『源平盛衰記』(国民文庫)(読み仮名つき)

源平盛衰記 凡例

底本
『源平盛衰記』(国民文庫)古谷知新 国民文庫刊行会 1910 底本:内閣文庫蔵慶長古活字本 古本系の古活字版

参考
源平盛衰記上・下2巻 通俗日本全史 底本: 早大出版部 1911 芸林社 1975(全1冊) 片仮名整版本
有朋堂文庫『源平盛衰記』(明治45〜大正元年初版刊行)上下2冊 流布本系
『源平盛衰記一〜六』古典研究会。汲古書院 1973〜74。底本:蓬左文庫蔵写本。
新定源平盛衰記第一〜六巻 水原一 新人物往来社 1988.8〜1991.10
底本:史籍集覧『参考源平盛衰記』。

伝本
古本系と流布本系の二つに大別できます。
両者の大きな違いは、古本系には、
1.章段名は、巻頭目録のみで本文中には有りません。 →処理6
2.注解文を二行割書として本文と区別しています。 →処理11
3.異説・従属説話等の記入文を、一字下げで記して本文と区別しています。 →処理12

古本系は、さらに古活字本系と写本系の二種に分けることができます。
古活字本系には、古活字版(国民文庫の底本)の他に、平仮名を主としました近衛本等があります。
現存写本には静嘉堂蔵本と蓬左文庫本とがありますが、前者は現存十冊のみ。後者には影印本もあります。

処理
1.仮名遣いを一部改め、濁点も適宜補いました。例: ゆへ→ゆゑ
2.漢字は底本通りを原則としますが、一部新字体・通行字体に直したものがあります。
3.JISにない漢字は他の漢字に置き換えるか又は■に振り仮名付きで表記します。正規(通常)の表記を【* 】に入れました。 
4.漢文の返り点は(レ)(一)(二)(下)(中)(上)などに置き換えました。
5.章段名、歌の前で改行しました。
6.章段名は、巻頭目録のみで本文中にはありませんが(古本系の特徴)、参考のため片仮名整版本、流布本の物をS+巻数2桁+番号2桁で表記しました。 例: S0101 平家繁昌並特長寿院導師事
7.歌に国歌大観の番号をK+番号3桁を後に付けました。
8.国民文庫のページ数を付けました。P+4桁。前後で改行しました。
9.参考のため流布本の有朋堂文庫のページ数を(有朋上P001)(有朋下P001)で表記しました。改行無し。
10.他本で補った場合は、〔 〕に入れました。
11.二行割注の箇所(古本系の特徴)は〈 〉に入れました。*(巻九以降。巻八以前は改訂版の時に付けます。)
12.一字下げ低記になっている箇所(古本系の特徴)は、空白一字の後、< >にいれました。*(巻九以降。巻八以前は改訂版の時に付けます。)



P0001(有朋上P001)

源平盛衰記
以巻 第一
S0101 平家繁昌並特長寿院導師事
祇園精舎の鐘声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花色、盛者必衰の理を顕す。奢れる者も久からず、春の夜の夢の如し。猛心も終には亡ぬ、風前の塵に同じ。遠く訪(二)異朝(一)夏寒■(かんさく)、秦趙高、漢王莽、梁周伊、唐禄山、皆これ旧主先皇の政にも不(レ)随、民間の愁、世の乱をも不(レ)知しかば、久からずして滅にき。近尋(二)我朝(一)、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、侈れる心も武き事も、とりどりに有けれ共、まぢかく入道太政大臣平清盛と申ける人の有様、伝聞こそ心も詞も及ばれね。桓武天皇第五の王子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛孫、刑部卿忠盛嫡男也。彼親王御子高見(有朋上P002)王は、無官無位にして失給にけり。其御子高望王の時、寛平元年五月十二日に、始て平姓を賜て、上総介に成給しより以来、忽に王氏を出でて人臣に連る。其子鎮守府将軍良望、後には常陸大丞国香と改、国香より貞盛、経衡、正度、正衡、正盛に至まで六代は、諸国の受領たりといへ共、
P0002
未殿上の仙籍をばゆりず。忠盛朝臣備前守たりし時、鳥羽院御願得長寿院とて、鳳城の左鴨河の東に、三十三間の御堂を造進し、一千一体の観音を奉(レ)居。勧賞には闕国を賜べき由被(二)仰下(一)但馬国賜ふ。其外結縁経営の人、手足奉公の者までも、程々に随て蒙(二)勧賞(一)、真実の御善根と覚えたり。崇徳院御宇長承元年壬子二月十六日に勅願の御供養有べしと、公卿僉議有て、同二十一日の午の一点と被(レ)定たりけるに、其時刻に及て、大雨大風共に夥かりければ延引す。同廿五日に又有(二)僉議(一)、廿九日は天老日也、勅願の御供養宜しかるべしとて可(レ)被(レ)遂けるに、氷の雨大降、牛馬人畜打損ずる計なりければ、上下不(レ)及(二)出行(一)又延引す。禅定法皇大に被(二)歎思召(一)けり。昔近江国に有(二)仏事(一)けり。風雨煩たびたびに及ければ、甚雨を陰谷に流刑して、堂舎を供養すといへり、されば雨風の鎮有べきかと云議あり、尤可(レ)然とて諸寺の高僧に仰て御祈あり。度々延引の後、重て有(二)僉議(一)。同年三月十三日、曜宿相応の良辰なり(有朋上P003)とて、其日供養に被(レ)定。御導師には、天台座主東陽房忠尋僧正と聞ゆ。臨(二)期日(一)、一人三公卿相雲客洛中辺土貴賤上下、参集聴聞結縁しけり。当座主僧正は、顕蜜兼学の法燈、智弁無窮の秀才也。説法舌和にして、弁智詞滑也。末世の富留那弁士の舎利弗と覚たり。聴聞集会万人は随喜の涙を流し、結縁群参の道俗は歓喜の袖を絞る。無始罪障雲消るかと思、本有の月輪の光照すかと疑。説法は三時計なりけるを、聴衆は刹那の程と思へり。誠に像法転ずる時、医王善逝の化現歟、又転法輪堂、釈迦如来の説法かとあやまたる。座主は高座より下給ひ、正面の左の柱の本に
P0003
座し給へり。法皇御感の余に、玉御簾■(かかげ)て、汝は坐道場之徳用を備たり、朕は解脱分之善根を植たり、汝毎(レ)聴(二)説法(一)随喜思ひ骨に徹し、信心身の毛堅て、落涙まことに難(レ)押と有(二)勅定(一)、当座の叡嘆山門の眉目也。御布施には千石千貫沙金千両、其外被物裏物、庭上岡をなせるが如し。実御善根の志は、施物に色顕れたり。及(二)夜陰(一)導師退出す。為(レ)餝(二)仏庭(一)為(レ)照(二)聴衆(一)、万燈を炬されたり。偖も彼寺の異名をば平愈寺と申す也。導師祈願の句に、衆病悉除身心安楽と、高に唱へ給たりけるが、其声洛中白川に響けり。斎宮の女御、折節怪き瘡をいたはらせ給けるが、御限と奉(レ)見けるに、衆病悉除、風に聞召て、則御平愈、其外一時の(有朋上P004)内に、辺土洛陽に、上下男女、二万三千人の病愈たりけるに依て也。
 異説〔には〕、二宮地主権現の非人と現じて、日光月光、十二神将を相具して、説法と云事あり、僻事〔にてありける〕歟。
S0102 五節夜闇打附五節始並周成王臣下事
〔加様に〕忠盛、仏智に叶程の寺を造進したりければ、禅定法皇叡感に堪させ給はず、被(レ)下(二)遷任(一)之上、当座に刑部卿になさる、内の被(レ)免(二)昇殿(一)。昇殿は是象外の選なれば、俗骨望事なし。就(レ)中先祖高見王より、其跡久く絶たりし、忠盛三十六にして被(レ)免けり。院の殿上すら難(レ)上、況や内の昇殿に於てをや。当時の面目、子孫の繁昌と覚たり。法皇常の仰には、忠盛なからましかば、誰か朕をば仏に成べきとて、或時は御剣御衣、或時は紗金錦絹を、得長寿院へ可(レ)奉(二)廻向(一)とて下賜ひけり。其上闕国のあれかし、庄園のあけかし、重々もたばんと思召しければ、雲の上人嘲憤て、同年十一月の五節、二十三日
P004
の豊明節会の夜、闇打にせんと支度あり。忠盛此事風聞て、我右筆の身に非、武勇の家に生て、今此恥にあはん事、為(レ)身為(レ)家、心うかるべし、又此事を聞ながら、出仕(有朋上P005)を留めんも云甲斐なし、所詮身を全して君に仕るは、忠臣の法と云事ありと云て、内々有(二)用意(一)。爰に忠盛朝臣の郎等に、進三郎大夫季房子、左兵衛尉平家貞と云者あり。本は忠盛の父正盛の一門たりしが、正盛の時始て郎等職と成りたりし、木工右馬允平貞光が孫也。備前守の許に参て申けるは、今夜五節の御出仕には、僻事いでくべき由承候、但祖父貞光は、乍(レ)恐御一門の末にて侍りけるが、故入道殿の御時に、始て郎等に罷成候けりと承、貞光には孫也、季房には子也、親祖父に勝るべきならねば、其振舞を仕る、殿中の人々、我も\と思輩は、かず多くこそ侍らめども、加様の実の詮にあひ奉らん者は、類少こそ候らめ、御伴には家貞参べし、無(二)御憚(一)可(レ)有(二)御出仕(一)と申ければ、忠盛然べしとて召具す。家貞は布衣下に、萌黄の腹巻衛府の太刀佩、烏帽子引入袖纈て、殿上の小庭にあり。子息平六家長は歳十七、長高骨太して剛者、度々はがねを顕して逞き者、これも布衣下に、紫威の腹巻著て、赤銅造の太刀佩て、無官なれば徐々として、左右の手を土につきて、犬居に居て、雲透に殿上の方を伺見て、親の家貞あゝといはば、子息の家長も、つと可(二)打入(一)支度也。殿上の人々怪をなしければ、頭左中弁師俊朝臣、蔵人判官平時信を召て、宇津保柱より内に、布衣の者候ぬるは何者ぞ、事の体狼籍也、罷出(有朋上P006)挿絵(有朋上P007)挿絵(有朋上P008)よといはせたりければ、家貞は、主君備前守今夜闇打にせらるべき由承ればなり、果給はん様、奉(レ)見べけれ
P0005
ばとて畏つて候ければ、事の様、実に主ことにあはば、堂上までも可(二)切上(一)頬魂なりける上に、忠盛朝臣黒鞘巻を装束の上に横たへ、指して支度計なき体にて、腰の程を差くつろげたる様にして、柄を人にぞ見せける。人々事がら尤しとや被(二)思合(一)けん、其夜の闇打はなかりけり。
昔漢高祖沛公たりし時、項羽と雍丘と云所にて、秦の軍と合戦す。沛公の兵、諸侯に先立て覇上に至る。秦の王子嬰皇帝璽符を捧て降人に参る。諸将これを殺さんと云。沛公降人を殺事不祥なりとて、吏に預らるる。咸陽宮に入て、暫休とし給けるを、樊■(はんくわい)張良諌申ければ、秦の宝物たる庫共を封じて、覇上に帰給けり。秦の父老の苛法の政に苦めるを召集て宣けるは、吾諸侯と約束して、先に関に入ん者を王とせんと云き、我既に先に入、王たるべしとて、父老と三章の法を約し給けり。人を殺せらん者をば死せしめん、人を破り及盗せらん者をば罪にいたさん、此外は秦の法を除て捨よと宣ける。十一月に、項羽諸侯の兵を引、関に入らんとす。守(レ)関兵ありて入事を得ず。又沛公咸陽宮を破て、其威を施すと聞て、項羽大に怒て関を撃、遂に戯と云所に至りぬ。沛公が臣、曹無傷と云者、項羽に中言して、沛公(有朋上P009)王たらんとすと言たりければ、項羽弥憤て、沛公をうたんとす。爰に項羽一家に項伯と云者、沛公に志ありければ、失なき由を述て、殺事不義也と諌ければ、其事暫思止にけり。さて沛公鴻門に行て項羽に対面して、浄心なき由慇懃に謝しければ、項羽云、是は沛公が左司馬曹無傷が告たる也、さらでは争か知べき、宜とヾまり給へ、酒すゝめんとて留置けり。
P0006
彼座の為体、項伯は東に対て居り、亜父は南に向てあり。亜父とは項羽が憑たる兵也。沛公は北に向ひ、張良は西に向てぞ居たりける。亜父玉■(ぎよくくわい)をもたげて項羽に目くばせす、是沛公を討との心也。加様に三度まですれども、大方不(二)心得(一)不(二)思寄(一)。亜父座を起て、項荘を招て云、項羽人の謀に随ず、汝沛公をもてなす様にて、剣を抜て舞近付て頸を切ん、然らずんば我等還て彼が攻を可(レ)蒙と云ければ、項荘替り入て亜父が教のまゝに、左の手に剣を提て、舞ては沛公に近づきけり。項伯沛公が空く伐事哀みて、剣を抜て共に舞、項荘が近づく時、必沛公を立隠しけり。張良此事を浅猿見て、坐を立て樊■(はんくわい)に語る。樊■(はんくわい)大に驚きて門を入に、守門の兵禦(レ)之ければ、楯を先立て破入ぬ。幕を■(かかげ)て西に向て立り。大に嗔て項羽を見に、頭の髪筋立上、眼広くさけたり。項羽恐て剣を取て跪き、何者ぞと問ければ、張良が云、沛公が臣樊■(はんくわい)(有朋上P010)也と答けり。さらば酒勧よとて、一斗を入る盃にて与たれば、樊■(はんくわい)悦気色にて事ともせず呑てけり。■(い)の肩を肴に出たりけるをば、楯の上にて太刀を抜て切て食す。猶も飲てんやと項羽云ければ、命を失ふ共争か辞し申べき、況一斗の酒物の数に待らずとて、眸長裂て瞋立る頬魂いぶせく思はれけるにや、沛公事ゆゑなく遁れにけり。忠盛朝臣も、此郎等ゆゑに其夜の恥辱を遁けり。縫殿陣、黒戸の御所の辺にて、怪人こそ遇たりけれ。忠盛見咎て物をばいはず、一尺三寸の鞘巻を抜、手の内に耀様なるを、鬢の髪にすはりすはりと掻撫て、良ありて哀是を以て、狼籍結構する悪き者に、
P0007
一当当ばやなと云ければ、あやしばみたる人則倒伏にけり。勘解由小路中納言経房卿、其時は頭弁にて、折節通合給へり。花やかに装束したる者、うつぶしに伏たりける間、誰人ぞとて引起給たれば、わなゝくわなゝく弱々しき声にて、忠盛が刀を抜て我をきらんとしつるが、身には負たる疵はなけれ共、臆病の自火に攻られて絶入たりけるにやと宣へば、経房卿は、あな物弱や、実に闇討の張本とも不(レ)覚とて見給たれば、中宮亮秀成にてぞ御座ける。理や此人元来臆病の人の末成けり。父秀俊卿は中納言にて、歳四十二と申しし時、夢想に侵れて死給へる人の子なればにや、係る目にあひ給ふこそをかしけれ。抑五節と申は、昔清見原(有朋上P011)帝御宇に、唐土の御門より崑崙山の玉を五つ進給へり。其玉暗を照事、一玉の光遠五十両の車に至る、是を豊明と名付たり。御秘蔵の玉にて、人是を見事なし。天武天皇芳野河に御幸して、御心を澄し、琴を弾じ給しに、神女空より降下り、清美原の庭にて、廻雪の袖を翻けれども、天暗して見えざりければ、彼玉を出され、仙女の形を御覧じき。玉の光に輝て、
乙女ごが乙女さびすもから玉を乙女さびすも其から玉を K001
と五声歌給ひつゝ、五たび袖を翻す。五人の仙女舞事各異節也、さてこそ五節と名付たれ。彼舞の手を模つゝ、雲の上人舞とかや、其時拍子には、白薄様厚染紫の紙、巻上の糸、鞆絵書たる筆の軸やと、はやす也。仙女の衣の薄透通りて、厳き有様が、薄様と厚染紫の紙に相似たり。舞の袖を翻、簪より上方に、巻上たる貌、糸を以て巻たるが如く鞆絵を書たる筆の軸を、差上たる様なれば、昔より五節宴酔の肩脱には、必かくはやす
P0008
を、御前の召に依て忠盛の舞ける時に、さはなくて、俄に拍子を替て、伊勢平氏は眇なりけりとはやしたりけり。目のすがみたりければ、取成はやされける、最興ありてぞ聞えし。忠盛身のかたわを謂れて、安からず思へ共、無(二)為方(一)著座の始より、(有朋上P012)殊に大なる黒鞘巻を隠たる気もなく、指ほこらかしたりけるが、乱舞の時も猶さしたりけり。未御遊も終らざるに、退出の次に、火のほの暗き影にて、おほ刀を抜出し、鬢にすはりと\と引当ければ、火の光に輝合てきらめきければ、殿上の人々皆見(レ)之。忠盛如(レ)此して出様に、紫宸殿の後にて主殿司を招寄、腰刀を鞘ながら抜、後に必尋あるべし、慥に預けんとて出にけり。家貞主を待受て、如何にと申ければ、有の儘に語らば僻事すべき者なれば、別の事なしとぞ答ける。五節以後公卿殿上人一同に訴申されけるは、忠盛さこそ重代の弓矢取ならんからに、加様の雲上の交に、殿上人たる者、腰刀を差顕す条、傍若無人の振舞也、雄剣を帯して公庭に座列し、兵杖を賜て宮中を出入する事は、格式の礼を定たり、而を忠盛或相伝の郎等と号して、布衣の兵を殿上の小庭に召置、或其身腰の刀を横たへ差て、節会の座に列す、希代の狼藉也、早御札を削て可(レ)被(二)解官停任(一)由被(レ)申たり。上皇は群臣の列訴に驚思召て、忠盛を召て有(二)御尋(一)。陳じ申けるは、郎従小庭に伺候の事不(二)存知仕(一)、但近日人々子細を被(二)相構(一)、依(レ)有(二)其聞(一)、年来の家人為(レ)助(二)其難(一)忠盛に知せずして推参する、罪科可(レ)有(二)聖断(一)、次に刀の事、主殿司に預置候、被(二)召出(一)依(二)実否(一)咎の御左右あるべき歟と奏しければ、誠に有(二)其謂(一)とて、件の刀を召(有朋上P013)出して、及(二)叡覧(一)。上
P0009
は黒漆の鞘巻、中は木刀に銀薄を押たり。為(レ)遁(二)当座之恥(一)横たへ差たれ共、恐(二)後日之訴(一)木刀を構たり、用意之体神妙也、郎従小庭の推参、武士の郎等の習歟、無(二)存知(一)之由申上は、忠盛が咎にあらずと、還て預(二)叡感(一)けり。
周成王の忠臣に、きりうと云兵あり。依(二)勧賞(一)位至(二)丞相(一)早鬼大臣と云。代を治て人を憐事、頗君王の如なりければ、御気色超(レ)世、恩賞傍輩に過たり。羣臣妬(レ)之。亡さんと思へ共、猛人にて折を得ず。臣下内議して、皇居に古文と云御遊を始て、其中にして闇打にせんと支度す。彼大臣の武具を制せんがために、衛府の太刀を禁断す。早鬼先立て存知しければ、我身並に相従輩に、木剣を持しめ殿上に交る。大臣の気色あたりを払て、嗔れる有様なりければ、存知しにけりとて、其夜の乱を止めけり。雲客後日に参内して、当座一同の不(レ)与(二)僉議(一)、綸言非(二)違背(一)哉、殿上に用ぬ雄剣を帯して、大家の党に交条、例を乱る処也。尤罪科重し、早く罪せらるべきをやと訴申ければ、公驚思食て、早鬼大臣に御尋あり。大臣陳の言に申さく、雲客腰に太刀を付、忠臣手に雄剣を提るは、是国を鎮奉(レ)守(レ)公処也。何ぞ清君の祈に、文の節会を立ながら、剣を可(レ)被(レ)誡哉、然而与(二)一同之僉議(一)実の刀を止といへ共、忠臣は大内を助んと、謀を廻して木の剣を構たりとて、(有朋上P014)件の剣を召寄て及(二)叡覧(一)けり。公大に御感ありて、実に帝を助る忠臣なりとて、不(レ)及(二)罪科沙汰(一)、斯りければ天下悉重し、雲客皆靡て、偏執の思おだしくし、賢臣の誉を仰けるとかや。異国本朝上古末代異なれ共、事がら実
P0010
に相同じ。忠盛此事を摸して、加様に思寄けるにやと嘆ぬ人こそなかりけれ。
S0103 兼家李仲基高家継忠雅等拍子附忠盛卒事
忠盛は、桓武天皇の御苗裔、葛原親王の後胤とは申ながら、中比は無下に打下て官途も浅く、近来より都の住居も疎々敷、常は伊賀伊勢にのみ居住せし人なれば、此一門をば伊勢平氏と申けるに依て、彼国の器に准て、忠盛右の目の眇たりければ、伊勢平氏はすがめ成けりとは、はやしけるにこそ。或人の申けるは、忠盛心憂くもはやされつる者哉、如何計口惜かりけん、其答をば如何にせざりけるやらん、痛く心おくれせぬ男とこそ、世に知たるにと申ければ、又或人の語けるは、昔も係るためしなきに非、村上帝の御宇、左中将兼家と云人あり、北方を三人持たれば、異名には三妻錐と申けり、或時此三人の北方、一所に寄合て、妬色の顕れて、打合取合髪かなぐり、衣引破りなんどし(有朋上P015)て見苦かりければ、中将は穴六借とて、宿所を捨て出給ぬ、取さふる者もなくて、二三日まで組合て息つき居たり、二人の打合は常の事也、まして三人なれば、誰を敵共なく、向ふを敵と打合けるこそ■(をか)しけれ、是も五節に拍子をかへて取障る人なき宿には、三妻錐こそ揉合なれ、穴広々ひろき穴かな、とはやしけり。
太宰権師李仲卿は余に色の黒かりければ、人黒師とぞ申ける。蔵人頭なりける時、それも穴黒々黒き頭哉、如何なる人の漆塗らんと拍したりければ、李仲卿に並て御座ける、基高卿の舞れけるに、此人余に色の白かりければ、李仲卿の方人と覚しくて、穴白々白き頭哉、如何なる人薄押けんと、拍し返し
P0011
ける殿上人もおはしけり。
右中将家継と云人、祖父の代までは時めきたりけるが、父が時より氏たえて、有か無かにておはしけるが、下臈徳人の聟に成て、舅の徳に右の中将に成給たりけり、此も五節に、絶ぬる父云に及ばず、祖父の代までは家継ぞかし、左曲の右中将とぞ拍したる、貧き者たのしき妻をまうくるは、左ゆがみと云事なれば、かくはやしける也。
花山院入道、太政大臣忠雅の、十歳にて父中納言忠宗卿に後れ給ひ、孤子にておはせしを、中御門中納言家成卿の、播磨守の時聟に取て、花やかにもてなされければ、是も五節に、播磨米は、木賊か、椋の葉か、人の■(きら)を(有朋上P016)付るはとぞ拍したりける、上代は角こそ有しか共異なる事なし、末代は如何あるべきと人の心覚束なし。
忠盛朝臣子息あまた有き。嫡子清盛、二男経盛、三男教盛、四男家盛、五男頼盛、六男忠重、七男忠度、以上七人皆諸衛佐を経て、殿上の交り、人更に嫌に及ばず。日本国には男子七人あるをば長者と申事なれば、人多く羨みけり。是も得長寿院の御利生と覚たり。但命は限ある事なれば、近衛院御宇仁平三年癸酉正月十五日、行年五十八にて卒しけり。猶も盛とこそ見えしに、春立霞にたぐひ、雲井の煙と消上り、指たる病もなし。いつも正月十五日、精進潔斎しけるが、今年も又心身を清め沐浴して、本尊の御前に香を焼花を供じて念仏申、西に向て睡が如して引入にけり。今生には一千一体
P0012
の観音の利益を蒙、四海に栄花を開、終焉には上品中品の、弥陀の来迎に預つて、九品の蓮台に生、見人聞人も不(レ)敬と云事なし。女子五人、男子七人有き。清盛嫡男なれば、其跡を継。諸国庄園を譲るのみに非、家中の重宝同相伝して、他家に移事なし。中にも唐皮と云鎧、小烏と云太刀、清盛に被(レ)授。又抜丸も此家に止まるべかりけるを、頼盛当腹の嫡子にて伝(レ)之。その事に依て、兄弟中悪かりけるとぞ聞えし。(有朋上P017) 
S0104 清盛行(二)大威徳法(一)附行(二)陀天(一)並清水寺詣事
仰清盛打続繁昌し給ける事、幼少の昔中御門家成卿の許に、局ずみして有けるに、彼卿の祈の師に、大納言阿闍梨祐真とて、貴き真言師あり。家成卿の持仏堂にて、護身加持しておはしければ、清盛も常に有(二)対面(一)問給ける事は、真言乗上乗の秘法の中に、何なる法が加様の在家の者の奉(レ)行、*掲焉の預(二)利生(一)事候と被(レ)申たりければ、阿闍梨答云、信心至て修行すれば、何れの法も可(二)成就(一)、但振(二)威於一天(一)、抽(二)徳於万人(一)者、五大明王の其一、大威徳の法こそ成就あれば、必天子の位に昇とは申たれと云ければ、則阿闍梨を師匠と憑て件の法を伝受して、七箇年の間一向清浄に斎戒し、可会が滋味をも断じ、玄石が美き酒をも禁じて勇猛精進し、信心勤行し給けり。七箇年に満たる夜、道場の上に声ありて云、
  つとめんと思ふこゝろのきよもりは花はさきつゝ朶もさかえん K002
と、清盛後憑もしくおもひて、いよ\致(二)精誠(一)祈念しけれ共、余の貧者なりければ、倩案じて思ひけるは、我諸国荘園の主也、縦ひ何
P0013
となけれ共、生得の報とて、身一つ助る分(有朋上P018)は有ぞかし、況清盛が身に於てをや、希代の果報哉と怪処に、或時連台野にして、大なる狐を追出し、弓手に相付て、既に射んとしけるに、狐忽に黄女に変じて、莞爾と笑ひ立向て、やゝ我命を助給はば、汝が所望を叶へんと云ければ、清盛矢をはづし、如何なる人にておはすぞと問ふ。女答て云、我は七十四道中の王にて有ぞと聞ゆ。さては貴狐天王にて御座にやとて、馬より下て敬屈すれば、女又本の狐と成て、コウ\鳴て失ぬ。清盛案じけるは、我財宝にうゑたる事は、荒神の所為にぞ、荒神を鎮て財宝を得には、弁才妙音には不(レ)如、今の貴狐天王は、妙音の其一也、さては我陀天の法を成就すべき者にこそとて、彼法を行ける程に、又返して案じけるは、実や外法成就の者は、子孫に不(レ)伝と云者を、いかゞ有べきと被(レ)思けるが、よし\当時のごとく、貧者にてながらへんよりは、一時に富て名を揚にはとて被(レ)行けれ共、遉が後いぶせく思て、兼て清水寺の観音を奉(レ)憑蒙(二)御利生(一)と千日詣を被(レ)始たり。雨の降にも風の吹にも日を闕ず、千日既に満じける夜は通夜したり。夜半計に両眼抜て、中に廻て失ぬと夢を見る。覚て後浅猿と思て、実や仏神は来らざる果報を願へば、還て災を与へ給といへり、あはれ是は分ならぬ幸を願に依て、観音の罰に、我魂を抜給か見えぬるやらんと現心もなし。去に(有朋上P019)ても人に尋んとて、我眼の抜て中に廻て去ぬると、夢に見たるは善歟悪歟と札に書て、清水寺の大門に立て、人を付て令(レ)聞(レ)之。参り下向の人多く札を見て、不(二)心得(一)と而巳云て、誰も善悪をばいはず。両三日を経て後に、或人見(レ)之
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打うなづきて、実に目出き夢也、吉事をば目出しと云、目出しとは目出ると書り、眼の抜は目の出る也、此夢主は日来心苦く侘しき事をのみ見けるが、此観音に依(レ)奉(二)帰依(一)、難の眼を脱棄給て、吉事を見んずる新き眼を、可(二)入替給(一)御利生にや、あつぱれ夢や\と両三度嘆て去ぬ。使帰て角と申ければ、清盛大に悦て、さては好相成けりとて、彼礼を深く納て、仰(レ)天果報を俟つ。
S0105 清盛捕(二)化鳥(一)並一族官位昇進附禿童並王莽事
〔去程に〕夢見て、七日と申夜は、内裏に伺候したりけり。夜半計に及て、南殿に鵺の音して、一鳥ひめき渡たり。藤侍従秀方、折節番にておはしけるが、殿上より高声に、人や候\と被(レ)召けり。左衛門佐にて間近候ければ、清盛と答。南殿に朝敵あり、罷出て搦よと仰す。清盛こはいかに、目に見る者也とも、飛行自在にて天を翔けらん者をば、(有朋上P020)争か取べき、況暗さはくらし体も見えず、音計あらん者を、角とれと仰出さるゝ事の浅猿さよ、如何がはせんと思けるが、急度思直て、実や綸言と号せばや、様ある事也、天竺には号(二)勅定(一)、獅子を取大臣もあり、漢家には宣旨の使と名乗て、荒たる虎をとる者も有けり、我朝には任(二)叡慮(一)雲に響雷を取臣下も有けり、延喜御宇には、池の汀の鷺を取たる蔵人もあり、末代といへ共、日月地に墜給はず、争例を追ざるべき、取て進せばやと思ければ、畏てとて、音に付て踊懸る処に、、此鳥騒て左衛門佐の左の袖の内に飛入、則取て進せたり。叡覧あれば実に小き鳥也、何鳥と云事を不(二)知食(一)、癖物なりとて有(二)御評定(一)。よく\見れば毛じゆう也。毛じゆうとは、鼠の唐名也。加様の者までも皇居に懸念をなしけるにや、博士召せとて召れたり。占申けるは、此事漢家本朝に希也、但
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垂仁天皇三年二月二日、毛じゆう皇居に其変をなす、武者所蒙(レ)仰とらんとしけるに、不(二)取得(一)して門外に飛出ぬ、此故に七年の大疫癘、七年の大飢饉、七年の大兵乱なりければ、廿一年の間、上下万人其愁絶ず、而るを清盛綸言の下に、朝威を重じて怪鳥を取事を得たり、尤吉事に候、天下十六箇年の間、風雨時に随ひ、寒暑おりを不(レ)可(レ)■(あやまるべからず)と奏し申ければ、偖は希代の吉相にやとて、南台の竹を召、中に篭て、清水寺の岡に埋れ(有朋上P021)たり。御悩の時に勅使立て、被(レ)含(二)宣命(一)時、毛じゆう一竹が塚と云は是也。公卿有(二)僉議(一)、天下安穏に、万民愁を休めんには、恠異を鎮て進するには不(レ)如、これ非(二)朝敵鎮(一)や、勧賞あるべしとて、安芸守になさる。是清水寺の夢想の験也。鼠は大黒天神の仕者也。此人の栄花の先表たり、威勢は大威徳天、福分は弁才妙音陀天の御利生也。されば清盛安芸守と申しし時、保元元年に、左大臣謀叛の時、ことなる賞ありて、同年七月十一日、安芸守より播磨守に移り、同八月十日、任(二)太宰大弐(一)。平治元年信頼卿謀叛之時、勲功ありて、同年十二月廿七日に、経盛伊賀守、頼盛尾張守、宗盛遠江守、重盛伊予守、教盛越中守、基盛任(二)左衛門佐(一)。永暦元年に正三位して拝(二)参議(一)。同二年、右衛門督、検非違使(けんびゐしの)別当、権中納言に任ず。長寛三年に、権大納言に至り、仁安元年、任(二)内大臣兼(一)。宣旨並饗禄なかりけれ共、忠義公の例とぞ聞えし。同二年に太政大臣に上る。左右を経ずして此位に至る事、九条大相国信長公の外惣じて先蹤なし。大将にあらね共、兵杖を賜て、随身を召具して、執政の人の如し。輦車に乗て宮中を出入す、偏に女御入内の儀式也。太政大臣は、訓導
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之礼重く儀刑之寄深ければ、地勢大といへ共、賢慮不(レ)足者、無(レ)当(二)其仁(一)、雖(二)天才高(一)、政理不(レ)明者猶非(二)其器(一)、非(二)其人(一)黷べき官にあらざれど(有朋上P022)も、一天の安危由(レ)身、万機の理乱在(レ)掌ければ、不(レ)及(二)子細(一)。親子兄弟、大国を賜り、兼官重職に任じける上、三品の階級に至るまで、九代の先蹤を超、角栄けるをゆゝしき事と思し程に、清盛仁安三年十一月十一日、歳五十一にて重病に侵され、為(二)存命(一)忽に出家入道す、法名は浄海なり。其験にや宿病立どころに愈て、天命を全す。人の従ひ付事は、吹風の草木を靡すが如く、世の普く仰ぐ事、ふる雨の国土を潤に異ならず。されば六波羅殿の御一家の公達と云てければ、花族も英才も、面を向へ肩を並る人なかりけり。太政入道の小舅に、平大納言時忠卿の常の言に、此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被(レ)申ける。斯りければ、如何なる人も、相構て其一門其ゆかりにむすぼほれんとぞしける。
〔昔〕呉王好(二)剣客(一)、百姓多(二)瘢瘡(一)、楚王好(二)細腰(一)、宮中多(二)餓死(一)、城中好(二)広眉(一)、四方且半額、城中好(二)大袖(一)、四方用(二)疋帛(一)、と云事あり。されば烏帽子のためやう、衣紋のかゝりより始て、何事も六波羅様と云てければ、天下の人皆学(レ)之随(レ)之けり。如何なる賢王聖主の御政をも、摂政関白の成敗なれども、何となく世にあまされたる徒者なんどの、謗り傾け申事は常の習ぞかし。されども此入道の世の間は、聊も忽緒に申者なかりけり。其故は入道の計ひにて、十四五若は十六七計なる、童部の髪(有朋上P023)を頸の廻に切つゝ、三百人被(二)召仕(一)けり。童にもあらず、法師にもあらず、こは何者の貌やらん、一色に長絹
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の直垂を著る時は、褐の布袴をきせ、一色に繍物の直垂を著時は、赤袴をきせ、梅の■(ずはえ)の三尺計なるを、手もと白く汰て右に持、鳥を一羽づつ鈴付の羽に赤符を付て、左の手にすゑさせて、面々にもたせて明ても暮ても遊行せしむ。是は霊烏頭のみさき者とて、大会宴の珠童を学れたり。又、耳聞也。もし浄海があたりに意趣あらば、忽緒に云者あるべし、其者をば聞出して申も上よ、相尋んとの給ければ、京中の条里小路、門々戸々耳を峙、思も思はぬも其あたりの事を云をば、聞出し申ければ、咎なきあたりをも多損じけり。最冷くぞ在ける、不祥とも愚也。入道殿の禿と云ければ、京中には又もなき高家の者也。九重白川の在家人多く大事をして、子孫を禿に入ければ、三百人洛中に充満たり。世を■(わし)る馬牛車、宜輿車も道をよきてぞ通りける。適路次に逢輩は、御幸行幸に参会たる様にて、手をつき腰をかゞめ、走のきてぞ過行ける。禿が申事をば、善悪を糺さず、入道許容し給ければ、上下万人是に追従して、善も悪も平家の事をば云ず。又禿に悪しと思はれたる者は、入道殿に讒せられて、咎なくして多く損する者も有けり。おち\も内々は此禿の体こそ心得ね、縱京中の耳聞の為成(有朋上P024)挿絵(有朋上P025)挿絵(有朋上P026)とも、只普通の童にてあれかし、必しも汰へらるゝ事よ、又一人も闕れば、入立てて三百人をきはめらるゝも不審也。梅の■(ずはえ)鳥のもち様、何様にも存ずる子細おはすらん、昔も是風情の例や有らんとぞ私語ける。或人の申けるは、本朝に例なし、漢家に八葉大臣と云ける人、天下無双の賢臣にて、忠を賞し罪を憐事、堯舜の政化にも不(レ)異、依(レ)之今の如く禿童を多そろへて、金帰鳥と云鳥を持せて、
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国々巷々(さとざと)に放立て仰含て云、国広民多して、万人の愁歎難(レ)及(二)天聴(一)歟、聞出すに随て奏せよ、直に召行はんと有ければ、愁を残す者もなく、恨を含者もなし。国豊民悦、政徳海内に及ぼしけり、されば是をば善者の童と名付といへり、今の禿童は事に触て歎き、物の煩ありければ、悪者の童と云つべし、漢家本朝、上古末代、善悪には替れ共、権威は実に不(レ)劣ぞ有ける、入道福原に御座ける時は、賀茂大明神禿に現じて、三百人に打まぎれて御近習に有けり、何れ今の童やらん、本の禿やらん、恐しかりける事也。又九条殿の御物語とて人の語けるは、異国にもさる例ありけり、漢の孝平帝の代に王莽と云ふ大臣あり、位を貪らん為に、計を廻す事は、海人に誂へて幾千万ともいはず亀を捕集めて、甲の上に勝と云文字を書て、浦々に放ち、銅にて馬と人とを造て、近国の竹のよを透して多入(レ)之、其後姙て(有朋上P027)七月になる女を三百人召集めて、朱砂を煎じて、謾薬と云薬を合てこれを呑しむ、月満て生たる子皆色赤して、偏に鬼の如し、彼赤き童を人に知せずして、深山に籠て是をそだつ、成長する間に、歌を作教て云、亀の甲の上に勝と云文字あり、竹のよの中に銅の人馬あり、王莽帝位を継で可(レ)治(二)天下(一)験也と歌て、十四五計の時、髪を肩の廻りにそぎまはして、都へ出して三百人拍子を打て同音に歌けり。此景気に驚て、帝に奏聞す、則彼童べを南庭に召れたり、うたふ事如(レ)前、孝平帝恠て、有(二)公卿僉議(一)、歌の実否をたゞさんが為に、浦々の海人に仰せて亀を取見、竹林に入て人馬を取出す、聊も歌に不(レ)違とて、帝位を王莽に授給けり、天下を治て僅に三箇年、終には亡にき。
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されば入道も此事を表して、三百人を召仕、位を心に懸て、角や有とぞ語ける。何様にも名聞の至り歟、天狗之所為にやとぞ私語ける。昔唐に弘農の楊玄■(やうげんえん)が女に、楊貴妃と云美人ありき。玄宗皇帝に召て、寵愛類なかりけるあまり、叔父昆弟皆清貫につらなり、姉妹国夫人に封じて、富王室にひとしく、車服大長公主に同じかりければ、禁門を出入する時に、名姓を不(レ)問、京師の長吏是が為に目をそばめたりと云事あり。彼れ久しからずして亡にき。是直事にあらずとぞ覚たる。清盛我身の栄花をきはむるのみに非、子孫の(有朋上P028)繁昌は龍の雲に昇るよりも速也。男は各誇(二)官職(一)、女子は取々に幸しけり。長男重盛内大臣の左大将、二男宗盛中納言の右大将、三男知盛三位の中将、嫡孫維盛四位少将、家門の繁昌子孫の栄花、類もなく例もなし。凡一門の卿相雲客、諸国の受領衛府諸司、惣じて六十余人なり、百官既に半に過たり、世には又人なしと見たり。日本は是神国也、伊弉諾伊弉冊尊の御子孫国の政を助給ふ。昔天照大神、邪神を悪み給ひて天岩戸に籠らせ給たりしかば、天下禿く闇にして、人民悲み歎しに、御弟の天児屋根尊八万四千の神達を相語ひ、岩戸の御前にして様々祈申させ給たりければ、日神再び天下を照し、人民大に悦けるに、天照大神、児屋根尊に仰合せて云く、我子孫は此国の主として万人を憐れまん、汝が子孫は臣下として国の政を助よと依(レ)有(二)御約束(一)、御裳濯河の御流、海内を治め御座し、春日明神の御子孫、朝の政を輔給へり。されば摂政関白の御末の外は、輙く官職を諍べきにあらず。就(レ)中天平十二年正月、始て以(二)参議兵部卿藤原豊成
P0020
卿(一)中衛大将を置る。宝亀四年、大納言中務卿藤原魚丸、初て兼(二)近衛大将(一)、大同二年四月、改(二)近衛府(一)左近府とし、中衛府を以て右近府とせしより以来、兄弟左右に相並例、僅に四箇度也。文徳天皇御宇、斎衡元年に、左に忠仁公良房、冬嗣公二男西三条右大臣良相(有朋上P029)公、同五男朱雀院御宇、天慶八年に、左に清慎公実頼、貞信公一男右九条右大臣師輔公、同二男後朱雀院御宇、寛徳二年、左に大二条関白教通公、御堂の二男右に堀河右大臣頼宗公、同三男二条院御宇、応保元年、左に中山関白基房公、法性寺関白二男右に後法性寺関白兼実公、同三男相並給へりき、是皆節禄の臣の公達なり。凡人にとりて無(二)先例(一)、偏に官位を重んじ、賢才を選し故なり、況昔は殿上の交りをだに嫌れし人の子孫ぞかし。今は禁色雑袍をゆり、顕職温官を経て父子丞相の位に至り、兄弟将相栄を並たり。末代といへ共、不思議なりし事共なり。政道忽に乱れ、官途こゝに廃るゝ歟、是は偏に大威徳明王の御利生にやと覚たり。世には不敵の者も有けり。入道の宿所六波羅の門前に、札を書て立たりけるは、
  伊予讃岐左右の大将かきこめて欲の方には一の人哉 K003 (有朋上P030)


『源平盛衰記』(国民文庫)
呂巻 第二
S0201 清盛息女事
御娘八人御座けるも、皆取々に幸し給へり。一は本は桜町中納言成範卿の相具し給し程に、彼卿下野や室の八島へ被(レ)流後、花山院左大臣兼雅の御台盤所に成り給へり。実は成範卿と、左大臣家とは、兄弟の契りにて無(二)内外(一)中なりけり。左大臣の北方もおはせで、二三年男上人にて、常は心を澄し、よろづ倦気なる有様なりければ、直事に非、如何にも子細御座にこそ人皆恠を成す。大臣或時御乳人の三位局を召て、御物語あり、去々年の春成範の女房を、雲上にて風見たりしより、心苦思あり、男の習は后をも奉(レ)盗、国の騒とも成ぞかし、況是は左も右も謀り出して、思をはるべけれ共、中納言の為に後闇き事は有まじ、兄弟の契ながら、相思の情浅からず、縱ひ我思の女なりとも、所望せば慰べし、只余所ながら無(レ)由見そめけん事こそつらかりけりと思へば、色に出て汝にさへ心苦き思を付る事こそ不便なれなんど、徒の忍の御物語あり。三位局宿所に(有朋上P032)帰て、大臣は由々しき大事の病はつき給にけりと歎けり。此局の妹の侍従を呼て、此事を語。侍従申様、其事にや、一日中納言の仰に、大臣殿の御景気は、如何にも人を恋給と見えたり、いかなる人に思を残し給ふやらん、哀成範が妻なんどならば奉りなん、隔なく申眤び奉る詮には、是こそ実の志なれと被(レ)仰、かばかり
P0022
思ひ奉るとはよも思ひ給はじと、御心苦気に候しぞや、参て申てみんとて、立帰りつゝ中納言に私語申たれば、打咲給て、去ばこそ能見たりけり、嬉く聞せ給ひたりとて、三位局を召見参して宣ひけるは、無(レ)隔角聞え侍る事、返々神妙にこそ、是へ可(レ)奉(レ)入か、其へ可(レ)進か、御心に相叶はん事を計ひ給へと。三位申けるは、理なき御志の色に顕御座す御事、申も中々愚に覚てこそ候へ、是へ入進せんも、あれへ入らせ御座さんも、旁其憚あれば、御心安も思召ばかり、只離別し給ふと御披露候へかしと。中納言宣ひけるは、避と申したらば、我志にはあらじ、如何にも奉公の為にこそ、悲き別をせんずるにと聞えければ、三位其は二三日も過侍りてこそ此由をば委申入侍らめ、兼て申たらば、定て御心元なく思召べしと計ひ申ければ、さらば其義にこそとて、中納言北方に此由被(レ)申けり。女房は、事に触て我を捨てんとおぼすにこそ懸る様や有るべきと、無(レ)限涙に咽給ひければ、中納言(有朋上P033)も袖を絞て、此世には隔なく、志の色を顕し、後世には懸念無量劫とかやの罪をも遁給へかしと、為(レ)我為(レ)人かく思侍るにや、愚の御事には非ずと、様々誓言を申給へば、其上は不(レ)及(レ)力とて、心ならぬ別をし給けるこそ糸惜けれ。此由角と披露有ければ、三位局の計にて、迎取給ひけり。大臣はうつゝならずとぞ思はれける。中納言はさすが飽ぬ別の道なれば、忍の涙を流給ひけり。彼朱明が妻を避し志、管寧が金を断し情も、角やと覚て最やさし。其後三位局,大臣に角やと申ければ、大に驚給て、かくぞ送給ける。
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  たぐふべき方も渚のうつせ貝くだけて君を思ふとをしれ K004
と、中納言此歌を見てこそ、さては御心に相叶給けるよと、歎の中にも悦給ひけれ。例なき情也と人申けり。成範中納言の北方、花山院御台盤所に成給たりと、世に披露有ければ、何者の読たりけるやらん、四足の柱に、
  花の山高き梢と聞きしかど蜑の子かとよふるめひろふは K005
と、此御台所は、御美も厳しく情も深く御座ける上、天下に類なき絵書にてぞ御座ける。紫宸殿の御障子に、伊勢物語を絵に書せ給ふ御事あり。昔貞員親王の生れ給へる御うぶやにて、人々歌読侍りける中に、御伯父方翁の、(有朋上P034)
 我門に千尋ある竹を植つれば夏冬誰か隠ざるべき K006
と読たりけり。御うぶやとは親王の御産所なり。其うぶやの前に鳳凰の千尋の竹に居たるを、かゝせ給たりけるが、余に目出度魂を書こめさせ給たりけるにや、其後紫宸殿に、時々笙の笛を調ぶる声あり。人々此を恠て、忍て御覧じければ、千尋の竹に書給へる、鳳凰の鳴音にぞ侍ける、難(レ)有御事也。
  昔忠平中将の扇に書たりける郭公こそ、扇をひらく度ごとに、郭公とは啼けるなれ。
  宇治関白殿の中門に、円心法師が書たりける鶏は、寒夜暁鳴事度々ありけり。
  金峯山蔵王権現に造進したりける、定朝が獅子狛犬は、社殿の上に啖合て、大床より落たりき。
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  定朝七代の孫、院賢法橋が、栢の木を以て造進したりし、芹谷の地蔵堂の小鬼は、夜々失事事有りて、暁は必ず露にそぼぬれて本座にあり。近隣の里に女常に鬼子を生、寺僧怪て金鎖を以て件の鬼を繋たれば、其後鬼露にもぬれず、女鬼を生事なし。絵に書、木に造りたる非情なれ共、物の妙を極る、事の精を尽せる、上古も今の代も不思議なりける事也。
仰此成範卿とは、故小納言入道信西三男也。桜町中納言と申事は、優に情深き人にて、吉野山を思出して、桜を愛し給ひけり。室八島より帰上後、町の四方に吉野の桜を移植、其中に屋を立て住給ひければ、(有朋上P035)見人此町をば、樋口町桜町と申けり。又は此中納言桜の名残を惜て、立行春を悲み,又こん春を待わび給しかば、異名に桜町中納言ともいへり。殊に執し思はれける桜あり、七日に咲散事を歎て、春ごとに花の命を惜て、泰山府君を祭られける上、天照太神に祈申させ給ければ、三七日の齢を延たりけり。されば角ぞ思つゞけ給ひける。
  千早振現人神のかみたれば花も齢はのびにけるかな K007
と、人の祈実ありければ、神の霊験あらたにして、七日中に咲散花なれ共、三七日まで遺あり。君も御感有て、花の本には此人をぞすべきとて、勅書に桜町の中納言とぞ仰ける。二には徳子后に立給ふ。皇子御誕生有ければ、後には建礼門院と申き。天下の国母に御座し上、とかく申に及ず、三には六条摂政基実公の北政所也。是は世に勝れ給へる琵琶の上手に御座き。経信大納言より四代の門葉、治部尼上の流れを伝て、流泉、啄木まで極給へり。高倉上皇御即位の時、御母代にて、三后に准る宣旨を賜て、
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世には重き人にて御座き、白川殿とぞ申ける。
四には冷泉大納言隆房北方にて、御子数多御座き。是又情ある女房にて、琴の上手とぞ聞え給ひし。昔唐の白居易は、琴詩酒の三を友として、常は琴を引て心を養ひ給けり。管絃の道はなをざりなれ共、此を調るに、自つれ/゛\(有朋上P036)を慰む事たりぬと書置給けり。彼楽天の筆に自在を得給て、聊も作給へる詩篇を、よく人に被(レ)知給へり。其中に、随分管絃還自足、等閑篇詠被(レ)知(レ)人と書給へる詩を、北方常に詠じて心澄まし琴を弾じ給へりけり。太政入道は琴を愛して、女房達を集めて、常に聞給ける中に、秋風、鈴虫、唐琴渋と云、代の宝物四張あり。西園寺の名主、閑院少将、当摩寺紅葉、堀川侍従とて、四天王に算へられたる琴の上手を招寄て、常にひかせて聞給へども、異なる瑞相はなかりしに、此北方、村雲と云琴を調べ給へる時、色々の村雲忽に聳て、軒端の上に引覆、万人目を驚し、入道感涙を流し給ふ。狭衣の大将光源氏の君、管絃を奏し給しに、天人影向し給しも、角やと被(二)思知(一)たり。五には近衛殿下基通公北政所、形厳くして、水精の玉を薄衣に裹みたる様に、御衣も透通て見えければ、父相国も異名には、衣通姫とぞよばはれける。殿下も角と仰ければ、北政所も我御名と心得て、答まし/\ては互に■(わら)ひ給けり。歌の道に達して、並なき御事也。中にも内より御使あり、何事ぞと御尋あれば、当座の御会あり、日夕以前と披露申けり。殿下不(二)取敢(一)御装束召れけるが、北政所に仰の有けるは、当座の御会争か其題を可(レ)知なれ共、頭弁心有ものにて、密に五の題を告申たり、装束
P0026
し侍らん其間に、歌読儲て給はら(有朋上P037)んとて、題をさし置せ給たりければ、北政所これを御覧じて、打うなづき給つゝ、やがて墨すり筆染て、案ずるまでの御事に及ず、古歌を書がごとく、
  春日山神祇  春日山かすめる空にちはやぶる神の光はのどけかりけり K009
  鷲山釈教   わしの山おろす嵐のいかなれば雲ものこらずてらす月かげ K010
  是心仏玉文  まどひつゝ仏の道をもとむればわが心にぞたづね入ぬる K011
  旅立空秋無常 草村におく白露に身をよせてふく秋風をきくぞ悲しき K012
  恋(レ)昔旧跡  あるじなき宿の軒ばに匂ふむめいとゞ昔のはなぞこひしき K013
己上五首、御装束己前にあそばし儲させ給ひたりけるに、文字一も引直させ給はず、日比の歌を書よりも猶安くぞ有ける。殿下是を御覧じては、実に由々しくも遊したりとぞ申させ給ける。
六には、七条修理大夫信隆卿に相具し給へり。翠黛紅顔の粧ひ、花よりも猶かうばしく、玉の簪照月の姿、あたりも耀ばかりなり。歌よみ連歌し、絵書花結、あくまで御心に情御座す人也。され共五障の女身を悲て、常は持仏堂に入、仏に花香奉り、法華経そらに読覚え給て、毎日御転読あり、龍女が速成を貴み、如説の往生をしたひて、菩提の道をぞ祈らせ給ける。人間有為の栄耀は、兎ても角ても有ぬべし、悟の道(有朋上P038)の知べこそ、思へば実に貴けれ。
七には、安芸の厳島の内侍が腹の娘也。指たる才芸はなかりけれ共、美貌は人に勝給へり。嬋娟たる両鬢
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は、秋の蝉の翼、宛転たる双蛾は、遠山の色とぞ見え給ふ、秋夜月を待、はつかに山を出る清光を見が如し、夏日蓮を思ふ、初て、氷を穿つ紅艶を見よりも潔し。此御娘十八の年、後白河院へ参給へり、更衣の后にてぞ御座ける。入道さしもなき事せられたりと申合けり。其上程なく失給にけり。母の内侍は、越中前司盛俊が賜て具したりけるが、盛俊一谷にて討れて後は、土肥次郎実平が具したりけるとぞ聞えし。
八には、九条院雑子、常葉が腹の娘成けるを、花山院左大臣の御台盤所に親く御座せばとて、上搶蘭[にて御座けり。三条殿とも申けり。又は廊の御方とも申けり。大臣殿も密に通給ければ、姫君一人出来給へり。此女房和琴の上手にてまし/\ける上、類なき手書にて御座ければ、手本賜はらんとて、人々色々の料紙を奉り置たれば、書も敢給ず、色々の料紙共、傍に取置せ給たりければ、朝夕は錦を曝す砌とぞ見えける。
 異本に云、八は大納言有房卿の北方也。絵書、花結、諸道に達し給へり。心に哀み深して人に情を重くせり、女房なれ共、聯句作文も並なく、手跡さへ厳して、昼図の障子に百詠の心を絵に書せ給て、やがて一筆に色紙形の銘をも書せ給たり(有朋上P039)ければ、院も希代の女房なりとぞ仰ける。
抑日本秋津島は僅に六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、既半国に及べり。其上庄園五百箇所、田畠はいくらと云ふ数を不(レ)知、綺羅充満して堂上花の如く、軒騎群集して門前成(レ)市、楊州之金、荊岫之
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玉、呉郡之綾、蜀江之錦、七珍万宝、一として闕事なし、歌堂舞閣之基ゐ、魚龍雀馬之翫物、恐くは帝闕も仙洞も、是には争か揩驍ラき。勢既に君朝にならび、富又皇室に過たりと、目出度こそ被(レ)見けれ。昔より源平両氏、朝家に被(二)召仕(一)てより以来、皇化に不(レ)随朝憲を軽ずる者をば、互に誡を加しかば、世の乱はなかりき。保元に為義きられ、平治に義朝討れし後は、末々の源氏、此彼に有しか共、或は流され或は討たれて、今は平家の一類のみ、独武威を奪て、自政を恣にせしかば、頭さし出者なし、五代十代の末の世までも誰かは諍者有べきとぞみえし。
S0202 日向太郎通良懸(レ)頸事
平治元年の比、肥前国住人、日向太郎通良、野心を挟みて朝威を傾けんとする聞えありしかば、可(二)追討(一)之由、清盛朝臣に被(二)仰下(一)。勅命を蒙て、筑後守家貞を召て申含。家貞(有朋上P040)西府に下向して、通良が城に押寄て、度々の合戦に及ぶ。城も究竟の城也、主も勇者成ければ、輙く落ざりけれ共、月を隔日を重ては、官兵は雲如に集りければ、賊徒は霧の如に散けり。永暦元年四月に、通良以下の党類、三百三十五人討取之由、家貞が許より交名を注して申上たれば、清盛朝臣事の由を奏聞す。同五月十五日、鳥羽殿に御幸有、通良並子息通秀親良以下の首七、御桟敷の前を渡されて被(二)御覧(一)。清盛朝臣御前に候せり。御随身を以て名字を御尋あり、家貞馬上にて名謁す、事の体ゆゝしくぞ見へける。家貞甲を著して、郎等二百余騎を相具して渡る。容貌美麗にして進退見つべかりければ、今日の見物只家貞に有りとぞ上下称しあへりける。七条川原にて検非違使(けんびゐし)、通良等が首を請取て、大路を渡し
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て獄門の木に懸られけり。同六月三日、先小除目おこなはる。平頼盛朝臣、従四位上に叙す。舎兄清盛朝臣、鎮西の住人通良を、追討の賞とぞ聞えし。同廿日太宰大弐、清盛朝臣正三位に叙す。勲功の賞に依て、忽に越階す。
S0203 基盛打(二)殿下御随身(一)附主上上皇除目相違事
去五月廿二日に、殿下参内し給けるに、清盛卿の二男遠江守基盛が車を、門外に立たり(有朋上P041)けるを、御随身やりのけよと責けれ共、牛飼童不(二)承引(一)して悪口しければ、御随身等、弓を以て打たりける程に、基盛が郎等太刀を抜、御随身等を取籠めて散々に打伏ければ、陣の内外騒動しけり。是ぞ平家の乱行の初とは聞えし。去ぬる保元元年に、鳥羽院晏駕の後は、兵革打続、死罪、流刑、解官、停任、常に被(レ)行て、海内も不(レ)静、世間も不(レ)安、就(レ)中永暦応保の比より、禁裏の近習をば仙洞より被(二)召禁(一)、仙洞の近習をば禁裏より被(レ)加(レ)刑。主上上皇御父子の御間なれば、何事の御不審かは有べきなれ共、思の外の事共有けるとぞ聞えし。是世及(二)澆■(ぎようり)之俗(一)人、挟(二)梟悪之心(一)故なり。
永暦元年二月廿一日に、上皇内裏に臨幸有て、清盛朝臣に仰て、権大納言経宗、別当惟方卿を被(二)召捕(一)けり。経宗卿は外戚也、惟方卿は叔父也、縱八虐の犯ありて、五刑の法を被(レ)行とも、罪名に及ばずして忽ちに繋索せられんやと、世傾け申し、人々疑をなせり。同三月十一日に、経宗卿は阿波、惟方卿は長門へぞ被(レ)流ける。六月十五日に、又前出雲守光保朝臣の息男、備後守光宗、薩摩国へ配流せらる。是は上皇を危ぶめ奉らんと謀由聞えければ、其咎を被(レ)行けり。光宗は配流の由宣下の後、自害
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して失にけり。
応保元年九月十五日には、左馬権頭平頼盛、右少弁時忠被(二)解官(一)けり。是は高倉院の宮にて御座けるを、太子に(有朋上P042)立て奉らんと謀ける故也。又上皇政務を不(レ)可(二)聞召(一)之由清盛卿申行ひけり。君の威忽ちに廃れ、臣の驕速にいちじるし。同日の除目に以(二)信範(一)被(レ)任(二)右少弁(一)、以(二)時忠(一)可(レ)被(レ)補(二)五位蔵人(一)之由、院より執申させ給けるに、彼両人をば被(レ)解官(一)て、以(二)長方(一)被(レ)任(二)右少弁(一)、以(二)重方(一)被(レ)補(二)五位蔵人(一)けり。天子には無(二)父母(一)、上皇の仰なればとて、政務に私不(レ)可(レ)存と仰けるとぞ聞えし。誠に求(二)其人(一)、被(レ)置(二)其官(一)とも、上皇御素意には忽に相違せり。延喜の聖主の天子に無(二)父母(一)とて、寛平法皇の仰を背せ給けるをば、御誤りとこそ申伝たるに、思召出させ給はざりけるにや、諫諍の臣も諂けるにや、政道には叶給へれ共孝道には大に背けりとぞ。同二年六月二日、修理大夫資賢、少将通家、上総介雅賢等、見任を被(二)解却(一)。是は去る比、賀茂社に参篭する男有、事の体恠しかりければ、社司彼男を搦捕て、内裏に奉たりければ、子細を被(レ)召問(一)けり。天子を奉(二)咒阻(一)之由、白状したりけり、若此人々の造意なり〔に〕けるにや。係りければ、高きも賎きも安き心なし。只深淵に臨、薄氷を踏が如し。主人とは二条院、上皇とは後白河法皇、此法皇の御譲りにて、主上は御位に即給ふ。父子の御中なれば、百行の中に孝行尤第一也。上皇の叡慮に叶御座べきに、さもなくて角思ひの外の事共あり。其中に人耳目を驚し、世に傾申事ありき。(有朋上P043)
S0204 二代后附則天皇后事
故近衛院の后に、太皇太后宮と申は、徳大寺の左大臣公能の御娘也。
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中宮より太皇太后に上らせ給たりけるが、先帝に後れさせ給て後は、九重の中をば住憂思召て、近衛川原の御所にぞ移り住せ給ける。先朝の后の宮にて、ふるめかしく幽なる御有様なりけるが、永暦応保の比は、御年廿七八の程にもや成せ給けん。天下第一の美人にて御座由聞えさせ給ければ、主人御色にそむる御心有て、密に高力士に詔して、外宮に引求させ給て忍つゝ、彼太皇太后宮へ御書有けれ共、后うつゝならず思召れければ、更に聞召入させ給はず。主人は忍の御書も度重りけれ共、空き御書なりければ、今はひたすら穂に顕まし/\て、后入内有べき由、父の左大臣家に宣旨を被(レ)下けり、此事珍き御事也。先帝の后宮二代の后に奉(レ)祝事、いかゞ有べきとて、公卿僉議有けれ共、各難(二)意得(一)之由、被(レ)申けり。但し先例を可(二)相尋(一)之旨、議定あり。
遠く異朝の先蹤を考るに、則天皇后と申は、唐太宗の后、高宗皇帝には継母也。太宗崩御し給しかば、御飾をおろし比丘尼と成りて、感業寺に篭らせ給て、先帝の御菩提を弔給けり。高宗位を継給たりけるが、我宮室に入り(有朋上P044)て政を助給へと、天使五度勅を宣ひけれ共、敢てなびき給はず。高宗自感業寺に臨幸有て云、朕私の志を以て還幸を勧め奉るにはあらず、唯天下の政の為なりと仰けれ共、皇后先帝の崩御を訪ひ奉らんが為に、適釈門に入、争か二度世俗の塵裏に帰て、王業の政務を営まんとて、確然として動給はず。扈従の群臣守(二)勅命(一)、横に取奉る如して都に返し入れ奉れり。后泣々長髪し御座て、重て皇后と成給へり。高宗、則天相共に、政を治給しかば、御在位三十四年、国富民楽みけり。さてこそ彼御時を二和の御宇とは申けれ。高宗崩御の後、皇后女帝として廿一年有りて、位を中宗帝に授給けり。年号を神龍元年と云。我朝の文武天皇、慶雲二年乙巳歳に相当れり。
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唐則天皇后は、大宗高宗両帝の后に立給ふ、異朝の例はあれ共、本朝の先規を勘るに、神武天皇より已来、人王七十余代、未二代の后に立給る其例を聞ずと、諸卿僉議一同なりければ、法皇も此事不(レ)可(レ)然と、度々申させ給けれ共、主上の仰には、天子に無(二)父母(一)万乗の宝位を忝せん上は、此程の事叡慮に任べしとて、既御入内の日時を被(二)宣下(一)ける上は、不(レ)及(二)子細(一)、后は此御事被(二)聞召(一)けるより、引かづき御座しつゝ御歎の色深くぞ見えさせ給ける。先帝に後れ進らせし久寿の秋の始に、同草葉の露とも消、家を出〔て〕世を遁たりせば、懸る例なき事は(有朋上P045)きかざらましとぞ思召れける。父の大臣彼宮に参て、世に随ふを以て人倫とし、世に背くを以狂人とすと云事侍り、既に詔命を被(レ)下之上は、子細を不(レ)及(レ)申、たゞとく進せ御座すべき也、是偏に愚老を助させ給べき、孝養の御計ひたるべし、知ず又此末に皇子御誕生なんども有て、後には、君も国母と祝れ、愚老も又帝祖といはるべき、家門繁昌の栄花にしてもや侍らんと、様々こしらへ申させ給ひけれども、皇后は御返事なかりけり。只御涙のみぞすゝませ給ける。何となき御手習の次に、かくぞ書すさませ御座ける。
  浮節に沈みもはてで川竹の世にためしなき名をばながしつ K014
と、世には如何にして漏けるやらん、哀に情しき様しにぞ申ける。既に後入内の日時にも成しかば,父の大臣は供奉の上達部、出車の儀式、心も詞も及ず。小夜も漸深けければ、后は御車に被(二)扶載(一)御座けり。色深き御衣をば不(レ)被(レ)召、殊に白き御衣十計をぞ召れける。内へ参せ給にしかば、やがて恩を
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蒙り麗景殿にぞ渡らせ給ける。ひたすら朝政をすゝめ申させ給ふ御有様也。
彼紫宸殿の皇居には賢聖の障子を被(レ)立たり。西に十六人、東に十六人、三十二人の賢聖あり。是は後漢功臣二十八将に、王常、李通、宝融、卓茂の四将を具して也。其外、伊尹、第五倫、虞世南、太公望、角里先生、李勣司馬も(有朋上P046)あるとかや。手長、足長、馬形の障子、鬼間、李将軍が姿の写せる障子も有、金岡が書ける荒海の障子の北なる御障子には、遠山の有明の月をぞ書れたる。故近衛院、未幼帝にて御座ける当時、何となき御手すさみに、書曇かさせ給たりけるが、有しながらに少も替ざりけるを御覧じけるにも、先朝の昔や恋しく思食けん、御心内所せくまで思召つづけさせ給けるこそ御いたはしけれ。
  思きや憂身ながらに廻きておなじ雲井の月をみんとは K015
と、さても此間の御なからひ、昔をしたふ御哀、今を専にする御情、旁わりなき御事共なりし程に、永万元年の春の比より、主上御不予の御事有と聞えしかば、其年の夏の始に成しかば,事の外に重らせ給ければ、大蔵大輔紀兼盛が娘の腹に、二歳にならせ給ふ皇子の御座けるを、皇太子に立て奉る可き由聞えし程に、六月二十五日、俄に親王の宣旨を被(レ)下て、やがて其夜位を譲り奉せ給ひき。何となく上下周章たり。我朝の童帝の例を尋れば、清和帝九歳にして、天安二年八月に、文徳天皇の御譲を受させ給しより始れり。周公旦の成王にかはりつゝ、南面にして一日万機の政を行しに准て、
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外祖忠仁公、幼主を扶持し奉り給へり。摂政又是より始れり。鳥羽院五歳、近衛院三歳にて御即位(有朋上P047)有りしをこそとしと人々思申しに、是は僅に二歳、いまだ先例なし、物騒しくぞ覚えし。
S0205 新帝御即位同崩御附郭公並雨禁獄事
永万元年六月二十七日に、大極殿にして新帝御即位の事ありしに、同七月廿三日に、春寛法印御験者に参り祈申けるに、御邪気始て顕て、讃岐院の御霊とぞ聞えし。同二十八日に、新院隠れさせ給にけり。御歳二十二、位をさらせ給て、僅に三十余日也。天下憂喜相交て、不(二)取敢(一)事也。
同二十九日、修理大夫頼盛朝臣、参川守光雅、主典代置能等、陰陽師宣憲を相具して御葬の地を点ず。宣憲次第の事共勘申けるに、日時は母后の御衰日を選び、方角は公家の御方忌を用る、是偏に宣憲が失錯のみに非ず、己天下の怪異たり、浅増かりし事共也。同八月七日御葬送あり。■従(こじう)の公卿衣冠に纓を巻て、各歩行せり。右大臣経宗、中宮大夫実長、別当公保、新中納言実国、大宮宰相隆李、左大弁資長、右大弁雅頼、平宰相親教卿也。押小路を西へ、烏丸を北へ、衣笠岡に至り、暁天の程に荼毘し奉けり。左中将頼定朝臣御骨を奉(レ)懸、香隆寺に渡し入奉る、実に哀な(有朋上P048)りし事共也。后宮より奉(レ)始、御身近召仕れし女房、恩禄あつく賜へりし。卿相雲客御遺を慕ひ、後れ奉らじと歎悲み給けれども、死に随ふ習なければ、只御一所送捨進せて、泣々還合せ給。比は秋の最中の事なれば、雲井を照す月影、尾上にかよふ風の音、萩の上風身にしみ、萩が下露置ませば、山分衣しほれつゝ、ぬれぬ所ぞなかりける。叢にすだく虫の音々も、我を訪ふ心地して、いとゞ哀ぞ増ける。さても宮に還れ
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ども、無御跡の習にて、高きも賤きも、涙の露にぞ袖ぬらす。近衛大宮は、先規なき二代の后に立せ給たりけれ共、さまで御幸も御座さず、いつしか此君にも後れさせ給ひしかば、やがて御髪おろさせ給て、北山の麓に引篭らせ給けるこそ哀なれ。
今年の夏、敦公京中にみち/\て、頻に群り啼けり。此鳥は初音ゆかしき鳥也とて、すき人は深山の奥へも尋入例多き事なるに、今はけしからぬ事也とて、人耳を峙る程也けるに、二羽の敦公空にて食ひ合ひ、殿上に飛落たりけり。野鳥入(レ)室、主人将(レ)去と云本文あり、此恠異也とて、二羽の敦公を捕て、獄舎に被(レ)禁にけり。白川院御時、金泥の一切経を被(二)書写(一)、法勝寺にて御供養と被(レ)定。其日時に及て、甚雨有りければ延引す。又日時を被(レ)定たりければ、甚雨に依て延引す。又日時を被(レ)定たりければ、甚雨に依〔て〕延引〔す〕。既に三箇度まで延引あり。(有朋上P049)第四箇度に適御供養有ける日、空掻曇り雨降て、俗も僧もしほ/\として、法会の儀式最興醒たりければ、天気逆鱗有て、雨を器に受入て、獄舎に被(レ)入たりしをこそ珍しき事に申して、敦公の禁獄先例なし。
位を去せ給ふ事、今に不(レ)始事なれ共、六月に御座をすべらせ給て、何しか七月に崩御、怪鳥殿上に入ける故にや、本文もおもひしられ哀なり。
S0206 額打論附山僧焼(二)清水寺(一)並会稽山事
新院御葬送の夜、延暦興福両寺の大衆、額打論じて狼藉に及べり。その故は、主上御葬送の作法は、諸寺諸山の僧徒等、悉く供養して我寺々の額を立、次第を守て御供を仕る。南都には、一番には東大寺の行を立て額を打、二番には興福寺の行を立て額を打、其外末寺々々打並ぶ。北京には、一番に延暦寺の行を立て額を打、山々寺々次第を守て立並るは先例也。爰に山門の衆徒、今度の御葬送にいかゞ
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思ひけん、東大寺の行の次に、延暦寺の額を打たりければ、興福寺の大衆の中に、東門院の観音房、勢至房と云ふ悪僧あり、三枚皮威の大荒目の鎧、草摺長にさゞめかし、三尺五寸の太刀前低にはき、興福寺(有朋上P050)の額を大長刀に取具して、高く指上て延暦寺の額の上に、我寺の額を立副て、皆紅の月出したる扇披、山門の衆徒に向て申けるは、先規に任て額をさげられて、衆徒安堵せられよやとて、高声に申けれ共、山門の衆徒良久申旨なし。観音房、勢至房、長刀にて延暦寺の額を二刀切て、衆徒の所存其心をえず、我と思はん大衆は、落合や/\と■(ののしつ)て馳廻けれ共、落合者共なし。二人の者共は、うれしや水鳴は滝水と歌て、おれこだれおれこだれ、一時計舞たりける。延暦寺の大衆先例を背き狼藉を出す程ならば、其庭にして手向へすべきに、臆病の至り歟、所存のあるか、一言もいはざりけり。一天の君、万乗の主、世を早せさせ給ぬれば、心なき草木までも猶愁の色有べし、況人倫僧徒の法に於をや、而をかゝる浅猿き事し出して、式作法散々と有ければ、高も卑もをめき叫び、東西に迷けるこそ不便なれ。
同八月九日、山門の大衆下洛すと云披露あり。巷説一に非ず、或は清水寺へ押寄せて可(二)焼払(一)とも云、或上皇大衆に仰て、事を南都の会憤によせて、平相国清盛を可(レ)被(レ)誅由聞えけり。兵庫頭頼政、大夫尉信兼、左衛門尉源重貞、同尉為経、康綱等を切堤へ差遣て被(二)守護(一)。内蔵頭教盛朝臣は、立烏帽子に冑を著す、若狭守経盛朝臣は、折烏帽子に冑を著す。大夫尉貞能已下、甲冑を著して皇居の四面
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を守護(有朋上P051)す。陣の口には、雑役の車を以逆茂木に引、随兵東西に馳迷て、偏に迷惑の体也。検非違使(けんびゐし)李光を切堤へ遣して形勢を見せらる。帰参して申けるは、衆徒数百人、山路より菩提樹院を透りて霊山に群集す、山路に於ては相防に無(レ)力由をぞ申入ける。清盛の事と聞えければ、右兵衛督重盛卿、修理大夫頼盛朝臣、左馬頭宗盛朝臣已下、一族の人々、六波羅に馳集る。衆徒を防ぐ心なくして、堅く城内を守る。去程に大衆の下向は、平家の事には非、去七日の額立論に、会稽の恥を雪んが為に、興福寺末寺なれば、清水寺を焼払はんとて下ると云ければ、清水法師老少をいはず騒あへり。俄事にてはあり、物具の有も無もいはず、二手に分て相待けり。一手は清水清閑両寺の境ひ堀切りて逆茂木引て、滝の尾の不動堂より木戸口まで、五百余騎にて固めたり。一手は山井の谷の懸橋引落して、西の大門に垣楯かき、食堂廻廊木戸口まで、一千余騎には過ざりけり。京童部が申けるは、蟷螂挙(レ)手招(二)毒蛇(一)、蜘蛛張(レ)網襲(二)飛鳥(一)と云喩は此事にや、山門の大勢に敵対して、危々とぞ■(わらひ)ける。山門大衆追手搦手二手につくる。搦手は大関小関四宮川原も打過ぎて、九集滅道や清閑寺、歌中山まで責寄たり。追手は西坂本、下松、新道超を打過て、清水坂、晴尾の観音寺まで責付たり。清水法師も思切、楯の面に進出て、散々に戦けれど(有朋上P052)も、大勢雲霞の如くなりける上に、時刻を経ず、やがて坊舎に火を懸けたり。折節西の風烈く吹て、黒煙東に覆ひければ、寺僧今は防戦ふに無(レ)力、本尊を負、坊舎を捨て、延年寺、赤築地二の閑道へぞ落行ける。さてこそ山門は、会稽の恥をば雪ぬと思けれ。
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会稽の恥を雪とは、異朝に稽山の洞と云所あり、蚕山とも名、会稽山とも申也。呉越の境に在(レ)之とか。両国境を論じて代々に軍絶えず。此山には桑多生じて、蚕繭をつくり、糸を出し綿を成故也。越国の允常王と呉国の闔閭王と、此山を論じて合戦絶えざりける程に、呉王軍に誅れて、越国知(レ)之。越王の子に勾践(こうせん)と云ふ王あり、呉王の子に夫差と云ふ王あり、互に親の敵也ければ、勾践(こうせん)思けるは、夫差が父をば我父誅(レ)之、されば我をば敵と思て、定てうたんと思ふ心有らんとて、軍を起て戦ふ程に、あやまちて勾践(こうせん)被(レ)虜たり。呉国に止誡られて本国に帰事をえず。勾践(こうせん)木をこり草をからぬ計に奉公しければ、死刑を被(レ)宥召仕はれけり。夫差病する事有き、療術力なきに似たり。医師の云、尿を令(レ)飲味を以て存否をしらんと云けれ共、彼を飲んと云臣妾なし。囚勾践(こうせん)が云、我無益の謀反を起して誤ちて虜れぬ、其咎死刑にありと云へども、君の恵に依つて命を助けられたり、洪恩生々に難(レ)報須恩を謝せんと云て飲(レ)之。夫差其志の深事を感じて、本国に反遣(有朋上P053)しつ。勾践(こうせん)後に大軍を起て、終に呉王を亡しけり。会稽山を論じて、軍に負尿を飲は恥也、本国に還て敵を誅て、彼山を知は恥を雪る也、故に会稽の恥を雪といへり。去七日は、山門額を切れて恥に及、今九日には清水煙と昇て、面を洗ぐ、実に恥を雪と云べきにや。京童部が云けるは、山僧は田楽法師に似たり、打敵をば打返反さで、傍なる者を打様に、興福寺の衆徒に額をきられて、清水法師が頭をはりたりとぞ笑ひける。
昔嵯峨天皇の后に、春子女御と申は、二条右大臣、坂上田村丸の御娘也。御懐姙の時、御産平安ならば、我氏寺に三重の塔をくまんと御願を被(レ)立たり。其験にや平に王子御誕生あり。第三の王子に、門居親王とは此御事也。御宿願を遂げられんが為に官府を申承和四年に建立せられたりし三重の塔婆、空輪高く輝きて、宝鈴雲に響しも焼にけり。猛火爰に、止て、本堂一宇は残たり。大衆既に帰り上ら
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んとしけるに、東塔南谷教光坊大和阿闍梨仙性とて、学匠の而も大悪僧也けるが、進出て僉議して云、罪業本より所有なし、妄想顛倒より起る、心性源深ければ、衆生即仏なり、罪として更に不(レ)恐、本堂に火を差や/\と申ければ、衆徒尤々と一同して、手々に火をともしつゝ、堂の四方に付たれば、黒煙はるかに立上り、赤日のひかりも見えざりけり。(有朋上P054)
S0207 清水寺縁起並上皇臨(二)幸六波羅(一)事
 〔此〕清水寺と申は、昔大和国子嶋寺に沙門あり、其名を賢心と云。淀河を渡給けるに、水の中に金色〔の〕一筋の流れあり、是直事に非ずとて、流に随て源を尋ぬ。山城国愛宕郡〔に〕、八坂郷、東山の辺り、清水の滝の下に至れり。恠しげなる草庵あり、中に白衣の居士あり。年齢既に老々として、白髪さらに皓々たり。賢心問て云、汝は是誰人ぞ、こゝに住して幾年をか経たると。居士答云、我をば行叡と云、此地に住事数百歳、心に観音の威神力を念じ、口に千手の真言を誦す、我に東国修行の志あり、汝慥に聞、此草庵の跡は伽藍を立べき勝地也、前なる株は観音の■[*米+斤]木也、必汝宿望を果すべしと云て、東〔を〕指て去にけり。賢心此に住して、六時三昧怠ず、練行坐禅年経ける程に、坂上田村丸、東山遊猟の次に、種々の瑞異に驚て、賢心と師檀の契を結びつゝ、宝亀十一年に始て伽藍を草創して、金色八尺の千手観音を造立す。延暦大同に仏殿を造闊て、清水寺と号せしより以来、星霜己に四百余歳に及けり。
嵯峨天皇御宸筆の勅書には、以(二)清水寺(一)宜(レ)為(二)鎮護国家之道場(一)と被(二)宣下(一)たり。誠古仙経行之聖跡、大悲利物之霊崛也。天子万乗の聖主(有朋上P055)も、薩■[*土+垂](さつた)之弘誓を仰ぎ、土民七道の男女も、闡提の悲願を憑けり。懸る目出き大伽藍精舎は、煙と、上つゝ、仏像灰と変じけん。千手の廿八部衆照見、誠に難(レ)知。衆徒かく焼払て帰登にけり。平相国清盛徒に数千の軍兵を集置といへ共、更に咫尺の災難を救ふ事なし。
P0040
衆徒悪行を致せども、武勇防制せず、王威の衰微、仏法の破滅、此時にあり。清水寺焼失の後、切堤川原の武士等陣頭に参ず。子細を為(レ)被(二)召問(一)、頼政を陣の中にめさる。頼政は白き見紋紗の水干、小袴に藍摺の帷著て、立烏帽子に太刀帯て、胡■[*竹冠+録](やなぐひ)を不(レ)負ば、浅沓をはけり。渡辺の源三競と云郎等一人相具せり。誠に花やかに由ありて見えたり。子息伊豆守仲綱已下の随兵等は、門外に候ひけり。源氏の作法優にして異(レ)他也と、見物の上下感申けり。兼の巷説に、清盛卿の事と聞えければ、六波羅には武士雲霞の如く馳集る。大内を守護する者も、平将の亭に馳行ければ、左衛門督重盛卿は、当家追討の披露一定僻事にこそ、参て御気色伺はんとて、院参し給ける程に、上皇は又閭巷の説を為(レ)被(二)謝仰(一)六波羅へ御幸あり。左衛門督公光卿、治部光隆卿供奉せられたり。重盛卿道にて参会給ひ、御供申て奉(レ)入。平中納言清盛は、用心の為にや所労と称して見参に入らざりければ、空く還御有けり。河陽之蒐春秋猶忌(レ)之といへり、忽に君臣の道(有朋上P056)を忘て、今上下の礼を背けれ共、君として其罪を責るにあたはず、臣として其咎を恐るる事なし。朝家の恥武将の驕、只此事にあり。是又平家の狼藉の第二度也。重盛卿御送に参りて六波羅へ帰り、父に向て、さても一院の御幸こそおそれ覚ゆれと宣ひければ、清盛は、思召寄仰す旨の聊もあればこそ。平家追討と云事も洩聞ゆらめなれば、御幸有とても不(レ)可(レ)被(二)打解(一)憤られければ、重盛は、此事ゆめ/\色にも詞にも出させ給べからず、保元平治より、逆臣を討罰して勲功端し多し、今に至るまで、君の御為不忠を存ぜられず、何に依てか一門
P0041
追討の御企有べき、加様の事にこそ人の心つきて、実なき事に悪事をも思出す事に候、向後も叡慮に背き給はず、人の為に恵を施さんと思めさば、神明三宝の御加護有べし、去ば御身の恐有るべからずとて被(レ)立ければ、清盛は、此の重盛はゆゝしく大様の者かなとぞいはれける。
一院は六波羅より還御の後、疎らぬ近臣按察使入道資賢を始て、人々御前に候はれけるに、仰の有けるは、平家追討とは何者か云ひ出しけるやらん、加様の事は浮説なれ共、世の大事に及ぶ也と被(レ)仰ければ、諸人口を閉て物申事なし。西光法師折節御前近く候けるが、天に口なし人代ていへり、驕て無礼なるは是天罰の徴なり、清盛以外に過分也、亡びん瑞相にやと申ければ、人々聞(レ)之、壁に耳(有朋上P057)ありとて、抜足して退出する族も有けり。
清水寺囘禄の後朝、焼大門の前にかくぞ書て立たりける。観音よ/\火坑変成池は、いかにと誓ける事ぞと。翌日返札と覚しくて、歴劫不思議の事なれば、不(レ)及(レ)陳とぞ書たりける。又いかなる跡なし者の態にか有けん、札に書て立副たり。補陀落山に有し間なれば、火不能焼の験はなしとぞ書たりける、哀に浅猿き中にも、をかしかりける事共也。
同十日祇園所司奉状を進る。興福寺衆徒、当社を焼払はんとす、官兵を賜て可(レ)被(二)守護(一)、不(レ)然ば神礼を奉(レ)負可(二)登山(一)とぞ申入ける。又山階寺の大衆、参洛を企て、延暦寺末寺末社を可(二)焼払(一)之由言上しければ、蔵人木工頭重方、勅定を蒙て彼寺別当に仰けるは、任(二)意趣(一)可(二)上奏(一)、不(レ)押(二)参洛(一)者別当
P0042
已下、可(レ)有(二)違勅罪(一)とぞ被(二)宣下(一) ける。同[* 「用」と有るのを他本により訂正]十二日、法務僧正恵信、官を被(レ)辞、又源義基、伊予国に配流。是は先日彼僧正卒(二)義基等(一)発(二)向南都(一)、是山階寺の大衆、今度蜂起之間、僧正可(二)与力(一)者可(レ)免衆勘(レ)之由、衆議を成ければ、僧正承諾して発向す。仍被(レ)行(二)其罪(一)けり。先帝崩御之後、今日相(二)当二七日(一)けり。被(レ)行(二)刑罰(一)けるこそ、最甚しく覚えけれ。(有朋上P058)P0043(有朋上P059)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三

波巻 第三
S0301 諒闇(りやうあんの)事(こと)
永万(えいまん)元年(ぐわんねん)七月二十八日に、新院隠れさせ給しかば、天下諒闇(りやうあん)にて御禊(ごけい)大嘗会(だいじやうゑ)も行れず雲の上人花の袖窄にければ、人皆愁たる色なり。諒闇(りやうあん)は神武天皇(てんわう)崩じ給ければ、綏靖天皇(てんわう)よりぞ始られける。天子の親みに奉(レ)別ぬれば、四海の内一天下皆禁忌なれば、諒闇(りやうあん)と云也。
S0302 高倉院春宮立御即位事
同十二月二十五日、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)位未浅して、東の御方と申ける時の御腹の皇子、五歳に成せ給けるにぞ、親王の宣旨を下されける。年来は被(二)打籠(一)御座て幽也けるが、今は万機の政一院聞召せば、無(レ)憚被(二)宣下(一)けり。同二年八月に改元ありて仁安と云ふ。
仁安元年(ぐわんねん)十月七日、高倉院六歳、東三条にて春宮立の御事あり。同二年二月十九日、御年(おんとし)七歳(有朋上P060)にて御即位あり。春宮とは帝御子を申、亦太子とも申、御弟をば大弟と申。其に此主上は御甥にて三歳、東宮は御叔父にて六歳也、昭穆不(二)相叶(一)物騒といへり。但一条院は七歳にて、寛和二年七月二十二日、御即位あり。二条院は十一歳にて、同三年七月十六日に春宮に立給、非(レ)無(二)先例(一)と申す人もあり。六条院二歳にて禅を受させ給たりしか共、僅二三年にて、同年二月十九日、春宮践祚有しかば、御位を退せ給ひて新院とぞ申ける。御年(おんとし)五歳に成せ給へば、未御元服も無童なる帝にて、太上
P0044
天皇(てんわう)尊号、漢家本朝これぞ始なるらんと珍き事也。終に安元二年七月二十八日、御歳十三にて隠させ給き、哀なる御事也。
仁安三年三月廿日、大極殿にして新帝有(二)御即位(一)、此君位につかせ御座ぬれば、弥平家の栄とぞ見し。国母建春門院(けんしゆんもんゐん)と申は、平家一門にて渡らせ給ふ上、取分て入道の北方二位殿、又女院の御姉にて御座しければ、相国の公達二位殿腹は、当今には御外戚に結ぼおれ進て、いみじかりける事也。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿は、女院御せうにと御坐ける上、主上の御外戚にて、内外に付たり。執権の臣とぞ振舞ける。叙位除目偏に此卿の沙汰也ければ、世の人は平関白(くわんばく)とぞ申ける。(有朋上P061)
S0303 一院御出家事
高倉院践祚之後は無(二)諍方(一)、一院万機之政を聞召しかば、院中に近く召仕る。公卿殿上人以下、北面の輩に至(いた)るまで、程々に随うて官位棒禄身にあまるほど蒙(二)朝恩(一)たれ共、人の心の習なれば、猶あきたらず覚て、平家の一類のみ国をも官をも多塞たる事を目醒く思て、此人の亡びたらば其はあきなん、彼者が死たらば此官はあきなめと心の中に思けり。不(レ)疎輩は寄合寄合私語折々も有けり。一院も被(二)思召(一)けるは、昔より朝敵を誅戮する者数多けれども、角やはありし、貞盛、秀卿、将門を討せしも、勧賞には秀郷従四位下、貞盛従五位上に被(レ)叙、康平に頼義が宗任を誅しも、勧賞には頼義伊予守に任じ、息男義家叙(二)従五位下(一)、上古已如(レ)此、末代不(レ)可(レ)過(レ)之、逆臣の亡ぶるは王法の威也、勇士の力と思べからず、清盛かく心の儘に振舞こそ然べからね、是も末代に及で、王法の尽ぬるにや、
P0045
迚も由なし〔と〕、思食立せ給て、一筋に後世の御勤思召たつと聞えし程に、仁安四年四月八日、改元ありて嘉応と云。嘉応元年(ぐわんねん)己丑六月十七日、上皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にして御出家あり、御歳四十三。御戒師は、園城寺の前大僧正覚忠、唄法印公舜憲覚、御剃手、法印(有朋上P062)尊覚権大僧都公顕也。今度皆智証の門徒を用らる。御布施をば大相国已下ぞ被(二)執行(一)ける。今日より始て五十箇日の御逆修あり。八月八日結願せらる。故に二条院は御嫡子也しか共、先立せ給ぬ。新院は嫡孫、当今は又御子にて御座せば、向後までも憑しき事なれども、平家朝威蔑ろにするも目醒く思食ければ、穢土の習人の有様も、いとはしく思食ければ、十善の鬢髪を落、九品の蓮台を志給ふも最貴し。平家の振舞中々御善知識とぞ思食す。御出家の事兼て有(二)披露(一)ければ、雲上人御前に候て、目出度御事と色代申ては、御齢も盛に御座せば、今暫なんど申合れけれ共、入道清盛は善悪物申さず、さこそと思けるにや。
帝王御出家の事、孝謙女帝御飾を落させたまひて、法名を法基と申しよりはじまれり。のちには還殿上して、称徳天皇(てんわう)と申き。それよりこのかた、平城、仁明、清和、陽成、宇多、朱雀、円融、花山、一条、三条、後三条、白河、鳥羽、讃岐、当院。「以上十六代法皇の尊号あり。」
S0304 有安読(二)厳王品(一)事(こと)
一院出家の後、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて御徒々に思召けるに、飛騨守有安を召て、読経仕れと仰け(有朋上P063)れば、懐より笛を取出て、ちと吹鳴し、厳王品の王出家已後、常勤精進、於八万四千歳修行妙法花経と打上て、一枚ばかり読たりけり。経には王出家已とこそ有に、已後の文字は、めづらしき心の巧に、読付
P0046
たりとぞ人々感じ笑ける。
S0305 法皇熊野山那智山御参詣事
法皇は御出家の思出に熊野御参詣あり、三山順礼の後、滝本に卒堵婆を立られたり。智証門人阿闍梨滝雲坊の行真とぞ銘文には書かれたる。さまでなき人の門流を汲だに嬉きに、昔は一天の聖主、今は三山の行人、御宸筆の卒堵婆の銘、三井の流れの修験の人、さこそ嬉しく思けめ。書伝たる水茎の跡は、今まで通らじ、昔は平城法皇の有(二)御幸(一)ける由、那智山日記にとゞまり、近は花山法皇御参詣、滝本に三年千日の行を始置せ給へり。今の世まで六十人の山篭とて、都鄙の修行者集りて、難行苦行するとかや。彼花山法皇の御行の其間に、様々の験徳を顕させ給ける其中に、竜神(りゆうじん)あまくだりて如意宝珠一顆水精の念珠一連、九穴の蚫貝一つを奉る。法皇此供養をめされて、末代行者の為にとて、宝珠をば岩屋の中に納られ、念珠をば千手堂のへやに納られて、今の世までも先達預(レ)之(有朋上P064)渡す。蚫をば一の滝壺に被(二)放置(一)たりと云。白河院御幸時、彼蚫を為(レ)被(レ)見海人を召て滝壺に入られたりければ、貝の大さは傘ばかりとぞ奏申ける。参詣上下の輩、万の願の満事は、如意宝珠の験也、飛滝の水を身にふるれば、命の長事は彼蚫の故とぞ申伝たる。花山法皇の御籠の時、天狗様々奉(レ)妨ければ、陰陽博士安部清明を召て被(二)仰含(一)ければ、清明狩籠の岩屋と云所に、多の魔類を祭り置。那智の行者不法解怠のある時は、此天狗共嗔をなして恐しとぞ語伝たる。
S0306 熊野山御幸事
P0047
平城法皇、花山法皇、白河法皇、三山五箇度。堀河院、三山一度。鳥羽法皇、三山八度。後白河法皇、本宮三十四度、新宮那智十五度。
S0307 資盛乗会狼藉事
平家の事様御目醒く被(二)思召(一)、院は有(二)御出家(一)けれ共、彼一門は猶思知ざりけるにや、心の儘にぞ振舞ける。其中然べき運の傾くべき符にや、同二年七月三日、法勝寺へ御幸あり(有朋上P065)ければ、当時の摂禄基房公 号松殿 参給けり。還御の後殿下三条京極を過給けるに、三条面に女房の車あり、夕陽の影に車の中透て、曇なく見透、烏帽子著たる者乗たりけり。居飼御厩舎人等、車より下べき由責けるに、聞入ずしてやり過んとしけるを、狼藉也とて、前の簾並に下すだれを切落たりけるに、葛の袴を著たる男あり、車を馳て逃げけるを、追懸て散々(さんざん)に打けり。車六角京極の小家にやり入にれり。件の男は太政(だいじやう)入道(にふだう)の孫、越前守資盛也けり。彼人笛を習はんとて、式部大輔雅盛が家に行たりけるが、帰ける間参会にけり。資盛帰父小松殿(こまつどの)にしか申ければ、御出に参会て車より下ざりけるこそ尾籠なれ、栴檀樹は二葉より芳くして四十里の伊蘭林を翻し、頻伽鳥は卵の中にてあれども、其声諸鳥に勝たりといへり、幼稚と云は五六歳の時也、汝十歳に余れり、争礼儀を存ざらん、人に上下の品あり、官に浅深の法あり、政は横なきを基とし、礼は敬のみを以本とせり、傍輩猶以敬べし、況於(二)摂政(せつしやう)家(一)をや。加様の事にこそ世の大事も引出せ、供したる侍共が、物に心得ねばこそ係る狼藉をも現じ、無礼の目にも合とて、大にしかり被(二)教訓(一)けり。殿下の御供の者も、平将の孫とも知ず、資盛が供
P0048
の者も、殿下の御車とも不(レ)知けるにや、係事出来れり。殿下此事を聞給て、居飼御厩舎人等、平(へい)大納言(だいなごん)(有朋上P066)重盛(しげもり)の許へ被(二)召渡(一)けり。其上蔵人右少弁兼光を御使として、事の由を被(二)謝仰(一)ければ、大納言(だいなごん)大に畏申されて、居飼舎人等をば則返進たりけれども、なほ居飼御舎人各三人、検非違使(けんびゐし)基広に預給。御随身四人、御厩に下されける。内に府生秦兼清、政所に下さる。彼兼清は制止を加たりけるに依て、被(レ)行(二)軽罪(一)けり。前駈七人追却られけるに、入道孫に子細を問ければ、資盛有の儘に申。入道安ず思、大に嗔て宣けるは、縦摂政(せつしやう)関白(くわんばく)におはす共、浄海が孫いとはん者には、などか一度の可(レ)無(二)芳心(一)、家貞必資盛が恥を雪げとぞいはれける。
S0308 小松大臣教(二)訓入道(一)事(こと)
小松殿(こまつどの)此事を聞給て、いそぎ入道の許へ参じ申されけるは、御報答の仰努々有まじき事に候、重盛(しげもり)が子共、平殿上人にて、殿下の御出に参会て、致(二)無礼(一)こそ尾籠に侍れ、縦越前守こそ若者にて、骨法不(レ)知とも、相具たる侍共が、不思議に覚候、彼等をこそいかにも可(レ)有(二)御勘当(一)事(こと)と覚ゆれ。資盛全恥にて侍るまじ、誠に武士なんどに合て、懸目に合たらば、御鬱深かるべし、上下品定れり、不(レ)及(二)敵論(一)、摂禄の臣と申は、忝も春日(有朋上P067)大明神入替せ給て、君と共に国を治、民育まします、尤も可(レ)奉(レ)仰御事也、今御権威にほこりて、其恥を報はん事不(レ)可(レ)然、是は一門衰微にも成侍ぬと覚候、されば以(レ)徳勝(レ)人者は昌、以(レ)力勝(レ)人者は亡と云事あり、加様の事よりこそ天下の大事も出来り、家煩とも成事なれ、老子経に、天下難事は必作(二)於易(一)、天下の大事は必作(二)於細(一)といへり、能々可(レ)有(二)御慎(一)事(こと)にや、人上は百日こそ申なれ、
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只披露せぬには過じなど被(二)宥申(一)ければ、聞人ゆゝしき賢臣哉とぞ思ける。偖侍共を召て少き者相具して、加様の事仕出しける条、以外の狼藉也と仰ければ、供したりける者共も、皆恐入てぞ有ける。角て小松殿(こまつどの)は帰給ぬ。され共入道は猶腹をすへかねて、田舎侍の気折に、こは/゛\しかりけるが、上臈も下臈(げらふ)もわきまへず、主より外には恐しき事なしと思て、前後を不(レ)知ける難波妹尾に下知し給けるは、重盛(しげもり)はゆゝしく大様の者にて、子の恥をも親の嗔をも不(レ)知、様々制止つれ共、他家の人の思はん事こそ愧しけれ、傍輩の為に越前守が恥すゝげ、伴にあらん者共がもとゞりきれとぞ宣ける。難波妹尾は興ある事に思て、内々有(二)其用意(一)。
S0309 殿下事会事(有朋上P068)
関白殿(くわんばくどの)これをば争可(二)知召(一)なれば、大内の御直廬へと思食て、常の御出仕よりも花やかに、前駈御随身殊に引繕せ給て、中御門、東洞院の御宿所より、大炊御門を西へ御出なる。堀河猪熊の辺にて、兵具したる者三十騎計走出て、前駈等を搦捕けり。安芸権守高範(たかのり)ばかりぞ御車に副て離ざりける。式部大輔長家、刑部大輔俊成、左府生師峯等も、本どりをきらる。結句車の物見打破、太刀長刀を進ければ、只夢の御心地ぞし給ける。高範(たかのり)御車を廻てあやつり禦けるを、難波太刀を振て御車に向けり。高範(たかのり)心うさの余に走より、狼藉の奴原也、何者ぞとて組たをしてころびけるが、高範(たかのり)すくやか者にて、難波を押へて拳を握り、■(つら)を打。郎等主を助んとて、高範(たかのり)が本どりを取引上たり。経遠力を得て、駻返て主従二人して、手取足取せゝり倒して、髻を切とて、是は汝をするには非とぞ■(ののしり)ける、浅増と云も疎也。左近将監盛佐は、馬を馳て逃けるを、
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打落て是をも搦てけり。御随身忠友馬より下て、御車の前に進で可(レ)有(二)還御(一)かと申ければ、轅を廻されける間に、武士以(二)鏑矢(一)忠友を射。忠友地に平て傾たりければ、其矢頭の上を通る。危きとぞ見えける。御伴の者四方へ逃隠にければ、只御車副二人、松の出納一人ぞ残たりける。懸様先代も無(二)其例(一)、後代も難(レ)有。難波妹尾かく振舞て帰ぬ。高範(たかのり)もとゞりきられ(有朋上P069)ながら近く参て、我君いかに/\と申ければ、直衣の袖を御かほに押あて、泣々有(二)還御(一)。御出の花声なりつる御有様に、浅猿き下部計にて環入せ給けるこそ悲けれ。摂禄臣の係る憂目を御覧ずるも、直事にあらず、子細あらんか。内裏には左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣雅道、大宮大納言(だいなごん)隆李、左大将(さだいしやう)師長、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼、五条中納言(ちゆうなごん)邦綱、藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)資長、平宰相親範、修理大夫成頼、左大弁実綱卿ぞ、殿上に候せられて、殿下の御参を奉(レ)侍られける程に、前大相国より内舎人安遠を御使として、殿下の御事を被(レ)申たりければ、光雅今夜の定延引之由(二)触申(一)各被(二)退出(一)けり。此事忽に天意に逆つて深く背(二)冥慮(一)ければにや、去比大織冠の御影破れ裂たりけり。かゝるべきしるしとおそろし。
秘本〔に〕云、入道(にふだう)相国(しやうこく)は、福原にて逆修おこなはれけるあひだ〔に〕なり、平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)の所為也ときこえきと、普通に大にかはれり。
平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)聞(レ)之、涙ぐみ給ひ大息つきて、噫呼家門の栄花既に尽なんと、あながちに被(レ)歎けれども、入道はさて物こりし給へとぞ悦ける。殿下御伴なりける、多田源三蔵人と云者は、もとゞりきられたりけるが、終(レ)夜髪結続、絹紋紗の狩衣著て、殊に引繕院御所に参て申けるは、実や殿下の御伴申たる
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人々、皆もとゞり被(レ)斬たりと云聞えあり、浅間敷事共にこそ侍れ、哀某弓矢の芸に携て、(有朋上P070)雁俣を逆にはくと申共、本取を切るゝ程にては、人をするまでこそなくとも、命生て人に面を合せてんや、所詮不肖の身を以て出仕をすればこそ、左様に憂名をも流し候へとて、御暇を申して、出家して引篭けるこそ賢き様にておかしかりけれ。
 廿二日の朝、六波羅の門の前に、おかしき事を造物にして置り。土器に蔓菜を高杯にもりて、折敷にすへ、五尺計なる法師の、はぎ高にかゝげたるが、左右の肩を脱てきる物を腰に巻集、箸を取てにたる蕪の汁を差貫て、かわらけの汁をにらまへて立たるを造て置けり。上下万人之を見れども、何心と云事を不(レ)知。小松殿(こまつどの)へ人参て、係る癖物こそ候と申ければ、あゝ心憂事也、はや京中の咲(わら)はれ草に成て、作られけり/\、其造物こそむし物にあひて、腰がらみと云事よ。弓矢取身は軍に合てこそ剛をも顕し威をも振べき事なるに、思もよらず摂禄の臣に奉向、かゝるおこがましき事仕出たれば、造物にもせられけりとぞ口惜被(レ)仰ける。
摂政殿(せつしやうどの)角事に合給ければ、廿五日に院の殿上にて、御元服の定あり。さて有べきならねば、摂政殿(せつしやうどの)は十二月九日、兼宣旨を蒙らせ給て、十四日に太政(だいじやう)大臣(だいじん)にならせ給ふ。十七日には御悦申あり。此は明年御元服の加冠の料也。平家の一類以外に苦咲(にがわらひ)てぞ見えける。(有朋上P071)
S0310 朝覲行幸事
嘉応三年正月三日、主上御元服有、十三日に朝覲の行幸と聞えき。法皇も女院も、旁御珍く花やかに待申させ給けり。初冠の御姿最厳く、翠の山に月に出が如く、籬の内に梅の綻たるに似させ給へり。改の年の始の御事なれば、人々
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も殊御祝の事共申て悦申給へり。
 朝覲の行幸とは、漢高祖位につきて後、五日に一度父の太公が家に朝覲して、深く父子の礼をなす。太公が家司賢き者あり。太公問云、天に二の日なく、地に二の主なし、高祖は子なれ共、人主なり、太公は父なれ共、人臣也、何ぞ人主として人臣を可(レ)拝哉、角のみならば中々悪かりなんと云、其後高祖朝覲するに、太公門に下向へり。高祖大に驚て、何事にかと問。太公答云、家司申旨如(レ)此、其言誠にもと覚ゆ、争か賤か身にて、天下法を乱らんと云道理也と云ければ、高祖太公を拝(はい)する事を止たりけれ共、さりとて重恩の父を拝せざるべきにあらねば、太公を貴して太上皇とせり。さて又朝覲あり。高祖家司が言を感じて、五百斤の金を給。我朝にも帝王の父を、太上天皇(てんわう)として、朝覲する事は此故也。今年四月廿一日改元ありて承安元年(ぐわんねん)と云。
三月には、太政(だいじやう)入道(にふだう)の(有朋上P072)第二の御女、ことし十五歳に成せ給ふ。法皇の御猶子の儀にて御入内あり、中宮徳子とぞ申。七月には相撲の節なんど聞えき。小松大将折節花やかに最目度ぞ御座ける。可(レ)然宿報にて官位こそ思さま也とも、みめ貌は心に叶べきにはあらね共、何事も闕たる事なし。争角は御坐やらんと、人々ほめ被(レ)申けり。子息の少将より始て、弟の公達に至(いた)るまで、形人に勝給へり。大将情深き人にて、詩歌管絃神楽の歌、笛なんどをも勧め教給たりければ、公達までも難(レ)有様しに申合り。
S0311 成親望(二)大将(一)事(こと)
妙音院入道師長、其時は内大臣左大将(さだいしやう)にておはしけるが、太政(だいじやう)大臣(だいじん)を申させ給はんがために、大将を辞し
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申されけり。今度は後徳大寺実定卿、御理運の大将也。若又殿の三位中将師家なんどや成給はんずらんと申ける程に、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿、ひらに被(二)望申(一)けり。院の御気色もよかりければ、内外に付て奏申ける上に、諸寺諸社に様々の大願を立て祈申。大納言(だいなごん)自春日の社に、七箇日篭て祈誓し給けれ共、指て験なければ、貴僧を八幡宮に篭て、真読大般若を始給へり。真読半分計に成て、高良大明神の御前なる橘(有朋上P073)の木に山鳩二羽出来て食合落て死にけり。大菩薩の第一の仕者也。此直事にあらずとて、時の別当聖清此由を奏聞す。即神祇官にて御占あり。天子大臣の非(二)御慎(一)臣下怪異とぞ申ける。成親卿はこれにも更に恐ず、猶又賀茂上社に、仁和寺の俊堯法印を篭て、孔雀経の法を行。下の若宮には、三室戸の法印某篭て、荼吉尼の法を修す。七箇日に満日、晴たる空俄に曇、雷電雲に響き、風吹雨降なんどして、天地震動する事二時ばかり有て、彼宝殿の後の杉に雷落係つて燃けり。雷火他に不(レ)移とこそ云伝たれども、若宮に移て社は焼にけり。神は不(レ)禀(二)非礼(一)と云事なれば、非分の事を祈申されければ、係るふしぎも出来にけり。大納言(だいなごん)は、僧も法も軽て信心がなければこそ神も不法の祈誓をとがめて、加様の懈怠もあれとて、七日精進して、下社に七箇日篭て、所願成就と被(レ)申けり。七日に満ずる誰がれ時ばかりに、夢現とも覚えず、赤衣の官人二人来て、大納言(だいなごん)の左右の手を引張社頭の白砂に引落す。こはいかにとおぼす処に、大明神御殿の戸を推ひらかせ給ひて、かく、
  桜花賀茂の河風恨なよ散をばわれもえこそとゞめね K016
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と高らかに大納言(だいなごん)の耳に聞えければ、身にしみおそろしくて、大将の所望はやみにけ(有朋上P074)り。
 遠他国を訪へば、班足王の臣下に、かむえむかしうは大臣を天道に祈て、雷に被(レ)裂て失にき。近吾朝を尋ぬれば、星御門の臣下に、日唯李通は、三公に昇らんと山王に祈申しかば、神に被(レ)罰亡にきといへり。(両説可(レ)尋)横の義をば神祇不(レ)用云事なれば、かく示し給ふにこそ。
S0312 左右大将事
係し程に、一二の大納言(だいなごん)にて御座ける徳大寺の実定卿も、花山院の兼雅卿も、様々ぞ被(二)祈申(一)ける。成親卿も成給はで、平家の嫡子、小松大納言(だいなごん)重盛(しげもり)の、右大将(うだいしやう)にて御座けるが左に遷、弟の宗盛卿の、中納言(ちゆうなごん)にて御座けるが右になり、兄弟左右に相並給へり。大納言(だいなごん)の上臈八人、中納言(ちゆうなごん)の上臈二人、十人の位階を越て成給けるこそ優々しけれ、其中に後徳大寺の実定は、一の大納言(だいなごん)にて才覚優長にまし/\ける上は、家の重代也、今度の大将は理運左右に及せ給はざりけるが、宗盛に越られ給てこそ、極なき御恨にて有けれ、定て御出家もやと申沙汰しける程〔に〕、大納言(だいなごん)を辞し申て引篭らせ給けり。成親卿は指も恐ろしき夢に思止たりけるが、猶本病発て、徳大寺花山院に越れんは理運也、(有朋上P075)殿三位中将殿に被(レ)越奉らんは、上臈なればいかゞはすべき、宗盛に越られぬるこそ口惜けれと思はれければ、如何にもして平家を亡して、本望を遂んと思ふ心の付ける事こそ不思議なれ。平治逆乱の時事にあひ越後中将にて、既に死罪に被(レ)定しを、重盛(しげもり)其時は、左衛門佐にて、兎角申て頸を続たる人に非や、信頼卿の有様を目渡見し人ぞかし。父家成卿は中納言(ちゆうなごん)までこそ至(いた)りしに、其末の子にて位は正
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二位、官は大納言(だいなごん)に至(いた)り、歳僅に四十二、大国あまた賜て家中たのしく、子息所従に至(いたる)まで、飽まで朝恩に誇たる人の、何の不足ありてか、懸る事思立給けん、天魔彼身に入替、家の滅んとするにやと浅猿。徳大寺の実定は、大将の宗盛に被(レ)越て、大納言(だいなごん)を辞申されて、山家の栖に有(二)篭居(一)けり。嵐烈き朝、前中納言(ちゆうなごん)顕長卿に遣はしける、
  夜半にふく嵐につけて思ふかな都もかくやあきはさびしき K017 
顕長返事、
  世の中にあきはてぬれば都にも今はあらしの音のみぞする K018 
実定は既に山深篭居して、可(レ)有(二)出家(一)由披露ありければ、禁中にも仙洞にも驚思食けれ共、入道の計なれば末代こそ心憂けれとて、別に仰出す事なし。実定卿は、御身(有朋上P076)近召仕給ける侍に、佐藤兵衛尉近宗と云者あり。事に触てさて/\しき者也ければ、何事も阻なく打解被(二)仰合(一)けり。彼近宗を召て宣けるは、平家は桓武帝の後胤とは名乗ども、無下に振舞くだして、僅に下国受領をこそ拝任しに、忠盛始て家を興、昇殿をゆるされし子孫也、当家は閑院の始祖太政(だいじやう)大臣(だいじん)仁義公より己来、君に奉(レ)仕代々既に大臣の大将をへたり、今宗盛に被(レ)越て、世に諂ん事、為(レ)身為(レ)家人の嘲を可(レ)招、されば出家をせばやと思召、いかゞ有べきと仰けるに、近宗申けるは、御出家までは有べからず、異国にも係ためしは多かりける、太公望は渭浜波に釣を垂、晋七賢は竹林寺に嘯き、庄公は夢沢〔に〕形を隠けれ
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共、様をば替ずして賢王の世を俟き、是皆濁れる代を遁て徳をかくし、賢世に出て位を高せり、就(レ)中(なかんづく)今度の大将、朝家を可(レ)奉(レ)恨御事にあらず、偏に太政(だいじやう)入道(にふだう)の我意の所行也。かゝる憂世に生合給へる御事、口惜けれ共、賢は愚にかへると云事も候へば、今はいかにもして、入道の心を取せ給て、一日也共大将に御名を係させ給べき御計〔ごと〕こそ大切なれ。それに取て、安芸厳島へ御参詣ありて、穂に出て此事を祈申させ給べし、彼明神をば平家深奉(レ)崇て、其社に内侍と云者を居られたり。彼内侍共毎年一度は上洛して、入道の見参に入と承れば、懸御事こそ有しかなん(有朋上P077)ど語申さば、明神の御計もあり、又入道もいちじるしき人にて、思直さるゝ事も有なんと申ければ、近宗が計可(レ)然とて、やがて有(二)御精進(一)厳島へぞ参給ふ。比は三月の中の三日の事なれば、明行空曙、四方の山々霞こめ、漕行船の波間より、雲井遥に立隔、遠ざかり行悲さに、懸らましかば中々にと、思食けん理也。蒼波路遠雲千里と詠じつゝ、須磨浦をぞ過給ふ。行平中納言(ちゆうなごん)の、
  旅人のたもとすゞしくなりぬらん闕吹こゆる須磨浦波 K019 
と詠じけん折しも被(二)思出(一)けり。抑源氏中将此浦に遷給し時、源氏琴を引良清に歌うたはせ、惟光に笛吹せて遊給しに、心とゞめて哀なる手など弾給ける。折しも五節君とて、源氏の御妾あり、父の大弐に相具して筑紫へ下だり〔たり〕けるが、上とて彼浦風琴の音をさそひけるを聞て、
  琴の音に引とめらるゝ綱手なはたゆたふ心君しるらめや K020 
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と聞えたりしかば、御返に源氏、
  心有てひくての網のたゆたはば打すてましやすまの浦風 K021 
と有けんも、今更被(二)思出(一)けり。明石の浦を過給にも、かれならん源氏の大将須磨の浦(有朋上P078)に沈給し比、依(二)夢の告(一)播磨入道の女明石の上を奉(レ)迎けん、須磨より明石の浦伝にも、路の程遥に有けんと思召し残す方ぞなき。角て日数ふる程に、春も既に暮れつゝ夏の木立に成にけり。四月二日は厳島にも著給、神前に参て社頭の景気を拝し給へば、皎潔たる波月は和光の影を諍、蒼茫たる水雲は利物の風を帯びたり。雲の■(まくさか)霞の軒、幾廻かは年へけん、玉の簾錦の帳、憑を懸て日を送れり。係る遠国にも眺望やさしき名所とて、神明地を点じ、垂(レ)迹、人を利し給こそ貴けれ。肩をさし袖を連る内侍も、結縁羨しく御覧ずれば、信を至(いた)し歩を運ぶ願望も、末憑しくぞ思召。御参篭は七箇日也。其間内侍共も常に参て、今様朗詠し、琴琵琶弾なんどして、旅の御つれ/゛\様々〔の〕情ある体に奉(レ)慰。実定卿も御目を懸られたり。内侍の中に、有子と云者あり。十六七にもや成らん、年少し幼稚て、常も参らず時々見来けるが、希代の琵琶の上手也。あてやかなる事から、物糸惜き顔立、古郷も忘ぬべしと実定常に被(レ)仰けり。或時有子とく参て、唯一人御前に候けるを、我身は此国の者かと有(二)御尋(一)けれ共、顔打あかめて御返事も申さず、愧げなる有様いとゞ由ありて御覧じければ、実定思食入たる御気色にて、畳紙に御手ずさみ有て、有子が前へ投させ給へり。(有朋上P079)
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  山の端に契て出(いで)ん夜半の月廻逢べき折を知ねど K022
有子内侍は此手ずさみを給て、堪ず思しめたる気色にて、御前をば立ぬ。実定は只尋常の情に思食けるを、内侍は難(レ)忍ぞ思沈ける。さても七日過ぬれば、都へ帰上給ふ。内侍共も御送にぞ参ける。有子はさらぬだに悲、上給なん後は、徐そにても争か見奉らんとて、衣引かつぎて臥にけり。内侍共一夜の泊まで御伴申て、其夜は殊に名残を惜奉、明ぬれば暇申けるを、実定宣けるは、余波は尋常也と云ながら、此は理にも過たり、何かは苦かるべき、都まで送付給へかし、又もと思ふ見参もいつかはと覚て、あかぬ思の心元なきぞと仰られければ、内侍共さらぬだに難(レ)忍なごりに、角こま/゛\と宣ければ、都までとて奉(レ)送けり。舟の泊やさしきは、明石、高砂、須磨浦、雀の松原、小屋の松、淀の泊のこも枕、漕こし船の習にて、鳥羽の渚に舟をつく。是より人々上つゝ、徳大寺へ相具し給て、両三日労りて、様々翫引出物賜たりける。さても内侍暇給て下けるが、入道の見参に入んとて、西八条にぞ参たる。入道出会ていかにと問給へば、内侍申けるは、徳大寺大納言殿(だいなごんどの)、今度大将に漏させ給へりとて、為(二)御祈誓(一)遥々と厳島へ語参篭七箇日、尋常の人の社参にも似させ給はず、思食入たる御有様も貴く(有朋上P080)見させ給へる上、事に触て御情深。内侍殊に不便にあたり奉給つれば、旁御遺惜て、又もの御参も難(レ)有ければ、都まで送付たれば、様々相労れ奉て、色々の御引出物賜て下侍るに、争角と可(レ)不(二)申入(一)とて、参てこそと申は、入道本よりいちじるき人にて、涙をはら/\と流給へ
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り。やゝ有て宣けるは、近衛大将は家の前途也。歎給も理也。夫に都の内に霊仏霊社其数多く御座、此仏神を閣て、西海はるかに漕下、浄海が深奉(二)崇憑(一)厳島まで被(二)参詣(一)けるこそ糸惜けれ、明神の御照覧難(レ)測、其上今度は理運也しを、入道が計にて宗盛を挙し申たるにこそ、可(二)計申(一)とてけしからず泣給へり。内侍共翫引出物なんど給て被(レ)下けり。其後やがて重盛(しげもり)の左に御座けるを辞し申て、右にうつし、実定卿を挙申て奉(レ)成。左大将(さだいしやう)いつしか、同五月八日御悦申あり。今日佐藤兵衛近宗を、左衛門尉に成れける上、但馬国きの崎と云大庄を賜はる。神明忽に御納受、貴きに付ても、近宗が計神妙とぞ思召ける。
S0313 有子入(レ)水事
偖も有子の内侍は、徳大寺の何となき言の葉を得て、思日々にぞ増りける。千早振(ちはやふる)神に祈(有朋上P081)をかくれ共、其事叶ふべきにあらねば、浮世につれなくあればこそ係(かかる)忍難事もあれ、千尋の底に沈みなばやと思つゝ、■(こ)舟に便船して、有し人の恋さに都近所にて兎も角もならんとて、波の上にぞ漂ける、責ての事と哀也。船の中の慰には、琵琶の曲をぞ弾ける。調弾数曲を尽せば、声松の風にや通らん、四絃緩急に掻乱せば、響波の音にも紛けり。彼白楽天、潯陽江の口に流されて、舟の中に琵琶を弾ずる音を聞は、錚々然として京都の声あり。故郷の恋さに其人を尋れば、我是長安の唱家の女也。十三にして琵琶を学得て、名は教坊第一部に有しか共、顔色朝暮に衰て、老大にして商人の婦となれり。夫は利を重くして他に行ば、我は独空き船を守て、波の上に浮と云ながら、琵琶を抱て面を指かくし
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けん、古を被(二)思出(一)哀也。有子終に摂津国住吉の澪の沖にて、舷に立出(いで)つゝ、海上はるかに見渡て、
  はかなしや浪の下にも入ぬべし月の都の人やみるとて K023 
と打詠て、忍やかに念仏申して海中へぞ入にける。船の中の者共、あれや/\と騒けれ共、又も見えざりければ力なし。彼潯陽の老女は、色衰て商人に随て舟を守、此厳島の有子は、年若して実定を恋て水にぞ沈ける。いつしか彼歌都に有(二)披露(一)ければ、(有朋上P082)皆人哀と思けり。見なれし内侍が事なれば、徳大事の左大将(さだいしやう)、さこそ不便におぼしけめ。
S0314 成親謀叛事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿は、実定の大将に成給ぬるに付て、是も平家の計也と思はれければ、平家を亡さんと謀叛を発、疎人も入ぬ所にて、兵具を調へ軍兵を集られ、さるべき者共相語らひ、此営の外他事無りける中に、多田行綱を招て、様々酒を勧て、金造太刀一振、引出物に賜、酒宴取ひそめて、大納言(だいなごん)行綱が膝近居よりて、耳に口を差寄て、私語事は、成親不(二)思寄(一)院宣を下賜れり、其故は平家朝恩の下に居ながら、朝家を蔑ろにし、一門国務を執行、国主を蔑如す、悪行年を重、狼籍日に競り、依(レ)之彼一類を可(二)追討(一)之由、仰を承といへ共、且は存知様に、成親させる武芸の器にあらず、尤猶予すべきを、君も大に鬱思召ばこそ、如(レ)此は被(二)仰下(一)らめ、非(レ)可(レ)奉(レ)返(二)院宣(一)。されば一方の大将には、奉(二)深憑(一)、御辺又源氏の藻事也、争か執心もなからん、平家亡ぬる者なら
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ば、日本の大将軍共成給へかし、其条奏申さんに子細やは有るべきと語けれ(有朋上P083)ば、行綱争いなと云べきなれば、酔のまぎれに深く憑給へ、承侍ぬと領掌して立にけり。東山鹿谷と云所は、法勝寺の執行俊寛僧都が領也。後は三井寺に続て、如意山深、前は洛陽遥見渡して而も在家を隔たり。爰ぞ究竟の所也とて、城郭(じやうくわく)を構兵杖を用意す。摂津国源氏に多田蔵人行綱は、成親兼憑ける上、法勝寺の執行に師檀の契深して、互に憑憑れたりければ、俊寛も語(レ)之。平判官康頼、近江中将入道連海、其外北面の下臈共(げらふども)、あまた同意しけり。彼俊寛僧都は、村上の帝第七王子、二品中務親王具平六代の後胤、仁和寺の法印寛雅が子、京極の源大納言(だいなごん)雅俊卿孫也。此大納言(だいなごん)はさせる弓矢取家にはあらね共、ゆゝしく腹悪心猛き人にて、常は歯を食しばだたいて御座ければ、京極の家の前をば、たやすく人も不(レ)通けり。かゝる人の孫にて此俊寛も、僧ながら驕つゝ、案も無こそ被(レ)与(二)此事(一)けれ。
 成親卿の許に、松の前鶴の前とて、花やかなる上童二人あり。松前は容顔はすぐれたれども心の色すくなし。鶴前はみめ貌はすこしおくれたれども、心の色今一きはふかかりけり。謀叛の事によつて彼が心をとり語はんために、中御門高倉の宿所へ、執行僧都を請じて酒を出し、彼上童二人を以て様々にしひたりけり。かかりし程に僧都常にかよひて、はじめは松前にこころざしを顕しけるが、後には鶴前におもひうつして、女子一人(有朋上P084)儲たりけるとかや。大納言(だいなごん)此事うちとけかたらひ給ければ、無(二)左右(一)領状もなかりけれども、鶴前に心を移して隙なくかよひければ、終にはかく同意しけり。
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S0315 一院女院厳島御幸事
承安四年三月に、法皇並建春門院(けんしゆんもんゐん)、安芸国厳島明神へ可(レ)有(二)御幸(一)由聞えし程に、十六日癸卯、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を御門出ありて、十九日に室泊まで御船に奉る。同二十六日癸丑、社頭に参著せ給へり。即今日一院の御奉幣有て、御正体御経供養あり。御導師は東大寺の別当法印顕慧をぞ被(二)召具(一)たる。差も遥の御参詣に、御願文(ごぐわんもん)のなかりけるこそ怪しけれ。同二十七日には、女院の御奉幣、御正体、御経供養あり。御願文(ごぐわんもん)は、右大弁藤俊経ぞ書たりける。
側聞、登(二)中岳(一)而延(レ)齢焉、漢武建(二)白茅之封(一)、祀(二)高■(こうばいを)(一)而獲(レ)子矣、簡狄感(二)玄鳥之至(いたる)(一)、神霊福助前鑒既明者歟、伏惟四徳雖(レ)疎、六行雖(レ)闕、初侍(二)姑山(一)而承(レ)恩、早編(二)栄名於九々之列(一)、後居(二)后房(一)而正(レ)位、更守(二)謙退於疑々之心(一)、忝為(二)聖皇之母儀(一)、遂賜(二)仙院之尊号(一)、造次所(レ)慕者、天祚之無(レ)窮也、寤寐所(レ)思者、帝業之繁昌也、于(レ)朝于(レ)暮、祈(レ)仏祈(レ)神、於(レ)是(有朋上P085)伊都岐島社者、極聖和光之砌大権垂跡之地、青松蒼柏之託(レ)根多、送(二)五百廻之歳月(一)、貴賤高下之運心、不(レ)遠(二)千万里之風煙海中之仙島(一)也、省(下)鼇波之浮(二)蓬壺(二)沙浜之霊祠(上)也、知(二)竜宮之近笞■(たいしゅを)(一)可(三)以採(二)不死之薬(一)、可(三)以得(二)如意之珠(一)、勝絶之趣讃不(レ)可(レ)尽、、因(レ)茲現当之善利、殊抽(二)予参之精誠(一)蓋従(二)法皇之虚舟(一)遂(二)弟子之懇符(一)也、旅泊夜深幽月照(二)懐郷之夢(一)、羈中春暮、残花為(二)行路之資(一)、遂就(二)紛楡之社壇(一)、敬設(二)清浄之法会(一)、廼奉(レ)鋳(二)顕大明神本地正体御鏡三面(一)、奉(レ)書金字紺紙妙法蓮華経一部八巻、無量義経一巻、観普賢経一巻、般若心経三十三巻、大日経一部十巻、理趣経一巻、大日真言〔宗〕百遍、十一面真言百返、毘沙門真言百返、此中於(二)
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大日経(一)者、所(レ)奉(レ)納(二)銀笞(一)也、其外師子馬鞍刀剣弓箭、各冶(二)金銅(一)、殊尽(二)彫鏤(一)、復有(二)色馬(一)、復有(二)八女(一)、共施(二)丹青(一)、限(二)以三十三(一)、専捧(二)幣帛(一)、更副(二)鈿■(てんを)(一)、其勤非(レ)一其誠無(レ)弐、以(二)此財施法施之功(一)、能仰(二)彼権化実化之納受(一)、于(レ)時岸風之払(二)斉席香煙(一)、添(二)栴檀之薫(一)、天水之及(二)瑞籬(一)、朝声助(二)梵唄之曲(一)、所(レ)生(二)勝因(一)、併資(二)法薬(一)、先捧(二)白業(一)、奉(レ)祝(二)紫宮(一)、斉数久遠、屡献(二)注文(一)、麻姑之■(さん)継(二)嗣恢弘(一)、旁耀(二)瓊萼金枝光(一)、弟子生涯尚遥、退(二)病源於他土、寿域新兆移(二)南山於前庭(一)。若夫現在生之運命、有(レ)限(二)百二十之春秋(一)、遂過之夕不(レ)誤、順次之往生、速詣(二)安養之世界(一)、夫当社者、尋(二)内証(一)(有朋上P086)挿絵(有朋上P087)挿絵(有朋上P088)者、則大日也、有(レ)便(三)于祈(二)日域之皇胤思(一)、外現者亦貴女也、無(レ)疑(三)于答(二)女人之丹心(一)、我既為(二)本朝之国母(一)、旁足(レ)蒙(二)当社之神恩(一)、抑至心繋念之輩、朝祈暮賽之人、自(レ)古迄(レ)今、皇蘿雲布、或雖(レ)有(二)槐■(くわいきよく)之尊貴(一)、敢不(レ)及(二)院宮之往詣(一)、而弟子一者被(レ)扶(二)当時之信力(一)、一者被(レ)引(二)多却之宿縁(一)、忽詣(二)此場(一)、始蹈(二)其跡(一)、若於(二)今日(一)而無(二)掲焉之験(一)、恐令(下)後人而生(中)疑惑之心(上)、伏乞玄応成就、素望円満、然則往還之間、無(二)風波之難(一)、先知(下)冥助之潜通(中)心意之裏(上)、満(二)大小之願(一)、新顕(二)利益之現証(一)、年々歳々、弥致(二)欽仰(一)、子々孫々永可(二)帰依(一)、神而有(レ)可(レ)知(三)必垂(二)答■(たうきやうを)(一)重請禅定大相国、今世払(二)友気於三観之窓(一)、来世証(二)妙果於一仏之土(一)、弟子所(三)以憑(二)彼懇篤之至(いたり)(一)、亦任(二)知見(一)敬白、
 承安四年三月とぞ書たりける。
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当社は是当国第一の鎮守に御座。太政(だいじやう)入道(にふだう)の世に出られし事、為(二)安芸守(一)時也。被(レ)誓ける事の有けるにや、殊に彼明神を信られて、加様に御幸をすゝめ申給へり。法皇も女院も、入道の心に随はせ給はんとての御為にや、遥々と有(二)御参詣(一)けるこそ貴けれ。尋常の人の習と云ながら、太政(だいじやう)入道(にふだう)は極たる大偏執の人にて、奉(二)我信(一)仏神へ人の詣れば、殊に嬉事に思はれて、徳大寺の実定をも大将になされ、法皇女院(有朋上P089)の御幸をも畏入給へり。又我一門にあらぬ者の、僧も俗も高名したりと見聞給ては、強に嫉傾申給へり。
S0316 澄憲祈(レ)雨事
其中に今年春の比より天下旱魃して夏の半に至(いた)り、江河流止りければ、土民耕作の煩を歎、国土農業の勤を廃す。井水絶にければ、泉を掘てぞ人は集ける。清涼殿にして恒例の最勝講被(二)始行(一)。五月二十四日は開白也、二十五日は第二日也、朝座の導師は、興福寺権少僧都覚長、夕座は山門の権少僧都澄憲、澄憲天下の旱魃を歎、勧農の廃退を憂て、敬白に言を尽し、竜神(りゆうじん)に理を責て、雨を祈乞給けり。其詞に云、
夫御願(ごぐわん)者、起(レ)自(二)寛弘之聖朝(一)、至(いたる)(二)于承安之宝暦(一)、法会雖(二)旧道儀(一)、弥新、時代雖(レ)重、興隆更珍、九禁之裏専盛(二)人事美麗(一)、三宗之間、殊撰(二)才弁之英傑(一)、故生(二)肇融叡之倫(一)演(二)説連珠(一)防(二)尚光基之類(一)、問難争(レ)鋒、五日開(レ)講、法性淵底、悉顕(二)十問挙疑(一)、玄宗秘頤無(レ)残、聖皇自捧(二)香炉煙(一)、昇(二)三十三天之雲(一)、群臣各列(二)法莚(一)、瞼合(二)金字金光之輝(一)、天人光龍神影、降上昇下、陽台雲、頴川星、内凝外聚、寔是鎮護国家第一之善事(有朋上P090)攘(レ)災招(レ)福、無双之
P0065
御願(ごぐわん)也。抑当(二)厳重御願(ごぐわん)之莚(一)、天衆影向之場、聊有(下)可(二)訴申(一)之事(上)、伏見(二)我聖朝御願(ごぐわん)金光最勝両会(一)、迎(二)春夏(一)無(レ)怠、帰(レ)仏信(レ)法、御願(ごぐわん)送(二)歳月(一)弥盛、而項年七八箇年、毎歳有(二)旱魃之憂(一)、不(レ)知(二)如何(一)、就(レ)中(なかんづく)今年当(下)日曜在(二)井宿(一)之月(上)、天晴払(レ)雲、迎(レ)霖月可(二)降(レ)雨之候(一)、地乾揚(レ)塵、農夫拱(レ)手西作(レ)勤已廃、唯非(二)尚羊之亡(一)(レ)舞、恐有(二)竜神(りゆうじん)之為(一)(レ)嗔歟、夫君以(レ)民為(レ)力、民以(レ)食為(レ)天、百穀忝枯尽、兆民併失、計(レ)責帰(二)一人(一)、恨(二)残諸天(一)、夫当(二)天然之紀運(一)、至(いたる)(二)災■(さいげつ)之萌起(一)者、聖代在(レ)之、治世非(レ)無(二)所謂(いはゆる)漢朝堯九年洪水、湯七年炎旱(一)也、本朝貞観旱、求(二)祚風(一)、承平煙塵正暦疾疫朝有(二)善政(一)、代多(二)賢臣(一)、天然之災気、実不(レ)能(レ)遁、而至(いたる)(二)近年小旱(一)者、非(二)普天満遍之災(一)、非(二)紀運令然之友(一)、恐竜神(りゆうじん)聊相嫉、天衆少不(レ)祐事有歟、凡代及(二)澆李(一)、時属(二)末法(一)、一人御政争無(レ)背(二)天心(一)、万民所為定有(レ)犯(レ)過、実可(レ)恐深可(レ)謝、但倩重案(二)事情(一)、我大日本国、本是神国也 天照大神(てんせうだいじんの)子孫、永為(二)我国主(一)、天児屋根尊子孫、今佐(二)我朝政(一)、以(二)神事(一)為(二)国務(一)、以(二)祭祀(一)為(二)朝政(一)、善神尤可(レ)守之国也、竜天輙不(レ)可(レ)棄(レ)之境也、何況欽明天皇(てんわう)代、仏法初渡(二)本朝(一)、推古天皇(てんわう)以来、此教盛行降、及(二)聖武御宇(一)、弥盛尊(下)重其堂宇之崇(中)仏殿之大(上)、敢非(二)人力之所為(一)、如(二)鬼神之製(一)、又令(下)(二)七道諸国(一)、立(中)国分尼寺(上)、凡上自(二)(有朋上P091)群公卿士(一)、下至(いたつて)(二)諸国黎民(一)、競捨(二)田園(一)、皆施(二)仏地(二)、争傾(二)財産(一)、悉献(二)三宝(一)、不(レ)修(二)仏事(一)者、不(レ)為(二)生類(一)、不(レ)立(二)堂塔(一)者、不(レ)列(二)人数(一)、国風俗習、久積深馴、近自(二)畿内(一)、遠
P0066
及(二)七道(一)、摂州上宮太子、立(二)四天王寺(一)、過者悉知(二)極楽東門(一)、泉州行基菩薩託(二)生大鳥郡(一)、立(二)寺於四十九所(一)、南都七大諸寺比(レ)甍、田園皆為(二)三宝之地、東京数代御願(ごぐわん)接(レ)軒立(レ)錐、無(レ)非(二)精舎之地(一)、弘法大師、卜(二)紀州高野山(一)、溢(二)三密流於四海(一)、伝教大師、点(二)江州比叡嶺(一)、扇(二)十乗風於一天(一)、此外七道諸国、九州卒土山無(二)大小(一)、皆松坊比(レ)檐、寺不(レ)弁(二)公私(一)、悉国郡卜(二)領一国田地(一)帝皇進止実少、皆為(二)三宝之領(一)、九州正税、国家用途不(レ)幾、併宛(二)仏界之供(一)、然則釈梵四天廻(レ)眸(まなじりをめぐらして)照(レ)之、竜神(りゆうじん)八部以(レ)目視(レ)之、十六大国加、加留(レ)国、有(二)五百中国加(一)、加留(レ)境有(二)法弘(一)、還有(二)滅時(一)、道盛必有(レ)衰(レ)国、国有(二)善王(一)、又有(二)悪王(一)、君信(二)正法(一)、臣又信(二)邪法(一)、彼■(けい)賓国秋池■湲(せんえんとして)流、而漸溢(二)国界(一)、耆闍崛春苔聖跡、埋而只有(二)猛獣(一)、昆舎利国尋(二)仏跡(一)、大林精舎空聞(レ)名、給狐独園訪(二)伽藍(一)、祇園精舎唯有(レ)礎阿育大王、帰(二)正法(一)後為(二)弗沙密多(一)被(レ)滅、梁武帝崇(二)正法(一)後値(二)唐武宗(一)滅(レ)之、豈(あに)如哉、我国家一帰(レ)仏永無(レ)改、一弘(レ)法遂不(レ)墜、自(二)欽明(一)至(いたつて)(二)当今(一)五十二代、未(レ)聞(下)背(二)仏法之君(一)、推古天皇(てんわう)以来、五百七十余年、未(レ)見(下)棄(二)仏法(一)之代(上)、然則天人不(レ)護(二)我国(一)(有朋上P092)者、即不(レ)護(二)常住三宝(一)、竜神(りゆうじん)若悪(二)我国(一)者、即奉(レ)悪(二)三宝福田(一)、不(レ)降(レ)雨失(二)地利(一)者、仏界皆施(二)供養(一)、不(レ)止(レ)災損(二)人民(一)者、出家定滅(二)徒衆(一)歟、護国四王、発(二)誓願於仏前(一)、竜神(りゆうじん)八部、奉(二)仏勅於在世(一)、忘(レ)護(二)法誓於心中(一)歟、誤(二)我国風於眼前(一)歟、天人竜神(りゆうじん)、過勿(レ)憚(レ)改、速降(二)甘露雨(一)、勿除(二)災旱憂(一)、伝聞中天舎衛大国、毎年一度設(二)法会(一)、難陀跋難守(二)其国(一)、風雨順(レ)時、今見(二)南閻浮
P0067
大(なんゑんぶだい)日本国(一)、春夏二度修(二)大会(一)、難陀跋難何衛(二)此朝(一)雨沢不(レ)階(レ)時徒雨八十億、諸大龍王、雨惜何不(レ)降(二)我国(一)、無(レ)罪六十余州人民、勿失(二)口中食(一)、此言必達(二)上天之聞(一)、此時速除(二)下土之憂(一)、玉体安穏宝祚延長之唱、譲(二)座之啓白(一)、今只代民述(二)一国之大訴(一)、代(レ)君陳(二)一心之深誠(一)、万機政今未(レ)出(二)叡情彼蒼之責(一)、何故一国賞罰未(レ)任(二)神襟(一)、上怨之咎無(レ)由、驚(二)三界諸天(一)、聴(二)此詞(一)、聚(二)四海竜神(りゆうじん)(一)怨(二)此事(一)、冀不(レ)廻(二)時日之程(一)、勿降(二)甘露之霑(一)、然則春稼秋熟国保(二)九年之蓄(一)、月俸(二)有(レ)余民(一)、誇(二)五袴之慶(一)、抑付経有(レ)多(二)文段(一)、初文如何とぞ、被(二)啓白(一)たりける。竜神(りゆうじん)道理にせめられ、天地感応して、陰雲忽に引覆大雨頻に下けり。上一人より、下百官に至(いたる)まで、当座の効験事の不思議、信仰涙に顕たり。時の摂政(せつしやう)松殿被(二)奏申(一)けるは、説道の抜群、当座の降雨、古今誠に類なし、可(レ)有(二)御勧賞(一)(有朋上P093)歟と奏聞し給ければ、同廿八日は、結願の日にて有けるに、頭左中弁長方朝臣、公卿座の前を経て、殿下の御前にすゝみて仰曰、権少僧都澄憲が説法之効験■(いちじるき)焉也、仍権大僧都に上給。長方又蒙(二)殿下之御目(一)、左大臣の方に向て、同此趣を仰。左府澄憲を座前に召て、勅定之趣を仰す。澄憲本座に帰著せんとしければ、威儀師(ゐぎし)覚俊起座して、南の弘庇に出て、澄憲権大僧都の従僧侍やと召けれ共、心得ずして見えざりければ、覚俊重て召て草座を取て覚長が上に置。覚長忽に居下る。澄憲又居上る。当座の面目説道の高名、今日にきはまれり。
覚長が門弟等、恥辱を歎出仕を制し申。覚長存る旨ありとて、猶出仕す。威儀師(ゐぎし)覚俊、昨日は覚長
P0068
が草座を澄憲の上にしき、今日は澄憲が草座を覚長が上にしく、無(二)面目(一)みえけるに、覚長奏けるは、今日〔の〕出仕身に取て雖(レ)似(二)恥辱(一)、普天之降雨は、一道の名望也、争か忘(二)天感(一)可(レ)存(二)我執(一)哉、為(レ)勧(二)後昆(一)、恥を押へて参内と申たりければ、諸卿各被(二)感申(一)けり。後朝に俊恵法師と云者、いひ送たりけるには、
  雲上に響を聞ば君が名の雨と降ぬる音にぞ有りける K024 
澄憲返事には、(有朋上P094)
  天照す光の下にうれしくも雨と我名のふりにける哉 K025 
打続三日三夜降ければ、畿内遠国に至(いたる)まで、民九年の蓄を悦、人五袴の楽に誇けり。蔵人左衛門権佐光雅を以仰下されて云、説法依(二)殊勝(一)感応いちじるき也、尤感じ思召処也。猶叡感之余、啓白之詞を尋召れけるに、御請文に云、
最勝講啓白之詞謹以令(二)注進(一)候、一驚(二)叡聴(一)忽蒙(二)異賞(一)再及(二)叡覧(一)永留(二)後代(一)実是一道之光栄、万代之美談者歟、骨縱埋(二)竜門之土(一)、名可(レ)留(二)鳳闕之雲(一)、喜懼之至(いたり)啓而有(レ)余而己、澄憲恐惴頓首謹啓とぞ、被(二)申上(一)たる。加様に上一人より、下万民に至(いたる)まで、難(レ)有事にこそ感嘆しけるに、太政(だいじやう)入道(にふだう)はあざ咲て、人の病の休比に、医師は験あり、是を医師の高名と云様に、春の比より旱して、五月雨の降比に説法仕合て、澄憲が高名と人の沙汰すらん事、いとをかしき事也とて興なく
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ぞ被(レ)申ける。是偏に澄憲偏執の詞也。其意趣いかんとなれば、
 澄憲当初法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて、御講の導師勧めける次に、目出き説法仕たりけり。院母屋の簾内にて、窃に大蔵卿泰経に仰けるは、此僧の若さに口のきゝたる様よ、世は末に成と云へ共、遉尽ざりけるもの哉、実や尼の生たる子と聞食とて咲はせ給ける(有朋上P095)時、泰経御返事に、故通憲入道は、和漢の才幹至(いた)れる上、心かしこき者といはれ候き、相伴ける尼もさる尼にて儲たる子なれば角侍るにこそ。過にしころ、比叡山に候ける児の、夜の間に失せて見えざりければ、師匠朝に児の部屋に入て、障子を見るに、歌を書て候けり、
  住儘になつかしからぬ宿なれど出ぞやられぬ晨明の月  と、有りけるを見て、はや失にけりとて、方々尋ける程に、唐崎の海に人の身投たりと聞て、師僧罷て見ければ、浜の砂に裏なしを脱置たる処へ、二三度ばかり往還たる跡ありて、終に沈たりけるを、一山の衆徒是を憐て、造仏写経して追善仕けるに、凡僧なれ共此澄憲を唱導に請じたる、施主段に童子の年は十八歳、髪は長御座けれ共、命は短かりけり。今は神〔の〕力及ず、仏助給へと申たりければ、衆徒感涙を流、僧綱に准じて、手輿にのせて侍りけりとぞ承る。されば今日の説法も目出くこそ候へと申ければ、院打うなづかせ給て、誠に神妙に仕たりけり、此僧が高座より下りん時、各はやせ、何なる風情才覚をか申振舞と仰あり。院の依(二)御気色(一)、若き殿上人四五人、心を合て拍子を打て、あまくだり/\と拍。是は尼の生たる子と云心をはやす也。澄憲更にそゝがずして、二かひな、三かひな舞翔て、(有朋上P096)院より始進せて、上下皆何事をか申さんと、兼て咲せさせ給けり。澄憲三百人々々々と云音を出す。殿上人猶あまくだり/\と拍。澄憲三百人の其内に、女御百人、裨販公卿百人、伊勢平氏験者百人、皆乱行三百人々々々と云て、扇をひろげて、殿上をさゝと〔扇〕散し
P0070
て、皆人は母が腹より生るゝに、澄憲のみぞあまくだりけるとて申て、走入にけり。公卿殿上人、上には咲けれ共、底にが/\しき景気也。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)、其時は新(しん)大納言(だいなごん)にて、当座に候はけれり。始よりべし口してえも咲ず、事はてて澄憲以下、人々罷出ぬ。新(しん)大納言(だいなごん)は、最のどやかに畏て、御前を立れぬ。北面に蹲居して、あまたおはする殿原に向て被(レ)申けるは、一天の君の召仕はせ給、三百人の数に、重盛(しげもり)が入て侍は面目也。但世に隠なし。朝恩によりて、国務を奉行する事、先祖に多侍。伊勢平氏とは、いづれの卿上の事ぞと、尋申べかりつれ共、勅願の導師也、便宜なしと存じて、無(二)申子細(一)、思よらぬには非ず、父の禅門加様の事にたまらぬが、親ながらも悪癖と存ず。さても奉公に忠勤を致せば官禄に洪恩あり、而を代々軍功依(レ)無(レ)私、子孫蒙(二)朝恩(一)、加様に世に立廻者を、僧も俗も悪猜れ侍事、まことに不(レ)及(レ)力こそ存候へ。罷帰入道諌申さんとて出られにけり。其跡に残留たる人々申けるは、新(しん)大納言(だいなごん)の被(レ)申事こそ、理を(有朋上P097)極て身にしみ候て覚れ。忽而は君の所詮なき御心ばえにて、澄憲を愛し咲はせ給はんとて、係述懐はせられさせ給也。さればとて一座の御導師を、いかにとせさせ給べきぞ、今日より後は、かる/゛\しき事、上にも下にも止らるべき也とぞ申合れける。平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)は、入道此事聞給なば、さる腹悪人なれば、如何なる心か付給はんずらんとて、六波羅の宿所に参られたり。入道は左の手に蓮の実の念珠を持、右の手に蒲団扇を仕給て、大納言(だいなごん)に目も係ず、憤ある気色也。重盛(しげもり)は、此事はや人の云たりけりと意得て、大に畏給へり。良久有て、哀此入道が、神にも仏にも成たらん後、和殿原の君の御後見して、一日世に立廻給なんや、故通憲入道が誤にて、信頼に頸切られたりし時、憂目みたりし澄憲が、向さまに悪口するを聞も咎めずして、さて立ける事の口惜さよ、何様にも沙汰有べしとて、弾指はた/\とし給けり。大納言(だいなごん)は、此条重盛(しげもり)一人が事にあらず、百人の裨販の女御、百人の乱行の験者達の、とがめられぬ事なるを、其を閣て非(レ)可(二)咎申(一)。
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惣而は加様の事をば、たゞ聞ぬ様にて御渡候べしと覚ゆ。猿楽と申は、をかしき事を云つづけて人を咲はかし侍るぞかし。君のをかしき事をいはせんとて、尼が子/\と、はやさせ/\給へば、澄憲猿楽ことを申にて侍(はべる)べし、其故に中々何と御腹をば立られ候べき。(有朋上P098)但今より後、猿楽事にも加様の事申ならば、如何にも重盛(しげもり)相計候べしと被(レ)申たり。其時入道かほの色少し直りて、穴軽々しの君の御代や、販女の女御とはされば誰ぞ、若丹後の局の事歟、そも桶櫃を戴て物をばよもうらじ、乱行の験者とは、先房覚僧都が事にや、其僧こそ至(いたる)処ごとに不覚をのみせらるなれば、京童部が房覚不覚と云略頌をば云なれとて、から/\と咲て、入道〔内〕へ入られけり。重盛卿(しげもりのきやう)今は入道別の事をばせじと覚して、心安思はれ被(レ)出けり。其事猶も本意なく思はれければ、澄憲の雨の高名も、天下には謳歌しけれども、入道は不(レ)被(レ)興けり。
近衛大将可(レ)有(二)其闕(一)と聞えければ、人々望申されける中に、平(へい)大納言(だいなごん)重盛卿(しげもりのきやう)の被(レ)申けるは、大臣の息大将に任は、古今の例也、就(レ)中(なかんづく)其身苟武将也、其職已武官也、官職所(レ)掌、文武道異也、偏被(レ)抽(二)花族(一)、只被(レ)撰(二)重代(一)、是近年の訛跡也、非(二)聖代之流例(一)被(レ)奏ければ、同七月八日、除目被(レ)任(二)右近大将(一)けり。同廿一日に拝賀を被(レ)申けり。小松亭よりぞ出立れける。先法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に被(レ)参ければ、御前に召れ、法皇は寝殿の西の戸内に御座。大将は透渡殿にぞ被(レ)候ける。兼円座被(レ)敷たり。内蔵頭(くらのかみ)親信ぞ申次をば勤ける。御馬を引れければ、地に下て取(レ)縄、二拝(レ)之後、左中将知盛朝臣ぞ請取ける。次建春門院(けんしゆんもんゐん)御方に申されて、其後(有朋上P099)参内せられけり。殿上の前駈廿七人、地下前駈十人とぞ聞えし。番長には下毛野武安、扈従(こしょう)の公卿には、五条大納言(だいなごん)邦綱、治部卿光隆、別当成親、右衛門督宗盛、
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花山院中納言(ちゆうなごん)兼雅、中宮権大夫時忠、右兵衛督頼盛、平宰相教盛、六角の宰相家通、修理大夫信隆、二条三位経盛、藤三位基家也。申次をば頭中将実定朝臣ぞつとめられける。扈従(こしょう)の月卿雲客、或は時にあへる権勢、或又花族の人々也ければ、何も執々にはえ/゛\しくぞ被(レ)見ける。
同廿七日に、大内にて相撲召合あり、頭左中弁長方朝臣ぞ奉行しける。諸卿杖座に参著せられけり。午刻に宸儀南殿に出御なりければ、内侍剣璽に候しけり。左大将(さだいしやう)師長、右大将(うだいしやう)重盛(しげもり)、左右奏を取(とつ)て、相かはりて簀子を経て御簾を■(かかげ)て被(レ)奏。重盛卿(しげもりのきやう)奏覧の後、被(二)退出(一)ければ、容儀可(レ)見進退有(レ)度とぞ上下称美しあへりける。両大将本座に被(レ)復ければ、左大臣経宗、右大臣兼実、源大納言(だいなごん)定房、大宮大夫公保、中宮大夫隆季、三条大納言(だいなごん)実房、新(しん)大納言(だいなごん)実国、五条大納言(だいなごん)邦綱、中御門中納言(ちゆうなごん)宗家、別当成親、左兵衛督成範、殿に昇て著座あり。相撲長左右各二人、左番長秦兼宗、下毛野武安、右番長秦兼景、下毛野種友なり。籌判府生、左右各一人、左貞弘、右諸武、随(二)勝負(一)立合て籌判す。一番相撲、左加賀国住人(ぢゆうにん)藤井守安、右因幡国住人(ぢゆうにん)尾張長経召合ら(有朋上P100)れけるに、長経膝を突て、さはりを申けり。是は内取の日負にければ、涯分をしりて勝負をせざりけるとぞ聞えし。(有朋上P101)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四

P0073(有朋上P101)
爾巻 第四
S0401 鹿谷酒宴静憲止(二)御幸(一)事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、日比内々相語輩偸に催集て、鹿谷に衆会し、一日酒宴して軍の評定あり。法皇も忍て御幸有べかりけるが、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の子息、静憲法印を召て、此事を被(二)仰含(一)けり。法印は、努々不(レ)可(二)思食(おぼしめし)寄(一)御事也、伏羲神農の聖人たる、猶瓊樹根を別にし、軒轅虞舜の明王たる、又玉体種を分つ、夏殷周晋春の花、芬馥気種々に含、梁陳隋唐の秋の月、清光区に朗也。夫天下を治事如(レ)此。況や君は忝も地神五代の御苗裔を受させ御座して、人皇億歳の宝祚を踏給へり。逆臣背き奉らば、忽に天罰を蒙て、兵略を廻らかさずと云共、自滅亡せん事疑あらじ、日月為(二)一物(一)不(レ)暗(二)其明(一)、明王為(二)一人(一)不(レ)曲(二)其法(一)と云事侍り、成親卿(なりちかのきやう)一人が勤によつて、万人悩乱の災を致さん事、豈(あに)天地の心に叶はんや、全政道有徳の基に非ず、こは浅増き御企也と、大に諌申ければ、法皇の御幸は無りけり。鹿谷には軍の評定の為に、人々多集て一日(有朋上P102)挿絵(有朋上P103)挿絵(有朋上P104)酒盛しけり。多田蔵人が前に杯の有けるに、新(しん)大納言(だいなごん)青侍を招て私語給へり。青侍まかり立て、程なく長櫃一合、縁の上に舁居たり。尋常なる臼布五十端取出して、蔵人が前に積置せて大納言日けるは、日比談義申侍つる事、大将軍には一向に奉(レ)憑、其弓袋の料に進ずる也、今一度候ばやとぞ強たりける。蔵人居直り
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畏て、三度呑て、布に手打係て押除たれば、郎等よつて取(レ)之。其後押まはし/\、得たり指たりする程に、既晩に及ぶ。庭には用意に持たりける傘をあまた張立たり。山下の風に笠共吹れて倒ければ、引立々々置たる馬共驚て、散々(さんざん)に駻踊、食合踏合しければ、舎人雑色馬をしづめんと、庭上々を下へ返て狼藉也。酒宴の人々も少々座を立けるに、瓶子を直垂の袖に懸て頸をぞ打折てける。大納言見(レ)之、戯呼事の始に平氏倒侍りぬと被(レ)申たり。面々咲壺会也。康頼突立て、大方近代あまりに平氏多して持酔たるに既に倒亡ぬ、倒たる平氏頸をば取に不(レ)如とて、是を差上て一時舞たり。さて取たる首をば可(レ)懸也とて、大路を渡すと云て、広縁を三度廻し、獄門の樗木に係と名て、大床の柱に烏帽子(えぼし)懸につらぬきて結付けたり。土の穴を堀て云事だに漏と云、まして左程の座席にて加様にや有べきと後おそろし。石に口すゝぎ流に枕すと云事有と思者は、偸に座を起つ人もあ(有朋上P105)りけるとかや。北面は白川院御宇より被(二)始置(一)、衛府共あまた在けり。為俊守重童部より、千寿丸今犬丸とて切者にて侍けり。鳥羽院御時は、季範季頼父子共に、近奉(レ)被(二)召仕(一)伝奏する折も有けり。去ども皆身の程を計てこそ振舞けるに、此御時の北面の下臈腹共(げらふども)は、事の外に過分にて、公卿殿上人をも物共せず、無(二)礼義(一)。理や下北面より上北面に移り、上北面より殿上をゆるさるゝ者も有ければ、驕れる心も有ける也。其内故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)のもとに、師光成景と云者あり。成景は京の者小舎人童太郎丸と云けり。師光は阿波国の者、種根田舎人也けり。童部より常に召具しけるが、院(ゐんの)御所(ごしよ)にて信西御前に候
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けるに、天台の不思議共御尋有けるに、折節廃亡して演得ざりければ、如何して御前を立べきと、身体苦く思煩たる心地色に、顕て在ければ、童是を遥見危て、沓脱、近居寄て高かに、御内より御召有て、御使三箇度参り如何と云たり。信西得たる折節とて罷出ぬ。如何にと尋ぬれば、童答て云、御座を起ばやと思召(おぼしめす)御気色の見させ給へば、自が虚誕也と申。信西打頷許て、神妙々々と感ず。喩へば紅山に入て道を失へりしに、牛童に教へられて都に入、所望を遂と、銀心大臣が書る筆も、今被(二)思合(一)と感じて、烏帽子(えぼし)をたび、恪勧者なんどに仕けるが、両人勒負尉になさる。事にふれて賢々しかり(有朋上P106)ければ、院の御目にも懸進せて被(二)召仕(一)けり。師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とぞ申ける。信西平治の乱に討れし時、二人共に出家して、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とぞ申ける。二人ながら御蔵の預にて、猶被(二)召仕(一)けり。其西光が子息に、近藤左衛門尉師高(もろたか)きり者也ければ、検非違使(けんびゐし)五位丞まで成て、安元元年十一月廿九日に、追儺の除目に加賀守になる。国務を取行間、様々の非法非礼張行之余、神社仏寺の御領、権門勢家の庄園を倒し、散々(さんざん)の事共にてぞ有ける。縦召公が跡を伝と云とも、穏便の政を行べきに、心の儘に振舞し程に、
S0402 涌泉寺(やうせんじ)喧嘩事
目代(もくだい)師経(もろつね)在国の間、白山中宮の末寺に、涌泉寺(やうせんじ)と云寺あり。国司の庁より程近き所也。彼山寺の湯屋にて、目代(もくだい)が舎人、馬の湯洗しけり。僧徒等制止して、当山創草より以来、いまだ此所にて牛馬の湯洗無(二)先例(一)と云けれども、国は国司の御進止なり、誰人か可(レ)奉(レ)背(二)御目代(おんもくだい)(一)とて、在俗不当の輩、散々(さんざん)の悪口に及んで更に承引せざりければ、
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狼藉也とて涌泉寺(やうせんじ)の衆徒蜂起して、目代(もくだい)が馬の尾を切、足打折、舎人がそくびを突、寺内(有朋上P107)の外へ追出す。此由角と馳告ければ、目代(もくだい)師経(もろつね)大に憤て、在庁国人等を駈催して、数百人の勢を引率して、彼寺に押寄て不日に坊舎を焼払。懸ければ北の四箇寺に、隆明寺、涌泉寺(やうせんじ)、長寛寺、善興寺、南四箇寺に昌隆寺、護国寺、松谷寺、連花寺、八院の衆徒等会合して、使者を中宮へ立たりけり。別宮佐羅中宮、三社の衆徒、急下て一になる。岩本、金剣、下白山三宮、奈谷寺、栄谷寺、宇谷寺三寺四社の大衆も馳集りて同意しけり。時刻を廻すべからず、目代(もくだい)師経(もろつね)を誅罰すべしとて、七月一日数百人の大衆喚て庁へぞ押寄ける。師経(もろつね)は涌泉寺(やうせんじ)焼失の後、僻事しつと思つゝ、忍て京へ逃上たりければ、庁には人こそなかりけれ。八院三社の衆徒の張本に、智積、覚明、法台、金台、学円、仏光寺の宗人の大衆三十余人、三寺四社の衆徒等相具して、其勢二千余騎、国分寺に衆会して、評定あり。目代(もくだい)逃上ぬる上には、国にして左右すべきに非ず、本山に訴へて、師高(もろたか)師経(もろつね)を可(二)断罪(一)也とて、子細を録して寺宮六人を差上て、山門に訴詔(そしよう)しけり。大衆此事を聞、本社白山の事ならば左も有なん、彼社の末寺也、許容に及ずとて其沙汰なし。寺官等力なくして、十一月の比国に下る。衆徒会合して云、理訴を極ずして下向の条謂なし。山門にてこそ、火にも水にも成べけれとて、重て又追上す。寺官山上に越年して、(有朋上P108)谷々坊々に訴れども不(二)事行(一)、此由かくと申下たりければ、又八院三社の大衆、三寺四社の衆徒、不日に衆会して僉議(せんぎ)して云、謹で白山妙理権現の垂跡(すいしやく)を尋奉れば、日本根子高瑞浄足姫御宇、
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養老年中に鎮護国家の大徳神、融禅師行出し給て、星霜既に五百歳に及で、効験于(レ)今新なり。日本無双の霊峯として、朝家唯一の神明也。而を目代(もくだい)師経(もろつね)程の者に、末寺一院を被(二)焼亡(一)て、非(レ)可(二)黙止(一)、此条もし無沙汰ならば、向後の嘲不(レ)可(二)断絶(一)、
S0403 白山神輿登山事
糾断遅々の上は、神輿を本山延暦寺に奉(二)振上(一)、訴申さんに、大衆定贔負せられば、訴訟(そしよう)争か不(レ)達、若目代(もくだい)師経(もろつね)に被(レ)狂て、理訴非に被(レ)処者、我寺々に跡をとゞむべからずと議定して、各白山権現の御前にして、一味の起請を書灰に焼て、神水に浮て呑(レ)之、身の毛竪てぞ覚ける。さらば何をか期すべき、奉(レ)出とて、白山七所の其中に、佐羅の早松の御輿を奉(レ)飾、本地は不動明王(ふどうみやうわう)、悪魔降伏忿怒形、賞罰厳重の大明神(だいみやうじん)也。安元三年正月三十日辛未日、吉日也とて、御門出あり。同二月五日丙子を吉日として、早松の社より願成寺へつかせ給ふ。御共の大衆一千余人、皆甲冑を帯して是を晴とぞ出立たる。六日は仏(有朋上P109)が原、金剣宮へ奉(レ)入。此明神と申は、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に、此所に奉(レ)祝て三百五十余年也。本地は倶梨伽羅不動明王(ふどうみやうわう)也、魔王と威勢を諍て、邪見の剣を呑給ふ。当社に両三日の逗留あり。衆徒も神人も念珠を揉、手を叩て、帰命頂礼(きみやうちやうらい)、早松金剣両所権現、本地垂跡(すいしやく)力合せ、思を一にして、速に師高(もろたか)、師経(もろつね)を召捕給へと、口々に咒咀しけるこそ恐しけれ。同九日留守所より牒状あり。使には橘次大夫則次、田次大夫忠俊也。彼状云、留守所牒、白山中宮衆徒之衙まらうとい
  欲(三)早被(レ)停(二)止衆徒之参洛(一)事
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牒衆徒載(二)神輿(一)、企(二)参洛(一)、擬(レ)致(二)訴訟(そしよう)(一)之条、非(レ)無(二)不審(一)、依(レ)之差(二)遣在庁忠俊(一)、尋(二)申子細(一)之処、就(二)石井法橋之訴詔(そしよう)(一)、令(二)参洛(一)之由返答之趣、理豈可(レ)然、争依(二)小事(一)可(レ)奉(レ)動(二)大神(一)哉、若為(二)国司之御沙汰(一)、可(レ)被(二)裁許(一)者、速賜(二)解状(一)、可(二)申上(一)也、仍察(レ)状以牒。
   安元三年二月九日          散位財朝臣
                     散位大江朝臣
                     散位源朝臣各在判
とぞ書たりける。衆徒の返牒状云、(有朋上P110)
白山中宮大衆政所返牒   留守所衙
  来牒一紙被(二)載送(一)、神輿御上洛事
牒、今月九日牒状同日到来、依(レ)状案(二)事情(一)、人成(レ)恨神起(レ)嗔、神明与(二)衆徒(一)鬱憤和合、而既点(二)定吉日(一)、早進(二)発旅宿(一)、人力不(レ)可(二)成敗(一)、冥慮輙不(レ)可(レ)測矣、仍返牒之状如(レ)件。
   安元三年二月九日              中宮大衆等と
書すてて、同十日金剣宮を出し奉てあはづへ著せ給ふ。十一日には須河社、十二日には越前国細呂宜山の麓、福龍寺森の御堂へ入せ給ふ。今日神人宮仕此彼より参集て、御伴の人数九千余人、在々所々に充満たり。是に留主所(るすしよ)より神輿を留め奉らんために、在庁の中に糾の二郎大夫為俊、安二郎大夫
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忠俊二人、所従眷属五十余人相具して追ける程に、野代山にて馳附たりけるが、坂中にて馬を倒て、足を折、目くれ腰直などしければ、これ直事ならずとて、八丈二尺御幣衣に進て、跋行留主所(るすしよ)へ帰にけり。見(レ)之大衆も神人も、冥慮憑く思ければ、各勇て進上、十三日には木田河の耳、十四日には小林の宮、十五日にはかへるの堂、十六日には水津の浦、十七日には敦賀の津、北の端、金が崎の観音堂へ奉(レ)入。路次の煩衆徒の憤、山上洛中不(レ)斜。当時の貫首明雲僧正と申すは、(有朋上P111)久我太政(だいじやう)大臣(だいじん)雅実の御嫡子、六条源大納言顕通の御子也。白山の神輿登山の事、可(レ)奉(二)禦留(一)之由、院宣を被(レ)下之間、貫首の御沙汰として、門跡の大衆二十人に被(二)下知(一)之間、衆徒、院宣並寺牒を帯して、本寺の専当千仁金力等を先として、同十九日敦賀津に下て、寺牒を披露し、奉(レ)留(二)神輿(一)。其状云、
延暦寺政所下、           加賀馬場先達神人等
  可(下)早止(二)上洛儀(一)待(中)御裁下(上)事
右近日住僧神官等、捧(二)神輿(一)企(二)上道(一)之旨、在(二)其聞(一)、甚以不(レ)可(レ)然、相(二)当仙洞熊野参詣之折節(一)、訴訟(そしよう)奏聞無(レ)便、就(レ)中(なかんづく)件訴、貫首度々雖(レ)有(二)沙汰(一)、其後成敗自然遅引、重可(レ)有(二)御沙汰(一)也、而此間無(二)左右(一)企(二)上洛(一)者、雖(レ)有(二)狼戻勘発(一)、更無(二)訴訟(そしよう)裁判(一)歟、忽任(二)自由(一)者、定及(二)後悔(一)歟、云先達云、神人閑廻(二)随分之思案(一)、可(レ)存(二)向後之安堵(一)宜(二)承知(一)、止(二)参洛(一)之状以下。
   安元三年二月日            小寺主法師琳海
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                      都維那大法師
                      寺主大法師(有朋上P112)
                      上座大法師
                      修理別当法眼和尚位
とぞ書たりける。中宮の衆徒僉議(せんぎ)して云、且は本山の大衆、上下三百余人下向あり、且は制止の寺牒到来せり、先捧(二)返牒(一)、且く可(レ)待(二)裁許(一)とて注状云、
請謹延暦寺御寺牒まらうといやまと
   被(二)載下(一)可(レ)止(二)白山神輿上洛(一)事
右当山権現者、掛忝天神元初之、国常立尊之、為(レ)守(二)実祚(一)、垂(二)迹于我朝(一)、為(レ)弘(二)仏法(一)、濫(二)觴于此砌(一)也、依(レ)之代々聖主、帰(二)妙理大菩薩之効験(一)、世々臣公仰(二)神融小禅師之徳行(一)、爰為(二)目代(もくだい)師経(もろつね)(一)、焼(二)払涌泉一寺(一)、没(二)倒寺社料所(一)之間、以去年十月之比、欲(レ)企(二)推参(一)蒙(二)裁許(一)之処、被(レ)下(二)宣命並御下文(一)云、冥侍(二)聖断(一)仰(二)上載於鬱訴(一)、相賂者可(レ)言(二)上子細(一)云々、仍以同十一月、雖(三)差専使(レ)致(二)訴詔(一)、于(レ)今無(二)御裁報(一)、而空送(二)年月(一)畢、倩案(二)事情(一)、白山妙理権現者、雖(レ)有(二)敷地(一)、併山門三千之聖供也、雖(レ)有(二)兎田(一)、又当(レ)任(二)没倒(一)、非(二)神物(一)、故只有(レ)名更無(レ)実、是以恒例之神事仏事、此時既断絶、以往之八講、三十講、今正及(二)闕退(一)、随而近来無(レ)有(二)参詣(一)、再拝之輩、不(レ)見(二)帰敬奉幣之頴(一)、大悲
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和光(わくわう)之素意難(有朋上P113)(レ)測、三所垂迹之玄応失(レ)憲歟、云(二)寺僧(一)云(二)氏人(一)、歎(二)冥威之陵怠(一)、非(二)権迹之衰微(一)、而奉(レ)戴(二)神輿(一)、所(レ)企(二)推参(一)也、痛哉神明閉(レ)扉、不(レ)見(二)星宿之光(一)、哀哉往侶迷(レ)道、永忘(二)後栄之思(一)、五尺之洪鐘、徒侍(二)響於松栢之風(一)、六時之行法、空任(二)声於紫蘭之嵐(一)矣、但慮(二)神明之冥覧(一)、定不(レ)可(レ)失(レ)徳、人倫之迷情争可(レ)知(二)霊応(れいおう)(一)、早示(二)現将来之吉凶(一)、託(二)宣当時之眉目(一)給江登社僧、一心合(レ)掌、神女三業、低(レ)頭而致(二)祈誓(一)之処、人恨融(二)于神(一)、神嗔通(二)于人(一)、依(レ)有(二)夢想之告託宣之聞(一)、憑(二)神託(一)驚(二)示現(一)、暫不(レ)顧(二)本寺之厳制(一)、既奉(レ)動(二)末社之神輿(一)畢、雖(レ)然任(二)御寺牒之趣(一)、奉(レ)相(二)待裁報之左右(一)所、抑留(二)神明之上洛(一)也、仍返牒言上如(レ)件、
   安元三年二月廿日            中宮衆徒等請文
とぞ書上たる。此上は山門の衆徒登山しぬ、其後神明の旅宿、訴詔(そしよう)の遅怠、心元なしとて、中宮の大衆の中に、智積、覚明、仏光等の骨張の輩六人、同二十八日に坂本につき、同二十九日に登山して、西塔院谷、千光院の助公貞寛がもとを宿房として、子細を訴申間、貞寛満山三塔に披露しければ、大衆度々蜂起して衆議する処に、三月九日被(レ)下(二)院宣(一)云。(有朋上P114)
  加賀国温河焼失事
右非(二)白山々門之末寺(一)之由、在庁雖(レ)令(レ)申、大衆強訴申由、依(二)令(レ)申給(一)、目代(もくだい)師経(もろつね)可(レ)被(レ)行(二)罪科(一)。抑依(二)大衆之語(一)号(二)末寺(一)、致(二)無道濫訴(一)、恣動(二)神輿(一)、欲(レ)企(二)参洛(一)、悪僧張本二人、南陽房明恵聖道房坐蓮 慥令(レ)召
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進(一)、可(レ)被(レ)尋(二)問子細(一)者也、依(二)御気色(一)上啓如(レ)件。
   三月九日                右京大夫泰経
謹上、山座主僧正御房とぞ有ける。寺官依(二)貫首の御下知(一)、一山三院に披露しけれ共、是を用ず、則其夜大講堂の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)して云、上之為(レ)上依(二)下之崇敬、下之為(レ)下守(二)上之威応(一)、千里駒非(二)毎不(一)(レ)行、揚(二)宝雀(一)離(レ)母不(レ)飛云事あり。然者(しかれば)末寺の訴詔(そしよう)不(レ)可(レ)疎、末寺の僧侶不(レ)可(レ)苟、末寺として既に本山を憑、本山争末寺を棄ん。就(レ)中(なかんづく)神輿旅宿に御座、空本社に還御あらば、白山面目を失、神慮尤難(レ)測、早本末力を一にして、神輿を迎え奉り、仏神威を垂給はば、豈無(二)裁許(一)哉と云ければ、尤々(もつとももつとも)と同じけり。仏光以下の輩悦て、十一日に山を立て、十二日に敦賀津に著。僉議(せんぎ)の趣披露しければ、白山の衆徒等勇悦で、十三日に神輿を奉(レ)出、荒智の中山立越て、海津の浦に著給ふ。是より御舟に召て海上に浮給へり。或は浜路を歩大衆もあり、或は波路を分る神人もあり。比 (有朋上P115)叡辻の神主が夢に見たりけるは、戸津比叡辻の浦に、いみじく飾尋常なる船七艘有、日中なるに篝を燃す。舟ごとに狩衣に玉襷あげたる者の、北へ向て舟を漕。いかなる人の御物詣ぞと問ば、白山権現の神輿の御上洛之間、御迎にとて山王の出させ給御舟也と申。角云者の姿をみれば、身は人、面は猿にてぞ有ける。打驚たれば汗身にあまれり。不思議やと思立出て、四方を見渡せば、此山より黒雲一叢引渡、雷電ひゞきて氷の雨ふり、能美の山の峰つゞき、塩津、海津、伊吹の山、比良の裾野、和爾、片田、比叡山、
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唐崎、志賀、三井寺に至(いたる)まで、皆白平に雪ぞ降。十四日の子時には、客人の宮の拝殿へ奉(レ)入。客人の神明は、金の扉を押開、早松の明神は、錦の帳を巻揚て、御訴詔(ごそしよう)の有様(ありさま)御物語(おんものがたり)もや有らんと身の毛竪てぞ覚ける。三千の衆徒踵を継、礼拝袖をぞ列ける。係ければ、山門大衆奏状を捧て、国司師高(もろたか)を被(二)流罪(一)。目代(もくだい)師経(もろつね)を可(レ)被(二)禁獄(一)之由度々奏聞に及けれ共、更に御裁許なかりけり、太政(だいじやう)大臣(だいじん)已下さも可(レ)然公卿殿上人、哀とく御裁許有べき物を、山門の訴詔(そしよう)は昔より也に異也、大蔵卿為房、太宰師李仲卿は、朝家の重臣也しか共、大衆の訴詔(そしよう)に依、被(二)流罪(一)き。況師高(もろたか)、師経等(もろつねら)が事は、物の数にや有べき。子細に及ぬ事也と、内々は私語申けれ共、言に顕て奏聞の人なし。理や大臣重(レ)禄不(レ)諌、小臣(有朋上P116)畏(レ)罪不(レ)言、下の情不(レ)通(レ)上、此患之大也と云事あり。去ば各口をぞ閉たりける。後朱雀院御宇、長暦年中に、宇治関白(くわんばく)頼通公の吹挙に依、三井の明尊僧正、天台座主に被(レ)補之時、山門の衆徒関白殿(くわんばくどの)に訴申刻、衆徒と軍兵と忽に動乱及けり。此事の張本と号して、頼寿、良円両僧都(そうづ)罪名を被(レ)勘ける程に、主上御悩の事あり。様々御祈有けるに、山王託宣して云、吾は是悪霊に非、死霊に非、根本(こんぼん)叡山の主也、内一乗の教法を味て寿とし、外に三千の僧侶を養て子とする神也。去し春、山僧等不慮の殃にあへり、此事訴申さん為に、玉体に奉(二)近付(一)也とありければ、即頼寿良円が罪名を被(レ)宥つゝ、様々の御をこたり申させ給けり。白川院は賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕心に随ぬ者と、常は仰の有けるとぞ申伝たる。
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鳥羽院御時、平泉寺を以、園城寺へ被(レ)付由、其聞え有しに、山門の衆徒騒動して、奏状を捧て訴申、非拠之乱訴也けれ共、院宣には帰依不(レ)浅、遂に以(レ)非為(レ)理所(レ)被(二)裁許(一)也とぞ被(二)仰下(一)ける。堀川院御宇、寛治四年に大蔵卿為房を哀みさゝへさせ給けるに、江中納言匡房被(レ)申けるは、三千の衆徒、七社の神輿を陣頭に奉(レ)振訴申さん時、君はいかゞ可(レ)有(二)御計(一)と奏申ければ、実に難(二)黙止(一)事也とぞ仰ける。同帝御宇、嘉保二年に伊予入道源頼義が子に、美濃守義綱朝臣、当国の新立の庄(有朋上P117)を倒しける故に、事出来て山門の久往者円応被(二)殺害(一)けり。此事訴申さん為に、同十月廿四日、山門衆徒社司寺官等を以捧(二)解状(一)、卅余人下洛之由風聞あり。武士を川原へ被(二)差向(一)て禦けれ共、押破て陣頭へ参。中宮大夫師忠が申状に依、時の関白(くわんばく)師道後二条殿、中務丞頼治と云侍を召て、只法に任て可(レ)禦也と仰含られければ、頼治承て興有事に思散々(さんざん)に禦。疵を蒙る神民六人、死する者二人、禰宜友実が背に矢立ける上は、社司も寺官も四方に逃失にけり。神慮誠難(レ)測ぞ覚ける。猶子細を為(二)奏聞(一)とて、一山僧綱等(そうがうら)下洛しけれ共、武士を西坂本へ差遣被(レ)禦しかば、空く帰登。同廿五日に大衆大講堂の庭に会合僉議(せんぎ)して云、我山は是日本無双の霊地、国家守護の道場也、而子細奏聞の使をば被(レ)追返(一)、寺官社司は被(二)射殺(一)ぬ、此上は当山に跡を止て何にかせん、中堂(ちゆうだう)講堂已下諸堂、大宮二宮以下の諸社灰燼と成て、各有縁の方へ赴べしとて、三千の枢を閉修学の窓を塞離山しけるが、最後の名残(なごり)を
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惜み、三山の参詣を遂、伽藍の御前に跪きては、叡慮の恨しき事を申、横川の御■(ごべう)に参ては、離山袖をぞ絞ける。角て三千の衆徒東坂本に下七社の宝前にして、真読の大般若あり。社々にて申上有ける内、八王子(はちわうじ)の御前にて、仲胤法印いまだ供奉にて御座けるが、啓白の導師として高座に上り説法して、教化の詞に云、菜種(有朋上P118)の竹馬の昔より、生立たる友実と知ながら、蒸物に合て腰絡し給殿に鏑矢一放給へ、大八王子権現(だいはちわうじごんげん)とぞ申ける。其上禰宜友実を八王子(はちわうじ)の拝殿に舁入て、社官神女等手を拍声を挙て、関白殿(くわんばくどの)を呪咀しけるこそ、聞も身の毛竪けれ。山王慥聞食入させ給けるにや八王子(はちわうじ)の御神殿より、鏑箭鳴出て、王城を指て鳴行とぞ、諸人の耳に聞えける。係りければ大衆は神明も力を合給にこそとて、離山を止て七社の神輿を荘奉て、根本中堂(こんぼんちゆうだう)振上奉り、関白殿(くわんばくどの)を咒咀しけるこそ恐ろしけれ。神輿の御動座是ぞ始也ける。権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)匡房は、和漢の才幹世にゆるされ、廉直の政理に私なき人也。此事大に歎申給へり。師忠悪様執申さずは、関白(くわんばく)御憤(おんいきどほり)あらんや、関白(くわんばく)頼治に下知し給はずば、神明御恥に及給ふべしや、讒臣(ざんしん)乱(レ)国といへり。為(レ)世為(レ)人に哀亡国の基かなとぞ宣ける。去程に関白殿(くわんばくどの)御夢御覧じけるこそ恐ろしけれ。比叡大岳頽割て、御身に係ると覚え、打驚給て浅増と思召(おぼしめす)処に、又うつゝに東坂本の方より鏑矢の鳴り来つて、御殿の上に慥に立とぞ被(二)聞召(一)ける。即青侍を以て、被(レ)見ければ、寝殿の狐戸に、しでの付たる青榊一本、立たりけるこそ不思議なれ。関白殿(くわんばくどの)は夢も現も山王の御祟、恐ろしく被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける程に、御髪際に悪瘡出来させ給へりと披露あり。牛馬巷に馳違、輿車門前に多し。(有朋上P119)
S0404 殿下御母立願事
父の大殿、御母儀(おぼぎ)、北政所(きたのまんどころ)の御歎不(レ)斜、かた/゛\御祈始らる。一■(いつちやく)手半(しゆはん)の薬師(やくし)
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如来(によらいの)像、延命菩薩像各一体、又等身薬師(やくし)一体、造立供養あり。日吉社にして、千僧供養あり。又同社壇にて、十箇日の千座千僧の仁王講被(レ)行、又一切経並金泥の法華経書写供養あり。澄禅法印を以て被(二)啓白(一)。又根本中堂(こんぼんちゆうだう)にして、薬師経(やくしきやう)転読あり。其外諸寺諸社にして、貴僧高僧に仰て様々御祈有ける上に、■(くわう)■(りう)■(りよく)■(し)の類、金銀幣帛の賁り、神社仏寺に被(二)送進(一)けれ共、御心地いよ/\重くならせ給ければ、又丈六の薬師(やくし)七■(く)、阿弥陀如来(あみだによらい)一体造立あり。除病延命の御祈は、御志を尽し御座けれ共、更に御験なし。父京極の大殿、憑なき御有様(おんありさま)を御覧じて、二紙の願書をあそばして、日吉社にて可(レ)被(二)啓白(一)之由仰て、天台座主へ被(二)送進(一)。其願書に云、日吉社にて臨時の祭を居、百番の御子の渡物、百番の一物、百番の流鏑馬、百番の競馬、百番の相撲、廊の御神楽、三千人の衆徒に、毎年の冬衣食の二事十箇年連いて可(レ)送と也。され共いよ/\重らせ給ければ、御母儀(おぼぎ)北政所(きたのまんどころ)忍て御参社有て、七箇日御参篭あり、三の御願(ごぐわん)を立給へり。是をば人知ざり(有朋上P120)けり。出羽の羽黒より上たる身吉と云童御子の篭たりけるが、十禅師(じふぜんじ)の御前にて、俄に狂出て舞乙でけるが、暫有て死入けり。何者ぞ門外へ舁出せと云けるに、事の様を見よとて、大庭に舁居て守(レ)之。やゝ在て走出で舞乙、人奇特の思を成処に、汗押拭申けるは、衆生等慥にきけ、我には十禅師権現(じふぜんじごんげん)乗居させ給へり。我御前には摂禄の御母儀(おぼぎ)、大殿の北政所(きたのまんどころ)、七箇日御参篭有て、心中に三の御願(ごぐわん)あり、摂禄山王の御とがめとて、親に先立て世を早し給はんとす。今度の命を助させ給候はば、一には八王子(はちわうじ)の御前より二宮楼門まで、渡廊
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造連て可(レ)進。大衆参社之時、雨露之難を除かんため也。二には五人の姫君に御前にて、芝田楽躍せて、可(レ)奉(レ)見と也。此事こそ哀に思食(おぼしめ)せ、女御后にもといつきかしつき、玉簾錦茵に労奉て、あたにも出入給はぬ姫君達を、一人の子の悲さは、角思召(おぼしめす)こそ糸惜けれ。三には自都の住居を捨て、御輿の下殿に候ふ。宮篭に相交て、唐崎より白砂を千日運て進せんと也。太政(だいじやう)大臣(だいじん)家の北政所(きたのまんどころ)として、此態已に命を捨給程の御事也。此三の御願(ごぐわん)は、七社権現の外に人不(レ)知(レ)之、真に争知べき。親子の眤恩愛の情こそ神慮も悲思食とて、左右の袖を顔に当て、はら/\とこそ泣たりけれ。暫有て、母の子を思ふ志、助ばやと思召(おぼしめせ)ども、世に安かりし訴詔(そしよう)を大事に成、所司(有朋上P121)社司射殺され、山上山下叫声、我身の上の歎也。禰宜友実が頼治に被(レ)射たりし疵は、我身に立たる也、血出して見せんとて、肩を脱たりければ、背の中に疵あり。疵の中より血の出事夥し。此上はいかに祈申させ給共、助奉らんとはえ申さじとて、如(レ)元舞乙づ。参詣の道俗男女御子宮司、身の毛竪てぞ覚ける。北政所(きたのまんどころ)も忍て御身をやつし、宮篭の中に御坐けるが、つく/゛\聞(二)食之(一)悶絶して、地に倒もだえ■(こがれ)給けり。何習はせ給たる御事にあらね共、責の御子の悲さに、徒跣にて御足の欠損ずるをも顧させ給はず、御参有けるに、角聞召けん御心中、被(二)推量(一)哀也。心地観経に、悲母恩深如大海と説給へるも、今こそ被(二)思知(一)けれ。北政所(きたのまんどころ)は泣々又御心中に、一の願を立させ給けり。良久有て彼童神子申けるは、既に上らせ給はんとしつるに、北政所(きたのまんどころ)重て御心の底に、一の願を発給へり。長命までこそ叶はず共、半年一年也共、今度
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の命を助給へ、八王子(はちわうじ)の御前にて毎日法花講行て、法楽に備へんと也。此間様々の御願(ごぐわん)有といへ共、一乗の法味は飽思召(おぼしめす)事なし、聞ども/\弥めづら也。何の願よりも目出ければ、三年の命を奉る、其後は我を恨と思召(おぼしめす)な、必死決定とて権現上せ給にけり。北政所(きたのまんどころ)御所に帰入せ給て、此御物語(おんものがたり)有ければ、上下万人身の毛立てぞ覚ける。御託宣聊もたがはせ給はず、御腫物(有朋上P122)いへさせ給て、御心地本復せさせ給ければ、紀伊国田中庄は、殿下渡庄也けれ共、八王子(はちわうじ)に御寄附あり。依(レ)之問答講とて今に退転なし。其後中二年有て、承徳二年六月廿一日に、関白殿(くわんばくどの)本の御髪際に又悪瘡出きさせ給へり。兼て御託宣有しかば、今は一筋に後世の御営有けるが、同廿八日に、大殿に先立給て薨じ給ふ、御年三十八、未盛の御事也。京極の前大相国師実公の長男、御母は右大臣師房御娘也。才幹抜粋にして、容貌端正に御座し上、時の関白(くわんばく)に御座しかば、百官袂を絞り、万庶悲を含り。まして父の大殿、北政所(きたのまんどころ)の御心中、たゞ推量べし。此御病は御髪際に出て、悪瘡にて大に腫させ給へり。御看病に伺候したる輩、立烏帽子(たてえぼし)を著て前後に侍けるが、互に見ぬ程に大に高腫させ給たれば、入棺可(レ)奉(二)葬送(一)御有様(おんありさま)にも非。父の大殿是を守御覧じて、御涙に咽ばせ給ながら、御行水召れて、春日大明神(かすがだいみやうじん)を伏拝せ給て、子息師通山王の御咎とて世を早し候ぬ。いかに春日明神(かすがみやうじん)は、思食(おぼしめし)捨させ給けるやらん。但定業限あらん命、今は力及侍らず、かゝる浅間敷有様(ありさま)にて、恥隠べき様なし、此後の氏人々々たるべきならば、此姿を本の形に成給へ、最後の孝養仕んと、泣々(なくなく)口説給けるこそ哀なれ。御納受有けるにや、忽に御腫の
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しへさせ給て、入棺事畢にけり。関白殿(くわんばくどの)のさこそ御心も猛、理つ(有朋上P123)よくゆゝしき人にて御座しか共、事の急に成けるには、御命を惜給けり、誠に惜べき御齢也。未四十にだにも成せ給はず、何事も先世の事と申ながら、親に先立せ給ふ御怨も哀也し御事也。されば昔も今も山門の訴詔(そしよう)は恐しき事也、大衆憤をなし、山王の衆徒を育御坐事難(レ)黙止と申伝たり。中宮大夫師忠、奸邪の詞を出さずは、かゝる大事にや及べき。江中納言匡房卿の大に被(二)歎申(一)けるも、思知るゝとぞ申あへりける。
関白殿(くわんばくどの)薨去の後、八王子(はちわうじ)と三宮との神殿の間、磐石あり。彼石の下に、雨の降夜は、常に人の愁吟する声聞えけり。参詣の貴賎あやしみ思けり。余多人の夢に見けるは、束帯したる気高上臈の仰には、我はこれ前関白(くわんばく)従一位(じゆいちゐ)内大臣(ないだいじん)師通也。八王子権現(はちわうじごんげん)我魂を此岩の下に籠置せ給へり。さらぬだに悲、雨の降夜は石をとりて責押に依て、其苦み難(レ)堪也とて、石の中に御座とぞ示給たりける。星霜やう/\経程に、今は愁吟の音絶にけり。人の夢に、我久磐石の下に被(二)籠置(一)たりつれ共、長日の法華講経の功力に依、相助り、都卒天宮に生たりと告られけり。さてこそ磐石の重き苦の御音もなかりけれ。悪様に申勧まいらせたりける中宮大夫師忠も、幾程なくして失にけり。禰宜友実を射たりける中務丞頼治自害して、一類も皆亡けり。神明罰(二)愚人(一)とは此事にや、申すも中々疎也。(有朋上P124)
 今年改元有て治承元年といふ。
S0405 山門御輿振事
治承元年四月十三日辰刻に、山門大衆日吉七社の神輿を奉(レ)荘、根本中堂(こんぼんちゆうだう)へ振上奉、先八王子(はちわうじ)、客人権現、
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十禅師(じふぜんじ)、三社の神輿下洛有。白山、早松の神輿、同振下奉、大岳水呑不動堂、西坂本、下松、伐堤、梅忠、法城寺に成ければ、祗園三社、北野京極寺末社なれば、賀茂川原待受て、力合て振たりけり。東北院の辺より神人宮仕多来副て、手を扣音調て、をめき叫、貴賎上下走集て之拝し奉る。法施の声々響(レ)天、財施の散米地を埋たり。一条を西へぞ入せ給ける。まだ朝の事なれば、神宝日に輝て、日月地に落給へるかと覚たり。源平の軍兵依(二)勅命(一)四方の陣を警固す。神輿堀川猪熊を過させ給て、北の陣より達智門を志てぞふり寄たてまつる。
源兵庫頭頼政は、赤地錦直垂に、品皮威の鎧著て、五枚甲に滋藤の弓、廿四指たる大中黒の箭負て、宿赭白毛馬に白伏輪の鞍置て乗、三十余騎にて固たり。神輿既に門前近入せ給ければ、頼政急下馬す。甲を脱弓を平め、左右の臂(ひぢ)を地に突。頭を傾け奉(レ)拝。大将軍(有朋上P125)角しける上は、家子も郎等も各下馬して拝けり。大衆見(レ)之子細有らんとして、暫神輿をゆらへたり。頼政は丁七唱と云者を招で、子細を含て大衆の中へ使者に立。唱は小桜を黄に返たる鎧に、甲を脇に挟み弓を平め、神輿近参寄、敬屈して云、是は渡部党、箕田源氏綱が末葉に、丁七唱と申者にて侍。大衆の御中へ可(レ)申とて、源兵庫頭殿の御使に参て侍。加賀守師高(もろたか)狼藉の事に依、聖断遅々之間、山王神輿陣頭に入せ給べき由、其聞有て公家殊に騒驚き思召(おぼしめし)、門々を可(二)守護(一)之旨、勅定を蒙て、源平の官兵四方の陣を固る内、達智門を警固仕、昔は源平勝劣なかりき。今は源氏においては無(レ)力如し。頼政纔に其末に残て、
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たま/\綸言を蒙、勅命背き難ければ此門を固むる計也。然共年来医王山に首を傾奉て、子孫の神恩を奉(レ)仰、今更神輿に向奉て、弓を引可(レ)放(レ)矢ならねば、門を開て下馬仕引退て神輿を可(レ)奉(レ)入、其上纔の小勢也、衆徒を禦奉るに及ず、此上は大衆の御計たるべし。但三千の衆徒神輿を先立奉り、頼政■弱(わうじやく)の勢にて固て候門を、推破奉(レ)入ては、衆徒御高名候まじ、京童部が弱目の水とか笑申さん事をば、争か可(レ)無(二)御憚(一)。東面の北脇陽明門をば、小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)重盛公(しげもりこう)、三万余騎にて固らる。其より入せ御座べくや候らん。さらば神威の程も顕れ、御訴詔(ごそしよう)も成就し、衆徒後代の御高名(有朋上P126)にても候はんずれ。角申を押て入せ給はば、頼政今日より弓箭を捨て、命をば君に奉、骸を山王の御前にて曝べしと申せと候とて、太刀のつか砕よと握らへて立たり。大衆聞(レ)之、若衆徒は何条是非にや及べき、唯押破て陣頭へ奉(レ)入と云けるを、物に心得たる大衆老僧は、さればこそ子細有らんと思つるにとて、奉(レ)抑(二)神輿(一)暫僉議(せんぎ)しけり。
S0406 豪雲僉議(せんぎの)事
其中に西塔の法師に、摂津竪者豪雲と云者あり、悪僧にして学匠也。詩歌に達して口利也けるが、大音挙て僉議(せんぎ)しけるは、大内の四方門々端多し、強に北陣より非(レ)可(レ)奉(レ)入。就(レ)中(なかんづく)彼頼政は、六孫王より以来、弓箭の芸に携て、代々不覚の名をとらず、是は其家なれば、いかゞせん、和漢の才人風月の達者、かた/゛\優の仁にて有なる者を、
S0407 頼雅歌事
実や一とせ近衛院御位の時、当座の御会に、深山見(レ)花と云ふ題給りて、
  深山木の其梢共みえざりし桜は花にあらはれにけり K026(有朋上P127)
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と秀歌仕たりけるやさ男、さる情深き名仁ぞや。首を山王に傾て、年久掌を衆徒に合て降を乞、嗷々無(レ)情門々端多し、頼政が申状に随はるべき歟哉と■(ののしり)ければ、大衆尤々(もつとももつとも)と同じて三社の神輿を舁返し、東面の北の端、陽明門をぞ破ける。此門をば重盛(しげもり)の軍兵ぞ固たりける。警固の武士は神輿入たてまつらじと支たり。大衆神人は陣頭を押破らんとしける程に、以外に狼藉出来て、官兵矢を放。其矢十禅師(じふぜんじ)の御輿に立。神人一人宮仕一人射殺さる。蒙(レ)疵者も多かりけり。神輿に矢立神民殺害の上は、衆徒音を揚てをめき叫事夥し。見聞の貴賎も身毛立ばかり也。大衆は神輿を陣頭に奉(二)振捨(一)、なくなく本山に帰のぼりぬ。
 抑豪雲と云は、二品中務親王具平七代の孫、民部大輔憲政が子也けり。訴詔(そしよう)の事有て、後白川法皇の御所に参す。折節法皇南殿に出御有て、御座いかなる僧ぞと御尋あり。山僧摂津竪者豪雲と申者にて侍と奏したり。法皇被(二)仰下(一)けるは、実や和僧は山門僉議者(せんぎしや)と聞召、己が山門の講堂の庭にて僉議(せんぎ)するならん様に只今申せ、訴詔(そしよう)あらば直に可(レ)被(二)裁許(一)と、豪雲蒙(二)勅定(一)、頭を地に傾畏て奏しけるは、山門の僉議(せんぎ)と申事は、異なる様に侍、歌詠ずる音にもあらず、経論を説音にも非、又指向言談する体をもはなれたり、(有朋上P128)先王の舞を舞なるには、面摸の下にて鼻をにかむる事に侍る也。三塔の僉議(せんぎ)と申事は、大講堂の庭に三千人の衆徒会合して、破たる袈裟にて頭を裹、入堂杖とて三尺許なる杖を面々に突、道芝の露打払、小石一づつ持、其石に尻懸居並るに、弟子にも同宿にも、聞しられぬ様にもてなし、鼻を押へ声を替て、満山の大衆立廻られよやと申て、訴詔(そしよう)の趣を僉議(せんぎ)仕に、可(レ)然をば尤々(もつとももつとも)と同ず、不(レ)可(レ)然をば此条無(レ)謂と申、仮令勅定なればとて、ひた頭直面にては争か僉議(せんぎ)仕べきと申上れば、法皇先与に入せ給、早々罷帰て山門
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にて僉議(せんぎ)するらん様に出立て、急参て僉議(せんぎ)仕れと被(二)仰下(一)。豪雲宿坊に帰て、同宿共には袈裟にて裹(レ)頭、童部には直垂の袖にて頭裹せて、三十余人引具して、御前の雨打の石に尻係て並居たり。豪雲己が鼻を押へて、大衆立廻られよやと云て、我訴訟(そしよう)の趣を、事の始より終まで一時が程こそ申たれ。同宿共兼て存知の事なれば、尤々(もつとももつとも)と訴詔(そしよう)其謂あり、道理顕然也、早可(レ)被(レ)経(二)奏聞(一)、聖代明時之政化、争か無(二)御裁許(一)哉と申たりければ、法皇御興有て、則被(二)仰付(一)たりけるとかや。係者也ければ、さしもの乱の折節に、僉議(せんぎ)して頼政難を遁たり。
蔵人左少弁(させうべん)兼光仰を承て、先例を大外記師尚に被(レ)尋ける上、院の殿上にて、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。保安の例とて、神輿を祗園社へ可(レ)奉(レ)渡之由、諸(有朋上P129)卿各被(レ)申ければ、未刻に及で、彼社の別当権大僧都(ごんのだいそうづ)澄憲を召て、神輿を可(レ)奉(二)迎入(一)由仰含けり。澄憲畏つて奏申、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也、我神は又和光垂跡(わくわうすいしやく)之根元、効験掲焉之明神也、日吉の神威、異(二)于他(一)、山門の効験勝(二)于世(一)、恵亮脳を摧て、清和位に即給、尊意剣を振て、将門終に亡にき、神は又あくまで一乗の法味をなめて、感応風雲よりも速に、独百神の化導に秀、賞罰日月よりも明なり。
住吉明神託宣云、天慶年中に凶賊を誅する陣には、我大将軍にして、山王副将軍たり。康平年中の官軍には、山王大将軍として、我副将軍たりきと、依(レ)之代々の聖主、一山験徳を憑、世々の臣公七社の冥鑒を仰。神の神たるは、人の礼に依て也。人の人たるは神の加護に任たり。而を今度朝儀遅々の間、神輿入洛に及、尤恐思召(おぼしめす)べき事也、伝聞延喜帝の御宇に、飢饉疫癘起て、天下に餓死する者
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多し。帝民の亡るを歎思食(おぼしめし)て、我山に仰付て可(二)祈止(一)之由勅定あり、三塔会合して、僉議(せんぎ)区也。雨を祈雨を降し、日を祈て日を輝す事、非(レ)無(二)先例(一)。而に普天の飢饉四海の疫癘、いかゞ有べきと云大衆あり。或云辞申せば勅命を背に似たり、領掌すれば先蹤なしといへ共、皇王を守護し、夷狄を降伏し、天災を除地夭を転ずる事、我山万山に勝たり。況閻浮提人病之良薬、若人有病得聞是経、(有朋上P130)病即消滅不老不死と説り。一乗法花を転読して、七社権現に祈誓せば、何どか勝利なからんやと云大衆あり。或云、七難を滅して七福を生じ、不祥を退、夭蘖を払はんが為に、仏護国の法を説給へり。然者(しかれば)仁王経を転読講尺此時に当れりと云ければ、此義最然べしとて、三千衆徒一七箇日、山上三塔の諸堂にして、一万部の仁王般若を転読して、供養を山王の宝前にて遂けり、飢饉に責られ疫癘に浸れて、親に後る子、恩徳の高き涙を流し、子を先立る親、哀愍(あいみん)の深き袖を絞る。兄弟夫婦互に別亡ければ、京中も田舎も、皆触穢にて社参の者なし。折節四月上旬にて、導師説法の終に、卯月は神の月なれども、再拝と云人もなく、八日は薬師(やくし)の日なれども、南無と唱る声もせず、緋の玉垣地に倒、青葉の榊も不(レ)差けりとしたりければ、三千の衆徒一同に墨染の袖をぞ絞ける。神明御納受有ければ、則夜に帝の御夢想に、比叡山より天童二人下て、左手に瑠璃の壺を持、右の手に榊の枝を持て、榊を壺の水に指入て、京中辺土の病者に灑ければ、家々より青鬼赤鬼いくらと云数を知ず出て、さると叡覧あり。打驚御座て、朕が歎衆徒の祈、仏神に感応して、無為の代に成ぬるにこそと御感有て、説法の草案を被(レ)召、
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御衣の袖をぞ絞らせ給ける。いつしか民の煙もにぎはひ、烟絶せぬ御代に改たりければ、古歌を思食(おぼしめし)(有朋上P131)出て、
 高きやに上てみれば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり K027 
と、かゝる目出き我山也。係目出き垂跡(すいしやく)也。下洛実不(レ)輙、衆徒の憤冥慮に通する時、神輿必入洛あり、急可(レ)有(二)裁許(一)哉。
S0408 山王垂跡(すいしやくの)事 
凡山王権現と申は、磯城島金■宮、即位元年、大和国城上郡大三輪神と天降給しが、大津宮即位元年に、俗形老翁の体にて、大比叡大明神(だいみやうじん)と顕給へり。大乗院の座主慶命、山王の本地を被(二)祈申(一)けるに、御託宣に云、此にして無量歳仏果を期し、是にして無量歳群生を利すと仰ければ、座主提婆品の我見釈迦如来(しやかによらい)於無量劫、難行苦行積功累徳、求菩薩道未曾止息、観三千大千世界、乃至無有如芥子許非是菩提捨身命処と云文に思合て、大宮権現ははや釈尊の示現也けり。されば我滅度後於末法中、現大明神(だいみやうじん)広度衆生とも仰られ、汝勿帝泣於閻浮提、或復還生現大明神(だいみやうじん)とも慰給けるは、日本叡岳の麓に、日吉の大明神(だいみやうじん)と垂跡(すいしやく)し給べき事を説給けるにこそと、感涙をぞ流されける。地主権現と(有朋上P132)申は、豹留尊仏の時、天竺の南海に、一切衆生、悉有仏性と唱る波立て、東北方へ引けるに、彼波に乗て留らん所に落付んと思食(おぼしめし)けるに、遥(はるか)に百千万里の波路を凌て、小比叡の杉下に留らせ給けり、其後天照大神(てんせうだいじん)天の岩戸を開、天御鋒を以て海中を捜せ給しに、鋒に当人あり。誰人ぞと尋給ければ、我は是日本国の地主也とぞ答給ける、昔天地開闢の初の、国常立の尊の天降給へる也。此神日吉に顕給けるには、三津川の水五色の浪を流しけり。されば我朝は、大比叡小比叡とて大宮二宮の御国也。迹を叡山の麓に垂て、威を一朝の間に振、円宗守護之霊神、王城鎮護之霊社也。依(レ)之代々の
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帰敬是深、世々の崇信不(レ)浅、四海之甲乙掌を合、諸国之男女歩を運べり。
係目出き神輿を塵灰に蹴立て、白昼に雑人共に交奉り入奉らん事、其恐侍るべしと奏申たりければ、上一人より奉(レ)始、当参の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、随喜の涙を流して、偈仰の袖を絞けり。仍及(二)晩陰(一)祇園社へ奉(レ)入、神輿に立所の矢をば、神人を以て抜せられけり。
山門の大衆訴詔(そしよう)を致す時、聖断遅々の間、神輿を下し奉事、度々に及べり。
鳥羽院御宇嘉承三年三月三十日、尊勝寺灌頂(くわんぢやう)の事に依、二社八王子(はちわうじ)客人神輿、下松まで下給へり。可(レ)有(二)(レ)裁許(一)之由、即時に被(二)仰下(一)ければ、其夜御帰座、四月一日彼寺灌頂(くわんぢやう)(有朋上P133)被(レ)付(二)天台(一)両門之旨、被(二)仰下(一)畢。
崇徳院御宇、保安四年七月十八日、忠盛朝臣、神人殺害事に依、三聖並、三宮奉(レ)下(二)神輿(一)。官軍川原に馳向禦間、神人等神輿を奉(レ)捨分散す。大衆数百人感神院に引篭て官軍と合戦に及。
同御宇保延四年四月廿九日、賀茂社領住人、日吉馬上対捍の事に依、八王子(はちわうじ)、客人、十禅師(じふぜんじ)三社の神輿を仙洞へ、鳥羽院奉(レ)振。即時に裁許有ければ、大衆帰山の次で、鴨禰宜住宅を破却しけり。
近衛院御宇、久安三年六月廿八日、清盛朝臣郎従依(二)神人殺害事(一)、三社の御輿を陣頭に奉(レ)振。同日に忠盛可(レ)被(二)配流(一)之由、被(二)仰下(一)畢。
二条院御宇、永暦元年十一月十二日、菅貞衡朝臣息男資成、依(二)有智山僧坊焼失事(一)、三社の御輿を仙洞へ
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後白川院 奉(レ)振当日貞衡解官資成流罪、安楽寺住僧六人禁獄之由、右大弁雅頼を以て、大衆の中被(二)仰下(一)。大衆不日の勅裁を悦予して、倶舎頌を誦して帰山畢、やさしかりける事也。
高倉院御宇、嘉応元年十二月廿二日、尾張国目代(もくだい)政友、依(二)平野の神人陵礫の事(一)、三社の神輿を奉(レ)振(二)大内(一)、裁報遅々の間、御輿を南殿に向奉(二)振居(一)。同廿四日成親卿(なりちかのきやう)解官配流、備中国政友、禁獄之由被(二)宣下(一)畢。
神輿下洛の御事、代々及(二)六箇度(一)、毎度に武士を召て被(レ)禦けれ共、御輿に矢を進る事はなかりき。今度の御輿に矢の立事、乱国基歟、浅間しと云も疎也。(有朋上P134)人恨神怒れば災害必成といへり、天下の大事に及なんと、心ある者は上下皆歎恐けり。
四月十四日に、大衆なを可(二)下洛(一)之由聞えければ、夜中に主上腰与に召て、院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸、内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり)以下の人々、直衣に矢負て供奉せらる。軍兵御輿の前後に打囲て雲霞の如く也。中宮は御車にて行啓、禁中何と無く周章騒、男女東西に走迷へり。関白(くわんばく)以下大臣公卿殿上の侍臣皆馳参りけり。聖断遅々の間、衆徒多矢にあたり、神人殺害に及上は、神輿の残四社を奉(二)振下(一)、七社の神殿、三塔の仏閣一宇も不(レ)残焼払、山野に交るべし、悲哉西光一人が姦邪に依て、忽に園融十乗の教法を亡さん事をと、三千の衆徒僉議(せんぎ)すと聞えければ、当山の上綱を召て、可(レ)有(二)御成敗(一)之旨依(レ)被(二)仰下(一)、十五日勅定を披露の為に、僧綱等(そうがうら)登山しけるを、衆徒嗔を成て、水飲に下向て追臨す。僧綱(そうがう)色を失て逃下。
S0409 師高(もろたか)流罪宣事
廿日
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加賀守師高(もろたか)解官、尾張国流罪由被(二)宣下(一)。上卿は権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)忠親卿(ただちかのきやう)也。此宣旨を以、急登山して、山門騒動を可(レ)鎮之由仰けれ共、衆徒の蜂起に恐、登山せんと云人なし。平(へい)大納言(だいなごん)(有朋上P135)時忠卿(ときただのきやう)、其時は中納言にて御座けるが、本より心猛勇る人にて、乱の中の面目とや被(レ)思けん、侍十人花を折て装束し、雑色共人に至(いたる)まで当色きせて出立給へり。山上には、時忠登山あらば、速にもとゞりを切、湖水にはめよなんど僉議(せんぎ)すと聞り。時忠卿(ときただのきやう)既に有(二)登山(一)。実に衆徒の嗔れる気色面を向べき様に非、只今可(レ)会(レ)事体也ければ、供に有つる侍も雑色も、大床の下御堂の陰に忍居たり。時忠卿(ときただのきやう)は少も騒給はず、大講堂の庭に進出て、懐中より矢立墨筆取出して、所司を招硯に水入、畳紙に一筆書てぞ給たりける。所司状を捧て大衆の前ことに披露す。其詞に云、衆徒致(二)濫悪(一)者、魔縁之所行、明王加(二)制止(一)者、善逝之加護也とぞ書たりける。大衆各見(レ)之、理なれば不(レ)及(二)引張(一)、還優に書れたる一筆かなと、称美賛嘆に及落涙する衆徒も多かりけり。其後師高(もろたか)解官配流の宣旨を取出て披露あり。
今月十三日叡山衆徒、舁(二)日吉社、感神院等之神輿(一)、不(レ)憚(二)勅制(一)乱(二)入陣中(一)。爰警固之輩、相(二)禦凶党之間(一)、其矢誤中(二)神輿(一)事、雖(レ)不(レ)図、何不(レ)行(二)其科(一)、宣(下)仰(二)検非違使(けんびゐし)(一)、召(二)平利家、同家兼、藤原通久、同成直、同光景、田使俊行等(一)、給(中)獄所(上)者也。従五位上加賀守藤原朝臣師高(もろたか)解官流罪尾張国、目代(もくだい)師経(もろつね)流罪備後国、奉(レ)射(二)神輿(一)官兵七人、禁獄事者、(有朋上P136)今日宣下訖。以(二)此旨(一)、可(下)令(レ)披(二)露山上(一)給(上)之由所(レ)候也、恐々謹言。
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   四月二十日                権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)藤原光能
執当法眼御房へとぞ有ける。
 追書に云、禁獄官兵等之交名、山上定令(二)不審(一)候歟、仍内々委相尋尻付交名一通、所(レ)被(二)相副(一)候也、平利家字平次、是は薩摩入道家季孫、中務丞家資子、同家兼字平五、故筑後入道家貞孫、平田太郎家継子、藤原通久字加藤太、同成直字十郎、是は右馬允成高子、同光景字新次郎、是は前左衛門尉忠清子、成田兵衛尉為成、田使俊行、難波吾郎と注したり。
衆徒取廻々々見(レ)之事柄よかりければ、逃隠たりつる侍も雑色も、此彼より出たりけり。時忠卿(ときただのきやう)則下洛して、参内事の次第一々に被(二)奏聞(一)けり、ゆゝしくぞ聞えける。後に大衆口々に申けるは、哀能はいみじき者かな、此時忠が五言四句の筆のすさみを以て、三千一山の憤を平げつゝ、難(レ)逃虎口を遁て、見るべき身の恥を逃ぬるこそ有難けれと感じけり。
 昔大国に魏文帝と云御門御座けり。其弟に陳思王と云ふ人あり。同母の兄弟にて、蘭菊の契深かるべかりけるに、何事の隔有けるやらん、兄の文帝、陳思王を悪で(有朋上P137)殺さんと思つゝ、弟を前に呼居て云けるは、汝七歩が間に詩を造、不(レ)然者(しかれば)速に汝を可(レ)殺と聞えければ、陳思死を逃んが為に、文帝の前を立ちて七歩しける間に、煮(レ)豆燃(二)豆■(一)豆在(二)釜中(一)泣、本是同根生、相煎何太急と云たりけれ。文帝感(レ)之弟を許し、厚断金兄弟の昵を成けり。是を七歩の才といへり。陳思王は七歩の詩を造て一生の命を助け、時忠卿(ときただのきやう)は両句の筆に依、三千の恥を遁たり。誠に時の災をまぬかるゝ事、芸能に過たるはなかりけり。
S0410 京中焼失事
四月廿八日亥刻に、樋口、富小路より焼亡あり。是は神輿を奉(レ)禦とて狼藉に及武士七人、禁獄之
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内、十禅師(じふぜんじ)の御輿に、矢を射立進らせける。成田兵衛為成と云者は、小松殿(こまつどの)の乳人子也。ことに重科の者也。衆徒の手に給て、唐崎に八付にせん罧にせんなど訴申ければ、小松殿(こまつどの)よりとかく山門を被(レ)宥て、禁獄をも乞免し、伊賀国へ流せとて所領へ下遺けるが、今日の晩程に、遺惜まんとて、同僚共が樋口富小路なる所に寄合て酒盛しけり。酒は飲ば酔習なれ共、各物狂しき心地出来て、成田が前に杯の有ける時、或(有朋上P138)者が申けるは、兵衛殿田舎へ御下向に、御肴に進べき物なし、便宜能是こそ候へとて、もとゞり切て抛出たり。又或者が、穴面白や、あれに劣べきかとて、耳を切て抛出す。又或仁思中には、大事の財惜からず、大事の財には命に過ぎたる者有まじ、是を希にして、腹掻切て臥ぬ。成田兵衛が、穴ゆゝしの肴共や、帰上て又酒飲事も難(レ)有、為成も肴出さんとて、自害して臥。家主の男思けるは、此者共かゝらんには、我身残たり共、六波羅へ被(二)召出(一)安穏なるまじとて、家に火さして炎の中に飛入て焼にけり。折節巽の風はげしく吹て、乾を指て燃ひろごる。融大臣塩釜や川原院より焼そめて、名所卅余箇所公卿家十七箇所焼にけり。染殿と申すは忠仁公の家也。正親町京極 小一条殿と申は、貞仁公の家とかや。近衛東洞院 染殿の南には、C和院、小二条、款冬殿と申は、二条東洞院也 三条宮の御子、左の小蔵宮とぞ申ける。照宣公の堀河殿、大炊御門、冷泉院、中御門の高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼三位の山井殿、鷹司殿、大炊殿、押小路町の鴨井殿、六条院、小松殿(こまつどの)、公任大納言の四条殿、良相公の西三条、高明御子の西宮、三条朱雀に、朱雀院、神泉苑、勧学院、奨学院、穀倉院、東三条
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近衛院、滋野井本院、小野宮、冬嗣大臣の閑院殿、北野天神紅梅殿、梅苑、桃苑、高松殿、中務の宮の千種殿、(有朋上P139)枇杷殿、一院京極殿、天の橋立に至(いたる)まで、一字も残らず焼にけり。まして其外家々は数を知ず、はては大内に吹付たりければ、朱雀門、応天門、会昌門、陽明、待賢、郁芳門、清涼、紫宸、大極殿、豊楽院、天透垣、竜の小路、殿上の小庭、延喜の荒海、見参の立板、動の橋、諸司八省までも、皆焼亡ぬ。浅揩ニ云も疎也。
S0411 盲ト事
大炊御門堀川に、盲の占する入道あり。占云言時日を違ず、人皆さすのみこと思へり。焼亡と■(ののし)りければ、此の盲目何く候ぞと問。火本は樋口富小路とこそ聞と云。盲しばし打案じて、戯呼一定此火は是様へ可(レ)来焼亡也、ゆゝしき大焼亡かな、在地の人々も、家々壊儲物共したゝめ置べきぞと云。聞者皆をかしう思て、樋口は遥の下、富の小路は東の端、さしもやは有べき、いかにと意得てかくは云ぞと問ければ、占は推条口占とて、火口といへば、燃広がらん、富小路といへば、鳶は天狗の乗物也、少路は歩道也、天狗は愛宕山に住ば、天狗のしわざにて、巽の樋口より乾の愛宕を指て、筋違さまに焼ぬと覚ゆとて、妻子引具し資財取運て逃にけり。人嗚呼がましく思けれ共、焼て(有朋上P140)後にぞ思合ける。
S0412 大極殿焼失事
樋口富少路よりすぢかへに乾を差て、車の輪程也ける炎、内裡の方へぞ飛行ける。これ直事非、比叡山より猿共が、松に火を付持下つゝ、京中を焼払ふとぞ、人の夢には見たりける。神輿に矢立、神人宮司、被(二)射殺(一)たりければ、山王嗔を成給、角亡し給けるにこそ。人恨神嗔、必災害成といへり。誠哉此事、大極殿〔は〕清和帝の御時、貞観十八年四月九日焼たりけるを、同十九年正月三日、陽成院の御即位
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は豊楽院にてぞ有ける。元慶元年四月九日事始有て、同三年十月八日ぞ被(二)造出(一)たりける。後冷泉院御宇、天喜五年二月廿一日に又焼にけり。治暦四年八月二日事始有て、同年十月十日棟上有けれ共不(レ)被(二)造出(一)、後冷泉院は隠れさせ給にけり。後三条院の御時、延久四年十月五日、被(二)造出(一)行幸有て宴会被(レ)行、文人詩を奉、伶人楽をぞ奏しける。今は世末に成、国の力衰て、又造出さるゝ事難もやあらんと、皆人嘆合給けり。嵯峨帝の御時、空海僧都(そうづ)勅を奉て、大極殿の額を被(レ)書たり。小野道風見(レ)之大極殿には非、火極殿とぞ見えたる、(有朋上P141)火極とは火極と読り、未来いかゞ有べかるらん、筆勢過たりとぞ笑ける。去ばにや、今かく亡ぬるこそ浅増けれ。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第五

