太平記(国民文庫)

太平記巻第十
○千寿王殿(せんじゆわうどの)被落大蔵谷事 S1001
足利治部(あしかがのぢぶの)大輔(たいふ)高氏(たかうぢ)敵に成給(なりたまひ)ぬる事(こと)、道遠ければ飛脚(ひきやく)未到来(たうらいせず)、鎌倉(かまくら)には曾(かつ)て其(その)沙汰も無(なか)りけり。斯(かかり)し処に元弘三年五月二日の夜半に、足利殿(あしかがどの)の二男千寿王殿(せんじゆわうどの)、大蔵谷(おほくらのやつ)を落(おち)て行方(ゆきがた)不知成給(なりたまひ)けり。依之(これによつて)鎌倉中(かまくらぢゆう)の貴賎(きせん)、すはや大事(だいじ)出来(いでき)ぬるはとて騒動不斜(なのめならず)。京都の事は道遠(とほき)に依(よつ)て未だ分明(ぶんみやう)の説も無ければ、毎事(まいじ)無心元とて、長崎勘解由左衛門(かげゆざゑもん)入道と諏方(すはの)木工左衛門(もくざゑもん)入道と、両使にて被上ける処に、六波羅(ろくはら)の早馬、駿河(するが)の高橋(たかはし)にてぞ行合(ゆきあひ)ける。「名越(なごや)殿(どの)は被討給(たまふ)、足利殿(あしかがどの)は敵に成給(なりたまひ)ぬ。」と申(まうし)ければ、「さては鎌倉(かまくら)の事も不審(おぼつかなし)。」とて、両使は取(とつ)て返し、関東(くわんとう)へぞ下(くだり)ける。爰(ここ)に高氏の長男竹若殿(たけわかどの)は、伊豆(いづ)の御山(おやま)に御座(おはしまし)けるが、伯父の宰相(さいしやう)法印良遍(りやうべん)、児(ちご)・同宿十三人(じふさんにん)山伏(やまぶし)の姿に成(なつ)て、潛(ひそか)に上洛(しやうらく)し給(たまひ)けるが、浮嶋(うきしま)が原にて、彼(かの)両使にぞ行合給(ゆきあひたまひ)ける。諏方・長崎生取奉(いけどりたてまつら)んと思(おもふ)処に、宰相法印無是非馬上にて腹切(きつ)て、道の傍(かたはら)にぞ臥給(ふしたまひ)ける。長崎、「去(され)ばこそ内に野心(やしん)のある人は、外(ほか)に遁(のが)るゝ無辞。」とて、若竹殿(わかたけどの)を潛(ひそか)に指殺(さしころ)し奉り、同宿十三人(じふさんにん)をば頭(くび)を刎(はね)て、浮嶋が原に懸(かけ)てぞ通(とほ)りける。
○新田(につた)義貞謀叛(むほんの)事(こと)付天狗(てんぐ)催越後勢事 S1002
懸(かかり)ける処に、新田太郎義貞、去(さんぬる)三月十一日先朝(せんてう)より綸旨(りんし)を給(たまひ)たりしかば、千剣破(ちはや)より虚病(きよびやう)して本国へ帰り、便宜(びんぎ)の一族(いちぞく)達(たち)を潛(ひそか)に集(あつめ)て、謀反(むほん)の計略をぞ被回ける。懸(かか)る企(くはだて)有(あり)とは不思寄、相摸(さがみ)入道(にふだう)、舎弟の四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道に十万(じふまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て京都へ上(のぼ)せ、畿内(きない)・西国の乱(らん)を可静とて、武蔵・上野(かうづけ)・安房(あは)・上総(かづさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)六箇国(ろくかこく)の勢をぞ被催ける。其兵粮(そのひやうらう)の為にとて、近国(きんごく)の庄園(しやうゑん)に、臨時の天役(てんやく)を被懸ける。中にも新田庄(につたのしやう)世良田(せらだ)には、有徳(うとく)の者多しとて、出雲介(いづものすけ)親連(ちかつら)、黒沼(くろぬま)彦四郎(ひこしらう)入道を使にて、「六万貫(ろくまんぐわん)を五日(いつかの)中(うち)可沙汰。」と、堅く下知(げぢ)せられければ、使先(まづ)彼所(かのところ)に莅(のぞん)で、大勢を庄家(しやうけ)に放入(はなちいれ)て、譴責(けんせき)する事法(ほふ)に過(すぎ)たり。新田義貞是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「我館(わがたち)の辺(へん)を、雑人(ざふにん)の馬蹄(むまのひづめ)に懸(かけ)させつる事こそ返々(かへすがへす)も無念なれ、争(いかで)か乍見可怺。」とて数多(あまた)の人勢(にんぜい)を差向(さしむけ)られて、両使を忽(たちまち)生取(いけどつ)て、出雲(いづもの)介をば誡(いまし)め置き、黒沼(くろぬま)入道をば頚を切(きつ)て、同日の暮(くれ)程に世良田(せらだ)の里中(さとのうち)にぞ被懸たる。相摸(さがみ)入道(にふだう)此(この)事(こと)を聞(きき)て、大(おほき)に忿(いかつ)て宣(のたまひ)けるは、「当家執世已(すで)に九代、海内(かいだい)悉(ことごとく)其命(そのめい)に不随と云(いふ)事(こと)更になし。然(しかる)に近代遠境(ゑんきやう)動(ややもすれ)ば武命に不随、近国常に下知(げぢ)を軽(かろん)ずる事奇怪(きくわい)也(なり)。剰(あまつさへ)藩屏(はんぺい)の中(うち)にして、使節(しせつ)を誅戮(ちゆうりく)する条、罪科(ざいくわ)非軽に。此(この)時若(もし)緩々(くわんくわん)の沙汰を致さば、大逆(たいぎやく)の基(もとゐ)と成(なり)ぬべし。」とて、則(すなはち)武蔵・上野両国の勢(せい)に仰(おほせ)て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋(わきや)次郎義助(よしすけ)を討(うつ)て可進す。」とぞ被下知ける。義貞是(これ)を聞(きい)て、宗徒(むねと)の一族(いちぞく)達(たち)を集(あつめ)て、「此(この)事(こと)可有如何。」と評定有(あり)けるに、異儀区々(いぎまちまち)にして不一定。或(あるひ)は、沼田圧(ぬまたのしやう)を要害(えうがい)にして、利根河(とねがは)を前に当(あて)て敵を待(また)ん。」と云(いふ)義もあり。又、「越後国(ゑちごのくに)には大略(たいりやく)当家の一族(いちぞく)充満(みちみち)たれば、津張郡(つばりのこほり)へ打超(うちこえ)て、上田(うへだ)山を伐塞(きりふさ)ぎ、勢(せい)を付(つけ)てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫(しばらく)思案して、進出(すすみいで)て被申けるは、「弓矢の道、死を軽(かろん)じて名を重(おもん)ずるを以て義とせり。就中相摸守(さがみのかみ)天下を執(とつ)て百六十(ろくじふ)余年(よねん)、于今至(いたる)まで武威盛(さかん)に振(ふるう)て、其命(そのめい)を重(おもん)ぜずと云(いふ)処なし。されば縦(たとひ)戸祢(とね)川をさかうて防(ふせぐ)共(とも)、運尽(つき)なば叶(かなふ)まじ。又越後国(ゑちごのくに)の一族(いちぞく)を憑(たのみ)たり共(とも)、人の意(こころ)不和(ふくわ)ならば久(ひさし)き謀(はかりごと)に非(あら)ず。指(さし)たる事も仕出(しいだ)さぬ物故(ものゆゑ)に、此彼(ここかしこ)へ落行(おちゆき)て、新田の某(それがし)こそ、相摸守(さがみのかみ)の使を切(きり)たりし咎(とが)に依(よつ)て、他国へ逃(にげ)て被討たりしかなんど、天下の人口(じんこう)に入らん事こそ口惜(くちをし)けれ。とても討死をせんずる命を謀反人(むほんにん)と謂(いは)れて、朝家(てうか)の為に捨(すて)たらんは、無(なか)らん跡(あと)までも、勇(いさみ)は子孫の面(かほ)を令悦名は路径(ろけい)の尸(かばね)を可清む。先立(さきだつ)て綸旨(りんし)を被下ぬるは何(なん)の用にか可当。各(おのおの)宣旨(せんじ)を額(ひたひ)に当(あて)て、運命を天に任(まかせ)て、只一騎也(なり)共(とも)国中へ打出(うちいで)て、義兵(ぎへい)を挙(あげ)たらんに勢(せい)付(つきな)ば軈(やが)て鎌倉(かまくら)を可責落。勢不付ば只鎌倉(かまくら)を枕にして、討死するより外(ほか)の事やあるべき。と、義を先(さき)とし勇(いさみ)を宗(むね)として宣(のたまひ)しかば、当座の一族(いちぞく)三十(さんじふ)余人(よにん)、皆此(この)義にぞ同(どう)じける。さらば軈(やが)て事の漏れ聞へぬ前(さき)に打立(うつたて)とて、同(おなじき)五月八日の卯刻(うのこく)に、生品(いくしなの)明神の御前(おんまえ)にて旗を挙(あげ)、綸旨(りんし)を披(ひらい)て三度(みたび)是を拝し、笠懸野(かさかけの)へ打出(うちいで)らる。相随(あひしたが)ふ人々、氏族(しぞく)には、大館(おほたち)次郎宗氏(むねうぢ)・子息孫次郎幸氏(なりうぢ)・二男弥次郎氏明(うぢあきら)・三男彦二郎氏兼(うぢかぬ)・堀口三郎貞満(さだみつ)・舎弟四郎行義(ゆきよし)・岩松三郎経家(つねいへ)・里見五郎義胤(よしたね)・脇屋次郎義助・江田三郎光義(みつよし)・桃井次郎尚義(なほよし)、是等(これら)を宗徒(むねと)の兵(つはもの)として、百五十騎には過(すぎ)ざりけり。此勢(このせい)にては如何(いかが)と思ふ処に、其(その)日(ひ)の晩景(ばんげい)に利根河(とねがは)の方(かた)より、馬・物具(もののぐ)爽(さわやか)に見へたりける兵二千騎(にせんぎ)許(ばかり)、馬煙(むまけぶり)を立(たて)て馳来(はせきた)る。すはや敵よと目に懸(かけ)て見れば、敵には非(あら)ずして、越後(ゑちごの)国(くに)の一族(いちぞく)に、里見(さとみ)・鳥山(とりやま)・田中・大井田(おゐだ)・羽川(はねかは)の人々にてぞ坐(おは)しける。義貞大(おほき)に悦(よろこび)て、馬を扣(ひかへ)て宣(のたまひ)けるは、「此(この)事(こと)兼(かね)てより其企(そのくはだて)はありながら、昨日今日(きのふけふ)とは存ぜざりつるに、俄に思立(おもひたつ)事(こと)の候ひつる間、告申(つげまうす)までなかりしに、何(なに)として存ぜられける。」と問(とひ)給ひければ、大井田(おゐだ)遠江守(とほたふみのかみ)鞍壷(くらつぼ)に畏(かしこまつ)て被申けるは、「依勅定大儀を思召立(おぼしめしたた)るゝ由承(うけたまはり)候はずば、何(な)にとして加様(かやう)に可馳参候。去(さんぬる)五日(いつかの)御使(おんつかひ)とて天狗山伏(てんぐやまぶし)一人、越後の国中を一日の間(ま)に、触廻(ふれまはり)て通候(とほりさふらひ)し間、夜(よ)を日に継(つい)で馳参(はせまゐつ)て候。境を隔(へだて)たる者は、皆明日の程にぞ参着(さんちやく)候はんずらん。他国へ御出(おんいで)候はゞ、且(しばら)く彼勢(かのせい)を御待(まち)候へかし。」と被申て、馬より下(おり)て各対面色代(たいめんしきだい)して、人馬の息を継(つが)せ給(たまひ)ける処に、後陣(ごぢん)の越後勢並(ならびに)甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連(さしつれ)て、其(その)勢(せい)五千(ごせん)余騎(よき)夥敷(おびたたし)く見へて馳来(はせきたる)。義貞・義助不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、「是(これ)偏(ひとへに)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の擁護(おうご)による者也(なり)。且(しばらく)も不可逗留(とうりう)。」とて、同(おなじき)九日武蔵(むさしの)国(くに)へ打越(うちこえ)給ふに、紀(きの)五左衛門、足利殿(あしかがどの)の御子息(ごしそく)千寿王(せんじゆわう)殿(どの)を奉具足、二百余騎(よき)にて馳着(はせつき)たり。是(これ)より上野(かうづけ)・下野(しもつけ)・上総(かづさ)・常陸(ひたち)・武蔵(むさし)の兵共(つはものども)不期に集り、不催に馳来(はせきたつ)て、其(その)日(ひ)の暮(くれ)程に、二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)甲(かぶと)を並べ扣(ひかへ)たり。去(され)ば四方(しはう)八百(はつぴやく)里(り)に余れる武蔵野に、人馬共に充満(みちみち)て、身を峙(そばだつ)るに処なく、打囲(うちかこう)だる勢なれば、天に飛(とぶ)鳥も翔(かけ)る事を不得、地を走る獣(けだもの)も隠(かくれ)んとするに処なし。草の原より出(いづ)る月(つき)は、馬鞍(むまくら)の上にほのめきて冑(よろひ)の袖に傾(かたぶ)けり。尾花が末を分(わく)る風は、旗の影をひらめかし、母衣(ほろ)の手静(しづま)る事ぞなき。懸(かかり)しかば国々の早馬(はやむま)、鎌倉(かまくら)へ打重(うちかさなつ)て、急を告(つぐ)る事櫛(くし)の歯を引(ひく)が如し。是(これ)を聞(きい)て時の変化をも計らぬ者は、「穴(あな)こと/゛\し、何程の事か可有。唐土(たうど)・天竺(てんぢく)より寄来(よせきたる)といはゞ、げにも真(まこと)しかるべし。我朝秋津嶋(わがてうあきつしま)の内より出(いで)て、鎌倉殿(かまくらどの)を亡(ほろぼ)さんとせん事蟷螂(たうらう)遮車、精衛(せいゑい)填海とするに不異。」と欺合(あざむきあへ)り。物(もの)の心をも弁(わきまへ)たる人は、「すはや大事(だいじ)出来(いでき)ぬるは。西国・畿内(きない)の合戦未(いまだ)静(しずまら)ざるに大敵又藩籬(はんり)の中(うち)より起れり。是(これ)伍子胥(ごししよ)が呉王(ごわう)夫差(ふさ)を諌(いさめ)しに、晋(しん)は瘡■(さうゐ)にして越(ゑつ)は腹心の病(やまひ)也(なり)。と云(いひ)しに不異。」と恐合(おそれあ)へり。去程(さるほど)に京都へ討手(うつて)を可被上事をば閣(さしおい)て、新田(につた)殿(どの)退治の沙汰計(ばかり)也(なり)。同(おなじき)九日軍(いくさ)の評定(ひやうぢやう)有(あつ)て翌日(よくじつ)の巳刻(みのこく)に、金沢(かなざは)武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)に、五万(ごまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、下河辺(しもかうべ)へ被下。