荒山合戰記


凡例
底本: 私の所有している以下の三誌より入力しました。
(1)「前田氏戰記集」より
(2)「群書類従」より
(3)「加能越軍記集」より
文字表記、改行は原本通りとしましたが、(2)、(3)は、カタカナをひらがなにしました。
返り点の、一・二・レは、(一)・(二)・(L)と表記しました。



(1)「前田氏戰記集」より
底本:「前田氏戰記集」
昭和十年十一月五日 発行
発行者 石川県図書館協会 [二百七十部発行]
〔前付け〕
校訂及解説    日 置  謙氏
校   合    太田 敬太郎氏
表紙 図案    王井 敬泉 氏
  目   次
村   井   家   傳   一頁
荒  山  合  戰  記   七頁
奥   村   家   傳  一七頁
末     森     記  二一頁
末   森   軍   記  四五頁
大聖寺攻城 并 淺井畷軍記  五九頁
能 美 江 沼 退治 開書  八一頁
小   松   軍   記 一〇三頁
淺井縄手之迫合 諸記 抜書 一一九頁
淺 井 畷 合 戰 覺 書 一二五頁
大 坂  兩 陣  日 記 一二九頁
大坂 兩度 御出馬 雜 録 一四一頁
解説            一六三頁
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荒山合戰記

  能登國石動山衆徒蜂起 附 同所荒山合戰之事
天正十年六月能登國にも一揆動亂す。其故は昔日織田信長
の爲に己が所領を被(二)追出(一)し諸侯・大夫或は地頭・代官・莊官
等、信長の横死を聞きて時を得て一揆を企てける。其中に
能州の守護職畠山修理大夫義則が八臣、神保安藝守正次・
      (マヽ) (備中守景降カ)   (長盛カ)
長九郎左衛門尉信實・温井備前守實正・三宅備後守正數・
平式部少輔盛高・遊佐河内守長員・譽田隼人正正豐・伊丹
左衛門尉勝詮と云ふ者あり。遊佐・温井・三宅は近年長尾
喜平次景勝を頼んで越後にあり。又温井が郎等に小南内匠
助・筒井雅樂助・廣瀬隼人正・山莊藤兵衛尉、并に三宅が
郎等鳥藏内匠助・小山田甚五兵衛尉など云ふ大剛の者共あ
りし。然るに石動山の衆徒并に彼所の溢者共が方より、使
を越後國へ遣はし、遊佐・温井・三宅等が方へ云送りける
は、其地へも定めて聞え侍りなん。當月二月織田信長卿、
明智光秀が爲に京都本能寺に於て不慮に討たれさせ給ひた

り。加様の時節急ぎ能州へ御入國候べし。當山ノ衆徒等は
不(L)及(L)申。國中の寺社・郷民も爭でか舊好をば忘れ侍るべ
き。面々心を一つにして合力仕るべしと.衆議一決の上に
て斯くは申送り侍るとぞ告げたりける。三人の輩大に喜悦
し、是天の與る所也迚、則同心の返翰をぞ遣はしける。大
衆是に得(L)力、さらば要害を構へんと、密々に石動山を要
害にぞ構へける。大衆は例も大悍なる者なれば、敵寄せ來
らば爰の詰にて兎こそ防ぎ、彼の坂にて角こそ斬崩さんと
ぞ、兵法に廣言を吐散らし、恩賞の地には何の郡を寺領に
受けん、彼村里は上田なれば院家領にせんずれと、未だ其
功不(L)成以前より所領分して詈り諍ひ、或は郷民等にも、忠
節をなさば士になして所知を申賜はらんなど、端々口外し
て云語らひける程に、天に口なし人を以ていはしむと、此
事次第に云廣りて、衆口防ぎ難くて國に披露しけるは、遊
佐・温井・三宅の輩石動山の衆徒等と心を合はせ、本國還
住の謀をなし、先づ石動山に城郭を構へ、兵粮を取入れ人
數を催す由聞えしかば、能登の守護職前田又左衛門尉菅原
利家、此事を傳へ聞きて大に驚き、吾が手勢計にては大敵
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防ぎ難かるべしとて、越前守護職柴田修理亮勝家并に其甥
佐久間玄蕃允盛政等が方へ、加勢を請けん爲書翰をこそは
送りけれ。其詞に、
 態以(二)書翰(一)伸(二)愚意(一)畢。仍雖(L)爲(二)不實之儀(一)。能州之國士温井・
 三宅兄弟并遊佐輩、近年越後在住候所、聽(二)信長卿之横死(一)、
 窺(二)時節(一)相(二)語於越後勢(一)、成(二)歸國之望(一)之處、當國石動山衆徒
                                 コト
 等渠令(二)同意(一)、彼山構(二)要害(一)之由、衆口同音申鳴候。若於(二)締
 實(一)者、注進次第御加勢奉(二)頼存(一)候。恐惶謹言。
  天正十年六月十日   前田又左衛門尉利家
   柴田修理亮殿
   佐久間玄蕃允殿
とぞ書たりける。佐久間披見して、則〔返。〕金澤城に居たりける
が、此告を聞くと等しく勝家の方へも委細を注進し、不(L)待(二)
其左右(一)して二千五百餘兵を引率し、能登國に馳向ひ、高畠
と云ふ所に野陣を取つてぞ控へたる。温井・三宅・遊佐の三
大將は、石動山般若院快存・大宮坊・火宮坊・大和坊覺笑等を
相語らひ、都合其勢四千三百餘人、荒山要害普請の爲山張
したる所に、玄蕃允取掛つて相戰はんとしけれども、前田

利家息利政等が方へ出陣の事を告げたりし返翰を待ちし程
に、其日は既に晩景に及びしかば、徒に日を暮し、其近邊
の莊官并に溢者共を尋出し、石動山の様躰を尋ねけるに、
彼輩答へけるは、越後國の軍兵共は荒山を城郭に構へんと
て、明朝も普請の爲此邊の郷民等を雇ふべしと相觸候。
明朝御出張候はんには、某共御道指南仕るべしとぞ申しけ
る。玄蕃允は大に悦び、彼等に引出物し、二心あらんと拜郷
五左衛門尉を奉行として、起請文を書かせけり。其後山路
の行程いかほどあるべきと尋ねけるに、石動山迄は其道五
里荒山までは三里に餘り候べしと答へけり。去らば急ぎ
可(二)打立(一)とて、其夜半過に悉く用意し、件の案内者に守護の
番兵を差副へ、奴原に目を放ち油斷すべからずと潜に申合
はせ.先陣に押立て、未だ夜のほの暗きに荒山より五六町
程此方なる坂の邊に馳着きて、先斥候の兵を遣はし、敵の
様子を窺ひけり。又前田利家も究竟の兵二千六百餘人を撰
び出し、同日の夜半に七尾城を打出で、石動山と荒山との
境なる柴峠と云ふ所に陣取つて控へけり。爰に温井・三宅・
遊佐が軍兵四千三百餘人は、荒山の普請せんとて出張した
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り。前田利家は備を立て、温井・三宅等が先陣の勢に向つて
鬨を〓[口+童]と作つて馳掛けゝり。温井も三宅も平場の軍不(L)叶と
や思ひけん。三千餘人を引連れて荒山の要害へ取上る。其
外遊佐以下の軍勢二千餘人は石動山へ逃上る。斯る處に佐
久間盛政が斥候の者立歸りて、越後勢と覺えて二千計、荒
山の要害へ楯籠りたる由告げたりけり。盛政聞(L)之、去らば
兵を進めて彼要害を責破らんと旗を進め、若し石動山より
加勢する事も有るべければ、其勢を防げとて、拜郷五左衛
門尉に軍兵を差副へ.石動山衆徒の押とし、偖荒山の先軍
に上田又作・種村三郎四郎以下押寄せ、金鼓を鳴らし貝吹
立て、山川も崩るゝ計に時の聲をぞ揚げたりける。城中に
は温井備前守・三宅備後守・山莊藤兵衛尉・筒井雅樂助・小山
田甚五兵衛・廣瀬隼人・鳥藏内匠、并に般若院・大宮坊・火宮
坊、其外越後の加勢國中の溢者相雜り、同じく時を合せ.
四方に目を配つて喚き叫んで戰ひけり。鳥銃累に發し貫(L)鎧
摧(L)冑、寄手は是を事ともせず、死人の上を乘越え々々責
上る。荒山の軍兵等太刀を抜いで防ぎけり。爰に般若院は
大剛の惡僧にて、度々の合戰に名を顯したる兵なれば、其

