太平記(国民文庫)

太平記巻第三
○主上(しゆしやう)御夢(おんゆめの)事(こと)付楠(くすのきが)事(こと) S0301
元弘(げんこう)元年八月二十七日、主上笠置(かさぎ)へ臨幸成(なつ)て本堂を皇居(くわうきよ)となさる。始(はじめ)一両日(いちりやうにち)の程は武威に恐れて、参り任(つかふ)る人独(ひとり)も無(なか)りけるが、叡山(えいざん)東坂本(ひがしさかもと)の合戦(かつせん)に、六波羅勢(ろくはらぜい)打負(うちまけ)ぬと聞へければ、当寺(たうじ)の衆徒(しゆと)を始(はじめ)て、近国の兵共(つはものども)此彼(ここかしこ)より馳参(はせまゐ)る。されども未(いまだ)名ある武士(ぶし)、手勢(てぜい)百騎とも二百騎とも、打(うた)せたる大名は一人(いちにん)も不参。此勢許(このせいばかり)にては、皇居(くわうきよ)の警固(けいご)如何(いかん)有(ある)べからんと、主上思食煩(おぼしめしわづら)はせ給(たまひ)て、少し御(おん)まどろみ有(あり)ける御夢(おんゆめ)に、所(ところ)は紫宸殿(ししんでん)の庭前(ていぜん)と覚へたる地に、大(おほき)なる常盤木(ときはぎ)あり。緑の陰(かげ)茂(しげり)て、南へ指(さし)たる枝(えだ)殊に栄へ蔓(はびこ)れり。其下(そのした)に三公百官位(くらゐ)に依(よつ)て列坐(れつざ)す。南へ向(むき)たる上座(しやうざ)に御坐(ござ)の畳を高く敷(しき)、未(いまだ)坐(ざ)したる人はなし。主上御夢心地(おんゆめここち)に、「誰を設(まう)けん為の座席やらん。」と怪(あや)しく思食(おぼしめし)て、立(たた)せ給ひたる処に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子(どうじ)二人(ににん)忽然(こつぜん)として来(きたつ)て、主上の御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)き、涙を袖に掛(かけ)て、「一天下の間(あひだ)に、暫(しばらく)も御身(おんみ)を可被隠所なし。但しあの樹の陰(かげ)に南へ向へる座席あり。是(これ)御為(おんため)に設(まうけ)たる玉■(ぎよくい)にて候へば、暫く此(これ)に御座(ござ)候へ。」と申(まうし)て、童子は遥(はるか)の天に上(あが)り去(さん)ぬと御覧(ごらん)じて、御夢(おんゆめ)はやがて覚(さめ)にけり。主上是(これ)は天の朕(ちん)に告(つげたまへ)る所(ところ)の夢也と思食(おぼしめし)て、文字(もんじ)に付(つけ)て御料簡(ごれうけん)あるに、木(き)に南(みなみ)と書(かき)たるは楠(くすのき)と云(いふ)字也。其陰(そのかげ)に南に向ふて坐(ざ)せよと、二人(ににん)の童子(どうじ)の教へつるは、朕再び南面(なんめん)の徳を治(をさめ)て、天下の士(し)を朝(てう)せしめんずる処(ところ)を、日光月光(につくわうぐわつくわう)の被示けるよと、自(みづか)ら御夢(おんゆめ)を被合て、憑敷(たのもしく)こそ被思食けれ。夜(よ)明(あけ)ければ当寺(たうじ)の衆徒(しゆと)、成就房(じやうじゆばうの)律師(りつし)を被召、「若(もし)此辺(このへん)に楠と被云武士(ぶし)や有(ある)。」と、御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「近き傍(あた)りに、左様(さやう)の名字(みやうじ)付(つき)たる者ありとも、未(いまだ)承(うけたまはり)及(およばず)候。河内国(かはちのくに)金剛山(こんがうせん)の西にこそ、楠多門兵衛(たもんひやうゑ)正成(まさしげ)とて、弓矢取(とつ)て名を得たる者は候なれ。是(これ)は敏達天王(びたつてんわう)四代の孫(そん)、井手左大臣(ゐでのさだいじん)橘諸兄公(たちばなのもろえこう)の後胤(こういん)たりと云へども、民間(みんかん)に下(くだつ)て年久し。其母(そのはは)若かりし時、志貴(しぎ)の毘沙門(びしやもん)に百日詣(まうで)て、夢想(むさう)を感じて設(まうけ)たる子にて候とて、稚名(をさなな)を多門(たもん)とは申(まうし)候也。」とぞ答へ申(まうし)ける。主上、さては今夜(こんや)の夢の告(つげ)是(これ)也と思食(おぼしめし)て、「頓(やが)て是(これ)を召せ。」と被仰下ければ、藤房卿(ふぢふさのきやう)勅(ちよく)を奉(うけたまはつ)て、急ぎ楠正成をぞ被召ける。勅使宣旨(せんじ)を帯(たい)して、楠が館(たち)へ行向(ゆきむかつ)て、事の子細(しさい)を演(のべ)られければ、正成弓矢取る身の面目(めんぼく)、何事(なにこと)か是(これ)に過(すぎ)んと思(おもひ)ければ、是非(ぜひ)の思案にも不及、先(まづ)忍(しのび)て笠置(かさぎ)へぞ参(さんじ)ける。主上万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさの)卿(きやう)を以て被仰けるは、「東夷征罰(とういせいばつ)の事(こと)、正成(まさしげ)を被憑思食子細(しさい)有(あつ)て、勅使を被立処に、時刻を不移馳参(はせまゐ)る条(でう)、叡感(えいかん)不浅処也。抑(そもそも)天下草創(さうさう)の事(こと)、如何(いか)なる謀(はかりごと)を廻(めぐら)してか、勝(かつ)事(こと)を一時(いちじ)に決して太平(たいへい)を四海(しかい)に可被致、所存(しよぞん)を不残可申。」と勅定(ちよくぢやう)有(あり)ければ、正成畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「東夷近日(きんじつ)の大逆(だいぎやく)、只(ただ)天(てん)の譴(せめ)を招(まねき)候上(うへ)は、衰乱の弊(つひ)へに乗(のつ)て天誅(てんちゆう)を被致に、何(なん)の子細か候べき。但(ただし)天下草創(さうさう)の功(こう)は、武略と智謀(ちぼう)とに二(ふたつ)にて候。若(もし)勢(せい)を合(あはせ)て戦はゞ、六十余州の兵(つはもの)を集(あつめ)て武蔵相摸(むさしさがみ)の両国(りやうこく)に対(たい)すとも、勝(かつ)事(こと)を得がたし。若(もし)謀(はかりごと)を以て争はゞ、東夷の武力(ぶりき)只利(り)を摧(くだ)き、堅(かたき)を破る内(うち)を不出。是(これ)欺(あざむ)くに安(やすう)して、怖(おそ)るゝに足(たら)ぬ所也。合戦(かつせん)の習(ならひ)にて候へば、一旦(いつたん)の勝負(しようぶ)をば必(かならず)しも不可被御覧。正成一人(いちにん)未だ生(いき)て有(あり)と被聞召候はゞ、聖運(せいうん)遂に可被開と被思食候へ。」と、頼(たのも)しげに申(まうし)て、正成は河内(かはち)へ帰(かへり)にけり。
○笠置(かさぎ)軍(いくさの)事(こと)付陶山(すやま)小見山(こみやま)夜討(ようちの)事(こと) S0302
去程(さるほど)に主上笠置(かさぎ)に御坐(ござ)有(あつ)て、近国(きんごく)の官軍(くわんぐん)付随(つきしたがひ)奉る由(よし)、京都へ聞へければ、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)又力を得て、六波羅(ろくはら)へ寄(よす)る事もや有(あら)んずらんとて、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)時信(ときのぶ)に、近江(あふみ)一国(いつこく)の勢(せい)を相副(あひそへ)て大津(おほつ)へ被向。是(これ)も猶(なほ)小勢(こぜい)にて叶(かな)ふまじき由を申(まうし)ければ、重(かさね)て丹波国(たんばのくに)の住人(ぢゆうにん)、久下(くげ)・長沢の一族等(いちぞくら)を差副(さしそへ)て八百余騎(よき)、大津東西(とうざい)の宿(しゆく)に陣を取る。九月一日六波羅(ろくはら)の両■断(りやうけんだん)、糟谷(かすやの)三郎宗秋(むねあき)・隅田(すだの)次郎左衛門(じらうざゑもん)、五百余騎(よき)にて宇治の平等院(びやうどういん)へ打出(うちい)で、軍勢(ぐんぜい)の着到(ちやくたう)を着(つく)るに、催促(さいそく)をも不待、諸国の軍勢夜昼(よるひる)引(ひき)も不切馳集(はせあつまつ)て十万余騎(よき)に及べり。既(すで)に明日二日(みやうにちふつか)巳刻(みのこく)に押寄(おしよせ)て、矢合(やあはせ)可有と定(さだ)めたりける其前(そのさき)の日(ひ)、高橋(の)又四郎抜懸(ぬけがけ)して、独り高名(かうみやう)に備(そな)へんとや思(おもひ)けん、纔(わづか)に一族の勢三百(さんびやく)余騎(よき)を率(そつ)して、笠置(かさぎ)の麓へぞ寄(よせ)たりける。城(しろ)に篭(こも)る所の官軍(くわんぐん)は、さまで大勢(おほぜい)ならずと云へども、勇気未怠(いまだたゆまず)、天下の機(き)を呑(のん)で、回天(くわいてん)の力(ちから)を出(いだ)さんと思へる者共(ものども)なれば、纔(わづか)の小勢(こぜい)を見て、なじかは打(うつ)て懸(かか)らざらん。