太平記(国民文庫)
太平記巻第十七
○山攻(やまぜめの)事(こと)付(つけたり)日吉(ひよし)神託(しんたくの)事(こと) S1701
主上(しゆしやう)二度(ふたたび)山門へ臨幸なりしかば、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)去(さん)ぬる春(はる)の勝軍(かちいくさ)に習(ならつ)て、弐(ふたごこ)ろなく君を擁護(おうご)し奉り、北国・奥州の勢(せい)を待(まつ)由聞へければ、将軍・左馬(さまの)頭(かみ)・高(かう)・上杉の人々、東寺(とうじ)に会合して合戦の評定あり。事延引(えんいん)して義貞に勢付(つき)なば叶(かなふ)まじ。勢未(いま)だ微(び)なるに乗(のつ)て山門を可攻とて、六月二日四方(しはう)の手分(てわけ)を定(さだめ)て、追手(おふて)・搦手(からめて)五十万騎(ごじふまんぎ)の勢を、山門へ差向(さしむけ)らる。追手(おふて)には、吉良(きら)・石堂(いしたう)・渋河・畠山(はたけやま)を大将として、其(その)勢(せい)五万(ごまん)余騎(よき)、大津・松本の東西の宿・園城寺(をんじやうじ)の焼跡(やけあと)・志賀(しが)・唐崎(からさき)・如意(によい)が岳(だけ)まで充満(じゆうまん)したり。搦手(からめて)には、仁木(につき)・細河(ほそかは)・今川・荒河を大将として、四国・中国の勢八万(はちまん)余騎(よき)、今道越(いまみちごゑ)に三石(みついし)の麓を経(へ)て、無動寺(むどうじ)へ寄(よせ)んと志す。西坂本へは、高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)師重(もろしげ)・高(かうの)土佐(とさの)守(かみ)・高(かうの)伊予(いよの)守(かみ)・南部(なんぶ)遠江守(とほたふみのかみ)・岩松・桃井等(もものゐら)を大将として三十万騎(さんじふまんぎ)、八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・しづ原・松崎(まつがさき)・赤山(せきさん)・下松(さがりまつ)・修学院(しゆがくゐん)・北白川(きたしらかは)まで支(ささへ)て、音無(おとなし)の滝・不動堂・白鳥(しらとり)よりぞ寄(よせ)たりける。山門には、敵是(これ)まで可寄とは思(おもひ)も寄(よら)ざりけるにや、道々をも警固(けいご)せず、関(きど)・逆木(さかもぎ)の構(かまへ)もせざりければ、さしも嶮(けは)しき道なれ共(ども)、岩石(がんぜき)に馴たる馬共なれば、上(のぼ)らぬ所も無(なか)りけり。其(その)時しも新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)を始(はじめ)として、千葉(ちば)・宇都宮(うつのみや)・土肥(どひ)・得能(とくのう)に至るまで東坂本(ひがしさかもと)に集居(あつまりゐ)て、山上には行歩(ぎやうぶ)も叶(かな)はぬ宿老(しゆくらう)、稽古の窓(まど)を閉(とぢ)たる修学者(しゆがくしや)の外(ほか)は、兵(つはもの)一人(いちにん)も無(なか)りけり。此(この)時若(もし)西坂より寄(よす)る大勢共、暫(しばし)も滞(とどこほ)りなく、四明(しめい)の巓(だけ)まで打挙(あが)りたらましかば、山上も坂本も、防(ふせぐ)に便(たよ)り無(なく)して、一時に落(おつ)べかりしを、猶も山王大師(さんわうだいし)の御加護(おんかご)や有(あり)けん、俄に朝霧深(ふかく)立隠(たちかく)して、咫尺(しせき)の内をも見ぬ程なりければ、前陣に作る御方(みかた)の時(とき)の音(こゑ)を、敵の防ぐ矢叫(やさけび)の声ぞと聞誤(ききあやまつ)て、後陣(ごぢん)の大勢つゞかねば、そゞろに時をぞ移(うつ)しける。懸(かか)る処に、大宮(おほみや)へをり下(くだつ)て三塔(さんたふ)会合しける大衆(だいしゆ)上下帰山(きさん)して、将門(しやうもん)の童堂(わらうだう)の辺(へん)に相支(あひささへ)て、こゝを前途(せんど)と防(ふせぎ)ける間、面(おもて)に進みける寄手(よせて)三百人(さんびやくにん)被討、前陣敢(あへ)て懸(かか)らねば、後陣(ごぢん)は弥(いよいよ)不得進、只水飲(みづのみ)の木陰(こかげ)に陣をとり、堀切(ほりきり)を堺(さかひ)て、掻楯(かいたて)を掻(かき)、互に遠矢を射違(いちがへ)て、其(その)日(ひ)は徒(いたづら)に暮(くれ)にけり。西坂に軍(いくさ)始(はじま)りぬと覚(おぼ)へて、時声(ときのこゑ)山に響(ひびき)て聞へければ、志賀・唐崎の寄手(よせて)十万(じふまん)余騎(よき)、東坂本(ひがしさかもと)の西(にしの)穴生(あなふ)の前へ押寄(おしよせ)て、時(ときの)声をぞ揚(あげ)たりける。爰(ここ)にて敵の陣を見渡せば、無動寺(むどうじ)の麓より、湖(みづうみ)の波打際(なみうちぎは)まで、から堀を二丈余(あまり)に堀通(ほりとほ)して処々に橋を懸け、岸の上に屏(へい)を塗(ぬり)、関(きど)・逆木(さかもぎ)を密(きび)しくして、渡櫓(わたりやぐら)・高櫓(たかやぐら)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)掻双(かきなら)べたり。屏(へい)の上より見越(こ)せば、是(これ)こそ大将の陣と覚へて中黒(なかぐろ)の旗三十(さんじふ)余流(よながれ)山下風(やまおろし)に吹(ふか)れて、竜蛇(りようじや)の如くに翻(ひるがへ)りたる其(その)下に、陣屋を双(ならべ)て油幕(ゆばく)を引(ひき)、爽(さわやか)に鎧(よろう)たる兵二三万騎(にさんまんぎ)、馬を後(うしろ)に引立(ひきたて)させて、一勢(いつせい)々々(いつせい)並居(なみゐ)たり。無動寺(むどうじ)の麓、白鳥(しらとり)の方(かた)を向上(みあげ)たりければ、千葉・宇都宮(うつのみや)・土肥・得能(とくのう)・四国・中国の兵こゝを堅めたりと覚へて、左巴(ひだりどもゑ)・右巴・月に星・片引両(かたひきりやう)・傍折敷(そばをしき)に三文字書(かき)たる旗共(はたども)六十(ろくじふ)余流(よながれ)木々の梢(こずゑ)に翻(ひるがへつ)て、片々(へんへん)たる其陰(そのかげ)に、甲(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)たる兵三万(さんまん)余騎(よき)、敵近付(ちかづ)かば横合(よこあひ)にかさより落さんと、轡(くつばみ)を双(ならべ)て磬(ひかへ)たり。又湖上(こじやう)の方を直下(みおろし)たれば、西国・北国・東海道の、船軍(ふないくさ)に馴(なれ)たる兵共(つはものども)と覚(おぼえ)て、亀甲(きつかふ)・下濃(すそご)・瓜(うり)の紋(もん)・連銭(れんぜん)・三星(みつぼし)・四目結(よつめゆひ)・赤幡(あかはた)・水色・三■(みつすはま)、家々の紋画(ゑがい)たる旗、三百(さんびやく)余流(よながれ)、塩(しほ)ならぬ海に影見へて、漕双(こぎなら)べたる舷(ふなばた)に、射手(いて)と覚へたる兵数万人(すまんにん)、掻楯(かいたて)の陰(かげ)に弓杖(ゆんずゑ)を突(つい)て横矢(よこや)を射んと構へたり。寄手(よせて)誠(まこと)に大勢なりといへども、敵の勢に機(き)を被呑て、矢懸(やがか)りまでも進み得ず、大津・唐崎・志賀の里三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)に陣を取(とつ)て、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。六月六日、追手(おふて)の大将の中より西坂の寄手(よせて)の中へ使者を立て、「此方(こなた)の敵陣を伺(うかがひ)見候へば、新田・宇都宮(うつのみや)・千葉・河野を始(はじめ)として、宗(むね)との武士共(ぶしども)、大畧(たいりやく)皆東坂本(ひがしさかもと)を堅(かため)たりとみへて候。西坂をば嶮(けはし)きを憑(たのみ)て、公家(くげ)の人々、さては山法師(やまほふし)共(ども)を差向(さしむけ)て候なる。一軍(ひといくさ)手痛く攻(せめ)て御覧(ごらん)候へ。はか/\しき合戦はよも候はじ、思図(おもふづ)に大岳(おほだけ)の敵を追(おひ)落されて候はゞ、大講堂・文殊楼(もんじゆろう)の辺(へん)に引(ひか)へて、火を被挙候へ。同時に攻合(せめあは)せて、東坂本(ひがしさかもと)の敵を一人も余さず、湖水に追(おつ)はめて亡(ほろぼ)し候べし。」とぞ牒(てふ)せられける。西坂の大将高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)是(これ)を聞(きき)て、諸軍勢(しよぐんぜい)に向(むかつ)て法を出(いだ)しけるは、「山門を攻(せめ)落すべき諸方の相図(あひづ)明日にあり。此(この)合戦に一足(ひとあし)も退(しりぞき)たらん者は、縦(たとひ)先々(さきざき)抜群(ばつぐん)の忠ありと云(いふ)とも、無(なき)に処(しよ)して本領(ほんりやう)を没収(もつしゆ)し、其(その)身を可追出。一太刀(ひとたち)も敵に打違へて、陣を破り、分捕(ぶんどり)をもしたらんずる者をば、凡下(ほんげ)ならば侍になし、御家人(ごけにん)ならば、直(ぢき)に恩賞を可申与。さればとて独(ひとり)高名(かうみやう)せんとて抜懸(ぬけがけ)すべからず。又傍輩(はうばい)の忠を猜(そねん)で危(あやふ)き処を見放(はな)つべからず。互に力を合せ、共に志を一にして、斬(きる)共(とも)射(いる)共(とも)不用、乗越(のりこえ)々々(のりこえ)進(すすむ)べし。敵引退(ひきしりぞ)かば、立帰(たちかへ)さぬさきに攻立(せめたて)て、山上に攻上(のぼ)り、堂舎・仏閣に火を懸(かけ)て、一宇(いちう)も不残焼払(やきはら)ひ、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)の頚(くび)を一々に、大講堂の庭に斬懸(きりかけ)て、将軍の御感(ぎよかん)に預(あづか)り給へかし。」と、諸人を励まして下知(げぢ)しける、悪逆の程こそ浅猿(あさまし)けれ。諸国の軍勢(ぐんぜい)等(ら)此命(このめい)を聞(きき)て、勇み前(すす)まぬ者なし。夜已(すで)に明(あけ)ければ、三石(みついし)・松尾(まつのを)・水飲(みづのみ)より、三手に分れて二十万騎(にじふまんぎ)、太刀・長刀の鋒(きつさき)を双(なら)べ、射向(いむけ)の袖を差(さし)かざして、ゑい/\声を出(いだ)してぞ揚(あがつ)たりける。先(まづ)一番に中書王(ちゆうしよわう)の副将軍(ふくしやうぐん)に被憑たりける千種宰相(ちくさのさいしやう)中将(ちゆうじやう)忠顕卿(ただあきのきやう)・坊門(ばうもんの)少将(せうしやう)正忠(まさただ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて被防けるが、松尾(まつのを)より攻上(せめのぼ)る敵に後(うしろ)を被裹て一人も不残討(うた)れてけり。是(これ)を見て後陣(ごぢん)に支(ささ)へて防ぎける護正院(ごしやうゐん)・禅智坊(ぜんちばう)・道場坊以下(いげ)の衆徒七千(しちせん)余人(よにん)、一太刀(ひとたち)打(うつ)ては引上(ひきあがり)暫(しばらく)支(ささへ)ては引退(ひきしりぞき)、次第々々に引(ひき)ける間、寄手(よせて)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗(のつ)て、追立(おつたて)々々(おつたて)一息をも継(つが)せず、さしも嶮(けはし)き雲母坂(きららざか)・蛇池(じやいけ)を弓手(ゆんで)に見成(みなし)て、大岳(おほだけ)までぞ攻(せめ)あがりける。去(さる)程(ほど)に院々(ゐんゐん)に早鐘(はやかね)撞(つい)て、西坂已(すで)に被攻破ぬと、本院(ほんゐん)の谷々(たにだに)に騒ぎ喚(よばは)りければ、行歩(ぎやうぶ)も叶はぬ老僧は鳩の杖に携(たづさはつ)て、中堂・常行堂(じやうぎやうだう)なんどへ参(まゐり)て、本尊と共に焼(やけ)死なんと悲(かなし)み、稽古鑽仰(さんぎやう)をのみ事とする修学者(しゆがくしや)などは、経論聖教(きやうろんしやうげう)を腹に当(あて)て、落行(おちゆく)悪僧(あくそう)の太刀・長刀を奪取(うばひとつ)て、四郎谷(しらうたに)の南、箸塚(はしづか)の上に走挙(はしりあが)り、命を捨(すて)て闘(たたかひ)ける。爰(ここ)に数万人(すまんにん)の中より只一人備後(びんごの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、江田(えだ)源八泰氏(やすうぢ)と名乗(なのつ)て、洗革(あらひかは)の大鎧(おほよろひ)に五枚甲(ごまいかぶと)の緒を縮(しめ)、四尺(ししやく)余の太刀所々さびたるに血を付(つけ)て、ましくらにぞ上(のぼり)たりける。是(これ)を見て、杉本(すぎもと)の山神大夫(やまかみのだいぶ)定範(ぢやうはん)と云(いひ)ける悪僧(あくそう)、黒糸(くろいと)の鎧に竜頭(たつかしら)の甲(かぶと)の緒をしめ、大立挙(おほたてあげ)の髄当(すねあて)に、三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の長刀茎短(くきみじか)に取(とつ)て乱足(みだれあし)を蹈み、人交(ひとまぜ)もせず只二人(ににん)、火を散してぞ斬合(きりあひ)ける。源八遥(はるか)の坂を上(のぼつ)て、数箇度(すかど)の戦(たたかひ)に腕緩(ゆる)く機(き)疲れけるにや、動(ややもす)ればうけ太刀に成(なり)けるを、定範得(え)たり賢(かしこ)しと、長刀の柄(え)を取延(とりのべ)源八が甲(かぶと)の鉢(はち)を破(われ)よ砕(くだけ)よと、重打(かさねうち)にぞ打(うつ)たりける。源八甲(かぶと)の吹返(ふきかへし)を目の上へ切(きり)さげられて、著直(きなほ)さんと推仰(おしあふの)きける処を、定範長刀をからりと打棄(うちすて)て、走懸(はしりかかつ)てむずと組(くむ)。二人(ににん)が蹈(ふみ)ける力足(ちからあし)に、山の片岸(かたきし)崩(くづれ)て足もたまらざりければ、二人(ににん)引組(ひつくみ)ながら、数千丈(すせんぢやう)高き小篠原(こささはら)を、上(うへ)になり下になり覆(ころび)けるが、中程より別々(べちべち)に成(なつ)て両方の谷の底へぞ落(おち)たりける。此外(このほか)十四の禅侶(ぜんりよ)、法花(ほつけ)堂の衆に至るまで、忍辱(にんにく)の衣の袖を結(むすび)て肩にかけ、降魔(がうま)の利剣(りけん)を提(ひつさげ)て、向ふ敵に走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)、命を風塵(ふうぢん)よりも軽(かろく)して防ぎ戦(たたかひ)ける程(ほど)に、寄手(よせて)の大勢進兼(すすみかね)て、四明(しめい)の巓(いただき)・西谷口、今三町許(ばかり)に向上(みあげ)て一気(ひといき)休(やすめ)てぞゆらへける。爰(ここ)に何者か為(し)たりけん、大講堂の鐘を鳴(なら)して、事の急(きふ)を告(つげ)たりける間、篠(ささ)の峯(みね)を堅めんとて、昨日横川(よかは)へ被向たりける宇都宮(うつのみや)五百(ごひやく)余騎(よき)、鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あはせ)て西谷口へ馳来(はせきた)る。皇居(くわうきよ)を守護(しゆご)して東坂本(ひがしさかもと)に被坐ける新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞、六千(ろくせん)余騎(よき)を率(そつ)して四明(しめい)の上へ馳上(はせのぼつ)て、紀清(きせい)両党を虎韜(こたう)にすゝませ、江田(えだ)・大館(おほたち)を魚鱗(ぎよりん)に連(つら)ねて真倒(まつさかさま)に懸立(かけたて)られけるに、寄手(よせて)二十万騎(にじふまんぎ)の兵共(つはものども)、水飲(みづのみ)の南北の谷へ被懸落て、馬人上(いや)が上(うへ)に落重(おちかさな)りしかば、さしも深き谷二(ふた)つ死人(しにん)に埋(うまつ)て平地になる。寄手(よせて)此日(このひ)の合戦に討負(うちまけ)て、相図(あひづ)の支度(したく)相違しければ、水飲(みづのみ)より下(した)に陣を取(とつ)て、敵の隙(ひま)を伺ふ。義貞は東坂本(ひがしさかもと)を閣(さしおい)て、大岳(おほだけ)を陣に取り、昼夜旦暮(ちうやたんぼ)に闘(たたかひ)て、互に陣を不被破(やぶられ)、西坂の合戦此侭(このまま)にて休(やみ)ぬ。其翌日(そのよくじつ)高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)大津へ使を立(たて)て、「宗(むね)との敵共(てきども)は、皆大岳(おほだけ)へ向(むかひ)たりと見へて候。急(いそぎ)追手(おふて)の合戦を被始て東坂本(ひがしさかもと)を攻破(せめやぶ)り、神社・仏閣・僧坊・民屋(みんをく)に至るまで、一宇(いちう)も不残焼払(やきはらひ)て、敵を山上に追上(おひあげ)、東西両塔の間に打上(うちあがり)て、煙(けぶり)を被挙候はゞ、大岳(おほだけ)の敵ども前後に心を迷(まよ)はして、進退(しんたい)定(さだめ)て度(ど)を失(うしなひ)つと覚(おぼ)へ候。其(その)時此方(こなた)より同(おなじく)攻上(せめあがり)戦の雌雄(しゆう)を一時に可決。」とぞ牒(てふ)せられける。吉良(きら)・石堂(いしたう)・仁木(につき)・細川の人々是(これ)を聞(きき)て、「昨日(きのふ)は已(すで)に追手(おふて)の勧(すすめ)に依(よつ)て高家(かうけ)の一族共(いちぞくども)手(て)の定(さだまり)の合戦を致しつ。今日は又搦手(からめて)より此(この)陣の合戦を被勧事誠(まこと)に理(り)に当(あた)れり、非可黙止。」とて、十八万騎を三手に分(わけ)て、田中(たなか)・浜道(はまみち)・山傍(そへ)より、態(わざと)夕日に敵を向(むけ)て、東坂本(ひがしさかもと)へぞ寄(よせ)たりける。城中(じやうちゆう)の大将には、義貞の舎弟(しやてい)脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助を被置たりければ、東国・西国の強弓(つよゆみ)・手足(てだれ)を汰(そろ)へて、土矢間(つちさま)・櫓(やぐら)の上にをき、土肥(どひ)・得能(とくのう)・仁科(にしな)・春日部(かすかべ)・伯耆(はうきの)守(かみ)以下(いげ)の四国・北国の懸(かけ)武者共(むしやども)二万(にまん)余騎(よき)、白鳥(しらとり)が岳(をか)に磬(ひか)へさせ、船軍(ふないくさ)に馴(なれ)たる国々の兵(つはもの)に、和仁(わに)・堅田(かただ)の地下人共(ちげにんども)を差添(さしそへ)て五千(ごせん)余人(よにん)、兵船(ひやうせん)七百(しちひやく)余艘(よさう)に掻楯(かいたて)を掻(かい)て、湖水(こすゐ)の澳(おき)に被浮たり。