太平記(国民文庫)

太平記巻第七
○吉野城(よしののじやう)軍(いくさの)事(こと)S0701
元弘三年正月十六日、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)、六万余騎(よき)の勢(せい)にて大塔宮(おほたふのみや)の篭(こも)らせ給へる吉野の城へ押寄(おしよす)る。菜摘河(なつみがは)の川淀(かはよど)より、城の方を向上(みあげ)たれば、嶺には白旗(しらはた)・赤旗・錦(にしき)の旗、深山下風(みやまおろし)に吹(ふき)なびかされて、雲歟(か)花歟(か)と怪(あやし)まる。麓には数千(すせん)の官軍(くわんぐん)、冑(かぶと)の星を耀(かかや)かし鎧の袖を連(つら)ねて、錦繍(きんしう)をしける地の如し。峯(みね)高(たかう)して道細く、山嶮(けはしう)して苔滑(なめらか)なり。されば幾(いく)十万騎(じふまんぎ)の勢(せい)にて責(せむ)る共(とも)、輒(たやす)く落すべしとは見へざりけり。同(おなじき)十八日の卯刻(うのこく)より、両陣互に矢合せして、入替々々(いれかへいれかへ)責戦(せめたたかふ)。官軍(くわんぐん)は物馴(ものなれ)たる案内者(あんないしや)共(ども)なれば、斯(ここ)のつまり彼(かしこ)の難所(なんじよ)に走散(はしりちつ)て、攻合(つめあは)せ開合(ひらきあは)せ散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)は死生不知(ししやうふち)の坂東武士(ばんどうぶし)なれば、親子(おやこ)打(うた)るれ共(ども)不顧、主従(しゆじゆう)滅(ほろぶ)れども不屑、乗越々々(のりこえのりこえ)責近(せめちか)づく。夜昼(よるひる)七日が間息(いき)をも不続相戦(あひたたかふ)に、城中(じやうちゆう)の勢三百(さんびやく)余人(よにん)打(うた)れければ、寄手(よせて)も八百(はつぴやく)余人(よにん)打(うた)れにけり。況乎(いはんや)矢に当(あた)り石に被打、生死(しやうじ)の際(あひだ)を不知者は幾(いく)千万と云(いふ)数(かず)を不知。血は草芥(さうかい)を染(そめ)、尸(かばね)は路径(ろけい)に横(よこた)はれり。され共(ども)城の体(てい)少(すこし)もよわらねば、寄手(よせて)の兵(つはもの)多くは退屈してぞ見へたりける。爰(ここ)に此(この)山の案内者(あんないしや)とて一方へ被向たりける吉野(よしの)の執行(しゆぎやう)岩菊丸(いはぎくまる)、己(おのれ)が手(て)の者を呼寄(よびよせ)て申(まうし)けるは、「東条の大将金沢(かなざは)右馬助(うまのすけ)殿(どの)は、既(すで)に赤坂(あかさか)の城を責落(せめおと)して金剛山(こんがうせん)へ被向たりと聞ゆ。当山(たうざん)の事我等(われら)案内者(あんないしや)たるに依(よつ)て、一方(いつぱう)を承(うけたまはつ)て向ひたる甲斐(かひ)もなく、責落(せめおと)さで数日(すじつ)を送る事こそ遺恨(ゐこん)なれ。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を按(あん)ずるに、此(この)城を大手(おほて)より責(せめ)ば、人のみ被打て落す事有難(ありがた)し。推量(すゐりやう)するに、城の後(うしろ)の山金峯山(きんぶせん)には峻(けはしき)を憑(たのん)で、敵さまで勢(せい)を置(おき)たる事あらじと覚(おぼゆ)るぞ。物馴(ものなれ)たらんずる足軽(あしがる)の兵(つはもの)を百五十人(ひやくごじふにん)すぐつて歩立(かちだち)になし、夜に紛(まぎ)れて金峯山(きんぶせん)より忍び入(いり)、愛染宝塔(あいぜんはうだふ)の上(うへ)にて、夜のほの/゛\と明(あけ)はてん時時(とき)の声を揚(あげ)よ。城の兵(つはもの)鬨音(ときのこゑ)に驚(おどろい)て度(ど)を失(うしな)はん時、大手(おほて)搦手(からめて)三方(さんぱう)より攻上(せめのぼつ)て城を追落(おひおと)し、宮を生捕(いけどり)奉るべし。」とぞ下知(げぢ)しける。さらばとて、案内知(しつ)たる兵百五十人(ひやくごじふにん)をすぐ(ッ)て、其(その)日の暮程(くれほど)より、金峯山(きんぶせん)へ廻(まはつ)て、岩を伝ひ谷を上(のぼ)るに、案の如く山の嶮(けはし)きを憑(たのみ)けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許(ばかり)を結付置(ゆひつけおい)て可防兵一人もなし。百(ひやく)余人(よにん)の兵共(つはものども)、思(おもひ)の侭(まま)に忍入(しのびいつ)て、木の下岩(いは)の陰(かげ)に、弓箭(ゆみや)を臥(ふせ)て、冑(かぶと)を枕にして、夜の明(あく)るをぞ待(まつ)たりける。あい図(づ)の比(ころ)にも成(なり)にければ、大手(おほて)五万(ごまん)余騎(よき)、三方(さんぱう)より押寄(おしよせ)て責上(せめのぼ)る。吉野の大衆(だいしゆ)五百(ごひやく)余人(よにん)、責口(せめくち)におり合(あつ)て防(ふせぎ)戦ふ。寄手(よせて)も城の内も、互に命(いのち)を不惜、追上(おひのぼ)せ追下(おひおろ)し、火を散(ちら)してぞ戦(たたかう)たる。卦(かか)る処に金峯山(きんぶせん)より廻(まは)りたる、搦手(からめて)の兵(つはもの)百五十人(ひやくごじふにん)、愛染宝塔(あいぜんはうだふ)よりをり降(くだつ)て、在々所々(ざいざいしよしよ)に火を懸(かけ)て、時(とき)の声をぞ揚(あげ)たりける。吉野の大衆(だいしゆ)前後(ぜんご)の敵(てき)を防ぎ兼(かね)て、或(あるひ)は自(みづから)腹を掻切(かききつ)て、猛火(みやうくわ)の中へ走入(はしりいつ)て死(しす)るも有(あり)、或(あるひ)は向ふ敵に引組(ひつくん)で、指(さし)ちがへて共に死(しす)るもあり。思々(おもひおもひ)に討死をしける程に、大手(おほて)の堀一重(ひとへ)は、死人(しにん)に埋(うま)りて平地(ひらち)になる。去程(さるほど)に、搦手(からめて)の兵(つはもの)、思(おもひ)も寄(よら)ず勝手(かつて)の明神(みやうじん)の前より押寄(おしよせ)て、宮の御坐有(ござあり)ける蔵王堂(ざわうだう)へ打(うつ)て懸(かか)りける間、大塔宮(おほたふのみや)今は遁(のが)れぬ処也(なり)。と思食切(おぼしめしきつ)て、赤地(あかぢ)の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、火威(ひをどし)の鎧のまだ巳(み)の刻(こく)なるを、透間(すきま)もなくめされ、竜頭(たつがしら)の冑(かぶと)の緒(を)をしめ、白檀磨(びやくだんみがき)の臑当(すねあて)に、三尺五寸の小長刀(こなぎなた)を脇に挟(さしはさ)み、劣らぬ兵二十(にじふ)余人(よにん)前後左右(ぜんごさいう)に立(たて)、敵の靉(むらがつ)て引(ひか)へたる中へ走り懸(かか)り、東西を掃(はら)ひ、南北へ追廻(おひまは)し、黒煙(くろけぶり)を立(たて)て切(きつ)て廻(まは)らせ給ふに、寄手(よせて)大勢(おほぜい)也(なり)。と云へ共(ども)、纔(わづか)の小勢に被切立て、木(こ)の葉(は)の風に散(ちる)が如く、四方(しはう)の谷へ颯(さつ)とひく。敵引(ひけ)ば、宮蔵王堂(ざわうだう)の大庭(おほには)に並居(なみゐ)させ給(たまひ)て、大幕(おほまく)打揚(うちあげ)て、最後の御酒宴(ごしゆえん)あり。宮の御鎧(おんよろひ)に立所(たつところ)の矢七筋(しちすぢ)、御頬(おんほう)さき二の御(おん)うで二箇所(にかしよ)つかれさせ給(たまひ)て、血の流るゝ事滝の如し。然(しか)れ共(ども)立(たつ)たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮(しきがは)の上に立(たち)ながら、大盃(おほさかづき)を三度(さんど)傾(かたぶけ)させ給へば、木寺相摸(こでらのさがみ)四尺三寸の太刀の鋒(きつさき)に、敵の頚をさし貫(つらぬい)て、宮の御前(おんまへ)に畏(かしこま)り、「戈■剣戟(くわせんけんげき)をふらす事電光(でんくわう)の如く也(なり)。磐石(ばんじやく)巌(いはほ)を飛(とば)す事春(はる)の雨に相同(あひおな)じ。然りとは云へ共(ども)、天帝(てんてい)の身には近づかで、修羅(しゆら)かれが為に破らる。」と、はやしを揚(あげ)て舞(まひ)たる有様は、漢(かん)・楚(そ)の鴻門(こうもん)に会(くわい)せし時、楚の項伯(かうはく)と項荘とが、剣(けん)を抜(ぬい)て舞(まひ)しに、樊■(はんくわい)庭に立(たち)ながら、帷幕(ゐばく)をかゝげて項王を睨(にらみ)し勢(いきほひ)も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。大手(おほて)の合戦事急也(なり)。と覚(おぼえ)て、敵御方(みかた)の時(とき)の声相交(あひまじは)りて聞へけるが、げにも其戦(そのたたかひ)に自ら相当(あひあた)る事多かりけりと見へて、村上(むらかみ)彦四郎(ひこしらう)義光(よしてる)鎧に立(たつ)処の矢十六(じふろく)筋、枯野(かれの)に残る冬草の、風に臥(ふし)たる如くに折懸(をりかけ)て、宮の御前(おんまへ)に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「大手(おほて)の一の木戸(きど)、云甲斐(いふかひ)なく責破(せめやぶ)られつる間、二の木戸に支(ささへ)て数刻(すこく)相戦ひ候つる処に、御所中(ごしよぢゆう)の御酒宴(ごしゆえん)の声、冷(すさまじ)く聞へ候(さふらひ)つるに付(つい)て参(まゐつ)て候。