太平記(国民文庫)
太平記巻第五
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)御即位(ごそくゐの)事(こと) S0501
元弘(げんこう)二年三月二十二日に、後伏見院(ごふしみのゐんの)第一(だいいちの)御子(おんこ)、御年(おんとし)十九にして、天子(てんし)の位(くらゐ)に即(つか)せ給ふ。御母(おんはは)は竹内(たけのうちの)左大臣公衡(きんひら)の御娘(むすめ)、後(のち)には広義門院(くわうぎもんゐん)と申(まうせ)し御事(おこと)也(なり)。同(おなじき)年十月二十八日に、河原(かはら)の御禊(おんはらひ)あ(つ)て、十一月十三日に大嘗会(だいじやうゑ)を被遂行。関白は鷹司(たかづかさ)の左大臣冬教(ふゆのり)公(こう)、別当は日野(ひの)中納言資名(すけなの)卿(きやう)にてぞをはしける。いつしか当今奉公(たうぎんほうこう)の人々は、皆一時に望(のぞみ)を達して門前(もんぜん)市(いち)を成(な)し、堂上(だうじやう)花(はな)の如し。中にも梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)は、天台座主(てんだいのざす)に成(なら)せ給(たまひ)て、大塔(おほたふ)・梨本(なしもと)の両門迹を合(あは)せて、御管領(ごくわんりやう)有(あり)しかば、御門徒(ごもんと)の大衆(だいしゆ)群集(くんじゆ)して、御拝堂(ごはいだう)の儀式(ぎしき)厳重(げんちよう)也(なり)。加之(しかのみならず)御室(おむろ)の二品(にほん)親王(しんわう)法守(ほふしゆ)、仁和寺(にんわじ)の御門迹(ごもんぜき)に御移(おんうつり)有(あつ)て、東寺一流(とうじいちりう)の法水(ほつすゐ)を湛(たた)へて、北極(ほつきよく)万歳(ばんぜい)の聖運(せいうん)を祈り給ふ。是(これ)皆後伏見(ごふしみの)院(ゐん)の御子(おんこ)、今上(きんじやう)皇帝の御連枝(ごれんし)也(なり)。
○宣房(のぶふさの)卿(きやう)二君(じくん)奉公(ほうこうの)事(こと) S0502
万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)は、元来(もとより)前朝旧労(ぜんてうきうらう)の寵臣(ちようしん)にてをはせし上(うへ)、子息藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)笠置(かさぎ)の城にて被生捕て、被処遠流しかば、父の卿(きやう)も罪科(ざいくわ)深き人にて有(ある)べかりしを、賢才(けんさい)の聞へ有(あり)とて、関東(くわんとう)以別儀其罪を宥(なだ)め、当今(たうぎん)に可被召仕之(めしつかはるべきの)由(よし)奏し申す。依之(これによつて)日野(ひのの)中納言資明(すけあきらの)卿(きやう)を勅使(ちよくし)にて、此旨(このむね)を被仰下ければ、宣房(のぶふさの)卿(きやう)勅使に対して被申けるは、「臣雖不肖之身、以多年奉公之労蒙君恩寵、官禄(くわんろく)共に進(すすみ)、剰(あまつさへ)汚政道輔佐之名。「事君之礼、値其有罪、犯厳顔、以道諌諍、三諌不納奉身以退、有匡正之忠無阿順之従、是良臣之節也(なり)。若見可諌而不諌、謂之尸位。見可退而不退、謂之懐寵。々々尸位国之奸人也(なり)。」と云(いへ)り。君(きみ)今不義の行(おこなひ)をはして、為武臣被辱給へり。是(これ)臣が予(あらかじめ)依不知処雖不献諌言世人豈(あに)其(その)無罪許(ゆるさん)哉(や)。就中(このなかに)長子(ちやうし)二人(ににん)被処遠流之罪。我(われ)已(すでに)七旬(しちじゆん)の齢(よはひ)に傾(かたぶ)けり。後栄為誰にか期(ご)せん。前非(ぜんぴ)何(なんぞ)又恥(はぢ)ざらんや。二君(じくん)の朝(てう)に仕(つかへ)て辱(はぢ)を衰老(すゐらう)の後(のち)に抱(いだ)かんよりは、伯夷(はくい)が行(かう)を学(まなび)て飢(うゑ)を首陽(しゆやう)の下(もと)に忍ばんには不如。」と、涙を流(ながし)て宣ひければ、資明(すけあきらの)卿(きやう)感涙を押(おさ)へ兼(かね)て暫(しばし)は言(もの)をも宣(のたま)はず。良有(ややあつ)て宣ひけるは、「「忠臣不必択主、見仕而可治而已(のみ)也(なり)。」といへり。去(され)ば百里奚(はくりけい)は二(ふたたび)仕秦穆公永(ながく)令致覇業、管夷吾(くわんいごは)翻(かへつて)佐斉桓公、九(ここのたび)令朝諸侯。主(しゆ)無以道射鉤之罪、世不皆奈鬻皮之恥といへり。就中武家(ぶけ)如此許容の上は、賢息(けんそく)二人(ににん)の流罪(るざいをも)争(いかでか)無赦免御沙汰乎(や)、夫(それ)伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせいは)飢(うゑ)て何(なに)の益(えき)か有(あり)し。許由(きよいう)・巣父(さうふ)遁(のがれ)て不足用。抑(そもそも)隠身永(ながく)断来葉之一跡、与仕朝遠(とほく)耀前祖之無窮、是非得失(ぜひとくしつ)有何処乎(や)。与鳥獣同群孔子(こうしの)所不執也(なりと)。」資明(すけあきらの)卿(きやう)理(り)を尽(つく)して被責ければ。宣房卿(のぶふさのきやう)顔色(がんしよく)誠(まこと)に屈伏(くつふく)して、「「以罪棄生、則違古賢夕改之勧、忍垢苟全則犯詩人胡顔之譏」と、魏(ぎ)の曹子建(さうしけん)が詩を献(けん)ぜし表(へう)に書(かき)たりしも、理(ことわり)とこそ存ずれ。」とて、遂に参仕(さんじ)の勅答をぞ被申ける。
○中堂(ちゆうだう)新常灯(しんじやうとう)消(きゆる)事(こと) S0503
其比(そのころ)都鄙(とひ)の間(あひだ)に、希代(きたい)の不思議共(ふしぎども)多かりけり。山門の根本中堂(こんぽんちゆうだう)の内陣(ないぢん)へ山鳩(やまばと)一番(ひとつがひ)飛来(とびきたつ)て、新常灯(しんじやうとう)の油錠(あぶらつき)の中に飛入(とびいつ)て、ふためきける間、灯明(とうみやう)忽(たちまち)に消(きえ)にけり。此(この)山鳩、堂中(だうちゆう)の闇(くら)さに行方(ゆきかた)に迷ふて、仏壇(ぶつだん)の上に翅(つばさ)を低(たれ)て居たりける処に、承塵(なげし)の方(かた)より、其(その)色朱(しゆ)を指(さし)たる如くなる鼠狼(いたち)一つ走り出で、此(この)鳩を二(ふた)つながら食殺(くひころし)てぞ失(うせ)にけり。抑(そもそも)此(この)常灯と申(まうす)は、先帝(せんてい)山門へ臨幸(りんかう)成(なり)たりし時、古(いにしへ)桓武(くわんむ)皇帝の自(みづか)ら挑(かかげ)させ給(たまひ)し常燈に準(なぞら)へて、御手(おんて)づから百二十筋(ひやくにじふすぢ)の燈心(とうしん)を束(つか)ね、銀の御錠(おんあぶらつき)に油を入(いれ)て、自(みづから)掻立(かきたて)させ給(たまひ)し燈明(とうみやう)也(なり)。是(これ)偏(ひとへ)に皇統の無窮(ぶきゆう)を耀(かかやか)さん為の御願(ごぐわん)、兼(かね)ては六趣(ろくしゆ)の群類(ぐんるゐ)の暝闇(みやうあん)を照(てら)す、慧光法燈(ゑくわうほふとう)の明(あきらか)なるに、思食準(おぼしめしなぞら)へて被始置し常燈なれば、未来永劫(えいごふ)に至(いたる)迄消(きゆ)る事なかるべきに、鴿鳩(やまばと)の飛来(とびきたり)て打消(うちけし)けるこそ不思議(ふしぎ)なれ。其(それ)を玄獺(いたち)の食殺(くひころ)しけるも不思議(ふしぎ)也(なり)。
