太平記(国民文庫)
太平記巻第十五
○園城寺(をんじやうじ)戒壇(かいだんの)事(こと) S1501
山門二心(ふたごころ)なく君を擁護(おうご)し奉て、北国・奥州の勢を相待(まつ)由聞(きこ)へければ、義貞に勢の著(つか)ぬ前(さき)に、東坂本(ひがしさかもと)を急(いそぎ)可被責とて、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)・同刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・並(ならびに)陸奥(むつの)守(かみ)を大将として、六万(ろくまん)余騎(よき)を三井寺(みゐでら)へ被差遣。是(これ)は何(いつ)も山門に敵する寺なれば、衆徒(しゆと)の所存よも二心非じと被憑ける故(ゆゑ)也(なり)。随(したがつて)而衆徒被致忠節者、戒壇(かいだん)造営の事(こと)、武家殊に加力可成其功之(の)由(よし)、被成御教書。抑(そもそも)園城寺(をんじやうじ)の三摩耶戒壇(さまやかいだん)の事は、前々(せんぜん)已(すで)に公家(くげ)尊崇(そんそう)の儀を以て、勅裁を被成、又関東(くわんとう)贔負(ひいき)の威を添(そへ)て取立(とりたて)しか共(ども)、山門嗷訴(がうそ)を恣(ほしいまま)にして猛威を振(ふる)ふ間、干戈(かんくわ)是(これ)より動き、回禄(くわいろく)度々(どど)に及べり。其(その)故を如何(いかに)と尋(たづぬ)るに、彼(かの)寺の開山高祖(かいさんかうそ)智証(ちしよう)大師(だいし)と申(まうし)奉るは、最初(そのかみ)叡山(えいさん)伝教(でんげう)大師(だいし)の御弟子(おんでし)にて、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の碩徳(せきとく)、智行兼備の権者(ごんじや)にてぞ御坐(おはしま)しける。而るに伝教(でんげう)大師(だいし)御入滅(ごにふめつ)の後、智証(ちしよう)大師(だいし)の御弟子(おんでし)と、慈覚(じかく)大師(だいし)の御弟子(おんでし)と、聊(いささか)法論の事有(あつ)て、忽(たちまち)に確執(かくしつ)に及(および)ける間、智証(ちしよう)大師(だいし)の門徒修禅(もんとしゆぜん)三百房(さんびやくばう)引(ひい)て、三井寺(みゐでら)に移る。于時教待和尚(けうたいくわしやう)百六十年(ひやくろくじふねん)行(おこなう)て祈出(いのりいだ)し給(たまひ)し生身(しやうじん)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)を智証(ちしよう)大師(だいし)に付属(ふぞく)し給へり。大師(だいし)是(これ)を受て、三密瑜伽(さんみつゆか)の道場を構へ、一代説教の法席(ほつせき)を展給(のべたまひ)けり。其(その)後仁寿(にんじゆ)三年に、智証(ちしよう)大師(だいし)求法(ぐほふ)の為に御渡唐有(ごとたうあり)けるに、悪風俄に吹来(ふききたつ)て、海上の御船(おんふね)忽(たちまち)にくつがへらんとせし時、大師(だいし)舷(ふなばた)に立出(たちいで)て、十方を一礼(いちらい)して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持(ごぢ)の不動明王(ふどうみやうわう)、金色(こんじき)の身相(しんさう)を現(げん)じて、船の舳(へ)に立(たち)給ふ。又新羅(しんら)大明神(だいみやうじん)親(まのあた)りに船の艫(とも)に化現(けげん)して、自(みづから)橈(かぢ)を取(とり)給ふ。依之(これによつて)御舟(おんふね)無恙明州津(みやうじうのつ)に著(つき)にけり。角(かく)て御在唐(ございたう)七箇年(しちかねん)の間、寝食(しんしよく)を忘(わすれ)て顕密(けんみつ)の奥義(あうぎ)を究(きは)め給ひて、天安三年に御帰朝あり。其後(そののち)法流弥(いよいよ)盛(さかん)にして、一朝の綱領(かうれい)、四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、此(この)寺四箇の大寺(だいじ)の其(その)一つとして、論場(ろんぢやう)の公請(くしやう)に随ひ、宝祚(はうそ)の護持を致(いたす)事(こと)諸寺に卓犖(たくらく)せり。抑(そもそも)山門已(すで)に菩薩(ぼさつ)の大乗戒(だいじようかい)を建(たて)、南都(なんと)は又声聞(しやうもん)の小乗戒(せうじようかい)を立つ。園城寺(をんじやうじ)何ぞ真言(しんごん)の三摩耶戒(さまやかい)を建(たて)ざらんやとて、後朱雀(ごしゆじやく)院(ゐん)の御宇(ぎよう)長暦(ちようりやく)年中に、三井寺(みゐでら)の明尊(みやうそん)僧正(そうじやう)、頻(しき)りに勅許を蒙(かうむ)らんと奏聞しけるを、山門堅く支申(ささへまうし)ければ、彼(かの)寺の本主太政(だいじやう)大臣(だいじん)大友(おほともの)皇子(わうじ)の後胤、大友(おほともの)夜須磨呂(やすまろ)の氏族連署して、官府(くわんふ)を申す。貞観(ぢやうぐわん)六年十二月五日の状に曰(いはく)、「望請長為延暦寺(えんりやくじ)別院(べちゐん)、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺(えんりやくじ)別院(べちゐん)之(の)由(よし)、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂(やすまろ)並氏人愁吟。弥為天台(てんだいの)別院(べちゐん)専祈天長地久之御願、可致四海(しかい)八■(はちえん)之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台(てんだいの)別院(べちゐん)云云。如之貞観九年(くねん)十月三日智証(ちしよう)大師(だいし)記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然(しかれ)ば本末(ほんまつ)の号歴然(れきぜん)たり。師弟の義何ぞ同(おなじ)からん。」証(しよう)を引き理(り)を立(たて)て支申(ささへまうし)ける間、君(きみ)思食煩(おぼしめしわづらは)せ給(たまひ)て、「許否(きよひ)共に凡慮(ぼんりよ)の及(およぶ)処に非(あらざ)れば、只可任冥慮。」とて、自(みづから)告文(かうぶん)を被遊て叡山(えいさんの)根本中堂(こんぼんちゆうだう)に被篭けり。其詞(そのことばに)云(く)、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文(このかうぶん)を被篭て、七日に当りける夜、主上(しゆしやう)不思議(ふしぎ)の御夢想(ごむさう)ありけり。無動寺(むどうじ)の慶命(きやうみやう)僧正(そうじやう)、一紙(いつし)の消息(せうそく)を進(まゐらせ)て云(いはく)、「自胎内之昔、至治天之今、忝(かたじけなくも)雖奉祈請宝祚長久、三井寺(みゐでらの)戒壇院若(もし)被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜(そのつぎのよ)の御夢(おんゆめ)に彼(かの)慶命(きやうみやう)僧正(そうじやう)参内(さんだい)して紫宸殿(ししんでん)に被立たりけるが、大きに忿(いか)れる気色(けしき)にて、「昨日一紙(いつし)の状を雖進覧、叡慮(えいりよ)更に不驚給、所詮(しよせん)三井寺(みゐでら)の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽(たちまち)に可成怨心。」と宣(のたま)ふ。又其翌(そのつぎ)の夜(よ)の御夢(おんゆめ)に、一人の老翁弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して殿上(てんしやう)に候(こう)す。主上(しゆしやう)、「汝(なんぢ)は何者ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「円宗(ゑんしゆう)擁護(おうご)の赤山(せきさん)大明神(だいみやうじん)にて候。三井寺(みゐでら)の戒壇院執奏(しつそう)の人に向(むかつ)て、矢一つ仕(つかまつら)ん為に参内(さんだい)して候也(なり)。」とぞ申(まうさ)れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐(おそれ)て被成ければ、遂(つひ)に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。角(かく)て遥(はるか)に程(ほど)経(へ)て、白河院の御宇(ぎよう)に、江帥匡房(えのそつのきやうばう)の兄に、三井寺(みゐでら)の頼豪(らいがう)僧都(そうづ)とて、貴(たつと)き人有(あり)けるを被召、皇子御誕生の御祈(おんいのり)をぞ被仰付ける。頼豪(らいがう)勅を奉(うけたまはつ)て肝胆(かんたん)を砕(くだい)て祈請(きしやう)しけるに、陰徳忽(たちまち)に顕(あらは)れて承保(しようほう)元年十二月十六日に皇子御誕生有(あり)てけり。帝(みかど)叡感の余(あまり)に、「御祷(おんいのり)の観賞(けんじやう)宜依請。」と被宣下。頼豪(らいがう)年来(としごろ)の所望(しよまう)也(なり)ければ、他の官禄一向是(これ)を閣(さしおい)て、園城寺(をんじやうじ)の三摩耶戒壇(さまやかいだん)造立(ざうりつ)の勅許をぞ申賜(まうしたまはり)ける。山門又是(これ)を聴(きき)て款状(くわじやう)を捧(ささげ)て禁庭(きんてい)に訴へ、先例を引(ひい)て停廃(ちやうはい)せられんと奏(そう)しけれども、「綸言(りんげん)再び不複」とて勅許無(なか)りしかば、三塔(さんたふ)嗷儀(がうぎ)を以て谷々(たにだに)の講演(かうえん)を打止(うちや)め、社々(やしろやしろ)の門戸(もんこ)を閉(とぢ)て御願(ごぐわん)を止(やめ)ける間、朝儀(てうぎ)難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁(ちよくさい)をぞ被召返ける。頼豪(らいがう)是(これ)を忿(いかつ)て、百日(ひやくにち)の間髪(かみ)をも不剃爪をも不切、炉壇(ろだん)の烟にふすぼり、嗔恚(しんい)の炎(ほのほ)に骨を焦(こがし)て、我(われ)願(ねがはく)は即身(そくしん)に大魔縁(だいまえん)と成(なつ)て、玉体を悩(なやま)し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念(あくねん)を発(おこ)して、遂(つひ)に三七日(さんしちにち)が中に壇上(だんじやう)にして死にけり。其怨霊(そのをんりやう)果(はた)して邪毒を成(なし)ければ、頼豪(らいがう)が祈出(いのりいだ)し奉りし皇子、未(いまだ)母后(ぼこう)の御膝(ひざ)の上を離(はなれ)させ給はで、忽(たちまち)に御隠(おんかくれ)有(あり)けり。叡襟(えいきん)是(これ)に依(よつ)て不堪、山門の嗷訴(がうそ)、園城(をんじやう)の効験(かうげん)、得失(とくしつ)甚(はなはだし)き事隠無(かくれなか)りければ、且(かつう)は山門の恥を洗(すす)ぎ、又は継体(けいたい)の儲(ひつぎ)を全(まつたう)せん為に、延暦寺(えんりやくじの)座主(ざす)良信(りやうしん)大僧正(だいそうじやう)を申請(まうししやうじ)て、皇子御誕生の御祈(おんいのり)をぞ被致ける。先(まづ)御修法(みしほ)の間種々の奇瑞(きずゐ)有(あり)て、承暦(しやうりやく)三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持(ごぢ)隙(ひま)無(なか)りければ、頼豪(らいがう)が怨霊(をんりやう)も近付(ちかづき)奉らざりけるにや、此(この)宮(みや)遂(つひ)に玉体無恙して、天子の位を践(ふま)せ給ふ。御在位(ございゐ)の後院号(ゐんがう)有(あつ)て、堀河(ほりかはの)院(ゐん)と申(まうし)しは、則(すなはち)此(この)第二(だいに)の宮(みや)の御事(おんこと)也(なり)。其後(そののち)頼豪(らいがう)が亡霊(ばうれい)忽(たちまち)に鉄(くろがね)の牙(きば)、石の身なる八万四千(はちまんしせん)の鼠と成(なつ)て、比叡山(ひえいさん)に登り、仏像・経巻を噛破(くひやぶり)ける間、是(これ)を防(ふせぐ)に無術して、頼豪(らいがう)を一社(いつしや)の神に崇(あが)めて其怨念(そのをんねん)を鎮(しづ)む。鼠の禿倉(ほこら)是(これ)也(なり)。懸(かかり)し後は、三井寺(みゐでら)も弥(いよいよ)意趣(いしゆ)深(ふかう)して、動(ややもすれ)ば戒壇の事を申達(まうしたつ)せんとし、山門も又以前の嗷儀(がうぎ)を例(れい)として、理不尽に是(これ)を欲徹却と。去(され)ば始(はじめ)天歴年中より、去文保(さんぬるぶんほう)元年に至(いたる)迄、此(この)戒壇故(ゆゑ)に園城寺(をんじやうじ)の焼(やく)る事已(すで)に七箇度(しちかど)也(なり)。近年は是(これ)に依(よつ)て、其企(そのくはたて)も無(なか)りつれば、中々(なかなか)寺門繁昌して三宝の住持(ぢゆうぢ)も全(まつた)かりつるに、今将軍妄(みだり)に衆徒の心を取(とら)ん為に、山門の忿(いかり)をも不顧、楚忽(そこつ)に被成御教書ければ、却(かへつ)て天魔(てんま)の所行(しよぎやう)、法滅の因縁(いんえん)哉(かな)と、聞(きく)人毎(ごと)に脣(くちびる)を翻(ひるがへ)しけり。
