太平記(国民文庫)
太平記巻第十一
○五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)宗繁(むねしげ)賺相摸太郎事 S1101
義貞已(すで)に鎌倉(かまくら)を定(しづめ)て、其威(そのゐ)遠近(ゑんきん)に振(ふる)ひしかば、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名・高家(かうけ)、手を束(つか)ね膝を不屈と云(いふ)者なし。多日属随(つきしたがひ)て忠を憑(たの)む人だにも如此。況(いはん)や只今まで平氏の恩顧(おんこ)に順(したがひ)て、敵陣に在(あり)つる者共(ものども)、生甲斐(いきがひ)なき命を続(つが)ん為に、所縁(しよえん)に属(しよく)し降人(かうにん)に成(なつ)て、肥馬(ひば)の前に塵(ちり)を望み、高門(かうもん)の外に地を掃(はい)ても、己(おのれ)が咎(とが)を補はんと思へる心根(こころね)なれば、今は浮世(うきよ)の望(のぞみ)を捨(すて)て、僧法師(そうほふし)に成(なり)たる平氏の一族(いちぞく)達(たち)をも、寺々より引出して、法衣(ほふえ)の上に血を淋(そそ)き、二度(ふたたび)は人に契(ちぎ)らじと、髪をゝろし貌(かたち)を替(かへ)んとする亡夫(ばうふ)の後室共(こうしつども)をも、所々より捜出(さがしいだ)して、貞女(ていぢよ)の心を令失。悲(かなしい)哉(かな)、義を専(もつばら)にせんとして、忽(たちまち)に死せる人は、永く修羅(しゆら)の奴(やつこ)と成(なつ)て、苦(くるしみ)を多劫(たごふ)の間(あひだ)に受けん事を。痛(いたはしい)哉(かな)、恥を忍(しのん)で苟(いやしく)も生(いく)る者は、立(たちどこ)ろに衰窮(すゐきゆう)の身と成(なつ)て、笑(わらひ)を万人の前に得たる事を。中にも五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)宗繁(むねしげ)は、故(こ)相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の重恩(ぢゆうおん)を与(あたへ)たる侍(さぶらひ)なる上、相摸(さがみ)入道(にふだう)の嫡子(ちやくし)相摸太郎邦時(くにとき)は、此(この)五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)が妹(いもうと)の腹に出来(いでき)たる子なれば、甥(をひ)也(なり)。主(しゆ)也(なり)。何(いづれ)に付(つけ)ても弐(ふたごこ)ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時(このくにとき)をば汝(なんぢ)に預置(あづけおく)ぞ、如何(いか)なる方便(てだて)をも廻(めぐら)し、是(これ)を隠し置き、時到(いた)りぬと見へば、取立(とりたて)て亡魂(ばうこん)の恨(うらみ)を可謝。」と相摸(さがみ)入道(にふだう)宣(のたまひ)ければ、宗繁、「仔細(しさい)候はじ。」と領掌(りやうじやう)して、鎌倉(かまくら)の合戦の最中(さいちゆう)に、降人(かうにん)にぞ成(なり)たりける。角(かく)て二三日を経(へ)て後、平氏悉(ことごとく)滅(ほろ)びしかば、関東(くわんとう)皆源氏の顧命(こめい)に随(したがつ)て、此彼(ここかしこ)に隠居(かくれゐ)たる平氏の一族共(いちぞくども)、数(あま)た捜出(いだ)されて、捕手(とりて)は所領(しよりやう)を預(あづか)り、隠せる者は忽(たちまち)に被誅事多し。五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)是(これ)を見て、いや/\果報(くわはう)尽(つき)はてたる人を扶持(ふち)せんとて適(たまたま)遁(のがれ)得たる命を失はんよりは、此(この)人の在所(ざいしよ)を知(しつ)たる由(よし)、源氏の兵(つはもの)に告(つぐ)て、弐(ふたごこ)ろなき所を顕(あらは)し、所領の一所(いつしよ)をも安堵(あんど)せばやと思(おもひ)ければ、或夜(あるよ)彼(かの)相摸太郎に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「是(これ)に御坐(ござ)の事は、如何なる人も知(しり)候はじとこそ存じて候に、如何(いかが)して漏(もれ)聞へ候(さふらひ)けん、船田(ふなだ)入道明日(みやうにち)是(これ)へ押寄候(おしよせさふらひ)て、捜し奉らんと用意(ようい)候由(よし)、只今或方(あるかた)より告知(つげしら)せて候。何様(なにさま)御座(ござ)の在所(ざいしよ)を、今夜替(かへ)候はでは叶(かなふ)まじく候。夜(よ)に紛(まぎ)れて、急ぎ伊豆(いづ)の御山(おやま)の方(かた)へ落(おち)させ給(たまひ)候へ。宗繁(むねしげ)も御伴(おんとも)申度(まうしたく)は存(ぞんじ)候へ共(ども)、一家(いつけ)を尽(つく)して落候(おちさふらひ)なば、船田入道、さればこそと心付(つき)て、何(いづ)くまでも尋求(たづねもとむ)る事も候はんと存じ候間、態(わざと)御伴(おんとも)をば申(まうす)まじく候。」と、誠(まこと)し顔(がほ)に成(なつ)て云(いひ)ければ、相摸太郎げにもと身の置所(おきどころ)なくて、五月二十七日(にじふしちにち)の夜半計(やはんばかり)に、忍(しのび)て鎌倉(かまくら)を落玉(おちたま)ふ。昨日(きのふ)までは天下の主(あるじ)たりし相摸(さがみ)入道(にふだう)の嫡子(ちやくし)にて有(あり)しかば、仮初(かりそめ)の物詣(ものまう)で・方違(かたたが)ひと云(いひ)しにも、御内(みうち)・外様(とざま)の大名共、細馬(さいば)に轡(くつばみ)を噛(かま)せて、五百騎(ごひやくき)・三百騎(さんびやくき)前後(ぜんご)に打囲(うちかこう)で社(こそ)往覆(わうふく)せしに、時移(うつり)事(こと)替(かはり)ぬる世の有様の浅猿(あさまし)さよ、怪(あや)しげなる中間(ちゆうげん)一人に太刀持(もた)せて、伝馬(てんま)にだにも乗らで、破(やれ)たる草鞋(わらぢ)に編笠(あみがさ)着(き)て、そこ共(とも)不知、泣々(なくなく)伊豆の御山(おやま)を尋(たづね)て、足に任(まかせ)て行(ゆき)給ひける、心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)は、加様(かやう)にして此(この)人をばすかし出(いだ)しぬ。我と打(うつ)て出(いだ)さば、年来(としごろ)奉公の好(よしみ)を忘(わすれ)たる者よと、人に指を被差つべし。便宜(びんぎ)好(よか)らんずる源氏の侍(さぶらひ)に討(うた)せて、勲功(くんこう)を分(わけ)て知行(ちぎやう)せばやと思(おもひ)ければ、急(いそぎ)船田入道が許(もと)に行(ゆき)て、「相摸の太郎殿(たらうどの)の在所(ざいしよ)をこそ、委(くはし)く聞出(ききいで)て候へ、他の勢(せい)を不交して、打(うつ)て被出候はゞ、定(さだめ)て勲功異他候はんか。告申(つげまうし)候忠(ちゆう)には、一所懸命(いつしよけんめい)の地を安堵仕(あんどつかまつ)る様(やう)に、御吹挙(ごすゐきよ)に預り候はん。」と云(いひ)ければ、船田入道、心中(しんちゆう)には悪(にく)き者の云様(いひやう)哉(かな)と乍思、「先(まづ)子細非じ。」と約束して、五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)諸共(もろとも)に、相摸太郎の落行(おちゆき)ける道を遮(さへぎつ)てぞ待(また)せける。相摸太郎道に相待(あひまつ)敵有(あり)とも不思寄、五月二十八日明(あけ)ぼのに、浅猿(あさまし)げなる■(やつ)れ姿(すがた)にて、相摸河を渡らんと、渡(わた)し守(もり)を待(まつ)て、岸の上に立(たち)たりけるを、五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)余所(よそ)に立(たつ)て、「あれこそ、すは件(くだん)の人よ。」と教(をしへ)ければ、船田が郎等(らうどう)三騎、馬より飛(とん)で下(お)り、透間(すきま)もなく生捕(いけどり)奉る。俄(にはか)の事にて張輿(はりごし)なんどもなければ、馬にのせ舟の縄(なは)にてしたゝかに是(これ)を誡(いまし)め、中間(ちゆうげん)二人(ににん)に馬の口を引(ひか)せて、白昼(はくちう)に鎌倉(かまくら)へ入れ奉る。是(これ)を見聞(みきく)人毎(ごと)に、袖をしぼらぬは無(なか)りけり。此(この)人未だ幼稚(えうち)の身なれば、何程の事か有(ある)べけれ共(ども)、朝敵(てうてき)の長男にてをはすれば、非可閣とて、則(すなはち)翌日(よくじつ)の暁(あかつき)、潛(ひそか)に首(くび)を刎(はね)奉る。昔程嬰(ていえい)が我(わが)子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲(よじやう)が貌(かたち)を変(へん)じて、旧君(きうくん)の恩を報ぜし、其(それ)までこそなからめ、年来(としごろ)の主を敵に打(うた)せて、欲心(よくしん)に義を忘れたる五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)が心の程、希有(けう)也(なり)。不道(ふだう)也(なり)と、見る人毎(ごと)に爪弾(つまはじき)をして悪(にく)みしかば、義貞げにもと聞給(ききたまひ)て、是(これ)をも可誅と、内々其儀(そのぎ)定まりければ、宗繁(むねしげ)是(これ)を伝聞(つたへきい)て、此彼(ここかしこ)に隠れ行きけるが、梟悪(けうあく)の罪(つみ)身を譴(せ)めけるにや、三界雖広一身(いつしん)を措(おく)に処なく故旧(こきう)雖多一飯(いつぱん)を与(あたふ)る無人して、遂(つひ)に乞食(こつじき)の如(ごとく)に成果(なりはて)て、道路の街(ちまた)にして、飢死(うゑじ)にけるとぞ聞へし。
