太平記(国民文庫)
太平記巻第十九

○光厳院(くわうごんゐん)殿(どの)重祚(ちようその)御事(おんこと) S1901
建武(けんむ)三年六月十日、光厳(くわうごん)院(ゐん)太上(だじやう)天皇(てんわう)重祚(ちようそ)の御位(おんくらゐ)に即進(つけまゐら)せたりしが、三年の内に天下(てんが)反覆(はんぶく)して宋鑒(そうかん)ほろびはてしかば、其(その)例いかゞあるべからんと、諸人(しよにん)異議(いぎ)多かりけれ共(ども)、此(この)将軍(しやうぐん)尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の筑紫より攻上(せめのぼり)し時、院宣(ゐんぜん)をなされしも此(この)君也(なり)。今又東寺(とうじ)へ潜幸(せんかう)なりて、武家に威(ゐ)を加(くはへ)られしも此御事(このおこと)なれば、争(いかでか)其(その)天恩を報じ申さではあるべきとて、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)平(ひら)にはからひ申されける上は、末座(まつざ)の異見再往(さいわう)の沙汰に及ばず。其比(そのころ)物にも覚(おぼ)へぬ田舎(ゐなか)の者共(ものども)、茶の会酒宴(しゆえん)の砌(みぎり)にて、そゞろなる物語しけるにも、「あはれ此持明院殿(このぢみやうゐんどの)ほど、大果報(だいくわはう)の人はをはせざりけり。軍(いくさ)の一度(いちど)をもし給はずして、将軍より王位を給(たまは)らせ給(たまひ)たり。」と、申(まうし)沙汰しけるこそをかしけれ。
○本朝(ほんてう)将軍(しやうぐん)補任(ふにん)兄弟無其例事(こと) S1902
同年十月三日改元(かいげん)有(あつ)て、延元(えんげん)にうつる。其(その)十一月五日の除目(ぢもく)に、足利(あしかが)宰相(さいしやう)尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、上首(じやうしゆ)十一人を越(こえ)て、位(くらゐ)正三位(じやうざんみ)にあがり、官(つかさ)大納言(だいなごん)に遷(うつり)て、征夷将軍の武将に備(そなは)り給ふ。舎弟(しやてい)左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)は、五人(ごにん)を越(こえ)て、位四品(しほん)に叙(じよ)し、官(つかさ)宰相(さいしやう)に任(にん)じて、日本(につぽん)の副将軍(ふくしやうぐん)に成(なり)給ふ。夫(それ)我朝(わがてう)に将軍を置(おか)れし初(はじめ)は、養老四年に多治比(たぢひ)の真人(まつと)県守(あがたもり)、神亀(じんき)元年に藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)宇合(うまかひ)、宝亀十一年に藤原朝臣(あそん)継綱(つぐつな)。其後(そののち)時代遥(はるか)に隔(へだたつ)て藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)小里丸(をざとまる)、大伴(おほともの)宿禰(すくね)家持(やかもち)・紀(きの)朝臣(あそん)古佐美(こさみ)・大伴(おほともの)宿禰(すくね)乙丸(おとまる)・坂上(さかのうへの)宿禰(すくね)田村丸(たむらまる)・文屋(ふんやの)宿禰(すくね)綿丸(わたまる)・藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)忠文(ただふみ)・右大将宗盛(むねもり)・新中納言知盛(とももり)・右大将源(みなもとの)頼朝(よりとも)・木曾(きその)左馬(さまの)頭(かみ)源(みなもとの)義仲(よしなか)・左衛門(さゑもんの)督(かみ)頼家(よりいへ)・右大臣実朝(さねとも)に至(いたる)まで其(その)人十六人皆功の抽賞(ちうしやう)に依(よつ)て、父子其先(そのさき)を追(おふ)事(こと)ありといへども、兄弟一時に相双(あひならん)で、大樹(たいじゆ)の武将に備(そなはる)事(こと)、古今未(いまだ)其(その)例を聞(きか)ずと、其方様(そのかたざま)の人は、皆驕逸(けういつ)の思(おもひ)気色(きしよく)に顕(あらはれ)たり。其外(そのほか)宗(むね)との一族(いちぞく)四十三人(しじふさんにん)、或(あるひ)は象外(しやうぐわい)の選(せん)に当り、俗骨(しよくこつ)忽(たちまち)に蓬莱(ほうらい)の雲をふみ、或(あるひは)乱階(らんかい)の賞(しやう)に依(よつ)て、庸才(ようさい)立(たちどこ)ろに台閣(たいかく)の月を攀(よづ)。加之(しかのみならず)其門葉(そのもんえふ)たる者は、諸国の守護(しゆご)吏務(りむ)を兼(かね)て、銀鞍(ぎんあん)未解(いまだとかず)、五馬忽(たちまちに)策重山之雲、蘭橈(らんねう)未乾(いまだかわかず)、巨船(こせん)遥(はるかに)棹滄海之浪。総(すべ)て博陸輔佐(はくりくふさ)の臣も、是(これ)に向(むかつ)て上位を臨(のぞま)ん事を憚(はばか)る。況(いはん)や名家儒林(めいかじゆりん)の輩(ともがら)は、彼仁(かのじん)に列(つらなつ)て下風(かふう)に立(たた)ん事を喜べり。
○新田(につた)義貞落越前府城事(こと) S1903
左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)・舎弟脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助は、金崎(かねがさきの)城(じやう)没落(ぼつらく)の後、杣山(そまやま)の麓瓜生(うりふ)が館(たち)に、有(ある)も無(なき)が如(ごとく)にてをはしましけるが、いつまでか右(かく)て徒(いたづら)に時を待(まつ)べき。所々(しよしよ)に隠(かく)れ居たる敗軍の兵を集(あつめ)て国中へ打出(うちいで)、吉野に御座(ござ)ある先帝の宸襟(しんきん)をも休(やす)め進(まゐら)せ、金崎(かねがさき)にて討(うた)れし亡魂の恨(うらみ)をも散ぜばやと思はれければ、国々へ潜(ひそか)に使を通じて、旧功の輩(ともがら)をあつめられけるに、竜鱗(りようりん)に付き、鳳翼(ほうよく)を攀(よぢ)て、宿望を達せばやと、蟄居(ちつきよ)に時を待(まち)ける在々所々(ざいざいしよしよ)の兵共(つはものども)、聞伝(ききつたへ)々々(ききつたへ)抜々(ぬけぬけ)に馳集(はせあつま)りける程(ほど)に、馬・物具(もののぐ)なんどこそきら/\敷(しく)はなけれ共(ども)、心ばかりはいかなる樊■(はんくわい)・周勃(しうぼつ)にも劣(おとら)じと思へる義心金鉄(ぎしんきんてつ)の兵共(つはものども)、三千(さんぜん)余騎(よき)に成(なり)にけり。此(この)事(こと)軈(やが)て、京都に聞へければ、将軍より足利尾張(をはりの)守(かみ)高経・舎弟伊予(いよの)守(かみ)二人(ににん)を大将として、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢六千(ろくせん)余騎(よき)を差副(さしそへ)、越前(ゑちぜんの)府(ふ)へぞ下(くだ)されける。右(かく)て数月(すげつ)をふれ共(ども)、府(ふ)は大勢なり、杣山(そまやま)は要害なれば、城へも寄(より)えず府へも懸(かか)りへず、只両陣の堺(さかひ)、大塩(おほしほ)・松崎辺(まつさきへん)に兵を出(いだ)し合(あはせ)て、日々夜々に軍(いくさ)の絶(たゆ)る隙(ひま)もなし。かゝる所に加賀(かがの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、敷地(しきぢ)伊豆(いづの)守(かみ)・山岸新左衛門(しんざゑもん)・上木(うへき)平九郎以下(いげ)の者共(ものども)、畑六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じよう)時能(ときよし)が語(かたらひ)に付(つい)て、加賀・越前(ゑちぜんの)堺(さかひ)、細呂木(ほそろぎ)の辺(へん)に城郭(じやうくわく)をかまへ、津葉(つばの)五郎が大聖寺(だいしやうじ)の城を責落(せめおとし)て、国中を押領(あふりやう)す。此(この)時までは平泉寺(へいせんじ)の衆徒等(しゆとら)、皆二心(ふたごころ)なき将軍方(しやうぐんがた)にてありけるが、是(これ)もいかゞ思(おもひ)けん、過半(くわはん)引分(ひきわかれ)て宮方(みやがた)に与力(よりき)申し、三峰(みつみね)と云(いふ)所へ打出(うちいで)、城をかまへて敵を待(まつ)所に、伊自良(いじら)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)、是(これ)に与(くみ)して三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る間、近辺の地頭・御家人等(ごけにんら)、ふせぎ戦(たたかふ)に力を失(うしなつ)て、皆己(おのれ)が家々に火を懸(かけ)て、府(ふ)の陣へ落集(おちあつま)る。北国是(これ)より動乱して、汗馬(かんば)の足を休めず。三峰(みつみね)の衆徒の中より杣山(そまやま)へ使者を立(た)て、大将を一人給(たまはつ)て合戦を致すべき由を申(まうし)ける間、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助朝臣(あそん)五百(ごひやく)余騎(よき)を相副(あひそへ)て三峯(みつみね)の陣へ指遣(さしつかは)さる。牒使(てふし)又加賀(かがの)国(くに)に来(きたつ)て前に相図(あひづ)を定(さだめ)らるゝ間、敷地(しきぢ)・上木(うへき)・山岸・畑(はた)・結城(ゆふき)・江戸・深町の者共(ものども)、細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)を大将として、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)越前国(ゑちぜんのくに)へ打(うち)こへ、長崎・河合(かはひ)・川口三箇所(さんかしよ)に城(しろ)を構(かまへ)て漸々(ぜんぜん)に府(ふ)へぞ責寄(せめよせ)ける。