太平記(国民文庫)
太平記巻第二
○南都北嶺(なんとほくれい)行幸(ぎやうがうの)事(こと) S0201
元徳(げんとく)二年二月四日、行事(ぎやうじ)の弁別当(べんのべつたう)、万里小路(までのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)藤房卿(ふぢふさのきやう)を召(めさ)れて、「来月八日東大寺興福寺(こうふくじ)行幸(ぎやうがう)有(ある)べし、早(はやく)供奉(ぐぶ)の輩(ともがら)に触仰(ふれおほ)すべし。」と仰出(おほせいだ)されければ、藤房(ふぢふさ)古(ふるき)を尋(たづね)、例(れい)を考(かんがへ)て、供奉(ぐぶ)の行装(かうさう)、路次(ろし)の行列(かうれつ)を定(さだめ)らる。佐々木(ささきの)備中守(びつちゆうのかみ)廷尉(ていゐ)に成(なつ)て橋を渡(わた)し、四十八箇所(しじふはちかしよの)篝(かがり)、甲胄(かつちう)を帯(たい)し、辻(つじ)々を堅(かた)む。三公(さんこう)九卿(きうけい)相従(あひしたが)ひ、百司千官(はくしせんくわん)列(れつ)を引(ひく)、言語道断(ごんごだうだん)の厳儀(げんぎ)也。東大寺と申(まうす)は聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、閻浮(えんぶ)第一(だいいち)の盧舎那仏(るしやなぶつ)、興福寺と申(まうす)は淡海公(たんかいこう)の御願、藤氏(とうし)尊崇(そんそう)の大伽藍(だいがらん)なれば、代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)も、皆結縁(けちえん)の御志(おんこころざし)は御坐(おは)せども、一人(いちじん)出給(いでたまふ)事(こと)容易(たやす)からざれば、多年臨幸の儀(ぎ)もなし。此御代(このみよ)に至(いたつ)て、絶(たえ)たるを継(つぎ)、廃(すたれ)たるを興(おこ)して、鳳輦(ほうれん)を廻(めぐら)し給(たまひ)しかば、衆徒(しゆと)歓喜(くわんぎ)の掌(たなごころ)を合(あは)せ、霊仏(れいぶつ)威徳(ゐとく)の光をそふ。されば春日山(かすがやま)の嵐の音も、今日(けふ)よりは万歳(ばんぜい)を呼(よば)ふかと怪(あやし)まれ、北の藤波(ふじなみ)千代(ちよ)かけて、花(はな)咲(さく)春の陰(かげ)深し。又同(おなじき)月二十七日に、比叡山(ひえいさん)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、大講堂(だいかうだう)供養(くやう)あり。彼(かの)堂と申(まうす)は、深草天皇(ふかくさのてんわう)の御願(ごぐわん)、大日遍照(だいにちへんぜう)の尊像(そんざう)也。中比(なかごろ)造営(ざうえい)の後(のち)、未(いまだ)供養を遂(とげ)ずして、星霜(せいざう)已(すでに)積(つも)りければ、甍(いらか)破(やぶれ)ては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)を焼(たき)、扉(とぼそ)落(おち)ては月常住(じやうぢゆ)の燈(ともしび)を挑(かか)ぐ。されば満山(まんさん)歎(なげい)て年を経(ふ)る処に、忽(たちまち)に修造(しゆざう)の大功を遂(とげ)られ、速(すみやか)に供養の儀式を調(ととの)へ給(たまひ)しかば、一山(いつさん)眉(まゆ)を開(ひら)き、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶ)けり。御導師(おんだうし)は妙法院(めうほふゐんの)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)、咒願(じゆぐわん)は時の座主(ざす)大塔(おほたふの)尊雲(そんうん)法親王(ほふしんわう)にてぞ御座(おは)しける。称揚讚仏(しようやうさんぶつ)の砌(みぎり)には、鷲峯(じゆほう)の花(はな)薫(にほひ)を譲り、歌唄頌徳(かばいじゆとく)の所には、魚山(ぎよさん)の嵐(あらし)響(ひびき)を添(そふ)。伶倫(れいりん)遏雲(あつうん)の曲を奏し、舞童(ぶどう)回雪(くわいせつ)の袖を翻(ひるがへ)せば、百獣も率舞(そつしまひ)、鳳鳥(ほうてう)も来儀(らいぎ)する計(ばかり)也。住吉の神主(かんぬし)、津守(つもり)の国夏(くになつ)大皷(たいこ)の役(やく)にて登山(とうさん)したりけるが、宿坊(しゆくばう)の柱に一首(いつしゆ)の歌をぞ書付(かきつけ)たる。契(ちぎり)あれば此山(このやま)もみつ阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の種(たね)や植剣(うゑけん)是(これ)は伝教大師(でんげうたいし)当山(たうざん)草創(さうさう)の古(いにしへ)、「我(わが)立(たつ)杣(そま)に冥加(みやうが)あらせ給へ。」と、三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の仏達(ほとけたち)に祈給(いのりたまひ)し故事(こじ)を思(おもう)て、読(よめ)る歌なるべし。抑(そもそも)元亨(げんかう)以後、主(しゆ)愁(うれへ)臣(しん)辱(はづかしめ)られて、天下更(さらに)安(やすき)時なし。折節(をりふし)こそ多かるに、今南都北嶺(なんとほくれい)の行幸、叡願(えいぐわん)何事(なにこと)やらんと尋(たづぬ)れば、近年(きんねん)相摸入道(さがみにふだうの)振舞、日来(ひごろ)の不儀に超過(てうくわ)せり。蛮夷(ばんい)の輩(ともがら)は、武命(ぶめい)に順(したが)ふ者なれば、召(めす)とも勅(ちよく)に応ずべからず。只山門南都の大衆(だいしゆ)を語(かたらひ)て、東夷(とうい)を征罰(せいばつ)せられん為の御謀叛(ごむほん)とぞ聞(きこ)へし。依之大塔(おほたふ)の二品(にほん)親王(しんわう)は、時の貫主(くわんじゆ)にて御坐(おは)せしか共(ども)、今は行学(かうがく)共(とも)に捨(すて)はてさせ給(たまひ)て、朝暮(てうぼ)只武勇の御嗜(たしなみ)の外(ほか)は他事なし。御好(おんこのみ)有故(あるゆゑ)にや依(より)けん、早業(はやわざ)は江都(かうと)が軽捷(けいせふ)にも超(こえ)たれば、七尺(しつせき)の屏風(びやうぶ)未(いまだ)必(かならず)しも高しともせず。打物(うちもの)は子房(しばう)が兵法(ひやうはふ)を得玉(えたま)へば、一巻(いつくわん)の秘書尽(つく)されずと云(いふ)事(こと)なし。天台座主(てんだいのざす)始(はじまつ)て、義真和尚(ぎしんくわしやう)より以来(このかた)一百余代、未(いまだ)懸(かか)る不思議の門主(もんしゆ)は御坐(おはしま)さず。後(のち)に思合(おもひあは)するにこそ、東夷征罰(とういせいばつ)の為に、御身(おんみ)を習(ならは)されける武芸の道とは知られたれ。
○僧徒(そうと)六波羅(ろくはらへ)召捕(めしとる)事(こと)付為明(ためあきら)詠歌(えいかの)事(こと) S0202
事の漏安(もれやす)きは、禍(わざはひ)を招く媒(なかだち)なれば、大塔宮(おほたふのみや)の御行事(おんふるまひ)、禁裡(きんり)に調伏(てうぶく)の法被行事共(ども)、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に怒(いかつ)て、「いや/\此君(このきみの)御在位(ございゐ)の程は天下静まるまじ。所詮(しよせん)君をば承久(しようきう)の例(れい)に任(まかせ)て、遠国(をんごく)へ移し奉(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に所(しよ)し奉るべき也。先(まづ)近日(このころ)殊に竜顔(りようがん)に咫尺奉(しせきしたてまつつ)て、当家(たうけ)を調伏(てうぶく)し給ふなる、法勝寺(ほつしようじ)の円観(ゑんくわん)上人・小野(をの)の文観(もんくわん)僧正・南都の知教(ちけう)・教円(けうゑん)・浄土寺(じやうどじ)の忠円(ちゆうゑん)僧正を召取(めしとり)て、子細(しさい)を相尋(あひたづぬ)べし。」と、已(すで)に武命を含(ふくん)で、二階堂下野判官(にかいだうしもつけのはうぐわん)・長井遠江守(ながゐとほたふみのかみ)二人(ににん)、関東より上洛(しやうらく)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)せしかば、「又何(いか)なる荒き沙汰(さた)をか致さんずらん。」と、主上宸襟(しんきん)を悩(なやま)されける所に、五月十一日の暁(あかつき)、雑賀隼人佐(さいがはやとのすけ)を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人(さんにん)を六波羅(ろくはら)へ召取(めしとり)奉る。此(この)中に忠円僧正は、顕宗(けんしゆう)の碩徳(せきとく)也しかば、調伏の法行(おこなう)たりと云(いふ)、其人数(そのにんじゆ)には入(い)らざりしかども、是(これ)も此(この)君に近付き奉(たてまつつ)て、山門(さんもん)の講堂(かうだう)供養(くやう)以下(いげ)の事(こと)、万(よろづ)直(ぢき)に申沙汰(まうしさた)せられしかば、衆徒(しゆと)与力(よりき)の事(こと)、此(この)僧正よも存(ぞん)ぜられぬ事は非じとて、同(おなじく)召取(めしとら)れ給(たまひ)にけり。是(これ)のみならず、智教・教円二人(ににん)も、南都より召出(めしいだ)されて、同(おなじく)六波羅(ろくはら)へ出(いで)給ふ。又二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきらの)卿(きやう)は、歌道(かだう)の達者(たつしや)にて、月の夜(よ)雪の朝(あした)、褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)の御会(ごくわい)に召(めさ)れて、宴(えん)に侍(はんべ)る事隙(ひま)無(なか)りしかば、指(さし)たる嫌疑(けんぎ)の人にては無(なか)りしかども、叡慮の趣を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとら)れて、斉藤某(なにがし)に是(これ)を預(あづけ)らる。五人の僧達(そうたち)の事は、元来(もとより)関東へ召下(めしくだ)して、沙汰有(ある)べき事なれば、六波羅(ろくはら)にて尋窮(たづねきはむる)に及ばず。為明(ためあきらの)卿(きやう)の事に於ては、先(まづ)京都にて尋沙汰(たづねさた)有(あつ)て、白状(はくじやう)あらば、関東へ註進(ちゆうしん)すべしとて、検断(けんだん)に仰(おほせ)て、已(すでに)嗷問(がうもん)の沙汰に及(およば)んとす。六波羅(ろくはら)の北の坪(つぼ)に炭をゝこす事(こと)、■湯炉壇(くわくたうろだん)の如(ごとく)にして、其(その)上に青竹を破(わ)りて敷双(しきなら)べ、少(すこし)隙(ひま)をあけゝれば、猛火(みやうくわ)炎(ほのほ)を吐(はい)て、烈(れつ)々たり。朝夕雑色(でうじやくざふしき)左右(さいう)に立双(たちならん)で、両方(りやうばう)の手を引張(ひつばつ)て、其(その)上を歩(あゆま)せ奉(たてまつら)んと、支度(したく)したる有様は、只四重(しぢゆう)五逆(ごぎやく)の罪人(ざいにん)の、焦熱大焦熱(せうねつだいせうねつ)の炎(ほのほ)に身を焦(こが)し、牛頭馬頭(ごづめづ)の呵責(かしやく)に逢(あふ)らんも、角社(かくこそ)有(あ)らめと覚(おぼ)へて、見(みる)にも肝(きも)は消(きえ)ぬべし。為明(ためあきら)卿(きやう)是(これ)を見給て、「硯(すずり)や有(ある)。」と尋(たづね)られければ、白状(はくじやう)の為かとて、硯(すずり)に料紙(れうし)を取添(とりそへ)て奉りければ、白状(はくじやう)にはあらで、一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かか)れける。
思(おもひ)きや我敷嶋(わがしきしま)の道ならで浮世の事を問(とは)るべしとは常葉駿河守(ときはするがのかみ)、此(この)歌を見て感歎(かんたん)肝(きも)に銘(めい)じければ、泪(なみだ)を流して理(り)に伏(ふく)す。東使(とうし)両人も是(これ)を読(よみ)て、諸共(もろとも)に袖を浸(ひた)しければ、為明(ためあきら)は水火(すゐくわ)の責(せめ)を遁(のが)れて、咎(とが)なき人に成(なり)にけり。詩歌(しいか)は朝廷の翫(もてあそぶ)処、弓馬(きゆうば)は武家の嗜(たしな)む道なれば、其慣(そのならはし)未(いまだ)必(かならず)しも、六義(りくぎ)数奇(すき)の道に携(たづさは)らねども、物(ものの)相感(あひかん)ずる事(こと)、皆(みな)自然なれば、此(この)歌一首(いつしゆ)の感(かん)に依(よつ)て、嗷問(がうもん)の責(せめ)を止(や)めける、東夷(とうい)の心中(こころのうち)こそやさしけれ。力をも入(いれ)ずして、天地(あめつち)を動(うごか)し、目にみへぬ鬼神(おにがみ)をも哀(あはれ)と思はせ、男女(をとこをんな)の中(なか)をも和(やはら)げ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰(なぐさむ)るは歌也と、紀貫之(きのつらゆき)が古今(こきん)の序(じよ)に書(かき)たりしも、理(ことわり)なりと覚(おぼえ)たり。
