太平記(国民文庫)
太平記巻第六
○民部卿三位局(みんぶきやうさんみのつぼね)御夢想(ごむさうの)事(こと) S0601
夫(それ)年光(ねんくわう)不停如奔箭下流水、哀楽(あいらく)互(たがひに)替(かはること)似紅栄黄落樹。尓(しか)れば此世中(このよのなか)の有様(ありさま)、只(ただ)夢とやいはん幻(うつつ)とやいはん。憂喜(いうき)共に感ずれば、袂(たもと)の露を催(もよほ)す事雖不始今、去年(きよねん)九月に笠置(かさぎの)城破(やぶ)れて、先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給(たまひ)し後(のち)は、百司(はくし)の旧臣(きうしん)悲(かなしみ)を抱(いだい)て所々(しよしよ)に篭居(ろうきよ)し、三千の宮女(きゆうぢよ)涙を流して面々(めんめん)に臥沈(ふししづみ)給ふ有様、誠(まこと)に憂(うき)世(よ)の中(なか)の習(ならひ)と云(いひ)ながら、殊更(ことさら)哀(あはれ)に聞へしは、民部(みんぶ)卿(きやう)三位殿(さんみどのの)御局(さんみどののおつぼね)にて留(とどめ)たり。其(それ)を如何にと申(まうす)に、先朝(せんてう)の御寵愛(ごちようあい)不浅上、大塔(おほたふ)の宮(みやの)御母堂(ごぼだう)にて渡(わたら)せ給(たまひ)しかば、傍(かた)への女御(にようご)・后(きさき)は、花の側(あたり)の深山木(みやまぎ)の色香(いろか)も無(なき)が如く〔也(なり)〕。而るを世間(よのなか)静(しづか)ならざりし後は、万(よろ)づ引替(ひきかへ)たる九重(ここのへ)の内の御住居(おんすまゐ)も不定、荒(あれ)のみ増(まさ)る浪(なみ)の上に、舟(ふね)流したる海士(あま)の心地(ここち)して、寄(よ)る方もなき御思(おんおもひ)の上に打添(うちそひ)て、君は西海(さいかい)の帰らぬ波に浮沈(うきしづ)み、泪(なみだ)無隙(ひまなき)御袖(おんそで)の気色(けしき)と承(うけたまは)りしかば、空(むなしく)傾思於万里之暁月、宮は又南山(なんざん)の道なき雲に踏迷(ふみまよ)はせ給(たまひ)て、狂浮(あこがれ)たる御住居(おんすまゐ)と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方(ひとかた)ならぬ御歎(おんなげき)に、青糸(せいし)の髪疎(おろそか)にして、いつの間(ま)に老(おい)は来(き)ぬらんと被怪、紅玉(こうぎよくの)膚(はだへ)消(きえ)て、今日(けふ)を限(かぎり)の命(いのち)共(とも)がなと思召(おぼしめし)ける御悲(かなしみ)の遣方(やるかた)なさに、年来(としごろ)の御祈(いのり)の師(し)とて、御誦経(おんじゆきやう)・御撫物(おんなでもの)なんど奉りける、北野(きたの)の社僧(しやそう)の坊(ばう)に御坐(おはしま)して、一七日(ひとなぬか)参篭(さんろう)の御志(おんこころざし)ある由(よし)を被仰ければ、此折節(このをりふし)武家の聞(きこえ)も無憚には非(あら)ねども、日来(ひごろ)の御恩(ごおん)も重く、今程(いまほど)の御有様も御痛(おんいたは)しければ、無情は如何(いかが)と思(おもひ)て、拝殿(はいでん)の傍(かたはら)に僅(わづか)なる一間(ひとま)を拵(こしらへ)て、尋常(よのつね)の青女房(なまにようばう)なんどの参篭(さんろう)したる由にて置(おき)奉りけり。哀(あはれ)古(いにし)へならば、錦帳(きんちやう)に妝(よそほひ)を篭(こめ)、紗窓(しやさう)に艶(えん)を閉(とぢ)て、左右の侍女(おもとびと)其数(そのかず)を不知、当(あた)りを輝(かかやかし)て仮傅奉(いつきかしづきたてまつる)べきに、いつしか引替(ひきかへ)たる御忍(おんしのび)の物篭(ものごもり)なれば、都(みやこ)近けれ共(ども)事(こと)問(こととひ)かわす人もなし。只一夜松(ひとよのまつ)の嵐に御夢(おんゆめ)を被覚、主(あるじ)忘れぬ梅(むめ)が香(か)に、昔の春を思召出(おぼしめしいだ)すにも、昌泰(しやうたい)の年(とし)の末(すゑ)に荒人神(あらひとかみ)と成(なら)せ玉ひし、心づくしの御旅宿(おんたびね)までも、今は君の御思(おんおもひ)に擬(なぞら)へ、又は御身(おんみ)の歎(なげき)に被思召知たる、哀(あはれ)の色(いろ)の数々(かずかず)に、御念誦(おんねんじゆ)を暫(しばらく)被止て、御涙(おんなみだ)の内にかくばかり、忘(わすれ)ずは神も哀れと思(おもひ)しれ心づくしの古(いにし)への旅と遊(あそばし)て、少(すこ)し御目睡有(おんまどろみあり)ける其夜(そのよ)の御夢(おんゆめ)に、衣冠(いくわん)正(ただ)しくしたる老翁(らうをう)の、年(とし)八十有余(いうよ)なるが、左の手に梅(むめ)の花を一枝(ひとえだ)持(もち)、右の手に鳩(はと)の杖(つゑ)をつき、最(いと)苦しげなる体(てい)にて、御局(おんつぼね)の臥給(ふしたまひ)たる枕の辺(へん)に立(たち)給へり。御夢心地(おんゆめごこち)に思召(おぼしめし)けるは、篠(ささ)の小篠(をざさ)の一節(ひとふし)も、可問人も覚(おぼえ)ぬ都の外(ほか)の蓬生(よもぎふ)に、怪(あや)しや誰人(たれびと)の道蹈迷(ふみまよ)へるやすらひぞやと御尋(おんたづね)有(あり)ければ、此老翁(このらうをう)世(よ)に哀(あはれ)なる気色(きしよく)にて、云ひ出(いだ)せる詞(こと)は無(なく)て、持(もち)たる梅(むめの)花を御前(おんまへ)に指置(さしおい)て立帰(たちかへり)けり。不思議(ふしぎ)やと思召(おぼしめし)て御覧ずれば、一首(いつしゆ)の歌を短冊(たんざく)にかけり。廻(めぐ)りきて遂(つひ)にすむべき月影(つきかげ)のしばし陰(くもる)を何(なに)歎(なげ)くらん御夢(おんゆめ)覚(さめ)て歌の心を案(あん)じ給(たまふ)に、君(きみ)遂(つひ)に還幸(くわんかう)成(なり)て雲の上に住ませ可給瑞夢(ずゐむ)也(なり)。と、憑敷(たのもしく)思召(おぼしめし)けり。誠(まこと)に彼聖廟(かのせいべう)と申(まうし)奉るは、大慈大悲(だいじだいひ)の本地(ほんぢ)、天満天神(てんまんてんじん)の垂迹(すゐじやく)にて渡らせ給へば、一度(ひとたび)歩(あゆみ)を運(はこ)ぶ人、二世の悉地(しつち)を成就(じやうじゆ)し、僅(わづか)に御名(みな)を唱(となふ)る輩(ともがら)、万事(ばんじ)の所願(しよぐわん)を満足す。況乎(いはんや)千行万行(せんかうばんかう)の紅涙(こうるゐ)を滴尽(しただりつくし)て、七日七夜の丹誠(たんぜい)を致させ給へば、懇誠(こんぜい)暗(あん)に通じて感応(かんおう)忽(たちまち)に告(つげ)あり。世(よ)既(すでに)澆季(げうき)に雖及、信心誠(しんじんまこと)ある時は霊艦(れいかん)新(あらた)なりと、弥(いよいよ)憑敷(たのもしく)ぞ思食(おぼしめし)ける。
○楠(くすのき)出張天王寺(てんわうじしゆつちやうの)事付隅田(すだ)高橋並(ならびに)宇都宮(うつのみやの)事(こと) S0602
元弘二年三月五日、左近将監(さこんのしやうげん)時益(ときます)、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、両六波羅(りやうろくはら)に被補て、関東(くわんとう)より上洛(しやうらく)す。此(この)三四年は、常葉(ときは)駿河(するがの)守(かみ)範貞(のりさだ)一人として、両六波羅(りやうろくはら)の成敗(せいばい)を司(つかさどつ)て在(あり)しが、堅く辞(じ)し申(まうし)けるに依(よつ)てとぞ聞へし。楠兵衛正成(まさしげ)は、去年(きよねん)赤坂(あかさか)の城にて自害して、焼死(やけしし)たる真似(まね)をして落(おち)たりしを、実(まこと)と心得て、武家(ぶけ)より、其跡(そのあと)に湯浅孫六(ゆあさまごろく)入道定仏(ぢやうぶつ)を地頭(ぢとう)に居置(すゑおき)たりければ、今は河内(かはちの)国(くに)に於ては殊(こと)なる事あらじと、心安(こころやす)く思(おもひ)ける処に、同(おなじき)四月三日楠五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、俄に湯浅(ゆあさ)が城へ押寄(おしよせ)て、息をも不継責戦(せめたたか)ふ。城中(じやうちゆう)に兵粮(ひやうらう)の用意(ようい)乏(とぼ)しかりけるにや、湯浅が所領紀伊(きの)国(くに)の阿瀬河(あぜがは)より、人夫(にんぶ)五六百人(ごろつぴやくにん)に兵粮を持(もた)せて、夜中(やちゆう)に城へ入(いれ)んとする由(よし)を、楠風(ほのかに)聞(きい)て、兵(つはもの)を道の切所(せつしよ)へ差遣(さしつかはし)、悉(ことごとく)是(これ)を奪取(うばひとり)て其俵(そのたはら)に物具(もののぐ)を入替(いれかへ)て、馬に負(おふ)せ人夫(にんぶ)に持(もた)せて、兵(つはもの)を二三百人(にさんびやくにん)兵士(ひやうじ)の様(やう)に出立(いでたた)せて、城中へ入(いら)んとす。