○奥州勢(あうしうぜい)著坂本事 S1502
去年十一月に、義貞朝臣打手(うつて)の大将を承(うけたまはつ)て、関東(くわんとう)へ被下向時、奥州の国司(こくし)北畠(きたばたけの)中納言顕家(あきいへの)卿(きやう)の方へ、合図(あひづ)の時をたがへず可攻合由綸旨(りんし)を被下たりけるが、大軍を起す事不容易間、兎角(とかう)延引す。剰(あまつさへ)路すがらの軍(いくさ)に日数(ひかず)を送りける間、心許(ばかり)は被急けれども、此彼(ここかしこ)の逗留(とうりう)に依(よつ)て、箱根(はこね)の合戦には迦(はづ)れ給ひにけり。されども幾程(いくほど)もなく、鎌倉(かまくら)に打入(うちいり)給ひたれば、将軍は早(はや)箱根(はこね)竹下(たけのした)の戦に打勝(うちかつ)て、軈(やが)て上洛(しやうらく)し給ひぬと申(まうし)ければ、さらば迹(あと)より追(おつ)てこそ上(のぼ)らめとて、夜を日に継(つい)でぞ被上洛(しやうらくせられ)ける。去程(さるほど)に越後・上野(かうづけ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)に残りたる新田(につた)の一族(いちぞく)、並(ならびに)千葉・宇都宮(うつのみや)が手勢(てぜい)共(ども)、是(これ)を聞伝(ききつたへ)て此彼(ここかしこ)より馳加(はせくはは)りける間、其(その)勢(せい)無程五万(ごまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。鎌倉(かまくら)より西には手さす者も無(なか)りければ、夜昼(よるひる)馬を早めて、正月十二日近江(あふみ)の愛智河(えちがは)の宿(しゆく)に被著けり。其(その)日(ひ)大館中務(おほたちなかづかさの)大輔(たいふ)、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)氏頼(うぢより)其比(そのころ)未(いまだ)幼稚(えうち)にて楯篭(たてごも)りたる観音寺(くわんおんじ)の城郭を責落(せめおとし)て、敵を討(うつ)事(こと)都(すべ)て五百(ごひやく)余人(よにん)、翌日(よくじつ)早馬を先立(さきたて)て事の由を坂本へ被申たりければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、敗軍の士卒(じそつ)悉(ことごとく)悦(よろこび)をなし、志(こころざし)を不令蘇と云(いふ)者なし。則(すなはち)道場坊の助註記(じよちゆうき)祐覚(いうかく)に被仰付、湖上(こしやう)の船七百(しちひやく)余艘(よさう)を点(てん)じて志那浜(しなのはま)より一日が中(うち)にぞ被渡ける。爰(ここ)に宇都宮(うつのみや)紀清(きせい)両党、主の催促に依(よつ)て五百(ごひやく)余騎(よき)にて打連(うちつれ)たりけるが、宇都宮(うつのみや)は将軍方(しやうぐんがた)に在(あり)と聞へければ、面々(めんめん)に暇(いとま)を請(こひ)、色代(しきだい)して志那(しなの)浜より引(ひき)分れ、芋洗(いもあらひ)を廻(まはつ)て、京都へこそ上(のぼ)りけれ。
○三井寺(みゐでら)合戦並(ならびに)当寺撞鐘(つきがねの)事(こと)付(つけたり)俵藤太(たはらとうだが)事(こと) S1503
東国の勢既(すで)[に]坂本に著(つき)ければ、顕家(あきいへの)卿(きやう)・義貞朝臣、其外(そのほか)宗(むね)との人々、聖女(しやうによ)の彼岸所(ひかんじよ)に会合して、合戦の評定(ひやうぢやう)あり。「何様(いかさま)一両日(いちりやうにち)は馬の足を休(やすめ)てこそ、京都へは寄(よせ)候はめ。」と、顕家(あきいへの)卿(きやう)宣(のたまひ)けるを、大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)被申けるは、「長途(ちやうど)に疲れたる馬を一日も休(やすめ)候はゞ中々(なかなか)血下(さがつ)て四五日は物(もの)の用に不可立。其(その)上(うへ)此(この)勢(せい)坂本へ著(つき)たりと、敵縦(たとひ)聞及共(ききおよぶとも)、頓(やが)て可寄とはよも思寄(おもひより)候はじ。軍(いくさ)は起不意必(かならず)敵を拉(とりひしぐ)習(ならひ)也(なり)。只今夜(こんや)の中(うち)に志賀(しが)・唐崎(からさき)の辺(へん)迄打寄(うちよせ)て、未明(びめい)に三井寺(みゐでら)へ押寄せ、四方(しはう)より時(とき)を作(つくつ)て責入(せめいる)程ならば、御方(みかた)治定(ぢぢやう)の勝軍(かちいくさ)とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、義貞朝臣も楠(くすのき)判官(はうぐわん)正成(まさしげ)も、「此義(このぎ)誠(まこと)に可然候。」と被同て、頓(やが)て諸大将(しよだいしやう)へぞ被触ける。今上(いまのぼ)りの千葉勢是(これ)を聞(きい)て、まだ宵(よひ)より千(せん)余騎(よき)にて志賀の里に陣取る。大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)・額田(ぬかだ)・羽(はね)川六千(ろくせん)余騎(よき)にて、夜半(やはん)に坂本を立(たつ)て、唐崎の浜に陣を取る。戸津(とつ)・比叡辻(へいつじ)・和爾(わに)・堅田(かたた)の者共(ものども)は、小船七百(しちひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、澳(おき)に浮(うかめ)て明(あく)るを待(まつ)。山門の大衆(だいしゆ)は、二万(にまん)余人(よにん)、大略(たいりやく)徒立(かちだち)なりければ、如意越(によいごえ)を搦手(からめて)に廻(まは)り、時の声を揚(あ)げば同時に落(おと)し合(あはせ)んと、鳴(なり)を静めて待明(まちあか)す。去(さる)程(ほど)に坂本に大勢(おほぜい)の著(つき)たる形勢(ありさま)、船の往反(わうへん)に見へて震(おびたた)しかりければ、三井寺(みゐでら)の大将細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)が方より、京都へ使を馳(はせ)て、「東国の大勢坂本に著(つき)て、明日可寄由其聞(そのきこ)へ候。急(いそぎ)御勢(おんせい)を被添候へ。」と、三度(さんど)迄被申たりけれ共(ども)、「関東(くわんとう)より何(なに)勢(せい)が其(それ)程迄多(おほく)は上(のぼ)るべきぞ。勢(せい)は大略(たいりやく)宇都宮(うつのみや)紀清(きせい)の両党の者とこそ聞(きこ)ゆれ。其(その)勢(せい)縦(たとひ)誤(あやまつ)て坂本へ著(つき)たりとも、宇都宮(うつのみや)京に在(あり)と聞(きこ)へなば、頓(やが)て主の許(もと)へこそ馳来(はせきたら)んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺(みゐでら)へは勢の一騎をも不被添。夜既(すで)に明方(あけがた)に成(なり)しかば源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞三万(さんまん)余騎(よき)、脇屋(わきや)・堀口・額田(ぬかだ)・鳥山(とりやま)の勢一万五千(いちまんごせん)余騎(よき)、志賀(しが)・唐崎の浜路(はまぢ)に駒を進(すすめ)て押寄(おしよせ)て、後陣(ごぢん)遅(おそ)しとぞ待(まち)ける。前陣の勢先(まづ)大津(おほつ)の西の浦、松本の宿(しゆく)に火をかけて時の声を揚(あ)ぐ。三井寺(みゐでら)の勢共(せいども)、兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、南院(なんゐん)の坂口に下(お)り合(あつ)て、散々(さんざん)に射る。一番に千葉介(ちばのすけ)千(せん)余騎(よき)にて推(おし)寄せ、一二の木戸(きど)打破(うちやぶ)り、城の中へ切(きつ)て入り、三方(さんぱう)に敵を受(うけ)て、半時許(はんじばかり)闘(たたか)ふたり。細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)が横合(よこあひ)に懸(かか)りける四国の勢六千(ろくせん)余騎(よき)に被取篭て、千葉(ちばの)新介(しんすけ)矢庭(やには)に被打にければ、其(その)手(て)の兵(つはもの)百(ひやく)余騎(よき)に、当(たう)の敵を討(うた)んと懸入(かけいり)々々(かけいり)戦(たたかう)て、百五十騎(ひやくごじつき)被討にければ、後陣に譲(ゆづつ)て引退(ひきしりぞ)く。二番に顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)にて、入替(いれか)へ乱合(みだれあつ)て責(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)一軍(ひといくさ)して馬の足を休(やすむ)れば、三番に結城(ゆふき)上野入道・伊達(だて)・信夫(しのぶ)の者共(ものども)五千(ごせん)余騎(よき)入替(いれかはつ)て面(おもて)も不振責(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)被討て引退(ひきしりぞき)ければ、敵勝(かつ)に乗(のつ)て、六万(ろくまん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、浜面(はまおもて)へぞ打(うつ)て出(いで)たりける。新田左衛門(さゑもんの)督(かみ)是(これ)を見て、三万(さんまん)余騎(よき)を一手(ひとて)に合(あは)せて、利兵(りへい)堅(かたき)を破(やぶつ)て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家(ざいけ)まで焼(やく)る最中(さいちゆう)なれば通(とほ)り不得。東は湖海(こかい)なれば、水深(ふかう)して廻(まはら)んとするに便(たよ)りなし。僅(わづか)に半町にもたらぬ細道を只一順(じゆん)に前(すす)まんとすれば、和爾(わに)・堅田(かたた)の者共(ものども)が渚(なぎさ)に舟を漕並(こぎならべ)て射ける横矢(よこや)に被防て、懸引自在(かけひきじざい)にも無(なか)りけり。官軍(くわんぐん)是(これ)に力を得て、透間(すきま)もなく懸(かか)りける間、細川が六万(ろくまん)余騎(よき)の勢五百(ごひやく)余騎(よき)被打て、三井寺(みゐでら)へぞ引返(ひつかへ)しける。額田(ぬかだ)・堀口・江田・大館(おほたち)七百(しちひやく)余騎(よき)にて、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがふて、城の中へ入(いら)んとしける処を、三井寺(みゐでらの)衆徒五百(ごひやく)余人(よにん)関(きど)の口に下(お)り塞(ふさがつ)て、命を捨(すて)闘(たたかひ)ける間、寄手(よせて)の勢百(ひやく)余人(よにん)堀の際(きは)にて被討ければ、後陣(ごぢん)を待(まつ)て不進得。其(その)間に城中より木戸を下(おろ)して堀の橋を引(ひき)けり。義助是(これ)を見て、「無云甲斐者共(ものども)の作法(さほう)哉(かな)。僅(わづか)の木戸(きど)一(ひとつ)に被支て是(これ)程の小城(こしろ)を責(せめ)落さずと云(いふ)事(こと)やある。栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)はなきか。あの木戸取(とつ)て引破(やぶ)れ。畑(はた)・亘理(わたり)はなきか。