是(これ)は先(まづ)上総(かづさ)・下総(しもつさ)の勢(せい)を付(つけ)て、敵の後攻(ごづめ)をせよと也(なり)。一方へは桜田治部大輔(ぢぶのたいふ)貞国(さだくに)を大将にて、長崎二郎高重(たかしげ)・同孫四郎左衛門・加治(かぢ)二郎左衛門(じらうざゑもん)入道に、武蔵・上野両国の勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)を相副(あひそへ)て、上路(かみみち)より入間河(いるまがは)へ被向。是(これ)は水沢(みづさは)を前に当(あて)て敵の渡さん処を討(うて)と也(なり)。承久より以来(このかた)東風閑(しづか)にして、人皆弓箭(ゆみや)をも忘(わすれ)たるが如(ごとく)なるに、今始(はじめ)て干戈(かんくわ)動(うごか)す珍しさに、兵共(つはものども)こと/゛\敷(しく)此(ここ)を晴(はれ)と出立(いでたち)たりしかば、馬・物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)、皆照耀許(てりかかやくばかり)なれば、由々敷(ゆゆしき)見物(みもの)にてぞ有(あり)ける。路次(ろし)に両日逗留(とうりう)有(あつ)て、同(おなじき)十一日の辰刻(たつのこく)に、武蔵(むさしの)国(くに)小手差原(こてさしばら)に打臨(うちのぞみ)給ふ。爰(ここ)にて遥(はるか)に源氏の陣を見渡せば、其(その)勢(せい)雲霞(うんか)の如くにて、幾千万騎(いくせんまんぎ)共(とも)可云数(かず)を不知。桜田(さくらだ)・長崎是(これ)を見て、案に相違(さうゐ)やしたりけん、馬を扣(ひかへ)て不進得。義貞忽(たちまち)に入間河(いるまがは)を打渡(うちわたつ)て、先(まづ)時(とき)の声を揚(あげ)、陣を勧(すす)め、早(はや)矢合(やあはせ)の鏑(かぶら)をぞ射させける。平家も鯨波(ときのこゑ)を合せて、旗を進めて懸(かか)りけり。初(はじめ)は射手(いて)を汰(そろへ)て散々(さんざん)に矢軍(やいくさ)をしけるが、前(まへ)は究竟(くつきやう)の馬の足立(あしだち)也(なり)。何れも東国そだちの武士共(ぶしども)なれば、争(いか)でか少しもたまるべき、太刀・長刀(なぎなた)の鋒(きつさき)をそろへ馬の轡(くつばみ)を並(ならべ)て切(きつ)て入(いる)。二百騎・三百騎(さんびやくき)・千騎(せんぎ)・二千騎(にせんぎ)兵を添(そへ)て、相戦(あひたたかふ)事(こと)三十(さんじふ)余度(よど)に成(なり)しかば、義貞の兵三百(さんびやく)余騎(よき)被討、鎌倉勢(かまくらぜい)五百(ごひやく)余騎(よき)討死して、日已(すで)に暮(くれ)ければ、人馬共に疲(つかれ)たり。軍(いくさ)は明日と約諾(やくだく)して、義貞三里引退(ひきしりぞい)て、入間河(いるまがは)に陣をとる。鎌倉勢(かまくらぜい)も三里引退(ひきしりぞい)て、久米河(くめがは)に陣をぞ取(とつ)たりける。両陣相去る其間(そのあひだ)を見渡せば三十(さんじふ)余町(よちやう)に足(たら)ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継(つが)せ、両陣互に篝(かがり)を焼(たい)て、明(あく)るを遅(おそし)と待居(まちゐ)たり。夜(よ)既(すで)に明(あけ)ぬれば、源氏は平家に先(さき)をせられじと、馬の足を進(すすめ)て久米河の陣へ押寄(おしよす)る。平家も夜明けば、源氏定(さだめ)て寄(よせ)んずらん、待(まつ)て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯(はるび)を固め甲(かぶと)の緒(お)を縮(し)め、相待(あひまつ)とぞみへし。両陣互(たがひ)に寄合(よせあは)せて、六万(ろくまん)余騎(よき)の兵を一手に合(あはせ)て、陽(やう)に開(ひらい)て中にとり篭(こめ)んと勇(いさみ)けり。義貞の兵是(これ)を見て、陰(いん)に閉(とぢ)て中を破(わら)れじとす。是(これ)ぞ此黄石公(このくわうせきこう)が虎を縛(ばく)する手、張子房(ちやうしばう)が鬼を拉(とりひし)ぐ術(じゆつ)、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱(いりみだれ)て、不被破不被囲して、只百戦(ひやくせん)の命(いのち)を限りにし、一挙(いつきよ)に死をぞ争ひける。されば千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)までも、互に引(ひか)じと戦(たたかひ)けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔(わづか)に討(うた)れて平家は多く亡(ほろび)にければ、加治(かぢ)・長崎二度(にど)の合戦に打負(うちまけ)たる心地(ここち)して、分陪(ぶんばい)を差して引退(ひきしりぞ)く。源氏猶(なほ)続(つづい)て寄(よせ)んとしけるが、連日(れんじつ)数度(すど)の戦(たたかひ)に、人馬(じんば)あまた疲(つかれ)たりしかば、一夜(いちや)馬の足を休めて、久米河(くめがは)に陣を取寄(とりよせ)て、明(あく)る日をこそ待(まち)たりけれ。去程(さるほど)に桜田治部(ぢぶの)大輔(たいふ)貞国(さだくに)・加治(かぢ)・長崎等(ながさきら)十二日の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞく)由(よし)鎌倉(かまくら)へ聞へければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)・舎弟の四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道恵性(ゑしやう)を大将軍として、塩田陸奥(むつの)入道・安保(あぶ)左衛門入道・城(じやうの)越後(ゑちごの)守(かみ)・長崎駿河(するがの)守(かみ)時光(ときみつ)・左藤(さとう)左衛門入道・安東(あんどう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)高貞・横溝(よこみぞ)五郎入道・南部(なんぶ)孫二郎・新開(しんがい)左衛門入道・三浦若狭(みうらわかさの)五郎氏明(うぢあきら)を差副(さしそへ)て、重(かさね)て十万(じふまん)余騎(よき)を被下、其(その)勢(せい)十五日の夜半許(やはんばかり)に、分陪(ぶんばい)に着(つき)ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進(いさみすす)まんとす。義貞は敵に荒手(あらて)の大勢加(くはは)りたりとは不思寄。十五日の夜(よ)未(いまだ)明(あけざる)に、分陪(ぶんばい)へ押寄(おしよせ)て時(とき)を作る。鎌倉勢(かまくらぜい)先(まづ)究竟(くつきやう)の射手(いて)三千人(さんぜんにん)を勝(すぐつ)て面(おもて)に進め、雨の降如(ふるごとく)散々(さんざん)に射させける間、源氏射たてられて駈(かけ)ゑず。平家是(これ)に利を得て、義貞の勢(せい)を取篭(とりこめ)不余とこそ責(せめ)たりけれ。新田(につた)義貞逞兵(ていへい)を引勝(ひつすぐつ)て、敵の大勢を懸破(かけやぶつ)ては裏へ通(とほ)り、取(とつ)て返(かへし)ては喚(をめい)て懸入(かけいり)、電光(でんくわう)の如激、蜘手(くもで)・輪違(わちがひ)に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵(たいてき)而(しか)も荒手(あらて)にて、先度(せんど)の恥を雪(きよ)めんと、義を専(もつばら)にして闘(たたか)ひける間、義貞(よしさだ)遂に打負(うちまけ)て堀金(ほりかね)を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。其(その)勢(せい)若干(そくばく)被討て痛手(いたで)を負(おふ)者数を不知。其(その)日軈(やが)て追(おう)てばし寄(よせ)たらば、義貞爰(ここ)にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定(さだめ)て武蔵・上野(かうづけ)の者共(ものども)が、討(うつ)て出(いだ)さんずらんと、大様(おほやう)に憑(たのん)で時を移す。是(これ)ぞ平家の運命の尽(つき)ぬる処のしるし也(なり)。
○三浦大多和(おほたわ)合戦意見(いけんの)事(こと) S1003
懸(かかり)し程に、義貞も無為方思召(おぼしめし)ける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝(よしかつ)は、兼(かね)てより義貞に志(こころざし)有(あり)しかば、相摸(さがみの)国(くに)の勢(せい)松田・河村(かうむら)・土肥(とひ)・土屋(つちや)・本間(ほんま)・渋谷(しぶや)を具足して、以上其(その)勢(せい)六千余騎(よき)、十五日の晩景(ばんげい)に、義貞の陣へ馳(はせ)参る。義貞大(おほき)に悦(よろこび)て、急ぎ対面有(あつ)て、礼を厚くし、席を近付(ちかづけ)て、合戦の意見(いけん)をぞ被訪ける。平六左衛門畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「今天下二(ふた)つに分れて、互の安否(あんぴ)を合戦の勝負(しようぶ)に懸(かけ)たる事にて候へば、其雌雄(そのしゆう)十度も二十も、などか無(なく)ては候べき。但(ただし)始終(しじゆう)の落居(らくきよ)は天命(てんめい)の帰(き)する処にて候へば、遂に太平を被致事(こと)、何(なん)の疑(うたがひ)か候べき。御勢(おんせい)に義勝(よしかつ)が勢(せい)を合(あはせ)て戦はんに、十万(じふまん)余騎(よき)、是(これ)も猶(なほ)敵の勢に不及候と云(いへ)ども、今度(こんど)の合戦に一勝負(ひとしようぶ)せでは候べき。」と申(まうし)ければ、義貞も、「いさとよ、当手(たうて)の疲(たかれ)たる兵(つはもの)を以て、大敵の勇誇(いさみほこつ)たるに懸(かか)らん事は、如何。」と宣(のたま)ひけるを、義勝重(かさね)て申(まうし)けるは、「今日の軍(いくさ)には治定(ぢぢやう)可勝謂(いは)れ候。其(その)故は、昔秦(しん)と楚(そ)と国を争ひける時、楚の将軍武信君(ぶしんくん)、纔(わづか)に八万(はちまん)余騎(よき)の勢(せい)を以て、秦の将軍李由(りいう)が八十万騎(はちじふまんぎ)の勢(せい)に打勝(うちかち)、首を切(きる)事(こと)四十(しじふ)余万(よまん)也(なり)。是(これ)より武信君(ぶしんくん)心驕(おご)り軍(いくさ)懈(おこたつ)て秦の兵を恐るゝに不足と思へり。楚の副将軍に宋義(そうぎ)と云(いひ)ける兵是(これ)を見て、「戦(たたかひ)に勝(かつ)て将(しやう)驕(おご)り卒(そつ)惰(おこた)る時は必(かならず)破(やぶる)と云へり。武信君今如此。不亡何をか待(また)ん。」と申(まうし)けるが、果して後の軍(いくさ)に、武信君秦(しん)の左将軍章邯(しやうかん)が為に被討て忽(たちまち)に一戦(いつせん)に亡(ほろび)にけり。義勝(よしかつ)昨日(きのふ)潛(ひそか)に人を遣(つかは)して敵の陣を見するに、其(その)将驕(おご)れる事武信君に不異。是(これ)則(すなはち)宋義が謂(いひ)し所に不違。所詮(しよせん)明日の御合戦には、義勝荒手(あらて)にて候へば一方の前(さき)を承(うけたまはつ)て、敵を一当(ひとあて)々(あて)て見候はん。」と申(まうし)ければ、義貞誠(まこと)に心に服(ふく)し、宜(よろしき)に随ひ、則(すなはち)今度の軍(いくさ)の成敗(せいばい)をば三浦平六左衛門にぞ被許ける。明(あく)れば五月十六日の寅刻(とらのこく)に、三浦四万(しまん)余騎(よき)が真前(まつさき)に進んで、分陪(ぶんばい)河原(かはら)へ押寄(おしよす)る。敵の陣近く成(なる)まで態(わざ)と旗の手をも不下、時(とき)の声をも不挙けり。是(これ)は敵を出抜(だしぬい)て、手攻(てづめ)の勝負を為決也(なり)。如案敵は前日数箇度(すかど)の戦(たたかひ)に人馬皆疲(つかれ)たり。其(その)上(うへ)今敵可寄共不思懸ければ、馬に鞍(くら)をも不置、物具(もののぐ)をも不取調、或(あるひ)は遊君(いうくん)に枕を双(ならべ)て帯紐(おびひぼ)を解(とい)て臥(ふし)たる者あり、或(あるひ)は酒宴(しゆえん)に酔(ゑひ)を被催て、前後を不知寝たる者もあり。只一業所感(いちごふしよかん)の者共(ものども)が招自滅不異。爰(ここ)に寄手(よせて)相近づくを見て、河原面(かはらおもて)に陣を取(とつ)たる者、「只今面(おもて)より旗を巻(まい)て、大勢の閑(しづか)に馬を打(うつ)て来(きた)れば、若(もし)敵にてや有らん。御要心(ごえうじん)候へ。」と告(つげ)たりければ、大将を始(はじめ)て、「さる事あり、三浦大多和(おほたわ)が相摸(さがみの)国(くに)勢(せい)を催(もよほし)て、御方(みかた)へ馳参(はせさん)ずると聞へしかば、一定(いちぢやう)参(まいつ)たりと覚(おぼゆ)るぞ。懸(かか)る目出度(めでたき)事(こと)こそなけれ。」とて、驚(おどろく)者一人もなし。只兎(と)にも角(かく)にも、運命の尽(つき)ぬる程こそ浅猿(あさまし)けれ。去程(さるほど)に義貞、三浦が先懸(さきがけ)に追(おつ)すがふて、十万(じふまん)余騎(よき)を三手に分け、三方(さんぱう)より推寄(おしよせ)て、同(おなじ)く時(とき)を作りける。恵性(ゑしやう)時(とき)の声に驚(おどろい)て、「馬よ物具(もののぐ)よ。」と周章騒(あわてさわぐ)処へ、義貞・義助の兵縦横無尽(じゆうわうむじん)に懸(か)け立(たつ)る。