○相摸(さがみ)入道弄田楽(でんがくをもてあそぶ)並(ならびに)闘犬(とうけんの)事(こと) S0504
又其比(そのころ)洛中(らくちゆう)に田楽(でんがく)を弄(もてあそぶ)事(こと)昌(さかん)にして、貴賎挙(こぞつ)て是(これ)に着(ぢやく)せり。相摸(さがみ)入道此(この)事(こと)を聞及(ききおよ)び、新座(しんざ)・本座(ほんざ)の田楽(でんがく)を呼下(よびくだ)して、日夜朝暮(にちやてうぼ)に弄(もてあそぶ)事(こと)無他事。入興(じゆきよう)の余(あまり)に、宗(むね)との大名達に田楽法師(でんがくぼふし)を一人づゝ預(あづけ)て装束(しやうぞく)を飾(かざ)らせける間、是(これ)は誰がし殿(どの)の田楽(でんがく)、彼(かれは)何がし殿(どの)の田楽(でんがく)なんど云(いひ)て、金銀珠玉(きんぎんしゆぎよく)を逞(たくましく)し綾羅錦繍(りようらきんしう)を妝(かざ)れり。宴に臨(のぞん)で一曲(いつきよく)を奏(そう)すれば、相摸(さがみ)入道(にふだう)を始(はじめ)として一族(いちぞくの)大名我(われ)劣らじと直垂(ひたたれ)・大口(おほくち)を解(ぬい)で抛出(なげいだ)す。是(これ)を集(あつめ)て積(つむ)に山の如し。其弊(そのつひ)へ幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。或夜(あるよ)一献(いつこん)の有(あり)けるに、相摸(さがみ)入道(にふだう)数盃(すはい)を傾(かたむ)け、酔(ゑひ)に和(くわ)して立(たち)て舞(まふ)事(こと)良(やや)久し。若輩(じやくはい)の興(きよう)を勧(すすむ)る舞にてもなし。又狂者(きやうしや)の言(ことば)を巧(たくみ)にする戯(たはむれ)にも非(あら)ず。四十有余(しじふいうよ)の古(ふる)入道、酔狂(すゐきやう)の余(あまり)に舞ふ舞なれば、風情(ふぜい)可有共(とも)覚(おぼえ)ざりける処に、何(いづ)くより来(きたる)とも知(しら)ぬ、新坐(しんざ)・本座(ほんざ)の田楽共(でんがくども)十(じふ)余人(よにん)、忽然(こつぜん)として坐席(ざせき)に列(つらなつ)てぞ舞歌(まひうた)ひける。其(その)興(きよう)甚(はなはだ)尋常(よのつね)に越(こえ)たり。暫有(しばらくあつ)て拍子(ひやうし)を替(かへ)て歌ふ声を聞けば、「天王寺(てんわうじ)のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子(はやし)ける。或官女(あるくわんぢよ)此(この)声を聞(きい)て、余(あまり)の面白さに障子(しやうじ)の隙(ひま)より是(これ)を見るに、新坐・本座の田楽共(でんがくども)と見へつる者一人も人(ひと)にては無(なか)りけり。或(あるひは)觜(くちばし)勾(かがまつ)て鵄(とび)の如くなるもあり、或(あるひ)は身に翅(つばさ)在(あつ)て其(その)形(かたち)山伏(やまぶし)の如くなるもあり。異類異形(いるゐいぎやう)の媚者(ばけもの)共が姿を人に変(へん)じたるにてぞ有(あり)ける。官女是(これ)を見て余(あま)りに不思議(ふしぎ)に覚(おぼえ)ければ、人を走(はし)らかして城入道(じやうのにふだう)にぞ告(つげ)たりける。入道取物(とるもの)も取敢(とりあへ)ず、太刀を執(とつ)て其酒宴(そのしゆえん)の席に臨む。中門(ちゆうもん)を荒らかに歩(あゆみ)ける跫(あしおと)を聞(きい)て、化物(ばけもの)は掻消様(かきけすやう)に失(う)せ、相摸(さがみ)入道(にふだう)は前後(ぜんご)も不知酔伏(ゑひふし)たり。燈(とぼしび)を挑(かかげ)させて遊宴の座席を見るに、誠(まこと)に天狗(てんぐ)の集(あつま)りけるよと覚(おぼえ)て、踏汚(ふみけが)したる畳(たたみ)の上(うへ)に禽獣(きんじう)の足迹(あしあと)多し。城(じやうの)入道、暫く虚空(こくう)を睨(にらん)で立(たち)たれ共、敢て眼(まなこ)に遮(さへぎ)る者もなし。良(やや)久(ひさしう)して、相摸(さがみ)入道(にふだう)驚覚(おどろきさめ)て起(おき)たれ共(ども)、惘然(ばうぜん)として更に所知なし。後日(ごじつ)に南家(なんけ)の儒者(じゆしや)刑部少輔(ぎやうぶのせう)仲範(なかのり)、此(この)事(こと)を伝聞(つたへきい)て、「天下将(まさに)乱(れんとする)時、妖霊星(えうれいぼし)と云(いふ)悪星(あくしやう)下(くだつ)て災(わざはひ)を成すといへり。而(しか)も天王寺(てんわうじ)は是(これ)仏法最初の霊地(れいち)にて、聖徳太子(しやうとくたいし)自(みづから)日本(につぽん)一州の未来記(みらいき)を留(とどめ)給へり。されば彼媚者(かのばけもの)が天王寺(てんわうじ)の妖霊星と歌ひけるこそ怪(あや)しけれ。如何様(いかさま)天王寺(てんわうじ)辺(へん)より天下の動乱(どうらん)出来(いでき)て、国家敗亡(はいばう)しぬと覚ゆ。哀(あはれ)国主(こくしゆ)徳を治(をさ)め、武家仁(じん)を施(ほどこ)して消妖謀(はかりごと)を被致よかし。」と云(いひ)けるが、果して思知(おもひしら)るゝ世に成(なり)にけり。彼(かの)仲範実(まこと)に未然(みぜん)の凶(きよう)を鑒(かんがみ)ける博覧の程こそ難有けれ。相摸(さがみ)入道(にふだう)懸(かか)る妖怪(えうくわい)にも不驚、益々(ますます)奇物(きぶつ)を愛する事止(やむ)時なし。或(ある)時庭前(ていぜん)に犬共集(あつまり)て、噛合(かみあ)ひけるを見て、此(この)禅門面白き事に思(おもひ)て、是(これ)を愛する事骨髄(こつずゐ)に入れり。則(すなはち)諸国へ相触(あひふれ)て、或(あるひ)は正税(しやうぜい)・官物(くわんもつ)に募(つの)りて犬を尋(たづね)、或(あるひ)は権門高家(けんもんかうけ)に仰(おほせ)て是(これ)を求(もとめ)ける間、国々の守護(しゆご)国司(こくし)、所々(しよしよ)の一族(いちぞく)大名(だいみやう)、十疋(じつびき)二十疋(にじつびき)飼立(かひたて)て、鎌倉(かまくら)へ引進(ひきまゐら)す。是(これ)を飼(かふ)に魚鳥(ぎよてう)を以てし、是(これ)を維(つな)ぐに金銀を鏤(ちりば)む。其弊(そのつひえ)甚(はなはだ)多し。輿(こし)にのせて路次(ろし)を過(すぐ)る日(ひ)は、道を急ぐ行人(かうじん)も馬(むま)より下(おり)て是(これ)に跪(ひざまづ)き、農(のう)を勤(つとむ)る里民(りみん)も、夫(ぶ)に被取て是(これ)を舁(かき)、如此賞翫(しやうぐわん)不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬(きけん)、鎌倉中(かまくらぢゆう)に充満(じゆうまん)して四五千疋(しごせんびき)に及べり。月に十二度(じふにど)犬合(いぬあは)せの日とて被定しかば、一族(いちぞく)大名御内外様(みうちとざま)の人々、或(あるひ)は堂上(だうじやう)に坐(ざ)を列ね、或(あるひは)庭前(ていぜん)に膝を屈(くつ)して見物(けんぶつ)す。于時両陣の犬共を、一二百疋(いちにひやつぴき)充(づつ)放(はな)し合せたりければ、入り違ひ追合(おひあう)て、上に成(なり)下に成(なり)、噛合(かみあふ)声天を響(ひびか)し地を動(うごか)す。心なき人は是(これ)を見て、あら面白や、只戦(たたかひ)に雌雄(しゆう)を決するに不異と思ひ、智ある人は是(これ)を聞(きい)て、あな忌々(いまいま)しや、偏(ひとへ)に郊原(かうげん)に尸(かばね)を争ふに似たりと悲(かなし)めり。見聞(けんもん)の准(なぞら)ふる処、耳目(じぼく)雖異、其前相(そのぜんさう)皆闘諍死亡(とうじやうしばう)の中に存(あつ)て、浅猿(あさま)しかりし挙動(ふるまひ)なり。
