太平記(国民文庫)
太平記巻十三
○龍馬(りゆうめ)進奏(しんそうの)事(こと) S1301
鳳闕(ほうけつ)の西二条(にしにでう)高倉(たかくら)に、馬場殿(ばばどの)とて、俄に離宮(りきゆう)を被立たり。天子常に幸成(みゆきなり)て、歌舞(かぶ)・蹴鞠(しうきく)の隙(ひま)には、弓馬(きゆうば)の達者(たつしや)を被召、競馬(けいば)を番(つが)はせ、笠懸(かさかけ)を射させ、御遊(ぎよいう)の興(きよう)をぞ被添ける。其比(そのころ)佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞(たかさだ)が許(もと)より、竜馬(りゆうめ)也(なり)とて月毛(つきげ)なる馬の三寸計(みきばかり)なるを引進(ひきまゐら)す。其相形(そのさうぎやう)げにも尋常(よのつね)の馬に異(こと)也(なり)。骨(ほね)挙(あが)り筋(すぢ)太(ふと)くして脂肉(しじく)短(みじか)し。頚は鶏(にはとり)の如(ごとく)にして、須弥(しゆみ)の髪(かみ)膝(ひざ)を過ぎ、背(せなか)は竜(りゆう)の如(ごとく)にして、四十二の辻毛(つじげ)を巻(まい)て背筋(せすぢ)に連(つらな)れり。両の耳(みみ)は竹を剥(そい)で直(ぢき)に天を指(さ)し、双(さう)の眼(まなこ)は鈴(すず)を懸(かけ)て、地に向ふ如し。今朝の卯刻(うのこく)に出雲の富田(とんだ)を立(たつ)て、酉剋(とりのこく)の始(はじめ)に京著(きやうちやく)す。其(その)道已(すで)に七十六(しちじふろく)里(り)、鞍(くら)の上(うへ)閑(しづか)にして、徒(ただ)に坐(ざ)せるが如し。然共(しかれども)、旋風(せふう)面を撲(うつ)に不堪とぞ奏(そう)しける。則(すなはち)左馬寮(さまれう)に被預、朝には禁池(きんち)に水飼(かひ)、夕には花廏(くわきう)に秣(まくさ)飼(かふ)。其比(そのころ)天下一の馬乗(むまのり)と聞(きこ)へし本間(ほんま)孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁(はんかんてうりやう)甚(はなはだ)不尋常。四蹄(てい)を縮(ちぢ)むれば双六盤(すごろくばん)の上(うへ)にも立ち、一鞭(いちべん)を当(あ)つれば十丈(じふぢやう)の堀をも越(こえ)つべし。誠(まこと)に天馬に非(あら)ずば斯(かか)る駿足(しゆんそく)は難有とて、叡慮(えいりよ)更に類無(たぐひなか)りけり。或時(あるとき)主上(しゆしやう)馬場殿(ばばどの)に幸成(みゆきなつ)て、又此(この)馬を叡覧有(えいらんあり)けるに、諸卿皆左右に候(こう)す。時に主上(しゆしやう)洞院(とうゐん)の相国(しやうこく)に向(むかつ)て被仰けるは、「古(いにし)へ、屈産(くつさん)の乗(じよう)、項羽(かうう)が騅(すゐ)、一日に千里を翔(かけ)る馬有(あり)といへども、我(わが)朝に天馬の来(きた)る事を未だ聞(きか)ず。然(しかる)に朕(ちん)が代(よ)に当(あたつ)て此(この)馬不求出来(いできた)る。吉凶如何。」と御尋(おんたづね)ありけるに、相国(しやうこく)被申けるは、「是(これ)聖明(せいめい)の徳に不因ば、天豈(あに)此嘉瑞(このかずゐ)を降(くだし)候はんや。虞舜(ぐしゆん)の代には鳳凰(ほうわう)来(きたり)、孔子(こうし)の時は麒麟(きりん)出(いづ)といへり。就中(なかんづく)天馬の聖代(せいだい)に来(きた)る事第一(だいいち)の嘉祥(かしやう)也(なり)。其故(そのゆゑ)は昔周(しう)の穆王(ぼくわう)の時、驥(き)・■(たう)・驪(り)・■(くわ)・■(りう)・■(ろく)・■(じ)・駟(し)とて八疋(はつぴき)の天馬来れり。穆王是(これ)に乗(のつ)て、四荒八極(しくわうはつきよく)不至云所(いふところ)無(なか)りけり。或(ある)時西天(さいてん)十万里の山川を一時に越(こえ)て、中天竺(ぢく)の舎衛国(しやゑこく)に至り給ふ。時に釈尊(しやくそん)霊鷲山(りやうじゆせん)にして法華(ほつけ)を説(とき)給ふ。穆王馬より下(おり)て会座(ゑざ)に臨(のぞん)で、則(すなはち)仏(ほとけ)を礼(らい)し奉(たてまつ)て、退(しりぞい)て一面に坐(ざ)し給へり。如来(によらい)問(とひ)て宣(のたまは)く、「汝(なんぢ)は何(いづれ)の国の人ぞ。」穆王答曰(こたへていはく)、「吾(われ)は是(これ)震旦国(しんだんこく)の王也(なり)。」仏(ほとけ)重(かさね)て宣(のたまは)く、「善(よい)哉(かな)今来此会場。我(われ)有治国法、汝欲受持否(いなや)。」穆王曰(いはく)、「願(ねがはく)は信受奉行(しんじゆぶぎやう)して理民安国の施功徳。」爾(その)時、仏(ほとけ)以漢語、四要品(しえうぼん)の中の八句の偈(げ)を穆王に授(さづけ)給ふ。今の法華の中の経律(けいりつ)の法門有(あり)と云ふ深秘(しんひ)の文是(これ)也(なり)。穆王震旦(しんだん)に帰(かへつ)て後深(ふかく)心底(しんてい)に秘(ひ)して世に不被伝。此(この)時慈童(じどう)と云(いひ)ける童子(どうじ)を、穆王寵愛(ちようあい)し給ふに依(よつ)て、恒(つね)に帝(みかど)の傍(かたはら)に侍(はんべり)けり。或(ある)時彼慈童(かのじどう)君(きみ)の空位(くうゐ)を過(すぎ)けるが、誤(あやまつ)て帝(みかど)の御枕(おんまくら)の上をぞ越(こえ)ける。群臣(ぐんしん)議(ぎ)して曰(いはく)、「其例(そのれい)を考(かんがふ)るに罪科(ざいくわ)非浅に。雖然事(こと)誤(あやまり)より出(いで)たれば、死罪一等を宥(なだめ)て遠流(をんる)に可被処。」とぞ奏(そう)しける。群議(ぐんぎ)止(やむ)事(こと)を不得して、慈童(じどう)を■県(てつけん)と云(いふ)深山(しんざん)へぞ被流ける。彼■県(かのてつけん)と云(いふ)所は帝城(ていじやう)を去(さる)事(こと)三百里、山深(ふかう)して鳥だにも不鳴、雲暝(くらう)して虎狼(こらう)充満(じゆうまん)せり。されば仮(かり)にも此(この)山へ入(いる)人の、生(いき)て帰ると云(いふ)事(こと)なし。穆王猶(なほ)慈童を哀(あはれ)み思召(おぼしめし)ければ、彼(かの)八句の内を分(わか)たれて、普門品(ふもんぼん)にある二句の偈(げ)を、潛(ひそか)に慈童に授(さづけ)させ給(たまひ)て、「毎朝(まいてう)に十方を一礼(いちらい)して、此(この)文を可唱。」と被仰ける。慈童遂(つひ)に■県(てつけん)に被流、深山幽谷(しんざんいうこく)の底(そこ)に被棄けり。爰(ここ)に慈童君(きみ)の恩命に任(まかせ)て、毎朝に一反(いつぺん)此(この)文を唱(となへ)けるが、若(もし)忘(わすれ)もやせんずらんと思(おもひ)ければ、側(そば)なる菊の下葉(したば)に此(この)文を書付(かきつけ)けり。其(それ)より此(この)菊の葉にをける下露(したつゆ)、僅(わづか)に落(おち)て流るゝ谷の水に滴(しただ)りけるが、其(その)水皆(みな)天の霊薬(れいやく)と成る。慈童渇(かつ)に臨(のぞん)で是(これ)を飲(のむ)に、水の味(あぢはひ)天の甘露(かんろ)の如(ごとく)にして、恰(あたか)百味の珍(ちん)に勝(まさ)れり。加之(しかのみならず)天人花を捧(ささげ)て来り、鬼神手を束(つかね)て奉仕(ぶし)しける間、敢(あへ)て虎狼悪獣(こらうあくじう)の恐(おそれ)無(なく)して、却(かへつ)て換骨羽化(くわんこつうげ)の仙人と成る。是(これ)のみならず、此(この)谷の流(ながれ)の末を汲(くん)で飲(のみ)ける民三百(さんびやく)余家、皆病(びやう)即(そく)消滅(せうめつ)して不老不死の上寿(しやうじゆ)を保(たも)てり。其(その)後時代推移(おしうつつ)て、八百(はつぴやく)余年(よねん)まで慈童猶(なほ)少年の貌(かたち)有(あつ)て、更に衰老(すゐらう)の姿(すがた)なし。魏(ぎ)の文帝(ぶんてい)の時、彭祖(はうそ)と名を替(かへ)て、此術(このじゆつ)を文帝に授(さづけ)奉る。文帝是(これ)を受(うけ)て菊花(きくくわ)の盃(さかづき)を伝へて、万年の寿(ことぶき)を被成。今の重陽(ちようやう)の宴(えん)是(これ)也(なり)。其(それ)より後(のち)、皇太子位(くらゐ)を天に受(うけ)させ給ふ時、必(かならず)先(まづ)此(この)文を受持(じゆぢ)し給ふ。依之(これによつて)普門品(ふもんぼん)を当途王経(たうづわうきやう)とは申(まうす)なるべし。此(この)文我朝(わがてう)に伝はり、代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)御即位(ごそくゐ)の日必ず是(これ)を受持(じゆぢ)し給ふ。若(もし)幼主の君(きみ)践祚(せんそ)ある時は、摂政(せつしやう)先(まづ)是(これ)を受(うけ)て、御治世(ごぢせい)の始(はじめ)に必(かならず)君に授(さづけ)奉る。此(この)八句の偈(げ)の文、三国(さんごく)伝来(でんらい)して、理世安民の治略(ちりやく)、除災与楽(ぢよさいよらく)の要術(えうじゆつ)と成る。是(これ)偏(ひとへ)に穆王(ぼくわう)天馬の徳也(なり)。されば此龍馬(このりゆうめ)の来(きた)れる事(こと)、併(しかしながら)仏法・王法の繁昌宝祚(はうそ)長久の奇瑞(きずゐ)に候べし。」と被申たりければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、当座の諸卿悉(ことごとく)心に服(ふく)し旨(むね)を承(うけたまはつ)て、賀(が)し申(まう)さぬ人は無(なか)りけり。暫有(しばらくあつ)て万里小路(までのこうぢ)の中納言藤房(ふぢふさの)卿(きやう)被参。座定(さだ)ま(ッ)て後(のち)、主上(しゆしやう)又藤房(ふぢふさの)卿(きやう)に向(むかつ)て、「天馬の遠(とほき)より来れる事(こと)、吉凶(きつきよう)の間(あひだ)、諸臣の勘例(かんれい)、已(すで)に皆先(さきに)畢(をはん)ぬ。藤房(ふぢふさ)は如何(いかが)思へるぞ。」と勅問(ちよくもん)有(あり)ければ、藤房(ふぢふさの)卿(きやう)被申けるは、「天馬の本朝に来れる事(こと)、古今未だ其(その)例を承(うけたまはり)候はねば、善悪(ぜんあく)・吉凶勘(かんが)へ申難(もうしがた)しといへども退(しりぞい)て愚案(ぐあん)を回(めぐら)すに、是(これ)不可有吉事に。其故(そのゆゑ)は昔漢(かん)の文帝(ぶんてい)の時、一日に千里を行(ゆく)馬を献(けん)ずる者あり。公卿(くぎやう)・大臣(だいじん)皆(みな)相見て是(これ)を賀(が)す。文帝笑(わらつ)て曰(いはく)、「吾(われ)吉(きつ)に行(ゆく)日は三十里(さんじふり)凶(きよう)に行(ゆく)日は十里(ごじふり)、鸞輿在前、属車在後、吾独乗千里駿馬将安之乎。」とて乃(すなはち)償其道費而遂被返之。又後漢(ごかん)の光武(くわうぶの)時、千里の馬(むま)と宝剣(はうけん)とを献(けん)ずる者あり。光武(くわうぶ)是(これ)を珍(ちん)とせずして、馬をば鼓車(こしや)に駕(が)し、剣(けん)をば騎士(きし)に賜(たま)ふ。又周(しう)の代(よ)已(すで)に衰(おとろへ)なんとせし時、房星(ばうせい)降(くだつ)て八匹の馬と成れり。