太平記(国民文庫)
太平記巻第四
○笠置(かさぎの)囚人(とらはれびと)死罪(しざい)流刑(るけいの)事(こと)付藤房(ふぢふさ)卿(きやうの)事(こと) S0401
笠置(かさぎの)城(しろ)被攻落刻、被召捕給(たまひ)し人々(ひとびと)の事(こと)、去年(きよねん)は歳末(さいまつ)の計会(けいくわい)に依(よつ)て、暫く被閣ぬ。新玉(あらたま)の年(とし)立回(たちかへぬ)れば、公家(くげ)の朝拝(てうはい)武家(ぶけ)の沙汰(さた)始(はじま)りて後(のち)、東使(とうし)工藤(くどう)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)信濃(しなのの)入道行珍(ぎやうちん)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東(くわんとう)評定(ひやうぢやう)の趣(おもむき)、六波羅(ろくはら)にして被定。山門(さんもん)・南都(なんと)の諸門跡(しよもんぜき)、月卿(げつけい)・雲客(うんかく)・諸衛(しよゑ)の司等(つかさとう)に至(いたる)迄、依罪軽重、禁獄(きんごく)流罪(るざい)に処(しよ)すれ共(ども)、足助(あすけの)次郎重範(しげのり)をば六条河原(ろくでうかはら)に引出(ひきいだ)し、首(くび)を可刎と被定。万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさきやう)は、子息(しそく)藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)の罪科(ざいくわ)に依(よつ)て、武家に被召捕、是(これ)も如召人にてぞ座(おは)しける。齢(よはひ)已(すで)に七旬(しちじゆん)に傾(かたぶい)て、万乗(ばんじよう)の聖主は遠嶋(ゑんたう)に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人(ににん)の賢息(けんそく)は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身(わがみ)さへ又楚(そ)の囚人(とらはれびと)と成(なり)給へば、只今まで命(いのち)存(ながらへ)て、浩(かか)る憂(うき)事(こと)をのみ見聞(みきく)事(こと)の悲しければと、一方(ひとかた)ならぬ思ひに、一首(いつしゆ)の歌をぞ被詠ける。長かれと何(なに)思ひけん世中(よのなか)の憂(うき)を見するは命(いのち)なりけり罪科(ざいくわ)有(ある)もあらざるも、先朝拝趨(せんてうはいすう)の月卿・雲客、或(あるひ)は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞(つうそく)、時の否泰(ひたい)、為夢為幻、時(とき)遷(うつ)り事去(さつ)て哀楽(あいらく)互に相替(あひかは)る。憂(うき)を習(ならひ)の世の中(なか)に、楽(たのし)んでも何かせん、歎(なげい)ても由無(よしなか)るべし。源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆきの)卿(きやう)をば、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはんぐわん)入道道誉(だうよ)、路次(ろし)を警固仕(つかまつり)て鎌倉(かまくら)へ下(くだ)し奉る。道にて可被失由(よし)、兼(かね)て告申(つげまうす)人や有(あり)けん、会坂(あふさか)の関(せき)を越(こえ)給ふとて、帰るべき時しなければ是(これ)や此(この)行(ゆく)を限りの会坂の関勢多(せた)の橋(はし)を渡るとて、けふのみと思(おもふ)我身(わがみ)の夢の世を渡る物(もの)かはせたの長橋(ながはし)此卿(このきやう)をば道にて可奉失と、兼(かね)て定(さだめ)し事なれば、近江(あふみ)の柏原(かしはばら)にて切(きり)奉るべき由(よし)、探使(たんし)襲来(しふらい)していらでければ、道誉、中納言殿(どの)の御前(おんまへ)に参り、「何(いか)なる先世(ぜんせ)の宿習(しゆくしふ)によりてか、多(おほく)の人の中(なか)に入道預進(あづかりまゐら)せて、今更(いまさら)加様(かやう)に申(まうし)候へば、且(かつう)は情(なさけ)を不知に相似(あひに)て候へ共(ども)、卦(かか)る身には無力次第にて候。今までは随分(ずゐぶん)天下(てんか)の赦(ゆるし)を待(まち)て、日数(ひかず)を過(すご)し候(さふらひ)つれ共(ども)、関東(くわんとう)より可失進由(よし)、堅く被仰候へば、何事(なにこと)も先世(ぜんせ)のなす所と、思召慰(おぼしめしなぐさ)ませ給(たまひ)候へ。」と申(まうし)もあへず袖を顔に押当(おしあて)しかば、中納言殿(どの)も不覚(ふかく)の泪(なみだ)すゝみけるを、推拭(おしのご)はせ給ひて、「誠(まこと)に其(その)事(こと)に候。此間(このあひだ)の儀をば後世(ごせ)までも難忘こそ候へ。命(いのち)の際(きは)の事は、万乗の君(きみ)既(すで)に外土遠嶋(ぐわいどゑんたう)に御遷幸(ごせんかう)の由聞へ候上(うへ)は、其以下(そのいげ)の事どもは、中々(なかなか)不及力。殊更此(この)程の情(なさけ)の色、誠(まことに)存命(ぞんめい)すとも難謝こそ候へ。」と計(ばかり)にて、其後(そののち)は言(もの)をも被仰ず、硯(すずり)と紙とを取寄(とりよせ)て、御文(おんふみ)細々(こまごま)とあそばして、「便(たより)に付(つけ)て相知(あひし)れる方(かた)へ、遣(やり)て給はれ。」とぞ被仰ける。角(かく)て日(ひ)已(すで)に暮(くれ)ければ、御輿(おんこし)指寄(さしよせ)て乗(の)せ奉り、海道(かいだう)より西なる山際(やまぎは)に、松の一村(ひとむら)ある下(もと)に、御輿(おんこし)を舁居(かきすゑ)たれば、敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほら)せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々(しづしづ)と辞世(じせい)の頌(じゆ)をぞ被書ける。逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。六月十九日某(それがし)と書(かい)て、筆を抛(なげうつ)て手を叉(あざへ)、座(ざ)をなをし給ふとぞ見へし。田児(たごの)六郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、後(うしろ)へ廻(まは)るかと思へば、御首(くび)は前にぞ落(おち)にける。哀(あはれ)と云(いふ)も疎(おろか)なり。入道泣々(なくなく)其遺骸(そのゆゐがい)を煙(けぶり)となし、様々(さまざま)の作善(さぜん)を致してぞ菩提(ぼだい)を奉祈ける。糸惜(いとをしき)哉(かな)、此卿(このきやう)は先帝(せんてい)帥宮(そつのみや)と申(まうし)奉りし比(ころ)より近侍(きんじ)して、朝夕(てうせきの)拝礼(はいれい)不怠、昼夜(ちうや)の勤厚(きんこう)異于他。されば次第に昇進(しようじん)も不滞、君(きみ)の恩寵(おんちよう)も深かりき。今かく失給(うせたまひ)ぬと叡聞(えいぶん)に達せば、いかばかり哀(あはれ)にも思食(おぼしめさ)れんずらんと覚へたり。同(おなじき)二十一日殿法印(とののほふいん)良忠(りやうちゆう)をば大炊御門油小路(おほゐのみかどあぶらのこうぢ)の篝(かがり)、小串(こぐし)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)秀信(ひでのぶ)召捕(めしとり)て六波羅(ろくはら)へ出(いだ)したりしかば、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比(このごろ)一天(いつてん)の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛(ごむほん)を、御身(おんみ)なんど思立(おもひたち)給はん事(こと)、且(かつう)は無止、且(かつう)は楚忽(そこつ)にこそ覚(おぼえ)て候へ。先帝(せんていを)奪ひ進(まゐら)せん為に、当所(たうしよ)の絵図(ゑづ)なんどまで持廻(もちまは)られ候(さふらひ)ける条、武敵(ぶてき)の至(いた)り重科(ぢゆうくわ)無双、隠謀の企(くはだて)罪責(ざいせき)有余。計(はかりごと)の次第一々に被述候へ。具(つぶさ)に関東(くわんとう)へ可注進。」とぞ宣(のたまひ)ける。法印(ほふいん)返事(へんじ)せられけるは、「普天(ふてん)の下(した)無非王土、率土(そつとの)人無非王民。誰か先帝の宸襟(しんきん)を歎き奉らざらん。人たる者是(これ)を喜(よろこぶ)べきや。叡慮(えいりよ)に代(かはつ)て玉体を奪(うばひ)奉らんと企(くはだつる)事(こと)、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企(くはだつる)事(こと)更(さら)に非楚忽儀。始(はじめ)より叡慮の趣を存知(ぞんぢし)、笠置(かさぎ)の皇居(くわうきよ)へ参内(さんだい)せし条無子細。而(しか)るを白地(あからさま)に出京(しゆつきやう)の蹤(あと)に、城郭無固、官軍(くわんぐん)敗北(はいぼく)の間(あひだ)、無力本意を失へり。其間(そのあひだ)に具行卿(ともゆききやう)相談して、綸旨(りんし)を申下(まうしくだし)、諸国の兵(つはもの)に賦(くばり)し条勿論(もちろん)なり。有程(あるほど)の事は此等(これら)なり。」とぞ返答せられける。依之(これによつて)六波羅(ろくはら)の評定(ひやうぢやう)様々(さまざま)なりけるを、二階堂(にかいだう)信濃(しなのの)入道進(すすん)で申(まうし)けるは、「彼罪責(かのざいせき)勿論の上(うへ)は、無是非可被誅けれども、与党(よたう)の人なんど尚尋(たづね)沙汰有(あつ)て重(かさね)て関東(くわんとう)へ可被申かとこそ存(ぞんじ)候へ。」と申(まうし)ければ、長井右馬助(ながゐうまのすけ)、「此義(このぎ)尤(もつとも)可然候。是(これ)程の大事(だいじ)をば関東(くわんとう)へ被申てこそ。」と申(まうし)ければ、面々(めんめん)の意見一同(いちどう)せしかば、法印(ほふいん)をば五条京極(きやうごく)の篝(かがり)、加賀(かがの)前司(ぜんじ)に預(あづけ)られて禁篭(きんろう)し、重(かさね)て関東(くわんとう)へぞ被注進ける。平宰相(へいさいしやう)成輔(なりすけ)をば、河越(かはごえ)参河(みかはの)入道円重(ゑんぢゆう)具足(ぐそく)し奉(たてまつり)て、是(これ)も鎌倉(かまくら)へと聞へしが、鎌倉(かまくら)迄も下(くだ)し着(つけ)奉らで相摸(さがみ)の早河尻(はやかはじり)にて奉失。