敵陣の構(かまへ)密(きびし)くして、人の近付(ちかづく)べき様(やう)なしといへども、軍(いくさ)をせでは敵の落(おつ)べき様やあるとて、三方(さんぱう)の寄手(よせて)八十万騎(はちじふまんぎ)相近付(あひちかづき)て時を作りければ、城中(じやうちゆう)の勢六万(ろくまん)余騎(よき)、矢間(さま)の板(いた)を鳴(なら)し、舷(ふなばた)を敲(たたい)て時(ときの)声を合(あは)す。大地も為之裂(さけ)、大山も此(この)時に崩(くづれ)やすらんとをびたゝし。寄手(よせて)已(すで)に堀の前までかづき寄せ、埋草(うめくさ)を以て堀をうめ、焼(やき)草を積(つん)で櫓(やぐら)を落さんとしける時、三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)の櫓(やぐら)・土(つち)さま・出屏(だしべい)の内より、雨の降如(ふるごとく)射出(いいだ)しける矢、更に浮矢(あだや)一つも無(なか)りければ、楯のはづれ旗下(はたした)に射臥(いふせ)られて、死生(ししやう)の堺(さかひ)を不知者三千人(さんぜんにん)に余れり。寄手(よせて)余(あまり)に射殺されける間、持楯(もちだて)の陰(かげ)に隠(かくれ)んと、少(すこし)色めきける処を、城中(じやうちゆう)より見澄(みすま)して、脇屋(わきや)・堀口・江田・大館の人々六千(ろくせん)余騎(よき)、三の関(きど)を開(ひらか)せて、驀直(まつしくら)に敵の中へ懸(かけ)入る。土肥(どひ)・得能(とくのう)・仁科(にしな)・伯耆(はうき)が勢二千(にせん)余騎(よき)、白鳥(しらとり)より懸下(かけおり)て横合(よこあひ)にあふ。湖水に浮べる国々の兵共(つはものども)、唐崎の一松(ひとつまつ)の辺(へん)へ漕寄(こぎよせ)て、さし矢・遠矢・すぢかひ矢に、矢種(やだね)を不惜射たりける。寄手(よせて)大勢なりといへ共(ども)、山と海と横矢に射白(しらま)され、田中・白鳥(しらとり)の官軍(くわんぐん)に被懸立、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、又本陣へ引返す。其後(そののち)よりは日夜朝暮(てうぼ)に兵(つはもの)を出(いだ)し、矢軍許(やいくさばかり)をばしけれ共(ども)、寄手(よせて)は遠攻(とほせめ)に為(し)たる許(ばかり)を態(わざ)にし、官軍(くわんぐん)は城を不被落を勝(かち)にして、はか/゛\しき軍は無(なか)りけり。同(おなじき)十六日熊野の八庄司(はつしやうじ)共(ども)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)したりけるが、荒手(あらて)なれば一軍(ひといくさ)せんとて、軈(やが)て西坂へぞ向ひたりける。黒糸(くろいと)の鎧甲(よろひかぶと)に、指のさきまで鎖(くさ)りたる篭手(こて)・髄当(すねあて)・半頬(はんぼう)・膝鎧(ひざよろひ)、無透処一様(いちやう)に裹(つつみ)つれたる事がら、誠(まこと)に尋常(よのつね)の兵共(つはものども)の出立(いでたち)たる体(てい)には事替(かはり)て、物(もの)の用に立(たち)ぬと見へければ、高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)悦思(よろこびおもふ)事(こと)不斜(なのめならず)、軈(やが)て対面して、合戦の意見(いけん)を訪(とひ)ければ、湯河庄司(ゆかはのしやうじ)殊更進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「紀伊(きの)国(くに)そだちの者共(ものども)は、少(をさな)きより悪処岩石(あくしよがんぜき)に馴(なれ)て、鷹(たか)をつかひ、狩(かり)を仕る者にて候間、馬の通(かよ)はぬ程の嶮岨(けんそ)をも、平地の如(ごとく)に存ずるにて候。ましてや申さん、此(この)山なんどを見て、難所(なんじよ)なりと思(おもふ)事(こと)は、露許(つゆばかり)も候まじ。威毛(をどしけ)こそ能(よく)も候はね共(ども)、我等が手づから撓拵(ためこしらへ)て候物具(もののぐ)をば、何(いか)なる筑紫(つくし)の八郎殿(はちらうどの)も、左右(さう)なく裏(うら)かゝする程の事はよも候はじ。将軍の御大事(おんだいじ)此(この)時にて候へば、我等武士(ぶし)の矢面(やおもて)に立(たつ)て、敵矢を射ば物具(もののぐ)に請留(うけと)め、斬らば其(その)太刀・長刀に取付(とりつき)、敵の中へわり入(いる)程ならば、何(いか)なる新田殿(につたどの)共(とも)のたまへ、やわか怺(こらへ)へ候や。」と傍若無人(ばうじやくぶじん)に申(まう)せば、聞(きく)人見(みる)人何(いづ)れも偏執(へんしふ)の思(おもひ)を成(なし)にけり。「さらば軈(やが)て是(これ)をさき武者として攻(せめ)よ。」とて、六月十七日(じふしちにち)の辰刻(たつのこく)に、二十万騎(にじふまんぎ)の大勢、熊野(くまの)の八庄司(しやうじ)が五百(ごひやく)余人(よにん)を先(さき)に立(たて)て、松尾坂(まつのをさか)の尾崎(をさき)よりかづきつれてぞ上(のぼり)たりける。官軍(くわんぐん)の方(かた)に綿貫(わたぬきの)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・池田五郎・本間(ほんま)孫四郎(まごしらう)・相馬(さうま)四郎左衛門(しらうざゑもん)とて、十万騎(じふまんぎ)が中より勝出(すぐりいだ)されたる強弓(つよゆみ)の手垂(てだれ)あり。池田と綿貫とは、時節(をりふし)東坂本(ひがしさかもと)へ遣はされて不居合ば、本間と相馬と二人(ににん)、義貞の御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、熊野人共(くまのひとども)の真黒(まつくろ)に裹(つつみ)つれて攻上(せめのぼり)けるを、遥(はるか)に直下(みおろ)し、から/\と打(うち)笑ひ、「今日の軍(いくさ)に御方(みかた)の兵(つはもの)に太刀をも抜(ぬか)せ候まじ。矢一(ひとつ)をも射させ候まじ。我等二人(ににん)罷向(まかりむかつ)て、一矢(ひとや)仕(つかまつつ)て奴原(きやつばら)に肝つぶさせ候はん。」と申(まうし)、最(いと)閑(しづか)に座席をぞ立(たち)たりける。猶も弓を強(つよく)引(ひか)ん為に、著たる鎧を脱置(ぬぎおき)て、脇立許(わいだてばかり)に大童(おほわらは)になり、白木(しらき)の弓のほこ短(みじか)には見へけれ共(ども)、尋常(よのつね)の弓に立双(たちなら)べたりければ、今二尺(にしやく)余(あまり)ほこ長にて、曲高(そりたか)なるを大木共(たいぼくども)に押撓(おしため)、ゆら/\と押張(おしはり)、白鳥(はくてう)の羽(はね)にてはぎたる矢の、十五束(じふごそく)三臥(みつぶせ)有(あり)けるを、百矢(ももや)の中より只二筋(ふたすぢ)抜(ぬい)て弓に取副(とりそへ)、訛歌(そぞろうた)うたふて、閑々(しづしづ)と向(むかう)の尾(を)へ渡れば、跡(あと)に立(たち)たる相馬、銀(しろかね)のつく打(うつ)たる弓の普通(ふつう)の弓四五人(しごにん)張合(はりあはせ)たる程なるを、左の肩に打(うち)かたげて、金磁頭(かなじどう)二(ふた)つ箆撓(のため)に取添(とりそへ)て、道々撓直(ためなほし)爪(つま)よりて一村(ひとむら)茂る松陰(かげ)に、人交(ひとまぜ)もなく只二人(ににん)、弓杖(ゆんづゑ)突(つい)てぞ立(たつ)たりける。爰(ここ)に是(これ)ぞ聞へたる八庄司(しやうじ)が内の大力(おほちから)よと覚(おぼ)へて、長(たけ)八尺(はつしやく)許(ばかり)なる男(をとこ)の、一荒々(ひとあれあれ)たるが、鎖(くさり)の上に黒皮(くろかは)の鎧を著(き)、五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、半頬(はんぼう)の面(おもて)に朱(しゆ)をさして、九尺(くしやく)に見(みゆ)る樫木(かしのき)の棒(ぼう)を左の手に拳(にぎ)り、猪(ゐ)の目(め)透(すか)したる鉞(まさかり)の歯(は)の亘(わたり)一尺(いつしやく)許(ばかり)あるを、右の肩に振(ふり)かたげて、少もためらふ気色(きしよく)なく、小跳(こをどり)して登る形勢(ありさま)は、摩醯脩羅(まけいしゆら)王・夜叉(やしや)・羅刹(らせつ)の怒(いか)れる姿に不異。あはひ二町(にちやう)許(ばかり)近付(ちかづい)て、本間(ほんま)小松の陰(かげ)より立顕(たちあらは)れ、件(くだん)の弓に十五束(じふごそく)三臥(みつぶせ)、忘るゝ許(ばかり)引(ひき)しぼり、ひやうと射渡す。志す処の矢坪(やつぼ)を些(ちつと)も不違、鎧の弦走(つるはしり)より総角付(あげまきづけ)の板まで、裡面(うらおもて)五重(いつへ)を懸(かけ)ず射徹(とほ)して、矢さき三寸(さんずん)許(ばかり)ちしほに染(そみ)て出(いだし)たりければ、鬼歟(か)神と見へつる熊野人(くまのひと)、持(もち)ける鉞(まさかり)を打捨(うちすて)て、小篠(こささ)の上にどうど臥す。其(その)次に是(これ)も熊野人歟(か)と覚(おぼ)へて、先(さき)の男(をとこ)に一かさ倍(まし)て、二王(にわう)を作損(つくりそん)じたる如(ごとく)なる武者の、眼(まなこ)さかさまに裂(さけ)、鬚(ひげ)左右へ分れたるが、火威(ひをどし)の鎧に竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)の緒を縮(しめ)、六尺(ろくしやく)三寸(さんずん)の長刀に、四尺(ししやく)余(あまり)の太刀帯(はい)て、射向(いむけ)の袖をさしかざし、後(うしろ)を吃(きつ)とみて、「遠矢な射そ。矢だうなに。」と云侭(いふまま)に、鎧づきして上(あがり)ける処を、相馬四郎左衛門(しらうざゑもん)、五人(ごにん)張(ばり)に十四束(じふしそく)三臥(みつぶせ)の金磁頭(かなじどう)、くつ巻(まき)を残さず引(ひき)つめて、弦音(つるおと)高く切(きつ)て放(はな)つ。手答(てごたへ)とすがい拍子(びやうし)に聞へて、甲(かぶと)の直向(まつかう)より眉間(みけん)の脳(なう)を砕(くだい)て、鉢著(はちつけ)の板の横縫(よこぬひ)きれて、矢じりの見(みゆ)る許(ばかり)に射篭(こみ)たりければ、あつと云(いふ)声と共に倒れて、矢庭(やには)に二人(ににん)死にけり。跡に継(つづ)ける熊野勢(くまのぜい)五百(ごひやく)余人(よにん)、此(この)矢二筋(ふたすぢ)を見て、前へも不進後(うし)ろへも不帰、皆背(せなか)をくゝめてぞ立(たつ)たりける。本間と相馬と二人(ににん)ながら是(これ)をば少しもみぬ由にて、御方(みかた)の兵の二町(にちやう)許(ばかり)隔(へだ)たりける向(むかう)の尾(を)に陣を取(とつ)て居(を)りけるに向(むかつ)て、「例ならず敵共(てきども)のはたらき候は、軍(いくさ)の候はんずるやらん。ならしに一矢づゝ射て見候はん。何(なに)にても的(まと)に立(たて)させ給へ。」と云(いひ)ければ、「是(これ)を遊ばし候へ。」とて、みな紅(くれなゐ)の扇(あふぎ)に月出(いだ)したるを矢に挟(さしはさみ)て遠的場(とほまとば)だてにぞ立(たて)たりける。本間は前に立(たち)、相馬は後(うしろ)に立(たつ)て、月を射ば天の恐(おそれ)も有(あり)ぬべし。両方のはづれを射んずるぞと約束して、本間はたと射れば、相馬もはたと射る。矢所(やつぼ)約束に不違、中なる月をぞ残しける。其(その)後百矢(ももや)二腰(ふたこし)取寄(とりよせ)て、張(はり)がへの弓の寸引(すびき)して、「相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間(ほんま)孫四郎(まごしらう)資氏(すけうぢ)、下総(しもふさの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)相馬(さうま)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)忠重(ただしげ)二人(ににん)、此(この)陣を堅(かため)て候ぞ。矢少々(せうせう)うけて、物具(もののぐ)の仁(さね)の程御覧候へ。」と高らかに名乗(のり)ければ、跡(あと)なる寄手(よせて)二十万騎(にじふまんぎ)、誰追(おふ)としも無(なけ)れども、我先(われさき)にとふためきて、又本の陣へ引返(ひつかへ)す。如今矢軍許(やいくさばかり)にて日を暮(くら)し夜(よ)を明(あか)さば、何年(なんねん)責(せむ)る共、山落(おつ)る事やは可有と、諸人攻(せめ)あぐんで思(おもひ)ける処に、山徒(さんと)金輪院(こんりんゐん)の律師(りつし)光澄(くわうちよう)が許(もと)より、今木(いまぎ)の少納言隆賢(りゆうげん)と申(まうし)ける同宿(どうじゆく)を使にて、高豊前(かうのぶぜんの)守(かみ)に申(まうし)けるは、「新田殿(につたどの)の被支候四明(しめい)山の下は、山上第一(だいいち)の難所(なんじよ)にて候へば、輒(たやす)く攻破(せめやぶ)られん事難叶とこそ存(ぞんじ)候へ。能(よく)物馴(ものなれ)て候はんずる西国方の兵を四五百人(しごひやくにん)、此(この)隆賢に被相副、無動寺(むどうじ)の方(かた)より忍(しのび)入り、文殊楼(もんじゆろう)の辺(へん)四王院の傍(あたり)にて時(ときの)声を被揚候はゞ、光澄(くわうちよう)与力(よりき)の衆徒等(しゆとら)、東西両塔の間に、旗を挙(あげ)時(ときの)声を合(あはせ)て、山門をば時の間(ま)に、攻(せめ)落し候べし。」とぞ申(まうし)ける。あわれ山徒(さんと)の中に御方(みかた)する者の一人なり共出来(しゆつらい)あれかしと、念願(ねんぐわん)しける処に、隆賢忍(しのび)やかに来(きたり)、夜討すべき様(やう)を申(まうし)ければ、高豊前(かうのぶぜんの)守(かみ)大(おほき)に喜(よろこん)で、播磨・美作・備前・備中四箇国(しかこく)の勢の中より、夜討に馴(なれ)たる兵五百(ごひやく)余人(よにん)を勝(すぐつ)て、六月十八日の夕闇(やみ)に四明(しめい)の巓(いただき)へぞ上(のぼ)せける。隆賢多年の案内者(あんないしや)なる上、敵(てき)の有所(あるところ)無(なき)所委(くはしく)見置(おき)たる事なれば、少しも道に迷(まよふ)べきにては無(なか)りけるが、天罰にてや有(あり)けん、俄(にはか)に目くれ心迷(こころまよひ)て、終夜(よもすがら)四明の麓を北南へ迷(まよひ)ありきける程(ほど)に、夜已(すで)に明(あけ)ければ紀清(きせい)両党に見付(みつけ)られて、中に被取篭ける間、迹(あと)なる武者共(むしやども)百(ひやく)余人(よにん)討(うた)れて、谷底へ皆ころび落(おち)ぬ。隆賢一人は、深手(ふかで)数箇所(すかしよ)負(おう)て、腹を切(きら)んとしけるが、上帯(うはおび)を解(とく)隙(ひま)に被組て生虜(いけとら)れにけり。大逆(たいぎやく)の張本(ちやうほん)なれば、軈(やが)てこそ斬らるべかりしを、大将山徒(さんと)の号に宥如(いうじよ)して、御方(みかた)にある一族(いちぞく)の中へ遣はされ、「生(いけ)て置(おか)ん共(とも)、殺されんとも意に可任。」と被仰ければ、今木(いまぎ)中務丞(なかつかさのじよう)範顕(のりあき)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」とて、則(すなはち)使者の見ける前(まへ)にて、其首(そのくび)を刎(はね)てぞ捨(すて)たりける。忝(かたじけなく)も万乗の聖主、医王山王の擁護(おうご)を御憑(おんたのみ)有(あつ)て、臨幸成(なり)たる故(ゆゑ)に、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)悉(ことごとく)仏法と王法と可相比理を存じて、弐(ふたごころ)なく忠戦を致す処に、金輪院(こんりんゐん)一人山徒(さんと)の身として我山(わがやま)を背(そむ)き、武士(ぶし)の家に非(あらず)して将軍に属(しよく)し、剰(あまつさへ)弟子(でし)同宿(どうじゆく)を出(いだ)し立(たて)て、山門を亡(ほろぼさ)んと企(くはたて)ける心の程こそ浅猿(あさまし)けれ。されば悪逆(あくぎやく)忽(たちまち)に顕(あらはれ)て、手引(てびき)しつる同宿ども、或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は生虜(いけとら)れぬ。光澄(くわうちよう)は無幾程して、最愛(さいあい)の子に殺されぬ。其(その)子は又一腹(いつぷく)一生(いつしやう)の弟(おとと)に討(うた)れて、世に類(たぐひ)なき不思議(ふしぎ)を顕(あらはし)ける神罰の程こそ怖(おそろ)しけれ。去(さる)程(ほど)に越前の守護(しゆご)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)・北陸道(ほくろくだう)の勢を率(そつ)して、仰木(あふぎ)より押寄(おしよせ)て、横川(よかは)を可攻と聞へければ、楞厳院(れうごんゐん)九谷(くたに)の衆徒(しゆと)、処々(しよしよ)のつまり/\に関(きど)を拵(こしら)へ逆木(さかもぎ)を引(ひい)て要害を構へける。其比(そのころ)大師(だいし)の御廟(ごべう)修造(しゆざう)の為とて、材木を多く山上に引(ひき)のぼせたりけるを、櫓(やぐら)の柱(はしら)、矢間(さま)の板にせんとて坂中へぞ運(はこび)ける。其(その)日(ひ)、般若院(はんにやゐん)の法印が許(もと)に召仕(めしつかひ)ける童(わらは)、俄に物に狂(くるひ)て様々の事を口走(くちばしり)けるが、「我(われ)に大八王子の権現(ごんげん)つかせ給(たまひ)たり。」と名乗(なのつ)て、「此御廟(このごべう)の材木、急(いそぎ)本(もと)の処へ返(かへ)し運(はこ)ぶべし。」とぞ申(まうし)ける。大衆(だいしゆ)是(これ)を不審(ふしん)して、「誠(まこと)に八王子権現のつかせ給(たまひ)たる物ならば、本地内証(ほんちないしよう)朗(ほがらか)にして諸教(しよけう)の通儀(つうぎ)明かなるべし。」とて、古来碩学(せきがく)の相承(さうじよう)し来(きた)る一念三千(さんぜん)の法門、唯受(ゆゐじゆ)一人の口決(くけつ)共(ども)を様々にぞ問(とひ)たりける。此(この)童から/\と打笑(うちわらう)て、「我(われ)和光(わくわう)の塵(ちり)に交(まじは)る事久(ひさしく)して、三世了達(れうだつ)の智も浅く成(なり)ぬといへ共(ども)、如来(によらい)出世の御時(おんとき)会座(ゑざ)に列(つらなつ)て聞(きき)し事なれば、あら/\云(いつ)て聞かせん。」