其(その)勢三千余騎(よき)、木津河(きづがは)の辺(へん)にをり合(あう)て、高橋が勢を取篭(とりこめ)て、一人も余(あま)さじと責(せめ)戦ふ。高橋始(はじめ)の勢(いきほ)ひにも似ず、敵の大勢(おほぜい)を見て、一返(ひとかへし)も不返捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引(ひき)ける間、木津河の逆巻水(さかまくみづ)に被追浸、被討者其数(そのかず)若干(そくばく)也。僅(わづか)に命許(ばかり)を扶(たすか)る者も、馬(むま)物具(もののぐ)を捨(すて)て赤裸(あかはだか)になり、白昼(はくちう)に京都へ逃上(にげのぼ)る。見苦しかりし有様也。是(これ)を悪(にく)しと思ふ者やしたりけん。平等院の橋爪(はしづめ)に、一首(いつしゆ)の歌を書(かい)てぞたてたりける。木津川(きづかは)の瀬々(せぜ)の岩浪早ければ懸(かけ)て程なく落(おつ)る高橋高橋が抜懸(ぬけがけ)を聞(きい)て、引(ひか)ば入替(いりかはつ)て高名(かうみやう)せんと、跡(あと)に続(つづ)きたる小早河(こばやがは)も、一度(いちど)に皆被追立一返(ひとかへし)も不返、宇治(うぢ)まで引(ひい)たりと聞へければ、又札(ふだ)を立副(たてそへ)て、懸(かけ)も得ぬ高橋落(おち)て行(ゆく)水に憂名(うきな)を流す小早河(こばやがは)哉(かな)昨日(きのふ)の合戦に、官軍(くわんぐん)打勝(うちかち)ぬと聞へしかば、国々の勢馳(はせ)参りて、難儀(なんぎ)なる事もこそあれ、時日(ときひ)を不可移とて、両検断(りやうけんだん)宇治にて四方(しはう)の手分(てわけ)を定(さだめ)て、九月二日笠置(かさぎ)の城(しろ)へ発向(はつかう)す。南の手(て)には五畿内(きない)五箇国(ごかこく)の兵(つはもの)を被向。其勢(そのせい)七千六百余騎(よき)、光明山(くわうみやうせん)の後(うしろ)を廻(まはつ)て搦手(からめて)に向(むかふ)。東の手には、東海道十五箇国(じふごかこく)の内(うち)、伊賀・伊勢(いせ)・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の兵(つはもの)を被向。其(その)勢二万五千余騎(よき)、伊賀路(いがぢ)を経(へ)て金剛山越(こんがうせんごえ)に向ふ。北の手には、山陰道(せんいんだう)八箇国(はちかこく)の兵共(つはものども)一万二千余騎(よき)、梨間(なしま)の宿(しゆく)のはづれより、市野辺山(いちのべやま)の麓を回(まはつ)て、追手(おふて)へ向ふ。西の手には、山陽道(せんやうだう)八箇国(はちかこく)の兵(つはもの)を被向。其(その)勢三万二千余騎(よき)、木津河(きづがは)を上(のぼ)りに、岸の上なる岨道(そばみち)を二手(ふたて)に分(わけ)て推寄(おしよす)る。追手(おふて)搦手(からめて)、都合(つがふ)七万五千余騎(よき)、笠置(かさぎ)の山の四方(しはう)二三里が間(あひだ)は、尺地(せきち)も不残充満(じゆうまん)したり。明(あく)れば九月三日の卯刻(うのこく)に、東西南北(とうざいなんぼく)の寄手(よせて)、相近(あひちかづい)て時(とき)を作る。其(その)声百千の雷(いかづち)の鳴落(なりおつる)が如(ごとく)にして天地(てんち)も動く許(ばかり)也。時の声三度(さんど)揚(あげ)て、矢合(やあはせ)の流鏑(かぶら)を射懸(いかけ)たれども、城(しろ)の中(うち)静(しづま)り還(かへつ)て時の声をも不合、当(たう)の矢をも射ざりけり。彼(かの)笠置(かさぎ)の城(しろ)と申(まうす)は、山高(たかう)して一片(いつぺん)の白雲(はくうん)峯を埋(うづ)み、谷深(ふかう)して万仞(ばんじん)の青岩(せいがん)路を遮(さへぎ)る。攀折(つづらをり)なる道を廻(まはつ)て揚(あが)る事十八町、岩を切(きつ)て堀とし石を畳(たたう)で屏(へい)とせり。されば縦(たと)ひ防(ふせ)ぎ戦ふ者無(なく)とも、輒(たやす)く登る事を得難し。されども城中(じやうちゆう)鳴(なり)を静めて、人ありとも見へざりければ、敵(てき)はや落(おち)たりと心得て、四方(しはう)の寄手(よせて)七万五千余騎(よき)、堀がけとも不謂、葛(くず)のかづらに取付(とりつい)て、岩の上を伝(つたう)て、一(いち)の木戸口(きどぐち)の辺(へん)、二王堂(にわうだう)の前までぞ寄(よせ)たりける。此(ここ)にて一息(ひといき)休めて城(しろ)の中(うち)を屹(きつ)と向上(みあげ)ければ、錦(にしき)の御旗(おんはた)に日月(じつげつ)を金銀(きんぎん)にて打(うつ)て着(つけ)たるが、白日(はくじつ)に耀(かかやい)て光り渡りたる其陰(そのかげ)に、透間(すきま)もなく鎧(よろ)ふたる武者(むしや)三千余人(よにん)、甲(かぶと)の星を耀(かかやか)し、鎧(よろひ)の袖を連(つらね)て、雲霞(うんか)の如くに並居(なみゐ)たり。其外(そのほか)櫓(やぐら)の上(うへ)、さまの陰(かげ)には、射手(いて)と覚(おぼ)しき者共(ものども)、弓の弦(つる)くひしめし、矢束(やたばね)解(とい)て押甘(おしくつろげ)、中差(なかざし)に鼻油(はなあぶら)引(ひい)て待懸(まちかけ)たり。其勢(そのいきほひ)決然(けつぜん)として、敢(あへ)て可攻様(やう)ぞなき。寄手(よせて)一万余騎(よき)是(これ)を見て、前(すす)まんとするも不叶、引(ひか)んとするも不協して、心ならず支(ささへ)たり。良(やや)暫有(しばらくあり)て、木戸の上なる櫓より、矢間(さま)の板を排(おしひらい)て名乗(なのり)けるは、「参河国(みかはくにの)住人(ぢゆうにん)足助(あすけの)次郎重範(しげのり)、忝(かたじけな)くも一天(いつてん)の君にたのまれ進(まゐ)らせて、此(この)城の一の木戸を堅(かた)めたり。前陣(ぜんぢん)に進んだる旗は、美濃(みの)・尾張(をはり)の人々の旗と見るは僻目(ひがめ)か。十善(じふぜん)の君の御座(おはしま)す城(しろ)なれば、六波羅(ろくはら)殿(どの)や御向(おんむか)ひ有(あ)らんずらんと心得て、御儲(おんまうけ)の為に、大和鍛冶(やまとかぢ)のきたうて打(うち)たる鏃(やじり)を少々(せうせう)用意(ようい)仕(つかまつり)て候。一筋(ひとすぢ)受(うけ)て御覧(ごらん)じ候へ。」と云侭(いふまま)に、三人(さんにん)張(ばり)の弓に十三束三伏(じふさんぞくみつぶせ)篦(の)かづきの上まで引(ひき)かけ、暫(しばらく)堅(かた)めて丁(ちやう)と放つ。其(その)矢遥(はるか)なる谷を阻(へだて)て、二町(にちやう)余(あまり)が外(ほか)に扣(ひか)へたる荒尾九郎が鎧(よろひ)の千檀(せんだん)の板(いた)を、右の小脇(こわき)まで篦深(のぶか)にぐさと射込む。一箭(ひとや)なりといへども究竟(くつきやう)の矢坪(やつぼ)なれば、荒尾馬より倒(さかさま)に落(おち)て起(おき)も直(なほ)らで死(しし)けり。舎弟(しやてい)の弥五郎(やごらう)是(これ)を敵に見せじと、矢面(やおもて)に立隠(たちかく)して、楯(たて)のはづれより進出(すすみいで)て云(いひ)けるは、「足助(あすけ)殿(どの)の御弓勢(ごゆんぜい)、日来(ひごろ)承候(うけたまはりさふらひ)し程は無(なか)りけり。此(ここ)を遊ばし候へ。御矢(おんや)一筋受(うけ)て物(もの)の具(ぐ)の実(さね)の程試(こころみ)候はん。」と欺(あざむい)て、弦走(つるばしり)を敲(たたい)てぞ立(たち)たりける。足助是(これ)を聞(きい)て、「此(この)者の云様(いひやう)は、如何様(いかさま)鎧の下(した)に、腹巻(はらまき)か鎖(くさり)歟(か)を重(かさね)て着たれば社(こそ)、前(さき)の矢を見ながら此(ここ)を射よとは敲(たた)くらん。若(もし)鎧の上を射ば、篦(の)摧(くだ)け鏃(やじり)折(をれ)て通らぬ事もこそあれ。甲(かぶと)の真向(まつかう)を射たらんに、などか砕(くだけ)て通らざらん。」と思案して、「胡■(えびら)より金磁頭(かなじんどう)を一(ひと)つ抜出(ぬきいだ)し、鼻油(はなあぶら)引(ひい)て、「さらば一矢(ひとや)仕り候はん。受(うけ)て御覧(ごらん)候へ。」と云侭(いふまま)に、且(しばら)く鎧の高紐(たかひも)をはづして、十三束三伏(じふさんぞくみつぶせ)、前(さき)よりも尚引(ひき)しぼりて、手答(てごた)へ高くはたと射る。思ふ矢坪(やつぼ)を不違、荒尾弥五郎が甲(かぶと)の真向(まつかう)、金物(かなもの)の上(うへ)二寸計(ばかり)射砕(いくだい)て、眉間(みけん)の真中(まんなか)をくつまき責(せめ)て、ぐさと射篭(いこう)だりければ、二言(にごん)とも不云、兄弟(きやうだい)同枕(おなじまくら)に倒重(たふれかさなつ)て死(しし)にけり。是(これ)を軍(いくさ)の始(はじめ)として、追手(おふて)搦手(からめて)城(じやう)の内、をめき叫(さけん)で責(せめ)戦ふ。箭叫(やさけび)の音時(とき)の声且(しばし)も休(やむ)時なければ、大山(たいさん)も崩(くづれ)て海に入り、坤軸(こんぢく)も折(をれ)て忽(たちまち)地に沈(しづ)む歟(か)とぞ覚へし。