三浦平六是(これ)に力(ちから)を得て、江戸・豊嶋(としま)・葛西(かさい)・河越(かはごえ)、坂東(ばんどう)の八平氏、武蔵の七党(しちたう)を七手(ななて)になし、蜘手(くもで)・輪違(わちがひ)・十文字(じふもんじ)に、不余とぞ攻(せめ)たりける。四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道、大勢也(なり)。といへ共(ども)、三浦が一時の計(はかりごと)に被破て、落行(おちゆく)勢(せい)は散々(ちりぢり)に、鎌倉(かまくら)を指(さ)して引退(ひきしりぞ)く。討(うた)るゝ者は数(かず)を不知。大将左近(さこんの)大夫(たいふ)入道も、関戸辺(せきとのへん)にて已(すで)に討(うた)れぬべく見へけるを、横溝(よこみぞ)八郎蹈止(ふみとどまつ)て、近付(ちかづく)敵二十三騎時の間(ま)に射落し、主従(しゆじゆう)三騎打死(うちじに)す。安保(あぶの)入道々堪父子(だうかんふし)三人(さんにん)相随(あひしたが)ふ兵(つはもの)百(ひやく)余人(よにん)、同(おなじ)枕に討死す。其外(そのほか)譜代(ふだい)奉公の郎従(らうじゆう)、一言(いちごん)芳恩(はうおん)の軍勢共(ぐんぜいども)、三百(さんびやく)余人(よにん)引返し、討死しける間に、大将四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道は、其(その)身に無恙してぞ山内(やまのうち)まで被引ける。長崎二郎高重(たかしげ)、久米河(くめがは)の合戦に、組(くん)で討(うつ)たりし敵の首(くび)二(ふたつ)、切(きつ)て落したりし敵の首十三、中間(ちゆうげん)・下部(しもべ)に取持(とりもた)せて、鎧に立(たつ)処の箭(や)をも未(いまだ)抜(ぬかず)、疵(きず)のろより流るゝ血に、白糸(しろいと)の鎧忽(たちまち)に火威(ひをどし)に染成(そめなし)て、閑々(しづしづ)と鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(やかた)へ参り中門(ちゆうもん)に畏(かしこま)りたりければ、祖父(おほぢ)の入道世にも嬉しげに打見て出迎(いでむかひ)、自(みづから)疵(きず)を吸(すひ)血を含(ふくん)で、泪(なみだ)を流(ながし)て申(まうし)けるは、「古き諺(ことわざ)に「見子不如父」いへども、我(われ)先(まづ)汝(なんぢ)を以て、上(うへ)の御用(ごよう)に難立者也(なり)。と思(おもつ)て、常に不孝を加(くはへ)し事(こと)、大(おほき)なる誤(あやまり)也(なり)。汝(なんぢ)今万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に遇(あひ)、堅(かたき)を摧(くだ)きける振舞、陳平(ちんべい)・張良(ちやうりやう)が為難処を究(きは)め得たり。相構(あひかまへ)て今より後も、我が一大事(いちだいじ)と合戦して父祖(ふそ)の名をも呈(あらは)し、守殿(かうのとの)の御恩をも報(はう)じ申(まうし)候へ。」と、日来(ひごろ)の庭訓(ていきん)を翻(ひるがへ)して只今の武勇(ぶよう)を感じければ、高重頭(かうべ)を地に付(つけ)て、両眼(りやうがん)に泪(なみだ)をぞ浮べける。かゝる処に、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)して、近江(あふみ)の番馬(ばんば)にて、悉(ことごと)く自害(じがい)のよし告来(つげきたり)ければ、只今大敵と戦(たたかふ)中(うち)に、此(この)事(こと)をきいて、大火(おほび)を打消(うちけし)て、あきれ果(はて)たる事限(かぎり)なし。其所従(そのしよじゆう)・眷属共(けんぞくども)是(これ)を聞(きい)て、泣歎(なきなげ)き憂悲(うれへかなし)むこと、喩(たとへ)をとるに物なし。何(いか)にたけく勇(いさ)める人々も、足手(あして)もなゆる心地(ここち)して東西をもさらに弁(わきま)へず。然(しかり)といへども、此(この)大敵を退(しりぞけ)てこそ、京都へも討手(うつて)を上(のぼ)さんずれとて、先(まづ)鎌倉(かまくら)の軍評定(いくさひやうぢやう)をぞせられける。此(この)事(こと)敵にしらせじとせしかども、隠(かくれ)あるべき事ならねばやがて聞へて、哀(あはれ)潤色(じゆんしよく)やと、悦び勇(いさ)まぬ者はなし。
○鎌倉(かまくら)合戦(かつせんの)事(こと) S1004
去程(さるほど)に、義貞数箇度(すかど)の闘(たたかひ)に打勝給(うちかちたまひ)ぬと聞へしかば、東八箇国(とうはつかこく)の武士共(ぶしども)、順付(したがひつく)事(こと)如雲霞。関戸(せきと)に一日逗留(とうりう)有(あつ)て、軍勢の着到(ちやくたう)を着(つけ)られけるに、六十万(ろくじふまん)七千(しちせん)余騎(よき)とぞ注(しる)せる。こゝにて此勢(このせい)を三手に分(わけ)て、各(おのおの)二人(ににん)の大将を差副(さしそ)へ、三軍の帥(すゐ)を令司ら、其(その)一方には大館(おほたちの)二郎宗氏を左将軍(さしやうぐん)として、江田(えだの)三郎行義(ゆきよし)を右将軍(うしやうぐん)とす。其(その)勢(せい)総(すべ)て十万(じふまん)余騎(よき)、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)へぞ向はれける。一方には堀口(ほりぐち)三郎貞満(さだみつ)を上将軍とし、大嶋(おほしま)讚岐守(さぬきのかみ)々之(もりゆき)を裨将軍(ひしやうぐん)として、其(その)勢(せい)都合(つがふ)十万(じふまん)余騎(よき)、巨福呂坂(こくぶろざか)へ指向(さしむけ)らる。其(その)一方には、新田(につた)義貞・義助、諸将の命(めい)を司(つかさどつ)て、堀口・山名(やまな)・岩松・大井田(おほゐだ)・桃井(もものゐ)・里見・鳥山(とりやま)・額田(ぬかだ)・一井(いちのゐ)・羽川以下(はねかはいげ)の一族(いちぞく)達(たち)を前後左右に囲(かこま)せて、其(その)勢(せい)五十万(ごじふまん)七千(しちせん)余騎(よき)、粧坂(けはひざか)よりぞ被寄ける。鎌倉中(かまくらぢゆう)の人々は昨日(きのふ)・一昨日(をととひ)までも、分陪(ぶばい)・関戸(せきと)に合戦有(あつ)て、御方(みかた)打負(うちまけ)ぬと聞へけれ共(ども)、猶(なほ)物(もの)の数(かず)共(とも)不思、敵の分際(ぶんざい)さこそ有(あ)らめと慢(あなどつ)て、強(あながち)に周章(あわて)たる気色(けしき)も無(なか)りけるに、大手(おほて)の大将にて向(むかは)れたる四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道僅(わづか)に被討成て、昨日の晩景(ばんげい)に山内(やまのうち)へ引返されぬ。搦手(からめて)の大将にて、下河辺(しもかうべ)へ被向たりし金沢(かなざは)武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)は、小山(をやまの)判官・千葉介(ちばのすけ)に打負(うちまけ)て、下道(しもみち)より鎌倉(かまくら)へ引返し給(たまひ)ければ、思(おもひ)の外(ほか)なる珍事(ちんじ)哉(かな)と、人皆周章(しうしやう)しける処に、結句(けつく)五月十八日の卯刻(うのこく)に、村岡・藤沢・片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)・十間坂(じつけざか)・五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)て、敵三方(さんぱう)より寄懸(よせかけ)たりしかば、武士(ぶし)東西に馳替(はせちがひ)、貴賎(きせん)山野(さんや)に逃迷(にげまよ)ふ。是(これ)ぞ此霓裳(このげいしやう)一曲(いつきよく)の声の中(うち)に、漁陽(ぎよやう)の■鼓(へいく)動地来り、烽火万里(ほうくわばんり)の詐(いつはり)の後に、戎狄(じゆうてき)の旌旗(せいき)天を掠(かすめ)て到(いたり)けん、周(しう)の幽王(いうわう)の滅亡せし有様、唐(たう)の玄宗傾廃(けいはい)せし為体(ていたらく)も、角(かく)こそは有(あり)つらんと、被思知許(ばかり)にて涙も更に不止、浅猿(あさまし)かりし事共也(なり)。去程(さるほど)に義貞の兵三方(さんぱう)より寄(よする)と聞へければ、鎌倉(かまくら)にも相摸左馬(さまの)助(すけ)高成(たかなり)・城(じやうの)式部(しきぶの)大輔(たいふ)景氏(かげうぢ)・丹波(たんばの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)時守(ときもり)を大将として、三手に分(わけ)てぞ防(ふせぎ)ける。其(その)一方には金沢越後(ゑちごの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)を差副(さしそへ)て、安房(あは)・上総(かづさ)・下野(しもつけ)の勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)にて粧坂(けはひざか)を堅めたり。一方には大仏(だいぶつ)陸奥(むつの)守(かみ)貞直(さだなほ)を大将として、甲斐(かひ)・信濃(しなの)・伊豆(いづ)・駿河(するが)の勢(せい)を相随へて、五万(ごまん)余騎(よき)、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)を堅めたり。一方には赤橋前(あかはしのさきの)相摸守(さがみのかみ)盛時(もりとき)を大将として、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)・出羽(では)・奥州(あうしうの)の勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)にて、州崎(すさき)の敵に被向。此外(このほか)末々(すゑずゑ)の平氏八十(はちじふ)余人(よにん)、国々の兵(つはもの)十万騎(じふまんぎ)をば、弱からん方(かた)へ可向とて、鎌倉中(かまくらぢゆう)に被残たり。去程(さるほど)に同日(どうじつ)の巳刻(みのこく)より合戦始(はじまつ)て、終日終夜(しゆうじつしゆうや)責(せめ)戦ふ。寄手(よせて)は大勢にて、悪手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)責入(せめいり)ければ、鎌倉(かまくら)方には防場(ふせぎば)殺所(せつしよ)なりければ、打出々々(うちいでうちいで)相支(あひささへ)て戦(たたかひ)ける。されば三方(さんぱう)に作る時(とき)の声両陣に呼(さけぶ)箭叫(やさけび)は、天を響(ひびか)し地を動(うごか)す。魚鱗(ぎよりん)に懸(かか)り鶴翼(かくよく)に開(ひらい)て、前後に当り左右を支(ささ)へ、義を重(おもん)じ命を軽(かろん)じて、安否(あんぴ)を一時に定(さだ)め、剛臆(がうおく)を累代(るゐたい)に可残合戦なれば、子被討共(ども)不扶、親は乗越(のりこえ)て前なる敵に懸り、主(しゆ)被射落共(ども)不引起、郎等(らうどう)は其(その)馬に乗(のつ)て懸出(かけいで)、或(あるひ)は引組(ひつくん)で勝負をするもあり、或(あるひ)は打替(うちちがへ)て共に死するもありけり。其猛卒(そのまうそつ)の機を見(みる)に、万人死して一人残り、百陣破(やぶれ)て一陣に成(なる)共、いつ可終軍(いくさ)とは見へざりけり。
○赤橋相摸(あかはしさがみの)守(かみ)自害(じがいの)事(こと)付本間(ほんま)自害(じがいの)事(こと) S1005¥¥¥
懸(かかり)ける処、赤橋(あかはし)相摸守(さがみのかみ)、今朝は州崎(すさき)へ被向たりけるが、此(この)陣の軍(いくさ)剛(つよく)して、一日一夜(いちじついちや)の其(その)間に、六十五度まで切合(きりあひ)たり。されば数万騎有(あり)つる郎従(らうじゆう)も、討(うた)れ落失(おちうす)る程に、僅(わづか)に残る其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。侍(さぶらひ)大将にて同陣に候(さふらひ)ける南条左衛門高直(たかなほ)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「漢(かん)・楚(そ)八箇年(はちかねん)の闘(たたかひ)に、高祖(かうそ)度(たび)ごとに討負給(うちまけ)たまひしか共(ども)、一度(ひとたび)烏江(をうがう)の軍(いくさ)に利を得て却(かへつ)て項羽(かうう)を被亡き。斉(せい)・晋(しん)七十度の闘(たたかひ)に、重耳(ちようじ)更に勝(かつ)事(こと)無(なか)りしか共(ども)、遂(つひ)に斉境(せいきやう)の闘(たたかひ)に打勝(うちかつ)て、文公国(ぶんこうくに)を保(たも)てり。されば万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)を得、百回(ももたび)負(まけ)て一戦(いつせん)に利あるは、合戦の習(ならひ)也(なり)。今此戦(このたたかひ)に敵聊(いささか)勝(かつ)に乗るに以たりといへ共(ども)、さればとて当家の運今日に窮(きはま)りぬとは不覚(おぼえず)。雖然盛時(もりとき)に於ては、一門(いちもん)の安否(あんぴ)を見果(みはつ)る迄もなく、此陣頭(このぢんとう)にて腹を切(きら)んと思ふ也(なり)。其(その)故は、盛時(もりとき)足利殿(あしかがどの)に女性方(によしやうがた)の縁(えん)に成(なり)ぬる間、相摸殿(さがみどの)を奉始、一家(いつけ)の人々、さこそ心をも置給(おきたまふ)らめ。是(これ)勇士の所恥也(なり)。彼田広先生(かのでんくわうせんじやう)は、燕丹(えんたん)に被語はし時、「此(この)事(こと)漏(もら)すな」と云(いは)れて、為散其疑、命を失(うしなう)て燕丹(えんたん)が前に死(しし)たりしぞかし。