P0103(有朋上P143)
保巻 第五
S0501 座主流罪事
安元(あんげん)三年五月五日、明雲(めいうん)僧正(そうじやう)被(レ)止(二)公請(一)之上、蔵人を遣て、被(レ)召(二)返御本尊(一)。其上使庁の使を以て、今度奉(レ)振(二)下神輿(一)、大衆の張本を被(レ)召けり。加賀国には座主の御房領あり。師高(もろたか)国務之刻、是を停廃の間、其宿意に依て、門徒の大衆を語らひ訴訟(そしよう)を致。既(すで)に朝家の及(二)御大事(一)之由、西光(さいくわう)法師(ほふし)父子讒奏之間、法皇大に逆鱗有て、殊に重科を行べき由被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。
同六日検非違使(けんびゐし)師房、使庁の下部二十余人(よにん)を相具して、白河高畠の座主の御坊内に乱入て、狼藉古今に絶たり。軈当日に印鎰を御経蔵へ奉(レ)渡。山門京都耳目を驚せり。衆徒谷々坊々に寄合々々私語けり。十一日七条の七宮覚快 天台座主(てんだいざす)に成せ給。是は鳥羽院(とばのゐん)の第七の皇子、故青蓮院大僧正(だいそうじやう)行玄の御弟子なり。同日に明法へ被(二)尋下(一)、宣旨状云、
延暦寺前座主僧正(そうじやう)明雲(めいうん)条々所犯事(有朋上P144)
一故大僧正(だいそうじやう)快秀、為(二)当山座主(一)間、相(二)語悪僧等(一)、令(レ)追(二)払山門(一)事。
一去嘉応元年、就(二)美濃国比良野庄民等(一)、結(二)構訴訟(そしよう)(一)、発(二)当山之悪徒(一)、令(レ)乱(二)入宮城(一)狼藉事。
一近日大衆蜂起事、次第超過、彼嘉応狼藉、先一旦意趣、催(二)三塔凶徒(一)、外構(二)制止之詞(一)、内成(二)騒動企(一)、
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蔑(二)爾朝章(一)、欲(レ)滅(二)仏法(一)、或以(二)凶徒(一)、乱(二)入陣中(一)、数箇所放火、或対(二)警固之輩(一)合戦、或帯(二)兵具(一)、可(レ)下(レ)洛之由、令(二)執奏(一)、誠是朝家之怨敵、偏叡山(えいさん)之魔滅者歟、仰(二)下明法博士(一)、就(二)彼条々所(一)(レ)犯、可(レ)勘(二)申明雲(めいうん)所(レ)当罪名(一)。
   安元(あんげん)三年五月十一日        蔵人頭右近衛中将藤原朝臣光能奉とぞ有ける。十二日に前座主所職を被(レ)止之上、大衆の張本を出すべき由、検非違使(けんびゐし)二人を被(二)差遣(一)、水火の責に及けり。此事に依て衆徒憤申て、猶参洛すべしと聞ければ、内裏並に法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に軍兵を被(二)召置(一)、大臣以下殿上の侍臣皆馳集りければ、京中の上下騒あへり。
S0502 山門奏状事(有朋上P145)
同十五日に前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)減(二)死罪一等(一)、可(レ)被(二)遠流(一)之由法家勘申之旨風聞有ければ、衆徒捧(二)奏状(一)云、
延暦寺三千大衆法師等誠惶誠恐謹言。
 請特蒙(二)天恩(一)、早被(レ)停(二)止前座主明雲(めいうん)配流並私領没官子細(一)事
右座主、是挑(二)法燈(一)之職、和尚又伝(二)戒光(一)之仁也、若処(二)重科(一)、被(二)配流(一)者、豈非(二)天台円宗(一)、忽滅(二)菩薩大戒(一)、永矢哉、因(レ)茲我山開闢之後、貫首草創以来、百王理乱、雖(二)是異(一)、一山安危、雖(レ)随(レ)時、只有(二)帰敬之礼(一)、都無(二)流罪之例(一)、就(レ)中(なかんづく)明雲(めいうん)是顕密之棟梁、智行之賢徳也、一山九院之陵遅、此時復(二)旧跡(一)、四教三密之紹隆其儀不(レ)恥、上代、今忽赴(二)遠方(一)、永別(二)我山(一)、衆徒悲歎何事如(レ)之、何況前座主、於(二)天朝(一)者、是一乗経之師範也、須(レ)尽(二)千歳之供給於仙院(一)者、又菩薩戒之和尚也、盍(レ)運(二)三時
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之礼敬(一)、今没官所(レ)知、更被(レ)蒙(二)重科(一)、寧非(二)大逆罪(一)哉、謹尋(三)異域訪(二)旧例(一)、未(レ)聞(二)一朝国師無(一)(レ)故、蒙(二)逆害(一)矣、抑配流科怠何事乎、如(二)閭巷説(一)者、或人讒言度々、山門訴訟(そしよう)、或追(二)却快秀僧正(そうじやう)(一)、或訴(二)申成親卿(なりちかのきやう)(一)、又当時師高(もろたか)之事等、偏是明雲(めいうん)之結構者也、因(レ)此讒達忽蒙(二)勅勘(一)、云々、若如(二)風聞(一)者、何用(二)浮言(一)、須(下)対(二)決彼此(一)被(レ)糾(中)真偽(上)也、至(二)件等事(一)者、大衆鬱憤致(二)訴訟(そしよう)(一)之刻、於(二)前座主(一)(有朋上P146)者、毎度禁(二)制之(一)、蓋山門動揺、為(二)貫主痛(一)故也、対決処無(二)其隠(一)歟、設有(二)不慮越度(一)、何及(二)重科(一)耶、衆徒等、謹驚(二)天聴(一)欲(レ)救(二)末寺愚僧(一)之処、被(レ)召(二)其張本(一)、為(レ)歎之間、終失(二)本山之高僧(一)之条、不慮愁無(二)物取(一)(レ)喩、夫不(レ)蒙(二)聖勅(一)、勿(レ)散(二)怨望(一)、是常例也、今雖(レ)仰(二)天裁(一)、還蒙(二)厳罰(一)、未(レ)得(レ)意矣、抑我君太上法皇、偏仰(二)医王山王之冥徳(一)、久帰(二)台岳三宝(一)、専愍(二)山修山学之襌侶(一)、忝抽(二)興隆之叡慮(一)、而今仁恩忽変、誅戮俄来、数百歳之仏日云、迷(二)心神之所行(一)、三千人(さんぜんにん)之胸火熾燃、不(レ)知(二)愚身之所(一)(レ)措、若明雲(めいうん)被(二)配流(一)者、衆徒誰留(レ)跡、鎮護国家道場、眼前欲(二)魔滅(一)、早宥(二)明雲(めいうん)配流(一)、被(レ)停(二)止私領没官(一)者、十二願王新護(二)持玉体(一)、三千衆徒弥奉(レ)祈(二)宝算(一)矣、誠惶誠恐謹言。
   安元(あんげん)三年五月日
とぞ書たりける。但此奏状、誰人を以つてか伝奏すべきと僉議(せんぎ)ありけるに、禅門平相国は、既(すで)に一朝之固、万人之眼也。天下の乱山上の愁、争か其成敗なかるべき。就(レ)中(なかんづく)前座主は是れ大相国(たいしやうこく)の為に菩薩戒の和尚也。此事に於ては尤可(レ)被(レ)鳴(二)諫鼓(一)。若此憤を散ぜずして、大戒の和尚を令(二)還俗(一)、なほ被(二)流罪(一)
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者、則吾山の仏法破滅時至るなるべし、一字を習伝、一戒を受持たらん者は、師資の門葉也、誰人か背(レ)之、相国禅門受戒の弟子(有朋上P147)たり、仙洞を宥申されんに、なびき給はずば、三千の学侶、誰か身命を惜べきとて、各大講堂の前にして、満山の仏神伽藍の護法を驚奉て、泣々(なくなく)起請して云、衆徒の鬱憤不(レ)散して、固被(二)流罪(一)者、大衆皆従(レ)彼同蒙(二)配流之罪(一)、満山学侶一人も不(レ)可(レ)留。我山存亡只在(二)此成敗(一)、宣(下)察(二)此趣(一)被(中)執申(上)とて、同十七日に、所司等を以、福原の禅門大相国(たいしやうこく)へぞ送遣ける。二十日前座主の罪科の事、可(レ)有(二)僉議(せんぎ)(一)とて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)以下の公卿十三人参内あり。陣の座に著て其定有けれ共、冥には七社権現の照覧も難(レ)測、顕には三千衆徒の鬱憤も恐しくやおぼしけん、諸卿各口を閉て申す旨もなかりけり。其中に八条中納言長方卿、其時は左大弁宰相にて御座けるが被(レ)申けるは、法華の勘文に任て、死罪一等を減じて、雖(レ)可(レ)被(二)遠流(一)、前座主僧正(そうじやう)は、顕密兼学、浄行持律の上、公家には一乗園宗御師範也。法皇には円頓受戒の和尚たり、御経の師、御戒の師にや、被(レ)行(二)重科(一)事、冥の照覧難(レ)測、還俗遠流を可(レ)被(レ)宥かと、無(レ)所(レ)憚被(レ)申ければ、当座の公卿、各長方卿の被(二)定申(一)之義に同ずと被(レ)申けれ共、法皇の御憤(おんいきどほり)深かりければ、終に流罪に定りけり。太政(だいじやう)入道(にふだう)も此事角と承ければ、申止進らせんとて被(レ)参たれ共、御風の気とて御前へも召れず、御憤(おんいきどほ)りの深きよと心得て出給にけり。二十一日に前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)をば、大納言大夫(有朋上P148)藤原松枝と名を改て、伊豆国へ流罪と定る。係りければ、山門なほ騒動して、又神輿を振奉べしと聞えければ、御輿を下奉らんとて、西坂本の坂口、此彼
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松木を切持て行て、逆木にこそ引たりけれ。最をかしく見えし。いかなる者の読たるやらん、門の柱に御改名を添て、
  松枝は皆さかもぎに切はてて山にはざすにする者もなし K028 
寺法師の所行とぞ申ける。座主の流罪の事、人々諌申けれ共、西光(さいくわう)法師(ほふし)が無実の讒奏に依て、かく被(レ)行けり。今夜都を出奉らんとて、宣旨■(きび)しかりければ、追立の検非違使(けんびゐし)、白河高畠の御坊に参て責申しけり。座主は白河の御所を出給(たまひ)て、粟田口の辺、一切経の別所へ出させ給けり。大衆聞(レ)之、西光(さいくわう)法師(ほふし)父子が名を書て、根本中堂(こんぼんちゆうだう)に御座す。金毘羅大将の御足の下に蹈奉て、十二神将、七千夜叉、東西満山護法聖衆、山王七社、両所三聖、時刻を廻さず召捕り給へと呪咀しけるこそ懼しけれ。又大講堂の庭に、三塔会合して僉議(せんぎ)しけり。伝教、慈覚、智証大師の御事は不(レ)及(レ)申、義真和尚より以来五十五代、いまだ天台座主(てんだいざす)流罪の例を聞かず、末代と云とも、争か吾山に疵をば可(レ)付、心憂事也、天下を闇に成べしなんど喚叫ぶと聞えけり。同二十三日に、座主一切経の別所を出て配所へ(有朋上P149)赴給ふ。慈覚大師の自造り給へる如意輪の御像ばかりを、泣々(なくなく)御頸に被(レ)懸ける。朝夕に見馴給へる御弟子一人も不(レ)奉(レ)付、門徒の大衆も不(レ)参、御覧じも知ぬ武士に伴て出給ける御有様(おんありさま)、よその袂も絞けり。被(レ)召たる馬は浅猿き野馬に、けしかる鞍具足也。彼粟田口、両葉山、四宮河原を打過て、影も涼しき会坂の、関の清水を過越て、粟津の浦にぞ出給。漫々たる海上に、山田、矢橋の渡舟、漕わかれける形勢も、渺々たる浦路の、志賀
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坂本に立煙、空に消ゆく景気まで、我身の上とぞ思召(おぼしめす)。無動寺の御本坊、根本中堂(こんぼんちゆうだう)の杉の本、遥(はるか)に顧給(たまひ)て、御名残(おんなごり)こそ惜かりけめ。汀に遊鴎鳥、群居て思やなかるらん、唐崎の一松、友なき事をや歎らん。此れを見彼れを見給(たまひ)ても、唯香染の御衣をぞ被(レ)絞ける。角て暫く粟津の国分寺の毘沙門洞に立入給へり。
S0503 澄憲賜(二)血脈(一)事
故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の子息に、安居院の法印澄憲、いまだ権大僧都(ごんのだいそうづ)にて御座けるが、座主の遺を慕ひつゝ、国分寺まで奉(レ)送。座主は君に捨られ奉て、配所の道に出ぬるを、是までの芳志こそ憂身の旅の思出なれ、かゝる勅勘の者なれば、再び花洛に帰上らんまで、命なが(有朋上P150)らふべし共覚えず、弘通を遐代に及し、利益を有縁に施給へ、諸仏己心の所証也、天台秘密の法門也とて、一心三観の相承血脈を授らる。抑此法不(レ)輙、如来(によらい)四十余年懐に在て説給はず、此法難(レ)聞ければ、衆生無量億劫耳の外にして未(レ)聞、適釈尊出世の昔一乗弘宣の時、本迹二門に権智実智の一心三観を被(レ)演。灰沙の二乗は無生の悟を開、塵数の菩薩は増進の益に預き。竜女が速成を現じ、達多が授記を蒙し此法力也。天台大師は、大蘇山法花三昧の道場にして、行道誦経せし時に、霊山の一会現じつゝ、多宝塔中の釈迦より此法を伝給き。伝教大師は渡唐の時、台州臨海県の竜興寺極楽浄土院にして、道邃和尚に奉(レ)値、此法を伝受し給しより以来、相承聊爾ならず、血脈法機を守る、就(レ)中(なかんづく)国は粟散辺土也、時は濁世末代也、誠に非(レ)可(レ)輙、今日の情けに堪へずして、澄憲付属を得たりけり。僧都(そうづ)は血脈を給ひて、法衣の袖に裹みつゝ、泣々(なくなく)御前を立ちたまふ。
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去る程(ほど)に満山の大衆残留もなく、東坂本に下つゝ、十禅師(じふぜんじ)御前にて、各涙を流し僉議(せんぎ)しけるは、当山五十五代、いまだ天台座主(てんだいざす)流罪の例を聞ず、此時始て顕密の主を失ひ、修学の窓を閉事、唯当時の失(二)面目(一)のみに非、末代までも口惜かるべし、然者(しかれば)三千の衆徒等、違勅の咎を顧ず、貫首に代奉て粟津へ向、座主を可(レ)奉(二)取留(一)、但追立の官人両送使等有(有朋上P151)なれば、取得奉らん事難(レ)有からんか、此事冥慮に相叶、我山可(レ)為(二)我山(一)者、山王権現力を合せ給へ、衆徒の愁歎神明哀と思召(おぼしめさ)ば、只今験を見せ給へと、肝胆を砕て祈申ける程(ほど)に、十禅師(じふぜんじ)の宮の造合より、白髪たる老女一人現じて、心身を苦ましめ、五体に汗を流て、我に十禅師権現(じふぜんじごんげん)乗居させ給へり、誠に衆徒の歎難(二)黙止(一)、我此所に跡を垂事、円宗の仏法を守、三千の学侶を為(レ)育也。而今様なき例を我山に留、三千の貫首を被(二)流罪(一)事、我一人が歎なれば、冥慮誠に難(レ)休、速に可(レ)奉(レ)迎、深力を合べし、あな心うやとて左右の袖を顔に当、さめ/゛\とぞ泣ける。大衆恠(レ)之、誠に十禅師権現(じふぜんじごんげん)の御託宣ならば、我等験を奉らん、本の主々に返給とて、各念珠を大庭へ抛たりけり。物付是を取集て、左の手にくり懸て、立廻々々若干の念珠少も違へず、本の主々へ賦渡す。不思議なりし事共也。山王権現の霊験の新なる忝さに、衆徒涙を流つゝ、さらば迎へ奉れやとて、袈裟衣をば甲冑に脱替て、或は渺々たる志賀唐崎の浦路に、歩引唱衆徒もあり、或は漫々たる山田矢橋の湖上に、舟に竿さす大衆もあり。角て国分寺の毘沙門堂へ参りければ、稠げなりつる追立の官人も見えず、両送使も失にけり。座主は此有様(ありさま)を御覧じて、大に恐給被(レ)仰けるは、勅勘の者は月日の
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光にだにも不(レ)当とこそ申せ、況や不(レ)廻(二)時刻(一)、可(レ)被(二)(有朋上P152)追下(一)之由、被(二)宣下(一)上は、暫もやすらふべきに非、衆徒はとく/\帰上給へとて、端近出給宣(のたまひ)けるは、三台槐門の家を出て、四明幽渓の窓に入しより以来、広円宗の教法を学して、只我山の興隆をのみ思ひ、奉(レ)祈(二)国家(一)事も不(レ)疎、衆徒を育志も深りき。然而身に誤なうして、無実の讒奏により、遠流の重科を蒙る事、両所三聖定めて知見照覧し給らん、倩事の情を案ずるに、大唐には慈恩大師達磨和尚、配所の草に名を埋み、我朝には役優婆塞遠流の露に袖を絞給へりき。我身一人に非ず、是皆先世の宿業にこそと思へば、代をも人をも神をも仏をも奉(レ)恨心なし、是まで訪来り給へる衆徒の芳志こそ難(二)申尽(一)とて、香染の袖をぞ絞らせ給ける。奉(レ)見(レ)之衆徒、争か袖を絞ざるべき、皆鎧の袖をぞぬらしける。軈て御輿を舁寄て被(レ)召候へと勧申けれ共、昔こそ三千人(さんぜんにん)の貫首たりしか、今は係身に成て、再我山に還登事だに難(レ)有、いかゞ無(二)止事(一)修学者、智慧深大徳達に被(二)舁捧(一)上べき。■(わらんづ)なんど云物をはきて、同じ様に歩連てこそと宣へば、西塔法師に戒浄坊相模阿闇梨(あじやり)祐慶は、三塔無双の悪僧也。此僧は本園城寺の衆徒にて、よき学匠也けり。倶舎、成実の性相より、法相、天台の深義を極め、顕密両宗に亘つて三院三井の法燈也けるが、大慢偏執の者にて我執強僧也。我寺山徒の為にあざむかるゝ事、生々(有朋上P153)世々の遺恨に思けるが、妄念晴れ難く覚て、よしよし此寺にあればこそ此の思もあれ、不(レ)如山門に移住せんにはと変改して、住馴し三井の流を打捨て、西塔院へぞ渡にける。本より心立たる者なれば、三枚甲を居頸に著なし、黒皮威(くろかはをどし)の大荒目の冑に、
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三尺の大長刀の茅の葉の如なる杖に突て、衆徒の中に進入て申けるは、倩事の心を案ずるに、当山建立以後数百歳の星霜を送、貫首代々相続て、忝顕密の教法を弘通し給へり。四明の法燈一天之戒珠に御座す、而も姦臣の讒訴に依て実否糾されず、重科に被(レ)行給はん事、末代と云ながら心憂次第に非や。且は朝家の師範、且は山門の官長に御座、誰人か歎訪ひ奉らざらん、今度流罪に沈給はんに於ては、衆徒何の面目有りてか当山に可(レ)止(レ)跡、いづくまでも御供をこそ被(レ)申めとて、衆徒の中を指越々々座主の御前に参て、大長刀杖に突て、座主をはたと奉(レ)睨申けるは、加様に御心弱渡らせ給へばこそ、係る憂目をも御覧じ、山門に様なき疵をも付させ給へ、急御登山あらましかば、衆徒これ程の骨をばよも折侍らじ、其に貫首は三千衆徒に代て、流罪の宣旨を蒙らせ給ふ上は、衆徒貫首に代り奉て、命を失はん事、全くうれへに非ず、唯とく/\御輿に召されよやとて、御手をむずと取奉、引立御輿に奉(二)舁乗(一)。座主は戦々乗給けり。祐慶やがて先輿を仕る、東塔南谷、妙光坊の大和(有朋上P154)阿闍梨(あじやり)仙性と云ふ者、後陣を舁、国分の毘沙門堂より、鳥の飛が如風の吹様に、粟津原打出の浜、大津三井寺志賀の里、先陣後陣劣らずこそ見えけれ共、仙性が後陣には、時々大衆代りけり。祐慶が先陣は初より物具脱事もなく、高紐に甲を懸、輿を轅に長刀の柄折よ摧よと把具し、坂本早尾舁越して、さしも嶮しき東坂、一度も代らず、講堂の庭に舁付たり。爰に行歩に不(レ)叶老僧、若は花族の修学者、此事いかゞ有べき、日来は一山の貫首たりといへ共、今は流罪の宣旨を蒙給へり。横に取のぼせ奉事、違勅の咎難(レ)遁かと、様々僉議(せんぎ)あり。
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実と云衆徒も多かりけり。去ども祐慶は少もへらず、鎧の胸板きらめかし、扇披遣て申けるは、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也。一乗之教風扇(二)四海七社之威光(一)耀(二)卒土(一)、仏法王法午角にして、山上山下安泰なり。当山超(二)万山之威験(一)、此宗勝(二)諸宗之教法(一)、依(レ)之聖代明時合(二)掌於一実之円宗(一)、皇門后宮傾(二)頭於一山之効験(一)。然ば大衆の意趣も人にまさり、賎き法師原までも世以て軽しめず、何況や前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)は、智慧高貴にして一山の為(二)和尚(一)。徳行無双にして三千の貫長たり。当代に無(レ)罪被(二)遠流(一)給はん事、是山上洛中の歎のみに非ず、併興福園城の嘲也。悲哉止観上乗之窓前に、廃(二)蛍雪之勤(一)、怨哉瑜伽(ゆが)三密之壇上に、絶(二)護摩之煙(一)。就(レ)中(なかんづく)於(二)大唐震旦(一)、天台山(有朋上P155)長安城之艮也。於(二)我朝日本(一)、延暦寺平安城之鬼門也。伝教大師の御記文には、此山滅亡せば、国家も必ず滅亡せんといへり。而に末寺末社の訴訟(そしよう)に依て、衆徒子細を奏するは先例也。聖断遅々する時神輿の下洛ある事は是冥慮也。大衆争か可(レ)不(レ)被(二)合力(一)哉、異見の僉議(せんぎ)に付て例を此時に残されば、生々世々可(二)口惜(一)事なれば、所詮祐慶今度三塔の張本に召れて、被(レ)行(二)禁獄流罪(一)、たとひ雖(レ)被(レ)刎(レ)首、今生の面目、冥途の思出なるべし、全く怨に非ず、衆徒争か我山の疵を可(レ)不(レ)思と高声に■(ののし)り、双眼より涙をはら/\と流しければ、満山の大衆を聞、皆袖絞りつゝ尤々(もつとももつとも)と同じければ、軈座主を奉(レ)舁東塔南谷妙光坊へ奉(レ)入。其よりしてぞ祐慶をば、いかめ房とは申しける。
S0504 一行流罪事
 時の横災は、権化の人も、猶遁れ給はざりけるにや、大唐の一行阿闍梨(あじやり)は、無実の讒訴に依つて火羅国へ流され給(たま)ひけり。たとへば
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一行は玄宗皇帝の御加持の僧にて御座しが、而も天下第一の相人に御座ける。皇帝と楊貴妃と、連理の御情深くして、万機の政務も廃給程也けり。一行帝后二人の御中を相するに、后には御臍の下に黒子あり、野辺にし(有朋上P156)て死し給相也。帝には御うしろに紫の黒子あり、思に死する御相也と申けり。皇帝此の事を聞し召て、大方の相は正しく見る共、争か膚をば知るべき、通道のあればこそ臍の下の黒子をば知らめとて、可(二)流罪(一)之由被(二)仰下(一)ける程(ほど)に、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有つて、一行は朝家の国師、仏法の先達也、就(レ)中(なかんづく)相に於ては天下第一也、音を聞て五体を知り、面を見て心中を相するに敢て違ふ事なし、いかゞ可(レ)被(二)流罪(一)と申ければ、且くさし置給たりけるに、一行の弟子に賢鑁阿闍梨(あじやり)と云者あり、仏教博学にして智徳高く長ぜり。忽に師資の儀を忘て、独天下に秀でん事を思ければ、偸に一行の亡失ん事を思ける折節、流罪の沙汰の有ければ、次をえて后の御事種々に讒申ければ、帝逆鱗有りて火羅国へぞ被(レ)流ける。彼の国へ行には、三の道あるとかや、一には林池道とて古き都也ければ、御幸の外にはおぼろげにては人通はず。一には幽池道とて、雑人の通路也。一には闇穴道とて、罪ある者を流す道也。されば一行も此道よりぞ遣しける。件の道は、七日七夜が間空を見ずして行なれば、闇穴道とぞ名けたる。七十里の大河あり、碧潭深流れて、白浪高揚也、冥々として独行、閑々として人もなし。前途の末も知ざれば、さこそは悲く覚しけめ。天道無実の咎を哀て、九曜形を現つゝ闇穴道をぞ照されける。一行右の指を食切(有朋上P157)て、其の血を以て右の袖に写し留め給(たま)ひけり。九曜曼陀羅は其よりして弘まれり。彼一行阿闍梨(あじやり)と申は、本は天台の一行三昧の禅師也けるが、後に真言に移て悪行高顕て国家の重宝たり、慈悲普覆て、人臣の所(レ)帰也。被(二)讒申(一)けるこそ懼しけれ。一行無実之由、皇帝披聞召、則被(二)召返(一)、賢鑁造逆也、不善之咎難(レ)遁とて、被(二)流罪(一)ける程(ほど)に、竪牢地神の罰蒙て、大地忽に裂て、乍(レ)生大地獄にぞ落にける。在家を出て仏家に入、師恩を受て法恩を聞、たとひ報謝の心こそなから
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め、争か阿党を成べき。在世の調達滅後の賢鑁とりどりにこそ無慙なれ。さても一行の相し申さるゝ如く、楊貴妃は案禄山が為にすかし出されて、馬嵬の野辺に露と伴て消給ふ。皇帝は后の遺を悲て方士を以て蓬莱宮を尋らる、玉の簪し金鋏刀を被(二)返送(一)、いとゞ歎に臥給(たま)ひ、思死にぞ失給ふ。去ば顕密兼学、浄行持律の天台の座主讒し申す西光も、いかゞと覚ておぼつかなし。
S0505 山門落書事
山門大衆等流罪の座主を奉(二)取留(一)之由法皇聞食て、不(レ)安思召(おぼしめ)しける上に、西光(さいくわう)法師(ほふし)内々申けるは、山法師の昔より猥き沙汰仕る事は、今に始ぬ事なれ共、今度の狼藉は先代(有朋上P158)未聞の事に侍り、下として猥きを、上として緩に御沙汰あらば、世は世にても侍るまじ、能々可(レ)有(二)御誡(一)とぞ奏しける。只今我身の亡をも不(レ)知、山王権現の神慮にも不(レ)憚、加様に申ていとゞ宸襟を悩し奉る。讒臣(ざんしん)乱(レ)国、妬婦破(レ)家とも云、叢蘭欲(レ)茂秋風破(レ)之、王者欲(レ)明讒臣(ざんしん)隠(レ)之ともいへり、誠哉此事、抑今度大衆之狼藉仍可(レ)被(レ)責(二)山門(一)之由、被(レ)仰(二)武家(一)けれ共、進ざりければ、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)已下近習の輩武士を集て、大衆を可(レ)傾之由其沙汰あり、物にも覚えぬ若者共、北面の下臈等(げらふら)は、興ある事に思て勇みけり。少も物の心弁たる人々は、こはいかゞせん、只今天下の大事出来なんとぞ歎ける。内々又大衆をも誘、仰の有けるは、院宣の下も忝し、王土にはさまれて、さのみ詔命を対捍せんも恐有とて、思返靡き奉る衆徒もあり。大衆二心出来ぬと聞食ければ、座主は責の御事有し時、兎(と)も角(かく)も成たりせば、今は思切なまし、中々衆徒に被(二)取登(一)又いかに成べき身やらんと、御心細く思召(おぼしめし)けるに、大講堂の庭に会合僉議(せんぎ)しけるは、前座主を中途にして奉(二)取留(一)事、依(レ)軽(二)朝威(一)公家殊に御
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憤(おんいきどほり)深由、其の聞えあり、此事いかゞ有るべき、今は唯可(レ)奉(レ)宥(二)逆鱗(一)歟と云ける。砌に、落書あり、其状に云、
 告(二)申大衆御中(一)可(レ)被(レ)遣(二)入道大相国(たいしやうこく)許(一)事(有朋上P159)
夫前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)者、挑(二)法燈於三院之学■(がくようにかかげ)(一)、灑(二)戒水於四海之受者(一)顕密之大将、大戒之和尚也、三観之隙必専(二)金輪之九転(一)、六時之次先祈(二)玉体之長生(一)、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆思深而悛(二)九院之朽梁(一)、護国志厚而却(二)六蛮之凶徒(一)、依(レ)之法侶励(二)修学之労(一)、悪党隠(二)弓箭之具(一)、制(二)修羅之巧(一)、而飾(二)護国之道場(一)、豈非(レ)為(二)山門之奇異(一)哉、亦停(二)兵俗之器(一)、而残(二)法僧之道具(一)、寧非(レ)専(二)朝家之祈願(一)哉、為(二)天朝(一)為(二)国家(一)治者也、明人也、而有(三)一類謗家所(レ)悪成(二)瘡瘠(一)矣、其不(レ)被(レ)糺(二)是非(一)、不(レ)被(レ)尋(二)真偽(一)、預(二)重科(一)蒙(二)流罪(一)之条、是非(二)君有(一)(レ)偏、亦非(レ)臣無(一)(レ)忠、讒奏之酷、偽言之巧故也、讒口、煖(二)於黄金(一)、毀言銷(二)白骨(一)此謂歟、夫末寺末社之訴者、非(レ)始(二)于当代(一)、皆是往代例也、或断(二)根本(こんぼん)之仏事(一)、或闕(二)恒規之祭礼(一)之時、受(二)末所之愁訴(一)、而及(二)本山之悲歎(一)、列(二)大師門徒之族習(一)、皆成(二)教綱(一)之者、何可(レ)悦(二)三聖之威光消(一)、誰不(レ)悲(二)一山之仏法滅(一)乎、然者(しかれば)衆徒三千之蜂起、豈被(レ)引(二)座主一人之結構(一)哉、何況於(二)先座主(一)者、大畏(二)勅制(一)、而頻雖(レ)制(二)大衆蜂起(一)、依(二)残愁訴(一)尚(二)以烏合(一)者也、抑考(二)山門之故実(一)、懐(二)理訴(一)無(二)裁許(一)之時、衆徒等戴(二)三社之宝輿(一)、而、参(二)九重之金闕(一)、曩時之例中古之法也、厥皇化者、専(二)天下之太平(一)、貫首者慕(二)山上之安穏(一)、
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臣家可(レ)思(レ)奏者可(レ)案、豈勧(二)騒動於衆徒(一)、招(二)朝勘於一身(一)乎、凡大衆不(レ)叶(二)貫首之進止(一)、欲(有朋上P160)(レ)遂(二)訴訟之本意(一)、先皇之代在(レ)之、明哲之時非(レ)無(レ)依(レ)之、驚(二)先座主之罪名(一)、雖(レ)捧(二)衆徒之愁訴(一)、近臣依(二)怨家之語(一)、而全不(レ)達(二)上聞(一)、弁官随(一)姦人之謀(一)、更不(二)奏聞(一)、然間不(レ)被(レ)決(二)理非(一)、忽蒙(二)使庁之責(一)、不(レ)被(レ)糺(二)実否(一)、俄定(二)配流之国(一)、以(二)好言(一)而全(レ)人、以(二)悪口(一)損(レ)人者也、政忘(二)先例(一)、讒達(レ)巧故也、亦君非(レ)奇(二)叡山(えいさん)之仏法(一)、怨人之不(レ)知(二)食所疵(一)乎、誠魔界競(二)我山(一)、而法滅之期、得(二)此時(一)歟、波旬怯(二)洛城(一)、而無実之咎達(二)叡庁(一)歟、爰衆徒等、悲(二)仏法之命根断(一)、歎(二)大戒之血脈失(一)之処、如(二)風聞(一)者、師高(もろたか)往向(二)二村之辺(一)、可(レ)夭害先座主、云々、弥失(二)前後正亡思慮(一)、且芳(二)先賢之明徳(一)、且為(二)最後之面拝(一)、欲(レ)陣(二)申子細(一)、尚(二)配流路頭(一)之計也、夫根朽枝葉必枯矣、一宗長者衰、三千倶可(レ)衰、非(レ)痛(二)貫首之流罪(一)、只痛(二)師資相承之断(一)、非(レ)惜(二)一人嘉名(一)、偏惜(二)顕密両教之廃(一)、況先座主、鎮祠(二)候於鳳城(一)、而竪護(二)持於龍顔(一)、縦雖(レ)有(二)重罪之甚(一)、何不(レ)被(レ)免(二)於積労(一)、縦雖(レ)有(二)過去之業(一)、何不(レ)被(レ)置(二)礼儀於戒師(一)、若夫有(二)証拠(一)者、尤可(レ)賜(二)正文(一)也、非(レ)返(二)勅定(一)、陣(二)子細(一)計也、以(二)此旨(一)可(レ)被(二)執啓(一)、夫国土理乱任(二)臣忠否(一)、若不(レ)被(レ)糺(二)邪正之道(一)者、寧天子之守在(二)海外(一)乎。
   安元(あんげん)三年五月  日  とぞ書たりける。
此落書に依て、山門の大衆の座主を奉(二)取留(一)事は、公家御沙汰に不(レ)及(有朋上P161)けり。是偏医王山王の御利生也とぞ、人貴み申ける。
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S0506 行綱中言事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、山門の騒動に依て、私の宿意をば暫被(レ)押けり。其内議支度は様々也けれ共、儀勢計にて其事可(レ)叶共見えざりければ、さしも契深く憑れたりける多田蔵人行綱は、弓袋の料の白布を、直垂小袴に裁縫せて、家子郎等に著つゝ、目打しばだたきてつく/゛\案じつゝ、此事無益也と思ふ二心付にけり。倩平家の繁昌を見に、当時輒く難(レ)傾、大納言の語ひ給軍兵は、僅(わづか)にこそあれ、可(レ)立(レ)用之輩希也、無(レ)由事に与して、若聞えぬる者ならば、被(レ)誅事疑なし、無(二)甲斐(一)身にも命こそ大切なれ、他人の口より洩ぬ先にとて、五月廿日西八条へ推参して見ば、馬車数も知ず集たり、蔵人何事やらんと思て尋問ければ、案内者とおぼしくて答けるは、是は入道殿(にふだうどの)福原御下向の御留守に、君達会合して貝覆の御勝負也と云ければ、同廿七日に蔵人鞭を上て福原へ下向す。入道の宿所に行向て、可(二)申入(一)事侍りて行綱下向と申ければ、常にも不(レ)参者也、何事ぞ其聞とて、主馬(しゆめの)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)を被(レ)出たり。人伝に非(二)可(レ)申事(一)、直に見参に可(二)申入(一)と云たりければ、入道(有朋上P162)宣(のたまひ)けるは、行綱は源氏の最中也、隙もあらば平家を亡して、世を知らんと思心も有らんなれば、非(レ)可(二)打解(一)とて、子息重衡を相具し、銀にて蛭巻したる小長刀、盛国(もりくに)に持せて中門の廊に出合れたり。行綱申ければ、院中の人々兵具を調へ軍兵を集らるゝ事は、知召れ候やらんと申す。入道、其事にや、西光(さいくわう)法師(ほふし)が依(二)讒奏(一)、山門の大衆を可(レ)被(レ)責と聞ゆ。さまでの御企有べし共覚ずと、いと事もなげに宣ふ。行綱居寄て私語けるは、其義には侍らずとよ、御一門の事に候、仮令ば新(しん)大納言殿(だいなごんどの)、使を以て可(レ)申事あり、可(二)立寄(一)と承し間、
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如(二)御諚(一)山門の事と存候て、中御門の宿所へ罷向之処に、行綱見え来らば鹿の谷へ可(レ)参とぞ仰也と申間、則打越て見廻し侍れば、馬車其数立並たり、分入みれば酒宴の座席也、人々目に懸て其へ其へと申に付て著座す、やがて酒をすゝむ、当座には新(しん)大納言(だいなごん)家(け)父子、近江中将入道殿(にふだうどの)、法勝寺執行法印、平判官康頼、西光(さいくわう)法師(ほふし)ぞ候き、行綱酒三度たべて後、大納言宣しは、平家は悪行法に過て、動すれば奉(レ)嘲(二)朝家(一)之間、可(二)追討(一)之由、被(レ)下(二)院宣(一)たり。但源平両氏は、昔より朝家前後之将軍として、逆臣を誅戮して所(レ)蒙(二)異賞(一)也、されば今度の合戦には御辺を憑、可(レ)有(二)其意(一)と被(レ)仰間、こは浅間敷(あさましき)事かな、いかゞ返答申べきと存ぜしかども、左程の座席にて而も院宣と仰られんに、争か(有朋上P163)叶じとは可(レ)申なれば、左も右も勅定にこそと申侍し程(ほど)に、折節一村雨して、山下風の風烈く吹侍しに、庭に張立置たる傘共のふかるゝに、馬共驚駻躍、蹈合食合なんどするを見て、末座の人共の立騒、直垂の袖に瓶子を係て引倒し、其頸を打折て侍しを、座席静つて後、大納言殿(だいなごんどの)、あゝ事の始に平氏倒たりと宣しかば、満座咲壺の会にて侍き、是こそ浅間敷(あさましき)事云たりと存ぜしに、申も口恐しく侍れども、西光(さいくわう)法師(ほふし)倒れたる瓶子の頸をば取て、大路を可(レ)渡と申を、康頼つと立て、当職の検非違使(けんびゐし)に侍とて、烏帽子(えぼし)懸を以て、瓶子の頸を貫捧て、一時舞て広縁を三度持廻して、獄門の木に懸と申て、縁の柱に結付て侍し事、身の毛竪て浅間敷(あさましく)こそ侍しか、何の弓矢取と云事なく、当時一旦の君の御糸惜みに誇て、西光が我一人と事行して申振舞し事、下刻上之至也と不思議に存じ、侍き、法皇の御幸
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も成べきにて候けるを、静憲法印の、様々こは浅間敷(あさましき)御事也、天下の大事只今出来なん、いかに人勧申とても、国土の主として争でか一天の煩を引出し御座べきなんど、諌申けるに依て、御幸は止らせ給ぬとぞ私語申候し、やがて鹿谷究竟の城郭也とて、其にて兵具を可(レ)調と承き、加様の事人伝に被(二)聞召(一)なば、誤なき行綱までも、御勘当後恐しく候へば、内々告知せ進する也とて、人の能言云たりしをば、我申たるになし、我(有朋上P164)悪口吐たりしをば、人の云たるになし、殆有し事よりも過ては云たりけれ共、五十端の白布をば一端も語らざりけり。入道大に驚騒手を打、君の御為に命を捨る事度々也、いかに人申とも、争入道をば子々孫々(ししそんぞん)までも捨させ給べきとて、座を起ち障子をはたと立て入給ぬ。行綱はある事なき事散々(さんざん)に中言して出でけるが、入道の気色を見つるより心騒がし、慥の証人にや立られんずらんと恐しく覚えければ、取袴して足早にこそ還にけれ。
S0507 成親已下被(二)召捕(一)事
同廿九日、入道上洛して西八条の宿所に著きて、肥後守(ひごのかみ)、飛騨守を召て、貞能(さだよし)、景家、慥に承れ、謀叛之輩多し。与力同心の上下の北面等、一人も漏さず可(二)搦進(一)之由、行綱が口状に付て下知し給。又一門の人々侍共に可(二)相触(一)とて、使を方々へ遣ければ、右大将宗盛、三位中将知盛、左馬頭(さまのかみ)重衡已下の一門の人々甲冑を著し、弓箭を帯して馳せ集る。其外軍兵聞伝て馳参ければ、其夜の中に、四五千騎こそ集つたれ。又貞能(さだよし)景家は、二百騎、三百騎の勢にて、此彼に押寄押寄搦捕、京中の騒ぎ不(レ)斜(なのめならず)。
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六月一日未明、太政(だいじやう)入道(にふだう)、(有朋上P165)検非違使(けんびゐし)安部資成と云者を召して、院(ゐんの)御所(ごしよ)に参て、信業をして申さん様は、近く被(二)召仕(一)之輩、恣に朝恩に誇、剰謀叛を巧世を乱べきよし承間、尋沙汰仕るべきと申せとて進す。資成法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に参、大膳大夫信業を尋ね出し此由を申す。信業色を失て御前に参て奏聞しけれども、分明の御返事なし。只此事こそ御意得なけれ、こは何事ぞと計仰ければ、資成帰参じて此様を申す。入道去社よも御返事あらじ、行綱は実を云けり、法皇も知召たるにこそとて、此輩を召誡けり。其内に西光(さいくわう)法師(ほふし)を召取て、大庭に引居たり。相国は素絹の衣を著、尻切はき、長念珠後手に取て、聖柄の刀さし、中門の縁に立ちて、西光(さいくわう)法師(ほふし)を一時睨で嗔声にて、無(二)云甲斐(一)下臈(げらふ)の過分に成上、朝恩に誇る余、無(レ)誤天台座主(てんだいざす)奉(二)流罪(一)、剰入道を亡さんと申行ける条はいかに、あら希怪や希怪や、凶也凶也、すははや山王之冥罰は蒙ぬるはと宣(のたまひ)けり。西光は天性死生不(レ)知の不当仁にて、入道をはたと睨返して、西光全く謀叛の企を不(レ)存、此恥にあふ事運の窮にあり。但耳に留事あり、侍程の者が、靫負尉にもなり、受領検非違使(けんびゐし)に至らん事、何か過分なるべき、始たる事に非ず、去てかく宣和入道は、いかに王孫とこそ名乗給へども、昔の事は見ねば知ず、御辺の父忠盛は、正しく殿上の交を嫌れし人ぞかし、其嫡子におはせしかば、十四五ま(有朋上P166)では叙爵をだにも不(レ)賜、しかも継母には値たり、難(レ)過かりければこそ、中御門藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)家成卿の播磨守にておはせし時、受領の鞭を取り、朝夕に■(かき)の直垂に縄絃の足駄はきて通給しかば、京童部は高平太と云ひて咲しぞかし、其を恥しとや
P0121
思給けん、扇にて顔を隠し骨の中より鼻を出して、閑道を通給しかば、又童部が先を切て、高平太殿が扇にて鼻を挟みたるぞやとて、後には鼻平太々々々とこそいはれ給しか、去ども故(こ)刑部卿殿(ぎやうぶきやうどの)近江国水海船木の奥にて、海賊廿人を被(二)搦進(一)たりし勲功の賞に依つて、保延の比かとよ、御辺十八歟九歟にて、四位の兵衛佐に成給(たま)ひたりしをこそ人々としと申しが、其が今太政(だいじやう)大臣(だいじん)に成たるをこそ下臈(げらふ)の過分とは申すべき。此条は争か諍給ふべきと、高声に門外まで聞えよと云たりければ、入道余に腹を立て、為方なかりければ、縁の上にて三踊四躍々給ふ。猶腹を居兼て、大庭に飛下り、西光が頬を蹴たり蹈たりし給けれ共、西光は口は少も減ず、去て其は左は無りし事か、彼は有し事ぞかし、哀足手だにも安穏ならば、報答申してんと云ければ、入道如何様にも謀叛の次第委く相尋て後、しや口割て誡よと宣(のたま)ひければ、松浦太郎高俊、拷木に懸て打せため、事の興を尋けり。始は大に不(レ)知と云けれ共、悪口は吐ぬ、不(レ)落とても非(レ)可(レ)宥、人が云ひたればこそ入道殿(にふだうどの)も是程は知給た(有朋上P167)るらめ、去ばいはんと思つゝ、休よ語らんと云ければ、拷木より下して、硯紙取寄て聞(レ)之、西光有の儘にぞ云ける。執事別当新(しん)大納言(だいなごん)殿(どの)、院宣とて催れしかば、院中に被(二)召使(一)身として不(レ)叶と申すべきにあらねば、平家一門打失て、西光も世にあらんと思て与して侍き。院宣の趣き誰か可(レ)奉(レ)背とて、始より終まで白状四五枚に記して、判形せさせて後、高俊、西光(さいくわう)法師(ほふし)が頭を蹈て口を割、重て誡置てげり。新(しん)大納言(だいなごん)の許へは、大切に可(レ)奉(二)申合(一)事侍、時の程立より給へとて使者を遣れたり。大納言は我身の上
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とは露知給はず、例の山の大衆の事を、院へ被(レ)申ずるにこそ、此事はゆゝしく御憤(おんいきどほり)深き御事也、可(レ)叶とは覚ねども、何様にも参りてこそ申さめとて急ぎ被(レ)出けり。安元(あんげん)二年七月に、建春門女院隠させ給(たまひ)て、其御一周を果ざれば、諒闇(りやうあん)の直衣ことに内浄たわやかにして、諸大夫一人、侍二三人花やかに装束せさせて、入道の宿所、西八条へおはしけり。近く成儘に其辺を見給へば、軍兵四五町に充満たり。穴恐し、こは何事ぞやと、■(むね)打騒給へり。門の前近く遣寄、車より下て門の内へ入給ければ、内にも兵所もなく並居たり。只今事の出来たる体也。中門の外に恐しげなる者二人立向て、大納言の左右の手を取、天にも揚ず、地にもつけず、引持てゆき、もとゞりを取て打臥ける儘に、是は可(レ)奉(レ)誡や(有朋上P168)らんと申ければ、入道は大床に立れたりけるが、さすが[* 「すさが」と有るのを他本により訂正]昨日迄も面を向へ肩を並し卿相(けいしやう)也、眼前に縄付事は、かはゆくや被(レ)思けん、去ず共有なんといはれければ、中門の廊へ入られて、縄をば不(レ)奉(レ)付けり。只一間なる所に、大なる木を以て、蜘蛛手を結、其中にぞ奉(二)押篭(一)ける、糸惜なんどは云計なし。蕭樊囚(二)執、韓彭(一)■(そ)醢、晁錯受(レ)戮、周魏見(レ)辜、其余佐(レ)命立(レ)功之士、賈誼亜夫之徒、皆信命世之才、抱(二)将相之具(一)、而受(二)小人之讒、並受(二)禍敗之辱(一)と云事あり、蕭何、樊会、韓信、彭越と云ひしは、皆漢の高祖の功臣たりしか共、かくのみこそ有けれ、異国にも不(レ)限、我朝にも保元平治の比より打続き浅間敷(あさましき)事のみ有しに、又此大納言の係る目に合給ふ事、いかゞはせんとぞ悲み合給ける。大納言の共に有りける、諸大夫も侍も被(二)起隔(一)、雑色牛飼までも忙騒、身々の恐さに牛車を捨
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て、散々(さんざん)に逃失ぬ。大納言はかばかりなく熱く難(レ)堪比、一間なる所に被(二)禁籠(一)、汗も涙も諍つゝ、肝心も消はてて、こはいかにしつる事ぞや、日比のあらまし事の聞えけるにこそ、何者の漏しぬるやらん、北面の者の中にぞ有らんとぞ被(レ)思ける。小松の内府は見え給はぬやらん、去とも思捨給ふ事はあらじ者をと被(レ)思けれ共、誰して云べき便も無れば、唯悲の涙にのみぞ咽給ける。小松殿(こまつどの)へは人参て、謀叛の者とて人々被(二)召禁(一)侍、大納言殿(だいなごんどの)も(有朋上P169)被(二)召籠(一)おはしつるが、此晩に可(レ)奉(レ)失なんど聞え候と申ければ、内大臣(ないだいじん)は良久有て、子息の中将車の尻に乗せて、衛府四五人、随身二三人被(二)食具(一)たり。各布衣にて、物具したる者は一人も不(二)具給(一)、最のどやかにて西八条へ被(レ)入けり。入道を奉(レ)始、一門の人々思はず思ひ給へり。弟の殿原何に係る大事の出来て侍にと口々に宣へば、内府は只今何条事か有べき、物騒き者かなと被(レ)静ければ、兵杖を帯給へる人々も、そゞろきてぞ見えける。入道は帽子甲に、萌黄の腹巻の袖付たるを著て、小長刀計にて立給たりけるが、大臣の挙動を遥(はるか)に見て、急ぎ内に入、素絹の衣に脱替て、さらぬ体にて御座けり。内府は、さても大納言はいかに成給ぬるやらん、唯今の程(ほど)には失ふまでの事はよもあらじとて見廻り給ふに、一間の障子を大なる木を打違て、蜘蛛手を結たる所あり。爰にこそと哀に悲くおぼして、立寄急ぎ音なひ給へば、大納言蜘蛛手の間より、幽に大臣を見付給、地獄にて罪人の地蔵菩薩を奉(レ)見らんも、是には争か可(レ)過と嬉さ不(レ)斜(なのめならず)、泣々(なくなく)宣(のたまひ)けるは、成親身に誤ありと不(レ)存、今かゝる憂目に逢て侍り、さて御渡あれば、去ともと憑思奉とて、
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はら/\と涙を流し給ふも無慙也。大臣の返事には、人の讒言にぞ侍らん、御命計はいかにも申請ばやとこそ存ずれ共、入道腹悪き人にておはすれば、そもいかゞ(有朋上P170)侍らんずらんと憑気なく宣へば、いとゞ心細くおぼして、成親平治の乱に切らるべかりしを、御恩にて命を生られ奉りて、正二位の大納言に至り、歳四十に余りぬ、生々世々に難(二)報謝(一)、同は今度の命を助給へ、出家入道して高野粉河にも籠り、一筋に後世の勤仕らんと宣へば、重盛(しげもり)かくて侍れば、去共と思召(おぼしめさ)るべし、御命にも替奉らんとこそ存ずれとて被(レ)起ければ、又奉(レ)見事もやと、遥(はるか)に見送給(たまひ)ては、かひなき袖をぞ絞給ふ。少将も被(二)召捕(一)ぬるやらん、少者共の跡に残留るもいかゞ成ぬらんと■(おぼつか)なし。身の悲さ、跡のいぶせさ思つゞけ給へば、熱さに難(レ)堪うへ胸塞て、晩を待ずして可(二)消入(一)こそおぼしけれ。内大臣(ないだいじん)の訪れつる程は、聊慰みて取延る心地也けるが、立帰給(たまひ)て後は今少心細く、悲被(レ)思ける。理と覚て哀也。
S0508 小松殿(こまつどの)教訓事
小松内府、入道の許に参じ申給けるは、大納言を被(レ)失事は、能々可(レ)有(二)御思案(一)事也、六条修理大府顕季卿、白川院に召仕てより以来家久く成りて、位正二位、官大納言まで経上、君の御糸惜も不(レ)浅仁を、忽に被(レ)刎(レ)首事、いかゞ侍るべき、唯都の外へ出さ(有朋上P171)れん事足ぬべし。角は聞食ども、若僻事ならば弥不便の事に侍べし。北野天神は、時平大臣の依(二)讒奏(一)、西海の浪に流され、西の宮の大臣は、多田新発が依(二)姦訴(一)、山陽の霧に埋る、各無実なれ共被(二)流罪(一)給けり。皆是延喜の聖主安和の御門の御僻事とこそ申伝侍れ、上古猶如(レ)此、況末代をや。賢王猶御誤あり、況凡夫をや。委御尋もあり、能々御
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案も侍べし、物騒き事は必後悔あり、既かく被(二)召置(一)ぬる上は、急不(レ)被(レ)失とも、何の苦か有べき。罪之重をば軽し、功之浅をば重くせよと云本文あり。何様にも今夜卒爾の死罪不(レ)可(レ)然と被(レ)申けれ共、入道いかにも心不(レ)行気に宣(のたまひ)ければ、申請旨御承引なくば、侍一人に仰付て、先重盛(しげもり)が可(レ)被(レ)刎(レ)首、かかる乱たる世にながらへて、命生ても何の詮かは有べき。又重盛(しげもり)彼大納言の妹に相具し、維盛又聟也、傍親く成て候へば、角申とや思召(おぼしめさ)るらん、一切其儀は侍ず、為(レ)世為(レ)家の事を思て歎申計也。我朝には嵯峨帝の御宇、左衛門尉仲成を被(レ)誅後、死罪を被(レ)止より以来廿五代に及しを、少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が執権の時に相当て、絶て久き例を背き、保元の乱の時、多の源氏平氏の頸を切、宇治の左府の墓を掘、死骸を実検(じつけん)せし其酬にや、中二年こそ有しが、平治に事出来て、田原の奥に被(レ)埋たりし、信西が被(二)堀起(一)、頸を渡獄門の木に被(レ)懸き。是はさせる朝敵にあらね共、併(有朋上P172)挿絵(有朋上P173)挿絵(有朋上P174)保元の罪の報と覚て、恐しくこそ侍しか。是又させる朝敵に非ず、旁以可(レ)有(レ)恐、御身は御栄花残所なければ、思食(おぼしめし)置事なくとも、子々孫々(ししそんぞん)までも繁昌こそあらまほしく侍れ。積善之家必有(二)余慶(一)、不善之家必有(二)余殃(一)とこそ承れ、去ば文王は太公望に命じて、四知己を恐れ、唐太祖は張蘊古を切つて後、五奏を被(レ)用、又行(レ)善則休徴報(レ)之、行(レ)悪則咎徴随(レ)之とも申す、父祖の善悪は必及(二)子孫(一)ともいへりなど、様々に被(二)誘申(一)ければ、入道余に口解立られて、実とや思給けん、今夜切事は止給にけり。内大臣(ないだいじん)は中門に出給、さも可(レ)然侍共を召集被(二)仰含(一)けるは、入道殿(にふだうどの)の仰なればとて、大納言を不(レ)可(レ)有(二)失
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事(一)、腹の立給ふ儘に物劇事あらば、後に必悔み給べし、不(レ)拘(二)制止(一)ひが事して重盛(しげもり)恨な、経遠(つねとほ)兼康(かねやす)が大納言に情なく当たりける事、返々も希恠也。重盛(しげもり)が還聞所をば、争か可(レ)不(レ)憚、哀景家忠清なんどならば、いかに仰を承りたりとも角はよもあらじ、かた田舎の者は懸るぞとよ、と仰られければ、大納言引張たりける備前国住人難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)、備中国住人、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)、恐入りてぞ候ひける。其外の侍共は、舌を振てぞ、威合ける。大納言の供に有ける者、中御門高倉の宿所に走帰、上には西八条殿に召籠られさせ給ぬ。今夕可(レ)奉(レ)失とて、晩を待つとこそ承つれとて、有つる事共泣々(なくなく)細々と申ければ、(有朋上P175)北方より始て、男女上下声を揚てぞ叫びける。是は何故ぞや■(おぼつかな)し、夢かや夢かともだえ焦給けれ共、眠の中の歎ならねば猶うつゝ也、さこそ悲かりけめと被(二)推量(一)無慙也、何に角ては御座しますぞや、少将殿をも君達をも、一々に召とり進せんとこそ承りつれ、去ば叶はぬまでも、暫く立忍ばせ給へかしと申ければ、か程の事に成て隠れ忍びたらば、いかばかりの事ぞ、雉のかくれとかやの風情か、大納言殿(だいなごんどの)の左様に成給ふ程(ほど)にては、此身々ばかり安穏也共、甲斐あるまじ。只同じ草葉の露と消ん事こそ本意なれ。今朝を限の別ぞと思はざりける悲さよとて、北方臥倒て泣給ふ。げにもと覚て哀なり。兵既(すで)に来なんと人申ければ、遉角て憂目を見る事も、恥がましければ、一間戸も立忍ばんとて、尻頭どもなき小き人共、車に取のせ奉り、いづくを指て行ともなく遣出して、大宮を上りに、北山雲林院の辺まではおはしにけり。其辺なる僧坊に
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下居奉て、送の者共も身々の難(レ)捨おそろしさに、皆散々(ちりぢり)に帰りぬ。今は無(二)云甲斐(一)小き人々ばかり留居て、又事問ふ人も無くて御座けん、北方の御心中推測べし。日影の暮行を見給に付ても、大納言の露の命今日を限と聞つれば、はや空き事にもやと思やり給(たま)ひては、絶入絶入し給ふも、いと悲し。取敢ぬ事也ければ、女房侍共もかちはだしにて恥をもしらず迷出ければ、見苦き物共を(有朋上P176)不(レ)及(二)取認(一)、門をだに押立る人もなし。只我先にと周章(あわて)出けるも理也。馬屋には馬共鼻を並て立たりけれども、草飼舎人もなし。夜明れば馬車門に立并賓客座に列居て、遊戯れ舞踊、世は世とも思はれず、近き渡りの人々、物をだにも高もいはず、門前を過る者もおぢ恐れてこそ昨日迄も有つるに、夜のまに替る形勢、天上之五衰は人間にも有けりと哀也。此北方と申は、山城守敏賢の女也、建春門院(けんしゆんもんゐん)の御乳母師人とて、御身近人、取り立て進られたりけるを、法皇浅からず思召(おぼしめし)て、十四歳より十六迄御糸惜みふかゝりしを、二条院御位の時御覧じて、忍々に御書を被(レ)遣、常には唯是へ参と云仰繁かりければ、師人も女院の思召(おぼしめす)所も憚覚れば、旁々内へ参られんは、然べしなどゆるされければ、法皇の御所をばまぎれ出て、十六の歳内裏へ参給(たまひ)て、互の御志深かりしが、中二年有て十九の歳、二条の先帝崩御の後は、雲井の月の昔語を忘かね、大炊御門高倉の雨織戸の内に、掻き籠て、渡らせ給しを、大納言の宿所、中御門の移徙の夜、師人に語寄押て取られ給しより、鸞鳳の鏡に影を并、鴛鴦の衾に枕を寄てこそ御座ましけるに、大納言被(二)召捕(一)給しより、楽み尽て悲み来り、北山雲林院の菩提講おこなふ処に、忍びておはしけり。
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此大納言は余に誇て、戯れ事にも無(レ)由言すごす事も有けり。後白川院の近習者に、坊門中納言親信と(有朋上P177)云人、御座けり、右京大夫信輔朝臣の子也。彼信輔武蔵守たりし時、当国に下りて儲たりけるが、元服して叙爵し給たりければ、異名に坂東大夫と申けるが、兵衛佐に成たりけるにも、猶坂東兵衛など申けるを、新(しん)大納言(だいなごん)、法皇の御前にて、戯て、やゝいかに親信、坂東には何事共かあると被(レ)申たりけるに、兵衛佐取敢ず、縄目の色革こそ多候へと答たりければ、大納言顔のけしき少替て、又物も宣ざりけり。此大納言は平治の乱逆の時、信頼卿に同心とて、六波羅へ被(レ)召しに、島摺の直垂著て、高手小手に縛られて、恥をさらしたりける事を思出て、縄目にそへて申たりけるにこそ。御前に人々あまた候はれける中に、按察使大納言資賢の後に常に宣(のたま)ひけるは、兵衛佐はゆゝしく返答したりしものかな、成親卿(なりちかのきやう)は事の外に苦りたりし事様也とぞ被(レ)申ける。されば人は聊の戯言にも、人の疵をば云まじき事也けり。(有朋上P178)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第六

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辺巻 第六
S0601 丹波(たんばの)少将(せうしやう)被(二)召捕(一)附謀叛人被(二)召捕(一)事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の嫡子に、丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)とて、今年廿一に成給ふ。折節院(ゐんの)御所(ごしよ)に上臥して、未(二)罷出(一)程なりけるに、大納言の供に有ける侍一人走来て、上には西八条殿に被(二)召籠(一)させ給ぬ。今夜可(レ)奉(レ)失と承りき。君達も一々に召し給べしと申あへりと聞えければ、こはいかにとてあきれ給(たま)ひ、物も覚給はず。左程の事に、如何に宰相の許よりは告給はざるらんと、舅を恨み給けるに、門脇殿(かどわきどの)よりとて使あり。聞給へば、八条殿より少将相具して来れと被(二)申遣(一)たり。急ぎ先是へ入給へ、いかなる事にか浅猿と云も疎也と被(レ)申たれば、肝魂も消はて、うつゝ心なし、兵衛佐と云女房を尋出して、泣々(なくなく)被(レ)語けるは、夜部より世間の物騒き様に聞ゆれば、例の山大衆の下るやらんと、徐がましく思侍れば、かゝる身の上の事に聞なせり。御前に参て今一度君をも見進せたく侍れ共、憚ある身なれば、思ながら空くて罷出候ぬと、御披露あれと、云もはてず袖を絞けり。(有朋上P180)日比年比は馴戯たりける女房達も出合つゝ、何事にか浅増や、さて出給なば、後いかが聞なし奉らんとて、涙を流し各別を悲けり。少将宣(のたまひ)けるは、八歳にて見参に入、十二より立も去事なく、夜も昼も御所に伺候して、自労なんどの外は、一日も不(レ)参事はなかりき。朝夕に竜顔に近づき進て、奉公忝く、君の御糸惜み深くして朝恩に飽満明し晩しつるに、
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いかなる目をみるべきやらん、父大納言も此の暮に被(レ)失べしときけば、同罪にてこそあらんずらめ。父左様に成給はんには、其子として命生ても何かはすべきと云もはて給はず、狩衣の袖を顔に押あてて泣給へば、近候ける人々も、袂を絞ぬはなし。兵衛佐御前に参て、此由角と申ければ、法皇大に驚かせ御座て、今朝の相国が使も不(レ)得(二)御意(一)つるに、此等が内々計し事の漏にけるよと、浅間敷(あさましく)被(二)思召(一)(おぼしめされ)て、去にても是へと御気色有ければ、世はつゝましかりけれ共、今一度君をも見進せんと思つゝ、志計にて、御前へは参たれ共、涙に咽て物も不(レ)被(レ)申。法皇も御涙を押へ御座して、御詞も出させ給はず、少将はいとゞ涙の流ければ、袖を顔にあてて罷出給ぬ。御所中に候合給たりける人々、門外まで遥(はるか)に見送て、各袖をぞ被(レ)絞ける。法皇は又も不(二)御覧(一)事もやと思食(おぼしめし)けるにや、御簾近御幸ありて、御涙を拭はせ給けるぞ忝き。末代こそ心憂けれ、角(有朋上P181)しもや有べき、王法の尽ぬるかと、御口惜ぞ思召(おぼしめさ)れける。近奉(レ)被(二)召仕(一)人々も、此は人の上と不(レ)可(レ)思、又いかなる事か聞みんずらんと安き心もなし。少将は宰相の許へ被(レ)出たりけれ共、此事の聞えけるより、北方はあきれ迷て、物も覚ぬ様にてぞ御座ける。近産し給べき人にて、何となく日比も悩給けるが、此を聞給(たまひ)て後は、いとゞ臥沈てぞ御座ける。少将は今朝より流涙尽せざりける上に、北方の形勢(ありさま)を見給(たま)ひけるにこそ無(二)為方(一)けれ。責ては此人の身々と成たらんを見て、何にも成ばやとおぼされけるぞ糸惜き。六条とて乳母の女房の有ける臥倒て喚叫けり。血の中に御座を此年比生し立奉りて、糸惜悲しと思そめ奉りしより、明ても暮れても此御事より外に又いとなむ
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事もなし、我身の年の積をば顧ず、早く成人し給はん事をのみ思て、廿一まで奉(レ)生、院内へ参らせ給(たまひ)ても、遅く出させ御座せば、心本なく恋しくのみ奉(レ)思つるに、こは何へ御座ぞや、棄られ進て、一日片時堪て有べし共覚えずと口説立て泣ければ、げにもさこそは思らめとて、少将も涙を押て、痛く歎思給べからず、角宣へば、いとゞ打副無(二)為方(一)覚るに、乍(レ)去我身に誤なし、又宰相殿角て御座せば、縦いかなる咎に当べくとも、一度が定はなどか申請られざるべきと、去共とこそ思へなど誘へ給へども、人目も知ず泣もだ(有朋上P182)えけり。八条殿より使度々に及で、遅々と申ければ、何様にも罷向ひてこそは兎(と)も角(かく)も申さめとて、宰相出給ければ、少将も車に乗具して出給。今を限と思ければ、無人を取出す様に見送つゝ、男も女も声を調て泣きあひけり。八条近遣寄て見れば、其辺四五町には武士充満て、いくらと云事を知ず、いとゞ恐しなんども云ばかりなし。少将は此を見給に付ても、大納言の事いかゞ成給ぬらんと思給けるぞ悲き。宰相車を門外に止て、案内被(レ)申たれば、少将をば内へは不(レ)可(レ)被(レ)入とて、侍の許に下し置、武士余多来て守(二)護之(一)。宰相内へ入、源大夫判官季貞を以て、参給へるよし申入給へり。入道は聟の少将が事を申さん料にぞ在らん、此程風気有て不(レ)入(二)見参(一)と云へ、曳とて出合れず。此由御返事申せば、宰相又季貞に被(レ)仰けるは、無(レ)由者に親く成て候、返々悔思へども、兼て不(レ)存事なれば今は云に甲斐なし、相具せる者の痛歎焦を思はじと思へども、恩愛の道とて、余に不便に覚ゆるを〔以〕いかゞ仕るべきと存る上、近産すべき者にて侍なるが、月比日比も悩なるに、此歎打副て、身々とならぬ
P0132
前に命も絶えぬべく見ゆれば、相助ばやと存て乍(レ)恐角申入也。成経ばかりは、罪科治定の程は申預候ばや、教盛角て候へば、僻事努々有べからず、■(おぼつかな)く思召(おぼしめさ)るべからずと泣々(なくなく)口説被(レ)申けり。季貞又此由入道殿(にふだうどの)(有朋上P183)に申せば、打聞てへし口して、去ばこそとて能々心得ぬ事に思、急と返事なし。宰相殿は中門にていかゞ返事し給はんずらんと、今や/\と待給へり。入道良久有て宣(のたまひ)けるは、成親卿(なりちかのきやう)此一門を亡して国家を乱らんとする企て有けり。去ども家門の運尽ざる間、事既(すで)に顕れぬ、成経と云は彼卿の嫡子也、親く成給たりとても宥申がたし、且は遼迹(おもんばかり)も有べし、其企本意とげば、御辺とても安穏にやおはすべき、御身の上をばいかに、よそほかの様には思給ふ、聟も娘も身に勝るべきかはと云へとて、少もゆるぎなかりければ、季貞出て此様を申す。宰相大に本意なき事に思て、重て被(レ)申けるは、仰の上に又申入る事その恐なれども、心中に所存を残さん事も妄念也。流罪にも死罪にも被(二)定行(一)を、免ぜられんと申さばこそ竪からめ。それとても縁に付日ば、寛宥せらるゝ事尋常也。さまでこそなからめ、罪科治定の程、暫被(二)預置(一)事、何の苦か有べき。保元平治両度の合戦には、御命に替奉り、身を捨て振舞侍き。向後とても荒風をば先禦ぎ奉らんと深存ず、教盛こそ老耄也共、子息等あまた侍れば、御大事の時は、一方の御固とは憑思召(おぼしめす)べし。成経を預置給はずは、二心有者と思食(おぼしめす)にこそ、後闇者ぞと被(二)思穢(一)たてまつりて、世に立廻ては何の面目か有べき。大中納言の望も、富貴栄輝(えよう)の欲(ほし)さも、子を思故也、(有朋上P184)我身一人が事ならば、いかでも在なん。御一門の端と成て、是程(ほど)に歎申事の不(レ)叶には、
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世に諂て何の詮か有べき。今は身の暇を給(たま)ひて出家入道し、片山陰に篭居して、後の世をこそ助め。世に随へば望あり、望叶はねば怨あり、恨も望も思へば共に輪廻の妄念也。よし/\憂世を厭ひて実の道に入らん事、可(レ)然善知識にこそ侍らめ。参つるまでは無(レ)由、子ゆゑと存じつるに、聞入給はねば思切なん、人の御心つよきは、我菩提の指南なるべしとまでこそ口説かれたれ。宰相のかく被(レ)申も理也。子息に通盛教経業盛とて、一人当千の人々御座しければ、荒風をばまづ可(レ)防と述懐し給(たま)ひけるなり。季貞世に苦々敷思て、立帰入道殿(にふだうどの)に委申ければ、物にも心えぬ人かな、吐己其程(ほど)に聟の悲く思覧よとて、打傾て又返事なし。李貞は暫候て、門脇殿(かどわきどの)は思召(おぼしめし)切たる御気色に見えさせ給也、能様に御計ひ有べくもやと申ければ、入道宣(のたまひ)けるは、成経が事たゞ家門の煩なき様を計ひ申処に、出家入道とまで被(レ)仰之上は、少将をば暫御宿所に置給へかしと渋々に宣ふ。李貞此旨申ければ宰相大に悦て、急少将の御座る所へ立入給、被(二)預置(一)こと叶まじと、再三に及びつれども、出家遉世とまで恨くどきたれば、暫宿所に具し還れと宣き、事の様後いかゞと■(おぼつかな)しと語給へば、少将は一日の命とても疎なるべきかとて被(レ)泣(有朋上P185)けるを見給(たまひ)て、宰相は、人の身に女子は持まじき物ぞと云は理也と、始て思知れけり。我子につかずはなにとて角歎べきぞ、徐外にこそ見聞べきにとおぼされけり。平家は保元平治より已来楽み栄は在つれども、愁歎はなかりしに、門脇殿(かどわきの)宰相(さいしやう)ばかりこそ、由なかりける聟ゆゑに係る歎はし給(たま)ひけれ。少将は我身の少し甘ぐに付ても、父いかゞ成給ぬらむ、かばかり暑き折節に、装束もくつろげ給はず、狭き
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所にこそ奉(二)押籠(一)たるらめと心苦さに、大納言の事はいかゞ聞召つると問給へば、宰相は一筋の御事をのみ申つれば、亜相の御事までは心も不(レ)及と答給ふ。少将理とは思ながら、我身の命の惜も、父の行末を知ばやと也。大納言の世に御座ぬ事ならんには、其子としては只同じ道にこそとて泣給ふ。宰相は車に乗給へども、少将は倒臥て立も上給はず。宰相哀に覚して其心を慰給はん為に、誠や自は奉(レ)問事は無りつるを、李貞が物語しつるは、亜相の事をば内大臣(ないだいじん)の様々に被(レ)申て、食事をも奉(レ)進、又休まゐらするなんど承りつれば、命のおはせぬ程の事はよもと覚ゆと宣へば、少将手を合悦て、泣々(なくなく)車に乗給へり。宰相は帰給ふ道すがら、子は有も歎き無も歎と云ながら、無はほしと楽思ばかり也、有ては旁煩多し。心地観経には、世人為子造諸罪堕在三途長受苦とも説、無量寿経には、不如無子(有朋上P186)とも宣べ給へり、子を思妄念に依て、今生にも心苦く、後生も悪趣に堕と見えたり。教盛子故にかく心を尽す事よと被(レ)思けるが、少将の我身の歎に打そへて、父の事をあながちに心苦く悲む事の哀さよ、子ならでは誰かは此程(ほど)に思べき。恩愛の道こそ糸惜けれ、子は持べかりけりと、兎にも角にも只涙をぞ流し給ふ。宰相の宿所には、少将の出けるより、北方を奉(レ)始て、母上乳母の六条諸共に臥沈て、いかゞ聞なさんと、肝心も消失て起もあがり給はざりけるに、宰相入給ふと云ければ、穴心憂、少将をば打捨ておはするにこそ、憑しき人には捨てられぬ、いかに心細かるらんと被(レ)歎ける処に、少将殿も同く帰入せ給と申ければ、人々泣々(なくなく)起上、車寄に出向て、真歟真歟と声々に問給ふ程(ほど)に、少将も宰相も同車して入給ふ。
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後は知ず、さて帰入給たれば、無人の蘇生たる様に悦泣の涙は、先よりも猶色深こそ見えられけれ。内に入て宰相宣(のたまひ)けるは、入道の憤こと不(レ)斜(なのめならず)、対面もなし、ゆゝしく悪気なりき。宣事も理也つれども、李貞を以て推返推返、出家遁世して山林に籠らん、暇を給へとまで恨口説たれば、渋々に暫くとは宣つれども、始終よかるべしとも不(レ)覚と云れければ、人々始終の事はいかがはせん、今朝を限とこそ思ひ侍つるに、二度奉(レ)見事のうれしさよとぞ悦給ふ。此平宰相(へいざいしやう)と申は入道の弟也。兄弟多く(有朋上P187)おはしける中に、ことに此人をば糸惜おぼして、一日も見ねば恋くおぼつかなければとて、六波羅の惣門の脇に家を造て居置給(たま)ひたれば、異名に門脇殿(かどわきの)宰相(さいしやう)と申ける也。係中なれば、しひても歎き暫免しも預け給けり。入道当時八条に御座けり。世もつゝましとて少将の方には、蔀の上計を上てぞ居たりける。大納言父子は今夕可(レ)被(レ)刎(レ)首と披露有けれ共、其夜殊なる事無りければ、是は小松殿(こまつどの)と門脇殿(かどわきどの)との歎教訓し給験にやと、当家も他家も、女房も男も悦申けり。新(しん)大納言(だいなごん)父子にも不(レ)限被(二)召誡(一)輩は、新判官資行をば、源大夫判官季貞に仰せて、佐渡国へ流す。山城守基兼をば、進の二郎宗政に仰て、淀の宿所に召置、平判官康頼、法勝寺執行俊寛をば、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)承つて福原に被(二)召置(一)。丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)をば、舅の平宰相(へいざいしやう)教盛申預り給ぬ。近江中将入道蓮浄をば、土肥次郎に仰て、常陸国へ遣す。
S0602 西光父子亡事
西光(さいくわう)法師(ほふし)は、入道の三男に三位中将知盛の乳人に、紀伊次郎兵衛為範と云者が舅也けるに依て、為範が主の三位中将に歎申、中将又様々に預り候はんと被(レ)申けれ
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共、入道不(二)(有朋上P188)用給(一)、責ては手に懸んより、聟にて侍べれば為範に預給候へと、低臥被(レ)申けれ共、種々の悪口申たりけるに依て、入道終に聞入給ず、口を割れて被(二)禁置(一)たりけるを、松浦太郎高俊承つて朱雀大路に引出し、なぶり切にぞ切てげる。郎等三人同被(レ)切。見聞の者中に、哀西光(さいくわう)法師(ほふし)は詮なき悪口して口を割るゝのみに非ず、終に被(レ)切ぬる無慙さよ、倩事の心を案ずるに、雖(二)冠古(一)猶居(レ)頭、雖履新(一)尚蹈(レ)地、嗔れる拳不(レ)当(二)笑顔(一)、故不(レ)如(レ)順、下に居て嘲(レ)上、愚にして賢を蔑にして、かく被(レ)死ぬるこそ不便なれ、同罪にてこそ有らめども、余の輩は角はなし。或は流され、或は被(レ)禁てこそ有にと申ければ、不敵の者ねも有けり、終に切らるゝ者故に、よくこそ云たれ、無事ならばこそと云者も在けり。聞(レ)之耳こそばゆく思者は、立退人も多かりけり。西光(さいくわう)法師(ほふし)が子息に加賀守師高(もろたか)、左衛門尉師平、右衛門尉、師親兄弟三人をば、依(二)山門之訴訟(一)被(レ)流(二)尾張国(一)たりけるが、当国井戸田と云所に在けるを、為(二)追討(一)武士を被(二)差下(一)、師高(もろたか)が母聞(レ)之、急ぎ人を下して角と告げたり。師高(もろたか)折節河狩して遊けり。国中の者共多集て、水辺に仮屋を造並べ、遊君其数喚集て、今様うたひ琴琵琶弾、面白かりける酒宴の座へぞ告げたりける。師高(もろたか)周章(あわて)迷て彼配所を逃出て、同国蚊野と云所に忍居たりけるを、討手の使下向し(有朋上P189)て、小熊郡司惟長、川室の判官代範朝等を相具して押寄、散々(さんざん)に戦ふ。師高(もろたか)、師平、師親、兄弟三人思切て振舞けれ共終に叶ず、惟長が為に被(レ)誅けり。郎等三人同被(レ)誅、又主従六人が頸河の耳に切係たり。身は河原に倒臥、沙に交りて在けるを、師高(もろたか)が思ける萱津宿の遊君、僧を
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語ひ孝養して、骨を拾ひて堂塔に納つゝ、尼に成て後世弔けるこそ哀なれ。西光師高(もろたか)父子共に、法皇の切者にて世をば世とも思はず、人をも人共せざりし余りに、白山妙理権現(はくさんめうりごんげん)の神田講田没倒し、涌泉寺(やうせんじ)の坊舎聖教焼払、末社の神与登山、日吉御輿及(二)入洛(一)、其上顕密之法燈智行先達に御座し、天台座主(てんだいざす)種々に奉(二)讒奏(一)しかば也。人の歎神の恨、三千の咒咀も不(レ)空、十二神将の冥罰も掲焉にして一門終に亡ぬるこそ無慙なれ。左見つる事よと云者は多けれ共、ほむる人こそ無りけれ。大方は女と下臈(げらふ)とは賢き様なれ共、思慮浅き者也、西光も本は田舎の夫童なれば、無下の下臈(げらふ)ぞかし、去共一旦賢々敷心様也ければ、一天の君に奉(レ)被(二)召仕(一)、忝く竜顔に近づき進せしかば、果報や尽けん其心大に奢つゝ、其官職にあらねども、天下の事共執行、よしなき謀叛に与しつゝ、我身も加様に失にけり、不(レ)在(二)其位(一)謀(二)其政(一)と云事あり、相構て人は身の程の分を相計て可(二)振舞(一)とぞ申合ける。(有朋上P190)
S0603 西光卒都婆事
 或人の云けるは、今生の災害は、過去の宿習に報ふべし、貴賤不(レ)免(二)其難(一)、僧俗同く以て在(レ)之、西光も先世の業に依てこそ角は有りつらめども、後生は去とも憑しき方あり、当初難(レ)有願を発せり、七道の辻ごとに六体の地蔵菩薩を造奉り、卒都婆の上に道場を構て、大悲の尊像を居奉り、廻り地蔵と名て七箇所に安置して云、我在俗不信の身として、朝暮世務の罪を重ぬ、一期命終の刻に臨ん時は、八大奈落の底に入らんか、生前の一善なければ、没後の出要にまどへり。所(レ)仰者今世後世の誓約なり、助(レ)今助(レ)後給へ、所(レ)憑大慈大悲の本願也、与(レ)慈与(レ)悲給へとなり。加様に発願して造立安置す、四宮河原、木幡の里、造道、西七条、蓮台野、みぞろ池、西坂本、是也。たとひ今生にこそ剣のさきに懸共、後生は定て薩■[*土+垂](さつた)の済渡に預らんと、いと憑しとぞ申ける。
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S0604 大納言音立事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)をば、速に死罪に行はばやと、入道はおぼされけれ共、小松大臣の様々(有朋上P191)被(二)宥申(一)ければ、遉が子ながらも恥かしき人にておはすれば、其教訓も難(レ)背して、死罪までの事はなけれども、西光(さいくわう)法師(ほふし)が白状に安からず被(レ)思つゝ、大納言のおはする後の障子をあらゝかにあけて出で給へり。生の衣の裳短きに、白き大口を著給たり。聖柄の腰の刀をさし、大に嗔たる体也。大納言に向て、一長押上たる所に尻打係て、はたと睨給へば、大納言はあは只今被(レ)失歟、又いかなる事のあらんずるやらんと思より、いとゞ胸打騒ぎ伏目にて打うつぶき給たりければ、入道、やゝ大納言殿(だいなごんどの)々々(だいなごんどの)と呼仰て、あら悪の殿の顔やな、御辺は平治の乱逆の時失給ふべかりし人ぞかし、其に小松の内府が頻に歎申に依て、心弱く宥置奉て、頸を継、大国庄園数多給り、官位と云俸禄と云、身に余る程(ほど)に成給へる人の、何の飽足ずさに其恩を忘て、忽に此一門を滅さんと結構し給けるぞ、入道が咎何事に侍るぞや、一門の運依(レ)不(レ)尽、今其企顕れたり、同意の北面の奴原、一々に食禁て候、御辺又加様に奉(レ)迎候へば、今は別事あらじと存ずれ共、入道に深宿意の有けん子細、謀叛悪行の企語給へ、承らんと宣へば、大納言は、人の讒言にてぞ候覧、御一門に向進せて、何事の怨有りてか左様の事思立侍るべき、努々無事也と被(レ)申たり。入道立直て大の音を以て、侍に人や在/\と呼給ひければ、貞能(さだよし)候とてつと参。やをれ、此(有朋上P192)に物論ずる人の有ぞ、西光が白状進よと宣へば、貞能(さだよし)巻物一巻持て参る、四五枚も在らんと見ゆ。入道自さと披て、慥に聞給へとて高声に二返読聞せ奉て、此上争か論じ給べき、穴悪の人の物論じたる顔の
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誠し気さよ、穴悪やとて白状を取直して、大納言の顔をすぢかへに打つて、障子を立て入給ぬ。入道角しても猶腹居かねて、難波妹尾を召て、大納言をめかせよと宣ふ。二人の武仰奉て、一間より引出し奉て壺の内に召居、数の■(しもと)を支度したり。入道は壁を隔て立聞給けり。難波妹尾、大納言に無(レ)情当たりとて、小松殿(こまつどの)深く禁給(たま)ひける事を大に恐思ければ、忍やかに大納言の耳に申けるは、上の仰なれば奉(レ)誡由なるべし、真に争か其義有べき、入道殿(にふだうどの)壁を隔て立聞給へり、叫給へと申て、大納言の居給へる傍をしたゝかに打ちければ、あゝ難(レ)堪、助給へや、休給へや、物申さんとのたまひければ、入道、何事ぞ暫休て、物云せよ、きかんと有ければ、経遠(つねとほ)兼康(かねやす)杖を納む。大納言は、我平治の乱に既(すで)に可(レ)奉(レ)被(レ)刎(レ)首かりし者が、小松殿(こまつどの)に奉(レ)被(レ)助(レ)継(レ)命、位正二位、官大納言に経上つゝ、大国数多給(たまひ)て、官禄共に身に余たる我身の今なる果こそ悲けれ。平家御恩を蒙たる身也、争奉(レ)忘(二)其恩(一)、謀叛の企候べきとぞ口説給ふ。入道はさこそ思べき事よ、但虚言ぞ、今一度をめかせよと宣へば、又傍をぞ強(有朋上P193)打たりける。大納言は、あら難(レ)堪助給へ、妹尾殿、休給へ難波殿とぞ叫び給ふ。物に能々喩れば、罪深き衆生の、所造の業に随ひて、刑罰を蒙り、獄卒阿旁羅刹にさいなまるらん、冥途の旅の有様(ありさま)、角やと覚えて哀也。入道聞(レ)之給(たまひ)て、少し腹居て、さばかり候へとて、又本の所へ推籠奉る。
S0605 入道院参(ゐんざん)企事
入道は加様に人々禁置て後も、猶不(レ)安おぼされければ、生衣の帷の脇掻たるに、赤地錦鎧直垂に、白金物打たる黒糸威の腹巻に、打刀前垂に指、当初安芸守と申時、厳島社の神拝の次に、蒙(二)霊夢(一)賜ると見たりけるが、うつゝにも実に有
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ける銀の蛭巻したる手鋒の、秘蔵して常枕を不(レ)放被(レ)立たる、鞘はづし左の脇に挟て、中門の廊に被(レ)出たり。其気色大方あたりを払てゆゆしくぞ見えける。貞能(さだよし)貞能(さだよし)と召ければ、筑前守木蘭地の直垂に火威の鎧著て、跪て候ひけり。入道嗔声にて宣(のたまひ)けるは、やをれ貞能(さだよし)慥に承れ、入道が過分とては、官途の涯分計也。坂上田村丸は、刈田丸が子也しかども、東夷の辺土を平げし忠に依て、左近大将を兼たり。朝敵を誅して高位に登事、異域本朝其跡相伝(有朋上P194)れり、浄海一人に非ず、君強に御憤(おんいきどほり)有べき事ならず、其奉公を案ずるに一度一旦の勲功に非ず、一年保元逆乱の時、平馬助を始として、親者共も半に過て、新院の御方に参き。一宮重仁親王の御事は、故(こ)刑部卿殿(ぎやうぶきやうどの)の養君にて御座しかば、旁思放進せがたかりしかども、故院の御遺誡に任て、御方にて前を蒐、凶徒を討平たりき。是一の勲功也。次平治元年に右衛門督信頼卿、下野守義朝(よしとも)等が振舞、入道命を惜ては叶ふまじかりしを、命を重じ身を軽じて凶党を退き、経宗惟方を召し禁しに至るまで、度々天下を鎮海内を平げて、君の御代になし進たる入道也。たとひ人いかに讒申とも、争か子々孫々(ししそんぞん)迄も捨思召(おぼしめす)べき。成親卿(なりちかのきやう)が讒奏につかせ御座て、一門追討せらるべき由の院中の御結構(ごけつこう)こそ返々遺恨の次第なれ。此事行綱不(レ)告知(一)不(レ)可(レ)顕、不(レ)顕は入道安穏に有るべしや、猶も北面の下臈共(げらふども)の中に申事なんど有ば、御軽々の君にて、一定当家追討の院宣被(レ)下ぬと覚ゆ。朝敵と成なん後は悔に甲斐有まじ。世を鎮程、仙洞を鳥羽の北の御所へ移しまゐらする歟、去ずば御幸を是へなし進せばやと思也。其儀ならば北面の者共の中に、矢をも一つ射出す者も有ぬと覚ゆる
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ぞ、侍共に可(レ)有(二)用意(一)と触べし、大方は入道院中の宮仕思切ぬ、きせなが取出せ、馬に鞍置せよとぞ宣(のたまひ)ける。又然べしとは云まじけれ共、(有朋上P195)是程の大事争か内府に可(レ)不(二)申合(一)とて、急ぎ立寄給へ、申べき事等侍りと、使者を立られたりけれ共、強にさわがぬ人におはしければ、けしからず只今何事か有べきとて、急ぎ出給ふ事なし。其間に侍共は入道の下知に随て、弓よ矢よ、馬鞍などひしめけり。一門の人々も色々に出立て、つと出給はんずる体也。入道は小具足取付腹巻著て、中門の廊に打立給へり。主馬(しゆめの)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)此形勢(ありさま)を見て、穴浅猿と思ひければ、小松殿(こまつどの)に馳参、世は既(すで)にかうと見え侍り、入道殿(にふだうどの)御きせながを被(レ)召たり、公達も侍も悉く被(二)打立(一)たり、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ御参有て、法皇を鳥羽の御所に移し進すべしと披露候へども、実は西国の方へ御幸有べきとこそ内々承つれ、いかに此御所へ御使は不(レ)被(レ)進やらんと申ければ、大臣大に騒給(たまひ)て、使者は有りつれ共何事かは有べきと思食(おぼしめし)つるに、今朝の入道の気色、さる物狂しき事も有覧とて、急ぎ西八条へ被(二)馳参(一)けり。其時も猶今朝の姿にて、烏帽子(えぼし)直衣にて、物具したる者をば一人も具し給はず、差入て見給へば、入道既(すで)に腹巻を著給ける上は、一門の卿上(けいしやう)雲客(うんかく)数十人、各思々の鎧直垂に色々の鎧著て、中門の廊に二行に著座せられたり。諸国の受領なんどは、縁に居覆て庭にもひしと並居たり。馬の腹帯強しめて、手綱打係打係、旗竿共引そばめ、熊手薙鎌、手々にさゝげ、甲を前に置て、主人(有朋上P196)あと云ば、郎等さと出べき体也けり。小松大臣は引替、烏帽子(えぼし)直衣に奴袴の稜取さやめき被(レ)入ければ、人々事の外にぞ奉(レ)見。右大将宗盛出向て、内府の直衣
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の袖を引へて、是程の大事出来て、入道殿(にふだうどの)既(すで)に甲冑を被(レ)帯候の上は、御装束何様にか候べきと宣(のたまひ)ければ、何事かは有べき、朝家の重事をこそ大事とは申せ、此は私事也、入道の物狂の至る所歟、武具を帯する事輒らず、重盛(しげもり)憖に其職に居ながら甲冑を著せん事、太不(レ)可(レ)然、就(レ)中(なかんづく)近衛大将は世の重ずる官、他に異なる職也。兵共も数千騎候之上は、云がひなく重盛(しげもり)一人物具したらば、何程の事かは候べき、礼儀を知ぬに似たり。夷賊朝家を乱り、凶徒勝に乗て御方敗れんとせん時は、たとひ丞相の位に至るとも、自禦戦べし、而を敵方も無其仁も不(レ)知、何に向てか合戦すべき、沙汰之趣尤以つて不審也とて、よに悪気にて尻目に懸て通られければ、宗盛卿(むねもりのきやう)苦々敷思給(たま)ひ、帰入給ぬ。実に理也ければ、聞人々皆苦りあへり。内府内へ入り給へば、入道見(レ)之給(たまひ)て、臥目にこそ成給へ、例の此内府が世を表する様に振舞とて不(二)意得(一)気には御座しけれども、子ながらも遉あの貌に物具して相向はん事、面早くや被(レ)思けん、物具脱置隙もなかりければ、障子を少し引立て、腹巻の上に薄墨染の素絹の衣を引懸て出給たりけるが、胸板(むないた)の金物のはづれて見え(有朋上P197)けるをかくさんと、頻に衣の頸を引違引違し給(たま)ひければ、引綻ばかして、いとゞきらめきて見えにけり。入道はへらぬ体にて、抑此間の事、西光(さいくわう)法師(ほふし)に委く相尋ぬれば、成親卿(なりちかのきやう)の謀叛は事の枝葉也、実は叡慮より思食(おぼしめし)立と承れば、世の鎮らん程(ほど)、暫く法皇を奉(レ)迎、片辺に御幸なし進せんと存ず、大方近来いとしもなき者共が近習者し、下尅上して折を待時を伺て、種々の事を勧申なる間に、御軽々の君にては御座、係乱国の基をも思召(おぼしめし)立けり、向後とても非(レ)可(レ)奉(二)打解(一)、一
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天之煩当家の大事、一定出来ぬと覚ゆ。されば奉(二)申合(一)ばやと存じて使者を進たれば、いかなる遅参候ぞやと宣(のたまひ)けり。小松殿(こまつどの)は弟の右大将宗盛より上座し給たりけるが、檜扇半ばかり披仕給けるが、入道の言を聞給(たま)ひ、双眼より涙をはら/\と流し、暫物も宣はず、先興醒て御座ければ、入道又物もいはれず、一門の殿原なりを鎮て音もせず、庭上の軍兵等皆畏て候けり。
S0606 小松殿(こまつどの)教(二)訓父(一)事
内府やゝ暫く在て、直衣の袖より畳紙を取出し、落る涙を推拭被(レ)申けるは、左右の子細は暫閣、此御貌見進するこそ現とも存じ候はね。我朝さすがは辺鄙粟散の境と申ながら、(有朋上P198)天照太神(てんせうだいじん)の御子孫国の主として、天児屋根尊(あまのこやねのみこと)の御末、朝政を掌給しより以来、太政(だいじやう)大臣(だいじん)の官に昇れる人、甲冑を著する事輙かるべしとも覚えず、就(レ)中(なかんづく)出家の御身也。夫三世の諸仏の解脱■相(とうさう)の法衣を脱捨て、忽に弓箭を帯し御座さん事、内には既(すで)に破戒無慚の罪を招き給、外には又仁義礼智信の法にも背御座覧と覚ゆ。旁恐ある申事にて候へ共、暫く御心を閑め御座て、重盛(しげもり)が申状を具に可(二)聞召(一)哉覧、且は最後の申状と存れば心底に旨趣を不(レ)可(レ)残、先世に四恩と云事あり、諸経の説相不(レ)同に、内外の存知各別也と云ども、且く心地観経を見候に、一には天地恩、二には国土恩、三には父母恩、四には衆生恩是也。以(レ)知(レ)之人倫とし、不(レ)知を以て鬼畜とす。其中に尤重きは朝恩也。普天之下、莫(レ)非(二)王土(一)、卒土之浜莫(レ)非(二)王臣(一)、されば彼頴川の水に耳を洗き、首陽山に蕨を折ける賢臣も、勅命の難(レ)背礼儀をば存とこそ承れ。何況倩上古を思ふに、御先祖平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)は、相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)を被(レ)誅たりけるも、勧賞被(レ)行事受領には過ぎざりき。伊予入道頼義(らいぎ)が貞任
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宗任を滅したりけるも、いつか丞相の位に昇り不次の朝恩に預し。就(レ)中(なかんづく)此一門は、忝く桓武天皇の御苗裔、葛原親王の後胤とは申ながら、中比よりは無下に官途も打下て、下国の受領をだにも宥されずこそ有りけるに、故(こ)刑部卿殿(ぎやうぶきやうどの)備前守の(有朋上P199)御時、鳥羽院(とばのゐん)の御願(ごぐわん)、徳長寿院造進の勧賞に依て、家に久く絶えたりし内の昇殿をゆるされける時は、万人唇を反し侍けるとこそ伝承候へ。去ども御身は既(すで)に先祖にも未拝任の例をきかざりし太政(だいじやう)大臣(だいじん)を極めさせ御座上、又大臣の大将に至れり、所謂(いはゆる)重盛(しげもり)など暗愚無才之身を以、蓮府槐門の位に至る、加之国郡半は一門の所領となり、田園悉く一家の進止たり。是希代の朝恩に候はずや。今此等の莫大の御恩を忘て、濫く君を奉(レ)傾らんと思食(おぼしめし)立こと、天照大神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)の神慮にも定めて背き給ふべし、背(二)朝恩(一)者は、近は百日、遠は三年をすごさずとこそ申伝て侍れ。昨日までは人の上にこそ承つるに、今日は我身に係なんとす。其上日本はこれ神国也。神は非礼を受給はず。而に君の思召(おぼしめし)立処、道理尤も至極せり。此一門代々朝敵を平げて、四海の逆浪を鎮る事は、無双の勲功に似たれ共、面々の恩賞に於ては、傍若無人と申べし。聖徳太子(しやうとくたいし)十七箇条憲法には、人皆有(レ)心、心各有(レ)執、彼是則我非、我是則彼非、我必非(レ)聖、彼必非(レ)愚、共に是凡夫耳、是非之理、誰か能可(レ)定、相共に賢愚にして、如(二)環無(一)(レ)端、是以(レ)彼人雖も(レ)嗔還恐(二)我失(一)とこそ承れ。依(レ)之君事の次を以て奇恠也と思召(おぼしめせ)ば、尤御理にてこそ候へ、然而御運の尽ざるによりて此事既(すで)に顕ぬ、被(二)仰含(一)大納言、又被(二)召置(一)ぬる上は、縦君(有朋上P200)如何なる事思食(おぼしめし)立と云とも、何の恐か御座べき。大納言已下の輩に、所当
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の罪科を被(レ)行候はん上は、退て事の由を陳じ申させ給(たまひ)て、君の御為には弥奉公の忠勤を尽し、人の為にはます/\撫育の哀憐を致させ給はば、仏陀の加護に預り、神明の冥慮に背べからず、神明仏陀の感応あらば、君もなどか思召(おぼしめし)直す御事もなかるべき、濫く法皇を傾進せんとの御計、方々不(レ)可(レ)然、重盛(しげもり)に於ては御供仕べしとも存侍らず。不(下)以(二)父命(一)辞(中)王命(上)、以(二)王命(一)辞(二)父命(一)、不(下)以(二)家事(一)辞(中)王事(上)、以(二)王事(一)辞(二)家事(一)と云本文有り。又君と臣とを並、親疎を分事なく、君に付き奉るは、忠臣の法也。道理と僻事とを並べんに、争か道理に付ざらん。是は専君の御理にて御座候へば、神明擁護を垂給らん。さらば逆臣忽に滅亡し、凶徒即退散して、八■(はつえん)風和ぎ、四海浪静らん事、掌を返すよりも猶速なるべし。去ば重盛(しげもり)院中を守護し進せ侍ばやとこそ存候へ。重盛(しげもり)始は六位に叙し、今三公に列るまで、朝恩を蒙る事家に其例なし、身に於て過分也。其重き事を思へば、千顆万顆の珠にもこえ、其深色を論ずれば、一入再入の紅にも定て過たるらん、然者(しかれば)院中に参り籠り侍なん。其儀ならば重盛(しげもり)が命に替身に替らんと契を結べる侍、二百余人(よにん)は相随へて持て候らん、此者共は去共重盛(しげもり)をば捨思はじとこそ存候へ、是以て先例を思に、一年保元の(有朋上P201)逆乱の時、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)は、新院の御方に参り、子息下野守義朝(よしとも)は、内裏に参りて父子致(二)合戦(一)、新院の御方軍破て、大炊殿戦場の煙の底に成しかば、院は讃州〔へ〕御下向、左府は流矢にあたりて失給ぬ。大将軍為義(ためよし)法師をば、子息義朝(よしとも)承つて、朱雀大路に引出し、首を刎たりしをこそ、同く勅定の忝なさと云ながら、悪逆無道(あくぎやくぶたう)の至、口惜事哉と存候しか、正御覧ぜられし事ぞかし、其
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に人の上の様に浅増と悲かりし事の、今日は又重盛(しげもり)が身の上に罷成ぬる事よと存こそ、心憂覚え候へ。悲哉、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷廬八万の頂より猶高き父の御恩忽ちに忘なんとす。痛哉、不孝の罪を遁とすれば、又朝恩重畳の底極がたし。君の御為に既(すで)に不忠の逆臣となりぬべし。雖(二)君(一)不(レ)為(レ)君(一)、不(レ)可(二)臣以不(レ)為(レ)臣(一)、雖(二)父不(レ)為(レ)父(一)、不(レ)可(二)子以不(レ)為(レ)子(一)といへり。云(レ)彼云(レ)此、進退こゝにきはまれり、思ふに無益の次第也。只末代に生を受て、係る憂目を見る重盛(しげもり)が、果報の程こそ口惜けれ。されば申請くる処、御承引なくして、猶御院参(ごゐんざん)有べくば、只今重盛(しげもり)が頸を召るべく候。所詮院中をも守護仕べからず、悪逆(あくぎやく)の咎難(レ)遁、又御供をも仕るべからず、忠臣の儀忽に背候、申し請る詮たゞ頸を召るべきにあり。唯今思食(おぼしめし)合せ御座すべし。御運は既(すで)に末に望ぬと覚候。人の運命の尽んとする時、加様の事は思立事にて侍り。老子(有朋上P202)の詞こそ思ひしられ候へ。功名称遂不(二)退(レ)身避(一)(レ)位則、遇(二)於害(一)と申せり。彼漢蕭何は勲功を極に依つて、官大相国(たいしやうこく)に至り、剣を帯し冠を著ながら殿上に昇る事を被(レ)免しか共、叡慮に背く事有しかば、高祖重く禁て、廷尉に下して、深く罪せられき、加様の先蹤を思侍るにも、御身富貴と云ひ、栄花と云、朝恩と云ひ重職と云、極させ御座しぬれば、御運の尽事も難かるべきに非ず。富貴之家禄位重畳、猶再実之木、其根必傷とも申す、心細くこそ覚候へ。噫呼邦無(レ)道富貴恥と云本文あり。去ば重盛(しげもり)何迄か命生て、乱ん世をも見べき。唯速に頸を食れ候べし。人一人に被(二)仰付(一)て、御つぼに引出されて、重盛(しげもり)が首を刎られん事、安事にこそ候へ。人々是をばいかゞ聞給やとて、又直衣
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の袖を絞つゝ、泣々(なくなく)被(二)諌申(一)けり。是を見給ける一門の人々も、涙を流し袖を絞らぬはなかりけり。入道は口説立られて、おろ涙色には御座けれども、猶へらぬ体にて、さらば今は世にもいろひ侍まじ、院参(ゐんざん)も思止候ぬ、其上は召誡る者共をも、死罪にも流罪にもせでこそあらめ。但入道かく計申す事も、全く身の為ならず、浄海年闌て余命幾なし、唯子々孫々(ししそんぞん)末の代までも安穏にやと存する計也。其事人望に背愚案の企にあらば、何様にも御計ひなるべしと宣て内へ被(レ)入けり。小松殿(こまつどの)は弟の殿原に向ひて、いかに加様のひけうは結構せ(有朋上P203)られ候ぞや、縦入道殿(にふだうどの)こそ老耄し給(たまひ)て、あらぬ振舞あり共、今は各こそ家門をも治め、悪事をも可(レ)被(二)宥申(一)に、相副たる御事共(おんことども)候哉と被(レ)仰ければ、宗盛已下の人々苦々敷そぞろぎてぞ見え給ける。
内大臣(ないだいじん)は中門廊に立出給(たま)ひ、さも然べき侍共の並居たりける所にて仰けるは、重盛(しげもり)が申つる事共慥に承りつるにや、去ば院参(ゐんざん)の御供に出ば、重盛(しげもり)が頸の切られんを見て、後に仕べしと覚るはいかに、今朝より是に候て、加様の事共叶はざらんまでも申ばやと存つれども、此等が体の、あまりに直騒ぎに見えつる時に帰りつるなり。今は憚処有べからず、猶も御院参(ごゐんざん)有べきならば、一定重盛(しげもり)が頸をぞ召れんずらん、各其旨をこそ存ぜめ、但さも未仰られぬは、何様成べきやらん、去ば人々参れやとて、又小松殿(こまつどの)へぞ被(レ)帰ける。
S0607 内大臣(ないだいじん)召(レ)兵事
内大臣(ないだいじん)は、入道猶も腹悪き人なれば、院参(ゐんざん)の事もやあらんずらんと思召(おぼしめし)ければ、其悪行を塞がん為と覚しくて、主馬(しゆめの)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)を使にて、重盛(しげもり)こそ別して天下の大事を聞き出したれ、我
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を吾と思はん者共は急ぎ参れと被(レ)催たり。是を承る者共、おぼろげにては騒給は(有朋上P204)ぬ人の、係る仰の下るは実に別の子細の有にこそとて、難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)筑後守(ちくごのかみ)家貞(いへさだ)、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)等を始として、如法夜中の事なれども、我先にとぞ馳参りける。係ければ老も若も留る者はなし。小松殿(こまつどの)へとて周章(あわて)て参けり。入道は、何事ぞ世間の物騒ぎは、是に候や/\と宣(のたまひ)けれ共、そら聞ずして馳出ければ、西八条には青女房老尼、若は筆執ばかり残たる。少も弓馬に携る程の者は、一人もなかりけり。是のみらず、夜も明ければ、次第次第に聞伝て、洛中白川の外、北山、西山、嵯峨、広隆、梅津、桂、淀、羽束、醍醐、小栗栖、日野、勧修寺、宇治、岡屋、大原、閑原、賀茂、鞍馬、大津、粟津、勢多、石山迄も聞伝て、馬に乗ものらざるも、弓を取も取らざるも、出家遁世の古入道に至迄馳参ければ、洛中辺土の騒斜(なのめ)ならず、保元平治の逆乱に物懲して、貴賤上下肝をけす。入道宣(のたま)ひけるは、内府は何と思て、此等をば呼取ぬるやらんと、よく心得ずげにて、腹巻脱て素絹の衣に、長念珠後手にくりて、縁行道して、あゝ内府に中違たらんもよき大事やと宣て、いと心も発ぬ哀念仏をぞ被(レ)申ける。又小松殿(こまつどの)には、盛国(もりくに)承て侍の著倒しけり。宗徒の侍三千余人(よにん)、郎等乗替打具て、二万余騎(よき)とぞ注したる。内大臣(ないだいじん)は著倒披見の後、家貞(いへさだ)貞能(さだよし)を召して子細を下知し給(たまひ)て、西八条へ遣れけり。二人の者共入道殿(にふだうどの)(有朋上P205)に参て、弓脇に挟申を脱高紐に懸て、庭上に候けり。入道殿(にふだうどの)は人々に捨られて、徒然の余に猶縁行道して御座けるが、此等を見給(たまひ)てへらぬ体に宣(のたまひ)けるは、如何に家貞(いへさだ)貞能(さだよし)よ、小松殿(こまつどの)には軍兵を誘引して、是
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には人一人もなし、所存何事ぞ、其意を得ずと宣へば、家貞(いへさだ)畏て、可(レ)有(二)御院参(ごゐんざん)(一)之由仙洞依(レ)被(二)聞召(一)、法皇大に驚御座て、勅定に為(レ)治(二)天下(一)被(レ)下(二)軍将之宣旨(一)之後、経(二)多年(一)之間、云(二)官位(一)云(二)福禄(一)、秀(二)于先例(一)、深可(レ)存(二)朝恩(一)之処、還而欲(レ)乱(二)国家(一)之条、既為(二)朝敵(一)之上者、速に可(二)追討(一)之旨、所(レ)被(レ)下(二)院宣(一)也。昨日申入しが如、奉(レ)向(レ)父弓矢を引事は有べからずといへ共、重盛(しげもり)今官に居し、禄を貪る上は、勅定又難(レ)奉(レ)背。此事聞食されなば、御自害もやあらんずらん、先守護し進せよ、重盛(しげもり)角て侍れば、御命をば奉公に申替侍らんと被(二)仰下(一)と申たれば、入道殿(にふだうどの)まづ興醒て、俄に道心も失果つゝ、実か虚言かと宣へば、一定に候と申す。よもさらじ、入道を矯見とてこそといはれければ、家貞(いへさだ)は、今始て小松殿(こまつどの)左様の軽々敷御事有べしと不(レ)存、院宣とて軍兵の中に御披露有りしは、一定の事にこそと申時、入道大に歎給(たまひ)ていはれけるは、家貞(いへさだ)貞能(さだよし)慥に承れ、昨日申しし様に、出家入道の身也、余年日数少し、内府に奉(レ)譲(レ)世ぬる上は、向後は物にいろひ申す事あるべからず、院宣の御返事もよき様に可(レ)被(二)奏聞(一)、兎も(有朋上P206)角も相計はれんにこそ奉(レ)随らめと、曳去ばとく還り行て、此由を申べしと宣へば、二人の者共は、守護に候べしとの仰也、別の御使を以て可(レ)被(レ)仰や候らんと申す。入道の仰には、只急帰れ、我一人いづくへか落行くべき、是に不(レ)働して居べしなんど、様々怠状被(レ)申けり。二人帰て細に角と申せば、内府は打頷許涙ぐみ給(たまひ)て、やをれ家貞(いへさだ)貞能(さだよし)よ、まことには勅定なりとても、争か父に向ひ奉て、無道の逆罪を犯すべき、只入道殿(にふだうどの)違勅の振舞をしづめ奉り、天下の煩を止との方便なりと
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云へども、重盛(しげもり)かゝる悪人の子と生れて、五逆罪の一を犯する事こそ悲けれ、いかにといへば、子の身としては我こそ何度も父の命には随奉べきに、今父に向ひ奉りて御心を傷り奉り、御怠状をせさせ奉る事の心憂さよとて、はら/\と泣き給へば、二人の者共も鎧の袖をぞぬらしける。其後大臣は軍兵等に仰られけるは、日比の契約たがへず、下知に随て馳参り、聞伝て参上の条、返々神妙。聞召す事ありて被(レ)仰たりつれども、其事聞なほしつ、僻事にありけり、とく/\罷帰べし、但今度別の事なければとて、後々の催促に悠々を存ずべからず、たとひ事無しと云とも、何度も可(レ)随(二)下知(一)也、終には御用に叶ふべし。(有朋上P207)
S0608 幽王褒■[女+似](ほうじ)烽火事
去(さる)程(ほど)に異国の幽王にありき、度々の御召に事なければとて、官兵後日の催に参らざりければ、つひに国をほろぼしけり、其こゝろあるべしとぞ仰ける。
 昔異国に周の幽王と云しは、宣王の子也。位に付給(たまひ)て二年と云ふ春、山川大に震動せり。于時伯陽甫と云人申けるは、周すでに亡なんとす。昔伊洛竭て夏亡、河竭て商亡たりき。国は必ず山川による。山崩河竭は亡之徴也。河竭ときは山必崩。周の亡ん事十年にすぎじと被(レ)歎けるに、次の年幽王美人を得たり、其名を褒■[女+似](ほうじ)と云ふ。いつしか懐姙して皇子誕生あり、伯服とぞ云ける。幽王の本の后は申候と云ふ人の女めなりけれども、彼を捨てて褒■[女+似](ほうじ)を后とし、伯服を太子に立給(たま)ひければ、世は既(すで)に亡ぬとぞ群臣歎申ける。此后三千の寵愛にすぐれ、万女の綺羅に越たれども、笑事さらに御座さず。王心元なく思食(おぼしめし)て、宮中に心をとゞめ給はぬにや、いかゞして笑顔を見んと思食(おぼしめし)けるに、大国の習朝敵を禦ぎ亡さんとて、官兵を召時は、必烽火を揚る事あり。烽火とは我朝の高燈篭の如く、大なる続松に火を付て、高き峯にさゝげともせば、烽火の司人是を見継て、四方の岳々峯々にともしつゞけ(有朋上P208)て、国々の兵を召例
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あり。されば一月に行べき道なれども一日の内に知せけるなり、是を飛火と名たり。燧帝の猛火といへるは是也。我朝にも奈良帝の御時、東より軍おこらんとせしかば、春日野に飛火を立始て、其火を守人を被(レ)置たりき。春日野を飛火野と申は是也。異賊幽王を可(レ)奉(レ)傾之由聞えければ、飛火をあけて兵をめす。官兵馳集て旗をなびかし、戈をさゝげて、■を並べ時を作りけるに、后始て笑給へり。さらぬだに見目形たぐひなく、うつくしかりける上、咲ひ給(たま)ひたりければ、いとゞ百の媚をぞ増給ふ。帝嬉しき事に思召(おぼしめし)、常に飛火を揚られて兵を集給ふ。或は千里の山川を分来、或は八重の波路を凌上る。そも軍ならねば、兵本国に帰下る。国の費人の歎云ふばかりなし。かゝりし程(ほど)に、幽王を亡ぼさんとて、凶賊襲来ければ、又烽火を被(レ)上たり。諸国の軍兵是を見て、例の后の烽火と思ければ、官軍進み参事なくして、幽王忽に滅にけり。さてこそ后を褒■[女+似](ほうじ)僻愛とは申けれ、又は傾城とも名たり。都を傾と云ふ読あれば、当初は誡けれども、近来は人ごとに傾城とぞ呼ける。彼后幽王亡給(たまひ)て後、尾三つある狐と成て、こう/\鳴して古き塚に入りにけり。狐人を蕩とては、化して婦人と成りて顔色好。頭は雲の鬢と変じ、面は厳き粧と成て、翠眉不(レ)挙、華の顔低たり。忽然に一たび笑ば、(有朋上P209)千万の態有。見人十人が八九は迷ぬとぞかゝれたる。
或説云、褒■[女+似](ほうじ)は亀の子也。周■王の時、南庭に二の白龍出来て蟠居れり。帝いぶせく思召(おぼしめし)ければ、可(レ)殺よし宣下せられけるを、大臣公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)ありて云、竜は命長して必如意宝珠を持と云へり。朝家安穏の為に出現するにもやあるらんと、巫に依て死生を可(レ)定歟と奏しければ、然べしとて御占あり。不(レ)可(レ)殺と云占也ければ、早汝が命を助く。速に可(二)罷去(一)と被(二)宣下(一)、二龍恩を報ずとや思けん、暫庭上に泡を吐て去ぬ。彼吐所の泡を見れば、さま/゛\厳しき玉也けり。希代の重宝也。末代までも朝家の宝とすべし、輙く不(レ)可(レ)開とて、是を檜の唐櫃に納入て、勅封を付おかれけり。其後■王宣王幽王三代は、国治り民豊なりしを、幽王始て是
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を開き給へり。日記の如くには非ず、忽然として青亀也。王是を愛し給(たま)ひけり。宮中に七歳の姫宮御座、即幽王の后に祝奉べき仁なりけるが、此亀を愛して、常に唐櫃の辺に遊給ける程(ほど)に、何としたりけんいまだ歯かゝざる程の御齢也けるに、亀と嫁て懐姙し給へり。折節天下に童部歌を歌ふ事あり。山桑の弓生柄の矢を以て、此国を可(レ)滅とぞ歌ひける。不(レ)久して男一人出来、山桑の弓生柄の矢をぞ売たりける。是をきゝ、聞ゆる事にこそとて、件の男を搦捕て、土の籠に誡入、七歳の懐姙の姫宮をも追捨てられたりけるが、(有朋上P210)少き御心にさまよひありき給ける程(ほど)に、彼籠舎の砌に迷行。獄人是を見るに、みめ形よのつねならずありければ、汝をば我子にすべしとて、官食を分てこれを養ふ。懐姙の期満て生産す、即女子也。無双みめよし、長大するに随ひて美人の誉れ国中に極れり。幽王是を召て后とす。此忠に依て籠舎の者も被(レ)出けり。此后生てより笑事なしと、云々。如(レ)先、山桑の弓、なまえの矢うりける者と云は、他国の王幽王を亡さん為に、陀天の法を祭り付て是を売らせり、陀天は狐也。山桑なまえは、陀天の三摩耶形也(なり)ければ、かくはかり事にしたりけりと、云々。此事大に不審、周の代には仏法未(レ)渡真言なし、僻事にや、可(二)相尋(一)也。
内大臣(ないだいじん)も此意を得給けるにや、今度事無とて後日の催しに、悠々を不(レ)存とは仰せけるにこそ。実に君の為には忠勤あり、父の為には孝道を存す、臣以不(レ)為(レ)臣不(レ)可(レ)有、子以不(レ)為(レ)子不(レ)可(レ)有と宣へる、文宣王の言に不(二)相違(一)ぞありける。法皇聞召て、今に不(レ)始事と云ながら、怨をば恩を以て被(レ)報ぬ、返々も重盛(しげもり)が心の中こそはづかしけれ。勁松彰(二)於歳寒(一)、貞臣見(二)於国危(一)と云へり。恥かしくも憑しくも思食(おぼしめす)臣也。南無天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)、春日、日吉の神明、願は小松内府より先立て、朕が命を召給へとて、竜眼より御涙を流させ給(たま)ひけるぞ忝なき。東方朔が詞に、水至清無(レ)魚、人至
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察無(レ)友(有朋上P211)と云へり。嘉応の相撲の節会に、大将にて右の片屋に事行し給(たま)ひけるに、見物の中に立たりける人の申けるは、果報冥加こそ目出くて、近衛大将に至り給ふとも、容儀心操さへ、人に勝れ給(たま)ひける難(レ)有さよ、但此国は小国なり、内大臣(ないだいじん)は大果報の人也、末代に相応せずしてとく失給ふべきにやと申たりけるが、露たがはざりけるこそ不思議なれ。(有朋上P212)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第七

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登巻 第七
S0701 成親卿(なりちかのきやう)流罪事
六月二日、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)をば、公卿の座に出し奉りて、物進らせたれ共、胸(むね)せき喉ふさがりて、聊もめされず。追立の官人来て、車さしよせてとく/\と申せども、すゝまぬ旅の道なれば、座を立ちて急乗給はざりけるを、御手を取あらゝかに引立奉、うしろざまに投のせて、車の簾を逆に懸て、門前に遣り出す。大路にて先火丁よりて車より引き落し奉て、誡めの■(しもと)とて三杖あてたれば、次に看督長殺害の刀とて、二刀突まねをして、其後山城判官秀助宣命を含させて、又車に押乗奉りて、前後には障子をぞ立たりける。人の上をだにも見給はぬ事なれば、増て我身の上の悲さは、推量れて哀なり。軍兵前後に打囲て、我方ざまの者は一人もみえず、なにと成りいづくへ行やらんも知らする人もなし。内大臣(ないだいじん)に今一度会申さばやと宣へども、それも叶はず、憂身に添る者とては、尽せぬ涙ばかりなり。唐の呂房と云人、旅の空に行しかども、故宮の月に慰みけり。此大納言(有朋上P214)は車の物見を打塞、前後に障子を立たれば、月日の光も見給はず、西も東も不(レ)知けり。加様の歎の深さには、晩を待べしとも覚えざりければ、難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)を以て、成親縦いかなる浦島にはなたるとも、責ては月日の光をだにも免れて侍らば、いさゝかなぐさむ方も候なん、さしも罪深き者と思食(おぼしめす)とも、かばかりの御誡までや候べきなんど、
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内府へ被(レ)申たりければ、大臣聞給(たまひ)て、こは不便の事也とて、月日の光はゆり給ふ。八条を西へ朱雀を南へ遣行けば、大内山を遥(はるか)に顧給ふにも、思出事のみ多かりけり。造路四塚をも過給へば、今を限の御名残(おんなごり)、心は都に留れども、車に任せて遣り行。鳥羽殿を過給へば、年来召仕給ける舎人牛飼共並居つゝ、涙を流し袖を絞ること理也とぞ哀なる。よそほかの者までも、悲を含み哀を催して、涙にむせばぬ者はなし。まして都に残留る者共の歎悲らんこと思ひつゞけ給ふにも、只袖をぞ被(レ)絞ける。我世にありし時付て仕し者の、一二千人(いちにせんにん)はありけれども、人一人も身にそはで、今日を限に都を出る悲しさよ、重き罪を蒙て遠き国へ行者も、人の一人身にそはぬ事やあるなんど種々独言をの給(たまひ)て、声もをしまず泣給へば、車の前後に候ける武士共も、さすが岩木をむすばねば、各袖をぞぬらしける。此御所へ御幸のありしには、一度も御供に闕る事なかりきと、せめて昔のゆ(有朋上P215)かしさに、今日の憂身を悲しめり。我宿所の前を見入て過給ふに付ても、いとゞ涙を流されけり。南門を過河の耳に御舟の装束とく/\とひそめけば、こはいづくへやらん、終に可(レ)被(レ)失ならば、同くは只都近此辺にても失へかしと、おぼしけるぞせめての事と哀なる。近候ける武士を召て、是は誰人ぞと問給へば、難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)と名乗る。此辺に若我ゆかりの者や在と尋ねてえさせよ、舟にのらぬさきに云ひ置べき事ありと宣(のたまひ)ければ、経遠(つねとほ)其辺近あたりを打廻て相尋けれ共、有と答る者なし。可(レ)然(しかるべき)者候はずと申せば、大納言は、などか我ゆかりの者なかるべき、世に恐てぞ出ざるらん、命に替身に替らんと云契し者共は、この程(ほど)にも一二百人
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はありけん者を、よそにて此形勢(ありさま)を見んと思はざるらん口惜さよ、鳥羽の御所に被(レ)候し時には、非番当番して、目にかゝらん詞にかゝらんとこそ振舞しか、世あらたまり勢(いきほ)ひかはればにや、うらめしくも云ひ置べき事を、きかじとまで思ふ覧よと、口説給へば、武き夷なれ共、流石(さすが)心の有ければ、すぞろに涙をすゝめけり。大納言は既(すで)に船に乗波に流れて漕行けども、心は妻子につながれて、思ひは都にとゞまりけり。鳥羽殿を顧給(たまひ)て、泣々(なくなく)武士に宣(のたまひ)けるは、去じ永万(えいまん)元年の春、鳥羽の御所に御幸ありて、終日御遊(ぎよいう)ありしに、四条太政(だいじやう)大臣(だいじん)師長は琵琶の役、花山院中納言忠雅、按察大納言(有朋上P216)資賢は笛の役、葉室中納言俊賢は篳篥の役、楊梅の三位顕親は笙笛の役、盛定行家は打物を仕き。調子盤渉調、万寿楽の秘曲を奏せられしに、五六調に成て宮中澄渡り、諸人感涙を流しに、天井に琵琶の音しき。著座の公卿は怪を成して色変ぜしかども、君は少も御騒なし。何人ぞと尋可(レ)申之由、勅定を蒙りし間、成親畏て、左右の袖を掻合天井に仰向つゝ、何なる人に御座すぞ、御名乗し給へ、勅定也と申ししに、我は是摂津国(つのくに)住吉(すみよし)の辺に、居住せる小樵なり。君子の御遊(ぎよいう)、群臣管絃の目出さに、望み参れりと答て、其後は琵琶の音もせざりき。住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)の、御影向にやと、諸人身の毛竪ちし程(ほど)に、又池汀に赤き鬼の青き褓をかきて、扇を三本結立たり。誠に御遊(ぎよいう)の妓楽に目出給(たま)ひ、明神のかけらせ給けるにこそとて、其よりして州浜殿をば、住吉殿とは申けれ。、係し時も、多くの人の中に、成親こそ宣旨の御使を勤て、奉(レ)向(二)霊神(一)て、問答をば申て侍しが、非(二)朝敵(一)、今赴(二)配所(一)事、先世の宿報とは思へ
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共、憂かりける身の果かなとて、音も惜まず泣き給ふ。盛者必衰の理、実也とぞ哀なる。大納言の世におはせし昔、熊野詣などには、二瓦の三棟に造りたる舟に、次の船二三十艘漕列けてこそ下りしに、今はけしかる舁居屋形の舟の浅猿(あさまし)かりけるに大幕引廻して、見も馴ぬ武士に乗具して、いづくを指て行とも知らず、下給(有朋上P217)けん心の中、さこそ悲く覚しけんと、押計られて無慙也。淀の泊の黎明に白雲係八幡山、木津殿、■殿(うどの)、渚院、江口、神崎漕過て、今夜大物が浦に著給ふ。
大納言は死罪を宥られて、流罪に定りぬと聞えければ、相見事は竪かりけれ共、是れは小松内府のよく/\入道に申給たるにこそ。国有(二)諌臣(一)其国必安、家有(二)諌子(一)其家必直といへり。誠なるかな此言とぞ、人々悦び給ける。此大納言の中納言にて御座し時、尾張国守にて、去嘉応元年冬の比、目代(もくだい)にて、衛門尉政友を当国へ被(レ)下けるが、美濃国杭瀬河にて宿を取、山門領平野庄の神人、■(くす)を売て出来れり。政友是を買はんとて、直の高下を論じて、様々になぶる程(ほど)に、■(くす)に墨をぞ付たりける。懸ければ神人等憤起て、山門に攀登つて、致(二)訴訟(一)間、衆徒及(二)奏聞(一)、聖断遅々に依て、同年十二月廿四日に、大衆等日吉の神輿を頂戴して下洛す。武士に仰て被(レ)防しか共、神輿を建礼門の前に奉(二)振居(一)、国司成親卿(なりちかのきやう)を流罪なり、目代(もくだい)政友を可(レ)被(二)禁獄(一)之由訴申ければ、成親卿(なりちかのきやう)は備中国へ流罪、政友をば禁獄之由被(二)仰下(一)。即西の朱雀まで被(レ)出たりしか共、同廿八日に被(二)召返(一)、同丗日本位に復し、中納言に成返て、嘉応二年正月五日右衛門督を兼して、検非違使(けんびゐし)の別当に成給ふ。其後目出くときめき栄給(たまひ)て、去承安二年
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七月廿一日に従二位(じゆにゐ)し給し時も、資賢兼雅を越給き。資賢は古人(有朋上P218)の宿老にて御座き。兼雅は清花英才の人にや、越られ給も不便也とぞ人々申ける。是は三条殿造進の賞とぞ聞えし。御徙移の日也。同三年四月十三日に、又正二位し給けるには、中御門中納言宗家卿越られ給けり。去々年安元(あんげん)元年十一月二十八日に、第二の中納言左衛門督、検非違使(けんびゐし)の別当権大納言に成上給ふ。加様に栄給ければ、越られ給ふ方様の人々は、目醒しく思嘲て、山門の大衆に咒咀せらるべかりける者をと云けるぞ恐しき。神明の罰も人の咒咀も、疾もあり遅もあり、遂には必報けりとぞ申ける。林に闌たる木は必ず風に摧、衆に秀たる者は正に怨に沈。たとひ高位に昇るとも、身を約しくもてなし、縦ひ栄花に誇るとも、心に驕事なかれ。此大納言は、官職先祖に越、朝恩傍輩に過たれば、奢る思も多かりけん、人の恨も積つゝ、角成給(たま)ひけるこそ不便なれ。
同三日のまだ暁、京より御使有とてひしめきけり。既(すで)に失へとにやと聞ば、備前国へと云て、船を出すべき由■(ののし)る。内大臣(ないだいじん)より御文あり、大納言泣々(なくなく)披見給へば、都近片山里にも置奉んと様々誘申しつれ共、死罪を宥申だにあるに、其事努々叶まじと、入道竪宣へば力及ばず、世に有甲斐なく覚侍り、但御命計は申請ぬ、いづくの浦に御座共、御心安可(二)思召(おぼしめす)(一)、さても替行憂世の有様(ありさま)、よく/\思ひつゞけて念仏申永悟を開かんと思召(おぼしめす)べし、うきも(有朋上P219)つらきも夢の世の中、兎にも角にも現ならず、由なき妻子に心を留て、晴ぬ闇路に迷給ふな、我世にあらん程は、人々の事をば可(二)育申(一)なんど遊して、旅の粧様々に
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調へてぞ奉つれる。難波(なんばの)次郎(じらう)が許へも、よく/\仕へ申べし、愚にあたり奉るなとぞ被(二)仰下(一)ける。さばかり忝く思食(おぼしめし)ける君にも別れ進せ、尻頭ともなき小君達の、糸惜く悲しきをも振捨て、知らぬ国、習はぬ旅にさすらひつゝ、都をば雲井の外に立隔、かへるさ知らぬ配所なれば、二度妻子を見事も有難しと、思残す事もなし。一年山門の大衆の訴により、日吉の神輿下洛して、朝家の御大事に及しも、西三条に五箇日こそ在しか、其なほ御免し有き。是はさせる君の御誡にも非ず、又山門の訴にもなし、こは何なる事ぞやと我身の悪事をば忘つゝ、天に仰地に臥て、喚叫び給けり。夜も既(すで)に明ければ、大納言は大物が浦より舟に乗、塩路遥(はるか)に漕出し、浪にぞ浮み給ける。難波の里に飛蛍、蘆屋の沖の舟呼ひ、武庫山下風、福原の京、渚河、和田の御崎、逆手河行来の人のしげければ、小馬の林に隙ぞなき。彼は須磨関屋にや、行平中納言藻塩たれつと侘にけん、此浦の事ならん。昔源氏の大将の流されて、月日を送り給つゝ
  秋の夜の月げのこまよわがこふる雲井にかけれときのまもみん K029 (有朋上P220)と詠じけんも我身の上と哀也。淡路の絵島を見給ふにも、昔廃太子の遷れて、波に朽せぬ絵島をば、誰筆染て写けんと、昔語もいと悲し。月名にしおふ明石の浦えい崎林崎、小松原高砂や尾上の松も過ければ、室の泊に就給ふ。藻懸の瀬戸蓬が崎やよりの浜を漕渡、備前国阿江の浦より、内海を通て皃島と云所に著き給ふ。都を出給にし後、日数ふれば、遠成行古里のみ恋くて、道すがら只涙のみにぞ
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咽び給ふ。はか/゛\しく湯水をだにも聞入給はざりければ、ながらふべしとも覚さゞりけれ共、さすが露の命の消やらで、此まで下り著給にけり。民の家の恠げなるに奉(二)居置(一)。彼所は後は山、前は磯、岸うつ浪は瀝々として音幽に、松吹風は蕭々として物さびし。去ぬだに旅のうきねは悲きに、汗に諍涙の色、耳おどろかす波の音、いとゞ哀ぞ増りける。しばしは皃島にまし/\けるを、こゝは猶津宿近して人繁し、悪かりなんとて、後には難波と云所へ奉(二)移居(一)けり。
S0702 丹波(たんばの)少将(せうしやう)召下事
廿日太政(だいじやう)入道(にふだう)福原より平宰相(へいざいしやう)の許へ被(レ)申けるは、丹波(たんばの)少将(せうしやう)をば是へ渡し給へ、都におきてはいかにも悪かりぬと覚侍り、相計て何所へも遣すべしとぞ宣たる。宰相聞給(たまひ)てあ(有朋上P221)きれつゝ、こはいかなる事ぞ、日数へぬれば今は異なる事あらじとこそ思つるに、又加様に宣ふ事こそ悲けれ。中々在し時に、左も右も成たりせば、忘るゝ事も有なましと、責の事には覚されけり。今は惜とても甲斐あるまじ、終にすまじき別に非、疾々出立給へと宣へば、少将は、今日までもかく延たる事こそ有難けれとて急給ふ。少将も北方も乳母の六条も、今更絶焦給ければ、猶も入道殿(にふだうどの)へ仰候へかしと人々申しけれ共、宰相は存ずる処は前に委く申き。其上に角宣はん事力及ばず。世を捨より外は何と申べき。乍(レ)去御命のなき程の事はよもとこそ存侍れ。何の浦島に御座とも、教盛が命のあらん限は何にも可(レ)奉(二)音信訪(一)憑しく思召(おぼしめす)べしとぞ宣(のたまひ)ける。少将は少き人呼出し、髪掻撫て、七歳にならば元服せさせて、御所へ進せんとこそ思しに、今は日比の有増事も云に甲斐なし、成人たらば相搆て法師になり、我後の世弔へよ
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と涙もかき敢ず、成人に物を云様に打口説給ければ、四歳に成給御心なれば、何とは弁給はざりけめども、父の顔を見上給(たまひ)て、うなづき給けるにも、いとゞ為方なくぞ被(レ)思ける。北方も六条も、此形勢(ありさま)を見聞きては、臥倒、音を調てをめき給ふ、理なれば哀也。少将は今夕鳥羽までとて急出けれども、宰相は世のうらめしければとて、今度は相具し給はず、行くも留も互に心ぼそくぞ被(レ)思け(有朋上P222)る。
廿二日に少将は福原に下著給へり。妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)預て、宿所に奉(レ)居、是も我方様の者は一人も付ざりけり。妹尾は宰相の返り聞給はん事を恐けるにや、様々志ある体に労り振舞けれ共、少将は慰む方もおはせず、都の人の恋おぼされければ、責の事には哀声にて唯仏の御名を唱て、夜も昼も泣より外の事なかりけり。少将は備中国へ配流の由聞給ければ、相見奉事は有まじけれども、責ての恋しさの余に、大納言の御座国は幾ら程近やらん、いづくとだにも聞まほしく思て、妹尾を召被(レ)仰けるは、いかに兼康(かねやす)、汝が候妹尾より、大納言殿(だいなごんどの)のおはすらん所へは、いか程かあると問ひ給へば、大納言の御座する有木の別所高麗寺と申は、備前に取ても備中の境、妹尾と云は備中に取りても備前の境也。両国の間に御部川とて、川を一つ阻たり。其間は纔に三十余町有けるを、しらせ奉りては悪かりなんとや思けん、大納言殿(だいなごんどの)の御渡候所へは、行程十三日とぞ申ける。
S0703 日本国広狭事
少将被(レ)思けり、日本は是本三十三箇国也けるを、六十六に被(レ)分たり。越前、加賀、能登、越中、越後五箇国は、本一国也。中比三箇国に分たりしを、越前加賀両国の間に、(有朋上P223)四の大河あり。庁参の時、洪水
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の為に人多く損じければ、是は庁の遠き故也とて、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に上奏を経て、加賀郡を四郡に分ちて、加賀国と定め、能登郡広しとして、四郡に分て能登国と定む。さてこそ五箇国をば、越路とて道は一なれ。又陸奥、出羽両国、是も一也けるを二箇国に被(レ)分たり。一条院御宇、大納言行成の末殿上人(てんじやうびと)にて御座ける時、参内の折節、実方中将も参会して、小台盤所に著座したりけるが、日比の意趣をば知ず、実方笏を取直て、云事もなく、行成の冠を打落、小庭に抛捨たりければ、もとゞりあらはになしてけり。殿上階下目を驚して、なにと云報あらんと思けるに、行成騒がず閑々と主殿司を召て、冠を取寄せかうがい抽出して、髪掻なほし冠打きて、殊に袖掻合、実方を敬して云けるは、いかなる事にか侍らん、忽にかほどの乱罰に預るべき意趣覚えず、且は大内の出仕也、且は傍若無人也。その故を承て報答後の事にや侍るべからんと、事うるさくいはれたりければ、実方しらけて立にけり。主上折節櫺子の隙より叡覧有つて、行成は勇々しき穏便の者也とて、即蔵人頭になされ、次第の昇進とどこほりなし。実方は中将を召て、歌枕注して進よとて、東の奥へぞ流されける。実方三年の間名所名所を注しけるに、阿古野の松ぞなかりける。正く陸奥国にこそ有と聞し(有朋上P224)かとて、此彼男女に尋問けれ共、教る人もなく知たる者もなかりけり。尋侘てやすらひ行ける程(ほど)に、道に一人の老翁あへり。実方を見て云けるは、御辺は思する人にこそ御座れ、何事をか歎給と問。あこやの松を尋兼たりと答ければ、老翁聞て最情ぞ侍る、是やこの
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  みちのくのあこやの松の木高に出べき月の出やらぬ哉 K030 
と云事侍り。此事を思出つゝ都より遥々(はるばる)〔と〕尋下り給へるにやといへば、実方さにこそと云。翁日、陸奥出羽一国にて候し時こそ、陸奥国とは申たれ共、両国に分れて後は出羽に侍也、彼国に御座して尋給へと申ければ、即出羽に越て阿古野の松をも見たりけり。彼老翁と云けるは、塩■(しほがまの)大明神(だいみやうじん)とぞ聞えし。加様に名所をば注して進せたれ共、勅免はなかりける。
S0704 笠島道祖神事
終に奥州名取郡、笠島の道祖神に被(二)蹴殺(一)にけり。実方馬に乗ながら、彼道祖神の前を通らんとしけるに、人諌て云けるは、此神は効験無双の霊神、賞罰分明也。下馬して再拝(有朋上P225)して過給へと云。実方問て云、何なる神ぞと。答けるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする、出雲路の道祖神の女也けるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁て、親に勘当せられて、此国へ被(二)追下(一)給へりけるを、国人是を崇敬ひて、神事再拝す、上下男女所願ある時は、隠相を造て神前に懸荘り奉りて、是を祈申すに叶はずと云事なし。我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、敬神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打て通けるに、神明怒を成て、馬をも主をも罰し殺し給けり。其墓彼社の傍に今に是有といへり。人臣に列て人に礼を不(レ)致ば被(二)流罪(一)、神道を欺て神に拝を不(レ)成れば横死にあへり。実に奢る人也けり。去共都を恋と思ひければ、雀と云小鳥になりて、常に殿上の台盤に居、台飯を食けるこそ最哀なれ。
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又備前、備中、備後、本は一国也けり。豊前、豊後も如(レ)此、筑前、筑後も同事、肥前、肥後もしかの如し。日本国は東西へ去事二千七百五十里、南北は五百三十七里也。筑紫より■(はらか)の使の上るこそ行程十五日とは聞えしか。是より奥鎮西なんどへ下らんこそ、仮令十二三日にも行んずれ。備前備中さしもの大国とは聞ざりしものを、父の御座所をしらせじとて、角は(有朋上P226)云よと被(レ)思ければ、其後は又問事もなかりけり。
S0705 大納言出家事
二十三日に大納言は、少しくつろぐ事もやと覚しける程(ほど)に、少将も福原へ召下など聞えければ、いとゞ重のみ成ゆけば、姿を不(レ)替してつれなく月日を過さんも憚あり、何事を待つにか、猶も世にあらんと思ふやらんと、人の云思はんも恥しければとて、出家の志有よし、小松殿(こまつどの)へ被(レ)申たりければ、終には其こそ本意なれば、左在べきにこそと免されて、備中国安養寺に、調御房と云僧を請じて、備中国朝原寺にて出家受戒し給けり。御布施には、六帖抄と云歌双紙をぞ被(レ)渡ける。彼抄と申は、村上帝の第八御子、具平親王家の御集なり。此親王をば六条宮とも申、後中書王共申、中務親王とも申けり。内に道念御座して、外に仁義をたゞしくし、管絃の妙曲を極、詩歌賦の才芸に長じ給へり。歌道殊に巧に御座けるが、後の世の御形見とて集させ給(たま)ひたりける草子也。此大納言も彼抄をば無(レ)類おぼされければ、配流の時身に付る物はなけれ共、此抄計をば是迄も被(二)随身(一)たりけり。旅の空布施になるべき物なかりければ、泣々(なくなく)被(レ)出けるにこそ、最哀也。(有朋上P227)
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S0706 信俊下向事
大納言の北方、北山の栖ひ只推量るべし。住馴ぬ山里は、さらぬだにも物うかるべきに、柴引結庵の内、まだしも馴ぬ草枕、過行月日も暮しかね、明し煩有様(ありさま)也。女房侍共の其数多かりしも、流石(さすが)身々の捨難ければ、世に恐れ人目をつゝむ程(ほど)に、最後を訪ひ奉る者もなかりけり。其中に大納言の年比身近く召仕給ける源左衛門尉信俊と云侍あり。情ある男にて、時々奉(二)事問(一)けるが、或暮つかたとぶらひに参たりける次に、北方御簾近く召よせて宣(のたまひ)けるは、やゝ信俊承れ、大納言殿(だいなごんどの)は備前国児島とかや云所へ流され給ぬとは聞しか共、此渡より尋参人一人もなし、未生て御座するやらん、又堪ぬ思に忍煩て、昔語にもや成給ぬらん、其行末をも不(レ)奉(レ)知、未生ても御座さば、流石(さすが)此渡の事いかばかりか聞まほしく覚すらん、又少き人どもの住馴ぬ山里の栖ひ、中々申も愚也、只推量給べし。懸憂身の有様(ありさま)思出て、無昔も猶忍がたかるべきに、朝夕の事叶はねば、少き者共がうき事をも不(レ)知、おそし/\と進るを聞に付ても、先立物とては只涙ばかりなり。今は甲斐なき身なれ共、露の命の消も失なで、明し暮すなり、聞給(たま)ひなばいとゞ心苦こ(有朋上P228)そ覚さんずれども、責の事には、加様のうき事をも恋き事をも、申ばやと思に、汝いかなる有様(ありさま)をもして尋参なんや、御文をも進返事をも待見ならば、限なき心の中をも慰事もやと思はいかゞすべきと宣(のたまひ)ければ、信俊涙を流して申けるは、誠年比近く召仕れ進せし身にて候へば、今は限の御共をも申べくこそ候しか共、御下の御有様(おんありさま)、人一人も付進する事有まじと承しかば、思ながら罷留候き。明暮は君の御事より外は思出事侍ず、召れ進せし御声も耳に留、御諌の御詞
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も肝に銘じて忘まゐらせず、年比日比身を助、妻子を育し事、君の御恵に非と云事候はず、上下品替といへども、まのあたりの御有様(おんありさま)共と申、西国御下向の御恋さと申、袖に余たる涙絞煩たる折節、かく承候へば、身は何様に成候共、いかゞは仕候べき、御文を給、急尋参んと申ば、北方無(レ)限悦て、細に文遊して賜にけり。信俊給(レ)之、泣々(なくなく)小島へ下けり。既(すで)に彼に行著て、預の武士に申けるは、是は大納言殿(だいなごんどの)の年比の侍に、源左衛門尉信俊と云者に侍り、君当国へ御下向の時も、御伴申度候しを、御方様の者をば一人も付られずと承しかば、思ながら今は限の御伴をも申さず、差も御糸惜深く食仕れまゐらせしかば、奉(レ)別後は、明暮唯此御事のみ悲く恋く思出まゐらすれば、若今一度奉(レ)見事もやと存るうへ、さこそ都の事をも君達北方の御事(有朋上P229)どもをも、聞まほしく被(二)思召(一)(おぼしめされ)候らめ、音信便も絶ぬ、伝申人もなくて、空御事にも成給なば、如何計の御妄念にかと罪深思進すれば、其御渡の事をも語申て、聊御妄念もはるゝ御心もやと存じて、遥々(はるばる)と罷下れり。然べくは蒙(二)御免(一)て、今一度最後の見参にいり進ばやと申けるを、始は緊く恠嗔て叶まじと云けれ共、泣々(なくなく)掻口説云ければ、武士共涙を流し、最哀に思つゝ、何かは苦かるべきとて、終には是を免けり。信俊不(レ)斜(なのめならず)悦て、大納言の御座する所へ参て奉(レ)見に、浅猿(あさまし)く悲かりける事がら也。奇気なる小屋に、垣には土を壁に塗廻、戸には藁のこもを懸垂たり。内に差入て見廻せば、藁の束と云物を敷て、痩衰たる法師あり。よく/\見れば大納言入道殿(にふだうどの)にてぞおはしける。下には垢付たる布の服、上には袖やつれたる墨染の衣也。傍には竹の杖を立て、前
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には縄緒の足駄を置り。是やこの賤が伏戸の赤土の小屋、民の住居の草の戸ざしなるらんと、心憂こそ思けれ。中御門高倉の御宿所より始て、所々の御山庄屋敷を尽棟を並べ、■(とぼそ)を研柱を彩、屏風障子を立交、雲繝高麗を敷満つゝ、殿には風月の双紙を取乱、琴瑟の具足を立並、庭には四季の草木枝を通合、浦の沙玉を蒔て、或は仙院仙洞の御幸も有、或は卿上(けいしやう)雲客(うんかく)の遊宴も有しかば、絃歌の妙なる声絶る事なく、海陸の珍味尽ざりき。車を馳る(有朋上P230)賓客は、門前事騒しく踵を継。男女は庭上狼藉也。角こそ栄給たりしに、今成給へる有様(ありさま)の悲さに、目もくれ心も消て、前に臥倒て喚叫外は何事も申されず。大納言入道も信俊を見給(たまひ)ては、墨染の袖を顔に当給(たまひ)て、唯さめ/゛\とぞ泣給ふ。入道良在て宣(のたまひ)けるは、多の者共の中に、いかにとして是迄尋下けるぞや、余に都の恋さに、夢なんどに見るやらん、更に現とは覚えずとて、こぼるゝ涙せき敢ず、悲の色ぞ深かりける。信俊泣々(なくなく)申けるは、去し六月一日より、北御方君達相具し進せて、北山の雲林院の僧坊、菩提講行ひ候所に忍つゝ、幽なる御住居、若君姫君の恋かなしみ奉る御事、今度罷下べき由、懇に仰を蒙候し事共細に申て、懐より文を取出して進たり。入道は世にも有難なつかしげにおぼして、披見給はんとし給へども、落涙は降雨の如くにして、文の上にかゝりければ、筆の跡も見分給はず見えければ、信俊もいとゞ袂を絞けり。兎角して涙の隙よりほの是を御覧ずるに、若君姫君の限なく恋悲み奉痛しさに、我身も又月日を過べき心地もなけれ共、如何にと結べる露の命やらん、強面消も失なで、焦て物を思ふ事、朝夕の煙たえて、心細く幽なる住居、思出る昔の
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恋しき事、若君姫君行末いかにと心苦き事、心に任する旅の御住居ならば、共に下て見、見え奉たき事、愚なる心にも、今一度上り給はぬ事(有朋上P231)やは有べきと奉(二)待思(一)事、丹波(たんばの)少将(せうしやう)さへ福原へ被(二)召下(一)給へり。悲き事共、細々と書つゞけ給へるを見給(たまひ)ては、日比覚束なかりしよりも、今少し悲しく思給(たまひ)て、暫し絶入てぞ御座ける。信俊やゝ労り奉ければ、人心地出来給(たまひ)て、生て物を思も悲ければ、よき次に消果べかりける物をと宣(のたまひ)けるこそ、責の事と哀なれ。信俊二三日候て、泣々(なくなく)申けるは、角ても付添進て、限の御有様(おんありさま)をも見進せて、後の御孝養をも仕べく候へども、都にも見継進る便もなし、立隔ぬる御旅の空、又もと思召(おぼしめす)御眤言も絶や果なんなれば、今一度御返事をなり共御覧ぜばやと、罪深思召(おぼしめさ)れて被(二)下遣(一)たるに、日数積らば跡もなく験もなきやらんと、いか計かは御心苦く思召(おぼしめさ)れんなれば、今度は御返事を賜て、急罷上て見参に入進て、又こそ罷下候て奉公をも申、終の御事をもと申せば、入道よに名残(なごり)惜は被(レ)思けれ共、誠にさるべし、疾々還上、都にて待らん事も痛しし、北方少者共に能々宮仕申べし、係憂身と成ぬる上は、左にも右にも云計なし、人々の事こそ心苦く覚ゆれ、但汝が又こんたびを待付べき心地もせず、いかにも成ぬと聞ば、後世をこそ弔めとて返事細に遊ばして、剃髪の有けるを引裹て、是を形見と御覧ぜよ、ながらへて世に聞はてられ奉べしとも、今生にこそ相見事の空とも、後の世には必など、心細げに書連てたびて(有朋上P232)けり。信俊給(レ)之て出けるが、行もやらず、又大納言入道も、差て宣べき事は皆尽にけれ共、慕さの余には、度々是を呼び返す。還行べき旅だにも、程ふれば、故郷は恋きに、今
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を別の心の中、被(二)推量(一)て哀也。さても有べきならねば、信俊都へ上にけり。北山へ参て北方に御返事進たりければ、穴珍々々や、御命の今まで存へておはしけるなとて、文を披て見給ふに、髪の黒々として有けるを一目見て、此人は様替られにけるよとばかり宣て、又物も不(レ)宣、やがて引潛てぞ伏給ふ。其後良起居給(たまひ)ても、此髪を懐に入て、胸に当ては取出、顔に当てはもだえ給へり。移香も未昔に替ざりければ、差向たる様に被(レ)思けれ共、主は遠国を隔たれば、只面影ばかりなり。若君姫君もいづら父の御ぐしとて、面々に取渡泣あひ給へり。形見こそ今は還て悔しけれ、是なかりせばかくばかり覚えざらましと歎かれけるぞ糸惜き。
新(しん)大納言(だいなごん)と俊寛僧都(そうづ)とは宗人の事、丹波(たんばの)少将(せうしやう)は成親卿(なりちかのきやう)の嫡子なれば、罪科実に難(レ)遁、首を切れ給はぬ事は、小松大臣の御助也。康頼が無類になる事は、何の罪なるらんと無慙也。北面の輩あまたこそは被(二)召誡(一)けるに、他人は指もやは有し、此事は同意の輩、鹿谷の評定の時、瓶子の倒て頸を打折たりけるを、平氏既(すで)に倒たり、頸を取には過ずとて、様々振舞たりければ、満座の人此秀句を感じける(有朋上P233)に、西光(さいくわう)法師(ほふし)折たる瓶子を取合て、猶平氏の首取たり/\と云けるを、入道聞給(たまひ)て、かく深き罪には被(レ)行けり。契浅からぬ輩こそ、其座には有りけめ。何として漏けるやらん、後にこそ行綱が讒言とも聞えしか、天可(レ)度地可(レ)度、只不(レ)可(レ)度人心と云り。よく/\其を知ずして、左右なく人には人の打とけまじき者と覚えたり。
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丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)をば、福原へ召下し、妹尾(せのをの)太郎(たらう)に預置、備中国へ遣したりけるを、俊覚僧都(そうづ)、平判官康頼に相具して、薩摩方鬼界が島へぞ被(レ)放ける。康頼は都を出て配所へ赴けるが、小馬林を通るとて、
  津国やこまの林をきてみれば古はいまだ変らざりけり K031 
と思連、やがて爰にて僧を請じ、出家入道して、法名性照とぞ云ひける。髪をおろし袈裟を戴とて、
  終にかく背はてける世中をとく捨ざりし事ぞくやしき K032 
剃たる髪を紙に裹、此歌に取添へて、故郷に遣したりければ、其妻一目見つゝ、何とだにも云ずして、絶入けるこそ無慙なれ。(有朋上P234)
S0707 俊寛成経等移(二)鬼界島(一)事
薩摩方とは惣名也、鬼界は十二の島なれや、五島七島と名付たり。端五島は、日本に従へり。康頼法師をば五島の内ちとの島に捨て、俊寛をば白石の島に捨けり。彼島には白鷺多して石白し、故に白石の島と云。丹波(たんばの)少将(せうしやう)をば、奥七島が内、三の迫の北、硫黄島にぞ捨たりける。尋常の流罪だに悲かるべきに、道すがら習はぬ旅にさすらひて、そぞろに哀を催けり。前途に眼を先立れば、早行事を歎、旧里に心を通はせば、終に還らん事難し。或は雲路遠山の遥なる粧を見ては、哀涙袖を絞り、或は海岸孤島の幽なる砌に臨では、愁烟肝を焦しけり。さらぬだに、旅の憂寝は悲しきに、深夜の月朗に木綿付鳥も音信り。遊子残月に行けん、函谷の有様(ありさま)思ひこそ出でけれ。日数ふれば、薩摩国に著にけり。遥々(はるばる)と海上を漕渡て、島々にこそ被(レ)捨けれ。此島々へは、おぼろげならでは、人の通事もなし。島にも人
P0171
稀也。自有者も此土の人には不(レ)似、身には毛長生、色黒して如(レ)牛、云事の言も聞知ず、男は烏帽子(えぼし)もきず、女は髪もけづらず、木の皮を剥てさねかづらにしたり。ひとへに鬼の如し。眼に遮る物は、燃上火の色、耳に満る物は、鳴下(有朋上P235)雷の音、肝心も消計なれば、一日片時堪て有べき心地せず。賤が山田も打ざれば、米穀の類も更になく、園の桑葉も取ざれば、絹布服も稀也。昔は鬼の住ければ、鬼界の島とも名付たり。今も硫黄の多ければ、硫黄の島とぞ申ける。少将は中々被(レ)刎(レ)首たらんはいかゞせん、生ながら係悲き島に放れて、憂目をみん事の罪深さよと思はれける中にも故郷に残留て、此島の有様(ありさま)伝聞て歎らんこそ無慙なれと、覚しけるこそ哀なれ。此人々始には三の島に被(レ)捨、所々に歎けり。彼海漫々として風皓々たり。雲の浪煙の波に咽らん。蓬莱、方丈、瀛州の、三の神仙の島ならば、不死の薬も取なまし。此島々の中には、慰事こそなかりけれ。責ては三人一所にだにあらば、悲事も憂事も互に語て心をもやりなん、島をかへ海を隔て、所々に歎けるこそ無慙なれ。少将には門脇殿(かどわきの)宰相(さいしやう)より訪給けれ共、二人をば助る者もなし。僧都(そうづ)も入道も、身も悲しく人も恋しかりければ、後には網舟釣舟に手をすり腰をかゞめつゝ、俊寛も康頼も、硫黄が島へぞ寄会ける。少将と判官入道とは、痛く思沈たる事はなし。浦々島々見巡て、都の方をも詠けり。僧都(そうづ)は強歎痩て、岩の迫に苔の下に倒伏て、浦吹風に身を冷る事もなく、岸打浪に思をも消ざりけり。判官入道は、泣悲ても由なし、只仏の御名をも唱神にも祈申てこそ、二度都(有朋上P236)へ帰上らん事をも願、後世菩提をも助めとて、己が能也ければ、歌を
P0172
うたひ舞をまうて、島の明神に手向けり。端島の者共、時々来て見けるが、興に入て舞などしけるぞ、歎の中にもをかしかりける。
S0708 康頼造(二)卒都婆(一)事
判官入道は都の恋さも猿事にて、殊に七十有余の母の、紫野と云所に在けるを思出侍けるに、いとゞ為方なくぞ思ける。流されし時かくと知せまほかしけれ共、聞給なば悶焦給はん事の痛はしくかなしさに、角とも云ずして下たれば、ながらへて今迄もおはせば、此形勢(ありさま)を伝聞ていかばかりかは歎給はんと、云つゞけては、唯泣より外の事なし。悲さのあまりには、角ぞ思つづけゝる。
  薩摩潟沖の小島に我ありと親には告よ八重の塩風 K033
  思やれ暫しと思ふ旅だにもなほ故郷は恋しき物を K034 
千本の卒都婆を造り、頭には阿字の梵字を書、面には二首の歌をかき、下に康頼法師と書て、文字をば彫つゝ誓ける事は、帰命頂礼(きみやうちやうらい)熊野三所権現、若一王子、分ては、日吉山王(有朋上P237)々子眷属、惣而は上梵天帝釈、下竪牢地神、殊には内海外海竜神(りゆうじん)八部憐を垂給、我書流す言葉、必風の便波に伝に、日本の地につけ給、故郷におはする我母に見せしめ給へと祈つゝ、西の風の吹時は、八重の波にぞ浮べける。行に百行あり、国土を治謀、善に万善あり、生死を出る勤なり。卒都婆は万然の随一、諸仏是を勧喜し、孝養は百行の最長、竜天必ず哀愍す。漫々たる海上、塩路遥の波の末、必左とは思はねど、責ても母の悲さに、角してこそは祈けれ。思ふ思も風と成、願ふ願もこたへつゝ、竜神(りゆうじん)納受を垂給(たま)ひ、新宮の湊
P0173
に卒都婆一本寄たりけるを、浦人是を見咎て、熊野別当に奉りたれ共、世を恐たりけるにや、披露はなし。安芸の厳島にも一本付たりけり。折節判官入道のゆかり也ける僧、康頼西海の浪に被(レ)流ぬと聞ければ、何となく都をあくがれ出て、西国の方へ修行し行けるが、便風あらば彼島へも、渡らばやと思ひけれ共、おぼろけにては船も人も通はず、自商人などの渡るも、僅(わづか)に日よりを待得てこそ行など申ければ、いかにも尋行べき心地もせずは有けれども、安芸国までは下にけり。厳島明神に参詣して、両三日ぞ有ける。当社の景気を拝すれば、後は翠嶺山高して、吹風効験の高事を示し、前には巨海水深して、立浪弘誓の深事を表す。さす塩社壇を浸す時は、紺瑠璃を瑞籬に敷かと疑は(有朋上P238)挿絵(有朋上P239)挿絵(有朋上P240)る。引塩神前を去時は、合浦の玉を庭上に蒔歟とうたがはる。和光(わくわう)同塵(どうぢん)の利益は、何もとり/゛\なりといへ共、海畔の鱗に、契を結給らん、因縁誠に知難し。参詣合掌の我までも、八相成道の結縁は、憑しくこそ思けれ。此神明をば、平家の大相国(たいしやうこく)深く崇敬し給事ぞかしと思出るも恐し。繖取敢ぬ事なれば、只法施をぞ手向奉ける。心中に祈念申けるは、帰命頂礼(きみやうちやうらい)、和光(わくわう)垂迹当社権現、硫黄島流人康頼が生死知せしめ給へ、猶も存命あらば、夜の守昼の守と成給(たまひ)て、浪の便の言伝をも聞しめ、再故郷の雲に返し入しめ給へと、祈けるこそ哀なれ。終日念誦したりける晩程(ほど)に、社司神女御前の渚に遊覧す。月の出塩満けるに、そこはかともなく浪に流るゝもづくの中に、卒都婆一本見え来る。あやしや何なる事にかとて取上見(レ)之ば、二首の歌を書、下に康頼法師と書付たり。各手々に是を取渡し、歌を詠じて哀なる事也。作者何者やらん
P0174
と云ける中に、社僧の有けるが云けるは、糸惜事かな、是は一年都より薩摩方硫黄島へ、三人の流人有りき。法勝寺の執行俊寛、丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)、平判官康頼也。此康頼法師が故郷も恋く、恩愛の親も悲くて、角書流せるにこそ、懸様昔も有とこそ聞、是をば如何情なく捨ては置べき、都の妻子もさこそ恋し悲しと思て、ゆくへ聞まほしかるらめ、如何して是を故郷の親き者の許へ、(有朋上P241)急ぎ慥に付べきとぞ申ける。ゆかりの僧も見聞けり、心も消涙もこぼれて嬉く悲かりける、中にも是は明神の御計にやと、忝貴ぞ思ける。社僧此僧を語ひ申けるは、やゝ修行者の御坊、もし都へ上給はば、此卒都婆を事伝申さん、慥に平判官康頼が妻子の許へ伝給なんやといへば、僧答て曰、此事承るに、よにも有難く哀なる事にこそ、修行者の習、宿定らぬ事なれども、本都の者にて侍りしが、折節都へ還上侍、康頼がゆかりほの知て候へば、たしかに伝送べし、且は明神も御照覧候べしとて、件の卒都婆を請取て、笈の肩に挟み、泣々(なくなく)都へ上にけり。母の尼公妻子親類招集て見せたりければ、もだえこがれ泣悲みける心の中たゞ推量るべし。康頼は卒都婆に歌を書、名を注し、文字をば彫刻、其に墨を入たれば、塩にも浪にも消ずして、鮮にこそ見えたりけれ。此事京中に披露有ければ、既(すで)に及(二)叡聞(一)、彼卒都婆を被(レ)召つゝ、叡覧有りて竜眼より御涙を流させ給(たま)ひ、康頼法師未ながらへて、彼島に有らん事こそ不便なれ、水茎の跡なかりせば知らざらましとて、御むつかり有ければ、御前に候ひける人々も各袖を絞けり。小松内府の被(レ)参たりけるに、康頼法師が歌哀にこそとて賜下されたりければ、大臣も打見給つゝ涙ぐみて御前
P0175
を立て、父の入道に奉たれば、相国禅門もさすが哀にこれ覚しけめ。係ければ判官(有朋上P242)入道未都へ帰上らざりけれ共、此歌は上下哀に翫けるとかや。
S0709 和歌徳事
凡和歌は、国を治人を化する源、心を和思を遣基也。故に古の明王、月の夜雪の朝、良辰美景ごとに、侍臣を召集めて、夢の歌を奉らしめて、人の賢愚を知召といへり。奈良御門の往躅より始て、延喜天暦の以来、夜の雨塊を穿たず、秋の風枝を鳴さぬ御代には、必ず勅撰ある事今に絶ず、只住吉(すみよし)玉津島の此道の崇神たるのみに非ず、伊勢、石清水、賀茂、春日より始奉て、託宣の詞は夢想の告、何も歌に非ざるは少し。霊神の御歌に名を連、明王の御製に肩を並事、此道の外は又何事かは有るべき。能因が歌には三島の明神納受し、小式武が歌には冥途の使を退くと見えたり。唯治世の基、神道の妙に叶のみに非、又仏法の正理にも通ずる故にや、清水の観音は、しめぢが原のさしも草と詠給、善光寺の如来(によらい)は、厩戸の王子に贈答し給へり。凡三十一字は、無間頂を除いて三十二相にかたどり、五句六義の趣は、五輪六丈の瑜伽(ゆが)を顕す。此故にや行基菩薩、婆羅門僧正(そうじやう)、伝教大師、慈覚より以来、或は釈門の棟梁、法家の竜象、或は名を玄地に遁れ、跡を白雲(有朋上P243)に暗くする人、此道に携ざるは稀なり。玄賓僧都(そうづ)は、山田を守りて、秋果ぬればと恨み、空也上人は、市の中にも墨染の袖と詠じ給ふ。されば西行法師が夢にも、時澆季に及、世末代に臨て、万事零落すれども、歌道計は猶古におとらずといへり。判官入道も、難波津の言の葉、卒都婆の面に書集、海へぞ入たりける。薩摩方より、新羅、高麗、震旦、
P0176
天竺、島々国々にも寄つらん。異国なればよもしらじ、縦一丈二丈の木也共、漫々たる海上茫々たる繁浪に、争か当国に来べき。況や一尺二尺にはよも過じ。祈る祷も叶つゝ、竜神(りゆうじん)恵を顕して、当社の砌に付寄けり。
S0710 近江石塔寺事
大江定基三河守に任じて、赤坂の遊君力寿に別て、道心出家して其後、大唐国に渡、清涼山に参たりければ、寺僧毎朝に池を廻る事あり。寂照故を尋れば、僧答て曰、昔仏生国の阿育王、八万四千基の塔を造、十方へ抛給たりしが、日本国江州石塔寺に一基留り給へり、朝日扶桑国に出れば、石塔はるかに影を此池に移し給ふ。故に彼塔を拝せんが為に此池を廻る也とぞ申ける。寂照上人聞給(たまひ)て、信心骨に入、随喜肝に銘じて、墨を研(有朋上P244)筆を染、其子細を注しつゝ、震旦にして大海に入たりけるが、播磨国僧位寺へ流寄たりけるも、角やと思ひ知られたり。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第八

P0177 (有朋上P245)
智巻 第八
S0801 漢朝蘇武事
昔漢武帝の時、故国の凶奴朝家に不(レ)随ければ、李陵を大将軍とし蘇武を副将軍として、胡国の王単于を被(レ)責けり。漢朝より彼国へは五万里の道なれば、九年に一度行還程也。胡国の狄、城を百重に構たり。李陵勅を重じ命を軽じて、先陣に進て攻戦。狄不(レ)堪して引退。勝に乗て攻入つゝ、九十九の城を靡しけり。李陵今一の城に打入て見に、凶賊退散して只胡国の美人のみ有。官軍乱入ければ、美人歎て云、天命を背たてまつるに依て、妾が輩ども、或は身命を亡し或は行方を知ず、生ても別、死ても別れぬ。願は漢の使、我等を助よと悲泣。李陵敵の謀とは不(レ)知して、胡国の女に心を移て遊ける処に、凶奴四方を打囲み、李陵を生捕にしけり。副将軍に引へたる、蘇武生年十六歳、心うしと思て死生不(レ)知に戦けれ共、大陣破ぬれば残党不(レ)全習にて、蘇武も同く虜る。胡王議して云、大将二人は定是漢朝の功臣ならん、徒に命を断事不(レ)可(レ)然、罪を宥て我国の臣下とすべし(有朋上P246)とて、自余の兵は皆片足を切て追放つ。死する者は多、助る者は希也。李陵此形勢(ありさま)を見て終に胡王に従へり。蘇武未随ざりければ、胡王語て云、汝命を助けんと思はば我に従へ、将相として召仕んと。蘇武答て曰く、我忝漢王の勅を蒙て、汝等従へん為に此国に来れり。何ぞ死を遁れんが為に、還て狄の類に■(くつ)せんといへ
P0178
ば、胡王大に嗔て、武を悩事二年、後には囚に籠て食を絶。蘇武羊の毛に雪を裹て食しつゝ、不(レ)死ければ、胡王いよ/\其賢なる事を知て、囚より出して誘て云、我に公王と云秘蔵の娘あり、形世に勝たり、汝に与て将相とせんといへ共不(レ)従。胡王問て云、命は人の宝也、官は人の品也、汝何ぞ将相には不(レ)成、空く身を亡さんとすると。蘇武答云、授(レ)妻為(レ)相、汝当(二)不仁(一)、任(レ)身受(レ)死、我為(二)忠臣(一)といへば、胡王不(レ)及(レ)力、北海の辺に放捨て、羊をぞ飼ける。漢王此事を伝聞給(たまひ)て、蘇武は実に功臣也、李陵は二心有とて、父が死骸を堀起し、老母兄弟罪せらる。蘇武は甲斐なき命は生たれ共、形を宿す奇の臥戸もなく、飢を支る朝夕の食物もなし。韋■(いこう)毳幕以(レ)之禦(二)風雨(一)、羶肉酪の漿かれを以て飢渇を休、年月を送ければ、故郷の恋さ不(レ)斜(なのめならず)。角て海辺野沢田中などに迷ひ行ける程(ほど)に、後には禽獣鳥類も見馴て驚事なし。繋ぬ月日明暮て、十九年をぞ経たりける。秋の鴈の連を乱らず飛けるに、蘇武天に仰て、歎云、(有朋上P247)春は北来の翅、秋は南往の鳥なり、我旧里をも飛過らん、心あらば言伝せんと云ければ、天道哀とや覚しけん、二羽のかりがね飛下、蘇武が前にぞ居たりける。武悦て指を食切て血を出し、一紙の文を書つゝ鴈の翅に結付たりければ、南を指て飛行ぬ。漢昭帝上林苑に御幸して、木々の紅葉叡覧有ける折節、秋のたのむの鴈、雲居遥(はるか)に飛けるが、一紙の書を落したり。帝怪思召(おぼしめし)、取上是を御覧ずれば、蘇武が状にぞ有ける。其状に云、
  昔籠(二)巌穴之洞(一)、徒送(二)三春之愁歎(一)、今放(二)稽田之畝(一)、空同(二)胡敵之一足(一)、設身留  永朽(二)於胡国(一)、
P0179
必神還再仕(二)于漢君(一)、とぞ書たりける。
  昔為(二)帝闕之近臣(一)、今同(二)一足之諸鳥(一)、悲涙空成(二)野外之露(一)、争帰(二)故郷(一)再仕(二)漢王(一)、
是を叡覧有て、さては蘇武は未胡国にあり、争か空く他国の民となすべきとて、昭帝胡王単于に眤をなし給(たま)ひ、金銀の宝を遣して、蘇武を贖給ければ、単于蘇武を許して漢宮へぞ返しける。李陵見(レ)之、いかなれば大将軍に被(レ)選て、一人は召返し、一人は沈らん、心憂や我年来君に仕奉て二心なし、命を重じ忠を尽すといへ共、官軍敗て誤つて虜れぬ。不(レ)如素懐を遂んと存じて、一旦凶奴に仕て終に胡狄を亡し、必漢宮にかへらんと、而も(有朋上P248)父が死骸を堀起し、老母兄弟罪せられけんこそ悲けれとて、一巻の書を注してぞ進じける。其中に、
  双■(さうふ)倶北飛  一■(ふ)独南翔  余自留(二)新館(一)  子今帰(二)故郷(一) K035 
とぞ書たりける。蘇武は十六にして胡国に行、十九年を経て後、三十五にて旧里に帰る。盛なりし年なれども、胡国のもの思に、鬢鬚白く成て、漢王の御前に参て、単于に被(レ)虜て、十九年悲みを含みし事、官兵悉片足を切れし事語申て、其後に李陵が一巻の書を進。漢王叡覧有て御涙を流、大に後悔し給へ共無(レ)力。去共蘇武は旧里に帰て再妻子を見のみに非、後には典属国と云官を賜て君に仕へ奉。孝宣皇帝の御宇、神爵二年に、八十余にして薨じけり。甘露三年に帝功臣四十二人を麒麟閣に昼し
P0180
給けるに、蘇武其中にあり、一紙の鴈の書なからましかば、争か加様の幸有べき。去ば是よりして、文をば鴈書とも雁札とも云、使をば雁使とも名付たり。(有朋上P249)
S0802 善友悪友両太子事
 鳥の翅に書を付事、天竺にも有けり。波羅奈国、月蓋王に二人の太子御座す。善友、悪友と云。兄の善友太子、弟の悪友太子に眼を被(レ)損たりければ、今は位を継べきに非とて、諸国に流行し給けるに、母后太子の行末を悲て、御書をあそばし、善友太子の年比飼給(たま)ひける鷹の頸に被(レ)懸たりければ、其鳥高飛去て、是を太子に奉たりとぞ、報恩経には説れたり。
蘇武は漢家の勅使也。一紙の筆の跡、鴈金雲井を通、康頼は本朝の流人也、二首の歌の詞は、卒都婆浪路を伝へたり。彼は十九の春秋を送迎、是は三年の月日を明し暮しけり。上代末代時替り、漢家本朝所異なれども、ためしは同じかりけり。理や彼は天道哀みを垂給(たま)ひ、是は神明恵を施し給へばなり。
S0803 康基読(二)信解品(一)事
平判官康頼が嫡子平左衛門尉康基は、摂津国(つのくに)小馬林まで父が供して見送たりけるが、康頼出家してければ、康基其より還上、精進潔斎して、日数を百日に限て、清水寺へ参詣し、信解品を読誦(どくじゆ)す。隔夜する折も有、夙夜する時もあり。願は大慈大悲千手千眼憑をかけ志を運べば、朽たる木草も花さきみのると御誓ある也。如来(によらい)の金言誤なく、薩■[*土+垂](さつた)の誓約(有朋上P250)誠あらば、今生に再父を相見せしめ給へと、三千三百三十三度の礼拝をぞ奉る。既(すで)に八十余日も積けるに、硫黄が島にて判官入道の夢に、海上遥(はるか)に詠れば、白き帆懸たる船一艘走来り、近付を見れば嫡子康基此舟にあり。舟の帆には妙法蓮華経信解品と銘を書り。急舟を付て、左衛門尉が下来れかし、余に都も恋きに物語(ものがたり)せんと思ひ、能々見れば舟には
P0181
あらで、白馬に乗たりと見て打驚ぬ。何なる妄想やらんと汗押拭て、人にも不(レ)語、都へ還上て、子息康基に語たりければ、康基此を聞て、貴にも涙、うれしきにも涙也。泣々(なくなく)語けるは、我信解品を転読して百日清水寺の観音に祈誓し奉き、観音は白馬に現じ給ふなれば、掲焉御夢想(ごむさう)也とて、父子感涙を流しけり。さても康基、観音の御前にては、観音品をこそ可(レ)奉(レ)読に、信解品を読ける事は、此品に賢き長者、愚なる子を失て、跡を同居の塵にとゞめて、二度親子互に見事を得たり。以(レ)之一実の慈悲、求(レ)子不(レ)得、中止(二)一城(一)、伺(二)窮子之機(一)、父子相見後、初脱(二)瓔珞之衣(一)といへり。されば父子再会の金言を憑て、此品を読ける也。彼は三千塵点、子を失て父かなしみ、此は三年の春秋、父を被(レ)流て子哀む、愛敬之道は、中心より出たれば、父子の情ぞ哀れなる。(有朋上P251)
S0804 大納言入道薨去事
大納言入道殿(にふだうどの)は、少将も硫黄島へ流され、北方の君達も、此彼に逃隠れて安堵せずなど聞給(たまひ)ては、いとゞ心憂思食(おぼしめし)、日に随而弱給けり。七月十日比よりは、起臥も輙らず、かく痛苦給へども、跡枕に侍て湯水を進る者もなし。何事に付ても唯故郷の人々のみ恋く、今一度相見事のなくて露の命の消なん事をぞ歎給ふ。適見ゆる物とてはあらけなき武士也。大納言入道をば急ぎ可(レ)失と六波羅より難波が許へ被(二)下知(一)たりければ、直に足手をきり奉(レ)刎(レ)首こと、流石(さすが)かはゆくや思けん、不(レ)知して奉(レ)失とて、深き■(がけ)の底に■(ひし)を植て、突落してぞ殺しける。只一度に刎(レ)首たらば、尋常の習にて有べきに、心うくも計たりけりと、無(レ)情こそ云けれ。其より取挙て、備前備中の境なる、有木の別所
P0182
と云所に送捨、形の如穴を掘、石を畳て奉(レ)納。難波が後見に、智明と云法師あり。加様のかまへ、此法師ぞ奉行したりける。其故にや女子三人持たりけるが、俄に物狂しき心地出来て、一人は深き筒井に落入て死ぬ。二人は竹の林に走入て、竹の利杙に貫かりて失にけり。大納言入道の死霊の故にやと、人皆舌を振て怖合けり。智明恐をなし、社を造て怨霊を祝ひ奉る。(有朋上P252)智明が若宮とて今に有り。
S0805 大納言北方出家事
大納言の北方伝聞給(たまひ)て、相見事はなけれども、露の命の未消給はずと聞つる程は、心苦しながら頼しくて、ながらへば、もし奉(レ)見事もやとて、つれなく髪をも落さゞりつるに、隠給けるにこそ、今は甲斐なしとて、自ら御髪をはさみ下し、雲林院の菩提講に忍参り、出家して戒を持ち、如(レ)形追善をも其にてぞ営給(たま)ひける。若君閼伽をむすぶ日は姫君花を摘、姫君燈を挑ける折は、若君香を焼、明ても暮ても、両共に、父の菩提を弔給ふも哀也。昔皇門鳳城に仕へて、恣に槐門の春の花を詠ぜしに、今は民烟蝸屋を遷て、望郷の暁の露に埋れけり。楽尽て悲来るなる、天人の五衰も角やと覚えて無慙也。
S0806 讃岐院事
新院讃州配流の後は讃岐院と申けるを、廿九日に御追号有て、崇徳院とぞ申ける。去る保元元年七月に当国に遷され御座て、始は直島に渡らせ給けるが、後には在庁一の庁官野(有朋上P253)大夫高遠が堂に入せ給けるを、鼓岡に御所を立て奉(レ)居、御歎の積にや、御悩の事有ければ、関白殿(くわんばくどの)へ能様に申させ給へと仰有けれ共、世を恐させ給(たま)ひつゝ御披露も無りければ、思召(おぼしめし)切らせ給(たまひ)て、三年の間に五部大乗経をあそばし集て、貝鐘の音もせぬ遠国に捨置進せん事、心憂く覚え侍るに、御経ばかり、都近き、八幡鳥羽辺迄、
P0183
入まゐらせばやと、御室へ申させ給けり。其御書云、昔は槐門崇■(そうべう)の窓にして玉体遊宴の心をやすめ、今は離宮外土の西海の波にくだかれて、江南浮沈の哀声を加ふ。嵐松を払て独筵に月を見。争か再、旧郷に還て、自玉聖の気を成ん。月西山に傾けば、都城仙宮の暁の詠を思出。日晨岳に出れば、竜楼竹園の甚しき興を忘ず、早く民煙蓬屋の悲涙を止て、必三仏菩提の妙位に昇らんとあそばして、奥に一首の御製あり。
  浜千鳥跡は都へ通へ共身は松山に音をのみぞ啼 K036 
御室より此御書を以、関白殿(くわんばくどの)へ被(レ)仰けり。関白殿(くわんばくどの)又内へ被(レ)申たりければ、少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)を召て仰含らる。信西さる事争か候べきと、大に諌申ければ、御免もなかりけり。讃岐院此由聞召れては、御心憂事也。天竺、震旦、新羅、高麗にも、兄弟国を論じ、叔父甥位を諍て、致(二)合戦(一)事、尋常の習なれども、依(二)果報(一)、兄も負甥も勝、されども手を合膝を折(有朋上P254)て降人に成ぬれば、辛罪に行るゝ事やはある。我今悪行の心を以、係苦みを見れば、今生の事を思捨て、後生菩提の為にとて書奉る、五部の大乗経の置所をだにも宥されねば、今生の怨のみに非ず、後生までの敵にこそと仰られて、御舌のさきを食切給(たま)ひ、其血を以て御経の軸の本ごとに、御誓状をぞあそばしける。書写し奉る処の五部の大乗経を以て、三悪道に抛籠畢。此大功徳の力に依、日本国の大魔と成て、天下を乱り国家を悩さん、大乗甚深の回向、何の願か不(二)成就(じやうじゆ)(一)哉、諸仏証知証誠し給へ、顕仁敬白とあそばし、誓はせ給(たまひ)て其後は、御爪も
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切せ給はず、御ぐしも剃せ給はず、生ながら天狗の貌に顕れ、御座けるこそ恐しけれ。小河侍従入道蓮如とて、世捨上人あり。昔陪従にて公事勤ける時、御神楽などの次に、自幽に見参に入進せける計なれば、さしも歎き思進すべきにしも無れども、大方情深き人にて、只一人自負かけて都を迷出、はるかに讃岐国へ下りにけり。御所の渡に余所ながら立回て見けるに、目も当られぬ御有様(おんありさま)也。いかにもして内に入り、角と申入ばやと、志深く伺けれ共、奉(レ)守ける武士はげしくとがめければ、空く日も暮にけり。折節月隈なかりければ、蓮如心を澄して笛を吹て、通夜御所を廻、暁方に黒ばみたる水干袴きたる人内より出たり。便を悦て相共に内に入、事の体を見に、草深しては朝(有朋上P255)の露袖を湿し、松高しては夜の風膚を融す。人跡絶たる庭上に、奇げなる柴の御所、まことにいぶせき御住居也。伝聞しよりも猶心憂く悲しかりければ、中々無(レ)由下にけりとぞ思ける。哀哉姑射山の上にしては、曇らぬ月を詠め、蓬莱洞の内にしては、四海の波を澄し御座しに、庭の千草は枝かはし、往還人も絶果て、賤か宿戸の庵より猶うたてき様なれば、蓮如涙に咽けり。さても有つる人して角と申入たりければ、院はさしも恋しき都の人なる上、昔御覧ぜし者なれば、御前へも被(レ)召度は思召(おぼしめし)けれ共、問につらさも思し出ぬべし。又係浅増(あさまし)き御貌を見えん事も憚あれば、中々無(レ)由とて、只御涙をのみぞ流させ給ける。御気色角と申ければ、蓮如誠にもとて、一首を詠じ、見参に入よとて、
  朝倉や木の丸殿に入ながら君にしられで帰る悲しさ K037 
P0185
御返事あり。
  朝倉やたゞ徒に帰すにも釣する海士の音をのみぞ啼 K038 
蓮如いと悲く覚て、是を笈に入つゝ、泣々(なくなく)都へ帰上る、哀にやさしく聞えし。其後長寛二年の秋八月廿四日、御年四十六にて、支度と云所にて終に隠れさせ給にけり。讃岐御下向之後、九年にぞ成給ける。白峯と云山寺に送奉り、焼上奉りけるが、折節北風けはしく吹(有朋上P256)けれ共、余に都を恋悲み御座けるにや、煙は都へ靡きけるとぞ。御骨をば必高野へ送れとの御遺言有けるとかや。鳥羽院(とばのゐん)の北面に佐藤兵衛尉義清と云し者、道心を発し、出家入道して西行法師と云けるが、大法房円意と改名して、去仁安二年の冬の比、諸国修行しけるが、中比のすき者にて、東は壺の石、歩夷が島、西は金の御崎、松浦の沖、名処旧跡の歌枕を歩み、見ぬ所はなかりけり。不破の関屋に留ては、月には雲のふはと云、武蔵野を過とては、柏木の葉守の神を恨けり。実方中将の墓にては、一村薄を悲み、白川の関にかゝりては、関屋の柱に筆を止む。四国の方の修行を思立けるときは、江口の妙に宿をかり、仮の宿と読しかば、心とむなと返しつゝ、一夜の宿をぞ借にける。讃岐国へ入て、松山の津と云所に行きぬ。こゝは新院流されてわたらせ給(たま)ひける所ぞかしと思出し、昔恋しく尋まゐらせけれ共、其御あともなかりければ、竜顔奉公の古より、鵝王帰依の今までも、御事忝く哀に覚えければ、
  松山の浪に流れてこし舟のやがてむなしく成にける哉 K039 
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と打詠て、支度と云山寺に遷らせ給(たまひ)ても年久成にければ、御跡なきも理に覚て、御墓はいづくぞと問ければ、白峯と云山寺と聞て尋参りたりけるに、あやしの下臈(げらふ)の墓よりも(有朋上P257)猶草繁し。いかなる前世の御宿業にかといと悲し。昔は清涼紫宸の玉台に、四海の主とかしづかれ御座しに、今は民村白屋の外土に、八重の葎に埋れ給へる事、御心うき事なれ共、翠帳紅閨の中に、三千の君と仰がれ、竜楼鳳闕の上に、二八の臣とあがめられて、弁才世にかまびすしく、威勢朝に振し人々も、名ばかり留る世の習、咸陽宮も徒に、片々たる煙と昇、姑蘇台も空■々(ぢやうぢやう)たる露繁し。宮も藁屋もはてしなし、兎ても角ても世の中は、只かげろふの仮の宿、すみはつまじき所也とて、西行古詞を思出て、
  松樹千年終是朽、槿花一日自成栄 K040 
と詠じつゝ、暫くこゝに候ひけれども、法華三昧つとむる、住持の僧もなく、焼香散華を奉る、参詣の者も無りけり。最物さびしかりければ、
  よしや君むかしの玉の床とても係らんのちは何にかはせん K041 
と読けるは、彼延喜の聖主の、
  いふならく奈落の底に入ぬれば刹利も首陀も異らざりけり K042 
と申御歌に思合て哀なり。さても七箇日逗留して、花を手向香を焼読経念仏して、聖霊決定往生極楽と回向し奉て立けるが、御廟の傍に松の有ける本を削り、無らん時の形見(有朋上P258)にもとて二首の歌をぞ
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書付ける。
  久に経て我後の世を問へよ松跡忍ぶべき人もなき身ぞ K043
  爰を又我住うくてうかれなば松は独にならんとやする K044 
書注てぞ出にける。是にや怨霊も慰給けんと■(おぼつか)なし。さても西行発心のおこりを尋れば、源は恋故とぞ承る。申も恐ある上臈女房を思懸進たりけるを、あこぎの浦ぞと云仰を蒙て思切、官位は春の夜見はてぬ夢と思成、楽栄は秋の夜の月、西へと准へて、有為世の契を遁つゝ、無為の道にぞ入にける。あこぎは歌の心なり。
  伊勢の海あこぎが浦に引網も度重なれば人もこそしれ K045 
と云心は、彼阿漕の浦には神の誓にて、年に一度の外は■(あみ)を引ずとかや。此仰を承て、西行が読ける、
  思きや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月をみんとは K046 
此歌の心を思には、一よの御契は有けるにや、重て聞食(きこしめす)事の有ければこそ阿漕とは仰けめ、情かりける事共也。彼貫之が御前の簀子の辺に候て、まどろむ程も夜をやぬるらんと云ふ、一首の御製を給(たまひ)て、夢にやみるとまどろむぞ君と、申たりけん事までも、想やるこ(有朋上P259)そゆかしけれ。
S0807 宇治左府贈官事
八月朔日は、宇治左府の贈官贈位の御事有て、少納言惟基は、彼御墓所に参て、宣命を捧て、太政(だいじやう)大臣(だいじん)
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正一位を被(レ)送之由読かけ奉る。件の御墓は、大和国(やまとのくに)添上郡、河上の村、般若野の五三昧也。昔堀起し奉り、捨られにし後は、死骸道の辺の土と成て、年々に春の草のみ繁れり。今勅使尋入て、宣命を伝けん、亡魂如何思召(おぼしめし)けんおぼつかなし。思の外の事共有て、世の乱るゝは直事に非、偏に怨霊の致す処也。冷泉院の御物狂御座し、花山法皇の御位をさらせ給(たま)ひ、三条院の御目のくらかりしも、元方の民部卿の霊とこそ承れ。怨霊は昔も今も恐しき事なれば、早良廃太子をば崇道天皇と号し、井上の内親王は皇后の職位に復す、皆是怨霊を被(レ)宥し謀也。されば今度も可(レ)然にこそと、人々計ひ被(レ)申ければ、贈号贈官有て、院をば崇徳院と申し、臣をば正一位と宥行はれけれ共、後いかがあらんと覚束なし。(有朋上P260)
S0808 彗星出現事
同十二月廿四日、彗星東方に出で、廿八日に光を増。蚩尤旗とも申し、赤気ともいへり。何事の有べきにかと上下恐をなす。天文勘して申く、五行の気五星と変ずる内に、彗星は是大乱大兵之瑞相なりと奏す。何様にもおだしかるまじとぞ歎あひける。
 五行者、木火土金水、五星者、彗星、■惑星、鎮星、太白星、辰星なり。
治承二年正月一日、院(ゐんの)御所(ごしよ)には礼拝被(レ)行、四日朝覲行幸有て、例に替たる事はなけれども、去年成親卿(なりちかのきやう)已下近習の人々、多く被(レ)失にし事、法皇不(レ)安思召(おぼしめさ)れて、御憤(おんいきどほり)未やすませ給はず、世の御政も倦く思召(おぼしめさ)れて、御心よからぬ事にてぞ有ける。入道も多田蔵人行綱が告知せ奉てより後は、君をも後暗御事に思奉て、世の中打解たる事もなし。上には事なき様にもてなせども、下には用心して只苦咲ひ
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てぞ有ける。
S0809 法皇三井灌頂(くわんぢやうの)事
法皇は三井寺(みゐでら)の公顕僧正(そうじやう)を御師範として、真言の秘法伝受せさせ給けるが、今年の春三部(有朋上P261)の秘経を受させ給(たま)ひ、二月十九日、三井寺(みゐでら)にて御灌頂(ごくわんぢやう)有べき由思召(おぼしめし)立と聞えし程(ほど)に、山門大衆憤申けるは、昔よりして今に至るまで、御灌頂(ごくわんぢやう)御受戒、みな我山にして遂させ給へり、山王の化導専受戒灌頂(くわんぢやう)の為也。就(レ)中(なかんづく)園城寺(をんじやうじ)者、昔天智天皇の御子、大友王子、国家を乱らんとて軍を起給(たま)ひし謀叛悪逆(あくぎやく)の境也。始て今御入寺有て御灌頂(ごくわんぢやう)あらん事、旁以不(レ)可(レ)然と申ければ、様々誘へ仰けれ共、例の山大衆更に院宣を用ず。三井寺(みゐでら)にして御灌頂(ごくわんぢやう)有ば、彼寺を可(二)焼払(やきはらふ)(一)之由、僉議(せんぎ)すと聞えければ、権大納言隆季卿の、奉書にて、院宣を被(レ)下云く、御入壇、偏に可(レ)為(二)秘密結縁(一)之処、還及(二)騒動(一)の条、不慮の次第歟、因(レ)茲園城寺(をんじやうじ)御幸所(二)延引(一)也。是延暦園城(をんじやう)安全の謀也と有けれ共、大衆猶憤申けるは、延引の院宣全く山門の眉を開かず、永く三井の御幸を不(レ)被(二)停止(一)、彼寺に発向して、仏閣僧坊一宇も残さず、可(二)焼払(やきはらふ)(一)之由、騒動すと聞えければ、重て院宣を被(レ)下て云、御幸の事被(二)停止(一)之由、一日被(二)仰下(一)畢。山門衆徒等、明日二日猶発(二)向彼寺(一)之由風聞、可(レ)令(二)制止(一)云云と有ければ、御幸停止之院宣に依て、山門既(すで)に静ぬ。法皇は即御加行結願して、思召(おぼしめし)止らせ給にけり。去ども猶御宿願を遂させ給はんが為に、年序をへて文治二年の春の比、三井寺(みゐでら)にして御灌頂(ごくわんぢやう)有るべきよし聞えければ、山門大衆又騒動して云、園城寺(をんじやうじ)(有朋上P262)の御幸の事、治承年中に其沙汰有て被(二)停止(一)畢、而を彼寺にして御灌頂(ごくわんぢやう)あらば、三井寺(みゐでら)を可(二)焼払(やきはらふ)(一)なんど
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聞食(きこしめ)されければ、当時の座主全玄僧正(そうじやう)を、法住寺(ほふぢゆうじ)の御所に召れて、行隆を以被(二)仰下(一)云、求法の御志有に依て、公顕僧正(そうじやう)を以て智証流之灌頂(くわんぢやう)を可(レ)受の由思食(おぼしめす)処に、公顕の申さく、智証大師一行禅師の釈に依て、一流の灌頂(くわんぢやう)に於ては、不(レ)可(レ)出(二)寺中(一)之由、殊所(レ)誡也。然ば早く当寺に御幸有て、可(レ)有(二)御伝法(一)と、所(レ)申既(すで)に道理也。仍三井寺(みゐでら)に御幸有べし。爰(ここ)に山僧此事を訴申之条甚其謂なし。凡一天之下皆王土也。何の所なりと云共、臨幸可(レ)任(二)叡慮(一)、依(レ)之(これによつて)或は本尊を拝せんが為、或は神道を仰ぐ故に、熊野金峰清水広隆に臨幸あり、昔より不(レ)及(二)違乱(一)、何ぞ三井の一寺に限て訴訟に及べきや、不日登山して可(レ)加(二)制止(一)也と。座主の御返事には、勅定は石よりも重し、争か子細を申べき。不日罷上て可(レ)加(二)制止(一)候。但先師大僧正治山の時、北国白山を山門に可(レ)賜之由致(二)訴訟(一)刻、甚深の以(二)道理(一)被(二)仰下(一)に付て、三箇年の間加(二)制止(一)と云へども、山徒の訴弥以て熾盛なるに依て、終に以て蒙(二)裁許(一)畢ぬ。全玄が治山、先師の威徳に及べからず、然而勅定の趣き、不日披露仕べく候。又山門の訴訟は、叡慮に背に似たれども、其本意を論ずれば、忠節の至也。長寛に三井に幸有て後、天下不吉也、万人所(レ)知(有朋上P263)也。彼寺三代叛逆の地たるに依て、此災を成。適安楽に属する処に、又臨幸あらば天下の滅亡歟。鎮国の御祈祷(ごきたう)を致山僧等、諫諍の制止を加へ奉るをや、抑公顕申状不審甚多し。不(レ)可(レ)出(二)寺中(一)之由、智証大師の遺誡ならば、何ぞ智証大師帰朝の後、叡山(えいさん)にして度々灌頂(くわんぢやう)を修べき、又智証の門流静観僧正(そうじやう)、争我山惣持院にして、灌頂(くわんぢやう)を寛平法皇に奉(レ)授べき。智証の遺誡頗不(レ)足(二)信用(一)。就(レ)中(なかんづく)一行大日経の義釈には、三所の道場あり、
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王城と深谷と寺中と也。寺中とは、是僧伽藍の中也。大唐の人師豈独三井寺(みゐでら)を支んや。三所の道場は猶是浅略也。本経の説の如は、三種の灌頂(くわんぢやう)あり、所謂(いはゆる)結縁灌頂(くわんぢやう)、伝法灌頂(くわんぢやう)、自証灌頂(くわんぢやう)也。法界宮の大日法界を以て道場とすと説り。不(レ)限(二)三所(一)と見えたり。公顕申状不(レ)及(二)偏信(一)哉と被(レ)申たりければ、叡感の気ありて、三井寺(みゐでら)の御幸は被(レ)止けり。
抑三部経と申は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経是也。今此経の大意を尋れば、若有人此経、受持読誦(どくじゆ)者、即身成仏故、放大光明円と説、又若有人受持読誦(どくじゆ)、此経典者、父母所生身、忽に成大日如来(によらい)、放胸間大光明、照六道三有黒闇とも説る秘典也。後白川の法皇、忝も観行五品の位に御心を係御座て、法花修行の道場に五種法師の燈を挑て、七万八千余部転読、上古にも未(二)承及(一)、況や於(二)末代(一)乎。十善玉体の御膚、三密護摩の烟に蒼て、即身菩提(有朋上P264)の聖帝とぞ見させ給けり。彼公顕僧正(そうじやう)と申は、法皇の御外戚、顕密両門の師徳也。止観玄文の窓の前には、一乗(いちじよう)円融の玉を磨き、三密瑜伽(ゆが)の宝瓶には、東寺山門の花開け給へり。内に付外に付て、御帰依の御志深によりて、此妙典をも公顕僧正(そうじやう)に受、御灌頂(ごくわんぢやう)をも三井寺(みゐでら)にてと思食(おぼしめし)たりけるに、山門騒動して打止め奉ければ、御心うしと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。法皇、我朝は是、辺土粟散国也。何事も争か大国に等かるべきなれども、中にも雲泥不(レ)及けるは、律の法文僧の振舞にてぞ有らん。僧衆の法は、帰僧息諍論、同入和合海といへり。縦和合海にこそ入ざらめ、諍論を専にして、させる咎もなき三井寺(みゐでら)を、焼失せんとする条、無道心の者共かな、破和合僧は五逆罪
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の随一に非や、形ばかりは出家にして、心はなほ在俗よりも不当也。愚痴のやみ深して、驕慢の幢高し。比丘の形と成ながら、難(レ)値如来(によらい)の教法をも修行せず、大日覚王の智水の流に身をも不(レ)洗、朕が適入壇灌頂(くわんぢやう)せんとするを、障碍する事の無慙さよ、縦朕が理を枉て非法を宣旨し、若は山門の所領を、別院に寄とも、王威王威たらば誰か背申べき、何況受戒灌頂(くわんぢやう)と云は、上求菩提、下化衆生の秘要也。智徳明匠讃嘆し、貴賤男女も随喜せり。たとひ随喜讃嘆褒美するまでこそなからめ、無上福田の衣の上に、邪見放逸の冑を著、定恵一手の掌の内に、仏法破滅の(有朋上P265)続松を捧て、三井寺(みゐでら)を焼亡さんと計ふらん条、少しもたがはず。提婆達多が類にこそ、さこそ末代といはんからに、此程(ほど)に王威を軽すべき様やは有べき、口惜事哉とて、宸襟しづかならず、逆鱗しば/\忝し。抑王威は仏法を崇め、仏法は王威を守るこそ、相互に助て効験も目出く明徳もいみじけれ、若王威を王威とせずば、何の仏法か我朝に興隆すべきや、今度山僧等、園城寺(をんじやうじ)を焼失はんに於ては、天台座主(てんだいざす)を流罪し、山門大衆を禁獄せんと思召(おぼしめし)けるが、又返つて山門の衆徒、内心こそ愚痴の闇深して、邪雲仏日の影を犯とも、形は已比丘に似たり。一々に禁籠せん事、罪業又消滅すべからず、且は五帖の法衣身にまとへり。帰依の志全竪誓師子におとるべからず、且は大師聖霊の御計をも奉(レ)待べし、且は医王山王も争か捨果させ給べきやとて、御涙にぞ咽ばせ給ける。法皇は百王七十七代の帝、鳥羽院(とばのゐん)第三の御子雅仁親王とぞ申しし。治天僅(わづか)に三年也。忽に御位をすべらせまし/\ける。御志は無官無智の僧に近付て、甚深の仏法をも聴聞し、壇処行法
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の花香をも、手ら自らいとなまんと思召(おぼしめさ)るゝ故なり。抑百王と申は、天神七代地神五代の後、神武天皇より奉(レ)始て、御裳濯川の流涼く、竜楼鳳闕の月陰なかりしか共、第廿九代帝、宣化天皇の御時迄は、仏法未我朝に伝らざりしかば、名字をすら聞事なかりき。(有朋上P266)されば其時までは、罪業を恐る人もなく、善根を修行する人も無りき。親に孝養する事をも知ず、心に善悪の業をも不(レ)弁、持律斎戒の作法もなく、念仏読経のわざも無りき。而るに第三十代の帝、欽明天皇の御宇十三年壬申歳十月十日、百済国の聖明王より、金銅の釈迦如来(しやかによらい)、並に経論、■幡宝蓋(どうばんほうがい)、宝瓶等の仏具なんど被(レ)送たりしかども、仏の功能を知、聖教の談議する僧法もなかりしかば、三宝を供養し仏教を随喜せず、唯闇の夜の錦にてぞ侍ける。第三十二代の帝、用命天皇と申は、御諱豊日天皇とも申き。此御時より三宝普く流布して、大小乗の法文の光天下に耀しより以来、仏法修行の貴賤、其数多といへ共、此法皇程の薫修練行の御門を不(レ)承、子に臥寅に起させ給ふ、御行法なれば、打解て更に御寝もならず、金烏東に耀ては六部転読の法水、三身仏性の玉を磨き、夕日西に傾ば、九品上生の蓮台に、三尊来迎の御心を運給へり。常の御座の御障子の色紙に書せ給たりける名句に云、身は暫雖(レ)居(二)東土八苦蕀之下(一)、心常令(レ)遊(二)西方九品蓮之上(一)とぞあそばしたる。又常の御詠吟に、智者は秋の鹿鳴て入(レ)山、愚人は夏の虫飛んで火に焼とぞながめさせ給ける。此は止観行者、四種三昧の大意を釈しける絶句とかや。昔より常に此事を詠させ給ける御事なれども、今度山門の大衆に御灌頂(ごくわんぢやう)御入寺を打さまされ給し(有朋上P267)時より、何なる
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深き山にも閉籠、苔むす洞にも隠れ居ばやとや思召(おぼしめし)けん、御心を澄して、智者は秋の鹿とのみ御詠有ければ、后宮■女(さいじよ)も浅猿(あさまし)く思召(おぼしめし)、雲客(うんかく)月卿(げつけい)も肝神を失ひ給き。既青陽暮春の比にも成にければ、三月桃花の宴とて、桃花も盛に開たり。西王母が園の桃とて、唐土の桃を南庭の桜に植交て、色々様々にぞ御覧じける。桜が先に開時もあり、桃が先に開時も在、桃と桜と一度に開て匂を交る折もあり。今年は桜は遅つぼみて、桃花はさきに開たりけれ共、智者は秋の鹿とのみ詠ぜさせ給(たまひ)て、花を御覧ずる事も無き。依(レ)之(これによつて)、雲上人、更に一人も花を詠める人は、御座ざりけるに、三月三日たりしに、
  春来遍是桃花水、 不(レ)弁(二)仙源(一)何処尋、 K047 
と高声に詠ずる人あり。法皇誰ぞやと被(二)聞食(一)(きこしめされし)程(ほど)に、やがて清涼殿に参て、笛を吹鳴して、時の調子黄鐘調に音取すましたり。さるかとすれば、又御厨子の上なる、千金と云琵琶を懐下し奉りて、赤白桃李花と申楽を、三返計ぞ引たりける。直人とは覚えず、希代の不思議哉とぞ、法皇は被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。赤白桃李花を三返弾て後は、琵琶を引ず、詩歌をも不(レ)詠、笛をも不(レ)吹、良久音もせざりければ、此者は帰ぬるやらんと思召(おぼしめし)て、やゝ赤白桃李花をば何者が弾つるぞと仰在ければ、御宿直の番衆とぞ答奏しける。番衆とは誰ぞやと(有朋上P268)御尋あれば、開発源大夫住吉(すみよし)とぞ名乗給たりける。さては住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)にこそと思食(おぼしめし)て、急御対面あり。夢にも非覚とも思召(おぼしめ)さず、希代の不思議かなとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。さて種々の御物語(おんものがたり)有ける中に、大明神(だいみやうじん)被(レ)仰けるは、今夜は当番衆、松尾大明神(だいみやうじん)にて候へ共、急ぎ申
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べき事候て引替て参て候。昨日の暁山王七社(しちしや)と伝教(でんげう)大師(だいし)と、翁が宿所に来臨し給(たまひ)て、日本国の吉凶を評定候しに、今度山門の大衆等邪風殊に甚く、宸襟を悩し奉る条、存の外の次第にて候。但むつ心にては候はざりつる也。日本国の天魔集て、山の大衆に入替て、君の御灌頂(ごくわんぢやう)を打止めまゐらせ候処也。されば衆徒の咎には非ず、併天魔の所為にこそと。其時法皇の仰に、抑天魔と申は、人類歟、畜類歟、修羅道の族歟、何なる業因の者なれば、加様に仏法を障碍し侍らん、と御尋有りければ、大明神(だいみやうじん)答て宣く、聊通力をえたる畜類也。此に付て三品あり。一には天魔、諸の智者学匠(がくしやう)の、無道心にして、驕慢の甚き也。其無道心の智者の死すれば、必天魔と申鬼に成候也。其形頭は天狗、身は人にて、左右の羽生たり、前後百歳の事を悟て通力あり、虚空を飛事如(レ)隼。仏法者なるが故に、地獄には不(レ)堕、無道心なる故に、往生もせず、驕慢と申は人に増らんと思ふ心也。無道心と申は、愚痴の闇に迷へる者、智者の燈をも授けばやとも思はず、剰念仏申て後世欣者を妨(有朋上P269)て、嘲笑などする者、必死ぬれば天狗道(てんぐだう)に堕すといへり。されば末世の僧皆道心にして驕慢あるがゆゑに、十が八九は必天魔にて、仏法を破滅すと見えたり。八宗の智者は、皆天魔となるが故に、是をば天狗と申也。浄土門の学者も、名利の為にほだされて、虚仮の法門を囀り、無道心にして、念珠をくり、慢心にして数反すれば、天魔の来迎に預り、鬼魔天と云所に年久といへり。当(レ)知魔王は、一切衆生の第六の意識かへりて魔王となるが故に魔王形も又一切衆生の形に似り。されば尼法師の驕慢は、天狗に成たる形も尼天狗法師天狗
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にて侍也。頬は天狗に似たれども、頭は尼法師也。左右の手に羽は生たれ共、身には衣に似たる物を著て、肩には袈裟に似たる物を懸たり。男驕慢は、天狗と成ぬれば、頬こそ天狗に似たれ共、頭には烏帽子(えぼし)冠を著たり。二の手には羽生たれ共、身には水干、袴、直垂、狩衣なんどに似たる物を著たり。女の驕慢は、天狗と成ぬれば、頭にかつら懸て、紅粉白物の様なるものを頬に付たり。大眉作てかね黒なる者もあり、紅の袴に薄衣かづきて大虚(おほそら)を飛もあり。二には、波旬、天狗の業已に尽果て後、人身を受んとする時、若は深山の峯、若は深谷の洞、人跡絶果て、千里有所に入定したる時を、波旬と名く、一万歳の後人身を受といへり。三には魔縁、驕慢無道(ぶだう)道心の者必天狗となれりといへ共、未其人(有朋上P270)不(レ)知時に、人に増ばやと思ふ心の有を縁として、諸の天狗集るが故に、此を名付て魔縁と申。されば驕慢なき人の仏事には、魔縁なき故に、天魔来て障を成事なし。天魔は世間に多しといへ共、障碍を成べき縁なき人の許へは、翔り集る事更になし。されば法皇の御驕慢の御心、忽に魔王の来べき縁と成せ給(たまひ)て、六十余州の天狗共(てんぐども)、山門の大衆に入替て、さしも目出(めでた)き御加行をも打醒進て候也。御驕慢の発らせ給ふ実に御理也。両界の曼陀羅、一夜二時に懈怠なく行はせ給事、四十代の帝の中にも御座ざりき。僧中にも希にこそあらめと思召(おぼしめす)、御心則魔縁となれり。二十五壇の別尊の法、諸寺諸山の僧衆も、朕には争かと思召(おぼしめす)も魔縁なり。三密瑜伽(ゆが)の行法、護摩八千の薫修、上古の御門にましまさず、まして末代にはよもあらじ、仏法修行の智者達にもまさらばやと思召(おぼしめす)も是魔縁也。光明真言、尊勝陀羅尼、慈救
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真言、宝篋印、火界真言、千手経、護身結界十八道、仁王、般若、五壇法、朕に過たる真言師も、希にこそあるらめと思食(おぼしめし)たるも魔縁也。況や入壇灌頂(くわんぢやう)して、金剛(こんがう)不壊の光を放て、大日遍照の位にのぼらん事、明徳の中にも希なるべし。天子帝王の中にも、我はすぐれたらんと、大驕慢をなさせ給が故に、大天狗共(てんぐども)多集て、御灌頂(ごくわんぢやう)は空く成たる事こそ浅増(あさまし)く覚候へとぞ申させ給ける。又法皇の仰に、日本国中に、天狗に成(有朋上P271)たる智者幾か侍やと。明神宣く、よき法師は皆天狗に成り候間、其数を知ず。大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗、一向無智の僧中にも随分の慢心有。其等は悉(ことごと)く畜生道に堕て朝夕に責つかはれ、行歩に打はらるゝ諸の馬牛共は是なり。中比我朝に柿本の紀僧正(きそうじやう)と聞えしは、弘法大師の入室灑瓶の弟子、瑜伽(ゆが)灌頂(くわんぢやう)の補処、智徳秀一にして験徳無双聖たりき。大法慢を起して、日本第一の大天狗と成て候き。此を愛宕山の太郎坊と申也。惣じて驕慢の人多が故に、随分の天狗と成て、六十余州の山峯に、或は二三十人、或は五十百二百人(にひやくにん)集らざる処候はずと。其時法皇、誠に如(レ)仰、朕が行法は王位の中に、仏法者の中にも、最希にこそあらめと思て侍りつる也。先両界を空に覚て、毎夜の二時に、供養法し給ふ、御門、上古には未(レ)聞と思侍りき。別尊法鈴杵を廿五壇に建たる帝王も未(レ)聞と思侍て、子に臥し寅に起る行法、帝王の中には未(レ)聞と思侍りき。毎日法華経(ほけきやう)六部を信読し奉る。国王も、我朝には未(レ)聞と思侍き。況や三部秘経の持者、上乗灌頂(くわんぢやう)の聖と成て、本寺本山の智者達にも勝れたりと、被(レ)嘆と思ふ慢心を起こと度々也き。而今如(レ)是聞召るゝにこそ、罪業の雲既(すで)に晴て覚え候。全く山門の
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大衆の狼藉にては侍らず、我身の慢心則天魔の縁と成て、六十余州の天狗ども、数日精進の加行を打破けるにこそ(有朋上P272)道理にては侍りけれ。今に於ては慙愧懺悔の風冷に、魔縁境界争かはれざらん。さては忍やかに宿願を果し候ばやと存ず、御計候へと仰有ければ、大明神(だいみやうじん)宣く、伝教大師の申せと候つるは、延暦寺と申は愚老が建立(こんりふ)、園城寺(をんじやうじ)と申は、又智証大師の草創也。効験何も軽して御帰依の分にあたはず、我朝の霊地には、四天王寺勝れたり。聖徳太子(しやうとくたいし)の御建立(ごこんりふ)、仏法最初の砌也。彼聖徳太子(しやうとくたいし)は求世観音の応現、大悲闡提の菩薩也。信心空に催さば、勝利何ぞ少からんや。折節彼寺に入唐の聖、帰朝して、恵果法全の流水、五智五瓶に潔なり。灌頂(くわんぢやう)の大阿闍梨(あじやり)其器に可(レ)足、密に御幸ならせ御座して、御入壇候へと被(レ)仰て、明神忽に失給ぬ。其時法皇御落涙有て、良思食(おぼしめし)けるは、慢心いかに発さじと思へども、事により折に随て起べき者にて有けり。さしも大明神(だいみやうじん)の教給(たま)ひつる慢心の、今更起たるぞや。其故は、大唐国に一百余家の、大師先徳御座ける中に、毘沙門天王の御子に、韋駄天と申将軍に対面して、仏法の物語(ものがたり)し給ける明徳は、律宗の祖師終南山の道宣大師ばかりと見えたり。日本に七十余代の御門座ししかども、親住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)に対面して、種々に物語(ものがたり)したる帝王は、朕ばかりこそ在らめと、慢心の起たるぞやとて、阿弥陀仏/\助させ御座(おはしま)せと、御祈念ぞ在ける。さても法皇は公顕僧正(そうじやう)を被(二)召具(一)て天王寺へ御幸あり。彼寺の西門にして、(有朋上P273)御手を合つゝ、御心中に住吉(すみよし)明神(みやうじん)を拝せ給(たま)ひつゝ、
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  住吉(すみよし)の松吹く風に雲晴て亀井の水にやどる月影 K048 
とあそばして、五智光院にして亀井の水を結び上、五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂(くわんぢやう)をば遂させ給(たま)ひける。法皇今年六十一、智証大師より十五代の御付法也。無上菩提の御願(ごぐわん)、忽に成就(じやうじゆ)して、有待不定の玉体、速に金剛(こんがう)仏子に列御座、六大無碍の春の花は、出(レ)自(二)胎蔵界理門(一)、三密瑜伽(ゆが)の鏡の面は、浮(二)五智円満聖体(一)、八葉肉壇の胸(むね)の間には、耀(二)三十七尊光円(一)、五輪成身の宝冠には、厳(二)八十種好金花(一)、遍照遮那の悟開て、密厳花蔵之土に遊給ふも、あな目出た。(有朋上P274)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第九
P0200 (有朋上P275)
理巻 第九

S0901 堂衆軍事
山門の騒動を静られんがために、三井の御幸を被(二)停止(一)たりけれ共、学匠(がくしやう)と堂衆と中悪して、山上又不(レ)静、山門に事出来ぬれば、世も必ず乱といへり。理や鬼門の方の災害なり、是不祥の瑞相なるべし、又何なる事の有るべきにやと恐ろし。此事は今年の春の比、義竟四郎叡俊と云者、越中国へ下向して、釈迦堂衆に来乗房義慶と云者が、所の立置、神人を、押取て知行しける間に、義慶憤を成て、敦賀中山に下合て、義竟四郎を打散し、物具(もののぐ)剥取などして恥に及。叡俊山に逃入て、希有にして命を生、夜にまぎれ匍登山して衆徒に訴ければ、大衆大に憤て、三塔不(レ)静、来乗又堂衆等を相語ければ、同心して義慶を助けんとする間、山上坂本騒ぎ合り。八月六日学匠(がくしやう)義竟四郎を大将として、堂聚が坊舎十三宇を截払、若干の資財雑物を追捕して、即学匠等(がくしやうら)西塔東谷大納言の岡に楯籠て、城郭(じやうくわく)を構ふ。堂衆弥我執を起して、同八日数百人(すひやくにん)の勢を率して登山して、西塔北谷東陽房(有朋上P276)に向城を構て勝負を決せんとす。露吹結ぶ秋風は、鎧の袖を翻し、雲井に響雷電は、甲の星を耀す。堂衆八人(はちにん)しころを傾て、大納言の岡へ打上り、城戸口近く攻付たり。城内より義竟四郎先陣に進で六人打て出、互に進退一時戦けり。堂衆八人(はちにん)請太刀に成て引けるを、〔義〕竟打嗔て長追す。堂衆難(レ)遁して返合て乱会て、散々(さんざん)に戦
P0201
ける程(ほど)に、義竟四郎長刀の柄を打折て、腰刀を抜て刎て係るかと見程(ほど)に、頸打落されて失にけり。大将軍の義竟被(レ)討ければ、学匠(がくしやう)即引退く。十日堂衆等、東陽房より坂本に下り、近江国三箇庄へ下向して、国中(こくぢゆう)の悪党を相語、学匠(がくしやう)を亡さんと結構(けつこう)す。所(レ)語者と云は、古盗人古強盗、山賊海賊共也。年比日比蓄へもつ処の、米穀絹布の類を施し与へければ、当国にも不(レ)限、他国よりも聞伝て、縁を尋便に付て、雲霞の如く集と聞えし程(ほど)に、九月二十日堂衆数千の勢を相具して、坂本に越、早尾坂に城郭(じやうくわく)を構て楯籠る。学匠(がくしやう)兼て用意有ければ、不日に押寄たりけれ共、散々(さんざん)に打散されて、云甲斐なし。去共去共と又寄又寄しけれ共、毎度に不(レ)叶ければ、今は学匠(がくしやう)力尽て及(二)奏聞(一)。堂衆等師主の命を背て、悪行を致す間、誡を加る処に、諸国の凶賊等を相語て、衆徒を亡さんとす、衆徒対治をなすといへど、学侶多く討れて、仏法僧法忽に滅とす。官兵を以て可(レ)被(二)追討(一)と申ければ、院宣を被(レ)下太政(だいじやう)入道(にふだう)(有朋上P277)に仰す。入道勅定を蒙て、紀伊国住人、湯浅権守宗重を大将として、畿内近国の武士、三千余騎(よき)を相副て、東坂本へ差遣す。十月四日学匠(がくしやう)官軍と相共に、早尾坂の城(じやう)へよす。此山は後は峯高くして下がたく、前は谷嶮して上難き上に、道には大木を切て逆木に引、岡には大石を並て石弓をはる、面を向べき処に非ず。去共武家の軍兵三千余騎(よき)、衆徒の軍兵二千余騎(よき)、今度は去共と見えけるに、衆徒は官兵を進、官兵は衆徒を先立んと思程(ほど)に、心々にてはか/゛\しく攻寄戦輩なし。堂衆等は執心深く思ひて面を振ざりける上、所(レ)語の悪党ども、賄賂属託に耽て死生不(レ)知戦ければ、適進戦輩、射伏
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られ切伏られける中にも、多は石弓に打れてぞ亡ける。官兵も学匠(がくしやう)も散々(さんざん)に打落されて、手負は数を知らず、死者二千余人(よにん)とぞ聞えし。今度被(レ)討ける官兵の中に、武蔵国住人、甘糟太郎某、三条川原を東へ向て打けるが、倩案じ思様、我戦場に向ひなば、生て帰らん事有がたし、敵の為に害せられば、悪趣におちん事疑なし、法然上人の折節(をりふし)大谷に御座(おはしまし)ければ、出離悪道一句聴聞せんと思出て、彼庵室に推参して、馬より下、小具足付ながら縁のきはに立て、是は武蔵国住人甘糟太郎某と申者にて侍が、堂衆追討の為に、官軍に催されて、戦場に罷向侍、後生菩提の事御言承ばやとて参たる由申入たりければ、上人出合(有朋上P278)給へり。甘糟は我軍の庭に出で〔て〕、修羅闘諍の剣に当りなば、悪趣の苦患其恐不(レ)少、されば進んとすれば生死遁がたし、退んとすれば不覚の名憚あり、敵に向ひなば命を生て不(レ)可(レ)帰、これ弓矢の家を思故、子孫の末を存ずる故也。縦係身にて侍とも、生死を離べき一句を奉ばやと申。上人哀に思召(おぼしめし)て、御物語(おんものがたり)をしづ/\と始給へり。源空は本美作(みまさかの)国(くに)の者也。父母子なくして、観音に祈申て、我を儲たりき。我九歳の時、父は明石の源内と云者が為に、夜討にせられて孤子と成しを、親者が山へ登たりしかば、少き心に父が後世をも弔、我身も生死を離れんと思て、法相、三論、花厳、天台、真言、仏心、乃至小乗律蔵に至まで渡見に、末代罪悪の衆生の為には、唯念仏の一行を得たりと語給へば、到(二)信心(一)、西に向合掌して十念を受。上人十念を唱て後、縦合戦闘乱の中なり共、弓箭身を亡す時也とも、十念成就(じやうじゆ)せば往生不(レ)可(レ)疑と教訓し給へば、甘糟悦で坂本に越にけり。翌日
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上人大谷庵室に縁行道し給けるが、折節(をりふし)候ける摩訶部の敬仏、かくはりの浄門弥陀仏を呼出して、あれ見給へ、紫雲西山に聳て、比叡山(ひえいさん)に係れり、是は一定昨日来りたりし甘糟が、敵に討れて、念仏申て往生する瑞相と覚たり、浄阿弥陀仏御房は力強足早し、急坂本に越て、甘糟死にたらば、骸をも隠し首をも取て来給へと被(レ)仰ければ、かくはりの浄阿(有朋上P279)坂本に走越て、八王子(はちわうじ)山のすそ早尾坂の辺を見廻に、死人の多き事算を散せるが如し。木の本草の末皆紅に変けり、無慙と云も疎也。此彼見程(ほど)に、一人の童死人を抱て泣居たる処あり。近付寄て是を問へば、我は武蔵国甘糟殿の下人也、敵に打合給しが、長刀にて両膝を切おとされ、西に向ひ合掌して、念仏三百返ばかり申て死給。旅の空なれば何にすべしとも不(レ)覚して、かくて侍也とて泣けり。浄阿弥は泣々(なくなく)頸を掻落し、童が直垂に裹せて檜笠の下に引かくし、童相具して、大谷の庵室に来れり。上人見(レ)之給へば、昨日鮮に肝々しげなりし有様(ありさま)に、今日は魂もなき生首、憂世(うきよ)の習と云ひながら、夢の心地し給へば、墨染の袖をぞ絞られける。さて念仏申て終ぬる事細々と語申ければ、上人神妙(しんべう)神妙(しんべう)とて、やがて上の山にて首を焼、骨をば拾て童にたび、七日念仏申されて武蔵国へぞ被(レ)下ける。平野先生頼方と云者あり。官兵にさゝれて堂衆を攻けるが、強弓(つよゆみ)の手だれなり。打物取ても足早、唯電なんどの如し。我一人と戦ければ、堂衆多くは是が為に討れたり。敵も安からず思ければ、いかにもして頼方を討ばやと目に係たり。頼方は子息小冠者相具して、散々(さんざん)に戦ける程(ほど)に、敵多打て懸り、あますなとて手繁く戦ければ、引退処にいかがしたりけん、我身は遁て子息の小冠を被(レ)虜ぬ。頼方心細
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悲く思て、今は命生ても(有朋上P280)何にかせんと思ければ、命も不(レ)惜振舞けり。堂衆は此小冠が頸を切べきにて有けるを、父の頼方を招んが為に、子息を城戸口に出して、我命を助んと思はば城の中に入とよばはらせければ、頼方子が頸を続ん為に、甲を脱矢をはづして城の内へぞ入にける。大国の陵母は子を思て剣に伏し、我朝の頼方は、子を悲て城に入、恩愛親子の情こそ、とりどりには覚えけれ。同五日学匠等(がくしやうら)一人も残らず離山して、此彼に息つぎ居たり。義竟四郎神人の一庄を押取て知行すとも、何計の所得か有べきに、敦賀の中山にて恥を見、剰取かへもなき命を失、山門の滅亡、朝家の御大事に及ぬるこそ浅猿(あさまし)けれ。人は能々思慮有べき者也。貪欲は必身を食といへり。此事可(レ)慎。
十一月五日、学匠等(がくしやうら)又上座寛賢并(ならびに)斉明を大将軍として、堂衆が城郭(じやうくわく)へ推寄て攻戦けり。夜に入て学匠(がくしやう)又被(レ)打落(一)て四方に散失ぬ。討るゝ者百余人(よにん)、今はいかにも力なくして、学匠等(がくしやうら)散々(さんざん)にこそ成にけれ。其後は山門弥荒果て、西塔院の禅衆の外、止住の僧侶無りけり。末代の作法にや、悪者は強善人は弱なりて、行ひ人は強して、智者の謀も不(レ)及して、有縁の方に行別て、人なき山に成にけり。中堂衆など云者も失ぬ、当山草創より以来如(レ)事なし。只仏法の滅亡のみに非、祭礼も又廃にけり。社頭は死骸にけがされて、神供備る人もなく、在家は親子に別れば、幣帛(有朋上P281)捧る者もなし。緋の玉垣みだれつつ、引立たる標縄も絶々なり。
S0902 山門堂塔事
抑当山は是伝教(でんげう)大師(だいし)草創の砌(みぎり)、桓武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)也。天長地久の長講は、止観院に置れたり。本尊と申
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は、大師自斧を取、薬師(やくし)の像を造つゝ、未来の衆生を利益し給へと誂申給しに、半作の仏像のうなづき給(たま)ひしも、憑しくこそ覚れ。梵釈四天の像は、又忠仁公の造立也。十二神将(じふにじんじやう)の像は寛仁の入道大相国(たいしやうこく)の所造也。日光月光の二菩薩は宇治の関白(くわんばく)の所造なり。効験何もとり/゛\に、利生実に厳重也。法花三昧堂は、又伝教(でんげう)大師(だいし)の草創也。一乗(いちじよう)転読の髑髏は、此砌(みぎり)にぞ住ける。半行半座の三昧、此道場に修すとかや。常行三昧院は慈覚大師の建立(こんりふ)、法道和尚の引声此道場に遷さる。戒壇院と申も、同大師の建立(こんりふ)、円頓無作の大乗戒、此霊場に行る。惣持院と申は、文徳天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、真言上乗の秘法は、此伽藍に修せらる。如来(によらい)遺身の御舎利、多宝塔に納、鎮護国家の道場、名称実に憑しや。
深草天皇(てんわう)の定心院、朱雀天皇(てんわう)の延命院、花山法皇の静慮院、承雲和尚の五仏院、後冷泉院の実相院、弘宗王の大講堂、文徳天皇(てんわう)の四王院、皆是国家鎮守の道場也。西塔院の(有朋上P282)釈迦堂は延秀菩薩の造立也。寂光大師施主として、護命僧正(そうじやう)導師たり。弘法大師は咒願し、別当慈覚両大師、梵音を誦じ、安恵恵亮の和尚達、錫杖をぞ勤ける。本尊と申は、伝教(でんげう)大師(だいし)の御作也。中堂(ちゆうだう)の薬師(やくし)と印相更違ず、医王善逝かと思しに、天人香呂の岡に天降給(たま)ひて、閼伽の御盞を備つゝ、敬礼天人大覚尊の、四句の文を誦しけり。九旬安居の供花も、此伽藍より始れり。
横川の中堂(ちゆうだう)と申は、慈覚大師帰朝の時、悪風に放たれて、羅刹国に至しに、観音海上に現じ給(たま)ひ、不動毘沙門艫舳に現じ給へり。赤山明神は蓑笠を著給(たま)ひ、弓箭を手に杷て、大師を守護し奉る。彼の三体
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を移て、本尊とし給(たま)ひ、赤山明神を西坂本に崇けり。如法堂と申も、慈覚大師の御建立(ごこんりふ)、六根懺悔の行義は、此道場より始れり。三十番神の守護こそ貴くは覚ゆれ。相応和尚の不動尊、南山の洞に坐し給(たま)ひ、大楽大師の大威徳、西塔院に御座、或は秘密瑜伽(ゆが)の精舎もあり、或は法華読誦(どくじゆ)の道場もあり、念仏三昧の砌(みぎり)あり、円頓教の窓あり、目出かりし峯なれども、谷々の講演も皆断絶し、堂々の行法も、悉(ことごと)く退転す。修学の枢を閉塞、座禅の床に塵積る。三百余歳の法燈は挑る人もなく、六時不断の香の烟、絶やしぬらんおぼつかな。堂舎高顕て三重の構を青漢の中に挟み、棟梁遥(はるか)に秀でて、四面の垂木を白霧の間に瑩しかども、今は供仏を峯の嵐に任せ、(有朋上P283)金容を空瀝に潤。夜月燈を挑て、軒の隙より漏、暁の露玉を垂て、蓮座の粧を添。夫末代の俗に至ては、三国の仏法も次第に衰微せるとかや。遠く天竺に仏跡を訪へば、貞観三年の秋仏法興隆の為に、玄弉三蔵、流沙葱嶺を凌て、仏生国へ渡り、春秋寒暑一十七年経廻けるに、耳目見聞三百六十箇国。彼国の中に大乗の弘れる、十五箇国には過ざりけり。仏の教説し給(たま)ひける、祇園精舎も、竹林精舎も孤狼の棲となり、鷲峯山も、孤独園も、只柱礎のみ残れり。白鷲池には水絶て、草のみ深く茂り、退凡下乗の卒都婆も霧に朽て傾ぬ。六年苦行の壇特山、成等正覚の金剛座、大林精舎、鹿野園、凡て悉達誕生の、伽毘羅城より始て、如来(によらい)入滅の沙羅林中に至るまで、一化早く極て、八音響絶にしかば、衆生利益の聖跡も荒にけるこそ悲けれ。震旦の仏法も同く滅にき。天台山、五台山、双林寺、玉泉寺も、近頃は住侶なき様になり果て、大小乗の法文
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は箱の底にぞ朽にける。我朝の仏法も又同。南都には七大寺も荒果て、八宗九宗跡絶ぬ。瑜伽(ゆが)唯識の両宗の外は残る法文もなし。東大興福両寺の外は、残堂舎もなし。北京には愛宕、高雄の山も、昔は堂塔軒を碾、行学功を積けれ共、一夜の中に荒しかば、今は天狗の栖と成にけり。去ば止事なき天台の仏法計こそ有つるに、治承の今に至て滅果ぬるにやと、心あるきはの人(有朋上P284)不(レ)悲と云事なし。離山しける僧の坊の柱に、書付たりけるは、
  祈りこし我たつ杣の引かへて人なき嶺となりや果なん K049 
と、伝教(でんげう)大師(だいし)当山草創の昔、阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の仏達、我立杣に冥加あらせ給へ K050 と、祈申させ給ける事を、思出て読たりけるにや、最哀に情深くぞ聞えし。大衆離山して、今は人なき峯に成はてて、鎮護国家の道場には、青嵐独咽、住持仏法の窓前には、白雪(はくせつ)空に積る由聞召ければ、慈鎮和尚の未慈円阿闍梨(あじやり)にて御座(おはしまし)ける時、いと悲く思食(おぼしめし)つゞけさせ給ければ、白雪(はくせつ)の朝、尊円阿闍梨(あじやり)の許へ送らせ給けり。
  いとゞしく昔の跡は絶なんと今朝降雪ぞ悲しかりける K051 
御返事(おんへんじ)に、
  君が名ぞ猶あらはれん降雪に昔の跡は絶えはてぬとも K052 
抑堂衆と申は、本学匠(がくしやう)召仕ける、童部の法師に成たるや、若は中間法師などにて有けるが、金剛寿院の座主覚尋僧正(そうじやう)御治山の時より、三塔に結番して、夏衆と号して、仏に花奉し輩也。近来行人とて、
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山門の威に募、切物奇物責はたり、出挙借上入ちらして、徳付公名付なんどして、以外に過分に成、大衆をも事共せず、師主の命を背、加様に度々(有朋上P285)の合戦に打勝て、いとゞ我慢の鋒をぞ研ける。古人々の申けるは、山門に事出来ぬれば、必世の乱あり、一年天下の騒も山門より乱初たりと聞ゆ。今年又何事の有るべきやらん、鬼門の方の災夭也。帝都尤可(レ)鎮とぞ歎申ける。
S0903 善光寺炎上(えんしやうの)事
今年三月廿四日、信濃国善光寺炎上(えんしやう)あり、是又浅猿(あさまし)き事也。彼如来(によらい)と申は、昔天竺の毘舎離国に、五種の悪病発て、人民多亡き。毘舎離城の、月蓋長者と云者あり。最愛の女子、如是と云者、病の床に臥て、憑なく見えければ、恩愛の慈悲に催れ、釈尊説法の砌(みぎり)に参て歎申けるは、如来(によらい)は大悲を法界に覆て、衆生を一子と孚給へり。而を毘舎離城の人民多滅亡、最愛の女子亡せんとす、願は慈悲を垂て、悪病を済給へと。釈尊勅して云、我力を以て、彼鬼病を助がたし。是より西方十万億土を過て仏御座、其名を阿弥陀仏と云。至心に祈誓し奉らば自其病を助るべしと教給ふ。長者蒙(二)仏勅(一)、家に帰て遥(はるか)に西に向ひ、香花を備へ、十念を唱祈申しかば、弥陀如来(みだによらい)、観音、勢至、西方の虚空より飛来、一光三尊(さんぞん)の御体一■(ちやく)手半の御長にて、長者の門閾に現じ給たりけるを、閻浮檀金を以て奉(二)鋳移(一)、閻浮提(有朋上P286)第一の仏像也。如来(によらい)滅度の後、天竺に留給ふ事五百歳(ごひやくさい)、仏法東漸の理にて、百済国に渡御座(おはしまし)て、一千年の其後、欽明天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、浪に浮本朝に来給(たま)ひたりしを、推古天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、信濃国水内郡住人、本田善光と云者、遥(はるか)に負下奉て、我家を堂とし、我名を寺号に付つゝ安置し奉りてより、
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以降、日本最初の仏像、本師如来(によらい)と仰て、貴賤頭を低、道俗掌を合つゝ、既(すで)に六百歳に及べり。炎上(えんしやう)の例雖(レ)及(二)度々(一)、王法亡んとては、必仏法先に亡といへり。去ばにや加様にさしも止事なき霊寺霊場の多亡失給は、王法の末に臨、天下の穏しかるまじき瑞相にやとぞ、尊も卑も歎ける。
S0904 中宮御懐妊事
建礼門院も、其時は中宮にて御座(おはしまし)しか、春の暮より御悩とて、貢御もつや/\進らず、打解御寝も成らずと聞えしかば、人々怪をなす、何なる御事やらん、御物気などにやと疑申時の后宮にて御座かば、天の下の歎なる上、平家の一門は殊に騒合へり。太政(だいじやう)入道(にふだう)二位殿共に、理に過て肝心を迷し給程(ほど)に、ただならぬ御事なりとて、引替悦あへり。主上今年十八、いまだ皇子もおはしまさず、若皇子にて渡せ給はゞ、如何に目出からんとて、平家(有朋上P287)の人々は、只今皇子御誕生などのある様に、あらまし事共申て悦給へり。平家の角栄給へば、一定皇子にてぞ御座んと、徐人も色代申けり。
S0905 宰相申(二)預丹波(たんばの)少将(せうしやう)(一)事
中宮五月にて御帯賜御座(おはしまし)て、六月二十八日(にじふはちにち)吉日とて御著帯あり。御懐姙事定らせ給ければ、御産平安王子御誕生の御祈(おんいのり)、内外に付て頻也。平宰相(へいざいしやう)折節(をりふし)を得て、小松殿(こまつどの)に被(二)参申(一)けるは、中宮御産の御祈(おんいのり)に、定て様々の攘災行れずらん、成経が事今度申宥れなんや、何事にも勝たる御祈(おんいのり)たるべし、さらば御産も平に、皇子も御誕生疑あらじと泣口説給。大臣は、誰も子は悲き物なれば、誠にさぞ覚すらん、心の及ん程は申見べしとて、入道殿(にふだうどの)に被(レ)申けるは、成経が事を宰相の痛く歎申るゝこそ不便に侍れ、御産の御祈(おんいのり)に非常の大赦行はれて、丹波(たんばの)少将(せうしやう)其中に入らるべくや候らん、宰相の申さるゝ如く無双の御祈(おんいのり)
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たるべし、人の思歎を休、物の所望を叶させ給なば、皇子御誕生有りて、家門の栄花もいよ/\開ぬと相存ず、誠に人の親として子のうれへ歎を見聞ん程(ほど)に、身にしみ肝を焦す事、何かは是にまさるべき。為(レ)善者には天報ずるに福を以し、為(レ)非者には天報るに殃を以す(有朋上P288)と承る。縦異性他人なり共、かゝる折に当ては、広大の慈悲を可(レ)施、況や御一門の端に結て、か程(ほど)に歎申さんに、争か御憐なかるべき。然べきの様に御計あらば、上なき御祈(おんいのり)と成て必御悦びも報なんと、様々に宥被(レ)申たれば、入道今度は事の外に和て、去は俊寛康頼は如何と宣(のたまひ)けり。其も同罪とて同配所なれば、倶に御免あらぬと申れけり。何も詳なる事はなけれ共、日来には似ず思の外になだらかに返事し給へば、大臣うれしとおぼして被(レ)出けり。宰相待受ていかゞと問給ふ。今度はもて離たる事はなし、相計るゝ旨もありなんと宣へば、宰相手を合て悦の涙を流し給けるぞ糸惜き。教盛御一家の片端に侍れば、高山とも深海とも奉(レ)憑上は、是程の事などかは御免を蒙らでも有べき。女子にて侍れば、親に向声振立て、それ/\と申までこそなけれ共、教盛を見度にうらめしげに思て、常は涙ぐみて見え侍れば、思はじと思へ共、恩愛の道には力なく、無慙に覚えてかく歎申、相構て助る様に、御口入御座と宣(のたまひ)ければ、大臣は上下品替といへ共、子を思道は等閑ならねば、誠にさこそ思召(おぼしめす)らめ、猶もよく/\申侍るべしとて立給(たま)ひぬ。
中宮は月日の重る儘に、いとゞ御身を苦ぞ思召(おぼしめし)ける。係折をえて御物気煩しくぞ御座など申ければ、御験者隙なく召れて護身頻なり。少し面痩させ給(たまひ)て、御目だゆげに見えさせ給け(有朋上P289)る御有様(おんありさま)は、
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漢李夫人の照陽殿の病の床に臥たりけんも、角やとぞ人申ける。新(しん)大納言(だいなごん)父子、并(ならびに)俊寛康頼等が霊共とて、御物付に移て様々に申事共有けり。生霊死霊軽からず、おどろ/\しくぞ聞えける。係ければ丹波(たんばの)少将(せうしやう)可(レ)被(二)召返(一)由定にけり。宰相聞給(たまひ)ては、心の中の嬉さ、たゞ可(二)推量(一)。北方は猶も誠とも思給はざりけるにや、臥沈給けるぞ糸惜き。七月上旬に丹波(たんばの)少将(せうしやう)召返とて、六波羅より使あり、入道の侍に、丹左衛門尉基安と云者也。宰相の許よりも、私の使を相添られたり。漫々たる万里の波、浦々島々漕過つゝ、心は強に急げども、満来塩に沂吹立浪も荒して、海上に日数を経、八月下旬に薩摩の地に着く。九月上旬にぞ硫黄島には渡ける。さても此人々、日比露の命の消ざれば、さすが憂身の有程は、朝な夕なの渡居を、さばくる者もなければ、何習たるにはあらね共、手自営けるぞ無慙なる。少将山に入て爪木を拾、朝には康頼沢に出て根芹をつみ、俊寛谷に下て水を結、夕には少将浦に行て藻をかきけり。僧俗の品もなく、上下の礼も乱つゝ、賄けるぞ糸惜。角て春過夏闌ても、思を故郷に馳、年を送り月を迎ても悲を旧里に残す。月日の数も積ければ、島の者共のいふ言も、各聞知給けり。彼等も此人々の言をも自聞知奉る物語(ものがたり)の次に島の者共が申けるは、此御棲より五十余町を去て一の離山あり、峯高し(有朋上P290)て谷深し、其名を鸞岳と云。彼岳には夷三郎殿と申神を奉(レ)祝、岩殿と名付たり、此島に猛火俄(にはか)に燃出て、殊に熱たへ難時は、様々の供物を捧て祈祭れば、火静風のどかに吹て、自安堵すとぞ語りける。少将これを聞て、係る猛火の山、鬼の住所にも、神と云事の侍にこそと
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宣ば、康頼答けるは、申にや及侍る、炎魔王界と申は、地の下五百由旬にあり、鬼類の栖として、猛火の中に侍、其にだにも十王とも申、十神共名付て、十体の神床を並て住給へり。況や此島は扶桑神国の内の島なれば、夷三郎殿もなどか住給はざらん。抑性照三十三度、熊野参詣の宿願有りて、十八度までは参て、今十五度を残せり。当来得道の為に、岩殿の御前にて果さばやと存、露の命もながらへば、都還をも祈らんと思なり。大神も小神も屈請の砌(みぎり)に影向し、権者も実者も渇仰の前に顕現じ給ふ事なれば、権現も定て御納受(ごなふじゆ)有べし、同心あらば然べし、各いかゞ思食(おぼしめす)と云ければ、少将成経はやがて入道を先達として可(レ)詣とぞ悦給ける。俊寛の云けるは、日本は神国也、天開け地竪り、国興り人定て後、光を高間原に和げ、跡をあらかねの地に垂給ふ、大小の神祇三千七百(さんぜんしちひやく)余所也、多は九成正覚の如来(によらい)大悲闡提菩薩也、又吉備大臣神明の数を注たりけるには、上には一万三千、下は粟三石が員といへり。其名帳の中に、硫黄島の岩殿と云神よもあらじ、就(レ)中(なかんづく)(有朋上P291)後生菩提の為ならば、乃至十念若不生者不取正覚と誓給へり、弥陀念仏をも唱べし。都還の祈ならば、現世安穏後生善処とも説、病即消滅不老不死とも演給へり。遠流の罪に行れて、日積歎に悲も、是又病に非や、されば法華経(ほけきやう)もよみ給べし、凡神明には権実の二御座。権者の神と申は、法性真如の都より出て、分段同居の塵に交り、愚痴の衆生に縁を結給。実者の神と申は、悪霊死霊等の顕出て、衆生に崇をなす者也。彼を礼し敬は、永劫悪趣に沈故に、或文に云、一瞻一礼諸神祇、正受蛇身五百度、現世福
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報更不来、後生必堕三悪道と見えたり。されば漢朝に霊験無双の社あり、人崇(レ)之牛羊の肉を以て祭けり、其神体を尋れば、古釜にて有りけるとかや。一人の禅師来て、釜を扣て云、神何の処より来れるぞ、霊何の処にか有と云て、さながら打砕て捨けり。禅師角して帰時、青衣の俗人現て、冠を傾け僧を礼云、我こゝにして多苦患を受き、而に禅師今無生の法をとき給ふ、吾聴聞して忽に業苦を離れて、天に生ずる事を得たり、其恩報じ難しと云て、忽然として失にけり。されば我等(われら)が身には、今生の事更に不(レ)可(レ)思、偏に後世の苦をまぬかるゝ方便をこそ、あらまほしく侍れ。神明と申は、権者の神も、仏菩薩の化現として、仮に下給へる垂跡(すいしやく)也、直に本地の風光を尋て、出離の道に入給べし。其に念仏を憑て、往生を期し(有朋上P292)給はば、行往坐臥念々歩々、口に名号を唱へ、心に極楽を念て、臨終の来迎を待給べし。聖道の修行ならば、凡聖元より二なし。自身の外に仏を不(レ)可(レ)求、邪正自一如也、自土の外に浄土(じやうど)なし。三界一心と知ぬれば、地獄天宮外になし。心仏衆生一体と悟ぬれば、始覚本覚身を離れず、自性の本仏、もとより己身に備と観ずれば、無窮の聖応、響の声に応ずるが如し。生死断絶の観門、出過語言の要路也。達磨西来の、直指見性成仏(じやうぶつ)の秘術、皆自身の宝蔵を開にあり、神明外になし、只我等(われら)が一念也、垂跡(すいしやく)也に非、専自己の本宮にありなんと、たふ/\と云散す処に、此島の習なれば、暴風俄(にはか)に吹て地震忽に起、山岳傾崩て、石巌海に入、其時古詞を詠じけり。
  岸崩殺(レ)魚其岸未(レ)受(レ)苦、 風起供(レ)花其風豈成(レ)仏。
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  崩れつる岸も我身もなき物ぞ有と思ふは夢に夢みる K053 
詠じて、只仏法を修行して、今度生死を出給べし、但我立杣の地主権現、日吉詣ならば、伴なん、熊野の神は中悪とて不(レ)与けり。康頼申けるは、教訓の趣は、誠に貴く侍り、尤甘心し奉る。但仏教の中に、神の御事希也と申せども、以離るべきに非。其故は、末世の我等(われら)が為には、後の世を欣はん事も必神明に奉(レ)祈べしと見えたり。釈尊入滅の後二千(有朋上P293)余年、天竺を去事数万里也、僅(わづか)に聖教渡るといへ共、正像既過ぬれば、行する人も難く其験も希也。是以て諸仏菩薩の慈悲の余に、我等(われら)悪世無仏の境に生て、浮期無らん事を哀て、新道と垂跡(すいしやく)して、悪魔を随仏教を守、賞罰を顕し信心を起し給ふ、是則利生方便の懇なるより始れり、是を和尚同塵(どうぢん)の利益と名たり。我国の有様(ありさま)を見に、神明の御助なくば、争人民を安し、国土も穏からん。小国辺土の境なれば、国の力も弱く、末世独悪の此比なれば、人の心も愚也、隠ては天魔の為になやまされ、顕ては、大国の王にあなづらる、縦仏法渡給とも、魔障強は独世の今ひろまり難し、天竺は南州の最中にて、仏出世し給し国なれども、像法の末より、諸天の擁護漸衰へて、仏法亡給しが如。然を我国は、伊弉諾、伊弉冊尊より、百王の今に至まで、始終神国として、加護他に異也、剰神功皇后(じんぐうくわうごう)の古へは、新羅、高麗、支那、百済なんど申て、勢(いきほ)ひ大なる国をも随て、五独乱漫の今までも、大乗広まり給へり。若国に逆臣あれば、月日を不(レ)廻亡(レ)之、若天魔仏法を妨れば、鬼王と成て対治し給。依(レ)之(これによつて)仏法も王法も不(レ)衰、土民も国土も穏也。公の御為には高き
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大神と顕れ、民の為には賤き小神と示す、智者の前には本地を明にし、邪見の家には垂迹を現す、後世を不(レ)知輩も、猶祈て歩を運ぶ、因果に暗き人も又罰を恐て奉(レ)仰、神明顕給は(有朋上P294)ずは、何に依てか露計も、仏法に縁を結奉らん、化度利生の構は彼榊幣より始かたくる、きねが鼓の音までも、開示悟入の善巧は、哀に忝(かたじけな)き御事也。故に為度衆生故、示現大明神(だいみやうじん)とも説、和光(わくわう)同塵(どうぢん)は結縁の始とも釈せり。現世の望をこそ仮の方便とかろしめ給ども、生死を祈らん為には、争済度の本懐を顕し給はざらん。民なくは君ひとり公たらんや、神なくは法独法たらんや。是を以て薬師(やくし)の十二神将(じふにじんじやう)、千手の廿八部衆、般若の十六善神、法花の十羅刹女、皆是神法を守り、法神に持たれたり。
S0906 康頼熊野詣附祝言事
誘給へ少将殿とて、精進潔斎して、熊野詣と准て岩殿へこそ参けれ。俊寛は詞計は云散たりけれども、法華を読己身を観ずる事もなく、日吉詣もせざりけり。唯歎臥たる計にて、聊も所作はなかりけり。少将と入道とは、岩殿に参拝して、熊野権現と思なぞらへて、証誠殿と申は本地は弥陀如来(みだによらい)、悲願至て深ければ、十悪五逆も捨給はず、垂迹権現は利生方便の霊神也、遠近尊卑にも恵を施し給へば、両人御前に跪き、南無日本第一、大霊験三所権現、和光(わくわう)の利益本誓に違ず、我等(われら)が至心の誠を照覧し給(たまひ)て、清盛(きよもり)入道の悪心(有朋上P295)を和げ、必都へ還し入給へと、祈誓しけるぞ哀なる。結願の日に成りけるに、康頼入道、社壇の御前にて、歌をうたひて、法楽に備けり。
  白露は月の光にて、黄土うるほす化あり、権現舟に棹さして、向の岸によする波 K054 
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と、未謡も果ざるに、三所権現となぞらへ祝ひ奉る、何も常葉の榊の葉に、冷風吹来動揺する事良久。入道是を拝しつゝ、感涙を押へて、一首の歌をぞ読ける。
  神風や祈る心の清ければ思ひの雲を吹やはらはん K055 
少将も泣々(なくなく)十五度の願満ぬとて、
  流よる硫黄が島のもしほ草いつか熊野に廻出べき K056 
さて少将立あがりて入道を七度まで拝給ふ。性照驚、是は何事にかと申ければ、入道殿(にふだうどの)のすゝめに依て、先達に奉(レ)憑、十五度の参詣已畢候ぬ、神明の御影向も厳重に御座(おはしま)せば、再都へ帰らん事疑なし、さらば併御恩なるべし、生々世々争か忘れ奉べきとて、声も不(レ)惜泣れけり。性照も己と我を拝み神として、効験を現し給へば、絞る計の袖也けり。其後康頼入道は小竹を切てくしとし、浦のはまゆふを御幣に挟み、蒐草と云草を四手に垂、清き砂を散供として、名句祭文を読上て、一時祝を申けり。(有朋上P296)
謹請再拝再拝、維当歳次、治承二年戊戌、月の並十二月、日数三百五十四箇日、八月廿八日、神已来、吉日良辰撰、掛忝日本第一大霊験熊野三所権現、并(ならびに)飛滝大薩■[*土+垂](だいさつた)、交量うつの弘前、信心大施主、羽林藤原成経、沙弥性照、致(二)清浄之誠(一)、抽(二)懇念之志(一)、謹以敬白、夫証誠大菩薩(だいぼさつ)者、済度苦海之教主、三身円満之覚王也、両所権現者、又或南方補堕落能化之主、入重玄門之大士、或東方
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浄瑠璃医王之尊、衆病悉除之如来(によらい)也、若一王子者、娑婆世界之本主(ほんしゆ)、施無畏者之大士、現(二)頂上之仏面(一)、満(二)衆生之所願(一)給へり。云(レ)彼云(レ)此、同出(二)法性真如之都(一)、従(レ)入(二)和尚同塵(どうぢん)之道(一)以来、神通自在而、誘(二)難化之衆生(一)、善巧方便而、成(二)無辺之利益(一)、依(レ)之(これによつて)自(二)上一人(一)、至(二)下万民(一)、朝結(二)浄水(一)係(レ)肩、洗(二)煩悩之垢(一)、夕向(二)深山(一)、運(二)歩近常楽之地(一)、峨々峯高、准(二)是於信徳之高(一)、分(レ)雲登、嶮々谷深、准(二)是於弘誓之深(一)、凌(レ)露下、爰不(レ)憑(二)利益之地(一)者、誰運(二)歩於嶮難之道(一)、不(レ)仰(二)権現之徳(一)者、何尽(二)志於遼遠之境(一)、然則証誠大権現、飛滝大薩■[*土+垂](さつた)、慈悲御眼並、牡鹿之御耳振立、知(二)見無二之丹精(一)、納(二)受専一之懇志(一)、現止(二)成経性照遠流之苦(一)、早返(二)付旧城之故郷(一)、当改(二)人間有為妄執之迷(一)、速令(レ)証(二)新成之妙理(一)而已、抑又十二所権現者、随類応現之願、本迹済度之誓、為(レ)導(二)有縁之衆生(一)救(二)無怙之群情(上)、捨(二)七宝荘厳之栖(一)、卜(二)居於三山十二之(有朋上P297)籬(一)、和(二)八万四千(はちまんしせん)之光(一)、同(二)形於六道三有之塵(一)、故現定業能転衆病悉除之誓約有(レ)憑、当来迎引接必得往生之本願無(レ)疑、是以貴賤列(二)礼拝之袖(一)、男女運(二)帰敬之歩(一)、漫々深海、洗(二)罪障之垢(一)、重々高峯、仰(二)懺悔之風(一)、調(二)戒律乗急之心(一)、重(二)柔和忍辱之衣(一)、捧(二)覚道之花(一)、動(二)神殿之床(一)、澄(二)信心之水(一)、湛(二)利生之池(一)、神明垂(二)納受(なふじゆ)(一)、我等(われら)成(二)所願(一)乎、仰願十二所権現、伏乞三所垂跡(すいしやく)、早並(二)利生之翅(一)、凌(二)左遷海中之波(一)、速施(二)和光(わくわう)之恵(一)、照(二)帰洛故郷之窓(一)、弟子不(レ)堪(二)愁歎(一)、神明知見証明、敬白再拝再拝と読上て、互に浄衣の袖をぞ絞ける。さらぬだに尾上の風は烈きに、暮行秋の山下風、痛身にしむ心地
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して、叢に鳴虫の音も、古里人を恋るかと、最物哀也けるに、峯吹嵐に誘れて、木葉乱て落散けり。其中に最怪き葉二飛来て、一は成経の前、一は性照が前にあり。康頼入道の前に落たる葉には、帰雁と云二文字を、虫食にせり。少将前の葉には、二と云ふ文字を虫食へり。二の木葉を取合て読連れば、帰雁二と有。二人取かはし/\、読ては、打うなづき/\して、奇や何なれば、帰雁二と有やらん、三人同流されて、誰一人漏べきやらん■(おぼつか)な、但信心参詣の志、権現争か御納受(ごなふじゆ)なからんなれば、神明の御計にて、我等(われら)二人は被(二)召返(一)て、執行など残し置るべきやらん、又何れもるべきぞやと、共に安心(有朋上P298)なし。係程(ほど)に又楢葉の広かりける、何くよりとも知ず飛来て、康頼入道の膝の上にぞ留りたる。取てみれば歌なり。
  ■振(ちはやふる)神に祈のしげければなどか都に帰らざるべき K057 
是を見給けるにこそ、二の帰雁と有けるは、成経性照二人とは思定て嬉けれ。二人互に目を見合て、責の事には、これを若夢にやあらんと語けるこそ哀なれ。今日を限の参詣也とて、少将も康頼も、御名残(おんなごり)を奉(レ)惜て、去夜は是に留て、通夜法施を奉(二)手向(一)。暁方に康頼歌をうたひ、其終りに足柄を歌て、礼奠にそなへ奉る。さてちと、まどろみたりける夢の中に、海上を見渡せば、沖の方より白帆係たる小船一艘浪に引れて渚による。中の紅の袴著たる女房三人舟より上りて、鼓を脇に挟みつゝ、拍子を打て、足柄に歌を合歌たり。
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  諸の仏の願よりも、千手の誓は頼もしや、枯たる木草も忽に、花咲実なるとこそ聞 K058 
と、三人声を一にして二返までこそ歌ひけれ。渚白女房達、舟にのらんとて汀(みぎは)の方に下けり。少将も康頼も名残(なごり)惜覚つゝ、遥(はるか)に是を見送れば、女房立帰つゝ、人々の都帰も近ければ名残(なごり)を慕て来れりとて、掻消様に水の中へぞ入にける。夢覚て後是を思へば、三所権現の御影向歟、西御前と申は、千手の垂跡(すいしやく)に御座(おはしま)せば、■振(ちはやふる)玉の簾を巻揚て、足柄(有朋上P299)の歌を感ぜさせ給けるにこそ、さらずは又廿八部衆の内に、竜神(りゆうじん)の守護して海中より来給へる歟、夢も現も憑しくて、二人は終に帰上にけり。俊寛此事を後悔して、独歎悲めども、甲斐ぞなき。さても二人の人々は、新く用べき浄衣もこり払もなければ、都より著ならしたる古き衣を濯て、新しがほに翫しつゝ、藁履はゞきもなかりければ、ひたすら跣にてさゝれけり。人も通はぬ海の耳、鳥だに音せぬ山のそはを、泣々(なくなく)打列御座(おはしまし)けん、心の内こそ糸惜けれ。手にたらひ身にこたへたる態とては、入江の塩にかくこり、沢辺の水にすゝぐ口、立ても居ても朝夕は、南無懺悔、至心懺悔、六根罪障と、宿罪を悔、寝ても覚ても心に心を誡て、三帰五戒(ごかい)を守つゝ、半日に不(レ)足道なれども、同所を往還々々、日数を経こそ哀なれ。峨々たる山をさす時は、高峯岩角蹈迷、塩風寒浪間の水何度足を濡らん、霞籠たるそばの道、柴折を注に過られけり。浦路浜路に赴てさびしき処をさす時は、和歌、吹上、玉津島、千里の浜と思なし、山陰(やまかげ)木影に懸つゝ、嶮所を過には、鹿瀬、蕪坂、重点、高原、滝尻と志し、石巌四面に高して、青苔上に厚くむし、万木
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枝を交つゝ、旧草道を閉塞ぐ。谷河渡る時もあり、高峯を伝折もあり。岩田川によそへては、煩悩の垢を洗、発心門に准ては、菩提の岸にや至るらん。近津井、湯河、音無の滝、飛滝権現(有朋上P300)に至まで、和光(わくわう)の誓を憑つゝ、いはのはざま苔の筵、杉の村立、常葉の松、神の恵の青榊、八千代を契る浜椿、心にかゝり目に及、さもと覚る処をば、窪津王子より、八十余所に御座王子々々と拝つゝ、榊幣挟れたる心の内こそ哀れなれ。奉幣御神楽なんどこそ、力無れば不(レ)叶と、王子々々の御前にて、馴子舞計をばつかまつらる。康頼は洛中無双の舞也けり。魍魎鬼神もとらけ、善神護法もめで給計なりければ、昔今の事思ひ出で、
  さまも心も替かな、落る涙は滝の水、妙法蓮華の池と成、弘誓舟に竿指て、沈む我等(われら)をのせたまへ K059 
と、舞澄して泣ければ、少将も諸共に、涙をぞ流しける。日数漸重て、参詣己に満ければ、殊に今日は神御名残(おんなごり)も惜、何もあらまほしくぞ思はれける。一心を凝し、抽(二)丹誠(一)、彼岩殿の前に、常木三本折立て、三所権現の御影向と礼拝重尊し奉る。其御前にて性照申けるは、三十三度の参詣已に結願しぬ、今日は暇給(たまひ)て黒目に下向し侍べければ、身の能施て、法楽に奉らん、我身の能には、今様こそ、第一と思侍れとて、神祇巻に二の内、
  仏の方便也ければ、神祇の威光たのもしや、扣ば必響あり、仰ば定て花ぞさく K060(有朋上P301)
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と、三返是を歌ひつゝ、先は証誠殿に手向奉り、二度三度は結早玉に奉るとて、心を澄して歌ければ、権現も岩殿もさこそ哀におぼしけめ、神明遠に非、只志の内にあり、熊野の山は、一千五百の遠峯、硫黄島は西海はるかの浪の末、信心浄くすみければ、和光(わくわう)の月も移けり。帰雁二とあれば赦免一定なるべし。秋此島に遷れて、春都へ帰べきにこそと、憑しく覚る、中にも三人の女房の、都還の名残(なごり)こそ思合て嬉けれ。
 < 陸奥国に有りける者、毎年参詣の願を発て、年久く参たりけるが、山川遠く隔て、日数を経国に下り著て、穴苦し、ゆゝしき大事也けりとて、休み臥たりけるに、権現夢の中に御託宣(ごたくせん)あり。
  道遠し程も遥(はるか)にへだたれり、思ひおこせよ我も忘れじ K061 と、深志権現争か御納受(ごなふじゆ)なからんと覚えたり。>
彼寛平法皇の御修業、花山院の那智籠、捨身の行とは申しながら、労しかりし御事也。況我等(われら)が身として、歎くにたらぬ物なれ共(ども)、理忘るゝ涙なれば、袖のしがらみ解けやらず、係るうき島の習にも、自慰便もやとて、少将は蜑の女に契を結び給(たまひ)て、御子一人出来給(たま)ひけり。後はいかゞ成りにけん、そも不(レ)知。夫婦の中の契は、うかりし宿世と云ながら、最哀なりし事共也。
二人の人々は、岩殿の御前を立ち、悦の道に成、切目の王子の水■(なぎの)葉を、(有朋上P302)稲荷の社の杉の枝に賜、重て黒目につくと思て、険山路を下りつゝ、遥(はるか)の浦路に出にけり。折節(をりふし)日陰のどかにして、海上遠く晴渡り、五体に汗流て、信心肝に銘ければ、権現金剛童子の御影向ある心地せり。遥(はるか)に塩せの方を見渡ば、
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漫々たる浪の上に、怪物ぞゆられける。少将見(レ)之、やゝ入道殿(にふだうどの)、一年我等(われら)が漕来侍りし、舟路の浪間に、ゆられ来るは何やらんと問れければ、あれは澪の浮州の浪にたゞよひ侍るにこそと申。次第に近付をめかれもせず見給へば、舟也けり。端島の者共が、硫黄取に越るかと思程(ほど)に、近く漕よせ、舟の中に云音をきけば、さしも恋き都の人の声なり。穴無慙、何なる者の罪せられて、又此島にはなたるらん、思歎は身にも限らざりけりと思ながら、疾おりよかし、都の事をも尋聞んと思けるに、実に近付ば、今更やつれたる有様(ありさま)を見えん事の恥しさに、二人は磯を立退、木陰に忍て見給けり。舟こぎよせ急ぎおり、人々の忍方へぞ進ける。僧都(そうづ)は余りにくたびれて、只夜も昼も悲の涙に沈み、神仏にも祈らず、熊野詣にも伴はず、岩のはざま苔の上に倒れ臥して居たりけるが、都の人の声を聞起あがれり。草木の葉を結集て著たりければ、■(おどろ)を戴ける蓑虫に似たり。頭は白髪長く生のびて、銀の針を研立たる様也。見もうたてく恐し。二人の居たりける処へ進来れり。六波羅の使近付寄て、是は丹(有朋上P303)左衛門尉基安と申者に侍、六波羅殿(ろくはらどの)より赦免の御教書候、丹波少将殿(たんばのせうしやうどの)に進上せんと云。人々余(あまり)の嬉さに、只夢の心地ぞせられける。成経是に侍りとて出合れたり。基安立文二通取出て進る。一通は平宰相(へいざいしやう)の私の消息(せうそく)也。少将ばかり見(レ)之。一通は太政(だいじやう)入道(にふだう)の免状也。判官入道披(レ)之読に云、
依(二)中宮御産御祈祷(ごきたう)(一)、被(レ)行(二)非常大赦(一)之内、薩摩方硫黄島流人丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)、并(ならびに)平判官康頼法師可(二)帰洛(一)之由、御気色(おんきしよく)所(レ)候也、仍執達如(レ)件
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  七月三日とはありけれども、俊寛僧都(そうづ)といふ四の文字こそなかりけれ。執行は御教書とりあげて、ひろげつ巻つ、巻つ披つ、千度百度しけれども、かゝねばなじかは有るべきなれば、やがて伏倒、絶入けるこそ無慙なれ。良有起あがりては、血の涙をぞ流しける。血の涙と申は、涙くだりて声なき血と云といへり。言は出さざりけれ共、落る涙は泉の如し。理や争かなからざらん。三人同罪にて、同島へ流されたるに、死なば一所に死に、還らば同く帰べきに、二人は召かへされて僧都(そうづ)一人留るべしとは思やはよりける、誠に悲くぞ思けん、遥(はるか)に久有て宣(のたまひ)けるは、年比日比は、三人互に相伴、昔今の物語(ものがたり)をもして慰つるすら、猶(有朋上P304)忍かねたりき。今人々に打捨られ奉なば、一日片時いかにして堪過すべき。但三人同罪とて、同島に遷されたる者が、二人は免されて俊寛一人留めらるゝ、誠共覚えず、さらでは又別の咎もなき物をや、是は一定執筆の誤と覚たり。若又平家の思召(おぼしめし)忘給へるかや、執申者の無りけるかや、余も苦しからじ、唯各相具して登給へ、若御免されもなき物を具足し上たりとて御とがめあらば、又も此島へ被(二)流返(一)よかし、其は怨にもあらじ、今一度古郷に帰上、恋き物共をも見ならば、積る妄念をも晴ぞかしと口説けり。少将も判官入道も被(レ)申けるは、さこそ思給らめなれども、御教書に漏たる人を具足せんも恐あり、同罪とて同所に被(レ)流ぬれば、咎の軽重あらじかし、中宮の御産に取紛れて、執筆の誤にてもあるらん、又平家の思忘たる事にも有らん、今は我等(われら)道広き身と成ぬ、僧都(そうづ)の赦免に漏て
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歎悲み給し事不便也、被(二)召返(一)たらば、目出(めでた)き、御祈祷(ごきたう)たるべき由、内外に付て申さば、などか御計なからん、其までの命をこそ神にも仏にも祈り申されめ、更に不(レ)可(レ)有(二)疎略(一)なんど様々に誘慰けり。僧都(そうづ)は、日来の歎は思へば物の数ならず、古郷の恋しき事も、此島の悲き事も、三人語て泣つ笑つすればこそ、慰便とも成りつれ、其猶忍かねては憂音をのみこそ泣つるに、打捨て上給なん跡のつれづれ、兼て思にいかゞせ(有朋上P305)ん、さて三年の契絶はてて、独留て帰上り給はんずるにや、穴名残(なごり)惜や/\とて、二人が袂(たもと)をひかへつゝ、声も惜ずをめきけり。理や旅行一匹の雨に、一樹の下に休み、往還上下の人、一河の流を渡れども、過別るれば名残(なごり)惜く、風月詩歌の一旦の友、管絃遊宴の片時の語ひ、立去折は忍難くこそ覚ゆれ、況やうき島の有様(ありさま)とは云ながら、さすが三年の名残(なごり)なれば、今を限の別也、いかに悲く思らんと、打量りては無慙なれども、縦恋路の迷人も、我身に増るものやあると云けんためしなれば、執行をば打捨て、少将も判官入道も急ぎけるこそ悲けれ。判官入道は本尊持経を形見に留む。少将は夜の衾を残し置、風よく侍とて水手等とく/\と進ければ、僧都(そうづ)に暇乞船にのり、纜を解て漕出けり。責の事に、僧都(そうづ)は、漕行舟の舷に取付て、一町余出たれども、満塩口に入ければ、さすがに命や惜かりけん、渚に帰て倒れ臥、足ずりをしてをめきけり。稚子の母に慕て泣かなしむが如也。彼喚叫音の、遥々(はるばる)と波間を分て聞えければ、誠にさこそ思らめと、少将も康頼も、涙にくれて、漕行空も、見えざりけり。僧都(そうづ)は千尋の底に沈まばやとは思けれ共、此人々の都に帰上て、不便の様をも
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申て、などか御免も無るべきと、宥云ける憑なきことのはを憑て、それまでの命ぞ惜かりける。漕行船の癖なれば、浪に隠れて跡形はなけれ(有朋上P306)挿絵(有朋上P307)挿絵(有朋上P308)共、責の別の悲さに、遥々(はるばる)沖を見送て、跡なき舟を慕けり。昔大伴の狭手彦が遣唐使にさゝれて、肥前国松浦方より舟にのり、漕出たりけるに、夫の別を慕つゝ、松浦さよ姫が、領巾麾の嶺に上りて、唐舟を招つゝ、悶焦けんも、又角やと覚て哀也。日も既暮けれ共、僧都(そうづ)はあやしの伏戸へも帰ず、天に仰ぎ地に臥、首を扣き胸を打、喚叫ければ、五体より血の汗流て、身は紅にぞ成にける。只磯にひれふし、浪にうたれ露にしをれて、虫と共に泣明しけり。昔天竺に、早利即利と云し者、継母に悪れて、海岸山に捨られつゝ、遥(はるか)の島に二人居て、泣悲けん有様(ありさま)も、角やとぞ覚ゆる。彼は兄弟二人也、猶慰事も有けん、是は俊覚一人也、さこそは悲く思けめ。さても庵に帰りたれ共、友なき宿を守て、事問者も無れば、昨日までは三人同く歎きしに、今日は一人留りて、いとゞ思の深なれば、角ぞ思つゞけける。
  見せばやな我を思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を K062 
少将は九月中旬に島を出て、心は強に急けれども、海路の習也ければ、波風荒くして日数を過、同廿日余にぞ九国の地へは著給ふ。肥前国鹿瀬庄は、私には味木庄とも云ひけり。件の所は舅平宰相(へいざいしやう)の知行也。爰(ここ)に暫く逗留して、日来のつかれをもいたはり給へ(有朋上P309)り。湯沐髪すゝぎなどせられければ、冬も深く成て、年も既(すで)に暮、治承も三年に成りにけり。(有朋上P310)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十