晩景(ばんげい)に成(なり)ければ、寄手(よせて)弥(いよいよ)重(かさなつ)て持楯(もちたて)をつきよせつきよせ、木戸口(きどぐち)の辺(へん)まで攻(せめ)たりける処に、爰(ここ)に南都の般若寺(はんにやじ)より巻数(くわんじゆ)持(もち)て参りたりける使(つかひ)、本性房(ほんじやうばう)と云(いふ)大力(だいりき)の律僧(りつそう)の有(あり)けるが、褊衫(へんさん)の袖を結(むすん)で引違(ひきちが)へ、尋常(よのつね)の人の百人しても動(うごか)し難き大磐石(だいばんじやく)を、軽々(かるがる)と脇に挟(はさ)み、鞠(まり)の勢(せい)に引欠々々(ひつかけひつかけ)、二三十つゞけ打(うち)にぞ投(なげ)たりける。数万(すまん)の寄手(よせて)、楯(たて)の板(いた)を微塵(みぢん)に打砕(うちくだ)かるゝのみに非(あら)ず、少(すこし)も此(この)石に当る者、尻居(しりゐ)に被打居ければ、東西(とうざい)の坂に人頽(ひとなだれ)を築(つい)て、馬人弥(いや)が上(うへ)に落重(おちかさな)る。さしも深き谷二(ふたつ)、死人(しにん)にてこそうめたりけれ。されば軍(いくさ)散じて後(のち)までも木津河(きづがは)の流(ながれ)血に成(なつ)て、紅葉(もみぢ)の陰(かげ)を行(ゆく)水の紅(くれなゐ)深きに不異。是(これ)より後(のち)は、寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しといへども、城(しろ)を攻(せめ)んと云(いふ)者一人もなし。只(ただ)城の四方(しはう)を囲(かこ)めて遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。かくて日数(ひかず)を経(へ)ける処に、同(おなじき)月十一日、河内の国より早馬(はやむま)を立(たて)て、「楠兵衛(ひやうゑ)正成(まさしげ)と云(いふ)者、御所方(ごしよがた)に成(なつ)て旗を挙(あぐ)る間、近辺の者共(ものども)、志あるは同心(どうしん)し、志なきは東西(とうざい)に逃隠(にげかく)る。則(すなはち)国中(こくぢゆう)の民屋(みんをく)を追捕(ついふ)して、兵粮(ひやうらう)の為に運取(はこびとり)、己(おのれ)が館(たち)の上なる赤坂山(あかさかやま)に城郭(じやうくわく)を構へ、其勢(そのせい)五百騎にて楯篭(たてこも)り候。御退治(ごたいぢ)延引(えんいん)せば、事(こと)御難儀(おんなんぎ)に及候(およびさふらひ)なん。急ぎ御勢(おんせい)を可被向。」とぞ告申(つげまうし)ける。是(これ)をこそ珍事(ちんじ)なりと騒ぐ処に、又同(おなじき)十三日の晩景に、備後(びんご)の国より早馬(はやむま)到来(たうらい)して、「桜山(さくらやま)四郎入道、同(おなじき)一族等(ら)御所方(ごしよがた)に参(まゐつ)て旗を揚(あげ)、当国の一宮(いちのみや)を城郭として楯篭(たてこも)る間、近国の逆徒等(げきとら)少々(せうせう)馳加(はせくははつ)て、其勢(そのせい)既(すでに)七百余騎(よき)、国中(こくぢゆう)を打靡(うちなびけ)、剰(あまつさへ)他国へ打越(うちこえ)んと企(くはだ)て候。夜(よ)を日(ひ)に継(つい)で討手(うつて)を不被下候はゞ、御大事(おんだいじ)出来(いでき)ぬと覚(おぼえ)候。御油断(ごゆだん)不可有。」とぞ告(つげ)たりける。前(まへ)には笠置(かさぎ)の城強(つよう)して、国々の大勢(おほぜい)日夜(にちや)責(せむ)れども未落(いまだおちず)、後(うしろ)には又楠・桜山の逆徒大(おほき)に起(おこつ)て、使者(ししや)日々(ひび)に急(きふ)を告(つぐ)。南蛮西戎(なんばんせいじゆう)は已(すで)に乱(みだれ)ぬ。東夷北狄(とういほくてき)も又如何(いかが)あらんずらんと、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)駿河(するがの)守(かみ)、安き心も無(なか)りければ、日々(ひび)に早馬(はやむま)を打(うた)せて東国勢をぞ被乞ける。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に驚(おどろい)て、「さらばやがて討手を差上(さしのぼ)せよ。」とて、一門他家(たけ)宗徒(むねと)の人々六十三人(ろくじふさんにん)迄ぞ被催ける。大将軍には大仏(おさらぎ)陸奥守(むつのかみ)貞直・同遠江守(とほたふみのかみ)・普恩寺(ふおんじ)相摸守(さがみのかみ)・塩田越前守(ゑちぜんのかみ)・桜田参河(みかはの)守(かみ)・赤橋尾張(をはりの)守(かみ)・江馬(えま)越前守(ゑちぜんのかみ)・糸田左馬頭(さまのかみ)・印具兵庫助(いぐひやうごのすけ)・佐介上総介(さかいかづさのかみ)・名越右馬助(なごやうまのすけ)・金沢(かなざは)右馬助(うまのすけ)・遠江(とほたふみの)左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)治時(はるとき)・足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)、侍大将(さぶらひたいしやう)には、長崎四郎左衛門尉(さゑもんのじよう)、相従(あひしたが)ふ侍(さぶらひ)には、三浦介(みうらのすけ)入道・武田甲斐(かひの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・椎名(しひな)孫八入道・結城上野(ゆふきかうづけの)入道・小山出羽(をやまではの)入道・氏家美作(うぢへみまさかの)守(かみ)・佐竹上総(かづさの)入道・長沼(ながぬま)四郎左衛門入道・土屋安芸権守(つちやあきのごんのかみ)・那須加賀(かがの)権(ごんの)守(かみ)・梶原(かぢはら)上野(かうづけの)太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・岩城(いはき)次郎入道・佐野(さのの)安房(あはの)弥太郎(やたらう)・木村次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・相馬(さうま)右衛門次郎・南部(なんぶ)三郎次郎・毛利丹後(たんごの)前司(ぜんじ)、那波(なば)左近(さこんの)太夫将監(たいふしやうげん)・一宮善(いぐせ)民部(みんぶの)太夫(たいふ)・土肥(とひ)佐渡(さどの)前司・宇都宮(うつのみや)安芸(あきの)前司・同肥後(ひごの)権守(ごんのかみ)・葛西(かさいの)三郎兵衛(さぶらうひやうゑの)尉(じよう)・寒河(さんがうの)弥四郎・上野(かうづけの)七郎三郎・大内(おほち)山城(やましろの)前司・長井治部(ぢぶの)少輔(せう)・同備前(びぜんの)太郎・同因幡(いなば)民部(みんぶの)大輔(たいふ)入道・筑後(ちくごの)前司・下総(しもつさの)入道・山城(やましろ)左衛門(さゑもんの)大夫・宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)入道・岩崎弾正左衛門尉(だんしやうさゑもんのじよう)・高久(かうく)同孫三郎・同彦三郎・伊達(だての)入道・田村形部大輔(ぎやうぶのたいふ)入道・入江蒲原(いりえかんばら)の一族・横山猪俣(ゐのまた)の両党、此外(このほか)、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)・伊豆(いづ)・駿河(するが)・上野(かうづけ)、五箇国(ごかこく)の軍勢(ぐんぜい)、都合(つごふ)二十万七千六百余騎(よき)、九月二十日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、同晦日(おなじきつごもり)、前陣(ぜんぢん)已(すで)に美濃・尾張(をはり)両国に着(つけ)ば、後陣(ごぢん)は猶未(いまだ)高志(たかし)・二村(ふたむら)の峠(たうげ)に支へたり。爰(ここ)に備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)陶山藤三義高(すやまとうざうよしたか)・小見山(こみやま)次郎某(なにがし)、六波羅(ろくはら)の催促(さいそく)に随(したがつ)て、笠置(かさぎ)の城の寄手(よせて)に加(くははつ)て、河向(かはむかひ)に陣を取(とつ)て居たりけるが、東国の大勢(おほぜい)既(すで)に近江に着(つき)ぬと聞へければ、一族若党共(わかたうども)を集(あつめ)て申(まうし)けるは、「御辺達(ごへんたち)如何(いか)が思(おもふ)ぞや、此間(このあひだ)数日(すじつ)の合戦(かつせん)に、石に被打、遠矢(とほや)に当(あたつ)て死(し)ぬる者、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。是(これ)皆差(さし)て為出(しいだ)したる事も無(なう)て死(しし)ぬれば、骸骨(がいこつ)未だ乾(かわ)かざるに、名は先立(さきだち)て消去(きえさり)ぬ。