切(きつ)て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是(これ)を聞(きい)て馬より飛(とん)で下(お)り、木戸を引破(やぶ)らんと走寄(はしりよつ)て見れば、屏(へい)の前に深さ二丈余(あま)りの堀をほりて、両方の岸屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦(はねはづ)して、橋桁許(はしげたばかり)ぞ立(たち)たりける。二人(ににん)の者共(ものども)如何(いかに)して可渡と左右をきつと見(みる)処に、傍(そば)なる塚の上(うへ)に、面(おもて)三丈許(ばかり)有(あつ)て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆(おほそとば)二本あり。爰(ここ)にこそ究竟(くきやう)の橋板(はしいた)は有(あり)けれ。率都婆(そとば)を立(たつ)るも、橋を渡すも、功徳(くどく)は同じ事なるべし。いざや是(これ)を取(とつ)て渡さんと云侭(いふまま)に、二人(ににん)の者共(ものども)走寄(はしりよつ)て、小脇(こわき)に挟(はさみ)てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入(ほりいれ)たる大木なれば、傍(あた)りの土一二尺(いちにしやく)が程くわつと崩(くづれ)て、率都婆(そとば)は無念抜(ぬけ)にけり。彼等(かれら)二人(ににん)、二本の率都婆(そとば)を軽々(かるかる)と打(うち)かたげ、堀のはたに突立(つきたて)て、先(まづ)自歎(じたん)をこそしたりけれ。「異国には烏獲(をうくわく)・樊■(はんくわい)、吾朝(わがてう)には和泉(いづみの)小次郎・浅井那(あさゐな)三郎、是(これ)皆世に双(なら)びなき大力(だいぢから)と聞ゆれども、我等が力に幾程(いくほど)かまさるべき。云(いふ)所傍若無人(ばうじやくぶじん)也(なり)と思(おもは)ん人は、寄合(よせあつ)て力根(ちからね)の程を御覧(ごらん)ぜよ。」と云侭(いふまま)に、二本の率都婆(そとば)を同じ様(やう)に、向(むかひ)の岸へぞ倒し懸(かけ)たりける。率都婆(そとば)の面(おもて)平(たひらか)にして、二本相並(あひならべ)たれば宛(あたか)四条(しでう)・五条の橋の如し。爰(ここ)に畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・亘理(わたり)新左衛門(しんざゑもん)二人(ににん)橋の爪(つめ)に有(あり)けるが、「御辺達(ごへんたち)は橋渡(わた)しの判官に成り給へ。我等(われら)は合戦をせん。」と戯(たはむ)れて、二人(ににん)共橋の上をさら/゛\と走(はしり)渡り、堀の上なる逆木(さかもぎ)共(ども)取(とつ)て引除(ひきのけ)、各(おのおの)木戸(きど)の脇にぞ著(つい)たりける。是(これ)を防ぎける兵共(つはものども)、三方(さんぱう)の土矢間(つちさま)より鑓(やり)・長刀を差出(さしいだ)して散々(さんざん)に突(つき)けるを、亘理新左衛門(しんざゑもん)、十六(じふろく)迄奪(うばう)てぞ捨(すて)たりける。畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)是(これ)を見て、「のけや亘理殿、其屏(そのへい)引破(やぶつ)て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭(いふまま)に、走懸(はしりかか)り、右の足を揚(あげ)て、木戸(きど)の関(くわん)の木の辺(へん)を、二蹈三蹈(ふたふみみふみ)ぞ蹈(ふん)だりける。余(あまり)に強く被蹈て、二筋(ふたすぢ)渡せる八九寸の貫(くわん)の木、中より折(をれ)て、木戸の扉も屏柱(へいはしら)も、同(おなじ)くどうど倒れければ、防がんとする兵五百(ごひやく)余人(よにん)、四方(しはう)に散(ちつ)て颯(さつ)とひく。一の木戸已(すで)に破(やぶれ)ければ、新田(につた)の三万(さんまん)余騎(よき)の勢、城の中へ懸入(かけいつ)て、先(まづ)合図(あひず)の火をぞ揚(あげ)たりける。是(これ)を見て山門の大衆(だいしゆ)二万(にまん)余人(よにん)、如意越(によいごえ)より落合(おちあつ)て、則(すなはち)院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)へ乱(みだれ)入り、堂舎・仏閣に火を懸(かけ)て呼(をめ)き叫(さけん)でぞ責(せめ)たりける。猛火(みやうくわ)東西より吹懸(ふきかけ)て、敵南北に充満(みちみち)たれば、今は叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、三井寺(みゐでら)の衆徒共(しゆとども)、或(あるひ)は金堂(こんだう)に走入(はしりいつ)て猛火(みやうくわ)の中に腹を切(きつ)て臥(ふし)、或(あるひ)は聖教(しやうげう)を抱(いだい)て幽谷(いうこく)に倒れ転(まろ)ぶ。多年止住(しぢゆう)の案内者(あんないしや)だにも、時に取(とつ)ては行方(ゆきかた)を失ふ。況乎(いはんや)四国・西国の兵共(つはものども)、方角もしらぬ烟(けぶり)の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼(ここかし)この木の下岩(いは)の陰(かげ)に疲れて、自害をするより外(ほか)の事は無(なか)りけり。されば半日許(ばかり)の合戦に、大津・松本・三井寺(みゐでらの)内に被討たる敵を数(かぞふ)るに七千三百(しちせんさんびやく)余人(よにん)也(なり)。抑(そもそも)金堂(こんだう)の本尊(ほんぞん)は、生身(しやうしん)の弥勒(みろく)にて渡(わたら)せ給へば、角(かく)ては如何(いかが)とて或(ある)衆徒御首許(みくしばかり)を取(とつ)て、薮(やぶ)の中に隠(かく)し置(おき)たりけるが、多(おほく)被討たる兵(つはもの)の首共(くびども)の中に交(まじは)りて、切目(きりめ)に血の付(つき)たりけるを見て、山法師(やまほふし)や仕(し)たりけん、大札(おほふだ)を立(たて)て、一首(いつしゆ)の歌に事書(ことがき)を書副(かきそへ)たりける。「建武二年の春(はる)の比(ころ)、何(なん)とやらん、事の騒(さわが)しき様に聞へ侍りしかば、早(はや)三会(さんゑ)の暁(あかつき)に成(なり)ぬるやらん。いでさらば八相成道(はつしやうじやうだう)して、説法利生(せつほふりしやう)せんと思ひて、金堂(こんだう)の方(かた)へ立出(たちいで)たれば、業火(ごふくわ)盛(さかん)に燃(もえ)て修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)四方(しはう)に聞ゆ。こは何事(なにこと)かと思ひ分(わ)く方も無(なく)て居たるに、仏地坊(ぶつちばう)の某(それがし)とやらん、堂内(だうのうち)に走(はしり)入り、所以(ゆゑ)もなく、鋸(のこぎり)を以て我が首(くび)を切(きり)し間、阿逸多(あいつた)といへ共(ども)不叶、堪兼(たへかね)たりし悲みの中(うち)に思ひつゞけて侍(はんべ)りし。山を我(わが)敵(てき)とはいかで思ひけん寺法師(てらほふし)にぞ頚(くび)を切(きら)るゝ。」前々(せんぜん)炎上の時は、寺門の衆徒是(これ)を一大事(いちだいじ)にして隠しける九乳(きうにゆう)の鳧鐘(ふしよう)も取(とる)人なければ、空(むなし)く焼(やけ)て地に落(おち)たり。此鐘(このかね)と申(まうす)は、昔竜宮城(りゆうぐうじやう)より伝りたる鐘也(なり)。其(その)故は承平(しようへい)の比(ころ)俵藤太秀郷(たはらとうだひでさと)と云(いふ)者有(あり)けり。或(ある)時此秀郷(このひでさと)只一人勢多(せた)の橋を渡(わたり)けるに、長(たけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)なる大蛇(だいじや)、橋の上に横(よこたはつ)て伏(ふし)たり。両の眼(まなこ)は耀(かかやい)て、天に二(ふたつ)の日を卦(かけ)たるが如(ごとし)、双(なら)べる角(つの)尖(するど)にして、冬枯(ふゆかれ)の森の梢に不異。鉄(くろがね)の牙(きば)上下に生(おひ)ちがふて、紅(くれなゐ)の舌炎(ほのほ)を吐(はく)かと怪(あやし)まる。若(もし)尋常(よのつね)の人是(これ)を見ば、目もくれ魂(たましひ)消(きえ)て則(すなはち)地にも倒(たふれ)つべし。されども秀郷天下第一(だいいち)の大剛(だいかう)の者也(なり)ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇(かのだいじや)の背(せなか)の上を荒(あらら)かに蹈(ふん)で閑(しづか)に上をぞ越(こえ)たりける。然(しか)れ共(ども)大蛇も敢(あへ)て不驚、秀郷も後(うし)ろを不顧して遥(はるか)に行隔(ゆきへだ)たりける処に、怪(あやし)げなる小男(こをとこ)一人忽然(こつぜん)として秀郷が前に来(きたつ)て云(いひ)けるは、「我(われ)此(この)橋の下に住(すむ)事(こと)已(すで)に二千(にせん)余年(よねん)也(なり)。貴賎往来(きせんわうらい)の人を量(はか)り見るに、今御辺(ごへん)程(ほど)に剛(かう)なる人を未(いまだ)見ず。我(われ)に年来(としごろ)地を争ふ敵有(あつ)て、動(ややもすれ)ば彼(かれ)が為に被悩。可然は御辺(ごへん)我(わが)敵を討(うつ)てたび候へ。」と、懇(ねんごろ)にこそ語(かたら)ひけれ。秀郷一義(いちぎ)も不謂、「子細有(ある)まじ。」と領状(りやうじやう)して、則(すなはち)此(この)男を前(さき)に立てゝ又勢多(せた)の方(かた)へぞ帰(かへり)ける。二人(ににん)共(とも)に湖水(こすゐ)の波を分(わけ)て、水中に入(いる)事(こと)五十(ごじふ)余町(よちやう)有(あつ)て一(ひとつ)の楼門(ろうもん)あり。開(ひらい)て内へ入るに、瑠璃(るり)の沙(いさご)厚く玉の甃(いしだたみ)暖(あたたか)にして、落花自(おのづから)繽紛(ひんふん)たり。朱楼紫殿玉欄干(たまのらんかん)、金(こがね)を鐺(こじり)にし銀(しろかね)を柱とせり。其(その)壮観奇麗、未曾(いまだかつ)て目にも不見耳にも聞(きか)ざりし所也(なり)。此(この)怪しげなりつる男、先(まづ)内へ入(いつ)て、須臾(しゆゆ)の間に衣冠(いくわん)を正(ただ)しくして、秀郷を客位(きやくゐ)に請(しやう)ず。左右侍衛官(しゑのくわん)前後花の装(よそほひ)善(ぜん)尽(つく)し美(び)尽(つく)せり。酒宴数刻(すごく)に及(およん)で夜既(すで)に深(ふけ)ければ、敵の可寄程(ほど)に成(なり)ぬと周章(あわて)騒ぐ。秀郷は一生涯が間身を放(はな)たで持(もち)たりける五人(ごにん)張(ばり)にせき弦(つる)懸(かけ)て噛(く)ひ湿(しめ)し、三年竹(さんねんだけ)の節近(ふしぢか)なるを十五束(じふごそく)二伏(ふたつぶせ)に拵(こしら)へて、鏃(やじり)の中子(なかご)を筈本(はずもと)迄打(うち)どほしにしたる矢、只三筋(さんすぢ)を手挟(たばさみ)て、今や/\とぞ待(まち)たりける。夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に雨風一通(ひととほ)り過(すぎ)て、電火の激(げき)する事隙(ひま)なし。暫有(しばらくあつ)て比良(ひら)の高峯(たかね)の方より、焼松(たいまつ)二三千(にさんぜん)がほど二行に燃(もえ)て、中に嶋の如(ごとく)なる物、此龍宮城(このりゆうぐうじやう)を指(さし)てぞ近付(ちかづき)ける。事の体(てい)を能々(よくよく)見(みる)に、二行にとぼせる焼松(たいまつ)は皆己(おのれ)が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是(これ)は百足蜈蚣(むかで)の化(ばけ)たるよと心得て、矢比(ころ)近く成(なり)ければ、件(くだん)の五人(ごにん)張(ばり)に十五束(じふごそく)三伏(みつぶせ)忘るゝ許(ばかり)引(ひき)しぼりて、眉間(みけん)の真中(まんなか)をぞ射たりける。其手答(そのてごたへ)鉄(くろがね)を射る様(やう)に聞へて、筈(はず)を返してぞ不立ける。秀郷一(いち)の矢を射損(そんじ)て、不安思ひければ、二の矢を番(つがう)て、一分も不違態(わざと)前の矢所(やつぼ)をぞ射たりける。此(この)矢も又前の如くに躍(をど)り返(かへり)て、是(これ)も身に不立けり。秀郷二(ふた)つの矢をば皆射損(そん)じつ、憑(たのむ)所は矢一筋(ひとすぢ)也(なり)。如何せんと思(おもひ)けるが、屹(きつ)と案じ出(いだ)したる事有(あつ)て、此度(このたび)射んとしける矢さきに、唾(つばき)を吐懸(はきかけ)て、又同矢所(おなじやつぼ)をぞ射たりける。