頃の俗異名を付けて今辨慶とぞ申しける。誠に諸人に勝れ
色黒く、長は六尺三寸.骨太く頬車荒れて、力も強かりけ
るが、指物には鍬・鎌・熊手・鋸・槌・鉈・鳶觜等の七つ物取付
け、武具も亦上より下まで眞黒に出立ちたれば、牛も驚く
程なるが、大長刀を水車に廻し、小躍し走掛り、左右を拂
ひ前後を薙ぎて巡りたるに、面に進んだる兵ども忽ち七八
人薙倒し、佐久間が軍兵辟易して後足蹈んで不(L)得(L)進。般若
院は敵を坂下へ追下し、小高き所に立跨り歌を謡ひて掛る
敵を待ち居たり。玄蕃允是を見て、加様の敵をば射手を揃
へて射噤め、打物の衆を進ませよと下知しければ、足輕の
射手共大勢立双んで、般若院を雨の降るが如くに射たりけ
り。寄手も是に得(L)力、吾先々々と進んで、曳々聲を出して
斬合ひ、引組み/\討つも有り、敵も味方も死を忘れ、爰
を先途と戰ひしかば、手負死人の骸より溢るゝ血は、坂よ
り下まで瀧となつて流れたれば、江河を渡るに不(L)異。斯る
處に種村三郎四郎が郎等杉立九郎左衛門尉・富田勘次郎、
并に能州の住人鈴木因幡守・高河原一學等、横合より突掛
り、忽ち七八人突伏せたり。越後勢中に臆病の弱敵此形勢
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を見て、不(L)叶とや思ひけん。吾々は引退きて石動山の敵を
防がんと云ふ程こそ有りけれ。後より五人十人打連れ/\
引退くとぞ見えし。殘る勢も落心や付きたりけん。一太刀
打つては引退き、二太刀打つては引上り、佐久間盛政乘(L)
氣、敵は堪へ兼ね逃眼に成りたるぞ。息を繼がせぞ責めよ
懸れよと下知しつゝ、眞先掛けて責上る。南方を防ぎける
城中の軍兵共、暫く支へて戰ひけるが、是も備散靡きた
り。温井・三宅は大音揚げて、蓬き人々の働き哉。温井・
三宅兄弟最期の軍して見参に入れんするぞ。責ては暫く留
りて見物し玉へ人々と罵り掛け、馳掛り/\散々に戰ひけ
り。元來究竟の強兵なれば、立所に五三人斬倒し、仰ぎた
る太刀を押直さんとする處を、吉川五右衛門尉得たりや賢
しと渡り合ひ、火花を散らして斬合ひけるが、温井勢力や
疲れけん。終に吉川にこそ討たれけれ。三宅備後守は長刀
の名人にて、大勢に渡合ひ、追手開手裁つ掛りつ突つ斬
つ、蜻蛉返・水車、八方不(L)透斬りたれば、目下に大勢討た
れ進み兼ねたる處に、堀田新右衛門尉鎌鑓にて渡合ひ、鎌
にて掛れば放て入り、入れば退去つて突かんとす。掛つ放

つ追つ追はれつ戰ひければ、敵も味方も見物して、助かる
者こそ勿りけれ。去らば人交もせずして二人勝負と働きけ
るが、三宅が運や盡きたりけん。長刀折れて堀田が爲に討
たれけり。火宮坊は温井・三宅が討死を見て、不(L)叫とや思
ひけん。石動山指して逃上る。般若院大音聲を揚げ味方の
勢を耻かしめけるは、温井・三宅兄弟に深被(L)憑たる人々
の、兩人の討死を見捨てゝ逃ると云ふことやあるべき。命
が惜しくば初より戰場へ出ぬこそよけれ。吾と思はん人々
は蹈留つて討死せよ。如何に敵方の軍共。角云ふは般若院
とて骨切の名を近國に知られたる大惡僧の剛者なるぞ。首
取つて高名せよと詈り掛け、二間餘十文字鎌の柄の握太な
るを押取延べ、突きつ掛りつ扣き付けたるに、鎗を合はす
る人もなし。四角四方に當り、七八人手下に突倒したれ
ば、此勢に辟易して進む者こそ勿りけれ。只遠矢に射取れ
とて、矢衾を作つて射たりければ、般若院が鎧に矢の立つ
事、簑を逆に着たるが如し。其中に裏掻きたる矢三筋、中
にも喉の下に立つたる失を掻かなぐり捨てんとするに、鏃
留つて抜けざりしかば、流石の般若院も目暈き、茫然とし
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て鎗を杖に突いて立噤みたる處を、櫻井勘介鑓を付けて般
若院が首を取る。其頃般若院が弟子に荒中將とて師匠に劣
らぬ惡僧の有りけるが、勘介が般若院が首提げたるを見
て、日比の敵、師匠の讐.遁すまじと云儘に、大の鉾矢打
つがへ、能つ引て放つ矢に、勘介が胸板より總角付の板ま
で筈の隠るゝ程ぐざと射込みたれば、阿つと云ふ聲ととも
に倒れたり。荒中將此敵には目も不(L)掛、差詰々々射ける矢
に、死生は不(L)知敵十餘人矢庭に射落しけるが、矢軍許りは
すまじき物をと獨言して大勢の中へ破つて入り、石動様の
袈裟掛に成佛せよと呼はつて散々に戰ひけるに、面を合は
する人もなし。寄手は鏃を揃へて散々に射たりけり。然る
所に鐵炮の玉一つ飛來て、中將が傍腹を打貫きたれば、犬
居に倒れけるが、又起上りたれども、今は不(L)叶とや思ひけ
ん、鎧の上帶斬捨て、忽に自害して骸を戰場に曝しけり。
其外軍兵大衆は石動山さして逃けるを、拜郷五左衛門尉兼
てより道筋を取切つて散々に責めければ、遁るゝ者は希
にして討たるゝ者は多かりけり。山莊藤兵衛尉は手疵數多
負ひ、木陰に徘徊ひ居たりけるが、温井備前守が討死した

るを見て、今は是迄と思ひ、敵を左右へ追拂ひ、其死骸を
枕として腹掻切つて失せにけり。筒井雅樂助此所にて討死
す。角して荒山の城已に落ちたりしかば、佐久間玄蕃允盛
政は勝時三ヶ度執行ひ、其後温井・三宅・般若院・山莊・筒井、
此五人が首共野村勘兵衛尉に取持たせ、前田利家が方へ送
りしかば、又左衛門尉は大に悦び、盛政の働莫大なりと感
心し、様々の謝禮を盡し、使者にも則ち村政の刀を引きた
りけり。
   能州石動山軍 附 石動山燒失事
能州石動山へは、前田又左衛門尉利家軍兵を引率し、天正
十年六月二十六日の未明に押寄せたり。先陣は高畠石見
守、大行院の東谷より責上る。前田利家は二王門の方より
                     (連龍カ)
大手に被(L)向、相従ふ侍大將には長九郎左衛門尉信實・奥村
伊豫守・同孫助・小塚淡路守以下、都合其勢三千餘人石動山
に押寄せたり。折節朝霧大に降て咫尺を見る事あたはざり
しに、大衆は敵是程火急に寄すべしとは思はざりしかば、
越後勢は長途の疲体めんとて朝寢し、未だ起き上らざりけ
り。又石動山の衆徒共は、當山榮久の護摩并に利家調伏の
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祈祷して、緩々として居たりければ.遠見の兵をも不(L)出
故に、利家の軍兵共安々と山まで攻上り、鐵炮を放し時を
作れば、大衆も武士も大に驚き色を變じ、途に迷ひ、若大
衆の氣早なるは武具着る暇のなかりしかば、徒肌のまゝに
て、褊杉の袖を結んで肩に掛け、散々に斬合ひたり。高畑
が先手栂尾善次郎.今日の先登と名乘つて一番に進んだ
り。利家の小姓丸尾又五郎・富田助之丞・雜賀金藏等は、弓
手の脇より進んで突いて掛る。城中の軍兵共大勢出合ひ、
鎗襖を作つて突掛りしかば、栂尾突崩されて引退く處に、
丸尾・富田・雜賀等得たりやおうと助けたりけるが、雜賀・
富田は鐵炮に當つて討たれたり。栂尾は取つて返しける
に、遊佐孫太郎が若黨白井隼人と名乘つて突出で戰ひける
が、不(L)叶とや思ひけん、大行院の門の内へ引入りたり。寄
手是を見て、初め白井隼人と名乘つたるは何國へ逃行きけ
るぞ。蒸し返して勝負せよと詈る處に、早田主膳と云ふ者
三間柄の鎗を取つて栂尾に突いて掛り、火出る程ぞ戰ひけ
る。然る處に丸尾又五郎横鎗を入れて助けたりしかば、早
田終に栂尾善次郎に討たれけり。利家の軍兵共吾も/\と

進みけり。中にも長九郎左衛門尉は、此山の案内をば能く
知りたり。四方より込入りて、遊佐河内守を生捕にせよや
迚軍兵を進めけり。爰に如何したりけん、利家の兒小姓篠
原出羽守、其頃は勘六迚十七歳になりけるを初めとして、
小塚八左衛門尉・寺岡兵右衛門尉三人、一番に責入りて散
々に相戰ひ、皆敵の首討取つて、猶爰を先途と責めたりけ
り。斯る處に成就院の小相模、大宮院の飛騨、法幢坊の同
宿中記と云へる惡僧共數十人、坂中に下り塞って、石動山
の大衆等が拜斬に解脱せよと廣言吐いて、死狂ひにぞ働き
ける。其中にも長七尺計の法師、坂の上より敵兵を見下
し、大長刀の二間許有つて、鎗かと覺ゆる許なるを、手本
短く押取り延べ、實乘坊の荒讃岐忠快と名乘つて、箒を以
て庭を掃くが如く薙立てたるに、寄手の先陣切立てられて
四度路になり、逃眼を作り後足蹈みたる處に、寄手の中よ
り鐵炮を以て、僅か七八間が程にて雷の落るが如く放した
れば、響に應じて忠快が胸板を打貫き、後に控へたる陽俊
坊が同宿本宰相が眞中に中りしかば、二人共に弓手妻手へ
倒れたり。笠間義兵衛尉走り掛つて忠快が首をば捕たりけ
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り。其外の惡僧共、此所にて大勢討死したりければ、衆徒
は引退きて二王門を差堅め、此所にて防ぎたり。寄手は彌
氣乘り勝鼓打つて時の聲を作り懸け/\、唯一時に揉落さ
んと、汗水に成つて責めたりける。前田利家は伊賀の偸組
とて五十餘人扶持し置きしが、彼聾を招きて、今敵軍する
躰を見るに、物の用にも可(L)立程の者は打出で、合戰する
と覺えたれば.坊々院々に墓々しき人は有るまじきぞ。汝
等忍び入つて院々坊々に火を放つて燒立て、少々老法師・
小法師原中に敵對する者をば斬つても捨てよ。去る程なら
ば一人も不(L)殘逃失せなん。衆徒等坊中の火を見ば、敵早
攻入りたるはとて、途を失ひ、敗軍すること疑なしと下知
しければ、畏候とて院々坊々へ忍入りて窺ひみるに、案の
如く手に可(L)立人はなし。小法師原の少々殘りたるを追散ら
し、十餘ヶ所に火を掛けたり。去る程に黒煙り覆(L)天、折
節魔風頻に扇つて、院々より諸堂に吹掛けたれば、咸陽三
月の火を一日に合はせたる歟と覺えて夥し。寄手は彌氣に
乘り喚き叫んで責掛け、利家白旄を打振り/\進めや/\
敵に息繼がすなと、自ら眞前に進みたれば、家の子郎従主