敵既(すで)にかさに取上(とりのぼり)て、御方(みかた)気の疲れ候(さふらひ)ぬれば、此(この)城にて功を立(たて)ん事(こと)、今は叶(かな)はじと覚へ候。未(いまだ)敵の勢を余所(よそ)へ回(まは)し候はぬ前(さき)に、一方より打破(うちやぶつ)て、一歩(ひとまど)落(おち)て可有御覧と存(ぞんじ)候。但(ただし)迹(あと)に残り留(とどまつ)て戦ふ兵(つはもの)なくば、御所(ごしよ)の落(おち)させ給ふ者也(なり)。と心得て、敵何(いづ)く迄もつゞきて追懸進(おつかけまゐら)せつと覚(おぼえ)候へば、恐(おそれ)ある事にて候へ共(ども)、めされて候錦の御鎧直垂(おんよろひひたたれ)と、御物具(おんもののぐ)とを下給(くだしたまはつ)て、御諱(おんいみな)の字(じ)を犯(をか)して敵を欺(あざむ)き、御命(おんいのち)に代り進(まゐら)せ候はん。」と申(まうし)ければ、宮(みや)、「争(いか)でかさる事あるべき、死なば一所(いつしよ)にてこそ兎(と)も角(かく)もならめ。」と仰(おほせ)られけるを、義光(よしてる)言(こと)ばを荒(あら)らかにして、「かゝる浅猿(あさまし)き御事(おんこと)や候。漢の高祖(かうそ)■陽(けいやう)に囲(かこま)れし時、紀信(きしん)高祖(かうそ)の真似(まね)をして楚を欺(あざむ)かんと乞(こひ)しをば、高祖(かうそ)是(これ)を許し給ひ候はずや。是程(これほど)に云甲斐(いふかひ)なき御所存(ごしよぞん)にて、天下の大事(だいじ)を思食立(おぼしめしたち)ける事こそうたてけれ。はや其御物具(そのおんもののぐ)を脱(ぬが)せ給ひ候へ。」と申(まうし)て、御鎧(おんよろひ)の上帯(うはおび)をとき奉れば、宮げにもとや思食(おぼしめし)けん、御物(おんもの)の具(ぐ)・鎧直垂(よろひひたたれ)まで脱替(ぬぎかへ)させ給ひて、「我(われ)若(もし)生(いき)たらば、汝(なんぢ)が後生(ごしやう)を訪(とぶらふ)べし。共に敵(てき)の手にかゝらば、冥途(めいど)までも同じ岐(ちまた)に伴(ともな)ふべし。」と被仰て、御涙(おんなみだ)を流させ給ひながら、勝手(かつて)の明神(みやうじん)の御前(おんまへ)を南へ向(むかつ)て落させ給へば、義光(よしてる)は二の木戸の高櫓(たかやぐら)に上(あが)り、遥(はるか)に見送り奉(たてまつつ)て、宮の御後影(おんうしろかげ)の幽(かすか)に隔(へだた)らせ給(たまひ)ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓(やぐら)のさまの板を切落(きりおと)して、身をあらはにして、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「天照太神(あまてらすおほみかみの)御子孫(ごしそん)、神武(じんむ)天王(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)第二(だいに)の皇子一品兵部(いつぽんひやうぶ)卿(きやう)親王(しんわう)尊仁(そんにん)、逆臣(ぎやくしん)の為に亡(ほろぼ)され、恨(うらみ)を泉下(せんか)に報(はう)ぜん為に、只今自害する有様見置(みおい)て、汝等が武運忽(たちまち)に尽(つき)て、腹をきらんずる時の手本(てほん)にせよ。」と云侭(いふまま)に、鎧を脱(ぬい)で櫓(やぐら)より下へ投落(なげおと)し、錦の鎧直垂(よろひひたたれ)の袴許(はかまばかり)に、練貫(ねりぬき)の二(ふたつ)小袖を押膚脱(おしはだぬい)で、白く清げなる膚(はだ)に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切(かききつ)て、腸(はらわた)掴(つかん)で櫓(やぐら)の板になげつけ、太刀(たち)を口にくわへて、うつ伏(ぶし)に成(なつ)てぞ臥(ふし)たりける。大手(おほて)・搦手(からめて)の寄手(よせて)是(これ)を見て、「すはや大塔宮(おほたふのみや)の御自害あるは。我先(われさき)に御頚(おんくび)を給(たまは)らん。」とて、四方(しはう)の囲(かこみ)を解(とい)て一所(いつしよ)に集(あつま)る。其間(そのあひだ)に宮は差違(さしちが)へて、天(てん)の河(かは)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。南より廻(まは)りける吉野の執行(しゆぎやう)が勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)、多年(たねん)の案内者(あんないしや)なれば、道を要(よこぎ)りかさに廻(まは)りて、打留(うちと)め奉(たてまつら)んと取篭(とりこむ)る。村上(むらかみ)彦四郎(ひこしらう)義光(よしてる)が子息兵衛蔵人(ひやうゑくらうど)義隆(よしたか)は、父が自害しつる時、共に腹を切(きら)んと、二の木戸の櫓(やぐら)の下まで馳来(はせきた)りたりけるを、父大(おほき)に諌(いさめ)て、「父子(ふし)の義(ぎ)はさる事なれ共(ども)、且(しばら)く生(いき)て宮の御先途(ごせんど)を見はて進(まゐら)せよ。」と、庭訓(ていきん)を残しければ、力なく且(しばら)くの命(いのち)を延(のべ)て、宮の御供(おんとも)にぞ候(さふらひ)ける。落行(おちゆく)道の軍(いくさ)、事(こと)既(すで)に急にして、打死(うちじに)せずば、宮落得(おちえ)させ給はじと覚(おぼえ)ければ、義隆(よしたか)只一人蹈留(ふみとどま)りて、追(おつ)てかゝる敵の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)では切(きり)すへ、平頚(ひらくび)切(きつ)ては刎落(はねおと)させ、九折(つづらをり)なる細道(ほそみち)に、五百(ごひやく)余騎(よき)の敵を相受(あひうけ)て、半時許(はんじばかり)ぞ支(ささへ)たる。義隆(よしたか)、節(せつ)、石の如く也(なり)。といへ共(ども)、其(その)身金鉄(きんてつ)ならざれば、敵の取巻(とりまい)て射ける矢に、義隆既(すで)に十(じふ)余箇所(よかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思(おもひ)けん、小竹(こたけ)の一村(ひとむら)有(あり)ける中へ走入(はしりいつ)て、腹掻切(かききつ)て死にけり。村上父子(むらかみふし)が敵を防ぎ、討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、宮は虎口(ここう)に死を御遁(おんのがれ)有(あつ)て、高野山(かうやさん)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。出羽(ではの)入道々蘊(だううん)は、村上が宮の御学(おんまね)をして、腹を切(きつ)たりつるを真実(まんまこと)と心得て、其(その)頚を取(とつ)て京都へ上(のぼ)せ、六波羅(ろくはら)の実検(じつけん)にさらすに、ありもあらぬ者の頚也(なり)。と申(まうし)ける。獄門(ごくもん)にかくるまでもなくて、九原(きうげん)の苔に埋(うづも)れにけり。道蘊(だううん)は吉野の城を攻落(せめおと)したるは、専一(せんいち)の忠戦(ちゆうせん)なれ共(ども)、大塔宮(おほたふのみや)を打漏(うちもら)し奉りぬれば、猶(なほ)安(やす)からず思(おもひ)て、軈(やが)て高野山へ押寄(おしよせ)、大塔(だいたふ)に陣を取(とつ)て、宮の御在所(ございしよ)を尋求(たづねもとめ)けれ共(ども)、一山(いつさん)の衆徒(しゆと)皆心を合(あはせ)て宮を隠し奉りければ、数日(すじつ)の粉骨(ふんこつ)甲斐もなくて、千剣破(ちはや)の城へぞ向ひける。
○千剣破(ちはやの)城軍(いくさの)事(こと) S0702
千剣破(ちはやの)城の寄手(よせて)は、前(まへ)の勢八十万騎(はちじふまんぎ)に、又赤坂(あかさか)の勢吉野の勢馳加(はせくははつ)て、百万騎に余(あま)りければ、城の四方(しはう)二三里が間は、見物(けんぶつ)相撲(すまふ)の場(ば)の如く打囲(うちかこん)で、尺寸(せきすん)の地をも余さず充満(みちみち)たり。旌旗(せいき)の風に翻(ひるがへつ)て靡(なび)く気色(けしき)は、秋の野の尾花(をばな)が末(すゑ)よりも繁く、剣戟(けんげき)の日に映(えい)じて耀(かかやき)ける有様(ありさま)は、暁(あかつき)の霜の枯草(かれくさ)に布(しけ)るが如く也(なり)。大軍(たいぐん)の近づく処には、山勢(さんせい)是(これ)が為に動き、時(とき)の声の震(ふる)ふ中には、坤軸(こんぢく)須臾(しゆゆ)に摧(くだ)けたり。此(この)勢にも恐(おそれ)ずして、纔(わづか)に千人に足(たら)ぬ小勢(こぜい)にて、誰を憑(たの)み何(いつ)を待(まつ)共(とも)なきに、城中(じやうちゆう)にこらへて防ぎ戦(たたかひ)ける楠が心の程こそ不敵(ふてき)なれ。此(この)城東西(とうざい)は谷深く切(きれ)て人の上(のぼ)るべき様(やう)もなし。南北は金剛山(こんがうせん)につゞきて而(しか)も峯絶(たえ)たり。