○時政(ときまさ)参篭榎嶋事 S0505
時已(すで)に澆季(げうき)に及(およん)で、武家天下の権を執(と)る事(こと)、源平両家の間に落(おち)て度々(どど)に及べり。然(しかれ)ども天道(てんだうは)必(かならず)盈(みてる)を虧(かく)故(ゆゑ)に、或(あるひ)は一代にして滅び、或(あるひ)は一世をも不待して失(うせ)ぬ。今相摸(さがみ)入道(にふだう)の一家、天下を保つ事已(すで)に九代に及ぶ。此(この)事(こと)有故。昔鎌倉(かまくら)草創(さうさう)の始(はじめ)、北条(ほうでうの)四郎時政(ときまさ)榎嶋(えのしま)に参篭(さんろう)して、子孫(しそん)の繁昌を祈(いのり)けり。三七日に当りける夜(よ)、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)着たる女房の、端厳美麗(たんごんびれい)なるが、忽然として時政が前(まへ)に来(きたつ)て告(つげ)て曰(いはく)、「汝(なんぢ)が前生(ぜんじやう)は箱根法師(はこねぼふし)也(なり)。六十六(ろくじふろく)部(ぶ)の法華経(ほけきやう)を書冩(しよしや)して、六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)の霊地(れいち)に奉納(ほうなふ)したりし善根(ぜんごん)に依(よつ)て、再び此土(このど)に生(うまる)る事を得たり。去(され)ば子孫永く日本(につぽん)の主(あるじ)と成(なつ)て、栄花(えいぐわ)に可誇。但(ただし)其挙動(そのふるまひ)違所(たがふところ)あらば、七代(しちだい)を不可過。吾(わが)所言不審(ふしん)あらば、国々に納(をさめ)し所の霊地(れいち)を見よ。」と云捨(いひすて)て帰(かへり)給ふ。其姿(そのすがた)をみければ、さしも厳(いつく)しかりつる女房、忽(たちまち)に伏長(ふしだけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)の大蛇(だいじや)と成(なつ)て、海中(かいちゆう)に入(いり)にけり。其迹(そのあと)を見(みる)に、大(おほき)なる鱗(いろこ)を三(み)つ落(おと)せり。時政所願成就(しよぐわんじやうじゆ)しぬと喜(よろこび)て、則(すなはち)彼鱗(かのいろこ)を取(とつ)て、旗の文(もん)にぞ押(おし)たりける。今の三鱗形(みついろこがた)の文(もん)是(これ)也(なり)。其後(そののち)弁才天(べんざいてん)の御示現(ごじげん)に任(まかせ)て、国々の霊地へ人を遣(つかは)して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名(ぞくみやう)の時政(ときまさ)を法師の名(な)に替(かへ)て、奉納(ほうなふの)筒(つつ)の上に大法師(だいほつし)時政(じせい)と書(かき)たるこそ不思議(ふしぎ)なれ。されば今相摸(さがみ)入道(にふだう)七代に過(すぎ)て一天下(いちてんが)を保(たもち)けるも、江嶋(えのしま)の弁才天の御利生(ごりしやう)、又は過去の善因に感じてげる故(ゆゑ)也(なり)。今の高時(たかとき)禅門、已(すで)に七代を過(すぎ)、九代に及べり。されば可亡時刻(じこく)到来(たうらい)して、斯(かか)る不思議(ふしぎ)の振舞(ふるまひ)をもせられける歟(か)とぞ覚(おぼえ)ける。
○大塔宮(おほたふのみや)熊野落(くまのおちの)事(こと) S0506
大塔(おほたふの)二品(にほん)親王(しんわう)は、笠置(かさぎ)の城の安否(あんび)を被聞食為に、暫く南都(なんと)の般若寺(はんにやじ)に忍(しのび)て御座有(ござあり)けるが、笠置(かさぎ)の城已(すで)に落(おち)て、主上被囚させ給(たまひ)ぬと聞へしかば、虎の尾を履(ふむ)恐れ御身(おんみ)の上に迫(せまり)て、天地雖広御身(おんみ)を可被蔵所なし。日月雖明長夜(ぢやうや)に迷へる心地(ここち)して、昼は野原(のはら)の草に隠れて、露に臥(ふす)鶉(うづら)の床(とこ)に御涙(おんなみだ)を争ひ、夜(よる)は孤村(こそん)の辻に彳(たたずみ)て、人を尤(とが)むる里の犬に御心(おんこころ)を被悩、何(いづ)くとても御心(おんこころ)安(やす)かるべき所無(なか)りければ、角(かく)ても暫(しばし)はと被思食ける処に、一乗院(いちじようゐん)の候人(こうにん)按察法眼(あぜちのほふげん)好専(かうせん)、如何(いかん)して聞(きき)たりけん、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、未明(びめい)に般若寺(はんにやじ)へぞ寄(よせ)たりける。折節(をりふし)宮(みや)に奉付たる人独(ひとり)も無(なか)りければ一防(ひとふせ)ぎ防(ふせぎ)て落(おち)させ可給様(やう)も無(なか)りける上、透間(すきま)もなく兵(つはもの)既(すで)に寺内(じない)に打入(うちいり)たれば、紛(まぎ)れて御出(おんいで)あるべき方(かた)もなし。さらばよし自害せんと思食(おぼしめし)て、既(すで)に推膚脱(おしはだぬが)せ給(たまひ)たりけるが、事叶(かな)はざらん期(ご)に臨(のぞん)で、腹を切らん事は最(いと)可安。若(もし)やと隠れて見ばやと思食返(おぼしめしかへ)して、仏殿(ぶつでん)の方(かた)を御覧(ごらん)ずるに、人の読懸(よみかけ)て置(おき)たる大般若(だいはんにや)の唐櫃(たうひつ)三(みつ)あり。二(ふたつ)の櫃(ひつ)は未(いまだ)開蓋を、一(ひとつ)の櫃(ひつ)は御経(きやう)を半(なか)ばすぎ取出(とりいだ)して蓋(ふた)をもせざりけり。此(この)蓋を開(あけ)たる櫃(ひつ)の中へ、御身(おんみ)を縮(しじ)めて臥(ふ)させ給ひ、其(その)上に御経を引(ひき)かづきて、隠形(おんぎやう)の呪(じゆ)を御心(おんこころ)の中(うち)に唱(となへ)てぞ坐(おは)しける。若(もし)捜(さが)し被出ば、頓(やが)て突立(つきたて)んと思召(おぼしめし)て氷の如くなる刀(かたな)を抜(ぬい)て、御腹(おんはら)に指当(さしあて)て、兵(つはもの)、「此(ここ)にこそ。」と云(いは)んずる一言(ひとこと)を待(また)せ給(たまひ)ける御心(おんこころ)の中(うち)、推量(おしはか)るも尚可浅。去程(さるほど)に兵(つはもの)仏殿(ぶつでん)に乱入(みだれいつ)て、仏壇(ぶつだん)の下天井(てんじやう)の上迄も無残所捜しけるが、余(あま)りに求(もとめ)かねて、「是体(これてい)の物こそ怪しけれ。あの大般若(だいはんにや)の櫃(ひつ)を開見(あけてみ)よ。」とて、蓋(ふた)したる櫃二(ふたつ)を開(ひらい)て、御経を取出(とりいだ)し、底を翻(ひるがへ)して見けれどもをはせず。蓋(ふた)開(あき)たる櫃は見るまでも無(なし)とて、兵(つはもの)皆寺中を出去(いでさり)ぬ。