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奴巻 第十
S1001 中宮御産事
治承二年十一月十二日寅時より、中宮御産の気御座と■(ののしり)けり。去月廿七日より、時々其御気御座(おはしまし)けれ共、取立たる御事はなかりつるに、今は隙なく取頻らせ給へども、御産ならず。二位殿(にゐどの)心苦く思給(たまひ)て、一条堀川(ほりかは)戻橋にて、橋より東の爪に車を立させ給(たまひ)て、橋占をぞ問給ふ。十四五計の禿なる童部(わらんべ)の十二人、西より東へ向て走けるが、手を扣同音に、榻は何榻国王榻、八重の塩路の波の寄榻と、四五返うたひて橋を渡、東を差て飛が如して失にけり。二位殿(にゐどの)帰給(たまひ)て、せうと平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)に角と被(レ)仰ければ、波のよせ榻こそ心に候はねども、国王榻と侍れば、王子にて御座(おはしまし)候べし。目出(めでた)き御占にこそ候へとぞ合たる。八歳にて壇浦の海に沈み給(たまひ)てこそ、八重の塩路の波の寄榻も思ひしられ給(たま)ひけれ。
 < 一条戻橋と云は、昔安部晴明が天文の淵源を極て、十二神将(じふにじんじやう)を仕にけるが、其妻職神の貌に畏ければ、彼十二神を橋の下に咒し置て、用事の時は召仕けり。是にて吉凶の橋占を尋問ば、必ず職神(有朋上P312)人の口に移りて善悪を示すと申す。されば十二人の童部(わらんべ)とは、十二神将(じふにじんじやう)の化現なるべし。>
御産未(レ)成とて、平家の一門は不(レ)及(レ)申、関白(くわんばく)以下公卿殿上人(てんじやうびと)馳参給けり。法皇も西面の北の門より御幸あり。御験者には、房覚昌雲、両僧正(そうじやう)、俊堯法印、豪禅、実全両僧都(そうづ)なり。其上法皇も内々は御祈(おんいのり)有けり。
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内大臣(ないだいじん)は例の吉事にも悪事にも強に騒給事御座ざりければ、少し日闌て公達引具し参給へり。最のどろかにぞ見え給ける。権亮少将維盛、左中将清経、越前侍従資盛など、遣列給へり。御馬十二匹に四手付て被(二)引立(一)たり。神馬の料と見えたり。砂金千両、南鐐百、御剣七振、広蓋に入て、御衣二十領、相具せられたり。誠にきら/\しくぞ見えける。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、重科の者、五十三人被(二)寛宥(一)、其例とて、今度七十三人宥されけり。内裏より御使隙なし。右中将通親、左中将泰通、右少将隆房、通資等の朝臣、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)経仲、蔵人所々衆、滝口等、各二三返づつ馳違馳違参けり。承暦三年に皇子御誕生(ごたんじやう)の時には、殿上人(てんじやうびと)寮の御馬に召けり。今度は車にてぞ被(レ)参ける。八幡、平野、日吉社へ可(レ)有(二)行啓(一)之由、御願(ごぐわん)あり。全玄法印是を啓白す。凡神社に被(レ)立(二)御願(ごぐわん)(一)事は、石清水、賀茂社より始て、新西宮(にしのみや)、東光寺に至るまで四十一箇所、仏寺には、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)より、常光院、円明院まで、七十四箇処の御誦経(有朋上P313)あり。御神馬を引るゝ事、大神宮、石清水より、厳島までに八社と聞ゆ。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)御馬を進せらる。父子の儀なれば、可(レ)然、寛弘に上東門院御産の時、御堂関白(みだうくわんばく)の御馬を進られし、其例に相叶へり。五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の馬二匹進られたりし、志の至りとは云ながら、徳の余りか、不(レ)可(レ)然とぞ人々傾申ける。又仁和寺(にんわじ)守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)、孔雀経の御修法、天台座主(てんだいざす)寛快法親王(ほふしんわう)、七仏薬師(しちぶつやくし)の法、寺長吏円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)、金剛童子法、此外諸寺諸山の、名徳知法の仁に仰て、大法秘法数を尽されけり。五大虚空蔵、六観音、一字金輪、五壇法、六字訶梨帝、八字文殊普賢
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延命大熾盛光等に至るまで残所なし。仏師法印召れて、等身の七仏薬師(しちぶつやくし)、并(ならびに)五大尊の像造立せらる。御誦経物には御剣御衣、諸寺諸社へ被(レ)進。御使は宮の侍の中に有官の輩勤(レ)之。平文の狩衣に帯剣したる者共の、御剣御衣を始として、色々の御誦経物を捧て、東の対より南庭を渡て、中門を持つれたる有様(ありさま)は、ゆゝしき見物にてぞ有ける。二位殿(にゐどの)と入道殿(にふだうどの)とは、つや/\物も覚ずげにて、人の物申しけれ共、あきれ給(たまひ)て、只兎(と)も角(かく)も能様にとのみ宣。さり共鎧打著て馬にのり、敵の陣に押寄て、軍のおきてし給はんには、角はよも臆し給はじとぞ、上下思申ける。新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)、法性寺執行俊寛、西光(さいくわう)法師(ほふし)等(ら)が霊共、御物付に移て、様々に申事ども有て、御産も不(レ)成と申(有朋上P314)ければ、入道二位殿(にゐどの)共に弥魂を消、心を砕給へり。係ければ、様々御願(ごぐわん)を立られけれ共、其験なくして、遥(はるか)に時刻押移ければ、御験者面々に増伽の句共あげて、我(わが)寺々の三宝年来所持の本尊責伏奉ければ、振鈴(しんれい)の声大内に満、護摩の煙虚空にあがる。いかなる悪霊邪神も、争か障碍を成べきとぞ見えし。諸僧の心中推量られて貴かりけるに、猶其効見えざりけり。法皇御几帳近く居寄らせ御座(おはしま)して、千手経をぞあそばしける。余(あまり)の忝(かたじけな)さに、身毛竪涙を流す人も有けり。躍り狂ふ御よりましの縛共も、少し打しめりたり。勅定には、何なる御物気也とも、老法師かくて侍らんには争か可(レ)奉(二)近付(一)、我聞阿遮一睨の窓の前には、鬼神手を束て降を乞、多齢三啜の床上には、魔軍頭を振て恐を成と、況観音無畏の利益をや、千手神咒の効験をや。而今顕るゝ処の怨霊と云は、成親俊寛西光等也、皆朕が依(二)朝恩(一)官位俸禄に預し
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輩に非や。縦報謝の心こそ存ぜざらめ、豈障碍を成に及ばんや。其事不(レ)可(レ)然、速に罷退き侍れと被(レ)仰、女人臨難生産時邪魔遮障苦難忍至心称誦大悲咒鬼神退散安楽生と貴くあそばして、御念珠さらさらと押揉せ御座(おはしまし)ければ、御産安々と成せ給にけり。頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡朝臣、其時は中宮亮にて御座(おはしまし)けるが、簾中より出給(たまひ)て、御産平安皇子御誕生(ごたんじやう)と高らかに申されたりければ、入道殿(にふだうどの)二位殿(にゐどの)は、余(あまり)の(有朋上P315)嬉さに声を上てぞ泣れける。忌々しくぞ聞えし。関白殿(くわんばくどの)以下、太政大臣(だいじやうだいじん)已下堂上堂下の人々、一同にあと宣合れける声のどよみにて有ければ、門外まで聞えてけしからずぞ覚えし。小松大臣は蒔絵の細太刀鴎尻に佩給、金銭九十九文御枕の上に置て、天を以て父とし地を以て母とすと奉(レ)祈けり。即御臍の緒を奉(レ)切て囲碁手に銭被(レ)出たり。弁靱負佐是をうつ、是又例ある事にや。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御妹、あの御方懐あげ奉る。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の、北方師典侍殿、御乳付に参給へり。此女房は中山中納言顕房卿の女なり。法皇は新熊野へ御参詣有べきにて、兼て御車を門外に立させ給(たま)ひ、急ぎ御出有けり。即新熊野にて移花進せさせ給けり。入道殿(にふだうどの)より御文有とて捧(レ)之、披て叡覧あり、沙金千両、富士の綿千両の送文なり。御布施と覚たり。最便なくぞ有ける。法皇は彼送文を後さまへ投捨て、鳴呼験者しても、身一はすぐべかりけりと仰有けり。何者(なにもの)か立たりけん、新熊野にて法皇の御庵室の前に、札に書て、御験者の請用振は何日にて侍べきぞ、化行せしとぞ立たりける。最をかしかりけり。
代々の女御后の御産有しかども、太政法皇の御験者昔より未無(二)其例(一)、末代にも有難。当代の后宮に御座(おはしま)せ
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ば、父子の御心も浅からざりける上、太政(だいじやう)入道(にふだう)を重思召(おぼしめし)ける故也。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の女院渡せ御座(おはしま)さんには、角はよもあらじと人々(有朋上P316)申合れけり。御軽々敷御事をば免し進せられざりけるにや、陰陽頭助以下多参会して思々に占申けり。亥子の時と申者もあり、丑寅と占者もあり、又姫宮と勘申者も有けるに、陰陽頭安部泰親ばかりぞ御産唯今の時、皇子にて渡せ給ふべしと申ける。其詞の未(レ)終けるに、皇子御誕生(ごたんじやう)、指神子と申も理也。御悦申に被(レ)参ける人々には、
  当時関白(くわんばく)松殿基房 太政大臣(だいじやうだいじん)師長 大炊御門左大臣経宗 九条右大臣兼実 小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり) 徳大寺(とくだいじの)左大将実定 同弟左宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実家 源大納言(だいなごん)定房 三条大納言(だいなごん)実房 五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱(くにつな) 藤大納言(だいなごん)実国 中御門中納言宗家 按察使資賢 花山院中納言兼雅 左衛門督時忠 藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)資長 別当春宮(とうぐうの)大夫忠親(ただちか) 左兵衛督成範 右兵衛督(うひやうゑのかみ)頼盛(よりもり) 源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼 権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)実綱 皇太后宮(くわうたいごうぐうの)大夫朝方 門脇(かどわきの)平宰相(へいざいしやう)教盛 六角宰相家通 左宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実宗 堀河宰相頼定 新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)定範 左京大夫脩範 太宰大弐親信 左三位中将知盛 新三位中将実清 左大弁(さだいべん)俊綱(としつな) 右大弁長方
已上三十三人也。右大弁の外は直衣にて参給へり。不参の人々は、花山院前太政大臣(だいじやうだいじん)忠雅、前大納言(だいなごん)実長、両人は近年出仕なかりければ、唯布衣を著して太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所へ向はる。大宮大納言(だいなごん)隆季の第一の娘は、法性寺殿御子左三位中将兼房の室にて御座(おはしま)しけるが、去(有朋上P317)七日難産せられたりければ、隆季出仕し給はず、三位中将も出仕なし、不吉と存ぜられけるにや。又前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛は、去七月に室家
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逝去に依て無(二)出仕(一)。彼所労の時、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将両官をば辞申されたりけり。前治部卿光隆、近衛殿(このゑどの)御子息(ごしそく)右二位中将基通、宮内卿永範、七条修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆、所労、藤三位基家、大宮権大納言(ごんだいなごん)経盛所労、新三位隆輔、松殿御子息(ごしそく)、三位中将隆忠不参とぞ聞えし。
御修法結願して勧賞被(レ)行。仁和寺(にんわじ)の宮には、東寺を可(レ)被(二)修造(一)。法印覚成を以て権大僧都(ごんのだいそうづ)に被(レ)任。後七日の御修法、大元の法灌頂(くわんぢやう)等(ら)、可(レ)被(二)興行(一)と、座主宮には、以(二)法眼円良(一)、被(レ)叙(二)法印(一)。此両事、蔵人頭(くらんどのとう)皇太后宮(くわうたいごうぐう)権大夫光明朝臣奉て、被(二)仰下(一)けり。座主宮は、二品并(ならびに)牛車を申させ給けれ共無(二)御免(一)。仁和寺(にんわじ)宮聞召(きこしめし)て、御憤(おんいきどほり)深勧賞蒙しと申させ給けるとかや。
右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)の北方御帯進せ給たりしかば、御乳人と成給ふべかりしか共、七月に失給にければ、左衛門督時忠卿(ときただのきやう)の北方、御乳人に成給にけり。本は建春門院(けんしゆんもんゐん)に候はれけるが、皇子受禅の後、内侍典侍に成給(たまひ)て、師典侍殿とぞ申ける。抑此御産の時、様々の事共有けり。目出かりし事は、太上法皇の御加持、浅猿(あさまし)かりし事は太政(だいじやう)入道(にふだう)のあきれ様、忌々しかりし事は、入道と二位殿(にゐどの)と泣給へる事、優也し事は、小松大臣の有様(ありさま)、本意なかりし事は、右大将(うだいしやう)の篭居、あやしかり(有朋上P318)し事は、甑を北の御壺に落て、取上て、又南へ落直たりし事、皇子御誕生(ごたんじやう)には、南へこそ落すに、聞誤たりけるにや、希代の勝事とぞ私語(ささやき)ける。をかしかりし事は、陰陽頭安部時晴が、千度の御祓勤て大繖持て参けるが、左の履を蹈ぬかれて、其をとらん/\とする程(ほど)に、冠をさへ突落されたりけれ共、余(あまり)の怱々に周章(あわて)つゝ其をも知ら
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ず、花やかに装束したる者が、もとゞりはなちて、さばかりの御前へ、圧口に気色して出たりける事、さしもの御大事(おんだいじ)の中に、堂上堂下女方男方、腸を断けり。不(レ)堪者は閑処に逃入人もあり。建礼門院内へ参せ給(たまひ)て后に立せ給にければ、あはれ皇子御誕生(ごたんじやう)あれかし、位に即進せて、外祖父とて、弥世を手に杷らんと思心御座(おはしまし)ければ、二位殿(にゐどの)日吉社に立願を百日祈申されけれ共、其験なかりければ、入道は浄海が祈申さんに、などか不(レ)賜とて、本より奉(レ)憑事なれば、厳島へ月詣を始て、詣給けるに、いつしか二箇月に御懐妊の気御座(おはしまし)て、皇子御誕生(ごたんじやう)あり、掲焉也し効験也。
S1002 頼豪(らいがう)祈(二)出王子(一)事
白川院【*白河院】(しらかはのゐん)御位の時、后腹皇子渡せ給はざりければ、主上御心元なく思召(おぼしめし)、貴僧と聞召けれ(有朋上P319)ば、三井寺(みゐでら)の実相房の頼豪(らいがう)阿闍梨(あじやり)を召れて、汝皇子祈出してんや、効験あらば勧賞は乞に依べしと被(二)仰含(一)。頼豪(らいがう)畏て申す、年来深望侍、勅定無(二)相違(一)は、皇子の御誕生(ごたんじやう)勿論の御事也と奏す。主上大に悦思召(おぼしめし)て、勧賞乞に依べしと、重て勅約あり。頼豪(らいがう)悦で本寺に帰、年来所持の本尊の御前にして、肝胆を砕て祈申ける程(ほど)に、中宮たゞならぬ御事と承て、弥皇子御誕生(ごたんじやう)と、黒煙を立て祈申。月満御座(おはしま)して、承保元年十二月十六日(じふろくにち)、最安らかに皇子御誕生(ごたんじやう)あり。主上斜(なのめ)ならず御感有て、頼豪(らいがう)を召て、効験神妙(しんべう)神妙(しんべう)、勧賞何事をか可(二)申請(一)と御気色(おんきしよく)あり。頼豪(らいがう)は園城寺(をんじやうじ)に戒壇を立、寺門年来の遂(二)本意(一)とぞ奏しける。其時主上、こは思食(おぼしめし)よらぬ御事也、只一度に僧都(そうづ)僧正(そうじやう)にも成、寺領坊領をも申さんずるにやとこそおぼし召れつれ、戒壇の事は、努々御存知なかりきと、勅定有ければ、頼豪(らいがう)重て凡卑の愚僧、名聞
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の高位も所望なく、此事を申うけん為に、微力を励、肝胆を砕て祈出進せり。綸言をば汗に喩、出て再帰事なし、勧賞は乞に依べきよし、勅約今更改べからず候也。寺門の宿訴と云、頼豪(らいがう)が本意と云、所望たゞ此事に有と奏申。主上の仰には、凡皇子誕生(たんじやう)有て、祚を令(レ)継事も、海内無為の御志也。今汝が所望を達せば、山門憤を成て、世上静ならじ。両門の合戦出来せば、天台の仏法(ぶつぽふ)忽(たちまち)に亡ぬべし、何ぞ戒壇の一事を(有朋上P320)以て、三院の牢籠を顧ざらん。其上三井の戒壇においては、上代既達せず、後代争か成せんと仰下されければ、頼豪(らいがう)は、百千万却の古より、欣求(ごんぐ)浄土(じやうど)の望を達せずとて、二千(にせん)余年の今、厭離穢土の思を可(レ)断、争前仏の教化に依(レ)不(レ)預、即可(レ)漏は、後仏の引導に、現在未来の、一切衆生出離生死の期を失ふべし。此条専背(二)聖教(一)、其理豈叶(二)仏意(一)哉。就(レ)中(なかんづく)我門徒(もんと)の為(レ)体、乍(レ)耀(二)能依之戒光於胸中(一)、不(レ)被(レ)許(二)所依之戒壇砌下(一)、悲哉毎(レ)迎(二)登壇受戒之期(一)、必臨(二)異門他宗之境(一)、恨哉乍(レ)為(二)大乗円頓之器(一)、受(二)小乗偏漸之戒(一)、愁吟之至切也。門人而誰不(二)傷嗟(一)、悠々たる生死之長夜に、挑(二)戒光(一)而照(二)闇冥(一)、茫々たる苦海之嶮浪に、乗(二)木刃(一)而至(二)彼岸(一)。只為(レ)遁(二)三界濁穢苦域所住(一)、欲(レ)生(二)九品浄土(じやうど)常楽の安養(一)也。此条若存(二)矯飾(一)者、吾国は神国也、神明神道宣(レ)糾(レ)非、吾法は仏法(ぶつぽふ)也、仏界仏陀須(レ)与(レ)罰、現世には即不(レ)過(二)三七日(一)、速に災難災殃を招、当来には必可(下)限(二)万却千却(一)永沈(中)八寒(はちかん)八熱(はちねつ)(上)、是仏法(ぶつぽふ)興隆の為なり、是衆生利益の故也など、種々に申し上けれ共、遂に御許なかりければ、頼豪(らいがう)大悪心を起し、眼の色替、今は思死とて、双眼より涙をはら/\とこぼし、御前を立様に、頼豪(らいがう)
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思死に死失なば、皇子は我進たる物なれば、即可(レ)奉(二)取返(一)とて、三井寺(みゐでら)へ罷帰る。即飲食を止めて、道場に入、行死に死て、皇子を取死し奉らんとぞ聞えける。此事(有朋上P321)主上聞召(きこしめし)て、宸襟不(レ)安、朝政も御倦までの御歎也ければ、江中納言匡房卿の、其時は美作(みまさかの)守(かみ)にて御座(おはしまし)けるを召て、皇子誕生(たんじやう)の勧賞、頼豪(らいがう)三井寺(みゐでら)に戒壇建立(こんりふ)の所望有つるを、御免なしとて、悪心を起し、我身干死にして、皇子をも可(レ)奉(二)取返(一)由聞召、汝は、師壇の契深し、罷向て誘宥よと仰ければ、匡房卿装束を改ず、束帯を正して、内裏よりやがて三井寺(みゐでら)へ馳行て、彼坊に罷向て見ば、蔀遣戸も立下、纔(わづか)に持仏堂計に人ありがほ也。明障子も護摩の煙に薫て、何となく貴く身毛竪てぞ覚えける。美作(みまさかの)守(かみ)持仏堂の大床にたゝずみて、匡房参侍る由申けれ共、暫は音もせず。頼豪(らいがう)良久有て、荒らかに障子をあけて出給へり。目はくぼくぼと落入、白髪は永々と生延て、銀の針を琢立たる如し。手足の爪も切らず、身の垢も積りて、顔の正体もなし。天狗とかやも角やと覚て、物おそろし。頼豪(らいがう)申けるは、やゝ御辺(ごへん)は、宣旨の御使にこれへは入給へるな、奉(二)出合(一)事は不(二)思寄(一)存つれ共、年来師壇の契不(レ)浅、最後の見参と存て、只今(ただいま)奉(レ)見也。有難志と思給べし。さて天子は不(二)虚言(一)、綸言如(レ)汗、出再不(レ)帰とこそ承、皇子祈出して進よ、勧賞は可(レ)依(レ)乞と、度度蒙(二)勅定(一)し間、過去今生の所修の功徳を回向して、肝胆を砕て精誠を尽祈生進ぬ。其に戒壇建立(こんりふ)を不(レ)被(レ)免条、生々世々(しやうじやうせせ)の遺恨、単に此事にあり。所詮皇子に於ては奉(二)(有朋上P322)取返(一)侍べし。今生の見参これ最後也とて、持仏堂に帰入て、障子を丁と立て、其後は音もせず、匡房卿
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不(レ)及(レ)力、帰参してしか/゛\と奏聞す。主上ゆゝしく歎思召(おぼしめ)しければ、当時の関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)師実卿、御痛敷思ひ進て、暫く頼豪(らいがう)が怨を被(レ)宥程、戒壇を可(レ)被(レ)許歟と被(レ)申ければ、叡慮も思食(おぼしめし)煩せ給けるに、御夢想(ごむさう)あり。賢聖の障子のあなたに、赤衣の装束したる老翁あり。左の脇に弓を挟て、大なる鏑矢をさらり/\と爪よると聞召ければ、驚思召(おぼしめし)て誰人ぞと御尋(おんたづね)有けるに、我は是比叡山(ひえいさん)の西の麓に侍る老翁也。世には赤山とぞ申侍る。三井寺(みゐでら)に戒壇を可(レ)立由、執奏の臣あり。蒙(二)御免(一)て年来もてる鏑矢を放んと存て、矢を爪よる也と答と思召(おぼしめし)て、御夢覚させ給たりけれ共、猶爪よる声は聞えさせ給ければ、無(二)御免(一)けり。
S1003 赤山大明神(だいみやうじん)事
 < 赤山大明神(だいみやうじん)と申は、慈覚大師渡唐時、清涼山の引声の念仏を伝給しに、此念仏を為(二)守護(一)とて、大師に成(二)芳契(一)給(たま)ひ、忽異朝の雲を出て、正に叡山(えいさん)の月に住給ふ。されば大師帰朝の時、悪風に逢て其舟あやふかりければ、本山の三宝を念給けるに、不動毘沙門は(有朋上P323)艫舳に現給へり。此明神は又赤衣に白羽の矢負つゝ、舟の上に現じ給つゝ、大師を被(二)守護(一)けり。山王は東の麓を守給へ、我は西の麓に侍らん、閑なる所を好む也とぞ被(レ)仰ける。赤山とは、震旦の山の名也、彼の山に住神なれば、赤山明神(みやうじん)と申にや、本地地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)なり、太山府君とぞ申す。>
頼豪(らいがう)は戒壇勅許なければ、終に持仏堂にして干死に失にけり。さしもはやと思召(おぼしめし)けるに、王子常にわづらはせ給ければ、頼豪(らいがう)が怨霊を宥んとて、近江国、野州、栗太、両郡に、六十町の田代を実相坊領に寄附せらる。智証の門徒(もんと)一乗寺(いちじようじ)、三室戸など云ふ貴僧に仰て、御祈(おんいのり)隙なかりけれ共、遂に承暦元年八月
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六日御歳四歳にて隠れさせ給にけり。敦文親王とは此皇子の御事也。皇子隠れ給ぬれば、主上の御歎不(レ)斜(なのめならず)。
S1004 良真祈(二)出王子(一)事
さて可(二)黙止(一)にあらざれば、西京座主大僧正(だいそうじやう)良真、其時は円融坊の大僧都(だいそうづ)にて、山門には無(二)止事(一)貴人にて御座(おはしまし)けるを被(レ)召、山門の叡信不(レ)浅、衆徒の憤兼て依(二)思召(おぼしめすに)(一)而、寺門の戒壇を免されぬ故、頼豪(らいがう)成(レ)怨、奉(レ)失(二)皇子(一)、早山門に継体の君を祈出し奉なんやと被(二)仰下(一)けり。僧都(そうづ)被(レ)申けるは、九条右丞相慈恵僧正(そうじやう)に依(レ)被(二)契申(一)こそ、冷泉院の御(有朋上P324)誕生(ごたんじやう)は有しか。代の末に臨と云とも、山門効験凌遅すべからず、なじかは御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)し御座ざるべきとて、本山に還上て、山王三聖王子眷属、満山三宝護法聖衆に被(二)祈申(一)しかば、中宮賢子、承暦二年の冬の比より、たゞならぬ御事也けるが、同三年七月九日、皇子御誕生(ごたんじやう)あり。応徳三年十一月二十六日(にじふろくにち)に御年八歳にて東宮(とうぐう)立の御事有て、同(おなじき)十二月十九日御即位、寛治三年正月五日御年十一歳にて御元服(ごげんぶく)、御在位二十二年と申、嘉承二年七月十九日に、御年二十九にて隠れさせ給ぬ、堀河院と申は是也。御母は京極の大殿の御女(おんむすめ)と申、誠には六条右大臣源顕房の御女(おんむすめ)とかや。山門の霊験も掲焉也し事也。
S1005 頼豪(らいがう)成(レ)鼠事
頼豪(らいがう)はからき骨を砕て、皇子をば祈出し進せたれども、戒壇は御免なし、大悪心を起して、旱死しけるぞ無慙なる。去(さる)程(ほど)に山門又皇子を奉(二)祈出(一)、御位に即せ給たりければ、頼豪(らいがう)が死霊もいとゞ成(二)怨霊(一)、山門と云ふ処があればこそ、我(わが)寺(てら)に戒壇をば免されね、されば山門の仏法(ぶつぽふ)を亡さんと思て、大鼠と成、谷々坊々充満て、聖教をぞかぶり食ける。是は頼豪(らいがう)が怨霊也とて、上下是彼にて打殺踏殺けれ共、弥鼠
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多出来て、夥なんどは云計なし。此(有朋上P325)事只事に非ず、可(レ)宥(二)怨霊(一)とて、鼠の宝倉を造て神と奉(レ)祝、さてこそ鼠も鎮けれ。円宗の教を学して、可(二)成仏(じやうぶつ)(一)頼豪(らいがう)が、由なき戒壇だてゆゑに、鼠となるこそをかしけれ。
S1006 守屋成(二)啄木鳥(一)事
 < 昔聖徳太子(しやうとくたいし)の御時、守屋は仏法(ぶつぽふ)を背、太子は興(レ)之給。互に軍を起しかども、守屋遂被(レ)討けり。太子仏法(ぶつぽふ)最初の天王寺を建立(こんりふ)し給たりけるに、守屋が怨霊彼伽藍(がらん)を滅さんが為に、数千万羽の啄木鳥と成て、堂舎をつゝき亡さんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給けり。されば今の世までも、天王寺には啄木鳥の来る事なしといへり。昔も今も怨霊はおそろしき事也。頼豪(らいがう)鼠とならば、猫と成て降伏する人もなかりけるやらん、神と祝も覚束(おぼつか)なし。>
S1007 三井寺(みゐでら)戒壇不(レ)許事
抑伝教智証は、師弟の契、延暦(えんりやく)園城(をんじやう)は一味の仏法(ぶつぽふ)也。両寺(りやうじ)戒壇何の妨か有るべきなれ共、冥慮より起に依て、三井の訴訟雖(レ)及(二)度々(一)、代々聖主更に無(二)勅許(一)。御朱雀院御宇(ぎよう)、長暦三年(有朋上P326)に、園城寺(をんじやうじ)の衆徒等(しゆとら)、頻(しきり)に訴申ければ、主上もかた/゛\思召(おぼしめし)煩せ給(たま)ひて、御宸筆(ごしんぴつ)の祭文を遊して、当時の貫首教円座主に登山を進め、七箇日有(二)御祈誓(一)云、敬白、叡山(えいさん)三宝根本中堂(こんぼんちゆうだう)護法山王四所八王子(はちわうじ)、昔延暦(えんりやく)聖代、始祖大師、建(二)立我山(一)以来、年記遥矣、霊験炳然、智証門徒(もんと)累(二)月白(一)、別建(二)戒壇於三井之道場(一)、請(二)得度於一門之師跡(一)、便是郡国之重事、法宇之要害也、窃見(二)旧典(一)、前聖猶難(レ)遂(レ)思、新義末代豈易乎、仍以座主大僧都(だいそうづ)法眼和尚(くわしやう)位教円、自(二)今日(一)七箇日、令(レ)啓(二)白満山三宝護法山王(一)、戒壇分而可(レ)無(二)国家之危(一)者、悟(二)其指帰(一)、戒壇立而可(レ)有(二)王者之懼(一)者、施(二)其示現(一)、詫(二)自身(一)詫(二)他人(一)、不(レ)過(二)一七祈祷之日限(一)、必彰(二)
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遠近掲焉之証験(一)、敬白、〈 取(レ)要 〉書(レ)之。
  長暦三年八月日                    皇帝   諱卜
教円座主祈誓七箇日の間、太上天皇(てんわう)御霊夢三箇度(さんがど)御覧有りけるに依て、御免なかりけり。
後冷泉院御宇(ぎよう)、天喜元年冬、又三井の衆徒、戒壇建立(こんりふ)を可(レ)被(レ)免由、雖(レ)捧(二)奏状(一)、御免なし。
白川院【*白河院】(しらかはのゐんの)御宇(ぎよう)、承保元年に、皇子御誕生(ごたんじやう)の勧賞、頼豪(らいがう)加様に奏申けれ共、赤山の御詫宣に恐て無(二)御免(一)。冥の照覧実に子細あるらんと覚たり。
同(おなじき)十五日、法皇中宮の御産所、六波羅の池殿へ御幸なる。十二月二日は、宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将辞状を返し給はる。去十月両官(有朋上P327)を辞申されたりしか共、君も御憚有て臣下にも授給はず、臣も成(レ)恐望申事なし。三条大納言(だいなごん)実房、花山院中納言兼雅などは、哀とは思食(おぼしめし)けれ共、色にも詞にも出し給はず、宗盛両官に成返給たりければ、人々さればこそとぞ思はれける。
十二月八日、皇子親王の宣旨を被(レ)下、十五日皇太子に立せ給ふ。
S1008 丹波(たんばの)少将(せうしやう)上洛事
治承三年正月十日比(とをかごろ)に、丹波(たんばの)少将(せうしやう)は、鹿瀬庄を出て上洛、都に待つらん人も心元なかるらんとて、急給けれども、余寒猶烈くて海上も痛荒ければ、浦伝、島伝して日数を経つゝ、二月十日比に、備前児島と云処に漕著給ふ。其辺の者に、故大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)の御座(おはしまし)けん所は何所ぞと尋給へば、始は是に御渡候しが、是は猶悪とて、当国の中ひだの、如意尻と申所に、難波太郎俊定と申者が、古屋に移らせ給(たまひ)て侍し
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を、早昔語に成せ給にきと申す。少将は始御座(おはしまし)ける父の御跡と聞て、児島の宿所を見給へば、柴の庵の奇に、草の編戸を引立たり。浅猿気なる山辺なれば、細谷川の水、岩間をくゞる音幽に、尾上を吹嵐の梢を伝ふも身にしみて、いかばかり悲く御座(おはしまし)けんと、袖もしぼりあへ給はず、其より又如意尻へ尋入(有朋上P328)て見給へば、是又うたてげなる賤が屋なり。係処にしばしも御座(おはしまし)けんよと、後までも労しくぞ思はれける。内に入て見巡給ければ、古障子に手習し給へる跡あり。父の書給へるよと涙浮て目も見え給はざりければ、少将袖を顔にあてて立除、やゝ判官入道殿(にふだうどの)、何と書給へるぞ、其御覧ぜよと宣(のたまひ)ければ、入道指寄て見れば、前海水■々(じようじようとして)月浮(二)真如之光(一)、後巌松禁々風奏(二)常楽之響(一)、聖衆来迎之義有(レ)便、九品往生之望可(レ)足と、又荊鞭(けいべん)蒲朽蛍空去、諫鼓苔深鳥不(レ)驚 K063 とも書れたり。又常に居給たりける、後の障子と思しきに、六月二十七日に、源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)信俊下向共書れたり。其昔都にて殊に不便に思召(おぼしめし)て、御身近く召仕はるゝ者が下向したりけるを、余に嬉く思召(おぼしめし)て其(その)日(ひ)並を書き付られたりけるにこそ、故(こ)入道の御手跡と奉(レ)見、寄て御覧ぜよと、判官入道勧め申ければ、少将寄て涙の隙より是を見に、実に父の在生の筆の跡也ければ、其子としてこれを見給けん、御心の中、さこそ悲く思けめ、水茎の跡は千世も有なんとは是やらんと思給(たま)ひけるにもいとゞ涙のこぼれける。御墓は何所やらんと問給へば、有木別所と云山寺也と申。是やこの備中と備前との境なる、吉備の中山打過ぎて、細谷川を分登給へば、秋の空にはあらねども、草葉に袖もぬれしをれ、落る涙に諍けり。彼別所にて何所の程ぞと尋れば、あれ
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に侍一村松の程(有朋上P329)と申ければ、少将は萌出若草を分入て見給へども、其験もなければ、卒都婆一本も見えず、実に誰かは立べきなれば、只一村の松本に、八重の葎引塞、苔深く繁て、土の少高かりける所をぞ其験とも思はれける。少将は其前に居給(たまひ)て、目にあまる涙をのみぞ流給ふ。康頼入道も、諸共に、墨染の袖を絞けり。少将良有て宣(のたまひ)けるは、備中国へ可(レ)被(レ)流と聞えしかば、可(レ)奉(二)相見(一)とは思はざりしか共、御渡の国近しと承、よにも嬉しく侍りしに引替、鬼界島へ流されて後、幾程もなくて空く成せ給(たま)ひぬと、夙承りしかば、世にも悲く覚て、生てかひなきとまで思つゞけ侍き。彼島の有様(ありさま)一日片時堪て有べしとも覚ざりき。されども遠き守とやならせ給たりけん、露の命三年の秋を送迎て、都に還上、二度妻子を見ん事うれしく存ずれども、ながらへて御質を見進らせたらばこそ、不(レ)消命の験にても候はめ。是までは急がれつる道の、今より後は行空も覚え難しと、生たる人に物を云様に、墓の前にて通夜細々と口説宣(のたまひ)けれ共、春風にそよぐ松の響、岩間に落る水音ばかりにて、答る声もせざりけり。年去年来ども難(レ)忘ものは撫育の昔の恩、如(レ)夢如(レ)幻、易(レ)漏者恋慕の今の涙也。悲かな形を苔の底に埋て再其貌を見ず、怨哉名を松の下に残ども、終に其音を聞ざる事を。成経が参たると聞召さんには、何なる処に御座とも、な(有朋上P330)どかは一言の御返事(おんへんじ)なかるべき。冥途の境異に、生死の道の隔る習こそ心うけれとて、泣々(なくなく)旧苔を打払つゝ墓を築、釘貫し廻て、道すがら造られたりけり。卒都婆墓の中に立給。又参らん事も有難とて、墓の前に蓬葺の道場しつらひて、僧を請じて少将と判官入道と相共に、七日七夜(なぬかななよ)の不断念仏
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申、卒都婆経一部書き、過去聖霊成等正覚とぞ祈給ふ。草葉の陰にても亡魂いかに嬉と思すらん哀也。名残(なごり)はさこそ惜かりけれども、さても有べきならねば、泣々(なくなく)其を出けるに、判官入道哀に思入て、成親を有木の別所に送りたりけるにそへて、釘貫の柱に、
  朽果ぬ其名計は有木にて身は墓なくも成親の卿 K064 
角て備前国をも漕出給ければ、都近くなるに付ても、様々哀ぞ多かりける。
治承三年二月二十二日、宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を上表あり、今年三十三(さんじふさん)に成給ければ、重厄の慎とぞ聞えし。
同三月十六日(じふろくにち)の暮は、丹波(たんばの)少将(せうしやう)鳥羽の州浜殿に著給へり。軈も六波羅の宿所へ落つかばやと被(レ)思けれ共、此三年の間疲たる身の有様(ありさま)を、人々に見えん事も、さすが愧くや覚しけん、迎に下たりける者に、是までこそたどり著て侍れ。ふくる程(ほど)に牛車給り候へと宰相の許へ被(レ)申けり。宰相は又少将も今は上給らんに、今まで遅は何と御座(おはしま)す(有朋上P331)るやらん、無(二)心元(一)とて、中間雑色数多(あまた)、江口、神崎(かんざき)、室、兵庫(ひやうご)辺まで下遣たりけれども、遊君遊女に戯つゝ疎略にや侍たりけん、違て少将は登給へり。使六波羅の宿所に来て角と云ければ、奉(レ)始(二)宰相(一)、貴きも賤きも悦相り。北方も乳母(めのと)の六条も、御文見給(たまひ)て、穴珍穴珍、昼はいかなるぞや、必しも更て入せ給べきかや、人は御心のつよきぞやとて泣給けり。少将の父故大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)は、京中にも限ず、所々に山庄多持給へり。其中に鳥羽の田中殿の山庄をば、殊に
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執思給(たまひ)て、私に州浜殿とぞ申ける。少将は日をも暮さんため、父の遺跡もなつかしくて見巡給ければ、屋敷は昔に替らねども、蔀格子もなかりけり。築地崩て覆朽、門傾て、扉倒、庭には千種生茂、人跡絶て道塞、蘿門乱て地に交り、唐垣破て絡石はへり。檐には垣衣苅萱生かはし、月漏とて葺ねども、板間まばらに成にけり。少将〔の〕あの屋この屋に伝つゝ、大納言(だいなごん)はこゝにこそ御座(おはしまし)しか、彼にこそ立給しかなど、思つゞけ給(たまひ)ても、哀のみこそ増けれ。何事に付ても皆昔に替たれども、比は三月の中の六日の事なれば、秋山の梢の花、所々に散残、楊梅桃李の匂も、折知顔に色衰、百囀の鶯も、時しあれば声已に老たり。少将悲のあまりに、木の本に立より、古き詞を詠じ給(たま)ひけり。(有朋上P332)
  桃李不(レ)言春幾暮、煙霞無(レ)跡昔誰栖、 K065 
と又思ひつゞけ給ふ。
  人はいさ心もしらず故郷は花ぞむかしの香ににほひける K066 
いつしか田舎には引替て、入相の野寺の鐘の音、今日も暮ぬと打響く。彼遺愛寺の辺の草庵に似たりけり。王昭君が胡国の夷に囚れて後、其跡角や有けんと、思ひやられて哀也。姑射山仙洞の池の汀(みぎは)を望ば、春風波に諍て、紫鴛白鴎逍遥せり。興ぜし人の恋さに、いとゞ涙ぞこぼれける。南楼の木本には、嵐のみ音信(おとづれ)て、夢を覚す友となり、木間を漏る月影の、涙の袖に宿れるも、名残(なごり)を慕かと覚ゆるに、夜差更て宰相の本より迎に人来たり。少将と判官入道と同車(どうしや)して遣出す。造路四塚東寺の門をも打過けり。
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うれしさの心中、只推量べし。二人は道すがら、硫黄島の心うかりし事共語り連ても、俊寛僧都(そうづ)をぞ悲みける。只一人島の巣守と成果てて、思に堪ずはかなくや成ぬらん、又猶も生て有ならば、いかばかり〔か〕歎き悲むらん、糸惜や三人有しにだにも、僧都(そうづ)は殊に思入たりしに、増て友なき身と成ては、さこそ有らめと、互に袖を絞けり。さても三人同罪とて被(レ)流、一人は留二人帰上事、是偏(ひとへ)に熊野権現の御利生にこそと、貴にも又涙也。判官入道は三年の(有朋上P333)名残(なごり)を惜つゝ云けるは、昔召仕し者、東山双林寺の辺にありき、相尋べし。今は係る身に成ぬる上は、世を諂に及ばず、他事を忘て後世の営をはげむべきに侍り。若真如堂雲居寺詣など思召(おぼしめし)立事あらば、御尋(おんたづね)も有べし。又性照も道広成なば、六波羅の貴殿へも参ずべし。三年の依(二)御恩(一)、消やすき命のながらへて、再都に帰上ぬる事、生々世々(しやうじやうせせ)に難(レ)忘こそ奉(レ)思とて、或は悦或は契て、墨染の袖を顔にあてて、六波羅にて車より下り、暇申て分れにけり。少将は宿所に落著給たりければ、宰相を奉(レ)始、皆悦の涙に咽て、急度もの云人もなかりけり、理には過たり。少将は昔住馴給し方へ御座(おはしまし)て、見廻給(たまひ)て、内に入給へり。懸連たりし■廉(せいれん)も、さながら有、立並たりし屏風も障子も動らかず、只昔に替たる物とては、乳母(めのと)の六条が、三年のもの思に、黒かりし髪の皆白妙に成たると、少人のおとなしく生立給へると計也。北方も疲衰給へり。是も三年のもの思と覚たり。昔足柄明神の異国へ渡り給しに、さり難妻の御神を留置て、恋悲給んずらんと覚しけれ共、振捨て三年をへて後に還給たりけるに、殊に白くうつくしく肥ふとり給たりければ、明神の仰には、滝
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の水も冷恋せば疲もしぬべし。我を恋悲み給はざりけるにこそとて、終に別れ給にけり。是は疲衰給(たま)ひたりければ、誠に恋しと思給けりとて、いとゞ情ぞ増ける。少将被(レ)流(有朋上P334)給し時、四になり給ける若者は、髪生のびて結程なり。見忘給はざりけるにや、父の御膝近くなつかしげにて寄給へり。又北方の御傍に、三ばかりなる稚人の御座(おはしまし)けるを、あれはたそと問給ければ、北方是こそはと計にて、又物も宣はず泣給けるにこそ、流されし時、近産すべきにと心苦く見置しが、生にけるよとは心え給たりける。是を見彼を見に付ても、尽せぬ物は只涙也。少将は急御所に参て、君をも見進せばやと被(レ)思けれ共、そも召もなかりければ、憚進て不(レ)参。法皇も御覧ぜまほしく思食(おぼしめし)けれ共、人の口を御憚有て、急召事もなし。同(おなじき)十八日(じふはちにち)に入道より宰相の許へ使者あり。少将相具して来給へと也。又いかなる事の有べきにやとて、各歎思はれけり。さて黙止べきにあらねば、宰相と少将と同車(どうしや)して、西八条(にしはつでう)へ参られたり。入道中門の廊に出合給(たまひ)て、鬼界島の事あら/\問給へば、少将は細々とぞ答へける。戯呼哀なる所にこそ、実にさこそ思給(たま)ひけめ、早々出仕し給(たまひ)て、田舎忘あるべしと宣(のたまひ)ければ、さてこそ御所に参て君をも見進せけれ。其後本位に復し、夕郎の貫首を経て、父の跡を遂、大納言(だいなごん)にも至りけれ。
S1009 康頼入道著(二)双林寺(一)事(有朋上P335)
判官入道は、東山双林寺に、昔の山庄の有けるに、落著て見けれ共、留主(るす)に置たりし下人もなし、庭には千草生かはし、軒にはしのぶも茂たり。荒たる宿の習にて、事問人もなく、板間の苔むして、月の光も漏ざりければ、いとゞ心のすみつゝ思ひつゞけけり。
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  故郷の軒の板間に苔むして思ひしよりももらぬ月哉 K067 
と。我世に有し時は、宿所もあまた有き。山庄も所々に有しか共、鬼界へ越し後は、其行末を不(レ)知、僅(わづか)に残る栖とては、此屋ばかりと哀也。さても入道は紫野に有ける、七十有余(いうよ)の母の許へ、急ぎ角と申たかりけれ共、身にそへる下人もなし、昨日は夜ふけて都へ入りぬ。程は遠、明を遅しと待けるが、同(おなじき)十七日(じふしちにち)に、人を語ひて、母がもとへぞ遣ける。下侍し時角と申度侍しかども、老衰て後歎おぼさんを、まのあたり見聞奉らんも、中々痛しく思給しかば、心づよく告申事もなくて罷下侍しに、かひなき命の不(レ)消して、再都に帰上、見見え奉ん事こそ嬉く侍れ、急参らん程先人を進する也とぞ云遣たりける。入道の又母は、七十に余て、悲き子を流れて、係る憂目を見事よと歎けるが、可(レ)被(二)召返(一)と聞ければ、流されし時は、由なき命の長生哉と思しに、今は我子を再見ん事の嬉さよ、去年の冬島をば出たりと聞に、何に見えぬやらん、海路遥(はるか)に日を経たり、風の烈き折節(をりふし)なれば、(有朋上P336)波の底にも沈たるやらんとぞ歎けるが、其思や積けん、はかなく聞えて、今日は五日に成にけり。使帰て角と申ければ、入道は墨染の袖を顔にあてて、
  薩摩方沖の小島に我ありと親には告げよ八重の塩風 K068 
とは、誰がために云ける言葉ぞとて、絶入絶入咽けり。其後は双林寺の庵室に閉籠、なからん跡の形見とて、涙の隙々に宝物集を造て、世にこそ披露したりけれ。
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S1010 有王渡(二)硫黄島(一)事
法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛は、此人々に捨られつゝ、島の栖守と成はてて、事問人もなかりけるに、僧都(そうづ)の当初世に有し時、幼少より召仕ける童の、三人粟田口辺に有けるが、兄は法師に成て、法勝寺(ほつしようじ)の一の預也。二郎は亀王、三郎は有王とて、二人は大童子也。彼亀王は僧都(そうづ)の被(レ)流て、淀に御座処へ尋行て、最後の御供是こそ限なれば、何所までも参侍るべしと、泣々(なくなく)申けるを、僧都(そうづ)は誠に主従の好み、昔も今も不(レ)浅と云ながら、多の者共有つれ共、世中に恐て問来者もなし、其恨にあらず、あまたの中に尋来て、角申こそ返々も志の程うれしけれ。但我に限らず、少将も判官も人一人も不(レ)随とこそ聞け、御免あらば幾人(有朋上P337)も具したうこそあれ、され共其義なければ不(レ)及(レ)力、誠や薩摩国硫黄島とかやへ可(レ)被(レ)流ときけば、命ながらふべしとも覚ず、路の程(ほど)にてはかなくもやならんずらん、我身の事は今はさて置、都の残留女房少者共の心苦きに、彼人々に付て朝夕の事をも見継べし、我に随はんに露劣るまじ、とく帰上れなど泣々(なくなく)宣通はす処に、宣旨御使又六波羅の使、何事申童ぞと怪み尋ける恐しさに、亀王名残(なごり)は惜けれども、泣々(なくなく)都へ帰上けり。其弟に有王と云けるは、僧都(そうづ)に別て後、仕はんと云人在けれ共、宮仕もせず、大原(おほはら)、閑原、嵯峨(さが)、法輪貴所々に迷行て、峯の花をつみ、谷の水を結て、山々寺々手向奉、我主に今一度合せ給へと、夜昼心をいたして祈けるこそ不便なれ。角て三年を経て、少将と判官入道と、都へ還上ぬと披露有ければ、有王我主の事何に成給ぬるやらんと覚束(おぼつか)なく思て、此人々の迎に行たりける人に合て尋聞ば、上りしまでは御座(おはしまし)き。二人に捨られて、歎悲み給し事、二人舟に乗給しに、舷
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に取付て、遥(はるか)に出給たりし事、陸に帰上て、浜の沙に倒ふし給事、委く語答ければ、有王涙を流て、さては未此世に御座るにこそ、誰育誰憐奉らんと悲くて、有王は只一人都をあくがれ出、未(レ)知薩摩方、硫黄島へ、遥々(はるばる)とこそ思立て、先奈良に行、僧都(そうづ)の姫の御座(おはしまし)けるに、角と申て御文を賜りけり。姫宣(のたまひ)けるは、我身果報な(有朋上P338)き者と生て、父には生て別れぬ、母と妹には死して後れぬ、多の人の中に角思立ける志の嬉さよ、余りに父の恋く思侍れば、男子の身ならば走連ても、行まほしく侍れ共、女とて叶はぬ事の悲さよ、御文慥に進せて、相構て疾して御上あれと申べしとて、やがて倒れ臥、声も不(レ)惜泣ければ、童も倶に袖を絞る。唐船の纜は、四月五日に解習にて、有王は夏衣たつを遅しと待兼て、卯月の末に便船を得、海人が浮木に倒つゝ、波の上に浮時は、波風心に任せねば、心細事多かりけり。歩を陸地にはこびて、山川を凌ぐ折は、身疲足泥、絶入事も度々也。去共主を志にて行程(ほど)に、日数も漸積ければ、鬼界島にも渡にけり。此島の挙動、都にて伝聞しよりも、まのあたり見は堪て有べき様なし。峯には燃上ほむら行客の魂を消、谷には鳴下る雷、旅人の夢を破る。山路に日暮ぬれども、樵歌牧笛の音もなく、海上に夜を明せば、松風白浪心をいたましむ。童何事に付ても、慰思なければ、いかにすべし共不(レ)覚けれ共、主の行末の悲さに、谷に下て尋れば、岩もる水に袖しをれ、峯に上て求ば、松吹く嵐ぞ身にしみける。兎にも角にも叶はねば、只涙を流して立たりけり。去(さる)程(ほど)に島の住人と覚しくて、木の皮をはねかづらとして額に巻、赤裸にてむつきをかき、身には毛太く長く生て、長は六七尺(しちしやく)計なる
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者ぞ遇たりける。有王嬉て云(有朋上P339)けるは、此島に法勝寺(ほつしようじ)の執行僧都(そうづ)の御房御座(おはしま)し候なるは、何所にて候やらんと問ければ、打見たる計にて物も云はざりけり。法勝寺(ほつしようじ)共執行共、争か可(レ)知なれば、不(レ)答も理也。自言事も有けれ共、つや/\不(二)聞知(一)ければ、いとゞ力なく覚けり。責ては死給たりとも、其骸骨は御座らん、彼をなりとも尋得て、形見ともするならば、いか計限なく、志のかひも有べきに、御行へをだにも知ずして、空く都へ帰上らん事の悲さよと思て、猶深く山辺に尋入たれども、我主に似たる人もなし。立帰遥々(はるばる)浦路に迷出たれば、磯の方より働来者あり。只一所に動立様也。其形を見に、童かとすれば年老て、其貌に非、法師かと思へば又髪は空様に生あがりて、白髪多し、銀の針を立たるが如し。万の塵や藻くづの付たれ共不(二)打払(一)、頸細して腹大脹、色黒して足手細し、人にして人に似ず、左右の手には、小き生魚を二三づつ把り、腰のまはりには荒和布の取纏付けて、さけびきて、凡力もなげ也。童思けるは、哀我主の角成給たるにもや在らん、いかにといへば、若干の法勝寺(ほつしようじ)領を知行し給ながら、修理造営をばし給はず、恣に三宝の信施を受、あくまで伽藍(がらん)の寺用を貪給し罪の報に、生ながら餓鬼道に落給たるやらん、餓鬼城の果報こそ、頸は細く腹は大に、色黒して首蓬の如く有とは聞など、様々に思に、いとゞ悲て、近付き能々みれば、手も足(有朋上P340)もさすが人には違ず、都にも老衰たる者あり、片輪なる人もあり、去ば此島にも係者も有にこそと思て問ければ、やゝ一年此島へ三人流され給たりし人の二人は免て上給ぬ、今僧の一人御座なる、いづくにぞと云ければ、僧都(そうづ)は貌こそ衰たりけれども、
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目と心とは昔に替ず、童をば慥我召仕し、有王とぞ被(レ)思ける。童は主の余に衰損じたれば、僧都(そうづ)とは知ざりけれ共、さすが又何とやらん覚てつく/゛\と守立たり。僧都(そうづ)は顔の色をとかく変じて様々にぞ思ける。我こそ俊寛よと名乗んとすれば、果報こそ拙て、かゝる身とならんからに、心さへ替けるよと思はん事も愧し、恥を見んよりは死をせよとこそ云に、さこそあらんからに、僧形として生魚を手に把たる心うさよ、只知ざる様にて過さばやと、千度百度案じけるが、又思けるは、此島にては、疎く不(レ)知者也とも、都がかりの人に遇たらんはうれしく珍らしかるべし、況年比の主を悲て遥々(はるばる)と尋来たらん者を、其志を失、空く返し上せん事、最不便也、我も又問聞たき事も多しと、思返して、手に把たる魚をば後へ廻し、去げなき様に抛て、あれは有王か、何にして是までは尋来れるぞや、我こそ俊寛よ、穴珍や/\、己一人を見たれば、捨別し妻子も住なれし古郷も、皆見つる心地のするぞや、いかに/\とて、手すり足すり喚叫けり。其時こそ有王も、慥の主とは思(有朋上P341)けれ。係様も有けるにや、昔軽大臣の遣唐使に渡されて、形を他州にやつされ、燈台鬼となされつゝ、帰事を不(レ)得けり。子息弼宰相、其向後の覚束(おぼつか)なさに、大唐国に渡て尋れ共/\、目の前に有ながら、明す者こそなかりけれ。父は子を見知つゝ、角と云まほしけれ共、物いはぬ薬をのませ、唖になされたりければ、そも叶はず、額に燈械を打れつゝ、宰相に向て、只泣より外の事なし。宰相はやつれたる父なれば、面を並て不(レ)知けり。燈台鬼涙を流つゝ、指端を食切て、其血を以て宰相が前に角ぞ書連ける。
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  我是日本花京客、汝則同姓一宅人、為(レ)父為(レ)子前世契、隔(レ)山隔(レ)海恋情苦、経(レ)年流涙宿蓬蒿、逐(レ)日馳(レ)思親蘭菊、形破(二)他州(一)成(二)燭鬼(一)、争帰(二)旧里(一)寄(二)斯身(一) K069、
と書きあらはしたりけるにこそ、宰相は我父の軽大臣共知けれ。執行も三年の思に衰痩、あらぬ形に成たれば、知ざりけるも理也。我こそ俊寛よと名乗けるより、有王は流す涙せきあへず、僧都(そうづ)の前に倒伏、良久物も云ず、さても老たる母をみすて、親者にも知れずして、都を出て、遥(はるか)の海路を漕下、危浪間を分凌ぎ参しには、縦疲損じ給たり共、斜(なのめ)なる御事にこそと存ぜしに、三年を過し程はさすが幾ならぬ日数にこそ侍るに、見忘るゝ程(ほど)に窄させ給ける口惜さよ、日比(ひごろ)都にて思やり進けるは、事の数にても侍らざりけり、ま(有朋上P342)のあたり見進する御有様(おんありさま)、うつゝ共覚候はず、されば何なる罪の報にて、角渡らせ給覧とて、僧都(そうづ)の顔をつく/゛\と守つゝ、雨々とぞ泣臥たる。童良在て起あがりければ、僧都(そうづ)も又起なほりて、泣々(なくなく)宣(のたまひ)けるは、此島は遥なる海中、遠き雲の徐なれば、おぼろげにても人の通事なし。己が兄の亀王が、淀まで訪下たりしをこそ、有難く嬉き事と思ひしに、有王が是まで思立見来事、実に現とも覚ねば、もし夢にてや有らん、やをれ有王、さらば中々如何に悲しからん、そも恋しき者を見つれば、嬉などは云も疎也、さても少将と判官入道との有し程は、憂事悲事云連ては泣つ、思出有し昔物語(ものがたり)をしては笑つ、互に慰しに、被(二)打捨(一)し後は、一日片時堪て有べし共覚ざりしに、甲斐なき命のながらへて、互に相見つる事の嬉さよ、加程の有様(ありさま)なれば、何事を思べきにあらね共、都の残留し者共の、
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忘るゝ間なく恋く聞まほしけれども、心に任せぬ旅なれば其も叶ず、是ほどの志の有けるに、などや此三年までは問ざりけるぞ、少将の迎の時は、何に文一は伝ざりけるぞと宣。童申けるは、事も愚におぼしめしけるか、君西八条殿(にしはつでうどの)へ被(二)召籠(一)させ給し後は、御あたりの人をば、上下を云ず搦捕て、獄舎に入られ家財を壊取しかば、成(レ)恐近習の人々も、思々に落失ぬ。北方も鞍馬の奥、大悲山に忍ばせ給しが、明ても暮ても御歎浅から(有朋上P343)ず、見えさせ給し程(ほど)に、其積にや日比(ひごろ)悩せ給しが、去年の冬遂に隠れ御座ぬと申も果ぬに、僧都(そうづ)は穴哀や、さては女房は早はかなく成給けるにこそ、慰む便もなく知れる人もなき、我だにも、係る島の有様(ありさま)に、三年の今までも在るぞかし。さすが人は少き者共もあまた有き、我を見とも、思成てこそ有べきに、若や姫をば誰孚めとて隠れ給(たま)ひけるぞや、其に就ても、難面かりける我命かなとて、又臥倒給けるに、有王泣々(なくなく)重て申けるは、若君は父の渡らせ給なる所は何所やらん、尋参れと仰候しかども、故北方の、穴賢そなたの方と知すな、少き心に走出て、行へも知ず失る事もこそと承しかば、知せ進する人も候はざりし程(ほど)に、人の煩ひ合て侍し、疱瘡と申御労に、去五月に又失させ給にきと云ければ、僧都(そうづ)又臥倒て、やをれ有王、今は係る憂事をば、な語りそとよ、三人が中に法師一人捨置れぬれば、都に還上り、再妻子を相見る事はよもあらじなれども、さても有らんと思やれば、慰事も有にや、いつを限に惜べき身ならねども、此を聞彼を聞に、絶入ぬべき心地なり、よし/\今はな語そと云けるこそ、責ての事と哀れなれ。(有朋上P344)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十一

P0252 (有朋上P345)
留巻 第十一
S1101 有王俊寛問答事
有王申けるは、姫御前は、奈良の姨御前の御許に御渡と承て、参て、此島へ思立候、御言伝やと申入て候しかば、端近出させ給(たま)ひ、不(レ)斜(なのめならず)御悦有て、哀女の身程無(二)甲斐(一)事はあらじ、我身も父の恋しさは、己にや劣るべき、可(レ)類方なし、可(二)思立(一)道ならねば力なし、さても多人の中に一人思立らん嬉さよ、平らかに参著たらば進せよとて御文あり。御詞には、替ぬる世の恨に筆の立所も覚侍らず、泣々(なくなく)申候へば、文字もさだかならず、御覧じ悪こそ渡らせ給はんずらめ、御返事(おんへんじ)をも待見進せば、いか計かはと申せとこそ仰候しか。昔ならば角直に承べしやと、哀に思進て、落涙を押つゝ、奈良を出て罷下し程(ほど)に、門司赤間の関より始て、硫黄島へ渡ると申者をば怪、文などや持たると求捜と承しかば、御文をば本結の中に結び籠て、難(レ)有して持て参たりとて、取出して奉(レ)之。僧都(そうづ)は悲さの中にも、嬉く珍く思て、涙を押拭押拭披見給へば、其後便なき孤子と成果て、御向後を(有朋上P346)も承便もなし、身の有様(ありさま)をも知られ進せず、いぶせさのみ積れども、世中かきくらして晴心地なく侍り。さても三人同咎とて、一つ島に移されけるに、二人は被(レ)免に、などや御身一人残留給らんと、人しれぬ歎唯思召(おぼしめし)やらせ給へ。人々島へ被(レ)流給(たまひ)て後、其ゆかりの者をば尋求て、手足を損じて責問べしなど聞え侍しかば、召仕し者共
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も、遠国々へ落失て、旧里に一人も留らざれば、都には草のゆかりも枯はてて、立紛べき方もなく、哀糸惜と事問人もなし。君達も可(レ)被(二)召捕(一)など聞えしかば、母御前弟我身三人引具して、幽なる便に付て、鞍馬の奥とかやへ迷入、日影も見えぬ山里に、住も習はぬ柴の庵に、忍居て候し程に、朝夕は御事をのみ歎給しに、打副稚身々の向後いかにせんと、隙なき御物思の積にや、病と成せ給たりしかば、弟と二人、とかく労り慰進せしか共、不(レ)叶して空見成進せぬ。生ての別死の別れ為方なければ、二人歎暮し泣明し侍し程に、又弟も疱瘡とかや申労をして、今年の五月に身罷侍り。同道にと歎しか共、はかなき露の命と云ながら、消もやらで、強面今までは草の庵に残留て侍れば、憂事も悲事も可(二)思召(おぼしめし)知(一)、拙果報の程こそ、宿世の身のつとめ辱く思侍れ。故母御前御労の時、我死なば誰をか便と憑御座(おはします)べき、奈良の里に姨母と云人御座(おはしま)す、尋行き打歎かば、去共憐給はんずらん(有朋上P347)と仰候しを承置て、当時は奈良の姨母御前の御許に侍り。疎なるべき事にはあらねど〔も〕、幽なる住居推量給へ。さても此三年迄、いかに御心強く有とも無とも承ざるらん。母御前にも弟にも後れて憑方なし、誰に預何にせよと思召(おぼしめす)にか、疾して御上候へ。恋し共恋し床し共床し。三年の思歎水茎に難(レ)尽侍れば留候ぬ。穴賢穴賢と裏書端書滋く薄く、みだし書にぞしたりける。僧都(そうづ)は此文を見て、巻つ披つ泣悲て云けるは、俊寛が此の島へ流されし年は、姫は十に成しかば、今年は十二と覚ゆ。文は詞もおとなしく、筆の立所も尋常也。去共切継たるやうに、とくして上れ自ら申さんと書たるこそ流石(さすが)稚けれ。心に任たる道ならば、なじかは暫もやすらふべき、
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墓なき物の書様やとて、声も惜まずをめき給ふ。やをれ有王、此島の形勢(ありさま)にて、今まで俊寛が命の有けるは、姫が文をも待見、又汝が志の切也けるに、今一度見せんとて、神明の御助にて有けるにこそ、己一人を見たれば、都の人々を皆見たる心地こそすれ、係る貌なれ共、見えぬれば三年の思ひも晴ぬ、今は疾々帰上、僧都(そうづ)には人も不(レ)付しに、京より下て訪など聞えん事も恐ありと宣へば、有王申けるは、穴うたての御心や、是程の御有様(おんありさま)にて世も恐しく命も惜思召(おぼしめし)候か、御身のゆるき、御詞のいづれは人とや思召(おぼしめし)、唯なましき骸骨の動かせ給(たま)ひ候とこそ見進候へ(有朋上P348)と申ければ、僧都(そうづ)我身は云に及ず、志深き己さへ、我故に此島にて、朽ん事の悲にこそと宣へば、有王涙を流し、老たる母をも捨て、兄弟にも角とも不(レ)申、はる/゛\と参侍し事は、命を君に奉り、身を海底に沈めんと思定て候き。一度都にて捨て侍命を、二度此島にて可(レ)惜かと申ければ、僧都(そうづ)打うなづきて、嬉しげにて、いざさらば我夜の臥所へとて具して行く。住給ふ所を見れば、巌二が迫に、竹そ木の枝を取渡し、寄来藻くづを取係たり。雨露のたまるべき様もなし。僧都(そうづ)一人入給ぬれば、腰より下は外にありて、内には又所もなし。有王はあらはにぞ居たりける。穴心憂の御住居(おんすまひ)や、今は申て甲斐なき事なれども、京極の御宿所、白川の御坊中、鹿谷御山庄まで、塵もつけじとこそ瑩立させ給しに、何と習はせる人の身なれば、懸る住居にも御座(おはしまし)ける事よ、京童部(きやうわらんべ)が築地の腹などに造りたる、犬の家には猶劣れる物ぞやとて口説泣。京より菓子少々用意して持たりけるを、取出て奉(レ)勧。僧都(そうづ)被(レ)思けるは、此等を食たり共、ながらふべきに命に非ず、
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中々由なけれ共、都より我為にとて、遥々(はるばる)持下たる志を失て、打捨ん事も無念也と覚して、食やうにして宣(のたまひ)けるは、此等は指も味もよかりし上、世に珍けれども、余に疲衰たる故にや、喉乾口損じて、気味も皆忘にけりとて、指置給けるぞ糸惜き。有王申しけるは、(有朋上P349)是程の御有様(おんありさま)にては、日比(ひごろ)は何として、今迄もながらへさせ給けるぞと問ければ、僧都(そうづ)は其事也、三人被(レ)流たりしに、丹波(たんばの)少将(せうしやう)の相節とて、舅門脇(かどわきの)宰相(さいしやう)の許より、一年に二度舟を渡しし也。春は秋冬の料を渡し、秋は春夏の料にとて渡しを、少将心様よき人にて、同島に流され、同所に有ながら、我一人生て、まのあたり各を無人と見ん事も口惜かるべし。三人あればこそ互に便ともなり、又なぐさめとて、一人が食物を三人に省、一人の衣裳の新きをば我身に著、古をば二人に著せつゝ、兎角育し程は、人の体にて有しか共、去年此人々還り上て其後は事問者もなく、情を懸る人もなければ、遉が甲斐なき命の惜ければ、此人々の都にて申くつろげんなんど云しを憑みて、力の有し程は島の者のするを見習て、此山の峯に登て、硫黄を取て、商人の舟の著たるにとらせて、如(レ)形代を得て日を送り、命を継しか共、力弱り身衰て後は、山に登事も不(レ)足(レ)叶、硫黄を取事も力尽ぬ。さてもあられで、沢辺の根芹をつみ、野辺の蕨を折て、さびしさを慰しも、叶はぬ様に成果て、今はする方もなければ、浪たゝぬ日は磯に出て、岩の苔をむしりて、潮に洗て食物とし、汀(みぎは)に寄たる海松和布を取、和なる所をかみて、明し暮す、何を期する事はなけれ共、責ての命のをしさに、網引者に向ては、手を合て魚を乞ひ、釣する海人に歎ては膝を(有朋上P350)
P0256
折て肉を貪る、得たる時は慰む、くれざる日は空く臥ぬ。角しつゝ一日二日とする程に、早四箇年にも成にれり。さて生たる甲斐有て、己を見つる嬉さよ、若此事夢ならば、覚て後はいかゞせんと、■噎(しやくり)もし敢ず泣語給けり。有王つら/\と聞(レ)之、涙の乾間ぞなかりける。僧都(そうづ)又宣(のたまひ)けるは、俊寛は懸罪深者なれば、業にせめられて、今幾ほどか存ぜんずらん、己さへ此島にて、歎事も不便也、疾々帰上と云れければ、有王尋参侍程にては、十年五年と申とも、其期を見終進侍るべし、努々御痛有べからず、但御有様(おんありさま)久かるべし共不(レ)覚、最後を見終奉らん程は、是にして兎(と)も角(かく)も労進すべしとて、僧都(そうづ)に被(レ)教、峯に登ては硫黄を堀て商人に売り、浦に出ては魚を乞て執行を養ふ。係けれども、日来の疲も等閑ならず、月日の重るに随て、いとゞ憑なく見えけるが、明年の正月十日比(とをかごろ)より打臥給(たま)ひぬ。有王は今は最後と思て立離ず看病して、兼て賢くも善知識して申けるは、再都へ帰上給はざる事、努々御妄念に思召(おぼしめす)べからず、北方も若君も、空き露と消させ給ぬ、姫君は奈良に御座(おはしま)せば、御心安(おんこころやす)かるべし、唯娑婆の定なき有様(ありさま)を思知給ふべし。仮令妻子を跡枕に居置奉、古き都にして終給とも、住馴し境界は御名残(おんなごり)惜思召(おぼしめす)べし、依(レ)之(これによつて)衆生無始より生死にめぐりて三界を不(レ)出とこそ承り候へ、富貴(ふつき)栄花も終には衰、御身に宛て(有朋上P351)可(レ)知、長命と云共必死す、昔より形を残す者なし、されば今は一筋に、今生を穢土の終と思召(おぼしめし)切て、当来には必浄土(じやうど)へ参らんと、心強願御座(おはします)べし、無益の妄念を残して、心憂き境に廻給べからず、四五箇年の流罪猶以難(レ)忍、無量億却の悪趣、出期を不(レ)知といへり。今度厭給はずは、いつをか
P0257
期給べきなど、種々教訓申ければ、僧都(そうづ)息の下に、二人は被(二)召還(一)、俊寛一人留し上は、思切てこそ有しか共、凡夫の習なれば、折々には去共と憑む心も在き、其云甲斐なし。己角理を以て云教れば思切ぬ。昔は召仕し所従、今は可(レ)然善知識也。権化の善巧歟大聖の方便歟、誠に此世の中の習、強に都へ帰ても何にかはせん、玉の簾、錦の帳も、万歳の粧にあらず、尤可(レ)厭、金台銀階、千秋の粧にあらざれば無(レ)由、其上不(レ)待(二)入息出息(一)、身なれば、朝露の日に向ふよりも危し。生死不定の命なれば、蜉蝣の夕べを待よりも短し。殊に此二三年は、歎を以て月日を運、齢傾勢衰て、悲を以て星霜を送つ、危寿に病付ぬ、浮雲の仮宿とは知ながら、墓無く我身を起て、帰洛を待き、草露の英なる命と思ながら、愚に常見を成て怨念を含、終には是山川の土なれども、捨難は血肉の身也、思へば又野外の土なれども、欲(レ)惜分段の膚也、碧緑の紺青の髪筋も、遂には塚際の芝に纏、荘厳端直柔和の姿も、亦路辺の骸骨也、尤可(レ)厭、争(有朋上P352)か悲ざらん。蘭香の家も未無常の悲を免れず、桜梅の宿も猶生死の別には迷へり、況や俊寛が有様(ありさま)、今日とも明日とも不(レ)知身なれば、過去の修因今生の現果、拙かりける我かなと、所従なれ共恥し。されば肝心を砕ても骨肉を捨ても、求べきは菩提薩■[*土+垂](さつた)の行、血髄を屠身体を抛ても、望べきは安養浄土(じやうど)の境也。徒に身を野外に捨んよりは、同は覚悟の仏道に捨べし。空く心を苦海に沈めんよりは、須迷津の船筏を儲べし。而を身命を雪山に投じ、半偈の文眼に宛たれども如(レ)不(レ)見、給仕を千歳に運し一乗(いちじよう)の説、掌に把とも似(レ)不(レ)取、悲哉無上の仏種をはらみながら、無始無終の凡夫
P0258
たる事を、痛哉、二空の満月を備ながら、生死長夜の迷情たる事を、凡此島に放るゝ初には、思に沈て岩の迫に倒臥て、今生の祈も後生の勤もなかりしか共、丹波(たんばの)少将(せうしやう)も、康頼入道も、帰洛の後は、毎日に法華経(ほけきやう)一部を暗誦し、よもすがら弥陀念仏を唱て、一筋に後世の為と廻向して今に不(レ)怠、夫来迎の金蓮には、貴も賤きも倶に乗(二)弘誓の船筏(一)には、富るも貧をも渡し給と聞ば憑あり。又妙法の二字には、諸法実相の理を兼、蓮華の両字には、権実本迹の義を含り、誠に貴御法也。昼誦夜唱る功徳、去ども後世は覚ゆれば、唯汝も念仏を勧よ、我も名号を唱んとて、明れば仏の来迎を待て、暮れば最後の近を悦で、日数をふる程に、次第(有朋上P353)に弱て云事も聞えず、息止眼閉にけり。寂々たる臥戸に、泪泉に咽べども、巴峡秋深ければ、嶺猿のみ叫けり。閑々(しづしづ)たる渓谷に思歎に沈ども、青嵐峯にそよいで、皓月のみぞ冷じき。白雲山を帯て、人煙を隔たれば、訪来人もなし。蒼苔露深して、洞門に滋れども、憐思者もなし。童只一人営つゝ、燃藻の煙たぐへてけり。荼毘事終てければ、骨を拾て頸に掛、涙に咽て遥々(はるばる)と都へ帰上にけり。奈良の姫君に奉(レ)見ければ、悶焦て泣悲事不(レ)斜(なのめならず)、さこそ有けめと想像れて無慙也。童申けるは、御文を御覧じてこそ御歎の色もまさる様に見えさせ給(たま)ひしか、硯も紙もなかりしかば御返事(おんへんじ)は候はず、思召(おぼしめさ)れし御心中、さながら空く止にきとて、恨事の次第細々と申ければ、姫君涙に咽て物も不(レ)被(レ)仰。出家の志有と仰ければ、有王丸兎角して、高野の麓天野の別所と云山寺へ奉(レ)具、其にて出家し給にけり。真言の行者と成て、父母の菩提を弔給(たま)ひけるこそ糸惜けれ。
P0259
有王も其より高野山に登、奥院に主の骨を納卒都婆を立、即出家入道して、同後世を弔ひけり。方士は貴妃を蓬莱宮に尋、金言は厳父を狄が城に尋けり。彼は恩愛の情に催され、王命の背難によて也。主を硫黄島に尋ねける、有王が志こそ哀なれ。(有朋上P354)
S1102 小松殿(こまつどの)夢同熊野詣事
治承三年三月の比、小松内府夢見給けるは、伊豆国(いづのくに)三島大明神(だいみやうじん)へ詣給たりけるに、橋を渡て門の内へ入給ふに、門よりは外右の脇に、法師の頭を切かけて、金の鎖を以て大なる木を掘立て、三つ〔の〕鼻綱につなぎ付たり。大臣思給けるは、都にて聞しには、二所三島と申て、さしも物忌し給(たまひ)て、死人に近付たる者をだにも、日数を隔て参るとこそ聞しに、不思議也と覚て、御宝殿の御前に参て見給へば、人多居並たり。其中に宿老(しゆくらう)と覚しき人に問給やうは、門前に係りたるは、いかなる者の首にて侍ぞ、又此明神は死人をば忌給はずやと宣へば、僧答て云、あれは当時の将軍、平家太政(だいじやう)入道(にふだう)と云者の頸也。当国の流人、源兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、此社に参て、千夜通夜して祈申旨ありき。其御納受(ごなふじゆ)に依て、備前国吉備津宮に仰て、入道を討してかけたる首也と見て夢さめ給ぬ。恐し浅猿(あさまし)と思召(おぼしめし)、胸騒心迷して、身体に汗流て、此一門の滅びんずるにやと、心細く思給ける処に、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)、折節(をりふし)六波羅に臥たりけるが、夜半計に小松殿(こまつどの)に参て案内を申入、大臣奇と覚しけり。夜中の参上不審也、若我見つる夢などを見て、驚語らんとて来たるにやと、御前に被(レ)召(有朋上P355)何事ぞと尋給へば、兼康(かねやす)畏て夢物語(ゆめものがたり)申、大臣の見給へる夢に少しも不(レ)違、さればこそと涙ぐみ給(たまひ)て、よし/\妄想にこそ、加様の事披露に不(レ)及誡宣(のたまひ)けり。
P0260
懸ければ一門の後栄憑なし、今生の諸事思ひ捨て、偏(ひとへ)に後生の事を祈申さんとぞ思立給ける。
同年五月に、小松大臣宿願也とて、公達引具し奉り熊野参詣あり。精進日数を重つゝ、本宮に著給(たま)ひて、証誠殿の御前に再拝し啓白せられけるは、帰命頂礼(きみやうちやうらい)大慈大悲証誠権現、白衣(はくえ)弟子平重盛(しげもり)驚奉、申入心中の旨趣を聞召入(きこしめしいれ)しめ給へ、父相国禅門(しやうこくぜんもん)の体、悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして動すれば君を悩し奉る、重盛(しげもり)其長子として頻(しきり)に諌を致と云共、身不肖にして不(二)敢服膺(一)、其振舞を見に、一期の栄花猶危、枝葉連続して親を顕し名を揚ん事難し、此時に当て重盛(しげもり)苟も思へり、憖に諂て世に浮沈せん事、敢良臣孝子の法に非ず、不(レ)如名を遁れ身を退て、今生の名望を抛て、来世の菩提を求んにはと、但凡夫の薄地、是非に迷が故に、猶未志を不(レ)恣、願は権現金剛童子、子孫の繁栄絶ずして、仕て朝庭に交るべくは、入道の悪心を和て、天下安全を得せしめ給へ、若栄耀一期を限、後毘恥に及べくは、重盛(しげもり)が運命を縮て、来世の苦輪を助給へ、両箇の愚願偏(ひとへ)に冥助を仰ぐと、肝胆を砕て祈念再拝し給ふにも、西行法師が道心を発しつゝ、諸国修行に出るとて、賀茂明神(かものみやうじん)に参つゝ、通夜(有朋上P356)して後世の事を申けるにも、流石(さすが)名残(なごり)惜くて、
  かしこまる四手に涙ぞ係りける又いつかもと思ふみなれば K070 
と読て、涙ぐみたりけん事、急度思出給(たま)ひつゝ、袖をぞ湿し給ける。彼は諸国流浪の上人也、命あらば廻り会世も有ぬべし。是は最後の暇を申給へば、今を限の参詣也、さこそ哀れに覚しめしけめ。筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)
P0261
御供に候ひけるが、奉(レ)見けるこそ奇けれ。大臣の御後より、燈炉の火の如くに、赤光たる物の俄(にはか)に立耀ては、ばつと消え、ばと燃上りなどしけり。悪き事やらん吉事やらんと胸打騒思けれども、人にも語らず、左右なく大臣にも不(レ)申、御悦の道になり給。音無の王子に詣給たりけるに、清浄寂寞の御身の上に、盤石空より崩係るとぞ、大臣うつゝに見給ける。岩田川に著給(たまひ)て、夏の事也ければ、河の端に涼み給ふ。権亮少将已下、公達二三人河の水に浴戯れて上給へり。薄あほの帷を下に著給へるが、浄衣に透通て、諒闇(りやうあん)の色の如くに見えければ、貞能(さだよし)是を見咎て、公達の召れたる御帷浄衣に移て、などや忌敷覚候、可(レ)被(二)召替(一)と申ける。次を以て証誠殿の御前にて、念珠の時、御後に照光し事、有の儘に申ければ、大臣打涙ぐみ給(たまひ)て、重盛(しげもり)権現に申入旨有き。御納受(ごなふじゆ)あるにこそ其浄衣不(レ)可(二)脱改(一)とて、是より又悦の奉幣あり。人々奇とは思ひ(有朋上P357)けれども、其御心をば知ず、下向の後幾程なくて、後に悪き瘡の出給たれども、つや/\療治(りやうぢ)も祈誓もなかりけり。
S1103 旋風事
六月十四日、旋風夥吹て、人屋多く顛倒す。風は中御門、京極の辺より起て、坤の方へ吹以て行。平門棟門などを吹払て、四五町十町持ち行て抛などしける。上は桁梁垂木こまひなどは、虚空に散在して、此彼に落けるに、人馬六畜多く被(二)打殺(一)けり。屋舎の破損はいかゞせん、命を失ふ人是多し。其外資財雑具、七珍万宝の散失すること数を知ず、これ徒事に非とて御占あり。百日の中の大葬白衣(はくえ)の怪異、又天子の御慎(おんつつしみ)、殊に重禄大臣の慎、別しては天下大に乱逆し、仏法(ぶつぽふ)王法共に傾、兵革打続、飢饉
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疫癘の兆也と、神祇官(じんぎくわん)、並陰陽寮共に占申けり。係ければ、去にては我国今はかうにこそと上下歎あへり。
S1104 大臣所労事(有朋上P358)
小松殿(こまつどの)の労、日に随て憑なき由聞ければ、入道殿(にふだうどの)より盛次を使にて、被(レ)仰けるは、御所労日にそへて大事になる由承る、心苦こそ存侍れ、何事にても御意得ある人の、いかに今まで療治(りやうぢ)はなきやらん、親に先立は不孝とこそ申侍、今日明日とも知ず老たる父母を残留めて、歎思はん事罪深かるべし、此間唐より目出(めでた)き医師の渡て、今津に著て候ふなる、折節(をりふし)然べき御運と覚え、即彼使者に具足し進すべけれども、先案内を申也と云はれたり。内府は病の床に臥て、世に侘しげに御座(おはしまし)けるが、入道殿(にふだうどの)に最後の対面の由思はれけるにや、人に扶起されて、烏帽子(えぼし)直垂にて、盛次に出合、返事被(レ)申たり。療治(りやうぢ)の事畏承候畢ぬ。尤御命に可(レ)随、但今度の労旁存ずる旨あるに依て、殊に不(レ)加(二)医療(一)、其故は重盛(しげもり)去五月に、熊野参詣して、権現に申請る旨侍き、厳重の瑞相等ありし上、今此労を受、御納受(ごなふじゆ)の故と存ず、神慮の御計凡夫の是非に不(レ)及歟、老少不定の世の習、老たる残置奉る、実に痛敷存といへ共、親に先立ためし重盛(しげもり)一人に不(レ)限、前後相違の国、本より存処なれば、強に歎思召(おぼしめす)べきに非、其上命は天の与る事なれば、必しも治術に依べからざるか。重盛(しげもり)保元平治の合戦には、命を捨て矢前(やさき)に立て振舞しかども、矢にも中らず、剣にも伐れずして、今に命を持てり。然而今年が一期の限、生涯の終りにこそ侍らめなれば、惜とも(有朋上P359)すまふとも難(レ)叶事に侍。昔漢高祖は三尺の剣を以て、諸侯を制し天下を治め
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けれども、淮南黥布を討し時、中(二)流矢(一)蒙(レ)疵、命を亡さんとせし時、高祖后呂太后、医師を迎て是を見す。医の云、五百斤の金を賜て御疵を癒さんと申しに、高祖宣く、我項羽と合戦する事八箇年の間、七十五度、去ども命を全して諍勝天下を治き。而に今天の命に背に依て被(二)此疵(一)、命は即天の与にあり、天の心を知ずして、療治(りやうぢ)を加と云とも、扁鵲何の益かあらん。但かくいへば、金を惜に似たりとて、五百斤の金をば医師に給りけれども、療治(りやうぢ)をばせずして終に失にけり。先言耳にあり、今以て甘心す。重盛(しげもり)苟も九卿に列し、三台に昇る、其運命を計るに、以て天の心にあり、争か天の心を不(レ)察して、愚に医療を致ん、況又所労若定業たらば、加(二)療治(りやうぢ)(一)とも可(レ)無(レ)益、もし又非業たらば自然に癒る事をうべし。彼耆婆が医術及ずして、釈尊涅槃に入給き。是則定業の病、癒ざる事を示さんがためなり。治するは仏体也、療するは耆婆也。定業猶医術にかゝはるべくは、豈釈尊入滅あらんや、定業治するに不(レ)足旨明けし。然れば重盛(しげもり)が身非(二)仏体(一)、名医亦不(レ)可(レ)及(二)耆婆(一)、仮令四部の書を鑑て、百療に長ずと云とも、争か有待の依身を救療せん、仮令五経の説を詳して、衆病を癒すと云とも、豈先世の業病を治せんや。若又彼治術に依て存命候はば、本朝の医道(有朋上P360)なきに似たり、若又彼医術効験なくは、面謁其詮なし。就(レ)中(なかんづく)重盛(しげもり)不肖の身ながら、天恩忝に依て、三公の一分をけがし、丞相の位に昇、本朝鼎臣の外相を以、異国浮遊の来客に見えん事、且は国の恥也、且は家の疵也、縦ひ我命を亡すと云とも、争か此国の恥を顧ざらん、彼につけ是につけ、其事有べからざる由を申べしとて、年来の侍に向給(たまひ)て、
P0264
殊に礼儀し給ければ、盛次泣々(なくなく)罷出ぬ。入道殿(にふだうどの)に此由こま/゛\と申ければ、力及給はず。其後大臣は出家し給(たまひ)て、後世菩提の御勤より、外他事なかりける程に、終に八月一日に薨給にけり。生年四十三。五十にだにも満給はず、惜かるべき御命也。入道の老の歎申も愚也。実にさこそは思給けめ、人の親の子を思習、愚なるだにも悲し。況や当家の棟梁、朝廷の賢臣にて御座(おはしまし)しかば、恩愛の別と云家の衰微と云、争か歎悲給はざるべき。されば入道は内府が失ぬるは、併運命の末に成にこそと、万あぢきなし、いかでも有なんとぞ宣(のたまひ)ける。凡此大臣文章うるはしくして、心に忠を存、才芸正しくて詞に徳を兼ねたりければ、世には良臣を失へる事を憂ふる、家には武略の廃する事を歎く。心あらん人誰か実に嗟歎せざらん。(有朋上P361)
S1105 燈炉大臣事
此大臣、二世の悉地をなさん為に、霊神霊社に志を運、仏法僧(ぶつぽふそう)宝に首を傾け給けり。さればにや先祖に拝任の例なかりける、大臣の大将を極て、丞相の位に登給へり。親に先立御歎ばかりや御心に懸給けん、今生の栄花一として闕給はず、又後生の苦を悲みて、来世の営み他事なかりける。其中に難(レ)有事と世に聞えけるは、大臣の常に住給ける所をば、東へ十二間、南へ十二間、西へ十二間、北に十二間の屋を立て、四方に四十八の間を点じ、一方の十二間に、十二光仏を一体づつ奉(レ)立たれければ、四方に四十八体の、十二光仏御座(おはしまし)けり。其御前ごとに常燈を燃されければ、四十八の燈炉あり。晴夜の星の隈もなく、沢辺の蛍に似たりけり。上は二十歳下は十六歳、色深く身〔に〕盛に、姿人に勝形類なき美女を四十八人(しじふはちにん)選て、常燈に一人づつ付給、油を添燈を挑てぞ置れける。齢二十にも余ければ、取
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替取替居られけり。日没の時に成ければ、四十八人(しじふはちにん)の女房達(にようばうたち)、衣装花を折、蘭麝の芳を新にして、日没静に礼讃し、念仏貴く唱つゝ、四十八間をぞ廻られける。念仏礼讃終りぬれば、彼女房達(にようばうたち)六人づつ、番を結て、鼓銅■子(くどうばつし)をはやしつゝ、今様謡て、又彼四十八(有朋上P362)間をぞ廻りける。
  心の闇の深きをば、燈篭の火こそ照なれ、弥陀の誓を憑身は、照さぬ所はなかりけり  K071 
と、別の詞を交へず、是ばかりを折返々々謡はせて、我身は中台に座し給(たま)ひ、是をぞ被(二)聴聞(一)ける。是や此極楽世界の菩薩聖衆の、弥陀覚王に奉仕して、或は説法化行し、或妓楽歌詠して、仏の化儀を助らんも、角やと思知れたり。余所迄も哀に貴く覚つゝ、身の毛も竪ばかりなり。係し故に此大臣をば、異名に燈篭の大臣とぞ申しける。
S1106 育王山送(レ)金事
我朝の三宝に、財宝を抛ち給のみに非、異国の仏陀にも志をぞ運給ける。奥州(あうしう)知行の時、気仙郡より金〔千〕三百両の金を進たりけるを、妙典と云唐人の、筑紫に有けるを召て、百両の金を賜て仰けるは、千二百両の金を大唐へ渡べし、其内二百両をば育王山の衆徒に与へ、千両をば帝に献て、当山に小堂を建立(こんりふ)して、供米所を寄進せられ、重盛(しげもり)が菩提を吊て給るべしと可(レ)申とて、檜木材木一艘漕渡べき由を下知し給ければ、妙典承て、材木砂金取具して、事故なく渡唐して、二百両を僧衆に施て、千両を帝に献じて事の子細を奏けれ(有朋上P363)ば、御門其深き志を随喜して、一塵(いちぢん)の送物猶以て黙止がたし、況千金の重宝をやとて、即檜木の材木を以て宝形作の御堂を立て、五百町の供米田を彼育王山へぞ寄られける。依(レ)之(これによつて)
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当山の禅侶、其志の真実なる事を感じて、始には息災の祈誓しけるが、薨給ぬと聞て後は、大日本国武州太守、平重盛(しげもり)神座と過去帳に被(レ)入て、読上奉吊なるこそ哀なれ。此大臣の失給ぬるは、平家の運尽ぬるのみに非ず、為(レ)世為(レ)人にも悪かるべし、入道の横紙を破給をも、直し被(レ)宥しかばこそ穏くても有つるに、こは浅増(あさまし)き事かなとぞ、上下歎ける。加様に事に触て、思慮深く、君父に仕るに私なし、賢き計をのみし給けるに、小松殿(こまつどの)常に被(レ)仰けるは、重盛(しげもり)一期の間、さしたる不覚なし、但経俊を失たりし事こそ、思慮の短至り永不覚と覚しか。
S1107 経俊入(二)布引滝(一)事
譬へば小松殿(こまつどの)、布引滝為(二)遊覧(一)御参あり、景気実に面白し。山より落岩波は、糸を乱せるかと疑れ、岸にたゝへたる淵水は、藍を染かとあやまたる。泉の妙美井揚ざれど、影涼くぞ思召(おぼしめし)ける。小松殿(こまつどの)被(レ)仰けるは、滝壺覚束(おぼつか)なし、底の深さを知ばや、此中に誰か剛者(有朋上P364)挿絵(有朋上P365)挿絵(有朋上P366)のしかも水練あると尋給ければ、備前国住人難波六郎経俊進出て、甲臆はしらず候、滝壺に入て見て参らんと申。然るべしとて免されたり。経俊は紺の■(したおび)かき、備前造の二尺八寸の太刀随分秘蔵したりけるを脇に挟で、髪を乱してつと入、四五丈もや入ぬらんと思程に、底にいみじき御殿の棟木の上に落立たりけるが、腰より上は水にあり、下には水もなし、穴不思議と思ながら、さら/\と軒へ走下たれば、水は遥(はるか)に上にあり、こは何とある事やらんと、胸打騒ぎけれ共、心をしづめてよく見んと思て、軒より庭に飛下、東西南北見廻ば、四季の景気ぞ面白き。東は春の心地也、四方の山辺も長閑にて、霞の衣立渡り、谷より出る鶯も、軒端の梅に囀、池のつらゝも打解て、岸の青柳糸乱、松に懸れる藤花、春の名残(なごり)も惜顔なり。南
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は夏の心地也、立石遣水底浄、汀(みぎは)に生る杜若、階の本の薔薇も、折知がほに開けたり。垣根に咲る卯花、雲井に名乗杜鵑、沼の石垣水籠て、菖蒲(あやめ)みだるゝ五月雨に、昔の跡を忍べとや、花橘の香ぞ匂、潭辺に乱飛蛍、何とて身をば焦すらん、梢に高く鳴蝉も、熱さに堪ぬ思かは。西は秋の心地也、萩女郎花花薄、枝指かはす籬の内、朝は露に乱つゝ、夕は風にやそよぐらん、梢につたふ■(むささび)、庭の白菊色そへて、窓の紅葉々濃薄し、妻喚鹿の声すごく、虫の怨も絶々也。北は冬の心地(有朋上P367)なり、木々の梢も禿にて、焼野の薄霜枯ぬ、降積雪の深ければ、言問道も埋れぬ、池の汀(みぎは)に住し鳥、去てはいづくに行ぬらん、峯吹嵐烈しくて、檐の筧もつらゝせり。庭には金銀の沙を蒔、池には瑠璃のそり橋、溝には琥珀の一橋を渡し、馬脳の石立、珊瑚の礎、真珠の立砂、四面を荘れり。経俊立廻て、穴目出、是やこの費長房が入ける、壺公が壺の内、浦島が子が遊けん、名越の仙室なるらんと、最面白思つゝ、暫たちたりけれ共、如何にととがむる者もなし。良立聞ば、ほのかに機織音のしければ、太刀取直して、声を知るべに内へ入見れば、年三十計なるが、長八尺も有らんと覚ゆる女也。経俊には目も懸ず、機を操て居たりけり。難波六郎問けるは、是はいづくにて侍るぞ、いかなる人の栖ぞと云ば、女答云、是は布引の滝壺の底、竜宮城也、あやしくも来者哉と云て、又も云はざりけり。経俊浅間しと思て御所の上に飛上り、棟木の上に立たれば、腰より上は水也けり。力を入て躍たれば、水の中に入、暫有て滝壺へ浮出たり。小松殿(こまつどの)待得給(たまひ)て、いかにや/\と問給へば、経俊有の儘にぞ語りける。詞未
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をはらざりけるに、滝の面に黒雲引覆、雷鳴あがりて大雨降、いなびかりして目も開きがたし。経俊は腹巻に太刀をぬき、小松殿(こまつどの)に申けるは、我は必ず雷の為に失なはれぬと覚侍り、程近く御渡あらば御あやまちもこそあらん(有朋上P368)か、少し立さらせ給(たま)ひて、事の様を御覧候へと申せば、実にさるべしとて、二町計を隔て見給へば、黒雲経俊を引廻し、雷はたと鳴かとすれば、又雷の音にはあらで、はたと鳴おとしけり。やがて空は晴にけり。其後小松殿(こまつどの)人々相具し給(たまひ)て、近く寄て見給ければ、経俊は散々(さんざん)にさけきれて、うつぶしに臥て死にけり。太刀には血付て、前の猫の足の如なる物を切落したり。係ければ、小松殿(こまつどの)常に物語(ものがたり)し給けるは、是程の大剛の者にて有けるを、思慮なく其身を亡したる事、我一期の不覚也とぞ仰ける。智者の千慮有(二)一失(一)と云は、加様の事にや。小松殿(こまつどの)薨じ給(たまひ)て後は、前(さきの)右大将(うだいしやう)の方様の者は、世は此御所へ進りなんとて悦けり。穏かなるまじき事とも知らず、加様にのゝしりけるこそおろかなれ。
S1108 将軍塚(しやうぐんづか)鳴動事
七月七日申刻に、南風俄(にはか)に吹て、碧天忽(たちまち)に曇り、道を行者夜歩に似たりければ、人皆くやみをなす処に、将軍塚(しやうぐんづか)鳴動する事一時が内に三度也。五畿七道(ごきしちだう)悉(ことごと)く肝をつぶし、耳を驚す。後に聞えけるは、初度の鳴動には洛中九万余家(よか)に皆聞え、第二度の鳴動には、大和、山城、近江、丹波、和泉(いづみ)、河内、摂津難波浦まで聞えけり。第三度の鳴動は、六十六箇国(有朋上P369)に漏なく聞えけり。昔よりたびたびの鳴動有しかども、一度に三度是ぞ始也ける。東は奥州(あうしう)の末、西は九箇国のはてまでも、聞えけるこそ不思議
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なれ。
同日の戌刻に、たつみの方より地震して、乾を指てふり持行。是も始には事なのめ也けるが、次第につよく振ければ、山傾て谷を埋、岸くづれては水をたゝへ、堂塔坊舎も顛倒し、築地たて板も破れ落て、山野の獣上下の男女、皆大地を打返さんずるにやと心うし。谷より落る滝津瀬に、棹さし渡し煩ふ筏師の、乗定めぬ心地して、良久しくぞゆられける。
S1109 大地震事
同年十一月七日戌刻に又大地震あり、夥しとも云計なし。時移る迄振ければ、唯今地を打返すべしなど申て、貴賤肝心を迷す。明る八日、陰陽寮安部泰親院参(ゐんざん)して奏聞しけるは、其夜の大地震、占文の指所不(レ)斜(なのめならず)重く見え侍り、世は唯今失なんず、こはいかゞ仕るべき、以外に火急に侍とて、軈はら/\と泣けり。伝奏の人も法皇も大に驚て思召(おぼしめし)けれ共、さすが君も臣も差もやはと覚しける。若殿上人(てんじやうびと)などは、穴けしからずの泰親が泣様や、何事の有べきぞとて笑人も多かりけり。法皇の仰には、天変地夭は常の事也、今度(有朋上P370)の地震強に騒申事、異なる勘文ありやと御気色(おんきしよく)あり。泰親勅問の御返事(おんへんじ)には、三貴経の其一、金貴経の説に云、去夜戌時の地震年を得ては年を不(レ)出、月をえては月を不(レ)出、日を得ては日を不(レ)出、不(レ)得ば時ばかりと見えたり。其中に此は日をえては、日を不(レ)出と候へば、遠は七日、近は五月三日に、御大事(おんだいじ)に及べし、法皇も遠旅に立せ御座(おはしま)し、臣下も都の外に出給べし、此事もし一言違ふ事候はば、御前に於て相伝の書籍を焼失ひ、泰親禁獄流罪、勅定に随べしと、憚処もなく、
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泣々(なくなく)奏聞しければ、旁御祈(おんいのり)始られけり。去共七日の地震、十三日までは、七箇日にあたる、其間異なる事なし。斯りければ、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有て、泰親御前にして、荒言を吐き、叡慮を奉(二)申驚(一)条奇怪也、遠は七箇日の御大事(おんだいじ)たる由、占文其効なき上は、速に土佐の畑へ可(レ)被(二)流罪(一)と定られて、既(すで)に追立の官人に仰付らるべしとぞ定りける。去(さる)程(ほど)に同(おなじき)十四日、太政(だいじやう)入道(にふだう)福原より数千騎(すせんぎ)の軍兵を相具して上洛、何と聞分たる事はなかり侍けれ共、京中貴賤上下東西に走り迷て物騒し。或は朝家を可(レ)奉(レ)怨とも聞えけり。或は公卿殿上人(てんじやうびと)を流し失べしとも私語(ささやき)けり。其口さま/゛\也。当時の関白(くわんばく)松殿ひそかに院参(ゐんざん)して奏申されけるは、清盛(きよもり)入道が上洛は、基房事に逢べき由、内々告知する事侍り、其故は、去嘉応に、小松の資盛が乗会の事に、入道憤て無なる(有朋上P371)べきにて侍りけるを、父を内府が様々に教訓し申けるに依て、事故なく罷過候けり、悪き事を制し諌侍りし内府は薨じ侍りぬ、今は憚る処なく其遺恨をむくはんとにて候也、いかが仕り侍るべき、朝夕に拝し進する君にも奉(レ)別、住馴し都を出されて、知ざる旅にさすらはん事こそ、心うく思侍れ、御前に参ぜん事も是を最後と存ずればとて、はら/\と泣給(たま)ひ、袖を顔にあて給へば、法皇も叡慮ものうげにて、臣下何の咎有てか、さほどの罪に行なはるべき、去ば朕とても安穏なるべしとも不(レ)覚とて、又竜眼より御涙(おんなみだ)を落させ給ふ。関白殿(くわんばくどの)此御有様(おんありさま)を見進らせ、不(レ)堪思召(おぼしめし)ければ出給ぬ
S1110 静憲法印勅使事
去(さる)程(ほど)に十五日朝、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が子静憲法印を御使にて西八条(にしはつでう)へ遣さる。勅定には入道(にふだう)相国(しやうこく)に
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云べき様は、凡近年朝廷も不(レ)静、人の心も不調にして、世間も落居せぬ様に成行事、総別に付て歎思召(おぼしめ)せども、入道さて御座(おはしま)すれば、万事は憑思召(おぼしめし)てこそ有に、天下を鎮迄こそなからめ、事に触て嗷々の体御意を得ざる処に、剰朕を恨むなど聞召はいかゞ、こは何事ぞ人の中言歟、入道上洛の後、武士家々に充満て、京中の貴賤安堵せざ(有朋上P372)るの由、其聞あり、軍兵を引率の条、其故を知召す、異なる子細なくば、家人の騒動を可(レ)被(レ)鎮歟、若又存知の旨あらば、何事も可(レ)及(二)奏聞(一)、如(二)風聞(一)、太不(レ)可(レ)然と仰遣す。法印西八条(にしはつでう)に行向て、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞を以て此由披露したりけれ共、敢以て御返事(おんへんじ)なし。更闌日傾て、已に晩頭に及ぶ間、季貞を尋出して、御使今は罷出なんと云はせたれ共、猶以て出給はず、良久有て、子息左衛門督知盛を以て、院宣畏承候畢。抑浄海老衰て、諸事不覚なれば、院中の出仕無(レ)益、さては別に子細候はずと申たり。
S1111 浄憲与(二)入道(一)問答事
法印は、さればこそ人の云に合て、穴おそろしやと思て、震々出給けるが、立様に取敢(とりあへ)ず、高らかに、賢相明徳跼(レ)天と申、本文はいかにとて出給(たま)ひぬ。入道此句にや驚給けん、急ぎ中門に出て、遥(はるか)に帰たりける法印を呼返す。法印は我も四十二人の罪過の内に入たるよし、内々聞に、新(しん)大納言(だいなごん)の様に引張などせんずるにやと心迷しければ、足振て縁の上へ昇り煩給へり。震々中門の廊に御座(おはしまし)けれ共、うつゝ心なし。入道大に嗔れる体にて、爰(ここ)にて対面せられたり。宣(のたまひ)けるは、やゝ法印御房、御辺(ごへん)は物に心得(こころえ)給(たまひ)て、成親卿(なりちかのきやう)が謀叛の時、(有朋上P373)鹿谷の御幸をも申止られたりしと承れば、呼返奉て申候ぞ、臣下の身として争か背(二)明王(みやうわう)勅(一)侍るべき、而を自今以後は院中の奉公思止る由を申候事は、浄海
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君を恨進事一方ならず、入道君の御為に何事か御後めたなき事候、保元平治の合戦に、身を捨て、先をかけ、御命に替り進せて、逆臣をふせぎ、君の御世に成参せたる事、人の皆知たる事なれども、度々の奉公を思召(おぼしめし)忘て、入道が事とだに申せば、何事も六借事と思召(おぼしめさ)れたり。依(レ)之(これによつて)又云甲斐なき近習の者共の、勧申事に著せ給(たまひ)て、成親已下の輩に仰付て、入道を傾けんとの御気色(おんきしよく)あり。然而家門の運尽ざるによりて、今に御本意をとげさせ給はず、入道希有にして世に立廻るといへども、有てなきが如し。第一の遺恨と存ずる間、君を恨進する事僻事にて侍か、漢家本朝明王(みやうわう)の臣下を憐給事ためしおほし。吾朝には、冷泉院御宇(ぎよう)に、東夷朝家を背しかば、伊予守源(みなもとの)頼義(らいぎ)勅を奉て、貞任を攻しに、頼義(らいぎ)が末子に頼俊と云ける者、よき敵其数余多(あまた)討て、毎日に退かず進戦ける程に、流矢に中て亡にけり。頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)いさめる心を惜み、永き別を悲て、天に仰で歎由聞召ければ、帝御自筆に金泥を以て、屍骸成仏(じやうぶつ)の真言をあそばして、此を亡骨に具して墓に埋ば、其亡骨必成仏(じやうぶつ)すべし、天子の御志幽霊が成仏(じやうぶつ)、頼義(らいぎ)争か悦ざらんと、勅書を遊して奥州(あうしう)へ送下させ給たりけれ(有朋上P374)ば、父頼義(らいぎ)忽(たちまち)に別離の歎を止て、勅命の忝に、歓喜の涙を流しけり。
後三条院(ごさんでうのゐんの)御宇(ぎよう)に、江中納言親信卿の母儀、長病に臥て三年、死たるにも非、生たるにも非、子孫眷属日夜に愁歎し、朝暮に涙を流すよし聞食(きこしめし)ければ、帝大に悲みまし/\て、彼母儀病悩の間は、雲の上に物の音を鳴らすべからずと御諚有ければ、一千日に及まで、管絃を奏する人なかりき。
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白川院【*白河院】(しらかはのゐんの)御宇(ぎよう)には、承暦元年の春、藍婆鬼と云鬼、京中に充満て、十歳以前の小者、十が八九は取失はれければ、上下男女家々の歎親々の悲、帝聞食(きこしめし)、其春は子日の御会なかりけり。
堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)には、御随身清房が、三黒と云小馬を賜て、庭乗仕りける程に、沛艾の馬に悪様に乗つゝ、落て則死ければ、帝耄したる老父が盛年の子を先立て、左こそ歎思らめ、且は清房が没後をも弔ひ、且は老父が心をも慰とて、河内国に所領一所を給りたる事も候けり。
鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)には、顕頼民部卿、指たる忠臣迄は御座ざりけれ共、昇霞の煙哀也とて、御立願の八幡詣、御代官を以てはたさせ御座(おはしまし)けり。
同御宇(ぎよう)に、忠貞宰相闕国有しかば、宰相大に歎つゝ、都を出て片辺に引籠たりければ、帝遠山の篭居、最不便也とて、御衣を脱で送給たりければ、忠貞卿老眼に紅の涙を流して、持仏堂に有ながら、発願持経より先に、先王宮に向て、三度まで君を拝しけるとなり。又唐太宗文(有朋上375)皇帝は、剪(レ)鬚焼(レ)薬、功臣李勣賜、含(レ)血吮(レ)瘡、戦士思摩で助けり。又魏徴大臣と云臣下に後れ給(たまひ)て、御歎の余りに、
  昔殷宗夢中得(二)良弼(一)、今朕夢〔の〕後失(二)賢臣(一) 
と云碑文を、自書て、魏徴が廟に立て悲給けり。凡明王(みやうわう)の臣下の歎を慰訪給例、不(レ)知(二)其数(一)。以(レ)是父よりも眤、子よりもなつかしきは、君と臣との道とこそ承候へ、口惜こそ候しか、重盛(しげもり)が中陰未四十九日も過ざるに、八幡の御幸有て御遊(ぎよいう)候けり、法住寺(ほふぢゆうじ)の御会も候けり、哀不便の仰こそなから
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め、人目の恥かしさ、入道が伝承らん事、などか御かへりみもなかるべき。御房も御存知候らん、小松内府は其器こそ愚に候しかども、勅定には忠を抽で、志を運き。されば保元平治の合戦にも、命をば為(レ)君軽じ、屍をば戦場に捨んとこそ挙動侍しか、及(二)天聴(一)人口にもほめられき。其後大小度々の騒動も、毎度に選れ進せて、院宣と申勅命と申、旁御感に不(レ)預と云事なし。されば越前国を重盛(しげもり)が給し時は、子々孫々(ししそんぞん)までとこそ被(二)仰下(一)しか、それに重盛(しげもり)逝去の後、即被(二)召上(一)之条、死骸何の過怠か候。其外中納言の闕の侍し時、二位中将殿(ちゆうじやうどのの)御望候の間、入道再三執申しに空くして、関白殿(くわんばくどの)の御子息(ごしそく)、三位中将殿(ちゆうじやうどの)、非分になられたりし事、縦入道何なる非拠を執申と(有朋上P376)も、一度はなどか御許容なかるべき。況家の嫡々と云位階の次第と云、旁御理運にて御座を、被(二)引違(一)し事、老後の所望面目を失侍き。二位中将殿(ちゆうじやうどの)も申かなへんずらんと思給へばこそ、入道をば被(二)憑仰(一)けめ、入道も又さり共(とも)とこそ存じて奏申しに、不(レ)叶しかば、口惜こそ存しか。但し是は君の御計のみに非、執申人余多(あまた)侍りけると承及き。次に近習の人々、此一門を亡さんと相はからはれける、是又私の計にあらず、叡慮の趣を守る故也。いまめかしき申事には侍れども、縦入道何たる過誤り有共、七代迄は争か思召(おぼしめし)捨らるべき。其に入道既(すで)に七旬に及で余命幾ならず、一期の間にも、動すれば可(レ)被(レ)失御計に及申さんや。子孫相続して、一日片時召仕るべき事難し。凡は老て子を失は、朽木の枝なきに喩たり。内府におくるゝを似て、運命の末に望める事を且知れ候ぬ。去ばこそ天気の趣も、現申事も軽く、人望にも背き侍らめ。何なる奉公
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を致とも、叡慮に応ぜん事よもあらじ。此上は幾ならぬ身心をつひやしても、何にせんなれば、兎ても角ても侍なん。悪事不孝の子すら別は悲事ぞかし。何に況重盛(しげもり)は奉公と申才芸と申、至孝と云心操と云、礼儀よく治て、人是を軽ぜず、永き別の習なれば、再相見べきにあらず、恩愛の慈悲骨髄に徹て悲こそ存ぜしに、老父が歎き思召(おぼしめし)よりて、などか一度の御憐なかるべき。(有朋上P377)されば院中の奉公無(レ)益に侍と、憚処なく被(レ)申ても、入道はら/\とぞ泣給ける。静憲法印も流石(さすが)哀にも覚え、又恐しくも有ければ、汗水になられにけり。此時には一言の返事にも及難かりける事ぞかし。其上我身も僧ながら近習の者也。成親卿(なりちかのきやう)已下の事も正く見し事なれば、我も其人数に思けがされて、唯今もいかなる目にかあはんずらんと、兎角案じ思けるに、竜の鬚を撫、虎の尾を蹈心地せられけれ共、法印もさる人にて、騒ぬ体にもてなして、答られけるは、誠に度々の御奉公不(レ)浅、一旦恨み申させ給ふ旨、御理と覚え侍り。其中に殊に親子恩愛の道は、老牛舐(レ)犢、牝虎含(レ)子志、水畜(二)淵魚(一)野獣山禽に至まで、情深しと申す。況朝家の寵臣、明徳賢才の御子を先立御座(おはしま)する、老相の御歎、余所の袂(たもと)も皆絞り煩てこそ候しかとて、法印も良久泣給へり。去て法印涙を押のごひ、袖かき合て申されけるは、不肖の身を以て、御返報に及条、其恐不(レ)少といへども、且は仙洞に御過なきを、人の悪様に申入ける事を、陳開て、御鬱念をも謝し申べし。貞観政要の裏書に、思合る事あり。仙源雖(レ)澄、烏浴(二)濁流(一)とて、仙宮より流出る河は、仙人集て仙薬を洗すゝぐ故に、下流を汲者までも必長命也。而を其河
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の中間に、陰山の烏其流をあぶる時、水還て毒と変ずといへり。其様に法皇の政徳は、仙宮の水の如く、万庶を哀で其源を澄し御座(有朋上P378)せども、執申人下流を濁して、入道殿(にふだうどの)に悪様に申入たりと覚侍り。努々御恨あるまじき御事なり。但何様にも院中の御奉公を、思召(おぼしめし)止らん事、能々御思慮有べき也。世の為御為に、つら/\愚案を廻すに、明王(みやうわう)為(二)一人(一)不(レ)枉(二)其法(一)、日月為(二)一物(一)不(レ)暗(二)其明(一)と云文あり。通三の主明一の君、争御徳政に私を存御座(おはします)べきなれども、智者千慮有(二)一失(一)、愚者千慮有(二)一徳(一)と申事も侍ば、たとひ叡慮御あやまり有て、千万に一つ人望に背、法に相違する事侍ば、臣下の御身としては、何度も我御あやまりなき旨を陳じ可(レ)被(レ)申、是忠臣の法也。君雖(レ)不(レ)為(レ)君、臣以不(レ)可(レ)為(レ)臣といへり。其に小賢き申状恐なる事にては候へども、法皇は君なり、入道殿(にふだうどの)は臣也。下として上を奉(レ)恨、臣下として悩(レ)君給はん事、只仁義を忘れ給のみにあらず、恐くは天地の御とがめ不(レ)可(二)遁給(一)。世を不(レ)遁家を不(レ)捨して、居(レ)位貪(レ)禄ながら、御出仕を停止し給はん事、天地の御意計難。尚も能々御計ひあらば、且神明も納受(なふじゆ)をたれ、御家門繁昌の基にて侍るべし。抑承処の条々の御恨の事、先八幡宮の御幸は、哀なる御事にてこそ侍りしか。其故は、あへなくも、重盛(しげもり)に後れぬる事、朕一人が歎のみに非ず、臣下卿相(けいしやう)普天卒土、誰か愁へざらんや、金烏西に転じて一天暗く、邪風頻(しきり)に戦四海不(レ)静と、御定有て、日々夜々(よなよな)の御歎、今に未不(レ)浅、勅定に臨終いかゞ(有朋上P379)有けんと、御尋(おんたづね)候しかば、或雲客(うんかく)、其病患は悪瘡にて候ける間、瘡の習臨終乱れず、正念に住して、二羽合掌の花鮮に、十念称名の声絶
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ず、三尊(さんぞん)来迎の雲聳て、九品蓮台の往生とこそ見えて候しかと申せば、竜顔に御涙(おんなみだ)を流させ給のみに非ず、宮中皆袖を絞られて、当時までも折に随事に触ては、御歎の色ところせくこそ見えさせ給候へ。さて法皇の仰には、生死は定れる習、惜とも力なし、何事よりも心肝に銘じて浦山しき事は、往生極楽の一事也。入道も歎の中に嬉くこそ存らめ。熊野参詣の時申請る旨有とて、療治(りやうぢ)をもせざりけるも、はや此一大事に有けり。朕も熊野山に参て祈申たけれ共、道の程も遥也、人の煩とも成べし。つら/\案ずるに、同じ西方の弥陀にて御座(おはしま)せば、八幡宮へ参詣して、往生を祈申さばやと思召(おぼしめす)也。且は内府の為に、毎日に祈念する、念仏読経して、廻向も清浄の霊地にしてこそ、金をも鳴さめとて、七日の御参篭候ひき。是則内府幽儀の得脱、又大相国(たいしやうこく)の御面目、何事か過(レ)之侍べき。されば御中陰(ごちゆういん)終給なば、急ぎ御院参(ごゐんざん)有て、畏をこそ申させ給はざらめ、還て御恨にや及べき。仙源の水清けれども、山烏流を穢すと云たとへ、少も違はずと被(レ)申ければ、立腹なる人の習、心浅くして、入道袖かき合て、声を上てさめ/゛\とこそ泣給(たま)ひけれ。
次八幡宮の御遊(ぎよいう)とは、臨時の祭の事を悪様に申たるに(有朋上P380)こそ、是又竜楼鳳闕の御祈祷(ごきたう)に侍りき。其故は、去此八幡宮に怪異頻(しきり)に示しけるを、別当恐て護法を下し進せたりけるに、御託宣(ごたくせん)の御歌に、
  春風に花の都は散ぬべし榊の枝のかざしならでは K072 
と詠じて、畿内近国闇と成て、九民百黎山野に迷ぬべしと仰候けるを、法皇大に驚き思召(おぼしめし)て、臣下卿相(けいしやう)
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息災延命、洛中上中五畿七道(ごきしちだう)、安穏泰平の為に、三日三夜の御神楽の候し事、明王(みやうわう)明君の御徳政にこそ。洛中上下の為なれば、御家門の御祈(おんいのり)にも非や、故内府は大国までも聞え御座(おはしまし)し賢臣にて、常に国土安穏人民快楽と祈らせ給し事なれば、彼御神楽をば、小松殿(こまつどの)は草の陰にても、さこそ悦御座(おはしまし)けめと覚候。此上、なほ御不審相残らば、八幡の別当に御尋(おんたづね)あるべく候哉。次に越前国を被(二)召返(一)けん事は未(二)承及(一)、君思召(おぼしめし)忘させたるにや、便宜を以て急ぎ奏聞仕て、若子細あらば遂て可(二)申入(一)候。
次に二位中将殿(ちゆうじやうどの)御所望の事は、必しも入道殿(にふだうどの)の御子孫にても渡らせ給はず、強御憤(おんいきどほり)深かるべき御事ならず。去ば故小松殿(こまつどの)、並前(さきの)右大将殿(うだいしやうどの)などの御昇進の時は、理運数輩の人々を超越せられしか共、臣下も恐をなして申旨もなく、君も子細に不(レ)及御事とこそ承しか。其上叙位除目、関白殿(くわんばくどの)の御計なれば、誰か難(レ)申侍べき。縦又一度は君の御あやまりに渡らせ給とも、臣(有朋上P381)以不(レ)可(レ)不(レ)為(レ)臣と申、本文も候ぞかし。所詮御家門に於て、君のとかくなんと被(二)聞召(一)(きこしめさるる)事は、偏(ひとへ)に謀臣の凶害と覚候。信(レ)耳疑(レ)目俗弊なり。少人の浮言を信じて、まのあたり朝恩の他に異なるを蒙て、君を背奉らん事、冥顕に付て其憚不(レ)少。凡天心蒼々として、叡慮量り難し、定て其故ぞ候らん、下として上に逆る事、豈人臣の礼たらんや、能々可(レ)有(二)御思慮(一)、又仰の趣伺(二)便宜(一)て可(二)奏申(一)、さらば暇申てとて、法印座を立給ければ、入道高らかに、院宣の御使也、各礼儀申べしと宣ければ、侍諸大夫等、八十余人(よにん)有けるが、一同に皆庭上に下て門送す。法印最騒ぬ体にて、弓杖三杖ばかり歩出て、立帰て深く敬屈して立帰られて
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御座(おはしま)しければ、さのみは恐候とて、八十余人(よにん)皆縁の際に立帰る時、法印も歩給にけり。美々敷ぞ見えたりける。法印は穴いちじるしき人の心や、今朝の対面の遅さ無興さの有様(ありさま)に、唯今の泣様送礼の体、説法しすましたりと咲くぞ思はれける。法印出給ければ、入道も内に入給ぬ。さて人々申けるは、聞つるに合て、あはれ、さか/\しき人かな、是程に入道の泣口説給はんには、我等(われら)ならば院中の有事無事吐ちらして、追従してこそ出べきに、還て様々奉(二)教訓(一)、一々の返答文々句々、面白申されつる者かな、入道殿(にふだうどの)の日比(ひごろ)の御憤(おんいきどほり)事の外に蕩てこそ見え給(たま)ひつれ、三分が二は今の案にてこそ御座らめど(有朋上P382)も、時に臨で然べくも申つゞけ給たれば、邪雲も少晴給ぬらんと覚るにぞ目出けれと、悦人多かりけり。肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が、道理也、去ば社中に僧俗多き中に選れて、御使にも立られめとて褒たりける。
或本文云、君王治(レ)国、忠臣扶(レ)君、船能載(レ)棹、棹能遣(レ)船と也。此言思合られて哀也。静憲法印忠臣として、よく君を奉(レ)扶事こそ神妙(しんべう)なれと、口々にこそ感じけれ。時は十一月十五日夜の事也。法印は西八条(にしはつでう)の南門より出給へば、明月は東山緑の松の木の間よりこそ出たりけれ。法印の胸に籠れる心月は、三寸の舌の端に顕て、入道の心の闇を照し、中冬十五日の夜半の月は、蒼天の空に円にして、法印の帰る車を耀せり。牛飼既(すで)に車を遣んとしければ、法印宣様、車暫押へよ、夜陰の行は路次狼藉也、迎の者共を待べしとて、下簾を■(かかげ)て、今夜の月の隈なきに、旧詩を思出て、
  誰人(たれのひとか)隴外久征戎、何処庭前新別離、
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  不(レ)酔(二)黔中(一)争去得、磨囲山月正蒼々、 K073 
と詠じ終給はざる処に、迎の者ども出来れり。誰々参たるぞと尋給へば、金剛左衛門俊行、力士兵衛俊宗と、侍二人、烏黒なる馬に、白覆輪の鞍置て、漁綾の直垂の下に、火威の腹巻月の光に耀て、合浦の玉を瑩けるが如なり。市夜叉、滝夜叉とて、大の童のみめよきを二人、(有朋上P383)滋目結の直垂に、菊閉して、下腹巻に矢負たり。上下の弭に角入たる、滋藤の弓をぞ持たりける。下僧には、金力、上一、上万、金幢地、円覚、一夜叉、門能印、已上七人、此等も皆黒革威の腹巻に、手鋒長刀持ちたりけり。此静憲法印は、父信西入道の跡を遂、内典外典の学匠(がくしやう)、僧家俗家の才人にて、院内御気色(おんきしよく)も目出、上下万人誉を成、綺羅誠に神妙(しんべう)にして、言語殊に鮮也。召仕給ける従類は、能も賢く力も人に勝れたりけり。
S1112 金剛力士兄弟事
 < 金剛左衛門、力士兵衛と云侍は、兄弟也。熊野生立の者、十八歳にして五十人が力持たりける、剛の者也。熊野に有りける時、或人南庭に池を堀けるに、大石を堀出せり。五十人して此石を引すてんとしけれ共、さらに動く事なし。大勢にて明日引べしとて人皆帰ぬ。其傍に僧坊あり。皆石とて十八〔歳〕になる児の有けるが思けるは、五十人して引ども動かぬは、人の弱か石の重歟覚束(おぼつか)なしとて、うらなしと云物をはきて庭に下、夜中に人にしられぬ様にて此石を引見れば、安々と動けり。去ばこそ石は軽かりけり。人の弱と思ければ、件の石を二段計引て行、或僧坊の門に引塞て置。明朝に坊主起て門を見れ(有朋上P384)ば、大石道を塞て可(二)出入(一)様なし。天狗の所為にやと身毛竪てこれを披露すれば、上下集て不思議の思をなす。金剛力士の所為歟、四天大王の態歟、又鬼神の集て引たるかとて見程に、庭のうらなしの跡あり。跡をとめて行て見れば、皆石と云児の坊へ尋ね至れり。縁の上にうらなしあり。妻戸を開て児を見れば、
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兄弟二人の児あり。兄は皆石十八、弟は皆鶴十五になる。皆鶴は未臥たり、皆石は唯今起たる体にて、寝乱髪ゆり懸て琴を調て居たり。文机には、史記、文選、歌双紙など並置たり。美目貌厳して、西施が顔色にも過てあてやかなり。帰鴈のつらをなせる柱の上に、白く細やかなる手付、衣通姫の容貌潔し。去ば彼やさしき姿にも、五十人が力に勝て、一人して二段計大石を引ける事よと不思議也。千字文と云文に、器欲(レ)難(レ)量といへり。実に稚けれども力つよき者も有けり。鉄は小〔に〕して強き万物に勝、竜子は小なれ共雲を起す事も大竜に同じ。伽那久羅虫はすはう螺の下にかくれて大木を砕く風を起す。栴檀は二葉なれども四十里の伊蘭を消し、天の甘露は少しきなれ共諸病を愈す。火は芥子計なれども一切の物を亡し、仏は■蒭の勢に御座共、一切衆生の導師たり。皆石十八歳の齢にて五十(ごじふ)余人(よにん)が力を持たりけり。器欲(レ)難(レ)量と云も理也など云沙汰しける折節(をりふし)、静憲法印熊野参詣の次に、此児の(有朋上P385)事を聞給(たまひ)て、皆石皆鶴、兄弟二人を請出て見参し給たり。此児の師匠に、祐蓮坊阿闍梨(あじやり)祐金に対面して、此児童兄弟はいかなる人ぞと尋ね給へば、祐金答申て云、母にて侍し者は、夕霧の板とて山上無双の御子、一生不犯の女にて候し程に、不(レ)知者夜々(よなよな)通事有て儲たる子どもとぞ申侍し。其御子離山して、今は行方を不(レ)知と申す。法皇宣(のたま)ひけるは、美目よき同宿を尋る身にて侍、兄弟両人ながら静憲に賜候へかし。院内の見参にも入、所領官爵をも申て、人目よき様に扶持せんと所望し給へば、祐金阿闍梨(あじやり)老眼より涙をはら/\と流して、赤子の時より養育して、成人の今まで立離るゝ事候はず、十余年の芳契名残(なごり)実に惜く侍れども、彼等世にあらん事をこそ、神にも仏にも祈り申事なれば、然べき事にこそと悦て、二人の児を奉る。阿闍梨(あじやり)も又もと思ふ、見参も難(レ)叶ければとて、京まで二人を送けり。祐金暇申て帰り下るとて、児を左右の袂(たもと)にかゝへて申けるは、定めなき浮世の習は、風にちる花のためし、雲にかくるゝ月の理り、老少互に前後を知ざれ共、若きはさすが憑あり、祐金齢已に八旬に及、残月幾なし、是最後の別なり。後生菩提は助弔給へ
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とて衣の袖を濡しけり。二人の児は、住馴れしふる里も、山川遥(はるか)に立隔ぬ。父とも母とも深く憑て、十余年芳恩を蒙りし、師範の名残(なごり)も惜ければ、袖をし(有朋上P386)ぼりけり。さて祐金は熊野へ帰下、又児童は京都に留て、法印をぞ憑ける。後には元服(げんぶく)して、皆石は金剛左衛門、皆鶴は力士兵衛とぞ改名したる。兄弟共に大力也ければなり。金剛左衛門は、下針をも射る上手也ければ、異名には、養由左衛門共云。力士兵衛は射的の上手にて、百手の矢を以、的を州浜形に射成ければ、異名には州浜兵衛とも云けり。法印は弟子ながらも、子の如くに最惜して、一日も身を離たれず、殊に出仕交衆の時は、影の如くに身に随へて、此等二人を具せられぬれば、数十人の郎従を引率したる心地して、最憑しくぞ思れける。市夜叉、滝夜叉と云童も、二人ながら二十人が力あり。小法師原(ほふしばら)も一人当千(いちにんたうぜん)の奴原也ければ、法印何事か御座らんとて、迎に参たりけるなり。余所の人目までも、きら/\しくぞ見え給ふ。牛飼車を遣出して、御所へ仕候べきか、清水の御坊へかと申せば、法印は夜已に深更也、御所は定て御寝ぞ御座(ござ)あるらん、早旦に可(レ)参と仰ければ、小路きりに東山へぞ遣て行。雲井に照す月影は、寒行霜に隈もなく、鴨の河原に鳴千鳥、瀬々の波にぞまがひける。五更(ごかう)の空も黎明に、清水の坊に入給ふ。>


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十二

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遠巻 第十二
S1201 大臣以下流罪事
治承三年十一月十五日、入道奉(レ)恨(二)朝家(一)由聞えしか共、静憲法印院宣の御使にて、様々会釈申ければ、事の外にくつろぎ給たり。上下大に悦で、今はさしもやはと人々思被(レ)申けるに、四十二人の官職を止て、被(二)追籠(一)。その内参議皇太后宮(くわうたいごうぐう)権大夫兼右兵衛督(うひやうゑのかみ)藤原光能卿(みつよしのきやう)、大蔵卿(おほくらのきやう)右京大夫兼伊予守高階泰経朝臣、蔵人右少弁(うせうべん)兼中宮権大進藤原基親朝臣、以上三官被(レ)止。按察使大納言(だいなごん)資賢卿、中納言師家卿、右近衛権少将兼讃岐権守資時朝臣、大皇太后宮権少進兼備中守藤原光憲朝臣、已上被(レ)止(二)二官(一)。上卿は藤大納言(だいなごん)実国、職事左少弁(させうべん)行隆、別当平(へい)大納言(だいなごん)時忠とぞ聞えし。
当時関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)基房公〈 松殿と申 〉をば、太宰権師に奉(レ)移、筑紫へ奉(レ)流。住馴し都を別れ、悲き妻子を振捨、遠旅に出させ給ければ、係る浮世にながらへて何にかはせんと覚召、つや/\物も進ず、御命も危く聞えさせ給けるが、思召(おぼしめし)切せ給(たま)ひ、大原(おほはら)の本覚坊の上人を召して、淀に古川と云所にて、御出家(ごしゆつけ)(有朋上P388)受戒あり、御年三十五。世中御昌りにて礼儀よくしろしめし、曇なき鏡にて御座(おはしまし)つる御事をと、上下奉(レ)惜。入道は、出家の人をば、本の約束の国へは遣ぬ事にてある也とて、筑紫へはさもなくて、備前国湯迫と云所へぞ奉(レ)流ける。大臣流罪の事、左大臣蘇我赤兄、右大臣豊成公、左大臣魚名公、右大臣菅原、
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右大臣高明公、内大臣(ないだいじん)藤原伊周公等に至るまで六人也。されども清和(せいわの)帝御宇(ぎよう)、摂政(せつしやう)にて太政大臣(だいじやうだいじん)良房〈 忠仁公 〉白川殿〈 又染殿 〉小松帝御宇(ぎよう)、関白(くわんばく)にて太政大臣(だいじやうだいじん)基経、〈 昭宣公 〉堀川(ほりかは)殿と申より以来、帝皇廿四代、摂録十八代、摂政(せつしやう)関白(くわんばく)流罪の事是を始とぞ申ける。按察使大納言(だいなごん)資賢子息左少将通家孫、右少将雅賢三人京中を可(二)追出(一)由、博士判官中原章貞に被(二)下知(一)ければ、追立検非違使(けんびゐし)来て、遅々と責追けるこそいと悲けれ。恐しさの余に北の方に物をだにもはか/゛\しく不(二)宣置(一)、子孫引具して出給ふ。仮初のありきにだにも、馬よ牛よ輿ぞ車ぞとて、あたりを払、綺羅を研てこそ出入給しに、浅間敷(あさましき)賤がはきものわらぐつなど云物をはき給(たまひ)て出給へば、北方より始て女房侍に至る迄、無人を送出す様に喚叫事不(レ)斜(なのめならず)。三人夜中に出給ける上に、落る涙にかきくれて、行先も見え給はず。心うや配所を何所とだに定ぬ事よと悲くて、九重の内を紛れ出て、八重立雲の外へ、足に任て這々、彼大江山、生野の道を越過て、丹波(有朋上P389)国村雲と云所にぞ暫さすらひ給ける。後には召返されて信濃国(しなののくに)奥郡へ流され給けり。此資賢卿は今様朗詠の上手にて、院の近習者当時の寵臣にて御座(おはしま)しければ、法皇諸事内外なく被(二)仰合(一)けるに依て、入道殊にあたまれけるとかや。
同七日に妙音院太政大臣(だいじやうだいじん)師長は、参河国へとは披露有けれども、実には尾張国井戸田へ流罪とて、都を出され給けり。此大臣は去保元元年に、中納言中将と申て、御歳二十にて御座(おはしまし)ける時、父宇治悪左府(あくさふ)の世を乱り給し事に依て、兄弟四人土佐国へ流され給たりけるが、御兄の右大将(うだいしやう)兼長卿も、御弟の左中将
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隆長朝臣も、範長禅師も、配所にて失給にき。此は九年をへて、長寛二年六月廿七日に被(二)召返(一)、其年の閏十月十三日に本位にかへし、次年八月十七日(じふしちにち)に正二位(しやうにゐ)し給(たまひ)て、仁安元年十一月五日、前中納言より権大納言(ごんだいなごん)に移り給ふ。大納言(だいなごん)のあかざりければ、員の外に加給けり。大納言(だいなごん)六人になる事、是より始れり。又前中納言より、大納言(だいなごん)に移る事も、先蹤希也とぞ承る。阿波守藤原真作の子後山階大臣三守公、源大納言(だいなごん)俊賢の子、宇治大納言(だいなごん)隆国卿の外、其例希也。此大臣は管絃の道に達し、才芸人に勝れ給(たまひ)て、君も臣も奉(レ)重しかば、次第の昇進不(レ)滞、程なく太政大臣(だいじやうだいじん)に上らせ給へりしに、いかなる事にて又係御目に合せ給らんと、人々歎申けり。十六日(じふろくにち)の晩に、山階まで出奉りて、同(おなじき)十七日(じふしちにち)の(有朋上P390)暁深く出給へば、会坂山に積る雪、四方の梢も白して、遊子残月に行ける、函谷の関を思出て、是や此延喜第四の御子、会坂の蝉丸、琵琶を弾じ和歌を詠じて嵐の風を凌つつ、住給けん藁屋の跡と心ぼそく打過て、打出浜、粟津原、未夜なれば見分ず。抑昔天智天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大和国(やまとのくに)飛鳥の岡本の宮より、当国志賀郡に移て、大津宮を造たりと聞にも、此程は皇居の跡ぞかしと思出て、あけぼのの空にも成行ば、勢多唐橋渡る程、湖海遥(はるか)に顕て、彼満誓沙弥が比良山に居て、漕行舟の跡の白波と詠じけんも哀也。野路宿にも懸ぬれば、枯野の草に置る露、日影に解て旅衣、乾間もなく絞りつゝ、篠原の東西を見渡せば、遥(はるか)に長堤あり。北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり。遥(はるか)の向の岸の汀(みぎは)には、翠り深き十八公、白波の色に移りつゝ、南山の影を浸ねども、青して滉瀁たり。州崎にさわぐ鴛鴦鴎
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の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも著ぬれば、むかし扇の絵合に、老やしぬらんと詠じけんも、此山の事也。去(さる)程(ほど)に師長は武佐寺に著給ふ。峰の嵐夜ふくる程に身に入て、都には引替て、枕に近き鐘の声、暁の空に音信(おとづれ)て、彼遺愛寺の草庵の、ねざめも角やと思知れつゝ、蒲生原をも過給へば、老曽森の杉村に、梢に白く懸る雪、朝立袖に払ひ敢ず、音に聞えし醒井の、暗き岩根に出水、柏原をも過ぬれば、美濃国関山(有朋上P391)にも懸りつゝ、谷川雪の底に声咽嵐、松の梢に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路、心ぼそくぞ越え給ふ。不破の関屋の板廂、年へにけりと見置つゝ、妹瀬川にも留給ふ。此は霜月廿日に及ぶ事なれば、皆白妙の晴の空、清き河瀬にうつりつゝ、照月波もすみわたり、二千里外古人心、想像旅の哀さ最深し。去(さる)程(ほど)に尾張の井戸田の里に著給。保元の昔は西海土佐の畑に被(レ)遷て、愛別離苦の怨を含、治承の今は、東関尾張国へ被(レ)流、怨僧会苦の悲を含給。但し心ある人は皆罪なくして、配所の月を見んと願事なれば、大臣彼唐太子賓客白楽天の、元和十五年の秋、九江郡の司馬に被(二)左遷(一)、潯陽江側に遊覧し給ける古きことに思慰て、鳴海潟塩路遥(はるか)に遠見して、常は朗月を望、浦吹風にうそぶきつゝ、琵琶を弾じ和歌を詠じて、等閑に日を送り給けり。或夜当国第三宮、熱田の社に詣し給へり。年へたる森の木間より、漏り来月のさし入て、緋玉垣色をそへ、和光(わくわう)利物の榊葉に、引立標縄の兎に角に、風に乱るゝ有様(ありさま)、何事に付ても神さびたる気色也。此宮と申は、素盞烏尊(そさのをのみこと)是也。始は出雲国の宮造りして、八重立雲と云三十一字の言葉は此御時より始れり。景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に此
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砌(みぎり)に跡をたれ給へり。(有朋上P392)
S1202 師長熱田社琵琶事
師長公終夜(よもすがら)為(二)神明納受(なふじゆ)(一)、初には法施を手向奉り、後には琵琶をぞ弾じ給ける。調弾数曲を尽し、夜漏及(二)深更(一)で、流泉、啄木、揚真藻の三曲を弾給処に、本より無智の俗なれば、情を知人希也。邑老村女魚人野叟参り集り、頭を低欹(レ)耳といへども、更に清濁を分ち、呂律を知事はなけれ共、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗踊躍き。虞公謌を発せしかば、梁塵動揺けり。物の妙を極る時は、自然の感を催す理にて、満座涙を押へ、諸人袂(たもと)を絞けり。増て神慮の御納受(ごなふじゆ)さこそは嬉く覚すらめ。暁係て吹風は、岸打波にや通らん、五更(ごかう)の空の鳥の音も、旅寝の夢を驚す。夜もやう/\あけぼのに成行ば、月も西山に傾く。大臣御心をすまして、初には、
  普合(二)調中(一)花含(二)粉馥気(一)、流泉曲間月挙(二)清明光(一)、 
と云朗詠して、重て、
  願以(二)今生世俗文字業狂言綺語之誤(一)、翻為(二)当来世々讃仏乗之因転法輪之縁(一)、
〔と〕被(レ)詠て、御祈念と覚しくて、暫物も仰られず。良ありて御琵琶を掻寄て、上玄石像と云(有朋上P393)秘曲を弾澄給へり。其声凄々切々として又浄々たり。■々(さうさう)窃々(せつせつ)として錯雑弾、大絃小絃の金柱の操、大珠小珠の玉盤に落るに相似たり。御祈誓の験にや、御納受(ごなふじゆ)の至か、神明の感応と覚くて、宝殿大に動揺し、■振(ちはやふる)玉の簾のさゞめきけり。霊験に恐て大臣暫琵琶を閣給けり。神明白貍に乗給示して云、我天上にしては文曲星と顕て、一切衆生の本命元辰として是を化益し、此国に天降ては、赤青童子と示し
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て、一切衆生に珍宝を与、今此社壇に垂跡(すいしやく)して年久。而を汝が秘曲に不(レ)堪、我今影向せり。君配所に下り給はずは、争此秘曲を聞べき、帰京の所願(しよぐわん)疑なし、必復本位給べしと御託宣(ごたくせん)有て、明神上らせ給たりしかば、諸人身毛竪て奇異の信心を発す。大臣も平家係る悪業を致さずは、今此瑞相を可(レ)奉(レ)拝や、災は幸と云事は、加様の事にやと感涙を流し給(たまひ)ても、又末憑しくぞ覚しける。抑此曲と申は、仁明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、承和二年に、掃部頭貞敏、遣唐使として牒状を賜り、観密府に参じ、上覧に達して、琵琶の博士を望申れしに、開成二年の秋の比、廉承武を被(レ)送て、秘曲を被(レ)授、我朝に伝しは、流泉、啄木、楊真操の三曲也。其後村上帝御宇(ぎよう)、朗月明々として澄渡り、秋風さつ/\として物哀なる夜、御心をすまし、昼御座の上にして、玄象と云琵琶を、水牛の角の撥にて弾じすまさせ給(たま)ひ、小夜深人定るまで(有朋上P394)唯一人御座(ござ)有けるに、一叢の雲南殿の廂に引覆、影の如なる者空より飛参て、琵琶の音に合て舞侍ければ、何者(なにもの)ぞと問せ給ふ。我は是大唐の琵琶の博士、劉次郎廉承武也。琵琶を極て仙を得たり。御琵琶の撥音のいみじさに参たり。去承和の比、遣唐使貞敏に三曲を授て今二曲を残せり。君の玄象の御調べの目出(めでた)きに、貞敏に惜て秘蔵したりし曲也、授奉んと申せば、聖主叡感の気まし/\て、御琵琶を差遣たりければ、掻直して、此は廉承武が琵琶也、貞敏に二賜ひたりし内也と申て、終夜(よもすがら)御談話有て、上玄、石象の二曲を奉(レ)授、仙人即飛去ぬ。帝御名残(おんなごり)惜く思召(おぼしめし)、雲井遥(はるか)に叡覧ありて、感涙を流させ給し曲也。三曲と云時は、流泉、啄木、楊真操是也。五曲と云時は、上玄、石象を具すとか
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や。係る目出(めでた)き曲なれば、廉承武も貞敏には惜て伝ざりし曲也。玄象と云も、又彼仙人の琵琶也。希代の重宝なりければ、清暑堂の御厨子に、ふかく被(レ)納たり。
 < 異本に云、此曲と申は、かたじけなく、霊仙玉廂軒にして操学、神楽につたへし妙調、堯採館の月の下に、承武が攘■に立翔り、天子にさづけし秘曲也。>
此師長公、保元の昔西国(さいこく)へ流され給しに、年十二三計と見えて、優なる童一人御舟に参て、朝夕に仕へけり。彼国近く成て、童暇を申て罷さらんとしければ、大臣怪(レ)之、汝は何の国のいかなる者ぞと問給へば、京都に侍る者也、(有朋上P395)君の流罪の由を承て、路の程の御徒然に参りたりと申す。都にても御覧たりとも覚えず、京は何所ぞと尋給ければ、大内裏に常に出入侍也と申。我内裏に奉公して年久し、去共懸る童在とも不(レ)覚者をやとて、能々尋給ければ、清涼殿の御節の箱に、玄上と申琵琶也とて、掻消様に失にけり。されば師長流罪の後は、玄上の甲はなれ絃切て、天下の騒にぞ有ける。理や西国(さいこく)までまし/\たりければ也。此大臣配所の徒然を慰まんとて、宮路山へ分入給つゝ、木々の紅葉を遊覧あり。此は十月二十日余(あまり)の事なれば、梢まばらにして、落葉道を埋、白霧山を阻て、鳥声幽也。山又山の奥なれば、旅寝の里も見えざりけり。後は松山峨々として、白石滝水流れ出、苔石面に生て、嵐尾上の冷、誠に石上珍泉の便を得たる勝地あり。御心の澄ければ、上玄の曲を調つべくぞ覚しける。岩の上に虎皮の御敷皮を打しき、紫藤の甲の御琵琶一面を掻すゑて、撥をとり絃を打鳴し給へり。四絃弾
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の中には、宮商弾を宗(むね)とし、五絃弾の中には、玉しやう弾を先とす、軽■(おし)慢撚て撥復挑、初為(二)霓裳(一)、後には六幺す。大絃は■々(さうさうとして)如(二)急雨(一)、小絃窃々(せつせつとして)如(二)私語(ささやく)(一)、第一第二絃の声は索々たり。春の鶯関々として、花本に滑也。第三第四絃の声は窃々(せつせつ)たり。閑泉幽咽して氷の下眤、鳳凰鴛鴦の和鳴の声を添へずといへ共、事の体山祇感をたれ給らんと(有朋上P396)覚えたり。さびしき梢なれ共、萩花啄木は空に玲瓏の響を送る。其時水の底より青黒色の鬼神出現して、膝拍子を打て、和に厳き音を以て、御琵琶に付て唱歌せり。何者(なにもの)の仕業なる覧と覚束(おぼつか)なし。曲終り撥を納給時、我は是此水の底に多の年月を経しかども、未是ほどの面白く、目出(めでた)き御事をば承及ばず、此御悦には今十日の内に帰洛せさせ奉らんと、申も終らず掻消様にぞ失にける、水神の所行といちじるし。此等の事を思召(おぼしめし)合するにも、悪縁は即善縁の始なりけりと、今さら思ひ知給ふ。されば明神の御託宣(ごたくせん)水神の悦申の験にや、第五箇日と申に、帰洛の奉書を被(レ)下たり。管絃の音曲を極て、当代までも妙音院の大相国(たいしやうこく)と申は、此大臣の御事なり。
 < 治承三年に流され給(たまひ)て、同四年に召返ありと。>
此大臣帰洛の後有(二)御参内(ごさんだい)(一)。御前にて琵琶を調べ給ければ、月卿(げつけい)雲客(うんかく)頭をうなだれ、廉中堂上目をあやにして、何なる秘曲をか弾じ給はんずらんと被(レ)思けるに、珍しからぬ還城楽(げんじやうらく)をぞ弾じ給ふ、皆人思はずに思へりけり。去共大臣御心には深き所存御座(おはしまし)けり。還城楽(げんじやうらく)とは、都に帰て楽と云読のあれ
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ば、昨日は東関の外に被(レ)遷、草庵に懶住居也しか共、今日は北闕の内に仕て、槐門に楽み栄えて御座(おはしまし)ければ、此曲を奏し給ふも理也と、後にぞ思合られける。(有朋上P397)
S1203 高博稲荷社琵琶事
高博と云し人の母、重病を受て存命不定なりしが、逝て不(レ)還ば、盛年、別て会がたきは悲の親也。いかゞせんとて、様々労けれ共、終に療治(りやうぢ)の効なかりければ、稲荷社に七箇日参篭して、母の病を祈申けり。第七日の夜及(二)深更(一)、心を澄て琵琶を抱て、上玄石象の曲を弾ぜしに、折節(をりふし)御前の燈炉の火消なんとしけるを、御宝殿の内より金の扉を押開き、玉簾を巻上て、丱童一人出現し、燈をぞ挑ける。高博奉(レ)拝(レ)之、神慮の御納受(ごなふじゆ)憑しく覚て、即下向したりければ、母の重病たちどころに平愈して、更に恙ぞなかりける。懸る目出(めでた)き秘曲也、争か輙聞給べきに、適大臣の依(二)配流(一)此曲を弾ぜしかば、熱田大明神(だいみやうじん)も御納受(ごなふじゆ)ありけり。左衛門佐業房は伊豆国(いづのくに)へ流し遣さる。備中守光憲は罪科せられぬ前に、無(レ)由とて本どり切て引籠りぬ。源判官遠業は、四十二人の罪科之内と聞て、さては難(レ)遁身にこそ、伊豆国(いづのくに)の流人、前兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)こそ、思へば末たのもしき人なれ、打憑み下りたらば、自然に遁るゝ事も有なんとて、子息相具して、瓦坂の家を打出、稲荷山に籠て醍醐の山を伝ひ、田上通に野路の原より関東へ下んと思立たりけるが、抑兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)と云も、世に有人(有朋上P398)にてもおはせず、左右なく請取給事も不定也、又平家の人々在々所々に充満たり、中々路頭にて云甲斐なく被(二)討捕(一)、恥を見ん事心うしと思返、瓦坂の家に打帰て、屋に火を懸て父子二人手を取組て、炎中に飛入て焼死にけり。鳴呼がましき
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様には云けれども、時に取てもゆゝしき剛者、哀也と云者も多かりけり。此外の人々も、只今(ただいま)いかなる事をかきかんずると周章(あわて)騒ぎて、安堵の思なかりけり。
近衛入道(にふだう)殿下(てんが)をば、其時は中殿とぞ申ける。其御子に、二位の中将とて御座(おはしまし)けるを、太政(だいじやう)入道(にふだう)聟に奉(レ)取て、一度に内大臣(ないだいじん)より関白(くわんばく)になし奉る。大納言(だいなごん)をへずして、二位中将より大臣関白(くわんばく)になる事其例なし、是ぞ始なる。節会も行はれ、大臣召の有事もあり、先例ある事にや。上卿も宰相も、大外記大夫の史までも、皆あきれ迷て肝心も身に副ぬ体也けり。去ば是何故ぞと■(おぼつか)なし。昔堀川(ほりかはの)関白(くわんばく)忠義公 兼通、従三位権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)にておはしけるが、一条摂政殿(せつしやうどの)失給たりしに、天禄三年十一月廿七日に、俄(にはか)に大納言(だいなごん)をへ給はず、中納言より内大臣(ないだいじん)に成給(たまひ)て、内覧の宣旨を被(レ)下たりしこそ、珍しき事と人思へりしに、是は非(二)参議(一)して、大臣摂禄、ためしなき事也。
去々年の夏、成親卿(なりちかのきやう)父子、法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛、北面の下搴、が、事にあひしをこそ、君も臣も浅猿(あさまし)と被(二)思召(一)(おぼしめされ)しに、是は今一きはの事也、今関白(くわんばく)に成給へる、二位中将殿(ちゆうじやうどの)の、中納言に成(有朋上399)給べきにて有を、太政(だいじやう)入道(にふだう)三度まで執申されしを、御免なくして、前関白殿(くわんばくどの)の御子、三位中将師家の、八歳になり給へるが、傍より押違へて成給へる故也。されば静憲法印にも被(二)怨申(一)ける其一也と人申ければ、さらば関白殿(くわんばくどの)計こそ事にもあひ給ふべきに、四十余人(よにん)まで罪なるべしや、何様にも直事には非ず、是は偏(ひとへ)に入道に、天魔の入替たるにやとぞ申ける。
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S1204 教盛夢忠正為義(ためよし)事
去保元年中に、新院讃岐に遷され御座(おはしま)し、左府(さふ)流矢にあたり給(たま)ひ、般若野に奉(レ)送たりけるを、信西が計ひとして左府(さふ)の御首(おんくび)を掘起して被(二)実検(一)(じつけんせられ)、首を山野に奉(レ)捨、新院讃岐国にて、五部大乗経を御書写ありて、是を都近き所に納奉らせんと仰けるを、是も信西が計ひとして、入れ進せざりければ、新院口惜事也、我身にこそ角憂目を御覧ずとも、大乗経何の咎御座(おはしまし)てか都の内に入せ給はざるべき、今生の怨のみに非ず、後生まで敵にこそとて、思死に隠させ給しかば、旁の怨霊の故にや、打続世の中静ならず。依(レ)之(これによつて)去年七月に讃岐院を神と奉(レ)祝、崇徳院と御追号あり。宇治左府(さふ)には贈位とて、正一位を宣下あり(有朋上P400)けれ共、怨霊猶しづまり給はざりけるにや、平中納言教盛の夢に見給(たま)ひたりけるは、保元に討れし、平馬助忠正、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)入道為義(ためよし)、大将軍と覚しくて、数百騎(すひやくき)の勢共有ける中に、或柿衣に不動袈裟係たり、或鴟甲に鎧著たり、或首丁頭巾に腹巻きたりなんどして、讃岐院を張輿にのせ奉て、木幡山の峠に舁すゑ奉て、可(レ)奉(レ)入(レ)都由評定しけり。新院の御貌を奉(レ)見ば、足手の御爪長々と生、御髪は空様に生て、銀の針を立たるが如し。御眼は鵄の目に似させ給へり。是も柿の衣をぞ召たりける。為義(ためよし)申けるは、西国(さいこく)より遥々(はるばる)と是まで上著ぬ。抑君をば何所へ可(二)入進(一)やらんと申せば、忠正子細にや及べき、法皇の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へと云。為義(ためよし)其は叶候はじ、院(ゐんの)御所(ごしよ)は当時天台座主(てんだいざす)御修法にて、不動大威徳門々を守護し給へり、輙入れ奉り難しと申せば、さてはいかゞ有べきと、種々に評定しけるに、新院仰の有けるは、御所に成べき便宜の所なくば、只太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所へ入進せよと仰けれ
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ば、さらば舁進せよやとて、忠正は前輿為義(ためよし)は後輿を仕て、数百騎(すひやくき)の者共手々に奉(レ)捧て、入道の宿所西八条(にしはつでう)へ入進するとぞ見えたりける。教盛卿(のりもりのきやう)は夢覚給たりけれ共、猶現とは思はれず、此由角と内々申給けれ共、入道はさる片顔なしの人にて、更に用給はざりける上、げにも怨霊のよく入替給たりけるにや、現心もなく物狂しくして、天下(有朋上P401)を乱り臣下を悩す。入道猶腹をすゑ兼たりと聞えければ、残る人々も今いかなる事を聞んずらんと、肝魂を消す。馬も車も騒しく通れば、あは何事やらんと浅増(あさまし)く、大路門に人の物を云ば、我身の上かと心噪くして、貴も賤も安堵の思ひぞなかりける。
S1205 行隆被(二)召出(一)事
前左少弁(させうべん)行隆と申人御座(おはしまし)けり。故中納言顕時卿の長男にて御座(おはしまし)しが、二条院の御代に近召仕れ奉て、弁に成給へりし時も、右少弁(うせうべん)長方を越て、左に加り給へり。五位正上し給へりし中にも、顕要の人八人(はちにん)を越などして、優々しかりしが、二条院に奉(レ)後て時を失へり。仁安元年四月六日より、官を止られて篭居し給しより、永く前途を失て、十五年の春秋を送つゝ、夏冬の更衣も力なく、朝暮の食事も心に叶はで、悲の涙を流し、明し暮させ給けり。十六日(じふろくにち)の狭夜更程に、太政(だいじやう)入道(にふだう)より使とて、急ぎ立寄給へ、可(二)申合(一)事ありと、事々敷云ければ、行隆何事やらんと、うつゝ心なく騒給へり。此十五年の間何事も相綺事なし、身に取て覚る事はなけれ共、上下事にあふ折節(をりふし)なれば、若謀叛などに与する由、人の讒言に依て、成親卿(なりちかのきやう)の被(二)引張(一)し様にやと振わなゝき、思はぬ事もなく思はれけれ(有朋上P402)共、何様にも行向てこそ、兎にも角にも機嫌に随はめと思ひて、憖に参ずべき由、返事はし給たりけれ共、装束
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牛車もなかりければ、弟の前左衛門権佐時光の本へ、係る事と歎遣したりければ、牛車雑色装束ども、急ぎ遣したり。軈(やが)て取乗て出給ふ。北方より子息家人に至るまで、何事にかと肝心を迷て泣悲、左右なく出給べからず、よく/\世間をもきき、太政(だいじやう)入道(にふだう)の気色をも伺ひ給(たまひ)てこそと、口々に申けり。理也、上揄コ搓゚科せられて、東国西国(さいこく)へ被(二)流遣(一)折節(をりふし)なれば、留め申さるも道理也。行隆は不参は中々様がまししとて、西八条(にしはつでう)へ御座(おはしま)しつゝ、車より下、わなゝく/\、中門の廊に居給へり。入道やがて出合て見参して宣(のたまひ)けるは、故中納言殿(ちゆうなごんどの)も親く御座上、殊に奉(レ)憑大小事申合せ進候き。其御名残(おんなごり)とてましましせば、疎にも不(レ)奉(レ)思、御篭居久く成をも歎存侍しかども、法皇の御計なれば力及ばず過ぬ。今は疾々御出仕有べしと宣(のたまひ)ければ、左も右も御計に随ひ奉べしとて、ほくそ咲て出られぬ。宿所は還て入道のかくいはれつると語給へば、北方より始て、出給(たま)ひつる心苦さに、今は皆泣笑して喜合給へり。後朝に源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞を使として、小八葉の車に、入道殿(にふだうどの)の秘蔵の牛係て、牛飼の装束相具し、百石の米、百匹の絹、被(二)送遣(一)ける上に、今日軈弁に奉(二)成返(一)と有ければ、大形嬉などは云計なし。手の舞足の踏所を(有朋上P403)忘たり。被(レ)免(二)出仕(一)だにも有難に、さしも貧しかりつる家中に、百石百匹牛車を見廻し給(たま)ひけん心中、唯推量るべし。一門の人々も馳集、家中の者ども寄合て酒宴歓楽しても、抑是は夢かや/\とぞ云ける。十七日(じふしちにち)に右中弁(うちゆうべん)親宗朝臣の被(二)追籠(一)たりける、其所に行隆成かへり、同(おなじき)十八日(じふはちにち)に五位蔵人に成り給けり。今年五十一、今更若やぎ給ふも哀也。
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S1206 一院鳥羽篭居事
同(おなじき)二十〔一〕日、院(ゐんの)御所(ごしよ)七条殿に軍兵如(二)雲霞(一)馳集て四面を打囲、二三万騎もや有らんとぞ見えける。御所中(ごしよぢゆう)に候合たる公卿殿上人(てんじやうびと)、上下の北面女房達(にようばうたち)、こは何事ぞとあきれ迷けり。昔悪右衛門督(あくうゑもんのかみ)信頼卿(のぶよりのきやう)、三条殿を仕たりし様に、御所に火を懸て、人をも皆可(二)焼殺(一)なんど云者も有ければ、局々の女房女童部(をんなわらんべ)までをめき叫、かちはだしにて、物をだにも打かづかず迷ひ出て、倒れふためきて騒合り。理也。法皇は日比(ひごろ)の有様(ありさま)、事の体御心得(おんこころえ)ぬ事なれ共、流石(さすが)忽(たちまち)に懸べしとは思召(おぼしめし)よらざりけるに、まのあたり心憂事を叡覧ありければ、只あきれてぞ渡らせ給ける。御車寄には前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)参給へり。法皇の仰には、こは何事(有朋上P404)ぞ、遠国へも遷し人なき島にも放つべきにや、左程の罪有とこそ思めさね、主上さて御座(おはしま)せば世務に口入する事計にてこそあれ、其事不(レ)可(レ)然、向後は天下の事にいろはでこそあらめ、汝さてあれば、思放つ事はよもあらじとこそ思召(おぼしめ)せ、其にいかにかく心憂目をば見するぞと仰られもあへず、竜眼より御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ給けり。大将も見進せては涙を流被(レ)申けるは、指もの御事は争有べき、世間鎮らんまで、暫く鳥羽殿(とばどの)へ移し進せんとぞ、入道は申侍つると被(レ)申ければ、左も右も計にこそと仰もはてさせ給はぬに、御車を指よせて大将軈(やが)て御車寄に候はれけり。御経箱計ぞ御車には入させ給ける。御供をも仕れかしと御気色(おんきしよく)の見えければ、宗盛卿(むねもりのきやう)心苦く思進て、御供候て見置進たくは思給(たま)ひけれども、入道いかゞ宣はんずらんと恐さに、涙を押へて留り給ふ。公卿殿上人(てんじやうびと)の供奉する一人もなし、北面の下搏三人ぞ候ける。御力者(おんりきしや)に金行法師は、君はいづくへ御幸有て、何と
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ならせ給やらんとて、御車の後に、下揩ネればかきまぎれて泣々(なくなく)ぞ参ける。其外の人々は、七条殿よりちり/゛\に皆帰にけり。御車の前後左右には、軍兵いくらと云数を不(レ)知、打囲て、七条殿を西へ朱雀を下に渡らせ給ければ、上下貴賤の男女迄も、法皇の流され御座と■(ののし)り見進ければ、御供の兵までも涙をぞ流しける。鳥羽の北殿(有朋上P405)へ入進せけり。平家の侍に肥前守泰綱奉て奉(二)守護(一)。御所には然べき者一人も候はず、右衛門佐と申ける女房の、尼に成て、尼御前をば略して、尼ぜと申ける計ぞ免されて候ける。唯夢の心地してぞ御座(おはしまし)ける。供御進たりけれ共、御覧じ入るゝ御事なし、不(レ)尽けるは、唯御涙(おんなみだ)計也。門の内外には武士充満して所もなし、国々より駈上せたる夷共なれば、争か御覧じ知せ給べき。つへたましげなる顔気色、うとましげなる事様也。大膳大大業忠、其時は兵衛尉とて十六に成けるを召れて、朕は今夜失はれぬと覚る也、最後の御所作の料に、御湯召されたきは叶はじや、水などは冷じく思召(おぼしめす)にと仰ければ、業忠今朝よりは肝魂も身に添はず、只音魂計にて有けるに、此仰を奉て、いとゞ絶入心地して、物も覚えず悲かりけれ共、狩衣の玉襷上て、水を汲たれども薪もなし。縁の束柱を放集てたき物として、御湯構出して進たりければ、御湯懸召て泣々(なくなく)御行始りて後は、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)をぞ遊しける。最後の御勤と思召(おぼしめし)ければにや、例よりも殊に物悲くて、鈴の響も耳に透り、読経の御音も肝に銘ず。二聖二天、十羅刹女も、十三大会(たいゑ)、菩薩聖衆も、いかに哀と覚しけん、今夜別の御事なくて明にけり。去七日の大地震、係る浅増(あさまし)き事の有べくて、十六洛叉の底迄も答つゝ、竪牢地祇、竜神(りゆうじん)
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八部も驚騒給けるにこそと覚たれ。陰陽頭泰親(有朋上P406)が馳参て泣々(なくなく)奏聞しけるも、今こそ被(二)思知(一)けれ。彼泰親は、清明六代の跡を伝て、天文の淵源を尽し、占文の秘枢を極めたり。推条は掌をさすが如く、卜巫は眼に見に似たり。一事も違事なければ、異名には指神子とぞ云ける。されば雷落懸たりけれども、少も恙なかりけり。十二神将(じふにじんじやう)をも進退し、三十六禽をも相従けり。いか様にも、正身の神歟仏歟、非(二)直人(一)とぞ申ける。
S1207 静憲鳥羽殿(とばどの)参事
静憲法印入道の許へ行向て被(レ)申けるは、法皇を鳥羽の御所に移し入おはすなるは、如何なる御咎の御座(おはしまし)候やらん、一日承し御憤(おんいきどほり)の未はれさせ給はぬにや、人一人も不(二)付進(一)と承ば、想像進て心苦く覚侍るに、蒙(二)御免(一)参て、御徒然をも慰め進ばやと被(レ)申たり。此法印はうるはしき人、濁れる世をも澄し、事あやまるまじき者なれば、何か苦からんと被(レ)免けり。法印悦で宿坊へも帰らず、軈(やが)て鳥羽殿(とばどの)へ参給へり。法皇は御経高らかに遊して、御前には人も候はず、法印急ぎ音なひて参たりけるを叡覧有て、強にうれしげに覚しつゝ、あれはいかにと仰もはてず、はら/\とこぼるゝ御涙(おんなみだ)は御経の上にぞ懸ける。(有朋上P407)法印も御有様(おんありさま)を見進て、御心中さこそはと忝(かたじけな)く覚ければ、やがて裘の袖を顔にあてて、音も惜ず泣給。尼ぜも臥沈たりけるが、法印被(レ)参たりけるに、力付て起あがり、泣々(なくなく)申けるは、昨日の朝七条殿にて貢御進たりし外は、夕も今朝も御熟米をだにも御覧じ入させ給はず、永き夜すがら御寝もならず、御歎のみ御心苦げに渡らせ御座(おはしま)せば、ながらへさせ給はん事もいかゞと覚るとて、又さめ/゛\となかりけり。法印心を定めて申されける、此事更に歎思召(おぼしめす)べから
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ず。平家は凡人と申ながら、家を興し世を取て、天下を我儘にして、二十余年の栄耀にほこるといへ共、何事も限あり、彼等は臣下也、君は国主に御座、忝(かたじけなく)も御裳濯川の御末、百王億載の御ゆづりを受させ給へり。草木風に靡きて、枝全く、万物地に依て生長す、非情の心なき猶以如(レ)此、況人臣として、朝家を嘲、在(レ)下上を蔑にせん事、いざ/\例多といへども、素懐をとげたる者なし、遠は三年を過ず、只今(ただいま)天の責を蒙なんず、是は偏(ひとへ)に天魔入道に入替て、其家の正に亡んずる也、御歎に及ばず、只今(ただいま)こそ角渡らせ給とも、伊勢太神宮、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、殊には君の憑み思召(おぼしめ)さるゝ、山王七社(しちしや)、両所三聖、よも捨果進せ給はじ、災妖不(レ)勝(二)善政(一)、夢怪不(レ)勝(二)善行(一)と申事侍ば、只先非を悔させ給(たま)ひ、人民に恵を施し、政務に私あらじと思召(おぼしめさ)ば、天下は忽(たちまち)に君の御代に立返、(有朋上P408)悪徒(あくと)は必水の泡と消失ん事疑なし、御心づよく思召(おぼしめす)べしとて、貢御勧め被(レ)申ければ、いさゝか慰む御心地(おんここち)とて、御湯づけ少聞召入(きこしめしいれ)られけり。尼ぜも力付て覚えけり。此尼ぜと申は、法皇の御母儀(おぼぎ)侍賢門院の御妹、上西門院にも候はれけるが、品いみじき人にては無りけれども、心様さか/\しき上、一生不犯の女房にておはしければ、清き者也とて、法皇も幼稚の御時より近く召仕はせまし/\ければ、臣下も君の御気色(おんきしよく)に依て、尼御前とはかしづきよばはれけるを、法皇はたゞ尼ぜとぞ仰ける。鳥羽殿(とばどの)の唯一人付進せて候けり。君舟臣水、々治(レ)浪舟能浮(レ)水、湛(レ)波舟又覆と云ふ事あり。太政(だいじやう)入道(にふだう)保元平治両度の合戦には、御方にて凶徒(きようと)を退て君を助奉りき。水波を治めよく舟を浮たり。治承の今は勲功の威に誇て君を褊し奉る、水
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波を湛て舟を覆す憂あり。貞観政要の文、実也とぞ覚たる。
S1208 主上鳥羽御篭居御歎事
主上は臣下のかく成るをだにも、不便の事に歎き思食(おぼしめし)けるに、法皇の御事聞召(きこしめし)ては、不(レ)斜(なのめならず)御歎き有て、何事もおぼし召入ぬ御有様(おんありさま)にて日を経つゝ、はか/゛\しく貢御も進ず、打(有朋上P409)解御寝もならず、御心地(おんここち)悩しとて、常は夜のおとゞに入せ御座(おはしまし)ければ、后宮を始進せて、近く候はれける女房達(にようばうたち)も、心苦く見進ける。内より鳥羽殿(とばどの)へ御書あり。世もかくなり君も左様に御座ん上は、位に候ても何にかは仕べき、花山法皇の御座(おはしまし)けん様に、国を捨家を出て、山々寺々をも修行せんと思食(おぼしめす)とまで、申させ給たりければ、法皇、我御身は君のさて御座をこそ憑にて候へ、さやうに思召(おぼしめし)立なん後は、何の憑かは侍べき、左も右も此身のならん様を御覧じ終させ給へと、様々の御返事(おんへんじ)有ければ、いとゞ御歎の色深して、御書を竜顔にあてさせ御座(おはしま)して、御涙(おんなみだ)に咽せ給けるぞ悲き。太政(だいじやう)入道(にふだう)は天下の大小事一筋に、内の御計に有べしとて、福原へ下向あり。宗盛此由を被(二)奏聞(一)。思召(おぼしめさ)れけるは、主上聟也、天下を我儘にせんとや、法皇の御譲をえたる御世にも非ず、縦さりとても、法皇鳥羽殿(とばどの)に御心憂御形勢(おんありさま)に御座(おはしま)す、何のいさみ有てか、世事を可(二)聞召入(きこしめしいる)(一)、我御心に任する世ならば、法皇をぞ打籠進せざらんと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるにや、いかにも宗盛可(二)相計(一)、又関白(くわんばく)に申せとぞ仰は有ける。只明ても暮ても法皇の御事をのみ歎思食(なげきおぼしめし)て、世事はつゆ御計ひなかりけり。去二十日法皇鳥羽殿(とばどの)へ移らせ給と聞食(きこしめ)し後は、御神事とて、夜のおとゞへ入せ給(たま)ひ、毎(レ)夜に石灰の壇にて、太神宮をぞ拝し奉らせ給ける。法皇の御事を祈申させ給ける(有朋上P410)にこそ、
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同父子の御間なれども、殊に御志深かりけるこそ哀なれ。見進せける余所の袂(たもと)も乾く間ぞなかりける。百行の中には孝行を先とし、万行の間には、孝養勝たり、如来(によらい)万徳の尊孝を以て正覚を成、明王(みやうわう)一天の主、孝を以て国土を治といへり。去ば唐堯は衰老の母を貴、虞舜は頑なる父を敬へり。延喜の聖主は我朝の賢帝に御座(おはしまし)けれども、北野天神の御事に依て、寛平法皇の背(レ)仰給(たまひ)て、悪道に入せ給けり。二条院も賢王(けんわう)にて御座(おはしまし)けれ共、天子に父母なしとて、常に法皇の背(レ)仰申させ給ける故にや、継体の君までも御座(おはしま)さず、先立せ給、御ゆづりを受させ給たりし六条院も、御在位僅(わづか)に三箇年、五歳にて御位を退せ給(たま)ひ、太上天皇(てんわう)の尊号ありしか共、未御元服(ごげんぶく)もなかりしに、御年十三にて、安元(あんげん)二年七月二十七日(にじふしちにち)に隠させ給にき、哀也し御事也。
鳥羽殿(とばどの)には月日の重に付ても、御歎は浅からず、折々の御遊(ぎよいう)、所々の御幸、御賀の儀式の目出かりし、今様朗詠の興ありし事、扇合絵合までも、忘るゝ御隙なく、只今(ただいま)の様にぞ被(二)思召出(一)(おぼしめしいだされ)ける。自参よる人もなし。理也、法皇も恐思食(おぼしめし)て召れず、大相国(たいしやうこく)も免し給はざりければなり。唯秋山の嵐烈く、軒ばをつたふ友となり、古宮の月さやけくして、涙の露に影を宿す、夜深しては枕に通砧の声、御寝の夢を覚し、暁かけては氷を碾車の音、老牛心を傷しむ。御眼に遮る物(有朋上P411)とては、昇せ煩ふ策(いさり)の火、叡慮にかゝる事とては、いつまで旅の襟ひ、白雪(はくせつ)庭を埋ども、道を払人もなく、結氷も池を閉て、群居鳥だに見えざりけり。大宮大相国(たいしやうこく)伊通、三条内大臣(ないだいじん)公教、葉室大納言(だいなごん)光頼、中山中納言顕時など申し人々
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も被(レ)失にき。古人とては民部卿親範、宰相成頼、左大弁(さだいべん)宰相俊経なんどの御座(おはしま)せしも、此代の成行有様(ありさま)を見給(たまひ)て、左も右も有なん、大中納言(だいちゆうなごん)に成たりとも、只夢なるべしとて、未四十にだにも成給はざりける人々の、忽(たちまち)に世を遁れ家を出て、親範は大原(おほはら)の霞に跡を隠し、成頼は高野の雲に身を交へ、俊経は仁和寺(にんわじ)の閑居をしつらひて、偏(ひとへ)に後世菩提をこそ被(レ)祈けれ。漢四皓は商山の洞に住、晉七賢は竹林の庵に隠、首陽山に蕨を採、頴川の水に耳を洗し人も有ける也。まして此世には、心あらん者、一日も跡を留むべきにあらざりけり。中にも宰相入道成頼、此事共を伝へ聞給(たまひ)ては、哀うれしくも心とく世を遁たるもの哉、角て聞も同事なれども、世に立交てまのあたり見ましかば、いかばかりか心憂からまし、保元平治の乱をこそ浅猿(あさまし)と思ひしに、世の末になればにや、弥増々々に成行たり。此後又如何あらんずらん。雲を分ても上、地を堀ても入ぬべくこそ覚ゆれとぞ宣(のたまひ)ける。賢も思切給へる人々也と、叶ぬ身にも申けり。
治承四年正月元三の間も、鳥羽殿(とばどの)には参寄人もなし。藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)成範、(有朋上P412)左京大夫修範是二人ぞ被(レ)免候ける。年去年来れ共、くつろがせ給御事もなし。筧のつらゝの心地して、閉籠られさせ給たるぞ哀しき。二十日春宮(とうぐう)の御袴著、御まな始可(二)聞召(一)とて、花やかなる御事共(おんことども)世間には■(ののし)りひそめきけれ共、法皇は御耳のよそにぞ被(二)聞召(一)(きこしめされ)ける。
S1209 安徳(あんとく)天皇(てんわう)御位事
二月十九日、春宮(とうぐう)位に即せ給。安徳(あんとく)天皇(てんわう)と申、僅(わづか)に三歳にぞ成せ給、いつしかなり。先帝も異なる御事
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もましまさね共、我御孫子を付奉んためにおろし奉る。是も太政(だいじやう)入道(にふだう)の、万事思様なる故也と、人々私語(ささやき)傾申けり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)聞(レ)之被(レ)申けるは、なじかはいつしか也と申べき、異国には周の成王(せいわう)三歳、晋穆帝二歳、皆襁褓の中に裹れて、衣帯を正くせざりしか共、或は摂政(せつしやう)負て位につき、或は母后懐て朝に望といへり。後漢孝殤皇帝は、生て百余日にて践祚ありき、我朝には近衛院三歳、六条院二歳、これ皆天子の位を践給ふ、非(レ)無(二)前蹤(一)、なじかは人の傾申べきと嗔り宣(のたまひ)ければ、是の才人達、穴おそろし/\物云はじ、去ば其は吉例にやは有とぞつぶやきける。春宮(とうぐう)位に即せ給けれ(有朋上P413)ば、外祖父、外祖母とて、太政(だいじやう)入道(にふだう)夫婦ともに、三后に准る宣旨を蒙て、年官年爵を賜て、上日の者を被(二)召仕(一)ければ、絵書花付たる侍ども出入て、院宮の如にてぞ有ける。出家入道の後も、なほ栄輝名聞は尽ざりけりとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨を蒙事は、法興院の大入道殿(にふだうどの)の御例とぞ承る。大入道殿(にふだうどの)とは、九条右丞相師輔の第三男、東三条(とうさんでう)太政大臣(だいじやうだいじん)兼家の御事也。かくはなやかに目出(めでた)き事は有けれども、世中は不(レ)穏。
S1210 新院厳島鳥羽御幸事
三月十七日(じふしちにち)には、新院安芸国一宮厳島の社へ可(レ)成(二)御幸(一)由披露有ける程に、諸寺諸山騒動して、京中の貴賤何となく騒合ける上、山門の衆徒僉議(せんぎ)しけるは、帝王位を退せ給(たまひ)ては、必ず先八幡賀茂両社の御幸有て、其後何れの社へも思召(おぼしめし)立御事也。但白川院【*白河院】(しらかはのゐん)は、先熊野御参詣、後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)は先日吉の御幸有き。去ば任(二)先例(一)、此神々へこそ先可(レ)有(二)御幸(一)に、不(二)思寄(一)厳島御参詣也、速に可(レ)被(二)停止(一)。此上猶御幸
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あらば、京中に打入て、可(レ)及(二)狼藉(一)之由蜂起すと聞召ければ、俄(にはか)に又思食(おぼしめし)止らせ給ぬと聞えけり。新院猶御宿願(ごしゆくぐわん)を果さんと思召(おぼしめし)けるに依て、内々は其御用意にて、供奉の人々も忍て被(二)仰合(一)けれども、山門(有朋上P414)の訴訟も煩はしとて、よそ聞には鳥羽殿(とばどの)へ御幸と御披露有て、十八日(じふはちにち)の夜、太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所、西八条(にしはつでう)へ入せ給(たまひ)て、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛を召て、明日鳥羽殿(とばどの)へ参ばやと思召(おぼしめす)御事あり、入道に不(二)相触(一)しては叶はじやと、仰も終ぬに、竜眼に御涙(おんなみだ)を浮めさせ給ければ、大将も哀に覚て、宗盛角て候へば、何かは苦かるべきと被(レ)申けり。不(レ)斜(なのめならず)御悦有て、去ば鳥羽殿(とばどの)へ御気色(おんきしよく)申せと仰ければ、大将急其夜の中に被(レ)申たり。法皇は覚御心もなく悦び御座(おはしま)して、余に恋しく思召(おぼしめす)御事とて、夢に見つるやらんとまで仰けるこそ哀なれ。
十九日には鳥羽殿(とばどの)へ御幸とて、西八条(にしはつでう)を夜中に出させ給けり。比は三月半余(あまり)の事なれば、雲井の月は朧にて四方の山辺も霞こめ、越路を差て帰鴈、音絶々にぞ聞召。御供の公卿には藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)家成卿の子息に、師(そつの)大納言(だいなごん)隆季、前(さきの)右馬助(うまのすけ)盛国(もりくに)の子息に、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱(くにつな)、三条内大臣(ないだいじん)公教の子息に、藤大納言(だいなごん)実国、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、久我内大臣(ないだいじん)雅通の子息に土御門宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、殿上人(てんじやうびと)には、隆季の子息に、右中将隆房朝臣、中納言資長子息に、右中弁(うちゆうべん)兼光朝臣、三位範家子息に、宮内少輔棟範、公卿五人、殿上人(てんじやうびと)三人、北面四人、十二人ぞ候ける。新院、鳥羽殿(とばどの)にては門前にして御車より下させ給(たま)ひて入せ給けり。暮行春の景なれば、梢の花色衰、宮の鶯音老たり。庭上草深して、宮中に人希也。指入せ給より、
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御涙(おんなみだ)ぞすゝませ給け(有朋上P415)る。去年正月六日朝観の御為に、七条殿の行幸思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)ても、只夢の御心地(おんここち)にぞまし/\ける。彼行幸には、諸衛陣を引、諸卿列に立、楽屋に乱声を奏し、院司公卿参向て、幔門を開き、掃部寮の筵道をしき、正しかりし御事也しかども、是は儀式一事もなし。成範中納言参給(たまひ)て、御気色(おんきしよく)被(レ)申ければ、入せ御座(おはしまし)けり。法皇も新院も、御目を御覧じ合せまし/\て、互に一言の仰はなくして、唯御涙(おんなみだ)に咽ばせ給けり。少し指退きて尼ぜの候けるが、御二所の御有様(おんありさま)を見進て、うつぶしに臥て泣けり。良久有て、法皇御涙(おんなみだ)を推のごはせ給(たまひ)て、何なる御宿願(ごしゆくぐわん)にて、遥々(はるばる)と厳島まで思召(おぼしめし)立せ給にやと、申させ給(たま)ひければ、新院は深く祈申旨候と計にて、又御涙(おんなみだ)を流させ給。法皇は此身の角打籠られたる事を、痛く歎かせ給ふなるに合て、祈誓せさせ給はん為にこそと、御心得(おんこころえ)有けるに、いとゞ哀に思召(おぼしめさ)れて、共に御涙(おんなみだ)に咽ばせ給ふ。御浄衣の袖も御衣の袂(たもと)も、絞る計にぞ見えける。昔今の御物語(おんものがたり)ども仰かはさせ御座(おはしま)すに、日暮夜を明させ給ふ共、尽しがたき御事なれば、御名残(おんなごり)は惜く思召(おぼしめし)けれども、泣々(なくなく)出させ給(たま)ひけり。法皇は今日の御見参をぞ返々悦申させ給ける。新院今年二十に満せ給けるが、御冠際、御鬢茎より始て、気高く愛々しくて、此世の人とも見えさせ給はず。御母儀(おぼぎ)故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)に似させおはしければ、いとゞ哀にぞ思召(おぼしめし)御覧じ(有朋上P416)ける。月比日比(ひごろ)の御歎にや、事外に面痩て見えさせ給に付ても、らふたくうつくしくぞ渡らせ給ける。新院は出させ給とて、今一度見進せずして、何事もやと御心憂侍つるにとて、立せ給ふ。法皇は御名残(おんなごり)惜くて、今暫くとも被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるが、
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日影も高く成上、いつも名残(なごり)はと思召(おぼしめし)けるに、去気なくもてなさせ給けれ共、なほ御涙(おんなみだ)はつきざりけり。叡慮推はかり進ては、供奉の人々も袂(たもと)を返して涙をぞのごひける。南門より御舟には移らせ給けり。御おくりの人々は、是より帰上る。厳島までの供奉の公卿殿上人(てんじやうびと)は、内々用意ありければ、浄衣にて被(二)参詣(一)たり。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、数百騎(すひやくき)の随兵を召具し給へり。けしからず見えけり。二十六日(にじふろくにち)に厳島に御参著、神主佐伯景弘、当国国司有経、当社座主尊叡勧賞を蒙。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十三

P0307(有朋上P417)
和巻 第十三
S1301 新院自(二)厳島(一)還御事
治承四年四月七日、新院自(二)厳島(一)還御、以(二)其次(一)太政(だいじやう)入道(にふだう)の御座(おはしまし)ける福原へ御幸有て、八日被(二)勧賞行(一)。左少将資盛四位(しゐの)従上、丹波守清邦、五位上下也。今日福原を出させ御座(おはしまし)て、寺江と云所に御留あり。九日は御京入、新帝始めて大内へ依(レ)有(二)遷幸(一)、公卿殿上人(てんじやうびと)其へ参給ければ、新院御迎には、左大臣公能の子息に、右宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実守一人に、殿上の侍臣五人、鳥羽草津へ参向ふ。厳島まで御伴に参たる人々は、舟津に留て、さがりて京へは入給へり。新院都を立離、八重の塩路を遥々(はるばる)と思召(おぼしめし)立御志、神明も争御納受(ごなふじゆ)なかるべき。御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)疑あらじとぞ覚し。法皇かく被(二)打籠(一)まし/\て、幽なる御有様(おんありさま)、御心苦く思召(おぼしめし)て、此大明神(だいみやうじん)に祈申たらば、神明の御計として、入道(にふだう)の謀叛の心も和ぎ、法皇も御心安(おんこころやすき)事もやとて、御参ありと申す人もあり。又入道の崇給へば、御同心なる御色をあらはし御座(おはしま)すにこそと申す人も有けれども、世間には御夢想(ごむさう)のつげ故とぞ披露しける。(有朋上P418)
S1302 入道信(二)厳島(一)並垂迹事
抑入道の厳島を崇給ける事は、鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)、清盛(きよもり)安芸守たりし時、以(二)彼国(一)高野の大塔造営すべき由院宣を賜て、渡辺党に、遠藤六頼賢に仰て、六箇年に被(二)組立(一)たりけり。清盛(きよもり)則高野に参て、大塔奉(二)拝休(一)給たりける夜の夢に、七十有余(いうよ)の老僧の、八字の霜を眉に垂、滄海の波面に畳て、かせ杖の二俣
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なるさきに、鉄入たるを突て、入道に申けるは、此大塔造営こそ、返々目出覚し、又所望申度事(こと)侍。安芸厳島と、越前気比とは、西海北陸境異なれども、金剛(こんがう)胎蔵の両界として、目出(めでた)き所にて侍也。気比の社は繁昌せり。厳島は荒廃して候。此事大に歎思ふ、相構て崇修理し給へ。さらば我身の栄花をも開、子孫の繁昌疑なしと云かけて出給ふ。是は何なる人にて御座るやらん、あれ見て参とて、貞能(さだよし)を付て遣しけるに、三町(さんちやう)計御座(おはしまし)て、彼老僧御堂の中へ入給ぬと語申と見て、夢覚畢。清盛(きよもり)此事は、弘法大師の御託宣(ごたくせん)にやとぞ、被(レ)思ける。又此夢に驚、娑婆世界の思出にとて、高野の金堂に曼陀羅(まんだら)を書給(たま)ひけるが、西の曼陀羅(まんだら)をば正妙とて、院にも召れ、入道も仕給ける絵師を以て被(レ)書。東の曼陀羅(まんだら)をば、清盛(きよもり)の自筆に書給。九尊(有朋上P419)の中尊の宝冠をば、脳より血を出して被(レ)書たり。誠の志とぞ人感じ申ける。清盛(きよもり)高野下向の後に、院参(ゐんざん)して右の夢想(むさう)を奏聞す。任を延て厳島を可(二)修理(一)由被(二)仰下(一)。依(レ)之(これによつて)清盛(きよもり)社々を造替し、古にし鳥居を立改、廻廊百廿間造り瑩き、内侍神女に至までも、もてなしかしづき給けり。修理の功終て、清盛(きよもり)彼社に参詣あり。大明神(だいみやうじん)内侍に移て有(二)御託宣(ごたくせん)(一)。やや安芸守殿、高野にて夢に告知せ奉しは、此大明神(だいみやうじん)也。夢の告不(レ)空、角懇に奉(二)崇敬(一)事、返々神妙(しんべう)、神約なれば、子孫までも可(レ)守とて、明神あがらせ給にけり。掲焉也し事共也。懸ければ入道俗体の昔より、出家の今に至まで、信仰帰依怠らず。されば子息兄弟、太政大臣(だいじやうだいじん)大将に至り、国郡庄園朝恩に飽満給へり。されば神明の御計にて、入道の心も和らぎ、法皇もくつろがせ給ふ御事を御祈誓の為に、
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賀茂八幡両社の御幸より前に、新院厳島の御幸は有けるにこそと人申けり。
抑厳島明神と申は、推古天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、〈 癸丑 〉端正五年十一月十二日、内舎人佐伯鞍職と云者、為(二)網鉤恩賀(一)、島の辺に経回しけるに、西方より紅の帆挙たる船見え来る。船中に瓶あり。瓶の内に鋒を立て、赤幣を付たり。瓶内に三人の貴女あり。其形端厳にして人類に不(レ)同。託宣して云、吾為(二)百王守護(一)離(二)本所(一)近(二)王城(一)、御宝殿并(ならびに)廻廊百八十間造立して、我を厳島大明神(だいみやうじん)と崇べしと宣へば、(有朋上P420)鞍職言く、何なる験有てか可(レ)経(二)官奏(一)と。明神答云、王城の艮の天に、客星異光有て出現せん、公家殊に驚て可(レ)成(レ)怪時に、烏鳥多集て、共に榊の枝を食へんと宣(のたまひ)けり。即摂津国(つのくに)難波の王城に、俄(にはか)に千万の烏、榊の枝を食へて禁裏に鳴集る。鞍職奏して申、是は大明神(だいみやうじん)の現瑞也と。天皇(てんわう)叡信の余、御俸田百八十町、御修理、杣山八千町、御寄進の宣旨を被(レ)下の上、同年十二月廿八日に、重て被(二)宣下(一)云、自今位後、拝任当国之吏、毎(レ)任可(レ)捧(二)上分田(一)、不(レ)可(レ)軽(二)神威(一)、及(二)末代(一)社頭破壊顛倒之時は、当任の国司、経(二)官奏(一)、点(二)国中(こくぢゆう)之杣(一)可(二)修理(一)、其間材木檜皮等不(レ)可(レ)運(二)上京都(一)云云。御垂跡(すいしやく)者、天照太神(てんせうだいじん)之孫、娑竭羅竜王(りゆうわう)之娘也、本地を申せば、大宮(おほみや)は是大日、弥陀、普賢、弥勒、中宮は、十一面観音、客人宮、仏法(ぶつぽふ)護持多門天。眷属神等、釈迦、薬師(やくし)、不動、地蔵也。惣八幡別宮とぞ申ける。御託宣(ごたくせん)文云、法身恒寂静、清浄無二相、為度衆生故、示現大明神(だいみやうじん)、御祓の時には、必此文を誦すと申。法性不二の色身は、寂光浄土(じやうど)に居すれども、和光(わくわう)同塵(どうぢん)の垂跡(すいしやく)は、巨海の流類に交れり。
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治承四年四月廿二日、新帝御即位あり。此御事大極殿(だいこくでん)にて被(レ)行事なれども、去し治承元年に焼にしかば、後三条院(ごさんでうのゐん)延久の例に任て、官庁にて有べかりしを、右の大臣兼実計申させ給けるは、官庁は凡人に取ば、公文所也。大極殿(だいこくでん)(有朋上P421)なからん上は、紫宸殿にて可(レ)被(レ)行と被(レ)仰けるに依、即其にてぞ有ける。康保四年十一月十一日、冷泉院御即位は、紫宸殿にて被(レ)行けり。其例いかが有べき。唯後三条院(ごさんでうのゐん)の御例に任て、太政官の庁にて、有べき物をと、人々被(レ)申けれども、右の大臣の恩計也ければ、子細に不(レ)及けり。中宮は弘徽殿より仁寿殿へ移らせ給(たまひ)て、高御倉へ参らせ給(たま)ひける有様(ありさま)目出ぞ在ける。され共ひそか事には、様々の御さとしども有けるとかや。
平家の人々、宗盛三十三(さんじふさん)の重厄の慎とて、去年より大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を辞給(たまひ)て出仕なし。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)薨じ給しかば、維盛、資盛、清経など色にて籠給へり。本意なかりし事也。左兵衛督知盛、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣計ぞ出仕有ける。後朝蔵人左衛門権佐定長、太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所に参じて、昨日の御即位に御失礼もなく目出く難(レ)有由、細々と四五枚に書注して、二位殿(にゐどの)の御方へ進たりければ、入道殿(にふだうどの)も二位殿(にゐどの)も、咲まけてぞ御座(おはしまし)ける。
S1303 高倉宮(たかくらのみや)廻宣附源氏汰事
一院第二の御子、以仁王と申は、御母は春宮(とうぐうの)大夫公実息男、加賀大納言(だいなごん)季成卿御娘とかや。三条高倉に御座(おはしまし)ければ、高倉宮(たかくらのみや)とぞ申ける。去永万(えいまん)元年十二月十六日(じふろくにち)に、御歳十五(有朋上P422)と申しに、大宮御所にて忍て御元服(ごげんぶく)有しが、既(すで)に三十に成せ給ぬれども、親王の宣旨をだにも不(レ)被(レ)下して、沈てぞ御座(おはしまし)ける。
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御手跡も厳く、御才覚も優に御座(おはしまし)けり。御位に即せ給たらば、末代の賢王(けんわう)とも申つべしなど、人々申しけれども、女院には御継子にて渡らせ給ければ、被(二)打籠(一)つゝ、春は花下にてかたむく日影を歎暮し、秋は月前にて明行空を怨み明し、詩歌管絃に御心を慰め、等閑に年月を過させ給けり。治承四年卯月九日夜深人定て後、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)、潜に彼宮の御所に参て申けるは、君は天照太神(てんせうだいじん)四十八代の御苗裔、太上法皇第二御子にて渡らせ給へば、太子にも立帝位にも即せ給べきに、親王の宣旨をだにも御免無くて、既御年三十に成せ給ぬ。御心憂と思召(おぼしめし)候はずや。平家は栄花身に余り、悪行年久成て、運命末に望めり。子孫相続して、朝に仕へん事難く見え侍り。当時いかなる御計もなくば、いつをか期せさせ給べき。慎み過させ給とも、終には安穏に果させ給はん事も有がたし。物盛して衰へ、月盈侍虧。此天道非(二)人事(一)、爰に清盛(きよもり)人道、偏(ひとへ)に振(二)武勇之威(一)、忽(たちまち)に忘(二)君臣之礼(一)、不(レ)恐(二)万乗尊高之君(一)、不(レ)憚(二)三台重任之臣(一)、只任(二)愛憎心(一)猥取(二)断割之刑(一)、所(レ)悪滅(二)三族(一)、所(レ)好先(二)五宗逞(一)思(二)於一身之心腑(一)、懸(二)毀於万人之脣吻(一)、天譴(レ)己到(二)人望(一)、早背(二)量時(一)立(二)制文(一)之道也、乗(レ)間討(レ)敵兵之術也、頼政(よりまさ)依(有朋上P423)(レ)非(二)其器(一)、雖(レ)迷(二)其術(一)、武略禀(レ)家、兵法伝(レ)身、倩顧(一)六戦之義(一)、今案(二)必勝之勝之法加(二)於己(一)、不(レ)得(レ)止、謂(二)之応兵(一)、争恨(レ)小故、不(レ)勝(二)憤怒(一)、謂(二)之忿兵(一)、利(二)土地(一)求(二)貨宝(一)、謂(二)之貪兵(一)、恃(二)国家之大(一)、矜(二)民人之衆(一)、謂(二)之驕兵(一)、此類皆背(レ)義背(レ)礼、必敗必亡、求(レ)乱誅(レ)暴、謂(二)之義兵(一)、此類己叶(レ)道叶(レ)法、百戦百勝、上応(二)天意(一)下得(二)地利(一)、挙(二)義兵(一)、討(二)逆臣(一)、奉(レ)慰(二)法皇之叡慮(一)、被(レ)釈(二)群臣(ぐんしん)之怨望(一)、専在(二)此
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時(一)、不(レ)可(レ)経(レ)日、急被(レ)下(二)令旨(一)、早可(レ)被(レ)召(二)源氏等(げんじら)(一)、入道七十有余(いうよ)、年闌侍れども、子息家人余多(あまた)候へば、一方の御固と可(レ)被(二)憑思召(一)(おぼしめさるべし)、悦を成し馳参らんずる源氏等(げんじら)、国々に多候とて、申連けるは、京都には、出羽判官光信男、伊賀守光基、出羽蔵人光重、出羽冠者光義、熊野には、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)入道為義(ためよし)が子に、新宮十郎義盛、平治の乱より彼に隠れ居たりしが、折節(をりふし)上洛して此にあり。摂津国(つのくに)には、多田(ただの)蔵人行綱、同次郎知実、同三郎高頼、大和国(やまとのくに)には、宇野七郎親治が子に宇野太郎有治、同次郎清治、同三郎義治、同四郎業治、近江国には、山木冠者義清、柏木判官代(はんぐわんだい)義康、錦織冠者義広、美濃尾張には、山田次郎重弘、河辺太郎重直、同三郎重房、泉太郎重満、浦野四郎重遠、葦敷次郎重頼、其子太郎重助、同三郎重隆、木田三郎重長、関田判官代(はんぐわんだい)重国、八島先生斉助、同次郎時清、甲斐国には、逸見冠者(有朋上P424)義清、同太郎清光、武田太郎信義、同弟に、加々美次郎遠光、安田三郎義定、一条次郎忠頼、同弟板垣三郎兼信、武田兵衛有義、同弟伊沢五郎信光、小笠原次郎長清、信濃国(しなののくに)には、岡田冠者親義、同太郎重義、平賀冠者盛義、同太郎義信、帯刀先生義賢が子に木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)、伊豆国(いづのくに)には、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が三男に前兵衛権佐(ひやうゑのごんのすけ)頼朝(よりとも)、常盤国には、為義(ためよし)が子、義朝(よしとも)が養子に、信太三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、子息太郎忠義、次郎義宗、四郎義高、五郎義季、陸奥国には、義朝(よしとも)が末子に、九郎冠者義経とて候。此等は皆六孫王の苗裔、多田(ただの)新発(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が後胤、頼義(らいぎ)義家(よしいへ)が遺孫也。家子郎等駈具せば、日本国に誰かは相従集らざるべき、其に昔は大衆をも防、凶徒(きようと)をも退け、預(二)朝賞(一)宿望をも遂し事
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は、源平何も勝劣なかりき。而当時は雲泥の交を隔て、主従の礼よりも猶異也。僅(わづか)に甲斐なき命ばかり生たれ共、国々の民百姓と成て、所々に隠居て侍るが、国には目代(もくだい)に随ひ、庄には預所に仕て、公事雑役に駈立られ、夜も昼も安事なし。いか計かは心憂思らん。君思召(おぼしめし)立て、令旨をだにも下させ給はば、且は奉公の忠を存じ、且は宿望を遂んが為に悦をなし、夜を日に続てむらがり上り、平家を亡さん事、時日をばよも廻し候はじ。法皇の鳥羽殿(とばどの)に御年を経て、打籠られさせ給(たまひ)て、幽なる御住居(おんすまひ)、御心うき御事(有朋上P425)をも休め進させ給たらば、御至考にてこそ侍らめ。伊勢太神宮も正八幡宮(しやうはちまんぐう)も、必御恵を垂させ給ふべし。天神地祇も争か思召(おぼしめし)可(レ)捨、急思召(おぼしめし)立て、平家を亡し、御位にも即せ給なば、源氏等(げんじら)遠き御守護と成進せ候べしと、細々と申上けり。宮はつらつらと聞召(きこしめし)て、此事如何が有べかるらん、主上は清盛(きよもり)入道外孫、平家尤後見たり。御代は高倉院(たかくらのゐん)聞召、兄弟国をあらそはん事、恐なきに非、保元の先蹤憚あり。抑源氏御命に相従つて急ぎ馳上り、平家を打亡さん事も難(レ)知。此事身の上の至極、天下の珍事也。偏(ひとへ)に浮言を信ぜんは、思慮なきに相似たり。然而今一々宣説処、已に兵法をえて、能弁(二)人理(一)、文武事異なれども、通達旨同、欺て益なし。昔微子去(レ)殷而入(レ)周、項伯叛(レ)楚而帰(レ)漢、周勃迎(二)代王(一)黜(二)少帝(一)、霍光尊(二)孝宣(一)、廃(二)昌邑(一)、是皆覩(二)存亡(一)之符、見(二)廃興(一)事成(二)功於一時(一)、垂(二)業於万代(一)、時至ぬれば運の速なる事可(レ)無(レ)言、抑少納言惟長とて、相人あり。是は左大臣俊家の息男、阿古丸大納言(だいなごん)宗通の孫、備後前司季通の子息なり。此の人の相したる事は一事も不(レ)違ければ、
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時の人相少納言(さうせうなごん)と申。其人此宮をば位に即せ給べき相御座、天下の事思召(おぼしめし)捨させ給べからずと申し事思召(おぼしめし)出て、帝位を践べき時の至にもや、頼政(よりまさ)入道もかくは申らめ、又天照太神(てんせうだいじん)の御計にてもや有らんとて、不敵に思召(おぼしめし)立て、国々の宗徒(有朋上P426)の源氏等(げんじら)に、廻宣の令旨をぞ被(レ)下ける。其状に云、
下 東山東海北陸三道、諸国軍兵等所
  早可(レ)追(二)討清盛(きよもり)法師并(ならびに)従類叛逆輩(一)事
右前伊豆守(いづのかみ)上五位下行源朝臣仲綱(なかつな)宣、奉(二)最勝親王勅(一)、併清盛(きよもり)法師并(ならびに)宗盛等(むねもりら)、職(二)威勢(一)蔑(二)帝王(一)、起(二)凶徒(きようと)(一)、亡(二)国家(一)、悩(二)乱百官万民(一)、掠(二)領五畿七道(ごきしちだう)(一)、閉(二)籠皇院(一)、流(二)罪臣公(一)、断(レ)命流(レ)身、沈(レ)淵入(レ)楼、盗(レ)財領(レ)国、奪(レ)官授(レ)職、無(レ)功恣許(レ)賞、非(レ)罪猥配(レ)過、依(レ)之(これによつて)巫女不(レ)留(二)宮室(一)、忠臣不(レ)仕(二)仙洞(一)、或召(二)誡於諸寺之高僧(一)禁(二)獄修学之浄侶(一)、或賜(二)下於叡岳之絹米(一)、相(二)具謀叛之粮食(一)、断(二)百王之跡(一)、抑一人之頂違(二)逆帝皇(一)破(二)滅仏法(ぶつぽふ)(一)、見(二)其振舞(一)、誠絶(二)古代(一)者也、于(レ)時天地悉悲、臣民皆愁矣、仍一院第二皇子、尋(二)天武皇帝之旧儀追討(一)、王位推取之輩訪(二)上宮太子之古跡(一)、打亡、仏法(ぶつぽふ)破滅之類也、唯非(レ)憑(二)人力之構(一)、偏所(レ)仰(二)天照之理(一)矣、因(レ)之(これによつて)如(レ)有(二)三宝仏神之威(一)、何無(二)四岳合力之忠(一)哉、然則源家家人、藤氏氏人、兼(二)三道諸国之内(一)、堪(二)勇士(一)者、同令(二)与力(一)、可(レ)追(二)討清盛(きよもり)法師并(ならびに)従類(一)、若於(レ)不(二)同心(一)者、可(レ)行(二)配流追禁之罪過(一)、若於(レ)有(二)勝功(一)者、先預(二)諸国之使(一)、兼御即位之後必随(レ)乞可(レ)賜(二)勧賞(一)也、諸国宣(二)承知(一)、依(レ)宣行(レ)之。(有朋上P427)
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  治承四年四月九日      伊豆守(いづのかみ)正五位下源朝臣とぞ在ける。伊豆国(いづのくに)流人、前の兵衛佐(ひやうゑのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)は源家の嫡々なればとて、別令旨を被(レ)下。其状云、
下 東国源氏并(ならびに)官兵等所
  応(下)早且任(二)廻宣状(一)、且以前(いぜん)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)為(二)大将軍(一)令(中)参洛(上)事
右 宣旨意趣者、我為(二)百王孫(一)、雖(レ)期(二)宝祚(一)、猶依(二)聖運遅々(一)、未(レ)至(二)即位(一)、而清盛(きよもり)入道、以(二)一旦冥怪(一)、令(レ)治(二)天下(一)、誇(二)非分権威(一)、欲(レ)絶(二)皇法(一)之処、依有(二)仏神之守護(一)、不(レ)遂(二)梟敵之姦望(一)、未(レ)及(二)王法失亡(一)之条明矣。謹仰厳旨可(レ)責(二)清盛(きよもり)(一)也、速致(二)同心(一)、励(二)微力(一)、果(二)其意趣(一)必進(二)帝位(一)者、朝恩争可(レ)空哉、然者(しかれば)依(二)清盛(きよもり)武勢(一)、下知既致(二)都洛空役(一)、我与(二)皇恩(一)、以(二)東北武勢(一)、何不(レ)治(二)天下(一)哉、旁各可(レ)仰(二)景迹(一)也、若於(レ)背(二)宣命(一)者、早可(レ)致(二)伐責(一)之状如(レ)件以宣。
 治承四年四月九日       前(さきの)右少史小槻宿禰とぞ、被(レ)下ける。(有朋上P428)挿絵(有朋上P429)挿絵(有朋上P430)
S1304 
抑令旨の御使、誰か可(レ)勤と仰ければ、三位(さんみ)入道(にふだう)申けるは、外人は憚有べし、新宮十郎義盛、折節(をりふし)在京に侍れば、被(レ)召て使節を可(レ)被(二)仰含(一)かと。可(レ)然とて義盛を召。事の次第委被(二)下知(一)ければ、十郎畏て、平治年中より新宮に隠籠て、夜昼安き心なし、いかゞして素懐をとげて、再家門の恥をきよめんと存る処に、今蒙(二)厳命(一)条、併身の幸に侍、一門誰か子細を申べき。速に東国に罷下て、同姓の源氏、年来の家人を催上候べしとて、御前を立処に、三位(さんみ)入道(にふだう)申けるは、令旨の御使を勤候はんには、無官(むくわん)にては其恐有べしと申せ
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ば、然るべしとて当座に蔵人になされけり。十郎蔵人は、義盛を改名して行家と名乗。九日令旨を給(たまひ)て、十日の夜半に藤笈を肩にかけ、柿の衣に装束して、熊野にて見習たれば、山伏の学をして、海道に係つて下けり。先近江国には、山本、柏木、錦織に角と知せて、令旨の案を書与へて、美濃尾張へこゆ。山田、河辺、泉、浦野、葦敷、関田、八島に触廻り、又案書を与へて、信濃へ越ゆ。岡田、平賀、木曾次郎に相ふれ、又案書与へて、甲斐へこし、武田、小笠原、逸見、一条、板垣、安田、伊沢に相ふれて、(有朋上P431)案書与て伊豆国(いづのくに)北条に打越えて、右兵衛佐殿(うひやうゑのすけどの)に角と云。佐殿は廻宣披見の後宣(のたまひ)けるは、平家追討の令旨を被(レ)下事、当家の面目に侍り。尤一門同心して、家人を相催し、上洛仕るべし。但頼朝(よりとも)別心を不(レ)存といへども、当時勅勘の者に侍、身に当て令旨を給らずば、軍兵引率其憚ありと宣へば、行家は其事兼て御沙汰(ごさた)ありき、別したる令旨とて、笈の中より取出てこれをわたす。佐殿は手洗口〔に〕漱て、是を請取て、頷許〔に〕入てぞ御座(おはしまし)ける。行家は伊豆より常陸へ越て、兄なれば信太に知せ、佐竹に告て、案書を与へて、甥なれば告んとて、奥州(あうしう)へこそ下にけれ。
S1305 頼朝(よりとも)施行事
〔去(さる)程(ほど)に〕兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、別して令旨を給ける間、国々の源氏等(げんじら)に被(二)施行(一)。其状云、
被(二)最勝親王勅命(一)、併召(下)具東山東海北陸道堪(二)武勇(一)之輩(上)、可(レ)追(二)討清盛(きよもり)入道并(ならびに)従類叛逆輩(一)之由、廻宣二通如(レ)此、早守(二)令旨(一)、可(レ)有(二)用意(一)、美濃尾張両国源氏等(げんじら)者、勧(二)催東山東海便宜之軍兵(一)可(二)相待(一)、北陸道勇士者、参(二)向勢多辺(一)、相(二)待上洛(一)、可(レ)被(レ)供(二)奉洛陽(一)也、御即位無(二)相違(一)者、
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誰不(レ)執(二)行国務(一)哉、依(二)廻宣之状(一)、執達如(レ)件。(有朋上P432)
   治承四年五月日          前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源朝臣
とぞ被(レ)書たる。係ければ国々の源氏、背者一人もなし。
S1306 鳥羽殿(とばどの)鼬沙汰事
一院は年を経て、月を重ぬるに付ても、新(しん)大納言(だいなごん)成親父子が如く、遠国遥(はるか)の島にも放遷さんずるやらんと思召(おぼしめし)けるに、城南離宮にして、春もすぎ、夏にも成りぬれば、さていかなるべきやらんと御心ぼそく思召(おぼしめし)て、御転読の御経も、弥心肝に銘じて、被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。五月十二日の午刻に、赤く大なる鼬の、何くより来り参りたり共、御覧ぜざりけるに、御前に参り、二三返走り廻り、大にぎゝめきて、法皇に向ひ参て、踊上々々、目影なんどして失にけり。大に浅間しく思召(おぼしめし)て、禽獣鳥類の恠をなす事、先蹤多しといへ共、此獣は殊に様有べしと覚たり。去ば爰(ここ)に籠置たるも猶飽足らず思うて、入道が、朕を死罪などに行ふべき計などの有にやと思召(おぼしめす)に付ては、南無(なむ)一乗(いちじよう)守護、普賢大士、十羅刹女、助させ給へと、御祈念有りけるぞ悲き。源蔵人仲兼と申者あり。後には近江守とぞ申ける。法皇の鳥羽殿(とばどの)に遷され御座(おはしまし)て、参り寄人もなき事を歎けるが、思に堪ず如何なる咎に合と(有朋上P433)てもいかゞはせんと思て、忍つゝ参たり。法皇御覧じて、哀あれはいかにして参たるぞとて、軈御涙(おんなみだ)をのごはせ給ふ。さても只今(ただいま)然々恠異あり、急ぎ聞召たく思召(おぼしめす)に、折節(をりふし)参りあへる事、神妙(しんべう)神妙(しんべう)とて、御占形を賜つて、泰親がもとへと勅定あり。仲兼急京へ馳上り、陰陽頭泰親が、樋口京極の宿所に行向て、以(二)御占形(一)勅定をのぶ。泰親相伝の文書よく/\披て見、今月
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今日午時の御さとし、今三日が中の還御の御悦、後大なる御歎也と勘申たり。仲兼先嬉くて、件の勘文を以つて、鳥羽の御所に帰参して、此由を奏す。法皇はいさ/\何故にか、左程の御悦はと被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける程(ほど)に、
S1307 法皇自(二)鳥羽殿(とばどの)(一)還御事
法皇の御事、大将強に被(二)歎申(一)けるによつて、入道さま/゛\の悪事思直て、同(おなじき)十四日に鳥羽殿(とばどの)より八条烏丸御所へ還入進す。是にも軍兵御車の前後に打囲てぞ候ける。十二日の先表、同(おなじき)十四日の還御、三箇日の中の御悦と占申たりける事、つゆ違はず。後の大なる御歎とは、又いかなる事の有べきやらんと御心苦く思召(おぼしめし)ける。法皇は去年の十一月より御意ならず、鳥羽殿(とばどの)に籠らせ給(たま)ひて、今年五月十四日に御出ありしかば、幽なり(有朋上P434)し御住居(おんすまひ)引替て、御心広く思召(おぼしめし)ける程に、還御の日しも、第二御子高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)の御企ありとて、京中の貴賤静ならず。去四月九日潜に令旨をば被(レ)下たれども、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)父子、十郎蔵人の外には知人もなし。蔵人は関東へ下向しぬ。いかにして洩にけるやらん、浅間しとも云計なし。
S1308 熊野新宮軍事
此事のあらはれける事は、十郎蔵人東国下向の時、内々新宮へ申下ける事は、平家は悪行年積て、法皇を鳥羽の御所に押籠奉て、忽(たちまち)に逆臣となるに依て、彼輩追討すべきよし宮の令旨を給(たま)ひて、同姓の源氏年来の家人を催促の為に、関東へ下向す、早く家人等(けにんら)に相ふれて、内々用意有て、行家が上洛を相待べしと云下たりければ、那智新宮の者共、寄合寄合かくす/\と私語(ささやき)けれども、国内通計の事なれば、平家の祈の師に、本宮の大江法眼これをきき、新宮十郎義盛こそ、高倉宮(たかくらのみや)令旨を給はり東国に下り、白旗白弓袋になりかへり、平家を亡さんとするなる
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が、那智新宮大衆等(だいしゆら)、源氏の方人せんとて用意有けれ、いざや推寄滅さんとて、大江法眼大将軍として、三千(さんぜん)余騎(よき)舟に乗て、新宮の渚(なぎさ)へお(有朋上P435)しよせけり。新宮那智の大衆此事を聞て、那智の執行正寺司権寺司、羅■(らご)羅法橋、高坊の法眼等、同心して大衆二千(にせん)余人(よにん)、新宮の渚(なぎさ)に陣をとる。大江法眼押寄て、互に時を作る事三箇度(さんがど)也。三目のかぶらやなりやむ事なく、太刀長刀のひらめく影電の如し。源氏の方には角こそ切れ、平家の方には角こそ射とて、軍よばひ六種震動の如し。互に半時も退かず、一日一夜火の出る程こそ戦たれ。され共大江法眼軍に負、相語ふ輩遁るる者は少く、討るゝ者は多かりけり。那智新宮大衆、軍に勝て、貝鐘を鳴し、平家運傾て、源氏繁昌し給べき軍始に、神軍さして勝たりと、悦の時三度までこそ造けれ。和泉国住人(ぢゆうにん)に、佐野法橋と云者、大江法眼には甥也けるが、軍には負ぬ、山に逃籠て息つき居たり。内の消息(せうそく)を書て福原へ奉りけるは、君未知召れず候や、新宮十郎義盛、高倉宮(たかくらのみや)の令旨を給り、東国に下向して源氏等(げんじら)を催促して、平家を亡し奉らんとて、白旗白弓袋に成返れる間、那智新宮の義盛に同意の由承て、大江法眼御方として、新宮の渚(なぎさ)におしよせて、一日一夜戦ひ侍しかども、軍敗ぬ、御用心有べくや候らんと告たりけり。平家これをきゝ給(たまひ)て、面目なしとぞ笑れける。太政(だいじやう)入道(にふだう)は不(レ)安おぼして、数万騎の軍兵をそろへて、福原より上洛す。六波羅には公卿殿上人(てんじやうびと)ひしと並居給(たま)ひたりけるに、入道宣(のたまひ)けるは、(有朋上P436)大方発まじきは弓取の青道心にて有けり。永暦元年に切べかりし頼朝(よりとも)を宥おき、今係大事を被(二)仰下(一)こそ安からね。所詮東国の勢の馳上らぬ
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前に、宮を取奉て、土佐の畑へ流し奉るべしとぞ被(レ)定ける。上卿には三条大納言(だいなごん)実房、職事には蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆、別当平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)仰を蒙て、検非違使(けんびゐし)源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱、出羽判官光長、博士判官兼成等を召て、以仁王を土佐の畑へ移奉べきよし仰含。官人の中に兼綱と云は、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)の子息也。親父の入道が勧と云事をば、平家未(レ)知けり。急告んと思て、入道の本へ角と云。浅ましと云も理に過たり。即宮へ此由を申入けり。宮は五月の空の五月雨の、雲間の月を詠つゝ、御心を澄しうそぶいて、何の行末も思召(おぼしめし)知らぬ折節(をりふし)に、入道の状ありとて、長兵衛尉信連取次て、佐大夫宗信に奉る。披見れば、御謀叛(ごむほん)の披露有て、官人兼綱、光長、兼成等御所に参り候、急ぎ御所を出させ給(たまひ)て、如意越に三井寺(みゐでら)へ入せ給へ、入道も軈馳参候べしと申入たりければ、宗信こはいかゞせんと思て、御所に参り、わなゝく/\忍音に読上たり。宮聞召あへず、御心も心ならずあきれ迷せ給(たま)ひ、こはいかゞ有べき、よき様に相計へ宗信と仰けれども、只振わなゝきたる計にて、申遣したる事なし。信連を御前に召て、然々の御事あり、計へとぞ仰ける。此信連と云は、年来の侍にも非ず、此御所(有朋上P437)に候ける事は、本妻は日吉社の神子也けり。宮御所に候ける青女房に思付て、二心なく通ける折節(をりふし)候会たりける也。年来の者也とても、打解させ給ふべきに非ず、況かりそめの信連なれば、御慎(おんつつし)み有べきにてこそ在けれども、俄事也ける上、信連心際さか/\しかりければ、かく仰けるにこそ。信連は蒙(レ)仰、痛く御騒あるべからず、別の御事候はじとて、局町に走入、女房の薄衣一面、笠取出して、宮を女房の形
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に仕立進せて、佐大夫宗信にけしかける直衣小袴きせ奉、黒丸と云御中間に、表差したる袋持せて、御所を出し進する。俄忍の御事に、ゆゝしく計申たりけり。去ば余所目には、青侍体の者が、女を迎て行ぞと見えける。三井寺(みゐでら)へと志、東山を差てぞ落させ給ける。佐大夫宗信と云は、六条宰相宗保卿の孫、左衛門佐家保子息也。五月の空のくせなれば、雲井の月もおぼろにて、行さきも又幽也。三条高倉を上に出過させ給けるに、ひろらかなる溝あり。宮安々と超させ給たり。大路通る人立留てあやしげにて、はしたなく越たる女房かなとぞ、つぶやきける。佐大夫これを聞て、弥膝振心迷て歩れず、取敢ざりし事なれば、御所中(ごしよぢゆう)などは取したゝむるに及ばず。希代の宝物共も打捨させ御座、御厨子に被(レ)残ける、御反古ども、なからん跡までもいかゞと被(二)思召(一)(おぼしめさる)、御笛御琵琶御遊(ぎよいう)の具足、源氏、狭衣、古今、(有朋上P438)万葉、歌双紙等、何も/\御心に懸らずしもはなけれ共、其中に小枝と聞えし、漢竹の御笛の、殊御秘蔵ありけるをば、何の浦へも御身にそへんとこそ、兼ては被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるに、余りの御心迷に、常の御所の御枕に残し留められけるこそ御心にかけて、立帰ても取まほしく思召(おぼしめし)て、延もやらせ給はず、御伴に候ける信連を召て、加程に成御有様(おんありさま)にては、何事か御心に懸べきなれども、小枝をしも忘ぬる事の口惜さよ、いかゞせんと仰有ければ、信連さる男にて、最安き御事にて侍とて走帰、御所中(ごしよぢゆう)大概取したゝめて、此笛を取、二条高倉にて追付進て献(レ)之、宮御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひ、よにも御嬉しげに被(二)思召(一)(おぼしめされ)たり。信連二条川原にて申けるは、日来は何の所〔の〕浦までも御伴と存じ
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候しかども、只今(ただいま)官人等が御所に参向はんずるに、物一言申者もなからざらん事、無下に口惜く覚侍。信連はいかになかりける歟、又臆病して逃けるかなど、平家の申沙汰せんも遺恨なるべし。弓箭取者の習、仮にも名こそ惜候へとて、暇を申ければ、宮は誠に申処さることなれども、汝に離れては痛く便なかるべし。野の末山の奥までも参らん事こそ本意なれと被(二)仰下(一)けれども、信連はいづくに〔て〕も、命は君に進せ侍るべし。なからん跡までも君の御為我ため、よき名をこそ残したく候へと、強て申しければ、力不(レ)及重て仰ける(有朋上P439)は、我とてもいつまでと思召(おぼしめせ)ば、再び御覧ぜん事有難し、来世にこそ行会してと被(レ)仰もあへず、御涙(おんなみだ)を流させ給ければ、信連も消入様には覚けれども、角心弱ては叶ふまじと思切、涙を推て帰にけり。御所中(ごしよぢゆう)走廻て、見苦き物ども取したゝめて後、青狩衣の下に萌黄の糸威の腹巻著て、烏帽子(えぼし)の尻、盆の窪に押入て、狩衣の小袂(こたもと)より手を出し、衛府の太刀の身をば心得(こころえ)て造りたりけるを佩て、くらきこともなき剛者也ければ、唯一人中門の内にたゝずみてぞ、今か今かと待たりける。
S1309 高倉宮(たかくらのみや)信連戦事
五月十四日の夜の曙に、官人三人向たり。源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱は、存る旨ありと覚て、遥(はるか)の門外にひかへたり。光長兼成両人は、馬に乗ながら門内に打ち入て申けるは、君代を乱させ給べき謀叛の聞あるに依て、可(レ)奉(二)迎取(一)由、蒙(二)別当の宣(一)罷向へり。光長、兼成、兼綱、是に侍り、速に御出有るべきと高声に申ければ、信連立出て、当時の忍の御所に入せ給(たまひ)て、此御所は御留守也、此子細を伝奏
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仕べきと申ければ、博士判官こはいかに、此御所ならでは、何所に渡らせ給べきぞ、虚言ぞ、足がるども乱入りてさがし奉れと(有朋上P440)下知す。下知に随ひて、下郎等乱入つて、狼藉不(レ)斜(なのめならず)。信連腹を立て、奇怪なる田舎検非違使共(けんびゐしども)が申様哉、我君今こそ勅勘ならんからに、一院第二王子にて御座、馬に乗ながら門内に打入るをだに、不思議と見処に、さがせと下知する事こそ狼藉なれ、にくき官人共が振舞哉とて、薄青の単へ狩衣の紐引切抛て、音にも聞、目にも見よ、宮の侍に長兵衛尉長谷部信連とは我事也とて、太刀をぬき刎て蒐。兼成が下部に金武と云放免あり。究竟の大力、大腹巻に左右の小手指、打刀を抜て向会けり。其をば打捨て、御所中(ごしよぢゆう)へみだれのぼる兵、五十(ごじふ)余人(よにん)が中に打入りて、竪横に禦ければ、木葉を風の吹が如し。庭へさとぞ追散す。信連御所の案内は能知たり、彼に追つめて丁と切、是に追つめてはたと切、唯電などの如くなれば、面を向る者なし。程なく十余人(よにん)は被(レ)討にけり。信連が太刀は心得(こころえ)てうたせたりければ、石金を破とも、左右なく折返るべしとは思はざりけれ共、余に強く打程に、度々曲けるを、押なほし/\戦程に、結句つば本より折にけり。今は自害せんと思て、腰をさがせども、刀も落てなかりけり。力不(レ)及大床に立て、宮の侍に長兵衛尉信連こゝに有、太刀も刀も折失て、勝負の道に力なし、我と思はん者寄合て、信連討捕勲功の賞に預やと、高声に云けれ共、手なみは先に見つ、太刀刀のなしと云は、敵(有朋上P441)をたばかるにこそ、虚言ぞ、左右なく寄て過すなとて、たゞ遠矢に射、主は誰ともしらず、信連左の股を射させたり。其矢を抜て捨たれば、
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尻を止て猶もゝにあり。打かゞめて柱に当てねぢぬきて思けるは、角て犬死をせんより、敵に組食付ても死なんと思て、なへぐ/\小門の脇へ走出て、信連是に有と云ければ、寄手の者ども、声に恐れてさつと引。金武は加様の剛の者、打刀にては叶はずとて、鞘にさし、小長刀を、茎短に取なして寄合さゝんとしけるを、信連持たる物はなし、手をはたけて飛て係、長刀にのりはづめ、又右の股をさゝれつゝ、是にして被(レ)虜。其後官人御所中(ごしよぢゆう)に乱入て、天井を破板じきを放て、さがせども/\宮も御渡なし。人一人もなかりければ、唯信連計を居廻して、縄を付て六波羅へ参らんと云。信連は云甲斐なき者共かな、まてとよ、侍程の者に、なは懸事やある、況や靭負尉(ゆぎへのじよう)に於てをや、無下なる田舎検非違使共(けんびゐしども)かな、争か実に知べき、己等に物教へんとて云ける。我朝に三種の神器の内に、内侍所と申御事有り。昔天照太神(てんせうだいじん)の御時、百王の末の帝までも、我御形を見まゐらせんとて移し留め御座御鏡也。さて絃袋と云は、又後の内侍所の御貌を形どれり。其故に百官悉(ことごと)く朝に雖(レ)奉(二)召仕(一)、衛府の官は浅位なれば、地下にして致(二)奉公(一)直人に紛べきに依て、内侍所の御貌を学て、絃袋を賜て、左右(有朋上P442)の兵衛尉 赤皮、左右の衛門尉 藍皮 是を以て、侍の品を知、国王の御宝なれば、可(レ)遁(二)非分難(一)笠注しなれ。さればこそ官をも一けがすは有難き朝恩にてあれ、縄を付ずとても、信連誤なければ、参て申べしと云ければ、さてはとて唯追立て、六波羅の大庭に引居たり。前(さきの)右大将(うだいしやう)は御簾を半ば巻上て、大口計に白衣(はくえ)にて、長押に尻懸、大床に足差出して、謀叛の次第并狼藉の様、拷木に懸けて、可(二)
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召問(一)と宣へば、信連余御前の怱々なるに、雑人を被(レ)退候へ、不(レ)預(二)拷問(一)とも、御尋(おんたづね)に付て、所存をば申べし、いかに預(二)推問(一)、骨身をば微塵に被(レ)砕と云共、無事申さじと存ざらん事は申まじ。但今夜の狼藉の事身に誤なし、先所存にて侍れば申候、侍品の者が、朝に奉(二)召仕(一)時、奉公私なければ諸大夫にあがり、其より殿上を免され奉ること其例是多し。就(レ)中(なかんづく)信連不肖の身也と申せども、私に主を憑て、諸亭にうでくびをにぎらず、久く宮の御所に召仕て、奉公年積れり、普通の侍に思召(おぼしめし)准ふべからず、御座席こそ無骨に覚え侍れと申。是は大将白衣(はくえ)にて、長押に尻係たる事を咎申なるべし、大将も苦々しく覚されけり。次に夜の事誠の御使と存侍れば、争忝(かたじけなく)も宣旨を忽緒し奉べき。此間宮は忍たる御出とて、三条殿をば出させ給ぬ。御留守の間にて侍を、夜々(よなよな)強盗等が伺と承間、五月闇にてはあり、信連毎夜に用心(有朋上P443)して、不覚せじと御所中(ごしよぢゆう)を見巡つる程に、未暁かけて物具足したる者が、数は不(レ)知御所中(ごしよぢゆう)へ乱入、何者(なにもの)ぞ狼藉也と咎め申つれば、是は宣旨の御使と造声して名乗。宮は御出也、此御所当時御留守也と申せども、さないはせそ、唯打入とて、乱入間、只今(ただいま)何故に宣旨の御使とて、係る貌にて此御所へは参るべし、夜々(よなよな)伺と聞に合て、是は強盗めらが、言を替てたばかり入にこそ。誠や盗人は君の渡せ給ふなど申て、人の心をたぶらかすなんど承候へば、是もさにやと存る処に、只入に打入し間、散々(さんざん)に切殺し追出し侍き。今こそ実とも承はり存れ、大方は宣旨の御使に参ける、検非違使(けんびゐし)、思慮なかりけり。加程の御事に侍ける上は、巨細をのべ、宣旨の御使某
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と名乗申さんには、争狼藉をも仕り侍るべき。又唯一人候ける信連に被(二)追立(一)、度々逃出逃出しけるも云甲斐なし、衛府の官をけがす侍に、縄付けむなど申し行ひつる事、無下に骨法を不(レ)知けり。侍けがしに御恩塞に、一人也とも故実の者こそ召仕れめと、憚る処なくこそ申たれ。大将弥腹立して、兎角の陳答に及ばず、疾々川原に引出して、首を刎よと宣(のたまひ)けり。信連重て申けるは、是は命を惜咎を申ひらかんとには非ず、仮令此御所へ、思懸ぬ夜中に、物具(もののぐ)したる者が、宣旨の御使とて乱入らんをば、宣旨の言に恐、侍共が防戦追出たらんをば、不覚とや仰すべき、(有朋上P444)唯有の儘の事に侍ると云ければ、平家の侍共がこれを聞きて、げにも道理なり、誠に我主の御所へ、物具(もののぐ)して、怪気なる者が夜陰に打入たらんをば、縦ひ宣旨共いへ、院宣ともいへ、後は知ず、弓矢取の習なれば、一旦は防戦んずるぞかし、其を見ながら逃失んをば、ほむる主はよもあらじ、我等(われら)もさこそ振舞はんずれ、此信連は心きは恥しき者にて、而も大剛の者、度々はがねを顕して、一度も不覚せずとこそ聞、中にも本所に候ける時、末座の衆事を仕出して、狼藉不(レ)斜(なのめならず)、一搏揩熕ァし兼て、座を立騒けるに、信連是をしづめけれ共、猶散々(さんざん)の事也ければ、寄合て末座の主従二人、左右の脇に挟み、一しめ/\て罷出、其座の狼藉をしづめたりければ、時に取て高名第一と云れき。又大炊御門京極なる、常葉殿御所へ、大和強盗が打入て、家内の資財をぬすみとり、多の人を切殺して出けるを、家主声を立て、盗よ/\と叫けれども、音を合する者なし。大番衆も追ざりけるに、信連左右の小手に腹巻著て太刀を抜、京極大路
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に出合つゝ、散々(さんざん)に戦ひけるが、強盗四人切留、一人には寄合て組で搦めんとせし程に、頬をつき貫かれながら搦留たりけり。其時の刀の跡ぞかし、当時までも頬にある疵は、されば度々名を顕したる、剛者を、忽(たちまち)に被(レ)切事不便也、信連体の者をこそ御所中(ごしよぢゆう)にも召仕はせ給ふべけれなど、人々申合(有朋上P445)ければ、大将げにもとや覚しけん、死罪をば宥て、且く左の獄に被(レ)入けり。平家滅亡の後、京都に安堵せずして、伯耆国へ落下り、金持の辺に経廻しけるを、鎌倉殿(かまくらどの)聞給(たまひ)て、当国の守護に仰て、去文治二年の頃、関東へ召下されて、剛者のたね継せんとて、由利小藤太が後家に合て被(二)召仕(一)けり。御恩の始に鎌倉殿(かまくらどの)御自筆に、仮名の御下文にて、能登国大屋の庄をば、鈴の庄と号す、彼所を賜たりけるとかや。治承の昔は平家に命を被(レ)助、文治の今は源氏に恩を蒙れり、武勇の名望有難とぞ申ける。高倉宮(たかくらのみや)をば取逃し進たりと披露あり、六波羅京中騒動せり。何者(なにもの)か云たりけるやらん。宮は山門に籠らせ給(たまひ)て、深衆徒を憑ませ給間、大衆是を警固し進せて、平家追討の為に、山門の衆徒、既西坂本、切堤、賀茂の川原、二条三条辺まで下たりと聞えければ、平家の一門右大将(うだいしやう)已下、軍兵東西に馳さわぐ事不(レ)斜(なのめならず)、去共僻事也ければ静りにけり。よく天狗の荒たりとぞ見えし。此宮と申は、法皇の第二の御子にて御座(おはしま)せば、よその御事に非ず。法皇鳥羽殿(とばどの)より還御の日しも、係御事聞召ば、又いかなる目にかあはんずらん、朕は思召(おぼしめし)よらぬ事なれ共、入道此事に依て、よもたゞあらじ、中々鳥羽殿(とばどの)にて御心閑に御座(おはします)べかりける事を、由なき都へ還出にけるとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるぞ、責ての御事と哀
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也。三日の内の御悦、後には大な(有朋上P446)る御歎とは此事にや。清明五代の苗裔、当世無双の重巫也、指の神子といはれたる、泰親なれば、なじかは勘へ損ずべき。
太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)は、嫡子小松内府重盛(しげもり)、去年八月に失給しかば、分方なき次男にて、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛に世を譲給たりける。一番手合に、宮取にがし進せたり、不覚し給たり、云甲斐なしと沙汰すと聞えければ、誠口惜き事にぞ被(レ)思ける。
S1310 高倉宮(たかくらのみや)籠(二)三井寺(みゐでら)(一)事
同(おなじき)十五日に、高倉宮(たかくらのみや)は三井寺(みゐでら)に、逃籠らせ給ふよし聞えけり。通べき道ならねば、御馬にだにものせ奉らず、僅(わづか)に人一両人ぞ御伴には候ける。峨々として高き山、鬱々としてしげき峯、道もなき御木の本を、夜しも渡らせ給ければ、白くいつくしき御足は、むばらの為に紅を絞り、黒く翠なる御髪は、さゝがにの糸にぞまとはりける。角て通夜這々寺に入せ給けん、さこそは悲く覚しけめ。昔浄見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大伴の王子に被(レ)責て、芳野山へ逃入せ給たりけん有様(ありさま)、角やとぞ哀なる。三井寺(みゐでら)にかゝぐり著せ給(たまひ)て、甲斐なき命の惜さに、打憑来れり。衆徒助よとぞ泣々(なくなく)仰ありける。大衆は哀に忝(かたじけな)く思進せて、蜂起(有朋上P447)僉議(せんぎ)して法輪院に御所しつらひ、懐き入進せて、乗円坊阿闍梨(あじやり)慶秀、修定坊阿闍梨(あじやり)定海なんど云、古悪僧等、門徒(もんと)の大衆引率して、御前に候て、様々労り守護し進けり。(有朋上P448)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十四