尾張(をはりの)守(かみ)高経は、六千(ろくせん)余騎(よき)を随へて府中にたて篭(ごも)られたりけるが、敵に国中を押取(おしとら)れて、一所(いつしよ)に篭(こもり)居ては兵粮につまりて、ついによかるまじとて、三千(さんぜん)余騎(よき)をば府に残しをき、三千(さんぜん)余騎(よき)をば一国に分遣(わけつかはし)て山々峯々(みねみね)に城を構(かま)へ、兵を二百騎(にひやくき)・三百騎(さんびやくき)づゝ三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)にぞ置(おか)れける。戦場雪深(ふかく)して馬の足の立(たた)ぬ程は、城と城とを合(あはせ)て昼夜旦暮(ちうやたんぼ)合戦を致すといへ共(ども)、僅(わづか)に一日雌雄(しゆう)を争ふ計(ばかり)にて、誠(まこと)の勝負(しようぶ)は未(いまだ)なかりけり。去(さる)程(ほど)にあら玉の年立帰(たちかへつ)て二月中旬にも成(なり)ければ、余寒(よかん)も漸(やうや)く退(しりぞき)て、士卒(じそつ)弓をひくに手かゞまらず、残雪(ざんせつ)半(なかば)村消(むらきえ)て、疋馬(ひつば)地を蹈(ふむ)に蹄(ひづめ)を労(らう)せず。今は時分よく成(なり)ぬ。次第に府辺(ふのへん)へ近付寄(ちかづきよせ)て、敵の往反(わうへん)する道々に城をかまへて、四方(しはう)を差塞(さしふさい)で攻戦(せめたたかふ)べし。何(いづ)くか用害(ようがい)によかるべき所あると、見試(こころみ)ん為に、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)僅(わづか)百四五十騎にて、鯖江(さばえ)の宿(しゆく)へ打出(うちいで)られけり。名将小勢(こぜい)にて城の外(そと)に打出(うちいで)たるを、能隙(よきひま)なりと、敵にや人の告(つげ)たりけん。尾張(をはりの)守(かみ)の副将軍(ふくしやうぐん)細川出羽(ではの)守(かみ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて府の城より打出(うちいで)鯖江宿(さばえのしゆく)へ押寄(おしよせ)、三方(さんぱう)より相近付(あひちかづい)て、一人もあまさじとぞ取巻(とりまき)ける。脇屋(わきや)右衛門(うゑもん)前後の敵に囲(かこま)れて、とても遁(のがれ)ぬ所也(なり)と思切(おもひきつ)てければ、中々(なかなか)心を一(ひとつ)にして少(すこし)も機(き)を撓(たをま)さず。後陣(ごぢん)に高木(たかき)の社(やしろ)をあて、左右に瓜生畔(うりふぐろ)を取(とつ)て、矢種(やだね)を惜(をし)まず散々(さんざん)に射させて、敵に少(すこし)も馬の足を立(たて)させず、七八度(しちはちど)が程遭(あう)つ啓(ひらい)つ追立追立(おつたておつたて)攻付(せめつけ)たるに、細川・鹿草(かくさ)が五百(ごひやく)余騎(よき)、纔(わづか)の勢に懸立(かけたて)られて、鯖江(さばえ)の宿(しゆく)の後(うしろ)なる川の浅瀬(あさせ)を打(うち)わたり、向(むかう)の岸へ颯(さつ)と引(ひく)。結城(ゆふき)上野(かうづけの)介(すけ)・河野(かうの)七郎(しちらう)・熊谷(くまがえ)備中(びつちゆうの)守(かみ)・伊東大和(いとうやまとの)次郎・足立(あだち)新左衛門(しんざゑもん)・小島越後(ゑちごの)守(かみ)・中野藤内左衛門(とうないざゑもん)・瓜生(うりふ)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)八騎の兵共(つはものども)、川の瀬頭(せがしら)に打(うち)のぞみ、つゞいて渡さんとしけるが、大将右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、馬を打寄(うちよせ)て制(せい)せられけるは、「小勢の大勢に勝(かつ)事(こと)は暫時(ざんじ)の不思議(ふしぎ)也(なり)。若難所(もしなんしよ)に向(むかつ)て敵にかゝらば、水沢(みづさは)に利(り)を失(うしなつ)て、敵却(かへつ)て機(き)に乗(のる)べし。今日の合戦は、不慮(ふりよ)に出来(いでき)つる事なれば、遠所(ゑんしよ)の御方(みかた)是(これ)をしらで、左右なく馳来(はせきた)らじと覚(おぼゆ)るぞ。此辺(このへん)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、合戦ありと知(しら)せよ。」と、下知(げぢ)せられければ、篠塚(しのづか)五郎左衛門(ごらうざゑもん)馳廻(はせまはつ)て、高木(たかき)・瓜生(うりふ)・真柄(まがら)・北村の在家(ざいけ)二十(にじふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)て、狼烟天を焦(こが)せり。所々(しよしよ)の宮方(みやがた)此烟(このけむり)を見て、「すはや鯖江(さばえ)の辺(へん)に軍(いくさ)の有(あり)けるは、馳合(はせあはせ)て御方(みかた)に力を合(あはせ)よ。」とて、宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)将監(しやうげん)泰藤(やすふぢ)・天野(あまの)民部(みんぶの)大輔(たいふ)政貞(まささだ)三百(さんびやく)余騎(よき)にて、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)より馳来(はせきたる)。一条(いちでうの)少将(せうしやう)行実(ゆきさね)朝臣(あそん)、二百(にひやく)余騎(よき)にて飽和(あくわ)より打出(うちいで)らる。瓜生(うりふ)越前守(ゑちぜんのかみ)重(しげし)・舎弟加賀(かがの)守(かみ)照(てらす)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて妙法寺の城より馳下(はせくだ)る。山徒(さんと)三百(さんびやく)余騎(よき)は大塩(おほしほ)の城よりをり合ひ、河島(かはしま)左近(さこんの)蔵人惟頼(これより)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて三峯(みつみね)の城より馳(はせ)来り、総大将(そうだいしやう)左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)は、千(せん)余騎(よき)にて杣山(そまやま)よりぞ出られける。合戦の相図(あひづ)ありと覚(おぼ)へて、所々の宮方(みやがた)鯖江(さばえ)の宿(しゆく)へ馳集(はせあつま)る由聞へければ、「未(いまだ)河ばたに叩(ひか)へたる御方(みかた)討(うた)すな。」とて、尾張(をはりの)守(かみ)高経・同(おなじき)伊予(いよの)守(かみ)三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して、国分寺の北へ打出(うちいで)らる。両陣相去(あひさる)事(こと)十(じふ)余町(よちやう)、中に一(ひとつ)の河を隔(へだて)つ。此(この)河さしもの大河にてはなけれ共(ども)、時節(をりふし)雪消(ゆきげ)に水増(まし)て、漲(みなぎ)る浪(なみ)岸をひたしければ、互に浅瀬を伺見(うかがひみ)て、いづくをか渡さましと、暫(しばら)く猶予(いうよ)しける処に、船田長門(ふなたながとの)守(かみ)が若党(わかたう)葛(かつらの)新左衛門(しんざゑもん)と云(いふ)者、川ばたに打寄(うちよせ)て、「此(この)河は水だに増(まさ)れば州(す)俄に出来(いでき)て、案内知(しら)ぬ人は、いつも謬(あやまり)する河にて候ぞ。いで其(その)瀬ぶみ仕らん。」と云(いふ)まゝに、白蘆毛(しらあしげ)なる馬に、かし鳥威(どりをどし)の鎧著て、三尺(さんじやく)六寸(ろくすん)のかひしのぎの太刀を抜(ぬき)、甲(かぶと)の真向(まつかう)に指(さし)かざし、たぎりて落(おつ)る瀬枕(せまくら)に、只一騎馬を打入(うちいれ)て、白浪(しらなみ)を立(たて)てぞ游(およが)せける。我先(われさき)に渡さんと打(うち)のぞみたる兵三千(さんぜん)余騎(よき)これを見て、一度(いちど)に颯(さつ)と打入(うちいれ)て、弓の本筈末筈(もとはずうらはず)取(とり)ちがへ、馬の足の立(たつ)所をば手綱(たづな)をさしくつろげて歩(あゆま)せ、足のたゝぬ所をば馬の頭(かしら)をたゝき上(あげ)て泳(およが)せ、真一文字(まいちもんじ)に流(ながれ)をきつて、向(むかう)の岸へ懸(かけ)あげたり。葛(かつらの)新左衛門(しんざゑもん)は、御方(みかた)の勢に二町(にちやう)ばかり先立(さきだち)て渡しければ、敵の為に馬のもろ膝(ひざ)ながれて、歩立(かちだち)に成(なつ)て敵六騎に取篭(とりこめ)られて、已(すで)に打(うた)れぬと見へける処に、宇都宮(うつのみや)が郎等(らうどう)に清(せい)の新左衛門(しんざゑもん)為直(ためなほ)馳合(はせあつ)て、敵二騎切(きつ)て落(おと)し、三騎に手負(ておふ)せ、葛(かつらの)新左衛門(しんざゑもん)をば助(たすけ)てけり。寄(よす)る勢も三千(さんぜん)余騎(よき)、ふせぐ勢も三千(さんぜん)余騎(よき)、大将は何(いづ)れも名を惜(をし)む源氏一流の棟梁(とうりやう)也(なり)。而(しか)も馬の懸引(かけひき)たやすき在所(ざいしよ)なれば、敵御方(みかた)六千(ろくせん)余騎(よき)、前後左右に追(おう)つ返(かへし)つ入乱(いりみだれ)、半時(はんじ)ばかりぞ戦(たたかひ)たる。