宮は不思議(ふしぎ)の御命(いのち)を続(つが)せ給ひ、夢に道行(ゆく)心地して、猶(なほ)櫃(ひつ)の中に座(おは)しけるが、若(もし)兵(つはもの)又立帰り、委(くはし)く捜(さが)す事もや有(あら)んずらんと御思案(ごしあん)有(あつ)て、頓(やが)て前(さき)に兵の捜し見たりつる櫃(ひつ)に、入替(いりかは)らせ給(たまひ)てぞ座(おは)しける。案の如く兵共(つはものども)又仏殿に立帰り、「前(さき)に蓋(ふた)の開(あき)たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移(うちうつ)して見けるが、から/\と打笑(うちわらう)て、「大般若の櫃の中を能々(よくよく)捜したれば、大塔宮(おほたふのみや)はいらせ給はで、大唐(だいたう)の玄弉(げんじやう)三蔵こそ坐(おは)しけれ。」と戯(たはぶ)れければ、兵(つはもの)皆(みな)一同に笑(わらう)て門外(もんぐわい)へぞ出(いで)にける。是(これ)偏(ひとへ)に摩利支天(まりしてん)の冥応(みやうおう)、又は十六(じふろく)善神(ぜんしん)の擁護(おうご)に依る命(いのち)也(なり)。と、信心(しんじん)肝(きも)に銘じ感涙(かんるゐ)御袖(おんそで)を湿(うるほ)せり。角(かく)ては南都辺(なんとへん)の御隠家(おんかくれが)暫(しばらく)も難叶ければ、則(すなはち)般若寺を御出(おんいで)在(あり)て、熊野(くまの)の方(かた)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。御供(おんとも)の衆(しゆ)には、光林房玄尊(くわうりんばうげんそん)・赤松律師則祐(そくいう)・木寺相摸(こでらのさがみ)・岡本(をかもとの)三河房・武蔵房(むさしばう)・村上(むらかみ)彦四郎・片岡八郎・矢田(やだ)彦七・平賀(ひらがの)三郎、彼此(かれこれ)以上九人也(なり)。宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供(おんとも)の者迄(まで)も皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おひ)を掛け、頭巾(とうきん)眉半(まゆなかば)に責め、其(その)中に年長(としちやう)ぜるを先達(せんだち)に作立(つくりたて)、田舎山伏(ゐなかやまぶし)の熊野参詣(くまのさんけい)する体(てい)にぞ見せたりける。此(この)君元(もと)より龍楼鳳闕(りようろうほうけつ)の内(うち)に長(ひと)とならせ給(たまひ)て、華軒香車(くわけんかうしや)の外(ほか)を出(いで)させ給はぬ御事(おんこと)なれば、御歩行(ごほかう)の長途(ちやうど)は定(さだめ)て叶(かな)はせ給はじと、御伴(おんとも)の人々兼(かね)ては心苦しく思(おもひ)けるに、案(あん)に相違(さうゐ)して、いつ習はせ給ひたる御事(おんこと)ならねども怪しげなる単皮(たび)・脚巾(はばき)・草鞋(わらぢ)を召(めし)て、少しも草臥(くたびれ)たる御気色(きしよく)もなく、社々(やしろやしろ)の奉弊(ほうへい)、宿々(やどやど)の御勤(つとめ)懈(おこた)らせ給はざりければ、路次(ろし)に行逢(ゆきあ)ひける道者(だうしや)も、勤修(ごんじゆ)を積める先達(せんだち)も見尤(みとがむ)る事も無(なか)りけり。由良湊(ゆらのみなと)を見渡せば、澳(おき)漕(こぐ)舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重(いくへ)とも、しらぬ浪路(なみぢ)に鳴千鳥(なくちどり)、紀伊(き)の路(ぢ)の遠山(とほやま)眇々(はるばる)と、藤代(ふぢしろ)の松に掛(かか)れる磯(いそ)の浪(なみ)、和歌(わか)・吹上(ふきあげ)を外(そと)に見て、月に瑩(みが)ける玉津(たまつ)島、光も今はさらでだに、長汀曲浦(ぢやうていきよくほ)の旅の路(みち)、心を砕(くだ)く習(ならひ)なるに、雨を含(ふく)める孤村(こそん)の樹(き)、夕(ゆふべ)を送る遠寺(ゑんじ)の鐘(かね)、哀(あはれ)を催(もよほ)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(わうじ)に着(つき)給ふ。其夜(そのよ)は叢祠(そうし)の露に御袖(おんそで)を片敷(かたしい)て、通夜(よもすがら)祈(いのり)申させ給(たまひ)けるは、南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)三所権現(さんしよごんげん)・満山護法(まんさんのごほふ)・十万の眷属(けんぞく)・八万(はちまん)の金剛童子(こんがうどうじ)、垂迹和光(すゐじやくわくわう)の月明(あきら)かに分段同居(ぶんだんどうご)の闇(やみ)を照(てら)さば、逆臣(げきしん)忽(たちまち)に亡びて朝廷再(ふたたび)耀(かかや)く事を令得給へ。伝承(つたへうけたまは)る、両所権現(りやうしよごんげん)は是(これ)伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の応作(おうさ)也(なり)。我(わが)君其苗裔(そのべうえい)として朝日(てうじつ)忽(たちまち)に浮雲(ふうん)の為に被隠て冥闇(めいあん)たり。豈(あに)不傷哉(や)。玄鑒(げんかん)今似空。神(しん)若(もし)神(しん)たらば、君盍(なんぞ)為君と、五体(ごたい)を地に投(なげ)て一心に誠(まこと)を致(いたし)てぞ祈(いのり)申させ給(たまひ)ける。丹誠(たんぜい)無二(むに)の御勤(つとめ)、感応(かんおう)などかあらざらんと、神慮(しんりよ)も暗(あん)に被計たり。終夜(よもすがら)の礼拝(らいはい)に御窮屈(きゆうくつ)有(あり)ければ、御肱(おんひぢ)を曲(まげ)て枕として暫(しばらく)御目睡(まどろみ)在(あり)ける御夢(おんゆめ)に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子(どうじ)一人来(きたつ)て、「熊野三山(さんざん)の間は尚(なほ)も人の心不和(ふわ)にして大儀成(なり)難し。是(これ)より十津川(とつがは)の方へ御渡候(わたりさふらひ)て時の至(いたら)んを御待(おんまち)候へかし。両所権現(ごんげん)より案内者(あんないしや)に被付進て候へば御道指南(みちしるべ)可仕候。」と申すと被御覧御夢(おんゆめ)は則(すなはち)覚(さめ)にけり。是(これ)権現の御告(つげ)也(なり)。けりと憑敷(たのもしく)被思召ければ、未明(びめい)に御悦(よろこび)の奉弊(ほうへい)を捧げ、頓(やが)て十津河(とつがは)を尋(たづね)てぞ分入(わけい)らせ給(たまひ)ける。其(その)道の程(ほど)三十(さんじふ)余里(より)が間には絶(たえ)て人里も無(なか)りければ、或(あるひ)は高峯(たかね)の雲に枕を峙(そばだて)て苔(こけ)の筵(むしろ)に袖を敷(しき)、或(あるひ)は岩漏(もる)水に渇(かつ)を忍んで朽(くち)たる橋に肝を消す。山路(さんろ)本(もと)より雨無(なう)して、空翠(くうすゐ)常(つね)に衣(ころも)を湿(うるほ)す。向上(かうじやうとみあぐ)れば万仞(ばんじん)の青壁(せいへき)刀(つるぎ)に削(けづ)り、直下(ちよくかとみおろせ)ば千丈の碧潭(へきだん)藍(あゐ)に染(そ)めり。数日(すじつ)の間(あひだ)斯(かか)る嶮難(けんなん)を経(へ)させ給へば、御身(おんみ)も草臥(くたびれ)はてゝ流るゝ汗(あせ)如水。