此(この)矢に毒を塗(ぬり)たる故(ゆゑ)にや依(より)けん、又同(おなじ)矢坪(つぼ)を三度(さんど)迄射たる故(ゆゑ)にや依(より)けん、此(この)矢眉間(みけん)のたゞ中を徹(とほ)りて喉(のんど)の下迄羽(は)ぶくら責(せめ)てぞ立(たち)たりける。二三千(にさんぜん)見へつる焼松(たいまつ)も、光忽(たちまち)に消(きえ)て、島の如(ごとく)に有(あり)つる物、倒るゝ音(おと)大地を響(ひび)かせり。立寄(より)て是(これ)を見るに、果して百足の蜈蚣(むかで)也(なり)。竜神(りゆうじん)は是(これ)を悦(よろこび)て、秀郷(ひでさと)を様々(さまざま)にもてなしけるに、太刀一振(ひとふり)・巻絹(まきぎぬ)一(ひとつ)・鎧一領(いちりやう)・頚結(ゆう)たる俵(たはら)一(ひとつ)・赤銅(しやくどう)の撞鐘(つきがね)一口(いつく)を与(あたへ)て、「御辺(ごへん)の門葉(もんえふ)に、必(かならず)将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。秀郷(ひでさと)都に帰(かへつ)て後此(この)絹を切(きつ)てつかふに、更に尽(つくる)事(こと)なし。俵は中なる納物(いれもの)を、取(とれ)ども/\尽(つき)ざりける間、財宝倉(くら)に満(みち)て衣裳(いしやう)身に余れり。故(ゆゑ)に其(その)名を俵藤太(たはらとうだ)とは云(いひ)ける也(なり)。是(これ)は産業(さんげふ)の財(たか)らなればとて是(これ)を倉廩(さうりん)に収む。鐘は梵砌(ぼんぜい)の物なればとて三井寺(みゐでら)へ是(これ)をたてまつる。文保(ぶんほう)二年三井寺(みゐでら)炎上の時、此(この)鐘を山門へ取寄(とりよせ)て、朝夕是(これ)を撞(つき)けるに、敢(あへ)てすこしも鳴(なら)ざりける間、山法師(やまほふし)共(ども)、「悪(にく)し、其義(そのぎ)ならば鳴様(なるやう)に撞(つけ)。」とて、鐘木(しもく)を大きに拵(こしら)へて、二三十人(にさんじふにん)立懸(たちかか)りて、破(われ)よとぞ撞(つき)たりける。其(その)時此(この)鐘海鯨(くぢら)の吼(ほゆ)る声を出(いだ)して、「三井寺(みゐでら)へゆかふ。」とぞ鳴(ない)たりける。山徒(さんと)弥(いよいよ)是(これ)を悪(にく)みて、無動寺(むどうじ)の上よりして数千丈(すせんぢやう)高き岩の上をころばかしたりける間、此(この)鐘微塵(みぢん)に砕(くだけ)にけり。今は何の用にか可立とて、其(その)われを取集(とりあつめ)て本寺へぞ送りける。或時(あるとき)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小蛇(こへび)来(きたつ)て、此(この)鐘を尾を以[て]扣(たた)きたりけるが、一夜(いちや)の内に又本(もと)の鐘に成(なつ)て、疵(きず)つける所一(ひとつ)も無(なか)りけり。されば今に至るまで、三井寺(みゐでら)に有(あつ)て此(この)鐘の声を聞(きく)人、無明長夜(むみやうぢやうや)の夢を驚かして慈尊(じそん)出世の暁(あかつき)を待(まつ)。末代(まつだい)の不思議(ふしぎ)、奇特(きどく)の事共(ことども)也(なり)。
○建武二年正月十六日合戦(かつせんの)事(こと) S1504
三井寺(みゐでら)の敵無事故責落(せめおとし)たりければ、長途(ちやうど)に疲(つかれ)たる人馬、一両日(いちりやうにち)機(き)を扶(たすけ)てこそ又合戦をも致さめとて、顕家(あきいへの)卿(きやう)坂本(さかもと)へ被引返ければ、其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)は、彼趣(かのおもむき)に相順ふ。新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、同(おなじく)坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田(ふなた)長門(ながとの)守(かみ)経政(つねまさ)、馬を叩(ひかへ)て申(まうし)けるは、「軍(いくさ)の利(り)、勝(かつ)に乗る時、北(にぐ)るを追(おふ)より外(ほか)の質(てだて)は非じと存(ぞんじ)候。此(この)合戦に被打漏て、馬を棄(すて)物具(もののぐ)を脱(ぬい)で、命許(ばかり)を助からんと落行(おちゆき)候敵を追懸(おつかけ)て、京中(きやうぢゆう)へ押寄(おしよす)る程ならば、臆病神(おくびやうがみ)の付(つき)たる大勢に被引立、自余(じよ)の敵も定(さだめ)て機(き)を失はん歟(か)。さる程ならば、官軍(くわんぐん)敵の中へ紛れ入(いり)て、勢の分際(ぶんざい)を敵に不見せしとて、此(ここ)に火をかけ、彼(かしこ)に時を作り、縦横無碍(じゆうわうむげ)に懸立(かけたつ)る者ならば、などか足利殿(あしかがどの)御兄弟(ごきやうだい)の間に近付奉(ちかづきたてまつ)て、勝負(しようぶ)を仕らでは候べき。落候(おちさふらひ)つる敵、よも幾程(いくほど)も阻(へだた)り候はじ。何様一追(ひとおひ)々懸(おつかけ)て見候はゞや。」と申(まうし)ければ、義貞、「我(われ)も此(この)義を思ひつる処に、いしくも申(まうし)たり。さらば頓(やが)て追懸(おつかけ)よ。」とて、又旗の手を下(おろ)して馬を進め給へば、新田の一族(いちぞく)五千(ごせん)余人(よにん)、其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、走る馬に鞭(むち)を進めて、落行(おちゆく)敵をぞ追懸(おつかけ)たる。敵今は遥(はるか)に阻(へだ)たりぬらんと覚(おぼゆ)る程なれば、逃(にぐ)るは大勢にて遅く、追(おふ)は小勢(こぜい)にて早かりければ、山階辺(やましなへん)にて漸(やうやく)敵にぞ追付(おひつき)ける。由良(ゆら)・長浜・吉江(よしえ)・高橋、真前(まつさき)に進(すすん)で追(おひ)けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返(かへ)し合(あひ)つべき所迄はさまで不追、遠矢(とほや)射懸(いかけ)々々(いかけ)、時を作る許(ばかり)にて、静(しづ)々と是(これ)を追ひ、道迫(せま)りて、而も敵の行前(ゆくさき)難所(なんじよ)なる山路(やまぢ)にては、かさより落し懸(かけ)て、透間(すきま)もなく射落し切(きり)臥せける間、敵一度(いちど)も返し不得、只我先(われさき)にとぞ落行(おちゆき)ける。されば手を負(おう)たる者は其侭(そのまま)馬人に被蹈殺、馬離(はなれ)たる者は引(ひき)かねて無力腹を切(きり)けり。其(その)死骸谷をうめ溝を埋(うづ)みければ、追手(おふて)の為には道平(たひらか)に成(なつ)て、弥(いよいよ)輪宝(りんはう)の山谷(さんこく)を平らぐるに不異、将軍三井寺(みゐでら)に軍(いくさ)始(はじまり)たりと聞へて後、黒烟(くろけむり)天に覆(おほう)を見へければ、「御方(みかた)如何様(いかさま)負軍(まけいくさ)したりと覚(おぼゆ)るぞ。急ぎ勢を遣(つかは)せ。」とて、三条河原(さんでうがはら)に打出(うちいで)、先(まづ)勢揃(せいぞろへ)をぞし給ひける。斯(かかる)処に粟田口(あはたぐち)より馬烟(むまけむり)を立(たて)て、其(その)勢(せい)四五万騎(しごまんぎ)が程引(ひい)て出来(いでき)たり。誰やらんと見給へば、三井寺(みゐでら)へ向(むかひ)し四国・西国の勢共(せいども)也(なり)。誠(まこと)に皆軍(いくさ)手痛(ていた)くしたりと見へて、薄手(うすで)少々(せうせう)負(お)はぬ者もなく、鎧の袖冑(かぶと)の吹返(ふきかへし)に、矢三筋(さんすぢ)四筋折懸(をりかけ)ぬ人も無(なか)りけり。さる程(ほど)に新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、二万三千(にまんさんぜん)余騎(よき)を三手に分(わけ)て、一手(ひとて)をば将軍塚(しやうぐんづか)の上へ挙(あげ)、一手(ひとて)をば真如堂(しんによだう)の前より出し、一手(ひとて)をば法勝寺(ほつしようじ)を後(うしろ)に当(あて)て、二条河原(にでうがはら)へ出(いだ)して、則(すなはち)相図(あひづ)の烟(けむり)をぞ被挙ける。自(みづか)らは花頂山(くわちやうざん)に打上(うちあがつ)て、敵の陣を見渡し給へば、上(かみ)は河合(ただすの)森より、下(しも)は七条河原(しちでうがはら)まで、馬の三頭(さんづ)に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重(かさね)て、東西南北四十(しじふ)余町(よちやう)が間、錐(きり)を立(たつ)る許(ばかり)の地も不見、身を峙(そばだて)て打囲(うちかこみ)たり。義貞朝臣弓杖(ゆんづゑ)にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方(みかた)を合(あはす)れば、大海の一滴(いつてき)、九牛が一毛(いちまう)也(なり)。只尋常(よのつね)の如くに軍(いくさ)をせば、勝(かつ)事(こと)を得難し。相互(あひたがひ)に面(おもて)をしり被知たらんずる侍共(さぶらひども)、五十騎づゝ手を分(わけ)て、笠符(かさじるし)を取捨(とりすて)、幡(はた)を巻(まい)て、敵の中に紛(まぎ)れ入り、此彼(ここかしこ)に叩々(ひかへひかへ)、暫(しばらく)可相待。将軍塚(しやうぐんづか)へ上(のぼ)せつる勢、既(すで)に軍(いくさ)を始むと見ば、此(この)陣より兵(つはもの)を進めて可令闘。其(その)時に至(いたつ)て、御辺達(ごへんたち)敵の前後左右に旗を差挙(さしあげ)て、馬の足を不静め、前に在(ある)歟(か)とせば後(うしろ)へぬけ、左に在(ある)かとせば右へ廻(まはつ)て、七縦(しちじゆう)八横(はちわう)に乱(みだれ)て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還(かへつ)て御方(みかた)の勢に見へて、同士打(どしうち)をする歟(か)、引(ひい)て退(しりぞ)く歟(か)、尊氏此(この)二(ふた)つの中を不可出。」韓信が謀(はかりこと)を被出しかば、諸大将(しよだいしやう)の中より、逞兵(ていへい)五十騎づゝ勝(すぐ)り出して、二千(にせん)余騎(よき)各(おのおの)一様(いちやう)に、中黒(なかぐろ)の旗を巻(まい)て、文(もん)を隠し、笠符(かさじるし)を取(とつ)て袖の下に収(をさ)め、三井寺(みゐでら)より引(ひき)をくれたる勢の真似をして、京勢(きやうぜい)の中へぞ馳加(はせくはは)りける。敵斯(かか)る謀(はかりこと)ありとは、将軍不思寄給、宗(むね)との侍共(さぶらひども)に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場(ひらば)の懸(かけ)をこそ好(このむ)と聞しに、山を後(うし)ろに当てゝ、頓(やが)ても懸出(かけいで)ぬは、如何様(いかさま)小勢の程を敵に見せじと思へる者也(なり)。将軍塚(しやうぐんづか)の上に取(とり)あがりたる敵を置(おい)てはいつまでか可守挙。師泰(もろやす)彼(かしこ)に馳向(はせむかつ)て追散(おひちら)せ。」と宣(のたまひ)ければ、越後(ゑちごの)守(かみ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」と申(まうし)て、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の勢二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して、双林寺(さうりんじ)と中霊山(なかりやうぜん)とより、二手(ふたて)に成(なつ)てぞ挙(あがつ)たりける。此(ここ)には脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)・堀口美濃(みのの)守(かみ)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)・結城(ゆふき)上野入道以下(いげ)三千(さんぜん)余騎(よき)にて向(むかひ)たりけるが、其(その)中より逸物(いちもつ)の射手(いて)六百(ろつぴやく)余人(よにん)を勝(すぐつ)て、馬より下(おろ)し、小松の陰(かげ)を木楯(こだて)に取(とつ)て、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)にぞ射させたりける。