されども高さ二町(にちやう)許(ばかり)にて、廻(まは)り一里に足(たら)ぬ小城(こしろ)なれば、何程(なにほど)の事か有(ある)べき〔と〕、寄手(よせて)是(これ)を見侮(みあなどつ)て、初(はじめ)一両日(いちりやうにち)の程は向ひ陣をも取(とら)ず、責支度(せめしたく)をも用意(ようい)せず、我先(われさき)にと城の木戸口(きどくち)の辺(へん)までかづきつれてぞ上(あがり)たりける。城中の者共(ものども)少しもさはがず、静まり帰(かへつ)て、高櫓(たかやぐら)の上(うへ)より大石(たいせき)を投(なげ)かけ/\、楯(たて)の板を微塵(みぢん)に打砕(うちくだい)て、漂(ただよ)ふ処を差(さし)つめ/\射ける間(あひだ)、四方(しはう)の坂よりころび落(おち)、落重(おちかさなつ)て手を負(おひ)、死をいたす者、一日が中(うち)に五六千人に及べり。長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、軍奉行(いくさぶぎやう)にて有(あり)ければ、手負死人(ておひしにん)の実検(じつけん)をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人(じふににん)、夜昼(よるひる)三日が間(あひだ)筆をも置(おか)ず注(しる)せり。さてこそ、「今より後(のち)は、大将の御許(おんゆるし)なくして、合戦したらんずる輩(ともがら)をば却(かへつ)て罪科に行(おこなは)るべし。」と触(ふれ)られければ、軍勢暫(しばらく)軍(いくさ)を止(やめ)て、先(まづ)己(おのれ)が陣々をぞ構(かま)へける。爰(ここ)に赤坂の大将金沢右馬助(かなざはうまのすけ)、大仏(おさらぎ)奥州(あうしう)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「前日(ぜんじつ)赤坂を攻落(せめおと)しつる事(こと)、全く士卒(じそつ)の高名(かうみやう)に非(あら)ず。城中の構(かまへ)を推(お)し出(いだ)して、水を留(とめ)て候(さふらひ)しに依(よつ)て、敵程(ほど)なく降参(かうさん)仕候(つかまつりさふらひ)き。是(ここ)を以て此(この)城を見候に、是程(これほど)纔(わづか)なる山の巓(いただき)に用水(ようすゐ)有(ある)べし共覚(おぼえ)候はず。又あげ水なんどをよその山より懸(かく)べき便(たより)も候はぬに、城中に水卓散(たくさん)に有(あり)げに見ゆるは、如何様(いかさま)東の山の麓に流(ながれ)たる渓水(たにみづ)を、夜々(よるよる)汲(くむ)歟(か)と覚(おぼえ)て候。あはれ宗徒(むねと)の人々一両人に仰付(おほせつけ)られて、此(この)水を汲(くま)せぬ様に御計(おんはからひ)候へかし。」と被申ければ、両大将、「此義(このぎ)可然覚(おぼえ)候。」とて、名越(なごや)越前守(ゑちぜんのかみ)を大将として其(その)勢三千余騎(よき)を指分(さしわけ)て、水の辺(へん)に陣を取(とら)せ、城より人をり下(くだ)りぬべき道々に、逆木(さかもぎ)を引(ひい)てぞ待懸(まちかけ)ける。楠は元来(もとより)勇気智謀相兼(あひかね)たる者なりければ、此(この)城を拵(こしら)へける始(はじめ)用水の便(たより)をみるに、五所(ごしよ)の秘水(ひすゐ)とて、峯(みね)通る山伏(やまぶし)の秘(ひ)して汲(くむ)水此(この)峯に有(あつ)て、滴(しただ)る事一夜に五斛許(こくばかり)也(なり)。此(この)水いかなる旱(ひでり)にもひる事なければ、如形人の口中(こうちゆう)を濡(うるほ)さん事相違あるまじけれ共(ども)、合戦の最中(さいちゆう)は或(あるひ)は火矢(ひや)を消さん為、又喉(のんど)の乾(かわ)く事繁(しげ)ければ、此(この)水許(ばかり)にては不足(ふそく)なるべしとて、大(おほき)なる木を以て、水舟(みづふね)を二三百(にさんびやく)打(うた)せて、水を湛置(たたへおき)たり。又数百(すひやく)箇所作り双(なら)べたる役所(やくしよ)の軒に継樋(つぎどひ)を懸(かけ)て、雨ふれば、霤(あまだれ)を少しも余さず、舟にうけ入れ、舟の底に赤土(あかつち)を沈(しづ)めて、水の性(しやう)を損(そん)ぜぬ様(やう)にぞ被拵たりける。此(この)水を以て、縦(たと)ひ五六十日雨不降ともこらへつべし。其中(そのうち)に又などかは雨降(ふる)事(こと)無(なか)らんと、了簡(れうけん)しける智慮の程こそ浅からね。されば城よりは強(あながち)に此谷水(このたにみづ)を汲(くま)んともせざりけるを、水ふせぎける兵共(つはものども)、夜毎(よごと)に機(き)をつめて、今や/\と待懸(まちかけ)けるが、始(はじめ)の程こそ有(あり)けれ、後(のち)には次第々々に心懈(おこた)り、機緩(ゆるまつ)て、此(この)水をば汲(くま)ざりけるぞとて、用心(ようじん)の体(てい)少し無沙汰(ぶさた)にぞ成(なり)にける。楠是(これ)を見すまして、究竟(くきやう)の射手(いて)をそろへて二三百人(にさんびやくにん)夜に紛(まぎれ)て城よりをろし、まだ篠目(しののめ)の明けはてぬ霞隠(かすみがく)れより押寄せ、水辺(すゐへん)に攻(つめ)て居たる者共(ものども)、二十(にじふ)余人(よにん)切伏(きりふせ)て、透間(すきま)もなく切(きつ)て懸(かか)りける間、名越(なごや)越前守(ゑちぜんのかみ)こらへ兼(かね)て、本(もと)の陣へぞ引(ひか)れける。寄手(よせて)数万(すまん)の軍勢是(これ)を見て、渡り合(あは)せんとひしめけ共(ども)、谷を隔(へだ)て尾を隔(へだて)たる道なれば、輒(たやす)く馳合(はせあは)する兵(つはもの)もなし。兎角(とかく)しける其間(そのあひだ)に、捨置(すておい)たる旗・大幕(おほまく)なんど取持(とりもた)せて、楠が勢、閑(しづか)に城中へぞ引入(ひきいり)ける。其翌日(そのよくじつ)城の大手(おほて)に三本(さんぼん)唐笠(がらかさ)の紋(もん)書(かい)たる旗と、同(おなじ)き文(もん)の幕とを引(ひい)て、「是(これ)こそ皆名越(ながや)殿(どの)より給(たまはり)て候(さふらひ)つる御旗(おんはた)にて候へ、御文付(ごもんつき)て候間(あひだ)他人の為には無用に候。御中(みうち)の人々是(これ)へ御入(おんいり)候(さふらひ)て、被召候へかし。」と云(いつ)て、同音(どうおん)にどつと笑(わらひ)ければ、天下の武士共(ぶしども)是(これ)を見て、「あはれ名越(なごや)殿(どの)の不覚(ふかく)や。」と、口々に云(いは)ぬ者こそ無(なか)りけれ。名越(なごや)一家の人々此(この)事(こと)を聞(きい)て、安からぬ事に被思ければ、「当手(たうて)の軍勢共(ぐんぜいども)一人も不残、城の木戸(きど)を枕にして、討死をせよ。」とぞ被下知ける。依之(これによつて)彼(かの)手(て)の兵五千(ごせん)余人(よにん)、思切(おもひきつ)て討共(うてども)射共(いれども)用(もちひ)ず、乗越々々(のりこえのりこえ)城の逆木(さかもぎ)一重(ひとへ)引破(ひきやぶつ)て、切岸(きりぎし)の下迄ぞ攻(せめ)たりける。され共(ども)岸高(たかう)して切立(きりたつ)たれば、矢長(やたけ)に思へ共(ども)のぼり得ず、唯(ただ)徒(いたづら)に城を睨(にらみ)、忿(いかり)を押(おさ)へて息つぎ居たり。此(この)時城の中(うち)より、切岸(きりぎし)の上(うへ)に横(よこた)へて置(おい)たる大木十計(ばかり)切(きつ)て落(おと)し懸(かけ)たりける間、将碁倒(しやうぎたふし)をする如く、寄手(よせて)四五百人(しごひやくにん)圧(おし)に被討て死にけり。是(これ)にちがはんとしどろに成(なつ)て騒ぐ処を、十方の櫓(やぐら)より指落(さしおと)し、思様(おもふやう)に射ける間、五千(ごせん)余人(よにん)の兵共(つはものども)残(のこり)すくなに討(うた)れて、其(その)日の軍(いくさ)は果(はて)にけり。誠(まことに)志の程は猛(たけ)けれ共(ども)、唯(ただ)し出(いだ)したる事もなくて、若干(そくばく)討(うた)れにければ、「あはれ恥(はぢ)の上の損(そん)哉(かな)。」と、諸人(しよにん)の口遊(くちずさみ)は猶不止。尋常(よのつね)ならぬ合戦の体(てい)を見て、寄手(よせて)も侮(あなど)りにくゝや思(おもひ)けん、今は始(はじめ)の様(やう)に、勇進(いさみすすん)で攻(せめ)んとする者も無(なか)りけり。長崎(ながさき)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)此(この)有様を見て、「此(この)城を力責(ちからぜめ)にする事は、人の討(うた)るゝ計(ばかり)にて、其(その)功成難(なりがた)し。唯取巻(とりまい)て食責(じきぜめ)にせよ。」と下知(げぢ)して、軍(いくさ)を被止ければ、徒然(とぜん)に皆堪兼(たへかね)て、花の下(もと)の連歌(れんが)し共(ども)を呼下(よびくだ)し、一万句の連歌をぞ始(はじめ)たりける。其(その)初日の発句(ほつく)をば長崎九郎左衛門師宗(もろむね)、さき懸(がけ)てかつ色みせよ山桜(やまざくら)としたりけるを、脇(わき)の句、工藤(くどう)二郎右衛門(じらううゑもんの)尉(じよう)嵐や花のかたきなるらんとぞ付(つけ)たりける。誠(まこと)に両句ともに、詞(ことば)の縁(えん)巧(たくみ)にして句の体(てい)は優(いう)なれども、御方(みかた)をば花になし、敵(てき)を嵐に喩(たと)へければ、禁忌(きんき)也(なり)。ける表事(へうじ)哉(かな)と後(のち)にぞ思ひ知(しら)れける。