○三人(さんにんの)僧徒(そうと)関東下向(げかうの)事(こと) S0203
同年(おなじきとしの)六月八日、東使(とうし)三人(さんにん)の僧達(そうたち)を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、関東に下向す。彼(かの)忠円僧正と申(まうす)は、浄土寺慈勝(じしよう)僧正の門弟として、十題判断(じふだいはんだん)の登科(とうくわ)、一山(いつさん)無双(ぶさう)の碩学(せきがく)也。文観(もんくわん)僧正と申(まうす)は、元(もと)は播磨国(はりまのくに)法華寺(ほつけじ)の住侶(ぢゆりよ)たりしが、壮年(さうねん)の比(ころ)より醍醐寺(だいごじ)に移住(いぢゆう)して、真言(しんごん)の大阿闍梨(だいあじやり)たりしかば、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、醍醐の座主(ざす)に補(ふ)せられて、四種三密(ししゆさんみつ)の棟梁(とうりやう)たり。円観上人と申(まうす)は、元(もと)は山徒(さんと)にて御坐(おはし)けるが、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の才(さい)、一山(いつさん)に光(ひかり)有(ある)かと疑はれ、智行兼備(ちぎやうけんび)の誉(ほま)れ、諸寺(しよじ)に人無(なき)が如し。然(しかれ)ども久(ひさしく)山門澆漓(げうり)の風(ふう)に随はゞ、情慢(じやうまん)の幢(はたほこ)高(たかう)して、遂に天魔(てんま)の掌握(しやうあく)の中(うち)に落(おち)ぬべし。不如、公請論場(くしやうろんぢやう)の声誉(せいよ)を捨(すて)て、高祖大師(かうそたいし)の旧規(きうき)に帰(かへら)んにはと、一度(ひとたび)名利(みやうり)の轡(くつばみ)を返して、永く寂寞(じやくまく)の苔(こけ)の扉(とぼそ)を閉(とぢ)給ふ。初(はじめ)の程は西塔(さいたふ)の黒谷(くろたに)と云(いふ)所に居(きよ)を卜(しめ)て、三衣(さんえ)を荷葉(かえふ)の秋(あき)の霜に重(かさ)ね、一鉢(いつばち)を松華(しようくわ)の朝(あした)の風(かぜ)に任(まかせ)給ひけるが、徳不孤必(かならず)有隣、大明(だいみやう)光(ひかり)を蔵(かくさ)ざりければ、遂に五代聖主の国師(こくし)として、三聚浄戒(さんじゆじやうかい)の太祖(たいそ)たり。かゝる有智高行(うちかうぎやう)の尊宿(そんしゆく)たりと云へども、時の横災(わうさい)をば遁(のがれ)給はぬにや、又前世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)にや依(より)けん。遠蛮(ゑんばん)の囚(とらはれ)と成(なつ)て、逆旅(げきりよ)の月にさすらひ給(たまふ)、不思議なりし事ども也。円観上人計(ばかり)こそ、宗印(そういん)・円照(ゑんせう)・道勝(だうしよう)とて、如影随形(によやうずゐぎやう)の御弟子(おんでし)三人(さんにん)、随逐(ずゐちく)して輿(こし)の前後(ぜんご)に供奉(ぐぶ)しけれ。其外(そのほか)文観僧正・忠円僧正には相随(あひしたがふ)者一人も無(なく)て、怪(あやしげ)なる店馬(てんま)に乗(の)せられて、見馴(みなれ)ぬ武士(ぶし)に打囲(うちかこま)れ、まだ夜(よ)深きに鳥が鳴(なく)東(あづま)の旅に出(いで)給ふ、心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。鎌倉(かまくら)までも下(くだ)し着(つ)けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼(かしこ)の宿(しゆく)に着(つい)ても今や限り、此(ここ)の山に休(やす)めば是(これ)や限りと、露の命(いのち)のある程も、心は先(さき)に消(きえ)つべし。昨日(きのふ)も過(すぎ)今日(けふ)も暮(くれ)ぬと行程(ゆくほど)に、我(われ)とは急(いそ)がぬ道なれど、日数(ひかず)積(つも)れば、六月二十四日に鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。円観上人をば佐介(さすけ)越前守(ゑちぜんのかみ)、文観僧正をば佐介遠江守(とほたふみのかみ)、忠円僧正をば足利(あしかが)讚岐守(さぬきのかみ)にぞ預(あづけ)らる。両使帰参(きさん)して、彼(かの)僧達(そうたち)の本尊の形(かたち)、炉壇(ろだん)の様(やう)、画図(ゑづ)に写(うつし)て註進す。俗人(ぞくじん)の見知(みし)るべき事ならねば、佐々目(ささめ)の頼禅(らいぜん)僧正を請(しやう)じ奉(たてまつつ)て、是(これ)を被見せに、「子細(しさい)なき調伏(てうぶく)の法也。」と申されければ、「去(さら)ば此(この)僧達(そうたち)を嗷問(がうもん)せよ。」とて、侍所(さふらひどころ)に渡して、水火(すゐくわ)の責(せめ)をぞ致しける。文観房(もんくわんばう)暫(しばし)が程はいかに問(とは)れけれ共(ども)、落(おち)玉はざりけるが、水問(みづもん)重(かさな)りければ、身も疲(つかれ)心も弱(よわく)なりけるにや、「勅定(ちよくじやう)に依(よつ)て、調伏の法行(おこなう)たりし条子細なし。」と、白状(はくじやう)せられけり。其後(そののち)忠円房を嗷問せんとす。此(この)僧正天性(てんせい)臆病(おくびやう)の人にて、未責(いまだせめざる)先(さき)に、主上(しゆしやう)山門を御語(おんかたら)ひありし事(こと)、大塔(おほたふ)の宮(みや)の御振舞、俊基(としもと)の隠謀(いんぼう)なんど、有(あり)もあらぬ事までも、残所(のこるところ)なく白状(はくじやう)一巻(いつくわん)に載(のせ)られたり。此(この)上は何(なん)の疑(うたがひ)か有(ある)べきなれ共(ども)、同罪(どうざい)の人なれば、閣(さしおく)べきに非(あら)ず。円観上人をも明日(みやうにち)問(とひ)奉るべき評定(ひやうぢやう)ありける。其夜(そのよ)相摸入道(さがみにふだう)の夢に、比叡山の東坂本(ひがしさかもと)より、猿共(さるども)二三千群来(むらがりきたつ)て、此(この)上人を守護(しゆご)し奉る体(てい)にて、並居(なみゐ)たりと見給ふ。夢の告(つげ)只事(ただごと)ならずと思はれければ、未明(びめい)に預人(あづかりうど)の許(もと)へ使者(ししや)を遣(つかは)し、「上人嗷問(がうもん)の事暫く閣(さしおく)べし。」と被下知処に、預人遮(さへぎつ)て相摸入道(さがみにふだう)の方(かた)に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「上人嗷問の事(こと)、此暁(このあかつき)既(すでに)其(その)沙汰を致(いたし)候はん為に、上人の御方(おんかた)へ参(まゐつ)て候へば、燭(ともしび)を挑(かかげ)て観法定坐(くわんぽふぢやうざ)せられて候。其(その)御影(おんかげ)後(うしろ)の障子(しやうじ)に移(うつつ)て、不動明王(ふどうみやうわう)の貌(かたち)に見(みえ)させ給(たまひ)候つる間(あひだ)、驚き存(そんじ)て、先(まづ)事(こと)の子細(しさい)を申入(まうしいれ)ん為に、参て候也。」とぞ申(まうし)ける。夢想(むさう)と云(いひ)、示現(じげん)と云(いひ)、只人(ただひと)にあらずとて、嗷問の沙汰を止(やめ)られけり。同(おなじき)七月十三日に、三人(さんにん)の僧達(そうたち)遠流(をんる)の在所(ざいしよ)定(さだまつ)て、文観僧正をば硫黄(いわう)が嶋、忠円僧正をば越後国(ゑちごのくに)へ流さる。円観上人計(ばかり)をば遠流一等を宥(なだめ)て、結城上野(ゆふきかうづけ)入道に預(あづけ)られければ、奥州(あうしう)へ具足(ぐそく)し奉(たてまつり)、長途(ちやうど)の旅にさすらひ給(たまふ)。左遷遠流(させんをんる)と云(いは)ぬ計(ばかり)也。遠蛮(ゑんばん)の外(ほか)に遷(うつ)されさせ給へば、是(これ)も只同じ旅程(りよてい)の思(おもひ)にて、肇法師(でうほふし)が刑戮(けいりく)の中(うち)に苦(くるし)み、一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)の火羅国(くわらこく)に流されし、水宿山行(すゐしゆくさんぎやう)の悲(かなしみ)もかくやと思知(おもひしら)れたり。名取川(なとりがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)とて上人一首(いつしゆ)の歌を読(よみ)給ふ。陸奥(みちのく)のうき名取川流来(ながれき)て沈(しづみ)やはてん瀬々(せぜ)の埋木(うもれぎ)時の天災(てんさい)をば、大権(だいごん)の聖者(しやうじや)も遁(のが)れ給はざるにや。昔天竺(てんぢく)の波羅奈国(はらないこく)に、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を兼備(けんび)し給へる独(ひとり)の沙門(しやもん)をはしけり。一朝(いつてう)の国師(こくし)として四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、天下の人帰依偈仰(きえかつがう)せる事(こと)、恰(あたかも)大聖世尊(だいしやうせそん)の出世成道(しゆつせじやうだう)の如(ごとく)也。或時(あるとき)其国(そのくに)の大王法会(ほふゑ)を行ふべき事有(あつ)て説戒(せつかい)の導師(だうし)に此(この)沙門(しやもん)をぞ請(しやう)ぜられける。沙門(しやもん)則(すなはち)勅命に随(したがつ)て鳳闕(ほうけつ)に参(さん)ぜらる。帝(みかど)折節(をりふし)碁(ご)を被遊ける砌(みぎり)へ、伝奏(てんそう)参(まゐつ)て、沙門(しやもん)参内(さんだい)の由を奏し申(まうし)けるを、遊(あそば)しける碁(ご)に御心(おんこころ)を入(いれ)られて、是(これ)を聞食(きこしめさ)れず、碁(ご)の手(て)に付(つい)て、「截(き)れ。」と仰(おほせ)られけるを、伝奏聞誤(ききあやま)りて、此(この)沙門(しやもん)を刎(きれ)との勅定(ちよくぢやう)ぞと心得て、禁門(きんもん)の外(ほか)に出(いだ)し、則(すなはち)沙門(しやもん)の首(くび)を刎(はね)てけり。帝(みかど)碁をあそばしはてゝ、沙門(しやもん)を御前(おんまへ)へ召(めされ)ければ、典獄(てんごく)の官(くわん)、「勅定に随(したがつ)て首(くび)を刎(はね)たり。」と申す。帝(みかど)大(おほき)に逆鱗(げきりん)ありて、「「行死(かうし)定(さだまつ)て後(のち)三奏(さんそう)す」と云へり。而(しかる)を一言(いちげん)の下(した)に誤(あやまり)を行(おこなう)て、朕(ちん)が不徳(ふとく)をかさぬ。罪大逆(たいぎやく)に同じ。」とて、則(すなはち)伝奏を召出(めしいだ)して三族の罪に行(おこなは)れけり。さて此(この)沙門(しやもん)罪なくして死刑に逢ひ給(たまひ)ぬる事只事(ただごと)にあらず、前生(ぜんじやう)の宿業(しゆくごふ)にてをはすらんと思食(おぼしめさ)れければ、帝其故(そのゆゑ)を阿羅漢(あらかん)に問(とひ)給ふ。阿羅漢(あらかん)七日が間(あひだ)、定(ぢやう)に入(いつ)て宿命通(しゆくみやうつう)を得て過現(くわげん)を見給ふに、沙門(しやもん)の前生(ぜんじやう)は耕作(かうさく)を業(げふ)とする田夫(でんぶ)也。帝の前生は水にすむ蛙(かはづ)にてぞ有(あり)ける。此(この)田夫鋤(すき)を取(とり)て春の山田(やまだ)をかへしける時、誤(あやまつ)て鋤のさきにて、蛙(かはづ)の頚をぞ切(きり)たりける。此因果(このいんぐわ)に依(よつ)て、田夫は沙門(しやもん)と生(うま)れ、蛙(かいる)は波羅奈国(はらないこく)の大王と生れ、誤(あやまつ)て又死罪(しざい)を行(おこなは)れけるこそ哀(あはれ)なれ。されば此(この)上人も、何(いか)なる修因感果(しゆいんかんくわ)の理(り)に依(よつて)か、卦(かか)る不慮(ふりよ)の罪に沈給(しづみたまひ)ぬらんと、不思議也し事共(ども)也。
○俊基朝臣(としもとあそん)再(ふたたび)関東下向(げかうの)事(こと) S0204
