太平記(国民文庫)
太平記巻第十八
○先帝潜幸芳野事 S1801
主上(しゆしやう)は重祚(ちようそ)の御事(おんこと)相違候はじと、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)様々被申たりし偽(いつはり)の詞(ことば)を御憑(おんたのみ)有(あつ)て、自山門還幸(くわんかう)成(なり)しか共(ども)、元来謀(たばか)り進(まゐら)せん為なりしかば、花山(くわざんの)院(ゐん)の故宮(こきゆう)に被押篭させ給(たまひ)、宸襟(しんきん)を蕭颯(せうさつ)たる寂寞(せきばく)の中に悩(なやま)さる。霜に響(ひび)く遠寺(ゑんじ)の鐘に御枕(おんまくら)を欹(そばたて)て、楓橋(ふうけう)の夜泊(よるのとまり)に、御哀(あはれ)を副(そへ)られ、梢に余(あま)る北山(きたやま)の雪に御簾(ぎよれん)を撥(かかげ)ては、梁園(りやうゑん)の昔の御遊(ぎよいう)に御涙(おんなみだ)を催(もよほ)さる。紅顔(こうがん)花の如(ごとく)なりし三千(さんぜん)の宮女(きゆうぢよ)も、一朝の嵐に誘引(さそはれ)て、何地(いづち)ともなく成(なり)しかば、夜(よん)のをとゞに入(いら)せ給(たまひ)ても、夢より外(ほか)の昔もなし。紫宸(ししん)に星を列(つらね)し百司(はくし)の老臣も満天の雲に被掩、参仕(まゐりつかふ)る人独(ひとり)もなければ、天下の事如何に成(なり)ぬ覧(らん)と、可被尋聞召便(たより)もなし。「抑(そもそも)朕(ちん)が不徳何事(なにこと)なれば、か程(ほど)に仏神(ぶつしん)にも放(はな)たれ奉(たてまつ)て、逆臣(ぎやくしん)の為に被犯覧(らん)。」と、旧業(きうごふ)の程浅猿(あさまし)く、此世中(このよのなか)も憑(たのみ)少く被思召ければ、寛平(くわんへい)の遠き迹(あと)をも尋ね、花山(くわざん)の近き例をも追(おは)ばやと思召立(おぼしめしたた)せ給(たまひ)ける処に、刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)景繁(かげしげ)武家の許(ゆるし)を得て、只一人伺候(しこう)したりけるが、勾当内侍(こうたうのないし)を以て潜(ひそか)に奏聞申(そうもんまうし)けるは、「越前の金崎(かねがさき)の合戦に、寄手(よせて)毎度(まいど)打負(うちまけ)候なる間、加賀(かがの)国(くに)・剣(つるぎ)・白山(しらやま)の衆徒等(しゆとら)御方(みかた)に参り、富樫(とがしの)介(すけ)が篭(こもつ)て候那多(なた)の城を責(せめ)落して金崎(かねがさき)の後攻(ごづめ)を仕らんと企(くはたて)候なる。是(これ)を聞(きき)て、還幸(くわんかう)の時供奉(ぐぶ)仕(つかまつつ)て京都へ罷上候(まかりのぼりさふらひ)し菊池(きくち)掃部(かんもんの)助(すけ)武俊(たけとし)・日吉(ひよし)加賀(かがの)法眼(ほふげん)以下(いげ)、皆己(おのれ)が国々へ逃下(にげくだつ)て義兵を挙(あげ)、国中(こくちゆう)を打順(うちしたが)へて候なる間、天下の反覆(はんぶく)遠からじと、謳歌説(おうかのせつ)満耳に候。急ぎ近日の間(あひだ)に、夜(よ)に紛(まぎ)れて大和(やまと)の方へ臨幸成(なり)候(さふらひ)て、吉野(よしの)・十津川(とつがは)の辺(へん)に皇居(くわうきよ)を被定、諸国へ綸旨(りんし)を被成下、義貞が忠心(ちゆうしん)をも助(たすけ)られ、皇統の聖化(せいくわ)を被耀候へかし。」と、委細(ゐさい)にぞ申入(まうしいれ)たりける。主上(しゆしやう)事(こと)の様(やう)を具(つぶさ)に被聞召、さては天下の武士猶(なほ)帝徳を慕ふ者多かりけり。是(これ)天照太神(あまてらすおほんがみ)の、景繁(かげしげ)が心に入替(いりかはら)せ給(たまひ)て、被示者也(なり)と被思召ければ、「明夜(みやうや)必(かならず)寮(れう)の御馬(おんむま)を用意(ようい)して、東の小門の辺に相待(あひまつ)べし。」とぞ被仰出ける。相図(あひづ)の刻限(こくげん)にも成(なり)ければ、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をば、新勾当内侍(しんこうたうのないし)に被持て、童部(わらんべ)の蹈開(ふみあけ)たる築地(ついぢ)の崩(くづれ)より、女房の姿にて忍出(しのびいで)させ給ふ。景繁兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、主上(しゆしやう)をば寮(れう)の御馬(おんむま)に舁(かき)乗(の)せ進(まゐら)せ、三種(さんじゆの)神器(じんぎ)を自(みづから)荷担(かたん)して、未(いまだ)夜の中(うち)に大和路(やまとぢ)に懸(かかり)て、梨間宿(なしまのしゆく)までぞ落し進(まゐら)せける。白昼(はくちう)に南都(なんと)を如此にて通らせ給はゞ、人の怪(あやし)め申(まうす)事(こと)もこそあれとて、主上(しゆしやう)をば怪(あやし)げなる張輿(はりごし)に召替(めしかへ)させ進(たてまつ)て、供奉(ぐぶ)の上北面(しやうほくめん)共(ども)を輿舁(こしかき)になし、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をば足付(あしつけ)たる行器(ほかゐ)に入(いれ)て、物詣(まうで)する人の破篭(わりご)なんど入(いれ)て持(もた)せたる様(やう)に見せて、景繁夫(ぶ)に成(なつ)て是(これ)を持つ。何(いづ)れも皆習(なら)はぬ態(わざ)なれば、急ぐとすれども行(ゆき)やらで、其(その)日(ひ)の暮程(くれほど)に内山(うちやま)までぞ著(つか)せ給(たまひ)ける。此(ここ)までも若(もし)敵の追蒐進(おつかけまゐ)らする事もや有(あら)んずらんと安き心も無(なか)りければ、今夜(こんや)如何にもして吉野辺(よしのへん)まで成進(なしまゐら)せんとて、此(ここ)より寮(れう)の御馬(おんむま)を進(まゐら)せたれ共(ども)、八月二十八日の夜の事なれば道最(いと)暗(くらう)して可行様(やう)も無(なか)りける処に、俄に春日(かすが)山の上より金峯山(きぶうぜん)の嶺(みね)まで、光物(ひかりもの)飛(とび)渡る勢(いきほ)ひに見へて、松明(たいまつ)の如くなる光終夜(よもすがら)天を耀(かかやか)し地を照(てら)しける間、行路(あんろ)分明(ぶんみやう)に見へて程なく夜の曙(あけぼの)に、大和(やまとの)国(くに)賀名生(あなふ)と云(いふ)所へぞ落著(おちつか)せ給(たまひ)ける。此(この)所の有様、里遠(とほく)して人烟(じんえん)幽(かすか)に山深(ふかう)して鳥の声も稀(まれ)也(なり)。柴(しば)と云(いふ)物をかこいて家とし、芋野老(いもところ)を堀(ほつ)て渡世許(ばかり)なれば皇居(くわうきよ)に可成所もなく、供御(ぐご)に備(そなふ)べき其儲(そのまうけ)も難尋。角(かく)ては如何(いかが)可有なれば、吉野の大衆(だいしゆ)を語(かたら)ひて君を入進(いれまゐら)せんと思(おもひ)て、景繁則(すなはち)吉野へ行(ゆき)向ひ、当寺の宿老吉水(よしみづ)の法印(ほふいん)に此(この)由を申(まうし)ければ、満山(まんさん)の衆徒(しゆと)を語(かたら)ひ蔵王堂(ざわうだう)に集会(しゆゑ)して僉儀(せんぎ)しけるは、「古(いにし)へ清美原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大友(おほとも)の皇子に被襲、此(この)所に幸成(みゆきなり)しも、無程天下泰平(たいへい)を被致。其先蹤(そのせんしよう)に付(つい)て今仙蹕(せんひつ)を被促事(こと)、衆徒(しゆと)何ぞ異儀に可及乎(や)。就中(なかんづく)昨夜の光物(ひかりもの)臨幸の道を照(てら)す。是(これ)然(しかしながら)当山の鎮守(ちんじゆ)蔵王権現(ざわうごんげん)・小守(こもり)・勝手大明神(かつてのだいみやうじん)、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を擁護(おうご)し万乗(ばんじよう)の聖主を鎮衛(ちんゑ)し給ふ瑞光(ずゐくわう)也(なり)。暫くも不可有猶予。」とて、若大衆(わかだいしゆ)三百(さんびやく)余人(よにん)、皆甲冑(かつちう)を帯(たい)して御迎(おんむかひ)にぞ参りける。此外(このほか)楠帯刀(たてはき)正行(まさつら)・和田次郎・真木定観(まきのぢやうくわん)・三輪の西阿(せいあ)、紀伊(きの)国(くに)には、恩地(おんぢ)・牲河(にへかは)・貴志(きし)・湯浅、五百騎(ごひやくき)・三百騎(さんびやくき)、引(ひき)も切らず面々(めんめんに)馳参(はせまゐり)ける間、雲霞(うんか)の勢を腰輿(えうよ)の前後に囲(かこ)ませて、無程吉野へ臨幸(りんかう)なる。春雷(しゆんらい)一たび動く時、蟄虫(ちつちゆう)萌蘇(はうそ)する心地して、聖運忽(たちまち)に開けて、功臣既(すで)に顕(あらは)れぬと、人皆歓喜(くわんぎ)の思(おもひ)をなす。
○高野(かうや)与根来不和(ふくわの)事(こと) S1802
先帝花山(くわざんの)院(ゐん)を忍出(しのびいで)させ玉(たまひ)て吉野に潜幸(せんかう)成りしかば、近国の軍勢(ぐんぜい)は申(まうす)に不及、諸寺・諸社の衆徒・神官(じんぐわん)に至(いたる)まで、皆王化(わうくわ)に随(したがつ)て、或(あるひ)は軍用を支(ささ)へ、或(あるひ)は御祷(おんいのり)を致しけるに、根来(ねごろ)の大衆は一人も吉野へ参(まゐ)〔ら〕ず。是(これ)は必(かならず)しも武家を贔負(ひいき)して、公家を背申(そむきまうす)には非(あら)ず。此(この)君高野山を御崇敬有(ごそうきやうあつ)て、方々の所領を被寄、様々の御立願有(ごりふぐわんあり)と聞(きき)て、偏執(へんしふ)の心を挿(さしはさみ)ける故(ゆゑ)也(なり)。抑(そもそも)為釈門徒者は、以柔和宗(むね)とし以忍辱衣とする事にてこそあるに、根来と高野と、依何事是程(これほど)迄に霍執(くわくしつ)の心をば結ぶぞと、事の起(おこ)りを尋ぬれば、中比(なかごろ)高野伝法院(てんぽふゐん)に、覚鑁(かくばん)とて一人の上人御坐(おはし)けり。一度(いちど)三密瑜伽(さんみつゆか)の道場に入(いり)しより、永四曼不離(くしまんふり)の行業(ぎやうごふ)に不懈、観法(くわんぼふ)座(ざ)闌(たけなはに)して薫修(くんしゆ)年久しかりけるが、即身(そくしん)成仏と乍談、猶有漏(うろ)の身を不替事を歎(なげき)て、求聞持(くもんぢ)の法を七座迄行ふ。され共三品成就(さんほんじやうじゆ)の内、何(いづ)れを得たりとも覚(おぼえ)ざりければ、覚洞院(かくとうゐん)の清憲(せいけん)僧正(そうじやう)の室(しつ)に入(いり)、一印(いちいん)一明(いちみやう)を受(うけ)て、又百日(ひやくにち)行(おこな)ひ給ひければ、其(その)法忽(たちまち)に成就(じやうじゆ)して、自然(じねん)智を得給(たまひ)て、浅略深秘(せんりやくじんひ)の奥義(あうぎ)、不習底(そこ)を極(きは)め、不聞旨(むね)を開けり。爰(ここ)に我慢邪慢(がまんじやまん)の大天狗共(てんぐども)、如何にして人の心中に依託(えたく)して、不退(ふたい)の行学(ぎやうがく)を妨(さまたげ)んとしけれ共(ども)、上人定力(ぢやうりき)堅固(けんご)なりければ、隙(ひま)を伺(うかがふ)事(こと)を不得。されども或時上人温室(をんしつ)に入(いつ)て、瘡(かさ)をたでられけるが、心身快(こころよう)して纔(わづか)の楽(たのしみ)に婬著(いんぢやく)す。是(この)時天狗共(てんぐども)力を得て、造作魔(ざうさくま)の心をぞ付(つけ)たりける。是(これ)より覚鑁(かくばん)伝法院(てんぽふゐん)を建立(こんりふ)して、我門徒(わがもんと)を昌(さかん)にせばやと思ふ心懇(ねんごろ)に成(なり)ければ、鳥羽禅定(とばのぜんぢやう)法皇に経奏聞て、堂舎を立(たて)僧坊を作らる。されば一院の草創(さうさう)不日(ふじつ)に事成りし後、覚鑁(かくばん)上人忽(たちまち)に入定(にふぢやう)の扉(とぼそ)を閉(とぢ)て、慈尊(じそん)の出世五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんさい)の暁(あかつき)を待(まち)給ふ。高野(かうや)の衆徒等(しゆとら)是(これ)を聞(きき)て、「何条(なんでう)其御房(そのごばう)我慢の心にて被堀埋、高祖(かうそ)大師(だいし)の御入定(ごにふぢやう)に同じからんとすべき様(やう)やある。其(その)儀ならば一院を破却(はきやく)せよ。」とて、伝法院へ押寄せ堂舎を焼払(やきはら)ひ、御廟(ごべう)を堀破(ほりやぶつ)て是(これ)を見(みる)に、上人は不動明王(みやうわう)の形像(ぎやうざう)にて、伽楼羅炎(かるらえん)の内に座(ざ)し給へり。或若大衆(あるわかだいしゆ)一人走(わし)り寄(よつ)て、是(これ)を引立(ひきたて)んとするに、其(その)身磐石(ばんじやく)の如くにして、那羅延(ならえん)が力にても動(うごか)し難く、金剛(こんがう)の杵(しよ)も砕難(くだきがたく)ぞ見へたりける。悪僧等(あくそうら)猶是(これ)にも不恐、「穴(あな)こと/\し。如何なる古狸(ふるたぬき)・古狐(ふるきつね)なりとも、妖(ばく)る程ならば是(これ)にや劣(おと)るべき。よし/\真(まこと)の不動か、覚鑁(かくばん)が妖(ばけ)たる形か、打(うちて)見よ。」とて、大なる石を拾(ひろ)ひ懸(かけ)て十方より是(これ)を打(うつ)に、投(なぐ)る飛礫(つぶて)の声大日の真言(しんごん)に聞へて、曾(かつ)て其(その)身に不中、あらけて微塵(みぢん)に砕(くだけ)去る。是(この)時覚鑁(かくばん)、「去(され)ばこそ汝等(なんぢら)が打(うつ)処の飛礫(つぶて)、全く我(わが)身に中(あた)る事不可有。」と、少し■慢(けうまん)の心被起ければ、一(ひとつ)の飛礫(つぶて)上人の御額(おんひたひ)に中(あたつ)て、血の色漸(やうやく)にして見へたりけり。「さればこそ。」とて、大衆共(だいしゆども)同音にどつと笑ひ、各(おのおの)院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)へぞ帰りける。是(これ)より覚鑁(かくばん)上人の門徒(もんと)五百(ごひやく)坊(ばう)、心憂(こころうき)事(こと)に思(おもひ)て、伝法院の御廟を根来(ねごろ)へ移して、真言(しんごん)秘密の道場を建立(こんりふ)す。其(その)時の宿意(しゆくい)相残(あひのこつ)て、高野・根来の両寺、動(ややも)すれば確執(かくしつ)の心を挿(さしはさ)めり。
○瓜生(うりふ)挙旗事 S1803