大将の下知(げぢ)に随(したがひ)て、軍勢皆軍(いくさ)を止(やめ)ければ、慰(なぐさ)む方(かた)や無(なか)りけん、或(あるひ)は碁(ご)・双六(しごろく)を打(うつ)て日を過(すご)し、或(あるひ)は百服茶(ひやつぷくちや)・褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)なんどを翫(もてあそん)で夜(よ)を明(あか)す。是(これ)にこそ城中の兵は中々(なかなか)被悩たる心地(ここち)して、心を遣方(やるかた)も無(なか)りける。少し程(ほど)経(へ)て後(のち)、正成(まさしげ)、「いでさらば、又寄手(よせて)たばかりて居眠(ゐねぶり)さまさん。」とて、芥(あくた)を以て人長(ひとだけ)に人形(にんぎやう)を二三十作(つくつ)て、甲冑(かつちう)をきせ兵杖(ひやうぢやう)を持(もた)せて、夜中(やちゆう)に城の麓に立置(たてお)き、前(まへ)に畳楯(でふだて)をつき双(なら)べ、其後(そのうし)ろにすぐりたる兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)を交(まじ)へて、夜のほの/゛\と明(あけ)ける霞(かすみ)の下(した)より、同時に時(とき)をどつと作る。四方(しはう)の寄手(よせて)時の声を聞(きい)て、「すはや城の中(うち)より打出(うちいで)たるは、是(これ)こそ敵の運の尽(つく)る処の死狂(しにくるひ)よ。」とて我先(われさき)にとぞ攻合(せめあは)せける。城の兵兼(かね)て巧(たくみ)たる事なれば、矢軍(やいくさ)ちとする様(やう)にして大勢(おほぜい)相近(あひちか)づけて、人形許(ばかり)を木(こ)がくれに残し置(おい)て、兵(つはもの)は皆次第々々に城の上へ引上(ひきあが)る。寄手(よせて)人形を実(まこと)の兵(つはもの)ぞと心得て、是(これ)を打(うた)んと相集(あひあつま)る。正成所存(しよぞん)の如く敵をたばかり寄せて、大石(たいせき)を四五十(しごじふ)、一度(いちど)にばつと発(はな)す。一所(いつしよ)に集(あつま)りたる敵三百(さんびやく)余人(よにん)、矢庭(やには)に被討殺、半死半生の者五百(ごひやく)余人(よにん)に及(およべ)り。軍(いくさ)はてゝ是(これ)を見れば、哀(あはれ)大剛(だいがう)の者哉(かな)と覚(おぼえ)て、一足(ひとあし)も引(ひか)ざりつる兵(つはもの)、皆人にはあらで藁(わら)にて作れる人形(にんぎやう)也(なり)。是(これ)を討(うた)んと相集(あひあつまつ)て、石に打(うた)れ矢に当(あたつ)て死せるも高名(かうみやう)ならず、又是(これ)を危(あやぶみ)て進得(すすみえ)ざりつるも臆病の程顕(あらは)れて云甲斐(いふかひ)なし。唯兎(と)にも角(かく)にも万人の物笑ひとぞ成(なり)にける。是(これ)より後(のち)は弥(いよいよ)合戦を止(やめ)ける間、諸国の軍勢唯(ただ)徒(いたづら)に城を守り上(あげ)て居たる計(ばかり)にて、するわざ一(ひとつ)も無(なか)りけり。爰(ここ)に何(いか)なる者か読(よみ)たりけん、一首(いつしゆ)の古歌(こか)を翻案(ほんあん)して、大将の陣の前にぞ立(たて)たりける。余所(よそ)にのみ見てやゝみなん葛城(かづらき)のたかまの山の峯の楠軍(いくさ)も無(なく)てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口(えぐち)・神崎(かんざき)の傾城共(けいせいども)を呼寄(よびよせ)て、様々(さまざま)の遊(あそび)をぞせられける。名越(なごや)遠江(とほたふみの)入道と同兵庫(おなじきひやうごの)助(すけ)とは伯叔甥(をぢをひ)にて御座(おはし)けるが、共に一方の大将にて、責口(せめくち)近く陣を取り、役所(やくしよ)を双(ならべ)てぞ御座(おはし)ける。或時(あるとき)遊君(いうくん)の前にて双六(しごろく)を打(うた)れけるが、賽(さい)の目(め)を論じて聊(いささか)の詞(ことば)の違(ちが)ひけるにや、伯叔甥(をぢをひ)二人(ににん)突違(つきちがへ)てぞ死(しな)れける。両人の郎従共(らうじゆうども)、何の意趣(いしゆ)もなきに、差違(さしちが)へ差違へ、片時(へんし)が間(あひだ)に死(しす)る者二百余人(よにん)に及べり。城の中(うち)より是(これ)を見て、「十善(じふぜん)の君(きみ)に敵をし奉る天罰(てんばつ)に依(よつ)て、自滅(じめつ)する人々の有様見よ。」とぞ咲(わらひ)ける。誠(まこと)に是(これ)直事(ただごと)に非(あら)ず。天魔波旬(てんまはじゆん)の所行(しよぎやう)歟(か)と覚(おぼえ)て、浅猿(あさまし)かりし珍事(ちんじ)也(なり)。同(おなじき)三月四日関東(くわんとう)より飛脚(ひきやく)到来して、「軍(いくさ)を止(やめ)て徒(いたづら)に日を送る事不可然。」と被下知ければ、宗(むね)との大将達評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、御方(みかた)の向ひ陣と敵の城との際(あひだ)に、高く切立(きりたつ)たる堀に橋を渡して、城へ打(うつ)て入(いら)んとぞ巧(たく)まれける。為之京都より番匠(ばんしやう)を五百(ごひやく)余人(よにん)召下(めしくだ)し、五六八九寸の材木を集(あつめ)て、広さ一丈五尺、長さ二十丈(にじふぢやう)余(あまり)に梯(かけはし)をぞ作らせける。梯(かけはし)既(すで)に作り出(いだ)しければ、大縄(おほつな)を二三千筋(にさんぜんすぢ)付(つけ)て、車木(くるまき)を以て巻立(まきたて)て、城の切岸(きりぎし)の上へぞ倒し懸(かけ)たりける。魯般(ろはん)が雲の梯(かけはし)も角(かく)やと覚(おぼえ)て巧(たくみ)也(なり)。軈(やが)て早(はや)りおの兵共(つはものども)五六千人、橋の上を渡り、我先(われさき)にと前(すすん)だり。あはや此(この)城只今打落されぬと見へたる処に、楠兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、投松明(なげたいまつ)のさきに火を付(つけ)て、橋の上に薪(たきぎ)を積(つめ)るが如くに投集(なげあつめ)て、水弾(みづはじき)を以て油を滝の流るゝ様(やう)に懸(かけ)たりける間、火橋桁(はしげた)に燃付(もえつい)て、渓風(たにかぜ)炎(ほのほ)を吹布(ふきしい)たり。憖(なまじひ)に渡り懸(かか)りたる兵共(つはものども)、前(さき)へ進(すすま)んとすれば、猛火(みやうくわ)盛(さかん)に燃(もえ)て身を焦(こが)す、帰(かへら)んとすれば後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)前(まへ)の難儀をも不云支(ささへ)たり。そばへ飛(とび)をりんとすれば、谷(たに)深く巌(いはほ)そびへて肝(きもを)冷(ひや)し、如何(いかが)せんと身を揉(もう)で押(おし)あふ程に、橋桁(はしげた)中(なか)より燃折(もえをれ)て、谷底(たにぞこ)へどうど落(おち)ければ、数千(すせん)の兵(つはもの)同時に猛(みやうくわ)の中へ落重(おちかさなつ)て、一人も不残焼死(やけしに)にけり。其(その)有様偏(ひとへ)に八大地獄(はちだいぢごく)の罪人の刀山剣樹(たうざんけんじゆ)につらぬかれ、猛火鉄湯(みやうくわてつたう)に身を焦(こが)す覧(らん)も、角(かく)やと被思知たり。去程(さるほど)に吉野・戸津河(とつがは)・宇多(うだ)・内郡(うちのこほり)の野伏共(のぶしども)、大塔宮(おほたふのみや)の命(めい)を含(ふくん)で、相集(あひあつま)る事七千余人(よにん)、此(ここ)の峯(みね)彼(かしこ)〔の〕谷(たに)に立隠(たちかくれ)て、千剣破(ちはやの)寄手共(よせてども)の往来(わうらい)の路を差塞(さしふさ)ぐ。依之(これによつて)諸国の兵(つはもの)の兵粮(ひやうらう)忽(たちまち)に尽(つき)て、人馬(じんば)共に疲(つか)れければ、転漕(てんさう)に怺兼(こらへかね)て百騎・二百騎引(ひい)て帰る処を、案内者(あんないしや)の野伏(のぶし)共、所々のつまり/゛\に待受(まちうけ)て、討留(うちとめ)ける間、日々夜々に討(うた)るゝ者数を知(しら)ず。希有(けう)にして命計(いのちばかり)を助かる者は、馬(むま)・物具(もののぐ)を捨(すて)、衣裳(いしやう)を剥取(はぎとら)れて裸(はだか)なれば、或(あるひ)は破(やれ)たる蓑(みの)を身に纏(まとひ)て、膚計(はだへばかり)を隠(かく)し、或(あるひ)は草の葉(は)を腰に巻(まい)て、恥をあらはせる落人共(おちうどども)、毎日に引(ひき)も切らず十方へ逃散(にげち)る。前代未聞(ぜんだいみもん)の恥辱(ちじよく)也(なり)。されば日本国の武士共(ぶしども)の重代(ぢゆうだい)したる物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)は、皆此(この)時に至(いたつ)て失(うせ)にけり。名越(なごや)遠江(とほたふみの)入道、同(おなじき)兵庫(ひやうごの)助(すけ)二人(ににん)は、無詮口論して共に死給(しにたまひ)ぬ。其外(そのほか)の軍勢共(ぐんぜいども)、親(おや)は討(うた)るれば子は髻(もとどり)を切(きつ)てうせ、主(しゆ)疵(きず)を被(かうむ)れば、郎従(らうじゆう)助(たすけ)て引帰(ひきかへ)す間、始(はじめ)は八十万騎(はちじふまんぎ)と聞へしか共(ども)、今は纔(わづか)に十万余騎(よき)に成(なり)にけり。