穆王是(これ)を愛(あい)して造父(ざうほ)をして御(ぎよ)たらしめて、四荒(くわう)八極(きよく)の外瑶池(えうち)に遊び碧台(へきたい)に宴(えん)し給ひしかば、七廟(しちべう)の祭(まつり)年(とし)を逐(おつ)て衰(おとろ)へ、明堂(みやうどう)の礼日(ひ)に随(したがつ)て廃(すた)れしかば、周(しう)の宝祚(はうそ)傾(かたむ)けり。文帝・光武の代(よ)には是(これ)を棄(すて)て福祚(ふくそ)久(ひさし)く栄(さか)へ、周穆(しうぼく)の時には是(これ)を愛して王業(わうげふ)始(はじめ)て衰ふ。拾捨(しふしや)の間、一(ひとつは)凶(きよう)一(ひとつは)吉(きつ)的然(てきぜん)として在耳。臣愚(ぐ)窃(ひそか)に是(これ)を案(あん)ずるに、「由来尤物是非天、只蕩君心則為害。」といへり。去(され)ば今政道正(ただし)からざるに依(よつ)て、房星(ばうせい)の精(せい)、化(くわ)して此(この)馬と成(なつ)て、人の心を蕩(とら)かさんとする者也(なり)。其故(そのゆゑ)は大乱の後(のち)民弊(つひ)へ人苦(くるしん)で、天下未安(いまだやすからざ)れば、執政(しつせい)吐哺を、人の愁(うれへ)を聞(きき)、諌臣(かんしん)上表を、主(しゆ)の誤(あやまり)を可正時なるに、百辟(ひやくへき)は楽(たのしみ)に婬(いん)して世の治否(ちひ)を不見、群臣(ぐんしん)は旨(むね)に阿(おもねつ)て国の安危(あんき)を不申。依之(これによつて)記録所(きろくところ)・決断所(けつだんところ)に群集(ぐんしゆ)せし訴人(そにん)日々に減(げん)じて訴陳(そちん)徒(いたづら)に閣(さしお)けり。諸卿是(これ)を見て、虞■(ぐぜい)の訴(うつたへ)止(とどまつ)て諌鼓(かんこ)撃(うつ)人なし。無為(ぶゐ)の徳(とく)天下に及(およん)で、民(たみ)皆(みな)堂々(だうだう)の化(くわ)に誇(ほこ)れりと思へり。悲(かなしい)乎(かな)其迷(そのまよ)へる事。元弘大乱の始(はじめ)、天下の士卒(じそつ)挙(こぞつ)て官軍(くわんぐん)に属(しよく)せし事更に無他。只一戦(いつせん)の利を以て勲功(くんこう)の賞(しやう)に預(あづか)らんと思へる故(ゆゑ)也(なり)。されば世静謐(せいひつ)の後(のち)、忠を立(たて)賞を望む輩(ともがら)、幾千万(いくせんまん)と云数(いふかず)を知(しら)ず。然共(しかれども)公家被官(くげひくわん)の外(ほか)は、未(いまだ)恩賞(おんしやう)を給(たまひ)たる者あらざるに、申状(まうしじやう)を捨(すて)て訟(うつたへ)を止(やめ)たるは、忠功の不立を恨(うら)み、政道の不正を褊(さみ)して、皆(みな)己(おのれ)が本国(ほんごく)に帰(かへ)る者也(なり)。諌臣(かんしん)是(これ)に驚(おどろい)て、雍歯(ようし)が功を先(さき)として、諸卒(しよそつ)の恨(うらみ)を散(さん)ずべきに、先(まづ)大内裏造営(だいだいりざうえい)可有とて、諸国の地頭(ぢとう)に二十分(にじふぶんの)一(いち)の得分(とくぶん)を割分(さきわけ)て被召れば、兵革(ひやうかく)の弊(つひえ)の上に此功課(このこうくわ)を悲(かなし)めり。又国々には守護(しゆご)威(ゐ)を失ひ国司(こくし)権(けん)を重くす。依之(これによつて)非職凡卑(ひしよくぼんひ)の目代等(もくだいら)、貞応(ぢやうおう)以後の新立(しんりふ)の庄園を没倒(もつたう)して、在庁官人(ざいちやうくわんにん)・検非違使(けびゐし)・健児所(こんでいどころ)等(ら)過分(くわぶん)の勢(いきほ)ひを高(たかく)せり。加之(しかのみならず)諸国の御家人(ごけにん)の称号(しようがう)は、頼朝(よりとも)卿(きやう)の時より有(あつ)て已(すで)に年久しき武名なるを、此御代(このみよ)に始(はじめ)て其号(そのがう)を被止ぬれば、大名(だいみやう)・高家(かうけ)いつしか凡民(ぼんみん)の類(るゐ)に同じ。其憤(そのいきどほり)幾千万(いくせんまん)とか知らん。次には天運(てんうん)図(と)に膺(あたつ)て朝敵自(みづから)亡(ほろび)ぬといへども、今度天下を定(しづめ)て、君の宸襟(しんきん)を休(やす)め奉(たてまつり)たる者は、高氏(たかうぢ)・義貞(よしさだ)・正成(まさしげ)・円心(ゑんしん)・長年(ながとし)なり。彼等(かれら)が忠を取(とつ)て漢の功臣(こうしん)に比(ひ)せば、韓信(かんしん)・彭越(はうゑつ)・張良(ちやうりやう)・蕭何(せうが)・曹参(さうさん)也(なり)。又唐(たう)の賢佐(けんさ)に譬(たとへ)ば、魏徴(ぎちよう)・玄齢(げんれい)・世南(せいなん)・如晦(じよくわい)・李勣(りせき)なるべし。其志(そのこころざし)節(せつ)に当(あた)り義に向(むかつ)て忠を立(たつる)所、何(いづ)れをか前(さき)とし何れをか後(のち)とせん。其賞(そのしやう)皆均(ひとしく)其爵(そのしやく)是(これ)同(おなじ)かるべき処に、円心(ゑんしん)一人僅(わづか)に本領(ほんりやう)一所(いつしよ)の安堵(あんど)を全(まつたう)して、守護(しゆご)恩補(おんふ)の国を被召返事、其咎(そのとが)そも何事ぞや。「賞中其功則有忠之者進、罰当其罪則有咎之者退。」と云へり。痛(いたはしき)哉(かな)今の政道、只抽賞(ちうしやう)の功(こう)に不当譏(そしり)のみに非(あら)ず。兼(かね)ては綸言(りんげん)の掌(たなごころ)を翻(かへ)す憚(はばかり)あり。今若(もし)武家の棟梁(とうりやう)と成(なり)ぬべき器用(きよう)の仁(じん)出来(いでき)て、朝(てう)家を褊(さみ)し申(まうす)事(こと)あらば、恨(うらみ)を含み政道を猜(そね)む天下の士、糧(かて)を荷(になひ)て招(まねか)ざるに集(あつま)らん事不可有疑。抑(そもそも)天馬の用(もちゐる)所を案ずるに、徳の流行(りうかう)する事は郵(いう)を置(おい)て命(めい)を伝(つたふ)るよりも早ければ、此(この)馬必(かならず)しも不足用。只大逆(たいぎやく)不慮(ふりよ)に出来(いできた)る日、急(きふ)を遠国(ゑんこく)に告(つぐ)る時、聊(いささか)用(もちゐる)に得(とく)あらんか。是(これ)静謐(せいひつ)の朝(てう)に出で、兼(かね)て大乱の備(そなへ)を設(まう)く。豈(あに)不吉(ふきつ)の表事(へうじ)に候はずや。只奇物(きぶつ)の翫(もてあそび)を止(やめ)て、仁政(じんせい)の化(くわ)を致(いたさ)れんには不如。」と、誠を至し言を不残被申しに、竜顔(りようがん)少(すこ)し逆鱗(げきりん)の気色有(あつ)て、諸臣皆(みな)色を変(へん)じければ、旨酒高会(ししゆかうぐわい)も無興(ぶきよう)して、其(その)日(ひ)の御遊(ぎよいう)はさて止(やみ)にけりとぞ聞へし。
○藤房(ふぢふさの)卿(きやう)遁世(とんせいの)事(こと) S1302
其(その)後藤房(ふぢふさの)卿(きやう)連続(れんぞく)して諌言(かんげん)を上(たてまつ)りけれども、君遂(つひ)に御許容(きよよう)無(なか)りしかば、大内裏(だいだいり)造営(ざうえい)の事をも不被止、蘭籍桂筵(らんせきけいえん)の御遊(ぎよいう)猶(なほ)頻(しきり)なりければ、藤房(ふぢふさ)是(これ)を諌兼(いさめかね)て、「臣たる道我(われ)に於て至(いた)せり。よしや今は身を退(しりぞけん)には不如。」と、思定(おもひさだめ)てぞ坐(おは)しける。三月十一日は、八幡(やはた)の行幸(ぎやうがう)にて、諸卿皆(みな)路次(ろし)の行装(ぎやうさう)を事とし給(たまひ)けり。藤房(ふぢふさ)も時の大理(だいり)にて坐(おは)する上(うへ)、今は是(これ)を限(かぎり)の供奉(ぐぶ)と被思ければ、御供(おんとも)の官人(くわんにん)、悉(ことごとく)目を驚(おどろか)す程(ほど)に出立(いでたた)れたり。看督長(かどのをさ)十六人、冠(かふり)の老懸(おいかけ)に、袖単(ひとへ)白くしたる薄紅(うすくれなゐ)の袍(うはきぬ)に白袴(はかま)を著し、いちひはばきに乱(みだ)れ緒(を)をはいて列(れつ)をひく。次に走(わし)り下部(しもべ)八人、細烏帽子(ほそゑぼし)に上下(かみしも)、一色(ひといろ)の家の紋(もん)の水干(すゐかん)著て、二行に歩(あゆみ)つゞきたり。其(その)後大理(だいり)は、巻纓(まきふさ)の老懸(おいかけ)に、赤裏(あかうら)の表(うへ)の袴(はかま)、靴(くわ)の沓(くつ)はいて、蒔絵(まきゑ)の平鞘(ひらざやの)太刀を佩(はき)、あまの面(おもて)の羽(は)付(つき)たる平胡■(ひらやなぐひ)の箙(えびら)を負(おひ)、甲斐の大黒(おほぐろ)とて、五尺(ごしやく)三寸(さんずん)有(あり)ける名馬の太(ふと)く逞(たくましき)に、いかけ地(ぢ)の鞍(くら)置(おい)て、水色の厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)に、唐糸(からいと)の手縄(たづな)ゆるらかに結(むすん)でかけ、鞍の上(うへ)閑(しづか)に乗(のり)うけて、町に三処手縄(たづな)入(いれ)させ小路(こうぢ)に余(あまつ)て歩(あゆま)せ出(いで)たれば、馬副(むまぞひ)四人、か千冠(ちかぶり)に猪(ゐ)の皮の尻鞘(しりさや)の太刀佩(はい)て、左右にそひ、かい副(ぞへ)の侍(さぶらひ)二人(ににん)をば、烏帽子(ゑぼし)に花田(はなた)のうち絹(きぬ)を重(かさね)て、袖単(そでひとへ)を出(いだ)したる水干(すゐかん)著(き)たる舎人(とねり)の雑色(ざふしき)四人、次に白張(しらはり)に香(かう)の衣(きぬ)重(かさね)たる童(わらは)一人(いちにん)、次に細烏帽子(ほそゑぼし)に袖単(そでひとへ)白(しろく)して、海松色(みるいろ)の水干(すゐかん)著(き)たる調度懸(てうどかけ)六人、次に細烏帽子に香(かう)の水干著たる舎人(とねり)八人、其(その)次に直垂著(ひたたれき)の雑人(ざふにん)等(ら)百(ひやく)余人(よにん)、警蹕(けいひつ)の声高らかに、傍(あたり)を払(はらつ)て被供奉たり。伏拝(ふしをがみ)に馬を留(とどめ)て、男山(をとこやま)を登(のぼり)給ふにも、栄行(さかゆく)時も有(あり)こし物也(なり)と、明日(あす)は被謂ぬべき身の程も哀(あはれ)に、石清水(いはしみづ)を見給(たまふ)にも、可澄末(すゑ)の久しさを、君が御影(みかげ)に寄(よせ)て祝(しゆく)し、其言葉(そのことのは)の引替(ひきかへ)て、今よりは心の垢(あか)を雪(きよめ)、憂世(うきよ)の耳(みみ)を可洗便(たよ)りに成(なり)ぬと思(おもひ)給ひ、大菩薩(だいぼさつ)の御前(おんまへ)にして、潛(ひそか)に自受法楽(じじゆほふらく)の法施(ほつせ)を献(たてまつ)ても、道心堅固速証菩提(けんごそくしようぼだい)と祈(いのり)給へば、和光同塵(わくわうどうぢん)の月明(あきら)かに心の闇(やみ)をや照(てら)すらんと、神慮(しんりよ)も暗(あん)に被量たり。御神拝(ごじんはい)一日有(あつ)て還幸(くわんかう)事散(ことさん)じければ、藤房(ふぢふさ)致仕(ちじ)の為に被参内、竜顔(りようがん)に近付進(ちかづきまゐら)せん事(こと)、今ならでは何事にかと被思ければ、其(その)事(こと)となく御前(おんまへ)に祗候(しこう)して、竜逢(りようほう)・比干(ひかん)が諌(いさめ)に死せし恨(うらみ)、伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせい)が潔(いさぎよ)きを蹈(ふみ)にし跡(あと)、終夜(よもすがら)申出(まうしいで)て、未明(びめい)に退出(たいしゆつ)し給へば、大内山(おほうちやま)の月影(つきかげ)も涙に陰(くも)りて幽(かすか)なり。