侍従(じじゆう)中納言公明(きんあきらの)卿(きやう)・別当(べつたう)実世(さねよ)卿(きやう)二人(ににん)をば、赦免(しやめん)の由(よし)にて有(あり)しかども、猶も心ゆるしや無(なか)りけん、波多野(はだの)上野介(かうづけのかみ)宣通(のぶみち)・佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)に被預て、猶(なほ)も本(もと)の宿所(しゆくしよ)へは不帰給。尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)をば下総(しもつさの)国(くに)へ流して、千葉介(ちばのすけ)に被預。此人(このひと)志学(しがく)の年(とし)の昔より、和漢の才(さい)を事として、栄辱(えいじよく)の中(うち)に心を止(と)め不給しかば、今遠流(をんる)の刑に逢へる事(こと)、露計(つゆばかり)も心に懸(かけ)て思はれず。盛唐(せいたうの)詩人杜少陵(とせうりようが)、天宝(てんばう)の末の乱に逢(あう)て、「路経■■(えんよ)双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯(てんがい)の恨(うらみ)を吟(ぎん)じ尽(つく)し、吾朝(わがてう)の歌仙小野篁(をののたかむら)は隠岐(おきの)国(くに)へ被流て、「海原(わたのはら)八十嶋(やそしま)かけて漕出(こぎいで)ぬ」と釣(つり)する海士(あま)に言伝(ことづて)て、旅泊(りよはく)の思(おもひ)を詠ぜらる。是(これ)皆時(とき)の難易(なんい)を知(しり)て可歎を不歎、運の窮達(きゆうたつ)を見て有悲を不悲。況乎(いはんや)「主(しゆ)憂(うれふ)る則(ときんば)臣辱(はづかしめら)る。主辱(はづかしめら)るゝ則(ときんば)臣死(しす)」といへり。縦(たとひ)骨を醢(ししびしほ)にせられ、身を車ざきにせらる共(とも)、可傷道に非(あら)ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠(ふうえい)等閑(なほざり)に日を渡る。今は憂世(うきよ)の望(のぞみ)絶(たえ)ぬれば、有出家志由頻(しきり)に被申けるを、相摸(さがみ)入道(にふだう)子細(しさい)候はじと被許ければ、年(とし)未満強仕、翠(みどり)の髪を剃(そり)落し、桑門人(よすてびと)と成給(なりたまひ)しが、無幾程元弘(げんこう)の乱出来(いでき)し始(はじめ)俄に病に被侵、円寂(ゑんじやく)し給ひけるとかや。東宮大進(とうぐうのだいしん)季房(すゑふさ)をば常陸(ひたちの)国(くに)へ流して、長沼駿河(ながぬまするがの)守(かみ)に預(あづ)けらる。中納言藤房(ふぢふさ)をば同国(おなじくに)に流して、小田民部大輔(をだみんぶのたいふ)にぞ被預ける。左遷遠流(させんゑんる)の悲(かなしみ)は何(いづ)れも劣らぬ涙なれども、殊に此(この)卿(きやう)の心中(こころのうち)推量(おしはか)るも猶哀(あはれ)也(なり)。近来(このごろ)中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に左衛門佐局(さゑものすけのつぼね)とて容色(ようしよく)世に勝(すぐ)れたる女房(にようばう)御座(おはしま)しけり。去(さんぬる)元享(げんかう)の秋の比(ころ)かとよ、主上北山殿(きたやまどの)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、御賀(おんが)の舞(まひ)の有(あり)ける時、堂下(だうか)の立部(りふはう)袖を翻(ひるがへ)し、梨園(りゑん)の弟子(ていし)曲(きよく)を奏せしむ。繁絃急管(はんげんきふくわん)何(いづ)れも金玉(きんぎよく)の声(こゑ)玲瓏(れいろう)たり。此女房(このにようばう)琵琶(びは)の役(やく)に被召、青海波(せいがいは)を弾(だん)ぜしに、間関(かんくわん)たる鴬(うぐひす)の語(かたり)は花下(はなのもと)に滑(なめらかに)、幽咽(いうえつ)せる泉(いづみ)の流(ながれ)は氷の底(そこ)に難(なや)めり。適怨清和(てきゑんせいくわ)節(せつ)に随(したがつ)て移る。四絃(しげん)一声(いつせい)如裂帛。撥(はらつ)ては復(また)挑(かかぐ)、一曲(いつきよく)の清音(せいいん)梁上(りやうじやう)に燕(つばめ)飛(とび)、水中(すゐちゆう)に魚(うを)跳許(をどるばかり)也(なり)。中納言ほのかに是(これ)を見給(みたまひ)しより、人不知思初(おもひそめ)ける心の色、日に副(そひ)て深くのみ成行(なりゆけ)共(ども)、可云知便(たより)も無ければ、心に篭(こめ)て歎明(なげきあか)し思暮(おもひくら)して、三年(みとせ)を過給(すごしたまひ)けるこそ久しけれ。何(いか)なる人目(ひとめ)の紛(まぎ)れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜(ひとよ)の夢の幻(うつつ)、さだかならぬ枕をかはし給(たまひ)にけり。其次(そのつぎ)の夜(よ)の事ぞかし、主上俄(にはか)に笠置(かさぎ)へ落(おち)させ給ひければ、藤房(ふぢふさ)衣冠(いくわん)を脱(ぬ)ぎ、戎衣(じゆうい)に成(なつ)て供奉(ぐぶ)せんとし給ひけるが、此女房(このにようばう)に廻(めぐ)り逢(あは)ん末の契(ちぎり)も難知、一夜(いちや)の夢の面影(おもかげ)も名残(なごり)有(あり)て、今一度(ひとたび)見もし見へばやと被思ければ、彼(かの)女房の住給(すみたまひ)ける西の対(たい)へ行(ゆき)て見給ふに、時しもこそあれ、今朝(けさ)中宮(ちゆうぐう)の召(めし)有(あつ)て北山殿(きたやまどの)へ参り給(たまひ)ぬと申(まうし)ければ、中納言鬢(びん)の髪(かみ)を少し切(きつ)て、歌を書副(かきそへ)てぞ被置ける。黒髪(くろかみ)の乱(みだれ)ん世まで存(ながら)へば是(これ)を今はの形見(かたみ)とも見よ此(この)女房立帰(たちかへ)り、形見の髪と歌とを見て、読(よみ)ては泣(なき)、々(なき)ては読み、千度百廻(ちたびももたび)巻(まき)返せ共(ども)、心乱(みだれ)てせん方もなし。懸(かか)る涙に文字(もじ)消(きえ)て、いとゞ思(おもひ)に絶兼(たへかね)たり。せめて其(その)人の在所(いますところ)をだに知(しり)たらば、虎(とら)伏(ふす)野辺(のべ)鯨(くぢら)の寄(よる)浦なり共(とも)、あこがれぬべき心地(ここち)しけれ共(ども)、其行末(そのゆくすゑ)何(いづ)く共(とも)不聞定、又逢(あは)ん世の憑(たのみ)もいさや知らねば、余(あま)りの思(おもひ)に堪(たへ)かねて、書置(かきおき)し君が玉章(たまづさ)身に副(そへ)て後(のち)の世までの形(かた)みとやせん先(さき)の歌に一首(いつしゆ)書副(かきそへ)て、形見の髪を袖に入(いれ)、大井河(おほゐがは)の深き淵に身を投(なげ)けるこそ哀(あはれ)なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様(かやう)の事をや申(まうす)べき。按察(あぜちの)大納言公敏(きんとしの)卿(きやう)は上総(かづさの)国(くに)、東南院(とうなんゐんの)僧正(そうじやう)聖尋(しやうじん)は下総(しもつさの)国(くに)、峯僧正(みねのそうじやう)俊雅(しゆんが)は対馬(つしまの)国(くに)と聞へしが、俄に其(その)議を改(あらため)て、長門(ながとの)国(くに)へ流され給ふ。第四(だいし)の宮(みや)は但馬(たじまの)国(くに)へ流奉(ながしたてまつり)て、其(その)国(くに)の守護(しゆご)大田判官(おほたのはんぐわん)に預(あづけ)らる。
○八歳宮(はつさいのみや)御歌(おんうたの)事(こと)S0402
第九宮(だいくのみや)は、未(いまだ)御幼稚(ごえうち)に御坐(おはしませ)ばとて、中御門(なかのみかど)中納言宣明(のぶあきら)卿(きやう)に被預、都の内にぞ御坐有(ござあり)ける。此(この)宮(みや)今年(こんねん)は八歳(はつさい)に成(なら)せ給(たまひ)けるが、常の人よりも御心様(おんこころざま)さか/\しく御座(おはしまし)ければ、常は、「主上已(すで)に人も通(かよ)はぬ隠岐(おきの)国(くに)とやらんに被流させ給ふ上(うへ)は、我(われ)独(ひとり)都の内に止(とどま)りても何(なに)かせん。哀(あはれ)我をも君の御座(ござ)あるなる国のあたりへ流し遣(つかは)せかし。せめては外所(よそ)ながらも、御行末(おんゆくすゑ)を承(うけたま)はらん。」と書(かき)くどき打(うち)しほれて、御涙(おんなみだ)更(さら)にせきあへず。「さても君の被押篭御座(ござ)ある白河(しらかは)は、京(みやこ)近き所と聞くに、宣明(のぶあきら)はなど我を具足(ぐそく)して御所(ごしよ)へは参(まゐ)らぬぞ。」と仰有(おほせあり)ければ、宣明卿涙を押(おさ)へて、「皇居(くわうきよ)程近(ほどちか)き所にてだに候はゞ、御伴(おんとも)仕(おんともつかまつり)て参(さん)ぜん事子細(しさい)有(ある)まじく候が、白河(しらかは)と申(まうし)候は都より数百里(すひやくり)を経(へ)て下(くだ)る道にて候。されば能因法師(のういんほつし)が都をば霞(かすみ)と共に出(いで)しかど秋風ぞ吹(ふく)白川(しらかは)の関(せき)と読(よみ)て候(さふらひ)し歌にて、道の遠き程、人を通(とほ)さぬ関ありとは思召知(おぼしめししら)せ給へ。」と被申ければ、宮御泪(おんなみだ)を押(おさ)へさせ給(たまひ)て、暫(しばし)は被仰出事もなし。良(やや)有(あり)て、「さては宣明(のぶあきら)我(われ)を具足(ぐそく)して参(まゐ)らじと思へる故(ゆゑ)に、加様(かやう)に申(まうす)者也(なり)。白川(しらかはの)関読(よみ)とたりしは、全く洛陽(らくやう)渭水(ゐすゐ)の白河には非(あら)ず、此(この)関奥州の名所(めいしよ)也(なり)。近来(このごろ)津守国夏(つもりくになつ)が、是(これ)を本歌(ほんか)にて読(よみ)たりし歌に、東路(あづまぢ)の関迄ゆかぬ白川(しらかは)も日数(ひかず)経(へ)ぬれば秋風ぞ吹(ふく)又最勝寺(さいしようじ)の懸(かかり)の桜枯(かれ)たりしを、植(うゑ)かゆるとて、藤原雅経朝臣(ふぢはらのまさつねあつそん)、馴々(なれなれ)て見しは名残(なごり)の春ぞともなど白川の花(はな)の下陰(したかげ)是(これ)皆(みな)名(な)は同(おなじう)して、所(ところ)は替(かは)れる証歌(しようか)也(なり)。よしや今は心に篭(こめ)て云出(いひいだ)さじ。」と、宣明(のぶあきら)を被恨仰、其後(そののち)よりは書絶(かきたえ)恋しとだに不被仰、万(よろ)づ物憂(ものうき)御気色(おんきしよく)にて、中門(ちゆうもん)に立(たた)せ給へる折節(をりふし)、遠寺(ゑんじ)の晩鐘(ばんしよう)幽(かすか)に聞へければ、つく/゛\と思暮(おもひくら)して入逢(いりあひ)の鐘を聞(きく)にも君ぞ恋しき情(こころ)動于中言(ことば)呈於外、御歌(おんうた)のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比(そのころ)京中(きやうぢゆう)の僧俗男女(なんによ)、是(これ)を畳紙(たたうがみ)・扇(あふぎ)に書付(かきつけ)て、「是(これ)こそ八歳(はつさい)の宮(みや)の御歌(おんうた)よ。」とて、翫(もてあそ)ばぬ人は無(なか)りけり。