とて、大衆(だいしゆ)の立てつる処の不審(ふしん)、一々に言(ことば)に花をさかせ理に玉を聯(つら)ねて答へける。大衆(だいしゆ)皆是(これ)に信(しん)を取(とつ)て、重(かさね)て山門の安否(あんぴ)、軍(いくさ)の勝負(しようぶ)を問ふに、此(この)物つき涙をはら/\と流して申(まうし)けるは、「我(われ)内には円宗(ゑんしゆう)の教法(けうほふ)を守り、外(ほか)には百王の鎮護(ちんご)を致さん為に、当山開基(たうさんかいき)の初(はじめ)より跡(あと)を垂(たれ)し事なれば、何(いか)にも吾(わが)山の繁昌、朝廷の静謐(せいひつ)をこそ、心に懸(かけ)て思ふ事なれ共(ども)、叡慮(えいりよ)の向ふ所も、富貴栄耀(ふうきえいえう)の為にして、理民治世(りみんちせ)の政(まつりごと)に非(あら)ず、衆徒の願ふ心も、皆驕奢放逸(けうしやはういつ)の基(もとゐ)にして、仏法紹隆(ぜうりゆう)の為に非ざる間、諸天(しよてん)善神も擁護(おうご)の手を休(や)め、四所三聖(さんしやう)も加被(かひ)の力を不被回。悲(かなしい)哉(かな)、今より後朝儀(てうぎ)久(ひさし)く塗炭(どたん)に落(おち)て、公卿(くぎやう)大臣蛮夷(ばんい)の奴(やつこ)となり、国主(こくしゆ)はるかに帝都を去(さつ)て、臣は君を殺し、子は父を殺す世にならんずる事の浅猿(あさまし)さよ。大逆(たいぎやく)の積(つも)り却(かへつ)て其(その)身を譴(せむ)る事なれば、逆臣(ぎやくしん)猛威(まうゐ)を振(ふる)はん事も、又久しからじ。嗚呼(ああ)恨(うらめし)乎(や)、師重(もろしげ)が吾(わが)山を攻落(せめおと)して堂舎・仏閣を焼払(やきはら)はんと議(ぎ)する事(こと)、看々(みよみよ)人々、明日(みやうにち)の午刻(むまのこく)に早尾大行事(はやをのだいぎやうじ)を差遣(さしつかは)して、逆徒(ぎやくと)を四方(しはう)に退(しりぞ)けんずる者を。此(この)上は吾(わが)山に何(なん)の怖畏(ふゐ)か可有。其材木(そのざいもく)皆如元運(はこび)返せ。」と託宣(たくせん)して、此童(このわらは)自(みづから)四五人(しごにん)して持(もつ)程なる大木(たいもく)を一つ打(うち)かつぎ、御廟(ごべう)の前に打捨(うちすて)、手足を縮(しじ)めて振(ふる)ひけるが、「明日の午刻(むまのこく)に、敵を追(おひ)払ふべしと云(いふ)神託(しんたく)、余(あま)りに事遠からで、誠共(とも)覚(おぼ)へず、一事(いちじ)も若(もし)相違(さうゐ)せば、申(まうす)処皆虚説(きよせつ)になるべし。暫く明日の様を見て思合(おもひあは)する事あらば、後日にこそ奏聞(そうもん)を経(へ)め。」と申して、其(その)日(ひ)の奏し事(ごと)を止(や)めければ、神託(しんたく)空(むなし)く衆徒の胸中に蔵(かく)れて、知(しる)人更に無(なか)りけり。山門には西坂に軍(いくさ)あらば、本院(ほんゐん)の鐘(かね)をつき、東坂本(ひがしさかもと)に合戦あらば、生源寺(しやうげんじ)の鐘を鳴(なら)すべしと方々(はうばう)の約束を定(さだめ)たりける。爰(ここ)に六月二十日の早旦(さうたん)に早尾(はやを)の社(やしろ)の猿共(さるども)数(あまた)群来(むらがりきたつ)て、生源寺(しやうげんじ)の鐘を東西両塔に響(ひびき)渡る程こそ撞(つい)たりけれ。諸方(しよはう)の官軍(くわんぐん)、九院の衆徒是(これ)を聞(きき)て、すはや相図(あひづ)の鐘を鳴(なら)すは。さらば攻口(せめくち)へ馳向(はせむかつ)て防がんとて、我(われ)劣(おと)らじと渡り合ふ。東西の寄手(よせて)此形勢(このありさま)を見て、山より逆寄(さかよせ)に寄するぞと心得て、水飲(みづのみ)・今路(いまみち)・八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・志賀・唐崎・大津・松本の寄手共(よせてども)、楯よ物具よと、周章(あわて)色めきける間、官軍(くわんぐん)是(これ)に利(り)を得て、山上・坂本の勢十万(じふまん)余騎(よき)、木戸(きど)を開(ひらき)、逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて打(うつ)て出(いで)たりける。寄手(よせて)の大将蹈留(ふみとどまつ)て、「敵は小勢(こぜい)ぞ、引(ひい)て討(うた)るな。きたなし返せ。」と下知(げぢ)して、暫(しばらく)支(ささへ)たりけれ共(ども)、引立(ひきたつ)たる大勢なれば一足(ひとあし)も不留。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助の兵五千(ごせん)余騎(よき)、志賀の炎魔堂(えんまだう)の辺(へん)に有(あり)ける敵の向ひ城(しろ)に、五百(ごひやく)余箇所(よかしよ)に東西火を懸(かけ)て、をめき叫(さけん)で揉(もう)だりける。敵陣こゝより破(やぶれ)て、寄手(よせて)の百八十万騎(はちじふまんぎ)、さしも嶮(けは)しき今路(いまみち)・古道(ふるみち)・音無(おとなし)の滝・白鳥(しらとり)・三石(みついし)・大岳(おほだけ)より、人雪頽(なだれ)をつかせてぞ逃(にげ)たりける。谷深(ふかう)して行(ゆく)さきつまりたる所なれば、馬人上(いや)が上(うへ)に落重(おちかさなつ)て死(しに)ける有様は、伝聞(つたへきく)治承(ぢしよう)の古(いにし)へ、平家十万(じふまん)余騎(よき)の兵、木曾が夜討に被懸立て、くりから谷に埋(うづも)れけるも、是(これ)には過(すぎ)じと覚(おぼ)へたり。大将高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)は太股(ふともも)を我(わが)太刀に突貫(つきつらぬい)て引兼(ひきかね)たりけるを、舟田(ふなた)長門(ながとの)守(かみ)が手者(てのもの)是(これ)を生虜(いけと)り白昼(はくちう)に東坂本(ひがしさかもと)を渡し、大将新田左中将(さちゆうじやう)の前に面縛(めんばく)す。是(これ)は仏敵・神敵の最(さい)たれば、「重衡(しげひら)卿(きやう)の例(れい)に任(まか)すべし。」とて、山門の大衆(だいしゆ)是(これ)を申請(まうしうけ)て、則(すなはち)唐崎の浜に首(くび)を刎(はね)てぞ被懸ける。此(この)豊前(ぶぜんの)守(かみ)は将軍の執事(しつじ)高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が猶子(いうし)の弟(おとと)にて、一方の大将を承(うけたまは)る程の者なれば、身に替(かは)らんと思(おもふ)者共(ものども)幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知しか共(ども)、若党(わかたう)の一人も無(なく)して、無云甲斐敵に被生取けるは、偏(ひとへ)に医王山王の御罰(おんばつ)也(なり)けりと、今日(けふ)は昨日(きのふ)の神託(しんたく)に、げにやと被思合て、身の毛も弥立(よだ)つ許(ばかり)なり。
○京都両度(りやうど)軍(いくさの)事(こと) S1702
六月五日より同二十日まで、山門数日(すじつ)の合戦に討(うた)るゝ者疵(きず)を被(かうむ)る者、何千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。結句(けつく)寄手(よせて)東西の坂より被追立、引退(ひきしりぞき)たる兵共(つはものども)は、京中(きやうぢゆう)にも猶足を留(と)めず、十方へ落行(おちゆき)ける間、洛中(らくちゆう)以外(もつてのほか)に無勢(ぶせい)に成(なつ)て、如何(いかが)はせんと仰天(ぎやうてん)す。此(この)時しも山門より時日(ときひ)を回(めぐ)らさず寄(よせ)たらましかば、敵重(かさね)て都にはよも怺(こら)へじと見へけるを、山門に様々の異義(いぎ)有(あつ)て、空(むなし)く十(じふ)余日(よにち)を過(すご)されける程(ほど)に、辺土洛外(へんどらくぐわい)に逃隠(にげかくれ)たる兵共(つはものども)、機(き)を直(なほ)して又立帰(たちかへり)ける間、洛中(らくちゆう)の勢又大勢に成(なり)にけり。是(これ)をば不知、山門には京中(きやうぢゆう)無勢(ぶせい)也(なり)と聞(きき)て、六月晦日(つごもり)十万(じふまん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、今路(いまみち)・西坂よりぞ寄(よせ)たりける。将軍始(はじめ)は態(わざ)と小勢(こぜい)を河原(かはら)へ出して、矢一筋(ひとすぢ)射違(いちが)へて引(ひか)んとせられける間、千葉・宇都宮(うつのみや)・土肥・得能(とくのう)・仁科(にしな)・高梨が勢、勝(かつ)に乗(のつ)て京中(きやうぢゆう)へ追懸(おつかけ)て攻(せめ)入る。飽(あく)まで敵を近付(ちかづけ)て後、東寺(とうじ)より用意(ようい)の兵五十万騎(ごじふまんぎ)を出して、竪小路(たてこうぢ)・横小路(よここうじ)に機変(きへん)の陣をはり、敵を東西南北より押隔(おしへだて)て、四方(しはう)に当(あた)り八方(はつぱう)に囲(かこん)で余(あま)さじと闘(たたかふ)。寄手(よせて)片時(へんし)が間に五百(ごひやく)余人(よにん)被討て西坂を差(さし)て引返す。さてこそ京勢(きやうぜい)は又勢(いきほひ)に乗り山門方は力を落して、牛角(ごかく)の戦(たたかひ)に成(なり)にけり。角(かく)て暫(しばし)は合戦も無(なか)りけるに、二条(にでう)の大納言師基(もろもと)卿(きやう)、北国より、敷地(しきぢ)・上木(うへき)・山岸・瓜生(うりふ)・河島(かはしま)・深町以下(ふかまちいげ)の者三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して、七月五日東坂本(ひがしさかもと)へ著(つき)給ふ。山門是(これ)に又力を得て同十八日京都へぞ被寄ける。前には京中(きやうぢゆう)を経(へ)て、遥々(はるばる)と東寺まで寄(よす)ればこそ、小路(こうぢ)ぎりに前後左右の敵を防(ふせぎ)かねて其囲(そのかこみ)をば破(やぶり)かねつれ、此度(このたび)は、一勢(いつせい)は二条(にでう)を西へ内野(うちの)へ懸出(かけいで)て、大宮(おほみや)を下(くだ)りに押寄せ、一勢(いつせい)は河原(かはら)を下りに押寄せ、東西より京を中に挿(さしはさみ)て、焼攻(やきせめ)にすべしとぞ被議ける。此謀(このはかりこと)いかなる野心(やしん)の者か京都へ告(つげ)たりけん、将軍是(これ)を聞(きき)すましてげれば、六十万騎(ろくじふまんぎ)の勢(せい)を三手に分(わけ)、二十万騎(にじふまんぎ)をば東山と七条河原(しちでうがはら)に被置たり。是(これ)は河原(かはら)より寄(よせ)んずる敵を、東西より却(かへつ)て中に取篭(とりこめ)ん為なり。二十万騎(にじふまんぎ)をば船岳山(ふなをかやま)の麓、神祇官(じんぎくわん)の南に被隠置たり。是(これ)は内野(うちの)より寄(よせ)んずる敵を、南北より引裹(つつ)まん為也(なり)。残る二十万騎(にじふまんぎ)をば西八条東寺の辺(へん)に磬(ひか)へさせて、軍門の前に被置たり。是(これ)は諸方の陣族(ぢんぞく)の被懸散ば、悪手(あらて)に替らん為也(なり)。去(さる)程(ほど)に明(あく)れば十八日卯刻(うのこく)に、山門の勢、北白河・八瀬・薮里・下松(さがりまつ)・修学院(しゆがくゐん)の前に押寄(おしよせ)て東西(とうざい)二陣の手を分つ。新田の一族(いちぞく)五万(ごまん)余騎(よき)は、糾杜(ただすのもり)を南に見て、紫野(むらさきの)を内野へ懸(かけ)通る。二条(にでうの)師基(もろもとの)卿(きやう)・千葉(ちばの)介(すけ)・宇都宮(うつのみや)・仁科(にしな)・高梨、真如堂(しんによだう)を西へ打過(うちすぎ)て、河原(かはら)を下(くだ)りに押寄(おしよす)る。其(その)手(て)の足軽(あしがる)共(ども)走散(はしりち)り、京中(きやうぢゆう)の在家(ざいけ)数百(すひやく)箇所(かしよ)に火を懸(かけ)たりければ、猛火(みやうくわ)天に満ち翻(ひるがへつ)て、黒烟(こくえん)四方(しはう)に吹覆(ふきおほ)ふ。五条河原(ごでうがはら)より軍(いくさ)始(はじまつ)て、射る矢は雨〔の〕如く、剣戟(けんげき)電(いなづま)の如し。軈(やが)て内野(うちの)にも合戦始(はじまつ)て、右近(うこん)の馬場(ばば)の東西、神祇官(じんぎくわん)の南北に、汗馬(かんば)の馳違(はせちがふ)音(おと)、時(ときの)声に相交(あひまじはつ)て、只百千の雷(いかづち)の大地に振ふが如く也(なり)。暫(しばらく)有(あつ)て五条川原(ごでうがはら)の寄手(よせて)、一戦(いつせん)に討負(うちまけ)て引(ひき)たりける程(ほど)に、内野(うちの)の大勢弥(いよいよ)重(かさなつ)て、新田左中将(さちゆうじやう)兄弟の勢を、十重(とへ)・二十重(はたへ)に取巻(とりまい)て、をめき叫(さけん)で攻(せめ)戦ふ。され共義貞の兵共(つはものども)、元来(ぐわんらい)機変(きへん)磬控(けいこう)百鍛(ひやくたん)千錬(せんれん)して、己(おのれ)が物と得たる所なれば、一挙(いつきよ)に百重(ももへ)の囲(かこみ)を解(とい)て、左副右衛(さふうゑ)一人も討(うた)れず、返合(かへしあはせ)々々(かへしあはせ)戦(たたかつ)て、又山へ引帰す。夫(それ)武(ぶ)の七書に言(いふ)、云(いはく)、「将謀泄則軍無利、外窺内則禍不制。」とて、此度(このたび)の洛中(らくちゆう)の合戦に官軍(くわんぐん)即(すなはち)討負(うちまけ)ぬる事(こと)、たゞ敵内通(ないつう)の者共(ものども)の御方(みかた)に有(あり)ける故(ゆゑ)也(なり)とて、互に心を置(おき)あへり。
○山門牒(さんもんのてふ)送南都事 S1703
官軍(くわんぐん)両度の軍(いくさ)に討負(うちまけ)て、気疲(つか)れ勢(いきほ)ひ薄く成(なつ)てげれば、山上・坂本に何(いか)なる野心(やしん)の者か出(いで)来て、不慮の儀あらんずらんと、主上(しゆしやう)玉■(ぎよくい)を安くし給はず、叡襟(えいきん)を傾(かたぶ)けさせ給(たまひ)ければ、先(まづ)衆徒の心を勇(いさま)しめん為に、七社(しちしや)の霊神(れいじん)九院の仏閣へ、各(おのおの)大庄(だいしやう)二三箇所(にさんかしよ)づゝを寄附せらる。其外(そのほか)一所住(いつしよぢゆう)とて、衆徒八百(はつぴやく)余人(よにん)早尾(はやを)に群集(ぐんじゆ)して、軍勢(ぐんぜい)の兵粮已下(ひやうらういげ)の事取沙汰(とりさた)しける衆の中へ、江州の闕所分(けつしよぶん)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)を被行て、当国の国衙(こくが)を山門永代管領(くわんりやう)すべき由(よし)、永宣旨(えうせんじ)を成(なし)て被補任。若(もし)今官軍(くわんぐん)勝(かつ)事(こと)を得ば、山門の繁昌、此(この)時に有(あり)ぬと見へけれ共(ども)、三千(さんぜん)の衆徒悉(ことごとく)此抽賞(このちうしやう)に誇(ほこ)らば、誰か稽古の窓に向(むかつ)て三諦止観(さんたいしくわん)の月を弄(もてあそ)び、鑽仰(さんぎやう)の嶺(みね)に攀(よぢ)て一色(いつしき)一香(いつかう)の花を折らん。富貴の季(すゑ)には却(かへつ)て法滅の基(もとゐ)たるべければ、神慮も如何(いかが)有(ある)らんと智ある人は是(これ)を不悦。同十七日(じふしちにち)三千(さんぜん)の衆徒、大講堂の大庭(おほには)に三塔(さんたふ)会合して僉議(せんぎ)しけるは、「夫吾山者当王城之鬼門、為神徳之霊地。是以保百王之宝祚、依一山(いつさん)之(の)懇誠。鎮四夷(しい)之擾乱、唯任七社(しちしや)之擁護。爰有源家余裔尊氏・直義者。将傾王化亡仏法。訪大逆於異国、禄山比不堪。尋積悪於本朝、守屋却可浅。抑普天之下無不王土。縦使雖為釈門之徒、此時蓋尽致命之忠義。故北嶺天子本命之伽藍也(なり)。何運朝廷輔危之計略。南都博之氏寺也(なり)。須救藤氏類家之淹屈。然早牒送東大・興福両寺、可被結義戦戮力之一諾。」、三千(さんぜん)一同に僉議(せんぎ)して、則(すなはち)南都へ牒状(てふじやう)を送りける。其詞(そのことば)に云(いはく)、延暦寺(えんりやくじ)牒興福寺衙請早廻両寺一味籌策、御追罰(ついばつ)朝敵(てうてき)源尊氏・直義以下逆徒、弥致仏法・王法昌栄状。牒、仏法伝吾邦兮七百(しちひやく)余歳(よさい)、祝皇統益蒼生者、法相円頓之秘■(ひさく)最勝。神明垂権跡兮七千(しちせん)余座、鎮宝祚耀威光者、四所三聖(さんしやう)之霊験異他。是以先者淡海公建興福寺、以瑩八識五重之明鏡、後者桓武(くわんむの)帝開比叡山(ひえいさん)、以挑四教三観之法灯。爾以降南都北嶺共掌護国護王之精祈。天台(てんだいの)法相互究権教実教之奥旨。寔是以仏法守王法濫觴、以王法弘仏法根源也(なり)。因茲当山有愁之時、通白疏而談懇情。朝家有故之日、同丹心而祈安静。五六年以来天下大乱民間不静。就中尊氏・直義等(ただよしら)、起自辺鄙之酋長、飽浴超涯之皇沢。未知君臣之道、忽有犲狼之心。樹党而誘引戎虜、矯詔而賊害藩籬。倩思王業再興之聖運、更非尊氏一人之武功、企叛逆無其辞。以義貞称其敵、貪天功而為己力、咎犯之所恥也(なり)。仮朝錯挙逆謀、劉■(りうび)之所亡也(なり)。為臣犯君忘恩背義、開闢以来未聞其迹。遂乃去春之初、猛火甚於燎原、九重之城闕成灰燼。暴風扇于区宇、無辜之民黎堕塗炭。論其濫悪誰不歎息。且為避当時之災■(さいげつ)、且為仰和光之神助、廻仙蹕於七社(しちしや)之瑞籬、任安全於四明之懇府。衆徒之心、此時豈敢乎。爰三千(さんぜん)一揆(いつき)、忘身命扶義兵。老少同心、代冥威伏異賊。王道未衰、神感潜通之故(ゆゑ)也(なり)。逆党巻旗而奔西、凶徒(きようと)倒戈而敗北。喩猶紅炉之消雪、相似団石之圧卵。昔晉之祈八公也(なり)。早覆符堅之兵、唐之感四王也(なり)。乍却吐蕃之陣。蓋乃斯謂歟(か)。遂使儼鸞輿之威儀促鳳城之還幸(くわんかう)。天掃■搶(さんさう)、上下同見慶雲之色。海剪鯨鯢、遠近尽歇逆浪之声。然是学侶群侶之精誠也(なり)。豈非医王山王之加護哉(かな)。而今賊党再窺覦帝城、官軍(くわんぐん)暫彷徨征途。仍慣先度之朝儀、重及当社之臨幸。山上山下興廃只在此時。仏法王法盛衰豈非今日乎。天台(てんだい)之(の)教法、七社(しちしや)之霊験、偏共安危於朝廷。法相之護持、四所之冥応、盍加贔屓於国家。貴寺若存報国之忠貞者、衆徒須運輔君之計略矣。満山之愁訴、猶通音問而成合体。一朝之治乱、何随群議、而無与力。仍勒事由、牒送如件。敢勿猶予。故牒。延元々年六月日延暦寺(えんりやくじ)三千(さんぜん)衆徒等(しゆとら)とぞ被書たる。状(じやう)披閲の後、南都(の)大衆則(すなはち)山門に同心して返牒(へんてふ)を送る。其(その)状(じやうに)云(いはく)、