御足(あし)は欠損(かけそん)じて草鞋(わらぢ)皆血(ち)に染(そま)れり。御伴(おんとも)の人々も皆其身(そのみ)鉄石(てつせき)にあらざれば、皆飢疲(うゑつか)れてはか/゛\敷(しく)も歩(あゆみ)得ざりけれ共、御腰(おんこし)を推(おし)御手(おんて)を挽(ひい)て、路(みち)の程(ほど)十三日に十津河へぞ着(つか)せ給ひける。宮をばとある辻堂(つじだう)の内に奉置て、御供(おんとも)の人々は在家(ざいけ)に行(ゆい)て、熊野参詣(くまのさんけい)の山伏共(やまぶしども)道に迷(まよう)て来(きた)れる由を云(いひ)ければ、在家の者共(ものども)哀(あはれみ)を垂(たれ)て、粟(あは)の飯(いひ)橡(とち)の粥(かゆ)など取出(とりいだ)して其飢(そのうゑ)を相助(あひたす)く。宮にも此等(これら)を進(まゐら)せて二三日は過(すぎ)けり。角(かく)ては始終(しじゆう)如何(いかが)可在とも覚へざりければ、光林房玄尊(げんそん)、とある在家の是(これ)ぞさもある人の家なるらんと覚(おぼ)しき所に行(ゆい)て、童部(わらんべ)の出(いで)たるに家主(あるじ)の名を問へば、「是(これ)は竹原八郎入道殿(にふだうどの)の甥に、戸野(とのの)兵衛殿(ひやうゑどの)と申(まうす)人の許(もと)にて候。」と云(いひ)ければ、さては是こそ、弓矢取(とつ)てさる者と聞及(ききおよ)ぶ者なれ、如何にもして是を憑(たの)まばやと思(おもひ)ければ、門(もん)の内へ入(いつ)て事の様(やう)を見聞(みきく)処に、内に病者(びやうしや)有(あり)と覚(おぼえ)て、「哀(あは)れ貴(たつと)からん山伏(やまぶし)の出来(いできた)れかし、祈らせ進(まゐ)らせん。」と云(いふ)声しけり。玄尊すはや究竟(くきやう)の事こそあれと思(おもひ)ければ、声を高らかに揚(あげ)て、「是(これ)は三重(さんぢゆう)の滝に七日うたれ、那智(なち)に千日篭(こもつ)て三十三所(さんじふさんしよ)の巡礼(じゆんれい)の為に、罷出(まかりいで)たる山伏共(やまぶしども)、路(みちに)蹈迷(ふみまよう)て此(この)里に出(いで)て候。一夜の宿(やど)を借(かし)一日〔の〕飢(うゑ)をも休め給へ。」と云(いひ)たりければ、内より怪(あや)しげなる下女(けぢよ)一人出合(いであ)ひ、「是(これ)こそ可然仏神(ぶつじん)の御計(おんはから)ひと覚(おぼえ)て候へ。是(これ)の主(あるじ)の女房物怪(もののけ)を病(やま)せ給ひ候。祈(いのり)てたばせ給(たまひ)てんや。」と申せば、玄尊(げんそん)、「我等は夫山伏(ぶやまぶし)にて候間叶(かな)ひ候まじ。あれに見へ候辻堂(つじだう)に、足を休(やすめ)て被居て候先達(せんだち)こそ、効験(かうげん)第一(だいいち)の人にて候へ。此様(このやう)を申さんに子細(しさい)候はじ。」と云(いひ)ければ、女大(おほき)に悦(よろこう)で、「さらば其(その)先達の御房(ごばう)、是(これ)へ入進(いれまゐら)せさせ給へ。」と云(いひ)て、喜(よろこび)あへる事無限。玄尊走帰(はしりかへつ)て此由(このよし)を申(まうし)ければ、宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供(おんとも)の人皆彼(かれ)が館(たち)へ入(いら)せ給ふ。宮(みや)病者の伏(ふし)たる所(もと)へ御入在(おんいりあつ)て御加持(ごかぢ)あり。千手陀羅尼(せんじゆだらに)を二三反(にさんべん)高らかに被遊て、御念珠(おんねんじゆ)を押揉(おしも)ませ給(たまひ)ければ、病者自(みづから)口走(くちばしつ)て、様々(さまざま)の事を云(いひ)ける、誠(まこと)に明王(みやうわう)の縛(ばく)に被掛たる体(てい)にて、足手(あして)を縮(しじめ)て戦(わなな)き、五体(ごたい)に汗を流して、物怪(もののけ)則(すなはち)立去(たちさり)ぬれば、病者忽(たちまち)に平瘉(へいゆう)す。主(あるじ)の夫(をつと)不斜喜(よろこう)で、「我(われ)畜(たくはへ)たる物候はねば、別(べち)の御引出物(おんひきでもの)迄は叶(かなひ)候まじ。枉(まげ)て十(じふ)余日(よにち)是(これ)に御逗留(ごとうりう)候(さふらひ)て、御足(みあし)を休めさせ給へ。例の山伏(やまぶし)楚忽(そこつ)に忍(しのび)で御逃(おんにげ)候(さふらひ)ぬと存(ぞんじ)候へば、恐(おそれ)ながら是(これ)を御質(ごしち)に玉(たまは)らん。」とて、面々の笈共(おひども)を取合(とりあはせ)て皆内にぞ置(おき)たりける。御供の人々、上(うへ)には其気色(そのきしよく)を不顕といへ共、下(した)には皆悦(よろこび)思へる事無限。角(かく)て十(じふ)余日(よにち)を過(すご)させ給(たまひ)けるに、或夜(あるよ)家主(あるじ)の兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)、客殿(きやくでん)に出て薪(たきび)などせさせ、四方山(よもやま)の物語共(ものがたりども)しける次(ついで)に申(まうし)けるは、「旁(かたがた)は定(さだめ)て聞(きき)及ばせ給(たまひ)たる事も候覧(らん)。誠(まこと)やらん、大塔宮(おほたふのみや)、京都を落(おち)させ給(たまひ)て、熊野(くまの)の方へ趣(おもむか)せ給候(たまひさふらひ)けんなる。三山の別当定遍僧都(ぢやうべんそうづ)は無二(むにの)武家方(ぶけかた)にて候へば、熊野辺(くまのへん)に御忍(おんしのび)あらん事は難成覚(おぼえ)候。哀(あはれ)此(この)里へ御入(おんいり)候へかし。所(ところ)こそ分内(ぶんない)は狭(せば)く候へ共(ども)、四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)にて十里(じふり)二十里(にじふり)が中(うち)へは鳥も翔(かけ)り難き所にて候。其上(そのうへ)人の心不偽、弓矢を取(とる)事(こと)世に超(こえ)たり。されば平家の嫡孫(ちやくそん)惟盛(これもり)と申(まうし)ける人も、我等(われら)が先祖(せんぞ)を憑(たのみ)て此(この)所に隠れ、遂に源氏(げんじ)の世に無恙候(さふらひ)けるとこそ承(うけたまはり)候へ。」と語(かたり)ければ、宮誠(まこと)に嬉(うれ)しげに思食(おぼしめし)たる御気色(おんきしよく)顕(あらは)れて、「若(もし)大塔宮(おほたふのみや)なんどの、此(この)所へ御憑(おんたのみ)あ(つ)て入(いら)せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問(とは)せ給へば、戸野(とのの)兵衛、「申(まうす)にや及び候。身不肖(ふせう)に候へ共(ども)、某(それがし)一人だに斯(かか)る事ぞと申さば、鹿瀬(ししがせ)・蕪坂(かぶらさか)・湯浅(ゆあさ)・阿瀬川(あぜがは)・小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津川(なかつがは)・吉野(よしの)十八郷(じふはちがう)の者迄も、手刺(てさす)者候まじきにて候。」とぞ申(まうし)ける。其(その)時宮(みや)、木寺相摸(こでらのさがみ)にきと御目合有(めくはせあり)ければ、相摸此(さがみこの)兵衛が側(そば)に居寄(ゐより)て、「今は何をか隠し可申、あの先達(せんだち)の御房(ごばう)こそ、大塔宮(おほたふのみや)にて御坐(ござ)あれ。」