○一宮(いちのみや)並(ならびに)妙法院(めうほふゐん)二品親王(にほんしんわうの)御事(おんこと) S0403
三月八日一宮(いちのみや)中務卿(なかつかさのきやう)親王(しんわう)をば、佐々木(ささきの)大夫判官(たいふはんぐわん)時信(ときのぶ)を路次(ろし)の御警固(おんけいご)にて、土佐(とさ)の畑(はた)へ流し奉る。今までは縦(たとひ)秋刑(しうけい)の下(もと)に死(しし)て、竜門原上(りようもんげんじやう)の苔に埋(うづま)る共(とも)、都のあたりにて、兎(と)も角(かく)もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念(ごきねん)有(あり)けれ共(ども)、昨日(きのふ)既(すでに)先帝(せんてい)をも流し奉りぬと、警固(けいご)の武士共(ぶしども)申合(まうしあ)ひけるを聞召(きこしめし)て、御祈念(ごきねん)の御憑(おんたのみ)もなく、最(いと)心細く思召(おぼしめし)ける処(ところ)に、武士共(もののふども)数多(あまた)参りて、中門(ちゆうもん)に御輿(おんこし)を差寄(さしよ)せたれば、押(おさ)へかねたる御泪(おんなみだ)の中(うち)に、せき留(とむ)る柵(しがらみ)ぞなき泪河(なみだがは)いかに流るゝ浮身(うきみ)なるらん同(おなじき)日、妙法院(めうほふゐん)二品(にほん)親王(しんわう)をも、長井(ながゐ)左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)高広(たかひろ)を御警固(おんけいご)にて讚岐(さぬきの)国(くに)へ流し奉る。昨日(きのふ)は主上御遷幸(ごせんかう)の由を承(うけたまは)り、今日(けふ)は一宮(いちのみや)被流させ給(たまひ)ぬと聞召(きこしめし)、御心(おんこころ)を傷(いた)ましめ給(たまひ)けり。憂名(うきな)も替らぬ同じ道に、而(しか)も別(わかれ)て赴(おもむ)き給(たまふ)、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲(かなし)けれ。初(はじめ)の程こそ別々(べちべち)にて御下(おんくだり)有(あり)けるが、十一日の暮程(くれほど)には、一宮(いちのみや)も妙法院(めいほふゐん)も諸共(もろとも)に兵庫(ひやうご)に着(つか)せ給(たまひ)たりければ、一宮(いちのみや)は是(これ)より御舟(おんふね)にめして、土佐(とさ)の畑(はた)へ可有御下由聞へければ、御文(おんふみ)を参(まゐら)せ玉(たまひ)けるに、今までは同じ宿(やど)りを尋(たづね)来て跡(あと)無(な)き波と聞(きく)ぞ悲(かなし)き一宮(いちのみや)御返事(おんへんじ)、明日(あす)よりは迹(あと)無(な)き波に迷共(まよふとも)通(かよ)ふ心よしるべ共(とも)なれ配所(はいしよ)は共に四国(しこく)と聞(きこ)ゆれば、せめては同(おなじ)国にてもあれかし。事問(こととふ)風の便(たより)にも、憂(うき)を慰(なぐさ)む一節(ひとふし)とも念じ思召(おぼしめし)けるも叶はで、一宮(いちのみや)はたゆたふ波に漕(こが)れ行(ゆく)、身を浮(うき)舟に任(まか)せつゝ、土佐(とさ)の畑(はた)へ赴かせ給へば、有井(ありゐ)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)が館(たち)の傍(かたはら)に、一室(いつしつ)を構(かまへ)て置(おき)奉る。彼畑(かのはた)と申(まうす)は、南は山の傍(そば)にて高く、北は海辺(かいへん)にて下(さが)れり、松の下露(したつゆ)扉(とぼそ)に懸(かか)りて、いとゞ御袖(おんそで)の泪(なみだ)を添(そへ)、磯(いそ)打(うつ)波の音御枕(おんまくら)の下(した)に聞へて、是(これ)のみ通ふ故郷(ふるさと)の、夢路(ゆめぢ)も遠く成(なり)にけり。妙法院(めうほふゐん)は是(これ)より引別(ひきわか)れて、備前(びぜんの)国(くに)迄は陸地(くがぢ)を経て、児嶋(こじま)の吹上(ふきあげ)より船に召(めし)て、讚岐(さぬき)の詫間(たくま)に着(つか)せ給ふ。是(これ)も海辺(かいへん)近き処なれば、毒霧(どくむ)御身(おんみ)を侵(をか)して瘴海(しやうかい)の気冷(すさま)じく、漁歌牧笛(ぎよかぼくてき)の夕べの声、嶺雲海月(れいうんかいげつ)の秋の色、総(すべ)て触耳遮眼事の、哀(あはれ)を催(もよほ)し、御涙(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)とならずと云(いふ)事(こと)なし。先皇(せんくわう)をば任承久例に、隠岐(おきの)国(くに)へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉(ないがしろにしたてまつ)る事(こと)、関東(くわんとう)もさすが恐(おそれ)有(あり)とや思(おもひ)けん、此為(このため)に後伏見(ごふしみの)院(ゐん)の第一(だいいち)の御子(みこ)を御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉りて、先帝(せんてい)御遷幸(ごせんかう)の宣旨(せんじ)を可被成とぞ計(はから)ひ申(まうし)ける。於天下事に、今は重祚(ちようそ)の御望(おんのぞみ)可有にも非ざれば、遷幸以前(いぜん)に先帝(せんたい)をば法皇(ほふわう)に可奉成とて、香染(かうぞめ)の御衣(おんころも)を武家より調進(てうしん)したりけれ共(ども)、御法体(ごほつたい)の御事(おんこと)は、暫く有(ある)まじき由を被仰て、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)をも脱(ぬが)せ給はず。毎朝(まいてう)の御行水(おんぎやうずゐ)をめされ、仮(かり)の皇居(くわうきよ)を浄(きよ)めて、石灰(せきくわい)の壇(だん)に準(なぞら)へて、太神宮(たいじんぐう)の御拝(ごはい)有(あり)ければ、天に二(ふたつ)の日(ひ)無(なけ)れども、国に二(ふたり)の王(わう)御座(おはします)心地(ここち)して、武家も持(もち)あつかひてぞ覚へける。是(これ)も叡慮に憑思食(たのみおぼしめす)事(こと)有(あり)ける故(ゆゑ)也(なり)。
○俊明極(しゆんみんき)参内(さんだいの)事(こと) S0404
去元享(さんぬるげんかう)元年の春(はる)の比(ころ)、元朝(げんてう)より俊明極(しゆんみんき)とて、得智(とくち)の禅師(ぜんじ)来朝(らいてう)せり。天子(てんし)直(ぢき)に異朝(いてう)の僧に御相看(ごしやうかん)の事は、前々(さきざき)更(さら)に無(なか)りしか共(ども)、此君(このきみ)禅(ぜん)の宗旨(しゆうし)に傾(かたぶ)かせ給(たまひ)て、諸方(しよはう)参得(さんとく)の御志(おんこころざし)をはせしかば、御法談(ごほふだん)の為に此(この)禅師を禁中(きんちゆう)へぞ被召ける。事の儀式余(あまり)に微々(びび)ならんは、吾朝(わがてう)の可恥とて、三公公卿(くぎやう)も出仕(しゆつし)の妝(よそほ)ひを刷(つくろ)ひ、蘭台金馬(らんだいきんめ)も守禦(しゆぎよ)の備(そなへ)を厳(きびし)くせり。夜半(やはん)に蝋燭(ろつそく)を伝(たて)て禅師被参内。主上紫宸殿(ししんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、玉坐(ぎよくざ)に席を薦(すす)め給ふ。禅師三拝礼(さんはいらい)訖(をはつ)て、香(かう)を拈(ねん)じて万歳(ばんぜい)を祝(しゆく)す。時に勅問(ちよくもん)有(あつ)て曰(いはく)、「桟山航海得々(とくとくとして)来(きたる)。和尚(をしやう)以何度生(どしやう)せん。」禅師答(こたへて)云(いはく)、「以仏法緊要処度生(どしやうせ)ん。」重(かさね)て、曰(いはく)、「正当(しやうたう)恁麼時(いんものとき)奈何(いかん)。」答(こたへて)曰(いはく)、「天上(てんじやう)に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談(ごほふだん)畢(をはつ)て、禅師拝揖(はいいふ)して被退出。翌日(よくじつ)別当実世卿(さねよのきやう)を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此(この)君雖有亢竜悔、二度(ふたたび)帝位(ていゐ)を践(ふま)せ給(たまふ)べき御相(ごさう)有(あり)。」とぞ被申ける。今君為武臣囚(とらはれ)て亢竜(かうりよう)の悔(くい)に合(あは)せ給ひけれ共(ども)、彼(かの)禅師の相(さう)し申(まうし)たりし事なれば、二度(ふたたび)九五(きうご)の帝位を践(ふま)せ給はん事(こと)、無疑思食(おぼしめす)に依(よつ)て、法体(ほつたい)の御事(おんこと)は暫く有(ある)まじき由を、強(しひ)て被仰出けり。
○中宮(ちゆうぐう)御歎(おんなげきの)事(こと) S0405
三月七日、已(すで)に先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜(よ)に紛れて、六波羅(ろくはら)の御所(ごしよ)へ行啓(ぎやうけい)成(なら)せ給(たまひ)、中門(ちゆうもん)に御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)たれば、主上出御(しゆつぎよ)有(あり)て、御車(おんくるま)の簾(すだれ)を被掲(かかげらる)。君は中宮を都に止置(とめおき)奉りて、旅泊(りよはく)の波長汀(ちやうてい)の月に彷徨(さすらひ)給はんずる行末(ゆくすゑ)の事を思召(おぼしめ)し連(つら)ね、中宮は又主上を遥々(はるばる)と遠外(ゑんぐわい)に想像(おもひやり)奉りて、何(なに)の憑(たのみ)の有世(あるよ)共(とも)なく、明(あけ)ぬ長夜(ちやうや)の心迷ひの心地(ここち)し、長襟(ながきものおもひ)にならんと、共に語り尽(つく)させ給はゞ、秋の夜(よ)の千夜(ちよ)を一夜(ひとよ)に準(なぞらふ)共(とも)、猶詞(ことば)残(のこり)て明(あけ)ぬべければ、御心(おんこころ)の中(うち)の憂(う)き程は其言(そのこと)の葉(は)も及ばねば、中々(なかなか)云出(いひいだ)させ給ふ一節(ひとふし)もなし。只御泪(おんなみだ)にのみかきくれて、強顔(つれなく)見へし晨明(ありあけ)も、傾(かたぶ)く迄に成(なり)にけり。夜(よ)已(すで)に明(あけ)なんとしければ、中宮御車(おんくるま)を廻(めぐ)らして還御(くわんぎよ)成(なり)けるが、御泪(おんなみだ)の中(うち)に、此上(このうへ)の思(おもひ)はあらじつれなさの命(いのち)よさればいつを限りぞと許(ばかり)聞へて、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ながら、帰車(かへるくるま)の別路(わかれぢ)に、廻(めぐ)り逢世(あふよ)の憑(たのみ)なき、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲しけれ。
○先帝(せんてい)遷幸(せんかうの)事(こと) S0406
明(あく)れば三月七日、千葉介(ちばのすけ)貞胤(さだたね)、小山(をやまの)五郎左衛門、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはうぐわん)入道々誉(だうよ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、路次(ろし)を警固仕(けいごつかまつり)て先帝(せんてい)を隠岐(おきの)国(くに)へ遷(うつ)し奉る。供奉(ぐぶ)の人とては、一条頭大夫(とうだいぶ)行房(ゆきふさ)、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、御仮借(おんかいしやく)は三位殿(さんみどの)御局許(おんつぼねばかり)也(なり)。其外(そのほか)は皆甲冑(かつちう)を鎧(よろひ)て、弓箭(きゆうせん)帯(たい)せる武士共(ぶしども)、前後左右(ぜんごさいう)に打囲(うちかこみ)奉りて、七条を西へ、東洞院(ひがしのとうゐん)を下(しも)へ御車(おんくるま)を輾(きし)れば、京中(きやうぢゆう)貴賎男女(きせんなんによ)小路(こうぢ)に立双(たちならび)て、「正(まさ)しき一天(いつてん)の主(あるじ)を、下(しも)として流し奉る事の浅猿(あさまし)さよ。武家の運命(うんめい)今に尽(つき)なん。」と所憚なく云(いふ)声巷(ちまた)に満(みち)て、只赤子(あかご)の母を慕如(したふがごと)く泣悲(なきかなし)みければ、聞(きく)に哀(あはれ)を催(もよほ)して、警固の武士(ぶし)も諸共(もろとも)に、皆鎧(よろひ)の袖をぞぬらしける。桜井(さくらゐ)の宿(しゆく)を過(すぎ)させ給(たまひ)ける時、八幡(やはた)を伏拝(ふしをがみ)御輿(おんこし)を舁居(かきすゑ)させて、二度(ふたたび)帝都(ていと)還幸(くわんかう)の事をぞ御祈念(ごきねん)有(あり)ける。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と申(まうす)は、応神天皇(てんわう)の応化(おうげ)百王鎮護(ちんご)の御誓(おんちか)ひ新(あらた)なれば、天子行在(あんざい)の外(ほか)までも、定(さだめ)て擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)をぞ廻(めぐら)さる覧(らん)と、憑敷(たのもしく)こそ思召(おぼしめし)けれ。湊川(みなとがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)時、福原(ふくはら)の京(きやう)を被御覧ても、平相国清盛(へいしやうこくきよもり)が四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎつ)て、平安城(へいあんじやう)を此卑湿(このひしつ)の地に遷(うつ)したりしかば、無幾程亡(ほろび)しも、偏(ひとへ)に上(かみ)を犯さんとせし侈(おごり)の末(すゑ)、果(はた)して天の為に被罰ぞかしと、思食(おぼしめし)慰む端(はし)となりにけり。印南野(いなの)を末に御覧(ごらん)じて、須磨(すま)の浦を過(すぎ)させ給へば、昔源氏(げんじの)大将(だいしやう)の、朧月夜(おぼろづきよ)に名を立(たて)て此(この)浦に流され、三年(みとせ)の秋を送りしに、波只(ただ)此(ここ)もとに立(たち)し心地(ここち)して、涙落(おつる)共(とも)覚(おぼえ)ぬに、枕は浮許(うくばかり)に成(なり)にけりと、旅寝(たびね)の秋を悲(かなし)みしも、理(ことわり)なりと被思召。明石(あかし)の浦の朝霧に遠く成行(なりゆく)淡路嶋(あはぢしま)、寄来(よせく)る浪も高砂(たかさご)の、尾上(をのへ)の松に吹(ふく)嵐、迹(あと)に幾重(いくへ)の山川(やまかは)を、杉坂(すぎさか)越(こえ)て美作(みまさか)や、久米(くめ)の佐羅山(さらやま)さら/\に、今は有(ある)べき時ならぬに、雲間(くもま)の山に雪見へて、遥(はるか)に遠き峯あり。御警固(おんけいご)の武士(ぶし)を召(めし)て、山の名を御尋(おんたづね)あるに、「是(これ)は伯耆(はうき)の大山(だいせん)と申(まうす)山にて候。」と申(まうし)ければ、暫く御輿(おんこし)を被止、内証甚深(ないしようじんしん)の法施(ほつせ)を奉らせ給ふ。或時(あるとき)は鶏唱(けいしやうに)抹過茅店月、或時(あるとき)は馬蹄(ばていに)踏破板橋霜、行路(かうろ)に日を窮(きは)めければ、都を御出(おんいで)有(あつ)て、十三日と申(まうす)に、出雲(いづも)の見尾(みを)の湊(みなと)に着(つか)せ給ふ。爰(ここ)にて御船(おんふね)を艤(ふなよそひ)して、渡海(とかい)の順風(じゆんぷう)をぞ待(また)れける。
○備後(びんご)三郎高徳(たかのりが)事(こと)付呉越(ごゑつ)軍(いくさの)事(こと) S0407
其比(そのころ)備前(びぜんの)国(くに)に、児嶋(こじま)備後(びんご)三郎高徳(たかのり)と云(いふ)者あり。主上笠置(かさぎ)に御座有(ござあり)し時、御方(みかた)に参(さん)じて揚義兵しが、事未(いまだ)成(ならざる)先(さき)に、笠置(かさぎ)も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失(うしなう)て黙止(もだし)けるが、主上隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給(たまふ)と聞(きい)て、無弐一族共(いちぞくども)を集めて評定(ひやうぢやう)しけるは、「志士(しじ)仁(じん)人(じんは)無求生以(もつて)害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛(ゑい)の懿公(いこう)が北狄(ほくてき)の為に被殺て有(あり)しを見て、其(その)臣に弘演(こうえん)と云(いひ)し者、是(これ)を見るに不忍、自(みづから)腹を掻切(かききつ)て、懿公(いこう)が肝を己(おのれ)が胸の中(うち)に収め、先君(せんくん)の恩を死後(しご)に報(はうじ)て失(うせ)たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸(りんかう)の路次(ろし)に参り会(あひ)、君を奪取奉(うばひとりたてまつり)て大軍を起し、縦(たと)ひ尸(かばね)を戦場に曝(さら)す共(とも)、名を子孫に伝へん。」と申(まうし)ければ、心ある一族共(いちぞくども)皆此義(このぎ)に同(どう)ず。「さらば路次の難所(なんじよ)に相待(あひまち)て、其隙(そのひま)を可伺。」とて、備前と播磨(はりま)との境(さかひ)なる、舟坂山(ふなさかやま)の嶺(みね)に隠れ臥(ふし)、今や/\とぞ待(まち)たりける。臨幸余(あま)りに遅(おそ)かりければ、人を走らかして是(これ)を見するに、警固(けいご)の武士(ぶし)、山陽道(せんやうだう)を不経、播磨(はりま)の今宿(いまじゆく)より山陰道(せんいんだう)にかゝり、遷幸(せんかう)を成(なし)奉りける間、高徳(たかのり)が支度(したく)相違してけり。さらば美作(みまさか)の杉坂(すぎさか)こそ究竟(くつきやう)の深山(みやま)なれ。此(ここ)にて待奉(まちたてまつら)んとて、三石(みついし)の山より直違(すぢかひ)に、道もなき山の雲を凌(しの)ぎて杉坂へ着(つい)たりければ、主上早(は)や院庄(ゐんのしやう)へ入(いら)せ給(たまひ)ぬと申(まうし)ける間(あひだ)、無力此(これ)より散々(ちりぢり)に成(なり)にけるが、せめても此所存(このしよぞん)を上聞(しやうぶん)に達せばやと思(おもひ)ける間、微服潛行(びふくせんかう)して時分(じぶん)を伺ひけれ共(ども)、可然隙(ひま)も無(なか)りければ、君の御坐(ござ)ある御宿(おんやど)の庭に、大(おほき)なる桜木(さくらぎ)有(あり)けるを押削(おしけづり)て、大文字(おほもじ)に一句の詩(し)をぞ書付(かきつけ)たりける。天莫空勾践(こうせん)。時非無范蠡。御警固(おんけいご)の武士共(ぶしども)、朝(あした)に是(これ)を見付(みつけ)て、「何事(なにこと)を何(いか)なる者が書(かき)たるやらん。」とて、読(よみ)かねて、則(すなはち)上聞(しやうぶん)に達してけり。主上は軈(やが)て詩の心を御覚(さと)り有(あり)て、竜顔(りようがん)殊に御快(おんこころよ)く笑(ゑま)せ給へども、武士共(ぶしども)は敢て其来歴(そのらいれき)を不知、思咎(おもひとがむ)る事も無(なか)りけり。抑(そもそも)此(この)詩の心は、昔異朝(いてう)に呉越(ごゑつ)とてならべる二(ふたつ)の国あり。此両国(このりやうごく)の諸侯(しよこう)皆王道(わうだう)を不行、覇業(はげふ)を務(つとめ)としける間、呉は越を伐(うつ)て取(とら)んとし、越は呉を亡(ほろぼ)して合(あは)せんとす。如此相争(あひあらそふ)事(こと)及累年。呉越互に勝負(しようぶ)を易(か)へしかば、親の敵(てき)となり、子の讎(あだ)と成(なつ)て共に天を戴(いただ)く事を恥(はづ)。周(しう)の季(すゑ)の世に当(あたつ)て、呉国(ごこく)の主(あるじ)をば呉王(ごわう)夫差(ふさ)と云(いひ)、越国(ゑつのくに)の主(あるじ)をば越王(ゑつわう)勾践(こうせん)とぞ申(まうし)ける。或時(あるとき)此(この)越王(ゑつわう)范蠡と云(いふ)大臣を召(めし)て宣(のたま)ひけるは、「呉は是(これ)父祖(ふそ)の敵(てき)也(なり)。我(われ)是(これ)を不討、徒(いたづら)に送年事(こと)、嘲(あざけり)を天下の人に取(とる)のみに非(あら)ず。兼(かね)ては父祖(ふそ)の尸(かばね)を九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)に羞(はづか)しむる恨(うらみ)あり。然れば我(われ)今(いま)国の兵(つはもの)を召集(めしあつめ)て、自(みづか)ら呉国へ打超(うちこえ)、呉王夫差を亡(ほろぼ)して父祖(ふそ)の恨(うらみ)を散(さん)ぜんと思(おもふ)也(なり)。