興福寺衆徒牒延暦寺(えんりやくじ)衙来牒一紙(いつし)牒、夫観行五品之居勝位也(なり)。学円頓於河淮之流。等覚無垢之円上果也(なり)。敷了義於印度之境。是以隋高祖(かうそ)之(の)崇玄文、玉泉水清。唐文皇奮神藻、瑶花風芳。遂使一夏敷揚之奥■(あうせき)遥伝于叡山(えいさん)。三国相承之真宗、独留于吾寺以降、及于千祀、軌垂百王。寔是弘仏法之宏規、護皇基之洪緒者也(なり)。彼尊氏・直義等(ただよしら)、遠蛮之亡虜、東夷之降卒也(なり)。雖非鷹犬之才、屡忝爪牙之任。乍忘朝奨還挿野心。討揚氏兮為辞、在藩渓兮作逆。劫略州県、掠虜吏民。帝都悉焼残、仏閣多魔滅。軼赤眉之入咸陽、超黄巾寇河北。濫吹之甚、自古未聞。天誅之所覃、冥譴何得遁。因茲去春之初、鋤■(しよいう)棘矜一摧関中焉、匹馬倚輪纔遁海西矣。今聚其敗軍擁彼余衆、不恐雷霆之威、重待斧鉞之罪。六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫所亡也(なり)。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也(なり)。夫違天者有大咎。失道者其助寡。積暴之勢豈又能久乎。方今廻皇輿於花洛之外、張軍幕於猶渓之辺。三千(さんぜん)群侶、定合懇祈之掌、七社(しちしや)霊神、鎮廻擁護之眸者歟(か)。彼代宗之屯長安也(なり)。観師於香積寺之中。勾践(こうせん)之(の)在会稽(くわいけい)也(なり)。陣兵天台山之北。事叶先蹤、寧非佳摸乎。爰当寺衆徒等(しゆとら)、自翠花北幸、抽丹棘中庭。専祈宝祚之長久、只期妖■(えうげつ)之滅亡。精誠無弐、冥助豈空乎。就中寺辺之若輩、国中之勇士(ゆうし)、頻有加官軍(くわんぐん)之(の)志、屡廻退凶徒(きようと)之策。然而南北境阻、風馬之蹄不及、山川地殊、雲鳥之勢難接矣。矧亦賊徒構謀、寇迫松■(しようぜん)之下。人心未和、禍在蕭牆之中。前対燕然之虜、後有宛城之軍、攻守之間進退失度。但綸命屡降、牒送難黙止。速率鋭師、早征凶党、今以状牒。々到准状。故牒。延元々年六月日興福寺衆徒等(しゆとら)とぞ書(かき)たりける。南都已(すで)に山門に与力(よりよく)しぬと聞へければ、畿内・近国に軍(いくさ)の勝負(しようぶ)を計(はかり)かねて何方(いづかた)へか著(つく)べきと案じ煩ひける兵共(つはものども)、皆山門に志を通じ、力を合せんとす。雖然堺敵陣を隔(へだ)てければ、坂本へ馳参(はせまゐる)事(こと)不可叶、「大将を給(たまはつ)て陣を取(とつ)て京都を攻(せめ)落し候べし。」とぞ申(まうし)ける。「さらば。」とて、八幡(やはた)へは四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけの)卿(きやう)を被差遣。真木・葛葉・禁野(きんや)・片野(かたの)・宇殿(うとの)・賀島(かしま)・神崎(かんざき)・天王寺(てんわうじ)・賀茂・三日(みか)の原の者共(ものども)馳集(はせあつまつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)大渡(おほわたり)の橋より西に陣を取(とつ)て、川尻(かはじり)の道を差塞(さしふさぐ)。宇治へは、中(なかの)院(ゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)を被遣。宇治・田原・醍醐・小栗栖(をぐるす)・木津(こづ)・梨間(なしま)・市野辺山(いちのへやま)・城脇(しろわき)の者共(ものども)馳集(はせあつまつ)て、二千(にせん)余騎(よき)、宇治橋二三間(にさんげん)引落(ひきおとし)て、橘(たちばな)の小島(こじま)が崎に陣をとる。北丹波道へは、大覚寺の宮(みや)を大将とし奉(たてまつ)て、額田(ぬかだ)左馬(さまの)助(すけ)を被遣。其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)、白昼に京中(きやうぢゆう)を打通(うちとほつ)て、長坂(ながさか)に打上(うちあが)る。嵯峨・仁和寺(にんわじ)・高雄(たかを)・栂尾(とがのを)・志宇知(しうち)・山内(やまのうち)・芋毛(いもげ)・村雲の者共(ものども)馳集(はせあつまつ)て、千(せん)余騎(よき)京中(きやうぢゆう)を足の下に直下(みおろ)して、京見峠(きやうみたうげ)・嵐山・高雄・栂尾(とがのを)に陣をとる。此外(このほか)鞍馬道(くらまぢ)をば西塔(さいたふ)より塞(ふさい)で、勢多(せた)をば愛智(えち)・信楽(しがらき)より指塞(さしふさ)ぐ。今は四方(しはう)七つの道、纔(わづか)に唐櫃越許(からうとごえばかり)あきたれば、国々の運送道絶(たえ)て洛中(らくちゆう)の士卒(じそつ)兵粮に疲(つか)れたり。暫(しばし)は馬を売(うり)、物具(もののぐ)を沽(うり)、口中(こうちゆう)の食(じき)を継(つぎ)けるが、後には京白川の在家(ざいけ)・寺々へ打入(うちいつ)て、衣裳を剥取(はぎとり)、食物を奪ひくう。卿相雲客(けいしやううんかく)も兵火(ひやうくわ)の為に焼出(やきいだ)されて、此(ここ)の辻堂、彼(かしこ)の拝殿に身を側(そば)め、僧俗男女(なんによ)は道路に食(じき)を乞(こう)て、築地(ついぢ)の陰(かげ)、唐居敷(からゐしき)の上に飢臥(うゑふ)す。開闢以来(よりこのかた)兵革(ひやうかく)の起る事多しといへ共、是(これ)程の無道(ぶだう)は未(いまだ)記(しるさざる)処也(なり)。京勢(きやうぜい)は疲れて、山門又つよる由聞へければ、国々の勢百騎(ひやくき)・二百騎(にひやくき)、東坂本(ひがしさかもと)へと馳(はせ)参る事引(ひき)もきらず。中にも阿波・淡路(あはぢ)より、阿間(あま)・志知(しち)・小笠原の人々、三千(さんぜん)余騎(よき)にて参りければ、諸卿皆憑(たのも)しき事に被思けるにや、今はいつをか可期、四方(しはう)より牒(てふ)し合せて、四国の勢を阿弥陀(あみだ)が峯へ差向(さしむけ)て、夜々篝(かがり)をぞ焼(たか)せられける。其(その)光二三里が間に連(つらなり)て、一天(いつてん)の星斗(せいと)落(おち)て欄干(らんかん)たるに不異。或夜(あるよ)東寺の軍勢(ぐんぜい)ども、楼門に上(あがり)て是(これ)をみけるが、「あらをびたゝしの阿弥陀が峯の篝(かがり)や。」と申(まうし)ければ、高(かうの)駿河(するがの)守(かみ)とりも敢(あへ)ず、多く共(とも)四十八にはよも過(すぎ)じ阿弥陀(あみだが)峯に灯(とも)す篝火(かがりび)と一首(いつしゆ)の狂歌に取成(とりな)して戯(たはむれ)ければ、満座皆ゑつぼに入(いり)てぞ笑(わらひ)ける。今一度(いちど)京都に寄せて、先途(せんど)の合戦あるべしと、諸方の相図(あひづ)定りにければ、士卒(じそつ)の志を勇(いさ)めんが為に、忝も十善の天子、紅(くれなゐ)の御袴(おんはかま)をぬがせ給ひ、三寸(さんずん)づゝ切(きつ)て、所望(しよまう)の兵共(つはものども)にぞ被下ける。七月十三日(じふさんにち)、大将新田左中将(さちゆうじやう)義貞、度々(どど)の軍(いくさ)に、打(うち)残されたる一族(いちぞく)四十三人(しじふさんにん)引具(ひきぐ)して先(まづ)皇居(くわうきよ)へ参ぜらる。主上(しゆしやう)龍顔(りようがん)麗しく群下(ぐんか)を照臨有(せうりんあつ)て、「今日の合戦何(いつ)よりも忠を尽すべし。」と被仰下ければ、義貞士卒(じそつ)の意に代(かはつ)て、「合戦の雌雄(しゆう)は時の運による事にて候へば、兼(かね)て勝負を定めがたく候。但(ただし)今日の軍(いくさ)に於ては、尊氏が篭(こもつ)て候東寺の中へ、箭(や)一つ射入(いいれ)候はでは、罷(まかり)帰るまじきにて候なり。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)をぞ被退出ける。諸軍勢(しよぐんぜい)、大将の前後に馬を早めて、白鳥(しらとり)の前を打過(うちすぎ)ける時、見物しける女童部(をんなわらんべ)、名和伯耆(はうきの)守(かみ)長年が引(ひき)さがりて打(うち)けるを見て、「此比(このころ)天下に結城(ゆふき)・伯耆(はうき)・楠木・千種頭(ちくさのとうの)中将(ちゆうじやう)、三木(さんぼく)一草(いつさう)といはれて、飽(あく)まで朝恩に誇(ほこつ)たる人々なりしが、三人(さんにん)は討死して、伯耆(はうきの)守(かみ)一人残(のこつ)たる事よ。」と申(まうし)けるを、長年遥(はるか)に聞(きき)て、さては長年が今まで討死せぬ事を、人皆云(いふ)甲斐なしと云(いふ)沙汰すればこそ、女童部(をんなわらんべ)までもか様(やう)には云(いふ)らめ。今日の合戦に御方(みかた)若(もし)討負(うちまけ)ば、一人なり共引留(ひきとどまつ)て、討死せん者をと独言(ひとりごと)して、是(これ)を最後の合戦と思定(おもひさだめ)てぞ向(むかひ)ける。
○隆資(たかすけ)卿(きやう)自八幡被寄事 S1704
京都の合戦は、十三日(じふさんにち)の巳刻(みのこく)と、兼(かね)て諸方へ触送(ふれおくり)たりければ、東坂本(ひがしさかもと)より寄(よす)る勢、関山(せきさん)・今路(いまみち)の辺(へん)に引(ひか)へて、時剋(じこく)を待(まち)ける処に、敵や謀(たばかつ)て火を懸(かけ)たりけん、北白川(きたしらかは)に焼失(ぜうしつ)出来(いできたつ)て、烟(けぶり)蒼天に充満したり。八幡(やはた)より寄(よせ)んずる宮方(みやがた)の勢共(せいども)是(これ)を見て、「すはや山門より寄(よせ)て、京中(きやうぢゆう)に火を懸(かけ)たるは。今日の軍(いくさ)に為(し)をくれば、何(なん)の面目か有(ある)べき。」とて、相図(あひづ)の剋限(こくげん)をも不相待、其(その)勢(せい)纔(わづか)に三千(さんぜん)余騎(よき)にて、鳥羽(とば)の作道(つくりみち)より東寺の南大門(なんだいもん)の前へぞ寄(よせ)たりける。東寺(とうじ)の勢、山門より寄(よす)る敵を防(ふせが)んとて、河合(ただす)・北白河の辺(へん)へ皆向(むかひ)たりければ、卿相雲客(けいしやううんかく)、或(あるひ)は将軍近習の老者(らうしや)・児(ちご)なんど許(ばかり)集り居て、此(この)敵を可防兵は更(さら)になかりけり。寄手(よせて)の足軽(あしがる)共(ども)、鳥羽(とばの)田の面(も)の畔(くろ)をつたひ、四塚(よつづか)・羅精門(らしやうもん)のくろの上に立(たち)渡り、散々(さんざん)に射ける間、作道(つくりみち)まで打出(うちいで)たりける、高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が五百(ごひやく)余騎(よき)、被射立て引退(ひきしりぞ)く。敵弥(いよいよ)勝(かつ)に乗(のつ)て、持楯(もちだて)ひしき楯を突寄(つきよせ)々々(つきよせ)、かづき入(いれ)て攻(せめ)ける程(ほど)に、坤(ひつじさる)の角(すみ)なる出屏(だしへい)の上の高櫓(たかやぐら)一つ、念(ねん)なく被攻破て焼(やき)けり。城中(じやうちゆう)是(これ)に躁(さわが)れて、声々にひしめき合(あひ)けれ共(ども)、将軍は些共(ちつとも)不驚給、鎮守(ちんじゆ)の御宝前(はうぜん)に看経(かんきん)しておはしける。其(その)前に問注所(もんぢゆうしよ)の信濃(しなのの)入道々大(だうだい)と土岐(とき)伯耆(はうきの)入道存孝(そんかう)と二人(ににん)倶(ぐ)して候(さふらひ)けるが、存孝傍(そば)を屹(きつ)と見て、「あはれ愚息(ぐそく)にて候悪源太(あくげんだ)を上(かみ)の手へ向(むけ)候はで、是(これ)に留(とどめ)て候はゞ、此(この)敵をば輒(たやす)く追(おひ)払はせ候はんずる者を。」と申(まうし)ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打(うち)見て、「いかに上の手(て)の軍(いくさ)は未(いまだ)始まらぬか。」「いやそれは未(いまだ)存知仕(つかまつり)候はず。三条河原(さんでうがはら)まで罷向(まかりむかつ)て候(さふらひ)つるが、東寺の坤(ひつじさる)に当(あたつ)て、烟(けぶり)の見へ候間、取(とつ)て返して馳(はせ)参じて候。御方(みかた)の御合戦は何と候やらん。」と申(まうし)ければ、武蔵守(むさしのかみ)、「只今作道(つくりみち)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞ)くといへ共、是(この)御陣の兵多からねば、入替(いりかはる)事(こと)叶はず、已(すで)に坤(ひつじさる)の角(すみ)の出屏(だしへい)を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事(おんだいじ)此(この)時也(なり)。一騎なりとも御辺(ごへん)打出(うちいで)て此(この)敵を払へかし。」畏(かしこまつ)て、「承(うけたまは)り候。」とて、悪源太御前(おんまへ)を立けるを、将軍、「暫(しばし)。」とて、いつも帯副(はきぞへ)にし給(たまひ)ける御所作(ごしよつく)り兵庫鎖(ひやうごくさり)の御太刀を、引出物(ひきでもの)にぞせられける。悪源太此(この)太刀を給(たまはつ)て、などか心の勇まざらん。洗皮(あらひかは)の鎧に、白星(しらほし)の甲(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)て、只今給(たまは)りたる金作(こがねづく)りの太刀の上に、三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の黒塗(くろぬり)の太刀帯副(はきそへ)、三十六(さんじふろく)差(さい)たる山鳥の引尾(ひきを)の征矢(そや)、森の如(ごとく)にときみだし、三人(さんにん)張(ばり)の弓にせき絃(つる)かけて噛(くひ)しめし、態(わざと)臑当(すねあて)をばせざりけり。時々は馬より飛下(とびお)りて、深(ふか)田を歩(あゆ)まんが為也(なり)けり。北(きた)の小門(こもん)より打出(いで)て、羅精門(らしやうもん)の西へ打廻り、馬をば畔(くろ)の陰(かげ)に乗放(のりはなし)て、三町余(あまり)が外に村立(むらだち)たる敵を、さしつめ引(ひき)つめ散々(さんざん)にぞ射たりける。一矢(ひとや)に二人(ににん)三人(さんにん)をば射落せども、あだ矢は一(ひとつ)も無(なか)りければ、南大門(なんだいもん)の前に攻寄(せめよせ)たる寄手(よせて)の兵千(せん)余人(よにん)、一度(いちど)にはつと引退(ひきしりぞ)く。悪源太是(これ)に利(り)を得て、かけ足逸物(いちもつの)馬に打乗(うちのり)、さしも深き鳥羽田中(たなか)を真平地(まつへいち)に懸立(かけたて)て、敵六騎切(きつ)て落し、十一騎に手負(ておは)せて、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)し、東寺の方を屹(きつ)と見て、気色(きしよく)ばうたる有様は、いかなる和泉(いづみの)小次郎・朝夷那(あさいな)三郎も是(これ)には過(すぎ)じとぞみへたりける。悪源太一人に被懸立て、数万の寄手(よせて)皆しどろに成(なり)ぬと見へければ、高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)千(せん)余騎(よき)にて、又作道(つくりみち)を下(くだ)りに追(おつ)かくる。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)は、七百(しちひやく)余騎(よき)にて竹田(たけだ)を下(くだ)りに要合(よこぎり)せんとす。已(すで)に引立(ひきたつ)たる大勢なれば、なじかは足を留(とど)むべき。討(うた)るゝをも顧(かへりみ)ず、手負(ておひ)をも不助、我先(われさき)にと逃散(にげちり)て、元(もと)の八幡(やはた)へ引返す。
○義貞軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)長年討死(うちじにの)事(こと) S1705