陣頭(ぢんとう)より車をば宿所へ返(かへ)し遣(つかは)し、侍(さぶらひ)一人召具(めしぐ)して、北山(きたやま)の岩蔵(いはくら)と云(いふ)所へ趣(おもむ)かれける。此(ここ)にて不二房(ふにばう)と云(いふ)僧を戒師(かいし)に請(しやう)じて、遂(つひ)に多年拝趨(はいすう)の儒冠(じゆくわん)を解(ぬい)で、十戒持律(じつかいぢりつ)の法体(ほつたい)に成給(なりたまひ)けり。家貧(まどし)く年老(おい)ぬる人だにも、難離難捨恩愛(おんあい)の旧(ふる)き栖(すみか)也(なり)。況乎(いはんや)官禄(くわんろく)共(とも)に卑(いやし)からで、齢(よはひ)未(いまだ)四十に不足人の、妻子(さいし)を離(はな)れ父母(ふぼ)を捨(すて)て、山川抖薮(とそう)の身と成りしは、ためしすくなき発心(ほつしん)也(なり)。此(この)事(こと)叡聞(えいぶん)に達しければ、君無限驚き思召(おぼしめし)て、「其(その)在所を急ぎ尋出(たづねいだ)し、再び政道輔佐(ふさ)の臣と可成。」と、父宣房(のぶふさの)卿(きやう)に被仰下ければ、宣房(のぶふさの)卿(きやう)泣々(なくなく)車を飛(とば)して、岩蔵(いはくら)へ尋行給(たづねゆきたまひ)けるに、中納言入道は、其(その)朝まで岩蔵(いはくら)の坊(ばう)にをはしけるが、是(これ)も尚(なほ)都(みやこ)近き傍(あた)りなれば、浮世(うきよ)の人の事問(ことと)ひかはす事もこそあれと厭(いと)はしくて、何地(いづち)と云方(いふかた)もなく足に信(まかせ)て出(いで)給ひけり。宣房(のぶふさの)卿(きやう)彼(かの)坊に行給(ゆきたまひ)て、「左様(さやう)の人やある。」と被尋ければ、主(あるじ)の僧、「さる人は今朝まで是(これ)に御坐候(ござさふらひ)つるが、行脚(あんぎや)の御志(おんこころざし)候とて、何地(いづち)へやらん御出(おんいで)候(さふらひ)つる也(なり)。」とぞ答へける。宣房(のぶふさの)卿(きやう)悲歎(ひたん)の泪(なみだ)を掩(おさへ)て其住捨(そのすみすて)たる菴室(あんじつ)を見給へば、誰(た)れ見よとてか書置(かきおき)ける、破(やれ)たる障子(しやうじ)の上に、一首(いつしゆ)の歌を被残たり。住捨(すみすつ)る山を浮世(うきよ)の人とはゞ嵐や庭の松にこたへん棄恩入無為(きおんにふむゐ)、真実報恩者(しんじつはうおんしや)と云(いふ)文の下(した)に、白頭望断万重山。曠劫恩波尽底乾。不是胸中蔵五逆(ごぎやく)。出家端的報親難。と、黄蘗(わうばく)の大義渡(たいぎと)を題せし古き頌(じゆ)を被書たり。さてこそ此(この)人設(たと)ひ何(いづ)くの山にありとも、命(いのち)の中(うち)の再会(さいくわい)は叶(かな)ふまじかりけるよと、宣房(のぶふさの)卿(きやう)恋慕(れんぼ)の泪(なみだ)に咽(むせ)んで、空(むなし)く帰り給ひけり。抑(そもそも)彼(かの)宣房(のぶふさの)卿(きやう)と申(まうす)は、吉田(よしだの)大弐(だいに)資経(すけつね)の孫(まご)、藤三位資通(とうのさんみすけみち)の子也(なり)。此(この)人閑官(かんくわん)の昔、五部(ごぶ)の大乗経(だいじようきやう)を一字三礼(いちじさんらい)に書供養(かきくやう)して、子孫(しそん)の繁昌を祈(いの)らん為に、春日(かすが)の社(やしろ)にぞ被奉納ける。其夜(そのよ)の夢想(むさう)に、黄衣(くわうえ)著(き)たる神人(じんにん)、榊(さかき)の枝(えだ)に立文(たてぶみ)を著(つけ)て、宣房(のぶふさの)卿(きやう)の前に差置(さしおき)たり。何(いか)なる文(ふみ)やらんと怪(あやしみ)て、急(いそぎ)是(これ)を披(ひらい)て見給へば、上書(うはがき)に万里小路(までのこうじ)一位(いちゐ)殿(どの)へと書(かき)て、中(なか)には、速証無上大菩提(そくしようむじやうだいぼだい)と、金字(こんじ)にぞ書(かき)たりける。夢覚(さめ)て後(のち)静(しづか)に是(これ)を案(あん)ずるに、我(われ)朝廷に仕へて、位一品(くらゐいつぼん)に至らんずる条無疑。中(なか)に見へつる金字(こんじ)の文(ぶん)は、我(われ)則(すなはち)此作善(このさぜん)を以て、後生善処(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)を可達者也(なり)と、二世の悉地(しつち)共(ども)に成就(じやうじゆ)したる心地(ここち)して、憑(たの)もしく思給(おもひたまひ)けるが、果(はた)して元弘の末に、父祖代々(ふそだいだい)絶(たえ)て久(ひさし)き従(じゆ)一位(いちゐ)に成給(なりたまひ)けり。中(なか)に見へし金字(こんじ)の文は、子息藤房(ふぢふさの)卿(きやう)出家得道(しゆつけとくだう)し給(たまふ)べき、其善縁(そのぜんえん)有(あり)と被示ける明神(みやうじん)の御告(おんつげ)なるべし。誠(まこと)に百年の栄耀(えいえう)は風前(ふうぜん)の塵(ちり)、一念の発心(ほつしん)は命後(みやうご)の灯(とぼしび)也(なり)。一子(いつし)出家(しゆつけ)すれば、七世の父母(ふも)皆(みな)仏道を成(な)すと、如来(によらい)の所説(しよせつ)明(あきらか)なれば、此(この)人一人の発心(ほつしん)に依(よつ)て、七世の父母諸共(もろとも)に、成仏得道(じやうぶつとくだう)せん事(こと)、歎(なげき)の中(うち)の悦(よろこび)なるべければ、是(これ)を誠(まこと)に第一(だいいち)の利生(りしやう)預(あづか)りたる人よと、智ある人は聞(きい)て感歎(かんたん)せり。
○北山殿(きたやまどの)謀叛(むほんの)事(こと) S1303
故相摸(こさがみ)入道(にふだう)の舎弟(しやてい)、四郎(しらう)左近(さこんの)大夫(たいふ)入道(にふどう)は、元弘の鎌倉(かまくら)合戦の時、自害(じがい)したる真似(まね)をして、潛(ひそか)に鎌倉(かまくら)を落(おち)て、暫(しばし)は奥州(あうしう)に在(あり)けるが、人に見知(しら)れじが為に、還俗(げんぞく)して京都に上(のぼり)、西園寺殿(さいをんじどの)を憑奉(たのみたてまつ)て、田舎侍(ゐなかさぶらひ)の始(はじめ)て召(めし)仕はるゝ体(てい)にてぞ居たりける。是(これ)も承久(しようきう)の合戦の時、西園寺の太政(だいじやう)大臣(だいじん)公経公(きんつねこう)、関東(くわんとう)へ内通(ないつう)の旨(むね)有(あり)しに依(よつ)て、義時(よしとき)其(その)日(ひ)の合戦に利(り)を得たりし間、子孫(しそん)七代迄(まで)、西園寺殿(さいをんじどの)を可憑申と云置(いひおき)たりしかば、今に至迄(いたるまで)武家異他思(おもひ)を成(な)せり。依之(これによつて)代々(だいだい)の立后(りつこう)も、多(おほく)は此(この)家より出(いで)て、国々の拝任(はいにん)も半(なかば)は其族(そのぞく)にあり。然れば官(くわん)太政(だいじやう)大臣(だいじん)に至り、位一品(くらゐいつぼん)の極位(ごくゐ)を不極と云(いふ)事(こと)なし。偏(ひとへ)に是(これ)関東(くわんとう)贔屓(ひいき)の厚恩(こうおん)也(なり)と被思けるにや、如何(いか)にもして故相摸(こさがみ)入道が一族(いちぞく)を取立(とりたて)て、再び天下の権(けん)を取(とら)せ、我(わが)身公家(くげ)の執政(しつせい)として、四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎ)らばやと被思ければ、此(この)四郎(しらう)左近(さこんの)大夫(たいふ)入道を還俗(げんぞく)せさせ、刑部少輔(ぎやうぶのせう)時興(ときおき)と名を替(かへ)て、明暮(あけくれ)は只謀叛(むほん)の計略(けいりやく)をぞ被回ける。或夜(あるよ)政所(せいしよ)の入道、大納言殿(だいなごんどの)の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「国の興亡(きようばう)を見(みる)には、政(まつりごと)の善悪(ぜんあく)を見(みる)に不如、政(まつりごと)の善悪(ぜんあく)を見(みる)には、賢臣(けんしん)の用捨(ようしや)を見(みる)に不如、されば微子(びし)去(さつ)て殷(いん)の代傾(かたむ)き、范増(はんぞう)被罪楚王(そわう)滅(ほろび)たり。今の朝家(てうけ)には只藤房(ふぢふさ)一人のみにて候(さふらひ)つるが、未然(みぜん)に凶(きよう)を鑑(かんがみ)て、隠遁(いんとん)の身と成(なり)候事(こと)、朝廷の大凶(たいきよう)、当家(たうけ)の御運(ごうん)とこそ覚(おぼえ)て候へ。急(いそぎ)思召立(おぼしめしたた)せ給(たまひ)候はゞ、前代(ぜんだい)の余類(よるゐ)十方より馳参(はせまゐつ)て、天下を覆(くつがへ)さん事(こと)、一日を不可出。」とぞ勧(すす)め申(まうし)ける。公宗卿(きんむねきやう)げにもと被思ければ、時興(ときおき)を京都の大将として、畿内近国(きないきんごく)の勢(せい)を被催。其甥(そのをひ)相摸次郎時行(ときゆき)をば関東(くわんとう)の大将として、甲斐(かひ)・信濃(しなの)・武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の勢を付(つけ)らる。名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)をば北国の大将として、越中・能登・加賀の勢をぞ被集ける。如此諸方の相図(あひづ)を同時に定(さだめ)て後(のち)、西の京(きやう)より番匠(ばんじやう)数(あま)た召寄(めしよせ)て、俄に温殿(ゆどの)をぞ被作ける。其襄場(そのあがりば)に板(いた)を一間(ひとま)蹈(ふ)めば落(おつ)る様(やう)に構(かま)へて、其(その)下に刀の簇(ひし)を被殖たり。是(これ)は主上(しゆしやう)御遊(ぎよいう)の為に臨幸(りんかう)成(なり)たらんずる時、華清宮(くわせいきゆう)の温泉(をんせん)に准(なぞら)へて、浴室(よくしつ)の宴(えん)を勧(すす)め申(まうし)て、君を此(この)下へ陥入奉(おとしいれたてまつ)らん為の企(くはだて)也(なり)。加様(かやう)に様々(さまざま)の謀(はかりこと)を定(さだ)め兵(つはもの)を調(ととのへ)て、「北山(きたやま)の紅葉(もみぢ)御覧(ごらん)の為に臨幸(りんかう)成(なり)候へ。」と被申ければ、則(すなはち)日を被定、行幸(ぎやうがう)の儀則(ぎそく)をぞ被調ける。已(すで)に明日午刻(うまのこく)に可有臨幸由(よし)、被相触たりける其夜(そのよ)、主上(しゆしやう)且(しばら)く御目睡有(おんまどろみあり)ける御夢(おんゆめ)に、赤袴(あかきはかま)に鈍色(にぶいろ)の二(ふた)つ衣(ぎぬ)著(き)たる女一人来(きたつ)て、「前には虎狼(こらう)の怒(いかれ)るあり。後(うし)ろには熊羆(いうひ)の猛(たけ)きあり、明日の行幸(ぎやうがう)をば思召留(おぼしめしとま)らせ給ふべし。」