楠が勢是を追散(おひちら)さんとする真似(まね)をして、追(おつ)つ返(かへし)つ同士軍(どしいくさ)をぞしたりける。湯浅入道是(これ)を見て、我兵粮(わがひやうらう)入るゝ兵共(つはものども)が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打(うつ)て出(い)で、そゞろなる敵(てき)の兵共(つはものども)を城中へぞ引入(ひきいれ)ける。楠が勢共(せいども)思(おもひ)の侭に城中に入(いり)すまして、俵(たはら)の中より物具共(もののぐども)取出(とりいだ)し、ひし/\と堅めて、則(すなはち)時(とき)の声をぞ揚(あげ)たりける。城の外(ほか)の勢(せい)、同時(どうじ)に木戸(きど)を破(やぶ)り、屏(へい)を越(こえ)て責入(せめいり)ける間、湯浅入道内外(ないげ)の敵に取篭(とりこめ)られて、可戦様(やう)も無(なか)りければ、忽(たちまち)に頚を伸(のべ)て降人(かうにん)に出づ。楠其(その)勢を合(あは)せて、七百余騎(よき)にて和泉(いづみ)・河内の両国(りやうごく)を靡(なび)けて、大勢に成(なり)ければ、五月十七日(じふしちにち)に先(まづ)住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)辺(へん)へ打(うつ)て出で、渡部(わたなべ)の橋より南(みんなみ)に陣を取る。然間(しかるあひだ)和泉・河内の早馬(はやむま)敷並(しきなみ)を打(うつて)、楠已(すで)に京都へ責上(せめのぼ)る由告(つげ)ければ、洛中の騒動不斜。武士(ぶし)東西に馳散(はせち)りて貴賎(きせん)上下周章(あわつる)事(こと)窮(きはま)りなし。斯(かか)りければ両六波羅(りやうろくはら)には畿内近国(きないきんごく)の勢如雲霞の馳集(はせあつまつ)て、楠今や責上(せめのぼ)ると待(まち)けれ共(ども)、敢(あへ)て其義(そのぎ)もなければ、聞(きく)にも不似、楠小勢(こぜい)にてぞ有覧(あるらん)、此方(こなた)より押寄(おしよせ)て打散(うちちら)せとて、隅田(すだ)・高橋を両六波羅(ろくはら)の軍奉行(いくさぶぎやう)として、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならび)に在京人(ざいきやうにん)、畿内近国(きないきんごく)の勢を合(あは)せて、天王寺(てんわうじ)へ被指向。其(その)勢都合(つがふ)五千(ごせん)余騎(よき)、同(おなじき)二十日京都を立(たつ)て、尼崎(あまがさき)・神崎(かんざき)・柱松(はしらもと)の辺(へん)に陣を取(とり)て、遠篝(とほかがり)を焼(たい)て其夜(そのよ)を遅しと待明(まちあか)す。楠是(これ)を聞(きい)て、二千余騎(よき)を三手に分け、宗(むね)との勢をば住吉・天王寺(てんわうじ)に隠(かくし)て、僅(わづか)に三百騎(さんびやくき)許(ばかり)を渡部(わたなべ)の橋の南(みんなみ)に磬(ひかへ)させ、大篝(おほかがり)二三箇所(にさんかしよ)に焼(たか)せて相向(あひむか)へり。是(これ)は態(わざ)と敵に橋を渡させて、水の深みに追(おひ)はめ、雌雄(しゆう)を一時(いちじ)に決せんが為と也(なり)。去程(さるほど)に明(あく)れば五月二十一日に、六波羅(ろくはら)の勢五千(ごせん)余騎(よき)、所々(しよしよ)の陣を一所(いつしよ)に合(あは)せ、渡部(わたなべ)の橋まで打臨(うちのぞん)で、河向(かはむかひ)に引(ひか)へたる敵の勢を見渡せば、僅(わづか)に二三百騎(にさんびやくき)には不過、剰(あまつさへ)痩(やせ)たる馬に縄手綱(なはたづな)懸(かけ)たる体(てい)の武者共(むしやども)也(なり)。隅田(すだ)・高橋是(これ)を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際(ぶんざい)、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無(なか)りけり。此奴原(このやつばら)一々に召捕(めしとつ)て六条河原(ろくでうかはら)に切懸(きりかけ)て、六波羅殿(ろくはらどの)の御感(ぎよかん)に預(あづか)らんと云侭(いふまま)に、隅田(すだ)・高橋人交(ひとまぜ)もせず橋より下(しも)を一文字(いちもんじ)にぞ渡(わたし)ける。五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)是(これ)を見て、我先(われさき)にと馬を進めて、或(あるひ)は橋の上(うへ)を歩(あゆ)ませ或(あるひ)は河瀬(かはせ)を渡して、向(むかひ)の岸に懸驤(かけあが)る。楠(くすのきが)勢是(これ)を見て、遠矢(とほや)少々射捨(いすて)て、一戦(いつせん)もせず天王寺(てんわうじ)の方(かた)へ引退(ひきしりぞ)く。六波羅(ろくはら)の勢是(これ)を見て、勝(かつ)に乗り、人馬(じんば)の息をも不継せ、天王寺(てんわうじ)の北の在家(ざいけ)まで、揉(もみ)に揉(もう)でぞ追(おう)たりける。楠思程(おもふほど)敵の人馬を疲(つか)らかして、二千騎(にせんぎ)を三手に分(わけ)て、一手(ひとて)は天王寺(てんわうじ)の東(ひんがし)より敵を弓手(ゆんで)に請(うけ)て懸出(かけい)づ。一手(ひとて)は西門(さいもん)の石の鳥居より魚鱗懸(ぎよりんがかり)に懸出(かけい)づ。一手は住吉の松(まつの)陰より懸出(かけい)で、鶴翼(かくよく)に立(た)て開合(ひらきあは)す。六波羅(ろくはら)の勢を見合(みあは)すれば、対揚(たいやう)すべき迄(まで)もなき大勢なりけれ共(ども)、陣の張様(はりやう)しどろにて、却(かへつ)て小勢(こぜい)に囲(かこま)れぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋是(これ)を見て、「敵後(うし)ろに大勢を陰(かく)してたばかりけるぞ。此辺(このあたり)は馬の足立(あしだち)悪(あしう)して叶はじ。広みへ敵を帯(おび)き出(いだ)し、勢(せい)の分際(ぶんざい)を見計(みはから)ふて、懸合々々(かけあはせかけあはせ)勝負を決せよ。」と、下知(げぢ)しければ、五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、敵に後(うし)ろを被切ぬ先にと、渡部(わたなべ)の橋を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。楠が勢是(これ)に利(り)を得て、三方(さんばう)より勝時(かちどき)を作(つくつ)て追懸(おつか)くる。橋近く成(なり)ければ、隅田(すだ)・高橋是(これ)を見て、「敵は大勢にては無(なか)りけるぞ、此(ここ)にて不返合大河(たいが)後(うし)ろに在(あつ)て悪(あし)かりぬべし。返せや兵共(つはものども)。」と、馬の足を立直(たてなほ)し/\下知(げぢ)しけれども、大勢の引立(ひきたて)たる事なれば、一返(ひとかへし)も不返、只我先(われさき)にと橋の危(あやふき)をも不云、馳集(はせあつま)りける間、人馬共(じんばとも)に被推落て、水に溺(おぼ)るゝ者不知数、或(あるひは)淵瀬(ふちせ)をも不知渡し懸(かかつ)て死(し)ぬる者も有り、或(あるひ)は岸より馬を馳倒(はせたふし)て其侭(そのまま)被討者も有(あり)。只馬・物具(もののぐ)を脱捨(ぬぎすて)て、逃延(にげのび)んとする者は有れ共(ども)、返合(かへしあは)せて戦はんとする者は無(なか)りけり。而(しか)れば五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、残少(のこりずく)なに被打成て這々(はふはふ)京へぞ上(のぼ)りける。其翌日(そのよくじつ)に何者(なにもの)か仕(し)たりけん、六条河原(ろくでうかはら)に高札(たかふだ)を立(た)て一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。渡部(わたなべ)の水いか許(ばかり)早(はや)ければ高橋落(おち)て隅田(すだ)流るらん京童(きやうわらんべ)の僻(くせ)なれば、此落書(このらくしよ)を歌に作(つくり)て歌ひ、或(あるひ)は語伝(かたりつたへ)て笑ひける間(あひだ)、隅田(すだ)・高橋面目(めんぼく)を失ひ、且(しばらく)は出仕(しゆつし)を逗(とど)め、虚病(きよびやう)してぞ居たりける。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を聞(きい)て、安からぬ事に被思ければ、重(かさね)て寄(よ)せんと被議けり。其比(そのころ)京都余(あまり)に無勢(ぶせい)なりとて関東(くわんとう)より被上たる宇都宮(うつのみや)治部大輔(うつのみやぢぶのたいふ)を呼寄(よびよせ)評定(ひやうぢやう)有(あり)けるは、「合戦(かつせん)の習(なら)ひ運に依(よつ)て雌雄(しゆう)替(かは)る事古(いにし)へより無(なき)に非(あら)ず。