去(さる)程(ほど)に、先帝は吉野に御座有(あつ)て、近国の兵馳(はせ)参る由聞へければ、京都の周章(しうしやう)は申(まうす)に不及、諸国の武士も又天下不穏と、安き心も無(なか)りけり。此(この)事(こと)已(すで)に一両月に及(および)けれ共(ども)、金崎(かねがさき)の城には出入(いでいり)絶(たえ)たるに依(よつ)て、知(しる)人も無(なか)りける処に、十一月二日の朝暖(あさなぎ)に、櫛川(くしかは)の島崎(しまさき)より金崎(かねがさき)を差(さし)て游(およぐ)者あり。海松(みる)・和布(わかめ)を被(かづ)く海士人(あまひと)か、浪に漂(ただよ)ふ水鳥かと、目を付(つけ)て是(これ)をみれば、其(それ)には非(あら)ずして、亘理(わたり)新左衛門(しんざゑもん)と云(いひ)ける者、吉野の帝(みかど)より被成たる綸旨(りんし)を、髻(もとどり)には結付(ゆひつけ)て游ぐにてぞ有(あり)ける。城の中の人々驚(おどろき)て、急ぎ開(ひらい)て見るに、先帝潜(ひそか)に吉野へ臨幸(りんかう)成(なつ)て、近国の士卒(じそつ)悉(ことごとく)馳参(はせまゐ)る間、不日(ふじつ)に京都を可被責由被載たり。寄手(よせて)は是(これ)を聞(きき)て、此際(このあひだ)隠(かく)しつる事を、城中(じやうちゆう)に早(はや)知(しり)ぬと不安思へば、城の内には助(たすけ)の兵共(つはものども)国々に出来(いできたつ)て、今に寄手(よせて)を追掃(おひはらひ)ぬと、悦(よろこび)の心(こころ)身に余(あま)れり。中にも瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)保(たもつ)、足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)の手に属(しよく)して金崎(かねがさき)の責口(せめくち)にあり。其弟(そのおとと)兵庫(ひやうごの)助(すけ)重(しげし)・弾正左衛門照(てらす)・義鑑房(ぎかんばう)三人(さんにん)は、未(いまだ)金崎(かねがさき)へは向(むか)はで、杣山(そまやま)の城に有(あり)けるが、去月十一日に、新田(につた)の人々北国へ被落たりし時、義鑑房が隠置(かくしおき)たりし、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の子息、式部(しきぶの)大輔(たいふ)義治(よしはる)を大将として、義兵を挙(あげ)んと日々夜々にぞ巧(たくみ)ける。兄の判官此(これ)事(こと)を聞(きき)て、「此(この)者共(ものども)若(もし)楚忽(そこつ)に謀叛を発(おこ)さば、我(われ)必(かならず)存知せぬ事は非じとて、金崎(かねがさき)にて討(うた)れぬ。」と思(おもひ)ければ、兄弟一(ひとつ)に成(なつ)てこそ、兎(と)も角(かく)も成(なら)めと思返(おもひかへ)して、哀(あはれ)同心する人あれかしと、壁(かべ)に耳を付(つけ)て、心を人の腹に置(おい)て、兎角(とかう)伺(うかが)ひ聞(きき)ける折節(をりふし)、陣屋を双(なら)べて居たりける宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)将監(しやうげん)と、天野(あまの)民部(みんぶの)大輔(たいふ)と寄合(よりあつ)て、四方山(よもやま)の雑談(ざふだん)の次(ついで)に、家々の旗の文共(もんども)を云沙汰(いひさた)しける処に、誰とは不知末座(まつざ)なる者、「二引両(ふたつひきりやう)と大中黒(おほなかぐろ)と、何(いづ)れか勝(すぐ)れたる文(もん)にて候覧(らん)。」と問(とひ)ければ、美濃(みのの)将監(しやうげん)、「文(もん)の善悪(ぜんあく)をば暫(しばらく)置く、吉凶を云(いふ)者、大中黒程目出(めでた)き文(もん)は非じと覚(おぼ)ゆ。其(その)故は前代の文(もん)に三鱗形(みついろこがた)をせられしが滅びて、今の世二引両(ふたつひきりやう)に成(なり)ぬ。是(これ)を又亡(ほろぼ)さんずる文(もん)は、一引両(ひとつひきりやう)にてこそあらんずらん。」と申(まうし)ければ、天野(あまの)民部(みんぶの)大輔(たいふ)、「勿論(もちろんに)候、周易(しうえき)と申(まうす)文(ふみ)には、一文字(いちもんじ)をばかたきなしと読(よみ)て候なる。されば此御文(このごもん)は、如何様(いかさま)天下を治めて、五畿七道を悉(ことごとく)敵無(なき)世に成(なし)ぬと覚(おぼえ)て候。」と、文字に付(つき)て才学(さいかく)を吐(はき)ければ、又傍(かたは)らなる者の、「天に口なし以人云(いは)しむ。」と、無憚所笑戯(わらひたはむ)れければ、瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)是(これ)を聞(きき)て、「さては此(この)人々も、野心(やしん)を挿(さしはさ)む所存有(あり)けり。」と、嬉(うれし)く思(おもひ)て、常に酒を送り茶を進(すすめ)て連々(れんれん)に睦近付(むつびちかづき)て後、大儀(たいぎ)を思立(おもひたち)候由を語りければ、宇都宮(うつのみや)も天野(あまの)も、「子細(しさい)非じ。」とぞ同じける。さらば軈(やが)て杣山(そまやま)へ帰(かへつ)て旗を挙(あげ)んと評定(ひやうぢやう)しける処に、諸国の軍勢共(ぐんぜいども)、暇(いとま)をも不乞、己(おのれ)が所領へ抜々(ぬけぬけ)に帰りけるを押留(おしとど)めん為に、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)、四方(しはう)の口々に堅く兵士(ひやうし)を居(すゑ)て人を不通。若(もし)は所用ありて、此(この)道を通る人は、師泰(もろやす)が判形(はんぎやう)を取(とつ)てぞ通(とほ)りける。瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)、さらば此関(このせき)を謀(たばかつ)て通らんと思(おもひ)て、越後(ゑちごの)守(かみ)の許(もと)に行(ゆき)て、「御馬(おんむま)の大豆(まめ)を召進(めしまゐら)せん為に、杣山(そまやま)へ人夫(にんぶ)を百五十人(ひやくごじふにん)可遣候。関所(せきところ)の御札(ふだ)を給(たまは)り候へ。」と云(いひ)ければ、師泰が執事(しつじ)山口入道、杉板を札(ふだ)に作(つくつ)て、「此(この)人夫百五十人(ひやくごじふにん)可通。」と書(かき)て判を居(すゑ)てぞ出(いだ)しける。瓜生(うりふ)此(この)札を請取(こひとつ)て、下なる判形許(はんぎやうばかり)を残し置(おき)て、上なる文字を皆押削(おしけづり)て、「上下三百人(さんびやくにん)可通。」と書直(かきなほ)し、宇都宮(うつのみや)・天野相共(あひとも)に、三山寺(みやまてら)の関所(せきところ)を無事故通(とほり)てげり。瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)杣山(そまやま)に帰りければ、三人(さんにん)の弟共(おととども)大(おほき)に悦(よろこび)て、軈(やがて)式部(しきぶの)大輔(たいふ)義治(よしはる)を大将として、十一月八日飽和(あくわ)の社(やしろ)の前にて中黒(なかぐろ)の旗を挙(あげ)ける程(ほど)に、去(さん)ぬる十月坂本(さかもと)より落下(おちくだり)ける軍勢(ぐんぜい)、此彼(ここかしこ)に隠居(かくれゐ)たりけるが、此(この)事(こと)を聞(きき)て何(いつ)の間(ま)にか馳来(はせきた)りけん、無程千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。則(すなはち)其(その)勢(せい)を五百(ごひやく)余騎(よき)差分(さしわけ)て、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)・湯尾(ゆのを)の峠(たうげ)に関(せき)を居(すゑ)て、北国の道を差塞(さしふさぐ)。昔の火打(ひうち)が城の巽(たつみ)に当る山の、水木足(たつ)て嶮(けはし)く峙(そばだち)たる峯(みね)を攻(つめ)の城に拵(こしらへ)て、兵粮七千(しちせん)余石(よこく)積篭(つみこめ)たり。是(これ)は千万(せんまん)蒐合(かけあひ)の軍(いくさ)に打負(うちまく)る事あらば、楯篭(たてこも)らん為の用意(ようい)也(なり)。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)は此(この)由を聞(きき)て、「若(もし)遅(おそ)く退治せば、剣(つるぎ)・白山(しらやま)の衆徒等(しゆとら)成合(なりあひ)て、由々敷(ゆゆしき)大事(だいじ)なるべし、時を不替杣山(そまやま)を打(うち)落して、金崎(かねがさき)の城を心安く可責。」とて、能登・加賀・越中三箇国(さんかこく)の勢六千(ろくせん)余騎(よき)を、杣山(そまやま)の城へぞ差向(さしむけ)ける。瓜生(うりふ)是(これ)を聞(きき)て、敵の陣を要害に取(とら)せじとて、新道(しんだう)・今庄(いまじやう)・桑原・宅良(たくら)・三尾(みつのを)・河内(かはのうち)四五里が間の在家(ざいけ)を一宇(いちう)も不残焼払(やきはらつ)て、杣山(そまやま)の城の麓なる湯尾(ゆのを)の宿許(しゆくばかり)をば、態(わざと)焼残(やきのこ)してぞ置(おき)たりける。去(さる)程(ほど)に、十一月二十三日(にじふさんにち)、寄手(よせて)六千(ろくせん)余騎(よき)、深雪(じんせつ)に橇(がんじき)をも懸(かけ)ず、山路(やまぢ)八里を一日に越(こえ)て、湯尾(ゆのを)の宿(しゆく)にぞ著(つい)たりける。此(ここ)より杣山(そまやま)へは五十町(ごじつちよう)を隔(へだて)て、其際(そのあいだ)に大河あり。日暮(くれ)て路に歩(あゆ)み疲(つか)れぬ、明日こそ相近付(あひちかづい)て、矢合(やあはせ)をもせめとて、僅(わづか)なる在家(ざいけ)に攻(つま)り居(ゐ)て、火を焼(たき)身を温(あたた)めて、前後も不知して寝(ね)たりける。瓜生(うりふ)は兼(かね)て案(あん)の図(づ)に敵を谷底へ帯(おび)き入(いれ)て、今はかうと思(おもひ)ければ、其(その)夜の夜半許(やはんばかり)に、野伏(のぶし)三千人(さんぜんにん)を後(うしろ)の山へあげ、足軽(あしがる)の兵七百(しちひやく)余人(よにん)左右へ差回(さしまは)して、鬨声(ときのこゑ)をぞ揚(あげ)たりける。寝(ね)をびれたる寄手共(よせてども)、時声(ときのこゑ)に驚(おどろい)て周章翊(あわてふため)く処へ、宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)の両党乱入(みだれいつ)て、家々に火を懸(かけ)たれば、物具(もののぐ)したる者は太刀を不取、弓を持(もち)たる者は矢を不矯。五尺(ごしやく)余(あまり)降積(ふりつもつ)たる雪の上に橇(がんじき)も不懸して走出(わしりいで)たれば、胸の辺迄(へんまで)落入(おちいつ)て、足を抜(ぬか)んとすれ共不叶。只(ただ)泥(どろ)に粘(ねられ)たる魚の如(ごとく)にて、被生虜者三百(さんびやく)余人(よにん)、被討者は不知数を。希有(けう)にして逃延(にげのび)たる人も、皆物具(もののぐ)を捨(す)て、弓箭(ゆみや)を失はぬ者は無(なか)りけり。
○越前(ゑちぜんの)府(ふの)軍(いくさ)並(ならびに)金崎(かねがさき)後攻(ごづめの)事(こと) S1804
北国の道塞(ふさがつ)て、後(うしろ)に敵あらば、金崎(かねがさき)を責(せめ)ん事難儀なるべし。如何にもして杣山(そまやま)の勢を、国中へはびこらぬ様(やう)にせでは叶(かなふ)まじとて、尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)、北陸道(ほくろくだう)四箇国(しかこく)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して、十一月二十八日に、蕪木(かぶらき)の浦より越前の府(ふ)へ帰(かへり)給ふ。瓜生此(この)事(こと)を聞(きき)て、敵に少しも足をためさせては悪(あし)かるべしとて、同(おなじき)二十九日に、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄せ、一日(いちにち)一夜(いちや)責戦(せめたたかひ)て、遂に高経が楯篭(たてごもつ)たる新善光寺(しんぜんくわうじ)の城を責(せめ)落す。此(この)時又被討者三百(さんびやく)余人(よにん)、生虜(いけどり)百三十人(さんじふにん)が首(くび)を刎(はね)て、帆山河原(ほやまかはら)に懸並(かけなら)ぶ。夫(それ)より式部(しきぶの)大輔(たいふ)義治(よしはる)勢(いきほ)ひ漸く近国に振ひければ、平泉寺(へいせんじ)・豊原(といはら)の衆徒、当国他国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)、引出物(ひきでもの)を捧(ささ)げ酒肴(さけさかな)を舁(かか)せて、日々に群集(くんじゆ)しけれども、義治よに無興(ぶきよう)げなる体(てい)にのみ見へ給(たまひ)ければ、義鑑房御前(おんまへ)に近(ちかづい)て、「是(これ)程目出(めでた)き砌(みぎり)にて候に、などや勇みげなる御気色(ごきしよく)も候はぬやらん。」と申(まうし)ければ、義治袖掻収(かきをさ)め給(たまひ)て、「御方(みかた)両度の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て、敵を多く亡(ほろぼ)したる事(こと)、尤(もつとも)可悦処なれ共(ども)、春宮(とうぐう)を始進(はじめまゐら)せて、当家(たうけ)の人々金崎(かねがさき)の城に被取篭御座(ごさ)あれば、さこそ兵粮にも詰(つま)り戦(たたかひ)にも苦(くるし)みて、心安き隙(ひま)もなく御坐(おは)すらめと想像(おもひやり)奉る間、酒宴に臨め共(ども)楽(たのし)む心も候はず。」と宣へば、義鑑房畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「其(その)事(こと)にて候はゞ、御心(おんこころ)安く被思召候へ。此間(このあひだ)は余(あま)りに雪吹(ふぶき)烈(はげし)くして、長途(ちやうど)の歩立(かちだち)難儀に候間(あひだ)、天気の少し晴るゝ程を相待(あひまつ)にて候。」とて、感涙を押(おさ)へながら御前(おんまへ)をぞ立(たち)にける。宇都宮(うつのみや)と小野寺(をのでら)と牆越(かきごし)に是(これ)を聞(きき)て、「好堅樹(かうけんじゆ)は地の底に有(あつ)て芽(げ)百囲(ひやくゐ)をなし、頻伽羅(びんぎやら)は卵(かひこ)の中に有(あつ)て声(こゑ)衆鳥に勝(すぐ)れたり」といへり。此(この)人丈夫(ぢやうぶ)の心ねをはして、加様(かやう)に思ひ給(たまひ)けるこそ憑(たのも)しけれ。さらば軈(やが)て金崎(かねがさき)の後攻(ごづめ)をすべし。」とて、兵(つはもの)を集め楯を作(はが)せて、さ程雪の降(ふら)ぬ日を門出(かどで)にしてぞ相待(あひまち)ける。正月七日椀飯(わうばん)事(こと)終(をはり)て、同十一日雪晴(はれ)風止(やみ)て、天気少し長閑(のどか)なりければ、里見(さとみ)伊賀(いがの)守(かみ)を大将として、義治(よしはる)五千(ごせん)余人(よにん)を金崎(かねがさき)の後攻(ごづめ)の為に敦賀(つるが)へ被差向。其(その)勢(せい)皆雪吹(ふぶき)の用意(ようい)をして、物具(もののぐ)の上に蓑笠(みのかさ)を著(き)、踏組(ふぐつ)の上に橇(がんじき)を履(ふん)で、山路(やまぢ)八里が間の雪蹈分(ふみわけ)て、其(その)日(ひ)桑原迄ぞ寄(よせ)たりける。高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)も兼(かね)て用意(ようい)したる事なれば、敦賀津(つるがのつ)より二十(にじふ)余町(よちやう)東に当(あたつ)て、究竟(くつきやう)の用害(ようがい)の有(あり)ける処へ、今河(いまがは)駿河(するがの)守(かみ)を大将として、二万(にまん)余騎(よき)を差向(さしむけ)て、所々(しよしよ)に掻楯(かいだて)掻(かか)せて、今や寄(よす)ると待懸(まちかけ)たり。夜明(あけ)ければ先(まづ)一番に、宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)両党三百(さんびやく)余人(よにん)押寄(おしよせ)て、坂中(さかなか)なる敵千(せん)余人(よにん)を遥(はるか)の峯へ巻(まく)り上(あげ)て、軈(やがて)二陣の敵に蒐(かか)らんとしけるが、両方の峯なる大勢に被射立、北なる峯へ引退(ひきしりぞ)く。二番に瓜生(うりふ)・天野(あまの)・斉藤・小野寺七百(しちひやく)余騎(よき)、鋒(きつさき)を調(そろ)へて上(あが)りけるに、駿河(するがの)守(かみ)の堅めたる陣を三箇所(さんかしよ)被追破、はつと引(ひき)ける処へ、越後(ゑちごの)守(かみ)が勢三千(さんぜん)余騎(よき)、荒手(あらて)に代(かはつ)て相(あひ)戦ふ処に、瓜生・小野寺が勢又追立(おつたて)られて、宇都宮(うつのみや)と一(ひとつ)に成(なら)んと、傍(そば)なる峯へ引上(ひきあが)りけるを、里見(さとみ)伊賀(いがの)守(かみ)僅(わづか)の勢にて、「蓬(きたな)し、返せ。」とて横合(よこあひ)に進まれたり。敵是(これ)を大将よと見てんげれば、自余(じよ)の葉武者(はむしや)には懸(かか)らず、をつ取篭(とりこめ)て討(うた)んとしけるを、瓜生と義鑑房と屹(きつ)と見て、「我等爰(ここ)にて討死せでは御方(みかた)の勢(せい)は助(たすか)るまじき処ぞ。」と自嘆(じたん)して、只二人(ににん)打(うつ)て蒐(かか)り、敵の中へ破(わつ)て入(いら)んとするを見て、判官が弟(おとと)林(はやしの)次郎入道源琳(げんりん)・同(おなじき)舎弟兵庫(ひやうごの)助(すけ)重(しげし)・弾正左衛門照(てらす)三人(さんにん)是(これ)を見て、遥(はるか)に落延(おちのび)たりけるが、共に討死(うちじに)せんと取(とつ)て返(かへ)しけるを、義鑑房(ぎかんばう)尻目(しりめ)に睨(にらん)で、「日来(ひごろ)再三謂(いひ)し事をば何(いつ)の程(ほど)に忘れけるぞ。我等(われら)二人(ににん)討死したらんは、永代の負(まけ)にて有(あら)んずるを、思篭(おもひこむ)る心の無(なか)りける事の云(いふ)甲斐なさよ。」と、あらゝかに申留(まうしとど)めける間、三人(さんにん)の者共(ものども)、現(げ)もと思返(おもひかへ)して少し猶予(いうよ)しける間、大勢の敵に中(なか)を被押隔、里見(さとみ)・瓜生・義鑑房三人(さんにん)は一所(いつしよ)にて被討にけり。桑原より深雪(じんせつ)を分(わけ)て重鎧(おもよろひ)に肩をひける者共(ものども)、数刻(すこく)の合戦に入替(いりかは)る勢もなく戦疲(たたかひつか)れければ、返さんとするに力尽(つ)き引(ひか)んとするに足たゆみぬ。されば此彼(ここかしこ)に引延(ひきのび)て、腹を切(きる)者数(かず)を不知(しらず)。適(たまたま)落延(おちのぶ)る兵(つはもの)も、弓矢・物具(もののぐ)を棄(すて)ぬはなし。「さてこそ先日(せんじつ)府(ふ)・鯖並(さばなみ)の軍(いくさ)に多く捨(すて)たりし兵具共(ひやうぐども)をば、今皆取返(とりかへし)たれ。」と、敦賀(つるが)の寄手共(よせてども)は笑(わらひ)ける。是程(これほど)に不定(ふぢやう)の人間、化(あだ)なる身命を資(たすからん)とて、互に罪業(ざいごふ)を造(つく)り、長き世の苦(くるし)みを受(うけ)ん事こそ浅猿(あさまし)けれ。