P0329(有朋上P449)
佳巻 第十四
S1401 木下馬事
抑三位(さんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)の、係る悪事を宮に申勧め奉る事は馬故なり。嫡子伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)が家人、東国に有けるが、八箇国第一の馬とて伊豆守(いづのかみ)に進たり。鹿毛なる馬の太逞が、曲進退にして逸物也。所々に星有ければ、星鹿毛と云けり。仲綱(なかつな)是を秘蔵して立飼けり。実に難(レ)有馬也ければ、武士の宝には能馬に過たる物、なにかは有べきとて、あだにも引出事なければ、木の下と云名を付て、自愛して飼ける程に、或人右大将(うだいしやう)に申けるは、伊豆守(いづのかみ)許にこそ、東国より究竟の逸物の馬出来て侍るなれ、被(レ)召て御覧候へかしと申。大将軈(やが)て人を遣て、誠や面白馬の出来て侍るなる、少し見度候と云れたり。仲綱(なかつな)これを聞て、暫しは物もいはず、良久有て、御目に懸るべき馬には侍ざりしかども、けしかる馬の遠国より上て、爪をかきて見苦げに候し間、相労はらんとて田舎へ下して候ふと返事しけり。人申けるは、一昨日は湯洗、昨日は庭乗、今朝も坪の内に引出て有つる也と申。右大将(うだいしやう)(有朋上P450)さては惜にこそとて、重て使を遣す。彼御馬は一定是に侍る由承る、さる名馬にて侍るなれば、一見の志計也と謂れけり。伊豆守(いづのかみ)は我だにも猶見飽ず、不得心なりと思て、猶もなしと答ければ、大将は負じと一日に二度三度使を遣し、六七度遣日も有けれ共、悪惜て終にやらず、一首かくこそ読たりけれ。
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  恋敷はきてもみよかし身に副るかげをばいかゞ放遣べき K074 
木下鹿毛の馬也。我身の影に添けるにや、最やさしく聞えけれ共、一門亡て後にこそ、放つまじき影を放て、角亡にけり、歌に読負たりとぞ申ける。三位(さんみ)入道(にふだう)仲綱(なかつな)を呼て、いかに其馬をば遣さぬぞ、あの人の乞かけたらんには、金銀の馬也とても進べし、縦乞給ずとても、世に随習なれば、追従にも進べきにこそ、増て左程に乞給はんをば、惜むべきに非ず、況馬と云ぱのらん為也、家内に隠置ては何の詮か有るべき、とく/\其馬進すべしと宣(のたま)ひければ、仲綱(なかつな)力及ばず、父の命に随て、木下を、右大将(うだいしやう)の許へ遣けり。聞に合て実に能馬也ければ、舎人あまた付て、内厩に秘蔵して立飼けり。日数経て後、伊豆守(いづのかみ)以(二)使者(一)、召置れ候し木下丸返給べき由申たり。右大将(うだいしやう)此馬をば惜て、其代りと覚しくて、南鐐と云馬を賜たりけり。極て白馬也ければ、南鐐とは呼けり。是も誠に太逞(有朋上P451)してよき馬也けれども、木下には及付べき馬に非。係し程に当家他家の公卿殿上人(てんじやうびと)、右大将(うだいしやう)の亭に会合の事あり。或人実や仲綱(なかつな)が秘蔵の木下と申馬の、此御所に参て侍けるは、逸物と聞えけり、見侍ばやと申たり。大将さる馬侍りとて、伊豆守(いづのかみ)がさしも惜つる心を悪で、木下と云名をばよばずして、馬主の実名を呼で、其伊豆に轡はげて引出し、庭乗して見参に入よと宣ふ。仰に依て引出し、庭乗様々しけり。右大将(うだいしやう)は仲綱(なかつな)こはくば打はれ、さて仲綱(なかつな)引入てしたゝかにつなぎ付よと下知し給ふ。左程の砌(みぎり)也ければ、なじかは隠あるべき、程なく伊豆守(いづのかみ)も聞てげり。口惜と思て、父三位(さんみ)入道(にふだう)の許に行て、仲綱(なかつな)こそ京都
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の咲ぐさに成て候へ。平家は桓武帝の苗裔とは申せども、時代久く下て十三代、中比は下国の受領をだにも不(レ)免けるが、近く家を興せり。当家は清和(せいわの)帝の御末、多田(ただの)満仲(まんぢゆう)の後胤として、入道殿(にふだうどの)まで九代間近御事也。但源平両氏朝家前後の将軍なれば、必しも申乙有まじき事なれ共、一旦の果報に依て、当時暫く官途に浅深あるにこそ。其に宗盛が詞のにくかりしかば、木下をば惜遂んと存ぜしを、御命に背きがたさに馬をば遣し候ぬ。縦宗盛心の底に不(レ)思とも、礼義なれば悦申べきに、さはさくて、剰当家他家の酒宴の席にて、仲綱(なかつな)に轡はげよ、仲綱(なかつな)こはくば打はれ、仲綱(なかつな)庭乗せよ、仲綱(なかつな)引入よ、仲綱(なかつな)(有朋上P452)つなぎ付よなどと、宗盛の申けん事、今生の恥辱弓取の遺恨、何事かこれにすぎ侍るべき。今は世に立廻りても云甲斐なし、されば宗盛が宿所に行向て、骸を曝か、さらでは髻を切て、山林に隠籠か、此外は他事あらじとて、はら/\と泣けり。三位(さんみ)入道(にふだう)これを聞ては、さこそ遺恨に思けめ。さてこそ此悪事を、宮にも申勧め奉りけるとは、後には披露有けれ。さればあやしくいさめる乗物をば、不(レ)可(レ)用けるにや。
S1402 周朝八匹馬事
 昔周穆王と申帝御座(おはしまし)き。或人駿馬八匹を献。彼馬一日に行事万里なれば、鳥の飛よりも猶速也。穆王独愛して乗(レ)之給、四荒八極に至りつゝ、都に還御なかりければ、七廟の祭も怠り、万機の政も絶にけり。去間には民愁国荒て、穆王終に亡にけり。されば白楽天は、戒(二)奇物(一)とて、奇しき乗物を不(レ)用とぞ書れたりける。漢文帝の御時、一日に千里を行馬を奉たりけるには、帝の仰に御幸の時には、必千官万乗相従、我独千里の馬に乗て、先立て行くべきに非ずとて、遂に用給事なかりけり。依(レ)之(これによつて)民富国治れり。
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木下丸もいなゝきいさむにして、天下無双の奇物也けるをや、係不思議も出来にけり。昔周帝は、(有朋上P453)八匹の蹄を愛して、穆王遂に亡けり。今の仲綱(なかつな)は一匹の馬故に、一門悉絶ぬる事こそ哀なれ。
S1403 小松大臣情事
懸る一匹の馬故に、世の乱と成けるに付ても、小松殿(こまつどの)の事をぞ上下忍申ける。小松大臣中宮の御方へ、被(レ)申べき事有て被(レ)参たりけるが、仁寿殿に候はれて、師典侍殿と申女房と暫し対面有けるに、良ありて師典侍殿の左の袴のすそより、大なる蛇はひ出て、重盛(しげもり)の右の膝の下へはひ入けり。大臣これを見給、我さわいで立ならば、中宮も御騒有べき、師典侍殿も驚給べし、此事旁悪かりなんと推しづめ給(たまひ)て、左の手にて蛇の頭をおさへ、右の手にて尾を押へて、六位参と召ければ、伊豆守(いづのかみ)其時は、未蔵人所に候けるが、指出たりけるに、是は何と被(レ)仰たれば、見候とてつとより、布衣の袖を打覆て、罷出て御倉町の前に出て、人や候参と呼ければ、小舎人参たり。これ賜ていづくにも捨よとて、差出したれば、一目見て赤面して逃帰りぬ。郎等省に賜たれば、不(レ)恐蛇の頭を取て、大路に出て打振て捨たれば、蛇即死けり。翌日に小松殿(こまつどの)自筆にて御文あり。昨日の御振舞(おんふるまひ)(有朋上P454)還城楽(げんじやうらく)と奉(レ)見候き。雖(二)異体候(一)、一匹一振令(二)送進(一)候とぞ有ける。黒き馬の七寸(しちすん)に余て、太逞に白覆輪の鞍置て、厚房の鞦を懸たり。太刀は長伏輪也けるを、錦の袋に入られたり。優にやさしく見えける。仲綱(なかつな)御返事(おんへんじ)には、御剣御馬謹拝領、御芳志之至、殊畏入候。抑去夜誠還城楽(げんじやうらく)の心地仕候き。仲綱(なかつな)頓首謹言と書たりけり。還城楽(げんじやうらく)とは、蛇を取舞なれば、角問答有けるこそ。小松殿(こまつどの)は加様にそ御座(おはしまし)しに、其弟にて、いかに
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宗盛はかゝる情なく御座らんと申けり。
 或説云、木下丸とは今の逸物の馬也と云事あり。
S1404 三位(さんみ)入道(にふだう)入寺事
高倉宮(たかくらのみや)は十四日に都を落させ給(たまひ)て、終夜(よもすがら)三井寺(みゐでら)に入給たりけれ共、ゆゝしく申し頼政(よりまさ)法師も不(二)見来(一)、況国々の源氏一人も馳参らざりければ、こはいかに有べき事やらんと思召(おぼしめさ)れける程に、廿日源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)嫡子伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)、次男源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱〈 甥を養子にす 〉三男判官代(はんぐわんだい)頼兼木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)が兄に、六条蔵人仲家、其子に蔵人太郎、六条蔵人とは、帯刀先生義賢子也。義賢討れて後孤子也けるを、是をも三位(さんみ)入道(にふだう)の養ひたりける也。此等の一類郎等(有朋上P455)に渡辺党を引具して、三位(さんみ)入道(にふだう)の近衛河原(このゑかはら)の家に火係て焼払(やきはら)ひ、三井寺(みゐでら)へこそ参けれ。渡辺党に箕田源氏綱が末葉、昇の滝口子息に、競滝口と云者あり。弓矢取ては並敵もなく、心も剛に謀もいみじかりけるが、而も王城第一の美男也。宿所は平家の右大将(うだいしやう)の、六波羅の宿所の裏築地也。入道三井寺(みゐでら)へ落給けるに、傍輩ども此事を競に告知せんと申。入道さらで有なん、彼家は平家の近隣也、周章(あわて)たる使にて、角と云物ならば、妻子所従泣悲て、物運ぞ逃隠などせば、中々悪かりなん、只打棄て音なせそ、競は深く入道を憑たり、又謀賢者なれば、いづくにも落付く所をだにも聞ならば、時を指て来らんずる者也と宣へば、打捨て告ざりけり。去(さる)程(ほど)に三位(さんみ)入道(にふだう)は、高倉宮(たかくらのみや)を尋進て、三井寺(みゐでら)へと披露あり。右大将(うだいしやう)人を遣して、競も供して行けるかと被(レ)見。使帰て、競は未是に候と申。まこととも不(レ)覚、存の外也。入道の内には競こそ一二の者よ、いかに供をばせぬぞ、僻事にこそとて、楢の
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太郎友真、讃岐四郎大夫広綱二人を遣て、慥に見て参と宣ふ。此等も帰参て、さりげもなくて宿所に候と申。さらば召とて召ければ、競は使と共に参たり。大将出合宣(のたまひ)けるは、いかに、主の入道は寺へと聞に、汝は伴もせざりけるぞと宣へば、競は角とも告給はねば、争か知侍るべきと申。さもあらずとよ、入道の内には汝(有朋上P456)等(なんぢら)こそ身に替り、命をも捨べき一二の者と、世に沙汰するに、告げざる事は大に覚束(おぼつか)なしと宣へば、競其も様こそ侍らめ、但此間は怨申子細候に付て、心を置るゝ事共も侍り、仮令(たとへば)入道殿(にふだうどの)こそ告給はずとも、親者多候に、角とも申さぬは、よく主人の勘当の深ければこそ、加様の大事には人一人も大切にこそ侍べきに、さすが競などを打すて給事は、おぼろげの所存にはあらじ、其上は又追て参ずるに及ばず、慕も様によるべき事なれば、当時はさてこそ候へと申。大将打うなづきて、年来ほし/\と思て、入道にも度々乞しかども叶はざりつるに、然べき折節(をりふし)也、よき侍一人儲たりと悦で、向後は宗盛を憑かし、三位(さんみ)入道(にふだう)の恩程の事は、などか思宛ざらんと宣へば、競はあらはかなの宣事や、縦(たとひ)命は失とも、宮仕はすまじき者を、但只今(ただいま)いなと云べき折に非ず、相従はんと思て申けるは、競させる身にあやまる事候はず、身にも命にも替奉り候はんとこそ存ずれども、入道殿(にふだうどの)此間心を置給へば、奉(レ)恨奉公も不(レ)仕、内々は申入ばやと存候つるが、主に中違ていつしかと人の御景迹も恥し、自然の次をと存処に、此仰身の幸也と申。大将不(レ)斜(なのめならず)嬉げにて、見参の始なればとて、随分秘蔵し給たりける小糟毛と云馬に貝鞍置、遠山と云馬引具し、黒糸威(くろいとをどし)の鎧甲(よろひかぶと)
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皆具給(たまひ)てけり。競は畏り給(たまひ)て、ほくそ咲て罷帰ぬ。大将宣(のたま)ひけ(有朋上P457)るは、能侍儲たり、王城一の美男也、心剛に弓箭取てよし、渡辺党の最中也。此裏築地を朝夕に出入を見るにも、目醒しくほしかりつるに、期も有けりと悦給へり。競家に帰ても、さすが覚束(おぼつか)なくて早晩人を遣して、競は有か候と、又人を遣て、競は有か候と隙なくこそ問ひ給けれ。競思けるは、是程の大事を思立給ながら、告給はぬ事は真実に遺恨也、大将の角打たへ語ひ給ふもいなみ難し、時の花をかざしの花にせよと云事あり、さてもあらばやと思けるが、又案じけるは、告給はぬも様あるらん、六波羅近き家なれば無骨也、中々にとも被(レ)思つらん、忠臣不(レ)仕(二)二君(一)、貞女不(レ)嫁(二)二夫(一)と云事あり。蘇武は胡敵に足を切れしか共、猶夷には不(レ)随、紀信は帝位いつはりて、高祖の命にも替りけり。我争か相伝の主を捨奉て、今更平家にうでくびをにぎらん、末代までも名こそ惜けれと思て、大将より給ぬる鎧著て、小糟毛に乗、遠山に乗替の童乗て、郎等三騎家子二騎、都合七騎にて三井寺(みゐでら)へとて打出けり。大将の惣門の前を通るとて、手綱かいくり鐙蹈張立上り、門の内へのぞき入、高声に申けるは、競こそ只今(ただいま)御前を罷り通り侍れ、昨日の御馬鎧悦存れば、尤も御宮仕申べく侍れ共、年来の主君入道殿(にふだうどの)恋く思奉候へば、寺へこそ罷越候よと、よばはりて打過けり。競は滝口の名残(なごり)を惜けるにや、白羽の矢をぞ負(有朋上P458)挿絵(有朋上P459)挿絵(有朋上P460)たりける。大将の侍共これを聞て、競こそ小糟毛に乗、遠山に童乗て、しか/゛\と喚て、門前を下馬もせで通侍、奇怪に覚れば、追係て討留なんと申。大将はぬけ/\としなされ、尾籠の男にこそ、但止る事はいかゞ有べき、
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小糟毛は早走也、一町共延なば追付難し、競は弓の上手也、小勢にてあやまちすなよ/\、さる白痴にはゆきあはぬにはしかじ、音なせそとぞ制し給ふ、云甲斐なくぞ聞えし。競寺に馳著て、親き者共に、いかに口惜も殿原は、此程の御大事(おんだいじ)角とも告げ給はで、捨ておはするぞと恨申せば、さればこそ告んと申つるを、入道殿(にふだうどの)の仰に、競が宿所は大将の向なれば、つげては中々無骨也。何所にも落著ぬと聞なば、深く我を憑たる者也、定て時を指て来べき者ぞと仰の有つれば、さてこそと答ければ、競さては嬉くこそ、何事に御隔あらんと心元なく侍りつるに、つげずとも聞ては参べき者ぞと、憑れ進せける競こそ、我身ながらも糸惜けれとて、咲まげてぞ有ける。宮の御所には三位(さんみ)入道(にふだう)父子三院の大衆、軍の評定して並居たり。競進出て申けるは、右大将家(うだいしやうけ)へ被(レ)招間、事の体をも伺見んとて行たれば、いかに入道と共に入寺はなきぞ、我に宮仕せよとて、甲冑馬鞍引出物に得たり。宿所に帰たれば、隙なくあるか/\と問給ける事、一々に申て、馬も鎧も盗て取たらばや、不当とも云はれめ、(有朋上P461)賢人も折によるべし、係る時は物具(もののぐ)も乗物も大切也と存て、乗て参つるに、大将の門前にて名乗て通つる事語畢て、さても競を宗盛年来の主を捨て他人の門踏んずる者と思ひけん事のあぶなさよと申たりければ、宮を始進て、僧も俗も咲つぼの会にてぞ有ける。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)は、木下丸を大将に乞れて、仲綱(なかつな)打はれと云れたるを、安からず思ひければ、競が引出物に得たる小糟毛を取寄て、髪をかり法師に切て、平宗盛入道と金焼して、京へ向てぞ追放つ。未(レ)暁大将の六波羅の大庭に放れ馬あり、よく/\見給へば小糟毛
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也。是はいかにと引廻し/\見給へば、平宗盛入道と金焼したり。大将は木下が報答せられたりとぞ宣(のたまひ)ける。昔斉桓公の孤竹国を伐けるに、春往て冬還、深雪道を埋て帰事をえざりけり。管仲計ひ申けるは、老馬の智を用べしとて、老たる馬を雪の中に放つゝ、馬に随行ければ、斉国にも還にけり。今の宗盛の小糟毛も、六波羅三井寺(みゐでら)遠けれども、道芝の草を分朝露にしをれつゝ、関山関屋も歩過、本の主の家なれば、大将の亭にぞ帰りける。
S1405 南都山門牒状等事(有朋上P462)
法輪院には、警固の大衆守護の武士、様々軍の談議評定しける中に、三位(さんみ)入道(にふだう)申けるは、合戦の習、勢には依らず、謀をむねとすと申伝たれ共、南都山門へ牒状を遣て、大衆を召るべきかと宣ふ。衆徒の僉議(せんぎ)には、近来の作法を見、平家の振舞を案ずるに、仏法(ぶつぽふ)の衰微、王法の牢籠時至れり。依(レ)之(これによつて)人臣専憂(レ)之、僧徒大に歎(レ)之。雖(レ)然、且く浄海入道の威に恐て、在家出家閉(レ)口処に、二宮御入寺偏(ひとへ)に是正八幡宮(しやうはちまんぐう)の衛護、新羅明神の冥助也。我(わが)寺(てら)の興隆此時に相当れり。速に平相国(へいしやうこく)が暴悪を炳誡せん事、衆徒の力によるべし。誰やの人かを憑べき。何の時をか期べき。天神も地祇も、必納受(なふじゆ)をたれ、仏力も神力も速に降伏をくはへ御座(おはしま)さん事、疑有べからず。抑北嶺は円宗一味の学地、南都は出家得度の戒場也。為(二)仏法(ぶつぽふ)(一)為(二)王法(一)被(二)牒送(一)処に、争か与力なからんやと云ければ、尤々(もつとももつとも)と一同して、両寺(りやうじ)へ牒状あり。先南都へ牒送の状に云、
園城寺(をんじやうじ)牒(てふす)、興福寺(こうぶくじの)衙(が)〈 まらうとゐかまと 〉
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 請殊蒙(二)合力(一)、被(レ)助(二)当寺仏法(ぶつぽふ)破滅(一)状
右仏法(ぶつぽふ)之殊勝、為(レ)護(二)王法(一)也、王法之長久、則依(二)仏法(ぶつぽふ)(一)也、而自(二)項年(一)以来、入道前太政大臣(だいじやうだいじん)平清盛(きよもり)、恣窃(二)国威(一)、濫(二)乱明政(一)、付(レ)内付(レ)外、成(レ)恨成(レ)歎之間、今月十四日夜、(有朋上P463)一院第二皇子、忽為(レ)免(二)不慮之難(一)、俄所(下)令(二)入寺(一)給(上)也、而重号(二)院宣(一)、有(レ)可(レ)奉(レ)出(レ)之、責(二)衆徒(一)不(レ)能(レ)欲(レ)罷、而奉(レ)惜之処、彼禅門欲(レ)入(二)武士於当寺(一)云々、然者(しかれば)云(二)王法(一)云(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、一時将(二)破滅(一)、諸衆盍(二)愁歎(一)乎、昔唐会昌天子、以(二)軍兵(一)令(レ)破(二)滅仏法(ぶつぽふ)(一)之時、清涼山衆徒、合戦禦(レ)之、王憲猶如(レ)此、何況於(二)謀叛(一)、八虐之輩、誰人可(二)諛順(一)乎、就(レ)中(なかんづく)南京者、被(レ)配(二)流無罪之長者(一)、意念動(二)胸中(一)、非(二)今度(一)者、何日遂(二)会稽願(一)、衆徒内助(二)仏法(ぶつぽふ)之破滅(一)、外退(二)悪逆(あくぎやく)之伴類(一)、同心之至本懐可(レ)足、衆徒僉議(せんぎ)如此、仍牒送如(レ)件。
  治承四年五月廿日            小寺主法師成賀
                      都維那大法師定算
                      勾当法師忍慶
                      上座法橋大法師忠成
とぞ書たりける。興福寺(こうぶくじ)大衆会合僉議(せんぎ)して、尤同心して、仏法(ぶつぽふ)の助専命(二)王法(一)愁吟を休め奉べしとて、進士蔵人入道信救に仰て、返牒あるべしと議定畢。又山門へも牒状を送けり。其状に云、(有朋上P464)
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園城寺(をんじやうじ)牒(てふす)  延暦寺(えんりやくじの)衙(が)〈 まらうとゐかまと 〉
 欲(下)殊致(二)合力(一)、被(レ)助(中)当時仏法(ぶつぽふ)破滅(上)状
右入道浄海、恣失(二)皇法(一)、又滅(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、愁歎無(レ)極之間、去十四日夜、一院第二皇子、不慮之外、所(下)令(二)入寺(一)給(上)也、爰号(二)院宣(一)、雖(レ)有(二)可(レ)奉(レ)出(レ)之責(一)、皇子須(レ)令(二)固辞(一)、衆徒専奉(二)守護(一)之処、可(三)放(二)遣官軍(一)之旨、有(二)其聞(一)、当寺破滅将(レ)当(二)此時(一)歟、而延暦(えんりやく)園城(をんじやう)両寺(りやうじ)者、門跡雖(レ)分慈覚智証之遺訓、所(レ)学是同円実頓悟之教文、喩如(二)鳥之翅不(一)(レ)闕、又似(二)車之輪相備(一)、於(二)一方闕(一)者、争無(二)其歎(一)哉、特致(二)合力(一)被(レ)助(二)仏法(ぶつぽふ)破滅(一)者、早忘(二)年来之遺恨(一)、必復(二)住山之往昔(一)、衆徒之僉議(せんぎ)如(レ)斯、仍牒送如(レ)件。
  治承四年五月廿一日           小寺主法師成賀
                      都維那大法師定算
                      寺主大法師忍慶
                      上座法橋上人位忠成
とぞ書たりける。山門の衆徒、不(レ)及(二)返牒(一)けれ共、先同心参加の由憑しく申たり。
S1406 自(二)興福寺(こうぶくじ)(一)有(二)同心返牒(一)。
其状云、(有朋上P465)
興福寺(こうぶくじ)牒(てふす)園城寺(をんじやうじの)衙(が) 
P0340
 被(レ)載(一)(レ)可(レ)相(下)禦為(二)清盛(きよもり)入道(一)欲(レ)破(中)滅貴寺仏法(ぶつぽふ)(上)由(中)事、
  来牒一紙
牒、今月二十日牒状、今日到来、披閲之処、悲喜相交、如何者(いかんとなれば)、玉泉玉花、雖(レ)立(二)両箇之宗儀(一)、金章金句同出(二)一代之教文(一)、南京北京、倶以為(二)如来(によらい)之弟子(一)、貴寺他寺互可(レ)防(二)調達之魔障(一)、就(レ)中(なかんづく)貴寺者、我等(われら)本師弥勒慈尊常往之精舎也、何況或公家、或姑山、或諸宮、或相門講席之時、令(二)戦智諍儀(一)事、是則天台、法相、三論、花厳等而己、若一宗相闕豈不(レ)恨乎、然者(しかれば)天台学徒、被(二)魔滅(一)者、法相独留如何為哉、凡緇林之詮(二)乙甲(一)者、則是兄弟之諍也、白衣(はくえ)之蔑(二)仏法(ぶつぽふ)(一)者、寧非(二)魔軍之企(一)哉、所(レ)及(二)贔屓(一)最可(二)相救(一)也、抑異或本朝弓馬之道、労(レ)力苦(レ)身、雖(レ)平(二)王敵(一)、抽(レ)賞以不(レ)過(二)千金万戸(一)、官位未(三)必及(二)子孫兄弟(一)、其中我朝自(レ)古賞(レ)武之道、無(レ)授(二)高位(一)、既異(二)唐家(一)、天平御宇(ぎよう)、大野東人雖(レ)斬(二)魁首(一)、僅預(二)八座(はちざの)次(一)、弘仁御宇(ぎよう)、坂上将軍、遠攘(二)奥州(あうしう)之狡獪(一)、近鎮(二)平城之煙塵(一)、雖(レ)加(二)九卿(一)、無(レ)昇(二)三公(一)、爰清盛(きよもり)入道者、平氏之糟糠、武家之塵芥也、祖父正盛仕(二)蔵人五位之家(一)、把(二)諸国受領之鞭(一)、大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)、為(二)賀州刺史(一)之古、補(二)検非違所(一)、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)(有朋上P466)顕季、為(二)播磨太守(一)之昔、任(二)馬厩別当職(一)、曁(二)于親父忠盛(一)、被(レ)聴(二)昇殿(一)之時、都鄙老少皆惜(二)蓬壺之瑕瑾(一)、内外英豪各依(二)馬台之験文(一)、忠盛雖(レ)刷(二)青雲之翅(一)、世人猶軽(二)白屋之種(一)、惜(レ)名青侍、無(レ)臨(二)其家(一)、然間去平治元年、右金吾信頼(のぶより)謀叛之時、太上天皇(てんわう)感(二)一戦之功(一)、被(レ)行(二)不次之賞(一)以降、高昇(二)相国(一)、兼賜(二)兵仗男子(一)、或忝(二)
P0341
台階(一)、或列(二)羽林女子(一)、或備(二)中宮職(一)、或蒙(二)准后宣(一)、兄弟庶子皆歩(二)棘路(一)、其孫彼甥悉割(二)竹符(一)、加(レ)之統(二)領九州(一)、不(レ)辞(二)封家(一)、細官進退百司、皆為(二)奴婢僕従(一)、一毛違(レ)心、縦雖(二)皇候(一)禽(レ)之、一言背(レ)命不(レ)嫌(二)公卿(一)醢(レ)之、是以為(レ)延(二)一旦之身命(一)、為(レ)遁(二)片時之陵辱(一)、万乗聖主尚成(二)面展之媚(一)、重代之家、君還致(二)膝行之礼(一)、雖(レ)奪(二)代々相伝之家領(一)、上裁恐(レ)命巻(レ)舌、雖(レ)押(二)宮々相承之庄園(一)、天子憚(レ)威無(レ)言、乗勝之余、其驕倍増、去年十一月追(二)捕太上天皇(てんわう)之棲抄(一)、掠(二)種々之財貨(一)、押(二)流博陸輔佐之身(一)、奪(二)取国々之庄園(一)、叛逆之甚誠絶(二)古今(一)、其時我等(われら)須(下)行(二)向賊徒(一)以問(中)其罪(上)也、然而或相(二)量神慮(一)、或依(レ)称(二)皇憲(一)、抑鬱胸送(二)光陰(一)之間、清盛(きよもり)入道重発(二)軍兵(一)、打(二)囲一院第二親王宮(一)之処、八幡三所、春日大明神(かすがだいみやうじん)、窃垂(二)影向(一)、奉(レ)■(ささげ)(二)銭弼(一)、送(二)附貴寺(一)、奉(レ)預(二)新羅権現(一)之間、押(二)開金枢(一)、奉(レ)守(二)玉体(一)、王法不(レ)可(レ)尽之旨明矣、随又貴寺捨(レ)命奉(二)守護(一)之条、含識之類、誰不(二)随喜(一)哉、(有朋上P467)我等(われら)在(二)遠域(一)感(二)其情(一)之処、清盛(きよもり)入道猶起(二)凶器(一)、欲(レ)打(二)入貴寺(一)之由側以承及、兼致(二)用意(一)、為(レ)成(二)合力(一)、二十二日晨旦発(二)大衆(一)、二十三日牒送諸寺、下(二)知末寺(一)、調得軍士之後、欲(レ)達(二)案内(一)之刻、青鳥飛来、投(二)一芳紙(一)、数日之鬱念一時解散、彼唐家清涼、一山之■蒭(ひつすう)、尚返(二)武宗之官兵(一)、況和国南北両門之衆徒、盍(レ)擺(二)謀臣之群類(一)、能固(二)梁園左右之陣(一)、宣(レ)待(二)我等(われら)進発之告(一)者、勒(二)衆議(一)牒送如(レ)件、察(レ)状勿(レ)疑殆故牒。
   治承四年五月廿三日          権都維那法師善勝
P0342
                      都維那大法師有実
                      権寺主大法師俊範
                      権寺主大法師兼清
                      権上座大法師禅慶
                      上座法橋上人位俊慶
と書て、三井寺(みゐでら)へ送。又興福寺(こうぶくじ)より、諸寺に牒送する状云、
興福寺(こうぶくじ)大衆牒東大寺(とうだいじの)衙(が) 
 欲(下)早駈(二)末寺庄園(一)被(中)供奉(上)今明中発(二)向洛陽(一)可(レ)助(二)園城寺(をんじやうじ)仏法(ぶつぽふ)破滅(一)状(有朋上P468)
牒、諸宗雖(レ)異、皆十二代聖教、諸寺雖(レ)区、同安(二)三世之仏像(一)、就(レ)中(なかんづく)園城寺(をんじやうじ)者、弥勒如来(によらい)常住霊崛也、我等(われら)受(二)阿僧之流(一)、憤(二)慈氏之教(一)、又貴寺八宗教法、相並学(レ)之、豈不(レ)憶(二)彼寺之破滅(一)乎、而花洛之間有(二)一臣猜(一)、平治元年以来、押(二)領於四海八■(はつていを)(一)、如(二)奴婢(一)、進(二)退於百司六宮(一)、任(二)我意(一)、一毛違(レ)心則、雖(レ)云(二)王侯(一)禽(レ)之、片言乖(レ)思、又雖(レ)為(二)公卿(一)醢(レ)之、是以累代相伝之家、君還成(二)膝行之礼(一)、万乗尊重之国主、殆致(二)面展之矯(一)、遂廻(二)趙高指(レ)鹿之謀(一)、滅(二)王室(一)、剰追(二)弗沙飛(レ)象跡(一)、失(二)仏家(一)、即今明之間、欲(レ)残(二)害園城寺(をんじやうじ)(一)、以未(レ)発以前、不(二)相救(一)者、我等(われら)独全有(二)何益(えき)(一)乎、然則不日調(レ)兵、欲(レ)向(二)京洛(一)、仏法(ぶつぽふ)興廃只有(二)此縡(一)、且祈(二)誓仏神(一)、可(レ)降(二)伏魔軍(一)、且駈(二)催末寺庄園(一)被(二)供奉
P0343
(一)者、冥叶(二)天地之神慮(一)、願保(二)南北之仏法(ぶつぽふ)(一)而己、仍粗勒(二)由緒(一)、牒送如(レ)件、密状勿(レ)令(二)遅引(一)、故牒。
  治承四年五月二十三日         興福寺(こうぶくじ)大衆等(だいしゆら)と、加様に書て十五大寺送遣けり。
S1407 山門変改事(有朋上P469)
山門南都同心の由聞えければ、宮の軍兵等の衆徒、大に勇悦けり。六波羅には大勢馳集て、合戦の評定様々也ける中に、上総介忠清(ただきよ)計ひ申けるは、山門南都同心せば、合戦ゆゝしき大事也、三井寺(みゐでら)には、大関小関を伐塞、山には東西の坂に弩はり、海道北陸二の道を催て、防戦程に、南都の大衆、芳野十津川の悪党等を相語て、宇治路(うぢぢ)淀路より挟で寄ならば、前後に敵を拘へん事、ゆゝしき大事也。官兵数を尽し、日数程を経るならば、国々の源氏も馳上て、軍に勝ん事難し。されば先貫首に仰て、山門を制し、内々三千衆徒を可(二)詐宥(一)也。いかなる者も、財に耽らぬ事やはある。殊に山法師は、詐安ものぞと申ければ、可(レ)然計ひ申たりとて、先院宣被(レ)下、状云、
園城寺(をんじやうじ)者、元是謀叛之地也。誠乎箇事、非寺之訴、非法之鬱、同意八虐之輩、忽失(二)皇法(一)、欲(レ)滅(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、早今日中企(二)登山(一)、勅定之趣、具可(レ)被(レ)仰(二)衆徒(一)、内祈(二)善神(一)、外降(二)悪党(一)耳、抑深懸(二)叡念於叡山(えいさん)(一)、蓋誡(二)一寺於一門(一)、其上凶徒等(きようとら)、忽被(レ)責(二)兵甲(一)者、定遁(二)隠山上(一)歟、兼得(二)此意(一)、慥可(レ)令(二)守護(一)者、宣(レ)守(二)院宣之趣(一)之状如(レ)件、仍言上如(レ)件。
   治承四年五月廿四日              左少弁(させうべん)行隆奉
P0344
謹上  天台座主(てんだいざす)御房(有朋上P470)とぞ有ける。猶重たる院宣云、園城寺(をんじやうじ)衆徒等(しゆとら)、尚背(二)勅命(一)、於(レ)今者可(レ)被(レ)遣(二)追討使(一)也、一寺滅亡雖(二)歎思召(おぼしめす)(一)、万民之煩不(レ)可(二)黙止(一)歟、誠是魔縁之結構(けつこう)、盍仰(二)仏界之冥助(一)哉、満山衆徒、異口同音、可(レ)令(二)祈申(一)、又大威徳供可(レ)被(二)始行(一)之由、依(二)院宣(一)言上如(レ)件。
   五月廿四日                左少弁(させうべん)行隆奉
と有ければ、座主登山有て、衆徒を宥制し給(たま)ひける上に、事を往来に寄て、近江米一万石、美濃絹三千匹を上て、谷々坊々に積て引(レ)之けり。取者は一人して五匹十匹をも取けり。空(レ)手て不(レ)取衆徒も有けれ共、一山大に悦で、忽(たちまち)に三井の発向を変改す。米とり絹取たる大衆等(だいしゆら)、大講堂(だいかうだう)に会合して僉議(せんぎ)あり。倩園城寺(をんじやうじ)の牒状を見に、延暦(えんりやく)園城(をんじやう)の両寺(りやうじ)は、鳥の左右の翅の如く、車の二の輪に似りといへり。此条奇怪の申状也。山門は本山也、園城(をんじやう)は末寺也、本末混合の牒状、豈同心すべきや。此時若合力あらば、向後定て同輩せんか、不(レ)可(レ)然と申たりければ、衆徒一同して不(二)与力(一)、一門賄賂に耽て、忽(たちまち)に変改と聞えければ、三井の衆徒角ぞつゞけける。
  山法師織のべ衣うすくして恥をばえこそ隠さゞりけれ K075(有朋上P471)
絹にあたらざりける山法師読たりけるとかや。
  織のべを一切もえぬ我(われ)らさへ薄恥をかくことぞ悲しき K076 
与せんと申て変改有ければ、三位(さんみ)入道(にふだう)角ぞ送遣しける。
P0345
  薪こる賤がねりその短きかいふ言のはの末のあはねば K077 
山門の衆徒底恥しくこそ思けめ。高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)によりて、山門園城(をんじやう)騒動すと聞えければ、主上俄(にはか)に入道の宿所西八条(にしはつでう)に行幸あり。新院日比(ひごろ)是に御座(おはしまし)けり。日次かた/゛\悪かりけれ共、かゝる急々の折節(をりふし)なれば、是非の沙汰にも及ばず、又御輿の前後に、軍兵数千騎(すせんぎ)打囲たり。事の外に騒しくぞ見えける。
堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)、承保元年十二月には、八幡、賀茂両社の行幸の日、園城寺(をんじやうじ)の悪徒等(あくとら)、参洛すと聞えしかば、前下野守義家(よしいへ)弓箭を帯し、軍兵三千(さんぜん)余騎(よき)にて御輿の後、右衛門の陣に候ひしをこそ、希代の勝事也とて、人驚(二)耳目(一)。近来の御幸行幸には、ともすれば軍兵前後に仕るぞ浅猿(あさまし)き。
S1408 三井寺(みゐでら)僉議(せんぎ)附浄見原(きよみはらの)天皇(てんわうの)事
〔去(さる)程(ほど)に〕三位(さんみ)入道(にふだう)被(レ)申けるは、山門は変改、南都は未(レ)参、小勢にて合戦ゆゝしき大事也。(有朋上P472)平家を夜討にせんは、よかりなん。さらば老僧児共、童部(わらんべ)法師原(ほふしばら)一二千人(いちにせんにん)、如意峯に指遣て、続松手々に用意して、足軽二三百人(にさんびやくにん)、法勝寺(ほつしようじ)の北さまより、三条河原祇園の辺まで、するりと遣て、在家に火を放ちなば、六波羅の早雄の武者共、軍兵に招れて馳来ば、引退引退あひしらひ、矢少々射させて岩坂桜本に引籠て戦はん。其隙に指違て、能者四五百人(しごひやくにん)六波羅へ打入つて、風上に火を係て、太政(だいじやう)入道(にふだう)右大将(うだいしやう)を焼出して、などかは討ざるべきと宣へば、大衆夜討の義尤然べし、軍は不(レ)如(レ)乗(レ)勝とて、三院の大衆、貝鐘鳴し、金堂の前に会合して、已に夜討の手分する処に、一如坊阿闍梨(あじやり)真海と云者あり。太政(だいじやう)入道(にふだう)の祈の師也。同宿済々と引具し
P0346
て、僉議(せんぎ)して云、抑仏法(ぶつぽふ)王法は助(レ)君守(レ)法、文官武官は、治(レ)国鎮(レ)乱、其中に源平両氏の将軍は、朝家前後の守護として、国土を治奉(レ)守(二)君主(一)、互に牛角たりき。然倩近来を見に、源家は運衰て、諸国に零落し、平家は威盛にして、一天を管領せり。依(レ)之(これによつて)五畿七道(ごきしちだう)、不(レ)背(二)其命(一)、百官万庶相(二)従其威(一)。衆流の海に入が如く、万木の似(レ)靡(レ)風。一寺の衆徒の力を以て、一族多勢の兵を傾事たやすからじ。但蟷螂(たうらう)車を還と云こと侍ば、其にはよるまじき上、親王の御入寺は、寺門の繁昌衆徒の面目也、当(二)此時(一)、誰か等閑を存じ、勇心なからん。然者(しかれば)卒爾の夜討を止て、能々謀を横縦に廻し、(有朋上P473)勢を東西に催して軍せんは可(レ)宣か、角申せばとて、全く平家の方人には非、いかにも寺門の安堵衆徒の高名こそ末代までも存ずる事なれと、言と心と引替て、夜を明さんと、閑々(しづしづ)長々とぞ僉議(せんぎ)したる。此に乗円坊阿闍梨(あじやり)慶秀は、下腹巻に衣装束、長絹袈裟にて頭を裹、打刀前垂指、進出て云けるは、軍に勝こと勢には依らず、証拠外になし。我(わが)寺(てら)の本願主、浄見原(きよみはら)の宮と申は、事新けれども天智天皇(てんわうの)御弟、大海人王子是也。天皇(てんわう)我御子達(みこたち)には譲(レ)位給はで、浄見原(きよみはらの)宮に譲給へりしかば、天智崩御(ほうぎよ)の後、皇子大友位に洩給(たま)ひぬる事を恨て、謀叛をおこし、浄見原(きよみはらの)宮を襲ひ給しかば、宮都を出て吉野山に入給ふ。天神憐を垂給けるにや、天女あま降り、天の羽衣にて廻雪の袖をかなでしかば、後憑しくぞ思召(おぼしめし)けるに、猶芳野山を責べき聞えありければ、彼山を出給、伊賀国へ越、伊勢と近江の境なる、鈴鹿山に入り給。深山(しんざん)陰(かげ)幽にして人跡絶、更闌夜暗して、月不(レ)照ければ、東西に迷給、為方を失へり。前後左右
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を見廻給へば、山中に幽に火の光あり、彼にたどり至て御覧ずれば、奇き柴庵に、夫婦とおぼしくて老翁老嫗あり。御宿を借り給へば、不(レ)惜奉(二)請入(一)。宮問云、在所多(レ)之、何心在てか此深山(しんざん)に栖と。翁答曰、此地は霊地にして、凡境に非ず、此に栖者王に肩を並る地形あり、故に爰を栖とし侍と。浄見原(きよみはら)の宮、奇異(有朋上P474)の思を成給ふ。王に肩を並るとは、朕が事を示にやと、憑しく思召(おぼしめ)し、重て汝に子ありやと、御尋(おんたづ)ねありければ、我に一人の女子あり、后相を具せる故に、凡人に隠して、此山の上に御所を造て、居置侍ると。宮の仰に云、我は是浄見原(きよみはら)の宮也、天智の譲をえたれ共、大友の王子に襲れて、爰(ここ)に迷来れり、汝が女朕が后に可(レ)祝とて、即其夜中に、彼御所に入給。又宮翁に仰て云、大友(おほともの)王子(わうじ)に、見目、聞耳、かぐ鼻とて、三人の不思議の者を召仕ふ。一旦此に隠忍たりとも、遂には顕なん、いかゞすべきと語給へば、翁畏て申、君の御先祖と申は、天照太神(てんせうだいじん)也。程近伊勢国(いせのくに)渡会郡、五十鈴の河上に崇られ給(たまひ)て、御子孫を守護し奉らんと御誓あり。御参あり祈念あらば、御恙あらじと申ければ、即老翁を召具して、御参詣あり。折節(をりふし)降雨車軸を下して、鈴鹿川に洪水漲下りて、渡り難かりけるに、二頭鹿参て、両人を背に乗、河を奉(レ)渡、其より彼河を鈴鹿川と改名せり。敵兵攻来ると聞えしかば、翁太神宮の御後に、大なる岩屋あり、君を奉(レ)入、銀の盤の上に金の鉢に水を入て、御足を指入させ奉て、敵来侍ん時は、御足にて水をかは/\と鳴させ給へと申て忍隠ぬ。敵程なく責来たれども、岩屋の口にて失(二)行方(一)、あきれ立たり。宮御足にて水を、かは/\と鳴し給ふ。大友(おほともの)
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王子(わうじ)、見目に仰て、いづくにかおはすると宣へ(有朋上P475)ば、三千界の内には見え給はずと、次に聞鼻承て、三千界の内に其香なしと、次に聞耳承て、暫く聞て、此君は此界には御座(おはしま)せず、其故は此世界の構様は、風輪の上に水輪あり、上に金輪あり、上に地輪あり、而を浄見原(きよみはら)の宮、只今(ただいま)金輪の上の水輪を渡給ふ、足音かは/\と鳴侍るとて、是より皆々都へ帰上ぬ。其後翁来て岩屋の戸を開て奉(レ)出。君太神宮の御宝前にて御神楽あり。神明顕現じ給(たま)ひて御託宣(ごたくせん)あり、君は国津神を集、東夷を催して禦(レ)敵給へ。大友は都西の戎を以て、責来るべし。近江と美濃との境に、城構して相待給へ。我擁護を加て勝事をえしめ、必可(レ)有(二)即位(一)と、宮悦思召(おぼしめし)て、近江国の山伝して、百済寺山を通て、美濃国に入り給(たま)ひ、是彼忍隠給けり、大友(おほともの)王子(わうじ)聞給(たまひ)て勢を催て、美濃国へ向けり。何の所にか有けん、宮を奉(二)見付(みつけ)(一)て追懸たり。危かりける時、野中に大なる榎木一本あり。二に破て中開たり。宮其中に入給へば、木又いえ合ぬ。敵打廻見けれども、見え給はざりければ、陣に帰ぬ。其後榎木又破れて中より出給ぬ。大童に成て御身を窄し、其辺に廻て、宮仕せんと宣へば、関の辺に一人の長者あり。招入て仕試るに、万に賢かりければ、只人共不(レ)覚して、かしづき仕けるに、夜々(よなよな)夢に日月を仕と見る。不審によりて、抑誰人ぞ、若大友(おほともの)王子(わうじ)に忍給ふなる、浄見原(きよみはら)の宮にて御座か、(有朋上P476)左にはあらずと仰あらば、王子の軍兵に見せ奉んと申せば、宮名乗て憑まんとおぼして、丸は浄見原(きよみはら)の宮也、深く汝を憑と宣へば、長者畏て聟に取奉て、隠し置奉る。年月を経て、王子二三人出き給へり。其後長者東夷を催て、白鳳元年壬午
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始て不破関を置て、美濃国にて軍構し給へり。王子此由聞給(たまひ)て、西戎を集て向給ふ。両軍山中宿にて合戦す。山中の東なる河を阻て戦けり。両陣互に白刃を合せければ、其川黒き血に流けり。さてこそ彼川をば、黒血川とは名付たれ、宮の勢は東国より走集て如(二)雲霞(一)。王子の軍は敗て、終に亡にけり。宮都に上給(たま)ひ、即(レ)位給にけり。天武天皇(てんわう)とは是也。浄見原(きよみはらの)天皇(てんわう)共申。天皇(てんわう)崩御(ほうぎよ)の後、関の長者の恩を思召(おぼしめし)けるにや、神と被(レ)祝給へり。関明神と申は是也。関所の殿原と云は、彼長者の女に儲給へる末葉也。去ば天皇(てんわう)大和国(やまとのくに)宇多郡を通給けるには上下十七騎、遂には軍に勝て位に即給へり。昔を以て今を思ふに、不(レ)可(レ)依(二)無勢(一)。十七騎猶軍に勝、況三院の衆徒をや、況源氏の与力をや。就(レ)中(なかんづく)窮鳥入(レ)懐、人倫憐と云事あり。況宮の御入寺をや。異計を廻さんとて、徒に時日を隔ならば、敵に上手を討れて、後悔無(レ)益也。自余は不(レ)知慶秀が弟子共は、急ぎ先陣仕て、慥に太政(だいじやう)入道(にふだう)の首を取て、親王の御代に成進せよとて、ひしめきけり。実にゆゝしくぞ見えける。円満院(ゑんまんゐん)の大輔(有朋上P477)進出て、唯一口に、衆徒の僉議(せんぎ)端多し、五月の短夜明なんとす、急寄られよと云ければ、尤々(もつとももつとも)とて如意峯より、師法印乗智が弟子共に、義法禅永等五十(ごじふ)余人(よにん)、乗円坊の慶秀が同宿等に、加賀刑部光乗一来を始として、六十余人(よにん)、律浄坊の日胤が同宿に、伊賀越前上総坊を始めとし五十(ごじふ)余人(よにん)、其外児共童部(わらんべ)、大津の在家駈具して、千余人(よにん)、手々に続松支度して向けり。六波羅の討手には、伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)を大将軍として、侍には渡辺党満馬允、子息省の播磨次郎、其子授薩摩兵衛、刈源太、与馬允、競滝口、唱丁七
P0350
清、濯等也。僧には法輪院荒土佐、円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)、平等院(びやうどういん)因幡竪者、荒大夫松井肥後、角六郎坊、島阿闍梨(あじやり)北院の金光院六天狗に、大輔、式部、能登、加賀、佐渡、肥後等也。常喜院には、鬼土佐、筒井法師に、卿阿闍梨(あじやり)悪少納言、我耶筑前、南勝院に、肥後房、日尾定雲四郎坊、後中院に但馬坊、大矢修定、此等は皆弓矢を取ても打物以ても一人当千(いちにんたうぜん)の兵也。堂衆には、筒井浄妙、明秀、小蔵には、尊月、尊永、慈慶、楽住、金拳、賢永等こそ伴けれ。僧俗勢都合七百(しちひやく)余騎(よき)、皆長刀を持たりけり。如意峯の手は、物具(もののぐ)を帯して、嶮山を上ける上に、五月二十日余(あまり)の事なれば、雲井の月もおぼろにて、木の下も、又暗ければ、進もやらざりけり。六波羅の手は、宮御入寺の後は、用心の為に、大関小関(有朋上P478)堀塞、逆木垣楯構たりければ、彼等を取払、堀に橋渡などする程に、五月の短夜推移、関路の鶏鳴あへり。伊豆守(いづのかみ)は夜討こそよかりつれ、鶏鳴頻也、夜既明なんとす、今は叶はじとて引へたり。円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)は、褐の直垂に、黒皮威(くろかはをどし)の大荒目の鎧の、一枚まぜなる草摺長にさゞめかし、白星の甲に、大の長刀杖につきて申けるは、昔漢朝に孟嘗君(まうしやうくん)と云人あり。本は斉の国の人也けり。狐白の裘と云て、千の狐の脇の皮を取集て、しつらひ作たる秘蔵の物を持たりけり。秦昭王に心ならず乞取れて不(レ)安思けり。彼孟嘗君(まうしやうくん)は、様々の能者を、三千人(さんぜんにん)従仕ひけり。其中にりうていと云者は、勝たる犬の学の上手にて、而も盗人也けるを以て、犬の学して蔵を破、白狐裘を盗出して逃けるに、昭王兵を遣して、孟嘗君(まうしやうくん)を討んとす。孟嘗君(まうしやうくん)三千人(さんぜんにん)の客を引卒して、函谷関にぞ係ける。彼関は鶏不(レ)鳴さきには戸を開かぬ習
P0351
なれば、夜深して通り難し。敵は既襲来る、遁るべき様もなかりけるに、三千人(さんぜんにん)の客の中に、馮■(ふくわん)と云者あり、鶏の音をまねぶ上手也ければ、関の戸近き木に昇て、鶏の真音をぞ啼たりける。関路の鶏聞伝て、一羽も不(レ)残鳴ければ、いまだ夜半の事なれども、関守戸をぞ開てげる。孟嘗君(まうしやうくん)希有にして遁にけり。其よりしてぞ馮■(ふくわん)をば、鶏鳴とも申ける。されば是も敵の謀にや有らん、只寄給へと云けれども、今(有朋上P479)はいかにも叶はじとて、山階よりこそ引返せ。懸しかば如意が手をも呼返し、其夜も空く明ぞ行。此事真海阿闍梨(あじやり)が長僉議(ながせんぎ)の故也とて、一如坊へ押寄て、切坊に及ければ、禦戦けれども、同宿あまた討れて、真海希有にしてまぬかれ出、はふ/\六波羅へ行向、此由角と訴申けれども、六波羅には兼て大勢用意ありければ、更に騒事なし。いざ/゛\、真海も寺法師也、敵の計ごとにもや有らん、打解がたしとて無興なりければ、真海兎に角に、面目なくて還にけり。(有朋上P480)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十五

P0352(有朋上P481)
世巻 第十五
S1501 高倉宮(たかくらのみや)出寺事
高倉宮(たかくらのみや)は、暫く此にも御渡あらばやと、思召(おぼしめし)けれ共、山門の大衆は変改、国々の源氏は未(レ)参、寺ばかりにては叶はじとて、廿五日に園城寺(をんじやうじ)を出させ給(たまひ)て、南都を憑て落させ給けるが、先金堂に御入堂ありて、蝉折と云御秘蔵の御笛を以て、万秋楽の秘曲をあそばして御廻向あり。南無(なむ)大慈大悲当来導師弥勒慈尊、戒善の余薫拙くして、今生こそ空くとも、竜笛の結縁を以て、後生助給へとて、泣々(なくなく)仏前に差置せ給けるこそ哀なれ。警固の大衆も、御伴の兵も、皆袖をぞ絞りける。
S1502 万秋楽曲事
 < 抑万秋楽と云曲は、本は都卒天上の楽也。是即弥勒の内院の秘密灌頂(くわんぢやう)の陀羅尼なり。釈迦如来(しやかによらい)■利(たうり)の雲上にして、弥勒に袈裟を付属し給(たま)ひし時、彼天の万秋楽と云木下にて、(有朋上P482)天衆菩薩此楽を奏して、如来(によらい)を供養し奉しかば、万秋楽と名たり。昔朱雀院御子に日蔵上人とて貴人にて、金峯山に行澄して御座(おはしまし)けるを、蔵王権現の御方便にて、秘密瑜伽(ゆが)の独古を把て六道(ろくだう)を見廻給けるに、都卒の内院に参給へり。折節(をりふし)弥勒慈尊は、大厦高堂に黙然として座し給たりけるに、菩薩聖衆秘密陀羅尼を妓楽に移し、此曲を奏して慈尊を奉(二)供養(一)。日蔵上人絃の道に長じ給たりければ、唱歌を以て伝へつゝ、我朝の管絃に被(レ)移たり。此に都卒天の楽と云。序三帖、破六帖合て九品に是をあつ。舞の終に必膝をついて居事は、弥勒を敬由也。手に合掌の曲あり、見仏聞法の楽とも云。迦毘相経第六に説て云、此万秋楽伝受人天、決定住生都卒天上〈 文 〉、誠大陀羅尼の功徳也、不(レ)輙妙曲也。
P0353
 或説云、日蔵上人大唐より此曲を伝と云云。>
S1503 蝉折笛事
 < 蝉折と云御笛は、鳥羽院(とばのゐんの)御時、唐土の国王より御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに、砂金千両に檜木の材木を被(二)進送(一)たりければ、唐土の国王其御志を感じて、種々の重宝を被(二)報進(一)ける中に、漢竹一両節間被(レ)制たり。竹の節生たり。蝉につゆたがは(有朋上P483)ざりければ、希代の宝物と思召(おぼしめし)て、三井寺(みゐでら)の法輪院覚祐僧正(そうじやう)に仰て、護摩の壇上に立て、七箇日加持して後、彫たりける御笛也ければ、おぼろげの御遊(ぎよいう)には取りも出されざりけり。鳥羽殿(とばどの)にて御賀の舞のありけるに、閑院の一門に、高松中納言実平、此御笛を給(たまひ)て吹けるが、すき声のしけるをあたゝめんとて、普通様に思ひつゝ、膝の下に推かいて、又取上吹んとしてけるに、笛咎めや思けん、取はづして落して蝉を打折けり。其よりして此笛を、蝉折とぞ名ける。高倉宮(たかくらのみや)管絃に長じまし/\ける上、ことに御笛の上手にて渡らせ給(たま)ひければ、御孫子とて、鳥羽院(とばのゐん)此宮には御譲ありける也。宮も故院の御形見と被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、聊も御身を放たせ給はざりけれ共、深く竜華の値遇と思召(おぼしめし)ければ、彼天の楽を奏して、此寺の本尊に進給(たま)ひけるこそ哀なれ。>
S1504 宇治合戦附頼政(よりまさ)最後事
宮は御馬に召て、既(すで)に寺を出させ給けり。児共大衆行歩叶はぬ老僧までも、此程の御なごりを奉(レ)惜て、墨染袖を絞りけり。中にも乗円坊阿闍梨(あじやり)慶秀は、七十有余(いうよ)の老僧也。腰二重にて鳩杖に係り、御前に進て奏けるは、慶秀齢己に八旬に及て行歩に力なし、御志(有朋上P484)はいかにもと存ずれ共、御伴に不(レ)叶、弟子にて侍る、刑部房俊秀は、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)、山内須藤刑部丞俊通と申し者が子息に侍、彼俊通は、去し平治の合戦に義朝(よしとも)が伴して、六条川原の軍に討死して、孤子にて侍しを、慶秀跡懐より生し立てて、心の中も身の力もよく/\知て候、不敵の僧にて心際悪からぬ者にて侍り、慶秀御伴仕と思召(おぼしめ)して、
P0354
御前近く召仕はせ給べしとて、涙を流し墨染の袖を絞ければ、宮も聞し召し御覧じて、仮そめのなじみに、加程に思覧事よと思召(おぼしめし)ければ、御涙(おんなみだ)ぞ進みける。宮は御浄衣にて御馬に召、三位(さんみ)入道(にふだう)の一類、并(ならびに)寺法師、都合三百(さんびやく)余騎(よき)御伴に候けり。新羅社の御前にては御心計に再拝して、大関通に御出なる。東を望めば湖水茫々として波清く、西を顧ば嶺松鬱々として風冷じ。関寺関山打つゞき、住人(ぢゆうにん)来人会坂や、一叢杉木下より、筧の妙美井絶々也。くゞ井坂、神無の森、醍醐路に懸て、木幡の里を伝つゝ、宇治へぞ入せ給ける。宇治と寺との間、行程纔(わづか)に三里計也、六箇度まで御落馬あり。御馬に合期せさせ給はぬ故にや、又此程打解御寝ならぬ故にや、是も然べき御運の際とは申ながら、加程の御大事(おんだいじ)の中に、睡落させ給ける御事云かひなし。加様に度々御落馬在ければ、暫く休め進せんとて、宇治の平等院(びやうどういん)に入進て御寝あり。其間に宇治橋三間引て、衆徒も武士も宮をぞ奉(二)守護(一)。平家は(有朋上P485)宮南都へ入せ給由聞て、追討使を被(二)差遣(一)に、左兵衛督知盛卿、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣、中宮亮通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、左馬頭(さまのかみ)行盛朝臣、淡路守清房朝臣、侍には上総忠清(ただきよ)、上総大夫判官(たいふはんぐわん)忠綱(ただつな)、摂津判官盛澄、高橋判官長綱、河内判官季国、飛騨守景家(かげいへ)、飛騨判官景高、都合二万(にまん)余騎(よき)、宇治路(うぢぢ)より南都を差て追て懸。平等院(びやうどういん)に敵ありと見ければ、平家の兵共(つはものども)雲霞の如くに馳集て、河の東の端に引へて、時を造る事三箇度(さんがど)、夥しとも不(レ)斜(なのめならず)。宮の兵共(つはものども)も時の音を合て、橋爪に打立て禦矢射けり。其中に寺法師に、大矢の秀定、渡辺清、究竟の手だり也けるが、矢面に進んで、差詰/\射けるにぞ、楯も鎧も不(レ)叶し
P0355
て多の者も討れける。平家の先陣も、始は橋を隔て射合けるが、後には橋上に進上て散々(さんざん)に射。其中に信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、吉田安藤馬允、笠原平五、常葉江三郎を始として、二百余騎(よき)進出て戦けるに、常葉江三郎内甲射させて引退く。宮の兵は橋の西爪にて、差詰々々射ければ、面を向がたし。平家の軍兵は、東の爪に轡を並て如(二)雲霞(一)。橋は狭し人は多、我劣らじ/\と上が上に籠入けり。未暁の事なるに、上川霧立て暗さは闇し、橋をさへ引たりければ、先陣に進者、橋を引たるぞ/\と、口々によばはりけれ共、指もどゞめく中なれば、唯我先にと馳こみける程に、先陣二百余騎(よき)をば川の中へぞ推落す。夜もほの/゛\と明け(有朋上P486)れば、寺法師は筒井の浄妙明春と云者あり、自門他門に被(レ)免たる悪僧也、橋の手にぞ向ける。明春今日は事を好てぞ装束したる、しかまの褐の冑直垂に、紺の頭巾に黒糸威(くろいとをどし)の大荒目の冑の一枚交なるを、草摺長にゆり下し、三枚甲の緒を強くしめて、黒ぬりの太刀の、三尺五寸あるに、練つば入て熊皮の尻鞘をさす。同毛色のつらぬきをぞ帯たりける。黒塗の箙に、塗篦に黒つ羽を以てはぎたる矢を、廿四差たるを、頭だかに負なしつつ、七もちりなるまゆみのしめ塗にぬりたるに、塗づる懸て真中を取、烏黒の馬の七寸(しちすん)にはづみたる黒鞍置て、熊皮泥障指てぞ乗たりける。同宿廿人、同毛色に真黒にぞ出立たる。三尺五寸の長刀童に持せて具足せり。明春云けるは、殿原暫軍止め給へ、其故は敵の楯に我箭を射立て、我楯に敵の箭をのみ射立られて、勝負有べきとも不(レ)見、橋の上の軍は、明春命を捨てぞ事行べき、続かんと思人は連やと云儘に、馬より飛下てつらぬき抜捨、橋桁の上に
P0356
挙りて申けるは、者その者にあらざれば、音にはよも聞給はじ、園城寺(をんじやうじ)には隠れなし、筒井浄妙明春とて一人当千(いちにんたうぜん)の兵なり、手なみ見給へとて、散々(さんざん)に射ければ、敵十二騎射殺して十一人(じふいちにん)に手負て、一は残して箙にあり。箭種尽ければ、弓をばかしこに投捨ぬ。彼はいかにと見処に、箙も解て打すて、童に持せたる長刀取、左の(有朋上P487)脇にかい挟みて、射向の袖をゆり合せ、しころを傾、橋桁の上を走渡る。橋桁は僅(わづか)に七八寸の広さ也。川深して底見えざれば、普通の者は渡べきにあらざれ共、走渡りける有様(ありさま)、浄妙が心には、一条二条の大路とこそ振舞けれ。廿人の堂衆等も続ざりける。其中に十七になる一来法師計こそ少しも劣らず連けれ。明春元より好所也ければ、今日を限と四方四角振舞て飛廻りければ、面を向る者なかりけり、電光の如にひらめきけり。立に敵九騎討捕て、十人と申けるに、甲の鉢にしたゝかに打当て、長刀こらへずして折ければ、河へからと投入て、太刀抜て戦けり。太刀にて七騎討捕て、六騎に手負て休居たり。平家の方より、悪き法師の振舞哉、さのみ一人に多者討れたるこそ安からねとて、しころを傾けて、ながえを指出たる兵あり。明春是を見て、面白し、東門五色の熟瓜ぞやとて、甲の鉢を打破て、喉笛まで打さかんと打たりけるに、太刀もこらへずして、目貫穴のもとより折にけり。太刀は折たれ共、甲も頭も打破れて、真逆に川中へぞ落にける。憑処は腰刀計也、腰刀を抜持てはねて係りて戦けり。死狂とぞ見えたりける。見(レ)之浄妙討すな者共とて、後中院但馬、金剛院六天狗、鬼土佐、佐渡、備中、備後、能登、加賀、小蔵尊月、尊養、慈行、楽住、金拳玄永
P0357
等命を不(レ)惜戦たり。橋桁はせばし、(有朋上P488)そばより通にも非ず、明春に並たりける一来、今は暫く休給へ浄妙房、一来進て合戦せんと云ければ、尤然べしとて、行桁の上に、ちと平みたる処を、無礼に候とて、一来法師兎ばねにぞ越たりける。敵も御方も是を見て、はねたり/\あつはねたり、越たり越たりよつ越たりと、美ぬ者こそなかりけれ。此一来法師は、普通の人より長ひきく、勢ちひさし、肝神の太き事、万人に勝れたり。さればこそ甲冑をよろひ、弓矢兵仗を帯しながら、身の惜事をも顧みず、あれ程狭き行桁を走渡、大の法師をかけずはね越たりけめ、太刀のかげ天にも在地にもあり、雷などのひらめくが如し。切落し切伏らるゝ者、其数を不(レ)知、上下万人目を澄てぞ侍りける。明春、一来師、弟子二人に討るゝもの、八十三人也。誠に一人当千(いちにんたうぜん)の兵也、あたら者共討すな、荒手の軍兵入替よや/\と、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)下知しければ、渡辺党に、省、連、至、覚、授、与、競、唱、列、配、早、清、進、なんどを始として、各一文字声々名乗て、三十(さんじふ)余騎(よき)馬より飛下飛下、橋桁渡て戦けり。明春は此等を後陣に従へて弥力付て、忠清(ただきよ)が三百(さんびやく)余騎(よき)の勢に向て、死生不(レ)知にぞ戦ける。三百(さんびやく)余騎(よき)と見しかども、明春一来が手に懸り、渡辺党に討れて、百騎計に成て引退く。平家の大将是を見て、橋の手こそしらみて見れ、返合よ/\と下知しければ、我も(有朋上P489)/\と橋の上にぞ走重。橋は二間引れたり、後より御方に推れて、心ならず七十余騎(よき)川へ落て流けり。三位(さんみ)入道(にふだう)見(レ)之て、世を宇治川(うぢがは)の橋下さへ、落入ぬれば難(レ)堪、況冥途の三途川こそ思やらるれとて、
P0358
  思やれくらき暗路のみつせ川瀬々の白浪払あへじを K078 
筒井浄妙俄(にはか)に弥陀願力の舟に心を係て、
  宇治川(うぢがは)にしづむを見れば弥陀仏誓の舟ぞいとゞ恋しき K079 
明春心は猛く思へども、手負ければ引退て、平等院(びやうどういん)の門外、芝の上にて物具(もののぐ)ぬぎ置、冑甲に立所の矢六十三、大事の手は五所也、閑所に立寄て、彼是炙治し、頭はからげ弓打切杖につき、平足駄著て独言して云けるは、法師等が外は軍心に入たる者はみえず、いかにも始終墓々しからじとて、阿弥陀仏(あみだぶつ)〔と〕申て奈良の方へぞ落行ける。
円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)慶秀、矢切但馬明禅と云ふ者あり。是又、武勇の道人にゆるされたる兵也。慶秀は白帷の脇かきたるに、黄大口著て、萌黄の腹巻に袖付たり。明禅は脇かきたりける褐の帷に、白大口に、洗革の腹巻に、射向の袖をぞ付たりける。各長刀脇に挟て、しころを傾て、又行桁を渡けるを、平家の軍兵矢衾を作て射ければ、射すくめられて渡えざりけるに、長刀を振上て、(有朋上P490)水車を廻ければ、雨の降如くに射けれども、長刀にたゝかれて、箭四方にちる、春の野に蜻蜒の飛散が如くなり。敵も御方も皆興に入て、ほめぬ者こそなかりけれ。中にも後中院の但馬房を矢切と申けるは、左の脇に長刀を挟、右の手には三尺二寸(にすん)の太刀抜持て、敵の射箭を切落す。下る矢をば踊越え、上矢をばついくゞり、向矢をば伐落す。懸ければ、身に立矢こそなかりけれ。其間に敵八人(はちにん)討捕て引退。さてこそ矢切の但馬
P0359
とも申けれ。橋を引てければ、敵数千騎(すせんぎ)ありといへ共渡えず、明春等に被(レ)禦て、合戦時をぞ移しける。矢切但馬、浄妙、一来、此等三人橋桁を渡ける。敵共残り少く被(二)切落(一)ければ、後には渡る兵なし。平等院(びやうどういん)の前西岸の上、橋の爪に打立たる宮の御方の軍兵共、我も/\と扇を揚て、渡せや渡せやと召て■(ののしり)けるは、其程臆病なる軍将やはある、太政(だいじやう)入道(にふだう)心おとりせり、懸不覚の者共を合戦の庭に差遣す条、非(二)一門恥辱(一)やと云て、舞かなづる者もあり、踊はぬる者もあり、されども進兵なかりけり。寺法師、法輪院荒土佐鏡■(きやうしゆん)をば、雷房とぞ申ける。雷は卅六町を響かす音あり、此土佐も三十六町の外にある者を呼驚す大音声なれば、さだかにはよも聞えじとて、岸の上の松木に上て、一期の大音声今日を限とぞ呼ける。一切衆生法界円満輪皆是身命為第一宝とて、生ある者は皆命を惜(有朋上P491)習なれ共、致(二)奉公忠勤(一)輩、更に以て身命を惜事あるべからず、況合戦の庭に敵を目に懸けながら、轡を押へて馬に鞭打さる条、致(二)大臆病(一)処也、平家の軍将心おとりせり、源家の一門ならましかば、今は此河を渡なまし、栄花を一天に開く、臆病を宇治川(うぢがは)の橋の畔に現す、禁物好物自在にして、四百四病はなけれ共、一人当千(いちにんたうぜんの)兵に会ぬれば、臆病計は身に余りけり。良平家の公達聞給へ、此には源(げん)三位(ざんみ)入道殿(にふだうどの)の矢筈を取て待給ぞ、源平両門の中に選れて、■(ぬえ)射給たりし大将軍ぞや、臆する処尤道理也、爰(ここ)に一来法師太刀を振ば、二万(にまん)余騎(よき)こそ引へたれ、尾籠也見苦見苦、思切て渡や/\とぞ呼ける。左兵衛督知盛聞(レ)之、不(レ)安事かな、加様に笑れぬるこそ後代の恥と覚ゆれ、橋桁を渡せばこそ無勢
P0360
にて多兵をば射落さるれ、大勢を川に打ひたして渡とぞ宣(のたまひ)ける。平家方より伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)古市の白児党とて、さゞめきて押寄たり。宮御方より渡辺者共、省、授、与、列、競、唱、清、濯と名乗合て、散々(さんざん)に射。白児党に先陣に進戦ける内に、三人共に赤威の鎧に、赤注付たりける武者、馬を射させて川中へはね入られて、浮ぬ沈ぬ流て宇治の網代による。秋の紅葉の竜田川の浪に浮に異ならず。網代に懸て、弓筈を岩のはざまにゆり立て、希有にしてこそあがりけれ。源氏これを見て、(有朋上P492)
  白児党皆火威の鎧きて宇治の網代に懸りけるかな K080 
と、平家の侍に、上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、此有様(ありさま)を見て申けるは、橋は引たれば難(レ)渡、河は水早して底不(レ)見、人種は尽とも渡すべしとも不(レ)覚、追手の勢少々を此に置て敵にあひしらひ、搦手を淀路河内路へ廻て、敵の前を塞て戦はんと云ければ、下野国住人(ぢゆうにん)、足利(あしかがの)又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)進出でて、淀路河内路も我等(われら)が大事、全く余(よ)の武者の向べきに非ず、橋を引れ河を阻たればとて、目にかけたる敵を見捨て、時刻をへるならば、芳野法師奈良法師参集てゆゝしき大事、此川は近江湖水の末なれば、旱事更にあるべからず、武蔵と上野との境に、利根川(とねがは)と云大河あり、其にはよも過じ物を、昔秩父と足利と、中悪て、度々合戦しけるに、寄時には瀬を蹈舟に乗て渡りけれども、軍に負て落けるには、舟にも乗らず淵瀬を嫌事なし、され共馬も殺さず人も死なず、又足利より秩父へ寄けるに、上野の新田入道を語て、搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり。搦手は長井(ながゐ)の渡と定たりける程に、秩父に舟を破れて、新田入道河の端に引へ
P0361
たり。入道申けるは、人に憑れて搦手に向ひながら、船なしとて暫も此にやすらふならば、大手軍に負なんず、去ば永く弓矢の道に別べし、縦骸を底のみくづと成とも、名を此川に流せやとて、長井(ながゐ)の渡を越けり。同は我等(われら)も(有朋上P493)水溺れては死とも、争か敵を余所に見るべき、況や此河は浪早しといへ共、底深からず、岩高しといへ共、渡瀬多し、河を渡し岸を落す事は、鐙の蹈様手綱のあやつりにあり、馬の足をかぞへて浪間を分よ者共とて進みければ、然べきとて伴者ども、一門には小野寺の禅師太郎、戸屋子七郎太郎、佐貫四郎大夫弘綱、応護、高屋、ふかず、山上、那波太郎、郎等には金子の舟次郎、大岡の安五郎、戸根四郎、田中藤太、小衾二郎、鎮西八切宇の六郎、産小野次郎を始として、三百(さんびやく)余騎(よき)を伴ける。足利(あしかがの)又太郎(またたらう)、真先係て下知しけり。此川は流荒して底深し、大事の川ぞ過すな、肩を並て手を取り組、さがらん者をば弓筈に取付せよ、強馬をば上手に立よ、弱馬をば下手に並よ、馬の足のとづかん程は、手綱をすくうて歩ませよ、馬の足はづまば、手綱をくれておよがせよ、前輪には多くかゝれ、水越ば馬の草頭に乗さがれ、水には多く力を入よ、馬には軽く身をかくべし、手綱に実をあらせよ、去ばとて引かづくな、敵に目をかけよ、余りに仰のき内甲射さすな、余りにうつぶきててへん射すな、鎧の袖を真額にあてよ、水の上にて身繕すな、我馬弱とて、人の馬にかゝりて、二人ながら推流るな、我等(われら)渡すと見るならば、敵は矢衾つくりて射ずらん、敵は射とも各返し矢いんとて、河の中にて弓引て推流されて笑はるな、(有朋上P494)弓の本はず童すがりに打かけよ、あまたが心を一になし、曳声
P0362
出して渡すべし、金に渡て過すな、水に従て流渡に渡べしとて、橋より上へ三段計打あげて、三百(さんびやく)余騎(よき)さと打入、曳々とをめき叫て渡たり。橋の下へ一段さがらず、三百(さんびやく)余騎(よき)一騎(いつき)も流さず皆具して向の岸へざと上る。見(レ)之て千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)、打入打入渡たり。二万(にまん)余騎(よき)、馬と人とに防がれて、漏る水こそ見えざりけれ。自ら前後の勢に連かずして、十騎(じつき)廿騎(にじつき)渡しける者は、一人もたまらず押流さる。大勢河を渡しければ、宮の兵共(つはものども)暫平等院(びやうどういん)に引退。足利(あしかがの)又太郎(またたらう)は、西の岸に打上て、鐙蹈ばり弓杖突、物具(もののぐ)の水はしらかし、鎧突す。鎧は緋威(ひをどし)に金物を打、未己の時とぞ見えし。白星の甲居頸に著なし、大中黒の廿四差たる矢、頭高に負、滋籐の弓の真中取、紅のほろ懸て、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬の太逞に、金覆輪の鞍置てぞ乗つたりける。平等院(びやうどういん)の惣門の前(まへ)に打寄て、皆紅の扇ひらき仕ひ、鐙蹈張弓杖つきて申けるは、只今(ただいま)宇治川(うぢがは)の先陣渡せるは、昔朱雀院御宇(ぎよう)、承平に将門(まさかど)を討、勧賞に預し下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷が五代の苗裔、足利(あしかがの)太郎(たらう)俊綱(としつな)が子に、又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)、生年十七歳、童名王法師、小事は不(レ)知、大事の軍は三箇度(さんがど)、未(二)不覚仕(一)、係無官(むくわん)無位(むゐ)の遠国の夷の身として、忝(かたじけなく)も宮に向進て、弓を引矢を放侍ん事、天の恐候へ共、是も私の宿意に非ず、平家の下知にて(有朋上P495)侍れば、果報冥加は太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)の御身に侍べしと。名を得たらん兵、忠綱(ただつな)打捕やと云て懸ければ、大夫判官(たいふはんぐわん)兼綱申けるは、秀郷朝臣は含(二)綸旨(一)朝敵を誅しき、彼朝臣が後胤として、今宗盛卿(むねもりのきやう)が郎徒と名乗、何の面目有てか先賢を顕して其恥をしめす、甚拙なしとぞ咲ける。忠綱(ただつな)不(二)取敢(一)(とりあへず)申けるは、秀郷朝臣が将門(まさかど)を誅せし時も、征夷
P0363
の大将軍は参議右衛門督(うゑもんのかみ)藤原の忠文朝臣也き。宗盛卿(むねもりのきやう)今征夷将軍也、依(二)勅定(一)随(二)将軍(一)、是兵の法也。汝は摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)朝臣非(二)遺孫(一)や、将軍次将の作法を不(レ)存歟、尤不便也と云係て、兼綱に組んとて懸ければ、飛騨兵衛尉景康、上総次郎友綱を始として、三百(さんびやく)余騎(よき)轡を並て兼綱にかゝる。大夫判官(たいふはんぐわん)郎等小源太嗣、内藤太守助、小藤太重助、源次加を始として五十(ごじふ)余騎(よき)、折塞て戦けり。或は組で落もあり、或は互に被(二)射落(一)もあり、何れ隙有共不(レ)見、此にて源平両氏の名を得たる郎等被(二)多討(一)けり。
源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)は、薄墨染の長絹直垂に、品革威の鎧を著、今日を限とや思けん、態甲は不(レ)著けり。紫革威とは、藍皮に文にしたをぞ付たりける。嫡子伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)は、赤地の錦直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧著たり、是も甲は不(レ)著けり。矢束を長く引んと也。同舎弟(しやてい)源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱は、萌黄の生絹直垂に、緋威(ひをどし)の鎧著て、白星の甲に、芦毛の馬にぞ乗たりける。父子兄弟矢先を揃て散々(さんざん)に射。其間(有朋上P496)に宮は南を指て延させ給へば、三位(さんみ)入道(にふだう)も続て落行けり。上総太郎判官忠綱(ただつな)、七百(しちひやく)余騎(よき)を引率して、勝に乗てぞ追懸ける。源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱は、父の入道を延さんと、只一人引返引返散々(さんざん)に戦ける程に、痛手を負、今は叶はじと思て、鞭を揚て落行けり。太郎判官忠綱(ただつな)申けるは、兼綱と見は僻事か、逃ばいづくまで延べきぞ、弓矢取身は我も人も、死の後の名こそ惜けれ、うたてくも後を見する物哉、返せや/\とて責懸たり。兼綱は宮の御伴に参也とて馳けれども、無下に間近く追係たれば、思切、馬の鼻を引返
P0364
て宮を延し進せんと、七百(しちひやく)余騎(よき)が中に蒐入つゝ、蛛手十文字に狂ければ、寄て組者はなかりけり。唯中を開てぞ通しける。上総太郎判官、弓を引儲て、箭所のしづまるを待処に、忠綱(ただつな)に組んと志て馳て懸けるを、能引放つ箭に、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)が内甲を射たりければ、箭尻はうなじへつと通り、血は眼にぞ流入。判官今は世間掻暗て、弓を引太刀を抜事不(レ)叶けるを、太郎判官が童に、二郎丸とて大力有けり。兼綱が頸をとらんとて打て懸けるを、播磨二郎省と云者、主の首を取れじと立塞て戦けるが、兼綱いかにも難(レ)遁見えければ、省主の首を掻落し、泣々(なくなく)暫しは持たりけれ共、三位(さんみ)入道(にふだう)も伊豆守(いづのかみ)も、皆自害し給(たま)ひぬと聞ける後は、石を本どりに結付て、河の中へ投入つゝ、我も御伴申さんとて、(有朋上P497)
  君故に身をば省とせしかども名は宇治川(うぢがは)に流しぬる哉 K081 
と思つゞけて、腹かい切て、同く河にぞ入にける。三位(さんみ)入道(にふだう)は右の膝を射させたりけれ共、宮の御伴に落行けるが、子息の判官が討るゝを見て申けるは、兼綱こそ入道を延さんとて討死仕ぬれば、若き子が討るるを見て、老たる入道がいつまで命を生とて、いづくまでか落行べし、禦矢を仕べし、急南都へ入せ給(たまひ)て、深く衆徒を御憑有べし、今こそ今生の最後に侍れ、さらば暇給べしとて引返ければ、宮も御遺惜く思召(おぼしめし)、御涙(おんなみだ)に咽ばせ給ふ。入道は養由(やういう)をも欺ける程の弓の上手也ければ、年闌たれども引とり/\、散々(さんざん)に射ければあだ矢は一もなし。平家の大勢射しらまされて、度々河耳へ引退。右の膝も痛手也、矢種も既(すで)に尽ければ、郎等の肩に懸、平等院(びやうどういん)の釣殿におり居て、唱法師源八副を招いて宣(のたまひ)
P0365
けるは、身仕(二)六代之賢君(一)、齢及(二)八旬之衰老(一)、官位己越(二)列祖(一)武略不(レ)慙(二)等倫(一)、為(レ)道為(レ)家有(レ)慶無(レ)恨、偏為(二)天下(一)今挙(二)義兵(一)、雖(レ)亡(二)命於此時(一)、留(二)名於後世(一)、是勇士所(レ)庶、武将非(レ)幸哉、各防矢射て、閑に自害を進めよと申ければ、源蔵人仲家、足利判官代(はんぐわんだい)義清、源次加を始として三十(さんじふ)余人(よにん)、皆甲を脱、矢先を調て射ければ、飛騨守景家(かげいへ)、上総介忠清(ただきよ)、飛騨判官景高を始として、三百(さんびやく)余騎(よき)前を諍て懸けり。伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、堀六郎貞保、同七郎貞俊、(有朋上P498)緋威(ひをどしの)冑に白き幌係て、楼門のきはまで攻寄たりけるを、唱法師勝たる弓の上手也ければ、一の矢に貞保が内甲をいて落してけり。貞俊是を見て太刀を抜、唱を討とらんと懸けるを、二の矢に貞俊頸骨を被(レ)射て、馬の弓手に落にけり。伊賀国住人(ぢゆうにん)森小兵太利宗と名乗て懸けるが、源次加につるばしりの板を筋違様に射ぬかれて、馬の前に落にけり。此外或はあきまを被(二)射落(一)者もあり、或は馬の腹をいさせてはね落さるゝ者もあり、敵をいとるたびには、声を調て嘲り咲けり。敵もおくしぬべくぞ聞えける。三位(さんみ)入道(にふだう)此有様(ありさま)を見て申ける、軍敗をけやけくたゝかふ事は敵による事なり、此奴原は近国の者共にこそ有ぬれ、さのみ罪な作そ、今は弓を収て各自害をすべしとて、我身も鎧脱捨、下総国住人(ぢゆうにん)下河部藤三清恒と云郎等を招き宣(のたまひ)けるは、敵の中にて討死をもすべかりつれ共、老衰たる首をとられて、是ぞ三位(さんみ)入道(にふだう)が頸とて、敵の中にて取渡されん事、心憂思つれば、心閑にと存て是へ来れり、我首敵にうたすな、人手にかくな、急ぎ伐ていづくにも隠し棄よと宣ふ。清恒目もくれ心も迷ければ是を辞申。因幡国住人(ぢゆうにん)弥太郎盛兼
P0366
に被(レ)仰けれ共、同是を辞す。渡辺の丁七唱を召て、今は限と覚る也、敵に知せで急頸を討と宣へば、唱も年来の主君を伐奉らん事の哀しさに、御自害(ごじがい)候へかし、御頸をば給(有朋上P499)候はんとて、太刀を差やりたりければ、入道池の水にて手口をすゝぎ西に向て念仏三百返計申て、最後の言ぞ哀なる。
  埋木は花咲事もなかりしに身のなるはてぞ哀なりける K082 
と云も果ぬに、太刀の先を腹に取当て倒懸り、貫てぞ死にける。此時歌など読べしとは覚ねども、若より心に懸好みければ、最後にも思出けるにこそ、哀にやさしき事也。入道の首をば下河部藤三郎取て、平等院(びやうどういん)の後戸の板敷の壁をつき破て隠し入る。同子息伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)も散々(さんざん)に戦ひて後、入道の跡を尋て、平等院(びやうどういん)の御堂に立入て、物具(もののぐ)脱捨腹掻切て死にけり。弥太郎盛兼其頸を掻落して、入道の首と一所に隠し置、人不(レ)知(レ)之。後日に竹格子の下より、血の流出たりけるを恠て、御堂を開て見ければ、頸もなき死人あり、誰と云事を不(レ)知、後にこそ伊豆守(いづのかみ)とも披露しけれ。其よりしてこそ、其名をば自害の間とも申也。弥太郎盛兼走廻て、入道殿(にふだうどの)も伊豆守殿(いづのかみどの)も御自害(ごじがい)也と申したりければ、さてはかうにこそとて、入道の養子にしたりける木曾が兄に六条蔵人仲家、其子の蔵人太郎父子二人、太刀を抜き、腹と腹とにさし違てぞ死にける。宮の兵共(つはものども)かように宗徒の者討死しければ、恥を思輩は同死ぬ。渡辺党の宗徒の者三十(さんじふ)余有けるも、入道父子亡にけ(有朋上P500)れば、此彼に馳合馳合討死するもあり、蒙(レ)疵自害するも有りければ、遁は少く死は多し。其中に競が事をば、右大将(うだいしやう)不(レ)安被(レ)思ければ、兵共(つはものども)に
P0367
相構て虜て進せよ、鋸にて頸きらんと下知し給ければ、官兵其意を得て、競と名乗ば弓を引かず、太刀をぬかず、辺に廻て伺ける間に、滝口は先に心得(こころえ)て射廻り切廻りければ、人は討れ手負けれ共、競は身に恙なし。侍ども今は只討とれ、人一人生どらんとて多兵を失べきに非ずとて、中に取籠散々(さんざん)に戦ければ、競も終に打死して失にけり。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)の郎等に、公藤四郎、同五郎兄弟は、御室戸より伊勢路(いせぢ)に向て落にけり。円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)は、赤威の鎧に、そり返りたる長刀持て、平等院(びやうどういん)の門外に進出て、高倉宮(たかくらのみや)未これに御座(ござ)あり、参て見参に入者共とて、持て開て走出ければ、馬の足薙れじとて、百騎計馬より下、太刀を抜てぞ懸ける。大輔は長刀打振て、しころを傾て向ふ。敵に刎て懸ければ、左右へさと引退き、中を開て通しけり。大輔は河を下に落て、行足はやくして飛が如し。馬も人も追付かざりければ、唯遠矢にのみぞ射ける。大輔は川の耳に物具(もののぐ)ぬぎ捨て、しづ/\と川を渡り、向の岸におよぎ付、いかに殿原渡し給へ/\と申て、我(わが)寺(てら)へこそ帰にけれ。(有朋上P501)
S1505 宮中(二)流矢(一)事
宮は平等院(びやうどういん)を落させ給つゝ、男山八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を伏拝御座(おはしま)して、新野の池も過させ給(たま)ひて、井出の渡と云所まで延させ給(たま)ひけり。御寝もならず喉も乾せまし/\て、水進度思召(おぼしめし)ければ、小河の流たりけるを汲て進けり。此所をばいづこと云ぞ、又此河をば何と云ぞと御尋(おんたづね)あり。此辺をば、山城国井出の渡と申、河をば水なしと申候と答申ければ、打頷許せ給(たまひ)て、思召(おぼしめし)つゞけけるは、
  山城の井出の渡に時雨して水なし川に浪や立らん K083 
P0368
と御口ずさみ有りて、光明山へかゝらせ給に、軍兵後より追係進せけるが、何者(なにもの)が射たりける矢やらん、鳥居の前にて流矢来つて、宮の御かた腹に立たりければ、即御馬より真逆に落させ給ふ。やがて消入せ給(たまひ)て御目も御覧じあけず。園城寺(をんじやうじ)法師に、讃岐阿闍梨(あじやり)覚尊と云者、長絹の衣に違袖して、下に腹巻著て、御伴に候けるが、馬より飛で下り奉(レ)拘。御伴の人々は未追付進せず、黒丸と申舎人計ぞ候ひける。覚尊と二人して、相構へて御馬に掻のせ進せんとする処に、飛騨判官景高奉(レ)見(レ)之、鞭を揚てあれ/\と云(有朋上P502)挿絵(有朋上P503)挿絵(有朋上P504)ければ、郎等落合て、宮の御頸をば取てげり、悲と云も疎也。寺法師律浄坊の日印の弟子に伊賀坊、乗円坊の慶秀が弟子に刑部房、残り留て、命も惜まず戦けり。白刃を拭に隙なし。爰(ここ)にして飛騨判官が郎等多打れにけり。律浄坊日印も、打死して失にけり。心は猛く思へども、小勢は力及ばずして、伊賀房、刑部房、奈良の方へ落にける。彼律浄坊と申は、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の流人に〔し〕て伊豆に御座(おはしま)せし時、忍で諸寺諸山の僧徒に祈を付給(たま)ひけるに、寺には此律浄坊を以て師匠に憑給へり。日印八幡宮に参篭する事、千日、無言大般若を読けるに、七百日に当る夜、御宝殿より金の鎧を給と示現を蒙りたりければ、悦をなし、夜を以日に継伊豆国(いづのくに)へ馳下、此由兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に語申。聞給(たまひ)て、いか様にも末憑もしき事にこそと夢合し給(たまひ)て、世に候はば思知べしと宣たりけるが、平家滅亡の後に、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)三井寺(みゐでら)へ尋給けるに、治承の比高倉宮(たかくらのみや)の御伴申て、光明山の鳥居の辺にて打死也と申たりければ、不便の事にこそ、且は祈の師也、又夢の勧賞も宛給はんと思しに、死ける事の無慙さ
P0369
よ、但其人なければとて、兼て存ぜし事争か空かるべきとて、伊賀国山田郷を三井寺(みゐでら)へ寄られて、律浄坊が孝養報恩無(二)退転(一)とぞ聞ゆる。(有朋上P505)
S1506 季札剣事
 < 昔異国に季札と云し兵あり。呉王の使として、魯国へ行けるに、徐君と云ふ知人の有けるに、一夜の宿を借たりけり。家主徐君、季札が帯たる剣に目を係て、口には乞事なかりけれ共、是もがなと思へる気色見えたりけり。季札心に思様、吾呉王の使として、他国へ行、ほしがる貌たて如何せん、先与ん事難(レ)叶、魯国より帰らん時は、必与んと思て去にけり。季札不(レ)久して呉国へ帰けるに、又徐君が家に行て角と云ければ、世を早して今はなしと答。季札泣悲て、墓はいづくぞと問ば、家僕相具して行。塚に松うゑたり。是徐君の墓と云ければ、心にゆるしたりし剣なり、死たりとて争か其心を違へんと思て、剣を解、松の枝に懸て、徐君が霊を祭て去、其ためしにぞ似たりける。彼は剣を解て松に懸て旧友を祭、是は庄を寄て奉(レ)仏師匠を弔ふ、心の中の約束を違ざるこそ哀なれ。>
S1507 南都騒動始事
南都の大衆三万(さんまん)余人(よにん)御迎に参けるが、先陣は既(すで)に木津川に著、後陣は猶興福寺(こうぶくじ)の南大門(有朋上P506)にと聞えければ、御憑しく思召(おぼしめし)けるに、今五十(ごじふ)余町(よちやう)御座(おはしまし)つかで、討れさせ給(たま)ひにけり。法皇第二御子なれば、帝位に即て天下の政ましまさん事も難かるべきにあらず、其までこそ御座ざらめ、目の渡り懸御事にあはせ給事、先世の御宿業にこそとは思へども、哀也ける事ども也。
左大夫宗信は、御身を離れず御伴に候て、三井寺(みゐでら)宇治までも参たり。宮の落させ給ければ、三位(さんみ)入道(にふだう)の油鹿毛と云馬に乗て、後進せじと打けれ共、馬弱くて進みえず、敵は後より責懸る。無(二)為方(一)
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馬を捨て、新野池の水の中にはひ入て、草に顔を隠して蛙などの様に泣居たり。宮は今は奈良坂にも、かゝらせ給ぬらんと思ける処に、軍兵のけ甲に成て雲霞の如くに帰ける。中に、浄衣著たる死人の首もなきが、あふだに舁れて、通を見れば、腰に笛をさせり。穴心うや、宮の御むくろにこそ、早討たれさせ給にけりと思て、走出ていだきつき進せんとまで覚けれ共、さすが武士共恐ろしければ其も不(レ)叶。御笛と云は御秘蔵の小枝也。此御笛をば、我死たらん時は必棺に入よと仰けるとぞ、佐大夫後に語たりける。大夫は夜に入て、池の中よりはひ出て、はふ/\京へ上にけり。甲斐なき命ばかり生て、五十までは官もなかりけるが、正治元年に改名して近江守になり、邦輔とぞ云ける。宮の御頸、并(ならびに)討所の頸共五十(ごじふ)余捧て、平家の軍兵都へ帰入。後は(有朋上P507)不(レ)知ゆゝしくぞ見えし。高倉宮(たかくらのみや)宇治を過て、南都へ越させ給由聞えければ、蔵人頭(くらんどのとう)重衡、左少将維盛朝臣、五百(ごひやく)余騎(よき)の軍兵を卒して、宇治に馳向ける程に、此人々に先立て、忠清(ただきよ)、景家等(かげいへら)勝負を決してければ、上は源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)已下の首を取て入洛しけり。未刻に維盛朝臣は重服也ければ、つるばみの袍に衣冠にて東門より参入、重衡朝臣は、冑を著て西門より参上す、両人の装束不同也。とりどりにぞ人称美しける。合戦の次第御尋(おんたづね)あり、両人の申詞事多といへ共、頼政(よりまさ)党類、於(二)平等院(びやうどういん)(一)追討の趣は一同也。晩頭に及で、景家(かげいへ)は頼政(よりまさ)入道、仲家、嗣、守、助、重等が首を捧げて、八条高倉前(さきの)右大将(うだいしやう)の亭に帰参す。忠清(ただきよ)又兼綱、義清、唱法師、配が首をさゝげて、同参しけり。左衛門尉(さゑもんのじよう)重清、又加が首を捕て参入しけり。各事柄(ことがら)いづれもゆゆしく
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ぞ見えける。
上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、相国禅門(しやうこくぜんもん)に申けるは、今度合戦の高名、足利(あしかがの)太郎(たらう)忠綱(ただつな)が宇治川(うぢがは)の先陣の故也。向後の為に、速に勧賞候べしと、細々申ければ、入道大に感じて忠綱(ただつな)をめし、宇治川(うぢがは)の先陣返々神妙(しんべう)、勧賞乞に依べしと宣ふ。忠綱(ただつな)畏て、靭負尉(ゆぎへのじよう)、検非違使(けんびゐし)、受領をも申べく候へ共、父足利(あしかがの)太郎(たらう)俊綱(としつな)が、上野十六郡の大介と、新田庄を屋敷所に申候しが、其事空く候き。御恩には、同は父が本意をもとげ、身の面目にもそなへん為に、彼両条をゆるし給り候はんと申。入道(有朋上P508)当座に被(二)下知(一)たり。忠綱(ただつな)大に悦〔の〕眉を開て宿所に帰る。足利が一門此事を聞て、十六人連署して訴訟す。宇治河(うぢがは)を渡す事、忠綱(ただつな)一人が高名に非ず、一門不(レ)与ば忠綱(ただつな)争か渡すべき。されば勧賞は十六人に配分候べし、忠綱(ただつな)が大介を不(二)召返(一)ば、向後の御大事(おんだいじ)には忠綱(ただつな)一人を召れ候べしと、一事に三度まで申たりければ、入道力及給はで、巳時に給たりける御教書を、未刻に被(二)召返(一)けり。午時許ぞ有ければ、京童部(きやうわらんべ)が、足利(あしかがの)又太郎(またたらう)が上野の大介は、午介とぞ笑ける。高倉宮(たかくらのみや)には常に人の参寄事もなかりければ、見知進たる者もなし。先年御悩(ごなう)の時、御療治(ごりやうぢ)に参たりしかばとて、典薬頭(てんやくのかみ)定成朝臣を召けり。定成大に痛申ければ、さては如何すべきとて、或女房を尋出して、見進すべき由申されけり。彼御頸を只一目打見進て、後は兎(と)も角(かく)も被(レ)仰旨はなかりけり。只袖を顔に当て臥倒てぞ泣給ふ。去こそ一定の御頸とも知にけれ。彼女房も御身近く召れ、御子あまた御座(おはしませ)ば、不(レ)疎思召(おぼしめさ)れし御遺の惜さに、替れる御姿也共、今一度
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見進ばやと、尽せぬ志に引れては参たれ共、見進て後は、中々由なかりける事にやとぞ歎給ける。此宮は先年御顔に悪き瘡の出きて、御大事(おんだいじ)に及べかりけるを、典薬頭(てんやくのかみ)定成参て、目出療治(りやうぢ)し進たりける。其御療のあと御座(おはしまし)ければ、まがふべくぞなかりける。廿五日に摂政殿(せつしやうどの)より、南都の騒動(有朋上P509)を為(レ)被(レ)静、有官別当忠成を差遣さる。衆徒成(レ)憤散々(さんざん)に陵礫し、衣装を剥取て追出す。其上勧学院の雑色二人が本どりを切てげり。此事狼藉也、子細あらば訴訟に及べしとて、重て左衛門権佐親雅を御使として下遣す処に、大衆蜂起して、木津川の辺に来向、御使を打はらんなんど云ければ、親雅色を失て逃上けり。衆徒狼藉真に法に過たり、直事に非とぞ聞えし。
同(おなじき)廿七日(にじふしちにち)院(ゐんの)御所(ごしよ)にて、高倉宮(たかくらのみや)の御事議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、師(そつの)大納言(だいなごん)隆季、三条大納言(だいなごん)実房、中御門大納言(だいなごん)宗家、堀川(ほりかはの)中納言忠親(ただちか)、前源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼〈 聴本座 〉皇太后宮(くわうたいごうぐう)大夫朝方、右兵衛督(うひやうゑのかみ)家通、右宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実守、新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、堀河宰相頼定卿なんどぞ被(レ)参ける。蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆仰を奉て、南の簀子に跪て、右大臣に仰て曰、源朝臣以光(もちみつ)、背(二)勅命(一)園城寺(をんじやうじ)をのがれ、南都に赴く、而彼衆徒同意して、謀(レ)危(二)国家(一)、仍被(レ)差(二)遣官兵(一)之間、南都に向処に、官兵と宇治にして合戦す。興福寺(こうぶくじ)の衆徒、又同意〈 云々 〉、依(レ)之(これによつて)摂政(せつしやう)度々被(レ)加(二)制止(一)之処に、氏院の有官の別当を打擲し、雑色が本どりを切て、長者の命に不(レ)可(レ)随之由成(二)群議(一)、両寺(りやうじ)の罪科何様に可(レ)被(レ)行哉、可(レ)被(二)定申(一)とぞ仰ける。猶子細を尽して後、張本を召れて可(レ)被(レ)処(二)罪科(一)之趣、大略一同也。此に新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)は、
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背(二)勅命(一)危(二)国家(一)、早被(レ)遣(二)官兵(一)、可(レ)被(二)追討(一)被(二)定申(一)けるを、(有朋上P510)師(そつの)大納言(だいなごん)聞(レ)之、色を変じて泣れけり。思処ありけるにや、議奏の趣一揆せざりければ、行隆為(二)奏聞(一)とて、其座を立て退けり。
三十日調伏法承て行ける僧共勧賞蒙、権少僧都(ごんのせうそうづ)良弘大僧都(だいそうづ)に伝し、法眼実海小僧都(せうそうづ)にあがり、勝遍阿闍梨(あじやり)律師に成されけり。又右大将(うだいしやう)宗盛子息侍従清宗は、三位して三位侍従と云、今年十二に成給ふ。二階賞預給ける間、叔父の蔵人頭(くらんどのとう)にて御座(おはしま)する重衡より始て、多の人を超給けり。宗盛卿(むねもりのきやう)は此年の程までは、兵衛佐(ひやうゑのすけ)にてこそ御座(おはしまし)しに、是は上達部に至り給へり。世をとる人の子と云ながら、一はやくぞ覚えし。一人の嫡子などこそ加様の昇進はし給へと、時の人傾申けり。聞書には、父前(さきの)右大将(うだいしやう)の源(みなもとの)以光(もちみつ)、并(ならびに)頼政(よりまさ)法師已下、追討の賞とぞ有ける。源(みなもとの)以光(もちみつ)とは、高倉宮(たかくらのみや)の御事也。法皇の王子にて御座(おはしま)さずと云成して、源の姓を奉り、凡人にさへ奉(レ)成事、浅間しとも云計なし。
S1508 相形事
抑相者洽浩五天之雲洪、携(二)九州之風(一)、五行結(レ)気成(レ)膚成(レ)形、四相禀(レ)運保(レ)寿保(レ)神、依(レ)之(これによつて)月氏映光、教主釈尊屡応(二)其言(一)、日或伝景太子上宮、剰顕(二)其証(一)、(有朋上P511)一行襌師者、漢家三密之大祖、円輪満月床傍、審(二)一百廿之篇章(一)、延昌僧正(そうじやう)者、我朝一宗之先賢、界如三千之窓内、省(二)七十余家(よか)之施設(一)内外共氏i二)此術(一)、凡聖同弘(二)斯業(一)、なじかは違べき。されば昔登乗と申相人ありき。帥内大臣(ないだいじん)伊周をば、流罪相御座と相たりけるが、彼伊周公の類なく通給ける女房の許へ、寛平法皇の忍で御幸成けるを、驚し進せんとて、蟇目を似て射奉りたりければ、被(二)流罪(一)給へり。
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又太政大臣(だいじやうだいじん)頼道〈 宇治殿 〉、太政大臣(だいじやうだいじん)教道〈 大二条殿 〉二所ながら、御命八十、共に三代の関白(くわんばく)と相し奉たりけるも、少も不(レ)違けり。又聖徳太子(しやうとくたいし)は、御叔父崇峻天皇(てんわう)を横死に合給べき御相御座と仰けるに、馬子の大臣に被(レ)殺給けり。又太政大臣(だいじやうだいじん)兼家〈 東三条殿(とうさんでうどの) 〉四男に、粟田関白(くわんばく)道兼の、不例の事おはしけるに、小野宮の太政大臣(だいじやうだいじん)実頼、御訪に御座たりければ、御簾越に見参し給(たまひ)て、久世を治給べき由被(レ)仰けるに、風の御簾を吹揚たりける間より奉(レ)見給(たまひ)て、只今(ただいま)失給べき人と被(レ)仰たりけるも不(レ)違けり。又御堂馬頭顕信を、民部卿斉信の聟にとり給へと人申ければ、此人近く出家の相あり、為(レ)我為(レ)人いかゞはと被(レ)申たりけるが、終に十九の御年出家ありて、比叡山(ひえいさん)に篭らせ給にけり。又六条右大臣は、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)を見進て、御命は長く渡らせ給べきが、頓死御相御座と申たりけるも違はざりけり。さも然べき人々は、必(有朋上P512)相人としもなけれ共、皆かく眼かしこくぞ御座(おはしまし)ける、況や此少納言惟長も、目出(めでた)き相人にて、露見損ずる事なし。されば異名に、相少納言(さうせうなごん)とこそいはれけるに、高倉宮(たかくらのみや)をば何と見進たりけるやらん、位に即給べしと申たりけるが、今角ならせ給ぬるこそ然べき事と申ながら、相少納言(さうせうなごん)誤にけりと申けり。
S1509 宮御子達(みこたち)事
高倉宮(たかくらのみや)には、腹々に御子あまたまし/\けり。宮討れさせ給ぬと披露ありければ、世を恐まし/\て、散々(ちりぢり)に忍隠させ給、墨染の袖にやつれさせ給けり。其中に伊予守盛章の娘の、八条院に候はれける三位殿(さんみどの)と申けるを、忍つゝ通はせ給けるに、若宮姫宮御座(おはしまし)けり。彼三位局をば、女院殊に隔なき御事
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に思召(おぼしめさ)れければ、此宮達をも御衣の下より生立進せ給(たまひ)て、御いとほしき御事にぞ思召(おぼしめし)ける。宮御謀叛(ごむほん)起して失させ給ぬと聞召しより、御子達(みこたち)も御心迷して、つや/\貢御も進らず、唯御涙(おんなみだ)に咽ばせ給けり。御母の三位殿(さんみどの)も、何なる御事にか聞成奉らんと、肝心も御座(おはし)まさず、あきれて御座(おはしまし)ける程に、池(いけの)中納言(ちゆうなごん)頼盛(よりもり)は、女院の御方に疎からぬ人也けるを、御使にて前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、女院へ被(レ)申けるは、高倉宮(たかくらのみや)(有朋上P513)の若君の御座(おはしまし)候なる、渡奉べしと有ければ、女院も三位殿(さんみどの)も、兼て思召(おぼしめし)儲たる御事なれ共、今更いかに被(レ)仰べきとも思召(おぼしめし)分ず、只あきれてぞおはしける。日比(ひごろ)は朝夕仕る中納言なれども、かく参て申ければ、あらぬ人の様に恐しくぞ思召(おぼしめさ)れける。いかなる御大事(おんだいじ)に及とも、出奉べしとも思召(おぼしめさ)れねば、宮をば御寝所の内に隠し置進せて、係る世の騒の聞えし暁より、比御所には御座(おはしま)さず、御乳人などの心をさなく奉(レ)具失にけるにこそ、何処とも行末しろしめさずと仰られけれども、入道憤深事なれば、大将もなほざりならず被(レ)申けり。中納言も情をかけ奉り難て、兵共(つはものども)多く門々にすゑ置て、はしたなき事様也ければ、御所中(ごしよぢゆう)の上下色を失ひつゝ、いとゞ騒ぎあへり。世が世にてもあらばや、法皇へも申させ給べき。去年の冬より被(二)打籠(一)まし/\て、御心憂御挙動なれば、如何にすべしとも思召(おぼしめ)さゞりけり。若公も少き御心に、事の様難(レ)遁や思召(おぼしめさ)れけん、是程の御大事(おんだいじ)に及ばん上は、只出させ給へ、我ゆゑ御所中(ごしよぢゆう)の御煩(おんわづらひ)痛しと申させ給ければ、女院を始進て、御母の三位の局、女房達(にようばうたち)老も若も、音を調て泣悲けり。心なかるべき女童部(をんなわらんべ)までも、皆袖をぞ絞りける。若宮今年は八にならせ給けり。
P0376
おとなしくも被(レ)仰けるこそ哀なれ。中納言もさすが岩木ならねば、打しめりて候はれけるに、大将の御許より、(有朋上P514)如何に/\と使頻(しきり)に申ければ、頼盛(よりもり)も打そへ被(レ)申けり。女院は少しさもやと聞食(きこしめす)御事有て、同じ御年程なる少者を尋させ給けれ共、大方なかりければ、力及ばせ給はで、若宮を奉(レ)渡けり。宮をば女院の御前へ請出進せて、御母三位殿(さんみどの)御気荘進せ、御髪掻靡御ひたたれ奉らせなどして、出立進せ給(たまひ)ても唯夢の様に思召(おぼしめす)。如何にならせ給はんずるやらんと御心元なければ、尽ぬ御涙(おんなみだ)計を流させ給ける。中納言も、由なき御使也と、いとかなしくぞ被(レ)思けるに、若宮既出させ給へり。見進すればらふたく厳く御座(おはしま)しけり。少き御心にも思召(おぼしめし)入たる御有様(おんありさま)悲く思給へば、いとゞ狩衣の袖を絞つゝ、御車の尻に参て六波羅へ奉(レ)渡、宮出させ給にければ、女院も三位殿(さんみどの)も、同枕に臥沈て、湯水をだにも御喉へ入させ給はず。これに付ても女院は、由なかりける人を、此七八年手ならし奉りて物を思と、責ての事には悔しくぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。七八などはさすが何事も思召(おぼしめし)分べき事ならね共、我ゆゑ大事の出来事をかたはら痛く思召(おぼしめし)て、出させ給ぬる御事の悲さよとて、御涙(おんなみだ)せき敢させ給はず。宮六波羅に入せ給たりければ、大将出合見進て、哀なる御事に奉(レ)思涙を拭ひ給ければ、宮も御涙(おんなみだ)をぞ流させ給ける。池(いけの)中納言(ちゆうなごん)頼盛(よりもり)申されけるは、女院御ふところの中より生立進させ給たりとて、不(レ)斜(なのめならず)御歎御痛く、心苦思進せ候、ことなる御(有朋上P515)事なき様に、御計もあれかしと宣へば、大将又此趣を入道に口説被(レ)申ければ、仁和寺(にんわじ)の守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)へ奉(レ)渡て、御出家(ごしゆつけ)あり、御名を道尊とぞ申ける。
P0377
彼法親王(ほふしんわう)は、則後白河院(ごしらかはのゐん)の御子なれば、此若宮は御甥也、御年十八にして隠させ給にけり。又殷富門女院の御所に、治部卿局と申女房の腹に、若君姫君まし/\けり。若宮御出家(ごしゆつけ)の後には、安院宮僧正(そうじやう)とぞ申ける。東寺の一長者也、姫君は野依宮と申けり。南都にも宮の御渡あり。盛興寺の宮をば、書写の宮とぞ申ける。又御子一人おはしけるをば、高倉宮(たかくらのみや)の御乳人讃岐前司重秀が、北国へ具し下し進たりけるを、木曾もてなし奉て、越中国(ゑつちゆうのくに)宮崎と云処に、御所を造てすゑ進せ、御元服(ごげんぶく)ありければ、木曾が宮とも申、又還俗の宮とも申けり。嵯峨(さが)の今屋殿と申けるは、此宮の御事也。(有朋上P516)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十六

P0378(有朋上P517)
陀巻 第十六
S1601 帝位非(二)人力(一)事
抑昔延喜帝の第十六の御子兼明親王と、村上帝の第八(だいはち)の御子具平親王とは叔父甥にて、前中書王、後中書王と申奉る。賢王(けんわう)聖主の御子、才智才学目出く御座(おはしま)しき。されば前中書王は、後兄の第四の御子、無実に依て城の外に移され給(たま)ひたりけるが、宮も藁屋もとながめ給(たま)ひけるを、理りに思食(おぼしめして)、王位も詮なしとて、只一筋に仏道をのみ求給(たまひ)て、小椋山の麓に庵を結給(たま)ひ、詩を造り琵琶を弾、御心をなぐさめ給しに、或(ある)時(とき)晴たる空に雲上り、良暫く有りて雲のたゝずまひ物恐しき中より、青き鬼来て、庇に畏り居たりけり。親王御心をしづめ、能々御覧ありけるに、彼鬼恐れたる気色にて、申す言も無りければ、親王何人の何事にかと問給へば、鬼答て申様、吾は是宋朝の作文の博士、好色の遊客也、名を長文成元真と申き、色に耽ては詩を作り、女を恋ては歌を成せり。彼好念の積りつゝ、かく青鬼と成侍、而に病の床に臥、最後に及し時、九月尽の露菊を見て、一句(有朋上P518)の詩を造れり。
  不(二)是花中偏愛(一)(レ)菊(これははなのなかにひとへにきくをあいするにあらず) 此花開後更無(レ)花 K084 
此花ひらけつきてとこそ作たりしを、当世の人開て後と読侍り、我が所存には非ず、君作文詩歌に長じ御座(おはしま)せば、本意を申入んとて参上する所也とて、雲井遥(はるか)に去にけり。村上の帝、上玄石上の琵琶
P0379
の秘曲を、廉承武に伝へ給しには、猶まさりてぞ覚ゆる。加様に目出(めでた)き御事に御座(おはしまし)しかども、帝位につかせ給ふ御運は、可(レ)然御宿報なれば、さてこそやませ給(たま)ひしか、謀叛をば起させ給はず。後三条院(ごさんでうのゐん)の第三王子輔仁(すけひとの)親王(しんわう)は、白河院(しらかはのゐん)には御弟也。目出(めでた)き人にて御座を、春宮(とうぐう)御位の後には、必此御子を太子に可(レ)奉(レ)立と後三条院(ごさんでうのゐん)返々白河院(しらかはのゐん)に御遺言(ごゆゐごん)ありければ、院も慥に御言請あり。親王の宮も必御譲を受させ給ふべき由思食(おぼしめし)けるに、東宮(とうぐう)実仁、永保元年八月十五日に、御年十一にて御元服(ごげんぶく)ありしが、応徳二年二月八日、十五にて隠れさせ給しかば、後三条院(ごさんでうのゐん)の任(二)御遺言(ごゆゐごん)(一)、三宮輔仁(すけひと)太子に立せ給べかりしを、無(二)其御沙汰(ごさた)(一)。承保元年十二月十六日(じふろくにち)に、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の一宮敦文親王御誕生(ごたんじやう)、今上后腹の、一御子にて御座(おはしまし)しかば、太子に立せ給べかりしか共、承暦元年八月六日、御とし四歳にて失給けり。同三年七月七日、堀川院(ほりかはのゐん)御誕生(ごたんじやう)あり。同年十一月(有朋上P519)三日、親王の宣旨を下されにければ左に右に三宮被(二)引違(一)給へり。堀川院(ほりかはのゐん)も八歳まで太子にも立せ給はず、親王にて、応徳三年十一月二十六日(にじふろくにち)に、受(二)御譲(一)させ給(たまひ)て、軈其(その)日(ひ)春宮(とうぐう)に立せ給。寛治三年正月五日、御年十一にて御元服(ごげんぶく)有けり。三宮は御位こそ不(レ)叶共、太子にもと思召(おぼしめし)けるに、寛治元年六月二日、三宮陽明門院にて御元服(ごげんぶく)有しに、太子の御沙汰(ごさた)にも及ばざりしかば、輔仁(すけひとの)親王(しんわう)御位空して、仁和寺(にんわじ)の花園と云所に住せ給けり。白川【*白河】(しらかはの)法皇(ほふわう)より、何にいつとなく、さ程に引籠らせ給にか、時々は御出仕なんども候べしとて、国庄あまた被(レ)進ける御返事(おんへんじ)に、
P0380
  有(レ)花(はなあり)有(レ)獣山中友、無(レ)愁無(レ)歎世上情 K085 
と申させ給たり。すべて詩歌管絃に長じ御座(おはしまし)しかば、世にもなく官もなき人々は、院内の御事よりも、中々珍しく奉(レ)思て、参通人多かりければ、時人三宮の百大夫とぞ申ける。御位相違有しか共、世の乱はなかりし者を、三宮の御子花園左大臣有仁を、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の御前にて元服(げんぶく)せさせ進せ、源氏の姓を奉らせ給(たまひ)て、無位(むゐ)より一度に三位して、やがて中将になし奉けり。是は三宮輔仁(すけひとの)親王(しんわう)の御怨を休奉り、又後三条院(ごさんでうのゐん)の御遺言(ごゆゐごん)をも恐させ給けるにこそ。一世の源氏無位(むゐ)より三位し給事は、嵯峨(さがの)天皇(てんわう)の御子陽成院大納言(だいなごん)定卿(有朋上P520)の外無(二)其例(一)。
S1602 満仲(まんぢゆう)讒(二)西宮殿(にしのみやどの)(一)事
冷泉院御位の時、覚御心もなく、御物狂はしくのみ御座(おはしまし)ければ、ながらへて天下を知召さん事もいかゞと思食(おぼしめし)けるに、御弟の染殿式部卿宮(しきぶきやうのみや)は、西宮(にしのみや)の左大臣の御聟にておはしけるを、能人にて渡らせ給と申ければ、中務丞橘敏延、僧連茂、多田(ただ)の満仲(まんぢゆう)、千晴など寄合て、式部卿宮(しきぶきやうのみや)を取奉て東国へ赴、軍兵を起即(レ)位進せんと、右近の馬場にて夜々(よなよな)談議しける程に、満仲(まんぢゆう)心替して此由を奏聞しけるに依て、西宮殿(にしのみやどの)は被(二)流罪(一)給にけり。敏延は播磨国を賜らん、連茂は一度に僧正(そうじやう)にならんとて、係る事を思立けり。満仲(まんぢゆう)返り忠しける事は、西宮殿(にしのみやどの)にて敏延と満仲(まんぢゆう)と、相撲を取りけるに、満仲(まんぢゆう)力劣にて、格子に被(二)抛付(一)顔を打欠たり。満仲(まんぢゆう)不(レ)安思て腰刀を抜て敏延を突んとしける。敏延高欄の■木(ほうだて)を引放て、近付ばしや頭を打破らんとて、立袴て有ければ、満仲(まんぢゆう)不(レ)及(レ)力さて止ぬ。時の人あゝ源氏の名折たりと云ければ、敏延を失はんとて返忠したりといへり。西の宮殿(みやどの)は聊も不(二)知召(一)けるを、敏延
P0381
失ん為に、讒訴の次に式部卿宮(しきぶきやうのみや)の御舅なればとて讒申けるを、(有朋上P521)一条左大臣師尹、殊に申沙汰して、西宮(にしのみやの)左大臣を流して、其所に成替給たりけるが、幾程もなく声の失る病をし、一月余り悩て失給にけり。僧連茂をば検非違使(けんびゐし)召捕て、拷器に寄て謀叛の意趣を責問けり。余(あまり)の難(レ)堪さに、連茂音を上て、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)、金剛(こんがう)瑜伽(ゆが)秘密教主、胎金両部、諸会聖衆、伝燈阿闍梨(あじやり)耶、竜猛竜智助給へ/\と唱へければ、上乗密宗の力にて、拷器も笞杖も折砕てこそ失にけれ。
S1603 仁寛流罪事
白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の御子、全子内親王(ないしんわう)をば、二条皇太后宮(くわうたいごうぐう)とぞ申しける。鳥羽院(とばのゐん)は康和五年正月十六日(じふろくにち)に御誕生(ごたんじやう)、同八月十七日(じふしちにち)に東宮(とうぐう)に立せ給(たまひ)て、嘉承二年七月十九日、御年五歳にて位に即せ給ければ、御母代とて内裏に渡らせ給けるに、其御方に、永久元年十月の比、落書あり。折節(をりふし)怪童の有けるを、搦て問ければ、醍醐の勝覚僧都(そうづ)の童、千手丸也。人の語に依て、侵(レ)君進せんとて、常に内裏にたゝずむなりとぞ申ける。法皇大に驚思食(おぼしめし)、検非違使(けんびゐし)盛重(もりしげ)に仰て千手丸を被(二)推問(一)。醍醐寺の仁寛阿闍梨(あじやり)が語也と申す。彼仁寛は三宮の御持僧也。御位の恩宿願を遂させ給はんが為に、或青童の貌、或内侍の形にて、日夜に奉(有朋上P522)(レ)伺(二)便宜(一)き。不(レ)叶して今かく成侍ぬとぞ落たりける。やがて仰(二)盛重(もりしげ)(一)仁寛を召捕て、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。罪斬刑に当るといへ共、死罪一等を減じて、遠流に定、仁寛をば伊豆国(いづのくに)、千手丸をば佐渡国へぞ被(レ)流ける。さしも重科の者なれ共、かく被(レ)寛ける事、皇化と覚て止事なし。其上縁者の沙汰ありけるを、大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)参議にて僉議(せんぎ)の座におはしけるが、加程の悪逆(あくぎやく)必しも父母兄弟の結構(けつこう)にあらじ、然者(しかれば)不(レ)可(レ)及(二)罪科(一)歟と
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被(レ)申たりければ、当座の諸卿皆為房卿(ためふさのきやう)の議に同ずとて、縁者の沙汰はなかりけり。為(レ)君に忠あり、為(レ)人に仁あり、為房卿(ためふさのきやう)子孫繁昌し給ふも、理也とぞ人申ける。昔も浅増(あさまし)き様ありけれ共、及(二)子孫(一)事はなかりき。高倉宮(たかくらのみや)討れさせ給ぬれば、今は何条事かは有べきなれども、小宮々も角成せ給けるこそ糸惜けれ。六条殿と申す女房の御腹に、法皇の御子おはしけり。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御子にし進て、七歳にて、安元(あんげん)元年七月五日天台座主(てんだいざす)快修僧正(そうじやう)の御房へ入進て、釈子に定まし/\けれ共、未御出家(ごしゆつけ)はなかりけり。高倉宮(たかくらのみや)も角成給ぬ。其御子達(みこたち)も捜取れさせ給と聞えければ、穴恐とて日次の御沙汰(ごさた)にも不(レ)及、周章(あわて)騒て剃落し進けり。今年は十二歳にぞ成せ給。係る乱の世也ければ、無(二)御受戒(一)、只沙弥にてぞ御座(おはしま)しける。(有朋上P523)
S1604 円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)登山事
円満院(ゑんまんゐん)の大輔は、宇治の軍を脱出て、本寺に帰て息つぎ居たりけるが、三位(さんみ)入道(にふだう)父子眷属を始て、衆徒も多く討れ、又宮も中(二)流矢(一)うせ御座(おはしま)し、其宮々も一々に被(二)尋出(一)給ぬと聞て、つく/゛\物を案ずれば、山僧(さんそう)の心替より角成ぬと不(レ)安思へり。如何となれば、伝教師資の流を汲み、円頓実教の法を学しながら、勅使といひ戒壇と云、御灌頂(ごくわんぢやう)と云、赤袈裟と云、事に於て山僧等(さんそうら)が為に被(レ)妨て無(二)安心(一)処に、今又同心の由承伏して忽(たちまち)に変改、御運の尽ると云ひながら、口惜事也。本より異儀を存ぜば、急南都へ奉(レ)遷、などか遂(二)本意(一)ざるべき。今寺門の失(二)面目(一)事、生々世々(しやうじやうせせ)の怨敵也、速に登山して、堂舎仏閣悉(ことごと)く磨滅の煙となさばやと大悪心を発、燧付茸硫黄など用意して、燧袋にしつらひ入、形を修行者
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法師に造成して、山門へこそ忍登れ。先根本中堂(こんぼんちゆうだう)に参て、内外東西見廻つゝ、此にや火をさすべき、彼にや炬火を投べきと思廻し、暫く正面に虚念誦して居たりけるが、不断の燈明光を並べ、三部の長講音澄めり。最貴覚て案じけるは、抑此伽藍(がらん)と申は、我等(われら)が祖師伝教(でんげう)大師(だいし)建立(こんりふ)の寺院、生身の医王常住の精舎也、智証大師の御作、(有朋上P524)七仏薬師(しちぶつやくし)の霊像も此堂に安置せり、忠仁公の梵釈四天、准三公の十二神将(じふにじんじやう)も御座、縦末学雖(レ)存(二)意趣(一)、争か祖師の本尊を奉(レ)失べきなれば、此伽藍(がらん)は叶はじと思返して、中堂(ちゆうだう)を出て大講堂(だいかうだう)に臨で伺見ば、大厦の棟梁天に挟、四面の采椽雲に懸たり。何に火を差べし共覚ざる上、本尊を拝すれば、胎蔵の大毘廬遮那坐し給へば、左右に弥勒観音の脇士立給へり。紫金膚を研て、白豪光円也。仏法(ぶつぽふ)擁護の四天あり。大聖文殊の聖僧あり。嗚呼(ああ)此伽藍(がらん)を忽(たちまち)に灰となさん事の悲さよと思ければ、又此を出て惣持院に入るに、塔もあり堂もあり。堂は是秘密真言の霊場、胎金両部熾盛光等の大曼陀羅(まんだら)を安置せり。塔は又多宝全身の霊廟(れいべう)、胎蔵の五仏座を並べ、法華の千部を奉納せり。遠くは大唐の青竜寺に准へ、近くは本朝鎮国の道場を開けり。人こそ悪からめ、争か国家守護の霊室を失べきと思て、此を出でて彼に渡、彼を去て此に来見廻ば、法華常行は両堂軒を並べ、戒壇四王は両院甍を交たり。文殊楼、延命院、五仏院、実相院、或は大師大徳の御作、一人三公の建立(こんりふ)、或は三密瑜伽(ゆが)の道場、一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の精舎也。功能何もとりどりに、御願(ごぐわん)誠に品々也。杉吹渡る風の音、実相の理をや調ぶらん、草葉に置る露の色、無■(むげ)価の玉をぞ研たる。谷に並る松坊は、稽古
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修学の窓なれや、尾を隔たる草庵は、円頓観解の砌(みぎり)也。大輔(有朋上P525)は是を見彼を拝つゝ、穴貴の所やと信心忽(たちまち)に発て、帰敬の思萌ければ、大講堂(だいかうだう)の軒の下に立帰、我にはよく天魔の付にけるなり、何ぞ一旦の以(二)我執(一)、十乗の峰を亡、永劫の苦因を殖て、無間の底に入らん、縦興隆の心こそなからめ、豈及(二)破滅企(一)と、心に心を恥しめて、懺悔の涙を流けり。既本寺に帰けるが、余執又起て、是迄思立ぬる事を、空く人にも知られざらんは無念也、三塔に披露せんと思て、大講堂(だいかうだう)の柱に続松を結付て、札を制してぞ立たりける。其詞に曰、日比(ひごろ)山門園城(をんじやう)の我執を存し、当時牒送変改の遺恨に依て、三塔を焼払(やきはら)はんが為に数日登山の処に、倩案らく、一乗(いちじよう)一味の法門は、三塔三井の所学也、山門寺門の伽藍(がらん)は、祖師大師の建立(こんりふ)也、何ぞ磨滅の煙を立て、空く荒廃の塵を遺んと、仍無益偏執を閣て、速に有心に放火を止ぬ、円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)源海と書て、大講堂(だいかうだう)の大鐘鳴して下にけり。満山の大衆鐘に驚、谷々坊々騒動して講堂(かうだう)の庭に会合し、大輔が所為を見て、志の之ところ所存誠に不敵也、邪を翻て正に帰る情ありとぞ感じける。
S1605 三位(さんみ)入道(にふだう)歌等附昇殿事
源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)は、ゆゝしく計ひ申たりけれ共、遠国の者までは不(レ)及(レ)云、近国の源氏だにも(有朋上P526)急ぎ打上る者一人もなし、山門の大衆は心替しつ、不(レ)遂(二)其先途(一)、風吹ば木不(レ)安と、世の煩人の歎、為(レ)身為(レ)家、無(レ)由事申勧まゐらせて亡ぬる者かなと、貴賤口々に申けり。彼入道と申は、清和(せいわの)帝の第六皇子貞純親王の二代の苗裔、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が子、摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)が三代の後胤、参河守頼綱が孫、兵庫頭(ひやうごのかみ)仲正
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が子也、保元の合戦の時、御方にて一方の先陣を賜り、凶徒(きようと)を退たりけれども、指る勲功の賞にも不(レ)預、怨を含ながら、大内の守護して年久く成、地下にのみして殿上をゆりされざりければ、
  人しれぬ大内山の山もりは木がくれてのみ月を見るかな K086 
と読て進たりければ、不便なりとて、四位(しゐ)して昇殿を免る。始て殿上を通りけるに、ある女房の、
  つき/゛\しくもあゆぶものかな
と云たりければ、頼政(よりまさ)とりあへず、
  いつしかに雲の上をば蹈なれて K087 
と申たりければ、優に甲斐々々しと感じけり。又四位(しゐ)の殿上人(てんじやうびと)にて、久く世に仕へ奉けるに、述懐仕て、(有朋上P527)
  上るべきたよりなければ木の本に椎を拾ひて世を渡るかな K088 
と申たりけるに依て、七十五にて三位を被(レ)免て後、先途既(すで)に遂ぬとて、出家して源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)ともいはれけり。大方此頼政(よりまさ)は、歌に於ては手広者にぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。鳥羽院(とばのゐんの)御時に、宇治河(うぢがは)、藤鞭、桐火桶、頼政(よりまさ)と、四題を下させ給。一首に隠して進よと勅定ありけるに、
  宇治川(うぢがは)のせゞの淵々落たぎりひをけさいかに寄まさるらんK089 
と申たりければ、時の人、我々は一題をだにも、一首に隠はゆゝしき大事なるに、あまたの題を程なく
P0386
仕たる事、実に難(レ)有と感じ申けり。君もいみじく仕りたりと、叡感有けり。
S1606 菖蒲前(あやめのまへの)事
殊に名をあげ施(二)面目(一)ける事は、鳥羽院(とばのゐんの)御中に、菖蒲前(あやめのまへ)とて世に勝たる美人あり。心の色深して、形人に越たりければ、君の御糸惜も類なかりけり。雲客(うんかく)卿相(けいしやう)、始は艶書は遣し情を係事隙なかりけれ共、心に任せぬ我身なれば、一筆の返事、何方へもせで過しけ(有朋上P528)る程に、或(ある)時(とき)頼政(よりまさ)菖蒲(あやめ)を一目見て後は、いつも其時の心地して忘るる事なかりければ常に文を遣しけれども、一筆一詞の返事もせず。頼政(よりまさ)こりずまゝに、又遣し/\なんどする程に、年も三年に成にけり。何にして漏たりけん、此由を聞食(きこしめし)に依て、君菖蒲(あやめ)を御前に召、実や頼政(よりまさ)が申言の積なると綸言ありければ、菖蒲(あやめ)顔打あかめて御返事(おんへんじ)詳ならず、頼政(よりまさ)を召て御尋(おんたづね)あらばやとて、御使有て召れけり。比は五月の五日の片夕暮許也。頼政(よりまさ)は木賊色の狩衣に、声華に引繕て参上、縫殿の正見の板に畏て候ず。院は良遥許して御出ありけるが、じつはふの者には物仰にくければとて、殊に咲を含ませ御座(おはします)。何事を被(二)仰出(一)ずるやらんと思ふ処に、誠か頼政(よりまさ)菖蒲(あやめ)を忍申なるはと御諚あり。頼政(よりまさ)は大に失(レ)色恐畏て候けり。院は憚思ふにこそ、勅諚の御返事(おんへんじ)は遅かるらめ、但菖蒲(あやめ)をば誰彼時の盧目歟、又立舞袖の追風を、徐ながらこそ慕ふらめ、何かは近付き其験をも弁べき。一目見たりし頼政(よりまさ)が、眼精を見ばやとぞ思食(おぼしめし)ける。菖蒲(あやめ)が歳長色貌少も替ぬ女二人に、菖蒲(あやめ)を具して、三人同じ装束同重になり、見すまさせて被(レ)出たり。三人頼政(よりまさ)が前に列居たり。梁の鸞の並べるが如く、窓の梅の綻たるに似たり。頼政(よりまさ)よ其中に忍申す菖蒲(あやめ)侍る也、朕占思召(おぼしめす)女也、有(二)御免(一)ぞ、相具して罷出よ
P0387
と有(二)綸言(一)ければ、頼政(よりまさ)いとゞ(有朋上P529)失(レ)色、額を大地に付て実に畏入たり。思けるは、十善の君はかりなく被(二)思食(一)(おぼしめさるる)女を、凡人争か申よりべかりける。其上縦雲の上に時々なると云とも、愚なる眼精及なんや、増てよそながらほの見たりし貌也、何を験何ぞなるらん共不(レ)覚、蒙(二)綸言(一)不(レ)賜も尾籠也、見紛つゝよその袂(たもと)を引きたらんもをかしかるべし、当座の恥のみに非、累代の名を下し果ん事、心憂かるべきにこそと、歎入たる景色顕也ければ、重て勅諚に、菖蒲(あやめ)は実に侍るなり、疾給(たまひ)て出よとぞ被(二)仰下(一)ける。御諚終らざりける前に、掻繕ひて頼政(よりまさ)かく仕る。
  五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引ぞわづらふ K090 
と申たりけるにこそ、御感の余に竜眼より御涙(おんなみだ)を流させ給ながら、御座を立たせ給(たまひ)て、女の手を御手に取て、引立おはしまし、是こそ菖蒲(あやめ)よ、疾く汝に給也とて、頼政(よりまさ)に授させ給けり。是を賜て相具して、仙洞を罷出ければ、上下男女歌の道を嗜ん者、尤かくこそ徳をば顕すべけれと、各感涙を流けり。実に頼政(よりまさ)と菖蒲(あやめ)とが志、水魚の如にして無二の心中也けり。三年の程心ながく思し情の積にやと、やさしかりし事共也ければ、京童部(きやうわらんべ)申けるは、二人の志わりなかりけるこそ理なれ、媒が痛見苦もなければとぞ咲ひける。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)は、即彼菖蒲(あやめ)が腹の子也。(有朋上P530)
S1607 三位(さんみ)入道(にふだう)芸等事
又打物に取て名を揚る事ありき。悪右衛門督(あくうゑもんのかみ)信頼(のぶより)が天下に秀たりし時、殿上の刻み階に、夫男一人立たり。信頼(のぶより)彼は何に狼藉也と申ければ、掻消様に失ぬ。某に一の剣あり。信頼(のぶより)くせ事也と思て、宝物
P0388
の御剣にも候らん、焼鐔の剣ならば、山をも岩をも可(二)破崩(一)とて、此剣を抜御坪の石を切るに、剣七重八重にゆがむ。曲なき者也とて、温明殿(うんめいでん)の縁に棄置れぬ。折節(をりふし)頼政(よりまさ)参会たり。信頼(のぶより)欺(レ)之、いかに剣は見知給へるかと申。頼政(よりまさ)弓矢取身にて侍る、如(レ)形知たる候と云。其時少輔内侍と云ふ以(二)女房(一)、大床に棄置所の剣を被(二)召寄(一)けるに、曲たる剣忽(たちまち)に直て、鞘に納る。不思議也とて頼政(よりまさ)にみせらる。頼政(よりまさ)打見て仰て、まめやかの御剣也、朝家の御守たるべし、其故は太神宮に五の剣あり、当時内裏に御座(おはしま)す、宝剣は第二の剣、是は第三の剣也、但頼政(よりまさ)いかゞして神剣を知侍るべきなれ共、作人に依て剣体を知、其上今夜の夜半におよびて、天の告示給事あり、国を守らん為に皇居に一の剣を奉る、即宝剣是也、亡国の時は、此剣又宝剣たるべし、為(二)用意(一)奉(二)権剣(一)と見て候。折節(をりふし)今日御剣出現之条、併国の御守と覚ゆと申。其時信頼卿(のぶよりのきやう)ふしぎ也と思ひ、さらば(有朋上P531)剣の徳を施給へと云。頼政(よりまさ)霊剣自由の恐ありといへ共、仰にて侍ば、何事をか仕べきと申。御前の坪の石をと聞ゆ。畏てとて頼政(よりまさ)彼石を切かけず散々(さんざん)に切破て、見参に入奉る。禁中さゝめき上下驚(レ)目。信頼(のぶより)始は欺て云たりけれ共、今は恐くぞ思ける。さて剣の咒返を満て、鞘にさして温明殿(うんめいでん)に移し置る。加様に勘申けれども、不肖に被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、頼政(よりまさ)が言を不(レ)被(レ)信。元暦二年三月廿四日に、宝剣浪の底に沈ませ給(たまひ)て後、彼剣宝剣と成し時こそ頼政(よりまさ)実に非(二)直者(一)と被(二)思召(一)(おぼしめされ)けれ。世下つて後も頼政(よりまさ)程の者なかりけり。諸道を不(レ)疎、立る能ごとに不(レ)顕(レ)威と云事なし。花鳥風月弓箭兵仗、都てこのみと好む事、名を揚げ人に勝れたり。就(レ)中(なかんづく)
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弓矢に験を顕はしき。
後白河院(ごしらかはのゐん)第一御子をば二条院とぞ申ける。去久寿二年九月廿三日、御歳十三にて、春宮(とうぐう)に立せ御座(おはしま)し、保元三年八月十一日、御年十六にて御即位ありけるが、平治二年の夏の始より御不予(ごふよ)の御事まし/\けり。五月上旬の比は、御悩(ごなう)殊外に取頻らせ給(たまひ)て、夜深人定る程には、俄(にはか)に必おびえたまぎらせ給けり。
 < 異説云、仁安元年の春の比、可(レ)有(二)春宮(とうぐう)御即位(一)由有(二)其沙汰(一)、此東宮(とうぐう)と申は高倉院(たかくらのゐん)の御事也。五条(ごでう)高倉に栖せ給ければ、高倉宮(たかくらのみや)とぞ申ける、同年四月中旬より、宮御悩(ごなう)ありと云云。>(有朋上P532)
一院不(レ)斜(なのめならず)歎思食(なげきおぼしめし)て、諸寺諸山にして、御祈(おんいのり)を始め、医師に仰て、御薬を勧め参せけれ共、更に其験ましまさず見えければ、東三条(とうさんでう)の森より、黒雲一叢立来、南殿の上に引覆、■(ぬえ)と云鳥の音を鳴時に、必振ひたまぎらせ給(たま)ひけり。天下の大なる歎也ければ、日夜に諸卿参内ありて、各僉議(せんぎ)あり。有験の験者にて可(レ)奉(レ)祈歟、以(二)博士(一)可(レ)送歟なんど取々に被(レ)申けるに、徳大寺(とくだいじの)左大臣公能の被(レ)申けるは、目に不(レ)見物ならば可(二)祈祭(一)、是は目の当也、弓の上手を以て射さすべき歟。其故は去寛治年中に、堀川院(ほりかはのゐん)御悩(ごなう)の事御座(おはしまし)き、療治(りやうぢ)も祈祷も叶はざりけるに、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)ありて、此御悩(ごなう)非(二)直事(一)、以(二)武士(一)大内を可(二)警固(一)とて、八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)に仰す、義家(よしいへ)蒙(レ)勅て、甲冑を著し弓箭を帯して、南庭に立跨殿上を睨で高声に、清和(せいわ)の帝には四代の孫、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が三代の後胤、伊予守頼義(らいぎ)入道が嫡男、前陸奥守
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源(みなもとの)義家(よしいへ)、大内を守護し奉、いかなる悪霊鬼神なり共、争望をなすべき、罷退けと名乗懸て、弓の絃を三度鳴したりければ、殿人も階下も身毛竪て覚けるに、御悩(ごなう)忽(たちまち)に癒させ給けり。去ば是は怪鳥か変化か、目に顕たる者也、以(二)武士(一)射さすべき也とぞ被(二)勘申(一)ける。大臣公卿此義最可(レ)然とて、弓の上手を勝られけり。源平の中に何なるべきぞと義定有けるに、石廉将軍が末葉に、大和国(やまとのくにの)住人(ぢゆうにん)石川次郎秀廉を召されけ(有朋上P533)り。秀廉庭上に参て蒙(二)綸言(一)云、天下に媚物あり、殊なる朝敵也、深夜に及で明見仕れと被(二)仰下(一)。秀廉畏て勅諚謹承候畢。此身旧宅に住して、名字既(すで)に故人に通、蒙(二)勅命(一)事、生前の面目に侍、但弓箭年旧て、其手未練也、先祖を尋送らるといへ共、末代尤難(レ)叶。勅命を承て、不(レ)鎮(二)朝敵(一)ば、弓矢の名絶なん事、当時一身の歎のみに非、先祖の将軍が威を失はん事、大なる恥也。然ば蒙(二)御免(一)侍ばやと嘆申ければ、関白殿(くわんばくどの)汝が痛申処、実に不便也。但綸言と号して、鬼神を鎮め夷賊を平る例是多し。当今の御代に至て、仏法(ぶつぽふ)王法互に相対せり、などか以(二)朝威(一)不(レ)仕、自由の辞状尤罪科也。天下の勝事に身を惜は、在(二)王土(一)無(二)其詮(一)、速に配所へとぞ被(二)仰下(一)ける。石河次郎秀廉、失(二)面目(一)罷出ぬ。其後誰をかと有(二)僉議(せんぎ)(一)。関白殿(くわんばくどの)の仰に、頼光(らいくわう)が末葉、頼政(よりまさ)器量の仁に当れりとて、源兵庫頭(ひやうごのかみ)を召れけり。頼政(よりまさ)は例の歌道の御会にやとて、木賊色の狩衣になり、見澄して参たり。深夜に臨で媚物あり、玉体を奉(レ)侵、及(二)其期(一)明見仕と仰ければ、頼政(よりまさ)畏承候ぬとて、御前を罷立て、近衛川原(このゑかはら)の宿所に帰る。本の装束脱替て、朝敵を鎮る形にぞ出立ける。生衣の捻重に黄なる大口、
P0391
葉早黄色の直垂をぞ著たりける。彼直垂には、左の肩には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と縫、右の肩には山鳩をぞ縫たりける。産衣と云鎧を著て、男山三度奉(二)伏拝(一)、其後(有朋上P534)鎧をば脱置て、直垂小袴計也。郎等に丁七唱、遠江国住人(ぢゆうにん)早太と云者二人を相具したり。唱は小桜を黄にかへしたる腹巻を著せ、十六指たる大中黒の矢の、おもてに水破兵破といふ鏑矢二つ差、雷上動といふ弓を持せたり。水破といふ矢は、黒鷲の羽を以てはぎ、兵破といふ矢をば、山鳥の羽にてはぎたりけり。早太には骨食といふ太刀を、ふところにささせたり。
 < 水破兵破雷上動と云弓箭は、是大国の養由(やういう)が所持也。彼の養由(やういう)とは、楚国の者、秦王の時の人也。大聖文殊の化身也。或(ある)時(とき)文殊養由(やういう)に有(二)対面(一)いはく、汝は我化身也、吾汝に一徳ををしへんとて、文殊双眼の精を取て二の鏑に作れり。五台山の麓に、両頭の蛇一つあり。信敬慙愧の衣の糸を、八尺五寸の絃により係て、一張の弓をなし、多羅葉をとりあつめて、直垂と云物に作りきる。今の葉早黄色と云ふは是也。柳葉を的として、射術を教給故に、天下無双の弓の上手にて、養由(やういう)弓をとれば雁列を乱り、飛鳥たちまちに地に落つるいきほひありき。而養由(やういう)七百歳を経て、天下を見案ずるに、雲州に我弓矢をつたふべき仁なし、娘の桝花女と云ふ女に、是を伝置て、其身むなしく去りにき。桝花女命尽なんとする時に、弓の弟子を尋ぬるに、本朝にあり。今の摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)是也。或(ある)時(とき)頼光(らいくわう)昼寝したりけるに、天より影の如なる者下て、我が養由(やういう)より所(レ)伝の弓箭を帯せり、汝にさづけんとて巨細を語りて(有朋上P535)去りぬ。夢醒て傍を見れば、件の弓矢直垂あり。頼光(らいくわう)是を傅得て弓の徳を施すに、更に我が養由(やういう)が芸に劣らず、頼光(らいくわう)より頼国〈 美濃守 〉頼綱〈 参河守蔵人 〉仲政〈 兵庫頭(ひやうごのかみ)下総守 〉頼政(よりまさ)〈 三位 〉まで、子孫相傅して五代也、先祖の重宝也。身に取
P0392
て一朝の大事不(レ)如(レ)之とて、加様に用意して参る。>
目にも見えぬ媚物を、而も五月の暗夜に射よとの勅命、弓取の運の極と覚たり。天の下に住乍蒙(二)朝恩(一)、器量の仁と被(レ)撰、非(レ)可(二)辞申(一)とて、主従三人出けるが、頼政(よりまさ)向(二)早太(一)、我所存汝得たりやと問ければ、先立存知仕て侍、今度殿下より蒙(レ)仰給(たま)ひ、媚物を殿上にて一矢に射損じたらば、二の矢に可(レ)奉(レ)射、殿下、去ば軈(やが)て似(二)骨食(一)、我御頸を給(たまひ)て出よとこそ被(二)思召(一)(おぼしめされ)候らめ、振舞侍べしと申ければ、汝が言は是大菩薩(だいぼさつ)の御託宣(ごたくせん)とこそ覚ゆれ。憑むぞよとて宿所を出て、陣頭に参じ、河竹呉竹の北南にて、明見仕る景気、誠に優にして頬魂ひ武勇の大将と見たり。頼政(よりまさ)宣旨を蒙て、媚物射んずる見よとて、公卿殿上人(てんじやうびと)参集、堂上堂下内外男女、市をなせり。今や/\と通夜是を待、子の刻も過ぬ、丑の刻の半に及で、如(レ)例東三条(とうさんでう)の森より、黒雲一叢立渡、御殿の上に引覆としければ、主上はほと/\と振ひ出させ給(たま)ひけり。頼政(よりまさ)は黒雲とは見たれ共、天は実に暗し、いづくを射るべしと矢所さだかならず、心中に帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、国家鎮守(ちんじゆ)の明神、祖族帰敬(有朋上P536)の冥応に御座(おはします)〔と〕、頼政(よりまさ)頭を傾けて年久、今蒙(二)勅命(一)怪異を鎮めんとす、射はづしなば、速に命を捨べし、氏人々々たるべくは、深守となり御座(おはしま)せと、男山三度伏拝み心を静めて能見れば、黒雲大に聳て、御殿の上にうづまきたり。頼政(よりまさ)水破と云ふ矢を取て番て、雲の真中を志て、能引て兵と放つ、ひいと鳴て、かゝる処に、黒雲頻(しきり)に騒いで、御殿の上を立、■(ぬえ)の声してひゝなきて立所を見負て、二の矢に兵破と云鏑を取て番ひ、兵と射る。ひいふつと手答し
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て覚ゆるに、御殿の上をころ/\ところびて、庭上に動と落。其時に兵庫頭(ひやうごのかみ)源(みなもとの)頼政(よりまさ)変化の者仕たりや/\と叫ければ、唱つと寄て得たりや/\とて懐たり。貴賤上下女房男房、上を下に返し、堂上も堂下も紙燭を出し炬火をとぼして見(レ)之。早太寄て縄を付、庭上に引すゑたり。有(二)叡覧(一)に癖物也。頭は猿背は虎尾は狐足は狸、音は■(ぬえ)也。実に希代の癖物也。苟禽獣も加様の徳を以て奉(レ)悩(レ)君事の有ける事よ、不思議也とぞ仰ける。見聞の男女は口々に、頼政(よりまさ)あ射たり/\とぞ嘆たりける。彼変化の者をば、清水寺の岡に被(レ)埋にけり。主上の御悩(ごなう)忽(たちまち)に宜成らせ給にければ、鳥羽院(とばのゐん)より有(二)御伝(一)ける、師子王と申御剣に御衣一重脱そへて、関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)基実公(もとざねこう)を御使にて頼政(よりまさ)に被(レ)下けり。頼政(よりまさ)は階の三階に右の膝を突、左の袂(たもと)を擁て、畏て是を拝領す。五月廿日余(あまり)の事なるに、折知がほ(有朋上P537)に敦公(ほととぎす)の一声二声(ふたこゑ)、雲井に名乗て通けるを、関白殿(くわんばくどの)聞召(きこしめし)て、
  敦公(ほととぎす)名をば雲井にあぐるかな と、仰せければ、
  弓はり月のいるにまかせて K091 と、頼政(よりまさ)申たり。
 < 五月やみ雲井に名をもあぐるかなたそがれ時も過ぬと思ふに K092 と、異本也。>
実に弓矢を取ても並なし、歌の道にも類有じと覚たり。大国の養由(やういう)は、雲上の雁を落し、我朝の頼政(よりまさ)は深夜の■(ぬえ)を射る、弓矢の全事取々にぞ覚たる。加様に上下万人に被(レ)嘆、七十に余三位して、今年七十七、何なる楽に栄ありとても、今幾程か有べき。子息仲綱(なかつな)受領して、伊豆国(いづのくに)知行し、丹波には五箇庄
P0394
給(たまひ)て、家中も楽く人目も羨れてこそ有つるに、無(レ)由事勧申て子孫までも亡ぬるこそ不便なれ。馬ゆゑとは申ながら、非(二)直事(一)、偏(ひとへ)に怨霊の致す処也とぞ歎ける。
S1608 三井僧綱(そうがう)被(レ)召附三井寺(みゐでら)焼失事
三井寺(みゐでら)にも、南都にも、猶尻引あて、悪徒(あくと)の張本召るべき由其沙汰あり。昔より山門の大衆こそ、横紙をやり、非分の訴を致に、今度は不(レ)違(二)宣旨(一)随(二)平家(一)、南都園城(をんじやう)には或は宮を入進、(有朋上P538)或は御迎に参つゝ、狼藉斜(なのめ)ならざりければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)大に安からぬ事に思ひ宣(のたまひ)けり。殊に南都にも深く鬱て、殿下の御使を散々(さんざん)に陵礫せり、是又たゞ事にあらずと覚たり。廿一日園城寺(をんじやうじ)円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)〈 後白河院(ごしらかはのゐんの)御子 〉天王寺の別当被(レ)止。其上彼寺の僧綱(そうがう)、公請を被(二)停止(一)、以(二)使庁使(一)、張本を被(レ)召けり。被(レ)下(二)院宣(一)云、園城寺(をんじやうじ)悪僧等、違(二)背朝家(一)、忽企(二)謀叛(一)、依(レ)之(これによつて)門徒(もんと)僧綱(そうがう)已下、皆悉停(二)止公請(一)、解(二)却見任并(ならびに)綱徳兼亦末寺庄園及彼寺僧等私領(一)、仰(二)諸国之宰史(一)、早可(レ)令(二)収公(一)、但於(二)有(レ)限寺用(一)者、為(二)国司之沙汰(一)付(二)彼寺(一)、所司任(二)其用途(一)、莫(レ)令(レ)退(二)転恒例仏事(一)、無品円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)、宜(レ)令(レ)停(二)止所帯天王寺検校職(けんげうしき)(一)とぞ有ける。僧綱(そうがう)には、一乗院僧正(そうじやう)房覚をば、飛騨判官景高承て召(レ)之。常陸法印実慶をば、上総判官忠綱(ただつな)承、中納言法印行乗をば、博士判官章貞承る。真如院法印能慶をば、和泉(いづみの)判官仲頼承。亮法印真円をば、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞承。美濃僧正(そうじやう)覚智をば、摂津判官盛澄承。蔵人法橋勝慶をば、祇園博士大夫判官(たいふはんぐわん)基康承。宰相僧正(そうじやう)公顕をば、出羽判官光長承、僧正(そうじやう)覚讃をば、斎藤判官友実承、明王院僧都(そうづ)乗智をば、新志明基承、右大臣法眼実印をば、仁府生経広承、中納言法眼勘忠、大蔵卿(おほくらのきやう)法印
P0395
行暁両人をば紀府生兼康(かねやす)承、各水火(有朋上P539)の責にぞ及ける。二会講師には、円全、性猷、澄兼、公胤〈 已上四人 〉被(レ)停(二)止公請(一)、学生十八人(じふはちにん)、被(レ)載(二)罪名(一)。高倉宮(たかくらのみや)三井寺(みゐでら)に籠らせ給に依て、衆徒も多く被(レ)誅、宮も亡びさせ給(たま)ひぬ。僧綱(そうがう)さへ公請を止られければ、哀入道の失滅よかし、耳にも聞じ目にも見じなど、園城(をんじやう)も南都も大衆蜂起騒動すと聞えければ、東国の乱逆を前に抱て、園城寺(をんじやうじ)を攻べしと聞ゆ。頼朝(よりとも)の謀叛には、尤南都北嶺に仰て、天下安穏の祈をこそ可(二)仰付(一)、入道の憤深ければ、其事既(すで)に治定すと有(二)披露(一)。三院の大衆会合僉議(せんぎ)して、大関小関堀塞で、垣楯をかき逆茂木引て、構(二)城郭(じやうくわく)(一)たり。
十一月十二日、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡大将軍として、一千(いつせん)余騎(よき)の軍兵を率して、三井寺(みゐでら)へ発向す。大衆も思儲たる事なれば、大関小関二手に造て防戦けれ共、大勢に打落されて、大衆法師原(ほふしばら)に至るまで、死ぬる者八百(はつぴやく)余人(よにん)、重衡勝に乗て、寺中に乱入、坊舎に火を係たれば、南中北の三院、金堂、講堂(かうだう)、神社、仏閣、一宇も不(レ)残焼にけり。本覚院、鶏足院、常喜院、真如院、桂園院、尊星王堂、普賢堂、青竜院、大宝院、新熊野、同拝殿護法善神の社壇、教待(けうだい)和尚(くわしやう)の本坊、同御身像七宇の鐘楼、二階(にかい)大門八間四面の大講堂(だいかうだう)、三重一基宝塔、阿弥陀堂、唐院宝蔵山王宝殿、四足一宇四面廻廊、五輪院、十二間大坊、三院各別灌頂院(くわんぢやうゐん)、惣〔じて〕坊舎塔廟六百三十七宇(ろつぴやくさんじふしちう)、大津の在家(有朋上P540)二千八百五十三宇(にせんはつぴやくごじふさんう)、速に■煙(たいえん)となるこそ悲けれ。仏像二千(にせん)余体、経巻幾千万ぞ数を不(レ)知。文徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)仁寿三年に、智証大師自入唐して、渡し給へる唐本の一切経、七千(しちせん)余巻(よくわん)も焼にけり。顕密須臾に亡て、大小の書籍も失にけり。三密瑜伽(ゆが)
P0396
の道場もなければ、振鈴(しんれい)声を断て、一夏安居の仏前もなければ、供花の薫も絶にけり。宿老(しゆくらう)碩徳の明師は怠(二)行学(一)、受法相承の弟子は、経巻に別れぬ。或は漫々たる浮(レ)海、船と共にこがるゝ大衆もあり、或は峨々たる峯に上て、嵐と同咽僧侶もあり、仏宝僧宝忽(たちまち)に亡つゝ、在家出家歎悲けり。抑三井寺(みゐでら)者是、近江国志賀郡、擬大領大友夜須良麿が私の寺たりしを、天武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)に奉(二)寄附(一)、本仏も彼時の御本尊、生身の弥勒と申しを、教待(けうだい)和尚(くわしやう)百六十年行ひ給(たまひ)て、其後智証大師の草創也。係目出三井の法水も忽(たちまち)に亡ぬるこそ悲けれ。天智天武持統三代の帝の御産湯の水をくみたりける故に三井寺(みゐでら)と名たり。大師此所を伝法灌頂(くわんぢやう)の霊地として、井花の水を汲事、慈尊の朝、三会の暁を待ゆゑに、三井寺(みゐでら)とも申とかや。角止事なき聖跡に、兵俗乱入つゝ、塵灰となす事、有(レ)心人皆歎けり。況寺門老少の心の中、推量りても哀なり。(有朋上P541)
S1609 遷都附将軍塚(しやうぐんづか)附司天台事
治承四年五月廿九日には、都遷あるべき由有(二)其沙汰(一)。来月三日福原へ行幸と被(二)定仰下(一)けり。日頃(ひごろ)も猿荒増事ありと私語(ささやき)けれ共、指もはやと思ける程に、既(すで)に被(二)仰下(一)ければ、京中貴賤迷(二)是非(一)ひ、周章(あわて)騒つゝ、更にうつゝとは覚えず。兼ては六月三日と有(二)披露(一)しに、俄(にはか)に二日に被(二)引上(一)ける間、供奉の人々上下周章(あわて)騒て、取物も不(二)取敢(一)(とりあへず)、東関の雲の夕、西海の波の暁、仮寝の床の草枕、一夜の名残(なごり)も惜ければ、跡に心は留りて、思を残す事ぞかし。久此京に住馴て、始て旅だたん事倦ければ、外人には世に恐ていはざりけれ共、親き族は寄合て、額を合て泣悲、何なるべし共覚ねば、各袖を
P0397
ぞ絞ける。二日既行幸あり、入道の年来執通給(たま)ひける所なるに依て也。中宮、一院、新院、摂政殿(せつしやうどの)を奉(レ)始、公卿殿上人(てんじやうびと)被(二)供奉(一)、三日と有(二)披露(一)だにも、忙かりしに、今一日引上られける間、御伴の上下いとゞ周章(あわて)騒、取物も不(二)取敢(一)(とりあへず)、帝王の稚御座には、后こそ同輿には召に、是は御乳母(おんめのと)の平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の北方、師の内侍と申ぞ被(レ)参ける。先例なき事也と、人欺申けり。係儘には法皇道すがら御心細、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず、ゆゝしく木影の繁き森を御覧じ(有朋上P542)て、此は何所ぞと御尋(おんたづね)あり。近く候ける人、広田大明神(だいみやうじん)の社也と奏ければ、こは猿事にこそと思召(おぼしめし)て、今度無(二)別御事(一)、都へ有(二)還御(一)、政務如(レ)元ならば、御所近奉(レ)祝と有(二)御祈念(一)けるこそ哀なれ。御心中計の御事なれば人は此事をば不(レ)知けり。三月池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛(よりもり)の家を皇居と定て、主上渡らせ給ふ。同四日頼盛(よりもり)家の賞を蒙て、正二位(しやうにゐ)し給へり。九条左大臣兼実の御子、右大将(うだいしやう)良通越られ給へり。法皇をば福原に三間なる板屋を造て、四面に波多板し廻して、南に向て口一つ開たるにぞ居進ける。筑紫武士、石戸の諸卿種直が子に、佐原の大夫種益奉(二)守護(一)けり。一日に二度如(レ)形供御を進せけり。懸ければ此御所をば、童部(わらんべ)は楼御所とぞ申ける守護の武士厳かりければ、輙人も不(レ)参、鳥羽殿(とばどの)を出させ給しかば、くつろぐやらんと思召(おぼしめし)けるに、高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)の事出来て、又角のみ渡らせ給へば、こは如何しつるぞや、心憂とぞ思召(おぼしめし)ける。今は世の事もしろしめし度もなし、花山法皇の御座(おはしまし)けん様に、山々寺々をも修行して、任(二)御心(一)御座(おはしまさ)ばやとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。鳥羽殿(とばどの)にてはさすが広かりしかば、慰む御事も有し物
P0398
を、由なく出にける者哉と思食(おぼしめし)けるも、責の御事と哀なり。
抑神武天皇(じんむてんわう)は天神七代を過、地神五代御末、葺不(レ)合尊の御譲を受させ給つゝ、人代百王の始の帝にまし/\しが、辛酉歳日向国宮崎郡にて、皇王(有朋上P543)の宝祚を継給へり。五十九年と申し、己未年十月に東征して、豊葦原中津国に留り御座、近来大和国(やまとのくに)と云は是也。高市郡、畝傍山を点じて、帝都を立、橿原の地を伐払て、宮室を作り給き。即橿原の宮といへり。自(レ)爾以降、代々の帝王、都を移さるゝ事、三十度に余り、四十度に及べり。
神武天皇(じんむてんわう)より景行天皇(けいかうてんわう)まで十二代は、大和国(やまとのくに)所々に宮造して遷御座(おはしまし)き。景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に、大和国(やまとのくに)纏向日代宮より、近江国志賀郡に被(レ)遷、穴穂宮を造り給。仲哀天皇(てんわう)二年の九月に、穴穂宮より長門国に移されて、豊浦宮に御座(おはしま)す。神功皇后(じんぐうくわうごうの)御宇(ぎよう)に、大和国(やまとのくに)十市郡に被(レ)移て、稚桜宮に御座(おはします)。仁徳天皇(てんわう)元年に、同国軽島豊明宮より、摂津国(つのくに)難波に移されて、高津宮に住給。履中天皇(てんわう)二年に、大和国(やまとのくに)十市郡へ帰御座(おはします)。反正天皇(てんわう)元年に河内国へうつされて、柴垣の宮に御座(おはしま)す。允恭天皇(てんわう)四十二年に、又大和国(やまとのくに)へ帰て遠明日香宮に御座(おはします)。安康天皇(てんわう)三年、同国泊瀬朝倉宮に御座(おはします)。其後六代は同国所々に住給ふ。
継体天皇(てんわう)五年に、山城国、筒城に移されて十二年、其後乙訓住給ふ。宣化天皇(てんわう)元年に猶大和国(やまとのくに)へ帰て、檜隈廬入野宮に御座(おはします)。欽明天皇(てんわう)より皇極天皇(てんわう)まで七代は、大和国(やまとのくに)郡々に宮居して、他国へは
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不(二)還給(一)。孝徳天皇(てんわう)大化元年に、摂津国(つのくに)長柄にうつされて、豊崎宮に御座(おはします)。斉明天皇(てんわう)二年に又大和国(やまとのくに)へ帰つて、飛鳥岡本の宮に御座(おはします)。天智天皇(てんわう)(有朋上P544)六年、近江国に被(レ)移て、志賀郡大津宮に住給ふ。天武天皇(てんわう)元年に、大和国(やまとのくに)に帰て、岡本宮に御座、是を飛鳥の浄見原(きよみはらの)宮と申。持統天皇(てんわう)より光仁天皇(てんわう)まで、九代は猶大和国(やまとのくに)奈良の都に住給ふ。桓武天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、延暦(えんりやく)三年十月に、山城国に遷されて、長岡宮に十年御座(おはしま)しけるが、此京狭とて、同(おなじき)十二年正月に、大納言(だいなごん)藤原小黒丸、参議左大弁(さだいべん)紀古作美、大僧都(だいそうづ)賢■等(けんけいら)を遣して、当国の中、葛野郡宇太村を見せらる。三人共に奏して申、此地は左青竜、右百虎、前朱雀、後玄武、一も闕ず、四神(ししん)相応の霊地也と、依(レ)之(これによつて)愛宕郡に御座、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に被(二)告申(一)、同(おなじき)十三年に、長岡京より此平安城へ遷給(たまひ)て以来、都を他所へ不(レ)被(レ)遷、帝王三十二代、星霜四百(しひやく)余歳(よさい)也。昔より多の都ありけれ共、此京程に地景目出く、王業久かるべき所なしとて被(レ)遷たり。末代までも此京を他所へ遷されぬ事や在るべきとて、大臣公卿、賢者才人、諸道の博士等を被(二)召集(一)て、有(二)僉議(せんぎ)(一)。長久なるべき様とて、土にて八尺の人形を造、鉄の甲冑を著せ弓矢を持せて、帝自土の向(二)人形(一)祝申させ給けるは、必此京の守護神となり給へ、若未来に此都を他所へ移す事あらば、竪く王城を守其人を罰せよと被(レ)含(二)宣命(一)て後、東山の峯に深一丈余(あまり)の穴を堀て、西向に立て被(レ)埋けり。将軍塚(しやうぐんづか)とて今にあり。去ば天下に事出来、兵革興んとては、兼て告知しむる習あり。(有朋上P545)嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大同五年に他国へ遷されんとし給しかば、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有て、奉(レ)諌し上、貴賤騒歎しかば、さてこそ止給けれ。一天
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の君万乗の主、猶御心に任給はず、凡人の身として輙も思企給けるこそ浅猿(あさまし)けれ。柏原天皇(てんわう)と申は、平家の先祖に御座(おはします)。先祖〔の〕帝のさしも執し思召(おぼしめし)〔給〕ける都を、他国へ移給しも■(おぼつか)なし。此京をば平安城とて、文字には平ら安き城と書り。旁以難(レ)捨。就(レ)中(なかんづく)主上上皇共に平家の外孫にて御座、君も争か捨させ給べき。是は国々の夷共責上て、平家都に跡をとゞめず、山野に交べき瑞相にやとぞ私語(ささやき)ける。将軍塚(しやうぐんづか)の守護神、争か可(レ)不(レ)成(レ)怒、只今(ただいま)世は失なんず、心憂事也。平家専もてはやすべき都をや。入道天下を手に把り、心の儘に振舞給ける余り、当帝を奉(レ)下、我孫を位に付進、法皇の第二の王子高倉宮(たかくらのみや)を奉(レ)誅御首(おんくび)を切、太政大臣(だいじやうだいじん)の官を止て奉(レ)流(二)関白殿(くわんばくどの)(一)、我聟近衛殿(このゑどの)を奉(レ)成(二)摂政(せつしやう)(一)、惣て卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、北面の下揩ノ至まで、或は流し或は死し、自由の悪行数を尽して、今又及(二)遷都(一)けるこそ不思議なれ。守護の仏神豈禀(二)非礼(一)給はんや、四海の黎民其歎幾許ぞ。犯人者有(二)乱亡之患(一)、犯(レ)神者有(二)疾夭之禍(一)と云本文あり、恐々といへり。就(レ)中(なかんづく)福原と云は平安城の西也、今年大将軍在(レ)酉、方角既に塞れり、いかゞ有べきと申人ありければ、陰陽博士安倍季弘に仰て、勘文を被(レ)召ける。勘状に云、(有朋上P546)
本条云、大将軍王相不(レ)論(二)遠近(一)、同可(レ)忌(二)避諸事(一)、然而至(二)于遷都(一)者、先例不(レ)避(レ)之歟、桓武天皇(てんわう)、延暦(えんりやく)十三年十月廿一日に、自(二)長岡京(一)、遷(二)都於葛野京(一)、今年大将軍為(二)北之分(一)、当(二)王相方(一)、然者(しかれば)就(二)延暦(えんりやく)之佳例(一)案(レ)之、雖(レ)為(二)大将軍之方(一)、何可(レ)有(二)其憚(一)哉とぞ申たる。聞(レ)之人々舌を振て申
P0401
けるは、延暦(えんりやく)の遷都に御方違ありき。但永此城を捨られんには、強に方角の禁忌の不(レ)可(レ)及(二)沙汰(一)。勘文を召るゝならば、何様にも可(レ)有(二)御方違(一)者ぞ。季弘が勘状矯飾の申状歟。倩案(二)事情(一)、昔唐に司天台とて高二十丈の台を造、天文博士を置れたり。太史天変を見て、吉凶を奏する官也。漢元帝、成帝、父子二代之間、政無道(ぶだう)にして天変頻也。北辰光少く、五星煌々として、赤事如(レ)火、芒を耀し、角を動して、三台を射る上、台半ば滅て、中台折たり。是必世乱国亡べき天変也。司天の大史是を見るといへ共、無道(ぶだう)の君に恐て、毎(レ)望(二)明光殿(一)、只慶雲寿星とて、御悦来、御寿永かるべき天変とのみ奏せしかば、政を正事なくして、終に国乱帝亡給にけり。去ば季弘も入道の無道(ぶだう)の政に恐つゝ、方角の禁忌をも不(レ)申けるにやとぞ、人唇を返ける。新都行幸の供奉に参ける人の、旧都の柱に書つけたりけるは、
  百年をよかへり迄に過こしに愛宕の里は荒や果なん K093 (有朋上P547)
行幸既(すで)にならせ給ければ、諸卿已下衛府諸司(しよし)供奉せり。何者(なにもの)の態なりけるにや、東寺の門の道ばたに、札を立たり。
  咲出づる花の都をふり捨て風ふく原の末ぞあやふき K094 
行幸の御門出に、いま/\しくぞ見えし。(有朋上P548)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十七

P0402(有朋上P549)
礼巻 第十七
S1701 福原京事
治承四年六月九日福原の新都の事始あり。上卿は後徳大寺(ごとくだいじ)の左大将実定、宰相には土御門の右中将通親、奉行には頭右中弁(うちゆうべん)経房、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆也。河内守光行、丈尺を取て輪田の松原西の野に、宮城の地を定めけるに、一条より五条(ごでう)まで有て、五条(ごでう)已下は其所なし、如何が有べきと評定ありけるに、通親勘て、三条大路をひろげて十二の通門を立。大国にも角こそしけれ、吾朝に五条(ごでう)まで有ば、何の不足か有べきと被(レ)申けれ共、不(二)事行(一)して行事の人々還にけり。去ば昆陽野にて可(レ)在歟、印南野にて可(レ)有歟と、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有けれ共、未定也。先里内裏可(レ)被(二)造進(一)とて、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)、周防国を給(たまひ)て、六月二十三日に事始して、八月十日棟上と被(二)定申(一)けり。彼大納言(だいなごん)は大福長者にて御座(おはしまし)ければ、造出さん事左右に及ねども、そも争か民の煩、人の歎なかるべき。殊に指当りたる大賞会を閣て、かかる乱に遷幸遷都、内裏造営、山海の財力の尽ぬるのみに非ず、人民の(有朋上P550)侘際いくそばくぞ。楚起(二)気花之室(一)而黎民散、秦興(二)阿房之殿(一)而天下乱といへり。いさ/\危とぞ申ける。堯王天下を治め給けるには、茅茨不(レ)剪、採椽不(レ)■(けづらず)、舟車不(レ)飾(かざらず)、衣服無(レ)文といへり。昔唐驪山と云ふ所あり。山の上に宮室あり。朱楼の構紫殿のあやつり、様々最珍しくして、遅々たる春の日は、玉甃暖にして、温水溢て、嫋々
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たる秋の風には、山の蝉啼て宮樹紅なり。かゝる目出(めでた)き砌(みぎり)にて、代々の聖主、折々の臨幸も不(レ)絶けり。憲宗皇帝位に即御座(おはしまし)て、五年まで終に行幸なし。去儘には垣にはつたしげり、瓦に松生にけり。一人行幸あれば、六宮相従ひ百官供奉する習なれば、人の煩たやすからず、君一日の臨幸の費をかぞふるに、民千万の家の財にも過たりとて、終に御幸も無りけり。是皆国の費を思召(おぼしめし)、民の歎を休めんとの御恵なり、入道いかなれば世を治思を忘れ、人を助る心なかるらんとぞ申ける。新都は繁昌して人屋軒を並けれ共、旧城は只荒にあれ行て、適残れる家々も、門前草深して、庭上露しげし。空き跡のみ多ければ、稚兎の栖と成替り、紫蘭の野辺とぞまがひける。太政(だいじやう)入道(にふだう)は善事にも悪事にも思立ぬれば、前後をも顧ず、人の諌をも用給ふ事なし。時々は物くるはしき心地もありけるにや、懸る遷都までも思立給(たま)ひけり。(有朋上P551)
S1702 祇王祇女仏前事
世に白拍子と云者あり。漢家には虞氏、楊貴妃、王昭君など云しは、是皆白拍子也。吾朝には鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)に、島の千歳、若の前とて、二人の遊女舞始けり。始には直垂に、立烏帽子(たてえぼし)、腰の刀を指て舞ければ、男舞と申けり。後には事がら荒しとて、烏帽子(えぼし)腰刀を止て、水干に袴ばかりを著て舞。其比京中第一の白拍子あり、姉をば祇王、妹をば祇女と云。天下無双の舞姫と披露しければ、入道彼等を召す。劣ぬ弟子ども二三人同車(どうしや)して、祇王祇女参れり。五人の女侍所に并居たり。入道先景気を見れば、紅顔色鮮にして、白粉媚を造れり。容貌品こまやかにして蘭麝の匂なつかし。舞歌へと宣(のたま)ひけれ
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ば、
  蓬莱山には千歳経る、万歳千秋重れり、松の枝には鶴巣食、巌の上には亀遊 K095 
と、同音に歌ひ澄したりければ、入道興に入給へり。頻鳥の音和かに、仙女の袖妙なりければ、見れども聞ども飽べしと不(レ)覚とて、姉の祇王を殿中に召置て最愛せり。妹の祇女も、姉の光によりて、洛中に耀り。寵愛の余、親はいかなる者ぞと問れければ、童も母も元は遊者にて閉と申けるが、年闌齢傾て、六条堀川(ほりかは)なる所に、しづかなる有様(ありさま)にて(有朋上P552)挿絵(有朋上P553)挿絵(有朋上P554)侍ると申。さては糸惜き事やとて、筑後守(ちくごのかみ)家貞(いへさだ)に仰て、衣裳絹布の類を送遣はすのみに非ず、毎月に時料雑事を運入。かゝりければ、家中大に栄て、従類眷属来集る。色立る者の争か加程の幸有べきとて、かたへの遊人申けるは、実や祇と云文字をばかみとよむ也。神は人に翫、うやまはるゝ上、神には人恐る事なれば、吾(われ)らもあへものにせんとて、祇一、祇二、祇三、祇福、祇徳など名を付けるこそ笑しけれ。角て家富人恐れたり。三人の心の中、置処なく、目出(めでた)き事に思程に、天下無双の能者出来れり。仏御前と云者の歌を聞舞を見る者、目を迷し耳を峙つ。祇王祇女には、雲泥を論じて勝りとぞ云ける。或(ある)時(とき)太政(だいじやう)入道(にふだう)の亭へ推参して、家貞(いへさだ)して申入る。折節(をりふし)一門群集して、酒宴の場也。入道宣(のたまひ)けるは、左様の遊者なんど云者は、可(レ)随(レ)召事也、罷出よと宣へば、仰の上は罷出侍るべけれ共、世人の、仏こそ此御所より追出され参せて、恥に及ぶと申侍らん事の道狭く覚侍、又憂身の事はさのみあれ、などや御情(おんなさけ)をば忘させ給ふべきと申たれ共、いや/\祇王此中にあり、舞も
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歌も争かまさるべき。縦仏ともいへ神ともいへ、名にはめづまじ、急出よと宣ふ。此上は仏罷出けり。祇王入道に申けるは、我身も経候し道也、いかに本意なく侍らん、童殿中に有事をば仏も知りて侍、上にはさもと思召(おぼしめし)つらめども、祇王が(有朋上P555)妬心にて、申留たるにこそと思侍らんも恥し。道を立る者折を伺ひて推参尋常の事也、君に召おかれ進せざりし時は、童も推参をのみこそし候しか、何となく御目にかゝりて見参に入たりしうれしさ、空く罷出しはづかしさ、只今(ただいま)の仏御前が心の中、被(二)推量(一)て、糸惜く侍り、何か苦かるべき、見参して舞一番御覧じ侍れかしと、わりなく口説申ければ、左も右も祇王が計とて、安部資成を以て、遥(はるか)に帰りたる仏を被(二)召返(一)て宣(のたまひ)けるは、罷出よと云つるを、祇王が吾経し道也、召返せと様々云つれば仏に見参するぞ、折節(をりふし)吾前に杯あり、何にても一申せと聞ければ、
  君を始て見時は、千代も経ぬべし姫小松、御前の池なる亀が岡に、鶴こそ群居て遊なれ K096 
と、折返折返三度歌ひたりければ、入道祝すまされて興に入給へり。あゝ思には似ず、目出仕たり。祇王にも劣らず、歌の音のよさよ、いしゝ/\と嘆られたり。さらば舞一番と宣へば、仏は水干に白き袴著て、髪結あげ調子取負せて、
  徳是北辰 椿葉影再改(レ) 樽猶南面 松花色十返  
と朗詠しけり。広廂に筵しかせて、器量の侍に鼓うたせて、仏祝の白拍子かずへて舞澄したり。其事がらは髪ながくして色白く、形こまやかにして媚多し。楊貴妃が花の眼、李(有朋上P556)夫人が蓮の睫、夏野の萩
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の風に靡く有様(ありさま)、翠の山に月の出るよそほひなり。■袖(りんしう)とはなのそで翻りて、彩雲の翠嶺を廻が如し。絢袂(じゆんべい)とぬひもののたもとひらめきて、碧浪の蒼浜にたゝめるに似たり。入道は始より横目もせず、打頷許々々よだれとろ/\垂して見入給へり。天性入道は善事にも悪事にも前後をば顧ず、逸早き人にて、心の中に舞の終を遅々とぞ待給ける。責ての歌に、
  よしさらば心の儘につらかれよさなきは人の忘がたきに K097 
謡て舞ければ、戯呼入道が上をこそ舞れぬれとて、手を揚て是へ/\とぞ請じ給ふ。仏は是を聞ぬ由にて猶責けるを、入道座を立手を取て引居たり。遠ては中々思はぬ心もありつるに、近く置て見給へば、情を柳髪の色に染れば、春の思乱やすく、心を蘭質の手に移せば、秋の露屡脆し。緑の黛花の形、絵に書とも筆も及がたかりければ、入道自横懐に抱て、帳台の内へ入給ふ。仏と名をば付たれど、三明(さんみやう)六通悟らねば、忙れ迷たる様也けり。さても申けるは、是はうつゝならぬ御事かな、祇王御前の御言の伝にこそ御目にもかゝる事にて候へ、いかゞさる事侍べき、忘ぬ御事ならば、後にこそ召に随進めと、深痛て候けれ共、賞(レ)新棄(レ)旧世のさが人癖なれば、入道更にゆるし給は(有朋上P557)ず、左も右も吾云にこそ随はめ、祇王に憚るにこそとて、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)を使にて、日来(ひごろ)はさこそ申侍りしかども、移れば替る習なれば、今は力不(レ)及、御内を出べしとぞ宣(のたまひ)ける。祇王は夢うつゝ弁煩たり。泣々(なくなく)申けるは、去ば人の為には能ても有なん、悪ても有べし。抑只今(ただいま)罷出侍ば、片辺の遊者共が、門前市を成
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て、さ見つる事よと申さんも心憂侍るべし、晩を待侍らばやと申。入道去けしからぬ人にて、いや/\疾罷出よ、吾出家入道の身也、今より後は一筋に、仏を崇憑むべし、仏を崇る程にては、片時も祇王無(レ)詮、急々と使頻(しきり)に立ければ、入道の常に見給(たま)ひける障子に思つゞけて、
  萌出るも枯も同じ野べの草いづれか秋にあはで有るべき K098 
と、書捨てこそ出にけれ。其後は夜かれ日かれもし給はず、仏が寵愛はしかまに染る褐の色、竜田山の紅葉よりも猶色深くぞ成給ふ。さても日来(ひごろ)経て仏申けるは、祇王が吾ゆゑ御内を出され進せて、いかに怨と思候らん、此御所に参て御目にかゝり進する事も、かのことの葉の末に依候けるに、情は怨に引替て、さこそ本意なく思らめ、時々被(レ)召て心をも慰め、歎をもやすめさせ給へと申しければ、左もありとて彼宿所へ使を遣して、急参れといはせければ、祇王心憂事に思ひて、返事も不(レ)申。使角と申せば、入道大に嗔(有朋上P558)て、祇王不思議也、いかに我使をやりたらんに、いなせの返事せざるべき、此内を出たるを限とや、色を立る女、一日なり共入道に目をかけられたるは、難(レ)有面目にこそあれ、千年万年の契とや思べき。仏が此にあればとて、返事を申さぬか、急参れ、仰に不(レ)随ば、可(二)相計(一)とて、あらゝかに使を遣はしたり。祇王は情こそかはらめ、加程にや宣ふべきと思ければ、理に過て泣居たり。母の閉泣々(なくなく)教訓しけるは、西八条殿(にしはつでうどの)は世にも腹悪人にて、思立給事は横紙をやぶらるゝぞかし、一天四海上揩煢コ揩熬Nか其命を背、況や加様の身々として、一夜の契とてもおろかなるべきか。年来有難世を過し
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つるまかなひも、偏(ひとへ)に入道殿(にふだうどの)の御恩也。されば日来(ひごろ)の情を思にも参るべし。後の難も恐しければ参るべし。さらでは老たる親に憂目見せ給ふな。入道殿(にふだうどの)の御心としては、女なればとてよも所をば置給はじ、早出立給へとて、使には急参るべしと母ぞ返事は申ける。祇王はよにも心うく辱しき事なれば、淵瀬に身をも入ばやと思けれ共、母の事を思ひてこそ、今まで消もうせなであれ、再入道殿(にふだうどの)へ参べしとは思はざりけれ共、誠にも我ゆゑ母の肝心を迷はさんも不孝なりとて、妹の祇女と同車(どうしや)して、六波羅へ参りたり。入道は仏をそばに居て、人々と酒宴して御座(おはしまし)けり。祇王祇女をば一長押落たる広廂にすゑられたり。仏は打うつぶきて目(有朋上P559)も見上ず。祇王は寵愛こそきはまらめ、居所をさへさげらるゝ心うさに、打しめりてぞ候ける。入道宣(のたまひ)けるは、如何に遅は参たるぞ、仏をすゑ置たればとて、怨思か、宿世の道は今に始ざる事ぞ、努々思べからず、折節(をりふし)仏が前に杯あり、一申て強よと宣ふ。祇王承りて、
  仏も昔は凡夫なり、我等(われら)も終には仏なり、三身仏性具しながら、隔つる心のうたてさよ K099 
と折返折返三返までこそ歌ひたれ。是には入道めでずもや有けん、満座哀を催して、袂(たもと)を絞る者もあり。入道打うなづき給(たまひ)て、景気の今様をば、いしくも歌うたる者哉、此歌は雑芸集と云文に書れたるはさはなし。三四の句はよけれ共、一二の句を引替て、仏も昔は凡夫也、我等(われら)も終には仏とうたふは、二人が阻られたる所を云にや、猶も聞あかず、今一度と宣ふ。何度も仰にはとて、
  君があけこし手枕の、絶て久く成にけり、何しに隙なくむつれけん、ながらへもせぬもの故に K100 
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と、是を二返ぞ歌ひたる。入道又打頷許、此歌は侍従大納言(だいなごん)、師中納言の娘に相具して、契あさからざりしに、何程もなくして別つゝ、歎の余に作り出してうたひし今様也。そ(有朋上P560)れには我等(われら)があけこし手枕のとこそ有に、一の句を引替て、君があけこし手枕と歌ふ事は、入道が所を思なぞらへてうたふにや、それをば祇王は如何にとして知たりけるぞ、加様の事は時に取て上手ならでは叶ふまじ、あはれ祇王は今様は上手かな、上代にも聞及ばず、末代にも有難とぞほめ給ふ。さて此後は不(レ)召とも常に参て、舞舞歌うたうて仏慰よ、よし/\罪深く仏な怨そと宣ふ。祇王祇女宿所に帰て、母に云けるは、角て浮世にあればこそかゝる憂目をも見候へ、墓なき此世と知ながら、何を憑てすまふらん、蜻蛉の有か無かの身を持て、朝露のおけば消えける命也、女は心やなかるべき、姿を替んと思也とて、僧を請じ翠の髪を剃落し、墨の衣に袖替て、廿一と申に実の道にぞ入にける。妹の祇女も是を見て、十九と申しし年、同尼にぞ成にける。母の閉は、此を見彼を見廻して、涙を流、若人だにも思ひ切、角成給ふ、老て何をか期すべきとて、共に尼に成つゝ、西山嵯峨(さが)の奥、往生院と云所に、柴の庵を結つゝ、草葉の露の身を宿〔と〕して、三人菩提を欣つゝ、九品の行業不退也。日西山に没時は、遥(はるか)に十万億刹の土を思、風嶺松を吹折は、近く常楽我浄の観を凝す。六時の礼讃声澄て、朝暮の念仏いと貴し。都には祇王祇女は世を恨、尼に成て行方不(レ)知と披露あり。仏是を聞、心憂や、さしも盛の人々(有朋上P561)の、花の袂(たもと)を脱替て、墨染の袖にやつれけん事の悲さよ、吾故角成ぬれば、思ひ歎は吾身にこそは積るらめ、移れば替
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世の習、吾身とても憑なし、縦偕老の幸なりとても、あだに墓なき世の中は、兎ても角ても有ぬべし。哀此人々の住居たらん所を聞出て、同道にも入ばやとぞ思ける。月日の重なる儘に、さすが都近き程なれば、嵯峨(さが)の往生院にとぞ聞ける。仏は入道の宿所をば忍て紛出て、自髪をはさみ落て、衣うちかづき、遥々(はるばる)と路柴の露かき分て、嵯峨(さが)の奥へぞ尋入る。夜深人定て、柴の編戸を扣けり。内より人立出て、誰人ぞ、いぶせき夜のそら、あやしの草の戸に、尋来べき人なし、恐ろしや天狗ばけ物などにやと云ければ、我身は太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)に候ひし遊者の仏と申女也。我故御身々を捨て、憂名を流しはて、角住居給へりと聞つれば、誰故ならんと被(レ)歎て、人しれず同道にと思取、是迄参たりと云。門を開て庵室に入、纏(レ)頭たる衣を脱たれば、遠山の黛は、かきながら乱ねども、翠の黒髪は鋏刀落して尼なりけり。祇王祇女泣々(なくなく)申けるは、浮世を厭ひ実の道に入ても、猶迷の心の悲さは、思歎は絶ずして、仏だになかりせば、かゝる憂目は見ざらましと、つらき我身を顧ず、只人の御事のみうらめしかりつるに、角思立給ける有難さよ、是も然べき善知識にこそ、今は妄念晴ぬとて、四人頭をさしつどへ、通夜こ(有朋上P562)そ泣明しき。さても一所に籠居て、他事なく勤行ひけり。入道是をも知らず、仏を失たりとて、是は如何せんとぞ被(レ)歎ける。洛中辺土旁へ人を遣しつゝ、仏をぞ尋給ふ。仏も尼に成て、往生院にと聞給ければ、糸惜かりし仏なれば、尼とても何かは苦きと宣(のたま)ひけれ共、其事無沙汰にてやみにけり。此尼上達四人、往生の志深して、行業功重りければ、遅速こそ有けれ共、本意に任せ終り不(レ)乱念仏して、
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西に聳雲に乗、池に開る蓮にぞ生ける。
後白川【*後白河】(ごしらかは)の法皇此由聞召、哀に貴事なりとて、六条長講堂の過去帳に被(レ)入て、比丘尼祇王二十一、祇女十九、閉四十七、仏十七と、今の世までも読上、訪ひ御座(おはしま)す事こそ憑しけれ。大安寺の過去帳にも入と云々。加様に何事にも掲焉人にて、思立給ぬれば、人の制止にも不(レ)拘、後悪からんずる事をも顧ず、適被(二)諌申(一)し小松殿(こまつどの)は失給ぬ。心に任て振舞給(たま)ひければ、遷都も思立給けるにこそ。
S1703 新都有様(ありさま)事
〔去(さる)程(ほど)に〕治承四年六月二日、都を福原へうつされて、既(すで)に八月にも成にけり。平安の故郷は日に随て荒行、公卿殿上人(てんじやうびと)上下の北面に至るまで、人々の家々、或筏に組、或は舟(有朋上P563)に積て漕下る。所々に家居しけれ共、福原の新都も未ならず、有とある人は皆浮雲の思をなせり。本より此所に住ける者は、田畠を失ひ、屋舎を壊て愁、今移居たる人は、土木の煩旅宿を悲て歎く。路の辺を見れば、車に乗べきは馬に乗、衣冠を著すべきは直垂を著たり。都の振舞忽(たちまち)に廃れて、ひたすら武士に不(レ)異、旧都には皇太后宮(くわうたいごうぐう)の大宮(おほみや)、八条中納言長方卿ばかりぞ残留給へる。長方卿は世を恨る事御座(おはしまし)て、供奉し給はず、只一人留給たりければ、京童部(きやうわらんべ)は留守の中納言とぞ申ける。其外は浅増(あさまし)き下揩フ力もなき計ぞ在ける。去儘に目出かりし都なれ共、小路には堀々切て逆木を引、車などの通べき様もなし。適過る人も、小車に乗道をへてぞありきける。夏闌秋にも成ぬ、月日過行とも、世は猶しづかならず。理也、上荒下困勢不(レ)久、宗社之危如(二)綴旒(一)〔と〕云文あり。宗社とは、先祖宗廟の祭也。綴旒とは、旗の足と云事也。
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宗廟の祭あやふければ、国の治らざる事、旗の足の風に吹るゝが如に、安堵せずと云にや、平家の振舞いかゞ有べかるらんと覚束(おぼつか)なし。
S1704 隋堤柳事 (有朋上P564)
 < 昔隋煬帝、片河の岸に柳を植事、一千三百里、河水に竜舟を浮べ、船の中に伎女を乗て、永く万機の政を忘て、偏(ひとへ)に佚遊を恣にし給へり。紫髯の郎将は錦の纜をまふり、青蛾の御女(おんむすめ)は紅楼にあそびけり。海内の財力尽、百姓大に泣悲、万国忽(たちまち)に乱て、諸侯権を諍ければ、大唐の李淵軍を起して、煬天子を亡しゝかば、隋の代永絶にけり。去ば上政を忘れば、下必苦む、上下道調らざれば、国の勢久しからじ。故に宗社之危事如(二)綴旒(一)とは云なるべし。>
福原の遷都の事、天下の煩海内の歎也。当家他家の公卿殿上人(てんじやうびと)より、上下の北面に至まて、人並々には下りたれども、一人も安堵の思はなし、常は心騒てぞ有りける。
S1705 人々見(二)名所々々月(一)事
八月十日余に成て、新帝の供奉の人々つれ/゛\を慰煩、名所の月を見んとて、思々に行別る。或は住江、住吉(すみよし)、難波潟、葦屋の里にうそぶき行人もあり。或源氏大将の跡を追、須磨より明石に浦伝ふ人もあり。和歌、吹上、玉津島、月落かゝる淡路島、松風はげしき高砂の、波間をわたる人もあり、浦路を通ふ人もあり。(有朋上P565)
S1706 実定上洛事
其中に後徳大寺(ごとくだいじ)の左大将実定は、旧都の月を恋わびて、入道に暇乞、都へ上給けり。元より心数奇給へる人にて、浮世の旅の思出に、名所名所を問見てぞ上られける。千代に替らぬ翠は、雀の松原、みかげの松、雲井にさらす布引は、我朝第二の滝とかや。業平中将の彼滝に、星か河辺の蛍かと、浦路遥詠けん、何所なるらん覚束(おぼつか)な、求塚と云へるは、恋故命を失ひし、二人の
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夫の墓とかや。いなの湊のあけぼのに、霧立こむる毘陽の松、必春にはあらねども、山本かすむ水無瀬川、男山にすむ月は、石清水にや宿るらん。秋の山の紅葉の色、稲葉を渡る風の音、御身にしみてぞ覚しける。さても都に入給、彼方此方を見給へば、空き跡のみ多して、たま/\残る門の内、行通人も無れば、浅茅が原、蓬が杣と荒果て、鳥の臥戸と成にけり。八月半ばの事なれば、まだ宵ながらいづる月、主なき宿に独住、折知がほに鳴雁の、音さへつらくぞ聞召。大将はいとゞ哀に堪ずして、大宮(おほみや)の御所に参、待宵の小侍従と云女房を尋給ふ。元より浅からざる中也、侍従出合請入奉て、良久御物語(おんものがたり)申けり。さても宮の御方へ角と被(レ)申よと仰ければ、侍従参て御(有朋上P566)挿絵(有朋上P567)挿絵(有朋上P568)気色を伺進せけり。宮斜ず御悦ありて、こなたへと仰けり。大将南庭をまはりて、彼方此方を見給ふに付ても、昔は二代の后に立給(たま)ひ、百しきの大宮人にかしづかれて、明し晩し給しに、今は幽なる御所の御有様(おんありさま)、軒に垣衣繁り、庭に千草生かはす、事問人もなき宿に、荻吹風もさわがしく、昔を恋る涙とや、露ぞ袂(たもと)をぬらしける。時しあればと覚しくて、虫の怨もたえ/゛\に、草の戸指も枯にけり。大将哀に心の澄ければ、庭上に立ながら古詩を詠じ給ふ。
  霜草(さうさう)欲(レ)枯虫思苦、 風枝未(レ)定鳥栖難 K101 
と宣て、其より御前に参給けり。八月十八日(じふはちにち)の事也。宮は居待の月を待侘て、御簾半巻上て、御琵琶をあそばして渡らせ給けるが、山立出る月かげを、猶や遅とおぼしけん、御琵琶を閣せ給つゝ、御心を
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澄させ給けり。源氏の宇治巻に、優婆塞宮の御女(おんむすめ)、秋の名残(なごり)をしたひかね、明日を待出でて、琵琶を調べて、通夜心をすまさせ給しに、雲かくれたる月影の、やがて程なく出けるを、猶堪ずや覚しけん、撥にてまねかせ給けん、其夜の月の面影も、今こそ被(二)思知(一)けれ。大将参て大床に候はれけり。大宮(おほみや)は琵琶を引さして、撥にて其へと仰けり。其御有様(おんありさま)あたりを払て見え給。互に昔今の御物語(おんものがたり)あり。大将は福原(有朋上P569)の都の住うき事語申て被(レ)泣ければ、宮は平京の荒行事仰出して、共に御涙(おんなみだ)に咽ばせ給けり。角て夜もいたく深ければ、后宮は御琵琶を掻寄させ給(たまひ)て、秋風楽をひかせ給ふ。侍従は琴を弾けり。大将は腰より笛を取出、平調に音取つゝ、遥かに是を吹給。其後故郷の荒行悲さを、今様に造りて歌給ふ。
  古き都を来て見れば、浅茅が原とぞ成にける、月の光はくまなくて、秋風のみぞ身には入 K102 
と、三返歌ひ給ければ、宮を始進せて、御所中(ごしよぢゆう)に候給ける女房達(にようばうたち)、折から哀に覚て、皆袖をぞ絞ける。
S1707 待宵侍従附優蔵人事
抑待宵小侍従といふは、元は阿波の局とて、高倉院(たかくらのゐん)の御位の時、御宮仕ひして候ひけり。世にも貧き女房にて、夏冬の衣更も便を失ふ貧人なり。さすが内の御宮仕なれば、余幽なる事の悲さに、広隆寺の薬師(やくし)に参りて七箇日参篭して、祈申けれども、指たる験なし。先の世の報をば知らず、今の吾身を恨つゝ、世を捨て尼にもならばやと思て、仏の御名残(おんなごり)(有朋上P570)を惜み、今一夜通夜しつゝ、一首の歌をぞ読たりける。
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  南無薬師(なむやくし)憐給へ世中に有わづらふも病ならずや K103 
と詠じつゝ、打まどろみたりけるに、御帳の中より、白き衣を賜ふと夢に見て、末憑しく思つゝ、又内へ参て世にほのめきける程に、八幡の別当幸清法印に被(レ)思て、引替はなやかにありければ、君の御気色(おんきしよく)も人に勝たりけるに、高倉帝御悩(ごなう)まし/\けるが、慰御事の無りける徒然に、阿波の歌だに読たらば、貢御は進せなんと御あやにくあり。時もかはさず、
  君が代に二万(にま)の里人数そひて今も備る貢物かな K104 
と読たりけり。二万(にま)の里人とは、昔皇極天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)、新羅の西戎、吾国を叛て、日本打取んと云聞えあり。天皇(てんわう)女帝の御身として、自新羅へ向給けるに、備中の国下津井郡に付、兵を被(レ)召けるに、一郷より二万騎の軍兵参たり。其よりして彼郷をば、二万郷と名付たり。されば彼二万(にま)の郷の人数に准て、君の御命の久かるべき事を読たりければ、目出く申たりとて、何しか貢物も進、御悩(ごなう)もなほらせ給たりければ、勧賞に侍従に被(レ)成たり。君の御糸惜も人に越、情深く、形厳かりければ、卿上(けいしやう)雲客(うんかく)心を通さぬは無りけり。(有朋上P571)其中に徳大寺(とくだいじの)実定は、殊に類なき事におぼされて、折々の御志世に有難ぞ聞ける。是も広隆寺の薬師(やくし)如来(によらい)の御利生と深憑をかけけるが、仏恵君の御糸惜、然べき事と云ながら、二首の歌にぞ報ける。
 < 或説に曰く、八幡の検校竹中法印光清の女也。母は建春門院(けんしゆんもんゐん)の小大進の局が腹に儲けたりと云云。>
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大将は良久、宮の御前に候て、こし方行末の御物語(おんものがたり)し給(たまひ)て、夜ふくる儘に侍従が局に立入給(たまひ)て、住憂新都の旅の空にあくがれて、心ならずかれ/゛\に成草の便を悲給へば、侍従は、又故郷に残留たれ共、言問人も絶果ぬ。友なき宿に独居て、明しくらす悲さは、上陽宮の徒然、角やと互に語つゝ、共に涙を流しけり。希に会夜の嬉しさに、秋の夜なれど長からず、寝ぬに明ぬと云置し、夏にもかはらぬ心地して、まだ眤言もつきなくに、明ぬと告る鳥の音、恨兼てやおはしけん。
 < 待宵の侍従と申ける事は、此徳大寺(とくだいじの)左大将忍て通給けり。衣々に成暁、又来ん夜をぞ契給ける。侍従は大将のこんとたのめし兼言を、其夜ははる/゛\待居たり。さらぬだに深行空の独寝は、まどろむ事もなき物を、たのめし人を待わびて、深行鐘の音を聞、いとど心の尽ければ、
  待宵の深行くかねの声聞ばあかぬ別の鳥は物かは K105 (有朋上P572)
と読たりければ、誠に堪ずもよみたりとて、待宵とは被(レ)呼けり。大将は通夜御物語(おんものがたり)ありて、あかぬ別の衣々を引分帰給ける。明方の空、何となく物哀なりけるに、侍従も共に起居つゝ、殊更今朝の御名残(おんなごり)、慕かねたる気色にて、遥(はるか)に見送り奉り、泣しをれて見えければ、大将も帰る朝の習とて、振捨難き名残(なごり)の面影身にそふ心地して、為方なくぞおぼされける。御伴なりける蔵人を召て、侍従が今朝の名残(なごり)何よりも忘難く覚るに、立帰て何とも云て参と宣(のたまひ)ければ、蔵人優々敷大事かなと思へ共、時を移すべきならねば、軈走帰て見ければ、侍従なほ元の所に立やすらひて、又寝の床にも入ざりけり。蔵人取敢ぬ事なれば、何と云べしとも覚ざりけるに、明行空の鳥の音も、折から身に入て聞えければ、其前に跪袖掻合て、
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  物かはと君が云けん鳥のねのけさしもいかに恋しかるらん K106 
と仰せなりとて還りければ、侍従は、
  またばこそ更行く鐘もつらからめ別を告ぐる鳥のねぞうき K107 
と、蔵人帰参て角と申入ければ、大将いみじく感じて、さればこそ汝をば遣はしぬれと宣て、所領などあまた給たりけり。此蔵人は内裏の六位など経て、事に触て歌よみ優なり(有朋上P573)ければ、時の人異名に、やさ蔵人と云けるを、此歌世に披露の後は、物かはの蔵人とぞよばれける。>
S1708 源(げん)中納言(ぢゆうなごん)侍夢事
平家は都遷とて、福原へ下り給たれども、皇化の善政を打とゞめ奉り、神明の擁護にも背けるにや、月日は過行けども、世間は弥しづまらず、胸に手を置たる様に、心さわぎしてぞありける。一門の人々は、二位殿(にゐどの)を始奉、さとしも打続、夢見も様々悪かりけり。依(レ)之(これによつて)神社仏寺に祈頻也。源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼卿の侍夢に見ける事は、いづことは慥に其所をば知らず、大内の神祇官(じんぎくわん)かと覚しき所に、衣冠たゞしき人のゆゝしく気高きがあまた並居たりける。座上の人の赤衣の官人を召て仰けるは、下野守源(みなもとの)義朝(よしとも)に被(二)預置(一)御剣、いささか朝家に背く心ありしかば、召返して清盛(きよもり)法師に被(二)預給(一)たれ共、朝廷を忽緒し、天命を悩乱す、滅亡の期既至れり、子孫相続事難、彼御剣を召返なり、汝行て剣を取て、故義朝(よしとも)が子息前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)頼朝(よりとも)に預置べしと有ければ、官人仰に随て、赤衣に矢負て、滋籐弓脇に挟み、御前を罷立けるが、無(レ)程錦の袋に裹たる太刀を持参て、座上へ進上する(有朋上P574)処に、中座の程に
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有ける上揩フ、頼朝(よりとも)一期の後は、吾子孫にたび候へと被(レ)申けるに、紅の袴著たる女房の、世にも厳くおはしけるが、縁の際三尺ばかり虚空に立て被(レ)申けるは、清盛(きよもり)入道深く吾を憑て、毎日不退の大般若経を転読し侍に、御剣暫入道に預置せ給へと申。座上の次二番目に居給たる上掾Aゆゝしくしかり音にて、入道いかに汝を憑とても、朝威を背に依て、議定既(すで)に畢、謀臣の方人所望希恠也、そ頸突と仰ければ、赤衣の官人つと寄て、彼女房を情もなく門外に突出す。穴おそろしと思ながら、夢の中にそばなる人に問て云、座上の人は誰人ぞ。あれこれ天津国の御主伊勢天照太神(てんせうだいじん)よ。さて吾子孫にたべと仰らるゝは誰ぞ。天津児屋根尊春日大明神(かすがだいみやうじん)よ。大二番目のそ頸突と仰られつるは誰。鬼門の峯の守護神、日吉山王よ。赤衣官人は誰。西坂本の赤山大明神(だいみやうじん)よ。紅袴の女房は誰そ。安芸国の厳島の明神よと答と見て覚ぬ。遍身(へんしん)汗水に流れて、さめたれ共、猶夢の心地也。恐ろしなどは云ばかりなし。明旦に急主の源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼の許に行て、此事を語申ければ、中納言我外に又人にや語たると問給へば、汗水に成て驚て侍つれば、妻にて候女が、何事ぞ、物におそはれたるかと申つる間、其計には語て候。中納言、さるにては此事一定披露すべし、さらば汝事に合なん、妻子相具して且く忍べと宣(のたまひ)ければ、(有朋上P575)資財取納て深隠忍にけり。隠々とせしか共、ばつと世間に披露有。入道此事聞大に■り、大方入道が事といへば、上も下も目に立口を調へて、加様の事云沙汰する条こそ奇怪なれとて、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆に仰て、其男搦進よ、雅頼卿に相尋よと嗔給へり。行隆行向て件の男を相尋ぬるに、逐電して人なし。
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家内追捕して主の雅頼に相尋ければ、其事努々承及ず、彼夢見て侍らん奴に付て、御尋(おんたづね)有べきとぞ被(レ)申ける。朝敵誅罰の大将軍には、節刀と云御剣を給習也。太政(だいじやう)入道(にふだう)日比(ひごろ)は四夷を退けし大将軍なりしか共、今は勅宣(ちよくせん)を背に依て、神明節刀を被(二)召返(一)けり。
高野の宰相入道成頼此夢の事聞給(たまひ)て、座上の人を天照太神(てんせうだいじん)と申けるは左も有けれ、紅袴著たる女房を、厳島大明神(だいみやうじん)と申も左も有べし。彼明神は沙竭羅竜王(りゆうわう)の娘を勧請して崇奉、春日大明神(かすがだいみやうじん)とて我子孫に預給へと被(レ)仰けるは不審也。そも又末の代に源平共に絶果て、一の人の御中に、将軍の宣旨を蒙つて天下を治給べきにもや有らんと宣(のたま)ひけるが、げにも源氏三代将軍の後、知足院の入道殿(にふだうどの)の御子に、太政大臣(だいじやうだいじん)忠通公、三代の孫、道家公をば光明峯寺殿と申、其末の御子に、寅の歳寅の日寅の時に生給(たま)ひたりければ、三寅御前と申、歳九にて関東へ下て世を治め給けり。入道将軍とは是事也。雅頼卿の侍の夢も、成頼入道の物語(ものがたり)も違はざりけり。成頼は花洛を(有朋上576)捨て、深山(しんざん)に籠し後は、偏(ひとへ)に往生極楽の営の外は、世の事に汚べきには無れども、元より心潔人にて、善政を聞ては悦、悪事を聞ては歎給ければ、世の成行んずる有様(ありさま)を、兼て宣(のたま)ひけるにこそ。
 < 或本云、厳島大明神(だいみやうじん)は、門客人を御使にて、白浄衣を著て参り給(たまひ)て、御剣暫入道に預給へと被(レ)申と、云云。>
S1709 大場早馬事
治承四年九月二日、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)、大場三郎景親、東国より早馬をたつ。福原新都に著きて上下ひしめきけり。何事ぞと聞ば、伊豆国(いづのくに)の流人、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)、一院の院宣、高倉宮(たかくらのみや)の令旨在と称し
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て、同国目代(もくだい)平家の侍和泉(いづみの)判官平兼隆が、八牧の館に押寄て、兼隆並家人等(けにんら)夜討にして、館に火を懸て焼払(やきはら)ふ。同廿日北条四郎時政が一類を引率して相模の土肥へ打越えて、土肥、土屋、岡崎を招、三百(さんびやく)余騎(よき)の兵を相具して、石橋と云所に引籠。景親武蔵相模に平家に志ある輩を催集めて、三千(さんぜん)余騎(よき)にて同廿三日に石橋城に押寄、源氏禦戦といへ共、大勢に打落されて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)杉山に逃籠て、不(レ)知(二)行方(一)、同廿四日相模国(さがみのくに)由井小坪にて、平家の御方に、武蔵国住人(ぢゆうにん)、畠山庄司重能が子息、次郎(有朋上P577)重忠五百(ごひやく)余騎(よき)にて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の方人、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)、三浦大介義明が子共、三百(さんびやく)余騎(よき)、責戦といへども、重忠三浦に戦負て、武蔵国へ引退。同廿六日に、武蔵国住人(ぢゆうにん)、江戸太郎重長、河越小太郎重頼を大将として、党には金子、村山、山口、篠党、児玉、横山野与党、綴喜等〔を〕始として二千(にせん)余騎(よき)、相模の三浦城を責。三浦の一族絹笠の城(じやう)に籠て、一日一夜戦て、矢種尽て船に乗、安房国へ渡畢。又国々の兵共(つはものども)、内々は源氏に心を通すと承る、御用心あるべしとぞ申たる。平家の一門此事を聞、こはいかにと騒あへり。若者どもは興ある事に思て、あはれ討手に向られよかしなど云けるぞ哀なる。畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟二人は、折節(をりふし)平家奉公して候けるが、申けるは、北条四郎時政は親く成て侍ば、実に尻前にも立候らん。其外は国々の兵共(つはものども)、誰か流人の方人して、朝敵とならんと思侍べき。只今(ただいま)聞召直させ給べしとぞ申ける。実にもと云人もあり、又いさ/\大事に及ぬと云人もあり、是彼に寄合寄合、恐し/\と私語(ささやき)けり。太政(だいじやう)入道(にふだう)安からず被(レ)思て宣(のたまひ)けるは、東国の奴原と云は、六条(ろくでうの)
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判官(はんぐわん)入道為義(ためよし)が一門、頼朝(よりとも)に不(二)相離(一)侍共と云も、皆彼が随へ仕し家人也き。昔の好争か可(レ)忘。其に頼朝(よりとも)を東国へ流し遣しけるは、はや八箇国の家人に、頼朝(よりとも)を守護して入道が一門を亡せと云にありけり。喩ば盗に鑰を(有朋上P578)預、千里の野に虎を放ちたるが如し。いかゞすべき、入道大に失錯してけりとて、座にもたまらず躍上踊上し給けれ共、後悔今は叶はず、良案じて宣(のたまひ)ける。但頼朝(よりとも)は入道が恩をば争か忘るべき。縦故池の尼公いかに宥給ふとても、入道ゆるさゞらんには、頸をば継べきや、其に重恩を顧ず、浄海が子孫に向ひ弓を引矢を放ん事、仏神よも御免あらじ、仏神免し給はずば、天の責忽(たちまち)に蒙るべし。奇しの鳥獣までも、恩をば報とこそ聞。其に還て入道が一門を亡さんとの企、不思議也。我子孫七代までは、争か怨心を挟べきと、しかり音にてくりかへしくりかへしぞ宣(のたま)ひける。
S1710 謀叛不(レ)遂(二)素懐(一)事
入道の気色に入んとて、時の才人ども申けるは、仰少も違べからず。朝憲を嘲王命を背く者、昔より今に至まで、素懐を遂る者なし。日本盤余彦尊御宇(ぎよう)、四年己未歳の春、紀伊国名草郡、高野林に土蜘蛛ありき。身短の手足長くして力人に勝たり。皇化に随はざりければ、官軍を差遣して、是を責けれ共、誅する事能はず。住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)、葛の網を結て、遂に覆殺し給へり。其より以来野心を挟みて、朝家を背し者是多し。孝徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)には、(有朋上P579)蘇我入鹿、山田石川、右大臣豊成、天智天皇(てんわう)のいまだ皇子にて御座(おはしま)しし時討ち給ふ。左大臣長屋王は、聖武天皇(てんわう)に被(レ)討給ふ。恵美大臣押勝は高野の天皇(てんわう)に被(レ)討、伊与親王は平城帝に被(レ)討、平城天皇(てんわう)は嵯峨(さがの)帝に軍に負て、御子真如親王、春宮(とうぐう)
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の位を下て、天竺へ渡とて、道にて失給にけり。承平には武蔵権守将門(まさかど)平貞盛(さだもり)に被(レ)討、康和には対馬守義親、平忠盛に被(レ)討、陸奥国住人(ぢゆうにん)安大夫安部頼良子息、厨河次郎大夫貞任、同舎弟(しやてい)富海三郎宗任は伊与入道源(みなもとの)頼義(らいぎ)に被(レ)討、同国北山の住人(ぢゆうにん)将軍三郎清原武衡は、八幡太郎(はちまんたらう)源(みなもとの)義家(よしいへ)に被(レ)討。伊予掾藤原純友は、海路往反を求し、周防伊予両国の軍に被(レ)討。是のみならず、大山王子、大石山丸、守屋大臣、大友真鳥、太宰少弐広嗣、井上皇后、氷上川継、早良太子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田、悪左府(あくさふ)、悪右衛門督(あくうゑもんのかみ)に至まで、総じて二十余人(よにん)也。是皆恩を忘徳を報ぜず、朝威を背き野心を挟し輩也。去ども一人として素懐を遂ず、悉(ことごと)く首を獄門に懸られ骸を山野にさらす。東夷、南蛮、西戎、北狄、新羅、百済、高麗、契丹に至まで、我朝を背者なし。今の世にこそ王威も無下に軽く御座(おはしま)せ共、流石(さすが)日月地に落給ふ事はなし。上代には宣旨と云ければ、枯たる草木も忽(たちまち)に花さき実の成けり。又天に翔鳥、雲に響雷も、王命をばそむかず。(有朋上P580)
S1711 栖軽取(レ)雷事
 < 第廿二代の帝雄略天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、小子部栖軽と云重臣あり。泊瀬朝倉宮に参内して、大安殿に参たり。天皇(てんわう)と后と婚家し給へる時也。折節(をりふし)電雷空に鳴。帝恥思召(おぼしめし)て、栖軽を帰されん為に、汝鳴雷を請じ奉れと仰す。臣勅を承て大内を罷出て、馬に乗て阿部の山田の道より豊浦寺に至まで、天に仰て叫て云、天鳴の雷神、天皇(てんわう)の詔勅也、落降り給へと、然も猶響て去。栖軽又馬を馳て云、縦雖(レ)為(二)雷神(一)、既(すで)に鳴(二)我朝之虚空(一)、争か可(レ)背(二)帝王之詔請(一)哉と云時に、竜王(りゆうわう)響還て、豊浦寺と飯岡の間に落たり。栖軽即神人を召て、竜神(りゆうじん)を挙げ載て大内に参じて是を奏する時、雷鱗をいからかし、目を見はりて内裏を守る、光明(くわうみやう)宮中を照す。帝是を叡覧
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有て、恐て種々の弊帛を奉て、速に落たる処に返送奉。雷岡とて今にあり。>
S1712 蔵人取(レ)鷺事
 < 延喜帝の御宇(ぎよう)、神泉苑に行幸あり。池の汀(みぎは)に鷺の居たりけるを叡覧有て、蔵人を召てあ(有朋上P581)の鷺取て参せよと仰ければ、蔵人取らんとて近付寄ければ、鷺羽つくろひして既(すで)に立んとしけるを、宣旨ぞ鷺まかりたつなと申ければ、飛去事なくして被(レ)取て、御前へ参けり。叡覧ありて仰けるは、勅に随飛去ずして参る条神妙(しんべう)也とて、御宸筆(ごしんぴつ)にて鷺羽の上に、汝鳥類の王たるべしと遊ばして、札を付て放たれければ、宣旨蒙たる鳥也とて、人手をかくる事なし。其鳥備中国に飛至て死にけり。鷺森とて今にあり。彼は婚嫁を恥て、雷神を留め、是は王威を知召さん為に鷺を召れけり。左程の事こそ有ずとも、末代とても、天孫豈逆党に犯れんや。されば頼朝(よりとも)争か本意を遂べき、帝徳私なし、神明御計あるべし、強にさわぎ思召(おぼしめす)べからずと申ければ、入道少色なほりて、さぞかしさぞかしとて、聊か心安(こころやす)くぞ御座(おはしま)しける。>
S1713 始皇(しくわう)燕丹并(ならびに)咸陽宮事
恩を忘て仇を存る者、我朝にも不(レ)限、必ず亡べり。唐国に燕太子丹と云人、秦始皇(しくわう)を傾んとて、軍を起したりけるが、燕丹は軍に負、始皇帝(しくわうてい)に捕はれて深く誡おかれ、六箇年を経にけり。燕丹は我身の事はいかゞせん、故郷に老たる親のありけるを、今一度いかゞ(有朋上P582)して見奉らんとぞ悲みける。丹始皇(しくわう)に歎申けるは、今は本国に免遣はし給へ、六箇年を過て禁獄例なし、又本国に老たる父母あり、いかばかりかは歎き悲み給らん、今一度見え奉らばやと云ければ、始皇(しくわう)欺て、烏の頭の白く成んを見て、免すべしと宣(のたまひ)けり。燕丹心憂ぞ思ける。さては恋き父母を見ずして、是にして空く亡ん事こそ悲しけれと、夜は天に仰ぎて祈明し、昼は地に伏て歎晩す、実祈誓の験の有けるにや、頭白き烏飛来つて、始皇帝(しくわうてい)
P0424
に見えたり。燕丹斜ず悦て、山烏頭白し、吾本国へ帰らんと云、始皇(しくわう)かさねて曰、馬に角生たらん時、帰すべしとて猶免ず。燕丹今は日来(ひごろ)の憑も尽はてて、為方なく思けれ共、猶理をぞ思ける。妙音菩薩は、霊山浄土(じやうど)に詣して不孝の輩を誡、孔子老子は、震旦辺州に顕れて、孝道の章を立、上梵釈四王より、下堅牢地祇に至るまで、孝養の者を憐給ふ也。願天地の神明、今一度故郷に帰て、再び父母を見せしめ給へとて、明ても暮ても涙に咽て祈けり。王祥が母、生しき魚を願しかば、氷上に魚を得、孟宗が親紫笋を求しかば、雲の中に笋を抜けり。孝は百行の源、孝は一代の勤也ければ、祈の甲斐ありて、角馬庭上にいなゝきけり。始皇(しくわう)是を見給(たまひ)て、燕丹は天道の加護深き者也けり。白烏角馬の瑞恐ありとて、免して本国へ返遣けれ共、遺恨猶のこりて、燕国へ帰道に、(有朋上P583)せんか河と云河に、楚橋と云橋を渡せり。先に人を遣して、彼橋板を亭に操て、燕丹を河中に落入んとぞ支度したりける。燕丹をば夜ぞ此橋を渡しける。兼て不(レ)知ける事なれば、燕丹即ちふかき河に落ちにけり。既(すで)に沈むかと思ふほどに、亀多く集つて、甲をならべて助け渡す、〈 一説に、二竜来て橋のすのこの如く載て渡すと云云 〉。天道の御計と云ながら、不思議なりける事也。彼亀と云は、人の殺さんとしけるを、丹が父買て放ちたりける水畜也、父が放生の恩を忘ず、子の燕丹に報けり。太子本国に返ぬ。父母親類来悦て白烏角馬の瑞を聞、母悦頭の白烏に報んと思へ共、行方を知ざりければ、責ての事にや、黒烏を集て養ければ、白烏自ら出来たりけり。燕丹はのがれ難き罪科をのがれ、本国に被(レ)還て、再父母を見ければ、深
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始皇(しくわう)の恩を報ぜんとこそ思べきに、其情を忘て、秦国を亡さんと巧む心切にして、荊軻大臣召て被(二)仰含(一)ければ、大臣申て云、太子の被(レ)免給へる事全く始皇(しくわう)の恩に非ず、孝養報恩の御志深ければ、天神地祇の御助也。天地の守護を案ずるに、君は末たのもしき御事也。謀を廻して早く始皇帝(しくわうてい)を亡し給へと云ければ、然べきとて是非を忘、重恩を背て異計をぞ廻しける。燕丹本国に被(レ)返たる悦とて、燕国差図、国々の券契相具して、始皇(しくわう)に寄附の解文を注して、差図の箱に入て、一尺(有朋上P584)八寸の仙必の剣と云者を隠入たり。又金を以■嶺(そうれい)の形を鋳移して、是を持しめたり。荊軻大臣使節にて、秦国に向。田光先生と云者あり。古き兵にて謀賢き者と聞えければ、燕丹彼を請じて相語ふ。先生申けるは、武勇の名に依て、命を蒙むること、実に道の秀たる身を悦といへ共、年老齢傾きて、今は旗を靡かし戈を突に力なし。喩ば麒麟と云馬は、千里を一馳に飛ども、老衰ぬれば駑馬にも猶劣るが如。我若く盛なりし時は、誠に陣を破て敵を落す事世に並なかりしか共、老衰習こそ憑む甲斐なき事なれと申せば、燕丹さらば穴賢、本意を不(レ)遂さきに、披露すなと宣へば、先生是程の大事人に被(レ)憑て、争か口外すべき、我世にながらへて、若人の口より披露あらば、先生口脆して、漏らしたりと疑れん事、老後の恥なるべし、又老衰也と対捍を申せば、命を惜むに似たり、不(レ)如太子の御前にて命を捨んにはとて、生年七十一にして、庭上の李の木に頭を当て打砕てぞ失にける。又樊於期と云者あり。元は秦国の者也けるが、老たる父母を始皇帝(しくわうてい)に被(レ)亡たり。其故は、我国に老人をば置べからず、年老力衰へては、国の用
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に立べからず、徒に国の財を費す事無益也とて、老人を失ひける内に、樊於期が父母をも殺したりければ、口惜く思て始皇(しくわう)を亡さんとの志ありければ、其色外に顕れて、親類兄弟悉(ことごと)く失はれける間(有朋上P585)に、一人漏出て燕国に逃籠たりけるが、猶も謀叛の思深かりけれ共、可(二)相従(一)兵もなし。徒に歎を積て、明し暗しける程に、始皇(しくわう)も宿意深き敵也とて、四海に宣旨を下して、樊於期が首取て進たらん者には、五百斤の金を可(レ)与とぞ披露しける。斯ければ荊軻大臣、樊於期に語らひより、汝が頸は五百斤の金に報したる頸也。汝が頸を我に借与給へ。始皇帝(しくわうてい)に進て、則始皇(しくわう)を亡さんと云、樊於期大に悦で、肱を挑躍上て申けるは、我父母兄弟悉(ことごと)く被(レ)亡て、昼夜に是を歎事、骨髄に通て難(レ)忍、始皇(しくわう)を亡さんに於ては、我首塵芥よりも猶軽し、始皇(しくわう)又吾首を得に於ては、謀討ん事いと安かるべしとて、自ら頭を掻下して大臣に与へてけり。又越呂と云者あり。管絃を愛して笛を好み吹けるが、上手にてぞ在ける。是も心武き兵也。同語ひ具して、秦国へ越けるに、昆明池と云池の辺に、一夜宿したりけるが、心を澄して通夜笛を吹て、旅のつれ/゛\を慰みけるに、調子の平調にのみなりければ、こは不思議の事かな、さのみ調子の平調になるあやしさよ、宮商角徴羽の五音を以て、木火土金水の五行に宛るに、平調は金の声也、始皇(しくわう)は又金性也、時節秋の最中也、秋は又金也、吾身木性也、金尅木とて、木は金に被(レ)損事なれば、今度始皇(しくわう)を亡さん事難(レ)叶、いざ還らんと云けるに、荊軻大臣宣ふ様、始皇帝(しくわうてい)の朝敵、樊於期(有朋上P586)が首あり、是を後日までたばひ置に由なし、今度亡さでは、何をか期すべき
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とて、越呂が言を不(レ)用ければ、越呂が云、相従て行たり共、不(レ)亡して還て亡されん事は詮なし、行じといへば、命を惜むに似たり、後に思合せよとて、昆明池に身を投て失にけり。荊軻秦舞陽是を聞見れども、進心は甚しうして、退思はなし。秦舞陽に樊於期が借処の首を持せて、荊軻は秦国へ行けり。此秦舞陽も秦国の者也けり。生年十三にして父の敵を討て、燕国に逃たりければ、皇帝常にねめけれ共、燕国に仕て右大臣までに成たりけり。始皇(しくわう)を亡さん事を悦て、同相伴ひけり。年経ぬれば、始皇(しくわう)も争か秦舞陽をば見知給ふべきなれば同意す。宿意深き敵の首を進せんに、なじかは始皇(しくわう)も打とけ給はざらん、打とけ近付者ならば、などか滅さゞらんとて、既(すで)に秦国へぞ行向ける。燕太子命を始皇(しくわうに)被(レ)助て、其悦に樊於期が頸を伺ひ取て、秦国に参と聞えければ、貴賤上下巷々に来集つて是を見。官兵馳参て四方の陣を固たり。抑咸陽宮と申は、秦始皇(しくわう)の大内也。城の廻一万八千三百八十四里(いちまんぱつせんさんびやくはちじふより)、北には広さ三百里、めぐり九千里の鉄の築地を高つきたれば、雁の来り帰る事も叶ざりければ、築地の中に雁門とて穴を開たり。彼咸陽宮の中に、阿房殿を被(レ)建てぞ住給ける。始皇(しくわう)は雷に怖給ければ、雷より上に栖んとて、阿房の殿をば被(レ)造たり。東(有朋上P587)西へ九町、南北へ五町、高さ三十六丈也。大床の下には、五丈の幢を立並べたり。庭には金の砂瑠璃の砂、各十万石を蒔、真珠の沙百石を彩しけり。金を以て日を造、銀を以て月をかたどれり、始皇(しくわう)かゝる目出内裏を造てぞ住給ける。燕国の使荊軻大臣先に進参、秦舞陽は樊於期が首を鋒に貫いて、つゞきて参。咸陽宮の阿房殿の玉の階を昇りけるが、秦舞陽
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違勅の心進つゝ、悪事や色に顕けん、膝振て、昇り煩へり。内裏警固の兵等、是を見とがめて、暫押へて不審を問。いかゞ答んと思煩へる処に、荊軻大臣立還、翫(二)其磧礫(一)不(レ)窺(二)玉淵(一)者、未(レ)知(二)驪竜之所(一)(レ)蟠也、習(二)其弊邑(一)不(レ)視(二)上邦(一)者、未(レ)知(二)英雄之所(一)(レ)躔也と云事あり。心に壌を翫び、玉になれざる者は、竜神(りゆうじん)の蟠り臥たる海の底をば知ざるが如に、賎き草の庵に住て、花都を不(レ)見者は、万乗の主の宿れる処をば不(レ)知也。理や秦舞陽、垣葺の小屋に住なれて、始て都に昇りつゝ、影を浮る銀の壁、眼かゞやく金の鐺蹈も、習ぬ玉の階、心迷のするかに、足の振も道理也とぞ陣じたる。官兵誠に謂ありとて是を許す。二人の臣下遥(はるか)に阿房殿に進上て、樊於期が首を進覧と奏す、臣下仰を承て、上覧の由申ければ、荊軻重て奏して云、燕国辺土と申せ共、我等(われら)彼国の臣下たり、就(レ)中(なかんづく)宣旨を四海に下して、五百斤の金に報ずる、朝敵の首をば、軽伝に不(レ)可(有朋上P588)(レ)進、直に進覧せん、何の恐れか有べきと申たりければ、誠に日来(ひごろ)へたる朝敵也、申処其謂有とて、始皇(しくわう)自出給(たま)ひ、玉体荊軻に近付けり。樊於期が首を燕の太子に借奉て、始皇(しくわう)を亡し宿意を遂んと計けるも、少も違はざりけり。始皇(しくわう)件の頭を見給(たまひ)て、大に感じ給けり。荊軻燕国の差図、并券契入たる箱を開て叡覧に達せんとする処に、箱の中に秋の霜冬の氷の如くなる剣あり。始皇(しくわう)大に驚給(たまひ)て、座を立んとし給けるに、荊軻大臣左の手にて御衣の袖をひかへ、右の手にて剣を執、始皇(しくわう)の胸に差当て云、燕太子六箇年まで禁置れて、適本国に帰といへ共、是皇帝の情に非ず、併がら天道の御助也、其鬱を散ぜんが為に臣等(しんら)参ぜりとて、既(すで)に
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剣を振んとしけるに、始皇(しくわう)涙を流して宣(のたまひ)けるは、吾諸侯を随へ、四夷を靡して、武王が中の大武王也。然而天命限ありて、今遁難き身也。但此世に思置好み残れり。九重の中に千人(せんにん)の后あり、其中に最愛第一の皇后あり、玉拝殿の楊仁后と云、琴をいみじく弾、今一度彼琴の曲を聞ばやと宣へども、荊軻是を免し奉らず、始皇(しくわう)重て仰けるは、一寸の頸剣の下にあり、天命極て遁がたし、汝既(すで)に御衣の袖をひかへたり、我更に遁べき方を知ず、最後の所望也、何ぞ憐をかけざらんと宣へば、荊軻思けるは、吾小国の臣下として、玉体に近付奉、直に始皇帝(しくわうてい)の宣旨を蒙る、角取籠奉上は、(有朋上P589)誠に何事かは有べき、且は最後の情也と心弱ぞ相待ける。始皇(しくわう)大に悦て、南殿に七尺(しちせき)の屏風を立后を請じ奉。楊仁后御幸して七尺(しちしやく)の屏風を中に隔て、琴をぞ弾給ける。琴の曲には桓武楽とて、武き者を和ぐる曲也けり。此曲を弾給ふ時は、空を飛鳥も落、地を走る獣も留る程に、爪音やさしき上手にて御座(おはしまし)ける上に、今を限の別ぞと心を澄して弾給へば、さこそは哀に面白かりけめ。但荊軻が性は火性也、始皇帝(しくわうてい)は金性也、火尅金の理にて、火に金が被(レ)尅て、いかにも危く見え給ふ。され共后は水性也、調子を盤渉調に立。此調子は五大の中の水大なれば、水にかたどれり、金生水とて、金は水に生ずる者なれば、后と調子と二の水に、始皇(しくわう)の金が被(レ)助て、荊軻暫ゆらへたり、水尅火とて、火は水に被(レ)尅る事なれば、荊軻が火后の水消ける上に、武きを和ぐる曲を弾給へば、荊軻秦舞陽、猛心ありけれ共、管絃の道には外くして、琴の曲をも不(二)聞知(一)、只面白しとのみ聞居たり。后終に一曲をぞ奏し給ふ。七尺(しちしやく)の屏風は躍ば
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越ぬべし、一重の羅穀は引ば截つべしと、くりかえし/\引給けるに、荊軻后に被(二)相尅(一)て、琴の音に聞とれて、惘然と成て眠けり。始皇(しくわう)は琴の音を聞知給たりければ、女人だにも、折に随へば、猛心も有ぞかし、我武王が中の大武王、居ながら諸侯を従へたり。小国の小臣にあひて、忽(たちまち)に亡びん(有朋上P590)事こそ安からねと、強盛の心を起し給けるに、敵の眠るを折を得て、七尺(しちしやく)の屏風を後様にぞ越給ふ。荊軻がはと立て、仙必の剣を以て追ざまに投懸奉。皇帝剣に恐て、銅の柱の陰に立隠給へり。彼柱は口五尺なりけるを、剣柱の半切入たり。番の医師夏附旦と云者、不(二)取敢(一)(とりあへず)、鉄を消薬の袋を剣の上に打懸たりければ、柱なから計は切たれ共、用力失て、始皇(しくわう)は疵も負給はず。始皇(しくわう)立帰て、自剣を抜出て、荊軻秦舞陽を八割にこそしたりけれ。恩も忘て還て怨害の心を発しかば、天道免給はずして、白虹日を貫て不(レ)通ける天変あり。通たらば始皇(しくわう)の命も危かるべかりけるに、貫ながら通らざりければ、天変災に非ずといへり。荊軻始皇(しくわう)を不(二)討得(一)して被(レ)殺けるに、燕丹遥(はるか)に白虹の変を見て、不祥也とぞ歎ける。始皇(しくわう)すなわち李信と云兵に仰て、数千の軍を副て、燕の太子丹を責けるに、太子衍水と云所にて、空く討れにけり。〈 後漢書に見えたり。 〉始皇帝(しくわうてい)常に宣(のたま)ひけるは、燕国は秦国の未申に在、秦国は燕国丑寅に当れり、牛に羊を合するに、羊争か牛に勝べき。猿に虎を並べんに、虎豈猿に負んや。されば燕丹争か我を亡すべきと宣(のたまひ)けるが、燕太子終に始皇帝(しくわうてい)に被(レ)討ぬるこそ不便なれ。荊軻大臣秦国に向けるに、高漸離(かうぜんり)と云人有て、易水の辺に行合たり。年比浅からず申眤ぶる友達也。暫留て互に名残(なごり)
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を惜けり。荊軻が云け(有朋上P591)るは、敵に向ふ身なれば生て帰ん事難し。是や最後の見参なると語ければ、高漸離(かうぜんり)は再会の不定なる事を哀みて、筑を打てぞ慰ける。漸離(ぜんり)は天下無双の筑の上手也。筑とは琴の様なる楽器也。漸離(ぜんり)撥にて是を打しかば、聞人心を澄し目を驚す上手にて、荊軻が名残(なごり)を慕ければ、拍子に合て荊軻歌をぞうたひける。其詞に、
  風(かぜ)蕭々兮(しようしようとして)易水寒、 壮士一去不(二)復還(一) K108 
とぞ云ける。荊軻亡ぬと聞えしかば、昔の友達也と云事を憚て、高漸離(かうぜんり)は貌を窶し、姓名を替て世に住居けれ共、昔より習伝たる態なれば、筑を打つて遊ける。上手の披露有ければ、始皇(しくわう)是を召て、筑を打せて、常に聞給けるに、或人云けるは、是は高漸離(かうぜんり)とて荊軻が旧友也と申たれば、始皇(しくわう)驚て、能のいみじさに命をば助て、眼に毒薬を入て、目を潰して筑を打せけり。漸離(ぜんり)安からず思て、始皇(しくわう)の御座る所を撥にて打せたりければ、膝瓦にぞ打当たる。始皇(しくわう)大に嗔つゝ、則漸離(ぜんり)を殺てけり。角はし給たりけれ共、始皇(しくわう)はうたれ給へる撥の跡瘡と成て、遂に其にて失給にけり。燕丹昔の恩を忘て、還て始皇(しくわう)を傾んと計しかば、己が身空く亡ぬ。然ば頼朝(よりとも)も平家に命を被(レ)助し者に非や、縦報謝の心こそなからめ、争か平家を背奉べき、いかに謀叛を起とも、仏天豈赦し給べしや、其上指当(有朋上P592)て、誰かは流人に同意すべき、無勢にしては又素懐遂がたし、強に驚思召(おぼしめす)べからずなんど色代申ければ、入道も左こそ存ずれとぞ宣(のたまひ)ける。
S1714 匂践夫差事
又内々私語(ささやき)けるは、恩を忘無勢なるにはよらず、只天運のしからしむるに依べき事也。其謂は、昔唐
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に越王匂践、呉王夫差とて、二人の国王御座(おはしま)しけり。互に中悪して共に傾けんとて、会稽山と云山の麓にして、度々戦ける程に、呉王は元より勢多、威すぐれたりければ、越国の軍敗れて匂践生捕れぬ。今は力なくして、降を請て歎ければ、呉王憐をたれて匂践が命を助く。臣下諌て云、敵を宥て必後に悔あり、忽(たちまち)に越王の命を断んにはしかじと申けれ共、匂賤は木を樵水を汲まではなけれ共、二心なく仕ければ、臣下の諌をも聞ざりけり。呉王病しける時、医師を請て是を見す。医師云、尿を人に呑せて、其味を以て、命の存亡を知んと申せども、宮中の男女共に、呉王の尿を呑んと云者なし。匂践、進出て云、吾君の為に命を被(レ)助て、其恩尤深し、尿を呑で報奉らんと申て、即是を呑。味たがはざりければ、呉王の病愈にけり。呉王後に越王の志を悦て、本国に返し遣す、匂践(有朋上P593)角仕へける事は、再旧里に帰て、呉王を亡して本意を遂んとの計也。匂践赦されて、本国に帰ける路に、蛙の水より出て躍ければ、馬より下て是を敬ふ。奢れる者を賞ずる心なるべし。其後数万の軍を起して、終に呉王夫差を亡しけり。さてこそ会稽の恥をば雪けれ。其よりしてぞ、恥みるをば会稽とも申ける。
S1715 光武天武即位事
後漢光武皇帝は、漢王莽に被(レ)責て、曲陽に落しには、僅(わづか)に二十八騎なりしか共、後に世を取て天下を治給けり。我朝には天武天皇(てんわう)、大友皇子におそはれて、吉野の奥に落させ給けるには纔(わづか)に十七騎、是も位に即給。去ば運の然らしむるに有るべき事也と云ければ、平家の一門は、いかゞはすべき。天下の煩人民の歎、ほのめきけり、毒虫の種子をば、忽(たちまち)に失べきにて有けるをと、上下怖あへりけり。(有朋上P594)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十八

