の秋の女郎花(をみなへし)、光(ひかる)源氏(げんじの)大将の、「白くさけるは。」と名を問(とひ)し、黄昏時(たそかれどき)の夕顔の花(はな)、見るに思(おもひ)の牡丹(ふかみぐさ)、色々様々の花共を取々(とりどり)に譬(たとへ)られしに、梅(むめ)は匂(にほ)ひふかくて枝たをやかならず。桜は色ことなれ共其香(そのか)もなし。柳は風を留(とどむ)る緑の糸(いと)、露の玉ぬく枝(えだ)異(こと)なれ共(ども)、匂(にほひ)もなく花(はな)もなし。梅(むめ)が香(か)を桜が色に移して、柳の枝にさかせたらんこそ、げにも此貌(このかたち)には譬(たと)へめとて、遂(つひ)に花(はな)のたとへの数(かず)にも入(いら)せ給はざりし上は、申(まうす)も中々(なかなか)疎(おろか)なる事にてこそ。」と云戯(いひたはむれ)て、障子を引立(ひきたて)て内へ入(いら)んとするを、師直目もなく打笑(うちわらう)て、「暫(しば)し。」と袖をひかへて、「其(その)宮(みや)はいづくに御座(ござ)候ぞ。御年は何(いか)程(ほど)に成(なら)せ給ふぞ。」と問(とひ)けるに、侍従(じじゆう)立留(たちとどまつ)て、「近比(このごろ)は田舎人(いなかうど)の妻と成(なら)せ給(たまひ)ぬれば、御貌(おんかたち)も雲の上の昔には替(かは)り給(たまひ)、御年も盛り過(すぎ)させ給(たまひ)ぬらんと、思(おもひ)やり進(まゐらせ)て有(あり)しに、一日(ひとひ)物詣(ものまうで)の帰(かへる)さに参(まゐり)て奉見しが、古(いにしへ)の春待遠(まちどほ)に有(あり)し若木(わかき)の花(はな)よりも猶(なほ)色深く匂ひ有(あつ)て、在明(ありあけ)の月の隈(くま)なく指入(さしいり)たるに、南向(みなみむき)の御簾(みす)を高くかゝげさせて、琵琶をかきならし給へば、ゝら/\とこぼれかゝりたる鬢(びん)のはづれより、ほのかに見へたる眉の匂(にほひ)、芙蓉(ふよう)の眸(まなじり)、丹花(たんくわ)の脣(くちび)る、何(いか)なる笙の岩屋の聖(ひじり)なりとも、心迷はであらじと、目もあやに覚(おぼえ)てこそ候(さふらひ)しか。うらめしの結(むすぶ)の神の御計(おんはからひ)にや。いかなる女院(にようゐん)、御息所(みやすどころ)とも奉見か、さらずば今程天下(てんが)の権を取るさる人の妻ともなし奉らで、声は塔(たふ)の鳩(はと)の鳴く様(やう)にて、御副臥(おんそひぶし)もさこそこは/\しく鄙閑(ひなたけ)たるらんと覚(おぼゆ)る出雲の塩冶(えんや)判官(はうぐわん)に、先帝より下されて、賎(いやし)き田舎(ゐなか)の御棲(おんすまひ)にのみ、御身(おんみ)を捨(すて)はてさせ給(たまひ)ぬれば、只王昭君(わうせうくん)が胡国(ここく)の夷(えびす)に嫁(か)しけるもかくこそと覚(おぼえ)て、奉見も悲(かなし)くこそ侍(はんべ)りつれ。」とぞ語(かたり)ける。武蔵守(むさしのかみ)いとゞうれしげに聞竭(ききつく)して、「御物語(おんものがたり)の余(あま)りに面白く覚(おぼゆ)るに、先(まづ)引出物(ひきでもの)申さん。」とて、色ある小袖十重(とかさね)に、沈(ぢん)の枕を取副(そへ)て、侍従(じじゆう)の局(つぼね)が前にぞ置(おか)れたる。侍従(じじゆう)俄(にはか)に徳付(つき)たる心ちしながら、あらけしからずの今の引出物(ひきでもの)やと思(おもひ)て、立(たち)かねたるに、武蔵守(むさしのかみ)近く居寄(ゐよつ)て、「詮(せん)なき御物語(おんものがたり)故(ゆゑ)に、師直が違例(ゐれい)はやがてなをりたる心ちしながら、又あらぬ病(やまひ)の付(つき)たる身に成(なつ)て候ぞや。さりとては平(ひら)に憑申(たのみまうし)候はん。此(この)女房何(いか)にもして我に御媒(おんなかだち)候(さふらひ)てたばせ給へ。さる程ならば所領なりとも、又は家の中の財宝なり共、御所望(ごしよまう)に随(したがつ)て可進。」とぞ語(かたり)ける。侍従(じじゆう)の局は、思寄(おもひよら)ぬ事哉(かな)。只独(ひとり)のみをはする人にてもなし。何(なに)としてかく共申出(まうしいづ)べきぞと思(おもひ)ながら、事の外(ほか)に叶ふまじき由をいはゞ、命をも失(うしなは)れ、思(おもひ)の外(ほか)の目にもや合(あは)んずらんと恐(おそろ)しければ、「申(まうし)てこそ見候はめ。」とて、先づ帰りぬ。