をかばひ、馬の前に馳塞り/\死を爭うて攻めしかば.流
石の惡僧・溢者共も後の火に途を失ひ、手足もなゆる心地
して、防ぎ難く思ひければ、本堂差して引退く。是を無(二)云
甲斐(一)とや思ひけん。阿彌陀院の律師俊慶・圓滿院の天狗
坊・松月坊忠格・大宮坊の飛騨・金藏院の中將以下、究竟
の若大衆三十餘人、武具の上に白衣を着し、たすき掛け、
一様に長刀を持ちて、二王門より内少し窄き所に待受け
て、東西も開合はせ、南北に追靡け、巻きつ被(L)巻つ曳聲
を出して戰うたり。道は狭し、寄手大勢と雖も脇より廻つ
て可(L)進様もなし。唯童部の駒取するが如く、順に双んで支
へたれば、面に立つたる者計こそ合戰をばしけれ。後陣の
大勢は徒に見上げ、見物してぞ控へける。寄手錣を傾け、
身を不(L)惜して込入れば、大衆長刀を揃へ.命を捨てゝ追出
す。追出せば込入り、込入れば追出し、七八度が程揉合ひ
たれば、敵も味方も討たるゝ者其數を知らざりけり。流血
は混々として白石忽ち紅に變じければ、火の丸かせに不(L)
異。青苔朱に染なし、死骸積んで累々たれば、無慙と云ふ
も餘りあり。似合はぬ僧の任侠して、衆徒も大勢討死し、
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武士をも多く滅したる罪業の程こそあさましけれ。寄手は
多く討たれたれども、大勢なれば勢も不(L)透、荒手を入替
へ/\責むる。大衆は小勢なれば、面に立つたる惡僧等
も、次第々々に勢力疲れ、手疵數多蒙りて討るゝ者多かり
しかば、一太刀打つては引上り、二太刀討つては引退く。
寄手は彌乘(L)氣、飽くが上に責重る。爰に大行院の東谷を防
ぎける遊佐河内守并に越後勢等も、高畠石見守に打負け、
心細く思ふ所に、山中は悉く燒立てたり。大手の大將温井
・三宅兄弟も討死し、大衆等も二王門の軍に皆被(二)討取(一)たり
と聞えしかば、其實やらん、又敵の謀にや有るらん、實否
を極めんと軍使を遣はさんとする所に、軍兵共は此左右を
聞きて、元來落心の付きたる者共なれば、なじかは少しも
怺ふべき。吾先/\と四角八方へ逃散りけり。遊佐も彼勢
に被(二)引立(一)、彼を捨てゝ落行きたれば、能州の一揆ども暫時
の間に滅亡びけり。抑此石動山天平寺と申すは、人王四十
四代元正天皇の御宇、養老元丁巳年泰澄法師の建立にて、
人王三十九代天智の勅願所也。佛法修行の業をこそ專らと
すべき事なるに、延暦寺・根來寺等の大衆等が佛法の奥儀

探理を忘却し、武藝を業と心得たるを、天平寺の小法師原
も羨敷事に思ひ、任侠を家業として山をも身をも滅しける
罪業の程こそ拙けれ。去れば今何故に石動山の大衆等は一
揆を企つるやと尋ぬるに、織田信長在世の時、侫僧賣主の
諸出家等が、蛛網の術を巧にして、武運長久は敵の刀匁段
々壞の功力にあり。且後生善所の望あり。天下の治亂は振
鈴の響に應ず。合戰の勝負は錫杖の靡に順ふ。安鎮國家の
法力爭でか貴まざらんやと檀越を誑す。愚魯短才の守護國
司は、己が武勇を脇になし、出家の祈祷、數珠の音を合戰
の雌雄に掛け、大莊・大郡を寄進して味方の助とする故
に、僧も社人も吾が法式を執失ひ、明けても暮れても弓箭
を專に嗜み、兵術俗義を宗として、常に合戰を心とせり。
去れば一犬誤て虚を吠ゆる時は.萬犬實と傳ふと云ふは、
今の世の出家なるべし。斯る不實の出家をこそ天魔破旬と
は云ふなんめれ。害有りて益なしとて、寺領の多き寺々を
ば能き程に減少して.其國々の侍が恩賞の地にぞ被(L)行け
る。去れば此石動山も高五千貫の寺領なりしを、信長是を
沒収して千貫の地を賜へられし。大衆是を憤り、本領を安
P015
堵せんとて、斯る一揆を企て、大衆も多被(二)討取(一)、寺院悉く
燒亡し、伽藍一宇も殘らざりし。誠に衆徒の我慢放逸は、
則ち天魔の所行にやと、淺猿かりし事共也。

P016

P163
前田氏戰記集解説
   はしがき
(中略)
是を以てここに輯め得た記録は、諸公が関係した戰
P166
役の全部に及ぶことを得ぬ憾があり、又同一戰爭に関し
て、餘りに記録の種類の多いものは、その中の著しいもの
を採つて、他を割愛することにした。更に又世人が珍らし
がるものでも、故意に偽撰せられたことの明白に研究せら
れて居る書の如きは、固より之を〓けた。淺井畷戰役に関
する奉納軍記はその尤なるものである。
 次に、本編に載録した戰記の各種に就いて、簡単なる解
説を試みて置きたい。
   村 井 家 傳
(中略)
P167
    荒山合戰記
 能登の舊勢力畠山氏の遺臣と.新興の武威前田氏との衝
突。それが荒山合戰なのである。
 前田利家の旗頭と馮む織田信長が、天正十年六月二日本
能寺に横死したことは、何としても利家の弱り目と、側面
から見られたに相違ない。石動山の衆徒等は、それに乘じ
て、今は越後に逃れて居た温井景隆・三宅長盛の徒を招
き、共に手を携へて利家を打倒し、一國を押領せんとの計策を廻らした。
 この密謀は、略利家の窺ひ知る所であつたから、豫め書
を尾山城の佐久間盛政に與へて、一朝危急の際速かに來援
せんことを求めて置いた。その事を知るや知らずや、景
隆・長盛等は、兵二手を牽ゐて海路越中妻良浦に上陸し、
石動山の附近荒山に寨を設け、千古の大伽藍に法威を振ふ
僧兵だちと、相呼應して起らうとした。
 こゝに於いて、利家は直に急を盛政に報じ、盛政は前約
を重んじて鹿島郡高畠に駆け着いた。六月廿五日のことで
ある。その日の夜半に利家は七尾を發した。翌る日は盛政
が荒山を陥れ、利家は天平寺を燒立てた。戰ひはたゞ一日
にして終つたが、利家に取つての利益は小さいものでなか
つた。利家が信長から與へられた能登を維持し得るか、そ
れとも能登を失ふかの問題は、一に係つてこの勝敗にあつたからである。
 荒山合戰記の著作年代も著作者も明かになつて居ない。
文章も立派に書けて居り、筋も能く通つて居る。富田景周
の越登賀三州志及びそれ以後のものは、すべてこれによつて本文を立てゝ居る。
    奥 村 傳 書
(中略)
昭和十年十月 校訂者 六十三齢 日 置  謙
P175
〔後付け〕
昭和十年十一月五日 印刷
昭和十年十一月五日 発行
発行者 石川県図書館協会 [二百七十部発行]