とぞ申(まうし)ける。主上(しゆしやう)御夢(おんゆめ)の中(うち)に、「汝(なんぢ)は何(いづ)くより来れる者ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「神泉園(しんぜんゑん)の辺(あたり)に多年住侍(すみはんべ)る者也(なり)。」と、答申(こたへまうし)て立帰(たちかへり)ぬと被御覧、御夢(おんゆめ)は無程覚(さめ)にけり。主上(しゆしやう)怪(あやし)き夢の告(つげ)也(なり)と被思召ながら、是(これ)まで事定(さだ)まりぬる臨幸(りんかう)、期(ご)に臨(のぞん)では如何(いかが)可被停と被思食ければ、遂(つひ)に鳳輦(ほうれん)を被促。乍去夢の告(つげ)怪(あや)しければとて、先(まづ)神泉苑(しんぜんゑん)に幸成(みゆきなつ)て、竜神(りゆうじん)の御手向有(おんたむけあり)けるに、池水(ちすゐ)俄に変(へん)じて、風不吹白浪(しらなみ)岸を打(うつ)事(こと)頻(しきり)也(なり)。主上(しゆしやう)是(これ)を被御覧弥(いよいよ)夢の告(つげ)怪(あやし)く被思召ければ、且(しばら)く鳳輦(ほうれん)を留(とどめ)て御思案(ごしあん)有(あり)ける処に、竹林院(ちくりんゐん)の中納言公重(きんしげ)卿(きやう)馳参(はせさん)じて被申けるは、「西園寺大納言公宗(きんむね)、隠媒(いんぼう)の企(くはたて)有(あつ)て臨幸(りんかう)を勧(すす)め申(まうす)由(よし)、只今或方(あるかた)より告示(つげしめし)候。是(これ)より急(いそぎ)還幸成(くわんかうなつ)て、橋本(はしもとの)中将(ちゆうじやう)俊季(としすゑ)、並(ならびに)春衡(はるひら)・文衡(ぶんひら)入道を被召て、子細(しさい)を御尋(おんたづね)候べし。」と被申ければ、君去夜(さんぬるよ)の夢告(ゆめつげ)の、今日の池水(ちすゐ)の変(へん)ずる態(わざ)、げにも様(やう)ありと思召合(おぼしめしあはせ)て、軈(やが)て還幸成(なり)にけり。則(すなはち)中院(なかのゐん)の中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)に結城(ゆふき)判官(はうぐわん)親光(ちかみつ)・伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)を差副(さしそへ)て、「西園寺の大納言公宗(きんむね)卿(きやう)・橋本(はしもとの)中将(ちゆうじやう)俊季(としすゑ)・並(ならびに)文衡(ぶんひら)入道を召取(めしとつ)て参れ。」とぞ被仰下ける。勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)、其(その)勢(せい)二千(にせん)余騎(よき)、追手(おふて)搦手(からめて)より押寄(おしよせ)て、北山殿(きたやまどの)の四方(しはう)を七重(ななへ)八重(やへ)にぞ取巻(とりまき)ける。大納言殿(だいなごんどの)、早(はや)此間(このあひだ)の隠謀(いんぼう)顕(あらは)れけりと思(おもひ)給ふ。されば中々(なかなか)騒(さわぎ)たる気色もなし。事の様(やう)をも知(しら)ぬ北御方(きたのおんかた)・女房達(にようばうたち)・侍(さぶらひ)共(ども)はこは如何なる事ぞやと、周章(あわて)ふためき逃倒(にげたふ)る。御弟(おんおとと)俊季朝臣(としすゑあそん)は、官軍(くわんぐん)の向(むかひ)けるを見て、心早(はやき)人なりければ、只一人抽(ぬきんで)て、後(うしろ)の山より何地(いづち)ともなく落給(おちたまひ)にけり。定平(さだひら)朝臣先(まづ)大納言殿(だいなごんどの)に対面(たいめん)有(あつ)て、穏(おだやか)に事の子細(しさい)を被演ければ、大納言殿(だいなごんどの)涙を押(おさ)へて宣(のたまひ)けるは、「公宗(きんむね)不肖(ふせう)の身なりといへども、故中宮(こちゆうぐう)の御好(おんよしみ)に依(よつ)て、官禄(くわんろく)共(とも)に人に不下、是(これ)偏(ひとへ)に明王慈恵(みやうわうじけい)の恩幸(おんかう)なれば、争(いかで)か居陰折枝、汲流濁源志可存候。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、当家数代(たうけすだい)の間官爵(くわんしやく)人に超(こ)へ、恩禄(おんろく)身に余れる間、或(あるひ)は清花(せいぐわ)の家是(これ)を妬(ねた)み、或(あるひ)は名家(めいか)の輩(ともがら)是(これ)を猜(そねん)で、如何様(いかさま)種々(しゆじゆ)の讒言(ざんげん)を構(かま)へ、様々(さまざま)の虚説(きよぜつ)を成(なし)て、当家(たうけ)を失(うしな)はんと仕る歟(か)とこそ覚(おぼえ)て候へ。乍去天鑑真、虚名(きよめい)いつまでか可掠上聞候なれば、先(まづ)召(めし)に随(したがつ)て陣下(ぢんか)に参じ、犯否(ぼんび)の御糺明(きうめい)を仰(あふ)ぎ候べし。但(ただし)俊季(としすゑ)に於(おいて)は、今朝已(すで)に逐電候(ちくてんさふらひ)ぬる間召具(めしぐ)するに不及。」とぞ宣(のたまひ)ける。官軍共(くわんぐんども)是(これ)を聞(きい)て、「さては橋本(はしもとの)中将殿(ちゆうじやうどの)を隠(かく)し被申にてこそあれ。御所中(ごしよちゆう)を能々(よくよく)見奉れ。」とて数千(すせん)の兵共(つはものども)殿中(でんちゆう)に乱入(みだれいつ)て、天井塗篭(てんじやうぬりこめ)打破(うちやぶり)、翠簾几帳(すゐれんきちやう)を引落(ひきおと)して、無残処捜(さがし)けり。依之(これによつて)只今まで可有紅葉の御賀とて楽絃(がくげん)を調(しら)べつる伶人(れいじん)、装束(しやうぞく)をも不脱、東西に逃迷(にげまよ)ひ、見物の為とて群(ぐん)をなせる僧俗男女、怪(あやし)き者歟(か)とて、多く被召捕不慮(ふりよ)に刑戮(けいりく)に逢(あひ)けり。其辺(そのへん)の山の奥(おく)、岩(いは)のはざま迄(まで)、若(もし)やと猶(なほ)捜(さがし)けれども、俊季(としすゑ)朝臣遂(つひ)に見へ給はざりければ、官軍(くわんぐん)無力、公宗(きんむね)卿(きやう)と文衡(ぶんひら)入道とを召捕奉(めしとりたてまつ)て、夜中に京(きやう)へぞ帰(かへり)ける。大納言殿(だいなごんどの)をば定平(さだひら)朝臣の宿所に、一間(ひとま)なる所を攻篭(つめろう)の如(ごとく)に拵(こしらへ)て、押篭(おしこめ)奉る。文衡(ぶんひら)入道をば結城(ゆふき)判官(はうぐわん)に被預、夜昼(よるひる)三日まで、上(あげ)つ下(おろし)つ被拷問けるに、無所残白状(はくじやう)しければ、則(すなはち)六条河原(ろくでうかはら)へ引出(ひきいだ)して、首(くび)を被刎けり。公宗(きんむね)をば伯耆守(はうきのかみ)長年(ながとし)に被仰付、出雲(いづもの)国(くに)へ可被流と、公儀(こうぎ)已(すで)に定(さだま)りにけり。明日必(かならず)配所(はいしよ)へ赴き給(たまふ)べしと、治定(ぢてい)有(あり)ける其夜(そのよ)、中院(なかのゐん)より北(きた)の御方(おんかた)へ被告申ければ、北(きた)の方(かた)忍(しのび)たる体(てい)にて泣々(なくなく)彼(かし)こへ坐(おは)したり。暫(しばら)く警固(けいご)の武士(ぶし)をのけさせて、篭(ろう)の傍(あた)りを見給へば、一間(ひとま)なる所の蜘手(くもで)密(きびし)く結(ゆう)たる中(なか)に身を縮(ちぢ)めて、起伏(おきふし)もなく泣沈(なきしづ)み給(たまひ)ければ、流るゝ泪(なみだ)袖に余(あま)りて、身も浮く許(ばかり)に成(なり)にけり。大納言殿(だいなごんどの)北(きた)の方(かた)を一目(ひとめ)見給(たまひ)て、いとゞ泪(なみだ)に咽(むせ)び、云出(いひいだ)し給へる言葉(ことのは)もなし。北(きた)の方(かた)も、「こは如何に成(なり)ぬる御有様(おんありさま)ぞや。」と許(ばかり)涙(なみだ)の中(うち)に聞(きこ)へて、引(ひき)かづき泣伏(なきふし)給ふ。良(やや)暫有(しばらくあつ)て、大納言殿(だいなごんどの)泪(なみだ)を押(おさ)へて宣(のたまひ)けるは、「我(わが)身かく引(ひく)人もなき捨小舟(すてをぶね)の如く、深罪(ふかきつみ)に沈(しづ)みぬるに付(つい)ても、たゞならぬ御事(おんこと)とやらん承(うけたまは)りしかば、我故(われゆゑ)の物思(ものおも)ひに、如何(いか)なる煩(わづら)はしき御心地(おんここち)かあらんずらんと、それさへ後の闇路(やみぢ)の迷(まよひ)と成(なり)ぬべう覚(おぼえ)てこそ候へ。若(もし)それ男子(なんし)にても候はゞ、行末(ゆくすゑ)の事思捨(おもひすて)給はで、哀(あはれ)みの懐(ふところ)の中に人となし給(たまふ)べし。我家(わがいへ)に伝(つたふ)る所の物なれば、見ざりし親の忘形見(わすれがたみ)ともなし給へ。」とて、上原(しやうげん)・石上(せきしやう)・流泉(りうせん)・啄木(たくぼく)の秘曲(ひきよく)を被書たる琵琶の譜(ふ)を一帖(いちでふ)、膚(はだ)の護(まぶり)より取出(とりいだ)し玉(たまひ)て、北(きた)の方(かた)に手(てづ)から被渡けるが、側(そば)なる硯(すずり)を引寄(ひきよせ)て、上巻(うはまき)の紙に一首(いつしゆ)の歌を書(かき)給ふ。哀(あはれ)なり日影(ひかげ)待(まつ)間(ま)の露の身に思(おもひ)をかるゝ石竹(なでしこ)の花硯の水に泪(なみだ)落(おち)て、薄墨(うすずみ)の文字さだかならず、見る心地(ここち)さへ消(きえ)ぬべきに、是(これ)を今はの形見(かたみ)とも、泪(なみだ)と共に留玉(とどめたま)へば、北(きた)の御方(おんかた)はいとゞ悲(かなし)みを被副て中々(なかなか)言葉(ことのは)もなければ、只顔をも不擡泣(なき)給ふ。去(さる)程(ほど)に追立(おつたて)の官人(くわんにん)来(きたつ)て、「今夜先(まづ)伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)が方へ渡し奉(たてまつ)て暁(あかつき)配所(はいしよ)へ可奉下。」と申(まうし)ければ、頓(やが)て物騒(ものさわが)しく成(なつ)て、北方(きたのかた)も傍(あたり)へ立隠給(たちかくれたまひ)ぬ。さても猶(なほ)今より後の御有様(おんありさま)如何(いかが)と心苦(くるしく)覚(おぼえ)て、透垣(すいがき)の中に立紛(たちまぎれ)て見玉(みたま)へば、大納言殿(だいなごんどの)を請取進(うけとりまゐらせ)んとて、長年物具(もののぐ)したる者共(ものども)二三百人(にさんびやくにん)召具(めしぐ)して、庭上(ていじやう)に並居(なみゐ)たり。余(あま)りに夜(よ)の深候(ふけさふらひ)ぬると急(いそぎ)ければ、大納言殿(だいなごんどの)縄取(なはとり)に引(ひか)へられて中門(ちゆうもん)へ出(いで)玉ふ。其(その)有様を見給(たまひ)ける北(きた)の御方(おんかた)の心の中(うち)、譬(たと)へて云はん方もなし。既(すで)に庭上に舁居(かきすゑ)たる輿(こし)の簾(すだれ)を掲(かかげ)て乗(の)らんとし給(たまひ)ける時、定平(さだひら)朝臣長年に向(むかつ)て、「早(はや)。」と被云けるを、「殺(ころ)し奉れ。」