俊基(としもと)朝臣は、先年(せんねん)土岐(とき)十郎頼貞(よりさだ)が討(うた)れし後、召取(めしとら)れて、鎌倉(かまくら)まで下給(くだりたまひ)しかども、様々(さまざま)に陳(ちん)じ申されし趣(おもむき)、げにもとて赦免(しやめん)せられたりけるが、又今度(このたび)の白状共(はくじやうども)に、専(もつぱら)隠謀の企(くはだて)、彼(かの)朝臣にありと載(のせ)たりければ、七月十一日に又六波羅(ろくはら)へ召取(めしとら)れて関東へ送られ給ふ。再犯(さいほん)不赦法令(はふれい)の定(さだま)る所なれば、何(なに)と陳(ちんず)る共(とも)許されじ、路次(ろし)にて失(うしなは)るゝか鎌倉(かまくら)にて斬(きら)るゝか、二(ふたつ)の間(あひだ)をば離れじと、思儲(おもひまうけ)てぞ出(いで)られける。落花(らくくわ)の雪に蹈(ふみ)迷ふ、片野(かたの)の春の桜がり、紅葉(もみぢ)の錦を衣(き)て帰(かへる)、嵐の山の秋の暮、一夜(ひとよ)を明(あか)す程だにも、旅宿(たびね)となれば懶(ものうき)に、恩愛(おんあい)の契(ちぎ)り浅からぬ、我(わが)故郷(ふるさと)の妻子(さいし)をば、行末(ゆくへ)も知(しら)ず思置(おもひおき)、年久(としひさしく)も住馴(すみなれ)し、九重(ここのへ)の帝都(ていと)をば、今を限(かぎり)と顧(かへりみ)て、思はぬ旅に出(いで)玉ふ、心の中(うち)ぞ哀(あはれ)なる。憂(うき)をば留(とめ)ぬ相坂(あふさか)の、関の清水(しみづ)に袖濡(ぬれ)て、末(すゑ)は山路(やまぢ)を打出(うちで)の浜、沖を遥(はるかに)見渡せば、塩(しほ)ならぬ海にこがれ行(ゆく)、身(み)を浮舟(うきふね)の浮沈(うきしづ)み、駒も轟(とどろ)と踏鳴(ふみなら)す、勢多(せた)の長橋(ながはし)打(うち)渡り、行向(ゆきかふ)人に近江路(あふみぢ)や、世のうねの野に鳴(なく)鶴(つる)も、子を思(おもふ)かと哀(あはれ)也。時雨(しぐれ)もいたく森山(もりやま)の、木下露(このしたつゆ)に袖ぬれて、風に露(つゆ)散(ち)る篠原(しのはら)や、篠(しの)分(わく)る道を過行(すぎゆけ)ば、鏡(かがみ)の山は有(あり)とても、泪(なみだ)に曇(くもり)て見へ分(わか)ず。物を思へば夜間(よのま)にも、老蘇森(おいそのもり)の下草(したくさ)に、駒を止(とどめ)て顧(かへりみ)る、古郷(ふるさと)を雲や隔つらん。番馬(ばんば)、醒井(さめがゐ)、柏原(かしはばら)、不破(ふは)の関屋(せきや)は荒果(あれはて)て、猶(なほ)もる物は秋の雨の、いつか我身(わがみ)の尾張(をはり)なる、熱田(あつた)の八剣(やつるぎ)伏拝(ふしをが)み、塩干(しほひ)に今や鳴海潟(なるみがた)、傾(かたぶ)く月に道見へて、明(あけ)ぬ暮(くれ)ぬと行(ゆく)道の、末(すゑ)はいづくと遠江(とほたふみ)、浜名(はまな)の橋の夕塩(ゆふしほ)に、引人(ひくひと)も無き捨小船(すてをぶね)、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀(あはれ)と夕暮の、入逢(いりあひ)鳴(なれ)ば今はとて、池田(いけだ)の宿(しゆく)に着(つき)給ふ。元暦(げんりやく)元年(ぐわんねん)の比(ころ)かとよ、重衡(しげひらの)中将(ちゆうじやう)の、東夷(とうい)の為に囚(とらは)れて、此宿(このしゆく)に付給(つきたまひ)しに、「東路(あづまぢ)の丹生(はにふ)の小屋(こや)のいぶせきに、古郷(ふるさと)いかに恋(こひ)しかるらん。」と、長者(ちやうじや)の女(むすめ)が読(よみ)たりし、其古(そのいにしへ)の哀迄(あはれまで)も、思残(おもひのこ)さぬ泪(なみだ)也。旅館(りよくわん)の燈(ともしび)幽(かすか)にして、鶏鳴(けいめい)暁(あかつき)を催(もよほ)せば、疋馬(ひつば)風に嘶(いば)へて、天竜河を打渡り、小夜(さよ)の中山(なかやま)越行(こえゆけ)ば、白雲(はくうん)路(みち)を埋来(うづみき)て、そことも知(しら)ぬ夕暮に、家郷(かけい)の天(そら)を望(のぞみ)ても、昔(むかし)西行法師(さいぎやうほふし)が、「命(いのち)也けり。」と詠(えいじ)つゝ、二度(ふたたび)越(こえ)し跡(あと)までも、浦山敷(うらやましく)ぞ思はれける。隙(ひま)行(ゆく)駒(こま)の足はやみ、日(ひ)已(すでに)亭午(ていご)に昇(のぼ)れば、餉(かれひ)進(まゐらす)る程とて、輿(こし)を庭前(ていぜん)に舁止(かきとど)む。轅(ながえ)を叩(たたい)て警固(けいご)の武士(ぶし)を近付(ちかづ)け、宿(しゆく)の名を問(とひ)給ふに、「菊川(きくかは)と申(まうす)也。」と答へければ、承久(しようきう)の合戦の時、院宣(ゐんぜん)書(かき)たりし咎(とが)に依(よつ)て、光親(みつちかの)卿(きやう)関東へ召下(めしくだ)されしが、此宿(このしゆく)にて誅(ちゆう)せられし時、昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書(かき)たりし、遠き昔の筆の跡、今は我(わが)身の上になり。哀(あはれ)やいとゞ増(まさ)りけん、一首(いつしゆ)の歌を詠(えいじ)て、宿(やど)の柱にぞ書(かか)れける。古(いにしへ)もかゝるためしを菊川の同じ流(ながれ)に身をや沈めん大井河(おほゐがは)を過(すぎ)給へば、都にありし名を聞(きき)て、亀山殿(かめやまどの)の行幸(ぎやうがう)の、嵐の山の花盛(はなざか)り、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)の舟に乗り、詩歌管絃(しいかくわんげん)の宴(えん)に侍(はんべり)し事も、今は二度(ふたたび)見ぬ夜(よ)の夢と成(なり)ぬと思(おもひ)つゞけ給ふ。嶋田(しまだ)、藤枝(ふぢえだ)に懸(かか)りて、岡辺(をかべ)の真葛(まくず)裡枯(うらがれ)て、物かなしき夕暮に、宇都(うつ)の山辺を越行(こえゆけ)ば、蔦楓(つたかへで)いと茂りて道もなし。昔業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)の住所(すみところ)を求(もとむ)とて、東(あづま)の方(かた)に下(くだる)とて、「夢にも人に逢(あは)ぬなりけり。」と読(よみ)たりしも、かくやと思知(おもひしら)れたり。清見潟(きよみがた)を過(すぎ)給へば、都に帰る夢をさへ、通(とほ)さぬ波の関守(せきもり)に、いとゞ涙を催(もよほ)され、向(むかひ)はいづこ三穂(みほ)が崎・奥津(おきつ)・神原(かんばら)打過(うちすぎ)て、富士の高峯(たかね)を見給へば、雪の中より立(たつ)煙(けぶり)、上(うへ)なき思(おもひ)に比(くら)べつゝ、明(あく)る霞に松見へて、浮嶋が原を過行(すぎゆけ)ば、塩干(しほひ)や浅き船浮(うき)て、をり立(たつ)田子(たご)の自(みづから)も、浮世を遶(めぐ)る車返(くるまがへ)し、竹の下道(したみち)行(ゆき)なやむ、足柄山(あしがらやま)の巓(たうげ)より、大磯小磯(おほいそこいそを)直下(みおろし)て、袖にも波はこゆるぎの、急(いそぐ)としもはなけれども、日数(ひかず)つもれば、七月二十六日の暮(くれ)程に、鎌倉(かまくら)にこそ着玉(つきたまひ)けれ。其(その)日軈(やが)て、南条(なんでう)左衛門高直(たかなほ)請取奉(うけとりたてまつつ)て、諏防(すは)左衛門に預(あづけ)らる。一間(ひとま)なる処に蜘手(くもで)きびしく結(ゆう)て、押篭(おしこめ)奉る有様、只地獄(ぢごく)の罪人(ざいにん)の十王(じふわふ)の庁(ちやう)に渡されて、頚械(くびかせ)手械(てかせ)を入(いれ)られ、罪の軽重(きやうぢゆう)を糺(ただ)すらんも、右(かく)やと思知(おもひしら)れたり。
○長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)意見(いけんの)事(こと)付阿新殿(くまわかどのの)事(こと) S0205
当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の事露顕(ろけん)の後(のち)御位(おんくらゐ)は軈(やが)て持明院殿(ぢみやうゐんどの)へぞ進(まゐ)らんずらんと、近習(きんじふ)の人々青女房(あをにようばう)に至(いたる)まで悦(よろこび)あへる処(ところ)に、土岐(とき)が討れし後(のち)も曾(かつ)て其(その)沙汰もなし。今又俊基(としもと)召下(めしくだ)されぬれ共(ども)、御位(おんくらゐ)の事に付(つけ)ては何(いか)なる沙汰あり共(とも)聞(きこえ)ざりければ、持明院殿(ぢみやうゐんどの)方(かた)の人々案(あん)に相違して五噫(ごい)を謳(うたふ)者のみ多かりけり。さればとかく申進(まうしすすむ)る人のありけるにや、持明院殿(ぢみやうゐんどの)より内々(ないない)関東へ御使(つかひ)を下され、「当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の企(くはだて)近日(きんじつ)事(こと)已(すで)に急(きふ)なり。武家速(すみやか)に糾明(きうめい)の沙汰なくば天下の乱(らん)近(ちかき)に有(ある)べし。」と仰(おほせ)られたりければ、相摸入道(さがみにふだう)、「げにも。」と驚(おどろい)て、宗徒(むねと)の一門(いちもん)・並(ならびに)頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)を集(あつめ)て、「此(この)事(こと)如何(いかん)有(ある)べき。」と各(おのおの)所存(しよぞん)を問(とは)る。然(しかれ)ども或(あるひ)は他に譲(ゆづり)て口を閉(とぢ)、或(あるひ)は己(おのれ)を顧(かへりみ)て言(ことば)を出(いだ)さゞる処(ところ)に、執事(しつじ)長崎入道が子息(しそく)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)高資(たかすけ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「先年(せんねん)土岐十郎が討(うた)れし時、当今(たうぎん)の御位(おんくらゐ)を改(あらため)申さるべかりしを、朝憲(てうけん)に憚(はばかつ)て御沙汰(ごさた)緩(ゆる)かりしに依(よつ)て此(この)事(こと)猶(なほ)未休(いまだやまず)。乱(らん)を撥(はらう)て治(ち)を致(いたす)は武の一徳也。速(すみやか)に当今を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を不返(ふへん)の遠流(をんる)に所(しよ)し奉り、俊基(としもと)・資朝以下(すけともいげ)の乱臣を、一々に誅せらるゝより外(ほか)は、別儀(べちぎ)あるべしとも存(ぞんじ)候はず。」と、憚る処なく申(まうし)けるを、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)暫(しばらく)思案(しあん)して申(まうし)けるは、「此儀(このぎ)尤(もつとも)然(しか)るべく聞へ候へ共(ども)、退(しりぞい)て愚案(ぐあん)を廻(めぐら)すに、武家権(けん)を執(とつ)て已(すで)に百六十余年、威四海(しかい)に及(および)、運累葉(るゐえふ)を耀(かかやか)すこと更に他事(たじ)なし。唯(ただ)上(かみ)一人(いちじん)を仰奉(あふぎたてまつつ)て、忠貞(ちゆうてい)に私(わたくし)なく、下(しもは)百姓(はくせい)を撫(なで)て仁政(じんせい)に施(ほどこし)ある故(ゆゑ)也。然(しかる)に今(いま)君(きみ)の寵臣(ちようしん)一両人召置(めしおか)れ、御帰衣(ごきえ)の高僧両三人(さんにん)流罪(るざい)に処(しよ)せらるゝ事も、武臣(ぶしん)悪行(あくぎやう)の専一(せんいち)と云(いひ)つべし。此上(このうへ)に又主上を遠所(ゑんしよ)へ遷(うつ)し進(まゐら)せ、天台(てんだいの)座主(ざす)を流罪に行(おこなは)れん事(こと)、天道奢(おごり)を悪(にく)むのみならず、山門争(いかで)か憤(いきどほり)を含まざるべき。神怒(いかり)人背(そむ)かば、武運の危(あやふき)に近(ちかか)るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反(ごむほん)の事君(きみ)縦(たとひ)思食立(おぼしめしたつ)とも、武威盛(さかん)ならん程は与(くみ)し申(まうす)者有(ある)べからず。是(これ)に付(つけ)ても武家弥(いよい)よ慎(つつしん)で勅命に応ぜば、君もなどか思食直(おぼしめしなほ)す事無(なか)らん。かくてぞ国家の泰平(たいへい)、武運の長久にて候はんと存(ぞんず)るは、面々(めんめん)如何(いかん)思食(おぼしめし)候。」と申(まうし)けるを、長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)又自余(じよ)の意見をも不待、以(もつて)の外(ほか)に気色(きしよく)を損じて、重(かさね)て申(まうし)けるは、「文武(ぶんぶの)揆(おもむき)一(ひとつ)也と云へ共(ども)、用捨(ようしや)時(とき)異(ことな)るべし。静(しづか)なる世には文を以て弥(いよいよ)治(をさ)め、乱(みだれ)たる時には武を以(もつて)急に静む。