同(おなじ)く死(し)ぬる命(いのち)を、人目(ひとめ)に余(あま)る程の軍(いくさ)一度(いちど)して死(しし)たらば、名誉(めいよ)は千載(せんざい)に留(とどまつ)て、恩賞は子孫の家に栄(さかえ)ん。倩(つらつら)平家の乱(らん)より以来(このかた)、大剛(だいがう)の者とて名を古今(ここん)に揚(あげ)たる者共(ものども)を案ずるに、何(いづ)れも其(それ)程の高名(かうみやう)とは不覚(おぼえず)。先(まづ)熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)が一谷(いちのたに)の先懸(さきがけ)は、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)を憑(たのみ)し故(ゆゑ)也。梶原平三(かぢはらへいざう)が二度(にど)の懸(かけ)は、源太(げんた)を助(たすけ)ん為なり。佐々木(ささきの)三郎が藤戸(ふぢと)を渡しゝは、案内者(あんないじや)のわざ、同(おなじく)四郎高綱(たかつな)が宇治川の先陣は、いけずき故(ゆゑ)也。此等(これら)をだに今の世迄(よまで)語伝(かたりつたへ)て、名を天下の人口(じんこう)に残すぞかし。何(いか)に況(いはん)や日本国(につほんごく)の武士共(ぶしども)が集(あつまつ)て、数日(すじつ)攻(せむ)れども落(おと)し得ぬ此城(このしろ)を、我等が勢許(せいばかり)にて攻落(せめおと)したらんは、名は古今(ここん)の間(あひだ)に双(ならび)なく、忠は万人(ばんにん)の上(うへ)に可立。いざや殿原(とのばら)、今夜(こよひ)の雨風(あめかぜ)の紛(まぎ)れに、城中(じやうちゆう)へ忍入(しのびいつ)て、一夜討(ひとようち)して天下の人に目を覚(さま)させん。」と云(いひ)ければ、五十(ごじふ)余人(よにん)の一族(いちぞく)若党(わかたう)、「最(もつとも)可然。」とぞ同(どう)じける。是(これ)皆千に一(ひとつ)も生(いき)て帰る者あらじと思切(おもひきつ)たる事なれば、兼(かね)ての死(し)に出立(でだち)に、皆曼陀羅(まんだら)を書(かい)てぞ付(つけ)たりける。差縄(さしなは)の十丈(じふぢやう)許(ばかり)長きを二筋(ふたすぢ)、一尺計(ばかり)置(おい)ては結合(むすびあはせ)々々して、其端(そのはし)に熊手(くまで)を結着(ゆひつけ)て持(もた)せたり。是(これ)は岩石(がんせき)などの被登ざらん所をば、木の枝(えだ)岩の廉(かど)に打懸(うちかけ)て、登らん為の支度(したく)也。其夜(そのよ)は九月晦日(つごもり)の事なれば、目指(めざす)とも不知暗き夜(よ)に、雨風(あめかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て面(おもて)を可向様(やう)も無(なか)りけるに、五十(ごじふ)余人(よにん)の者ども、太刀(たち)を背(せなか)に負(おひ)、刀(かたな)を後(うしろ)に差(さい)て、城(しろ)の北に当(あたり)たる石壁(せきへき)の数百丈(すひやくぢやう)聳(そびえ)て、鳥も翔(かけ)り難(がた)き所よりぞ登りける。二町(にちやう)許(ばかり)は兎角(とかう)して登りつ、其(その)上に一段高き所あり。屏風(びやうぶ)を立(たて)たる如くなる岩石(がんぜき)重(かさなり)て、古松(こしよう)枝(えだ)を垂(たれ)、蒼苔(さうたい)路滑(なめらか)なり。此(ここ)に至(いたり)て人(ひと)皆(みな)如何(いか)んともすべき様(やう)なくして、遥(はるか)に向上(みあげ)て立(たつ)たりける処に、陶山藤三(すやまとうざう)、岩の上をさら/\と走上(はしりのぼつ)て、件(くだん)の差縄を上(うへ)なる木の枝(えだ)に打懸(うちかけ)て、岩の上よりをろしたるに、跡(あと)なる兵共(つはものども)各(おのおの)是(これ)に取付(とりつい)て、第一(だいいち)の難所(なんじよ)をば安々(やすやす)と皆上(のぼ)りてげり。其(それ)より上にはさまでの嶮岨(けんそ)無(なか)りければ、或(あるひ)は葛(くず)の根に取付(とりつき)、或(あるひ)は苔(こけ)の上を爪立(つまだて)て、二時計(ふたときばかり)に辛苦(しんく)して、屏際(へいのきは)まで着(つい)てけり。此(ここ)にて一息(ひといき)休(やすめ)て、各(おのおの)屏を上(のぼ)り超(こえ)、夜廻(よまは)りの通りける迹(あと)に付(つい)て、先(まづ)城(しろ)の中(うち)の案内をぞ見たりける。追手(おふて)の木戸(きど)・西の坂口(さかくち)をば、伊賀・伊勢の兵(つはもの)千余騎(よき)にて堅(かた)めたり。搦手(からめて)に対する東の出屏(だしべい)の口(くち)をば、大和(やまと)・河内(かはち)の勢(せい)五百余騎(よき)にて堅(かため)たり。南の坂、二王堂(にわうだう)の前をば、和泉(いづみ)・紀伊国(きのくに)の勢七百余騎(よき)にて堅(かため)たり。北の口一方(いつぱう)は嶮(けはし)きを被憑けるにや、警固(けいご)の兵(つはもの)をば一人(いちにん)も不被置、只云甲斐(いひかひ)なげなる下部共(しもべども)二三人(にさんにん)、櫓(やぐら)の下(した)に薦(こも)を張(はり)、篝(かがり)を焼(たい)て眠居(ねむりゐ)たり。陶山(すやま)・小見山(こみやま)城(しろ)を廻(まはり)、四方(しはう)の陣をば早見澄(みすま)しつ。皇居(くわうきよ)は何(いづ)くやらんと伺(うかがう)て、本堂(ほんだう)の方(かた)へ行処(ゆくところ)に、或役所(あるやくしよ)の者是(これ)を聞付(ききつけ)て、「夜中(やちゆう)に大勢(おほぜい)の足音して、潛(ひそか)に通(とほる)は怪(あやし)き物哉(かな)、誰人(たれびと)ぞ。」と問(とひ)ければ、陶山吉次(すやまのよしつぐ)取(とり)も敢(あへ)ず、「是(これ)は大和勢(やまとぜい)にて候が、今夜(こよひ)余(あまり)に雨風烈(はげ)しくして、物騒(ものさわ)が〔し〕く候間(あひだ)、夜討(ようち)や忍入(しのびいり)候はんずらんと存候(ぞんじさふらひ)て、夜廻仕(よまはりつかまつり)候也。」と答(こたへ)ければ、「げに。」と云音(いふおと)して、又問(とふ)事(こと)も無(なか)りけり。是(これ)より後(のち)は中々(なかなか)忍(しのび)たる体(てい)も無(なく)して、「面々(めんめん)の御陣(ごぢん)に、御用心(ごようじん)候へ。」と高らかに呼(よば)は(つ)て、閑々(しづしづ)と本堂へ上(あがり)て見れば、是(ここ)ぞ皇居(くわうきよ)と覚(おぼえ)て、蝋燭(らふそく)数多所(あまたところ)に被燃て、振鈴(しんれい)の声幽(かすか)也。衣冠(いくわん)正(ただし)くしたる人、三四人(さんしにん)大床(おほゆか)に伺候(しこう)して、警固(けいご)の武士(ぶし)に、「誰か候。」と被尋ければ、「其(その)国(くに)の某々(なにがしそれがし)。」と名乗(なのつ)て廻廊(くわいらう)にしかと並居(なみゐ)たり。陶山(すやま)皇居(くわうきよ)の様(やう)まで見澄(みすま)して、今はかうと思(おもひ)ければ、鎮守(ちんじゆ)の前にて一礼(いちらい)を致し、本堂の上(うへ)なる峯(みね)へ上(のぼつ)て、人もなき坊(ばう)の有(あり)けるに火を懸(かけ)て同音(どうおん)に時の声を挙ぐ。四方(しはう)の寄手(よせて)是(これ)を聞(きき)、「すはや城中(じやうちゆう)に返忠(かへりちゆう)の者出来(いでき)て、火を懸(かけ)たるは。時の声を合(あは)せよや。」とて追手(おふて)搦手(からめて)七万余騎(よき)、声々(こゑごゑ)に時を合(あはせ)て喚(をめ)き叫ぶ。其(その)声天地を響(ひび)かして、如何なる須弥(しゆみ)の八万由旬(はちまんゆじゆん)なりとも崩(くづれ)ぬべくぞ聞へける。陶山(すやま)が五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、城(しろ)の案内(あんない)は只今委(くはし)く見置(みおき)たり。此役所(ここのやくしよ)に火を懸(かけ)ては彼(かし)こに時の声をあげ、彼(かし)こに時を作(つくつ)ては此櫓(ここのやぐら)に火を懸(かけ)、四角(しかく)八方に走り廻(まはつ)て、其勢(そのせい)城中(じやうちゆう)に充満(みちみち)たる様(やう)に聞へければ、陣々堅(かた)めたる官軍共(くわんぐんども)、城内(しろのうち)に敵(てき)の大勢(おほぜい)攻入(せめいり)たりと心得て、物(もの)の具(ぐ)を脱捨(ぬぎすて)弓矢をかなぐり棄(すて)て、がけ堀とも不謂、倒(たふ)れ転(まろ)びてぞ落行(おちゆき)ける。錦織判官代(にしこりのはんぐわんだい)是(これ)を見て、「膩(きたな)き人々の振舞(ふるまひ)哉(かな)。十善(じふぜん)の君に被憑進(まゐら)せて、武家(ぶけ)を敵(てき)に受(うく)る程の者共(ものども)が、敵大勢(おほぜい)なればとて、戦(たたか)はで逃(にぐ)る様(やう)やある、いつの為に可惜命(いのち)ぞ。」とて、向ふ敵に走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)、大(おほ)はだぬぎに成(なつ)て戦ひけるが、矢種(やだね)を射尽(つく)し、太刀(たち)を打折(うちをり)ければ、父子(ふし)二人(ににん)並(ならびに)郎等十三人(じふさんにん)、各(おのおの)腹かき切(きつ)て同枕(おなじまくら)に伏(ふし)て死(しに)にけり。