汝(なんぢ)は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌(いさ)め申(まうし)けるは、「臣窃(ひそか)に事の子細(しさい)を計(はか)るに、今越の力を以て呉を亡(ほろぼ)さん事は頗(すこぶる)以(もつて)可難る。其故(そのゆゑ)は先(まづ)両国の兵(つはもの)を数(かぞ)ふるに呉は二十万騎(にじふまんぎ)越は纔(わづか)に十万騎(じふまんぎ)也(なり)。誠(まこと)に以小を、大(だい)に不敵、是(これ)呉を難亡其一(そのひとつ)也(なり)。次には以時計(はか)るに、春夏(はるなつ)は陽(やう)の時にて忠賞(ちゆうしやう)を行ひ秋冬(あきふゆ)は陰(いん)の時にて刑罰を専(もつぱら)にす。時(とき)今(いま)春(はる)の始(はじめ)也(なり)。是(これ)征伐(せいばつ)を可致時に非(あら)ず。是(これ)呉を難滅其二(そのふたつ)也(なり)。次に賢人(けんじんの)所帰則(すなはち)其(その)国(くに)強(つよし)、臣聞(きく)呉王夫差の臣下(しんか)に伍子胥(ごししよ)と云(いふ)者あり。智(ち)深(ふかう)して人をなつけ、慮(おもんばかり)遠くして主(しゆ)を諌(いさ)む。渠儂(かれ)呉国に有(あら)ん程は呉を亡(ほろぼ)す事可難。是(これ)其三(そのみつ)也(なり)。麒麟(きりん)は角(つの)に肉有(あつ)て猛(たけ)き形(かたち)を不顕、潛竜(せんりよう)は三冬(さんとう)に蟄(ちつ)して一陽来復(いちやうらうふく)の天を待(まつ)。君(きみ)呉越(ごゑつ)を合(あはせ)られ、中国(ちゆうごく)に臨(のぞん)で南面にして孤称(こしよう)せんとならば、且(しばら)く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申(まうし)ければ、其(その)時越王(ゑつわう)大(おほき)に忿(いかつ)て宣(のたまひ)けるは、「礼記(らいき)に、父の讎(あた)には共に不戴天いへり、我已(すで)に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞(はづかし)むる所(ところ)に非(あらず)や。是(これ)を以(もつて)兵(つはもの)を集(あつむ)る処に、汝三(みつ)の不可(ふか)を挙(あげ)て我を留(とどむ)る事(こと)、其義(そのぎ)一も道に不協。先(まづ)兵(つはもの)の多少(たせう)を数(かぞ)へて可致戦ば、越は誠(まこと)に呉に難対。而(しか)れ共(ども)軍(いくさ)の勝負(しようぶ)必(かならず)しも不依勢多少、只(ただ)依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易(かは)れり。是(これ)汝(なんぢ)が皆知処(しるところ)也(なり)。今更(さら)に何(なん)ぞ越の小勢(こぜい)を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略(ぶりやく)の不足処の其一(そのひとつ)也(なり)。次(つぎ)に以時軍(いくさ)の勝負を計(はか)らば天下の人皆時(とき)を知れり。誰か軍(いくさ)に不勝。若(もし)春夏は陽(やう)の時にて罰(ばつ)を不行と云はゞ、殷(いん)の湯王(たうわう)の桀(けつ)を討(うち)しも春也(なり)。周(しう)の武王の紂(ちう)を討(うち)しも春也(なり)。されば、「天の時は不如地利に、地(ちの)利は〔不〕如人和に」といへり。而(しか)るに汝今可行征罰時に非(あら)ずと我を諌(いさ)むる、是(これ)汝が知慮(ちりよ)の浅き処の二(ふたつ)也(なり)。次に呉国に伍子胥(ごししよ)が有(あら)ん程は、呉を亡(ほろぼ)す事不可叶と云はゞ、我(われ)遂に父祖の敵(てき)を討(うつ)て恨(うらみ)を泉下(せんか)に報ぜん事有(ある)べからず。只徒(いたづら)に伍子胥(ごししよ)が死せん事を待たば死生(しせい)有命又は老少(らうせう)前後(ぜんご)す。伍子胥(ごししよ)と我と何(いづ)れをか先(さき)としる。此理(このり)を不弁我(われ)征罰を可止や。此(これ)汝が愚(ぐ)の三(みつ)也(なり)。抑(そもそも)我(われ)多日(たじつ)に及(およん)で兵(つはもの)を召(めす)事(こと)呉国(ごこく)へも定(さだめ)て聞へぬらん。事遅怠(ちたい)して却(かへつ)て呉王に被寄なば悔(くゆ)とも不可有益。「先則(さきんずるときは)制人後則(おくるるときは)被人制」といへり。事已(すで)に決(けつ)せり且(しばらく)も不可止。」とて、越王(ゑつわう)十一年二月上旬に、勾践(こうせん)自(みづか)ら十万余騎(よき)の兵(つはもの)を率(そつ)して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差(ふさ)是(これ)を聞(きい)て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎(にじふまんぎの)勢を率(そつ)して、呉と越との境(さかひ)夫枡県(ふせうけん)と云(いふ)所に馳向(はせむか)ひ、後(うしろ)に会稽山(くわいけいざん)を当(あ)て、前に大河(たいが)を隔(へだて)て陣を取る。態(わざ)と敵を計(はから)ん為に三万余騎(よき)を出(いだ)して、十七万騎(じふしちまんぎ)をば陣の後(うしろ)の山陰(やまかげ)に深く隠(かく)してぞ置(おい)たりける。去程(さるほど)に越王(ゑつわう)夫枡県(ふせうけん)に打臨(うちのぞん)で、呉の兵(つはもの)を見給へば、其(その)勢僅(はつか)に二三万騎(にさんまんぎ)には過(すぎ)じと覚へて所々(しよしよ)に磬(ひか)へたり。越王(ゑつわう)是(これ)を見て、思(おもふ)に不似小勢なりけりと蔑(あなどつ)て、十万騎(じふまんぎ)の兵同時(どうじ)に馬を河水(かすゐ)に打入(うちいれ)させ、馬筏(むまいかだ)を組(くん)で打渡(うちわた)す。比(ころ)は二月上旬の事なれば、余寒(よかん)猶(なほ)烈(はげし)くして、河水(かすゐ)氷(こほり)に連(つらな)れり。兵(つはもの)手(て)凍(こごつ)て弓を控(ひく)に不叶。馬は雪に泥(なづん)で懸引(かけひき)も不自在。され共(ども)越王(ゑつわう)責鼓(せめつづみ)を打(うつ)て進まれける間、越の兵我先(われさき)にと双轡懸入(かけい)る。呉国の兵は兼(かね)てより敵(てき)を難所(なんじよ)にをびき入(いれ)て、取篭(とりこめ)て討(うた)んと議(ぎ)したる事なれば、態(わざ)と一軍(ひといくさ)もせで夫椒県(ふせうけん)の陣を引退(ひきしりぞい)て会稽山(くわいけいざん)へ引篭(ひきこも)る。越の兵勝(かつ)に乗(のつ)て北(にぐ)るを追(おふ)事(こと)三十(さんじふ)余里(より)、四隊(したい)の陣(ぢん)を一陣に合(あは)せて、左右(さいう)を不顧、馬の息も切るゝ程、思々(おもひおもひ)にぞ追(おう)たりける。日已(すで)に暮(くれ)なんとする時に、呉(の)兵二十万騎(にじふまんぎ)思ふ図(づ)に敵を難所(なんじよ)へをびき入(いれ)て、四方(しはう)の山より打出(うちいで)て、越王(ゑつわう)勾践(こうせん)を中(なか)に取篭(とりこめ)、一人も不漏と責(せめ)戦ふ。越の兵は今朝(こんてう)の軍(いくさ)に遠懸(とほがけ)をして人馬(じんば)共に疲れたる上(うへ)無勢(ぶせい)なりければ、呉の大勢(おほぜい)に被囲、一所(いつしよ)に打寄(うちより)て磬(ひか)へたり。進(すすん)で前(さき)なる敵(てき)に蒐(かか)らんとすれば、敵は嶮岨(けんそ)に支(ささ)へて、鏃(やじり)を調(そろ)へて待懸(まちかけ)たり。引返(ひつかへし)て後(うしろ)なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越(ゑつの)兵(つはもの)疲(つか)れたり。進退(しんだい)此(ここ)に谷(きはまつ)て敗亡(はいばう)已(すで)に極(きはま)れり。され共(ども)越王(ゑつわう)勾践(こうせん)は破堅摧利事(こと)、項王(かうわう)が勢(いきほひ)を呑(のみ)、樊■勇(はんくわいがゆう)にも過(すぎ)たりければ、大勢の中へ懸入(かけいり)、十文字(じふもんじ)に懸破(かけやぶり)、巴(は)の字に追廻(おひめぐ)らす。一所(いつしよ)に合(あう)て三処に別れ、四方(しはう)を払(はらう)て八面(はちめん)に当(あた)る。頃刻(きやうこく)に変化して雖百度戦、越王(ゑつわう)遂に打負(うちまけ)て、七万余騎(よき)討(うた)れにけり。勾践(こうせん)こらへ兼(かね)て会稽山(くわいけいざん)に打上(うちあが)り、越の兵を数(かぞふ)るに打残されたる兵僅(わづか)に三万余騎(よき)也(なり)。其(それ)も半(なか)ば手を負(おう)て悉(ことごとく)箭(や)尽(つき)て鋒(ほこさき)折(をれ)たり。勝負(しようぶ)を呉越に伺(うかがう)て、未だ何方(いづかた)へも不着つる隣国(りんごく)の諸侯(しよこう)、多く呉王の方に馳加(はせくは)はりければ、呉の兵弥(いよいよ)重(かさなつ)て三十万騎(さんじふまんぎ)、会稽山(くわいけいざん)の四面(しめん)を囲(かこむ)事(こと)如稲麻竹葦也(なり)。越王(ゑつわう)帷幕(ゐばく)の内に入り、兵を集めて宣(のたま)ひけるは、「我(われ)運命已(すで)に尽(つき)て今此囲(このかこみ)に逢へり。是(これ)全く非戦咎、天亡我。然れば我(われ)明日(みやうにち)士(し)と共に敵の囲(かこみ)を出(いで)て呉王の陣に懸入(かけい)り、尸(かばね)を軍門に曝(さら)し、恨(うらみ)を再生(さいしやう)に可報。」とて越の重器(ちようき)を積(つん)で、悉(ことごとく)焼捨(やきすて)んとし給ふ。又王■与(わうせきよ)とて、今年(こんねん)八歳(はつさい)に成(なり)給ふ最愛(さいあい)の太子(たいし)、越王(ゑつわう)に随(したがつ)て、同(おなじ)く此(この)陣に座(おはし)けるを呼出(よびいだ)し奉(たてまつつ)て、「汝未(いまだ)幼稚なれば、吾(わが)死(し)に殿(おく)れて、敵に捕(とら)れ、憂目(うきめ)を見ん事も可心憂。若(もし)又我(われ)為敵虜(とらは)れて、我(われ)汝(なんぢ)より先立(さきたた)ば、生前(しやうぜん)の思(おもひ)難忍。不如汝を先立(さきたて)て心安く思切(おもひき)り、明日の軍(いくさ)に討死(うちじに)して、九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)、三途(さんづ)の露の底迄(そこまで)も、父子(ふし)の恩愛(おんあい)を不捨と思ふ也(なり)。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧(すす)め給ふ時に、越王(ゑつわう)の左将軍(さしやうぐん)に、大夫(たいふ)種(しよう)と云(いふ)臣あり。