かくては只命(いのち)を限(かぎり)の戦(たたかひ)にて、いつ勝負(しようぶ)あるべしとも見へざりける処に、杣山(そまやま)河原(かはら)より廻(まはり)ける三峰(みつみね)の勢と、大塩(おほしほ)より下(くだ)る山法師(やまほふし)と差違(さしちがひ)て、敵陣の後(うしろ)へ廻(まは)り、府中に火を懸(かけ)たりけるに、尾張(をはりの)守(かみ)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)、敵を新善光寺(しんぜんくわうじ)の城へ入(いり)かはらせじと、府中を指(さして)引返(ひつかへ)す。義貞(よしさだ)朝臣(あそん)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)、逃(にぐ)る敵を追(おつ)すがうて、透間(すきま)もなく攻入(せめいり)ける間、城へ篭(こも)らんと逃入(にげいる)勢共(せいども)、己(おのれ)が拵(こしらへ)たる木戸逆木(きどさかもぎ)に支(ささへ)られて、城へ入(いる)べき逗留(とうりう)もなかりければ、新善光寺(しんぜんくわうじ)の前を、府(ふ)より西へ打過(うちすぐ)る。伊予(いよの)守(かみ)の勢千(せん)余騎(よき)は、若狭をさして引(ひき)ければ、尾張(をはりの)守(かみ)の兵二千(にせん)余騎(よき)、織田(おだ)・大虫(おほむし)を打過(うちすぎ)て、足羽(あすは)の城へぞ引(ひか)れける。都(すべ)て此(この)日(ひ)一時(いちじ)の戦(たたかひ)に、府(ふ)の城すでに責(せめ)落されぬと聞及(ききおよび)て、未(いまだ)敵も寄(よせ)ざる先に、国中の城の落(おつる)事(こと)、同時に七十三(しちじふさん)箇所(かしよ)也(なり)。
○金崎東宮(かねがさきのとうぐう)並(ならびに)将軍(しやうぐんの)宮(みや)御隠(おんかくれの)事(こと) S1904
新田(につた)義貞・義助杣山(そまやま)より打出(うちいで)て、尾張(をはりの)守(かみ)・伊予(いよの)守(かみ)府中を落(おち)、其外(そのほか)所々(しよしよ)の城落(おと)されぬと聞へければ、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義(ただよし)朝臣(あそん)大(おほき)に忿(いかつ)て、「此(この)事(こと)は偏(ひとへ)に春宮(とうぐう)の彼等(かれら)を御扶(おんたすけ)あらん為に、金崎(かねがさき)にて此等(これら)は腹を切(きり)たりと宣(のたまひ)しを、誠(まこと)と心得て、杣山(そまやま)へ遅(おそ)く討手を差下(さしくだし)つるによつて也(なり)。此(この)宮(みや)是程(これほど)当家を失はんと思召(おぼしめし)けるを知らで、若(もし)只置(おき)奉らば、何様(いかさま)不思議(ふしぎ)の御企(おんくはたて)も有(あり)ぬと覚(おぼゆ)れば、潜(ひそか)に鴆毒(ちんどく)を進(まゐらせ)て失(うしなひ)奉れ。」と、粟飯原(あひはら)下総(しもふさの)守(かみ)氏光(うぢみつ)にぞ下知(げぢ)せられける。春宮(とうぐう)は、連枝(れんし)の御兄弟(ごきやうだい)将軍(しやうぐん)の宮(みや)とて、直義(ただよし)朝臣(あそん)先年(せんねん)鎌倉(かまくら)へ申下参(まうしくだしまゐら)せたりし先帝第七(だいしち)の宮(みや)と、一処に押篭(おしこめ)られて御座(ござ)ありける処へ、氏光(うぢみつ)薬(くすり)を一裹(ひとつつみ)持(もち)て参り、「いつとなく加様(かやう)に打篭(うちこもつ)て御座(ござ)候へば、御病気なんどの萌(きざ)す御事(おんこと)もや候はんずらんとて、三条(さんでう)殿(どの)より調進(てうしん)せられて候、毎朝一七日(ひとなぬか)聞食(きこしめし)候へ。」とて、御前(おんまへ)にぞ閣(さしおき)ける。氏光罷帰(まかりかへつ)て後、将軍(しやうぐんの)宮(みや)此(この)薬を御覧ぜられて宣(のたまひ)けるは、「未(いまだ)見へざるさきに、兼(かね)て療治(れうぢ)を加(くはふ)る程(ほど)に我等(われら)を思はゞ、此(この)一室(いつしつ)の中に押篭(おしこめ)て朝暮(てうぼ)物を思はすべしや。是(これ)は定(さだめ)て病(やまひ)を治(ぢ)する薬にはあらじ、只命(いのち)を縮(しじむ)る毒なるべし。」とて、庭へ打捨(うちすて)んとせさせ給(たまひ)けるを、春宮(とうぐう)御手(おんて)に取(とら)せ給(たまひ)て、「抑(そもそも)尊氏・直義等(ただよしら)、其(それ)程(ほど)に情(なさけ)なき所存を挿(さしはさ)む者ならば、縦(たとひ)此(この)薬をのまず共(とも)遁(のがる)べき命かは。是(これ)元来(ぐわんらい)所願成就(じやうじゆ)也(なり)。此(この)毒を呑(のみ)世をはやうせばやとこそ存(ぞんじ)候へ。「夫れ人間の習(ならひ)、一日(いちにち)一夜(いちや)を経(ふ)る間に八億四千(はちおくしせん)の念(ねん)あり。一念悪を発(おこ)せば一生(いつしやう)の悪身を得(え)、十念悪を発(おこ)せば十生悪身を受く。乃至(ないし)千億の念も又爾(しか)也(なり)。」といへり。如是一日の悪念の報(はう)、受尽(うけつく)さん事猶(なほ)難(かた)し。況(いはんや)一生(いつしやう)の間の悪業(あくごふ)をや。悲(かなしい)哉(かな)、未来無窮(むぐう)の生死出離(しゆつり)何(いづ)れの時ぞ。富貴栄花(ふつきえいぐわ)の人に於て、猶此(この)苦を遁(のがれ)ず。況(いはんや)我等(われら)篭鳥(ろうてう)の雲を恋(こひ)、涸魚(かくぎよ)の水を求(もとむ)る如(ごとく)に成(なつ)て、聞(きく)に付(つけ)見るに随ふ悲(かなしみ)の中(うち)に、待(まつ)事(こと)もなき月日を送(おくつ)て、日のつもるをも知らず。悪念に犯(をか)されんよりも、命を鴆毒の為に縮(しじめ)て、後生善処(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)を達(たつせ)んにはしかじ。」と仰られて、毎日法華経(ほけきやう)一部あそばされ、念仏唱(となへ)させ給(たまひ)て、此(この)鴆毒をぞ聞召(きこしめし)ける。将軍の宮(みや)是(これ)を御覧じて、「誰(たれ)とても懸(かか)る憂(う)き世に心を留(とどむ)べきにあらず、同(おなじく)は後生(ごしやう)までも御供(おんとも)申さんこそ本意なれ。」とて、諸共(もろとも)に此(この)毒薬を七日までぞ聞食(きこしめし)ける。軈(やがて)春宮(とうぐう)は、其翌日(そのよくじつ)より御心地(おんここち)例(れい)に違(ちが)はせ給(たまひ)けるが、御終焉(ごじゆうえん)の儀閑(しづか)にして、四月十三日(じふさんにち)の暮(くれ)程(ほど)に、忽(たちまち)に隠(かくれ)させ給(たまひ)けり。将軍(しやうぐんの)宮(みや)は二十日余(あまり)まで後座(ござ)ありけるが、黄疸(わうだん)と云(いふ)御いたはり出来(いでき)て、御遍身(ごへんしん)黄(き)に成(なら)せ給(たまひ)て、是(これ)も終(つひ)に墓(はか)なくならせ給(たまひ)にけり。哀(あはれなる)哉(かな)尸鳩樹頭(しきうじゆとう)の花(はな)、連枝(れんし)早く一朝の雨に随ひ、悲(かなしい)哉(かな)鶺鴒原上(せきれいげんじやう)の草、同根(どうこん)忽(たちまち)に三秋の霜に枯(かれ)ぬる事を。去々年は兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)鎌倉(かまくら)にて失(うしな)はれさせ給ひ、又去年の春は中務(なかづかさの)親王(しんわう)金崎(かねがさき)にて御自害(ごじがい)あり。此等(これら)をこそためしなく哀(あはれ)なる事に、聞人(きくひと)心を傷(いたま)しめつるに、今又春宮(とうぐう)・将軍(しやうぐんの)宮(みや)、幾程(いくほど)なくて御隠(おんかく)れありければ、心あるも心なきも、是(これ)をきゝ及ぶ人毎(ひとごと)に、哀(あはれ)を催(もよほ)さずと云(いふ)事(こと)なし。かくつらくあたり給へる直義(ただよし)朝臣(あそん)の行末、いかならんと思はぬ人も無(なか)りけるが、果して毒害(どくがい)せられ給ふ事こそ不思議(ふしぎ)なれ。
○諸国宮方(みやがた)蜂起(ほうきの)事(こと) S1905
主上(しゆしやう)山門より還幸(くわんかう)なり、官軍(くわんぐん)金崎(かねがさき)にて皆うたれぬと披露(ひろう)有(あり)ければ、今は再び皇威に服(ふく)せん事、近き世にはあらじと、世挙(こぞつ)て思定(おもひさだめ)ける処に、先帝又三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を帯(たい)して、吉野へ潜幸(せんかう)なり、又義貞(よしさだ)朝臣(あそん)已(すで)に数万騎(すまんぎ)の軍勢(ぐんぜい)を率(そつ)して、越前国(ゑちぜんのくに)に打出(うちいで)たりと聞へければ、山門より降参したりし大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)、伊予(いよの)国(くに)へ逃下(にげくだ)り、土居(どゐ)・得能(とくのう)が子共と引合(ひきあつ)て、四国を討従(うちしたが)へんとす。江田兵部(ひやうぶの)大夫(たいふ)行義(ゆきよし)も丹波(たんばの)国(くに)に馳来(はせきたつ)て、足立(あだち)・本庄等(ほんじやうら)を相語(あひかたらつ)て、高山寺(かうせんじ)にたて篭(ごも)る。金谷(かなや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)経氏(つねうぢ)、播磨の東条(とうでう)より打出(うちいで)、吉河(きつかは)・高田が勢を付(つけ)て、丹生(にふ)の山陰(やまかげ)に城郭(じやうくわく)を構へ、山陰(やまかげ)の中道(なかみち)を差塞(さしふさ)ぐ。遠江の井介(ゐのすけ)は、妙法院(めうほふゐんの)宮(みや)を取立(とりたて)まいらせて、奥の山に楯篭(たてごも)る。宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)入道は、紀清(きせい)両党五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、吉野へ馳参(はせまゐり)ければ、旧功を捨(すて)ざる志(こころざし)を君殊に叡感有(えいかんあつ)て、則(すなはち)是(これ)を還俗(げんぞく)せさせられ四位(しゐの)少将(せうしやう)にぞなされける。此外(このほか)四夷(しい)八蛮(はちばん)、此彼(ここかしこ)よりをこるとのみ聞へしかば、先帝旧労(きうらう)の功臣、義貞恩顧(おんこ)の軍勢(ぐんぜい)等(ら)、病雀(びやうじやく)花(はな)を喰(くらう)て飛揚(ひやう)の翅(つばさ)を伸(のべ)、轍魚(てつぎよ)雨を得て■■(げんぐう)の脣(くちびる)を湿(うるほ)すと、悦び思はぬ人もなし。