二三日は、とやせましかくや云(いは)ましと案じ居たる処に、例ならず武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)より様々の酒肴(さかな)なんど送り、「御左右(おんさう)遅(おそし)。」とぞ責(せめ)たりける。侍従(じじゆう)は辞(じ)するに言無(ことばなく)して、彼(かの)女房の方に行(ゆき)向ひ、忍(しのび)やかに、「かやうの事は申出(まうしいだす)に付(つけ)て、心の程も推量(おしはか)られ進(まゐら)せぬべければ、聞(きき)しばかりにてさて有(ある)べき事なれ共(ども)、かゝる事の侍(はんべ)るをば如何(いか)が御計(おんはからひ)候べき。露計(ばかり)のかごとに人の心をも慰(なぐさめ)られば、公達(きんだち)の御為に行末(ゆくすゑ)たのもしく、又憑(たのむ)方(かた)なき我等(われら)迄も立(たち)よる方無(なく)ては候はじ。さのみ度重(たびかさ)ならばこそ、安濃(あこぎ)が浦に引綱(ひくあみ)の、人目に余る憚(はばかり)も候はめ。篠(ささ)の小(を)ざゝの一節(ひとふし)も、露かゝる事有(あり)共(とも)、誰か思寄(おもひよ)り候べき。」と、様々書(かき)くどき聞(きこ)ゆれ共(ども)、北(きた)の台(たい)は、「事の外(ほか)なる事哉(かな)。」と計(ばか)り打(うち)わびて、少(すこし)も云寄(いひよる)べき言葉(ことのは)もなし。さても錦木(にしきぎ)の千束(ちづか)を重(かさね)し、夷心(えびすごころ)の奥をも憐(あはれ)と思(おもひ)しる事もやと、日毎(ひごと)に経廻(へめぐり)て、「我(われ)にうきめを見せ、深き淵河(ふちかは)に沈(しづ)ませて、憐(あはれ)と計(ばかり)後(のち)の御情(おんなさけ)はあり共(とも)、よしや何かせん。只日比(ひごろ)参仕(まゐりつか)へし故宮(こみや)の御名残(おんなごり)と思召(おぼしめさ)ん甲斐には、責(せめ)て一言(ひとこと)の御返事(おんへんじ)をなり共承(うけたまはり)候へ。」と、兎角(とかく)云恨(いひうらみ)ければ、北(きたの)台(たい)もはや気色(けしき)打(うち)しほれ、「いでや、ものわびしく、かくとな聞(きこ)へそ。哀(あはれ)なる方に心引(ひか)れば、高志(たかしの)浜のあだ浪(なみ)に、うき名の立(たつ)事もこそあれ。」と、かこち顔(がほ)也(なり)。侍従(じじゆう)帰(かへつ)て角(かく)こそと語りければ、武蔵守(むさしのかみ)いと心を空(そら)に成(なし)て、度重(たびかさな)らばなさけによはることもこそあれ、文(ふみ)をやりてみばやとて、兼好(けんかう)と云(いひ)ける能書(のうしよ)の遁世者(とんせいしや)を呼寄(よびよせ)て、紅葉重(もみぢかさね)の薄様(うすやう)の、取(とる)手もくゆる計(ばかり)にこがれたるに、言を尽(つく)してぞ聞(きこ)へける。返事遅しと待(まつ)処に、使帰り来(き)て、「御文(おんふみ)をば手に取(とり)ながら、あけてだに見給はず、庭に捨(すて)られたるを、人目にかけじと懐(ふところ)に入(いれ)帰り参(まゐつ)て候(さふらひ)ぬる。」と語りければ、師直大(おほき)に気を損(そん)じて、「いや/\、物(もの)の用に立(たた)ぬ物は手書(てかき)也(なり)けり。今日より其兼好(そのけんかう)法師、是(これ)へよすべからず。」とぞ忿(いかり)ける。かゝる処に薬師寺(やくしじ)次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)、所用の事有(あつ)て、ふと差出(いで)たり。師直傍(かたはら)へ招(まねい)て、「爰(ここ)に文(ふみ)をやれ共(ども)取(とり)ても見ず、けしからぬ程(ほど)に気色(けしき)つれなき女房の有(あり)けるをばいかゞすべき。」と打笑(うちわらひ)ければ、公義(きんよし)、「人皆岩木(いはき)ならねば、何(いか)なる女房も慕(したふ)に靡(なびか)ぬ者や候べき。今一度(いちど)御文を遣(つかは)されて御覧候へ。」とて、師直に代(かはつ)て文を書(かき)けるが、中々(なかなか)言(ことば)はなくて、返すさへ手やふれけんと思(おもふ)にぞ我文(わがふみ)ながら打(うち)も置(おか)れず押返(おしかへ)して、媒(なかだち)此(この)文を持(もち)て行(ゆき)たるに、女房いかゞ思(おもひ)けん、歌を見て顔打(うち)あかめ、袖に入(いれ)て立(たち)けるを、媒(なかだち)さては便(たよ)りあしからずと、袖を引(ひか)へて、「さて御返事(おんへんじ)はいかに。」