(2)「群書類従」より
底本:群書類従 第二十一輯 合戦部 ぐんしょるいじゅう21 発行:続群書類従完成会 初版発行:1960年 定価 本体6,000円+税
B6判・上製本・函入 754頁
(表紙)群書類従 第二十一輯 東京 続群書類従完成会
目次P1
群書類従第弐拾壱輯目次
【相州兵乱記】後北条氏を中心に関東の兵乱を記した戦記
【豆相記】後北条氏の興亡を記した戦記
【河越記】武蔵河越城を中心とした戦乱と戦後の情勢を記した戦記
【深谷記】武蔵深谷城をめぐる攻防とその家臣団の動静を記した戦記
【さゝこおちのさうし】上総笹子城落城の事情を記した戦記
【なかおゝちのさうし】上総中尾城落城の事情を記した戦記
【房総治乱記】房総における治乱の事情を記した戦記
【鹿島治乱記】常陸鹿島地方を背景とした治乱を記した戦記
【江濃記】応仁―永禄の近江・美濃における抗争の記録
【江北記】近江北半部の守護京極氏に関する記録
【船田前記】美濃船田の石丸氏の叛乱を題材とした戦記物
【船田後記】石丸利光の一族与党の全滅の事情を記した戦記物
【上野国群馬郡簔輪軍記】箕輪城を中心とした攻防戦とその落城を記した戦記
【羽尾記】上野羽尾の海野能登守を主人公とした武勇伝
【蘆名家記】会津守護蘆名氏の歴史を伊達氏との抗争を背景に記した戦記
【蒲生氏郷記】永禄―天正の氏郷の戦記を中心とする伝記
【伊達日記】天正―慶長の伊達氏を中心とした仙道における争覇の記録
【柴田退治記】豊臣秀吉が柴田勝家を討伐した時の戦記
【富樫記】加賀国守護富樫氏の没落の事情を記した戦記
【小松軍記】丹羽長重が小松城において前田利長と激戦の末講和を結んだ時の戦記
【荒山合戦記】前田利家が能登荒山の一揆を討った時の戦記
【末森記】能登末森城を中心とする合戦記
【赤松記】赤松氏の興亡を叙した合戦記
【赤松再興記】嘉吉の乱後の赤松氏の動静を記した記録
【別所長治記】播磨三木城に拠った別所長治の合戦記
目次P2
【播州御征伐之事 播州征伐記】播磨の別所長治一族を秀吉が征伐した際の記録
【大内義隆記】大内氏の由来から説き起す義隆の一代記
【中国治乱記】出雲の尼子一族の盛衰を叙した合戦記
【阿州将裔記】阿波に落ちのびた足利義冬一統の家譜及び戦記
【三好家成立之事】阿波三好氏の興亡を中心とした戦史
【三好別記】三好氏を中心に阿波の興亡史を叙した合戦記
【十河物語】三好実休の子で十河氏に入った政泰の一代記
【予章記】伊予河野氏の歴史を叙した記録
【大友記】大友宗麟の一生を中心とした九州の治乱記
【難太平記】今川家の歴史及び将軍家に対する一族の忠誠を記した了俊の覚書
【上月記】長禄の変に南朝の神璽奪回に参加した上月満吉の記録
【荒木略記】摂津荒木一族の盛衰を叙した記録
【親房卿被贈結城状】北畠親房が結城親朝に来援を求めた書簡
【吉野御事書案】南朝方が足利氏に直接大義名分を説いた文書
【阿蘇大宮司惟澄申状】南朝へ提出した元弘以来の自己の戦功を記した文書
【菊池武朝申状】南朝へ提出した菊池氏開祖以来の忠節と功績とを記した文書
【上杉輝虎注進状】上杉謙信が大館常興にあてたとする偽作文書
【豊臣太閤御事書】天正二十年秀吉が名護屋より秀次に与えた朱印状
【沙弥洞然長状】相良長国の一族の歴史に関する覚書
P316
群書類従巻第三百九十二

  合戦部廿四
荒山合戰記
 能登國石動山衆徒蜂起。
 付 同所荒山合戰之事。
天正十年六月能登國にも一揆動亂す。其故は
昔日織田信長の爲に己が所領を被(二)追出(一)し諸
侯。大夫。或は地頭。代官。莊官等信長の横死
を聞て時を得て一揆を企ける。其中に能州の
守護職畠山修理大夫義則が八臣。神保安藝守
                  降ィ
正次。長九郎左衛門尉信實。温井備前守實正。
     長盛ィ
三宅備後守正數。平式部少輔盛高。遊佐河内
守長員。譽田隼人正々豊。伊丹左衛門尉勝詮
と云ふ者あり。遊佐。温井。三宅は近年長雄喜平

次景勝を頼て越後にあり。又温井が郎等に小
南内匠助。筒井雅樂助。廣瀬隼人正。山莊藤
         〔鳥(下)文〕
兵衛尉并〔に〕三宅が郎等馬藏内匠助。小山田甚五
兵衛尉など云大剛の者共ありし。然るに石動
山の衆徒。并に彼所の溢者共が方より使を越
後國へ遣し。遊佐。温井。三宅等が方へ云送り
けるは。其地へも定て聞え侍りなん。當月二
日織田信長卿。明智光秀が爲に京都本能寺に
於て不慮に討れさせ給ひたり。加様の時節急
ぎ能州へ御入國候べし。當山ノ衆徒等は不
(L)及(L)申。國中の寺社郷民も爭か舊好をば忘れ
侍るべき。面々心を一つにして合力仕るべし
P317
と.衆議一決の上にて斯は申送侍とぞ告たり
ける。三人の輩大に喜悦し。是天の與る所也
とて則同心の返翰をぞ遣しける。大衆是に得
(L)力。さらば要害を構〔へん〕と密々に石動山を要害
にぞ構ける。大衆は例〔も〕大悍なる者なれば。敵
寄せ來らば爰の詰にて兎こそ防ぎ。彼の坂にて
角こそ斬崩さんとぞ兵法に廣言を吐散し。恩
賞の地には何の郡を寺領に受ん。彼村里は上
田なれば院家領にせんずるなれと未だ其功不
(L)成以前より所領分して詈諍ひ。或は郷民等
にも忠節をなさば。士になして所知を申賜〔はら〕ん
など端々口外して云語ひける程に。天に口な
し人を以ていはせよと此事次第に云廣て。衆
口防ぎ難くて國に披露しけるは。遊佐。温井。
三宅の輩石動山の衆徒等と心を合せ。本國還
住の謀をなし。先石動山に城郭を構兵粮を取
入。人數を催す由聞えしかば。能登の守護職

前田又左衛門尉菅原利家。此事を傳聞て大に
驚き。吾手勢計にては大敵防ぎ難かるべしと
て。越前守護職柴田修理亮勝家并其甥佐久間
玄蕃允盛政等が方へ加勢を請ん爲書翰をこ
そは送りけれ。其詞に。
 態以(二)書翰(一)伸(二)愚意(一)畢。仍雖(L)爲(二)不實之儀(一)。能
州之國士温井。三宅兄弟。並遊佐輩近年越
後在住候處。聽(二)信長卿之横死(一)。 窺(二)時節(一)相(二)−
語於越後勢(一)。成(二)歸國之望(一)之處。當國石動山
衆徒等渠令(二)同意(一)。彼山構(二)要害(一)之由衆口同
音申鳴候。若於(二)締實(一)者注進次第御加勢奉(二)
頼存(一)候。恐惶謹言。
  天正十年六月十日
   前田又左衛門尉利家
   柴田修理亮殿
   佐久間玄蕃允殿
とぞ書たりける。柴田。佐久間披見して則返。
P318
金澤城に居たりけるが。此告を聞と等く勝家
の方へも委細を注進し。不(L)待(二)其左右(一)して二
千五百餘兵を引卒し能登國に馳向ひ。高畠と
云所に野陣を取てぞ扣たる。温井。三宅。遊佐
の三大將は石動山般若院快存。大宮坊火宮
坊。大和坊覺笑等を相語ひ。都合其勢四千三
百餘人。荒山要害普請の爲山張したる處に。
玄蕃允取掛て相戰んとしけれども。前田利家
息利政等が方へ出陣の事を告たりし返翰を
待し程に。其日は既に晩景に及びしかば徒に
日を暮し。其近邊の莊官竝〔に〕溢者共を尋出し。
石動山の様躰を尋けるに。彼輩答けるは。越
後國の軍兵共は荒山を城郭に構んとて。明朝
も普請の爲此邊の郷民等を雇べしと相觸候。
明朝御出張候はんには某共御道指南仕るべ
しとぞ申ける。玄蕃允は大〔に〕悦。彼等に引出物
し。二心あらんと拜郷五左衛門尉を奉行とし

て起請文を書せけり。其後山路の行程[ ]〔いかほど〕ある
べきと尋けるに。石動山までは其道五里。荒山
までは三里に餘り候べしと答けり。去ば急ぎ
可(二)打立(一)とて其夜半過に悉用意し。件の案内
者に守護の番兵を差副。奴原に目を放ち。油
斷すべからずと潜に申合〔はせ〕。先陣に押立未夜の
ほの暗に荒山より五六町程此方なる坂の邊
に馳差て。先斥〔候〕の兵を遣〔はし〕敵の様子を窺ひけ
り。又前田利家も究竟の兵二千六百餘人を撰
出し。同日の夜半に七尾城を打出。石動山と
荒山との境なる柴峠と云所に陣取て扣へけ
り。爰に温井。三宅。遊佐が軍兵四千三百餘人
は荒山の普請せんとて出張したり。前田利家
は備を立。温井。三宅等が先陣の勢に向て鬨
を〓[口+童]と作て馳掛けり。温井も三宅も平場の軍
不(L)叶とや思ひけん。三千餘人を引連れて荒山
の要害へ取上る。其外遊佐以下の軍勢二千餘
P319
人は石動山へ逃上る。斯處に佐久間盛政が斥
候の者立歸て。越後勢と覺て二千計荒山の要
害へ楯籠たる由告たりけり。盛政聞(L)之。去ば
兵を進て彼要害を責破んと旗を進。若石動山
より加勢する事も有べければ其勢を防とて。
拜郷五左衛門尉に軍兵を差副。石動山衆徒の
押とし。偖荒山の先軍に上田又作。種村三郎
四郎以下押寄。金鼓を鳴し。貝吹立。山川も崩〔るゝ〕
計に時の聲をぞ揚たりける。城中には温井備
前守。三宅備後守。山莊藤兵衛尉。筒井雅樂
              〔馬(上文)〕
助。小山田甚五兵衛。廣瀬隼人。鳥藏内匠。竝〔に〕
般若院。大宮坊。火宮坊。其外越後の加勢。國
中の溢者相雜り。同〔じく〕時を合せ四方に目を賦て
喚叫で戰ひけり。鳥銃累に發し貫(L)鎧摧(L)冑。寄
手は是を事ともせず。死人の上を乘越々々責
上る。荒山の軍兵等太刀を抜て防ぎけり。爰
に般若院は大剛の惡僧にて。度々の合戰に名