○新田義貞(につたよしさだ)賜綸旨事 S0703
上野(かうづけの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)新田(につたの)小太郎義貞(よしさだ)と申(まうす)は、八幡(はちまん)太郎義家(よしいへ)十七代の後胤(こういん)、源家嫡流(げんけちやくりう)の名家(めいか)也(なり)。然共(しかれども)平氏(へいじ)世を執(とつ)て四海(しかい)皆其(その)威に服する時節(をりふし)なれば、無力関東(くわんとう)の催促(さいそく)に随(したがつ)て金剛山(こんがうせん)の搦手(からめて)にぞ被向ける。爰(ここ)に如何なる所存(しよぞん)歟(か)出来(いでき)にけん、或時(あるとき)執事(しつじ)船田(ふなだ)入道義昌(よしまさ)を近づけて宣(のたま)ひける、「古(いにしへ)より源平両家(りやうけ)朝家(てうけ)に仕へて、平氏(へいじ)世を乱(みだ)る時は、源家(げんけ)是(これ)を鎮(しづ)め、源氏上(かみ)を侵(をか)す日は平家是(これ)を治(をさ)む。義貞不肖(ふせう)也(なり)。と云へ共(ども)、当家(たうけ)の門■(もんび)として、譜代(ふだい)弓矢(ゆみや)の名を汚(けが)せり。而(しかる)に今相摸(さがみ)入道の行迹(かうせき)を見(みる)に滅亡遠(とほき)に非(あら)ず。我(われ)本国に帰(かへつ)て義兵(ぎへい)を挙(あげ)、先朝(せんてう)の宸襟(しんきん)を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙(かうむ)らでは叶(かなふ)まじ。如何(いかん)して大塔宮(おほたふのみや)の令旨(りやうじ)を給(たまはつ)て、此素懐(このそくわい)を可達。」と問給(とひたまひ)ければ、舟田入道畏(かしこまつ)て、「大塔宮(おほたふのみや)は此辺(このへん)の山中に忍(しのび)て御座(ござ)候なれば、義昌(よしまさ)方便(はうべん)を廻(めぐら)して、急(いそい)で令旨(りやうじ)を申出(まうしいだ)し候べし。」と、事安げに領掌申(りやうじやうまうし)て、己(おのれ)が役所へぞ帰(かへり)ける。其翌日(そのよくじつ)舟田(ふなだ)己(おのれ)が若党(わかたう)を三十(さんじふ)余人(よにん)、野伏(のぶし)の質(すがた)に出立(いでたた)せて、夜中に葛城峯(かづらきのみね)へ上(のぼ)せ、我身(わがみ)は落行(おちゆく)勢の真似(まね)をして、朝まだきの霞隠(かすみがくれ)に、追(おつ)つ返(かへし)つ半時計(はんじばかり)どし軍(いくさ)をぞしたりける、宇多(うだ)・内郡(うちのこほり)の野伏共(のぶしども)是(これ)を見て、御方(みかた)の野伏ぞと心得、力を合(あは)せん為に余所(よそ)の峯よりおり合(あう)て近付(ちかづき)たりける処を、舟田が勢の中に取篭(とりこめ)て、十一人まで生捕(いけどり)てげり。舟田此生捕(このいけどり)どもを解脱(ときゆる)して潛(ひそか)に申(まうし)けるは、「今汝等(なんぢら)をたばかり搦取(からめとり)たる事(こと)、全(まつたく)誅(ちゆう)せん為に非(あら)ず。新田殿(につたどの)本国へ帰(かへつ)て、御旗(はた)を挙(あげ)んとし給ふが、令旨(りやうじ)なくては叶(かなふ)まじければ、汝等に大塔宮(おほたふのみや)の御坐所(ござしよ)を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとり)つる也(なり)。命(いのち)惜(をし)くば案内者(あんないしや)して、此方(こなた)の使をつれて、宮の御座(ござ)あんなる所へ参れ。」と申(まうし)ければ、野伏(のぶし)ども大(おほき)に悦(よろこび)て、「其御意(そのぎよい)にて候はゞ、最(いと)安(やす)かるべき事にて候。此(この)中に一人暫(しばし)の暇(いとま)を給(たまはり)候へ、令旨(りやうじ)を申出(まうしいだし)て進(まゐら)せ候はん。」と申(まうし)て、残り十人をば留置(とめおき)、一人宮の御方(おんかた)へとてぞ参(まゐり)ける。今や/\と相待(あひまつ)処に、一日有(あつ)て令旨(りやうじ)を捧(ささげ)て来れり。開(ひらい)て是(これ)を見(みる)に、令旨(りやうじ)にはあらで、綸旨(りんし)の文章(ぶんしやう)に書(かか)れたり。其詞(そのことばに)云(いはく)、被綸言称敷化理万国者明君徳也(なり)。撥乱鎮四海(しかい)者武臣節也(なり)。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東(くわんとう)征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田(につたの)小太郎殿(こたらうどの)綸旨(りんし)の文章(ぶんしやう)、家の眉目(びぼく)に備(そなへ)つべき綸言(りんげん)なれば、義貞不斜悦(よろこび)て、其翌日(そのあくるひ)より虚病(きよびやう)して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒(むねと)の軍(いくさ)をもしつべき勢共(せいども)は兎(と)に角(かく)に事を寄(よせ)て国々へ帰(かへり)ぬ。兵粮(ひやうらう)運送(うんそう)の道絶(たえ)て、千剣破(ちはや)の寄手(よせて)以外(もつてのほか)に気を失(うしな)へる由聞へければ、又六波羅(ろくはら)より宇都宮(うつのみや)をぞ下(くだ)されける。紀清(きせい)両党千余騎(よき)寄手(よせて)に加(くは)は(ッ)て、未屈(いまだくつせざる)荒手(あらて)なれば、軈(やが)て城の堀の際(きは)まで責上(せめのぼつ)て、夜昼(よるひる)少しも不引退、十(じふ)余日(よにち)までぞ責(せめ)たりける。此(この)時にぞ、屏(へい)の際(きは)なる鹿垣(ししがき)・逆木(さかもぎ)皆被引破て、城も少し防兼(ふせぎかね)たる体(てい)にぞ見へたりける。され共(ども)紀清(きせい)両党の者とても、斑足王(はんぞくわう)の身をもからざれば天をも翔(かけ)り難(がた)し。竜伯公(りゆうはくこう)が力を不得ば山をも擘難(つんざきがた)し。余(あまり)に為方(せんかた)や無(なか)りけん、面(おもて)なる兵には軍(いくさ)をさせて後(うしろ)なる者は手々(てて)に鋤(すき)・鍬(くは)を以て、山を掘倒(ほりたふ)さんとぞ企(くはだて)ける。げにも大手(おほて)の櫓(やぐら)をば、夜昼(よるひる)三日が間に、念(ねむ)なく掘り崩(くづ)してけり。諸人(しよにん)是(これ)を見て、唯(ただ)始(はじめ)より軍(いくさ)を止(やめ)て掘(ほる)べかりける物を、と後悔して、我(われ)も我(われ)もと掘(ほり)けれ共(ども)、廻(まは)り一里に余れる大山なれば左右(さう)なく掘倒(ほりたふ)さるべしとは見へざりけり。
○赤松(あかまつ)蜂起(ほうきの)事(こと) S0704
去程(さるほど)に楠が城強くして、京都は無勢(ぶせい)也(なり)。と聞へしかば、赤松(あかまつ)二郎入道円心(ゑんしん)、播磨国(はりまのくにの)苔縄(こけなは)の城より打(うつ)て出で、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)の両道(りやうだう)を差塞(さしふさ)ぎ、山里(やまのさと)・梨原(なしがはら)の間(あひだ)に陣をとる。爰(ここ)に備前(びぜん)・備中(びつちゆう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すはう)の勢共(せいども)、六波羅(ろくはら)の催促に依(よつ)て上洛(しやうらく)しけるが、三石(みついし)の宿(しゆく)に打集(うちあつまつ)て、山里(やまのさと)の勢を追払(おひはらう)て通(とほら)んとしけるを、赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)舟坂山(ふなさかやま)に支(ささへ)て、宗(むね)との敵二十(にじふ)余人(よにん)を生捕(いけどり)てけり。然共(しかれども)赤松(あかまつ)是(これ)を討(うた)せずして、情(なさけ)深(ふか)く相交(あひまじは)りける間、伊東大和(いとうやまとの)二郎其(その)恩を感じて、忽(たちまち)に武家与力(よりき)の志を変じて、官軍(くわんぐん)合体(がつてい)の思(おもひ)をなしければ、先(まづ)己(おのれ)が館(たち)の上なる三石山(みついしやま)に城郭(じやうくわく)を構(かま)へ、軈(やが)て熊山(くまやま)へ取上(とりのぼ)りて、義兵を揚(あげ)たるに、備前の守護(しゆご)加治(かぢの)源二郎左衛門(じらうざゑもん)一戦(いつせん)に利(り)を失(うしなう)て、児嶋(こじま)を指(さし)て落(おち)て行(ゆく)。是(これ)より西国(さいこく)の路弥(いよいよ)塞(ふさがつ)て、中国(ちゆうごく)の動乱(どうらん)不斜。西国より上洛(しやうらく)する勢をば、伊東(いとう)に支(ささ)へさせて、後(うしろ)は思(おもひ)も無(なか)りければ、赤松軈(やが)て高田兵庫(ひやうごの)助(すけ)が城を責落(せめおと)して、片時(へんし)も足を不休、山陰道(せんいんだう)を指(さ)して責上(せめのぼ)る。路次の軍勢馳加(はせくははつ)て、無程七千余騎(よき)に成(なり)にけり。此(この)勢にて六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)さん事は案(あん)の内(うち)なれ共(ども)、若(もし)戦(たたか)ひ利(り)を失(うしなふ)事(こと)あらば、引退(ひきしりぞい)て、暫く人馬をも休(やすめ)ん為に、兵庫の北に当(あたつ)て、摩耶(まや)と云(いふ)山寺(やまでら)の有(あり)けるに、先(まづ)城郭を構(かまへ)て、敵を二十里(にじふり)が間に縮(つづ)めたり。