との詞(ことば)ぞと心得て、長年、大納言に走懸(はしりかかつ)て鬢髪(びんのかみ)を掴(つかん)で覆(うつぶし)に引伏(ひきふ)せ、腰(こしの)刀を抜(ぬい)て御頚(おんくび)を掻落(かきおと)しけり。下(しも)として上(かみ)を犯(をかさ)んと企(くはだつ)る罰(ばつ)の程こそ恐(おそろ)しけれ。北(きた)の方(かた)は是(これ)を見給(たまひ)て、不覚あつとをめいて、透垣(すいがき)の中に倒(たふ)れ伏(ふし)給ふ。此侭(このまま)頓(やが)て絶(たえ)入り給(たまひ)ぬと見へければ、女房達(にようばうたち)車に扶乗奉(たすけのせたてまつ)て、泣々(なくなく)又北山(きたやま)殿(どの)へ帰(かへ)し入れ奉る。さしも堂上(だうじやう)堂下(だうか)雲の如(ごとく)なりし青侍官女(せいしくわんぢよ)、何地(いづち)へか落行(おちゆき)けん。人一人も不見成(なつ)て、翠簾几帳(すゐれんきちやう)皆被引落たり。常の御方(おんかた)を見給へば、月の夜(よ)・雪の朝(あした)、興(きよう)に触(ふれ)て読棄(よみすて)給へる短冊共(たんじやくども)の、此彼(ここかしこ)に散乱(ちりみだれ)たるも、今はなき人の忘形見(わすれがたみ)と成(なつ)て、そゞろに泪(なみだ)を被催給ふ。又夜(よん)の御方(おんかた)を見給へば、旧(ふる)き衾(ふすま)は留(とどまつ)て、枕ならべし人はなし。其面影(そのおもかげ)はそれながら、語(かたり)て慰(なぐさ)む方もなし。庭(には)には紅葉(もみぢ)散敷(ちりしい)て、風の気色(けしき)も冷(すさまじ)きに、古き梢(こずゑ)の梟(ふくろの)声、けうとげに啼(ない)たる暁(あかつき)の物さびしさ、堪(たへ)ては如何(いかが)と住(すみ)はび給へる処に、西園寺(さいをんじ)の一跡(いつせき)をば、竹林院(ちくりんゐん)中納言公重(きんしげ)卿(きやう)賜(たまは)らせ給(たまひ)たりとて、青侍共(あをさぶらひども)数(あま)た来(きたつ)て取貸(とりまかな)へば、是(これ)さへ別(わかれ)の憂数(うきかず)に成(なつ)て、北(きた)の御方(おんかた)は仁和寺(にんわじ)なる傍(かたはら)に、幽(かすか)なる住所(すみところ)尋出(たづねいだ)して移(うつり)玉ふ。時しもこそあれ、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の百箇日(ひやくかにち)に当(あた)りける日、御産(ごさん)事故無(ことゆゑなく)して、若君生(うま)れさせ玉へり。あはれ其(その)昔ならば、御祈(おんいのり)の貴僧高僧歓喜(くわんき)の眉(まゆ)を開(ひら)き、弄璋(ろうしやう)の御慶(ぎよけい)天下に聞(きこ)へて門前の車馬(しやば)群(ぐん)を可成に、桑(くは)の弓引(ひく)人もなく、蓬(よもぎ)の矢射(い)る所もなきあばら屋(や)に、透間(すきま)の風冷(すさま)じけれども、防(ふせ)ぎし陰(かげ)もかれはてぬれば、御乳母(おんめのと)なんど被付までも不叶、只母上(ははうへ)自(みづから)懐(いだ)きそだて給へば、漸(やうや)く故(こ)大納言殿(だいなごんどの)に似(に)給へる御顔つきを見(み)玉ふにも、「形見(かたみ)こそ今はあたなれ是(これ)なくば忘(わす)るゝ時もあらまし物を。」と古人(いにしへびと)の読(よみ)たりしも、泪(なみだ)の故(ゆゑ)と成(なり)にけり。悲歎(ひたん)の思(おもひ)胸に満(みち)て、生産(うぶや)の筵(むしろ)未乾、中院(なかのゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)の許(もと)より、以使、「御産(ごさん)の事に付(つい)て、内裡(だいり)より被尋仰事候。もし若君にても御渡(おんわたり)候はゞ、御乳母(おんめのと)に懐(いだ)かせて、是(これ)へ先(まづ)入進(いれまゐらせ)られ候へ。」と被仰ければ、母上(ははうへ)、「あな心憂(こころう)や、故(こ)大納言(だいなごん)の公達(きんだち)をば、腹の中(なか)までも開(あけ)て可被御覧聞(きこ)へしかば、若君(わかぎみ)出来(いでき)させ給(たまひ)ぬと漏聞(もれきこ)へけるにこそ有(あり)けれ。歎(なげき)の中(うち)にも此(この)子をそだてゝこそ、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の忘形見(わすれがたみ)とも見、若(もし)人とならば僧にもなして、無跡(なきあと)をも問(とは)せんと思(おもひ)つるに、未だ乳房(ちぶさ)も離(はなれ)ぬみどり子を、武士(もののふ)の手に懸(かけ)て被失ぬと聞(きい)て、有(あり)し別(わかれ)の今の歎(なげき)に、消(きえ)はびん露の命(いのち)を何(なに)に懸(かけ)てか可堪忍。あるを限(かぎり)の命だに、心に叶ふ者ならで、斯(かか)る憂(うき)事(こと)をのみ見聞く身こそ悲しけれ。」と泣(なき)沈み給(たまひ)ければ、春日(かすが)の局(つぼね)泣々(なくなく)内(うち)より御使(おんつかひ)に出合給(いであひたまひ)て、「故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の忘形見(わすれがたみ)の出来(いでき)させ給(たまひ)て候(さふらひ)しが、母上(ははうへ)のたゞならざりし時節(をりふし)限(かぎり)なき物思(おもひ)に沈(しづみ)給ふ故(ゆゑ)にや、生(うま)れ落(おち)玉ひし後、無幾程はかなく成給(なりたまひ)候。是(これ)も咎(とが)有(あり)し人の行(ゆく)ゑなれば、如何(いか)なる御沙汰(ごさた)にか逢(あひ)候はんずらんと、上(うへ)の御尤(おんとがめ)を怖(おそれ)て、隠(かく)し侍(はんべ)るにこそと被思召事も候(さふらひ)ぬべければ、偽(いつはり)ならぬしるしの一言を、仏神(ぶつじん)に懸(かけ)て申入(まうしいれ)候べし。」とて、泣々(なくなく)消息(せうそく)を書(かき)給ひ、其(その)奥に、
偽(いつはり)を糺(ただす)の森に置(おく)露(つゆ)の消(きえ)しにつけて濡(ぬ)るゝ袖哉(かな)
使(つかひ)此(この)御文を持(もつ)て帰(かへ)り参(まゐ)れば、定平(さだひら)泪(なみだ)を押(おさ)へて奏覧(そうらん)し給ふ。此(この)一言に、君も哀(あはれ)とや思召(おぼしめさ)れけん、其(その)後は御尋(おんたづね)もなかりければ、うれしき中に思ひ有(あつ)て、焼野(やけの)の雉(きぎす)の残る叢(くさむら)を命にて、雛(ひな)を育(はごくむ)らむ風情(ふぜい)にて、泣(なく)声をだに人に聞(きか)せじと、口を押(おさ)へ乳(ち)を含(ふくめ)て、同枕(おなじまくら)の忍(しの)びねに、泣明(なきあか)し泣暮(なきくら)して、三年(みとせ)を過(すご)し給(たまひ)し心の中(うち)こそ悲しけれ。其後(そののち)建武(けんむ)の乱出来(いでき)て、天下将軍の代(よ)と成(なり)しかば、此(この)人朝(てう)に仕へて、西園寺(さいをんじ)の跡(あと)を継給(つぎたまひ)し、北山の右大将(うだいしやう)実俊(さねとし)卿(きやう)是(これ)也(なり)。さても故(こ)大納言殿(だいなごんどの)滅(ほろ)び給ふべき前表(ぜんべう)のありけるを、木工頭(もくのかみ)孝重(たかしげ)が兼(かね)て聞(きき)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。彼(かの)卿(きやう)謀叛(むほん)の最初(さいしよ)、祈祷(きたう)の為に一七日(ひとなぬか)北野に参篭(さんろう)して、毎夜(まいよ)琵琶(びは)の秘曲(ひきよく)を弾(だん)じ給(たまひ)けるが、七日(なぬか)に満(まん)じける其夜(そのよ)は、殊更(ことさら)聖廟(せいべう)の法楽(ほふらく)に備(そなふ)べき為とや被思けん。月冷(すさまじ)く風秋(ひややか)なる小夜深方(さよふけがた)に、翠簾(すゐれん)を高く捲上(まきあげ)させて、玉樹(ぎよくじゆ)三女の序(じよ)を弾(だん)じ給ふ。「第一(だいいち)・第二(だいにの)絃(げんは)索々(さくさくたり)秋(あきの)風払松疎韻(そゐん)落(おつ)。第三(だいさん)・第四(だいしの)絃(げんは)冷々(れいれいたり)夜鶴(よるのつる)憶子篭(この)中(うちに)鳴(なく)、絃々(げんげん)掩抑(えんよく)只拍子(ひやうし)に移る。六反(ろくへん)の後(のち)の一曲(いつきよく)、誠(まこと)に嬰児(えいじ)も起(たつ)て舞許(まふばかり)也(なり)。時節(をりふし)木工頭(もくのかみ)孝重(たかしげ)社頭(しやとう)に通夜(つや)して、心を澄(すま)し耳を側(そばだて)て聞(きき)けるが、曲終(はて)て後に、人に向(むかつ)て語りけるは、「今夜の御琵琶(びは)祈願(きぐわん)の御事(おんこと)有(あつ)て遊(あそ)ばさるゝならば、御願(ごぐわん)不可成就。其故(そのゆゑ)は此玉樹(このぎよくじゆ)と申(まうす)曲(きよく)は、昔晉(しん)の平公(へいこう)濮水(ぼくすゐ)の辺(ほとり)を過給(すぎたまひ)けるに、流るゝ水の声に絃管(げんくわん)の響(ひびき)あり。平公(へいこう)則(すなはち)師涓(しけん)と云(いふ)楽人(がくにん)を召(めし)て、琴(こと)の曲(きよく)に移(うつ)さしむ。其(その)曲殺声(さつせい)にして、聞人(きくひと)泪(なみだ)を不流云(いふ)事(こと)なし。然共(しかれども)平公(へいこう)是(これ)を愛(あい)して、専(もつぱら)楽絃(がくげん)に用(もちゐ)給ひしを、師曠(しくわう)と云(いひ)ける伶倫(れいりん)、此曲(このきよく)を聴(きき)て難(なん)じて奏(そう)しけるは、「君是(これ)を弄(もてあそ)び玉(たま)はゞ、天下一(ひと)たび乱(みだれ)て、宗廟(そうべう)全(まつた)からじ。如何(いかん)となれば、古(いにし)へ殷(いん)の紂王(ちうわう)彼婬声(かのいんせい)の楽(がく)を作(なし)て弄(もてあそ)び給(たまひ)しが、無程周(しう)の武王に被滅給(たまひ)き。其魂魄(そのこんばく)猶(なほ)濮水(ぼくすゐ)の底(そこ)に留(とどまつ)て、此(この)曲を奏(そう)するを、君今新楽(しんがく)に写(うつ)して、是(これ)を翫(もてあそ)び給ふ。鄭声(ていせい)雅(が)を乱(みだ)る故(ゆゑ)に一唱(いつしやう)三歎(さんたん)の曲に非(あら)ず。」と申(まうし)けるが、果(はた)して平公(へいこう)滅(ほろ)びにけり。其(その)後此楽(このがく)猶(なほ)止(やま)ずして、陳(ちん)の代(よ)に至る。陳(ちん)の後主(こうしゆ)是(これ)を弄(もてあそん)で、隋(ずゐ)の為に被滅ぬ。隋(ずゐ)の煬帝(やうたい)又是(これ)を翫(もてあそ)ぶ事甚(はなはだしく)して唐(たう)の太宗(たいそう)に被滅ぬ。唐の末(すゑ)の代(よ)に当(あたつ)て、我朝(わがてう)の楽人(がくじん)掃部頭(かもんのかみ)貞敏(さだとし)、遣唐使(けんたうし)にて渡(わたり)たりしが、大唐(だいたう)の琵琶(びは)の博士(はかせ)廉承夫(れんせふふ)に逢(あう)て、此(この)曲を我朝(わがてう)に伝来(でんらい)せり。然(しかれ)ども此(この)曲に不吉の声(ね)有(あり)とて、一手(ひとて)を略(りやく)せる所あり。然(しかる)を其夜(そのよ)の御法楽(ほふらく)に、宗(むね)と此(この)手を引(ひき)給ひしに、然(しか)も殊(こと)に殺発(さつばつ)の声(ね)の聞(きこ)へつるこそ、浅増(あさまし)く覚(おぼ)へ侍(はんべ)りけれ、八音(はちいんと)与政通(つう)ずといへり。大納言殿(だいなごんどの)の御身(おんみ)に当(あたつ)て、いかなる煩(わづらひ)か出来(いでく)らん。」と、孝重(たかしげ)歎(なげき)て申(まうし)けるが、無幾程して、大納言殿(だいなごんどの)此死刑(このしけい)に逢(あひ)給ふ。不思議(ふしぎ)也(なり)ける前相(ぜんさう)也(なり)。