嶮(けはし)き山を挙(あがり)かねたりける武蔵・相摸の勢共(せいども)、物具(もののぐ)を被徹て矢場(やには)に伏(ふし)、馬を被射てはね落されける間、少(すこし)猶予(ゆよ)して見へける処を、「得たり賢(かしこ)し。」と、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)抜連(ぬきつれ)て、大山の崩(くづる)るが如く、真倒(まつさかさま)に落し懸(かけ)たりける間、師泰(もろやす)が兵二万(にまん)余騎(よき)、一足(ひとあし)をもためず、五条河原(かはら)へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞく)。此(ここ)にて、杉本(すぎもとの)判官(はうぐわん)・曾我(そがの)二郎左衛門(じらうざゑもん)も被討にけり。官軍(くわんぐん)態(わざと)長追(ながおひ)をばせで、猶(なほ)東山(ひがしやま)を後(うしろ)に当(あて)て勢の程をぞ見せざりける。搦手(からめて)より軍(いくさ)始まりければ、大手(おほて)音(こゑ)を受(うけ)て時を作る。官軍(くわんぐん)の二万(にまん)余騎(よき)と将軍の八十万騎(はちじふまんぎ)と、入替入替(いれかへいれかへ)天地を響(ひびか)して戦(たたかひ)たる。漢楚(かんそ)八箇年(はちかねん)の戦(たたかひ)を一時に集め、呉越(ごゑつ)三十度の軍(いくさ)を百倍(ひやくばい)になす共(とも)、猶(なほ)是(これ)には不可過。寄手(よせて)は小勢(こぜい)なれども皆心を一(ひとつ)にして、懸(かかる)時は一度(いちど)に颯(さつ)と懸(かかつ)て敵を追(おひ)まくり、引(ひく)時は手負(ておひ)を中に立(たて)て静(しづか)に引く。京勢(きやうぜい)は大勢なりけれ共(ども)人の心不調して、懸(かかる)時も不揃、引(ひく)時も助けず、思々(おもひおもひ)心々に闘(たたかひ)ける間、午(うま)の剋(こく)より酉(とり)の終(をはり)まで六十(ろくじふ)余度(よど)の懸合(かけあひ)に、寄手(よせて)の官軍(くわんぐん)度毎(たびごと)に勝(かつ)に不乗と云(いふ)事(こと)なし。されども将軍方(しやうぐんがた)大勢(おほぜい)なれば、被討共(ども)勢(せい)もすかず、逃(にぐ)れども遠引(とほびき)せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交(まじは)りたる一揆(いつき)の勢共(せいども)、将軍の前後左右に中黒(なかぐろ)の旗を差揚(さしあげ)て、乱合(みだれあつ)てぞ戦(たたかひ)ける。何(いづ)れを敵何(いづれ)を御方共(みかたとも)弁(わきま)へ難(がた)ければ、東西南北呼叫(をめきさけん)で、只同士打(どしうち)をするより外(ほか)の事ぞ無(なか)りける。将軍を始(はじめ)奉りて、吉良(きら)・石堂(いしだう)・高(かう)・上杉の人々是(これ)を見て、御方(みかた)の者共(ものども)が敵と作合(なりあひ)て後矢(うしろや)を射(いる)よと被思ければ、心を置合(おきあひ)て、高・上杉の人々は、山崎を指(さ)して引退(ひきしりぞ)き、将軍・吉良・石堂・仁木(につき)・細川の人々は、丹波路(たんばぢ)へ向(むかつ)て落(おち)給ふ。官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗(のつ)て短兵(たんへい)急に拉(とりひしぐ)。将軍今は遁(のがる)る所なしと思食(おぼしめし)けるにや、梅津(むめづ)、桂河辺(かつらがはへん)にては、鎧の草摺(くさずり)畳(たた)み揚(あげ)て腰の刀を抜(ぬか)んとし給ふ事(こと)、三箇度(さんがど)に及(および)けり。されども将軍の御運(ごうん)や強かりけん、日既(すで)に暮(くれ)けるを見て、追手(おひて)桂河より引返(ひきかへし)ければ、将軍も且(しばら)く松尾(まつのを)・葉室(はむろ)の間に引(ひか)へて、梅酸(ばいさん)の渇(かつ)をぞ休(やす)められける。爰(ここ)に細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、四国の勢共(せいども)に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「軍(いくさ)の勝負(しようぶ)は時の運(うん)に依(よる)事(こと)なれば、強(あながち)に恥ならねども、今日の負(まけ)は三井寺(みゐでら)の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾(かきん)、人の嘲(あざけり)を不遁。されば態(わざと)他の勢を不交して、花やかなる軍(いくさ)一軍(ひといくさ)して、天下の人口を塞(ふさ)がばやと思(おもふ)也(なり)。推量するに、新田が勢(せい)は、終日(ひねもす)の合戦に草伏(くたびれ)て、敵に当り変に応ずる事自在(じざい)なるまじ。其外(そのほか)の敵共(てきども)は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其(その)上(うへ)赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)僅(わづか)の勢にて下松(さがりまつ)に引(ひか)へて有(あり)つるを、無代(むたい)に討(うた)せたらんも可口惜。いざや殿原(とのばら)、蓮台野(れんだいの)より北白河へ打廻(うちまはつ)て、赤松が勢と成合(なりあひ)、新田が勢を一あて/\て見ん。」と宣(のたま)へば、藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者共(ものども)、「子細候まじ。」とぞ同(どう)じける。定禅(ぢやうぜん)不斜(なのめならず)喜(よろこん)で、態(わざと)将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百(さんびやく)余騎(よき)を勝(すぐつ)て、北野の後(うし)ろより上賀茂(かみかも)を経て、潛(ひそか)に北白河へぞ廻(まは)りける。糾(ただす)の前にて三百(さんびやく)余騎(よき)の勢十方に分(わけ)て、下松(さがりまつ)・薮里(やぶさと)・静原(しづはら)・松崎(まつがさき)・中(なか)賀茂、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)に火をかけて、此(ここ)をば打捨(うちすて)て、一条・二条(にでう)の間にて、三所に鬨(ときのこゑ)をぞ挙(あげ)たりける。げにも定禅(ぢやうぜん)律師(りつし)推量の如く、敵京白河に分散(ぶんさん)して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦(いつせん)に利(り)を失(うしなう)て、坂本を指(さ)して引返しけり。所々(しよしよ)に打散(うちちり)たる兵共(つはものども)、俄に周章(あわて)て引(ひき)ける間、北白河・粟田口(あはたぐち)の辺(へん)にて、舟田入道・大館(おほたち)左近(さこんの)蔵人・由良(ゆら)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・高田七郎左衛門(しちらうざゑもん)以下(いげ)宗(むね)との官軍(くわんぐん)数百騎(すひやくき)被討けり。卿律師(きやうりつし)、頓(やが)て早馬を立(たて)て、此(この)由を将軍へ被申たりければ、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)両道へ落行(おちゆき)ける兵共(つはものども)、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅(わづか)に二万騎(にまんぎの)勢(せい)を以て将軍の八十万騎(はちじふまんぎ)を懸散(かけちら)し、定禅(ぢやうぜん)律師(りつし)は、亦(また)三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を以て、官軍(くわんぐん)の二万(にまん)余騎(よき)を追落(おひおと)す。彼(かれ)は項王(かうわう)が勇(いさみ)を心とし、是(これ)は張良が謀(はかりこと)を宗(むね)とす。智謀勇力いづれも取々(とりどり)なりし人傑(じんけつ)也(なり)。
○正月二十七日(にじふしちにち)合戦(かつせんの)事(こと) S1505
斯(かか)る処に去年十二月に、一宮(いちのみや)関東(くわんとう)へ御下(おんくだり)有(あり)し時、搦手(からめて)にて東山(とうせん)道より鎌倉(かまくら)へ御下(おんくだり)有(あり)し大智院(だいちゐんの)宮(みや)・弾正尹(だんじやうのゐんの)宮(みや)、竹下(たけのした)・箱根(はこね)の合戦には、相図(あひづ)相違して逢(あは)せ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野(かうづけ)・下野(しもつけの)勢共(せいども)馳参(はせまゐり)しかば、御勢(おんせい)雲霞(うんか)の如(ごとく)に成(なつ)て、鎌倉(かまくら)へ入(いら)せ給ふ。此(ここ)にて事の様(やう)を問へば、「新田、竹下(たけのした)・箱根(はこね)の合戦に打負(うちまけ)て引返(ひつかへ)す。尊氏朝臣北(にぐる)を追(おう)て被上洛(しやうらく)ぬ。其(その)後奥州国司(あうしうのこくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)、又尊氏朝臣の跡(あと)を追(おう)て、被責上候(さふらひ)ぬ。」とぞ申(まうし)ける。「さらば何様道にても新田蹈留(ふみとどま)らば合戦有(あり)ぬべし。鎌倉(かまくら)に可逗留(とうりう)様なし。」とて、公家(くげ)には洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・持明院右衛門(うゑもんの)督(かみ)入道・信濃(しなのの)国司(こくし)堀河(ほりかはの)中納言・園(そのの)中将(ちゆうじやう)基隆(もとたか)・二条(にでう)少将為次、武士には、嶋津上野入道・同筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)・大伴・猿子(ましこ)の一党・落合(おちあひ)の一族(いちぞく)・相場(あひば)・石谷(いしがえ)・纐纈(かうけつ)・伊木(いき)・津子(つし)・中村・々上(むらかみ)・源氏・仁科(にしな)・高梨・志賀・真壁(まかべ)、是等(これら)を宗(むね)との者として都合(つがふ)其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)、正月二十日の晩景(ばんげい)に東坂本(ひがしさかもと)にぞ著(つき)にける。官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)勢(いきほ)ひを得て翌日(よくじつ)にも頓(やが)て京都へ寄(よせ)んと議(ぎ)しけるが、打続(つづ)き悪日(あくにち)也(なり)ける上、余(あまり)に強く乗(のつ)たる馬共なれば、皆竦(すくみ)て更(さらに)はたらき得ざりける間、兎(と)に角(かく)に延引(えんいん)して、今度の合戦は、二十七日(にじふしちにち)にぞ被定ける。既(すでに)其(その)日(ひ)に成(なり)ぬれば、人馬を休(やすめ)ん為に、宵より楠木・結城(ゆふき)・伯耆(はうき)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて、西坂を下々(おりさがつ)て、下松(さがりまつ)に陣を取る。顕家(あきいへの)卿(きやう)は三万(さんまん)余騎(よき)にて、大津を経て山科(やましな)に陣を取る。洞院左衛門(さゑもんの)督(かみ)二万(にまん)余騎(よき)にて赤山(せきさん)に陣を取(とる)。山徒(さんと)は一万(いちまん)余騎(よき)にて竜花越(りゆうげごえ)を廻(まはつ)て鹿谷(ししのたに)に陣を取(とる)。新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)兄弟は二万(にまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、今道(いまみち)より向(むかつ)て、北白河に陣を取る。大手・搦手(からめて)都合(つがふ)十万(じふまん)三千(さんぜん)余騎(よき)、皆宵(よひ)より陣を取寄(とりよせ)たれども、敵に知(しら)せじと態(わざと)篝火(かがりび)をば焼(たか)ざりけり。