○諸将被進早馬於船上事 S1102
都には五月十二日千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕朝臣(ただあきあそん)・足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)・赤松入道円心等(ゑんしんら)、追々(おひおひ)早馬を立(たて)て、六波羅(ろくはら)已(すで)に令没落之(ぼつらくせしむるの)由船上(ふなのうへ)へ奏聞(そうもん)す。依之(これによつて)諸卿僉議(せんぎ)あ(ッ)て、則(すなはち)還幸可成否(いなや)の意見を被献ぜ。時に勘解由次官(かげゆのじくわん)光守(みつもり)、諌言(かんげん)を以て被申けるは、「両六波羅(りやうろくはら)已(すで)に雖没落、千葉屋(ちはや)発向(はつかう)の朝敵等猶(なほ)畿内(きない)に満(みち)て、勢(いきほ)ひ京洛(きやうらく)を呑(の)めり。又賎(いやし)き諺(ことわざ)に、「東(とう)八箇国(はちかこく)の勢(せい)を以て、日本国の勢に対し、鎌倉中(かまくらぢゆう)の勢を以て、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢に対(たい)す」といへり。されば承久(しようきう)の合戦に、伊賀判官(いがのはうぐわん)光季(みつすゑ)を被追落し事は輒(たやす)かりしか共(ども)、坂東勢(ばんどうぜい)重(かさね)て上洛(しやうらく)せし時、官軍(くわんぐん)戦ひに負(まけ)て、天下久(ひさしく)武家の権威(けんゐ)に落(おち)ぬ。今一戦(いつせん)の雌雄(しゆう)を測(はか)るに、御方(みかた)は纔(わづか)に十〔に〕して其(その)一二を得たり。「君子(くんしは)不近刑人」と申(まうす)事(こと)候へば、暫(しばら)く只皇居(くわうきよ)を被移候はで、諸国へ綸旨(りんし)を被成下、東国の変違(へんゐ)を可被御覧ぜや候らん。」と被申ければ、当座(たうざ)の諸卿悉(ことごとく)此(この)議にぞ被同ける。而(しか)れども、主上(しゆしやう)猶(なほ)時宜(しぎ)定め難く被思召ければ、自(みづから)周易(しうえき)を披(ひら)かせ給(たまひ)て、還幸(くわんかう)の吉凶(きつきよう)を蓍筮(しぜい)に就(つけ)てぞ被御覧ける。御占師(おんうらなひの)卦(け)に出(いで)て云(いはく)、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終也(なり)。大君之命不失功也(なり)。開国承家、以寧邦也(なり)。小人勿用、非其道也(なり)。」と注(ちゆう)せり。御占(おんうらなひ)已(すで)に如此。此(この)上は何をか可疑とて、同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)伯耆(はうき)の舟上(ふなのうへ)を御立(おんたち)有(あつ)て、腰輿(えうよ)を山陰(せんおん)の東にぞ被催ける。路次(ろし)の行装(ぎやうさう)例(れい)に替(かは)りて、頭(とうの)大夫行房(ゆきふさ)・勘解由次官(かげゆのじくわん)光守(みつもり)二人(ににん)許(ばかり)こそ、衣冠(いくわん)にて被供奉けれ。其外(そのほか)の月卿雲客(げつけいうんかく)・衛府諸司(ゑふしよし)の助(すけ)は、皆戎衣(じゆうい)にて前騎後乗(ぜんきこうじよう)す。六軍(りくぐん)悉(ことごとく)甲冑(かつちう)を着(ちやく)し、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して、前後三十(さんじふ)余里(より)に支(ささ)へたり。塩冶(えんや)判官高貞は、千(せん)余騎(よき)にて、一日先立(さきだつ)て前陣を仕(つかまつ)る。又朝山(あさやま)太郎は、一日路(にちぢ)引殿(ひきおくれ)て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて後陣(ごぢん)に打(うち)けり。金持(かなぢの)大和(やまとの)守(かみ)、錦(にしき)の御旗(おんはた)を差(さし)て左に候(こう)し、伯耆守(はうきのかみ)長年(ながとし)は、帯剣(たいけん)の役(やく)にて右に副(そ)ふ。雨師(うし)道を清め、風伯(ふうはく)塵(ちり)を払ふ。紫微北辰(しびほくしん)の拱陣(きようぢん)も、角(かく)やと覚(おぼえ)て厳重也(なり)。されば去年の春隠岐(おきの)国(くに)へ被移させ給ひし時、そゞろに宸襟(しんきん)を被悩て、御泪(おんなみだ)の故(もと)と成(なり)し山雲海月の色、今は竜顔(りようがん)を令悦端(はし)と成(なつ)て、松吹(ふく)風も自(おのづか)ら万歳(ばんぜい)を呼ぶかと被奇、塩焼(しほやく)浦の煙(けぶり)まで、にぎわう民の竈(かまど)と成る。
○書写山(しよしやさん)行幸(ぎやうがうの)事(こと)付(つけたり)新田(につた)注進(ちゆうしんの)事(こと) S1103
五月二十七日(にじふしちにち)には、播磨国(はりまのくに)書写山へ行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、先年の御宿願(しゆくぐわん)を被果、諸堂御順礼(ごじゆんれい)の次(つぎ)に、開山(かいさん)性空上人(しやうぐうしやうにん)の御影堂(みえいだう)を被開に、年来(としごろ)秘(ひ)しける物と覚(おぼえ)て、重宝(ちようはう)ども多かりけり。当寺の宿老(しゆくらう)を一人召(めし)て、「是(これ)は如何なる由緒(ゆゐしよ)の物共ぞ。」と、御尋(おんたづね)有(あり)ければ、宿老畏(かしこまつ)て一々に是(これ)を演説(えんぜつ)す。先(まづ)杉原(すいばら)一枚を折(をつ)て、法華経(ほけきやう)一部八巻並(ならびに)開結二経(かいけつのにきやう)を細字(さいじ)に書(かき)たるあり。是(これ)は上人寂寞(じやくまく)の扉(とぼそ)に御坐(おはしまし)て妙典(めうでん)を読誦(どくじゆ)し給(たまひ)ける時、第八の冥官(みやうくわん)一人(ひとり)の化人(けにん)と成(なつ)て、片時(へんし)の程に書(かき)たりし御経也(なり)。又歯(は)禿(ちび)て僅(わづか)に残れる杉(すぎ)の屐(あしだ)あり。是(これ)は上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道(かいだう)三十五里の間を一時(いつとき)が内に歩(あゆ)ませ給(たまひ)し屐(あしだ)也(なり)。又布(ぬの)にて縫(ぬひ)たる香(かう)の袈裟(けさ)あり。是(これ)は上人御身(おんみ)を不放、長時(ぢやうじ)に懸(かけ)させ給(たまひ)けるが、香の煙(けぶり)にすゝけたるを御覧じて、「哀(あはれ)洗(あらは)ばや。」と被仰ける時、常随給仕(じやうずゐきふじ)の乙護法(おとごほふ)「是(これ)を洗(あらう)て参(まゐり)候はん。」と申(まうし)て、遥(はるか)に西天(さいてん)を指(さ)して飛去(とびさり)ぬ。且(しばら)く在(あつ)て、此(この)袈裟をば虚空(こくう)に懸乾(かけほす)、恰(あたか)も一片(いつぺん)の雲の夕日に映(えい)ずるが如し。上人護法(ごほふ)を呼(よび)て、「此袈裟(このけさ)をば如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本(につぽん)の内には可然清冷水(せいりやうすゐ)候はで、天竺(てんぢく)の無熱池(むねつち)の水にて濯(すすい)で候也(なり)。」と、被答申たりし御袈裟也(なり)。生木化仏(しやうもくけぶつ)の観世音(くわんぜおん)、稽首(けいしゆ)生木如意輪(によいりん)、能満有情福寿願(のうまんうじやうふくじゆぐわん)、亦満往生極楽願(やくまんわうじやうごくらくぐわん)、百千倶■悉所念(ひやくせんくていしつしよねむ)と、天人降下供養(かうげくやう)し奉る像(ざう)なり。