此(この)陣闘(たたかひ)急にして兵皆疲(つかれ)たり。我(われ)何(なん)の面目か有(あつ)て、堅めたる陣を引(ひい)て而(しか)も嫌疑(けんぎ)の中(うち)に且(しばら)く命を可惜。」とて、闘(たたかひ)未(いまだ)半(なかばなら)ざる最中(さいちゆう)に、帷幕(ゐばく)の中(うち)に物具(もののぐ)脱捨(ぬぎすて)て腹(はら)十文字(じふもんじ)に切給(きりたまひ)て北枕(きたまくら)にぞ臥(ふし)給ふ。南条是(これ)を見て、「大将已(すで)に御自害(ごじがい)ある上は士卒(じそつ)誰(た)れが為に命を可惜。いでさらば御伴(おんとも)申さん。」とて、続(つづい)て腹を切(きり)ければ、同志の侍(さぶらひ)九十(くじふ)余人(よにん)、上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り伏(ふし)て、腹をぞ切(きつ)たりける。さてこそ十八日の晩(くれ)程に州崎(すさき)一番に破れて、義貞の官軍(くわんぐん)は山内(やまのうち)まで入(いり)にけり。懸(かかる)処に本間(ほんま)山城(やましろの)左衛門は、多年大仏(だいぶつ)奥州貞直(さだなほ)の恩顧の者にて、殊更(ことさら)近習(きんじふ)しけるが、聊(いささか)勘気(かんき)せられたる事有(あつ)て、不被免出仕、未だ己(おの)が宿所にぞ候(そふらひ)ける。已(すでに)五月十九日の早旦(さうたん)に、極楽寺の切通(きりどほし)の軍(いくさ)破(やぶ)れて敵攻入(せめいる)なんど聞へしかば、本間山城(やましろの)左衛門・若党(わかたう)中間(ちゆうげん)百(ひやく)余人(よにん)、是(これ)を最後と出立(いでたつ)て極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館(おほたち)二郎宗氏(むねうぢ)が、三万(さんまん)余騎(よき)にて扣(ひかへ)たる真中(まんなか)へ懸入(かけいつ)て、勇誇(いさみほこつ)たる大勢を八方へ追散(おつちら)し、大将宗氏に組(くま)んと透間(すきま)もなくぞ懸(かか)りける。三万(さんまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)須臾(しゆゆ)の程に分れ靡(なび)き、腰越(こしごえ)までぞ引(ひい)たりける。余(あま)りに手繁(てしげ)く進(すすん)で懸(かか)りしかば、大将宗氏は取(とつ)て返し思ふ程闘(たたかつ)て、本間が郎等(らうどう)と引組(ひつくん)で、差違(さしちが)へてぞ伏(ふし)給ひける。本間大(おほき)に悦(よろこん)で馬より飛(とん)で下(お)り、其(その)頚を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、貞直(さだなほ)の陣に馳参(はせさん)じ、幕(まく)の前に畏(かしこまつ)て、「多年の奉公多日(たじつ)の御恩此一戦(このいつせん)を以て奉報候。又御不審(ごふしん)の身にて空(むなし)く罷成(まかりなり)候はゞ、後世(ごせ)までの妄念(まうねん)共(とも)成(なり)ぬべう候へば、今は御免(ごめん)を蒙(かうむつ)て、心安(やすく)冥途(めいど)の御先仕(さきつかまつり)候はん。」と申(まうし)もはてず、流るゝ泪(なみだ)を押へつゝ、腹掻切(かききつ)てぞ失(うせ)にける。「「三軍をば可奪帥」とは彼(かれ)をぞ云(いふ)べき。「以徳報怨」とは是(これ)をぞ申(まうす)べき。はづかしの本間が心中や。」とて、落(おつ)る泪(なみだ)を袖にかけながら、「いざや本間が志(こころざし)を感ぜん。」とて、自(みづから)打出(うちいで)られしかば、相順(あひしたがふ)兵も泪(なみだ)を流さぬは無(なか)りけり。
○稲村崎(いなむらがさき)成干潟事 S1006
去程(さるほど)に、極楽寺の切通(きりどほし)へ被向たる大館(おほたち)次郎宗氏(むねうぢ)、本間(ほんま)に被討て、兵共(つはものども)片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)まで、引退(ひきしりぞき)ぬと聞へければ、新田(につた)義貞逞兵(ていへい)に万余騎(よき)を率(そつ)して、二十一日の夜半許(やはんばかり)に、片瀬・腰越を打廻(うちまは)り、極楽寺坂へ打莅(うちのぞみ)給ふ。明行(あけゆく)月に敵の陣を見給へば、北は切通(きりどほし)まで山高く路(みち)嶮(けはし)きに、木戸を誘(かま)へ垣楯(かいだて)を掻(かい)て、数万(すまん)の兵(つはもの)陣を双(なら)べて並居(なみゐ)たり。南は稲村崎(いなむらがさき)にて、沙頭(しやとう)路(みち)狭(せば)きに、浪打涯(なみうちぎは)まで逆木(さかもぎ)を繁(しげ)く引懸(ひきかけ)て、澳(おき)四五町(しごちやう)が程に大船共(たいせんども)を並べて、矢倉(やぐら)をかきて横矢(よこや)に射させんと構(かまへ)たり。誠(げに)も此(この)陣の寄手(よせて)、叶はで引(ひき)ぬらんも理(ことわり)也(なり)。と見給(たまひ)ければ、義貞馬より下給(おりたまひ)て、甲(かぶと)を脱(ぬい)で海上を遥々(はるばる)と伏拝(ふしをが)み、竜神(りゆうじん)に向(むかつ)て祈誓(きせい)し給(たまひ)ける。「伝(つたへ)奉る、日本(につぽん)開闢(かいびやく)の主(あるじ)、伊勢天照太神(あまてらすおほみかみ)は、本地(ほんち)を大日(たいにち)の尊像に隠(かく)し、垂跡(すゐじやく)を滄海(さうかい)の竜神(りゆうじん)に呈(あらは)し給へりと、吾(わが)君其苗裔(そのべうえい)として、逆臣(ぎやくしん)の為に西海の浪に漂(ただよひ)給ふ。義貞今(いま)臣たる道を尽(つくさ)ん為に、斧鉞(ふえつ)を把(とつ)て敵陣に臨む。其(その)志偏(ひとへ)に王化(わうくわ)を資(たす)け奉(たてまつつ)て、蒼生(さうせい)を令安となり。仰願(あふぎねがはく)は内海外海(ないかいげかい)の竜神八部(りゆうじんはちぶ)、臣が忠義を鑒(かんがみ)て、潮(うしほ)を万里の外(ほか)に退(しりぞ)け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信(ししん)に祈念(きねん)し、自ら佩(はき)給へる金作(こがねづくり)の太刀を抜(ぬい)て、海中へ投給(なげたまひ)けり。真(まこと)に竜神納受(なふじゆ)やし給(たまひ)けん、其夜(そのよ)の月の入方(いりがた)に、前々(さきざき)更に干(ひ)る事も無(なか)りける稲村崎(いなむらがさき)、俄(にはか)に二十(にじふ)余町(よちやう)干上(ひあがつ)て、平沙渺々(へいしやべうべう)たり。横矢(よこや)射んと構(かまへ)ぬる数千(すせん)の兵船も、落行(おちゆく)塩(しほ)に被誘て、遥(はるか)の澳(おき)に漂(ただよ)へり。不思議(ふしぎ)と云(いふ)も無類。義貞是(これ)を見給(たまひ)て、「伝聞(つたへきく)、後漢(ごかん)の弐師(じし)将軍は、城中に水尽(つき)渇(かつ)に被責ける時、刀を抜(ぬい)て岩石(がんぜき)を刺(さし)しかば、飛泉(ひせん)俄に湧出(わきいで)き。我朝(わがてう)の神宮皇后(じんぐうくわうぐう)は、新羅(しんら)を責給(せめたまひ)し時自(みづか)ら干珠(かんしゆ)を取(とり)、海上に抛給(なげたまひ)しかば、潮水(てうすゐ)遠(とほく)退(しりぞい)て終(つひに)戦(たたかひ)に勝(かつ)事(こと)を令得玉ふと。是(これ)皆和漢(わかん)の佳例(かれい)にして古今(ここん)の奇瑞(きずゐ)に相似(あひにた)り。進めや兵共(つはものども)。」と被下知ければ、江田(えだ)・大館(おほたち)・里見・鳥山(とりやま)・田中・羽河(はねかは)・山名(やまな)・桃井(もものゐ)の人々を始(はじめ)として、越後・上野(かうづけ)・武蔵・相摸の軍勢共(ぐんぜいども)、六万(ろくまん)余騎(よき)を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とほひかた)を真(ま)一文字に懸通(かけとほり)て、鎌倉中(かまくらぢゆう)へ乱入(みだれい)る。数多(あまた)の兵是(これ)を見て、後(うしろ)なる敵に懸(かか)らんとすれば、前なる寄手(よせて)迹(あと)に付(つい)て攻入(せめいら)んとす。前なる敵を欲防と、後(うしろ)の大勢道を塞(ふさい)で欲討と。進退(しんたい)失度、東西に心迷(まよう)て、墓々敷(はかばかしく)敵に向(むかつ)て、軍(いくさ)を至す事は無(なか)りけり。爰(ここ)に嶋津(しまづ)四郎と申(まうし)しは、大力(だいりき)の聞へ有(あつ)て、誠(まこと)に器量事(きりやうこと)がら人に勝(すぐ)れたりければ、御大事(おんだいじ)に逢(あひ)ぬべき者也(なり)。とて、執事(しつじ)長崎入道烏帽子々(ゑぼしご)にして一人当千と被憑たりければ、詮度(せんど)の合戦に向(むけ)んとて未(いま)だろ々の防場(ふせぎば)へは不被向、態(わざと)相摸(さがみ)入道(にふだう)の屋形(やかた)の辺(へん)にぞ被置ける。懸(かか)る処に浜の手破(やぶれ)て、源氏已(すで)に若宮小路(わかみやこうぢ)まで攻入(せめいつ)たりと騒ぎければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)、嶋津を呼寄(よびよせ)て、自(みづか)ら酌(しやく)を取(とつ)て酒を進め三度(さんど)傾(かたぶけ)ける時、三間(さんげん)の馬屋(むまや)に被立たりける関東(くわんとう)無双(ぶさう)の名馬白浪(しらなみ)と云(いひ)けるに、白鞍(しろくら)置(おい)てぞ被引ける。見る人是(これ)を不浦山と云(いふ)事(こと)なし。嶋津、門前より此(この)馬にひたと打乗(うちのつ)て、由井浜(ゆゐのはま)の浦風に、濃紅(こきくれなゐ)の大笠注(おほかさじるし)を吹(ふき)そらさせ、三物四物(みつものよつもの)取付(とりつけ)て、あたりを払(はらう)て馳向(はせむかひ)ければ、数多(あまた)の軍勢是(これ)を見て、誠(まこと)に一騎当千の兵(つはもの)也(なり)。此(この)間執事(しつじ)の重恩(ぢゆうおん)を与へて、傍若無人(ばうじやくぶじん)の振舞(ふるまひ)せられたるも理(ことわ)り哉(かな)、と思はぬ人はなかりけり。義貞の兵是(これ)を見て、「あはれ敵や。」と罵(ののし)りければ、栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)・畑(はた)・矢部(やべ)・堀口(ほりぐち)・由良(ゆら)・長浜を始(はじめ)として、大力の覚へ取(とつ)たる悪者(あらもの)共、我先(われさき)に彼(かの)武者と組(くん)で勝負を決せんと、馬を進めて相(あひ)近づく。両方名誉(めいよ)の大力共が、人交(ひとまぜ)もせず軍(いくさ)する、あれ見よとのゝめきて、敵御方(みかた)諸共(もろとも)に、難唾(かたづ)を呑(のう)で汗を流し、是(これ)を見物してぞ扣(ひか)へたる。懸(かか)る処に島津馬より飛(とん)で下り、甲(かぶと)を脱(ぬい)で閑々(しづしづ)と身繕(みづくろひ)をする程に、何とするぞと見居たれば、をめ/\と降参して、義貞の勢(せい)にぞ加(くはは)りける。貴賎上下(きせんじやうげ)是(これ)を見て、誉(ほめ)つる言(ことば)を翻(ひるがへ)して、悪(にく)まぬ者も無(なか)りけり。是(これ)を降人(かうにん)の始(はじめ)として、或(あるひ)は年来(としごろ)重恩(ぢゆうおん)の郎従(らうじゆう)、或(あるひ)は累代(るゐたい)奉公の家人(けにん)とも、主(しゆ)を棄(すて)て降人(かうにん)になり、親を捨(すて)て敵に付(つく)、目も不被当有様なり。凡(およそ)源平威(ゐ)を振(ふる)ひ、互に天下を争はん事も、今日を限りとぞ見へたりける。
○鎌倉(かまくら)兵火(ひやうくわの)事(こと)付長崎父子(ふし)武勇(ぶようの)事(こと) S1007