と云(いひ)ければ、此(この)兵衛尚(なほ)も不審気(ふしんげ)にて、彼此(かれこれ)の顔をつく/゛\と守(まぼ)りけるに、片岡八郎・矢田(やだ)彦七、「あら熱(あつ)や。」とて、頭巾(ときん)を脱(ぬい)で側(そば)に指置(さしお)く。実(まこと)の山伏(やまぶし)ならねば、さかやきの迹(あと)隠(かくれ)なし。兵衛是(これ)を見て、「げにも山伏(やまぶし)にては御座(おは)せざりけり。賢(かしこく)ぞ此(この)事(こと)申出(まうしいで)たりける。あな浅猿(あさまし)、此(この)程の振舞(ふるまひ)さこそ尾篭(びろう)に思召候(おぼしめしさふらひ)つらん。」と以外(もつてのほか)に驚(おどろい)て、首(かうべ)を地(ち)に着(つけ)手を束(つか)ね、畳より下(した)に蹲踞(そんこ)せり。俄に黒木(くろぎ)の御所(ごしよ)を作(つくり)て宮(みや)を守護(しゆご)し奉り、四方(しはう)の山々に関(せき)を居(すゑ)、路(みち)を切塞(きりふさい)で、用心(ようじん)密(きび)しくぞ見へたりける。是(これ)も猶(なほ)大儀の計畧難叶とて、叔父(をぢ)竹原八郎入道に此由(このよし)を語(かたり)ければ、入道頓(やが)て戸野(との)が語(かたらひ)に随(したがつ)て、我館(わがたち)へ宮を入進(いれまゐ)らせ、無二の気色に見へければ、御心(おんこころ)安く思召(おぼしめし)て、此(ここ)に半年許(はんねんばかり)御座有(ござあり)ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度(したく)に、御還俗(ごげんぞく)の体(てい)に成(なら)せ給(たまひ)ければ、竹原八郎入道が息女(そくぢよ)を、夜(よ)るのをとゞへ被召て御覚(おんおぼえ)異他なり。さてこそ家主(あるじ)の入道も弥(いよいよ)志(こころ)を傾(かたむ)け、近辺(きんぺん)の郷民共(がうみんども)も次第に帰伏申(きふくまうし)たる由にて、却(かへつ)て武家をば褊(さみ)しけり。去程(さるほど)に熊野の別当定遍(ぢやうべん)此(この)事(こと)を聞(きい)て、十津河(とつがは)へ寄(よ)せんずる事は、縦(たとひ)十万騎(じふまんぎ)の勢(せい)ありとも不可叶。只其辺(そのへん)の郷民共(がうみんども)の欲心(よくしん)を勧(すすめ)て、宮を他所(たしよ)へ帯(おび)き出し奉らんと相計(あひはかつ)て、道路(だうろ)の辻に札(ふだ)を書(かい)て立(たて)けるは、「大塔宮(おほたふのみや)を奉討たらん者には、非職凡下(ひしよくぼんげ)を不云、伊勢の車間庄(くるまのしやう)を恩賞に可被充行由を、関東(くわんとう)の御教書(みげうしよ)有之。其(その)上に定遍(ぢやうべん)先(まづ)三日が中(うち)に六万貫(ろくまんぐわん)を可与。御内伺候(みうちしこう)の人・御手(おんて)の人を討(うち)たらん者には五百(ごひやく)貫(くわん)、降人(かうにん)に出(いで)たらん輩(ともがら)には三百(さんびやく)貫(くわん)、何(いづ)れも其(その)日の中(うち)に必(かならず)沙汰し与(あたふ)べし。」と定(さだめ)て、奥に起請文(きしやうもん)の詞(ことば)を載(のせ)て、厳密(げんみつ)の法をぞ出(いだ)しける。夫(それ)移木(いぼく)の信(しん)は為堅約、献芹(けんきん)の賂(まひなひ)は為奪志なれば、欲心強盛(よくしんがうじやう)の八庄司共(しやうじども)此(この)札を見てければ、いつしか心変(へん)じ色替(かはつ)て、奇(あや)しき振舞共(ふるまひども)にぞ聞へける。宮「角(かく)ては此(この)所の御止住(おんすまゐ)、始終(しじゆう)悪(あし)かりなん。吉野(よしの)の方へも御出(おんいで)あらばや。」と被仰けるを、竹原(たけはら)入道、「如何なる事や候べき。」と強(しひ)て留申(とめまうし)ければ、彼(かれ)が心を破(やぶ)られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼(きようく)の中(うち)に月日を送らせ給(たまひ)ける。結句(けつく)竹原入道が子共(こども)さへ、父が命(めい)を背(そむい)て、宮を討(うち)奉らんとする企(くはだて)在(あり)と聞(きこえ)しかば、宮潛(ひそか)に十津河(とつがは)も出(いで)させ給(たまひ)て、高野(かうや)の方へぞ趣(おもむ)かせ給ひける。其路(そのみち)、小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津河(なかつがは)と云(いふ)敵陣の難所(なんじよ)を経(へ)て通る路なれば、中々(なかなか)敵を打憑(うちたのみ)て見ばやと被思召、先(まづ)芋瀬(いもがせ)の庄司(しやうじ)が許(もと)へ入(いら)せ給ひけり。芋瀬(いもがせ)、宮(みや)をば我館(わがたち)へ入進(いれまゐ)らせずして、側(そば)なる御堂(みだう)に置(おき)奉り、使者(ししや)を以て申(まうし)けるは、「三山(さんざんの)別当定遍(ぢやうべん)武命(ぶめい)を含(ふくん)で、隠謀与党(おんぼうよたう)の輩(ともがら)をば、関東(くわんとう)へ注進仕(ちゆうしんつかまつ)る事にて候へば、此(この)道より無左右通し進(まゐ)らせん事(こと)、後(のち)の罪科陳謝(ちんじや)するに不可有拠候、乍去宮を留進(とめまゐ)らせん事は其(その)恐(おそれ)候へば、御伴(おんとも)の人々の中(うち)に名字(みやうじ)さりぬべからんずる人を一両人賜(たまはつ)て、武家へ召渡(めしわたし)候歟(か)、不然ば御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、合戦仕(かつせんつかまつつ)て候(さふらひ)つる支証(ししよう)是(これ)にて候と、武家へ可申にて候。此(この)二(ふた)つの間(あひだ)、何(いづ)れも叶(かなふ)まじきとの御意(ぎよい)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕らんずるにて候。」と、誠(まこと)に又予儀(よぎ)もなげにぞ申入(まうしいれ)たりける。宮は此(この)事(こと)何(いづ)れも難議也(なり)。と思召(おぼしめし)て、敢(あへて)御返事(おんへんじ)も無(なか)りけるを、赤松律師則祐(そくいう)進み出(いで)て申(まうし)けるは、「危(あやふ)きを見て命(めい)を致すは士卒(じそつ)の守(まも)る所(ところ)に候。されば紀信(きしん)は詐(いつはつ)て敵に降(くだ)り、魏豹(ぎへう)は留(とどまつ)て城を守る。是(これ)皆主(しゆ)の命(いのち)に代(かは)りて、名を留(とど)めし者にて候はずや。兎(と)ても角(かう)ても彼(かれ)が所存解(とけ)て、御所(ごしよ)を通し可進にてだに候はゞ、則祐(そくいう)御大事(おんだいじ)に代(かはつ)て罷出(まかりいで)候はん事は、子細(しさい)有(ある)まじきにて候。」と申せば、平賀(ひらがの)三郎是を聞(きい)て、「末坐(ばつざ)の意見卒尓(そつじ)の議にて候へ共(ども)、此艱苦(このかんく)の中に付纏(つきまとひ)奉りたる人は、雖一人上の御為(おんため)には、股肱耳目(ここうじぼく)よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬(いもせの)庄司(しやうじ)が申(まうす)所、げにも難被黙止候へば、其(その)安きに就(つけ)て御旗許(おんはたばかり)を被下候はんに、何(なに)の煩(わづらひ)か候べき。