然共(しかれども)今度(このたび)南方(なんばう)の軍(いくさ)負(まけ)ぬる事(こと)、偏(ひとへ)に将(しやう)の計(はかりごと)の拙(つたなき)に由(よ)れり。又士卒(じそつ)の臆病(おくびやう)なるが故(ゆゑ)也(なり)。天下(てんがの)嘲哢(てうろう)口を塞(ふさ)ぐに所(ところ)なし。就中に仲時(なかとき)罷上(まかりのぼり)し後(のち)、重(かさね)て御上洛(ごしやうらく)の事は、凶徒(きようと)若(もし)蜂起(ほうき)せば、御向(おんむか)ひ有(あつ)て静謐候(せいひつさふらへ)との為(ため)なり。今の如(ごとき)んば、敗軍の兵を駈集(かりあつめ)て何度(いくたび)むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且(かつう)は天下の一大事(いちだいじ)、此時(このとき)にて候へば、御向候(むかひさふらひ)て御退治(たいぢ)候へかし。」と宣(のたま)ひければ、宇都宮(うつのみや)辞退(じたい)の気色(きしよく)無(なう)して被申けるは、「大軍(たいぐん)已(すで)に利(り)を失(うしなう)て後(のち)、小勢(こぜい)にて罷向(まかりむかひ)候はん事(こと)、如何(いかん)と存(ぞんじ)候へども、関東(くわんとう)を罷出(まかりいで)し始(はじめ)より、加様(かやう)の御大事(おんだいじ)に逢(あう)て命(いのち)を軽(かろ)くせん事を存(ぞんじ)候き。今の時分(じぶん)、必(かならず)しも合戦の勝負(しようぶ)を見所(みるところ)にては候はねば、一人にて候共(とも)、先(まづ)罷向(まかりむかう)て一合戦(ひとかつせん)仕(つかまつ)り、及難儀候はゞ、重(かさねて)御勢(おんせい)をこそ申(まうし)候はめ。」と、誠(まこと)に思定(おもひさだめ)たる体(てい)に見へてぞ帰りける。宇都宮(うつのみや)一人武命(ぶめい)を含(ふくん)で大敵に向(むか)はん事(こと)、命(いのち)を可惜に非ざりければ、態(わざ)と宿所(しゆくしよ)へも不帰、六波羅(ろくはら)より直(すぐ)に、七月十九日(じふくにちの)午刻(うまのこく)に都を出で、天王寺(てんわうじ)へぞ下(くだ)りける。東寺辺(とうじへん)までは主従(しゆじゆう)僅(わづか)に十四五騎が程とみへしが、洛中(らくちゆう)にあらゆる所(ところ)の手者共(てのものども)馳加(はせくはは)りける間、四塚(よつづか)・作道(つくりみち)にては、五百(ごひやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)者をば、権門勢家(けんもんせいけ)を不云、乗馬(のりむま)を奪ひ人夫(にんぶ)を駈立(かけた)て通(とほ)りける間、行旅(かうりよ)の往反路(わうへんみち)を曲(ま)げ、閭里(りより)の民屋(みんをく)戸(とぼそ)を閉(と)づ。其夜(そのよ)は柱松(はしらもと)に陣を取(とり)て明(あく)るを待つ。其志(そのこころざし)一人も生(いき)て帰らんと思(おもふ)者は無(なか)りけり。去程(さるほど)に河内(かはちの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)和田(わだ)孫三郎此由(このよし)を聞(きい)て、楠が前(まへ)に来(きたつ)て云(いひ)けるは、「先日(せんじつ)の合戦に負腹(まけばら)を立て京より宇都宮(うつのみや)を向(むけ)候なる。今夜(こよひ)既(すで)に柱松(はしらもと)に着(つい)て候が其勢(そのせい)僅(わづか)に六七百騎(ろくしちひやくき)には過(すぎ)じと聞へ候。先(さき)に隅田(すだ)・高橋が五千(ごせん)余騎(よき)にて向(むかつ)て候(さふらひ)しをだに、我等(われら)僅(わづか)の小勢(こぜい)にて追散(おつちら)して候(さふらひ)しぞかし。其上(そのうへ)今度(このたび)は御方(みかた)勝(かつ)に乗(のつ)て大勢也(なり)。敵は機(き)を失(うしなう)て小勢也(なり)。宇都宮(うつのみや)縦(たと)ひ武勇(ぶゆう)の達人(たつじん)なりとも、何程(なにほど)の事か候べき。今夜(こよひ)逆寄(さかよせ)にして打散(うちちら)して捨候(すてさふらは)ばや。」と云(いひ)けるを、楠暫(しばらく)思案(しあん)して云(いひ)けるは、「合戦の勝負(しようぶ)必(かならず)しも大勢小勢(おほぜいこぜい)に不依、只(ただ)士卒(じそつ)の志(こころざし)を一にするとせざると也(なり)。されば「大敵を見ては欺(あざむ)き、小勢を見ては畏(おそ)れよ」と申す事是(これ)なり。先(まづ)思案(しあん)するに、先度(せんど)の軍(いくさ)に大勢打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞ)く跡(あと)へ、宇都宮(うつのみや)一人小勢にて相向(あひむか)ふ志(こころざし)、一人も生(いき)て帰らんと思(おもふ)者よも候はじ。其上(そのうへ)宇都宮(うつのみや)は坂東一(ばんどういち)の弓矢取(ゆみやとり)也(なり)。紀清両党(きせいりやうたう)の兵(つはもの)、元来(もとより)戦場(せんぢやう)に臨(のぞん)で命を棄(すつ)る事塵芥(ぢんがい)よりも尚(なほ)軽(かる)くす。其兵(そのつはもの)七百余騎(よき)志を一(ひと)つにして戦(たたかひ)を決せば、当手(たうて)の兵(つはもの)縦(たとひ)退(しりぞ)く心なく共(とも)、大半(たいはん)は必(かならず)可被討。天下の事全(まつたく)今般(このたび)の戦(たたかひ)に不可依。行末(ゆくすゑ)遥(はるか)の合戦に、多からぬ御方(みかた)初度(しよど)の軍(いくさ)に被討なば、後日(ごにち)の戦(たたかひ)に誰か力(ちから)を可合。「良将(りやうしやう)は不戦して勝(かつ)」と申(まうす)事(こと)候へば、正成(まさしげ)に於ては、明日態(わざ)と此(この)陣を去(さつ)て引退(ひきしりぞ)き、敵に一面目(ひとめんぼく)在(あ)る様(やう)に思はせ、四五日を経て後(のち)、方々(はうばう)の峯に篝(かがり)を焼(たい)て、一蒸(ひとむし)蒸程(むすほど)ならば、坂東武者(ばんどうむしや)の習(ならひ)、無程機疲(きつかれ)て、「いや/\長居(ながゐ)しては悪(あし)かりなん。一面目(ひとめんぼく)有(ある)時去来(いざ)や引返(ひきかへ)さん。」と云(いは)ぬ者は候はじ。されば「懸(かく)るも引(ひく)も折(をり)による」とは、加様(かやう)の事を申(まうす)也(なり)。夜(よ)已(すで)に暁天(げうてん)に及べり。敵定(さだめ)て今は近付(ちかづく)らん。去来(いざ)させ給へ。」とて、楠天王寺(てんわうじ)を立(たち)ければ、和田・湯浅(ゆあさ)も諸共(もろとも)に打連(うちつれ)てぞ引(ひき)たりける。夜(よ)明(あけ)ければ、宇都宮(うつのみや)七百余騎(よき)の勢にて天王寺(てんわうじ)へ押寄(おしよ)せ、古宇都(こうづ)の在家(ざいけ)に火を懸け、時(とき)の声を揚(あげ)たれ共(ども)、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺(このあたり)は馬の足立(あしたち)悪(あしう)して、道狭(せば)き間、懸入(かけいる)敵に中(なか)を被破な、後(うし)ろを被裹な。」と下知(げぢ)して、紀清両党(きせいりやうたう)馬の足をそろへて、天王寺(てんわうじ)の東西(とうざい)の口(くち)より懸入(かけいつ)て、二三度(にさんど)まで懸入々々(かけいりかけいり)しけれ共(ども)、敵一人も無(なく)して、焼捨(たきすて)たる篝(かがり)に燈(ともしび)残(のこり)て、夜はほの/゛\と明(あけ)にけり。宇都宮(うつのみや)不戦先(さき)に一勝(ひとかち)したる心地(ここち)して、本堂(ほんだう)の前(まへ)にて馬より下(お)り、上宮太子(じやうぐうたいし)を伏拝(ふしをが)み奉り、是(これ)偏(ひとへ)に武力(ぶりき)の非所致、只然(しかしながら)神明仏陀(しんめいぶつだ)の擁護(おうご)に懸(かか)れりと、信心(しんじん)を傾(かたむ)け歓喜(くわんぎ)の思(おもひ)を成(な)せり。頓(やが)て京都へ早馬(はやむま)を立(た)て、「天王寺(てんわうじ)の敵をば即時(そくじ)に追落(おひおと)し候(さふらひ)ぬ。」と申(まうし)たりければ、両六波羅(りやうろくはら)を始(はじめ)として、御内外様(みうちとざま)の諸軍勢(しよぐんぜい)に至(いたる)まで、宇都宮(うつのみや)が今度(このたび)の振舞(ふるまひ)抜群(ばつぐん)也(なり)。と、誉(ほめ)ぬ人も無(なか)りけり。宇都宮(うつのみや)、天王寺(てんわうじ)の敵を輒(たやす)く追散(おつちら)したる心地(ここち)にて、一面目(ひとめんぼく)は有体(あるてい)なれ共(ども)、軈(やが)て続(つづい)て敵の陣へ責入(せめい)らん事も、無勢(ぶぜい)なれば不叶、又誠(まこと)の軍(いくさ)一度(いちど)も不為して引返(ひつかへ)さん事もさすがなれば、進退(しんだい)谷(きはまつ)たる処に、四五日を経(へ)て後(のち)、和田・楠(くすのき)、和泉(いづみ)・河内(かはち)の野伏共(のぶしども)を四五千人駈集(かりあつめ)て、可然兵(つはもの)二三百騎(にさんびやくき)差副(さしそへ)、天王寺(てんわうじ)辺(へん)に遠篝火(とほかがりび)をぞ焼(たか)せける。