○瓜生判官(うりふはうぐわん)老母(らうぼが)事(こと)付(つけたり)程嬰(ていえい)杵臼(しよきうが)事(こと) S1805
去(さる)程(ほど)に、敗軍(はいぐん)の兵共(つはものども)杣山(そまやま)へ帰(かへり)ければ、手負(ておひ)・死人の数を註(しる)すに、里見(さとみ)伊賀(いがの)守(かみ)・瓜生兄弟・甥(をひ)の七郎(しちらう)が外(ほか)、討死する者五十三人(ごじふさんにん)蒙疵者五百(ごひやく)余人(よにん)也(なり)。子は父に別れ弟(おとと)は兄に殿(おく)れて、啼哭(ていこく)する声家々に充満(みちみちた)り。去共(されども)瓜生判官が老母(らうぼ)の尼公(にこう)有(あり)けるが、敢(あへ)て悲(かなし)める気色(きしよく)もなし。此尼公(このにこう)大将義治の前に参(まゐつ)て、「此(この)度敦賀(つるが)へ向ふて候者共(ものども)が不覚(ふかく)にてこそ里見殿(さとみどの)を討(うた)せ進(まゐら)せて候へ。さこそ被思召候らめと、御心中推量(おしはか)り進(まゐら)せて候。但(ただし)是(これ)を見ながら、判官兄弟何(いづ)れも無恙してばし帰り参りて候はゞ、如何に今一入(ひとしほ)うたてしさも無遣方候べきに、判官が伯父(をぢ)・甥(をひ)三人(さんにん)の者、里見殿(さとみどの)の御供(おんとも)申し、残(のこり)の弟(おとと)三人(さんにん)は、大将の御為に活(いき)残りて候へば、歎(なげき)の中(うち)に悦(よろこび)とこそ覚(おぼえ)て候へ。元来上(うへ)の御為に此(この)一大事(いちだいじ)を思立候(おもひたちさふらひ)ぬる上は、百千の甥子共(をひこども)が被討候(さうらふ)共(とも)、可歎にては候はず。」と、涙を流して申(まうし)つゝ、自(みづから)酌(しやく)を取(とつ)て一献(いつこん)を進め奉りければ、機(き)を失へる軍勢(ぐんぜい)も、別(わかれ)を歎く者共(ものども)も、愁(うれへ)を忘れて勇(いさ)みをなす。抑(そもそも)義鑑房が討死しける時、弟(おとと)三人(さんにん)が続(つづい)て返しけるを、堅く制(せい)し留(とど)めける謂(いは)れを如何にと尋ぬれば、此(この)義鑑房合戦に出(いで)ける度毎(たびごと)に、「若(もし)此軍(このいくさ)難儀に及(およ)ばゞ、我等(われら)兄弟の中に一両人は討死をすべし。残(のこり)の兄弟は命を全(まつたく)して、式部(しきぶの)大輔(たいふ)殿(どの)を取立進(とりたてまゐら)すべし。」とぞ申(まうし)ける。是(これ)も古(いにし)への義を守り人を規(のり)とせし故(ゆゑ)也(なり)。昔(むかし)秦(しん)の世に趙盾(てうとん)・智伯(ちはく)と云(いひ)ける二人(ににん)、趙(てう)の国を諍(あらそ)ふ事年久し。或時(あるとき)智伯(ちはく)已(すで)に趙盾(てうとん)がために被取巻、夜明(あけ)なば討死せんとしける時、智伯(ちはく)が臣程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)と云(いひ)ける二人(ににん)の兵(つはもの)を呼寄(よびよせ)て、「我(われ)已(すで)に運命極迄(きはまりいたつて)趙盾に囲(かこ)まれぬ。夜明(あけ)ば必(かならず)討死すべし。汝等我に真実(しんじつ)の志深くば、今夜潜(ひそか)に城を逃出(にげいで)て、我(わが)三歳の孤(みなしご)を隠置(かくしおい)て、長(ひとと)ならば趙盾を亡(ほろぼ)して、我(わが)生前の恥を雪(きよ)むべし。」とぞ宣ひける。程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)是(これ)を聞(きき)て、「臣等主君と共に討死仕(つかまつら)ん事は近(ちかう)して易(やす)し。三歳の孤(みなしご)を隠(かく)して命を全(まつたう)せん事は遠(とほく)して難(かた)し。雖然、為臣道豈(あに)易(やすき)を取(とつ)て難(かた)きを捨(すて)ん哉(や)。必(かならず)君の仰(おほせ)に可随。」とて、程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)は、潜(ひそか)に其(その)夜紛(まぎ)れて城を落(おち)にけり。夜明(あけ)ければ、智伯(ちはく)忽(たちまち)に討死して残る兵(つはもの)も無(なか)りしかば、多年諍(あらそ)ひし趙(てうの)国(くに)終(つひ)に趙盾(てうとん)に随ひけり。爰(ここ)に程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)二人(ににん)は、智伯(ちはく)が孤(みなしご)を隠(かく)さんとするに趙盾是(これ)を聞付(ききつけ)て、討(うた)んとする事頻(しきり)也(なり)。程嬰(ていえい)是(これ)を恐れて、杵臼(しよきう)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「旧君(きうくん)三歳の孤(みなしご)を以て、此(この)二人(ににん)の臣に託(たくし)たり。されば死(しし)て敵を欺(あざむ)かんと、暫(しばら)く命(いのち)を生(いき)て孤(みなしご)を取立(とりたて)んと、何(いづ)れか難(かた)かるべき。」杵臼(しよきう)が云(いは)く、「死は一心の義に向ふ処に定(さだま)り、生(せい)は百慮(はくりよ)の智を尽(つく)す中に全(まつた)し。然(しから)ば吾(われ)生(せい)を以て難(かた)しとす。」と。程嬰(ていえい)、「さらば吾(われ)は難(かた)きに付(つい)て命を全(まつたう)すべし。御辺(ごへん)は易(やす)きに付(つい)て討死せらるべし。」と云(いふ)に、杵臼(しよきう)悦(よろこん)で許諾(きよだく)す。「さらば謀(はかりこと)を回(めぐら)すべし。」とて、杵臼(しよきう)我(わが)子の三歳に成(なり)けるを旧主(きうしゆ)の孤(みなしご)なりと披露(ひろう)して、是(これ)を抱(いだ)きかゝへ、程嬰(ていえい)は主(しゆ)の孤(みなしご)三(みつつ)になるを我(わが)子なりと云(いひ)て、朝夕是(これ)を養育(やういく)しける。角(かく)て杵臼(しよきう)は山深き栖(すみか)に隠(かく)れ、程嬰(ていえい)は趙盾が許(もと)に行(ゆき)て、可降参由を申(まうす)に、趙盾猶(なほ)も心を置(おき)て是(これ)を不許。程嬰(ていえい)重(かさね)て申(まうし)けるは、「臣は元(もと)智伯(ちはく)が左右に仕(つか)へて、其行跡(そのふるまひ)を見しに、遂(つひ)に趙(てう)の国を失はんずる人なりとしれり。遥(はるか)に君の徳恵(とくけい)を聞(きく)に、智伯(ちはく)に勝(すぐ)れ給へる事千里を隔(へだて)たり。故(ゆゑ)に臣苟(いやしく)も趙盾に仕へん事を乞(こふ)。豈(あに)亡国の先人(せんじん)の為に有徳(いうとく)の賢君(けんくん)を謀(たばか)らんや。君若(もし)我(われ)をして臣たる道を許されば、亡君智伯(ちはく)が孤(みなしご)三歳になる此(ここ)にあり。杵臼(しよきう)が養育深く隠置(かくしおき)たる所我(われ)具(つぶさ)にしれり。君是(これ)を失(うしなは)せ給ひ、趙国を永く令安給へ。」とぞ申(まうし)たりける。趙盾是(これ)を聞(きき)給ひて、さては程嬰(ていえい)不偽吾が臣とならんと思(おもひ)けると信じて、程嬰(ていえい)に武官を授(さづけ)て、あたり近く被召仕けり。さて杵臼(しよきう)が隠(かく)したる所を委(くはしく)尋聞(たづねきき)て、数千騎(すせんぎ)の兵(つはもの)を差遣(さしつかは)して是(これ)を召捕(めしと)らんとするに、杵臼(しよきう)兼(かね)て相謀(あひはかり)し事なれば、未(いまだ)膝の上なる三歳の孤(みなしご)を差(さし)殺して、「亡君智伯(ちはく)の孤(みなしご)運命拙(つたなう)して謀(はかりごと)已(すで)に顕(あらは)れぬ。」と喚(よばはつ)て、杵臼(しよきう)も腹掻切(かききつ)て死(しし)にけり。趙盾(てうとん)今より後(のち)は吾(わが)子孫の代を傾(かたぶ)けんとする者は非じと悦(よろこん)で、弥(いよいよ)程嬰(ていえい)に心をも不置。剰(あまつさへ)大禄を与へ高官を授(さづけ)て国の政(まつりごと)を令司。爰(ここ)に智伯(ちはく)が孤(みなしご)程嬰(ていえい)が家に長(ひととな)りしかば、程嬰(ていえい)忽(たちまち)に兵を発(おこ)して三年が中(うち)に趙盾を亡(ほろぼ)し、遂(つひ)に智伯(ちはく)が孤(みなしご)に趙(てうの)国(くに)を保(たも)たせり。此(この)大功然(しかしながら)程嬰(ていえい)が謀(はかりこと)より出(いで)しかば、趙王(てうわう)是(これ)を賞して大禄を与へんとせらる。程嬰(ていえい)是(これ)を不請。「我(われ)官に昇(のぼ)り禄(ろく)を得て卑(いやし)くも生(せい)を貪(むさぼ)らば、杵臼(しよきう)と倶に計(はかり)し道に非(あら)ず。」とて杵臼(しよきう)が尸(かばね)を埋(うづみ)し古き墳(つか)の前にて、自(みづから)剣(けん)の上に伏(ふし)て、同苔(おなじこけ)にぞ埋(うづも)れける。されば今の保(たもつ)と義鑑房(ぎかんばう)と討死(うちじに)す。古(いにし)への程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)が振舞にも劣(おと)るべしとも云(いひ)がたし。
○金崎(かねがさきの)城(じやう)落(おつる)事(こと) S1806
金崎(かねがさきの)城(じやう)には、瓜生(うりふ)が後攻(ごづめ)をこそ命に懸(かけ)て待(また)れしに、判官打負(うちまけ)て、軍勢(ぐんぜい)若干(そくばく)討(うた)れぬと聞へければ、憑(たのむ)方(かた)なく成(なり)はて、心細(ぼそく)ぞ覚(おぼえ)ける。日々に随(したがつ)て兵粮乏(とぼし)く成(なり)ければ、或(あるひ)は江魚(えのうを)を釣(つり)て飢(うゑ)を資(たす)け、或(あるひ)は礒菜(いそな)を取(とつ)て日を過(すご)す。暫(しば)しが程こそ加様(かやう)の物に命を続(つい)で軍(いくさ)をもしけれ。余(あま)りに事迫(つま)りければ、寮(れう)の御馬(おんむま)を始(はじめ)として諸大将(しよだいしやう)の被立たる秘蔵(ひさう)の名馬(めいば)共(ども)を、毎日一疋(いつぴき)づゝ差殺(さしころ)して、各是(これ)をぞ朝夕の食(じき)には当(あて)たりける。是(これ)に付(つけ)ても後攻(ごづめ)する者なくては、此(この)城(じやう)今十日とも堪(こらへ)がたし。総大将(そうだいしやう)御兄弟(ごきやうだい)窃(ひそか)に城を御出(おんいで)候(さふらひ)て杣山(そまやま)へ入(いら)せ給ひ、与力(よりき)の軍勢(ぐんぜい)を被催て、寄手(よせて)を被追払候へかしと、面々(めんめん)に被勧申ければ、現(げ)にもとて、新田左中将(さちゆうじやう)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・河島(かうしま)左近(さこんの)蔵人惟頼(これより)を案内者(あんないしや)にて上下七人(しちにん)、三月五日の夜半許(やはんばかり)に、城を忍(しの)び抜出(ぬけい)て杣山(そまやま)へぞ落著(おちつか)せ給ひける。瓜生・宇都宮(うつのみや)不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、今一度(いちど)金崎(かねがさき)へ向(むかつ)て、先度(せんど)の恥を雪(きよ)め城中(じやうちゆう)の思(おもひ)を令蘇せと、様々思案を回(めぐら)しけれども、東風漸(やうやく)閑(しづか)に成(なつ)て山路の雪も村消(むらぎえ)ければ、国々の勢も寄手(よせて)に加(くははり)て兵十万騎(じふまんぎ)に余れり。義貞の勢(せい)は僅(わづか)に五百(ごひやく)余人(よにん)、心許(ばかり)は猛(たけ)けれ共(ども)、馬・物具(もののぐ)も墓々(はかばか)しからねば、兎(と)やせまし角(かく)やせましと身を揉(もう)で、二十日(はつか)余(あま)りを過(すご)しける程(ほど)に、金崎(かねがさき)には、早(はや)、馬共をも皆食尽(くひつく)して、食事(しよくじ)を断(た)つ事十日許(ばかり)に成(なり)にければ、軍勢共(ぐんぜいども)も今は手足もはたらかず成(なり)にけり。爰(ここ)に大手(おほて)の攻口(せめくち)に有(あり)ける兵共(つはものども)、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)が前に来(きたつ)て、「此(この)城(じやう)は如何様(いかさま)兵粮に迫(つま)りて馬をばし食(くひ)候やらん。初め比(ごろ)は城中(じやうちゆう)に馬の四五十疋(しごじつぴき)あるらんと覚(おぼ)へて、常に湯洗(ゆあらひ)をし水を蹴(け)させなんどし候(さふらひ)しが、近来(このごろ)は一疋(いつぴき)も引出(ひきだ)す事も候はず。哀(あつぱれ)一攻(ひとせめ)せめて見候はばや。」と申(まうし)ければ、諸大将(しよだいしやう)、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻(うのこく)に、大手・搦手(からめて)十万騎(じふまんぎ)、同時に切岸(きりきし)の下、屏際(へいきは)にぞ付(つけ)たりける。城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)是(これ)を防(ふせが)ん為に、木戸(きど)の辺迄(へんまで)よろめき出(いで)たれ共(ども)、太刀を仕(つか)ふべき力もなく、弓を挽(ひく)べき様(やう)も無(なけ)れば、只徒(いたづら)に櫓(やぐら)の上に登り、屏(へい)の陰(かげ)に集(あつまり)て、息つき居たる許(ばかり)也(なり)。寄手共(よせてども)此(この)有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻(せめ)落さん。」とて、乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけ屏(へい)を打破(うちやぶつ)て、三重(さんぢゆう)に拵(こしらへ)たる二の木戸(きど)迄ぞ攻入(せめいり)ける。由良(ゆら)・長浜二人(ににん)、新田越後(ゑちごの)守(かみ)の前に参(さん)じて申(まうし)けるは、「城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)数日(すじつ)の疲(つか)れに依(よつ)て、今は矢の一(ひとつ)をも墓々敷(はかばかしく)仕(つかまつり)得候はぬ間、敵既(すで)に一二の木戸(きど)を破(やぶつ)て、攻近付(せめちかづい)て候也(なり)。如何(いかに)思食共(おぼしめすとも)叶(かなふ)べからず。春宮(とうぐう)をば小舟にめさせ進(まゐら)せ、何(いづ)くの浦へも落(おと)し進(まゐら)せ候べし。自余(じよ)の人々は一所(いつしよ)に集(あつまり)て、御自害(ごじがい)有(ある)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)程は我等責口(せめくち)へ罷向(まかりむかつ)て、相支(あひささへ)候べし。