毘首羯磨(びしゆかつま)が作りし五大尊(ごたいそん)、是(これ)のみならず、法華読誦(ほつけどくじゆ)の砌(みぎり)には、不動(ふどう)・毘沙門(びしやもん)の二童子に、形(かたち)を現(げん)じて仕給(つかへたまふ)也(なり)。又延暦寺(えんりやくじ)の中堂供養(ちゆうだうくやう)の日は、上人当山に坐(ましま)しながら、風(ほのか)に如来唄(によらいばい)を引給(ひきたまひ)しかば、梵音(ぼんおん)遠く叡山の雲に響(ひびい)て一会(いちゑ)の奇特(きどく)を顕(あらは)せし事共(ことども)、委細(いさい)に演説仕(えんぜつつかまつ)りたれば、主上(しゆしやう)不斜(なのめならず)信心を傾(かたむけ)させ給(たまひ)て、則(すなはち)当国の安室郷(やすむろのがう)を御寄附(ごきふ)有(あつ)て、不断如法経(ふだんによほふきやう)の料所(れうしよ)にぞ被擬ける。今に至(いたる)まで、其妙行(そのめうぎやう)片時(へんし)も懈(おこた)る事無(なう)して、如法如説(によほふによせつ)の勤行(ごんぎやう)たり。誠(まこと)に滅罪生善(めつざいしやうぜん)の御願(ごぐわん)難有かりし事共(ことども)也(なり)。二十八日に法華山(ほつけさん)へ行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、御巡礼(ごじゆんれい)あり。是(これ)より龍駕(りようが)を被早て、晦日(つごもり)は兵庫(ひやうご)の福厳寺(ふくごんじ)と云(いふ)寺に、儲餉(ちよしやう)の在所(ざいしよ)を点(てん)じて、且(しばら)く御坐(ござ)有(あり)ける処に、其(その)日(ひ)赤松入道父子四人、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して参向(さんかう)す。竜顔(りようがん)殊に麗(うるはし)くして、「天下草創(さうさう)の功(こう)偏(ひとへ)に汝等(なんぢら)贔屓(ひいき)の忠戦によれり。恩賞(おんしやう)は各(おのおの)望(のぞみ)に可任。」と叡感有(あつ)て、禁門の警固(けいご)に奉侍(ぶし)せられけり。此(この)寺に一日御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、供奉(ぐぶ)の行列還幸の儀式を被調ける処に、其(その)日(ひ)の午刻(うまのこく)に、羽書(うしよ)を頚に懸(かけ)たる早馬三騎、門前まで乗打(のりうち)にして、庭上に羽書を捧(ささげ)たり。諸卿驚(おどろい)て急披(いそぎひらい)て是(これ)を見給へば、新田(につた)小太郎義貞の許(もと)より、相摸(さがみ)入道(にふだう)以下(いげ)の一族(いちぞく)従類等(じゆうるゐら)、不日(ふじつ)に追討(つゐたう)して、東国已(すで)に静謐(せいひつ)の由を注進(ちゆうしん)せり。西国(さいこく)・洛中(らくちゆう)の戦(たたかひ)に、官軍(くわんぐん)勝(かつ)に乗(のつ)て両六波羅(りやうろくはら)を雖責落、関東(くわんとう)を被責事は、ゆゝしき大事(だいじ)成(なる)べしと、叡慮を被回ける処に、此注進(このちゆうしん)到来(たうらい)しければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、諸卿一同に猶預(ゆよ)の宸襟(しんきん)を休め、欣悦称嘆(きんえつしようたん)を被尽、則(すなはち)、「恩賞は宜(よろしく)依請。」と被宣下て、先(まづ)使者三人(さんにん)に各(おのおの)勲功の賞をぞ被行ける。
○正成(まさしげ)参兵庫事(こと)付(つけたり)還幸(くわんかうの)事(こと) S1104
兵庫に一日御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、六月二日被回腰輿(えうよ)処に、楠(くすのき)多門(たもん)兵衛正成(まさしげ)七千(しちせん)余騎(よき)にて参向(さんかう)す。其(その)勢(せい)殊に勇々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。主上(しゆしやう)御簾(ぎよれん)を高く捲(まか)せて、正成を近く被召、「大儀(たいぎ)早速(さつそく)の功、偏(ひとへ)に汝が忠戦にあり。」と感じ被仰ければ、正成畏(かしこまつ)て、「是(これ)君の聖文(せいぶん)神武(しんぶ)の徳に不依ば、微臣(びしん)争(いかで)か尺寸(せきすん)の謀(はかりごと)を以て、強敵(がうてき)の囲(かこみ)を可出候(さふらはん)乎(や)。」と功を辞して謙下(けんげ)す。兵庫を御立(おんたち)有(あり)ける日より、正成前陣(せんぢん)を奉(うけたまはつ)て、畿内(きない)の勢を相順(あひしたが)へ、七千(しちせん)余騎(よき)にて前騎(ぜんき)す。其(その)道十八里が間、干戈戚揚(かんくわせきやう)相挟(あひはさみ)、左輔右弼(さほいうひつ)列(れつ)を引(ひき)、六軍(りくぐん)次(つい)でを守り、五雲(ごうん)閑(しづか)に幸(みゆき)すれば、六月五日の暮(くれ)程に、東寺(とうじ)まで臨幸(りんかう)成(なり)ければ、武士(ぶし)たる者は不及申、摂政・関白・太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左右(さう)の大将(だいしやう)・大中納言・八座(はちざ)・七弁(しちべん)・五位・六位・内外(ないげ)の諸司(しよし)・医陰(いおんの)両道に至(いたる)まで、我(われ)劣(おとら)じと参集(まゐりあつま)りしかば、車馬(しやば)門前に群集(くんしゆ)して、地府(ちふ)に布雲、青紫(せいし)堂上(だうじやう)に陰映(いんえい)して、天極(てんきよく)に列星。翌日(よくじつ)六月六日、東寺より二条(にでう)の内裏(だいり)へ還幸成(なつ)て、其(その)日(ひ)先(まづ)臨時の宣下(せんげ)有(あつ)て、足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)治部卿に任(にん)ず。舎弟兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)直義(ただよし)左馬頭(さまのかみ)に任ず。去程(さるほど)に千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣、帯剣(たいけん)の役(やく)にて、鳳輦(ほうれん)の前に被供奉けるが、尚(なほ)非常を慎(つつし)む最中(さいちゆう)なればとて、帯刀(たてはき)の兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)二行に被歩。高氏・直義二人(ににん)は後乗(こうじよう)に順(したがつ)て、百官の後(しりへ)に被打。衛府(ゑふ)の官なればとて、騎馬の兵五千(ごせん)余騎(よき)、甲冑(かつちう)を帯して被打。其(その)次に宇都宮(うつのみや)五百(ごひやく)余騎(よき)、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)七百(しちひやく)余騎(よき)、土居(どゐ)・得能(とくのう)二千(にせん)余騎(よき)、此外(このほか)正成(まさしげ)・長年(ながとし)・円心(ゑんしん)・結城(ゆふき)・長沼・塩冶已下(えんやいげ)諸国の大名は、五百騎(ごひやくき)・三百騎(さんびやくき)、其(その)旗の次に一勢(いつせい)々々(いつせい)引分(ひきわけ)て、輦輅(れんろ)を中(なか)にして、閑(しづか)に小路(こうぢを)打(うつ)たり。凡(およそ)路次の行装(かうさう)、行列の儀式、前々の臨幸に事替(かはつ)て、百司(はくし)の守衛(しゆゑ)厳重(げんぢゆう)也(なり)。見物の貴賎(きせん)岐(ちまた)に満(みち)て、只(ただ)帝徳(ていとく)を頌(しよう)し奉(たてまつる)声(こゑ)、洋々(やうやう)として耳に盈(みて)り。
○筑紫(つくし)合戦(かつせんの)事(こと) S1105