去程(さるほど)に、浜面(はもおもて)の在家(ざいけ)並(ならび)稲瀬(いなせ)河の東西に火を懸(かけ)たれば、折節(をりふし)浜風烈(はげしく)吹布(ふきしい)て、車輪(しやりん)の如くなる炎(ほのほ)、黒煙(くろけぶり)の中(なか)に飛散(とびちつ)て、十町(じつちよう)二十町(にじつちよう)が外(ほか)に燃付(もえつく)事(こと)、同時に二十(にじふ)余箇所(よかしよ)也(なり)。猛火(みやうくわ)の下より源氏の兵(つはもの)乱入(みだれいつ)て、度方(とはう)を失へる敵共(てきども)を、此彼(ここかしこ)に射伏切臥(いふせきりふせ)、或(あるひは)引組差違(ひつくんでさしちがへ)、或(あるひは)生捕分捕(いけどりぶんどり)様々(さまざま)也(なり)。煙(けぶり)に迷(まよへ)る女(をんな)・童部(わらんべ)共、被追立て火の中(なか)堀の底共(とも)不云、逃倒(にげたふ)れたる有様は、是(これ)や此(この)帝尺宮(たいしやくきゆう)の闘(たたかひ)に、修羅(しゆら)の眷属共(けんぞくども)天帝(てんてい)の為に被罰て、剣戟(けんげき)の上に倒伏(たふれふし)阿鼻大城(あびだいじやう)の罪人(ざいにん)が獄卒(ごくそつ)の槍(しもと)に被駆て、鉄湯(てつたう)の底に落入(おちい)る覧(らん)も、角(かく)やと被思知て、語るに言(ことば)も更になく、聞(きく)に哀(あはれ)を催して、皆泪(なみだ)にぞ咽(むせび)ける。去程(さるほど)に余煙(よえん)四方(しはう)より吹懸(ふきかけ)て、相摸(さがみの)入道殿(にふだうどの)の屋形(やかた)近く火懸(かか)りければ、相摸(さがみの)入道殿(にふだうどの)千(せん)余騎(よき)にて、葛西(かさい)が谷(やつ)に引篭(ひきこも)り給(たまひ)ければ、諸大将の兵(つはもの)共は、東勝寺(とうしようじ)に充満(みちみち)たり。是(これ)は父祖代々(ふそだいだい)の墳墓(ふんぼ)の地なれば、爰(ここ)にて兵共(つはものども)に防矢(ふせぎや)射させて、心閑に自害せん也(なり)。中(なか)にも長崎三郎左衛門入道思元(しげん)・子息勘解由左衛門(かげゆざゑもん)為基(ためもと)二人(ににん)は、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)へ向(むかつ)て、責入(せめいる)敵を支(ささへ)て防(ふせぎ)けるが、敵の時(とき)の声已(すで)に小町口(こまちぐち)に聞へて、鎌倉殿(かまくらどの)へ御屋形(おんやかた)に、火懸(かか)りぬと見へしかば、相随(あひしたが)ふ兵七千(しちせん)余騎(よき)をば、猶(なほ)本(もと)の責口(せめくち)に残(のこし)置き、父子(ふし)二人(ににん)が手勢(てぜい)六百(ろつぴやく)余騎(よき)を勝(すぐつ)て、小町口へぞ向(むかひ)ける。義貞の兵是(これ)を見て、中(なか)に取篭(とりこめ)て討(うた)んとす。長崎父子一所(いつしよ)に打(うちよせ)寄て魚鱗(ぎよりん)に連(つらなつ)ては懸破(かけやぶ)り、虎韜(こたう)に別(わかれ)ては追靡(おひなび)け、七八度が程ぞ揉(もう)だりける。義貞の兵共(つはものども)蜘手(くもで)・十文字(じふもんじ)に被懸散て、若宮小路(わかもやこうぢ)へ颯(さつ)と引(ひい)て、人馬に息をぞ継(つが)せける。懸(かか)る処に、天狗堂(てんぐだう)と扇(あふぎ)が谷(やつ)に軍(いくさ)有(あり)と覚(おぼえ)て、馬煙(むまけぶり)夥敷(おびたたしく)みへければ、長崎父子左右(さいう)へ別(わかれ)て、馳向(はせむか)はんとしけるが、子息勘解由左衛門(かげゆざゑもん)、是(これ)を限(かぎり)と思(おもひ)ければ、名残惜(なごりをし)げに立止(たちとどまつ)て、遥(はるか)に父の方(かた)を見遣(みやり)て、両眼より泪(なみだ)を浮べて、行(ゆき)も過(すぎ)ざりけるを、父屹(きつ)と是(これ)を見て、高らかに恥(はぢ)しめて、馬を扣(ひかへ)て云(いひ)けるは、「何か名残(なごり)の可惜る、独(ひとり)死(しし)て独(ひとり)生残(いきのこ)らんにこそ、再会(さいくわい)其期(そのご)も久しからんずれ。我(われ)も人も今日の日(ひ)の中(うち)に討死して、明日は又冥途(めいど)にて寄合(よりあは)んずる者が、一夜(いちや)の程の別れ、何かさまでは悲(かなし)かるべき。」と、高声(かうじやう)に申(まうし)ければ、為基(ためもと)泪(なみだ)を推拭(おしのご)ひ、「さ候はゞ疾(とく)して冥途(めいど)の旅を御急(いそぎ)候へ。死出(しで)の山路(やまぢ)にては待進(まちまゐら)せ候はん。」と云捨(いひすて)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)ける心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。相順(あひしたがふ)兵僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)に成(なり)しかば、敵三千(さんぜん)余騎(よき)の真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て、短兵(たんぺい)急に拉(とりひし)がんとす。為基が佩(はい)たる太刀は面影(おもかげ)と名付(なづけ)て、来(らい)太郎国行(くにゆき)が、百日精進(しやうじん)して、百貫(くわん)にて三尺(さんじやく)三寸(さんずん)に打(うつ)たる太刀なれば、此鋒(このきつさき)に廻(まは)る者、或(あるひ)は甲(かぶと)の鉢(はち)を立破(たてわり)に被破、或(あるひは)胸板(むないた)を袈裟懸(けさがけ)に切(きつ)て被落ける程に、敵皆是(これ)に被追立て、敢(あへ)て近付(ちかづく)者も無(なか)りけり。只陣を隔(へだて)て矢衾(やぶすま)を作(つくつ)て、遠矢(とほや)に射殺さんとしける間、為基(ためもとが)乗(のつ)たる馬に矢の立(たつ)事(こと)七筋(しちすぢ)也(なり)。角(かく)ては可然敵に近(ちかづい)て、組(くま)んとする事叶はじと思(おもひ)ければ、由井(ゆゐ)の浜の大鳥居(おほどりゐ)の前にて馬よりゆらりと飛(とん)で下(おり)、只一人太刀を倒(さかさま)に杖(つい)て、二王立(にわうだち)にぞ立(たつ)たりける。義貞の兵是(これ)を見て、猶(なほ)も只十方より遠矢に射計(いるばかり)にて、寄合(よせあはせ)んとする者ぞ無(なか)りける。敵を為謀手負(おう)たる真似(まね)をして、小膝(こひざ)を折(をつ)てぞ臥(ふし)たりける。爰(ここ)に誰(たれ)とは不知、輪子引両(りふごひきりやう)の笠符(かさじるし)付(つけ)たる武者(むしや)、五十(ごじふ)余騎(よき)ひし/\と打寄(うちよつ)て、勘解由左衛門(かげゆざゑもん)が頚を取(とら)んと、争ひ近付(ちかづき)ける処に、為基かはと起(おき)て太刀を取直(とりなほ)し、「何者ぞ、人の軍(いくさ)にしくたびれて、昼寝したるを驚(おどろか)すは。いで己等(おのれら)がほしがる頚取(とら)せん。」と云侭(いふまま)に、鐔本(つばもと)まで血に成(なつ)たる太刀を打振(うちふつ)て、鳴雷(なるかみ)の落懸(おちかか)る様(やう)に、大手(おほて)をはだけて追(おひ)ける間、五十(ごじふ)余騎(よき)の者共(ものども)、逸足(いちあし)を出し逃(にげ)ける間、勘解由左衛門(かげゆざゑもん)大音(だいおん)を揚(あげ)て、「何(いづ)くまで逃(にぐ)るぞ。蓬(きたな)し、返せ。と罵(ののし)る声の、只耳本(みみもと)に聞へて、日来(ひごろ)さしも早しと思(おもひ)し馬共、皆一所(いつしよ)に躍(をど)る心地(ここち)して、恐しなんど云(いふ)許(ばかり)なし。為基(ためもと)只一人懸入(かけいつ)て裏へぬけ、取(とつ)て返しては懸乱(かけみだ)し、今日を限(かぎり)と闘(たたかひ)しが、二十一日の合戦に、由比浜(ゆゐのはま)の大勢を東西南北に懸散(かけちら)し、敵・御方(みかた)の目を驚(おどろか)し、其後(そののち)は生死(しやうじ)を不知成(なり)にけり。
○大仏貞直(だいぶつさだなほ)並金沢貞将(さだまさ)討死(うちじにの)事(こと) S1008
去程(さるほど)に、大仏陸奥(むつの)守(かみ)貞直は、昨日まで二万(にまん)余騎(よき)にて、極楽寺の切通(きりどほし)を支(ささへ)て防(ふせぎ)闘ひ給(たまひ)けるが、今朝(こんてう)の浜の合戦に、三百(さんびやく)余騎(よき)に討成(うちなさ)れ、剰(あまつさへ)敵に後(うしろ)を被遮て、前後に度(ど)を失(うしなう)て御座(おはしまし)ける処に、鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(やかた)にも火懸(かか)りぬと見へしかば、世間(よのなか)今はさてとや思(おもひ)けん、又主(しゆ)の自害(じがい)をや勧(すす)めけん、宗徒(むねと)の郎従(らうじゆう)三十(さんじふ)余人(よにん)、白州(しらす)の上に物具(もののぐ)脱棄(ぬぎすて)て、一面に並居(なみゐ)て腹をぞ切(きり)にける。貞直是(これ)を見給(たまひ)て、「日本一(につぽんいち)の不覚(ふかく)の者共(ものども)の行跡(ふるまひ)哉(かな)。千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)までも、敵を亡(ほろぼし)名を後代(こうだい)に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いでさらば最後の一合戦(ひとかつせん)快(こころよう)して、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎(よき)の兵を相随(あひしたが)へ、先(まづ)大嶋(おほしま)・里見・額田(ぬかだ)・桃井(もものゐ)、六千余騎(よき)にて磬(ひかへ)たる真中(まんなか)へ破(わつ)て入(いり)、思(おもふ)程闘(たたかつ)て、敵数(あま)た討取(うちとつ)て、ばつと駈出(かけいで)見給へば、其(その)勢(せい)僅(わづか)に六十(ろくじふ)余騎(よき)に成(なり)にけり。貞直其(その)兵を指招(さしまねい)て、「今は末々(すゑずゑ)の敵と懸合(かけあつ)ても無益(むやく)也(なり)。」とて、脇屋義助(わきやよしすけ)雲霞(うんか)のごとくに扣(ひかへ)たる真中(まんなか)へ駈入(かけいり)、一人も不残討死して尸(かばね)を戦場の土(つち)にぞ残しける。金沢武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)も、山内(やまのうち)の合戦に相従(あひしたが)ふ兵八百(はつぴやく)余人(よにん)被打散我(わが)身も七箇所(しちかしよ)まで疵(きず)を蒙(かうむつ)て、相摸(さがみ)入道(にふだう)の御坐(おはしま)す東勝寺(とうしようじ)へ打帰り給(たまひ)たりければ、入道不斜(なのめならず)感謝して、軈(やが)て両探題職(たんだいしよく)に可被居御教書(みげうしよ)を被成、相摸守(さがみのかみ)にぞ被移ける。貞将(さだまさ)は一家(いつけ)の滅亡(めつばう)日(ひ)の中(うち)を不過と被思けれ共(ども)、「多年の所望(しよまう)、氏族(しぞく)の規摸(きぼ)とする職なれば、今は冥途(めいど)の思出(おもひで)にもなれかし。」と、彼御教書(かのみげうしよ)を請取(うけとつ)て、又戦場へ打出(うちいで)給(たまひ)けるが、其御教書(そのみげうしよ)の裏に、「棄我百年命報公一日恩。」と大(おほ)文字に書(かい)て、是(これ)を鎧(よろひ)の引合(ひきあはせ)に入(いれ)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)、終(つひ)に討死し玉(たまひ)ければ、当家も他家(たけ)も推双(おしなべ)て、感ぜぬ者も無(なか)りけり。
○信忍(しんにん)自害(じがいの)事(こと) S1009
去程(さるほど)に普恩寺(ふおんじ)前(さきの)相摸(さがみの)入道信忍(しんにん)も、粧粧坂(けはひざか)へ被向たりしが、夜(よ)る昼(ひ)る五日の合戦に、郎従(らうじゆう)悉(ことごと)く討死して、僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)ぞ残(のこり)ける。諸方の攻口(せめくち)皆破(やぶれ)て、敵谷々(やつやつ)に入乱(いりみだれ)ぬと申(まうし)ければ、入道普恩寺討残(うちのこ)されたる若党(わかたう)諸共(もろとも)に自害(じがい)せられけるが、子息越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)六波羅(ろくはら)を落(おち)て、江州(がうしう)番馬(ばんば)にて腹切玉(きりたまひ)ぬと告(つげ)たりければ、其(その)最後の有様思出(おもひだ)して、哀(あはれ)に不堪や被思けん、一首(いつしゆ)の歌を御堂(みだう)の柱に血を以て書付玉(かきつけたまひ)けるとかや、待(まて)しばし死出(しで)の山辺(やまべ)の旅の道同(おなじ)く越(こえ)て浮世(うきよ)語らん年来(としごろ)嗜弄給(たしなみもてあそびたまひ)し事とて、最後の時も不忘、心中(しんちゆう)の愁緒(しうしよ)を述(のべ)て、天下の称嘆(しようたん)に残されける、数奇(すき)の程こそ優(やさし)けれと、皆感涙(かんるゐ)をぞ流しける。
○塩田父子(しほだふし)自害(じがいの)事(こと) S1010
爰(ここ)に不思議(ふしぎ)なりしは、塩田陸奥(むつの)入道々祐(だういう)が子息民部大輔(みんぶのたいふ)俊時(としとき)、親の自害(じがい)を勧(すすめ)んと、腹掻切(かききつ)て目前(めのまへ)に臥(ふし)たりけるを見給(たまひ)て、幾程(いくほど)ならぬ今生(こんじやう)の別(わかれ)に目くれ心迷(まよひ)て落(おつ)る泪(なみだ)も不留、先立(さきだち)ぬる子息の菩提(ぼだい)をも祈り、我逆修(わがぎやくしゆ)にも備へんとや被思けん、子息の尸骸(しがい)に向(むかつ)て、年来(としごろ)誦給(よみたまひ)ける持経(ぢきやう)の紐(ひぼ)を解(とき)、要文(えうもん)処々(ところどころ)打上(うちあげ)、心閑(しづか)に読誦(どくじゆ)し給(たまひ)けり。被打漏たる郎等共(らうどうども)、主(しゆ)と共に自害(じがい)せんとて、二百余人(よにん)並居(なみゐ)たりけるを、三方(さんぱう)へ差遣(さしつかは)し、「此(この)御経誦終(よみはつ)る程防矢(ふせぎや)射よ。」と下地(げぢ)せられけり。其(その)中に狩野(かのの)五郎重光許(しげみつばかり)は年来(としごろ)の者なる上、近々召仕(めしつかは)れければ、「吾(われ)腹切(きつ)て後(のち)、屋形(やかた)に火懸(かけ)て、敵に頚とらすな。」と云含(いひふく)め、一人被留置けるが、法花経(ほけきやう)已(すで)に五の巻の提婆品(だいばほん)はてんとしける時、狩野(かのの)五郎門前(もんぜん)に走出(はしりいで)て四方(しはう)を見る真似(まね)をして、「防矢仕(ふせぎやつかま)つる者共(ものども)早(はや)皆討(うた)れて、敵攻近付(せめちかづき)候。早々(はやはや)御自害(ごじがい)候へ。」と勧(すすめ)ければ、入道、「さらば。」とて、経(きやう)をば左の手に握り、右の手に刀を抜(ぬい)て腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、父子同(おなじ)枕にぞ臥給(ふしたまひ)ける。重光(しげみつ)は年来(としごろ)と云(いひ)、重恩(ぢゆうおん)と云(いひ)、当時遺言(ゆゐごん)旁(かたがた)難遁ければ、軈(やが)て腹をも切らんずらんと思(おもひ)たれば、さは無(なく)て、主(しゆ)二人(ににん)の鎧(よろひ)・太刀・々剥(かたなはぎ)、家中の財宝(ざいはう)中間(ちゆうげん)・下部(しもべ)に取持(とりもた)せて、円覚寺(ゑんがくじ)の蔵主寮(ざうすれう)にぞ隠居(かくれゐ)たりける。此重宝共(このちようはうども)にては、一期(いちご)不足(ふそく)非(あら)じと覚(おぼえ)しに、天罰にや懸(かか)りけん。舟田(ふなだ)入道是(これ)を聞付(ききつけ)て推寄(おしよ)せ、是非なく召捕(めしとつ)て、遂(つひ)に頚を刎(はね)て、由井(ゆゐ)の浜にぞ掛(かけ)られける。尤(もつとも)角(かう)こそ有(あり)たけれとて、悪(にくま)ぬ者も無(なか)りけり。