P0433(有朋上P595)
曾巻 第十八
S1801 文学頼朝(よりとも)勧(二)進謀叛(一)事
前(さきの)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、去永暦元年依(二)義朝(よしとも)縁坐(一)、伊豆国(いづのくに)へ被(二)流罪(一)たりけるが、武蔵相模伊豆駿河の武士共、多は父祖重恩の輩也。其好忽忘べきならねば、当時平家の恩顧の者の外は、頼朝(よりとも)に心を通はして、軍を発さば命を捨べき由、示者其数ありけり。頼朝(よりとも)又心に深思萌事也ければ、世の有様(ありさま)をうかゞひて、年月を送りけるこそ怖しけれ。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)伊東入道祐親法師は、重代家人也けれ共、平家重恩の者にて、当国には其(その)勢(いきほひ)人に勝たり。娘四人あり、一人は相模(さがみ)の住人(ぢゆうにん)、三浦介義明が男義連に相具したり。一人は同国の住人(ぢゆうにん)、土肥次郎真平男遠平に相具したり。第三の女未男も無りければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)忍て通ける程に、男子一人出来にけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殊悦て寵愛す。字をば千鶴とぞ申ける。三歳と申ける年の春、少き者共あまた引具して、乳母(めのと)に被(レ)懐て、前栽の花を折て遊けるを、祐親法師大番はてて国に下たりける折節(をりふし)見付(みつけ)て、此稚き者は誰人ぞと尋けれ共、乳母(めのと)答る(有朋上P596)事なくして逃去にけり。入道内に入て妻女に問ければ、あれこそ京上し給(たま)ひたりし隙に、いつき娘のやむごとなき殿して設たる少人よと云ければ、入道嗔て誰人ぞと責問。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)とぞ答ける。祐親申けるは、商人修行者などを男にしたらんは、中々さても有なん、源氏の流人聟に取て、平家の御咎めあらん折は、いかゞは申べきとて、
P0434
雑色三人、郎等二人に仰付けて、彼少子を呼出して、伊豆のまつかはの奥、白滝の底にふしづけにせよと云ければ、三つになる少心にも、事がら懶や覚しけん、泣悶て逃去としけるを、取留て郎等に与けるこそうたてけれ。みめ事がら清らかに、流石(さすが)物に紛ふべくも見えざりければ、雑色郎等共(らうどうども)、何にとして殺べしとも覚えず、悲しかりけれ共、強いなまば思ふ処有かとて、頸を切れん事疑なければとて、泣々(なくなく)懐取て彼所に具し行て、ふしづけにしてけるこそ悲けれ。娘をば呼取て、当国住人(ぢゆうにん)江間小次郎(こじらう)をぞ聟に取てける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)此事ども聞給、嗔る心も猛く、歎く心も深して、祐親法師を討んと思心、千度百度進けれ共、大事を心に懸て、其事を不(レ)成して、今私のあだを報いんとて、亡(レ)身失(レ)命事愚也、大きなる志有者は、忘(二)小怨(一)思宥てぞ過されける。入道が子息、伊東九郎祐兼窃に兵衛佐(ひやうゑのすけ)に申けるは、父入道老狂の余り、便なき事をのみ振舞し上、猶も悪行を企んと仕、心の及(有朋上P597)処制止仕れども、若思の外の事もこそ出き侍れ、立忍ばせ給へと申ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)は嬉くも申たり、是年来の芳心也、入道に被(二)思懸(一)ては、いづくへか可(レ)遁、身に誤なければ、自害をすべきにも非、只命に任てこそはあらめとぞ答ける。野三刑部盛綱、藤九郎盛長なんどに仰含けるは、頼朝(よりとも)一人遁出んと思也、是にて祐親法師に故なく命を失はれん事、云甲斐なし、汝等(なんぢら)角てあらば、頼朝(よりとも)なしと人知べからずとて、大鹿毛と云馬に乗り、鬼武と云舎人計を具して、夜半にぞ遁出ける。道すがらも南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、義家(よしいへの)朝臣が由緒を忽(たちまち)に捨給はずば、征夷将軍に至つて、朝家を守可
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(レ)奉(レ)崇(二)神祇(一)、夫猶不(レ)可(レ)叶は、伊豆一国が主として、祐親法師を召捕て、其怨を報侍べし。何れも宿運拙して不(レ)可(レ)預(二)神恩(一)は、本地は弥陀如来(みだによらい)に御座、速に命を召て、後世を助給へとぞ祈誓し申ける。盛綱盛長は兵衛佐(ひやうゑのすけ)遁出て後は、一筋に敵の打入んずるを相待て、名を留る程の戦此時に在と思ける程に、夜も漸明にければ各出去にけり。其後北条四郎時政を相憑て過給ける程に、又彼が娘に偸に嫁てけり。北条四郎京より下ける道にて、此事を聞きて、大に驚、同道して下りける、前検非違使(けんびゐし)兼隆をぞ聟に取るべき由契約してける。国に下り著ければ、不(レ)知体にもてなして、彼娘を取て兼隆が許へぞ遣ける。去共件の娘、兵衛佐(ひやうゑのすけ)(有朋上P598)に志殊に深かりければ、白地に立出る様にて、足に任ていづくを指ともなく、兼隆が宿所を逃出にけり。良程ふれども見ざりければ、怪みをなして尋求ども、向後も知らず成にけり。彼女は終夜(よもすがら)伊豆山へ尋行て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許に籠りにけり。時政兼隆此由を聞てければ、各憤を成けれ共、彼山は大衆多き所にて、武威にも不(レ)恐ければ、左右なく押入て奪取にも不(レ)能してぞ過行ける。懐島の平権頭景義此事を聞て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許に馳行て、給仕用心しけり。或夜の夢に藤九郎盛長見けるは、兵衛佐(ひやうゑのすけ)足柄の矢倉岳に尻を懸て、左の足には外の浜を蹈、右の足にては鬼界島を踏、左右の脇より日月出て光をならぶ。伊法法師金の瓶子を懐きて進出、盛綱銀の折敷に、金の盃をすゑて進寄、盛長銚子を取て酒をうけ進れば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)三度飲と見て、夢は覚にけり。盛長此事兵衛佐(ひやうゑのすけ)に語る。景義申けるは、夢最上の吉夢也。征夷将軍として天下を治め給べし。日は主上、
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月は上皇とこそ伝奉れ。今左右の御脇より光を比給は、是国王猶将軍の勢につゝまれ、東は外浜、西は鬼界島まで帰伏し奉べし。酒は是一旦成(レ)酔を、終にさめ本心になる。近くは三月、遠くは三年に酔の御心醒て、此夢の告一として相違事は有べからずとぞ申ける。北条四郎時政は、上には世間に恐て、兼隆を聟に取といへ共、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の心の勢を見てければ、(有朋上P599)後には深憑みてけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も又、賢人にて有(レ)謀者と見てければ、大事をなさんずる事、時政ならでは其人なしと思ければ、上には恨る様にもてなして、相背く心はなかりけり。さても廿一年の春秋を送て、年比日比(ひごろ)もさてこそ過けるに、今年懸る謀叛を発しける事、後に聞えけるは、高雄の文覚が勧にぞ有ける。彼文覚は渡辺党に、遠藤左近将監盛光が一男、上西門院の北面の下摶轣B其母未子なし、夫妻共に家の絶なん事を歎て、長谷寺の観音に詣て、七箇日祈申ければ、左の袖に鳶の羽を給ると夢に見て、懐妊して儲たる子也。父は六十一母は四十三にて生たる一男也。母は難産して死ぬ。父赤子を抱て歎きける程に、事の縁ありける上、便宜の方人にもと思て、丹波国保津庄の下司、春木の二郎入道道善と云者養(レ)之けるが、三歳の時父盛光も死にけり。竪固の孤子也けれ共、血の中より手馴たれば、さすが難(レ)捨して、道善育けり。面張牛皮の童にて、心しぶとく声高にして、親の教訓をも聞ず、人の制止事をも用ず、庄内の童を催従へて、野山を走田畠を損じ、馬牛を打張、目に余たる不用仁也ければ、上下いかゞせんと持酔たり。十三に成ける年、一門に遠藤三郎、滝口遠光と云者呼寄て、元服(げんぶく)せさせて烏帽子子(えぼしご)とす。
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父盛光が盛を取、烏帽子親(えぼしおや)遠光が遠を取て、盛遠と名を付、父が跡を追て、上西門院の(有朋上P600)北面に参。遠藤武者盛遠とぞ云ける。少より時々物狂しきの気ありけり。容顔は勝ざりけれ共、大の男の力強く心甲也。武芸の道人に勝て、道心もさすが在けるとかや。常には母が難産して死にける事を云て泣、父が事を恋て悲む。生年十八歳にて、糸惜き女に後れて髪を切て遁世(とんせい)しき。金剛(こんがう)八葉の峯より始て、熊野金峯、大嶺葛城、天王寺、愛宕山、高雄、嵯峨(さが)法輪、止観院、楞厳院、比良高峯、都て日本(につぽん)一州至らぬ霊地もなく、七日二七日三七日百日籠行けり。十八歳にて出家して、一十三年の間は、或(ある)時(とき)は断食し、或(ある)時(とき)は持斎せり。春は霞に迷へども、峯に登て樒を採、夏は叢滋れども、柴の枢に香を焼、秋は紅葉に身を寄て、野分の風に袖を翻、冬は蕭索たる寒谷に、月を宿せる水を結びなんどして、山臥修行者の勤苦也。彼首陽の翁にはあらね共、蕨を折て命をのべ、原憲が枢に同して、草を綴て膚を隠せり。座禅縄床の室の内には、本尊持経の外は物なし。角て斗籔修行の後、再高雄の辺に居住して、明し暮しける程に、そばに古き寺あり、神護寺と名づく。此寺は此和気の松名が草創の伽藍(がらん)、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の彫刻の薬師(やくし)也。
S1802 孝謙帝愛(二)道鏡(一)附松名宇佐勅使事(有朋上P601)
昔孝謙天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、弓削道鏡と云僧あり。如意輪法を行ける利生にや、女帝に近づき奉事を得たり、天皇(てんわう)御自愛の余に、位を道鏡に譲らんと思召(おぼしめし)けれども、臣下不(レ)奉(レ)免(レ)之。天皇(てんわう)松名を召て被(二)仰含(一)けるは、位を道鏡に譲ぞと思召(おぼしめせ)ども、臣等(しんら)不(レ)免(レ)之、汝宇佐宮に詣して、正に叡慮を八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)に申入べし、但定て御免し有べからす、然も帰京の時は必奏すべし、位を道鏡
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に譲る事叡慮に任すべしと八幡御返事(おんへんじ)ありと披露すべき、神明御免あらば、叡念誰か背(レ)之とて、勅使を被(レ)立けり。松名宇佐宮に参著して、謹霊神に申入処に、大菩薩(だいぼさつ)の御返事(おんへんじ)に曰、豊葦原は是神国也、天孫宜(二)国政行(一)也、道鏡即位更に有べからざる事也と被(二)仰含(一)ける。松名帰洛して案じけるは、兼の勅約は有りしか共、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の仰争か背奏すべき。専神慮に奉(レ)任と思て、御位を道鏡に譲らるゝ事、努々在べからずと神勅ありと奏したりければ、天皇(てんわう)勅約背(二)叡慮(一)事を大に御憤(おんいきどほ)り有て、武者に仰て松名を高雄の深山(しんざん)に将行て、左右の■(はぎ)を被(レ)切けるに、松名大に叫ける。声に付て奇雲聳来つて、松名が上に懸る。雲の中に衣冠の俗ありて云、神は不(レ)禀(二)非礼(一)、必守(二)正直者(一)、我は是宇佐八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)也、非文の不(レ)依(レ)勅して深神命を重ず、故に我来つて汝を守と仰ければ、被(レ)切たる■(はぎ)即■(いえ)にけり。大菩薩(だいぼさつ)こゝにして、御自薬師(やくし)の霊像(有朋上P602)を刻て、松名に与給ふ。松名こゝに精舎を建立(こんりふ)して彼本尊を安す。八幡の神松名を護給し処なれば、神護寺と名たり。故に此寺は和気の氏寺也。宇佐宮は其時までは物仰せけれ共、係る御事も有ければ、今は何事も口入に及ずとて、現の御託宜は止けり。此寺星霜年積つて四百(しひやく)余歳(よさい)、草創日を重て、幾千万廻ぞ、仏閣破壊之体を見に、庭上に草繁て、狐狼の栖と荒、四面垣傾て、僧侶跡絶たり。扉は風に倒て、落葉の下に朽、瓦は雨に被(レ)侵て、仏壇更に顕也。暁の月軒の下より漏て、自眉間の光かと誤たれ、夜の嵐板間に徹して、烏瑟の髪を梳と覚たり。悲き哉仏法僧(ぶつぽふそう)と云鳥だにも不(レ)音、樵夫草女の袂(たもと)までも、露
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やおくらんと哀也。
S1803 文覚高雄勧進附仙洞管絃事
此に文覚思ひけるは、宿因多幸にして出家入道の身をえ、破壊の堂舎を修補し、無縁の道場を相訪て、二親の菩提を助、平等の済度をたれんこと、剃髪染衣の思出たるべし。但自力造営の事は、争可(レ)叶なれば、知識奉加の勧進にて、自他の利益を遍せんと思ひつゝ、十方上下の助成を申行ひきける程に、或(ある)時(とき)院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に参て、御奉加之由言上(有朋上P603)す。御遊(ぎよいう)の折節(をりふし)なるに依、奏者此由を申入れず。文覚終日相待けれ共、如何にと云事もなかりければ、御前無骨也とは、争知べきなれば、聞召入(きこしめしい)れざるにこそと心得(こころえ)て、天姓不当の物狂也ければ、是非の案内にも及ず、常の御所の御坪の方へ進参て珍からぬ管絃哉、機嫌もなき御遊(ぎよいう)哉、我貧道無縁の身たりといへ共、高雄山の神護寺を修造建立(こんりふ)して、仏法(ぶつぽふ)を住持し、王法を祈誓し、衆生を利益せんと云大願あり。況や大慈大悲の君、十善万乗の主として、などか輙く御奉加聞召入(きこしめしいれ)られず、口惜き御事にこそ、大願之意趣、御聴聞有べきとて、勧進帳をさつとひろげ、調子も知ず、大音声を放上て読(レ)之。
勧進僧文覚敬白、
 請(下)殊蒙(二)貴賤道俗助成(一)、高雄山霊地建(二)立一院(一)、令(レ)勧(中)修二世安楽大利(上)勧進状
夫以真如広大、雖(レ)断(二)生仏之仮名(一)、法性随妄之雲厚覆、自聳(二)十二因縁之峯(一)以降、本有心蓮之月光幽而、未(レ)顕(二)三毒四慢之大虚(だいきよに)(一)、悲哉仏日早没、生死流転之衢冥々兮、唯耽(レ)色耽(レ)酒、未(レ)謝(二)狂象跳猿之迷(一)、徒謗(レ)人謗(レ)法、豈免(二)■羅(えんら)獄卒之責(一)哉、爰文覚適払(二)俗塵(一)、雖
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(レ)飾(二)法衣(一)、悪業猶意逞而、造(二)于日夜(一)、善苗又逆(レ)耳而、廃(二)于朝暮(一)、痛哉再帰(二)三途之火坑(一)、重永廻(二)四生之苦輪(一)、所以牟尼之憲法千万軸、(有朋上P604)軸々明(二)仏種之因(一)、随縁至誠之法、一無(レ)不(レ)届(二)菩提之彼岸(一)、故文覚、無常観門落(レ)涙、催(二)上下親族之結縁(一)、上品蓮台運(レ)心、建(二)等妙覚王之霊場(一)也、抑高雄者、山堆而顕(二)鷲峯山之梢(一)、洞禅而鋪(二)商山洞之苔(一)、岩泉咽而曳(レ)布、嶺猿叫而遊(レ)枝、人里境遠而無(二)囂塵(一)、師蹠棲好而有(二)信心(一)、地形勝、尤可(レ)崇(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、奉加微兮、誰不(二)助成(一)乎、夙聞聚砂為仏塔之功徳、忽感(二)仏因(一)、何況於(二)一紙半銭之宝財(一)乎、願建立(こんりふ)成就(じやうじゆ)、而禁闕鳳暦御願(ごぐわん)円満、乃至都鄙遠近親疎黎民、緇素歌(二)堯舜無為之化(一)、披(二)椿葉再改之咲(一)、況聖霊幽儀前後大小、速至(二)一仏菩提之台(一)、必翫(二)三身満徳之月(一)、仍勧進修行之趣、蓋以如(レ)件。   
 治承三年三月日                 文覚敬白とぞ読たりける。
御前の管絃の座には、妙音院太政大臣(だいじやうだいじん)師長公琵琶役、此大臣は琵琶の上手にて、神慮にも相応し、無双の勝事多かりけり。欲界の天人も度々天降給へり。されば一年蒼天雲を払ひ赤日旬を渉て、天下旱魃あり。神泉苑にて請雨経の秘法を行れ、其外山々寺々の有験智徳に仰て、御祈祷(ごきたう)有けるに、無(二)其験(一)、畿内遠国忽損じ、人民百姓歎悲けるに、此師長公宣旨を蒙、日吉社大宮(おほみや)の神前にて琵琶を調べ、さま/゛\秘曲を弾じ(有朋上P605)給(たま)ひけるにこそ陰雲速に起て甚雨頻(しきり)に降けれ。図知ぬ霊神曲を感と云事を、さてこそ異名には、雨の大臣とは申けれ。按察使大納言(だいなごん)資賢は笛の役也。彼笛は紅葉と云名物なり。
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名を紅葉と云事は、資賢の先祖〔に〕、一条左大臣雅信と云人は、宇多天皇(てんわう)には御孫、敦実親王には長男也。雅信公参内の時、内裏にて奇笛を被(レ)求たり。事様世に難(レ)有笛也ければ、妙にも是を取出さず、秘蔵せられて重宝也。或夜夢想(むさう)之告あり。白髪たる老翁来て語て云、汝不(レ)知や、我は是住吉(すみよし)明神(みやうじん)也。昔紅葉の比大井川にて諸の神々と遊しに、嵐の山に風吹ば、川瀬に紅葉散下る、最面白見し程に紅葉に相交、空より霊笛の雨しをとらせ給(たまひ)て、其後御身を離さずして、名を紅葉と付て、秘蔵したりしを、内裏守護の時、結番過て還しに落したりしを、汝求(二)得之(一)たり、忽(たちまち)に我に返進せよと仰ければ、雅信申様、此笛を求得て後は家財数に非ず、是のみ重宝と存じて、子孫に相伝すべき由、深く存ずれば返進にあたはず、縦命をば被(レ)召とも、笛をば惜侍るべきと申ければ、明神重て仰けるは、さらば汝が身に一の宝あり。唐本の法華経(ほけきやう)是也、我年来所望也、笛の代に経を与へよと仰ければ、雅信卿夢の内に打案じて、笛は今生一旦の翫物、経は当来得脱の資縁也、恐くは皆成仏道の法を以て、争か逍遥戯論の財に替んなれば、笛をこそ被(レ)召候はめと(有朋上P606)被(レ)申たりければ、明神哀と思召(おぼしめし)、涙を流して、さらば汝に預と被(レ)仰と見て、夢覚にけり。後朝に左大臣述懐して云く、
  予(われ)捨(二)身命(一)(しんみやうをすて)惜(二)妙法(一)、神投(二)霊竹(一)垂(二)感涙(一) K109 とて、大臣も涙を流して悦給ける笛也。さてこそ此笛をば紅葉とは申けれ。夢想(むさう)の後は、弥宝物と思て持給たりける程に、村上帝の御宇(ぎよう)、天徳四年に内裡焼亡の時、いかゞし給たりけん、落して失ひ給にけり。是直事にあらず、住吉(すみよし)明神(みやうじん)の被(二)召返(一)ける
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にや、其道儲給たりける笛の、有し紅葉に少しも不(レ)違ければ、是をも角ぞ名たる。其子孫にて資賢の伝ける笛は、後の紅葉にぞ有し。資賢孫源少将雅賢は笙の笛の役也。笙笛をば鳳管と云。昔令公と云し鳳凰の啼音を聞て、此笛を作れり。千字文には、鳴鳳在(レ)樹白駒啄(レ)場とて、明王(みやうわう)の代には、必鳳凰来て庭前の木に栖と云事なれば、此雅資も常には参て、鳳鳴を吟じて、竜顔に奉(レ)仕、殊鳳管の上手にて、今日も被(レ)召て早参ぜり。水精の管に黄金の覆輪を置たる笛にて、黄鍾調の調子をとる。黄鍾調と申は、心の臓より出る息の響也。此臓の音は、逆に乙の音より高甲の音に上る間、脾臓の上の音に同す。順に甲の音より乙の音に下る時は、肺臓の金の音に同す、故に土の色を黄と名け、金の色を(有朋上P607)鍾と名く。当(レ)知土与(レ)金は陰陽の義にて、男女相応の儀式也。故に法皇と女院との御前なれば、円満相応の御祈(おんいのり)とて、黄鍾に調べたり。又此調子は呂の音也。名(レ)之喜悦の音とす。又五行の中には火土也、五方の中には南方也。生住異滅四相の中には、住の位也。住居とは、人の齢にあつる時は、三十以後、四十以前の比也。されば源少将も、其時は盛過て三十一也。法皇の御齢は紅葉の比に、移らせ給たりけれ共、奉(レ)祝猶夏の景気に調べたり。四位(しゐの)少納言盛定は、楼王が跡を伝て、蕭を吹給けり。閑院中将公隆は、時々和琴を掻鳴して、風俗催馬楽を歌ひ澄せり。右馬頭資時は、今様朗詠して銘(二)心腑(一)、凡面々重宝の楽器を調べて、当時秀逸の人々も心を澄して奏しければ、聖衆翻(レ)袂(たもと)、天人雲にのり給らんと面白かりければ、上下感涙を押
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て、玉の簾錦帳霊々たり。法皇も御感の余、時々は唱歌せさせ御座(おはしまし)ける。御座席也ける半計に、こき墨染の奇に、思もよらぬ大法師、調子乱るゝ大音にて、片言がちなる勧進帳を読たれば、只天魔の所為と浅増(あさまし)くて、上下万人興を醒せり。こは何事ぞ、北面の者共はなきか、急ぎそくび穿と仰なり。さなきだにも、事がな笛ふかんと思ける北面の下搴、、我も/\と走向ける中に、平判官資行、左右なく走懸りけるを、文覚勧進帳を取直して、拳も軸も一になれと把竪めて、(有朋上P608)資行が烏帽子(えぼし)打落、や胸つきて、真仰に突倒す。資行余に強く突れて度を失ひ、烏帽子(えぼし)もとらず、本どりはなちにて、阿容阿容とはひ起て、大床の上に逃上る。階下庭上、あれはいかに/\、狼藉也と、どよみにてぞ有りける。恥辱などとは云計なし。大床に立ながら暫く心を鎮て、あゝ去る夜の夢見悪かりける事は此事也とて、閑所の方へ行ぬ。昔も今も昇殿を免るゝ事は、高名にこそよる事なるに、資行は不覚を現じて、大床に上。さまでなき振舞也とぞ人咲ける。北面の者共狼藉を為(レ)鎮十人計はしりかゝる処に、文覚勧進帳をば左の手に取渡し、右の手には懐より刀を抜出。管には馬の尾を組みて巻き、一尺余なる力の、日に輝て如(レ)氷。長七尺(しちしやく)計なる法師の、而も大力にて、衣の袖に玉だすき上、眉の毛を逆になし、血眼に見て、庭上を狂廻ければ、思懸ぬ俄事ではあり、こはいかゞせんと上下騒けり。此法師の体、殿上までも狂参り気也ければ、法皇も御座を立せまし/\、公卿殿上人(てんじやうびと)も閑所に立忍給けり。宮内判官公朝が、其時は兵衛尉にて北面に候けるが、近づき寄て誘けるは、やゝ上人御房、可(二)搦捕(一)之由御気色(おんきしよく)也、
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恥見給ぬ先に被(二)罷出(一)よと云ければ、文覚罷出まじ、院中の御助成を憑進せてこそ、此大願をも思立てあれ、只空くていでん事は、大願の空くなるにて有べし、大願空成ならば、命生て無要(有朋上P609)也、同死する命ならば、大願の代に死すべし、死骸を朝廷にさらして、面目を閻魔の庁にて施す事身の幸也。造営の有無、唯法皇の御計たるべし。五畿七箇道所ひろし、などか荒郷一所給(たまひ)て、貧道破壊の伽藍(がらん)を助給はざらん。詩歌管絃は、今上一旦の遊、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)も現世片時の臣也、いつまでか伴ひ、いつまでか翫給べき。無常の風は朝にも吹、夕べにも吹、期(二)明日(一)御座(おはします)べしや、暫長夜の御眠醒奉らん為、聊妙法の音をあげて勧進帳を読侍る、全く僻事に非、浅猿(あさまし)き田父野人だにも、程々に随て、後生をば恐侍ぞかし、況万乗の国主として、聖衆の来迎を期し給はざらんや。文覚が所(レ)持刀は、人を切んとにはあらず、放逸邪見の鬼神を切、慳貧無道(ぶだう)の魔縁を払はんとなるべし、是又文覚が刀に非、大聖文殊の智恵の剣也、不動明王(ふどうみやうわう)の降伏の剣也、文覚更に悪事なし、上求菩提下化衆生の方便也、とく/\一分の慈悲をたれ給へとて、護法の付たる者の様に、躍上踊上て出ざりけり。其時信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、安藤右馬大夫右宗、武者所にて候けるが、走向て太刀のみねにて、左の肩を頸懸けて、したゝかに打たりけるに、少ひるみけるを、太刀を捨て得たりおうと懐く。文覚は右宗が小がひなを突貫、右宗乍(レ)突不(レ)放、成(レ)上成(レ)下、あちへころびこちへころびて勝負見えず。其後集寄て、かく/\栲して門より外へ引出し、(有朋上P610)平判官資行が下部に給。資行は烏帽子(えぼし)被(二)打落(一)て、面目なし。右宗は預(二)御感(一)、右馬大夫に被(レ)成けり。
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文覚は悲き目をば見たれ共、少も口はへらず、門外に引張られながら、御所の方を睨へて、天子の親とも覚ず、死生不(レ)知の事せさせ給ぬる者哉。袈裟かけ衣著たる僧の、発心修行して、造営済度せんとするを、打張そ頸突とは宣ふべしともおぼえず、斯かる悪王の代に、生合ける文覚が身の程こそ、不当の奴にては侍べれ。御座席に御座師長公は、読書し給たる賢臣とこそ承に、孝経を以て、親の頬打風情かな。貞観政要の中に、大人は赤子の心をも失はずとこそ申たれ。臣愚痴君被(レ)罰といへり。古文少も違はじものを、況文覚と云は、発菩提心の後、浄行持律の聖也、興隆仏法(ぶつぽふ)の勧進也、返々も口惜き事せさせ給へる君哉。賢王(けんわう)明徳の道は、弊民を育を以て先とす、況や剃髪染衣の僧をや。それに打擲刃傷に及条、希代の不思議也、世は已末世になり極れり、穴無慙の人共や、夢幻の栄花をのみ面白き事に思て、三途常没の猛火に■(こがれ)ん事を不(レ)知、只今(ただいま)文覚が加様にせらるゝ事は、全く身の恥に非、臣下卿相(けいしやう)を始として、己等が恥と思給べし、但後生までは遥也、遠は三年近くは三月が中に、思知せ申さんずるぞ、さり共後悔こそし給はんずらめと、御所中(ごしよぢゆう)響けと叫けり。不思議の法師の悪口かなとて、以(二)手綱(一)縛て資行が下部(有朋上P611)に預たれば、主の烏帽子(えぼし)打落し突倒たる遺恨さに、首をも斬、足手をも、もがばやと思へども、御許しなければ、事にふれて辛目をぞ見せける。左こそいはんながらに、無慙や仏法者(ぶつぽふしや)にてあるものを、袈裟衣著たる者は、清浄の上人にて有ものを、蒸物にあひて腰搦みの風情哉と哀む人も有けり。主の資行は少物に心得(こころえ)たる者にて、仇をば恩を以て報ずと云事也、さのみつらく
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当べからず、何事も前世の事ぞ、且は資行が発心の因縁、善知識と存ず、自今以後は仏道に入りて、後生を欣べしとて、髪をばそらざりけれ共、妻子を放れて閑亭の翁とぞ成にける。身は朝廷に仕へながら、心は仏道を望、烏帽子(えぼし)被(二)打落(一)往生を遂べき宿習にこそ。禍は福と云事は、加様の事にや、順縁逆縁とり/゛\也。さて文覚は右の獄に入られたりけれ共、悪口は止ず、日月地に墜給はず、三宝争か捨給べき、去共神護寺の鎮守(ちんじゆ)護法、とり/゛\に利生を現じ給へと、手を合念珠を捻ければ、獄中の者共も、身の毛竪てぞ覚ける。さればにや上西門の女院、指たる御悩(ごなう)もましまさずして、御寝なる様にて隠れさせ給にけり。上下騒て一天晩たるが如し。天子千行の涙は、春の雨よりも滋く、階下九廻の炎は劫火よりも苦。非常の大赦被(レ)行けり。文覚先獄を出。悔(二)先非(一)後慮りあり〔て〕、暫は引籠ても在べきに、尚もしひず勧進する事如(レ)元。法皇の(有朋上P612)御助成のなき事を、安からず思て、京中白川大路、門人の集りたる所にては、浅増(あさまし)くいまはしき事をのみぞ云ける。黒衣の裳短きに、黒袴脛高に著、同色の袈裟懸て、太刀を腰に横へ、指縄緒の平■(ひらあしだ)はきて、勧進帳を手ににぎり、世にも恐れず、口もへらず、知も知ぬも人に会て云けるは、こゝの闕たるは院の所為よ、頭の腫たるは法皇の所行ぞかし、蒸物に合て腰がらみとて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の御所の前を、東西南北にらみ廻りて、
S1804 文覚流罪事
 官位を高砂の松によそへて祝とも、春降雪と水泡消ん事こそ程なけれ。輪王位高けれど、七宝終に身にそはず、況下界小国の王位程こそ危ふけれ。十善帝位に誇つゝ、百官前後に随へど、冥途の旅に
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出ぬれば、造れる罪ぞ身を責る。南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)/\、いつまで/\春夏は旱、秋冬は洪水、五穀には実ならず、五畿七道(ごきしちだう)は兵乱、家門には哀声、臣下卿相(けいしやう)煩て、君憂目を見給べし。世中は唯今に打返さんずる者を、安き程の奉加をな、阿弥陀仏(あみだぶつ)/\(あみだぶつ)と高念仏申て、因果は糺縄の如、人に辛目みせ給る代は、去共/\とて上下に通ければ、及(二)天聴(一)公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)ありて、此僧を京中に置ては悪かりなんとて、伊豆国(いづのくに)(有朋上613)へ流罪の由にて、当時の国務也ければ、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)の子息、仲綱(なかつな)に被(二)仰付(一)ぬ。仲綱(なかつな)これを召渡して、薩摩兵衛省に仰て、下遣すべき支度あり。院より庁の下部二人付られたり。折節(をりふし)伊豆国住人(ぢゆうにん)、近藤四郎国澄と云ふ者、年貢運送の為に、南海道より舟に乗りて上たりけるが、下りける戻舟に乗て、慥に国に付よと言伝らる。庁の下部放免二人も下向すべきにて有けるが、文覚に語けるは、庁の下部の習、懸事に付てこそ、自酒をも一度飲事にて候へ、去ばこそ又折々に、芳心をも申事なれ、上人御房程ならぬ人だにも、人には訪をも乞事に候。申さんや御房は、貴とき人にて御座上、京白川に知人多くぞおはすらん、触廻らして国の土産道の粮物にも所望し給へかし。只官食ばかりにては慰も有まじ、且は身の計をも存、又人の心をも兼給へかしと様々教訓しけり。文覚思ひけるは、法師は上下男女勧進の僧也、左様の仏物すかしとらんとて、云にこそと思ければ、返事には、縁者知音も身が身にてある時こそ自ら芳心もあれ、入道出家の後は、諂心なければ得意取事もなし、親類骨肉にも近づく事なければ、問被(レ)問ずして十余年にも成ぬ、然べき者あるらん共覚えず、縦ありとも有
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甲斐あらじ、大方は我人に物を与ふるにこそ、得意知る人は多けれ。法師は人を勧進して人に物を乞へば、うとむ者はあれども親む者はなし。(有朋上P614)
S1805 文覚清水状天神金事
〔去(さる)程(ほど)に〕但東山にこそ後生までもと契りて、常に行眤ぶ事はなけれ共、朝夕に難(レ)忘思被(レ)思たる人はあれ、縦無間の底までも身に代ぬ人也、よに憑む甲斐在て、実の詮には叶ぬべき人ぞ、さらば実に道の土産にも大切也、殿原にも志をも申、吉酒をもめさせん、硯紙まうけ給へと云。下部悦て硯借よせ紙買儲たり。文覚紙を取向て見れば、如法雑紙也。見まゝに、奇怪なる奴原が紙の様かな、人の品をば消息(せうそく)にて知事也、吉紙を尋て進よ、これ人のために非ず、只今(ただいま)物儲て取せんずるぞとて投返す。放免ども悪き僧の詞かな、奴原とは何事ぞ、いざ咎めんと云けるを、其中に制して、暫一天の君をだにも悪口申物狂也、天狗の様なる者なれば、何ともいへ、人々敷者にいはれてこそ恥にも及べ、其上唯今物乞てえさせんと云人に、躍合て要事なしとて、上品の紙の神妙(しんべう)なるを尋出して進る。文覚申けるは、法師はよに腹悪者にて、悪口申て候けり、中直りし奉、抑我は天性筆をとらぬ者也、能書ん人を請じ給へ、件の人は目も心も辱しき人也、文様尋常なるべしと云ければ、穴煩しの御房やとは思へども、若興ある事や有と思て、其辺に走廻りて能書(有朋上P615)の人を尋ね出して来れり。文覚は手書を近呼寄て、良物語(ものがたり)りして、其後放免共に、やゝ殿原聞給へ、木に付虫は本を嚼、萱に付く虫は萱を啄と云事あり、能者を請じて能を顕すには、必酒を進、引出物をするは習ひ也、然も土産所望の文也、乞食だにも門出とて祝事ぞかし、虚口にては福楽無、先
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手書を能々翫奉べし、去ずば書給べからずと云。其時下部共定もなき事ゆゑに、をこがましとは思へども、支へては云人を請じて、さすが片腹痛さにいなとは云ず、直垂質におきて、酒肴買よせてよく/\進せ、腰刀一引出物にたぶ。手書の僧酒飲引出物懐中して後、墨磨筆染て、御文は何様にと申。文覚が申さん様に、少も違へず書給へとて、為(二)高雄神護寺修造勧進(一)、於(二)法住寺(ほふぢゆうじ)御所(一)、奏聞之処、聊蒙(二)勅勘(一)下(二)向伊豆国(いづのくに)(一)候、抑浮雲之身、雖(レ)非(レ)可(レ)惜(二)朝露之命(一)、猶以難(レ)捨候哉、為(二)旅粮(一)所(レ)奉(レ)預(二)之鵝眼百貫(ひやくくわん)■牙(しやうげ)百石(一)、付(二)使者(一)可(二)申請(一)候、恐々謹言。
  月 日
文覚、と書せて、立文たり。表書をば誰と可(レ)書候ぞと問ば、文覚打笑て、清水寺観音御房と書給へとぞ云ける。よに可(レ)笑事なれども、放免共は腹を立すべて不(レ)咲。文覚一人のみぞ手を扣て笑ける。下部共不(レ)安思て、和僧のさのみ庁の御使を可(レ)欺事やはある、奴原とてだにも不思議に思ふに、紙ぞ手書ぞ、酒よ引出物よとて、係る嗚呼(をこ)の事申条後悔し給な、思知べ(有朋上P616)しと、口々に■(ののしり)けれ共、文覚は猶奇異にをかしき事に思て、座にもたまらず笑飽て申けるは、殿原や中直りして物申て聞せん、されば観音に利生を申人は嗚呼(をこ)の事にてある歟、月詣日参、夜も昼も踵を継て参る、上下男女道俗貴賤は、皆嗚呼(をこ)の事かは。文覚をば悪口すると宣へども、己等こそ増て悪口の者よ、法師は法皇を悪口とて、伊豆国(いづのくに)へ被(レ)流、己等は観音を悪口すれば、地獄釜へ流さるべき也。抑観音の利生をば、いか程の事とか
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思。法華経(ほけきやう)八巻に、若有人受持六十二億恒河砂、菩薩名字復尽形供養、飲食衣服臥具医薬、四種功徳と、只一時也とも、観音の名号を念じて礼拝せん、功徳と正等にして、異事無と説れたり。されば大悲無窮の菩薩也。広大円満の利生也、其に己等が貪欲に住して、物ももたぬ法師に物を乞へば、物持たる観音に物乞奉りて、己等に給はれとて、消息(せうそく)やるを嗚呼(をこ)也と云は、さらばさて有かし、嗚呼(をこ)の者共とて、又念誦うちして、睨へたり。力及ぬ法師哉とて、鳥羽の南門より船を出す。事に触て情なくこそ当りけれ。其夜は渡辺に著ぬ。水手梶取も、同一所に宿けり。文覚は内にあり、梶取は縁に臥たり。遣戸一を隔たり。夜さし更て梶取が云けるは、哀此上人は勧進の用途は多く持給たるらん、勅勘の人なれば、いつか帰上給はんずらん、何とかなして枉惑し、とらんなど様々に私語(ささやき)て、其(有朋上P617)後は音もせず。文覚は悪き奴原哉と思て、暁方に念珠押揉、忍声にて南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)、高雄山の護法、天童、為(二)神護寺造営(一)勧進用途にて、金百両を買、五条(ごでうの)天神の鳥居を左の柱の根、三尺が底に埋て候。文覚上洛の程、夜の守昼の守と、令(二)守護(一)給へと祈誓しけり。梶取ども目を醒して、互に頭を振合て悦けり。明るや遅し、四五人京へ上り、夜に入りて五条(ごでうの)天神の鳥居の左の柱根を、三尺ほりたれ共、金もなし、五尺計堀たれ共なかりければ、一人が云けるは、夜の耳にてはあり、而も忍音に云つれば、右の柱を左と聞てもや有らんとて、右の柱を四五尺掘りたれども、鳥居は倒て金はなし。浅猿(あさまし)とて逃下ぬ。明日は五条(ごでう)渡、西洞院(にしのとうゐん)在地人集て、是は不思議の物恠ぞ、我は夢に見たりつる事、我は烏の此辺に集りたる事など申て、
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何様にも天神を宥奉べしとて臨時の祭し、鳥居を造り替、優々敷経営にぞ有ける。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)が依(二)下知(一)、国澄暫渡辺に逗留す。又文覚大事の召人也、よく/\守護すべきと云下たりければ、渡辺党番に結で是を守、夜は通夜寝ず、内へ外へ出入て、昼は終日に立ぬ居ぬ、湯よ水よと云て、人をも安く置ず、聊も命に背けば散々(さんざん)に悪口して、親者ももてあつかへり。云ける事は、穴無慙や、少くより不調也と見し者は、終に果して憂目を見ぞとよ、故郷には錦の袴を著て、帰とこそ云に、さまでこそな(有朋上P618)からめ、所生の所に来て親類骨肉に被(二)守護(一)、恥と思心もなく、猶不当の悪口振舞して、我等(われら)をさへ心憂目見する事口惜さよと云処に、有し梶取が進出て、惣不当の大虚言の御房也、金百両五条(ごでうの)天神の鳥居の下に埋たりと宣し時に、人にも知せず親き者ばかり、少々相連て、終夜(よもすがら)堀共々々終になし、結句は鳥居の柱掘り倒して、浅猿(あさまし)さに逃下たりと云。文覚親き者に謗られて、大に腹立しける中に、梶取めらをすかし負せたりと嬉しくて、やをれ舟流共よ、此大地の底は金輪際とて金を敷満ちたり、など其までは掘らざりけるぞ。但法師が埋たる金は北野天神の鳥居の事也、五条(ごでうの)天神には非、今一度上て掘り直せとて、ふしころびてぞ咲ける。其後一門の者共に向て、目を見はり嗔声にて云けるは、法師は若より千手経の持者にて二十八部衆番を結んで守護し給へば、友ほしと不(レ)思、己れ等に守られずば法師侘べきか、いかに守共、逃失んと思はば可(レ)安、一門の中に、斯かる貴き上人が出来て、院(ゐんの)御所(ごしよ)迄もさる者有と、被(二)知召(一)たるは、親き奴原が非(二)面目(一)乎、是こそ錦の袴著て故郷に帰たるにはあれ、其に不当也など聊も
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思申条奇恠也と云て、又散々(さんざん)に悪口しけり。角て文覚は渡辺に四五日ぞ有ける。是より舟に乗、国澄に相具して、住吉(すみよし)、住江、和歌吹上、玉津島明神を伏拝、日前黒懸をよそに見て、由良湊、田部の沖、新宮浦(有朋上P619)に船を著、熊野山を伏拝、南海道より漕廻て、遠江国名田沖にぞ浮だる。折節(をりふし)黒風俄(にはか)に吹起、波蓬莱を上ければ、こはいかゞせんと上下周章(あわて)騒けり。思々に仏を念じ、口々に祈事して泣悲みければ、水手梶取帆を引、沈石を下し、荷を刎船を直けれ共、いとゞ波風烈しくして、為方なければ、声を揚てぞ喚叫ける。去ども、文覚は舟耳を枕として、高息引かきて臥たり。梶取等文覚が傍に寄、良上人御房、いかに加程の大風に、打とけ眠り給ぞ、起て祈し給へと、起せ共/\不(レ)動。余に強く起されて、頭ばかりを持挙て、久物は不(レ)食、身は疲たり、所作すべき力なし、但痛くな騒そ、法師らがあらん限はよも苦からじ、波風の止程は、唯たれ/\も共にねよとて、又引かづきて臥。浅増(あさまし)き中にも悪まぬ人はなし。風は弥吹しぼり、船耳に浪越ければ、今は櫓を取楫を直に及ばず、舟底に倒伏て、音を揚て喚きけれ共、文覚は泣もせず、起もあがらず、ふせりながら、穴面白と声欹してぞ有ける。口々に申けるは、穴不当の僧の事様や、無慙也々々々、出家染衣の形と成なば、叶はぬまでも経をよみ念珠を捻りて、慈悲を起し祈誓すべき事ぞかし、其に我身をさへ思はずして、只今(ただいま)波の下に沈んずる者が、いかなる心なれば、起も上らず、剰穴面白など云事、不思議さよ。誠や無智も無行も、僧は国の盗と、仏の仰にて有けるぞ。あの不当(有朋上P620)の心にて、蒙(二)勅勘(一)、遠国へも下るぞかしなど申あへり。文覚
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聞て良在て這起、口説言はさて歟、あゝ云も道理也、命共が惜ければ、臥も理と思へ、悶るも理物がくさければ起ず、但余に歎くが不便なるに、波風やめて見せんとて、舟舳頭に立跨て、沖の方を睨へて、竜王(りゆうわう)や候/\、いかに海竜王共(かいりゆうわうども)はなきか、曳々とぞ呼だりける。舟中の者ども、こは如何なる事ぞや、浅猿(あさまし)や斯かる折節(をりふし)には、竜王(りゆうわう)御前どもこそかしづき申すべき、悪口申ていとゞ竜神(りゆうじん)の御腹立進なんず、中々詮なく起にけりと、悲しき中にも今少怖しさぞまさりける。去ば角な宣そと制しけれども、文覚は念珠押捻、大の声のしはがれたるを以て申けるは、海竜王神(かいりゆうわうじん)も慥に聞、此船中には、大願発たる、文覚が乗つたる也、我昔より千手経の持者として、深く観音の悲願を憑、竜神(りゆうじん)八部正しく如来(によらい)説教の砌(みぎり)にして、千手の持者を守護せんと云誓を発すに非ずや、されば文覚を守らずば、誰をか可(レ)守、吾船をば手に捧、頭に載ても行べき所へは送べし、さまでこそなからめ、浪風を発条あら奇怪や/\、忽(たちまち)に風を和げ波を静よ、と云事を聞ずば、第八(だいはち)外海の小竜めら、四大海水の八大竜王(りゆうわう)に仰付てなく成べしとて嗔りける。是を聞者どもが、いや/\此僧は、敢て物狂にて有けり、聞く共聞じ、加様の者が乗たれば、懸悪風にも合にこそとつぶやきけり。(有朋上P621)去ども文覚が云事、竜神(りゆうじん)の心にや叶ひけん、沖吹風も和て岸打浪も静也。其時にこそ舟中の者共は安堵しつゝ、穴貴々々、是程に竜王(りゆうわう)を随へ給程の上人を、忝(かたじけなく)も舌の和なる儘に、口に任て誹り申ける事の浅猿(あさまし)さよ、いかに加様の貴人をば、奉(レ)流やらんとてこそ悦びけれ。是又観音利生悲願の目出たき故也。故に法華経(ほけきやう)には、縦巨海に漂流すと云とも、観音を念ぜ
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ば、波浪に没する事なからんと云へり。文覚大悲の本誓を仰、千手の神咒を持故に、内徳外に顕て、風波の難をぞ遁れける。角て文覚云けるは、如何に殿原自今以後は知べし、勤行精進の在俗よりは、無智無行の比丘は勝たりとて、懶惰懈怠なれども、僧をば敬ふ習ぞ、法師此舟に乗ずば、誰か一人も助るべきとて、気色して、千手陀羅尼を誦しければ、其後は楫取已下の輩、手水を捧履を取、主従の礼よりも猶深して、事外にぞ敬屈しける。領送使国澄も、今こそ始て貴き人とも思知けれ。常に対面して物語(ものがたり)しける中に、国澄問云、抑当時世間に鳴渡雷をこそ、竜王(りゆうわう)と知りて侍るに、其外に又大竜王(りゆうわう)の御座様に仰候つるは、いかなる事にて侍るやらんといへば、文覚答て云、此等に鳴雷は、竜神(りゆうじん)とは云ながら■弱(わうじやく)の奴原也。あれは大竜王(りゆうわう)の辺にも寄つかず、履を取までもなき小竜めらなり、八大竜王(りゆうわう)とて、法華経(ほけきやう)の同聞衆に有(二)八竜王(りゆうわう)(一)、難陀竜王(りゆうわう)、跋難陀竜王(りゆうわう)、(有朋上P622)娑伽羅竜王(りゆうわう)、和脩吉竜王(りゆうわう)、徳叉迦竜王(りゆうわう)、阿那婆達多竜王(りゆうわう)、摩那斬竜王(りゆうわう)、優鉢羅竜王等(りゆうわうとう)、各与若干百千眷属倶と説けり。此竜王達(りゆうわうたち)は面々二百千万億の眷属を具して、蒼溟三千の波の底に、金銀七宝の宝を以、八万四千(はちまんしせん)の宮造して、億千の竜女にかしづかれて居住せり。此空に鳴行く奴原は、八大竜王(りゆうわう)の眷属の、又従者の/\、百重ばかりにも及び難き小竜也。去共夏天の暑に雲を起し雨を降して、五穀を養ふ事は目出事ぞや。たとへば諸国の人民百姓が計に、職士定使とて■弱(わうじやく)の奴原が、家園に鳴廻ば、怖恐て相構て僻事をせじ、理を失はじとて、所を治家を治むれども、実の十善の君の玉の台、日の御座に御渡あるをば、下揩ヘ知り進せぬ定也。其にさしも
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気高き八大竜王(りゆうわう)は、文覚を守護せんと云誓あり、況や小竜共が不(レ)知(二)案内(一)、危くも煩をなす時に、只今(ただいま)名乗たれば、すは海上は静りぬるはと云。国澄又問て云、左程に気高う御座(おはしまし)ける八大竜王(りゆうわう)は、いかなる志にて、文覚御坊をば守護し進んとは誓給たるやらんと。文覚答て云、いみじくも問給たり。
S1806 竜神(りゆうじん)守(二)三種心(一)事
昔釈迦如来(しやかによらい)、在世説法の時、八大竜王(りゆうわう)参りて仏に向つて申様は、仏徳尊高にして、万徳自在(有朋上P623)也、三世の知恵を極て十方世界に明也、然れども猶御心に叶はぬ御事やおはしますと申。時に仏答て云、我能万徳円満して、自在の身を得れども、心に叶ぬ事二種あり。一には娑婆に久住して、常に説法して、衆生を利益せんと思へ共、分段無常の境は、百年の内に涅槃の雲に隠なんとす、是心に任ぬ愁也。二には我涅槃の後、若善根の衆生ありと云とも、為(二)魔王(一)被(二)障碍(一)て、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)の者あるべからず、其善根の衆生を誰に誂置べき共覚ず、是又大なる歎也と宣き。于(レ)時八大竜王(りゆうわう)座を起、仏を三匝(さんさう)して威儀を調、尊顔を奉(レ)守て、三種の大願を発て云、一我願入(二)涅槃(一)後、孝養報恩の者を守護すべき、二我願仏入(二)涅槃(一)後、閑林出家の者を可(二)守護(一)、三我願仏入(二)涅槃(一)後、可(レ)守(二)護仏法(ぶつぽふ)興隆者(一)、此三の願を心に案ずれば、併がら文覚が身の上にあり。法師は加様に心急々にして、時々物狂の様なれども、母は吾を生んとて難産して死ぬ、父には三歳の時別ぬ、憑む方なき孤子なれば、幼なき子を思おきけん、父母の心の中、いかばかりの事案じけんと思へば、親を思ふ志今に不(レ)浅、妻に後れて出家入道すれども、本意は只至孝報恩の道念より起れり。八大竜王(りゆうわう)の第一の願に答て、被(二)守護(一)べき身也。閑林出家と誓
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たれば、十八歳にして、入道して、再在家に帰らず、更に人に諂事なし。猶山林流浪の行人也。第二の願に(有朋上P624)答、可(レ)被(二)守護(一)身也。況仏法(ぶつぽふ)興隆と誓たれば、文覚こそ神護寺を修理して仏法(ぶつぽふ)を興隆し、不断の行法を居て、平等の得脱を祈らんと云志深ければ、第三の願に答らんと覚。其に和殿原までも奉(レ)被(レ)悪ども、八大竜王(りゆうわう)は如何計かは憐守給らん。斯かる聖教の道理を覚たれば、小竜などは物の数共存ぜず、去ば竜王(りゆうわう)め/\とも申侍る也。さ申和殿原とても、孝養の志も深、煩しくして、而も住はつまじき世を厭ひて、入道出家し給、閑林に閉籠、仏法(ぶつぽふ)をも興隆し給はば、八大竜王(りゆうわう)に被(二)守護(一)給はん事は疑なし、必しも文覚一人を守らんと誓たるには非、相構々々殿原も親に孝養の志深うして、仏法(ぶつぽふ)に志を運給へ、今生後生の大なる幸なるべし、夢幻の世中有かとすれば更になし、徒に身を苦めて、悲く悪趣に歎ん事、心憂かるべし、さても/\法皇の邪見こそ糸惜けれ、さこそ辺土小国の主と申さんからに、僅(わづか)の助成を恨、興隆仏法(ぶつぽふ)の法師等をなくなし給らめ、糸惜さよ、八大竜王(りゆうわう)いかばかり本意なく思給らん、守護の天童も定て嗔りをこそ成給らめ、いざ/\殿原後に思合給へよ、災害は只今(ただいま)有ぬと覚ゆる者をや、大国の王は破戒なれども比丘をば敬、無実なれども勧進をば奉加す、況文覚全く妻子を養はん為に非、誑惑不善の勧に非ず、和殿原さへ相そへて、仏法(ぶつぽふ)粗略の人共にて、道理を責て申とも、文覚が口状を(有朋上P625)ば信用し給はず、能々思慮すべき事也、内徳を顕さざれば、外相に信を取らせんとて、忍て小竜等を招、風波の難を現じて見せつる也、されば如(レ)案に今は信伏して、切て継たる
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礼儀をかしく、哀に覚候、小竜一旦の騒だにも不(レ)斜(なのめならず)、まして無常決定の荒き風も吹、阿坊獄卒の稠き責の来ん時は、文覚猶以叶がたし、況各に於てをや、無上世尊も入滅し給へば、高位と貴み奉国王も遁給はず、唯造れる善根ばかりぞ身をば助べき、天竺震旦をば暫置く、我朝には皇極天皇(てんわう)閻魔の庁に跪き、延喜聖主鉄崛苦所に墜給き、彼は正法を以て国を治、慈悲を施し民を憐給しか共、たやすき咎に報い給けり。増て渡世不善法の和殿原、叶べしとも覚えず、今度文覚が悪事して伊豆国(いづのくに)へ罷るは、仏の方便を知べし、今より後は一向に文覚が依(二)教訓(一)仏道に心をかけ給へ、一樹の陰に宿けるも、前世の契と見えたり、況数日同船の眤びをや、可(レ)然善知識と思べし。仏道に心を懸と申は、内心慈悲ありて、物を憐、常に墓なき世を疎んで、仏を念じ悟りを開と思へば、仏臨終に決定して来迎し給ふ、所以に観音勢至阿弥陀如来(あみだによらい)、無数の聖主諸共に弘誓の船に棹して、生死の苦海を渡り、宝蓮台の上に、往生して菩提の彼岸に遊ばん事、誰か是を望まんやと、賢き父の愚なる子を教ふる様に、泣口説教訓したりければ、金とらんとて五条(ごでうの)天神の鳥居(有朋上P626)掘り倒したりける放免の中に、刑部丞県の明澄と云ける男は、生年三十三歳に成けるが、さしもの邪見を改て、菩提心を発、本どり切て文覚が弟子となる。即剃(レ)髪授(レ)戒、名をば文覚の文をとり明澄の明を取て、文明とぞ付たりける。其外の者共も、出家入道迄こそなけれ共、一旦仏道に帰しけり。此文覚は天狗の法成就(じやうじゆ)の人にて、法師をば男になし、男をば法師になしなどして、うつゝ心は無けれ共、ゆゝしき荒行者にて、度々鍔金顕したる者
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也。されば渡辺にて舟に乗けるよりして、大願を発しけるは、我願成就(じやうじゆ)して神護寺を修造すべくば、縦湯水を飲ず共、国につかんまで、命を全うすべし、其願空くなるべくば、今日より後七箇日の中に、天神地祇命を召とて、飲食を断。預の武士様々に誘けれ共、終に飲くはず、ほしくば己らくへ、法師は己れ等が手に懸つて、干死にして無なさんと嗔りける間、力及ず、三十一日と申に、伊豆国(いづのくに)へ下著ぬ。其間五穀を食せず、湯水を不(レ)飲けれ共、形も損せず色も衰る事なし。行法うちして歎愁たる気なし。常は笑き物語(ものがたり)して、己も咲人をも笑はしてつれ/゛\はなかりけり。又道心の始、熊野金峯行ひありきける時、那智の滝に七箇日の間打れんと云ふ、不敵の大願を発けり。比は十二月中旬の事なれば、谷のつらゝも竪閉、松吹風も膚にしむ。去ぬだに寒きに、褌計に裸也。三重(有朋上P627)白尺の滝水、糸を乱して落たぎる滝壺にはひ入て、身に任てぞ打れける。一日二日打るゝ程に、身は紅色と成て、紅蓮地獄の衆生の如し。髪鬚には垂氷さがりて、鈴を懸たるが如に、から/\と鳴けるが、流石(さすが)生しき身なれば、三日と云ける日は、息絶身すくみて、死人の如し。かたへの行者達も、由なき文覚が荒行立て、墓なく成りぬる事よとて、或憐或猜けり。已に滝の底に流入けるを、誰とは不(レ)知下もやらず、ひたと捕へて、左右の手を以て、文覚が頂より足手の爪先まで、あたゝか/\と撫て、把すると思ければ、さしも石木の如くに凍りすくみたりける身も、皆解あたゝまりて、人心地していきかへる。文覚不思議に覚て、抑法師とり助給(たま)ひつる人は誰と問。詞に付て、汝知ずや、我は是大聖不動明王(ふどうみやうわう)の御使、矜伽羅、勢多迦と
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云者也。汝不敵の願を不(レ)果して、命の終つるを、此滝けがすな文覚助よと蒙(レ)仰来れる也と答。穴貴の事や、如何なる姿ぞ、世の末の物語(ものがたり)にせんと思、立帰て見れば、十四五計なる童子の左右に丱結たるが、遥雲井を蹈上り、滝の上にぞ入給ふ。文覚思けるは、誠に明王(みやうわう)の御計ならば、今はいかに打共よも死なじ、さらば前後三七日打れんと思て、滝の水に入たりけれ共、落来水も身にしまず、滝壺も又湯の如し、更に寒事なければ、終には願を果しけり。加様に心しぶとく、身も健にして、立ぬ願(有朋上P628)もなく、せぬ業もなし。懸りければ、発心地物気など云て請用隙なし。向と向ひぬるに、空き事はなし。余に暇なき折は、念珠袈裟を遣して、病者の目にも見せ、手にも取せぬれば、忽(たちまち)に験を顕す。係りしかば、元来天狗根性なる上に、慢心強く高声多言にして、人をも人とせざりける余、院(ゐんの)御所(ごしよ)にて悪口を吐、預(二)勅勘(一)被(二)流罪(一)けり。伊豆国(いづのくに)奈古野が奥と云所に、観音の霊堂あり。則なこや寺と名く。彼傍に奇庵を結て、閉籠て年月を送つゝ、深大悲の誓願を憑て、不退の行法薫修せり。昼は先手経を読、夜は三時に行法せり。人是を貴て、折々衣裳を送けれども、返すは多く、請取は稀也。何とてとき料なども在けるやらん、同宿もあまた侍けるとかや。遠近舟の旅人は、炉壇の煙に心すみ、釣する海人の楫枕、燈炉の光に目を醒す。渚(なぎさ)に遊水鳥は、振鈴(しんれい)の声に驚、藻に住磯の鱗は、閼伽の水にや浮ぶらん、最貴くぞ覚えける。されば当国の目代(もくだい)より始て、上下の男女帰依の思を成けれども、惣じて諂心なし。真実の道心者也とぞ見たりける。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十九

P0460(有朋上P629)
津巻 第十九
S1901 文覚発心附東帰節女事
文覚道心の起を尋れば、女故也けり。文覚がために、内戚の姨母一人あり。其昔事の縁に付て、奥州(あうしう)衣川に有けるが、帰上て故郷に住。一家の者ども衣川殿と云。若く盛んなりし時は、みめ形人に勝、心ばへなども優にやさしかりけるが、今は盛過て世中も衰へ、寡にて物さびしき住居也。娘一人あり、名をばあとまとぞ云ける。去共衣川の子なればとて、異名には袈裟と呼。親に似たる子とて、青黛の眉渡たんくわの口付愛々敷、桃李の粧芙蓉の眸、最気高して、緑の簪雪の膚、楊貴妃、李夫人は見ねば不(レ)知、愛敬百の媚一つも闕ず、さしも厳女房の、心さへ情深して、物を憐咎を恐事不(レ)斜(なのめならず)。毛■(もうしやう)西施が再誕歟、観音勢至の垂跡(すいしやく)歟、深窓の内に扶られて、既(すで)に成(レ)人也。軒端の梅の匂いと芳、庭上の花実に細にして、十四の春を迎たり。栄花名聞人々我も/\と心を通す。其中に並の里に、源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)渡とて、一門也けるが、内外に付て申ければ、恥しからぬ事也とて、(有朋上P630)これを遣す。互の心不(レ)浅して、はや三年に成ぬ。女今年は十六也。盛遠は十七に成けるが、其歳の三月中旬に、渡辺の橋供養あり。盛遠紺村濃の直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の腹巻に、袖付て、折烏帽子(をりえぼし)係にかけ、銀の蛭巻二筋通して巻たる長刀、左の脇にはさみ、其(その)日(ひ)の奉行しければ、辻々固めたる兵士共下知し廻して、橋の上に立渡、ゆゝしくぞ有ける。
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供養既(すで)に終て、方々へ下向しける中に、北の橋爪より東へ三間隔て有ける桟敷の内より、女房達(にようばうたち)あまた出て下向しける中に、十六七にもや有らんと見ゆる女房、輿に乗らんとて簾を打挙けるを見れば、世に有難き女也。盛遠目くれ心消して、何くの者やらん、何なる人の妻子なるらんと、行末見たく思ければ、輿に付て行程に、並の里に渡と云者が家に見入たり。是は聞えし衣川の女房の女や、過失なき美人なりけり、如何すべきと、春の末より秋の半まで、臥ぬ起きぬぞ案じける。思澄して、九月十三日のまだ朝、母の衣川が許に伺行、則刀をぬき、無(二)是非(一)母が立頸を取て、腹に刀を指当て害せんとす。女うつつ心なし。能々見れば甥の遠藤武者盛遠也。女泣々(なくなく)申けるは、抑和殿は我には甥、我は和殿に姨母、此中には殊なる怨くねなし、就(レ)中(なかんづく)御辺(ごへん)の母死して後は、孤子なれば、孫子を思様に糸惜し奉る、父とも母とも憑み給ふべし、何人か如何と讒言したたれば角うき振舞(有朋上P631)をばし給ふぞ、身に誤ありと覚ず、暫く命を助て、怨の通を宣へ、晴申さんと手を摺て泣。盛遠は慈悲なし、目を大に見はりて、伯母也とても、我を殺さんとし給ふ敵なれば、遁すまじ。渡辺党の習として、一目なれども敵を目に懸て置ず、すは/\只今(ただいま)指殺んとて、腹に刀をひや/\と差当たり。姨母は肝魂もなし、わなゝく/\、誰人の申ぞ、我寡にして夫なし、和殿に於て意趣なし、思ひよらぬ事をも宣ふ物哉、是は何なる事ぞやと申。盛遠は、人の申に非ず、袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞給はず、渡が許へ遣たれば、此三箇年人しれず恋に迷て、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消なんとす、恋には人の死ぬ
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ものかは、是こそ姨母の甥を殺し給なれ、生て物を思ふも苦しければ、敵と一所に死なんと思ふ也と云。衣川は責ての命の惜さに申けるは、旁申し中に角とは聞しか共、さまでの事とも思はず、身貧なれば何方共思分ざりしを、渡奪が如して取しかば力なし、加程に思給はば安事也、刀を納よ、今夕呼て見せんと云。盛遠は等閑に口を竪めては悪かりなんと思て、虚言せし渡が方へ返忠せじなど、能々竪めて刀をさし、今夕参らんとて帰にけり。衣川は涙を流し如何はせんとぞ悲みける。此盛遠が有様(ありさま)、云事を聞ずば一定事にあひぬべし、さて又呼て逢せなば、渡が怨いかゞ(有朋上P632)せんと思けるが、案廻して娘の許へ文をやる。此程風の心地候。打臥までの事はなければ、披露までは事々しく候。忍ておはしませ、可(二)申合(一)事侍。寡なる身には墓なき事のみ侍り。返々忍て只一人おはしませと書たり。娘消息(せうそく)を取上見て、心細き御文の様哉とて胸(むね)打騒、女の童一人具して、仮初に出づる様にて、母のもとに来れり。母つく/゛\と娘の顔を見て、はら/\と泣て、良久有て手箱より小刀を取出して云けるは、此を以て我を殺し給へとて与ければ、娘大に騒て、是は何事にか、御物狂はしく成給へるかとて、顔打あかめて居たり。母が云、今朝盛遠が来て、様々振舞つる事共、有の儘に云ひつゞけて、此事いかにも/\盛遠が思の晴ざらんには、我終に安穏なるべし共覚えず、去ばとて渡が心を破らんとにも非ず、由なき和御前故に、武者の手に係て亡びんよりは、憂目を見ぬ前に、和御前我を殺し給へとて、さめ/゛\と泣。娘これを聞て、実に様なき事也、心憂事哉と不(レ)斜(なのめならず)歎けるが、つく/゛\是を案じて、親の為には去ぬ孝養をもする習也、
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御命に代り奉らん、結の神も哀と思召(おぼしめせ)とて、口には甲斐々々しく云けれ共、渡が事を思ひ出つゝ、目には涙をこぼしけり。日も既(すで)に暮ぬ。盛遠は独咲して鬢をかき髭をなで、色めきてはや来て、女と共に臥居たり。狭夜も漸々更行て、暁方に成ければ、鶏既(すで)に啼(有朋上P633)渡、女暇を乞。盛遠申けるは、会ずば逢ぬにて有べし、弓矢取身と生て、あかぬ女に暇をとらせて恋する習なし、会で思し思は数ならず、何なる目に合とても、暇奉らんとは申まじ、今より後は長き契、是だにあらば何事か有べきとて、太刀を抜て傍に立たり。嗚呼(ああ)今は世の乱ぞ、思儲し事なれば、会ぬる後は命くらべ、和御前のためには命も惜からず、和御前の不祥、盛遠が不祥、渡が不祥、三つの不祥が一度に可(レ)来宿習にてこそ有りつらめとて、惣て思切たる気色也。女良案じて云けるは、暇を奉(レ)乞は女の習、志の程を知らんとなり、角申も打付心の中〔は〕末憑れぬ様なれば、憚あれ共何事も此世の事に非ずと聞侍れば、実も前世の契にこそ侍らめ、去ば我思心を知せ奉らん、渡に相馴て、今年三年に成侍けれ共、折々に付て心ならぬ事のみ侍ば、思はずに覚て何へも走失なばやと思事度々也。去共母の仰の難(レ)背さに、今迄候計也、誠浅からず思召(おぼしめす)事ならば、只思切て左衛門尉(さゑもんのじよう)を殺し給へ、互に心安(こころやす)からん、去ば謀を構んと云。盛遠悦ぶ色限なし。謀はいかにと問へば、女が云、我家に帰て、左衛門尉(さゑもんのじよう)が髪を洗はせ、酒に酔せて内に入れ、高殿に伏たらんに、ぬれたる髪を捜て殺し給へと云。盛遠悦て夜討の支度しけり。女暇を得て家に帰、酒を儲渡を請じて申けるは、母の労とて忍て呼給し程に、昨日罷て(有朋上P634)侍しに、此暁よりよく成せ給ぬ、悦遊びせ
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んとて、我身も呑夫をも強たりけり。元来思中の酒盛なれば、左衛門尉(さゑもんのじよう)前後不覚にぞ飲酔たる。夫をば帳台の奥にかき臥て、我身は髪を濡し、たぶさに取て烏帽子(えぼし)を枕に置、帳台の端に臥て、今や/\と待処に、盛遠夜半計に忍やかにねらひ寄、ぬれたる髪をさぐり合て、唯一刀に首を斬、袖に裹て家に帰、そらふしして思けり。嗚呼(ああ)終の禍事由なく、肝もつぶさず鎮ぬるこそ嬉けれ。年来日来諸々の神々廻行祈る祷の甲斐ありて、本意をとげぬる嬉しさよ、昔も今も神の御利生厳重也、春日八幡賀茂下上、松尾平野稲荷祇園に参つゝ、賽せんとぞ悦ける。爰郎等一人馳来て申様、不思議の事こそ候へ、何者(なにもの)の所為やらん、今夜渡左衛門殿(さゑもんどの)の女房の御首(おんくび)を切進て侍る程に、左衛門殿(さゑもんどの)は口惜事也とて、門戸を閉て臥沈給へりと披露あり、吊には御渡候まじきやらんと云ければ、穴無慙や、此女房が夫の命に代りけるにこそと思て、首を取出して見れば、女房の首也。一目見より倒伏、音も不(レ)惜叫けり。三年の恋も夢なれや、一夜の眤も何ならず、落る涙にかきくれて、身の置所(おきどころ)もなかりけり。其(その)日(ひ)も暮ぬ。盛遠起居て、つく/゛\と諸法の無常を観けり。生ある者は必ず死すればこそ、三世の仏も炎の煙を示し給ふらめ、会事有りて別るればこそ、上界の天人も退没の雲には悲む(有朋上P635)らめ、況下界をや、凡夫をや、夫婦の契前後の怨み世の習也、人の癖也、されば是は然べき善知識也、非(レ)可(レ)歎、あかぬ別の妻故にこそ、道心を発すためしは多かりけれ、神明三宝の御利生也と思切、明ければ例よりも尋常に出立ちて、郎等あまた相具して渡が家へ行たれば、門戸を閉て音もせず。門を扣て盛遠参たりといはすれば、戸をとぢながら
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内より答けるは、御渡悦存候、但面目なき事なる間、向後は人々に見参せじと云願を発せり、御帰あるべしと云。盛遠重て云けるは、女房の御首(おんくび)切て候奴を聞出して、かしこへ打向ひつゝ、搦捕て参つる程に、遅参仕候、急ぎ門を開給へと云ければ、歎中にも嬉て、門を開て入れたり。左衛門尉(さゑもんのじよう)は、頭もなき女房の傍に臥沈たり。盛遠は走寄、御敵具して参たり、先御首(おんくび)御覧ぜよとて、懐より女房の首を取出して其の身に指合て、腰刀を抜て左衛門尉(さゑもんのじよう)に与て、盛遠が所為也、和殿の頸を掻と思たれば、係事を仕出したり、余に心憂ければ自害せんと思へ共、同は御辺(ごへん)の手に懸りて死なん、さこそ本意なく思給らめ、疾々切給へとて、頸を延てぞ居たりける。渡は、刀は我も持たれば人の刀に依べからず、但加程に思はん人の頭を切に及ばず、又自害し給(たまひ)ても其詮なし、是も然べき善知識にこそ有けめ、唯御辺(ごへん)も我も、無人の後世を弔、一仏土の往生こそあらまほし(有朋上P636)挿絵(有朋上P637)挿絵(有朋上P638)けれ、今生我執を起して、来世苦難を招ん事、自他互に由なし。倩是を案ずるに、此女房は観音優婆夷の身を現じて、我等(われら)が道心を催し給ふと観ずべしとて、渡自刀を抜て先髻を切てげり。盛遠是を見て、渡を七度礼拝して、是も髪をぞ切てげる。此形勢(ありさま)を見ける者、男女の間に三十(さんじふ)余人(よにん)ぞ出家しける。衣川の女房も尼に成て、真の道に入けれども、恩愛前後の悲は、いつ晴べし共覚えず。彼女房消息(せうそく)細々と書て、手箱に入て形見に留む。是をひらき見れば、去ぬだにも女は罪深しと承り侍るに、憂身〔の〕故にあまたの人の失ぬべければ、我身を失候ぬ、独残留御座(おはしまし)て、歎思召(おぼしめさ)ん事こそ痛しく侍れ。何事も然べき事と申ながら、先立進ぬる
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悲さよ、相構て後の世よく弔て給らん。仏になり侍なば、母御前をも渡をも、必迎奉るべし。よろづ細に申度侍れども、落涙に水茎の跡見え分ずとて、
  露深き浅茅が原に迷ふ身のいとゞ暗路に入るぞ悲しき K110 
と、母これを披見に付ても、目もくれ心も消て、悶え焦ける有様(ありさま)は、実に無(二)為方(一)ぞ見えける。深淵の底猛き炎の中なりとも、共に入なんとこそ思ひしに、こは何としつる事やらん、老て甲斐なき露の身を、葎の宿に留め置、いかにせよとて残らん、昨日を限と知(有朋上P639)たりせば、などか飽まで見ざるべき、同道にと口説けども、帰らぬ旅の癖なれば、更に答事なし。せめての事に母泣々(なくなく)、
  闇路にも共に迷はで蓬生に独り露けき身をいかにせん K111 
と、娘の文に書そへてぞ詠じける。其後母は尼になり、天王寺に参篭して、唯疾命を召し、浄土(じやうど)に導給へ、救世観音、太子聖霊悟を開て、無人の生所を求め、一仏蓮台の上にして、再び行合はんと祈念しければ、次の年十月八日、生年四十五にて目出(めでた)き往生を遂にけり。左衛門尉(さゑもんのじよう)渡は、僧を請じ剃(レ)髪、三聚浄海を受持て、俗名に付たりし渡と云文字にて、渡阿弥陀仏(とあみだぶつ)とぞ申ける。生死の苦海を渡て、菩提の彼岸に届かん事を志、渡阿弥陀仏(とあみだぶつ)とも云けるにや。遠藤武者も入道して、在俗の時の盛遠の盛(じやう)をとり、盛阿弥陀仏(じやうあみだぶつ)と云けり。失にし女の骨を拾後園に墓を築、第三年の間は、行道念仏して、不(レ)斜(なのめならず)弔けるとぞ承る。去ばにや、夢に墓所の上に蓮花開て、袈裟聖霊其上に坐せりと見て、さめて後
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歓喜の涙を流しけり。其後盛阿弥陀仏(じやうあみだぶつ)、日本国(につぽんごく)を修行して、求法の志最苦也。斯かりしかば智者になり、盛阿弥陀仏(じやうあみだぶつ)を改て文覚と云、利根聡明にして有験世に勝れたり。さる知法効験の時までも、昔の女の事思出て、常は衣の袖を絞けり。若や慰とて彼女の(有朋上P640)影を移て、本尊と共に頸に懸て、恋しきにも是を見、悲にも是を弔ひけるこそ責ての事と哀なれ。
 < 懸かるためしは異国にも有けり。昔唐に東帰の節女と云けるは、長安の大昌里人と云者が妻也けり。其夫に敵あり、常に伺けれ共、殺す事叶ず。かたき節女が父を縛て、女を呼びて云、汝が夫は我が大なる敵也、其夫を我に与へずば、汝が父を殺さんと云ひければ、女答曰、妾夫を助ん為に、争生育の父を殺させん、速に汝が為に、妾が夫を殺さしめん、妾常に楼上に寝ぬる、夫は東首に臥、妾は西を枕とす、須来て東首を切れと教て、家に帰つて思はく、父に恩愛の慈悲深し、夫に偕老の情の浅からず、夫の命を助けんとすれば父の命危し、父が身を育まんとすれば、夫の身亡びなんとす、不(レ)如父を助けんが為に、夫を敵に与へつ、我又夫が命に替らんとて、自東首に伏して、夫を西に枕せり。敵伺入つて、忽(たちまち)に東首を切て家に帰りて、朝に是を見れば非(二)夫首(一)して、妻が頭也。敵大に悲て、此の女父の為に孝あり、夫が為に忠あり、我いかゞせんと云、終に節女が夫を招て、長く骨肉の眤をなしけり。夫婦が語ひとり/゛\なり。彼は今生の契を結び、是は菩提の道に入にけり。>(有朋上P641)
S1902 文覚頼朝(よりとも)対面附白首附曹公尋(二)父骸(一)事
抑文覚配流の後、篭居したる所をば奈古屋寺と云。本尊は観音大悲の霊像也。効験無双の薩■[*土+垂](さつた)也ければ、国中(こくぢゆう)の貴賤参詣隙なし。其上文覚、我目出(めでた)き相人也と披露しければ、事を御堂詣によせて、男女多く入集て相せらる。向後は知ず過こし方は露違はず、有難相人也と云。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、胡馬北風に
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嘶え、越鳥南枝に巣くふ習にて、都の人の床しさに、行て物語(ものがたり)し、身の相をも聞ばやと思召(おぼしめし)けれ共、人目もいぶせく機嫌も知らざりければ、思ひながらさてのみ過る程に、文覚が庵室と、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館とは、無下に近き程也ければ、藤九郎盛長を以て、先文覚が弟子に相照と云僧を被(レ)招けり。則参たれば、佐殿遥(はるか)に花の都を出されて、角草深住居なれば、都の方も恋しかりつるに、何事共か侍と宣。相照京白川の有様(ありさま)より、藤氏平家前官当職、公家仙洞事に至るまで、はる/゛\と申けり。さて佐殿、上人に見参せばやと相存、いかゞ有べきと宣へば、相照、いと安事にこそ、庵室へ入給べきか、又被(レ)召べきか、但物狂の人にて、悪様にや御目に懸候はんずらん、其条こそ恐入たれと申。物狂とはいかにと御座やらんと問給へば、相照、師匠の事にて候へ共、(有朋上P642)うつゝ心なくして、或(ある)時(とき)は高声多言にして、傍若無人也、或(ある)時(とき)は柔和神妙(しんべう)にして禅定に入が如く也、時雨の空の晴陰る様に、紅葉の秋の濃薄が如く、取定めぬ心にて、三尺計なる榊の枝をあまた用意して、是非なく人を打侍る間、弟子共四五十人もや出入侍ぬらん、余に打程に、堪ずして皆逃失て今は一人も侍らず、此間こそ三十計なる僧の同宿せんとて見え候を、さのみ打侍る程に、彼僧腹立して、親は子を育、師は弟子を憐習也、同宿なればとて、咎なき者を角しもや打つべきとて杖を奪取、上人が頭血の流るゝほど打返す、上人頭押さすりて、此法師は神秘ある者也、法師程の者を打返は直者に非じ、文覚を打返たれば、和法師をば文覚といはんとて、同宿したる者計こそ候へ、大方うつゝ心なき人にて侍ると申す。佐殿打笑て、其意を得てこそ見参せめと
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宣へば、相照庵室に帰りて、此由文覚に語ければ、来給へかしと云。相照又立帰て、佐殿に申せば、盛長を召具して、上人が庵室へ渡り給ふ。文覚目も懸ず、詞も出さず、佐殿の御座(おは)する処を、黒脛かゝげ、うわげけはきて、前へ後へ通、行事四五返して後に、障子の内に入て、頭ばかりを指出して、両目にては睨、片目にては睨、立上ては睨、さしうつぶきては睨。佐殿は今や打/\、いかに打共こらへなん、実に堪へ難は逃んと被(レ)思て、面も損ぜず身もは(有朋上P643)たらかさず、掻刷て良久御座(おはし)ける。文覚は遥(はるか)に加様にため見て、障子をさとあけて佐殿の前に出合て、戯呼御辺(ごへん)は、故下野殿の三男とこそ見奉れ、歳のかさなるとて、以外にくまれ給(たま)ひけり、糸惜糸惜とて、やがてはら/\と泣て、切て継たる様に強に畏て礼儀しけり。佐殿は聞つる如く、げにも尋常ならず思はれけり。文覚良有て云けるは、法師日本国(につぽんごく)修行して、在々所々に六孫王の末葉とて、見参するを見るに、大将と成て一天四海を奉行すべき人なし。或は心勇て、人思付べからず、或は性穏して人に無(二)威応(一)、穏して威なきも身の難也、勇みて猛きも人の怨也、されば威応ありて穏しからんは、国の主と成べし。殿を見奉るに、心操穏して、威応の相御座、是は者の思付相也、項羽は心奢て帝位に不(レ)昇、高祖は性おだしくして諸侯を相従へり。御辺(ごへん)は後憑しき人や、目出し/\と嘆たり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)是を聞、壁に耳、石に口、人や聞らん、恐し/\と被(レ)思ければ、其(その)日(ひ)は館に帰給(たま)ひぬ。其後は佐殿も忍て時々通給ふ。文覚も又折々は参じけり。日来よく/\相馴て、文覚重て申けるは、良佐殿、源平両家は相互に、一天の守護、四海の将軍たり
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き。而に太政(だいじやう)入道(にふだう)、一旦の果報に引れて、天下を管領すれども、悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして、宿運既(すで)に尽たり、家を続べかりし小松内府、日本(につぽん)に相応せず、一門に過分して薨給ぬ、其(有朋上P644)弟共あまた有といへ共、世を治べき仁なし、今は何事か侍べき。御辺(ごへん)は大果報の後憑しき人也。文覚相し損じ奉るまじ、法師が目凡夫の眼に非ず、左は大聖不動、右は孔雀明王(みやうわう)の御目也。人の果報をしり、日本国(につぽんごく)を照し見事掌の中也。疾々謀叛を発し、平家を打亡して、父の恥をも雪、又国の主共成給へ、〈 漢書 〉天与不(レ)取反受(二)其咎(一)、時至不(レ)行反受(二)其殃(一)と云事あり、運の開給べき時至給へり、沈過し給ふべからず、急給へ/\と細々と申。兵衛佐(ひやうゑのすけ)聞給(たまひ)ては、此上人は心際怖しき者にて、角語はん程に、左右なく心とけて、謀叛をも起さんといはば、頼朝(よりとも)が首を取て平家にとらせ、己が罪を遁れんと謀にもやあるらんと思はれければ、我身は勅勘を蒙りたれば、日月の光に当るだにも憚あり、池殿尼御前に身を助けられ奉りて、たもち難かりし命の、今までながらへるも、併彼御恩也、されば争か弓矢を取りて平家に向侍べき、又世の末に左様の腹黒などあらせし料に、国に下付なば、狩漁すべからず、人の為に慈悲有べし、不用の名立べからず、事に於て穏便にして、経をよみ仏を唱へて、父の菩提をも弔、我後生をも助るべしなど、差も仰を蒙侍き。実に栄花栄耀にほこる共、一期の作法程なし。意執我執を存ぜん事、三途の苦悩難(レ)遁、然べき善知識の仰と思とり侍しかば、毎日に法華経(ほけきやう)二部転読して、父母親属、殊(有朋上P645)には池尼御前の菩提を弔奉るより外は、営む事候はず、悪事など思寄ざる事也と宣へば、文覚懐より白き布袋
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の少し旧たるに、裹みたる物を取出して、やゝ佐殿、是ぞ故下野殿の御首(おんくび)よ、法師獄定せられたりし時、世に立廻らば奉らんとて盗みたりき。赦免の後は、是彼に隠したりしを、伊豆国(いづのくに)へ被(レ)流べきと聞しかば、定て見参し奉らんずらん、さては進せんとて頸に懸て下たりき。日比(ひごろ)は次で悪く侍つれば、庵室に置奉て候き。国こそ多所こそ広きに、当国へしも被(レ)流けるは、然べき佐殿の父の骸に見参し給ふべき事にやと、哀にこそ候へ、其進ぜんとて、はら/\と泣きけり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)是を見給(たま)ひて、一定とは不(レ)知ども、父の首と聞より、いつしかなつかしく思ひつゝ、泣々(なくなく)是を請取て、袋の中より取出して見給へば、白曝たる頭也。膝の上にかき居奉て、良久ぞ泣給ふ。此下野守には、子息あまた御座(おはしま)せし中に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)を鬼武者とて、十ばかりまでも、膝の上に居ゑて、愛し給し志の報にや、今は其骸を請取て、ひざの上に置奉りて、眤じく覚え、其後ぞ深合体し給ける。志合則胡越為(二)昆弟(一)、由余子臧是、不(レ)合則、骨肉為(二)讐敵(一)、朱象管蔡是、只志を明とせり、必ずしも親を明とせずとぞ、文覚常には申しける。
 < 昔大国に、曹公と云し者の父、秦泉河と云川を渡けるに、流烈波高して、舟覆水に溺て失にけり。曹公(有朋上P656)歎悲て、彼秦泉河の底に入て、父が骸を尋けるに、水神憐(レ)之、曹公を相具して其骸の流寄たる所に行、十五里を下て、柳原の下に被(二)推上(一)たりけるを与たりければ、曹公泣々(なくなく)父の骸を懐て臥てかくぞ云ける。
  昔惜(二)身命(一)、為(レ)報(二)高恩(一)、 今双(二)遺骨(一)為(レ)休(二)恋慕(一)
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とて、亡父の骸を懐臥ながら、曹公七日に死けり。遠近人も是を見て、皆涙をぞ流しける。昔の曹公は骸を懐て臥、今の頼朝(よりとも)はひざに安して泣、彼は十五里を去て、水神与(レ)之、是は廿余年を経て、文覚持来れり。恩愛骨肉の情、とりどりに哀也。>
S1903 文覚入定京上事
文覚佐殿に申けるは、我神護寺造営の志ありて、院(ゐんの)御所(ごしよ)を勧進し奉りしに、辛目をみるのみに非ず、流罪の宣旨を蒙る時、心中に発願の占形をする事は、我必神護寺を造営成就(じやうじゆ)すべき願望をとげんならば、配所へ下著まで断食せんに、死すべからず、其事難(レ)叶ならば、途中に骸をさらすべしと誓たりしが、仏神加護して建立(こんりふ)成就(じやうじゆ)すべきにや、三十一日に此所に下著したり、疾々平家を打亡して後、且は父の菩提のため、且は文覚が(有朋上P647)本意の如大願を果し給へといへば、佐殿は、頼朝(よりとも)勅勘を免されずしては、何事も其恐有べしと宣ふ。文覚誠に思立給はば、京に上り院宣を申べしと云ひければ、佐殿は御免の院宣を給り、平家追討の勅命を蒙らば、争思立ざるべし、但御辺(ごへん)も勅勘の身也、いかがはと宣ふ。文覚は忍て上洛すべきとて、国中(こくぢゆう)に披露する様、七箇日入定とて、方丈の庵室を造り、三方をば壁にぬり、一方に口一つ開て、中に縄床を居ゑ、入定の後には戸を立て外より鎖をさせと約束せり。斯りければ、奈古屋の上人の入定とて、国中(こくぢゆう)の貴賤市の如くに集て是を拝む。文覚は縄床に上、結伽趺坐して、大日の印相を結で、睡れるが如なり。誠貴ぞ見えける。終日拝れて後は、弟子の僧約束に任て、扉を閉外より鎖をさす、入定の後も毎日に人多く来拝む。文覚は夜に入て方丈の板敷の下より、我仮屋の庵室へ、地の底を掘て、通道を構たり。彼穴より這出て夜に紛て上洛す。新都福原の楼御所に参て、院
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の近習者に前兵衛督光能(みつよし)と云人は、文覚には外戚に付てゆかり也、其人の許に行向て申けるは、伊豆国(いづのくに)の流人兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)こそ、朝家の御歎、天下の牢籠を承て、院宣を下給るならば、東八箇国の家人催集て、都に上平家を亡し、仙洞の被(二)打籠(一)御座、逆鱗をも休め奉り、国土をも鎮侍なんと申。言に合て事の様伺見に、よそ目には勅勘の者とて憚様(有朋上P648)なれ共、内心は皆通用せり、況院宣など被(レ)下なば、大名小名誰か一人も背侍るべき、いつとなく御心苦き御目を御覧ぜんより、院宣を被(二)免下(一)よかしと奏し給へと語。光能(みつよし)宣(のたまひ)けるは、実に君も被(二)打籠(一)御座(おはしま)して、世の御事不(二)知召(一)、さこそ御心憂思召(おぼしめす)らめ、我も宰相、右兵衛督(うひやうゑのかみ)、皇太后宮(くわうたいごうぐう)の権大夫、此三官を止られて歎居たり。頼朝(よりとも)左様に申らん事、帝運の再堯舜の代に改らん事こそ嬉けれとて、密に御気色(おんきしよく)を伺ひけり。然べき御事にやとて御免有ければ、即光能(みつよし)奉て、院宣を書て給にけり。文覚是を給(たまひ)て、上下向八箇日に、伊豆に著、今日は出定の日也とて、又国中(こくぢゆう)の男女雲霞の如くに集て拝んとす。弟子の僧、鎖をはづして戸を開たり。威儀不(レ)乱、定印不(レ)違、髪生のびて痩黒たり。弟子銅の鈴を以て、入定の前にて二つ是を鳴す。文覚鈴に驚て出定せり。見人いよ/\仏の如くに貴みけり。角て兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の許に行向て申けるは、院宣はよく/\申さば賜気也、今は安堵し給へ、勢を語ひ給へと云。佐殿は縦院宣を手に把たり共、斯かる有様(ありさま)には左右なく人同心すまじ、況未(レ)給さきに叶ふべからず、そも不定なる由なき上人の云事に付て、此事顕れなば、再憂目をや見るべかるらんと宣へば、文覚は申固めて下たり。肝を
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つぶし給(たま)ひそ、法皇の仰には、頼朝(よりとも)左様に憑しく申なれば、子細にやと被(二)仰出(一)けり。又京(有朋上P649)上こそ煩しけれ共、佐殿の本意の叶ふ、かなはぬをば、唯文覚が計ひ也、其に取て我此国へ被(二)流罪(一)事も、高雄の神護寺造立の故也、又院宣を給らん事も、御辺(ごへん)の力にて、彼寺をや造んと云所存也、されば院宣を急ぎ給らんと思給はば、高雄へ庄園を寄進有べしと云ければ、佐殿は我身だにも安堵せずして、いかにとして奉べしと宣ふ。文覚が計に随て、はや寄給へと云。佐殿は我軍に勝て、日本国(につぽんごく)を手に把ば、一国二国をも乞によるべしと宣へば、文覚は手にとり得つれば、必惜き事也、なき物は惜からず、国も広博也、唯所知を十余所寄進し給へとて、紙硯取向、丹波国には、新庄、本庄、雀部、宇津、縄野、播磨国には、五箇庄、土佐国には、高賀茂郷を始として、十三箇所を選出し、それ/\と云ければ、佐殿鼻うそやきて被(レ)思けれ共、寄進状を書判形を加て、文覚に給ふ。文覚ほくそ咲て、あゝ御辺(ごへん)は以外に心広き人哉、我物顔にいみじく寄給へり、其荒涼にては、一定天下の主と成給なん、されば院宣進つらんとて、懐より文袋を取出し、中なる院宣を進る。佐殿は手洗嗽、浄衣に紐さしなどして、是を披見し給(たま)ひけり。
S1904 
其状に云、 
 早可(レ)追(二)討清盛(きよもり)法師并一類(一)事
右君子不(レ)直人者、令(二)民成(一)(レ)愁、姦臣在(二)于朝(一)者、賢者不(レ)進、彼一類者、啻非(レ)忽(二)緒朝(有朋上P650)家(一)、失(三)神威与(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、既為(二)仏神之怨敵(一)、亦為(二)王法之朝敵(一)、仍仰(二)前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりともの)朝臣(あそん)(一)、宣(下)令(三)追(二)討
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彼輩(一)、早退(二)怨敵(一)、奉(レ)安(中)宸襟(上)矣、依(二)院宣(一)執達如(レ)件。
     治承四年七月五日               散位光能(みつよし)奉
謹上、前(さきの)右兵衛権佐殿(うひやうゑのごんのすけどの)とぞ被(レ)書たる。
S1905 義朝(よしとも)首出(レ)獄事
抑昔武蔵権守平将門(まさかど)已下の朝敵の頭共は、両獄門に納らる。文覚争義朝(よしとも)の首をば可(二)盗取(一)、是は兵衛佐(ひやうゑのすけ)に謀叛を勧んが為に、奈古屋が沖に曝たる頭の有けるを以て、仮初に偽申たりける也。実には父義朝(よしとも)の首獄門に有よし聞給ければ、世静て後、文覚上人を使として、奏聞して申し賜給けり。彼首は東の獄門の前の、樗木に係たりけるを、紺五郎と云紺掻の有けるが、下野守在生の時は、折々に参りて、深く憑み申ければ、不便の者に被(レ)思けるが、其情を忘れず博士判官兼成に付て、年来哀不便と思召(おぼしめ)す人也。久獄門に被(レ)梟て、曝(レ)恥給事目もあてられず悲侍、今は被(二)納置(一)候へかし、孝養仕らんと申たりければ、兼成大理に申御免有て、紺五郎申給(たまひ)て、左の獄門の乾の角に墓を築て埋た(有朋上P651)りけるを、今度掘り起して見ければ、額には義朝(よしとも)と云銅の銘を打たり。正清が首も同く在けり。左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)には贈官あり、補(二)太政大臣(だいじやうだいじん)(一)、首をば蒔絵の手箱に入て、錦袋に裹、文覚上人頸に懸たり。正清が頭をば檜木の桶に入て、布袋に裹、弟子の僧が懸(レ)頸、公家より御使には、宮内判官公朝を副られたり。文覚下ると聞えければ、御迎にとて、御迎片瀬川まで参たり。既鎌倉に下著有ければ、佐殿は庭上に下り向給(たまひ)て、上人の馬の口を取給ふ。只今(ただいま)父下野守殿の入給と思ひ給けるにや、涙を流して左の
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袖をひらきてぞ、義朝(よしとも)の首をば請取給(たま)ひける。正清が首をば娘ぞ是を請取ける。哀は何もとりどり也。大名小名皆庭上に下り居つゝ、各袖を絞けり。誠会稽の恥を雪めたりとぞ見えたりける。後にこそ角は有けれ共、初には父の首と語ければ、哀に嬉覚て、上人に心を打解て、此院宣をば給けり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は院宣拝奉て、先都の方に向、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を伏拝奉りけり。
S1906 聞性検(二)八員(一)事
伊豆山に、聞性坊阿闍梨(あじやり)某と云僧は、兵衛佐(ひやうゑのすけ)年比の祈の師也ければ、急使を遣て招請あり。阿闍梨(あじやり)何事哉覧と胸打騒て馳来れり。宣(のたまひ)けるは、頼朝(よりとも)勅勘に預て年久し、今平家(有朋上P652)を追討すべき由、院宣を蒙れり、是御坊の祈誓に酬と存ず。就(レ)之故親父下野守の為に、法華経(ほけきやう)千部転読の願を発して、既(すで)に八百部の功を訖て、今二百部を残せり。部数を満とすれば、二百部の転読月日を重ぬべし、平家の漏聞て、討手を下さばゆゝしき大事也。宿願を果さずして合戦の企あらば、源平の乱逆に懈有て、報恩の志空や成侍らん、此事進退きはまれり、よく計ひ給へと有ければ、阿闍梨(あじやり)暫案じて云く、八は悉地の成ずる数也、二百部の未(レ)読更に事闕侍るべからず、八百部の己読、最嘉例と云つべし。何にとなれば、釈迦如来(しやかによらい)は、八正慈悲の門より出て、八相成道の窓に入、八十の寿命を持て、八万の法蔵を説給へり。衆生本覚の心蓮は、八葉の貌也、一乗(いちじよう)妙法の首題も、八葉の蓮也、八角の幢は極楽の瑠璃治、八徳の水は宝国の金砂池に湛たり、宗に八宗、戒に八戒あり、天に八天、竜に八竜あり、八福田あり、八解脱あり、伏犠氏の時には亀八卦の文を負て来る、人の吉凶を占へり、高陽高辛の代には、八元(はちげん)八凱(はちがい)の臣を以て、天下を治むと見えたり。
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穆王は八匹の天馬に乗て、四荒八極に至り、老子は八十年胎内にはらまれて、明王(みやうわう)の代を待けり。内外に住す処是多し。就(レ)中(なかんづく)諸経の説時不同にして、巻軸区に分れたれ共、法華は八箇年に説て、八軸に調巻せり。薬王菩薩は、八万の塔婆を立て、臂(ひぢ)を(有朋上P653)妙法に焼、妙音大士は、八万の菩薩と来て、耳を一乗(いちじよう)に欹てり。況又御先祖貞純親王の御子、六孫王の御時、武勇の名を取つて、始て源氏の姓を給しより以来、経基、満仲(まんぢゆう)、頼信、頼義(らいぎ)、義家(よしいへ)、為義(ためよし)、義朝(よしとも)、佐殿まで八代也。又故伊予守頼義(らいぎ)三人の男を三社の神に奉る。太郎義家(よしいへ)石清水、次郎義綱賀茂社、三郎義光新羅の社、其中に佐殿正縁として八幡殿の後胤也。八幡宮の氏人也。日本国(につぽんごく)広し、東八箇国の中に被(レ)流給も子細あり、文覚上下往復の間、八箇日に院宣を披見給ふも不思議也、されば八百部の功既終給(たま)へらば、本意をとげ給べき員数也。急思立給へ、時日を廻し給な。去ば軍のうらかたには、先当国の目代(もくだい)、八牧の判官を被(レ)討べし。今二百部は追の転読と申ければ、佐殿よに嬉しげにて、師僧の教訓は神明の託宣にやとて、当国には伊豆箱根に立願の状を捧て、即聞性坊阿闍梨(あじやり)を以て啓白し、其外様々の立願、社々におこされけり。八百部の転読かつ/\供養有べしとて、飲食に能米八石、衣服に美絹八匹、臥具に筵枕に八、医薬に様々の薬八裹あり。已上四種の供養の上に、又四種を被(レ)副たり。砂金八両、壇紙八束、白布八端、綿八箇、都合八種の布施也。八は悉地の成ずる由申つゞくるに依也。如(レ)此調て、且は先考の菩提に廻向し、且は後代の繁栄を祈誓有べしとて、伊豆山の聞性坊へ被(二)送遣(一)(有朋上P654)けり。誠に銘々敷見え
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けり。
S1907 兵衛佐(ひやうゑのすけ)催(二)家人(一)事
さて北条を召て、平家追討の院宣を給りたれ共、折節(をりふし)無勢也、いかがすべきと宣へば、時政悦申けるは、東八箇国には、党も高家も、大名小名君の御家人ならぬ者は候はず、去共平家世を取に依て、暫身命を続んとて、一旦平家に相従計也、思召(おぼしめし)立給はば、誰か参ざらん。就(レ)中(なかんづく)今便を得たりと覚ゆる事は、伊藤右衛門尉忠清(ただきよ)被(二)配流(一)、上総国の時、介八郎広常志を尽し、思を運て賞翫し、愛養する事甚し。而に忠清(ただきよ)厚免を蒙て、上洛後、忽(たちまち)に芳恩を忘て、還て阿党をなし、広常を平家に讒て、所職を奪とする間、子息能常参洛して、子細を申といへ共、猶広常を召間、含(レ)憤恨をなす折節(をりふし)也。甘言を以て召れんに、是能隙なり。千葉介経胤、三浦介義明は、其性有(レ)義不(レ)戻、其心有(レ)信不(レ)頑、為(二)一族之長(一)、已為(二)衆兵之頭(一)、何奉(レ)背(二)真旧之主(一)、豈可(レ)与(二)違勅之賊(一)乎、早被(レ)遣(二)専使(一)、院宣之趣を可(レ)被(二)仰合(一)、土肥、土屋、岡崎の輩は、元来給仕し奉る上は、広経、経胤、義明三人御方に参なば、八箇国之輩、縦あやぶむ心ある者多と云ども、皆身の勢なければ、(有朋上P655)一人抜出て背奉らんと仕者有べからず、八箇国帰伏し奉らば、北国西国(さいこく)の輩、手を降参ぜん事疑なし。此に相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)大場三郎景親は、既(すで)に三代相伝の御家人なれ共(ども)、当時平家重恩のものにて、其(その)勢(せい)国に蔓れり。又武蔵国住人(ぢゆうにん)畠山庄司重能、小山田別当有重、平家の大番勤て侍なれば、重能が男重忠、有重が男重成、固可(レ)奉(レ)背、其(その)勢(せい)景親に劣るべからず、今事を企て勝負を決せん事、彼輩に有とぞ申ける。其言実ありて、其詞弁有ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)も深く信じ給(たま)ひけり。時政若知(二)天之時(一)歟、将又得(二)兵之法(一)歟、其詞一事も違事
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なかりけり。昔晋文信勃■(ぼつてい)之言以、旧威愕、斉桓用(二)管仲之計(一)、以天下を匡せりき。今頼朝(よりとも)と時政と、合体同心して、廻(二)籌於氈帳之中(一)、烏合群謀之賊束(二)手於軍門(一)、決(二)勝於島夷之外(一)、狼戻返逆之徒伝、首於(二)京都(一)、天下遂平定、海内永一統せり。誠哉得(二)其人(一)則其国以興、失(二)其人(一)則、其国以亡といへる事は。治承四年八月三日、佐殿北条に被(レ)仰けるは、軍立ならば国々怱々にして、在々所々の八幡の御放生会、及(二)違乱(一)事冥の恐あり、十五日以後其沙汰有べしと被(二)下知(一)けり。斯りければ重代の家人等(けにんら)、内々此事聞者は、忍て夜々(よなよな)に参集る。(有朋上P656)
S1908 佐々木取(レ)馬下向事
其中に故(こ)左馬頭(さまのかみ)の猶子に、近江国の住人(ぢゆうにん)、佐々木源三秀義が子共、平治の乱の後は、此彼にかゞまり居たり。太郎定綱は、下野宇都宮にあり、次郎経高は、相模の波多野にあり、三郎盛綱は、同国渋野にあり、四郎高綱は都にあり、五郎義清は大場三郎が妹聟にて相模にあり。其中に高綱は心も剛に身も健也。姨母に付て都の東、吉田辺に有ければ、世に随習也。平家に奉公もすべかりけれ共、思けるは、父秀義は故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)に父子の儀をなされて、代々一門の好をなす。淵は瀬となる世の中也。あるやうあらんずらんとて、姨母に養れて居たりけるが、佐殿謀叛を起給と聞て、嬉事に思つゝ、姨母ばかりに暇を乞、偸に田舎へ下けり。世になき身なれば、馬もなき次第、脛巾に編笠を著、腰の刀に太刀かづきて、京をば未明に出たれ共、不(レ)習歩道なれば、なへぐ/\其(その)日(ひ)は守山の宿に著、知たる者に馬をも乞、乗ばやとは思へども、都近程也、世中つゝましく思ければ、さもなくて暁は守山を立、野州の河原に出ぬ、如法暁の事なれば、旅人も
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未(レ)見けるに、草鞍置たる馬追て男一人見え来る。高綱、和殿はいづくの人ぞ、何へ渡るぞ(有朋上P657)と問へば、是は栗太の者にて候が、蒲生郡小脇の八日市へ行く者也と答。名をば誰と云ぞと問へば、男怪気に思て、左右なく明さず。兎角誘へ問ければ、紀介とぞ名乗たる。高綱は、やゝ紀介殿、此河渡ん程、御辺(ごへん)の馬借給へかし。紀介叶候はじ、遥(はるか)の市より重荷を負せて帰らんずれば、我も労て不(レ)乗馬也、又今朝の水のつめたき事もなし、唯渡り給へと云。紀介殿たゞ借給へかし、悦は思当らんと云ければ、紀介思様、此人の馬のかりやう心得(こころえ)ず、歩徒跣にて誰共知ず、我身だにも合期せぬ人の、何事の悦を賀し給べき、去共借さずして悪き事もやと思ければ借てげり。高綱馬に打乗、此馬こそ早我物よと思つゝ、空悦して野州川原を渡つゝ、鞭を打てぞ歩せたる。紀介は馬に後じと走けり。はや下給へ/\、河ばかりとこそ宣つるにと云へ共、此にて下彼にて下とて、篠原堤まで乗て行。商人馬の癖なれば、肢爪竪してなづまざりけり。哀是だにも有ならば、下著なんと思けるに、紀介は馬を乞侘て、下給はぬ物ならば、馬盗人と叫ばんと云。高綱、此事穏便ならず、左様にも謂れなば、恥がましき事有りなん、さらば下なんとて馬より下けるが、馬なくては難(レ)叶、いかゞすべきと案じて、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)世に御座(おはしま)さば、近江国は我物也、紀介が後生をこそ弔はめ、指殺て馬を取んと思て、やゝ紀介殿、馬奉んとて近く呼(有朋上P658)よせたり。八月上旬の事也。秋の習の癖なれば、朝露籠てよそ見えず、上下の旅人も無りけり。高綱腰の刀を抜持て、紀介を取て引寄つゝ、太腹に刀指通し、傍なる溝に打入て、荷鞍に乗て鞭を打、武佐宿にて知たる
P0481
者二鞍を乞、夜を日に継て下けり。馬も究竟の逸物也、更に泥事なくて、伊豆国(いづのくに)へぞ下にける。さてこそ今の世までも紀介が後生をば吊ふなれ。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に見参に入奉たれば、祖父故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)、各の親父佐々木殿と、父子の儀を奉(レ)成上は、万事阻なく憑存ずれ共、世になき身なれば思出侍らず、聞あへ給はず下向〔の条〕、返々神妙(しんべう)なり、平家を亡て世に立給はん事は、併人々の力を憑む也、さてさて兄弟の殿原〔達を〕尋給へと被(レ)仰ければ、高綱旁人をぞ遣ける。太郎定綱は下野国宇都宮より馳上、次郎盛経は相模国(さがみのくに)、波多野より馳参、三郎盛綱同国渋谷より馳来る、兄弟四人佐殿を守護し奉る。誠に一人当千(いちにんたうぜん)の武者、あたりを払て見えたりけり。五郎義清はいかにと尋給へば、大場三郎が妹に相具して候へば、人の心難(レ)知侍り、志思進せば、参らんずらん、左右なく知せじと存也とて不(レ)呼けり。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十
P0482(有朋上P659)
禰巻 第二十
S2001 八牧夜討事
治承四年八月九日、佐々木源三秀義と、大場三郎景親と見参しける次に、景親佐々木に語て云けるは、駿河国長田入道、上総守忠清(ただきよ)について、太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)に訴申けるは、北条四郎時政は、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)を取立て、謀叛を発すべきの由承及、結構(けつこう)の所存、急御沙汰(ごさた)有べきかと申ければ、入道殿(にふだうどの)の仰には、近日源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)三条宮を奉(レ)勧て、南都に発向して国家を乱し、当家を亡さんと云企あるに依て、宇治にして被(レ)討畢。今又此事を聞上は、惣じて源氏の種を諸国に置べからずと云御気色(おんきしよく)也。されば佐殿の御事も、定て御沙汰(ごさた)有べし、其意を得らるべきなり此間の在京に委承たりと語る。秀義浅猿(あさまし)と思て急ぎ帰て、定綱を以て、密に此事を佐殿に語申たれば、返事には、年来契申しし本意既(すで)に顕れぬ、悦で被(二)告仰(一)たり、相計て左右を可(レ)被(レ)仰也と。
同八月十五日国々八幡の放生会も過ぬ。十六日(じふろくにち)に北条を招て、和泉(いづみの)判官兼隆と云は、平家の傍親和泉守信兼が嫡男也。(有朋上P660)八牧の館にあれば、八牧判官と云。院宣を給る上は、先兼隆を夜討にすべし、急ぎ相計と宣(のたまひ)けり。北条尤然べく候、但今夜は三島社御神事にて、国中(こくぢゆう)には弓矢をとる事候はず、明日十七日(じふしちにち)の夜討也、内々人々可(レ)被(二)仰含(一)とて出にけり。十七日(じふしちにち)の午刻に佐々木太郎定綱を召て、額
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を合て被(レ)仰けるは、頼朝(よりとも)謀叛を起すべきよしを、京都既(すで)に披露有なれば、定て兼隆景親等に仰て、其沙汰有ぬと覚ゆ。されば先試に兼隆を可(レ)誅、我天下を取べくは可(二)討得(一)、運命限あらば、討得事難かるべし、吉凶唯此の事にあらん、今夜則夜討を入べし、舎弟等(しやていら)を相催給へ、事成就(じやうじゆ)あらば、旁の世なるべし、深憑思ふ也と有ければ、定綱は忝被(二)仰合(一)之条、身の面目を極る上は、更に命を惜べからずと申て、舎弟(しやてい)経高、盛綱、高綱等を召集て、日の暮るをぞ相待ける、ゆゝしく見えたり。十七日(じふしちにち)の夜は、忍々に兵共(つはものども)集けり。時政は夜討の大将給(たまひ)て、嫡子宗時に先係させ、弟の小四郎義時、佐々木太郎兄弟四人、土肥、土屋、岡崎、佐奈田与一、懐島平権頭等を始として、家子も郎等も濯汰たる者の手に立べき兵、八十五騎にて、八牧が館へぞ寄ける。佐殿時政を呼返して宣(のたまひ)けるは、抑軍の勝負をば争か知べしと問給へば、時政申て曰、御方勝軍ならば城に火を放つべし、負軍に成て人々討るゝならば、急使者を可(レ)進、静に(有朋上P661)御自害(ごじがい)と申捨てぞ出にける。八十五騎を二手に造る。佐々木兄弟四人は搦手に廻る、北条、土肥、岡崎等、追手也。両方より時を造て、寄たれば、城の内にも時を合す。八牧には折節(をりふし)勢こそ無りけれ。よき者共の有りけるは、伊豆国(いづのくに)、島田宿にて遊ばんとて、十余人(よにん)出ぬ。残者共十人計には過ざりけり。そも俄事にて物具(もののぐ)著にも及ばず、大肩脱にて櫓より落し矢に散々(さんざん)に射る、其中に河内国住人(ぢゆうにん)関屋八郎と名乗て、射ける矢ぞ物にも強くあたり、あだ矢も無りける。寄手も多く被(二)射殺(一)、手負ければ、五六度迄引返引返踉■(やすらひ)居たり。佐々木搦手に廻たりけるが、次郎経高
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後の木戸口(きどぐち)まで攻入て、散々(さんざん)に戦ひける程に、痛手負たりけれ共、尚独城の内に打入て、兼隆が後見に権頭と云ける者が首を取てぞ出たりける。定綱兄弟命を捨て責詰責詰戦けれ共、館は究竟の城(じやう)也、追入追出し戦ければ、午角の軍にて勝負なし。此に当国住人(ぢゆうにん)に加藤太光胤、加藤次景廉とて、兄弟二人あり。是は、
  都をば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白川のせき K112 
と云秀歌読たりし、能因入道には、四代の孫子也。彼能因が子息に、月並の蔵人と云ける者、伊勢国(いせのくに)に下て、柳の馬入道が聟に成て、儲たりし子を、加藤五景貞と云き。後には使宣を蒙て、加藤判官とぞ云ける。其子共也ければ、加藤太、加藤次と云。本伊勢国(いせのくに)に住ける(有朋上P662)が、父景貞に敵あり、平家の侍に伊藤と云者也。彼敵を殺して、本国には不(二)安堵(一)、東国に落下て、武蔵国秩父を憑けれども、平家に恐て辞(二)退之(一)、千葉を憑といへども同恐て不(レ)置けり。伊豆国(いづのくに)の公藤介を憑ければ、甲斐甲斐敷請(二)取之(一)、妹に合て為(二)用心(一)憑置。其故は公藤介三戸次郎と云者と中悪して、常に軍しければ、剛の者は一人も大切也、加藤兄弟心際不敵也と見て、軍の方人にせんと思ければ、平家にも不(レ)憚、親く成たりけるが、常に佐殿へ参てたのみ申ければ、阻なく被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。兄弟共に兵也けれども、景廉は殊さらきりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者也。折節(をりふし)佐殿には御不審之事有ければ、催には漏たりけれ共、世間も怱々なる心地しける上、頻(しきり)に胸騒のしければ、何事の有やらんと■(おぼつかなく)て、宿直申さ
P0485
んと思ひて、紫威の腹巻に、太刀計を帯、乳母子(めのとご)の州前三郎を相具して、鞭を揚て馳参る。門外にして馬より下、佐殿館の内へつと入。佐殿は小具足付て縁の上に小長刀突立給へり。子細は有けりと覚る処に、佐殿仰には、此間不審の事有て催事なけれ共、見来給ふ条神妙(しんべう)也、高倉宮(たかくらのみや)より平家追討の令旨を給りしかども、宮既(すで)に亡ぬれば、さて過る処に、一院院宣を給(たまひ)て、平家を可(レ)誅也、先兼隆を討とて、北条と佐々木等を遣しぬ、打勝たらば館に火をかくべしと云つるが、いまだ煙も見えず、討(有朋上P663)損じぬるやらん■(おぼつかな)し。折節(をりふし)人のなきに、景廉は是に候へと宣へば、加藤次不(二)聞敢(一)穴心憂、不(レ)参は知せ給まじかりける歟、世間も何となく怱々也つれば、馳参れり、加藤の御大事(おんだいじ)を思召(おぼしめし)立けるに、など景廉には被(二)仰含(一)ざりけるやらん、殿中に人多候へば、我も我もとこそ存ずらめ共、加様の夜討にはさすが、景廉こそ侍べらめ、君に命を奉る、兼隆をば速に討て可(レ)進とて、傍若無人に申散して出る処に、佐殿景廉を呼返して、火威の鎧に白星の甲取具して、其上に夜討には太刀より柄長物よかるべし、是にて敵の首を取て進よとて、小長刀を給ふ。是は故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の秘蔵の物也けるを、流罪の時父が形見にも見んとて、池尼御前に申請て下給(たま)ひたりける也。銀の小蛭巻に目貫には法螺を透して、義朝(よしとも)身を不(レ)放持れたりし宝物なれ共、且は軍を進んが為、且は事の始を祝はんとおぼして給にけり。景廉是を給(たまひ)て、佐殿の雑色一人州前三郎下人二人、已上五騎(ごき)にて八牧城に推寄す。見れば時政南表に引退て扣へたり。景廉を見て、いかに御辺(ごへん)は、当時御勘当にて御座(おは)するにと問へば、俄(にはか)に召て八牧が首貫て
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進よとて、御長刀を給れり、是を見給へとて指出。抑北条殿宵より寄給たれば、城の案内知給たるらん、有の儘に語給へ、私の軍に非ず、君の御大事(おんだいじ)也と云。時政城の内の構様をば知ず、門より外に櫓あり、(有朋上P664)兵共(つはものども)櫓より下し矢に射る、櫓の前は大堀也、橋を引たれば入事叶はず、互に堀を隔て遠矢に射れば、宵より今まで勝負なし、佐々木の人々は搦手に廻ぬ、時政は家子郎等散々(さんざん)に射られて、五六度まで引退て控へたりと云。加藤次申けるは、殿原は宵より軍に疲たるらん、休給へ、景廉荒手也、一当当て見べし、健ならん楯突を一人たび候へ、其外楯二三枚橋に渡さんとて取聚て、弓の替弦を以て筏に組堀に打入て、北条が雑色に源藤次と云男に楯つかせて歩立に成り、州崎相具し、長刀をば下人に持せ、寄手の弓征矢乞取て、堀を渡り城内に進入、櫓の下にたゝずみたり。櫓に有ける者共も、宵より軍に疲ぬ、矢種も尽にければ、或落或内に入てなかりけり。門の戸を押開て攻入けるに、箭面に立たりける者三人大庭に射倒し、加藤次佐殿の雑色に下知しけるは、心苦思召(おぼしめし)つるに、先櫓と門とに火をさせと云ければ、雑色下知に依て火を差てげり。爰(ここ)に武者一人進出て名乗けるは、河内国住人(ぢゆうにん)、石川郡の、関屋八郎とは我事也、櫓の上にて射残せる、中差一筋こゝにあり、今夜夜討の大将軍は、北条、佐々木歟、土肥、土屋歟、加藤が党か、名乗て我矢請取て名聞にせよと呼て、内に入ぬ。加藤次、門外に引退て、乳子を招て云けるは、関屋が詞聞つらん、彼が箭にあたらん者、命生る者有まじ、我其矢にあたらん(有朋上P665)事安事也、但我討れなば此軍鈍かるべし、佐殿を世に立奉らん
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と思に、汝景廉と名乗て敵の矢に中て、えさせんや、さもあらば思事を云置け、更に違事有まじと云。州崎是を聞て、我少きより殿に育れ奉て、難(レ)忘(二)其恩(一)、軍に出るよりして、命生べしと存ぜず、奉(レ)代べし、思事とては老たる母が事計、其は迚も乳の恩忘給はじなれば、よく育給へとて門の内に進入、伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に、加藤判官の次男景廉是に在、関屋八郎と聞つるは、云つる言には似ず、落ぬるかと云ひて、楯を前にさしかざして居たりけり。関屋然べきと悦て、三人張に大の中差取て番ひ、十五束よく引竪て、放たれば、楯を通し、冑の胸板(むないた)後のあげ巻へ射出たり。州崎西枕に倒伏。死人を舁出して、様々口説言して、今一度もの云へきかんと云けれ共、事切ぬれば、藤次も涙を流して、汝が母をば疎にすべからず、草の陰にてもかがみよ、敵をば討てとらすべし、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)とて州崎を閑所に抛置て、進入て云けるは、昔は、加藤次は一人、今は源氏繁昌の御代と成て、加藤次と云者二人あり、関屋が音のしつるは落ぬるか、返合て組や/\とぞ呼びける。関屋是を聞て、敵のたばかるを不(レ)知して、矢を放ける本意なさよ、人に詞を懸られて、さて有るべきに非ずとて、甲の緒を強くしめ、三尺五寸の太刀を抜、いづくへか落べき、関屋爰(ここ)に在とて、にこと笑て出合たり。(有朋上P666)互に打物の上手にて、切たり請たり大庭を二度三度ぞ廻たる。加藤次は、角ては勝負急度あらじと思ひて、態と請け、其隙を伺て吾太刀をば投捨てつと寄り、鎧草摺引寄て、得たりやおうとぞ組だりける。上に成下になりころびける程に、雨打際のくぼかりける所にて、関屋下に成、加藤次上に乗係て、押へて首を掻てけり。首を太刀のさきに貫て、
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鬼神の様に云つる関屋が頸、景廉分捕にしたりやと云て、抛出す。下部是を取て持たりけるを、北条乞取つて、鞍のしほでにぞ付たりける。去(さる)程(ほど)に景廉は太刀をば投捨て、下人に持せたる長刀を取、甲をしめしころを傾て、縁の上へつと上り侍を見入たれば、高燈台に火白掻立たり。さしも人有とも見えず。景廉進入処に、狩衣の上に腹巻著たる男の、大の長刀の鞘はづして立向たりけるを、景廉走違様にして、弓手の脇より妻手脇へ差貫て投臥たり。京家の者と覚えたり。軈(やが)て内へ攻入りて、寝殿をさしのぞいて見れば額突あり。燈白く掻立て、障子を細目に開て、太刀の帯取五寸計引残せり。見れば兼隆紺の小袖に上腹巻著て、太刀を額に当て、膝付居て、敵つと入らば、はたと切らんと覚しくて待懸たり。加藤次過せじとて、左右なくは不(レ)入、甲を脱いで長刀のさきに懸て、内へつと指入たり。待儲たる兼隆なれば、敵の入るぞと心得(こころえ)て、太刀を入て、はたと切る。余に強打程(有朋上P667)に、甲の星二並三並切削、鴨居に鋒打立て、ぬかん/\とする処に、傍の障子を蹈倒し、長刀の柄を取直して、腹巻かけに胸より背へ差貫、軈(やが)てとらへて頸を掻く。こゝに八牧を憑て筆執して有ける、古山法師に某の注記と云けるが、萌黄糸威の腹巻に、三尺二寸(にすん)の太刀を抜て飛で係ければ、景廉走違て長刀をしたゝかに打懸たり。左の肩より右の乳の間へ打さかれて、其儘軈(やが)て死にける。即兼隆が頸片手に提、障子に火吹付て、暫、待て躍出。北条に向て仕たりとて、敵の首を捧たり。佐殿は遥(はるか)に焼亡を見給(たま)ひて、景廉はや兼隆をば打てけり、門出能と独言して悦び給ける処に、北条使を立て、八牧の判官は景廉に討れ候ひ
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ぬ、高名ゆゝしくこそと申たれば、神妙(しんべう)神妙(しんべう)と感じ給へり。北条兼隆が頸を見て、
  法華経(ほけきやう)の序品をだにもしらぬみに八牧が末を見るぞ嬉しき K113 
と、景廉は宵よりの仰也ければ、頸をば給たりける長刀に指貫、高らかに指上て参たり。ゆゝしくこそ見えけれ。佐殿大に悦びて、八牧が首を谷川の水にすゝがせて、長櫃のふたに置れて、一時是をぞ見給ける。謀叛の門出に、さこそ嬉しく御座(おはしまし)けめ。(有朋上P668)
S2002 小児読(二)諷誦(一)事
兼隆被(レ)討後日に追善あり。修行者を招請して唱導を勤けるに、色々の捧物に、思々に志を載たり。其中に一紙の諷誦あり。法華経(ほけきやう)開八巻心成仏身と計書たる諷誦あり。導師是を読煩たりけるに、聴衆の中に五歳の小児あり。此諷誦をよまんと云けるを、乳母(めのと)いかにとしてかと制しけれ共、膝の上より頽下、高座の下に歩寄て、
  法の花終にひらくる八牧には心仏の身とぞ成ぬる K114
と、不思議なりける事也。
S2003 佐殿大場勢汰事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)謀叛起し、兼隆判官討れぬと聞えければ、伊豆国(いづのくに)には、公藤介茂光、子息狩野五郎親光、宇佐美平太、弟の平六、平三資茂、藤九郎盛長、藤内遠景、弟の六郎、新田四郎忠経、義藤房成尋、堀藤次親家、七郎武者宣親、中四郎惟重、中八惟平、橘次頼時、鮫島四郎宗房、近藤七国平、大江平次家秀、新藤次俊長、小中太光家、沢六郎宗家、城平太等馳(有朋上P669)参、相模国(さがみのくに)には土肥次郎真平、子息太郎遠平、岡崎四郎義真、
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子息与一義貞、土屋三郎宗遠、同(おなじく)二郎義清、中林太郎、同次郎、築井次郎義行、同八郎義安、新開荒太郎実重、平左近太郎為重、多毛三郎義国、安田三郎明益等馳集る。
廿日は兵衛佐(ひやうゑのすけ)彼輩を相具して、相模の土肥へ越え給(たま)ひ、此にて軍の談義あり。真平申けるは、軍は謀と申ながら、いかにも勢により侍べし、先廻文の御教書を以て、御家人を召るべしと奉(レ)進ければ、然るべきとて、藤九郎盛長を使にて、院宣の案に佐殿の施行書を副へて、方々へ触遣はす。盛長是を給(たまひ)て、先相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)波多野馬允に触るるに、良案じて是非の御返事(おんへんじ)不(レ)申、源平共に兼て勝負を知ざれば、後悔を存ずる故也。同国懐島の平権頭景義に相触たり。此景義と申は、保元の合戦に、八郎為朝に膝の節射られたる大場平太が事也。弟の三郎景親が許へ行て、かゝる院宣の案と御教書を給たり。和殿はいかゞ思と問ふに、景親申けるは、源氏は重代の主にて御座(おはしませ)ば、尤可(レ)参なれ共、一年囚に成て既(すで)にきらるべかりしを、平家に奉(レ)被(レ)宥、其恩如(レ)山、又東国の御後見し、妻子を養事も争か可(レ)奉(レ)忘なれば、平家へこそと云。和殿は誠に平家の恩にて世にある人なれば、さもし給へ、景義は源氏へ参らんと存ず、但軍の勝負兼て難(レ)知、平家猶も栄え給はば和殿を憑べし、若又源氏世(有朋上P670)に出給はば我をも憑給へとて、弟の豊田次郎景俊を相具して、佐殿へ参じ加りける也。大場は俣野五郎と二人平家に付ぬ。同国山内須藤刑部丞俊通が孫滝口俊綱(としつな)が子に、滝口三郎利氏、同四郎利宗兄弟二人に相触たり。折節(をりふし)一所に双六打て居たり。烏帽子子(えぼしご)に手綱うたせて筒手に把、御使にも不(レ)憚、弟の四郎
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に向て云けるは、是聞給へ、人の至て貧に成ぬれば、あらぬ心もつき給けり、佐殿の当時の寸法を以て、平家の世をとらんとし給はん事は、いざ/\富士の峯と長け並べ、猫の額の物を鼠の伺ふ喩へにや、身もなき人に同意せんと得申さじ、恐し/\、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)/\とぞ嘲ける。利宗不(レ)知(二)逆順之分(一)、不(レ)弁(二)利害之用(一)、只恐(二)強大之敵(一)、忽背(二)真旧之主(一)、口吐(二)妄言(一)、心無(二)誠信(一)、頗非(二)勇士之法(一)、偏似(二)狂人之体(一)けり。三浦介義明が許へ相触たり。折節(をりふし)風気ありて平臥したりけるが、佐殿の御使と聞て、悦起て、白き浄衣に立烏帽子(たてえぼし)著て、出合たり。廻文の御教書とて被(レ)出たりければ、手洗嗽なんどして、御文披、老眼より涙をはら/\と流して申けるは、故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)の御末は、果て給(たま)ひぬるやらんと心憂く思ひつるに、此殿ばかり生残御座(おはしまし)て、七十有余(いうよ)の義明が世に、源氏の家を起し給はん事の嬉しさよ、唯是一身の悦也、子孫催し聚て、御教書拝み奉るべしとて、三浦別当義澄、太田三郎義成、佐原(有朋上P671)十郎義連、和田太郎義盛、同次郎義茂、同三郎宗真、多々良三郎義春、同四郎明季、佐野平太等を始として、郎等雑色に至まで催集て、是を拝しむ。各聞給へ、義明今年七十九、老病身を侵して、余命旦暮を待、今此仰を蒙事、老後の悦也、我家の繁昌也、倩事の心を案ずるに、廿一年を一昔とす、それ過ぬれば、淵は瀬と成、瀬は淵となる、而を平家日本(につぽん)一州を押領して既(すで)に廿余年、非分の官位任(レ)心、過分の俸禄思の如なり、梟悪年を積、狼藉日を重たり、其運末に臨で、滅亡期極れり、源氏繁昌の折節(をりふし)、何疑か有べし、一味同心して兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)へ参べし、御冥加なくして、
P0492
討死し給はば、各首を並べ奉りて、冥途の御伴仕れ、山賊海賊して死にたらば瑕瑾恥辱なるべし、相伝の主の逆臣追討の院宣を給(たまひ)て、軍し給はん御伴申て、身を亡さん事、為(レ)家為(レ)君、永代の面目也、佐殿又御冥加ありて世に立給ならば、子も孫も被(二)打残(一)たらん輩は誇(二)恩賞(一)、などか繁昌せざるべきと申ければ、口々に子細にや/\とて皆憑もしげにぞ申ける。いか様にも悦の御使なれば、可(レ)奉(レ)祝とて、酒肴尋常にして、馬一匹に太刀一振相副て引き、可(二)参上仕(一)とて、内々其用意あり。義明教訓之趣、有(レ)義無(レ)私、有(レ)勇無(レ)戻ければ、聞者感(レ)之けり。昔晏嬰発(二)勇於崔杼(一)、程嬰顕(二)義於趙武(一)、今義明為(二)頼朝(よりとも)(一)忽報(二)旧恩(一)、遂立(二)新(有朋上P672)功(一)、彰(二)誉於四方(一)、奮(二)名於百代(一)けり。藤九郎盛長其より下総に越て、千葉介に相触たり。院宣の案御教書披見て、此事上総介に申合て、是より御返事(おんへんじ)申べしとて盛長を返す。千葉介が嫡子小太郎は生年十七に成けるが、折節(をりふし)鷹狩に出て帰けるが、道にて盛長に行合たり。互に馬を引へて対面して、如何にと問。盛長しか/゛\と答たり。小太郎不(二)心得(こころえ)(一)思て、盛長を相具して館に帰り、向(レ)父云けるは、恐ある事に候へ共、院宣の上御教書成侍ぬ。先度の御催促に参上の由御返事(おんへんじ)申されぬ、其上上総介に随たる非(二)御身(一)、彼が参らばまゐらん、不(レ)参は参らじと仰候べき歟、全不(レ)可(レ)依(二)其下知(一)、只急度可(レ)参由御返事(おんへんじ)申させ給ふべしと云ければ、賢々しく計者哉と思て、実に可(レ)然とて、可(レ)参と御返事(おんへんじ)申けり。其より上総介に相触ければ、生て此事を奉る身の幸にあらずや、忠を表し名を留ん事、此時にありとぞ申ける。昔魯連弁言以退
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(レ)燕色■(しう)単辞以存(レ)楚。盛長已全(二)使節於戦術(一)動(二)三寸之舌(一)、深蕩(二)二人之心(一)、経胤等振(レ)威勢於興(二)衆窟(一)、八箇国之兵遂治(二)四夷之乱(一)けり。夫弁士は国之良薬、智者は朝之明鏡也といへり。此事誠哉、各馳向はんとしけれ共、廻れば渡あまたあり、直には海を隔たり、八月下旬の比なれば、浪荒風烈して、心の外にぞ遅参しける。(有朋上P673)
S2004 石橋合戦事
八月廿二日には、兵衛佐(ひやうゑのすけ)北条佐々木を先として、伊豆相模二箇国の住人(ぢゆうにん)同意の輩、三百(さんびやく)余騎(よき)を引具して、早川尻に陣を取。早川党進出て、爰(ここ)は軍場には悪く侍り、湯本の方より敵山を越て、後を打囲、中に取籠られなば、ゆゝしき大事なり。更に一人も難(レ)遁と申ければ、其より米噛石橋と云所に移て陣を取、上の山の腰に垣楯をかき、下の大道を切塞で引籠る。此事角と聞えければ、大場三郎景親は、武蔵相模の勢を招相従輩、舎弟(しやてい)俣野五郎景尚、長尾新五、同新六、八木下五郎、漢揚五郎以下、鎌倉党は一人も不(レ)漏、海老名源八権頭季定、子息の荻野五郎季重、同彦太郎、同小太郎、河村三郎能秀、曽我太郎祐信、佐々木五郎義清、渋谷庄司重国、山内、滝口三郎経俊、同四郎、稲毛三郎重成、久下の権頭直光、子息次郎実光、熊谷次郎直実、岡部六弥太忠澄、浅間三郎、広瀬太郎、笠間三郎等を始として、宗徒の者共三百(さんびやく)余騎(よき)、家子郎等相具して三千(さんぜん)余騎(よき)也。同廿三日の辰時には、大場三郎景親大将軍として、三千(さんぜん)余騎(よき)を相具して、石橋の城(じやう)に押寄、谷を前に隔て、海を後に当て陣を取、落日西山に傾て、其(その)日(ひ)も既(すで)に暮なんとす。稲毛三郎(有朋上P674)重成進出て、日既(すで)に晩ぬ、夜軍は敵御方不(二)見分(一)、去ば明日を期す
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べきやらんと申ければ、大場申けるは、明日を相待ならば、敵に大勢付重て、輙く難(二)攻落(一)、後には三浦の者共馳来也、両方を禦ん事、ゆゝしき大事也、道狭して足立悪き城なれば、小勢におはする時、佐殿を追落して、明日は一向三浦に向て勝負すべきと申す。此儀然べきとて、三千(さんぜん)余騎(よき)声を調て、時を造る。佐殿も同時を合て鳴矢を射通しければ、山神答て、敵も味方も大勢とこそ聞えけれ。大場進出て、弓杖を突、鐙蹈張立上て、抑平家は桓武帝の御苗裔、葛原親王御後胤として、代々蒙(二)将軍宣(一)、遥(はるか)に朝家の御守たり。天下の逆乱を和げ、海内の賊徒を随へ、武勇の名勝(二)他家(一)、弓矢の誉伝(二)当家(一)、就(レ)中(なかんづく)太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)、保元平治の凶賊を鎮治しより以来、公家の重臣として、其身太政大臣(だいじやうだいじん)に昇、子孫兼官兼職に御座(おはしま)す、一天重(レ)之、万民誰か軽しめん、依(レ)之(これによつて)南海西海の鱗に至まで、随(二)其威応(一)、東国北国の民何ぞ可(レ)奉(二)忽緒(一)。爰(ここ)に今たやすくも奉(レ)傾(二)平家御代(一)との合戦の企誰人ぞ、恐くは蟷螂(たうらう)の手を挙て向(二)竜車(一)喩かは、名乗名乗とぞ攻たりける。北条四郎歩せ出して、汝不(レ)知哉、我君は是清和(せいわ)天皇(てんわう)第六皇子、貞純親王の御子、六孫王より七代の後胤、八幡殿の四代の御孫、前(さきの)右兵衛権佐殿(うひやうゑのごんのすけどの)ぞかし、傍若無人の景親が申状頗尾籠也、平家は悪行身に余て、朝威を(有朋上P675)蔑にす、依(レ)之(これによつて)早彼一門を追討して、可(レ)奉(レ)休(二)逆鱗(一)由、太政法皇の院宣を被(レ)下たり。錦の袋に納て御旗の頭に挟み給へり。且は可(レ)奉(レ)拝、されば佐殿こそ日本(につぽん)の大将軍よ、平家こそ今は朝家の賊徒よ、綸言之上は、戮誅不(レ)可(レ)廻(二)時刻(一)処に、彼家人と号する輩依(レ)有(レ)之、先其党類を追討して後、花洛に上り、逆臣を可(レ)被(レ)誅也。景親
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慥に承れ、故八幡殿奥州(あうしう)の貞任宗任を被(レ)攻より以来、東国之輩代々相続て、誰人か君の御家人にあらざる、随て景親も父祖相伝の者也、馬に乗ながら子細を申条奇怪也、後勘兼て可(レ)不(レ)顧歟、下て可(レ)申也、御伴には時政父子一人も不(レ)漏、佐々木太郎定綱兄弟四人、加藤太光胤兄弟と、沢六郎、近藤七、新田七郎父子、城平太、小中太、公藤介父子、土肥次郎父子、新開荒太郎、土屋三郎、岡崎四郎と其子与一、懐島豊田次郎等、侍らふ也。其外の人々、国々より任(二)院宣(一)御教書に付て、夜を日に継で馳参。王事無(レ)脆、八虎の凶徒に諂て後悔すな、速に甲を脱手を合て可(レ)参也といへば、大場重て申けるは、昔八幡殿後三年の軍の御伴して、出羽国仙北の金沢城被(レ)責時、十六歳にて先陣を蒐け、右の目を射させて、答の矢を射、其敵を討捕て、甲を其場に施し、名を後代に留し鎌倉権五郎景政が末葉、大場三郎景親大将軍として、兄弟親類已下三千(さんぜん)余騎(よき)也。是程の大事を思立給ながら、勢の(有朋上P676)かさこそ少なけれ、実に誰かは随ひ奉るべき、只(ただ)心にくき体にて落給へかし、命ばかり生け申さんと云。北条又申しけるは、景親は先祖は具に知たりけり、いかに口は口、心は心と、三代相伝の君に敵し申ぞ、忠臣は二君に不(レ)仕と云事あり、其上奉(レ)向(二)十善帝王(一)、院宣を係(レ)蹄、弓矢を放たん事、冥加の程■(おぼつかな)し、背(二)勅命(一)者は、剣を歩が如と云にや、旁以無益の事也、唯急参れと云。大場重て申、先祖は誠に主君、但昔は昔今は今、恩こそ主よ、源氏は朝敵と成給(たまひ)て後は、我身一人の置所(おきどころ)なし、家人の恩までは沙汰の外也、景親は平家の御恩を蒙事如(二)海山(一)高深、不(レ)知(レ)恩は木石也、何ぞ世になき主を顧み
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て今の可(レ)忘(レ)恩、勇士は如(レ)諂と云事あり、只今(ただいま)追落たてまつるべき也とて、三千(さんぜん)余騎(よき)我も/\と勇けり。北条又申けるは、欲は身を失といへり、まさなき大場が詞哉、一旦の恩に耽て、重代の主を捨んとや、弓矢取身は言ば一も不(レ)輙、生ても死ても名こそ惜けれ、景親よ、権五郎景政が末葉と名乗ながら、先祖の首に血をあやす、欲心の程こそ不当なれと云ければ、敵も味方も道理なれば、一度にどつとぞ笑ける。
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)仰に、武蔵相模に聞ゆる者共は皆在と覚ゆ、中にも大場俣野兄弟先陣と見えたり。此等に誰をか与すべきと宣へば、岡崎四郎義真申けるは、弓箭を取て戦場に出る程の者、敵一人にく(有朋上P677)まぬ者やは侍るべき、親の身にて申事、人の嘲を顧ざるに似たれ共、存る処を申さざらんも、還つて又私あるに似たるべし、義貞は此間大事の所労仕て、未力つかずや侍らめ共、心しぶとき奴にて、弓箭取ては等倫に劣るべからず、其器に侍り、被(二)仰含(一)べきかと申ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)宣(のたまひ)けるは、趙武挙以(二)私讐(一)、所奚薦以(二)己子(一)せり、忠有て私無には、或は敵を挙し、或は子を薦事、皆合(レ)義合(レ)法、義貞を召てけり。与一其(その)日(ひ)の装束には、青地錦直垂に、赤威肩白冑のすそ金物打たるを著て、妻黒の箭負、長覆輪の剣を帯けり。折烏帽子(をりえぼし)を引立て、弓を平め跪きて、将軍の前に平伏せり。白葦毛なる馬をぞ引せたる、其体あたりを払てぞ見えける。今日の撰にあへる、誠にゆゝしく見えし。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、佐奈田に宣(のたまひ)けるは、大場俣野は名ある奴原也、今日の軍の先陣仕て、彼等二人が間にくめ、源氏の軍の
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手合也、高名せよとぞ宣(のたま)ひける。与一蒙(レ)仰畏て御前を立、郎等に文三家安と云者を招寄て、義貞が母又子共が母にも語べしとて云けるは、一昨日打出しを最後と思給ふべし。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)今度の軍の先陣勤よと直に仰たびたれば、多の人の中に択ばれたる事、弓矢取身の面目也。されば命を限に戦んずれば、生て再び帰る事よもあらじ。兼て角と知侍らば、何事も申置べかりけり。其事今は力なし。我討れ(有朋上P678)ぬと聞給(たま)ひなば、母御前女房の御歎こそ思残奉れ、縦我死たり共、世のしづまらん程は、二人の稚者をば、いかならん野の末山の奥にも隠置て、佐殿世に立給たらん時、先祖なれば岡崎と佐奈田とをば申給(たま)ひて、兄弟に知せてたび候へ、さては女房も子供が後見して御座(おはしま)せ、仏に花香進て、後の世弔給へ。父岡崎殿も佐殿の御伴なれば、軍の習ひ生死を知らず、女姓は何事か有べきなれば、角申置也と慥に云伝べし、又汝も少き者共不便に生立て、世にあらば憑め、世になくば憐て、義貞が形見とも思へなど云ければ、文三申けるは、殿の二歳の時より、家安親代と成て、夜は胸にかゝへ奉りて夜通労、昼は肩にのせ終日に奉(レ)育、早く成人し給(たまひ)て、人に勝れ給はん事を願き、五六歳に成給しかば、竹の小弓に小竹矯の矢、的、草鹿、兎こそ射れ角こそ射れ、馬に乗てはとこそ馳れ角こそ馳れと教へ奉生立。殿は今年は廿五、家安五十七に罷成る。若き人だに主命とて先陣を蒐て死なんと宣ふ、殿を見捨て家安が生残りては何にかせん、又人のいはん事こそ恥しけれ、佐奈田与一の最後には、恥ある郎等身にそはず、文三家安が幾程命を生んとてか、最後の軍に主を捨てて逃たりけりと申さん事
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も口惜し、死なば一所の討死也、左様の事をば誰にも仰られよかしとて、三郎丸と云童を招寄て、申含て遣けり。与一既(すで)に(有朋上P679)打出ければ、佐殿は義貞が装束毛早に見ゆ、著替よかしと宣へば、与一は弓矢取身の晴振舞、軍場に過たる事候まじ、尤欣処に侍とて、十五騎の勢を相具して進出て申けるは、源氏世を取給ふべき軍の先陣給(たまひ)て、蒐出たるを誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、三浦介義明の弟に、本は三浦悪四郎、今は岡崎四郎義真、其嫡子に佐奈田与一義貞、生年廿五、我と思はん人々は、組や/\とて叫でかく。弓手は海、妻手は山、暗さはくらし、雨はいにいで降、道は狭し、馬に任てぞかけ行ける。平家方より、与一は能敵ぞ、あますなとて進者共には、大場三郎景親、俣野五郎景尚、長尾新五、新六、八木下五郎、漢揚五郎、萩野五郎、曽我太郎、原宗四郎、渋谷庄司、滝口三郎、稲毛三郎、久下権頭、浅間三郎、広瀬太郎、岡部六弥太、同弥次郎、熊谷次郎等を先として、究竟の兵七十三騎、佐奈田一人に組んとて、我先我先にとはやれ共、闇さはくらし道は狭し、馬次第にぞ打つたりける。
廿三日の誰彼時の事なれば、敵も味方も見え分ず、与一は文三を呼て、家安慥に聞、我は相構て大場俣野が間に組んと思也、くむ程ならば急落合て敵の頸をとれ、此間の労に無(レ)力覚れば、兼て云ぞと云。文三誰もさこそ存候へ、殿の大場にくみ給はば、家安は俣野、我大場に組候はば、殿は俣野にくみ給へとて進処に、岡部(有朋上P680)弥次郎、与一に組んと志て、鹿毛なる馬に乗て馳来る。与一は岡部とは思よらず、大場
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歟、俣野かと思馳よりて、甲のてへんに手を打入て、鞍の前つ輪に引付て、頸を掻取上、雲透に見れば、思敵にはあらずして岡部弥次郎也。穴無慙や鹿待処の狸とは此事にや、なにしに来て義貞に討るらんとて、首をば谷へぞ抛入ける。与一が乗たる馬は、白葦毛太逞が、七寸(しちすん)に余て鼻のさき瓠の花の如く白かりければ、名をば夕貌と云ひ、東国一の強馬也。もと三浦介が許に有けるが、余に強て輙乗者もなかりけるを、岡崎所望して乗けるが、それも進退し煩たりけるに、与一計ぞ乗随たりける。去共岡崎持和て、三浦へ返たれば、本の栖へ帰たりとて都返りと名付たり。佐奈田折節(をりふし)馬なくて又乞返たれば、古巣へ帰たりとて鶯共呼けり。元来つよき馬也けれ共、己が力を憑つゝ、出雲轡の大なるに、手綱二筋より合てぞ乗たりける。岡部弥次郎が頸切ける時、鎧武者の身の落るに驚て、つと出て走行。猿物ぞと心得(こころえ)て、引留ん引留んとしけれ共。此馬の癖として、口をば主に打くれて、胸にて走馬也けり。猶留んと引程に、手綱三に切れければ、左右の水付とらへたり。左右の水付引もぎて、心の儘に引て行。大場三郎は弟の俣野五郎に、構て与一に組給へ、景親も目に懸らばくまんずるぞと云。俣野は余に暗て敵も味方(有朋上P681)も見えわかず、与一も何哉らんといへば、与一が鎧はすそ金物の、殊にきらめきて馬の毛も白かりき。白き幌を懸たりつれば、験かりつる也と教。俣野歩せ出す、与一馬に引れて近付たり。俣野敵のよすると思ければ、佐奈田与一義貞と名乗つるは落ぬるかと叫けり。無下に近かりければ、義貞こゝにあり問は誰。俣野五郎景尚と名乗や遅、押並て馬の間へ落重なる。上に成下になり、駻返持返、山のそはを
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下りに、大道まで四段計ぞころびたる。今一返もころびなば、互に海へは入なまし。俣野は大力と聞に、いかゞしたりけん下に被(二)推付(一)てうつぶしに臥、頭は下に足は上に、起ん/\としけれ共、俣野力なかりける。与一は上にひたと乗得て、義貞敵に組たり、落重れ/\と叫けれ共、家安を始として郎等共(らうどうども)、押隔てられてつゞく者なし。俣野今は叶はじと思て、景尚佐奈田に組たり、つゞけや/\と叫びけるに、長尾新五声に付て落合て、上や敵下や敵と問。与一は上に乗ながら、角宣ふは長尾殿歟、上ぞ景尚、下ぞ与一、謬し給なと云。俣野下にて、上ぞ与一下ぞ景尚、過すなと云。頭は一所にあり、くらさはくらし、音は息突て分明に不(二)聞分(一)上よ下よと論じければ、思侘てぞ立たりける。俣野穴不覚の殿や、音にても聞知なん、鎧の毛をも捜給へかしと云。長尾誠にと思て、鎧の毛をぞ捜りける。与一あ(有朋上P682)らはれぬと思て、右の足を揚げて長尾をむずと蹈、ふまれて下りに弓長三杖ばかり、とゞ走て倒にけり。其間に与一刀を抜て、俣野が首をかく。掻共掻共不(レ)切、指共指共透らず。与一刀を持揚げて雲透に見れば、さや巻のくりかたかけて、鞘ながら抜たりけり。鞘尻くはへてぬかん/\としけれ共、運の極の悲さは、岡部弥次郎が首切りたりける刀を不(レ)拭さやに差たれば、血詰して抜ざりけり。長尾新五が弟に新六落合て、与一が胡■[*竹冠+録](やなぐひ)の間にひたと乗得て、甲のてへんを引仰て頸をかく、無慙と云も疎也。俣野を引起して、いかに手や負たると問へば、くびこそ重覚ゆると云。頸をさぐればぬれぬれとあり。手負たるにこそとて、与一が刀を見れば、鞘尻一寸ばかり砕たり。つよく指たりと覚たり。
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其後俣野は軍はせず、佐奈田与一は、俣野五郎止めたりと叫ければ、源氏方には惜みけり。平家方には是を悦けり。文三家安は、大勢に被(二)推隔(一)、主の与一が討れたるをば不(レ)知けり。一所にていかにも成んと主を尋て走廻けれども、敵は山に満々たり、尾は一隔たり、死生のゆくへ不(レ)知。高声に云けるは、東八箇国の殿原は、誰か源氏重代の非(二)御家人(一)、平家追討の院宣を下さるゝ上は、今は兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の御代ぞかし、源氏の御繁昌今にあり、明日は殿原悔給べし、矢をも一筋放ぬさきに、参候へかしとぞ■(ののしり)ける。相模国(さがみのくに)(有朋上P683)の住人(ぢゆうにん)渋谷庄司重国、角云は誰そと問。佐奈田殿の郎等に、文三家安と答。重国申けるは、あゝあたら詞を主にいはせで、人がましきと云。家安は悪き殿の詞哉、げに人の郎等は人ならず、去共家安主は二人とらず、他人の門へ足蹈入ず、うでくび取て不(レ)追従(一)、殿こそ実の人よ、桓武帝苗裔、高望王の後胤、秩父の末葉と名乗ながら、一方の大将軍をだにもし給はで、不(二)思寄(一)大場三郎が尻舞して、迷行給ふをぞ人とはいはぬ、家安人ならず共、押並て組給へかし、手の程みせ奉らんと云たりければ、敵も味方もどつと笑ふ。重国由なき詞つかひて、苦返てぞ聞えける。家安は秩父の一門に、稲毛三郎が手に合て戦けり。重成申けるは、やをれ文三よ、己が主の与一は討れぬ、今は誰をか可(レ)育、にげよ助けんと云。文三申けるは、やゝ稲毛殿、家安は幼少より軍には蒐組と云事は習たれ共、逃隠と云事は未(レ)知、主の死ればとて逃んは、御辺(ごへん)の郎等をば何にかはし給べき、まさなき殿の詞哉、与一殿討れ給ぬと聞て後は、誰ゆゑ身をばたばふべき、逃よと宣はんよりは、押並て組給へかしと進
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ければ、稲毛三郎が郎等、押阻押阻戦けり。家安分捕八人(はちにん)して、討死してこそ失にけれ、誉ぬ者こそなかりけれ。岡崎四郎、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に、与一冠者こそ討れ候けれと申せば、佐殿は、穴無慙や、よき若者を、頼朝(よりとも)もし世に(有朋上P684)あらば、与一が後世をば弔べしと被(レ)仰ければ、岡崎は縦五人十人の子をば失侍るとも、君だに御世に立給はば、其こそ本意に候へと心強くは云けれ共、流石(さすが)恩愛の道なれば、鎧の袖をぞぬらしける。与一家安討れて後は、源平互に入替入替終夜(よもすがら)戦けるが、軍兵もはや疲ぬ、敵は大勢也、今はいかにも難(レ)叶とて、暁方に佐殿の勢は土肥を差てぞ落行ける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も縦引共、矢一射て落んとて後陣にさがり、返合せよ/\と下知し給。是を聞て三浦の太田次郎義久、加藤次景廉、三崎の堀口と云所に下り塞、散々(さんざん)に戦ふ。敵は数千ありけれども、道狭ければ二騎三騎づつ寄けるを、引つめ/\射、是にぞ多く被(レ)射ける。矢種尽ければ、義久景廉引退。
S2005 公藤介自害事
八月廿四日辰刻には、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、上の杉山へ引給ふ。荻野五郎季重兄弟子息五騎(ごき)にて奉(二)追係(一)申けるは、此先に落給は、大将軍とこそ見え給へ、まさなくも後をば見せ給者哉、無益の謀叛発して、源氏の名折給ぬ、返し給へ/\とて馳来。佐殿不(レ)安思給ければ、唯一人留て、一の矢番て射給へば、荻野が弓手の草摺縫様に射こまれたり。二の矢に鞍の(有朋上P685)前輪を馬の背係て射渡し給へり。馬頻(しきり)に駻ければ、荻野馬より落。三の矢に彦太郎が馬の胸帯尽射させて、是も馬はねければ、足を越てぞ立たりける。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)宇佐比三郎助茂馳参て、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の前に指塞りて、昔より大将軍の戦なき事に侍り、疾疾
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引給へと申。防箭射者の無ればこそと宣ふ時、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)飯田三郎家能馳来て、よき箭三射ける程に杉山へこそ懸給へ、軍兵皆山峨々として登がたかりければ、鎧に太刀ばかり帯て、此彼より落上けり。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)沢六郎宗家是にして討れぬ。同国住人(ぢゆうにん)公藤介茂光は、如(レ)法肥太たる男也。悪所に懸て身苦く、気絶て登りやらず、伴したりける子息の狩野五郎親光に云けるは、此山は烈くして落延がたし、一定敵に討れぬと覚ゆ、人手に懸ずして我が頸を切れ、佐殿は末憑しき人ぞ、構て二心なく奉公して奉(レ)助と云。親光恩愛の名残(なごり)を憐て、肩に引懸上けれ共、我身だにも行き兼たるに、父をさへ角しければ更に延びえず、公藤介は、やをれ親光よ、我育んとて父子共に人手に懸て、兎角いはれん事、無き跡までも心憂かるべし、敵は既(すで)に近付きたり、只急ぎ我頸を切て孝養せよ、全く逆罪に成まじ、急げ/\と云けれ共、さこそ父が命也とも、争か逆罪を造るべきとや思ひけん、左右なく太刀をば不(レ)抜けり。父が頸を害するは孝子也、母が橋をわたすは不孝也(有朋上P686)と云本文あり。
S2006 楚効荊保事
昔大国に楚効と云ふ者あり、若して父に後て母と共に在けるが、園内に庵を造て、寡なる母を居置て養ふ程に、母つれ/゛\を慰まんとて、忍て男に通ひつゝ年月を送り、園内に深き塹あり、往還の通路也。楚効母が志を知ゆゑに、心安(こころやすく)往来せん事を思て、彼塹に橋を亘す。母が為には孝子とこそ云べきに、子が知事を恥、窃に家を出て自死したりけるをば、子不孝といへり。又荊保と云者ありき。家貧して父を養ひけるが、飢饉の歳にあひて、父が命を難(レ)助かりければ、父と共に隣国(りんごく)に行て、他の財を却して盗て帰ける
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を、家主人を集て是を追。父子二人逃走る事、鼠の猫に合が如し。子は盛にして先立て逃る、父は衰て走事遅。父垣の中をくゞり逃るに、首をば出して足をば捕られたり。荊保立かへりて、父が恥みん事を悲て、剣を抜て其頸を切て、持て家に帰たりけるをば、時の人称して孝養の子と云ひける也。公藤介も、甲斐なき敵に首を取られて恥をみんよりは、疾く切れ疾く切れと云ひけれ共、父が命を蒙上は、孝養の子にこそ有べけれ共、恩愛(有朋上P687)の命を絶ん事悲さに、暫く案じける間に、茂光は腹掻切て臥にけり。田代冠者信綱は、茂光には孫子也けるが、心剛に身健也けり。祖父が自害を見て、つと寄頸掻落して、其孝養し給へとて、伯父狩野五郎に与へけり。親光冑の袖に引隠して、泣々(なくなく)山に登けり。北条次郎宗時、新田次郎忠俊、馬の鼻を返して戦ける程に、甲斐国住人(ぢゆうにん)平井冠者義直と、伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)新田次郎忠俊と馳並て、組で落差違て死にけり。北条次郎宗時は、波打ぎはを歩せ落けるを、伊豆(いづの)五郎助久、係並て取組んで落にけり。両虎相戦て、互に亡(レ)命、留(レ)名けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は尚も延やり給はざりけるを、大場三郎景親、佐々木五郎義清等、大勢にて先陣に進て追懸たり。佐々木五郎義清は、大場三郎が妹聟に也ければ、景親が勢にぞ打具したる。赭白馬に赤皮威の鎧著て、いちじるくこそ見え渡れ。兄の四郎高綱申ける、義清慥に承れ、父の秀義は、故(こ)六条(ろくでうの)判官殿(はんぐわんどの)に父子の儀をなされ奉りて、御子孫の今までも憑みたのまれ奉る、依(レ)之(これによつて)兄弟四人御方にあり、汝一人一門を引分て、思係ぬ大場が尻舞いと珍し、勲功の賞には他人の手に懸べからずと云けれ共、存ずる旨の有けるにや、是非の返事
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はせざりけり。大場三郎も佐々木五郎も鞭を打てぞ責懸ける。大場が童〈 某 〉葦毛馬に乗る間、近程に責付たり。(有朋上P688)
S2007 高綱賜(二)姓名(一)附紀信仮(二)高祖名(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、又射残し給たりける箭を取て番ひ、既(すで)に引かんとし給けるに、佐々木四郎高綱矢面に塞りて、大将軍たる人の、左右なく弓を引矢を放事侍らず、御伴の者共一人もあらん程は、軽々敷事有べからず、郎等乗替其詮也、とく/\延給へ、定綱高綱兄弟御身近侍り、可(二)禦矢仕(一)、但姓名給らんと云ければ、佐殿子細にや、暫高綱に預給ふと宣へば、佐々木姓名を給(たまひ)て、弓矢取て番ひ、坂を下に向て、大音揚て名乗。清和(せいわの)帝(みかど)の第六皇子貞純親王の苗裔、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)の後胤、八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)に三代の孫子、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の三男、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)爰(ここ)にあり、東国の奴原は、先祖重代の家人等(けにんら)也、馬に乗ながら御前近参条狼藉也、奇怪也、罷退と云かけて、暫し竪て態と馬をぞ射たりける。先陣に進ける大場が童、馬の太腹を射通たれば、如(レ)返(二)屏風(一)馬は山の細道に横ざまに倒臥、童は馬に敷れたり。道狭ければ乗越進て上者なし。馬を取除童を起んとする程に、佐殿遥(はるか)に延給ぬ。其後大場遁すな者共とて打て上けるを、定綱高綱兄弟返合て散々(さんざん)に防戦。矢種も尽ければ、四郎高綱兄弟、太刀を抜坂を下に返合返合、七箇度ま(有朋上P689)で切下ければ、大場が大勢坂を下り被(二)追返(一)、此間に深杉山にこそ籠給へ、高綱跡目に付て奉(二)尋逢(一)たりければ、佐殿の仰には、汝が依(二)忠節(一)難(レ)遁命を全せり。世を打取んに於ては、必半分を分給べしとぞ仰ける。古人いへる事あり。疲たる兵の再び戦ふをば一人当千(いちにんたうぜん)といへり、何況乎佐々木疲れて七箇度の戦をや。されば世静て後、七箇度の
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忠を感じて、備前、安芸、周防、因幡、伯耆、日向、出雲七箇国を給たりけれ共、高綱は杉山に入給(たま)ひし時は、日本(につぽん)半国とこそ約束は有しに、七箇国数ならずとて、代を恨て髻切て、高野山にぞ籠にける。善にも悪にも、猛かりける心なり。
 < 昔楚国の項羽と、漢朝の高祖と諍(レ)位戦ひけるに、項羽は多勢也、高祖は小勢なり。去共合戦牛角にして無(二)勝負(一)。項羽を討せんが為に、高祖楚国へ入と聞えければ、楚国の大勢悦て高祖を待。高祖は革車に乗て官兵を従たり。項羽が兵の被(レ)囲(二)多勢(一)、高祖難(レ)遁かりけるに、紀信と云者、高祖の車に乗替つて帝を奉(レ)逃、我は是高祖也と名乗ければ、敵誠と思ひつゝ、革車を囲て是を搦見れば、高祖には非ず、紀信と云者なり。項羽是を捕て、随(レ)我降人にならば赦さんと云ければ、忠臣は不(レ)仕(二)二主(一)、男士不(レ)得(二)諂言(一)云て従はざりければ、兵革車に火を付て、紀信をぞ焼殺しける。佐々木四郎高綱も、此事を思ひけるにや、姓名を給(たまひ)て敵(有朋上P690)を返し、佐殿を奉(レ)延。彼は死して名を遺、是は生て預(レ)恩、異国本朝かはれ共、ためしは実に一なりけり。>


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十一

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那巻 第二十一
S2101 兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)隠(二)臥木(一)附梶原助(二)佐殿(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、土肥杉山を守て、掻分々々落給ふ。伴には、土肥次郎実平、北条四郎時政、岡崎四郎義真、土肥弥太郎遠平、懐島平権守景能、藤九郎盛長已下の輩、相随て落給(たま)ひけるを、大場、曽我案内者として、三千(さんぜん)余騎(よき)にて追懸たり。杉山は分内狭き所にて、忍び隠るべき様なし。田代冠者信綱は大将を延さんとて、高木の上に昇て、引取々々散々(さんざん)に射る。敵三千(さんぜん)余騎(よき)、田代に被(レ)防て左右なく山にも入らざりけり。其隙に佐殿は、鵐の岩屋と云谷におり下り見廻せば、七八人(しちはちにん)が程入ぬべき大なる伏木あり。暫く此に休て息をぞ続給(たま)ひける。去(さる)程(ほど)に御方の者共多く跡目に付いて来り集る。爰(ここ)に佐殿仰けるは、敵は大勢也、而も大場、曽我案内者にて、山蹈して相尋ぬべし、されば大勢悪かりなん、散々(ちりぢり)に忍び給へ、世にあらば互に尋ねたづぬべしと宣へば、兵者我等(われら)既(すで)に日本国(につぽんごく)を敵に受たり、遁べき身に非ず、兎にも角にも一所にこそと各返事申しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)重て宣(のたま)ひけ(有朋上P692)るは、軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。一度軍を敵に被(レ)敗、永く命を失ふ道やはあるべき、爰(ここ)に集り居て、敵にあなづられて命を失はん事、愚なるに非や。昔范蠡不(レ)q(二)会稽之恥(一)、畢復(二)勾践(こうせん)之讎(あだ)(一)、曹沫不(レ)死(二)三敗之辱(一)、已報(二)魯国之羞(一)、此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ。いかにも多勢
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にては不(レ)可(二)遁得(一)、各心に任て落べし、頼朝(よりとも)山を出て、安房上総へ越ぬと聞えば、其時急尋来給ふべしと、言を尽て宣へば、道理遁れ難して、各思々にぞ落行ける。北条四郎は、甲斐国へぞ越にける。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に相従て山に籠ける者は、土肥次郎実平、同男遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長也。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、軍兵ちり/゛\に成て、臥木の天河に隠れ入にけり。其(その)日(ひ)の装束には、赤地の錦の直垂に、赤威の鎧著て、伏木の端近く居給へり。すそ金物には、銀の蝶の丸をきびしく打たりければ、殊にかゞやきてぞ見えける。其中に藤九郎盛長申けるは、盛長承り伝へ侍り。昔後朱雀院御宇(ぎよう)天喜年中に、御先祖伊予守殿、貞任宗任を被(レ)責けるに、官兵多く討れて落給(たま)ひけるに、僅(わづか)に七騎にて山に籠給(たま)ひけり、王事靡(レ)塩終に逆賊を亡して四海を靡し給(たま)ひけりと、今日の御有様(おんありさま)、昔に相違なし、吉例也と申ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)憑もしく覚して、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)をぞ心の内には念じ(有朋上P693)給(たま)ひけり。田代冠者は、矢種既(すで)につきぬ。佐殿今は遥(はるか)に落延給(たま)ひぬらんと思ひければ、木より飛下て、跡目に付て落給(たま)ひ、同臥木の天河にぞ入りにける。田代佐殿に頬を合せて、いかゞすべきと歎処に、大場曽我俣野梶原三千(さんぜん)余騎(よき)山蹈して、木の本萱の中に乱散て尋けれ共不(レ)見けり。大場伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり、空に入りて捜せ者共と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ
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案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。景時哀に見奉りて、暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給(たま)ひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給(たま)ひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へと申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。平三伏木(有朋上P694)挿絵(有朋上P695)挿絵(有朋上P696)の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、此内には蟻螻蛄もなし、蝙蝠は多く騒飛侍り、土肥の真鶴を見遣ば、武者七八騎見えたり、一定佐殿にこそと覚ゆ、あれを追へとぞ下知しける。大場見遣て、彼も佐殿にてはおはせず、いかにも伏木の底不審也、斧鉞を取寄て、切破て見べしと云ひけるが、其も時刻を移すべし、よし/\景親入て捜てみんとて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三立塞り、太刀に手懸て云けるは、やゝ大場殿、当時平家の御代也、源氏軍に負て落ちぬ、誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか、御辺(ごへん)に劣て此伏木を捜すべきか、景時に不審をなしてさがさんと宣はば、我々二心ある者とや、兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや、此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし、誰人にもさがさすまじ、此上に推てさがす人あらば、思切なん景時は
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と云ければ、大場もさすが不(レ)入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からり/\と二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。深く八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はた/\と羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、(有朋上P697)斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄(にはか)に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻(しきり)に降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人(しちはちにん)して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。
S2102 聖徳太子(しやうとくたいし)椋木附天武天皇(てんわう)榎木事
 < 昔聖徳太子(しやうとくたいし)の仏法(ぶつぽふ)を興さんとて、守屋と合戦し給しに、逆軍は大勢也、太子は無勢也ければ、いかにも難(レ)叶、大返と云所にて、只一人引へ給けるに、守屋の臣と勝溝連と行会て難(レ)遁御座(おはしまし)けるに、道に大なる椋木あり、二つにわれて太子と馬とを木の空に隠し奉り、其木すなはち愈合ひて太子を助け奉、終に守屋を亡して仏法(ぶつぽふ)を興し給(たま)ひけり。
天武天皇(てんわう)は大伴王子に被(レ)襲て、吉野の奥より山伝して、伊賀伊勢を通り、美濃国に御座(おはしま)しけるに、王子西戎を引率して、不破関まで責給けり。天武危くて見え給けるに、傍に大なる榎木あり、二にわれて、天武を天河に奉(レ)隠て、後に王子を亡して天武位につき給へり。>
是も然るべき兵衛佐(ひやうゑのすけ)の世に立べき瑞相にて、懸る伏木の空にも隠れけるにやと末憑もし。佐殿は三千(さんぜん)余騎(よき)が引退たる其隙に、内より石をころばしのけ、伏木を出て小道(有朋上P698)越と云岩石を上り、土肥の真鶴へ向て落行けり。雨やみければ、大場馬を引へて、いかにも伏木おぼつかなし、捜て見んとて
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押寄見れば、口を塞げる大石をころばしのけて落たる跡あり。さればこそ空の中におはしけり、是は梶原平三が計にて落しけり。さり共時の間に遠くはよも延給はじ、つゞきて攻よとて、跡目に付て追懸たり。
S2103 小道地蔵堂附韋提希夫人事
〔去(さる)程(ほど)に〕主従八人(はちにん)の殿は小道の峠向に登て、後を顧れば、敵まぢかく追上る、いかがはすべき、此上は自害すべきかと宣へば、土肥申けるは、物さわがし、事の様見んとて、高所に上て見廻せば、傍に御堂あり、小道の地蔵堂と云寺也。八人(はちにん)堂に入て見れば、上人法師一人あり、仏前に念珠して居たり。土肥上人に云様は、是は源氏大将軍に、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)と申人ぞ、石橋の軍破て、敵の為に被(二)追懸(一)、忍べき所やある、可(二)助申(一)、仏壇の中にも隠しおけと申ければ、上人思様、ありがたき事哉、げに聞奉る源氏の大将軍なり、軍に負給はずば、今争かかやうの法師に助けよと手を合せ給ふべき、忝事也、助奉て世に御座(おはせ)ば、奉公にこそと思て申けるは、此堂は人里遠して山深ければ、身の用心の為に、仏壇の(有朋上P699)下に穴を構て、人七八人(しちはちにん)入ぬべき程に用意せり、暫く忍入て御覧ぜよとて、八人(はちにん)の殿原を押入つゝ、上に蓋して其上に雑具取ひろげて、我身は仏前に座禅の由にて眠居たり。大場大勢引具して、御堂の前まで追懸て、此寺に人やある、只今(ただいま)落人の通つるは不(レ)知や否と、再三問へども答る者なし。大場打寄仏前を見れば法師あり。いかに人の物を問にいらへはなきぞ、不思議也と責ければ、僧の云、是は三箇年の間四時に坐禅する者也、入定の折節(をりふし)にて不(レ)承と申す。重て問ふ、落人の此軒を通つるをば聞ずや、不(レ)知やといへば、加様に座禅して侍れば、外声耳に入ず、内心思慮なければ不
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(レ)聞不(レ)知と云。景親大に嗔て、争かしらざるべき、拷問せよとて軍兵堂内に打入つて、上人を捕て大庭に引出し、拷木にかけて、巳午の時より申の時ばかりまで、上つ下つ推問すれば、絶入ぬる事度度也。只云事とては、全く不(二)知聞(一)、落人とは何者(なにもの)ぞ、骨肉の親類にも非ず、又一室(いつしつ)の同朋にも非ず、其分にもあらぬ人を隠さんとて、仏法(ぶつぽふ)修行の身をや可(レ)痛、只御■迹(ぎやうじやく)と云けれ共、死れば水をふき、生かへれば拷木に上て責る程に、四五度の時は、終に上人を責殺す。猶も面に水をそゝぎ、喉に漿を入ければ、又蘇たりけり。思ひけるは、人を助んとて、かく憂目を見るこそ悲けれ、何事も我身にまさる事なし、さらばおち(有朋上P700)んと心弱く思けるが、良案じて、生ある者は必死す、我身一つをいきんとて、争か七八人(しちはちにん)を亡すべき、昔釈尊の菩薩の行を立て給けるには、薩■[*土+垂](さつた)王子としては、飢たる虎に身を任せ、尸毘大王としては、鳩に代て命をも捨給けり。縦ひ身は徒に亡とも、此人々を助たらば、此堂をも建立(こんりふ)し、我後生をも訪なんと思返て、問へ共落ざりければ、申の時には、上人終に攻殺さる。大場は、不便々々上人は誠に不(レ)知けり、非業の死にこそ無慙なれ、此間に敵は遥(はるか)に延ぬらん、急々とて上人をば打捨てて、まな鶴へむけてぞ責行ける。其(その)日(ひ)も既(すで)に晩ければ、遠近の入逢の、野寺の螺鐘打ひゞけ共、小道の堂には音もなし。佐殿は、実平が袖をひかへて宣(のたま)ひけるは、寺々の螺鐘は聞ゆれ共、此寺の鐘音もせず、上人法師何なる目に相たるやらん、覚束(おぼつか)なし、出て見よと有ければ、壇の下より■(はひ)出て、堂の内外を見廻れば、被(二)責殺(一)て庭に有。角と申ければ、佐殿も人々も壇より出て庭に下給(たまひ)て、是を見
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て、頼朝(よりとも)が命に替たるこそ不便なれ、如何せんと歎給(たま)ひ、膝の上に掻載つゝ、涙ぐみ給ふも哀れなり。七人の者共も、面々に袖を絞けり。佐殿理過て泣給(たま)ひける涙の上人の口に入りければ、喉潤て又よみがへる。御堂の内に舁入て夜のふくるまで労り、物語(ものがたり)し給へり。上人申けるは、今までは御命に替り奉りぬ、大場心深き人也、(有朋上P701)又帰来て御堂の内外捜尋侍らば、御心憂目をも御覧じぬと覚ゆ、夜中なれば何事か侍べき、忍給へと申。佐殿は上人が志云に余あり、頼朝(よりとも)世を取ならば、此堂の修理と云ひ、今の恩の報答と云ひ、心にかけて不(レ)可(レ)忘、さらば暇申さんとて佐殿立給へば、七人の人々も足をはやめて落行けり。大場は三千(さんぜん)余騎(よき)にて杉山を打囲、数日の間さがしける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も此程は、此山にぞ隠れ居給へるが、嵐みねの松を吹声をきいては、敵の責下かと太刀の柄を把り、水谷川に流るゝ音に驚きては、軍の競上るかと腰の刀を抜儲て、網代の氷魚の亡安き命、籠の内の鳥の出難き身、今こそ思知れけれ。土肥次郎が女房は、心さか/\しき者にて、僧を一人相語ひ、杉山に御座(おはしまし)ける程は、■■(あじか)に御料をかまへ入、上に樒を覆、閼伽の桶に水を入て、上人法師の花摘由にもてなして、忍々に送りけり。地蔵堂の上人も、夜々(よなよな)にさま/゛\訪申けり。さてこそ深山(しんざん)寂寞の中にして、五六日をば経たりけれ。
 < 昔天竺に、摩訶陀国の大王、頻婆娑羅王の太子、阿闍世に禁ぜられ給しに、国大夫人韋提希の、夫婦の情を忘れずして、身に砂蜜を塗付、御衣の下に隠しつゝ、楼珞の中に漿をもり入給(たまひ)て、密に王に奉り、三七日まで有けるも、角やと思ひしられたり。彼は
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一人を操り、是は七人を養けり。異説に云、兵衛佐(ひやうゑのすけ)伏木に隠んとし給ける時は、土肥(有朋上P702)次郎実平子息遠平、新開荒太郎実重、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、土肥が小舎人に七郎丸と云冠者、佐殿共に七人也。跡目に付て尋来たりけれ共、大勢にては難(レ)忍、何方へも各隠れ籠て後にはと宣(のたまひ)ければ、北条時政と子息義時とは、山伝して甲斐国へ落ぬ。田代冠者信綱と加藤次景廉二人は、三島の社に隠れたりけるが、隙を伺ひ社を出でて落行く程に、加藤太に行合て、是も甲斐へぞ越にけるとあり。>
S2104 大沼遇(二)三浦(一)事
八月二十三日には、石橋の合戦と兼て被(レ)触たれば、三浦は可(レ)参よし申たれば、其(その)日(ひ)衣笠が城より門出し、船に乗て三百騎沖懸りに漕せけるに、浪風荒くして叶はず。二十四日に陸より可(レ)参にて出立けるが、丸子川の洪水に、馬も人も難(レ)叶と聞て、其(その)日(ひ)も延引す。二十五日に和田小太郎義盛三百(さんびやく)余騎(よき)にて、軍は日定あり、さのみ延引心元なし、打や/\とて鎌倉通に、腰越、稲村、八松原、大磯、小磯打過て、二日路を一日に、酒勾の宿に著。丸子河の洪水いまだへらざれば、渡す事不(レ)叶して、宿の西のはづれ、八木下と云所に陣を取。洪水のへるを待、暁渡さんとて引へたり。和田小太郎は、源遠して流深し、(有朋上P703)いつを限と待べきぞ、日数遥(はるか)に延ぬ、事の様見て渡さんとて、高所に打上り、雲透に水の面を見渡ば、河の西の耳に馬を引へて武者一人在て、東を守てたゝずみたり。漲り下る洪水の習にて、流はげしくして水音高し。小太郎大音揚て、西の川の耳におはするは誰人ぞと問ふ。音に付て、三浦党に、大沼三郎也、佐殿の御方に参たりき、軍は既(すで)に散じぬ、参りて申さん、河の淵瀬を不(レ)知、健ならん馬を給はらん、三浦の人々と奉(レ)見は僻事歟と喚。三浦はあな心苦し、急ぎ馬をやれとて、高く強き
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馬を渡たり。大沼是に乗て河を渡り、陣に下りて云ひけるは、軍は二十三日の酉の時より始めてゆゝしき合戦なりき、され共敵は大勢三千(さんぜん)余騎(よき)、御方は僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)、終に御方の軍敗れて、遁べき様なし、三浦与一は、俣野五郎に組で討れぬ、佐殿も遁方なく、手をおろして戦給しか共討れ給ぬ、大将軍亡給ぬる上は、ちり/゛\に落失ぬ、我身も希有にして遁たりしかば、此様人々に披露せんとて落たりしか共、敵山々に充満、余党の人を尋捜間、兎角隠忍て紛来れりと、一つは実一つは虚言を語けり。此大沼は与一が討るゝまでこそ軍場には有りけれ、大勢に恐て急ぎ落たりしかば、争か兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の実否をば知べきに、角語たれば、三浦の輩是を聞、さてはいかゞすべき、大将軍の慥に御座(おはしまさ)ばこそ百騎が一騎(いつき)(有朋上P704)に成るまでも軍はせめ、今は日本国(につぽんごく)を敵にうけたり、是より帰ても叶まじ、前には伊藤梶原大場俣野等引へたりと聞ゆ、後には畠山五百(ごひやく)余騎(よき)にて金江河の耳に陣を取て待つときく、前後の勢に取籠られなば由々しき大事、縦ひ一方を打破て通りたり共、敵朝と成なん後は、安穏なるべきに非ず、されば人手に懸りて犬死にせんよりは、爰(ここ)にて自害せんとぞ申ける。三浦別当義澄大沼に問けるは、佐殿の討れ給たりけるをば、正く目とみ給たりやといへば、自奉(レ)見たる事はなし、伝に聞つる計也。さては推量なり、只人が角と云ひたればとて実と思べきに非ず、平家の方人共が敵をたばからん為めに、討れ給ぬと云にもや有らん、又御方の者也共、負軍に成ぬれば、敵に心を通して、角もや云けん不審也、天をも地をもはかれ共、人の心は難(レ)測、其上佐殿は、御身すくやかに心賢き人
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なれば、左右なく討れ給はじ、縦自害なんどし給共、敵に物をば思はすべし。就(レ)中(なかんづく)石橋と云所は、浦近して海漫々たり、船に乗て安房上総へもや伝給けん、峯つゞきて山深ければ、岩の迫谷の底にもや隠れ忍び給らん、そも知難し、慥に目と不(レ)奉(レ)見ほどは、自害もの騒し、如何様(いかさま)にも御身近き田代殿を始めて、佐々木北条土肥土屋此者共に尋逢て、慥の説を聞べき也、一定討れ給たらば、主の敵なれば、大場にも畠山にも打向て、(有朋上P705)命を限に軍すべし、佐殿の死生聞定ざらん間は、相構て身をたばへとて、其夜の中に三浦へとて帰けり。抑畠山五百(ごひやく)余騎(よき)にて、金江川に陣を取て待と聞、いかゞ有べきと云ければ、和田小太郎は、佐殿の左右をきかん程は、命を全して君の御大事(おんだいじ)に叶ふべし、去ば小磯が原を過て、波打際を忍とほらんと云けるを、佐原十郎は、何条さる事か有べき、畠山は若武者也、而も五百(ごひやく)余騎(よき)、思へば安平也、我等(われら)が三百(さんびやく)余騎(よき)にて蒐散して、馬共とりて乗てゆかんと云けるを、三浦別当は詮なき殿原のはかり様や、畠山は今日一日馬飼足休めて身をしたゝめたり、我等(われら)は此両三日、あなたこなた馳つる程に、馬もよわり主も疲たり、人の強き馬とらんとて、我弱き馬とられて其詮なし、馬の足音は波に紛れてよも聞えじ、轡鳴すなとてみづつき結ひ、鎧腹巻の草摺巻上なんどして打けるに、和田小太郎は本よりつよき魂の男にて、いつの習の閑道ぞ、畠山は平家の方人也、我等(われら)は源氏の方人なり、源氏勝給はば、畠山旗を上て参べし、平家勝給はば、三浦旗を上て参べし、爰を問はずは後に被(レ)笑事疑なし、人は浪打際をも打給へ、義盛は名乗て通らん、同心し給へ佐原殿とて、鎧の表帯
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しづ/゛\と結かため、甲の緒をしめ弓取直して、鐙に幕付けさせて、大音あげて、是は畠山の先陣歟、角云は三浦党に和田小太郎義盛と云者(有朋上P706)也、石橋の軍に、佐殿の御方へ参つるが、軍既(すで)に散じぬと聞けば、酒勾宿より帰也、平家の方人して留んと思はば留よと、高く呼てぞ打過る。敵追来らば返合て戦はん、さらずは三浦へ通らんとて、馬を早めて行程に、八松が原、稲村崎、腰越が浦、由井の浜をも打過て、小坪坂を上らんとし〔たり〕ける時に、
S2105 小坪合戦事
〔斯かる処に〕畠山は本田、半沢に云けるは、三浦の輩にさせる意趣なし、去共加様に詞を懸らるゝ上に、父の庄司伯父の別当平家に奉公して在京なり、矢一射ずは平家の聞えも恐あり、和田が言も咎めたし、打立者共と下知しければ、成清は仰の旨透間なし、急げ殿原とて、五百(ごひやく)余騎(よき)、物の具かため馬にのり、打や早めとて追ければ、同小坪の坂口にて追付たり。畠山進出て、重忠爰(ここ)に馳来れり、いかに三浦の殿原は口には似ず、敵に後をばみせ給ぞ、返合せよと■(ののし)り懸て歩せ出づ。三浦三百(さんびやく)余騎(よき)、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並て引へたり。小太郎伯父の別当に云けるは、其には東地に懸りて、あふすりに垣楯かきて待給へ、かしこは究竟の小城なり、敵左右なく寄がたし、義盛は平に下て(有朋上P707)戦はんに、敵よわらば両方より差はさみ中に取籠て、畠山をうたんにいと安し、若又御方弱らば、義盛もあふすりに引籠て、一所にて軍せんと云。別当然べきとて百騎を引分て、後のあふすりに陣を取て左右を見る。畠山次郎は五百(ごひやく)余騎(よき)にて、由井浜、稲瀬河の耳に陣を取て、赤旗天に耀けり。和田小太郎は、白旗さゝせて二百(にひやく)余騎(よき)、小坪の峠より打下り、
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進め者共とて渚(なぎさ)へ向て歩せ出づ。爰(ここ)に畠山、横山党に弥太郎と云者を使にて、和田小太郎が許へ云けるは、日比(ひごろ)三浦の人々に意趣なき上は、是まで馳来べきにあらず、但父の庄司伯父の別当、平家に当参して六波羅に伺候す、而を各源氏の謀叛に与して軍を興し、陣に音信(おとづれ)て通給ふ、重忠無音ならば、後勘其恐あり、又伯父親が返りきかんも憚あれば、馳向ひ奉るばかり也、御渡を可(レ)奉(レ)待歟、又可(二)参申(一)かと、牒使を立たりけり。和田小太郎は、藤平実国を使に副て返事しけるは、御使の申条委く承りぬ、畠山殿は三浦大介には正き聟、和田殿は大介には孫にて御座(おはしま)す、但不(レ)成中と申さんからに、母方の祖父に向て、弓引給はん事如何か侍るべき、又謀叛人に与する由事、いまだ存知給はずや、平家の一門を追討して、天下の乱逆を鎮べき由、院宣を兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に被(レ)下間、三浦の一門勅定の趣と云ひ、主君の催と云ひ、命に随ふ処なり、若敵対し給はば、後悔(有朋上P708)如何が有べき、能々思慮を廻さるべきをやと云たりければ、畠山が乳母子(めのとご)に半沢六郎成清、和田小太郎が前に下塞て云ひけるは、三浦と秩父と申せば、一体の事也、両方源平の奉公は世に随ふ一旦の法也、佐殿いまだ討れ給はずと承、世に立ち給はば、畠山殿も本田半沢召具して、定て源氏へ被(レ)参べき、平氏世に立給はば、三浦殿も必御参あるべし、是非の落居を知ずして、私軍其詮なし、両陣引退かせ給はば、公平たるべき歟と云ければ、半沢が角云は、畠山が云にこそ、人の穏便を存ぜんに、勝に乗に及ばずとて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。軍既(すで)に和平して各帰りちらんとする処に、和田小太郎義茂が許へ、兄の小太郎人を馳
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て、小坪に軍始れり、急ぎ馳よと和平以前に云遣たりければ、小次郎(こじらう)はいさゝか少用ありて、鎌倉に立寄たりけるが、是を聞驚騒ぎて馬に打乗り、犬懸坂を馳越て、名越にて浦を見れば、四五百騎(しごひやくき)が程打囲て見えけり。小次郎(こじらう)片手矢はげて鞭をうつ。小太郎は小坪坂の上にて軍和平したれば、畠山に不(レ)可(レ)向と云ふ心にて、手々に招けれ共、角とは争か知べきなれば、急と云ぞと心得(こころえ)て、をめきてかく。畠山は軍和平しぬる上はとて馬より下、稲瀬川に馬の足涼して休居たりけるに、小次郎(こじらう)が馳を見て、和平は搦手の廻るを待けるを知ずして、たばかられにけり、安からずとて馬(有朋上P709)に打乗、小次郎(こじらう)に向て散々(さんざん)に蒐。小次郎(こじらう)は主従八騎にて、寄つ返つ/\火出程こそ戦けれ。敵六騎切落し、五騎(ごき)に手負せて暫休けるを、小太郎は、小次郎(こじらう)うたすな、始に手をひらきて招けば知ざるにこそ、大なる物にて招けとて、四五十人手々に唐笠にて招けるを、弥深入して戦へと云にこそと心得(こころえ)て、暫気をやすめ、又馳入てぞ戦ける。今は叶はじ、小次郎(こじらう)うたすなつゞけ者共とて、和田小太郎二百(にひやく)余騎(よき)にて小坪坂を打下り、河を隔て引へたり。小太郎藤平に問けるは、義盛は楯突の軍には度々あひたれ共、馬の上は未(レ)知、いかゞ有べきといへば、実光今年五十八、軍に逢事十九度也、軍は尤故実に依べし、馬も人も弓手に合事なり、打とけ弓を不(レ)可(レ)引、開間を守てためらふべし、我内甲をば惜べし、矢をはげたり共、あだやを射じと資べし、敵一の矢を放て、二の矢いんとて打上たらん、まつかふ内甲頸のまはり、鎧の引合、すきまを守て射給ふべし、矢一放ては、急ぎ二の矢を番て、人のあきまを守給へ、
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敵も角こそ思ふらめなれば、透間を資て常に冑突し給ふべし。昔は馬を射事候はず、近年は敵の透間なければ、まづ馬の太腹を射て主を駻落して、立あがらんとする処を、御物射にもする候、敵一人をあまたして射事有べからず、箭だうなに相引して誤すな、敵手繁くよするならば、様あるまじ、(有朋上P710)押並て組で落、腰刀にて勝負をし給へとぞ教たる。去ければ、敵は引詰々々散々(さんざん)に射けれ共、或は上り或は下る、自あたる矢も、透間をいねば大事なし。三浦は実光が云ふに任て、敵の二の箭いんとて打上るすきまを守りて、差つめ/\射ければ、あだや一も無りけり。去(さる)程(ほど)にあふすりの城(じやう)固めたる三浦の別当義澄、爰(ここ)にて待つも心苦し、小坪の戦きびしげなり、つゞけ者共とて、道は狭し、二騎三騎づつ打下けるが、遥(はるか)に続て見えければ、畠山是を見て、三浦の勢計にはなかりけり、一定安房上総下総の勢が、一に成と覚えたり、大勢に被(二)取籠(一)なば、ゆゝしき大事、いざや落ちなんとて五騎(ごき)十騎(じつき)引つれ/\落行けり。三浦勝に乗て散々(さんざん)に是を射。爰(ここ)に武蔵国の住人(ぢゆうにん)綴党の大将に、太郎、五郎とて兄弟二人あり。共に大力也けるが、太郎は八十人が力あり、東国無双の相撲の上手、四十八の取手に暗からずと聞ゆ。大将軍畠山に向ひて云けるは、和田に蒐られて御方負色に見ゆ、思切郎等のなければこそ軍は緩なれ、和田小次郎(こじらう)討捕つて見参に入れんと云捨て、肌には白き帷に脇楯、白き合の小袖一重、木蘭地の直垂に、赤皮威の鎧に、白星の甲を著、二十四差たる黒つ羽の箙、四尺六寸の太刀に熊の皮の尻鞘入てぞ帯たりける。滋籐の弓の真中とり、烏黒なる大馬に、金覆輪の鞍にぞ乗たりける。
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和田小次郎(こじらう)(有朋上P711)は、陣に打勝つて弓杖つき、浪打際に引へたり。綴太郎近く歩せよす。小次郎(こじらう)是を見て、和君は誰そと問。武蔵国住人(ぢゆうにん)綴太郎と云者也、畠山殿の一の郎等と名乗る。小次郎(こじらう)は、和君が主人畠山とこそくまんずれ、思ひもよらず義茂にはあはぬ敵ぞ、引退と云へば、綴云ひけるは、まさなき殿の詞かな、源平世にはじまりて、公私に付て勢を合する時、郎等大将に組む事なくば何事にか軍あるべき、さらば受て見給へとて、大の中差取て番ひ、近づき寄ければ、射られぬべく覚て、綴をたばかりて云やう、詞の程こそ尋常なれ、恥ある敵を遠矢に射る事なし、寄て組み、腰の刀にて勝負せよとぞ云ひける。綴然るべきとて、弓箭をば抛棄て、歩せよせ、推並て引組で、馬より下へどうど落。綴は大力なれば、落たれ共ゆらりと立、小次郎(こじらう)も藤のまとへるが如く、寄り付てこそ立直れ。綴の太郎は大力なる上、太く高き男にて、和田小次郎(こじらう)が勢の小き、かさに係りて押付てうたんとしけり。和田は細く早かりければ、下をくゞりて綴を打倒して討たんと思へり。勢の大小は有けれ共、力はいづれも劣らず、相撲は共に上手也。綴は和田が冑の表帯引寄て、内搦に懸つめて、甲のしころを傾て、十四五計ぞはねたりける。和田綴に骨ををらせて、其後勝負と思ければ、腰に付てぞ廻ける。綴内搦をさしはづし、大渡に渡して駻(有朋上P712)けれ共、小次郎(こじらう)はたらかず、大渡を曳直、外搦に懸、渚(なぎさ)にむけて十四五度、曳々と推ども/\、まろばざりけり。今は敵骨は折ぬらんと思ければ、和田は綴が表帯取て引よせ、内搦にかけ詰て、甲のしころを地に付て、渚(なぎさ)へむけて曳音出してはねたりけり。綴骨は折
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ぬ、強はかけてはねたれば、岩の高にはね懸られて、かはと倒る。刎返さん/\としけれ共、弓手のかひなを踏付て、甲のてへんに手を入、乱髪を引仰て頸を掻落す。首をば岩上に置、綴が身に尻打懸て、沖より寄来る波に足をひやし、息を休めて居たりけるが、敵定て落逢んずらんと思ければ、綴が首をしほでの根に結付て、馬に打乗弓杖つき、敵落合とぞ呼ける。綴五郎兄を討れて、をめきて蒐。小次郎(こじらう)云けるは、和君は綴が弟の五郎にや、兄が敵とて義茂にくまんと思て懸るが、汝が兄の太郎は東国第一の力人、それに組て被(二)取損(一)たれば今は力なし、疾々寄て義茂が頸をとれとぞ云ひける。五郎まのあたり見つる事なれば、実と思ひ押並べてひたと組、馬より下へ落。如何がはしたりけん、五郎下になり、是も頸をぞ捕にける。角て岩に尻懸浪に足うたせて休処に、綴小太郎父と伯父を被(レ)討て、三段計に歩せ寄せ、大の中差取て番ひ、さしあて兵と射、冑の胸板(むないた)に中て躍り返る。小次郎(こじらう)は射向の袖を振合せ、しころを傾、苦しげなる音して云ける(有朋上P713)は、やゝ綴小太郎よ、親の敵をば手取にこそすれ、而に親の敵也、人手にかくな落合かし、近くよらぬは恐しきか、和君が弓勢として、而も遠矢にては、義茂が冑をばよもとほさじ物を、但義茂は、昨日一昨日より隙なく馳せあるき、兵粮もつかはず、大事の敵にはあまた合ひぬ、既(すで)に疲に臨んで覚ゆれば力なし、父が敵なればさこそ汝も思らめ、人にとられんよりは、寄て首を切、延て斬せんと云ければ、小太郎まこと貌に悦びつつ馬より飛下、太刀を抜て走懸り、小次郎(こじらう)が甲の鉢を丁と打、一打うたせてつと立あがり、取て引よせ
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懐きふせ、てへんに手を入れて頸を切る。三の首を二をば取付につけ、一をば太刀のさきに貫いて馬に乗、指挙つゝ名乗けるは、只今(ただいま)畠山が陣の前にて、敵三騎討捕て帰る剛の者をば誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、桓武天皇(てんわう)の苗裔高望王より十一代、王氏を出て遠からず、三浦大介義明が孫和田小次郎(こじらう)義茂、生年十七歳、我と思はん者は、大将も郎等も寄て組とぞ呼ける。畠山は小坪の軍に、綴太郎五郎、同小太郎、河口次郎太夫、秋岡四郎等を始として、三十(さんじふ)余人(よにん)討れぬ、手負は五十(ごじふ)余人(よにん)也。三浦には多々良太郎、同次郎、郎等二人、纔(わづか)に四人ぞ討れける。畠山は郎等多く討れて、敵にくまんと招かれて安からず思ければ、畠山は重忠くまんとて打出けり。紺地の錦の直垂(有朋上P714)に火威の冑に、蝶のすそ金物をぞ打たりける。白星の甲に、二十四差たる鵠羽のやなぐひ筈上に取てつけ、紅の母衣懸、薄緑と云太刀の三尺五寸なるに、虎皮の尻鞘入てぞ帯たりける。泥葦毛の馬に、中は金覆輪、耳は白覆輪の鞍を置、燃立つばかりの厚総の鞦かけ、武蔵鐙に重籘の真中取て歩せ出づ。本田半沢左右にすゝむ。名乗けるは、同流の高望王の後胤、秩父十郎重弘が三代の孫、畠山庄司次郎重忠、童名氏王、同年十七歳、軍は今日ぞ始、高名したりと■(ののし)る和田小次郎(こじらう)に、見参せんとて進出。本田次郎中に隔りてくつばみ押へ云けるは、命を捨るも由による、宿世親子の敵に非ず、只平家に聞えん計、一問にこそ侍れ、就(レ)中(なかんづく)三浦は上下皆一門也、秀を大将としなし、後を郎等乗替に仕ふ、されば一人当千(いちにんたうぜん)の兵にて、親死子死とも是を顧ず、乗越々々面を振ず、後を見せじと名を惜む、御方の勢と申は、党の駈武者
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一人死すれば、其親しき者共よき事に付とて、引つれ/\落れば、如何なる大事あり共、君の御命に替る者候はじ、成清近恒ぞ矢さきにも塞るべけれ共、是は公軍なり、只引返し給へと云けれ共、小次郎(こじらう)に組で死なんとて打寄ければ、和田は度々の軍に身をためしたる武者にて、畠山矢ごろにならば、唯一矢にと志、中差取て番ひ相待。ほど近くなりければ、能引て放つ。畠山が乗たる馬の、(有朋上P715) 当胸尽より鞦の組違へ、矢さき白く射出す。馬は屏風を返すが如臥ければ、主は則下立けり。成清馬より飛下て、主を懐き上て我馬に乗す。弓取はよき郎等を持べかりけり。半沢無りせば、あぶなかりける畠山なり。成清歩武者に成て間に隔たる。小次郎(こじらう)太刀を額にあてて進寄。畠山同太刀を額に当てて小次郎(こじらう)を待処に、三浦介の手より、小次郎(こじらう)は骨を折ぬと覚ゆ、討すな者共とて、兄の小太郎義盛、佐原十郎義連、大党三郎、舞岡兵衛を始として、十三騎太刀をぬき打て向ければ、畠山も討るべかりけるを、本田、半沢中に阻り、以前に如(レ)申、大形も御一門、近は三浦大介殿は祖父、畠山殿は孫に御座(おはしま)す、離れぬ御中なり、指たる意趣なし我執なし、私の合戦其詮なく覚ゆ。本田、半沢に芳心ありて、御馬を返し給へと云ければ、和田是を聞、郎等の降を乞は、主人の云にこそ、今は引けとて、和田は三浦へ帰ければ、畠山は武蔵へ返りけり。さてこそ右大将家(うだいしやうけ)の侍に座を定られけるには、左座の一揩ヘ畠山、右座の一揩ヘ三浦、中座の一揩ヘ梶原と定りける時は、畠山は、三浦の和田に向て降乞たりし者也、左座無(レ)謂と云けるを、重忠全く不(二)存知(一)、弓矢取る身の命を惜み、敵に降乞事や有べき、若郎等共(らうどうども)が中に云ふ事の有けるか、返々奇怪也とぞ陳じける。(有朋上P716)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十二

P0525(有朋上P717)
羅巻 第二十二
S2201 衣笠合戦事
義澄義盛小坪軍に打勝て三浦に帰、軍の次第こま/゛\と語ければ、大介義明よく/\きき、莞爾と笑ひ頷許入て、無(二)左右左右(一)若殿原、弓矢の運は弥増々々に繁昌せり、中にも小次郎(こじらう)が振舞神妙(しんべう)々々(しんべう)とて感涙を流し、孫引出物とて太刀一振をぞ給(たま)ひたりける。さても大介云けるは、敵は一定明日寄べし、佐殿よも討れ給はじ、急ぎ衣笠に引籠て軍せよ、敵こはくとも散々(さんざん)に蒐破て、今一度佐殿尋奉べし、難(レ)遁は討死をせよといへば、義盛申けるは、衣笠は馬の足立よき所なれば、寄手の為には便あり、忽(たちまち)に追落されなん、奴田の城(じやう)は、三方は石山高して馬も人も通ひ難き悪所也、一方は海口に道を一つ開たれば、よき者一二百人(いちにひやくにん)あらば、縦敵何万騎寄たり共輙く責落すべからずと申。大介重て申、奴田と云は僅(わづか)の小所、人是を不(レ)知、衣笠こそ聞えたる城よ、三浦の者共は小坪の軍に打勝て、軈衣笠に引籠て、散々(さんざん)に戦て討死しけりといはば、嗚呼(ああ)さる名誉の城(じやう)あり、其は(有朋上P718)よき所也など人も沙汰すべし、奴田城にて討死といはば、奴田とはどこぞ、未(レ)知といはれん事面目なし、只衣笠に籠れ、急げ/\と云。義盛が云けるは、奴田も三浦も皆御領内也、就(レ)中(なかんづく)軍と申は身を全して敵に物を思はせ、日数をへて戦ふこそ面白けれ、衣笠に籠たり共、やがて追落されなば無下に云甲斐なし、能々
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御計候べしといへば、大介腹を立て、やをれ義盛よ、今は日本国(につぽんごく)を敵に受たり、身を全せんと思とも何日何月か有べき、縦命生べく共、人のいはんずる事は、三浦こそ一旦命を延んとて、さしもの名所を閣て、奴田城に籠たりけれと沙汰せん事も口惜し、若又百人(ひやくにん)が中に一人なりとも生残て、佐殿世に立給(たま)ひたらん時、父や祖父が骸所とて知行せんにも、衣笠こそ知たけれ、軍と云は所にはよらず、手がら謀に依べし、荒野の中にて戦とも、能くあひしらはば不(レ)可(レ)負、石の櫃に籠たり共、悪く戦ならば難(レ)叶、命惜くば軍なせそ、などや己は物には覚ぬ、且は父の命也、老者の云言は験あり、義明は只一人也とも衣笠にて討死せん、敵よせずば干死にも彼にてこそ死なめと、大に嗔り云ければ力及ばず、孫引連て衣笠城に籠にけり。上総介弘経が弟に金田大夫と云者は、義明が聟なりければ、七十余騎(よき)を引率して同城に籠にけり。都合勢僅(わづか)に四百五十三騎ぞ有ける、大介は敵寄るならば暇ある(有朋上P719)まじ、先静なる時よく/\兵糧つかふべしとて、酒肴椀飯舁居て是を勧む。さて下知しけることは、弓したゝかに射者は、家の子も侍も舎人草刈に至まで汰置、弓は一人して二張三張、矢は四腰五腰も用意せよ、弓え射ざらん者は、七八人(しちはちにん)も十人も又四五人も徒党して、好々の杖共を支度せよ、木戸を三重にこしらふべし、敵は軍の法なれば、定て追手搦手二手にわけて寄べし。追手の方には道を造れ、広さ七八尺に不(レ)可(レ)過、道広ければ大勢くつばみを並て押寄れば、城の中に隙なくして防えず、馬二匹ばかり通る程に造れ、道の片方は沼なれば兎角するに及ばず、片方には
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大堀をほれ、道をば三重に掘切て、一の堀には橋を広くわたせ、中堀には細橋を渡せ、二の堀には逆茂木を引、堀ごとに掻楯を構へ櫓をかけ、弓よく射者共は甲を著ざれ、腹巻腹当筒丸などを著て、矢倉に上て敵の冑の胸板(むないた)を差詰て射よ、又歩走の者共は角きはりをこしらへ置、杖打の奴原は、西の方の小竹の中に籠り居よ、小竹の中より造道へ向て細道を造れ、敵一の橋を打渡て二の橋まで寄るならば、角きはりを以て馬の太腹を射よ、射られて駻るならば、冑武者左右の堀と沼とへはね落されて、おきん/\とせん処を、小竹の中より杖打の奴原つと出て、杖の前そろへておこしも立ず能者をば打殺せ、駈武者共をば死ぬる程に打成して、(有朋上P720)生殺にして■(はひ)行せよ、其こそ軍の目醒なれ、各不覚すなとぞ下知したる。廿七日の小坪軍の後、中一日ありて廿九日の早朝、河越又太郎(またたらう)、江戸太郎、畠山庄司次郎等大将軍として、金子、村山、山口党、児玉、横山、丹党、をし、綴党を始として三千(さんぜん)余騎(よき)、衣笠の城(じやう)へ発向す。追手は河越、搦手は畠山、二手に分て推寄つゝ、時の音三箇度(さんがど)合てためらふ処に、綴の一党、当家の軍将三人まで小坪の軍に討れて不(レ)安思ければ、二百(にひやく)余騎(よき)先陣に進て、木戸口(きどぐち)近く攻寄たり。城の内には本より支度の事也、掻楯の上精兵共、一騎(いつき)々々(いつき)を主付て差詰々々射ける矢に、馬共いさせてはね落されて深田に落入、あがらん/\としける処を、小竹の中より杖打の冠者原、鼻を並て細道よりつと出て、打殺差殺て、乗替郎等多く討れて、生る者は少く死る者は多かりければ、綴党も不(レ)叶して引退く。金子十郎家忠と名乗て、一門引具し
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三百(さんびやく)余騎(よき)、入替々々戦ける中に、人は退ども家忠は不(レ)退、敵は替ども十郎は替らず、一の木戸口(きどぐち)打破り、二の木戸口(きどぐち)打破て、死生不(レ)知にして攻たりける。城中(じやうちゆう)よりも散々(さんざん)に是を射る。甲冑に矢の立事廿一、折懸々々責入つゝ更に退事なかりけり。城の中より提子に酒を入て、杯もたせて出しけり。城の中より大介、家忠が許へ申送けるは、今日の合戦に、武蔵相模の人々多く見え給へ共、貴辺(有朋上P721)の振舞ことに目を驚し侍り、老後の見物今日にあり、今は定てつかれ給ぬらん、此酒飲給(たまひ)て、今ひときは興ある様に軍し給へ、と云遣したりければ、家忠甲振仰弓杖つき、杯取三度飲て、此酒のみ侍て力付ぬ、城をば只今(ただいま)責落奉べし、其意を得給へとて使をば返してけり。軍陣に酒を送は法也、戦場に酒を請は礼也、義明之所為と云、家忠之作法と云、興あり感ありとぞ皆人申ける。家忠唯非(二)勇心之甚(一)、専存(二)兵法之礼(一)けり。金子十郎、わざと人をば具せざりけり、命をすてんとの心也。ふし縄目鎧に三枚甲の緒をしめ、甲の上に萌黄の腹巻打かづき、櫓の本まで責付たり。大介云けるは、哀金子は大剛者かな、一人当千(いちにんたうぜん)の兵とは是なるべし、軍は角こそ有べけれ、あれ射つべき者はなきか、惜き者なれ共日比(ひごろ)の敵也、あれを射留よとぞ下知しける。三浦の別当申けるは、和田小太郎は、弓勢も矢管もはしたなく尻全く候、彼を召て仰たべとぞ申。大介小太郎を招て、あの家忠射留よと云。仰承ぬとて立にけり。三人張に十三束三伏をぞ射ける。荒木の弓のいまだ削治ざるを押張て、すびきしたりければ、ちと強きやらんと思けるに、かね能
P0529
征矢二つ把具し、櫓に上て見れば、十郎二段ばかり隔て水車を廻し、次第々々に責寄て櫓の内へはね入らんとする処を、和田小太郎義盛、十三束三伏しばし固て落矢に(有朋上P722)兵と放つ。金子が甲に懸たりける腹巻の一の板、甲の鉢かけてがらと射貫き、額の方により頷の下をつと通り、冑の胸板(むないた)のはた覆輪にぞ射付たる。痛手なれば少しもたまらずどうど倒る。三浦の藤平落合て頸をとらんとする処に、金子与一つとより肩に引懸、木戸口(きどぐち)の外へ出けるを、三浦与一追て懸る。あますまじきぞ/\とて、余に手しげく追ければ、金子与一、十郎をば打棄て太刀を抜て返合て打懸る。与一と与一と立合て、太刀打にこそ戦けれ。三浦与一受太刀に成ければ、不(レ)叶と思てかいふつて逃けるを、金子与一追付て三浦与一を懐き留、虜にして首を切。敵の頸を手に提げ、十郎を肩に係て陣の内にぞ入にける。家忠が疵は痛手なれ共、ふえ切ざれば不(レ)死けり。今日の高名、金子党にぞ極たる。武蔵国の者共、入替々々戦けり。三浦の別当下知しけるは、城の内を不(レ)離して、よせん敵を引詰々々射よ、与一も長追して、城を離てこそ討れぬれ、身をたばひて敵に物を思はせよと云ければ、大介是を聞て、若者共が軍の様こそをかしけれ、何の料とて命をたばふべきぞ、京童部(きやうわらんべ)の向つぶて、河原印地の様也。坂東武者の習として、父死れ共子顧ず、子討れども、親退ず、乗越々々敵に組で、勝負するこそ軍の法よ。されば二十騎(にじつき)も三十騎(さんじつき)も馬の鼻を並べて蒐出つゝ、案内もしらぬ者共を悪所へ追詰々々笑(有朋上P723)たるこそ目覚して面白けれと云けれ共、別当は、幾程もなき勢を以て
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かけ出ん事あしかりなんとて不(レ)出けり。大介云けるは、我老々として所労の折節(をりふし)再発せり、義明十三已来(このかた)弓矢を取て今年七十九、今此軍に会事老後の面目也、殿原こそ出給はずとも、いで/\義明かけ出て、最後の軍して見せ奉らんとて、白き直垂の袖せばきに、萎烏帽子(もみえぼし)を引立て、雑色二人に馬の口引せ、中間六人に左右の膝をさせ、太刀計を腰に付けて、右の手に鞭を貫入、左の手に手綱かいくり、既(すで)に打出んとしけり。子息の別当是を見て、馬の口に取付て、如何に角はおはするぞ、其御歳にて打出給たらば、何の詮にか立給ふべき、老衰て物に狂給ふかと云ければ、大介は、やをれ義澄よ、武者の家に生て軍するは法也。敵の陣に向て命を惜むは人ならず、義明をば老て物に狂と笑へども、己等は若き物狂ぞと覚たり、軍と云は、かけ出/\追つ返つ進み退き、組んづ組れつ討つ討れつ、敵も御方も隙のなきこそ面白けれ。いつを限りと云事なく、草鹿的を射様に、一所にて敵を射事やは有べき、そこのけ奴原とて鞭を以て打けれ共、甲を打はいたからず、別当馬の鼻を取て城の内へぞ引もて行。是は大介が、実に軍場に出べきにはなけれ共、兵をすゝめん計事と覚たり、ゆゝしき大将とぞ見えたりける。日も漸く暮ければ、各軍に疲つゝ、(有朋上P724)事外に弱々しく見えければ、大介子孫郎等呼居ゑて、老眼より涙を流し云けるは、軍はすべき程は仕つ、人の笑れぐさにはよもならじ。又義明も可(レ)見程は見つ、各疲給へり、殿原左右なく自害し給ふべからず、佐殿御心賢き人にて御座(おはしませ)ばよも討れ給はじ、いかにも安房上総の方にぞ御座らん、相構て尋参りて、義明が有様(ありさま)
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をも語申べし。君に力を付奉て、一味同心に平家を亡し、佐殿を日本(につぽん)の大将軍になし進せて、親祖父が墓所也とて、骸所をも知行して我孝養に得させよ。東国の人共、誰か君の重代の御家人にあらざる。去共今一旦の恩を蒙るに依て、平家の方人に似たれども、争か昔の好みを忘奉べきなれば、終には皆参べし、老たる馬は道を忘れず、古人は言誤りなし、必思合すべし、穴賢自害すべからず、穴賢二心なかれ、但義明をば爰(ここ)に捨よ、只身々を助て急ぎ落よ、我既(すで)に老耄せり、行歩にも不(レ)叶、馬にも乗得がたし、汝等(なんぢら)は今は落人也、道狭き者ぞ、我労り具せんとせば倶に悪かるべし、延得ずして打捨なば無益の恥を見るべし、明日は人の笑べし、大介は幾程命をいきんとて終に死ける物ゆゑに、衣笠にては死せずして、骸を径にさらす無慙さよと、又三浦の者共が父を具して落けるが、責ての命の惜さに、老たる親を道に捨て、人手に懸し甲斐なさよと、彼と云ひ此と云ひ、我ため人のため、糸口惜事(有朋上P725)なるべし、さればとく/\落てゆけ、我をば此に留置、老は悲しき物也けり、哀糸惜き子孫と相共に、佐殿の世に立給(たまひ)て日本国(につぽんごく)を知行し給はんを見て死たらば、いかに嬉しからん、只今(ただいま)死なんずる義明が、是程君を思進するとは不(二)知召(一)もや有らんとて、直垂の袖を絞りければ、家子も郎等も、最後の教訓を憐て、音を挙てぞ叫ける。さても大介は、捨よ/\と云けれ共、子孫名残(なごり)を惜みつゝ、輿を寄て具し申さんと云けれ共、大介終に不(レ)乗。義澄以下の子孫は父をば捨て、泣々(なくなく)主君を尋奉て、夜中に栗浜の御崎に出て、船に乗て安房の方へ漕行けり。其外は三騎五騎(ごき)ぬけ/\に
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落失ける中に、年比の郎等共(らうどうども)の有けるが、主の名残(なごり)ををしみ、手輿にのせて舁て出づ。大介云けるは、我は子孫に暇乞て此にて死する者也、如何に角はするぞ、只捨て行とて、扇を以輿舁共を打けれ共、一里計ぞ舁もて行く。敵既近付ければ輿を捨て逃けるを、いかにや/\、下搨口惜ものは無りけり。さしも城中(じやうちゆう)にすてよと云つる物を、此輿舁助よ、さらずば己等が手に懸て恥を隠せと云けれ共、敵は無下に近付ければ、皆散々(さんざん)にぞ失にける。敵の下部共来て輿の中より引出して、衣裳を剥取ければ、己等に逢て名乗べきに非ず、知らぬばかく振舞か、恥ある者に恥を見すべからず、我は三浦大介と云者ぞ、角なせそ/\と云け(有朋上P726)れ共、赤裸にぞはぎなしける。大介は、哀同は畠山に見合てきらればや、継子孫也、其ゆかりむつましと思ひけれども、願の畠山には非ずして、■(すずろ)なる江戸太郎に被(レ)斬にけり、如何にも老者の云言末のあふ事也。大介が兼て云ける様に城中(じやうちゆう)に棄てたりせば、さまでの恥はあらじものとぞ申ける。
S2202 土肥焼亡舞同女房消息(せうそく)附大太郎烏帽子(えぼし)事
去(さる)程(ほど)に大場伊藤は、此間山を廻して捜尋けれ共、佐殿見え給はねば、今は力なしとて我が館々へ帰にけり。敵散ずと聞えければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)杉山を出て土肥の真鶴へ落んとし給ふ。真平は、残党も猶不審し、我館も如何が有らんと思て、高峯に上り、眼影をさして見渡せば、山内には人ありとも覚えず、我が所領へは、伊藤入道三百(さんびやく)余騎(よき)にて押寄て、土肥の在家一一に追捕し、此彼に火を放て一宇も残さず焼払(やきはらふ)。七人同く是を見る。真平佐殿の御前にて、一時乱舞ぞしたりける。土肥に三の光あり、第一は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)我君を守給ふ和光(わくわう)の光と覚え
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たり。第二は我君平家を打亡し、一天四海を照し給ふ光なり。第三は真平より始て、君に志ある人々の、御恩によりて子孫繁昌の光也。嬉しや水々鳴は(有朋上P727)滝の水、悦開て照したる土肥の光の貴さよ、我屋は何度も焼ばやけ、君だに世に立たまはば、土肥の杉山広ければ、緑の梢よも尽じ、伐替々々造らんに、更に歎にあらじかし、君を始て万歳楽、我等(われら)も共に万歳楽とぞ舞たりける。人々あらまほしき祝事にゑみまげて勇けるに、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、土肥が舞は今に始ぬ事なれ共、只今(ただいま)は殊に目出く面白と感じ給ふ処に、土肥女房が許より消息(せうそく)あり。真平披(レ)之見れば、三浦の人々は、廿三日に船にて石橋へ参らんと支度したれば、浪風荒くして不(レ)叶、廿五日に酒勾宿まで参たれ共、軍敗ぬと聞て帰る程に、廿七日に小坪にて畠山に行合て、さま/゛\戦けるが、畠山軍に負て、三浦衣笠に籠て相待侍けるに、江戸河越畠山等、三十(さんじふ)余騎(よき)にて衣笠城を責落し、大介討れ候けり。其外の人々は君を尋進せて、安房国へ漕給けると聞え侍り。無勢にて御山隠の御すまひ、心苦くこそ侍れ。急三浦の人々を尋て安房上総へ越給べしと云文也。土肥此状を以て佐殿に角と申ければ、神妙(しんべう)々々(しんべう)と大に悦給ふ。さらばとく/\とて、夜の凌晨(しののめ)に真鶴へこそ落給へ。軍将宣(のたま)ひけるは、敵に攻られて甲をば捨つ、大童にては落人といはれなん、如何がして烏帽子(えぼし)を著べきと被(レ)仰ければ、折節(をりふし)甲斐国住人(ぢゆうにん)大太郎と云烏帽子(えぼし)商人、箱を肩に懸て道にて逢。然るべき事也とおぼして、何国の者ぞ(有朋上P728)と問ひ給へば、甲斐国住人(ぢゆうにん)大太郎と申す烏帽子(えぼし)商人也と答。土肥申けるは、あの男
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は、真平が家人商人の為に、所領に家造して通ひ侍り、やゝ太郎、人は七八人(しちはちにん)あり、皆大童なれば、民百姓までも落人とや見らん、其憚あり、烏帽子(えぼし)折て進せなんやといへば、安き程の事也とて、宿所に請じ入奉て白瓶子に口裹、さま/゛\の肴にてもてなし奉る。酒宴半に烏帽子(えぼし)箱を取出し、中座に候ひて折(レ)之て人々に奉(レ)賦、不(二)取敢(一)折節(をりふし)なれば、急あわてて折程に、七頭は右に、一頭は左折なるを、而も佐殿に奉る。佐殿あやしとおぼして、七人が烏帽子(えぼし)を見廻し給へば、皆右に折てよの常なり、我身一人左也ければ、不思議也、源氏の先祖八幡殿は、左烏帽子(えぼし)を著給(たま)ひしより、当家代々の大将軍左折の烏帽子(えぼし)なるに、今流人落人の身ながら、是を著るこそ難(レ)有けれ。
 < 昔天竺に摩訶陀国とて大国あり。阿闍世王より三代の孫に、頻頭沙羅王、国を治め給(たま)ひけり。王にあまた太子御座。嫡子をば須子摩と云。心操柔和にして形容端厳也しかば、位を此太子に譲らんと覚しき。次郎をば阿育と云、貌醜悪にして心根不調に御座(おはしまし)ければ、位の事は思ひ寄給はざりけるに、天の帝釈降(レ)天給(たまひ)て、十善の宝冠を阿育に著せ給ければ、終に天下の国王たりき。されば八頭の烏帽子(えぼし)の中、左折一つ、其れも頼朝(よりとも)に当けるも不思議也。然べき八幡(有朋上P729)大菩薩(だいぼさつ)の商人太郎に入替り給(たま)ひて、著せ給けるにこそ、末憑しく覚しければ、心の中に再拝して、土肥次郎に当座とらせて著給ければ、七人も面々に烏帽子(えぼし)著て出立給けり。藤九郎盛長を使者にて、家主が内へ悦宣(のたまひ)けるは、頼朝(よりとも)世に立つならば、此悦には名田百町在家三宇計給べしと、此旨盛長申含畢。商人太郎畏承り候ぬと返事申て、妻に私語(ささやき)けるは、今日此比身一つ安堵し給はずして、■弱(わうじやく)の商人に、烏帽子(えぼし)乞程の人の、荒量にも給つる百町かなとつぶやきければ、妻是を聞て、人は一生さても過ぬ事なれば、上揩フ果報、我等(われら)が運にて去事もや有べかる
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らん、さらば哀此殿の世に立給へかしとぞ云ける。去ば平家亡て後、甲斐国石和と云所に、百町三家給りて、今の世までも知行せり。>
S2203 宗遠値(二)小次郎(こじらう)(一)事
土屋三郎宗遠は甲斐国へぞ越られける。足柄の山に関居りたりと聞て、宗遠夜に紛れて通りけるが、見れば峠に仮屋打て、前に篝を焼者共四五十人が程ぞ臥したりける。如法夜半の事なれば、関守睡て不(レ)驚、よき隙と思ひ、ぬき足して下ける。関をば角て過たれ共、行末にも人や有らんといぶせくて、木の下萱の中、さしのぞき/\下る程に、雲透(有朋上P730)に見れば、者こそ一人出来れ、搦手の廻りけるにやと思て、太刀抜懸けて立煩てためらひたり。間二段計を隔てて峠へ上る男も、太刀に手懸て立たりけり。互に物をば云はずして良久有ける。さて有べき事ならねば、宗遠詞をかく、源氏謀叛を興に依て、関守すゑて是を守る、只今(ただいま)爰を通り給ふは誰人ぞといへば、名乗はいはで、還て問は誰そと云。互に聞知たる声也けり。小次郎殿(こじらうどの)か、義清、土屋殿歟、宗遠と共に答て名乗けり。宗遠は子のなかりければ、兄が子を養て小次郎(こじらう)と云けるが、平家に奉公して都にあり。佐殿の謀叛に与して、父も同心の由聞えければ、偸に京を出て下る。是も足柄山に関守ありと聞て、夜に紛れて通る程に、時日こそ多きに、只今(ただいま)爰(ここ)にて行逢たり、契のほども哀也。土屋いかに/\小次郎(こじらう)といへば、佐殿謀叛と披露の間、平家は一旦の主、源氏は重代の君、其上土屋殿も御伴と承る、旁急ぎ下らんと存じ、京をば三騎にて出たりしか共、路にて聞え侍りしは、佐殿も岡崎殿も与一殿も、石橋の軍に討れ給ぬと申し間、よろづ
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あぢきなくて、二騎の者には暇をたび、我身一人国に下り、百姓共に慥の事をも承らんと、夜に紛れて通りつるに、参り会ふ事の嬉さよとて、涙をはら/\と流けり。土屋三郎思けるは、云言実に哀也、但当世は親も子もなき作法也、而も実子には非ず、弱々しく語る(有朋上P731)ならば、指殺して平家の覚え、まさらんともや思ふらん、そも不(レ)知強々と語らんと思うて、聞あへず下向の条、悦入候。但佐殿討れ給たりとは誰人か申けるぞ、あらいま/\し、石橋の軍は、千葉三浦が遅参に依て無勢にて始たりし程に、御方負色に成し間、佐殿は甲斐国へ越給ぬ、岡崎殿御供にあり、御辺(ごへん)の兄の与一殿は被(レ)討たり。さては北条佐々木を始て、誰かは死たる者ある。甲斐国より御催のあれば、宗遠も参也。但し関守が居たれば、夜中に忍て、一人はまかるなり。いざ和殿も佐殿の見参に入給へとて、其れより打つれて甲斐国へぞ越て行く。宗遠は道にても心ゆるしせず、太刀抜き懸て、近代は親も子もなき代也、誤り給ふな小次郎殿(こじらうどの)、存する旨あり小次郎殿(こじらうどの)とて、当国の源氏、逸見、武田、小笠原、河西、板垣、告めぐり、一条殿の侍にてこそ、打解け有の儘には語りけれ。
S2204 佐殿漕(二)会三浦(一)事
土肥次郎は、出富の小検校(こけんげう)と云海人が小船を借て、真鶴岩が崎と云所より、急ぎ船を出さんとしけるに、子息の弥太郎申けるは、万寿冠者参るべき由承る、相待て召具せば(有朋上P732)やと云。此弥太郎と云は、伊藤入道には聟也。万寿冠者とは、弥太郎に子なくして、妹が子を養子にしたれば、土肥にも伊藤にも孫也けるを、母方の祖父なれば、伊藤の入道に預置き、娘にも聟にも養子なれば、入道不便にして育みけり。
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弥太郎が、万寿冠者をまたんと云ひけるを、父土肥次郎が聞とがめて大に不審なり。此間杉山に隠れ忍て、七騎の外は人是を不(レ)知、万寿と云は真平にも孫なれ共、敵仁伊藤が許にあり、争か存知すべき、御伴仕らんと申ける条存外也。哀弥太郎は事を万寿冠者に寄せて、一定舅の入道待付て、重代の主君を失ひ奉り、大恩の親を亡さんとたばかるにこそ、奇怪の奴也、其頸打切給へ、岡崎殿と云ひければ、岡崎はいかなる舅なり共、主や父に思替る事有まじ、知べき様こそ有つらめ、但加様の身々として、片時も逗留其詮なし、はや/\急ぎ舟を出せとて、四五町ばかり漕出して浦の方を顧れば、万寿冠者を始として、伊藤入道五十(ごじふ)余騎(よき)の勢にて馳来、あれ/\とぞ呼りける。後には大場三郎千余騎(よき)計にて連たり。今すこし遅かりせば、あやふかりける人々也。漕や急げとて、安房国州の崎を志して落行ける程に、沖中にして俄(にはか)に風起り浪立て、いづこ共不(レ)知くらき闇に、渚(なぎさ)に船をぞ吹付たる。人々船にゆられて酔けり。佐殿爰(ここ)はいづくやらんと問給へば、土肥見侍らんとて、舷に(有朋上P733)立弓杖つき見廻せば、相模国(さがみのくに)早川尻に侍り、而も大場、杉山の帰り足に、三千(さんぜん)余騎(よき)汀(みぎは)に幕引て七箇所に篝たき、酒盛しける敵の陣に吹付らる、敵は見もしぬらん、如何あるべきと思申、佐殿は杉山にて亡べき者が、大菩薩(だいぼさつ)の御加護によりて遁れぬ、而を今又敵陣に臨めり、終に見捨給ふべきにやと祈念被(レ)申けり。真平は此辺は家人ならぬ者なし、酒肴尋進せんとて船より飛下、片手矢はげて走廻、我君此浦に著給へり、真平に志あらん者は酒肴進すべしと■(ののし)り云ひければ、或は瓶子口裹み、或は
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桶に入て、我も/\と船に酒肴を運たり。船の中暗といへ共、敵の大場が篝の火の光にて、佐殿酒をのみ給へり。実に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御計ひと覚たり。飢を休めて其後、風やみ波静にて、船を出して安房国州の崎へこそ漕渡り給(たま)ひけれ。三浦の輩は軍将を奉(レ)尋とて、船を海上に浮べて安房上総あやしき浦々漕廻りけるに、佐殿の船も三浦が船も、互にあやしく思て、沖中にて間近く漕合ける。若又敵にもやと思ひければ、彼も此も矢たばね解、弓の弦しめして用心せり。佐殿をば船底に隠し、上に柴を積て、岡崎ばかり差あらはれて乗たり。三浦船を漕近付て岡崎と見てければ、いかにやいかに、いづら佐殿はと問へば、誰も君を奉(レ)尋、三浦にもやと思ひ奉りつるに、さては何国に御座らんといへば、三浦涙を流しつゝ、穴(有朋上P734)心うや、君の御向後の覚束(おぼつか)なくてこそ、老たる父をも振捨て、敵に後を見せて尋進するに、甲斐なき事悲さよ、兼て角とだに知たらば、衣笠の城(じやう)に引籠り、大介と一所にて打死すべかりける者をとて、各袖をぞ絞けり。佐殿は船底にて此事を聞給(たま)ひ、糸惜や世になき我をあれ程に思ふらん事の嬉しさよ、心づくしに遅く出でて恨られじと思召(おぼしめし)ければ、船底より這出て、頼朝(よりとも)爰(ここ)にありと仰ければ、大将軍是に御渡有けりや、大介宣(のたま)ひつる事露違ずとて、三浦手を合て悦けり。さても岡崎は、石橋の合戦に与一が討れし事を語て泣。三浦は小坪衣笠の軍の事、大介が申し事、老たる父を捨置事ども語て泣。一人は若きを先立て袖をぬらし、一人は老たるを見捨て袂(たもと)を絞る、恩愛慈悲の情とりどりなり。和田小太郎申けるは、殿原今は泣歎て其詮なし、親も子も死る
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道は限あり、就(レ)中(なかんづく)軍にあはん者は、必死すべしと兼て存る処也、始て歎に及ばず、語ればいよ/\哀を増す、君かくて御座(おはしま)せば、今は真に一入に思ひ入て、平家を亡し本意を遂て、君の御代になし参せ、庄園を給り国を知行せん事を評定し給ふべし、食を願はば器と云下説の喩あり、君もとく/\国々庄々を分け給り候べし、中にも義盛には、日本国(につぽんごく)の侍の別当を給り候へ、上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)が、平家より八箇国の侍の奉行を給(たまひ)て、翫しかしづかれて気色せし(有朋上P735)が、余に羨しかりしかば兼て申入也、他人の競望あるべからずとぞ申ける。佐殿は、世にあらば左右にや及ぶべき、去共早とて笑給けり。其より当国すの明神に参り給(たまひ)て、千返の礼拝奉、終夜(よもすがら)念誦し給(たまひ)て、一首の歌をぞ読給ふ。
  源はおなじ流れぞ石清水せきあげてたべ雲の上まで K115 
と、彼明神と申は、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祝奉たりければ、角思ひつゞけ給(たま)ひけり。暁かけて御宝殿より御返事(おんへんじ)あり。
  千尋まで深く憑て石清水たゞせきあげよ雲の上まで K116 
其外様々の夢想(むさう)ありければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)本意とげぬと悦給けり。
S2205 大場早馬立事
九月一日、大場三郎景親使者を六波羅へ立たり。平家一門馳集て注進の状を披に云、伊豆国(いづのくにの)流人、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、称(レ)有(二)院宣(一)、忽興(二)謀叛(一)、去八月十七日(じふしちにち)之夜、卒三十(さんじふ)余騎(よき)之勢押(二)寄八牧之館(一)、誅(二)戮和泉(いづみの)判官兼隆(一)、放火焼失畢、此旨定自(二)国衙(こくが)(一)被(二)注進(一)歟、同(おなじき)二十二日、構(二)城郭(じやうくわく)於当国石橋山(一)引(二)率三百(さんびやく)余騎(よき)之凶賊(一)、楯(二)籠于彼城(一)之間、景親
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相(二)催三千(さんぜん)余騎(よき)(有朋上P736)之軍兵(一)、同(おなじき)二十三日、自(二)午時(一)及(レ)入(レ)夜、責戦之処、頼朝(よりとも)不(レ)堪而、二十四日焼天落(二)退彼城(一)、不(レ)知(二)行方(一)、但或説云、堀(レ)穴被(レ)埋たりと。或説云、懐(レ)石入(レ)水、巷説多(レ)端、慥雖(レ)不(レ)見(二)其頸(一)、滅亡之条勿論歟と申たり。太政(だいじやう)入道(にふだう)より始て、一門の人々大に悦て、景親等に懸賞の沙汰あり。
S2206 千葉足利催促事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)は石橋山を出て後、三百(さんびやく)余騎(よき)にて上総国府に著給ふ。千葉介、上総介等が許へ使者を遣すに云、平家追討事、依(レ)蒙(二)院宣(一)可(レ)有(二)同心(一)之旨、先度被(二)相触(一)畢、可(二)参加(一)之由、承伏之間、遂(二)合戦於石橋之城郭(じやうくわく)(一)畢、遅参之条、頗不(レ)得(二)其意(一)、縦雖(レ)為(二)私之宿意(一)、可(レ)被(レ)存(二)合力之儀(一)、況一院御定綸言明白也、旁以難(レ)被(二)黙止(一)歟、所詮以(二)弘経(一)為(レ)父、以(二)胤経(一)憑(レ)母、頼朝(よりとも)知(二)行天下(一)否、併在(二)両人之計(一)と被(レ)仰たり。本より領掌の上也。千葉介胤経、三千(さんぜん)余騎(よき)にて急ぎ杉浦と云所に行向て、やがて兵衛佐(ひやうゑのすけ)を相具し、下総国府に入奉て由々敷翫し奉る。胤経申けるは、爰(ここ)に大幕百帖ばかり引散し、白旗六七十流(ながれ)打立候べし、是を見聞ん輩は、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に大勢参けりとて、江戸葛西の者共皆参るべしと(有朋上P737)計ひ申ければ、然べきとて、則胤経に仰て其定に構へたり。案にも違はず我も/\と馳参る。上総介弘経は此事を聞、遅参に恐て、当国に井の北、井の南、庁の北、庁の南、まう西、まう東より始て国中(こくぢゆう)の輩、背をば打、随ふをば相具して、一万(いちまん)余騎(よき)にて下総国府に来り申入たりければ、佐殿は土肥次郎を以、度々被(二)催促(一)の処、領掌乍(レ)申、遅参御不審あり、然而沙汰の次第、
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最も神妙(しんべう)也、暫後陣にありて、可(レ)随(二)催促(一)の由、被(二)仰下(一)、此勢共を相具して一万六千(いちまんろくせん)余騎(よき)也。弘経屋形に帰て云ひけるは、此佐殿は一定日本(につぽん)の大将に成り給ふべし。当時無勢の人におはしぬれば、此大勢にて参たらば、悦出て、耳に口を差合て、追従言など宣はんずらんと存じたれば、思ひの外に真平を以大気なく、遅参其意を得ず、後陣に在て可(レ)随(レ)召と問答の条、恐し恐し、誰人にもよも荒量には討れ給はじ、必本意遂給(たま)ひなん、末憑もしき人也。さるためしあり。
S2207 俵藤太将門(まさかど)中違事
昔将門(まさかど)が東八箇国を打塞て凶賊を集め、王城へ攻入るべしと聞ゆ。平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)勅宣(ちよくせん)を蒙て下向す。下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷は、名高き兵にて多勢の者也けるが、将門(まさかど)と同意(有朋上P738)して、朝家を奉(レ)傾、日本国(につぽんごく)を同心にしらんと思て、行向て角と云、将門(まさかど)折節(をりふし)髪を乱てけづりけるが、余りに悦て取も不(レ)敢大童にて、而も白衣(はくえ)にて周章(あわて)出合て、種々の饗応事云ひければ、秀郷目かしこく見咎て、此人の体軽骨也、墓々敷日本(につぽん)の主とならじとて、初対面に心替しける上に、俵藤太をもてなさんが為に、酒肴椀飯舁居て、是をすゝむ。将門(まさかど)が食ける御料、袴の上に落散けるを、自是を払ひのごひたりけり。是は民の振舞にや、云甲斐なしと心の底にうとみつゝ、後には貞盛(さだもり)に同意して、秀郷が謀を以て、将門(まさかど)既(すで)に亡けり。其れまでこそなからめ、御前までは被(レ)召べき者を、遅参不審と宣(のたま)ひ出し給(たま)ひつる心の中、恐し/\、憑べき人なりと、舌を振てぞほめたりける。平家重恩の者、もしは縁者境界、さすが東国にも多かりければ、飛脚櫛の歯を継て六波羅へ申上けるは、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、石橋にして被(レ)討
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之由、雖(レ)有(二)披露(一)、其条無実也、遁(二)出杉山(一)渡(二)安房国(一)、相(二)具北条、佐々木、三浦党類(一)、越(二)于上総下総(一)、召(二)従弘経胤経已下之大名小名(一)、既及(二)三万八千(さんまんはつせん)余騎(よき)(一)、其外伊豆、駿河、甲斐、信濃、同心之間、其(その)勢(せい)如(二)雲霞(一)、適有(二)背輩(一)、忽(たちまち)に依(レ)加(二)誅罰(一)、上下甲乙皆以帰伏、但源平未(レ)定之前、勇士猶予之刻、急差(二)下討手(一)、可(レ)被(レ)鎮(二)凶徒(一)歟と申たり。依(レ)之(これによつて)京中六波羅の騒動斜(なのめ)ならず、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、平治以来本望也ける上(有朋上P739)に、文覚がすゝめに、依(二)一院(一)院宣を蒙し後は、此営の外は他事なし。平家は加様に日比(ひごろ)源氏の内議支度のあるをも不(レ)知、如何様(いかさま)にも頼朝(よりとも)に勢の付ぬさきに、追討使を下すべしと評定あり。
S2208 入道申(二)官符(一)事
九月四日戌時に、太政(だいじやう)入道(にふだう)手輿に乗、新院の御所に参て申けるは、源(みなもとの)為義(ためよし)、義朝(よしとも)父子は、法皇の御敵にて候しを、入道が謀にて、彼等二人を始て数の伴類皆手に懸て亡し候き。保元平治の日記と申物に見えて侍り。彼義朝(よしとも)が三男に右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)と申奴は、近江国伊吹が麓より尋出して、将てまうできて侍しを、入道が継母に池尼と申候しが、頼朝(よりとも)を見て一旦の慈悲を発し、彼冠者あづけ給へ、敵をば生て見よと云たとへありと、低伏申侍しかば、誠にも、源氏の種をさのみ断つべきにも非ず、入道が私の敵にてもなし、只君の仰を重ずる故にこそあれと思ひ存じて、流罪に申宥て伊豆国(いづのくに)へ下し候ぬ、其時十三と承き。かね付たる小男の、生絹の直垂に小袴著て侍しを、入道が前に呼居て、事様を尋問候ひしかば、如何ありけん、事の起りしらずと申候き。げにも幼稚なればよも
P0543
しらじ(有朋上P740)なんど、青道心をなして候へば、今は哀は胸をやくと申たとへに合て侍り、定て聞し召れ候らん。彼頼朝(よりとも)伊豆国(いづのくに)にて、計なき悪事共を此八月に仕ける由承る、されば追討の宣旨を下さるべき由相存と奏す。新院の仰には、左様の事申人もなし、始てこそ聞し召せ、但何事かは有べき、法皇にこそは申されめと。其時入道重て申様は、主上をさなく御座(おはしま)す、君はたゞしき御親にて御座(おはしま)す、差越奉りて何とか法皇に申進せ候べき。源氏を引思召(おぼしめし)て、平家をにくませ給ふと覚候とくねり申。新院すこしわらはせ給(たま)ひて、事新く誰を憑みたるにか、宣下の条やすし、速に大将軍を注し申べし、誰に仰付べきぞと仰けり。入道の計ひ申に依て、即官符を下さる。其状に云く、
左弁官下 東海東山道諸国
  可(三)早追(二)討伊豆国(いづのくにの)流人右兵衛佐(うひやうゑのすけ)源朝臣頼朝(よりとも)并与力輩(一)事
右大納言(だいなごん)藤原実定、宣奉(レ)勅、伊豆国(いづのくにの)流人前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)(一)、忽相(二)語凶悪徒党(一)、欲(レ)虜(二)掠当国隣国(りんごく)叛逆之甚(一)、既絶(二)常篇(一)、宣(レ)令(下)(二)右近衛権少将平維盛朝臣、薩摩守同忠度朝臣、参河守同知盛朝臣等(一)追(中)討彼頼朝(よりとも)及与力輩(上)、兼又東海東山道堪(二)武勇(一)者、同可(レ)令(レ)備(二)追討(一)、其中有(下)抜(二)殊功(一)輩(上)、可(レ)加(二)不次賞(一)、依宣行(レ)之。(有朋上P741)  
  治承四年九月六日              蔵人左中弁藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)経房奉とぞ被(二)書下(一)たる。入道給(レ)之大に悦、同九月は吉日なりとて、頼朝(よりとも)征伐の官兵等、門出あり。(有朋上P742)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十三