○相摸(さがみ)次郎時行(ときゆき)勅免(ちよくめんの)事(こと) S1906
先亡(せんばう)相摸(さがみ)入道(にふだう)宗鑒(そうかん)が二男相摸次郎時行は、一家(いつけ)忽(たちまち)に亡(ほろび)し後(のち)は、天に跼(せぐくま)り地に蹐(ぬきあし)して、一身(いつしん)を置(おく)に安き所なかりしかば、こゝの禅院(ぜんゐん)、彼(かしこ)の律院(りつゐん)に、一夜(いちや)二夜を明(あかし)て隠(かくれ)ありきけるが、窃(ひそか)に使者を吉野殿(よしのどの)へ進(まゐらせ)て申入(まうしいれ)けるは、「亡親(ばうしん)高時(たかとき)法師、臣たる道を弁(わきま)へずして、遂に滅亡を勅勘(ちよくかん)の下に得たりき。然(しかり)といへ共(ども)、天誅(てんちう)の理(り)に当(あた)る故を存ずるに依(よつ)て、時行一塵(いちぢん)も君を恨申(うらみまうす)処を存(ぞんじ)候はず。元弘に義貞は関東(くわんとう)を滅(ほろぼ)し、尊氏は六波羅(ろくはら)を攻落(せめおと)す。彼(かの)両人何(いづれ)も勅命に依(よつ)て、征罰(せいばつ)を事とし候(さふらひ)し間、憤(いきどほり)を公儀に忘れ候(さふらひ)し処に、尊氏忽(たちまち)に朝敵(てうてき)となりしかば、威を綸命(りんめい)の下に仮(かつ)て、世を叛逆(ほんぎやく)の中(うち)に奪(うばは)んと企(くはたて)ける心中、事已(すで)に露顕(ろけん)し候歟(か)。抑(そもそも)尊氏が其(その)人たる事偏(ひとへ)に当家優如(いうじよ)の厚恩に依候(よりさふらひ)き。然(しかる)に恩を荷(になう)て恩を忘れ、天を戴(いただい)て天を乖(そむ)けり。其(その)大逆無道(ぶだう)の甚(はなはだし)き事、世の悪(にく)む所人の指(ゆび)さす所也(なり)。是(ここ)を以(もつて)当家の氏族等(しぞくら)、悉(ことごとく)敵を他に取らず。惟(これ)尊氏・直義等(ただよしら)が為に、其恨(そのうらみ)を散(さんぜ)ん事を存ず。天鑒明(あきらか)に下情(かじやう)を照されば、枉(まげ)て勅免を蒙(かうむつ)て、朝敵(てうてき)誅罰(ちうばつ)の計略を廻(めぐら)すべき由(よし)、綸旨(りんし)を成下(なしくださ)れば、宜(よろし)く官軍(くわんぐん)の義戦を扶(たす)け、皇統の大化(たいくわ)を仰申(あふぎまうす)べきにて候。夫(それ)不義の父を誅せられて、忠功の子を召(めし)仕はるゝ例(れい)あり。異国には趙盾(てうとん)、我朝(わがてう)には義朝(よしとも)、其外(そのほか)泛々(はんはん)たるたぐひ、勝計(しようけい)すべからず。用捨(ようしや)無偏、弛張(ちちやう)有時、明王(みやうわう)の撰士徳也(なり)。豈(あに)既往の罪を以て、当然の理を棄(すて)られ候はんや。」と、伝奏(てんそう)に属(しよく)して委細にぞ奏聞(そうもん)したりける。主上(しゆしやう)能々(よくよく)聞召(きこしめし)て、「犁牛(りぎう)のたとへ、其理(そのことわり)しか也(なり)。罰(ばつ)其(その)罪にあたり、賞(しやう)其(その)功に感ずるは善政の最(さい)たり。」とて、則(すなはち)恩免(おんめん)の綸旨をぞ下(くださ)れける。
○奥州国司(あうしうのこくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)並(ならびに)新田徳寿丸(とくじゆまる)上洛(しやうらくの)事(こと) S1907
奥州(あうしう)の国司(こくし)北畠源(みなもとの)中納言(ちゆうなごん)顕家(あきいへの)卿(きやう)、去(さんぬる)元弘三年正月に、園城寺(をんじやうじ)合戦の時上洛(しやうらく)せられて義貞に力を加へ、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)を西海に漂(ただよ)はせし無双(ぶさう)の大功也(なり)とて、鎮守府(ちんじゆふ)の将軍に成(なさ)れて、又奥州へぞ下されける。其翌年(そのよくねん)官軍(くわんぐん)戦(たたかひ)破れて、君は山門より還幸(くわんかう)なりて、花山院の故宮(こきゆう)に幽閉せられさせ給ひ、金崎(かねがさき)の城は攻(せめ)落されて、義顕(よしあき)朝臣(あそん)自害したりと聞へし後は、顕家(あきいへの)卿(きやう)に付(つき)随ふ郎従(らうじゆう)、皆落失(おちうせ)て勢(いきほひ)微々(びび)に成(なり)しかば、纔(わづか)に伊達郡(だてのこほり)霊山(りやうぜん)の城一(ひとつ)を守(まもつ)て、有(ある)も無(なき)が如(ごとく)にてぞをはしける。かゝる処に、主上(しゆしやう)は吉野へ潜幸(せんかう)なり義貞は北国へ打出(うちいで)たりと披露(ひろう)ありければ、いつしか又人の心替(かはり)て催促に随ふ人多かりけり。顕家(あきいへの)卿(きやう)時を得たりと悦(よろこび)て、廻文(くわいぶん)を以て便宜(びんぎ)の輩(ともがら)を催(もよほ)さるゝに、結城(ゆふき)上野入道々忠(だうちゆう)を始(はじめ)として、伊達(だて)・信夫(しのぶ)・南部(なんぶ)・下山(しもやま)六千(ろくせん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。国司(こくし)則(すなはち)其(その)勢(せい)を合(あはせ)て三万(さんまん)余騎(よき)、白川の関へ打越給(うちこえたまふ)に、奥州(あうしう)五十四郡(ごじふしぐん)の勢共(せいども)、多分はせ付(つき)て、程なく十万(じふまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。さらば軈(やがて)鎌倉(かまくら)を責落(せめおとし)て、上洛(しやうらく)すべしとて、八月十九日白川(しらかはの)関(せき)を立(たつ)て、下野(しもつけの)国(くに)へ打越(うちこえ)給ふ。鎌倉(かまくら)の管領(くわんれい)足利(あしかが)左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしあきら)此(この)事(こと)を聞給(ききたまひ)て、上杉民部(みんぶの)大夫(たいふ)・細川阿波(あはの)守(かみ)・高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)、其外(そのほか)武蔵(むさし)・相摸の勢八万(はちまん)余騎(よき)を相副(あひそへ)て、利根河(とねがは)にて支(ささへ)らる。去(さる)程(ほど)に、両陣の勢東西の岸に打臨(うちのぞん)で、互に是(これ)を渡さんと、渡るべき瀬やあると見ければ、其時節(そのをりふし)余所(よそ)の時雨(しぐれ)に水増(まし)て、逆波(さかなみ)高く漲(みなぎ)り落(おち)て、浅瀬はさてもありや無(なし)やと、事問(とふ)べき渡守(わたしもり)さへなければ、両陣共に水の干落(ひおつ)るほどを相待(あひまち)て、徒(いたづら)に一日(いちにち)一夜(いちや)は過(すぎ)にけり。爰(ここ)に国司(こくし)の兵に、長井(ながゐの)斉藤別当実永(さねなが)と云(いふ)者あり。大将の前にすゝみ出(いで)て申(まうし)けるは、「古(いにしへ)より今に至(いたる)まで、河を隔(へだて)たる陣多けれ共(ども)、渡して勝(かた)ずと云(いふ)事(こと)なし。縦(たとひ)水増(まし)て日来(ひごろ)より深く共、此(この)川宇治・勢多・藤戸(ふぢと)・富士川に勝(まさ)る事はよもあらじ。敵に先づ渡されぬさきに、此方(こなた)より渡(わたつ)て、気を扶(たすけ)て戦(たたかひ)を決(けつし)候はんに、などか勝(かた)で候べき。」と申(まうし)ければ、国司(こくし)、「合戦の道は、勇士(ゆうし)に任(まかす)るにしかず、兎(と)も角(かく)も計(はから)ふべし。」とぞ宣(のたまひ)ける。実永(さねなが)大(おほき)に悦(よろこび)て、馬の腹帯(はるび)をかため、甲(かぶと)の緒(を)をしめて、渡さんと打立(うちたち)けるを見て、いつも軍(いくさ)の先(さき)を争ひける部井(へゐの)十郎・高木三郎、少(すこし)も前後を見つくろはず、只二騎馬を颯(さつ)と打入(うちいれ)て、「今日の軍(いくさ)の先懸(さきがけ)、後(のち)に論ずる人あらば、河伯水神(かはくすゐじん)に向(むかつ)て問へ。」と高声(かうじやう)に呼(よばはつ)て、箆橈形(のためかた)に流(ながれ)をせいてぞ渡しける。長井(ながゐの)斉藤別当(べつたう)・舎弟豊後(ぶんごの)次郎、兄弟二人(ににん)是(これ)を見て、「人の渡したる処を渡(わたつ)ては、何の高名(かうみやう)かあるべき。」と、共に腹を立(たて)て、是(これ)より三町(さんちやう)計(ばかり)上(かみ)なる瀬を只二騎渡(わたし)けるが、岩浪高(たかく)して逆巻(さかま)く波に巻入(まきいれ)られて、馬人共(とも)に見へず、水の底に沈(しづん)で失(うせ)にけり。其(その)身は徒(いたづら)に溺(おぼれ)て、尸(かばね)は急流の底に漂(ただよふ)といへ共(ども)、其(その)名は永く止(とどまり)て武を九泉の先(さき)に耀(かかやか)す。さてこそ鬚髪(しゆはつ)を染(そめ)て討死せし実盛が末とは覚(おぼ)へたれと、万人(ばんにん)感ぜし言(ことば)の下に先祖の名をぞ揚(あげ)たりける。是(これ)を見て、奥州(あうしう)の勢十万(じふまん)余騎(よき)、一度(いちど)に打(うち)入れて、まつ一文字(いちもんじ)に渡せば、鎌倉勢(かまくらぜい)八万(はちまん)余騎(よき)、同時に渡合(わたしあはせ)て、河中にて勝負(しようぶ)を決せんとす。