と申(まうし)ければ、「重(おもき)が上(うへ)の小夜衣(さよころも)。」と計(ばかり)云捨(いひすて)て、内へ紛入(まぎれいり)ぬ。暫くあれば、使急帰(いそぎかへつ)て、「かくこそ候(さふらひ)つれ。」と語(かたる)に、師直うれしげに打案(うちあん)じて、軈(やがて)薬師寺を呼寄(よびよ)せ、「此(この)女房の返事に、「重(おもき)が上(うへ)の小夜衣(さよころも)と云捨(いひすて)て立(たた)れける。」と媒(なかだち)の申(まうす)は、衣小袖(きぬこそで)を調(ととのへ)て送れとにや。其(その)事ならば何(いか)なる装束(しやうぞく)なりともしたてんずるにいと安かるべし。是(これ)は何(なに)と云(いふ)心ぞ。」と問はれければ、公義、「いや是(これ)はさやうの心にては候はず、新古今の十戒(じつかい)の歌に、さなきだに重(おもき)が上の小夜衣(さよころも)我妻(わがつま)ならぬ妻(つま)な重(かさね)そと云(いふ)歌の心を以て、人目計(ばかり)を憚(はばかり)候物ぞとこそ覚(おぼえ)て候へ。」と、哥(うた)の心を尺(しやく)しければ、師直大(おほき)に悦(よろこび)て、「嗚呼(ああ)御辺(ごへん)は弓箭(ゆみや)の道のみならず、歌道にさへ無双(ぶさう)の達者(たつしや)也(なり)けり。いで引出(ひきで)物せん。」とて、金作(こがねつくり)の団鞘(まるさや)の太刀一振(ひとふり)、手づから取出(とりいだ)して、薬師寺にこそ引(ひか)れけれ。兼好が不祥(ふしやう)、公義(きんよし)が高運(かううん)、栄枯一時に地を易(かへ)たり。師直此(この)返事を聞(きき)しより、いつとなく侍従(じじゆう)を呼(よび)て、「君の御大事(おんだいじ)に逢(あう)てこそ捨(すて)んと思(おもひ)つる命を、詮(せん)なき人の妻故(ゆゑ)に、空(むなし)く成(なら)んずる事の悲しさよ。今はのきはにもなるならば、必(かならず)侍従(じじゆう)殿(どの)をつれ進(まゐらせ)て、死出(しで)の山三途(さんづ)の河をば越(こえ)んずるぞ。」と、或時(あるとき)は目を瞋(いからかし)て云ひをどし、或時は又顔を低(たれ)て云恨(いひうらみ)ける程(ほど)に、侍従(じじゆうの)局(つぼね)もはや持(もて)あつかいて、さらば師直に此(この)女房の湯より上(あがつ)て、只顔(ただがほ)ならんを見せてうとませばやと思(おもひ)て、「暫く御待(おんまち)候へ。見ぬも非(あら)ず、見もせぬ御心(おんこころ)あては、申(まうす)をも人の憑(たのまれ)ぬ事にて候へば、よそながら先(まづ)其様(そのさま)を見せ進(まゐら)せ候はん。」とぞ慰(なぐさ)めける。師直聞之より独(ひとり)ゑみして、今日(けふ)か明日(あす)かと待(まち)居たる処に、北(きたの)台(たい)の方に中居(なかゐ)する女童(をんなわらは)に、兼(かね)て約束したりければ、侍従(じじゆうの)局(つぼね)の方へ来(きたつ)て、「今夜このあれの御留主(るす)にて、御台(みだい)は御湯ひかせ給ひ候へ。」とぞ告(つげ)たりける。侍従(じじゆう)右(かく)と師直に申せば、頓(やが)て侍従(じじゆう)をしるべにて、塩冶(えんや)が館(たち)へ忍(しの)び入(いり)ぬ。二間(ふたま)なる所に、身を側(そば)めて、垣の隙(ひま)より闖(うかが)へば、只今此(この)女房湯より上(あが)りけりと覚(おぼえ)て、紅梅の色ことなるに、氷の如(ごとく)なる練貫(ねりぬき)の小袖の、しほ/\とあるをかい取(とつ)て、ぬれ髪の行(ゆく)ゑながくかゝりたるを、袖の下にたきすさめる虚(そら)だきの煙匂計(にほふばかり)に残(のこつ)て、其(その)人は何(いづ)くにか有るらんと、心たど/\しく成(なり)ぬれば、巫女廟(ぶぢよべう)の花は夢の中(うち)に残り、昭君村(せうくんそん)の柳は雨の外(ほか)に疎(おろそか)なる心ちして、師直物(もの)の怪(け)の付(つき)たる様(やう)に、わな/\と振(ふる)ひ居たり。さのみ程へば、主(あるじ)の帰る事もこそとあやなくて、侍従(じじゆう)師直が袖を引(ひき)て、半蔀(はじとみ)の外迄出(いで)たれば、師直縁(えん)の上に平伏(ひれふし)て、何(いか)に引立(ひきたつ)れ共(ども)起上(おきあが)らず。