一方の寄手(よせて)の破れたるをも不知、相図(あひづ)の剋限(こくげん)よく成(なり)ぬとて、追手(おふて)の大将新田(につた)義貞(よしさだ)・脇屋(わきや)義助、二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して、今路(いまみち)・西坂本より下(くだつ)て、三手に分れて押寄(おしよす)る。一手(ひとて)は義貞・義助・江田(えだ)・大館(おほたち)・千葉・宇都宮(うつのみや)、其(その)勢(せい)一万(いちまん)余騎(よき)、大中黒(おほなかぐろ)・月に星・左巴(ひだりどもゑ)、丹(たん)・児玉(こだま)のうちわの旗、三十(さんじふ)余流(よながれ)連(つなが)りて、糾(ただ)すを西へ打(うち)通(とほ)り、大宮(おほみや)を下(くだ)りに被押寄。一手(ひとて)には伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)・仁科(にしな)・高梨・土居(どゐ)・得能(とくのう)・春日部(かすかべ)、以下(いげ)の国々の勢集(あつまつ)て五千(ごせん)余騎(よき)、大将義貞の旗を守(まもつ)て鶴翼魚鱗(かくよくぎよりん)の陣をなし、猪隈(ゐのくま)を下(くだ)りに押寄(おしよす)る。一手(ひとて)は二条(にでうの)大納言(だいなごん)・洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)を両大将にて五千(ごせん)余騎(よき)、牡丹(ぼたん)の旗・扇(あふぎ)の旗、只二流(ながれ)差揚(さしあげ)て、敵に跡(あと)を切られじと、四条(しでう)を東へ引亘(ひきわた)して、さきへは態(わざと)進(すす)まれず。兼(かね)てより阿弥陀(あみだ)が峯に陣を取(とり)たりし阿波・淡路(あはぢ)の勢千(せん)余騎(よき)は、未(いまだ)京中(きやうぢゆう)へは入(いら)ず、泉涌寺(せんゆじ)の前今熊野辺(いまくまのへん)までをり下(くだつ)て、相図(あひづ)の煙(けぶり)を上(あげ)たれば、長坂(ながさか)に陣を取(とつ)たる額田(ぬかだ)が勢八百(はつぴやく)余騎(よき)、嵯峨(さが)・仁和寺(にんわじ)の辺(へん)に打散(うちちり)、所々に火を懸(かけ)たり。京方は大勢なれども、人疲(つか)れ馬疲れ、而(しか)も今朝の軍(いくさ)に矢種(やだね)は皆射尽(つく)したり。寄(よす)るは小勢(こぜい)なれ共(ども)、さしも名将の義貞、先日度々(どど)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て、此度(このたび)会稽(くわいけい)の恥を雪(きよめ)んと、牙(きば)を咀(かみ)名を恥づと聞(きこえ)ぬれば、御治世(ごぢせい)両統(りやうとう)の聖運も、新田・足利(あしかが)多年の憤(いきどほり)も、只今日の軍(いくさ)に定りぬと、気をつめぬ人は無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に六条(ろくでう)大宮(おほみや)より軍(いくさ)始(はじまつ)て、将軍の二十万騎(にじふまんぎ)と義貞の二万騎(にまんぎ)と入乱(いりみだれ)て戦(たたかひ)たり。射違(いちがふ)る矢は、夕立(ゆふだち)の軒端(のきば)を過(すぐ)る音よりも猶滋(しげ)く、打合ふ太刀の鍔音(つばおと)は、空(そら)に応(こたふ)る山彦(やまびこ)の、鳴り止(や)む隙(ひま)も無(なか)りけり。京勢(きやうぜい)は小路(こうぢ)々々(こうぢ)を立塞(たちふさい)で、敵を東西より取篭(とりこめ)、進まば先を遮(さへぎ)り、左右へ分れば中をわらんと、変化機に応じて戦(たたかひ)ければ、義貞の兵少(すこし)も散らで、中をも不破、退(しりぞい)て、跡よりも揉(もう)で、向ふ敵に懸立(かけたて)々々(かけたて)、大宮(おほみや)を下(くだ)りにましくらに懸(かか)りける程(ほど)に、仁木(につき)・細川・今川・荒川・土岐・佐々木(ささき)・逸見(へんみ)・武田(たけだ)・小早河(こばやかは)、此(ここ)を被打散、彼(かしこ)に被追立、所々(しよしよ)に磬(ひか)へたれば、義貞の兵二万(にまん)余騎(よき)、東寺の小門(こもん)前に推寄(おしよせ)て、一度(いちど)に時をどつと作る。義貞坂本を打出(うちいで)し時、先(まづ)皇居(くわうきよ)に参(まゐつ)て、「天下の落居(らくきよ)は聖運に任せ候へば、心とする処に候はず。何様(いかさま)今度の軍(いくさ)に於ては、尊氏が篭(こもつ)て候東寺の中へ矢一(ひとつ)射入(いいれ)候はでは、帰(かへり)参るまじきにて候。」と申(まうし)て出(いで)たりし其言(そのことば)に不違、敵を一(ひ)と的場(まとば)の内に攻(せめ)寄せたれば、今はかうと大(おほき)に悦(よろこん)で、旗の陰(かげ)に馬を打(うち)すへ城を睨(にら)み、弓杖(ゆんずゑ)にすがつて、高らかに宣ひけるは、「天下の乱(らん)休(やむ)事(こと)無(なく)して、無罪人民身を安くせざる事年久し。是(これ)国主両統(りやうとうの)御争(おんあらそひ)とは申(まうし)ながら、只義貞と尊氏(たかうぢの)卿(きやう)との所にあり。纔(わづか)に一身(いつしん)の大功を立(たて)ん為に多くの人を苦しめんより、独身(ひとりみ)にして戦(たたかひ)を決せんと思(おもふ)故(ゆゑ)に、義貞自(みづから)此(この)軍門に罷向(まかりむかつ)て候也(なり)。それかあらぬか、矢一(ひとつ)受(うけ)て知(しり)給へ。」とて、二人(ににん)張(ばり)に十三束二臥(じふさんぞくふたつぶせ)、飽(あく)まで堅めて引(ひき)しぼり、弦音(つるおと)高く切(きつ)て放(はな)つ。其(その)矢二重(にぢゆう)に掻(かい)たる高櫓(たかやぐら)の上を越(こえ)て、将軍の座(おは)し給(たまへ)る帷幕(ゐばく)の中を、本堂の艮(うしとら)の柱(はしら)に一ゆり/\て、くつまき過(すぎ)てぞ立(たつ)たりける。将軍是(これ)を見給(たまひ)、「我(われ)此軍(このいくさ)を起して鎌倉(かまくら)を立(たち)しより、全(まつたく)君を傾(かたぶ)け奉(たてまつら)んと思ふに非(あらず)。只義貞に逢ひて、憤(いきどほり)を散ぜん為也(なり)。き。然れば彼(かれ)と我(われ)と、独身(ひとりみ)にして戦(たたかひ)を決せん事元来(もとより)悦ぶ所也(なり)。其(その)門開け、討(うつ)て出(いで)ん。」と宣ひけるを、上杉伊豆(いづの)守(かみ)、「是(これ)はいかなる御事(おんこと)にて候ぞ。楚の項羽(かうう)が漢の高祖(かうそ)に向ひ、独身(ひとりみ)にして戦(たたかは)んと申(まうし)しをば、高祖(かうそ)あざ笑(わらう)て汝(なんぢ)を討(うつ)に刑徒(けいと)を以てすべしと欺(あざむ)き候はずや。義貞そゞろに深入(ふかいり)して、引方(ひきかた)のなさに能(よき)敵にや遭(あふ)と、ふてゝ仕(つかまつり)候を、軽々(かろがろ)しく御出(おんいで)ある事や候べき。思(おもひ)も寄(よら)ぬ御事(おんこと)に候。」とて、鎧の御袖(おんそで)に取付(とりつき)ければ、将軍無力義者(ぎしや)の諌(いさめ)に順ふて、忿(いかり)を押へて坐(ざ)し給ふ。懸(かか)る処に、土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠(よりとほ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて、上賀茂(かみかも)に引(ひか)へて有(あり)けるが、五条大宮(ごでうおほみや)に引(ひか)へたる旗を見てければ、大将は皆公家(くげ)の人々よと見てければ、後(うし)ろより時を吐(どつ)と作(つくつ)て、喚(をめ)き叫(さけん)でぞ懸(かけ)たりける。「すはや後(うし)ろより取回(とりまは)しけるは。川原(かはら)へ引(ひき)て、広(ひろ)みにて戦へ」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ、一戦(いつせん)も不戦、五条川原(ごでうがはら)へはつと追(おひ)出されて、些(ちつと)も足を不蹈留、西坂本を差(さ)して逃(にげ)たりける。土岐頼遠(ときよりとほ)、五条大宮(ごでうおほみや)の合戦に打勝(うちかつ)て、勝時(かつどき)を揚(あげ)ければ、此彼(ここかしこ)より勢共(せいども)数千騎(すせんぎ)馳集(はせあつまつ)て、大宮を下(くだ)りに、義貞の後(うしろ)へ攻(せめ)よする。神祇官(じんぎくわん)に磬(ひか)へたる仁木(につき)・細川・吉良(きら)・石堂(いしたう)が勢二万(にまん)余騎(よき)は、朱雀(しゆしやか)を直違(すぢかひ)に西八条へ推寄(おしよす)る。東よりは小弐・大友(おほとも)・厚東(こうとう)・大内(おほち)、四国・中国の兵共(つはものども)三万(さんまん)余騎(よき)、七条河原(しちでうがはら)を下(くだ)りに、針(はり)・唐橋(からはし)へ引回(ひきまは)して、敵を一人も不討洩引裹(ひきつつむ)。三方(さんぱう)は如此百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取巻(とりまい)て、天を翔(かけ)り地に潜(くぐつ)て出(いづ)るより外(ほか)は、漏(もれ)ても可逃方なし。前には城郭(じやうくわく)堅く守(まもつ)て、数万(すまん)の兵鏃(やじり)をそろへて散々(さんざん)に射る。義貞今日を限(かぎり)の運命也(なり)と思定給(おもひさだめたまひ)ければ、二万(にまん)余騎(よき)を只一手(ひとて)に成(なし)て、八条(はつでう)・九条(くでう)に引(ひか)へたる敵十万(じふまん)余騎(よき)四角(しかく)八方(はつぱう)へ懸散(かけちら)し、三条河原(さんでうがはら)へ颯(さつ)と引(ひい)て出(いで)たるを、千葉・宇都宮(うつのみや)も、はや所々(しよしよ)に引(ひき)分れ、名和伯耆(はうきの)守(かみ)長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科(にしな)・高梨・春日部(かすかべ)・丹(たん)・児玉(こだま)三千(さんぜん)余騎(よき)一手(ひとて)に成(なつ)て、一条を東へ引(ひき)けるが、三百(さんびやく)余騎(よき)被討て鷺(さぎ)の森へ懸抜(かけぬけ)たり。長年は二百(にひやく)余騎(よき)にて大宮にて返し合せ、我(われ)と後(うしろ)の関(きど)をさして一人も不残死してけり。其後(そののち)処々(しよしよ)の軍(いくさ)に勝(かち)ほこりたる敵三十万騎(さんじふまんぎ)、纔(わづか)に討(うち)残されたる義貞の勢を真中(まんなか)に又取篭(とりこむ)る。義貞も思切(おもひきつ)たる体(てい)にて、一引(ひとひき)も引(ひか)んとはし給はず、馬を皆西頭(にしかしら)に立(たて)て、討死せんとし給(たまひ)ける処に、主上(しゆしやう)の恩賜(おんし)の御衣(ぎよい)を切(きつ)て、笠符(かさじるし)に付(つけ)たる兵共(つはものども)所々より馳(はせ)集り、二千(にせん)余騎(よき)、戦ひ疲(つかれ)たる大敵を懸立(かけたて)々々(かけたて)揉(もう)だりけるに、雲霞(うんか)の如くなる敵共(てきども)、馬の足を立兼(たてかね)て、京中(きやうぢゆう)へはつと引(ひき)ければ、義貞・義助・江田(えだ)・大館(おほたち)、万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に逢ひ、又坂本へ被引返。
○江州(かうしう)軍(いくさの)事(こと) S1706
京都を中に篭(こめ)て四方(しはう)より寄せば、今度はさりともと憑(たのも)しく覚(おぼ)へしに、諸方の相図(あひづ)相違(さうゐ)して、寄手(よせて)又打負(うちまけ)しかば、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)も、八幡(やはた)を落(おち)て坂本へ被参ぬ。阿弥陀(あみだ)が峯に陣を取(とり)し阿波・淡路の兵共(つはものども)も、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)に打負(うちまけ)て、坂本へ帰(かへり)ぬ。長坂(ながさか)を堅めたりし額田(ぬかだ)も落(おち)て、山上へ帰参(きさん)しければ、京勢(きやうぜい)は篭(こ)の中を出(いで)たる鳥の如く悦(よろこび)、宮方(みやがた)は穴に篭(こも)りたる獣(けだもの)の如く縮(しじま)れり。南都(なんと)の大衆(だいしゆ)も山門に可与力由返牒(へんてふ)を送(おくり)しかば、定(さだめ)て力を合(あは)せんずらんと待(また)れしかども、将軍より数箇所(すかしよ)の庄園を寄附して、被語ける程(ほど)に、目の前の慾に身の後の恥を忘(わすれ)ければ、山門与力(よりよく)の合戦を翻(ひるがへ)して、武家合体(がつてい)の約諾(やくだく)をぞなしける。今は君の御憑(おんたのみ)有(あり)ける方(かた)とては、備後の桜山、備中の那須(なすの)五郎、備前の児島・今木・大富(おほどみ)が兵船(ひやうせん)を汰(そろへ)て近日上洛(しやうらく)の由申(まうし)けると、伊勢の愛州(あいそ)が、当国の敵を退治して、江州(かうしう)へ発向(はつかう)すべしと注進したりし許(ばかり)也(なり)。山門の衆徒(しゆと)財産を尽(つく)して、士卒(じそつ)の兵粮を出(いだ)すといへ共(ども)、公家(くげ)・武家の従類(じゆうるゐ)、上下二十万人に余(あま)りたる人数を、六月の始(はじめ)より、九月の中旬まで養(やしなひ)ければ、家財(かざい)悉(ことごとく)尽(つき)て、共に首陽(しゆやう)に莅(のぞま)んとす。剰(あまつさへ)北国の道をば、足利尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)差塞(さしふさい)で人を不通。近江の国も、小笠原信濃(しなのの)守(かみ)、野路(のぢ)・篠原(しのはら)に陣を取(とつ)て、湖上(こじやう)往返(わうへん)の舟を留(とど)めける間、只官軍(くわんぐん)朝暮(てうぼ)の飢(うゑ)を嗜(たしな)むのみに非(あら)ず、三千(さんぜん)の聖供(しやうぐ)の運送の道塞(ふさがつ)て、谷々(たにだに)の講演も絶(たえ)はてゝ、社々(しやしや)の祭礼も無(なか)りけり。山門角(かく)ては叶(かなふ)まじとて、先(まづ)江州(かうしう)の敵を退治して、美濃・尾張(をはり)の通路を開くべしとて、九月十七日(じふしちにち)に、三塔(さんたふ)の衆徒五千(ごせん)余人(よにん)、志那(しな)の浜より襄(あがつ)て、野路(のぢ)・篠原(しのはら)へ押寄(おしよす)る。小笠原、山門の大勢を見て、さしもなき平城(ひらじやう)に篭(こもり)て、取巻(とりまか)れなば叶(かなふ)まじとて、逆(さか)よせに平野(ひらの)に懸合(かけあは)せて戦(たたかひ)ける程(ほど)に、道場坊(だうじやうばう)注記(ちゆうき)祐覚(いうかく)、一軍(ひといくさ)に打負(うちまけ)て、立(たつ)足もなく引(ひき)ければ、成願坊律師(じやうぐわんばうりつし)入替(いりかはつ)て、一人も不残討(うたれ)にけり。山門弥(いよいよ)憤(いきどほり)を深(ふかく)して、同二十三日(にじふさんにち)、三塔(さんたふ)の衆徒の中より五百房(ごひやくばう)の悪僧(あくそう)を勝(すぐつ)て、二万(にまん)余人(よにん)兵船(ひやうせん)を連(つらね)て推(おし)渡る。小笠原が勢共(せいども)、重(かさね)て寄(よす)る山門の大勢に聞懼(ききおぢ)して大半(たいはん)落失(おちうせ)ければ、勢纔(わづか)三百騎(さんびやくき)にも不足けり。是(これ)を聞(きき)て例の大早(おほはやり)の極(きは)めなき大衆共(だいしゆども)なれば、後陣(ごぢん)の勢をも待調(まちそろ)へず我前(われさき)にとぞ進みける。此(この)大勢を敵に受(うけ)て落留(おちとどま)る程の者共(ものども)なれば、なじかは些(すこし)も気を可屈す。小笠原が三百(さんびやく)余騎(よき)、山徒(さんと)の向ひ陣を取(とり)たりける四十九院(しじふくゐん)の宿(しゆく)へ、未(いまだ)卯刻(うのこく)に推寄(おしよせ)て、懸立(かけたて)々々(かけたて)戦(たたかひ)けるに、宗(むね)との山徒(さんと)理教坊の阿闍梨(あじやり)を始(はじめ)として、三千(さんぜん)余人(よにん)まで討れにければ、湖上の舟に棹(さをさし)て堅田を差(さ)して漕(こぎ)もどる。懸(かか)る処に佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道導誉(だうよ)、京より潜(ひそか)に若狭路(わかさぢ)を廻(まはつ)て、東坂本(ひがしさかもと)へ降参して申(まうし)けるは、「江州は代々(だいだい)当家(たうけ)守護(しゆご)の国にて候を、小笠原上洛(しやうらく)の路(みち)に滞(とどこほつ)て、不慮(ふりよ)に両度の合戦を致し、其(その)功を以て軈(やが)て管領仕(つかまつり)候事(こと)、導誉面目を失ふ所にて候。若(もし)当国の守護職(しゆごしよく)を被恩補候はゞ、則(すなはち)彼(かの)国(くに)へ罷(まかり)向ひ、小笠原を追(おひ)落し、国中を打平(たひら)げて、官軍(くわんぐん)に力を著(つけ)ん事(こと)、時日(ときひ)を移すまじきにて候。」とぞ申(まうし)ける。主上(しゆしやう)も義貞も、出抜(だしぬい)て申(まうす)とは不知給、「事誠(まこと)に可然。」とて、導誉が申請(まうしうく)る旨(むね)に任(まか)せて、当国の守護職(しゆごしよく)並(ならび)に便宜(びんぎ)の闕所(けつしよ)数十箇所(すじつかしよ)、導誉が恩賞に被行て江州へぞ被遣ける。元来(もとより)斟(はかつ)て申(まうし)つる事なれば、導誉江州へ推渡(おしわたつ)て後、当国をば将軍より給りたる由を申す間、小笠原軈(やが)て国を捨(すて)て上洛(しやうらく)しぬ。導誉忽(たちまち)に国を管領して、弥(いよいよ)坂本を遠攻(とほせめ)に攻(せめ)ければ、山徒の遠類(ゑんるゐ)・親類、宮方(みやがた)の被管(ひくわん)・所縁の者までも、近江(あふみの)国中には迹(あと)を可止様(やう)ぞ無(なか)りける。「さては導誉出抜(だしぬき)けり、時刻を不移退治せよ。」と、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を大将にて、二千(にせん)余騎(よき)を江州へ被差向。此(この)勢(せい)志那(しな)の渡(わたし)をして、舟より下(おり)ける処へ、三千(さんぜん)余騎(よき)にて推(おし)寄せ、上(あげ)も立(たて)ず戦ひける程(ほど)に、或(あるひ)は遠浅(とほあさ)に舟を乗(のり)すへ、襄(あが)り場(ば)に馬を下(おろ)し兼(かね)て、被射落被切臥兵(つはもの)数を不知(しらず)。此(この)日(ひ)の軍(いくさ)にも官軍(くわんぐん)又打負(うちまけ)て、纔(わづかに)坂本へ漕返(こぎもど)る。此(この)後よりは山上・坂本に弥(いよいよ)兵粮尽(つき)て、始め百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)有(あり)し者、五騎十騎になり、五騎十騎有(あり)し人は、馬にも不乗成(なり)にけり。
○自山門還幸(くわんかうの)事(こと) S1707