○河野(かうの)謀叛(むほんの)事(こと) S0705
六波羅(ろくはら)には、一方の打手(うつて)にはと被憑ける宇都宮(うつのみや)は千剣破(ちはや)の城へ向ひつ、西国の勢は伊東(いとう)に被支て不上得、今は四国(しこくの)勢を摩耶(まや)の城へは向(むく)べしと被評定ける処に、後(のち)の二月四日、伊予(いよの)国(くに)より早馬(はやむま)を立(たて)て、「土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)弥三郎、宮方(みやかた)に成(なつ)て旗をあげ、当国の勢を相付(あひつけ)て土佐(とさの)国(くに)へ打越(うちこゆ)る処に、去月十二日長門(ながと)の探題(たんだい)上野介(かうづけのすけ)時直(ときなほ)、兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)にて当国へ推渡(おしわた)り、星岡(ほしがをか)にして合戦を致す処に、長門(ながと)・周防(すはう)の勢一戦(いつせん)に打負(うちまけ)て、死人・手負(ておひ)其数(そのかず)を不知。剰(あまつさへ)時直父子(ふし)行方(ゆきかた)を不知云云。其(それ)より後(のち)四国の勢悉(ことごとく)土居・得能に属(しよく)する間、其(その)勢已(すで)に六千余騎(よき)、宇多津(うたつ)・今張(いまばり)の湊(みなと)に舟をそろへ、只今責上(せめのぼら)んと企(くはだて)候也(なり)。御用心(ごようじん)有(ある)べし。」とぞ告(つげ)たりける。
○先帝(せんてい)船上(ふなのうへへ)臨幸(りんかうの)事(こと) S0706
畿内(きない)の軍(いくさ)未だ静(しづか)ならざるに、又四国・西国日を追(おつ)て乱(みだれ)ければ、人の心皆薄氷(はくひよう)を履(ふん)で国の危(あやふ)き事深淵(しんえん)に臨(のぞむ)が如し。抑(そもそも)今如斯天下の乱るゝ事は偏(ひとへ)に先帝(せんてい)の宸襟(しんきん)より事興(おこ)れり。若(もし)逆徒(ぎやくと)差(さし)ちがふて奪取奉(うばひとりたてまつら)んとする事もこそあれ、相構(あひかまへ)て能々(よくよく)警固仕(つかまつる)べしと、隠岐(おきの)判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)を催(もよほ)して日番(ひばん)・夜廻(よまはり)隙(ひま)もなく、宮門(きゆうもん)を閉(とぢ)て警固(けいご)し奉る。閏(うるふ)二月下旬(げじゆん)は、佐々木(ささきの)富士名(ふじなの)判官が番(ばん)にて、中門(ちゆうもん)の警固に候(さふらひ)けるが、如何(いか)が思(おもひ)けん、哀(あはれ)此(この)君を取奉(とりたてまつつ)て、謀叛(むほん)を起さばやと思(おもふ)心ぞ付(つき)にける。され共(ども)可申入便(たより)も無(なう)て、案(あん)じ煩(わづら)ひける処に、或夜(あるよ)御前(おんまへ)より官女(くわんぢよ)を以て御盃(おんさかづき)を被下たり。判官是(これ)を給(たまはつ)て、よき便(たより)也(なり)。と思(おもひ)ければ、潛(ひそか)に彼(かの)官女を以て申入(まうしいれ)けるは、「上様(うへさま)には未だ知(しろ)し召(めさ)れ候はずや、楠兵衛正成(まさしげ)金剛山(こんがうせん)に城を構(かまへ)て楯篭候(たてごもりさふらひ)し処に、東国勢百万余騎(よき)にて上洛(しやうらく)し、去(さんぬる)二月の初(はじめ)より責戦(せめたたかひ)候といへ共(ども)、城は剛(つよう)して寄手(よせて)已(すで)に引色(ひきいろ)に成(なつ)て候。又備前には伊東大和(やまとの)二郎、三石(みついし)と申(まうす)所に城を構(かまへ)て、山陽道(せんやうだう)を差塞(さしふさ)ぎ候。播磨(はりま)には赤松入道円心(ゑんしん)、宮の令旨(りやうじ)を給(たまはつ)て、摂津国(つのくに)まで責上(せめのぼ)り、兵庫(ひやうご)の摩耶(まや)と申(まうす)処に陣を取(とつ)て候。其(その)勢已(すで)に三千余騎(よき)、京を縮(しし)め地を略(りやく)して勢(いきほひ)近国に振ひ候也(なり)。四国には河野(かうの)の一族(いちぞく)に、土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)弥三郎、御方(みかた)に参(まゐつ)て旗を挙(あげ)候処に、長門の探題(たんだい)上野(かうづけの)介時直(ときなほ)、彼(かれ)に打負(うちまけ)て、行方(ゆきかた)を不知落行候(おちゆきさふらひ)し後(のち)、四国の勢悉く土居(どゐ)・得能(とくのう)に属(しよく)し候間、既(すで)に大船(たいせん)をそろへて、是(これ)へ御迎(おんむかひ)に参るべし共(とも)聞へ候。又先(まづ)京都を責(せむ)べし共(とも)披露(ひろう)す。御聖運(せいうん)開(ひらかる)べき時已(すで)に至(いたり)ぬとこそ覚(おぼえ)て候へ。義綱(よしつな)が当番(たうばん)の間に忍(しのび)やかに御出(おんいで)候(さふらひ)て、千波(ちぶり)の湊(みなと)より御舟(おんふね)に被召、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の間、何(いづ)れの浦へも風に任(まかせ)て御舟(おんふね)を被寄、さりぬべからんずる武士(ぶし)を御憑(おんたのみ)候(さふらひ)て、暫(しばら)く御待(まち)候へ。義綱(よしつな)乍恐責進(せめまゐら)せん為に罷向体(まかりむかふてい)にて、軈(やが)て御方(みかた)に参(まゐり)候べし。」とぞ奏(そう)し申(まうし)ける。官女此由(このよし)を申入(まうしいれ)ければ、主上猶(なほ)も彼(かれ)偽(いつはり)てや申覧(まうすらん)と思食(おぼしめさ)れける間、義綱が志の程を能々(よくよく)伺(うかがひ)御覧ぜられん為に、彼(かの)官女を義綱にぞ被下ける。判官は面目身に余(あま)りて覚(おぼえ)ける上(うへ)、最愛(さいあい)又甚しかりければ、弥(いよいよ)忠烈(ちゆうれつ)の志を顕(あらは)しける。「さらば汝(なんぢ)先(まづ)出雲(いづもの)国(くに)へ越(こえ)て、同心(どうしん)すべき一族(いちぞく)を語(かたらひ)て御迎(おんむかひ)に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則(すなはち)出雲へ渡(わたつ)て塩冶(えんや)判官を語(かたら)ふに、塩冶(えんや)如何(いかが)思(おもひ)けん、義綱をゐこめて置(おい)て、隠岐(おきの)国(くに)へ不帰。主上且(しばら)くは義綱を御待有(まちあり)けるが、余(あまり)に事(こと)滞(とどこほ)りければ、唯(ただ)運(うん)に任(まかせ)て御出(おんいで)有(あら)んと思食(おぼしめし)て、或夜(あるよ)の宵(よひ)の紛(まぎれ)に、三位(さんみ)殿(どの)の御局(おつぼね)の御産(ごさん)の事近付(ちかづき)たりとて、御所(ごしよ)を御出(おんいで)ある由にて、主上其御輿(そのおんこし)にめされ、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)朝臣計(ばかり)を召具(めしぐ)して、潛(ひそか)に御所(ごしよ)をぞ御出(おんいで)有(あり)ける。此体(このてい)にては人の怪(あやし)め申(まうす)べき上(うへ)、駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、御輿(こし)をば被停て、悉(かたじけなく)も十善の天子、自(みづか)ら玉趾(ぎよくし)を草鞋(さうあい)の塵(ちり)に汚(けが)して、自(みづか)ら泥土(でいど)の地を踏(ふま)せ給(たまひ)けるこそ浅猿(あさまし)けれ。比(ころ)は三月二十三日の事なれば、月待程(まつほど)の暗き夜に、そこ共不知遠き野(の)の道を、たどりて歩(あゆま)せ給へば、今は遥(はるか)に来(き)ぬ覧(らん)と被思食たれば、迹(あと)なる山は未(いまだ)滝(たき)の響(ひびき)の風(ほのか)に聞ゆる程なり。若(もし)追懸進(おつかけまゐら)する事もやある覧(らん)と、恐(おそろ)しく思食(おぼしめし)ければ、一足(ひとあし)も前(さき)へと御心(おんこころ)許(ばかり)は進(すす)め共(ども)、いつ習(なら)はせ給(たまふ)べき道ならねば、夢路(ゆめぢ)をたどる心地(ここち)して、唯(ただ)一所(いつしよ)にのみやすらはせ給へば、こは如何(いかが)せんと思煩(おもひわづら)ひて、忠顕(ただあき)朝臣、御(おん)手を引(ひき)御腰(おんこし)を推(おし)て、今夜(こよひ)いかにもして、湊辺(みなとのへん)までと心遣(やり)給へ共(ども)、心身共(しんしんとも)に疲れ終(はて)て、野径(やけい)の露に徘徊(はいくわい)す。夜いたく深(ふけ)にければ、里遠からぬ鐘(かね)の声(こゑ)の、月に和(くわ)して聞へけるを、道しるべに尋寄(たづねより)て、忠顕(ただあき)朝臣或(ある)家の門を扣(たた)き、「千波(ちぶりの)湊へは何方(いづかた)へ行(ゆく)ぞ。」