○塩飽(しあく)入道自害(じがいの)事(こと) S1011
塩飽(しあく)新左近(さこんの)入道聖遠(しやうゑん)は、嫡子(ちやくし)三郎左衛門忠頼(ただより)を呼(よび)、「諸方(しよはう)の攻口悉(ことごとく)破(やぶれ)、御一門達(ごいちもんたち)大略(たいりやく)腹切(きら)せ給(たまふ)と聞へければ、入道も守殿(かうのとの)に先立進(さきだちまゐらせ)て、其(その)忠義を知られ奉らんと思(おもふ)也(なり)。されば御辺(ごへん)は未だ私(わたくし)の眷養(けんやう)にて、公方(くばう)の御恩(ごおん)をも蒙(かうむ)らねば、縦(たと)ひ一所にて今命(いのち)を不棄共(とも)、人強(あながち)義(ぎ)を知(しら)ぬ者とはよも思はじ。然者(しかれば)何(いづ)くにも暫(しばら)く身を隠し、出家遁世(しゆつけとんせい)の身ともなり、我後生(わがごしやう)をも訪(とぶら)ひ、心安く一身(いつしん)の生涯をもくらせかし。」と、泪(なみだ)の中(うち)に宣(のたま)ひければ、三郎左衛門忠頼(ただより)も、両眼に泪(なみだ)を浮(うか)め、しば/\物も不被申けるが、良有(ややあつ)て、「是(これ)こそ仰(おほせ)共(とも)覚(おぼえ)候はね。忠頼直(ぢき)に公方(くばう)の御恩を蒙りたる事は候はね共(ども)、一家(いつけ)の続命(ぞくみやう)悉(ことごと)く是(これ)武恩に非(あらず)と云(いふ)事(こと)なし。其(その)上(うへ)忠頼自幼少釈門(しやくもん)に至る身ならば、恩を棄(すて)て無為(ぶゐ)に入る道も然(しか)なるべし。苟(いやしく)も弓矢の家に生れ、名を此門棄(このもんえふ)に懸(かけ)ながら、武運の傾(かたむく)を見て、時の難(なん)を遁(のが)れんが為に、出塵(しゆつぢん)の身と成(なつ)て、天下の人に指を差(ささ)れん事(こと)、是(これ)に過(すぎ)たる恥辱(ちじよく)や候べき。御腹(おんはら)被召(めされ)候はゞ、冥途(めいど)の御道しるべ仕(つかまつり)候はん。」と云(いひ)も終(はて)ず、袖の下より刀を抜(ぬい)て、偸(ひそか)に腹に突立(つきたて)て、畏(かしこまつ)たる体(てい)にて死(しに)ける。其弟(そのおとと)塩飽(しあく)四郎是(これ)を見て、続(つづい)て腹を切らんとしけるを、父の入道大(おほき)に諌(いさめ)て、「暫く吾を先立(さきだてて)、順次(じゆんじ)の孝を専(もつぱら)にし、其後(そののち)自害せよ。」と申(まうし)ければ、塩飽(しあく)四郎抜(ぬい)たる刀を収(をさめ)て、父の入道が前に畏(かしこまつ)てぞ侯(さふらひ)ける。入道是(これ)を見て快(こころよ)げに打笑(うちわらひ)、閑々(しづしづ)と中門(ちゆうもん)に曲■(きよくろく)をかざらせて、其(その)上(うへ)に結跏趺座(けつかふざ)し、硯(すずり)取寄(とりよせ)て自ら筆を染め、辞世(じせい)の頌(じゆ)をぞ書(かき)たりける。提持吹毛。截断虚空。大火聚裡(たいくわじゆり)。一道清風(いちだうのせいふう)。と書(かい)て、叉手(しやす)して頭(くび)を伸(のべ)て、子息四郎に、「其討(それうて)。」と下地(げぢ)しければ、大膚脱(おほはだぬぎ)に成(なつ)て、父の頚をうち落(おとし)て、其(その)太刀を取直(とりなほし)て、鐔本(つばもと)まで己(おの)れが腹に突貫(つきつらぬい)て、うつぶしざまにぞ臥(ふし)たりける。郎等(らうどう)三人(さんにん)是(これ)を見て走寄(はしりよ)り、同(おなじ)太刀に被貫て、串(くし)に指(さし)たる魚肉(ぎよにく)の如く頭(かうべ)を連(つらね)て伏(ふし)たりける。
○安東(あんどう)入道自害(じがいの)事(こと)付漢(かんの)王陵(わうりようが)事(こと) S1012
安東左衛門入道聖秀(しやうしう)と申(まうせ)しは、新田(につた)義貞の北台(きたのだい)の伯父(をぢ)成(なり)しかば、彼(かの)女房義貞(よしさだ)の状に我文(わがふみ)を書副(かきそへ)て、偸(ひそか)に聖秀(しやうしう)が方へぞ被遣ける。安東、始(はじめ)は三千(さんぜん)余騎(よき)にて、稲瀬河(いなせがは)へ向(むかひ)たりけるが、世良田(せらだ)太郎が稲村崎(いなむらがさき)より後(うしろ)へ回(まは)りける勢(せい)に、陣を被破て引(ひき)けるが、由良(ゆら)・長浜が勢に被取篭て百余騎(よき)に被討成、我(わが)身も薄手(うすで)あまた所負(おう)て、己(おの)が館(たち)へ帰(かへつ)たりけるが、今朝(こんてう)巳刻(みのこく)に、宿所は早(はや)焼(やけ)て其跡(そのあと)もなし。妻子遣属(さいしけんぞく)は何(いづ)ちへか落行(おちゆき)けん、行末(ゆくへ)も不知成(なつ)て、可尋問人もなし。是(これ)のみならず、鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(おんやかた)も焼(やけ)て、入道殿(にふだうどの)東勝寺へ落(おち)させ給(たまひ)ぬと申(まうす)者有(あり)ければ、「さて御屋形(おんやかた)の焼跡(やけあと)には、傍輩(はうばい)何様(なにさま)腹切(きり)討死してみゆるか。」と尋(たづね)ければ、「一人も不見候。」とぞ答(こたへ)ける。是(これ)を聞(きい)て安東(あんどう)、「口惜(くちをしき)事(こと)哉(かな)。日本国の主(あるじ)、鎌倉殿(かまくらどの)程の年来(としごろ)住給(すみたまひ)し処を敵の馬の蹄(ひづめ)に懸(かけ)させながら、そこにて千人も二千人(にせんにん)も討死する人の無(なか)りし事よと、後(のち)の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命(いのち)を、御屋形(やかた)の焼跡(やけあと)にて心閑(しづか)に自害(じがい)して、鎌倉殿(かまくらどの)の御恥(はぢ)を洗(すす)がん。」とて、被討残たる郎等(らうどう)百余騎(よき)を相順(あひしたが)へて、小町口(こまちぐち)へ打莅(うちのぞ)む。先々(さきざき)出仕(しゆつし)の如く、塔辻(たふのつじ)にて馬より下(お)り、空(むなし)き迹(あと)を見廻(みまは)せば、今朝までは、奇麗(きれい)なる大廈高牆(たいかかうしやう)の構(かまへ)、忽(たちまち)に灰燼(くわいじん)と成(なつ)て、須臾転変(しゆゆにてんべん)の煙(けむり)を残し、昨日まで遊戯(あそびたはむれ)せし親類(しんるゐ)朋友も、多く戦場に死して、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の尸(かばね)を余(のこ)せり。悲(かなしみ)の中(うち)の悲(かなしみ)に、安東泪(なみだ)を押(おさ)へて惘然(ばうぜん)たる処に、新田殿(につたどの)の北(きた)の台(だい)の御使(おんつかひ)とて、薄様(うすやう)に書(かき)たる文(ふみ)を捧(ささげ)たり。何事ぞとて披見(ひらきみ)れば、「鎌倉(かまくら)の有様今はさてとこそ承(うけたまはり)候へ。何(いか)にもして此方(こなた)へ御出(おんいで)候へ。此(この)程の式(しき)をば身に替(かへ)ても可申宥候。」なんど、様々(さまざま)に書(かか)れたり。是(これ)を見て安東大(おほき)に色を損(そん)じて申(まうし)けるは、「栴檀(せんだん)の林に入(いる)者は、不染衣(ころも)自(おのづか)ら香(かうば)しといへり。武士(ぶし)の女房たる者は、けなげなる心を一つ持(もち)てこそ、其(その)家をも継(つぎ)子孫の名をも露(あらは)す事なれ。されば昔漢(かん)の高祖(かうそ)と楚(その)項羽(かうう)と闘(たたかひ)ける時、王陵(わうりよう)と云(いふ)者城を構(かまへ)て篭(こもつ)たりしを、楚(そ)是(これ)を攻(せむ)るに更に不落。此(この)時楚の兵相謀(あひはかつ)て云(いはく)、「王陵は母の為に忠孝を存(ぞん)ずる事不浅。所詮(しよせん)王陵が母を捕(とら)へて楯(たて)の面(おもて)に当(あて)て城を攻(せむ)る程ならば、王陵矢を射る事を不得して降人(かうにん)に出(いづ)る事可有。」とて潛(ひそか)に彼(かの)母を捕(とらへ)てけり。彼(かの)母心の中(うち)に思(おもひ)けるは、王陵我(われ)に仕(つかふ)る事大舜(たいしゆん)・曾参(そうしん)が高孝(かうかう)にも過(すぎ)たり。我(われ)若(もし)楯(たて)の面(おもて)に被縛城に向ふ程ならば、王陵悲(かなしみ)に不堪して、城を被落事可有。不如無幾程命を為子孫捨んにはと思定(おもひさだめ)て、自(みづから)剣(けん)の上に死(しし)てこそ、遂に王陵が名をば揚(あげ)たりしか。我(われ)只今まで武恩(ぶおん)に浴(よく)して、人に被知身となれり。今事の急なるに臨(のぞん)で、降人(かうにん)に出(いで)たらば、人豈(あに)恥を知(しつ)たる者と思はんや。されば女性心(によしやうごころ)にて縦(たとひ)加様(かやう)の事を被云共(とも)、義貞勇士(ゆうし)の義(ぎ)を知給(しりたまは)ば、さる事やあるべき、可被制。又義貞縱(たとひ)敵の志(こころざし)を計らん為に宣(のたま)ふ共、北方(きたのかた)は我方様(わがかたさま)の名を失(うしな)はじと思はれば、堅(かたく)可被辞、只(ただ)似るを友とする方見(うたて)さ、子孫の為に不被憑。」と、一度(ひとたび)は恨(うらみ)一度(いちど)は怒(いかつ)て、彼(かの)使の見る前にて、其文(そのふみ)を刀に拳(にぎ)り加へて、腹掻切(かききつ)てぞ失給(うせたまひ)ける。
○亀寿殿(かめじゆどの)令落信濃事付左近(さこんの)大夫偽(いつはつて)落奥州事 S1013
爰(ここ)に相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の舎弟(しやてい)四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道の方(かた)に候(さふらひ)ける諏方(すは)左馬(さまの)助(すけ)入道が子息、諏訪(すは)三郎盛高(もりたか)は、数度(すど)の戦(たたかひ)に郎等(らうどう)皆討(うた)れぬ。只主従(しゆうじゆう)二騎に成(なつ)て、左近(さこんの)大夫(たいふ)入道の宿所に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「鎌倉中(かまくらぢゆう)の合戦、今は是(これ)までと覚(おぼえ)て候間、最後の御伴(おんとも)仕(つかまつり)候はん為に参(まいつ)て候。早(はや)思召切(おぼしめしきら)せ給へ。」と進め申(まうし)ければ、入道当(あた)りの人をのけさせて、潛(ひそか)に盛高が耳に宣(のたま)ひけるは、「此乱(このらん)不量出来(いできて)、当家(たうけ)已(すで)に滅亡(めつばう)しぬる事更に他なし。只相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の御振舞(おんふるまひ)人望にも背(そむ)き神慮にも違(ちがひ)たりし故(ゆゑ)也(なり)。但(ただ)し天縦(たと)ひ驕(おごり)を悪(にく)み盈(みてる)を欠(かく)とも、数代(すだい)積善(しやくぜん)の余慶(よけい)家に尽(つき)ずば、此(この)子孫の中に絶(たえ)たるを継ぎ廃(すたれ)たるを興(おこ)す者無(なか)らんや。昔斉(せい)の襄公(じやうこう)無道(ぶだう)なりしかば、斉の国可亡を見て、其(その)臣に鮑叔牙(はうしゆくが)と云(いひ)ける者、襄公(じやうこう)の子小伯(せうはく)を取(とつ)て他国へ落(おち)てげり。其(その)間に襄公(じやうこう)果して公孫無智(こうそんぶち)に被亡、斉の国を失へり。其(その)時に鮑叔牙(はうしゆくが)小伯を取立(とりたて)て、斉の国へ推寄(おしよせ)、公孫無智(こうそんぶち)を討(うつ)事(こと)を得て遂に再び斉の国を保(たも)たせける。斉の桓公(くわんこう)は是(これ)也(なり)。されば於我深く存(ぞん)ずる子細(しさい)あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽(くわいけい)の恥を雪(きよめ)ばやと思ふ也(なり)。御辺(ごへん)も能々(よくよく)遠慮(ゑんりよ)を回(めぐら)して、何(いか)なる方にも隠忍(かくれしのぶ)歟(か)、不然ば降人に成(なつ)て命(いのち)を継(つい)で、甥(をひ)にてある亀寿(かめじゆ)を隠置(かくしおい)て、時至(いたり)ぬと見ん時再び大軍を起して素懐(そくわい)を可被遂。兄の万寿(まんじゆ)をば五大院(ごだいゐん)の右衛門に申付(まうしつけ)たれば、心安く覚(おぼゆ)る也(なり)。」と宣(のたま)へば、盛高泪(なみだ)を押(おさ)へて申(まうし)けるは、「今までは一身(いつしん)の安否(あんぴ)を御一門(ごいちもん)の存亡(ぞんばう)に任候(まかせさふらひ)つれば、命をば可惜候はず。御前(おんまへ)にて自害仕(じがいつかまつつ)て、二心(ふたごころ)なき程を見へ進(まゐら)せ候はんずる為にこそ、是(これ)まで参(まいつ)て候へ共(ども)、「死を一時に定(さだむ)るは易(やす)く、謀(はかりごと)を万代(ばんだい)に残すは難(かた)し」と申(まうす)事(こと)候へば、兎(と)も角(かう)も仰(おほせ)に可随候。」とて、盛高(もりたか)は御前(おんまへ)を罷立(まかりたつ)て、相摸殿(さがみどの)の妾(おもひびと)、二位殿(にゐどの)の御局(おつぼね)の扇(あふぎ)の谷(やつ)に御坐(おはしまし)ける処へ参(まゐり)たりければ、御局(おつぼね)を始進(はじめまゐら)せて、女房達(にようばうたち)まで誠(まこと)に嬉し気(げ)にて、「さても此(この)世の中は、何(なに)と成行(なりゆく)べきぞや。