され共(ども)先(まづ)一番に渡(わたし)つる奥勢(おくぜい)の人馬に、東岸(とうがん)の流(ながれ)せかれて、西岸の水の早き事、宛(あたか)竜門(りゆうもん)三級の如(ごとく)なれば、鎌倉(かまくら)の先陣三千(さんぜん)余騎(よき)、馬筏(むまいかだ)を押破(おしやぶ)られて、浮(うき)ぬ沈(しづみ)ぬ流行(ながれゆく)。後陣(ごぢん)の勢(せい)は是(これ)を見て、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、河中より引返(ひつかへし)て、平野(ひらの)に支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、引立(ひきたち)ける軍(いくさ)なれば、右往左往(うわうさわう)に懸(かけ)ちらされて、皆鎌倉(かまくら)へ引返(ひつかへ)す。国司(こくし)利根川(とねがは)の合戦に打勝(うちかつ)て、勢(いきほひ)漸(やうやく)強大(きやうだい)に成(なる)と云(いへ)ども、鎌倉(かまくら)に猶(なほ)東(とう)八箇国(はちかこく)の勢馳集(はせあつまつ)て、雲霞(うんか)の如(ごとく)なりと聞(きこえ)ければ、武蔵(むさし)の府(ふ)に五箇日(ごかにち)逗留(とうりう)して、窃(ひそか)に鎌倉(かまくら)の様(やう)をぞ伺ひきゝ給(たまひ)ける。かゝる処に、宇都宮(うつのみや)左少将公綱(きんつな)、紀清(きせい)両党千(せん)余騎(よき)にて国司(こくし)に馳加(はせくはは)る。然共(しかれども)、芳賀兵衛入道禅可(ぜんか)一人は国司(こくし)に属(しよく)せず。公綱が子息加賀寿丸(かがじゆまる)を大将として、尚(なほ)当国(たうこく)宇都宮(うつのみや)の城に楯篭(たてこも)る。これに依(よつ)て国司(こくし)、伊達(だて)・信夫(しのぶ)の兵二万(にまん)余騎(よき)を差遣(さしつかはし)て、宇都宮(うつのみや)の城を責(せめ)らるゝに、禅可三日が中(うち)に攻落(せめおとさ)れて降参したりけるが、四五日を経(へ)て後(のち)又将軍方(しやうぐんがた)にぞ馳付(はせつき)ける。此(この)時に先亡(せんばう)の余類(よるゐ)相摸次郎時行(ときゆき)も、已(すで)に吉野殿(よしのどの)より勅免を蒙(かうむり)てければ、伊豆(いづの)国(くに)より起(おこつ)て、五千(ごせん)余騎(よき)足柄(あしがら)・箱根(はこね)に陣を取(とつ)て、相共(あひとも)に鎌倉(かまくら)を責(せむ)べき由を国司(こくし)の方へ牒(てふ)せらる。又新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞の次男徳寿丸(とくじゆまる)、上野(かうづけの)国(くに)より起(おこつ)て、二万(にまん)余騎(よき)武蔵(むさしの)国(くに)へ打越(うちこえ)て、入間河(いるまがは)にて著到(ちやくたう)を付け、国司(こくし)の合戦若(もし)延引せば、自余(じよ)の勢を待(また)ずして鎌倉(かまくら)を責(せむ)べしとぞ相謀(あひはかり)ける。鎌倉(かまくら)には上杉民部(みんぶの)大夫(たいふ)・同中務(おなじきなかつかさの)大夫(たいふ)・志和(しわ)三郎・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)・高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)以下(いげ)宗(むね)との一族(いちぞく)大名数十人(すじふにん)、大将足利左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしのり)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、評定(ひやうぢやう)ありけるは、「利根川(とねがは)の合戦の後、御方(みかた)は気を失(うしなつ)て大半は落散(おちちり)候、御敵(おんてき)は勢(いきほひ)に乗(のつ)て、弥(いよいよ)猛勢(まうせい)に成候(なりさふらひ)ぬ。今は重(かさね)て戦共(たたかふとも)勝(かつ)事(こと)を得難し。只安房(あは)・上総へ引退(ひきしりぞき)て、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢何方(いづかた)へか付(つく)と見て、時の反違(へんゐ)に随ひ、軍(いくさ)の安否(あんぴ)を計(はからう)て戦ふべきか。」と、延々(のびのび)としたる評定(ひやうぢやう)のみ有(あつ)て、誠(まこと)に冷(すず)しく聞へたる義勢(ぎせい)は更になかりけり。
○追奥勢跡道々合戦(かつせんの)事(こと) S1908
大将左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)は其比(そのころ)纔(わづか)に十一歳也(なり)。未(いまだ)思慮(しりよ)あるべき程(ほど)にてもをはせざりけるが、つく/゛\と此(この)評定を聞給(ききたまひ)て、「抑(そもそも)是(これ)は面々(めんめん)の異見(いけん)共(とも)覚(おぼ)へぬ事哉(かな)、軍(いくさ)をする程(ほど)にては一方負(まけ)ぬ事あるべからず。漫(そぞろ)に怖(おぢ)ば軍(いくさ)をせぬ者にてこそあらめ。苟(いやしく)も義詮(よしのり)東国の管領(くわんれい)として、たま/\鎌倉(かまくら)にありながら、敵大勢なればとて、爰(ここ)にて一軍(ひといくさ)もせざらんは、後難(こうなん)遁(のが)れがたくして、敵の欺(あざむか)ん事尤(もつとも)当然(たうぜん)也(なり)。されば縦(たとひ)御方(みかた)小勢(こぜい)なりとも、敵寄来(よせきた)らば馳向(はせむかつ)て戦はんに、叶(かな)はずは討死すべし。若(もし)又遁(のがれ)つべくは、一方打破(うちやぶつ)て、安房・上総の方へも引退(ひきしりぞき)て、敵の後(しりへ)に随(したがつ)て上洛(しやうらく)し、宇治・勢多にて前後より責(せめ)たらんに、などか敵を亡(ほろぼ)さゞらん。」と謀(はかりこと)濃(こまやか)に義に当(あたつ)て宣(のたまひ)ければ、勇将猛卒均(ひとし)く此(この)一言に励(はげま)されて、「さては討死するより外(ほか)の事なし。」と、一偏(いつぺん)に思切(おもひきつ)て鎌倉中(かまくらぢゆう)に楯篭(たてこも)る。其(その)勢(せい)一万(いちまん)余騎(よき)には過(すぎ)ざりけり。是(これ)を聞(きき)て国司(こくし)・新田徳寿丸・相摸次郎時行・宇都宮(うつのみや)の紀清(きせい)両党、彼此(かれこれ)都合(つがふ)十万(じふまん)余騎(よき)、十二月二十八日に、諸方皆牒合(てふしあはせ)て、鎌倉(かまくら)へとぞ寄(よせ)たりける。鎌倉(かまくら)には敵の様(やう)を聞(きき)て、とても勝(かつ)べき軍(いくさ)ならずと、一筋(ひとすぢ)に皆思切(おもひきつ)たりければ、城を堅(かたう)し塁(そこ)を深くする謀(はかりこと)をも事とせず、一万(いちまん)余騎(よき)を四手に分(わけ)て、道々に出合(いであひ)、懸合(かけあはせ)々々(かけあはせ)一日支(ささへ)て、各(おのおの)身命を惜(をし)まず戦(たたかひ)ける程(ほど)に、一方の大将に向はれける志和(しわ)三郎杉下(すぎもと)にて討(うた)れにければ、此(この)陣より軍(いくさ)破(やぶれ)て寄手(よせて)谷々(やつやつ)に乱(みだれ)入る。寄手(よせて)三方(さんぱう)を囲(かこみ)て御方(みかた)一処に集(あつまり)しかば、打(うた)るゝ者は多(おほく)して戦兵(たたかふつはもの)は少(すくなし)。かくては始終(しじゆう)叶(かなふ)べしとも見へざりければ、大将左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)を具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、高(かう)・上杉・桃井(もものゐ)以下(いげ)の人々、皆思々(おもひおもひ)に成(なつ)てぞ落(おち)られける。かゝりし後は、東国の勢宮(みや)方(がた)に随付(したがひつく)事(こと)雲霞(うんか)の如し。今は鎌倉(かまくら)に逗留(とうりう)して、何の用かあるべきとて、国司(こくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)以下(いげ)、正月八日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、夜を日についで上洛(しやうらく)し給へば、其(その)勢(せい)都合(つがふ)五十万騎(ごじふまんぎ)、前後五日路(いつかぢ)左右四五里を押(おし)て通るに、元来無慚無愧(むざんむぎ)の夷共(えびすども)なれば、路次(ろし)の民屋(みんをく)を追捕(つゐふ)し、神社仏閣を焼払(やきはら)ふ。総(そうじて)此(この)勢(せい)の打過(うちすぎ)ける跡(あと)、塵を払(はらう)て海道二三里が間には、在家(ざいけ)の一宇(いちう)も残らず草木の一本も無(なか)りけり。前陣已(すで)に尾張(をはり)の熱田(あつた)に著(つき)ければ、摂津大宮司(せつつのだいぐうじ)入道源雄(げんゆう)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて馳付(はせつけ)、同(おなじき)日(ひ)美濃の根尾(ねを)・徳山(とこのやま)より堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さだみつ)、千(せん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。今は是(これ)より京までの道に、誰ありとも此(この)勢(せい)を聊(いささか)も支(ささへ)んとする者は有(あり)がたしとぞ見へたりける。