見苦(みぐる)しからん物共をば、皆海へ入(いれ)させられ候へ。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)を立(たち)けるが、余(あま)りに疲れて足も快(こころよ)く立(たた)ざりければ、二の木戸の脇(わき)に被射殺伏(ふし)たる死人(しにん)の股(もも)の肉を切(きつ)て、二十(にじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)一口づゝ食(くう)て、是(これ)を力にしてぞ戦(たたかひ)ける。河野(かうの)備後(びんごの)守(かみ)は、搦手(からめて)より責入(せめいる)敵を支(ささへ)て、半時計(はんじばかり)戦(たたかひ)けるが、今はゝや精力(せいりよく)尽(つき)て、深手(ふかで)余多(あまた)負(おひ)ければ、攻口(せめくち)を一足(ひとあし)も引退(ひきしりぞ)かず、三十二人(さんじふににん)腹切(きつ)て、同枕(おなじまくら)にぞ伏(ふし)たりける。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)は、一宮(いちのみや)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、「合戦の様(やう)今は是(これ)までと覚(おぼ)へ候。我等無力弓箭(きゆうせん)の名を惜(をし)む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様(うへさま)の御事(おんこと)は、縦(たとひ)敵の中へ御出(おんいで)候(さうらふ)共(とも)、失ひ進(まゐら)するまでの事はよも候はじ。只加様(かやう)にて御座(ござ)有(ある)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、一宮(いちのみや)何(いつ)よりも御快気(おんこころよげ)に打笑(うちゑま)せ給(たまひ)て、「主上(しゆしやう)帝都へ還幸(くわんかう)成(なり)し時、以我元首(ぐわんしゆの)将とし、以汝令為股肱臣。夫(それ)無股肱元首(ぐわんしゆ)持(もつ)事(こと)を得んや。されば吾(われ)命を白刃(はくじん)の上に縮(しじ)めて、怨(あた)を黄泉(くわうせん)の下(もと)に酬(むく)はんと思(おもふ)也(なり)。抑(そもそも)自害をば如何様(いかさま)にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕(よしあき)感涙を押(おさ)へて、「加様(かやう)に仕る者にて候。」と申(まうし)もはてず、刀を抜(ぬい)て逆手(さかて)に取直し、左の脇に突立(つきたて)て、右の小脇のあばら骨二三枚懸(かけ)て掻破(かきやぶ)り、其(その)刀を抜(ぬい)て宮の御前(おんまへ)に差置(さしおき)て、うつぶしに成(なつ)てぞ死(しし)にける。一宮(いちのみや)軈(やが)て其(その)刀を被召御覧ずるに、柄口(つかぐち)に血余(あま)りすべりければ、御衣(ぎよい)の袖にて刀の柄(つか)をきり/\と押巻(おしまか)せ給(たまひ)て、如雪なる御膚(おんはだへ)を顕(あらは)し、御心(おんむね)の辺(へん)に突立(つきたて)、義顕が枕の上に伏させ給ふ。頭大夫(とうのだいぶ)行房(ゆきふさ)・里見(さとみ)大炊助(おほいのすけ)時義(ときよし)・武田(たけだの)与一・気比(けひの)弥三郎大夫(たいふ)氏治(うぢはる)・大田帥(おほたそつの)法眼(ほふげん)以下(いげ)御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、いざゝらば宮の御供(おんとも)仕らんとて、同音に念仏唱(となへ)て一度(いちど)に皆腹を切る。是(これ)を見て庭上(ていじやう)に並(なみ)居たる兵(つはもの)三百(さんびやく)余人(よにん)、互に差違(さしちがへ)々々(さしちがへ)弥(いや)が上に重伏(かさなりふす)。気比大宮司(けひのだいぐうじ)太郎は、元来力人に勝(すぐれ)て水練(すゐれん)の達者なりければ、春宮(とうぐう)を小舟に乗進(のせまゐら)せて、櫓(ろ)かいも無(なけ)れ共(ども)綱手(つなで)を己(おのれ)が横手綱(よこてつな)に結付(ゆひつけ)、海上三十(さんじふ)余町(よちやう)を游(およい)で蕪木(かぶらき)の浦へぞ著進(つけまゐら)せける。是(これ)を知(しる)人更(さら)に無(なか)りければ、潜(ひそか)に杣山(そまやま)へ入進(いれまゐら)せん事は最(いと)安かりぬべかりしに、一宮(いちのみや)を始進(はじめまゐら)せて、城中(じやうちゆうの)人々不残自害する処に、我(われ)一人逃(にげ)て命を活(いき)たらば、諸人の物笑(ものわらひ)なるべしと思(おもひ)ける間、春宮(とうぐう)を怪(あや)しげなる浦人(うらびと)の家に預け置進(おきまゐら)せ、「是(これ)は日本国の主(あるじ)に成(なら)せ給ふべき人にて渡(わたら)せ給ふぞ。如何にもして杣山(そまやま)の城へ入進(いれまゐら)せてくれよ。」と申(まうし)含めて、蕪木(かぶらき)の浦より取(とつ)て返し、本(もと)の海上を游ぎ帰(かへつ)て、弥三郎大夫が自害して伏(ふし)たる其(その)上(うへ)に、自(みづから)我首(わがくび)を掻落(かきおとし)て片手に提(ひつさげ)、大膚脱(おほはだぬき)に成(なつ)て死(しし)にけり。土岐(とき)阿波(あはの)守(かみ)・栗生(くりふ)左衛門・矢島七郎(しちらう)三人(さんにん)は、一所(いつしよ)にて腹切(きら)んとて、岩の上に立並(たちならん)で居たりける処に、船田長門(ながとの)守(かみ)来(きたつ)て、「抑(そもそも)新田殿(につたどの)の御一家(ごいつけ)の運(うん)爰(ここ)にて悉(ことごとく)極(きは)め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共(ども)、惣大将(そうだいしやう)兄弟杣山(そまやま)に御座(ござ)あり、公達(きんだち)も三四人(さんしにん)迄、此彼(ここかしこ)に御座(ござ)ある上は、我等一人も活残(いきのこつ)て御用(ごよう)に立(たた)んずるこそ、永代の忠功にて侍(はんべ)らめ。何(なん)と云(いふ)沙汰もなく自害しつれて、敵に所得(しよとく)せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若(もし)やと隠(かく)れて見ん。」と申(まうし)ければ、三人(さんにん)の者共(ものども)船田が迹(あと)に付(つい)て、遥(はるか)の礒へぞ遠浅(とほあさ)の浪を分(わけ)て、半町許(ばかり)行(ゆき)たれば、礒打(うつ)波に当りて大(おほき)に穿(うげ)たる岩穴(いはあな)あり。「爰(ここ)こそ究竟(くつきやう)の隠(かく)れ所なれ。」とて、四人共に此(この)穴の中に隠れて、三日三夜を過(すご)しける心の中(うち)こそ悲しけれ。由良(ゆら)・長浜は、是(これ)までも猶(なほ)木戸口(きどぐち)に支(ささ)へて、喉(のんど)乾(かわ)けば、己(おのれ)が疵(きず)より流るゝ血を受(うけ)て飲み、力落(おち)疲(つか)るれば、前に伏(ふし)たる死人の肉を切(きつ)て食(くう)て、皆人々の自害しはてん迄と戦(たたかひ)けるを、安間(あまの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)走(わし)り下(くだつ)て、「何(いつ)を期(ご)に合戦をばし給(たまふ)ぞ。大将は早御自害(ごじがい)候(さふらひ)つるぞや。」と申(まうし)ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若(もし)やと寄手(よせて)の大将のあたりへ紛(まぎ)れ寄(よつ)て、よからんずる敵と倶(とも)に差違(さしちが)へて死(しな)ん。」とて、五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、三の木戸(きど)を同時に打出(うちいで)、責口(せめくち)一方の寄手(よせて)三千(さんぜん)余人(よにん)を追巻(おひまく)り、其(その)敵に相交(あひまじはつ)て、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)が陣へぞ近付(ちかづき)ける。如何に心許(ばかり)は弥武(やたけ)に思へ共(ども)、城より打出(うちい)でたる者共(ものども)の為体(ていたらく)、枯槁憔悴(こかうせうすゐ)して、尋常(よのつね)の人に可紛も無(なか)りければ、皆人是(これ)を見知(しつ)て、押隔(おしへだて)ける間、一人も能(よき)敵に合(あふ)者無(なく)して、所々(しよしよ)にて皆討(うた)れにけり。都(すべ)て城中(じやうちゆう)に篭(こも)る処の勢(せい)は百六十人(ひやくろくじふにん)、其(その)中に降人(かうにん)に成(なつ)て助かる者十二人(じふににん)、岩の中に隠れて活(いき)たる者四人、其外(そのほか)百五十一人(ひやくごじふいちにん)は一時に自害して、皆戦場の土と成(なり)にけり。されば今に到(いたる)迄其怨霊共(そのをんりやうども)此(この)所に留(とどまつ)て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食(けうくわんくじき)の声啾々(しうしう)として、人の毛孔(まうく)を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥(きがい)の歳(とし)の乱(らん)を見て、陳陶(ちんたう)が作りし隴西行(ろうせいかう)も角(かく)やと被思知たり。
○春宮(とうぐう)還御(くわんぎよの)事(こと)付(つけたり)一宮(いちのみや)御息所(みやすどころの)事(こと) S1807
去(さる)程(ほど)に夜明(あけ)ければ、蕪木(かぶらき)の浦より春宮(とうぐう)御座(ござ)の由告(つげ)たりける間、島津駿河(するがの)守(かみ)忠治(ただはる)を御迎に進(まゐら)せて取(とり)奉る。去(さんぬる)夜金崎(かねがさき)にて討死自害の頚百五十一(ひやくごじふいち)取並(とりなら)べて被実検けるに、新田(につた)の一族(いちぞく)には、越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・里見(さとみ)大炊助(おほいのすけ)義氏(よしうぢ)の頚許(ばかり)有(あつ)て、義貞・義助二人(ににん)の首(くび)は無(なか)りけり。さては如何様(いかさま)其辺(そのへん)の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人(あま)を入(いれ)て被(かづ)かせけれ共(ども)、曾(かつて)不見ければ、足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)、春宮(とうぐう)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、「義貞・義助二人(ににん)が死骸、何(いづ)くに有(あり)とも見へ候はぬは、何(なん)と成候(なりさふらひ)けるやらん。」と被尋申ければ、春宮(とうぐう)幼稚なる御心(おんこころ)にも、彼(かの)人々杣山(そまやま)に有(あり)と敵に知(しら)せては、軈(やが)て押寄(おしよす)る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人(ににん)、昨日の暮程(ほど)に自害したりしを、手(て)の者共(ものども)が役所の内にして火葬にするとこそ云(いひ)沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也(なり)けり。」とて、是(これ)を求(もとむ)るに不及。さてこそ杣山(そまやま)には墓々敷(はかばかしき)敵なければ、降人にぞ出(いで)んずらんとて、暫(しばし)が程は閣(さしおき)けれ。我執(がしふ)と欲念(よくねん)とにつかはれて、互に害心を発(おこ)す人々も、終(つひ)には皆無常の殺鬼(せつき)に逢ひ、被呵責ことも不久。哀(あはれ)に愚かなる事共(ことども)なり。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・並(ならびに)一族(いちぞく)三人(さんにん)、其外(そのほか)宗徒(むねと)の首(くび)七(ななつ)を持(もた)せ、春宮(とうぐう)をば張輿(はりこし)に乗進(のせまゐら)せて、京都へ還(かへ)し上(のぼ)せ奉る。諸大将(しよだいしやう)事の体(てい)、皆美々敷(びびしく)ぞ見へたりける。越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)の首をば、大路(おほち)を渡して獄門(ごくもん)に被懸。新帝御即位(ごそくゐ)の初(はじめ)より三年の間は、天下の刑(けい)を不行法也(なり)。未(いまだ)河原(かはら)の御禊(おんはらひ)、大甞会(だいじやうゑ)も不被遂行先に、首(くび)を被渡事は如何(いかが)あるべからん。先帝重祚(ちようそ)の初(はじめ)、規矩掃部助(きくのかもんのすけ)高政(たかまさ)・糸田(いとだ)左近(さこんの)将監(しようげん)貞吉(さだよし)が首を被渡たりしも、不吉の例(れい)とこそ覚(おぼ)ゆれと、諸人の意見共(いけんども)有(あり)けれ共(ども)、是(これ)は朝敵(てうてき)の棟梁(とうりやう)義貞の長男なればとて、終(つひに)大路(おほち)を被渡けり。春宮(とうぐう)京都へ還御成(なり)ければ、軈(やがて)楼(ろう)の御所を拵(こしら)へて、奉押篭。一宮(いちのみや)の御頚(おんくび)をば、禅林寺(ぜんりんじ)の長老夢窓国師(むさうこくし)の方へ被送、御喪礼(ごさうれい)の儀式を引繕(ひきつくろは)る。さても御匣殿(みくしげどの)の御歎(おんなげき)、中々(なかなか)申(まうす)も愚(おろか)也(なり)。此御匣殿(このみくしげどの)の一宮(いちのみや)に参り初給(そめたまひ)し古(いにし)への御心(おんこころ)尽(つく)し、世に類(たぐひ)なき事とこそ聞へしか。一宮(いちのみや)已(すで)に初冠(うひかうむり)めされて、深宮(しんきゆう)の内に長(ひととなら)せ給(たまひ)し後、御才学(ごさいかく)もいみじく容顔(ようがん)も世に勝(すぐ)れて御座(おはせし)かば、春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまひ)なんと、世の人時明逢(ときめきあ)へりしに、関東(くわんとう)の計(はから)ひとして、慮(おもひ)の外(ほか)に後二条(ごにでうの)院(ゐん)の第一(だいいち)の御子春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまひ)しかば、一宮(いちのみや)に参り仕(つかふ)べき人々も、皆望(のぞみ)を失ひ、宮も世中(よのなか)万(よろ)づ打凋(うちしをれ)たる御心地(おんここち)して、明暮(あけくれ)は只詩哥(しいか)に御心(おんこころ)を寄せ、風月に思(おもひ)を傷(いたま)しめ給ふ。折節(をりふし)に付(つけ)たる御遊(おんあそび)などあれ共(ども)、差(さし)て興(きよう)ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何(いか)なる宮腹(みやばら)、一(いち)の人の御女(おんむすめ)などを角(かく)と仰(おほせ)られば、御心(おんこころ)を尽(つく)させ給ふまでもあらじと覚(おぼ)へしに、御心(おんこころ)に染(そ)む色も無(なか)りけるにや、是(これ)をと被思召たる御気色(ごきしよく)もなく、只独(ひとり)のみ年月を送らせ給(たまひ)ける。或時(あるとき)関白左大臣の家にて、なま上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)余(あま)た集(あつまり)て、絵合(ゑあはせ)の有(あり)けるに、洞院(とうゐん)の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞(うばそく)の宮(みや)の御女(おんむすめ)、少し真木柱(まきばしら)に居隠(かくれ)て、琵琶を調(しら)べ給(たまひ)しに、雲隠(くもがく)れしたる月の俄(にはか)に最(いと)あかく指出(さしいで)たれば、扇(あふぎ)ならでも招(まねく)べかりけりとて、撥(ばち)を揚(あげ)てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌(らふたけ)て、匂(にほ)やかなる気色(けしき)云(いふ)ばかりなく、筆を尽(つく)してぞ書(かき)たりける。