合戦は明日辰刻(たつのこく)と被定けるを、機早(きばや)なる若大衆共(わかだいしゆども)、武士に先(せん)をせられじとや思(おもひ)けん、まだ卯刻(うのこく)の始(はじめ)に神楽岡(かぐらをか)へぞ寄(よせ)たりける。此(この)岡には宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)両党城郭を構(かまへ)てぞ居たりける。去(され)ば無左右寄著(よりつき)て人の可責様も無(なか)りけるを、助註記(じよちゆうき)祐覚(いうかく)が同宿共(どうじゆくども)三百(さんびやく)余人(よにん)、一番に木戸口(きどぐち)に著(つい)て屏(へい)を阻(へだて)て闘(たたかひ)けるが、高櫓(たかやぐら)より大石数(あま)た被投懸て引退(ひきしりぞく)処に、南岸(なんがんの)円宗院(ゑんじゆうゐん)が同宿共五百(ごひやく)余人(よにん)、入替(いれかはつ)てぞ責(せめ)たりける。是(これ)も城中に名誉の精兵共(せいびやうども)多かりければ、走廻(はしりまはつ)て射けるに、多く物具(もののぐ)を被徹て叶(かな)はじとや思ひけん、皆持楯(もつだて)の陰(かげ)に隠れて、「悪手(あらて)替(かは)れ。」とぞ招きける。爰(ここ)に妙観院(めうくわんゐん)の因幡竪者(いなばのりつしや)全村(ぜんそん)とて、三塔(さんたふ)名誉の悪僧あり。鎖(くさり)の上に大荒目(おほあらめ)の鎧を重(かさね)て、備前長刀(なぎなた)のしのぎさがりに菖蒲形(しやうぶかたち)なるを脇に挟(さしはさ)み、箆(の)の太(ふと)さは尋常(よのつね)の人の蟇目(ひきめ)がらにする程なる三年竹を、もぎつけに押削(おしけづり)て、長船打(をさふねうち)の鏃(やじり)の五分鑿(ごぶのみ)程なるを、筈本(はずもと)迄中子(なかご)を打徹(うちとほし)にしてねぢすげ、沓巻(くつまき)の上を琴(こと)の糸を以てねた巻(まき)に巻(まい)て、三十六(さんじふろく)差(さし)たるを、森の如(ごとく)に負(おひ)成し、態(わざと)弓をば不持、是(これ)は手衝(てつき)にせんが為なりけり。切岸(きりきし)の面(おもて)に二王立(たち)に立(たつ)て名乗(なのり)けるは、「先年三井寺(みゐでら)の合戦の張本(ちやうぼん)に被召て、越後国(ゑちごのくに)へ被流たりし妙観院(めうくわんゐんの)高因幡全村(あらいなばぜんそん)と云(いふ)は我(わが)事(こと)也(なり)。城中の人々此(この)矢一つ進(まゐら)せ候はん。被遊て御覧(ごらん)候へ。」と云侭(いふまま)に、上差(うはざし)一筋(ひとすぢ)抽出(ぬきいで)て、櫓(やぐら)の小間(さま)を手突(てづき)にぞ突(つい)たりける。此(この)矢不誤、矢間(さま)の陰(かげ)に立(たち)たりける鎧武者(よろひむしや)のせんだんの板より、後(うしろ)の角総著(あげまきつけ)の金物(かなもの)迄、裏表二重(うらおもてふたへ)を徹(とほつ)て、矢前(やさき)二寸(にすん)許(ばかり)出(いで)たりける間、其(その)兵櫓(やぐら)より落(おち)て、二言も不云死にけり。是(これ)を見ける敵共(てきども)、「あなをびたゝし、凡夫(ぼんぶ)の態(わざ)に非(あら)ず。」と懼(おぢ)て色めきける処へ、禅智房護聖院(ごしやうゐん)の若者共(わかものども)、千(せん)余人(よにん)抜連(ぬきつれ)て責入(せめいり)ける間、宇都宮(うつのみや)神楽岡(かぐらをか)を落(おち)て二条(にでう)の手に馳加(はせくはは)る。是(これ)よりしてぞ、全村を手突因幡(てつきのいなば)とは名付(なづけ)ける。山法師(やまほふし)鹿谷(ししのたに)より寄(よせ)て神楽岡の城を責(せむ)る由(よし)、両党の中より申(まうし)ければ、将軍頓(やが)て後攻(ごづめ)をせよとて、今河・細川の一族(いちぞく)に、三万(さんまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て被遣けるが、城は早(はや)被責落、敵入替(いれかはり)ければ、後攻(ごづめ)の勢も徒(いたづら)に京中(きやうぢゆう)へぞ帰(かへり)ける。去(さる)程(ほど)に、楠判官・結城(ゆふき)入道・伯耆(はうきの)守(かみ)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて糾(ただす)の前より押寄(おしよせ)て、出雲路(いづもぢ)の辺(へん)に火を懸(かけ)たり。将軍是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は如何様(いかさま)神楽岡の勢共(せいども)と覚(おぼゆ)るぞ、山法師(やまほふし)ならば馬上の懸合(かけあひ)は心にくからず、急ぎ向(むかつ)て懸散(かけちら)せ。」とて、上杉伊豆(いづの)守(かみ)・畠山(はたけやま)修理(しゆりの)大夫(たいふ)・足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)に、五万(ごまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)てぞ被向ける。楠木は元来(もとより)勇気無双(ぶさう)の上智謀第一(だいいち)也(なり)ければ、一枚楯(いちまいたて)の軽々(かるがる)としたるを五六百(ごろつぴやく)帖(てふ)はがせて、板の端(はし)に懸金(かけがね)と壷(つぼ)とを打(うつ)て、敵の駆(かけ)んとする時は、此(この)楯の懸金を懸(かけ)、城の掻楯(かいだて)の如く一二町(いちにちやう)が程(ほど)につき並(なら)べて、透間(すきま)より散々(さんざん)に射させ、敵引けば究竟(くつきやう)の懸武者(かけむしや)を五百(ごひやく)余騎(よき)勝(すぐつ)て、同時にばつと駆(かけ)させける間、防(ふせぎ)手(て)の上杉・畠山が五万(ごまん)余騎(よき)、楠木が五百(ごひやく)余騎(よき)に被揉立て五条河原(かはら)へ引退(ひきしりぞ)く。敵は是計(こればかり)歟(か)と見(みる)処に、奥州(あうしうの)国司(こくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)にて粟田口より押寄(おしよせ)て、車大路(くるまおほち)に火を被懸たり。将軍是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は如何様(いかさま)北畠殿(きたばたけどの)と覚(おぼゆ)るぞ、敵も敵にこそよれ、尊氏向はでは叶(かなふ)まじ。」とて、自(みづから)五十万騎(ごじふまんぎ)を率(そつ)し、四条(しでう)・五条の河原(かはら)へ馳向(はせむかつ)て、追(おう)つ返(かへし)つ、入替(いれかへ)々々(いれかへ)時移る迄ぞ被闘ける。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)は大勢なれども軍(いくさ)する勢少(すくな)くして、大将已(すで)に戦ひくたびれ給(たまひ)ぬ。顕家(あきいへの)卿(きやう)は小勢(こぜい)なれば、入替(いれかは)る勢無(なく)して、諸卒忽(たちまち)に疲れぬ。両陣互に戦屈(たたかひくつ)して忿(いか)りを抑(おさ)へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さだみつ)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)、三万(さんまん)余騎(よき)を三手に分け、双林寺(さうりんじ)・将軍塚(しやうぐんづか)・法勝寺(ほつしようじ)の前より、中黒(なかぐろ)の旗五十(ごじふ)余流(よながれ)差(ささ)せて、二条河原(にでうがはら)に雲霞(うんか)の如くに打囲(かこみ)たる敵の中を、真横様(まつよこさま)に懸(かけ)通(とほ)りて、敵の後(うしろ)を切(きら)んと、京中(きやうぢゆう)へこそ被懸入けれ。敵是(これ)を見て、「すはや例の中黒(なかぐろ)よ。」と云(いふ)程こそあれ、鴨河・白河・京中(きやうぢゆう)に、稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如(ごとく)に打囲(かこ)ふだる大勢共、馬を馳倒(はせたふ)し、弓矢をかなくり捨(すて)て、四角(しかく)八方(はつぱう)へ逃散(にげちる)事(こと)、秋の木(こ)の葉(は)を山下風(やまおろし)の吹立(ふきたて)たるに不異。義貞朝臣は、態(わざと)鎧を脱替(ぬぎか)へ馬を乗替(のりかへ)て、只一騎敵の中へ懸入(かけいり)々々(かけいり)、何(いづ)くにか尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の坐(おはす)らん、撰(えら)び打(うち)に討(うた)んと伺ひ給ひけれども、将軍運強くして、遂(つひ)に見へ給はざりければ、無力其(その)勢(せい)を十方へ分(わけ)て、逃(にぐ)る敵をぞ追はせられける。中にも里見(さとみ)・鳥山(とりやま)の人々は、僅(わづか)に二十六騎の勢にて、丹波路(たんばぢ)の方へ落(おち)ける敵二三万騎(にさんまんぎ)有(あり)けるを、将軍にてぞ坐(おはす)らんと心得て桂河(かつらがは)の西まで追(おひ)ける間、大勢に返合(かへしあは)せられて一人も不残被討にけり。さてこそ十方に分れて追(おひ)ける兵(つはもの)も、「そゞろに長追(ながおひ)なせそ。」とて、皆京中(きやうぢゆう)へは引返(ひつかへ)しける。角(かく)て日已(すで)に暮(くれ)ければ、楠判官総大将(そうだいしやう)の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「今日御合戦、不慮(ふりよ)に八方(はつぱう)の衆を傾(かたむ)くと申(まう)せ共さして被討たる敵も候はず、将軍の落させ給(たまひ)ける方をも不知、御方(みかた)僅(わづか)の勢にて京中(きやうぢゆう)に居(ゐ)候程ならば、兵皆財宝(ざいはう)に心を懸(かけ)て、如何に申すとも、一所に打寄(よす)る事不可有候。去(さる)程ならば、前の如く又敵に取(とつ)て被返て、度方(とはう)を失(うしなふ)事(こと)治定(ぢぢやう)可有と覚(おぼえ)候。敵に少しも機(き)を付(つけ)ぬれば、後の合戦しにくき事にて候。只此侭(このまま)にて今日は引返させ給ひ候(さふらひ)て、一日馬の足を休め、明後日の程(ほど)に寄せて、今一あて手痛(ていた)く戦ふ程ならば、などか敵を十里(じふり)・二十里(にじふり)が外まで、追靡(おひなび)けでは候べき。」と申(まうし)ければ、大将誠(まこと)にげにもとて、坂本へぞ被引返ける。将軍は今度も丹波路(たんばぢ)へ引給(ひきたまは)んと、寺戸(てらど)の辺(へん)までをはしたりけるが、京中(きやうぢゆう)には敵一人も不残皆引返(ひつかへ)したりと聞へければ、又京都へぞ帰り給ひける。此外(このほか)八幡・山崎・宇治・勢多・嵯峨・仁和寺(にんわじ)・鞍馬路(くらまぢ)へ懸(かか)りて、落行(おちゆき)ける者共(ものども)も是(これ)を聞(きい)て、みな我(われ)も我(われ)もと立(たち)帰りけり。入洛(じゆらく)の体(てい)こそ恥かしけれども、今も敵の勢を見合(あは)すれば、百分が一もなきに、毎度(まいど)かく被追立、見苦(みぐるし)き負(まけ)をのみするは非直事。我等朝敵(てうてき)たる故(ゆゑ)歟(か)、山門に被咒詛故歟(か)と、謀(はかりこと)の拙(つたな)き所をば閣(さしおい)て、人々怪しみ思はれける心の程こそ愚(おろか)なれ。
○将軍都落(みやこおちの)事(こと)付(つけたり)薬師丸(やくしまる)帰京(ききやうの)事(こと) S1506