○中前代(なかせんだい)蜂起(ほうきの)事(こと) S1304
今天下一統(いつとう)に帰(き)して、寰中(くわんちゆう)雖無事、朝敵の余党(よたう)猶(なほ)東国に在(あり)ぬべければ、鎌倉(かまくら)に探題(たんだい)を一人をかでは悪(あし)かりぬべしとて、当今(たうぎん)第八の宮(みや)を、征夷将軍になし奉(たてまつ)て、鎌倉(かまくら)にぞ置進(おきまゐら)せられける。足利(あしかが)左馬頭(さまのかみ)直義(ただよし)其執権(そのしつけん)として、東国の成敗(せいばい)を司(つかさど)れども、法令(はふれい)皆(みな)旧(ふるき)を不改。斯(かか)る処に、西園寺(さいをんじの)大納言(だいなごん)公宗(きんむね)卿(きやう)隠謀(いんぼう)露顕(ろけん)して被誅給(たまひ)し時、京都にて旗(はた)を挙(あげ)んと企(くはたて)つる平家の余類共(よるゐども)、皆(みな)東国・北国に逃下(にげくだつ)て、猶其素懐(そのそくわい)を達せん事を謀る。名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)には、野尻(のじり)・井口(ゐのくち)・長沢・倉満(くらみつ)の者共(ものども)、馳著(はせつき)ける間、越中・能登・加賀の勢共(せいども)、多く与力(よりき)して、無程六千(ろくせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。相摸(さがみ)次郎時行(ときゆき)には、諏訪(すは)三河(みかはの)守(かみ)・三浦(みうらの)介入道・同若狭(わかさの)五郎・葦名(あしな)判官(はうぐわん)入道・那和(なわ)左近(さこんの)大夫(たいふ)・清久(きよくの)山城(やましろの)守(かみ)・塩谷(しほのや)民部(みんぶの)大夫(たいふ)・工藤(くどう)四郎左衛門(しらうざゑもん)已下(いげ)宗(むね)との大名五十(ごじふ)余人(よにん)与(くみ)してげれば、伊豆・駿河(するが)・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共(せいども)不相付云(いふ)事(こと)なし。時行(ときゆき)其(その)勢(せい)を率(そつ)して、五万(ごまん)余騎(よき)、俄に信濃(しなのの)国(くに)に打越(こえ)て、時日(ときひ)を不替則(すなはち)鎌倉(かまくら)へ責上(せめのぼ)りける。渋河(しぶかは)刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)・小山(をやま)判官(はうぐわん)秀朝(ひでとも)武蔵(むさしの)国(くに)に出合(いであ)ひ、是(これ)を支(ささへ)んとしけるが、共に、戦(たたかひ)利(り)無(なう)して、両人所々(しよしよ)にて自害(じがい)しければ、其郎従(そのらうじゆう)三百(さんびやく)余人(よにん)、皆両所にて被討にけり。又新田(につた)四郎上野(こうづけの)国(くに)利根川(とねがは)に支(ささへ)て、是(これ)を防(ふせ)がんとしけるも、敵(てき)目(め)に余(あま)る程の大勢なれば、一戦(いつせん)に勢力を被砕、二百(にひやく)余人(よにん)被討にけり。懸(かか)りし後は、時行(ときゆき)弥(いよいよ)大勢に成(なつ)て、既(すで)に三方(さんぱう)より鎌倉(かまくら)へ押寄(おしよす)ると告(つげ)ければ、直義(ただよし)朝臣は事の急(きふ)なる時節(をりふし)、用意(ようい)の兵(つはもの)少(すくな)かりければ、角(かく)ては中々(なかなか)敵に利(り)を付(つけ)つべしとて、将軍の宮(みや)を具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、七月十六日の暁(あかつき)に、鎌倉(かまくら)を落給(おちたまひ)けり。
○兵部卿宮(ひやうぶきやうのみや)薨御(こうぎよの)事(こと)付(つけたり)干将莫耶(かんしやうばくやが)事(こと) S1305
左馬頭(さまのかみ)既(すで)に山の内を打過給(すぎたまひ)ける時、淵辺(ふちべ)伊賀(いがの)守(かみ)を近付(ちかづけ)て宣(のたまひ)けるは、「御方(みかた)依無勢、一旦(いつたん)鎌倉(かまくら)を雖引退、美濃・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の勢を催(もよほ)して、頓(やが)て又鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)んずれば、相摸次郎時行(ときゆき)を滅(ほろぼ)さん事は、不可回踵。猶も只当家(たうけ)の為に、始終(しじゆう)可被成讎は、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)也(なり)。此御事(このおこと)死刑(しけい)に行(おこな)ひ奉れと云(いふ)勅許(ちよくきよ)はなけれ共(ども)、此次(このついで)に只失(うしなひ)奉らばやと思ふ也(なり)。御辺(ごへん)は急(いそぎ)薬師堂(やくしだう)の谷(やつ)へ馳帰(はせかへつ)て、宮(みや)を刺殺(さしころ)し進(まゐ)らせよ。」と被下知ければ、淵辺(ふちべ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」とて、山の内(うち)より主従(しゆじゆう)七騎引返(ひきかへ)して宮の坐(ましまし)ける篭(ろう)の御所(ごしよ)へ参(まゐり)たれば、宮はいつとなく闇(やみ)の夜(よ)の如(ごとく)なる土篭(つちろう)の中に、朝(あした)に成(なり)ぬるをも知(しら)せ給はず、猶(なほ)灯(ともしび)を挑(かかげ)て御経あそばして御坐(ござ)有(あり)けるが、淵辺(ふちべ)が御迎(むかひ)に参(まゐり)て候由を申(まうし)て、御輿(おんこし)を庭に舁居(かきす)へたりけるを御覧(ごらん)じて、「汝(なんぢ)は我を失(うしなは)んとの使にてぞ有(ある)らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸(かか)らせ給(たまひ)けるを、淵辺持(もち)たる太刀を取直(とりなほ)し、御膝(おんひざ)の辺(あたり)をしたゝかに奉打。宮は半年許(ばかり)篭(ろう)の中に居屈(ゐかがま)らせ給(たまひ)たりければ、御足(あし)も快(こころよく)立(たた)ざりけるにや、御心(おんこころ)は八十梟(やたけ)に思召(おぼしめし)けれ共(ども)、覆(うつぶし)に被打倒、起挙(おきあが)らんとし給ひける処を、淵辺(ふちべ)御胸の上に乗(のり)懸り、腰の刀を抜(ぬい)て御頚(おんくび)を掻(かか)んとしければ、宮御頚(おんくび)を縮(ちぢめ)て、刀のさきをしかと呀(くはへ)させ給ふ。淵辺(ふちべ)したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進(まゐ)らせじと、引合ひける間、刀の鋒(きつさき)一寸余(あま)り折(をれ)て失(うせ)にけり。淵辺其(その)刀を投捨(なげすて)、脇差(わきざし)の刀を抜(ぬい)て、先(まず)御心(おんむな)もとの辺(へん)を二刀(ふたかたな)刺(さ)す。被刺て宮少し弱(よわ)らせ給ふ体(てい)に見へける処を、御髪を掴(つかん)で引挙(あ)げ、則(すなはち)御頚(おんくび)を掻(かき)落す。篭(ろう)の前に走出(はしりいで)て、明(あか)き所にて御頚(おんくび)を奉見、噬切(くひき)らせ給ひたりつる刀の鋒(きつさき)、未だ御口の中に留(とどまつ)て、御眼(まなこ)猶(なほ)生(いき)たる人の如し。淵辺是(これ)を見て、「さる事あり。加様(かやう)の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側(かたはら)なる薮(やぶ)の中へ投捨(なげすて)てぞ帰りける。去(さる)程(ほど)に御かいしやくの為(ために)、御前(おんまへ)に候(さふら)はれける南(みなみ)の御方(おかた)、此(この)有様を見奉(たてまつ)て、余(あまり)の恐(おそろ)しさと悲しさに、御身(おんみ)もすくみ、手足もたゝで坐(ましま)しけるが、暫(しばらく)肝(きも)を静(しづ)めて、人心付(つき)ければ、薮(やぶ)に捨(すて)たる御頚(おんくび)を取挙(とりあげ)たるに、御膚(おんはだ)へも猶(なほ)不冷、御目も塞(ふさが)せ給はず、只元(もと)の気色(きしよく)に見へさせ給へば、こは若(もし)夢にてや有(あ)らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣悲(なきかなし)み給ひけり。遥(はるか)に有(あつ)て理致光院(りちくわうゐん)の長老、「斯(かか)る御事(おんこと)と承及(うけたまはりおよび)候。」とて葬礼(さうれい)の御事(おんこと)取営(とりいとな)み給へり。南(みなみ)の御方(おんかた)は、軈(やが)て御髪被落ろて泣々(なくなく)京(きやう)へ上(のぼ)り給ひけり。抑(そもそも)淵辺が宮(みや)の御頚(おんくび)を取(とり)ながら左馬頭(さまのかみ)殿(どの)に見せ奉らで、薮(やぶ)の傍(かたはら)に捨(すて)ける事聊(いささか)思へる所あり。昔周(しう)の末(すゑ)の代(よ)に、楚王(そわう)と云(いひ)ける王、武(ぶ)を以て天下を取らん為に、戦(たたかひ)を習はし剣(けん)を好む事年久し。或(ある)時楚王の夫人(ふじん)、鉄(くろがね)の柱に倚傍(よりそひ)てすゞみ給(たまひ)けるが、心地(ここち)只ならず覚(おぼえ)て忽(たちまちに)懐姙(くわいにん)し玉(たまひ)けり。十月(とつき)を過(すぎ)て後、生産(うぶや)の席(せき)に苦(くるしん)で一(ひとつ)の鉄丸(てつぐわん)を産(うみ)給ふ。楚王是(これ)を怪しとし玉(たま)はず、「如何様(いかさま)是(これ)金鉄の精霊(せいれい)なるべし。」とて、干将(かんしやう)と云(いひ)ける鍛冶(かじ)を被召、此鉄(このくろがね)にて宝剣(はうけん)を作(つくつ)て進(まゐら)すべき由を被仰。干将此鉄(このくろがね)を賜(たまはつ)て、其妻(そのつま)の莫耶(ばくや)と共に呉山(ござん)の中に行(ゆき)て、竜泉(りゆうせん)の水に淬(にぶらし)て、三年が内に雌雄(しゆう)の二剣(にけん)を打出(うちいだ)せり。剣成(なつ)て未奏前(さき)に、莫耶(ばくや)、干将(かんしやう)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「此二(このふたつ)の剣(けん)精霊(せいれい)暗(あん)に通じて坐(ゐ)ながら怨敵(をんでき)を可滅剣也(なり)。我(われ)今懐姙(くわいにん)せり。産子(うむこ)は必(かならず)猛(たけ)く勇(いさ)める男なるべし。