を顯したる兵なれば。其頃の俗異名を付て今
弁慶とぞ申ける。誠に諸人に勝れ色黒く。長
は六尺三寸骨太頬車荒て力も強かりけるが。
指物には鍬。鎌。熊手。鋸。槌。鉈。鳶觜等の七
つ物取付。武具も亦上より下まで眞黒に出立
たれば。牛〔も〕驚程なるが。大長刀を水車に廻小
躍し走掛。左右〔を〕拂前後を薙て巡たるに。面に
進んだる兵ども忽七八人薙倒し。佐久間が軍
兵辟易して後足蹈で不(L)得(L)進。般若院は敵を
坂下へ追下小高所に立跨坐。歌〔を〕謡て掛敵を待
居たり。玄蕃允是を見て。加様の敵をば射手
を揃て射噤。打物の衆を進せよと下知しけれ
ば。足輕の射手共大勢立双で。般若院を雨の
降が如くに射たりけり。寄手も是〔に〕得(L)力。吾先
吾先と進んで。曳々聲を出して斬合。引組引
組討も有。敵も味方も死を忘。爰を先途と戰
ひしかば。手負死人〔の〕骸より溢〔るゝ〕血は坂より下迄
P320
瀧〔と〕鳴て流れたれば江河を渡に不(L)異。斯處に
          立ィ
種村三郎四郎が郎等杉足九郎左衛門尉。富田
 次ィ
勘四郎。竝〔に〕能州の住人鈴木因幡守。高河原一學
等横合より突掛り。忽七八人突伏たり。越後
勢中に臆病の弱敵。此形勢を見て不(L)叶とや
思ひけん。吾々は引退て石動山の敵を防んと
云程こそ有けれ。後より五人十人打連々々引
退とぞ見えし。殘勢も落心や付たりけん。一
太刀打ては引退。二太刀打ては引上り。佐久
間盛政乘(L)氣。敵は堪兼逃眼に成たるぞ。息な
繼せそ。責よ懸よと下知しつゝ眞先掛て責上
る。南方を防ける城中の軍兵ども。暫く支て
戰けるが是も備散靡たり。温井。三宅は大音
揚て。蓬人々の働き哉。温井。三宅兄弟最期の
軍して見参に入んずるぞ。責ては暫く留て見
物し玉へ人々と罵掛。馳掛々々散々に戰ひけ
り。元來究竟の強兵なれば立所〔に〕五三人斬倒

し。仰たる太刀を押直さんとする處を吉川
五右衛門尉得たりや賢と渡合。火花を散〔らし〕て斬合
けるが。温井勢力や疲けん。終に吉川にこそ
討れけれ。三宅備後守は長刀の名人にて大勢
に渡合。込手開手裁つ掛つ。突つ斬つ。蜻蛉
返。水車。八方不(L)透斬たれば。目下に大勢討
れ進兼たる處に。堀田新右衛門尉鎌鑓にて渡
合。鎌にて掛れば放て入。入れば退去て突ん
         〔本のまゝ〕
とす。掛つ放つ。込つ込〔はれ〕つ戰ひければ。敵も味
方も見物して助る者こそ勿りけれ。去ば人交
もせずして二人勝負と働きけるが。三宅が運
や盡たりけん。長刀折て堀田が爲に討れけ
り。火宮坊は温井。三宅が討死を見て不(L)叫と
や思ひけん石動〔山〕指て逃上。般若院大音聲を揚
味方の勢を耻〔かし〕めけるは。温井。三宅兄弟に深
被(L)憑たる人々の。兩人の討死を見捨て逃と
云ことやあるべき。命が惜〔しく〕ば初より戰場へ出
P321
ぬこそよけれ。吾と思はん人々は蹈留て討死
せよ。如何に敵方の軍兵。角云は般若院とて
骨斬て名を近國に知れたる大惡僧の剛者な
るぞ。首取て高名せよと詈掛。二間餘十文字
鎗の柄の握太なるを押取延。突つ掛つ扣付た
るに。鎗を合する人もなし。四角四方に當り
七八人手下に突倒たれば。此勢に辟易して進
者こそ勿りけれ。只遠矢に射取とて矢衾を作
て射たりければ。般若院が鎧に矢の立事簑を
逆に着たるが如し。其中に裏掻たる矢三筋。
中にも喉の下に立たる矢を掻かなぐり捨ん
とするに。鏃留て抜ざりしかば。流石の般若
院も目〓[目+軍]。忙然として鎗を杖に突て立噤たる
處を。櫻井勘介鑓を付て般若院が首を取。其頃
般若院が弟子に荒中將とて師匠に劣らぬ惡
僧の有けるが。勘介が般若院が首提たるを見
て。日〔比〕の敵師匠〔の〕讎遁すまじと云儘に。大の鉾

矢打加せ。能引て放矢に勘介が胸板より總角
付の板まで筈の隠る程ぐざと射込たれば。阿
と云聲とともに倒たり。荒中將此敵には目も
不(L)掛。差詰々々射ける矢に。死生は不(L)知敵十
餘人矢庭に射落しけるが。矢軍許はすまじき
物をと獨言して大勢の中へ破て入。石動様の
袈裟掛に成佛せよと呼で散々に戰けるに。面
を合する人もなし。寄手は鏃を揃て散々に射
たりけり。然る所に鐵炮の玉一つ飛來て中將
が傍腹を打貫たれば犬居に倒けるが。又起上
りたれども。今は不(L)叶とや思ひけん。鎧の上
帶斬捨。忽に自害して骸を戰場に曝けり。其外
軍兵大衆は石動山さして逃けるを。拜郷五左衛
門尉兼てより道筋を取切て散々に責ければ。
遁〔るゝ〕者は希にして討る者は多かりけり。山莊藤
兵衛尉は手疵あまた負。木陰に徘徊居たりけ
るが。温井備前守が討死したるを見て。今は
P322
是までと思ひ敵を左右へ追拂。其死骸を枕と
して腹掻切て失にけり。筒井雅樂助も此所に
て討死す。角して荒山の域已に落たりしか
ば。佐久間玄蕃允盛政は勝時三ヶ度執行。其
後温井。三宅。般若院。山莊。筒井此五人が首
共野村勘兵衛尉に取持せ前田利家が方へ送
しかば。又左衛門尉は大に悦び。盛政の働き
莫太なりと感心し。様々の謝禮を盡し。使者
にも則村政の刀を引たりけり。
   能州石動山軍。付 石動山燒失事。
能州石動山へは前田又左衛門尉利家軍兵を
引卒し。天正十年六月二十六日の未明に押寄
たり。先陣は高畑石見守。大行院の東谷より
責上る。前田利家は二王門の方より大手に被
(L)向。相従侍大將には長九郎左衛門尉信實。奥
村伊豫守。同孫助。小塚淡路守以下都合其勢
三千餘人石動山に押寄たり。折節朝霧大に降

て咫尺を見事あたはざりし〔に〕。大衆は敵是程火
急に寄べしと〔は〕思はざりしかば。越後勢は長途
の疲体んとて朝寢し未起も上ざりけり。又石
動山の衆徒共は當山榮久の護摩。并〔に〕利家調伏
の祈祷して緩々として居たりければ.遠見の
兵をも不(L)出故に。利家の軍兵共安々と山ま
で攻上り。鐵炮を放し時を作ば。大衆も武士
も大に驚き。色を變じ途に迷。若大衆の氣早
なるは武具着暇のなかりしかば。徒肌のまゝ
にて褊杉の袖を結んて肩に掛。散々に斬合た
り。高畑が先手栂尾善次郎.今日の先登と名
乘て一番に進んだり。利家の小姓丸尾又五
郎。富田助之丞。雜賀金藏等は弓手の脇より
進で突て掛る。城中の軍兵共大勢出合鎗襖を
作て突掛りしかば。栂尾突崩されて引退く處
に。丸尾。富田。雜賀等得たりや逢と助たりけ
るが。雜賀。富田は鐵炮に當て討れたり。栂尾
P323
は取て返しけるに。遊佐孫太郎が若黨白井隼
人と名乘て突出て戰ひけるが。不(L)叶とや思
ひけん。大行院の門の内へ引入たり。寄手是
を見て。初白井隼人と名乘つるは何國へ逃行
けるぞ。蓬し返て勝負せよと詈處に。早田主
膳と云者三間柄の鎗を取て栂尾に突て掛。火
出る程ぞ戰ひける。然處に丸尾又五郎横鎗を
入て助たりしかば。早田終に栂尾善次郎に討
れけり。利家の軍兵共吾も/\と進けり。中
にも長九郎左衛門尉は此山案内をば能知た
り。四方より込入て遊佐河内守を生捕にせよ
やとて軍兵を進けり。爰に如何したりけん。
利家の兒小姓篠原出羽守。其頃は勘六とて十
七歳になりける〔を〕初として小塚八左衛門尉。寺
岡兵右衛門尉三人。一番に責入て散々に相
戰。皆敵の首討取て猶爰を先途と責たりけ
り。斯處〔に〕成就院の小相模。大宮院の飛騨。法幢