楠判官山門へ帰(かへつ)て、翌(つぎ)の朝律僧(りつそう)を二三十人(にさんじふにん)作り立(たて)て京へ下(くだ)し、此彼(ここかしこ)の戦場にして、尸骸(しがい)をぞ求(もとめ)させける。京勢(きやうぜい)怪(あやしみ)て事の由を問(とひ)ければ、此(この)僧共悲歎(ひたん)の泪(なみだ)を押(おさ)へて、「昨日の合戦に、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)・北畠源(げん)中納言(ぢゆうなごん)殿(どの)・楠木判官已下(いげ)、宗(むね)との人々七人(しちにん)迄被討させ給ひ候程(ほど)に、孝養(けうやう)の為に其尸骸(そのしがい)を求(もとめ)候也(なり)。」とぞ答へける。将軍を始奉(はじめたてまつ)て、高(かう)・上杉の人々是(これ)を聞(きい)て、「あな不思議(ふしぎ)や、宗徒(むねと)の敵共(てきども)が皆一度(いちど)に被討たりける。さては勝軍(かちいくさ)をばしながら官軍(くわんぐん)京をば引(ひき)たりける。何(いづ)くにか其(その)頚共(くびども)の有(ある)らん。取(とつ)て獄門(ごくもん)に懸(かけ)、大路(おほち)を渡せ。」とて、敵御方(みかた)の尸骸(しがい)共(ども)の中を求(もとめ)させけれ共(ども)、是(これ)こそとをぼしき頚も無(なか)りけり。余(あまり)にあらまほしさに、此(ここ)に面影(おもかげ)の似たりける頭(くび)を二(ふた)つ獄門の木に懸(かけ)て、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞・楠河内(かはちの)判官(はうぐわん)正成(まさしげ)と書付(かきつけ)をせられたりけるを、如何なるにくさうの者かしたりけん、其札(そのふだ)の側(そば)に、「是(これ)はにた頚也(なり)。まさしげにも書(かき)ける虚事(そらごと)哉(かな)。」と、秀句(しうく)をしてぞ書副(かきそへ)て見せたりける。又同日の夜半許(やはんばかり)に、楠判官下部共(しもべども)に焼松(たいまつ)を二三千(にさんぜん)燃(とぼ)し連(つれ)させて、小原(をはら)・鞍馬(くらま)の方へぞ下(くだ)しける。京中(きやうぢゆう)の勢共(せいども)是(これ)を見て、「すはや山門の敵共(てきども)こそ、大将を被討て、今夜方々(はうばう)へ落行(おちゆく)げに候へ。」と申(まうし)ければ、将軍もげにもとや思ひ給ひけん。「さらば落(おと)さぬ様(やう)に、方々へ勢を差向(さしむけ)よ。」とて、鞍馬路(くらまぢ)へは三千(さんぜん)余騎(よき)、小原口(をはらぐち)へ五千(ごせん)余騎(よき)、勢多(せた)へ一万(いちまん)余騎(よき)、宇治へ三千(さんぜん)余騎(よき)、嵯峨・仁和寺(にんわじ)の方迄(まで)、洩(もら)さぬ様に堅めよとて、千騎(せんぎ)・二千騎(にせんぎ)差分(さしわけ)て、勢を不被置方も無(なか)りけり。さてこそ京中(きやうぢゆう)の大勢(おほぜい)大半減じて、残る兵も徒(いたづら)に用心(ようじん)するは無(なか)りけれ。去(さる)程(ほど)に官軍(くわんぐん)宵より西坂(にしざか)をゝり下(くだつ)て、八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・鷺森(さぎのもり)・降松(さがりまつ)に陣を取る。諸大将(しよだいしやう)は皆一手(ひとて)に成(なり)て、二十九日の卯刻(うのこく)に、二条河原(にでうがはら)へ押寄(おしよせ)て、在々所所(ざいざいしよしよ)に火をかけ、三所に時をぞ揚(あげ)たりける。京中(きやうぢゆう)の勢(せい)は、大勢なりし時だにも叶はで引(ひき)し軍(いくさ)也(なり)。況(まし)て勢をば大略(たいりやく)方々へ分(わか)ち被遣ぬ。敵(てき)可寄とは夢にも知(しら)ぬ事なれば、俄に周章(あわて)ふためきて、或(あるひ)は丹波路(たんばぢ)を指(さし)て引(ひく)もあり、或(あるひ)は山崎を志(こころざし)て逃(にぐ)るもあり、心も発(おこ)らぬ出家して禅律(ぜんりつ)の僧に成(なる)もあり。官軍(くわんぐん)はさまで遠く追(おは)ざりけるを、跡(あと)に引(ひく)御方(みかた)を追懸(おつかく)る敵ぞと心得て、久我畷(こがなはて)・桂河辺(へん)には、自害をしたる者も数を不知ありけり。況(いはんや)馬・物具(もののぐ)を棄(すて)たる事は、足の蹈所(ふみどころ)も無(なか)りけり。将軍は其(その)日(ひ)丹波の篠村(しのむら)を通(とほ)り、曾地(そち)の内藤三郎左衛門入道々勝(だうしよう)が館(たち)に著(つき)給へば、四国・西国の勢(せい)は、山崎を過(すぎ)て芥河(あくたがは)にぞ著(つき)にける。親子兄弟骨肉主従(こつにくしゆじゆう)互に行方(ゆきかた)を不知落行(おちゆき)ければ、被討てぞ死(し)しつらんと悲(かなし)む。されども、「将軍は正(まさ)しく別事(べちのこと)無(なく)て、尾宅(をいわけ)の宿(しゆく)を過(すぎ)させ給(たまひ)候也(なり)。」と分明(ぶんみやう)に云(いふ)者有(あり)ければ、兵庫(ひやうご)湊河(みなとがは)に落(おち)集りたる勢の中より丹波へ飛脚(ひきやく)を立(たて)て、「急ぎ摂州へ御越(おんこし)候へ、勢を集(あつめ)て頓(やが)て京都へ責上(せめのぼ)り候はん。」と申(まうし)ければ、二月二日将軍曾地(そち)を立(たち)て、摂津国(つのくに)へぞ越(こえ)給ひける。此(この)時熊野山(くまのさん)の別当四郎法橋(ほつけう)道有(だういう)が、未(いまだ)に薬師丸(やくしまる)とて童体(どうたい)にて御伴(おんとも)したりけるを、将軍喚寄給(よびよせたまひ)て、忍(しのび)やかに宣(のたまひ)けるは、「今度京都の合戦に、御方(みかた)毎度(まいど)打負(うちまけ)たる事(こと)、全く戦(たたかひ)の咎(とが)に非(あら)ず。倩(つらつら)事(こと)の心を案ずるに、只尊氏混(ひたすら)朝敵(てうてき)たる故(ゆゑ)也(なり)。されば如何にもして持明院殿(ぢみやうゐんどの)の院宣(ゐんぜん)を申賜(まうしたまはつ)て、天下を君(きみ)与君の御争(おんあらそひ)に成(なし)て、合戦を致さばやと思(おもふ)也(なり)。御辺(ごへん)は日野(ひのの)中納言殿(ちゆうなごんどの)に所縁(しええん)有(あり)と聞及(ききおよべ)ば、是(これ)より京都へ帰上(かへりのぼつ)て、院宣を伺ひ申(まうし)て見よかし。」と被仰ければ、薬師丸(やくしまる)、「畏(かしこまつ)て承(うけたまは)り候。」とて、三草山(みくさやま)より暇申(いとままうし)て、則(すなはち)京へぞ上(のぼ)りける。
○大樹(だいじゆ)摂津国(つのくに)豊嶋河原(てしまかはら)合戦(かつせんの)事(こと) S1507
将軍湊河に著給(つきたまひ)ければ、機(き)を失(うしなひ)つる軍勢共(ぐんぜいども)、又色を直(なほ)して、方々より馳(はせ)参りける間、無程其(その)勢(せい)二十万騎(にじふまんぎ)に成(なり)にけり。此(この)勢(せい)にて頓(やが)て責上(せめのぼ)り給はゞ、又官軍(くわんぐん)京にはたまるまじかりしを、湊河の宿(しゆく)に、其(その)事(こと)となく三日迄逗留(とうりう)有(あり)ける間、宇都宮(うつのみや)五百(ごひやく)余騎(よき)道より引返(ひつかへ)して、官軍(くわんぐん)に属(しよく)し、八幡(やはた)に被置たる武田(たけだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)も、堪(こらへ)かねて降人(かうにん)に成(なり)ぬ。其(その)外此彼(ここかしこ)に隠れ居たりし兵共(つはものども)、義貞に属(しよくし)ける間、官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)大勢(おほぜい)に成(なつ)て、竜虎(りようこ)の勢(いきほひ)を振へり。二月五日顕家(あきいへの)卿(きやう)・義貞朝臣、十万(じふまん)余騎(よき)にて都を立(たち)て、其(その)日(ひ)摂津(つの)国(くに)の芥河(あくたがは)にぞ被著ける。将軍此(この)由を聞給(ききたまひ)て、「さらば行向(ゆきむかつ)て合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬(さまの)頭(かみ)に、十六万騎を差副(さひそへ)て、京都へぞ被上ける。さる程(ほど)に両家(りやうけ)の軍勢(ぐんぜい)、二月六日の巳刻(みのこく)に、端(はした)なく豊嶋(てしま)河原(かはら)にてぞ行合(ゆきあひ)ける。互に旗の手を下(おろ)して、東西に陣を張り、南北に旅(りよ)を屯(たむろ)す。奥州(あうしうの)国司(こくし)先(まづ)二たび逢(あう)て、軍(いくさ)利(り)あらず、引退(ひきしりぞい)て息を継(つげ)ば、宇都宮(うつのみや)入替(いれかはつ)て、一面目(ひとめんぼく)に備(そなへ)んと攻(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)二百(にひやく)余騎(よき)被討て引退(ひきしりぞ)けば、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)二千(にせん)余騎(よき)にて入替(いれかはり)たり。敵には仁木(につき)・細川・高(かう)・畠山、先日の恥を雪(きよ)めんと命を棄(すて)て戦ふ。官軍(くわんぐん)には江田(えだ)・大館(おほたち)・里見・鳥山(とりやま)、是(ここ)を被破(やぶられ)ては何(いづ)くへか可引と、身を無(なき)者に成(なし)てぞ防ぎける。されば互に死を軽(かろん)ぜしかども、遂(つひ)に雌雄(しゆう)を不決して、其(その)日(ひ)は戦ひ暮(くらし)てけり。爰(ここ)に楠判官正成(まさしげ)、殿馳(おくればせ)にて下(くだ)りけるが、合戦の体(てい)を見て、面(おもて)よりは不懸、神崎(かんざき)より打廻(うちまはつ)て、浜の南よりぞ寄(よせ)たりける。左馬(さまの)頭(かみ)の兵、終日(ひねもす)の軍(いくさ)に戦(たたかひ)くたびれたる上、敵に後(うしろ)をつゝまれじと思(おもひ)ければ、一戦(ひといくさ)もせで、兵庫を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。義貞頓(やが)て追懸(おつかけ)て、西宮(にしのみや)に著(つき)給へば、直義(ただよし)は猶(なほ)相支(あひささへ)て、湊河に陣をぞ被取ける。同(おなじき)七日の朝なぎに、遥(はるか)の澳(おき)を見渡せば、大船五百(ごひやく)余艘(よさう)、順風(じゆんぷう)に帆を揚(あげ)て東を指(さし)て馳(はせ)たり。何方(いづかた)に属(つく)勢(せい)にかと見る処に、二百(にひやく)余艘(よさう)は梶(かぢ)を直(なほ)して兵庫の嶋へ漕(こぎ)入る。三百(さんびやく)余艘(よさう)は帆をつゐて、西(にしの)宮(みや)へぞ漕(こぎ)寄せける。是(これ)は大伴・厚東(こうとう)・大内介(おほちのすけ)が、将軍方(しやうぐんがた)へ上(のぼ)りけると、伊予の土居(どゐ)・得能(とくのう)が、御所(ごしよ)方(がた)へ参りけると漕連(こぎつれ)て、昨日迄は同湊(おなじみなと)に泊りたりしが、今日は両方へ引分(わかれ)て、心々にぞ著(つき)たりける。荒手(あらて)の大勢両方へ著(つき)にければ、互(たがひ)に兵(つはもの)を進(すす)めて、小清水(こしみづ)の辺(へん)に羽向合(はせむかふ)。将軍方(しやうぐんがた)は目に余る程の大勢なりけれども、日比(ひごろ)の兵(つはもの)、荒手(あらて)にせさせんとて、軍(いくさ)をせず。厚東(こうとう)・大伴は、又強(あながち)に我等許(われらばかり)が大事(だいじ)に非(あら)ずと思(おもひ)ければ、さしも勇める気色(きしよく)もなし。官軍(くわんぐん)方(がた)は双(なら)べて可云程もなき小勢(こぜい)なりけれども、元来(ぐわんらい)の兵は、是(これ)人の大事(だいじ)に非(あら)ず、我(わが)身の上の安否(あんぴ)と思ひ、荒手(あらて)の土居・得能は、今日の合戦無云甲斐しては、河野(かうの)の名を可失と、機(き)をとき心を励(はげま)せり。されば両陣未(いまだ)闘(たたか)はざる前(さき)に安危の端(はし)機(き)に顕(あらは)れて、勝負(しようぶ)の色暗(あん)に見(みえ)たり。されども荒手(あらて)の験(しる)しなれば、大伴・厚東・大内(おほち)が勢三千(さんぜん)余騎(よき)、一番に旗を進めたり。土居(どゐ)・得能後(うしろ)へつと懸抽(かけぬけ)て、左馬(さまの)頭(かみ)の引(ひか)へ給へる打出宿(うちでのしゆく)の西の端(はし)へ懸通(かけとほ)り、「葉武者共(はむしやども)に目な懸(かけ)そ、大将に組め。」と下知(げぢ)して、風の如くに散(ちら)し雲の如くに集(あつまつ)て、呼(をめ)ひて懸入(かけいり)、々々(かけいつ)ては戦ひ、戦ふては懸抽(かけぬ)け、千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)迄も、引(ひく)なと互に恥(はぢし)めて面(おもて)も不振闘(たたか)ひける間、左馬(さまの)頭(かみ)叶はじとや被思けん、又兵庫を指(さ)して引(ひき)給ふ。千度百般(ちたびももたび)戦へども、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)の軍(いくさ)したる有様、見るに可叶とも覚(おぼえ)ざりければ、将軍も早(はや)退屈(たいくつ)の体(てい)見へ給(たまひ)ける処へ、大伴参(まゐつ)て、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも覚(おぼえ)候はず。幸(さいはひ)に船共(ふねども)数(あまた)候へば、只先(まづ)筑紫(つくし)へ御開(ひら)き候へかし。