斯(かか)る処に、将軍より内々(ないない)使者を主上(しゆしやう)へ進(しん)じて被申けるは、「去々年の冬、近臣の讒(ざん)に依(よつ)て勅勘(ちよくかん)を蒙り候(さふらひ)し時、身を法体(ほつたい)に替(かへ)て死を無罪賜(たまは)らんと存候(ぞんじさふらひ)し処に、義貞・義助等(よしすけら)、事を逆鱗(げきりん)に寄(よせ)て日来(ひごろ)の鬱憤(うつぷん)を散ぜんと仕候(つかまつりさふらひ)し間、止(やむ)事(こと)を不得して此(この)乱天下に及(および)候。是(これ)全く君に向ひ奉(たてまつ)て反逆(ほんぎやく)を企(くはた)てしに候はず。只義貞が一類(いちるゐ)を亡(ほろぼ)して、向後(きやうこう)の讒臣をこらさんと存ずる許(ばかり)也(なり)。若(もし)天鑒(てんかん)誠を照(てら)されば、臣が讒(ざん)にをち罪を哀(あはれ)み思召(おぼしめし)て、竜駕(りようが)を九重の月に被廻鳳暦(ほうれき)を万歳(ばんぜい)の春に被複候へ。供奉(ぐぶ)の諸卿、並(ならびに)降参の輩(ともがら)に至(いたるま)で、罪科の軽重(きやうぢゆう)を不云、悉(ことごとく)本官本領に複(ふく)し、天下の成敗(せいばい)を公家(くげ)に任(まか)せ進(まゐら)せ候べし。」と、「且(かつう)は条々(でうでう)御不審(ごふしん)を散ぜん為に、一紙(いつし)別に進覧(しんらん)候也(なり)。」とて、大師勧請(だいしくわんじやう)の起請文(きしやうもん)を副(そへ)て、浄土寺の忠円僧正(そうじやう)の方へぞ被進ける。主上(しゆしやう)是(これ)を叡覧有(あつ)て、「告文(かうぶん)を進(まゐら)する上、偽(いつはり)てはよも申(まう)されじ。」と被思召ければ、傍(かたへ)の元老・智臣にも不被仰合、軈(やが)て還幸(くわんかう)成(なる)べき由を被仰出けり。将軍勅答(ちよくたふ)の趣(おもむき)を聞(きき)て、「さては叡智不浅と申せ共(ども)、欺(あざむ)くに安かりけり。」と悦(よろこび)て、さも有(あり)ぬべき大名の許(もと)へ、縁(えん)に触れ趣(おもむ)きを伺(うかがう)て、潜(ひそか)に状を通(つう)じてぞ被語ける。去(さる)程(ほど)に還幸(くわんかう)の儀事(こと)潜(ひそか)に定(さだまり)ければ、降参の志ある者共(ものども)、兼(かね)てより今路(いまみち)・西坂本の辺(へん)まで抜々(ぬけぬけ)に行設(ゆきまう)けて、還幸(くわんかう)の時分をぞ相待(あひまち)ける。中にも江田兵部(ひやうぶの)少輔(せう)行義(ゆきよし)・大館左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)は、新田の一族(いちぞく)にて何(いつ)も一方の大将たりしかば、安否(あんぴ)を当家(たうけ)の存亡(そんばう)にこそ被任べかりしが、いかなる深き所存か有(あり)けん、二人(ににん)共(とも)降参せんとて、九日(ここのかの)暁(あかつき)より先(まづ)山上に登(のぼつ)てぞ居たりける。義貞朝臣斯(かか)る事とは不知給、参仕(さんし)の軍勢(ぐんぜい)に対面して事なき様にておはしける処へ、洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよの)卿(きやう)の方より、「只今主上(しゆしやう)京都へ還幸(くわんかう)可成とて、供奉(ぐぶ)の人を召(めし)候。御存知候やらん。」と被告たりければ、義貞、「さる事や可有。御使(おんつかひ)の聞誤(ききあやまり)にてぞ有覧(あるらん)。」とて、最(いと)騒(さわ)がれたる気色も無(なか)りけるを、堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さだみつ)聞(きき)も敢(あへ)ず、「江田・大館が、何(なん)の用ともなきに、此暁(このあかつき)中堂へ参るとて、登山仕(とうさんつかまつり)つるが怪(あやし)く覚(おぼえ)候。貞満先(まづ)内裏へ参(まゐつ)て、事の様(やう)を見奉り候はん。」とて、郎等(らうどう)に被著たる鎧取(とつ)て肩に投(なげ)懸け、馬の上にて上帯(うはおび)を縮(しめ)、諸鐙(もろあぶみ)合せて参(さん)ぜらる。皇居(くわうきよ)近く成(なり)ければ、馬より下(おり)、甲(かぶと)を脱(ぬい)で中間(ちゆうげん)に持(もた)せ、四方(しはう)を屹(きつ)と見渡すに、臨幸只今の程とみへて、供奉(ぐぶ)の月卿雲客(げつけいうんかく)、衣冠を帯(たい)せるもあり、未(いまだ)鳳輦(ほうれん)を大床(おほゆか)に差寄(さしよせ)て、新典侍(ないしのすけ)、内侍所(ないしところ)の櫃(ひつ)を取出(とりいだ)し奉れば、頭弁(とうのべん)範国(のりくに)、剣璽(けんし)の役(やく)に随(したがつ)て、御簾(ぎよれん)の前に跪(ひざまづ)く。貞満左右に少し揖(いふ)して御前(おんまへ)に参(まゐり)、鳳輦(ほうれん)の轅(ながえ)に取付(とりつき)、涙を流して被申けるは、「還幸(くわんかう)の事(こと)、児如(じじよ)の説(せつ)幽(かすか)に耳に触候(ふれさふらひ)つれ共(ども)、義貞存知仕らぬ由を申候(まうしさふらひ)つる間、伝説(でんせつ)の誤(あやまり)かと存(ぞんじ)て候へば、事の儀式(ぎしき)早(はや)誠(まこと)にて候(さふらひ)ける。抑(そもそも)義貞が不義(ふぎ)何事にて候へば、多年の粉骨(ふんこつ)忠功を被思召捨て、大逆無道(たいぎやくぶだう)の尊氏に叡慮を被移候(さふらひ)けるぞや。去(さんぬる)元弘の始(はじめ)、義貞不肖(ふせう)の身也(なり)といへ共、忝(かたじけなく)も綸旨(りんし)を蒙(かうむつ)て関東(くわんとう)の大敵を数日(すじつ)の内に亡(ほろぼ)し、海西の宸襟(しんきん)を三年の間に休(やす)め進(まゐら)せ候(さふらひ)し事(こと)、恐(おそらく)は上古の忠臣にも類(たぐひ)少く、近日義卒(ぎそつ)も皆功を譲(ゆづ)る処にて候(さふらひ)き。其(その)尊氏が反逆(ほんぎやく)顕(あらはれ)しより以来(このかた)、大軍を靡(なびか)して其師(そのいくさ)を虜(とりこ)にし、万死を出(いで)て一生(いつしやう)に逢(あふ)こと勝計(あげてかぞふ)るに不遑。されば義を重(おもん)じて命(めい)を墜(おと)す一族(いちぞく)百三十二人(ひやくさんじふににん)、節(せつ)に臨(のぞん)で尸(かばね)を曝(さら)す郎従(らうじゆう)八千(はつせん)余人(よにん)也(なり)。然共(しかれども)今洛中(らくちゆう)数箇度(すかど)の戦(たたかひ)に、朝敵(てうてき)勢盛(さかん)にして官軍(くわんぐん)頻(しきり)に利を失(うしなひ)候事(こと)、全(まつたく)戦の咎(とが)に非(あら)ず、只帝徳(ていとく)の欠(かく)る処に候歟(か)。仍(よつて)御方(みかた)に参る勢の少き故(ゆゑ)にて候はずや。詮(せん)ずる処当家累年(るゐねん)の忠義を被捨て、京都へ臨幸可成にて候はゞ、只義貞を始(はじめ)として当家の氏族五十(ごじふ)余人(よにん)を御前(おんまへ)へ被召出、首(くび)を刎(はね)て伍子胥(ごししよ)が罪に比(ひし)、胸を割(さい)て比干(ひかん)が刑に被処候べし。」と、忿(いかれ)る面(おもて)に泪(なみだ)を流し、理(り)を砕(くだい)て申(まうし)ければ、君も御誤(おんあやまり)を悔(くい)させ給へる御気色(ごきしよく)になり、供奉(ぐぶ)の人々も皆理(り)に服(ふく)し義を感じて、首(かうべ)を低(たれ)てぞ坐(おはせ)られける。
○立儲君被著于義貞事(こと)付(つけたり)鬼切(おにきり)被進日吉事 S1708
暫(しばらく)有(あつ)て、義貞朝臣父子兄弟三人(さんにん)、兵三千(さんぜん)余騎(よき)を召具(めしぐ)して被参内たり。其(その)気色皆忿(いか)れる心有(あり)といへ共(ども)、而(しか)も礼儀みだりならず、階下(かいか)の庭上(ていじやう)に袖を連(つら)ねて並居(なみゐ)たり。主上(しゆしやう)例よりも殊に玉顔(ぎよくがん)を和(やはら)げさせ給(たまひ)て、義貞・義助を御前(おんまへ)近く召(めさ)れ、御涙(おんなみだ)を浮べて被仰けるは、「貞満(さだみつ)が朕(ちん)を恨申(うらみまうし)つる処、一儀(いちぎ)其謂(そのいはれ)あるに似(に)たりといへ共(ども)、猶遠慮(ゑんりよ)の不足に当(あた)れり。尊氏超涯(てうがい)の皇沢(くわうたく)に誇(ほこつ)て、朝家(てうけ)を傾(かたむけ)んとせし刻(きざみ)、義貞も其(その)一家(いつけ)なれば、定(さだめ)て逆党(ぎやくたう)にぞ与(くみ)せんと覚(おぼえ)しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助(たすけ)て命を天に懸(かけ)しかば、叡感更に不浅。只汝が一類(いちるゐ)を四海(しかい)の鎮衛(ちんゑ)として、天下を治めん事をこそ思召(おぼしめし)つるに、天運時(とき)未到(いまだいたらず)して兵疲れ勢(いきほ)ひ廃(すた)れぬれば、尊氏に一旦(いつたん)和睦(わぼく)の儀を謀(はかつ)て、且(しばら)くの時を待(また)ん為に、還幸(くわんかう)の由をば被仰出也(なり)。此(この)事(こと)兼(かねて)も内々知(しら)せ度(たく)は有(あり)つれ共(ども)、事遠聞(ゑんぶん)に達せば却(かへつ)て難儀なる事も有(あり)ぬべければ、期(ご)に臨(のぞん)でこそ被仰めと打置(うちおき)つるを、貞満が恨申(うらみまうす)に付(つい)て朕(ちん)が謬(あやまり)を知れり。越前国(ゑちぜんのくに)へは、川島(かうしま)の維頼(これより)先立(さきだつ)て下(くだ)されつれば、国の事定(さだめ)て子細(しさい)あらじと覚(おぼゆ)る上、気比(けひ)の社(やしろ)の神官等(しんぐわんら)敦賀(つるが)の津(つ)に城を拵(こしら)へて、御方(みかた)を仕(つかまつる)由聞ゆれば、先(まづ)彼(かしこ)へ下(くだつ)て且(しばら)く兵(つはもの)の機(き)を助け、北国を打随(うちしたが)へ、重(かさね)て大軍を起して天下の藩屏(はんぺい)となるべし。但(ただし)朕京都へ出(いで)なば、義貞却(かへつ)て朝敵(てうてき)の名を得つと覚(おぼゆ)る間、春宮(とうぐう)に天子の位を譲(ゆづり)て、同(おなじく)北国へ下し奉(たてまつる)べし。天下の事小大(なに)となく、義貞が成敗(せいばい)として、朕(ちん)に不替此(この)君を取立進(とりたてまゐら)すべし。朕(ちん)已(すで)に汝が為に勾践(こうせん)の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡(はんれい)が謀を廻(めぐ)らせ。」と、御涙(おんなみだ)を押(おさ)へて被仰ければ、さしも忿(いか)れる貞満も、理(り)を知らぬ夷共(えびすども)も、首(かうべ)を低(た)れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日(ここのか)は事騒(さわがし)き受禅(じゆぜん)の儀、還幸(くわんかう)の装(よそほひ)に日暮(くれ)ぬ。夜更(ふく)る程(ほど)に成(なつ)て、新田左中将(さちゆうじやう)潜(ひそか)に日吉(ひよし)の大宮権現(おほみやごんげん)に参社(さんしや)し玉(たま)ひて、閑(しづか)に啓白(けいびやく)し給(たまひ)けるを、「臣苟(いやしく)も和光(わくわう)の御願(ごぐわん)を憑(たのん)で日を送り、逆縁(ぎやくえん)を結(むすぶ)事(こと)日已(すで)に久し。願(ねがはく)は征路万里(せいろばんり)の末迄も擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)を廻(めぐ)らされて、再(ふたたび)大軍を起し朝敵(てうてき)を亡(ほろぼ)す力を加へ給へ。我(われ)縦(たとひ)不幸にして命の中(うち)に此望(こののぞみ)を不達と云共(いふとも)、祈念冥慮(みやうりよ)に不違ば、子孫の中に必(かならず)大軍を起(おこす)者有(あつ)て、父祖の尸(かばね)を清めん事を請(こ)ふ。此二(このふたつ)の内一(ひとつ)も達する事を得ば、末葉(まつえふ)永く当社の檀度(だんと)と成(なつ)て霊神の威光を耀(かかやか)し奉るべし。」と、信心を凝(こら)して祈誓(きせい)し、当家累代(るゐたいの)重宝(ちようはう)に鬼切(おにきり)と云(いふ)太刀を社壇にぞ被篭ける。
○義貞北国落(おちの)事(こと) S1709
明(あく)れば十月十日の巳刻(みのこく)に、主上(しゆしやう)は腰輿(えうよ)にめされて今路(いまみち)を西へ還幸(くわんかう)なれば、春宮(とうぐう)は竜蹄(りようてい)にめされ、戸津(とづ)を北へ行啓(ぎやうけい)なる。還幸(くわんかう)の供奉(ぐぶ)にて京都へ出(いで)ける人々には、吉田(よしだの)内大臣(ないだいじん)定房(さだふさ)・万里小路(までのこうぢ)大納言(だいなごん)宣房(のぶふさ)・御子(みこ)左(ひだりの)中納言(ちゆうなごん)為定(ためさだ)・侍従(じじゆうの)中納言(ちゆうなごん)公明(きんあきら)・坊門(ばうもんの)宰相(さいしやう)清忠(きよただ)・勧修寺(くわんしゆじの)中納言(ちゆうなごん)経顕(つねあき)・民部卿光経(みつつね)・左中将(さちゆうじやう)藤長(ふぢなが)・頭弁(とうのべん)範国(のりくに)、武家の人々には、大館(おほたち)左馬(さまの)頭(かみ)氏明(うぢあきら)・江田(えだ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)行義(ゆきよし)・宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)公縄(きんつな)・菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武俊(たけとし)・仁科(にしな)信濃(しなのの)守(かみ)重貞(しげさだ)・春日部(かすかべ)左近(さこんの)蔵人家縄(いへつな)・南部(なんぶ)甲斐(かひの)守(かみ)為重(ためしげ)・伊達(だて)蔵人家貞・江戸(えど)民部(みんぶの)丞(じよう)景氏(かげうぢ)・本間(ほんま)孫四郎(まごしらう)資氏(すけうぢ)・山徒(さんと)の道場坊助注記(じよちゆうぎ)祐覚(いうがく)、都合(つがふ)其(その)勢(せい)七百(しちひやく)余騎(よき)、腰輿(えうよ)の前後に相順(したが)ふ。行啓の御供(おんとも)にて、北国へ落(おち)ける人々には、一宮(いちのみや)中務(なかつかさの)卿(きやう)親王(しんわう)・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・同少将定世・三条(さんでうの)侍従(じじゆう)泰季(やすすゑ)・御子(みこ)左(ひだりの)少将(せうしやう)為次(ためつぐ)・頭大夫(とうのだいぶ)行房(ゆきふさ)・子息少将行尹(ゆきたか)、武士(ぶし)には新田左中将(さちゆうじやう)義貞・子息越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・子息式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治(よしはる)・堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満・一井(いちのゐ)兵部大輔(たいふ)義時(よしとき)・額田左馬(さまの)助(すけ)為縄(ためつな)・里見(さとみ)大膳(だいぜんの)亮(すけ)義益(よします)・大江田(おいだ)式部(しきぶの)大夫(たいふ)義政(よしまさ)・鳥山修理(しゆりの)亮義俊(よしとし)・桃井(もものゐ)駿河(するがの)守(かみ)義繁(よししげ)・山名兵庫(ひやうごの)助(すけ)忠家・千葉(ちばの)介(すけ)貞胤(さだたね)・宇都宮(うつのみや)信濃(しなのの)将監(しやうげん)泰藤(やすふぢ)・同狩野(かのの)将監(しやうげん)泰氏(やすうぢ)・河野(かうの)備後(びんごの)守(かみ)通治(みちはる)・同備中(びつちゆうの)守(かみ)通縄(みちつな)・土岐(とき)出羽(ではの)守(かみ)頼直・一条(いちでうの)駿河(するがの)守(かみ)為治(ためはる)、其外(そのほか)山徒(さんと)少々(せうせう)相雑(あひまじはつ)て、都合其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、案内者(あんないしや)を前に打(うた)せて、竜駕(りようが)の前後に打囲(うちかこ)む。此外(このほか)妙法院(めうほふゐん)の宮(みや)は御舟(おんふね)に被召て、遠江(とほたふみの)国(くに)へ落(おち)させ給ふ。阿曾(あその)宮(みや)は山臥(やまぶし)の姿に成(なつ)て吉野の奥へ忍ばせ給ふ。四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)は紀伊(きの)国(くに)へ下(くだ)り、中(なかの)院(ゐん)少将(せうしやう)定平(さだひら)は河内(かはちの)国(くに)へ隠れ給ふ。其(その)有様、偏(ひとへ)に只歌舒翰(かじよかん)安禄山(あんろくさん)に打負(うちまけ)て、玄宗蜀(しよく)の国へ落(おち)させ給(たまひ)し時、公子(こうし)・内宮(ないきゆう)、悉(ことごとく)、或(あるひ)は玉趾(ぎよくし)を跣(すあし)にして剣閣の雲に蹈(ふみ)迷ひ、或(あるひ)は衣冠を汚(けが)して野径(やけい)の草に逃蔵(にげかく)れし昔の悲(かなしみ)に相似たり。昨日一昨日までも、聖運遂に開けば、錦を著て古郷(こきやう)へ帰り、知(しら)ぬ里、みぬ浦山(うらやま)の旅宿(りよしゆく)をも語り出(いだ)さば、中々(なかなか)にうかりし節(ふし)も悲(かなし)きも、忘形見(わすれかたみ)と成(なり)ぬべし、心々の有様に身を慰めて有(あり)つるに、君臣父子万里(ばんり)に隔(へだた)り、兄弟夫婦十方に別(わかれ)行けば、或(あるひ)は再会の期(ご)なき事を悲(かなし)み、或(あるひ)は一身(いつしん)の置処(おきどころ)なき事を思へり。今も逆旅(げきりよ)の中にして、重(かさね)て行(ゆき)、々(ゆく)も敵の陣帰るも敵の陣なれば、誰か先に討(うた)れて哀(あはれ)と聞(きかれ)んずらん、誰か後に死(しし)て、なき数を添(そへ)んずらんと、詞(ことば)に出(いで)ては云はね共(ども)、心に思はぬ人はなし。「南翔北嚮、難附寒温於春鴈。東出西流、只寄贍望於暁月。」江相公(えのしやうこう)の書(かき)たりし、別れに送る筆の迹(あと)、今の涙と成(なり)にけり。
○還幸(くわんかう)供奉(ぐぶの)人々被禁殺事 S1710
還幸(くわんかう)已(すで)に法勝寺辺(ほつしようじへん)まで近付(ちかづき)ければ、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)五百(ごひやく)余騎(よき)にて参向(さんかう)し、先(まづ)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を当今(たうぎん)の御方(おんかた)へ可被渡由を被申ければ、主上(しゆしやう)兼(かねて)より御用意(ごようい)有(あり)ける似せ物を取替(とりかへ)て、内侍(ないし)の方へぞ被渡ける。其(その)後主上(しゆしやう)をば花山院(くわざんのゐん)へ入進(いれまゐら)せて、四門を閉(とぢ)て警固(けいご)を居(す)へ、降参の武士をば大名共(だいみやうども)の方へ一人づゝ預(あづけ)て、召人(めしうと)の体(てい)にてぞ被置ける。可斯とだに知(しり)たらば、義貞朝臣と諸共(もろとも)に北国へ落(おち)て、兎(と)も角(かう)も成(なる)べかりける者をと、後悔すれ共(ども)甲斐ぞなき。十(じふ)余日(よにち)を経(へ)て後、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)は、警固(けいご)の宥(ゆる)くありける隙(ひま)を得て本国へ逃下(にげくだ)りぬ。又宇都宮(うつのみや)は、放召人(はなしめしうと)の如(ごとく)にて、逃(にげ)ぬべき隙(ひま)も多かりけれ共(ども)、出家の体(てい)に成(なつ)て徒(いたづら)に向(むかひ)居たりけるを、悪(にく)しと思ふ者や為(し)たりけん、門の扉(とびら)に山雀(やまがら)を絵書(ゑにかき)、其(その)下に一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。山がらがさのみもどりをうつのみや都に入(いり)て出(いで)もやらぬは本間孫四郎(まごしらう)は、元より将軍家来の者なりしが、去(さんぬ)る正月十六日の合戦より新田左中将(さちゆうじやう)に属(しよく)して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢(ゆんぜい)の程をあらはし、雲母坂(きららさか)の軍(いくさ)の時は、扇(あふぎ)を射て手垂(てだれ)の程を見せたりし、度々(どど)の振舞悪(にく)ければとて、六条川原(ろくでうかはら)へ引出(ひきいだ)して首(くび)を被刎けり。山徒(さんと)の道場坊助注記(じよちゆうぎ)祐覚(いうがく)は、元は法勝寺(ほつしようじ)の律僧(りつそう)にて有(あり)しが、先帝船上(ふなのうへ)に御座(ござ)ありし時、大衣(だいえ)を脱(ぬい)で山徒の貌(かたち)に替(か)へ、弓箭(きゆうせん)に携(たづさはつ)て一時の栄華を開けり。山門両度の臨幸に軍用を支(ささへ)し事(こと)、偏(ひとへ)に祐覚が為処(しわざ)也(なり)しかば、山徒の中の張本(ちやうほん)也(なり)とて、十二月二十九日、阿弥陀が峯にて切られけるが、一首(いつしゆ)の歌を法勝寺(ほつしようじ)の上人の方へぞ送りける。大方(おほかた)の年の暮(くれ)ぞと思(おもひ)しに我(わが)身のはても今夜成(こよひなり)けり此外(このほか)山門より供奉(ぐぶ)して被出たる三公(さんこう)九卿(きうけい)、纔(わづか)に死罪一等を被宥たれ共(ども)、解官停任(げくわんちやうにん)せられて、有(ある)も無(なき)が如くの身に成給(なりたまひ)ければ、傍人(ばうじん)の光彩に向(むかつ)て面(おもて)を泥沙(でいしや)の塵(ちり)に低(たれ)、後生(こうせい)の栄耀(えいえう)を望(のぞん)で涙を犬羊(けんやう)の天に淋(そそ)く。住(すみ)にし迹(あと)に帰り給(たまひ)けれ共(ども)、庭には秋の草