○主上(しゆしやう)御没落笠置事 S0303
去程(さるほど)に類火(るゐくわ)東西(とうざい)より被吹て、余煙(よえん)皇居(くわうきよ)に懸(かか)りければ、主上を始進(はじめまゐら)せて、宮々(みやみや)・卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)、皆歩跣(かちはだし)なる体(てい)にて、何(いづ)くを指(さす)ともなく足に任(まかせ)て落行(おちゆき)給ふ。此(この)人々、始(はじめ)一二町(いちにちやう)が程こそ、主上を扶進(たすけまゐら)せて、前後(ぜんご)に御伴(おんとも)をも被申たりけれ。雨風烈(はげ)しく道闇(くらう)して、敵の時(とき)の声此彼(ここかしこ)に聞へければ、次第〔に〕別々(べちべち)に成(なつ)て、後(のち)には只藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)より外(ほか)は、主上の御手(おんて)を引進(ひきまゐら)する人もなし。悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の天子、玉体(ぎよくたい)を田夫野人(でんぷやじん)の形(かたち)に替(かへ)させ給(たまひ)て、そことも不知迷ひ出(いで)させ玉(たまひ)ける、御有様(おんありさま)こそ浅猿(あさまし)けれ。如何(いか)にもして、夜(よ)の内(うち)に赤坂城(あかさかのしろ)へと御心(おんこころ)許(ばかり)を被尽けれども、仮(かり)にも未(いまだ)習はせ玉(たま)はぬ御歩行(ごほかう)なれば、夢路(ゆめぢ)をたどる御心地(おんここち)して、一足(ひとあし)には休み、二足(ふたあし)には立止(たちとどま)り、昼は道の傍(そば)なる青塚(おをつか)の陰(かげ)に御身(おんみ)を隠(かく)させ玉(たまひ)て、寒草(かんさう)の疎(おろそ)かなるを御座(ござ)の茵(しとね)とし、夜(よる)は人も通はぬ野原(のばら)の露に分迷(わけまよ)はせ玉(たまひ)て、羅穀(らこく)の御袖(おんそで)をほしあへず。兎角(とかう)して夜昼(よるひる)三日に、山城(やましろ)の多賀郡(たかのこほり)なる有王山(ありわうやま)の麓まで落(おち)させ玉(たまひ)てけり。藤房(ふぢふさ)も季房(すゑふさ)も、三日まで口中(くぢゆう)の食(じき)を断(たち)ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢(あふ)とも逃(にげ)ぬべき心地(ここち)せざりければ、為(せ)ん方無(なう)て、幽谷(いうこく)の岩を枕にて、君臣兄弟(くんしんきやうだい)諸共(もろとも)に、うつゝの夢に伏(ふし)玉ふ。梢(こずゑ)を払ふ松の風を、雨の降(ふる)かと聞食(きこしめし)て、木陰(きのかげ)に立寄(たちよら)せ玉(たまひ)たれば、下露(したつゆ)のはら/\と御袖(おんそで)に懸(かか)りけるを、主上被御覧て、さして行(ゆく)笠置(かさぎ)の山を出(いで)しよりあめが下(した)には隠家(かくれが)もなし藤房(ふぢふさの)卿(きやう)泪(なみだ)を押(おさ)へて、いかにせん憑(たの)む陰(かげ)とて立(たち)よれば猶(なほ)袖ぬらす松の下露山城(やましろの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、深須(みすの)入道・松井蔵人(くらんど)二人(ににん)は、此辺(このへん)の案内者(あんないしや)なりければ、山々(やまやま)峯々(みねみね)無残所捜(さが)しける間、皇居(くわうきよ)隠(かくれ)なく被尋出させ給ふ。主上誠(まこと)に怖(おそろ)しげなる御気色(おんけしき)にて、「汝等(なんぢら)心ある者ならば、天恩を戴(いただい)て私の栄花(えいぐわ)を期(ご)せよ。」と被仰ければ、さしもの深須(みすの)入道俄(にはか)に心変(へん)じて、哀(あはれ)此(この)君を隠奉(かくしたてまつつ)て、義兵(ぎへい)を揚(あげ)ばやと思(おもひ)けれども、迹(あと)につゞける松井が所存(しよぞん)難知かりける間、事(こと)の漏易(もれやす)くして、道の成難(なりがた)からん事を量(はかつ)て、黙止(もだし)けるこそうたてけれ。俄(にはか)の事にて網代輿(あじろのこし)だに無(なか)りければ、張輿(はりごし)の怪(あやし)げなるに扶乗進(たすけのせまゐら)せて、先(まづ)南都の内山(うちやま)へ入(いれ)奉る。其体(そのてい)只殷湯(いんのたう)夏台(かだい)に囚(とらは)れ、越王(ゑつわう)会稽(くわいけい)に降(かう)せし昔の夢に不異。是(これ)を聞(きき)是を見る人ごとに、袖をぬらさずと云(いふ)事(こと)無(なか)りけり。此(この)時此彼(ここかしこ)にて、被生捕給(たまひ)ける人々には、先(まづ)一宮(いちのみや)中務卿親王(なかつかさのきやうしんわう)・第二(だいにの)宮妙法院(めうほふゐん)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)・峰僧正(みねのそうじやう)春雅(しゆんが)・東南院僧正聖尋(しやうじん)・万里小路(までのこうぢ)大納言宣房(のぶふさ)・花山(くわざんの)院(ゐん)大納言師賢(もろかた)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・侍従(じじゆう)中納言公明(きんあきら)・別当左衛門督(べつたうさゑもんのかみ)実世(さねよ)・中納言藤房(ふぢふさ)・宰相(さいしやう)季房(すゑふさ)・平宰相(へいさいしやう)成輔(なりすけ)・左衛門(さゑもんの)督為明(ためあきら)・左中将(さちゆうじやう)行房(ゆきふさ)・左少将忠顕(ただあき)・源(みなもとの)少将能定(よしさだ)・四条(しでうの)少将隆兼(たかかぬ)・妙法院(めうほふゐんの)執事(しつじ)澄俊(ちようしゆん)法印、北面(ほくめん)・諸家(しよけの)侍共(さぶらひども)には、左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)氏信(うぢのぶ)・右兵衛(うひやうゑの)大夫(たいふ)有清(ありきよ)・対馬(つしまの)兵衛重定(しげさだ)・大夫将監(たいふしやうげん)兼秋(かねあき)・左近(さこんの)将監宗秋(むねあき)・雅楽(うた)兵衛尉(ひやうゑのじよう)則秋(のりあき)・大学助(だいがくのすけ)長明(ながあきら)・足助(あすけの)次郎重範(しげのり)・宮内丞(くないのじよう)能行(よしゆき)・大河原(おほかはら)源七左衛門(げんしちざゑもんの)尉(じよう)有重(ありしげ)、奈良(なら)法師に、俊増(しゆんぞう)・教密(けうみつ)・行海(ぎやうかい)・志賀良木(しがらきの)治部房(ぢぶばう)円実(ゑんじつ)・近藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)宗光(むねみつ)・国村(くにむら)三郎入道定法(ぢやうほふ)・源(げん)左衛門入道慈願(じぐわん)・奥(おくの)入道如円(じよゑん)・六郎兵衛入道浄円(じやうゑん)、山徒(さんと)には勝行房(しようぎやうばう)定快(ぢやうくわい)・習禅房(しふぜんばう)浄運(じやううん)・乗実房(じようじつばう)実尊(じつそん)、都合(つがふ)六十一人、其所従眷属共(そのしよじゆうけんぞくども)に至(いたる)までは計(かぞふ)るに不遑。或(あるひ)は篭輿(かごこし)に被召、或(あるひは)伝馬(てんま)に被乗て、白昼(はくちう)に京都へ入(いり)給ひければ、其方様(そのかたさま)歟(か)と覚(おぼえ)たる男女(なんによ)街(ちまた)に立並(たちならび)て、人目(ひとめ)をも不憚泣(なき)悲む、浅増(あさまし)かりし分野(ありさま)也。十月二日六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)、常葉(ときは)駿河守(するがのかみ)範貞(のりさだ)、三千余騎(よき)にて路(みち)を警固仕(つかまつり)て、主上を宇治の平等院(びやうどうゐん)へ成し奉る。其日(そのひ)関東の両大将京(きやう)へは不入して、すぐに宇治へ参向(まゐりむかう)て、竜顔(りようがん)に謁(えつし)奉り、先(まづ)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を渡し給(たまはつ)て、持明院新帝(ぢみやうゐんしんていへ)可進由を奏聞(そうもん)す。