坊の同宿中記と云る惡僧共數十人。坂中に下
塞て石動山の大衆等が拜斬に解脱せよと廣
言吐て。死狂にぞ働ける。其中にも長七尺計
の法師。坂の上より敵兵を見下。大長刀の二
間許有て鎗かと覺る許なるを手本短く押取
  栗原の飛周坊ィ
延。實乘坊の荒讃岐忠快と名乘て箒を以て庭
を掃が如く薙たてたるに。寄手の先陣切立ら
れて四度路になり。逃眼を作後足蹈たる處
に寄手の中より鐵炮を以て僅七八間が程に
て雷の落るが如く放たれば。響に應て忠快が
胸板を打貫。後に扣たる陽俊坊が同宿本宰相
が眞中に中しかば。二人共に弓手妻手へ倒た
り。笠間義兵衛尉走り掛て忠快が首をば捕た
りけり。其外の惡僧共此所にて大勢討死した
りければ。衆徒は引退て二王門を差堅。此所
にて防ぎけり。寄手は彌氣乘勝鼓討て時の聲
を作懸々々。唯一時に揉落んと汗水に成つて
P324
責たりける。前田利家は伊賀の偸組とて五十
餘人扶持し置しが。彼聾を招て。今敵軍する
躰を見るに。物の用にも可(L)立程の者は打出
て合戰すると覺えたれば.坊々院々に墓々し
き人は有まじきぞ。汝等忍入て院々坊々に火
を放て燒立。少々老法師小法師原中に敵對す
る者をば斬ても捨よ。去る程ならば一人も不
(L)殘逃失なん。衆徒等坊中の火を見ば敵早攻
入たるはとて途を失ひ。敗軍すること疑なし
と下知しければ。畏候とて院々坊々へ忍入て
窺ひみるに。案の如く手に可(L)立人はなし。小
法師原の少々殘たるを追散し十餘ヶ所に火
を掛たり。去程に黒煙り覆(L)天。折節魔風頻に
扇て院々より諸堂に吹掛たれば。咸陽三月の
火を一日に合せたる歟と覺えて夥し。寄手は
彌氣に乘喚叫で責掛。利家白旄を打振り々々進
や々々敵に息繼すなと自眞前に進たれば。家

の子郎従主をかばひ。馬の前に馳塞々々死を
爭て攻しかば.流石の惡僧溢者共も後の火
に途を失ひ。手足もなゆる心ちして防難く思
ひければ。本堂差て引退く。是を無(二)云甲斐(一)と
や思ひけん。阿彌陀院の律師俊慶。圓滿院の
天狗坊。松月坊忠格。大宮坊の飛騨。金藏院の
中將以下究竟の若大衆三十餘人。武具の上に
白衣を着したすき掛。一様に長刀を持て二王
門より内少し窄き所に待受けて。東西に開合はせ
南北に追靡。巻つ被(L)巻つ曳聲を出して戰た
り。道は狭し。寄手大勢と雖も脇より廻て可
(L)進様もなし。唯童部の駒取するが如く。順に
双て支たれば。面に立たる者計こそ合戰をば
しけれ。後陣の大勢は徒に見上見物してぞ扣
ける。寄手錣を傾身を不(L)惜して込入ば。大衆
長刀を揃命を捨て追出す。追出せば込入。込入
ば追出し。七八度が程揉合たれば。敵も味方
P325
も討るゝ者其數を知ざりけり。流血は混々と
して白石忽紅に變じければ。火の丸かせに不
(L)異。青苔朱に染なし。死骸積で累々たれば無
慙と云も餘りあり。似合ぬ僧の任侠して衆徒
           〔滅歟〕
も大勢討死し。武士をも多減したる罪業の程
こそ薄情けれ。寄手は多く討れたれども。大
勢なれば勢も不(L)透。荒手を入替々々責る。大
衆は小勢なれば面に立たる惡僧等も次第々
々勢力疲。手疵餘多蒙て討るゝ者多かりしか
ば。一太刀打ては引上り。二太刀討ては引退
く。寄手は彌乘(L)氣飽上に責重る。爰に大行院
の東谷を防ぎける遊佐河内守。并に越後勢等
も高畑石見守に打負心細く思ふ所に。山中は
悉く燒立たり。大手の大將温井。三宅兄弟も
討死し。大衆等も二王門の軍に皆被(二)討取(一)た
りと聞えしかば。其實やらん。又敵の謀にや
あるらん。實否を極んと軍使を遣んとする處

に。軍兵共は此左右を聞て。元來落心の付た
る者共なれば。なじかは少も怺べき。吾先吾
先と四角八方へ逃散けり。遊佐も彼勢に被(二)
引立(一)。彼を捨て落行たれば。能州の一揆ども
暫時の間に滅亡けり。抑此石動山天平寺と申
は人王四十四代元正天皇の御宇養老元丁巳
年泰澄法師の建立にて。人王三十九代天智の
勅願所也。佛法修行の業をこそ專らとすべき
事なるに。延暦寺。根來寺等の大衆等が佛法
の奥儀探理を忘却し。武藝を業と心得たる
を。天平寺の小法師原も羨敷事に思ひ。任侠
を家業として山をも身をも滅しける悪業の
程こそ拙けれ。去ば今何故に石動山の大衆等
は一揆を企るやと尋るに。織田信長在世の
時。侫僧賣子の諸出家等が蛛網入術を巧に
して。武運長久は敵の刀匁段々壞の功力にあ
り。且後生善所の望あり。天下の治亂は振鈴
P326
の響に應ず。合戰の勝負は錫杖の靡に順ふ。
安鎮國家の法力爭か貴ざらんやと檀越を誑
す。愚魯短才の守護國司は己が武勇を脇にな
し。出家の祈祷數珠の音を合戰の雌雄に掛。
大莊大郡を寄進して味方の助とする故に。僧
も社人も吾法式を執失ひ。明ても暮ても弓箭
を專に嗜。兵術俗義を宗として常に合戰を心
とせり。去ば一犬誤て虚を吠ときは.萬犬實と
傳ふと云は今の世の出家なるべし。斯る不實
の出家をこそ天魔破旬とは云なんめれ。害有
て益なしとて寺領の多き寺々をば能程に減
少して.其國々の侍が恩賞の地にぞ被(L)行け
る。去ば此石動山も高五千貫の寺領なりし
を。信長是を沒収して千貫の地を賜へられ
し。大衆是を憤。本領を安堵せんとて斯一揆
を企て。大衆も多被(二)討取(一)。寺院悉く燒亡し伽
藍一宇も殘らざりし。誠に衆徒の我慢放逸は

則天魔の所行にやと淺猿かりし事共也。
  右荒山合戰記以篠田信成本書



(3)「加能越軍記集」より
底本:[戦記資料]北陸七国誌 加能越軍記集 
昭和五十四年九月三十日発行 定価 四、五〇〇円 株式会社 歴史図書社 東京都
P243
加能越軍記集

荒山合戰記〔舊本眞書躰〕
 能登國石動山衆徒蜂起。
 付 同所荒山合戰之事。
天正十年六月能登國にも一揆動亂す。其故
は昔日織田信長の爲に己が所領を被(二)追出(一)
し諸侯。大夫。或は地頭。代官。莊官等信長の
横死を聞て時を得て一揆を企ける。其中に能
州の守護職畠山修理大夫義則が八臣。神保
安藝守正次。長九郎左衛門尉信實。温井備前
  降ィ     長盛ィ
守實正。三宅備後守正數。平式部少輔盛高。遊
佐河内守長員。譽田隼人正々豊。伊丹左衛門
尉勝詮と云ふ者あり。遊佐。温井。三宅は近年長

雄喜平次景勝を頼て越後にあり。又温井が
郎等に小南内匠助。筒井雅樂助。廣瀬隼人
                〔鳥(下)文〕
正。山莊藤兵衛尉并〔に〕三宅が郎等馬藏内匠助。
小山田甚五兵衛尉など云大剛の者共あり
し。然るに石動山の衆徒。并に彼所の溢者共
が方より使を越後國へ遣し。遊佐。温井。三宅
等が方へ云送りけるは。其地へも定て聞え
侍りなん。當月二日織田信長卿。明智光秀が
爲に京都本能寺に於て不慮に討れさせ給ひ
たり。加様の時節急ぎ能州へ御入國候べし。
當山ノ衆徒等は不(L)及(L)申。國中の寺社郷民も
爭か舊好をば忘れ侍るべき。面々心を一つに
P244
y(して)合力仕るべしと.衆議一決の上にて斯は申
送侍とぞ告たりける。三人の輩大に喜悦し。
是天の與る所也迚則同心の返翰をぞ遣しけ
る。大衆是に得(L)力。さらは要害を構〔へん〕と密々に
石動山を要害にぞ構ける。大衆は例〔も〕大悍な
る者なれば。敵寄せ來らば爰の詰にて兎こそ
防ぎ。彼の坂にて角こそ斬崩さんとぞ兵法
に廣言を吐散し。恩賞の地には何の郡を寺
領に受ん。彼村里は上田なれば院家領にせ
んずるなれと未だ其功不(L)成以前より所領分
して詈諍ひ。或は郷民等にも忠節をなさば。
士になして所知を申賜〔はら〕んなど端々口外して
云語ひける程に。天に口なし人を以ていは
せよと此事次第に云廣て。衆口防ぎ難くて
國に披露しけるは。遊佐。温井。三宅の輩石動
山の衆徒等と心を合せ。本國還住の謀をな
し。先石動山に城郭を構兵粮を取入。人數を

催す由聞えしかば。能登の守護職前田又左
衛門尉菅原利家。此事を傳聞て大に驚き。吾
手勢計にては大敵防ぎ難かるべしとて。越
前守護職柴田修理亮勝家并其甥佐久間玄蕃
允盛政等が方へ加勢を請ん爲書翰をこそは
送りけれ。其詞に。
 態以(二)書翰(一)伸(二)愚意(一)畢。仍雖(L)爲(二)不實之儀(一)。能
州之國士温井。三宅兄弟。並遊佐輩近年越
後在住候所。聽(二)信長卿之横死(一)。 窺(二)時節(一)相(二)−
語於越後勢(一)。成(二)歸國之望(一)之處。當國石動山
衆徒等渠令(二)同意(一)。彼山構(二)要害(一)之由衆口同
音申鳴候。若於(二)締實(一)者注進次第御加勢
奉(二)頼存(一)候。恐惶謹言。
  天正十年六月十日
   前田又左衛門尉利家
   柴田修理亮殿
   佐久間玄蕃允殿
P245
とぞ書たりける。柴田。佐久間披見して則
返。金澤城に居たりけるが。此告を聞と等く
勝家の方へも委細を注進し。不(L)待(二)其左右(一)し
て二千五百餘兵を引卒し能登國に馳向ひ。
高畠と云所に野陣を取てぞ控たる。温井。三
宅。遊佐の三大將は石動山般若院快存。大宮
坊火宮坊。大和坊覺笑等を相語ひ。都合其勢
四千三百余人。荒山要害普請の爲山張した
る處に。玄蕃允取掛て相戰んとしけれども。
前田利家息利政等が方へ出陣の事を告たり
し返翰を待し程に。其日は既に晩景に及び
しかば徒に日を暮し。其近邊の莊官竝〔に〕溢者
共を尋出し。石動山の様躰を尋けるに。彼輩
答けるは。越後國の軍兵共は荒山を城郭に
構んとて。明朝も普請の爲此邊の郷民等を
雇べしと相觸候。明朝御出張候はんには某
共御道指南仕るべしとぞ申ける。玄蕃允は