あやしや此侭(このまま)にて絶(たえ)や入(いら)んずらんと覚(おぼえ)て、兎角(とかう)して帰したれば、今は混(ひたす)ら恋の病(やまひ)に臥(ふし)沈み、物狂(くるは)しき事をのみ、寐(ね)ても寤(さめ)ても云(いふ)なんど聞(きこ)へければ、侍従(じじゆう)いかなる目にか合(あは)んずらんと恐しく覚(おぼえ)て、其行(そのゆく)え知(しる)べき人もなき片田舎へ逃下(にげくだり)にけり。此(これ)より後(のち)は指南(しるべ)する人もなし。師直いかゞせんと歎きけるが、すべき様(やう)有(あり)と案出(あんじいだ)して、塩冶(えんや)隠謀の企(くはたて)有(ある)由を様々に讒(ざん)を運(めぐら)し、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)にぞ申(まうし)ける。塩冶此(この)事を聞(きき)ければ、とても遁(のが)るまじき我(わが)命也(なり)。さらば本国に逃下(にげくだつ)て旗を挙(あげ)、一旗を促(もよほし)て、師直が為に命を捨(すて)んとぞたくみける。高貞三月二十七日(にじふしちにち)の暁、弐(ふたごこ)ろ有(ある)まじき若党(わかたう)三十(さんじふ)余人(よにん)、狩装束(かりしやうぞく)に出立(いでたた)せ、小鷹(こたか)手毎(てごと)にすへて、蓮台野(れんだいの)・西山辺(にしやまへん)へ懸狩(かけがり)の為に出(いづ)る様(やう)に見せて、寺戸(てらど)より山崎へ引違(ひきちがひ)、播磨路(はりまぢ)よりぞ落行(おちゆき)ける。身に近き郎等(らうどう)二十(にじふ)余人(よにん)をば、女房子共に付(つけ)て、物詣(ものまうで)する人の体(てい)に見せて、半時計(はんじばかり)引別(ひきわか)れ、丹波路(たんばぢ)よりぞ落しける。此比(このころ)人の心、子は親に敵(てき)し、弟は兄を失(うしな)はんとする習(ならひ)なれば、塩冶判官が舎弟四郎左衛門(しらうざゑもん)、急(いそぎ)武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)へ行(ゆき)て、高貞が企(くはたて)の様(やう)有(あり)の侭(まま)にぞ告(つげ)たりける。師直聞之、此(この)事長僉儀(ながせんぎ)して、此(この)女房取(とり)はづしつる事の安からずさよと思(おもひ)ければ、急(いそぎ)将軍(しやうぐん)へ参(まゐり)て、「高貞が隠謀の事、さしも急(きふ)に御沙汰(ごさた)候へと申候(まうしさふらひ)つるを聞召(きこしめし)候はで、此暁(このあかつき)西国を指(さし)て逃下候(にげくだりさふらひ)けんなる。若(もし)出雲・伯耆に下著(げちやく)して、一族(いちぞく)を促(もよほし)て城に楯篭(たてこも)る程ならば、ゆゝしき御大事(おんだいじ)にて有(ある)べう候也(なり)。」と申(まうし)ければ、「げにも。」と驚騒(おどろきさわが)れて誰をか追手(おひて)に下(くだ)すべきとて、其(その)器用をぞ撰(えらま)れける。当座(たうざ)に有(あり)ける人々、我をや追手(おひて)にさゝれんと、かたづを飲(のう)で、機(き)を攻(つめ)たる気色(きしよく)を見給(たまひ)て、此(この)者共(ものども)が中には、高貞を追攻(おつつめ)て討(うつ)べき者なしと思はれければ、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏と、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・太平(おほひら)出雲(いづもの)守(かみ)とを喚(よ)び寄(よせ)て、「高貞只今西国を指(さし)て逃下(にげくだ)り候なる。いづく迄も追攻(おつつめ)て打留(うちとめ)られ候へ。」と宣(のたまひ)ければ、両人共に一儀(いちぎ)にも及(およば)ず、畏(かしこまつ)て領状(りやうじやう)す。時氏はかゝる事(こと)共(とも)知(しら)ず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へ帰り、武具を帯(たい)し勢(せい)を率(そつ)せば、時剋(じこく)遷(うつり)て追(おつ)つく事を得がたしと思ひけるにや、武蔵守(むさしのかみ)が若党(わかたう)にきせたりける物具(もののぐ)取(とつ)て肩に打懸(うちかけ)、馬の上にて高紐(たかひぼ)かけ、門前より懸足(かけあし)を出(いだ)して、父子主従七騎、播磨路(はりまぢ)にかゝり、揉(もみ)にもみてぞ追(おつ)たりける。直常も太平も宿所へは帰(かへら)ず、中間(ちゆうげん)を一人帰して、「乗替(のりがへ)の馬物具をば路へ追付(おつつ)けよ。」