我等(われら)は女なれば立隠(たちかく)るゝ方(かた)も有(あり)ぬべし。此(この)亀寿(かめじゆ)をば如何(いかが)すべき。兄の万寿をば五大院(ごだいゐんの)右衛門可蔵方(かた)有(あり)とて、今朝(こんてう)何方(いづかた)へやらん具足(ぐそく)しつれば心安く思(おもふ)也(なり)。只此(この)亀寿(かめじゆ)が事思煩(おもひわづらう)て、露の如(ごとく)なる我(わが)身さへ、消侘(きえわび)ぬるぞ。」と泣口説(なきくどき)給ふ。盛高此(この)事(こと)有(あり)の侭(まま)に申(まうし)て、御心(おんこころ)をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性(によしやう)はゝかなき者なれば、後(のち)にも若(もし)人に洩(もら)し給ふ事もやと思返(おもひかへ)して、泪(なみだ)の中(うち)に申(まうし)けるは、「此世中(このよのなか)今はさてとこそ覚(おぼえ)候へ。御一門(ごいちもん)太略(たいりやく)御自害(おんじがい)候なり。大殿計(おおとのばかり)こそ未(いまだ)葛西谷(かさいのやつ)に御座(ござ)候へ。公達(きんだち)を一目(ひとめ)御覧じ候(さふらひ)て、御腹(おんはら)を可被召と仰(おほせ)候間、御迎(むかひ)の為に参(まゐり)て候。」と申(まうし)ければ、御局うれし気(げ)に御座(おはしまし)つる御気色(ごきしよく)、しほ/\と成(なら)せ給(たまひ)て、「万寿をば宗繁(むねしげ)に預けつれば心安し、構(かまへ)て此(この)子をも能々(よくよく)隠してくれよ。」と仰(おほ)せも敢(あへ)ず、御泪(おんなみだ)に咽(むせ)ばせ給(たまひ)しかば、盛高(もりたか)も岩木(いはき)ならねば、心計(ばかり)は悲しけれ共(ども)、心を強く持(もつ)て申(まうし)けるは、「万寿御料(ごれう)をも五大院(ごだいゐんの)右衛門宗繁(むねしげ)が具足(ぐそく)し進(まゐら)せ候(さふらひ)つるを、敵見付(みつけ)て追懸進(おつかけまゐら)せ候(さふらひ)しかば、小町口(こまちぐち)の在家(ざいけ)に走入(はしりいつ)て、若子(わかご)をば指殺(さしころ)し進(まゐら)せ、我(わが)身も腹切(きつ)て焼死候(やけしにさふらひ)つる也(なり)。あの若御(わかご)も今日此(この)世の御名残(なごり)、是(これ)を限(かぎり)と思召(おぼしめし)候へ。とても隠れあるまじき物故(ものゆゑ)に、狩場(かりば)の雉(きじ)の草隠(くさがくれ)たる有様にて、敵にさがし出(いだ)されて、幼(をさな)き御尸(おんかばね)に、一家(いつけ)の御名(おんな)を失(うしなは)れん事口惜(くちをしく)候。其(それ)よりは大殿(おほとの)の御手(おんて)に懸(かけ)られ給(たまひ)て冥途(めいど)までも御伴(おんとも)申させ給(たまひ)たらんこそ、生々世々(しやうじやうせぜ)の忠孝にて御座(ござ)候はん。疾々(とくとく)入進(いりまゐら)せ給へ。」と進めければ、御局(おつぼね)を始進(はじめまゐら)せて、御乳母(おんめのと)の女房達(にようばうたち)に至るまで、「方見(うたて)の事を申(まうす)者哉(かな)。せめて敵の手に懸(かか)らば如何(いかが)せん。二人(ににん)の公達(きんだち)を懐存進(いだきそだてまゐらせ)つる人々の手に懸(かけ)て失ひ奉らんを見聞(みきき)ては、如何許(いかばかり)とか思遣(おもひや)る。只我(われ)を先(まづ)殺して後(のち)、何とも計(はから)へ。」とて、少人(をさなきひと)の前後(ぜんご)に取付(とりつい)て、声も不惜泣悲(なきかなしみ)給へば、盛高(もりたか)も目くれ、心消々(きえぎえ)と成(なり)しか共(ども)、思切(おもひき)らでは叶(かなう)まじと思(おもひ)て、声(こゑを)いらゝげ色を損(そんじ)て、御局(おつぼね)を奉睨、「武士の家に生れん人、襁(むつき)の中(うち)より懸(かか)る事可有と思召(おぼしめさ)れぬこそうたてけれ。大殿(おほとの)のさこそ待思召(まちおぼしめし)候覧(らん)。早(はや)御渡(おんわたり)候(さふらひ)て、守殿(かうのとの)の御伴(おんとも)申させ給へ。」と云侭(いふまま)に走懸(はしりかか)り、亀寿殿(かめじゆどの)を抱取(だきとつ)て、鎧(よろひ)の上に舁負(かいおう)て、門より外(そと)へ走出(はしりいづ)れば、同音(どうおん)にわつと泣(なき)つれ玉(たまひ)し御声々(おんこゑごゑ)、遥(はるか)の外所(よそ)まで聞へつゝ、耳の底に止(とどま)れば、盛高も泪(なみだ)を行兼(せきかね)て、立返(たちかへつ)て見送(みおくれ)ば、御乳母(おんめのと)の御妻(おさい)は、歩跣(かちはだし)にて人目をも不憚走出(はしりいで)させ給(たまひ)て、四五町(しごちやう)が程は、泣(ない)ては倒れ、倒(たふれ)ては起(おき)迹(あと)に付(つい)て被追けるを、盛高(もりたか)心強(つよく)行方(ゆきかた)を知(しら)れじと、馬を進めて打(うつ)程に後影(うしろかげ)も見へず成(なり)にければ、御妻(おさい)、「今は誰(たれ)をそだて、誰を憑(たのん)で可惜命ぞや。」とて、あたりなる古井(ふるゐ)に身を投(なげ)て、終(つひ)に空(むなし)く成(なり)給ふ。其(その)後盛高(もりたか)此若公(このわかぎみ)を具足(ぐそく)して、信濃へ落下(おちくだ)り、諏訪(すは)の祝(はふり)を憑(たのん)で有(あり)しが、建武元年の春(はる)の比(ころ)、暫(しばらく)関東(くわんとう)を劫略(こふりやく)して、天下の大軍を起し、中前代(なかせんだい)の大将に、相摸二郎と云(いふ)は是(これ)なり。角(かう)して四郎左近(さこんの)太夫入道は、二心(ふたごころ)なき侍共を呼寄(よびよせ)て「我は思様(おもふやう)有(あつ)て、奥州(あうしう)の方へ落(おち)て、再び天下を覆(くつがへ)す計(はかりごと)を可回也(なり)。南部(なんぶの)太郎・伊達(だての)六郎二人(ににん)は、案内(あんない)者なれば可召具。其外(そのほか)の人々は自害(じがい)して屋形(やかた)に火をかけ、我は腹を切(きつ)て焼死(やけしに)たる体(てい)を敵に可見。」と宣(のたまひ)ければ、二十(にじふ)余人(よにん)の侍共、一義(いちぎ)にも不及、「皆御定(ごぢやう)に可随。」とぞ申(まうし)ける。伊達(だて)・南部(なんぶ)二人(ににん)は、貌(かたち)をやつし夫(ぶ)になり、中間(ちゆうげん)二人(ににん)に物具(もののぐ)きせて馬にのせ、中黒(なかぐろ)の笠符(かさじるし)を付(つけ)させ、四郎入道を■(あをだ)に乗(のせ)て、血の付(つい)たる帷(かたびら)を上に引覆(ひきおほ)ひ、源氏の兵(つはもの)の手負(ておう)て本国へ帰る真以(まね)をして、武蔵までぞ落(おち)たりける。其後(そののち)残置(のこしおい)たる侍共、中門に走出(はしりいで)、「殿(との)は早(はや)御自害(ごじがい)有(ある)ぞ。志の人は皆御伴(おんとも)申せ。」と呼(よばはつ)て、屋形に火を懸(かけ)、忽(たちまち)に煙(けむり)の中に並居(なみゐ)て、二十(にじふ)余人(よにん)の者共(ものども)は、一度(いちど)に腹をぞ切(きつ)たりける。是(これ)を見て、庭上・門外(もんぐわい)に袖を連(つら)ねたる兵共(つはものども)三百(さんびやく)余人(よにん)、面々(めんめん)に劣(おとら)じ々(おとら)じと腹切(きつ)て、猛火(みやうくわ)の中へ飛(とん)で入(いり)、尸(かばね)を不残焼死(やけしに)けり。さてこそ四郎左近(さこんの)太夫入道の落給(おちたまひ)ぬる事をば不知して、自害(じがい)し給(たまひ)ぬと思(おもひ)けれ。其後(そののち)西園寺の家に仕へて、建武の比(ころ)京都の大将にて、時興(ときおき)と被云しは、此(この)入道の事也(なり)けり。
○長崎高重(たかしげ)最期(さいご)合戦(かつせんの)事(こと) S1014
去程(さるほど)に長崎次郎高重は、始(はじめ)武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼(よるひる)八十(はちじふ)余箇度(よかど)の戦(たたかひ)に、毎度(まいど)先(さき)を懸(かけ)、囲(かこみ)を破(やぶつ)て自(みづから)相当る事(こと)、其数(そのかず)を不知然(しか)ば、手者(てのもの)・若党(わかたう)共次第に討亡(うちほろぼ)されて、今は僅(わづか)に百五十騎に成(なり)にけり。五月二十二日に、源氏早(はや)谷々(やつやつ)へ乱入(みだれいつ)て、当家の諸大将、太略皆討(うた)れ給(たまひ)ぬと聞へければ、誰(た)が堅(かた)めたる陣とも不云、只敵の近づく処へ、馳合々々(はせあはせはせあはせ)、八方の敵を払(はらつ)て、四隊の堅(かた)めを破(やぶり)ける間、馬疲れぬれば乗替(のりかへ)、太刀打折(うちを)れば帯替(はきかへ)て、自(みづから)敵を切(きつ)て落す事三十二人(さんじふににん)、陣を破る事八箇度(はちかど)なり。角(かく)て相摸(さがみ)入道(にふだう)の御坐(おはします)葛西谷(かさいのやつ)へ帰り参(まゐつ)て、中門(ちゆうもん)に畏(かしこま)り泪(なみだ)を流し申(まうし)けるは、「高重数代(すだい)奉公の義(ぎ)を忝(かたじけなう)して、朝夕恩顔(おんがん)を拝(はい)し奉りつる御名残(おんなごり)、今生(こんじやう)に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所(すかしよ)の敵を打散(うちちらし)て、数度(すど)の闘(たたかひ)に毎度(まいど)打勝(うちかち)候といへ共(ども)、方々(はうばう)の口々(くちくち)皆責破(せめやぶ)られて、敵の兵(つはもの)鎌倉中(かまくらぢゆう)に充満(じゆうまん)して候(さふらひ)ぬる上は、今は矢長(やたけ)に思(おもふ)共不可叶候。只一筋(ひとすぢ)に敵の手に懸(かか)らせ給はぬ様(やう)に、思召定(おぼしめしさだめ)させ給(たまひ)候へ。但し高重帰参(かへりさんじ)て勧(すすめ)申さん程は、無左右御自害(ごじがい)候な。上(うへ)の御存命(ごぞんめい)の間に、今一度(いちど)快(こころよ)く敵の中(なか)へ懸入(かけいり)、思(おもふ)程の合戦して冥途(めいど)の御伴(おんとも)申さん時の物語に仕(つかまつり)候はん。」とて、又東勝寺を打出(うちい)づ。其後影(そのうしろかげ)を相摸入道(さがみにふだう)遥(はるか)に目送玉(みおくりたまひ)て、是(これ)や限(かぎり)なる覧(らん)と名残惜(なごりをし)げなる体(てい)にて、泪(なみだ)ぐみてぞ被立たる。長崎次郎甲(よろひ)をば脱捨(ぬぎすて)、筋(すぢ)の帷(かたびら)の月日(つきひ)推(おし)たるに、精好(せいがう)の大口(おほくち)の上に赤糸(あかいと)の腹巻(はらまき)着(き)て小手(こて)をば不差、兎鶏(とけい)と云(いひ)ける坂東(ばんどう)一の名馬に、金具(かながひ)の鞍(くら)に小総(こふさ)の鞦(しりがひ)懸(かけ)てぞ乗(のつ)たりける。是(これ)を最後と思定(おもひさだめ)ければ、先(まづ)崇寿寺(そうじゆじ)の長老南山和尚(なんざんをしやう)に参じて、案内申(まうし)ければ、長老威儀(ゐぎ)を具足(ぐそく)して出合(いであひ)給へり。方々(はうばう)の軍(いくさ)急にして甲冑を帯したりければ、高重は庭に立(たち)ながら、左右(さいう)に揖(いふ)して問(とつ)て曰(いはく)、「如何(いかなる)是(これ)勇士恁麼(いんも)の事(じ)。」和尚答曰(こたへていはく)、「吹毛(すゐもう)急(きふに)用(もちゐて)不如前。」高重此(この)一句を聞(きい)て、問訊(もんじん)して、門前より馬引寄(ひきよせ)打乗(うちのつ)て、百五十騎の兵(つはもの)を前後(ぜんご)に相随(あひしたが)へ、笠符(かさじるし)かなぐり棄(すて)、閑(しづか)に馬を歩(あゆませ)て、敵陣に紛入(まぎれいる)。其(その)志偏(ひとへ)に義貞に相近付(あひちかづか)ば、撲(うつ)て勝負を決せん為也(なり)。高重(たかしげ)旗をも不指、打物(うちもの)の室(さや)をはづしたる者無ければ、源氏の兵(つはもの)、敵とも不知けるにや、をめ/\と中(なか)を開(ひらい)て通しければ、高重、義貞に近(ちかづ)く事僅(わづか)に半町計(ばかり)也(なり)。すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真前(まつさき)に扣(ひかへ)たりける由良(ゆら)新左衛門(しんざゑもん)是(これ)を見知(みしつ)て、「只今旗をも不指相近勢(あひちかづくせい)は長崎次郎と見(みる)ぞ。さる勇士なれば定(さだめ)て思(おもふ)処有(あつ)てぞ是(これ)までは来(きたる)らん。あますな漏(もら)すな。」と、大音(だいおん)挙(あげ)て呼(よばは)りければ、先陣に磬(ひかへ)たる武蔵の七党(しちたう)三千(さんぜん)余騎(よき)、東西より引裹(ひつつつん)で真中(まんなか)に是(これ)を取込(とりこめ)、我(われ)も々(われ)もと討(うた)んとす。高重は支度(したく)相違しぬと思(おもひ)ければ、百五十騎の兵を、ひし/\と一所へ寄(よせ)て、同音(どうおん)に時(とき)をどつと揚(あげ)、三千(さんぜん)余騎(よき)の者共(ものども)を懸抜懸入交合(かけぬけかけいりまじりあひ)、彼(かしこ)に露(あらは)れ此(ここ)に隠れ、火を散(ちら)してぞ闘(たたかひ)ける。聚散離合(しゆさんりがふ)の有様は須臾(しゆゆ)に反化(へんくわ)して前に有(ある)歟(か)とすれば忽焉(こつえん)として後(しり)へにある。御方(みかた)かと思へば屹(きつ)として敵也(なり)。十方に分身(ぶんしん)して、万卒に同(おなじ)く相当(あひあた)りければ、義貞の兵高重(たかしげ)が在所(ありか)を見定(みさだめ)ず、多くは同士打(どしうち)をぞしたりける。長浜六郎是(これ)を見て「無云甲斐人々の同士打(どしうち)哉(かな)、敵は皆笠符(かさじるし)を不付とみへつるぞ、中(なか)に紛(まぎ)れば、其(それ)を符(しるし)にして組(くん)で討(うて)。」