P0544(有朋上P743)
牟巻 第二十三
S2301 新院厳島御幸附入道奉(レ)勧(二)起請(一)事
治承四年九月廿一日、新院又厳島の御幸あり。御伴には、入道大相国(たいしやうこく)、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、大納言(だいなごん)邦綱(くにつな)、藤大納言(だいなごん)実国、源宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、頭左中将重衡、宮内少輔棟範、安芸守在経已下八人(はちにん)也。此御幸と申は、当院御位の時、太政(だいじやう)入道(にふだう)物狂はしくて、事に於て邪になりけるを、いかゞして宥め直さんと思召(おぼしめし)ける程に、入道(にふだう)相国(しやうこく)、此明神の事を強に、忝申ければ、然べき事にこそあるらめ、彼社に参て祈申ばやと思召(おぼしめし)つゞける処に、去二月の比静なりける夜、入道御前に参て世上の事教訓申ける次に、帝王下居の後は、御幸始とて御物詣ある事に侍り、神社仏寺の間に、いづくへも思召(おぼしめし)立御座(おはしま)し候へかしと奏する時、よき次と思召(おぼしめし)て然べく被(レ)申たり。厳島へと思召(おぼしめす)由仰ければ、入道不(レ)斜(なのめならず)悦て出立進て、三月には御参詣ありき。御祈誓は法皇の鳥羽殿(とばどの)に被(二)打籠(一)させ給へる御事にぞ有らんと人人思(おもひ)申けるに合て、鳥羽殿(とばどの)より事故なく都へ還御ありき。随て入道も被(二)思(有朋上P744)直(一)と聞えしかば、彼明神の験にやとぞ覚ける。去ば其御賽の為なるべし。さしも深き御志也。明神も争か御納受(ごなふじゆ)なかるべき。御願文(ごぐわんもん)御自あそばして、摂政(せつしやう)清書せられけり。熊野御参詣の事に思召(おぼしめし)けれ共、仰出す御事もなかりけるに、頼朝(よりとも)追討の宣下の後、入道又夜に入て参たりけるに、新院の仰には、東国の兵乱の事、頼朝(よりとも)
P0545
は一人也、討手の使は三人也、別の事あらじ、心安(こころやすく)こそ思召(おぼしめせ)、早く其祈可(レ)被(レ)申、先厳島へ被(レ)参よかし、さらば是も思たゝんと仰下さる。入道余(あまり)の嬉さに手を合悦泣して、関東へは若者共を差下て候へば、実に何事かは侍べき、鳥風ならばこそ此等を差越ては頼朝(よりとも)に勢付べき、皆々禦留なん憑しく候、勅定のごとく厳島へ御伴仕て、天下安穏の事を祈申べしとて俄(にはか)に出し立進て御幸あり。彼島に著せ給(たまひ)て、御参社以前に、入道と宗盛と父子二人、院の御前に参よりて、自余(じよ)の人々をば被(レ)除て、入道被(レ)申けるは、東国の乱逆に依て頼朝(よりとも)を可(二)追討(一)之由、御宣下の上は、不審候はねども、源氏に一つ御心あらじと御起請あそばして、入道に給御座(おはしまし)候へ、心安(こころやすく)存じいよ/\御宮仕申候べし、此言聞召入(きこしめしいれ)られずば、君をば此島に捨置進て帰上候なんと申ければ、新院少しもさわがせ給はず、良御計有て、今めかし、年来何事をか入道のそれ申事背たる、今明始て二心ある身と思ふらん(有朋上P745)こそ本意なければ、彼起請いとやすし、いかにもいはんに随ふべしと仰有ければ、前(さきの)右大将(うだいしやう)硯紙執進せり。入道近参て耳語申ければ、其儘にあそばしてたびぬ。入道披(レ)之拝て、今こそ憑しく候へとてほくそ笑て、大将に見せらる。宗盛此上は左右の事有べからずと申。相国取て懐に入て立給けるが、よにも心地よげにて、各御前へ参らせ給へと申ける時、邦綱卿(くにつなのきやう)被(レ)参たり。あやしと思はれけれ共、人々口を閉て申事もなかりけるに、重衡朝臣いかにぞやと阿翁にさゝやきければ、打うなづきて心得(こころえ)たる体也けれ共、御伴の人々は其心を得ず、国庄を給り給へる歟、いかばかりの悦
P0546
し給へるぞと、いと■(おぼつかな)く思はれたり。其後御社参ありて、神馬神宝進て御啓白あり。
新院御宸筆(ごしんぴつ)御願文(ごぐわんもん)云、〈 高倉院(たかくらのゐんの)御事也 〉
蓋聞法性山静、十四十五之月高晴、権化地深、一陰一陽之風旁扇、方便力用不(レ)可(二)測量(一)者歟、夫厳島者、名称普聞之場、効験無双之砌(みぎり)也、遥嶺之廻(二)社壇(一)也、自顕(二)大悲之高峙(一)、巨海之及(二)祠宇(一)也、暗表(二)弘誓之深湛(一)、仰(レ)之明徳在(レ)頂、現当之望必満帰(レ)之、答■(たふきやう)(二)随心鏡谷之応惟新(一)也、凡卒土之浜靡然向(レ)風、伏惟、初以(二)庸昧之身(一)、忝蹈(二)皇王之位(一)、握(二)乾符(一)兮、顧(二)微分(一)鎮迷(二)南面之理(一)、政望(二)四海(一)兮、恥(三)薄徳更無(二)万民之威(一)、仁仍守(二)(有朋上P746)謙遜於■郷(れいきやう)之訓(一)、楽(二)閑放於射山之属(一)、而後偸抽(二)一心之精誠(一)、先詣(二)孤島之幽(一)、遂(二)機感純熟(一)、欽仰弥切者也、是宿善之所(レ)致也、豈非(二)深信令(一)(レ)然乎、況瑞籬之下、仰(二)冥恩(一)凝(二)懇念(一)而、流(二)汗宝宮之裏(一)、垂(二)霊詫(一)有(二)其告(レ)之銘(一)(レ)肝、就(レ)中(なかんづく)殊指(二)怖畏謹慎之期(一)、専当(二)季夏初秋之候(一)、而間病痾忽侵、弥思(二)神威之不(一)(レ)空、萍桂頻転、猶(レ)無(二)医術施(一)(レ)験、雖(レ)求(二)祈祷(一)、難(レ)散(二)霧霞(一)、不(レ)如(下)抽(二)心府之志(一)、重欲(レ)企(中)斗籔之行(上)、因(レ)茲白蔵已闌之律、玄英漸近(レ)之、天殊専(二)斉蕭(一)遂以予参、漠々寒嵐之底、臥(二)旅泊(一)而破(レ)夢、凄々微陽之前、望(二)遠路(一)而極(レ)眼、遂就(二)枌楡之砌(みぎり)(一)、敬展(二)清浄之筵(一)、奉(レ)書(二)写色紙墨字妙法蓮華経一部八巻(一)、開結般若心阿弥陀(あみだ)等経各一巻、手自奉(レ)書(二)写金泥提婆品一巻(一)、文々之尽(二)懇精(一)、正施(二)紫摩於瑠璃之上(一)字々之隔(二)妙跡(一)未(レ)畳(二)漂波於張池之中(一)、沖襟之至、世垂(二)哀愍(一)、于(レ)時蒼松蒼栢之陰、共添(二)善利之種(一)、潮去潮来之
P0547
響、暗和(二)梵唄之声(一)、法会得処、随喜双催、抑弟子辞(二)北闕之雲(一)、八箇日矣、雖(レ)無(二)涼燠之多(一)、廻(二)凌西海之浪(一)二箇度焉、誠知(二)機縁之不(レ)浅帰依之思(一)此故増(二)進渇仰之志因(レ)茲竪固、加(レ)之、今度忝至(二)苔庭(一)奉(レ)添(二)松府神(一)、而有(レ)知(レ)莫(レ)棄(二)我願(一)、殊以(二)白業(一)奉(レ)祈(二)紫宮(一)、一日万機之化、広被(二)竜図鳳展之運(一)、惟久、弟子病患忽散、伝(二)淮南道士之方、寿算無疆論、山中射若之命(一)、抑当社者、混(二)俗塵(一)而済(二)生、利人界(一)、(有朋上P747)而振(レ)徳、或三公九卿之臣、或芻蕘台齢之輩、朝祈之客匪(レ)一、暮賽之者且千、但尊貴之帰敬雖(レ)多、院宮之往来未(レ)有(レ)之、禅定法皇初貽(二)其儀(一)、弟子■身(べうしん)徐運(二)其志(一)、彼崇高山之月前、漢武未(レ)拝(二)和光(わくわう)之影(一)、蓬莱洞之雲底、天仙空隔(二)垂跡(すいしやく)之塵(一)、如(二)当社(一)者、曾無(二)此類(一)、仰願大明神(だいみやうじん)、伏乞一乗経、新照(二)丹祈(一)、忽彰(二)玄応(一)、敬白。
     治承四年九月二十一日        太上天皇(てんわう)〈 御諱 〉敬白
とぞ有ける。御伴人々参社の神女までも随喜の思を成て、いよ/\明神の効験をぞ貴みける。
S2302 朝敵追討例附駅路鈴事
同廿二日に追討使官符を帯して福原の新都を立。大将軍三人の内、権亮少将維盛朝臣は、平将軍(へいしやうぐん)より九代、正盛より五代、大相国(たいしやうこく)の嫡孫重盛(しげもり)の一男なれば、平家嫡々の正統也。今凶徒の逆乱を成に依て、大将軍に被(レ)撰たり。薩摩守忠度は入道の舎弟(しやてい)也、熊野より生立て心猛者と聞ゆ。古郡より可(二)相具(一)と沙汰あり。参河守知度は入道の乙子也。侍には上総介忠清(ただきよ)を始として、伊藤有官無官(むくわん)、惣而五万余騎(よき)とぞ聞えける。長井(ながゐの)斎藤別当(有朋上P748)真盛は、東国の案内者とて先陣をたぶ。抑朝敵追討のため
P0548
に、外土へ向ふ先例を尋に、大将軍先参代して節刀を給るに、宸儀は南殿に出御し、近衛司は階下に陣を引、内弁外弁の公卿参列して中儀の節会を被(レ)行。大将軍副将軍、各礼儀を正しくして是を給る。されども承平天慶之前蹤、年久して難(レ)准とて、今度は堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)嘉承二年十二月に、因幡守平正盛が、前対馬守源(みなもとの)義親を追討の為に出雲国へ発向せし例とぞ聞えし。鈴ばかりを給(たまひ)て、革袋に入て、人の頸に懸たりけるとかや。朱雀院の御宇(ぎよう)承平年中に、武蔵権守平将門(まさかど)が、下総国相馬郡に居住して八箇国を押領し、自平親王と称して都へ責上、帝位を傾奉らんと云謀叛を思立聞有ければ、花洛の騒不(レ)斜(なのめならず)。依(レ)之(これによつて)天台山当時の貫首、法性坊大僧都(だいそうづ)尊意蒙(二)勅命(一)、延暦寺(えんりやくじ)の講堂(かうだう)にして、承平二年二月に、将門(まさかど)調伏の為に不動安鎮の法を修す。加(レ)之諸寺の諸僧に仰て、降伏の祈誓怠らず、又追討使を被(レ)下けり。今の維盛先祖平貞盛(さだもり)無官(むくわん)にして上平太と云けるが、兵の聞え有けるに依て被(二)仰下(一)けり。貞盛(さだもり)宣旨を蒙て、例ある事なれば節刀を給り鈴を給り、大将軍の礼義振舞て、弓場殿の南の小戸より罷出、ゆゝしくぞ見えし。大将軍は貞盛(さだもり)、副将軍は宇治民部卿忠文、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国■(くにもと)、大監物平清基、散位源就国、散位源経(有朋上P749)基等相従て東国へ発向す。貞盛(さだもり)已下の勇士東路に打向ひはる/゛\と下けり。道すがら様々やさしき事も猛事も哀なる事も有ける中に、駿河国富士の麓野、浮島原を前に当て、清見関に宿けり。此関の有様(ありさま)、右を望ば海水広く湛て、眼雲の浪に迷、左を顧れば長山聳連て、耳松風に冷じ。身をそばめて行、足を峙て
P0549
歩む、釣する海人の、通夜浪に消ざる篝火、世渡人の習とて、浮ぬ沈ぬ漕けるを、軍監清原の滋藤と云者、副将軍民部卿忠文に伴て下けるが、此形勢(ありさま)を見て、
  漁舟火影冷焼(レ)波、駅路鈴声夜過(レ)山 K117 
と云唐歌を詠じければ、折から優に聞えつゝ、皆人涙を流けり。
 < 漁舟とは、すなどりする船なり。火の影は、彼舟には篝の火をたけば、諸の魚の集りてとらるゝ也。冷焼(レ)波とは、水にうつろふ篝の火の、波をやく様に見ゆる也。駅路とは旅の宿なり。鈴の声とは、大国には馬に鈴を付て仕へば、よもすがら旅の馬山を過けるを、かく云ける也。貞盛(さだもり)朝敵追討の蒙(二)宣旨(一)、凶徒降伏の鈴を給り、此関に宿たる折節(をりふし)、釣する海人が篝を焼て魚をとる有様(ありさま)思知られければ、かく詠じけるにこそ。>(有朋上P750)
S2303 貞盛(さだもり)将門(まさかど)合戦附勧賞事
下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷は、将門(まさかど)追討の使、下べき由聞えければ、平親王にくみせんとて行向たりけるに、大将軍の相なしと見うとみて、憑み憑まんと偽て、本国に帰、貞盛(さだもり)を待受て相従てぞ下ける。
承平三年二月十三日、貞盛(さだもり)已下の官兵将門(まさかど)が館へ発向す。将門(まさかど)は下総国辛島郡北山と云所に陣を取、其(その)勢(せい)纔(わづか)に四千(しせん)余騎(よき)。同(おなじき)十四日未時に矢合して散々(さんざん)に戦。官兵凶徒に撃変されて、死する者八十余人(よにん)、疵を蒙る者数をしらず。貞盛(さだもり)秀郷等引退刻に、二千九百人の官軍落失ぬ。将門(まさかど)勝に乗て責戦時、貞盛(さだもり)秀郷等精兵二百(にひやく)余人(よにん)をそろへて、身命を棄て返合て戦けり。爰(ここ)に将門(まさかど)自甲冑を
P0550
著、駿馬を疾て先陣に進みて戦処に、王事靡(レ)塩、天罰正顕て、馬は風飛歩を忘、人は李老之術を失へり。其上法性坊調伏の祈誓にこたへつゝ、神鏑頂に中て将門(まさかど)終に亡けり。同四月二十五日、将門(まさかど)が首都へ上る。大路を渡て左の獄門の木に懸らる。哀哉昨日は東夷の親王とかしづかれて威を振、今日は北闕に逆賊と成て恥をさらす事を。貪(レ)徳背(レ)公、宛如(二)憑(レ)威践(レ)鉾之虎(一)と云本文あり、最慎べき事也けり。貞盛(さだもり)又希有にして遁上れり。譬へば馬前の(有朋上P751)秣は野原に遺り、爼上の魚の江海に帰が如し。帝運の然らしむると云ながら、武芸のよく秀たる事を感じけり。将門(まさかど)が舎弟(しやてい)将頼、并(ならびに)常陸介藤原玄茂は、相模国(さがみのくに)にて討れけり。武蔵権守興世は上総国にして被(レ)誅。坂上近高、藤原玄明、常陸国にて切れたり。伴ふ類与党多かりけれ共、妻子を捨て入道出家して山林に迷けり。将門(まさかど)追討の勧賞被(レ)行けり。左大臣実頼〈 小野宮殿 〉、右大臣師輔〈 九条殿 〉已下、公卿殿上人(てんじやうびと)陣の座に列し給へり。大将軍貞盛(さだもり)は上平太なりけるが、正五位に叙して平将軍(へいしやうぐん)の宣旨を蒙る。藤原秀郷は従四位下(じゆしゐのげ)に叙して、武蔵下野両国の押領使を給り、右馬助(うまのすけ)源経基は従五位下に叙して、太宰の少弐に任けり。次副将軍忠文卿の勧賞の事沙汰有けるに、小野宮殿の御義に云、今度の合戦偏へに大将軍の忠にあり、副将軍は功なきが如し、恩賞不(レ)可(レ)輙と申させ給けるに、重て九条殿の仰に、兵を選て賊徒を誅する事、大将軍も副将軍も、共に詔命に依りて敵陣に向ふ。大将軍の先陣に勇事は、後陣の副将軍の勢を憑むゆゑ也。副将軍の後陣に踉■(やすらふ)ことは、大将軍の進退を守、共に以て午角也、争か朝恩なからん。但大将軍
P0551
の賞ほどこそなく共、■様(おほやう)なる勲功候べきをやと度々被(レ)奏けるに、小野宮殿さのみ勧賞無念に候、忠による禄なるべしと、固く諌申させ給(たま)ひければ、民部卿終に漏にけり。(有朋上P752)
S2304 忠文祝(レ)神附追(二)使門出(一)事
爰(ここ)に忠文大悪心を起して、面目なく内裏を罷出けるが、天も響き地も崩るゝ計の大音声を放云けるは、口惜事也、同勅命を蒙て同朝敵を平ぐ、一人は賞に預り一人は恩に漏る、小野宮殿の御計、生々世々(しやうじやうせせ)不(レ)可(レ)忘、されば家門衰弊し給(たまひ)て、其末葉たらん人は、ながく九条殿の御子孫の奴婢と成給ふべしとて、高く■(ののし)り手をはたと打て拳を把りたりければ、左右の八の爪、手の甲に通り、血流れ出ければ紅を絞りたるが如し。やがて宿所に帰り飲食を断、思死に失にけり。悪霊と成て様々おそろしき事共有ければ、怨霊を宥申べしとて、忠文を神と祝奉、宇治に離宮明神と申は是也。誠に其恨の通りけるにや、小野宮殿の御子孫は絶給へるが如し。たま/\まします人も、必皆九条殿の奴婢とぞ成給へる。九条殿は一言の情に依て、摂政(せつしやう)関白(くわんばく)今に絶させ給はず、朝敵を平げたる形勢(ありさま)、上代はかくこそ有けるに、新都の大裏、討手の大将、礼儀忘れたるが如く、儀式前蹤を守らず、いさ/\維盛の追討使、事行がたし、只物の為歟とぞ内々は傾申ける。二十二日に福原の京を立たりけるが、其(その)日(ひ)は昆陽野に宿す。二十三日に故京に著、二十四五六日は逗留(有朋上P753)す。各鎧甲(よろひかぶと)より始て、弓箭馬鞍、かゞやくばかり出立たりければ、見人目を驚す。維盛は赤地錦直垂に、大頸端袖は紺地の錦にてぞたゝれたる。萌黄匂の糸威の鎧に金覆輪を懸たり。連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬の太逞きに、鋳懸地の黄覆輪の鞍置たり。年二十二、
P0552
美め形勝たり。絵にかく共、筆も難(レ)及とぞ見えたりける。薩摩守忠度の許へ、志深き女房の小袖を一重贈りたりけるに、いひおこせたりけるは、
  東路の草葉を分る袖よりもたゝぬ袂(たもと)は露ぞこぼるゝ K118 
忠度の返事には、
  別路を何歎くらん越て行く関をむかしの跡と思へば K119 
と、此返事は先祖の貞盛(さだもり)、将門(まさかど)追討の為に大将軍に選れて、東国へ下りし事を思出してよめるにや。女房の歌は、大方の余波にてさる事なれ共、忠度の歌は、軍の門出にいま/\しき事哉とぞ申ける。各既(すで)に出立ぬ。二十七日(にじふしちにち)には近江の国野路の宿につく。二十八日(にじふはちにち)同国蒲生野に著。廿九日に同国小野宿に著。晦日美濃国府に著。十月一日同国墨俣につく。二日尾張国萱津宿に著、三日同国鳴海に著。四日三川国矢矧につく。五日同国豊川に著。六日遠江国橋本につき、七日同国池田宿につく。八日同国懸川の宿に著。九日(有朋上P754)同国波津蔵につき、十日駿河国府につく。其より清見関まで攻下たれども、国々の兵随付勢なし。適ある者も山野にぞ逃隠ける。道すがら人のたくはへ持るもの共、打入打入奪取ければ、世の乱人の歎不(レ)斜(なのめならず)。
S2305 源氏隅田河原取(レ)陣事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、平家の軍兵東国へ下向の由聞給(たまひ)て、武蔵と下総との境なる隅田川原に陣を取て、国々の兵を被(レ)召けり。爰(ここ)に武蔵国住人(ぢゆうにん)、江戸太郎、葛西三郎、一類眷属引率して参たり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)宣(のたまひ)けるは、
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彼輩は衣笠にして御方を討者共也、参上の体尤不審あり、大場畠山に同意して後矢射べき謀にやと宣(のたまひ)ければ、様々陣申に依て被(レ)宥けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)上総介八郎を召て、今一両日此に逗留して、上野下野の勢を催立て、渡瀬を廻て打上らん事如何あるべきと宣へば、弘経畏て、其事悪く候なん、其故は、小松少将維盛大将軍として、侍には上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)等、数万騎の勢を引率して下向と聞え候。斎藤別当真盛、東国の案内者にて一陣と承。日数を経るならば、武蔵相模の勇士等、大場畠山が下知に随て平家の方へ参べし。されば急ぎ此川を渡して足柄を後にあて、富士川を前に請(有朋上P755)て陣を取ならば、武蔵相模の者共は必御方へ参候べし。此両国の兵共(つはものども)随参なば、日本国(につぽんごく)は我御儘と被(二)思召(一)(おぼしめさる)べし。上野下野の輩は、とても追継追継に馳参べしと計申ければ、然べしとて、江戸葛西に仰て浮橋渡すべしと下知せらる。江戸葛西は、石橋にして佐殿を奉(レ)射し事恐思けるに、此仰を蒙て悦をなして、在家をこぼちて浮橋尋常に渡たり。軍兵是より打渡して、武蔵国豊島の上、滝野河松橋と云所に陣を取。其(その)勢(せい)既十万余騎(よき)、懸りければ八箇国の大名、小名、別当、庄司、検校(けんげう)、允、介なんど云までも、二十騎(にじつき)三十騎(さんじつき)五十騎(ごじつき)百騎、白旗白じるし付つゝ、此彼より参集。佐殿はいとゞ力付給(たまひ)て、先当国六所大明神(だいみやうじん)に御参詣ありて、神馬を引上矢を奉られたり。
S2306 畠山推参附大場降人事
〔斯る処に〕畠山庄司次郎は、半沢六郎を呼て云けるは、此世の中いかゞ有べき、倩兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の繁昌し給ふを見るに直事に非ず、八箇国の大名小名皆帰伏の上は、参るべきにこそあるか、指たる意趣はなけれ共、父の庄司、伯父の別当、平家に当参の間、
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憖(なまじひ)に小坪坂にて三浦と合戦す、されば参らんも恐あり、参らでもいかゞ有べき、相計と云けれ(有朋上P756)ば、成清申けるは、たゞ平に御参候へ、小坪の軍は三浦の殿原存知あるらん、弓矢取身は父子両方に別れ、兄弟左右にあつて合戦する事尋常也、保元の先蹤近例也、且は又平家は当時一旦の恩、佐殿は相伝四代の君也、御参候はんに其恐有べからず、若御遅参あらば一定討手を被(二)差遣(一)候べし、其条ゆゝしき御大事(おんだいじ)也、急御参ありて、何事も陳じ申させ給ふべしと云ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を相具して、白旗白弓袋を指上て参たり。生年十七歳、容儀事様実に一方の大将軍と見えたり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)宣(のたま)ひけるは、父重能伯父有重、平家に奉公して当時在京也、不(レ)知東国の案内者して、今度の討手にもや下るらん、されば一門を引別て、父子敵対せんと思ふべきに非ず、就(レ)中(なかんづく)小坪坂にして御方を射き、其上所(レ)差(二)白旗(一)、全く頼朝(よりとも)が旗に相違なし、兵衛佐(ひやうゑのすけ)だにもさす旗也、重忠不(レ)可(レ)劣と思にや、参上之条旁以不審也と仰ければ、重忠畏て陳じ申けるは、小坪の合戦の事、三浦に於て私の宿意なく、君の御為に不忠候はぬ由、再三問答の処に、不慮の合戦に及候き、三浦の人々に御尋(おんたづね)あらば其隠候まじ、旗の事是私の結構(けつこう)にあらず、君の御先祖八幡殿、宣旨を蒙らせ給(たまひ)て武平、家平を追討の時、重忠が、四代祖父秩父の十郎武綱、初参して侍りければ、此白旗を給(たまはつ)て先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候畢ぬ。近は御舎兄悪源太殿、上野国(有朋上P757)大蔵の館にて、多古の先生殿を攻られける時、父の庄司重能、又此旗を差て即攻落し奉り候ぬ。されば源氏の御為には御祝の旗也とて、吉例と名を付て、代々相伝
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仕る。されば君御代を知召べき御軍なれば、先祖代々の吉例を指て参たりと申せば、佐殿は土肥、千葉を召て、此事いかゞ有べきと仰合す。御返事(おんへんじ)には、当時畠山を御勘当努々有べからず、就(レ)中(なかんづく)陳じ申処一々に其請候、極実法の者に候へば、向後も御憑あらんに、一方の大将軍をば承るべき者にて侍り、其に御勘当あらば、武蔵相模の者共、此は人の上にあらず、畠山だにもかく罪せられ、増て我等(われら)はとて更に参候まじ、誰々も此等をぞ守り候らんと計申ければ、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、所(二)陳申(一)被(二)聞召(一)(きこしめされ)ぬ、頼朝(よりとも)日本国(につぽんごく)を鎮むほどは、汝先陣を勤べし、但汝が旗の、余にとりかへもなく似たるに、是を押とて藍皮一文を賜下し給へり。其より畠山が旗の注には、小紋の藍皮を押ける也。畠山既(すで)に参て先陣を給と披露有ければ、武蔵相模の住人(ぢゆうにん)等我も/\と参けり。大場三郎景親は、今は叶はじと思て、三千(さんぜん)余騎(よき)にて平家の御迎として上洛しけるが、足柄山を起てあひ沢宿に著、前には甲斐源氏、二万(にまん)余騎(よき)にて駿河国に越て東国の勢を待。後には兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、雲霞の如く責上と聞えければ、中間に被(二)取籠(一)ていかゞせんと色を失ひて仰天しければ、家人郎等憑(有朋上P758)なくて思々落失ぬ。景親心弱成て、鎧の一の草摺切落して二所権現に奉り、足柄より北星山と云所に逃籠て息つき居たり。其外石橋の軍に佐殿を射し輩、皆頸を延て参集る。重科の者は忽(たちまち)に切らるべきにて有けれ共、宗徒の大場をすかし出さん為に宣(のたまひ)けるは、罪科雖(レ)難(レ)遁、降人として参る上は咎を行ふに及ばず、但各軍に忠を尽すべし、忠により還て賞あるべしなど御沙汰(ごさた)在て、馬鞍などたびて宥め具し給(たま)ひければ、命ばかりは生べきにこそとて、各先陣
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に進みて忠を抽でんと思ひけり。斯しかば大場も終に首を延て参けり。源氏は加様に大勢招集て、足柄山を打越て、伊豆(いづの)国府に著て三島大明神(だいみやうじん)を伏拝み、木瀬川宿、車返、富士の麓野原中宿、多胡宿、富士川のはた、木の下草の中にみち/\たり。其(その)勢(せい)二十万六千(にじふまんろくせん)余騎(よき)とぞ注したる。
S2307 平氏清見関下事
平家は東路に日数を経つゝ、路次の兵召具して、五万余騎(よき)にて駿河国清見が関まで責下れり。旅の空の習は、哀を催事多けれ共、此関ことに面白し、実に伝聞しよりも猶興を催す。南と西とを見渡せば、天と海と一にて、高低眼を迷はせり。東と北とに行向(有朋上P759)ば、磯と山と境て、嶮難足をつまだてたり。岩根に寄る白浪は、時さだめなき花なれや、尾上に渡る青嵐も、折しりがほにいと冷。汀(みぎは)に遊鴎鳥、群居て水に戯れ、叢に住虫の音、とり/゛\心を痛しむ。其より沖津、国崎、湯井、蒲原、富士川の西のはた迄責寄たり。此河の有様(ありさま)、水上は信濃より流とかや、此より南へ落たり。渚(なぎさ)は大海へ二里ばかり有と云。河の広さ、或一町ばかり或は二町ばかり、水濁て浪高し。流の早事立板に水を懸に似たり。まして雨降水出たらん時は向べきに非ず。東西の河原も遠広に、西の耳には平家赤旗を捧て固め、東の河原には源氏白旗を捧たり。源氏の方よりは、安田冠者義貞先陣に有けるが、時々使者を立て、其へ参べきか、是へ御渡有べき歟、見参何時ぞや、名対面共して、何方よりも忽(たちまち)に寄べき様もなし。かく空く日数をふる、大なる鬱なりとする間に、屋形共を指上て、閑に幔幕引て居たりなどする程に、東国広ければにや、源氏の勢いや/\に付て、勢もの恐しく見ゆ。白旗の風に吹るゝ事は、さゞ浪なんどの
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様にぞ有ける。権亮少将維盛は斎藤別当を召て、抑頼朝(よりとも)が勢の中に、己程の弓勢の者いくら程かある、東国の者なれば案内は知たるらんと問給へば、真盛などをよき者と思召(おぼしめし)候か、弓は三人張五人張、矢束は弓に似たる事なれば、十四束十五束、あきまを(有朋上P760)挿絵(有朋上P761)挿絵(有朋上P762)かぞへて矢継早し、一矢にて二三人をも射落されば、鎧は二領(にりやう)三領をも射貫候、惣じて英矢射者なし、加様の者、大名一人が中に廿人卅人は候らん、無下の荒郷一所が主にも二人三人は侍るらん、馬は牧の内より心に任て撰取り立飼たれば、早走の曲進退の逸物を、一人して五匹十匹ひかせたり、彼馬乗負せて、朝夕鹿狩狐狩して、山林を家と思て馳習たれば、乗とは知れども落事なし、坂東武者の習にて、父が死ばとて子も引ず、子が討ればとて親も退ず、死ぬるが上を乗越乗越、死生不(レ)知に戦ふ、真盛なんどを其に並候へば、物の数にも非ず、御方の兵と申は畿内近国の駈武者なれば、親手負ば、其に事付て一門引つれて子は退、主討れば、郎等はよき次とて兄弟相具して落失ぬ、馬と云は博労馬の、兎角つくろひ飼たれば、京出ばかりこそ首をも少持挙侍りしか、はや乗損じて物の用に難(レ)叶、東国の荒手の馬に一当あてられなば、更に立あがるべからず、されば馬と云人と云、西国(さいこく)の者共二十騎(にじつき)三十騎(さんじつき)ぞ東国の一騎(いつき)に当り候はんずる。其に御方の勢は五万余騎(よき)、源氏は聞体廿万騎、縦同勢也共、敵対に及ばじ、況四分が一也、大勢に蒐立られなば、彼等は国々の案内者、野山を跼て知らぬ所なし、御方は西国(さいこく)さまの者也、始て来旅なれば、道ばかりこそ覚え候らめ、されば東国の者共が前をきり後に塞りて、中(有朋上P763)に取籠戦候は
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んには、やは一人も遁出べき、ゆゝしき大事に侍り、是に付ても哀とく御下向在て、武蔵相模の勢を靡かして攻下らせ給へと、再三申候し物を、後悔先に立ぬ事なれ共、口惜候者哉、今度の軍、いかにも叶べきとも存ぜず。
S2308 真盛京上附平家逃上事
真盛は大臣殿の御恩山よりも高く、海よりも深く蒙て候、今度いかなる事もあらんには見奉らん事かたし、御暇を給(たまひ)て罷上り、大臣殿見進せ、又こそ帰り参らめとて、一千(いつせん)余騎(よき)を引分て京へ上にけり。権亮少将維盛は、むねと東国の案内者に憑み給ける真盛は叶じとて上りぬ。心弱は思はれけれ共、軍兵に力をそへんとて、よし/\真盛がなき所には軍はせぬかとて留り給へり。上総介忠清(ただきよ)を先陣に差向給へ共、ためらひて進み戦ふ事なし。維盛は忠清(ただきよ)が計に随て進給はず。斯ければ猛思ふ者も少々有けれども、一人かけ出べきならねば、支て待ほどに、南海道西海道の勢は、下るらんなんど申合けるに、月の比も過て闇に成ぬ、互に人のかよふ事なければ、目にのみ見に、御方には付副勢なし。源氏は日にそへ時を遂て雲霞の如くに集る。さはあれ共、此川を何方よりも渡すべき(有朋上P764)様なければ、平家の方には宿々より傾城どもを迎て、帯ときひろげて、歌よみ酒盛して居たり。源氏の方には、明日廿四日に矢合有べしとて内談あり、終(レ)夜(よもすがら)篝の火をぞ焼たりける。宿々浦々に充満て、沢辺の蛍の飛集たるに似たり。平家の方にも如(レ)形篝火を焼、夜も漸深ければ、各寝入て有けるに、夜半ばかりに、富士の沼に群居たりける水鳥の、いくら共なく有けるが、源氏の兵共(つはものども)の、物具(もののぐ)
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のざゝめく音、馬の啼声などに驚て立ける羽音のおびたゞしかりけるに驚て、源氏の近付て時を造るぞと心得(こころえ)て、すはや敵の寄たるはと云程こそ有けれ、平家は大将軍を始として、取物も取敢(とりあへ)ず、甲冑を忘れ弓箙をおとし、長持皮籠馬鞍共に至まで捨て迷上。親は子をも不(レ)知、従者は主をも顧ず、只我先我先にとぞ落たりける。此日比(ひごろ)呼集て遊つる遊君ども、或は踏殺或手足踏折られて、跋々泣逃去けり。見逃と云事は昔より申伝たり。其だにも心憂かるべし。是は聞逃也。源氏は角とも不(レ)知して、二十四日暁にくつばみをそろへて瀬踏して、時を造て寄たれども、平家の陣には人もなし。其跡を廻て見に忘たる物ども多し。大に恠をなす。若京都にて、源氏の方人の悪事を始たるに依て、馳上たるやらんと云合程に、頭を踏わられて病臥る女一人あり。こはいかにと問へば、此日比(ひごろ)是にて遊つるが、過ぬる宵(有朋上P765)まではさりげもなかりつ、寝入て後夜半計に、此殿原騒ぎ周章(あわて)振迷て立つる時、馬に踏れてかく侍り、其時は水鳥の羽音のおびたゞしく有つると云。源氏の兵申けるは、げにも今夜の鳥の羽音は、常よりも夥(おびたた)しかりつる也、哀聞ならはで、其に驚て敵の時を造るかとて、京家の者共なれば、寝ほれて逃たるよなと笑けり。矢合の討手の使の矢一つだにも不(レ)射(いず)して逃上たるいまいましさよ、行末も正にはか/゛\しき事あらじと、京中の上下、安き口にはさゝやきけり。物しれる人の云けるは、勇士臥(レ)野帰鴈乱(レ)連と云本文あり。されば水鳥の雲に飛散は、敵沼近くあると心得(こころう)べし、縦其を聞損じて時の音と思とも、矢合してこそ逃め、音は合するにも及ばずして落ぬる事心憂し、
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又小児共の読む百詠と云小文に、鴨集て動ずれば成(レ)雷と云事あり、去共其文を読たる人も有けんに、不(二)思出(一)ける口惜さよとて瓜弾をぞしける。又いかなる者か申出したりけん、鳩は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の使者ぞかし、源氏守護の為に、彼水鳥の中には鳩のあまた交て有りけるとかや。天には口なし人を以ていはせよと云、此事さもやと覚えたり。
S2309 新院自(二)厳島(一)還御附新院恐(二)御起請(一)附落書事(有朋上P766)
十月六日、新院厳島より還御あり。遥々(はるばる)の海路を御舟にて、事故なく還上らせ給ぞ御目出し。源中将通親卿、御前に参て被(レ)申けるは、哀面影に立給ふ西海の浪路かな、和光(わくわう)の恵とり/゛\にこそ侍れ、或は深山(しんざん)岩窟に瑞籬をしめて、野獣を導く神明もあり、或は海岸水辺に社壇を並て、淵魚を助る霊応もあり。実に厳島の景気奉(レ)拝候ひし思出にこそ侍れ。去にても彼島にては、なに文をあそばし、大相国(たいしやうこく)には給り候しにやと申せば、新院軈(やが)てはら/\と御涙(おんなみだ)を流して、去事有き、彼文かゝずは、朕を捨て上らんと云しかば、源氏に一つ心ならじと、入道が云の儘に、起請を書てたびたりし也。ながらへば見るらめずらん、我は入道にせため殺れんずるぞ、いさ/\為義(ためよし)、義朝(よしとも)が悪事とかやも、みねば不(二)知召(一)、其もやは苟も一天の主に、直に祭文かけとは申行ひけん、是を目ざましと思は、我身の起請にうてて世に有まじきゆゑ也と、泣々(なくなく)さゝやかせ給けり。通親卿も涙ぐみ畏て、其事御歎に及べからず、人の持る物を心の外にすかし取、人をおどして思様の文をかゝせんと仕るをば、乞素圧状と申て政道にも不(レ)用、神も仏も捨させ給ふ事にて候ぞ、さやうに申行ふこそ還て其身の咎にて侍れば、
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空恐しく候、何かは御苦み候べきと、忍やかに急度被(二)慰申(一)けり。十一日に、夢野と云所に新しき御所を造て御渡有べき由、入道(にふだう)相国(しやうこく)(有朋上P767)被(レ)申ければ、法皇御輿に召て御幸あり。左京大夫脩範一人ぞ御伴には候ひける。名もいまいましき楼の御所を出させ給(たまひ)て、尋常の御所に移り入せ御座(おはしま)して御心安(おんこころやすく)も、厳島の御幸の験にやとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。彼明神と申は安芸国第一の鎮守(ちんじゆ)也。国務の人はまづ此神拝を専にす。入道(にふだう)相国(しやうこく)の世に聞え公に仕つりし時は当国守たりき。明神の加護にて加様の事を施す。されば入道の心をば明神ぞ宥給はんと思召(おぼしめし)取て、新院は二度まで御幸あり、世の末の物語(ものがたり)也。知ず我御子孫を、末の世の百王迄も朝家の御主として、御父の法皇に世を政奉り給はば、我御命をめせなど、祈申させ給けるにやと、後には思合せけり。十一月十一日には、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)、郷内裏造出て主上行幸あり。彼大納言(だいなごん)は大福長者にて、世の人大事にしけり。懸ければ程なく造進せられたりけれ共、遷幸の儀式は世の常ならずと申けり。十五日東国下向の討手の使、空く帰上て古京に著、軍に向ては、命を失ふとこそ聞に、一人もかけず上られたるこそいみじけれ。逃るをば剛者と云事有とて人皆笑あへり。太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)の門に落書あり、奈良法師の読たりけるとかや。
  富士川のせゞの岩越水よりも早くも落るいせ平氏哉 K120 
平家と書てはひらやとよむ、家のまろび倒れんずるには、助と云ひて柱の代に大なる木(有朋上P768)を以てさゝへ
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直事あり。平家の大将軍に下給へる権亮少将落ければ、右大将(うだいしやう)宗盛の騒歎給ふらんと云にそへて、
  ひらやなる宗盛いかにさわぐらん柱とたのむ助を落して K121 
又源氏推寄たれ共敵もなし。富士川のはたを見れば、物具(もののぐ)多捨たる中に、忠清(ただきよ)と銘書たる鎧唐櫃一合あり。武者の具をば既(すで)に捨ぬ、今は遁世(とんせい)して墨染の衣をきよとも読たり。
  富士川に鎧は捨てつ墨染の衣たゞきよのちの世のため K122 
と、又上総守(かづさのかみ)といへば、其国の器によそへても読たり。
  忠清(ただきよ)はにげの馬にや乗つらん懸ぬに落るかづさしりがい K123 
入道は是を見彼を聞くに付ても安からず思はれければ、権亮少将をば鬼界が島へ流し失へ、忠清(ただきよ)をば首を刎よとぞ嗔り給(たま)ひける。
S2310 義経軍陣来事
平家はかく逃上けれ共、源氏は猶浮島原に陣を取て御座(おはしま)しける。爰齢二十余、色白く勢小男の、顔魂眼居指過て見えけるに、郎等廿余騎(よき)を相具して、陣前に出来て名乗ける(有朋上P769)は、是は故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)の子息、九条曹子常盤が腹に牛若と申侍りしが、後には遮那王とて、京の北山鞍馬寺に有しか共、世中住侘て、奥州(あうしう)に落下て男になり、九郎冠者義経と申者にて侍るが、佐殿一院の御諚を蒙らせ給(たま)ひて、平家追討の披露あるに依て、一門の我執を存じ、御力をつけ奉らん為に夜を日に継て馳参つて候、申入
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させ給へと宣(のたまひ)ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)不(二)聞敢(一)涙を流し請じ入給(たまひ)て、いかにや/\去事候らん、頼朝(よりとも)勅勘を蒙りし身なれば、音信(いんしん)難(レ)叶候き。平家追討の院宣を下給(たまひ)て後は、他事なく其営の間、急と思ひよらざりつるに、聞敢ず御渡り、嬉しとは事も疎に侍り、昔八幡殿の後三年の合戦の時、弟に兵衛尉義綱は、折節(をりふし)帝王に事候けるが、兄の向後の覚束(おぼつか)なさに、御暇を給(たまひ)て罷下べき由奏聞しけれ共、御免なかりければ、陣家に絃袋を懸て逃下て、金沢の館へ参向したりければ、八幡殿殊に悦給(たまひ)て、故頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)の御座(おはしまし)たるとこそ覚ゆれとて、涙を流し給けり。唯今御辺(ごへん)の御渡、ためし少も違はず、故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)とこそ奉(レ)見候へとて、互に袖を絞り給へば、大名も小名も皆鎧の袖をぬらしけり。兄弟内に鬩外に禦敵とは此言にや。
S2311 頼朝(よりとも)鎌倉入勧賞附平家方人罪科事(有朋上P770)
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、其より鎌倉へ帰入て様々事行し給けり。先勧賞有べしとて、遠江をば安田三郎に給ふ。駿河をば一条次郎に給。上総をば介八郎に給ふ。下総をば千葉介に給。其外奉公の忠により、人望の品に随て、国々庄々を分給けり。次に罪科の輩其沙汰あるべしとて、大場三郎景親をば、介八郎預つて誡置たりけるを、縄付引張り御前の大庭へ将参たり。舎兄に懐島平権頭、人手に懸んよりとて申給(たまひ)て切てけり。其子の太郎をば足利(あしかがの)又太郎(またたらう)承て切、俣野五郎は難(レ)遁身也とて、忍て京へ逃上にけり。海老党に荻野五郎末重は、石橋軍の時源氏の名折に、何に敵に後をば見せ給ぞ、返給返給へと申たり
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し者也、裸になし引張て将参れり。佐殿は、いかに末重、石橋の合戦の時の詞は忘ずやとて、門外にて切られけり。舎弟(しやてい)二人子息一人同切られぬ。加様に首を被(レ)刎者六十余とぞ聞えし。
山内滝口三郎同四郎は、廻文の時富士の山とたけくらべ、猫の額の物を鼠の伺定やなんど悪口したりし者也。大庭に被(二)召出(一)たり。佐殿宣(のたまひ)けるは、汝が父俊綱(としつな)并に祖父俊通は、共に平治の乱の時、故殿の御伴に候て討死したりし者也。其子孫とて残留れり。我世を知らば、いかにも糸惜して世にあらせ、祖父親が後世をも弔はせんとこそ深く思ひしに、盛長に逢て種々の悪口を吐、剰景親に同意して頼朝(よりとも)を射し条は、い(有朋上P771)かに、富士の山と長並べと云しか共、世を取事も有けりとて、土肥次郎に仰て、速に首を刎よと下知し給ふ。実平仰に依て引張て出ぬ。暫屋形に置て還参て申けるは、滝口三郎兄弟が事、悪口と申合戦と申、忽(たちまち)に首をはねべけれ共、彼等が親祖父は、御諚の如故殿の御命に替し輩也、愚なる心に思慮なく申たる者にてこそ侍れ、只所帯を召て、命ばかりを生られて彼恩分に報はせ給はば、俊通俊綱(としつな)が魂魄も悦、故殿の御菩提の御追善ともならせ給なん、追放ち候ばや、命生て侍るとも、謀叛など起べき仁にも候はずと、細々に申ければ、誠左様にも相計ふべしと宣(のたまひ)ければ、実平宿所に帰て、事の仔細申含て両人が髻切、出家せさせて追放ちければ、手を合悦て出にけり。
長尾五郎は佐奈田与一が敵也、召出して、与一が父なれば岡崎四郎に給ふ。義実召誡て明日首を刎べきにて有けるが、最後の所作と思入て、終(レ)夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を読けり。岡崎人を喚で、経の音するは何者(なにもの)が読ぞ
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と問。囚の長尾五郎也と云。転読功積りたりけるにや、今夜を限と思ひける哀さに、信心を致してよみければ、岡崎肝に銘じて貴く聴聞しける。後朝に佐殿に参て申けるは、長尾五郎今日切べきにて候が、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を奉(二)転読(一)、世に貴く覚候き。在俗の身として空によみ覚、あれ程に功を入進せて候ける事、難(レ)有覚候、忽(たちまち)に頸をきらん(有朋上P772)事冥衆の照覧其恐あり、縦斬たり共与一再び生かへるべからず、いとゞ罪業の基と成て悪趣に沈候なん、然べくは与一が孝養に追放候侍ばやと相存候、其事難(レ)叶候はば、他人に仰て罪せらるべく候と申。佐殿やゝ案じて、与一が敵なれば汝にたびぬ、又其上は何様にも義実が計なるべし、左様に咎を法華経(ほけきやう)に免し奉らん事誠に神妙(しんべう)なり、汝が痛申さん事を、我亦罪すべからずと仰ければ、岡崎悦て、罷帰て長尾五郎を呼居、御辺(ごへん)は大方に付ても罪科軽からず、義実に於ては与一が敵也、時刻廻らすべからず、可(レ)被(レ)斬なれども、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を読給つれば、佐殿に参て死罪をば申宥候ぬ、御辺(ごへん)に組し与一を殺され、御辺(ごへん)互に然べき善知識にこそ有つらめ、今は出家し給(たまひ)て片山里に閉籠、静に経よみ念仏して、与一が後世を弔てたべとて、即僧を請じ入道せさせて、袈裟衣裁ち著せ、僧の具足ども調たびて免出しけり、岡崎四郎情在とぞ申ける。滝口三郎は父祖の忠に酬て命をいき、長尾五郎は転読の功に依て死を免れたり。刀杖不加毒不能害、今こそ思知られけれ。凡有(レ)忠者をば賞し、有(レ)罪者をば誅し給ふ。八箇国の大名小名眼前に打随て、四角八方に並居つゝ、非番当番して被(二)守護(一)、其(その)勢(せい)四十万余騎(よき)とぞ注しける。呉王の姑蘇台に
P0566
在しが如く、始皇(しくわう)が咸陽宮を治しに似たり。靡かぬ草木もなかりけり。今は東国には其(有朋上P773)恐なしとて、十郎蔵人行家、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)を始として、一性の源氏、一条、安田、逸見、武田、小笠原等を以て、平家追討の談義様々なり。
S2312 祝(二)若宮八幡宮(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、頼朝(よりとも)運を東海に開き、且々天下を手に把る事、所々の霊夢折々の瑞相、併八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御利生也。都へ上る事は不(レ)輙、大菩薩(だいぼさつ)を勧賞し奉べしとて、鎌倉の鶴岡と云所を打開きて、若宮を造営して霊神を祝奉る。社殿金を鏤て、馬場に砂を綺たり。緋の玉垣照光、翠の松風影冷し。祭礼四季に懈らず、神女日夜に再拝せり。其外堂塔僧坊繁昌し、供仏施僧不断なり。入道(にふだう)相国(しやうこく)是を聞給(たま)ひては、いとゞ不(レ)安ぞ思はれける。(有朋上P774)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十四

P0567(有朋上P775)
宇巻 第二十四
S2401 大嘗会(だいじやうゑ)儀式附新嘗会事
今年は大嘗会(だいじやうゑ)可(レ)被(二)遂行(一)歟と云議定ありけれ共、大嘗会(だいじやうゑ)は、十月の末に東河に御幸して御禊(ごけい)あり。大内の北野に斎場所を造て神服神供を調へ、竜尾の壇の上に廻立殿を立て御湯を召。同壇に大嘗宮を造て神膳を備。清暑堂にして神楽あり、御遊(ぎよいう)あり。去共新都の有様(ありさま)、大極殿(だいこくでん)もなければ大礼(たいれい)行べき所もなし。豊楽院もなければ、宴会も難(レ)行と、諸卿定め申されければ延にけり。新嘗会にて只五節計ぞ如(レ)形有ける。抑五節と申は、昔浄見原(きよみはらの)天皇(てんわう)の其かみ、吉野の河に御幸して御心を澄し、琴を弾給(たま)ひしに、神女二人天降りて、
  をとめこが乙女さびすも唐玉ををとめさびすも其唐玉を K124 
と、五声歌給つゝ五度袖を翻す、是ぞ五節の始なる。遷都の事、太政(だいじやう)入道(にふだう)宣(のたまひ)けるは、旧都は山門と云南都と云程近して、聊の事もあれば、大衆日吉の神輿を先として下り、神人(有朋上P776)春日の御榊を捧て上る。加様の事もうるさし。新都は山重り江を隔、道遠く境遥なれば、彼態たやすかるべからずとて、身の安からん為に計出たりといはれけり。懸けれ共、諸寺諸山を始て貴賎上下の歎也。
S2402 山門都返奏状事
殊には山門三千衆徒僉議(せんぎ)して、都帰り有べき由、三箇度(さんがど)まで奏状を捧て、天聴を驚し奉る。其状に云、
P0568
延暦寺(えんりやくじ)衆徒等(しゆとら)誠惶誠恐謹言、
  請被(下)特蒙(二)天恩(一)停(中)止遷都子細(上)状
右釈尊以(二)遣教(一)、付(二)属国王(一)者、仏法(ぶつぽふ)皇法之徳、互護持故也、就(レ)中(なかんづく)延暦(えんりやく)年中、桓武天皇(てんわう)、伝教(でんげう)大師(だいし)、深結(レ)契(二)約聖主(一)則興(二)此都(一)、親崇(二)一乗(いちじよう)円宗(一)、大師亦開(二)当山(一)、忽備(二)百王御願(ごぐわん)(一)、其後歳及(二)四百廻(一)、仏日久耀(二)四明之峯(一)、世過(二)三十八代(一)、天朝各保(二)十善之徳(一)、上代宮城、無(二)如(レ)此者(一)歟、蓋山洛占(レ)隣、彼是相助故也、而今朝議忽変俄有(二)遷幸(一)、是惣四海之愁別、一山之歎也、先山僧等(さんそうら)、峯嵐雖(レ)閑、恃(二)花洛(一)以送(レ)日、谷雪雖(レ)烈瞻(二)王城(一)以継(レ)夜、(有朋上P777)若洛陽隔(二)遠路(一)、往還不(二)容易(一)者、豈不(レ)辞(三)姑山之月交(二)辺鄙之雲(一)哉、〈 是一 〉、門徒(もんと)上綱等各従(レ)公請遠抛(二)旧居之後(一)、徳音難(レ)通、恩凶易(レ)絶之時、一門小学等寧留(二)山門(一)哉、〈 是二 〉、住山者之為(レ)体也、遥去(二)故郷之輩(一)出(二)帝京(一)、而蒙(二)撫育(一)、家在(二)王都(一)之類、以(二)近隣(一)而為(二)便宜(一)麓若変(二)荒野(一)者、峰豈留(二)人跡(一)乎、悲哉数百歳之法燈、今時忽消、歎哉千万輩之禅林、此時将(レ)滅、〈 是三 〉、但当寺是、鎮護国家之道場、特為(二)一天之固(一)、霊験殊勝之伽藍(がらん)、独秀(二)万山之中(一)所之魔滅、何無(二)衆徒之愁歎(一)矣、法之淪亡、豈非(二)朝家之怖畏(一)哉、〈 是四 〉、況七社(しちしや)権現之宝前、是万人拝覲之霊場也、若王宮遠隔(二)神社(一)、不(レ)近者、瑞籬之月前、鳳輦勿(レ)臨(二)叢祠之露下(一)、鳩集永絶、若参詣疎、礼奠違(レ)例者、啻非(レ)無(二)冥応(一)、恐又残(二)神恨(一)乎、〈 是五 〉、凡当都者是輙不(レ)可(レ)捨之勝地也、昔聖徳太子(しやうとくたいし)、相(二)此地(一)云、所(レ)有(二)王
P0569
気(一)、必建(二)都城(一)云々、大聖遠鑑、誰忽(二)緒之(一)、況青竜、白虎、悉備、朱雀、玄武、勿(レ)闕、天然吉処、不(レ)可(レ)不(レ)執、〈 是六 〉、彼月氏霊山、則攀(二)王城東北(一)、大聖之明崛也、日或叡岳、又峙(二)帝都丑寅(一)、護国之霊地也、忝同(二)天竺之勝境(一)、久払(二)鬼門之凶害(一)、地形奇特、誰不(レ)惜乎、〈 是七 〉、況賀茂、八幡、比叡、春日、平野、大原(おほはら)、松尾、稲荷、祇園、北野、鞍馬、清水、広隆、仁和寺(にんわじ)、如(レ)此神社仏寺等者、或大聖鑑(二)機縁垂跡(一)、或権者相(二)勝地(一)占(レ)砌(みぎり)則、是護国護山之崇廟也、将(有朋上P778)又勝敵勝軍之霊像也、遶(二)王城之八方(一)、利(二)洛中万人貴賎(一)、参詣帰依成(レ)市、仏神利生感応如(レ)在、何避(二)霊応之砌(みぎり)(一)、忽趣(二)無仏之境(一)哉、設新建(二)精舎(一)、縦奉(レ)請(二)神明(一)、世及(二)濁乱(一)、人非(二)大権大聖(一)、感降不(二)必有(一)(レ)之、〈 是八 〉、況此等神社仏寺之中、或有(二)諸家(しよけ)氏寺(一)、修(二)不退勤行(一)、子胤相続、自興(二)仏法(ぶつぽふ)(一)之所也、如(レ)此之倫、憖(なまじひに)従(二)公務(一)、強別(二)私宅(一)者、豈非(二)抑(レ)人之善心(一)、是天下愁歎、不(レ)可(レ)不(レ)痛、〈 是九 〉、南都北山之僧徒、忝従(レ)公請(レ)之時、朝出(二)蓬壺(一)、暮帰(二)練若(一)、宮城遠隔(二)往還(一)云(レ)何、若捨(二)本尊(一)者多(レ)痛、若背(二)王命(一)者有(レ)怖、進退惟谷、東西既暗、〈 是十 〉、憶昔国豊民厚、興(レ)都無(レ)傷、今国乏民窮、遷幸有(レ)煩、是以或有(下)忽別(二)親属(一)、企(二)旅宿(一)者(上)、或有(下)纔(わづかに)破(二)私宅(一)、不(レ)堪(二)運載(一)者(上)、愁歎之声已動(二)天地(一)、仁恩之至、豈不(レ)顧(レ)之、七道諸国之調貢、万物運上之便宜、西河東津、有(二)便無(一)(レ)煩、若移(二)余処(一)、定有(二)後悔(一)歟、又大将軍至(二)酉方(一)、角已塞、何背(二)陰陽(一)、忽遠(二)東西(一)、山門禅徒、専思(二)玉体安穏(一)、愚意之所(レ)及、争不(レ)鳴(二)
P0570
諌鼓(一)、但俄有(二)遷都(一)、是依(二)何事(一)乎、若由(二)凶徒乱逆(一)者、兵革既静、朝廷何勤、若由(二)鬼物怪異(一)者、可(下)帰(二)三宝(一)以謝(中)夭災(上)、可(下)撫(二)万民(一)以資(中)皇徳(上)、何動(二)本宮(一)、故奇、仏神囲遶之砌(みぎり)、剰企(二)遠行態(一)、犯(二)人民悩乱之咎(一)、抑退(二)国之怨敵(一)、払(二)朝之夭危(一)、従(レ)昔以来、偏山門営也、或本師祖師、誓護(二)百王(一)、或医王山王、擁(二)護一天(一)、(有朋上P779)所謂(いはゆる)恵亮摧(レ)脳、尊意振(レ)剣、凡捨(レ)身事(レ)君、無如(二)我山(一)、古今勝験、載在(二)人口(一)、今何有(二)遷都(一)欲(レ)滅(二)此所(一)哉、況堯雲舜星之耀(二)一朝、天枝(一)、帝葉之伝(二)万代(一)則是九条右丞相願力也、豈非(二)慈恵大僧正(だいそうじやう)之加持(一)哉、聖朝詔云、朕是右丞相之末葉也、何背(二)慈覚大師之門跡(一)、今云何忘(二)前蹤(一)、不(レ)顧(二)本山滅亡(一)哉、山僧(さんそう)之訴訟、雖(レ)不(二)必当(一)(レ)理、且以(二)所功労(一)、久蒙(二)裁許(一)来矣、況於(二)此鬱望(一)者、非(二)独衆徒之愁(一)、且奉(レ)為(二)聖朝(一)、兼又為(二)兆民(一)哉加(レ)之於(二)今度事(一)、殊抽(二)愚忠(一)、一門園城(をんじやう)雖(二)相招(一)仰(二)勅宣(ちよくせん)(一)、万人誹謗、難(レ)宛閭巷伏祈(一)、御願(ごぐわん)何固(二)勤労(一)、還欲(レ)滅(二)一処(一)、運(レ)功蒙(レ)罰、豈可(レ)然哉、縦雖(レ)無(レ)別天感、欲(レ)蒙(二)此裁許(一)、当山之存亡、只在(二)此左右(一)故也、望請、天恩再廻(二)叡慮(一)被(レ)止(二)件遷都(一)者、三千人(さんぜんにん)胸火忽滅、百万衆徳水不(レ)乏、衆徒等(しゆとら)不(レ)耐(二)悲歎之至(一)、誠惶誠恐謹言。  
  治承四年十一月日とぞ書たりける。
S2403 都返僉議(せんぎの)事
十一月廿日、太政(だいじやう)入道(にふだう)、雲客(うんかく)卿相(けいしやう)を被(レ)催て、山門の奏状に付て僉議(せんぎ)有べきとて披露之(有朋上P780)次に問給ければ、抑遷都事、山門度々奏聞に及、縦衆徒いかに申共、地形の勝劣諸卿の人望に依べし、旧都と
P0571
新都と得失甲乙、各無(二)矯飾(一)評定有べしと宣ふ。当座の公卿良久口を閉て有けるが、入道の気色に入らんとにや各被(レ)申けるは、福原新都地形無双に侍り、北には神明垂跡(すいしやく)、生田、広田、西宮(にしのみや)、各甍を並たり。尽せぬ御代の験とて、雀松原、みかげの松、千世に替ぬ緑也。雲井に曝布引の滝、白玉岩間に連れり。後を顧れば、翠嶺の雲を挟あり、暁の嵐の漠々たるを吐。前に望ば蒼海の天をひたせるあり、夕陽の沈々たるを呑り。湖水漫々としては、遠帆雲の浪に漕紛、巨海茫々としては、眺望煙波に眼遮れり。月の名を得る須磨明石、淡路島山面白や、蛍火みづから燃なる、葦屋の里の夏の暮、何もとり/゛\に心澄たる所也と、口々僉議(せんぎ)しければ、入道ほくそ咲てぞ御座(おはしまし)ける。此言皆矯飾也。たとへば大国に秦の趙高大臣と云し者、己が威勢を知謀叛を起さん為に、始皇帝(しくわうてい)の子二世王の御もとに、鹿を将参つゝ、此馬御覧ぜよと申ければ、王は是馬に非鹿にこそと宣(のたまひ)けるを、諸臣は趙高が威に恐て、皆馬也とぞ申ける。去ば末座の公卿のおはしけるが、新都をほめけるを聞て、秦趙高が事を思出て、
  鹿を指て馬と云人も有ければ鴨をもをしと思ふなるべし K125 (有朋上P781)
と。勧修寺宰相宗房卿は、公卿の末座におはしけるが、都還の御事は、山門の奏状に道理至極せり、爰か不(レ)被(レ)垂(二)叡信(一)、目出かりし都ぞかし、王城鎮守(ちんじゆ)の社々は、四方に光を和げ、霊験殊勝の寺々は、上下に居を占給へり、延暦(えんりやく)園城(をんじやう)の法水は、本の都に波清、東大興福の恵燈も、旧にし京に光を
P0572
益、四神(ししん)相応の帝都也、数代自愛の花洛也、五畿七道(ごきしちだう)に便あり、百姓万民も煩なし、勝劣雲泥を隔て、旧新水火を論ず、早速に都還有べきにやと申たりければ、新都を嘆たりける諸卿、苦々しく思はれける上に、入道座を立障子をはたと立て内に入給にけり。さしも執し思給(たま)ひつる都を、無代に申つる者哉、入道の腹立あらは也、宗房卿いかなる目にかあはんずらんと、各舌を巻いて怖恐ける程に、十一月廿一日の朝、俄(にはか)に都遷有べしとて廻文あり。公卿も殿上人(てんじやうびと)も、上下の北面賤の女賤の男に至るまで、手をすり額をつきて悦合へり。山門の訴訟は、昔も今も大事も小事も不(レ)空、いかなる非法非例なれ共、聖代明時必ず御理あり。況此程の道理、入道いかに横紙を破給ふとても、争か靡き給はざるべきなれば、山門の奏状により宗房の言に付て、其事既(すで)に一定也、古郷に残留て、さびしさを歎ける輩も、是を聞てはあな目出の山門の御事やとて、首を傾掌を合つゝ、叡山(えいさん)に向てぞ拝み悦などしける。(有朋上P782)
S2404 両院主上還御事
廿一日の朝廻文有て、軈(やが)て主上、一院、新院、女院、みな福原を立せ御座(おはしま)す。さしも新都をほめ給ける公卿殿上人(てんじやうびと)も、都還に成ければ、言と心と引替て、我先にとぞ急ける。二十三日に摂津国(つのくに)源氏、豊島郡住人(ぢゆうにん)豊島冠者、俄(にはか)に東国へ落下る由聞えけり。頼朝(よりとも)同意の為也。入道の謂けるは、哀兼て聞たりせばとゞめてまし、妬き者哉とくやしめども無(レ)力。同日入道前関白(くわんばく)〈 基房 〉松殿と申、備前国湯迫の配所より帰上給へり。都の有様(ありさま)も未(二)落定(一)ありければ、嵯峨(さが)の辺にぞ立入せ給(たま)ひける。
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廿五日に両院木津に著せ御座(おはします)。御所もなかりければ、御舟に奉りて見苦き御有様(おんありさま)也。廿六日(にじふろくにち)に、主上は五条(ごでう)内裏へ行幸、一院は法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に御幸、新院は六波羅の池殿に入せ給(たま)ひて、あすこも爰も草滋り、浅猿(あさまし)げにぞ籬も荒たるなる。山門の童部(わらんべ)小法師原(こぼふしばら)までも、哀天狗の■(ののしり)笑と聞えければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)鼻うそあきてぞ思はれける。平家の一門皆上ければ、まして他家の人々は留まる者なし。怪の女童、甲斐もなき下揩ワでも嬉く思て、劣じ/\と走つゞきて上形勢(ありさま)、哀に面白き見物也。世にもあり人共かずへらるゝ輩皆移りたりしかば、其ゆかりの女房(有朋上P783)侍共、雑色、中間、小舎人まで下り、殿々家々悉運下して、此五六箇月の間に造立て、資財雑物共、今日迄も歩より舟より漕寄持寄つるに、又物狂敷いつしか角有ければ、家をこぼち返さんまでは思ひもよらず、何もかも打捨て上けり。又何者(なにもの)か云出したりけるやらん、残り留らん者をば、鬼共が来てとり食はんずると云ひのゝしりければ、懸る濁れる世には、さる事も有なんとて、劣らじ負じと逃上けり。又いかなる跡なし者の立たりけるやらん、太政(だいじやう)入道(にふだう)の福原の門前に札に書て、
  人くらふ鬼とてよそになき物を生なぶりする醜女入道 K126 
と、故京に上る嬉さは去事に侍れど、こはいかに、落付ていかにすべき共覚えず、帰旅にて、纔(わづか)にゆかり/\を尋ねてぞ暫立宿りける。さても都還の後、宗房卿の一門会合の次に、抑入道のさしも執し思ひ給へる福原の都也、諸人皆新都をほめしに、宰相殿は何心おはしてか、只一人謗給けるぞ
P0574
と問ければ、宗房卿宣(のたまひ)けるは、君も臣も諸事に於て思立時は、心をゆるして人に不(レ)問、思煩ふ事には、必人に問合す。されば入道の心のはやる儘に、都遷とて下給たれ共、人の歎も多て、さすが故郷には及ばず、栖侘給たる折節(をりふし)、山門の訴訟あり、人のいへかし都帰せんと思ふ心の内あらは也と推量て、角は申たり(有朋上P784)とぞいはれける。ゆゝしくかしこくぞ思申給たりける。
S2405 頼朝(よりとも)廻文附近江源氏追討使事
源氏追討の為に東国へ下りし討手の使、空く帰上りて後は、東国北国の源氏等(げんじら)、いとゞ勝にのる間、国国の兵日に随て多なびき付ければ、間近き近江国山本柏木など云ふ源氏さへ、平家を背いて人をもとほさずと聞えけり。斯りける程に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の廻文とて披露しける。案文に云、
被(二)最勝親王勅命(一)、併召(下)具東山東海北陸道、堪(二)武勇(一)之輩(上)、可(レ)追(二)討清盛(きよもり)入道並従類叛逆輩(一)云云、早守(二)令旨(一)、可(レ)有(二)用意(一)、美濃尾張両国源氏等(げんじら)者、催(二)勤東山東海之軍兵(一)可(二)相侍(一)、北陸道勇士者、参(二)向勢田之辺(一)、相(二)待御上洛(一)、可(レ)供(二)奉洛陽(一)也、御即位無(二)相違(一)者、誰不(レ)執(二)行国務(一)哉、依(二)親王御気色(おんきしよく)(一)、執達如(レ)件。    
治承四年十一月日、 前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源朝臣在判とあり。平家是を見て、こはいかに、親王とは何れの事ぞとて騒ぎ合ひけり。
十一月十一日に、先近江源氏追討の為に発向の大将軍には、左兵衛督知盛、少将資盛、越前守通盛、(有朋上P785)左馬頭(さまのかみ)行盛、薩摩守忠度、左少将清経、侍には、筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)を始て、古京の軍兵七千(しちせん)余騎(よき)、路次
P0575
の者共駈具して、一万(いちまん)余騎(よき)に及べり。同(おなじき)十三日山本冠者、柏木判官代(はんぐわんだい)等を攻落して、軈(やが)て美濃尾張へ打越て、先近国を打靡けて、関東へ向べき由聞えければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)少し色なほりて見え給(たま)ひけり。
S2406 坂東落書事
治承四年の冬、何者(なにもの)かしたりけん、坂東に落書あり。其状に云、
  早為(二)一天泰平万人安穏(一)可(レ)追(二)討平家一族(一)事
右倩案、治承四年〈 歳次庚子 〉者、相(下)当蔭子平将門(まさかど)被(二)追討(一)之時代(上)、何当(二)此時(一)而、令(二)黙止(一)哉、謹見(二)此浄海法師之乱悪(一)、殆過(二)彼将軍将門(まさかど)之謀叛、百千万億(一)也、昔将門(まさかど)者、於(二)都城之外(一)而企(二)濫行(一)、今浄海者、於(二)洛陽之内(一)発(二)謀叛(一)、所謂(いはゆる)捕(二)納言宰相(一)、而繋(二)縛其身(一)、搦(二)関白(くわんばく)大臣(一)、而配(二)流遠域(一)、加(レ)之或追(二)籠当今聖主(一)、奪(レ)位而譲(二)于子孫(一)、或責(二)出新本天皇(てんわう)(一)、入(レ)楼而留(二)於理政(一)矣、此叛逆絶(二)古今(一)、前代未聞(ぜんだいみもん)之処、若称(二)院宣(一)、若号(二)令旨(一)、恣下(二)行之(一)、何王之治天、何院之宣旨哉、皆是自由之漏宣也、抑自(二)平治元年(一)以降、数(二)平氏(有朋上P786)持(一)(レ)世既廿一年也、是則改(二)一昔之代(一)、而相(二)当源氏(一)、可(二)持(レ)世之時(一)乎、而今思(二)事情(一)、平氏捧(二)赤色(一)持(レ)世、是火之性也、今既果報之薪尽而、敢無(二)可(レ)令(レ)放(レ)光之予(一)、又平氏謂(下)以(二)平治之年号(一)而持(上)(レ)世、治承者上下之文字具(レ)水、以(二)黒色之水(一)、可(レ)滅(二)赤色之火(一)表也、昔承平今治承、以(二)三水之字(一)作(二)年号品(一)、本末以(レ)水失(レ)火事、不(レ)可(レ)有(二)相違(一)者也、兼又今年支干、金与(レ)水也、取(レ)色白与(レ)黒也、爰尋(二)其先蹤(一)者、八幡殿之家捧(二)白色(一)、白則金性也、刑部殿之家捧(二)黒色(一)、黒則水性也、水与(レ)金和合、持(二)長生(一)之相也、兼又浄海
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者生年〈 戊戌 〉六十三、支干共是土也、土冬季死、水冬季王、然者(しかれば)当(二)冬季(一)、而平氏可(二)滅亡(一)之時節也、被(レ)討(二)平氏(一)之条、更不(レ)可(レ)有(二)其疑(一)者哉、就(レ)中(なかんづく)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、百王守護八十一代也、今其誓不(レ)可(二)誤給(一)、此時不(二)思立(一)、何日散(二)愁忿(一)乎、嗚呼(ああ)当(二)冬季(一)而水為(二)王相(一)、滅(レ)火有(二)其徳(一)、敢不(レ)可(レ)尽(二)思慮(一)、更不(レ)可(レ)延(二)時日(一)、七道諸国之人、神社仏閣之族、挙唱(二)源氏勝軍(一)、機感相応、入洛時至、早進(二)発于王宮(一)、静(二)天下(一)、奉(レ)改(二)於国主(一)、全(二)世上(一)也、凡如(二)風聞(一)者、平氏与(二)財産(一)而相(二)語山僧(さんそう)(一)、抛(二)賄賂(一)而招(二)集国賊(一)、可(下)成(二)与力(一)責(中)東国(上)之旨有(二)議定(一)云云、是則王城発向及(二)遅々(一)故也、今年若不(レ)被(レ)遂(二)其志(一)者、敵軍振(二)珍宝(一)、而成(二)多勢(一)、諸人耽(二)貪欲(一)、而有(二)変改(一)者、後悔屡出来歟、仍為(レ)仏為(レ)神為(レ)朝為(レ)民、可(レ)被(有朋上P787)(レ)討(二)平家一族之謀臣(一)矣、以送(二)此状(一)而己。
    治承四年十一月日とぞ書たりける。
斯りければ、源氏いとゞ憑しく覚えて、平家追討の計り事の外は他事なかりけり。
S2407 南都合戦同焼失附胡徳楽河南浦楽事
南都の大衆蜂起騒動して不(レ)静ければ、公家より御使を遣して、何事を計申て角騒動するぞ、子細あらば奏聞を経べしと、被(二)仰下(一)たれば、別の風情なし、只清盛(きよもり)法師に不会候、乃至名字をも不(レ)聞候と申。太政(だいじやう)入道(にふだう)不(レ)安思て、大衆をおどさんとて、備中国住人(ぢゆうにん)妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)を、大和国(やまとのくに)の検非違所(けんびゐしよ)に成して、数百騎(すひやくき)の兵を相副て下遣たれ共、大衆其にも恐れず、蜂起して押寄、散々打落し、
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兼康(かねやす)が家子郎等の頸廿六斬て、猿沢の池の端に懸たり。兼康(かねやす)■々(はうはう)都へ逃上る、面目なくぞ見えし。是のみならず南都には清盛(きよもり)入道は平氏の中の糟糖也。武家に取ては塵芥也。いかにといへば、祖父正盛は、正しく大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)の、加賀国知行の時、検非違所(けんびゐしよ)に被(二)召仕(一)き。又修理(しゆりの)大夫(だいぶ)顕季卿の、播磨守にて(有朋上P788)国務の時は、厩の別当に被(二)召仕(一)き。されば父忠盛が昇殿をゆるされしをば、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)御越度とこそ万人唇をば返しか。遠からず法皇の御前にて、山僧(さんそう)澄憲には伊勢平氏と笑れたりしか共、諍ひ所なければ口を閉て不(レ)開き。人は身の程をこそ振舞に、成出者が事行ひ、過分也とぞ申ける。又其上に法師の首を造て、毬打の玉を打が如く、杖を以てあち打こち打、蹴たり踏たり様々にしけり。大衆児共、態と此玉なに物ぞと問ば、是は当時世に聞え給ふ太政(だいじやう)入道(にふだう)の首なりと答。いかに其をば便なく角はするぞといへば、いらふまじき政道の奉行に、仏神に首をはなたれたりとぞ申ける。抑此入道大相国(たいしやうこく)と申は、忝(かたじけなく)も当今の御外祖父也、位高威勢も大にして、天下重(レ)之国土偏靡けり、輙も傾申べきに非ず。言易(レ)洩者、招(レ)禍之媒、事の不(レ)慎者、取(レ)敗之道と云本文あり、よく/\可(レ)慎者を、さまでの振舞空恐し、いかゞ有べかるらん、如何様(いかさま)にも南都の大衆に、天狗のよく付たるにこそ、只今(ただいま)災害を招なんど、上下私語(ささやき)ける程に、入道此事聞給(たま)ひ、あまりに腹を立て、躍あがり/\宣(のたま)ひけるは、さもあらずとよ、日本国中(につぽんごくぢゆう)に、此一門を左程に咒咀すべき者やはある、いか様にも南都には謀叛人の籠りたると覚ゆ、追討使を遣て可(レ)攻とぞ披露せられける。南都
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の大衆此事を聞て、落籠たる謀叛人は誰がしぞ、一天(有朋上P789)の君を始奉り、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)奉(二)流失(一)、天下を乱て、今はのこる処なく振舞て、無実を構へ仏法(ぶつぽふ)を亡さんとや、目醒しき事也。恐くは木を離たる猿の迎や、儲せよとて、木津川に広さ一町計の浮橋渡して、左右に高欄を立てたりけり。南都大衆いかなればかく太政(だいじやう)入道(にふだう)をば悪むらんと云ければ、或人の申けるは、理也、摂禄の臣より始て、南家、北家、花山、閑院、日野、勧修寺、前官当職の公卿殿上人(てんじやうびと)、十之八九は藤氏として、春日大明神(かすがだいみやうじん)の氏人也。代々の国母、仙院、多は此家より出給へり。皇王と云、臣公と云我朝を政事専此氏に在、而平家世を取て、万乗の世務を妨奉り、諸卿の理政を無代にすれば、為(レ)国為(レ)人、春日大明神(かすがだいみやうじん)衆徒に替入せ給(たまひ)て、角騒動するにや有らん、いか様にも南都の失る歟、平家の滅るか、子細あらんといふ程に、廿六日(にじふろくにち)に、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣大将軍として、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の山庄、東山若松の亭にして勢汰へあり、著到あり、其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、南都を可(レ)攻と披露あり。大衆是を聞て東大寺(とうだいじ)の大鐘ならし、蜂起騒動して、大和、山城の悪党、吉野十津川の者共を招集て、奈良坂、般若路、二の道を伐塞ぎ、爰かしこに落しを堀、管植、在々所々に城郭(じやうくわく)を構て逆木を引、掻楯をかき、老少行学、甲冑を著し弓箭を帯して相待けり。
廿八日に、重衡三万(さんまん)余騎(よき)を二手につくり、奈良坂、般若路(有朋上P790)より推寄せて時を造る。衆徒用意の事なれば、時を合て散々(さんざん)に防戦けり。大衆も軍兵も、互に命を惜ず戦ひけるが、平家の大勢責重り
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ければ、衆徒禦ぎ兼て引退。軍兵勝に乗て、二の道を打破て寺中に乱入て、爰彼こに充満たり。播磨国住人(ぢゆうにん)、福井庄下司次郎大夫俊方と云ふ者、重衡朝臣の下知に依て、楯を破て続松として、酒野在家より火を懸たり。師走廿日あまりの事なれば、折節(をりふし)乾の風烈して、黒煙寺内に吹覆。大衆猛火に責られ、炎に咽ければ、不(レ)堪して蜘の子を散が如く落行けり。坂四郎永覚と云ける悪僧は、長七尺(しちしやく)計なる法師の骨太に逞が、心も剛に身も軽し、打物取ては鬼神にも劣らじと云けり。強弓(つよゆみ)の矢継早く開間かずへの手だり也。十五大寺、七大寺には、並者なき恐しき者也けるが、褐直垂に萌黄の腹巻に袖付て、三尺の長刀の氷の如くなる持て、同宿十二人左右の脇に立て、手階の門より打出て、引詰々々射ける矢に、多く寄武者討れけり。矢種尽ければ、長刀十文字に持てひらいて、敵の中に打入つて散々(さんざん)に戦ひければ、兵も多く討れ、同宿もあまた討捕れて、我身も痛手少々負ければ、今は不(レ)堪や思ひけん、春日の奥へぞ引退。猛火寺中に吹覆ければ、東大寺(とうだいじ)、興福両寺(りやうじ)の仏閣諸堂諸院一宇も残らず、瑜伽(ゆが)、唯識両部の法門、因明内明一巻も不(レ)免、三論、花厳の(有朋上P791)経釈、大乗小乗の聖教悉(ことごと)く焼にけり。我身を助けんとせし程に、大師先徳の秘仏も、年来住持の本尊も、亡ぬるこそ悲けれ。月比日比(ひごろ)兵乱有べしと聞えければ、若や助かるとて、山階寺の中大仏殿の上に橋を構て、児共童部(わらんべ)老僧尼公、いくらと云事もなく上り隠たりける程に、猛火御堂に懸ければ、不(レ)劣々々と下るゝ程に、階踏折て下に成者は押殺、上成者も高より落重りければ、暫しは息つき居たれ共、終には皆死にけり。残留る
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輩、なにを搦へ、なにを歩てか降り下るべきぞ。あやしの小屋ならばこそ手を捧ても助、足を取ても落すべきに、日本(につぽん)第一の伽藍(がらん)也、閻浮無双の大堂なれば、梁だにも十丈に余れり。今更俄(にはか)に助べき支度なし。余(あまり)の悲さに思ひ切り飛落る者も有けれ共、砕けて塵とぞ成りにける。一人もなじかは可(レ)残。火の燃ちか付に随て、喚叫音、山も響き天もひゞくらんと覚えたり。叫喚大叫喚の罪人も、角やと覚えて哀也。警固の大衆は兵杖に当て身を滅し、修学の碩徳は火災に咽て命を失ふ。貴賎の死骸、七仏の煙に交り、男女の遺骨、諸堂の灰に埋れり。無慙と云も疎也。興福寺(こうぶくじ)は是淡海公の御願(ごぐわん)、藤氏累代の氏寺也。此寺は元、天智天皇(てんわう)即位八年、嫡室鏡の女王、大織冠の御為に、山城国宇治郡山階郷に被(レ)建(二)山階寺(一)て名付しを、天武天皇(てんわう)即位元年に、大和国(やまとのくに)高市郡に移され、元明天皇(てんわう)即位(有朋上P792)二年に、同国添上郡春日の勝地に被(レ)移て、寺号を改て興福寺(こうぶくじ)と名。法相大乗の教を弘通せり。代々の王臣国母の御願(ごぐわん)あり。
中金堂と申は、入鹿大臣朝家をあやぶめ奉らんとせし時、皇極天皇(てんわう)発願して、被(レ)造(二)立丈六釈迦三尊(さんぞん)(一)也。眉間の水精は唐国より被(レ)渡たり。此玉左見にも右見にも、釈迦三尊(さんぞん)の影うるはしく移りし玉也。此像の御頭の中には、大織冠の御髻の中に、年来戴き給(たま)ひける銀の三寸の釈迦像を被(レ)籠たり。
東金堂と申は、神亀三年〈 丙寅 〉秋七月に、聖武皇帝の伯母、日本根子高瑞浄足姫御悩(ごなう)の時、玉体安穏の為
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にとて造られたりし薬師(やくしの)像を安置せり。又敏達天皇(てんわう)即位八年〈 己亥 〉冬十月、新羅国より渡給へる金銅の釈迦、観音、虚空蔵の三尊(さんぞん)も、此御堂に御座(おはしま)す。
西金堂と申は、聖武天皇(てんわう)の后、光明皇后の御母橘大夫人の御為に、天平六年〈 甲戌 〉正月に造、供養し給へる丈六の釈迦の像を被(レ)居たり。天竺の乾陀羅国大王、生身の観音を拝んと云願あり。夢中に告を得たり。是より東海に小島あり、日本国(につぽんごく)と名く。彼国の皇后光明女を可(レ)拝と、夢さめて後、西天、日域雲を隔て、大小諸国の境遠行拝せん事難(レ)叶、生身を移さん為にとて仏師を差遣せり。工匠子細を奏聞しければ、后仰て云、我母の為に阿弥陀如来(あみだによらい)造立の志あり、然而いまだ工を得ざる処に、幸に今天竺の仏師を得たり、願は仏像を造(有朋上P793)て妾が素願をはたせと、工匠奏し申さく、仏々平等にして利益無(レ)差ども、釈迦は穢土を教主として慈悲の一子に覆護せり。靡耶の生所を知んとて、大菩提心を発しつゝ、二六の難行行畢て、無上正覚成就(じやうじゆ)せり。十月胎内の報恩の為に、九旬■利(たうり)の安居せり。されば母に孝養の志深きは釈尊に過ずと奏しければ、可(レ)然とて被(レ)造たる仏也。皇后此仏を拝し給しに、いまだ眉間の玉も不(レ)入、仏像額より光を放ち給しかば、此仏には眉間の玉はなし。自然涌出の観世音も、此御堂にぞ安置せる。伝法院の修円僧都(そうづ)と云人、寿広、已講を相具して尾張国より上りしに、賀茂坂の辺、すがたの池の辺を通けるに、已講々々と呼声しけり。音に付て行見れば、田中に十一面観音像御座(おはします)。貴忝(かたじけな)く思ひつつ、懐き上げ負奉て、南都に帰
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上りつゝ、先南大門に奉(レ)居、何の御堂にか入奉べしと大衆僉議(せんぎ)して、金堂より始て、扉を開て入奉らんとて、千万人集て是を舁奉れども更に動給はず。西金堂と申時軽々と挙て、如(レ)飛してこそ此寺には入給へ。一度歩を運人、二世の願をぞ成就(じやうじゆ)しける。
南円堂と申は、八角宝形の伽藍(がらん)也。丈六不空羂索観音を安置せり。此観音と申は、長岡右大臣内麿の藤氏の変徴を歎て、弘法大師に誂て造給へる霊像也。仏をば造て堂をば立給はで薨給(たま)ひたりけるを、先考の志願を遂んとて、閑院大臣冬嗣(有朋上P794)公の、弘仁四年〈 丁酉 〉御堂の壇を築れしに、春日大明神(かすがだいみやうじん)老翁と現じて匹夫の中に相交り、土を運び給(たま)ひつゝ一首の御詠あり。
  補陀落の南の岸に堂たてて北の藤なみ今ぞ栄ゆる K127
と。補陀落山と申は、観音の浄土(じやうど)にて八角山也。彼山には藤並ときはに有しとか。件の山を表して八角には造けり。北の藤並と申は、淡海公の御子に、南家、北家、式家、京家とて四人の公達御座(おはしまし)けり。何れも藤氏なれ共、二男にて北家、房前の御末の繁昌し給ふべきの歌也。弘法大師は来て鎮壇の法を被(レ)行。此堂供養の日、他性の人六人まで失しかば、代々の御幸にも源氏は不(レ)向砌(みぎり)也。奈良の都の八重桜、東金堂に栄えたり。浄名大士は、講堂(かうだう)に奄羅園を変じけり。維摩大会(たいゑ)は五百(ごひやく)余歳(よさい)も過にけり。声大唐に聞え、会は興福に留る。国之為(レ)国者此会の力也、朝之為(レ)朝者此会故也と、北野天神の記し置給へるも憑しや。されば此大会(たいゑ)の講、近は帝釈宮の礼に付、常楽会の内梵都卒天より
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伝れり。此戒壇と申は行基菩薩の建立(こんりふ)、済度利生の真影あり。清涼院と申は、清水の学窓大聖文殊の霊応あり。一乗院は、又定照僧都(そうづ)の聖跡、顕密兼学の道場也。貞松房の松室、応和の風香、興静僧都(そうづ)の喜多院、本院の礎不(レ)傾。斯る目出(めでた)き所々より始て、瑠璃を並し(有朋上P795)四面の廊、朱丹を彩二階(にかい)の楼、空輪雲に輝し五重(ごぢゆう)の塔婆、稽古窓閑なる三面の僧坊、大乗院、松陽院、東北院、発志院、五大院、伝法院、真言院、円成院、一言主、弁才天、竜蔵惣宮、住吉(すみよし)、鐘楼、経蔵、宝蔵、大湯屋に至迄、忽(たちまち)に煙と成こそ哀なれ。
鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)、春日の御幸の次に興福寺(こうぶくじ)に御入堂あり。伶人舞楽を奏しけるに、胡徳楽と云楽に、河南浦の庖丁を舞澄したりけり。胡徳楽とは酒を飲楽也。河南浦とは鯉を切舞也。叡感の余りに、是を鳥羽の御所に移して叡覧あらばやと被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、還御の後彼儀式を鳥羽殿(とばどの)に被(レ)移て、伶人是を奏しけれ共、南都にて叡覧有しには無下に劣て、無興ぞ思召(おぼしめさ)れける。理や彼寺は、淡海公竜宮城の上に被(レ)立たる寺なれば、底より匂通つゝ、吹笛も打楽も澄渡りてぞ聞えける。斯る目出たき伽藍(がらん)の亡びぬるこそ悲しけれ。
東大寺(とうだいじ)と申すは、一閻浮提無二無三の梵閣、鳳甍高く聳て半天の空より抽で、八宗の教法、広敷広学の僧庵、鸞台遥(はるか)に構て一片霞を隔たり。濫觴を尋れば、月氏より日域に及で、大権の芳契多世を経たり。知識を訪へば、聖主より凡庶に至まで、真乗の結縁万方に普し。就(レ)中(なかんづく)本願皇帝発起の
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叡念は、大悲普現の観自在弘誓の海是深く、良弁僧正(そうじやう)懇篤の祈誓は、等覚補処の慈氏尊、因円の月満なんとす。三世の覚母は行基菩薩として東垂に現じて、衆生をして(有朋上P796)普く一分の善縁を結ばしめ、菩提僧正(そうじやう)は西域より来て、金容を拝して正く五眼の功徳を開けり。誠に此四隅四行の薩■[*土+垂](さつた)、因円合成して、中央中台の遮那の果満顕現じ給ふ。大日本国(だいにつぽんごく)開闢の主、天照太神(てんせうだいじん)の御本地、今の大仏尊是也。天児屋根尊(あまのこやねのみこと)は左面の観世音也。太玉尊は右脇の虚空蔵菩薩也。又金光最勝時会の式、王法正論鎮護の儀也。凡伽藍(がらん)の建立(こんりふ)也に異にして冥顕にかたどり、尊像の安置併国家の標相なり。是を以て本願聖武皇帝の御起文には、代々の国王を以て我(わが)寺(てら)の壇越とせん、我(わが)寺(てら)興復せば天下も興復し、我(わが)寺(てら)衰弊せば天下も衰弊すべし。若敬て勤行せば、世々に福を累て終に子孫を隆やかし、共に宮城を出て早く覚岸に登らんと云々。万機の理乱四海の安危、此寺の興衰により、今生の禍福未来の昇沈、其人の信否にむくゆ、是則我朝の惣国分寺として、金光明四天王護国之寺と号す、誠にゆゑある哉。当大伽藍(だいがらん)御建立(ごこんりふ)以前に、聖武天皇(てんわう)行基菩薩を勅使として、潜に伊勢太神官に祈誓申されしかば、御託宣(ごたくせん)に、実相真如の日輪は照(二)生死長夜之闇(一)、本有常住の月輪は、掃(二)無明煩悩之雲(一)、我遇(二)難遇之大願(一)、建(二)立聖皇大仏殿(一)故と〈 取(レ)詮 〉ありき。菩薩歓喜の涙に咽つゝ、此由奏し給(たま)ひしかば、叡信いよ/\深く、竭仰ます/\切にして、又宇佐宮へ勅使を被(レ)立て、同叡願の趣を被(レ)申しかば、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の(有朋上P797)御体正く現じ給、御音を出させ給(たま)ひて、吾国家を護り王位を守る、
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志楯戈の如し、早く国内の神祇を卒して、共に吾君の知識たらんと、新にみことのり有ければ、歓喜の懇情深くして、則行基菩薩に勅して知識の宣を一天四海に被(レ)下しかば、玉簾の内より柴枢の下に至るまで、上下男女其縁を結ばずと云事なし。されば天平十七年に土木の造縁を始られしに、或は力士変化の牛来て料材を運、或は久米の仙人通力を起て大木を飛し、或は雷神磐石を砕て船筏を下き。三明(さんみやう)六通の羅漢は五百の工匠と成て大小の諸材を削、四海八方の冥衆は数万の夫役を勤て遠近の公事に従へり。鎮守(ちんじゆ)権現と申は則八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)是也。神託に任て、勧賞の為に、勅使百官を宇佐宮に立られたりければ、天平勝宝元年十一月〈 己酉 〉日、御影向あり。則尊神と天皇(てんわう)ともろ共に、大仏殿に御参の有りて、一万僧会(いちまんぞうゑ)を被(レ)行しに、大内に天下泰平と云文字現じけるに依て、又天平宝字と改元あり。神明の霊感、種々顕て、影向の軌則巍々たり。其より已来(このかた)当寺に跡を垂御座(おはしまし)て、昼夜に大仏を拝し、八宗の教法を護給へり。其後大仏供養の御沙汰(ごさた)あり、導師行基菩薩と被(レ)定たりけるを、菩薩奏して宣く、御願(ごぐわん)は大仏の事也、我身は小国の比丘也、大会(たいゑ)の唱導更に相応せず、昔霊山浄土(じやうど)の同聞衆に大羅漢御座、其名を婆羅門尊者と云。南天竺にあり、来て(有朋上P798)供養をのぶべしと有しかば、帝勅して云、天竺日本(につぽん)境異也、いかゞ招請せんと被(二)仰下(一)ければ、菩薩其期に臨で難波浦に行向、閼伽の折敷に花を盛、香を焼海上に浮たり。西を指て流行。暫ありて閼伽の備も乱ずして難波浦に著。小舟一艘相副り。舟中に梵僧一人あり。浜に上りたりければ、行基待
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受て手を取くみ、微咲して歌を唱て云、
  霊山の釈迦の御前にちぎりてし真如朽せず相みつる哉 K128 
梵僧返事して、
  迦毘羅衛に共に契しかひありて文殊のみ顔相みつる哉 K129 
と返事ありき。則天平宝字四年四月八日御供養有けるに、皇帝忝(かたじけなく)も御自諸師請定の勅書を被(レ)出き。開眼師菩提僧正(そうじやう)、講師隆尊律師、咒願師大唐の道■(だうちん)律師、都合一万廿六人(いちまんにじふろくにん)なり。菩提僧正(そうじやう)仏前にすゝみ、筆を取て開眼し給に、其筆に縄を付て諸人同く取付。是皆開眼の縁をむすばしめんと也。此時僧正(そうじやう)白き衣服を著し、六牙の白象に乗じて、大会(たいゑ)の庭に来給へりと見人多かりけり。普賢大士の化現と云事は疑なし。凡供養の日、奇特の事共多くありける内に、王城に童子あり、生産より成人に至るまで終に物云事なし。父母唖子うみたりと歎けるに、彼唖童は法会の庭にのぞみ、天皇(てんわうの)御前に跪、南謨阿梨耶婆(有朋上P799)盧枳帝、檪鉢羅耶、菩提薩■(さた)婆耶と唱拝し奉て、かき消やうに失にけり。又南大門の木像の獅子すゞろに吠■(ほえののしり)けり。是只事に非ず、併御願(ごぐわん)の忝(かたじけな)き事を感じけるにや、誠に不思議也し事共也。其より以来、年序四百(しひやく)余歳(よさい)、星霜遥(はるか)に重て帰敬弥新也。金銅十六丈の盧遮那仏(るしやなぶつ)は、実報寂光常在不滅の生身になぞらへ、玉殿十一間の宝楼閣は、花蔵界会、奇麗無元尽の荘厳に模せり。烏瑟高顕て半天の雲に細に、白毫露て瑩て、満月の
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粧明か也し尊像也。五十六億七千万歳の遥(はるか)の後、人寿八万、竜華三会の時までも全身の如来(によらい)とこそ奉(レ)拝しに、御頭は落て大地にあり、御身は涌て湯の如し。悲哉烏瑟忽(たちまち)に花王の本土に帰し、堂閣空蒼海の波涛に泝ことを。八万四千(はちまんしせん)の相好は、秋の月四重の雲に隠れ、四十一地の珱珞は、夜の星十悪の風に漂はす。遥(はるか)に伝へ聞すら、猶悲みの涙せきあへず、況親奉(レ)見けん人々の心中、推量れていと悲し。
大講堂(だいかうだう)と申は、天平勝宝年中に御建立(ごこんりふ)、本尊は五丈の千手の霊像也。一万僧会(いちまんぞうゑ)にて供養を遂られし時、天人天降りつつ花を仏前に散し奉る。其香発越として法会の庭に匂、九重の中に薫じけり。聖武皇帝叡感の余りに、楽人に仰て、始たる楽を奏すべしと勅定有ければ、伶人等俄(にはか)に十天楽を作始て是を奏しき、類少き不思議也。醍醐天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)延喜十七年十一月、当堂并に三面の(有朋上P800)僧坊焼失せし時、黒煙一天に覆て日の光不(レ)見けり。東大寺(とうだいじ)の炎上(えんしやう)にあらずば角は有べからずとて、御門大に驚き騒がせ給(たま)ひて、寮の御馬に召れて俄(にはか)に行幸ありけり。是ぞ騎馬の行幸の始なる。其後承平五年に造畢供養せられけり。
戒壇院と申は、本願皇帝、栄叡普照寺に勅して大唐に遣されしかば、則楊州の竜興寺の鑑真和尚(くわしやう)に謁して申さく、昔我大日本国(だいにつぽんごく)に上宮太子と申人御座(おはしまし)き。吾薨去の後二百年を過て、必当国に律儀広まるべしと示し給(たま)ひき。今其時代にあたれり、願は日域に東流し給へと請ぜしに、和尚(くわしやう)承諾し
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て渡海せんと宣に、門徒(もんと)の僧諫制して云、海上漫々として風波茫々たり、生身を全して法を此にして弘め給へと申ければ、和尚(くわしやう)弟子に語て云、身命を軽して仏法(ぶつぽふ)を重くするは如来(によらい)遺弟の法也、日本(につぽん)は仏法(ぶつぽふ)有縁の国なれば、行て戒律を弘むべしと有けるを、門弟等留め兼て、袈裟にて頭を裹み、顔を隠して和尚(くわしやう)の渡海を留けり。裹頭の大衆と云は是より又始れり。然共和尚(くわしやうの)志猶たゆみ給はず。され共天皇(てんわう)深く御歎あり。欽明天皇(てんわう)十三年に、釈迦の遺法此国に伝るといへ共、いまだ出家具戒の義そなはらず。盧遮那仏(るしやなぶつ)の造立の志は戒法興行の為なり。十地の階級によりて、報身能化の形異なれ共、ことさら戒波羅密の教主を選て、千葉台上の尊像を顕し奉る事は、戒師を異朝に尋て、仏法(ぶつぽふ)を此国に弘め(有朋上P801)んが為也とて、重て遣唐使を渡さる。懇に勅請有しかば、法進思詫等の門弟四十余人(よにん)を具足し、仏舎利三千粒、白檀の千手の像、天台止観等の法門、戒壇円経、并中天竺那蘭陀寺の戒壇の土、此外仏像経論等を持して、大唐の天宝十三年に唐朝を辞し、本朝の天平勝宝六年二月に来朝し、始て大仏殿に参詣して、礼拝讃歎し給(たまひ)て、又和尚(くわしやう)遥(はるか)に蒼海を凌て来朝せり。皇帝大に叡感ありて、授戒伝律、偏(ひとへ)に大徳に任る由、勅し給しかば、天平勝宝六年四月に、始て盧遮那仏殿(るしやなぶつでん)の御前にして、和尚(くわしやう)伝来の戒壇の土にして壇を築て、天皇(てんわう)皇后登壇受戒あり。其後霊福澄修等五百(ごひやく)余人(よにん)登壇受戒しき。さて那蘭陀寺の戒壇の土にひとしき地味を本朝に被(レ)尋しに、今の戒壇院地味同きに依て、高房中納言を勅使として、天平勝宝七年九月に戒壇院を造畢し、同き十月十三日に、大和尚(だいくわしやう)
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を導師として御供養ありき。同き廿日受戒会を行ひ始られてより已来(このかた)、恒例の大法会たりき。真言院と申は、養老年中に中天竺の善無畏三蔵来朝の当初、八十日が間遊士修練し給し芳躅なり。其間に良弁義淵等、大虚空蔵等の秘法を受て密教稍伝持せり。然共根機普熟せざりけるにや、三蔵所持の毘盧舎那経をば、大和国(やまとのくに)高市郡久米寺の東塔の柱の底に納て、無畏三蔵は帰唐し給にけり。其後弘法大師出世し給(たまひ)て、内外平満の教こと/゛\く通達し(有朋上P802)給(たまひ)て後、諸仏内証の不二法門あるべしとて、当伽藍(がらん)盧遮那仏(るしやなぶつ)の前にして祈請申されしかば、夢想(むさう)の告有て、彼久米寺の大経を感得し、勅定を蒙て、渡海入唐し、青竜寺の大和尚(だいくわしやう)に謁して、三密五智の瓶水を受。真乗秘密の奥蔵を伝て、大同年中に帰朝し給(たまひ)て、法水を四海に流し、甘雨を一天にそゝぎしかば、東大寺(とうだいじ)の別当に被(レ)補き。勅命に依て此寺に移り居て、三蔵修練の芳跡を慕、大唐青竜の風範を写して、灌頂(くわんぢやう)壇を立て増息の法を修し給へり。密経相応也に異なる聖跡也。凡大仏殿、同き四面の廻廊より始て、講堂(かうだう)三面の僧坊、鐘楼、経蔵、食堂、大湯屋、東西七重の大塔、八幡宮、気比の社、気多の宮、五百(ごひやく)余所、八大菩薩(はちだいぼさつ)、戒壇院、真言院、尊師僧正(そうじやう)、東南院、南都七寺の本院家、三論の本所也。五師子の如意もなつかしく、光智僧都(そうづ)の尊勝院、花厳円宗の本所也。村上帝の御願(ごぐわん)とか。堪照僧都(そうづ)の吉祥院、五重(ごぢゆう)唯識窓深、珍海已講の禅那院、八不の堪水底澄めり。知足院と申は法相一宗の本所也。鑑真建立(こんりふ)の唐禅院、律宗天台の本所とか、神社仏閣悉(ことごと)く焼にけり。梵釈四王、竜神(りゆうじん)八部、冥官冥衆に至るまで、定て驚
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騒給らんとぞ覚えし。三笠山の松の風、遮遺の煙に音咽、春日野草の露、魔滅の灰に色替れり。昔釈尊の非滅々々を唱へしに、双林風痛で其色忽(たちまち)に変じ、抜提河水咽で其流れ又濁りけんも限あれば、菩薩(有朋上P803)聖衆、人天大会(たいゑ)の悲み角やと思知れたり。日本(につぽん)我朝は申に及ばず、天竺震旦にも加程の法滅は類稀にぞ覚えける。若く盛にして身の力ある輩は山林に逃籠、吉野十津河の方へ落失にけれ共、行歩にも叶はぬ老僧身もたへず、事宜き修学者達は、其数を知ず切殺され打殺されにけり。尼公の首をも多切たりけるとかや。大仏殿にて焼死る者千七百(せんしちひやく)余人(よにん)、山階寺にて五百(ごひやく)余人(よにん)、在々所々、坊舎堂塔にて二百(にひやく)余人(よにん)、戦場にして被(レ)討大衆七百(しちひやく)余人(よにん)、都合一万二千(いちまんにせん)余人(よにん)とぞ聞えし。其内に四百(しひやく)余人(よにん)が首、法華寺の鳥居の前に切懸たり。十二月廿九日に、重衡朝臣、南都の大衆の頸三百(さんびやく)余を相具して帰上る。首共さのみ多しとて少々は道に捨けり。重衡上洛して首渡すべき由奏申けれ共、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)回禄の浅猿(あさまし)さに、其沙汰に及ざりければ、穀蔵院南の堀をば、南都の大衆の頸にて埋けり。一院新院摂政(せつしやう)殿下、一天四海貴賎男女歎悲みけれ共、入道(にふだう)相国(しやうこく)ばかりは、南都の衆徒等(しゆとら)さてこそよとぞ宣(のたま)ひける。後世いかならんと聞も身毛竪けり。
S2408 仏法(ぶつぽふ)破滅事
仏法(ぶつぽふ)破滅の人を尋るに、天竺には提婆達多、仏を妬て血を出し、仏法(ぶつぽふ)修行の和合僧を破(有朋上P804)し、証果の尼を殺して三逆を犯し、阿育大王の太子弗沙密多、寺塔を破壊し聖教を亡す。震旦には秦始皇(しくわう)、僧尼を埋み書籍を焼、唐武宗、会昌太子、三宝を滅き。これは異国の事也、只伝聞ばかり也。我朝
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には、如来(によらい)滅後一千五百一年(いつせんごひやくいちねん)を経て、第三十代帝欽明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)十三年、〈 壬申 〉十月十三日に、百済国の聖明王より、始て金銅の釈迦像並経論等を渡し給ける。同日に阿弥陀(あみだ)の三尊(さんぞん)浪に浮びて、摂津国(つのくに)難波浦に著給(たま)ひたりしを、用明天皇(てんわう)の御子聖徳太子(しやうとくたいし)、仏法(ぶつぽふ)を興ぜんとし給しに、守屋大臣我国の神明を敬はんが為に、教法の貴事を不(レ)知して、是を破滅せんとせしか共、終に太子の御為に誅せられけり。其外は帝王五十二代、年序六百廿九年、いまだ三宝を背き堂塔を滅す王臣を聞かず。仏法(ぶつぽふ)独弘まらず、王臣の帰依によるべし。国土自ら安からず、仏陀の冥助に持たれけり。されば人の世にある、誰か仏法(ぶつぽふ)を無代にし逆罪を相招く。縦僧こそ悪からめ、仏法(ぶつぽふ)何の咎か御座(おはしま)すべき。神社仏寺数を尽し、三論法相残なく煙と成るこそ悲しけれ。されば弘憲僧正(そうじやう)は、落る涙に墨染の湿たる袖に筆を染めて、法滅の記をぞ書給へる。
謹考、天竺震旦大仏雖(レ)多、皆是木石なり。未(レ)聞(二)金銅十六丈之盧遮那(一)とぞ被(レ)注たる。誠に閻浮無双の仏像也。日域第一の奇特なり。一時が程に回禄、かなしと云も疎なり。
興福寺(こうぶくじ)焼失の時、(有朋上P805)不思議の事ありき。寺院の内の坤の角に、一言主の明神とて、葛城の神を祝奉たる社あり。其神の前に大なる木■子(もくげんじ)の木あり、彼焼亡の火、此木の空に移て煙立けり。軍しづまりて後、大衆の沙汰にて水を汲て、木の空に入る事隙なかりけれ共、其煙いつとなく絶ず。今はいかゞせんとて、水を入る時もあり入ざる時もあり。遥(はるか)に七十余日を経て、太政(だいじやう)の入道(にふだう)病付たりと云ひける日より、
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煙おびたゞしく立けるが、入道七日と云に死給(たま)ひたりける日よりして、彼けぶり立ず、火かき消すやうに失にけり。さしも久しく燃たりけれ共、枝葉もとの如く栄たり。誠に世の不思議とぞ覚ゆる。(有朋上P806)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十五

P0593(有朋上P807)
井巻 第二十五
S2501 大仏造営奉行勧進事
東大寺(とうだいじ)炎上(えんしやう)の後、大仏殿造営の御沙汰(ごさた)あり、左少弁(させうべん)行隆朝臣、可(二)奉行(一)由えらばれけり。彼行隆先年八幡宮に参て通夜し給たりけるに、示現を蒙りけるは、東大寺(とうだいじ)造営の奉行の時は是を持べしとて、笏を給と霊夢を感ず。打驚て傍を見に、誠にうつゝにも是あり、不思議に覚て、其笏を取て下向し給(たま)ひたりけれ共、何事にか当世東大寺(とうだいじ)造替あるべき、何なる夢想(むさう)やらんと心計に思ひ煩ひて、件の笏を深納て、年月を送り給ける程に、此焼失の後、弁官の中に被(レ)撰て、行隆可(二)奉行(一)由仰せ下されけるにこそ思ひ合せて感涙をば流しけれ。されば宣(のたま)ひけるに、我勅勘を蒙ぶらずして昇進あらましかば、今は弁官を過なまし、勅勘に依て多年を送り、老後に再び弁官に成帰つて、奉行の仁に相当れり。前世の宿縁、今生の面目、来世の値遇までも、悦ぶに猶余りありとて、大菩薩(だいぼさつ)の示現に給りし笏を取出して、造営の事始めの日より持給(たま)ひたりけるとかや。
又東大寺(とうだいじ)の大(有朋上P808)勧進の仁、誰にか仰せ付べきと議定あり。当世には黒谷の源空は、戒徳天に覆ひ慈悲普して、人挙て仏の思ひをなす。彼法然房に被(二)仰含(一)べきかと、諸卿推挙し申ければ、法皇即行隆朝臣を以て、大勧進を可(レ)謹之由仰下さる。法然房院宣の御返事(おんへんじ)被(レ)申けるは、源空山門の交衆を止て、林泉
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の幽居を占る事、偏(ひとへ)に念仏修行の為也。若大勧進の職に候はば、定て劇務万端にして自行不(二)成就(じやうじゆ)(一)と、竪く辞申されけり。重たる院宣には、門徒(もんと)の僧中に器量の仁ありや、挙し申べしと仰下す。法然房暫く案じて、上の醍醐におはしける俊乗房重源を招寄せて、院宣の趣申含給ければ、左右なく領状し給へり。則是を挙し申されければ、俊乗房院宣を給(たまはつ)て大勧進の上人に定にけり。俊乗房院宣を帯して、法然房へ参して角と申たりければ、宣(のたまひ)けるは、相構て御房大銅に食て、一大事の往生忘るべからず、若勧進成就(じやうじゆ)あらば、御房は一定の権者也と被(レ)申けるが、事故なく遂給にけり。されば勧進俊乗房、奉行行隆、共に直人にはあらじと人首を傾けり。
笠置の解脱上人貞慶、大仏の俊乗和尚(くわしやう)重源両人は、道念内に催し慈悲外に普し、人皆仏の思ひを成しけるに、重源和尚(くわしやう)は深く観音を信じ給へり。菩薩の慈悲とり/゛\也といへ共、普門示現の利生悲願は観音大士に過たるはあらじ。されば生身の観音を奉(レ)拝らん(有朋上P809)と年来祈念し給けり。解脱上人は釈迦を信じ給けり。三世の如来(によらい)まち/\也といへ共、濁世成仏(じやうぶつ)の導師也、聞法得脱偏(ひとへ)に如来(によらい)の恩徳に非ずと云事なし。然れば生身の釈迦を奉(レ)拝ばやと祈誓し給(たま)ひける程に、同夜に夢を見給けるは、俊乗房は、解脱上人は則観音也と見、解脱房は、俊乗和尚(くわしやう)は即釈迦也と見給(たま)ひけり。懸りければ解脱上人は、笠置寺を出て東大寺(とうだいじ)へ行給ふ。俊乗和尚(くわしやう)は東大寺(とうだいじ)を出で笠置寺へ渡り給ふ。両上人平野の三間、卒都婆と云所にて行合て、共に夢の告をかたり、互に涙を流しつゝ、貞慶は俊乗和尚(くわしやう)を三礼し、重源は解脱上人
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を三礼して、契て云、先立て臨終せん者は自他生所を示すべしと。而を建久元年六月五日の夜、解脱上人の夢に、重源こそ娑婆の化縁既(すで)に尽て、只今(ただいま)霊山へ帰り侍と示給へり。夢に驚て急ぎ人を遣て尋問ひ給へば、此暁既(すで)に和尚(くわしやう)東大寺(とうだいじ)の浄土堂にて入滅の由答けり。誠に法界唯心の、花厳の教主を再造鋳のために、大聖釈迦如来(しやかによらい)の化現し給(たま)ひけるこそ貴けれ。
S2502 ■(はらかの)奏吉野国栖事
治承五年正月一日、改の年立返たれ共、内裏には東国の兵革南都の火炎に依て朝拝なし、(有朋上P810)節会ばかり被(レ)行けれ共、主上出御もなし。関白(くわんばく)已下藤氏の公卿一人も参らず、氏寺焼失に依て也。只平家の人々少々参て被(二)執行(一)けれ共、そも物の音も不(二)吹鳴(一)、舞楽も奏せず、吉野の国栖も不(レ)参、■(はらか)の奏もなかりけり。たま/\被(レ)行ける事も、皆々如(レ)形にぞ在ける。
 < ■(はらかの)奏とは魚也。天智天皇(てんわう)のいまだ位に即給はざりける時、君は乞食の相御座(おはしま)すと申ければ、我帝位につきて乞食すべきにあらず、備へる相又難(レ)遁歟、御位以前に其相を果さんとて、西国(さいこく)の御修行あり。筑後国、江崎、小佐島と云所を通らせ給けるに、疲に臨み給(たま)ひたれ共、貢御進する者もなかりけり。網を引海人に魚をめされて、御疲を休めさせ給(たま)ひ、我位につきなば、必貢御にめされんと被(二)思召(一)(おぼしめされ)、其名を御尋(おんたづね)ありければ、■(はらか)と奏し申けり。帝位につかせ給(たまひ)て思召(おぼしめし)出つゝ、被(レ)召て貢御に備けり。其よりして此魚は、祝のためしに備ふと申。
吉野国栖とは舞人也。国栖は人の姓也。浄見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大伴王子に恐れて吉野の奥に籠り、岩屋の中に忍び御座(おはしまし)けるに、国栖の翁、粟の御料にうぐひと云魚を具して、貢御に備へ奉る。朕帝位に上らば、翁と貢御とを召んと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるによりて、大伴の
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王子を誅し、位に即て召れしより以来、元日の御祝には国栖の翁参て、梧竹に鳳凰の装束を給(たまひ)て舞ふとかや。豊の明の五節にも此翁参て、粟の御料にうぐ(有朋上P811)ひの魚を持参して、御祝に進る。殿上より国栖と召るゝの時は、声にて御答を申さず、笛を吹て参るなり。此翁の参らぬには五節始る事なし。斯る目出(めでた)き様ども、兵革火災に奉らず。>
S2503 春日垂迹事
二日天慶の例とて殿上の宴酔なし。男女打偸て、禁中の有様(ありさま)物さびしくぞ見えける。礼儀もことごとに廃ぬ。仏法(ぶつぽふ)皇法共に尽ぬる事こそ悲しけれ。四日南都の僧綱(そうがう)解官して公請をとゞめ所領を没収せらる。東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)、堂舎仏閣も塵灰となり、若も老も衆徒多滅して、たま/\残る輩は山林に身を隠し、便を求て跡を消して止住の人もなかりけるに、上綱さへ角なれば、南都は併亡畢ぬるにこそ、法相擁護の春日大明神(かすがだいみやうじん)、いかなる事思召(おぼしめす)らんと、神慮誠に知がたし。
 < 此明神と申は、昔称徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、神護慶雲二年戊申に、白き鹿に鞍を置き、鞍の上に榊をのせ、榊の上に五色の雲聳き、雲の上に五所の神鏡と顕て、常陸国鹿島郡より、此大和国(やまとのくに)三笠山の本宮に垂迹し給し時は、御手に法相唯識卅誦を捧給(たまひ)て、跡をしめ御座(おはします)。今かく人法共に亡ぬれば、冥慮争か安からん(有朋上P812)と、覚たり。>
S2504 行(二)御斉会(一)并(ならびに)新院崩御(ほうぎよ)附教円入滅事
但し形様にても御斉会は被(レ)行べきとて、僧侶の沙汰有けるに、南都の僧は公請を止る由宣下せられぬ。されば一向天台の学侶ばかり請定歟、又御斉会を被(レ)止べきか、又延引有べきかの由、官外記の注文を召。彼申状に付て諸卿に被(レ)尋処に、南都北嶺は国家鎮護の道場、天台法相は天下泰平の秘要也、速に南都を棄置れん事いかゞ有べき、外記注進先例なきに似たりと各被(レ)申けるに依て、三論宗
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の僧に成実已講と云ふ者の、勧修寺に有けるを只一人召て、如(レ)形被(レ)行けり。法皇は世の角成行に付ても思召(おぼしめし)連けるは、我十善の余薫に依て万乗の宝位を忝(かたじけなう)す、四代の帝を思へば子也孫也、いかなれば清盛(きよもり)法師に万機の朝政を被(レ)止て年月を送るらんと、御心憂思召(おぼしめす)処に、剰へ東大興福の両寺(りやうじ)、仏法(ぶつぽふ)人法もろともに亡ぬれば、只竜顔より御涙(おんなみだ)をのみぞ流させ給(たま)ひける。懸る程に打副へ、新院(しんゐん)御所(ごしよ)には日比(ひごろ)世の乱を歎思召(おぼしめし)ける上、南都園城(をんじやう)の回禄に、いとゞ御悩(ごなう)重くならせ御座(おはしまし)ければ、何事の沙汰にも及ばずあやふき御事など聞えしかば、法皇不(レ)斜(なのめならず)御歎あり(有朋上P813)し程に、同(おなじき)十四日に、六波羅の池殿にて終に墓なく成せ給ふ、御歳僅(わづか)に二十一。内には十戒(じつかい)を持て慈悲を先とし、外には五常を守て礼儀を正くせさせ給(たま)ひければ、末代の賢王(けんわう)にて、万人是を惜み奉る事、一子を失へるが如し。まして法皇の御歎、理にも過たり。恩愛の道いづれも不(レ)疎ども、此御事は、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御腹にて、一つ御所に朝夕なじみ奉らせ給(たま)ひき。御位に即給しまでは、副進らせ給しかば、其御志殊に深き御事也。去々年の冬、法皇鳥羽殿(とばどの)に籠らせ給(たま)ひし御事、不(レ)斜(なのめならず)歎思召(おぼしめす)より御病(おんやまひ)付せ給たりしが、南都の両寺(りやうじ)焼ぬと聞召(きこしめし)て其歎に不(レ)堪、つひに隠させ給けり。今夜やがて東山の麓、清閑寺と云山寺へ送り奉て、春の霞に類ひ、夕の煙と立のぼらせ給(たま)ひにけり。安居院法印澄憲、墨染の袖を絞りつゝ角思ひつゞけけり。
  常に見し君がみゆきをけふとへば帰らぬ旅ときくぞ悲しき K130 
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天下諒闇(りやうあん)に成て、雲の上人花の袂(たもと)を引替て、藤の衣に窄けり、哀也し御事也。興福寺(こうぶくじ)の別当権僧正(ごんのそうじやう)教円も、南都炎上(えんしやう)の煙の末を見て病付たりけるが、新院隠れさせ給ぬと聞て、病増りて失給(たま)ひにけり。心あらん人、誠に堪て住べき世とも見えざりけり。(有朋上P814)
S2505 此君賢聖并(ならびに)紅葉山葵宿禰附鄭仁基女事
凡此君幼稚の御時より賢聖の名を揚、仁徳の行を施す。御情(おんなさけ)深き御事共(おんことども)多かりける中に、去嘉応承安の比、御在位の始なりしかば、御年十歳ばかりにや、紅葉を愛せさせ給けるが、紅葉は秋の物也、秋は西より来るとて、西門の南脇に小山を築かせ、紅葉を立植て愛せさせ給(たま)ひけるに、仁和寺(にんわじ)の守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)より、櫨と鶏冠のもみぢの色うつくしきを二本進覧あり。新院何とか思召(おぼしめさ)れけん、是をば紅葉の山にはうゑられず、大膳大夫信成を召、この紅葉汝に預る也、明ては持参せよ、叡覧あらんとぞ仰ける。信成仰を蒙て宿所に帰り、乾泉水を造て紅葉を植、明ては御所へ持参し、晩れば宿所に持帰る、不(レ)損不(レ)折と心苦し給けるは、ゆゝしき大事にぞ有ける。或(ある)時(とき)信成物詣でとて出たりける跡に、田舎より仕丁の二三人上たりけるが、寒を禦ん為に酒を尋出し、あたためて飲んとしけるに、焼物のなかりければ、御所の内を走廻て尋る程に、坪の内の乾泉水の紅葉を尋得て、散々(さんざん)に折焼て酒をあたゝめて飲てけり。実に片田舎の者なれば、争か紅葉のやさしき事をも可(レ)知なれば、角振舞たりける也。信成下向し給(たまひ)て、先さし入紅葉を見給ふ(有朋上P815)に跡形もなし。よくよく尋問給(たま)ひければしか/゛\と申。信成手をはたと打て、こはいかにしつる事ぞ、如何なる御勘気にかあらんとて、彼仕丁を尋出し、縫殿の陣に誡置。御所より信成は下向歟、此両三日紅葉を御覧ぜ
P0599
ねば御恋に思召(おぼしめし)、急ぎ持参せよ叡覧せんと御使あり。信成周章(あわて)参りて此由を奏聞せらる。新院やゝ御返事(おんへんじ)なし。去ばこそ大なる御不審蒙なんず、如何様(いかさま)にも廷尉に被(レ)下、馬部吉祥に仰て、禁獄流罪にもやと、恐れをののき居給たりけり。良有て御返事(おんへんじ)あり。信成よ歎思ふべきにあらず、唐の大原(たいげん)に白楽天と云人は、琴詩酒の三を友として、中にもことに酒を愛して諸を慰みけるに、秋紅葉の比仙遊寺に遊ぶとて、紅葉を焼て酒をあたゝめ、緑苔を払て詩を作けり。即其心を、
  林間煖(レ)酒焼(二)紅葉(一)石上題(レ)詩払(二)緑苔(一) K131 
と書遺し給へり。かほどの事をば浅増(あさまし)き下揩ノ誰教へけん、最やさしくこそ仕たりけれと、叡感に預りける上は子細に及ばず。あやしの賤男賤女までも、角御情(おんなさけ)を懸させ給(たま)ひければ、此君千秋万歳とぞ祈申ける。去共憂世(うきよ)の習こそ悲しけれ。又建礼門院(けんれいもんゐん)御入内の比、安元(あんげん)の始の年、中宮の御方に候ける女房の、召仕ける女童二人あり。一人をば葵、一人をば宿禰とて、葵は美形世に勝れたりけれ共、心の色少し劣れり。宿禰はみめ形は(有朋上816)挿絵(有朋上P817)挿絵(有朋上P818)ちと劣りたりけれ共、心の色は深かりけり。主上不慮に、始は葵を召れけるが、後には心の色に御耽ありて、宿禰に思召(おぼしめし)つかせ給つゝ、類ひなき御事也ければ、彼女房竜顔に近付進らせて立さる事もなし。白地の御事にもあらで、夜々(よなよな)是を被(レ)召て御志深く見えさせ給ければ、主の女房も召仕ことなく、還て主の如くにいつきかしづき給(たま)ひけり。此事天下に漏聞えければ、時の人古き謡詠に云事有とて、
P0600
文を引て云、生(レ)女勿(二)悲酸(一)、生(レ)男勿(二)喜歓(一)、男不(レ)封(レ)候、女は作(レ)妃と、只今(ただいま)此女房、女御后にも立、国母仙院とも祝れ給なん、ゆゝしかりける幸哉と披露すと聞召(きこしめし)て後は、敢て召るゝ事なし。御志の尽させ給ふには非ず、世の謗を思召(おぼしめし)ける故也。されば常は御ながめがちにて、夜のおとゞにぞ入らせ給ける。此事大殿聞召(きこしめし)て、心苦き御事にこそとて参内あり。奏し申させ給けるは、叡慮に懸らせ御座(おはしま)さん御事、歎思召(おぼしめ)さん事いと忝(かたじけな)く侍り、何条御事か候べき、只件の女房を召るべきにこそ、俗姓尋るに及ぶべからず、忠通猶子にし奉べしと仰ければ、いざとよ、位すべらせ給(たまひ)て後はさることあり共聞召、正く在位の時袙など云ず、そもなき怪振舞する程の者の、身に近付く事を不(二)聞召(一)、朕が世に始伝へん事、後代の誹なるべしと勅定ありければ、大殿御涙(おんなみだ)を押拭はせ給(たまひ)て、ゆゝしき賢皇哉と思召(おぼしめし)御退出あり。其後主上(有朋上819)なにとなき御手習の次に、古き歌を書すさませ給(たま)ひける中に、緑の薄様のことに匂深きに、
  忍れど色に出にけり御恋はものや思ふと人の問ふまで K132 
と遊ばしたりけるを、御心知の四位(しゐの)侍従守貞と云者、此歌を取て宿禰にたびたりければ、是を給(たまひ)て懐に引入て、心地例ならず覚て、里に出て引被臥にけり。煩事三十(さんじふ)余日ありて、彼歌を■(むね)にあてて、終に墓なく身まかりにけり。主上被(二)聞召(一)(きこしめされ)て御涙(おんなみだ)にむせばせ給けり。為(二)君一日之思(一)、誤(二)妾百年之身(一)、寄(二)言痴(一)少人家女、慎勿(二)将(レ)身軽許(一)(レ)人と誡たり。女の為も不便也、朕が為も世の誹也とて、深く歎思召(おぼしめし)ても、御恋しさにや御涙(おんなみだ)を流させ給ぞ忝(かたじけな)き。
P0601
 < 唐大宗は、鄭仁基と云人の娘、美人の聞えありければ、召て元花殿に入らんとし給(たま)ひしを、魏徴大臣の、彼女既(すで)に他夫に約せりと諌申ければ、殿にいるゝ事を留められけるには、猶まさらせ給たる御心なりとぞ申ける。>
S2506 時光茂光御方違盗人事
又殊に哀なる御事ありき。去し安元(あんげん)二年の七月に、御母儀(おぼぎ)建春門院(けんしゆんもんゐん)隠させ給(たま)ひけり。(有朋上P820)主上今年は十五にぞならせ給(たま)ひける。不(レ)斜(なのめならず)御歎ありて、御寝膳も御倦き程なりけり。帝王御暇の間は定れる習にて、廃朝とて、十二月の程万機の政を留めらるゝ事あり。但孝行の礼はさる事なれ共、朝政を止る事、天下の歎なる故に、一日を以て一月に宛て、十二日を以て十二月に准て御色の服をめす。十二日過ぬれば御除服とて、御色を召替る事なれば、此君も御母儀(おぼぎ)隠れさせ給(たまひ)て後、十二日を過させ給(たま)ひければ、公卿殿上人(てんじやうびと)参会して御除服ありけるに、不(レ)斜(なのめならず)御歎なれば、参給へる人々も、問ふにつらさの風情もやとて、御母儀(おぼぎ)の御事申出す人もなし。君も何となき様にもてなさせ給けるが、猶も御気色(おんきしよく)処せきの御ためし也。高倉中将泰通朝臣参りて御衣を進せ替、御帯を当進らせけれ共、結びもやらせ給はざりければ、御後より結び進らせけるに、母后の御名残(おんなごり)の色の御衣、今を限と召替ると思召(おぼしめし)けるにや、御涙(おんなみだ)の温々と落けるが、泰通の手に懸ければ、不(レ)堪して同く涙を流しけり。是を見進らせける卿上(けいしやう)雲客(うんかく)、皆直垂の袖を絞る。君も竜顔に御衣の袂(たもと)を当させ給(たまひ)て、やがて夜の御宿殿へ入せ給(たま)ひ、御涙(おんなみだ)にむせばせ給けるぞ悲しき。
又金田府生時光と云笙吹と、市允茂光と云篳篥吹あり。常に寄合て囲碁を打て、果頭楽の唱歌をし
P0602
て心を澄しぬれば、世間の事公私につけて、何事も心に入ざる折節(をりふし)、内裏(有朋上P821)よりとみの御事ありて、時光を被(レ)召けり。いつもの癖なれば、時光耳にも聞入ず。勅使こは如何にといへども不(レ)驚。家中の妻子所従までも大騒て、如何にいかにと勧めけれ共、終聞ざりければ、御使力及ばず、内裏に参て此由を奏聞す。何計の勅勘にてかあらんと思ける処に、主上仰の有けるは、勅命を不(レ)顧、万事を忘て心を澄し、面白かるらんやさしさよ、王位は口惜き者哉、さやうの者共に行て伴はざるらん事よとて、御涙(おんなみだ)を流し御感有ければ、事なる子細なし。
又去安元(あんげん)元年十二月に、御方違の行幸の夜、鶏人暁唱ふ声明王(みやうわう)の眼を驚す程に成りにけり。主上はいつも御ねざめがちにて、王業の艱難を思召(おぼしめし)つゞけ御座(おはしま)しけり。折しもさゆる霜夜なり。天気殊に烈しかりければ、いとゞ打解御寝もならず、彼延喜聖主、四海の民いかに寒かるらんとて、御衣をぬぎ給けん事思召(おぼしめし)出て、帝徳の不(レ)至事を歎思召(おぼしめし)、御心を澄して渡らせ給(たま)ひけるに、遥なる程とおぼしくて女の泣音しけり。供奉の人々は聞とがむる事もなし。主上聞召咎めさせ給(たまひ)て、上伏したる殿上人(てんじやうびと)を召て、上日の者や候、只今(ただいま)遠所に叫音のするは何者(なにもの)ぞ、急ぎ見て参れと御気色(おんきしよく)あり。殿上人(てんじやうびと)承て、本所の衆に仰す。所の衆、急ぎ行て見れば、怪げなる女童の、長持の蓋を提てさめ/゛\と泣。事の次第を尋るに、女答て云く、童が主の朔日の出仕に奉ら(有朋上P822)んとて、只一つ持せ給へる御里を沽て、仕立させ給へる御装束を持て御局へ参つるを、男の二三人詣できて奪取りてまかりぬるぞや、取替の御装束があら
P0603
ばこそ御所にも渡らせ給ふべき、御里があらばこそ立も入せ給はめ、責ては日数も候はばや、又も仕立させ給はめ、親き人渡らせ給はねば、如何にと訪進らする事も侍るまじ、此事思連るに、余に悲く候へば、只今(ただいま)消も失なましきとまで思侍れ共、そも叶はずと申して又足摺して喚叫。所の衆帰参て此由角と奏し申ければ、君聞召(きこしめし)て、如何なる者のしわざにか有らん、誠に悲かるべき事にこそ。昔夏の禹王犯せる者を罪すとて、涙を流し給ければ、臣下諌て云、罪犯者不(レ)足(レ)憐と申ければ、禹王答て云、堯代之民、以(二)堯心(一)為(レ)心、故人皆直、今代之民、以(二)朕心(一)為(レ)心、故姦犯(レ)罪、何不(レ)悲哉と歎給(たま)ひけり。されば朕が意の直しからぬ故に、朝に姦者のあて法を犯す、これ偏(ひとへ)に朕が恥なりとて、御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひつゝ、彼女童を被(レ)召て、とられにける装束は何色ぞと問はせ御座(おはしまし)ければ、しか/゛\と申けり。中宮の御方に、左様の御衣や候と召されければ、とられつる衣よりも猶清らかに厳を被(レ)参たりければ、件の女童にたびてけり。はや明方の事也けれ共、又もぞさるめにも値とて、上日の者の送りつゝ、主の女房の許へぞ被(レ)遣ける。有難き御情(おんなさけ)(有朋上P823)なり。
S2507 西京座主祈祷事
 < 堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)、きはめて貧き所衆あり。衆のまじらひすべきにて有けれ共、いかにも思立べき事なし。此事いとなまでは、衆にまじはらん事叶ふまじ。縦世に立廻る共人ならず、懸る身は、あるに甲斐なき事なれば、出家入道して行方知ず失なんとぞ思成りにける。されば日来の前途後栄も空くなり、年比の妻子所従も遺惜く、朝夕に参つる御垣の内を振捨て、山林に流浪せん事も悲く、前世の戒徳の薄さも被(二)思知(一)て、唯泣より外の事なし。主上は兼て近習の女房侍臣などに、内々仰の有けるは、卒土の浜皆王民、
P0604
遠民何踈、近民何親、普恵を施ばやと思召(おぼしめせ)共、一人の耳四海の事を聞ず、是大なる歎き也。帝徳全く偏頗を存るに非ず。されば黄帝は四聴四目の臣に任せ、舜帝は八元(はちげん)八ト臣に委すともいへり。然共遠事は奏する者もなければ、本意ならぬ事も多くあるらん、聞及事あらば、必奏し知しめよと仰置せ給たりければ、或女房、此所衆が泣歎きける有様(ありさま)をこま/゛\に申上たりければ、無慙の事にこそと計にて、又何と云仰もなし。申入たる女房も、思は(有朋上P824)ずに覚えて候ける程に、西京の座主良真僧正(そうじやう)を召て、被(二)宣下(一)けるは、臨時の御祈祷(ごきたう)あるべし、日時并何の法と云事は、思召(おぼしめし)定て逐て被(二)仰下(一)べし。先兵衛尉の功を一人召仕て、今度の除目に申成べしと仰含らる。僧正(そうじやう)勅命に依て、成功の人を召付けて貫首に申ければ、除目に会て即成にけり。其比の兵衛尉の功は、五万匹なりければ、是を座主の坊に納置て、日時の宣下を相待進らせけれども、日数を経ける間に、僧正(そうじやう)参内して、成功五万匹納置て候、臨時の御修法日時の宣下、思召(おぼしめし)忘たるにやと驚し奏せられたり。主上の仰には、遠近親踈をいはず、民の愁人の歎を休ばやと思召(おぼしめせ)ども、下の情上に不(レ)通ば、叡慮に及ばざる事のみ多かるらん。御耳に触る事あらば、其恵を施さんと思召(おぼしめす)処に、某と云本所の衆あり。家貧に依つて衆の交り叶ひ難くして、既(すで)に逐電すべしと聞召、さこそ都も捨がたく、妻子の遺も悲く思ふらめなれば、件の兵衛尉の成功を彼に給(たまひ)て、其身を相助ばやと思召(おぼしめし)、一人が為に其法を枉るにもやあるらん、聖主は以(レ)賢為(レ)実、不(レ)以(二)珠玉(一)と云事あれば、憚り思召(おぼしめせ)ども、明王(みやうわう)は有(レ)私、人以(二)金石珠玉(一)、無(二)私人(一)以(二)官職(一)事(レ)業と云事も又あれば、何かは苦しかるべき、世に披露は御憚あり、良真が私に賜体にもてなすべし、御祈(おんいのり)は長日の御修法に過べからずと仰ければ、僧正(そうじやう)衣の袖を顔にあて(有朋上P825)て泣給へり。さすが御年もいまだ老すごさせ給はぬ御心に、かばかり民をはぐくむ御恵、忝(かたじけなく)ぞ思ひ進らせ給ふ。やゝ暫くありて御返事(おんへんじ)被(レ)申けるは、何の大法秘法と申候とも、是に過たる御祈祷(ごきたう)侍まじ、縦良真微力を励して勧め奉らん御祈(おんいのり)、なほ
P0605
百分が一つに及べからずと申て、泣々(なくなく)御前を退出して、やがて彼所の衆を西京の御坊に召て、勅命を仰含て五万匹を給たりければ、只泣より外の事ぞなかりける。彼ためしに露たがはせ給はずとぞ申ける。>
S2508 小督局事
小松殿(こまつどの)薨給(たまひ)て後は、人の心さま/゛\に替り、不思議の事のみ多し。今又此君の隠させ給ぬるも、国の衰弊也、人の歎也。御病(おんやまひ)の付せ給ふ事も入道の悪行の至り、恋の御病(おんやまひ)とこそ聞えし。桜町中納言重範卿の女に、小督殿とて世に類なき美人、琴の上手にて御座(おはしまし)けるが、令泉大納言(だいなごん)隆房卿の未少将にて、見初給し女房也。少将彼形勢(ありさま)を伝聞て、忍の玉章を被(レ)遣けれ共、女房なびく心もおはせざりけるを、度々文を送られける程に、年月も隔り三年にも成ぬ。玉章の数も積りければ、小督殿さすが情に弱る心にや、終には靡き(有朋上P826)給けり。少将見初給(たまひ)て幾程もなかりしに、美人の聞えありて内へぞ被(レ)召進らする。少将はつきぬ志しなれ共、勅命力及ばず、飽ぬ別の涙には、袖しほたれてほしあへず、責ては小督殿をよそながらも一目見奉る事もやとて、其事となけれ共日毎(ひごと)に参内せられけり。此女房のおはしける御簾のあたりを、彼方此方へたゝずみありき給へ共、小督殿自君に被(レ)召進らせなん上は、いかに思ふ共、言をもかはし文をも見べきに非ずとて、伝の情をだに懸られず。少将もしやとて一首の歌を読けり。
  思ひかね心のおくは陸奥のちかの塩がまちかきかひなし K133 
と書て、引結、御簾の内へぞ入給ける。小督殿さしも志深かりし中なれば、取上返事をもせばやと
P0606
は思召(おぼしめせ)共、君の御為御後めたしとて、手にだに取て見給はず、急ぎ上童にたびて、坪の内へぞ被(レ)出ける。少将情なく恨しく思はれけれ共、人もこそ見れとて、取て懐に入て出られけるが、又立帰給ふ。
  玉章を今は手にだにとらじとやさこそ心に思ひ捨つとも K134 
とくちすさみ宿所に帰り、今は憂世(うきよ)にながらへて、互の姿をあひみん事も有難し、生て物を思はんより、只死ばやとぞ泣給(たま)ひける。中宮と申は御女(おんむすめ)、少将は聟也。二人の聟を小督(有朋上P827)殿にとられ給(たま)ひ、太政(だいじやう)入道(にふだう)安からず腹を立給(たま)ひ、いや/\此事、小督があらん限は此世中よかるべし共覚えず、急ぎ召出して可(レ)失とて■(ののし)り給(たま)ひける。小督殿此由伝聞給(たま)ひ、我つれなくながらへて、君の御為御心苦し、いづくの所にても、身独りこそ如何にもならめとて、ある夕暮に内裏を潜に忍出て、かき消すやうに失給(たま)ひぬ。君は聞召、御悩(ごなう)とて夜のおとゞに入せ給(たま)ひ、夜は南殿に出御ありて、月の光を叡覧ありてぞ慰ませ給ける。太政(だいじやう)入道(にふだう)此事聞給(たま)ひ、君は小督殿故に思召(おぼしめし)入せ給けり、其義ならば御介錯の女房達(にようばうたち)、一人も付進らすなとて、中宮をば六波羅へ行啓なし進らせ、参内せられける臣下達をも妬申されければ、入道の権威に恐て参り寄人もなし。禁中さびしくならせ給(たま)ひ、いとゞ御思深かりけり。比は八月十日余(あまり)の事なれば、さしも陰なき月なれども、御涙(おんなみだ)にくもりつゝ、朧に照す空なれや、小夜更人静りて、主上、人やある参れ、人やあると被(レ)召けれども、御いらへ申者もなし。折節(をりふし)弾正少弼仲国参たりけるが、隔たる所にて是を承り、仲国と御いらへ申。近く参れ可(二)仰下(一)御事ありと勅定
P0607
ありければ御前に参る。目近く召して、如何に汝は小督がゆくへ知たりやと仰ければ、争か知進らせ候べきと奏す。重ての仰に、誠とやらん、小督は嵯峨(さが)の辺に片折戸したる所にありとばかりは聞召ししか共、其あるじ(有朋上P828)の名をば不(レ)知、かゝらましかば兼て委く聞召べかりけるぞとよ。汝主が名をば不(レ)知とも、尋て進らせてんやと仰けるに、嵯峨(さが)広き所にて、名を不(レ)知しては争か尋進らせ候べきと申せば、君誠にもとてやがて御涙(おんなみだ)に咽せ給けり。仲国見進らせて忝(かたじけな)く悲く思ひ、実や小督殿の琴弾給しには、仲国被(レ)召て必御笛の役に参き。其琴の音はいづくにても慥に聞知らんずる者を、今夜は名にしおふ八月十五日の月の夜也、折節(をりふし)空も陰なし、君の御事思召(おぼしめし)出て、琴引給はぬ事よもあらじ、嵯峨(さが)の在家広しといへ共、思ふに幾程か有べき、王事無(二)脆事(一)、打過て琴の爪音を指南として、などか尋逢進らせざるべき、縦今夜叶はずば、五日も十日も伺聞なん、博雅の三位は三年まで、会坂の藁屋の軒に通つゝ、流泉、啄木の二曲を聞てもこそ有けれと思ひければ、不(レ)叶までも尋進らせん、若尋会進らせて候とも、御書なくてうはの空にや思召(おぼしめさ)れ候はんずらんと申ければ、君実にもとて、よにも御嬉しげに思召(おぼしめし)、御書遊ばして仲国に給ふ。程も遥也、寮の馬に乗てと仰す。仲国明月に鞭をあげて、西を指て浮岩行。八月半ばの事なれば、路芝におく露の色、月に玉をや瑩くらん。我ならぬ在原業平が、男鹿啼その山里と詠じけん嵯峨(さが)のあたりの秋の比、さこそは哀に覚えけめ。片折戸したる所を見付(みつけ)ては、此内にもや御座らんと、ひかへ(有朋上P829)/\聞けれ共、琴弾所もなかりけり。打廻
P0608
打廻、二三返まで聞けれ共、我のみ疲て甲斐ぞなき。内裏をばよにも憑しげに申て出ぬ、さて空く帰り参りたらば、中々不(レ)参よりも悪かるべし、是より何方へも落行ばやと思へ共、いづくか王土にあらざる、身を隠べき宿もなし、さて又君の御歎き、誰人か慰め進らせんと思ひければ、只狩衣の袖を絞て良久ぞたちやすらふ。是より法輪は程近ければ、そも参給へる事もやとて、そなたへ向てあゆませ行。亀山(かめやま)のあたり近、松の一叢ある方に、幽に琴こそ聞えけれ。峯の嵐か松風か、尋ぬる君の琴の音かと覚束(おぼつか)なく思ひ、駒をはやめて行程に、片折戸の内に琴をぞ引澄したる。手綱をゆらへて聞ければ、少しも可(レ)違もなき小督殿の爪音なり。楽はなにぞと聞ければ、夫を想て恋と読、想夫恋と云楽也。仲国急ぎ馬より飛び下り、やうぢようぬき出し、ちと合て立寄り、門をほと/\と扣けば、琴をば弾やみ給(たま)ひけり、内裏より仲国御使に参り侍り、開かさせ給へ、御気色(おんきしよく)申さんといへ共、答る人もなし。良ありて鎖をはづし門をほそめにあけて、いたいけしたる小女房顔ばかり指出だし、人違歟所違歟、あやしき賤が庵也、さやうに内裡より御使給べき所に侍らずと云ければ、仲国中々とかく返事せば門たてて鎖さして、悪かりなんと思ひければ、押開てぞ入にける。妻戸(有朋上P830)の縁により居て申けるは、いかに加様の御住居(おんすまひ)にて御座(おはしまし)候やらん、君は御故に思召(おぼしめし)入せ給(たま)ひ、つや/\貢御も聞召さず、打解御寝もならせ給はねば、御命も危く見えさせ給ふ者をや、加様に申侍ば、うはの空にや思召(おぼしめさ)るらん、御書の候とて取出て是を奉る。有つる女房取次て小督殿に進らする。急ぎ披き見給へ
P0609
ば、げにも君の御書也けり。哀に忝(かたじけな)くおぼしければ、御書を顔にあて給(たま)ひ、いかにせんとぞ泣給ふ。さらぬだに馴にしよはの眤言は、思出つゝ悲きに、雲井の空の月影に、涙の露ぞ置まさる。仲国が待らんも心苦く思ふらんと思召(おぼしめし)、御返事(おんへんじ)あそばし引結、女房の装束一重取副、簾のそとへ推出さる。御形見かと覚えて哀なり。仲国給(たまひ)て左の肩に打懸て申けるは、余(よ)の御使にて候はば、角御返事(おんへんじ)の上は、兎角可(二)申入(一)身に候はね共、内裏にて御琴あそばされし御笛の役には仲国こそ被(レ)召しか、其奉公をばよも御忘あらじ、いまだ御忘候はずば、御返事(おんへんじ)を直に承て奏聞申さばやと聞えければ、女房誠にもやと思召(おぼしめし)けん、近居出て宣(のたま)ひけるは、さればこそ其にも聞給へる様に、入道の世にも怖き事共申すと聞侍りしかば、難面存へて我も憂目を見ば、君の御為も御心苦し、いづくのいかならん所にても、我身一人こそ消も失なんと思ひ、内裏をば潜に忍出ぬ。いかならん淵河にも入、如何にも成べかりしか共、(有朋上P831)住馴し人々の行へをも聞、今一度君の御言伝をもや承と思ひ、所縁ありて是に此程侍りつれ共、伝を承事もなし。思へば中々身も苦し、明日よりして大原(おほはら)の別所に思立事候て、今夜を限の名残(なごり)を惜み、主の女房に勧められ、手馴し琴が忘られで、今夜しも引てこそ安は聞知れぬれやとて泣かれければ、仲国も表衣の袖絞るばかりに成にけり。良有て申けるは、大原(おほはら)の別所と承は、御様(おんさま)をかへんとにや、君の御免されなくては、争か御姿をも替させ給ふべき、如何様(いかさま)にも重て御使は参候はんずらん、縦出んと仰すとも、左右なく出し進らさせ給ふなと、彼家の主の女房に申置、召具したる
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馬部吉祥を二三人留置、彼家を守護せさせ、我身は内裏へ馳参る。内裡をば亥刻計に出たれ共、通(レ)夜(よもすがら)嵯峨野の原に迷つゝ、秋夜長といへ共、内裏へ帰り参りたれば、夜はほの/゛\と明にけり。君は定て御寝こそ成たるらめ、誰してか可(二)奏入(一)と思、装束をば駻馬の障子に打懸、寮の御馬をつながせて南殿の方にさし廻て見進らすれば、未入御もならざりけり。夜部の御座にまし/\、待兼させ給へりと覚たり。仲国が参を御覧じて、詩一つ詠させ給(たま)ひけり。
  南翔北 嚮 難(レ)附(二)寒温於秋雁(一) 東出西流 只寄(二)瞻望於暁月(一)
と御詠ありけるに、仲国尋会進らせて候とて、御返事(おんへんじ)をぞ指上たる。急ぎ披て叡覧あれ(有朋上P832)ば、げにも小督局が手也けり。穴無慙や未憂世に有けるや、何としてか尋会たりけるぞと御気色(おんきしよく)ありければ、御琴の音にと申。如何なる楽をか弾つると有ければ、想夫恋をこそあそばされ候つれと奏すれば、朕が事忘れず思出けるにやとて、又御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ給ぞ哀なる。誰してか被(レ)召べきなれば、汝帰りて具して参れとぞ仰ける。仲国承り御前を立けるが、恐し太政(だいじやう)入道(にふだう)に聞付られ、如何なる目にかあはんずらんと思けれ共、綸言なれば争か奉(レ)背べき、縦被(二)召出(一)被(レ)刎(レ)首とも、いかゞはせんと思ひ、宿所に帰牛車支度して嵯峨(さが)に参り、御気色(おんきしよく)のよし申ければ、小督殿、我再憂目にあはんより、此次にこそいかにもならめと宣(のたま)ひけるに、主の女房共に様々誘申ければ、泣々(なくなく)内裏へ帰給ふ。君不(レ)斜(なのめならず)御悦ありて、或局に召置せ給(たま)ひけり。其御腹に姫宮一人出来させ給(たま)ひけり。後に坊門に女院と申し
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は、彼姫宮の御事也。平家の方様をば深くつゝしませ給(たま)ひけるに、入道何としてか聞付給(たま)ひたりけん、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)を召て、やゝ季定、小督失たりとは君の御虚言にて有けるぞ、未内裏に候なり、急ぎ召出して可(レ)失とぞ宣(のたまひ)ける。季定承、所縁を以て小督殿をすかし出し奉り、入道に角と申しければ、流石(さすが)女などを失なはん事は世の聞えも不(二)穏便(一)、たゞ姿を替て追放て、さてぞ君は思召(おぼしめし)捨させ給はんずると宣(のたま)ひければ、(有朋上P833)季定承り、目もあてられず思ひけれ共、東山の麓、清閑寺と云所に具足し奉り、姿を替させ奉る。ひすゐのたをやかなるを剃下し、花色衣の御袖を、うき世を徐の墨染に替けるこそ悲しけれ。此を見奉りける人、上下袂(たもと)を絞りけり。今は疾々御心に任せとて、在所も不(レ)定追放つ。此女房と申は、大織冠の御孫、淡海公には一男、武智麿より十二代、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の孫也。かく竜顔に近付進らする上は、国母后に祝れ給はん事も難かるべきにあらず。平家は下国の守をだにもきらはれて、只今(ただいま)家を起したる人ぞかし、さまでの振舞情なしとぞ人唇を返しける。桜町中納言は最愛の女子を加様にせられ給ふ、如何にすべし共思ひ給はねば、しば/\篭居とぞ聞えける。冷泉少将此由聞給(たま)ひ、あな無慙や、さては終にさまたげられにけり、尋行訪ばやと思はれけれ共、入道のかへりきかん事を恐て、思ひながらさてやみ給ふ。新尼御前は、出家は本より思ひ儲し事なれ共、敢無く人に姿をかへられて、如何なる事をか被(レ)思けん、さして行べき方も覚えねば、泣々嵯峨(さが)へ帰給ふ。暫く爰(ここ)に御座(おはしまし)けるが、後には大原(おほはら)の別所に閉篭り、行澄し給けり。御歳廿三歳、しかるべき形なり。主上は聞召、朕天子の
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位にて、これ程の事を叡慮に任せぬ事こそ安からねと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けれ共、世に披露はなかりけり。深く思召(おぼしめし)出たる時は、只(有朋上P834)御悩(ごなう)とて夜のおとゞへ入せ給けり。小督の局の心ならず尼になされたる所なれば、御なつかしく思召(おぼしめし)けるにや、朕をば必清閑寺へ送り納めよと御遺言(ごゆいごん)の有けるこそ御愛執の罪と云ながら哀なれ。入道は斯る悪行し給(たまひ)て、流石(さすが)おもはゆくや被(レ)思けん、福原へ下給(たま)ひにけり。
S2509 前後相違無常事
小督局かく事にあひぬと聞召し後は、御恋も御うらめしくも思召(おぼしめ)して、つや/\供御も参らず、只夜のおとゞに入せ給(たま)ひて、長き冬の終夜(よもすがら)、御ながめがちにて明し暮させ給(たま)ひけるに、打続き南都炎上(えんしやう)の事聞召(きこしめし)て、いとゞ御悩(ごなう)重らせ給(たまひ)て、終に隠させ給(たま)ひにけり。凡此君仁風卒土に覆ひ、高徳配天に顕る。有道の政無偏の恵、誠に堯、舜、禹、湯、周文、武、漢文帝と聞えしも角やとぞ覚えし。されば後白河法皇の仰には、代を此君につがせ奉りたらましかば、恐くは延喜天暦の昔にも立帰なんとこそ思召(おぼしめし)つるに、先立せ給(たま)ひぬれば、我身の御運の尽るのみにあらず、国の衰弊なり、民の果報の拙が故也とぞ嘆かせ給(たま)ひける。近衛院隠れさせ給たりしに、故院の御歎ありし事、挙賢、義孝兄弟二人、(有朋上P835)先少将後少将とてはなやかにうつくしきが、二十計にて一日の中に失給(たま)ひたりしを、父一条の摂政(せつしやう)〈 伊尹 〉謙徳公同北方の被(レ)歎事、後江相公朝綱の子息澄明に後て仏事修しける願文に、悲之亦悲、莫(レ)悲(二)於老後(一)(レ)子、恨而更恨、莫(レ)恨(二)於少先(一)(レ)親、雖(レ)知(二)老少之不定(一)、猶迷(二)前後之相違(一)と自書て泣けんも、御身に被(レ)知御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。永万(えいまん)
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元年七月廿八日に、二条院も御歳廿三にて失させ給ぬ。安元(あんげん)二年七月十九日に、六条院も御歳十三にて隠れさせ給(たま)ひぬ。治承四年五月廿四日に、高倉宮(たかくらのみや)も討れさせ給ぬ。安元(あんげん)二年七月七日、比翼の鳥、連理の枝と、天に仰ぎ星を指て御契深かりし建春門女院も、秋の霧におかされて、朝の露と消させ給にき。会事稀なる織女も、七月七日を限として、天河逢瀬を渡る習あり。偕老同穴の玉の台を並しに、今日しもいかなれば永別に咽らんと、年月は隔れ共、昨日今日の御憐の様に被(二)思召(一)(おぼしめされ)て、御涙(おんなみだ)も未かわかせ給はぬに、現世後生深く憑み思召(おぼしめし)つる新院も、先立せ御座ぬれば、何事に付ても、今は御心弱くならせ御座(おはしま)して、いかゞなるべし共思召(おぼしめし)わかず。老少不定は人間の定れる習なれ共、前後の相違は生前の御恨なほ深し、人の親の子を思ふ道、おろかに頑なるすら猶悲し、況万乗の聖主、末代賢王(けんわう)に於てをや。近く召仕給(たま)ひし輩眤思召(おぼしめす)人々、或は流され(有朋上P836)或は討れにしかば、御心やすまらせ給ふ御事もなかりつるに、打副又此御歎あり。是につけても一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の御勤も怠らず、三密行法の御薫修も積れり。今生の御事は露思召(おぼしめし)捨させ給(たまひ)て、只来世得脱の御祈(おんいのり)のみありける。中にも我十善の余薫に酬て、万乗宝位を忝(かたじけな)くす、四代の帝王を思へば子也孫也。いかなれば万機の政務を被(レ)止て年月を送らんと、日来の御歎も浅からず思食(おぼしめし)ける上、新院の御事に、雲の上人花の袂(たもと)を引替て、皆藤の衣に改るに付ても、御心憂しと思召(おぼしめし)連けり。
S2510 入道進(二)乙女(一)事
太政(だいじやう)入道(にふだう)は、此程痛く情なく振舞し事、悪かりけりと思ひ給(たま)ひけるにや、正月廿七日に、安芸の国厳島の内侍が腹に儲けたりける第七
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の乙娘の今年十八に成り給(たまひ)けるを、法皇の御所に進せられけり。上搶蘭[数多選ばれ給(たま)ひける中に、鳥飼中納言伊実卿の御娘も御座(おはしまし)けり、大宮殿(おほみやどの)とぞ申ける。高倉院(たかくらのゐん)隠れさせ給(たま)ひて、今日は二七日にこそ成けれ、御歎の最中也。いつしか懸べし共覚えず、公卿殿上人(てんじやうびと)供奉して、偏(ひとへ)に女御入内の様也。是に付ても法皇は、こは何事ぞと御冷く思召(おぼしめさ)れければ、後には中々伊実卿の御娘、大宮殿(おほみやどの)(有朋上P837)ぞ御気色(おんきしよく)はよかりける。又一条大納言(だいなごん)の御娘に近衛殿(このゑどの)と申女房も御座(おはしまし)けるが、是も御気色(おんきしよく)よかりければ、御■[*女+夫]の実保伊輔二人、一度に少将に成れなどして、ゆゝしく聞えける程に、相模守業房が後家、忍て被(レ)召けるに、姫宮出来させ給(たま)ひにけり。大宮殿(おほみやどの)、近衛殿(このゑどの)、二人の上搶蘭[、本意なき事に思ひけれ共力なく、後には大宮殿(おほみやどの)は、平中納言親宗卿、時々通ひ給(たま)ひけり。近衛殿(このゑどの)には、九郎判官義経一腹の弟に、侍従義成と云人、通ひ給(たま)ひけり。義成は判官の世に在し程は、武芸立ゆゝしく見えしか共、判官兵衛佐(ひやうゑのすけ)に中違て、西国(さいこく)へ落し時は、義成は紫の取染の唐綾の直垂に、萌黄匂の鎧著て、白葦毛の馬に乗けるに、判官の後にうちたりけるが、大物が浜にてちり/゛\に成りけるに、義成和泉国へ落隠れたりけれ共、虜れて鎌倉へ被(二)召下(一)、上総国へ被(レ)流て、三年ありけるとかや。(有朋上P838)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十六

P0615(有朋下P001)
濃巻 第二十六 
S2601木曾謀叛事
信濃国(しなののくに)安曇郡に、木曾と云山里あり。彼所の住人(ぢゆうにん)に、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)と云は、故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)が孫、帯刀先生義賢には二男也。義仲(よしなか)爰(ここ)に居住しける事は、父義賢は、武蔵国多胡郡の住人(ぢゆうにん)、秩父二郎大夫重澄が養子也。義賢武蔵国比企郡へ通りけるを、去久寿二年二月に、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が嫡男悪源太義平、相模国(さがみのくに)大倉の口にて討てけり。義賢は義平には叔父なれば、木曾と悪源太とは従父兄弟也。父が討れける時は、木曾は二歳、名をば駒王丸と云。悪源太は義賢を討て京上しけるが、畠山庄司重能に云置けるは、駒王をも尋出して必害すべし、生残りては、後悪るべしと。重能慥に承ぬとは云たりけれ共、いかゞ二(有朋下P002)歳の子に刀をば振べき、不便也と思ひて、折節(をりふし)斎藤別当真盛が、武蔵へ下たりけるを悦て、駒王丸を母にいだかせて、是養給へと云やりたりければ、真盛請取て、七箇日おきて、案じけるは、東国と云は皆源氏の家人也、憖(なまじひ)に養置て、討れたらんも無(二)憑甲斐(一)、討せじとせんも身の煩たるべし、兎(と)も角(かく)も難(レ)叶と思て、木曾は山深き所也、中三権頭は世にある者也、隠し養て、人と成たらば、主とも憑めかしとて、母に懐かせて、信濃国(しなののくに)へ送遣す。斎藤別当情あり。母懐に抱へて、泣々(なくなく)信濃へ逃越て、木曾中三権頭に見参して、懐出して云様は、我女の身也、甲斐甲斐敷養立とも覚えず、深く
P0616
和殿を憑也、養立て神あらば子にもし、百に一も世にある事もあらば、かこちぐさにもし候へ、悪くば従者にも仕ひ候へと云。兼遠哀と思ひける上、此人は正く八幡殿には四代の御孫也、世中の淵は瀬となる喩あり、今こそ孤子にて御座とも、不(レ)知世の末には、日本国(につぽんごく)の武家の主とも成やし給はん、如何様(いかさま)にも養立て、北陸道の大将軍になし奉て、世にあらんと思ふ心有ければ、憑もしく請取て、木曾の山下と云所に隠し置て、二十余年が間育み養けり。然べき事にや、弓矢を取て人に勝れ、心甲に馬に乗て、能、保元平治に源氏悉(ことごと)く亡ぬと聞えしかば、木曾七八歳のをさな心に不(レ)安思て、哀平家を討失て、世を取ばやと思ふ心あり。(有朋下P003)馬を馳弓を射も、是は平家を責べき手習とぞ、あてがひける。長大の後、兼遠に云けるは、我は孤也けるを、和殿の育に依て、成人せり、懸るたよりなき身に、思立べき事ならね共、八幡殿の後胤として、一門の宿敵を、徐に見るべきに非ず、平家を誅して、世に立ばやと存ず、いかゞ有べきと問。兼遠ほくそ咲て、殿を今まで奉(レ)育本意、偏(ひとへ)に其事にあり、憚候事なかれと云ければ、其後は木曾、種々の謀を思ひ廻して、京都へも度々忍上て伺けり。片山陰(かたやまかげ)に隠れ居て、人にもはか/゛\しく不(二)見知(一)ければ、常は六波羅辺(ろくはらへん)にたゝずみ伺けれ共、平家の運不(レ)尽ける程は、本意を不(レ)遂けるに、高倉宮(たかくらのみや)の令旨を給りけるより、今は憚るに及ばず、色に顕て謀叛を発し、国中(こくぢゆう)の兵を駈従へて、既(すで)に千余騎(よき)に及べりと聞ゆ。木曾と云所は、究竟の城郭(じやうくわく)也。長山遥(はるか)に連て、禽獣猶希に、大河漲下て、人跡又幽也。谷深く梯危くしては、足を■(そばだ)て歩み、峰高く巌稠しては、
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眼を載て行く。尾を越え尾に向て心を摧、谷を出で谷に入て思ひを費。東は信濃、上野、武蔵、相模に通て奥広く、南は美濃国に境、道一にして口狭し。行程三日の深山(しんざん)也。縦数千万騎を以ても責落すべき様なし、況桟梯引落して、楯籠らば、馬も人も通ふべき所に非。義仲(よしなか)爰(ここ)に居住して謀叛を起し、責上て、平家を亡すべしと聞えければ、木曾は信濃にとりても(有朋下P004)南の端、都も無下に近ければ、こはいかゞせんと上下騒けり。
S2602 兼遠起請事
平家大に驚き、中三権頭を召上て、如何に兼遠は木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)を扶持し置き、謀叛を起し、朝家を乱らんとは企つなるぞ、速に義仲(よしなか)を搦進すべし、命を背かば汝が首を刎らるべしと、被(二)下知(一)ければ、兼遠陳じ申て云、此条且被(二)聞召(一)(きこしめされ)候けん、義仲(よしなか)が父、帯刀先生義賢は、去久寿の比、相模国(さがみのくに)大倉の口にて、甥の悪源太義平に被(レ)討侍き、義仲(よしなか)其時は二歳になりけるを、恩愛の道の哀さは、母悪源太に恐て、懐に入ていかゞせんと歎申しかば、一旦哀に覚えて、請取て、今まで孚置て侍れ共、謀叛の事努々虚事也、人の讒言などに候か、但御諚の上は、身の暇を給(たまはつ)て国に下、子息共に心を入て可(二)搦進(一)と申。右大将家(うだいしやうけ)重て仰には、身の暇を給はんと思はば、義仲(よしなか)を可(二)搦進(一)之由、起請文を書進べし、不(レ)然者、子息家人等(けにんら)に仰て、義仲(よしなか)を搦進せん時、本国に可(二)返下(一)也と有ければ、兼遠思ひけるは、起請をかゝでは難(レ)遁、書ては年来の本意空かるべし、いかゞすべきと案じけるが、縦命は亡とも、義仲(よしなか)が世を知んこそ大切なれ、其上心より起て書起請ならず、(有朋下P005)神明よも悪しとおぼしめさじ、加様の事をこそ乞索圧状とて、神も仏も免され候なれと思成て、熊野の午王の裏に、起請文を
P0618
書進す。其状に云。
謹請再拝再拝
  早依(レ)有(二)謀叛企(一)、可(レ)搦(二)進木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)(一)由、起請文事
右上奉(レ)始(二)梵天帝釈、四大天王、日月三光、七耀九星、二十八宿(一)、下内海、外海、竜神(りゆうじん)八部、竪牢地祇、冥官冥衆、日本国中(につぽんごくぢゆう)、七道諸国、大小諸神、鎮守(ちんじゆ)王城、諸大明神(だいみやうじん)、驚申而白、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)者、為(二)六孫王之苗裔(一)、継(二)八幡殿後胤弓馬之家(一)也、武芸之器也、依(レ)之(これによつて)被(レ)引(二)源家之執心(一)、為(レ)謝(二)宿祖之怨念(一)、相(二)語北陸諸国之凶党(一)、擬(レ)滅(二)平家一族之忠臣(一)之由、有(二)其聞(一)、甚以濫吹也、早仰(二)養父中三権頭兼遠(一)而可(レ)搦(二)進彼義仲(よしなか)(一)云云、謹蒙(二)厳命(一)畢、任(下)被(二)仰下(一)之旨(上)、速可(レ)搦(二)進義仲(よしなか)(一)、若偽申者、上件之神祇冥衆之罰於、兼遠之八万四千(はちまんしせん)之毛孔仁蒙天、現世当来、永神明仏陀之利益仁可(レ)奉(レ)漏之起請状如(レ)件。
     治承五年正月  日               中原兼遠
とぞ書たりける。依(レ)之(これによつて)平家憑もしく思はれければ、中三権頭を被(二)返下(一)。兼遠国に下て思ひ(有朋下P006)けるは、起請文は書つ、冥の照覧恐あり、又起請に恐れば日比(ひごろ)の本意無代なるべし、いかゞせんと案じけるが、責も義仲(よしなか)を世に立んと思ふ心の深かりければ、本望をも遂、起請にも背かぬ様に、当国の住人(ぢゆうにん)に根井滋野行親と云者を招寄せて云ひけるは、此木曾殿(きそどの)をば、幼少二歳の時より懐育み奉て、世に立候はん事を
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のみ深く存侍き、成人の今に、高倉宮(たかくらのみや)の令旨を給(たまひ)て、平家を亡さんとする処に、兼遠を召上て、乞索圧状の起請文を被(レ)召畢ぬ、此事黙止せん条本意に非ず、されば木曾殿(きそどの)を和殿に奉らん、子息共は定て参侍べし、心を一にして平家を討亡て、世におはせよとてとらせける志こそ恐しけれ。行親木曾を請取て、異計を当国隣国(りんごく)に回し、軍兵を木曾の山下に集けり。懸りければ、故帯刀先生義賢の好にて、上野国の勇士、足利の一族已下、皆木曾に相従、平家を亡さんとひしめきけり。平家此事を聞て沙汰有りけるは、越後国住人(ぢゆうにん)城太郎資永は、当家大恩の身として多勢の者也、縦木曾信濃国(しなののくに)の兵を相語と云共、資永が勢に並べんに、十分之一に及べからず、只今(ただいま)討て進らせなん、あながちに驚騒べからずとは云けれ共、東国の背だにも浅増(あさまし)きに、北国さへ懸ければ、直事に非ずと申あへり。(有朋下P007)
S2603 尾張国目代(もくだい)早馬事
二十四日亥刻に、尾張国目代(もくだい)、早馬を立たりとて六波羅ひしめく。平家の一門馳集て是を聞に、熊野の新宮の十郎蔵人行家、東国の源氏等(げんじら)を催して、数千騎(すせんぎ)の軍兵を引率して、既(すで)に当国に打入間、国中(こくぢゆう)の土民不(二)安堵(一)、是より美濃近江を相従て、都へ可(二)責上(一)由披露あり、急ぎ討手を被(レ)下べし、又御用心あるべしとぞ申たる。六波羅には此事聞て、こはいかゞせんと、只今(ただいま)敵の都へ打入たる様に、資財雑物東西に運隠し、鎧腹巻太刀刀馬よ鞍よとひしめきければ、京中の貴賎途を失て為方なし。去(さる)程(ほど)に、武士の人の家々に走入て、目に見ゆる物を奪取ければ、易き人更になし。
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廿五日、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、近江国の惣官に被(レ)補、天平三年の例とぞ聞えし。
S2604 平家東国発向附大臣家尊勝陀羅尼事
二月一日、征東大将軍左兵衛督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、薩摩守忠度、侍には、尾張守実康、伊勢守景綱、以上三千(さんぜん)余騎(よき)にて東国へ発向す。今日東塞、時日(有朋下P008)こそ多きに、いかゞ有べきと申者も有けれ共、今一日も源氏に勢の付増ぬさきにとて角急ぎ給けり。粟田口、山階、関山、関寺、粟津原、勢多長橋打渡、今日は野路にぞ著給ふ。二日は野州の河瀬を打渡し、篠原、堤鳴橋、鏡宿にぞ著にける。爰(ここ)に両三日逗留して、近江国の源氏等(げんじら)、山本、柏木、錦織、佐々木の一族打従へて美濃国赤坂に著。当国の凶徒等打従て、五千(ごせん)余騎(よき)にて尾張国墨俣川に著と聞えけり。十郎蔵人行家は、美濃国板倉と云所に楯籠たりけるを、平家推寄て、後の山より火を懸て責ければ、行家爰を被(レ)落て、同国中原と云所に陣を取、其(その)勢(せい)千余騎(よき)には不(レ)過けり。同七日大臣已下の家々にて、尊勝陀羅尼不動明王(ふどうみやうわう)を可(二)奉(レ)書供養(一)之由被(二)仰下(一)、兵乱の御祈(おんいのり)とぞ聞えし。此外諸寺の御読経、諸社の奉弊、大法秘法数を尽て被(レ)行けれ共、源氏は唯責に攻上ると聞えて、平家の祈祷其験有とも不(レ)見。理や万乗の聖主を奉(レ)悩、諸寺の仏法(ぶつぽふ)を亡しぬれば、冥の罰、天の責、争か遁べき、兎にも角にも、唯人苦きより外の事なしとぞ申ける。
S2605 義基法師首渡事
同九日、武蔵権頭源氏義基法師が首、同子息石川判官代(はんぐわんだい)義兼生捕、検非違使(けんびゐし)実俊判官、七条川原(有朋下P009)にて武士の手より請取て、東洞院(ひがしのとうゐん)の大路を渡して、頭をば獄門の左の樗木に懸、虜をば被(二)禁獄(一)。馬車街衢に
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充満て、見人幾千万と云事を知ず。此義基法師と云は、故陸奥守義家(よしいへ)が孫、五郎兵衛尉義光子、河内国石川郡の住人(ぢゆうにん)也。兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)に同意の聞え有て、骸を獄門に被(レ)掛けり。今高倉院(たかくらのゐん)崩御(ほうぎよ)、諒闇(りやうあん)の年に首を被(レ)渡事、如何が有べきと沙汰有けれ共、諒闇(りやうあん)の年賊衆の首を被(レ)渡事、去嘉承二年七月十九日、堀川(ほりかは)天皇(てんわう)隠れさせ給(たま)ひしに、同三年正月廿九日に、対馬守源(みなもとの)義親〈 義家(よしいへ)一男 〉頸を被(レ)渡例とぞ聞えし。
S2606 知盛所労上洛事
同(おなじき)十二日に、征東将軍左兵衛督知盛卿、所労重て墨俣より上洛す。是は近江国小野宿を立、醒井に著給(たま)ひける時、比良高根の残雪、余寒烈き折節(をりふし)に、伊吹岳の山おろし、身に入かと覚えけるより、心地例ならずとて、道すがら労て、是までは下給たれ共、如何にも難(レ)叶して被(レ)上ければ、副将軍の左少将清経朝臣も、同被(二)入洛(一)けり。其外の人々は猶美濃国に留る。討手の使は度々被(レ)下けれ共、はかばかしき事もなくて、角のみ帰上ければ、東国にも北国にも、日に随て大勢付増と披露しければ、浅猿(あさまし)き事也とて、右大将(うだいしやう)(有朋下P010)宗盛、今度は我下らんと宣(のたまひ)ければ、君の御下向あらば、東国も北国も誰かは可(二)違背(一)、ゆゝしく候なんと上下色代して、我も/\と出立ける上、或は武官に備、或弓馬に携らん輩、宗盛の下知に随て、東夷北狄を追討すべきの由、被(二)宣下(一)ければ、面々其用意あり。
S2607 宇佐公通脚力附伊予国飛脚事
同(おなじき)十三日、宇佐大郡司公通が脚力とて六波羅に著状を披に云、九国住人(ぢゆうにん)菊地次郎高直、原田大夫種直、緒方三郎惟義、臼杵、部槻、松浦党を始として、併謀叛を発し、東国の頼朝(よりとも)に与力して、西府
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の下知に不(レ)随と申たり。平家の人々手を打て、こはいかなるべきぞ、東国の乱をこそ歎て、西国(さいこく)は手武者なれば、催上て官兵に差遣さんと思ひつるに、承平に将門(まさかど)天慶に純友、東西に鼻を並て乱逆せしに、少も不(レ)違事かなとて騒ぎ迷ひ給へば、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)、是は僻事にてぞ候らん、加様の時は虚言多き事也、東国北国の輩は、誠に義仲(よしなか)頼朝(よりとも)に相従ふ事も侍るらん、西海の奴原は平家大御恩者共也、争か君をば背進すべき、貞能(さだよし)罷下て、誡鎮侍るべしと、憑もしげにぞ申ける。
同(おなじき)十六日(じふろくにち)に、近江(有朋下P011)美濃両国の凶賊等が首、七条川原にて武士の手より検非違使(けんびゐし)請取て大路を渡し、東西の獄門に被(レ)懸ければ、近国の勇士等、皆平家に随と聞えけり。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)、伊予国より飛脚ありて六波羅に著。披(レ)状云、当国の住人(ぢゆうにん)河野介通清、去年の冬の比より謀叛を発て道前道後の境、高縄の城(じやう)に引籠る、備後国住人(ぢゆうにん)額入道西寂、鞆の浦より数千艘の兵船を調て、高縄城に推寄、通清をば討取て侍しか共、四国猶不(レ)静、西寂又伊予、讃岐、阿波、土佐、四箇国を鎮が為に、正二月は猶伊予に逗留す。爰(ここ)に通清が子息に四郎通信、高縄城を遁出て安芸国へ渡て、奴田郷より三十艘の兵船を調へ、猟船の体にもてなし、忍て伊予国へ押渡、偸に西寂を伺けるをも不(レ)知、今月一日、室高砂の遊君集て船遊する処に、推寄て西寂を虜りて、高縄城に将行て八付にして、父通清が亡魂に祭たり共申。又鋸にてなぶり切に頸を切たり共申。異説雖(二)口多(一)、死亡決定也、依(レ)之(これによつて)当国には、新井武智が一族、皆河野に相従。惣じて四国住人(ぢゆうにん)、悉(ことごと)く東国に与力して、平家を奉
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(レ)背と申たり。又聞えけるは、熊野別当、田部法印堪増已下、那智新宮の衆徒、吉野十津川の輩に至まで、併背(二)花洛(一)東夷に属する由披露あり。東国北国のみに非ず、南海西海も騒動せり、仏法(ぶつぽふ)忽(たちまち)に亡ぬ、王法なきが如し、四夷蜂の如くに起けり、逆乱の瑞相頻(有朋下P012)也、我朝只今(ただいま)失なんとす、こは心憂事かなと、平家一門ならぬ貴賎までも、各歎申けり。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)、太政(だいじやう)入道(にふだう)、子息前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛を以て被(レ)奏ける、天下の御事、如(レ)本可(レ)被(二)聞召(一)(きこしめさるべき)之由、法住寺(ほふぢゆうじ)の御所に申入候けれ共、法皇は政務に口入すればこそ心憂事も辛目をも見聞すれ、よしなしとて聞召入(きこしめしいれ)させ給はざりければ、底いぶせくぞ思ひ給(たま)ひける。
同(おなじき)十九日、東国北国の賊衆、頼朝(よりとも)義仲(よしなか)与力同心の凶徒等可(二)征伐(一)之由、宣旨を以て、越後国住人(ぢゆうにん)余五将軍が末葉、城太郎平資永と、陸奥国住人(ぢゆうにん)藤原秀衡と、此両人が本へ被(二)下遣(一)けり。
S2608 入道得病附平家可(レ)亡夢事
同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)に、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、数万騎の勢を引率して、頼朝(よりとも)以下の凶徒を追討の為に、関東へ下給ふべきにて出立給(たま)ひける程(ほど)に、太政(だいじやう)入道(にふだう)不(レ)例心地出来給へりとて留り給(たま)ひぬ。二十八日(にじふはちにち)に、入道重病を受給たりとて、六波羅京中物騒し。馬車馳違、僧も俗も往還、種々の祈祷を被(レ)始、家々の医師薬を勧めけれ共、病付給ける日よりして、湯水をだにも喉へも入給はず、身の中の燃焦ける事は、火に入が如し。臥給へる二三間へは人近付(有朋下P013)よる事なし。余にあつく難(レ)堪かりければ也。叫び給(たま)ひける言とては、只あた/\と計也。此声門外まで響ておびたゞし。直事とも不(レ)覚、貴も賤も、あはしつるぞ
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や、さ見つる事よ/\とぞ申ける。今度もし存命あらば、如何に本意なかりなんと云者も、内々は有けるとかや。又人の私語(ささやき)けるは、哀同は今度存命して、東国北国の源氏に被(二)責殺(一)給はんを見ばやなんどと云ける也。よく人には悪まれ給たりけるにこそ、され共偕老の眤、骨肉の情なれば、二位殿(にゐどの)を奉(レ)始て、公達兄弟に至るまで、大に歎給(たま)ひけれ共、如何にすべき様もなければ、唯あきれてぞ御座(おはしまし)ける。牛馬の類金銀の宝、七珍六畜引出し取運び、神社仏寺に抛けれ共、重くは成て少も験なし、誠に難(レ)遁定業とぞ見えける。
養和元年〈 改元七月十四日也 〉、閏二月二日、熱く難(レ)堪おぼしけれ共、二位殿(にゐどの)枕の本に居寄給(たまひ)て、泣々宣(のたまひ)けるは、御労日々に随て、憑み少なく見え給ふ。神に祈仏に申事も不(レ)斜(なのめならず)、立ぬ願もなけれ共、いかにも可(レ)叶とも覚えず。今は偏(ひとへ)に万の事を思ひ捨給(たま)ひて、後の世の事を助からんと思召(おぼしめ)せ、又御心に懸る事あらば、被(二)仰置(一)候へと宣へば、入道よに苦気にて大息つき、我平治元年より以来、天下を手に把て万事心の儘也、諍者もなく、憚処もなし、適背輩あれば、時日を不(レ)回亡し失しかば、草木も我に靡かずと云事なし、(有朋下P014)挿絵(有朋下P015)挿絵(有朋下P016)角て既(すで)に二十三年、就(レ)中(なかんづく)官位太政大臣(だいじやうだいじん)に上りて、十善万乗の帝祖たり、子孫兄弟栄花を開て、同当今の御外戚也、官職福禄何事かは心に不(レ)叶事ありし、生ある者は必死する習なれば、入道一人始て驚べき事ならず、但遺恨の事とては、頼朝(よりとも)が首を不(レ)見して死る計こそ口惜けれ、冥途の旅も安く過ぬとも覚えず、我いかにも成なば、堂塔をも不(レ)可(レ)造、仏経をも供養せず、唯頼朝(よりとも)が頸を切て、
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墓の上に掛よ、其のみぞ孝養の報恩ともなり、草の陰にても嬉しとは思はんずる、されば我を我と思はん者共は、子孫も侍も聞伝て、心を一つにして努々懈る事なかれとぞ遺言(ゆいごん)し給(たま)ひける。二位殿(にゐどの)も公達も、いとゞ罪深く聞給ふ。四日、入道弥病に責伏られ給へり。燃焦て難(レ)堪と宣(のたまひ)ければ、百人(ひやくにん)の夫を立て、追続々々、比叡山(ひえいさん)の千手院より水を結び下して、石の船に湛て、入道其中に入て冷給けるに、水は涌返りて湯になれ共、更に苦痛は止ざりけり。後には板に水を任せて、伏まろびて冷給へ共、猶助かる心地し給はず、療治(りやうぢ)も術道も験を失、仏神の祈誓も空が如し。終に七箇日と申に、悶絶僻地して、周章(あわて)死に失給き。馬車馳違貴賎■(ののしり)騒て、京中六波羅塵灰を立たり。一天の君の御事也共、隠しもや有べき。夥(おびたた)しなど云も不(レ)斜(なのめならず)。
入道今年は六十四に成給ふ。老死と云べきには非ず、七八十までも生人有ぞかし。され共宿運(有朋下P017)忽(たちまち)に尽、天の責難(レ)遁して、立る願も空く祈る験もなし。身に代り命に代らんと契ける数万騎の兵も、冥途無常の責をば難(レ)防。閻王奪魂の使には戦者もなし。父母、兄弟、及妻子、朋友、僮僕、並珍宝死、去無(二)二来(一)、相親唯有(二)黒業(一)、常随逐と説れたり。冥々たる旅の道、峨々たる剣の山、妻子眷属振捨、只一人こそ迷らめ。金銅十六丈の盧遮那仏(るしやなぶつ)を奉(レ)始て、南北二京の大伽藍、顕密大小の諸聖教、焼失し其故に、角亡給(たま)ひけり。後の世の苦患も、思ひやられて無慙なり。
入道明日病つき給はんとての夜、其内の女房の夢に見けるは、立ふぢ打たる八葉の車に、炎夥(おびたたし)く燃
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上中に、無と云字只一つ書たる鉄の札あり。青鬼と赤鬼と先に立て、彼車を福原の入道の宿所の東の門へ引入たり。女房の夢の心地に、あれはいくとこより、何事に来れる者ぞと問へば、鬼答て云、我等(われら)は閻魔大王の御使に獄卒と云者也。聖武皇帝御願(ごぐわん)、日本(につぽん)第一の大伽藍、金銅十六丈の盧遮那仏(るしやなぶつ)焼亡し給へる咎に、太政(だいじやう)入道(にふだう)迎取べき火車也と申。女房恐し浅増(あさまし)と思ひながら、さてあの鉄の札に、無と云文字書たるは何事ぞと問へば、鬼答て云、入道仏像経巻を焼失て、既五逆罪を犯せり、永く阿鼻大地獄に墜て無間の重苦を受べき、無間の無の験の札也と申と見て覚にけり。さめて後も猶夢の心地せり。偏身に熱き汗流れてうつゝ(有朋下P018)心なし、恐しなどは疎也。かたへの女房一両人にぞ語ける。其後彼女房、心地例ならずとて、日比(ひごろ)悩て二七日と云ふに死にけり。
又奈良坂に火懸たりし播磨国福井庄の下司俊方は、南都の軍果て都に上り、三箇日が中に、炎身を責と叫て死にけり。入道の病に少も不(レ)替けり。
正月には、高倉院(たかくらのゐん)隠れさせ給(たまひ)て、一天の愁九重の歎いまだ晴ず。悪事は去事なれ共、僅(わづか)に中一月を阻て入道薨給へり。生者必滅の理り、打連き哀也。
同七日六波羅にて焼上奉る。骨をば円実法橋頸に掛て福原へ下て納けり。さしも執し思はれし所なれば、亡魂も悦給へかしとて、角計ひけるにこそ。
S2609 御所侍酒盛事
七日入道焼上奉りける夜、六波羅の南にありて舞躍る者あり。嬉しや水鳴滝の水と云拍子を出し
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て、二三十人が音して拍子をとり喚叫、はと笑、どと笑などしけり。高倉院(たかくらのゐん)隠させ給(たま)ひて天下諒闇(りやうあん)也。御中陰(ごちゆういん)も未はれさせ給はぬに、又太政(だいじやう)入道(にふだう)失給ぬ。而も今夜已(すで)に六波羅にて火葬の最中に、懸る音のしければ、人倫の態とは覚えず、天狗などの所行にやと思ひける程(ほど)に、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の御所侍、東の釣殿に人を集めて酒飲けるが、酔狂て(有朋下P019)角舞踊りける也。主馬入道盛国(もりくに)が子に、越中前司盛俊行向て、御所預基宗に相尋ければ、御所侍が結構(けつこう)也と申間、盛俊御所侍二人を搦捕て、前(さきの)右大将(うだいしやう)の許へ将て参て、子細を被(二)召問(一)。答けるは、相知て候者あまた出来て、世中の墓なき事、今に始めぬ事なれ共、天下の重しにて御座(おはしま)しつる入道殿(にふだうどの)の隠れさせ給ぬる哀さよと、互に歎き訪進せつる間、聊酒を儲て、忍やかにすゝめ侍つる程(ほど)に、酒の習、後には物狂しき心出来てしか/゛\と申ければ、入道の弔、当座の会釈と覚えたり。如(レ)是輩中々兎角云に及ばずとて被(二)追放(一)けり。縦酔たり共、此折節(をりふし)には角やは有べき、天狗の所為にこそ不思議也。抑人の死する跡には、浅増(あさまし)き賤男賤女までも、程々に随香花燈明を備へ、例時懺法行て、亡魂の菩提を弔ふは尋常の事ぞかし。是は仏経供養の作法もなく、供仏施僧の営なし。さこそ遺言(ゆいごん)ならんからに、うたてかりし事也。
S2610 蓬壺焼失事
六日八条殿も焼ぬ。此所をば八条殿の蓬壺とぞ申ける。蓬壺とはよもぎがつぼと書けり。入道蓬を愛して、坪の内を一しつらひて蓬を植、朝夕是を見給へ共、猶不(二)飽足(一)ぞおぼし(有朋下P020)ける。されば不(レ)斜(なのめならず)造り瑩れて、殊に執し思ひ給ければ、常は此蓬壺にぞ御座(おはしまし)ける。人の家焼は習なれ共、折節(をりふし)こそあれ、如何なる者の付たりけるやらん、放火
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とぞ聞えける。八条の亭には、謀叛輩打入て火を懸たりと云ければ、京中地を返し、上下心を迷す事夥(おびたた)し。実ならばいかゞせん、何者(なにもの)が云出したりけるやらん、虚言にぞ在ける。よし天狗もあれ、悪霊も強して、平家の運の尽なんずるにこそと覚えたれ。
S2611 馬尾鼠巣例并(ならびに)福原怪異事
此入道の世の末に成て、家に様々のさとし有き。坪の内に秘蔵して立飼れける馬の尾に鼠の巣を食て、子を生たりけるぞ不思議なる。舎人数多付て、朝夕に撫仏ける馬の、一夜の中に巣を食、子を生けるも難(レ)有。入道(にふだう)相国(しやうこく)大に驚給ふに、陰陽頭安部泰親被(二)尋問(一)ければ、占文のさす処、重き慎とばかり申て、其故をば不(レ)申けり。内々人に語けるは、平家滅亡の瑞相既(すで)に顕たり、近くは入道の薨去、遠は平家都に安堵すべからず、如何にと云に、子は北の方也、馬は南の方也、鼠上るまじき上に昇る、馬侵るまじき鼠に巣を作らせ、子を生せたり、既(すで)に下尅上せり、されば子の北の方より夷競上りて、馬の南の(有朋下P021)方におはする平家の卿上(けいしやう)を、都の外に追落すべき瑞相とこそ申けれ。され共入道の威に恐て只重き御慎(おんつつしみ)と計申たりければ、まづ陰陽師七人まで様々祓せられけり。又諸寺諸山にして御祈共始行あり。件馬は、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)大場三郎景親が、東八箇国第一の馬とて進たり。黒き馬の太逞が、額月の大さ白かりければ、名をば望月とぞ申ける。秘蔵せられたりけれ共、重き慎と云恐しさに、此馬をば泰親にぞ給びける。
 < 昔天智天皇(てんわう)元年壬戌四月に、寮の御馬の尾に、鼠巣を造子を生けり。御占あり、重き慎と申けり。さればにや世の騒も不(レ)斜(なのめならず)、御門も程なく隠させ給(たま)ひにけり。日本記に見えたり。
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異国には前漢の成帝の御宇(ぎよう)、建始三年九月に、長安城の南に木あり、鼠彼木に登て巣をくひ子を生き。さればにや、成帝程なく亡給にけり。思寄ざる処に、鼠の巣くひ子生事は、其家の可(レ)亡怪異也。>
又入道福原に御座(おはしまし)ける時、常の御所と名付たる坪の内を、まだ朝に見出して御座(おはしま)しければ、人の首の、いくらと云数もしらず充満、上になり下に成、ころび合ころびのきしけるを怪と思ひて見給(たま)ひければ、後にはあまたの首が唯一つに固て、坪にはゞかる程の大頸にて、長三尺計なる眼の四五十有て、而も逆なるを以て、入道をはたと睨たり。入道も亦面を振ず、二の眼を以て一時がほど、目たゝきもせず、睨給(たま)ひけれ(有朋下P022)ば、余に守られて、其首次第々々に少成て、霜雪の消失が如く成ぬれば、又一丈計の長に、少首に成て細目にて睨時も有けり。去共終には入道に睨失はれけり。推するに、保元平治の逆乱に討れし死霊の所為とぞ覚えたる。
又五葉の松を坪の内に植生立、朝夕愛し給けるが、片時の間に枯れにけるこそ不思議の中の不思議なれ。又入道の禿とて、髪を眉まはりより切たる童を、三百人(さんびやくにん)まで召仕給(たま)ひける中に、天狗交りて常に大木を倒す音しければ、夜六人昼六人の兵士を居て、蟇目の番とて射させらるゝ。天狗のある方へ射遣たる時は音もせず、なき方を射たるには、時を造る様にとゞめき叫び笑ひけり。恐しと云も疎也。常には苔むして、ぬれ/\とある大なる飛礫を以て、若は庭上若は簾中などへ抛入けり。懸るさとし共も多して、入道最後の有様(ありさま)も尋常ならず、うたてくぞ終り給(たま)ひける。去共直人におはせざりけるや
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らん、神祇を敬ひ仏法(ぶつぽふ)を崇給し事も、人には勝れ給へり。
S2612 入道非(二)直人(一)附慈心坊得(二)閻魔請(一)事
一年日吉社へ被(レ)参けるにも、上達部殿上人(てんじやうびと)、数多遣連などして、一の人の賀茂春日など(有朋下P023)へ御参詣あらんも、加程の事はあらじとぞ覚えし。社頭にして、千人(せんにん)の持経者を請じて供養あり。社々に神馬を引れ、色々の神宝を奉らる。七社(しちしや)権現納受(なふじゆ)して、緋玉墻色を添、一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の音澄て、和光(わくわう)の影も長閑也。ゆゝしく目出かりし事共也。
又福原の経島築れたりし事、直人のわざとは覚えず。彼島をば、阿波民部大輔成良が承て、承安二年〈 癸巳 〉歳築初たりしを、次年南風忽(たちまち)に起て白浪頻(しきり)に扣かば、打破られたりけるを、入道倩此事を案じて、人力及難し、海竜王(かいりゆうわう)を可(レ)奉(レ)宥とて、白馬に白鞍を置、童を一人乗て、人柱をぞ被(レ)入ける。其上又法施を手向可(レ)奉とて、石面に一切経を書写して、其石を以て築たりけり。誠に竜神(りゆうじん)納受(なふじゆ)有けるにや、其後は恙なし。さてこそ此島をば経島とは名付たれ。上下往来の船の恐なく、国家の御宝、末代の規模也。唐国の帝王まで聞え給つゝ、日本(につぽん)輪田の平親王と呼て、諸の珍宝を被(レ)送。帝皇へだにも不(レ)参に、難(レ)有面目なりき。
又福原にて、千僧供養あり。京中辺土、畿内近国を云ず、聞及挙し申に随て、貴き持経者千人(せんにん)を請じて、一千部の法華経(ほけきやう)を転読して、大法会を行給けり。僧供の営み施物の煩、忠を尽し美を調へたり。其上聴聞集来の人、乞丐非人の族までも、大施行をぞ被(レ)引ける。信心の至りと申ながら、
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実の大功徳と覚えたり。殆権化の所為と云つべし。
 摂津(有朋下P024)国清澄寺に、慈心坊とて貴き法華の持経者有き。去承安二年十二月廿二日に、閻魔王宮より浄衣装束の雑色を使にて、請書を送らるゝ状に云、
   屈請 十万人持経者内
 摂津国(つのくに)清澄寺住僧尊恵慈心坊
 右来廿六日(にじふろくにち)早旦、閻魔羅城大極殿(だいこくでん)、可(レ)被(二)来集(一)、依(二)宣旨(一)、屈請如(レ)件。
     承安二年〈 壬辰 〉十二月廿二日、〈 丙辰丑時 〉閻魔庁と被(レ)書たり。尊恵閻書披見の後、領状の返事して、偏(ひとへ)に死去の思ひをなし、口に弥陀の名号を唱へ、心に引摂の悲願を念ず。既(すで)に廿六日(にじふろくにち)に至て、睡眠に被(レ)催て住房に臥す。前の雑色出来て早参せよとすゝむ。時に二人の童子、二人の従僧、十人の下僧、七宝の大車化現して、尊恵自然の法衣身に纏へり。即車にのれば、従僧等西北方に向て、空を飛で閻魔羅城に至る。外廊眇々として其内広々也。其中央に七宝所成の大極殿(だいこくでん)あり。大極殿(だいこくでん)の四面、中門の廊に、各十人の冥官有て、十万人の持経者を配分して、各一面に著座せしむ。講師読師高座に上り、余僧法用して十万人大行道す。行道已後、開白説法して十万僧読経す。其声冥界に充満て、其益罪垢を洗ぬべし。大王玉座に坐し、冥衆階下に(有朋下P025)列して聴聞あり。獄囚は湯鑵を出て、罪人伽鎖をゆるされたり。転読既(すで)に終て十万僧供養をのぶ。供養又終て諸僧本国に帰る。
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慈心坊千部の法華を冥衆に勧進の為に、暫残留て閻魔王と問答の次に申しけるは、日本(につぽん)の将軍、太政入臣入道清盛(きよもり)、摂津国(つのくに)和田御崎にして、千僧の持経者を請じて丁寧の読経説法侍りき。殆今日の十万僧会(じふまんぞうゑ)の如くなりきと奏したりければ、閻魔王随喜感悦して言く、我彼千僧読経の時は、影向衆として聴聞しき。清盛(きよもり)入道は直人に非ず、慈恵僧正(そうじやう)の化身也。故に我毎日に三度文を誦して礼を作云、
  敬礼慈恵大僧正(だいそうじやう) 天台仏法(ぶつぽふ)擁護者 示現最勝将軍身 悪業衆生同利益 K135 
汝此文を以て、彼相国入道に可(レ)進とぞ宣(のたまひ)ける。今案ずるに、慈恵僧正(そうじやう)は観音の垂跡(すいしやく)也。されば大権の化現方便を廻し、実業の衆生を利益せん為に、造罪招苦の旨を示し、盛者必衰の理を顕し給にやと覚えたり。
S2613 祇園女御事
古人の申けるは、清盛(きよもり)は忠盛が子には非、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の御子也。其故は、彼帝感神院を信じ御座(おはしまし)て、常に御幸ぞ有ける。或(ある)時(とき)祇園の西大門の大路に、小家の女の怪が、水汲桶を戴(有朋下P026)て、麻の狭衣のつまを挙つゝ、幹に桶を居置て御幸を奉(レ)拝。帝御目に懸る御事有ければ、還御の後、彼女を宮中に被(レ)召て、常に玉体に近づき進せけり。祇園社の巽に当て、御所を造て被(レ)居たり。公卿殿上人(てんじやうびと)、重き人に奉(レ)思て、祇園女御とぞ申ける。角て年比を経る程(ほど)に、小夜深人定て御つれ/゛\に思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)て、祇園の女御へ御幸あり。忍の御幸の習にて、供奉の人々も数少し。忠盛北面にて御供あり。比は五月
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廿日余(あまり)の事なれば、大方の空もいぶせきに、五月雨時々かきくらし、暁懸たる月影も、未雲井に不(レ)出けり。最御心細き折節(をりふし)に、祇園林の南門、鳥居の芝草の西に当て、光物こそ見えたりけれ。或(ある)時(とき)はざとひかり、光ては消、消ては又ざと光、光に付て其姿を叡覧あれば、頭は、銀の針の如くにきらめきたる髪生下生上れり。右の手には鎚の様なる物を持、左の手には光物を持て、とばかり有てはざと光、暫く有ては、ばと光、院も御心を迷し、供奉の人々も魂を消て、是は疑もなき鬼にこそ、手に持たる物は聞ゆる打出の小鎚なめり、髪の生様穴恐し/\とて、御車を大路に止て忠盛を召る。忠盛御前に参たり。あの光物を取て進せよと勅定あり。忠盛は、弓矢取身の運の尽とは加様の事にや、よそに見るだに肝魂を消鬼を手取にせん事難(レ)叶、身近く寄て取はづしなば、只今(ただいま)鬼に嚼食ん事疑(有朋下P027)なし。遠矢にまれ射殺さんと思て、矢をはげ弓を引けるが、指はづして案じけるは、縦鬼神にもあれ、勅定限あり、王事無(レ)脆、宣旨の下に資くべきに非ず、況よも実の鬼にはあらじ、祇園林の古狐などが、夜更て人を誑にこそ在らめ、無念にいかゞ射殺べき、近づき寄て伺はんと思返して、青狩衣に上くゝり、下に萌黄の腹巻に、細身造の太刀帯て、葦毛の馬にぞ乗たりける。駒をはやめて歩より、太刀を脱て額に当て、次第々々に伺寄る処に、足本近く馬の前にぞざと光。忠盛馬より飛下、太刀をば捨て得たりやおうとぞ懐たる。手捕にとられて、御誤候なと云音を聞ば人也。己は何者(なにもの)ぞと問へば、是は当社の承仕法師にて侍が、御幸ならせ給の由承候間、社頭に御燈進せんとて
P0634
参也と答。続松を出して見れば実に七十計の法師也。雨降ければ、頭には小麦の藁を戴、右の手に小瓶を持て、左の手〔に〕土器に■(もえぐひ)を入て持て、■(もえぐひ)をけさじと吹時はざと光、光時は小麦の藁が耀合て、銀の針の如くに見えける也。事の様一々に顕て、さしも懼恐れつる心に、いつの間にか替けん、今は皆咲つぼの会也けり。是を若切も殺射も殺たらば不便の事ならまし。弓矢取身は流石(さすが)思慮ありとて、忠盛御感に預る。今蓮華院と申は、彼祇園女御の御所の跡也けり。(有朋下P028)
S2614 忠盛婦人事
又忠盛、殿上の御番勤けるに、小夜深て高燈台の火の夙暗程(ほど)に、一人の女房忍て殿上口を通りけり。忠盛暫く袖を引へたり。女咎めずして一首をよむ。
  おぼつかな誰杣山の人ぞとよこのくれにひく主をしらずや K136
忠盛こは如何にと思ひて返事、
  雲間より忠盛きぬる月なればおぼろげにてはいはじとぞ思ふ K137
と申て、其後女の袖をはづす。此女房と申は、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の局とて、美形厳く心の情深かりければ、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の類なく被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける上搶蘭[也。御前の召によりて参ける折節(をりふし)、忠盛争か知べきなれば袖を引へたりけり。女房御前に参て角と被(レ)申たり。さては忠盛にこそとて明旦被(レ)召たり。召に依て御前に参ず。勅定に、今夜朕が許へ参る女の袖を引へたりけるなん御尋(おんたづね)あり。忠盛こは浅増(あさまし)と色を失て、面を地に傾けて、禁獄流罪にもやとて、汗水に成て御返事(おんへんじ)に及ばず、畏入て候。重ての
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仰に、女歌を読たりければ、汝歌を以て返事申たりけるとなん、一日なり共竜顔に近づき参らん女を引へん事、其罪浅から(有朋下P029)ず、況此女は朕しめ思召(おぼしめし)て御志深し、御計ひも有べき事なれ共、優に歌を以て返事申たれば、感じ思召(おぼしめす)とて、即兵衛佐(ひやうゑのすけ)局を御前に召出され、一樹の陰一河の流と云事もあり、被(レ)引ける局も、引ける忠盛も、然べき契にこそとて、女を汝に給ふ、但懐妊して五月に成と被(二)聞召(一)(きこしめさる)、男子ならば汝が子として弓馬の家を継せよ、女子ならば朕に返進せよとて被(レ)下けり。忠盛大に畏り、女の袖を引て罷出ぬ。歌をば人の読習べき事也けり。只当座の罪を遁るゝのみに非ず、剰希代の面目を施す、君の明徳、歌道の情、簾中階下感涙を流しけり。是も誠に二世の契にや、愛念類なくして月日を重し程(ほど)に、其期も満にければ、産平にして男子を生、悦こと不(レ)斜(なのめならず)。此子生より夜泣する事不(レ)懈。忠盛大に歎けり。我実子ならば里へも放度思ひけれども、勅定を蒙りし上は疎ならず、如何せんと案じて、熊野山に参て祈申けり。証誠殿の御殿の戸を推開き、御託宣(ごたくせん)とおぼしくて一首の歌あり。
  夜泣すと忠盛たてよみどり子は清くさかふる事もこそあれ K138
と、悦の道に成て、黒目に付たりければ、夜泣ははや止にけり。権現の御利生にや、末憑もしく覚えて生立はごくまんとす。此子三歳の時、保安元年の秋、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)熊野御参詣あり、忠盛北面にて供奉せり。糸鹿山を越給(たま)ひけるに、道の傍に蕷薯絃枝に懸り、零余(有朋下P030)子玉を連て生下、いと面白く叡覧あり
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ければ、忠盛を召てあの枝折て進せよと仰す。忠盛零余子の枝を折進するとて、仰下し給(たま)ひし女房、平産して男子也、をのこごならば汝が子とせよと勅定を蒙りき。年を経ぬれば、若思召(おぼしめし)忘給ふ御事もや、次を以て驚奏せんと思ひて、一句の連歌を仕る。
  這程(ほど)にいもがぬか子もなりにけり
是を捧たり。白川院【*白河院】(しらかはのゐん)打うなづかせ御座(おはしま)して、
  忠盛とりてやしなひにせよ K139
と付させ御座(おはしまし)けり。思召(おぼしめし)忘させ給はぬにこそと悦思ひける処に、還御の後、三歳と申冬、冠給(たまひ)て、熊野権現の御託宣(ごたくせん)なればとて清盛(きよもり)と名く。忠盛顕ては云はざりけれ共、内々は重くもてなす。白川院【*白河院】(しらかはのゐん)も猿事と思召(おぼしめし)はなたせ給はず、十二の歳左衛門尉(さゑもんのじよう)になされ、十八にて四位(しゐ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)にあがる。花族の人などこそ角はと、人々傾申けるを、鳥羽院(とばのゐん)聞召(きこしめし)て、清盛(きよもり)も花族は人におとらずもやと仰けり。君も被(二)知召(一)たりけるにこそ。白川院【*白河院】(しらかはのゐんの)御子と申せば、清盛(きよもり)は鳥羽院(とばのゐん)には恐らくは御叔父なるべし。忠盛備前守にて、国より都へ上たりけるに、院より御使ありて、摂津国(つのくに)や難波潟、明石の浦の月はいかにか(有朋下P031)有と御尋(おんたづね)有ければ、御返事(おんへんじ)に、
  有明の月も明石の浦風に波計こそよると見えしか K140
と申たり。御感有て金葉集に被(レ)入けり。懸る人にて、歌をよみ懐妊の女房を給(たまひ)て、皇子を我子としける
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也。さてこそ太政(だいじやう)入道(にふだう)も、少し去事と知給(たま)ひければ、弥悪行をばし給(たま)ひけり。誠にも然べき事にや、一天四海を掌に握り、君をもなみし奉り、臣をも誡つつ、始終こそなけれ共、都遷迄もし給けめ。
S2615 天智懐妊女賜(二)大織冠(一)事
昔天智天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、懐妊し給へる女院を、大織冠に給(たま)ひつゝ、此女御の生たらん子、女子ならば朕が子とせん、男子ならば臣が子とすべしと仰けるに、皇子にて御座(おはしまし)ければ我子とす、即定恵是也。此ためしに不(レ)違と申けり。
 < 或説に云、忠盛若きより、祇園女御に候ける中搶蘭[に忍合けり。或(ある)時(とき)彼女房の局に、月出したる扇を忘て出たるを、かたへの女房達(にようばうたち)、是はいづくより指出たる月影ぞや、出所覚束(おぼつか)なしと笑けるに、女房おもはゆげにもてなして、(有朋下P032)
  雲間より忠盛きぬる月なれば朧げにてはいはじとぞ思ふ K141
と読みたりければ、笑ける女房達(にようばうたち)興醒てこそ思ひけれ。似るを友の風情に、忠盛もすいたりば此女房も優なりと申しけり。>
閏二月六日、宗盛卿(むねもりのきやう)院の御所へ被(レ)奏けるは、入道(にふだう)相国(しやうこく)既(すで)に薨去し候ぬ。御政務(ごせいむ)御計ひたるべきの由依(レ)被(レ)申、院殿上に兵乱の事議定あり。
八日院庁の御下文を以て、東海、南海、西海道へ被(二)下遣(一)。頼朝(よりとも)追討のためには、本三位中将重衡を大将軍に定仰らる。西国(さいこく)をしづめん為には、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)を被(二)差下(一)ける上に、院の庁官を被(レ)副けり。河野四郎通信を追討の為には、召次を以て伊予国へ被(レ)下けり。
S2616 平家東国発向并(ならびに)邦綱卿(くにつなのきやう)薨去同思慮賢事
同(おなじき)十五日、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡、権亮少将維盛、数万騎の軍兵を相催して、東国へ発向す。前後の追討使、
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美濃国に集会して、既(すで)に二万(にまん)余騎(よき)に及べり。太政(だいじやう)入道(にふだう)失給(たまひ)て今日は十二日、さこそ遺言(ゆいごん)ならんからに、孝養追善の報恩もなく、仏経供養の営を忘て、戦場に赴給ふ事不思議也。
同廿三日に重衡の舅、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)失給(たま)ひにけり。太政(だいじやう)入道(にふだう)と契深く(有朋下P033)志浅からざりし人也。彼大納言(だいなごん)と申は、兼輔中納言より八代の末、式部大輔盛綱が孫前(さきの)右馬助(うまのすけ)盛国(もりくに)が子也。二三代は蔵人にだにもならざりけるに、此邦綱(くにつな)進士の雑色の時、近衛院の御時、去久安四年正月七日、家を興して蔵人になり、次第に昇進して、中宮の宮司までは、法性寺殿の御推挙にて、太政(だいじやう)入道(にふだう)に取入、大小事宮仕つゝ、毎日に何者(なにもの)か必一種を進せければ、現世の得意此人に過たる者あるまじとて、子息一人、入道の子にして元服(げんぶく)せさせ、清邦と名付て侍従に被(レ)成けり。又三位中将重衡を聟に成てければ、後には中将、内の御乳人(おんめのと)に成給にしかば、北方をば御乳母(おんめのと)とて、大納言佐(だいなごんのすけ)とぞ申ける。邦綱(くにつな)は蔵人頭(くらんどのとう)宰相、中納言、春宮(とうぐうの)大夫、兼官兼職を経て、終に正二位(しやうにゐの)大納言(だいなごん)に至り給(たま)ひけり。此邦綱卿(くにつなのきやう)は心広き人にて、貴賎を云ず親疎をわかず、人の大事を訪ひ、歎申事を叶給(たま)ひければ、人望も勝てぞ御座(おはしまし)ける。何事も一処の御家領の事、被(二)計申(一)ける、目出(めでた)き事也ける。此人の母は、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に志ぞ運奉て、我子の邦綱(くにつな)に、一日成共蔵人を経させ給はんと祈申けるに、夢に賀茂社の神人、檳榔毛の車を将て来て、我家の車宿に立と見たりけるを、不(レ)得(レ)心思ひて、物知たりける人に語ければ、公卿の北方にこそ成給はんずらめと合せたり。母思ひけるは、我身年闌たり、今更夫すべきに非、さては妄想にやとて(有朋下P034)過し
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ける程(ほど)に、子息の邦綱(くにつな)、蔵人は事も疎也、夕郎貫首を経て正二位(しやうにゐの)大納言(だいなごん)に至り給へり。是偏(ひとへ)に母、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に志運給(たま)ひける故也。又入道の角去難く被(レ)思けるも、神明の御利生とぞ申ける。
近衛院御宇(ぎよう)仁平元年六月七日、四条内裏に焼亡あり、関白(くわんばく)の亭に行幸なるべきにて、主上南殿に出御在けれ共、折節(をりふし)近衛司一人も不(レ)参、御輿の沙汰仕人もなければ、いかなるべし共思召(おぼしめし)分ず、あきれて渡らせ御座(おはしまし)けるに、此邦綱(くにつな)蔵人処の雑色にておはしけるが、急参て、加様の俄の事には腰輿にこそ被(レ)召候へと奏して、舁出して進たりければ、主上召れて出御なる。角申は何者(なにもの)ぞと御尋(おんたづ)ね有ければ、蔵人処雑色藤原邦綱(くにつな)とぞ申ける。下揩ネれ共、賢々敷者哉と思召(おぼしめし)て、法性寺殿御参内(ごさんだい)の次でに、御感の御物語(おんものがたり)ありければ、法性寺殿もことさら不便に召仕て、御領数多給などして、家中たのしくてぞ御座(おはしまし)ける。同帝御宇(ぎよう)八月十七日(じふしちにち)、八幡行幸有て、臨時の御神楽有べかりけるに、人長付生が淀河に落入て、ぬれ鼠の如くにして、片方に隠居て御神楽に参らず。理也、只一具持たりつる装束は水に落してぬらしぬ。可(二)取替(一)具足はなし、既(すで)に神事の違乱に及けり。此邦綱(くにつな)は殿下の御伴に候はれけるが、人長の装束を取出して進せたり。人長是を著て被(レ)行にけり。時に取てゆゝしき高名也。心賢き人々也ければ、如何なる(有朋下P035)事もあらん時にはとて、御神事の具足を悉(ことごと)く調て随身有けりとぞ後には聞えし。さればこそ彼人長が装束をも被(二)取出(一)けめ。惣じて奉公には忠を存民を撫、憐深く御座れば、殿下も私に召仕ては位を盗む咎ありとて、後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)に被(二)挙申(一)て、中宮亮まで被(レ)成たりけるが、法性寺殿隠
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させ給(たま)ひて後は、入道(にふだう)相国(しやうこく)を打憑み、其吹挙にて蔵人頭(くらんどのとう)にも被(レ)成き。次第の昇進滞らず、官位福禄相兼給へり。治承四年十一月に、福原にて殿上の五節の宴酔の夜、雲客(うんかく)后宮の御方へ推参ありける公卿、竹斑湘浦と云朗詠を被(レ)出たりけり。邦綱卿(くにつなのきやう)聞給(たま)ひて取敢(とりあへ)ず、穴浅猿(あさまし)、是は禁忌とこそ承れ、斯る事を聞とも聞かじとて抜足して被(レ)逃けり。此朗詠の心は、昔大国に堯王と申賢き帝御座(おはしまし)き。二人御娘あり。姉をば娥皇と云、妹をば女英と名く。金屋に育て玉台に成(レ)人給へる、時に賎き盲目の子に舜と云者あり。孝養報恩の志深して、父が盲を開しかば、堯王叡感有て、舜を以て二人の姫宮に聟取し給(たま)ひて、即位を譲給へり、舜王と申は是也けり。舜王隠れ給(たま)ひて、湘浦と云南に、蒼梧と云野に奉(レ)納たりければ、二人の后歎悲み給(たま)ひけるあまり、自湘浦の岸に幸して泣給(たま)ひける血の涙竹に懸りて其色斑に染にけり。されば後に生出竹までも皆斑にぞ在ける。今の世に斑竹とて斑なる竹は、彼の湘浦の竹ひろまれる也。二人の后(有朋下P036)隠れ給(たま)ひにければ、爰(ここ)にて舜帝を歎き悲み給しかばとて、湘浦の岸にぞ奉(レ)納ける。されば后の御前にてはすまじき朗詠也ければ、邦綱卿(くにつなのきやう)も聞咎めて立給(たま)ひけり。指る文芸に携事はおはせざりけれども、耳心口賢くして、高名も度々し給、事に於て忠ありければ、君も臣も憑もしき人に思召(おぼしめし)けるに、太政(だいじやう)入道(にふだう)と後生までの契や深く御座(おはしまし)けん、同日に病付、同月に失給ぬるこそ哀なれ。抑此大納言(だいなごん)の、人長が装束を取出して高名し給たりしが如く、思懸ざる事は昔も有けり。
S2617 如無僧都(そうづ)烏帽子(えぼし)同母放(レ)亀附毛宝放(レ)亀事
寛平法皇の御時、昌泰元年十月二十日、大井河紅葉叡覧の為に御幸あり。和泉(いづみの)大納言(だいなごん)定国卿被(二)供奉(一)
P0641
〔た〕り。嵐山の山下風烈しかりけるに、定国、烏帽子(えぼし)を河へ吹入られてすべき様なかりければ、袖にて本どりをかゝへておはしける処に、如無僧都(そうづ)と申人、御幸に被(二)召具(一)たりけるが、香炉箱より烏帽子(えぼし)を取出して奉りたりけるこそ人々目を驚したる高名にては有けれ。彼如無僧都(そうづ)と申は、即此邦綱卿(くにつなのきやう)の先祖に山陰中納言と申人御座(おはしまし)けり。太宰大弐にて下給けるが、二歳になる子息をも相具して下給ふ。河尻より船に乗て海に(有朋下P037)浮て漕下り給けるに、乳母(めのと)いかゞはしたりけん、取弛て海中へ落し入る。中納言を始て周章(あわて)騒給(たま)ひけれ共、茫々たる水底、如何にすべき様もなかりけるに、二歳の子遥(はるか)の沖の波に浮て不(レ)流ければ、船を漕寄て是を見るに、大なる亀の甲にぞ乗たりける。船中に取上たれば、亀は船に向て涙を流す。中納言不思議におぼして亀に向て、汝も云べきにあらね共、此難(レ)有志言に余りありと宣(のたまひ)ければ、亀は海に入にけり。其夜夢に亀来て申けるは、此若公の御母御前、当初御宿願(ごしゆくぐわん)ありて天王寺詣の時、渡辺の橋の辺にて鵜飼亀を取つゝ、既(すで)に殺さんとせし時、哀を発て御小袖を以て買取給(たま)ひ、己れ畜生なれ共此志を思知、遠き守となれとて河中に放入させ給ひにき。其亀と申は即我也。生々世々に忘難思ひ奉り、折々に守奉りしか共、生死の習の悲さは、此若公を儲御座(おはしま)して去年隠させ給(たま)ひしかば、今は此少人を守進せて、夜も昼も御身近侍りつる程(ほど)に、筑紫へ御下向なれば、其までもと思ひて御船に添て下候つる程(ほど)に、継母、乳人(めのと)の女房に心を入て海に沈め奉る間、甲の上に負助奉て、昔の母御前の御恩を報じ奉也と申て、夢は覚にけり。彼二歳の少人と云は此如無僧都(そうづ)の
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事也。無きが如くして生たれば、如無僧都(そうづ)とぞ名づけたる。浄行持律にして智恵才覚身に余りたりければ、帝も重く敬て御身を放れず、大井河(有朋下P038)の逍遥迄も被(二)召具(一)たり。
昔斉国に毛宝と云者在き。江の辺を通けり。漁父亀を捕て殺さんとす。甲の長さ四尺。毛宝是を憐で、買取て江に放つ。後に石虎将軍と云者と戦けるが、江の耳まで被(二)責付(一)て、毛宝難(レ)遁敵にとられて恥を見んよりは、不(レ)如江の中に入水にしづんで死なんにはと思ひて即入にけり。水の底に是を戴て我を助る者あり。向の岸に至て江の中を顧れば、大なる亀也。亀水の上に浮て腹を顕にせり。是を見れば、毛宝が放せし亀也と云銘文ありて、其後水に入にけり。毛宝亀に被(レ)助て石虎将軍が難を免れたり。漢家本朝境異なれ共、放生の酬とり/゛\也。
S2618 行尊琴絃附静信箸事
又小一条院御孫に、宇治僧正(そうじやう)行尊は鳥羽法皇の御持僧也。鳥羽殿(とばどの)にして御遊(ぎよいう)の有けるに、殿上人(てんじやうびと)の弾ける琴の絃の切れたりければ、僧正(そうじやう)畳紙の中より、琴の絃を取出し給たりけるも、有がたき事なり。
又京極源大納言(だいなごん)雅俊卿、亭にて講行給けるに、導師は妙覚院の静信法印にぞおはしける。諸僧座に著して僧供行はんとしけれ共、導師あまりに遅かりければ、待侘て終に僧膳行ける。中間に法印来り給ふ。遅参を悪て僧中(有朋下P039)に導師の箸を取隠す。法印著座して高坏を見れば箸なし、暫く打案じて、法印懐より箸を取出して、物を拾ひ食けり。何の料に持給ける箸ぞと上下悪まぬ者なし。誠
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に優なる用意にはあらねども、遠慮賢くして角用意有けるか、又智慧深して時に臨で化現し給ふか。此人々の事はさも有なん。邦綱(くにつな)の人長が装束はためしなき用意なるべし。
S2619 法住寺殿(ほふぢゆうじどの)御幸附新日吉新熊野事
二十五日には、法皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ御幸なる。公卿殿上人(てんじやうびと)多く供奉し、警蹕など事々敷してうるはしき儀式也。治承三年に鳥羽殿(とばどの)へ御幸の時は軍兵御車を囲、福原の都の時は、名も恐しき楼の御所、思召(おぼしめし)出て、只今(ただいま)の御形勢(おんありさま)定て御珍しくこそと申合へり。三年の御旅に御所共少々破壊して候、修理して入進せんと、前(さきの)右大将(うだいしやう)被(レ)申けれ共、只疾々とて御幸成ぬ。此御所は去応保元年四月十三日御移徙有て、山水木立かた/゛\思召(おぼしめす)様也ければ、新日吉、新熊野、近く祝奉らせ給へり。此二三年は、なにとなく世の乱に旅だたせ給(たま)ひて、御心も浮立たる様に被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、今一日もとくと急がせ御座(おはしまし)けり。いつしか荒にける所々の有様(ありさま)、御覧じ廻るに哀を不(レ)催と云事なし。中にも、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御あたり叡覧(有朋下P040)有けるに、峰の榊汀(みぎは)の松、事外に木高く成にけるに付ても、南宮より西月移り給けん昔の跡を思召(おぼしめし)出すに、唯御哀をのみぞ催て、御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひける。
三月一日東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)の僧綱(そうがう)、本宮に復し、両箇の寺領本の如く可(二)知行(一)之由、被(二)宣下(一)けり。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十七

P0644(有朋下P041)
於巻 第二十七
S2701 墨俣川合戦附矢矯川軍(やはぎがはいくさの)事
養和元年三月十日、頼朝(よりとも)追討の為に東国へ下りし頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡、権亮少将維盛已下七千(しちせん)余騎(よき)は、尾張国墨俣の西の川原に陣を取て、東国源氏を禦がんとす。新宮の十郎蔵人行家は、千余騎(よき)の勢にて、東の河原に陣を取て、西国(さいこく)の平氏を下さじとす、両方を隔て引へたり。故下野守義朝(よしとも)の子息、常葉が腹の子に、卿公義円と云僧あり。是は九郎義経の一腹の兄也。十郎蔵人に力を合よとて、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)千余騎(よき)の勢を被(レ)付たりけるが、是も墨俣河原に馳付て、十郎蔵人の陣二町を隔て陣を取、平家は西の河原に七千(しちせん)余騎(よき)、源氏は東河原に二千(にせん)余騎(よき)、明る十一日の卯刻には源平の矢合と聞ゆ。是に行家と義円と互に先を心に懸たり。卿公義円は、十郎蔵人に先を被(レ)懸ては、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に面を合すべきかと思て、人一人も召具する事なし。唯一人馬に乗て、陣より上二町計歩せ上て、河を西へ渡す。敵の陣の前、岸の下に引へたり。行家夜の曙に、時を造て河をさと渡さん時、爰よ(有朋下P042)り義円、今日の大将軍と名乗て先陣を懸んと思て、東や白む夜や明ると待居たり。平家の方には、源氏世討にもこそよすれとて、夜廻を始て、十騎(じつき)二十騎(にじつき)計、手々に続松捧て川の耳を見廻けるに、岸の下に馬を引立て、其傍に人一人立たり。夜めぐり是を見咎めて何者(なにもの)と問に、義円少も騒ず、是は御方の者にて候が、馬の足冷候と答。御方ならば甲を脱
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で名乗れと云ければ、馬にひたと乗て陸へ打上り、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の弟に、卿公義円と云者也と名乗て、夜廻の中へ打入て、竪様横様に散々(さんざん)に戦。三騎討捕て二人に手負せて、義円是にて討れにけり。十郎蔵人是をば不(レ)知、卿公や先に進む覧と思て、使を遣して見せけるに、大将軍見え給はずと云ければ、去ばこそとて十郎蔵人打立けり。千騎(せんぎ)の勢を、八百騎をば陣に留め、今二百騎を相具して、河をさと渡し、平家の陣へ懸入たり。夜の明方の事なりければ、未世間も暗かりけり。平家は、敵多勢にて夜討に寄ると心得(こころえ)て、火を出して見れば僅(わづか)に二百(にひやく)余騎(よき)と見て、少勢にて有けりやと云ひて、七千(しちせん)余騎(よき)入替入替戦けり。行家も少も引ず、大勢の中に懸入て戦程(ほど)に、主従二騎に打なされて、河を東へ引退く。行家は赤地の錦直垂に、小桜を黄に返したる冑著て、鹿毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乗たりけり。大将軍とは見えけれ共、平家は続ても不(レ)追けり。行家が子息(有朋下P043)に悪禅師と云者あり。尾張源氏泉太郎重光等同心して、七百(しちひやく)余人(よにん)筏にのり、夜半計に渡より上を潜に越て、夜討にせんとて向けるを、平氏の軍兵兼て此由さとりにければ、渡らんと志所をば引退て、思様に西の岸の上におびき出して、中に取籠戦ふ。宵の程は雨烈く降けるが、夜半計には雨降ざりけれ共、雲の膚天に覆て、闇き事目の前なる物をもつゆ見分べくもなかりけるに、只時の声をしるべにて、両軍乱合て相戦ふ。甲の鉢を打太刀の打ちかへる時、火の出る事いなびかりの如くなりければ、自明便と成て、敵を取輩あり。多は共討にぞ亡ける。弓を引箭を放つ事は、何を敵とも見分ざりければ、太刀をぬき刀を抜て、取組指違てのみぞ死ける。源氏の兵三百(さんびやく)
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余人(よにん)討れにければ、残る輩河のはたへ引退く。筏に乗らんとしけるを、平氏の軍兵追懸て、筏の上にて戦けり。はては筏を切破ければ、空く川に入て命を失者其数を不(レ)知。蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣の手に、二百十三人討捕てけり。虜には悪禅師、泉太郎重光、同弟高田四郎重久を始として、八人(はちにん)とぞ聞えける。維盛朝臣の手には七十四人、通盛の手には六十七人、忠度の手には二十一人(にじふいちにん)、知度の手には八人(はちにん)、讃岐守維時の手に七人、已上三百九十人、首河のはたに切懸たり。即頸の交名を注して京へ奉たりければ、平家の一門寄合て悦事限なし。(有朋下P044)十郎蔵人行家は、墨俣川軍に打負ければ、引退て、墨俣川東、小熊と云所に陣を取。平家は七千(しちせん)余騎(よき)を五手にわけ、一番飛騨守景家(かげいへ)、大将軍にて千余騎(よき)、川をさと渡して小熊の陣に推寄たり。一時戦て射白まされて引退く。二番に上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、千騎(せんぎ)をめいて蒐。源氏矢衾を造て射ければ不(レ)堪して引退。三番に越中前司盛俊千余騎(よき)、轡を並て押寄たり。源氏鏃を揃へて射ければ、暫し戦て引退く。四番に高橋判官長綱千騎(せんぎ)、しころを傾て音挙て推寄たり。源氏指詰引詰散々(さんざん)に射ければ、是も叶ずして引退く。五番に頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡、権亮少将維盛、二千(にせん)余騎(よき)にて入替たり。進み退き追つ返つ、一味同心に揉に揉でぞ攻たりける。十郎蔵人行家も、命も不(レ)惜面も振ず、平家の大将ぞ、漏すな余すなとて、是を最後と戦たり。矢叫の音馬馳違ふ音隙有とも不(レ)聞、源平旗を差並て、勝負牛角に見えたりけり。一陣景家(かげいへ)、二陣忠清(ただきよ)、三陣盛俊、四陣長綱、四千(しせん)余騎(よき)、重衡維盛二千(にせん)余騎(よき)に押合て、七千(しちせん)余騎(よき)が一手に成て、入替々々責けるに、行家武く心は思へども、無勢にて防ぎかね、小熊の
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陣を落されて、尾張国折戸の宿に陣をとる。平家は隙なあらせそとて、勝に乗て責下ければ、折戸をも被(二)追落(一)て熱田宮へ引退き、在家を壊垣楯を掻、爰(ここ)にて暫く禦けれ共、熱田をも被(二)追落(一)て、参河国矢作河(やはぎがは)の東の岸に、城構して陣を取。平家(有朋下P045)続て攻下、川より西に引へたり。当国額田郡の兵共(つはものども)も馳来て、源氏に力を合支たり。十郎蔵人謀を構るに、年老たる雑色三人召寄、次第行纏に蓑笠具し、粮料■(うまぶね)負せて京上の夫に作り立て、心を入て平家の陣の前をぞ通したる。平家夫男を召留て問けるは、源氏軍に負て東国へ落下る、是何程延ぬらん、其(その)勢(せい)いか程か有つると云。夫男申けるは、箭作川(やはぎがは)の東の陣の内の勢は争か知侍べき、落下給(たま)ひつる勢は僅(わづか)に四五百騎(しごひやくき)、大将軍とこそ見え給(たま)ひつれ、爰より幾程延給はじと。平家又問けり。さて東国より上る勢は無やと。夫男、勢は雲霞の如く上り侍、先陣は菊河、後陣は橋本の宿、見付(みつけ)国府に著、程近き高志二村は、軍兵野にも山にも、隙あり共不(レ)見と云て過にけり。平家此事を聞て如何有るべき。東国の大勢に被(二)取籠(一)なばゆゝしき大事、一人も難(レ)遁とて、取物も取敢(とりあへ)ず思々に逃上る。大将軍行家は、平家を謀叛して人を方々へ馳遣す。落上る平家を一矢も不(レ)射(いざる)者は、源氏の敵ぞと披露有ければ、美濃尾張の兵共(つはものども)、後勘を恐て追懸々々散々(さんざん)に射る。平家も返合返合戦けれ共、落武者の習なれば、只身を助んと計の防矢にて、西を差てぞ落行ける。(有朋下P046)
S2702 太神宮祭文東国討手帰洛附天下餓死事
十郎蔵人は所々の軍に負けて、参河の国府に息つぎ居て、是より伊勢太神宮へ祭文を進る。其状に云、
再拝々々
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  伊勢乃渡会野、五十鈴能川上乃、下津磐根仁、大宮柱於広敷立天、高天原爾千木高知天、祝申定奉留、天照皇太神能、広前仁恐恐申給江登申須。
右正六位上、源朝臣行家、去治承四年之比、蒙(二)最勝親王勅(一)云、入道大相国(たいしやうこく)清盛(きよもり)、自(二)平治元年(一)以降、誇(二)無理之威勢(一)、昇(二)不当之高位(一)、相(二)従一天於一門之雅意(一)、不(レ)任(二)百官於百王之理政之間(一)、去治承元年、終雖(レ)非(二)勅定(一)、正二位(しやうにゐの)権大納言(ごんだいなごん)藤原成親、同子息成経等、称(レ)有(二)謀叛之結構(けつこう)(一)、宛(二)行遠流之重科(一)、其外院中近習上下諸人、或蒙(二)死刑(一)或趣(二)配流(一)、如(レ)之智臣前大相国(たいしやうこく)已下四十余人(よにん)、停(二)止官職(一)奪(二)取庄園(一)、或退(二)今上国主之御位(一)、譲(二)謀臣不忠之孫(一)、或■(うかがひ)(二)太上法皇之御座(一)、止(二)治天有道之政(一)、然則早誅(二)罰清盛(きよもり)入道(一)、且奉(レ)休(二)法皇之叡慮(一)、而備(二)孝徳之礼(一)、且黙(二)止万人之愁吟(一)、而致(二)撫育之恵(一)所(二)思召(おぼしめす)(一)(有朋下P047)也云云、而行家、依(二)親王之勅命(一)、催(二)勇士之合力(一)刻、平家議云、一院第二皇子、是為(二)我国万機之器(一)、早可(レ)奉(レ)出(二)花洛(一)也、仍同五月十四日夜、俄可(レ)配(二)流土佐国(一)之由、依(レ)令(二)風聞(一)、為(レ)遁(二)一旦之難(一)、暫令(レ)退(二)入園城寺(をんじやうじ)(一)之処、以(二)左少弁(させうべん)行隆(一)、恣構(二)漏宣(一)、或制(二)与力於北嶺四明之一山(一)、或滅(二)法命於南都三井之両寺(りやうじ)(一)、速絶(二)王法(一)失(二)仏法(ぶつぽふ)(一)矣、謹尋(二)天武天皇(てんわう)之旧議(一)、討(二)王位押取輩(一)、倩訪(二)上宮太子之古跡(一)、亡(二)仏法(ぶつぽふ)破滅之類(一)、是以国政如(レ)元奉(レ)任(二)一院(一)、而諸寺之仏法(ぶつぽふ)令(二)繁昌(一)、諸社之神事無(二)相違(一)、以(二)正法(一)治(二)国土(一)、撫(二)万民(一)与(二)天恩(一)也、爰行家、先跡者、昔天国押開給天後、清和(せいわ)天皇(てんわうの)王子、貞純親王七代孫、自(二)六孫王(一)下津方、
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併励(二)武弓(一)専護(二)朝家(一)、高祖父頼信朝臣者、搦(二)忠常(一)蒙(二)不次之賞(一)、曽祖父頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)者、康平六年鎮(二)奥州(あうしう)之逆党(一)、後代為(二)規模(一)、祖父義家(よしいへの)朝臣(あそん)者、寛平年中、雖(レ)不(レ)経(二)上奏(一)、為(二)国家(一)討(二)不忠武士平家衡等(一)、振(二)威於東夷(一)、上(二)名於西洛(一)、親父為義(ためよし)者、禦(二)還南都大衆之発向(一)、奉(レ)休(二)北闕聖主之逆鱗(一)、鎮(二)護王法宝位(一)無(レ)驚、照(二)四海於掌内(一)、懸(二)百司於心中皇威(一)、及(二)夷域(一)仁恩普(二)一天(一)、而自(二)去平治元年(一)、源家被(レ)止(二)出仕(一)之後、入道偏誇(二)于威勢(一)、黷(二)於高位都城之内(一)、蔑(二)官事洛陽之外(一)、放(二)謀宣(一)、然則行家加先祖於訪江波、天照野太神野、初天日本国(につぽんごく)能磐戸於押開天、(有朋下P048)新仁豊葦原野水穂爾濫觴志給那里、彼能天降給宇聖体波、忝那久行家加三十九代野祖宗那里、御垂跡与里以降、鎮護国家野誓厳重仁志天、冥威隙無幾処仁、入道神慮仁毛恐連須、叡情爾毛憚羅須、遥昇(二)高位(一)、是雖(レ)似(二)朝恩(一)、濫企(二)逆乱(一)、併所(レ)致(二)愚意(一)也、又行家親父朝臣者、如(三)大相国(たいしやうこく)誇(二)私威(一)、非(レ)起(二)謀叛(一)、依(二)上皇之仰(一)、参(二)白川御所(一)計也、而称(二)謀叛之仇(一)、依(レ)不(レ)仕(二)朝廷(一)相伝之所従、塞(二)於耳目(一)不(レ)随(二)順、譜代之所領(一)、被(レ)止(二)知行(一)無(二)衣類(一)、独身不屑之行家、彼入道万之一爾毛所(レ)不(レ)及、而入道忽依(レ)起(二)謀叛(一)、行家為(レ)防(二)朝敵(一)、東国爾下向志天、頼朝(よりともの)朝臣(あそん)登相共爾、且源家能子孫於誘江、且相伝能所従於催志天、上洛於企留所呂也、案能如具意爾任勢天、東海東山能諸国、已爾同心志畢里奴、是朝威能貴幾加致須所呂也、又神明能守里然良令牟留也、風聞能如幾波、太神宮与里神鏑於放知給布、入道其身爾中天亡勢里登、彼〔遠〕見是遠聞爾、上下万人宮中民烟、何人加霊威於畏礼佐羅牟、誰人加源家於仰加佐羅牟哉、抑東海
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諸国之太神宮御領事、依(二)先例(一)分(二)神役(一)、可(レ)備(二)進御年貢(一)之由、雖(レ)加(二)下知(一)、或恐(二)平家(一)不(レ)下(二)使者(一)、或有(二)済納(一)、依(二)路次之狼藉(一)、不(レ)能(二)運送(一)歟、源家者縦雖(レ)為(二)神領(一)、僅宛(二)催兵粮米(一)計也、然而早可(レ)停(二)止之(一)、又始自(二)院宮諸家(しよけ)臣下之領等(一)、国々庄々年貢闕如事、全不(レ)■(あやまらず)、或云(二)源氏(一)、(有朋下P049)或云(二)大名(一)、数多之軍兵参会之間不慮之外難(レ)済歟、就(レ)中(なかんづく)国郡村閭住人(ぢゆうにん)百姓等之愁歎、誠以難(レ)抑、但行家雖(レ)切(二)撫(レ)民之志(一)、未(レ)遂(二)退(レ)敵之節(一)、而徒送(二)日数(一)、尤所(二)哀歎(一)也、然者(しかれば)早行家者、帰(二)参王城近隣(一)、奉(レ)護(二)北闕之玉尊(一)、頼朝(よりとも)者居(二)留東州之辺境(一)、奉(レ)耀(二)西洛之朝威(一)也、神明必垂(二)哀愍(一)、天下忽鎮(二)叛逆(一)矣、縦云(二)平家之兄弟骨肉(一)、於(下)護(二)国家(一)之輩(上)者、速絶(二)神恩(一)、又云(二)源家之子孫累葉(一)、於(下)有(二)二意(一)之輩(上)者、必加(二)冥罰(一)、羨天照皇太神此状於平計安良計聞召天無為無事爾上洛於遂計令女天、速仁鎮護国家能衛宮於成志給江、天皇(てんわう)朝廷乃宝位動具古登無具、源家能大小従類恙無志天、夜乃守里日乃守爾護里幸給江登、恐々礼申志給江登申須。   
  治承五年五月十九日            正六位上源朝臣行家
とぞ書たりける。此祭文に、神馬三匹銀剣一振、上矢二筋相具して、太神宮へ奉進す。
去三月十一日、源平尾張国墨俣川より始て、度々戦けるが、源氏負色に成て引退々々、参河国矢矯川(やはぎがは)にて戦ければ、平家も多く討れける上に、東国源氏雲霞と責上る由の謀に聞臆して、同廿五日に、重衡維盛以下の討手の使帰り上る。
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治承三年の秋八月に、小松内府被(レ)薨ぬ。今年閏二月に、又入道(にふだう)相国(しやうこく)失給(たま)ひしかば、平家の運の尽事顕(有朋下P050)也。さればにや年来恩顧の輩の外に、随ひ付者更になし。兵衛佐(ひやうゑのすけ)には日に随て勢の付ければ、東国には諍者なし。自背者あれば、推寄々々誅戮し給ければ、関より東は草木も靡くとぞ京都には聞えける。去(さる)程(ほど)に去年諸国七道の合戦、諸寺諸山の破滅も猿事にて、天神地祇恨を含給(たま)ひけるにや、春夏は炎旱夥(おほし)、秋冬は大風洪水不(レ)斜(なのめならず)、懇に東作の勤を致ながら、空西収の営絶にけり。三月雨風起、麦苗不(レ)秀、多黄死。九月霜降秋早寒。禾穂未(レ)熱、皆青乾と云本文あり。加様によからぬ事のみ在しかば、天下大に飢饉して、人民多餓死に及べり。僅(わづか)に生者も、或は地をすて境を出、此彼に行、或は妻子を忘て山野に住、浪人巷に伶■(れいへいし)、憂の音耳に満り。角て年も暮にき。明年はさりとも立直る事もやと思ひし程(ほど)に、今年は又疫癘さへ打副て、飢ても死ぬ病ても死ぬ、ひたすら思ひ侘て、事宜き様したる人も、形を窄し様を隠して諂行く。去かとすれば軈(やが)て倒臥て死ぬ。路頭に死人のおほき事、算を乱せるが如し。されば馬車も死人の上を通る。臭香京中に充満て、道行人も輙らず。懸ければ、余に餓死に責られて、人の家を片はしより壊て市に持出つゝ、薪の料に売けり。其中に薄く朱などの付たるも有りけり。是は為方なき貧人が、古き仏像卒都婆などを破て、一旦の命を過んとて角売けるにこそ。誠に濁世乱漫(有朋下P051)の折と云ながら、心うかりける事共也。仏説に云、我法滅尽、水旱不(レ)調五穀不(レ)熟、疫気流行、死亡者多と、仏法(ぶつぽふ)王法亡つゝ、人民百姓うれへけり。
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一天の乱逆、五穀の不(レ)熟、金言さらに不(レ)違けり。
S2703 頼朝(よりとも)追討庁宣附秀衡系図事
四月廿八日、又頼朝(よりとも)を可(二)追討(一)由、院庁の御下文を成して、陸奥国住人(ぢゆうにん)藤原秀衡が許へ被(二)下遣(一)けり。其状に云、
左弁官下  奥州(あうしうの)住人(ぢゆうにん)等、
  応(三)早令(レ)追(二)討流人前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)(一)事
右奉(レ)仰、併件頼朝(よりとも)、去永暦元年坐■(ざざい)配(二)流伊豆国(いづのくに)(一)、須(レ)悔(二)身過(一)、宜(レ)従(二)朝憲(一)、而猶懐(二)梟悪之心(一)、旁企(二)狼戻之謀(一)、或冤(二)凌国宰之使(一)或侵(二)奪土民之財(一)、東山東海道国々、除(二)伊賀、伊勢、飛騨、出羽、陸奥之外(一)、皆趣(二)其勧誘之詞(一)、忝随(二)彼布略之語(一)、因(レ)茲差(二)遣官軍(一)、殊可(レ)令(二)防禦(一)之処、近江、美濃、両国之反者、即敗(二)続尾張、参河(一)、以(二)東之賊衆(一)、尚固守、抑源氏等(げんじら)、皆忝可(レ)被(二)誅戮(一)之由、依(レ)有(二)風聞(一)、一姓之輩、共発(二)悪心(一)(有朋下P052)云云、此事尤虚誕也、於(二)頼政(よりまさ)法師(一)者、依(レ)為(二)顕然之罪科(一)、忽所(レ)被(レ)加(二)刑罰(一)也、其外源氏無(二)指過怠(一)、何故被(レ)誅、各守(二)帝猷(一)、抽(二)臣忠(一)、自今以後莫(レ)信(二)浮讒、兼存(一)此子細、早可(レ)帰(二)皇化(一)者、奉(レ)仰下知如(レ)件、諸国宜(二)承知(一)、依宣(二)行之(一)、敢不(レ)可(二)違失(一)之故下。   
  治承五年四月二十八日             左大史小槻宿禰奉
とぞ被(レ)書たる。秀衡と云は、下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷が末葉、日理権大夫経清が曾孫、権太郎御館
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清衡が孫也。彼秀衡此御下文を給りたれども、兵衛佐(ひやうゑのすけ)には草木も靡て、たやすく難(レ)傾かりければ、無(レ)由とてさて止ぬ。
S2704 信濃横田川原軍事
越後国住人(ぢゆうにん)に、城太郎平資職と云者あり、後には資永と改名す。是は与五将軍維茂が四代の後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也。国中(こくぢゆう)の者共相従へて多勢也ければ、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)を追討のために、同庁下文あり。同六月二十五日、資永御下文の旨に任せて、越後、出羽、両国の兵を招と披露しければ、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)なれ共、源氏を背く輩は、越後(有朋下P053)へ越て資永に付、其(その)勢(せい)六万余騎(よき)也。同国住人(ぢゆうにん)、小沢左衛門尉(さゑもんのじよう)景俊を先として信濃へ越けるが、六万余騎(よき)を三手(みて)に分つ。筑摩越には、浜小平太、橋田の太郎大将軍にて、一万(いちまん)余騎(よき)を差遣す。上田越には、津波田庄司大夫宗親大将軍にて、一万(いちまん)余騎(よき)を差遣す。資永は四万(しまん)余騎(よき)を相具して、今日は越後国府に著、明日は当国と信濃との境なる関の山を越さんとす。先陣を諍者共、勝湛房が子息に、藤新大夫、奥山権守、其子の横新大夫伴藤、別当家子には、立川承賀将軍三郎、信濃武者には、笠原平五、其甥に平四郎、星名権八等を始として、五百(ごひやく)余騎(よき)こそ進けれ。信濃国(しなののくに)へ打越て、筑摩河の耳、横田川原に陣をとる。城太郎資永、前後の勢を見渡して奢心出来つゝ、急ぎ寄合せて聞ゆる木曾を目に見ばやとぞ■(ののしり)ける。木曾は、落合五郎兼行、塩田八郎高光、望月太郎、同次郎、八島四郎行忠、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、高梨根井大室小室を先として、信濃、上野、両国の勢催集め、二千(にせん)余騎(よき)を相具して、白鳥川原に陣をとる。楯六郎親忠馬より下り甲を脱弓脇挟み、木曾が前に畏て申けるは、親忠先づ
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横田川原に打向て、敵の勢を見て参らんと申。然るべきとて被(レ)免たり。親忠乗替ばかり打具して、白鳥川原を打出て塩尻さまへ歩せ行て見渡せば、横田篠野井石川さまに火を懸て焼払(やきはら)ひ、軍場の料に城四郎(有朋下P054)が結構(けつこう)と見えたり。親忠大法堂の前にして馬より下り、甲を脱で八幡社を伏拝み、南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、我君先祖崇霊神也、願は木曾殿(きそどの)、今度の軍に勝事をえせしめ給へ、御悦には、六十六箇国(ろくじふろくかこく)に六十六箇所(ろくじふろくかしよ)の八幡社領を立て、大宮(おほみや)に御神楽、若宮に仁王講、蜂児の御前に左右に八人(はちにん)宛の神楽女、同神楽男退転なく、神事勤て進んとぞ祈念しける。乗替を使にて木曾殿(きそどの)へ申けるは、城太郎所々に火を放て、横田篠野井石川辺を焼払(やきはら)ふ。角あらば八幡の御宝殿も如何と危く覚候、急寄給へとぞ申たる。木曾取敢(とりあへ)ず、通夜大法堂に馳付て、甲を脱ぎ腰を屈て八幡社を伏拝み、様々願を被(レ)立けり。明ぬれば朝日隈なく差出て、鎧の袖をぞ照ける。義仲(よしなか)遥(はるか)に伏拝み、弥勒竜華の朝まで、義仲(よしなか)が日本国(につぽんごく)を知行せんずる軍の縁日と成給へ、今日は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の、結て給たる吉日也とぞ勇みける。養和元年六月十四日の辰の一点也。源氏方より進む輩、上野国には、那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、信濃国(しなののくに)には、根井小弥太、其子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平が子息、根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎石突次郎、平原次郎景能、諏訪上宮には、諏方次郎、千野太郎、下宮には、手塚別当、同太郎、木曾党には、中三権頭(有朋下P055)兼遠が子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次与三、木曾中太、弥中太、検非違所(けんびゐしよ)
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八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師を始として、郎等乗替しらず、棟人の兵百騎轡を並て、一騎(いつき)も先に立ず一騎(いつき)もさがらず、筑摩河をさと渡して、西の河原に北へ向てぞ懸たりける。城太郎が四万(しまん)余騎(よき)、入替々々戦けれども、百騎の勢に被(二)懸立(一)て、二三度までこそ引退り。百騎の者共は、馬をも人をも休めんとて、河を渡して本陣に帰にけり。城太郎安からず思て、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)笠原平五頼直と云ふ者を招て云けるは、僅(わづか)の勢に大勢が、三箇度(さんがど)まで被(二)懸散(一)たる事面目なし、当国には御辺(ごへん)をこそ深く憑み奉れ、河を渡し、敵の陣を蒐散して雪(レ)恥給へかし、平家の見参に入奉らんと申ければ、笠原鐙蹈張弓杖突て、越後信濃は境近国なれば伝にも聞給けん、頼直今年五十三、合戦する事二十六度、未不覚の名を取らず。但年闌盛過ぬれば、力と心と不(二)相叶(一)、今此仰を蒙る事面目也、今日の先蒐て見参に入んとて、我勢三百(さんびやく)余騎(よき)が中に、事に合べき兵八十五騎すぐり出して、太く高く、曲進退の逸物共に撰び乗て、筑摩河をざと渡して名乗けり。当国の人々は、或は縁者或は親類、知らぬはよも御座(おはしま)せじ、上野国の殿原は見参するは少けれ共、さすが音にも聞給らん、昔は信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、今は牢人笠原平五頼直と云者也、信濃上野に我と思は(有朋下P056)ん人々は、押並て組や/\と云懸て、敵の陣をぞ睨たる。上野国住人(ぢゆうにん)高山党三百(さんびやく)余騎(よき)にてをめきてかく。笠原は八十余騎(よき)にて三百(さんびやく)余騎(よき)をかけ散さんと、中に破入て面を振らず散々(さんざん)に戦ふ。高山は大勢にて小勢を取籠、一人も不(レ)漏討留んと、辺に廻て透間もあらせず戦たり。蒐てはひき引てはかけ、寄ては返、返しては寄せ、入組入替戦ける
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有様(ありさま)は、胡人が虎狩、縛多王が鬼狩とぞ覚えたる。又飆の木葉を廻すに似たりけり。程なしと見程(ほど)に、高山党が三百(さんびやく)余騎(よき)、九十三騎に討なさる。笠原が八十五騎、四十二騎にぞ成にける。両方本陣に引退。源平互に不(レ)感者はなかりけり。中にも笠原、城太郎が前に進て、軍の先陣如何が見給ぬると云ければ、資永は兼ての自称、今の振舞、実に一人当千(いちにんたうぜん)とぞ嘆たりける。
上野国住人(ぢゆうにん)西七郎広助は、火威の鎧に白星の甲著て、白葦毛の馬の太逞に、白伏輪の鞍置て乗たりけり。同国高山の者共が、笠原平五に多討れたる事を安からず思て、五十騎(ごじつき)の勢にて河を渡して引へたり。敵の陣より十三騎にて進出づ。大将軍は赤地の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧に、鍬形打たる甲著て、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。主は不(レ)知、よき敵と思ければ、西七郎二段計に歩せより、和君は誰そ、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)富部三郎家俊。問は誰そ。上野国住人(ぢゆうにん)七郎広助、音にも聞くらん目にも見よ、(有朋下P057)昔朱雀院御宇(ぎよう)、承平に将門(まさかど)を討平て勧賞を蒙りたりし俵藤太秀郷が八代の末葉、高山党に西七郎広助とは我事也、家俊ならば引退け、合ぬ敵と嫌たり。富部三郎申けるは、和君は軍のあれかし、氏文読まんと思ひけるか、家俊が祖父下総左衛門大夫正弘は、鳥羽院(とばのゐん)の北面也、子息左衛門大夫家弘は、保元の乱に讃岐院に被(レ)召て仙洞を守護し奉き、但御方の軍破て、父正弘は陸奥国へ被(レ)流、子息家弘は奉(レ)被(レ)伐けれども、源平の兵の数に嫌れず、正弘が子に布施三郎惟俊、其子に富部三郎家俊也、合や合ずや組で見よとて、十三騎轡並てをめきて蒐。十三騎と五十騎(ごじつき)と散々(さんざん)に
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乱合て戦ければ、富部が十三騎、四騎討れて九騎になる。西七郎が五十騎(ごじつき)、引つ討れつ十五騎になる。大将軍は互に組ん組んと寄合けれ共、家の子郎等推隔々々て防ぐ程(ほど)に、共に隙こそなかりけれ。去(さる)程(ほど)に同僚共が敵の頸取て下人に持せ、手に捧たりけるを見て、我も/\分捕せんと、寄合々々戦けり。軍に隙はなし、両方の旗差は射殺切殺されぬ、主の行方を不(レ)知けり。其間に西七郎と富部三郎と寄合せて、引組んでどうど落て、上になり下になり、弓手へころび妻手へころびて、遥(はるか)に勝負ぞなかりける。富部三郎は笠原が八十五騎の勢に具して、軍に疲たりければ、終には西七郎に被(レ)討けり。爰(ここ)に富部が郎等に、杵淵小源太重光と云者あり。此(有朋下P058)間主に被(二)勘当(一)て召具する事も無れば、城太郎の催促に、主は越後へ越けれ共杵淵は信濃にあり。去ば今の十三騎にも不(レ)具けるが、主の富部、城四郎の手に成て軍し給ふと聞き、徐にても主の有様(ありさま)見奉り、又よき敵取て勘当許れんと思て、辺に廻て待見けれども、主の旗の見えざりければ、余りの覚束(おぼつか)なさに陣を打廻て、知たる者に尋ければ、西七郎と戦ひ給つるが、旗差は討殺されぬ、富部殿も討れ給ぬとこそ聞つれ、冑も馬もしるし有らん、軍場を見給へと云。杵淵小源太穴心うやとて馳廻て見ければ、馬は放れて主もなし、頸は取れて敵の鞍の取付にあり。杵淵是を見て歩せ寄せ、あれに御座は、上野の西七郎殿と見奉は僻事か、是は富部殿の郎等に、杵淵小源太重光と申者にて候。軍以前に大事の御使に罷たりつるが、遅く帰参候て御返事(おんへんじ)を申さぬに、御頸に向奉て最後の御返事(おんへんじ)申さんとて進ければ、荒手の奴に叶はじと思て、鞭を打
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てぞ逃行ける。まなさし七郎殿、目に懸たる主の敵、遁すまじきぞ七郎殿とて追て行。七郎は我身も馬も弱りたり、杵淵は馬も我身も疲れねば、二段計先立て逃けれども、六七段にて馳詰て、引組でどうど落つ。重光大力の剛の者也、西七郎を取て押て首を掻。杵淵主の首を敵の鞍の取付より切落し、七郎が頸に並居ゑて泣々(なくなく)云けるは、身に■(あやまり)なしといへ共、人の讒言によりて(有朋下P059)御勘当聞も直させ給はず、又始て人に仕て今参といはれん事も口惜くて、さてこそ過候つるに、今度軍と承れば、よき敵取て見参に入、御不審をも晴さんとこそ存つるに、遅参仕て先立奉ぬる事心うく覚ゆ。さりとも此様を御覧ぜば、いかばかりかは悦給はんと、後悔すれ共今は力なし、乍(レ)去敵の首は取りぬ、冥途安く思召(おぼしめ)せ、軍場に披露申べき事あり、やがて御伴と云て馬に乗り、二の首を左の手に差上、右の手に太刀を抜持て高声に、敵も御方も是を見よ、西七郎の手に懸けて、主の富部殿討れ給ぬ、郎等に杵淵小源太重光、主の敵をば角こそとれやとぞ■(ののしり)たる。西七郎が家子郎等轡を返して、三十七騎をめきて蒐。重光存ずる処ぞ和殿原とて、只一騎(いつき)にて敵の中に馳入て、人をば嫌はず直切にこそ切廻れ。敵十余騎(よき)切落し、我身も数多手負ければ、今は不(レ)叶と思て、主の共に、剛者自害するを見給へとて、七郎が頸をば抛て、なほ富部三郎が頸を抱、太刀を口に含て、馬より大地に飛落て、貫かれてぞ死にける。敵も御方も惜まぬ者こそなかりけれ。中にも木曾は、あはれ剛の奴哉、弓矢取身は加様の者をこそ召仕ふべけれと、返々ぞ惜まれける。両陣軍にし疲て、暫く互に休み居たり。
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木曾は謀をぞ構たる。信濃源氏に井上九郎光基と云者を招て、加様の馳合の軍は勢による事なれば、御方の勢は少なし、(有朋下P060)如何にも軍兵数尽ぬと覚ゆ、されば敵を謀落さん為に、御辺(ごへん)赤旗赤符付て、城太郎が陣に向ひ給へ、さあらば敵御方に勢付たりとて、荒手の武者を指向て軍せよとて休み居べし、其間に白旗白符取替て蒐給はん処に、義仲(よしなか)河を渡して、北南より指挟で蒐立ば、などか追落さゞるべきと云ければ、可(レ)然とて井上九郎光基は、星名党を相具して三百(さんびやく)余騎(よき)、赤旗俄(にはか)に作出し、赤符を白符の上に付隠して、木曾が陣を引下て、静々(しづしづ)と筑摩河を打渡して、城太郎が陣に向ふ。案の如く城太郎は、御方に勢付たり、余勢は定て後馳にぞ来るらんとて、使を立て云けるは、只今(ただいま)被(レ)参人は誰人ぞ、返々神妙(しんべう)、御方の兵軍に疲たり、河を渡して敵の陣に向給へと云ければ、光基馬の鼻を引返す様にして赤符かなぐり捨て、白旗さと差挙て、又馬の鼻を引向て、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)井上九郎光基と名乗てをめきて蒐る処に、木曾討もらされたる勢一千五百(いつせんごひやく)余騎(よき)にて、河をさと渡して音を合て、北より南より、揉に揉てぞ攻たりける。城太郎が兵は、軍に疲て有けるに、只今(ただいま)の勢を憑て、物具(もののぐ)くつろげて休まんとする処に、俄(にはか)に上下より責ければ、甲冑を捨て逃もあり、親子を知らで落もあり、山に追籠られ水に責入られ、此にては打殺され、彼にては被(二)切殺(一)、落ぬ討れぬせし程(ほど)に、城太郎資永は、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にて、越後の国府に引退てぞ息突居(有朋下P061)たる。当国住人(ぢゆうにん)等も悉(ことごと)く木曾に従付ければ、資永国中(こくぢゆう)に安堵せずして、出羽国に越て金沢と云所に有と聞えければ、木曾は関山を固て、暫く越後の国府にやすらひけり。 
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S2705 周武王誅(二)紂王(ちうわう)(一)事
昔大国に周武王と云し帝、殷紂王(ちうわう)を誅せんとせしに、敵の軍は七十万人、御方の兵は四万五千人(しまんごせんにん)、雲泥水火の敵対也。武王勢の少き事を歎ければ、臣下太公望が云、軍は勢によらず、謀を先とすべし、千仭堤に尺水をさぐりて兵を傾、万丈の谷に円石を倒して敵を亡す、皆是謀の賢き也、君歎事なかれとて、周の兵を殷の勢に移して攻戦ける。時に殷の軍破ぬとて、周の兵引退ければ、誠にやとて七千万人皆落失て、紂王(ちうわう)終に亡にけり。木曾もはかりごと賢くて城太郎を責落す。越前国には、平泉寺長吏斎明、威儀師(ゐぎし)稲津新介、越中国(ゑつちゆうのくに)には、野尻、河上、石黒党、加賀国には、林、富樫が一族を始として、寄合々々評定して云、源平諍を発して国郡静ならず、東西に軍始て勇士鋭(レ)剣、就(レ)中(なかんづく)木曾殿(きそどの)、平家追討の為に越中国府に座す、平家、木曾殿(きそどの)を誅戮の為に北国下向と聞ゆ、源氏に力をや合すべき、平家に忠をや尽すべきと様々議しけるに、東国は既(すで)に兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に(有朋下P062)随ふと聞ゆ、北国又木曾殿(きそどの)に靡けり、平家の方人等皆国中(こくぢゆう)に安堵せず、されば定て被(レ)召ずらん、召に随はずんば平家に同意とて討手を向らるべし、不(レ)如被(レ)召て参らんより、同は志ある体にて、急ぎ木曾殿(きそどの)へ参らんと議しければ、此儀尤可(レ)然とて、三箇国の兵皆、我も/\と馳参ず。木曾は、各参上の条神妙(しんべう)神妙(しんべう)、但召さぬに参事大に不審、平家の方人して義仲(よしなか)を計らん為にも有らん、誠の志御座(おはしませ)ば、義仲(よしなか)に腹黒あらじと起請文書べしと宣(のたま)ひければ、命に随うて起請状を注し、判形添て奉る。木曾今は子細なしとて、御恩の始也、不(二)取敢(一)(とりあへず)と宣(のたま)ひて、信濃駒(しなのこま)一匹づつこそ被(レ)引たれ。懸りしかば、北陸道の国国、
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悉木曾に相従けり。
 < 七月十四日に改元有りて、養和元年と云。>
同七月十五日、左衛門権佐光長、奉(レ)仰、興福園城(をんじやう)両寺(りやうじの)僧侶、依(二)謀叛之罪(一)在(二)繋囚之中(一)、非常之断(二)人主(一)専(レ)之、須(二)厚免(一)(レ)之処、件輩浴(二)恩蕩(一)、帰(二)本寺(一)之後、若無(二)悔過之思不変野心(一)者、為(レ)世為(レ)寺、自在(二)後悔(一)歟、戦国之政可(二)思慮(一)之由、有(二)義奏之人(一)、然而彼寺等、不慮之外、空為(二)灰燼(一)、因(レ)茲蒼天不(レ)変、明神(みやうじん)成(レ)崇歟、若依(二)此儀(一)者不(レ)免(二)彼寺之僧侶(一)者、非(二)赦(レ)之本意(一)歟、免否之間叡慮未(レ)決、可(レ)令(二)計申(一)、左大将実定卿に被(レ)問ければ、謀叛之者減(二)死罪一等(一)、可(レ)処(二)遠流(一)、而今件輩在(二)繋囚之中(一)免(二)遠流之罪(一)、(有朋下P063)今度会(レ)赦、殊驚(二)司天之奏(一)、為(レ)止(二)降相之歎(一)、厚免(レ)之条、叡慮之趣、相(二)叶徳政(一)歟とぞ被(レ)申ける。八月三日、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)鎮西へ下向、是は菊地、原田、臼杵、部槻、松浦党等、花洛を背て属(二)東夷(一)由聞えければ、彼等を為(レ)鎮也。
九日官庁にて、大仁王会被(レ)行けり。是は承平将門(まさかど)謀叛の時の例とぞ聞えし。其時は朝綱の宰相依(レ)勅咒願を書て験ありといへり。今度は咒願の沙汰なし。同廿五日除目被(レ)行けり。陸奥国住人(ぢゆうにん)藤原秀衡、征将軍に被(レ)補ける上に当国守に任ず。越後国住人(ぢゆうにん)城太郎資永、越後守に任ず。秀衡は頼朝(よりとも)追討のため、資永は義仲(よしなか)追討のため也と、各聞書の注文に子細を被(レ)載たり。木曾追討の事、去四月に院庁以(二)御下文(一)、資永に仰付たりければ、四万(しまん)余騎(よき)を引率して、信濃国(しなののくに)横田川原にして軍
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に負たりける間、猶も勢を被(レ)付べき由其沙汰有て、同廿六日(にじふろくにち)、中宮亮通盛、能登守教経已下北国へ進発す。九月九日、通盛教経等の官兵、越後国にして源氏と戦けるが、平家散々(さんざん)に被(二)打落(一)けり。
S2706 資永中風死事
九月廿日、城太郎資永が弟に城次郎資茂と云者あり。改名して永茂と云けるが、早馬を(有朋下P064)六波羅へ立、平家の一門馳集て永茂が状を披くに云、去八月廿五日除目の聞書、九月二日到来、謹で披覧之処に、舎兄資永当国守に任ず。朝恩の忝に依て、明三日義仲(よしなか)追討の為に、五千(ごせん)余騎(よき)の軍士を卒して、重て信州へ進発せんと出立ぬる夜の戌亥の刻に当て、地動き天響て雲上に音在て云、日本(につぽん)第一の大伽藍、金銅十六丈の大仏焼たる平家の方人する者ありやと叫始て、其声通夜絶ず、是をきく者身毛竪ずと云事なし。資永即大中風して病に臥し、うですくみて思ふ状をも書置かず、舌強して思ふ事をも云置かず、明る巳時に悶絶僻地して、周章(あわて)死に失候畢ぬ。仍永茂、兄が余勢引卒して、信濃へ越んと欲して軍兵を催すといへども、資永任国の越後は木曾押領の間、不(レ)及(二)国務(一)、北陸の諸国、木曾に恐て一人も不(二)相随(一)とぞ申たる。此状に驚て、同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)、重て左馬頭(さまのかみ)行盛、薩摩守忠度大将軍として、数千騎(すせんぎ)の軍兵を相具して、北国へ発向す。
S2707 源氏追討祈事
兵革の御祈(おんいのり)一品ならず、様々の御願(ごぐわん)を立、社々に神領を被(レ)寄、神祇官(じんぎくわん)人諸社の宮司、本宮末社まで祈申べき由院より被(二)召仰(一)。諸寺の僧綱(そうがう)神社仏閣まで調伏の秘法被(レ)行。天台座主(てんだいざす)、(有朋下P065)明雲(めいうん)僧正(そうじやう)をば、摂政(せつしやう)近衛殿(このゑどの)、承て、根本中堂(こんぼんちゆうだう)にして七仏薬師(しちぶつやくしの)法(ほふ)、園城寺(をんじやうじ)、円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)をば、新(しん)宰相泰通承て、
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金堂にして北斗尊星王の法、仁和寺(にんわじ)、守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)をば、九条大納言(だいなごん)有遠承て、当寺にして孔雀経法、此外諸僧勅宣(ちよくせん)に依て、北斗尊星、延命大元、弁才陀天、内法外法、数を尽して被(レ)行。院(ゐんの)御所(ごしよ)には、五壇法、房覚前大僧正(だいそうじやう)は降三世、昌雲前権僧正(ごんのそうじやう)は軍荼利、覚誉権大僧都(ごんのだいそうづ)は大威徳、公顕前大僧正(だいそうじやう)は金剛夜叉、澄憲新僧正(しんそうじやう)は不動明王(ふどうみやうわう)、各忠勤を抽で殊に丹精を致す。縦逆臣乱を成す共、争か仏神の助なからんと、上下憑もしくぞ申ける。
S2708 奉弊使定隆死去附覚算寝死事
去十一日に、神祇官(じんぎくわん)にして、神饗あり、例弊二十二社に奉る。昔朱雀院御宇(ぎよう)、天慶に純友追討の御祈(おんいのり)に、太神宮へ甲冑を奉りし例とて、〈 彼の甲冑嘉応元年十二月二十一日の炎上(えんしやう)に焼たり。 〉今度頼朝(よりとも)誅罰の御祈(おんいのり)に、鉄鎧を太神官へ奉らる。さて奉弊使は、当社の祭主中臣親能、同子息神祇少副定隆朝臣勤けり。父子都を出て、近江国甲賀の駅屋に著。是にして定隆心地不(レ)例有けれども、相労りて十五日に伊勢の離宮に参著す。申刻計に、天井(有朋下P066)より長一尺四五寸計の小蛇落て、定隆が左袖の上に懸る。やがて懐の中へ匍入。怪と思て振捨けれ共不(レ)出、立上て帯を解て懐を探見に蛇なし。不思議と思けれ共、折節(をりふし)の酒宴に打紛て日も晩ぬ。其夜丑刻に、定隆寝ながら苦気なる息ざしにてうめきければ、父の祭主いかに/\と驚せ共、只息計にて起ざりければ、築垣より外へ舁出せば、定隆即死にけり。父の親能触穢に成て、奉弊使、中臣に事闕たりければ、大宮司祐成が沙汰として、散位従五位有信を差て次第に御祭を遂、又臨時の官幣を立て源氏可(二)追討(一)御祈(おんいのり)あり。其宣命に云、竃宅神猶響(二)三十六里(一)、況源(みなもとの)頼朝(よりとも)響(二)
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日本国(につぽんごく)(一)哉と書べかりけるを、朝と云文字を落して不(レ)書けり。宣命をば外記承て書習也。態とはよも書誤らじ。頼と云字は助と読ば、竃宅神猶響(二)三十六里(一)、況源頼響(二)日本国(につぽんごく)(一)哉とぞ読たりける。人内々は、一定兵衛佐(ひやうゑのすけ)世に立て日本国(につぽんごく)を奉行すべきにこそ、源氏追討の宣命に、源繁昌の口占有とぞ私語(ささやき)ける。
又日吉社にて、源家調伏のために三七日の五壇の法被(レ)行。初七日の第五日に当て、降三世の阿闍梨(あじやり)覚算法印、大行事の彼岸所にて死所に死けり。平家の方人する者は、僧俗共に死ければ、仏神御納受(ごなふじゆ)なしと云事顕然也。人々舌を振てぞ畏ける。(有朋下P067)
S2709 実源大元法事
又安祥寺の実源阿闍梨(あじやり)、朝敵追討の仰承て、大元法行て御巻数を進す。御披見ある処に、専平家滅亡の由注進あり、浅猿(あさまし)とも云計なし。子細を被(二)召問(一)ければ、実源申て云、朝敵調伏の旨被(二)宣下(一)、名字なき間、倩々当世の体を見に、南都園城(をんじやう)仏法(ぶつぽふ)の破滅、東山北陸士卒の合戦、一天四海の大疫人民百姓の餓死、君王臣公の御歎、神事仏事の顛倒、併平家悪行の積と見ゆ。仍平家調伏の祈誓を致と申たり。他家の人々はげにもと思けれ共、平家は是を聞て大に憤り、獄定歟流罪歟と沙汰ありけれども、大小事の急劇に打紛れて止にけり。十一月廿五日に中宮院号あり、建礼門院(けんれいもんゐん)と申。幼帝の御時母后の院号、先例なしとぞ申ける。
S2710 大嘗会(だいじやうゑ)延引事
今年も諒闇(りやうあん)なりしかば大嘗会(だいじやうゑ)不(レ)被(レ)行。大嘗会(だいじやうゑ)と申は天武天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に始れり。七月以前に御即位
P0665
あれば、必其の年の中に被(レ)行事なれ共、去年は都遷とて新都にて叶はず、様々 (有朋下P068)議定有しか共五節計にてさて止ぬ。今年は又諒闇(りやうあん)なれば沙汰に及ばず。大嘗会(だいじやうゑ)の延引する事、平城(へいじやう)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大同二年十月に御禊(ごけい)有て、十一月に有べかりしに、坂上田村丸を以夷賊を随へ給ける兵革の事に依て、同三年の十月に又御禊(ごけい)あて、同(おなじき)十一月に遂行けり。
嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、同四年に平城宮(へいじやうきゆう)を造られしに依て、次年弘仁元年十一月に被(レ)行。
朱雀院御宇(ぎよう)、承平元年七月十九日に、宇多院隠れさせ給(たまひ)て、次年行はる。
三条院(さんでうのゐんの)御宇(ぎよう)、寛弘八年十月廿四日に、冷泉院の御事に依て延たりしか共、次年被(レ)行けり。二箇年延引の例いまだなし。去年は新都所狭して行はれず、今年は大極殿(だいこくでん)、豊楽院こそ未(二)造畢(一)なけれども、後三条院(ごさんでうのゐん)の例に任て、太政官庁にて有べかりつるに、天下諒闇(りやうあん)の上は兎角子細に及ばず、二箇年まで延ぬる事、如何なるべきやらんと人皆怪を成す。
S2711 皇嘉門院蒙御附覚快入滅事
十二日三日、皇嘉門院隠れさせ給ぬ、御年六十一。是は崇徳院の后にて御座(おはしまし)き。御善知識には大原(おほはら)の別所、来迎院の本願坊湛快ぞ参給ける。閑に最後目出くて終らせ給けるぞ貴き。昔御遺(おんなごり)とて、是計こそ残らせ給たりけるに、世の習とて哀なり。
同六日戌刻に、鳥羽院(とばのゐん)(有朋下P069)の七宮前の天台座主(てんだいざす)覚快法親王(ほふしんわう)、御年四十四、生者必滅の理、始て驚べきならね共、打つゞき哀なりける事共也。
S2712 法住寺殿(ほふぢゆうじどの)移徙事
P0666
同(おなじき)十三日には院(ゐんの)御所(ごしよ)の御移徙あり。公卿十人殿上人(てんじやうびと)四十人、うるはしき儀式にて仕りけり。本御座(おはしまし)ける法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の御所を壊て南に渡し、千体御堂の傍に被(レ)造て、片方に女院なんど居進せてぞ住せ御座(おはしまし)ける。(有朋下P070)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十八