然れば一(ひとつ)の剣をば楚王に献(たてまつ)るとも今一(ひとつ)の剣をば隠(かく)して我子(わがこ)に可与玉。」云(いひ)ければ、干将(かんしやう)、莫耶(ばくや)が申(まうす)に付(つい)て、其雄剣(そのゆうけん)一(ひとつ)を楚王に献(けん)じて、一(ひとつ)の雌剣(しけん)をば、未だ胎内(たいない)にある子の為に深く隠(かく)してぞ置(おき)ける。楚王雄剣(ゆうけん)を開(ひらい)て見給ふに、誠(まこと)に精霊(せいれい)有(あり)と見へければ、箱の中に収(をさめ)て被置たるに、此剣(このけん)箱の中にして常に悲泣(ひきふ)の声あり。楚王怪(あやしみ)て群臣(ぐんしん)に其泣(そのなく)故(ゆゑ)を問(とひ)給ふに、臣皆申(まう)さく、「此剣(このけん)必(かならず)雄(ゆう)と雌(し)と二(ふた)つ可有。其(その)雌雄一所(いつしよ)に不在間、是(これ)を悲(かなしん)で泣(なく)者也(なり)。」とぞ奏(そう)しける。楚王大(おほき)に忿(いかつ)て、則(すなはち)干将を被召出、典獄(てんごく)の官に仰(おほせ)て首(くび)を被刎けり。其後(そののち)莫耶(ばくや)子を生(うめ)り。面貌(めんばう)尋常(よのつね)の人に替(かはつ)て長(たけ)の高(たかき)事(こと)一丈(いちぢやう)五尺(ごしやく)、力は五百人(ごひやくにん)が力を合(あは)せたり。面(おもて)三尺(さんじやく)有(あつ)て眉間(みけん)一尺(いつしやく)有(あり)ければ、世の人其(その)名を眉間尺(みけんじやく)とぞ名付(なづけ)ける。年十五に成(なり)ける時、父が書置(かきおき)ける詞(ことば)を見るに、日出北戸(ほつこにいづ)。南山其松。松生於石。剣在其中。と書(かけ)り。さては此剣(このけん)北戸(ほつこ)の柱の中に在(あり)と心得て、柱を破(はつ)て見るに、果(はた)して一(ひとつ)の雌剣(しけん)あり。眉間尺(みけんじやく)是(これ)を得て、哀(あはれ)楚王を奉討父の仇(あた)を報ぜばやと思ふ事骨髄(こつずゐ)に徹(とほ)れり。楚王も眉間尺(みけんじやく)が憤(いきどほり)を聞給(ききたまひ)て、彼(か)れ世にあらん程は、不心安被思ければ、数万(すまん)の官軍(くわんぐん)を差遣(さしつかは)して、是(これ)を被責けるに、眉間尺(みけんじやく)一人が勇力(ゆうりき)に被摧、又其雌剣(そのしけん)の刃(やいば)に触れて、死傷する者幾千万(いくせんまん)と云数(いふかず)を不知(しらず)。斯(かか)る処に、父干将(かんしやう)が古(いにし)への知音(ちいん)なりける甑山人(そうさんじん)来(きたつ)て、眉間尺(みけんじやく)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「我(わ)れ汝(なんぢ)が父干将と交(まじは)りを結ぶ事年久(ひさし)かりき。然れば、其朋友(そのほういう)の恩を謝(しや)せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝若(もし)父の仇(あた)を報ぜんとならば、持所(もつところ)の剣(けん)の鋒(きつさき)を三寸(さんずん)嚼切(くひきつ)て口の中に含(ふくん)で可死。我(われ)汝が頭(くび)を取(とつ)て楚王に献(けん)ぜば、楚王悦(よろこん)で必(かならず)汝が頭(くび)を見給はん時、口に含(ふく)める剣(けん)のさきを楚王に吹懸(ふきかけ)て、共(ともに)可死。」と云(いひ)ければ、眉間尺(みけんじやく)大(おほき)に悦(よろこん)で、則(すなはち)雌剣(しけん)の鋒(きつさき)三寸(さんずん)喫切(くひきつ)て、口の内に含(ふく)み、自(みづから)己(おのれ)が頭(くび)をかき切(きつ)て、客(かく)の前にぞ指置(さしおき)ける。客(かく)眉間尺(みけんじやく)が首(くび)を取(とつ)て、則(すなはち)楚王に献(たてまつ)る。楚王大(おほき)に喜(よろこび)て是(これ)を獄門(ごくもん)に被懸たるに、三月まで其頭(そのくび)不爛(ただれず)、■(みはり)目を、切歯を、常に歯喫(はがみ)をしける間、楚王是(これ)を恐(おそれ)て敢(あへ)て不近給。是(これ)を鼎(かなへ)の中(なか)に入れ、七日七夜までぞ被煮(にられ)ける。余(あまり)につよく被煮(にられ)て、此頭(このくび)少し爛(ただれ)て目を塞(ふさ)ぎたりけるを、今は子細(しさい)非(あら)じとて、楚王自(みづから)鼎(かなへ)の蓋(ふた)を開(あけさ)せて、是(これ)を見給(たまひ)ける時、此頭(このくび)、口に含(ふくん)だる剣(けん)の鋒(きつさき)を楚王にはつと奉吹懸。剣(けん)の鋒(きつさき)不誤、楚王の頚の骨(ほね)を切(きり)ければ、楚王の頭(くび)忽(たちまち)に落(おち)て、鼎(かなへ)の中へ入(いり)にけり。楚王の頭(くび)と眉間尺(みけんじやく)が首(くび)と、煎揚(にえあが)る湯の中(なか)にして、上(うへ)になり下(した)に成り、喫相(くひあひ)けるが、動(ややもすれ)ば眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)は下に成(なつ)て、喫負(くひまけ)ぬべく見へける間、客(かく)自(みづから)己(おのれ)が首(くび)を掻落(かきおとし)て鼎の中(なか)へ投入(なげいれ)、則(すなはち)眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)と相共(あいとも)に、楚王の頭(くび)を喫破(くひやぶつ)て、眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)は、「死して後(のち)父の怨(あた)を報じぬ。」と呼(よばは)り、客(かく)の頭(くび)は、「泉下(せんか)に朋友(ほういう)の恩を謝(しや)しぬ。」と悦ぶ声して、共に皆煮爛(にえただ)れて失(うせ)にけり。此(この)口の中に含(ふくん)だりし三寸(さんずん)の剣(けん)、燕(えん)の国に留(とどまつ)て太子丹(たいしたん)が剣(けん)となる。太子丹(たいしたん)、荊軻(けいか)・秦舞陽(しんぶやう)をして秦始皇(しんのしくわう)を伐(うた)んとせし時、自(みづから)差図(さしづ)の箱の中(なか)より飛出(とびいで)て、始皇帝(しくわうてい)を追(おひ)奉りしが、薬の袋を被投懸ながら、口(くち)六尺の銅(あかがね)の柱の半(なか)ばを切(きつ)て、遂(つひ)に三(みつつ)に折(をれ)て失(うせ)たりし匕首(ひしゆ)の剣(けん)是(これ)也(なり)。其雌雄(そのしゆう)二(ふたつ)の剣(けん)は干将莫耶(かんしやうばくや)の剣(けん)と被云て、代々(だいだい)の天子の宝(たから)たりしが、陳代(ちんのよ)に至(いたつ)て俄に失(うせ)にけり。或(ある)時天に一(ひとつ)の悪星(あくせい)出(いで)て天下の妖(えう)を示す事あり。張華(ちやうくわ)・雷煥(らいくわん)と云(いひ)ける二人(ににん)の臣(しん)、楼台(ろうだい)に上(のぼつ)て此(この)星を見るに、旧獄門(ふるきごくもん)の辺(へん)より剣(けん)の光(ひかり)天に上(のぼつ)て悪星(あくせい)と闘(たたか)ふ気あり。張華怪(あやし)しで光の指(さ)す所を掘(ほら)せて見るに、件(くだん)の干将莫耶(かんしやうばくや)の剣土(つち)五尺(ごしやく)が下(した)に埋(うづも)れてぞ残りける。張華・雷煥是(これ)を取(とつ)て天子に献(たてまつ)らん為に、自(みづから)是(これ)を帯(たい)し、延平津(えんへいしん)と云(いふ)沢(さわ)の辺(へん)を通(とほり)ける時、剣(けん)自(みづから)抜(ぬけ)て水の中(なか)に入(いり)けるが、雌雄(しゆう)二(ふたつ)の竜(りゆう)と成(なつ)て遥(はるか)の浪(なみ)にぞ沈みける。淵辺(ふちべ)加様(かやう)の前蹤(ぜんしよう)を思(おもひ)ければ、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)の刀の鋒(きつさき)を喫切(くひき)らせ給(たまひ)て、御口の中に被含たりけるを見て、左馬(さまの)頭に近付(ちかづけ)奉らじと、其(その)御頚(おんくび)をば薮(やぶ)の傍(かたはら)に棄(すて)けるとなり。
○足利殿(あしかがどの)東国下向(とうごくげかうの)事(こと)付(つけたり)時行(ときゆき)滅亡(めつばうの)事(こと) S1306
直義(ただよし)朝臣は鎌倉(かまくら)を落(おち)て被上洛(しやうらく)けるが、其路次(そのろし)に於て、駿河(するがの)国(くに)入江庄(いりえのしやう)は、海道第一(だいいち)の難所(なんしよ)也(なり)。相摸次郎が与力(よりき)の者共(ものども)、若(もし)道をや塞(ふさが)んずらんと、士卒(じそつ)皆是(これを)危(あやふく)思へり。依之(これによつて)其所(そのところ)の地頭(ぢとう)入江(いりえ)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)春倫(はるとも)が許(もと)へ使を被遣て、可憑由を被仰たりければ、春倫(はるとも)が一族共(いちぞくども)、関東(くわんとう)再興(さいこう)の時到りぬと、料簡(れうけん)しける者共(ものども)は、左馬(さまの)頭を奉打、相摸次郎殿(さがみじらうどの)に馳参(はせまゐ)らんと云(いひ)けるを、春倫(はるとも)つく/゛\思案(しあん)して、「天下の落居(らくきよ)は、愚蒙(ぐもう)の我等(われら)が可知処に非(あら)ず。只義の向ふ所を思ふに、入江庄(いりえのしやう)と云(いふ)は、本(もと)徳宗領(とくそうりやう)にて有(あり)しを、朝恩(てうおん)に下(くだ)し賜(たまは)り、此(この)二三年が間、一家を顧(かへりみ)る事日来(ひごろ)に勝(まさ)れり。是(これ)天恩の上(うへ)に猶(なお)義を重ねたり。此(この)時争(いかで)か傾敗(けいはい)の弊(つひえ)に乗(のつ)て、不義の振舞(ふるまひ)を致さん。」とて、春倫(はるとも)則(すなはち)御迎(むかひ)に参じければ、直義(ただよし)朝臣不斜(なのめならず)喜(よろこび)て、頓(やが)て彼等(かれら)を召具(めしぐ)し、矢矯(やはぎ)の宿(しゆく)に陣(ぢん)を取(とつ)て、是(これ)に暫(しばらく)汗馬(かんば)の足を休(やす)め、京都へ早馬(はやむま)をぞ被立ける。依之(これによつて)諸卿議奏(ぎそう)有(あつ)て、急(いそぎ)足利(あしかが)宰相高氏(たかうぢ)卿(きやう)を討手(うつて)に可被下に定(さだま)りけり。則(すなはち)勅使(ちよくし)を以て、此(この)由を被仰下ければ、相公(しやうこう)勅使(ちよくし)に対して被申けるは、「去(さん)ぬる元弘の乱の始(はじめ)、高氏御方(みかた)に参ぜしに依(よつ)て、天下の士卒(じそつ)皆(みな)官軍(くわんぐん)に属(しよく)して、勝(かつ)事(こと)を一時に決候(けつしさふらひ)き。然(しかれ)ば今一統(いつとう)の御代(みよ)、偏(ひとへ)に高氏が武功(ぶこう)と可云。抑(そもそも)征夷将軍の任(にん)は、代々(だいだい)源平の輩(ともがら)功(こう)に依(よつ)て、其位(そのくらゐ)に居(きよ)する例不可勝計。此(この)一事(いちじ)殊(こと)に為朝為家、望み深き所也(なり)。