と下地(げぢ)しければ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵共(つはものども)、押双(おしならべ)てはむずと組(くみ)、々(くん)で落(おち)ては首を取(とる)もあり、被捕もあり、芥塵(かいぢん)掠天、汗血(かんけつ)地を糢糊(もご)す。其在様(そのありさま)項王(かうわう)が漢の三将を靡(なびか)し魯陽(ろやう)が日を三舎(さんしや)に返(かへ)し闘(たたかひ)しも、是(これ)には不過とぞ見へたりける。され共(ども)長崎次郎は未(いまだ)被討、主従只八騎に成(なつ)て戦(たたかひ)けるが、猶(なほ)も義貞に組(くま)んと伺(うかがう)て近付(ちかづく)敵を打払(うちはらひ)、動(ややもす)れば差違(さしちがへ)て、義貞兄弟を目に懸(かけ)て回(まは)りけるを、武蔵国の住人(ぢゆうにん)横山(よこやまの)太郎重真(しげざね)、押隔(おしへだて)て是(これ)に組(くま)んと、馬を進めて相近(あひちか)づく。長崎もよき敵ならば、組(くま)んと懸合(かけあつ)て是(これ)を見るに、横山(よこやまの)太郎重真(しげざね)也(なり)。さてはあはぬ敵ぞと思(おもひ)ければ、重真を弓手(ゆんで)に相受(あひうけ)、甲(かぶと)の鉢(はち)を菱縫(ひしぬひ)の板まで破着(わりつけ)たりければ、重真二(ふた)つに成(なつ)て失(うせ)にけり。馬もしりゐに被打居て、小膝(こひざ)を折(をつ)てどうど伏す。同国(どうごく)の住人(ぢゆうにん)庄(しやうの)三郎為久(ためひさ)是(これ)を見て、よき敵也(なり)。と思(おもひ)ければ、続(つづい)て是(これ)に組(くま)んとす。大手をはだけて馳懸(はせかか)る。長崎遥(はるか)に見て、から/\と打笑(うちわらう)て、「党(たう)の者共(ものども)に可組ば、横山をも何かは可嫌。逢(あは)ぬ敵を失ふ様(さま)、いで/\己(おのれ)に知(しら)せん。」とて、為久(ためひさ)が鎧の上巻(あげまき)掴(つかん)で中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、弓杖(ゆんづゑ)五杖(いつつゑ)計(ばかり)安々(やすやす)と投渡(なげわた)す。其人飛礫(そのひとつぶて)に当りける武者(むしや)二人(ににん)、馬より倒(さかさま)に被打落て、血を吐(はい)て空(むなし)く成(なり)にけり。高重(たかしげ)今はとても敵に被見知ぬる上はと思(おもひ)ければ、馬を懸居(かけすゑ)大音揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「桓武(くわんむ)第五の皇子葛原(かつらはらの)親王(しんわう)に三代の孫(そん)、平(たいらの)将軍貞盛(さだもり)より十三代前(さきの)相摸守(さがみのかみ)高時(たかとき)の管領(くわんれい)に、長崎入道円喜(ゑんき)が嫡孫(ちやくそん)、次郎高重(たかしげ)、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名(かうみやう)せんと思はん者は、よれや組(くま)ん。」と云侭(いふまま)に、鎧の袖引(ひき)ちぎり、草摺(くさずり)あまた切落(きりおと)し、太刀をも鞘(さや)に納(をさめ)つゝ、左右の大手を播(ひろげ)ては、此(ここ)に馳合(はせあひ)彼(かしこ)に馳替(はせちがひ)、大童(おほわらは)に成(なつ)て駈散(かけちら)しける。懸(かか)る処に、郎等共(らうどうども)馬の前に馳塞(はせふさがつ)て、「何(いか)なる事にて候ぞ。御一所(ごいつしよ)こそ加様(かやう)に馳廻坐(はせまはりましま)せ。敵は大勢にて早(はや)谷々(やつやつ)に乱入(みだれいり)、火を懸(かけ)物を乱妨(らんばう)し候。急(いそぎ)御帰候(かへりさふらう)て、守殿(かうのとの)の御自害(ごじがい)をも勤(すすめ)申させ給へ。」と云(いひ)ければ、高重郎等(らうどう)に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「余(あま)りに人の逃(にぐ)るが面白さに、大殿(おほとの)に約束しつる事をも忘(わすれ)ぬるぞや。いざゝらば帰参(かへりまゐら)ん。」とて、主従八騎の者共(ものども)、山内(やまのうち)より引帰(ひきかへ)しければ、逃(にげ)て行(ゆく)とや思ひけん、児玉党(こだまたう)五百(ごひやく)余騎(よき)、「きたなし返せ。」と罵(ののしつ)て、馬を争(あらそう)て追懸(おつかけ)たり。高重、「こと/゛\しの奴原(やつばら)や、何程の事をか仕出(しいだ)すべき。」とて、聞(きか)ぬ由にて打(うち)けるを、手茂(てしげ)く追(おう)て懸(かか)りしかば、主従八騎屹(きつ)と見帰(みかへつ)て馬の轡(くつばみ)を引回(ひきまは)すとぞみへし。山内(やまのうち)より葛西(かさい)の谷口(たにぐち)まで十七度まで返し合せて、五百(ごひやく)余騎(よき)を追退(おひしりぞ)け、又閑々(しづしづ)とぞ打(うつ)て行(ゆき)ける。高重が鎧に立(たつ)処の矢二十三筋(にじふさんすぢ)、蓑毛(みのけ)の如く折(をり)かけて、葛西谷(かさいのやつ)へ参りければ、祖父(おほぢ)の入道待請(まちうけ)て、「何とて今まで遅(おそか)りつるぞ。今は是(これ)までか。」と問(とは)れければ、高重畏(かしこま)り、「若(もし)大将義貞に寄せ合(あは)せば、組(くん)で勝負をせばやと存候(ぞんじさふらう)て、二十(にじふ)余度(よど)まで懸入(かけいり)候へ共(ども)、遂に不近付得。其(その)人と覚(おぼ)しき敵にも見合(みあひ)候はで、そゞろなる党の奴(や)つ原(ばら)四五百人(しごひやくにん)切落(きりおとし)てぞ捨候(すてさふらひ)つらん。哀(あはれ)罪の事だに思ひ候はずは、猶(なほ)も奴原(やつばら)を浜面(はまおもて)へ追出(おひいだ)して、弓手(ゆんで)・馬手(めて)に相付(あひつけ)、車切(くるまぎり)・胴切・立破(たてわり)に仕棄度(つかまつりすてたく)存候(ぞんじさふらひ)つれ共(ども)、上(うへ)の御事(おんこと)何(いか)がと御心元(おんこころもと)なくて帰参(かへりまゐつ)て候。」と、聞(きく)も涼(すずし)く語るにぞ、最期(さいご)に近き人々も、少し心を慰めける。
○高時並一門(いちもん)以下(いげ)於東勝寺自害(じがいの)事(こと) S1015
去程(さるほど)に高重走廻(はしりまはつ)て、「早々(はやはや)御自害(ごじがい)候へ。高重先(さき)を仕(つかまつつ)て、手本に見せ進(まゐら)せ候はん。」と云侭(いふまま)に、胴計(ばかり)残(のこつ)たる鎧(よろひ)脱(ぬい)で抛(なげ)すてゝ、御前(おんまへ)に有(あり)ける盃(さかづき)を以て、舎弟(しやてい)の新右衛門に酌(しやく)を取(とら)せ、三度(さんど)傾(かたむけ)て、摂津(つの)刑部(ぎやうぶの)太夫入道々準(だうじゆん)が前に置き、「思指申(おもひざしまうす)ぞ。是(これ)を肴(さかな)にし給へ。」とて左の小脇(こわき)に刀を突立(つきたて)て、右の傍腹(そばはら)まで切目(きりめ)長く掻破(かきわつ)て、中(なか)なる腸(はらわた)手縷出(たぐりいだ)して道準が前にぞ伏(ふし)たりける。道準盃を取(とつ)て、「あはれ肴や、何(いか)なる下戸(げこ)なり共(とも)此(これ)をのまぬ者非じ。」と戯(たはむれ)て、其(その)盃を半分計(ばかり)呑残(のみのこし)て、諏訪(すは)入道が前に指置(さしおき)、同(おなじ)く腹切(きつ)て死にけり。諏訪(すは)入道直性(ぢきしやう)、其(その)盃を以て心閑(しづか)に三度(さんど)傾(かたむけ)て、相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の前に指置(さしおい)て、「若者共(わかものども)随分芸(げい)を尽(つく)して被振舞候に年老(としより)なればとて争(いかで)か候べき、今より後(のち)は皆是(これ)を送肴(おくりざかな)に仕(つかまつる)べし。」とて、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、其(その)刀を抜(ぬい)て入道殿(にふだうどの)の前に指置(さしおい)たり。長崎入道円喜(ゑんき)は、是(これ)までも猶(なほ)相摸(さがみ)入道(にふだう)の御事(おんこと)を何奈(いかが)と思(おもひ)たる気色(けしき)にて、腹をも未(いまだ)切(きらざり)けるが、長崎新右衛門今年十五に成(なり)けるが、祖父(おほぢ)の前に畏(かしこまつ)て、「父祖(ふそ)の名を呈(あらは)すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神(ぶつじん)三宝も定(さだめ)て御免(おんゆるし)こそ候はんずらん。」とて、年老残(としおいのこつ)たる祖父(おほぢ)の円喜(ゑんき)が肱(ひぢ)のかゝりを二刀(ふたかたな)差(さし)て、其(その)刀にて己(おのれ)が腹を掻切(かききつ)て、祖父を取(とつ)て引伏(ひきふ)せて、其(その)上(うへ)に重(かさなつ)てぞ臥(ふし)たりける。此小冠者(このこくわじや)に義を進められて、相摸(さがみ)入道(にふだう)も腹切(きり)給へば、城(じやうの)入道続(つづい)て腹をぞ切(きつ)たりける。是(これ)を見て、堂上(だうじやう)に座を列(つらね)たる一門(いちもん)・他家の人々、雪の如くなる膚(はだへ)を、推膚脱々々々(おしはだぬぎおしはだぬぎ)、腹を切(きる)人もあり、自(みづから)頭(くび)を掻落(かきおと)す人もあり、思々(おもひおもひ)の最期(さいご)の体(てい)、殊に由々敷(ゆゆしく)ぞみへたりし。其外(そのほか)の人々には、金沢(かなざは)太夫入道崇顕(そうけん)・佐介(さすけ)近江(あふみの)前司(ぜんじ)宗直(むねなほ)・甘名宇(あまなう)駿河(するがの)守(かみ)宗顕(むねあき)・子息駿河(するがの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)時顕(ときあき)・小町(こまち)中務(なかつかさの)太輔朝実(ともざね)・常葉(ときは)駿河(するがの)守(かみ)範貞(のりさだ)・名越(なごや)土佐(とさの)前司(ぜんじ)時元(ときもと)・摂津(つの)形部大輔(ぎやうぶのたいふ)入道・伊具(いぐ)越前(ゑちぜんの)々司宗有(むねあり)・城(じやうの)加賀(かがの)前司(ぜんじ)師顕(もろあき)・秋田城介師時(あいたのじやうのすけもろとき)・城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)有時(ありとき)・南部(なんぶ)右馬(うまの)頭(かみ)茂時(しげとき)・陸奥(むつの)右馬助(うまのすけ)家時(いへとき)・相摸(さがみの)右馬助(うまのすけ)高基(たかもと)・武蔵(むさしの)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)時名(ときな)・陸奥(むつの)左近(さこんの)将監(しやうげん)時英(ときふさ)・桜田治部(ぢぶの)太輔貞国(さだくに)・江馬(えま)遠江守(とほたふみのかみ)公篤(きんあつ)・阿曾(あその)弾正少弼(せうひつ)治時(はるとき)・苅田(かつた)式部(しきぶの)大夫篤時(あつとき)・遠江兵庫(ひやうごの)助(すけ)顕勝(あきかつ)・備前(びぜんの)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)政雄(まさを)・坂上(さかのうへ)遠江守(とほたふみのかみ)貞朝・陸奥(むつの)式部(しきぶの)太輔高朝(たかとも)・城介高量(じやうのすけたかかず)・同(おなじき)式部(しきぶの)大夫顕高(あきたか)・同(おなじき)美濃(みのの)守(かみ)高茂(たかしげ)・秋田城介(あいたのじやうのすけ)入道延明(えんみやう)・明石(あかし)長門(ながとの)介入道忍阿(にんあ)・長崎三郎左衛門入道思元(しげん)・隅田(すだ)次郎左衛門(じらうざゑもん)・摂津(つの)宮内(くないの)大輔(たいふ)高親(たかちか)・同(おなじき)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)親貞(ちかさだ)、名越(なごやの)一族(いちぞく)三十四人、塩田(しほだ)・赤橋(あかはし)・常葉(ときは)・佐介(さすけ)の人々四十六人、総(そう)じて其門葉(そのもんえふ)たる人二百八十三人(にひやくはちじふさんにん)、我先(われさき)にと腹切(きつ)て、屋形(やかた)に火を懸(かけ)たれば、猛炎(みやうえん)昌(さかん)に燃上(もえあが)り、黒煙(くろけぶり)天を掠(かすめ)たり。庭上・門前に並居(なみゐ)たりける兵共(つはものども)是(これ)を見て、或(あるひ)は自(みづから)腹掻切(かききつ)て炎(ほのほ)の中へ飛入(とびいる)もあり、或(あるひ)は父子(ふし)兄弟差違(さしちが)へ重(かさな)り臥(ふす)もあり。血は流(ながれ)て大地に溢(あふ)れ、漫々(まんまん)として洪河(こうが)の如くなれば、尸(かばね)は行路(かうろ)に横(よこたはつ)て累々(るゐるゐ)たる郊原(かうげん)の如し。死骸(しがい)は焼(やけ)て見へね共(ども)、後に名字を尋(たづ)ぬれば、此一所(このいつしよ)にて死する者、総(すべ)て八百七十(はつぴやくしちじふ)余人(よにん)也(なり)。此外(このほか)門葉・恩顧(おんこ)の者、僧俗(そうぞく)・男女を不云、聞伝々々(ききつたへききつたへ)泉下(せんか)に恩を報(はうず)る人、世上に促悲を者、遠国(ゑんごく)の事はいざ不知、鎌倉中(かまくらぢゆう)を考(かんがふ)るに、総(すべ)て六千余人(よにん)也(なり)。嗚呼(ああ)此(この)日何(いか)なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申(まうす)に、平家九代の繁昌一時(いちじ)に滅亡して、源氏多年の蟄懐(ちつくわい)一朝(いつてう)に開(ひらく)る事を得たり。