茂(しげり)て通(かよひ)し道露(つゆ)深く、閨(ねや)には夜の月のみさし入(いり)て塵打払(うちはら)ふ人もなし。顔子(がんし)が一瓢(いつぺう)水清(きよく)して、独(ひとり)道ある事を知るといへ共、相如(しやうじよ)が四壁(しへき)風冷(すさまじう)して衣なきに堪(たへ)ず、五衰退没(たいもつ)の今の悲(かなしみ)に、大梵高台(だいぼんかうたい)の昔の楽(たのしみ)を思(おもひ)出し給ふにも、世の憂(うき)事(こと)は数添(そひ)て、涙の尽(つく)る時はなし。
○北国下向勢(げかうぜい)凍死(こごえじにの)事(こと) S1711
同十一日は、義貞朝臣七千(しちせん)余騎(よき)にて、塩津(しほづ)・海津(かいづ)に著(つき)給ふ。七里(しちり)半(はん)の山中をば、越前の守護(しゆご)尾張(をはりの)守(かみ)高経大勢にて差塞(さしふさい)だりと聞へしかば、是(これ)より道を替(かへ)て木目峠(きのめたうげ)をぞ越(こえ)給ひける。北国の習(ならひ)に、十月の初(はじめ)より、高き峯々に雪降(ふり)て、麓の時雨(しぐれ)止(やむ)時なし。今年は例よりも陰寒(いんかん)早くして、風紛(かざまじり)に降る山路(やまぢ)の雪、甲冑(かつちう)に洒(そそ)き、鎧の袖を翻(ひるがへ)して、面(おもて)を撲(うつ)こと烈(はげ)しかりければ、士卒(じそつ)寒谷(かんこく)に道を失ひ、暮山(ぼざん)に宿(やど)無(なく)して、木(こ)の下岩の陰(かげ)にしゞまりふす。適(たまたま)火を求(もとめ)得たる人は、弓矢を折焼(をりたい)て薪(たきぎ)とし、未(いまだ)友を不離者は、互に抱付(いだきつき)て身を暖(あたた)む。元より薄衣(はくえ)なる人、飼(かふ)事(こと)無(なか)りし馬共、此(ここ)や彼(かしこ)に凍死(こごえしん)で、行人道を不去敢。彼叫喚(かのけうくわん)大叫喚の声(こゑ)耳に満(みち)て、紅蓮(ぐれん)大紅蓮の苦(くるし)み眼(まなこ)に遮(さへぎ)る。今だにかゝり、後の世を思遣(おもひや)るこそ悲しけれ。河野・土居・得能は三百騎(さんびやくき)にて後陣(ごぢん)に打(うち)けるが、見(けん)の曲(くま)にて前の勢に追殿(おひおく)れ、行(ゆく)べき道を失(うしなう)て、塩津(しほづ)の北にをり居たり。佐々木(ささき)の一族(いちぞく)と、熊谷(くまがえ)と、取篭(こめ)て討(うた)んとしける間、相がゝりに懸(かかつ)て、皆差違(さしちが)へんとしけれ共(ども)、馬は雪に凍(こご)へてはたらかず、兵は指を墜(おと)して弓を不控得、太刀のつかをも拳(にぎり)得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫(つらぬ)かれてこそ死にけれ。千葉(ちばの)介(すけ)貞胤(さだたね)は五百(ごひやく)余騎(よき)にて打(うち)けるが、東西くれて降(ふる)雪に道を蹈迷(ふみまよひ)て、敵の陣へぞ迷出(まよひいで)たりける。進退(しんたい)歩(あゆみ)を失ひ、前後の御方(みかた)に離れければ、一所(いつしよ)に集(あつまつ)て自害をせんとしけるを、尾張(をはりの)守(かみ)高経の許(もと)より使を立(たて)て、「弓矢の道今は是(これ)までにてこそ候へ。枉(まげ)て御方(みかた)へ出(いで)られ候へ。此(この)間の義をば身に替(かへ)ても可申宥。」慇懃(いんぎん)に宣ひ遣(つかは)されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属(しよく)しける。同十三日(じふさんにち)義貞朝臣敦賀津(つるがのつ)に著(つき)給へば、気比(けひの)弥三郎大夫三百(さんびやく)余騎(よき)にて御迎(おんむかひ)に参じ、東宮・一宮(いちのみや)・総大将(そうだいしやう)父子兄弟を先(まづ)金崎(かねがさき)の城へ入(いれ)奉り、自余(じよ)の軍勢(ぐんぜい)をば津(つ)の在家(ざいけ)に宿(やど)を点(てん)じて、長途(ちやうど)の窮屈を相助く。爰(ここ)に一日逗留(とうりう)有(あつ)て後、此(この)勢(せい)一所に集(あつま)り居ては叶はじと、大将を国々の城へぞ被分ける。大将義貞は東宮に付進(つきまゐら)せて、金崎(かねがさき)の城に止(とどまり)給ふ。子息越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)には北国の勢二千(にせん)余騎(よき)を副(そへ)て越後国(ゑちごのくに)へ下(くだ)さる。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助は千(せん)余騎(よき)を副(そへ)て瓜生(うりふ)が杣山(そまやま)の城へ遣はさる。是は皆国々の勢を相付(つけ)て、金崎(かねがさき)の後攻(ごづめ)をせよとの為也(なり)。
○瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)心替(こころがはりの)事(こと)付(つけたり)義鑑房(ぎかんばう)蔵義治事 S1712
同十四日、義助・義顕(よしあき)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、敦賀(つるが)の津(つ)を立(たつ)て、先(まづ)杣山(そまやま)へ打越(うちこえ)給ふ。瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)保(たもつ)・舎弟兵庫(ひやうごの)助(すけ)重(しげし)・弾正左衛門照(てらす)、兄弟三人(さんにん)種々の酒肴(さかな)舁(かか)せて鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)へ参向(さんかう)す。此外(このほか)人夫五六百人(ごろつぴやくにん)に兵粮を持(もた)せて諸軍勢(しよぐんぜい)に下行(げぎやう)し、毎事(まいじ)是(これ)を一大事(いちだいじ)と取沙汰(とりさた)したる様、誠(まこと)に他事(たじ)もなげに見へければ、大将も士卒(じそつ)も、皆たのもしき思(おもひ)をなし給(たまふ)。献酌(けんしやく)順(じゆん)に下(くだつ)て後、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の飲(のみ)給ひたる盃(さかづき)を、瓜生判官席を去(さつ)て三度(さんど)傾(かたぶけ)ける時、白幅輪(しろふくりん)の紺糸(こんいと)の鎧一領(いちりやう)引(ひき)給ふ。面目身に余(あま)りてぞみへたりける。其(その)後判官己(おのれ)が館(たち)に帰(かへつ)て、両大将へ色々(いろいろの)小袖(こそで)二十重(にじふかさね)調進す。此外(このほか)御内(みうち)・外様(とざま)の軍勢共(ぐんぜいども)の、余(あまり)に薄衣(はくえ)なるがいたはしければ、先(まづ)小袖一充(ひとつづつ)仕立てゝ送るべしとて、倉の内より絹綿数千(すせん)取出(とりいだ)して、俄に是(これ)をぞ裁縫(たちぬは)せける。斯(かか)る処に足利尾張(をはりの)守(かみ)の方より潜(ひそか)に使者を通(つう)じ、前帝より成(なさ)れたりとて、義貞が一類(いちるゐ)可御追罰(ついばつ)由の綸旨(りんし)をぞ被送ける。瓜生判官是(これ)を見て、元より心遠慮(ゑんりよ)なき者なりければ、将軍より謀(たばかり)て被申成たる綸旨(りんし)とは思(おもひ)も寄(よら)ず。さては勅勘(ちよくかん)武敵の人々を許容(きよよう)して大軍を動(うごか)さん事(こと)、天の恐(おそれ)も有(ある)べしと、忽(たちまち)に心を反(へん)じて杣山(そまやま)の城へ取上(とりあが)り、関(きど)を閉(とぢ)てぞ居たりける。爰(ここ)に判官が弟に義鑑房(ぎかんばう)と云(いふ)禅僧の有(あり)けるが、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)へ参じて申(まうし)けるは、「兄にて候保(たもつ)は、愚痴(ぐち)なる者にて候間、将軍より押(おさ)へて被申成候綸旨(りんし)を誠と存(ぞんじ)て、忽(たちまち)に違反(ゐへん)の志を挿(さしはさ)み候。義鑑房弓箭(きゆうせん)を取(とる)身にてだに候はゞ、差違(さしちがへ)て共に死ぬべく候へ共、僧体(そうたい)に恥ぢ仏見(ぶつけん)に憚(はばかつ)て、黙止(もだし)候事こそ口惜(くちをしく)覚(おぼえ)候へ。但(ただし)倩(つらつら)愚案(ぐあん)を廻(めぐら)し候に、保(たもつ)、事の様(やう)を承(うけたまは)り開き候程ならば、遂には御方(みかた)に参じ候(さふらひ)ぬと存(ぞんじ)候。若(もし)御幼稚(ごえうち)の公達(きんだち)数(あま)た御坐(ござ)候はゞ一人是(これ)に被留置進候へ。義鑑懐(ふところ)の中(うち)、衣(ころも)の下にも隠し置進(おきまゐら)せて、時を得候はゞ御旗(おんはた)を挙(あげ)て、金崎(かねがさき)の御後攻(ごづめ)を仕(つかまつり)候はん。」と申(まうし)も敢(あへ)ず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将是(これ)が気色(きしよく)を見給(たまひ)て、偽(いつはつ)てはよも申さじと疑(うたがひ)の心をなし給はず、則(すなはち)席を近付(ちかづけ)て潜(ひそか)に被仰けるは、「主上(しゆしやう)坂本を御出(おんいで)有(あり)し時、「尊氏若(もし)強(しひ)て申(まうす)事(こと)あらば、休(やむ)事(こと)を得ずして、義貞追罰(つゐばつ)の綸旨(りんし)をなしつと覚(おぼゆ)るぞ。汝かりにも朝敵(てうてき)の名を取らんずる事不可然。春宮(とうぐう)に位を譲奉(ゆづりたてまつり)て万乗の政(まつりごと)を任(まか)せ進(まゐ)らすべし。義貞股肱(ここう)の臣として王業再び本(もと)に複(ふく)する大功を致せ」と被仰下、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を春宮(とうぐう)に渡し進(しん)ぜられし上は、縦(たとひ)先帝の綸旨(りんし)とて、尊氏申成(まうしなし)たり共、思慮(しりよ)あらん人は用(もちゐ)るに足(たら)ぬ所也(なり)と思ふべし。然(しか)れ共(ども)判官(はうぐわん)この是非(ぜひ)に迷へる上は、重(かさね)て子細(しさい)を尽(つく)すに及ばず、急(いそい)で兵を引(ひい)て、又金崎(かねがさき)へ可打帰事已(すで)に難儀に及(およぶ)時分、一人兄弟の儀(ぎ)を変(へん)じて忠義を顕(あらは)さるゝ条、殊に有難(ありがた)くこそ覚(おぼえ)て候へ。御心中憑(たの)もしく覚(おぼゆ)れば、幼稚の息男(そくなん)義治をば、僧に預申(あづけまうし)候べし。彼(かれ)が生涯の様、兎(と)も角(かう)も御計(おんはからひ)候へ。」と宣(のたまひ)て、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の子息に式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治(よしはる)とて、今年十三に成(なり)給ひけるを、義鑑坊(ぎかんばう)にぞ預(あづ)けらる。此(この)人鍾愛(しゆあい)他に異(こと)なる幼少の一子(いつし)にて坐(おは)すれば、一日片時(いちにちへんし)も傍(そば)を離れ給はず、荒き風にもあてじとこそ労(いたは)り哀(あはれ)み給ひしに、身近き若党(わかたう)一人をも付(つけ)ず、心も知(しら)ぬ人に預(あづけ)て、敵の中に留(とめ)置き給へば、恩愛(おんあい)の別(わかれ)も悲(かなし)くて、再会の其期(そのご)知(しり)がたし。夜明(あく)れば右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は金崎(かねがさき)へ打(うち)帰り、越後国(ゑちごのくに)へ下(くだら)んとて、宿中(しゆくちゆう)にて勢をそろへ給ふに、瓜生(うりふ)が心替(こころがはり)を聞(きい)ていつの間(ま)にか落行(おちゆき)けん、昨日までは三千五百(さんぜんごひやく)余騎(よき)と注(しる)したりし軍勢(ぐんぜい)、纔(わづか)二百五十騎(にひやくごじつき)に成(なり)にけり。此(この)勢(せい)にては、何(なに)として越後まで遥々(はるばる)と敵陣を経(へ)ては下(くだる)べし。さらば共に金崎(かねがさき)へ引返(ひつかへし)てこそ、舟に乗(のつ)て下(くだ)らめとて、義助も義顕(よしあき)も、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)より打連(うちつれ)て、又敦賀(つるが)へぞ打(うち)帰り給(たまひ)ける。爰(ここ)に当国の住人(ぢゆうにん)今庄(いまじやう)九郎入道浄慶(じやうけい)、此(この)道より落人(おちうと)の多く下(くだ)る由を聞(きい)て、打留(うちと)めん為に、近辺の野伏(のぶし)共(ども)を催(もよほ)し集(あつめ)て、嶮岨(けんそ)に鹿垣(ししがき)をゆひ、要害に逆木(さかもぎ)を引(ひい)て、鏃(やじり)を調(そろ)へてぞ待(まち)かけたる。義助朝臣是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は何様(いかさま)今庄法眼久経(いまじやうほふげんきうけい)と云(いひ)し者の、当手に属(しよく)して坂本まで有(あり)しが一族共(いちぞくども)にてぞ有(ある)らん。其(その)者共(ものども)ならばさすが旧功(きうこう)を忘(わすれ)じと覚(おぼゆ)るぞ。誰かある、近付(ちかづい)て事の様(やう)を尋(たづね)きけ。」と宣ひければ、由良(ゆら)越前守(ゑちぜんのかみ)光氏(みつうぢ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」とて、只一騎馬を磬(ひかへ)て、「脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の合戦評定(ひやうぢやう)の為に、杣山(そまやま)の城より金崎(かねがさき)へ、かりそめに御越(おんこし)候を、旁(かたがた)存知候はでばし、加様(かやう)に道を被塞候やらん。若(もし)矢一筋(ひとすぢ)をも被射出候(さふらひ)なば、何(いづ)くに身を置(おい)て罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏(ふ)せ甲(かぶと)を脱(ぬい)で通(とほし)申され候へ。」と高らかに申(まうし)ければ、今庄(いまじやう)入道馬より下(お)りて、「親にて候卿法眼(きやうのほふげん)久経(きうけい)御手(おんて)に属(しよく)して軍忠を致し候(さふらひ)しかば、御恩の末(すゑ)も忝(かたじけなく)存(ぞんじ)候へ共、浄慶父子(じやうけいふし)各別(かくべつ)の身と成(なつ)て尾張(をはりの)守(かみ)殿(どの)に属(しよく)し申(まうし)たる事にて候間、此(この)所をば支申(ささへまう)さで通し進(まゐら)せん事は、其(その)罪科難遁存(ぞんじ)候程(ほど)に、態(わざ)と矢一(ひとつ)仕り候はんずるにて候。是(これ)全く身の本意にて候はねば、あはれ御供(おんとも)仕(つかまつり)候人々の中に、名字(みやうじ)さりぬべからんずる人を一両人出(いだ)し給(たまは)り候へかし。其首(そのくび)を取(とつ)て合戦仕(つかまつり)たる支証(ししよう)に備(そな)へて、身の咎(とが)を扶(たすか)り候はん。」とぞ申(まうし)ける。光氏打帰(うちかへつ)て此(この)由を申せば、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)進退(しんたい)谷(きはま)りたる体(てい)にて、兎角の言(ことば)も出(いだ)されざりければ、越後(ゑちごの)守(かみ)見給(たまひ)て、「浄慶が申(まうす)所も其謂(そのいはれ)ありと覚(おぼ)ゆれ共(ども)、今まで付纏(つきまとひ)たる士卒(じそつ)の志、親子よりも重(おも)かるべし。されば彼等が命に義顕(よしあき)は替(かは)るとも、我(わが)命に士卒(じそつ)を替(かへ)がたし。光氏今一度(いちど)打向(むかつ)て、此(この)旨を問答して見よ。猶(なほ)難儀の由を申さば、力なく我等も士卒(じそつ)と共に討死して、将の士(し)を重んずる義を後世に伝(つた)へん。」とぞ宣ひける。光氏又打向(むかつ)て此(この)由を申(まうす)に、浄慶猶(なほ)心とけずして、数刻(すこく)を移しける間、光氏馬より下(おり)て、鎧の上帯(うはおび)切(きつ)て投捨(なげすて)、「天下の為に重(おも)かるべき大将の御身(おんみ)としてだにも、軍勢(ぐんぜい)の命に替(かは)らんとし給(たまふ)ぞかし。況(いはん)や義に依(よつ)て命を軽(かろん)ずべき郎従(らうじゆう)の身として、主(しゆ)の御命に替(かは)らぬ事や有(ある)べき。さらば早(はや)光氏が首(くび)を取(とつ)て、大将を通し進(まゐ)らせよ。」と云(いひ)もはてず、腰の刀を抜(ぬい)て自(みづから)腹を切(きら)んとす。其(その)忠義を見(みる)に、浄慶さすがに肝(きも)に銘(めい)じけるにや、走寄(はしりよつ)て光氏が刀に取付(とりつき)、「御自害(ごじがい)の事怒々(ゆめゆめ)候べからず。げにも大将の仰(おほせ)も士卒(じそつ)の所存も皆理(ことわ)りに覚(おぼ)へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当(あて)られ候(さうらふ)共(とも)、争(いか)でか情(なさけ)なき振舞をば仕り候べき。早(はや)御(おん)通(とほ)り候へ。」と申(まうし)て、弓を伏(ふせ)逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて、泣々(なくなく)道の傍(かたはら)に畏(かしこま)る。両大将大(おほき)に感ぜられて、「我等はたとひ戦場の塵(ちり)に没(ぼつ)すとも、若(もし)一家(いつけ)の内に世を保つ者出来(いできたら)ば、是(これ)をしるしに出(いだ)して今の忠義を顕(あらは)さるべし。」とて、射向(いむけ)の袖にさしたる金作(こがねつくり)の太刀を抜(ぬい)て、浄慶にぞ被与ける。光氏は主(しゆ)の危(あやふき)を見て命に替らん事を請(こひ)、浄慶は敵の義を感じて後の罪科を不顧、何(いづ)れも理(ことわ)りの中なれば、是(これ)をきゝ見る人ごとに、称嘆(しようたん)せぬは無(なか)りけり。