すはや敵こそ打出(うちいで)たれと騒動(さうどう)して、深行侭(ふけゆくまま)に是(これ)を見れば、秋篠(あきしの)や外山(とやま)の里(さと)、生駒(いこま)の岳(だけ)に見ゆる火は、晴(はれ)たる夜の星よりも数(しげ)く、藻塩草(もしほぐさ)志城津(しぎづ)の浦、住吉(すみよし)・難波(なんば)の里に焼篝(たくかがり)は、漁舟(ぎよしう)に燃(とぼ)す居去火(いさりび)の、波を焼(たく)かと怪しまる。総(すべ)て大和(やまと)・河内・紀伊(きの)国(くに)にありとある所の山々浦々に、篝(かがり)を焼(たか)ぬ所は無(なか)りけり。其(その)勢幾万騎(いくまんぎ)あらんと推量してをびたゝし。如此する事両三夜に及び、次第(しだい)に相近付(あひちかづ)けば、弥(いよいよ)東西南北四維上下(しゆゐじやうげ)に充満(じゆうまん)して、闇夜(あんや)に昼(ひる)を易(かへ)たり。宇都宮(うつのみや)是(これ)を見て、敵寄来(よせきた)らば一軍(ひといくさ)して、雌雄(しゆう)を一時に決せんと志(こころざ)して、馬の鞍(くら)をも不息、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)をも不解待懸(まちかけ)たれ共(ども)、軍(いくさ)は無(なう)して敵の取廻(とりまは)す勢(いきほ)ひに、勇気疲(つか)れ武力(ぶりき)怠(たゆん)で、哀(あは)れ引退(ひきしりぞ)かばやと思ふ心着(つき)けり。斯(かか)る処に紀清両党(きせいりやうたう)の輩(ともがら)も、「我等(われら)が僅(わづか)の小勢(こぜい)にて此(この)大敵に当(あた)らん事は、始終(しじゆう)如何(いかん)と覚(おぼえ)候。先日(せんじつ)当所(たうしよ)の敵を無事故追落(おひおと)して候(さふらひ)つるを、一面目(ひとめんぼく)にして御上洛(ごしやうらく)候へかし。」と申せば、諸人(しよにん)皆此義(このぎ)に同(どう)じ、七月二十七日(にじふしちにちの)夜半許(やはんばかり)に宇都宮(うつのみや)天王寺(てんわうじ)を引(ひきて)上洛(しやうらく)すれば、翌日(よくじつ)早旦(さうたん)に楠頓(やが)て入替(いりかは)りたり。誠(まこと)に宇都宮(うつのみや)と楠と相戦(あひたたかう)て勝負(しようぶ)を決せば、両虎二龍(りやうこじりゆう)の闘(たたかひ)として、何(いづ)れも死を共(とも)にすべし。されば互に是(これ)を思ひけるにや、一度(ひとたび)は楠引(ひい)て謀(はかりごと)を千里(せんり)の外(ほか)に運(めぐら)し、一度(ひとたび)は宇都宮(うつのみや)退(しりぞい)て名を一戦(いつせん)の後(のち)に不失。是(これ)皆智謀深く、慮(おもんばか)り遠き良将(りやうしやう)なりし故(ゆゑ)也(なり)。と、誉(ほめ)ぬ人も無(なか)りけり。去程(さるほど)に楠兵衛正成(まさしげ)は、天王寺(てんわうじ)に打出(うちいで)て、威猛(ゐまう)を雖逞、民屋(みんをく)に煩(わづら)ひをも不為して、士卒(じそつ)に礼を厚くしける間、近国(きんごく)は不及申、遐壌遠境(かじやうゑんきやう)の人牧(じんぼく)までも、是(これ)を聞伝(ききつた)へて、我(われ)も我(われ)もと馳加(はせくはは)りける程に、其勢(そのいきほ)ひ漸(やうやく)強大(きやうだい)にして、今は京都よりも、討手(うつて)を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。
○正成(まさしげ)天王寺(てんわうじの)未来記(みらいき)披見(ひけんの)事(こと) S0603
元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉(すみよし)に参詣し、神馬(しんめ)三疋(さんびき)献之。翌日(よくじつ)天王寺(てんわうじ)に詣(まうで)て白鞍(しろくら)置(おい)たる馬、白輻輪(しらぶくりん)の太刀、鎧(よろひ)一両(いちりやう)副(そへ)て引進(ひきまゐら)す。是(これ)は大般若経(だいはんにやきやう)転読(てんどく)の御布施(おんふせ)なり。啓白(けいひやく)事終(ことをはつ)て、宿老(しゆくらう)の寺僧(じそう)巻数(くわんじゆ)を捧(ささげ)て来れり。楠則(すなはち)対面して申(まうし)けるは、「正成、不肖(ふせう)の身として、此(この)一大事(いちだいじ)を思立(おもひたち)て候事(こと)、涯分(がいぶん)を不計に似たりといへ共(ども)、勅命の不軽礼儀を存(ぞん)ずるに依(よつ)て、身命(しんみやう)の危(あやふ)きを忘(わすれ)たり。然(しかる)に両度(りやうど)の合戦聊(いささか)勝(かつ)に乗(のつ)て、諸国の兵不招馳加(はせくはは)れり。是(これ)天の時を与へ、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)を被回歟(か)と覚(おぼえ)候。誠やらん伝承(つたへうけたまは)れば、上宮(じようぐう)太子の当初(そのかみ)、百王治天(ちてん)の安危(あんき)を勘(かんがへ)て、日本(につぽん)一州(いつしう)の未来記(みらいき)を書置(かきおか)せ給(たまひ)て候なる。拝見若(もし)不苦候はゞ、今の時に当(あた)り候はん巻許(まきばかり)、一見仕候(つかまつりさふらは)ばや。」と云(いひ)ければ、宿老(しゆくらう)の寺僧(じそう)答(こたへ)て云(いはく)、「太子守屋(もりや)の逆臣(ぎやくしん)を討(うつ)て、始(はじめ)て此寺(このてら)を建(たて)て、仏法を被弘候(さふらひ)し後(のち)、神代(しんだい)より始(はじめ)て、持統(ぢとう)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に至(いたる)までを被記たる書(しよ)三十巻(さんじつくわん)をば、前代旧事本記(ぜんだいくじほんぎ)とて、卜部(うらべ)の宿祢(すくね)是(これ)を相伝(さうでん)して有職(いうしよく)の家を立(たて)候。其外(そのほか)に又一巻(いつくわん)の秘書(ひしよ)を被留て候。是(これ)は持統(ぢとう)天皇(てんわう)以来末世代々(まつせだいだい)の王業(わうげふ)、天下の治乱(ちらん)を被記て候。是(これ)をば輒(たやす)く人の披見(ひけん)する事は候はね共(ども)、以別儀密(ひそか)に見参(げんざん)に入(いれ)候べし。」とて、即(すなはち)秘府(ひふ)の銀鑰(ぎんやく)を開(ひらい)て、金軸(こんぢく)の書(しよ)一巻(いつくわん)を取出(とりいだ)せり。正成悦(よろこび)て則(すなはち)是(これ)を披覧(ひらん)するに、不思議(ふしぎ)の記文(きもん)一段(だん)あり。其文(そのもん)に云(いはく)、当人王九十五代。天下一(ひとたび)乱(みだれて)而主(しゆ)不安。此(この)時東魚(とうぎよ)来(きたつて)呑四海(しかい)。日没西天三百(さんびやく)七十(しちじふ)余箇日(よかにち)。西鳥(せいてう)来(きたつて)食東魚を。其後(そののち)海内(かいだい)帰一三年。如■猴(みこうのごとき)者掠天下三十(さんじふ)余年(よねん)。大凶(だいきよう)変(へんじて)帰一元。云云。正成不思議(ふしぎ)に覚へて、能々(よくよく)思案(しあん)して此文(このもん)を考(かんがふ)るに、先帝(せんてい)既(すで)に人王(にんわう)の始(はじめ)より九十五代に当(あた)り給へり。「天下一度(ひとたび)乱(みだれ)て主不安」とあるは是此(これこの)時なるべし。「東魚(とうぎよ)来(きたつ)て呑四海(しかい)」とは逆臣(ぎやくしん)相摸(さがみ)入道の一類(いちるゐ)なるべし。「西鳥(せいてう)食東魚を」とあるは関東(くわんとう)を滅(ほろぼ)す人可有。「日没西天に」とは、先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百(さんびやく)七十(しちじふ)余箇日(よかにち)」とは、明年(みやうねん)の春(はる)の比(ころ)此(この)君隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成(なつ)て、再び帝位に即(つ)かせ可給事なるべしと、文(もん)の心を明(あきらか)に勘(かんがふる)に、天下の反覆(へんふく)久しからじと憑敷(たのもしく)覚(おぼえ)ければ、金作(こがねづくり)の太刀一振(ひとふり)此(この)老僧に与へて、此書(このしよ)をば本(もと)の秘府(ひふ)に納(をさめ)させけり。後(のち)に思合(おもひあは)するに、正成(まさしげ)が勘(かんが)へたる所、更(さら)に一事(いちじ)も不違。是(これ)誠(まこと)に大権聖者(だいごんのしやうじや)の末代(まつだい)を鑒(かんがみ)て記(しる)し置給(おきたまひ)し事なれ共(ども)、文質三統(ぶんしつさんとう)の礼変(れいべん)、少しも違(たが)はざりけるは、不思議(ふしぎ)なりし讖文(しんもん)也(なり)。