越王(ゑつわう)の御前(おんまへ)に進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「生(しやう)を全(まつた)くして命(いのち)を待(まつ)事(こと)は遠くして難(かた)く、死を軽(かろ)くして節(せつ)に随ふ事は近くして安(やす)し。君暫く越の重器を焼捨(やきすて)、太子を殺す事を止(や)め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王(くんわう)の死を救(すく)ひ、本国(ほんごく)に帰(かへつ)て再び大軍を起(おこ)し、此(この)恥を濯(すすが)んと思ふ。今此(この)山を囲(かこ)んで一陣を張(はら)しむる呉の上(じよう)将軍太宰(たいさい)■(ひ)は臣が古(いにしへ)の朋友也(なり)。久(ひさし)く相馴(あひなれ)て彼(かれ)が心を察せしに、是(これ)誠(まこと)に血気の勇者なりと云へ共(ども)、飽(あく)まで其(その)心に欲有(あつ)て、後(のち)の禍(わざはひ)を不顧。又彼(かの)呉王夫差の行迹(かうせき)を語るを聞(きき)しかば、智浅(あさう)して謀(はかりごと)短く、色に婬(いん)して道に暗し。君臣(くんしん)共に何(いづ)れも欺くに安(やす)き所(ところ)也(なり)。抑(そもそも)今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡(はんれい)が諌めを用ひ不給故(ゆゑ)に非(あら)ずや。願(ねがはく)は君王(くんわう)臣が尺寸(せきすん)の謀(はかりごと)を被許、敗軍(はいぐん)数万(すまん)の死を救ひ給へ。」と諌申(いさめまうし)ければ、越王(ゑつわう)理(り)に折(をれ)て、「「敗軍の将(しやう)は再び不謀」と云へり。自今後(のち)の事は然(しかしながら)大夫(たいふ)種(しよう)に可任。」と宣(のたまひ)て、重器を被焼事を止(やめ)、太子の自害(じがい)をも被止けり。大夫(たいふ)種(しよう)則(すなはち)君の命(めい)を請(うけ)て、冑(かぶと)を脱(ぬ)ぎ旗を巻(まい)て、会稽山(くわいけいざん)より馳下(はせくだ)り、「越王(ゑつわう)勢(いきほ)ひ尽(つき)て、呉の軍門(ぐんもん)に降(くだ)る。」と呼(よばは)りければ、呉の兵三十万騎(さんじふまんぎ)、勝時(かちどき)を作(つくつ)て皆万歳(ばんぜい)を唱(とな)ふ。大夫(たいふ)種(しよう)は則(すなはち)呉の轅門(ゑんもん)に入(いつ)て、「君王の倍臣(ばいしん)、越(ゑつの)勾践(こうせん)の従者(じゆうしや)、小臣種(しよう)慎(つつしん)で呉の上(じやう)将軍の下執事(かしつじ)に属(しよく)す。」と云(いつ)て、膝行頓首(しつかうとんしゆ)して、太宰(たいさい)■(ひ)が前(まへ)に平伏(へいふく)す。太宰(たいさい)■(ひ)床(ゆか)の上に坐(ざ)し、帷幕(ゐばく)を揚(あげ)させて大夫(たいふ)種(しよう)に謁す。大夫(たいふ)種(しよう)敢(あへ)て平視せず。低面流涙申(まうし)けるは、「寡君(くわくん)勾践(こうせん)運極(きは)まり、勢(いきほひ)尽(つき)て呉の兵に囲(かこま)れぬ。仍(よつて)今(いま)小臣種(しよう)をして、越王(ゑつわう)長く呉王の臣と成(なり)、一畝(いつぽ)の民と成(なら)ん事を請(こは)しむ。願(ねがはく)は先日(せんじつ)の罪を被赦今日(こんにち)の死を助け給へ。将軍若(もし)勾践(こうせん)の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其(その)重器を将軍に奉り、美人西施(せいし)を洒掃(せいさう)の妾(せふ)たらしめ、一日(いちにち)の歓娯(くわんご)に可備。若(もし)夫(それ)請(こふ)、所望不叶遂に勾践(こうせん)を罪(つみ)せんとならば、越の重器を焼棄(やきすてて)、士卒(しそつ)の心を一(ひとつ)にして、呉王の堅陣(けんぢん)に懸入(かけいり)、軍門に尸(かばね)を可止。臣平生(へいぜい)将軍と交(まじはり)を結ぶ事膠漆(かうしつ)よりも堅し。生前(しやうぜん)の芳恩(はうおん)只此(この)事(こと)にあり。将軍早く此(この)事(こと)を呉王に奏(そう)して、臣が胸中(きようちゆう)の安否(あんぴ)を存命(ぞんめい)の裏(うち)に知(しら)しめ給へ。」と一度(ひとたび)は忿(いか)り一度(ひとたび)は歎き、言(ことば)を尽(つく)して申(まうし)ければ、太宰(たいさい)■(ひ)顔色(がんしよく)誠(まこと)に解(とけ)て、「事以(もつて)不難、我必(かならず)越王(ゑつわう)の罪をば可申宥。」とて軈(やが)て呉王の陣へぞ参りける。太宰(たいさい)■(ひ)即(すなはち)呉王の玉座(ぎよくざ)に近付(ちかづ)き、事の子細(しさい)を奏(そう)しければ、呉王大(おほき)に忿(いかつ)て、「抑(そもそも)呉と越と国を争ひ、兵を挙(あぐ)る事今日(こんにち)のみに非(あら)ず。然るに勾践(こうせん)運窮(きはまつ)て呉の擒(とりこ)となれり。是(これ)天の予(われ)に与へたるに非(あらず)や。汝(なんぢ)是(これ)を乍知勾践(こうせん)が命(いのち)を助けんと請ふ。敢(あへ)て非忠烈之臣。」宣(のたま)ひければ、太宰(たいさい)■(ひ)重(かさね)て申(まうし)けるは、「臣雖不肖、苛(いやしく)も将軍の号(がう)を被許、越の兵と戦(たたかひ)を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝(かつ)事(こと)を快(こころよ)くせり。是(これ)偏(ひとへ)に臣が丹心(たんしん)の功と云(いひ)つべし。為君王の、天下の太平を謀(はか)らんに、豈(あに)一日も尽忠不傾心や。倩(つらつら)計事是非、越王(ゑつわう)戦に負(まけ)て勢(いきほひ)尽(つき)ぬといへ共(ども)、残処(のこるところ)の兵(つはもの)猶(なほ)三万余騎(よき)、皆逞兵鉄騎(ていへいてつき)の勇士也(なり)。呉の兵雖多昨日の軍(いくさ)に功有(あつ)て、自今後(のち)は身を全(まつたう)して賞を貪(むさぼら)ん事を思ふべし。越の兵は小勢(こぜい)なりといへ共(ども)志(こころざし)を一(ひとつ)にして、而(しか)も遁(のが)れぬ所を知れり。「窮鼠(きゆうそ)却(かへつて)噛猫、闘雀(とうじやく)不恐人」といへり。呉越重(かさね)て戦(たたか)はゞ、呉は必(かならず)危(あやふき)に可近る。不如先(まづ)越王(ゑつわう)の命を助け、一畝(いつぽ)の地(ち)を与(あたへ)て呉の下臣(かしん)と成さんには。然(しか)らば君王呉越(ごゑつ)両国(りやうこく)を合(あは)するのみに非(あら)ず。斉(せい)・楚(そ)・秦(しん)・趙(てう)も悉く不朝云(いふ)事(こと)有(ある)べからず。是(これ)根を深くし蔕(ほぞ)を固(かたう)する道也(なり)。」と、理を尽(つくし)て申(まうし)ければ、呉王即(すなはち)欲(よく)に耽(ふけ)る心を逞(たくましう)して、「さらば早(はや)会稽山(くわいけいざん)の囲(かこみ)を解(とい)て勾践(こうせん)を可助。」宣ひける。太宰(たいさい)■(ひ)帰(かへつ)て大夫(たいふ)種(しゆう)に此由(このよし)を語(かた)りければ、大夫(たいふ)種(しよう)大(おほき)に悦(よろこう)で、会稽山(くわいけいざん)に馳(はせ)帰り、越王(ゑつわう)に此旨(このむね)を申せば、士卒皆(みな)色(いろ)を直(なほ)して、「出万死逢一生(いつしやう)、偏(ひとへ)に大夫(たいふ)種(しよう)が智謀(ちぼう)に懸(かか)れり。」と、喜ばぬ人も無(なか)りけり。越王(ゑつわう)已(すで)に降旗(かうき)を被建ければ、会稽(くわいけい)の囲(かこみ)を解(とい)て、呉の兵(つはもの)は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践(こうせん)即(すなはち)太子王■与(わうせきよ)をば、大夫(たいふ)種(しよう)に付(つけ)て本国へ帰し遣(つかは)し、我(わが)身は白馬素車(はくばそしや)に乗(のつ)て越の璽綬(じじう)を頚に懸(かけ)、自(みづか)ら呉の下臣(かしん)と称して呉の軍門に降(くだ)り給ふ。斯(かか)りけれ共(ども)、呉王猶(なほ)心ゆるしや無(なか)りけん、「君子(くんし)は不近刑人」とて、勾践(こうせん)に面(おもて)を不見給、剰(あまつさへ)勾践(こうせん)を典獄(てんごく)の官(くわん)に被下、日に行事一駅(えき)駆(く)して、呉の姑蘇城(こそじやう)へ入(いり)給ふ。其(その)有様を見る人、涙の懸(かか)らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着(つき)給へば、即(すなはち)手械(てかせ)足械(あしかせ)を入(いれ)て、土(つち)の楼(ろう)にぞ入(いれ)奉りける。夜(よ)明(あけ)日(ひ)暮(くる)れ共(ども)、月日(つきひ)の光をも見給はねば、一生(いつしやう)溟暗(めいあん)の中(うち)に向(むかつ)て、歳月(としつき)の遷易(うつりかはる)をも知(しり)給はねば、泪(なみだ)の浮ぶ床(とこ)の上(うへ)、さこそは露も深かりけめ。去(さる)程に范蠡(はんれい)越の国に在(あつ)て此(この)事(こと)を聞(きく)に、恨(うらみ)骨髄(こつずゐ)に徹(とほつ)て難忍。哀(あはれ)何(いか)なる事をもして越王(ゑつわう)の命を助け、本国に帰り給へかし。諸共(もろとも)に謀(はかりごと)を廻(めぐ)らして、会稽山(くわいけいざん)の恥を雪(きよ)めんと、肺肝(はいかん)を砕(くだい)て思(おもひ)ければ、疲身替形、簀(あじか)に魚(うを)を入(いれ)て自ら是(これ)を荷(にな)ひ、魚(うを)を売(うる)商人(あきんど)の真似(まね)をして、呉国へぞ行(ゆき)たりける。姑蘇城の辺(ほとり)にやすらひて、勾践(こうせん)のをはする処を問(とひ)ければ、或人(あるひと)委(くはし)く教へ知(しら)せけり。范蠡嬉しく思(おもひ)て、彼獄(かのごく)の辺(ほとり)に行(ゆき)たりけれ共(ども)、禁門(きんもん)警固(けいご)隙(ひま)無(なか)りければ、一行(いちがう)の書(しよ)を魚(うを)の腹の中に収(をさめ)て、獄(ごく)の中へぞ擲入(なげいれ)ける。勾践(こうせん)奇(あやし)く覚(おぼ)して、魚の腹を開(ひらい)て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書(かき)たりける。筆の勢(いきほひ)文章の体(てい)、まがふべくもなき范蠡(はんれい)が業(しわ)ざ也(なり)。と見給ひければ、彼(か)れ未だ憂世(うきよ)に存(ながら)へて、為我肺肝(はいかん)を尽(つく)しけりと、其(その)志の程哀(あはれ)にも又憑(たの)もしくも覚へけるにこそ、一日片時(へんし)も生(い)けるを憂(う)しとかこたれし我(わが)身ながらの命(いのち)も、却(かへつ)て惜(をし)くは思はれけれ。