と下知(げぢ)して、丹波路(たんばぢ)を追(おう)てぞ下りける。道に行合(ゆきあふ)人に、「怪(あやし)げなる人や通(とほ)りつる。」と問へば、「小鷹少々すへたりつる殿原達十四五騎(じふしごき)が程、女房をば輿(こし)にのせて急(いそ)がはしげに通(とほ)りつる。其合(そのあはひ)は二三里は過候(すぎさふらひ)ぬらん。」とぞ答へける。「さては幾程も延(のび)じ。をくれ馳(はせ)の勢共(せいども)を待(まち)つれん。」とて、其(その)夜は波々伯部(はうかべ)の宿(しゆく)に暫く逗留(とうりう)し給へば、子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・小林民部(みんぶの)丞(じよう)・同左京(さきやうの)亮(すけ)以下(すけいげの)侍共(さぶらひども)、取(とる)物も取(とり)あへず、二百五十(にひやくごじふ)余騎(よき)、落人(おちうと)の跡を問々(とひとひ)、夜昼(よるひる)の境もなく追懸(おつかけ)たり。塩冶が若党共(わかたうども)も、追手(おひて)定(さだめ)て今は懸(かか)るらん。一足(ひとあし)もと急(いそぎ)けれ共(ども)、女性(によしやう)・少(をさなき)人を具足(ぐそく)したれば、兎角(とかう)のしつらいに滞(とどこほつ)て、播磨の陰山(かげやま)にては早追付(おつつか)れにけり。塩冶が郎等共(らうどうども)、今は落(おち)得じと思(おもひ)ければ、輿(こし)をば道の傍(かたはら)なる小家(こいへ)に舁入(かきいれ)させて、向(むかふ)敵に立向(たちむかひ)、をしはだぬぎ散々(さんざん)に射る。追手(おひて)の兵共(つはものども)、物具(もののぐ)したる者は少(すくな)かりければ、懸寄(かけよせ)ては射落(いおと)し、抜(ぬい)てかゝれば射すへられて矢場(やには)に死せる者十一人、手負(ておふ)者は数を知(しら)ず。右(かく)ても追手(おひて)は次第に勢(せい)重(かさな)る。矢種(やだね)も已(すで)に尽(つき)ければ、先(まづ)女性(によしやう)をさなき子共を差殺(さしころ)して、腹を切らんとて家の内へ走り入(いつ)て見(みれ)ば、あてやかにしをれわびたる女房の、通夜(よもすがら)の泪(なみだ)に沈(しづ)んで、さらず共(とも)我(われ)と消(きえ)ぬと見ゆる気色(きしよく)なるが、膝の傍(そば)に二人(ふたり)の子をかき寄(よせ)て、是(これ)や何(いか)にせんと、あきれ迷(まよ)へる有様を見るに、さしも武(たけ)く勇(いさ)める者共(ものども)なれ共(ども)、落(おつ)る泪(なみだ)に目も暮(くれ)て、只惘然(ばうぜん)としてぞ居たりける。去(さる)程(ほど)に追手(おひて)の兵共(つはものども)、ま近く取巻(とりまい)て、「此(この)事の起りは何事ぞ。縦(たとひ)塩冶判官を討(うち)たり共、其(その)女房をとり奉らでは、執事(しつじ)の御所存に叶(かなふ)べからず。相構(あひかまへ)て其(その)旨を存知せよ。」と下知(げぢ)しけるを聞(きき)て、八幡(はちまん)六郎(ろくらう)は、判官が次男の三歳に成(なる)が、母に懐(いだ)き付(つき)たるをかき懐(いだき)て、あたりなる辻堂(つじだう)に修行者(しゆぎやうじや)の有(あり)けるに、「此少(このをさなき)人、汝が弟子(でし)にして、出雲へ下(くだ)し進(まゐらせ)て、御命を助進(たすけまゐら)せよ。必ず所領一所(しよりやういつしよ)の主になすべし。」と云(いひ)て、小袖一重(ひとかさね)副(そへ)てぞとらせける。修行者(しゆぎやうじや)かい/゛\しく請取(うけとり)て、「子細(しさい)候はじ。」と申(まうし)ければ、八幡(はちまん)六郎(ろくらう)無限悦(よろこび)て、元の小家(こいへ)に立(たち)帰り、「我は矢種(やだね)の有(あら)ん程は、防矢(ふせぎや)射んずるぞ。御辺達(ごへんたち)は内へ参(まゐつ)て、女性少(をさ)なき人を差殺(さしころ)し進(まゐらせ)て、家に火を懸(かけ)て腹を切れ。」と申(まうし)ければ、塩冶が一族(いちぞく)に山城(やましろの)守(かみ)宗村(むねむら)と申(まうし)ける者内へ走(はし)り入(いり)、持(もつ)たる太刀を取直(とりなほ)して、雪よりも清く花よりも妙(たへ)なる女房の、胸の下をきつさきに、紅(くれなゐ)の血を淋(そそ)き、つと突(つき)とをせば、あつと云(いふ)声幽(かすか)に聞(きこ)へて、薄衣(うすぎぬ)の下に臥(ふし)給ふ。