故(ゆゑに)戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈(かんくわ)似無用。事已(すで)に急に当(あた)りたり。武を以て治むべき也。異朝(いてう)には文王・武王、臣として、無道(ぶだう)の君を討(うち)し例(れい)あり。吾朝(わがてう)には義時(よしとき)・泰時(やすとき)、下(しも)として不善(ふぜん)の主(しゆ)を流す例あり。世みな是(これ)を以て当(あた)れりとす。されば古典(こてん)にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事(こと)停滞(ていたい)して武家追罰(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を下されなば、後悔(こうくわい)すとも益(えき)有(ある)べからず。只(ただ)速(すみやか)に君を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔(おほたふ)の宮(みや)を硫黄(いわう)が嶋へ流(ながし)奉り、隠謀(いんぼう)の逆臣(げきしん)、資朝(すけとも)・俊基(としもと)を誅せらるゝより外(ほか)の事有(ある)べからず。武家の安泰(あんたい)万世(ばんせい)に及(およぶ)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と、居長高(ゐだけだか)に成(なつ)て申(まうし)ける間、当座(たうざ)の頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)、権勢(けんせい)にや阿(おもねり)けん、又愚案(ぐあん)にや落(おち)けん、皆此義(このぎ)に同(どう)じければ、道蘊(だううん)再往(さいわう)の忠言に及ばず眉(まゆ)を顰(ひそめ)て退出(たいしゆつ)す。さる程に、「君の御謀反(ごむほん)を申勧(まうしすすめ)けるは、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・右少弁(うせうべん)俊基(としもと)・日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)也、各(おのおの)死罪(しざい)に行(おこなは)るべし。」と評定(ひやうぢやう)一途(いちづ)に定(さだまつ)て、「先(まづ)去年(きよねん)より佐渡国(さどのくに)へ流されてをはする資朝卿(すけとものきやう)を斬奉(きりたてまつる)べし。」と、其(その)国(くに)の守護(しゆご)本間山城(ほんまやましろ)入道に被下知。此(この)事(こと)京都に聞へければ、此(この)資朝(すけとも)の子息(しそく)国光(くにみつ)の中納言、其比(そのころ)は阿新殿(くまわかどの)とて歳(とし)十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿(きやう)召人(めしうど)に成玉(なりたまひ)しより、仁和寺辺(にんわじへん)に隠(かくれ)て居(ゐ)られけるが、父誅(ちゆう)せられ給(たまふ)べき由(よし)を聞(きい)て、「今は何事にか命(いのち)を惜(をし)むべき。父と共に斬(きら)れて冥途(めいど)の旅の伴(とも)をもし、又最後(さいご)の御(おん)有様をも見奉るべし。」とて母に御暇(おんいとま)をぞ乞(こは)れける。母御(ははご)頻(しきり)に諌(いさめ)て、「佐渡とやらんは、人も通(かよ)はぬ怖(おそろ)しき嶋とこそ聞(きこゆ)れ。日数(ひかず)を経(ふ)る道なればいかんとしてか下(くだる)べき。其上(そのうへ)汝(なんぢ)にさへ離(はなれ)ては、一日片時(へんし)も命(いのち)存(ながらふ)べしとも覚(おぼ)へず。」と、泣悲(なきかなしみ)て止(とめ)ければ、「よしや伴(ともな)ひ行(ゆく)人(ひと)なくば、何(いか)なる淵瀬(ふちせ)にも身を投(なげ)て死(し)なん。」と申(まうし)ける間、母痛(いたく)止(とめ)ば、又目(め)の前(まへ)に憂別(うきわかれ)も有(あり)ぬべしと思侘(おもひわび)て、力なく今迄只(ただ)一人付副(つきそひ)たる中間(ちゆうげん)を相(あひ)そへられて、遥々(はるばる)と佐渡(さどの)国(くに)へぞ下(くだし)ける。路(みち)遠けれども乗(のる)べき馬(むま)もなければ、はきも習(ならは)ぬ草鞋(わらぢ)に、菅(すげ)の小笠(をがさ)を傾(かたぶけ)て、露(つゆ)分(わけ)わくる越路(こしぢ)の旅(たび)、思(おもひ)やるこそ哀(あはれ)なれ。都を出(いで)て十三日と申(まうす)に、越前の敦賀(つるが)の津(つ)に着(つき)にけり。是(これ)より商人船(あきんどぶね)に乗(のり)て、程なく佐渡(さどの)国(くに)へぞ着(つき)にける。人して右(かう)と云(いふ)べき便(たより)もなければ、自(みづから)本間が館(たち)に致(いたつ)て中門(ちゆうもん)の前(まへ)にぞ立(たつ)たりける。境節(をりふし)僧の有(あり)けるが立出(たちいで)て、「此(この)内への御用(ごよう)にて御立(おんたち)候か。又何(いか)なる用にて候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新殿(くまわかどの)、「是(これ)は日野(ひのの)中納言の一子(いつし)にて候が、近来(このごろ)切られさせ給(たまふ)べしと承(うけたまはつ)て、其(その)最後の様(やう)をも見候はんために都より遥々(はるばる)と尋下(たづねくだり)て候。」と云(いひ)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流しければ、此(この)僧心(こころ)有(あり)ける人也ければ、急(いそ)ぎ此由(このよし)を本間に語るに、本間も岩木(いはき)ならねば、さすが哀(あはれ)にや思(おもひ)けん、軈(やが)て此(この)僧を以(もつて)持仏堂(ぢぶつだう)へいざなひ入(いれ)て、蹈皮行纒(たびはばき)解(ぬが)せ足洗(あらう)て、疎(おろそか)ならぬ体(てい)にてぞ置(おき)たりける。阿新殿(くまわかどの)是(これ)をうれしと思(おもふ)に付(つけ)ても、同(おなじく)は父の卿(きやう)を疾(とく)見奉(たてまつら)ばやと云(いひ)けれ共(ども)、今日明日(けふあす)斬らるべき人に是(これ)を見せては、中々(なかなか)よみ路(ぢ)の障(さはり)とも成(なり)ぬべし。又関東(くわんとう)の聞(きこ)へもいかゞ有らんずらんとて、父子(ふし)の対面(たいめん)を許さず、四五町隔(へだたつ)たる処(ところ)に置(おき)たれば、父の卿(きやう)は是(これ)を聞(きき)て、行末(ゆくへ)も知(しら)ぬ都にいかゞ有らんと、思(おもひ)やるよりも尚(なほ)悲し。子は其方(そなた)を見遣(やり)て、浪路(なみぢ)遥(はるか)に隔(へだ)たりし鄙(ひな)のすまゐを想像(おもひやつ)て、心苦(くるし)く思(おもひ)つる泪(なみだ)は更に数(かず)ならずと、袂(たもと)の乾(かわ)くひまもなし。是(これ)こそ中納言のをはします楼(ろう)の中(うち)よとて見やれば、竹の一村(ひとむら)茂(しげ)りたる処に、堀(ほり)ほり廻(まは)し屏(へい)塗(ぬつ)て、行通(ゆきか)ふ人も稀(まれ)也。情(なさけ)なの本間が心や。父は禁篭(きんろう)せられ子は未(いまだ)稚(をさ)なし。縦(たと)ひ一所(いつしよ)に置(おき)たりとも、何程(なにほど)の怖畏(ふゐ)か有(ある)べきに、対面(たいめん)をだに許さで、まだ同(おなじ)世の中(なか)ながら生(しやう)を隔(へだて)たる如(ごとく)にて、なからん後(のち)の苔の下(した)、思寝(おもひね)に見ん夢ならでは、相看(あひみ)ん事も有(あり)がたしと、互に悲(かなし)む恩愛(おんあい)の、父子(ふし)の道こそ哀(あはれ)なれ。五月二十九日の暮程(くれほど)に、資朝卿(すけとものきやう)を篭(ろう)より出(いだ)し奉(たてまつつ)て、「遥(はるか)に御湯(おんゆ)も召(めさ)れ候はぬに、御行水(おんぎやうずゐ)候へ。」と申せば、早(はや)斬らるべき時に成(なり)けりと思給(おもひたまひ)て、「嗚呼(ああ)うたてしき事かな、我(わが)最後の様(やう)を見ん為に、遥々(はるばる)と尋下(たづねくだつ)たる少者(をさなきもの)を一目(ひとめ)も見ずして、終(はて)ぬる事よ。」と計(ばか)り宣(のたまひ)て、其後(そののち)は曾(かつ)て諸事(しよじ)に付(つけ)て言(ことば)をも出(いだし)給はず。今朝(けさ)迄は気色(きしよく)しほれて、常には泪(なみだ)を押拭(おしのご)ひ給(たまひ)けるが、人間(にんげん)の事に於ては頭燃(づねん)を払ふ如(ごとく)に成(なり)ぬと覚(さとつ)て、只綿密(めんみつ)の工夫(くふう)の外(ほか)は、余念(よねん)有りとも見へ給はず。夜(よ)に入れば輿(こし)さし寄(よせ)て乗(の)せ奉り、爰(ここ)より十町許(ちやうばかり)ある河原(かはら)へ出(いだ)し奉り、輿舁居(かきすゑ)たれば、少(すこし)も臆(おく)したる気色(けしき)もなく、敷皮(しきかは)の上に居直(ゐなほつ)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日(ねんがうつきひ)の下(した)に名字(みやうじ)を書付(かきつけ)て、筆を閣(さしお)き給へば、切手(きりて)後(うしろ)へ回(まは)るとぞ見へし、御首(おんくび)は敷皮(しきかは)の上に落(おち)て質(むくろ)は尚(なほ)坐(ざ)せるが如し。此程(このほど)常(つね)に法談(ほふだん)なんどし給ひける僧来(きたつ)て、葬礼(さうれい)如形取営(とりいとな)み、空(むなし)き骨(こつ)を拾(ひろう)て阿新に奉りければ、阿新是(これ)を一目(ひとめ)見て、取手(とるて)も撓(たゆく)倒伏(たふれふし)、「今生(こんじやう)の対面遂に叶(かなは)ずして、替(かは)れる白骨(はつこつ)を見る事よ。」と泣悲(なきかなしむ)も理(ことわり)也。阿新未(いまだ)幼稚(えうち)なれ共(ども)、けなげなる所存(しよぞん)有(あり)ければ、父の遺骨(ゆゐこつ)をば只一人召仕(めしつかひ)ける中間(ちゆうげん)に持(もた)せて、「先(まづ)我よりさきに高野山(かうやさん)に参(まゐり)て奥の院とかやに収(をさめ)よ。」とて都へ帰(かへ)し上(のぼ)せ、我身(わがみ)は労(いたは)る事有る由にて尚(なほ)本間が館(たち)にぞ留(とどま)りける。是(これ)は本間が情(なさけ)なく、父を今生(こんじやう)にて我(われ)に見せざりつる鬱憤(うつぷん)を散(さん)ぜんと思ふ故(ゆゑ)也。角(かく)て四五日経(へ)ける程に、阿新昼(ひる)は病(やむ)由(よし)にて終日(ひねもす)に臥(ふ)し、夜(よる)は忍(しのび)やかにぬけ出(いで)て、本間が寝処(ねところ)なんど細々(こまごま)に伺(うかがう)て、隙(ひま)あらば彼(かの)入道父子(ふし)が間(あひだ)に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定(おもひさだめ)てぞねらいける。或夜(あるよ)雨風(あめかぜ)烈(はげ)しく吹(ふい)て、番(とのゐ)する郎等共(らうどうども)も皆遠侍(とほさぶらひ)に臥(ふし)たりければ、今こそ待処(まつところ)の幸(さいはひ)よと思(おもう)て、本間が寝処(ねところ)の方(かた)を忍(しのび)て伺(うかがう)に、本間が運やつよかりけん、今夜(こんや)は常の寝処を替(かへ)て、何(いづ)くに有(あり)とも見へず。又二間(ふたま)なる処に燈(とぼしび)の影の見へけるを、是(これ)は若(もし)本間入道が子息(しそく)にてや有(ある)らん。其(それ)なりとも討(うつ)て恨(うらみ)を散(さん)ぜんと、ぬけ入(いつ)て是(これ)を見るに、其(それ)さへ爰(ここ)には無(なく)して、中納言殿(どの)を斬奉(きりたてまつり)し本間(ほんま)三郎と云(いふ)者ぞ只一人臥(ふし)たりける。よしや是(これ)も時に取(とつ)ては親の敵(かたき)也。山城(やましろ)入道に劣(おと)るまじと思(おもう)て走りかゝらんとするに、我は元来(もとより)太刀(たち)も刀(かたな)も持(もた)ず、只(ただ)人(ひと)の太刀を我物(わがもの)と憑(たのみ)たるに、燈(ともしび)殊に明(あきらか)なれば、立寄(たちよら)ば軈(やが)て驚合(おどろきあ)ふ事もや有(あら)んずらんと危(あやぶん)で、左右(さう)なく寄(より)ゑず。何(いか)がせんと案じ煩(わづらう)て立(たち)たるに、折節(をりふし)夏なれば灯(ともしび)の影を見て、蛾(が)と云(いふ)虫のあまた明障子(あかりしやうじ)に取付(とりつき)たるを、すはや究竟(くつきやう)の事こそ有れと思(おもう)て障子(しやうじ)を少(すこし)引(ひき)あけたれば、此(この)虫あまた内(うち)へ入(いつ)て軈(やが)て灯(ともしび)を打(うち)けしぬ。今は右(かう)とうれしくて、本間三郎が枕に立寄(たちよつ)て探(さぐ)るに、太刀も刀(かたな)も枕に有(あつ)て、主(ぬし)はいたく寝入(ねいり)たり。