○十六騎(じふろくきの)勢(せい)入金崎(かねがさき)事 S1713
始(はじめ)浄慶が問答の難儀なりしを聞(きい)て、金崎(かねがさき)へ通らん事叶はじとや思(おもひ)けん、只今まで二百五十騎(にひやくごじつき)有(あり)つる軍勢(ぐんぜい)、いづちともなく落失(おちうせ)て纔(わづか)十六騎(じふろくき)に成(なり)にけり。深山寺(みやまてら)の辺(へん)にて樵(きこり)の行合(ゆきあひ)たるに、金崎(かねがさき)の様を問(とひ)給へば、「昨日の朝より国々の勢二三万騎(にさんまんぎ)にて、城を百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取巻(とりまい)て、攻(せめ)候也(なり)。」とぞ申(まうし)ける。「さてはいかゞすべき。是(これ)より東山(とうせん)道を経(へ)て忍(しのん)で越後へや下(くだ)る、只爰(ここ)にて腹をや切る。」と異儀区(まちまち)なりけるを、栗生(くりふ)左衛門進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「何(いず)くの道を経(へ)ても、越後まで遥々(はるばる)と落(おち)させ給はん事叶はじとこそ存(ぞんじ)候へ。下人(げにん)の独(ひとり)をもつれぬ旅人の、疲(つかれ)て道を通(とほ)り候はんを、誰か落人(おちうと)よと見ぬ事の候べき。又面々(めんめん)に爰(ここ)にて腹を切(きり)候はんずる事も、楚忽(そこつ)に覚(おぼ)へ候へば、今夜は此(この)山中に忍(しのび)て夜(よ)を明(あか)して、まだ篠目(しののめ)の明(あけ)はてざらん比(ころ)をひ、杣山(そまやま)の城より後攻(ごづめ)するぞと呼(よば)はりて、敵の中へ懸入(かけいり)て戦(たたかは)んに、敵若(もし)騒(さわ)ひで攻口(せめくち)を引退(ひきしりぞく)事(こと)あらば、差違(さしちが)ふて城へ入(いり)候べし。忻(きそう)て路を遮り候はゞ、思ふ程太刀打(うち)して、惣大将(そうだいしやう)の被御覧御目(おんめ)の前にて討死仕(つかまつつ)て候はんこそ、後までの名も九原(きうげん)の骨にも留(とどま)り候はんずれ。」と申(まうし)ければ、十六人の人々皆此義(このぎ)にぞ被同ける。去(され)ば大勢なる体(てい)を敵に見する様に謀(はか)れとて、十六人が鉢巻(はちまき)と上帯(うはおび)とを解(とい)て、青竹の末に結付(ゆひつけ)て旗の様(やう)にみせて、此(ここ)の木の梢、彼(かしこ)の陰(かげ)に立置(たておき)て、明(あく)るを遅しとぞ待(また)れける。金鶏(きんけい)三たび唱(となへ)て、雪よりしらむ山の端(は)に、横雲(よこぐも)漸(やうやく)引渡(ひきわた)りければ、十六騎(じふろくき)の人々、中黒(なかぐろ)の旗一流(ひとながれ)差挙(さしあげ)、深山寺(みやまてら)の木陰(こかげ)より、敵陣の後(うしろ)へ懸出(かけいで)て、「瓜生(うりふ)・富樫(とがし)・野尻(のじり)・井口(ゐのくち)・豊原(といはら)・平泉寺(へいせんじ)、並(ならび)に剣(つるぎ)・白山(しらやま)の衆徒等(しゆとら)、二万(にまん)余騎(よき)にて後攻仕(ごづめつかまつり)候ぞ。城中(じやうちゆう)の人々被出向候(さふらひ)て、先懸(さきがけの)者共(ものども)の剛臆(かうおく)の振舞委(くはし)く御覧(ごらん)じて、後の証拠(しようご)に立(たた)れ候へ。」と、声々に喚(をめい)て時の声をぞ揚(あげ)たりける。其真前(そのまつさき)に前(すす)みける武田(たけだの)五郎は、京都の合戦に切(きら)れたりし右の指未(いまだ)痊(いえ)ずして、太刀のつかを拳(にぎ)るべき様(やう)も無(なか)りければ、杉の板を以て木太刀を作(つくつ)て、右の腕にぞ結付(ゆひつけ)たりける。二番に前(すすみ)ける栗生(くりふ)左衛門は帯副(はきぞへ)の太刀無(なか)りける間、深山柏(みやまかしは)の回(まは)り一尺(いつしやく)許(ばかり)なるを、一丈(いちぢやう)余(あまり)に打切(うちきつ)て金才棒(かなさいぼう)の如(ごとく)に見せ、右の小脇にかい挟(はさみ)て、大勢の中へ破(わつ)て入(いる)。是(これ)を見て金崎(かねがさき)を取巻(とりまい)たる寄手(よせて)三万(さんまん)余騎(よき)、「すはや杣山(そまやま)より後攻(ごづめ)の勢懸(かかり)けるは。」とて、馬よ物具(もののぐ)よと周章騒(あわてさわ)ぐ。案(あん)の如(ごとく)深山寺(みやまてら)に立並(たちならべ)たる旗共(はたども)の、木々の嵐に翻るを見て、後攻(ごづめ)の勢げにも大勢なりけりと心得て、攻口(せめくち)に有(あり)ける若狭(わかさ)・越前の勢共(せいども)、楯を捨(す)て弓矢を忘れてはつと引(ひく)。城中(じやうちゆう)の勢八百(はつぴやく)余人(よにん)是(これ)に利を得て、浜面(はまおもて)の西へ、大鳥居(おほとりゐ)の前へ打出(うちいで)たりける間、雲霞(うんか)の如くに充満したる大勢共、度(ど)を失(うしなひ)て十方へ逃散(にげちる)。或(あるひ)は迹(あと)に引(ひく)を敵の追(おふ)と心得て、返(かへ)し合せて同士打(どしうち)をし、或(あるひは)要(よこぎつ)て逃(にぐる)を敵とみて、立留(たちどまつ)て腹を切(きる)もあり、二里三里が外(ほか)にも猶不止、誰(た)が追(おふ)としもなき遠引(とほびき)して、皆己(おのれ)が国々へぞ帰りける。
○金崎(かねがさき)船遊(ふなあそびの)事(こと)付(つけたり)白魚(はくぎよ)入船事 S1714
去(さる)程(ほど)に、百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に城を囲みたりつる敵共(てきども)、一時の謀(はかりこと)に被破(やぶられ)て、近辺(きんぺん)に今は敵と云(いふ)者一人も無(なか)りければ、是(これ)只事に非(あら)ずとて、城中(じやうちゆう)の人々の悦合(よろこびあへ)る事限(かぎり)なし。十月二十日の曙(あけぼの)に、江山(かうざん)雪晴(はれ)て漁舟一蓬(いつぽう)の月を載せ、帷幕(ゐばく)風捲(まい)て貞松(ていしよう)千株(ちゆ)の花を敷(しけ)り。此興(このきよう)都(みやこ)にて未被御覧風流なれば、逆旅(げきりよ)の御心(おんこころ)をも慰められん為に、浦々の船を点(てん)ぜられ、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)に准(なぞらへ)て、雪中の景(けい)をぞ興ぜさせ給(たまひ)ける。春宮(とうぐう)・一宮(いちのみや)は御琵琶、洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよの)卿(きやう)は琴(こと)の役(やく)、義貞は横笛(よこぶえ)、義助は箏(しやう)の笛、維頼(これより)は打物(うちもの)にて、蘇合香(そがふかう)の三帖(さんでふ)・万寿楽(まんじゆらく)の破(は)、繁絃急管(はんげんきふくわん)の声、一唱(いつしやう)三嘆(さんたん)の調(しら)べ、融々洩々(ゆうゆうえいえい)として、正始(せいし)の音(おと)に叶ひしかば、天衆も爰(ここ)に天降(あまくだ)り、竜神(りゆうじん)も納受する程也(なり)。簫韶(せうぜう)九奏(きうそう)すれば鳳(ほう)舞ひ魚(うを)跳(をど)る感(かん)也(なり)。誠(まこと)に心なき鱗(うろくづ)までも、是(これ)を感ずる事や有(あり)けん、水中に魚跳(をどり)御舟(おんふね)の中へ飛入(とびいり)ける。実世(さねよの)卿(きやう)是(これ)を見給(たまひ)て、「昔周(しうの)武王八百(はつぴやく)の諸侯を率(そつ)し、殷(いん)の紂(ちう)を討(うた)ん為に孟津(まうしん)を渡りし時、白魚(はくぎよ)跳(をどつ)て武王の舟に入(いり)けり。武王是(これ)を取(とつ)て天に祭る。果して戦(たたかひ)に勝(かつ)事(こと)を得しかば、殷の世を遂に亡(ほろぼ)して、周八百(はつぴやく)の祚(くらゐ)を保(たもて)り。今の奇瑞(きずゐ)古(いにしへ)に同じ。早く是(これ)を天に祭(まつつ)て寿(ことぶき)をなすべし。」と、屠人(どじん)是(これ)を調(ととのへ)て其胙(そのひもろぎ)を東宮に奉(たてまつる)。春宮(とうぐう)御盃(さかづき)を傾(かたむけ)させ給(たまひ)ける時、島寺(しまでら)の袖と云(いひ)ける遊君(いうくん)御酌に立(たち)たりけるが、柏子(ひやうし)を打(うつ)て、「翠帳紅閨、万事之礼法雖異、舟中波上、一生(いつしやう)之(の)歓会是同。」と、時の調子の真中(まんなか)を三重(さんぢゆう)にしほり歌ひたりければ、儲君儲王忝(かたじけなく)も叡感の御心(おんこころ)を被傾、武将官軍(くわんぐん)も齊(ひとし)く嗚咽(をうえつ)の袖をぞぬらされける。
○金崎(かねがさきの)城(じやう)攻(せむる)事(こと)付(つけたり)野中(のなか)八郎(はちらうが)事(こと) S1715
杣山(そまやま)より引返す十六騎(じふろくき)の勢に被出抜、金崎(かねがさき)の寄手(よせて)四方(しはう)に退散(たいさん)しぬる由京都へ聞へければ、将軍大(おほき)に忿(いか)りを成して、軈(やが)て大勢をぞ被下ける。当国の守護(しゆご)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)は、北陸道(ほくろくだう)の勢五千(ごせん)余騎(よき)を率(そつ)して、蕪木(かぶらき)より向はる。仁木(につき)伊賀(いがの)守(かみ)頼章(よりあきら)は、丹波・美作の勢千(せん)余騎(よき)を率(そつ)して、塩津(しほつ)より向はる。今河駿河(するがの)守(かみ)は但馬・若狭の勢七百(しちひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、小浜(をはま)より向はる。荒河参川(みかはの)守(かみ)は丹後(たんご)の勢八百(はつぴやく)余騎(よき)を率(そつ)して疋壇(ひきた)より向はる。細川源蔵人は四国の勢二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して、東近江(ひがしあふみ)より向はる。高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)は、美濃・尾張(をはり)・遠江の勢六千(ろくせん)余騎(よき)を率(そつ)して、荒血中山(あらちなかやま)より向はる。小笠原信濃(しなのの)守(かみ)は、信濃国の勢五千(ごせん)余騎(よき)を率(そつ)して、新道(しんだう)より向ふ。佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞(たかさだ)は、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して、兵船(ひやうせん)五百(ごひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て海上よりぞ向ひける。其(その)勢(せい)都合(つがふ)六万(ろくまん)余騎(よき)、山には役所を作双(つくりなら)べ、海には舟筏(ふないかだ)を組(くん)で、城の四方(しはう)を囲(かこみ)ぬる事(こと)、隙透間(ひますきま)も無(なか)りけり。彼(かの)城(じやう)の有様、三方(さんぱう)は海に依(よつ)て岸高く巌(いはほ)滑(なめらか)也(なり)。巽(たつみ)の方に当れる山一つ、城より少し高ふして、寄手(よせて)城中(じやうちゆう)を目の下に直下(みおろ)すといへ共、岸絶(たえ)地僻(さがり)にして、近付寄(ちかづきより)ぬれば、城郭(じやうくわく)一片(いつぺん)の雲の上に峙(そばだ)ち、遠(とほく)して射れば、其(その)矢万仞(ばんじん)の谷の底に落つ。さればいかなる巧(たくみ)を出(いだ)して攻(せむ)る共、切岸(きりきし)の辺(へん)までも可近付様は無(なか)りけれ共(ども)、小勢(こぜい)にて而(しか)も新田の名将一族(いちぞく)を尽(つく)して被篭たり。寄手(よせて)大勢にて而も将軍の家礼(けらい)威を振(ふるう)て向はれたれば、両家(りやうけ)の争ひ只此(この)城(じやう)の勝負(しようぶ)に有(ある)べしと、各機(き)を張(はり)心を専(もつぱら)にして、攻(せめ)戦ふ事片時(へんし)もたゆまず。矢に当(あたり)て疵(きず)を病(やみ)、石に打(うた)れて骨を砕(くだ)く者、毎日千人・二千人(にせんにん)に及べ共、逆木(さかもぎ)一本をだにも破られず。是(これ)を見て小笠原信濃(しなのの)守(かみ)、究竟(くつきやう)の兵八百人(はつぴやくにん)を勝(すぐつ)て、東の山の麓より巽角(たつみずみ)の尾を直違(すぢかひ)に、かづき連(つれ)てぞ揚(あがつ)たりける。城には此(これ)や被破べき所なりけん、城の中の兵三百(さんびやく)余人(よにん)、二の関(きど)を開(ひらい)て、同時に打(うつ)て出(いで)たり。両方相近(あひぢか)に成(なり)ければ、矢を止(とめ)て打物(うちもの)になる。防ぐ兵(つはもの)は、此(ここ)を引(ひか)ば継(つづい)て攻入(せめい)られぬと危(あやぶ)みて、一足(ひとあし)も不退戦(たたかふ)。寄手(よせて)は無云甲斐引(ひい)て、敵・御方(みかたに)不被笑と、命を捨(すて)てぞ攻(せめ)たりける。敵さすがに小勢(こぜい)なれば、戦疲(たたかひつか)れてみへける処に、例(れい)の栗生(くりふ)左衛門、火威(ひをどし)の鎧に竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)を夕日に耀(かかや)かし、五尺(ごしやく)三寸(さんずん)の太刀に、樫(かし)の棒の八角(かく)に削(けづり)たるが、長さ一丈(いちぢやう)二三尺(にさんじやく)も有(ある)らんと覚(おぼ)へたるを打振(ふつ)て、大勢の中へ走り懸り、片手打(かたてうち)に二三十、重ね打(うち)に打(うち)たりける。寄手(よせて)の兵四五十人(しごじふにん)、犬居(いぬゐ)にどうと打居(うちすゑ)られ、中天にづんと被打挙、沙(すな)の上に倒れ伏(ふす)。後陣(ごぢん)の勢是(これ)を見て、しどろに成(なり)て浪打際(なみうちぎは)に村立(むらだつ)所へ、気比(けひ)の大宮司(だいぐうじ)太郎・大学(だいがくの)助(すけ)・矢島七郎(しちらう)・赤松大田の帥法眼(そつのほふげん)、四人無透間打(うつ)て懸(かか)りける間、叶はじとや思(おもひ)けん、小笠原が八百(はつぴやく)余人(よにん)の兵、一度(いちど)にはつと引(ひい)て本の陣へぞ帰りける。今河駿河(するがの)守(かみ)此(この)日(ひ)の合戦を見て推量するに、「此(ここ)が如何様(いかさま)被破(やぶられ)ぬべき所なればこそ、城より此(ここ)を先途(せんど)と出(いで)ては戦(たたかふ)らめ。陸地(くがぢ)より寄せばこそ足立(あしだち)悪(あしく)て輒(たやす)く敵には被払つれ。舟て一攻(ひとせめ)々(せめ)て見よ。」とて、小舟百(ひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、昨日小笠原が攻(せめ)たりし浜際(はまぎは)よりぞ上(あがり)ける。寄(よる)と均(ひとし)く切岸の下なる鹿垣(ししがき)一重(ひとへ)引破(ひきやぶつ)て、軈(やが)て出屏(だしへい)の下へ著(つか)んとしける処へ、又城より裹(つつ)まれたる兵二百(にひやく)余人(よにん)、抜連(ぬきつれ)て打出(うちいで)たりけるに、寄手(よせて)五百(ごひやく)余人(よにん)真逆(まつさかさま)に被巻落、我先(われさき)にと舟にぞ込乗(こみのり)ける。遥(はるか)に舟を押出(おしいだ)して跡を顧(かへりみる)に、中村六郎(ろくらう)と云(いふ)者痛手(いたで)を負(おう)て舟に乗殿(のりおく)れ、礒陰(いそかげ)なる小松の陰(かげ)に太刀を倒(さかさま)について、「其(その)舟寄(よせ)よ。」と招共(まねけども)、あれ/\と許(ばかり)にて、助(たすけ)んとする者も無(なか)りけり。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)野中(のなか)八郎(はちらう)貞国(さだくに)と云(いひ)ける者是(これ)を見て、「しらで有(あら)んは無力。御方(みかた)の兵の舟に乗殿(のりおく)れて、敵に討(うた)れんとするを、親(まのあた)り見ながら助(たすけ)ぬと云(いふ)事(こと)や有(ある)べき。此(この)舟漕戻(こぎもど)せ。中村助(たすけ)ん。」と云(いひ)けれ共(ども)、人敢(あへ)て耳にも不聞入。貞国大(おほき)に忿(いかつ)て、人の指櫓(さすろ)を引奪(ひきうばう)て、逆櫓(さかろ)に立(たて)、自(みづから)舟を押返(おしもど)し、遠浅(とほあさ)より下立(おりたつ)て、只一人中村が前へ歩行(あゆみゆく)。城の兵共(つはものども)是(これ)を見て、「手負(ておう)て引兼(ひきかね)たる者は何様(いかさま)宗(むね)との人なれば社(こそ)、是(これ)を討(うた)せじと、遥(はるか)に引(ひき)たる敵共(てきども)は、又返合(かへしあは)すらん。下合(おりあつ)て首(くび)を取れ。」とて、十二三人(じふにさんにん)が程、中村が後(うしろ)へ走懸(はしりかか)りけるを、貞国些(ちつと)も不騒、長刀の石づき取伸(とりのべ)て、向(むかふ)敵一人諸膝(もろひざ)薙(ない)で切居(きりすゑ)、其(その)頚を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫き、中村を肩に引懸(ひつかけ)て、閑(しづか)に舟に乗(のり)ければ、敵も御方(みかた)も是(これ)を見て、「哀(あつばれ)剛(かう)の者哉(かな)。」と、誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。其後(そののち)よりは、寄手(よせて)大勢也(なり)といへ共、敵手痛(ていた)く防(ふせぎ)ければ、攻屈(せめくつ)して、只帰り、逆木(さかもぎ)引(ひき)、向櫓(むかひやぐら)を掻(かい)て、徒(いたづら)に矢軍許(やいくさばかり)にてぞ日を暮(くら)しける。