五(いつつ)になる少(をさなき)人、太刀の影に驚(おどろい)て、わつと泣(ない)て、「母御(ははご)なう。」とて、空(むなし)き人に取付(とりつき)たるを、山城(やましろの)守(かみ)心強(つよく)かき懐(いだ)き、太刀の柄(つか)を垣にあて、諸共(もろとも)に鐔本(つばもと)迄貫(つらぬか)れて、抱付(いだきつき)てぞ死(しに)にける。自余(じよ)の輩(ともがら)二十二人(にじふににん)、「今は心安し。」と悦(よろこび)て、髪を乱(みだ)し大裸(おほはだぬき)に成(なつ)て、敵近付(ちかづけ)ば走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)火を散(ちら)してぞ切合(きりあひ)たる。とても遁(のがる)まじき命也(なり)。さのみ罪を造(つくつ)ては何(なに)かせんとは思(おもひ)ながら、爰(ここ)にて敵を暫(しばらく)も支(ささへ)たらば、判官少(すこし)も落延(おちのぶ)る事もやと、「塩冶爰(ここ)にあり、高貞此(これ)にあり。頚(くび)取(とつ)て師直に見せぬか。」と、名乗懸(なのりかけ)々々々(なのりかけ)二時計(ふたときばかり)ぞ戦(たたかひ)たる。今は矢種(やだね)も射尽(いつく)しぬ、切疵(きりきず)負(お)はぬ者も無(なか)りければ、家の戸口に火を懸(かけ)て、猛火(みやうくわ)の中[に]走(わし)り入(いり)、二十二人(にじふににん)の者共(ものども)は、思々(おもひおもひ)に腹切(きつ)て、焼(やけ)こがれてぞ失(うせ)にける。焼(やけ)はてゝ後、一堆(いつたい)の灰を払(はらひ)のけて是(これ)を見れば、女房は焼野(やけの)の雉(きぎす)の雛(ひな)を翅(つばさ)にかくして、焼死(やけしに)たる如(ごとく)にて、未(いまだ)胎内(たいない)にある子、刃(やいば)のさき[に]懸(かけ)られながら、半(なかば)は腹より出(いで)て血と灰とに塗(まみれ)たり。又腹かき切(きつ)て多く重(かさな)り臥(ふし)たる死人(しにん)の下、少(をさな)き子を抱(いだい)て一つ太刀に貫(つらぬか)れたる、是(これ)ぞ何様(いかさま)塩冶判官にてぞあるらん。され共(ども)焼損(やけそん)じたる首(くび)なれば取(とつ)て帰るに及ばずとて、桃井(もものゐ)も太平(おほひら)も、是(これ)より京へぞ帰り上(のぼ)りける。さて山陽道(せんやうだう)を追(おう)て下(くだ)りける山名伊豆(いづの)守(かみ)が若党共(わかたうども)、山崎財寺(たからでら)の前を打過(うちすぎ)ける処に跡(あと)より、「執事(しつじ)の御文(おんふみ)にて候、暫く御逗留(ごとうりう)候へ。可申事有(あり)。」とぞ呼(よばは)りける。何事やらんとて馬を引(ひか)へたれば、此(この)者三町(さんちやう)計(ばかり)隔(へだた)りて、「余(あま)りにつよく走(わしつ)て候程(ほど)に、息絶(たえ)てそれまでも参り得ず候。此方(こなた)へ打帰(うちかへら)せ給へ。」山名我身(わがみ)は馬より下(おり)、若党(わかたう)を四五騎(しごき)帰(かへ)して、「何事ぞ。あれ聞(きいて)、急馳(いそぎはせ)帰れ。」とぞ下知(げぢ)しける。五騎の兵共(つはものども)誠ぞと心得(こころえ)て、使の前にて馬より飛(とび)をり、「何事にて候やらん。」と問へば、此(この)者莞爾(につこ)と打笑(うちわらひ)、「誠(まこと)には執事(つしづ)の使にては候はず。是(これ)は塩冶殿(えんやどの)の御内(みうち)の者にて候が、判官殿(はうぐわんどの)の落(おち)られ候(さふらひ)けるを知(しり)候はで伴をば不仕候。此(ここ)にて主の御為に命を捨(すて)て、冥途(めいど)にて此様(このさま)を語り申(まうす)べきにて候。」と云(いひ)もあへず抜合(ぬきあはせ)、時移(うつ)る迄ぞ切合(きりあひ)ける。三人(さんにん)に手負(ておふ)せ我(わが)身も二太刀(ふたたち)切(きら)れければ、是(これ)迄とや思(おもひ)けん、塩冶が郎等(らうどう)は腹かき破(やぶつ)て死(しに)にけり。「此(この)者に出(いだ)しぬかれ時剋(じこく)移りければ、落人(おちうと)は遥(はるか)に延(のび)ぬらん。」とて、弥(いよいよ)馬を早め追懸(おつかけ)ける。京より湊河(みなとがは)までは十八里の道を二時計(ばかり)に打(うつ)て、「余(あま)りに馬疲(つかれ)ければ、今日はとても近付(ちかづく)事有(あり)がたし。一夜(いちや)馬の足を休(やすめ)てこそ追(お)はめ。」