斯(かか)りける処に、呉王夫差(ふさ)俄に石淋(せきりん)と云(いふ)病(やまひ)を受(うけ)て、身心(しんしん)鎮(とこしなへ)に悩乱(なうらん)し、巫覡(ぶげき)祈れ共(ども)無験、医師(いし)治(ぢ)すれ共(ども)不痊、露命(ろめい)已(すで)に危(あやふ)く見(み)へ給(たまひ)ける処に、侘国(たこく)より名医(めいい)来(きたつ)て申(まうし)けるは、「御病(おんやまひ)実(まこと)に雖重医師の術(じゆつ)及(およぶ)まじきに非(あら)ず。石淋(せきりん)の味(あぢはひ)を甞(なめ)て、五味(ごみ)の様(やう)を知(しら)する人あらば、輒(たやす)く可奉療治。」とぞ申(まうし)ける。「さらば誰か此(この)石淋を甞(なめ)て其味(そのあぢはひ)をしらすべき」と問(とふ)に、左右(さいう)の近臣(きんしん)相顧(あひかへりみ)て、是(これ)を甞(なむ)る人更(さら)になし。勾践(こうせん)是(これ)を伝聞(つたへきい)て泪(なみだ)を押へて宣(のたまは)く、「我(われ)会稽(くわいけい)の囲(かこみ)に逢(あひ)し時已(すで)に被罰べかりしを、今に命(いのち)助置(たすけおか)れて天下の赦(ゆるし)を待(まつ)事(こと)、偏(ひとへ)に君王(くんわう)慈慧(じけい)の厚恩(こうおん)也(なり)。我(われ)今是(これ)を以て不報其恩何(いつ)の日をか期(ご)せん。」とて潛(ひそか)に石淋を取(とり)て是(これ)を甞(なめ)て其味(そのあぢはひ)を医師に被知。医師味(あぢはひ)を聞(きい)て加療治、呉王の病(やまひ)忽(たちまち)に平癒(へいゆつ)してげり。呉王大(おほき)に悦(よろこう)で、「人有心助我死、我(われ)何(なん)ぞ是(これ)を謝(しや)する心無(なか)らんや。」とて、越王(ゑつわう)を自楼出(いだ)し奉るのみに非(あら)ず。剰(あまつさへ)越の国を返し与へて、「本国へ返(かへ)り去(さる)べし。」とぞ被宣下ける。爰(ここ)に呉王の臣伍子胥(ごししよ)と申(まうす)者、呉王を諌(いさめ)て申(まうし)けるは、「「天(てんの)与(あたふるを)不取却(かへつ)て得其咎」云へり。此(この)時越の地を不取勾践(こうせん)を返し被遣事(こと)、千里(せんり)の野辺(のべ)に虎を放つが如し。禍(わざはひ)可在近。」申(まうし)けれ共(ども)呉王是(これ)を不聞給、遂に勾践(こうせん)を本国へぞ被返ける。越王(ゑつわう)已(すで)に車(くるま)の轅(ながえ)を廻(めぐら)して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙(かはづ)其(その)数を不知車(くるまの)前(さき)に飛来(とびきたる)。勾践(こうせん)是(これ)を見給(たまひ)て、是(これ)は勇士を得て素懐(そくわい)を可達瑞相(ずゐさう)也(なり)。とて、車より下(おり)て是(これ)を拝(はい)し給ふ。角(かく)て越の国へ帰(かへつ)て住来(すみこし)故宮(こきゆう)を見給へば、いつしか三年(みとせ)に荒(あれ)はて、梟(ふくろふ)鳴松桂枝狐(きつね)蔵蘭菊叢、無払人閑庭(かんてい)に落葉(らくえふ)満(みち)て簫々(せうせう)たり。越王(ゑつわう)免死帰給(かへりたまひ)ぬと聞へしかば、范蠡(はんれい)王子(わうじ)王■与(わうせきよ)を宮中(きゆうちゆう)へ入(いれ)奉りぬ。越王(ゑつわう)の后(きさき)に西施(せいし)と云(いふ)美人座(おはし)けり。容色(ようしよく)勝世嬋娟(せんげん)無類しかば、越王(ゑつわう)殊に寵愛(ちようあい)甚しくして暫くも側(そば)を放れ給はざりき。越王(ゑつわう)捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給(たまひ)たりしが、越王(ゑつわう)帰(かへり)給ふ由を聞(きき)給ひて則(すなはち)後宮(こうきゆう)に帰り参り玉(たま)ふ。年の三年(みとせ)を待(まち)わびて堪(たへ)ぬ思(おもひ)に沈玉(しづみたまひ)ける歎(なげき)の程も呈(あらは)れて、鬢(びん)疎(おろそ)かに膚(はだへ)消(きえ)たる御形(おんかたち)最(いと)わりなくらうたけて、梨花(りくわ)一枝(いつし)春(はるの)雨(あめ)に綻(ほころ)び、喩(たと)へん方も無(なか)りけり。公卿(こうけい)・大夫(たいふ)・文武百司(ぶんぶはくし)、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)集りける間(あひだ)、軽軒(けいけん)馳紫陌塵冠珮(ぐわんぱい)鎗丹■月、堂上(だうじやう)堂下(だうか)如再開花。斯(かか)りける処に自呉国使者(ししや)来れり。越王(ゑつわう)驚(おどろい)て以范蠡事の子細(しさい)を問(とひ)給ふに、使者答曰(こたへていはく)、「我君(わがきみ)呉王大王(だいわう)好婬重色尋美人玉(たま)ふ事天下に普(あまね)し。而(しか)れ共(ども)未だ如西施不見顔色。越王(ゑつわう)出会稽山(くわいけいざん)囲時有一言約。早く彼(かの)西施を呉の後宮(こうきゆう)へ奉傅入、備后妃位。」使(つかひ)也(なり)。越王(ゑつわう)聞之玉(たまひ)て、「我(われ)呉王夫差が陣に降(くだつ)て、忘恥甞石淋助命事(こと)、全(まつたく)保国身を栄(さか)やかさんとには非(あら)ず、只西施(せいし)に為結偕老契なりき。生前(しやうぜん)に一度(ひとたび)別(わかれ)て死して後(のち)期再会、保万乗国何(なに)かせん。されば縦(たと)ひ呉越の会盟(くわいめい)破れて二度(ふたたび)我(われ)為呉成擒共(とも)、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡(はんれい)流涙申(まうし)けるは、「誠(まこと)に君展転(てんてん)の思(おもひ)を計(はか)るに、臣非不悲云へ共(ども)、若(もし)今西施を惜(をしみ)給はゞ、呉越の軍(いくさ)再び破(やぶれ)て呉王又可発兵。去程(さるほど)ならば、越(ゑつの)国(くに)を呉に被合のみに非(あら)ず、西施をも可奪、社稷(しやしよく)をも可被傾。臣倩(つらつら)計(はか)るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮(こうきゆう)に入(いり)給ふ程ならば、呉王是(これ)に迷(まよひ)て失政事非所疑。国(くに)費(つひ)へ民背(そむか)ん時に及(およん)で、起兵被攻呉勝(かつ)事(こと)を立処(たちどころ)に可得つ。是(これ)子孫万歳(しそんばんぜい)に及(およん)で、夫人(ふじん)連理(れんり)の御契(おんちぎり)可久道となるべし。」と、一度(ひとたび)は泣(なき)一度(ひとたび)は諌(いさめ)て尽理申(まうし)ければ、越王(ゑつわう)折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿(をじか)の角(つの)のつかの間(ま)も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼(いとけ)なき太子王■与(わうせきよ)をも不云知思置(おもひおき)、ならはぬ旅に出(いで)玉へば、別(わかれ)を慕(したふ)泪(なみだ)さへ暫(しば)しが程も止(とどま)らで、袂(たもと)の乾(かわ)く隙(ひま)もなし。越王(ゑつわう)は又是(これ)や限(かぎり)の別(わかれ)なる覧(らん)と堪(たへ)ぬ思(おもひ)に臥沈(ふししづみ)て、其方(そなた)の空を遥々(はるばる)と詠(なが)めやり玉へば、遅々(ちち)たる暮山(ぼざん)の雲いとゞ泪(なみだ)の雨となり、虚(むな)しき床(ゆか)に独(ひとり)ねて、夢にも責(せめ)て逢見(あひみ)ばやと欹枕臥(ふし)玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉(なげきたま)ふもげに理(ことわ)りなり。彼(かの)西施(せいし)と申(まうす)は天下第一(だいいち)の美人也(なり)。妝(よそほひ)成(なつ)て一度(ひとたび)笑(ゑめ)ば百(もも)の媚(こび)君(きみ)が眼(まなこ)を迷(まよは)して、漸(やうやく)池上(ちじやう)に無花歟(か)と疑ふ。艷(えん)閉(とぢ)て僅(わづか)に見れば千態(ちぢのすがた)人の心を蕩(とらか)して忽(たちまち)に雲間(くもま)に失月歟(か)と奇(あや)しまる。されば一度(ひとたび)入宮中君王(くんわう)の傍(かたはら)に侍(はんべり)しより、呉王の御心(おんこころ)浮(うか)れて、夜(よる)は終夜(よもすが)ら婬楽(いんらく)をのみ嗜(たしなん)で、世の政(まつりごと)をも不聞、昼(ひる)は尽日(ひねもすに)遊宴(いうえん)をのみ事として、国の危(あやふき)をも不顧。金殿(きんでん)挿雲、四辺(しへん)三百里が間(あひだ)、山河(さんか)を枕の下に直下(みおろし)ても、西施の宴(えん)せし夢の中(うち)に興(きよう)を催さん為なりき。輦路(れんろ)に無花春(はるの)日は、麝臍(じやせい)を埋(うづみ)て履(くつ)を熏(にほは)し、行宮(あんきゆう)に無月夏の夜(よ)は、蛍火(けいくわ)を集(あつめ)て燭(とぼしび)に易(か)ふ。婬乱重日更(さらに)無止時しかば、上(かみ)荒(すさみ)下(しも)廃(すた)るれ共(ども)、佞臣(ねいしん)は阿(おもねつ)て諌(いさめ)せず。呉王(ごわう)万事酔(ゑひて)如忘。伍子胥(ごししよ)見之呉王を諌(いさめ)て申(まうし)けるは、「君不見殷(いんの)紂王(ちうわう)妲妃(だつき)に迷(まよひ)て世を乱り、周(しう)の幽王(いうわう)褒■(はうじ)を愛して国を傾(かたぶけし)事(こと)を。君今西施(せいし)を婬(いん)し給へる事過之。国の傾敗(けいはい)非遠に。願(ねがはく)は君止之給へ。」と侵言顔諌申(いさめまうし)けれ共(ども)、呉王敢(あへ)て不聞給。或時(あるとき)又呉王西施に為宴、召群臣南殿(なんでん)の花(はな)に酔(ゑひ)を勧(すす)め給(たまひ)ける処に、伍子胥(ごししよ)威儀を正(ただ)しくして参(まゐり)たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階(えうかい)を登るとて、其裾(そのもすそ)を高くかゝげたる事恰(あたかも)如渉水時。其怪(そのあやし)き故を問(とふ)に、伍子胥(ごししよ)答申(こたへてまうし)けるは、「此(この)姑蘇台(こそだい)越王(ゑつわう)の為に被亡、草深く露滋(しげ)き地とならん事非遠。臣若(もし)其(それ)迄命(いのち)あらば、住(すみ)こし昔の迹(あと)とて尋見(たづねみ)ん時、さこそは袖より余(あま)る荊棘(けいぎよく)の露も、■々(じやうじやう)として深からんずらめと、行末(ゆくすゑ)の秋を思ふ故(ゆゑ)に身を習はして裙(もすそ)をば揚(あぐ)る也(なり)。」とぞ申(まうし)ける。忠臣諌(いさめ)を納(いる)れ共(ども)、呉王曾(かつ)て不用給しかば、余(あまり)に諌(いさめ)かねて、よしや身を殺して危(あやふ)きを助けんとや思(おもひ)けん、伍子胥(ごししよ)又或時(あるとき)、只今新(あらた)に砥(と)より出(いで)たる青蛇(せいじや)の剣(けん)を持(もち)て参りたり。