京都・鎌倉(かまくら)は、已(すで)に高氏・義貞の武功に依(よつ)て静謐(せいひつ)しぬ。今は筑紫(つくし)へ討手(うつて)を被下て、九国の探題(たんだい)英時(ひでとき)を可被責とて、二条(にでうの)大納言師基(もろもとの)卿(きやう)を太宰帥(だざいのそつ)に被成て、既(すで)に下(くだ)し奉らんとせられける処に、六月七日、菊池(きくち)・小弐(せうに)・大伴(おほども)が許(もと)より、早馬(はやむま)同時に京着(きやうちやく)して、九州の朝敵無所残、退治候(たいぢさふらひ)ぬと奏聞(そうもん)す。其(その)合戦の次第を、後(のち)に委(くはし)く尋ぬれば、主上(しゆしやう)未だ舟上(ふなのうへ)に御座(ござ)有(あり)し時、小弐入道妙慧(めうゑ)・大伴(おほども)入道具簡(ぐかん)・菊池(きくち)入道(にふだう)寂阿(じやくあ)、三人(さんにん)同心して、御方(みかた)に可参由を申入(まうしいれ)ける間、則(すなはち)綸旨(りんし)に錦の御旗(おんはた)を副(そへ)てぞ被下ける。其企(そのくはだて)彼等(かれら)三人(さんにん)が心中に秘(ひ)して、未(いまだ)色に雖不出、さすがに隠れ無(なか)りければ、此(この)事(こと)頓(やが)て探題英時(ひでとき)が方へ聞へければ、英時、彼等が野心(やしん)の実否(じつぴ)を能々(よくよく)伺ひ見ん為に、先(まづ)菊池(きくち)入道(にふだう)寂阿(じやくあ)を博多(はかた)へぞ呼(よび)ける。菊池(きくち)此(この)使に肝付(きもつい)て、是(これ)は如何様(いかさま)彼隠謀(かのいんぼう)露顕(ろけん)して、我等を討(うた)ん為にぞ呼(よび)給ふ覧(らん)。さらんに於(おいて)は、人に先(さき)をせられては叶ふまじ、此方(こなた)より遮(さへぎつ)て博多へ寄(よせ)て、覿面(てきめん)に勝負(しようぶ)を決せんと思(おもひ)ければ、兼(かね)ての約諾(やくだく)に任(まかせ)て、小弐(せうに)・大伴(おほども)が方へ触遺(ふれつかは)しける処に、大伴、天下の落居(らくきよ)未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明(ぶんみやう)の返事に不及。小弐は又其比(そのころ)京都の合戦に、六波羅(ろくはら)毎度(まいど)勝(かつ)に乗(のる)由聞へければ、己(おのれ)が咎(とが)を補(おぎな)はんとや思(おもひ)けん、日来(ひごろ)の約を変(へん)じて、菊池(きくち)が使(つかひ)八幡弥四郎宗安(やはたやしらうむねやす)を討(うつ)て、其(その)頚を探題(たんだい)の方へぞ出(いだ)したりける。菊池(きくち)入道(にふだう)大(おほき)に怒(いかつ)て、「日本一(につぽんいち)の不当人共(ふたうじんども)を憑(たのん)で、此(この)一大事(いちだいじ)を思立(おもひたち)けるこそ越度(をちど)なれ。よし/\其(その)人々の与(くみ)せぬ軍(いくさ)はせられぬか。」とて元弘三年三月十三日(じふさんにち)の卯刻(うのこく)に、僅(わづか)に百五十騎(ひやくごじつき)にて探題の館(たち)へぞ押寄(おしよせ)ける。菊池(きくち)入道(にふだう)櫛田(くしだ)の宮(みや)の前を打過(うちすぎ)ける時、軍(いくさ)の凶(きよう)をや被示けん。又乗打(のりうち)に仕(し)たりけるをや御尤(とが)め有(あり)けん。菊池(きくち)が乗(のつ)たる馬、俄(にはか)にすくみて一足(ひとあし)も前へ不進得。入道大(おほき)に腹を立(たて)て、「如何なる神にてもをはせよ、寂阿(じやくあ)が戦場へ向はんずる道にて、乗打(のりうち)を尤(とが)め可給様(やう)やある。其(その)義ならば矢一つ進(まゐら)せん。受(うけ)て御覧ぜよ。」とて、上差(うはざし)の鏑(かぶら)を抜き出し、神殿(しんでん)の扉(とびら)を二矢(ふたや)までぞ射たりける。矢を放つと均(ひとし)く、馬のすくみ直りにければ、「さぞとよ。」とあざ笑(わらう)て、則(すなはち)打通(うちとほ)りける。其後(そののち)社壇(しやだん)を見ければ、二丈許(ばかり)なる大蛇(だいじや)、菊池(きくち)が鏑(かぶら)に当(あたつ)て死(しし)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。探題(たんだい)は、兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、大勢を城の木戸(きど)より外(そと)へ出して戦はしむるに、菊池(きくち)小勢なりといへども、皆命を塵芥(ぢんかい)に比(ひ)し、義を金石(きんせき)に類(るゐ)して、責戦(せめたたかひ)ければ、防ぐ兵若干(そくばく)被打て、攻(つめ)の城(じやう)へ引篭(ひきこも)る。菊池(きくち)勝(かつ)に乗(のつ)て、屏(へい)を越(こえ)関(きど)を切破(きりやぶつ)て、透間(すきま)もなく責入(せめいり)ける間、英時(ひでとき)こらへかねて、既(すで)に自害(じがい)をせんとしける処に、小弐・大友(おほども)六千(ろくせん)余騎(よき)にて、後攻(ごづめ)をぞしたりける。菊池(きくち)入道(にふだう)是(これ)を見て、嫡子(ちやくし)に肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)を喚(よび)て云(いひ)けるは、「我(われ)今小弐・大友(おほども)に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共(ども)、義の当る所を思ふ故(ゆゑ)に、命を堕(おとさ)ん事を不悔。然(しか)れば寂阿に於ては、英時(ひでとき)が城を枕にして可討死。汝は急(いそぎ)我館(わがたち)へ帰(かへつ)て、城を堅(かたう)し兵を起して、我が生前(しやうぜん)の恨(うらみ)を死後に報(はう)ぜよ。」と云含(いひふく)め、若党(わかたう)五十(ごじふ)余騎(よき)を引分(ひきわけ)て武重(たけしげ)に相副(あひそへ)、肥後の国へぞ返しける。故郷(こきやう)に留置(とめおき)し妻子共(さいしども)は、出(いで)しを終(つひ)の別れとも知らで、帰るを今やとこそ待(まつ)らめと、哀(あはれ)に覚(おぼえ)ければ、一首(いつしゆ)の歌を袖の笠符(かさじるし)に書(かき)て故郷へぞ送(おくり)ける。故郷(ふるさと)に今夜許(こよひばかり)の命ともしらでや人の我(われ)を待(まつ)らん肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)は、「四十有余(しじふいうよ)の独(ひとり)の親(おや)の、只今討死せんとて大敵に向ふ戦(たたかひ)なれば、一所(いつしよ)にてこそ兎(と)も角(かう)も成(なり)候はめ。」と、再三(さいさん)申(まうし)けれども、「汝(なんぢ)をば天下の為に留(とどむ)るぞ。」と父が庭訓(ていきん)堅(かた)ければ、武重無力是(これ)を最後の別(わかれ)と見捨(みすて)て、泣々(なくなく)肥後へ帰(かへり)ける心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。其後(そののち)菊池(きくち)入道(にふだう)は二男(じなん)肥後(ひごの)三郎と相共(あひとも)に、百(ひやく)余騎(よき)を前後に立(たて)て、後攻(ごづめ)の勢(せい)には目を不懸して探題(たんだい)の屋形(やかた)へ責入(せめいり)、終(つひ)に一足(ひとあし)も引(ひか)ず、敵に指違々々(さしちがへさしちがへ)一人も不残打死(うちじに)す。専諸(せんしよ)・荊卿(けいけい)が心は恩(おん)の為に仕(つか)はれ、侯生(こうせい)・予子(よし)が命は義に依(よつ)て軽(かろ)しとも、是等(これら)をや可申。さても小弐・大伴(おほども)が今度の振舞(ふるまひ)人に非(あら)ずと天下の人に被譏ながら、暗知(そらしら)ずして世間の様(やう)を聞居(ききゐ)たりける処に、五月七日両六波羅(ろくはら)已(すで)に被責落て、千葉屋(ちはや)の寄手(よせて)も悉(ことごとく)南都(なんと)へ引退(ひきしりぞき)ぬと聞へければ、小弐入道、こは可如何と仰天(ぎやうてん)す。去(さら)ば我れ探題を奉討身の咎(とが)を遁(のがれ)ばやと思(おもひ)ければ、先(まづ)菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)と大友入道とが許(もと)へ内々(ないない)使者を遣(つかは)して相語(あひかたら)ふに、菊池(きくち)は先(さき)に懲(こり)て耳にも不聞入。大友は我(われ)も咎(とが)ある身なれば、角(かく)てや助かると堅(かたく)領掌(りやうじやう)してげり。今日(けふ)や明日(あす)やと吉日を撰(えらび)ける処に、英時(ひでとき)、小弐が隠謀(いんぼう)の企(くはだて)を聞(きき)て、事の実否(じつぴ)を伺見(うかがひみ)よとて、長岡(ながをかの)六郎(ろくらう)を小弐が許(もと)へぞ遣(つかは)しける。長岡(ながをか)則(すなはち)行向(ゆきむかつ)て、小弐に可見参由を云(いひ)ければ、時節(をりふし)相労(あひいたはる)事(こと)有(あり)とて、対面(たいめん)に不及。長岡(ながをか)無力、小弐入道が子息筑後(ちくごの)新小弐(しんせうに)が許(もと)に行向(ゆきむかひ)、云入(いひいれ)て、さりげなき様(やう)にて彼方此方(かなたこなた)を見るに、只今打立(うちたた)んずる形勢(ありさま)にて、楯(たて)を矯(はが)せ鏃(やじり)を砺(とぐ)最中也(なり)。又遠侍(とほさぶらひ)を見るに、蝉本(せみもと)白くしたる青竹の旗竿(はたざを)あり。さればこそ、船上(ふなのうへ)より錦の御旗(おんはた)を賜(たまはつ)たりと聞へしが、実(まこと)也(なり)けりと思(おもつ)て、対面せば頓(やが)て指違(さしちが)へんずる者をと思(おもひ)ける処に、新小弐(しんせうに)何心もなげにて出合(いであひ)たり。