先(まづ)刀を取(とつ)て腰にさし、太刀を抜(ぬい)て心(むな)もとに指当(さしあて)て、寝(ね)たる者を殺(ころす)は死人(しにん)に同(おな)じければ、驚(おどろか)さんと思(おもつ)て、先(まづ)足にて枕をはたとぞ蹴(け)たりける。けられて驚く処を、一(いち)の太刀に臍(ほぞ)の上(うへ)を畳(たたみ)までつとつきとをし、返(かへ)す太刀に喉(のど)ぶゑ指切(さしきつ)て、心閑(しづか)に後(うしろ)の竹原(ささはら)の中(なか)へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通(とほ)されてあつと云(いふ)声に、番衆(ばんしゆ)ども驚騒(おどろきさわい)で、火を燃(とぼ)して是(これ)を見るに、血の付(つき)たるちいさき足跡(あしあと)あり。「さては阿新殿(くまわかどの)のしわざ也。堀の水深ければ、木戸(きど)より外(ほか)へはよも出(いで)じ。さがし出(いだつ)て打殺(うちころ)せ。」とて、手々(てにてに)松明(たいまつ)をとぼし、木の下、草の陰(かげ)まで残処(のこるところ)無(なく)ぞさがしける。阿新は竹原(ささはら)の中に隠れながら、今は何(いづ)くへか遁(のが)るべき。人手(ひとで)に懸(かか)らんよりは、自害(じがい)をせばやと思はれけるが、悪(にく)しと思(おもふ)親の敵(かたき)をば討(うつ)つ、今は何(いかに)もして命(いのち)を全(まつたう)して、君の御用(ごよう)にも立(たち)、父の素意(そい)をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若(もし)やと一(ひと)まど落(おち)て見ばやと思返(おもひかへ)して、堀を飛越(とびこえ)んとしけるが、口(くち)二丈深さ一丈に余(あま)りたる堀なれば、越(こゆ)べき様(やう)も無(なか)りけり。さらば是(これ)を橋にして渡(はたら)んよと思(おもつ)て、堀の上に末(すゑ)なびきたる呉竹(くれたけ)の梢(こずゑ)へさら/\と登(のぼり)たれば、竹の末(すゑ)堀の向(むかひ)へなびき伏(ふし)て、やす/\と堀をば越(こえ)てげり。夜(よ)は未(いまだ)深(ふか)し、湊(みなと)の方(かた)へ行(ゆい)て、舟に乗(のつ)てこそ陸(くが)へは着(つか)めと思(おもう)て、たどるたどる浦の方(かた)へ行程(ゆくほど)に、夜(よ)もはや次第に明離(あけはなれ)て忍(しのぶ)べき道もなければ、身を隠(かく)さんとて日(ひ)を暮(くら)し、麻(あさ)や蓬(よもぎ)の生茂(おひしげり)たる中(なか)に隠れ居たれば、追手共(おひてども)と覚(おぼ)しき者共(ものども)百四五十騎馳散(はせちつ)て、「若(もし)十二三計(ばかり)なる児(ちご)や通りつる。」と、道に行合人毎(ゆきあふひとごと)に問音(とふおと)してぞ過行(すぎゆき)ける。阿新其(その)日は麻の中(なか)にて日を暮(くら)し、夜(よる)になれば湊(みなと)へと心ざして、そことも知(しら)ず行(ゆく)程に、孝行の志(こころざし)を感じて、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)をや回(めぐ)らされけん、年(とし)老(おい)たる山臥(やまぶし)一人行合(ゆきあひ)たり。此児(このちご)の有様を見て痛(いたは)しくや思(おもひ)けん、「是(これ)は何(いづ)くより何(いづく)をさして御渡(おんわた)り候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新事の様(やう)をありの侭(まま)にぞ語りける。山臥(やまぶし)是(これ)を聞(きい)て、我(われ)此(この)人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思(おもひ)ければ、「御心(おんこころ)安く思食(おぼしめさ)れ候へ。湊(みなと)に商人舟共(あきんどぶねども)多(おほく)候へば、乗(の)せ奉(たてまつつ)て越後・越中の方(かた)まで送付(おくりつけ)まいらすべし。」と云(いひ)て、足たゆめば、此児(このちご)を肩に乗(の)せ背(せなか)に負(おう)て、程なく湊にぞ行着(ゆきつき)ける。夜明(よあけ)て便船(びんせん)やあると尋(たづね)けるに、折節(をりふし)湊の内(うち)に舟一艘(いつさう)も無(なか)りけり。如何(いかん)せんと求(もとむ)る処に、遥(はるか)の澳(おき)に乗(のり)うかべたる大船(たいせん)、順風(じゆんぷう)に成(なり)ぬと見て檣(ほばしら)を立(たて)篷(とま)をまく。山臥手を上(あげ)て、「其(その)船是(これ)へ寄(よせ)てたび給へ、便船申さん。」と呼(よばは)りけれ共(ども)、曾(かつ)て耳にも聞入(ききいれ)ず、舟人(ふなうど)声を帆(ほ)に上(あげ)て湊の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。山臥大(おほき)に腹を立(た)て柿(かき)の衣(ころも)の露(つゆ)を結(むすん)で肩にかけ、澳(おき)行(ゆく)舟に立向(たちむかつ)て、いらたか誦珠(じゆず)をさら/\と押揉(おしもみ)て、「一持秘密咒(いちぢひみつじゆ)、生々而加護(しやうしやうにかご)、奉仕修行者(ぶじしゆぎやうじや)、猶如薄伽梵(いうによばがぼん)と云へり。況(いはんや)多年(たねん)の勤行(ごんぎやう)に於てをや。明王(みやうわう)の本誓(ほんせい)あやまらずば、権現(ごんげん)金剛童子(こんがうどうじ)・天竜夜叉(てんりゆうやしや)・八大龍王(はちだいりゆうわう)、其(その)船此方(こなた)へ漕返(こぎもどし)てたばせ給へ。」と、跳上(をどりあがり)々々肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈りける。行者(ぎやうじや)の祈り神(しん)に通(つう)じて、明王(みやうわう)擁護(おうご)やしたまひけん、澳(おき)の方(かた)より俄(にはか)に悪風(あくふう)吹来(ふききたつ)て、此(この)舟忽(たちまちに)覆(くつかへ)らんとしける間(あひだ)、舟人共(ふなうどども)あはてゝ、「山臥の御房(ごばう)、先(まづ)我等を御助(おんたす)け候へ。」と手を合(あはせ)膝(ひざ)をかゞめ、手々(てにて)に舟を漕(こぎ)もどす。汀(みぎは)近く成(なり)ければ、船頭(せんどう)舟より飛下(とびおり)て、児(ちご)を肩にのせ、山臥の手を引(ひい)て、屋形(やかた)の内(うち)に入(いり)たれば、風は又元(もと)の如(ごとく)に直(なほ)りて、舟は湊を出(いで)にけり。其後(そののち)追手共(おひてども)百四五十騎馳来(はせきた)り、遠浅(とほあさ)に馬を叩(ひかへ)て、「あの舟止(とま)れ。」と招共(まねけども)、舟人(ふなうど)是(これ)を見ぬ由にて、順風(じゆんぷう)に帆を揚(あげ)たれば、舟は其日(そのひ)の暮程(くれほど)に、越後の府(こう)にぞ着(つき)にける。阿新山臥に助(たすけ)られて、鰐口(わにのくち)の死を遁(のがれ)しも、明王加護(かご)の御誓(おんちかひ)掲焉(けつえん)なりける験(しるし)也。
○俊基(としもと)被誅事並(ならびに)助光(すけみつが)事(こと) S0206
俊基(としもと)朝臣(あそん)は殊更(ことさら)謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、遠国(をんごく)に流すまでも有(ある)べからず、近日(きんじつ)に鎌倉中(かまくらぢゆう)にて斬(きり)奉るべしとぞ被定たる。此(この)人多年の所願(しよぐわん)有(あつ)て、法華経(ほけきやう)を六百部自(みづか)ら読誦(どくじゆ)し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満(みつ)る程の命(いのち)を被相待候て、其後(そののち)兎(と)も角(かく)も被成候へと、頻(しきり)に所望(しよまう)有(あり)ければ、げにも其(それ)程の大願(だいぐわん)を果(はた)させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終(をふ)る程(ほど)僅(わづか)の日数(ひかず)を待暮(まちくら)す、命の程こそ哀(あはれ)なれ。此(この)朝臣の多年(たねん)召仕(めしつかひ)ける青侍(あをさぶらひ)に後藤左衛門(さゑもんの)尉(じよう)助光(すけみつ)と云(いふ)者あり。主(しゆう)の俊基(としもと)召取(めしと)られ給(たまひ)し後(のち)、北方(きたのかた)に付進(つきまゐら)せ嵯峨(さが)の奥に忍(しのび)て候(さふらひ)けるが、俊基(としもと)関東へ被召下給ふ由を聞給(ききたまひ)て、北方(きたのかた)は堪(たへ)ぬ思(おもひ)に伏沈(ふししづみ)て歎悲給(なげきかなしみたまひ)けるを見奉(たてまつる)に、不堪悲して、北(きた)の方(かた)の御文(おんふみ)を給(たまはつ)て、助光忍(しのび)て鎌倉(かまくら)へぞ下(くだり)ける。今日明日(けふあす)の程と聞へしかば、今は早(はや)斬(きら)れもやし給ひつらんと、行逢(ゆきあふ)人に事の由を問々(とひとひ)、程なく鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。右少弁(うせうべん)俊基(としもと)のをはする傍(あたり)に宿(やど)を借(かり)て、何(いか)なる便(たより)もがな、事の子細(しさい)を申入(まうしいれ)んと伺(うかがひ)けれども、不叶して日を過(すご)しける処に、今日(けふ)こそ京都よりの召人(めしうど)は斬(きら)れ給(たまふ)べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何(いか)がせんと肝(きも)を消し、此彼(ここかしこ)に立(たち)て見聞(けんもん)しければ、俊基(としもと)已(すで)に張輿(はりごし)に乗(の)せられて粧坂(けはひざか)へ出(いで)給ふ。爰(ここ)にて工藤(くどう)二郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)請取(うけとり)て、葛原岡(くずはらがをか)に大幕(おほまく)引(ひい)て、敷皮(しきかは)の上に坐(ざ)し給へり。是(これ)を見ける助光が心中(こころのうち)譬(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。目くれ足もなへて、絶入(たえい)る計(ばかり)に有(あり)けれども、泣々(なくなく)工藤殿(どの)が前(まへ)に進出(すすみいで)て、「是(これ)は右少弁殿(どの)の伺候(しこう)の者にて候が、最後(さいご)の様(やう)見奉(たてまつり)候はん為に遥々(はるばる)と参(まゐり)候。可然は御免(ごめん)を蒙(かうぶつ)て御前(おんまへ)に参り、北方(きたのかた)の御文(おんふみ)をも見参(けんざん)に入(いれ)候はん。」と申(まうし)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流(ながし)ければ、工藤も見るに哀(あはれ)を催(もよほ)されて、不覚(ふかく)の泪(なみだ)せきあへず。「子細候まじ、早(はや)幕の内(うち)へ御参(おんまゐり)候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入(いつ)て御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)く。俊基(としもと)は助光を打見て、「いかにや。」と計(ばかり)宣(のたまひ)て、軈(やが)て泪に咽(むせ)び給ふ。助光も、「北方(きたのかた)の御文(おんふみ)にて候。」とて、御前(おんまへ)に差置(さしおき)たる計(ばかり)にて、是(これ)も涙にくれて、顔をも持(もち)あげず泣(なき)居たり。良(やや)暫(しばら)く有(あつ)て、俊基(としもと)涙を押拭(おしのご)ひ、文を見給へば、「消懸(きえかか)る露の身の置所(おきどころ)なきに付(つけ)ても、何(いか)なる暮(くれ)にか、無世(なきよ)の別(わかれ)と承(うけたまは)り候はんずらんと、心を摧(くだ)く涙の程、御推量(おしはか)りも尚(なほ)浅くなん。」と、詞(ことば)に余(あまり)て思(おもひ)の色深く、黒(くろ)み過(すぐ)るまで書(かか)れたり。俊基(としもと)いとゞ涙にくれて、読(よみ)かね給へる気色(けしき)、見人(みるひと)袖をぬらさぬは無(なか)りけり。「硯(すずり)やある。」と宣(のたま)へば、矢立(やたて)を御前(おんまへ)に指置(さしおけ)ば、硯の中(なか)なる小刀(こがたな)にて鬢(びん)の髪(かみ)を少し押切(おしきつ)て、北方(きたのかた)の文に巻(まき)そへ、引返(ひきかへ)し一筆(ひとふで)書(かい)て助光が手に渡し給へば、助光懐(ふところ)に入(いれ)て泣沈(なきしづみ)たる有様、理(ことわ)りにも過(すぎ)て哀(あはれ)也。工藤左衛門幕(まく)の内に入(いつ)て、「余(あま)りに時の移り候。」