P0667(有朋下P071)
倶巻 第二十八
S2801 天変附踏歌節会事
養和二年正月一日、改の年の始の御祝なれ共、諒闇(りやうあん)に依て節会もなし。十六日(じふろくにち)には、踏歌節会も不(レ)被(レ)行、当代の御忌月なれば也。
抑踏歌節会と申は、人王三十九代の御門、天智天皇(てんわう)の御時より被(二)始置(一)たる事也。其時の都は、近江国志賀郡、大津宮とぞ承。此御時鎌足大臣、始て藤原姓を給(たまはつ)て奥州守(むつのかみ)に任ず。常陸国より白雉一羽、一尺二寸(にすん)の角生たる白馬一匹奉る。鎌足大臣是を捧て殿上に参る。彼送文云、雉色白者、表(二)皇沢之潔(一)、馬角長者、治(二)上寿之世(一)とぞ書たりける。彼雉を其角に居て、大臣乗て南庭に遊。聖代の奇物、何事か是に如かんや。天子御感有て鎌足を賞し、金銀色々の賞多かりけり。此事正月十六日(じふろくにち)の午時の始也ければ、其例として年々の正月十六日(じふろくにち)、雲の上人参て、馬に乗て引出物を給る事あり。溶々たる池を掘て水を湛へ、田々たる草を植て雉を飼給(たま)ひき。四季に花さく桜を植て駒を遊ばしめ給しより、是を志賀の花園とは申也。踏歌節会(有朋下P072)と名て、代々の御門いまだ怠り給はず。哀哉三十(さんじふ)余代の節会なり、数百年の吉例也、何んぞ今年始て断絶するや。但平家の一門の過分なりつるしわざなり。所以に臣下勇者(ようしや)、天下不(レ)安云事あり。偏(ひとへ)に此体の事なるべし。
P0668
二月二十三日夜天変あり、太白昴星を犯と、是重き憤り也。天文要録云、太白犯(二)昴星(一)、四夷乱競て兵革不(レ)絶、大将軍去(二)国堺(一)といへり。世間如何が有べきと人皆歎思けり。
彼震旦国には、玄宗皇帝の御代に此天変現じて、七日の内に合戦ありて、楊貴妃失給しかば、玄宗鳳闕を出て蜀山に迷給き。我朝には宣化天皇(てんわう)の御時、鹿火金村、蘇我稲目なんど申臣下等、面々に立(レ)功、天下を乱して帝位を奪し事二十余年也。
皇極天皇(てんわうの)御時元年七月に、客星入(二)月中(一)云天変ありき。逆臣五位に至と云事なるべし。其時役行者に仰て、七日七夜(なぬかななよ)御祈(おんいのり)ありければ、兵乱を転じて百日の旱魃となる。王位は恙御座(おはしま)さざりけれ共、五穀皆損じて上下飢に望けるとかや。今は役行者もなければ、誰か是を転ずべき。待池の魚の風情にて、災の起らん事を、今や/\と待居たるこそ悲けれ。(有朋下P073)
S2802 役行者事
役行者と申は小角仙人の事也、俗姓は賀茂氏也。大和国(やまとのくに)葛上郡、茅原の村の所生也。三歳の時より父に後れて、七歳までは母の恵にて成人す。至孝の志し浅からず、仏道修行の思ひねんごろなり。五色の兎に随て葛城山の頂に上る。藤の衣に身を隠し、松の緑に命を継で、孔雀明王(みやうわう)の法を修行する事三十(さんじふ)余年也。只一頭を尋えたりし烏帽子(えぼし)、皆破れ失にければ、大童に成て、一生不犯の男聖也。大峯葛城を通て行給けるに、道遠しとて、葛城の一言と云神に、二上の岳より神山まで石橋を渡せと宣(のたま)ひける。顔の見悪くければとて、昼は指も出ずして、夜々(よなよな)渡し給けるを、行者遅
P0669
と腹立、葛にて七遍縛り給(たまひ)てけり。一言主恨を成して、御門に偽り奏しけるは、役優婆塞と云者、帝位を傾け奉らんと云企ありと申ければ、御門驚き思召(おぼしめし)て行者を搦捕んとするに、孔雀明王(みやうわうの)法験にこたへて、虚空を飛事鳥の如し。依(レ)之(これによつて)行者の母を召禁られければ、我故に母の罪を蒙事こそ悲けれとて、自参給たり。則伊豆の大島に流し遣されけり。昼は大島に行、夜は鉢に乗て富士の山に上て行けり。一言主重て、行者を被(レ)害べき由奏し申ければ、則官兵を被(レ)下被(レ)誅とせしに、行者の云く、願は抜る刀を我に与よとて、刀をとり舌にて三度ねぶりければ、富士の明神(みやうじん)の表文あり。天皇(てんわう)此事を聞召(きこしめし)て、是凡人に非ず、定て聖人(有朋下P074)ならん、速に供養を演ぶべしとて都に被(二)召返。爰(ここ)に行者の母もろともに、茅の葉に乗て大唐に渡りし人也。懸る聖人も末代には有べくもなければ、此世の中いかゞ有べきと、心あるも心なきも各歎あへりけり。
同四月十一日、筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)、菊地高直が雲上の城(じやう)を責る間、官兵二千人(にせんにん)、高直がために被(二)討捕(一)ければ、貞能(さだよし)合戦をば止て、城を固く守て粮の尽を相待ければ、西海運上の米穀、国衙(こくが)庄園を云はず、兵粮米のために貞能(さだよし)点定しけり。東国北国西海運上の土貢、悉(ことごと)く京都に不(レ)通ければ、老少上下を云ず、餓死する者道路に充満せり。群盗放火の事連夜に絶ざりければ、貴賎安堵の心ぞなかりける。月卿(げつけい)も雲客(うんかく)も、追(二)百里之跡(一)、欲(二)二子之昔(一)とぞ申あはれける。一天の逆乱、四方の合戦に、士卒塗(二)肝脳於土地(一)、民庶灑(二)骨骸於原野(一)事、不(レ)可(二)勝計(一)、村南村北に哭泣の声絶えず、開闢以来懸る乱はあらじ
P0670
とぞ申ける。
S2803 顕真一万部(いちまんぶ)法華経(ほけきやう)事
同四月十四日、前権少僧都(ごんのせうそうづ)顕真、貴賎上下を勧め、日吉の社にして如法真読の一万部(いちまんぶ)の法華経(ほけきやう)あり。御結縁の為にとて、法皇日吉社へ御幸なる。何者(なにもの)か云たりけん、山門の(有朋下P075)大衆は院を取進らせて平家を討べき也と、披露ありければ、平家の一門周章(あわて)騒で六波羅へ馳集る。京中の貴賎途を失て東西に迷へり。軍兵内裏に馳参て、四方の陣を警固す。牛馬人畜足いそがはしく、資財雑物遠近に運あへり。十五日に、本三位中将重衡、三千(さんぜん)余騎(よき)を相具して、法皇の御迎にとて日吉社へ参向しけるを、又何者(なにもの)か云たりけん、山門の大衆源氏に与力して、頼朝(よりとも)義仲(よしなか)に心を通じて平家を背く間、衆徒をせめん為に、重衡卿大将軍として、既(すで)によすると■(ののしり)ければ、山上坂本騒動して、大衆下僧走迷へり。大講堂(だいかうだう)の大鐘ならし、生源寺の推鐘扣てをめき叫ければ、すはや提婆がよするなるは、南都三井の仏法(ぶつぽふ)亡し果てて、今又我山の仏法(ぶつぽふ)亡さんとや、如何がせんとて、甲冑兵仗太刀長刀、大衆も法師原(ほふしばら)も有に任て出立つゝ、坂本早尾に充満たり。法皇大に驚き思召(おぼしめし)、公卿殿上人(てんじやうびと)色を失へり。北面の者の中には、黄水を吐者も有けるとかや。懸りしかば法皇還御、重衡卿穴穂の辺に参会て、迎進せて入洛す。大衆平家を亡さんと云も虚言也、平家の大衆を責んと云も実ならず、法皇の御結縁も打醒進せ、山上洛中の騒も不(レ)斜(なのめならず)、よく天狗の荒たるにこそ不思議也。角のみあらんには、御物詣も今は御心に任すまじきやらんと、法皇は御心憂ぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。
P0671
< 養和二年五月二十七日、改元有て寿永と云。>
五月(有朋下P076)十九日、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)光長宣旨を奉て、叡山(えいさん)の悪徒(あくと)永雲、薩摩国に配流、顕真は土佐国へぞ被(レ)遣ける。是は高倉宮(たかくらのみや)の御子、並に伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)が子息を、木曾(きそ)義仲(よしなか)が許へ下し奉りける罪科とぞ聞えける。
同廿七日に改元の定あり、改(二)養和二年(一)為(二)寿永元年(一)。法皇の御気色(おんきしよく)に依て被(レ)行けり。是は或人、夢想(むさう)の告ありける故とぞ聞えける。延喜に公忠の夢想(むさう)に依て忽(たちまち)に改元ありき、例なきに非。今上去々年即位、其年大嘗会(だいじやうゑ)有べき処に、福原に臨幸の間、新都其礼難(レ)被(レ)備ありければ延引しけり。去年は又諒闇(りやうあん)也ければ被(レ)行ず。今年被(レ)遂(レ)行べきに、大嘗会(だいじやうゑ)以前両度の改元、其例審ならずと沙汰有けるに、天智天皇(てんわう)十年に崩じ給しに、天武天皇(てんわう)固辞して即位し給はず、大伴皇子の乱ありて、次年の天武元年七月に彼皇子を被(レ)誅き。同八月に太宰府より三足の赤雀を献ず、仍て年号とす、朱雀是也と左大臣経宗被(レ)申けり。大外記頼業は、白雉を改て白鳳として、十一月に大嘗会(だいじやうゑ)を被(レ)行きと申ければ、忽(たちまち)に改元ありけるとかや。
S2804 宗盛補(二)大臣(一)并(ならびに)拝賀事
寿永元年九月四日、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、大納言(だいなごん)に成返給(たまひ)て、やがて十月三日内大臣(ないだいじん)に成給(たまひ)て、(有朋下P077)大納言(だいなごん)の上搆ワ人を越給(たま)ひき。中にも徳大寺(とくだいじ)の左大臣実定は一の大納言(だいなごん)にて、才学人に勝れ、花族の家に伝(つた)へ給へり。被(レ)越給けるこそ不便なれ。
P0672
七日宗盛卿(むねもりのきやう)兵仗を給はる。十三日には御拝賀あり。当家他家の公卿十二人やりつゞけ、殿上人(てんじやうびと)蔵人已下十六人前駆し給(たまひ)て、我劣らじと綺羅めき給しかば、目出見物也。東国北国の源氏等(げんじら)蜂の如に起て、只今(ただいま)都へ責入んとしけるに、波の立か風の吹かも不(レ)知る体にて、角閑に花やかなるも云甲斐なしとぞ傾申ける。凡て東国北国に限らず、南京北京の大衆、四国九国の住人(ぢゆうにん)、熊野金峯の僧徒、伊勢石清水の神官までも、悉(ことごと)く平家を背き源氏に心を通じければ、四方に宣旨を下し、諸国に勅使を遣せ共、更に不(レ)用(レ)之、宣旨も勅使も、平家の下知とのみ知て、公家の御計と不(レ)思ければ、不(レ)随も理也。同廿二日大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)あり、内大臣(ないだいじん)先著陣の事あり。頭右大弁親宗朝臣、吉書を下して次第の事を被(二)宣下(一)けり。内大臣(ないだいじん)被(二)供奉(一)たりけるに、馬沛艾して、春日大宮にて高くあがりて走廻ければ、路上に下立れたり。見物の貴賎異口同音に称美しけり。実に由々敷ぞ見え給ける。節下の大臣也ければ、礼服をぞ被(レ)著ける。冠際より始て、ねり出られたる臂(ひぢ)持、最故有てぞ見えられける。同廿七日に、内大臣(ないだいじん)直衣始にて被(二)出仕(一)けり。前駆は前安芸守資綱已下八人(はちにん)也。(有朋下P078)何も然るべき輩なりけれ共、多は権威に恐て扈従(こしよう)しけるとぞ聞えし。新中納言知盛、左馬頭(さまのかみ)行盛、束帯にて同被(二)扈従(こしよう)(一)けり。御所々々へ被(レ)参ければ、もてなされ給ける有様(ありさま)、花やかにぞ見え給ける。
同(おなじき)十一月廿五日、紫宸殿にて節会を被(レ)行。大極殿(だいこくでん)焼失の後、いまだ被(二)造出(一)ざりければ、治暦の例に任て、太政官庁にて行るべきにて有けるを、今度既(すで)に御即位の時、高き御座を紫宸殿に立られて被(レ)行ける
P0673
上は、節会又かはるべきに非とて、紫宸殿にて被(レ)行けるとぞ承る。
寿永二年正月一日、節会例の如に被(レ)行けれ共、御忌月に依て主上出御なし。物の音も不(二)吹鳴(一)、国栖の奏もなし。内大臣(ないだいじん)宗盛内弁勧給けり。美貌事柄(ことがら)は生付なれば申に及ず、作法も優に振舞も勝給へり。左大臣に並給へるも目出(めでた)しと人申けり。
三日八条殿の可(レ)有(二)拝礼(一)とて、今朝俄(にはか)に其沙汰あり、鷹司殿の例とかや。内々摂政殿(せつしやうどの)に被(二)仰合(一)ければ、可(レ)然由申させ給ければ也。建礼門院(けんれいもんゐん)は六波羅の池殿に渡らせ給ふ。其御所にて此事あり。申次は左少将清経朝臣、此拝礼の事は、御妹の左衛門督ぞ被(二)申行(一)ける。皇后宮の母后に准へ給ければ拝礼はなし。二条の大宮(おほみや)も、上西門院の母儀に被(レ)准けれども、此事不(レ)被(レ)行。されば八条殿の拝礼さし過てぞ覚るとぞ申ける。宰相入道成頼は世を遁、高野の雲に跡を隠し給たれ共、折節(をりふし)には加様の事(有朋下P079)聞給(たまひ)ては、東国北国も乱たり、諸寺諸山静ならず、懸らず共あらばや、世既(すで)に至極せり、入舞にや。許由が頴川に耳を洗ければ、巣父が牛を陸に上けるも、加様の事に堪ざりけるにこそと、宣(のたま)ひけるこそ恥しけれ。
二月廿日、当今始て朝覲の為に法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸、鳥羽院(とばのゐん)六歳にて始て朝覲の行幸有ける其例也。正月は御忌月也ければ此月に及べり。建礼門院(けんれいもんゐん)夜部此御所へ御幸あり。法皇の御方の御拝の後、女院御方の御拝ありけり。
P0674
S2805 頼朝(よりとも)義仲(よしなか)悪事
三月廿六日(にじふろくにち)に、木曾追討の官軍門出あり。来月九日北国へ下向すべきにて有けるが、今日吉日とて也。同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)に宗盛内大臣(ないだいじん)を辞し申、重任を恐て也。去ども御許なし。八条高倉の亭にて此事あり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠、按察大納言(だいなごん)頼盛(よりもり)、新中納言知盛、左三位中将重衡、右大弁親忠ぞ御座(おはしまし)ける。宗盛は障子の中に居給へり。同年三月の比より兵衛佐(ひやうゑのすけ)と木曾冠者(きそのくわんじや)と中悪き事出来れり。甲斐源氏武田太郎信義が子に、五郎信光が讒言に依てなり。譬へば信光に最愛の女の有けるに、木曾が嫡子清水冠者を聟にとらんと云遣たりければ、木曾無愛に返事する様は、娘持給たらば被(レ)進よ、清水冠者に宮仕はせん、(有朋下P080)妻までの事は不(二)思寄(一)と云たりけるを、信光遺恨に思けり。抑当家は是清和(せいわの)帝(みかど)の後胤、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)三代の孫、伊予守頼義(らいぎ)に三人の子ありき。国家を守らんため、家門の繁昌を思ふ故に、三社の神に進る。所謂(いはゆ)る太郎義家(よしいへ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、二郎義綱賀茂大明神(かものだいみやうじん)、三郎義光新羅権現、木曾は太郎の末、頼義(らいぎ)より五代の孫、信光は三郎末、頼義(らいぎ)より又五代也。信光は甲斐武田の住人(ぢゆうにん)、義仲(よしなか)は信濃木曾に居住せり。一門更に無(二)勝劣(一)、遺恨の木曾が詞也、世の乱なくば打越てこそ怨むべきに、惣事に付て亡さんと思て、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に内々申けるは、木曾(きそ)義仲(よしなか)、去々年越後の城太郎資永を打落てより以来、北陸道を打領じて、其(その)勢(せい)雲霞の如し、今平家誅戮のために上洛の由披露あり、実には小松大臣の女子の十八に成給を、伯父宗盛養子にして木曾を聟にとらんと、忍々に文ども通ずと承る、角して平家と一に成て、当家を亡さんと云梟悪の企あり、不(二)知召(一)もやとぞ申たりける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)大に驚き
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給けり。折節(をりふし)又十郎蔵人行家は兵衛佐(ひやうゑのすけ)には伯父也ければ、大場三郎景親が、平家の儲に造たる松田亭に御座(おはしまし)けるが、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に被(レ)申けるは、行家平家と八箇度合戦して、二度は勝ち六度は負、家子郎等多く被(レ)討ぬ、彼等が孝養をも営まん、何にても一箇国相計給へと。佐殿返事には、頼朝(よりとも)は十箇国をなびかす、木曾は信濃上野の勢を以て、北陸道(有朋下P081)五箇国を靡し侍り、御辺(ごへん)も何れの国にても打靡て、院内へ被(レ)申て、打取の国也とて知行し給へかし、当時頼朝(よりとも)が国奉行は不(二)思寄(一)と被(レ)申たり。行家本意なき事に思て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)憑みては墓々しからじ、木曾を憑まんとて、千余騎(よき)の勢を引具して信濃国(しなののくに)へ越にけり。佐殿是を聞給(たまひ)て、木曾と十郎蔵人と一に成て、義仲(よしなか)平家に親みて頼朝(よりとも)をそむかば、由々敷大事、人に上手せられぬ前に木曾を討んとて、十万余騎(よき)にて打立給ふ。今日は坎日也、如何ん有べきかと評定あり。佐殿宣(のたま)ひけるは、昔頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)、奥州(あうしう)の貞任が小松館を責給ける時、今日往亡日也、明日可(レ)遂(二)合戦(一)かと被(レ)定けるを、武則先例を勘て云、周武王合戦に勝事往亡日を不(レ)避、勇士は以(レ)得(レ)敵為(二)吉日(一)申て、小松館へ押寄て、忽(たちまち)に貞任を誅して勝事をえたりき、況や坎日をや、先規を思ふに吉例也と宣(のたま)ひければ、可(レ)然とて十万余騎(よき)、上野と信濃との境なる、臼井坂をぞ越給ふ。木曾角と聞て、今井樋口等を招集て、此事如何が有べきと問ふ。口々に申けるは、今は別の子細侍まじ、富部太井に城構して支戦はんに、なじかは軍に負べき、はや/\兵を汰へ給へと云。木曾暫く案じて、さらぬだに、源氏は父を殺し親類を亡して世にあらんずる者と人云なるに、平家追討の
P0676
大事を閣て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)と軍するならば、一門の滅亡他人の嘲哢最恥(有朋下P082)とて、木曾は越後へ引退。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、人の穏便を存ぜんに頼朝(よりとも)勝に乗に及ばずとて、鎌倉へ引返し給けるが、武蔵国月田川のはた、青鳥野に陣を取て、天野藤内民部遠景、岡崎四郎義真、二人を召て下知し給けるは、越後へ越て木曾にいはん様は、平家朝威を背き奉り、仏法(ぶつぽふ)を亡に依て、源家同姓の輩に仰て、速に追討すべきの由院宣を被(レ)下訖ぬ、尤夜を以て日に続で、逆臣を討て宸襟を休め奉るべき処に、十郎蔵人私の謀叛を起し、頼朝(よりとも)追討之企ありと聞ゆ、而るを彼人に同心して扶持し被(レ)置之条、且は一門の不合、且は平家の嘲也、但し御所存を不(レ)弁、もし異なる子細なくば、速に十郎蔵人を被(レ)出歟、それさもなくば、美妙水殿を是へ渡し給へ、父子之儀をなし奉るべし、両条之内一も承引なくんば、兵を指遣して誅し奉るべしと慥に云べしとて使にさゝれたり。若面に負て委いはぬ事もぞ有とて、副使に安達新三郎清経を指遣す。岡崎四郎藤内民部、越後に行向て兵衛佐(ひやうゑのすけ)の被(レ)申旨、憚処なく風情に過て申たり。木曾此事を聞て、郎等共(らうどうども)を招集て評定あり。小室太郎が儀には、先度の穏便今更変改有べからず、若承引なくんば東国北国の大合戦、軍兵数尽て、朝敵追討に力あるまじ、本より御意趣なき上は、早く御曹司を渡し奉るべきかと申。今井四郎兼平が儀には、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)と終に御中よかるまじ、故(有朋下P083)帯刀先生殿をば悪源太殿討給ぬ、意趣定て御座らんと佐殿も思召(おぼしめす)らん、幼き御曹司を他所に奉(レ)置て、所々にて思召(おぼしめさ)んも心苦し、平家を討んと云も御家門の為也、只一度に思召(おぼしめし)切て兎(と)も角(かく)も成
P0677
給へと申。此御曹司と申は、今井四郎兼平が妹の腹也けり。去ば木曾が為には、乳人子(めのとご)を思て儲たる子、生年十一にぞ成ける。義仲(よしなか)案じて、小室太郎は今参り、心も剛に計ひよし、多勢の者にて中違はじと申処も理也と思ければ、子息の清水を呼で、己をば兵衛佐(ひやうゑのすけ)の子にせんと宣へば遣す也、相構て悪れずして、一方の固め共なれといはれければ、清水冠者返事をばせず、畏て父の前を立、母や乳母(めのと)の方にて、我をば鎌倉へ被(レ)遣候、帰参らん程の形見にとて、笠懸を七番射て見せ奉ければ、女房達(にようばうたち)是を最後とや思けん、涙ぐみてぞ見合れける。木曾は兵衛佐(ひやうゑのすけ)の使に出合、酒すゝめ馬引などして、種々に翫し饗応せられけり。返事には、十郎蔵人に意趣御座(おはし)ましけん事は不(二)存知(一)、又呼越たる事もなし、打憑見え来給たれば、只自然の情を存る計に候、誠に平家追討の大事を閣て、何の遺恨ありてか謀叛の企あるべき、人の讒言に侍か、信用に及べからず、又清水冠者事は、未東西不覚の者候、仰を蒙て進せねば所存を籠たるに似たり、召に随て是を進す、不便にこそ思召(おぼしめさ)れめ、義仲(よしなか)角て候へば、一方の固めには憑思召(おぼしめす)べ(有朋下P084)しとて、清水殿をば岡崎四郎藤内民部に渡しけり。両使畏て鎌倉へ相具し奉る。宇野太郎行氏とて、美妙水冠者と同年に成りけるをぞ伴には具して遣しける。木曾は宗徒の郎等三十(さんじふ)余人(よにん)が妻を召て、美妙水冠者をば、汝等(なんぢら)が夫の身替に鎌倉へ遣しぬ、若冠者惜むならば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)、東国の家人催集て可(二)推寄(一)、両陣矢さきを合せば共に可(二)討死(一)、世中を鎮んとの計ひにて冠者をば兵衛佐(ひやうゑのすけ)に渡ぬと宣へば、女房共皆涙を流しつゝ、穴目出の御計や、加程に思召(おぼしめす)主君の御恩を忘れ
P0678
奉て、妻子悲しとて、何くの浦よりも落来夫共には面を合せじ、ちゝの社の前渡せし、照日月の下に住まじと、各起請を書て、木曾殿(きそどの)にぞ進する。
S2806 源氏追討使事
寿永二年四月十七日(じふしちにち)、木曾追討の為に官兵北国に発向。其より東国に責入て頼朝(よりとも)を誅すべしと聞ゆ。大将軍には権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度、左馬頭(さまのかみ)行盛、参河守知度、但馬守経正、淡路守清房、讃岐守維時、刑部大輔度盛、侍大将には、越中前司盛俊、子息太郎判官盛綱、同次郎兵衛尉盛嗣、上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、子息五郎兵衛(有朋下P085)尉忠光、七郎兵衛景清、飛騨判官景家(かげいへ)、子息大夫判官(たいふはんぐわん)景高、上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国以下、受領検非違使(けんびゐし)、靱負尉、兵衛尉、有官輩三百四十余人(よにん)、武勇に携る者は、大略数を尽して下し遣す。此外畿内は、山城、大和、摂津国(つのくに)、河内、和泉(いづみ)、紀伊国の兵共(つはものども)、去年より被(二)催上(一)たり。東海道には遠江以東は不(レ)参。伊賀、伊勢、尾張、参河の輩は当参、近江、美濃、飛騨、三箇国の兵、少々参。北陸道には、若狭以北之者は不参。山陰道(せんいんだう)には、但馬、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見、山陽、南海、西海、四国の者は不参。西国(さいこく)には、播磨、美作(みまさか)、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、豊前、豊後、筑前、筑後、大隈、薩摩、此国々の者共は、去年の冬より被(二)召上(一)、年明ば馬の草飼に付て、合戦有べきと被(二)相議(一)たりければ、加様に夏に成てぞ打立ける。著到披見之処に、其(その)勢(せい)十万余騎(よき)、大将軍六人、宗徒の侍二十余人(よにん)、先陣後陣を定め、我先々々と、思々に駒を早めて下けり。中にも武蔵国住人(ぢゆうにん)長井(ながゐの)
P0679
斎藤別当実盛は、本加賀国の者にて、今度は殊に勇て下けり。神功皇后(じんぐうくわうごう)より以来、天下に丞相の合戦廿三箇度(にじふさんがど)也。十万余騎(よき)の軍兵の一方にすゝむ諍は、此度共に七箇度也。去共大将の六人まで打立事は一度もなし。而に六人将軍、十万余騎(よき)を率して洛中を被(レ)出ければ、異国は知らず、(有朋下P086)日本(につぽん)我朝には何者(なにもの)か手向すべき、源氏等(げんじら)憖(なまじひ)に此度乱を起し、今度ぞ跡形なく滅び終なんずる、穴ゆゝしの事やとぞ京中の上下■(ののしり)ける。六人の大将軍、各一色に装束して打出給へり。蜀江の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、金銀の金物色々に打くゝみたる冑著て、対面のためなれば甲をも著給ず、大中黒の矢に滋籐の弓持て、雪よりも白かりける葦毛の馬に、螺鈿の鞍置て乗給へり。各聞えける合戦の道の出立は、冥途の旅の出立也、再び帰参て見参に入らん事有難し、今朝面々の暇は申ぬ、大臣殿に最後の暇申さんとて、六人馬の轡を並て西八条(にしはつでう)の南庭に列参し給へり。女房男房、各或は御簾すだれを■(かか)げ、或は縁中門にたゝずみて見給(たま)ひけり。容顔美麗の気色、馬鞍錦繍の有様(ありさま)は、丹師が筆も及ばじとぞ上下男女褒美しける。盛俊已下の侍共は、馬より下て鎧の袖を合て庭上に気色せり。如(レ)此次第の礼儀良久敬屈して、暇申て打出給ふ処に、白浄衣に立烏帽子(たてえぼし)著たる老翁六人、梅の■(ずはえ)に巻数付て、各捧て六人の大将軍に奉る。門出よしとて弓を脇に挟つゝ、各巻数を披て読給けるぞ面白き。
第一維盛卿 堯雨斜灑 平家平(レ)国 頓河餓流 源子失(レ)源 厳島明神(いつくしまのみやうじん)より  権亮三位中将殿(ごんのすけさんみのちゆうじやうどの)
と書れたり。(有朋下P087)
P0680
第二通盛卿 平家庭上 立(二)不老門(一) 源氏蓬苑 放(二)毒箭鏑(一) 厳島明神(いつくしまのみやうじん)  越前三位殿(さんみどの)と書れたり。
第三行盛朝臣 東海栄花 開(二)平家園(一) 厳島神風 破(二)源氏家(一) 厳島明神(いつくしまのみやうじん) 左馬頭殿(さまのかみどの)
第四知度朝臣 平家繁昌 白駒■(さんず)(レ)庭 源氏衰浪 漁翁失(レ)船 厳島明神(いつくしまのみやうじん) 参河守殿
第五経正朝臣 日本(につぽん)放(レ)日 平家余風 太白犯(レ)星 源氏物怪 厳島明神(いつくしまのみやうじん) 但馬守殿
第六清房朝臣 平家如(レ)王 源氏能敬 源氏似(レ)鼓 平家打(レ)之 厳島明神(いつくしまのみやうじん) 淡路守殿とぞ侍りける。六人各馬より下て再拝し給(たま)ひけるぞ目出(めでた)き。馬引給はんとしけるに、翁は化して失にけり。是は実の厳島明神(いつくしまのみやうじん)の、厳重の御示現希代の不思議也。明神(みやうじん)これ程御託宣(ごたくせん)の上は、平家繁昌源氏衰滅の条疑あらじとこそ悦あへりけれ。後に聞えけるは、彼厳島の神主、平家を奉(レ)祈志心中に深して、合戦の門出を奉(レ)祝作事にてぞ有ける。縦へば、正月元日元三に長生殿裏不老門前と祈れ共、齢は日にそへて衰へ命は忽(たちまち)に止る、嘉辰令月歓無(レ)極と祝へ共、福幸もさまでなし、思歎ことは日々に増るが如し。万事は皆春の夜の夢也、諸法は只先世の果報なるべし、祈れ共其れにもよらず、祝へ共叶はぬは此我等(われら)が有様(ありさま)也。抑第一維盛の巻数の詞に、頓河俄(にはか)に流て源子失(レ)源と申心(有朋下P088)は、唐土の清涼山の北の麓に、大河俄(にはか)に流たり、是を頓河と名く。釣を垂る翁ありき、其名を源子と云けり。件の河の俄(にはか)に流出たるに驚て、尋入て見れば、変化の者の化したる河にて跡形なく失にけり。彼河の源の無が如くに、此源氏の世も絶ぬべしと咒咀の心を表して、源子失(レ)源と書たりけるとかや。平氏繁昌源家
P0681
滅亡と祈しかども、先途通らずや有けん。
片路を給(たまひ)て、権門勢家の正税(しやうぜい)、年貢、神社仏寺の供料供米奪取ければ、路次の狼藉不(レ)斜(なのめならず)、在々所々を追捕しければ、家々門々安堵の者なし。近江の湖を隔て東西より下る。粟津原、勢多の橋、野路の宿、野州の河原、鏡山に打向、駒を早むる人もあり。山田矢走の渡して、志那今浜を浦伝ひ、船に竿さす者もあり。西路には大津、三井寺(みゐでら)、片田浦、比良、高島、木津の宿、今津、海津を打過て、荒乳の中山に懸つて、天熊国境、匹壇、三口行越て、敦賀津に著にけり。其より井河坂原、木辺山を打登、新道に懸て還山まで連たり。東路には、片山、春の浦、塩津宿を打過て、能美越、中河、虎杖崩より、還山へぞ打合たる。軍兵十万余騎(よき)北国に下向と聞えければ、木曾、我身は越後国府に在ながら、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)に、仁科太郎守弘、加賀国住人(ぢゆうにん)、林六郎光明、倉光三郎成澄、匹田二郎俊平、子息小太郎俊弘、近江国住人(ぢゆうにん)甲賀入道成覚等を大将として、燧城へ指遣。其(その)勢(せい)追継々々追継(有朋下P089)に、越前国府、大塩、脇本、鯖波の宿、柚尾坂、今城までぞ連たる。陣をば柚尾の峠にとり、城をば燧に構たり。平泉寺の長史斉明は、木曾が下知に随て、門徒(もんと)の大衆駈催し、一千(いつせん)余騎(よき)にて大野郡を打過て、池田越に燧城に楯籠。抑此城と云は、南は荒乳の中山を境て、虎杖崩能美山、近江の湖の北の端也。塩津朝妻の浜に連たり。北は柚尾坂、藤勝寺、淵谷、木辺峠と一也。東は還山の麓より、長山遥(はるか)に重て越の白峯に連たり。西は海路新道水津浦、三国の湊を境たる所也。海山遠打廻、越路遥(はるか)に見え渡る、磐石高聳挙て、四方
P0682
の峯を連たれば、北陸道第一の城郭(じやうくわく)也。還山の麓、西は経尾と名け東は鼓岡と云、其間二町には不(レ)過。南より北へ流たる山河あり、日野河と名く。能美新道の二の谷河の落合也。左右の山近所なれば大木を倒しがらみをかき、大石を重て水を堰留たれば、彼方此方の岡を浸、今城柚尾の大道を、平押にこそ湛たれ。水南山の陰を浸して青くして滉瀁たり。波西日の光を沈て紅にして■淪(いんりん)たり。彼無熱池の渚(なぎさ)には、金の砂を敷て八功徳水を湛へ、昆明池の間には、徳政の船を浮て八重の波に遊けり。燧城のしつらひは、大石を重て水をよどみ、大木を横て流を築籠たれば、遥(はるか)に見渡して湖の如し。船なくしては難(レ)渡かりければ、平家の軍兵は、能美新道の境なる岩神山(有朋下P090)に陣をとる。源氏は柚尾坂、鼓岡、燧山に陣をとる。両陣海を阻て支へたり。相去事三町(さんちやう)には過ざりけれ共、輙く落し難ければ、徒に日数を遂て評定様々也。
S2807 経正竹生島詣并(ならびに)仙童琵琶事
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛の子息に、但馬守経正は、詩歌管絃に長じ給へる上情深き人にて、懸る乱の中にも心を澄しつゝ、湖水遥(はるか)に見渡し給(たま)ひ、南海遠く詠れば、沖の波間に小島あり。藤九郎有教を召て、彼はいづくぞと問給ふ。彼こそ竹生島とて貴き霊地にて御座(おはしまし)候へと申。やゝ猿事あり、未(レ)拝所也、且は為(二)結縁(一)、且は祈誓のために参らんとて、郎等四五人相具し、海津浦より小船に乗、忍て参給(たま)ひけり。比は卯月の廿日余(あまり)の事なれば、比良の高峰の山おろし、さゞ波わたる海上に、はる/゛\と船は漕行ども、跡は波にぞ消にける。青葉に見ゆる木本に、春より影や茂らん澗谷の鶯声老て、初音床敷
P0683
杜鵑旅の心を慰めり。急ぎ船より下給(たま)ひ、此島を見給へば、軒を並べる禅坊に読誦(どくじゆ)の音幽に、老を伴高僧、薫修の衣も香し。或は秘密瑜伽(ゆが)の道場あり、或は止観円実の学窓あり。空に昇る香煙は、孤島の霞とあやまたる。海に流るゝ供花は、一葉(いちえふ)の船と云つべし。海漫々と(有朋下P091)して直下と見下せば底もなし、雲の波煙の波に紛つゝ、深水最幽也。昔秦皇漢武の、不死の薬を採んとて、方士を使に遣はして蓬莱を求しに、蓬莱を見ずばいなや帰らじと云ける童男丱女は徒に舟の中にや老にけん。茫茫たる天水、角やと覚て面白や。或経云、南閻浮提(なんゑんぶだい)の中に湖海あり、海の中に有(二)水晶輪山(一)、即天女の所住也と説るゝは此島の事也。金輪際より出生せる故に、劫火の焚焼にも壊乱せず、近くは慈尊の出世を待、遠くは三世に動転なしとかや。天女と申は即大弁才功徳天女是也。此往古の如来(によらい)法身の大士也。紫磨の姿を隠して和光(わくわう)の道に出給。仮に端厳の女身を荘て、能美妙の音楽を調ぶ。左の掌を舒ては三昧の琵琶を懐き、右の手を動しては四絃の呂律を調ぶ。故に此天をば美音天女とも名、妙音楽天とも申す也。降魔の大将としては、居を西北に卜、弓箭の棟梁としては威を東南に振ひ給へり。衆生利益のためにとや、此島に跡を垂る。神徳殊に厳重也、眺望も又殊勝也。昔都良香と云し人此島に詣つゝ、湖水遥(はるか)に見渡して、三千世界は眼の前に尽ぬと詠じ給たりければ、権現忽(たちまち)に、十二因縁は心中空と付給たりけるも、いちじるくぞ貴き。経正御前に参給(たま)ひ終夜祈誓して、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)弁才天女、機感相交て再拝時至れり、我として深く神徳を仰ぐ、神として必我願を守り、
P0684
怨敵を眼前に(有朋下P092)挿絵(有朋下P093)挿絵(有朋下P094)退て、皇威を海内に照さしめ給へ、本地の悲願を思へば四弁才大士也。垂跡(すいしやく)の効験を訪へば、一陰陽の明神(みやうじん)也、懇祈心に満冥覧掌に在と、心計に祈給(たま)ひ、初には法施を奉りけるが、暁懸て出る月湖水の波に漂、霜置夏の曙社壇の砌(みぎり)に耀きけり。岩越浪の音すごく、松吹風も身に冷じ。何事に付ても物哀に覚えつゝ、最心澄給ければ、賢くぞ此島に渡り、神に契を結び奉りけるとおぼして、傍の僧を招き給、神明法楽の御為に一曲を弾ぜん、仙童の琵琶取出なんと宣へば、いと安き事也とて、僧琵琶を懐て但馬守の前に閣く。経正掻寄給(たまひ)て、楽二つ三つ弾じて後に、上玄石上と云秘曲を弾じ給ふ。諸僧耳を欹て、感涙袖を絞りけり。天女納受(なふじゆ)し給(たまひ)て、社壇の上より白き狐出来、庭上に遊て但馬守の方を守けるこそ不思議なれ。経正は琵琶を閣て、神明の化現と忝(かたじけな)く思給ければ、諸願成就(じやうじゆ)疑なし、和光(わくわう)利物の夏衣、思立けるうれしさよ。
  千早振神に祈のかなへばや白くも色のあらはれにけり K142
とぞ詠じ給へり。其後狐こう/\鳴て、社の後へ隠にけり。
 < 抑仙童の琵琶と云は、昔興福寺(こうぶくじ)の興静僧都(そうづ)の弟子に、松室の仲算とて学生ありき。竪浄戒を持て、広く諸宗に亘る。或(ある)時(とき)一人の児童来て同宿せんと望む。仲算問云、汝何人ぞ、何れの所より来れるぞと云。(有朋下P095)児答て云、我は北嶺叡山(えいさん)にありき。彼山常に物騒して、閑居の栖に非ず、願は禅房に居宿して、静に法華経(ほけきやう)を読誦(どくじゆ)せんと云ければ、許して是を置。容貌優美にして百の媚外に顕れ、心操落居して柔和を性に備たり。必学問を不好、専法華を読誦(どくじゆ)す。仲算愛念して他事を忘たり。殆学業に怠り
P0685
あるが如し。諸僧来集して遊宴するに、人の心を破らざれども深く思へる色あり。三箇年をへて後、八月十五日の明月に、〔終〕夜(よもすがら)意を澄して偏(ひとへ)に経をよみ、坊中に経行して、暁に望で行方を不(レ)知。仲算心労して、東西山里馳求ども不得、正に寝食を忘て万事忙然たり。一寺の歎大衆の愁也。年月をへて後、仲算春日社に詣つ。途中に老人有て云、我は是南山の膺夫樵蘇の野人也。宿縁に被(レ)催て一の草堂を構たり、願は禅下、臨行して供養の蓄念を果し給へと。仲算領状して日時を契て、吉野奥に行て法会を遂畢ぬ。夜深人定て、檀越を呼て語て云、我に童児ありき、其性明敏にして情尋常に越たり、不(レ)計に坊中を出て、行方をしらず、恋慕時を遂て惣て忘るる思なし、彼児怱々を厭て閑居を欣、心を澄して法花を誦す、而るに当山を見るに、石巌高峙て、嶺松鬱茂也、彼児の意に相叶ふべき砌(みぎり)也、高峯深谷と云とも相尋んと思ふと云。檀越語て云、我去年弓木をきらんが為に此山に入き、音声和に聞えて、経をよむ音(有朋下P096)あり、怪て声を趁て行に、巌の上に松あり、此下に児あり、奇形妙なる粧、敢て人類にひとしからず、宴座して経を誦す、目を合て是を見るに、暫く有て跡を消す、若如(レ)此人歟と。仲算聞敢ず、悲歎鳴咽して涙を流して云、師檀の儀は多劫の契り、乃至成仏(じやうぶつ)までに互に行化を助く、願は我共に彼所に行て其跡を見ん、生々の広恩偏(ひとへ)に此事に有べしと。檀越憐を発して仲算と相共に山に入、千仭の谷より登、万丈の峯より下て、其所に至る事一日二夜、檀越をしへて此所也と云。奇き石峙て狐松一株あり、眺望四方に晴て雲霞腰を廻れり。誠に霊神遊興の砌(みぎり)、故仙経行の境と見えたり。仲算岩の上、松の本に伏倒て祈誓して云、我四十余年の修学、全名利の為に非ず、但恨くは妄執を児童に残して、忘んとすれば弥思を増、思ば又身心苦し、七堂の三宝四所明神(みやうじん)、憐を垂て我念を知見証明し給へ、縦身命を此みぎりに捨て、永く骸を守る鬼とは成とも、今度此児に合ずんば本寺に帰らじ、大小乗の修学、一句偈の薫修、併我児
P0686
に廻向す、一時一節(ひとふし)の程也とも、必声を聞形を見せ給へ、永き妄念を起て、再び悪趣に入ん事如何せんとて、唯識の要文を誦し、法華の第八(だいはち)を読。祈念誠を顕し、三宝哀とおぼしけるにや、巌の上、松の間に児童の貌顕たり。髣髴たる事、明月の薄雲を隔たるが如く、飄■(へうえう)する事、紅花(有朋下P097)の旋風に翻に似たり。窈窕たる粧、柔和の詞を以仲算に語て云、
往縁(レ)有(レ)契、参(二)入禅室(一)、宿善相催、幸聞(二)妙法(一)、我常思(二)念紅栄黄落(一)夢中盛衰、草露風葉旦暮難(レ)期、終錯花仏教(一)、得度在(二)此時(一)、行往座臥、欲(レ)出(二)火宅(一)、千部功績、羽化既生、仏法(ぶつぽふ)恩深、恒沙非(レ)譬(二)師訓徳厚(一)、塵劫何酬、須(下)詣(二)禅室(一)、待(中)和尚(くわしやう)足下(上)、丹竃道成(二)人間(一)隔(レ)境、故師資失(レ)礼、願垂(二)宥容(一)矣、重乞請云、御教訓経、時々不(レ)審、再聞(二)御読誦(おんどくじゆ)(一)、重明(二)参差(一)、仲算云、老衰音咽、読誦(どくじゆ)聞倦、唯卿誦経、頗糺(二)参差(一)、師弟互譲、再三往復、仙童随(二)師命(一)誦(レ)経、其為(レ)体、青嵐紅林を吹聴(二)第五の絃(一)曲を弾ずるが如く、琴松に頻伽囀、波七菩提の岸を打に似たり。読誦(どくじゆ)雲に聞えて随喜の涙を雨、経已(すで)に畢。仲算涙を抑て云、陀羅尼品に両の字差と。仙童云、諸山同疑へり、不審忽(たちまち)に散ぬと。今は互に別去なんとす。仲算今更歎の増りつゝ、思しよりも最哀。仙童其心を休んと思て云、我毎年暮春十八日(じふはちにち)に、五百の群仙と江州(がうしう)竹生島に集て、三箇日夜宴会あり、不肖の身、苟も員外に列れり、今年三月は琵琶の役に相当れり、冀禅下、琵琶を給(たまひ)て其の役を勤めんと云。仲算云、其事易にあり、但如何が送奉らんと云。仙即悦べる色ありて云く、十八日(じふはちにち)より前十五日の夜、禅房に参じて給べし、件の夜、房中の人を出して雑穢を掃除し、縁の前に香花を焼(有朋下P098)て、深更に至るまでに静に相待給へと懇に語て、仙童雲霞と化して失にけり。仲算泣々(なくなく)袖を絞て本寺に還、恋慕日に増して、懐旧肝を砕。暮春三の夜を相待処に、朧々として無(二)片雲(一)、香煙青天に通ずる時、奇雲一叢軒端に覆て、雲の中に紫蓋をさせり。仲算琵琶を懐て庭上に投たりければ、雲おりて琵琶を巻取て空に登畢ぬ。仲算其影を追て竹生島に
P0687
詣つ。十八日(じふはちにち)の夜深更に及、船を沖の浪に浮べて、眼を戴て瑞雲を守る、彩雲色々にして青天に星馳、笙歌声々にして蒼海波静也。仲算琵琶の音を聞て、頗哀惜の思を成す。時に雲晴音止て、琵琶を船の中に投入たり。仲算虚き琵琶を懐て、声を挙て叫けり。終に其琵琶を持て、竹生島の大明神(だいみやうじん)に奉て、泣々(なくなく)本寺に帰り給ぬ。
琵琶もいみじき名物也。楽も目出(めでた)き秘曲也。主も究竟の上手也。明神(みやうじん)納受(なふじゆ)し給へば、霊瑞更に新なり。未憑もしくおぼしけるに、夜も既(すで)に明なんとす。名残(なごり)は旁た惜けれ共、経正は燧が城も覚束(おぼつか)なしとて郎等共(らうどうども)をば相具して、沖の波を漕分て、海津浦へぞ著にける。>
S2808 斉明射(二)蟇目(一)事
但馬守経正の祈誓の験しにや、源氏の大将に憑たる斉明倩案じけるは、平家は聞体十万(有朋下P099)余騎(よき)、木曾は僅(わづか)に十分が一、されば軍に負て、平家に生捕られ奉て憂目を見んよりも、返忠して平家に力をそへんと思ふ心ぞ付にける。薄き切紙に細々と状を書て、蟇目の中に入て平家の陣へ射渡したり。平家は此蟇目の鳴ぬ事こそ恠しけれとて、取上見れば中に切紙の文あり。披て是を見るに云、源平の合戦に依て、意ならず木曾が為に駈催されて此城に籠て候。身は源氏に加て心は平家に通、此城難所に非ず、谷川を塞で下に堤を築、しがらみを掻水を関止たれば、東西の山の根に湛て海の如く見ゆれ共、夜に入て、水に心得(こころえ)たらん足軽共を東の山の根へ指遣して、しがらみを切下ならば、山川の習にて、水は程なく旱落候べし、其後案内者して後矢仕るべし、是は越前国平泉寺の長吏斉明が申状也とぞ書たりける。平家大に悦て、夜に入て足軽共を廻して、大石を崩し除けしがらみ
P0688
を切流す。夥(おびたた)しく見えける海なれ共、山川なれば水は程なく落にけり。
S2809 源氏落(二)燧城(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕二十七日(にじふしちにち)に、平家十万余騎(よき)時を造て推寄たり。源氏時を合て戦ふ処に、斉明急に心替して、一千(いつせん)余騎(よき)を引分て平家に付、忠を尽して後箭を射る。源氏不(レ)堪して引退き、(有朋下P100)越前国河上城に立籠る。平家は斉明を先として河上城へ推よす。源氏暫し支て戦けれ共、兵糧なかりければ、爰を引て三条野に陣をとる。平家勝に乗て推よす。両陣時の音を不(レ)合、源氏は寄手の時の音を待兼ねて、加賀国住人(ぢゆうにん)林六郎光明が嫡子に、今城寺太郎光平と云者あり。褐の直垂に、袖をば紺地の錦を付たりけり。紫糸威の鎧に、大中黒の矢頭高に負、重藤の弓真中取、八寸に余たる大栗毛と云馬に、白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。此馬きはめて口強して、国中(こくぢゆう)には乗随る者なし。林六郎光明が郎等に、六動太郎光景と云者計ぞ乗従へける。今度も光景をのすべかりけるを、打出んとての時、光平父に逢て、今度は大栗毛に乗て軍に出んと云。父光明此言を聞て、弓取は口の強き馬に乗ては必犬死する事あり、不(レ)可(レ)有(レ)事也、光景を乗せよと云けれ共、光平は、弓矢取身は軍場こそ晴にて候へ、此日比(ひごろ)労り飼置て、此大事にのらではいつか乗べきとて、父が誡にも随はず、押て乗て打出つゝ、皆紅の扇に月出したるを披きつかひて、坂上の利仁公より六代の孫、加州住人(ぢゆうにん)林六郎光明が嫡子、今城寺太郎光平と名乗て、我と思はん平家の侍共、押並て組や/\と云。平家是を聞て時をつくる。源氏時の音を合たり。源平の馬共、時の音に驚て馳廻らんとする事夥(おびたた)し。中にも光平が大栗毛、国中(こくぢゆう)第一の口(有朋下P101)つよき馬なれば、
P0689
引共々々留らず、今は叶はじとて手綱をくれてぞ馳入たる。平家馬にあたらじとて、左右へさとぞ引たりける。馬も究竟の逸物、主もいみじく乗たれば、敵も御方も軍の事をば閣て、此馬をこそ誉たりけれ。獅子奮迅の振舞、竜馬酔象の有様(ありさま)、穆王八匹の天馬の駒、角やとぞ見えける。爰(ここ)に平家の侍、武蔵国住人(ぢゆうにん)長井(ながゐ)の斎藤別当真盛進出て思けるは、加賀国には誠に此者共こそあるらめ、彼も斎藤我も斉藤、共に利仁公の末葉也、恥ある者は名ある者に逢てこそ死ぬるとも死なめ、況一門也、押並て組ばやと思、手縄かいくりて進より、同流の斎藤に、別当真盛と名乗て、弓を捨て、太刀の鞘をはづして打組処に、馬の間無下に近て打物ちがふべき様なければ、押並てひ組で、馬の間へどうど落、上になり下になり、二ころび三ころびしたりけれ共、光平は若く真盛は老たり、既別当危見えけるに、郎等二人落合て光平が頸を切。光平が郎等は押隔られて、一人もつゞかざりければ、犬死して失にけり。馬は敵の中より走帰けれ共、留る者はなし。親が云ける言少も違はざりけり。父の命に相随ひたりせば、角はよも犬死にはせじと、人皆是を惜みけり。
源氏は、矢合に光平を討して三条野を引、平家又続て責懸ければ、源氏は引退て、加賀国篠原の宿に陣をとる。平家は越前国長畝城に籠て、暫く(有朋下P102)息を休めけり。越中国(ゑつちゆうのくにの)住人(ぢゆうにん)、石黒太郎光弘、高楯二郎光延、泉三郎、福満五郎、千国太郎真高、向田二郎村高、水巻四郎安高、同小太郎安経、中村太郎忠直、福田二郎範高、吉田四郎、賀茂島七郎、宮崎太郎、南保二郎、入前小太郎など、評定
P0690
しけるは、抑此事如何が有べき、源氏は越前国燧城を落されて、既(すで)に加賀国へ入と聞、木曾殿(きそどの)は北国の大将として攻上り給なるが、越後国府に御座也、平家に懸向て一軍して引べき歟、只直に木曾殿(きそどの)へ参べきかと云。吉田四郎申けるは、我等(われら)は無勢也、平家は十万余騎(よき)と聞ゆ、中々小勢の分限見えても悪かりなん、急木曾殿(きそどの)へ馳参、大勢の前を蒐べきやらんと云。石黒太郎申けるは、弓箭とる身は猿事なし、大勢小勢をば云べからず、如何にも御方を後に当て、敵に向は武者の法也、軍せずして参たらば、定て尋給はんずらん、勢は幾等程ぞ、陣をば何に取たるぞ、御方には誰が手負討れたるなど問れん時は、如何が陣じ申べきなれば、大将軍の思ひ給はん事も云甲斐なし、又東国の聞えも然べからず、さらば先平家に打向て、敵をも一矢射、我等(われら)も一矢射られて、疵を蒙て参たらんこそ面目なれと云ければ、此儀可(レ)然、さらば平家に向へとて、石黒宮崎を先として、五百(ごひやく)余騎(よき)こそ打立けれ。(有朋下P103)
S2810 北国所々合戦事
〔斯りしかば、〕五月二日平家は越前国を打随へ、長畝城を立、斉明を先として加賀国へ乱入。源氏は篠原に城郭(じやうくわく)を構て有けれ共、大勢打向ければ堪ずして、佐見、白江、成合の池打過て、安宅の渡、住吉(すみよし)浜に引退て陣を取。平家勝に乗り、隙をあらすな者共とて攻懸たり。其(その)勢(せい)山野に充満せり。先陣は安宅につけば、後陣は黒崎、橋立、追塩、塩越、熊坂山、蓮浦、牛山が原まで列たり。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛已下、宗徒の人々一万(いちまん)余騎(よき)、篠原の宿に引へたり。越中、加賀、両国の兵共(つはものども)、安宅渡に馳集り、橋板三間引落し、城を構垣楯を掻平家を待処に、越中前司盛俊が一党五千(ごせん)余騎(よき)、安宅の渡に押寄見れば、橋板は引たり
P0691
水は深し、南の岸に引へたり。源平川を隔て只遠矢に射る。日数をへる共落すべき様なし。盛俊子息の盛綱を招て、あの渚(なぎさ)は波に碾れて浅かるらん者を、打下て見よと云。盛綱即打下て馬を打入て見れば、実も流るゝ砂磯打浪に碾れて、思ひしよりも浅かりけり。打返して、水は浅く侍けり、被(レ)渡候へと申せば、盛俊打浸々々渡す。源氏是を見て、あはや平家は渚(なぎさ)を渡せば、陸へ上立ずして河中に射浸よ者共とて、一千(いつせん)余騎(よき)轡並て、(有朋下P104)引取、差詰、散々(さんざん)に射。平家の先陣三百(さんびやく)余騎(よき)、河中に被(二)射浸(一)て、海の中へ被(二)押流(一)。水巻の四郎安高此様を見て、父子六騎勇をめきて、馬を水に打入て散々(さんざん)に戦ふ。飛騨守景家(かげいへ)が一党の中に被(二)取籠(一)、三騎討れて、三騎は手負て引退。石黒太郎兄弟五騎(ごき)、馬の鼻をならべて、太腹際打入て散々(さんざん)に射。越中前司盛俊、大の中差取て番て、能引て兵と射、其矢石黒太郎にしたゝかに中る。暫しもたまらず、水の上にざぶと落、舎弟(しやてい)福満五郎打寄て、水中より引上て肩に引懸、朴坂越に石黒に帰て、灸治よくして、又十日ばかり有て都波の軍に値たりけるこそ由々敷剛者とは覚たれ。林、富樫、下田、倉光も大勢に被(二)蒐立(一)て、安宅城をも引退。加賀国住人(ぢゆうにん)井家二郎範方、十七騎の勢にて根上の松の程まで返合々々、十一度まで散々(さんざん)に戦けるが、大勢に被(二)取籠(一)て、範方終に討れにけり。根上の松と云所は、東は沼西は海、道狭して分内なし。源氏数を尽して亡べかりけるに、井家二郎返合々々戦ける間に、希有にして落延ぬ。富樫次郎家経は、黒糸威(くろいとをどし)の鎧に、鴾毛の馬にぞ乗たりける。三十(さんじふ)余騎(よき)にて落けるが、郎等共(らうどうども)に防ぎ矢射させて、引返々々戦ける程に、馬の太腹
P0692
を射させて■(ひき)落さる。富樫が外戚の甥に安江二郎盛高と云者あり。続て落けるを見て、如何に安江殿、家経馬を射させたり、乗つべき馬や侍と(有朋下P105)いへば、名をば誰ともさゝず、四五騎(しごき)有ける郎等に向て、大様々々と其馬進せよとて落行けり。今参に新三郎家員と云者、我が乗たりける鹿毛なる馬の逸物なりけるより飛下て、後の奉公に立給べしとて、富樫介を掻のせたりければ、北をさして落行ぬ。家員が馬なくば、家経危ぞ見えける。源氏は安宅の湊よりおちて、今湊、藤塚、小河、浜倉部、双河打過て、大野庄に陣をとる。平家は林富樫が館に打入て、暫爰(ここ)に休居たり。是より飛脚を都へ立。平家の一門馳集て状を披に云、四月廿七日に、越前国燧城にて、当国平泉寺長吏斉明降人に参す、即先陣を申請て案内者して当国の輩を打随ふ。五月二日、加賀国へ乱入処に、源氏の軍兵、安宅の渡に城郭(じやうくわく)を構といへ共、彼をも攻落畢、林富樫が二箇所の城(じやう)を打落ぬれば、北国は今は手の内と可(レ)被(二)思召(一)(おぼしめさるべし)と申上たりければ、平家の一門大に悦■(ののしり)けり。角て暫加賀国を靡て安堵したりけり。源氏は木曾殿(きそどの)へ早馬を立、燧城をば斉明が返忠にて被(二)責落(一)、所々にて討負て加賀国へ引、安宅の城(じやう)にて御方の兵多討れて、林、富樫が党類も被(二)打落(一)ぬ、急勢を付らるべしとぞ申遣ける。斉明は黒糸威(くろいとをどし)の腹巻に、長刀脇に挟て、三位中将の前に跪て申けるは、木曾は此間、越後国府にと承、御方軍に勝て、越前加賀を従へさせ給候ぬれば、早馬立て打上り侍らんと存候。越中(有朋下P106)越後の境に寒原と云難所あり、敵彼をこえて越中へ入なば、御方の為にゆゝしき御大事(おんだいじ)、彼を伐塞で候なば、木曾が為には大事にて侍るべし、されば
P0693
急官兵を指遣て、寒原を切塞て越中国(ゑつちゆうのくに)を随へばやと申。何事も北国の事は斉明が計也とて、越中前司に仰す。盛俊五千(ごせん)余騎(よき)を引卒して、加賀と越中との境なる倶梨伽羅山を打越えて、越中国(ゑつちゆうのくに)小矢部河原を打過て、般若野にこそ陣をとれ。木曾早馬に驚て、今井四郎に仰て、六千(ろくせん)余騎(よき)を相具して越中国(ゑつちゆうのくに)に指遣す。兼平は鬼臥寒原打過て、四十八箇瀬を渡して、越中国(ゑつちゆうのくに)婦負郡御服山に陣をとる也。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十九

P0694
屋巻 第二十九
S2901 般若野軍事
五月九日卯刻に、源氏六千余騎、白旗三十流指上て、喚叫で般若野に推寄たり。平家も時を合て散々に戦ふ。二百騎三百騎五十騎百騎、出し替入違て、寄つ返つ切つ切れつ、息をも継せず馬をも不(レ)休、未刻まで戦たり。夕に及で平家禦兼て引退。源氏勝に乗て追懸たり。平家は礪並郡、小矢部の河原まで、返合々々散々に戦けるが、落ぬ討れぬ二千余騎は失にけり。残三千余騎、夜に入て礪並山、倶梨伽羅が峯を引越て、加賀国へぞ帰りにける。
S2902 平家礪並志雄二手事
平家一所に集て、木曾追討の為に、十万余騎を二手に分て、越中国に入て国中の兵を責随へんと評定す。搦手の大将軍には越前三位通盛、三河守知度、侍には越中前司盛俊、(有朋下P108)上総守忠清、飛騨守景家、三万余騎を相具して、志雄山へこそ向ひけれ。彼山は能登加賀越中三箇国の境也。能登路白生を打過て、日角、見室尾、青崎、大野、徳蔵宮腰までぞつゞきたり。追手の大将軍には三位中将維盛、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍には上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、越中権頭範高が一党五千余騎を先として、都合七万余騎は、加賀と越中の境なる倶梨伽羅山へぞ向ひける。加賀国、井家津、播多、荒井、閑野、竹橋、大庭、崎田、森本まで連たり。
P0695
追手搦手十万余騎、赤旗赤じるし塩風に吹れて、浦々は錦を曝し、緑の梢を隠して、山々は紅を染成せり。平家既に倶梨伽羅、志雄山、二手に分て下と聞えければ、木曾は越後国府を立て越中に入、国々軍兵馳集て木曾に加る。越前には、本庄、樋口、斎藤が一族、加賀国には、林、富樫、井家津、播多、能登国には、土田、関、日置、越中国には、野尻、河上、石黒、宮崎等参けり。
S2903 三箇馬場願書事
木曾は六動寺の国府に著、兵具くらべ勢汰して著到あり。其勢五万余騎とぞ注しける。木曾(有朋下P109)は物書に、大夫房覚明を招て軍兵の中にして云、軍は謀と云ながら、平家は聞体大勢也、仏神の擁護に非んば輙く靡し難し、幸に今北国第一の霊峰、効験無双の明神の御麓近く参たり、白山妙理権現に願書を進せばやと有ければ、軍兵も覚明も、然るべしとて、覚明は箭立取出て旨趣を顕す。其状に云、敬白、
  立(二)申大願(一)事
一 可(レ)奉(二)勤仕(一)加賀馬場白山本宮三十講頭事
一 可(レ)奉(二)勤仕(一)越前馬場平泉寺 三十講頭事
一 可(レ)奉(二)勤仕(一)美濃馬場長龍寺 三十講頭事
右白山妙理権現者、観音薩■[*土+垂](さつた)之垂跡、自在吉祥之化現也、卜(二)三州高岩之霊窟(一)利(二)四海卒土之尊卑(一)、参詣合掌之輩、満(二)二世之悉地(一)、帰依低頭之類、誇(二)一生之栄耀(一)、惣鎮護国家之宝社、天下無双
P0696
之霊神者歟、而自(二)近年(一)以降、平家忽昇(二)不当之高位(一)、飽誇(二)非順之栄爵(一)、忝蔑(二)如十善万乗之聖主(一)、恣陵(二)辱三台九棘之臣下(一)、或追(二)捕太上法皇之陬(一)、或押(二)取博陸殿下之身(一)、或打(二)囲親王之仙居(一)、或奪(二)取諸宮之権勢(一)、五畿七道何処不(有朋下P110)(レ)愁(レ)之、百官万民誰人不(レ)歎(レ)之、已欲(レ)断(二)王孫(一)、豈非(二)朝家怨敵(一)哉、是一、次焼(二)南京七寺之仏閣(一)、断(二)東漸八宗之恵命(一)、尽(二)園城三井之法水(一)、滅(二)智証一門之学侶(一)、其逆勝(二)調達(一)、其過越(二)波旬(一)、月氏之大天再誕歟、日域守屋重来歟、已魔(二)滅仏像経巻(一)、忽焼(二)払堂舎僧坊(一)、寧非(二)法家之怨敵(一)哉、是二、次源氏平氏之両家、自(レ)昔至(二)于今(一)、如(二)牛角(一)、天子左右之守護、朝家前後之将軍也、而触(レ)事決(二)雌雄(一)、伺(レ)隙致(二)鉾楯(一)、仍代々企(二)合戦(一)、度々諍(二)勝負(一)、既有(二)宿世之怨心(一)、是非(二)当時之大敵(一)歟、是三、因(レ)茲忝蒙(二)神明神道之冥助(一)、為(レ)降(二)仏法王法之怨敵(一)、立(二)大願(一)、於(二)三州之馬場(一)、仰(二)感応於三所権現(一)耳、就(レ)中先代伏(二)王敵(一)、皆由(二)仏神之贔屓(一)、此時降(二)謀叛(一)、寧無(二)権現之勝利(一)哉、加(レ)之白山之本地観音大士、於(二)怖畏急難之中(一)、能施(二)無畏(一)、縱雖(二)平家之軍兵如(レ)雲集如(レ)霞下(一)、衆怨悉退散之金言有(レ)憑、縱雖(下)謀臣之凶徒、加(二)咒咀(一)致(中)怨念(上)、還著於本人之誓約無(レ)疑、然者還念(二)権現本誓(一)、感応不(レ)可(レ)廻(レ)踵、何況武家自(二)先祖(一)、仰(二)八幡大菩薩之加護(一)、振(レ)威施(レ)徳、而八幡之本地者、観音本師阿弥陀也、白山御体者、弥陀、脇士観世音也、師弟合(レ)力、感応潜通者歟、況弥陀有(二)無量寿之号(一)、不(レ)授(二)千秋万歳之算(一)哉、観音現(二)薬樹王之身(一)、寧不(レ)含(二)不老不死之薬(一)乎、云(二)本地(一)云(二)垂跡(一)、勝利掲焉、
P0697
付(二)公家(一)付(二)私宅(一)、(有朋下P111)欲(レ)遂(二)素懐(一)、所(レ)志無(レ)私、奉公在頂、偏為(レ)降(二)王敵(一)、専為(レ)接(二)天下(一)、忽為(レ)興(二)仏法(一)、鎮為(レ)仰(二)神明(一)也、伝聞天神無(レ)怒、但嫌(二)不善(一)、地祇無(レ)崇、但厭(二)過患(一)、所以平家奪(二)王位(一)、是不善之至哉、謀臣滅(二)仏法(一)、忽過患之甚也、日月未(レ)堕(レ)地、星宿猶懸(レ)天、神明為(二)神明(一)者、此境施(レ)験、三宝為(二)三宝(一)者、此刻振(レ)威、然則権現照(二)我等之懇誠(一)、宜(レ)令(レ)罰(二)平家之逆族(一)、我等蒙(二)権現之加力(一)、願欲(レ)打(二)謀叛之輩(一)、若酬(二)丹祈(一)、感応速通者、上件大願無(二)懈怠(一)、可(二)果遂(一)也、者弥施(二)源家之面目(一)、新副(二)社壇之荘厳(一)、鎮誇(二)神道之冥加(一)、倍致(二)仏法之興隆(一)矣、仍所(二)立申(一)如(レ)件。
   寿永二年五月九日               源義仲敬白
と書て、木曾が前にて読上たりければ、武士各感涙を流しけり。
抑白山妙理権現と申は、昔越前国麻生津に、三神の安角が二男、越大徳神融禅師と云人まし/\き。久修練行年積、難行精進日地に新也き。元生天皇御宇、養老元年に、和尚当国大野郡伊野原に遊止し給ひたりけるに、一人の貴女化現して云、日本秋津島は本是神国也。我天神最初の国常立尊より跡を降してこのかた、百七十九万二千四百七十六歳、上上皇を護(有朋下P112)下下民を撫、吾本地の真身は在(二)山頂(一)、往て可(レ)礼と云て、化女即隠れ給ぬ。和尚霊感を仰て白山の絶頂に攀登、緑の池の辺に居て、三密印観を凝し、五相身心を調て、祈念加持し給ひければ、池中より九頭竜の大蛇身を現ぜり。
P0698
和尚責て云、此は是方便示現の形、全本地の真身にあらじとて、咒遍功を増ければ、十一面観音自在尊、慈悲の玉体顕給へり。妙相遮眼光明身を耀せり。和尚悲喜胸に満て感涙面を洗ふ。帰命頂礼し奉て云、願は大聖本地垂跡、哀を垂て、像末の衆生を抜済利益し給へと被(レ)申ければ、爾時に観世音、金冠を動し慈眼を瞬し給て、妙体速に隠れ給ふ。又和尚左の峯に登給へば、一宰官人にあへり。手に金の箭を把り肩に銀の弓を懸たり。咲を含て語て云、我は是妙理大菩薩の神務輔佐の貫首、名をば小白山、別山大行事と云。大徳当(レ)知、聖観世音の化身也と云て隠れぬ。又和尚右の嶺に登給へば、一の老翁有。語て云、我は是妙理大菩薩の神務、静謐啓■(けいいつ)輔弼也、名をば太已貴と云。蓋又西刹の教主、阿弥陀也と云て隠れ給ひぬ。是を白山三所権現と申也。峻嶺高々として、■利(たうり)の雲も手に取べし、幽谷深々として風際の底も足に蹈つべし。効験一天に聞え利益四海に普し。されば木曾義仲も、眼を塞で白山を礼拝し、掌を合権現に奉(レ)帰、敬先致(二)祈誓(一)けり。(有朋下P113)
S2904 倶梨迦羅山事
木曾は六動寺の国府より打上て、般若野御河端へ著にけり。是にて軍の談議あり。平家は大勢と聞、御方は無勢也、彼礪並山を越れて、松永辺、柳原、小矢部の河原へ打出なば、馳合の軍なるべし、馳合の戦の習は、必勢による事なればゆゝしき大事也、されば先、義仲倶梨伽羅山の北の麓に陣をとらんと思ふ、其故は、源氏礪並郡倶梨伽羅山の麓に陣を取ならば、平家はあは敵向たりとて、山の峠去馬場の辺に引へんずらん、其時義仲搦手へ廻澄して、追手搦手北南より押合て、平家を倶梨伽羅南谷
P0699
へ攻落さんと思ふ也、去ば急馳向て陣を取んとて、信濃国住人星名党を指遣す。巳時ばかりに礪並山の北の麓に著て、日宮林に旗三十流打たてたり。倶梨伽羅山と云は加賀と越中との境也。嶺に一宇の伽藍あり。昔越大徳諸国修行し給ひしに、倶梨伽羅明王の行給ひたりしかば、其よりして此山を倶梨伽羅岳共申とか。越中国礪並郡の内なれば、礪並共申めり。谷深して山高、嶮難にして道細し、馬も人も行違ふ事不(レ)輙。(有朋下P114)
S2905 源氏軍配分事
五月十一日に、平家十万余騎を二手に分て、礪並、志雄二の道より越中国へ打入と聞えければ、木曾乳母子の今井四郎を召て、義仲、信濃国横田河原の軍には、三千余騎にて四万余騎をも追落き、是は敵十万余騎、御方五万余騎、一人して敵二人に向、彼等は馳疲たる京家西国の駈武者也、是は在国案内の荒手也、思へば安平也、吉例に任て初は七手に分て、後は一に寄合て、揉に揉て南の谷に追落べしとて、方々手をぞわかちける。
一手は十郎蔵人行家、足利矢田判官代義兼、楯六郎親忠、宇野弥平四郎行平、成合、落合を始として、可(レ)然者共一万余騎、志雄山の搦手へ差遣す。
一手は根井小弥太を大将として、二千余騎、越中国住人、蟹谷二郎を案内者に付られて、鷲島を打廻、松永の西のはづれ、小耳入を透て鷲尾へ打上り、弥勒山を引廻す。
一手は今井四郎兼平大将として二千余騎、越中国住人石黒太郎光弘、高楯二郎光延、案内者に打
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具して、松永の日宮林へ差遣す。
一手は樋口次郎兼光を大将にて三千余騎、加賀国住人、林、富樫を打具して、笠野冨田を打廻、竹橋の搦手にこそ向ひけれ。
一手は信濃国住人、余田次郎、円子小中太、(有朋下P115)諏訪三郎、小林次郎、小室太郎忠兼、同小太郎真光の大将にて三千余騎、越中国住人、宮崎太郎、向田荒次郎兄弟二人を案内者にて、安楽寺を通り、金峯坂を打上り、北黒坂を引廻し、倶梨伽羅の峠の西のはづれ、葎原へ差遣す。
一手は巴女を大将にて一千余騎、越中国住人、水巻四郎、同小太郎を案内者にて、鷲岳下へ差向けり。此巴と云女は、木曾中三権頭が娘也。心も剛に力も強、弓矢取ても、打物取てもすくやかなり。荒馬乗の上手、去し養和元年、信濃国横田の軍にも向ふ。敵七騎討捕て、高名したりければ、何くへも召具して、一方の大将には遣しけり。
一手は木曾、三万余騎にて小矢部河を打渡し、垣生庄に陣を取。勢のかさを見んとて、胡頽子木原、柳原に引隠す。平家は礪並山、倶梨伽羅が峯を打越て、坂を下に東へ歩せつゝ、遥に麓を見渡せば、日宮林に白旗四五十流打立たり。あはや源氏は寄せたるは、此山四方岩石也。敵左右なくよも寄じ、能登路志雄山をば指固ぬ。西は御方の勢也。東は口一方の所也。高嶮して道狭ければ、源氏に矢種を射尽させよとて、倶梨伽羅の堂、国見猿馬場の塔橋の辺に引へて、赤旗山々岡々に立並たれば、龍田山
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の秋の暮、時雨に染たる紅葉葉も、角やと覚て面白や。源氏の謀にも少も不(レ)違、平家引へて左右なくよせず。源平陣を合て二町には過ず。(有朋下P116)
S2906 新八幡願書事
木曾は軍をば不(レ)急けり。先四方を屹と見渡ば、北山のはづれに当て、夏山の緑の木間より、緋玉墻風の見えて、片割造の社壇あり。山林高聳て、鳥居久苔むせり。木曾当国住人池田次郎忠康を召て、彼は何宮と申ぞ、又如何なる神を奉(レ)祝たるぞと尋給へば、答て申、八幡大菩薩を祝進せて侍るが、垣生庄にましませば、垣生新八幡と申候と云。木曾大に悦て、手書に大夫房覚明を召れたり。此僧は本は勧学院の文章博士、進士蔵人通広と云ける者也。出家して西乗坊信救と名をつきて、南都に便宜の物書して居たりける程に、高倉宮御謀叛の時、三井寺より南都へ牒状を越して、同心与力して宮をも奉(レ)助、仏法の破滅をも見継べしと申たりけるに、返牒を此信救に誂。本より家の能なれば、種々に是を書ける内に、太政入道浄海は、平家之糟糠、武家之塵芥と書たりけるを、入道安からぬ事に思て、其信救め、いかにもして打殺せよとて、内々伺ければ、南都に安堵し難して、漆を湯に沸して身に沐、■脹(はうてう)して如(二)癩人(一)成て南都を迷出、人是を不(レ)知。命の惜さに離難き都を徐に見て、東国へ落下ける程に、十郎蔵人行家、平家追討の為に、東国よ(有朋下P117)り都へ責上て、墨俣河にて平家に被(二)打落(一)て、三河の国府に御座ける所に行合て、行家を憑てしか/゛\と云ければ、不便也とて湯あびせ労りなどしければ、誠の癩病ならねば、■脹(はうちやう)次第に直、本の信救になる。行家参河の国府より伊勢太神宮へ進ける祭文も、此信救ぞ書ける。行家兵衛佐に中
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違て信濃へ越ける時、又木曾に思付にけり。木曾信救を改て古山法師に造成て、木曾大夫坊覚明と呼。白山三箇之馬場願書をも此覚明書たり。筆に得(二)於自在(一)詞に兼(二)於徳(一)たれば、木曾云けるは、やゝ大夫殿、幸に当国新八幡宮御宝前に近づき奉て合戦を遂んとす、今度の軍勝ん事疑なし、但且は後代の為、且は当時の祈に、願書一紙、社殿に進せばやと存ず、其相計ひ給へと云。覚明馬より下、木曾が前に跪て、箙の中より矢立取出し、墨和(レ)筆染(二)畳紙(一)、押開て古物を写が如、案にも及ばず書(レ)之。其状云、
帰命頂礼、八幡大菩薩、日域朝廷之本主、累世明君之嚢祚、為(レ)守(二)宝祚(一)為(レ)利(二)蒼生(一)、改(二)三身之金容(一)、開(二)三所之権扉(一)、爰項年之間、有(二)平相国(一)、恣管(二)領四海(一)、悩(二)乱万民、猥蔑(二)万乗(一)、焚(二)焼諸寺(一)、已是仏法之讎(あだ)、王法之敵也、義仲苟生(二)弓馬之家(一)、僅継(二)箕裘之塵(一)、見(二)聞彼暴悪(一)、不(レ)能(レ)顧(二)思慮(一)、任(二)運於天道(一)、投(二)身於国家(一)、試起(二)義兵(一)、(有朋下P118)欲(レ)退(二)凶器(一)、闘戦雖(レ)合(二)両家之陣(一)、士卒未(レ)得(二)一塵之勇(一)之処、今於(二)一陣(一)上(二)旌之戦場(一)、忽拝(二)三所和光之社壇(一)、機感之純熟已明、兇徒之誅戮無(レ)疑矣、降(二)歓喜之涙(一)、銘(二)渇仰於肝(一)、就(レ)中曽祖父前陸奥守義家朝臣、寄(二)附身宗■(そうべう)氏族(一)、自(レ)号(二)名於八幡太郎(一)以降、為(二)其門葉(一)者無(レ)不(二)帰敬(一)矣、義仲為(二)其後胤(一)、傾(レ)頭年久、今起(二)此大功(一)、喩如(下)嬰児以(レ)■(はまぐりをもつて)量(二)巨海(一)、蟷螂取(レ)斧向(中)奔車(上)、然間為(レ)君為(レ)国起(レ)之、為(レ)身為(レ)私不(レ)起(レ)志之至、神鑒在(レ)暗、憑哉、悦哉、伏願冥慮加(レ)威霊神合(レ)力、勝決(二)一時(一)、怨退(二)四方(一)、
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然則丹祈相(二)叶冥慮(一)、幽賢可(レ)成(二)加護(一)者、先令(レ)見(二)一之瑞相(一)給、仍祈誓如(レ)件。
   寿永二年五月十一日                 源義仲敬白
とぞ書たりける。覚明其日の装束には、褐衫の鎧直垂に、首丁頭巾して、■(ふし)縄目の冑に、黒つ羽の征矢負て、三尺一寸の赤銅造の太刀帯、塗籠籐の弓脇に挟で、左の手に捧(二)願書(一)、右の手に筆を持てぞ居たりける。哀文武道の達者哉とぞ見えたりける。此願書と十三の表矢とを抜て、折節雨降ければ、蓑著たる男に蓑の下に隠し持せて、忍やかに大菩薩の社壇へ進る。憑哉八幡三所、誠の志の深を御納受ありけるにや、白鳩空より飛来て、白旗の上に翩翻す。木曾馬より覆下て、甲を脱ぎ、首を地に著て是を拝奉る。大将軍(有朋下P119)角しければ、兵皆下馬して同く拝(レ)之。平家の先陣もはるかに是を見て、身の毛竪てぞ覚ける。
S2907 砥並山合戦事
木曾は礪並山黒坂の北の麓、垣生社八幡林より、松永、柳原を後にして、黒坂口に南に向て陣を取。平家は倶梨伽羅が峠、猿の馬場、塔の橋より始て、是も黒坂口に進み下て、北に向て陣を取。両陣相隔事五六段には不(レ)過、互に楯を突向へたり。木曾は勢を待得ても合戦をば不(レ)急、平家の方よりも源氏の様を守て進み戦事なし。時の声三箇度合て後は、両陣静返てぞありける。良暫有て、源氏の陣より精兵十五騎を楯の面に出して、十五の表矢の鏑を同音に射さすれば、平家も十五騎を出合て、是も十五の鏑を射返す。互に勝負せんと進みけれ共、陣より制して招ければ、源氏は楯の内に入。源氏入れば平家
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も同入にけり。とばかり有て、二十騎出して射さすれば、又二十騎を出合てあひしらふ。三十騎五十騎出合々々射けれ共、互に勝負はなし。角操日を晩して、夜に入、後の山より搦手を待て、追手搦手押寄て、南の谷へ追落さんと計けり。平家是をば不(レ)知して、あひし(有朋下P120)らふこそ無慙なれ。五月十一日の夜半にも成にけり。五月の空の癖なれば、月朧に照す月影、夏山の木下暗き細道に、源平互に見え分ず。平家は夜討もこそあれ、打解寝べからずと催けれ共、下疲たる武者なれば、冑の袖を片敷、甲の鉢を枕とせり。源氏は追手搦手様々用意したりける中に、樋口次郎兼光は搦手に廻たりけるが、三千余騎、其中に、太鼓、法螺貝、千ばかりこそ籠たりけれ。木曾は、追手に寄けるが、牛四五百疋取集て、角に続松結付て、夜の深るをぞ相待ける。去程に樋口次郎、林富樫を打具して中山を打上、葎原へ押寄せたり。根井小弥太二千余騎、今井四郎二千余騎、小室太郎三千余騎、巴女一千余騎、五手が一手に寄合せ、一万余騎、北黒坂南黒坂引廻し、時を作、太鼓を打、法螺を吹、木本萱本を打はためき、蟇目鏑を射上てとゞめき懸たれば、山彦答て幾千万の勢共覚えざりけるに、木曾すはや搦手は廻しける、時を合せよとて、四五百頭の牛の角に松明を燃して平家の陣に追入つゝ、胡頽子木原、柳原、上野辺に引へたる軍兵三万余騎、時の声を合をめき叫、黒坂表へ押寄る。前後四万余騎が時の声、山も崩岩も摧らんと夥し。道は狭し山は高し、我先々々と進む兵は多し、馬には人人には馬共に厭に押れて、矢をはげ弓を引に及ばず、打物は鞘はづし兼たり。追手は搦手に押合せんと責上。搦手は追手(有朋下P121)と一にならんとをめき
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叫ぶ。平家は両方の中に被(二)取籠(一)たり。軍は明日ぞあらんずらんと取延て思ひける上、如法夜半の事なるに、俄に時を造懸たれば、こは如何せんと、東西を失ひ周章騒、弓取者は矢をとらず、矢をば負共弓を忘、冑を著て甲をきず、太刀一には二人三人取付、弓一張には四五人つかみ付けり。馬には逆に乗て、後へあがかせ、或は長刀を逆に突て、自足を突切て立あがらざる者も有ければ、蹈殺され蹴殺さるゝ類多し。主の馬を取ては主を忘れ、親の物具を著ては親を顧ず、唯我先々々にと諍へ共、西は搦手也、東は追手也、北は岩石高して上るべき様なし。南は深き谷也、下すべき便なし。暗さはくらし案内は不(レ)知、如何すべきかと方角を失へり。此山は左右は極て悪所也、後は加賀御方也、三方は心安思つるに、後陣より敵のよせける危しさよと思ひければ、只云事とては、打破て加賀国へ引や者共々々と呼けれ共、搦手雲霞の如くなり、追手上が上に責重ければ、先陣後陣に押あまされて、道より南の谷へ下る。爰に不思議ぞ有ける。白装束したる人三十騎ばかり、南黒坂の谷へ向て、落せ、殿原あやまちすな/\とて、深谷へこそ打入けれ。平家是を見て五百余騎連て落したりければ、後陣の大勢是を見て、落足がよければこそ先陣も引返ざるらめとて、不(レ)劣々々と、父落せば子も落す、主落せ(有朋下P122)挿絵(有朋下P123)挿絵(有朋下P124)ば郎等も落す。馬には人々には馬、上が上に馳重て、平家一万八千余騎、十余丈の倶梨伽羅が谷をぞ馳埋ける。適谷を遁者は、兵杖を不(レ)免、兵杖を遁る者は、皆深谷へこそ落入けれ。前に落す者は、今落す者に蹈殺され、今落す者は後に落す者に被(二)押殺(一)。加様にしては死けれ共、大勢の傾立ぬる習にて、敵と組で死んと云者
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は一人もなし。
去程に夜明日出る程に成にけり。参川守知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬に乗て、西の山の麓を北に向て、五十余騎を相具して、声をあげ、鞭を打て、敵の中へ懸入ければ、右兵衛佐為盛、魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬に乗て、同連て蒐入けり。此両人、倶に、容貌優美也ける上、冑毛直垂の色、日の光に映じて耀計に見えければ、義仲是を見て、今度の大将軍と覚たり、余すな者共とて、紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬にぞ乗たりける。眉の毛逆に上りて、目の尻悉にさけたり。其体等倫に異也。二百余騎を率して、北の山の上より落し合て押囲み、取籠て戦けり。知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。二の太刀に頸を打落てけり。同太郎重義続いて落重る。知度朝臣の随兵二十余騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんと(有朋下P125)す。親義が郎等三十余騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。太刀の打違る音耳を驚し、火の出る事電光に似たり。爰にてぞ源平両氏の兵、数を尽て討れにけり。知度朝臣は難(レ)遁かりければ、冑の引合切捨つゝ、自害して伏にけり。兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり。伊勢国住人、館太郎貞康、八十余騎にて扣たり。貞康が叔父小坂三郎宗綱と云者あり、名を得たる兵也。貞康に申けるは、前陣は已に敗れ、後陣は又囲れぬ。宗綱齢已に七旬、命旦暮にあり、戦て死るP0707
は兵の法也と云ければ、貞康答けるは、今度の合戦、官軍は十万余騎逆徒は五万騎、而に軍を敗れて、生て帰て、面を人に守られん事、恥の中の辱也、今示給趣日来の本意也とて、三箇度時を作て、伊勢国住人館太郎貞康と名乗、敵の中に懸入、宗綱を始として八十余騎の輩、懸並べ/\組で落指違てぞ死にける。貞康は大見七郎光能に組で互に討れにけり。八十余人の輩、敵を得ぬはなかりけり。源氏の兵、貞康が党にぞ多く討れにける。抑倶梨伽羅が谷と云は、黒坂山の峠、猿の馬場の東にあり。其谷の中心に十余丈の岩滝あり、千歳が滝と云。彼滝の左右の岸より、杼の木多く生たり。谷深して梢高し。其木半過る程こそ、馳埋たれ。澗河血を流し死骸岡をなせり。無慚と云も愚也。されば彼谷の辺には、矢尻(有朋下P126)古刀、甲の鉢鎧の実、岸の傍木の本に残、枯骨谷に充満て今の世までも有と聞。さてこそ異名には地獄谷共名け、又馳籠の谷共申なれ。三十人計の白装束と見えけるは、垣生新八幡の御計にやと、後にぞ思ひ合せける。
木曾は平家追落し、黒坂の峠に弓杖突、除甲に成て控へたり。平家馳重て亡たる、倶梨伽羅が谷を見れば、火焔俄に燃上る。木曾大に驚て使を遣して是を見るに、御神宝立て、金剣宮と顕たり。使者帰て角と申せば、誠に願書の験にやと、感涙押へ難して馬より下、三度拝して宣けるは、今度の軍全義仲が力に非ず、偏に白山権現の御計にて平家は亡びにけり。後も亦憑もしくこそ御悦申べしとて、鞍置馬二十匹に手綱打懸々々、金剣宮へぞ送られける。其上猶霊験を貴で、林六郎光明が所願、
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横江庄をぞ寄られける。金剣宮と申は、白山七社の内、妙理権現の第一の王子に御座。本地は倶梨伽羅不動明王也。守(二)国土(一)為(レ)降(二)魔民(一)とて、弘仁十四年に此砌に跡を垂。平家已に仏法王法の怨敵也ければ、神明合(レ)力給へりと云事掲焉也。
十郎蔵人行家は、志雄の軍負色に見えければ、越中前司盛俊勝に乗て攻戦ふ程に、木曾礪並山を打破り、四万余騎を引率して志雄へ向と聞えければ、追手破れなん上は力なしとて、盛俊此より引返す。平家は礪並山を落されて、加賀国宮腰佐良岳の浜に陣を取、旗(有朋下P127)を上よとて佐良岳山に赤旗少々指上たり。谷々に被(二)討残(一)たる兵共、五騎六騎十騎二十騎馳集り、盛俊も軍兵引率して参たれば、程なく大勢に成にけり。源氏は左右なく追懸ず、押違へて陸地に懸りて、加賀国平岳野の、木立林に陣を取て白旗を挙たり。源平両陣に白旗赤旗立たれ共、霞を阻て遥也。五月二十五日の事也。源平互に馬に草飼、兵粮つかひなんどして有ける程に、源氏の草刈をば平家搦捕、平家の草刈をば源氏搦捕、互に軍の僉議を問けり。平家は源氏の草刈三人搦捕て軍の謀を問。下揩ネれ共相撲は我方とて、跡形なき事共申して、平家を威して申けるは、源氏は夜に入て寄らるべきとて、内々はひしめかれ候つる也と申。やをれ加程に雨降風吹て、闇き夜半には、如何にとして寄べきぞ、謀をば何と構たるぞと問ければ、あの東に見え候森を木立林と申、中に一の板堂あり、彼を壊てなんば平足駄と云物に造て、続松を拵へ、直路に懸りて、押寄て、夜討にせんとこそひしめき侍つれ、加様に雨風の事をば如何せんと申人
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も候つるを、夜討と云は思懸なき時こそよけれ、敵の存じたらんはゆゝしき大事也、是は然べき折節なんど評定候つる也、御用心有べきにて候と云。平家此事を聞て騒あへり。三位中将仰けるは、成合の手にかゝりて、安宅の渡の橋を引て、閑に源氏を待べかりつる者をと宣へば、侍共(有朋下P128)心弱く思て、我先々々にと、藤塚、今湊、安宅を指てぞ落行ける。係ければ三位中将も落給ひにけり。五月廿五日の夜半也、さらぬだに五月の空はいぶせきに、降雨は車軸の如く、吹風は浜の沙を挙て、岸打波に驚ては敵の寄るかと疑はれ、松吹風を聞ては時の声かと■(あやま)たる。甲冑もしをれつゝ、駒に任て行程に、小川大行事の洪水に、先陣流るれども後陣不(レ)扶(レ)之、後陣沈め共先陣不(レ)顧(レ)之、弱馬疲たる人なれば、其夜の中に一千余騎、水に溺れて失にけり。無慙と云も疎也。明れば二十六日、安宅の湊に著集る。橋引掻楯をかき陣を取。爰にて日数を経る間に、或は水に流れたる兄弟、或は敵に討れたる一族、永き別を歎きつゝ、悲の涙を流しける。
S2908 平家落上所々軍事
六月一日は、源氏倶梨伽羅志雄山、追手搦手の大将軍一に成、五万余騎引具して安宅の渡に押寄たり。平家橋を引たり、水は濁て底見えず。源氏も左右なく不(レ)渡して、北の耳に引へたり。越中国住人、石黒、宮崎申けるは、我等先に城構て待し時は、平家は渚をこそ渡て候しかば、以(二)案内者(一)渚の瀬踏をして御覧候へかしと申ければ、木曾は加賀国住人林(有朋下P129)六郎を召て、汝は当国住人也、河の案内知たるらん、瀬歩仕れと仰ける。光明仰承て、能馬十匹汰へ、手綱結懸て追入たり。鞍爪力革を
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ば過ざりけり。木曾、河は浅かりけり。渡せ者共者共と下知しければ、信濃には、今井、樋口、楯、根井、宇野、望月、諏方上下、越中には、石黒、宮崎、向田、水巻、南保、高楯、福田、賀茂島等、加賀国には、林、富樫、下田、倉光等五百余騎、曳音出して打浸々々さと渡し、南の陸に引へたり。瀬踏の馬共、平家の陣に馳入たりければ、源氏が落るやらん、鞍置馬共迷ひ来れり、我取てのらん/\と面々に追歩。畠山庄司重能、小山田別当有重申けるは、是は落人の馬には非ず、河の瀬蹈の馬なるべし、敵は既に近付たるにこそ、重能有重見て参らんとて、兄弟二人、三百余騎を引具して、安宅港に進処に、如(レ)案河の南のはたに兵多く引へたり。畠山は平家へ使者を立、源氏は已に湊を渡して候、先陣は重能仕候べし、若き人々に軍よくせよと仰べしとぞ申ける。木曾樋口を召て、爰に赤旗三流四流指上たるは、誰なるらんと問へば、此は武蔵の畠山と覚候と申。何として見知たるぞと問へば、兼光は武蔵へ時々越候し間、畠山の旗をば見知て候と申。此勢何程有らんと問。三百騎は候らんと。木曾宣けるは、東国には畠山こそ棟人の者よ、高見王より八代後胤、村岡五郎重門(有朋下P130)より四代孫、能敵ぞ、是は馳合の軍なるべし、敵も御方も一手々々押寄せ/\戦べし。先畠山には兼光、先陣仕れと下知すれば、承候ぬとて、一番樋口次郎兼光百五十騎、元来約束の事也、平家の二人源氏の一人を宛たれば、畠山が三百騎に、樋口が百五十騎を相具して、押寄たり。畠山は軍構ぞしたりける。鶴翼の軍とて鶴の羽をひろげたるが如くに、勢をあばらに立広て、小勢を中に取籠る支度也。樋口は魚鱗の
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戦とて、先細に中太に、魚の鱗を並たる様に、馬の鼻を立並ぶ。畠山が三百騎、樋口が百五十騎をくるりと巻籠たれば、兼光が小勢、重能が大勢を、さと打破て出、出れば巻れ、巻ては出ぬ、籠ては散ぬ、散ては籠ぬ、討つ討れぬ、五六度までこそ戦けれ。畠山が勢二百騎討れて、百騎に成ぬ。樋口が勢百騎討れて、五十騎になる。其後両方さと引。
二番上総守忠清、五百騎にて推寄たり。今井四郎兼平、二百五十騎にて出合たり。寄つ返つ、追つ追れつ、暫戦て引退。
三番飛騨守景家、千騎にて向たり。楯六郎親忠、五百騎にて寄合す。弓矢を以て勝負する者もあり、太刀打して死する者も有、引組で腰の刀にて亡も在、暫戦て両方さと引退。
四番越中前司盛俊、二千余騎にて蒐出たり。落合五郎兼行、千余騎にて寄懸たり。或百騎或十騎入組入組、集ては散、散ては集り、一時戦て引退。
五番越中次郎兵衛盛嗣、上総(有朋下P131)五郎兵衛尉忠光、二千騎にて進出でたり。水巻、石黒、林、富樫、佐見、一門、千騎にて、寄合す。懸れば引、引ては懸、射も有、伐も在、退も有、進も在、組組れぬ、互に命も惜まず身も資けず、是を最後と戦て引退。
六番飛騨太郎左衛門景高、五百騎にて懸出たり。信濃国住人、根井小弥太行近、二百五十騎にて押合す。互に追つ返つ、五六度まで戦けるに、景高が勢、三百騎討れて二百騎になる。行近が勢百騎に
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なる。猶退かず戦に、景高が勢百騎になり、行近が勢五十騎に成。猶不(レ)退戦けり。景高が勢十五騎に成、行近が勢七騎に成。源平目を澄してぞ見たりける。尚不(レ)退死生不(レ)知に戦けるが、後には行近景高只二人にぞ成にける。行近十四束を取番ひ、能引て放ける矢に、景高が馬の腹射させて駻落さる。行近馬より飛下て、太刀を抜て打て懸る。景高大音揚て云けるは、骨をば苔の下に埋共、名をば後代に伝ぬべし、人なよせそ、勝負は二人と云ければ、行近子細なきとて切合たり。両人は好処なれば、源平人をば不(レ)寄けり。打と切ばはたと合せ、はたと切れば丁と合す。一時が程戦けるに、景高脛巾金より太刀打折て白砂に落。行近云けるは、爰を切べき事なれ共、互に組で勝負也とて、太刀を捨てぞ組だりける。根井は四十計の男也。景高は二十五也。上に成下になり、弓手へころび、妻手へころぶ。根井(有朋下P132)終に上に成、景高を押へて切られにけり。敵も味方も惜みつゝ、各涙を流しけり。七番権亮三位中将維盛已下、宗徒の大将一味同心に三万余騎馳出たり。木曾亦轡並て押合て、互に指詰々々射るも在、馳合々々切るも在、馬は足を休る時もなく、人は手から助くる隙を失へり。角て安宅の城にて、暫し支て戦けれ共、平家負軍に成ければ引て落。源氏勝に乗て続て追。長並、一松、成合までぞ責付たる。自先立者こそ助りけれ共、返合る者の遁はなし。成合にて平家返合て暫し戦、両陣乱合て、白旗赤旗相交、天に翻る事夥し。馬〔の〕馳違音、矢叫の声、雲も響地も動らんと覚えたり。蹴立のほこり空に充満て、朝霧の立が如く也。
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S2909 俣野五郎並長綱亡事
平家の陣より武者一人進出て云けるは、去治承の比、石橋にして右兵衛佐殿と合戦したりし鎌倉権五郎景正が末葉、大場三郎景親が舎弟、俣野五郎景尚と名乗て、竪ざま横ざま、敵も不(レ)嫌散々に戦けり。木曾は恥ある敵ぞ、あますなと云ければ、我も/\と蒐籠たり。景尚向者共十三騎討捕て、痛手負ければ、馬より飛下、腹掻切て臥にけり。
平家(有朋下P133)の侍に高橋判官長綱は、練色の魚綾の直垂に、黒糸威の鎧著て鹿毛なる馬に乗、只一騎返合て、成合池の北渚に、馬の頭、浜の方に打向て引へたり。可(レ)然者あらば、押並て組ばやとぞ伺ひ見ける。源氏の方に越中国住人、宮崎太郎が嫡子、入善小太郎安家は、赤革威の鎧に、白星の甲著て、糟毛なる馬に金覆輪の鞍置て、只一騎引へたり。是も平家の方に可(レ)然者あらば、押並て組んとの志也。成合の池の北渚に、武者の一騎あるを心にくく思ひて打寄て、爰にましますは敵か御方か誰と問。平家の侍に高橋判官長綱、角云は誰。越中国住人入善小太郎安家、生年十七歳と名乗もはてず、押並て組で落、始は上に成下になりころびけれ共、流石安家は二十に足ぬ若武者也、高橋は老すげたる大力也ければ、終には入善下に成を、おさへて頸をかゝんとする処に、高橋腰の刀を落したりける。為方なくして、暫し押へて踉■(をどりゆ)けり。此に入善が伯父に、南保次郎家隆と云者あり。此軍に打立ける時、入善が父宮崎太郎、弟の南保に語けるは、安家は未幼弱なる上、今度は初たる軍也、相構て見捨給なと云ければ、然べしとて出たりけるが、相具せんとて数万騎が中を尋れ共見えず。南保音を揚て、入善
P0714
小太郎/\と呼で、両陣の中を通けるに、小音にて、安家敵にくみたり、角尋給ふは南保殿かよと云。家隆馬より飛下て腰刀(有朋下P134)を抜、長綱が鎧の草摺引上て、柄も拳もとほれ/\と二刀刺、甲のてへんに手を入て引仰て切(レ)頸、左の手には持(レ)頸、右の手にて入善を引上て、如何誤ありや、軍は後陣を憑み、乗替郎等を相待てこそ、敵には組事なるに、若者一人立■(あやまり)し給はんとて、去ながら神妙々々と云処に、入善隙を伺、南保が持たる首を奪取て逃走、木曾が前に行向ふ。南保も続て馳参申けるは、長綱が首をば、家隆捕たりと申。入善は我取たりと論ず。南保重て申けるは、入善高橋に組で既危候つるを、家隆落合て、入善を助けて、高橋が頸をば取たりと申。入善陳じ申けるは、安家高橋に組で、上に成下に成候つる程に、高橋が弱処を、高名がほに南保傍より取て候、家隆全く不(レ)取、安家が今日の得分にて候つる者也と申ければ、木曾は、入善くむ事なくば南保頸を不(レ)可(レ)捕、落合事なくば、入善実に難(レ)遁、両方共に神妙也とて、高橋が頸をば南保に付、入善には別の勲功を行はる。
S2910 妹尾並斉明被(レ)虜事
源氏方より、加賀国住人、倉光三郎成澄、二十余騎にて攻懸たり。平家の方より備中国住人妹尾太郎兼康、是も廿余騎にてをめきて出。妹尾、倉光馳並て組で落。是も上に成下(有朋下P135)に成、持起しつ押付つ、互に勝負不(レ)見けるに、妹尾が郎等落あはんと進む処に、倉光が郎等主を討せじとて、命を捨て懸ければ、蒐立られて落る処に、兼康は倉光に虜れにけり。平泉寺の長吏斉明は、随分平家に忠を尽し、燧城を落したりけるが、殊に気色して今日を晴と出立
P0715
つゝ、門徒の悪僧相具して、五騎にて傍若無人に馳出たり。木曾云けるは、自余の兵は逃ば逃す共、斉明あますな若者共、同は生捕にせよ若者共と、下知しければ、岡本次郎成時、是も主従五騎にて歩せ出して、郎等共に、山寺法師思ふにさこそあらんずらめ、斉明は我得分ぞ目をかくな、四騎の武者を打払へと云ければ、四人の郎等、四人の法師武者を追払ふ。其間に斉明と成時と、押並て組て落。兎角操り本意に任て、斉明をこそ生取けれ。(有朋下P136)(有朋下P137)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十

P0716(有朋下P137)
摩巻 第三十
S3001 真盛被(レ)討付朱買臣錦袴並新豊県翁事
平家の侍、武蔵国住人(ぢゆうにん)長井(ながゐの)斎藤別当真盛は、我七十有余(いうよ)に年闌たり、今は後栄期する事なし、終に遁べき身にあらず、何国にても死なん命は同事と思切つて、赤地の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に黒糸威(くろいとをどし)の冑を著、十八差たる石打の征矢負て、只一人進出て、死生不(レ)知にぞ戦ける。木曾の手に、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)手塚太郎光盛と云者あり。真盛に目を懸て歩せよる。真盛も亦手塚に目を懸て進で懸り、手塚近寄て、誰人ぞ只一人残留て軍し給ふは、大将軍が侍か、心にくし名乗れ、角申は信濃国(しなののくに)諏訪郡住人(ぢゆうにん)手塚太郎金刺光盛と云者也、能敵ぞ名乗給へや組給へと云懸て、互に駒を早めたり。真盛申けるは、戯呼猿者ありと聞、思様あり名乗まじ、汝を嫌には非ず、只首を取て源氏の見参に入よ、能所領の値なるべし、徒に淵瀬に捨べからず、木曾殿(きそどの)は見知給はんずる也、思ひ切たれば一人留て戦也、敵は嫌まじ、軍の習は勝負をするこそ面白けれ、寄合手塚と云儘に、弓をば捨て無下に近寄合す。(有朋下P138)手塚が郎等、主に組せじとて、馬手に並べて中に隔たり。真盛押並てむずと組。己は手塚が郎等にや、余すまじと云まゝ、鎧の押付の板をつかまへ、左の手にて手綱かいくり、左右の鐙を強く踏で引落し、馬の腹に引付て提もて行。足は地より一尺計挙りたり。手塚是を見て、郎等を討せじとて馳並て、敵の鎧の袖に掴み付て、
P0717
曳音を出して鐙を越、我先にぞ落たりける。真盛二人の敵にあひしらはんとせし程に、三人組合て馬より下へ落たりけり。真盛手塚が郎等を押へて刀を抜頸を掻。手塚其間に、真盛が弓手の草摺引上て、柄も拳も透とさし、軈(やが)て上に乗得頸を掻、水もたまらず切にけり。手塚敵の首を郎等に持せて、木曾の前に持て行申けるは、光盛癖者の頸取て候、名乗れと申せば、存る旨あり名乗まじ、木曾殿(きそどの)は御覧じ知べしと計にて名乗らず、侍かと見れば錦の直垂を著たり、大将軍かと思へば列く者なし、京家西国(さいこく)の者かとすれば坂東声也き、若き者かと思へば面の皺七十余に畳めり、老者かとすれば鬢鬚黒して盛と見ゆ、何者(なにもの)の首なるらんと申。木曾打案じて、哀武蔵(むさし)の斎藤別当にや有らん、但其は一年少目に見しかば、白髪の糟尾に生たりしかば、今は殊外に白髪に成ぬらんに、鬢鬚の黒きは何やらん、面の老様はさもやと覚ゆ、実に不審也、樋口は古同僚、見知たるらんとて召れたり。髻を取引(有朋下P139)仰て、一目打見てはら/\と泣、穴無慙や真盛にて候けりと申。何に鬢鬚の黒はと問給へば、樋口、されば其事思出られ侍り、真盛日比(ひごろ)申置候しは、弓矢取者は、老体にて軍の陣に向はんには、髪に墨を塗らんと思ふ也、其故は、合戦ならぬ時だにも、若き人は白髪を見てあなづる心あり、況軍場にして、進まんとすれば古老気なしと悪み、退時は今は分に叶ずと謗、実に若人と先を諍も憚あり、敵も甲斐なき者に思へり、悲き者は老の白髪に侍、されば俊成卿述懐の歌に、
  沢に生る若菜ならねど徒に年をつむにも袖はぬれけり K143
P0718
と読侍るとかや。人は聊の物語(ものがたり)の伝にも、後の形見に言をば残置べき事に侍り。云しに違はず墨を塗て候けり。年来内外なく申しゝ事の哀さに、樋口次郎兼光、水を取寄せて自是を洗たれば、白髪尉にぞ成にける。さてこそ一定真盛とは知にけれ。大国の許由は、耳を潁川の水に濯て名を後代に留、我朝の真盛は、髪を戦場の墨に染て、悲を万人に催けり。木曾宣(のたまひ)けるは、親父帯刀先生をば悪源太義平が討たりける時、義仲(よしなか)は二歳に成けるを、畠山に仰て、尋出して必失べしと伝へたりけるに、如何が稚者に刀を立んとて、我は不(レ)知由にて、情深く此斎藤別当が許へ遣して養へと云ければ、請取養はんと(有朋下P140)しけるが、七箇日置て、東国は皆源氏の家人也、我人に憑まれて此児を養立ざらんも人ならず、育おかんもあたりいぶせしと案じなして、木曾へ遣しける志、偏(ひとへ)に真盛が恩にあり、一樹の陰一河の流と云ためしも有なれば、真盛も義仲(よしなか)が為には七箇日の養父、危敵中を計ひ出しける其志、争忘べきなれば、此首よく孝養せよとて、さめ/゛\と泣ければ、兵共(つはものども)も各袖を絞りけり。抑真盛石打の征矢を負、錦の鎧直垂(よろひひたたれ)を著事は、今度北国へ下ける時、内大臣(ないだいじん)に申けるは、真盛東国の討手に下向して、矢一も不(レ)射(いず)蒲原より帰上し事、老の恥と存候き。今度北陸道に罷下なば、年闌身衰て侍共、真先蒐て討死勿論也。真盛所領に付て、近年武蔵に居住なれ共、本は越前国住人(ぢゆうにん)にて、北国は旧里也。先祖利仁将軍三人の男を生、嫡男在(二)越前(一)、斎藤と云。次男在(二)加賀(一)、富樫と云。三男在(二)越中(一)、井口と云、彼等子孫繁昌して国中(こくぢゆう)互に相親しむ。されば三箇国の宗徒の者共、
P0719
内戚外戚に付て、親類一門ならざる者なし、真盛討死して候はば、当国他国の者共集て、別当は何をか著たる、如何なる装束をかしたると見沙汰せん事恥かし、故郷へは錦袴を著て帰と云事に侍れば、今度生国の下向に、錦直垂に石打征矢御免を蒙候はん、且は最後の御恩也と所望申ければ、初は免し給はざりけるが、既打立処に、真盛思切たる顔気色、且は(有朋下P141)哀に思ひ、且は軍を勧んが為に、内大臣(ないだいじん)の我料とて被(二)秘蔵(一)たりけるを、取出て下し給へり。真盛畏給(たまひ)て、千秋万歳の心地してぞ著たりける。是を聞ける大名小名、袖を絞ぬはなかりけり。
 < 昔大国に朱買臣と云人有き。家貧にして始て書を読ければ、其才身に余つゝ、漢武帝に召れて侍中と云官に居て、大に栄え富ければ、住馴し会稽の故郷へ下りしに、錦袴を著たりけり。見る人文徳の空からざる事を思へり。真盛も此事を思出けるにや、最後の所望も哀也。免し給ふも情あり。彼は文を以て著し、是は武を以て給る、文武の勧賞とり/゛\也。>
昔天宝に兵を召て、雲南万里に馳向。彼雲南に湯の如くなる流あり、是を濾水と名く。軍兵徒より渉る時、十人が二三人は死ければ、村南村北に哭する音絶ず。児は爺嬢に別、夫は妻に別れたり。昔も今も蛮に征者千万なれ共、一人も不(レ)帰ければ、新豊県に男あり、兵に駈れて雲南に行けるが、彼戦を恐つゝ、歳二十四にて、夜深人定て、自大石を把て己が臂(ひぢ)を打折、弓を張旗を挙に叶はねば、行ことを免れて再故郷に帰けり。骨砕筋傷て悲しけれ共、六十年を送りけり。雨降風吹陰り寒夜は痛て眠れざれ共、是を悔しと不(レ)思、悦処は老らくの八十八まで生事を。是は異国の事なれ
P0720
共、此国の歌人よめるとか。(有朋下P142)
  一枝ををらではいかで桜花八十余(あまり)の春にあふべき K144
新豊県老翁は八十八、命を惜て臂(ひぢ)を折、斎藤別当真盛は七十三、名を惜て命を捨つ。武きも賢きも、人の心とり/゛\也。
S3002 平氏侍共亡事
平家は棟と憑み給へる真盛討れて大に力落、成合を引て篠原宿に著。源氏同押寄たり。平家不(レ)堪して山に入、極楽林、小野寺林、須河林に乱入ければ、源氏続てひら責に攻む。福田、熊坂、江沼辺をも責越て、浜路迄こそ追懸たれ。平家並松と云所にて返合て、暫し支て戦けり。源平互に乱合、両方より射違たる矢は降雨の如也。是にして平家三十(さんじふ)余騎(よき)討れて並松を引。源氏勝に乗て余すな/\と追懸、余に手繁追ければ、平家の大将軍に、参河守知度と云は入道の子也。口惜事哉、御方に思切者共がなければこそ直責には攻られて大勢は討るらめとて、返合て散々(さんざん)に戦給へる程に、筒に矢十二射立られて、討死して失給(たま)ひぬ。連く侍には、飛騨の大夫判官(たいふはんぐわん)景高、是は大臣殿の乳母子(めのとご)にて若の事あらば一所にて手取組んと契深かりしか共、参河守の討れ給(たま)ひける悲さに、散々(さんざん)に戦て、(有朋下P143)是も一所に討れにけり。越中権頭範高、我一人と戦けるが、矢員射尽て、敵に頸骨射させて自害して臥にけり。越中二郎判官盛綱、州浜判官高能、上総介忠清(ただきよ)、子息太郎判官忠綱(ただつな)、尾張守貞安、摂津判官盛澄等も、思々に戦て所々に臥にけり。武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国は、手勢
P0721
三百(さんびやく)余騎(よき)にて戦けるが、大勢に被(二)取籠(一)て半時ばかり打合程に、有国馬を射させて歩立に成、右には太刀、左には長刀を持て切合ける程に、太刀打折て後は長刀を十文字に持て開き、大勢の中に走入、先馬の足を薙ぐ。主が馬よりはね落さるゝ処を、落しも立てず頸を薙、弓手に走、妻手に走、四廻五廻切廻かとすれば、敵三十(さんじふ)余人(よにん)切伏て、我身も痛手を負ければ、新中納言殿(ちゆうなごんどの)の侍に、武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)有国と名乗て、腹掻切て失にけり。巣山兵衛高頼も、手の際戦て討れにけり。東国の者には、ましほの四郎と伊藤九郎も、此にして亡ぬ。河に流海に入て死ぬるは不(レ)知、安宅、篠原、並松の間に、竿結渡して、切懸たる首三千七百六十人とぞ注たる。虜には兼康(かねやす)、斉明計也。此斉明は林、富樫と同心に、木曾に腹黒あらじと起請書たりし者が、燧城にて返忠して源氏を背き、忽(たちまち)に冥罰を蒙るとぞ覚えたる。
去四月下向には、平家十万余騎(よき)なりしに、燧、長畝、三条野、並松、塩越、須河山、長並、一松、安宅、松原、宮越、倶梨伽羅、志雄山、竹浜(有朋下P144)所々の合戦に亡つゝ、七万余騎(よき)は失にけり。可(レ)然人々も馬にも乗らず、物具(もののぐ)を捨て、北国の浦伝、仙道の山伝して、今六月の上洛には三万(さんまん)余騎(よき)には過ざりけり。
平家今度は数を尽して被(レ)下けるに、角討れぬるこそ無慙なれ。尽(レ)流漁、多雖(レ)得(レ)魚、明年無(レ)魚、焼(レ)林狩、多雖(レ)得(レ)獣、明年無(レ)獣云本文あり。されば後を存じて、壮健ならん兵をば少々都
P0722
に可(二)残置(一)ける者をと云人も有けり。内大臣(ないだいじん)も棟と憑れたりし弟の参河守も討れぬ。高橋判官長綱も討れぬ。一所にて如何にもならんと契給(たま)ひし乳母子(めのとご)の大夫判官(たいふはんぐわん)景高も討れぬ。旁大に力落てぞおぼされける。。飛騨守景家(かげいへ)が申けるは、相憑つる子息の景高に別ぬ。今は出家の暇給(たまひ)て、彼が後世を吊侍ばやと申けるこそ哀なれ。有国、兼康(かねやす)、真盛なんども不(レ)帰、此者共こそ、野末山の奥にても、一人当千(いちにんたうぜん)と憑もしく思召(おぼしめし)けるに、大底亡にければ、内府も心弱ぞ思はれける。凡今度討たる者共、父母兄弟妻子眷属等が泣悲事不(レ)斜(なのめならず)、家々(いへいへ)には門戸を閉、声々に愁歎せり。彼村南村北に哭しける雲南征伐も、角やと被(二)思知(一)(おもひしられ)たり。五日北国賊徒の事、院(ゐんの)御所(ごしよ)にて議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣(ないだいじん)実定、皇后宮大夫実房、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、梅小路中納言長方、此人々を被(レ)召けり。兼実忠親(ただちか)両人は不(二)参給(一)。右大臣は大蔵卿(おほくらのきやう)泰経を御使にて、只よく/\御祈祷(ごきたう)(有朋下P145)あるべき也、東寺に秘法あり、加様の時に被(レ)行べきにやとぞ被(レ)申たる。左大臣経宗公は、不(レ)叶までも関々を固らるべきかと被(レ)申たり。
長方卿は、今已(すで)に源氏等(げんじら)称(レ)起(二)義兵(一)歟、逆徒強大、官軍敗績、更於(二)本朝(一)無(二)可(レ)比之跡(一)、承平将門(まさかど)、康平貞任、不(レ)及(二)十之一(一)、非(二)同日之論(一)歟、漢家動(二)匈奴(一)、或侵(二)辺郷(一)、或有(二)僣号(一)、窺(二)敵国之勢(一)致(二)和親之礼(一)、合(レ)道合(レ)法歟、早被(レ)遣(二)庁使(一)、尤可(レ)被(二)和仰(一)歟、不(レ)用(二)詔使(一)歟、被(レ)敗(二)官軍(一)、武将之恥朝家之■(きず)、軽重如何、所(レ)残之儀只在(二)此事(一)と被(レ)申ければ、当座の人々、皆此儀に同ぜられけり。議奏の
P0723
趣、誠に工にぞ聞えける。
S3003 赤山堂布施論事
〔同(おなじき)〕十一日に、源氏追討の御祈(おんいのり)とて、延暦寺(えんりやくじ)にて薬師経(やくしきやう)の千僧の御読経被(レ)行、御布施には手作の布一端(いつたん)宛、供米袋一づつ被(レ)副たり。院より別当左中弁兼光朝臣、仰承て催沙汰あり。行事は主典代庁官、御布施の供米を、西坂本、赤山の堂にて是を引けり。山の下僧共を以て請取ける間に、取者は一人して袋の四つ五つ、布の七八端も取けり。取らざる者、一にもあたらで手を空する者もあり。何一にも当ざる者は腹立して■(ののしり)行。取得た(有朋下P146)る者は小頭振て悦ぶ。取べき者とらずば、取まじきが取得たるをこそ瞋いさかふべきに、さはなくて散々(さんざん)に悪口し、行事主典代と、法師原(ほふしばら)と事を出して、上を下に取合、主典代庁官等が烏帽子(えぼし)打落、衣装剥取なんどして浅間敷(あさましき)喧嘩に及び、結句は主典代を搦て、本鳥放なる者を大講堂(だいかうだう)の庭に引居たり。大衆是を見て、事穏便ならずとて追下しけり。総て平家の行ふと行ふ神事仏事に、失礼のなき事はなし。仏神の擁護にかゝはらずと云事あらはれたり。
S3004 太神宮行幸願付広嗣謀叛並玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)事
同日蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)仰を承て、祭主神祇大副大中臣親俊を殿上の口に召て、兵革平がば太神宮へ行幸有べき由、申させ給(たま)ひけるぞせめての御事と覚えて哀なる。
伊勢太神宮と申は、天神第七代、伊弉諾、伊弉冊尊の御子、地神最初御神也。高天原より天降御座(おはします)。垂仁天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)廿五年と申し丙辰三月に、伊勢国(いせのくに)渡会郡五十鈴河上に、下津磐根に大宮柱広敷
P0724
立て、祝始奉移しより後は、宗■(そうべう)社稷の天照太神(てんせうだいじん)に御座(おはしま)せば、崇敬奉らせ給ふ事、吾朝六十余州の三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)の、大小の神祇冥道にも勝れ坐しか共、代々の(有朋下P147)帝(みかど)の行幸はなかりしに、奈良帝の御宇(ぎよう)、右大臣淡海公不比等の御孫、式部卿(しきぶきやう)宇合御子、右近衛権少将兼太宰少弐藤原広嗣と云人御座(おはしまし)き。天平十二年十月に、肥後国松浦郡にて謀叛を起し、一万人の凶賊を相語て、帝を傾奉らんと云聞え有しかば、花洛の騒不(レ)斜(なのめならず)、大野東人と申し人を大将軍として、官兵二万(にまん)余騎(よき)を被(二)相副(一)て、広嗣誅罰の為に被(二)下遣(一)けり。又様々の御祈(おんいのり)有ける中に、同(おなじき)十一月に始て太神宮へ行幸あり。今度其例と聞えけり。
 < 彼広嗣の謀叛を発しける故は、聖武皇帝の御宇(ぎよう)に、玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)とて貴き僧座しき。戒行全く持て、慈悲普く及ぼし、智行兼備して済度隔なし。一天唱道国家珍宝也。遣唐使吉備大臣と入唐して、五千(ごせん)余巻(よくわん)の一切経を渡し、法相唯識の法門を将来せり。皇帝皇后深御帰依を致し給へり。常に玉簾の内に召れて、后宮掌を合御座(おはしま)す。広嗣后の宮に参給たりけるに、玄肪(げんばう)婚遊し給へり。広嗣奏して申さく、玄肪(げんばう)后宮を犯し奉る、其咎尤重しと。帝更に用給はず。広嗣又后宮に参たりける時、玄肪(げんばう)又皇后と、枕を並て臥給へり。重て奏して云、玄肪(げんばう)只今(ただいま)后宮と席を一にし給へり、叡覧に及ばば重科自露顕せんと申。帝忍て幸成て、御簾の隙より叡覧あり。光明皇后は十一面観音と現じ、玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)は千手観音と顕て、共に慈悲の御顔を並て、同く済度の方便を語給へり。皇帝弥叡信を発御(有朋下P148)座て、広嗣は国家を乱すべき臣也、一天の国師たる貴き僧を讒し申条、罪科深しとて、西海の波に被(レ)流たりければ、怨を成て謀叛を起す。凡夫の眼前には、非(二)梵行(一)婚家と見奉れ共、賢帝の叡覧には、大悲薩■[*土+垂](さつた)の善巧方便と拝み給ふも穴貴と。>
P0725
彼広嗣討れて後、亡霊荒て恐しき事共多く有ける中に、同(おなじき)十八年六月に、太宰府観音堂造立供養あり。玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)導師たり。高座に上て啓白し給(たま)ひけるに、俄(にはか)に空掻曇雷電して、黒雲高座に巻下し、導師を取て天に騰。次年の六月に、彼僧正(そうじやう)の生しき首を興福寺(こうぶくじ)の南大門に落して、空に咄と笑声しけり。此寺は法相大乗の砌(みぎり)也。此宗は玄肪(げんばう)僧正(そうじやう)の渡したれば、広嗣の悪霊玄肪(げんばう)を怨て角しけるこそ怖しけれ。此僧正(そうじやう)入唐の時、唐人其名を難じて云、玄肪(げんばう)とは還て亡と云音あり、日本(につぽん)に帰渡て必事に逢べき人也、只唐土に留給へかしと云けれ共、故卿を恋しがりければ帰朝したりけるが、角亡けるこそ不思議なれ。広嗣の怨霊荒て、加様に浅間敷(あさましき)事共ありければ神と奉(レ)崇。今の松浦の明神と申は是也けり。
S3005 加茂斉院八幡臨時祭事
抑係る兵乱の時は、昔も御願(ごぐわん)を被(レ)立けり。嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)大同五年〈 庚寅 〉、平城(へいじやう)の先帝内侍典(有朋下P149)の勧めに依て、世を乱給しかば、其祈に、始て帝の第三皇女有智内親王(ないしんわう)を、賀茂の斉に立奉らせ給(たま)ひき。是より斉院は始れり。朱雀院御宇(ぎよう)天慶二年〈 己亥 〉、将門(まさかど)純友が謀叛の時、其祈に八幡の臨時祭は始れり。今度左様の例共尋られける内、大神宮の行幸も御願(ごぐわん)に立られけり。
S3006 平家延暦寺(えんりやくじ)願書事
去(さる)程(ほど)に、木曾(きそ)義仲(よしなか)所々の合戦に打勝て、六月上旬には、東山北陸二の道を二手に分て責上る。東山道の先陣は尾張国墨俣川に著。北陸道の先陣は越前国府に著ぬと聞えければ、平家今は防戦に力尽ぬ、仏神の加被にあらずは、争か彼凶賊を鎮べきとて、平家の一族は、公卿も殿上人(てんじやうびと)も同心に願書を捧げ、山門の衆徒、日吉の神恩を憑むべき由被(レ)申たり。其状に云、
P0726
敬白
  可(下)以(二)延暦寺(えんりやくじ)(一)帰依准(二)氏寺(一)以(二)日吉社(一)尊崇如(二)氏社(一)一向仰(中)天台仏法(ぶつぽふ)(上)事
右当家一族之輩、殊有(二)祈請旨趣(一)、何者(いかんとなれば)、叡山(えいさん)者桓武天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、伝経大師入唐帰朝之後、(有朋下P150)弘(二)円頓教法於斯処(一)、伝(二)舎那大戒於其中(一)以来、専為(二)仏法(ぶつぽふ)繁昌之霊崛(一)、久備(二)鎮護国家之道場(一)、方今伊豆国(いづのくにの)流人、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)、不(レ)悔(二)身過(一)、還嘲(二)朝憲(一)、加(レ)之与(二)姦謀叛(一)、致(二)同心(一)之源氏等(げんじら)、義仲(よしなか)行家以下、結(レ)党有(レ)数、隣境遠境抄(二)掠数国(一)、年貢土貢、押(二)領万物(一)、因(レ)茲且追(二)累代勲功之跡(一)且任(二)当時弓馬之芸(一)、速追(二)討賊徒(一)、可(レ)降(二)伏凶党(一)之由、苟銜(二)勅命(一)、頻企(二)征伐(一)、爰魚鱗鶴翼之陣、官軍不(レ)得(レ)利、星旗電戟之威、逆類似(レ)乗(レ)勝、若非(二)仏神之加被(一)、争鎮(二)叛逆之凶乱(一)、是以一向帰(二)天台之仏法(ぶつぽふ)(一)、不退仰(二)日吉之神恩(一)、而已、何況忝憶(二)臣等(しんら)之嚢祖(一)、可(レ)謂(二)本願余裔(一)、弥可(二)崇重(一)、弥可(二)恭敬(一)、自今已後、山門有(レ)慶為(二)一門之慶(一)、社家有(レ)鬱為(二)一家之鬱(一)、付(レ)善付(レ)悪、成(レ)喜成(レ)憂、各伝(二)子孫(一)、永不(二)失墜(一)。藤氏者以(二)春日社興福寺(こうぶくじ)(一)、為(二)氏社氏寺(一)、久帰(二)依法相大乗之宗(一)、平家者以(二)日吉社延暦寺(えんりやくじ)(一)、如(二)氏社氏寺(一)、新値(二)遇円実頓悟之教(一)、彼者昔遺跡也、為(レ)家思(二)栄幸(一)、是者今祈誓也、為(レ)君請(二)追罰(一)、仰願山王七社(しちしや)王子眷属、東西満山護法聖衆、十二大願医王善逝、日光月光十二神将(じふにじんじやう)、照(二)無二之丹誠(一)、垂(二)唯一之玄応(一)、然則邪謀逆心之賊、速平(二)党於軍門(一)、暴悪残害之徒、必伝(二)首於京都(一)、我等(われら)之苦請(二)仏神(一)其捨諸、仍当家公卿等、異口同音
P0727
作(レ)礼而請所如(レ)件、敬白。(有朋下P151)
     寿永二年七月 日
        従三位行右近衛権中将平朝臣            資盛
        従三位平朝臣                   通盛
        従三位行右近衛権中将平朝臣            維盛
        正三位行左近衛権中将兼但馬権守平朝臣       重衡
        正三位行右衛門督(うゑもんのかみ)兼侍従平朝臣           清宗
        参議正三位皇太后宮(くわうたいごうぐう)権大夫兼修理(しゆりの)大夫(だいぶ)備前権守平朝臣 経盛
        従二位(じゆにゐ)行権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)平朝臣              知盛
        従二位(じゆにゐ)行中納言平朝臣               教盛
        正二位(しやうにゐ)行権大納言(ごんだいなごん)兼陸奥出羽按察使平朝臣      頼盛(よりもり)
        前内大臣(ないだいじん)従一位(じゆいちゐ)平朝臣               宗盛
又近江国佐々木庄、領家預所得分等、且為(二)朝家安穏(一)、且為(レ)資(二)故(こ)入道菩提(一)、併所(レ)廻(二)向千僧供料(一)候也、件庄早為(二)沙汰(一)、可(下)令(二)知行(一)給(上)候、恐々謹言。
     七月十九日                       平宗盛(有朋下P152)
P0728
謹上 座主僧正(そうじやう)御房
とぞ書れたりける。是を聞ける人々は、宿老(しゆくらう)も若輩も皆涙をぞ流しける。去共年頃日頃(ひごろ)の振舞、神慮にも不(レ)叶、人望にも背けるにや、本より角こそとて、事の体をば憐けれ共、靡く衆徒はなかりけり。七月十二日の夜半計に、六波羅の辺大に騒ぐ。何と聞分たる事はなし。京中も又静ならず、資財雑具東西に運隠し、貴賎上下魂を消し、こは何としつる事ぞとて周章(あわて)けり。帝都は名利の地、鶏鳴て安き思ひなしといへば、治れる代すら猶如(レ)此、況乱たる時なれば理也。一天四海の騒、東は坂東八箇国、西は鎮西九箇国、北陸南海畿内辺土まで静ならず、三界無安猶如火宅、衆苦充満甚可怖畏、釈尊の金言也、なじかは一毫も違ふべき、深き山の奥の奥、人なき谷の底までも忍入、浮世の庵を結ども、今度生死を離れつゝ、無為の都に還らばやと、心ある人は歎けり。明ても聞ば、美濃源氏に佐渡左衛門尉(さゑもんのじよう)重実と云者あり。鎮西八郎為朝が保元の軍破て後、近江国石山寺に隠れ居たりけるを搦出して、公家に進たりければ、右衛門尉に成したりけるを、源氏の名折不審也とて、一門に擯出せられて源氏に背かれぬ。平家に諂て当国八島と云所に有けるが、只乗替一騎(いつき)相具して勢多を廻、夜半計に六波羅へ馳来て、北国の源氏近江国まで(有朋下P153)責上て、道を切塞ぎ人を通さず、在々所々に火を懸て焼払(やきはら)ふ。御用心有べきと申たりけるに依也。
S3007 貞能(さだよし)自(二)西国(さいこく)(一)上洛事
十八日(じふはちにち)に、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)鎮西より上洛、西国(さいこく)の輩謀叛の聞え在に依て、彼をしづめん為に、去々年下向
P0729
之処に、菊地城郭(じやうくわく)を構て楯籠る。貞能(さだよし)九国の軍兵を催て是を責れ共、輙く落難き城にて、官兵度々追落さる、重々評定あり。兵糧米を尽さん為に城を守れとて、四方を打囲て夜昼是を守る。日数積て兵糧尽ければ、菊地終に降人に向ふ。菊地降人なれば原田も降人になる。菊地原田参ると云ければ、臼杵、戸槻も皆随にけり。此間貞能(さだよし)九国に兵糧米を宛催す。庁官一人、宰府使一人、貞能(さだよし)が使一人、両三人が従類八十余人(よにん)、権門勢家の庄園を云ず、神社仏寺料所をも不(レ)嫌譴責しければ、人民の歎不(レ)斜(なのめならず)、其積り十万余石に及べり。貞能(さだよし)は菊地、原田等を召具して、今日未時に入洛、八条を東へ、河原を北へ、六波羅の宿所に著、其(その)勢(せい)千騎(せんぎ)には過ず。前内大臣(ないだいじん)宗盛、車を七条が末に立て見給へり。其中に鎧武者二百(にひやく)余騎(よき)ありけるに、薩摩前司親頼、薄襖の生絹、魚綾の直垂に(有朋下P154)赤威の鎧著、白葦毛の馬に乗て、貞能(さだよし)が屋形の口をぞ打たりける。頭刑部卿(ぎやうぶきやう)憲方卿孫、相模守頼憲が子也。勧修寺の嫡々、させる武勇の家に非ず。文筆を以て君に奉(レ)仕べき人の、こは何事ぞやとて、見人是をあざみけり。多の武士よりも、薩摩前司をぞ人は見ける。
西国(さいこく)は角平げたれ共、東国北国は不(レ)随。源氏の大勢、既(すで)に都へ責上と聞えければ、平家今は禦に力尽たり、今は都に跡をも留め難しとぞ見えたりける。大臣は此有様(ありさま)を聞見給(たまひ)て、一門の人々催集て仰けるは、敵は既攻近付ぞ、御方の軍兵勢尽たり。叶ぬまでも院内を引具し進、西国(さいこく)へ落て一間戸もたすかりなばやと思也と宣へば、新中納言知盛被(レ)申けるは、西国(さいこく)へ落下らば助るべき歟、臣等(しんら)
P0730
が嚢祖桓武天皇(てんわう)、此帝都を立給(たまひ)てより以来廿余代、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)より武勇に携て八代、未一度も名を折ず、先祖の君の執し思召(おぼしめし)し都也、名将勇士の末葉なり、縦都にては塵灰と成とも如何はせん、思召(おぼしめし)可(レ)寄ことに非、是は何と有べきと宣へば、平(へい)大納言(だいなごん)教盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛同心にて、子細にや及侍る、運の尽ぬる上は我朝にも限らず、異国のためし是多し、始ある者は終りあり。盛にしては又衰、今更申に及ばざれ共、後の代までも名は惜事也、終に辺土にて亡んより、矢種のあらん程は射尽しなんず、叶はざらん時は家々(いへいへ)に火を懸て自害するより外の事あらじと(有朋下P155)宣へば、一門の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、郎等侍に至までも、旁の御義可(レ)然候とぞ同じける。去共大臣殿は、心得(こころえ)ず気にぞ宣(のたまひ)ける。
S3008 維盛兼言事
〔去(さる)程(ほど)に〕権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛は北国の軍に被(二)討洩(一)て、適帰上給たりけれ共、有が有共おぼさねば夢に夢見る心地して、北方に宣(のたまひ)けるは、維盛は一門の人々に相具して都を出なんとする也、いかならん野末山の奥までも具し奉べきにこそあれ共、少き者は余多(あまた)あり、何国に落留べし共なき旅の空に出て、西海の波の上に漂はん事も労しく心憂し、向後も源氏道を塞ぎ、待儲て討捕んとするなれば、穏しからん事有難し、終には敵の為に亡され、骸を淵瀬にこそ沈めんずらめ、されば世になき者と聞なし給ふとも、穴賢御様(おんさま)などやつし給ふなよ、如何ならん人にも見え給(たまひ)て、少き者共をも孚、御身をも助け給へ、見奉らん者の、誰か情を懸奉らざらん、思ひ儲ぬ事、指当ては御心元なからんずれば兼て申也とて泣給へば、哀自程に世に物思ふ者侍らず、父大納言(だいなごん)に奉(レ)後しより以来、明晩は心苦き事をのみ
P0731
見聞孤子と成、誰憐誰育、無慙と云父もなく母もなし、今は御方よ(有朋下P156)り外奉(レ)憑方なし、日比(ひごろ)小夜の寝覚眤事も、皆偽に成はてぬ、いつより替給へる御心ぞや、心憂や先世の契にや侍けん、人一人こそ哀不便と思召(おぼしめす)とも、又見ん人はいかゞはあらんずらん、始て人に見えん共思はぬ者をや、被(二)打捨(一)奉て、堪て有べし共覚えずとて、涙も関敢給はねば、三位中将も共に泣給(たまひ)て、人は十四、我は十六と申しゝより見始奉て、互に志浅からず、今年は十年に成とこそ覚候へ、誠に先の世の契にや、此世一の事ならずと思へば、火の中水の底にも同入、限ある別の道也とも、後れ先立じとこそは思しか共、責ての痛しさに角は申也、加様に打口説給事、理なきにはあらね共、後には賢ぞと思合せ給べし、痛くな歎給そ、立離奉らん歎に打副て心苦からんずればとて、袖を顔に当泣給へば、若君姫君の左右に坐しけるも、女房達(にようばうたち)の御前に並居たりけるも、皆袂(たもと)を絞けり。若君は十、六代御前、姫君は八、夜叉御前とぞ申ける。共にわりなく美御貌にぞ御座(おはしまし)ける。
S3009 平家兵被(レ)向(二)宇治勢多(一)事
七月十二日には、源氏近江国に責入て人をも通さずと聞えければ、同二十一日、新三位中将資盛大将軍として、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)等(ら)を相具して二千(にせん)余騎(よき)、宇治路(うぢぢ)より田原路を廻て、近江(有朋下P157)国へ指下さる。今日は宇治に留る。同(おなじき)二十二日に、新中納言知盛、本三位中将重衡大将軍として三千(さんぜん)余騎(よき)、勢多より近江国へ発向す。今夜は山階に宿す。京中に聞えけるは、十郎蔵人行家は、伊勢国(いせのくに)を廻て大和国(やまとのくに)へ入、足利判官代(はんぐわんだい)は、丹波路より京へ入、多田(ただの)蔵人行綱は、摂津国(つのくに)を押領して、河尻を打塞と聞ければ、こ
P0732
は如何せん、国々道々塞で、漏れて出べき方なしと歎けり。
S3010 木曾山門牒状事
木曾は北陸道を攻靡し、越前の国府に有けるが、軍の評議あり。誠や平家深く山門の大衆を憑む、衆徒又平家に同心之由聞ゆ、縦湖上に船を浮べ、浜路に駒をはやむ共、大衆坂本に下集て防には、輙く攻上り難し、又勢多の長橋引て支へんもゆゝしき大事、此事如何が有べきと云けるに、大夫房進出て申けるは、覚明当初京都に在し時、山法師の心根は能聞及き、平家たとひ所領をよせ財宝を抛ち、山門を語ふ共、三千衆徒一同に平家を引思事よも候はじ、源氏に志思ふ大衆もなどかなかるべき、先牒状を遣て試侍べし、事の体は聞えなんと申。可(レ)然とて、覚明則書札を書。其状に云、(有朋下P158)
源(みなもとの)義仲(よしなか)謹言
   奉(二)親王宣(一)欲(レ)令(レ)停(二)止平家逆乱(一)事
右平治已来(このかた)、平家跨張之間、貴賎撃(レ)手緇素、戴(レ)足、忝進(二)止帝位(一)、恣虜(二)掠諸国(一)、或追(二)捕権門勢家(一)、悉令(レ)及(二)恥辱(一)、或搦(二)捕月卿(げつけい)雲客(うんかく)(一)、無(レ)令(レ)知(二)行方(一)、就(レ)中(なかんづく)治承三年十一月、移(二)法皇之仙居於鳥羽南宮(一)、遷(二)博陸之配所於夷夏西鎮(一)、如之不(レ)侵(レ)蒙(レ)咎、無(レ)罪失(レ)命、積(レ)功奪(レ)国、抽(レ)忠解(レ)官之輩、不(レ)可(二)勝計(一)者歟、然而衆人不(レ)言、道路以(レ)目之処、去治承四年五月中旬、打(二)囲親王家(一)、欲(レ)断(二)刹利種(一)之日、百皇治天之御運未(レ)尽其時本朝守護之神冥、尚在(二)本宮(一)故、奉(レ)保(二)仙駕於園城寺(をんじやうじ)(一)、其時義仲(よしなか)兄源仲家依(レ)難(レ)忘(二)芳恩(一)、同以奉(二)扈従(こしよう)(一)、翌日青鳥飛来、令旨密通、有(下)可(二)参加(一)之催(上)、忝
P0733
奉(二)厳命(一)、欲(レ)企(二)予参(一)之処、平家聞(二)此事(一)、前(さきの)右大将(うだいしやう)喚(二)籠義仲(よしなか)之乳人(めのと)中原兼遠之身(一)、其上怨敵満(二)国中(こくぢゆう)(一)、郎従無(二)相順(一)、心身迷(二)山野(一)、東西不覚之間、未(レ)致(二)参洛(一)之時、有(二)御僉議(ごせんぎ)(一)云、園城寺(をんじやうじ)為(レ)体、地形平均不(レ)能(レ)禦(レ)敵、仍欲(レ)奉(レ)進(二)仙蹕於南都故城(一)、令(レ)遂(二)合戦於宇治橋辺(一)之刻、頼政卿(よりまさのきやう)父子三人、仲綱(なかつな)、兼綱以下、卒爾打立、事与(レ)心相違之間、東国之郎従、一人而雖(レ)無(二)相順者(一)、依(レ)惜(二)家名(一)、捨(レ)命禦戦之庭被(レ)討者多、相遁者少、骸埋(二)竜門原上之土(一)、(有朋下P159)名施(二)鳳凰城都之宮(一)畢、哀哉令旨数度之約、一時難(二)参会(一)、悲哉同門親眤之契、一旦絶(二)面謁(一)、然者(しかれば)於(二)平家(一)者、公私欲(レ)散(二)会稽之恥(一)者也、幸被(レ)下(二)令旨(一)、於(二)東山東海之武士(一)、令(レ)決(二)雌雄於越後越前国之凶党、平家之軍兵等(一)、刎(レ)首終(レ)命之者不(レ)知(二)幾千万(一)、前(さきの)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)同義仲(よしなか)等、自(レ)奉(二)親王宣(一)以後、尾張参河遠江伊豆駿河安房上総下総上野下野武蔵相模常陸出羽陸奥甲斐信濃越後越中能登加賀越前等惣二十三箇国、既打従畢、於(二)東山道先陣(一)者、令(レ)打(二)立尾張国墨俣河辺(一)、北陸道先陣者、已著(二)于越前国府(一)、責(二)討平家悪党(一)計也、抑貴山被(レ)同(二)心親王善政(一)否、令(レ)与(二)力平家悪逆(あくぎやく)(一)否、若令(レ)与(二)力彼党(一)者、定相(二)禦親王御使(一)歟、我等(われら)不慮対(二)天台之衆徒(一)、不(レ)期企(二)非分之合戦(一)事、至無(レ)益哉、忍辱之衣上鎮著(二)甲冑(一)、慈悲之心中猥巧(二)闘戦(一)者、僧侶之行儀不(レ)可(レ)然、速翻(二)平家値遇之僉議(せんぎ)(一)、被(レ)修(二)当家安穏之祈祷(一)、是則仰(二)叡山(えいさん)之仏法(ぶつぽふ)(一)、優浄行之■蒭(ひつすう)之思切故也、若猶無(二)承引(一)者、自滅(二)慈覚之門徒(もんと)(一)、定有(二)衆徒之後悔(一)者歟、如(レ)此触申事、全非(レ)畏(二)衆徒之武勇(一)、偏只尊(二)常住之三宝(一)故也、伝聞仏法(ぶつぽふ)護(二)皇法
P0734
(一)皇法崇(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、依(レ)之(これによつて)興福園城(をんじやう)両寺(りやうじ)之大衆、奉(二)親王御方(一)之故、為(二)平家悪行(一)、始自(二)園城寺(をんじやうじ)坊舎、南都七大諸寺堂社僧坊等(一)、併被(二)焼払(やきはら)(一)云々、其中東大寺(とうだいじ)者聖武天皇(てんわうの)御願(ごぐわん)也、我朝第一之奇特(有朋下P160)也、金銅盧遮那仏像(るしやなぶつぞう)、鳥瑟忽帰(二)華王之本土(一)、堂閣空沂(二)蒼海之波涛(一)、八万四千(はちまんしせん)之相好、秋月隠(二)四重之雲(一)、四十一地之珱珞、夜星漂(二)十悪之風(一)矣、毎(レ)聞(二)此事(一)不覚之涙洗(レ)面、随分之歎焦(レ)胸、専雖(レ)在(二)俗武士之心(一)、盍(レ)思(二)仏法(ぶつぽふ)摩滅之悲(一)哉。縦不(二)仏法(ぶつぽふ)破滅(一)者、唯貴山計也、但台嶺四明之洞孤静、園城(をんじやう)三井之流半竭、根本中堂(こんぼんちゆうだう)之燈独耀(二)七大諸寺之光(一)忽消、三千之僧侶豈不(レ)懐(二)此愁(一)哉、一山之衆徒寧不(レ)歎(二)此事(一)乎、存(二)此道理(一)被(レ)随(二)令旨(一)者、弥恭(二)敬十二願王(一)、共帰(二)依三千浄行(一)、夫八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)者、三代聖朝権化、賀茂平野明神者、二世皇帝之応跡哉、守(二)其子孫(一)、神慮有(二)何疑(一)、何況叡山(えいさんの)衆徒、殊護(二)持国家(一)者先蹤也、彼恵亮摧(レ)脳、尊意振(レ)剣、捨(二)身命(一)奉(レ)祈(二)聖朝安穏之旨(一)、勝利在(二)人口(一)者哉、或詔書云、朕是右丞相之末葉也、何背(二)慈覚大師之門跡(一)、是則慈慧大僧正(だいそうじやう)修験所(レ)致也、早遂(二)彼先規(一)、上祈(二)請百皇無為之由(一)、被(レ)廻(二)万民豊饒之計(一)者、七社(しちしや)権現之威光益盛、三塔衆徒之願力弥新歟、爰義仲(よしなか)以(二)不肖之身(一)誤打(二)廻廿余箇国(よかこく)(一)、渭之間、云(二)神社仏寺之御領(一)、云(二)権門勢家之庄園(一)、不(レ)遂(二)乃貢之運上(一)、誠是自然之恐戦也、申而有(レ)余、謝而難(レ)遁、側聞自(二)諸国七道(一)所済年貢、併号(二)兵粮米(一)、自(二)平家(一)点取(レ)之云云、縦雖(レ)有(二)弁済之深志(一)、全不(レ)為(二)領主之依怙(一)、仍密歎(二)路頭之難(一)、断(二)平家之兵粮米(一)、努々莫(有朋下P161)(レ)処(二)将門(まさかど)純友之類(一)、神不
P0735
(レ)禀(レ)非者、忝令(レ)知(二)見心中之精勤(一)耳、宜以(二)此等趣(一)、内令(レ)達(二)三千之衆徒(一)、外被(レ)聞(二)九重之貴賎(一)者、生前之所望也、一期之懇志也、義仲(よしなか)恐惶謹言。   
  寿永二年七月十日            源(みなもとの)義仲(よしなか)
  進上  恵光坊律師御房
とぞ書たりける。木曾は此状山門へ上て後、如何様(いかさま)にも都近責上べしとて、越前の国府を立今城に著。敦賀山を右になし、能美山を越、柳瀬に打立て高月河原を打渡し、大橋の村、八幡の里、湖上遥(はるか)に見渡して、平方、朝妻、筑摩の浦々を過ぬれば、千本の松原を打通、東大道に出にけり。先陣は近江国三上山の麓、野州の河原に陣を取。軍兵在々所々家々(いへいへ)宿々に充満たり。木曾は返状到来の程、馬の草飼よしとて、蒲生に陣を取て日数を経、兵粮米なかりければ、使者を百済寺へ遣て乞(レ)之。住侶衆議して五百石の兵米を送る。木曾其志を感じて、当寺の御油料とて押立五郷を寄進せり。
S3011 覚明語(二)山門(一)事
爰(ここ)に白井法橋幸明と云僧あり。三塔第一の悪者、衾の宣旨を蒙て、山門には安堵し難く(有朋下P162)て、当山千僧供の料所、愛智郡胡桃庄に忍居たりけるが、大夫房覚明、木曾に付て都へ上と聞て、木曾の陣に行向て相尋ければ、覚明白井法橋を請入て見参す。木曾是を見て何者(なにもの)ぞと問。是は山門に白井法橋幸明とて、三塔には名ある大悪僧にて侍り、覚明上洛と聞て、見参の為に見え来る由を申。木曾幸明を召て見参して宣(のたま)ひけるは、山門の衆徒、平家の語ひを得て源氏を背く由、其聞えあるに依て、子細
P0736
を注して案内を通し畢ぬ、未是非の左右なし、衆徒の事深く御房を憑申、速に登山して当家同心の秘計を廻し給へ、大衆の同心子細なくば、此河原に遠火を焼べし、山上又遠火を合せよ、其を以験として、天台山に攀上て同心に平家を攻べしと語ふ。幸明思けるは、我身当時衾の宣旨を蒙れり、当今平家の御外戚也、源氏に忠を尽て平家を追落なば、自身の難も遁なんと思ひて、仰承候ぬ、心中粗略を存じ候はず、秘計仕べきとて、急ぎ忍登て、同時の大悪僧に、慈雲坊法橋寛覚、三上阿闍梨(あじやり)珍慶と云者を相語て大衆を起し、大講堂(だいかうだう)の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)あり。木曾が書状此砌(みぎり)に披露あり。衆徒は書状披覧の後、木曾(きそ)義仲(よしなか)申状、何体たるべきぞやと云処に、大衆僉議(せんぎ)して云、当山は是桓武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、平家先祖の草創として、帝王三十三代、星霜四百(しひやく)余歳(よさい)也、住持仏法(ぶつぽふ)の勤行廃退なく、百王擁護の祈誓いま(有朋下P163)に新也、就(レ)中(なかんづく)平家、誓願を医王山王の照覧に立て、所願(しよぐわん)於三塔三千の依怙によす、一門合掌して深く冥慮の護念を憑み、諸卿連署して強に与力を衆徒に乞、然者(しかれば)争平家懇念之志を失て、義仲(よしなか)卒爾の語に随べきやと云大衆も有けり。此儀不(レ)可(レ)然と云衆徒もあり。又大衆僉議(せんぎ)して云、我山は此鎮護国家の道場として、百王臣公を長生に祈、四海卒土を泰平と唱、而を平家故太政大臣(だいじやうだいじん)入道浄海、当代御外戚の威に募て、非巡の栄花に誇り不当の高位を黷す、加(レ)之悪逆(あくぎやく)甚して、或雲客(うんかく)卿相(けいしやう)の重臣を配流し、或天子陛下の儲君を誅戮し、或禅定法皇を、鳥羽の故宮に押籠奉て宸襟を動し、或堂塔経巻を、南都園城(をんじやう)に焼払(やきはらひ)て法命を断絶す、依(レ)之(これによつて)四夷乱起て、一天安事なし、
P0737
入道既(すで)に悶絶して薨去畢ぬ。積悪家門に伝り災害子孫に及べり。諸寺諸山平家を背、東国北国源氏に随ふ。是を以て討手を諸国に分遣せ共、軍兵勝負の勇をえず。是偏(ひとへ)に仏神擁護を加へず、運命既末に及故也。源家は近年度々の合戦に討勝て、管領の国の外、七道諸国皆以て帰伏す。然者(しかれば)我山独り、宿運の傾く平家に同心して、運命の開くる源氏を背べきや。就(レ)中(なかんづく)書札の如くは道理此旨を顕す、今に於ては須く平家安穏の祈を改て、源氏贔屓の思に住せらるべき歟哉と僉議(せんぎ)したりければ、満山の大衆も、尤々(もつとももつとも)と同じければ、さらば返状有べしとて(有朋下P164)下遣す。又遠火を合せよとて、惣持院の大庭に遠火を焼。愛智河原にも遠火を焼たりけり。
S3012 山門僉議(せんぎ)牒状事
木曾山門の遠火を悦処に衆徒の返状あり。覚明木曾殿(きそどの)の前に■跪(ひざまづき)て是を読。其状に云、
七月十日御書状、同(おなじき)十六日(じふろくにち)到来披閲之処、数日鬱念一時解散、夫源家者自(レ)古携(二)武弓(一)、奉(二)朝廷(一)振(二)威勢(一)禦(二)王敵(一)、抑平氏背(二)朝章(一)、起(二)兵乱(一)、軽(二)皇威(一)、好(二)謀叛(一)、不(レ)被(レ)征(二)伐平家(一)者、争保(二)仏法(ぶつぽふ)(一)哉、愛(二)源家(一)被(レ)制(二)伏彼類(一)之間、追(二)捕取本寺千僧供物(一)、依(レ)侵(二)損末社之神輿(一)、衆徒等(しゆとら)深懐(二)訴訟(一)、欲(レ)達(二)案内(一)之処、青鳥飛来、幸投(二)書札(一)、於(レ)今者、永翻(二)平家安穏之祈精(一)、速可(レ)随(二)源家合力之僉議(せんぎ)(一)也、是則歎(二)朝威之陵遅(一)、悲(二)仏法(ぶつぽふ)之破滅(一)故也、夫漢家貞元之暦円宗興隆、本朝延暦(えんりやく)之天、一乗弘宣之後、桓武天皇(てんわう)興(二)平安城(一)、親崇(二)敬一代五時之仏法(ぶつぽふ)(一)、伝教(でんげう)大師(だいし)開(二)天台山(一)、遠奉(レ)祈(二)百皇無為御願(ごぐわん)(一)以来、守(二)金輪(一)守(二)玉体(一)、偏在(二)三千之丹心(一)、翻(二)天変(一)払(二)地夭(一)、唯是一山之効験
P0738
也、因(レ)茲代々賢王(けんわう)、皆仰(二)羅洞之精誠(一)、世々重臣、悉恃(二)台岳之信心(一)、所請一条院御宇(ぎよう)、偏恃(二)慈覚大師門徒(もんと)(一)之綸言明白也、九条(有朋下P165)右丞相、並御堂入道大相国(たいしやうこく)、発願文曰、雖(レ)居(二)黄閣之重臣(一)、願(レ)為(二)白衣(はくえ)之弟子(一)、子々孫々(ししそんぞん)、久固(二)帝王皇后之基、代々世々、永伝(二)大師遣弟之道(一)、同施(二)賢王(けんわう)無為之徳(一)、加(レ)之永治二年、鳥羽法皇参(二)叡山(えいさん)(一)御願文(ごぐわんもん)曰、昔践(二)九五之尊位(一)、今列(二)三千之禅徒(一)、倩思(レ)之感涙難(レ)押、静案(レ)之、随喜尤深、星霜四百廻、皇徳三十代、天朝久保(二)十善之位(一)、徳化普施(二)四海之民(一)、守(レ)国守(レ)家之道場也、為(レ)公為(レ)臣之聖跡也、運(二)上本寺千僧供物(一)、改(二)作末社神輿(一)、末寺庄園、併如(レ)旧被(二)安堵(一)者、三千合掌而祈(二)玉体於東海之光(一)、一山揚(レ)声而傾(二)平家於南山之色(一)、凶徒傾(レ)首来詣、怨敵束(レ)手乞(レ)降、十乗床之上、鎮扇(二)五日之風(一)、三密壇之前、遥濯(二)十旬之雨(一)、者依(二)衆徒僉議(せんぎ)(一)、執達如(レ)件。   
  寿永二年七月日             大衆等(だいしゆら)と書たりけり。(有朋下P166)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十一

P0739(有朋下P167)
希巻 第三十一
S3101 木曾登山付勢多軍事
木曾は山門の返状を見て、加賀国住人(ぢゆうにん)林、富樫が一党已下、北陸道の勇士等五百(ごひやく)余騎(よき)を引率し、大夫房覚明を先達にて、近江国湖の浦々より漕渡て、天台山に打登、惣持院を城郭(じやうくわく)とす。悪僧には白井法橋幸明、慈雲坊法橋寛覚、三上阿闍梨(あじやり)珍慶等を始として、事の行しければ、三塔九院の大衆老若も、甲冑を著し弓箭を帯して木曾に同意す。其(その)勢(せい)谷々に充満たり。既都へ責入べきと聞えければ、新三位中将資盛は、宇治より京へ帰入らる。勢多の大将軍知盛重衡両人の内、重衡卿(しげひらのきやう)は山階より引返給けり。新中納言知盛卿は五百(ごひやく)余騎(よき)にて、今夜は粟津浦に宿給たりけるが、此より京へ帰上らんとする処に、加賀国住人(ぢゆうにん)に大田倉光等、源氏に志ありて上洛しけるが、越前国より両人打連て、北陸道より海道に出て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて勢多を廻て上る程に、加州の輩林六郎光明已下、天台山にと聞て、三井寺(みゐでら)より志賀唐崎を経て、東坂本に著て、林富樫と一手に成て軍せんと(有朋下P168)思、勢多の長橋打渡、粟津浜を打程に、新中納言五百(ごひやく)余騎(よき)にて返合せ宣(のたま)ひけるは、爰(ここ)は平家の公達の陣の前也、敵か御方か、何者(なにもの)ぞ、名乗て通れと問はれければ、大田倉光、名乗て中々悪しかりなんとて、馬の鼻を引返し、勢多の橋二三間を引落して、当国の一宮建部社に陣を取。中納言宣(のたま)ひけるは、敵なればこそ名乗
P0740
はせで引退らめ、思ふに北国撫案内の奴原にぞ有らん、追懸て討とれとて追程に、平家は橋を引れて渡すべき様なかりければ、馬をば西の橋爪に繋置、粟津浦のつり船共にこみ乗、東の浜に押渡し、勢多の在家に火を懸て攻ければ、源氏も森より出合つゝ、矢尻をそろへて射合たり。二十二日の夜半計の事なれば、暁懸て照す月、まだ山の端を出ね共、猛火地を耀して昼の如し。源平互に乱合て、二時計ぞ戦たる。新中納言の侍に進藤滝口俊方と云者あり。中納言深く憑給たりけるが、一陣に進んで戦ける程に、敵二三騎討取て、我身も敵に討れにけり。其外死する者十余人(よにん)、手負者は数を不(レ)知。源氏方にも、大田次郎兼定が嫡子に、入江冠者親定と云者を始として七八人(しちはちにん)討れぬ。疵を被る者も多かりけり。入替々々戦ふ程に、平家の軍兵打しらまされて引退く。知盛卿今は力及ばずとて、通夜都へ入給にけり。大田次郎倉光冠者両人は、勢多の軍に打勝て、是も其夜の中に、林、富樫を相尋て、東坂本へ(有朋下P169)入にけり。宇治勢多の討手都に帰上たりければ、平家の一門、今は度を失て為方なし。京中の貴賎周章(あわて)ふためきて、肝魂も身にそはざりけり。
S3102 鞍馬御幸事
〔同(おなじき)〕二十四日未刻に、北面の者一人窃に院(ゐんの)御所(ごしよ)に参じて、承旨こそ候へと申せば、法皇何事ぞと御尋(おんたづね)あり。奏し申けるは、明日巳午の時に、源氏等(げんじら)四方より数万騎にて、都へ責入由聞え候間、平家都の内に安堵し難しとて、三種の神器、院内取進せて、明旦卯刻に西国(さいこく)へ下向とて、内々出立候と申ければ、法皇、神妙(しんべう)に申せり、此事努々人に披露有べからず、思召(おぼしめす)旨ありとて、其(その)日(ひ)の夜に入て、殿上人(てんじやうびと)に右馬頭
P0741
資時計御伴にて、北面の下搏三人被(レ)召て、忍て鞍馬へ御幸なる。人是を不(レ)知けり。同日の小夜深る程に、大臣殿は忍つゝ建礼門院(けんれいもんゐん)に参らせ給(たまひ)て、逆徒入洛の事、日比(ひごろ)は去共と思ひ侍りつれ共、今は憑すくなく承候、都にて如何にも成はてんと申方も多候へ共、人々の御為心苦しかるべし、筑紫の方へ趣て試ばやとこそ思立て候へと、申させ給ければ、女院御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ御座(おはしまし)て、兎(と)も角(かく)も能様にこそ計はせ給はめ、さては住なれし花の都を振捨て、始た(有朋下P170)る旅に浮び立べきにこそ。吉野の花を詠め、明石の月を見人、暫しと思ふ旅だにも、故郷は恋しとこそ聞侍るに、帰さしらぬ波の上に浮身をやどし、こがれて物を歎かん事、兼て思ふこそとて、御衣の袖を御顔に宛させ給ぞ痛しき。大臣殿は終夜(よもすがら)御前に候はせ給(たまひ)て、去方行末の御物語(おんものがたり)申させ給ける程に、比は六月の二十日余(あまり)の事なれば、深行夜半は程もなく、暁懸て出る月、雲井の空に幽也。五更(ごかう)の鐘の音ごとに、今夜も明ぬとて打ひびく。何事に付ても御心細ぞ覚しける。
橘内左衛門尉(きつないざゑもんのじよう)季康と云者あり。是は平家の侍也けれ共、院にも近く被(二)召仕(一)進せければ、二十五日に院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に上臥して候けるに、暁程に常の御所の方騒がしく私語(ささやき)あへり。又女房の声にて、忍びやかに泣音などしけり。こは何事なるらんと胸打騒奇しく思ければ、忍びつゝ指足して立聞ければ、御所に渡らせ給はぬ、何地へ御幸成けるやらん、誰知進せたるらんと、人は我に問、我は人に尋進すれ共、只泣より外の事なくて、知進せたる人もなし。季康浅間敷(あさましく)思て、不(二)聞敢(一)急六波羅へ参
P0742
たれば、大臣殿夜部より女院(によゐん)御所(ごしよ)へ入せ給たりしが、未出させ給はずと申。軈(やが)て女院(によゐん)御所(ごしよ)に参て角と申入ければ、大臣殿は周章(あわて)騒給(たまひ)て、よもさあらじ、僻事にぞ有らんとは仰けれ共、やがて法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ馳参せ給(たまひ)て、如何にと尋申給けれ共、我知進たりと申人な(有朋下P171)し。浄土寺(じやうどじ)二位殿(にゐどの)と申女房、其時は丹後殿とて、夜も昼も御身近候はせ給けるより始て、人々一人も働かずまし/\けるが、只涙を流しあきれてぞ御座(おはしまし)ける。夜も既(すで)に明ぬ。法皇失させ給ぬと披露あり。公卿殿上人(てんじやうびと)、上下の北面馳参る。御所中(ごしよぢゆう)の騒不(レ)斜(なのめならず)、馬車馳違、塵灰を踏立て京中地を返せり。増て平家の人々の家々(いへいへ)には、敵の打入たらんも、限あらば此には過じとぞ見えける。懸りければ官兵洛中に充満て、幾千万と云事を不(レ)知けり。
S3103 平家都落事
〔去(さる)程(ほど)に〕平家は日比(ひごろ)法皇をも西国(さいこく)へ御幸なし進せんと支度し給たりけれ共、角渡らせ給ねば、憑む木本に雨のたまらぬ心地して、去とては行幸計成とも有べしとて、卯時の終りに出御あり。御輿を指寄ければ、主上はいまだ幼き御齢なれば、何心もなく召奉る。神爾宝剣取具して、建礼門院(けんれいもんゐん)御同輿に召る。内侍所も同く渡入奉る。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)庭上に立廻て、印鎰、時の簡、玄上、鈴鹿、大床子、河霧御剣以下、九重の御具足、一も取落すべからずと下知せられけれ共、人皆あわてつゝ、我先に/\と出立ければ、取落す物多かり(有朋下P172)けり。昼の御座の御剣も残留たりけるとかや。御輿出させ給ければ、内大臣(ないだいじん)宗盛公父子。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)父子、蔵人頭(くらんどのとう)信基計ぞ衣冠にて被(二)供奉(一)けり。其外は公卿殿上人(てんじやうびと)、近衛宮、御縄介の末に至るまで、老たるも若も皆甲冑を著し、弓箭を帯して打立けり。七条を西へ
P0743
朱雀を南へ行幸なる。唯夢の様なりし事共也。一年都遷とて、俄(にはか)に淡立敷福原へ行幸なりしは、懸るべき事の験也けりと今こそ思合せければ、八条、西八条(にしはつでう)、池殿、小松殿(こまつどの)、泉殿以下の人々の家々(いへいへ)十六所、皆火を懸て焼亡す。余煙数十町に及で日の光だに不(レ)見けり。或は陛下誕生(たんじやう)の霊跡、或は竜楼幼稚の青宮、或は博陸補佐居所、或相府丞相旧台、三台槐門、九棘鴛鸞栖、門前繁昌堂上栄花の砌(みぎり)也き。如(レ)夢如(レ)幻、強呉滅兮有(二)荊棘(一)、姑蘇台之露■々(じやうじやうたり)、暴秦衰兮無(二)虎狼(一)、咸陽宮之煙片々たりけん、漢家三十六宮、楚項羽がために被(レ)滅けんも、争か是には過べきとぞ覚えし。無常は春の花、風に随て散ず、有涯は暮の月、雲に伴て隠る、誰か栄花の春の夢の如なるを見て驚ざらん。憶べし、命葉の朝の露に似て易(レ)零、蜉蝣の風に戯るゝ、懇逝の楽み幾許、螻蛄の露に囂して、合乳の声詣を伝、崑■(こんらう)の十二楼上、仙の陬か終に空し、雖(二)蝶一万里中(一)洛の城(じやう)不(レ)固、多年の経営一時に摩滅しぬ。盛者必衰の理、眼の前に遮れり。年来日来の振舞は目醒しく(有朋下P173)こそ思しか共、さすが角落下給ふを見ては、貴賎悉哀の涙をぞ拭ける。況や住なれし城を迷出て、いづこ[* 「いとこ」と有るのを他本により訂正]を指共なく旅立給けん人々の心の中、推量られて無慙也。
当時の摂政(せつしやう)近衛殿(このゑどの)と申は、普賢寺内大臣(ないだいじん)基通公の御事也。太政(だいじやう)入道(にふだう)の御聟にて平家に親み給ける上に、法皇も西国(さいこく)へ御幸なるべしと日頃(ひごろ)聞召(きこしめし)ければ、御伴申させ給べきにて有けるに、前内大臣(ないだいじん)より行幸既と告被(レ)申たりければ、御出有て、御車を七条造道まで遣らせ給たれ共、法皇の御幸はなかりけり。
P0744
如何が有べきと思召(おぼしめし)煩はせ給けるに、御伴に候ける進藤左衛門尉(さゑもんのじよう)高範と云侍、御車の前に進出て、供奉し給べき平家の一門、池殿の公達小松殿(こまつどの)君達皆留給へり、法皇の御幸もならず、去ばいづくへとて御出は候やらん、急還御有べきにこそと申。近衛殿(このゑどの)の仰には、彼一門にむすぼほれて、年頃の恩も忘れ難く、主上行幸もあり、平家のかへり思はん処如何が有べきと御気色(おんきしよく)あり。高範牛飼に向て、縦主上行幸ありとても、御代は法皇の御代、御運尽給(たまひ)て外家の悪徒(あくと)に引れ、花洛を落させ給はん行幸に供奉せさせ給たらば、末憑もしからん御事歟とつぶやきて、きと目を引合せたれば、牛飼も進ぬ道なれば、牛の鼻を引返し、一■(ずはえ)あてたりければ、牛も究竟の牛なれば、造道を上に東寺まで、其より大宮(おほみや)を上にと、飛に飛でぞ還御なる。越中二郎兵衛(有朋下P174)盛嗣が、殿下も落させ給ふにこそ、口惜御事哉、止め奉らんとて、片手矢はげて追懸奉る。御車を延さんとて、高範返合て散々(さんざん)に防戦。大臣殿是を見給(たまひ)て、やあ盛嗣よ、年来の情を忘給(たまひ)て、落る程の人をばいかでも有なん、急ぎ御供申べき一門の人人だにも見え給はず、況摂政(せつしやう)の御事は、申にや及と制し給ければ、盛嗣其より引返す。其間に近衛殿(このゑどの)は遥(はるか)に延させ給けるが、御目に御覧じけるは、丱童二人車の左右の轅に取付て、遣る共なく舁共なし、御伴に候けり。牛の前には赤衣の官人、春の日と書たる札を、榊の枝に取具して走とぞ御覧じける。誠に春日大明神(かすがだいみやうじん)高範に入替らせ給つゝ、角計ひ申けるにこそと感涙を流させ給つゝ、西林寺と云寺へ入せ給たりけるが、其より忍て知足院へ移らせ給ふ。人是を不(レ)知して、摂政殿(せつしやうどの)は吉野の奥
P0745
とぞ申ける。
S3104 維盛惜(二)妻子遺(一)事
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の許へ人参て、源氏既天台山に打登、三千の衆徒同心して都へ攻入候也、其上此夜半より法皇も渡らせ給はずとて、大臣殿には騒がせ給ふ、西国(さいこく)へ行幸とて、内裏には、武士雲霞の如に集り、御一門皆御伴とて御出立あり、如何に此御所へは御使は候(有朋下P175)ざりけるやらんと申けり。三位中将は懸るべしと兼て知給、日来思儲給(たま)ひたる事なれ共、指当ては穴心うやと計宣(のたま)ひて、行幸は成けれ共、妻子の遺を惜みつゝ、只泣より外の事ぞなき。つかの間も離がたき人共を、憑もしき者もなきに誰育み誰憐とて、振捨出なん事の悲さよと宣ふも又理也。此北方と申は、故中御門大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の御女(おんむすめ)也。芙蓉の貌も厳く、桃李の粧も細やかに、容顔人に勝れ給(たま)ひたりける上、心の優に情深き事も世に類なかりければ、なべての人に見せん事を、父母労く思て、女御后にもとぞかしづき給ける。天下の美人と聞えける上、父新(しん)大納言(だいなごん)世に覚えいみじく時めき栄え給ければ、哀と思はぬ人はなし。法皇聞召入(きこしめしいれ)させ御座(おはしまし)て、御色に染る御心ありて、忍て度々御書ありけれ共、女房思入給ふ事の有けるにや、是も由なしとて引かづきて臥給(たまひ)て、
  雲井より吹くる風のはげしくて涙の露の置まさる哉 K145 
と口ずさみ給けるも、思ある人とぞ聞えし。父大納言(だいなごん)、法皇の御書の事聞給(たまひ)て周章(あわて)悦給へり。御所へ可(レ)進にて内々其用意有けれ共、更に聞入給事なし。大納言(だいなごん)は大に本意なき事に思はれて、親の
P0746
為に不孝の人にておはしけるを、今まで父子の儀を思けるこそ口惜けれ、今日より後は永く親子の好みをはなれ奉る。人参り寄まじと戒めければ通ふ人も(有朋下P176)なし。乳母子(めのとご)に兵衛佐(ひやうゑのすけ)と云女房一人ぞ免れて候ける。是に付ても世の憂き事を思つゞけ給けるにや、いつも引かづき泣より外の事ぞなき。さても或(ある)時(とき)■(もとゆひ)をひろげて、何とやらん書付て、又如(レ)元に引結捨給へり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)是を取てひらき見に一首の歌也。
  結てし心の深きもとゆひに契しすゑのほどけもやせん K146
書すさみ給へり。是を見てこそ兵衛佐(ひやうゑのすけ)始めて思ある人とは知にけれ。色に出ぬる御心の内争か知べきと思て、様々諌め申けるは、如何に法皇の御書の候けるには御返事(おんへんじ)は申させ給はざりけるにや、女房の御身には、加様の御幸をこそ神にも祈仏にも誓て、あらまほしき御事にて候へ、さらでは又何事を思召(おぼしめし)、いかならんとて父御前の御悪を蒙らせ給べき、猶も随ひおはしまさば、などか御赦れもなくて候べき、さらば御幸にもなり、御目出(めでた)き御事にて候べしなんど、細々と口説申ければ、女房涙を流し給(たま)ひ、物の心を弁る程の者、争か父の仰を背べきなれ共、人しれず思ふ事あり、何程ならぬ夢の世中、尽せぬ思の罪深からんずればとて、又引かづきて臥給へり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、如何なる人の御事を思召(おぼしめし)入て角は仰候ぞと問奉けれ共、いなせの返事もなかりければ、童をさなくより御身近く付まゐらせて、立去方も侍らで、何事も二心なく深く憑進せてこそ侍に、かほどに(有朋下P177)御心を置せ給ける事
P0747
の悲さよ、承たらば憂もつらきも、共の歎にてこそ候はめと終夜(よもすがら)口説奉ければ、理を折て仰られけるは、有し殿上の淵酔に、小松左衛門佐の云し言の有しを聞入ざりしかば、ひたすら穂に顕て、此世一の事に非ず、可(レ)然先世の契も有けるにやとまで、心の中を知せたりしかば、見そめたりしに、後の世までも同心にと云し者を、角と聞ば如何計歎かんずらんと思に、心苦きぞとよと宣へば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)労く御糸惜思つゝ、さる御契の有けるにや、小松殿(こまつどの)よりも申させ給と聞えしぞかしと思出て、急ぎ小松殿(こまつどの)へ参て、北御方に、然々の仰事なん申たりければ、糸惜事にこそとて三位中将に尋給へば、さる事有とて急ぎ車を遣て迎取奉給へり。彼小松殿(こまつどの)の北方と申は、新(しん)大納言(だいなごん)の妹、姫君には御姨母なれば、三位中将には御いとこ也。年比にも成ければ、男女の子息儲給たる御中也。男子は十歳六代御前、女子は八つ夜叉御前とぞ申ける。共にわりなく厳き御有様(おんありさま)也。時の間も離れ難き人々を憑もしき人もなきに、打捨出なん事こそ悲けれとおぼすに、御涙(おんなみだ)関敢ず。北方も後れじと出立給へば、中将は、兼て申侍しぞかし、具し奉ては御身の為糸惜ければ、只留給へ、維盛西海に下て、水の底にも沈み敵にも討れんを親り御覧ぜん事、いか計かは悲かるべき、露愚の事はなき物を、角な歎給そと宣へば、北方、(有朋下P178)いかに角は聞ゆるぞ、後の世までもとこそ契しに、今更打捨給ふ事心うさよとて、涙もせきあへず御座(おはしまし)けるを見るに付ても、為方なく思召(おぼしめし)けれ共、様々に誘給ける程に、ほど経時移ければ、維盛をば二心ある者と大臣殿宣なるに、今迄打出参らねば、いとゞさこそ思給ふらめとて、泣々(なくなく)打出んとし給へ
P0748
ば、北方、父もなく母もなし、甲斐なき女に幼少き者共を打預、只一人都に残し留、いかにせよとて情なく振捨て出給ぞ、野末山の奥までも相具してこそ兎(と)も角(かく)も見なし給はめ、縦習はぬ旅なり共、此に捨られ奉て、明暮恋し悲しと晴ぬ思にやまさるべき、稚者共の便なく歎かん事、父の御身として、などか顧給はざるべきと宣(のたま)ひて、袖を引へつゝ、人の聞にも不(レ)憚音を立てをめき給へば、いと見捨難く思給へ共、さて有べき事ならねば、重て宣(のたま)ひけるは、留置奉るは、誠に情なくこそ思召(おぼしめす)らめ共、維盛は遠き情をこめ奉て角は相計へる也、後には賢くも計て捨置けりと、思召(おぼしめし)合する御事も有べし、若又いづくにも落留り、心安(こころやす)き所あらば、必急ぎ迎とらんと、すかし誘へて出給はんとしける程に、新三位中将資盛、左中将清経、左少将有盛、侍従忠房、兼盛、備中守師盛、五六人の弟達、各門に打入つつ、行幸は遥(はるか)に延させ給(たま)ひぬらん、いかに今までかくては御座(おはしまし)候ぞと宣(のたま)ひければ、三位中将は、少き者(有朋下P179)共の痛慕侍を誘侍程にとて、涙に咽て立給へり。北方は冑の袖に取付て、さて打捨て出給ふにやとて叫給ふ。若君姫君もろ共に、左右の袂(たもと)にかなぐり付て、我捨られじとぞ慕ひ給ふ。三位中将は余りに無(二)為方(一)被(レ)思ければ、重藤の弓のはずにて、御簾をざと掻揚て、弟の殿原に、是御覧ぜよや、如何にも軍の先をこそ蒐候はめ、稚者共が遺を、思はじとすれ共思はれて、争か情なく引切べしと、心弱に誘侍る程に、出兼て侍ぞやとて涙を流し給へり。冑の左右の草摺には、若君姫君取付給へり。鎧の袖には北方と覚しくて取付給へり。日来はさしもこそつゝみ忍給しに、悲さには恥をも忘れけるにや、
P0749
人々の見あはれけるにも不(レ)憚悶焦給ふ。弟の殿原是を見給て、各涙を流しつゝ、馬の鼻を引返し、門に出てぞ泣給ふ。やゝ有て新三位中将、又縁のきはまで打寄せて、御遺(おんなごり)はいつも尽ぬ御情(おんなさけ)、誠に打具し奉歟、思召(おぼしめし)切歟、御心弱も折に依べき事に候、兎(と)も角(かく)も疾々と聞えければ、三位中将心強く思切、振捨てこそ打出けれ。北方稚人々、後れじと慕ひ給へば、中将も心強は出たれ共、跡に心は残けり。行も留も推量られて哀也。
 < 昔悉達太子の、檀特山に入らんとて王宮を出しに、耶須多羅女を悲て出もやらざりけんも、角やと思しられたり。彼は報恩の道に入、終に覚を開給、是は闘戦の旅に出づ、後いかな(有朋下P180)らんと無慙也。>
侍共も面々に打出ける其中に、北国にて討れし斎藤別当真盛が子に、斎藤五、斎藤六とて兄弟あり。斎藤五は十九、斎藤六は十七にぞ成ける。三位中将此二人を招寄て、年来身近召仕つれば、眤さにいづくまでも召具し度思へ共、己等は無官(むくわん)にて、出仕の伴なんどもせねば、墓々敷人に見しられざれば、幼者共を留置事の■(おぼつか)なきに、二人は是に留て、少き者共の杖柱ともなれと宣へば、兄弟二人、馬の左右の承■(みづつき)に取付て、何れも御宮仕は同御事なれば、仰に随ひ進すべきにて侍ども、公達北御方の御歎承り、忍べしとも覚えず、其上女房の御身幼御事、何の御事かは侍べき、たゞ御向後こそ覚束(おぼつか)なく思ひ進すれば、落著せ給はん処までは御伴にこそとて、後れ奉らじと叫けり。中将宣(のたま)ひけるは、誠に年来の好みはさる事なれ共、多者共の中に、思ふ様有てこそ加様には云に、などか口惜我云事を
P0750
用ぬぞ、維盛に随はんに露劣まじと恨給へば、遥(はるか)に見送奉り、猶も走付参度は思たれども、誠に思召(おぼしめす)様ありてこそ宣らめと思なり、遺は旁た惜けれ共、兄弟泣々(なくなく)帰にけり。三位中将心づよくは出給たれども、跡に心は留て、前へは更にすゝまれず、隙なき涙に掻くれて、行前も又見えざりけり。弟達の見合れけるもさすがつゝましく覚て、さりげなくもてなし給へども、抑る袖の下よりも、余て涙ぞこぼれけ(有朋下P181)る。北方は、是程に情なかるべしとは年比は思はじものをとて、引かづき臥給へば、少き人々もろともに、倒伏もだえ焦給けり。日数ふれば、北方二人の公達を拘て、世も怖しく道も狭く覚しける上、かく打捨られ給(たまひ)ては、一日片時堪て御座(おはします)べしとは覚さゞりけれ共、つれなく消ぬ露の身の、日数もさすが積つゝ、年月をこそ被(レ)送けれ。歎に死なぬ理も、今こそ被(二)思知(一)けれ。
越中次郎兵衛盛嗣、大臣殿御前に進出て申けるは、池殿は御留にこそ侍共、一人も見え候はず、口惜侍者哉、上こそ恐れ有ども安からず存候に、侍共に一矢射懸て帰参んと申。大臣殿打領許給(たまひ)て、さなくとも有なん、年来の重恩を忘て、いづくにも落著ん所を見置かぬ程の者をば、兎角云に及ばずと制し給けるぞ糸ほしき。さても権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)は如何にと問給へば、盛嗣、小松殿(こまつどの)の公達一所も見えさせ給はずと申けるに、大臣殿は、池(いけの)大納言(だいなごん)の様に、頼朝(よりとも)に心を通すやらんと覚ゆれば、さこそは有らめとて、世に心細げに宣(のたま)ひて、涙のこぼれけるを押拭給ければ、人々も冑の袖をぬらしけり。新中納言知盛、此有様(ありさま)を見給(たまひ)て、皆是日比(ひごろ)思儲し事也、今更驚べきに非ず、さはあれ共、都を出て、未一日をだにも経ぬ
P0751
に、人の心も替畢ぬ。増て行先さこそはと推量らるれば、只都にて如何にも成べかりつる者をとて、大臣殿の方をつらげに見(有朋下P182)給けるぞ実にと覚て無慙なる。
S3105 畠山兄弟賜(レ)暇事
畠山庄司重能、小山田別当有重、兄弟二人は、年来平家に奉公して、都落にも御伴申て、泣々(なくなく)淀まで下たりけるを、大臣殿御覧じて、近く両人を召て、御供神妙(しんべう)々々(しんべう)、但いづくまでも相具すべけれ共、子息家人等(けにんら)皆東国に有て頼朝(よりとも)に相従へり、身は御供に候て心は鎌倉に通ふ覧、親子の儀それ悪からず、技■(ぎかん)計下たらば何にかはせん、疾々罷帰れ、もし世にありと聞ば思ひ忘れず参べき也と宣へば、重能、有重畏て、身は恩の為に仕はれ、命は儀に依て軽しと云事あり、年来恩を蒙て身を助妻子を養ひ候き、今さら子が悲く妻が恋しければとて争か見捨奉べし、落著御座(おはしま)さん所までは御供也と申せば、人の親の子を思ふ志、尊も卑も替る事なし、されば子は東国にありて源氏に随ひ、親は西海に落て身を亡さん事、不便也、只とく/\頸を延て、頼朝(よりとも)に随て再妻子を相見るべし、つゆ恨と思ふべからずと宣(のたま)ひけるこそやさしけれ。二人の者共廿余年の好なれば、遺は実に惜けれ共、流石(さすが)に身のすて難さに、泣々(なくなく)都へ上にけり。
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛、資盛、清経(有朋下P183)已下、兄弟の人々三百(さんびやく)余騎(よき)にて、行幸ははや成ぬ。急やいそげ打やうてとて、大宮(おほみや)を下に、東寺、四塚、造路、御吉野、志賀、柳原、淀津、羽束、六田河原を打過て、関戸院辺にてぞ行幸には追付給ける。大臣殿は、此人々を見給(たまひ)てぞ少力付て、今まで見えさせ給は
P0752
ざりつれば、■(おぼつかな)く思奉りつるに、角て又見えさせ給へば嬉くこそと宣へば、三位中将は、稚者共の強に慕ひ侍りつるを誘へ侍つれば、今まで行幸には後れ進せ候へと宣へば、何とて具し奉給はぬぞ、留置奉ては、如何にしてか御座合する、御心苦き事にてこそと宣へば、行前とても憑もしくも候はずと計にて、問につらさの勝りつゝ、いとゞ涙を被(レ)流けり。是を聞ける人々は、実にと思つゝ、我身の上とぞ悲みける。池(いけの)大納言(だいなごん)の一類は、今や/\と待れけれ共、落留て見え給はず。
S3106 経正参(二)仁和寺宮(にんわじのみや)(一)事
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛の子に、但馬守経正と申は入道の甥也。童形の程は、幼少より仁和寺宮(にんわじのみや)守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)に候て、御愛弟にておはしけるが、是も都を落けるに、昔の好み難(レ)忘覚えければ、最後の見参に入進せんとて、有教朝重と云侍二人召具して、只三騎にて仁和寺宮(にんわじのみや)(有朋下P184)へぞ参給。経正は練貫に鶴を縫たる鎧直垂(よろひひたたれ)に、萌黄糸威の鎧をぞ著たりける。人して申入けるは、一門の栄花既(すで)に尽て、今日都を罷出候。再花洛に還登らん事有難し、身を西海の底に沈め、骸を山野の塵にまじへん事疑なし。何事も皆先世に報う事と思ふ中にも、今一度君を見奉らずして空ならん事、憂世(うきよ)の妄念とも成侍りぬと悲く覚え候へば、乍(レ)憚推参と申入る。宮大に憚思召(おぼしめし)けれ共、さしも糸惜不便と思召(おぼしめし)し者なる上に、誠に都を落下る程なれば、又御覧ぜん事有まじとて御前近く召れけり。経正悦で、冑著ながら中門の廊に畏り、跪て申けるは、十一歳の時より此御所に参、不便の者に被(二)思召(一)(おぼしめされ)しかば、慈悲の御衣の下より生立られ進せし上は、剃髪染衣の形にこそ罷成べきに、心ならず在俗不善の身と成、叙爵し侍しか
P0753
共、出仕の隙にはいつも此御所にこそ伺候申しに、近年源平の諍に打紛れて後は、つと参る事こそなかりつれ共、五月三日に不(レ)参事はなかりき。而一族運傾て、今日既(すで)に都を罷出づ、遥(はるか)の西海に落下り、八重の塩路を漕隔なば、帰らん期を不(レ)知、骨を道の側にさらし、名を浪の末に流さん事疑なし。哀不便の昔の御好み、生々世々に争忘奉べきなれば、今一度君をも見進せばやと存じて、人々ははや落罷ぬれども、経正は先是まで参上仕に、御前近被(二)召進(一)せぬる事、申に猶も余あり、抑(有朋下P185)又下預し青山をば、如何ならん世までも御形見にとこそ思侍つれども、争か斯る名物を、空く旅の空に引失ひ、波の底に沈め侍べき、されば返上仕らんとて持参、それ進らせよとて、郎等有教を召て、錦袋に入たる青山と云琵琶を取出して、輪台、青海波、蘇香、万寿楽の五六帖をぞ暫く弾じ給(たま)ひける。是を最後と引給へば、聞人涙を流しけり。さて琵琶を懐て御前に指置給つゝ、鎧の袖を顔に当て、やゝさめ/゛\と泣給ふ。宮は此有様(ありさま)を御覧じ聞召(きこしめし)て、聊も御返事(おんへんじ)をば仰せず、香染の御衣の袖絞りあへさせ給はず、哀に堪ぬ御有様(おんありさま)、徐の袂(たもと)ぞ濡増る。
S3107 青山琵琶流泉啄木事
抑此琵琶は、承和二年に掃部頭貞敏が勅宣(ちよくせん)を蒙、大唐国に渡つゝ、簾承武に謁して秘曲を伝へ習しに、二の琵琶を得たりき。玄象、青山是也。博士此琵琶を弾じつゝ、曲を貞敏にをしへしに、青山の緑の梢に、天人天降つゝ廻雪の袖をひるがへす。博士瑞相に驚て、青山と名をつけき。
 < 又此琵琶の造様、紫藤の槽に枝の腹、花梨木の頭に同天首、黄楊のはん首に同撥、白心のふくしゆに、虎の皮の撥面落帯なり。
P0754
撥面の絵には、夏山の(有朋下P186)碧の空に、有明の月出たる様を書たれば、青山共名付たり。譬ば撥面に、牧の馬と書たれば、彼の琵琶を牧馬と如云也。>
昔村上天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、月明々として陰なく、風颯々として最冷、秋夜深更に臨で御寂き折節(をりふし)、御心を澄しつゝ、此青山を取出御座(おはしま)して、御自万秋楽の秘曲を弾じ給けるに、撥の音にやめでたりけん、月もさやけき軒端頭に天人天降給(たま)ひて、五六帖の秘曲の時、廻雪の袖を翻し、雲井に登給にけり。懸る目出琵琶なれば、其後凡人引事なし。仁和寺宮(にんわじのみや)に伝り、代々此御所の重宝なりけるを、皇后宮亮経正、十七にて初冠して軈(やが)て五位に成。すき額の冠を給(たまひ)て、宇佐宮の御使に立られける時、申預て下つゝ、当社権現の神前にて、磐渉調にて青海波を弾じ給ける。御神殿やゝ動つつ、内より二羽の千鳥飛出て、社壇の上にぞ舞遊。神明御納受(ごなふじゆ)有て化現し給と覚えて忝(かたじけな)し。経正楽をば留て、三曲の其一流泉の曲を調べたり。宮人、巫女、賤女、賤男に至まで、呂律緩急をば不(レ)知ども、感涙袖を絞けり。凡人此琵琶を弾ずる事は、経正計ぞ有ける。斯る希代の重宝なれば、身を放たず家に伝とこそ思はれけめ共、都を落別るゝ程なれば、縦波の底に消失ぬ共、是を御覧ぜん折々は思召(おぼしめし)出し御座(おはしま)して、後の世をも御弔あれかしと思ければ、進報しけるにこそ。
 < 抑流泉曲とは、都率内院の秘曲也。菩提楽とは(有朋下P187)此楽也。弥勒菩薩常に此曲を調て、聖衆の菩提心をすゝめ給ふ故也。其声歌に云、
  三界無安 猶如火宅 発菩提心 永証無為 K147 
P0755
とぞひゞくなる。漢武帝の仙を求め給し時、内院の聖衆天降つて、武帝の前にて此曲を調べ給し時、竜王(りゆうわう)窃に来つて、南庭の泉底に隠居て此を聴聞せしかば、庭上に泉流れて満たりしより、此曲をば流泉と名たり。
我朝には延喜第四王子会坂の蝉丸の琵琶の上手にて、天人よりつたへられたりしを秘蔵せられて、更に人にさづけたまはず、博雅三位三年の程、夜々(よなよな)関屋にかよひつゝつたへたりしを、三位も是を秘蔵して、たやすく人にはつたへざりけり。
啄木と云曲も天人の楽也。本名解脱楽と云。此曲を聞者は生死解脱の心あり。其声歌に云、
  我心無碍(むげ)法界同 我心虚空其本一 我心遍用無差別 我心本来常住仏 K148 
とぞひびくなる。震旦の商山に、仙人多くあつまつて偸に此曲を弾じけるに、山神虫に変じつゝ、木を啄む様にもてなしてこれを聞けるより、啄木とは申也。此楽を弾ずる時は、天より必妙華ふり、甘露定りて、海老尾に結びけり。>
さても経正は既(すで)に罷出んとしけるが、今を限の別の道、立もやらず、琵琶を御前に閣きつゝ、角ぞ思つゞけける。(有朋下P188)
  呉竹のもとの筧はかはらねどなほ住あかぬ宮の内かな K149 
宮も御涙(おんなみだ)を押へ御座(おはしまし)て、
  呉竹の本の筧は絶はててながるゝ水のすゑをしらばや K150 
御前に候ける人々、昔の好み争可(レ)忘なれば、各遺を惜つゝ、墨染の袖をぞ絞ける。大蔵卿(おほくらのきやう)法印は、余りに悲く思ひつゝ、是や最後の別なるらんと思ひ入て、
P0756
  夏山の出入月の姿をばいつか雲井に又も見るべき K151 
経正の返事、
  夏山の緑の色はかはるとも出入月を思ひわするな K152 
侍従律師行経は、殊に不(レ)浅契たりける人也。
  哀なり老木若木も山ざくらおくれ先立花も残らじ K153 
経正返事、
  旅衣夜な/\袖をかた敷て思へば遠く我は行なん K154
と宣(のたま)ひて、御遺(おんなごり)は旁推量御座(おはしま)すべし。今は心づくしのはてまでも、是を最後の思出とて、御前を立給けり。年来見なれし人々も、鎧の袖に取付て、衣の袂(たもと)を絞けり。夜を重(有朋下P189)日を重ぬ共、別はいつも同事、行幸は遥(はるか)に延させ給ぬらんとて、心づよく振放、甲の緒をしめ馬に打乗出給ふ。参る時は世を忍たる体なれ共、帰る時は赤旗赤符付させつゝ、南を指て歩はせけり。行幸に追付進せんとて、心づよくは出たれ共、住なれし故郷はさすがに悲く覚えつゝ、鎧の袖に涙落て行前も不(レ)見けり。梅津里は夏なれど、匂を残して芳しや、桂里の月影も、思出てぞ通られける。大井河、岩越瀬々の水の泡、旅の憂身の悲さに、消入心地し給へり。
飛騨守景家(かげいへ)も、御伴にとて出立けるが、三歳になる孫に遺を惜つゝ、如何がせんとぞ悲ける。其孫と云
P0757
は、北国の軍に討れし飛騨太郎判官景高が子也。其妻は夫に後れて深思に沈、此少者をかゝへてのち如何がせんと歎し程に、積思に堪ずして、此世空く成にけり。父にも後れ母にも別て、孤なりけるを、祖父飛騨守景家(かげいへ)が、我懐に拘抱て、常は口説言して、哀果報なき身となれる悲さよ、懸る忘がたみを残置、我さへ物思ふ事の無慙さよとて、鳥の雛を■(あたたむる)が如孚ける程に、平家都を落ければ、景家(かげいへ)も出立けり。東西もしらぬ稚者を、宿定めなき旅の道に具せん事も叶ふまじ、跡に憑もしき者もなければ、誰に預べし共覚えず、思侘てつく/゛\是を案じ出して、冑の袖に懐きつゝ、母の八十有余(いうよ)に成けるに具し行て、此子預け奉る。御為には曾孫也、(有朋下P190)景家(かげいへ)西海の浪に沈み候(さうらふ)共(とも)、生し立て御形見共御覧候へとて、打預けつゝ落行けり。景家(かげいへ)が母老々として、庭に杖つき走出て泣々(なくなく)申けるは、我身縦若く盛なりとも、懸る乱の世中に如何にしてか育べき、況や八十に余て今日明日とも知ぬ命也。行末遥々(はるばる)の少き者を、何とせよとて捨預てはおはするぞ、縦情なく、老たる母をこそ振捨て出給ふ共、恩愛の別の悲さに打副て、歎を重給ふ事こそ心うけれ、如何ならん野末山の奥へも具し行給へとて、嬰児の手を引、鎧の袖に取付て、門を遥(はるか)に出たりけり。弓矢とる身の哀さは、人に弱気を見せじとて、かなぐり棄て出けれども、涙は先にすゝみけり。
落行平家は誰々ぞ。公卿には前内大臣(ないだいじん)宗盛、平(へい)大納言(だいなごん)時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、右衛門督(うゑもんのかみ)清宗、本三位中将重衡、権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛、越前三位通盛、新三位中将資盛、殿上人(てんじやうびと)
P0758
には内蔵頭(くらのかみ)信基、但馬守経正、左中将清経、薩摩守忠度、小松新少将有盛、左馬守行盛、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、小松侍従忠房、若狭守経俊、淡路守清房、僧綱(そうがう)には、二位僧都(そうづ)全真、法勝寺(ほつしようじ)執行能円、中納言律師忠快、経誦坊阿闍梨(あじやり)祐円、侍には受領検非違使(けんびゐし)、衛府諸司(しよし)百六十人、無官(むくわん)の者は数を不(レ)知、此二三箇年の間、東国北国度々の合戦に被(二)討漏(一)たる人々也。(有朋下P191)
S3108 頼盛(よりもり)落留事
池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)も、池殿の亭に火を懸て、鳥羽の南、赤江河原まで落給たりけるが、赤旗赤符ちぎり捨て、此より都へ帰上る。八条女院の御所、仁和寺(にんわじ)常葉殿に参篭し給へり。落残る勢僅(わづか)に百余騎(よき)也。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許より度々被(二)申送(一)けるは、平家追討の院宣を下給る上は私を存ずべからず、御一門の人人恨申べきにて候、但御あたりの事は驚思召(おぼしめす)べからず、故池尼御前に遁れ難き命を被(レ)助進せて、今に甲斐なき世に立廻れり、其御恩争か奉(レ)忘べきなれば、如何にも報い申さんとこそ存ずれ共、後れ進ぬれば力及ばず、今は故尼御前の御座と深思進すれば、頼朝(よりとも)角て世に立廻り候はば、朝恩にも申替て御宮仕申べし、ゆめ/\■(いつはり)飾の所存にあらずと被(レ)申たりける上、法皇仰之旨も有けるを憑て留給ふ。又同き侍に、弥平兵衛尉宗清と云者あり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)平治の逆乱にきらるべかりけるを、此宗清、池尼御前の使として、兎角詞を加て死罪を申宥たりけるに依て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)思忘給はず、国国の兵を差上せ給ける時も、穴賢池殿の殿原に向て弓矢を引事有べからず、又宗清兵衛に手かくなとぞ被(二)誡仰(一)ける。平治に頼朝(よりとも)助りて、寿永に頼朝(よりとも)遁給ふ。周易に、(有朋下P192)積善之家有(二)余慶(一)、不善之家有(二)
P0759
余殃(一)と云本文あり。誠なる哉此言、人に情を与るは、我幸にぞかへりける。
S3109 貞能(さだよし)参(二)小松殿(こまつどの)墓(一)付小松大臣如法経事
源氏多田(ただの)蔵人行綱、摂津国(つのくに)を押領して河尻を打塞と聞えし間、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)馳向たりけれ共、僻事にて帰上る程に、相模が辻子と云所にて[* 「まて」と有るのを他本により訂正]行幸に参合ふ。貞能(さだよし)馬より下、大臣殿已下の人々に向ひ奉て、穴心う、是は何地へとて御座やらん、都にてこそ如何にも成給はめ、又西国(さいこく)へ落させ給たらば助り給ふべき歟、落人とて此彼にて打殺され射殺され、骸を道の側にさらし、名を後の世にくだし給はん事口惜かるべし、とく/\是より還上らせ給へとて爪弾に及ぶ。大臣殿宣(のたま)ひけるは、貞能(さだよし)よ汝はいまだ不(レ)知、思ふも理なれ共、源氏昨日より天台山に登て、谷々坊々に充満たり、又此夜半より、法皇も御所を出させおはしまして渡らせ給はず、男子の身ならば如何がせん、主上いまだ幼き御事也、女院二位殿(にゐどの)を始進せて女房達(にようばうたち)旁御座(おはしま)す、まのあたり心憂目を見るも悲ければ、一間戸もやと思、又禅門名将の御墓所に参て、今一度奉(レ)拝、思ふ事をも口説申、其後塵灰ともならんと思召(おぼしめす)(有朋下P193)也と仰ければ、貞能(さだよし)は、昔より源平世を諍て合戦いまに絶ず、縦敵天台山に有とも、争か住なれし都をばあくがれ出させ給べき、貞能(さだよし)は余に京の恋しく候へば、帰上て敵あらば討死して、同ば骸を都にさらし侍べし、敵なくば又こそ帰参らめとて、只一人都へ帰上つゝ、法住寺(ほふぢゆうじ)の辺に一宿したりけれ共、人々も引返し給はず、家々(いへいへ)は今朝皆焼払(やきはらひ)給ぬ、なにに付、いづくに有べし共覚ざりければ、貞能(さだよし)小松殿(こまつどの)の御墓に参て、夜深るまでは忍音に念仏申、頓証菩提と回向して後申けるは、君は加様の事を兼て被(二)知召(一)て、熊野権現に御祈誓
P0760
候て、とく失させ給けるにや、此世中いかに成立候べき、賢人の大臣とこそ君も臣も思奉し事に侍しか、草の陰までも遠き守とならせ給(たまひ)て、御一門今一度都へ返入給へとて、生たる人に物を云様に、涙を流して申けり。暁に及て夢を結ぶ。大臣衣冠正して、八葉の連座のいと目出(めでた)きに、左の足を指上て登らん/\とし給けるに、鬼神来て引落し奉る。貞能(さだよし)、あれは如何にと問奉りければ、大臣涙を流し、八葉の連座と云は都率天宮也、我君臣の儀を不(レ)乱、親子の礼を篤す、国を思ひ人を恵に全く私を以せず、其上莫大の善根異国に及に依て、都率天に生ぜんとする処に、一門の悪行に答て今為(二)鬼神(一)被(二)引落(一)たり。鬼神と云は即一族の悪霊也、されば汝、如法経を書写して必我後世を助(有朋下P194)よと宣ふと見て夢覚ぬ。其後墓堀起し、水に流すべきをば賀茂河に入、持すべきをば持せて、甲斐々々しくは云たりけれ共、泣々(なくなく)福原へこそ下けれ。
 < 王褒と申者、昔唐土に有けり。其母生たりける時、余に雷に恐けり。母死て後、雷のきびしく鳴時ごとに、必母の墓に行て、王褒是まで参て侍、雷電の音恐れ思給ふなと、声を挙て泣しかば、雷鳴を止けり。其の母夢に来て、悦ぶ色たび/\有けるとかや。至孝の志深き時には、古今上下、懸るためしも有けり。>
貞能(さだよし)後に聞えけるは、西国(さいこく)の軍破て下野国宇都宮へ下向す。彼宇都宮は外戚に付て親しかりければ、尋下て、出家して肥後入道と云て、如法経を書写して、大臣殿の後生を弔奉けり。貞能(さだよし)都へ返り入ぬと聞ける上、越中次郎兵衛盛嗣、上総七郎兵衛景清、二人大将軍として京へ上り、落留給へ
P0761
る平家の一門並侍共、人手に懸んより、一人も漏さず討捕べきと聞えければ、池殿は色を失ひ騒給(たま)ひ、こは如何にすべき、源氏は未(二)打入(一)、平家には引別ぬ、浪にも付ず磯にもつかぬ心地かなとて、只八条殿に参て、若の事候はば助させおはしまし候へ、と申されけるも云甲斐なし。女院は斯る乱の世なれば、我いかにと計ふべきにも非、そも如何がせさせ給ふべきとぞ仰ける。
平家の方の者やしたりけん、池殿の門前に、札に書てぞ立たりける。(有朋下P195)
  年比の平やを捨て鳩のはにうきみを蔵いけるかひなし K155 
大納言(だいなごん)此歌に恥て出仕もし給はず、常に篭居してぞおはしける。有為無常の境と云ひながら、命を惜身をかばふ事、定て可(レ)有(二)後悔(一)をや。年来芳志ある一門を捨て、他門に帰伏し給ぬる事、げにもいける甲斐なしとぞ人申しける。(有朋下P196)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十二