長岡(ながをか)座席(ざせき)に着(つく)と均(ひと)しく、「まさなき人々の謀反(むほん)の企(くはだて)哉(かな)。」と云侭(いふまま)に、腰の刀を抜(ぬい)て、新小弐に飛(とん)で懸(かかり)ける。新小弐飽(あく)まで心早き者なりければ、側(そば)なる将碁(しやうぎ)の盤(ばん)をゝつ取(とつ)て突(つく)刀を受留(うけと)め、長岡(ながをか)にむずと引組(ひつくん)で、上(うへ)を下(した)へぞ返しける。頓(やが)て小弐が郎従共(らうじゆうども)あまた走寄(はしりよつ)て、上なる敵を三刀(みかたな)指(さし)て、下なる主(しゆ)を助けゝれば、長岡(ながをかの)六郎(ろくらう)本意を不達して、忽(たちまち)に命を失(うしなひ)てげり。小弐筑後(ちくごの)入道、さては我謀反(わがむほん)の企(くはだて)、早(はや)探題に被知てげり。今は休(やむ)事(こと)を得ぬ所也(なり)とて、大伴入道相共(あひとも)に七千(しちせん)余騎(よき)の軍兵(ぐんぴやう)を率(そつ)して、同(おなじき)五月二十五日の午刻(うまのこく)に、探題英時(ひでとき)の館(たち)へ押寄(おしよせ)ける。世の末(すゑ)の風俗(ふうぞく)、義を重(おもん)ずる者は少く、利に趨(うつ)る人は多ければ、只今まで付順(つきしたがひ)つる筑紫(つくし)九箇国(くかこく)の兵共(つはものども)も、恩を忘(わすれ)て落失(おちう)せ、名をも惜(をし)まで翻(ひるがへ)りける間、一朝(いつてう)の間(ま)の戦(たたかひ)に、英時(ひでとき)遂に打負(うちまけ)て、忽(たちまち)に自害(じがい)しければ、一族(いちぞく)郎従(らうじゆう)三百四十人(さんびやくしじふにん)、続(つづい)て腹をぞ切(きつ)たりける。哀(あはれなる)哉(かな)、昨日(きのふ)は小弐・大友、英時に順(したがひ)て菊池(きくち)を討(うち)、今日は又小弐・大友、官軍(くわんぐん)に属(しよく)して、英時を討(うつ)。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易(はくきよい)が書(かき)たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。
○長門探題(ながとのたんだい)降参(かうさんの)事(こと) S1106
長門(ながと)の探題遠江守(とほたふみのかみ)時直(ときなほ)、京都の合戦難儀(なんぎ)の由を聞(きき)て、六波羅(ろくはら)に力を勠(あは)せんと、大船(たいせん)百(ひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、海上を上(のぼり)けるが、周防(すはう)の鳴渡(なると)にて、京も鎌倉(かまくら)も早(はや)皆源氏の為に被滅て、天下悉(ことごとく)王化に順(したがひ)ぬと聞へければ、鳴渡(なると)より舟を漕(こぎ)もどして、九州の探題と一所(いつしよ)に成(なら)んと、心づくしへぞ赴(おもむ)きける。赤間(あかま)が関(せき)に着(つい)て、九州の様(やう)を伺(うかが)ひ聞(きき)給へば、「筑紫(つくし)の探題英時(ひでとき)も、昨日(きのふ)早(はや)小弐・大友(おほども)が為に被亡て、九国二嶋悉(ことごとく)公家(くげ)のたすけと成(なり)ぬ。」と云(いひ)ければ、一旦(いつたん)催促(さいそく)に依(よつ)て、此(これ)まで属順(つきしたがひ)たる兵共(つはものども)も、いつしか頓(やが)て心替(こころがはり)して、己(おの)が様々(さまざま)に落行(おちゆき)ける間(あひだ)、時直(ときなほ)僅(わづか)に五十(ごじふ)余人(よにん)に成(なつ)て柳浦(やなぎがうら)の浪に漂泊(へうはく)す。彼(かしこ)の浦に帆を下(おろ)さんとすれば、敵鏃(やじり)を支(ささへ)て待懸(まちかけ)たり。此嶋(ここのしま)に纜(ともづな)を結ばんとすれば、官軍(くわんぐん)楯を双(なら)べて討(うた)んとす。残留(のこりとどま)る人々にさへ、今は心を沖津波(おきつなみ)、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮(うき)舟の橈(かぢ)を絶(たえ)、思はぬ風に漂(ただよ)へり。跡(あと)に留(とど)めし妻子共(さいしども)も、如何(いかが)成(なり)ぬ〔ら〕んと、責(せめ)て其行末(そのゆくへ)を聞(きき)て後(のち)、心安く討死をもせばやと被思ければ、且(しばらく)の命を延(のべ)ん為に、郎等(らうどう)を一人船よりあげて、小弐・嶋津(しまづ)が許(もと)へ、降人(かうにん)に可成由をぞ伝(つた)へける。小弐も嶋津も年来(としごろ)の好(よし)み浅からざりけるに、今の有様聞(きく)も哀(あはれ)にや思(おもひ)けん。急(いそぎ)迎(むかひ)に来て、己(おの)が宿所(しゆくしよ)に入(いれ)奉る。其比(そのころ)峯(みね)の僧正俊雅(しゆんが)と申(まうせ)しは、君の御外戚(ごぐわいせき)にてをはせしを、笠置(かさぎ)の合戦の刻(きざみ)に筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開(ひらい)て、国人(くにうど)皆其左右(そのさいう)に慎(つつし)み随(したが)ふ。九州の成敗(せいばい)、勅許(ちよくきよ)以前は暫(しばらく)此(この)僧正(そうじやう)の計(はから)ひに在(あり)しかば、小弐・嶋津、彼時直(かのときなほ)を同道して降参の由をぞ申入(まうしいれ)ける。僧正、「子細(しさい)あらじ。」と被仰て、則(すなはち)御前(おんまへ)へ被召けり。時直膝行頓首(しつかうとんしゆ)して、敢(あへ)て不平視、遥(はるか)の末座(まつざ)に畏(かしこまつ)て、誠(まこと)に平伏(へいふく)したる体(てい)を見給(みたまひ)て、僧正泪(なみだ)を流して被仰けるは、「去(さんぬる)元弘の始(はじめ)、無罪して此(この)所に被遠流時、遠州(ゑんしう)我を以て寇(あた)とせしかば、或(あるひ)は過分(くわぶん)の言(ことば)の下に面を低(たれ)て泪(なみだ)を推拭(おしのご)ひ、或(あるひ)は無礼(ぶれい)の驕(おごり)の前に手を束(つかね)て恥を忍(しのび)き。然(しかる)に今天道(てんだう)謙(けん)に祐(さいはひ)して、不測世の変化を見(みる)に、吉凶(きつきよう)相乱(あひみだ)れ栄枯(えいこ)地を易(かへ)たり。夢現(ゆめうつつ)昨日(きのふ)は身の上の哀(あはれ)み、今日(けふ)は人の上の悲(かなしみ)也(なり)。「怨(あた)を報ずるに恩を以てす」と云(いふ)事(こと)あれば、如何にもして命許(いのちばかり)を可申助。」と被仰ければ、時直(ときなほ)頭(かうべ)を地に付(つけ)て、両眼に泪(なみだ)を浮めたり。不日(ふじつ)に飛脚(ひきやく)を以て、此(この)由を奏聞(そうもん)ありければ、則(すなはち)勅免(ちよくめん)有(あつ)て懸命(けんめい)の地をぞ安堵(あんど)せられける。時直無甲斐命(いのち)を扶(たすかつ)て、嘲(あざけり)を万人の指頭(しとう)に受(うく)といへども、時を一家(いつけ)の再興(さいこう)に被待けるが、幾程(いくほど)もあらざるに、病(やまひ)の霧に被侵て、夕の露と消(きえ)にけり。
○越前(ゑちぜんの)牛原地頭(うしがはらぢとう)自害(じがいの)事(こと) S1107
淡河(あいかは)右京亮(うきやうのすけ)時治(ときはる)は、京都の合戦の最中(さいちゆう)、北国の蜂起(ほうき)を鎮(しづ)めん為に越前の国に下(くだつ)て、大野郡(おほののこほり)牛原(うしがはら)と云(いふ)所にぞをはしける。幾程無(いくほどなう)して、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)の由聞へしかば、相順(あひしたがひ)たる国の勢共(せいども)、片時(へんし)の程に落失(おちうせ)て、妻子従類(さいしじゆうるゐ)の外(ほか)は事問(とふ)人も無(なか)りけり。去程(さるほど)に平泉寺(へいせんじ)の衆徒(しゆと)、折(をり)を得て、彼跡(かのあと)を恩賞に申賜(まうしたまは)らん為に、自国(じこく)・他国の軍勢を相語(あひかたら)ひ、七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、五月十二日の白昼(はくちう)に牛原(うしがはら)へ押寄(おしよす)る。時治(ときはる)敵の勢(せい)の雲霞(うんか)の如(ごとく)なるを見て、戦(たたかふ)共(とも)幾程が可怺と思(おもひ)ければ、二十(にじふ)余人(よにん)有(あり)ける郎等(らうどう)に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧の坐(ましま)しけるを請(しやう)じて、女房少(をさな)き人までも、皆髪に剃刀(かみそり)をあて、戒(かい)を受(うけ)させて、偏(ひとへ)に後生菩提(ごしやうぼだい)の経営(けいえい)を、泪(なみだ)の中(うち)にぞ被致ける。