大〔に〕悦。彼等に引出物し。二心あらんと拜郷五
左衛門尉を奉行とy(して)起請文を書せけり。其
後山路の行程[ ]〔いかほど〕あるべきと尋けるに。石動
山までは其道五里。荒山までは三里に餘り
候べしと答けり。去ば急ぎ可(二)打立(一)とて其夜
半過に悉用意し。件の案内者に守護の番兵
を差副。奴原に目を放ち。油斷すべからずと
潜に申合〔はせ〕。先陣に押立未夜のほの暗に荒山
より五六町程此方なる坂の邊に馳差て。先
斥〔候〕の兵を遣〔はし〕敵の様子を窺ひけり。又前田利
家も究竟の兵二千六百餘人を撰出し。同日
の夜半に七尾城を打出。石動山と荒山との
境なる柴峠と云所に陣取て控へけり。爰に
温井。三宅。遊佐が軍兵四千三百餘人は荒山
の普請せんとて出張したり。前田利家は備
を立。温井。三宅等が先陣の勢に向て鬨を
〓[口+童]と作て馳掛けり。温井も三宅も平場の軍
P246
不(L)叶とや思ひけん。三千餘人を引連れて荒山
の要害へ取上る。其外遊佐以下の軍勢二千
餘人は石動山へ逃上る。斯處に佐久間盛政
が斥候の者立歸て。越後勢と覺て二千計荒山
の要害へ楯籠たる由告たりけり。盛政聞(L)之。
去ば兵を進て彼要害を責破んと旗を進。若
石動山より加勢する事も有べければ其勢を
防とて。拜郷五左衛門尉に軍兵を差副。石動
山衆徒の押とし。偖荒山の先軍に上田又作。
種村三郎四郎以下押寄。金鼓を鳴し。貝吹立。
山川も崩〔るゝ〕計に時の聲をぞ揚たりける。城中
には温井備前守。三宅備後守。山莊藤兵衛尉。
                〔馬(上文)〕
筒井雅樂助。小山田甚五兵衛。廣瀬隼人。鳥藏
内匠。竝〔に〕般若院。大宮坊。火宮坊。其外越後の加
勢。國中の溢者相雜り。同〔じく〕時を合せ四方に目
を賦て喚叫で戰ひけり。鳥銃累に發し貫(L)鎧
摧(L)冑。寄手は是を事ともせず。死人の上を乘越

々々責上る。荒山の軍兵等太刀を抜て防ぎ
けり。爰に般若院は大剛の惡僧にて。度々の
合戰に名を顯したる兵なれば。其頃の俗異
名を付て今弁慶とぞ申ける。誠に諸人に勝
れ色黒く。長は六尺三寸骨太頬車荒て力も
強かりけるが。指物には鍬。鎌。熊手。鋸。槌。鉈。
鳶觜等の七つ物取付。武具も亦上より下ま
で眞黒に出立たれば。牛〔も〕驚程なるが。大長刀
を水車に廻小躍し走掛。左右〔を〕拂前後を薙て
巡たるに。面に進んだる兵ども忽七八人薙倒し。
佐久間が軍兵辟易して後足蹈で不(L)得(L)進。般若
院は敵を坂下へ追下小高所に立跨坐。歌〔を〕謡
て掛敵を待居たり。玄蕃允是を見て。加様の
敵をば射手を揃て射噤。打物の衆を進せよ
と下知しければ。足輕の射手共大勢立双で。
般若院を雨の降が如くに射たりけり。寄手
も是〔に〕得(L)力。吾先々々と進んで。曳々聲を出し
P247
て斬合。引組々々討も有。敵も味方も死を忘。
爰を先途と戰ひしかば。手負死人〔の〕骸より溢〔るゝ〕
血は坂より下迄瀧〔と〕鳴て流れたれば江河を渡
                    立ィ
に不(L)異。斯處に種村三郎四郎が郎等杉足九
         次ィ
郎左衛門尉。富田勘四郎。並〔に〕能州の住人鈴木
因幡守。高河原一學等横合より突掛り。忽七
八人突伏たり。越後勢中に臆病の弱敵。此形
勢を見て不(L)叶とや思けん。吾々は引退て石
動山の敵を防んと云程こそ有けれ。後より
五人十人打連々々引退とぞ見えし。殘勢も
落心や付たりけん。一太刀打ては引退。二太刀
打ては引上り。佐久間盛政乘(L)氣。敵は堪兼逃
眼に成たるぞ。息な繼せそ。責よ懸よと下知
しつゝ眞先掛て責上る。南方を防ける城中
の軍兵ども。暫く支て戰けるが是も備散靡た
り。温井。三宅は大音揚けて。蓬人々の働き哉。
温井。三宅兄弟最期の軍y(して)見参に入んずる

ぞ。責ては暫く留て見物し玉へ人々と罵掛。
馳掛々々散々に戰ひけり。元來究竟の強兵
なれば立所〔に〕五三人斬倒し。仰たる太刀を押
直さんとする處を吉川五右衛門尉得りたや
賢と渡合。火花を散〔らし〕て斬合けるが。温井勢力
や疲けん。終に吉川にこそ討れけれ。三宅備後
守は長刀の名人にて大勢に渡合。込手開手
裁つ掛つ。突つ斬つ。蜻蛉返。水車。八方不(L)透
斬たれば。目下に大勢討れ進兼たる處に。堀
田新右衛門尉鎌鑓にて渡合。鎌にて掛れば
放て入。入れば退去て突んとす。掛つ放つ。込
 〔本のまゝ〕
つ込〔はれ〕つ戰ひければ。敵も味方も見物y(して)助る
者こそ勿りけれ。去ば人交もせずy(して)二人勝
負と働きけるが。三宅が運や盡たりけん。長
刀折て堀田が爲に討れけり。火宮坊は温井。
三宅が討死を見て不(L)叫とや思ひけん石動〔山〕指
て逃上。般若院大音聲を揚味方の勢を耻〔かし〕め
P248
けるは。温井。三宅兄弟に深被(L)憑たる人々の。
兩人の討死を見捨て逃と云ことやあるべき。
命が惜〔しく〕ば初より戰場へ出ぬこそよけれ。吾
と思はん人々は蹈留て討死せよ。如何に敵
方の軍兵。角云は般若院迚骨斬て名を近國
に知れたる大惡僧の剛者なるぞ。首取て高
名せよと詈掛。二間餘十文字鎌の柄の握大
なるを押取延。突つ掛つ扣付たるに。鎗を合
する人もなし。四角四方に當り七八人手下
に突倒たれば。此勢に辟易して進者こそ勿
りけれ。只遠矢に射取とて矢衾を作て射
たりければ。般若院が鎧に矢の立事簑を逆
に着たるが如し。其中に裏掻たる矢三筋。中
にも喉の下に立たる矢を掻かなぐり捨んと
するに。鏃留て抜ざりしかば。流石の般若院
も目〓[目+軍]。忙然とy(して)鎗を杖に突て立噤たる
處を。櫻井勘介鑓を付て般若院が首を取。其頃

般若院が弟子に荒中將とて師匠に劣らぬ惡
僧の有けるが。勘介が般若院が首提たるを
見て。日〔比〕の敵師匠〔の〕讎遁すまじと云儘に。大の
鉾矢打加せ。能引て放矢に勘介が胸板よ
り總角付の板まで筈の隠る程ぐざと射込た
れば。阿と云聲とともに倒たり。荒中將此敵
には目も不(L)掛。差詰々々射ける矢に。死生
は不(L)知敵十餘人矢庭に射落しけるが。矢軍
許はすまじき物をと獨言y(して)大勢の中へ破て
入。石動様の袈裟掛に成佛せよと呼で散々
に戰けるに。面を合する人もなし。寄手は鏃
を揃て散々に射たりけり。然る所に鐵炮の
玉一つ飛來て中將が傍腹を打貫たれば犬居に
倒けるが。又起上りたれども。今は不(L)叶とや
思ひけん。鎧の上帶斬捨。忽に自害して骸を
戰場に曝けり。其外軍兵大衆は石動山さして
逃けるを。拜郷五左衛門尉兼てより道筋を
P249
取切て散々に責ければ。遁〔るゝ〕者は希にy(して)討る
者は多かりけり。山莊藤兵衛尉は手疵數多
負。木陰に徘徊居たりけるが。温井備前守が
討死したるを見て。今は是迄と思ひ敵を左
右へ追拂。其死骸を枕とy(して)腹掻切て失にけ
り。筒井雅樂助〔も〕此所にて討死す。角して荒山
の域已に落たりしかば。佐久間玄蕃允盛政
は勝時三ヶ度執行。其後温井。三宅。般若院。
山莊。筒井此五人が首共野村勘兵衛尉に取
持せ前田利家が方へ送しかば。又左衛門尉
は大に悦び。盛政の働き莫太なりと感心し。
様々の謝禮を盡し。使者にも則村政の刀を
引たりけり。
   能州石動山軍。付 石動山燒失事。
能州石動山へは前田又左衛門尉利家軍兵を
引卒し。天正十年六月二十六日の未明に押
寄たり。先陣は高畑石見守。大行院の東谷よ