○赤松(あかまつ)入道円心(ゑんしん)賜大塔宮令旨事 S0604
其比(そのころ)播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)、村上(むらかみ)天皇(てんわう)第七(だいしちの)御子(みこ)具平(ぐへい)親王(しんわう)六代の苗裔(べうえい)、従三位(じゆさんみ)季房(すゑふさ)が末孫(ばつそん)に、赤松(あかまつの)次郎入道円心(ゑんしん)とて弓矢取(とつ)て無双(ぶさう)の勇士(ゆうし)有り。元来(もとより)其(その)心闊如(くわつじよ)として、人の下風(したて)に立(たた)ん事を思はざりければ、此(この)時絶(たえ)たるを継廃(つぎすたれ)たるを興(おこ)して、名を顕(あらは)し忠を抽(ぬきんで)ばやと思(おもひ)けるに、此(この)二三年大塔宮(おほたふのみや)に属纒奉(つきまとひたてまつり)て、吉野十津川(とつがは)の艱難(かんなん)を経(へ)ける円心が子息(しそく)律師(りつし)則祐(そくいう)、令旨(りやうじ)を捧(ささげ)て来れり。披覧(ひらん)するに、「不日(ふじつ)に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者(は)、恩賞(おんしやう)宜依請」之(の)由(よし)、被戴。委細(いさいの)事書(ことがき)十七(じふしち)箇条の恩裁(おんさいを)被添たり。条々何(いづ)れも家の面目(めんぼく)、世の所望(しよまう)する事なれば、円心不斜悦(よろこう)で、先(まづ)当国佐用庄(さよのしやう)苔縄(こけなは)の山に城を構(かまへ)て、与力(よりき)の輩(ともがら)を相招(あひまね)く。其(その)威漸(やうやく)近国(きんごく)に振(ふる)ひければ、国中の兵共(つはものども)馳集(はせあつまつ)て、無程其(その)勢一千余騎(よき)に成(なり)にけり。只秦(しん)の世已(すで)に傾(かたむか)んとせし弊(つひえ)に乗(のつとつ)て、楚(そ)の陳勝(ちんしよう)が異蒼頭(さうとう)にして大沢(だいたく)に起りしに異ならず。頓(やが)て杉坂(すぎさか)・山(やま)の里(さと)二箇所(にかしよ)に関を居(すゑ)、山陽(せんやう)・山陰(せんいん)の両道(りやうだう)を差塞(さしふさ)ぐ。是より西国(さいこく)の道止(とまつ)て、国々の勢上洛(しやうらく)する事を得ざりけり。
○関東(くわんとうの)大勢(おほぜい)上洛(しやうらくの)事(こと) S0605
去程(さるほど)に畿内西国(きないさいこく)の凶徒(きようと)、日を逐(おつ)て蜂起(ほうき)する由(よし)、六波羅(ろくはら)より早馬(はやむま)を立(た)て関東(くわんとう)へ被注進。相摸(さがみ)入道大(おほき)に驚(おどろい)て、さらば討手を指遣(さしつかは)せとて、相摸守(さがみのかみ)の一族(いちぞく)、其外(そのほか)東(ひがし)八箇国(はちかこく)の中に、可然大名共(だいみやうども)を催(もよほ)し立(た)て被差上。先(まづ)一族(いちぞく)には、阿曾弾正少弼(あそのだんじやうせうひつ)・名越遠江(なごやのとほたふみの)入道・大仏(おさらぎの)前陸奥守(さきのむつのかみ)貞直(さだなほ)・同(おなじき)武蔵(むさしの)左近(さこんの)将監(しやうげん)・伊具右近(いぐのうこんの)大夫将監・陸奥右馬助(むつのうまのすけ)、外様(とざま)の人々には、千葉大介(ちばのおほすけ)・宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)守(かみ)・小山判官(をやまのはんぐわん)・武田(たけだの)伊豆(いづの)三郎・小笠原(をがさはら)彦五郎・土岐伯耆(ときのはうき)入道・葦名判官(あしなのはんぐわん)・三浦(みうらの)若狭(わかさの)五郎・千田(せんだの)太郎・城太宰大弐(じやうのださいのだいに)入道・佐々木(ささきの)隠岐前司(おきのぜんじ)・同(おなじき)備中(びつちゆうの)守(かみ)・結城(ゆふきの)七郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・小田常陸前司(をだのひたちのぜんじ)・長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・同(おなじき)九郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・長江(ながえの)弥六左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・長沼駿河(ながぬまのするがの)守(かみ)・渋谷(しぶや)遠江守(とほたふみのかみ)・河越(かはごえ)三河(みかはの)入道・工藤(くどう)次郎左衛門(じらうざゑもん)高景(たかかげ)・狩野(かのの)七郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・伊東常陸(いとうひたちの)前司・同(おなじき)大和(やまとの)入道・安藤藤内(あんどうとうない)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・宇佐美摂津(つの)前司・二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道・同下野(おなじきしもつけの)判官・同常陸介(おなじきひたちのかみ)・安保(あぶの)左衛門入道・南部(なんぶの)次郎・山城(やましろの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、此等(これら)を始(はじめ)として、宗(むね)との大名(だいみやう)百三十二人(ひやくさんじふににん)、都合(つがふ)其(その)勢三十万七千五百(ごひやく)余騎(よき)、九月二十日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、十月八日先陣(せんぢん)既(すで)に京都に着(つ)けば後陣(ごぢん)は未だ足柄(あしがら)・筥根(はこね)に支(ささ)へたり。是(これ)のみならず河野(かうのの)九郎四国の勢を率(そつ)して、大船(たいせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)にて尼崎(あまがさき)より襄(あがつ)て下京(しもきやう)に着(つく)。厚東(こうとう)入道・大内介(おほちのすけ)・安芸(あきの)熊谷(くまがえ)、周防(すはう)・長門(ながと)の勢を引具(ひきぐ)して、兵船(ひやうせん)二百余艘(よさう)にて、兵庫(ひやうご)より襄(あがつ)て西(にし)の京(きやう)に着(つく)。甲斐・信濃(しなの)の源氏七千余騎(よき)、中山道(なかせんだう)を経(へ)て東山(ひがしやま)に着(つく)。江馬(えま)越前守(ゑちぜんのかみ)・淡河右京亮(あいかはうきやうのすけ)、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢を率(そつ)して、三万余騎(よき)にて東坂本(ひがしさかもと)を経て上京(かみきやう)に着(つく)。総(そう)じて諸国七道の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳上(はせのぼ)りける間、京白河(しらかは)の家(いへ)々に居余(ゐあま)り、醍醐(だいご)・小栗栖(をぐるす)・日野(ひの)・勧修寺(くわんしゆじ)・嵯峨・仁和寺(にんわじ)・太秦(うづまさ)の辺(へん)・西山(にしやま)・北山(きたやま)・賀茂(かも)・北野・革堂(かうだう)・河崎(かうさき)・清水(きよみづ)・六角堂の門(もん)の下(した)、鐘楼(しゆろう)の中迄(まで)も、軍勢の宿(やど)らぬ所は無(なか)りけり。日本(につぽん)雖小国是程(これほど)に人の多かりけりと始(はじめ)て驚く許(ばかり)也(なり)。去程(さるほど)に元弘三年正月晦日(つごもり)、諸国の軍勢八十万騎(はちじふまんぎ)を三手(みて)に分(わけ)て、吉野・赤坂・金剛山(こんがうせん)、三(みつ)の城へぞ被向ける。先(まづ)吉野へは二階堂出羽(ではの)入道々蘊(だううん)を太将として、態(わざ)と他の勢を交(まじ)へず、二万七千余騎(よき)にて、上道(かみみち)・下道(しもみち)・中道(なかみち)より、三手に成(なつ)て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼(あそだんじやうせうひつ)を大将として、其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、先(まづ)天王寺(てんわうじ)・住吉に陣を張る。