戦場(せんぢやう)に馬・物具(もののぐ)を捨(すて)、太刀・刀(かたな)を落して敵に被取事(こと)、さまでの恥ならず。只彼(かれ)が申請(まうしうく)る旨に任(まかせ)て、御旗を被下候へかし。」と申(まうし)ければ、宮げにもと思召(おぼしめし)て、月日を金銀にて打(うつ)て着(つけ)たる錦(にしき)の御旗を、芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)にぞ被下ける。角(かく)て宮は遥(はるか)に行過(ゆきすぎ)させ給(たまひ)ぬ。暫有(しばらくあつ)て村上(むらかみ)彦四郎義光(よしてる)、遥(はるか)の迹(あと)にさがり、宮に追着進(おつつきまゐら)せんと急(いそぎ)けるに、芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)無端道にて行合(ゆきあひ)ぬ。芋瀬(いもがせ)が下人(げにん)に持(もた)せたる旗を見れば、宮の御旗也(なり)。村上怪(あやしみ)て事の様(やう)を問(とふ)に、尓々(しかじか)の由(よし)を語る。村上、「こはそも何事(なにこと)ぞや。忝(かたじけなく)も四海(しかい)の主(あるじ)にて御坐(おはしま)す天子の御子(みこ)の、朝敵(てうてき)御追罰(ごつゐばつ)の為に、御門(おんかど)出(いで)ある路次(ろし)に参り合(あう)て、汝等程(なんぢらほど)の大凡下(だいぼんげ)の奴原(やつばら)が、左様(さやう)の事可仕様(やう)やある。」と云(いつ)て、則(すなはち)御旗を引奪(ひきうばう)て取(とり)、剰(あまつさへ)旗持(もち)たる芋瀬(いもがせ)が下人(げにん)の大(だい)の男(をとこ)を掴(つかん)で、四五丈許(ばかり)ぞ抛(なげ)たりける。其怪力(そのくわいりよく)無比類にや怖(おぢ)たりけん。芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)一言(いちごん)の返事もせざりければ、村上自(みづから)御旗を肩に懸(かけ)て、無程宮に〔奉〕追着。義光(よしてる)御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て此様(このやう)を申(まうし)ければ、宮誠(まこと)に嬉しげに打笑(うちわら)はせ給(たまひ)て、「則祐(そくいう)が忠は孟施舎(まうししや)が義を守(まぼ)り、平賀(ひらが)が智は陳丞相(ちんしようじやう)が謀(はかりごと)を得(え)、義光が勇(ゆう)は北宮黝(ほくきゆういう)が勢(いきほひ)を凌(しの)げり。此(この)三傑を以て、我(われ)盍治天下哉(や)。」と被仰けるぞ忝(かたじけな)き。其夜(そのよ)は椎柴垣(しひしばがき)の隙(ひま)あらはなる山がつの庵(いほり)に、御枕(おんまくら)を傾(かたむ)けさせ給(たまひ)て、明(あく)れば小原(をばら)へと志(こころざし)て、薪(たきぎ)負(おう)たる山人(やまうど)の行逢(ゆきあひ)たるに、道の様(やう)を御尋(おんたづね)有(あり)けるに、心なき樵夫迄(きこりまで)も、さすが見知進(みしりまゐら)せてや在(あり)けん、薪(たきぎ)を下(おろ)し地(ち)に跪(ひざまづい)て、「是(これ)より小原(をばら)へ御(おん)通(とほ)り候はん道には、玉木(たまぎの)庄司殿(しやうじどの)とて、無弐(むに)の武家方(ぶけかた)の人をはしまし候。此(この)人を御語(かたら)ひ候はでは、いくらの大勢(おほぜい)にても其(その)前をば御(おん)通(とほ)り候(さふらひ)ぬと不覚候。恐(おそれ)ある申事(まうしごと)にて候へ共(ども)、先(ま)づ人を一二人(いちににん)御使(おんつかひ)に被遣候(さふらひ)て、彼(かの)人の所存(しよぞん)をも被聞召候へかし。」とぞ申(まうし)ける。宮つく/゛\と聞召(きこしめし)て、「芻蕘(すうぜう)の詞迄(ことばまで)も不捨」と云(いふ)は是(これ)也(なり)。げにも樵夫(きこり)が申(まうす)処さもと覚(おぼゆ)るぞ。」とて、片岡(かたをか)八郎・矢田彦七二人(ににん)を、玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)が許(もと)へ被遣て、「此(この)道を御(おん)通(とほ)り有(ある)べし、道の警固に、木戸(きど)を開き、逆茂木(さかもぎ)を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)御使(おんつかひ)に出合(いであつ)て、事の由を聞(きい)て、無返事(ぶへんじ)にて内へ入(いり)けるが、軈(やが)て若党(わかたう)・中間共(ちゆうげんども)に物具(もののぐ)させ、馬に鞍置(くらおき)、事の体(てい)躁(さわが)しげに見へければ、二人(ににん)の御使(おんつかひ)、「いや/\此(この)事(こと)叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰(はしりかへつ)て、此(この)由を申さん。」とて、足早(あしばや)に帰れば、玉置が若党共(わかたうども)五六十人、取太刀許(とりだちばかり)にて追懸(おつかけ)たり。二人(ににん)の者立留(たちとどま)り、小松(こまつ)の二三本(にさんぼん)ありける陰(かげ)より跳出(をどりい)で、真前(まつさき)に進(すすん)だる武者(むしや)の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)で刎落(はねおと)させ、返(かへ)す太刀(たち)にて頚打落(うちおと)して、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)してぞ立(たつ)たりける。迹(あと)に続(つづい)て追(おひ)ける者共(ものども)も、是(これ)を見て敢(あへ)て近付(ちかづく)者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋(ふたすぢ)被射付て、今は助(たすか)り難(がたし)と思(おもひ)ければ、「や殿(との)、矢田殿(やだどの)、我はとても手負(ておう)たれば、此(ここ)にて打死(うちじに)せんずるぞ。御辺(ごへん)は急ぎ宮の御方へ走参(はしりまゐり)て、此由(このよし)を申(まうし)て、一(ひと)まども落し進(まゐら)せよ。」と、再往(さいわう)強(しひ)て云(いひ)ければ、矢田も一所(いつしよ)にて打死(うちじに)せんと思(おもひ)けれども、げにも宮に告(つげ)申さゞらんは、却(かへつ)て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩(はうばい)を見捨(みすて)て帰りける心の中(うち)、被推量て哀(あはれ)也(なり)。矢田遥(はるか)に行延(ゆきのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て持(もち)たる人あり。矢田急ぎ走帰(はしりかへつ)て此(この)由を宮に申(まうし)ければ、「さては遁(のが)れぬ道に行迫(ゆきせま)りぬ。運の窮達(きゆうたつ)歎(なげ)くに無詞。」とて、御伴(おんとも)の人々に至(いたる)まで中々(なかなか)騒ぐ気色ぞ無(なか)りける。