爰(ここ)に鎌倉(かまくら)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て、方々へ落(おち)られたりける上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・舎弟宮内少輔(くないのせう)は、相摸(さがみの)国(くに)より起り、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)は、箱根(はこね)より打出(うちいで)、高(かうの)駿河(するがの)守(かみ)は安房・上総より鎌倉(かまくら)へ押(おし)渡り、武蔵(むさし)・相摸の勢を催(もよほさ)るゝに、所存有(あつ)て国司(こくし)の方へは付(つか)ざりつる江戸・葛西(かさい)・三浦・鎌倉(かまくら)・坂東(ばんどう)の八平氏(はちへいじ)・武蔵(むさし)の七党(しちたう)、三万(さんまん)余騎(よき)にて馳来(はせきた)る。又清(せい)の党旗頭(たうのはたがしら)、芳賀兵衛入道禅可(ぜんか)も、元来将軍方(しやうぐんがた)に志有(あり)ければ、紀清両党が国司(こくし)に属(しよく)して上洛(しやうらく)しつる時は、虚病(きよびやう)して国に留(とどまり)たりけるが、清(せい)の党千(せん)余騎(よき)を率(そつ)して馳加(はせくはは)る。此(この)勢(せい)又五万(ごまん)余騎(よき)国司(こくし)の跡(あと)を追(おう)て、先陣已(すで)に遠江に著(つけ)ば、其(その)国(くに)の守護(しゆご)今河五郎入道、二千(にせん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。中(なか)一日ありて三河国に著(つけ)ば、当国(たうごくの)守(かみ)護高(かうの)尾張(をはりの)守(かみ)、六千(ろくせん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。又美濃の州俣(すのまた)へ著(つけ)ば、土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠、七百(しちひやく)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。国司(こくし)の勢六十万騎(ろくじふまんぎ)前(さき)を急(いそぎ)て、将軍を討(うち)奉らんと上洛(しやうらく)すれば、高・上杉・桃井(もものゐ)が勢(せい)は八万(はちまん)余騎(よき)、国司(こくし)を討(うた)んと跡(あと)に付(つき)て追(おう)て行(ゆく)。「蟷螂(たうらう)蝉(せみ)をうかゞへば、野鳥(やてう)蟷螂(たうらう)を窺ふ。」と云(いふ)荘子が人間世(じんげんせい)のたとへ、げにもと思ひ知(しら)れたり。
○青野原(あをのがはら)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)嚢沙背水(なうしやはいすゐの)事(こと) S1909
坂東(ばんどう)よりの後攻(ごづめ)の勢、美濃(みのの)国(くに)に著(つき)て評定しけるは、「将軍は定(さだめ)て宇治・勢多の橋を引(ひい)て、御支(ささへ)あらんずらん。去(さる)程ならば国司(こくし)の勢河を渡しかねて、徒(いたづら)に日を送(おくる)べし。其(その)時御方(みかた)の勢労兵(らうへい)の弊(つひえ)に乗(のつ)て、国司(こくし)の勢を前後より攻(せめ)んに、勝(かつ)事(こと)を立(たちどこ)ろに得つべし。」と申合(まうしあは)れけるを、土岐(とき)頼遠黙然(もくねん)として耳を傾(かたぶ)けゝるが、「抑(そもそも)目の前を打(うち)通る敵を、大勢なればとて、矢の一(ひとつ)をも射ずして、徒(いたづら)に後日の弊(つひえ)に乗(のら)ん事を待(また)ん事は、只楚(そ)の宋義(そうぎ)が「蚊を殺(ころす)には其(その)馬を撃(うた)ず。」と云(いひ)しに似たるべし。天下(てんが)の人口(じんこう)只此一挙(このいつきよ)に有(ある)べし。所詮(しよせん)自余(じよ)の御事(おんこと)は知(しら)ず、頼遠に於ては命を際(きは)の一合戦して、義にさらせる尸(かばね)を九原(きうげん)の苔(こけ)に留(とど)むべし。」と、又余儀もなく申(まう)されければ、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)、「某も如此存(ぞんじ)候。面々(めんめん)はいかに。」と申されければ、諸大将(しよだいしやう)皆理(ことわり)に服(ふく)して、悉(ことごとく)此(この)儀にぞ同(どう)じける。去(さる)程(ほど)に奥勢(おくぜい)の先陣、既(すでに)垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)辺(へん)に著(つき)たりけるが、跡(あと)より上(のぼ)る後攻(ごづめ)の勢近づきぬと聞へければ、先(まづ)其(その)敵を退治(たいぢ)せよとて、又三里引返(ひつかへ)して、美濃・尾張(をはり)両国の間に陣を取らずと云(いふ)処なし。後攻(ごづめ)の勢(せい)は八万(はちまん)余騎(よき)を五手に分(わけ)、前後を鬮(くじ)に取(とつ)たりければ、先(まづ)一番に小笠原信濃(しなのの)守(かみ)・芳賀清兵衛入道禅可二千(にせん)余騎(よき)にて志貴(じき)の渡(わたし)へ馳向(はせむかへ)ば、奥勢(おくぜい)の伊達(だて)・信夫(しのぶ)の兵共(つはものども)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて河を渡(わたつ)てかゝりけるに、芳賀・小笠原散々(さんざん)に懸(かけ)立られて、残少(のこりすくな)に討(うた)れにけり。二番に高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、州俣河(すのまたがは)を渡る所に、渡しも立(たて)ず、相摸次郎時行五千(ごせん)余騎(よき)にて乱合(みだれあひ)、互に笠符(かさじるし)をしるべにて組(くん)で落(おち)、々重(おちかさなつ)て頚を取り、半時(はんじ)ばかり戦(たたかひ)たるに、大和(やまとの)守(かみ)が憑切(たのみきつ)たる兵三百(さんびやく)余人(よにん)討(うた)れにければ、東西に散靡(あらけ)て山を便(たより)に引退(ひきしりぞ)く。三番に今河五郎入道・三浦新介(しんすけ)、阿字賀(あじが)に打出(うちいで)て、横逢(よこあひ)に懸(かか)る所を、南部(なんぶ)・下山(しもやま)・結城(ゆふき)入道、一万(いちまん)余騎(よき)にて懸合(かけあひ)、火出(いづる)程(ほど)に戦(たたかひ)たり。今河(いまがは)・三浦元来小勢なれば、打負(うちまけ)て河より東へ引退(ひきしりぞ)く。四番に上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・同宮内小輔(くないのせう)、武蔵(むさし)・上野の勢一万(いちまん)余騎(よき)を率(そつ)して、青野原(あをのがはら)に打出(うちいで)たり。爰(ここ)には新田徳寿丸(とくじゆまる)・宇都宮(うつのみや)の紀清(きせい)両党三万(さんまん)余騎(よき)にて相(あひ)向ふ。両陣の旗の紋(もん)皆知りたる兵共(つはものども)なれば、後の嘲(あざけり)をや恥(はぢ)たりけん、互に一足(ひとあし)も引(ひか)ず、命を涯(きは)に相戦ふ。毘嵐(びらん)断(たえ)て大地忽(たちまち)に無間獄(むげんごく)に堕(おち)、水輪(すゐりん)涌(わい)て世界こと/゛\く有頂天(うちやうてん)に翻(ひるが)へらんも、かくやと覚(おぼゆ)るばかり也(なり)。され共(ども)大敵とりひしくに難(かた)ければ、上杉遂(つひ)に打負(うちまけ)て、右往左往(うわうさわう)に落(おち)て行(ゆく)。五番に桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)・土岐弾正少弼頼遠、態(わざ)と鋭卒をすぐつて、一千(いつせん)余騎(よき)渺々(べうべう)たる青野原(おをのがはら)に打出(うちいで)て、敵を西北に請(うけ)てひかへたり。是(これ)には奥州(あうしう)の国司(こくし)鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)顕家(あきいへの)卿(きやう)・副将軍(ふくしやうぐん)春日(かすがの)少将(せうしやう)顕信(あきのぶ)、出羽・奥州(あうしう)の勢六万(ろくまん)余騎(よき)を率(そつ)して相向ふ。敵に御方(みかた)を見合(みあは)すれば、千騎(せんぎ)に一騎を合(あは)すとも、猶(なほ)当(あた)るに足(たら)ずと見(み)ける処に、土岐と桃井(もものゐ)と、少(すこし)も機を呑(のま)れず、前に恐(おそる)べき敵なく、後(うしろ)に退(しりぞ)くべき心有(あり)とも見へざりけり。時の声を挙(あぐ)る程こそ有(あり)けれ、千(せん)余騎(よき)只一手(ひとて)に成(なつ)て、大勢の中に颯(さつ)と懸入(かけいり)、半時計(はんじばかり)戦(たたかつ)て、つと懸(かけ)ぬけて其(その)勢(せい)を見れば、三百(さんびやく)余騎(よき)は討(うた)れにけり。相残(あひのこる)勢(せい)七百(しちひやく)余騎(よき)を又一手(ひとて)に束(つか)ねて、副将軍(ふくしやうぐん)春日(かすがの)少将(せうしやう)のひかへたる二万(にまん)余騎(よき)が中へ懸入(かけいつ)て、東へ追靡(おひなびけ)、南へ懸散(かけちら)し、汗馬(かんば)の足を休めず、太刀の鐔音(つばおと)止(やむ)時なく、や声を出(いだし)てぞ戦合(たたかひあひ)たる。千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)までも、引(ひく)な引(ひく)なと互に気を励(はげま)して、こゝを先途(せんど)と戦(たたかひ)けれ共(ども)、敵雲霞(うんか)の如くなれば、こゝに囲(かこま)れ彼(かしこ)に取篭(とりこめ)られて、勢(せい)もつき気も屈(くつ)しければ、七百(しちひやく)余騎(よき)の勢も、纔(わづか)に二十三騎に打成(うちな)され、土岐は左の目の下より右の口脇・鼻まで、鋒深(きつさきふか)に切付(きりつけ)られて、長森(ながもり)の城へ引篭(ひきこも)る。