戒(かい)の師(し)帰(かへつ)て後(のち)、時治女房に向(むかつ)て「宣(のたま)ひけるは、二人(ふたり)の子共(こども)は男子(なんし)なれば、稚(をさな)しとも敵よも命を助(たすけ)じと覚(おぼゆ)る間、冥途(めいど)の旅に可伴。御事(おこと)は女性(によしやう)にてをわすれば、縦(たと)ひ敵角(かく)と知(しる)とも命を失ひ奉るまでの事は非(あら)じ。さても此(この)世に在存(ながら)へ給はゞ、如何なる人にも相馴(あひなれ)て、憂(うき)を慰(なぐさ)む便(たより)に付(つき)可給。無跡(なきあと)までも心安(やすく)てをはせんをこそ、草の陰(かげ)・苔(こけ)の下(した)までもうれしくは思ふべけれ。」と、泪(なみだ)の中(うち)に掻口説(かきくどい)て聞へければ、女房最(い)と恨(うらみ)て、「水に住(すむ)鴛(をし)、梁(うつばり)に巣(すくふ)燕(つばめ)も翼(つばさ)をかわす契(ちぎり)を不忘。況(いはん)や相馴進(あひなれまゐらせ)て不覚過(すぎ)ぬる十年余(ととせあまり)の袖の下(した)に、二人(ふたり)の子共をそだてて、千代(ちよ)もと祈(いのり)し無甲斐も、御身(おんみ)は今(いま)秋の霜の下(した)に伏し、少(をさな)き者共(ものども)は朝(あした)の露に先立(さきだつ)て、消(きえ)はてなん後(のち)の悲(かなしみ)を堪(た)へ忍(しのび)ては、時の間(ま)もながらふべき我(わが)身かや。とても思(おもひ)に堪(たへ)かねば、生(いき)て可有命ならず。同(おなじく)は思ふ人と共にはかなく成(なつ)て、埋(うづも)れん苔(こけ)の下(した)までも、同穴(どうけつ)の契(ちぎり)を忘(わすれ)じ。」と、泪(なみだ)の床(ゆか)に臥沈(ふししづ)む。去程(さるほど)に防矢(ふせぎや)射つる郎等共(らうどうども)已(すで)に皆被討て、衆徒(しゆと)箱(はこ)の渡(わたし)を打越(うちこえ)、後(うしろ)の山へ廻(まは)ると聞へければ、五(いつつ)と六(むつつ)とに成(なり)ける少(をさな)き人を鎧唐櫃(よろひからひつ)に入(いれ)て、乳母(めのと)二人(ににん)に前後を舁(かか)せ、鎌倉(かまくら)河の淵(ふち)に沈(しづ)めよとて、遥(はるか)に見送(みおくり)て立(たち)たれば、母儀(ぼぎ)の女房も、同(おなじく)其(その)淵に身を沈めんと、唐櫃(からひつ)の緒(を)に取付(とりつい)て歩行(あゆみゆく)、心の中(うち)こそ悲しけれ。唐櫃を岸の上に舁(かき)居(すゑ)て、蓋(ふた)を開(あけ)たれば、二人(ににん)の少(をさな)き人顔を差挙(さしあげ)て、「是(これ)はなう母御(ははご)何(いづ)くへ行(ゆき)給ふぞ。母御の歩(かち)にて歩ませ給ふが御痛敷(おんいたはしく)候。是(これ)に乗らせ給へ。」と何心もなげに戯(たはむれ)ければ、母上流るゝ泪(なみだ)を押(おさ)へて、「此(この)河は是(これ)極楽浄土(ごくらくじやうど)の八功徳池(はつくどくち)とて、少(をさな)き者の生れて遊び戯(たはむ)るゝ所也(なり)。我如(わがごと)く念仏申(まうし)て此(この)河の中へ被沈よ。」と教へければ、二人(ににん)の少(をさな)き人々母と共に手を合せ、念仏高らかに唱(とな)へて西に向(むかつ)て坐(ざ)したるを、二人(ににん)の乳母(めのと)一人づゝ掻抱(かきだい)て、碧潭(へきだん)の底へ飛入(とびいり)ければ、母上も続(つづい)て身を投(なげ)て、同じ淵(ふち)にぞ被沈ける。其後(そののち)時治(ときはる)も自害(じがい)して一堆(いつたい)の灰(はひ)と成(なり)にけり。隔生則忘(きやくしやうそくばう)とは申(まうし)ながら又一念五百生(いちねんごひやくしやう)、繋念無量劫(けねんむりやうごふ)の業(ごふ)なれば、奈利(ないり)八万(はちまん)の底までも、同じ思(おもひ)の炎(ほのほ)と成(なつ)て焦(こがれ)給ふらんと、哀(あはれ)也(なり)ける事共(ことども)也(なり)。
○越中(ゑつちゆうの)守護(しゆご)自害(じがいの)事(こと)付(つけたり)怨霊(をんりやうの)事(こと) S1108
越中(ゑつちゆう)の守護(しゆご)名越(なごや)遠江守(とほたふみのかみ)時有(ときあり)・舎弟(しやてい)修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)・甥の兵庫助(ひやうごのすけ)貞持(さだもち)三人(さんにん)は、出羽・越後の宮方(みやがた)北陸道(ほくろくだう)を経(へ)て京都へ責上(せめのぼる)べしと聞へしかば、道にて是(これ)を支(ささへ)んとて、越中(ゑつちゆう)の二塚(ふたつづか)と云(いふ)所に陣を取(とつ)て、近国の勢共(せいども)をぞ相催(あひもよほ)しける。斯(かか)る処に、六波羅(ろくはら)已(すで)に被責落て後(のち)、東国(とうごく)にも軍(いくさ)起(おこつ)て、已(すで)に鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)けるなんど、様々に聞へければ、催促(さいそく)に順(したがひ)て、只今まで馳集(はせあつまり)つる能登(のと)・越中(ゑつちゆう)の兵共(つはものども)、放生津(はうじやうづ)に引退(ひきしりぞい)て却(かへつ)て守護(しゆご)の陣へ押寄(おしよせ)んとぞ企(くはたて)ける。是(これ)を見て、今まで身に代(かはり)命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従(らうじゆう)も、時の間(ま)に落失(おちうせ)て、剰(あまつさへ)敵軍に加(くはは)り、朝(あした)に来(きた)り暮(くれ)に往(ゆき)て、交(まじはり)を結び情(なさけ)を深(ふかう)せし朋友(ほういう)も、忽(たちまち)に心変(へん)じて、却(かへつ)て害心(がいしん)を挿(さしはさ)む。今は残留(のこりとどまり)たる者とては、三族に不遁一家(いつけ)の輩(ともがら)、重恩(ぢゆうおん)を蒙(かうむり)し譜代(ふだい)の侍、僅(わづか)に七十九人(しちじふくにん)也(なり)。五月十七日(じふしちにち)の午刻(うまのこく)に敵既(すで)に一万(いちまん)余騎(よき)にて寄(よす)ると聞へしかば、「我等此(この)小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出(いだ)すべき、憖(なまじひ)なる軍(いくさ)して、無云甲斐敵の手に懸(かか)り、縲紲(るゐせつ)の恥に及ばん事(こと)、後代(こうだい)迄の嘲(あざけり)たるべし。」とて、敵の近付(ちかづか)ぬ前(さき)に女性(によしよう)・少(をさな)き人々をば舟に乗(のせ)て澳(おき)に沈め、我(わが)身は城の内にて自害(じがい)をせんとぞ出立(いでたち)ける。遠江守(とほたふみのかみ)の女房は、偕老(かいらう)の契(ちぎり)を結(むすび)て今年二十一年になれば、恩愛(おんあい)の懐(ふところ)の内に二人(ににん)の男子(なんし)をそだてたり。兄は九(ここのつ)弟(おとと)は七(ななつ)にぞ成(なり)ける。修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)が女房は、相馴(あひなれ)て已(すで)に三年に余(あまり)けるが、只ならぬ身に成(なつ)て、早(はや)月比(つきごろ)過(すぎ)にけり。兵庫(ひやうごの)助(すけ)貞持(さだもち)が女房は、此(この)四五日前(さき)に、京より迎へたりける上臈(じやうらふ)女房にてぞ有(あり)ける。其(その)昔紅顔翠黛(こうがんすゐたい)の世に無類有様、風(ほのか)に見初(みそめ)し珠簾(たまだれ)の隙(ひま)もあらばと心に懸(かけ)て、三年余(あまり)恋慕(こひしたひ)しが、兎角(とかく)方便(てだて)を廻(めぐら)して、偸出(ぬすみいだ)してぞ迎へたりける。語(かたら)ひ得て纔(わづか)に昨日今日(きのふけふ)の程なれば、逢(あふ)に替(かはら)んと歎来(なげきこ)し命も今は被惜ける。恋悲(こひかなし)みし月日は、天(あま)の羽衣(はごろも)撫尽(なでつく)すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春(はる)の夜の夢よりも尚(なほ)短(みじか)し。忽(たちまち)に此悲(このかなしみ)に逢(あひ)ける契(ちぎり)の程こそ哀(あはれ)なれ。末(すゑ)の露本(もと)の雫(しづく)、後(おく)れ先立(さきだ)つ道をこそ、悲(かなし)き物と聞(きき)つるに、浪(なみ)の上、煙(けぶり)の底に、沈み焦(こが)れん別れの憂(う)さ、こはそもいかゞすべきと、互(たがひ)に名残(なごり)を惜(をしみ)つゝ、伏(ふし)まろびてぞ被泣ける。去程(さるほど)に、敵の早(はや)寄来(よせく)るやらん、馬煙(むまけぶり)の東西に揚(あげ)て見へ候と騒げば、女房・少(をさな)き人々は、泣々(なくなく)皆舟に取乗(とりのつ)て、遥(はるか)の澳(おき)に漕出(こぎいだ)す。