とて、山名伊豆(いづの)守(かみ)湊河(みなとがは)にぞとゞまりける。其時(そのとき)生年(しやうねん)十四歳に成(なり)ける子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、気早(きばや)なる若者共(わかものども)を呼抜(よびぬい)て宣(のたまひ)けるは、「北(にぐ)る敵は跡(あと)を恐(おそれ)て、夜を日に継(つい)で逃(にげ)て下(くだ)る。我等(われら)は馬労(つかれ)て徒(いたづら)に明(あく)るを待(まつ)。加様(かやう)にては此(この)敵を追攻(おつつめ)て討つと云(いふ)事不可有。馬強(つよ)からん人々は我に同(どう)じ給へ、豆州(とうしう)には知(しら)せ奉らで、今夜此(この)敵を追攻(おつつめ)て、道にて打留(うちと)めん。」と云(いひ)もはてず、馬引寄(ひきよせ)て乗(のり)給へば、小林以下(いげ)の侍共(さぶらひども)十二騎、我(われ)も々(われも)と同(どう)じて、夜中に追(おつ)てぞ馳行(はせゆき)ける。湊河より賀久河(かくがは)迄は、十六(じふろく)里(り)の道を一夜(いちや)に打(うつ)て、夜もはやほの/゛\と明(あけ)ければ、遠方人(をちかたびと)の袖見ゆる、河瀬の霧の絶間(たえま)より、向(むかう)の方を見渡しければ、旅人とは覚(おぼえ)ぬ騎馬の客三十騎計(ばかり)、馬の足しどろに聞(きこ)へて、我先(われさき)にと馬を早めて行(ゆく)人あり。すはや是(これ)こそ塩冶よと見ければ、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)川縁(かはばた)に馬を懸居(かけすゑ)て、「あの馬を早められ候人々は、塩冶殿(えんやどの)と見奉るは僻目(ひがめ)か、将軍を敵に思ひ、我等(われら)を追手(おひて)に受(うけ)て、何(いづ)くまでか落(おち)られぬべき。踏留(ふみとどまつ)て尋常(じんじやう)に討死して、此長河(このちやうが)の流(ながれ)に名を残(のこ)され候へかし。」と、言(ことば)を懸(かけ)られて、判官が舎弟塩冶六郎(ろくらう)、若党共(わかたうども)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「某(それがし)は此(ここ)にて先(まづ)討死すべし。御辺達(ごへんたち)は細路(ほそみち)のつまり/\に防矢(ふせぎや)射て、廷尉(ていゐ)を落(おとし)奉れ。一度(いちど)に討死にする事有(ある)べからず。」と、無(なか)らん跡(あと)の事までも、委(くはしく)是(これ)を相謀(あひはかつ)て、主従七騎引返(ひつかへ)す。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の兵十二騎、一度(いちど)に河へ打入(うちいれ)て、轡(くつばみ)を双(ならべ)て渡せば、塩冶が舎弟七騎、向(むかひ)の岸に鏃(やじり)をそろへ散々(さんざん)に射る。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が胄(かぶと)の吹返(ふきかへ)し射向(いむけ)の袖に矢三筋(さんすぢ)受(うけ)て、岸の上へ颯(さつ)と懸上(かけあが)れば、塩冶六郎(ろくらう)抜合(ぬきあつ)て、懸違懸違(かけちがひかけちがひ)時移る程こそ切合(きりあひ)たれ。小林左京(さきやうの)亮(すけ)、塩冶に切(きつ)て落されて已(すで)に打(うた)れんと見へければ、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)馳塞(はせふさがつ)て、当(たう)の敵を切(きつ)て落す。残り六騎の者共(ものども)、思々(おもひおもひ)に打死しければ、其首(そのくび)を路次(ろし)に切懸(きりかけ)て、時剋(じこく)を移さず追(おつ)て行(ゆく)。此(この)間に塩冶は又五十町(ごじつちよう)計(ばかり)落延(おちのび)たりけれ共(ども)、郎等共(らうどうども)が乗(のつ)たる馬疲(つかれ)て、更にはたらかざりければ、道に乗捨(のりすて)歩跣(かちはだし)にて相従ふ。右(かく)ては本道を落(おち)得じとや思(おもひ)けん、御著宿(ごちやくのしゆく)より道を替(かへ)て、小塩山(をしほやま)へぞ懸(かかり)ける。