と勧(すすむ)れば、俊基(としもと)畳紙(たたうがみ)を取出(とりいだ)し、頚(くび)の回(まは)り押拭(おしのご)ひ、其(その)紙を推開(おしひらい)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣(さしおい)て、鬢(びん)の髪(かみ)を摩(なで)給ふ程こそあれ、太刀(たち)かげ後(うしろ)に光れば、頚は前(まへ)に落(おち)けるを、自(みづか)ら抱(かかへ)て伏(ふし)給ふ。是(これ)を見奉る助光が心の中(うち)、謦(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。さて泣々(なくなく)死骸(しがい)を葬(さう)し奉り、空(むなし)き遺骨(ゆゐこつ)を頚に懸(かけ)、形見(かたみ)の御文(おんふみ)身に副(そへ)て、泣々(なくなく)京(きやう)へぞ上(のぼ)りける。北方(きたのかた)は助光を待付(まちつけ)て、弁殿(べんどの)の行末(ゆくへ)を聞(きか)ん事の喜(うれ)しさに、人目(ひとめ)も憚(はばから)ず、簾(みす)より外(ほか)に出迎(いでむか)ひ、「いかにや弁殿(どの)は、何比(いつごろ)に御上(おんのぼり)可有との御返事(おんへんじ)ぞ。」と問(とひ)給へば、助光はら/\と泪(なみだ)をこぼして、「はや斬(きら)れさせ給(たまひ)て候。是(これ)こそ今はのきはの御返事(おんへんじ)にて候へ。」とて、鬢(びん)の髪(かみ)と消息(せうそく)とを差(さし)あげて声も惜(をし)まず泣(なき)ければ、北方(きたのかた)は形見(かたみ)の文(ふみ)と白骨(はつこつ)を見給(たまひ)て、内へも入給(いりたまは)ず、縁(えん)に倒伏(たふれふ)し、消入給(きえいりたまひ)ぬと驚く程に見へ給ふ。理(ことわり)なる哉(かな)、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り一河(いちが)の流(ながれ)を汲む程も、知(しら)れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残(なごり)を惜(をしむ)習(ならひ)なるに、況(いはん)や連理(れんり)の契(ちぎり)不浅して、十年余(ととせあま)りに成(なり)ぬるに夢より外(ほか)は又も相(あひ)見ぬ、此世(このよ)の外(ほか)の別(わかれ)と聞(きい)て、絶(たえ)入り悲(かなし)み玉ふぞ理(ことわ)りなる。四十九日と申(まうす)に形(かた)の如(ごとく)の仏事(ぶつじ)営(いとなみ)て、北(きた)の方(かた)様(さま)をかへ、こき墨染(すみぞめ)に身をやつし、柴の扉(とぼそ)の明(あけ)くれは、亡夫(ばうふ)の菩提(ぼだい)をぞ訪(とぶら)ひ玉(たまひ)ける。助光も髻(もとどり)切(きり)て、永く高野山(かうやさん)に閉篭(とぢこもつ)て、偏(ひとへ)に亡君(ばうくん)の後生菩提(ごしやうぼだい)をぞ訪奉(とぶらひたてまつり)ける。夫婦の契(ちぎり)、君臣の儀、無跡(なきあと)迄も留(とどまり)て哀(あはれ)なりし事共(ども)也。
○天下(てんか)怪異(けいの)事(こと) S0207
嘉暦(かりやく)二年の春の比(ころ)南都大乗院(だいじようゐん)禅師房(ぜんじばう)と六方(ろくばう)の大衆(だいしゆ)と、確執(かくしつ)の事有(あつ)て合戦(かつせん)に及ぶ。金堂(こんだう)、講堂(かうだう)、南円(なんゑん)堂(だう)、西金(さいこん)堂(だう)、忽(たちまち)に兵火(ひやうくわ)の余煙(よえん)に焼失(せうしつ)す。又元弘(げんこう)元年、山門東塔(さんもんとうだふ)の北谷(きたたに)より兵火出来(いでき)て、四王院(しわうゐん)、延命(えんめい)院(ゐん)、大講堂(だいかうだう)、法華(ほつけ)堂、常行(じやうぎやう)堂(だう)、一時(じ)に灰燼(くわいじん)と成(なり)ぬ。是等(これら)をこそ、天下の災難(さいなん)を兼(かね)て知(しら)する処の前相(ぜんさう)かと人皆魂(たましひ)を冷(ひや)しけるに、同(おなじき)年の七月三日大地震(ぢしん)有(あつ)て、紀伊(きの)国(くに)千里浜(せんりばま)の遠干潟(とほひがた)、俄に陸地(りくち)になる事二十余町也。又同(おなじき)七日の酉(とり)の刻(こく)に地震有(あつ)て、富士の絶頂(ぜつちやう)崩(くづ)るゝ事数(す)百丈(ひやくぢやう)也と。卜部(うらべ)の宿祢(すくね)、大亀(だいき)を焼(やい)て占(うらな)ひ、陰陽(おんやう)の博士(はかせ)、占文(せんもん)を啓(ひらい)て見(みる)に、「国王位(くらゐ)を易(かへ)、大臣遭災。」とあり。「勘文(かんぶん)の表(おもて)不穏、尤(もつとも)御慎(おんつつしみ)可有。」と密奏(みつそう)す。寺々(てらでら)の火災所々(しよしよ)の地震只事(ただごと)に非ず。今や不思義出来(いでくる)と人々心を驚(おどろか)しける処に、果して其年(そのとし)の八月二十二日、東使(とうし)両人三千余騎にて上洛(しやうらく)すと聞へしかば、何事(なにこと)とは知(しら)ず京(みやこ)に又何(いか)なる事や有(あら)んずらんと、近国(きんごく)の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳集(はせあつま)る。京中(きやうぢゆう)何(なに)となく、以外(もつてのほか)に騒動(さうどう)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)して未(いまだ)文箱(ふばこ)をも開(ひらか)ぬ先(さき)に、何(なに)とかして聞へけん。「今度(このたび)東使(とうし)の上洛(しやうらく)は主上(しゆしやう)を遠国(をんごく)へ遷進(うつしまゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に行奉(おこなひたてまつら)ん為也。」と、山門に披露(ひろう)有(あり)ければ、八月二十四日の夜(よ)に入(いつ)て、大塔宮(おほたふのみや)より潛(ひそか)に御使(おんつかひ)を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度(こんど)東使上洛の事内々承(うけたまはり)候へば、皇居(くわうきよ)を遠国(をんごく)へ遷(うつし)奉り、尊雲(そんうん)を死罪に行(おこなは)ん為にて候なる。今夜(こんや)急(いそ)ぎ南都(なんと)の方(かた)へ御忍(おんしの)び候べし。城郭未調(いまだととのはず)、官軍(くわんぐん)馳参(はせさん)ぜざる先(さき)に、凶徒(きようと)若(もし)皇居(くわうきよ)に寄来(よせきたら)ば、御方(みかた)防戦(ふせぎたたかふ)に利(り)を失(うしな)ひ候はんか。且(かつう)は京都の敵(てき)を遮(さへぎ)り止(とめ)んが為、又は衆徒(しゆと)の心を見んが為に、近臣(きんしん)を一人、天子の号(がう)を許(ゆるさ)れて山門へ被上せ、臨幸(りんかう)の由を披露(ひろう)候はゞ、敵軍(てきぐん)定(さだめ)て叡山(えいさん)に向(むかつ)て合戦(かつせん)を致し候はん歟(か)。去程(さるほど)ならば衆徒(しゆと)吾山(わがやま)を思故(おもふゆゑ)に、防戦(ふせぎたたかふ)に身命(しんみやう)を軽(かろん)じ候べし。凶徒(きようと)力(ちから)疲(つか)れ合戦数日(すじつ)に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和(やまと)・河内(かはち)の官軍(くわんぐん)を以て却(かへつ)て京都を被攻んに、凶徒の誅戮(ちゆうりく)踵(くびす)を回(めぐら)すべからず。国家の安危(あんき)只(ただ)此(この)一挙(きよ)に可有候也。」と被申たりける間、主上(しゆしやう)只(ただ)あきれさせ玉へる計(ばかり)にて何(なに)の御沙汰(ごさた)にも及(および)玉はず。尹(ゐんの)大納言(だいなごん)師賢(もろかた)・万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・同(おなじき)舎弟(しやてい)季房(すゑふさ)三四人(さんしにん)上臥(うへふし)したるを御前(おんまへ)に召(めさ)れて、「此(この)事(こと)如何(いかん)可有。」と被仰出ければ、藤房(ふぢふさの)卿(きやう)進(すすん)で被申けるは、「逆臣(ぎやくしん)君を犯(をか)し奉らんとする時、暫(しばらく)其難(そのなん)を避(さけ)て還(かへつ)て国家を保(たもつ)は、前蹤(ぜんじよう)皆佳例(かれい)にて候。所謂(いはゆる)重耳(ちようじ)は■(てき)に奔(はし)り、大王(だいわう)■(ひん)に行く。共に王業(わうげふ)をなして子孫無窮(しそんぶきゆう)に光(ひかり)を栄(かかやか)し候き。兔角(とかく)の御思案(ごしあん)に及(および)候はゞ、夜(よ)も深候(ふけさふらひ)なん。早(はや)御忍(おんしのび)候へ。」とて、御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を乗(のせ)奉り、下簾(したすだれ)より出絹(だしぎぬを)出(いだ)して女房車(にようばうぐるま)の体(てい)に見せ、主上を扶乗進(たすけのせまゐらせ)て、陽明門(やうめいもん)より成(なし)奉る。御門(ごもん)守護(しゆご)の武士共(ぶしども)御車(おんくるま)を押(おさ)へて、「誰にて御渡(おんわた)り候ぞ。」と問申(とひまうし)ければ、藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)御車(おんくるま)に随(したがつ)て供奉(ぐぶ)したりけるが、「是(これ)は中宮(ちゆうぐう)の夜(よ)に紛(まぎれ)て北山殿(きたやまどの)へ行啓(ぎやうけい)ならせ給ふぞ。」と宣(のたまひ)たりければ、「さては子細(しさい)候はじ。」とて御車(おんくるま)をぞ通(とほ)しける。兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、源(げん)中納言(ちゆうなごん)具行(ともゆき)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、三条河原(さんでうがはら)にて追付(おつつき)奉る。此(ここ)より御車(おんくるま)をば被止、怪(あやし)げなる張輿(はりごし)に召替(めしかへ)させ進(まゐら)せたれども、俄(にはか)の事にて駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)重康(しげやす)・楽人(がくにん)豊原兼秋(とよはらのかねあき)・随身(ずゐじん)秦久武(はだのひさたけ)なんどぞ御輿(おんこし)をば舁(かき)奉りける。供奉の諸卿(しよきやう)皆衣冠(いくわん)を解(ぬい)で折烏帽子(をりゑぼし)に直垂(ひたたれ)を着(ちやく)し、七大寺詣(まうで)する京家(きやうけ)の青侍(あをさぶらひ)なんどの、女性(によしやう)を具足(ぐそく)したる体(てい)に見せて、御輿(おんこし)の前後(ぜんご)にぞ供奉したりける。古津(こづの)石地蔵(いしぢざう)を過(すぎ)させ玉ひける時、夜(よ)は早(はや)若々(ほのぼの)と明(あけ)にけり。此(ここ)にて朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を進め申(まうし)て、先づ南都(なんと)の東南院(とうなんゐん)へ入(いら)せ玉ふ。彼僧正(かのそうじやう)元(もと)より弐(ふたごこ)ろなき忠義を存(そん)ぜしかば、先づ臨幸(りんかう)なりたるをば披露(ひろう)せで衆徒(しゆと)の心を伺聞(うかがひきく)に、西室(にしむろの)顕実(けんじつ)僧正は関東(くわんとう)の一族にて、権勢(けんせい)の門主(もんじゆ)たる間、皆其(その)威にや恐れたりけん、与力(よりき)する衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。かくては南都の皇居(くわうきよ)叶(かなふ)まじとて、翌日(よくじつ)二十六日、和束(わつか)の鷲峯山(じゆぶうせん)へ入(いら)せ玉ふ。此(ここ)は又余(あま)りに山深く里(さと)遠(とほう)して、何事(なにこと)の計畧も叶(かなふ)まじき処なれば、要害(えうがい)に御陣(ごぢん)を召(めさ)るべしとて、同(おなじき)二十七日潛幸(せんかう)の儀式を引(ひき)つくろひ、南都の衆徒(しゆと)少々(せうせう)召具(めしぐ)せられて、笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ臨幸(りんかう)なる。
○師賢(もろかた)登山(とうさんの)事(こと)付唐崎浜(からさきはま)合戦(かつせんの)事(こと) S0208
尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)は、主上の内裏(だいり)を御出有(ぎよしゆつあり)し夜(よ)、三条河原(さんでうがはら)迄被供奉たりしを、大塔宮(おほたふのみや)より様々(さまざま)被仰つる子細(しさい)あれば、臨幸(りんかうの)由(よし)にて山門へ登り、衆徒(しゆと)の心をも伺ひ、又勢(せい)をも付(つけ)て合戦を致せと被仰ければ、師賢(もろかた)法勝寺(ほつしやうじ)の前より、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)を着(ちやくし)て、腰輿(えうよ)に乗替(のりかへ)て山門の西塔院(さいたふゐん)へ登(のぼり)玉ふ。四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)・中院(なかのゐんの)左中将(さちゆうじやう)貞平(さだひら)、皆衣冠(いくわん)正(ただしう)して、供奉(ぐぶ)の体(てい)に相順(あひしたが)ふ。事の儀式誠敷(まことしく)ぞ見へたりける。西塔(さいたふ)の釈迦堂(しやかだう)を皇居(くわうきよ)と被成、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸(りんかう)成(なり)たる由(よし)披露(ひろう)有(あり)ければ、山上(さんじやう)・坂本は申(まうす)に及ばず、大津(おほつ)・松本(まつもと)・戸津(とづ)・比叡辻(ひえつじ)・仰木(あふぎ)・絹河(きぬがは)・和仁(わに)・堅田(かただ)の者迄も、我前(われさき)にと馳参(はせまゐる)。其勢(そのせい)東西両塔(とうざいりやうたふ)に充満して、雲霞(うんか)の如(ごとく)にぞ見へたりける。懸(かか)りけれども、六波羅(ろくはら)には未(いまだ)曾(かつて)是(これ)を知らず。夜(よ)明(あけ)ければ東使両人(とうしりやうにん)内裏(だいり)へ参(さんじ)て、先づ行幸(ぎやうがう)を六波羅(ろくはら)へ成奉(なしたてまつら)んとて打立(うちたち)ける処に、浄林房(じやうりんばうの)阿闍梨(あじやり)豪誉(がうよ)が許(もと)より、六波羅(ろくはら)へ使者(ししや)を立(た)て、「今夜(こんや)の寅(とら)の刻(こく)に、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸成りたる間、三千の衆徒(しゆと)悉(ことごと)く馳(はせ)参り候。近江(あふみ)・越前(ゑちぜん)の御勢(おんせい)を待(まち)て、明日(みやうにち)は六波羅(ろくはら)へ被寄べき由評定(ひやうじやう)あり。事の大(おほき)に成り候はぬ先(さき)に、急ぎ東坂本(ひがしさかもと)へ御勢(おんせい)を被向候へ。豪誉後攻仕(ごづめつかまつり)て、主上をば取(とり)奉るべし。」とぞ申(まうし)たりける。両六波羅(りやうろくはら)大(おほき)に驚(おどろい)て先(まづ)内裡(だいり)へ参(さんじ)て見奉るに、主上は御坐無(ござなく)て、只局町(つぼねまちの)女房達(にようばうたち)此彼(ここかしこ)にさしつどひて、鳴(なく)声のみぞしたりける。「さては山門へ落(おち)させ玉(たまひ)たる事子細(しさい)なし。勢(せい)つかぬ前(さき)に山門を攻(せめ)よ。」とて、四十八箇所(しじふはつかしよ)の篝(かがり)に畿内(きない)五箇国(ごかこく)の勢(せい)を差添(さしそへ)て、五千余騎追手(おふて)の寄手(よせて)として、赤山(せきさん)の麓(ふもと)、下松(さがりまつ)の辺(へん)へ指向(さしむけ)らる。搦手(からめて)へは佐々木(ささきの)三郎判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)・海東左近将監(かいとうさこんのしやうげん)・長井丹後(たんごの)守(かみ)宗衡(むねひら)・筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)貞知(さだとも)・波多野(はだの)上野前司(かうづけのぜんじ)宣道(のぶみち)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時朝(ときとも)に、美濃(みの)・尾張(をはり)・丹波(たんば)・但馬(たじま)の勢(せい)をさしそへて七千余騎、大津、松本を経(へ)て、唐崎(からさき)の松の辺(へん)まで寄懸(よせかけ)たり。坂本には兼(かね)てより相図(あひづ)を指(さし)たる事なれば、妙法院(めうほふゐん)・大塔宮(おほたふのみや)両門主(もんじゆ)、宵(よひ)より八王子(はちわうじ)へ御上(おんあがり)あ(つ)て、御旗(おんはた)を被揚たるに、御門徒(ごもんと)の護正院(ごしやうゐん)の僧都(そうづ)祐全(いうぜん)・妙光坊(めうくわうばう)の阿闍梨(あじやり)玄尊(げんそん)を始(はじめ)として、三百騎五百騎此彼(ここかしこ)より馳(はせ)参りける程に、一夜(いちや)の間(あひだ)に御勢(おんせい)六千余騎に成(なり)にけり。天台座主(てんだいのざす)を始(はじめ)て解脱同相(げだつどうさう)の御衣(おんころも)を脱給(ぬぎたまひ)て、堅甲利兵(けんかふりへい)の御貌(おんかたち)に替(かは)る。垂跡和光(すゐじやくわくわう)の砌(みぎ)り忽(たちまち)に変(へんじ)て、勇士守禦(しゆぎよ)の場(ば)と成(なり)ぬれば、神慮(しんりよ)も何(いか)が有(あ)らんと計(はか)り難(かたく)ぞ覚(おぼえ)たる。去程(さるほど)に、六波羅(ろくはら)勢(ぜい)已(すで)に戸津(とづ)の宿辺(しゆくのへん)まで寄(よせ)たりと坂本の内(うち)騒動(さうだう)しければ、南岸(なんがんの)円宗院(ゑんしゆうゐん)・中坊(なかのばうの)勝行房(しようぎやうばう)・早雄(はやりを)の同宿共(どうしゆくども)、取(とる)物も取(とり)あへず唐崎(からさき)の浜へ出合(いであひ)げる。其(その)勢皆かち立(だち)にて而(しか)も三百人には過(すぎ)ざりけり。海東(かいとう)是(これ)を見て、「敵(てき)は小勢也(こぜいなり)けるぞ、後陣(ごぢん)の勢(せい)の重(かさ)ならぬ前(さき)に懸散(かけちら)さでは叶(かなふ)まじ。つゞけや者共(ものども)。」と云侭(いふまま)に、三尺四寸の太刀(たち)を抜(ぬい)て、鎧(よろひ)の射向(いむけ)の袖をさしかざし、敵のうず巻(まい)て扣(ひか)へたる真中(まんなか)へ懸入(かけいり)、敵三人(さんにん)切(きり)ふせ、波打際(なみうちぎは)に扣(ひか)へて続(つづ)く御方(みかた)をぞ待(まち)たりける。岡本房(をかもとばう)の幡磨(はりまの)竪者(りつしや)快実(くわいじつ)遥(はるか)に是(これ)を見て、前(まへ)につき双(ならべ)たる持楯(もちだて)一帖(でふ)岸破(かつぱ)と蹈倒(ふみたふ)し、に尺八寸の小長刀(こなぎなた)水車(みづぐるま)に回(まは)して躍(をど)り懸(かか)る。海東(かいとう)是(これ)を弓手(ゆんで)にうけ、胄(かぶと)の鉢(はち)を真二(まつぷたつ)に打破(うちわら)んと、隻手打(かたてうち)に打(うち)けるが、打外(うちはづ)して、袖の冠板(かふりいた)より菱縫(ひしぬひ)の板まで、片筋(かたすぢ)かいに懸(かけ)ず切(きつ)て落(おと)す。二(に)の太刀(たち)を余(あま)りに強く切(きら)んとて弓手(ゆんで)の鐙(あぶみ)を踏(ふみ)をり、已(すで)に馬より落(おち)んとしけるが、乗直(のりなほ)りける処を、快実(くわいじつ)長刀(なぎなた)の柄(え)を取延(とりのべ)、内甲(うちかぶと)へ鋒(きつさ)き上(あがり)に、二(ふた)つ三(み)つすき間(ま)もなく入(いれ)たりけるに、海東あやまたず喉(のど)ぶゑを突(つか)れて馬より真倒(まつさかさま)に落(おち)にけり。快実軈(やが)て海東が上巻(あげまき)に乗懸(のりかか)り、鬢(びん)の髪(かみ)を掴(つかん)で引懸(ひきかけ)て、頚かき切(きつ)て長刀に貫(つらぬ)き、武家の太将一人討取(うちと)りたり、物始(ものはじめ)よし、と悦(こころう)で、あざ笑(わらう)てぞ立(たつ)たりける。爰(ここ)に何者とは知(しら)ず見物衆(けんぶつしゆ)の中(なか)より、年十五六計(ばかり)なる小児(こちご)の髪(かみ)唐輪(からわ)に上(あげ)たるが、麹塵(きぢん)の筒丸(どうまろ)に、大口(おほくち)のそば高く取り、金作(こがねづくり)の小太刀(こだち)を抜(ぬい)て快実に走懸(はしりかか)り、甲(かぶと)の鉢をしたゝかに三打四打(みうちようち)ぞ打(うち)たりける。快実屹(きつ)と振帰(ふりかへつ)て是(これ)を見るに、齢(よはひ)二八計(じはちばかり)なる小児(こちご)の、大眉(おほまゆ)に鉄漿黒(かねくろ)也。是程(これほど)の小児(こちご)を討留(うちとめ)たらんは、法師(ほつし)の身に取(とつ)ては情無(なさけな)し。打(う)たじとすれば、走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)手繁(てしげ)く切回(きりまは)りける間、よし/\さらば長刀(なぎなた)の柄(え)にて太刀を打落(うちおとし)て、組止(くみとど)めんとしける処を、比叡辻(へいつぢ)の者共(ものども)が田(た)の畔(くろ)に立渡(たちわたつ)て射ける横矢(よこや)に、此児(このちご)胸板(むないた)をつと被射抜て、矢庭(やには)に伏(ふし)て死(し)にけり。後(のち)に誰(たれ)ぞと尋(たづぬ)れば、海東が嫡子(ちやくし)幸若丸(かうわかまろ)と云(いひ)ける小児、父が留置(とどめおき)けるに依(よつ)て軍(いくさ)の伴(とも)をばせざりけるが、猶も覚束(おぼつか)なくや思(おもひ)けん、見物衆(けんぶつしゆ)に紛(まぎれ)て跡に付(つい)て来(きたり)ける也。幸若稚(をさな)しと云へ共(ども)武士(ぶし)の家に生(うまれ)たる故(ゆゑ)にや、父が討(うた)れけるを見て、同(おなじ)く戦場(せんぢやう)に打死(うちじに)して名を残(のこし)けるこそ哀(あはれ)なれ。海東が郎等(らうとう)是(これ)を見て、「二人(ににん)の主(しゆう)を目の前(まへ)に討(うた)せ、剰(あまつさ)へ頚を敵(てき)に取(とら)せて、生(いき)て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共(ものども)轡(くつばみ)を双(ならべ)て懸入(かけいり)、主(しゆう)の死骸(しがい)を枕にして討死(うちじに)せんと相争(あひあらそ)ふ。快実是(これ)を見てから/\と打笑(うちわらう)て、「心得(こころえ)ぬ物(もの)哉(かな)。御辺達(ごへんたち)は敵(てき)の首(くび)をこそ取らんずるに、御方(みかた)の首(くび)をほしがるは武家(ぶけ)自滅(じめつ)の瑞相(ずゐさう)顕(あらは)れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭(いふまま)に、持(もち)たる海東が首(くび)を敵(てき)の中(なか)へがはと投懸(なげかけ)、坂本様(さかもとやう)の拝(をが)み切(きり)、八方を払(はらう)て火を散(ちら)す。三十六騎の者共(ものども)、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立(たて)かねたる。佐々木(ささきの)三郎判官時信後(うしろ)に引(ひか)へて、「御方(みかた)討(うた)すな、つゞけや。」と下知(げぢ)しければ、伊庭(いば)・目賀多(めかだ)・木村・馬淵(まぶち)、三百余騎呼(をめい)て懸(かか)る。快実既(すで)に討(うた)れぬと見へける処に、桂林房(けいりんばう)の悪讚岐(あくさぬき)・中房(なかのばう)の小相摸(こさがみ)・勝行房(しようぎやうばう)の侍従(じじゆう)竪者(りつしや)定快(ぢやうくわい)・金蓮房(こんれんばう)の伯耆(はうき)直源(ぢきげん)、四人左右より渡合(わたりあう)て、鋒(きつさき)を指合(さしあはせ)て切(きつ)て回(まは)る。讚岐と直源と同じ処にて打(うた)れにければ、後陣(ごぢん)の衆徒(しゆと)五十(ごじふ)余人(よにん)連(つれ)て又討(うつ)て懸(かか)る。唐崎(からさき)の浜と申(まうす)は東は湖(みづうみ)にて、其汀(そのみぎは)崩(くづれ)たり。西は深田(ふけた)にて馬の足も立(たた)ず、平沙(へいさ)渺々(べうべう)として道せばし。後(うしろ)へ取(とり)まはさんとするも叶(かなは)ず、中(なか)に取篭(とりこめ)んとするも叶ず。されば衆徒(しゆと)も寄手(よせて)も互に面(おもて)に立(たつ)たる者計(ばかり)戦(たたかう)て、後陣の勢(せい)はいたづらに見物(けんぶつ)してぞ磬(ひか)へたる。已(すで)に唐崎(からさき)に軍(いくさ)始(はじま)りたりと聞へければ、御門徒(ごもんと)の勢(せい)三千余騎、白井(しろゐ)の前(まへ)を今路(いまみち)へ向ふ。本院(ほんゐん)の衆徒(しゆと)七千余人(よにん)、三宮(さんのみや)林(はやし)を下降(おりくだ)る。和仁(わに)・堅田(かただ)の者共(ものども)は、小舟(こぶね)三百余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、敵(てき)の後(うしろ)を遮(さへぎら)んと、大津をさして漕回(こぎまは)す。六波羅勢(ろくはらぜい)是(これ)を見て、叶はじとや思(おもひ)けん、志賀の炎魔堂(えんまだう)の前(まへ)を横切(よこきり)に、今路に懸(かかつ)て引帰(ひきかへ)す。衆徒(しゆと)は案内者(あんないしや)なれば、此彼(ここかしこ)の逼々(つまりつまり)に落合(おちあう)て散々(さんざん)に射る。武士(ぶし)は皆無案内(ぶあんない)なれば、堀峪(ほりがけ)とも云(いは)ず馬を馳倒(はせたふ)して引(ひき)かねける間(あひだ)、後陣(ごじん)に引(ひき)ける海東(かいとう)が若党(わかたう)八騎・波多野(はたの)が郎等(らうとう)十三騎・真野(まのの)入道父子(ふし)二人(ににん)・平井(ひらゐ)九郎主従(しゆうじゆう)二騎谷底(たにそこ)にして討(うた)れにけり。佐々木(ささきの)判官も馬を射させて乗(のり)がへを待程(まつほど)に、大敵(たいてき)左右(さいう)より取巻(とりまい)て既(すで)に討(うた)れぬとみへけるを、名を惜(をし)み命(いのち)を軽(かろ)んずる若党共(わかたうども)、帰合(かへしあはせ)々々所々(しよしよ)にて討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に合(あ)ひ、白昼(はくちう)に京(きやう)へ引帰(ひきかへ)す。此比(このころ)迄は天下久(ひさしく)静(しづか)にして、軍(いくさ)と云(いふ)事(こと)は敢(あへ)て耳にも触(ふれ)ざりしに、俄(にわか)なる不思議出来(いでき)ぬれば、人皆あはて騒(さわい)で、天地(てんち)も只今打返(うちかへ)す様(やう)に、沙汰せぬ処も無(なか)りけり。