うらめしの追風(おひかぜ)や、しばしもやまで、行(ゆく)人を波路(なみぢ)遥(はるか)に吹送(ふきおく)る。情なの引塩(ひきしほ)や、立(たち)も帰らで、漕(こぐ)舟を浦より外(ほか)に誘(さそふ)らん。彼松浦佐用嬪(かのまつらさよひめ)が、玉嶋山(たましまやま)にひれふりて、澳(おき)行(ゆく)舟を招(まねき)しも、今の哀(あはれ)に被知たり。水手櫓(すゐしゆろ)をかいて、船を浪間(なみま)に差留(さしとど)めたれば、一人の女房は二人(ににん)の子を左右の脇(わき)に抱(いだ)き、二人(ににん)の女房は手に手を取組(とりくん)で、同(おなじく)身をぞ投(なげ)たりける。紅(くれなゐ)の衣(きぬ)絳(あかき)袴(はかま)の暫(しばらく)浪に漂(ただよひ)しは、吉野・立田(たつた)の河水(かはみづ)に、落花紅葉(らくくわこうえふ)の散乱(さんらん)たる如(ごとく)に見へけるが、寄来(よせく)る浪に紛(まぎ)れて、次第に沈むを見はてゝ後、城に残留(のこりとどまり)たる人々上下(じやうげ)七十九人(しちじふくにん)、同時に腹を掻切(かききつ)て、兵火(ひやうくわ)の底にぞ焼死(やけしに)ける。其幽魂亡霊(そのいうこんばうれい)、尚(なほ)も此(この)地に留(とどまつ)て夫婦執着(しふぢやく)の妄念(まうねん)を遺(のこ)しけるにや、近比(このごろ)越後より上(のぼ)る舟人(ふなうど)、此(この)浦を過(すぎ)けるに、俄(にはか)に風向ひ波荒(あら)かりける間、碇(いかり)を下(おろ)して澳(おき)に舟を留(と)めたるに、夜(よ)更(ふけ)浪静(しづまつ)て、松涛(しようたう)の風、芦花(ろくわ)の月、旅泊(りよはく)の体(てい)、万(よろ)づ心すごき折節(をりふし)、遥(はるか)の澳(おき)に女の声して泣悲(なきかなし)む音(おと)しけり。是(これ)を怪しと聞居(ききゐ)たる処に、又汀(なぎさ)の方に男の声して、「其(その)舟こゝへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼(よばは)りける。舟人止(や)む事を不得して、舟を渚(なぎさ)に寄(よせ)たれば、最(いと)清(きよ)げなる男三人(さんにん)、「あの澳(おき)まで便船(びんせん)申さん。」とて、屋形(やかた)にぞ乗(のり)たりける。舟人是(これ)を乗(のせ)て澳津塩合(おきつしほあひ)に舟を差留(さしと)めたれば、此(この)三人(さんにん)の男舟より下(おり)て、漫々(まんまん)たる浪の上にぞ立(たつ)たりける。暫(しばらく)あれば、年十六七(じふろくしち)二十許(はたちばかり)なる女房の、色々の衣(きぬ)に赤き袴(はかま)踏(ふみ)くゝみたるが、三人(さんにん)浪の底より浮び出て、其(その)事(こと)となく泣(なき)しほれたる様(さま)也(なり)。男よに眤(むつま)しげなる気色(けしき)にて、相互(あひたがひ)に寄近付(よりちかづか)んとする処に、猛火(みやうくわ)俄(にはか)に燃出(もえいで)て、炎(ほのほ)男女の中(なか)を隔(へだて)ければ、三人(さんにん)の女房は、いもせの山の中々(なかなか)に、思焦(おもひこが)れたる体(てい)にて、波の底に沈(しづみ)ぬ。男は又泣々(なくなく)浪の上を游帰(およぎかへつ)て、二塚(ふたつづか)の方へぞ歩み行(ゆき)ける。余(あまり)の不思議(ふしぎ)さに舟人(ふなうど)此(この)男の袖を引(ひか)へて、「去(さる)にても誰人(たれびと)にて御渡(おんわたり)候やらん。」と問(とひ)たりければ、男答云(こたへていはく)、「我等は名越(なごや)遠江守(とほたふみのかみ)・同(おなじき)修理(しゆりの)亮・並(ならびに)兵庫(ひやうごの)助(すけ)。」と各(おのおの)名乗(なのつ)て、かき消様(けすやう)に失(うせ)にけり。天竺(てんぢく)の術婆伽(じゆつばが)は后(きさき)を恋(こひし)て、思(おもひ)の炎(ほのほ)に身を焦(こが)し、我朝(わがてう)の宇治の橋姫(はしひめ)は、夫(おつと)を慕(した)ひてかたしく袖を波に浸(ひた)す。是(これ)皆上古の不思議(ふしぎ)、旧記(きうき)に載(のす)る所也(なり)。親(まのあた)り斯(かか)る事の、うつゝに見へたりける亡念(まうねん)の程こそ罪深(ふか)けれ。
○金剛山(こんがうせんの)寄手等(よせてら)被誅事(こと)付(つけたり)佐介貞俊(さかいさだとしが)事(こと) S1109
京洛(きやうらく)已(すで)に静まりぬといへ共(ども)、金剛山(こんがうせん)より引返(ひつかへ)したる平氏共(へいじども)、猶(なほ)南都に留(とどまつ)て、帝都を責(せめ)んとする由聞へ有(あり)ければ、中院(なかのゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)を大将として、五万(ごまん)余騎(よき)、大和路(やまとぢ)へ被差向。楠(くすのき)兵衛正成(まさしげ)に畿内勢(きないのせい)二万(にまん)余騎(よき)を副(そへ)て、河内(かはちの)国(くに)より搦手(からめて)にぞ被向ける。南都に引篭(ひきこも)る平氏の軍兵(ぐんぴやう)已(すで)に十方に雖退散、残留(のこりとどま)る兵尚(なほ)五万騎(ごまんぎ)に余(あまり)たれば、今一度(いちど)手痛(ていた)き合戦あらんと覚(おぼゆ)るに、日来(ひごろ)の儀勢(ぎせい)尽(つき)はてゝ、いつしか小水の魚の沫(あわ)に吻(いきづ)く体(てい)に成(なつ)て、徒(いたづら)に日を送(おくり)ける間、先(まづ)一番に南都(なんと)の一の木戸口(きどぐち)般若寺(はんにやじ)を堅(かため)て居たりける宇都宮(うつのみや)・紀清両党(きせいりやうたう)七百(しちひやく)余騎(よき)、綸旨(りんし)を給(たまはつ)て上洛(しやうらく)す。是(これ)を始(はじめ)として、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)、五騎十騎、我先(われさき)にと降参しける間、今平氏(へいじ)の一族(いちぞく)の輩(ともがら)、譜代(ふだい)重恩の族(やから)の外(ほか)は、一人も残留(のこりとどま)る者も無(なか)りけり。是(これ)に付(つけ)ても、今は何に憑(たのみ)を懸(かけ)てか命を可惜なれば、各(おのおの)打死して名を後代(こうだい)にこそ残すべかりけるに、攻(せめ)ての業(ごふ)の程の浅猿(あさまし)さは、阿曾(あその)弾正少弼(だんじやうせうひつ)時治(ときはる)・大仏(だいぶつ)右馬助(うまのすけ)貞直(さだなほ)・江馬(えま)遠江守(とほたふみのかみ)・佐介安芸(さすけあきの)守を始(はじめ)として、宗(むね)との平氏十三人(じふさんにん)、並(ならびに)長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道々蘊已下(だううんいげ)・関東(くわんとう)権勢(けんせい)の侍五十(ごじふ)余人(よにん)、般若寺(はんにやじ)にして各(おのおの)入道出家して、律僧(りつそう)の形(かたち)に成り、三衣(さんえ)を肩に懸(かけ)、一鉢(いつはつ)を手に提(さげ)て、降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。定平(さだひら)朝臣是(これ)を請取(うけとつ)て、高手小手(たかてこて)に誡(いまし)め、伝馬(てんま)の鞍坪(くらつぼ)に縛屈(しばりかが)めて、数万(すまん)の官軍(くわんぐん)の前々(さきざき)を追立(おつたて)させ、白昼(はくちう)に京へぞ被帰ける。平治(へいぢ)には悪源太義平(あくげんだよしひら)、々家(へいけ)に被生捕て首(くび)被刎、元暦(げんりやく)には内大臣(ないだいじん)宗盛(むねもり)公(こう)、源氏に被囚て大路(おほち)を被渡。是(これ)は皆戦(たたかひ)に臨む日、或(あるひ)は敵に被議、或(あるひ)は自害(じがい)に無隙(ひまなく)して、心ならず敵の手に懸(かか)りしをだに、今に至(いたる)まで人口(じんこう)の嘲(あざけり)と成(なつ)て、両家(りやうけ)の末流(まつりう)是(これを)聞(きく)時、面(おもて)を一百(いつぴやく)余年(よねん)の後に令辱。況乎(いはんや)是(これ)は敵に被議たるにも非(あら)ず、又自害(じがい)に隙(ひま)なきにも非(あら)ず、勢(いきほ)ひ未(いまだ)尽(つきざる)先(さき)に自(みづから)黒衣(こくえ)の身と成(なつ)て、遁(のがれ)ぬ命を捨(すて)かねて、縲紲面縛(るゐせつめんばく)の有様、前代未聞(ぜんだいみもん)の恥辱也(なり)。囚人(とらはれびと)京都に着(つき)ければ、皆黒衣(こくえ)を脱(ぬが)せ、法名(ほふみやう)を元の名に改(あらため)て、一人づゝ大名に預(あづけ)らる。其秋刑(そのしうけい)を待(まつ)程に、禁錮(きんこ)の裏(うち)に起伏(おきふし)て、思ひ連(つら)ぬる浮世(うきよ)の中(なか)、涙の落(おち)ぬ隙(ひま)もなし。