金剛山(こんがうせん)へは陸奥(むつの)右馬助(うまのすけ)、搦手(からめで)の大将として、其(その)勢二十万騎(にじふまんぎ)、奈良路(ならぢ)よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)は、別して侍(さぶらひ)大将を承(うけたまはつ)て、大手(おほて)へ向ひけるが、態(わざと)己(おのれ)が勢(せい)の程を人に被知とや思(おもひ)けん。一日引(ひき)さがりてぞ向ひける。其行妝(そのかうさう)見物(けんぶつ)の目をぞ驚(おどろか)しける。先(まづ)旗差(はたさし)、其(その)次に逞しき馬に厚総(あつぶさ)懸(かけ)て、一様(いちやう)の鎧(よろひ)着(きた)る兵(つはもの)八百(はつぴやく)余騎(よき)、二町(にちやう)計(ばかり)先(さ)き立(だ)てゝ、馬を静めて打(うた)せたり。我(わが)身は其(その)次に纐纈(かうけつ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、精好(せいがう)の大口(おほくち)を張(はら)せ、紫下濃(むらさきすそご)の鎧に、白星(しらぼし)の五枚甲(かぶと)に八竜(はちりゆう)を金(きん)にて打(うつ)て付(つけ)たるを猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、銀(しろがね)の瑩付(みがきつけ)の脛当(すねあて)に金作(こがねづくり)の太刀に振帯(ふりはい)て、一部黒(いちのへいぐろ)とて、五尺三寸有(あり)ける坂東(ばんどう)一の名馬に塩干潟(しほひがた)の捨小舟(すてをぶね)を金貝(かながひ)に磨(すり)たる鞍を置(おい)て、款冬(やまぶき)色の厚総(あつぶさ)懸(かけ)て、三十六(さんじふろく)差(さい)たる白磨(しらすり)の銀筈(しろがねはず)の大中黒(おほなかぐろ)の矢に、本滋藤(もとしげどう)の弓の真中(まつなか)握(にぎつ)て、小路(こうぢ)を狭(せば)しと歩(あゆ)ませたり。片小手(かたこて)に腹当(はらあて)して、諸具足(もろぐそく)したる中間(ちゆうげん)五百(ごひやく)余人(よにん)、二行(にがう)に列を引き、馬の前後(ぜんご)に随(したがつ)て、閑(しづか)に路次(ろし)をぞ歩(あゆ)みける。其後(そののち)四五町(しごちやう)引(ひき)さがりて、思々(おもひおもひ)に鎧(よろう)たる兵(つはもの)十万余騎(よき)、甲(かぶと)の星を輝(かかや)かし、鎧の袖を重(かさね)て、沓(くつ)の子(こ)を打(うち)たるが如くに道五六里が程支(ささへ)たり。其勢(そのいきほ)ひ決然(けつぜん)として天地を響(ひび)かし山川(さんせん)を動(うごか)す許(ばかり)也(なり)。此外(このほか)々様(とざま)の大名(だいみやう)五千騎(ごせんぎ)・三千騎、引分々々(ひきわけひきわけ)昼夜(ちうや)十三日迄(まで)、引(ひき)も切らでぞ向ひける。我朝(わがてう)は不及申、唐土(たうど)・天竺(てんぢく)・太元(たいげん)・南蛮(なんばん)も、未(いまだ)是程(これほど)の大軍を発(おこ)す事難有かりし事也(なり)。と思はぬ人こそ無(なか)りけれ。
○赤坂合戦(あかさかかつせんの)事(こと)付人見本間(ひとみほんま)抜懸(ぬけがけの)事(こと) S0606
去程(さるほど)に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼(あそだんじやうせうひつ)、後陣(ごぢん)の勢を待調(まちそろ)へんが為に、天王寺(てんわうじ)に両日逗留(とうりう)有(あつ)て、同(おなじき)二月二日午刻(むまのこく)に、可有矢合、於抜懸之輩者(は)、可為罪科之由(よし)をぞ被触ける。爰(ここ)に武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に人見(ひとみ)四郎入道恩阿(おんあ)と云(いふ)者あり。此(この)恩阿、本間(ほんま)九郎資貞(すけさだ)に向(むかつ)て語りけるは、「御方(みかた)の軍勢雲霞(うんか)の如くなれば、敵陣を責落(せめおと)さん事疑(うたがひ)なし。但(ただし)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、関東(くわんとう)天下を治(をさめ)て権を執(と)る事已(すで)に七代に余れり。天道(てんだう)欠盈理(り)遁(のが)るゝ処なし。其上(そのうへ)臣として君を流し奉る積悪(せきあく)、豈(あに)果して其身(そのみ)を滅(ほろぼ)さゞらんや。某(それがし)不肖(ふせう)の身なりと云へ共(ども)、武恩を蒙(かうむつ)て齢(よはひ)已(すで)に七旬(しちじゆん)に余れり。今日より後(のち)差(さし)たる思出(おもひで)もなき身の、そゞろに長生(ながいき)して武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後(らうご)の恨(うらみ)臨終(りんじゆう)の障(さはり)共(とも)成(なり)ぬべければ、明日(みやうにち)の合戦(かつせん)に先懸(さきがけ)して、一番に討死して、其(その)名を末代(まつだい)に遺(のこ)さんと存(ぞん)ずる也(なり)。」と語りければ、本間九郎心中(しんちゆう)にはげにもと思(おもひ)ながら、「枝葉(しえふ)の事を宣(のたまふ)者哉(かな)。是(これ)程なる打囲(うちごみ)の軍(いくさ)に、そゞろなる先懸(さきがけ)して討死したりとも、差(さし)て高名(かうみやう)とも云(いは)れまじ。されば只(ただ)某(それがし)は人なみに可振舞也(なり)。」と云(いひ)ければ、人見よにも無興気(ぶきようげ)にて、本堂の方(かた)へ行(ゆき)けるを、本間怪(あやし)み思(おもひ)て、人を付(つけ)て見せければ、矢立(やたて)を取出(とりいだ)して、石の鳥居(とりゐ)に何事(なにこと)とは不知一筆(ひとふで)書付(かきつけ)て、己(おのれ)が宿(やど)へぞ帰りける。本間九郎、さればこそ此(この)者に一定(いちぢやう)明日先懸(さきがけ)せられぬと、心ゆるし無(なか)りければ、まだ宵(よひ)より打立(うちたつ)て、唯(ただ)一騎東条(とうでう)を指(さし)て向(むかひ)けり。石川々原(いしかはかはら)にて夜(よ)を明(あか)すに、朝霞(あさぎり)の晴間(はれま)より、南の方(かた)を見ければ、紺唐綾威(こんのからあやをどし)の鎧に白母衣(しろほろ)懸(かけ)て、鹿毛(かげ)なる馬に乗(のつ)たる武者(むしや)一騎、赤坂(あかさか)の城へぞ向ひける。何者(なにもの)やらんと馬打寄(うちよ)せて是(これ)を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付(みつけ)て云(いひ)けるは、「夜部(よべ)宣(のたまひ)し事を実(まこと)と思(おもひ)なば、孫(まご)程の人に被出抜まし。」と打笑(うちわらう)てぞ、頻(しきり)に馬を早めける。本間跡(あと)に付(つい)て、「今は互に先(さき)を争ひ申(まうす)に及(およば)ず、一所(いつしよ)にて尸(かばね)を曝(さら)し、冥途(めいど)までも同道(どうだう)申さんずるぞよ。」と云(いひ)ければ、人見、「申(まうす)にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打(うち)けるが、赤坂城の近く成(なり)ければ、二人(ににん)の者共(ものども)馬の鼻を双(ならべ)て懸驤(かけあが)り、堀の際(きは)まで打寄(うちよつ)て、鐙(あぶみ)踏張(ふんばり)弓杖(ゆんづゑ)突(つい)て、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に、人見四郎入道恩阿(おんあ)、年(とし)積(つもつ)て七十三、相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間九郎資貞(すけさだ)、生年(しやうねん)三十七、鎌倉(かまくら)を出(いで)しより軍(いくさ)の先陣を懸(かけ)て、尸(かばね)を戦場に曝(さら)さん事を存じて相向(あひむか)へり。我(われ)と思はん人々は、出合(いであひ)て手なみの程を御覧(ごらん)ぜよ。」と声々(こゑごゑ)に呼(よばはつ)て城を睨(にらん)で引(ひか)へたり。城中(じやうちゆう)の者共(ものども)是(これ)を見て、是(これ)ぞとよ、坂東武者(ばんどうむしや)の風情(ふぜい)とは。只(ただ)是(これ)熊谷(くまがえ)・平山(ひらやま)が一谷(いちのたに)の先懸(さきがけ)を伝聞(つたへきい)て、羨敷(うらやましく)思へる者共(ものども)也(なり)。跡(あと)を見るに続く武者もなし。又さまで大名(だいみやう)とも見へず。溢(あふ)れ者の不敵武者(ふてきむしや)に跳(をど)り合(あう)て、命(いのち)失(うしなう)て何かせん。只置(おい)て事の様(やう)を見よ、とて、東西鳴(なり)を静めて返事もせず。人見腹を立(た)て、「早旦(さうたん)より向(むかつ)て名乗れ共(ども)、城より矢の一(ひとつ)をも射出(いいだ)さぬは、臆病(おくびやう)の至(いた)り歟(か)、敵を侮(あなど)る歟(か)、いで其義(そのぎ)ならば手柄(てがら)の程を見せん。」