主上藤房(ふぢふさ)を以て被仰出けるは、「三種(さんじゆの)神器は、自古継体君(けいたいのきみ)、位(くらゐ)を天に受(うけ)させ給ふ時、自(みづか)ら是(これ)を授(さづけ)る者也。四海(しかい)に威を振ふ逆臣(げきしん)有(あつ)て、暫(しばらく)天下を掌(たなごころ)に握る者ありと云共(いへども)、未(いまだ)此三種(このさんじゆ)の重器(ちようき)を、自(みづから)専(ほしいままに)して新帝(しんてい)に渡し奉る例を不聞。其(その)上内侍所(ないしどころ)をば、笠置(かさぎ)の本堂に捨置(すておき)奉りしかば、定(さだめ)て戦場の灰塵(くわいぢん)にこそ落(おち)させ給ひぬらめ。神璽(しいし)は山中(さんちゆう)に迷(まよひ)し時(とき)木(き)の枝(えだ)に懸置(かけおき)しかば、遂にはよも吾国(わがくに)の守(まもり)と成(なら)せ給はぬ事あらじ。宝剣(はうけん)は、武家の輩(ともがら)若(もし)天罰を顧(かへりみ)ずして、玉体(ぎよくたい)に近付(ちかづき)奉る事あらば、自(みづから)其刃(そのやいば)の上(うへ)に伏(ふ)させ給はんずる為に、暫(しばらく)も御身(おんみ)を放(はな)たる事あるまじき也。」と被仰ければ、東使両人(とうしりやうにん)も、六波羅(ろくはら)も言(こと)ば無(なく)して退出す。翌日(よくじつ)竜駕(りようが)を廻(めぐら)して六波羅(ろくはら)へ成進(なしまゐ)らせんとしけるを、前々(さきざき)臨幸の儀式ならでは還幸(くわんかう)成(なる)まじき由を、強(しひ)て被仰出ける間、無力鳳輦(ほうれん)を用意(ようい)し、袞衣(こんい)を調進(てうしん)しける間(あひだ)、三日迄(まで)平等院(びやうどうゐん)に御逗留(ごとうりう)有(あつ)てぞ、六波羅(ろくはら)へは入給(いらせたまひ)ける。日来(ひごろ)の行幸(ぎやうがう)に事替(ことかはつ)て、鳳輦(ほうれん)は数万(すまん)の武士(ぶし)に被打囲、月卿雲客(げつけいうんかく)は怪(あやし)げなる篭(かご)・輿(こし)・伝馬(てんま)に被扶乗て、七条を東(ひんがし)へ河原(かはら)を上(のぼ)りに、六波羅(ろくはら)へと急(いそ)がせ給へば、見る人(ひと)涙(なみだ)を流し、聞人(きくひと)心を傷(いたま)しむ。悲(かなしい)乎(かな)昨日(きのふ)は紫宸北極(ししんほつきよく)の高(たかき)に坐(ざ)して、百司(ひやくし)礼儀(れいぎ)の妝(よそほひ)を刷(つくろ)ひしに、今は白屋(はくをく)東夷(とうい)の卑(いやし)きに下(くだ)らせ給(たまひ)て、万卒(ばんそつ)守禦(しゆぎよ)の密(きび)しきに御心(おんこころ)を被悩。時(とき)移(うつり)事(こと)去(さり)楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来(きた)る。天上(てんじやう)の五衰(ごすゐ)人間(にんげん)の一炊(いつすゐ)、唯(ただ)夢かとのみぞ覚(おぼえ)たる。遠からぬ雲の上の御住居(おんすまゐ)、いつしか思食出(おぼしめしいだ)す御事(おんこと)多き時節(をりふし)、時雨(しぐれ)の音(おと)の一通(ひととほり)、軒端(のきば)の月に過(すぎ)けるを聞食(きこしめし)て、住狎(すみなれ)ぬ板屋(いたや)の軒の村時雨(むらしぐれ)音を聞(きく)にも袖はぬれけり四五日有(あり)て、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)より御琵琶(おんびは)を被進けるに、御文(おんふみ)あり。御覧(ごらん)ずれば、思(おもひ)やれ塵(ちり)のみつもる四(よつ)の絃(を)に払ひもあへずかゝる泪(なみだ)を引返(ひきかへ)して、御返事(おんかへりごと)有(あり)けるに、涙ゆへ半(なかば)の月(つき)は陰(かく)るとも共(とも)に見し夜(よ)の影(かげ)は忘れじ同(おなじき)八日両検断(りやうけんだん)、高橋刑部(ぎやうぶ)左衛門・糟谷(かすや)三郎宗秋(むねあき)、六波羅(ろくはら)に参(さんじ)て、今度(こんど)被生虜給(たまひ)し人々を一人(いちにん)づゝ大名(だいみやう)に被預。一宮(いちのみや)中務卿(なかつかさのきやう)親王(しんわう)をば佐々木(ささきの)判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)、妙法院(めうほうゐん)二品(にほん)親王(しんわう)をば長井左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)高広(たかひろ)、源中納言(げんぢゆうなごん)具行(ともゆき)をば筑後前司(ちくごのぜんじ)貞知(さだとも)、東南院(とうなんゐん)僧正をば常陸(ひたちの)前司時朝(ときとも)、万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)二人(ににん)をば、主上に近侍(きんじ)し奉るべしとて、放召人(はなちめしうど)の如くにて六波羅(ろくはら)にぞ留(と)め置(おか)れける。同(おなじき)九日三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を、持明院(ぢみやうゐん)の新帝(しんてい)の御方(おんかた)へ被渡。堀河(ほりかは)大納言具親(ともちか)・日野(ひのの)中納言資名(すけな)、是(これ)を請取(うけとり)て長講堂(ちやうがうだう)へ送(おくり)奉る。其御警固(そのおんけいご)には長井弾正蔵人(だんじやうくらんど)・水谷(みづたに)兵衛蔵人・但馬民部大夫(たじまみんぶのたいふ)・佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官清高(きよたか)をぞ被置ける。同(おなじき)十三日に、新帝(しんてい)登極(とうきよく)の由にて、長講堂より内裏(だいり)へ入(いら)せ給ふ。供奉(ぐぶ)の諸卿、花(はな)を折(をつ)て行妝(かうさう)を引刷(ひきつくろ)ひ、随兵(ずゐびやう)の武士(ぶし)、甲冑(かつちう)を帯(たい)して非常を誡(いまし)む。いつしか前帝(ぜんてい)奉公の方様(かたさま)には、咎(とが)有(ある)も咎無(なき)も、如何なる憂目(うきめ)をか見んずらんと、事に触(ふれ)て身を危(あやぶ)み心を砕(くだ)けば、当今拝趨(たうぎんはいすう)の人々は、有忠も無忠も、今に栄花(えいぐわ)を開(ひら)きぬと、目を悦(よろこ)ばしめ耳をこやす。子(み)結(むすん)で陰(かげ)を成し、花(はな)落(おち)て枝(えだ)を辞(じ)す。窮達(きゆうたつ)時を替(かへ)栄辱(えいじよく)道を分つ。今に始めぬ憂世(うきよ)なれども、殊更(ことさら)夢と幻(うつつ)とを分兼(わけかね)たりしは此時(このとき)也。
○赤坂城(あかさかのしろ)軍(いくさの)事(こと) S0304
遥々(はるばる)と東国(とうごく)より上(のぼ)りたる大勢共(おほぜいども)、未(いまだ)近江国(あふみのくに)へも入(いら)ざる前(さき)に、笠置(かさぎ)の城(しろ)已(すで)に落(おち)ければ、無念(むねん)の事に思(おもう)て、一人(いちにん)も京都へは不入。或(あるひ)は伊賀・伊勢の山を経(へ)、或(あるひ)は宇治(うぢ)・醍醐(だいご)の道を要(よこぎつ)て、楠(くすのき)兵衛(ひようゑ)正成(まさしげ)が楯篭(たてこもり)たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原(いしかはかはら)を打過(うちすぎ)、城の有様(ありさま)を見遣(みや)れば、俄(にはか)に誘(こしら)へたりと覚(おぼえ)てはか/゛\しく堀をもほらず、僅(わづか)に屏(へい)一重(ひとへ)塗(ぬつ)て、方(はう)一二町(いちにちやう)には過(すぎ)じと覚(おぼえ)たる其内(そのうち)に、櫓(やぐら)二三十が程掻双(かきなら)べたり。是(これ)を見(み)る人毎(ひとごと)に、あな哀(あはれ)の敵(てき)の有様(ありさま)や、此城(このしろ)我等(われら)が片手に載(のせ)て、投(なぐ)るとも投(なげ)つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名(ぶんどりかうみやう)して恩賞に預(あづか)らんと、思はぬ者こそ無(なか)りけれ。されば寄手(よせて)三十万騎(さんじふまんぎ)の勢共(せいども)、打寄(うちよ)ると均(ひとし)く、馬(むま)を蹈放々々(ふみはなちふみはなち)、堀の中(なか)に飛入(とびいり)、櫓(やぐら)の下(した)に立双(たちならん)で、我前(われさき)に打入(うちいら)んとぞ諍(あらそ)ひける。正成は元来(もとより)策(はかりごと)を帷幄(ゐあく)の中(うち)に運(めぐら)し、勝事(かつこと)を千里の外(ほか)に決せんと、陳平(ちんべい)・張良(ちやうりやう)が肺肝(はいかん)の間(あひだ)より流出(るしゆつ)せるが如(ごとき)の者なりければ、究竟(くつきやう)の射手(いて)を二百余人(よにん)城中(じやうちゆう)に篭(こめ)て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠(まさとほ)とに、三百(さんびやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、よその山にぞ置(おき)たりける。