さだかならぬ便(たより)に付(つけ)て、鎌倉(かまくら)の事共(ことども)を聞(きけ)ば、偕老(かいらう)の枕の上に契(ちぎり)を成(なし)し貞女(ていぢよ)も、むくつけゞなる田舎人(ゐなかうど)どもに被奪て、王昭君(わうせうくん)が恨(うらみ)を貽(のこ)し、富貴(ふうき)の薹(うてな)の中(うち)に傅立(かしづきたて)し賢息(けんそく)も、傍(あたり)へだにも寄(よせ)ざりし凡下(ぼんげ)共(ども)の奴(やつこ)と成(なつ)て、黄頭郎(くわうとうらう)が夢をなせり。是等(これら)はせめて乍憂、未だ生(いき)たりときけば、猶(なほ)も思(おもひ)の数(かず)ならず。昨日(きのふ)岐(ちまた)を過ぎ、今日は門(かど)にやすらふ行客(かうかく)の、穴(あな)哀(あはれ)や、道路に袖をひろげ、食を乞(こひ)し女房の、倒(たふれ)て死(しせ)しは誰(たれ)が母也(なり)。短褐(たんかつ)に貌(かたち)を窶(やつし)て縁(ゆかり)を尋(たづね)し旅人の、被捕て死せしは誰(たれ)が親也(なり)と、風(ほのか)に語るを聞(きく)時は、今まで生(いき)ける我(わが)身の命を、憂(う)しとぞ更に誣(かこ)たれける。七月九日、阿曾(あその)弾正少弼(せうひつ)・大仏(だいぶつ)右馬助(うまのすけ)・江馬遠江守(とほたふみのかみ)・佐介(さすけ)安芸(あきの)守(かみ)・並(ならびに)長崎四郎左衛門、彼此(かれこれ)十五人(じふごにん)阿弥陀峯(あみだがみね)にて被誅けり。此(この)君重祚(ちようそ)の後、諸事の政(まつりごと)未(いまだ)被行前(さき)に、刑罰(けいばつ)を専(ほしいまま)にせられん事は、非仁政とて、潛(ひそか)に是(これ)を被切しかば、首(くび)を被渡までの事に及ばず、面々(めんめん)の尸骸(しがい)便宜(びんぎ)の寺々に被送、後世菩提(ごせぼだい)をぞ被訪ける。二階堂出羽(ではの)入道々蘊(だううん)は、朝敵の最一(さいいち)、武家の輔佐(ふさ)たりしか共(ども)、賢才(けんさい)の誉(ほまれ)、兼(かね)てより叡聞(えいぶん)に達せしかば、召仕(めしつかは)るべしとて、死罪(しざい)一等を許され、懸命(けんめい)の地に安堵(あんど)して居たりけるが、又陰謀(いんぼう)の企(くはだて)有(あり)とて、同年の秋の季(すゑ)に、終(つひ)に死刑に被行てげり。佐介(さすけ)左京(さきやうの)亮(すけ)貞俊(さだとし)は、平氏の門葉(もんえふ)たる上武略才能(ぶりやくさいのう)共(とも)に兼(かね)たりしかば、定(さだめ)て一方の大将をもと身を高く思(おもひ)ける処に、相摸(さがみ)入道(にふだう)さまでの賞翫(しやうぐわん)も無(なか)りければ、恨(うらみ)を含(ふく)み憤(いきどほり)を抱(いだ)きながら、金剛山(こんがうせん)の寄手(よせて)の中にぞ有(あり)ける。斯(かか)る処に千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)綸旨(りんし)を申与(まうしあた)へて、御方(みかた)に可参由を被仰ければ、去(さんぬる)五月の初(はじめ)に千葉屋(ちはや)より降参して、京都にぞ歴回(へめぐり)ける。去程(さるほど)に、平氏の一族(いちぞく)皆出家して、召人(めしうと)に成(なり)し後は、武家被官(ひくわん)の者共(ものども)、悉(ことごとく)所領(しよりやう)を被召上、宿所(しゆくしよ)を被追出て、僅(わづか)なる身一(ひとつ)をだに措(おき)かねて、貞俊(さだとし)も阿波の国へ被流て有(あり)しかば、今は召仕ふ若党(わかたう)・中間(ちゆうげん)も身に不傍、昨日の楽(たのしみ)今日の悲(かなしみ)と成(なつ)て、ます/\身を責(せむ)る体(てい)に成行(なりゆき)ければ、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(ことわり)の中に在(あり)ながら、今更世中(よのなか)無情覚(おぼえ)て、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。さても関東(くわんとう)の様(さま)何とか成(なり)ぬらんと尋聞(たづねきく)に、相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)を始(はじめ)として、一族(いちぞく)以下(いげ)一人も不残、皆被討給(たまひ)て、妻子従類(さいしじゆうるゐ)も共に行方(ゆきかた)を不知成(なり)ぬと聞へければ、今は誰を憑(たの)み、何を可待世とも不覚(おぼえず)、見(みる)に付(つけ)聞(きく)に随(したがひ)て、いとゞ心を摧(くだ)き、魂(きも)を消(けし)ける処に、関東(くわんとう)奉公の者共(ものども)は、一旦(いつたん)命を扶(たす)からん為に、降人(かうにん)に雖出と、遂(つひ)には如何にも野心(やしん)有(あり)ぬべければ、悉(ことごとく)可被誅とて、貞俊又被召捕てげり。挺(とて)も心の留(とどま)る浮世ならねば、命を惜(をし)とは思はねども、故郷(こきやう)に捨置(すておき)し妻子共(さいしども)の行末(ゆくへ)、何ともきかで死なんずる事の、余(あまり)に心に懸りければ、最期(さいご)の十念(じふねん)勧(すすめ)ける聖(ひじり)に付(つい)て、年来(としごろ)身を放(はな)たざりける腰の刀を、預人(あづかりびと)の許(もと)より乞出(こひいだ)して、故郷(こきやう)の妻子(さいし)の許(もと)へぞ送(おくり)ける。聖(ひじり)是(これ)を請取(うけとつ)て、其行末(そのゆくへ)を可尋申と領状(りやうじやう)しければ、貞俊無限喜(よろこび)て、敷皮(しぎかは)の上に居直(ゐなほつ)て、一首(いつしゆ)の歌を詠(えい)じ、十念(じふねん)高らかに唱(となへ)て、閑(しづか)に首(くび)をぞ打(うた)せける。皆人の世に有(ある)時は数ならで憂(うき)にはもれぬ我(わが)身也(なり)けり聖(ひじり)形見(かたみ)の刀と、貞俊が最期(さいご)の時着(き)たりける小袖とを持(もつ)て、急(いそぎ)鎌倉(かまくら)へ下(くだり)、彼(かの)女房を尋出(たづねいだ)し、是(これ)を与へければ、妻室(さいしつ)聞(きき)もあへず、只涙の床(ゆか)に臥沈(ふししづみ)て、悲(かなしみ)に堪兼(たへかね)たる気色(けしき)に見へけるが、側(そば)なる硯(すずり)を引寄(ひきよせ)て、形見(かたみ)の小袖の妻(つま)に、誰(たれ)見よと信(かたみ)を人の留(とど)めけん堪(たへ)て有(ある)べき命ならぬにと書付(かきつけ)て、記念(かたみ)の小袖を引(ひき)かづき、其(その)刀を胸につき立(たて)て、忽(たちまち)にはかなく成(なり)にけり。此外(このほか)或(あるひ)は偕老(かいらう)の契(ちぎり)空(むなし)くして、夫(をつと)に別(わかれ)たる妻室(さいしつ)は、苟(いやしくも)も二夫(じふ)に嫁(か)せん事を悲(かなしん)で、深き淵瀬(ふちせ)に身を投(なげ)、或(あるひ)は口養(くやう)の資(たすけ)無(なく)して子に後(おく)れたる老母は、僅(わづか)に一日の餐(ざん)を求兼(もとめかね)て自(みづから)溝壑(こうがく)に倒れ伏す。承久(しようきう)より以来(このかた)、平氏世を執(とつ)て九代、暦数(れきすう)已(すで)に百六十(ひやくろくじふ)余年(よねん)に及(および)ぬれば、一類(いちるゐ)天下にはびこりて、威を振ひ勢(いきほ)ひを専(ほしいまま)にせる所々(しよしよ)の探題(たんだい)、国々の守護(しゆご)、其(その)名を挙(あげ)て天下に有(ある)者已(すで)に八百人(はつぴやくにん)に余(あま)りぬ。況(いはんや)其(その)家々の郎従(らうじゆう)たる者幾万億と云(いふ)数(かず)を不知(しらず)。去(され)ば縦(たとひ)六波羅(ろくはら)こそ輒(たやすく)被責落共、筑紫(つくし)と鎌倉(かまくら)をば十年(じふねん)・二十年(にじふねん)にも被退治事難(かたし)とこそ覚へしに、六十(ろくじふ)余州(よしう)悉(ことごとく)符(わりふ)を合(あはせ)たる如く、同時に軍(いくさ)起(おこつ)て、纔(わづか)に四十三日(しじふさんにち)の中に皆滅(ほろ)びぬる業報(ごつぱう)の程こそ不思議(ふしぎ)なれ。愚(おろかなる)哉(かな)関東(くわんとう)の勇士、久(ひさしく)天下を保ち、威を遍(あまねく)海内(かいだい)に覆(おほひ)しかども、国を治(をさむ)る心無(なか)りしかば、堅甲利兵(けんかふりへい)、徒(いたづら)に梃楚(ていそ)の為に被摧て、滅亡(めつばう)を瞬目(しゆんぼく)の中(うち)に得たる事(こと)、驕(おご)れる者は失(しつ)し倹(けん)なる者は存(そん)す。古(いにし)へより今に至(いたる)まで是(これ)あり。此裏(このうち)に向(むかつ)て頭(かうべ)を回(めぐら)す人、天道(てんだう)は盈(み)てるを欠(かく)事(こと)を不知して、猶(なほ)人の欲心の厭(いとふ)ことなきに溺(おぼ)る。豈(あに)不迷乎(や)。