抜(ぬい)て呉王の御前(おんまへ)に拉(とりひしい)で申(まうし)けるは、「臣此剣(このけん)を磨(とぐ)事(こと)、退邪払敵為(ため)也(なり)。倩(つらつら)国の傾(かたぶか)んとする其基(そのもとゐ)を尋(たづ)ぬれば、皆西施より出(いで)たり。是(これ)に過(すぎ)たる敵(てき)不可有。願(ねがはく)は刎西施首、社稷(しやしよく)の危(あやふき)を助けん。」と云(いひ)て、牙(きば)を噛(かみ)て立(たつ)たりければ、忠言(ちゆうげん)逆耳時(とき)君不犯非云(いふ)事(こと)なければ、呉王大(おほき)に忿(いかつ)て伍子胥(ごししよ)を誅(ちゆう)せんとす。伍子胥(ごししよ)敢(あへ)て是(これ)を不悲。「争(あらそ)い諌(いさ)めて死節是(これ)臣下(しんか)の則(のり)也(なり)。我(われ)正(まさ)に越の兵(つはもの)の手に死なんよりは、寧(むしろ)君王(くんわう)の手に死(しなん)事(こと)恨(うらみ)の中の悦(よろこび)也(なり)。但(ただ)し君王臣が忠諌(ちゆうかん)を忿(いかつ)て吾(われ)に賜死事(こと)、是(これ)天已(すで)に棄君也(なり)。君越王(ゑつわう)の為に滅(ほろぼさ)れて、刑戮(けいりく)の罪に伏(ふくせ)ん事(こと)、三年(みとせ)を不可過。願(ねがはく)は臣が穿両眼呉の東門(とうもん)に掛(かけ)られて、其後(そののち)首(くび)を刎(はね)給へ。一双(いつさう)の眼(まなこ)未枯前(いまだかれざるさき)に、君勾践(こうせん)に被亡て死刑に赴(おもむ)き給はんを見て、一笑(いつせう)を快(こころよ)くせん。」と申(まうし)ければ、呉王弥(いよいよ)忿(いかつ)て即(すなはち)伍子胥(ごししよ)を被誅、穿其両眼呉の東門(とうもんの)幢(はたほこの)上(うへ)にぞ被掛ける。斯(かか)りし後(のち)は君悪(あく)を積(つめ)ども臣敢(あへ)て不献諌、只群臣(ぐんしん)口(くち)を噤(つぐ)み万人(ばんにん)目を以(もつ)てす。范蠡(はんれい)聞之、「時已(すで)に到りぬ。」と悦(よろこう)で、自(みづから)二十万騎(にじふまんぎ)の兵を率(そつ)して、呉国へぞ押寄(おしよせ)ける。呉王夫差(ふさ)は折節(をりふし)晋国(しんのくに)呉を叛(そむく)と聞(きい)て、晋国へ被向たる隙(ひま)なりければ、防ぐ兵(つはもの)一人(いちにん)もなし。范蠡(はんれい)先(まづ)西施を取返(とりかへ)して越王(ゑつわう)の宮(きゆう)へ帰(かへ)し入(いれ)奉り、姑蘇台(こそだい)を焼掃(やきはら)ふ。斉(せい)・楚(そ)の両国(りやうごく)も越王(ゑつわう)に志(こころざし)を通(つう)ぜしかば、三十万騎(さんじふまんぎ)を出(いだ)して范蠡(はんれい)に戮力。呉王聞之先(まづ)晋国の戦(たたかひ)を閣(さしおい)て、呉国へ引返(ひつかへ)し、越に戦(たたかひ)を挑(いどまん)とすれば、前(まへ)には呉(ご)・越(ゑつ)・斉(せい)・楚(そ)の兵(つはもの)如雲霞の、待懸(まちかけ)たり。後(うしろ)には又晋国の強敵(がうてき)乗勝追懸(おつかけ)たり。呉王大敵に前後(ぜんご)を裹(つつま)れて可遁方(かた)も無(なか)りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手(あらて)を入替(いれかへ)て不継息攻(せめ)ける間、呉の兵三万余人(よにん)討(うた)れて僅(わづか)に百騎に成(なり)にけり。呉王自(みづから)相当(あひあた)る事三十二箇度(さんじふにかど)、夜半(やはん)に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山(こそざん)に取上(とりのぼ)り、越王(ゑつわう)に使者(ししや)を立(たて)て曰(いはく)、「君王(くんわう)昔会稽山(くわいけいざん)に苦(くるしみ)し時臣(しん)夫差(ふさ)是(これ)を助(たすけ)たり。願(ねがはく)は吾(われ)今より後(のち)越の下臣(かしん)と成(なつ)て、君王の玉趾(ぎよくし)を戴(いただか)ん。君若(もし)会稽(くわいけい)の恩を不忘、臣が今日(こんにち)の死を救ひ給へ。」と言(ことば)を卑(いやしう)し厚礼降(かう)せん事をぞ被請ける。越王(ゑつわう)聞之古(いにしへ)の我が思ひに、今人(こんじん)の悲(かなし)みさこそと哀(あはれ)に思知給(おもひしりたまひ)ければ、呉王を殺に不忍、救其死思(おもひ)給へり。范蠡(はんれい)聞之、越王(ゑつわう)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て犯面申(まうし)けるは、「伐柯其則(そののり)不遠。会稽(くわいけい)の古(いにしへ)は天越(ゑつ)を呉(ご)に与へたり。而(しかる)を呉王取(とる)事(こと)無(なう)して忽(たちまち)に此害(このがい)に逢(あへ)り。今却(かへつ)て天越(ゑつ)に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢(あふ)べし。君臣共(とも)に肺肝(はいかん)を砕(くだい)て呉を謀(はか)る事二十一年、一朝(いつてう)にして棄(すて)ん事豈(あに)不悲乎(や)。君行非時(ときに)不顧臣の忠(ちゆう)也(なり)。」と云(いひ)て、呉王の使者未(いまだ)帰(かへらざる)前(さき)に、范蠡自(みづから)攻鼓(せめつづみ)を打(うつ)て兵を勧(すす)め、遂に呉王を生捕(いけどつ)て軍門の前に引出(ひきいだ)す。呉王已(すで)に被面縛、呉の東門(とうもん)を過(すぎ)給ふに、忠臣伍子胥(ごししよ)が諌(いさめ)に依(よつ)て、被刎首時、幢(はたほこ)の上(うへ)に掛(かけ)たりし一双(いつさう)の眼(まなこ)、三年(みとせ)まで未枯(いまだかれず)して有(あり)けるが、其眸(そのまなじり)明(あきらか)に開(ひら)け、相見(あひみ)て笑(わら)へる気色(きしよく)なりければ、呉王是(これ)に面(おもて)を見(みゆる)事(こと)さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当(おしあて)て低首過(すぎ)給ふ。数万(すまん)の兵見之涙を流さぬは無(なか)りけり。即(すなはち)呉王を典獄(てんごく)の官(くわん)に下(くだ)され、会稽山(くわいけいざん)の麓にて遂に首(くび)を刎(はね)奉る。古来(こらい)より俗(ぞく)の諺(ことわざに)曰(いはく)、「会稽(くわいけい)の恥を雪(きよ)むる。」とは此(この)事(こと)を云(いふ)なるべし。自是越王(ゑつわう)呉を合(あは)するのみに非(あら)ず、晉(しん)・楚(そ)・斉(せい)・秦(しん)を平(たひら)げ、覇者(はしや)の盟主(めいしゆ)と成(なり)しかば、其功(そのこう)を賞(しやう)して范蠡(はんれい)を万戸侯(ばんここう)に封(ほう)ぜんとし給ひしか共(ども)、范蠡(はんれい)曾(かつ)て不受其禄(そのろくを)、「大名(たいめい)の下(もと)には久(ひさし)く不可居る、功成(なり)名遂(とげて)而身退(しりぞく)は天の道也(なり)。」とて、遂(つひ)に姓名を替(か)へ陶朱公(たうしゆこう)と呼(よばは)れて、五湖(ごこ)と云(いふ)所(ところ)に身を隠し、世を遁(のがれ)てぞ居たりける。釣(つり)して芦花(ろくわ)の岸に宿(しゆく)すれば、半蓑(はんさ)に雪を止(とど)め、歌(うたうたう)て楓葉(ふうえふ)の陰(かげ)を過(すぐ)れば、孤舟(こしう)に秋を戴(のせ)たり。一蓬(いつぽう)の月(つきは)万頃(ばんきやう)の天、紅塵(こうぢん)の外(ほか)に遊(あそん)で、白頭(はくとう)の翁(おきな)と成(なり)にけり。高徳(たかのり)此(この)事(こと)を思准(おもひなぞ)らへて、一句の詩に千般(せんぱん)の思(おもひ)を述べ、窃(ひそか)に叡聞(えいぶん)にぞ達(たつし)ける。去程(さるほど)に先帝(せんてい)は、出雲(いづも)の三尾(みを)の湊(みなと)に十(じふ)余日(よにち)御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、順風(じゆんぷう)に成(なり)にければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)を解(とい)て御艤(ふなよそひ)して、兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)、前後左右に漕並(こぎなら)べて、万里(ばんり)の雲に沿(さかのぼる)。時に滄海(さうかい)沈々(ちんちん)として日没西北浪、雲山(うんざん)迢々(でうでう)として月出東南天、漁舟(ぎよしう)の帰る程見へて、一灯(とう)柳岸(りうがん)に幽(かすか)也(なり)。暮(くる)れば芦岸(ろがん)の煙(けぶり)に繋船、明(あく)れば松江(すんがう)の風に揚帆、浪路(なみぢ)に日数(ひかず)を重(かさ)ぬれば、都を御出(おんいで)有(あつ)て後(のち)二十六日と申(まうす)に、御舟(おんふね)隠岐(おき)の国に着(つき)にけり。佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官(はんぐわん)貞清(さだきよ)、府(こふ)の嶋(しま)と云(いふ)所に、黒木(くろき)の御所(ごしよ)を作(つくり)て皇居(くわうきよ)とす。玉■(ぎよくい)に咫尺(しせき)して被召仕ける人とては、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、頭大夫(とうのたいふ)行房(ゆきふさ)、女房(にようばう)には三位殿(さんみどの)の御局許(おんつぼねばかり)也(なり)。昔の玉楼金殿(ぎよくろうきんでん)に引替(ひきかへ)て、憂(うき)節(ふし)茂(しげ)き竹椽(たけたるき)、涙(なみだ)隙(ひま)なき松の墻(かき)、一夜(ひとよ)を隔(へだつ)る程も可堪忍御心地(おんここち)ならず。■人(けいじん)暁(あかつき)を唱(となへ)し声、警固(けいご)の武士(ぶし)の番(とのゐ)を催(もよほ)す声許(ばか)り、御枕(おんまくら)の上(うへ)に近ければ、夜(よん)のをとゞに入(いら)せ給(たまひ)ても、露まどろませ給はず。萩戸(はぎのと)の明(あく)るを待(まち)し朝政(あさまつりごと)なけれ共(ども)、巫山(ぶざん)の雲雨(うんう)御夢(おんゆめ)に入(いる)時も、誠(まこと)に暁(あかつき)ごとの御勤(おんつとめ)、北辰(ほくしん)の御拝(ごはい)も懈(おこた)らず、今年何(いか)なる年(とし)なれば、百官無罪愁(うれへ)の涙(なんだ)を滴配所月、一人(いちじん)易位宸襟(しんきん)を悩他郷風給(たまふ)らん。天地開闢(てんちかいびやく)より以来(このかた)斯(かか)る不思議(ふしぎ)を不聞。されば掛天日月も、為誰明(あきらか)なる事を不恥。無心草木も悲之花(はな)開(さく)事(こと)を忘(わすれ)つべし。