一宮(いちのみや)此(この)絵を被御覧、無限御心(おんこころ)に懸りければ、此(この)絵を暫被召置、みるに慰(なぐさ)む方(かた)もやとて、巻返(まきかへし)々々(まきかへし)御覧ぜらるれ共(ども)、御心(おんこころ)更(さら)に不慰。昔漢李夫人(かんのりふじん)甘泉殿(かんせんでん)の病(やまひ)の床に臥して無墓成給(なりたまひ)しを、武帝悲(かなし)みに堪兼(たへかね)て返魂香(はんごんかう)を焼玉(たきたまひ)しに、李夫人(りふじん)の面影(おもかげ)の烟の中に見へたりしを、似絵(にせゑ)に書(かか)せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給(なげきたまひ)けんも、現(げ)に理(ことわり)と思知(おもひしら)せ給ふ。我ながら墓(はか)なの心迷(こころまよひ)やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中(うち)の現(うつつ)とこそ思ひ捨(すつ)る事なるに、是(これ)はそも何事(なにこと)の化(あだ)し心ぞや。遍照僧正(へんぜうそうじやう)の哥の心を貫之(つらゆき)が難(なん)じて、「歌のさまは得たれ共(ども)実(まこと)少(すくな)し。譬(たと)へば絵に書ける女を見て徒(いたづら)に心を動(うごか)すが如し。」と云(いひ)し、其類(そのたぐひ)にも成(なり)ぬる者哉(かな)と思棄(おもひすて)給へ共(ども)、尚(なほ)文悪(あやにく)なる御心(おんこころ)胸(むね)に充(みち)て、無限御物思(おんものおもひ)に成(なり)ければ、傍(かた)への色異(こと)なる人を御覧じても、御目をだにも回(めぐ)らされず。況(まし)て時々の便(たよ)りにつけて事問通(とひかは)し給ふ御方様(おんかたさま)へは、一急雨(ひとむらさめ)の過(すぐ)る程の笠宿(かさやど)りに可立寄心地(ここち)にも思召(おぼしめ)さず。世中(よのなか)にさる人ありと伝聞(つたへきき)て御心(おんこころ)に懸(かか)らば、玉垂(たまだれ)の隙(ひま)求(もとむ)る風の便(たより)も有(あり)ぬべし。又僅(わづか)に人を見し許(ばかり)なる御心(おんこころ)当(あて)ならば、水の泡(あわ)の消返(きえかへ)りても、寄(よ)る瀬(せ)はなどか無(なか)るべきに、是(これ)は見しにも非(あら)ず聞(きき)しにも非(あら)ず、古(いにしへ)の無墓物語、化(あだ)なる筆の迹(あと)に御心(おんこころ)を被悩ければ、無為方思召煩(おぼしめしわづら)はせ給へば、せめて御心(おんこころ)を遣方(やるかた)もやと、御車(おんくるま)に被召、賀茂(かも)の糾(ただす)の宮(みや)へ詣(まうで)させ給ひ、御手洗河(みたらしかは)の川水を御手水(おんてうづ)に結(むす)ばれ、何(なん)となく河に逍遥(せうえう)せさせ給ふにも、昔業平(なりひらの)中将(ちゆうじやう)、恋せじと御祓(みそぎ)せし事も、哀(あはれ)なる様(さま)に思召出(おぼしめしいだ)されて、祈る共(とも)神やはうけん影をのみ御手洗河(みたらしかは)の深き思(おもひ)をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨(ひとむらさめ)の過行(すぎゆく)程、木(こ)の下(した)露(つゆ)に立濡(たちぬれ)て、御袖(おんそで)もしほれたるに、「日も早暮(くれ)ぬ。」と申(まうす)声して、御車(おんくるま)を轟(とどろ)かして一条を西へ過(すぎ)させ給ふに、誰(た)が栖宿(すむやど)とは不知、墻(かき)に苔(こけ)むし瓦(かはら)に松生(おひ)て、年久(ひさし)く住荒(すみあら)したる宿(やど)の物さびし気(げ)なるに、撥音(ばちおと)気高(けだか)く青海波(せいがいは)をぞ調(しら)べたる。「怪(あや)しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車(おんくるま)を駐(とど)めさせて、遥(はるか)に見入(いれ)させ給ひたれば、見る人有(あり)とも不知体(てい)にて、暮居(くれゐる)空の月影の、時雨(しぐれ)の雲間(くもま)より幽々(ほのぼの)と顕(あらは)れ出(いで)たるに、御簾(みす)を高く巻上(まきあげ)て、年の程二八許(ばかり)なる女房の、云(いふ)ばかりなくあてやかなるが、秋の別(わかれ)を慕ふ琵琶を弾(だん)ずるにてぞ有(あり)ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯(かきみだし)たる其(その)声は、庭の落葉(おちば)に紛(まぎれ)つゝ、外(よそ)には降らぬ急雨(むらさめ)に、袖渋(しほ)る許(ばかり)にぞ聞へたる。宮御目も文(あや)に熟々(つくつく)と御覧ずるに、此(この)程漫(そぞろ)に御心(おんこころ)を尽して、夢にもせめて逢(あひ)見ばやと、恋悲(こひかなし)み給ひつる似絵(にせゑ)に少しも不違、尚あてやかに臈闌(らふたけ)て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地(おんここち)空(そら)に浮(うかれ)て、たど/\しき程(ほど)に成(なら)せ給へば、御車(おんくるま)より下(おり)させ給(たまひ)て、築山(つきやま)の松の木陰(こかげ)の立寄(たちよら)せ給へば、女房見る人有(あり)と物侘(ものわび)し気(げ)にて、琵琶をば几帳(きちやう)の傍(かたは)らに指寄(さしよ)せて内へ紛(まぎ)れ入(いり)ぬ。引(ひく)や裳裾(もすそ)の白地(あからさま)なる面影(おもかげ)に、又立出(たちいづ)る事もやとて、立徘徊(たちやすら)はせ給(たまひ)たれば、怪(あやし)げなる御所侍(ごしよさぶらひ)の、御隔子進(みかうしまゐら)する音して、早人定(しづま)りぬれば、何迄(いつまで)角(かく)ても可有とて、宮還御成(くわんぎよなり)ぬ。絵にかきたりし形(かたち)にだに、御心(おんこころ)を悩(なやま)されし御事(おんこと)也(なり)。まして実(まこと)の色を被御覧て、何(いか)にせんと恋忍(こひしの)ばせ給(たまふ)も理(ことわり)哉(かな)。其後(そののち)よりは太(ひた)すらなる御気色(おんけしき)に見へながら、流石(さすが)御詞(おんことば)には不被出けるに、常に御会(ぎよくわい)に参り給ふ二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為冬(ためふゆ)、「何(いつ)ぞや賀茂の御帰(おんかへ)さの、幽(ほのか)なりし宵(よひ)の間(ま)の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其(その)事(こと)ならば最(いと)安き事にてこそ侍(はんべ)るめれ。彼(か)の女房の行末を委(くはしく)尋(たづね)て候へば、今出河(いまでがはの)右大臣公顕(きんあき)の女(むすめ)にて候なるを、徳大寺(とくだいじの)左大将に乍申名、未(いまだ)皇太后宮(くわうたいごうぐう)の御匣(みくしげ)にて候なる。切(せつ)に思召(おぼしめさ)れ候はゞ、歌の御会(ぎよくわい)に申寄(まうしよせ)て彼亭(かのてい)へ入(いら)せ給(たまひ)て、玉垂(たまだれ)の隙(ひま)にも、自(みづから)御心(おんこころ)を露(あらは)す御事(おんこと)にて候へかし。」と申せば、宮例(れい)ならず御快(おんこころよ)げに打笑(うちわらは)せ給(たまひ)て、「軈(やがて)今夜其亭(そのてい)にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕(きんあき)忝(かたじけなし)と取りきらめきて、数寄(すき)の人余(あま)た集(あつめ)て、角(かく)と案内申せば、宮は為冬許(ばかり)を御供(おんとも)にて、彼亭(かのてい)へ入(いら)せ給(たまひ)ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意(ごほんい)ならねば、只披講許(ひかうばかり)にて、褒貶(はうへん)はなし。主(あるじ)の大臣(おとど)こゆるぎの急ぎありて、土器(かはらけ)もて参りたれば、宮(みや)常よりも興(きよう)ぜさせ給(たまひ)て、郢曲絃歌(えいきよくげんか)の妙々(たへたへ)に、御盃(さかづき)給はせ給ひたるに、主(あるじ)も痛く酔臥(よひふし)ぬ。宮も御枕(おんまくら)を傾(かたむけ)させ給へば、人皆定(しづま)りて夜も已(すで)に深(ふけ)にけり。媒(なかだち)の左中将(さちゆうじやう)心有(あつ)て酔(よは)ざりければ、其(その)案内せさせて、彼(かの)女房の栖(すみ)ける西の台(たい)へ忍入(しのびいら)せ給(たまひ)て、墻(かき)の隙(ひま)より見給へば、灯(ともしび)の幽(かすか)なるに、花紅葉(はなもみぢ)散乱(ちりみだれ)たる屏風(びやうぶ)引回(ひきまは)し、起(おき)もせず寝(ね)もせぬ体(てい)に打濡(うちしをれ)、只今人々の読(よみ)たりつる哥の短冊(たんじやく)取出(とりいだ)して、顔打傾(うちかたむ)けたれば、こぼれ懸りたる鬢(びん)の端(はづ)れより、匂(にほ)やかに幽(ほのか)なる容(かほば)せ、露を含める花の曙(あけぼの)、風に随へる柳の夕の気色(けしき)、絵に書共(かくとも)筆も難及、語るに言(ことば)も無(なか)るべし。外(よそ)ながら幽(ほのか)に見てし形(かたち)の、世に又類(たぐ)ひもやあらんと、怪(あや)しきまでに思ひしは、尚(なほ)数(かず)ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心(おんこころ)も早ほれ/゛\と成(なつ)て、不知我が魂(たましひ)も其(その)袖の中にや入(いり)ぬらんと、ある身ともなく覚(おぼえ)させ給ふ。時節(をりふし)辺(あたり)に人も無(なく)て、灯(ともしび)さへ幽(かすか)なれば、妻戸(つまど)を少し押開(おしあけ)て内へ入(いら)せ給(たまひ)たるに、女(をんな)は驚く貌(かたち)にも非(あら)ず、閑(のど)やかにもてなして、やはら衣(きぬ)引被(ひきかづい)て臥(ふし)たる化妝(けはひ)、云(いひ)知らずなよやかに閑麗(みやびやか)なり。宮も傍(そば)に寄伏給(よりふさせたまひ)て、有(あり)しながらの心尽(づく)し、哀(あはれ)なる迄に聞へけれ共(ども)、女はいらへも申さず、只思(おもひ)にしほれたる其気色(そのけしき)、誠(まこと)に匂(にほひ)深(ふかう)して、花薫(かを)り月霞(かす)む夜の手枕(たまくら)に、見終(はて)ぬ夢の化(おもかげ)ある御心(おんこころ)迷(まよひ)に、明(あく)るも不知語(かたら)ひ給へ共(ども)、尚(なほ)強顔(つれなき)気色(けしき)にて程経(へ)ぬれば、己(おのれ)が翅(つばさ)を並(なら)べながら人の別(わかれ)をも思知(おもひしら)ぬ八声(やこゑ)の鳥も告(つげ)渡り、涙の氷解(とけ)やらず、衣々(きぬぎぬ)も冷(ひや)やかに成(なり)て、類(たぐひ)も怨(つら)き在明(ありあけ)の、強顔(つれなき)影(かげ)に立帰(たちかへら)せ給(たまひ)ぬ。其後(そののち)より度々(たびたび)御消息(ごせうそく)有(あつ)て、云(いふ)ばかりなき御文(おんふみ)の数(かず)、早千束(ちづか)にも成(なり)ぬ覧(らん)と覚(おぼゆ)る程(ほど)に積(つも)りければ、女も哀(あはれ)なる方に心引(ひか)れて、のぼれば下(くだ)る稲舟(いなふね)の、否(いな)には非(あら)ずと思へる気色(けしき)になん顕(あらは)れたり。され共(ども)尚(なほ)互に人目を中(なか)の関守(せきもり)になして、月比(つきごろ)過(すぎ)させ給(たまひ)けるに、式部(しきぶの)少輔(せう)英房(ひでふさ)と云(いふ)儒者、御文談(ごぶんだん)に参じて、貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)を読(よみ)けるに、「昔唐(たう)の太宗、鄭仁基(ていじんき)が女(むすめ)を后(きさき)に備(そな)へ、元和殿(げんわてん)に冊入(かしづきいれ)んとし玉(たま)ひしを、魏徴(ぎちよう)諌(いさめ)て、「此女(このむすめ)は已(すで)に陸氏(りくし)に約(やく)せり」と申せしかば、太宗其諌(そのいさめ)に随(したがつ)て、宮中に召(めさ)るゝ事を休(や)め給(たまひ)き。」と談(だん)じけるを、宮熟々(つくつく)と聞召(きこしめし)て、何(いか)なれば古(いにしへ)の君は、かく賢人の諌(いさめ)に付(つい)て、好色心を棄給(すてたまひ)けるぞ。何(いか)なる我なれば、已(すで)に人の云名付(いひなづけ)て事定(さだま)りたる中(なか)をさけて、人の心を破(やぶ)るらん。古の様(ためし)を恥(はぢ)、世の譏(そしり)を思食(おぼしめし)て、只御心(おんこころ)の中(うち)には恋悲(こひかなし)ませ給ひけれ共(ども)、御詞(おんことば)には不被出、御文(おんふみ)をだに書絶(かきたえ)て、角(かく)とも聞へねば、百夜(ももよ)の榻(しぢ)の端書(はしがき)、今は我や数(かず)書(かか)ましと打侘(うちわび)て、海士(あま)の刈藻(かるも)に思乱(おもひみだれ)給ふ。角(かく)て月日も過(すぎ)ければ、徳大寺此(この)事(こと)を聞及(ききおよび)、「左様(さやう)に宮なんどの御心(おんこころ)に懸(かけ)られんを、争(いか)でか便(びん)なうさる事可有。」とて、早(はや)あらぬ方に通(かよ)ふ道有(あり)と聞へければ、宮も今は無御憚、重(かさね)て御文(おんふみ)の有(あり)しに、何よりも黒(くろ)み過(すぎ)て、知(しら)せばや塩やく浦の煙(けぶり)だに思はぬ風になびく習(なら)ひを女(をんな)もはや余(あま)りに強顔(つれな)かりし心の程、我ながら憂(うき)物に思ひ返す心地(ここち)になん成(なり)にければ、詞(ことば)は無(なく)て、立(たち)ぬべき浮(うき)名を兼(かね)て思はずは風に烟(けぶり)のなびかざらめや其後(そののち)よりは、彼方此方(かなたこなた)に結(むす)び置(おか)れし心の下紐(したひぼ)打解(うちとけ)て、小夜(さよ)の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契(おんちぎり)に成(なり)しかば、生(いき)ては偕老(かいらう)の契(ちぎり)深く、又死(しし)ては同苔(おなじこけ)の下にもと思召通(おぼしめしかよは)して、十月(とつき)余(あま)りに成(なり)にけるに、又天下の乱(らん)出来(いできたつ)て、一宮(いちのみや)は土佐(とさ)の畑(はた)へ被流させ給(たまひ)しかば、御息所(みやすどころ)は独(ひとり)都に留(とどま)らせ給(たまひ)て、明(あく)るも不知歎き沈(しづま)せ給(たまひ)て、せめてなき世の別(わかれ)なりせば、憂(うき)に堪(たへ)ぬ命にて、生(うま)れ逢(あは)ん後の契(ちぎり)を可憑に、同(おなじ)世ながら海山を隔(へだ)てゝ、互に風の便(たより)の音信(おとづれ)をだにも書絶(かきたえ)て、此日比(このひごろ)召仕(めしつか)はれける青侍(せいし)・官女(くわんぢよ)の一人も参り通はず、万(よろ)づ昔に替(かは)る世に成(なつ)て、人の住荒(すみあら)したる蓬生(よもぎふ)の宿(やど)の露けきに、御袖(おんそで)の乾(かわ)く隙(ひま)もなく、思召入(おぼしめしいら)せ給ふ御有様(おんありさま)、争(いか)でか涙の玉の緒(を)も存(ながら)へぬ覧(らん)と、怪(あやし)き程の御事(おんこと)也(なり)。宮も都を御出(おんいで)有(あり)し日より、公(きみ)の御事(おんこと)御身(おんみ)の悲(かなし)み、一方(ひとかた)ならず晴(はれ)やらぬに、又打添(うちそひ)て御息所(みやすどころ)の御名残(おんなごり)、是(これ)や限(かぎり)と思召(おぼしめし)しかば、供御(くご)も聞召入(きこしめしいれ)られず、道の草葉(くさば)の露共(とも)に、消(きえ)はてさせ給(たまひ)ぬと見へさせ給ふ。惜共(をししとも)思食(おぼしめさ)ぬ御命長(なが)らへて、土佐(とさ)の畑(はた)と云(いふ)所の浅猿(あさまし)く、此(この)世の中とも覚(おぼ)へぬ浦の辺(あたり)に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間(ま)もなき御歎(おんなげき)、喩(たと)へて云(いは)ん方(かた)もなし。