さればとて此(ここ)に可留に非(あら)ず、行(ゆか)れんずる所まで行(ゆけ)やとて、上下(じやうげ)三十(さんじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、宮を前(さき)に立進(たてまゐら)せて問々(とひとひ)山路(やまぢ)をぞ越行(こえゆき)ける。既(すで)に中津河(なかつがは)の峠(たうげ)を越(こえ)んとし給(たまひ)ける所に、向(むかう)の山の両の峯に玉置(たまぎ)が勢(せい)と覚(おぼえ)て、五六百人(ごろつぴやくにん)が程混冑(ひたかぶと)に鎧(よろう)て、楯を前に進め射手(いて)を左右へ分(わけ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。宮是(これ)を御覧(ごらん)じて、玉顔(ぎよくがん)殊に儼(おごそか)に打笑(うちゑ)ませ給(たまひ)て、御手(おんて)の者共(ものども)に向(むかつ)て、「矢種(やだね)の在(あら)んずる程は防矢(ふせぎや)を射よ、心静(しづか)に自害して名を万代(ばんだい)に可貽。但(ただし)各(おのおの)相構(あひかまへ)て、吾(われ)より先(さき)に腹切(きる)事(こと)不可有。吾已(すで)に自害せば、面(おもて)の皮を剥(はぎ)耳鼻(みみはな)を切(きつ)て、誰(たれ)が首(くび)とも見へぬ様(やう)にし成(なし)て捨(すつ)べし。其(その)故は我首(わがくび)を若(もし)獄門(ごくもん)に懸(かけ)て被曝なば、天下に御方(みかた)の志を存(そん)ぜん者は力を失ひ、武家は弥(いよいよ)所恐なかるべし。「死せる孔明(こうめい)生(いけ)る仲達(ちゆうたつ)を走らしむ」と云(いふ)事(こと)あり。されば死して後(のち)までも、威を天下に残(のこ)すを以て良将(りやうしやう)とせり。今はとても遁(のが)れぬ所ぞ、相構(あひかまへ)て人々きたなびれて、敵(てき)に笑はるな。」と被仰ければ、御供(おんとも)の兵(つはもの)共、「何故(なにゆゑ)か、きたなびれ候べき。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)に立(たつ)て、敵の大勢にて責上(せめのぼ)りける坂中(さかなか)の辺(へん)まで下(おり)向ふ。其(その)勢僅(わづか)三十二人(さんじふににん)、是(これ)皆一騎当千(いつきたうせん)の兵(つはもの)とはいへ共(ども)、敵五百(ごひやく)余騎(よき)に打合(うちあう)て、可戦様(やう)は無(なか)りけり。寄手(よせて)は楯を雌羽(めんどりば)につきしとうてかづき襄(あが)り、防ぐ兵(つはもの)は打物(うちもの)の鞘(さや)をはづして相懸(あひかか)りに近付(ちかづく)所に、北の峯より赤旗(あかはた)三流(みながれ)、松の嵐に翻(ひるがへ)して、其(その)勢六七百騎(ろくしちひやくき)が程懸出(かけいで)たり。其(その)勢次第に近付侭(ちかづくままに)、三手に分(わかつ)て時の声を揚(あげ)て、玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)に相向ふ。真前(まつさき)に進(すすん)だる武者大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て、「紀伊国(きのくに)の住人(ぢゆうにん)野長瀬(のながせの)六郎・同(おなじき)七郎、其(その)勢三千余騎(よき)にて大塔宮(おほたふのみや)の御迎(おんむかひ)に参る所に、忝(かたじけなく)も此(この)君に対(むか)ひ進(まゐら)せて、弓を控(ひき)楯を列(つら)ぬる人は誰(たれ)ぞや。玉置庄司殿(しやうじどの)と見るは僻目(ひがめ)か、只今可滅武家の逆命(ぎやくめい)に随(したがつ)て、即時(そくじ)に運を開かせ可給親王(しんわう)に敵対申(てきたいまうし)ては、一天下(いちてんが)の間(あひだ)何(いづれ)の処にか身を置(おか)んと思ふ。天罰不遠から、是(これ)を鎮(しづめ)ん事我等(われら)が一戦(いつせん)の内にあり。余(あま)すな漏(もら)すな。」と、をめき叫(さけん)でぞ懸(かか)りける。是(これ)を見て玉置が勢五百(ごひやく)余騎(よき)、叶はじとや思(おもひ)けん、楯を捨(すて)旗を巻(まい)て、忽(たちまち)に四角八方へ逃散(にげさん)ず。其(その)後野長瀬(のながせ)兄弟、甲(かぶと)を脱ぎ弓を脇に挟(さしはさみ)て遥(はるか)に畏(かしこま)る。宮の御前(おんまへ)近く被召て、「山中(さんちゆう)の為体(ていたらく)、大儀の計略難叶かるべき間、大和(やまと)・河内(かはち)の方へ打出(うちいで)て勢(せい)を付(つけ)ん為(ために)、令進発之処に、玉置庄司(しやうじ)只今の挙動(ふるまひ)、当手(たうて)の兵万死(ばんし)の内(うち)に一生(いつしやう)をも得難(えがた)しと覚(おぼえ)つるに、不慮(ふりよ)の扶(たすけ)に逢(あふ)事(こと)天運尚(なほ)憑(たのみ)あるに似(に)たり。抑(そもそも)此(この)事(こと)何(なに)として存知(ぞんぢ)たりければ、此(この)戦場に馳合(はせあつ)て、逆徒(げきと)の大軍(たいぐん)をば靡(なびかし)ぬるぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、野長瀬畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「昨日(さくじつ)の昼程(ひるほど)に、年(とし)十四五許(ばかり)に候(さふらひ)し童(わらは)の、名をば老松(おいまつ)といへり〔と〕名乗(なのり)て、「大塔宮(おほたふのみや)明日(みやうじつ)十津河(とつがは)を御出(おんいで)有(あつ)て、小原(をばら)へ御(おん)通(とほ)りあらんずるが、一定(いちぢやう)道にて難(なん)に逢はせ給(たまひ)ぬと覚(おぼゆ)るぞ、志を存(そん)ぜん人は急ぎ御迎(むかひ)に参れ」と触廻(ふれまは)り候(さふらひ)つる間、御使(おんつかひ)ぞと心得て参(まゐつ)て候。」とぞ申(まうし)ける。宮此(この)事(こと)を御思案(ごしあん)あるに、直事(ただこと)に非(あら)ずと思食合(おぼしめしあは)せて、年来(としごろ)御身(おんみ)を放(はな)されざりし膚(はだ)の御守(おんまぼり)を御覧(ごらん)ずるに、其口(そのくち)少(すこ)し開(ひらき)たりける間、弥(いよいよ)怪(あや)しく思食(おぼしめし)て、則(すなはち)開(ひらき)被御覧ければ、北野天神(きたののてんじん)の御神体(しんたい)を金銅(こんどう)にて被鋳進たる其(その)御眷属(ごけんぞく)、老松(おいまつ)の明神(みやうじん)の御神体、遍身(へんしん)より汗(あせ)かいて、御足(あし)に土(つち)の付(つき)たるぞ不思議(ふしぎ)なる。「さては佳運(かうん)神慮(しんりよ)に叶(かな)へり、逆徒(げきと)の退治(たいぢ)何の疑(うたがひ)か可有。」とて、其(それ)より宮(みや)は、槙野(まきのの)上野房(かうづけばう)聖賢(しやうげん)が拵(こしらへ)たる、槙野(まきの)の城へ御入(おんいり)ありけるが、此(これ)も尚(なほ)分内(ぶんない)狭(せば)くて可悪ると御思案(ごしあん)ありて、吉野(よしの)の大衆(だいしゆ)を語(かたら)はせ給(たまひ)て、安善宝塔(あいぜんはうだふ)を城郭(じやうくわく)に構(かま)へ、岩切通(きりとほ)す吉野河を前に当(あて)て、三千余騎(よき)を随へて楯篭(たてごも)らせ給(たまひ)けるとぞ聞へし。