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)御幸六波羅(ろくはらにごかうの)事(こと) S0209
世上(せじやう)乱(みだれ)たる時節(をりふし)なれば、野心(やしん)の者共(ものども)の取進(とりまゐら)する事もやとて、昨日(きのふ)二十七日の巳刻(みのこく)に、持明院本院(ぢみやうゐんほんゐん)・春宮(とうぐう)両御所(りやうごしよ)、六条(ろくでう)殿(どの)より、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)へ御幸(ごかう)なる。供奉(ぐぶ)の人人には、今出川(いまでがはの)前右大臣(さきのうだいじん)兼季公(かねすゑこう)・三条(さんでうの)大納言通顕(みちあき)・西園寺(さいをんじの)大納言公宗(きんむね)・日野(ひのの)前(さきの)中納言資名(すけな)・防城(ばうじやうの)宰相(さいしやう)経顕(つねあき)・日野(ひのの)宰相資明(すけあきら)、皆衣冠(いくわん)にて御車(おんくるま)の前後(ぜんご)に相順(あひしたが)ふ。其外(そのほか)の北面(ほくめん)・諸司(しよし)・格勤(かくご)は、大略(たいりやく)狩衣(かりぎぬ)の下(した)に腹巻(はらまき)を着映(きかかやか)したるもあり。洛中(らくちゆう)須臾(しゆゆ)に反化(へんくわ)して、六軍(りくぐん)翠花(すゐくわ)を警固(けいご)し奉る。見聞耳目(けんもんじぼく)を驚かせり。
○主上(しゆしやう)臨幸(りんかう)依非実事山門変儀(へんぎの)事(こと)付紀信(きしんが)事(こと) S0210
山門の大衆(だいしゆ)唐崎の合戦に打勝(うちかつ)て、事始(ことはじめ)よしと喜合(よろこびあへ)る事斜(なのめ)ならず。爰(ここ)に西塔(さいたふ)を皇居(くわうきよ)に被定る条、本院面目無(めんぼくなき)に似(にた)り。寿永(じゆえい)の古(いにし)へ、後白川院(ごしらかはのゐん)山門を御憑有(おんたのみあり)し時も、先(まづ)横川(よかは)へ御登山(ごとうざん)有(あり)しか共(ども)、軈(やが)て東塔(とうたふ)の南谷(みなみたに)、円融坊(ゑんゆうばう)へこそ御移(おんうつり)有(あり)しか。且(かつう)は先蹤(ぜんじよう)也、且(かつう)は吉例(きちれい)也。早く臨幸(りんかう)を本院へ可成奉と、西塔院(さいたふゐん)へ触(ふれ)送る。西塔(さいたふ)の衆徒(しゆと)理(り)にをれて、仙蹕(せんびつ)を促(うながさ)ん為に皇居(くわうきよ)に参列(さんれつ)す。折節(をりふし)深山(みやま)をろし烈(はげしう)して、御簾(ぎよれん)を吹上(ふきあげ)たるより、竜顔(りようがん)を拝(はい)し奉(たてまつり)たれば、主上にてはをわしまさず、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)の、天子(てんし)の袞衣(こんえ)を着(ちやく)し給へるにてぞ有(あり)ける。大衆(だいしゆ)是(これ)を見て、「こは何(いか)なる天狗(てんぐ)の所行(しよぎやう)ぞや。」と興(きよう)をさます。其後よりは、参る大衆(だいしゆ)一人もなし。角(かく)ては山門何(いか)なる野心(やしん)をか存(そん)ぜんずらんと学(おぼ)へければ、其夜(そのよ)の夜半計(やはんばかり)に、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)、忍(しのん)で山門を落(おち)て笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ被参る。去程(さるほど)に上林房阿闍梨(じやうりんばうあじやり)豪誉(がうよ)は、元来(もとより)武家へ心を寄(よせ)しかば、大塔宮(おほたふのみや)の執事(しつじ)、安居院(あぐゐ)の中納言法印(ほふいん)澄俊(ちようしゆん)を生捕(いけどり)て六波羅(ろくはら)へ是(これ)を出(いだ)す。護正院僧都(ごしやうゐんそうづ)猷全(いうぜん)は、御門徒(ごもんと)の中(なか)の大名(だいみやう)にて八王子(はちわうじ)の一の木戸(きど)を堅(かため)たりしかば、角(かく)ては叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、同宿(どうじゆく)手(て)の者引(ひき)つれて、六波羅(ろくはら)へ降参(かうさん)す。是(これ)を始(はじめ)として、独(ひと)り落(おち)二人(ふたり)落(おち)、々行(おちゆき)ける間、今は光林房(くわうりんばうの)律師(りつし)源存(げんそん)・妙光房(めうくわうばう)の小相摸(こさがみ)・中坊(なかのばう)の悪律師(あくりつし)、三四人(さんしにん)より外(ほか)は落止(おちとどま)る衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。妙法院(めうほふゐん)と大塔宮(おほたふのみや)とは、其夜(そのよ)迄尚(なほ)八王子に御坐(ござ)ありけるが、角(かく)ては悪(あしか)りぬべしと、一(ひと)まども落延(おちのび)て、君の御行末(おんゆくへ)をも承(うけたまは)らばやと思召(おぼしめさ)れければ、二十九日の夜半計(やはんばかり)に、八王子に篝火(かがりび)をあまた所(ところ)に焼(たい)て、未(いまだ)大勢(おほぜい)篭(こもり)たる由を見せ、戸津浜(とづのはま)より小舟(をぶね)に召(めさ)れ、落止(おちとま)る所の衆徒(しゆと)三百人計(ばかり)を被召具て、先(まづ)石山(いしやま)へ落(おち)させ給ふ。此(ここ)にて両門主(もんじゆ)一所(いつしよ)へ落(おち)させ給はん事は、計略(けいりやく)遠(とほ)からぬに似たる上(うへ)、妙法院(めうほふゐん)は御行歩(おんぎやうぶ)もかひ/゛\しからねば、只暫(しばらく)此辺(このへん)に御座(ござ)有(ある)べしとて、石山(いしやま)より二人(ににん)引別(ひきわかれ)させ給(たまひ)て、妙法院(めうほふゐん)は笠置(かさぎ)へ超(こえ)させ給へば、大塔宮(おほたふのみや)は十津河(とつがわ)の奥へと志(こころざし)て、先(まづ)南都(なんと)の方(かた)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。さしもやごとなき一山(いつさん)の貫首(くわんじゆ)の位(くらゐ)を捨(すて)て、未(いまだ)習(ならは)せ給はぬ万里漂泊(ばんりへうはく)の旅(たび)に浮(うか)れさせ給へば、医王山王(いわうさんわう)の結縁(けちえん)も是(これ)や限りと名残惜(なごりをし)く、竹園連枝(ちくゑんれんし)の再会(さいくわい)も今は何(いつ)をか可期と、御心細(おんこころぼそく)被思召ければ、互に隔(へだ)たる御影(おんかげ)の隠るゝまでに顧(かへりみ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)へ別(わかれ)させ給ふ、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲(かなし)けれ。抑(そもそも)今度(こんど)主上(しゆしやう)、誠(まこと)に山門へ臨幸不成に依(よつ)て、衆徒(しゆと)の意(こころ)忽(たちまち)に変(へん)ずること、一旦(いつたん)事(こと)ならずと云へ共(ども)、倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あんず)るに、是(これ)叡智(えいち)の不浅る処に出(いで)たり。昔強秦(きやうしん)亡(ほろび)て後、楚(そ)の項羽(かうう)と漢(かんの)高祖(かうそ)と国を争(あらそふ)事(こと)八箇年(はちかねん)、軍(いくさ)を挑(いどむ)事(こと)七十余箇度也。其戦(そのたたかひ)の度毎(たびごと)に、項羽(かうう)常に勝(かつ)に乗(のつ)て、高祖(かうそ)甚(はなはだ)苦(くるし)める事多し。或時(あるとき)高祖(かうそ)■陽城(けいやうじやう)に篭(こも)る。項羽(かうう)兵(つはもの)を以て城(じやう)を囲(かこむ)事(こと)数百重(すひやくへ)也。日を経(へ)て城中(じやうちゆう)に粮(かて)尽(つき)て兵(つはもの)疲れければ、高祖(かうそ)戦(たたかは)んとするに力なく、遁(のがれ)んとするに道なし。此(ここ)に高祖(かうそ)の臣(しん)に紀信(きしん)と云(いひ)ける兵(つはもの)、高祖(かうそ)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「項羽(かうう)今城(じやう)を囲(かこみ)ぬる事数百重(すひやくへ)、漢已(すで)に食(かて)尽(つき)て士卒(しそつ)又疲(つかれ)たり。若(もし)兵(つはもの)を出(いだ)して戦はゞ、漢必(かならず)楚の為に擒(とりこ)とならん。只敵(てき)を欺(あざむい)て潛(ひそか)に城(じやう)を逃出(のがれいで)んにはしかじ。願(ねがは)くは臣今漢王(かんわう)の諱(いみな)を犯(をか)して楚の陣に降(かう)せん。楚此(ここ)に囲(かこみ)を解(とい)て臣を得ば、漢王(かんわう)速(すみやか)に城(じやう)を出(いで)て重(かさね)て大軍(たいぐん)を起し、却(かへつ)て楚を亡(ほろぼ)し給へ。」と申(まうし)ければ、紀信が忽(たちまち)に楚に降(くだつ)て殺(ころさ)れん事悲しけれ共(ども)、高祖(かうそ)社稷(しやしよく)の為に身を軽(かる)くすべきに非ざれば、力無く涙ををさへ、別(わかれ)を慕(したひ)ながら紀信が謀(はかりごと)に随(したがひ)給ふ。紀信大(おほき)に悦(よろこう)で、自(みづから)漢王の御衣(ぎよい)を着(ちやく)し、黄屋(くわうをく)の車(くるま)に乗り、左纛(さたう)をつけて、「高祖(かうその)罪(つみ)を謝(しや)して、楚の大王(だいわう)に降(かう)す。」と呼(よばはり)て、城(じやう)の東門(とうもん)より出(いで)たりけり。楚の兵(つはもの)是(これ)を聞(きい)て、四面(しめん)の囲(かこみ)を解(とい)て一所(いつしよ)に集(あつま)る。軍勢(ぐんぜい)皆万歳(ばんぜい)を唱(となふ)。此間(このあひだ)に高祖(かうそ)三十余騎を従(したが)へて、城(じやう)の西門(さいもん)より出(いで)て成皐(せいかう)へぞ落給(おちたまひ)ける。夜(よ)明(あけ)て後(のち)楚(そ)に降(くだ)る漢王を見れば、高祖(かうそ)には非ず。其臣(そのしん)に紀信(きしん)と云(いふ)者なりけり。項羽(かうう)大(おほき)に忿(いかつ)て、遂(つひ)に紀信を指(さし)殺す。高祖(かうそ)頓(やが)て成皐の兵(つはもの)を率(そつ)して、却(かへつ)て項羽(かうう)を攻む。項羽(かうう)が勢(いきほひ)尽(つき)て後遂に烏江(をうかう)にして討(うた)れしかば、高祖(かうそ)長く漢の王業(わうげふ)を起して天下の主(あるじ)と成(なり)にけり。今主上(しゆしやう)も懸(かかり)し佳例(かれい)を思召(おぼしめし)、師賢(もろかた)も加様(かやう)の忠節(ちゆうせつ)を被存けるにや。彼(かれ)は敵(てき)の囲(かこみ)を解(とか)せん為に偽(いつは)り、是(これ)は敵(てき)の兵(つはもの)を遮(さへぎ)らん為に謀(はか)れり。和漢(わかん)時(とき)異(ことな)れども、君臣(くんしん)体(てい)を合(あはせ)たる、誠(まこと)に千載(せんざい)一遇(ぐう)の忠貞(ちゆうてい)、頃刻変化(きやうこくへんくわ)の智謀(ちぼう)也。