小弐(せうに)筑後(ちくごの)入道御方(みかた)にて候なれば、九国の勢多く属進(つきまゐら)せ候はゞ、頓(やが)て大軍を動(うごかし)て京都を被責候はんに、何程の事か候べき。」と申(まうし)ければ、将軍げにもとや思食(おぼしめし)けん、軈(やが)て大伴が舟にぞ乗(のり)給ひける。諸軍勢(しよぐんぜい)是(これ)を見て、「すはや将軍こそ御舟(おんふね)に被召て落(おち)させ給へ。」とのゝめき立(たつ)て、取(とる)物も取(とり)不敢、乗(のり)をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅(わづか)に三百(さんびやく)余艘(よさう)也(なり)。乗(のら)んとする人は二十万騎(にじふまんぎ)に余れり。一艘(いつさう)に二千人(にせんにん)許(ばかり)こみ乗(のり)ける間、大船一艘(いつさう)乗沈(のりしづ)めて、一人も不残失(うせ)にけり。自余(じよ)の舟共是(これ)を見て、さのみは人を乗せじと纜(ともづな)を解(とい)て差出(さしいだ)す。乗殿(のりおく)れたる兵共(つはものども)、物具衣裳(もののぐいしやう)を脱捨(ぬぎすて)て、遥(はるか)の澳(おき)に游出(およぎい)で、舟に取著(とりつか)んとすれば、太刀・長刀にて切(きり)殺し、櫓(ろ)かいにて打落(うちおと)す。乗(のり)得ずして渚(なぎさ)に帰る者は、徒(いたづら)に自害をして礒(いそ)越(こ)す波に漂へり。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)は福原(ふくはら)の京(きやう)をさへ被追落て、長汀(ちやうてい)の月に心を傷(いたま)しめ、曲浦(きよくほ)の波に袖を濡(ぬら)して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高(たかう)して、数万(すまん)の降人(かうにん)を召具(めしぐ)し、天下の士卒(じそつ)に将として花の都に帰(かへり)給ふ。憂喜(いうき)忽(たちまち)に相替(あひかはつ)て、うつゝもさながら夢の如くの世に成(なり)けり。
○主上(しゆしやう)自山門還幸(くわんかうの)事(こと) S1508
去月晦日(みそか)逆徒(ぎやくと)都を落(おち)しかば、二月二日主上(しゆしやう)自山門還幸成(なつ)て、花山院(くわさんのゐん)を皇居(くわうきよ)に被成にけり。同(おなじき)八日義貞朝臣、豊嶋(てしま)・打出(うちで)の合戦に打勝(かつ)て、則(すなはち)朝敵(てうてき)を万里の波に漂(ただよは)せ、同(おなじく)降人(かうにん)の五刑(ごけい)の難(なん)を宥(なだめ)て京都へ帰(かへり)給ふ。事体(ことのてい)ゆゝしくぞ見へたりける。其(その)時の降人(かうにん)一万(いちまん)余騎(よき)、皆元(もと)の笠符(かさじるし)の文(もん)を書直(かきなほ)して著(つけ)たりけるが、墨の濃(こ)き薄(うす)き程見へて、あらはにしるかりけるにや、其次(そのつぎ)の日、五条の辻に高札(たかふだ)を立(たて)て、一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。二筋(ふたすぢ)の中の白みを塗隠(ぬりかく)し新田々々(にたにた)しげな笠符(かさじるし)哉(かな)都鄙(とひ)数箇度(すかど)の合戦の体(てい)、君殊に叡感(えいかん)不浅。則(すなはち)臨時(りんじの)除目(ぢもく)を被行て、義貞を左近衛(さこんゑの)中将(ちゆうじやう)に被任ぜ、義助を右衛門(うゑもんの)佐(すけ)に被任けり。天下の吉凶(きつきよう)必(かならず)しも是(これ)にはよらぬ事なれども、今の建武(けんむ)の年号は公家(くげ)の為不吉(ふきつ)也(なり)けりとて、二月二十五日に改元(かいげん)有(あつ)て、延元(えんげん)に被移。近日朝廷已(すで)に逆臣(ぎやくしん)の為に傾(かたぶけ)られんとせしか共(ども)、無程静謐(せいひつ)に属(しよく)して、一天下(いちてんが)又泰平(たいへい)に帰(き)せしかば、此(この)君の聖徳(せいとく)天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾(かたぶ)け可申と、群臣いつしか危(あやふき)を忘れて、慎む方の無(なか)りける、人の心ぞ愚(おろ)かなる。
○賀茂神主(かものかんぬし)改補(かいふの)事(こと) S1509
大凶(だいきよう)一元(いちげん)に帰(き)して万機(ばんき)の政(まつりごと)を新(あら)たにせられしかば、愁(うれへ)を含み喜(よろこび)を懐(いだ)く人多かりけり。中にも賀茂の社(やしろ)の神主職(かんぬししよく)は、神職(しんしよく)の中の重職(ちようしよく)として、恩補(おんふ)次第ある事なれば、咎(とが)無(なく)しては改動(かいどう)の沙汰も難有事なるを、今度尊氏(たかうぢの)卿(きやう)貞久(さだひさ)を改(あらため)て、基久(もとひさ)に被補任、彼(か)れ眉を開く事僅(わづか)に二十日を不過、天下又反覆(はんふく)せしかば、公家(くげ)の御沙汰(ごさた)として貞久に被返付。此(この)事(こと)今度の改動(かいどう)のみならず、両院の御治世(ぢせい)替(かは)る毎(ごと)に転変(てんべん)する事(こと)、掌(たなごころ)を反(かへ)すが如し。其逆鱗(そのげきりん)何事(なにこと)の起(おこり)ぞと尋ぬれば、此基久(このもとひさ)に一人の女(むす)めあり。被養て深窓(しんさう)に在(あり)し時より、若紫(わかむらさき)の■匂(にほひ)殊に、初本結(はつもとゆひ)の寐乱髪(ねみだれがみ)、末(すゑ)如何ならんと、見るに心も迷(まよひ)ぬべし。齢(よはひ)已(すで)に二八にも成(なり)しかば、巫山(ぶさん)の神女(しんによ)雲と成(なり)し夢の面影(おもかげ)を留(とど)め、玉妃(ぎよくひ)の太真院(たいしんゐん)を出(いで)し春(はる)の媚(こび)を残せり。只容色嬋娟(ようしよくせんけん)の世に勝(すぐ)れたるのみに非(あら)ず、小野小町(をののこまち)が弄(もてあそ)びし道を学び、優婆塞宮(うばそくのみや)のすさみ給(たまひ)し跡(あと)を追(おひ)しかば、月の前に琵琶(びは)を弾(だん)じては、傾(かたぶ)く影を招き、花の下(もと)に歌を詠(えい)じては、うつろう色を悲(かなし)めり。されば其情(そのなさけ)を聞き、其貌(そのかたち)を見る人毎(ごと)に、意(こころ)を不悩と云(いふ)事(こと)なし。其比(そのころ)先帝は未(いまだ)帥宮(そつのみや)にて、幽(かす)かなる御棲居(すまひ)也(なり)。是(これ)は後宇多(ごうだ)院(ゐんの)第二(だいに)の皇子後醍醐(ごだいごの)天王(てんわう)と申(まう)せし御事(おんこと)也(なり)。今の法皇は伏見(ふしみの)院(ゐんの)第一(だいいち)の皇子にて、既(すで)に春宮(とうぐう)に立(たた)せ可給と云(いひ)、時めき合(あ)へり。此宮々(このみやみや)如何なる玉簾(たまだれ)の隙(ひま)にか被御覧たりけん。此女(このむすめ)最(いと)あてやかに臈(らふたけ)しとぞ被思食ける。されども、混(ひた)すらなる御業(おんわざ)は如何と思食煩(おぼしめしわづらう)て、荻(をぎ)の葉に伝ふ風の便(たより)に付(つ)け、萱(わすれぐさ)の末葉(すゑば)に結(むす)ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文(おんふみ)の数(かず)、千束(ちつか)に余る程(ほど)に成(なり)にけり。女(むすめ)も最(いと)物わびしう哀(あはれ)なる方に覚(おぼ)へけれども、吹(ふき)も定(さだめ)ぬ浦風に靡(なび)きはつべき烟(けぶり)の末(すゑ)も、終(つひ)にはうき名に立(たち)ぬべしと、心強き気色(けしき)をのみ関守(せきもり)になして、早(はや)年の三年(みとせ)を過(すぎ)にけり。父は賎(いやしう)して母なん藤原なりければ、無止事御子達(みこたち)の御覚(おんおぼえ)は等閑(なほざり)ならぬを聞(きき)て、などや今迄御いらへをも申さではやみにけるぞと、最(いと)痛(いた)ふ打侘(うちわぶ)れば、御消息伝へたる二(ふた)りのなかだち次(ついで)よしと思(おもひ)て、「たらちめの諌(いさ)めも理(ことわ)りにこそ侍(はんべ)るめれ。早(はやく)一方に御返事(おんかへりごと)を。」と、かこち顔(がほ)也(なり)ければ、女(むすめ)云(いふ)ばかりなく打侘(わび)て、「いさや我とは争(いか)でか分(わ)く方可侍。たゞ此度(このたび)の御文(おんふみ)に、御歌の最(いと)憐(あは)れに覚へ侍らん方へこそ参らめ。」と云(いひ)て、少し打笑(わらひ)ぬる気色(けしき)を、二(ふた)りの媒(なかだち)嬉(うれ)しと聞(きき)て、急ぎ宮々の御方(おんかた)へ参(まゐり)てかくと申せば、頓(やが)て伏見(ふしみの)宮(みや)の御方(おんかた)より、取(とる)手もくゆる許(ばかり)にこがれたる紅葉重(もみぢかさね)の薄様(うすやう)に、何(いつ)よりも言(こと)の葉(は)過(すぎ)て、憐(あは)れなる程なり。思ひかね云(いは)んとすればかきくれて泪(なみだ)の外(ほか)は言(こと)の葉もなしと被遊たり。此(この)上の哀(あはれ)誰(たれ)かと思へる処に、帥(そつの)宮(みや)御文あり。是(これ)は指(さし)も色深からぬ花染(そめ)のかほり返(かへり)たるに、言(ことば)は無(なく)て、数ならぬみのゝを山の夕時雨(ゆふしぐれ)強面(つれなき)松は降(ふる)かひもなしと被遊たり。此(この)御歌を見て、女(むすめ)そゞろに心あこがれぬと覚(おぼえ)て、手に持(もち)ながら詠(えい)じ伏(ふし)たりければ、早何(いづ)れをかと可云程もなければ、帥(そつの)宮(みや)の御使(おんつかひ)そゞろに独笑(ひとりゑ)みして帰り参りぬ。頓(やが)て其(その)夜の深(ふ)け過(すぐ)る程(ほど)に、牛車(うしぐるま)さはやかに取(とり)まかないて、御迎(おんむかひ)に参りたり。滝口(たきぐち)なりける人、中門(ちゆうもん)の傍(かたはら)にやすらひかねて、夜もはや丑三(うしみつ)に成(なり)ぬと急げば、女(むすめ)下簾(したすだれ)を掲(かかげ)させて、被扶乗としける処に、父の基久(もとひさ)外より帰りまうで来て、「是(これ)はいづ方へぞ。」と問(とふ)に、母上、「帥(そつの)宮(みや)召有(めしあり)て。」と聞ゆ。父痛(いた)く留(とどめ)て、「事の外(ほか)なる態(わざ)をも計(はから)ひ給ひける者哉(かな)。伏見(ふしみの)宮(みや)は春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまふ)べき由御沙汰(ごさた)あれば、其(その)御方(おんかた)へ参(まゐり)てこそ、深山隠(みやまがくれ)の老木(おいき)迄も、花さく春にも可逢に、行末(ゆくすゑ)とても憑(たの)みなき帥(そつの)宮(みや)に参り仕へん事は、誰(た)が為とても可待方(かた)や有(ある)。」と云留(いひとど)めければ、母上げにやと思返(おもひかへ)す心に成(なり)にけり。滝口は角(かく)ともしらで簾(みす)の前によりゐて、月の傾(かたぶ)きぬる程を申せば、母上出合(いであひ)て、「只今俄に心地(ここち)の例(れい)ならぬ事侍(はんべ)れば、後(のち)の夕べをこそ。」と申(まうし)て、御車(おんくるま)を返してげり。帥(そつの)宮(みや)かゝる事侍(はべる)とは、露もおぼしよらず、さのみやと今日の憑(たの)みに昨日の憂(う)さを替(かへ)て、度々御使(おんつかひ)有(あり)けるに、「思(おもひ)の外(ほか)なる事候(さふらひ)て、伏見(ふしみの)宮(みや)の御方(おんかた)へ参りぬ。」と申(まうし)ければ、おやしさけずば、東路(あづまぢ)の佐野(さの)の船橋(ふなはし)さのみやは、堪(たへ)ては人の恋(こひ)渡るべきと、思ひ沈ませ給(たまふ)にも、御憤(おんいきどほり)の末(すゑ)深かりければ、帥(そつの)宮(みや)御治世(ぢせい)の初(はじめ)、基久(もとひさ)指(さし)たる咎(とが)は無(なか)りしかども、勅勘を蒙(かうむ)り神職(しんしよく)を被解て、貞久(さだひさ)に被補。其後(そののち)天下大(おほき)に乱(みだれ)て、二君(くん)三たび天位を替(かへ)させ給(たまひ)しかば、基久・貞久纔(わづか)に三四年が中に、三度(さんど)被改補。夢幻(ゆめまぼろし)の世の習(ならひ)、今に始(はじめ)ぬ事とは云(いひ)ながら、殊更身の上に被知たる世の哀(あはれ)に、よしや今は兎(と)ても角(かく)てもと思(おもひ)ければ、うたゝねの夢よりも尚(なほ)化(あだ)なるは此比(このころ)見つる現(うつつ)なりけりと、基久一首(いつしゆ)の歌を書留めて、遂(つひ)に出家遁世(とんせい)の身とぞ成(なり)にける。