と問(とひ)ければ、内より怪(あやし)げなる男(をのこ)一人出向(いでむかひ)て、主上の御有様(おんありさま)を見進(まゐら)せけるが、心なき田夫野人(でんぶやじん)なれ共(ども)、何となく痛敷(いたはしく)や思進(おもひまゐら)せけん、「千波(ちぶりの)湊へは是(これ)より纔(わづかに)五十町(ごじつちよう)許(ばかり)候へ共(ども)、道(みち)南北へ分れて如何様(いかさま)御迷候(おんまよひさふらひ)ぬと存(ぞんじ)候へば、御(おん)道(みち)しるべ仕(つかまつり)候はん。」と申(まうし)て、主上を軽々(かるがる)と負進(おひまゐら)せ、程なく千波(ちぶりの)湊へぞ着(つき)にける。爰(ここ)にて時打(ときうつ)鼓(つづみ)の声を聞けば、夜は未だ五更(ごかう)の初(はじめ)也(なり)。此(この)道(みち)の案内者(あんないしや)仕(つかまつり)たる男(をのこ)、甲斐々々敷(かひがひしく)湊(みなとの)中(うち)を走廻(はしりまはつて)、伯耆(はうき)の国へ漕(こぎ)もどる商人舟(あきんどぶね)の有(あり)けるを、兎角(とかう)語(かたら)ひて、主上を屋形(やかた)の内に乗(の)せ進(まゐら)せ、其後(そののち)暇(いとま)申(まうし)てぞ止(とどま)りける。此男(このをのこ)誠(まこと)に唯人(ただびと)に非ざりけるにや、君(きみ)御一統(ごいつとう)の御時(おんとき)に、尤(もつとも)忠賞(ちゆうしやう)有(ある)べしと国中を被尋けるに、我こそ其(それ)にて候へと申(まうす)者遂(つひ)に無(なか)りけり。夜も已(すで)に明(あけ)ければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)を解(とい)て順風(じゆんぷう)に帆(ほ)を揚(あげ)、湊(みなと)の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。船頭(せんどう)主上の御有様を見奉(たてまつつ)て、唯人(ただびと)にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形(やかた)の前(まへ)に畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「加様(かやう)の時御船(おんふね)を仕(つかまつつ)て候こそ、我等が生涯の面目(めんぼく)にて候へ、何(いづ)くの浦へ寄(よせ)よと御定(ごぢやう)に随(したがひ)て、御舟(おんふね)の梶(かぢ)をば仕(つかまつり)候べし。」と申(まうし)て、実(まこと)に他事(たじ)もなげなる気色(きしよく)也(なり)。忠顕(ただあき)朝臣是(これ)を聞き給(たまひ)て、隠(かく)しては中々(なかなか)悪(あし)かりぬと思はれければ、此船頭(このせんどう)を近く呼寄(よびよせ)て、「是程(これほど)に推(お)し当(あて)られぬる上(うへ)は何をか隠(かく)すべき、屋形の中(うち)に御座(ござ)あるこそ、日本国の主(あるじ)、悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の君にていらせ給へ。汝等(なんぢら)も定(さだめ)て聞及(ききおよび)ぬらん、去年より隠岐(おきの)判官が館(たち)に被押篭て御座(ござ)ありつるを、忠顕(ただあき)盜出(ぬすみいだ)し進(まゐら)せたる也(なり)。出雲・伯耆(はうき)の間に、何(いづ)くにてもさりぬべからんずる泊(とまり)へ、急ぎ御舟(おんふね)を着(つけ)てをろし進(まゐら)せよ。御運(ごうん)開(ひらけ)ば、必(かならず)汝を侍(さぶらひ)に申成(まうしなし)て、所領一所(しよりやういつしよ)の主(ぬし)に成(なす)べし。」と被仰ければ、船頭(せんどう)実(まこと)に嬉しげなる気色(きしよく)にて、取梶(とりかぢ)・面梶(おもかぢ)取合(とりあは)せて、片帆(かたほ)にかけてぞ馳(はせ)たりける。今は海上(かいじやう)二三十里(にさんじふり)も過(すぎ)ぬらんと思ふ処に、同じ追風(おひかぜ)に帆(ほ)懸(かけ)たる舟十艘計(ばかり)、出雲・伯耆を指(さし)て馳来(はせきた)れり。筑紫舟(つくしぶね)か商人舟(あきんどぶね)かと見れば、さもあらで、隠岐(おきの)判官清高(きよたか)、主上を追(おひ)奉る舟にてぞ有(あり)ける。船頭是(これ)を見て、「角(かく)ては叶(かなひ)候まじ、是(これ)に御隠れ候へ。」と申(まうし)て、主上と忠顕(ただあき)朝臣とを、舟底(ふなぞこ)にやどし進(まゐら)せて、其(その)上に、あひ物とて乾(ほし)たる魚(うを)の入(いり)たる俵(たはら)を取積(とりつん)で、水手(すゐしゆ)・梶取(かんとり)其上(そのうへ)に立双(たちならん)で、櫓(ろ)をぞ押(おし)たりける。去程(さるほど)に追手(おひて)の舟一艘(いつさう)、御座舟(ござぶね)に追付(おつつい)て、屋形の中(うち)に乗移(のりうつ)り、こゝかしこ捜(さが)しけれ共(ども)、見出(みいだ)し奉らず。「さては此(この)舟には召(めさ)ざりけり。若(もし)あやしき舟や通(とほ)りつる。」と問(とひ)ければ、船頭(せんどう)、「今夜の子(ね)の刻計(こくばかり)に、千波(ちぶりの)湊を出候(いでさふらひ)つる舟にこそ、京上臈(きやうじやうらふ)かと覚(おぼ)しくて、冠(かぶり)とやらん着(き)たる人と、立烏帽子(たてゑぼし)着(き)たる人と、二人(ににん)乗(のら)せ給(たまひ)て候(さふらひ)つる。其(その)舟は今は五六里も先立候(さきだちさふらひ)ぬらん。」と申(まうし)ければ、「さては疑(うたがひ)もなき事也(なり)。早(はや)、舟をおせ。」とて、帆(ほ)を引(ひき)梶(かぢ)を直(なほ)せば、此(この)舟は軈(やが)て隔(へだたり)ぬ。今はかうと心安く覚(おぼえ)て迹(あと)の浪路(なみぢ)を顧(かへりみ)れば、又一里許(ばかり)さがりて、追手(おひて)の舟百余艘(よさう)、御坐船(ござふね)を目に懸(かけ)て、鳥の飛(とぶ)が如くに追懸(おつかけ)たり。船頭(せんどう)是(これ)を見て帆(ほ)の下に櫓(ろ)を立(たて)て、万里(ばんり)を一時(いちじ)に渡らんと声を帆に挙(あげ)て推(おし)けれ共(ども)、時節(をりふし)風たゆみ、塩(しほ)向(むかう)て御舟(おんふね)更に不進。水手(すゐしゆ)・梶取(かんどり)如何(いかが)せんと、あはて騒ぎける間、主上船底(ふなぞこ)より御出(おんいで)有(あつ)て、膚(はだ)の御護(おんまぶり)より、仏舎利(ぶつしやり)を一粒(いちりふ)取出(とりいだ)させ給(たまひ)て、御畳紙(おんたたうがみ)に乗(の)せて、波の上にぞ浮(うけ)られける。竜神(りゆうじん)是(これ)に納受(なふじゆ)やした〔り〕けん、海上(かいじやう)俄(にはか)に風替(かは)りて、御坐船(ござふね)をば東へ吹送(ふきおく)り、追手(おひて)の船をば西へ吹(ふき)もどす。さてこそ主上は虎口(ここう)の難(なん)の御遁有(のがれあり)て、御船(おんふね)は時間(ときのま)に、伯耆(はうき)の国名和湊(なわのみなと)に着(つき)にけり。六条(ろくでうの)少将忠顕朝臣(ただあきあそん)一人先(まづ)舟よりおり給(たまひ)て、「此辺(このへん)には何(いか)なる者か、弓矢取(とつ)て人に被知たる。」と問(とは)れければ、道行(ゆく)人立(たち)やすらひて、「此辺(このへん)には名和(なわの)又太郎長年(ながとし)と申(まうす)者こそ、其身(そのみ)指(さし)て名有(なある)武士(ぶし)にては候はね共(ども)、家(いへ)富(とみ)一族(いちぞく)広(ひろう)して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕(ただあき)朝臣能々(よくよく)其子細(そのしさい)を尋聞(たづねきい)て、軈(やが)て勅使(ちよくし)を立(たて)て被仰けるは、「主上隠岐(おきの)判官が館(たち)を御逃(おんにげ)有(あつ)て、今此湊(このみなと)に御坐有(ござあり)。長年(ながとし)が武勇兼(かね)て上聞(しやうぶん)に達せし間、御憑(おんたのみ)あるべき由を被仰出也(なり)。憑(たの)まれ進(まゐら)せ候べしや否(いなや)、速(すみやか)に勅答可申。」とぞ被仰たりける。名和(なわの)又太郎は、折節(をりふし)一族共(いちぞくども)呼集(よびあつめ)て酒飲(のう)で居たりけるが、此(この)由を聞(きい)て案じ煩(わづらう)たる気色にて、兎(と)も角(かく)も申得(まうしえ)ざりけるを、舎弟(しやてい)小太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)長重(ながしげ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「古(いにしへ)より今に至迄(いたるまで)、人の望(のぞむ)所は名と利との二(ふたつ)也(なり)。我等(われら)悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の君に被憑進(まゐらせ)て、尸(かばね)を軍門(ぐんもん)に曝(さら)す共(とも)名を後代(こうだい)に残(のこさ)ん事(こと)、生前(しやうぜん)の思出(おもひで)、死後の名誉たるべし。唯一筋(ひとすぢ)に思定(おもひさだめ)させ給ふより外(ほか)の儀(ぎ)有(ある)べしとも存(ぞんじ)候はず。」と申(まうし)ければ、又太郎を始(はじめ)として当座(たうざ)に候(さふらひ)ける一族共(いちぞくども)二十(にじふ)余人(よにん)、皆此儀(このぎ)に同(どう)じてけり。