桃井(もものゐ)も三十(さんじふ)余箇度(よかど)の懸合(かけあひ)に七十六騎(しちじふろくき)に打成(うちな)され、馬の三図(さんづ)・平頚(ひらくび)二太刀切(きら)れ、草摺(くさずり)のはづれ三所つかれて、余(あまり)に戦疲(たたかひつかれ)ければ、「此軍(このいくさ)是(これ)に限(かぎ)るまじ、いざや人々馬の足休(やすめ)ん。」と、州俣河(すのまたがは)に馬を追漬(おひひたし)て、太刀・長刀(なぎなた)の血を洗(あらう)て、日も暮(くる)れば野に下居(おりゐ)て、終(つひ)に河より東へは越(こえ)給はず。京都には奥勢(おくぜい)上洛(しやうらく)の由(よし)、先立(さきだつ)て聞へけれ共(ども)、土岐(とき)美濃(みのの)国(くに)にあれば、さりとも一支(ひとささへ)は支(ささ)へんずらんと、憑敷(たのもしく)思はれける処に、頼遠既(すで)に青野原(おをのがはら)の合戦に打負(うちまけ)て、行方(ゆくかた)知らずとも聞へ、又は討(うた)れたり共(とも)披露(ひろう)ありければ、洛中(らくちゆう)の周章(しうしやう)斜(なのめ)ならず。さらば宇治・勢多の橋を引(ひき)てや相待つ。不然ば先(まづ)西国の方(かた)へ引退(ひきしりぞき)て、四国・九州の勢を付(つけ)て、却(かへつ)て敵をや攻(せむ)べきと異議まち/\に分(わかれ)て、評定未(いまだ)落居(らくきよ)せざりけるに、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)且(しばら)く思案(しあん)して申されけるは、「古(いにしへ)より今に至(いたる)まで、都へ敵の寄来(よせきた)る時、宇治・勢多の橋を曳(ひい)て戦(たたかふ)事(こと)度々(どど)也(なり)。然(しか)れ共(ども)此(この)河にて敵を支(ささへ)て、都を落されずと云(いふ)事(こと)なし。寄(よす)る者は広く万国を御方(みかた)にして威に乗り、防ぐ者は纔(わづか)に洛中(らくちゆう)を管領(くわんれい)して気を失(うしなふ)故(ゆゑ)也(なり)。不吉の例(れい)を逐(おう)て、忝(おほけな)く宇治・勢多の橋を引(ひき)、大敵を帝都の辺(へん)にて相待(あひまた)んよりは、兵勝(へいしよう)の利(り)に付(つい)て急(いそぎ)近江(あふみ)・美濃(みのの)辺(へん)に馳(はせ)向ひ、戦(たたかひ)を王城の外(ほか)に決せんには如(しか)じ。」と、勇(いさ)み其(その)気に顕(あらは)れ謀(はかりこと)其(その)理に協(かなう)て申されければ、将軍も師直も、「此(この)儀然(しかる)べし。」とぞ甘心(かんしん)せられける。「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍には高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)・同播磨(はりまの)守(かみ)師冬・細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春・佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)氏頼・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉・子息近江(あふみの)守(かみ)秀綱、此外(このほか)諸国の大名五十三人(ごじふさんにん)都合(つがふ)其(その)勢(せい)一万(いちまん)余騎(よき)、二月四日都を立(たち)、同六日の早旦(さうたん)に、近江(あふみ)と美濃との堺(さかひ)なる黒地河(くろぢがは)に著(つき)にけり。奥勢(おくぜい)も垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)に著(つき)ぬと聞へければ、こゝにて相(あひ)まつべしとて、前には関(せき)の藤川(ふじかは)を隔(へだて)、後(うしろ)には黒地川をあてゝ、其際(そのあひだ)に陣をぞ取(とつ)たりける。抑(そもそも)古より今に至(いたる)まで、勇士(ゆうし)猛将の陣を取(とつ)て敵を待(まつ)には、後(うしろ)は山により、前は水を堺(さか)ふ事にてこそあるに、今大河を後(うしろ)に当(あて)て陣を取(とら)れける事は又一(ひとつ)の兵法(ひやうはふ)なるべし。昔漢の高祖(かうそ)と楚の項羽(かうう)と天下(てんが)を争(あらそふ)事(こと)八箇年(はちかねん)が際(あひだ)戦(たたかふ)事(こと)休(やま)ざりけるに、或時(あるとき)高祖(かうそ)軍(いくさ)に負(まけ)て逃(にぐ)る事三十里(さんじふり)、討残(うちのこ)されたる兵(つはもの)を数(かぞふ)るに三千(さんぜん)余騎(よき)にも足(たら)ざりけり。項羽(かうう)四十(しじふ)余万騎(よまんぎ)を以て是(これ)を追(おひ)けるが、其(その)日(ひ)既(すで)に暮(くれ)ぬ。夜明(あくれ)ば漢の陣へ押寄(おしよせ)て、高祖(かうそ)を一時(いちじ)に亡(ほろぼ)さん事隻手(せきしゆ)の内に在(あり)とぞ勇(いさ)みける。爰(ここ)に高祖(かうそ)の臣に韓信と云(いひ)ける兵を大将に成(な)して、陣を取らせけるに、韓信態(わざ)と後(うしろ)に大河を当(あて)て橋を焼(やき)落し、舟を打破(うちやぶつ)てぞ棄(すて)たりける。是(これ)は兎(と)ても遁(のが)るまじき所を知(しつ)て、士卒(じそつ)一引(ひとひき)も引(ひく)心なく皆討死せよと、しめさん為の謀(はかりこと)也(なり)。夜明(あけ)ければ、項羽(かうう)の兵四十万騎(しじふまんぎ)にて押寄(おしよせ)、敵を小勢也(なり)と侮(あなどつ)て戦(たたかひ)を即時(そくじ)に決せんとす。其(その)勢(せい)参然(さんぜん)として左右を不顧懸(かかり)けるを、韓信が兵三千(さんぜん)余騎(よき)、一足(ひとあし)も引(ひか)ず死を争(あらそう)て戦(たたかひ)ける程(ほど)に、項羽(かうう)忽(たちまち)に討負(うちまけ)て、討(うた)るゝ兵二十万人、逃(にぐ)るを追(おふ)事(こと)五十(ごじふ)余里(より)なり。沼を堺(さか)ひ沢を隔(へだて)て、こゝまでは敵よも懸(かく)る事得じと、橋を引(ひき)てぞ居(ゐた)りける。漢の兵勝(かつ)に乗(のつ)て今夜軈(やが)て項羽(かうう)の陣へ寄(よせ)んとしけるに、韓信兵共(つはものども)を集(あつめ)て申(まうし)けるは、「我(われ)思様(おもふやう)あり。汝等(なんぢら)皆持(もつ)所の兵粮を捨てゝ、其(その)袋に砂を入(いれ)て持(もつ)べし。」とぞ下知(げぢ)しける。兵皆心得ぬ事哉(かな)と思(おもひ)ながら、大将の命(めい)に随(したがひ)て、士卒(じそつ)皆持(もつ)所の粮(かて)を捨(すて)て、其(その)袋に砂を入(いれ)て、項羽(かうう)が陣へぞ押寄(おしよせ)たる。夜に入(いつ)て項羽(かうう)が陣の様(やう)を見るに、四方(しはう)皆沼を堺(さか)ひ沢を隔(へだて)て馬の足も立(たた)ず、渡るべき様(やう)なき所にぞ陣取(ぢんどつ)たりける。此(この)時に韓信持(もち)たる所の砂嚢(すなふくろ)を沢に投入(なげいれ)々々(なげいれ)、是(これ)を堤(つつみ)に成(なし)て其(その)上(うへ)を渡るに、深泥(しんでい)更に平地(へいち)の如し。項羽(かうう)の兵二十万騎(にじふまんぎ)終日(ひねもす)の軍(いくさ)には疲れぬ。爰(ここ)までは敵よすべき道なしと油断して、帯紐(おびひぼ)とひてねたる処に、高祖(かうそ)の兵七千(しちせん)余騎(よき)時(とき)を咄(どつ)と作(つくり)て押寄(おしよせ)たれば、一戦(いつせん)にも及ばず、項羽(かうう)の兵十万(じふまん)余騎(よき)、皆河水にをぼれて討(うた)れにけり。是(これ)を名付(なづけ)て韓信が嚢砂背水(なうしやはいすゐ)の謀(はかりこと)とは申(まうす)也(なり)。今師泰・師冬・頼春が敵を大勢也(なり)と聞(きき)て、態(わざと)水沢を後(うしろ)に成(なし)て、関(せき)の藤川(ふじかは)に陣を取(とり)けるも、専(もつぱら)士卒(じそつ)心を一(ひとつ)にして、再び韓信が謀を示す者なるべし。去(さる)程(ほど)に国司(こくし)の勢十万騎(じふまんぎ)、垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)・青野原(おをのがはら)に充満(じゆうまん)して、東西六里南北三里に陣を張る。夜々の篝(かがり)を見渡せば、一天(いつてん)の星計(せいと)落(おち)て欄干(らんかん)たるに異(こと)ならず。此(この)時越前国(ゑちぜんのくに)に、新田(につた)義貞(よしさだ)・義助、北陸道(ほくろくだう)を順(したがへ)て、天を幹(めぐ)らし地を略(りやく)する勢(いきほ)ひ専(もつぱら)昌(さかん)也(なり)。奥勢(おくぜい)若(もし)黒地(くろぢ)の陣を払(はらは)ん事難儀ならば、北近江より越前へ打越(うちこえ)て、義貞(よしさだ)朝臣(あそん)と一つになり、比叡山(ひえいさん)に攀上(よぢのぼ)り、洛中(らくちゆう)を脚下(あしのした)に直下(みおろ)して南方の官軍(くわんぐん)と牒(てふ)し合(あは)せ、東西より是(これ)攻めば、将軍京都には一日も堪忍(かんにん)し給はじと覚(おぼえ)しを、顕家(あきいへの)卿(きやう)、我(わが)大功義貞の忠に成(なら)んずる事を猜(そねん)で、北国へも引合(ひきあは)ず、黒地(くろぢ)をも破りえず、俄(にはか)に士卒(じそつ)を引(ひき)て伊勢より吉野へぞ廻(まは)られける。さてこそ日来(ひごろ)は鬼神の如くに聞へし奥勢(おくぜい)、黒地(くろぢ)をだにも破(やぶり)えず、まして後攻(ごづめ)の東国勢京都に著(つき)なば、恐るゝに足(たら)ざる敵也(なり)とぞ、京勢(きやうぜい)には思ひ劣(おと)されける。