余(あま)りに思(おもひ)くづほれさせ給ふ御有様(おんありさま)の、御痛敷(おんいたはしく)見奉りければ、御警固(おんけいご)に候(さふらひ)ける有井庄司(ありゐのしやうじ)、「何(なに)か苦(くるし)く候べき。御息所(みやすどころ)を忍(しのん)で此(これ)へ入進(いれまゐら)せられ候へ。」とて、御衣(おんきぬ)一重(ひとかさね)し立(たて)て、道の程の用意(ようい)迄細々(さいさい)に沙汰し進(まゐら)せければ、宮無限喜(うれ)しと思召(おぼしめし)て、只一人召仕(めしつかは)れける右衛門(うゑもん)府生(ふしやう)秦武文(はだのたけふん)と申(まうす)随身(ずゐじん)を、御迎(おんむかひ)に京へ上(のぼ)せらる。武文(たけふん)御文(おんふみ)を給(たまはり)て、急(いそぎ)京都へ上(のぼ)り、一条堀川(いちでうほりかは)の御所へ参りたれば、葎(むぐら)茂りて門(かど)を閉(とぢ)、松の葉積りて道もなし。音信通(おとづれかよ)ふものとては、古き梢(こづゑ)の夕嵐(ゆふあらし)、軒もる月の影ならでは、問(とふ)人もなく荒(あれ)はてたり。さては何(いづ)くにか立忍(たちしの)ばせ給(たまひ)ぬらんと、彼方此方(あなたこなた)の御行末を尋行(たづねゆく)程(ほど)に、嵯峨の奥深草(ふかくさ)の里に、松の袖垣(そでがき)隙(ひま)あらはなるに、蔦(つた)はい懸(かかり)て池の姿も冷愁(さびし)く、汀(みぎは)の松の嵐も秋冷(すさまじ)く吹(ふき)しほりて、誰(たれ)栖(すみ)ぬらんと見るも懶(ものう)げなる宿の内に、琵琶を弾(だん)ずる音しけり。怪(あや)しやと立留(たちどまつ)て、是(これ)を聞(きけ)ば、紛(まぎら)ふべくもなき御撥音(ばちおと)也(なり)。武文(たけふん)喜(うれ)しく思ひて、中々(なかなか)案内も不申、築地(ついぢ)の破(やぶ)れより内へ入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の縁(えん)の前に畏(かしこま)れば、破(やぶ)れたる御簾(みす)の内より、遥(はるか)に被御覧、「あれや。」と許(ばかり)の御声幽(かすか)に聞へながら、何共(なんとも)被仰出事もなく、女房達(にようばうたち)数(あま)たさゞめき合ひて、先(まづ)泣(なく)声のみぞ聞へける。「武文(ためふん)御使(おんつかひ)に罷上(まかりのぼ)り、是(これ)迄尋(たづね)参りて候。」と申(まうし)も不敢、縁(えん)に手を打懸(うちかけ)てさめ/゛\と泣(なき)居たり。良有(ややあつ)て、「只此迄(これまで)。」と召(めし)あれば、武文(たけふん)御簾(みす)の前に跪(ひざまづ)き、「雲井の外(よそ)に想像進(おもひやりまゐ)らするも、堪忍(たへしの)び難(がた)き御事(おんこと)にて候へば、如何にもして田舎(ゐなか)へ御下(おんくだ)り候へとの御使(おんつかひ)に参(まゐり)て候。」とて、御文(おんふみ)を捧(ささげ)たり。急ぎ披(ひらい)て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切(せつ)なる色さもこそと覚(おぼえ)て、言(こと)の葉毎(はごと)に置(おく)露の、御袖(おんそで)に余(あま)る許(ばかり)なり。「よしや何(いか)なる夷(ひな)の栖居(すまひ)なりとも、其憂(そのうき)にこそ責(せめ)ては堪(たへ)め。」とて、既(すで)に御門出(おんかどで)有(あり)ければ、武文(たけふん)甲斐々々敷(かひがひしく)御輿(おんこし)なんど尋出(たづねいだ)し、先(まづ)尼崎(あまがさき)まで下(くだ)し進(まゐら)せて、渡海(とかい)の順風をぞ相待(あひまち)ける。懸(かか)りける折節(をりふし)、筑紫人(つくしひと)に松浦(まつら)五郎と云(いひ)ける武士(ぶし)、此(この)浦に風を待(まち)て居たりけるが、御息所(みやすどころ)の御形(かたち)を垣(かき)の隙(ひま)より見進(まゐら)せて、「こはそも天人の此(この)土へ天降(あまくだ)れる歟(か)。」と、目枯(めがれ)もせず守(まも)り居たりけるが、「穴(あな)無端や。縦(たとひ)主(ぬし)ある人にてもあれ、又何(いか)なる女院(にようゐん)・姫宮(ひめみや)にても坐(おはし)ませ。一夜(いちや)の程(ほど)に契(ちぎり)を、百年の命に代(かへ)んは何(なに)か惜(をし)からん。奪取(うばひとつ)て下(くだ)らばや。」と思(おもひ)ける処に、武文(たけふん)が下部(しもべ)の浜の辺(あたり)に出(いで)て行(ゆき)けるを呼寄(よびよせ)て、酒飲(のま)せ引出物(ひきでもの)なんど取(とら)せて、「さるにても御辺(ごへん)が主(あるじ)の具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、船に召(めさ)せんとする上臈(じやうらふ)は、何(いか)なる人にて御渡(おんわたり)あるぞ。」と問(とひ)ければ、下臈(げらふ)の墓(はか)なさは、酒にめで引出物(ひきでもの)に耽(ふけ)りて、事の様(やう)有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。松浦大(おほき)に悦(よろこん)で、「此比(このごろ)何(いか)なる宮にても御座(おは)せよ、謀反人(むほんにん)にて流され給へる人の許(もと)へ、忍(しのん)で下給(くだりたま)はんずる女房を、奪捕(うばひとつ)たり共(とも)、差(さし)ての罪科(ざいくわ)はよも非じ。」と思(おもひ)ければ、郎等共(らうどうども)に彼宿(かのやど)の案内能々(よくよく)見置(おか)せて、日の暮(くる)るをぞ相待(あひまち)ける。夜既(すで)に深(ふけ)て人定(しづま)る程(ほど)に成(なり)ければ、松浦が郎等(らうどう)三十(さんじふ)余人(よにん)、物具(もののぐ)ひし/\と堅めて、続松(たいまつ)に火を立(たて)て蔀(しとみ)・遣戸(やりど)を蹈破(ふみやぶ)り、前後より打(うつ)て入(いる)。武文(たけふん)は京家(きやうけ)の者と云(いひ)ながら、心剛(かう)にして日比(ひごろ)も度々(どど)手柄(てがら)を顕(あらは)したる者なりければ、強盜(がうだう)入(いり)たりと心得て、枕に立(たて)たる太刀をゝつ取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(わしりいで)て、打入(うちいる)敵三人(さんにん)目の前に切(きり)臥せ、縁(えん)にあがりたる敵三十(さんじふ)余人(よにん)大庭へ颯(さつ)と追出(おひだ)して、「武文(たけふん)と云(いふ)大剛(だいかう)の者此(これ)にあり。取(とら)れぬ物を取らんとて、二(ふた)つなき命を失(うしなふ)な、盜人共(ぬすぶとども)。」と■(あざけつ)て、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)し、門(もん)の脇(わき)にぞ立(たつ)たりける。松浦が郎等共(らうどうども)武文(たけふん)一人に被切立て、門より外(そと)へはつと逃(にげ)たりけるが、「蓬(きたな)し。敵は只一人ぞ。切(きつ)て入(いれ)。」とて、傍(そば)なる在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、又喚(をめい)てぞ寄(よせ)たりける。武文(たけふん)心は武(たけ)しといへ共(ども)、浦風に吹覆(ふきおほ)はれたる烟(けむり)に目暮(くれ)て、可防様(やう)も無(なか)りければ、先(まづ)御息所(みやすどころ)を掻負進(かいおひまゐら)せ、向ふ敵を打払(うちはらつ)て、澳(おき)なる船を招き、「何(いか)なる舟にてもあれ、女性(によしやう)暫(しばらく)乗進(のせまゐら)せてたび候へ。」と申(まうし)て、汀(みぎは)にぞ立(たち)たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎(むかひ)に来たる舟是(これ)を聞(きい)て、一番に渚(なぎさ)へ差寄(さしよせ)たれば、武文(たけふん)大(おほき)に悦(よろこん)で、屋形(やかた)の内に打置(うちおき)奉り、取落(とりおと)したる御具足(ぐそく)、御伴(おんとも)の女房達(にようばうたち)をも、舟に乗(のせ)んとて走帰(わしりかへり)たれば、宿(やど)には早(はや)火懸(かかつ)て、我方様(わがかたざま)の人もなく成(なり)にけり。松浦は適(たまたま)我(わが)舟に此(この)女房の乗(のら)せ給(たまひ)たる事(こと)、可然契(ちぎり)の程哉(かな)と無限悦(よろこび)て、「是(これ)までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等(らうどう)・眷属(けんぞく)百(ひやく)余人(よにん)、捕(とる)物も不取敢、皆此(この)舟に取乗(とりのつ)て、眇(はるか)の澳(おき)にぞ漕出(こぎいだ)したる。武文(たけふん)渚(なぎさ)に帰来(かへりきたつ)て、「其(その)御舟(おんふね)被寄候へ。先(さき)に屋形(やかた)の内に置進(おきまゐら)せつる上臈(じやうらふ)を、陸(くが)へ上進(あげまゐら)せん。」と喚(よばは)りけれども、「耳にな聞入(ききいれ)そ。」とて、順風に帆を上(あげ)たれば、船は次第に隔(へだた)りぬ。又手繰(てぐり)する海士(あま)の小船に打乗(うちのつ)て、自(みづから)櫓(ろ)を推(おし)つゝ、何共(なんとも)して御舟(おんふね)に追著(おひつか)んとしけれ共(ども)、順風を得たる大船に、押手(おして)の小舟非可追付。遥(はるか)の沖に向(むかつ)て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑(わらふ)声を聞(きい)て、「安からぬ者哉(かな)。其(その)儀ならば只今の程(ほど)に海底(かいてい)の竜神(りゆうじん)と成(なつ)て、其(その)舟をば遣(やる)まじき者を。」と忿(いかつ)て、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、蒼海(さうかい)の底にぞ沈(しづみ)ける。御息所(みやすどころ)は夜討の入(いり)たりつる宵の間(ま)の騒(さわぎ)より、肝心(きもたましひ)も御身(おんみ)に不副、只夢の浮橋(うきはし)浮沈(うきしづみ)、淵瀬をたどる心地して、何(なん)と成行(なりゆく)事(こと)共(とも)知(しら)せ給はず。舟の中なる者共(ものども)が、「あはれ大剛(だいかう)の者哉(かな)。主(あるじ)の女房を人に奪はれて、腹を切(きり)つる哀(あはれ)さよ。」と沙汰するを、武文(たけふん)が事やらんとは乍聞召、其方(そのかた)をだに見遣(やら)せ給はず。只衣(きぬ)引被(ひきかづい)て屋形の内に泣沈(なきしづ)ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気(げ)なる髭男(ひげをとこ)の、声最(いと)なまりて色飽(あく)まで黒きが、御傍(おんそば)に参(まゐつ)て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共(めいしよども)を御覧じて御心(おんこころ)をも慰(なぐさ)ませ給(たまひ)候へ。左様(さやう)にては何(いか)なる人も船には酔(よふ)物にて候ぞ。」と、兎角(とかく)慰め申せ共(ども)、御顔をも更(さらに)擡(もたげ)させ給はず、只鬼を一車(ひとつくるま)に載せて、巫(ぶ)の三峡(さんかふ)に棹(さをさ)すらんも、是(これ)には過(すぎ)じと御心(おんこころ)迷ひて、消入(きえいら)せ給(たまひ)ぬべければ、むくつけ男も舷(ふなばた)に寄懸(よりかかつ)て、是(これ)さへあきれたる体(てい)なり。其(その)夜は大物(だいもつ)の浦に碇(いかり)を下(おろ)して、世を浦風に漂(ただよ)ひ給ふ。明(あく)れば風能成(よくなり)ぬとて、同じ泊(とま)りの船共(ふねども)、帆を引(ひき)梶(かぢ)を取り、己(おの)が様々(さまざま)漕(こぎ)行けば、都は早迹(あと)の霞に隔(へだた)りぬ。九国にいつか行著(ゆきつか)んずらんと、人の云(いふ)を聞召(きこしめ)すにぞ、さては心つくしに行(ゆく)旅也(なり)と、御心(おんこころ)細きに付(つけ)ても、北野天神荒人神(あらひとがみ)に成(なら)せ給(たまひ)し其古(そのいにし)への御悲(おんかなし)み、思召知(おぼしめししら)せ給(たま)はゞ、我を都へ帰し御座(おはしま)せと、御心(おんこころ)の中(うち)に祈(いのら)せ給(たまふ)。其(その)日(ひ)の暮(くれ)程(ほど)に、阿波の鳴戸(なると)を通る処に、俄に風替(かは)り塩向(むか)ふて、此(この)船更に不行遣。舟人(ふなうど)帆を引(ひい)て、近辺の礒へ舟を寄(よせ)んとすれば、澳(おき)の塩合(しほあひ)に、大(おほき)なる穴の底も見へぬが出(いで)来て、舟を海底に沈(しづめ)んとす。水主(すゐしゆ)梶取(かんどり)周章(あわて)て帆薦(ほごも)なんどを投入(なげいれ)々々(なげいれ)渦(うづ)に巻(まか)せて、其間(そのま)に船を漕(こぎ)通さんとするに、舟曾(かつて)不去。渦巻くに随(したがつ)て浪と共に舟の廻(めぐ)る事(こと)、茶臼(ちやうす)を推(おす)よりも尚(なほ)速(すみやか)也(なり)。「是(これ)は何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の財宝に目(め)懸(かけ)られたりと覚(おぼ)へたり。何をも海へ入(いれ)よ。」とて、弓箭(ゆみや)・太刀・々(かたな)・鎧・腹巻、数(かず)を尽(つく)して投入(なげいれ)たれ共(ども)、渦巻(うづまく)事(こと)尚(なほ)不休。「さては若(もし)色ある衣裳(いしやう)にや目を見入(いれ)たるらん。」とて、御息所(みやすどころ)の御衣(おんきぬ)、赤き袴を投入(なげいれ)たれば、白浪(しらなみ)色変(へん)じて、紅葉(もみぢ)を浸(ひた)せるが如くなり。是(これ)に渦巻(うづま)き少し閑(しづ)まりたれ共(ども)、船は尚(なほ)本(もと)の所にぞ回居(めぐりゐ)たる。角(かく)て三日三夜に成(なり)ければ、舟の中の人独(ひとり)も不起上、皆船底(ふなぞこ)に酔臥(よひふし)て、声々に呼叫(をめきさけ)ぶ事無限。御息所(みやすどころ)は、さらでだに生(いけ)る御心地(おんここち)もなき上に、此(この)浪の騒(さわぎ)になを御肝(おんきも)消(きえ)て、更に人心(ここち)も坐(ましま)さず。よしや憂目(うきめ)を見んよりは、何(いか)なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召(おぼしめし)つれ共(ども)、さすがに今を限(かぎり)と叫ぶ声を聞召(きこしめ)せば、千尋(ちひろ)の底の水屑(みくづ)と成(なり)、深き罪に沈(しずみ)なん後(のち)の世をだに誰かは知(しり)て訪(と)はんと思召(おぼしめ)す涙さへ尽(つき)て、今は更に御(み)くしをも擡(もたげ)させ給はず。むくつけ男(をとこ)も早忙然(ばうぜん)と成(なつ)て、「懸(かか)る無止事貴人を取(とり)奉り下(くだ)る故(ゆゑ)に、竜神(りゆうじん)の咎(とが)めもある哉(や)らん。無詮事をもしつる者哉(かな)。」と誠(まこと)に後悔の気色(けしき)なり。斯(かか)る処に梶取(かんどり)一人船底(ふなぞこ)より這出(はひいで)て、「此鳴渡(このなると)と申(まうす)は、竜宮城(りゆうぐうじやう)の東門(とうもん)に当(あたつ)て候間、何(なに)にても候へ、竜神(りゆうじん)の欲(ほ)しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様(かやう)の不思議(ふしぎ)ある所にて候は、何様(いかさま)彼(かの)上臈を龍神の思懸申(おもひかけまう)されたりと覚(おぼ)へ候。申(まうす)も余(あまり)に邪見(じやけん)に無情候へ共(ども)、此御事(このおこと)独(ひとり)の故(ゆゑ)に若干(そくばく)の者共(ものども)が、皆非分の死を仕らん事は、不便(ふびん)の次第にて候へば、此上臈(このじやうらふ)を海へ入進(いれまゐら)せて、百(ひやく)余人(よにん)の命を助させ給へ。」とぞ申(まうし)ける。松浦(まつら)元来無情田舎人(ゐなかうど)なれば、さても命や助かると、屋形(やかた)の内へ参(まゐつ)て、御息所(みやすどころ)を荒らかに引起し奉り、「余(あまり)に強顔(つれなき)御気色(おんけしき)をのみ見奉るも、無本意存(ぞんじ)候へば、海に沈め進(まゐら)すべきにて候。御契(おんちぎり)深くば土佐(とさ)の畑(はた)へ流れよらせ給ひて、其宮(そのみや)とやらん堂(だう)とやらん、一つ浦に住(すま)せ給へ。」