「されば頓(やが)て合戦の用意(ようい)候べし。定(さだめ)て追手(おひて)も迹(あと)より懸(かか)り候らん。長重(ながしげ)は主上の御迎(むかひ)に参(まゐつ)て、直(すぐ)に船上山(ふなのうへやま)へ入進(いれまゐら)せん。旁(かたがた)は頓(やが)て打立(うつたつ)て、船上(ふなのうへ)へ御参(ごさん)候べし。」と云捨(いひすて)て、鎧一縮(いつしゆく)して走り出(いで)ければ、一族(いちぞく)五人腹巻(はらまき)取(とつ)て投懸々々(なげかけなげかけ)、皆高紐(たかひぼ)しめて、共に御迎(むかひ)にぞ参じける。俄(にはか)の事にて御輿(こし)なんども無(なか)りければ、長重(ながしげ)着(き)たる鎧(よろひ)の上に荒薦(あらこも)を巻(まい)て、主上を負進(おひまゐら)せ、鳥の飛(とぶ)が如くして舟上(ふなのうへ)へ入(いれ)奉る。長年(ながとし)近辺(きんぺん)の在家(ざいけ)に人を廻(まは)し、「思立(おもひたつ)事(こと)有(あつ)て舟上(ふなのうへ)に兵粮を上(あぐ)る事あり。我倉(わがくら)の内にある所の米穀(べいこく)を、一荷(いつか)持(もつ)て運びたらん者には、銭(ぜに)を五百(ごひやく)づゝ取らすべし。」と触(ふれ)たりける間、十方より人夫(にんぷ)五六千人出来(しゆつらい)して、我(われ)劣らじと持送(もちおく)る。一日が中(うち)に兵粮五千(ごせん)余石(よこく)運びけり。其後(そののち)家中(けちゆう)の財宝(ざいはう)悉(ことごとく)人民(じんみん)百姓に与(あたへ)て、己(おのれ)が館(たち)に火をかけ、其(その)勢百五十騎にて、船上(ふなのうへ)に馳(はせ)参り、皇居(くわうきよ)を警固(けいご)仕る。長年(ながとし)が一族(いちぞく)名和(なわの)七郎と云(いひ)ける者、武勇の謀(はかりごと)有(あり)ければ、白布(しらぬの)五百(ごひやく)端(たん)有(あり)けるを旗にこしらへ、松の葉を焼(やい)て煙(けむり)にふすべ、近国(きんごく)の武士共(ぶしども)の家々の文(もん)を書(かい)て、此(ここ)の木の本(もと)、彼(かしこ)の峯にぞ立置(たておき)ける。此(この)旗共(はたども)峯の嵐に吹(ふか)れて、陣々に翻(ひるがへ)りたる様(さま)、山中(さんちゆう)に大勢(おほぜい)充満(じゆうまん)したりと見へてをびたゝし。
○船上(ふなのうへ)合戦(かつせんの)事(こと) S0707
去程(さるほど)に同(おなじき)二十九日、隠岐(おきの)判官、佐々木(ささきの)弾正(だんじやう)左衛門、其(その)勢三千余騎(よき)にて南北より押寄(おしよせ)たり。此舟上(このふなのうへ)と申(まうす)は、北は大山(だいせん)に継(つづ)き峙(そばだ)ち、三方(さんぱう)は地僻(ちさがり)に、峯に懸(かか)れる白雲(しらくも)腰(こし)を廻(めぐ)れり。俄に拵(こしら)へたる城なれば、未(いまだ)堀の一所(いつしよ)をも不掘、屏(へい)の一重(ひとへ)をも不塗、唯所々(しよしよ)に大木(たいぼく)少々切倒(きりたふ)して、逆木(さかもぎ)にひき、坊舎(ばうしや)の甍(いらか)を破(やぶつ)て、かひ楯(だて)にかける計(ばかり)也(なり)。寄手(よせて)三千余騎(よき)、坂中(さかなか)まで責上(せめのぼつ)て、城中をきつと向上(みあげ)たれば、松柏(しようはく)生茂(おひしげつ)ていと深き木陰(こかげ)に、勢の多少は知(しら)ね共(ども)、家々の旗四五百(ごひやく)流(ながれ)、雲に翻(ひるがへ)り、日に映(えい)じて見へたり。さては早(はや)、近国(きんごく)の勢共(せいども)の悉(ことごとく)馳(はせ)参りたりけり。此(この)勢許(ばかり)にては責難(せめがた)しとや思(おもひ)けん、寄手(よせて)皆心に危(あやしみ)て不進得。城中の勢共(せいども)は、敵(てき)に勢(せい)の分際(ぶんざい)を見へじと、木陰(こかげ)にぬはれ伏(ふし)て、時々(ときどき)射手(いて)を出(いだ)し、遠矢(とほや)を射させて日を暮(くら)す。卦(かか)る所に一方の寄手(よせて)なりける佐々木(ささきの)弾正(だんじやう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、遥(はるか)の麓にひかへて居たりけるが、何方(いづかた)より射る共(とも)しらぬ流矢(ながれや)に、右の眼(まなこ)を射ぬかれて、矢庭(やには)に伏(ふし)て死にけり。依之(これによつて)其(その)手(て)の兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)色を失(うしなう)て軍(いくさ)をもせず。佐渡前司(さどのぜんじ)は八百(はつぴやく)余騎(よき)にて搦手(からめて)へ向(むかひ)たりけるが、俄に旗を巻(まき)、甲(かぶと)を脱(ぬい)で降参(かうさん)す。隠岐(おきの)判官は猶(なほ)加様(かやう)の事をも不知、搦手(からめて)の勢は、定(さだめ)て今は責近(せめちかづ)きぬらんと心得て、一の木戸口(きどくち)に支(ささへ)て、悪手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)、時(とき)移(うつ)るまでぞ責(せめ)たりける。日已(すで)に西山(せいざん)に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降(ふる)事(こと)車軸(しやぢく)の如く、雷(いかづち)の鳴(なる)事(こと)山を崩(くづ)すが如し。寄手(よせて)是(これ)におぢわなゝひて、斯彼(ここかしこ)の木陰(こかげ)に立寄(たちよつ)てむらがり居たる所に、名和(なわ)又太郎長年(ながとし)舎弟(しやてい)太郎左衛門長重(ながしげ)、小次郎長生(ながたか)が、射手(いて)を左右に進めて散々(さんざん)に射させ、敵(てき)の楯(たて)の端(はし)のゆるぐ所を、得たりや賢(かしこ)しと、ぬきつれて打(うつ)てかゝる。大手の寄手(よせて)千余騎(よき)、谷底(たにぞこ)へ皆まくり落されて、己(おのれ)が太刀・長刀(なぎなた)に貫(つらぬか)れて命(いのち)を墜(おと)す者其数(そのかず)を不知。隠岐(おきの)判官計(ばかり)辛(から)き命を助(たすか)りて、小舟(こぶね)一艘(いつさう)に取乗(とりのり)、本国へ逃帰(にげかへ)りけるを、国人いつしか心替(こころがはり)して、津々浦々(つつうらうら)を堅めふせぎける間、波に任(まか)せ風に随(したがひ)て、越前の敦賀(つるが)へ漂(ただよ)ひ寄(より)たりけるが、幾程も無(なく)して、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)の時、江州(がうしう)番馬(ばんば)の辻堂(つじだう)にて、腹掻切(かききつ)て失(うせ)にけり。世澆季(げうき)に成(なり)ぬといへ共(ども)、天理(てんり)未(いま)だ有(あり)けるにや、余(あまり)に君を悩(なやま)し奉りける隠岐(おきの)判官が、三十(さんじふ)余日(よにち)が間に滅(ほろ)びはてゝ、首(くび)を軍門(ぐんもん)の幢(はたほこ)に懸(かけ)られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成(なつ)て、船上(ふなのうへ)に御座有(ござあり)と聞へしかば、国々の兵共(つはものども)の馳(はせ)参る事引(ひき)も不切。先(まづ)一番に出雲(いづも)の守護(しゆご)塩谷(えんや)判官高貞(たかさだ)、富士名(ふじなの)判官と打連(うちつれ)、千(せん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。其後(そののち)浅山(あさやま)二郎八百(はつぴやく)余騎(よき)、金持(かなぢ)の一党(いつたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、大山衆徒(だいせんのしゆと)七百余騎(よき)、都(すべ)て出雲(いづも)・伯耆・因幡(いなば)、三箇国(かこく)の間に、弓矢に携(たづさは)る程の武士共(ぶしども)の参らぬ者は無(なか)りけり。是(これ)のみならず、石見(いはみの)国(くに)には沢(さは)・三角(みすみ)の一族(いちぞく)、安芸(あきの)国(くに)に熊谷(くまがえ)・小早河(こばいかは)、美作(みまさかの)国(くに)には菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)・江見(えみ)・方賀(はが)・渋谷(しぶや)・南三郷(みなみさんがう)、備後(びんごの)国(くに)に江田(えた)・広沢・宮(みや)・三吉(みよし)、備中に新見(にひみ)・成合(なりあひ)・那須(なす)・三村(みむら)・小坂(こさか)・河村・庄(しやう)・真壁(まかべ)、備前に今木(いまぎ)・大富(おほどみの)太郎幸範(よしのり)・和田備後(びんごの)二郎範長(のりなが)・知間(ちまの)二郎親経(ちかつね)・藤井・射越(いのこし)五郎左衛門範貞(のりさだ)・小嶋(こじま)・中吉(なかぎり)・美濃権(みののごんの)介・和気(わけの)弥次郎季経(すゑつね)・石生(おしこ)彦三郎、此外(このほか)四国九州の兵(つはもの)までも聞伝々々(ききつたへききつたへ)、我前(われさき)にと馳(はせ)参りける間、其(その)勢舟上山(ふなのうへやま)に居余(ゐあま)りて、四方(しはう)の麓二三里は、木の下・草の陰(かげ)までも、人ならずと云(いふ)所は無(なか)りけり。