顕家卿南都(なんと)に著(つき)て、且(しばら)く汗馬(かんば)の足を休(やすめ)て、諸卒に向(むかつ)て合戦の異見(いけん)を問(とひ)給ひければ、白河(しらかは)の結城(ゆふき)入道進(すすみ)て申(まうし)けるは、「今度於路次、度々(どど)の合戦に討勝(うちかち)、所々(しよしよ)の強敵(かうてき)を追散(おつちら)し、上洛(しやうらく)の道を開(ひらく)といへども、青野原(おをのがはら)の合戦に、聊(いささか)利(り)を失ふに依(よつ)て、黒地(くろぢ)の橋をも渡り得ず、此侭(このまま)吉野殿(よしのどの)へ参らん事、余(あまり)に云甲斐(いふかひ)なく覚(おぼ)へ候。只此(この)御勢(おんせい)を以て都へ攻上(せめのぼり)、朝敵(てうてき)を一時に追落(おひおと)す歟(か)、もし不然ば、尸(かばね)を王城の土に埋(うづ)み候はんこそ本意にて候へ。」と、誠(まこと)に無予義申(まうし)けり。顕家(あきいへの)卿(きやう)も、此(この)義げにもと甘心(かんしん)せられしかば、頓(やが)て京都へ攻上(せめのぼり)給はんとの企(くはたて)なり。其聞(そのきこ)へ京都に無隠しかば、将軍大(おほき)に驚給(おどろきたまひ)て、急ぎ南都へ大勢を差下(さしくだ)し、「顕家(あきいへの)卿(きやう)を遮(さへぎ)り留(とど)むべし。」とて討手(うつて)の評定ありしかども、我(わ)れ向(むかは)んと云(いふ)人無(なか)りけり。角(かく)ては如何と、両将其器(そのき)を撰(えら)び給ひけるに、師直被申けるは、「何としても此(この)大敵を拉(とりひし)がん事は、桃井(もものゐ)兄弟にまさる事あらじと存(ぞんじ)候。其(その)故は自鎌倉(かまくら)退(しりぞい)て経長途を、所々にして戦候(たたかひさふらひ)しに、毎度(まいど)此(この)兵どもに手痛く当(あた)りて、気を失ひ付(つけ)たる者共(ものども)なり。其(その)臆病神(おくびやうがみ)の醒(さ)めぬ先(さき)に、桃井(もものゐ)馳向(はせむかつ)て、南都(なんと)の陣を追(おひ)落さん事、案(あん)の内(うち)に候。」と被申しかば、「さらば。」とて、頓(やが)て師直を御使(おんつかひ)にて桃井(もものゐ)兄弟に此(この)由を被仰しかば、直信(なほのぶ)・直常(なほつね)、子細を申(まうす)に及ばずとて、其(その)日(ひ)頓(やが)て打立(うちたつ)て、南都へぞ進発(しんばつ)せられける。顕家(あきいへの)卿(きやう)是(これ)を聞(きき)て、般若坂(はんにやざか)に一陣を張(はり)、都よりの敵に相当(あひあた)る。桃井(もものゐ)直常兵の先(さき)に進んで、「今度諸人(しよにん)の辞退する討手を我等(われら)兄弟ならでは不可叶とて、其撰(そのえらび)に相当(あひあた)る事、且(かつう)は弓矢の眉目(びぼく)也(なり)。此(この)一戦(いつせん)に利を失(うしな)はゞ、度々(どど)の高名(かうみやう)皆泥土(でいど)にまみれぬべし。志を一に励(はげま)して、一陣を先(まづ)攻破(せめやぶ)れや。」と下知(げぢ)せられしかば、曾我(そが)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)を始(はじめ)として、究竟(くつきやう)の兵七百(しちひやく)余騎(よき)身命を捨(すて)て切(きつ)て入る。顕家(あきいへの)卿(きやう)の兵も、爰(ここ)を先途(せんど)と支戦(ささへたたかひ)しかども、長途(ちやうど)の疲(つか)れ武者何(なに)かは叶(かな)ふべき。一陣・二陣あらけ破(やぶれ)て、数万騎の兵ども、思々(おもひおもひ)にぞ成(なり)にける。顕家(あきいへの)卿(きやう)も同(おなじ)く在所(ざいしよ)をしらず成給(なりたまひ)ぬと聞(きこ)へしかば、直信(なほのぶ)・直常兄弟は、大軍を容易(たやすく)追散(おひちら)し、其(その)身は無恙都へ帰上(かへりのぼ)られけり。されば戦功は万人の上に立(たち)、抽賞(ちうしやう)は諸卒の望(のぞみ)を塞(ふさ)がんと、独(ひとり)ゑみして待居給(まちゐたまひ)たりしかども、更に其(その)功其(その)賞に不中しかば、桃井(もものゐ)兄弟は万(よろ)づ世間(よのなか)を述懐(じゆつくわい)して、天下(てんが)の大変を憑(たのみ)にかけてぞ待(また)れける。懸(かか)る処に、顕家(あきいへの)卿(きやうの)舎弟春日(かすがの)少将(せうしやう)顕信(あきのぶ)朝臣(あそん)、今度南都を落(おち)し敗軍を集め、和泉(いづみ)の境(さかひ)に打出(うちいで)て近隣を犯奪(をかしうばひ)、頓(やが)て八幡山(やはたやま)に陣を取(とつ)て、勢(いきほ)ひ京洛を呑(のむ)。依之(これによつて)京都又騒動して、急ぎ討手の大将を差向(さしむく)べしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井(もものゐ)兄弟だにも抽賞(ちうしやう)の儀もなし。況(まし)て其已下(そのいげ)の者はさこそ有(あら)んずらんとて、曾(かつ)て進む兵更に無(なか)りける間、角(かく)ては叶(かなふ)まじとて、師直一家(いつけ)を尽(つく)して打立給(うちたちたまひ)ける間、諸軍勢(しよぐんぜい)是(これ)に驚(おどろい)て我(われ)も我(われ)もと馳下(はせくだ)る。されば其(その)勢(せい)雲霞(うんか)の如(ごとく)にて、八幡山(やはたやま)の下四方(しはう)に尺地(せきち)も不残充満(みちみち)たり。されども要害の堀稠(きびしく)して、猛卒悉(ことごと)く志を同(おなじう)して楯篭(たてこもり)たる事なれば、寄手(よせて)毎度戦(たたかひ)に利を失ふと聞(きこ)へしかば、桃井(もものゐ)兄弟の人々、我(わが)身を省(かへり)みて、今度の催促にも不応、都に残留(のこりとどま)られたりけるが、高家氏族(かうけしぞく)を尽し大家(たいか)軍兵を起すと云(いへ)ども、合戦利を失(うしなふ)と聞(きき)て、余所(よそ)には如何見て過(すぐす)べき。述懐は私事(わたくしごと)、弓矢の道は公界(くがい)の義、遁(のが)れぬ所也(なり)とて、偸(ひそ)かに都を打立(うちたつ)て手勢計(ばかり)を引率(いんぞつ)し、御方(みかた)の大勢にも不牒合、自身(じしん)山下(さんげ)に推(おし)寄せ、一日(いちにち)一夜(いちや)攻(せめ)戦ふ。是(これ)にして官軍(くわんぐん)も若干(そくばく)討(うた)れ疵(きず)を被(かうむ)りける。直信(なほのぶ)・直常の兵ども、残少(のこりすくな)に手負(ておひ)討(うた)れて、御方(みかた)の陣へ引(ひい)て加(くはは)る。此比(このころ)の京童部(わらんべ)が桃井塚(もものゐづか)と名づけたるは、兄弟合戦の在所(ざいしよ)也(なり)。是(これ)を始(はじめ)として厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・大平(おほひら)孫太郎・和田近江(あふみの)守(かみ)自(みづから)戦(たたかひ)て疵(きず)を被(かうむ)り、数輩(すはい)の若党(わかたう)を討(うた)せ、日夜旦暮(たんぼ)相挑(あひいどむ)。かゝる処に、執事(しつじ)師直所々の軍兵を招(まね)き集め、「和泉の堺(さかひ)河内は故(こ)敵国なれば、さらでだに、恐懼(きようく)する処に、強敵(かうてき)其(その)中に起(おこり)ぬれば、和田・楠も力を合(あは)すべし。未(いまだ)微(び)〔な〕るに乗(のつ)て早速に退治(たいぢ)すべし。」とて、八幡(やはた)には大勢を差向(さしむけ)て、敵の打(うつ)て出(いで)ぬ様(やう)に四方(しはう)を囲(かこ)め、師直は天王寺(てんわうじ)へぞ被向ける。顕家(あきいへの)卿(きやう)の官軍共(くわんぐんども)、疲れて而(しか)も小勢なれば、身命を棄(すて)て支戦(ささへたたか)ふといへども、軍(いくさ)無利して諸卒散々(ちりぢり)に成(なり)しかば、顕家(あきいへの)卿(きやう)立(たつ)足もなく成給(なりたまひ)て、芳野(よしの)へ参らんと志(こころざ)し、僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)にて、大敵の囲(かこみ)を出(いで)んと、自(みづから)破利砕堅給ふといへども、其(その)戦功徒(いたづら)にして、五月二十二日和泉(いづみ)の堺安部野(さかひあべの)にて討死し給(たまひ)ければ、相従ふ兵(つはもの)悉(ことごと)く腹切(きり)疵(きず)を被(かうむつ)て、一人も不残失(うせ)にけり。顕家(あきいへの)卿(きやう)をば武蔵(むさしの)国(くに)の越生(こしふ)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)奉討しかば、頚をば丹後(たんごの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)武藤右京(うきやうの)進(しん)政清(まさきよ)是(これ)を取(とつ)て、甲(かぶと)・太刀・々(かたな)まで進覧(しんらん)したりければ、師直是(これ)を実検して、疑ふ所無(なか)りしかば、抽賞(ちうしやう)御感(ぎよかん)の御教書(みげうしよ)を両人にぞ被下ける。哀(あはれなる)哉(かな)、顕家(あきいへの)卿(きやう)は武略智謀其(その)家にあらずといへども、無双(ぶさう)の勇将にして、鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)に任(にん)じ奥州(あうしう)の大軍を両度まで起(おこし)て、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)を九州の遠境(ゑんきやう)に追下(おひくだ)し、君の震襟(しんきん)を快(こころよ)く奉休られし其誉(そのほま)れ、天下(てんが)の官軍(くわんぐん)に先立(さきだつ)て争ふ輩(ともがら)無(なか)りしに、聖運(せいうん)天に不叶、武徳時至りぬる其謂(そのいはれ)にや、股肱(ここう)の重臣(ちようしん)あへなく戦場の草の露と消給(きえたまひ)しかば、南都(なんとの)侍臣・官軍(くわんぐん)も、聞(きき)て力をぞ失(うしなひ)ける。