とて、無情掻抱(かきだ)き進(まゐら)せて、海へ投入奉(なげいれたてまつら)んとす。是(これ)程の事に成(なつ)ては、何(なん)の御詞(おんことば)か可有なれば、只夢の様(やう)に思召(おぼしめ)して、つや/\息をも出(いだ)させ給はず、御心(おんこころ)の中(うち)に仏の御名許(みなばかり)を念じ思召(おぼしめし)て、早絶入(たえいら)せ給(たまひ)ぬるかと見へたり。是(これ)を見て僧の一人便船(びんせん)せられたりけるが、松浦(まつら)が袖を磬(ひかへ)て、「こは如何なる御事(おんこと)にて候ぞや。竜神(りゆうじん)と申(まうす)も、南方無垢(むく)の成道(じやうだう)を遂(とげ)て、仏の授記(じゆき)を得たる者にて候へば、全く罪業の手向(たむけ)を不可受。而(しか)るを生(いき)ながら人を忽(たちまち)に海中に沈められば、弥(いよいよ)竜神(りゆうじん)忿(いかつ)て、一人も助(たすか)る者や候べき。只経(きやう)を読み陀羅尼(だらに)を満(みて)て法楽に備(そなへ)られ候はんずるこそ可然覚(おぼ)へ候へ。」と、堅く制止(せいし)宥(なだ)めければ、松浦理(ことわり)に折(をれ)て、御息所(みやすどころ)を篷屋(とまや)の内に荒らかに投棄(なげすて)奉る。「さらば僧の儀に付(つい)て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音(いくどうおん)に観音の名号(みやうがう)を唱(となへ)奉りける時、不思議(ふしぎ)の者共(ものども)波の上に浮(うか)び出(いで)て見へたり。先(まづ)一番に退紅(こきくれなゐ)著たる仕丁(じちやう)が、長持を舁(かき)て通ると見へて打失(うちうせ)ぬ。其次(そのつぎ)に白葦毛(しらあしげ)の馬に白鞍(しらくら)置(おき)たるを、舎人(とねり)八人して引(ひき)て通ると見へて打失(うちうせ)ぬ。其(その)次に大物(だいもつ)の浦にて腹切(きつ)て死(しし)たりし、右衛門(うゑもんの)府生(ふしやう)秦武文(はだのたけふん)、赤糸威(あかいとをどし)の鎧、同毛(おなじけ)の五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、黄■毛(きつきげ)なる馬に乗(のつ)て、弓杖(ゆんづゑ)にすがり、皆紅(みなくれなゐ)の扇(あふぎ)を挙げ、松浦が舟に向(むかつ)て、其(その)舟留(と)まれと招く様(やう)に見へて、浪の底にぞ入(いり)にける。梶取(かんどり)是(これ)を見て、「灘(なだ)を走る舟に、不思議(ふしぎ)の見ゆる事は常の事にて候へ共(ども)、是(これ)は如何様(いかさま)武文(たけふん)が怨霊(をんりやう)と覚(おぼ)へ候。其験(そのしるし)を御覧ぜん為に、小船を一艘(いつさう)下(おろ)して此(この)上臈を乗進(のせまゐら)せ、波の上に突流(つきなが)して、竜神(りゆうじん)の心を如何と御覧(ごらん)候へかし。」と申せば、「此(この)儀げにも。」とて、小船を一艘(いつさう)引下(ひきおろ)して、水手(すゐしゆ)一人と御息所(みやすどころ)とを乗せ奉(たてまつ)て、渦(うづ)の波に漲(みなぎつ)て巻却(まきかへ)る波の上にぞ浮べける。彼早離(かのさうり)・速離(そくり)の海岸山(かいがんさん)に被放、「飢寒(きかん)の愁(うれへ)深(ふかく)して、涙も尽(つき)ぬ。」と云(いひ)けんも、人住(すむ)島(しま)の中なれば、立寄(たちよる)方(かた)も有(あり)ぬべし。是(これ)は浦にも非(あら)ず、島にも非(あら)ず、如何に鳴渡(なると)の浪の上に、身を捨舟(すてぶね)の浮(うき)沈み、塩瀬(しほせ)に回(めぐ)る泡(うたかた)の、消(きえ)なん事こそ悲(かなし)けれ。されば竜神(りゆうじん)もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分(ふきわけ)て、松浦が舟は西を指(さ)して吹(ふか)れ行(ゆく)と見へけるが、一(いち)の谷の澳津(おきつ)より武庫山下風(むこやまおろし)に被放て、行方(ゆきかた)不知成(なり)にけり。其後(そののち)浪静(しづま)り風止(やみ)ければ、御息所(みやすどころ)の御船(おんふね)に被乗つる水主(すゐしゆ)甲斐々々敷(かひがひしく)舟を漕寄(こぎよせ)て、淡路(あはぢ)の武島(むしま)と云(いふ)所へ著(つけ)奉り、此(この)島の為体(ていたらく)、回(まはり)一里に足(たら)ぬ所にて、釣する海士(あま)の家ならでは、住(すむ)人もなき島なれば、隙(ひま)あらはなる葦(あし)の屋(や)の、憂節(うきふし)滋(しげ)き栖(すみか)に入進(いれまゐら)せたるに、此(この)四五日の波風に、御肝(おんきも)消(きえ)御心(おんこころ)弱りて、軈(やが)て絶入(たえいら)せ給ひけり。心なき海人(あま)の子共(こども)迄も、「是(これ)は如何にし奉らん。」と、泣悲(なきかなし)み、御顔に水を灑(そそ)き、櫓床(ろどこ)を洗(あらう)て御口に入(いれ)なんどしければ、半時許(はんじばかり)して活出(いきいで)させ給へり。さらでだに涙の懸(かか)る御袖(おんそで)は乾く間(ま)も無(なか)るべきに、篷漏(とまも)る滴(しづく)藻塩草(もしほぐさ)、可敷忍旅寝(たびね)ならねば、「何迄(いつまで)角(かく)ても有佗(ありわ)ぶべき。土佐(とさ)の畑(はた)と云(いふ)浦へ送りてもやれかし。」と、打佗(うちわび)させ給へば、海士共(あまども)皆同じ心に、「是(これ)程厳敷(いつくしく)御渡(おんわたり)候上臈(じやうらふ)を、我等が舟に乗進(のせまゐら)せて、遥々(はるばる)と土佐迄送り進(まゐら)せ候はんに、何(いづく)の泊(とまり)にてか、人の奪取進(うばひとりまゐら)せぬ事の候べき。」と、叶(かなふ)まじき由を申せば、力(ちから)及ばせ給はずして、浪の立居(たちゐ)に御袖(おんそで)をしぼりつゝ、今年は此(ここ)にて暮し給ふ。哀(あはれ)は類(たぐ)ひも無(なか)りけり。さて一宮(いちのみや)は武文(たけふん)を京へ上(のぼ)せられし後(のち)は、月日遥(はるか)に成(なり)ぬれ共(ども)、何共(なんとも)御左右(おんさう)を申さぬは、如何なる目にも逢(あひ)ぬる歟(か)と、静心(しづごころ)なく思食(おぼしめし)て、京より下(くだ)れる人に御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「去年の九月に御息所(みやすどころ)は都を御出(おんいで)有(あつ)て、土佐へ御下(おんくだ)り候(さふらひ)しとこそ慥(たしか)に承(うけたまは)りしか。」と申(まうし)ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋(ちひろ)の底にも沈(しづみ)ぬる歟(か)と、一方(ひとかた)ならず思ひくづほれさせ給(たまひ)けるに、或(ある)夜御警固(おんけいご)に参(まゐり)たる武士共(ぶしども)、中門(ちゆうもん)に宿直申(とのゐまうし)て四方山(よもやま)の事共(ことども)物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡(なると)を過(すぎ)て当国に渡りし時、船の梶(かぢ)に懸(かかり)たりし衣(きぬ)を取上(とりあげ)て見しかば、尋常(よのつね)の人の装束(しやうぞく)とも不見、厳(いつくし)かりし事よ。是(これ)は如何様(いかさま)院(ゐん)・内裏(だいり)の上臈女房(じやうらふにようばう)なんどの田舎(ゐなか)へ下(くだ)らせ給ふが、難風に逢(あう)て海に沈み給(たまひ)けん其(その)装束にてぞ有(ある)らん。」と語(かたつ)て、「穴(あな)哀(あはれ)や。」なんど申合(まうしあひ)ければ、宮墻越(かきごし)に被聞召、若(もし)其行末(そのゆくへ)にてや有(ある)らんと不審(ふしん)多く思食(おぼしめし)て、「聊(いささか)御覧ぜられたき御事(おんこと)あり。其衣(そのきぬ)未(いまだ)あらば持(もち)て参れ。」と御使(おんつかひ)有(あり)ければ、「色こそ損(そん)じて候へ共(ども)未(いまだ)私に候。」とて召寄進(めしよせまゐら)せたり。宮能々(よくよく)是(これ)を御覧ずるに、御息所(みやすどころ)を御迎(おんむかひ)に武文(たけふん)を京へ上(のぼ)せられし時、有井(ありゐの)庄司(しやうじ)が仕立(したて)て進(まゐら)せたりし御衣(おんきぬ)也(なり)。穴(あな)不思議(ふしぎ)やとて、裁余(たちあま)したる切(き)れを召出(めしいだ)して、差合(さしあは)せられたるに、あやの文(もん)少(すこし)も不違続(つづ)きたれば、二目共(ふためとも)不被御覧、此衣(このきぬ)を御顔に押当(おしあて)て、御涙(おんなみだ)を押拭(おしのご)はせ給ふ。有井(ありゐ)も御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、涙を袖に懸(かけ)つゝ罷立(まかりたち)にけり。今は御息所(みやすどころ)の此(この)世に坐(ましま)す人とは露(つゆ)も不被思召、此衣(このきぬ)の橈(かぢ)に懸(かか)りし日を、なき人の忌日(きにち)に被定、自(みづから)御経(おんきやう)を書写(しよしや)せられ、念仏を唱(とな)へさせ給(たまひ)て、「過去聖霊(くわこしやうりやう)藤原氏女(うぢのむすめ)、並(ならびに)物故秦武文(もつこはだのたけふん)共(とも)に三界の苦海(くかい)を出(いで)て、速(すみやか)に九品(くぼん)の浄刹(じやうせつ)に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎(おんなげき)の色こそ哀(あはれ)なれ。去(さる)程(ほど)に其(その)年の春(はる)の比(ころ)より、諸国に軍(いくさ)起(おこつ)て、六波羅(ろくはら)・鎌倉(かまくら)・九国・北国の朝敵共(てうてきども)、同時に滅びしかば、先帝は隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成り、一宮(いちのみや)は土佐(とさ)の畑(はた)より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉(ことごとく)公家一統(くげいつとう)の御世(みよ)と成(なつ)て目出(めでた)かりしか共(ども)、一宮(いちのみや)は唯御息所(みやすどころ)の今(この)世に坐(ましま)さぬ事を歎思食(なげきおぼしめし)ける処に、淡路(あはぢ)の武島(むしま)に未(いまだ)生(いき)て御坐(ござ)有(あり)と聞(きこ)へければ、急(いそぎ)御迎(おんむかひ)を被下、都へ帰上(かへりのぼ)らせ給ふ。只王質(わうしつ)が仙より出(いで)て七世の孫(まご)に会ひ、方士(はうし)が海に入(いつ)て楊貴妃(やうきひ)を見奉りしに不異。御息所(みやすどころ)は、「心づくしに趣(おもむき)し時の心憂(こころう)さ、浪に回(めぐ)りし泡(うたかた)の消(きゆ)るを争(あら)そう命の程、堪兼(たへかね)たりし襟(ものおもひ)は御推量(おんおしはか)りも浅くや。」とて、御袖(おんそで)濡(ぬる)る許(ばかり)なり。宮は又「外渡(とわた)る舟の梶(かぢ)の葉に、書共(かくとも)尽(つき)ぬ御歎(おんなげき)、無跡(なきあと)問(とひ)し月日の数(かず)、御身(おんみ)に積(つも)りし悲(かなし)みは、語るも言(こと)は愚(おろ)か也(なり)。」と書口説(かきくどか)せ給ひける。さしも憂(う)かりし世中(よのなか)の、時の間(ま)に引替(ひきかへ)て、人間の栄花(えいぐわ)、天上の娯楽、不極云(いふ)事(こと)なく、不尽云御遊(ぎよいう)もなし。長生殿(ちやうせいでん)の裏(うち)には、梨花(りくわ)の雨不破壌を、不老門(ふらうもん)の前には、楊柳(やうりう)の風不鳴枝。今日を千年(ちとせ)の始めと、目出(めでた)きためしに思食(おぼしめし)たりしに、楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなし)み来(きた)る人間の習(ならひ)なれば、中(なか)一年有(あつ)て、建武元年の冬の比(ころ)より又天下乱(みだれ)て、公家(くげ)の御世(みよ)、武家の成敗(せいばい)に成(なり)しかば、一宮(いちのみや)は終(つひ)に越前(ゑちぜんの)金崎(かねがさき)の城にて御自害(ごじがい)有(あつ)て、御首(おんくび)京都に上(のぼり)て、禅林寺(ぜんりんじの)長老夢窓(むさう)国師、喪礼(さうれい)被執行など聞へしかば、御息所(みやすどころ)は余(あま)りの為方(せんかた)なさに御車(おんくるま)に被助載て、禅林寺(ぜんりんじ)の辺(あたり)まで浮(うか)れ出(いで)させ給へば、是(これ)ぞ其御事(そのおこと)と覚敷(おぼしく)て、墨染(すみぞめ)の夕(ゆふべ)の雲に立(たつ)煙(けむり)、松の嵐に打靡(うちなび)き、心細く澄上(すみのぼ)る。さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さは、誰とても愚(おろか)ならぬ涙なれ共(ども)、宮などの無止事御身(おんみ)を、剣(やいば)の先(さき)に触(ふれ)て、秋の霜の下に消終(きえはて)させ給(たまひ)ぬる御事(おんこと)は、無類悲(かなしみ)なれば、想像(おもひやり)奉る今はの際(きは)の御有様(おんありさま)も、今一入(ひとしほ)の思ひを添(そへ)て、共に東岱(とうたい)前後の烟と立登(たちのぼ)り、北芒新丘(ほくばうしんきう)の露共(とも)消(きえ)なばやと、返る車の常盤(とことは)に、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ける、御心(おんこころ)の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。行(ゆき)て訪旧跡、竹苑(ちくゑん)故宮(こきゆうの)月心を傷(いたま)しめ、帰(かへりて)臥寒閨、椒房(さうばう)寡居(くわきよ)の風夢を吹(ふき)、著見に順聞に、御歎(おんなげき)日毎(ひごと)に深く成行(なりゆき)ければ、軈(やがて)御息所(みやすどころ)も御心地(おんここち)煩(わづら)ひて、御中陰(ごちゆういん)の日数(ひかず)未終(いまだをへざる)先(さき)に、無墓成(なら)せ給ひければ、聞(きく)人毎(ひとごと)に押並(おしなべ)て、類(たぐ)ひ少なき哀(あはれ)さに、皆袂(たもと)をぞ濡(ぬら)しける。
○比叡山(ひえいさん)開闢(かいびやくの)事(こと) S1808