寄手(よせて)は是(これ)を思(おもひ)もよらず、心を一片(いつぺん)に取(とり)て、只一揉(ひともみ)に揉落(もみおと)さんと、同時(どうじ)に皆四方(しはう)の切岸(きりぎし)の下(した)に着(つい)たりける処を、櫓(やぐら)の上、さまの陰(かげ)より、指(さし)つめ引(ひき)つめ、鏃(やじり)を支(ささへ)て射ける間、時の程に死人手負(しにんておひ)千余人(よにん)に及べり。東国の勢共(せいども)案(あん)に相違して、「いや/\此城(このしろ)の為体(ていたらく)、一日二日には落(おつ)まじかりけるぞ、暫(しばらく)陣々を取(とつ)て役所(やくしよ)を構(かま)へ、手分(てわけ)をして合戦を致せ。」とて攻口(せめぐち)を少し引退(ひきしりぞ)き、馬(むま)の鞍(くら)を下(おろ)し、物(もの)の具(ぐ)を脱(ぬい)で、皆帷幕(ゐばく)の中(うち)にぞ休居(やすみゐ)たりける。楠(くすのき)七郎・和田五郎、遥(はるか)の山より直下(みおろ)して、時刻(じこく)よしと思(おもひ)ければ、三百(さんびやく)余騎(よき)を二手(ふたて)に分け、東西(とうざい)の山の木陰(こかげ)より、菊水(きくすゐ)の旗二流(ふたながれ)松の嵐に吹靡(ふきなび)かせ、閑(しづか)に馬(むま)を歩(あゆ)ませ、煙嵐(えんらん)を捲(まい)て押寄(おしよせ)たり。東国の勢(せい)是(これ)を見て、敵(てき)か御方(みかた)かとためらひ怪(あやし)む処に、三百(さんびやく)余騎(よき)の勢共(せいども)、両方(りやうばう)より時(とき)を咄(どつ)と作(つくつ)て、雲霞(うんか)の如くに靉(たなび)ひたる三十万騎(さんじふまんぎ)が中(なか)へ、魚鱗懸(ぎよりんがかり)に懸入(かけいり)、東西南北へ破(はつ)て通り、四方(しはう)八面(はちめん)を切(きつ)て廻(まは)るに、寄手(よせて)の大勢(おほぜい)あきれて陣を成(なし)かねたり。城中(じやうちゆう)より三(みつ)の木戸(きど)を同時(どうじ)に颯(さつ)と排(ひらい)て、二百余騎(よき)鋒(きつさき)を双(ならべ)て打(うつ)て出(いで)、手崎(てさき)をまわして散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)さしもの大勢(おほぜい)なれども僅(わづか)の敵に驚騒(おどろきさわい)で、或(あるひ)は維(つな)げる馬に乗(のつ)てあをれども進まず。或(あるひ)は弛(はづ)せる弓に矢をはげて射(い)んとすれども不被射。物具(もののぐ)一領(りやう)に二三人(にさんにん)取付(とりつき)、「我がよ人のよ。」と引遇(ひきあひ)ける其間(そのあひだ)に、主(しゆ)被打ども従者(じゆうさ)は不知、親被打共子も不助、蜘(くも)の子(こ)を散(ちら)すが如く、石川々原(いしかはかはら)へ引退(ひきしりぞ)く。其(その)道五十町が間(あひだ)、馬(むま)・物具(もののぐ)を捨(すて)たる事足の踏所(ふみどころ)もなかりければ、東条一郡(とうでういちぐん)の者共(ものども)は、俄(にはか)に徳(とく)付(つい)てぞ見(みえ)たりける。指(さし)もの東国勢(とうごくぜい)思(おもひ)の外(ほか)にし損(そん)じて、初度(しよど)の合戦(かつせん)に負(まけ)ければ、楠が武畧(ぶりやく)侮(あなど)りにくしとや思(おもひ)けん。吐田(はんだ)・楢原辺(ならばらへん)に各(おのおの)打寄(うちよせ)たれども、軈(やが)て又推寄(おしよせ)んとは不擬。此(ここ)に暫(しばらく)引(ひか)へて、畿内(きない)の案内者(あんないしや)を先(さき)に立(たて)て、後攻(ごづめ)のなき様(やう)に山を苅廻(かりまはり)、家を焼払(やきはらう)て、心易(やす)く城(しろ)を責(せむ)べきなんど評定(ひやうぢやう)ありけるを、本間(ほんま)・渋谷(しぶや)の者共(ものども)の中(なか)に、親被打子被討たる者多かりければ、「命(いのち)生(いき)ては何(なに)かせん、よしや我等が勢許(せいばかり)なりとも、馳向(はせむかう)て打死(うちじに)せん。」と、憤(いきどほ)りける間、諸人(しよにん)皆是(これ)に被励て、我(われ)も我(われ)もと馳向(はせむかひ)けり。彼(かの)赤坂の城(しろ)と申(まうす)は、東(ひがし)一方(いつぱう)こそ山田(やまだ)の畔(くろ)重々(ぢゆうぢゆう)に高(たかく)して、少し難所(なんじよ)の様(やう)なれ、三方(さんぱう)は皆平地(ひらち)に続(つづ)きたるを、堀一重(ひとへ)に屏(へい)一重塗(ぬつ)たれば、如何なる鬼神(きじん)が篭りたり共(とも)、何程(なにほど)の事か可有と寄手(よせて)皆是(これ)を侮(あなど)り、又寄(よす)ると均(ひとし)く、堀の中(なか)、切岸(きりぎし)の下(した)まで攻付(せめつい)て、逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて打(うつ)て入(いら)んとしけれども、城中(じやうちゆう)には音(おと)もせず、是(これ)は如何様(いかさま)昨日(きのふ)の如く、手負(ておひ)を多く射出(いいだし)て漂(ただよ)ふ処へ、後攻(ごづめ)の勢(せい)を出(いだ)して、揉合(もみあは)せんずるよと心得て、寄手(よせて)十万余騎(よき)を分(わけ)て、後(うしろ)の山へ指向(さしむけ)て、残る二十万騎(にじふまんぎ)稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如く城を取巻(とりまい)てぞ責(せめ)たりける。卦(かかり)けれども城(しろ)の中(うち)よりは、矢の一筋をも不射出更(さらに)人有(あり)とも見へざりければ、寄手(よせて)弥(いよいよ)気に乗(のつ)て、四方(しはう)の屏(へい)に手を懸(かけ)、同時(どうじ)に上越(のぼりこえ)んとしける処を、本(もと)より屏(へい)を二重(ふたへ)に塗(ぬつ)て、外(そと)の屏をば切(きつ)て落す様(やう)に拵(こしらへ)たりければ、城(しろ)の中(うち)より、四方(しはう)の屏(へい)の鈎縄(つりなは)を一度(いちど)に切(きつ)て落したりける間、屏に取付(とりつき)たる寄手(よせて)千余人(よにん)、厭(おし)に被打たる様(やう)にて、目許(めばかり)はたらく処を、大木(たいぼく)・大石(たいせき)を抛懸々々(なげかけなげかけ)打(うち)ける間、寄手(よせて)又今日(けふ)の軍(いくさ)にも七百余人(よにん)被討けり。東国の勢共(せいども)、両日(りやうじつ)の合戦に手(て)ごりをして、今は城(しろ)を攻(せめ)んとする者一人(いちにん)もなし。只其近辺(そのきんぺん)に陣々を取(とつ)て、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。四五日が程は加様(かやう)にて有(あり)けるが、余(あまり)に暗然(あんぜん)として守り居たるも云甲斐(いひがひ)なし。方(はう)四町(しちやう)にだに足(たら)ぬ平城(ひらじやう)に、敵(てき)四五百人篭(こもり)たるを、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢共(せいども)が責(せめ)かねて、遠責(とほぜめ)したる事の浅猿(あさまし)さよなんど、後(のち)までも人に被笑事こそ口惜(くちをし)けれ。前々(さきざき)は早(はや)りのまゝ楯をも不衝、責具足(せめぐそく)をも支度(したく)せで責(せむ)ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度(このたび)は質(てだ)てを替(かへ)て可責とて、面々(めんめん)に持楯(もちたて)をはがせ、其面(そのおもて)にいため皮(がは)を当(あて)て、輒(たやす)く被打破ぬ様(やう)に拵(こしらへ)て、かづきつれてぞ責(せめ)たりける。切岸(きりぎし)の高さ堀(ほり)の深さ幾程(いくほど)もなければ、走懸(はしりかかつ)て屏(へい)に着(つか)ん事は、最(いと)安(やす)く覚(おぼえ)けれ共、是(これ)も又釣屏(つりべい)にてやあらんと危(あやぶ)みて無左右屏には不着、皆堀の中(なか)にをり漬(ひたつ)て、熊手(くまで)を懸(かけ)て屏を引(ひき)ける間、既(すで)に被引破ぬべう見へける処に、城(しろ)の内(うち)より柄(え)の一二丈長き杓(ひしやく)に、熱湯(ねつたう)の湧翻(わきかへ)りたるを酌(くん)で懸(かけ)たりける間、甲(かぶと)の天返(てへん)綿噛(わたがみ)のはづれより、熱湯(あつきゆ)身に徹(とほつ)て焼爛(やけただれ)ければ、寄手(よせて)こらへかねて、楯も熊手(くまで)も打捨(すて)て、ばつと引(ひき)ける見苦しさ、矢庭(やには)に死(しす)るまでこそ無(なけ)れども、或(あるひ)は手足(てあし)を被焼て立(たち)も不揚、或(あるひ)は五体(ごたい)を損(そん)じて病(や)み臥(ふ)す者、二三百人(にさんびやくにん)に及べり。