とて、馬より飛下(とびおり)て、堀の上なる細橋(ほそはし)さら/\と走渡(はしりわた)り、二人(ににん)の者共(ものども)出(だ)し屏(べい)の脇に引傍(ひつそう)て、木戸を切落(きりおと)さんとしける間、城中是(これ)に騒(さわい)で、土小間(つちざま)・櫓(やぐら)の上より、雨の降(ふる)が如くに射ける矢、二人(ににん)の者共(ものども)が鎧に、蓑毛(みのけ)の如くにぞ立(たち)たりける。本間も人見も、元(もと)より討死(うちじに)せんと思立(おもひたち)たる事なれば、何かは一足(ひとあし)も可引。命(いのち)を限(かぎり)に二人(ににん)共(とも)に一所(いつしよ)にて被討けり。是(これ)まで付従(つきしたが)ふて最後の十念(じふねん)勧(すす)めつる聖(ひじり)、二人(ににん)が首を乞得(こひえ)て、天王寺(てんわうじ)に持(もち)て帰り、本間が子息(しそく)源内(げんない)兵衛資忠(すけただ)に始(はじめ)よりの有様(ありさま)を語る。資忠(すけただ)父が首を一目見て、一言(いちごん)をも不出、只涙に咽(むせん)で居たりけるが、如何(いかが)思(おもひ)けん、鐙を肩に投懸(なげかけ)、馬に鞍置(おい)て只一人打出(うちいで)んとす。聖怪(あやし)み思(おもう)て、鎧の袖を引留(ひきとど)め、「是(これ)はそも如何(いか)なる事にて候ぞ。御親父(ごしんぶ)も此(この)合戦に先懸(さきがけ)して、只名(な)を天下の人に被知と許(ばかり)思召(おぼしめ)さば、父子(ふし)共に打連(うちつれ)てこそ向はせ給ふべけれ共、命(いのち)をば相摸殿(さがみどの)に献(たてまつ)り、恩賞(おんしやう)をば子孫(しそん)の栄花(えいぐわ)に貽(のこ)さんと思召(おぼしめし)ける故(ゆゑ)にこそ、人より先(さき)に討死をばし給(たまふ)らめ。而(しか)るに思ひ篭(こめ)給へる所もなく、又敵陣に懸入(かけいつ)て、父子共(ふしとも)に打死し給ひなば、誰か其跡(そのあと)を継(つ)ぎ誰か其(その)恩賞を可蒙。子孫無窮(ぶきゆう)に栄(さかゆ)るを以(もつ)て、父祖の孝行を呈(あらは)す道とは申(まうす)也(なり)。御悲歎(ごひたん)の余(あま)りに無是非死を共にせんと思召(おぼしめす)は理(ことわり)なれ共(ども)、暫(しばらく)止(とま)らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押(おさ)へて無力着(き)たる鎧を脱置(ぬぎおき)たり。聖(ひじり)さては制止に拘(かかは)りぬと喜しく思て、本間が首(くび)を小袖に裹(つつ)み、葬礼の為に、側(あたり)なる野辺(のべ)へ越(こえ)ける其(その)間に、資忠(すけただ)今は可止人なければ、則(すなはち)打出(うちいで)て、先(まづ)上宮(じやうぐう)太子の御前(おんまへ)に参り、今生(こんじやう)の栄耀(えいえう)は、今日(けふ)を限りの命(いのち)なれば、祈る所に非(あら)ず、唯(ただ)大悲(だいひ)の弘誓(ぐぜい)の誠(まこと)有らば、父にて候者の討死仕候(つかまつりさふらひ)し戦場(せんぢやう)の同じ苔(こけ)の下(した)に埋(うづも)れて、九品安養(くぼんあんやう)の同台(おなじうてな)に生(むま)るゝ身と成(な)させ給へと、泣々(なくなく)祈念(きねむ)を凝(こら)して泪(なみだ)と共に立出(たちいで)けり。石の鳥居(とりゐ)を過(すぐ)るとて見れば我(わが)父と共に討死しける人見四郎入道が書付(かきつけ)たる歌あり。是(これ)ぞ誠(まこと)に後世(ごせ)までの物語に可留事よと思(おもひ)ければ、右の小指を喰切(くひきつ)て、其(その)血を以て一首(いつしゆ)を側(そば)に書添(かきそへ)て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成(なり)ぬる所にて馬より下(お)り、弓を脇に挟(さしはさん)で城戸(きど)を叩き、「城中の人々に可申事あり。」と呼(よばは)りけり。良(やや)暫く在(あつ)て、兵(つはもの)二人(ににん)櫓(やぐら)の小間(さま)より顔を指出(さしいだ)して、「誰人(たれびと)にて御渡(わたり)候哉(や)。」と問(とひ)ければ、「是(これ)は今朝(こんてう)此(この)城に向(むかつ)て打死(うちじに)して候(さふらひ)つる、本間九郎資貞(すけさだ)が嫡子、源内(げんない)兵衛資忠(すけただ)と申(まうす)者にて候也(なり)。人の親の子を憶(おも)ふ哀(あはれ)み、心の闇に迷(まよ)ふ習(ならひ)にて候間、共に打死(うちじに)せん事を悲(かなしみ)て、我に不知して、只一人打死(うちじに)しけるにて候。相伴(あひともな)ふ者無(なく)て、中有(ちゆうう)の途(みち)に迷ふ覧(らん)。さこそと被思遣候へば、同(おなじ)く打死仕(つかまつり)て、無迹(なきあと)まで父に孝道を尽(つく)し候(さふらは)ばやと存(ぞん)じて、只一騎相向(あひむかつ)て候也(なり)。城の大将に此由(このよし)を被申候(さふらひ)て、木戸(きど)を被開候へ。父が打死(うちじに)の所にて、同(おなじ)く命(いのち)を止(とど)めて、其望(そののぞみ)を達し候はん。」と、慇懃(いんぎん)に事を請(こ)ひ泪(なみだ)に咽(むせん)でぞ立(たつ)たりける。一の木戸を堅(かた)めたる兵(つはもの)五十(ごじふ)余人(よにん)、其志(そのこころざし)孝行にして、相向(あひむか)ふ処やさしく哀(あはれ)なるを感じて、則(すなはち)木戸を開き、逆茂木(さかもぎ)を引(ひき)のけしかば、資忠(すけただ)馬に打乗り、城中へ懸入(かけいつ)て、五十(ごじふ)余人(よにん)の敵と火を散(ちらし)てぞ切合(きりあひ)ける。遂に父が被討し其迹(そのあと)にて、太刀を口に呀(くはへ)て覆(うつぶ)しに倒(たふれ)て、貫かれてこそ失(うせ)にけれ。惜(をしい)哉(かな)、父の資貞(すけさだ)は、無双(ぶさう)の弓矢取(ゆみやとり)にて国の為に要須(えうしゆ)たり。又子息資忠(すけただ)は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名(えいめい)あり。人見は年(とし)老(おい)齢(よはひ)傾(かたむ)きぬれ共(ども)、義を知(しり)て命(めい)を思ふ事(こと)、時と共に消息(せうそく)す。此(この)三人(さんにん)同時(どうじ)に討死(うちじに)しぬと聞へければ、知(しる)も知(しら)ぬもをしなべて、歎かぬ人は無(なか)りけり。既(すで)に先懸(さきがけ)の兵共(つはものども)、ぬけ/\に赤坂の城へ向(むかつ)て、討死する由披露(ひろう)有(あり)ければ、大将則(すなはち)天王寺(てんわうじ)を打立(うちたつ)て馳向(はせむか)ひけるが、上宮(じやうぐう)太子の御前(おんまへ)にて馬より下(お)り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木(おいき)の桜朽(くち)ぬとも其(その)名は苔の下(した)に隠(かく)れじと一首(いつしゆ)の歌を書(かい)て、其(その)次に、「武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)人見(ひとみ)四郎恩阿(おんあ)、生年(しやうねん)七十三、正慶(しやうきやう)二年二月二日、赤坂の城へ向(むかつ)て、武恩を報ぜん為に討死仕畢(つかまつりをはん)ぬ。」とぞ書(かい)たりける。又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷(まよふ)らん六(むつ)の街(ちまた)の道しるべせんと書(かい)て、「相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間九郎資貞(すけさだが)嫡子(ちやくし)、源内兵衛資忠生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)、正慶二年仲春(ちゆうしゆん)二日、父が死骸(しがい)を枕にして、同戦場(おなじせんぢやう)に命(いのち)を止(とど)め畢(をはん)ぬ。」とぞ書(かい)たりける。父子の恩義君臣の忠貞、此(この)二首の歌に顕(あらは)れて、骨は化(け)して黄壌(くわうじやう)一堆(いつたい)の下(もと)に朽(くち)ぬれど、名は留(とどまつ)て青雲(せいうん)九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑(せきひ)の上に消残(きえのこ)れる三十一字(みそぢひともじ)を見る人、感涙(かんるゐ)を流さぬは無(なか)りけり。去程(さるほど)に阿曾弾正少弼(あそのだんじやうせうひつ)、八万(はちまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)して、赤坂へ押寄(おしよ)せ、城の四方(しはう)二十(にじふ)余町(よちやう)、雲霞(うんか)の如くに取巻(とりまい)て、先時(まづとき)の声をぞ揚(あげ)たりける。其音(そのこゑ)山を動(うごか)し地を震(ふる)ふに、蒼涯(さうがい)も忽(たちまち)に可裂。