金崎(かねがさき)の城被攻落て後(のち)、諸国の宮方(みやがた)失力けるにや。或(あるひ)は降参し、或(あるひ)は退散(たいさん)して、天下将軍の威に随ふ事(こと)、宛(あたかも)如吹風靡草木。在々所々(ざいざいしよしよ)に宮方(みやがた)の城有(あつ)て、山門又如何なる事をかし出(いだ)さんずらんと危(あやぶ)まれし程こそ、衆徒(しゆと)の心を不違、山門の所領共に被成安堵たりしか、今天下已(すで)に武威に帰(き)して静謐(せいひつ)しぬる上は、何の憤(いきどほり)か可有とて、以前の成敗(せいばい)の事を変(へん)じて、山門を三井寺(みゐでら)の末寺(まつじ)にやなす、又若干(そくばく)の所領を塞(ふさ)げたるも無益(むやく)なれば、只一円に九院(きうゐん)を没倒(もつたう)し衆徒を追出(おひいだ)して、其跡(そのあと)を軍勢(ぐんぜい)にや可充行、高(かう)・上杉の人々、将軍の御前(おんまへ)に参(さん)じて評定(ひやうぢやう)しける処に、北小路(きたのこうぢ)の玄慧法印(げんゑほふいん)出来(いできた)れり。武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)、「此(この)人こそ大智広学(くわうがく)の物知(ものしり)にて候なれば、加様(かやう)の事共(ことども)も存知(ぞんぢ)候はんずれ。此(こ)れに山門の事(こと)、委(くはし)く尋問(たづねとひ)候はゞや。」と被申ければ、将軍、「げにも。」とて、「法印此方(こなた)へ。」とぞ被呼ける。法印席に直(なほつ)て四海(しかい)静謐(せいひつ)の事共(ことども)賀し申(まうし)て、種々の物語共(ものがたりども)に及びける時、上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)、法印に向(むかつ)て被申けるは、「以前(いぜん)山門両度の臨幸を許容申(きよようまうし)て将軍に敵し奉る事無他事。雖然武運合天命に故(ゆゑ)に、遂に朝敵(てうてき)を一時に亡(ほろぼ)して、太平を四海(しかい)に致候(いたしさふらひ)き。抑(そもそも)山門毎年の祭礼に、洛中(らくちゆう)の人民を煩(わづらは)し、三千(さんぜん)の聖供(しやうぐ)共(ども)に、国土の庄園を領(りやう)する事(こと)、為世雖多費、公家武家不止之事は、只専御祈祷(ごきたう)仰天下静謐故(ゆゑ)也(なり)。而(しかる)に今為武家結怨、為朝敵(てうてき)致懇祈。是(これ)当家(たうけ)の蠧害(とがい)、釈門(しやくもん)の残賊(ざんぞく)なるべし。風(ほのか)に聞(きく)比叡山(ひえいさん)草創(さうさう)の事(こと)、時は延暦の末の年に当(あた)れり、君は桓武(くわんむ)の治天(ちてん)に始まれり。此(この)寺未(いまだ)立(たた)ざりし先(さき)に、聖主(せいしゆ)治国給ふ事相続(あひつづい)て五十代、曾(かつて)異国にも不被侵、妖怪(えうくわい)にも不被悩、君巍々(ぎぎ)の徳を播(ほどこ)し、民堂々(だうだう)の化(くわ)に誇(ほこ)る。以是憶之、有(あつ)て無益(むやく)の者は山門(さんもん)也(なり)。無(なく)て可能山法師(やまほふし)也(なり)。但(ただし)山門無(なく)ては叶(かなふ)まじき故候哉覧(やらん)。白河(しらかはの)院(ゐん)も、「朕(ちん)が心に不任は、双六(すごろく)の賽(さい)・賀茂河(かもがは)の水・山法師(やまほふし)也(なり)。」と被仰候(さふらひ)けんなる。其議(そのぎ)誠(まこと)に不審(いぶか)しく覚(おぼえ)候。御物語(おんものがたり)候へ、次(つい)での才学(さいかく)に仕(つかまつり)候はん。」とぞ被申ける。法印熟々(つくづく)と聞之、言語道断(ごんごだうだん)の事なり。閉口去(さり)塞耳帰らばやと思ひけれ共(ども)、若(もし)一言の下(もと)に、翻邪帰正事もやあらんずらんと思ひければ、中々(なかなか)旨(むね)に逆(さか)ひ儀を犯(をか)す言(こと)ばを留(と)めて、長物語(ながものがたり)をぞ始(はじめ)られける。「夫(それ)斯(この)国(くに)の起(おこ)りは家々に伝(つたふ)る処格別(かくべつ)にして其(その)説区(まちまち)也(なり)といへ共(ども)、暫(しばらく)記(き)する処の一儀(いちぎ)に、天地已(すで)に分れて後、第九(だいく)の減劫(げんこふ)人寿(にんじゆ)二万歳(にまんさい)の時、迦葉仏(かせふぶつ)西天に出世し給ふ。于時大聖(だいしやう)釈尊得其授記、住都率天給ひしが、我(われ)八相成道(しやうじやうだう)之(の)後(のち)、遺教流布(ゆゐけうるふ)の地、可有何所と、此南瞻部州(このなんぜんぶしう)を遍(あまね)く飛行して御覧じけるに、漫々(まんまん)たる大海の上に、一切衆生(いつさいしゆじやう)悉有仏性(しつうぶつしやう)、如来常住(によらいじやうぢゆう)無有変易(むうへんやく)と立(たつ)浪の音あり。釈尊是(これ)を聞召(きこしめし)て、此(この)波の流止(ながれとどま)らんずる所、一つの国と成(なつ)て、吾(わが)教法弘通(ぐつう)する霊地(れいち)たるべしと思召(おぼしめし)ければ、則(すなはち)此(この)浪の流行(ながれゆく)に随(したがつ)て、遥(はるか)に十万里の蒼海(さうかい)を凌(しの)ぎ給ふ。此(この)波忽(たちまち)に一葉(いちえふ)の葦(あし)の海中に浮べるにぞ留(とどま)りにける。此(この)葦の葉果(はた)して一の島となる。今の比叡山(ひえいさん)の麓、大宮権現(おほみやごんげん)垂跡給ふ波止土濃(はしどの)也(なり)。是(この)故(ゆゑ)に波止(とどまつ)て土(つち)濃(こまやか)也(なり)とは書(かけ)るなるべし。其後(そののち)人寿(にんじゆ)百歳の時釈尊中天竺(てんぢく)摩竭陀(まかだ)国浄飯王宮(じやうぼんわうぐう)に降誕(がうたん)し給ふ。御歳(おんとし)十九にて二月上八(じやうはち)の夜半(やはん)に王宮を遁(のが)れ出(いで)、六年難行(なんぎやう)して雪山(せつせん)に捨身、寂場樹下(じやくぢやうじゆか)に端坐(たんざ)し給ふ事(こと)、又六年の後夜(ごや)に正覚(しやうがく)を成(なし)し後、頓大(とんだい)三七日、遍小(へんせう)十二年(ねん)、染浄虚融(せんじやうこゆう)の演説(えんぜつ)三十年(さんじふねん)、一実無相(いちじつむさう)の開顕(かいけん)八箇年(はちかねん)、遂に滅度(めつど)を抜提河(ばつだいが)の辺(ほとり)、双林樹下に唱(となへ)給ふ。雖然、仏は元来本有常住(ほんうじやうぢゆう)周遍法界(しうへんほふかい)の妙体(めうたい)なれば、為遺教流布、昔葦(あし)の葉の国と成(なり)し南閻浮提(なんえんぶだい)豊葦原(とよあしはら)の中津国(なかつくに)に到(いたつ)て見給ふに、時は鵜羽(うのは)不葺合尊(みこと)の御代なれば、人未(いまだ)仏法の名字(みやうじ)をだにも不聞。然共(しかれども)此(この)地大日遍照(だいにちへんぜう)の本国として、仏法東漸(とうぜん)の霊地たるべければ、何(いづ)れの所にか可開応化利生之門、彼方此方(かなたこなた)を遍歴(へんれき)し給ふ処に、比叡山(ひえいさん)の麓楽々名美也(ささなみや)志賀(しが)の浦の辺(ほとり)に、垂釣坐(おは)せる老翁(らうをう)あり。釈尊向之、「翁(おきな)若(もし)此(この)地の主(ぬし)たらば此(この)山を吾(われ)に与(あたへ)よ。成結界地仏法を弘(ひろめ)ん。」と宣(のたまひ)ければ、此翁(このおきな)答曰(こたへていはく)、「我は人寿六千歳の始(はじめ)より、此(この)所の主(ぬし)として、此湖(このみづうみ)の七度(しちど)迄蘆原(あしはら)と変ぜしを見たり。但(ただし)此(この)地結界(けつかい)の地と成らば、釣(つり)する所を可失。釈尊早(はやく)去(さつ)て他国に求め給へ。」とぞ惜(をし)みける。此翁(このおきな)は是(これ)白髭(しらひげの)明神也(なり)。釈尊因茲、寂光土(じやくくわうど)に帰らんとし給ひける処に、東方浄瑠璃世界(とうばうじやうるりせかい)の教主(けうしゆ)医王善逝(いわうぜんせい)忽然(こつぜん)として来り給へり。釈尊大(おほき)に歓喜(くわんぎ)し給(たまひ)て、以前老翁が云(いひ)つる事を語り給ふに、医王善逝称歎(しようたん)して宣はく、「善(よい)哉(かな)釈迦尊(しやかそん)、此(この)地に仏法を弘通(ぐづう)し給はん事。我(われ)人寿二万歳(にまんさい)の始(はじめ)より此(この)国(くに)の地主也(なり)。彼老翁(かのらうをう)未知我。何(なんぞ)此(この)山を可奉惜哉(や)。機縁(きえん)時至(いたつ)て仏法東流(とうりう)せば、釈尊は教(をしへ)を伝(つたふ)る大師(だいし)と成(なつ)て、此(この)山を開闢(かいびやく)し給へ。我は此(この)山の王と成(なつ)て久(ひさし)く後五百歳(ごごひやくさい)の仏法を可護。」と誓約(せいやく)をなし、二仏(じぶつ)各東西に去給(さりたまひ)にけり。角(かく)て千八百年を経(へ)て後、釈尊は伝教(でんげう)大師(だいし)と成(なら)せ給ふ。延暦(えんりやく)二十三年に始(はじめ)て求法(ぐほふ)の為に漢土(かんど)に渡り給ふ。則(すなはち)顕密戒(けんみつかい)の三学淵底(えんてい)に玉を拾(ひろ)ひ、同(おなじき)二十四年に帰朝し給(たまひ)ぬ。爰(ここ)に桓武(くわんむの)皇帝(くわうてい)、法の檀度(だんと)と成(なら)せ給(たまひ)て比叡山(ひえいさん)を被草創始め、伝教(でんげう)大師(だいし)承勅、根本中堂(こんぼんちゆうだう)を建(たて)んとて地を引(ひか)れけるに、紅蓮(ぐれん)の如くなる人の舌(した)一つ土の底に有(あつ)て法華読誦(どくじゆ)の声不止。大師(だいし)怪(あやしみ)て其(その)故を問(とひ)給ふに、此(この)舌答(こたへ)て曰く、「我(われ)古(いにし)へ此(この)山に住(ぢゆう)して、六万部の法華経(ほけきやう)を読誦(どくじゆ)せしが、寿命有限身已(すで)に雖壊、音声(おんじやう)無尽舌は尚(なほ)存(ぞん)せり。」とぞ申(まうし)ける。又中堂造営(ざうえい)事(こと)終(をはつ)て、為本尊大師(だいし)御手(てづ)から薬師(やくし)の像を作り給(たまひ)しに、一度(いちど)斧(をの)を下(くだ)して、「像法転時(さうほふてんじ)、利益衆生(りやくしゆじやう)、故号薬師(こがうやくし)、瑠璃光仏(るりくわうぶつ)。」と唱(とな)へて、礼拝(らいはい)し給(たまひ)ける時に、木像(もくざう)の薬師屈首諾(うなづ)かせ給ひけり。其(その)後大師(だいし)は小比叡(をひえ)の峯(みね)に杉の庵(いほり)を卜(しめ)て、暫(しばらく)独住(ひとりずみ)し坐(おはし)ける。或時角(かく)ぞ詠じ給ひける。波母山(はもやま)や小比叡(をひえ)の杉の独居(ひとりゐ)は嵐も寒し問(とふ)人もなしと被遊、観月(くわんげつ)を澄(すま)して御坐(おはし)ける処に、光明嚇奕(かくやく)たる三(み)つの日輪(にちりん)、空中より飛下(とびくだ)れり。其(その)光の中に釈迦・薬師・弥陀(みだ)の三尊(さんぞん)光を並べて坐し給ふ。此(この)三尊或(あるひ)は僧形(そうぎやう)を現(げんじ)或(あるひ)は俗体に変じて、大師(だいし)を礼(らい)し奉(たてまつ)て、「十方大菩薩(だいぼさつ)・愍衆故行道(みんしゆこぎやうだう)・応生恭敬心(おうしやうくきやうしん)・是則我大師(ぜそくがたいし)。」と讚(ほめ)給ふ。大師(だいし)大(おほき)に礼敬(らいきやう)し給(たまひ)て、「願(ねがはく)は其御名(そのみな)を聞(きか)ん。」と問(とひ)給ふに、三尊答曰(こたへていはく)、「竪(たて)の三点に横(よこ)の一点を加へ、横の三点に竪(たて)の一点を添(そ)ふ。我(われ)内には円宗(ゑんしゆう)の教法を守り、外には済度(さいど)の方便を助けん為に、此(これ)山に来れり。」と答(こたへ)給ふ。其光(そのひかり)天に懸(かか)れる事(こと)、百練の鸞鏡(らんけい)の如し。大師(だいし)此(この)言を以て文字(もんじ)を成(なす)に、竪(たて)の三点に横の一点を加へては、山と云(いふ)字也(なり)。横の三点に竪(たて)の一点を添(そへ)ては王と云(いふ)字也(なり)。山は是(これ)高大(かうだい)にして不動形、王は天・地・人の三才(さんさい)に経緯(けいゐ)たる徳を顕(あらは)し玉(たま)へる称号(しようがう)なるべしとて、其(その)神を山王と崇(あが)め奉る。所謂(いはゆる)大宮権現(おほみやごんげん)は久遠実成(くをんじつじやう)の古仏、天照太神(あまてらすおほんがみ)の応作(おうさ)、専(もつぱら)護円宗教法、久(ひさしく)宿比叡山(ひえいさん)。故(ゆゑ)に法宿(ほふしゆく)大菩薩(だいぼさつ)とも奉申。既(すでに)是(これ)三界の慈父(じぶ)、我等が本師也(なり)。聖真子(しやうしんじ)は九品安養界(くほんあんやうかい)の化主(けしゆ)、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の分身(ぶんじん)、光を和四明麓、速(すみやかに)示三聖形。雖十悪猶(なほ)引接(いんぜふしたまふ)事(こと)は、疾風の雲霧(うんむ)を披(ひらく)よりも甚し。雖一念必(かならず)感応(かんおう)なる事は、喩之巨海納涓露。和光同塵(わくわうどうじん)は既(すで)に為結縁始。往生安楽は豈(あに)非得脱終乎(や)。二の宮(みや)は初め大聖釈尊(だいしやうしやくそん)と約(やく)をなし給ひし東方浄瑠璃世界(とうばうじやうるりせかい)の如来(によらい)、吾(わが)国(くに)秋津州(あきつす)の地主也(なり)。随所示願(ずゐしよじぐわん)の誓ひ既(すで)に叶ふ。現世安隠(げんぜあんおんの)人望(じんばう)、願生(ぐわんしやう)西方の願(ねがひ)、豈(あに)非後生菩提指南乎(や)。八王子は千手(せんしゆ)観音の垂跡(すゐじやく)、以無垢三昧力、済奈落伽重苦、潅頂(くわんぢやう)大法王子(わうじ)也(なり)。故(ゆゑ)に云大八王子。本地(ほんち)清涼(しやうりやう)の月(つき)は雖処安養界、応化(おうげ)随縁(ずゐえん)の影は遥(はるか)に顕麓祠露に。各(おのおの)所居の浄土(じやうど)を表(へうせ)ば、是(これ)然(しかしなが)ら補陀楽山(ふだらくせん)共(とも)申(まうし)つべし。客人(きやくじんの)宮(みや)は十一面観音の応作(おうさ)、白山禅定(しらやまぜんぢやう)の霊神也(なり)。而(しかれども)助山王行化を、出北陸之崇峯来東山之霊地、故(ゆゑに)号客人。現在生(げんざいしやう)の中には得十種勝利を、臨命終(りんみやうじゆう)の時には生九品蓮台。十禅師の宮(みや)は無仏世界の化王(けしゆ)、地蔵薩■(さつた)の応化(おうげ)也(なり)。忝(かたじけなく)も受牟尼遺教、懇(ねんごろに)預■利(たうりの)付嘱に。二仏中間(ちゆうげん)の大導師、三聖執務(さんしやうしふむ)の法体(ほつたい)也(なり)。彼御託宣(かのごたくせん)に云(いはく)、「三千(さんぜん)の衆徒を養(やしなつ)て我(わが)子とし、一乗(いちじよう)の教法を守(まもつ)て我(わが)命とす。」と示し給ふ。設(たと)ひ雖微少結縁也(なり)。宜(よろしく)蒙莫大利益。三の宮(みや)は普賢(ふけん)菩薩の権化(ごんげ)、妙法蓮華の正体也(なり)。一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の窓の前には、影向(やうがう)を垂(たれ)て哀愍(あいみん)を納受(なふじゆ)し給ふ。既(すでに)是(これ)慚愧懺悔(ざんぎさんげ)の教主たり。六根罪障の我等何(なんぞ)不奉仰之哉(や)。次に中(なかの)七社(しちしや)、牛(うし)の御子(みこ)は大威徳、大行事(だいぎやうじ)は毘沙門(びしやもん)、早尾(はやを)は不動、気比(けひ)は聖観音(しやうくわんおん)、下(しも)八王子は虚空蔵(こくうざう)、王子(わうじ)の宮(みや)は文殊(もんじゆ)、聖女(しやうによ)は如意輪(によいりん)、次に下(しもの)七社(しちしや)の小禅師は弥勒竜樹(みろくりゆうじゆ)、悪(あく)王子(わうじ)は愛染(あいぜん)明王(みやうわう)、新(しん)行事(ぎやうじ)は吉祥天女(きちじやうてんによ)、岩滝(いはたき)は弁才天、山末(やまずゑ)は摩利支天(まりしてん)、剣(つるぎの)宮(みや)は不動、大宮(おほみや)の竃殿(かまどの)は大日、聖真子(しやうしんじ)の竃殿(かまどの)は金剛界(こんがうかい)の大日、二(にの)宮(みやの)竃殿(かまどの)は日光・月光各出大悲門趣利生之道給ふ。其後(そののち)四所の菩薩、化(くわ)を助けて十方より来至(らいし)し、三七の霊神光を並べて四辺に囲繞(ゐねう)し給ふ。夫(それ)済渡利生(さいどりしやう)の区(まちまち)なる徳(とくは)、百千劫(ひやくせんごふ)の間(あひだ)に舌を暢(のべ)て説共(とくとも)不可尽。山は戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を表(へう)し建三塔(さんたふ)。人は一念三千(さんぜん)の義を以て員(かず)とす。十二(じふにの)願王回眸故(ゆゑ)に、天下の治乱(ちらん)此冥応(このみやうおう)に不懸と云(いふ)事(こと)なく、七社(しちしやの)権現(ごんげん)垂跡故(ゆゑ)に、海内(かいだい)の吉凶其玄鑒(そのげんかん)に不依と云(いふ)事(こと)なし。されば朝廷に有事日は祈之除災致福。山門(さんもんに)有訴時は傷之以非被理。爰(ここ)に両度の臨幸を山門に許容申(きよようまうし)たりしは、一往衆徒の僻事(ひがごと)に以て候へ共(ども)、窮鳥(きゆうてう)入懐時は狩人(かりうど)も哀之不殺事にて候。況乎(いはんや)十善の君の御恃(おんたのみ)あらんに誰か可不与申。譬(たとへ)ば其(その)時の久執(くしふ)の輩(ともがら)、少々(せうせう)相残(あひのこつ)て野心(やしん)を挿(さしはさ)み候(さうらふ)共(とも)、武将忘其恨、厚恩(こうおん)被行徳候者(さうらはば)、敵の運を祈らんずる勤(つとめ)は却(かへつ)て一家(いつけ)の祈(いのり)となり、朝敵(てうてき)を贔負(ひいき)せん心変じて、御方(みかた)の御ために無弐者と成り候べし。」と、内外(ないげ)の理致(りち)明かに、尽言被申たりければ、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)を奉始、高(かう)・上杉・頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆう)に至る迄、さては山門なくて、天下を治(をさむ)る事有(ある)まじかりけりと信仰(しんがう)して、則(すなはち)旧領安堵(あんど)の外(ほか)に、武家益々(ますます)寄進(きしん)の地をぞ被副ける。