り責上る。前田利家は二王門の方より大手
に被(L)向。相従侍大將には長九郎左衛門尉信
實。奥村伊豫守。同孫助。小塚淡路守以下都合
其勢三千餘人石動山に押寄たり。折節朝霧
大に降て咫尺を見事あたはざりし〔に〕。大衆は
敵是程火急に寄べしと〔は〕思はざりしかば。越
後勢は長途の疲体んとて朝寢し未起も上ざ
りけり。又石動山の衆徒共は當山榮久の護
摩。并〔に〕利家調伏の祈祷して緩々として居た
りければ.遠見の兵をも不(L)出故に。利家の軍
兵共安々と山まで攻上り。鐵炮を放し時を
作ば。大衆も武士も大に驚き。色を變じ途に
迷。若大衆の氣早なるは武具着暇のなかり
しかば。徒肌のまゝにて褊杉の袖を結んて
肩に掛。散々に斬合たり。高畑が先手栂尾善
次郎.今日の先登と名乘て一番に進んだり。
利家の小姓丸尾又五郎。富田助之丞。雜賀金
P250
藏等は弓手の脇より進で突て掛る。城中の
軍兵共大勢出合鎗襖を作て突掛りしかば。
栂尾突崩されて引退く處に。丸尾。富田。雜賀
等得たりや逢と助たりけるが。雜賀。富田は
鐵炮に當て討れたり。栂尾は取て返しける
に。遊佐孫太郎が若黨白井隼人と名乘て突
出て戰ひけるが。不(L)叶とや思ひけん。大行院
の門の内へ引入たり。寄手是を見て。初白井
隼人と名乘つるは何國へ逃行けるぞ。蓬し
返て勝負せよと詈處に。早田主膳と云者三
間柄の鎗を取て栂尾に突て掛。火出る程ぞ
戰ひける。然處に丸尾又五郎横鎗を入て助た
りしかば。早田終に栂尾善次郎に討れけり。
利家の軍兵共吾も々々と進けり。中にも長
九郎左衛門尉は此山案内をば能知たり。四方
より込入て遊佐河内守を生捕にせよや迚軍
兵を進けり。爰に如何したりけん。利家の兒

小姓篠原出羽守。其頃は勘六迚十七歳にな
りける〔を〕初とy(して)小塚八左衛門尉。寺岡兵右衛
門尉三人。一番に責入て散々に相戰。皆敵の首
討取て猶爰を先途と責たりけり。斯處〔に〕成就
院の小相模。大宮院の飛騨。法幢坊の同宿中
記と云る惡僧共數十人。坂中に下塞て石動
山の大衆等が拜斬に解脱せよと廣言吐て。
死狂てぞ働ける。其中にも長七尺計の法師。
坂の上より敵兵を見下。大長刀の二間許有
て鎗かと覺る許なるを手本短く押取延。實
栗原の飛周坊ィ
乘坊の荒讃岐忠快と名乘て箒を以て庭を
掃が如く薙立たるに。寄手の先陣切立られ
て四度路になり。逃眼を作後足蹈たる處に。
寄手の中より鐵炮を以て僅七八間が程にて
雷の落るが如く放たれば。響に應て忠快が
胸板を打貫。後に控たる陽俊坊が同宿本宰
相が眞中に中しかば。二人共に弓手妻手へ
P251
倒たり。笠間義兵衛尉走り掛て忠快が首を
ば捕たりけり。其外の惡僧共此所にて大勢
討死したりければ。衆徒は引退て二王門を
差堅。此所にて防ぎけり。寄手は彌氣乘勝鼓
討て時の聲を作懸々々。唯一時に揉落んと
汗水に成て責たりける。前田利家は伊賀の
偸組とて五十餘人扶持し置しが。彼聾を招
て。今敵軍する躰を見るに。物の用にも可(L)立
程の者は打出て合戰すると覺えたれば.坊
々院々に墓々しき人は有まじきぞ。汝等忍
入て院々坊々に火を放て燒立。少々老法師
小法師原中に敵對する者をば斬ても捨よ。
去る程ならば一人も不(L)殘逃失なん。衆徒等坊
中の火を見ば敵早攻入たるはとて途を失
ひ。敗軍すること疑なしと下知しければ。畏候
とて院々坊々へ忍入て窺ひみるに。案の如
く手に可(L)立人はなし。小法師原の少々殘た

るを追散し十餘ヶ所に火を掛たり。去程に
黒煙り覆(L)天。折節魔風頻に扇て院々より諸
堂に吹掛たれば。咸陽三月の火を一日に合せ
たる歟と覺えて夥し。寄手は彌氣に乘喚叫
で責掛。利家白旄を打振り々々進や々々敵に
息繼すなと自眞前に進たれば。家の子郎従
主をかばひ。馬の前に馳塞々々死を爭て攻
しかば.流石の惡僧溢者共も後の火に途を
失ひ。手足もなゆる心ちy(して)防難く思ひけれ
ば。本堂差て引退く。是を無(二)云甲斐(一)とや思ひ
けん。阿彌陀院の律師俊慶。圓滿院の天狗坊。
松月坊忠格。大宮坊の飛騨。金藏院の中將以
下究竟の若大衆三十餘人。武具の上に白衣
を着したすき掛。一様に長刀を持て二王門
より内少し窄き所に待受けて。東西に開合はせ
南北に追靡。巻つ被(L)巻つ曳聲を出して戰たり。
道は狭し。寄手大勢と雖も脇より廻て可(L)進
P252
様もなし。唯童部の駒取するが如く。順に双
て支たれば。面に立たる者計こそ合戰をば
しけれ。後陣の大勢は徒に見上見物y(して)ぞ控
ける。寄手錣を傾身を不(L)惜y(して)込入ば。大衆長
刀〔を〕揃命を捨て追出す。追出せば込入。々々ば
追出し。七八度が程揉合たれば。敵も味方も
討るゝ者其數を知ざりけり。流血は混々と
y(して)白石忽紅に變じければ。火の丸かせに不(L)
異。青苔朱に染なし。死骸積で累々たれば無
慙と云も餘りあり。似合ぬ僧の任侠して衆
            〔滅歟〕
徒も大勢討死し。武士をも多減したる罪業
の程こそ薄情けれ。寄手は多く討れたれど
も。大勢なれば勢も不(L)透。荒手を入替々々責
る。大衆は小勢なれば面に立たる惡僧等も
次第々々勢力疲。手疵餘多蒙て討るゝ者多
かりしかば。一太刀打ては引上り。二太刀討
ては引退く。寄手は彌乘(L)氣飽上に責重る。爰

に大行院の東谷を防ぎける遊佐河内守。并
に越後勢等も高畑石見守に打負心細く思
ふ所に。山中は悉く燒立たり。大手の大將温
井。三宅兄弟も討死し。大衆等も二王門の軍に
皆被(二)討取(一)たりと聞えしかば。其實やらん。又
敵の謀にや有らん。實否を極んと軍使を遣
んとする所に。軍兵共は此左右を聞て。元來
落心の付たる者共なれば。なじかは少も怺
べき。吾先々々と四角八方へ逃散けり。遊佐
も彼勢に被(二)引立(一)。彼を捨て落行たれば。能州
の一揆ども暫時の間に滅亡けり。抑此石動
山天平寺と申は人王四十四代元正天皇の御
宇養老元丁巳年泰澄法師の建立にて。人王
三十九代天智の勅願所也。佛法修行の業を
こそ專らとすべき事なるに。延暦寺。根來寺
等の大衆等が佛法の奥儀探理を忘却し。武
藝を業と心得たるを。天平寺の小法師原も
P253
羨敷事に思ひ。任侠を家業とy(して)山をも身を
も滅しける悪業の程こそ拙けれ。去ば今何
故に石動山の大衆等は一揆を企るやと尋る
に。織田信長在世の時。侫僧賣子の諸出家等
が蛛網の術を巧にして。武運長久は敵の刀
匁段々壞の功力にあり。且後生善所の望あ
り。天下の治亂は振鈴の響に應ず。合戰の勝
負は錫杖の靡に順ふ。安鎮國家の法力爭か
貴ざらんやと檀越を誑す。愚魯短才の守護
國司は己が武勇を脇になし。出家の祈祷數
珠の音を合戰の雌雄に掛。大莊大郡を寄進
y(して)味方の助とする故に。僧も社人も吾法式
を執失ひ。明ても暮ても弓箭を專に嗜。兵術
俗義を宗とy(して)常に合戰を心とせり。去ば一
犬誤て虚を吠ときは.萬犬實と傳ふと云は今の
世の出家なるべし。斯る不實の出家をこそ
天魔破旬とは云なんめれ。害有て益なしと

て寺領の多き寺々をば能程に減少して.其
國々の侍が恩賞の地にぞ被(L)行ける。去ば此
石動山も高五千貫の寺領なりしを。信長是
を沒収して千貫の地を賜へられし。大衆是
を憤。本領を安堵せんとて斯一揆を企て。大
衆も多被(二)討取(一)。寺院悉く燒亡し伽藍一宇も
殘らざりし。誠に衆徒の我慢放逸は則天魔
の所行にやと淺猿かりし事共也。
  右荒山合戰記以篠田信成本書依無類不能校合

P285
後付け
昭和五十四年九月三十日発行
[戦記資料]北陸七国誌 加能越軍記集 
   定価 四、五〇〇円

 株式会社 歴史図書社
 東京都




2019/07/09 公開
荒山慶一