此(この)城三方(さんぱう)は岸(きし)高(たかう)して、屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如し。南の方許(ばかり)こそ平地(ひらち)に継(つづ)ひて、堀を広く深く掘切(ほりきつ)て、岸の額(ひたひ)に屏(へい)を塗(ぬ)り、其(その)上に櫓(やぐら)を掻双(かきなら)べたれば、如何なる大力早態(だいりきはやわざ)なりとも、輒(たやす)く可責様(やう)ぞなき。され共(ども)寄手(よせて)大勢なれば、思侮(おもひあなどつ)て楯にはづれ矢面(やおもて)に進(すすん)で、堀の中へ走り下(おり)て、切岸(きりぎし)を襄(あが)らんとしける処を、屏(へい)の中より究竟(くきやう)の射手共(いてども)、鏃(やじり)を支(ささへ)て思様(おもふやう)に射ける間、軍(いくさ)の度毎(たびごと)に、手負死人(ておひしにん)五百人(ごひやくにん)六百人(ろつぴやくにん)、不被射出時はなかりけり。是をも不痛荒手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)、十三日までぞ責(せめ)たりける。され共(ども)城中少(すこし)も不弱見へけり。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)、吉河(きつかはの)八郎と云(いふ)者、大将の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「此(この)城の為体(ていたらく)、力責(ちからせめ)にし候はゞ無左右不可落候。楠此(この)一両年が間、和泉(いづみ)・河内を管領(くわんりやう)して、若干(そこばく)の兵粮(ひやうらう)を取入(とりいれ)て候なれば、兵粮も無左右尽(つき)候まじ。倩(つらつら)思案(しあん)を廻(めぐら)し候に、此(この)城三方(さんぱう)は谷深(ふかう)して地に不継、一方は平地(ひらち)にて而(しか)も山遠く隔(へだた)れり。されば何(いづ)くに水可有とも見へぬに、火矢(ひや)を射れば水弾(みづはじき)にて打消(うちけし)候。近来(このごろ)は雨の降る事も候はぬに、是程(これほど)まで水の卓散(たくさん)に候は、如何様(いかさま)南の山の奥より、地(ち)の底に樋(ひ)を伏(ふせ)て、城中へ水を懸入(かけい)るゝ歟(か)と覚(おぼえ)候。哀(あはれ)人夫(にんぶ)を集めて、山の腰を掘(ほり)きらせて、御覧候へかし。」と申(まうし)ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継(つづ)きたる山の尾を、一文字(いちもんじ)に掘切(ほりきつ)て見れば、案の如く、土(つち)の底に二丈余(あま)りの下に樋(ひ)を伏せて、側(そば)に石を畳(たた)み、上に真木(まき)の瓦(かはら)を覆(ふせ)て、水を十町(じつちよう)余(あまり)の外(ほか)よりぞ懸(かけ)たりける。此揚水(このあげみづ)を被止て後(のち)、城中に水乏(とぼしう)して、軍勢口中(くぢゆう)の渇(かつ)難忍ければ、四五日が程は、草葉(くさば)に置(お)ける朝(あした)の露を嘗め、夜気(やき)に潤(うるほ)へる地(ち)に身を当(あて)て、雨を待(まち)けれ共(ども)雨不降。寄手(よせて)是(これ)に利を得、隙(ひま)なく火矢(ひや)を射ける間、大手の櫓(やぐら)二(ふた)つをば焼落(やきおと)しぬ。城中の兵(つはもの)水を飲まで十二日に成(なり)ければ、今は精力(せいりよく)尽(つき)はてゝ、可防方便(てだて)も無(なか)りけり。死(しに)たる者は再び帰る事なし。去来(いざ)や、とても死なんずる命(いのち)を、各(おのおの)力(ちから)の未だ墜(おち)ぬ先(さき)に打出(うちい)で、敵に指違(さしちが)へ、思様(おもふやう)に打死(うちじに)せんと、城の木戸を開(ひらい)て、同時に打出(うちいで)んとしけるを、城の本人平野将監(しやうげん)入道、高櫓(たかやぐら)より走下(はしりお)り、袖をひかへて云(いひ)けるは、「暫く楚忽(そこつ)の事な仕給(したま)ふそ。今は是程(これほど)に力尽(つ)き喉(のんど)乾(かわい)て疲(つか)れぬれば、思ふ敵に相逢(あひあは)ん事有難(ありがた)し。名もなき人の中間(ちゆうげん)・下部共(しもべども)に被虜て、恥を曝(さら)さん事可心憂。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、吉野・金剛山(こんがうせん)の城、未(いまだ)相支(あひささへ)て勝負(しようぶ)を不決。西国(さいこく)の乱(らん)未だ静まらざるに、今降人(かうにん)に成(なつ)て出(いで)たらん者をば、人に見こらせじとて、討(うつ)事(こと)不可有と存ずる也(なり)。とても叶(かな)はぬ我等なれば、暫(しばらく)事(こと)を謀(はかつ)て降人に成(なり)、命を全(まつたう)して時至らん事を可待。」といへば、諸卒(しよそつ)皆此義(このぎ)に同(どう)じて、其(その)日の討死をば止(や)めてけり。去程(さるほど)に次(つぎの)日軍(いくさ)の最中(さいちゆう)に、平野入道高櫓(たかやぐら)に上(のぼつ)て、「大将の御方(おんかた)へ可申子細(しさい)候。暫く合戦を止(やめ)て、聞食(きこしめし)候へ。」と云(いひ)ければ、大将渋谷(しぶや)十郎を以て、事の様(やう)を尋(たづぬ)るに、平野木戸口(きどくち)に出合(いであつ)て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振(ふる)ひ候(さふらひ)し刻(きざみ)に、一旦(いつたん)の難(なん)を遁れん為に、不心御敵に属(しよく)して候(さふらひ)き。此子細(このしさい)京都に参(さん)じ候(さふらう)て、申入(まうしいれ)候はんと仕(つかまつり)候処に、已(すで)に大勢を以て被押懸申(まうし)候間(あひだ)、弓矢取身(ゆみやとるみ)の習ひにて候へば、一矢(ひとや)仕りたるにて候。其罪科(そのざいくわ)をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸(のべ)て降人(かうにん)に可参候。若(もし)叶(かな)ふまじきとの御定(ごぢやう)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕(つかまつつ)て、尸(かばね)を陣中に曝(さら)すべきにて候。此様(このやう)を具(つぶさ)に被申候へ。」と云(いひ)ければ、大将大(おほき)に喜(よろこび)て、本領安堵(ほんりやうあんど)の御教書(みげうしよ)を成(な)し、殊に功あらん者には、則(すなはち)恩賞を可申沙汰由(よし)返答して、合戦をぞ止(や)めける。城中(じやうちゆう)に篭(こも)る所の兵(つはもの)二百八十二人(にひやくはちじふににん)、明日(みやうにち)死なんずる命(いのち)をも不知、水に渇(かつ)せる難堪さに、皆降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。長崎九郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)是(これ)を請取(うけとり)て、先(まづ)降人の法なればとて、物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)を奪取(うばひと)り、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)て六波羅(ろくはら)へぞ渡しける。降人の輩(ともがら)、如此ならば只(ただ)討死(うちじに)すべかりける者をと、後悔すれ共(ども)無甲斐。日を経(へ)て京都に着(つき)しかば、六波羅(ろくはら)に誡置(いましめおい)て、合戦の事始(ことはじめ)なれば、軍神(いくさがみ)に祭(まつり)て人に見懲(みごり)させよとて、六条河原(ろくでうかはら)に引出(ひきいだ)し、一人も不残首(くび)を刎(はね)て被懸けり。是(これ)を聞(きき)てぞ、吉野・金剛山(こんがうせん)に篭(こも)りたる兵共(つはものども)も、弥(いよいよ)獅子(しし)の歯嚼(はがみ)をして、降人(かうにん)に出(いで)んと思ふ者は無(なか)りけり。「罪を緩(ゆる)ふするは将の謀(はかりごと)也(なり)。」と云(いふ)事(こと)を知らざりける六波羅(ろくはら)の成敗(せいばい)を、皆(みな)人毎(ひとごとに)押(おし)なべて、悪(あし)かりけりと申(まうせ)しが、幾程(いくほど)も無(なう)して悉(ことごとく)亡(ほろ)びけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。情(なさけ)は人の為ならず。余(あまり)に驕(おごり)を極(きは)めつゝ、雅意(がい)に任(まかせ)て振舞へば、武運も早く尽(つき)にけり。因果(いんぐわ)の道理(だうり)を知るならば、可有心(こころあるべき)事共(ことども)也(なり)。