次には乱(らん)を鎮(しづ)め治(ち)を致す以謀、士卒(じそつ)有功時節(をりふし)に、賞を行(おこなふ)にしくはなし。若(もし)註進(ちゆうしん)を経(へ)て、軍勢(ぐんぜい)の忠否(ちゆうび)を奏聞(そうもん)せば、挙達(ぎよたつ)道遠(とおく)して、忠戦(ちゆうせん)の輩(ともがら)勇(いさみ)を不可成。然れば暫(しばらく)東(とう)八箇国(はちかこく)の官領(くわんれい)を被許、直(ぢき)に軍勢(ぐんぜい)の恩賞を執行(とりおこな)ふ様(やう)に、勅裁(ちよくさい)を被成下、夜(よ)を日に継(つい)で罷下(まかりくだつ)て、朝敵(てうてき)を退治(たいぢ)仕るべきにて候。若(もし)此(この)両条勅許(ちよくきよ)を蒙(かうむら)ずんば、関東(くわんとう)征罰(せいばつ)の事(こと)、可被仰付他人候。」とぞ被申ける。此(この)両条は天下治乱(ちらん)の端(はし)なれば、君も能々(よくよく)御思案(ごしあん)あるべかりけるを、申請(まうしうく)る旨(むね)に任(まかせ)て、無左右勅許(ちよくきよ)有(あり)けるこそ、始終(しじゆう)如何(いかが)とは覚(おぼ)へけれ。但(ただし)征夷将軍の事は関東(くわんとう)静謐(せいひつ)の忠(ちゆう)に可依。東(とう)八箇国(はちかこく)の官領(くわんれい)の事は先(まづ)不可有子細とて、則(すなはち)綸旨(りんし)を被成下ける。是(これ)のみならず、忝(かたじけなく)も天子の御諱(おんいみな)の字(じ)を被下て、高氏(たかうぢ)と名のられける高の字を改めて、尊(そん)の字にぞ被成ける。尊氏(たかうぢ)卿(きやう)東(とう)八箇国(はちかこく)を官領(くわんれい)の所望(しよまう)、輒(たやす)く道行(ゆき)て、征夷将軍の事は今度の忠節(ちゆうせつ)に可依と勅約(ちよくやく)有(あり)ければ、時日(ときひ)を不回関東(くわんとう)へ被下向けり。吉良(きら)兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)を先立(さきだて)て、我(わが)身は五日引(ひき)さがりて進発(しんばつ)し給(たまひ)けり。都(みやこ)を被立ける日は其(その)勢(せい)僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)有(あり)しか共(ども)、近江(あふみ)・美濃・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の勢馳加(はせくははつ)て、駿河(するがの)国(くに)に著給(つきたまひ)ける時は三万(さんまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)、尊氏(たかうぢ)卿(きやう)の勢を合(あはせ)て五万(ごまん)余騎(よき)、矢矯(やはぎ)の宿(しゆく)より取(とつ)て返して又鎌倉(かまくら)へ発向(はつかう)す。相摸次郎時行(ときゆき)是(これ)を聞(きい)て、「源氏は若干(そくばく)の大勢と聞(きこ)ゆれば、待軍(まちいくさ)して敵に気を呑(のま)れては不叶。先(さきん)ずる時は人を制(せい)するに利(り)有(あり)。」とて、我(わが)身は鎌倉(かまくら)に在(あり)ながら、名越式部(なごやしきぶの)大輔(たいふ)を大将として、東海・東山(とうせん)両道を押(おし)て責上(せめのぼ)る。其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、八月三日鎌倉(かまくら)を立(たた)んとしける夜(よ)、俄(にはか)に大風吹(ふい)て、家々を吹破(ふきやぶり)ける間、天災(てんさい)を遁(のが)れんとて大仏殿(だいぶつでん)の中へ逃(にげ)入り、各(おのおの)身を縮(ちぢめ)て居(ゐ)たりけるに、大仏殿(だいぶつでん)の棟梁(とうりやう)、微塵(みぢん)に折(を)れて倒(たふ)れける間、其(その)内にあつまり居(ゐ)たる軍兵共五百(ごひやく)余人(よにん)、一人も不残圧(おし)にうてゝ死(し)にけり。戦場(せんぢやう)に趣(おもむ)く門出(かどで)にかゝる天災に逢ふ。此軍(このいくさ)はか/゛\しからじと、さゝやきけれ共(ども)、さて有(ある)べき事ならねば、重(かさね)て日を取り、名越式部(しきぶの)大輔(たいふ)鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、夜(よ)を日(ひ)に継(つい)で路(みち)を急(いそぎ)ける間、八月七日前陣(ぜんぢん)已(すで)に遠江(とほたふみ)佐夜(さよ)の中山(なかやま)を越(こえ)けり。足利相公(あしかがのしやうこう)此由(このよし)を聞給(ききたまひ)て、「六韜(りくたう)の十四変に、敵経長途来急可撃と云へり。是(これ)太公(たいこう)武王に教(をしふ)る所の兵法也(なり)。」とて、同(おなじき)八日の卯刻(うのこく)に平家の陣へ押寄(おしよせ)て、終日(ひねもす)闘(たたかひ)くらされけり。平家も此(ここ)を前途(せんど)と心を一(ひとつ)にして相当(あひあた)る事三十(さんじふ)余箇度(よかど)、入替々々(いれかへいれかへ)戦ひけるが、野心(やしん)の兵(つわもの)後(うしろ)に在(あつ)て、跡(あと)より引(ひき)けるに力を失(うしなつ)て、橋本(はしもと)の陣を引退(ひきしりぞ)き、佐夜(さよ)の中山(なかやま)にて支(ささ)へたり。源氏の真前(まつさき)には、仁木(につき)・細河(ほそかわ)の人々、命を義に軽(かろん)じて進みたり。平家の後陣には、諏方(すは)の祝部(はふり)身を恩に報じて、防(ふせぎ)戦ひけり。両陣牙(たがひ)に勇気を励(はげま)して、終日(ひねもす)相戦(あひたたかひ)けるが、平家此(ここ)をも被破(やぶられ)て、箱根(はこね)の水飲(みづのみ)の峠(たうげ)へ引退(ひきしりぞ)く。此(この)山は海道第一(だいいち)の難所(なんしよ)なれば、源氏無左右懸(かか)り得じと思(おもひ)ける処に、赤松(あかまつ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)、さしも嶮(けはし)き山路(やまぢ)を、短兵(たんへい)直(ただち)に進んで、敵(てき)の中へ懸入(かけいつ)て、前後(ぜんご)に当り、左右に激(げき)しける勇力に被払て、平家又此(この)山をも支(ささ)へず、大崩(おほくづれ)まで引退(ひきしりぞ)く。清久(きよく)山城(やましろの)守(かみ)返(かへ)し合(あは)せて、一足(ひとあし)も不引闘(たたかひ)けるが、源氏の兵に被組て、腹(はら)切る間もや無(なか)りけん、其(その)身は忽(たちまち)に被虜、郎従(らうじゆう)は皆被討にけり。路次(ろし)数箇度(すかど)の合戦に打負(うちまけ)て、平家やたけに思へ共(ども)不叶。相摸河を引越(こし)て、水を阻(へだて)て支へたり。時節(をりふし)秋の急雨(しぐれ)一通(ひととほ)りして、河水岸(きし)を浸(ひた)しければ、源氏よも渡(わた)しては懸(かか)らじと、平家少し由断(ゆだん)して、手負(ておひ)を扶け馬を休めて、敗軍(はいぐん)の士(し)を集めんとしける処に、夜に入(いつ)て、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)二千(にせん)余騎(よき)にて上(かみ)の瀬を渡し、赤松(あかまつ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)は中(なか)の瀬を渡し、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)と、長井(ながゐ)治部(ぢぶの)少輔は、下(しも)の瀬を渡して、平家の陣の後(うし)ろへ回(まは)り、東西に分れて、同時に時(とき)をどつと作る。平家の兵(つはもの)、前後(ぜんご)の敵に被囲て、叶はじとや思(おもひ)けん、一戦(いつせん)にも不及、皆鎌倉(かまくら)を指(さし)て引(ひき)けるが、又腰越(こしごえ)にて返(かへ)し合(あは)せて葦名(あしなの)判官(はうぐわん)も被討にけり。始(はじめ)遠江(とほたふみ)の橋本(はしもと)より、佐夜(さよ)の中山(なかやま)・江尻(えじり)・高橋・箱根山・相摸(さがみ)河・片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)・十間坂(じつけざか)、此等(これら)十七(じふしち)箇度(かど)の戦ひに、平家二万(にまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は疵(きず)を蒙(かうむ)りて、今僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)ければ、諏方(すは)三河(みかはの)守(かみ)を始(はじめ)として宗(むね)との大名四十三人(しじふさんにん)、大御堂(おほみだう)の内に走入(はしりい)り、同(おなじ)く皆自害(じがい)して名を滅亡(めつばう)の跡(あと)にぞ留(とど)めける。其死骸(そのしがい)を見るに、皆面の皮を剥(はい)で何(いづ)れをそれとも見分(みわけ)ざれば、相摸次郎時行(ときゆき)も、定(さだめ)て此(この)内にぞ在(ある)らんと、聞(きく)人哀(あは)れを催(もよほ)しけり。三浦介(みうらのすけ)入道一人は、如何(いかが)して遁(のが)れたりけん、尾張(をはりの)国(くに)へ落(おち)て、舟より挙(あが)りける所を、熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)是(これ)を生捕(いけどつ)て京都へ上(のぼ)せければ、則(すなはち)六条河原(ろくでうかはら)にて首を被刎けり。是(これ)のみならず、平家再興の計略(けいりやく)、時や未だ至(いた)らざりけん、又天命にや違(たが)ひけん。名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)が、北陸道(ほくろくだう)を打順(したが)へて、三万(さんまん)余騎(よき)にて京都へ責上(せめのぼり)けるも、越前と加賀との堺(さかひ)、大聖寺(だいしやうじ)と云(いふ)所にて、敷地(しきぢ)・上木(うへき)・山岸・瓜生(うりふ)・深町(ふかまち)の者共(ものども)が僅(わづか)の勢(せい)に打負(うちまけ)て、骨(ほね)を白刃(はくじん)の下に砕(くだ)き、恩を黄泉(くわうせん)の底(そこ)に報ぜり。時行(ときゆき)は已(すで)に関東(くわんとう)にして滅(ほろ)び、時兼(ときかぬ)は又北国にて被討し後(のち)は、末々(すゑずゑ)の平氏共(へいじども)、少々(せうせう)身を隠(かく)し貌(かたち)を替(かへ)て、此(ここ)の山(やま)の奥(おく)、彼(かしこ)の浦の辺にありといへ共(ども)、今は平家の立直(たちなほ)る事難有とや思(おもひ)けん、其(その)昔を忍(しの)びし人も皆怨敵(をんてき)の心を改(あらため)て、足利相公(あしかがのしやうこう)に属(しよく)し奉らずと云(いふ)者無(なか)りけり。さてこそ、尊氏(たかうぢ)卿(きやう)の威勢(ゐせい)自然(じねん)に重く成(なつ)て、武運(ぶうん)忽(たちまち)に開けゝれば、天下又武家の世とは成(なり)にけり。