寄手(よせて)質(てだて)を替(かへ)て責(せむ)れば、城(しろ)の中(うち)工(たくみ)を替(かへ)て防ぎける間、今は兔(と)も角(かく)も可為様(やう)なくして、只食責(じぎぜめ)にすべしとぞ被議ける。かゝりし後(のち)は混(ひたす)ら軍(いくさ)をやめて、己(おのれ)が陣々に櫓(やぐら)をかき、逆木(さかもぎ)を引(ひい)て遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。是(これ)にこそ中々(なかなか)城中(じやうちゆう)の兵(つはもの)は、慰(なぐさむ)方もなく機(き)も疲れぬる心地しけれ。楠此城(このしろ)を構(かま)へたる事暫時(ざんじ)の事なりければ、はか/゛\しく兵粮(ひやうろう)なんど用意(ようい)もせざれば、合戦始(はじまつ)て城を被囲たる事(こと)、僅(わづか)に二十日(はつか)余(あま)りに、城中(じやうちゆう)兵粮尽(つき)て、今四五日の食(かて)を残せり。懸(かかり)ければ、正成(まさしげ)諸卒(しよそつ)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「此間(このあひだ)数箇度(すかど)の合戦に打勝(かつ)て、敵を亡(ほろぼ)す事数を不知といへども、敵大勢(おほぜい)なれば敢(あへ)て物(もの)の数ともせず、城中既(すでに)食(かて)尽(つき)て助(たすけ)の兵(つはもの)なし。元来(もとより)天下(てんか)の士卒(じそつ)に先立(さきだつ)て、草創(さうさう)の功(こう)を志(こころざし)とする上は、節(せつ)に当り義に臨(のぞん)では、命(いのち)を可惜に非(あら)ず。雖然事(こと)に臨(のぞん)で恐れ、謀(はかりごと)を好(このん)で成すは勇士(ゆうし)のする所(ところ)也。されば暫(しばらく)此城(このしろ)を落(おち)て、正成自害(じがい)したる体(てい)を敵に知(しら)せんと思ふ也。其故(そのゆゑ)は正成自害(じがい)したりと見及(みおよ)ばゞ、東国勢(とうごくぜい)定(さだめ)て悦(よろこび)を成(なし)て可下向。下(くだ)らば正成打(うつ)て出(いで)、又上(のぼ)らば深山(みやま)に引入(ひきいり)、四五度が程東国勢を悩(なやま)したらんに、などか退屈(たいくつ)せざらん。是(これ)身を全(まつたう)して敵を亡(ほろぼ)す計畧也。面々(めんめん)如何(いかん)計(はから)ひ給(たまふ)。」と云(いひ)ければ、諸人(しよにん)皆、「可然。」とぞ同(どう)じける。「さらば。」とて城中(じやうちゆう)に大(おほき)なる穴を二丈許(ばかり)掘(ほり)て、此間(このあひだ)堀の中(なか)に多く討(うた)れて臥(ふし)たる死人(しびと)を二三十人穴の中(なか)に取入(とりいれ)て、其(その)上に炭(すみ)・薪(たきぎ)を積(つん)で雨風(あめかぜ)の吹洒(ふきそそ)ぐ夜(よ)をぞ待(まち)たりける。正成が運や天命に叶(かなひ)けん、吹(ふく)風俄(にはか)に沙(いさご)を挙(あげ)て降(ふる)雨更に篠(しの)を衝(つく)が如し。夜色(やしよく)窈溟(えうめい)として氈城(せんぜい)皆帷幕(ゐばく)を低(た)る。是(これ)ぞ待所(まつところ)の夜(よ)なりければ、城中(じやうちゆう)に人を一人残し留(とどめ)て、「我等落延(おちのび)ん事四五町にも成(なり)ぬらんと思はんずる時、城(しろ)に火を懸(かけ)よ。」と云置(いひおい)て、皆物(もの)の具(ぐ)を脱ぎ、寄手(よせて)に紛(まぎれ)て五人三人(さんにん)別々(べちべち)になり、敵(てき)の役所(やくしよ)の前(まへ)軍勢の枕の上(うへ)を越(こえ)て閑々(しづしづ)と落(おち)けり。正成長崎が厩(むまや)の前(まへ)を通りける時、敵是(これ)を見つけて、「何者なれば御(おん)役所の前を、案内も申さで忍(しのび)やかに通るぞ。」と咎(とが)めれけば、正成、「是(これ)は大将の御内(みうち)の者にて候が、道を踏違(ふみたが)へて候ひける。」と云捨(いひすて)て、足早(あしばや)にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪(あやし)き者なれ、如何様(いかさま)馬盜人(むまぬすびと)と覚(おぼゆ)るぞ。只射殺(いころ)せ。」とて、近々(ちかぢか)と走寄(はしりよつ)て真直中(まつただなか)をぞ射たりける。其(その)矢正成が臂(ひぢ)の懸(かか)りに答(こたへ)て、したゝかに立(たち)ぬと覚へけるが、す膚(はだ)なる身に少(すこし)も不立して、筈(はず)を返して飛翻(とびかへ)る。後(のち)に其矢(そのや)の痕(あと)を見れば、正成が年来(としごろ)信じて奉読観音経(くわんおんきやう)を入(いれ)たりける膚(はだ)の守(まもり)に矢当(あたつ)て、一心称名(いつしんしようみやう)の二句の偈(げ)に、矢崎(やさき)留(とどま)りけるこそ不思議なれ。正成必死(ひつし)の鏃(やじり)に死を遁(のが)れ、二十余町落延(おちのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)ければ、約束に不違、早城(はやしろ)の役所共(ども)に火を懸(かけ)たり。寄手(よせて)の軍勢火に驚(おどろい)て、「すはや城(しろ)は落(おち)けるぞ。」とて勝時(かつどき)を作(つくつ)て、「あますな漏(もら)すな。」と騒動(さうどう)す。焼静(やけしづ)まりて後(のち)城中(じやうちゆう)をみれば、大(おほき)なる穴の中(なか)に炭を積(つん)で、焼死(やけしし)たる死骸(しがい)多し。皆是(これ)を見て、「あな哀(あはれ)や、正成はや自害(じがい)をしてけり。敵(てき)ながらも弓矢(ゆみや)取(とつ)て尋常に死(しし)たる者哉(かな)。」と誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。
○桜山(さくらやま)自害(じがいの)事(こと) S0305
去程(さるほど)に桜山(さくらやま)四郎入道(にふだう)は、備後国(びんごのくに)半国許(はんこくばかり)打順(うちしたが)へて、備中(びつちゆう)へや越(こえ)まし、安芸(あき)をや退治(たいぢ)せましと案じける処に、笠置城(かさぎのしろ)も落(おち)させ給ひ、楠(くすのき)も自害したりと聞へければ、一旦(いつたん)の付勢(つきぜい)は皆落失(おちうせ)ぬ。今は身を離(はなれ)ぬ一族、年来(としごろ)の若党(わかたう)二十余人(にじふよにん)ぞ残りける。此比(このごろ)こそあれ、其昔(そのむかし)は武家(ぶけ)権(けん)を執(とつ)て、四海(しかい)九州の内(うち)尺地(せきち)も不残ければ、親(したし)き者も隠し得(え)ず、疎(うとき)はまして不被憑、人手(ひとで)に懸(かか)りて尸(かばね)を曝(さら)さんよりはとて、当国(たうごく)の一宮(いちのみや)へ参り、八歳(はつさい)に成(なり)ける最愛(さいあい)の子と、二十七に成(なり)ける年来(としごろ)の女房とを刺殺(さしころし)て、社壇(しやだん)に火をかけ、己(おのれ)が身も腹掻切(かききつ)て、一族(いちぞく)若党(わかたう)二十三人(にじふさんにん)皆(みな)灰燼(ぐわいじん)と成(なつ)て失(うせ)にけり。抑(そもそも)所(ところ)こそ多かるに、態(わざと)社壇に火を懸(かけ)焼死(やけしし)ける桜山が所存(しよぞん)を如何(いか)にと尋(たづぬ)るに、此(この)入道当社(たうしや)に首(かうべ)を傾(かたぶけ)て、年(とし)久(ひさし)かりけるが、社頭(しやとう)の余(あま)りに破損(はそん)したる事を歎(なげき)て、造営し奉(たてまつ)らんと云(いふ)大願(たいぐわん)を発(おこ)しけるが、事(こと)大営(たいえい)なれば、志(こころざし)のみ有(あり)て力(ちから)なし。今度(こんど)の謀叛(むほん)に与力(よりき)しけるも、専(もつぱら)此大願(このたいぐわん)を遂(とげ)んが為なりけり。されども神(しんは)非礼(ひれい)を享(うけ)給はざりけるにや、所願(しよぐわん)空(むなしく)して打死(うちじに)せんとしけるが、我等此社(このやしろ)を焼払(やきはらひ)たらば、公家(くげ)武家共(とも)に止(や)む事(こと)を不得して如何様(いかさま)造営の沙汰可有。其(その)身は縦(たと)ひ奈落(ならく)の底に堕在(だざい)すとも、此願(このぐわん)をだに成就(じやうじゆ)しなば悲(かなし)むべきに非(あら)ずと、勇猛(ゆうまう)の心を発(おこし)て、社頭(しやとう)にては焼死(やけしし)にける也。倩(つらつら)垂迹和光(すゐじやくわくわう)の悲願(ひぐわん)を思へば、順逆(じゆんぎやく)の二縁(にえん)、何(いづ)れも済度利生(さいどりしやう)の方便(はうべん)なれば、今生(こんじやう)の逆罪(ぎやくざい)を翻(ひるがへ)して当来(たうらい)の値遇(ちぐう)とや成らんと、是(これ)もたのみは不浅ぞ覚へける。