山名続(つづい)て追(おひ)ければ、塩冶が郎等(らうどう)三人(さんにん)返合(かへしあはせ)て、松の一村(ひとむら)茂(しげ)りたるを木楯(こだて)に取(とり)て、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)に射る。面(おもて)に前(すす)む敵六騎射て落し、矢種(やだね)も尽(つき)ければ打物(うちもの)に成(なつ)て切合(きりあつ)てぞ死(しに)にける。此(ここ)より高貞落延(おちのび)て、追手(おひて)の馬共皆疲(つかれ)にければ、「今は道にて追付(おひつく)事叶(かなふ)まじ。」とて、山陽道(さんやうだう)の追手(おひて)は、心閑(こころしづか)にぞ下(くだり)ける。三月晦日(つごもり)に塩冶出雲(いづもの)国(くに)に下著(げちやく)しぬれば、四月一日に追手(おひて)の大将、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏、子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて同国屋杉(やすぎ)の庄に著(つき)給ふ。則(すなはち)国中に相触(あひふれ)て、「高貞が叛逆(ほんぎやく)露顕(ろけん)の間、誅罰(ちゆうばつ)せん為に下向する所也(なり)。是(これ)を打(うち)て出(いだ)したらん輩(ともがら)に於(おいて)は、非職凡下(ぼんげ)を云(いは)ず、恩賞を申与(まうしあた)ふべき由。」を披露(ひろう)す。聞之他人は云(いふ)に不及、親類骨肉(こつにく)迄も欲心に年来(としごろ)の好(よしみ)を忘(わすれ)ければ、自国他国の兵共(つはものども)、道を塞(ふさ)ぎ前(さき)を要(よぎつ)て、此(ここ)に待(まち)彼(かしこ)に来(きたり)て討(うた)んとす。高貞一日も身を隠(かく)すべき所無(なけ)れば、佐々布(ささふ)山に取上(とりのぼつ)て一軍(ひといくさ)せんと、馬を早めて行(ゆき)ける処に、丹波路(たんばぢ)より落(おち)ける若党(わかたう)の中間(ちゆうげん)一人走付(わしりつき)て、「是(これ)は誰(た)が為に御命をば惜(をし)まれて、城に楯篭(たてごも)らんとは思食(おぼしめし)候や。御台(みだい)御供(おんとも)申候(まうしさふらひ)つる人々は、播磨の陰山(かげやま)と申(まうす)所にて、敵に追付(おひつか)れて候(さふらひ)つる間、御台(みだい)をも公達(きんだち)をも皆差殺(さしころ)し進(まゐらせ)て、一人も残らず腹を切(きつ)て死(しに)て候也(なり)。是(これ)を告申(つげまう)さん為に甲斐なき命生(いき)て、是(これ)迄参(まゐつ)て候。」と云(いひ)もはてず、腹かき切(きつ)て馬の前にぞ臥(ふし)たりける。判官是(これ)をきゝ、「時の間(ま)も離れがたき妻子(さいし)を失(うしなは)れて、命生(いき)ては何(なに)かせん、安からぬ物哉(かな)。七生(しちしやう)迄師直が敵と成(なつ)て、思知(おもひしら)せんずる物を。」と忿(いかつ)て、馬の上にて腹を切(きり)、倒(さかさま)に落(おち)て死(しに)にけり。三十(さんじふ)余騎(よき)有(あり)つる若党共(わかたうども)をば、「城になるべき所を見よ。」とて、此彼(ここかしこ)へ遣(つかは)し、木村源三一人付順(つきしたがひ)て有(あり)けるが、馬より飛(とん)でをり、判官が頚を取(とつ)て、鎧直垂(よろひひたたれ)に裹(つつ)み、遥(はるか)の深田(ふかた)の泥中(どろのなか)に埋(うづん)で後、腹かき切(きつ)て、腸(はらわた)繰出(くりいだ)し、判官の頚の切口を陰(かく)し、上に打重(うちかさなつ)て懐付(いだきつき)てぞ死(しに)たりける。後に伊豆(いづの)守(かみ)の兵共(つはものども)、木村が足の泥に濁(よごれ)たるをしるべにて、深田(ふかた)の中より、高貞が虚(むなし)き首を求出(もとめいだ)して、師直が方へぞ送りける。是(これ)を見聞(みきく)人毎(ひとごと)に、「さしも忠有(あつ)て咎(とが)無(なか)りつる塩冶判官、一朝に讒言(ざんげん)せられて、百年の命を失(うしなひ)つる事の哀(あはれ)さよ。只晉(しん)の石季倫(せききりん)が、緑珠(りよくしゆ)が故(ゆゑ)に亡(ほろぼ)されて、金谷(きんこく)の花と散(ちり)はてしも、かくや。」と云(いは)ぬ人はなし。それより師直悪行積(つもつ)て無程亡失(ほろびうせ)にけり。「利人者天必福之、賊人者天必禍之。」と云(いへ)る事、真(まこと)なる哉(かな)と覚(おぼ)へたり。