P0762(有朋下P197)
賦巻 第三十二
S3201 落行人々歌付忠度自(レ)淀帰謁(二)俊成(一)事
落行平家の人々、或式津の浪枕、八重塩路に日を経つゝ、船に竿さす人もあり、或遠を凌近を分つゝ、駒に鞭うつ人もあり。前途をいづこと不(レ)定、生涯闘戦を日に期して、思々心々にぞ下給ふ。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の外は、大臣殿を奉(レ)始て可(レ)然人々は皆妻子を引具し給たりけれ共、下様の者共は妻子を都に置しかば、おの/\別を悲つゝ、行も留も互に袖を絞けり。夜かれ日枯をだにも怨しに、後会其期を知ざりけるこそ悲けれ。相伝譜代の好み不(レ)浅、年来日比(ひごろ)の重恩も争か忘べきなれば、人なみ/\に涙を押て出たれ共、心は都に通つゝ、行も行れぬ心也。淀の大渡にては、南無(なむ)八幡三所大菩薩(だいぼさつ)、再都へ返し入給へと各伏拝給へども、神慮誠にしり難し。薩摩守忠度、故郷の家々(いへいへ)煙とのぼるを顧て、
  古郷を焼野の原にかへりみて末も煙の波路をぞゆく K156 (有朋下P198)
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、
  墓なしや主は雲井に別るれば宿は煙と立のぼるかな K157 
或旧女泣々(なくなく)口ずさみ給ける、
P0763
  住なれし都の方はよそながら袖に波こす磯の松かぜ K158 
是を聞ける人々、いよ/\袂(たもと)を絞りけり。中にもやさしき事と聞えしは、薩摩守忠度と申は入道の舎弟(しやてい)也。淀の河尻まで下たりけるが、郎等六騎相具して、忍て都へ帰上る。如法夜半の事なるに、五条(ごでうの)三位俊成卿の宿所に行て門を扣く。内には是を聞けれ共、懸る乱の世なる上、いぶせき夜半の事なれば、敲共々々開ざりけり。余に強く敲ければ、良久有て青侍を出、戸をひらかせて是を問。忠度と申者、見参に申入度事ありて参たりと答ければ、三位大庭に下、世に恐て内へは入ざりけれ共、門をば細目に開て対面あり。忠度宣(のたまひ)けるは、懸身として御ため憚あれ共、所詮一門栄花尽て都に不(二)安堵(一)、西海へ落下侍、亡ん事疑なし、世静て後、定て勅撰の沙汰候はんか、縦身は八重の塩路の底に沈とも、藻塩草書置末の言葉、後の世までも朽ぬ形見に伝はり侍れかしと思出て、河尻より忍上て侍、是ぞ年比読集たりし愚詠共にて侍る、身と共に波の下にみくづとなさん事遺恨(有朋下P199)に侍り、是を砌下に進置候、勅撰之時は必思召(おぼしめし)出よとて、巻物一巻、泣々(なくなく)鎧の引合より取出たり。三位感涙を流し、是を請取、御詠一巻預置候畢、是永代秀逸の御形見、未来歌仙の為(二)指南(一)歟、此怱劇之中に御音信(おとづれ)に預事、恐悦不(レ)少候哉、縦浮生を万里の波に隔とも、御形見をば一戸の窓に納て、勅撰の時は思出侍べしと宣へば、忠度今は身を波の底に沈め、骨を山野に曝とも思事なしとて馬にのり、古詩を、
  前途程遠馳(二)思於雁山之暮雲(一) 後会期無霑(二)纓於鴻臚之暁涙(一)
P0764
と打上々々詠じつゝ、南を指てぞ落行ける。本文には、後会期遥也と書たるを、
忠度還見るべき旅ならず、今を限の別也と思ければ、後会期無と詠じけるこそ哀なれ。三位も遺の惜して、遥(はるか)に是を見送ても、あはれ世に在しには、此人共にこそ諂追従せしに、替習とて、今は門を隔る事の悲さよと、哀なるにも涙、優なるにも涙、忍の袖をぞ絞られける。代静て後千載集を撰れけるに、忠度の此道を嗜、河尻より上たりし志を思出給(たまひ)て、故郷の花と云題に、読人しらずとて一首被(レ)入たり。
  さゞ浪や志賀の都は荒にしを昔ながらの山桜かな K159 
とよめる歌也。名字をも顕し、あまたも入まほしかりけれ共、朝敵となれる人の態なれ(有朋下P200)挿絵(有朋下P201)挿絵(有朋下P202)ば憚給(たまひ)て、只一首ぞ被(レ)入ける。亡魂いかに嬉く思けん、哀にやさしくぞ聞えし。此忠度、内裏の女房に心を移して、年来通ひ給(たま)ひ、情深き中也けるに、彼女房みめ形類なく、心の色世に有難しとほのめきければ、高倉院(たかくらのゐん)も思召(おぼしめし)入させ給(たまひ)て、忍て時々御幸あり。忠度は年来の知人也、院は日浅き御事也。天戸渡織女の、会夜希なる秋の夜の、月の光もさやけくて、虫の音絶々音信(おとづれ)たり。をり知がほに道芝の、露置そむる夕暮に、高倉院(たかくらのゐん)此女房の許へ御幸あり。忠度争か知べきなれば、夜深人定て其夜同通はれたり。院は先よりの御幸なれば、女房は御前にて御物語(おんものがたり)あり。忠度は後におはしたれば、角とも知給はね共左右なく入給はず、人の出よかし、角と云入んとおぼしけれ共、御幸の折節(をりふし)なりければ、如何
P0765
にと咎る者もなし。忠度かなたこなたを立廻り、御前近き御縁に良久立居給(たま)ひ、扇をぞ仕給ける。蚊の目のきり/\と御前へ聞えけり。院も怪く思召(おぼしめす)御気色(おんきしよく)也。女房は忠度の来れるにこそ、角と告まほしく思はれけれ共、院に憚進ける上は、人して云べき便りもなし。忠度の待らん事も痛しく、折節(をりふし)骨なき事をも知れかしとて、女房何となき口ずさみの様に、野もせと仰られければ、忠度扇をたゝみて窃に帰給にけり。後に此女房に逢たりけるに、さても一日はいかにと問給へば、忠度、骨なきぞかしかましと仰(有朋下P203)候しかば帰てこそ、とぞ答たる。女房又宣(のたまひ)けるは、人して申たる事もなし、何をしるしにて角は思召(おぼしめし)けるぞといへば、野もせと仰候しかば帰りぬと。源氏夕顔の巻に、
  かしかまし野狭にすだく虫音よ我だに物はいはでこそ思へ K160 
と云歌の候ぞかしとぞ宣(のたまひ)ける。思寄給ける女房も、心え給へる忠度も、互に由ありてぞ覚えける。懸る優に情深き人にて、河尻よりも帰上り給ける也。
左馬頭(さまのかみ)行盛と申は、太政(だいじやう)入道(にふだう)の二男に、左衛門佐安芸判官基盛と云し人の子也。父は保元の乱の後、宇治河(うぢがは)にて水神に取れて失にけり。孤子にておはしけるが、京極中納言定家卿に奉(レ)付、歌道を学給けり。都を落給とて、定家の遺を惜つゝ、巻物一つに消息(せうそく)具して被(レ)送たり。巻物とは日来読集給たりける歌共也。定家卿披き見給ふに、来方行末の事共こまやかに被(レ)書て、端書に、
  流れなば名をのみ残せ行水のあはれ墓なき身は消ゆるとも K161
P0766
定家是を見給(たまひ)て感涙を流し給つゝ、勅撰あらば必いれんと被(レ)思けり。薩摩守忠度の歌を、父俊成卿の、よみ人不(レ)知と千載集に被(レ)入たる事を、本意なき事に被(レ)思けり。忠度は朝家の重臣として、雲客(うんかく)の座に連れり。名を埋む事口惜く被(レ)思ければ、如何にも行盛を(有朋下P204)ば名を顕さんとて、朝敵なれば世に恐て、三代を過ざりける。後鳥羽、土御門、佐渡院御宇(ぎよう)を経て、後堀河院御時、新勅撰の有しに、今は苦しかるまじとて、左馬頭(さまのかみ)平行盛と名を顕し、此歌を被(レ)入たり。亡魂如何に嬉しと思ふらんと哀なり。
S3202 刈田丸討(二)恵美大臣(一)事
 < 昔称徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、藤原仲麿と云ふ人おはしき。是は贈太政大臣(だいじやうだいじん)武智丸の子也けり。高野女帝の寵臣にて、朝恩深して、政を我儘に執行間、奢心ありて世を世共思はず、只一族親類のみ朝恩に誇りけり。権勢日々に重くして、人の畏おそるゝ事、今の平家の如く目出かりき。我一人と世を押へ行て、是に勝つ者なかりければ、御門是を御覧じて、仲麿と云名を改て押勝と被(レ)付たり。大保大師に至れりしかば、すぞろに巧ましく思召(おぼしめす)とて、恵美大臣とぞ仰ける。去共盛なる者の衰る習あれば、河内国弓削と云所に道鏡禅師と云僧あり。貴き聞えありて、禁中に被(レ)召て如意輪の法を行ひければ、御寵愛甚くして、恵美大臣の権勢も物の数ならず、法師の身にて太政大臣(だいじやうだいじん)の位を給へり。門弟の法師共を以て、上達部などに被(レ)成けり。後には御位をゆずらんと思召(おぼしめし)て、和気清麿を御使として、(有朋下P205)宇佐宮へ被(レ)申たりけれ共、御免れなし。力及ばせ給はで只法皇の尊号を奉、弓削道鏡法皇とは是なりけり。大臣大に本意なき事に思て、帝を怨み奉り、天平宝字八年九月十一日、軍を起し国家をあやぶめ奉らんと謀けるが、漏聞えにければ、罪八虐に当るとて、さしもきり者也しかども、官職を被(レ)止て、死罪に行れんとせしかば、恵美大臣も兵を集めて、禦戦はんと用意あり。帝坂上刈田丸を大将軍として、数万騎の官兵を以被(レ)攻ければ、大臣堪ずして一門
P0767
引具し、都を出て東国へ趣て、凶徒を語ひ朝家を討奉んと支度しけり。官軍遮て勢多橋を引、大臣此より引帰、北陸道を下りに、海津の浦、敦賀の中山打越て、越前国に逃下、我身を帝王と名乗、親類一族を大臣公卿と詐て、正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)を打留め、人の心をたぶらかし過ける程に、官兵又責ければ、船に取乗、新羅高麗へと志漕けれ共、王事靡(レ)塩ければ、波風荒て船より下戦けるが、同(おなじき)十八日(じふはちにち)に大臣終に討れけり。刈田丸其頸を以都へ上、一門の公卿五人被(レ)刎(レ)首、骨肉親類、同心合力の輩皆亡けるこそ無慙なれ。彼を以是を思ふに、平家栄花既尽ぬ、亡ん期時至れりとぞ申ける。昔の押勝は北国に越て討れ、今の平家は西海に下りて久しからじと哀也。>(有朋下P206)
S3203 円融房御幸事
〔去(さる)程(ほど)に〕二十四日夜半に、法皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を御出有て、賀茂へ入らせ給たりけるが、爰(ここ)は都も無下に近し、猶悪りなんとて、御輿にて鞍馬へ御幸あり。御伴には右馬頭資時一人ぞ候ける。下北面の衛府に、定康、俊兼、知康、纔(わづか)に三人也。鞍馬寺も上下参詣の砌(みぎり)也。人目しげしとて、是より又横河へ上らせまし/\て、寂場坊に御座(ござ)ありけるを、大衆僉議(せんぎ)して、これ猶悪りなんとて東塔南谷円融坊へ渡し入進せけり。さてこそ衆徒も武士も力付て、円融坊の御所近候ければ、法皇も御安堵の御心也。是を角とも不(レ)知して、京都には、院は夜より失させ給ぬ、主上は悪徒(あくと)に被(レ)引て西国(さいこく)へ行幸、摂政殿(せつしやうどの)は吉野奥とかや聞ゆ。其外女院宮々も世の騒に恐れまし/\て、嵯峨(さが)、広隆、賀茂、八幡辺に付て逃隠させ給ぬ。平家は都を落たれ共、源氏もいまだ入替ず、主もなく人もなき所にて、自残留たる人々も、闇に迷へる心地にて、如何なるべし共不(レ)覚。天地開闢より以来、懸る事聞及ばずと歎く程に、廿六日(にじふろくにち)に、法皇は天台山に渡らせ給と披露あり。上下我先にとぞ馳参給ふ。入道前関白(くわんばく)松殿、当時摂政(せつしやう)内大臣(ないだいじん)基通、左大臣経宗、
P0768
右大臣兼実、内大臣(ないだいじん)(有朋下P207)実定以下、大中納言(だいちゆうなごん)、宰相、三位、四位(しゐ)、五位、公卿殿上人(てんじやうびと)、上下の北面までも、官に居し職を帯し、先途を期し後栄を望て、人とかずへらるゝは一人も漏給はず参集て、円融坊には、堂上堂下門内門外、隙迫もなくみち/\たり。山門の繁昌衆徒の面目とぞ見えける。
S3204 義仲(よしなか)行家京入事
二十六日(にじふろくにち)の辰刻に、十郎蔵人行家は伊賀国より宇治路(うぢぢ)へ廻り、木幡、伏見をへて京へ入。木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)は近江国勢多を渡して、同日未刻に京へ入。是は天台山に登て惣持院に城郭(じやうくわく)を構へたりしかば、西坂本より入べきか、又東坂本に下つて、志賀唐崎より大関小関をへて京へ入べきにてあれ共、余勢数千騎(すせんぎ)、鏡、篠原、野州河原に陣を取たるをも打具せんが為に、又順道也。且は祝の京入なればとて、湖上を押渡て野路勢多をへて京へ入。其外甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏等(げんじら)、此両人に相従、其(その)勢(せい)六万騎に及べり。行家、義仲(よしなか)都へ入て後は、武士在々所々を追捕し、衣装を剥取、食物を奪取ければ、洛中狼藉不(レ)斜(なのめならず)。(有朋下P208)
S3205 法皇自(二)天台山(一)還御事
〔同(おなじき)〕二十七日(にじふしちにち)、法皇天台山より還御、錦織冠者義広、白旗さして先陣に候けり。公卿殿上人(てんじやうびと)多く供奉して、蓮華王院の御所へ入せ給ふ。此二十余年、絶て久き白旗を今日始て御覧じけり。供奉の人々も珍しくぞ見給ける。
二十八日(にじふはちにち)に、義仲(よしなか)行家両人を院の御所へ召されたり。検非違使(けんびゐし)の別当左衛門督実家、頭弁兼光、御前の簀子に候。御気色(おんきしよく)に依て、平家内大臣(ないだいじん)以下之党類、追討すべきの由被(二)仰下(一)けり。両人
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庭上に跪て是を承る。義仲(よしなか)は赤地錦直垂に塗籠の箭負て、蒔剣をはけり。折烏帽子(をりえぼし)に黒革威の冑を著し、笠符を左右の袖にぞ付たりける。甲冑を著たる郎従五人、童一人を相具せり。行家は縫物の紺の直垂に同毛鎧、引立烏帽子(たてえぼし)を著て、郎等三人を相具せり。両人相並て東庭の南に当て、御所の方に向て、跪て候けり。別当実家座を起て、北の簀子に蹲踞して、砌下に可(レ)進之由頻目しけれ共、心をえずして勧まず。内裏は、前内大臣(ないだいじん)の党類を追罰すべきの由召仰ければ、行家は砌(みぎり)に近進て是を奉る、義仲(よしなか)は深敬て進ず。両人の作法何も取々にゆゆしくぞ見えける。法皇は御簾の内より叡覧あり。院宣の御返事(おんへんじ)をば、義仲(よしなか)畏て申け(有朋下P209)り。又前(さきの)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)上洛すべきとて、庁官を御使として関東へ被(レ)下けり。同日院(ゐんの)御所(ごしよ)にて議定あり。左大臣経宗、内大臣(ないだいじん)実定、堀河大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、別当実家、大宮中納言実宗、梅小路中納言長方、右京大夫基家、源宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、左大弁(さだいべん)経房、新三位季経、新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)泰通卿ぞ参られける。頭弁兼光朝臣仰を奉て、国主、爾剣鏡、西海に令(レ)趣給畢ぬ。母后主上還御有べきの由、院宣被(レ)進べきか、将又可(レ)被(レ)遣(二)追討使(一)か、定申べしと右大臣に仰ければ、国母定有(二)帰御志(一)歟、賊臣何無(二)還向之思(一)哉、若申(二)行還御(一)者、可(レ)被(レ)加(二)殊賞(一)之由、可(レ)被(三)仰(二)遣前内大臣(ないだいじん)之許(一)歟、失(二)国璽(一)事、王莽(わうまう)盗(レ)之、趙王奪(レ)之、漢家之跡雖(レ)非(レ)一、本朝之例会未(レ)聞、被(レ)待(二)返報(一)可(レ)有(二)左右(一)歟とぞ一同に定め申されける。
同(おなじき)二十九日追討の庁下文を被(レ)下。〔云、〕五畿七道(ごきしちだう)諸国、可(レ)追(二)討前内大臣(ないだいじん)宗盛以下之党類(一)事、件党類
P0770
忽背(二)皇化(一)、已企(二)叛逆(一)、加(レ)之盗(二)取累代之重宝(一)、猥出(二)九重之都城(一)、論(レ)之朝章罪科旁重早可(レ)令(レ)追(二)討件輩(一)とぞ被(レ)載ける。昨日までは源氏を追討せよと、諸国七道に被(レ)下(二)院宣(一)、今日よりは可(レ)追(二)討平家(一)之由、五畿七道(ごきしちだう)に被(レ)下(二)院宣(一)。世の転変、政の改定、哀なりける事共なり。
同晦日頭弁兼光朝臣、奉(レ)仰可(レ)被(レ)行(二)行家義仲(よしなか)等勲功之賞(一)否、国主未(レ)定之間、可(レ)被(有朋下P210)(レ)行(二)除目(一)否之由、人々に勅問有けり。梅小路中納言長方卿申されけるは、勲功之賞尤可(レ)被(レ)行か、等差事、頼朝(よりとも)者為(二)本謀(一)、義仲(よしなか)者称(二)戦功(一)歟、昔誅(二)諸呂(一)立(二)文帝(一)、陳平雖(レ)為(二)本謀(一)、周勃依(レ)有(二)戦功(一)、周勃之賞已越(二)陳平(一)、然者(しかれば)義仲(よしなか)之賞、可(レ)勝(二)頼朝(よりとも)(一)歟、但承平に討(二)将門(まさかど)(一)、秀郷者有(二)興衆平定之忠(一)、貞盛(さだもり)者積(二)数度合戦之功(一)、公卿論(レ)功、秀郷之賞超(二)貞盛(さだもり)(一)畢、今頼朝(よりとも)挙(二)義兵(一)振(二)威勢(一)、旁頼朝(よりとも)之賞可(レ)勝、義仲(よしなか)が除目事、円融院大井河御遊(ぎよいうの)日、時中卿被(レ)任(二)参議(一)、其後於(レ)陣被(レ)行(二)除目(一)か、任件例被(レ)仰(二)勧賞(一)、後日可(レ)被(レ)行(二)除目(一)か、嘉承摂政(せつしやうの)事、太上天皇(てんわう)詔也、准(二)彼例(一)可(レ)被(レ)行とぞ被(レ)申ける。
十郎蔵人行家は、法住寺(ほふぢゆうじ)の南殿、萱の御所を捨て宿す。木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)は、大膳大夫信業が六条西洞院(にしのとうゐん)の家に宿す。
S3206 福原管絃講事
平家は、保元に春の花と栄えしか共、寿永に秋の紅葉と散はてて、八条の蓬戸、六波羅の蓮府、暴風塵を立、煙雲■(ほのほ)を払つゝ、福原の旧里に下て、故相国禅門(しやうこくぜんもん)の墓に詣つゝ、各法施を進り。思々の口説言、よその袂(たもと)もしをれけり。入道の造置給(たま)ひし花見の春の岡の御所、月見の秋浜の御所、雪見原の萱の御所、船見浜の浦御所、馬場殿二階(にかい)の桟敷殿、常(有朋下P211)の住居の御所とかや。五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の
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造進せられし里内裏、其外人々の家々(いへいへ)、蔀も格子も破落、御簾も簾も絶はてて、いつしか歳の三年に痛荒にけるこそ哀なれ。旧苔路を塞て秋の草門を閉、瓦に松生て垣に葛かゝれり。台傾て苔むせり、松風計や通らん。簾絶ては閨顕也。月影のみぞ指入ける。さらぬだにもしをれはてぬる旅衣、是を見彼を見給にも、いとゞ涙ぞ袖ぬらす。母二位殿(にゐどの)は内に御座、大臣殿は外に居給(たまひ)て、貞能(さだよし)景家(かげいへ)以下の宗徒の侍共を、御前に召て仰けるは、積善之余慶家に尽て、積悪之余殃身に及、故神明にも放れ法皇にも被(レ)棄奉て、帝都を迷出て客路にさすらふ上は、何の憑か有べきなれ共、誠や一樹の陰に宿り一河の流を渡も、皆是先世の契とこそきけ、況汝等(なんぢら)は一旦随付たる門客に非、累祖相伝の家人也、其上十善帝王、三種神器を御身に随へて御座、野末山の奥なりとも、落留らせ給はん所まで送つけ奉、火の中に入水の底に沈とも、今は限の御有様(おんありさま)をも見はて進すべしと宣(のたまひ)ければ、並居たりける三百(さんびやく)余人(よにん)の侍共、老も若も、皆涙を流して御返事(おんへんじ)申けるは、怪の鳥獣だにも、恩を不(レ)忘徳を報ずと承る、何況人倫の身として、争年比日比(ひごろ)の重恩を忘れ、今更我君をすて進べき、此廿余年が間、妻子を孚み所従を顧も、一事として君の御恩に非と云事なし、全く二心有べからず、縦天竺(有朋下P212)震旦なり共、雲の終海の終までも御伴仕り侍るべし、御心安(おんこころやすく)被(二)思召(一)(おぼしめされ)候べしと、異口同音に申ければ、二位殿(にゐどの)も大臣殿も、聊憑もしく被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。
二位殿(にゐどの)又人々に被(レ)仰けるは、此福原は故(こ)入道大相国(たいしやうこく)のさしも愛し給し所也、魂魄も定て此にこそ住
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給ふらめ、今夜ばかりの遺也、西海に出なん後には再び爰を見ん事も有難し、亡魂も如何計かは哀に思召(おぼしめす)らん、且は最後の別也、且は最後の弔也、入道の為に管絃講行給(たまひ)て、後生を弔給へと被(レ)仰ければ、大臣殿尤可(レ)然とて、先故禅門の墓所被(レ)参、手自花香そなへて念仏申廻向して、涙を流し給ければ、一門の人々も皆袂(たもと)をぞ絞ける。其中に薩摩守忠度、角ぞ思つゞけ給。
  なき人に手向る花の下枝はたをれる袖のしをれける哉 K162 
と。御所に帰、仏懸奉なんどして管絃講を被(レ)始けり。
右衛門督(うゑもんのかみ)清宗、讃岐中将時実は蕭の役、薩摩守忠度、越前三位通盛は笛役、左中将清経、淡路守清房は笙の役、和琴は丹後侍従忠房、羯鼓は若狭守経俊、鉦鼓は平(へい)大納言(だいなごん)時忠、方磬は平中納言教盛、太鼓は内大臣(ないだいじん)宗盛、琴二挺琵琶三面、簾中の役、弁局大納言佐殿(だいなごんのすけどの)は琴、普賢寺殿北政所(きたのまんどころ)、帥佐殿、内侍局は、琵琶の役、法勝寺(ほつしようじ)執行能円、中納言律師忠快は伽陀の役、経誦坊阿闍梨(あじやり)(有朋下P213)祐円は式役、二位僧都(そうづ)仙尋は法華経(ほけきやう)たえ/゛\にこそよまれけれ。
 < 昔釈尊説法の砌(みぎり)に、大樹緊那羅が香山より出つゝ、八万四千(はちまんしせん)の伎楽を作り、浄妙無碍(むげ)の歌を以て、如来(によらい)大会(たいゑ)を供養せしに、釈梵護世の諸天、天竜夜叉の非人までも、琴音にきゝとれて威儀を忘たりけるに、迦葉尊者の舞給けるに、阿難唱歌し給けんも、角やとぞ覚ける。>
夫蕭笛琴箜篌、悉中道の方便に帰し、琵琶鐃銅■(はつ)併法性の深理に叶へり。妙音大士は十方楽普現色身
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の証是新に、馬鳴菩薩は苦空の曲、皆語得道の世を可(レ)知。是を以、極楽界会の月前には、聖衆倶会して楽を催し、■利(たうり)天宮の雲上には、天人歌舞して袖を翻す。加(レ)之霊山浄土(じやうど)の苔庭には、菩薩証得の響をなし、安養世界の玉橋には、如来(によらい)讃嘆の曲を奏し、常楽我浄の調べ麗くして猶麗く、苦空無我の音妙にして更妙なれば、不生不滅の曲は定て、虚空界の風に通じ、非有非空の響は、必ず法性海の波に和すらんとぞ覚えける。されば管絃も読経も円音教に帰し、伎楽も講唱も一実乗に混じて、同時一念の精誠を鑑、三種廻向の信力に依て、志す処の先人聖霊、九品往生を遂しめ給へと也。廻向の伽陀も終ければ、吹送笛の声、弾終る琴の音に、簾中も簾外も皆涙を流せば、僧衆も俗衆も共に袖をぞしぼりける。二位殿(にゐどの)は今を限の仏事ぞと、貴き中にも悲く、嬉き中にも哀にて、為方(有朋下P214)なくぞおぼしける。
入道の弟修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛は、詩歌管絃に長じ給へる中にも、横笛の秘曲を伝る事、上代にも類少く、当世にも並人なかりけり。一年法皇、故堀河院の御為に、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて報恩講経供養の時、階下の公卿殿上人(てんじやうびと)、家をたゝして舞楽を奏し給(たま)ひしに、経盛其時は東宮(とうぐう)の大夫にて、左のをも笛を仕しに、伶人舞曲を尽に及んで宮中澄渡、群集の諸人各袖を絞けり。上皇も故院の御追善なれば、今は都率天上の内院に納り給らんと思召(おぼしめし)、竜顔より御涙(おんなみだ)を流させ給けり。八条左判官忠房は、陵王の秘曲を舞尽す。大ひざまづき小膝突、入日を返す合掌の手、終には皇序の袖を翻す。其家ならぬ人には、各笛を
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とゞめしに、此経盛皇序の秘説を吹給しかば、法皇叡感に不(レ)堪や思召(おぼしめし)けん、御前の御簾を上させ御座、御衣を脱て押出させ給けるを、経盛給(たまひ)て階下に帰著給しかば、男女耳目を驚す。此道に不(レ)携人は面を壁に向へたるもあり。懸ける人なれば、心有も心なきも是を惜けり。八条中納言入道長方の弟に、左京大夫能方は、経盛の横笛の弟子にて秘曲を伝給けり。今二説を残て落給しかば、如何なる博雅三位は会坂の麓に夜を重ね、うちのき府生忠兼は父をいましめ五逆罪を犯すぞと思へば、妻子兄弟を振捨て、同都を落給けるが、福原の眺望の御所にて、甘州には只拍子、倍臚には五節の楽拍子、底(有朋下P215)を極給しかば、竜笛鳳曲は聖衆の座に連るやとあやまたれ、霓裳羽衣のよそほひを天人影向するかと、見人聞人諸共に、涙を流さぬは無りけり。能方はいづくまでもと慕給けるを、経盛あながちに制し被(レ)申ければ、名残(なごり)は様々惜けれ共、福原の一夜の宿より、都へ帰上給けり。やさしかりけるためし也。角て平家は福原の旧里に一夜を明しき。秋の初風立しより、漸夜冷に成にけり。旅寝の床の草枕、露も涙も諍て、そゞろに物こそ悲けれ。明ぬれば今朝を限と思つゝ、内裏を始て人々の家々(いへいへ)皆■(ほのほ)とぞ焼上。余煙日の光を抑へつゝ、雲井の空にぞ消紛。形見に残る福原も、焼野の原と成しかば、さこそ哀に覚しけめ。昨日は東海の東に轡を並べ、今日は西海の西に纜を解、雲海沈々として蒼天既(すで)に晩なんとす。松風颯々として旅寝の夢も覚ぬべし。霞孤島に峙て月海上に浮べり。八重の塩路を漕分、浪に引れて行舟は、万天の雲に連を成、憑の雁に似たりけり。海士の焼藻の夕煙、尾上の
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鹿の暁の声、渚々の波音、遠近舟の曳や声、惣て目に見耳に聞事の、一として涙を催し心を傷しめずと云事なし。都に捨置し妻子も■(おぼつかなし)、栖馴し故郷も恋しければ、老たるも若も只泣より外の事はなし。但馬守経正、行幸に供奉すとて思続給けり。
  御幸する末も都と思へども猶なぐさまぬ浪のうへかな K163 (有朋下P216)
さても主上を始進せて、竜頭鷁首の船を海上に浮て出させ給へば、浪路の皇居静ならず、都を落し程こそなけれ共、是も遺は惜かりけり。棹のしづくに袖濡ては、古郷軒の忍を思出て、月を浸潮の深愁に沈、霜をおほへる芦の脆命を悲む。州崎に騒ぐ千鳥の声暁の恨を添、傍居にかゝる楫の音夜半に心を傷しむ。白鷺の遠樹に群居を見ては、東夷の旌を靡すかと肝を消し、夜雁の遼海に啼を聞ては、兵の船を漕かと魂を失ふ。青嵐膚を破て翠黛紅顔の粧やう/\衰へ、蒼波眼を穿て外土望郷の涙抑難し。さこそは悲かりけめと、推量れて哀也。指して行へは知ね共、露の命は松浦船、彼は須磨の関、是は明石浦など申を聞給ふに、藻塩たれつゝ歎けん、昔語の跡までも、思残す隙ぞなき。
寿永二年八月朔日、京中保々守護事、任(二)義仲(よしなか)注進之交名(一)、殊令(二)警巡(一)可(レ)加(二)炳誡(一)之由、右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)奉(二)院宣(一)、仰(二)別当実家卿(一)、出羽判官光長、右衛門尉有綱〈 頼政卿(よりまさのきやう)孫 〉十郎蔵人行家、高田四郎重家、泉次郎重忠、安田三郎義定、村上太郎信国、葦敷太郎重澄、山本左兵衛尉義恒、甲賀入道成覚、仁科
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次郎盛家とぞ聞えける。
S3207 四宮御位事(有朋下P217)
主上は外家の悪徒(あくと)に引れて、花の都を出て西海の波の上に漂ひ御座らん事を、法皇御心苦く思召(おぼしめし)て、可(レ)奉(二)還上(一)由、平(へい)大納言(だいなごん)時忠の許へ院宣を雖(レ)被(レ)下、平家是を奉(レ)惜、免進せざりければ、力及ばせ給はずして、さらば新帝を祝奉るべしとて、院の殿上にて公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。高倉院(たかくらのゐんの)御子、先帝の外三所御座、二宮をば儲君にとて、平家西国(さいこく)へ取下進けり。今は三四宮間を可(レ)奉(レ)立歟、又故以仁の宮の御子おはします、十七にぞ成せ給ける。是は還俗の人にて御座(おはしま)せども、懸る乱世には成人の主、旁可(レ)宜(二)還俗(一)の事、天武之例外に求むべからず。又昭宣公、恒貞親王を奉(レ)迎られき。還俗の人憚あるべからずとぞ沙汰有ける。去共法皇は、高倉院(たかくらのゐん)三四御子之間に思召(おぼしめし)定ければ、同八月五日彼三四宮を奉(二)迎取(一)。先三宮の五歳に成せ給を是へと仰有ければ、大に面嫌まし/\てむつがらせ給ければ、疾々とて速に返出しおはします。次に四宮を是へと申させ給へば、左右なく歩み寄らせ給。御膝の上に渡らせおはしまし、御なつかしげに竜顔を守り上進せ給けり。御歳四歳にぞならせ給。法皇は御哀気に思召(おぼしめし)、御髪掻撫させ給御涙(おんなみだ)ぐみて、此宮ぞ誠に朕が御孫也ける、すぞろならん者ならば、などてか懸る老法師をば懐く思ふべき、故院の少くおはせし顔立に違ねば、只今(ただいま)の様に思出らるゝぞや、懸る忘形見を留置れたり(有朋下P218)けるを、今まで不(レ)奉(レ)見ける事よとて、御涙(おんなみだ)を流させ給けり。浄土寺(じやうどじ)の二位殿(にゐどの)、其時は丹後殿の局とぞ申ける。御前に候給けるが、袖を絞て被(レ)申けるは、兎角
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の御沙汰(ごさた)に及ばず、御位は此宮にこそと聞えさせ給ければ、法皇子細にやと仰有て定まらせ給にけり。内々御占有けるにも、四宮は御子孫まで日本国(につぽんごく)の御主たるべしとぞ、神祇官(じんぎくわん)并陰陽寮など占申けり。御母は七条修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆卿の御娘にておはしけるが、建礼門院(けんれいもんゐん)中宮の御時、忍つゝ内の御方へ被(レ)参ければ、皇子さしつゞき御座(おはしま)しけるを、父修理(しゆりの)大夫(だいぶ)、平家の鍾愛を憚、又中宮の御気色(おんきしよく)をも深く恐給けれ共、八条二位殿(にゐどの)御乳人(おんめのと)に付などせられけり。此宮をば法勝寺(ほつしようじ)執行能円法印の奉(レ)養けるが、平家に付て西国(さいこく)へ落ける時、余に周章(あわて)北方をも不(レ)被(レ)具、宮をも京に奉(レ)忘たりけるを、法印人を返して、急ぎ宮具し進せて西国(さいこく)へ下給へと、北方へ宣(のたま)ひたりければ、既(すで)に下らんとて、西八条(にしはつでう)なる所まで忍具し進せて出給たりけるを、御乳人(おんめのと)の妹に紀伊守範光と云者あり。心賢く思けるは、主上は西海に落下らせ給ぬ、法皇都に留らせ給たれば、御位をば定て四宮にぞ譲らせ給はんずらん、神祇官(じんぎくわん)の御占も末憑もしき事也とて、二位殿(にゐどの)の宿所に参て尋申ければ、西国(さいこく)より御文有とて、忍て此御所をば出させ給ぬと答ける間、こは浅増(あさまし)き事也と思、■(おぼつかな)き所此彼捜尋進せ(有朋下P219)て、唯今君の御運は開けさせ給べし、物に狂はせ給(たまひ)て角は出立給か、西国(さいこく)へ落下らせ給たらば、君も御位に立せ給(たま)ひ、御身も世におはせんずるにやとて、大に嗔腹立て取留め進せたりけるに、翌日法皇より御尋(おんたづね)ありて、御車御迎に参て角定らせ給けり。そも帝運の可(レ)然事と申ながら、範光はゆゝしき奉公の者也とぞ人申ける。
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七条修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆卿は、白鶏を千羽飼ぬれば、必其家に王孫出来御座と云事を聞て、白鶏を千羽と志して飼給ける程に、後には子を生孫を儲て四五千羽も有けり、夥(おびたたし)などは云計なし。鳥羽、田井、西京田などに行て、稲を損じ■(ばく)を失ふ。懸ければ信隆の鶏とて人もてあつかへり。此彼にして打殺けれ共生子は多し。七条八条に充満て、尽べき様も不(レ)見けり。誠に其験にや有けん、四宮位に即せ給ふ。
義仲(よしなか)は高倉宮(たかくらのみや)の御子即位の事、内々泰経卿に申旨有ければ、同(おなじき)十四日に、俊暁僧正(そうじやう)を以義仲(よしなか)に御尋(おんたづね)あり。勅答には、国主の御事、為(二)辺鄙之民(一)不(レ)能(レ)申(二)是非(一)、但故高倉宮(たかくらのみや)、為(レ)奉(レ)慰(二)法皇之叡慮(一)、被(レ)失(二)御命(一)、御至孝之趣、天下其隠なし、争不(レ)被(二)思召(一)(おぼしめされざらん)哉、就(レ)中(なかんづく)以(二)彼親王宣(一)、源氏等(げんじら)挙(二)義兵(一)、已成(二)大事(一)畢、而今受(レ)禅沙汰之時、此宮の御事、偏(ひとへ)に被(レ)奉(二)棄置(一)、不(レ)及(二)議中(一)之条、尤不便の御事也、主上已(すで)に為(二)賊徒(一)被(二)取籠(一)給へり。彼御弟何んぞ強に可(レ)被(レ)奉(二)尊崇(一)哉、此等の子細更に非(二)義仲(よしなか)(有朋下P220)之所存(一)、以(二)軍士等之申状(一)、言上する計也と申ければ、人々義仲(よしなか)申状非(レ)無(二)其謂(一)とぞ申合れける。
S3208 維高維仁位論事
 < 昔文徳天皇(てんわう)の御子に、維高親王、維仁親王とて、御兄弟(ごきやうだい)二人御座(おはしまし)けり。維仁は第二の王子、維高は第一の王子也。互に御位を御意に懸けさせ給へり。天皇(てんわう)も分る御方なく、難(レ)棄御事共(おんことども)にて、叡慮思し召煩はせ給へれ共、御嫡子なれば維高親王とぞ内々は被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。第一王子維高親王と申は、御母は従四位下(じゆしゐのげ)左兵衛佐(ひやうゑのすけ)名虎が女、従四位(じゆしゐの)上紀静子と申。第二王子維仁親王と申は、御母
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は太政大臣(だいじやうだいじん)良房、忠仁公御女(おんむすめ)藤原明子、後には染殿后と申是也。一の宮の御事をば、外祖紀名虎取り立て奉らんとて、帝運の可(レ)然にて、第一の王子に出来御座(おはしま)せり、御恙なし。されば御位は此公にこそと頻(しきり)に内奏申しけり。二の宮の御事をば、外祖にて忠仁公奉(二)取立(一)とて、一の宮は落胤腹、名虎が御女(おんむすめ)也。次弟は是の執柄家の御女(おんむすめ)、后立王子也、子細にや及ばせ給べきと、平に被(二)内奏(一)けり。此の事誠に難題にて、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。就(二)勝負(一)御位を可(レ)被(レ)進とて、初には八幡に臨時の祭を居て、(有朋下P221)十番の競馬あり。四番は一宮に付、〔六〕番は二宮に付く。此上は維仁親王御位につき給ふべかりけるを、天皇(てんわう)猶御心不(レ)飽思し召ければ、後には大内にして、相撲被(レ)行(二)節会(一)て、重て勝負を有(二)叡覧(一)、可(レ)有(二)御譲(一)と儀奏有ければ、維高御方には、即外祖左兵衛佐(ひやうゑのすけ)名虎参けり。恩愛の道こそ哀なれ。今年三十四、太く高く七尺(しちしやく)計の男、六十人が力ありと聞ゆ。維仁の御方には、能雄少将とて細小の男、行年二十一、なべての力人と聞ゆれども、名虎には可(二)敵対(一)ものに非ず、去れ共果報冥加は二の宮の奉(レ)任(二)御運(一)とて、不敵に申請てぞ参ける。旁々有(二)御祈師(一)、一の宮の御方には、東寺の柿本の真済僧正(そうじやう)也。徳行高く顕て修験誉広く、天皇(てんわう)御帰依の僧也ければ、名虎是を奉(二)語付(一)けり。二の宮の御方には、延暦寺(えんりやくじ)恵亮和尚(くわしやう)也。行葉年を重ねて薫修日新也。忠仁公と深く師檀の契を結給けるに依て被(レ)奉(レ)付けり。恵亮は西塔宝■院(ほうどうゐん)に壇を構て、大威徳の法を修せられけり。真済は東寺に壇を立て、降三世の法を行給けり。
昔金剛(こんがう)薩■[*土+垂](さつた)、南天の鉄塔を開て大日如来(によらい)に奉(レ)値、秘密瑜伽(ゆが)の経法を伝受し給しより以来、仏法(ぶつぽふ)東漸して、真言上乗日或に弘通せり。弘法大師は竜樹菩薩の後身、鷲峯説法の聴衆也。昔威光菩薩としては、日宮に居して修羅の軍を禦ぎ、今遍照金剛(こんがう)としては、日本(につぽん)に住して金輪聖王の福を増、大日如来(によらい)(有朋下P222)より第八代、恵果和尚(くわしやう)の瀉瓶嫡弟也。慈覚大師は観音大士の垂迹、
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一乗(いちじよう)弘通の薩■[*土+垂](さつた)也。清涼山に詣しては、親り生身の文殊を拝し、帰朝の海上にしては、弥陀如来(みだによらい)波の上に化現して、引声を伝へ給へり。善無畏不空より五代、入室の孫弟也。而を恵亮は慈覚の弟子、真済は弘法の弟子也。東寺は長安城の南の端、山門は洛陽城の艮の峰、共に鎮護国家の道場也、同大権垂迹の法弟也。降三世は東方(とうばう)薬師(やくし)の教令輪身、四面八臂の形也。悪魔を三世に降して永く三毒の根を断、帰敬者は官難を払利生あり。大威徳は西方弥陀の教令輪身、六面六臂の姿也。威勢を一天に振て必行者の望を成、仰信ずる輩は、天子に上る効験あり。共に五大明王(みやうわう)の随一(ずゐいち)、又東西守護の忿怒也。利益区に施し、威験各新なる上、東寺天台秘密の上乗たり。入室瀉瓶牛角の験者なれば、恵亮精誠を尽し、真済肝胆を砕たり。懸りければ、此条とみに事行難くやあらんずらんと云者もあり。又、明王(みやうわう)には勝劣なけれ共、行者の至心懇念にこそよらめと云者もあり。又恵亮真済、行徳に甲乙あらじ、さらば終には力の強弱にこそよるべけれと云者もあり。又天運は凡夫の測べき事に非、只帝徳の可(レ)然にこそと、上下の口には其説さま/゛\也。既(すで)に其日時に成ければ、名虎と能雄と出合たり、殆金剛力士の如し。堂上階下目を澄て是を見、門外門内足を爪立(有朋下P223)て是を望、源深しては不(二)流尽(一)、根全しては枝不(レ)枯習也。以(二)祈誓効験(一)、行徳の浅深を可(レ)知事なれば、東寺天台両門の貴僧高僧、恵亮真済帰依の若男若女、各手を把心を迷はせり。法に偏執はなけれ共、互に勝負の方人たり。能雄、名虎寄合て手合するを見る。名虎元来大力なれば、腕の力筋太、股の村肉籠たり。枝の成付骨の連様、肩の渡広足の跋扈、外見に可(二)迷惑(一)之処に、能雄がうでくび取て引寄、高く指上て、曳声を出して抛(なげ)たりけるに、上下見物之男女老少、あはや二宮の御方打負、手に入ぬと思程に、一丈余被(レ)抛て、乍(レ)危つくとしてこそ立たりけれ。見人戯呼々々と感嘆せり。又寄合互に曳声出して、時移る迄からかうたり。名虎は松の立るが如して、跋扈て動ざりけるを、能雄は藤の纏が如くして、
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身に縷付つゝ、小頸小脇を掻詰て、内搦外搦、大渡懸小渡懸、弓手に廻妻手に廻して逆手に入、様々にこそ揉たりけれ。是や此品治北男、丹治是平、佐伯希雄、紀勝岡、近江薑、伊賀枯丸と聞えし貢御白丁も是には争か可(レ)勝とぞ見人興を増たりける。勝負は未なし、元来力勝り也。名虎勝ぬと見えければ、一宮の御方よりは東寺へ使を被(レ)立けり。忠仁公よりは二宮の御方既危く侍と、使者を山門へ被(レ)立事、追継々々に櫛の歯の如し。和尚(くわしやう)こは心苦き事哉、此時不覚を我山に残さん事口惜かるべし。二宮(有朋下P224)に即給はずば、命生ても何かはせんとて、熾盛の念力を抽でつゝ、炉壇に立たる剣を抜、健把て自頭を突破、脳を摧き芥子に入、香の煙に燃具して、帰命頂礼(きみやうちやうらい)大聖大威徳明王(みやうわう)、願は能雄に力を付給(たま)ひ、勝事を即時に令(レ)得給へと、黒煙を立て汗を流して、揉に揉でぞ祈給ふ。生仏本より隔なし、信力本尊に通じ、本尊行者に加しければ、大威徳の乗給へる水牛、炉壇を廻る事三度、声を揚てぞ吠たりける。其声大内に響ければ、能雄に力ぞ付にける。名虎其声を聞けるより、身の力落て、心惘然として覚えける処を、能雄名虎を脇に引挟、南庭を三廻して、其後曳と云て抛(なげ)たれば、名虎大地に被(二)打付(一)て、血を吐て不(二)起上(一)。蔵人等走寄、大内より舁出して家に返し遣たりければ、三日有て死にけり。恵亮脳を摧しかば、能雄に力は付にけり。名虎相撲に負しかば、維仁位に即給ふ。清和(せいわの)帝(みかど)と申は彼親王の御事也。維高親王は御位叶はざりければ、小野里に引籠給けり。小野親王とは是也。又は持明院とも申けり。山陰中納言、昔の好を思出して時々事問給けり。天子の御位は人力の及所に非ず、天照太神(てんせうだいじん)の御計と申ながら、恵亮の効験三門の面目にて、御嫡子を越て次弟御位に即給へり。其よりして山門の訴状には、今の代までも恵亮砕(レ)脳、尊意振(レ)剣とは書とかや、懸ためしもあり。>(有朋下P225)
S3209 阿育王即位事
 < 昔天竺摩訶陀国に、頻頭沙羅王と云国王御座(おはしまし)けり。是は阿闍世王の孫也き。彼王にあまたの太子御座。其中に太郎を須子摩と
P0782
云、二郎を阿須迦と云。二郎は形貌醜悪にして鮫膚也。心操不敵にして狼藉に御座(おはしまし)ければ、父の大王大に悪んで、御位までの事思寄給はず。太郎は形貌は端厳にして、御心人間の類とも覚えざりければ、大王不(レ)斜(なのめならず)寵愛し給(たまひ)て御位を譲給はんと覚しけり。爰(ここ)に頻頭沙羅王、病の床に臥給たりける折節(をりふし)、徳刃尸羅国の凶賊王命に随はずと聞えければ、太郎太子須子摩を大将軍として、官兵を相副て彼国へ指遣す。大王病及(二)獲麟(一)給(たまひ)て、未嫡子須子摩帰上給はず。去共年比の任(二)本意(一)、位を譲らんとし給けるに、帝釈空より天降給(たまひ)て、十善の宝冠を次郎阿須迦太子に授著給けり。父の頻頭沙羅王、是を見て大悪心を起し、血を吐て失給にけり。城護大臣と云一の大臣と、阿須迦太子と同心して位に即給ふ。須子摩凶賊を平げ、国より還上給(たまひ)て此事を聞、兵を集て阿須迦王を誅せんとし給けり。城護大臣又官兵を集て、大内の門々を固て禦戦はんと構たり。須子摩先陣に進て、城護大臣の固めたる門前に押寄たり。大臣畏て申て云、(有朋下P226)臣は是国の輔佐、依(二)王命(一)故に守(レ)門計也、君又即位給はば、臣又可(レ)随(二)其命(一)、必しも臣が非(二)結構(けつこう)(一)、阿須迦王之固め給へる正門に向て雌雄を決し給ふべし、臣が門を破給はん事、まさに御本意にあらじと申ければ、いふ処尤道理也とて正門に向ひ給ふ。城護大臣又敵を亡さんと謀をぞ廻たる。木を以て阿須迦王の像を造り、大象にのせ奉て門前に進出て、前後に兵を集め、陣の前に広く深き火の坑を用意して、煙を徐へ立て坑の上に沙を蒔、平々たる庭上にしつらひて、官兵さと引退ば、須子摩勝に乗て馳競はん時、火坑に落し入て焼亡さんと支度したり。須子摩争か可(レ)知なれば、数万の軍を召具して正門に向ひ、時を造て阿須迦を責む。阿須迦象の口を引返し、官兵を相具して門の内へぞ引退く。須子摩乗(レ)勝て攻入処に、数万の軍と相共に火坑に馳入て、一時が程に焼死にけり。無慙と云も疎也。阿須迦王終に四海を治給ふ。阿育大王と申は彼太子の事とかや。されば王位は輙く不(レ)可(レ)及(二)人臣之計(一)、天地人の三門に通じ、
P0783
可(レ)依(二)神明仏陀之御恵(一)事と覚えたり。天竺の阿育は帝釈冠を授給(たま)ひ、我朝の清和(せいわ)は恵亮砕(レ)脳給けり。彼は天神の助成、是は仏法(ぶつぽふ)の効験也。>(有朋下P227)
S3210 義仲(よしなか)行家受領事
同六日、平家の一類公卿殿上人(てんじやうびと)衛府諸司(しよし)百八十人、被(レ)止(二)官職(一)、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)父子三人は、此中に漏たり。十善帝王三種宝物、可(レ)奉(二)返入(一)由、彼人の許へ仰遣されけるに依也。
八月十日、法皇蓮華王院の御所より南殿へ移らせ給ふ。其後三条大納言(だいなごん)実房、左大弁(さだいべん)宰相経房参給(たまひ)て被(レ)行(二)除目(一)けり。木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)、左馬頭(さまのかみ)になりて越後国を給る。十郎蔵人行家備後守になる。各国を嫌ひ申せば、十六日(じふろくにち)の除目に、義仲(よしなか)は伊予を給り、行家は備前守に移る。安田三郎義定近江守になる。其外源氏十人、軍功賞とて、靭負尉(ゆぎへのじよう)兵衛尉に成て、使の宣を蒙者も有けり。此十余日が先までは、源氏追討の宣旨を被(レ)下て、平家こそ加様に勧賞にも預しに、今は平家誅戮の為にとて、源氏誇(二)朝恩(一)けり。好生(二)毛羽、悪成(レ)瘡、朝承(レ)恩、暮賜(レ)死と云本文あり。誠に定なき世の習とは云ながら、引替たる哀さに、心ある人々は、思連て袂(たもと)をぞ絞ける。院の殿上にて除目行はるゝ事先例なし。今度始とぞ聞えし、珍しかりける事也。(有朋下P228)
S3211 平家著(二)太宰府(一)付北野天神飛梅事
八月十七日(じふしちにち)に、平家は筑前国御笠郡太宰府に著給へり。菊地次郎高直、宍戸諸卿種直、臼杵戸槻松浦党を始として、奉(レ)守(二)護主上(一)、如(レ)形被(レ)造(二)皇居(一)たり。彼大内は山中なりければ、木丸殿とも云つべし。人々の家々(いへいへ)は野中田中なりければ、草深して露繁し。麻のさ衣うたね共、十市の里とも云つ
P0784
べし。稲葉を渡る風の音、一人丸寝の床の上、片敷袖ぞしをれける。さてこそ平家の人々は、大臣殿を奉(レ)始、安楽寺に詣給(たま)ひ、詞を作歌を読などして手向給ける中に、皇后宮亮経正、角ぞ詠じ給ける。
  住なれしふるの都の恋しさに神も昔をわすれ給はじ K164 
北野天神は、依(二)時平大臣之讒訴(一)、延喜五年正月廿五日に安楽寺に遷され給ふ。住なれし故郷の恋しさに、常は都の空をぞ御覧じける。比は二月の事なるに、日影長閑に照しつつ、東風の吹けるに、思召(おぼしめし)出る御事、多かりける中に、
  こち吹ばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘な K165 
と詠じければ、天神の御所、高辻、東洞院(ひがしのとうゐん)、紅梅殿の梅の枝割折て、雲井遥(はるか)に飛行て、安楽寺(有朋下P229)へぞ参ける。桜も御所に在けるが、御歌なかりければ、梅桜とて同く籬の内にそだち、同御所に枝をかはして有つるに、如何なれば梅は御言に懸り、我はよそに思召(おぼしめさ)るらんと奉(レ)怨て、一夜が中に枯にけり。されば源順が、
  梅はとび桜は枯れぬ菅原やふかくぞたのむ神の誓を K166 
懸る現人神なれ共、帰京を赦れ給はず、終に其にて隠させ給(たま)ひける御歎、我身につまれて経正も思つゞけ給けり。誠に神も哀と覚しけん、中にも貴き事ありけり。人々詩作り歌よみなどして、社頭の
P0785
地形、庭上の古木、立寄々々し給けるに、さても昔、紅梅殿より飛参ける梅は、何れなるらんと、口々に云て見廻給けるに、何国より共なく、十二三計の童子化現して、或古木の梅の本にて、
  是や此こち吹風に誘はれてあるじ尋し梅のたちえは K167 
と打詠じて失にけり。北野天神の御影向と覚て、各渇仰の頭を傾け給けり。
S3212 還俗人即位例事
同(おなじき)十八日(じふはちにち)、左大臣経宗、堀河大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、民部卿成範、皇后宮権大夫実守、前源(げん)中納言(ぢゆうなごん)(有朋下P230)雅頼、梅小路中納言長方、源宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、右大弁親宗被(二)参入(一)て、即位并剣鏡璽宣命尊号事等議定あり。頭弁兼光朝臣諸道の勘文を下す。左大臣に次第に被(二)伝下(一)けり。神鏡事、偏(ひとへ)に存(二)如在(一)之儀、還有(二)其恐(一)、暫定(二)其所(一)、可(レ)被(レ)待(二)帰御(一)歟、剣璽事、於(二)本朝(一)、更雖(レ)無(レ)例、漢家之跡非(レ)一、先有(レ)践(レ)祖、可(レ)被(レ)待(二)帰来(一)歟、御剣は可(レ)備(二)儀式(一)、尤可(レ)被(レ)用(二)他剣(一)者歟、即位事八月受禅九月即位、円融院也。而天下不(レ)静事卒爾也、十月例光仁寛和なり、可(レ)依(二)二代(一)者、十一二月に可(レ)被(レ)行、而今年即位以前、朔旦嘉承無(二)出御(一)、不吉事也、十月旁可(レ)宜歟、任(二)治暦之例(一)、可(レ)被(レ)用(二)官庁紫宸殿(一)歟、旧主尊号事、若無(二)尊号(一)者、天可(レ)似(レ)有(二)二主(一)、尤可(レ)有(二)沙汰(一)歟、宣命事、任(二)外記勘状(一)、可(レ)被(レ)用(二)嘉承例(一)之由、一同に被(二)定申(一)けり。
同日平家没官の所領等源氏等(げんじら)に分給ふ、惣五百(ごひやく)余箇所也。義仲(よしなか)百四十余箇所、行家九十箇所也。行家申けるは、所(二)相従(一)之源氏等(げんじら)、更非(二)通籍之郎従(一)、只相(二)従戦場(一)計也。私に支配之条、彼等不(レ)存(二)
P0786
恩賞(一)之由歟、尤可(レ)被(二)分下(一)と申けるを、義仲(よしなか)は此事争悉被(レ)知(二)召功之浅深(一)、義仲(よしなか)相計可(二)分与(一)とぞ申ける。両人の申状何も非(レ)無(レ)謂ぞ聞えける。今日行家義仲(よしなか)等、聴院昇殿、本は候上北面しけり。此条驚べきに非と云へ共、官位俸禄己如(二)所存(一)か、奢心は人として皆存ぜる事なれ共、今(有朋下P231)称(二)勲功(一)日々重畳す、尤頼朝(よりとも)之所存を可(二)思兼(一)歟とぞ人々被(二)申合(一)ける。
同廿日法住寺(ほふぢゆうじ)の新御所にて、高倉院(たかくらのゐん)第四王子有(レ)践(レ)祚。春秋四歳、左大臣召(二)大内記光輔(一)、祚(レ)祖事太上法皇の詣旨を可(レ)載也。先帝不慮に脱■(たつしの)事、又摂政(せつしやうの)事同可(レ)載と仰す。次第の事は不(レ)違(二)先例(一)ども、剣璽なくして践(レ)祚事、漢家には雖(レ)有(二)光武跡(一)、本朝には更無(二)先例(一)、此時にぞ始ける。内侍所は如在の礼をぞ被(レ)用ける。旧主已被(レ)奉(二)尊号(一)、新帝践祚あれ共、西国(さいこく)には又被(レ)奉(レ)帯(二)三種神器(一)、受(二)宝祚(一)給(たまひ)て于(レ)今在位、国似(レ)有(二)二主(一)歟、叙位除目已下事、法皇宣にて被(レ)行之上者、強に急ぎ無(二)践祚(一)とも可(レ)有(二)何苦(一)、但帝位空(レ)例、本朝には神武天皇(じんむてんわう)七十六年丙子崩。綏靖天皇(てんわう)元年庚辰即位、一年空。懿徳天皇(てんわう)二十四年甲子崩。孝照天皇(てんわう)元年丙寅即位、一年空。応神天皇(てんわう)二十一年庚午崩。仁徳天皇(てんわう)元年癸酉即位、二年空、継体天皇(てんわう)廿五年辛亥崩。安閑天皇(てんわう)元年甲寅即位、二年空。而今度の詔に、皇位一日不(レ)可(レ)曠被(レ)載事、旁不(レ)得(二)其心(一)とぞ有職の人々難じ被(レ)申ける。されば異国は不(レ)知、我朝には、神武天皇(じんむてんわう)は、地神第五代の御譲を稟御座(おはしまし)しより以来、故高倉院(たかくらのゐん)に至らせ給まで八十代、其間に帝王おはしまさで、或二年或三年など有けれ共、二人の帝の御座事未(レ)聞。世の末なればや、京
P0787
田舎に二人の国王出来給へり、不思議也とぞ申ける。
平家は四宮(有朋下P232)既(すで)に御践祚と聞て、哀三四宮をも皆取下奉るべかりし者をと被(二)申合(一)ければ、或人の、さらましかば高倉宮(たかくらのみや)の御子を、木曾冠者(きそのくわんじや)が北国より奉(レ)具上たるこそ位には即給はんずれ共と云ければ、平(へい)大納言(だいなごん)時忠、兵衛佐(ひやうゑのすけ)尹明などの、如何出家還俗の人は位に即給べきと宣(のたまひ)ければ、又或人申されけるは、異国には、則天皇后(そくてんくわうごう)は唐太宗に奉(レ)後、尼となり感業寺に籠給たりけるが、再高宗の后と成、世を治給し程に、高宗崩御(ほうぎよ)の後、位を譲得給(たまひ)て治(二)天下(一)給けり。中宗皇帝は入(二)仏家(一)、玄弉三蔵の弟子と成、仏光王と申けれ共、則天皇后(そくてんくわうごう)の譲えて、崩御(ほうぎよ)の後、還俗して即位給へりき。我朝には天武天皇(てんわう)、大友皇子の難を恐て、春宮(とうぐう)の位を退まし/\て、大仏殿の南面にして御出家(ごしゆつけ)ありしか共、終に大友皇子を討て位につき給(たま)ひき。
孝謙天皇(てんわう)は、位をさりて出家し、御名を法基と申しか共、大炊天皇(てんわう)を奉(レ)流、又位につき給へり。今度は称徳天皇(てんわう)とぞ申ける。されば出家の人も即位給事なれば、木曾が宮も難かるべきにあらずと申て、咲などしけるとかや。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十三

P0788(有朋下P233)
古巻 第三十三
S3301 太神宮勅使付緒方三郎責(二)平家(一)事
寿永二年九月二日、平家追討の御祈(おんいのり)の為に、院より公卿の勅使を伊勢太神宮へ立らる。参議修範卿と聞き。太上天皇(てんわう)の、太神宮へ公卿の勅使を被(レ)立事者、朱雀、白川、鳥羽三代の践跡ありといへ共、是皆出家以前の事也き。太上法皇の勅使の例、今度始とぞ承。平家は筑紫に皇居如(レ)形被(レ)造たりければ、大臣殿より始て人々安堵し給たりけるに、豊後の国は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位頼輔の知行にて、其子頼経、国司代にて在国の間、三位追て云下給けるは、平家悪行年積て宿運忽(たちまち)に尽ぬ。仏神にも放れ君にも捨れぬ。故に花洛を出て西海に漂ふ。夫に九国の輩請取依(レ)翫、国には正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)抑留し、庄には年貢所当を不(レ)弁、其条已奉(レ)背(二)朝家(一)伴(二)逆悪(一)咎あり、返々不思議所行也。自余は不(レ)知、於(二)当国(一)は穴賢不(レ)可(レ)入、平家、これ非(二)私之計(一)、一院御定也。但不(レ)限(二)当国(一)、九国人民可(レ)随(二)院宣(一)者、一味同心に可(レ)追(二)討平家(一)、若忠あらん者は勧賞は追て可(レ)有(二)聖断(一)由、子息頼経の許へ云(有朋下P234)下給たりければ、頼経以(二)此趣(一)、当国住人(ぢゆうにん)緒方三郎惟義を召て被(二)下知(一)たり。惟義蒙(レ)仰、即当国は云に及ばず、九国二島の弓矢取輩に相触。懸ければ臼杵、戸槻、松浦党以下、背(二)平家(一)随(二)惟義下知(一)、原田四郎大夫種直、菊地次郎高直が一類計ぞ猶平家に付給ける。
P0789
抑彼惟義と云は大蛇の末なりければ、身健に心も剛にして、九国をも打随へ、西国(さいこく)の大将軍せんと思程のおほけなき者なりけるに、一院の御定とて、国司より懸る蒙(レ)仰ける上は、身の面目と思て出立けり。大蛇の末と云事は、昔日向国塩田と云所に、大大夫と云徳人あり。一人の娘あり。其名を花御本と云、みめこつがら尋常也。国中(こくぢゆう)に同程なる者聟にならんと云をば誇(レ)徳不(レ)用、我より上様なる人は云事なし。秘蔵しけりと覚て、後園に屋を造て此娘を住しめける程に、男と云者をば尊き卑も通さず、歳去歳来れ共、無(二)慰方(一)、春過夏闌ても友なき宿を守る。秋の夜長し、夜長して終夜(よもすがら)を明し兼たる暁に、尾上の鹿の妻呼音痛敷、壁にすだく蟋蟀、何歎くらんと最心細き折節(をりふし)に、いづくより来る共覚ず、立烏帽子(たてえぼし)に水色の狩衣著たる男の二十四五なるが、田舎の者とも覚ず、たをやかなる貌にて、花御本が傍に指寄て様々物語(ものがたり)して、慰語ひけれ共女靡事なし。男夜々通つゝ細々と恨口説ければ、花御本、流石(さすが)岩木ならねば終には靡けり。其後は雨降風(有朋下P235)冷けれ共、夜かれもせず通けり。父母につゝみて深く是を隠しけれ共、月比日比(ひごろ)夜々(よなよな)の事なれば、付仕ける女童是を見咎めて、父母に角とぞ語ける。急娘を呼、委是を問けれ共、恥しき道なれば、顔打赤めて兎角紛らかしけり。母さま/゛\におどしすかして問ければ、親の命も難(レ)背して有の儘にぞ語ける。母此事を聞、水色の狩衣に立烏帽子(たてえぼし)は■(おぼつか)なし、太宰府の近くは京家の人とも思べきに、此辺には有べき事に非、よし/\縦上揩ネりとも、契は人に不(レ)可(レ)依、たとひ下揩ネり共、娘が見する面道也。況狩衣に立烏帽子(たてえぼし)、定て只人に
P0790
はあらじ、今は聟とも用べし、如何して彼人の行末を知べきと様々計けるに、母が云、其人夕に来て暁還なるに、注しをさして其行末を尋べしとて、苧玉巻と針とを与て、懇に娘に教て後園の家に帰す。其夜又彼男来れり。暁方に帰りけるに、教への如く、女針を小手巻の端に貫て、男の狩衣の頸かみに指てけり。夜明て後に角と告たれば、親の塩田大夫、子息家人四五十人引具して、糸の注しを尋行。誠に賤が苧玉巻、百尋千尋に引はへて、尾越谷越行程に、日向と豊後との境なる嫗岳と云山に、大なる穴の中へぞ引入たる。彼穴の口にて立聞ければ、大に痛吟音あり、是を聞人身の毛竪て怖し。父が教へに依、娘穴の口にて糸を引へて云けるは、抑此穴の底には如何な(有朋下P236)る者の侍ぞ、又何事を痛て吟ぞと問ば、穴の中に答けるは、我は汝花御本が許へ夜々(よなよな)通つる者なり、可(レ)然契も縁も尽果、此暁おとがひの下に針を立られたり、大事の疵にて痛み吟、我本身は大蛇なり、有し形ならば出て見もし奉(レ)見度こそあれ共、日比(ひごろ)の変化既(すで)に尽ぬ、本の貌は畏恐給ふべきなれば、這出ても不(レ)奉(レ)見、よに遺も惜恋しくこそ覚ゆれ、是まで尋来り給へる事こそ難(レ)忘と云ければ、女の云、縦いかなる貌にて座ますとも、日比(ひごろ)の情争か忘べきなれば、只出給へ、最後の有様(ありさま)をも見、又見えもし奉らん、つゆ畏しと思はずと云ければ、大蛇は穴の中より這出たり。長は不(レ)知臥長は五尺計也。眼は銅の鈴を張るが如く、口は紅を含るに似たり。頭に角を戴耳を低たり。頭は髪生などして獅子の頭に異ならず。され共形ちには不(レ)似、おめ/\として涙を浮て、頭ばかりを指出したり。女衣を脱て、蛇の頭に打懸て自■(おとがひ)
P0791
の下のはりをぬく。大蛇悦で申けるは、汝が腹の内に一人の男子宿せり、已(すで)に五月に成、もし十月にして顕れたらば、日本国(につぽんごく)の大将とも成べかりつれ共、五月にして顕れぬ、九国には並者あるまじ、弓矢を取て人に勝、計賢くして心剛なるべし、斯る怖しき者の種なればとて、穴賢捨給ふな、我子孫の末までも可(二)守護(一)、必可(二)繁昌(一)。是を最後の言ばにて、大蛇穴に引入て死にけり。彼大蛇と云は(有朋下P237)即嫗岳明神の垂跡(すいしやく)也。塩田大夫々妻眷属おぢ恐て帰にけり。日数積つて月満ぬ。花御本男子を生。随(レ)為(二)成長(一)、容顔もゆゝしく心様も猛かりけり。母方の祖父が片名を取て是を大太童と呼。はだしにて野山を走行ければ、足にはあかゞり常に分ければ、異名には皸童とも云けり。此童は烏帽子(えぼし)著て、皸大弥太と云。大弥太が子に大弥次、其子に大六、其子に大七、其子に尾形三郎惟義なれば、大太より五代の孫なり。心も猛く畏しき者にてぞ在ける。此惟義には兄弟三人有けるが、次郎は死にぬ。太郎名生三郎、尾形と云二人が中に、此三郎は蛇の子の末を継べき験にやありけん、後に身に蛇の尾の形と鱗の有ければ、尾形三郎と云。さる者の末にて、被(二)仰含(一)院宣の間に、奥に入て数万騎の兵を引率し、太宰府へ発向す。九国輩多相従ひけり。平家は此一両月安堵の思有て、今は如何して都へ可(二)帰入(一)などはかり事を廻し、寄合寄合評定しける処に、緒方三郎が嫡子に小太郎維久、次男に野尻次郎惟村とて兄弟あり。次郎惟村を使者として平家の方へ申けるは、年来御恩をも蒙て、深相伝の君と憑進て候。其上十善帝王にて渡らせ給へば、二心なく奉公仕れ共、平家都を出て西海に落下御座、朝敵
P0792
と成て人民を悩す、速に九国の中を可(レ)奉(レ)出之由、一院の院宣とて、国司より被(二)仰下(一)の間、王土に身を入て(有朋下P238)難(レ)背(二)詔命(一)候、疾々九国境を出させ給ふべきにて候と申たり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)は、ひほくくりの直垂に糸蘭の袴著て野尻次郎に宣(のたまひ)けるは、やをれ維村よ、我君は天孫四十九世の正統、人王八十一代の御門、太上法皇の御孫、高倉院(たかくらのゐんの)后の腹、第一皇子にて渡らせ給へば、伊勢太神宮入替らせ給(たま)ひて、御裳濯河流忝上に、神代より伝たる神璽、宝剣、内侍所も帯して御座、正八幡宮(しやうはちまんぐう)も定て守奉らん、九国の人民争輙く可(レ)奉(レ)傾、又当家は是平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)が、相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)を追討して東八箇国を平げしより以来、故(こ)入道大将大臣の、右衛門督(うゑもんのかみ)信頼(のぶより)を誅戮して奉(レ)鎮(二)朝家(一)しに至るまで、代々国家の固也。而に頼朝(よりとも)、義仲(よしなか)等、東国北国の凶徒を相語ひて、我打勝たらば国をとらせん庄を知せんと云にすかされて、打籠の嗚呼の者共が、誠顔に与力同心して、向(二)官兵(一)軍するを見学て、九国輩奉(レ)背(レ)君条返々不思議也奇恠也、就(レ)中(なかんづく)鎮西の者共は内種に被(二)召仕(一)、殊非(レ)蒙(二)重恩(一)乎、夫に其好を忘、忽(たちまち)に鼻豊後めが随(二)下知(一)、当家を傾けんとの企甚以不(レ)可(レ)然、後漢光武皇帝は被(レ)襲(二)王莽(わうまう)(一)、漁陽に落給(たま)ひたりしか共帝位につき、我朝の天武天皇(てんわう)は大友(おほともの)王子(わうじ)に襲れて、吉野奥に入給(たま)ひたりしか共治(二)天下(一)給き、況三種の神器を御身に随給へり、我君終に都へ帰入らせ給はぬ事よも渡らせ給はじ、されば能々相計ひて御力を付進すべし、(有朋下P239)後悔争か兼て可(レ)不(レ)顧哉と宣ふ。野尻次郎立帰て此由具に云ければ、父惟義、今は今、昔は昔、速に平家を可(レ)奉(二)追出(一)、院宣国宣を被(レ)下之上は、子細にや及べき
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なれ共、流石(さすが)日来の好を奉(レ)思こそ先使をば進せたるに、左様に宣ふならば、不(レ)廻(二)時刻(一)可(レ)奉(二)追出(一)とて、惟義は三万(さんまん)余騎(よき)の大勢を率して、博多津より押寄て、時をどと造りたりければ、平家の方には肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)を大将軍にて、菊地、原田が一党を被(二)指向(一)て防戦けれ共、大勢攻懸りければ、取物も取敢(とりあへ)ず太宰府をこそ落給(たま)へ、
S3302 平家太宰府落並平氏宇佐宮歌付清経入(レ)海事
〔去(さる)程(ほど)に〕主上は駕与丁なければ、玉の御輿をも不(レ)奉、御伴の公卿殿上人(てんじやうびと)は、奴袴の傍を取、女房北方は、裳唐衣を泥に引、いつ習たるにはあらね共、畏しさの余に悲き事も覚えず、かちはだしにて我先に/\と、箱崎の津に逃給けるぞ無慙なる。折節(をりふし)降雨は車軸を下、吹風は砂を上。落る涙雨に諍て何とも不(二)見分(一)、鳥に不(レ)有ば天をも難(レ)翔、竜に不(レ)有雲へも難(レ)上。新羅百済へも渡らばやとは被(レ)思けれ共、波風荒うして夫も心に任せねば、各袂(たもと)を絞けり。箱崎津も難(二)始終叶(一)ければ、是より又兵藤次秀遠に具せられて、筑前(有朋下P240)国山鹿の城(じやう)へぞ入らせ給ふ。菊地次郎高直をば、大津山の関あけて進せよとて先立て通したりけれ共、此事終にはか/゛\しからじと思て、高直心替してけり。原田大夫種直も、山鹿城へ入らせ給(たま)ひにければ、秀遠が下知に相従はん事、子孫に伝て心憂しと思、則それも心替してけり。山鹿城にも未御安堵なかりける処に、惟義十万余騎(よき)にて押寄ると聞えければ、又取物も取敢(とりあへ)ず山鹿城をも落させ給(たま)ひて、たかせ舟に乗移、豊前国柳と云所へ渡入らせ給(たま)ひけり。沢辺の虫は声弱り、礒打浪に袖を濡す。柳と云所に著せ給(たま)ひたりけるに、楊梅桃李を引植て、九重の都に少似たりければ、薩摩守忠度のかく、
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  都なる九重のうち恋しくば柳の御所を立よりて見よ K168 
主上女院を始進て、内府以下の人々、豊前国宇佐の宮へ有(二)参詣(一)。社頭は皇居となり、廊は月卿(げつけい)雲客(うんかく)の居所となる。五位六位の官人等大鳥居に候ひ、庭上には九国の輩、弓箭甲冑を帯して並居たり。ふりにし緋玉垣、歳経にけりと苔むして、いつも緑の柳葉に、木綿四手懸て隙ぞなき。御祈誓の趣は、主上旧都還幸也。都は既(すで)に山河遥隔て雲の徐に成ぬ。何事に付ても、心尽しの旅の空、身を浮船の住居して、こがれて物をぞ覚しける。昔在原業平が、隅田河原の辺にて、都鳥に事問涙を流しけんも、又角やと覚て哀也。七箇(有朋下P241)日の御参篭とて、大臣殿財施法施を手向、奉り、神宝神馬、角て七箇日を送給へども、是非夢想(むさう)なんどもなかりければ、第七日の夜半計に思ひつゞけ給けり。
  思かね心つくしに祈れどもうさには物もいはれざりけり K169 
神殿大に鳴動して、良久してゆゝしき御声にて、
  世中のうさには神もなき物を心つくしになにいのるらん K170 
大臣殿是を聞召(きこしめし)て、都を出し上、栄花身に極り運命憑なしとは思しか共、主上角て渡らせ給ふ上、三種の神器随(二)御身(一)御座(おはしま)せば、さり共今一度旧都の還御なからんやと思召(おぼしめし)けるに、此御託宣(ごたくせん)聞召(きこしめし)ては、御心細く思ひ給(たま)ひ、涙ぐみ給(たま)ひてかく、
  さりともと思ふ心も虫の音もよわりはてぬる秋の暮かな K171 
P0795
是を聞る人々、誠にと覚て皆袖をぞ絞りける。小松殿(こまつどの)の三男に左中将清経は、都を落給(たま)ひける時、女房をも西国(さいこく)奉(二)相具(一)と宣(のたまひ)ければ、年来深き契を結、二心なく憑憑まれたる御中にて、女房はさもと出立給(たま)ひけるを、父母大に嗔りつゝ免給はざりければ力不(レ)及、悲みの中を別て独都を落給けるが、道より鬢の髪を切て形見に返遣はして、常は音信(おとづれ)申さん、便の時は又承る事も候へよなど云送ながら、三年が程有か無か言伝もなかりけれ(有朋下P242)ば、女房恨給(たまひ)て、何国までも相具せんと云しかば、我もさこそ思ひしに、今は心替のあればこそ三年を経共云事はなかるらめ、さては形見も由なしとて返し下給(たま)ひけるが、左中将の柳浦に御座(おはしまし)ける所へ著たり。一首の歌を副られたり。
  見るからに心つくしのかみなればうさにぞ返本の社に K172 
左中将是を見給(たま)ひては、そこさ悲く覚しけめ。柳御所には、さてもと思召(おぼしめし)て七箇日渡らせ給(たま)ひける程に、又惟義寄るなど聞えければ、此を出給ふに、海士の小舟に取乗、風に任浪に随て漂し程に、左中将清経は、船の屋形の上に上りつゝ、東西南北見渡して、哀はかなき世の中よ、いつまで有べき所とて角憂目を見るらん、都をば源氏に落されぬ、鎮西をば惟義に被(二)追出(一)ぬ、何国へ行ば遁べき身にあらず、囲中の鹿の如く、網に懸れる魚の様に、心苦く物思こそ悲けれとて、月陰なく晴たる夜、閑に念仏申つゝ、波の底にこそ沈みけれ。是ぞ平家の憂事の始なる。
S3303 平氏九月十三夜歌読事
九月十三夜に成ぬ。今夜は名を得たる月也。秋も末に成行ば、稲葉を照す雷の、有か無(有朋下P243)かも定なく、
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荻の上風身にしみて、萩の下露袖濡す。海士の篷屋に立煙、雲井に昇面影、葦間を分て漕船の、波路遥(はるか)に幽也。十市の里に搗砧、旅寝の夢を覚しけり。よわり行虫音、吹しをる風の音、何事に付ても藻にすむ虫の風情して、我から音をぞなかれける。更行秋の哀さは、何国もと云ながら、旅の空こそ悲けれ。冷行月にあくがれて、各心を澄しつゝ、歌をよみ連歌せられけるにも、都の恋しさあながち也。会紙を勧めけるに、寄(レ)月恋と云題にて、薩摩守忠度、
  月を見しこぞのこよひの友のみや都に我を思ひ出らん K173 
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛
  恋しとよ去年のこよひの終夜(よもすがら)月みる友の思ひでられて K174 
平(へい)大納言(だいなごん)時忠
  君すめば爰も雲井の月なれどなほ恋しきは都なりけり K175 
左馬頭(さまのかみ)行盛
  名にしおふ秋の半も過ぬべしいつより露の霜に替らん K176 
大臣殿(有朋下P244)
  打解けて寝られざりけり楫枕今宵の月の行へ清まで K177 
各加様に思つゞけ給(たま)ひても、互に御目を見合て、直垂の袖をぞ絞られける。
P0797
S3304 平氏著(二)屋島(一)事
長門は新中納言の国、目代(もくだい)は紀民部大輔光季也けり。当国の檜物舟とて、まさの木積たる船百三十(さんじふ)余艘(よさう)点定して奉。此に乗移りて四国の地へ著給ふ。爰(ここ)はよき城郭(じやうくわく)也と申ければ、讃岐の屋島に下居給、城構して御座(おはしまし)けり。哀哉昔は九重の内にして、金谷の春の花を翫給しに、今は屋島の礒にして、寿永の秋の月を詠給ことを、奇の賎のふしどを皇居と定むべきならねば、蜑の篷屋に日を晩し、船をぞ御所と定め給ふ。荻の葉向の夕嵐、独丸寝の床の上、片敷袖は塩にぬれ、明し暮させ給けり。波枕楫枕、想像れて哀也。礒辺のつゝじは、紅の露よりをるかと疑れ、五月の篷のしづくは、古里の軒の玉水かと奇給。藻塩に浸す旅衣、深き思に沈けり。蘆の葉に置露の身の、脆命も消ぬべし。州崎に騒ぐ千鳥の声、暁恨を添るかな。傍井にかゝる梶の音、夜半に心を摧けり。斯る住居は上下いつかは習ふべきならねば、男も女も只涙にのみ咽びて、乾ぬ袖をぞ絞ける。(有朋下P245)
菊地大夫胤益、阿波国より材木とらせ、屋島浦に漕渡して、如(レ)形内裏を立て奉(レ)入(二)主上(一)。其外大臣公卿の家々(いへいへ)も少少被(レ)造けり。
阿波民部成能一千(いつせん)余騎(よき)にて馳参。夜昼君を奉(二)守護(一)。其上使者を四国に分散して相触けるは、一人西海に臨幸あり、三種の神器上下官人不(レ)奉(レ)離(二)玉体(一)、今は此こそ都なれ、各急参賀して勅命を承べし。若忠あらん輩は豈賞なからんやと披露すれば、四国の兵皆成能が下知に靡きければ、物憑しげに振舞翫び奉る。大臣殿、神妙(しんべう)也、何事も成能が計とて、阿波守に被(レ)成て御気色(おんきしよく)ゆゝしく見えけり。肥後守(ひごのかみ)
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貞能(さだよし)は、九国を従へんとて下たりけれ共、被(二)追出(一)て面目なし。菊地次郎高直任(二)肥前守(一)、原田四郎種直筑前守に成たりけれ共、惟義に被(二)追出(一)国務にも不(レ)及ける上、心替したりければ、平家心弱思はれけるに、成能加様に甲斐甲斐しく申行ひけるに依て、暫安堵せられけり。
S3305 時光辞(二)神器御使(一)事
法皇は、三種の神器都を出させ給(たまひ)て、外都に御座(おはしまし)て月日の重る事を不(レ)斜(なのめならず)御歎きあり。追討使を下さんとすれば異国宝とも成、又海底にもや沈給はんずらんと兼て歎思召(おぼしめし)、世末(有朋下P246)に成と云ながら、まのあたり斯る不思議の有こそ御心憂けれ。御禊(ごけい)大嘗会(だいじやうゑ)も已(すで)に近付、如何して都へ返入奉らんと種々の御祈(おんいのり)あり。又公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)して、先御使を被(レ)下て時忠卿(ときただのきやう)に可(レ)被(二)仰含(一)と各計申けり。誰か可(レ)勤(二)御使(一)と評定有けるに、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)時光と云人は、平(へい)大納言(だいなごん)の北方、先帝の御乳人(おんめのと)帥佐の妹にて座しければ、時忠には子舅なり。されば此人を被(レ)下て平(へい)大納言(だいなごん)に可(二)歎仰(一)也と、諸卿被(レ)申けるに依て、時光を御前に被(レ)召て、三種の神器外土の境に御座(おはしまし)て徒に月日を経給事、御歎不(レ)浅、我朝の御大事(おんだいじ)、専此事にあり、汝は時忠に相親みたれば、西海に罷下て都へ可(レ)奉(二)返入(一)之由、彼卿に仰含よと勅定あり。時光畏て院宣の御返事(おんへんじ)申て云、誠に朝家の御大事(おんだいじ)、何事か過(レ)之侍べき、勅定の上は子細を申に及、但今度西海へ下向仕なば、再帰上りて君を見進ん事かたし、其故は、時忠都を落下し時、西国(さいこく)へ可(二)相伴(一)由懇に語申侍しを、時光、御幸ならせ給はば子細にや及べき、さらずば不(二)思寄(一)と心中に存ぜしに、君の御幸も候はざりしかば留候ぬ、其後も度々怨口説て、可(二)罷下(一)の由申
P0799
上せ候しか共、縦万人の肩を越て三公の位に至とても、争君を離進て外土の旅にさすらふべき、不(二)思寄(一)事哉と存て、返答にも不(レ)及罷過候。抑時光下向仕て、三種の神器事故なく帰上らせ給ふべくば、縦身は(有朋下P247)徒に成とも、勅定に随て、風雲に鞭を打、夜を日に継て可(二)馳下(一)こそ候に、神器の返入せ給はん事も有難く、時光安穏に上洛せん事も又難しと被(レ)申たりければ、申処も誠に不便也とて下されず。
S3306 頼朝(よりとも)征夷将軍宣付康定関東下向事
〔去(さる)程(ほど)に〕兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)上洛不(レ)輙とて、鎌倉に居ながら征夷大将軍の宣旨を被(レ)下。其状に云、
左弁官下、〈 五畿内 東海 東山 北陸 山陰(せんいん) 山陽 南海 西海 已上 諸国 〉
  早頼朝(よりともの)朝臣(あそん)可(レ)令(レ)為(二)征夷大将軍(一)事
   使〈 左史生中原康定 右史生中原景家(かげいへ) 〉
右左大臣藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)兼実宣奉(レ)勅、従四位下(じゆしゐのげ)行、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりともの)朝臣(あそん)、可(レ)令(レ)為(二)征夷大将軍(一)者、宜(下)令(二)承知(一)依(レ)宣行(上)(レ)之。    
  寿永二年八月日              左大史小槻宿禰奉
 左大弁(さだいべん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん) 在判とぞ被(二)書下(一)ける。(有朋下P248)
左史生康定、此院宣を賜て九月四日関東に下著。兵衛佐(ひやうゑのすけ)に奉(二)院宣(一)、対面して勅定之趣を申含。頼朝(よりとも)の返事承て、同廿五日に康定上洛す。院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に参ず。御坪に被(二)召居(一)て、鎌倉の形勢(ありさま)
P0800
兵衛佐(ひやうゑのすけ)の問答を委く被(二)聞召(一)(きこしめさる)。公卿殿上人(てんじやうびと)参集り、簾中御簾をついはり、庭上鳴を止て是を聞。康定畏て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)被(レ)申しは、頼朝(よりとも)勅勘を蒙といへ共、既(すで)に朝敵を退け、武勇の名誉依(レ)継(二)先祖(一)忝征夷将軍の宣旨を下賜る、都に不(二)罷上(一)、私宅に乍(レ)居宣旨を奉(二)請取(一)事、天命有(二)其恐(一)、若宮社にて可(レ)奉(二)請取(一)と被(レ)申之間、康定八幡若宮に参向す。彼若宮は、鶴岡と申所に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を奉(二)移祝(一)、地形如(二)石清水(一)也。四面の廻廊あり、造道十余町(よちやう)を見下て内外に鳥居を立たり、南は海上漫々と見渡して眺望ことに勝たり。さて宣旨をば誰してか可(レ)奉(二)請取(一)と評定あり。三浦介義澄と被(レ)定。彼義澄は東八箇国第一弓取に、三浦平太郎高継が末葉なる上、父三浦大介義明が、君の御為に兵衛佐(ひやうゑのすけ)謀叛を発初ける時、衣笠城にて敵を禦命を捨たるに依て、父が黄泉の闇を照さんが為と承き。義澄宣旨請取奉らんとて八幡宮へ参向す、郎等十人家子二人を相具す、郎等十人をば大名一人づつ承て出立たり。家子二人が内、一人は比企藤四郎能定、一人は和田三郎宗真、家子郎等都合十二人、彼も此も共に直申にて、今日を晴と上下心も及ばず出(有朋下P249)立たり。義澄は赤威鎧に甲をば不(レ)著、右の膝を突、左の膝を立て、累葛箱に奉(レ)入処の宣旨、袋を請取奉らんと、左右の手さゝぐる時、康定兼て三浦介とは承て侍ども、抑御使は誰人にて御座るぞと尋候しかば、三浦介とは不(二)名乗(一)して、三浦荒次郎義澄と名乗儘に、宣旨奉(二)請取(一)、良久有て、覧箱の蓋に沙金十両入て返。拝殿に紫縁の畳二畳敷て康定を居、高盃に肴二種して酒を勧む。斉院次官親義、陪膳仕て肴に馬を引、大宮侍の一掾A工藤左衛門尉(さゑもんのじよう)
P0801
祐経一人して是を引、其(その)日(ひ)は兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館へは向はず、五間の萱屋を理て、椀飯ゆたかに、厚絹二両、小袖十重、長櫃に入て傍に置。其外宿所へ十三疋の馬を送る。其中に二疋は鞍を置、十一疋(じふいつぴき)は裸馬也。彼馬共は、八箇国の大名に選宛られたりと内々承しに合て、実に有難逸物共也き。又上品の絹百疋、白布百端、紺藍摺各百端積めり。明る日兵衛佐(ひやうゑのすけ)より康定を請ず。請に随て行向。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館を見候しかば、外侍内侍共に十六間、外侍には諸国の大名膝を組て並居たり。内侍には一姓の源氏共並居て、末座に古老郎等共(らうどうども)を居たり。少引却て、紫縁の畳を敷康定を居、良久して兵衛佐(ひやうゑのすけ)の命に随つて罷向。簾を揚て、寝殿に高麗縁のたゝみ一帖敷て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)被(レ)座たり。軒に紫縁の畳一帖敷て康定を居、兵衛佐(ひやうゑのすけ)は布衣に南袴を著せり、指出たるを見候しかば(有朋下P250)少く御座(おはしま)せし時には似給はず、顔大にして長ひきく、容貌花美にして景体優美也。言語分明にして、子細を一時宣たり。平家は頼朝(よりとも)が威に恐て京都に不(二)安堵(一)、西海へ落下ぬる其跡には、何なる尼公也共などか打入ざるべき、其に義仲(よしなか)行家等が、己が高名顔に預(二)恩賞(一)剰両人共に国を簡申ける条、返々奇恠也。但義仲(よしなか)僻事仕らば、仰(二)行家(一)被(レ)討べし、行家僻事仕らば、仰(二)義仲(よしなか)(一)可(レ)被(レ)討、当時も頼朝(よりとも)が書状、表書には木曾冠者(きそのくわんじや)十郎蔵人と書たるにも、返事はしてこそ侍れ、折節(をりふし)聞書到来、能々不(二)心得(こころえ)(一)気に申て、又秀衡を陸奥守になされ、資職を越後守になされ、忠義を常陸守になさるゝ間、頼朝(よりとも)が命に不(レ)随本意なき事に侍り、早彼輩を可(レ)誅由、院宣を被(レ)下とこそ被(レ)申侍しかば、其後色代仕て、康定こと更に名簿をして可(レ)進なれども、
P0802
今度は宣旨の御使として、私ならず候へば追て申べし、舎弟(しやてい)にて、侍史大夫重良も同心に申しかば、定左様にぞ侍らんずらんと色代仕しかば、当時頼朝(よりとも)が身として、争か名簿をば給るべき、さなしとても、怒々疎の儀あるべからずと、ゆゝしげにこそ被(二)返答(一)候しが、軈(やが)て可(二)罷上(一)由相存知候しに、今日計は可(レ)有(二)逗留(一)と被(レ)留候し間、其(その)日(ひ)は宿所へ罷帰、軈(やが)て追様は、荷懸駄三十疋送賜て候き。翌日又兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館へ向て、酒を勧て金鐔太刀に、目九指たる征矢一腰取副(有朋下P251)て引、其上京上の雑事とて、鎌倉より宿々に五石々々、糠藁に至まで、鏡の宿まで送積で侍つる間、さのみは如何せんと存て、人にたび宿にとらせ施行に引なんどして、上洛仕て候と奏し申。聞人ごとに、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の作法如(レ)見にぞ被(レ)思ける。法皇委く被(二)聞召(一)(きこしめされ)、今度儲たる物、よし/\康定が徳にせよとぞ仰ける。
院宣請文には、去八月七日院宣、今月二日到来、被(二)仰下(一)之旨、跪以所(レ)請如(レ)件、抑就(二)院宣(一)之旨趣、倩思(二)姦臣之滅亡(一)、是偏明神之冥罰也、更に非(二)頼朝(よりとも)之功力(一)、勧賞之間の事、只叡念之趣可(レ)足とぞ載たりける。礼紙には、神社仏寺近年以来、仏餉燈油如(レ)闕(二)寺社領等(一)、如(レ)本可(レ)被(レ)返(二)付本所(一)歟、王侯卿相(けいしやう)以下領、平氏輩多く押領と云云、早く被(レ)下(二)聖日之恩詔(一)、可(レ)被(レ)払(二)愁霧之鬱念(一)歟、平家之党類等、縦雖(レ)有(二)科怠(一)、若悔(レ)過帰(レ)徳、忽不(レ)可(レ)被(レ)行(二)斬刑(一)とぞ申ける。
S3307 光隆卿向(二)木曾許(一)付木曾院参(ゐんざん)頑事
同(おなじき)十五日、備前守行家申けるは、経盛卿并成良等、以(二)軍船五百艘(一)浮(二)海上(一)、国々の船を討取。其威勢甚強して、舎弟(しやてい)の男為(二)賊徒(一)軍敗られて、備前国を被(二)打取(一)畢、急罷(有朋下P252)向て可(二)討伐(一)と申けれ共、
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義仲(よしなか)不(レ)免ければ、院より可(レ)被(二)下遣(一)の由義仲(よしなか)に仰ければ、勅答には、行家は雖(レ)為(二)勇士(一)無(二)冥加(一)、毎度被(レ)敗(レ)軍、今度の追討使尤可(レ)有(レ)儀かと申ければ、義仲(よしなか)可(二)罷向(一)の由、被(二)仰下(一)けり。木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)は、貌形は清気にて美男なりけれ共、堅固の田舎人にて、浅猿(あさまし)く頑何をかしかりけり。信濃国(しなののくに)木曾と云ふ山里に、二歳よりして二十余年が間隠居たりければ、人に馴る事はなし。始て都の人に馴そめんに、なじかは誠によかるべき、かたくななるこそ理なれ。
猫間中納言光隆卿宣ふべき事あて木曾が許へおはして、先雑色して角と云入られたり。木曾が郎等に根井と云者、聞継て主に語ければ、木曾不(二)意得(一)とて、なまり音にて、何猫のきた、猫とは何ぞ、鼠とる猫歟、旅なればとらすべき鼠もなし、猫は何の料に義仲(よしなか)が許へは来るべき、但し人を猫と云事もや有と云ければ、根井もげに不(二)心得(こころえ)(一)と思て、立帰て雑色に問様は、抑猫殿とは鼠取猫か、人を猫殿と申かと、御料に不(二)意得(一)と嗔給也といへば、雑色あな頑やをしへんと思て、七条坊城壬生辺をば、北猫間、南猫間と申。是は北猫間に御座(おはしま)す程に、在所に付て猫間殿と申也。譬へば信濃国(しなののくに)木曾と云所におはすれば木曾殿(きそどの)と申様に、是も猫間に御座(おはしませ)ば猫間殿と申也と細々に教ければ、根井意得て此様を申。木曾も其時意得て奉(レ)入(二)(有朋下P253)見参(一)しけり。暫く物語(ものがたり)し給(たまひ)て、木曾根井を招て、や給へなんてまれ饗申せと云。中納言浅猿(あさまし)と思ひて、只今(ただいま)不(レ)可(レ)有(レ)宣(のたまふことあるべからざり)けれ共、いかが食時におはしたるに物めさでは有べき、食べき折に不(レ)食は、粮なき者と成也、とく急げ/\と云。何も生しき物をば無塩と云ぞ
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と心得(こころえ)て、無塩の平茸もありつな、帰給はぬさきに早めよ/\と云ければ、中納言は懸由なき所へ来て恥がましや、今更帰らんも流石(さすが)也と思て、宣べき事もはか/゛\しく不(レ)被(レ)仰、興醒て竪唾を呑て御座(おはしまし)けるに、いつしか田舎合子の、大に尻高く底深に生塗なるが所々剥たるに、毛立したる飯の、黒く籾交なりけるを堆盛上て、御菜三種に平茸の汁一つ、折敷に居て根井持来て中納言の前にさし居たり。大方とかく云計なし。木曾が前にも同く備たり。木曾は箸とり食けれ共、中納言は青興醒てめさず。木曾是を見て、如何に猫殿は不(レ)饗ぞ、合子を簡給歟、あれは義仲(よしなか)が随分の精進合子、あだにも人にたばず、無塩の平茸は京都にはきと無物也、猫殿只掻給へ/\と勧めたり。いとゞ穢く思ひ給けれ共、物も覚えぬ田舎人、不(レ)食してあしき事もぞ在と被(レ)思ければ、めす体に翫て中底に突散し給へり。木曾は散飯の外には何も残さず食畢。戯呼猫殿は少食にておはしけり、去にても適座したるに、今少掻給へかし/\と申。其後根井、猫間殿の下を取て中納言の雑色(有朋下P254)に給。雑色因幡志腹を立て、我君昔より懸る浅猿(あさまし)き物進ずとて、厩の角へ合子ながら抛捨たり。木曾が舎人是を見て、穴浅増(あさまし)や、京の者は、などや上揩煢コ揩熾ィは覚えぬ、あれは殿の大事の合子精進をやとて取てけり。是のみならず、をかしき事共多かりける中に、木曾我官を成たり、さのみ非(レ)可(レ)有(二)引籠(一)出仕せんとて、直垂を脱置て、狩衣に立烏帽子(たてえぼし)著て初て車に乗、院(ゐんの)御所(ごしよ)へ参る。不(二)乗習(一)車、不(二)著知(一)装束なれば、立烏帽子(たてえぼし)のさきより指貫のすそまで、頑事云計なし。牛飼は平家内大臣(ないだいじん)の童を取て仕ければ、高名
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の遣手也、主の敵ぞかしと目ざましく心憂思ける。木曾車にゆがみ乗たる有様(ありさま)、をかしなどは云計なし。左右の物見を開、前後の簾を揚たり。牛小童が角はせぬ事にて候と云ければ、やをれ牛童よ、たまたま車に乗たる時、人をも見たり人にも見ゆるぞかし、如何が無念に、車の内なればとて引籠て有べき、且は是程窄所に詰居事も忌々しなど云てをかしかりけり。馬に打乗冑著たるには少も似ず、ゆゆしく危げにぞ見えける。牛童車を門外に遣出て、後て一■(ずわえ)あてたれば、飼立たる強牛の逸物也、何の滞か有べきなれば、如(レ)飛走る。木曾車の内に却様にまろぶ。牛を留ん為に、やをら童々と叫ければ、留よと云とは心得(こころえ)たりけれ共、いとゞ鞭を当つ、牛はまりあかて躍る。起あがらん/\と(有朋下P255)すれ共なじかは起らるべき、不(二)著習(一)装束也、起る暇はなし。蝶の羽をひろげたるが如くに、左右の袖をひろげ足を捧て、やをれ/\とをめきけれ共、不(二)虚聞(一)して六七町こそあがかせたれ。郎等共(らうどうども)が馳付て、如何に暫し留よと仰の有るに角は仕るぞと云ければ、牛童陳じ申けるは、やれ小てい/\と候へば、初て御車に召て面白と思召(おぼしめし)て、車を遣々と仰あると心得(こころえ)て仕て侍り、其上此牛は鼻つよく候と申て、車を留て後、木曾起居たりけれ共、六七町はあがかせぬ。きならはぬ狩衣の頸にて喉をばつよく詰たり。遍身(へんしん)に汗たり、赤面してぬけ/\とあり。牛飼今は中直せんと思て、それに候御手形に取付せ給へと教ければ、いづくを手形とも不(レ)知げに見えける時に、其に候方立の穴に取付せ給へと云時、初て取付て、あはれ支度や、是は和牛小ていが支度か、又主の殿の構かとぞ問たりける。院(ゐんの)御所(ごしよ)にて車懸はづし
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ておりんとしけるが、後より下けるを、雑色、車には後より乗て前よりおるゝ事にて候と申せば、いかが車ならんからに、忌々敷すとおりおはすべき、京の人は物におぼえずと覚るとて、終に後より下てけり。院(ゐんの)御所(ごしよ)へ指入ければ、折節(をりふし)候相たりける公卿殿上人(てんじやうびと)、女房女童部(をんなわらんべ)に至迄、すはや木曾が参なるは、死生不(レ)知の怖し者にて有なるぞとて、局々に逃入忍隠て戸を細目に開、御簾の間よりのぞ(有朋下P256)きけり。木曾庭上をねり廻、彼方此方を立渡て、穴面白の大戸やせとや、中戸にも絵書たり、下内にも唐紙押たりとぞ嘆たりける。殿上階下、男女畏しさにえ咲はで、忍音に咲壺に入てぞ咲ける。大方振舞とふるまふ事、云と云事は、京中上下の物咲なり。
S3308 源平水島軍事
〔去(さる)程(ほど)に、〕平家は讃岐国屋島に在ながら、山陽道を打靡して都へ責上るべしと聞えければ、木曾左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)是を聞て、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)矢田判官代(はんぐわんだい)義清、宇野平四郎行広を差遣す。山陽道の者共多く源氏に相従けり。平家は三百(さんびやく)余艘(よさう)の兵船を調て、屋島の磯に漕出たり。源氏は備中国水島が途に陣を取て、千余艘(よさう)の兵船を構たり。源平互に海を隔て支たり。
寿永二年閏十月一日、水島にて源氏と平家と合戦を企つ。源氏等(げんじら)計けるは、此島の南の地より、島の北の際まで三町(さんちやう)には過べからず、島の東の海上より寄て、島の北に船を陸まで組合て、軍兵隙を諍て攻寄ば、先陣に進まん者敵の為に打とらると云共、幾ならじ。後より次第に続て、島の上へ責入て城に火を懸ば、敵は舟へのみこそ競のらんずらめ、打物に堪たらん輩続て乗移て打とれ、島を責落し
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なば、船の寄る所なくしては争か海上(有朋下P257)に日を重ぬべき、浪に引れ風に随つて漂はんを、浦々渚々に追詰々々討とらんと定てけり。平氏は又船をば島の西南に付て、城の東北の木戸口(きどぐち)を開て、名を得たらん人々進出て敵を指招かば、舟を並て責寄べし、偽て引退ば島の上へ襲来らん歟、其時舟を島東北へ指廻して、三方より矢前(やさき)揃て可(二)射取(一)、敵不(レ)堪して引退かば、舟を指並べて乗移、分捕せんとぞ謀りける。源氏の追手の大将軍は宇野弥平四郎行広、搦手の大将軍は足利矢田判官代(はんぐわんだい)義清也。五千(ごせん)余人(よにん)の兵共(つはものども)、百余艘(よさう)の兵船、纜解て押出し、夜の曙に漕寄て時の声を発す。平家待儲たる事なれば、声を合て戦ふ。両方の軍兵一万(いちまん)余人(よにん)なれば、時の声海上に響渡て、よせたる波の音も声を合する歟とぞ覚ける。平家は本三位中将重衡、越前三位通盛卿を大将軍として七千(しちせん)余人(よにん)、二百艘の兵船に乗て、島の西南より東北へ二手に指廻す。源氏の兵船、兼てはかりたる事なれば、南の地より島の北まで指並て、当国の住人(ぢゆうにん)を前に立て二千(にせん)余人(よにん)、甲を傾け冑の袖を振合て、一面に立並て責寄。平家は見(レ)是て、城の東北の木戸口(きどぐち)を開く。能登守教経は、紺の白き糸にて群千鳥を縫たる直垂に、紅威の鎧に、長覆輪太刀をはけり。越中次郎兵衛盛嗣は、滋目結の直垂に耳坐滋の冑を著たり。上総五郎兵衛忠清(ただきよ)は、縫摺の直垂に赤威肩白の鎧を著たり。飛騨三郎兵衛(有朋下P258)景家(かげいへ)は、褐直垂に大衿耳袖を赤地の錦をたち入たるに、黒糸威(くろいとをどしの)鎧を著せり。鎧の毛直垂の色、いづれも取々にはなやかに見えたり。此外村田兵衛盛房、源八馬允、米田を始として、名を得たる勇士三十(さんじふ)余人(よにん)打出て、
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敵を招けば、矢田判官代(はんぐわんだい)義清、仁科次郎盛宗、高梨六郎高直、海野平四郎幸広を始として三百(さんびやく)余人(よにん)、木戸口(きどぐち)へ攻寄て戦。平氏偽て引退、源氏勝に乗て攻蒐。爰(ここ)に島の両方の船、南の沖西の島さきより指寄て、敵の舟を打鎰にて掻寄せ、組合て乗移る。精兵をそろへて、城中(じやうちゆう)并に両方の船より散々(さんざん)に射、源氏の船不(レ)堪引退。西風烈く吹て、船共ゆられて打合ければ、東国北国の輩、舟軍は習はぬ事なれば、船に不(二)立得(一)して船底へのみ重り入。平家の輩は、舟軍自在を得たりければ、乱入て散々(さんざん)に切。面を向る者はすくなし。舟耳に近付者をば取て海に入、底にある者をば冑の袖をふまへて頸を掻、城の中よりは勝鼓を打て■(ののし)り懸る程に、天俄(にはか)に曇て日の光も見えず、闇の夜の如くに成たれば、源氏の軍兵共日蝕とは不(レ)知、いとゞ東西を失て舟を退て、いづち共なく風に随つて遁行。平氏の兵共(つはものども)は兼て知にければ、いよ/\時を造り重て攻戦。矢田判官代(はんぐわんだい)義清は、船にゆられて立得ざりければ、船耳に尻を懸て、甲を脱捨太刀を抜て戦ふ。越中次郎兵衛盛嗣は是を見て、甲を傾て打て懸を、義清立上(有朋下P259)て甲の鉢をうつ。強く被(レ)打て甲を脱て落にけり。盛嗣目くれて、太刀の打所は覚ざりけれ共打違へたりけるに、義清が右の顔をすぢかへに、押付の板に切付たりければ、うつぶしに伏けるを引仰のけて頸を掻てけり。海野四郎幸広は、村田兵衛盛房と船耳にて取組て海へ入けるを、飛騨三郎兵衛景家(かげいへ)は勇士の者也ければ、盛房が総角を取て引返して懐合たりけるを、両人ながら船へ抛入てけり。幸広刀を抜て、盛房が起あがらんとするを踏へて、冑の草摺を引上てさす。景家(かげいへ)是を見て、幸広
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が甲を引仰て首を掻てけり。能登守教経、精兵の手きゝなりければ一として空矢なし。高梨次郎高信を始として十三人被(二)射取(一)けり。源氏の軍敗にければ、討残されたる者共、はしふねに乗移て、飛下々々落行きけるを、平家は舟の中に兼て鞍置馬を用意して、船共の纜切放、渚(なぎさ)に漕寄、舟腹を乗傾て馬共おろし、ひたとのり、能登守一陣に進で攻蒐ければ、討るゝ者は多く助かる者は少なし。或備前国へ落もあり、或は都へ上もあり。海へ入て死する者は其数を不(レ)知。船にて被(二)討捕(一)源氏には、矢田、高梨、海野を始として、千二百人(せんにひやくにん)が頸切懸たり。
S3309 木曾備中下向斉明被(レ)討並兼康(かねやす)討(二)倉光(一)事(有朋下P260)
懸ければ当国住人(ぢゆうにん)等、皆平氏に帰伏してけり。都へ落上たりける者共、木曾に角と云ければ、義仲(よしなか)不(レ)安とて、夜を日に継て備中国へ馳下。去六月北陸道の合戦に虜たりし平泉寺長吏斉明をば、六条河原にて頸を切る。妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)は、木を樵草を刈までこそなけれ共、二心なく木曾に被(レ)仕けり。是はいかにもして再故郷に帰、今一度旧主を奉(レ)見、平家の御方に成て合戦を遂んとの謀なり。咲中偸銃(二)刺人(一)刀といへり。木曾は是をも不(レ)知して、斉明と同時に切べかりけれ共、西国(さいこく)の道しるべとて宥具し給けり。蘇子卿如(レ)因(二)胡国(一)李少卿似(下)帰(二)漢朝(一)、遠著(中)異国(上)、昔人の所(レ)悲といへり。如何有べかるらん、■(おぼつか)なしと覚たり。寿永二年閏十月四日、木曾都を出て、播磨路に懸て今宿に著。今宿より妹尾を先達にて備中国へ下る。当国の船坂山にて、兼康(かねやす)木曾に云けるは、暇を給(たまひ)て先立て罷下、相親む者共に、御馬草をも用意せさせ候ばや、懸乱の世なれば、俄の事は難(レ)治にも侍
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べしと申間、さも有べしとて許し遣はす。木曾は爰(ここ)に三箇日の逗留と云。兼康(かねやす)すかし仰たりと思て、子息小太郎兼通、郎等宗俊を相具して下けるが、加賀国住人(ぢゆうにん)倉光三郎兼光を招て云けるは、やゝ倉光殿、兼康(かねやす)、御辺(ごへん)に奉(レ)被(レ)虜、難(レ)遁命を生、剰西国(さいこく)の尋承を給、故郷に帰て再妻子を相見ん事も、御恩とのみ奉(レ)思、もし人手に懸たらば、争(有朋下P261)か命も生故郷へも帰べき、さても兼康(かねやす)虜給たる勧賞に、備中の妹尾は吉所にて侍り、勲功の賞に申賜て下給へかし、同は打つれ奉んと云。倉光三郎誠にと思て木曾に所望しければ、則下文賜。倉光悦で妹尾に打具して下る。兼康(かねやす)道すがら思けるは、妹尾まで行ぬるものならば、新司とて庄内一はな心にてもてなし、思著者有て勢付なば如何にも難(レ)叶と思て、備前国和気の渡より東に、藤野寺と云古き御堂に下居て、兼康(かねやす)申けるは、やや倉光殿、妹尾は今は程近し、やがて打具し奉べけれ共、世間の■々(そうそう)に所も合期せん事難し、兼康(かねやす)先立て所の様をも見廻、又親しき者共にも相触て、かゝる人こそ下向し給へとて、御饗をも用意せさせんと云ければ、倉光は何様にもよき様に相計給へとて爰(ここ)に留る。兼康(かねやす)はすかして負て、先立て草壁と云所に馳付て、使を方々へ遣して、親者四五人招寄て夜討せんとぞ出立ける。倉光争か角と知べきなれば、今や今やと待所に、夜半計に、兼康(かねやす)は十余騎(よき)の勢にて、藤野寺に押寄て、倉光三郎を夜討にしてこそ帰にける。此倉光と云は、随分健に立て、度々の軍にも不覚せず、北国合戦に妹尾をも虜たりし者が、兼康(かねやす)にすかされて討れぬるこそ無慙なれ。人の申けるは、何事も運の尽るは力なき事なれ共、倉光
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は北国の住人(ぢゆうにん)ながら、案内者立て此彼あなぐり行、昔より馬の鼻もむかぬ、白山(有朋下P262)権現の御領、末寺末社の庄園を没倒し、神事仏事の供米を押領し、剰又平泉寺の長吏斉明威儀師(ゐぎし)が被(レ)宥しをも、種々に讒訴して六条河原にて刎(レ)首などしたりしかば、神の咎人の怨の報にこそ、角おめ/\とは討れたるらめとぞ申ける。妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)は、倉光を夜討にして後に人を四方に走らかし、兼康(かねやす)こそ北国の軍に被(レ)虜たりつるが、平家の御行末の恋さに、兎角操て再故郷にまぬかれ帰たれ、木曾は既(すで)に船坂山に著給へり。平家へ参らんと思はん者の、我に志あらん人は、兼康(かねやす)に付て木曾を一矢射よやと触たりけり。妹尾にも不(レ)限、其辺近者共、墓々しきは兼て屋島へ参ぬ。馬鞍も持ず、具足もたらはぬ輩が是を聞て、柿の袴に責紐結、布の小袖に東折したり。剥たる弓矢に精たる太刀刀持などして、馬に乗者は少く、多は歩跣にて、此彼より二人三人と走集たり。其(その)勢(せい)三百人(さんびやくにん)計在けれども、そも物に叶べきは僅(わづか)に十二十人には過ざりけり。此勢を相具して、兼康(かねやす)は西河裳佐の渡を打渡り、福輪寺阡を堀切て、管植逆母木引などして、馬も人も通難く構たり。彼阡と云は遠さ二十余町(よちやう)、北は峨々たる山、人跡絶たるが如し。南は渺々たる沼田、遥(はるか)に南海に連なりたり。西には岩井と云所あり。是をば打過て当国の一宮をも過、佐々迫に懸。此佐々迫と云所は、東西は高き山、谷に一の細道あり。左右の山(有朋下P263)の上に弩多く張り立たり。後には津高郷とて、谷口は沼也ければ、究竟の城(じやう)也。敵何万騎向たり共輙く攻落し難所也。此には兵共(つはものども)を指置て、我身は唐河の宿、板蔵城
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に引籠て、今や/\と木曾を待。
S3310 兼康(かねやす)板蔵城戦事
〔去(さる)程(ほど)に〕倉光三郎の下人夜討に討漏れたりけるが、舟坂山に走帰て木曾に角と告ければ、木曾驚騒て、夜討の勢は何程か有つると問。闇は闇し夜目にて一定の数は不(レ)知、二三十人にもやと見え侍き。妹尾が所為と覚ゆる事は、我身は先立て馬の草藁用意して、使を進せん程は、暫く此に相待給へとて、古御堂におろし奉(レ)置、夜に入まで使もなし、待ども/\人も見えず、結句はかくなり給ぬ、この定ならば、一定君をも伺進せんと覚候、其上妹尾は国人也、勢も付増ゆゝしき大事也、急ぎ兼康(かねやす)を討せ給べくや候覧と申。兼康(かねやす)が所為勿論也、去ば急とて、木曾三百(さんびやく)余騎(よき)にて今宿を立、夜を日に継で馳下給ける程に、其暁に三石に著。明日藤野寺に著。倉光爰(ここ)にして討れにけりと哀に思ひ、爰をも打過、和気の渡を打渡し、可真郷へ打入て福輪寺阡を見れば、堀掘切て逆母木引、たやすく爰を(有朋下P264)難(レ)通、如何して閑道を知らんとて、其辺を打廻て里人を尋けるに、可真郷の住人(ぢゆうにん)に、惣官頼隆と云者を尋出して云けるは、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)を、西国(さいこく)の為尋承、死罪を宥て古里に返遣す処に、還て義仲(よしなか)に存腹黒、彼を責んとするに、きと道を得ず、通り道ありなんやと宣へば、候なんとて即頼隆山しるべして先陣に進み、北路に懸り鳥岳と云所を廻て、佐々の井より時を咄と造懸て、佐々が迫を責たりけり。妹尾は兼て、木曾は今宿に三日の逗留なれば、縦此事漏聞て寄とも、福輪寺畔きと寄がたし、されば只今(ただいま)の事にてはよもあらじと打延て思けるに、時を造懸て寄たれば、駈武者共は一矢射る
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に及ず、皆散々(ちりぢり)に落行けり。自先立者は助りけれども、返合する者のたすかるはなし。深田に追入追入切殺し射殺す。佐々迫を攻落して、唐皮宿、板蔵城に押寄て時を造る。妹尾思儲たる事なれば、矢たばね解て散々(さんざん)に射る。木曾は妹尾逃すな兼康(かねやす)あますな、攻よ/\と下知しければ、郎等共(らうどうども)入替入替射合たり。妹尾矢種尽ければ、主従三人山に籠る。それより相構て屋島へ参らんと赴ける程に、子息小太郎兼通は、肥太たる男にて、歩に不(二)合期(一)ければ、足を痛て山中に留る。兼康(かねやす)は思切、小太郎を捨て落行けれ共、恩愛の道の悲さは、行ども/\不(レ)歩。小太郎又父の兼康(かねやす)を呼ければ、兼康(かねやす)帰て如何にと問。させる要事(有朋下P265)は侍らず、爰を最後と存ずれば、今一度見奉んとてと答、涙を流しければ、兼康(かねやす)も袖を絞けり。一年新(しん)大納言(だいなごん)成親、丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)に情なくあたり奉りたりしに、親子の中の悲しさは、今こそ思ひ知れけれ。敵近く攻寄ければ、兼康(かねやす)又思切深く山へ落入けるが、眼に霧雨て進まれず。郎等宗俊を呼て、兼康(かねやす)は数千人(すせんにん)の敵に向て戦にも、四方晴て見ゆれ共、小太郎を捨て落行ば、涙にくれて道見えず、兼ては相構て屋島に参て、今一度君をも見奉り、木曾に仕し事をも申ばやと思つれ共、今は恩愛の中の悲ければ、小太郎と一所にて討死せんと思は如何有べきと云。宗俊尤さこそ侍べけれ、弓矢の家に生ぬれば、人ごとに無跡までも名を惜む習也、明日は人の申さん様は、兼康殿(かねやすどの)こそいつまで命をいきんとて、山中に子を捨落行きぬれといはれん事も口惜き御事なるべし、主を見奉らんと覚ずも子の末の代を思召(おぼしめす)故也、小太郎殿亡給なんには、何事も何かはし給
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べき、只返合て、三人同心に一軍して、死出の山をも離ず御伴仕らんと云ければ、兼康(かねやす)然べしとて道より帰、足病居たる小太郎が許にゆき、前には柴垣を掻、後には大木を木楯にして敵を待処に、木曾左馬頭(さまのかみ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて跡見に付て尋けるに、兼康(かねやす)爰(ここ)に在とて、幾程助るべき事ならねど、小太郎を後に立て、我身は矢面に指顕て、指詰々々散々(さんざん)に射る。十三(有朋下P266)騎に手負せて馬九匹射殺し、矢種も又尽ければ、今は角とて腹を掻切て失にけり。小太郎兼通も引取(ひきとり)々々(ひきとり)射けるが、父が自害を見て、同枕に腹切て臥にけり。郎等宗俊も手の定り戦て、柴垣に上て、剛者の死ぬる見よやとて、太刀の切錚口に含み、逆に落貫かりてぞ死にける。木曾は妹尾父子が頸を切、備中国鷺森に懸て引退く。万寿庄に陣を取、後陣の勢を待儲て、是より平家を為(二)追討(一)屋島の発向をぞ議定しける。
S3311 依(二)行家謀叛(一)木曾上洛事
〔斯りける処に〕木曾西国(さいこく)下向之時、乳母子(めのとご)の樋口次郎兼光をば、京の守護に候へとて留置たりけるが、十一月二日早馬を立て、十郎蔵人殿こそ鼬のなき間の貂誇りとかやの様に、院のきり人して院宣を給り、木曾殿(きそどの)を誅奉べき、其聞候へと申下したりければ、木曾大に驚て平家を打捨て、夜を日に継で馳上る。
S3312 行家与(二)平氏(一)室山合戦事
十郎蔵人是を聞て、千騎(せんぎ)の勢にて指違て、丹波路より播磨国へ下る。平家は折節(をりふし)播磨の(有朋下P267)室に著給たりけるが、此事を聞て、門脇(かどわきの)新中納言父子、本三位中将重衡、一万(いちまん)余騎(よき)にて室山坂に陣を取て、十郎蔵人を相待けり。討手を五に分たり。一陣飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)景経五百(ごひやく)余騎(よき)、二陣越中次郎兵衛盛嗣、五百(ごひやく)余騎(よき)、三陣上総五郎兵衛忠清(ただきよ)五百(ごひやく)余騎(よき)、四陣伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)家長五百(ごひやく)余騎(よき)、五陣門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)
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八千(はつせん)余騎(よき)にて引へたり。十郎蔵人是をば不(レ)知、室山を打程に、飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)進出て、散々(さんざん)に暫戦て、景経の弓手の小黒の中へ引退く。源氏爰を蒐通て二陣に付。越中次郎兵衛道を切て防けれ共、戦兼て盛嗣妻手の林へ引籠る。源氏此を打破て三陣に付。上総五郎兵衛出塞つて戦けれ共、忠清(ただきよ)負色に成て北の麓へ被(二)追下(一)。源氏爰を破て四陣に付。伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)待受て戦けるが、家長も不(レ)叶して南の谷へ追落さる。源氏四陣を破て五陣に付。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)八千(はつせん)余騎(よき)にて引へ給へり。大勢支塞て戦ける中に、中納言の侍に、紀七、紀八、紀九郎とて、兄弟三人ありけるが、劣らぬ剛者精兵の手きゝ也けるが、死生不(レ)知に進出て、矢尻を揃て指詰引取散々(さんざん)に射ければ、面を向べき様なくして、十郎蔵人取て返して落ければ、五陣大勢時を造懸て責付たり。是を聞て四陣三陣二陣一陣、道を塞ぎ時を合て待処に、源氏四陣を破らんとす。是も矢尻をそろへて射ければ、十郎蔵人は敵にはかられにけりと心得(こころえ)て、其(有朋下P268)時は射にも及ばず切にも不(レ)能、しころを傾け冑の袖を真甲にあてて、弓を脇に挟み、太刀を肩に懸て、通れ者共よ若党とて、四陣を走せ抜て見たりければ、千騎(せんぎ)の勢三百騎は討れて七百騎になる。此勢にて三陣につく。是も散々(さんざん)に戦けれ共、思切て打破て通にけり。三百騎討れて四百騎(しひやくき)になる、此勢にて二陣につく。是も打破て出て見れば百騎成。此勢にて一陣に付て、今を限と死生不(レ)知に戦て、係散して出たれば、僅(わづか)に七八十騎(じつき)には過ざりけり。能登守教経、伊賀平内左衛門(へいないざゑもん)家長、田太左衛門生職、駿河兵衛光成、飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)景経を始として五百(ごひやく)余騎(よき)、南山の麓より、
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馬鼻を並て北へ向て蒐、陣の内より豊後右衛門頼弘、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠清(ただきよ)、矢野右馬允家村、同七郎兵衛高村を始として三百(さんびやく)余騎(よき)、東へ向て源氏を中に挟て蒐。源氏平家両陣乱合て、或弓手に懸並べて討捕もあり。或妻手に相合て討落もあり。四方に馳乱れて懸合懸組、馬足音矢叫の声、山を響し地を響す。源氏も平氏も何隙あり共見えざりけり。爰(ここ)に美作(みまさかの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)恵比入道守信、播磨国住人(ぢゆうにん)佐用党利季兼知を始として七百(しちひやく)余騎(よき)、西の山の鼻より時を造つて懸ければ、源氏三方より被(二)押囲(一)て、軍忽(たちまち)に破て東を指て落行けり。平家勝に乗て敵を懸背て、おもの射にぞ射取ける。備前守行家は、赤地錦の直垂に黒糸威(くろいとをどし)の鎧を著(有朋下P269)て、さび鴾毛の馬に乗、山田次郎重弘、三遠雁の直垂に紫威の鎧著て、黒馬にぞ乗たりける。三十(さんじふ)余騎(よき)を相具して、東の原を北へ向て引退く。景経、忠清(ただきよ)、盛嗣、家村等鞭を打轡を並て追攻めければ、伊賀国の住人(ぢゆうにん)つげの十郎有重、美濃国住人(ぢゆうにん)をりとの六郎重行を始として十一騎(じふいつき)、おり禦て戦ふ。有重は盛嗣に馳合て押ならべて組ければ、盛嗣立上りて、左の手にて有重が甲を引落し、髻を取て鞍の前輪に引付て頸を掻、太刀の切錚に貫て、馬を引へて歩ませ行。誠にゆゝしくぞ見えける。重行は景家(かげいへ)に組れて首とられにけり。此間に行家重弘は遁得て、和泉国へぞ越にける。つげの十郎有重、をりとの六郎重行を始として、百八十人頸切懸たり。懸ければ、備前、播磨両国の勇士等、皆平家に随付にけり。
S3313 木曾洛中狼藉事
〔去(さる)程(ほど)に〕源氏世を取たりとても、其ゆかりなからん者は指せる何の悦か有べきなれ共、人の心のうたてさ
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は、平家の方の弱きと聞ば悦、源氏の軍の勝と云をば興に入て悦合けり。さはあれ共、平家西国(さいこく)へ落下給(たまひ)て後は、世の騒に引れて、資雑財具東西に運隠し、京白川(有朋下P270)挿絵(有朋下P271)挿絵(有朋下P272)にても吟ければ、引失者も多、深き井の中に入、穴を掘りて埋などせしかば、打破朽損じて失しばかり也。流石(さすが)残物も有しぞかし。木曾五万余騎(よき)を引卒して上洛して、武士京中に充満て家々(いへいへ)に乱入、門には白旗を打立て家主を追出し、財宝を追捕す。只今(ただいま)食はんとて箸を立るをも奪取ければ、口を空して命生べき様なし。道を通る者をも衣装を剥れ、手に持肩に荷へる物をも抑へ取ければ、やす心なし。浅猿(あさまし)などは云計なし。可(レ)然大臣公卿の御所などこそさすが憚て狼藉をばせざりけれ。平家の代には、六波羅の一家と云しかば、只恐れをなすばかりにて有しに、加様に目を見合せて食物を箸奪取事やは有し、心憂事也と老たるも若も歎けり。加賀国住人(ぢゆうにん)井上次郎師方が申行に依て、木曾懸る悪事をするとぞ聞えし。只人民の煩のみに非、賀茂、八幡、稲荷、祇園より始て、神社仏閣、権門勢家の御領をも嫌はず、青田を刈取て秣に飼、堂塔卒都婆などを破取て薪としけり。狼藉不(レ)斜(なのめならず)、殆人倫の所為とも不(レ)覚、遥替劣したる源氏也とぞ沙汰しける。何者(なにもの)が所為にてか有けん、院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の四足の門に、札に書て立たりけり。
  あかさいてしろたなごひに取替て頭にしまく小入道哉 K178 
さしも乱れの世の中に、よくあとなき者も有けりとぞ申ける。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十四

P0818(有朋下P273)
榎巻 第三十四
S3401 木曾可(二)追討(一)由付木曾怠状挙(二)山門(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕法皇は、世上の狼藉人民の侘■(たせい)歎思召(おぼしめし)て、壱岐判官知康を以て、木曾が許へ被(二)仰下(一)けるは、武士洛中に充満て資財を追捕の間、人民歎々て不(二)安堵(一)由其聞あり、速に狼藉を可(レ)鎮なりと。知康木曾が許に行向て、院宣の趣申含けり。木曾御返事(おんへんじ)をば申さず、さしもの院宣の御使に、小袴に懸直垂、烏帽子(えぼし)に手綱うたせて、鬢もかゝずして申けることは、や殿、和主を鼓判官と京中の童部(わらんべ)までも申は、人に被(レ)打給たるか、又はられ給けるかと問ければ、判官苦笑てぞ帰ける。此知康は究竟のしてていの上手にて、鼓判官と異名に呼けるを、木曾聞きて角申けるとかや。遠国の夷といへ共情をしり礼儀をば弁るぞかし。木曾は竪固の田舎人の山賎にて、院宣をも事ともせず、散々(さんざん)に振舞れけば、平家には事の外に替劣して思召(おぼしめし)ける。後には山々寺々に乱入て、堂舎を壊仏像を破焼ければ、兎角云に及ばず、神社にも憚らず権門にも恐れず、狼藉いとゞ不(レ)留ければ、義仲(よしなか)を(有朋下P274)追討して都の狼藉を可(レ)被(レ)鎮由、知康申行けり。然べき御気色(おんきしよく)なりければ、人にも不(レ)被(二)仰合(一)して、ひしひしと事定りぬ。法皇は天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、寺の長吏八条宮を、法住寺(ほふぢゆうじ)の御所に招請じ御坐(おはしまし)て、延暦(えんりやく)園城の悪僧等を可(二)召進(一)由仰けり。公卿殿上人(てんじやうびと)も御催あり。又諸寺諸山の執行別当に仰て、兵を被(レ)召
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ければ、日比(ひごろ)木曾に深く契たりける源氏共にも、思々に参籠る。山門の大衆法皇の勅定とて、座主僧正(そうじやう)より被(二)催促(一)ければ、山上坂本の騒動不(レ)斜(なのめならず)。
木曾は北国所々の合戦に打勝て都へ上らんとせし時、越前国府より牒状をあげ衆徒を語てこそ、天台山に上り平家を責落たりしかば、いつまで憑まんと思ひけるに、惣じては洛中貴賎の歎、別而は山門庄園の煩なる間に、大衆院宣に随奉て木曾を可(レ)討と聞えければ、義仲(よしなか)怠状を以て山門に上り、其状に云、
山上貴所義仲(よしなか)謹解、
叡山(えいさんの)大衆、忝振(二)上神輿於山上(一)、猥構(二)城郭(じやうくわく)於東西(一)、更不(レ)開(二)修学之窓(一)、偏専(二)兵杖之営(一)、尋(二)其根源(一)者、義仲(よしなか)住(二)梟悪心(一)、可(レ)追(二)捕山上坂本(一)之由、有(二)風聞(一)云云、此条極僻事也、且満山三宝護法聖衆、可(下)令(レ)垂(二)知見(一)給(上)、自企(二)参洛(一)之日、宜(レ)仰(二)医王山王之加護(一)、顕憑(二)三塔三千之与力(一)、今何始可(レ)致(二)忽緒(一)哉、雖(レ)有(二)帰依之志(一)、全無(二)違背之思(一)(有朋下P275)者也、但於(二)京中(一)、搦(二)捕山僧(一)之由有(二)其聞(一)云云、此条深恐怖、号(二)山僧(一)好(二)狼藉(一)之輩在(レ)之、仍為(レ)糾(二)真偽(一)、粗尋承間、自然狼藉出来歟、更不(レ)満(レ)避(レ)儀、惣如(二)山上風聞(一)者、義仲(よしなか)卒(二)軍兵(一)、可(レ)令(二)登山(一)云云、如(二)洛中浮説(一)者、衆徒企(二)蜂起(一)、可(レ)被(二)下洛(一)、是偏天魔之所為歟、不(レ)可(レ)及(二)自他信用(一)、且以(二)此旨(一)、可(下)令(レ)披(二)露山上(一)給(上)之状如(レ)件。   
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  十一月十三日                   伊予守源(みなもとの)義仲(よしなか)上
進上 天台座主(てんだいざす)御房とぞ書たりける。
山門の衆徒これにも不(レ)鎮、いよ/\蜂起の由聞えけり。
S3402 法住寺(ほふぢゆうじ)城郭(じやうくわく)合戦事
若殿上人(てんじやうびと)諸大夫北面の者共などは、興ある事に思て、はや軍の出来ぞかしと申あへり。少しも物に心得(こころえ)たる人々は、こは浅増(あさましき)事哉とて歎給へり。院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を城郭(じやうくわく)に構て、官兵参集る。山門園城(をんじやう)の大衆、上下北面の輩の外は、物の用に立べき兵ありとも覚ず。堀川(ほりかは)商人に、向飛礫の印地、冠者原、乞食法師、加様の者共を被(レ)召たれば、合戦の様も争か可(レ)習、風吹ば転倒れぬべき者共也。危ぞ見えける。御方の笠注には、青松葉を甲の鉢(有朋下P276)にさし、冑の袖に付などして、ゆゝしく軽骨也。壱岐判官知康は御方の大将軍にて、赤地の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、脇楯ばかりに、廿四指たる征矢負、門外に床子に尻懸て軍の事行し、万の仏像並に大師の御影を集て、御所の四方の築地の腹に繙懸たり。征矢一筋抜出して、さらり/\と爪遣て、哀只今(ただいま)此矢にて、白痴が頸の骨を射貫ばやとぞ勇ける。凡事に於て嗚呼がましき事云ばかりなし。天子の賢御眼を以て、加様の者被(二)召仕(一)、天下の大事に及事よと申人も多し。
 < 昔周武王、殷紂を誅せんとせしに、冬の天なりければ、雲■(かくし)雪降事丈に余れり。武王危く見えけるに、五の車二の馬に乗る人、門外に来て皇を助て云、誅(レ)紂努怠事なかれと云て去ぬ。武王怪て人をして是を見るに、深雪の中に車馬の跡是なし。図知海神天の
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使として来れるなるべしと云て、終に紂を誅する事を得たり。漢高祖は、韓信が軍に囲れて危ありけるに、天俄(にはか)に霧を降して闇を成す。高祖希有にして逃事を得たり。皆是人の為に恵を成し、天の加護を蒙るゆゑ也。木曾人倫の為に煩を致し、仏神に於て憚を恐ざりければ、其咎難(レ)遁して、法皇の御憤(おんいきどほり)もいよ/\深く、知康が讒奏も日に随て軽からず。 >
木曾は蒙(二)勅勘(一)由聞て申けるは、平家非巡の官に昇、君をもなみし奉り臣をも流し失ふ、天下騒動して人民安事なし。而を義仲(よしなか)上洛して後、逆臣(有朋下P277)を攻落て君の御世になし奉る、是希代の奉公にあらずや。それに何の過怠ありてか可(レ)被(レ)誅、但東西道塞て京都へ物上らねば、餓疲て死ぬべし、命を生て君を守護し奉らん為に、兵粮米の料に、徳人共が持余たる米共を少々とらんに、何の苦〔事〕か有べき、武士と云は、殊に馬を労て敵をも責城をも落す、馬弱しては高名なし。されば其飲み物の料に、青田青麦を刈らんに僻事ならず。院宮々原の御所へも参らず、公卿殿上人(てんじやうびと)の家にも入ず、兵粮米とては支度し給はず、五万余騎(よき)の勢にてはあり、兵共(つはものども)が我命を全して君の御大事(おんだいじ)にあひ進せんとて、片辺に付、少々入取せんも悪からず、上下異といへ共、物くはでははたらかれず、馬牛強といへ共、はみ物なければ道ゆかず、されば御制止も折に依べし、院強に不(レ)可(二)咎給(一)、たゞし推するに、是は鼓めが讒奏と覚ゆ、其鼓に於ては、押寄て打破て捨べき物をとて■(はかみ)をして、急げ殿原々々と下知しつゝ、鎧小具足取出してひしめきければ、今井樋口諌申けるは、十善の君に向奉りて弓を引矢を放給はん事、神明豈ゆるし給はんや、只幾度も誤なき由を申させ給(たまひ)て、頸を延て参給へ、縦知康に御宿意あらば、
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本意を遂給はん事いと易き事也、私の意趣を以て院(ゐんの)御所(ごしよ)を責られん事、よく/\御計ひ有べしと教訓しけれ共、木曾は張魂の男にて、云たちぬる事をひるがへら(有朋下P278)ぬ者也。我年来多の軍をして、信濃国(しなののくに)おへあひの軍より始て、横田河原、礪波山、安宅、篠原、西国(さいこく)には、備前国福輪寺畷に至まで、一度も敵に後を見せず、十善帝王にて御座ども、甲をぬぎ弓をはづして、おめ/\と降人には参まじ、左右なく参て鼓めに頸打きられなば、悔とも益有まじ、義仲(よしなか)に於ては是ぞ最後の軍なる、よし/\殿原、直人を敵にせんよりは、国王を敵に取進せたらんこそ弓矢取身の面目よとて更不(レ)用けり。知康は軍の行事承て、甲をば著ず鎧計を著て、四天王の貌を絵に書て冑におし、左の手には突(レ)鉾、右の手に金剛鈴を振て、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の四面の築垣の上を、東西南北渡行て、時々はうれしや水とはやし舞などしければ、見人、知康には別の風情なし、よく天狗の付たるにこそと申けり。木曾が軍の吉例には、陣を七手に分ちつゝ、末は一手二手にも行合けり。一手は今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)三百(さんびやく)余騎(よき)にて、御所の東瓦坂の方へ搦手にまはる。一手は信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)を大将軍にて、八条が末の西表の門へ向ふ。一手は西河原に陣取、一手は木曾(きそ)義仲(よしなか)、四百(しひやく)余騎(よき)にて七条が末北門の内、大和大路、西門へぞ追手にとて向ける。折節(をりふし)勢もなかりければ、都合千余騎(よき)には過ざりけり。
十一月十九日辰時に矢合と聞ければ、大将軍知康騒■(ののしり)ける程に、西北両門より押寄てどと時を造る。今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、東(有朋下P279)の門より攻寄て、同時を合たり。城中(じやうちゆう)にも形のごとくの時を合す。軍兵門前
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近く責寄て見れば、諸の仏像を築地の腹に掛並たり。乞食法師が勧進所かとぞ笑ける。知康築地の上にて、如何に己等は夷の身として、忝(かたじけなく)も十善の君に向ひ進せて弓ひかんとは仕るぞ、宣旨をだにも読かくれば、王事靡(レ)塩して、枯たる草木猶華さきみなる、末代と云とも皇法豈むなしからんや、されば汝等(なんぢら)が放たん矢は、還て己が身に立べし、是より放たん矢は、征矢とがり矢をぬいて射とも、己等が鎧をとほさん事、紙を貫よりもあだなるべし、穴無慙や阿弥陀仏(あみだぶつ)々々々々(あみだぶつ)と云ければ、木曾大に笑て、さないはせそ、あの奴射殺せ。其奴にがすなとて散々(さんざん)に射ければ、知康は築地の上より引入ぬ。木曾時刻な廻しそ、火責にせよと下知しければ、軈御所の北の在家に火を懸たり。冬の空の習にて、北風烈く吹ければ、猛火御所にぞ懸ける。参籠たりける公卿殿上人(てんじやうびと)、僧俗の官兵共、肝魂も身にそはず、足萎手振ければ、うですくみて弓も引れず、指はたらかで太刀もぬかれず、たま/\長刀をとる者は、逆に突て足を貫て倒死。爰に転び彼に臥て、被(二)踏殺(一)蹴殺さる。西には大手責懸る、北には猛火燃来る、東には搦手待請たり。哀なる哉黒白二の鼠、木の根を嚼がごとく也。遁て行べき方ぞなき。去とては南面の門を開て我先に/\と迷出、(有朋下P280)八条が末へ西面の門をば、山法師の固たりけれ共、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)に被(レ)破ければ、蜘の子を散すが如く落失ぬ。金剛鈴の知康も、人より先に落けるが、余に周章(あわて)て金剛鈴を捨思もなくして、手に持ながらからり/\と鳴けるを、兵共(つはものども)が、あの鈴持たる男こそ事起しよ、逃すな射よ切れと云ければ、敵の方へ後様に抛遣て、いづちへか落けん不(レ)見けり。
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七条が末をば、摂津国(つのくに)源氏多田(ただの)蔵人、豊島冠者大田太郎等固たりけれ共、大将軍の知康落にければ、是も兎角免出て七条を西へ落行けり。兼て其辺の在地人に触ける事は、落武者の通らんを一人も漏さず討殺せ、是は院宣ぞと云たりければ、七条の大路の北南の家々(いへいへ)の上に楯突櫓掻て、落武者をば、木曾が方の者ぞと心得(こころえ)て散々(さんざん)に射、弓矢なき者は襲の石木を以て打ければ、如何に是は御方の兵ぞ、■(あやまち)すなと云けれ共、ひた打に打ければ多く打殺れけり。摂津国(つのくに)源氏等(げんじら)、郎等あまた射殺され打殺されて、我身は家の檐に立寄て物具(もののぐ)脱捨て、這々落てぞ罷ける。
S3403 明雲(めいうん)八条宮人々被(レ)討付信西相(二)明雲(めいうん)(一)事
天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)は、馬にめさんとし給(たま)ひけるを、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)、能引て放矢に、御腰(有朋下P281)の骨を射させて真逆に落給(たま)ひ、立もあがり給はざりけるを、親忠が郎等落重なつて御頸を取。寺の長吏八条宮も、根井小弥太が放矢に、左の御耳の根を、横首木に射させて倒給ふ。是をも落重なつて御首(おんくび)を取。哀と云も疎也。御室も此有様(ありさま)を御覧じて、如何すべきと仰有けるに、只御出候へと勧申ければ、御車に召て出させ給ふ。木曾是を見て、能引竪めて既(すで)に射奉らんとしけるを、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、何とて知進たりけるやらん、あれは御室の召れたる御車也、■(あやまり)し給ふなといへば、木曾弓を緩て、御室とは如何なる人ぞと問。兼平(かねひら)、僧の中の王にて、貴き人にてわたらせ給ふと答。木曾さては仏や、仏は何の料に軍の城(じやう)には籠給(たま)ひけるぞとは云ながら、穴貴々々と申て、楯(たての)六郎(ろくらう)を付て戦場を送出し奉。あぶなかりける御事也。
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法皇は御所に火懸ければ、御輿に召て南面の門より御出有り。武士責懸て御輿に矢を進せければ、御力者(おんりきしや)共は流石(さすが)命の惜ければ這々逃失ぬ。公卿殿上人(てんじやうびと)も被(二)立阻(一)て散々(さんざん)に成けるを、此彼に打伏られて、赤裸に剥取られ、御伴に可(レ)参様もなし。豊後少将宗長と云人、木蘭地の直垂、小袴にくゝりあげて、只一人御伴に候けり。少し強力の人にて御輿に離進せず。武士なほ弓を引矢を放ければ、宗長高声に、是は法皇の御渡なり、誤仕なと■(ののし)りければ、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)が弟に、八島四郎行綱と(有朋下P282)云者、馬より飛下て御車に移載進らせて、五条内裏(ごでうだいり)へ渡し入進らせけり。軈守護し奉る。宗長計ぞ御伴には候ける。御幸の有様(ありさま)推量るべし。
主上の御沙汰(ごさた)し進らする人もなし。御所は猛火と燃上る。庭上は兵乱入たり、如何すべき様もなかりけるに、七条侍従信清、紀伊守範光、只二人付進せて、汀(みぎは)にぞ有ける御船に乗せ奉り、池の中へさし出す。懸りければ、御舟へ矢の参る事降雨の如し。信清声を高して、是は内の渡らせ給なり、如何に角狼藉をば仕るぞと宣(のたまひ)ければ、木曾は国王を内と申進する事をば不(レ)知ける間、内とは己等が妻を云ぞと心得(こころえ)て、内とは妻が事にや、女とても所をや置べき、只皆射殺せと下知しければ、いとど矢をぞ進せける。信清心得(こころえ)て船底に主上を懐進せて、高声に、御船には国王の渡らせ給ふぞやと叫びけるにこそ武士も鎮たりけれ。去共猶船の中にかゝへ進せて、夜に入て坊城殿へ渡入進せつゝ、其より閑院殿へ行幸なる。儀式作法は中々不(レ)及(レ)申ぞありける。河内守光助、弟に源蔵人仲兼は南門を禦けるを、
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錦織冠者義広が落とて、主上も法皇も、皆此御所を出させ給(たまひ)て他所へ御幸成ぬ。今は何をか守護し給ふべきと云。さては誠にも誰をか守進すべきとて、河内守は東の山に引籠、山階へ出て醍醐路に懸て落にけり。源蔵人は法住寺(ほふぢゆうじ)に出て、南を指て落行けり。爰(ここ)に仲兼が郎等に、河内国(有朋下P283)住人(ぢゆうにん)、草香党に加賀房と云法師武者有。黒糸威(くろいとをどし)の鎧に葦毛の馬に乗たりけり。主の馬に押並て申けるは、此馬余に沛艾にして乗たまるべしとも覚ず、御馬に召替させ給(たま)ひなんやと歎云ければ、さもせよとて蔵人の乗りたりける栗毛の馬の下尾白かりけるに乗替て、主従八騎にて落程に、敵三十(さんじふ)余騎(よき)にて瓦坂に十文字に行合て、あますまじとて散々(さんざん)に射。仲兼は加賀坊が乗替たる荒馬の口強に乗、鞭を打て、主従三騎は敵の中を蒐破て通にけり。可(レ)然事と云ながら、加賀坊は敵に禦留られて、同僚共に五騎(ごき)の者共討れにけり。我馬にだに乗たりせば、今度の命は生なまし。仲兼は馬を早めて打程に、木幡にて、時の摂政(せつしやう)近衛殿(このゑどの)の御車に追付進せたり。摂政殿(せつしやうどの)は、あれは仲兼歟、御伴に人のなきに、御身近く候へと仰あり。宇治殿へ送入れ進せて河内国へ下けり。仲兼が家子に信濃次郎頼直と云者は、大勢に被(二)押阻(一)て打具せざりければ、蔵人が跡目を尋て、南を指て行程に、栗毛の馬の下尾白きが、所々に血付などして道の側にいなゝき居たり。頼直是を見て、加賀坊に乗替たるをば争か知べきなれば、穴心憂、蔵人殿は早討れ給(たま)ひにけり、一所にて如何にもならばやとこそ思しにとて、舎人男を相尋て、いかに此馬は何れの勢の中より走出たるぞ、主の敵なれば、同は其(その)勢(せい)に蒐合て、命を捨んと
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云ふ。舎人も乗替た(有朋下P284)るをば不(レ)知、馬の出所をば見たりければ、しか/゛\の勢と教ふ。頼直唯一人、三十(さんじふ)余騎(よき)の勢に返合て、是は源蔵人仲兼の家の子に、信濃次郎頼直と云者也、主を討せて命を可(レ)惜にあらずと云て、散々(さんざん)に戦けるが、敵四騎討捕て、我身も敵に討れにけり。播磨中将雅賢は、指る武勇の家にあらず、天性不用の人にて、面白事に被(レ)思ければ、兵杖を帯して参籠給へり。滋目結の直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の腹巻をぞ被(レ)著たりける。殿上の四面の下侍を出て、西の妻戸を押破て被(レ)出けるを、楯(たての)六郎(ろくらう)、頸骨を志て能引竪て兵と放つ。折烏帽子(をりえぼし)の上を射貫、其矢妻戸に篦中射籠たり。其時いと騒ず■て、我は播磨中将と云者ぞ、■(あやまり)すなと宣へば、楯(たての)六郎(ろくらう)馬より飛下て、生捕にして宿所に誡置。越前守信行は、布衣にくくりおろして座しけるが、共に具したりける侍も雑色も落失て一人もなし。二方よりは武士責(二)来御所(一)、御所は猛火燃覆へり。大方すべき様もなかりければ、大垣の有けるを、こえん/\とせられけるを、主は誰にてか有けん、後より前へ射とほして、空様に倒て焼給(たま)ひけるこそ無慙なれ。主水正近業は、清大外記頼業真人が子也。薄青の狩衣にくゝり上、葦毛の馬に乗て、七条河原を西へ馳けるを、今井(いまゐの)四郎(しらう)馳並て、妻手の脇を射たりければ、馬より逆に落にけり。狩衣の下に腹巻をぞ著たりける。こは思懸ざる挙動哉、明経道(有朋下P285)の博士也、兵具を帯する事然べからず、飾兵者不祥之器といへり、老子経をば見ざりけるやらんと、人々傾き申けり。
刑部卿(ぎやうぶきやう)三位頼輔は、迷出て七条河原を逃給(たま)ひけるを、何者(なにもの)にてか有けん、歩立なる男の太刀を抜て、
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あますまじとて追懸ければ、逃ば中々悪かりなんと思て、戯呼誰人にて御座ぞ、誤し給ふな、是は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位頼輔と申者にて侍ぞ、弓矢を取て武士に手向する者にあらず、只君の御伴に参るばかりと也と、閑々(しづしづ)と云たりければ、太刀をば鞘に納て表下剥取て、命ばかりは助り給ぬ。烏帽子(えぼし)さへ落失にければ、すべき方なくして、左手を以て前を拘へ、右手を以て本鳥をとらへ、裸にて野中の卒都婆の様にて立給へり。さしも浅増(あさまし)き最中に、人々皆腸を断。十一月十九日、如法朝の事なれば、さこそ河風さむかりけめ。此三位の兄公に、越前法橋章救と云人あり。彼法橋の中間法師、軍は如何成ぬらんとて立出て見廻ける程に、河原中に裸にて立たる者あり。何者(なにもの)ぞと思、立寄て見たれば三位にてぞ御座(おはしま)しける。穴浅増(あさまし)とは思ひながらもすべき様なければ、我著たりける薄黒染の衣の、脛高なるを脱て打懸たり。三位是を空に著て頬冠し給たりければ、衣短うして腰まはりを過ず。墨の衣の中より、顔ばかり指出して脛あらは也。中々直裸なりつるよりをかしかりければ、上下万人とよみ也。中間法師(有朋下P286)に相具して、兄公の法橋の宿所、六条油小路へ御座(おはしま)しけり。従者の法師も小袖一に白衣(はくえ)なり。主の三位も衣計にほうかぶりして空也。人目を立て指をさして笑ければ、中間法師もよしなき御伴哉、早急ぎ行給へかしと思けるに、三位はいそがれず、閑々(しづしづ)と歩て此小路はいとこと云ぞ、あの大道は何と云ぞ、此平門は誰か許ぞ、あの棟門は何者(なにもの)が家ぞなど問給ければ、中間法師、余りに寒く侍り、人目も見苦きに、急ぎ御宿所へ入せ給へと申せば、三位は寒しとはなにぞ、何事か見苦き、加様
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の乱たる世に作法あるまじ、よき次に京中修行せんと宣て、少し巧に造りたる家門、若は前栽造などしたる所へは立入給(たまひ)て、枯たる薄衰たる菊を詠たり。家の造様讃毀り給へば、余に不(レ)有有様(ありさま)也。乱たる折節(をりふし)なれば、家ごとに、何者(なにもの)ぞ無骨、罷出よと嗔ければ、三位はいや/\事かけじ、是は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位頼輔と云者の、世には隠なし、知らねば咎も道理なれ共、よし/\苦からじとぞ宣(のたまひ)けるにこそ中間法師はいとゞ悲く思けれ。実に此人一人に不(レ)限、をかしく浅猿(あさまし)き事多かりけり。寒き比なり、衣一も著たる者をば剥取、裸になしたれば、男も女も見苦く、心憂事のみ有。名をも惜み、恥をも知たる者は皆討れぬ。さなきは加様にのみ有て遁出けり。
京検非違使(けんびゐし)に源判官光長、今は伯耆守に成たりけり。其子の判官光恒、父子(有朋下P287)散々(さんざん)に戦て討れにけり。近江前司為清も討れぬ。其外甲斐なき命いきたる人々は、公卿も殿上人(てんじやうびと)も、都の外に逃隠れて、世のしづまるをぞ相待ける。
法住寺殿(ほふぢゆうじどの)はさしも執し思召(おぼしめし)、被(二)造琢(一)たりけれ共、一時が程に焼亡す。人々の家々(いへいへ)も、門を並軒を碾たりけれ共、一宇も残らず焼にけり。
廿日卯時に木曾六条河原に出て、昨日十九日に所(レ)切頸共、竹結渡して懸並べつゝ、千余騎(よき)の兵馬の鼻を東へ立、悦の時とて三箇度(さんがど)作り叫けり。洛中白河響き渡りければ、又如何なる事の出来ぬるぞやとて京中の貴賎騒あへり。懸並べたる頸三百四十、是を見て泣叫者多かりけり。定て父母妻子など
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にてこそありけめ。
越前守信行朝臣、近江前司為清、主水正近業などの首も其中にあり。寺の長吏八条宮の三綱に、大進法橋行清と云者、宮も討れさせ給ぬと聞て、濃墨染の衣につぼみ笠著て六条河原へ行、頸共見廻けるに、天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)僧正(そうじやう)の御首(おんくび)、八条宮の御頸、一所にぞ掛たりける。行清法橋目くれ心迷して衣の袖を顔にあて、忍の涙に咽びけり。さこそ悲かりけめと被(二)推量(一)て哀也。御頸にとりも付ばやと思ふ程也けれども、流石(さすが)人目も怖しく、泣々(なくなく)宿所に帰ぬ。夜深人定て後、又六条河原に行て、二の御首(おんくび)を盗取て東山に行、年比知たる墓の僧に誂て焼せつゝ、高野山に登り奥院に納承り、五輪(ごりん)卒都婆を彫立て、我身も(有朋下P288)高野山に登り、奥院に閉籠、二人の御得脱をぞ祈ける。亡魂如何に嬉しとおぼしけん。此二僧と申し奉るは、一寺一山の和尚(くわしやう)として、真言天台の奥■を極め、仏法(ぶつぽふ)王法の導師として、天長地久の御願(ごぐわん)を祈御座(おはしまし)き。悲哉邪見の毒箭忍辱の衣を破事を、哀哉放逸の利剣慈悲の粧を侵事を。遠く天竺を考るに、竜樹菩薩は弘経大士也。引正太子に被(レ)失、伽留陀夷は証果の尊者也。舎衛商人に被(レ)殺、神通第一目連、竹杖外道に被(レ)亡、満足十号の釈尊、提婆達多に打れ給けり。近く我朝を聞ば、修敏僧都(そうづ)は秘密上乗の行者なりしか共、弘法大師に調伏せられ、守屋大臣は朝家三公の重臣たりしか共、太子聖霊に誅罰せられ給き。此等皆宿罪怨憎の報とは云ながら、二宗の法燈忽(たちまち)に消(二)両寺(りやうじ)の智水(一)速に乾きぬるこそ悲けれと、上下涙を流しけり。
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後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)御登山の時、少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)御伴に候けり。前唐院の重宝、衆徒存知なかりけれ共、信西才覚吐などしたりけり。其次に明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、我にいかなる相か有と御尋(おんたづね)あり。信西、三千の貫首一天の明匠に御座(おはしま)す上は、子細不(レ)及(レ)申と答ふ。重たる仰に、我に兵杖の相ありやと尋給ければ、世俗の家を出て慈悲の室に入御座ぬ、災夭何の恐か有べきなれ共、兵杖の相ありやとの御詞怪く侍し、是即兵死の御相ならんと申たりけるが、はたして角成給(たま)ひけるこそ哀なれ。
或陰陽師の(有朋下P289)申けるは、一山の貫長顕密の法燈に御座(おはしま)す上は、僧家の棟梁いみじけれ共、御名こそ■(あやまり)付せ給ひたりけれ。日月の文字を並て下に雲を覆へり。月日は明に照べきを雲にさへらるゝ難あり。かゝればこの災にもあひ給ふにや。
或人の云けるは、延暦寺(えんりやくじ)止観院〈 中堂(ちゆうだう)と云 〉の傍に、前唐院の宝蔵に天台の一箱とて、白布にて裹たる方一尺計の櫃あり。其中に黄紙に書たる文一巻あり。其文に座主の次第を注したり。一生不犯の座主拝堂の日、宣旨を申て彼箱を開て其注文を見るに、我名字の所まで是を見て、奥をば見ずして、本の如く端へ巻返て被(二)納置習(一)と承る。先座主も、仁安二年二月十五日に当職に被(レ)補給ふ。生年五十三とかや。明雲(めいうん)と云御名字を披き見給(たまひ)て、衣の袖に涙を裹て出堂と承。根本(こんぼん)大師兼て注し置給へる名字なり。凡夫の是非すべき事にあらず、只宿罪こそ悲しけれ。されば一代の釈迦は頭痛背痛を遁給はず、五百の釈子は瑠璃王の害を不(レ)免りけり。
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S3404 法皇御歎並木曾縦逸付四十九人止(二)官職(一)事
故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の末の子に、宰相憲修と云人は、此世の有様(ありさま)合戦の次第心憂覚ける上、木曾、法皇をも五条(ごでう)の内裏に押籠進らせ、兵稠く守り進らすと聞給ければ、如何し(有朋下P290)て今一度君をも可(レ)奉(レ)見と思ける余に、俗をばよも入じ、出家したらば免さんずらんとて、俄(にはか)に髻をきり入道し、墨染の袈裟衣著て、五条内裏(ごでうだいり)へ参て、門守の者に歎仰られければ、僧なれば苦からじとて入奉る。御前に参たりければ、あれは如何と御尋(おんたづね)あり。しかじかと答申す。まめやかの志哉と感じ思召(おぼしめし)て、嬉にも御涙(おんなみだ)、つらきにも御涙(おんなみだ)、御身をはなれて不(レ)尽けり。宰相入道も涙に咽給へり。良有て法皇、今度の軍に、僧俗多く亡ぬと聞召つれば、誰々も■(おぼつか)なく思召(おぼしめし)つるに、汝別の事なかりける嬉さよ、さても又討れける輩、慥に誰々なるらんとて御涙(おんなみだ)を流させ給ふ。宰相入道も袖を絞て、明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、八条宮、信行、為清、近業等も討れけり、能盛、親盛、痛手負て万死一生と承、討れ給ふ人々の首は、六条河原に竿を渡し、懸並たりとこそ承候へと奏しければ、法皇穴無慙の事共哉、まのあたり斯憂目を見べしとは不(二)思召(おぼしめさ)(一)、中にも明雲(めいうん)僧正(そうじやう)は、非業の死にすべき者には非ず、朕如何にも成べかりけるに、はや替にけりとて、又竜顔より御涙(おんなみだ)を流し御座(おはしま)しけるこそ悲けれ。
木曾は法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の軍に打勝て、万事思さまなれば、今井樋口已下の兵共召集て、やゝ殿原、今は義仲(よしなか)何に成とも我心也、国王にならんとも院にならん共心なるべし、公卿殿上人(てんじやうびと)にならんと思はん人々は所望すべし、乞によりてすべしなどと(有朋下P291)云けるこそ浅猿(あさまし)けれ。先我身のならん様を思煩うたり。
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国王にならんとすれば少き童也、若く成事叶まじ、院にならんとすれば老法師也、今更入道すべきにも非ず、摂政(せつしやう)こそ年の程も事の様も成ぬべき者よ、今は摂政殿(せつしやうどの)といへ殿原と云、今井(いまゐの)四郎(しらう)よに悪く思て、摂政殿(せつしやうどの)と申進するは、大織冠の御末、藤原氏の人こそする事にて候へ、二条殿、九条殿、近衛殿(このゑどの)など申は彼藤原氏の御子孫也、殿は源氏の最中に御座、たやすくも左様の事宣て、春日大明神(かすがだいみやうじん)の罰蒙給ふなと云。さては何にか成べきと暫く案じて、よき事あり、院の御厩の別当に成て、思さまに馬取のらんも所得也とて、押て別当に成てけり。
廿一日に摂政(せつしやう)を奉(レ)止、基通の御事也。近衛殿(このゑどの)と申。其代に松殿基房御子に、権大納言(ごんだいなごん)師家の十三に成給(たまひ)けるを内大臣(ないだいじん)に奉(レ)成、軈摂政(せつしやう)の詔書を被(レ)下けり。折節(をりふし)大臣の闕なかりければ、後徳大寺(ごとくだいじの)左大将実定の内大臣(ないだいじん)にて座しけるを、暫く借て成給ふ。時人、昔こそかるの大臣は有しに、今もかるの大臣おはしけりとぞ笑ける。加様の事は大宮大相国(たいしやうこく)伊通こそ宣(のたま)ひしに、其人おはせね共又申人も有けり。木曾近衛殿(このゑどの)を奉(レ)止て師家をなし奉ける事は、松殿最愛の御女(おんむすめ)、みめ形いと厳く御座(おはしまし)けるを、女御后にもと御労有けるに、美人の由伝聞て、木曾推て御聟に成たりける故に、御兄公とて角計ひなし進せけるとぞ聞えし。浅増(あさまし)き(有朋下P292)事共也。
廿八日に三条中納言朝方卿以下、文官武官諸国の受領、都合四十九人官職を止む。其内に公卿五人とぞ聞えし。僧には権少僧都(ごんのせうそうづ)範玄、法勝寺(ほつしようじ)執行安能も所帯を被(二)没官(一)き。平家は四十二人を解官
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したりしに、木曾は四十九人の官職を止む。平家の悪行には越過せりとぞつぶやきける。
S3405 公朝時成関東下向付知康芸能事
東国北国の乱逆によつて、東八箇国の正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)、此三箇年進送なし。平家都を落ぬと聞給(たまひ)て、鎌倉より千人(せんにん)の兵士をさして済進せられけるに、舎弟(しやてい)に蒲御曹司範頼、九郎御曹司義経上洛と聞ゆ。京よりは北面に候ける橘内判官公朝、藤左衛門尉(さゑもんのじよう)時成二人、木曾が狼藉法住寺(ほふぢゆうじ)の合戦、御所の回禄申さん為に、夜を日に継で下向す。範頼義経兄弟共に、熱田大郡司の許に御座(おはしま)すと聞えて、橘内判官推参して此由を申。九郎御曹司宣(のたまひ)けるは、年貢運上の為に、鎌倉殿(かまくらどの)の使節として範頼義経上洛の処に、木曾が狼藉御所の焼失、浮説に依て承侍り、又関東より大勢攻上と聞て、木曾今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)に仰て、鈴鹿、不破二の関を固と聞る間、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に申合ずして、木曾が郎等と軍すべきに非、仍閭巷の説に付て、飛脚(有朋下P293)を鎌倉へ立候ぬ、其返事に随はん為に暫し爰(ここ)に逗留す、されば別の使有べからず、御辺(ごへん)馳下て巨細を可(レ)被(レ)申と宣(のたまひ)ければ、橘内判官熱田より鎌倉へ下向す。俄の事成ける上、法住寺(ほふぢゆうじ)の軍に下人共も逃失てなかりければ、子息に橘内所公茂とて、十五歳に成ける小冠者を具足して関東に下著す。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)見参して、木曾が狼藉法住寺殿(ほふぢゆうじどの)焼失、委是を申。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)大に驚申されけるは、木曾奇怪ならば、蒙(二)勅定(一)誅すべし、知康が申状に依て合戦の御結構(ごけつこう)、勿体なく覚、知康不(二)執申(一)ば御所の焼失あるべからず、斯る輩を仙洞に被(二)召仕(一)者、向後も僻事出来べし、壱岐判官が所行、返々不思議に候、木曾(きそ)義仲(よしなか)は重代の武者、当家の弓取也、北面の輩流石(さすが)不(レ)可(レ)及(二)敵対(一)歟、依(二)一旦我執(一)
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及(二)仙洞(一)回禄之条、驚承処也。所詮義仲(よしなか)に於ては追討時刻を不(レ)可(レ)廻と。壱岐判官は是をば角とも不(レ)知して、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に、法住寺(ほふぢゆうじ)の合戦の事申ん為に鎌倉へ下向。佐殿は是を聞給(たまひ)て、侍共に、知康が云いれん事不(レ)可(二)執次(一)と誡仰られければ、知康近習の侍と覚しき者、ことにうでくび把て、やゝ申候はん/\と彼此に云けれ共、誰も聞入る者なし。日数も積ければ、侍推参して候けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は簾中より見出して坐しけるが、子息左衛門督頼家の、未少く十万殿と申ける時招寄給(たまひ)て、あの知康は九重第一の手鼓と、一二との上手(有朋下P294)ときく。是にて鼓と一二と有べしといへとて、手鼓に、砂金十二両取副て奉り給たれば、十万殿是を持て、簾中より出て知康にたびて、一二と鼓と有べしと勧給ければ、知康畏て賜て、先鼓を取て、始には居ながら打けるが、後には跪き、直垂を肩脱て様々打て、結句は座を起て、十六間の侍を打廻て、柱の本ごとに無尽の手を踊し躍したり。宛転たり。腰を廻し肩を廻して打たりければ、女房男房心を澄し、落涙する者も多かりけり。其後又十二両の金を取て云、砂金は我朝の重宝也、輙争か玉に取べきと申て懐中する儘に、庭上に走下て、同程なる石を四とり持て、目より下にて、片手を以数百千の一二を突、左右の手にて数百万をつき、様々乱舞しておう/\音を挙て、よく一時突たりければ、其座に有ける大名小名、興に入てゑつぼの会也けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も見給(たまひ)て、誠鼓とひふとは名を得たる者と云に合て、其験ありけりとて感じ入給へり。鼓判官と呼れけるも理也。などひふ判官とはいはざりけるやらん、とまで
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宣(のたまひ)けり。其後始て被(二)見参(一)たり。知康は可(レ)然事に思て合戦の次第を語申けれ共、佐殿兼て聞給たりければ、此段には其気色不(レ)可(レ)然して、是非の返事なければ、知康見参はし奉たれ共、竿を呑すくみてぞ在ける。され共人は能の有べき事也。知康をば、さしも憤深思はれて勘当の身也けるに、鼓(有朋下P295)と一二と二の能に依て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)見参し給けるぞやさしく有難き。知康はさても有べきならねば、上洛せんとて稲村まで出たりけるが、能々案じて、都へ上たりとても、今は君に召仕へ奉らん事有難とて道より引返し、忍て鎌倉に居たりけるとかや。
S3406 範頼義経上洛付頼朝(よりとも)遣(二)山門牒状(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、木曾が狼藉奇怪也、早可(二)追討(一)とて、蒲御曹司範頼、九郎御曹司義経両人を大将軍として、数万騎の軍兵を被(二)差副(一)、範頼、義経上洛と披露す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、牒状を山門に送られて、木曾を可(二)追討(一)之由、旨趣を被(レ)載たり。其状に云、
牒 延暦寺(えんりやくじの)衙(が)  
 欲(下)被(三)且告(二)七社(しちしやの)明神(一)、且祈(二)三塔仏法(ぶつぽふ)(一)追(中)討謀叛賊徒義仲(よしなか)并与力輩(上)状
牒、遠尋(二)往昔(一)、近思(二)今来(一)、天地開闢以降、世途之間、依(二)仏神之鎮護(一)、天子治(レ)政、依(二)天子之敬(一)礼(二)、仏神増光(一)、云(二)仏神(一)、云(二)天子(一)、互奉(レ)守之故也、于(レ)茲云(二)源氏(一)、云(二)平氏(一)、以(二)両家之奉公(一)者、為(レ)鎮(二)海内之夷敵(一)、為(レ)討(二)国土之姦士(一)也、而当家親父之時、依(二)不慮之勧誘(一)、蒙(二)叛逆之勅罪(一)、其刻頼朝(よりとも)被(レ)宥(二)幼稚(一)、預(二)于配流(一)、然而平氏独(二)歩洛陽之棲(一)、恣究(二)(有朋下P296)爵官之位(一)、家之繁昌身之富貴(ふつき)、
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誇(二)両箇之朝恩(一)、執(二)一天之権威(一)、忽蔑(二)如法皇(一)、剰奉(レ)誅(二)親王(一)、因(レ)茲頼朝(よりとも)為(レ)君為(レ)世、為(レ)追(二)討凶徒(きようと)(一)、仰(二)年来之郎従(一)、起(二)東国之武士(一)、去治承以後、忝蒙(二)勅命(一)、欲(レ)励(二)勲功(一)之間、先以(二)山道北陸之余勢(一)、令(レ)襲(二)雲霞群集之逆党(一)之処、平氏早退散、落向(二)西海浪(一)、爰義仲(よしなか)等、称(二)朝敵追討(一)、而先申(二)賜勧賞(一)、次押(二)領所帯(一)、無(レ)程逐(二)平氏之跡(一)、専(二)逆意之企(一)、去十一月十九日、奉(レ)襲(二)一院(一)、焼(二)払仙洞(一)、追(二)討重臣(一)、剥(二)奪衣裳(一)、就(レ)中(なかんづく)当山座主、并(ならびに)御弟子宮、令(レ)入(二)其烈(一)云々、叛逆之甚、古今無(二)比類(一)者也、仍催(二)上東国之兵(一)、可(レ)追(二)討彼逆徒也、獲(二)其首(一)雖(レ)無(レ)疑、且祈(二)誓仏神之冥助(一)、且為(レ)乞(二)衆徒之与力(一)、殊欲(レ)被(二)引率(一)矣、仍牒送如(レ)件。以牒。    
 寿永二年十二月二十一日              前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源朝臣
とぞ被(レ)書たりける。三塔会合僉議(せんぎ)して、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に与す。
S3407 木曾擬(レ)与(二)平家(一)並維盛歎事
平家は室山、水島二箇度の合戦に打勝て、木曾追討の為に西国(さいこく)より責上ると聞えけり。左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)は、東西に詰立られて如何せんと案じけるが、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に始終中よかるまじ、今(有朋下P297)は平家と一に成て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)をせめんと思子細を、讃岐の屋島へ申たりければ、大臣殿は大に悦給(たま)ひけり。祈祈りの甲斐有て、帝運のかさねてひらけ、再び故郷に御幸あらん事目出ければ、申処本意に思召(おぼしめし)、御迎に可(レ)参と宣(のたまひ)けるを、新中納言の被(二)計申(一)けるは、都に帰上らん事は実に嬉しけれ共、木曾が為に花洛を被(二)攻落(一)、今又義仲(よしなか)と一にならん事不(レ)可(レ)然、頼朝(よりとも)が存じ思はん処恥かしかるべし、弓矢取身は後の代まで
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も名こそ惜けれ、十善の君角て御渡あれば、冑を脱弓を平めて降人に参り、帝王を守護し奉るべしと仰あるべしとこそ存ずれと宣(のたまひ)ければ、最此儀然べしとて、其定に返事せられけり。木曾是を聞て、降人とは何事ぞ、武士の身と生て、手を合膝をかゞめて敵に向はん事、身の恥家の疵なり、昔より源平力を並て士卒勢を諍、今更平家に降を不(レ)可(レ)乞、頼朝(よりとも)返りきかん事も後代の人の口も、面目なしとて不(レ)降けり。
木曾都へ打入て後は、在々所々を追捕して、貴賎上下安堵せず、神領寺領を押領して、国衙(こくが)庄園牢籠せり。はては法住寺(ほふぢゆうじ)の御所を焼亡して、法皇を押籠奉り、高僧侍臣を討害し、公卿殿上人(てんじやうびと)を誡置、四十九人の官職を止めなんと、平家伝聞て、寄合々々口々に被(レ)申けるは、君も臣も山門も南都も、此一門を背て源氏の世になしたれども、人の歎はいやまし/\なりと嬉事におぼして、興に入て(有朋下P298)ぞ笑勇給へる。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛は、月日の過行儘には、明も晩も故郷のみ恋く思ければ、仮初なる人をも語ひ給はず、与三兵衛重景、石童丸など御傍近く臥て、さても此人々は如何なる形勢(ありさま)にて、いかにしてか御座らん、誰かは哀れ糸惜共云らん、我身の置き所だにあらじに、少き者共をさへ引具て、いか計の事思ふらん、振捨て出し心づよさも去事にて、急迎へとらじとすかし置し事も程経れば、如何に恨めしく思ふらんなんど宣(のたまひ)つゞけて、御涙(おんなみだ)せきあへず流し給けるぞ糸惜き。北方は此有様(ありさま)伝聞給(たまひ)て、只いかならん人をも語ひ給(たま)ひ、旅の心をも慰め給へかし、さりとても愚なるべきかは、心苦くこそとて、
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常は引かづき臥給ふ。尽せぬ物とては是も御涙(おんなみだ)ばかりなり。
S3408 木曾内裏守護付光武誅(二)王莽(わうまう)(一)事
木曾は五条内裏(ごでうだいり)に候て、稠く法皇を守護し奉る間、上下恐を成て参寄人なし。合戦の時の虜の人人も誡置たりければ、只今(ただいま)いかなる目にかあはんと肝魂を消す。此木曾押て松殿の御聟に成たりければ、松殿いみじとは思召(おぼしめ)さゞりけれ共、法皇の御事御痛敷思召(おぼしめし)、内々義仲(よしなか)を被(レ)召て、角は有まじき事ぞ、人臣として朝家を我意にし、悪事を以て政道をあ(有朋下P299)ざむき奉る事、昔より今に至るまでなき事也。適野心を挟輩、忽(たちまち)に亡ずと云事なし、但平家の故清盛(きよもり)入道は、深く仏法(ぶつぽふ)を敬ひ神明に帰し、希代の大善根共余多(あまた)修したりしかばこそ一天四海を掌に把て二十余年までも持ちたりしか、大果報の者也き。上古にも類少く、末代にもためし難(レ)有し、其猶法皇を悩し奉公家を蔑にせしかば、天の責を蒙て速に亡にき、子孫に至まで都に跡を留ず、西海の浪に漂ふ、滅亡今明にあり、畏ても恐べし。国王と申は未存知なしや、忝(かたじけなく)も天神七代地神五代の御末を継御座(おはしまし)て、百王今に盛也、天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)以下、六十余州の大小神祇、日夜に是を守護し奉り、諸寺諸山の顕密の僧侶、朝夕に専祈念し奉。貞任宗任が、遥奥州(あうしう)にして朝威を背し、法性房の祈誓に依終に降伏せられ、北野天神の火雷火神と顕御座(おはしまし)て恨をなし給しも、全く金体には近付給はざりき、皆是神明の擁護仏法(ぶつぽふ)の効験也、されば君を背奉り、叡慮を動し奉る悪行をのみ振舞ては、終によかるべし共覚えず、急宥め進すべき也など、片山里の荒武士の、耳近に聞知様に書口説、こま/゛\と被(レ)仰たりければ、木曾も流石(さすが)木石ならねば
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理と思て、誡置たる人々をもゆるし、騒しき事をも止てけり。
十二月十日、法皇は五条内裏(ごでうだいり)より、大善大夫業忠が六条西洞院(にしのとうゐん)の家に御幸なる。軈其(その)日(ひ)より、歳末の御懺法(有朋下P300)被(二)始行(一)けり。松殿の御教訓の末にやと覚たり。
十三日に木曾除目行て、思様に官共成けり。我身は左馬頭(さまのかみ)兼伊予守なりし上に、院の御厩別当に成て、丹波国五箇の庄知行し、畿内近国の庄園、院宮々原の御領、神田仏田をいはず、思ふさまに管領して、憚なく振舞けり。
昔王莽(わうまう)と云し者、臣下の身として漢平帝を討、位を奪十八年を持けり。四海を我儘に行て、人の歎を知ざりければ、人民多く憂へけり。高祖九代の孫、字文叔と云人王莽(わうまう)を亡して終に位に昇にけり。後漢の光武皇帝とは此事也。
木曾冠者(きそのくわんじや)、位を取までこそなけれ共、平家都を落て後、天下を我意にする事彼王莽(わうまう)に異ならず、只今(ただいま)亡なんと危ぶみながら、今年も既(すで)に暮にけり。東は近江、西は摂津国(つのくに)、東西の乱逆道塞て、公の御調も奉らず、年貢所当も上らざりければ、京中の貴賎上下、小魚の泡にいきつくが如く、旱上られて、今日歟明日歟の命也とぞ歎悲ける。
S3409 京屋島朝拝無(レ)之付義仲(よしなか)将軍宣事
 < 寿永三年四月十六日(じふろくにち)、改元とあつて云(二)元暦(一)。>
元暦元年正月一日、院は去年の十二月十日、五条内裏(ごでうだいり)より、六条西の洞院(とうゐん)の業忠が家に御座(おはしまし)有けれ共、
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彼家板葺の門、三間の寝殿、階隠(有朋下P301)なかりければ、礼儀行はれ難して、拝礼も被(レ)止けり、又朝拝もなし。節会計ぞ被(レ)行ける。院の拝礼なければ、殿下の拝礼も不(レ)被(レ)行。
平家は讃岐国屋島の礒に春を迎て、年の始成けれ共、元日元三の儀式事宜からず、主上御座(おはしまし)けれ共四方拝もなし、朝拝もなし小朝拝もなし、節会も不(レ)被(レ)行、氷の様も参らず、■(はらか)も不(レ)奏。世は乱たりしかども、都にては角はなかりし物をと哀也。青陽の春も来しかば、花の朝月の夜、詩歌管絃、鞠小弓、扇合、絵合、さま/゛\の後遊覧召出て、男女さしつどひては只泣より外の事ぞなき。同六日義仲(よしなか)正五位下に叙す、官位既(すで)に頼朝(よりとも)にすゝむ。是凶害の源、招(レ)乱のはしにやと後おそろし。
同九日平氏和親の由を申請、依(レ)之(これによつて)仙洞より所存を可(レ)由之由、義仲(よしなか)が許へ被(二)仰遣(一)けり。此事義仲(よしなか)許容せざりけるにや。
十日木曾、平氏為(二)追討(一)西国(さいこく)へ下らんとて門出すと聞えし程に、東国より蒲御曹司、九郎御曹司両人を大将軍として、数万騎の軍兵を差上すと兼ては聞しか共、さしもやと思けるに、範頼義経等既(すで)に美濃国に著、著到勢汰して、不破関にて二手に分て、宇治、勢多より可(二)攻入(一)と聞えければ、義仲(よしなか)西国(さいこく)の止(二)発向(一)。又平家、四国西国(さいこく)の軍兵を卒して、福原まで責上て、既(すで)に都へ打入らんとする由聞えければ、木曾安堵の思ぞなかりける。
同(おなじき)十一日左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)、可(レ)為(二)征夷大将軍(一)之由(有朋下P302)被(二)宣下(一)。是は木曾ひたすら荒夷にて、礼儀を乱り法度を
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失て、心の儘に振舞ければ、必洛中にして僻事出来なん。されば東国の武士替入らんまでの御計也けり。是をば木曾争か知べきなれば、只今(ただいま)亡んずる義仲(よしなか)が、大に畏り喜びけるこそ哀なれ。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)備前守行家、河内国に住して在(二)叛心(一)之由聞えければ、木曾彼を追討の為に樋口兼光を差遣す。其(その)勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)也。同(おなじき)十九日に、石川城に寄て合戦す。蔵人判官家光、為(二)兼光(一)被(二)討捕(一)にけり。行家軍敗て逃落て、高野にぞ籠ける。虜三十人、切て懸る頸七十人とぞ聞えし。
S3410 東国兵馬汰並佐々木賜(二)生■(いけずきを)(一)付象王太子事
折節(をりふし)関東にはと披露しけるは、院は去年十一月一日西国(さいこく)へ御門出と聞えけり。是は木曾(きそ)義仲(よしなか)、都にて狼藉不(レ)斜(なのめならず)、人民牢籠して貴賎安事なし。平家は官位高く、太政大臣(だいじやうだいじん)左右の大将にあがり、兼官兼職して卿上(けいしやう)雲客(うんかく)に列りき。只奢れるばかりにこそ有しか共、流石(さすが)君臣上下の誼を箴し、礼節仁義の法を篤くせりき、無下に替劣したる源氏なりけり、旧臣ゆかしとて思召(おぼしめし)立とぞ聞ける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)大に驚給へり。木曾と平家と一になり、九国四国、南海西海与力同心せば、天下を静めん事たやすかるべからず、先義仲(よしなか)を追討して逆鱗(有朋下P303)をやすめ奉り、其後平家を亡すべしとて、六万余騎(よき)を差上す。鎌倉殿(かまくらどの)の侍所にて評定あり。合戦の習、敵に向城を落すは案の内なり、大河を前にあて兵を落さん事、ゆゆしき大事也、都に近き近江国には勢多の橋、其流の末に、山城国には宇治橋、二の難所あり、定て橋は引ぬらん、河は底深して流荒し、なべての馬の渡すべき川に非ず、其上河中に乱杭逆〔茂〕木打、水の底に大綱張流かけぬらん、よき馬共を支度して、宇治勢多を渡して高名あるべしとぞ被(レ)議ける。懸りければ、大名小名、党も高家も面々に其用意あり。上総国住人(ぢゆうにん)、介八郎広経は礒と云馬を引せて
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参たり。下総国住人(ぢゆうにん)千葉介経胤は、薄桜と云馬を引く。武蔵国住人(ぢゆうにん)平山武者所季重は、目糟馬とて引く。同国渋谷庄司重国は、子師丸とて引たり。畠山庄司次郎重忠は、秩父鹿毛、大黒人、妻高山葦毛とて引たり。相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)三浦和田小太郎義盛は、鴨の上毛、白浪とて引たり。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)北条四郎時政は、荒礒とて引たり。熊谷二郎直実は、権太栗毛とて引たり。大将軍九郎御曹司は、薄墨、青海波とて被(レ)引たり。同蒲御曹司は、一霞、月輪とて被(レ)引たり。是等は皆曲進退の逸物、六鈴沛艾の駿馬、強き事は獅子象の如く、早き事は吹風の如し。されば越後越中の境なる姫早川と利根川(とねがは)と、駿河国には、富士川と天中、大井川なんど云ふ大河を渡せ(有朋下P304)し馬共也。まして宇治、勢多を思ふに物の数にやとぞ各勇申ける。此中に佐々木、梶原、馬に事をぞ闕たりける。折節(をりふし)秘蔵御馬三匹也、生■(いけずき)、磨墨、若白毛とぞ申ける。陸奥国三戸立の馬、秀衡が子に元能冠者が進たる也。太逞が、尾髪あくまで足たり。此馬鼻強して人を釣ければ、異名には町君と被(レ)付たり。生■(いけずき)とは黒栗毛の馬、高さ八寸、太く逞が尾の前ちと白かりけり。当時五歳、猶もいでくべき馬也。是も陸奥国七戸立の馬、鹿笛を金焼にあてたれば少も紛べくもなし。馬をも人をも食ければ生■(いけずき)と名たり。梶原源太景季、佐殿の御前に参て、君も御存知ある御事に候へ共、弓矢取身の敵に向ふ習は、能馬に過たる事なし、健馬に乗ぬれば、大河をも渡し巌石をも落し、蒐も引もたやすかるべし、力は樊■(はんくわい)、張良が如くつよく、心は将門(まさかど)、純友が如くに猛けれ共、乗たる馬弱ければ自然の犬死をもし、永き恥をも見事に侍り、されば生■(いけずき)を下し
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預て、今度宇治河(うぢがは)の先陣つとめて木曾殿(きそどの)を傾奉り候ばやと、傍若無人に憚所なく申たり。佐殿良案じ給けるは、我土肥の杉山に七人隠居たりしに、梶原に被(レ)助て今世に出る事も、難(レ)忘思なり、賜ばやと思召(おぼしめし)けるが、又案じて、蒲冠者も人してこそ所望申つれ、景季が推参の所望頗狼藉也、又是程の大事に、馬に事闕たりと申を、たばでも如何有べきと、左右を案じて宣(のたまひ)(有朋下P305)けるは、景季慥承れ、此馬をば大名小名八箇国の者共、内外につけて所望ありき、就(レ)中(なかんづく)大将軍に差遣す蒲冠者が、ひらに罷預んと云き、然(しかれども)而源平の合戦未(二)落居(一)、木曾追討の為に東国の軍兵大旨上洛す、知ぬ、平家と木曾と一に成て大なる騒と成なば、頼朝(よりとも)も打上らん時は馬なくてもいかゞはせん、其時の料にと思て誰々にも不(レ)給き、是は生■(いけずき)にも相劣らずとて磨墨をたびにけり。景季は生■(いけずき)をこそ給らね共、磨墨誠に逸物也ければ、咲を含み畏て罷出。黒漆の鞍を置、舎人余多(あまた)付て、気色してこそ引せたれ。
明日の辰の始に、近江国住人(ぢゆうにん)佐々木四郎高綱、佐殿の館に早参して、所存ある体と覚たり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)宣(のたまひ)けるは、如何御辺(ごへん)は此間は近江に在国と聞ば、志あらば、軍兵上洛に付て京へぞ上給はんずらんと相存るに、いつ下向ぞと問給。高綱申けるは、其事に侍り、去年十月の頃より江州(がうしう)佐々木庄に居住の処に、かゝる騒動と承れば、誠に近きに付て京へこそ打上るべきに、軍の習、命を君に奉て戦場に罷出る事なれば、再帰参すべしと存べきに非、今一度見参にも入御暇をも申さん為、又いづくの討手に向へ共、慥の仰をも蒙らん料に、正月五日の卯刻に、佐々木の館を打出て、三箇日の程に、
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鎌倉に下著し侍り、且は下向せずして、自由の京上も其恐ありと存、旁の所存によりて罷下れり、志は加様に(有朋下P306)はこび奉りたれ共、一匹持侍りつる馬は馳損じぬ、親き者と云知音と申人々、面々に打立間、誰に馬一匹をも尋乞べしとも覚ねば、如何仕侍るべきと心労して、大名小名既(すで)に上りぬれ共、今までは角て候也と申。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、聞敢ず、下向今に始ざる志神妙(しんべう)々々(しんべう)、抑木曾朝威を軽くし奉るに依て、追討の為に軍兵を指上す、宇治勢多の橋定めて引て侍らん、宇治川(うぢがは)の先陣被(レ)渡なんやと有ければ、高綱申けるは、近江生立の者にて候へば、間近き宇治川(うぢがは)、深さ浅さ淵瀬までも委存知仕て候、彼手に向候はば、宇治川(うぢがは)の先陣は高綱と申す。佐殿は、去治承四年八月下旬の比、石橋の合戦に大場三郎に被(二)追落(一)、遁難かりしに、殿原兄弟返合て、禦矢射て頼朝(よりとも)が命を被(レ)助き、其時は日本(につぽん)半分とこそ思しかども、世未(二)落居(一)指たる事なし、相構て今度宇治河(うぢがは)の先陣勤て高名し給へ、必可(二)相計(一)也、頼朝(よりとも)が随分秘蔵の生■(いけずき)、御辺(ごへん)に奉(レ)預と直に蒙(レ)仰。高綱は今生の大御恩、希代の面目家門勝事、何事か可(レ)如(レ)之と思ければ、畏入て馬を給(たまはつ)ていでんとする処に、佐殿宣(のたまひ)けるは、此馬所望の人あまた有つる中に、舎弟(しやてい)蒲冠者も申き、殊梶原源太直参して真平に申つれ共、若の事あらば乗て出んずればとてたばざりき、其旨を被(レ)存よと仰ければ、高綱聊もそゞろかず、座席になほりて畏り、宇治川(うぢがは)の先陣勿論に候、高綱若軍(有朋下P307)以前に死ぬと聞召さば、先陣は早人に被(レ)渡けりと可(レ)被(二)思召(一)(おぼしめさるべし)、軍場にて存命と聞召ば、宇治河(うぢがは)の先陣高綱渡しけりと思召(おぼしめさ)れよ、もし他人に先を蒐られて本意を遂ずば、敵は嫌
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まじ、河端にても河中にても、引組で落勝負を決すべしと申定て出にけり。由井の浜に打出て聞ければ、大勢は大底昨日夜部に鎌倉を出たりと云。さては駿河国浮島原の辺にては追付なんと思ひて、十七騎にて打て殿原々々とて、稲村、腰越、片瀬川、砥上原、八松原馳過て、相模河を打渡、大磯、小磯、逆和宿、湯本、足柄越過て、引懸々々打程に、其(その)日(ひ)は二日路を一日路に著、河宿に著にけり。尋れば案に違はず、大勢駿河国浮島原に引たりと云。正月十日余(あまり)の事なれば、富士のすそのの雪汁に、富士の河水増りつゝ、東西の岸を浸したれば、輙く渡すべき様なし。九郎御曹司、兵共(つはものども)に此川の水増りたり、如何すべきと宣へば、口々に申様は、宇治勢多を渡さん故実の為にも、先此河をこそ渡て可(レ)見なれ、されば馬筏を組で渡し候はばやと申。蒲御曹司宣(のたまひ)けるは、軍の談議をば土肥次郎に申合べしとこそ佐殿は仰有りしかば、彼をめせとて被(レ)召たり。如何に土肥殿、此河の水出たるをば何とかすべき、宇治勢多ならしに、馬筏を組で渡て心見ばやと申者多し、被(二)相計(一)よと仰ければ、実平畏て申けるは、敵をだに目に懸たらば、馬筏にても急渡す(有朋下P308)べし、此河は渚(なぎさ)近して、水の早き事征矢をつくよりも猶早し、一引も被(二)引落(一)なば馬も人も不(レ)可(レ)助、佐殿も、木曾定て宇治勢多の橋は引たるらん、其川を可(レ)渡とこそ御評定は有しか、富士川の深き流に、馬をも人をも失ては何詮かは在べき、敵に逢てこそ命をば捨め、徒に水に流て身を失べきにあらず、此は雪汁の水なれば、急とへる事不(レ)可(レ)有、明日水に心得(こころえ)たらん者を以て、瀬踏せさせて閑かに渡すべきなりと申せば、此義可(レ)然とて、大勢雲霞
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の如くに其辺に下居たり。梶原源太は、磨墨に増る馬もや有らんと思ひて、大名の中を廻て馬共を見に、九郎御曹司の青海波七寸(しちすん)、蒲御曹司の月輪七寸(しちすん)二分、和田小太郎の白波七寸(しちすん)五分、畠山の秩父鹿毛七寸(しちすん)八分、此等を始として大名、小名五十匹、三十匹、五匹一匹引せたり。され共磨墨に倍る馬なし。源太大きに悦、一重あがりたる所に居て、引廻々々愛し居たり。余(あまり)の嬉しさに、人が嘆よかし引出物せんと思処に、村山党の大将に金子十郎家忠、折節(をりふし)爰を通りけり。招寄て、如何に金子殿、此馬何法の馬にて候ぞ、御覧ぜよと云。金子は元より勇狂じたる男也、打見て誑れ笑。これは佐殿の磨墨にや、御辺(ごへん)の親父梶原殿、御内には一人にて御座、されば御辺(ごへん)此御馬賜り給にけり、此程の馬をば能とも悪きとも中々詞を加る事沙汰の外に侍り、只時の■(きら)、徐の人目こそ(有朋下P309)浦山敷(うらやましく)候へと嘆たりければ、源太大に悦て、小桜を黄に返したる鎧に、太刀一振取副て引く。源太は舎人三人付て、靡よはたけよ飼労れとて、他事なく是を愛しけり。佐々木四郎高綱は、生■(いけずき)に黄覆輪の鞍置、白き轡、二引両の手綱結て、舎人六人付て浮島原を西へ向てぞ引せたる。原中の宿を過、平々たる春野なれば生■(いけずき)不(レ)斜(なのめならず)勇み、身振して三声(みこゑ)四声啼たり。鐘をつくが如く也ければ、遥二里を隔たる田子の浦へぞ響たる。畠山是を聞て、こはいかに、生■(いけずき)が鳴音のするは、誰人の給(たまひ)て将来るやらんと云。半沢六郎申けるは、是程の大勢の中に、数千匹逸物共多く侍、何の馬にてか侍らん、大様の御事と覚候、其上生■(いけずき)は、蒲梶原殿などの被(レ)申けれ共御免なしと承る、さては誰人か給べきといへば、人々げ
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にもと思ひて、あざ咲てぞ有ける。畠山重忠は、一度も聞損ずまじ、人にたびたばずは不(レ)知、一定生■(いけずき)が音也、只今(ただいま)思合よと云もはてねば、生■(いけずき)は東の方より、舎人六人ひきもためず、白泡かませて出来たり。さてこそ畠山をば、神に通じたるやらんとも申けれ。源太は磨墨ほめ愛して居たる処を、舎人共生■(いけずき)引てぞ通ける。ゆゝしく見えつる磨墨も、勝る生■(いけずき)に逢たれば、無下にうててぞ見えたりける。源太是を見て、蒲御曹司の賜歟、九郎御曹司の給歟、よき次とて院へ進せらるゝかと思て、郎等を(有朋下P310)以て、其御馬は何方へ参り、如何なる人の馬ぞと問す。舎人是は佐々木殿の御馬と申す。佐々木殿とは誰ぞ、三郎殿か四郎殿かと問。四郎殿の御馬と答。源太此事をきゝ、口惜事にこそ、景季再三所望申つるに御免なき馬を、高綱にたびける事の遺恨さよ、佐々木にたぶ程ならば、先の所望に付て景季に給べし、景季に給はぬ程ならば、後の所望也、高綱に給べからず、大将軍たる人の、源平の大事を前に拘へて、悪も偏頗し給へり、是程の御気色(おんきしよく)にてはいかでも有なん、千世を栄べき世中に非ず、思へば電光朝露の如く也、いつ死なんも同事、日比(ひごろ)佐々木に宿意なし、時に取て日の敵也、高綱さる剛者なれば、無(二)左右(一)よもせられじ、互に引組で落重り、腰の刀にて指違、恥ある侍二人失、鎌倉殿(かまくらどの)に大損とらせ奉らん、高綱景季二人は、一人当千(いちにんたうぜん)の兵をやと思て相待処に、佐々木争か角とは知べきなれば、十七騎にてさしくつろげて歩せ来たる。源太は最後と思ひつゝ磨墨に乗、太刀も持ず、刀ばかりぞ指たりける。遥(はるか)に佐々木に目を懸て真横に歩せ塞(二)高綱(一)。是を見て、郎等共(らうどうども)に申けるは、
P0849
爰(ここ)に引へたるは梶原源太と覚えたり、あの景気を見に、馬の立様人を待様、直事とは覚えず、生■(いけずき)ゆゑに、一定高綱に組まんと思意趣あるらん、鎌倉殿(かまくらどの)の意せよとは此事にこそ、組で落るものならば、指違てぞ死なんずらん、但梶原佐々木、(有朋下P311)公の馬を論じて命をすてん事、人目実事面目なし、陳じてみんに不(レ)叶して、梶原我に組ならば、心あれとさゝやきて、打通んとする処に、源太打並て云けるは、如何に佐々木殿、遥(はるか)に不(レ)奉(二)見参(一)、あの御馬は上より給(たまひ)てかと云懸て押並ぶ。高綱にこと打咲て申様、実に久不(レ)奉(二)見参(一)、去年十月の比より近江に侍りつるが、近きに付て京へ打べかりつれ共、暇申さでは其恐有り、又何方へ向へとの仰を蒙らんと存て、三日に鎌倉へ馳下らんと打程に、只一匹持たりつる馬は疲損じぬ、さては乗替なし、如何すべきと思煩、御厩の馬一匹申預らばやと存て、内内伺きけば、磨墨は御辺(ごへん)の賜はらせ給けり、生■(いけずき)は御辺(ごへん)も蒲殿も再三御所望有けれ共、御許なしと承る、さて高綱などが給らん事難(レ)叶、中々申さんも尾籠也と存て心労せし程に、由井浜の勢汰にもはづれぬ、さて又馬なしとて留べき事にも非ず、如何せんと案ずる程に、抑是は君の御大事(おんだいじ)也、後の御勘当は左右もあれ、盗て乗んと思て、御厩小平に心を入盗出して、夜にまぎれ酒匂の宿まで遣して、此暁引せたり、只今(ただいま)にや御使走て、不思議也と云御気色(おんきしよく)にや預らんと閑心なし、若御勘当もあらん時は、可(レ)然様に見参に入給へとぞ陳じたる。源太誠と心得(こころえ)て、げに/\佐々木殿、輙も盗出し給へり、此定ならば景季も盗べかりけり、正直にては能馬はまうく(有朋下P312)まじかりけりと狂言して、打連てこそ上りけれ。
P0850
 < 譬へば中天竺に象王太子と云し人、百の象を飼給けるが、異国の軍の起けるに、彼をせめんとて、九十九匹を官兵に分ち給、今一匹をば秘蔵して置れたりけるを、八封と云召人の有けるが、此有様(ありさま)を見て、我身はとても可(レ)被(レ)切者也、されば太子の秘蔵の象に乗、敵の陣に入り戦はんに、死たらば後世の物語(ものがたり)、敵を亡したらば君の為に忠臣たるべし、後日に陳申さんと思て、窃に盗出し、朝敵を亡して還て勧賞を蒙る事ありといへり。高綱が陣答は、彼ためしにこそ似たりけれ。>


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十五

P0851(有朋下P313)
伝巻 第三十五
S3501 範頼義経京入事
大手搦手、尾張国熱田社より相分て、宇治勢多へ向けり。大手の大将軍は蒲冠者範頼、相従ふ輩には、武田太郎信義、加々見次郎遠光、一条次郎忠頼、小笠原次郎長清、伊沢五郎信光、板垣三郎兼信、逸見冠者義清、侍には稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、森五郎行重、千葉介経胤、子息小太郎胤正、相馬次郎成胤、国府五郎胤家、金子十郎家忠、同与一近範、源八広綱、渡柳弥五郎清忠、多々良五郎義春、同六郎光義、別府太郎義行、長井(ながゐの)太郎義兼、筒井四郎義行、葦名太郎清高、野与、山口、山名、里見、大田、高山、仁科、広瀬、家子郎等打具して三万(さんまん)余騎(よき)、海道を上りに、宿々山河打過て、近江国勢多長橋に著にけり。搦手の大将軍は九郎冠者義経、相従輩には、安田三郎義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、侍には佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、河越太郎重頼、子息小太郎重房、師岡兵衛重経、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景家(かげいへ)、(有朋下P314)曽我太郎祐信、土屋三郎宗遠、土肥次郎実平、嫡子弥太郎遠平、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、勅使河原権三郎有直、庄三郎忠家、勝大八郎行平、猪俣金平六範綱、岡部六弥太忠澄、後藤兵衛真基、新兵衛尉基清、鹿島六郎維明、片岡太郎経春、弟八郎為春、御曹司手郎等に、奥州(あうしうの)佐藤三郎継信、弟四郎忠信、伊勢
P0852
三郎義盛、江田源三、熊井太郎、大内太郎、長野三郎、
武蔵坊弁慶(べんけい)を始として、家子郎等相具して二万五千(にまんごせん)余騎(よき)、伊勢路(いせぢ)を廻て攻上と聞けり。大手搦手都合して、六万余騎(よき)の兵也。
去(さる)程(ほど)に木曾(きそ)義仲(よしなか)は、折節(をりふし)勢こそなかりけれ。樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を攻んとて河内国へ越ぬ。今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、方等三郎先生義弘、五百(ごひやく)余騎(よき)にて勢多手に指遣す。根井大弥太行親、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)進六郎親直、仁科、高梨、三百(さんびやく)余騎(よき)にて宇治手に指遣す。
木曾は力者(りきしや)二十人汰て、関東の兵強くば、院を取進せて西国(さいこく)へ御幸成進せんと支度して、上野国住人(ぢゆうにん)那和太郎弘澄を相具して、院(ゐんの)御所(ごしよ)を奉(二)守護(一)、其(その)勢(せい)僅(わづか)に百騎計には不(レ)過けり。
九郎義経は、伊勢国(いせのくに)より伊賀路に懸て責上けるが、音に聞ゆる鈴鹿山の麓関を通るにも、去年の白雪(はくせつ)村消て、谷の氷も猶残れり。
  見る儘に跡絶ぬれば鈴鹿山雪こそ関のとざし成けれ K179 (有朋下P315)
と詠じけるを思つゞけて、八十瀬の白浪分過つゝ、加太山にぞ懸ける。此山の為(レ)体、峯高して峙て上り。巌嶮して身を側て伝ひ、谷深して漲落る水早ければ、足を危して渡る。河を渡ては山路に上り、山を越ては河瀬に浸る。興を催す所もあり、心を摧く砌(みぎり)もあり。角て山路を出ぬれば、殖柘里、くらぶ山、風の森をも打過て、当国の一宮、南宮大菩薩(だいぼさつ)の御前をば、心計に再拝して、暫新居川原
P0853
に磬たり。西に平岡あり、九郎義経里人を招きて、是より宇治へ向はんには、何地が道は能と問給へば、西に見え候平岡をば、あをた山と申、其より前に、頸落滝と云所を通るには近く候と申。其外又道はなきかと問給へば、是より長田里、花苑と云所を廻て、射手大明神(いとのだいみやうじん)の御前を、笠置に懸つても道能候と申。射手大明神(いとのだいみやうじん)とは何なる神にて御座ぞと問ひ給へば、其までの事は争知り候べき、いとゝは射手と書て候なれ共、申易に付ていとと申し候とぞ承ると云ければ、九郎義経は、戦場に向に、あらた山、首落の道禁忌也、射手明神(いとのみやうじん)可(レ)然とて、長田里花苑を廻り、射手大明神(いとのだいみやうじん)の御前にて下馬し給(たま)ひ、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)と祈請して、当来導師弥勒菩薩の笠置寺、今日甄原和泉河、河風寒く打過て、柞森を弓手になし、高倉宮(たかくらのみや)討れさせ給し光明山の鳥居の前を妻手に見て、山城国宇治郡、平等院(びやうどうゐん)の北の辺、富家の渡りへ著給ふ。
元暦(有朋下P316)元年正月廿日、大手搦手宇治勢多に著。九郎義経河端に推寄見給へば、橋板を破取て向の岸に垣楯に掻、櫓に構たり。水は長さ増て底不(レ)見、其上乱杭(らんぐひ)逆茂木隙なく打て、大綱小綱引張て流し懸たれば、鴛鴨などの水鳥も、輙くゞり通るべし共見ざりけり。川の耳分内狭して、打臨たる者四五千騎(しごせんぎ)には不(レ)過、二万(にまん)余騎(よき)は寄付べき所なくして、只徒に後陣に引へたり。河の様をも見ず、橋を引たるも知ぬ者のみ多ければ、渡るべき評定にも不(レ)及けり。御曹子は雑色歩走の者共を集て、家家(いへいへ)の資財雑具一々に取出させて、河端の在家を悉(ことごと)く焼払(やきはら)ひ、大勢を一所に集べしと下知し給。此由
P0854
走散て■(ののしり)けれ共、兼て山林に逃隠たりければ家々(いへいへ)には人もなし。此上は手手(てんで)に続松を指上て、宇治の在家を焼払(やきはらひ)、行歩に叶はぬ老者少者共、さり共と忍居たりけれ共、猛火に焼死、適遁出たれども、馬人に踏殺さる。まして牛馬の類は助る者もなければ、其数を不(レ)知焼死けり。風吹ば木安からずとは加様の事なるべし。広々と焼払(やきはらひ)たりければ、二万五千(にまんごせん)余騎(よき)、貽る者もなく河耳に打臨たり。御曹子河の辺近く高櫓を造らせて、此上に登て四方を下知し給けり。矢立の硯を取寄て、宇治川(うぢがはの)先陣と剛者とを、次第明々に注して、鎌倉殿(かまくらどの)へ見参に入べしと被(レ)仰ければ、軍兵各勇を成て、抽(レ)忠とぞ色めきける。御曹子は櫓の上にて、様々の事(有朋下P317)下知し給けれ共、大勢思々にとゞめきければ、打紛れて聞えざりければ、平等院(びやうどうゐん)の御堂より太鼓を取寄、櫓の下にて打ければ大勢静りて、何事やらんと鳴をしづめて軍将に目を懸る時、大音揚て下知し給(たま)ひけるは、二万五千(にまんごせん)余騎(よき)の勢の中に、海の辺川端に栖て、水練の輩多かるらん、郎等家子舎人雑色までも、懸る時こそ群に抜たる高名をもすれ、我と思はん者どもは、物具(もののぐ)ぬぎ置て瀬踏して、川の案内を試るべし、向の岸を見に、矢筈を取たる者四五百騎(しごひやくき)と見たり、瀬踏する者あらば、定て引取(ひきとり)々々(ひきとり)射んずらん、剛座に付んと思はん人々は、馬をも捨て橋桁を渡り、向の岸の軍兵を追払て、水練の輩を思様に振舞せよと被(二)下知(一)ければ、是を聞、平山馬より飛下、橋桁の上に走登、弓杖を衝(つき)扇はら/\と仕うて申けるは、二万五千(にまんごせん)余騎(よき)の其中に、橋桁の先陣渡は、武蔵国住人(ぢゆうにん)平山武者所季重と云小冠者也とぞ名乗ける。抑当河の有様(ありさま)、
P0855
深淵潭々として巨海の波に浮めるが如、下流■々(べうべう)として滝水の漲落るに臨るに似たり。虹の橋桁危くして、雁歯の構奇しければ、渡えん事難けれ共、軍将の下知を背ば命を惜むに似たり。身をば宇治川(うぢがはの)底に沈むとも、名をば後代の末に流さんとて、平山是を渡処に、佐々木太郎定綱、渋谷右馬允重助、熊谷次郎直実、子息小次郎(こじらう)直家、已上五人ぞ続て渡しける。矢比も近成ければ、(有朋下P318)向の岸の軍兵、弓を強く引んが為に態と甲を脱で、思々に引取(ひきとり)々々(ひきとり)放ける矢、雨の足の如に飛来けれ共、甲冑をゆり合せ/\、矢間をたばひて振舞ば、鎧は重代の重宝也、裏かく矢こそ無りけれ。
熊谷橋桁を渡らんとて、子息の小次郎(こじらう)を招きて云けるは、汝は今年十六歳、心は猛く思ふ共、さねは未竪まらじ、直実だにも平に渡付事難かるべし、汝は大勢の川を渡ん時、惣を力にして渡るべしと聞えければ、小次郎(こじらう)打咲ひて、秋の菓にこそ核の固る固まらぬと申事は侍れ、十歳已後の者、実の固まらぬ事や有べき、若又竪まらざらんに付ても、父をば争か奉(レ)離べき、恐くは父こそ常は風気とて、目のまふ膝の振ふとは仰られ候へ、此大河に向て細桁を渡給はん事危く覚侍り、目舞足振給はば直家を憑給へ、渡申さんと云ければ、父是を聞て、さらばつゞけ小次郎(こじらう)とて、親子連てぞ渡しける。誠に瀬には子に過たる宝なし、死出山三途河の旅の道も、親子ぞ互に助ける。五人の兵流石(さすが)目舞足振て、水は逆に流るゝかとぞ覚ける。各弓をば手に懸て、■々(はふはふ)渡る有様(ありさま)、誠に余(あまり)の命とぞ見えし。熊谷は我身の事は去事にて、子息の事の心苦さに、続くか小次郎(こじらう)誤すな/\と呼ければ、直家は、心ゆるし
P0856
給(たまひ)て落入給ふな/\とぞ教ける。父子の情の哀さに、熊谷は是よりして、発心の思は有けるとかや。(有朋下P319)
S3502 高綱渡(二)宇治河(うぢがは)(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕直実大音揚て云けるは、抑此川固たる倫は、木曾殿(きそどの)の樹根の郎等にはよもあらじ、一旦付従ひたる人共にこそ有らめ、命は惜き習也、無(レ)詮合戦に与力して、大事の命失ふな、落ば助んと云儘に、引取(ひきとり)引取(ひきとり)放箭に、木曾殿(きそどの)の郎等に、藤太左衛門尉(とうたさゑもんのじよう)兼助と云者逆に被(二)射落(一)けり。是を始として、水練の者あらば防矢射んとて、五人進寄て散々(さんざん)に射ければ、多の郎等手負討れけり。其間に佐々木が郎等に、常陸国住人(ぢゆうにん)鹿島与一とて無双の水練あり。鎧脱置褌をかき、腰には鎌を指、手には熊手を以河の底に入、良久沈みくぐりて、乱杭(らんぐひ)逆母木(さかもぎ)引落し、大綱小綱切棄けり。実の器量と見えたりけり。去共未川を渡す者はなし、如何有べきと評定様々なりけるに、畠山庄司次郎重忠進出て申けるは、事新し、此河は近江の湖の末、今始て出来たる川にあらず、春立日影の習にて、細谷川の氷解、比良の高峰の雪消て、水のかさは増共、水の減事有べからず、足利(あしかがの)又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)も、高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)の御時は、渡せばこそ渡けめ、鎌倉殿(かまくらどの)の御前にて、さしも評定の有しは是ぞかし、始て驚べき事に非ず、兼ての馬用意其事也、重忠渡して見参に入れんと云処(有朋下P320)に、平等院(びやうどうゐん)の小島崎より武者二騎蒐出たり。梶原源太と佐々木四郎と也。景季が装束には、木蘭地直垂に、黒革威の鎧に、三枚甲の緒をしめて、滋籐の弓の中を取、二十四差たる小中黒の矢負、練鐔の太刀佩て、鎌倉殿(かまくらどの)より給り
P0857
たる磨墨と云名馬に、黒塗の鞍置て騎たり。高綱は褐衣の直垂に、小桜を黄に返たる鎧に、鍬形打たる甲に、笛籐弓の真中取、二十四差たる石打の征矢頭高に負、嗔物造の太刀帯て、是も鎌倉殿(かまくらどの)より給たる生■(いけずき)に、黄覆輪の鞍置てぞ騎たりける。誰か先陣と見処に、源太颯と打入て遥(はるか)に先立けり。高綱云けるは、如何に源太殿、御辺(ごへん)と高綱と外人になければ角申。殿の馬の腹帯は以外に窕て見物哉、此川は大事の渡也、河中にて鞍踏返して敵に笑はれ給なと云ければ、左も有らんと思て馬を留、鐙踏張立挙、弓の弦を口に■(くはへ)、腹帯を解て引詰々々しめける間に、高綱さと打渡して二段計先立たり。源太たばかられけりと不(レ)安思て、是も打浸して渡しけるが、馬の足綱に懸て思様にも不(レ)被(レ)渡。高綱は究竟の逸物に乗たれば、宇治河(うぢがは)はやしといへ共、淵瀬を不(レ)云さゞめかして金に渡し、向の岸近く成て、高綱が馬綱に懸て足をさと歩除ければ、自(レ)元期する事なれば、太刀を抜、大綱小綱三筋さと切流し、向の岸へ打上り、鐙踏張弓杖突て、佐々木四郎高綱、宇治河(うぢがは)の先陣渡たりやと名乗も果ぬ(有朋下P321)に、梶原源太も流渡に上りにけり。源太佐々木鎌倉へ早馬を立。何れも劣じ負じと馳て行。源太が早馬は先立たりけるが、如何したりけん、足柄の中山にて高綱が早馬先立ぬ。三日と申に馳付て、高綱宇治川(うぢがは)の先陣と申たり。同時に梶原が使又来て景季先陣と申けり。右兵衛佐殿(うひやうゑのすけどの)は、安立新三郎清恒を召て、佐々木梶原生たりやと問給へば、共に候と申。其後は尋給事なし。後日の注進に、宇治川(うぢがは)の先陣は高綱と被(レ)注たりけるを見給(たまひ)てこそ言と心と相違なしとは宣(のたまひ)けれ。
P0858
佐々木梶原一陣二陣に渡を見て、秩父、足利、三浦、鎌倉、党も高家も、我も/\と打浸々々渡しけり。庄五郎広賢、糟谷藤太、榛谷、此等は馬より下弓杖を衝、橋桁を渡らんとしけり。武蔵国住人(ぢゆうにん)男衾郡、畠山庄司重能が子息重忠は、青地錦直垂に、赤威の鎧著て、鬼栗毛と云馬に、巴摺たる貝鞍置、糸総鞦懸て乗たりけるが、手勢五百(ごひやく)余騎(よき)、さと河にぞ打入たる。此河余所に聞しには不(レ)員思しに、水面杳にして上は白浪流早、底は深うして水漲下れり。瀬臥の石も高して、馬の足立べき様なし。軍兵等皆危く思けるに、畠山は、渡せ殿原々々、佐々木梶原も鬼神にあらず、渡せばこそ一陣二陣に渡らめ、馬の足の立ん程は手綱すくへ、馬の足はづまば手綱をくれて游がせよ、水しとまばさうづに乗さがり、鞍坪を去て水をとほせ、強馬を(有朋下P322)ば上手に立て、■(たかく)流を防せよ、弱き馬をば下手に立て、ぬるみに付て渡べし、河中にして弓引ざれ、射向の袖を真顔に当て、鐙を常にゆり合よ、弓に弓を取違へて、前なる馬の尻輪さうづに、後の馬の頭を持て息を継せよ、息はづめば馬の弱るに、透をあらせて押並々々て、馬にも人にも力を副へよ、金に渡て誤すな、水の尾に付て渡や/\と下知したり。是に続て、党も高家も力を得て、打浸し々々渡けり。爰(ここ)に木曾が方より、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)根井大弥太行親と名乗て、褐直垂に、小桜威の腹巻に、洗革の大鎧重て、三尺六寸の大太刀に、二十四指たる黒羽の征矢負て、白星の五枚甲(ごまいかぶと)を猪頸に著、塗籠籐の弓真中取、黒糟毛の馬の太逞に、金覆輪の鞍置て乗たりけるが、垣楯面へ進出、弓杖つき敵の陣を見渡し、軍掟する事柄(ことがら)を見に、容儀
P0859
人に勝たり。蒲御曹子歟、九郎御曹子歟、田代殿歟、此等の大将軍にてぞ御座らん、行親が今日の得分と思て、十四束を取番、引竪て兵と放つ。畠山が乗りたりける鬼栗毛が吹荒をぞ射通しける。行親一の矢射損じて、御方の運は早尽にけり、大将軍たる者が一の矢を放つは、弓箭の運の尽る所也、一の矢射損じて二の矢射事なし、敵に鎧の毛見知れぬ先にとて、掻楯の内へ引退く。畠山が鬼栗毛も、天馬の駒とはやりしか共、手負ぬれば疵を痛て弱ければ、重忠馬より下、前(有朋下P323)足二取て妻手の肩に引懸て、水の底をくゞりたりける。徐目には、はや畠山流れぬと見けるに、只一度弓杖衝浮上て、息をちと継、猶水の底をくゞりて向の岸へ渡けるに、草摺重く覚て、見れば黒革威の鎧著たる武者、然べくば助給へと云ければ、何者(なにもの)ぞ名乗れ、向の岸へ抛つべしと云ければ、其を好む者也、奉(レ)被(レ)投、名乗んと申。さらばとて冑総角■(つかん)で提持て行。又赤威の鎧著て、黒馬と劣らじ負じと流行者あり、穴無慙何者(なにもの)ぞ、是に取付とて弓の筈を指出したり。塩冶小三郎維広と名乗て弓に取付、弓を引寄、其馬の鞦しほでの間に取付と教ければ、維広しりがいに取付つゝ浅き所に上にけり。其後河耳一段計に近付て、汝何者(なにもの)ぞ、好まば抛ぞ誤すなと、件の提持て行つる大の男をゆらりとなぐ。被(二)投上(一)て弓杖にすがりて立直て、只今(ただいま)歩にて宇治川(うぢがは)渡たる先陣は、武蔵国住人(ぢゆうにん)大串次郎と名乗けり。敵も御方もとゝ笑ふ。悪く云ぬとや思けん、一陣畠山、二陣大串とぞ云直したる。畠山向の岸に打昇つて、何和君は重忠に被(レ)助て、重忠を蔑如にして一陣とは名乗と云ければ、大串申けるは、殿に奉(レ)被(レ)助、争其
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恩を忘べき、余に音もし侍らねば、をめて見候らんとて名乗たりと陳ずれば、弓取の法也神妙(しんべう)也とぞ感じける。さて塩冶に如何にと問へば、八箇国の倫、誰か殿の家人ならぬ人侍る、され共今命を助られ(有朋下P324)奉ぬれば、向後深奉(レ)憑候と申。神妙(しんべう)なりとて、馬は流れぬ、是に乗て京入し給へとて、小鴾毛とて秘蔵の馬を与たりけり。塩冶は今日流たるが高名にて、還馬まさりとぞ申ける。佐々木、梶原、一陣二陣と申せ共、畠山馬人三人、水の底にて助けるこそ由々しけれ。去ば重忠蒙(二)御勘当(一)たりけるに、大串陣の前へは寄たれ共、弓を平めて帰けり。宇治川(うぢがは)の恩を報ずとぞ見えたりける。畠山は二人の武者を助て後、馬に打乗て向の岸につと揚る。敵は矢さきを汰へて散々(さんざん)に射けれ共、重忠■(しころ)を傾て攻寄る処に、木曾が従弟に、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)長瀬判官代(はんぐわんだい)義員と名乗て蒐出たり。赤地錦直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧の、鍬形の甲に白総馬に白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。金造の太刀を抜て向けるに、畠山は、是ぞ宇治路(うぢぢ)の大将なるらんと見て、秩父がかう平と云は、平四寸長さ三尺九寸の太刀也。抜儲て歩せ寄れば、義員如何思けん、引退いて垣楯の中に入にけり。返合/\戦はんとはしけれ共、畠山にや恐けん、かう平にや臆しけん、引退々々、都に向て落行けり。中にも根井大弥太行親は、七八度まで返し合て戦けるが、暫息を継んとて、思坂の辺に引たりけるに、武蔵国住人(ぢゆうにん)河口源三と云者と、駿河国住人(ぢゆうにん)船越小次郎(こじらう)と云者と、二人先陣に進たりけるが、落武者の身として、敵に後を見せじ/\と、返合々々戦けるこそ由々しけれ。(有朋下P325)今日の大将軍と見えたり。いざや組んとて二騎喚て懸る。行親は矢種は射尽つ、
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太刀打には一人にこそあひしらはめ。其間に一人無(二)覚束(一)、二人を一度に捕んと思て、左右の手をはたけて待懸たり。舟越、河口、弓手に廻り、妻手に廻、左右の脇よりつとより、えたりやとてむずといだく。行親は二人を脇に挟んで強くしめたれば、草葉の如してちとも働かず。先妻手の脇に取付たる舟越が、鎧の上帯を取てむずと引上、妻手の深田へ向て投(なげ)たれば、冑は重し、田は深し、起ん/\としけれ共不(レ)叶して死にけり。其後弓手の脇なる河口を、前後の上帯取て曳々と引けれ共、船越が様にせられじとて、鐙を馬の腹に踏廻し、強く乗て上らざりければ、大弥太弓手の肘(ひぢ)を馬の下腹へ指やりて、馬と主とを中に上、弓手の深田へ曳と云て投(なげ)たれば、河口泥の中にて馬に敷れて死にけり。馬も深田に打こまれて、主と共にぞ失にける。東国の兵是を見て、舌振して不(レ)進ければ、大弥太は、いかに殿原続給はぬぞ、去ば都に上、木曾殿(きそどの)と一所にて侍奉らんと■(ののしり)懸て、木幡庄へ入とは見えけれ共、自害やしけん落もやしつらん、其後は向後を不(レ)知けり。
九郎義経宣(のたまひ)けるは、今度大将軍として、郎等に先陣を被(レ)渡て、二陣に続ん事不(レ)可(レ)然とて、橋より引下て橘小島に馬を引へ、爰(ここ)は水は早けれ共遠浅也、渡せ/\と下知し給へば、我も/\と進けり。(有朋下P326)挿絵(有朋下P327)挿絵(有朋下P328)是は大事の川、加様の河を渡には馬筏を組、健馬をば上手に立、弱き馬をば下手に立よ、馬の足の届ん迄は、手綱をくれて游せよ、馬の足はづまば、弓手の手綱を指甘げて、妻手の手綱をちと縮めよ、四居にのりこぼれて游せよ、手綱強引て、馬に引れて誤すな、尾口沈まば前輪にすがれ、馬に石突
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せさすな、常に内鐙を合よ、我等(われら)渡ると見ならば、敵は定て矢衾を作つて射ずらん、敵は射る共射返すな、相引して■(しころ)射らるな、痛く俛て手変射らるな、射向の袖を指かざせよ、物具(もののぐ)に透間あらすな、水強してさがらん武者をば、弓の弭を指出て取付て游せよ、金に渡して誤ちすな、馬の頭を水面に引立て、童すがりに弓の本筈を打懸て、曳音を出して馬に力を副よ、渡せ者共、渡せ者共と下知しつつ、真前懸て渡けり。二万(にまん)余騎(よき)の大勢、一度に颯と打入て渡しければ、漏水こそ無けれ。前後のはづれの水にこそ何れもたまらず流れけれ。大勢河を渡しぬれば、千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)五千(ごせん)六千、二百騎三百騎七百八百騎(はつぴやくき)、思々心々に、或は木幡、大道、醍醐路に懸つて、阿弥陀(あみだ)が峰の東の麓より攻入もあり、或は小野庄、勧修寺を通つて、七条より入者もあり。或櫃川を打渡、木幡山、深草里より入もあり、或は伏見、尾山、月見岡を打越て、法性寺一二橋より入もあり。道は互に替れ共、同都へ乱入。行親、親忠等、宇治橋を引て防戦と(有朋下P329)いへ共、義経河を渡して合戦す。行親等が軍忽(たちまち)に敗て四方に馳散由、使を木曾が許へ立たれば、義仲(よしなか)大に驚て、先使者を院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奉て申けるは、東国の凶徒(きようと)已宇治川(うぢがは)を渡して都へ攻入る、急醍醐寺の辺へ御幸有べきと申たりければ、更に此御所をば不(レ)可(レ)有(二)御出(一)と被(二)仰遣(一)けり。爰(ここ)に義仲(よしなか)、赤地錦鎧直垂(よろひひたたれ)に紅の衣を重て、石打の胡■[*竹冠+録](やなぐひ)に紫威の鎧を著て、随兵六十余騎(よき)を率して院(ゐんの)御所(ごしよ)に馳参じ、剣を抜懸目を嗔らかして砌下に立て、御輿を寄て可(レ)有(二)臨幸(一)由を申す。上下色を失ひ貴賎魂を消。公卿には花山院大納言(だいなごん)兼雅、民部卿成範、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)
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親信、宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)定能、殿上人(てんじやうびと)には実教、成経、家俊、宗長祇候したりけるが、各皆藁沓を著して御伴に参ぜんとて、庭上に被(二)下立(一)たりければ、人々涙に咽て東西を失ひ給へり。叡慮只可(レ)奉(二)推量(一)。義仲(よしなか)が郎等一人馳来て、敵既(すで)に木幡伏見まで責来れりと申ければ、義仲(よしなか)は抛(二)臨幸事(一)、門下にして騎馬して罷出ぬ。法皇は内々諸寺諸社へ御祈(おんいのり)を懸させ給ける上、御所中(ごしよぢゆう)の女房男房、立ぬ願も無りける験にや、無(二)事故(一)罷出たれば、手を合て悦あへり。其後は門をさせとてさゝれにけり。
S3503 木曾惜(二)貴女遣(一)事(有朋下P330)
木曾は院(ゐんの)御所(ごしよ)をば出たれ共、軍場には不(レ)出けり。五条内裏(ごでうだいり)に帰て、貴女の遺を惜つゝ、時移るまで籠居たり。彼貴女と申は松殿殿下基房公の御娘、十七にぞならせ給ける。無(レ)類美人にて御座(おはしまし)ければ、女御后にもと労りかしづき進けるを、木曾聞及奉て、押て奉(二)掠取(一)。御心憂は思召(おぼしめし)けれ共、混ら荒夷にて、法皇をも押籠進せ、傍若無人に振舞ければ、不(レ)及(二)御力(一)事なりけり。賤が編戸の女にも、馴なば情は深して、別路は猶悲きに、まだ見も馴ぬ御有様(おんありさま)、さこそ名残(なごり)は惜かりけめ。斯る処に越後中太能景馳来つて、敵は既(すで)に都に乱入れり、如何に閑に打解給(たま)ひ角はと云けれ共、引物の中に籠り居て、尚も遺を惜けり。能景、弓矢取身の心を移まじきは女也、只今(ただいま)恥見給はん事の口惜さよとて、今年三十六に成けるが、縁より飛下腹掻切て失にけり。加賀国住人(ぢゆうにん)津波田三郎も此由云けれ共、出ざりければ、御運ははや尽給にけりとて、引物の前にて此も腹切つて臥にければ、津波田が自害は義仲(よしなか)を進むるにこそとて、百余騎(よき)の勢を率して、五条(ごでう)を東へ油小路を直違に、六条河原へ出たれば、根井行親、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)等、二百(にひやく)
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余騎(よき)にて木曾に行逢、主従勢三百(さんびやく)余騎(よき)、轡を並て見渡せば、七条八条の河原、法性寺柳原に、白旗天にひらめきて、東国の武士隙を諍て馳来る。義仲(よしなか)申けるは、合戦今日を限とす、身をも顧命をも惜まん人々(有朋下P331)は此にて落べし、臨(二)戦場(一)逃走て東国の倫に笑はれん事、当時の欺くのみに非、永代に恥を貽さん事口惜かるべしと云ければ、行親、親忠等を始として申けるは、人生て誰かは死を遁ん、老て死るは兵の恨也、其恩を食で其死を去ざるは又兵の法也といへり、更に退者有べからずと云処に、畠山次郎重忠五百(ごひやく)余騎(よき)にて進来。義仲(よしなか)馬頭を八文字に寄せて声を揚、鞭を打て懸入ば、重忠が郎等中を開て入組々々、妻手に違ひ弓手に合、又弓手に違ひ妻手に相闘て、義仲(よしなか)裏へ通れば、二河左衛門尉頼致を始として、三十六騎被(二)討捕(一)ぬ。川越小太郎茂房三百(さんびやく)余騎(よき)にて進たり。義仲(よしなか)馬の頭を雁の行を乱さず立下し蒐入、茂房が兵、外を囲内を裹て折塞て戦。義仲(よしなか)うらへ懸通れば、楯(たての)六郎(ろくらう)親忠(ちかただ)を始として十六騎は討れにけり。佐々木四郎高綱二百(にひやく)余騎(よき)にて引へたり。義仲(よしなか)馬の足を一面に立直して、敵を弓手に懸背いて前輪に懸、甲をひらめて馬を馳並、裏へぬくれば、高梨兵衛忠直を始として十八騎討れにけり。梶原平三景時三百(さんびやく)余騎(よき)にて引たり。義仲(よしなか)馬の足を一所に立重て、敵を先に蒐余て、うらへ蒐通れば、淡路冠者宗弘を始として十五騎被(二)討捕(一)けり。渋谷庄司重国二百(にひやく)余騎(よき)にて引へたり。義仲(よしなか)馬の足を立乱て、思々に蒐入ければ、重国が随兵共押囲て、隙を諍詰寄て、折懸々々責戦ふ。義仲(よしなか)裏へ通れば、根井行親を始として二十三(有朋下P332)騎は討れにけり。爰(ここ)に源九郎義経是を見、三百(さんびやく)
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余騎(よき)馬の足を詰並重入ければ、敵両方へ相分れけるを、四方へ蒐散し駆立て、矢前(やさき)を調て討取ければ、義仲(よしなか)が軍忽(たちまち)に敗れて、六条より西を指て馳走る。義仲(よしなか)忽威三軍之士、雖(レ)敗(二)方囲之陣(一)、義経又廻(二)必勝之術(一)、退(二)強大之兵(一)けり。義仲(よしなか)左右の眉の上を、共に鉢付の板に被(二)射付(一)て、矢二筋折懸て院(ゐんの)御所(ごしよ)へ帰参しけるに、少将成経門を閉て鎖を指たりければ、再三扣押処に、源九郎義経、梶原平三景時、渋谷庄司重国、佐々木四郎高綱等十一騎(じふいつき)、鞭を打、轡を並、矢前(やさき)を汰て放射ければ、義仲(よしなか)不(レ)堪して落て行。義経の郎等共(らうどうども)、北を追て攻行けり。
S3504 義経院参(ゐんざん)事
大膳大夫業忠、築地に登て世間の作法を見ければ、武士六騎門外に馳参ぜり。木曾が帰参にこそ、今度ぞ君も臣も、有無の境とわなゝき見る程に、義仲(よしなか)に非して東国の武士也。門外に馬に乗ながら、築地を見上て高声に、鎌倉兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の使、舎弟(しやてい)九郎冠者義経、宇治路(うぢぢ)を破て馳参ぜり、御奏聞あれやと申。業忠嬉しさの余に、手の舞足の踏所(ふみどころ)を忘て急下ける程に、悪く飛で腰を損じて、にがみ入たりける顔の気色、いと咲しくぞ見ける。■ (有朋下P333)々(はふはふ)御前へ参て、義経が申状具に奏聞申ければ、法皇を始進せて、人々大に悦、門を開れたり。義経已下の兵六騎門外にして下馬す。御気色(おんきしよく)に依、中門の外、御車宿の前に立並たり。法皇は中門の羅門より有(二)叡覧(一)、出羽守貞長を以六人が年齢交名住国を被(二)聞召(一)(きこしめさる)。貞長は、狩衣の下に紺糸威の腹巻を著し、立烏帽子(たてえぼし)に嗔物作の太刀脇に挟て出けるが、太刀をば御所の簀に立て、御気色(おんきしよく)の次第を相尋ぬ。
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赤地錦直垂に、萌黄の唐綾を畳て、坐紅に威たる鎧著て、鍬形の甲下人に持せて後にあり、金作の太刀帯たるは、鎌倉兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)舎弟(しやてい)九郎義経、生年二十五歳、今度の大将軍と名乗に合て、鎧の袖に南無(なむ)宗廟八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と書付けり。寔に軍将の笠璽と見たり。薄紅の紙を切て、弓の鳥打の程に左巻にぞ巻たりける。青地の錦の直垂に、赤威鎧を著、備前作のかう平の太刀帯たるは、武蔵国住人(ぢゆうにん)秩父末流、畠山庄司重能が一男、次郎重忠生年二十一と名乗。菊閉直垂に緋威(ひをどしの)鎧は、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)渋谷三郎重国が一男、右馬允重助生年四十一と名乗。蝶丸の直垂に、紫下濃の小冑は、同国住人(ぢゆうにん)河越太郎重頼と名乗、子息小太郎茂房、生年十六歳と云。大文を三宛書たる直垂に、黒糸威(くろいとをどしの)冑は、同国住人(ぢゆうにん)梶原平三景時、子息源太景季、生年二十三と名乗。三目結の直垂に、小桜を黄に返たる冑の裾金物の殊にきらめきて見ける(有朋下P334)は、近江国住人(ぢゆうにん)佐々木源三秀義が四男に、四郎高綱生年二十五、今度宇治川(うぢがは)の先陣と名乗けり。大将軍義経は熊皮の頬貫を■(はき)、自余は牛皮を■(はく)。貞長一一に此由を奏す。法皇聞召御覧じては、誠頬魂事柄(ことがら)ゆゝしき荘士也とぞ仰ける。重て上洛の子細を被(二)尋下(一)。義経畏て申けるは、木曾(きそ)義仲(よしなか)上洛の後、狼藉重畳之間、為(二)追討(一)頼朝(よりとも)大に驚き、範頼、義経両人を指上候、郎等六十人、其数六万余騎(よき)、二手に分て宇治勢多より上洛す、義経は宇治路(うぢぢ)を敗て罷上る、範頼は勢多より入洛未(二)見来(一)候、木曾は河原まで打出たりつるを、郎等共(らうどうども)に留よと加(二)下知(一)候畢、今は定打捕ぬらん、義経は仙洞の御事■(おぼつかなく)存て先参上之由、最事もなげに申たり。重て院宣に
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は、義仲(よしなか)が余党など、帰参して狼藉もや仕る、今夜は御所に候て守護仕べしと。義経随(二)勅定(一)候けり。懸りしかば諸衛官人諸国の宰史、兵杖を帯して其夜は法皇を守護し奉る。さてこそ君を始進せて、女房も男房も、安堵の思は出来けれ。
S3505 東使戦(二)木曾(一)事
木曾は六条河原軍に負て、院(ゐんの)御所(ごしよ)に参、法皇を取進せて西国(さいこく)へ御幸成進せんと思けれ共、(有朋下P335)門を閉られたりける上、義経が兵共(つはものども)に被(二)責立(一)て、又河原に出て三条を指て落行けり。其(その)勢(せい)七八十騎(しちはちじつき)には過ず。義経の軍兵は、党も高家も雲霞の如して、我先々々と隙を有せず進けり。義仲(よしなか)も今日を限と思ければ、命を不(レ)惜散々(さんざん)に戦。武蔵国住人(ぢゆうにん)塩谷太郎兄弟三騎、四条河原の東の端に引へたりけるが、兄の太郎弟の三郎に云様は、御辺(ごへん)は栗子山にて能敵に組で、物具(もののぐ)剥取て高名せんと云しは忘たりやとはげませば、三郎争か忘るべきとて、馬を川に打入て、西へ向て渡る処に、木曾方より、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)長瀬判官代(はんぐわんだい)と云者、黒糸威(くろいとをどしの)鎧に、葦毛の馬に乗て、河の西の端より打入て東へ向て渡たり。長瀬。塩谷東西より河中に歩せ寄、馬と馬とを並て、組でだんぶと落にけり。手に手を取組、腹に腹を合て、上になり下になり、浮ぬ沈ぬ俵のころぶ様に、四五段計流たり。敵も御方も目を澄して是を見、深き所に流入て、水の底にて組合たり。良暫不(レ)見けるに、水紅に流ければ、誰討れぬらんと思処に、塩谷は左の手に敵の首を捧、右の手には敵の物具(もののぐ)剥取て口に刀をくはへつゝ、東の陸へさと上り、武蔵国住人(ぢゆうにん)塩谷三郎某、長瀬判官代(はんぐわんだい)が首捕たりやと名乗。由々敷ぞ聞えし。
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義仲(よしなか)は、上野国住人(ぢゆうにん)那和太郎弘澄、多胡次郎家包、越後中次家光等を引具して落けるが、家光は遂遁まじき物故に、人手にかゝらんよりはとて馬(有朋下P336)より飛下、腹掻切て三条河原に伏にけり。軍兵追懸々々戦ければ、八十余騎(よき)とは見しかど、五十(ごじふ)余騎(よき)に成にけり。
武蔵国住人(ぢゆうにん)勅使河原権三郎有直は、木蘭地の直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の冑に白星の甲、二十四指たる黒布露の矢、黒漆の弓に、黄駱馬に黒漆の鞍置てぞ乗たりける。同四郎有則は、ひらくゝりの直垂に、赤威の鎧、同色の甲に、十八指たる鴟の石打頭高に負、三所籐の弓の中取て、黒駮馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。兄弟二騎は三百(さんびやく)余騎(よき)にて追懸申けるは、北陸道の大将軍、朝日将軍と呼れ給し人の、正なくも後をば見せ給もの哉、源氏の名折とは不(二)思召(一)(おぼしめさず)や、無跡までも名こそ惜けれ、返合給や/\とて、二重三重に打並て、武蔵国住人(ぢゆうにん)、勅使河原権三郎有直生年三十一、同四郎有則二十八と名乗懸て、轡をならべて喚て蒐。木曾十余騎(よき)馬の鼻を引返し、杉のさきにさと立て宣(のたまひ)けるは、有直慥に承れ、義仲(よしなか)にはあはぬ敵と思へ共、弓矢取身は、大将軍の詞は一も得こそ嬉けれ、現世の名聞後生の訴にもせよとて、弓をば脇にはさみ、太刀の切鋒打つるべて、勅使河原余すなとて、蛛手十文字竪様横様切廻ければ、三百(さんびやく)余騎(よき)の大勢も五十(ごじふ)余騎(よき)に被(二)懸立(一)て、馬の足立る隙こそ無りけれ。只小勢に付て五廻六廻が程廻けるが、有直弓手の肘(ひぢ)被(二)打落(一)て、神楽岡を指て引退。五十(ごじふ)余騎(よき)の勢も被(二)打取(一)て、二十五(有朋下P337)騎にぞ成にける。木曾危見けるを、根井小弥太、左近五郎、岡津平六兵衛、城小弥太郎、兄弟二人、
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佐竹の者共防矢射てこそ遁れけれ。又秩父師岡打囲て散々(さんざん)に攻ければ、木曾方にも、根井次郎行直、進六郎親直等、思切て大勢の中へ打入て、命を不(レ)惜我一人と戦たり。小勢懸れば大勢さと引退、大勢懸れば小勢さと引退。寄つ返つせし有様(ありさま)は、辻風の塵を巻にぞ似たりける。其手をも打破て落行ば、横山党に奥次弥次と、三浦党に佐原十郎、三浦二郎、三百(さんびやく)余騎(よき)にて、漏すなとてこそ戦けれ。二十五騎と見しか共、僅(わづか)に十二騎に成。
S3506 巴関東下向事
畠山は、九郎義経と院(ゐんの)御所(ごしよ)に候けるが、木曾漏やしぬらん覚束(おぼつか)なしとて、三条河原の西の端まで打出たり。義仲(よしなか)は三条白河を東へ向て引けるを、重忠は本田半沢左右に立歩出し、東へ向て落給は大将と見は僻事か、武蔵国住人(ぢゆうにん)秩父の流れ、畠山庄司、次郎重忠也、返合給へや/\と云ければ、木曾馬の鼻を引返し、誰人に合て軍せんより、一の矢をも畠山をこそ射め、恥しき敵ぞ思切と下知して河を阻て射合たり。さすが敵は大勢也、木曾(有朋下P338)は僅(わづか)に十三騎、畠山が郎等の放矢は、雨の降が如に飛ければ、わづか小勢堪兼て、三条小河へ引退。重忠勝に乗て責懸ければ、木曾も引返々々、弓箭に成、打物に成、追つ返つ返つ追つ、半時計戦ける。其中に木曾方より、萌黄糸威の鎧に、射残したりける鷹羽征矢負て、滋籐の弓真中取、葦毛馬の太逞きに、少し巴摺たる鞍置て乗たりける武者、一陣に進て戦けるが、射も強切も強、馳合馳合責けるに、指も名たかき畠山、河原へさと引て出。畠山半沢六郎を招て、如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会初て、度々の戦に合たれども、是程軍立のけはしき
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事に不(レ)合、木曾の内には、今井、樋口、楯、根井、此等こそ四天王と聞しに、是は今井、樋口にもなし、さて何なる者やらんと問ければ、成清、あれは木曾の御乳母(おんめのと)に、中三権頭が娘巴と云女也、つよ弓の手だり荒馬乗の上手、乳母子(めのとご)ながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を不(レ)取、今井樋口と兄弟に〔し〕て怖しき者にて候と申。畠山さてはいかゞ有べき、女に追立られたるも云甲斐なし、又責寄て女と軍せん程に、不覚しては永代の疵、多者共の中に、巴女に合けるこそ不祥なれ、但木曾の妾といへば懐きぞ、重忠今日の得分に、巴に組んで虜にせん、返せ者共とて取て返し、木曾を中に取籠て散々(さんざん)に蒐、畠山は巴に目(有朋下P339)をぞ懸たりける。進退き廻合ん/\と廻ければ、木曾巴を組せじと蒐阻々々て、二廻三廻が程廻ける処に、畠山、巴強ちに近く廻合。是は得たる便宜と思、馬を早めて馳寄て、巴女が弓手の鎧の袖に取付たり。巴叶じとや思けん、乗たる馬は春風とて、信濃第一の強馬也。一鞭あててあふりたれば、冑の袖ふつと引切て、二段計ぞ延にける。畠山、是は女には非ず、鬼神の振舞にこそ、加様の者に矢一つをも射籠られて、永代の恥を不(レ)可(レ)残、引に過たる事なしとて、河原を西へ引退き、院(ゐんの)御所(ごしよ)へぞ帰参ける。
木曾は此彼を打破て、東を指て落行けり。竜華越に北国へ伝とも聞けり。長坂にかゝり、播磨へ共云けり。其口様々也けれども、大津へ向て被(レ)打けるが、四宮河原にて見給へば、僅(わづか)に七騎に残たり。巴は七騎の内にあり。生年二十八、身の盛なる女也。去剛の者成ければ、北国度々の合戦にも手をも負
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ず、百余騎(よき)が中にも七騎に成まで付たりけり。四宮河原、神無社、関清水、関明神打過て、関寺の前を粟津に向てぞ進ける。巴は都を出ける時は、紺村紅に千鳥の鎧直垂(よろひひたたれ)を著たりけるが、関寺合戦には、紫隔子を織付たる直垂に、菊閉滋くして、萌黄糸威の腹巻に袖付て、五枚甲(ごまいかぶと)の緒をしめ、三尺五寸の太刀に、二十四指たる真羽の矢の射残したるを負、重籐の弓に、せき弦かけ、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に金覆輪の鞍置てぞ乗たり(有朋下P340)ける。七騎が先陣に進て打けるが、何とか思けん甲を脱、長に余る黒髪を、後へさと打越て、額に天冠を当て、白打出の笠をきて、眉目も形も優なれけり。歳は二十八とかや。爰(ここ)に遠江国住人(ぢゆうにん)、内田三郎家吉と名乗て、三十五騎の勢にて巴女に行逢たり。内田敵を見て、天晴武者の形気哉、但女か童か■(おぼつか)なしとぞ問ける。郎等能々見て女也と答。内田聞敢ず、去事あるらん、木曾殿(きそどの)には、葵、巴とて二人の女将軍あり、葵は去年の春礪並山の合戦に討れぬ、巴は未在ときく、是は強弓(つよゆみ)精兵、あきまを数る上手、岩を畳金を延たる城也共、巴が向には不(レ)落と云事なし、去癖者と聞召(きこしめし)て、鎌倉殿(かまくらどの)、彼女相構て虜にして進べき由仰を蒙たり。巴は荒馬乗の大力、尋常の者に非ずと聞、如何がすべきと思煩けるが、郎等共(らうどうども)に云様は、女強といふとも百人(ひやくにん)が力によも過じ、家吉は六十人が力あり、殿原三十(さんじふ)余人(よにん)、既(すで)に百人(ひやくにん)にあまれり、殿原左右より寄て、左右の手を引張れ、家吉中より寄て、などか巴を取ざらんと云けるが、内田又思返す様、まて/\暫し、槿花の朝に咲て夕べに萎だにも、己が盛は有物を、八十九十にて死なん命も、二十三十にて亡ん命も同事、女程の者に
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組むとて、兎角計ごとを出しけるよと、殊に後陣に引へたる、甲斐の一条の思はん事こそ恥しけれ、殿原一人も綺べからず、家吉一人打向て巴女が頸とらんと云ければ、(有朋下P341)三十(さんじふ)余騎(よき)の郎等は、日本(につぽん)第一に聞えたる怖しきものに組むまじき事を悦びて、尤々(もつとももつとも)と云ければ、内田只一人、駒を早めて進む処に、巴是を見先敵を讃たりけり。天晴武者の貌哉。東国には、小山、宇都宮歟、千葉、足利歟、三浦、鎌倉か、■(おぼつか)な誰人ぞ、角問は木曾殿(きそどの)の乳母子(めのとご)に、中三権頭兼遠が娘に巴と云女也、主の遺の惜ければ、向後を見んとて御伴に侍ると云。鎌倉殿(かまくらどの)の仰を蒙、勢多手の先陣に進るは、遠江国住人(ぢゆうにん)内田三郎家吉と名乗進けり。巴は、一陣に進むは剛者、大将軍に非ずとも、物具(もののぐ)毛の面白きに、押並て組、しや首ねぢ切て軍神に祭らんと思けるこそ遅かりけれ。手綱かいくり歩せ出す。去共内田が弓を引ざれば、女も矢をば不(レ)射(いざり)けり。互に情を立たれば、内田太刀を抜ざれば、女も太刀に手を懸ず。主は急たり馬は早りたり。巴、内田、馬の頭を押並、鐙と/\蹴合するかとする程に、寄合互に音を揚、鎧の袖を引違たり。やをうとぞ組だりける。聞る沛艾の名馬なれ共、大力が組合たれば、二匹の馬は中に留て働かず。内田勝負を人に見せんと思けるにや、弓箭を後へ指廻し、女が黒髪三匝(さんさう)にからまへて、腰刀を抜出し、中にて首をかゝんとす。女是を見て、汝は内田三郎左衛門(さぶらうざゑもん)とこそ名乗つれ、正なき今の振舞哉、内田にはあらず、其手の郎等かと問ければ、内田我身こそ大将よ、郎等には非ず、行(有朋下P342)跡何にと申せば、女答て云、女に組程の男が、中にて刀を抜、目に見する様やは有べき、軍は敵に依て振舞べし、故実も知ぬ内田
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哉とて、拳を握り、刀を持たる臂(ひぢ)のかゝりをしたたかに打。余に強く被(レ)打て、把る刀を被(二)打落(一)、やをれ家吉よ、日本一(につぽんいち)と聞たる木曾の山里に住たる者也、我を軍の師と憑めとて、弓手の肘(ひぢ)を指出し、甲の真顔取詰て、鞍の前輪に攻付つゝ、内甲に手を入て、七寸(しちすん)五分の腰刀を抜出し、引あふのけて首を掻、刀も究竟の刀也、水を掻よりも尚安し。馬に乗直り、一障泥あふりたれば、身質(むくろ)は下へぞ落にける。首を持ち木曾殿(きそどの)に見せ奉れば、穴無慙や、是は八箇国に聞えし男、美男の剛者にて在つる者を、被(レ)討けるこそ無慙なれ、是も運尽ぬれば汝に討れぬ、義仲(よしなか)も運尽たれば、何者(なにもの)の手に懸、あへなく犬死せんずらん、日来は何共思はぬ薄金が、肩に引て思也、我討れて後に、木曾こそ幾程命を生んとて、最後に女に先陣懸させたりといはん事こそ恥しけれ、汝には暇を給ふ、疾々落下とぞ宣(のたま)ひける。巴申けるは、我幼少の時より君の御内に召仕れ進せて、野の末山の奥までも、一の道にと思切侍り、今懸る仰を承こそ心うけれ、君の如何にも成給はん処にて、首を一所に並べんと掻詢(かきくどき)云ければ、木曾誠にさこそは思ふらめ共、我去年の春信濃国(しなののくに)を出し時妻子を捨置、又再び不(レ)見して、永き別の(有朋下P343)道に入らん事こそ悲けれ、去ば無らん跡までも、此事を知せて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりも可(レ)然と存る也、疾々忍落て、信濃へ下り、此有様(ありさま)を人々に語れ、敵も手繁く見ゆ、早々と宣(のたまひ)ければ、巴遺は様々惜けれ共、随(二)主命(一)、落涙を拭つゝ、上の山へぞ忍びける。粟津の軍終て後、物具(もののぐ)脱捨、小袖装束して信濃へ下り、女房公達に角と語、互に袖をぞ絞ける。世静て右大将家(うだいしやうけ)より被(レ)召ければ、巴則
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鎌倉へ参る。主の敵なれば、心に遺恨ありけれ共、大将殿も女なれ共、無双の剛者、打解まじきとて森五郎に被(レ)預。和田小太郎是を見て、事の景気も尋常也、心の剛も無双也、あの様の種を継せばやとぞ思ける。明日頸切べしと沙汰有けるに、和田義盛申預らんと申けるを、女なればとて心ゆるし有まじ、正しき主親が敵也、去剛の者なれば、隙もあらば伺思心有らん、叶まじと被(レ)仰けるを、三浦大介義明が、君の為に命を捨、子孫眷属二心なく、君を守護し奉て、年来奉公し奉る、争思召(おぼしめし)忘給ふべき、義盛相具して候(さうらふ)共(とも)、僻事更に在まじきと、様々申立預にけり。即妻と憑て男子を生。朝比奈三郎義秀とは是なりけり。母が力を継たりけるにや、剛も力も并なしとぞ聞えける。和田合戦の時朝比奈討れて後、巴は泣々(なくなく)越中に越、石黒は親かりければ、此にして出家して巴尼とて、仏に奉(二)花香(一)、主親朝比奈が後世弔ひけるが(有朋下P344)九十一まで持て、臨終目出して終りにけるとぞ。
 < 或説には、赤瀬の地頭の許に仕るといへり。>
 < 高望王より九代孫、三浦大介義明、杉本太郎義遠、和田小太郎義盛、朝比奈三郎義秀也。>
S3507 粟津合戦事
範頼は勢多の手に向給たりけれ共、橋は引れぬ底は深し、渡べき様なければ、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝を先として、田上の貢御瀬を渡しつゝ、石山通に攻上、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて国分寺の毘沙門堂に陣を取たりけるが、出合防戦けり。方等三郎先生義弘爰(ここ)にして討れぬ。三万(さんまん)余騎(よき)の兵雲霞の如くに重なりければ、何にも難(レ)防ける上に、宇治の手已敗て、軍兵都へ乱入と聞けれ
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ば、兼平(かねひら)心弱覚て、木曾殿(きそどの)は北国へぞ趣き給らんと思ければ、湖の西の渚(なぎさ)を、三百(さんびやく)余騎(よき)にて北へ向て歩行。義仲(よしなか)は関山関寺打過て、南を指て行程に、粟津浜にて行会ぬ。木曾云けるは、都にていかにも成べかりつるに、今一度互に相見んとて、多の敵に後を見せ是まで来れりと語て涙ぐみけり。今井も勢多にて如何にも成べう候つれ共、御向後の■(おぼつか)なく侍て、是まで遁参たりと申けり。義仲(よしなか)、兼平(かねひら)(有朋下P345)馬を打並て宣(のたまひ)けるは、川原の合戦に、高梨、仁科、根井も討れぬ。身も已(すで)に疵を蒙て、心疲力尽て進退歩を失、為(レ)敵被(レ)得事名将の恥也、軍敗れ自害するは猛将之法也と申ければ、兼平(かねひら)申けるは、勇士は不(レ)食不(レ)飢、被(レ)疵被(レ)屈、軍将は遁(レ)難求(レ)勝、去(レ)死決(レ)辱、就(レ)中(なかんづく)平氏西海に在す、軍将北州に入給ば、天下三に分ち海内発乱せん歟、先急で越前国府まで遁給へ、兼平(かねひら)此にて敵を可(二)相禦(一)と云て挙(レ)旗。義仲(よしなか)が随兵共、多は北国の輩なれば、北を指て落けるが、旌の足を見て、五十騎(ごじつき)三十騎(さんじつき)此彼より馳集る。勢多より落来者、二十騎(にじつき)三十騎(さんじつき)集加ければ四五百騎(しごひやくき)に及。兼平(かねひら)力を得、左右を顧て云、各思を報じて命を棄ん事有(二)此時(一)、禦矢射て奉(レ)延んと申ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)の輩心を一にして、西の山を後に当て、東の浜を前に得て、馬の足を軽して、矢筈を取ける程に、武石三郎胤盛、猪俣金平六範綱等を始として、七百(しちひやく)余騎(よき)攻来て時音を発す。兼平(かねひら)已下の軍士又声を合す。木曾宣(のたまひ)けるは、此等は源氏郎等共(らうどうども)、我と思はん若者共、蒐出て追散せと下知し給ければ、二河次郎頼重と云者、三十(さんじふ)余騎(よき)にて鞭を打て敵の中へはり入て、両方互に乱合て相戦。範綱已下の輩小勢を押裹、
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中に取籠てければ、頼重を始として、不(レ)漏皆討捕れにけり。其後甲斐の源氏に、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、七千(しちせん)余騎(よき)にて先陣に進、粟津浜に打出た(有朋下P346)り。木曾は赤地錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、薄金と云冑著て、射残したる護田鳥尾の矢負て、歩ばせ出して名乗けるは、清和(せいわの)帝(みかど)に十代後胤、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)には孫、帯刀先生義賢次男、木曾左馬頭(さまのかみ)兼伊予守、今は朝日将軍、源(みなもとの)義仲(よしなか)生年三十七、甲斐の一条と見は僻事か、雑人の手にかけんより組や組とて、轡を並て踉■(やすらひ)たり。一条次郎忠頼も、同流の源に、伊予守頼義(らいぎ)の三男、新羅三郎義光が孫、武田太郎信義が嫡子、一条次郎忠頼、同三郎兼信、兄弟二人と名乗て進出つゝ、木曾と一条と、魚鱗、鶴翼の戦をぞ並たる。一条忠頼は鶴翼の戦とて、鶴の羽をひろげたるが如くに、勢をあばらに立成て、小勢を中に取籠んとぞ構たる。木曾(きそ)義仲(よしなか)は魚鱗の戦とて、魚の鱗をならべたるが如、さきは細く、中ふくらにこそ立たりけれ。一条板垣は甲斐源氏、木曾(きそ)義仲(よしなか)は信濃源氏也、共に清和(せいわの)苗裔同多田(ただ)の後胤也。一門弓箭を合せ、同姓勝負を決せんとす。義仲(よしなか)魚鱗の構にて、五百(ごひやく)余騎(よき)轡を並べてさと蒐入たれば、忠頼鶴翼の支度にて、大勢の中に小勢をくるりと巻、馳合馳却、戦たり。義仲(よしなか)は今を限の軍也、いつまで命を惜べき、一条次郎能敵ぞ、あますな者共とて、蒐破ては出喚ては入、五六度まで戦て、くと抜て出たれば、二百(にひやく)余騎(よき)は討れにけり。次に同甲斐源氏に武田太郎信義、加々見次郎遠光、兄弟二人大将軍にて二千(にせん)余騎(よき)、木曾を(有朋下P347)中に取籠て散々(さんざん)に戦、かけ入かけ出て、四廻五廻戦て先へ抜て見れば、八十余騎(よき)は討れけり。次同国源氏に逸見四郎有義、伊沢
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五郎信光兄弟二人、従弟に小笠原小次郎(こじらう)長清、三人大将軍にて三千(さんぜん)余騎(よき)、木曾を中に取籠て戦、追入追出し、一時戦て懸抜て見れば、五十(ごじふ)余騎(よき)は討れにけり。次に武蔵国住人(ぢゆうにん)稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、兄弟二人大将として二千(にせん)余騎(よき)、木曾を中に取籠てあますなとて散々(さんざん)に戦。蛛手十文字にかけ破て、くと抜て見たれば、五十(ごじふ)余騎(よき)は討れにけり。
次に下総国住人(ぢゆうにん)千葉介経胤、大将軍にて三千(さんぜん)余騎(よき)、木曾を中に取籠て遁すな者共とて、透間なくこそ戦たれ。思切たる木曾なれば、命も不(レ)惜振舞けり。散々(さんざん)にかけ破て後へ通て見たれば、七十余騎(よき)は被(レ)討て、僅(わづか)に二十余騎(よき)にぞ成にける。
次に大将軍蒲冠者範頼、七千(しちせん)余騎(よき)にて木曾を中に取籠て、ましぐらにこそ戦たれ。木曾は此大勢にて追つ返つ/\、粟津原より打出浜まで、引退々々こそ堪たれ。二十余騎(よき)とは見えしかど、落ぬ討れぬする程に、主従五騎(ごき)に成たりけるが、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)手塚太郎討れければ、手塚別当も落にけり。上野国住人(ぢゆうにん)多胡次郎家包と名乗て打出ければ、大勢の中を打廻、我と思はん人々は、家包討捕て勲功の賞に預れやと云て、散々(さんざん)に切廻けり。鎌倉殿(かまくらどの)兵共(つはものども)に相触れて、多胡次郎家包木曾に付て在也、相構て虜て進(有朋下P348)せよと被(二)仰含(一)たりければ、家包は大狂廻切廻けれ共、軍兵は疵を付じと射もせず切もせず、手をひろげて取ん取んとしけるこそ由々しき大事なりけれ。兵の中に、家包甲を脱太刀を納て降人に参れ、助ん、木曾殿(きそどの)も今は主従三騎也、和君一人命を棄たり共、木曾殿(きそどの)軍に勝給ふべしや、唯
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降人に参れ、無(レ)由々々と云ければ、家包申けるは、弓矢取身は主は二人不(レ)持、軍の習討死は期する処也、惜(レ)命降人に成て、角云人々に面を合すべしや、正なし/\教訓も事によるべし、其よりも只寄合、組で討取給へや殿原とて斬廻りけれども、大勢■(しころ)を傾けて押寄、終に生捕にけり。去年六月に木曾北陸道を上しには、五万余騎(よき)と聞えしに、今四宮河原を落けるには、只七騎には不(レ)過けり。粟津の軍の終には、心は猛く思へ共、運の極めの悲さは、主従二騎に成にけり。増て中有の旅の空、独行なる道なれば、想像こそ哀なれ。木曾殿(きそどの)鐙踏張弓杖衝て今井に宣(のたま)ひけるは、日来は何と思はぬ薄金が、などやらん重く覚る也と宣へば、兼平(かねひら)何条去事侍べき、日来に金もまさらず、別に重き物をも付ず、御年三十七御身盛也、御方に勢のなければ臆し給ふにや、兼平(かねひら)一人をば、余(よ)の者千騎(せんぎ)万騎とも思召(おぼしめし)候べし、終に可(レ)死物故に、わるびれ見え給ふな。あの向の岡に見ゆる一村の松の下に立寄給(たまひ)て、心閑に念仏申て御自害(ごじがい)候へ、其程(有朋下P349)は防矢仕て、軈(やが)て御伴申べし、あの松の下へは、廻らば三町直には一町にはよも過侍らじ、急給へと泣々(なくなく)涙を押へ詢ければ、木曾は遺を惜つゝ、都にて如何にも成べかりつれ共、此まで落きつるは汝と一所にて死なんと也、何迄も同枕に討死せんと思也と宣へば、今井いかに角は宣ふぞ、君自害し給はば兼平(かねひら)則討死也、是をこそ一所にて死ぬるとは申せ、兵の剛なると申は最後の死を申也、さすが大将軍の宣旨を蒙程の人、雑人の中に被(二)打伏(一)て首をとられん事、心憂かるべし、疾々落給(たまひ)て御自害(ごじがい)あるべしと勧ければ、木曾誠にと思ひ、向の岡松を指て馳
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行けり。今井は木曾を先に立て、引返々々命も不(レ)惜戦けり。木曾は今井を振捨て、畷に任て歩せ行。比は元暦元年正月廿日の事なれば、峯の白雪(はくせつ)深して、谷の氷も不(レ)解けり。向の岡へ直違にと志。つららむすべる田を横に打程に、深田に馬を馳入て、打共々々不(レ)行けり。馬も弱り主も疲たりければ、兎角すれ共甲斐ぞなき。木曾は今井やつゞくと思つゝ、後へ見返たりけるを、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)石田小太郎為久が、能引て放つ矢に内甲を射させて、間額を馬の頭に当て、俛しに伏にけり。為久が郎等二人馬より飛下、深田に入て木曾を引落し、やがて首をぞ取てける。今井是を見て、今ぞ最後の命なる、急御伴に参らんとて進出て申けるは、日比(ひごろ)は音にも聞けん、今は目に(有朋下P350)も見よ、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)中三権頭兼遠が四男、朝日将軍の御乳母子(おんめのとご)、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)也、鎌倉殿(かまくらどの)までも知召たる兼平(かねひら)ぞ、首取て見参に入よやとて、数百騎(すひやくき)の中に蒐入て散々(さんざん)に戦けれ共、大力の剛の者成ければ、寄て組者はなし、唯開て遠矢にのみぞ射ける。去共冑よければ裏かゝず、あきまを射ねば手も不(レ)負。兼平(かねひら)は箙に胎る八筋の矢にて八騎射落しける。太刀を抜て申けるは、日本一(につぽんいち)の剛者、主の御伴に自害する、見習や、東八箇国の殿原とて、太刀の切鋒口にくはへ、馬より逆に落貫てぞ死にける。兼平(かねひら)自害して後は、粟津の軍も無りけり。
樋口次郎兼光は、十郎蔵人行家を追討のために、五百(ごひやく)余騎(よき)にて河内国へ下たりけるが、行家をば討漏して、兼光女共虜にして京へ上ける程に、淀の大渡にて、木曾殿(きそどの)已(すで)に討れ給ぬと聞て、虜をば
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追放て、兵共(つはものども)に云けるは、木曾殿(きそどの)早討れ給にけり、御内には今井樋口とて一二の者也、遂に遁べき身に非、我身は京に上て可(二)討死(一)也、命も惜く故郷も恋しからん人々は、是より落べしと云ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、木曾殿(きそどの)左様に討れ給ける上は、誰が為に命をも捨べきとて、思々に落失て、僅(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)にて上けるが、鳥羽殿(とばどの)の秋の山の程にて見ければ、三十騎(さんじつき)には不(レ)過けり。造道、四塚、東寺の門へ歩せ行。樋口次郎京へ入と聞えければ、九郎義経の郎等共(らうどうども)、七条を西へ朱雀大宮(おほみや)(有朋下P351)を下に、造道へ馳向。信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)茅野太郎光弘と云者は、樋口次郎兼光が甥也。木曾殿(きそどの)為(二)誅罰(一)、東国より討手上と聞て、山道より只一騎(いつき)上けるが、今日都に著て聞ば、木曾殿(きそどの)は已(すでに)討れぬ、樋口今日京に入と聞て、急四塚辺へ馳向て、兼光が勢に打具して戦けり。何まで助るべきにはなけれ共、親き中こそ哀なれ。光弘矢さきに塞て散々(さんざん)に戦処に、筑前国住人(ぢゆうにん)原十郎高綱と名乗つて蒐出たり。光弘申けるは、何れの十郎にてもあれ、敵をば嫌まじとて、間近き程に攻寄て、太刀を抜て戦けるが、茅野太郎が手に懸り、原十郎討れにけり。同国上宮の茅野大夫光家、其弟に茅野七郎光重も、兄弟鼻を並て戦けるが、敵四人切殺して我身も討死してぞ失にける。児玉党団扇の旗指て、百余騎(よき)の勢にて出来れり。樋口を中に巻籠て、軍をばせず申けるは、やゝ樋口殿軍を止給へ、和殿計は助奉らん、広き中に入て聟に成は、加様の時の料也、無(レ)詮々々とて、心ならず取籠て具して京へ上り、軍将義経に角と申ければ、奏聞してこそ助めとて、院(ゐんの)御所(ごしよ)に将参、此旨申入ければ、今日は不(レ)被(レ)斬けり。
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S3508 木曾頸被(レ)渡事(有朋下P352)
二十二日に新摂政(しんせつしやう)を奉(レ)止て、元の摂政(せつしやう)に成返り給へり。摂録の詔書を被(レ)下て僅(わづか)に六十日、そも春日大明神(かすがだいみやうじん)の御計なれば、可(レ)然事と云ながら、見果ぬ夢とぞ思召(おぼしめし)ける。去共人の申けるは、昔一条院御宇(ぎよう)に右大臣道兼と申しは、太政大臣(だいじやうだいじん)兼家公次男也。〈 号(二)東三条殿(とうさんでうどの)(一)也。 〉正暦六年四月廿七日に、関白(くわんばく)の諂事を下給らせ給(たまひ)て、御拝賀の後只七日、前後十二日ぞ御座(おはしまし)ける。是を粟田関白(くわんばく)と申き。懸る様も有しぞかし、是は六十日が間に、除目も二箇度行給しかば、思出ましまさぬには非ず。一日とても摂録を黷し給こそ目出けれ。二十六日(にじふろくにち)に、伊予守義仲(よしなか)が首大路を被(レ)渡。法皇は御車を六条東洞院(ひがしのとうゐん)に立て被(二)御覧(一)、九郎義経六条河原にて検非違使(けんびゐし)の手に渡す。検非違使(けんびゐし)是請取て、東洞院(ひがしのとうゐん)を北へ渡して、左の獄門の樗木に懸らる。其首四つ、伊予守義仲(よしなか)郎等に信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、高梨六郎忠直、根井四郎行親、今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)也。是三人は、四天王に員へられて一二の者なりければ、義仲(よしなか)と同く懸られたり。何者(なにもの)が所為にか、獄門の木の下に、札を書き立たりけるは、
  信濃なる木曾の御料に汁懸て只一口に九郎義経 K180 
伊予守の頸、剣に貫て赤絹を切て、賊首源(みなもとの)義仲(よしなか)と銘を書て髻に付、義仲(よしなか)左右の眉の上に、被(レ)疵(きずをかうむり)たれば、粉米をぞ塗たりける。次に降人中原兼光、葛紺水干葛袴の練色衣に、引(有朋下P353)立烏帽子(たてえぼし)を著す、徒跣にて渡けり。法皇御車の前にして被(二)召留(一)て御覧あり。上下市を成て見物す。兼光死を遁れて降人と成、大路を被(レ)渡面を曝す、其心勇士にはあらざりけり。皆人恥しめあへりけり。度々の合戦に
P0882
功有しかば、其名を得たる兵なりしに、今人の嘲を招けるも、可(レ)然運の極と覚たり。
S3509 兼光被(レ)誅並沛公(はいこう)入(二)咸陽宮(一)事
樋口次郎兼光は、児玉党が依(二)嘆申(一)、義経被(二)奏聞(一)ければ、宥(二)死罪(一)大路を渡し、被(二)禁獄(一)たりけるを、院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の軍の時、然べき上搶蘭[達(にようばうたち)などを捕て衣裳を剥取、裸に成て五六日奉(二)取籠(一)、恥を奉(レ)見たりける故に、彼女房達(にようばうたち)口惜事に思召(おぼしめし)て、かたへの女房達(にようばうたち)を相語、兼光男を生置せ給はば、尼にならん御所を出ん。淀河、桂河に身を投んなど、様々に訴申させ給ければ、法皇も力及せ給はず、公卿有(二)僉議(せんぎ)(一)、女房の訴訟も難(二)黙止(一)。兼光は木曾殿(きそどの)が四天王の随一(ずゐいち)、死罪を被(レ)宥事有(二)虎養恐(一)と、殊に有(二)沙汰(一)て、明二十七日(にじふしちにち)に獄舎より取出て、五条(ごでう)西朱雀に引出て被(レ)斬けり。伝聞、虎狼の国衰て諸侯蜂の如く起り、沛公(はいこう)先咸陽宮に入といへ共、項羽が後に来らん事を恐て、金銀珠玉をも掠めず、軍兵美人(有朋下P354)をも不(レ)犯、徒に函谷関を守て漸々に敵を亡し、遂に天下を治る事を得たりといへり。漢高祖と申は彼沛公(はいこう)の事也き。義仲(よしなか)も先都に入と云とも其慎み有て、頼朝(よりとも)の下知を守らましかば、彼沛公(はいこう)が謀に同くして、世を取事も有なまし。義仲(よしなか)早晩奢つゝ、奉(レ)背(二)天命(一)、叛逆を起し、悪事身に積て、首を粟津に被(レ)刎て、恥を獄門に被(レ)曝けり。但帝王に向て弓を引者、大果報之人は六十日を持、小果報之人は四十日を不(レ)過といへり。木曾は五十(ごじふ)余日除目二箇度、松殿の御聟になり、朝日将軍の宣旨を被(レ)下たり。大果報とも云べきか。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十六

P0883(有朋下P355)
阿巻 第三十六
S3601 一谷(いちのたに)城構事
平家は播磨国室山、備中国水島、二箇度の合戦に討勝つてぞ会稽の恥をば雪めける。懸りければ、山陽道七箇国、南海道六箇国、都合十三箇国の住人(ぢゆうにん)等悉に靡く、軍兵十万余人(よにん)に及べり。木曾討れぬと聞ければ、平家の人々は讃岐国屋島をば漕出て、摂津国(つのくに)と播磨との境、難波潟一の谷にぞ籠ける。去る正月より、此能所也とて城郭(じやうくわく)を構たり。東は生田森を城戸口とし、西は一谷(いちのたに)を城戸口とす。其中三里は、須磨板宿、福原、兵庫(ひやうご)、明石、高砂、隙なく続きたり。北は山の麓、南は海の汀(みぎは)、人馬の隙ありと見えず。陸には此彼に堀をほり逆茂木を引、二重三重に櫓を掻垣楯を構たり。海上には数万艘(すまんさう)の舟を浮て、浦々島々に充満たり。一谷(いちのたに)と云所は、口は狭して奥広し。南は巨海漫々として浪繁く、北は深山(しんざん)峨々として岸高し。屏風を立たるが如くなれば、馬も人も通べき様なし。誠に由々しき城郭(じやうくわく)也。海には兵船数万艘(すまんさう)を浮て算を散せるが如く、陸には赤旗立並て不(レ)知(二)(有朋下P356)其数(一)、春風に吹れて翻(レ)天、猛火の燃上に似たり。誠に夥(おびたたし)共云計なし。縦敵寄たりとも免出べき様見えず。平家年来の伺候人、伊賀、伊勢、近国に死残たる輩、北陸南海より抜々に来著ければ、云に及ばず。山陽、山陰(せんいん)、四国、九国に宗(むね)と聞る者共、阿波民部大輔成良が口状を以て、安芸守基盛の
P0884
息男、左馬頭(さまのかみ)行盛執筆として、交名記して被(レ)催たり。先播磨国には津田四郎高基、美作(みまさか)には江見入道、豊田権頭、備前には難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)、同三郎経房、備中には石賀入道、多治部太郎、新見郷司、備後国には奴賀入道、伯耆国には小鴨介基康、村尾海六、日野郡司義行、出雲国には塩冶大夫、多久七郎、朝山紀次、横田兵衛維行、福田押領使、安芸国には源五郎兵衛朝房、周防国には石国源太維道、野介太郎有朝、周防介高綱、石見国には安主大夫、横川郡司、長門国には郡東司秀平、郡西大夫良近、厚東入道武道、鎮西には菊池次郎高直、原田大夫種直、松浦太郎高俊、郡司権頭真平、佐伯三郎維康、坂三郎維良、山鹿兵藤次秀遠、坂井兵衛種遠也。豊後国には尾形三郎維義一党、伊予国には河野四郎通信が伴類の外は、弓矢に携宗徒の輩大略参ければ、其次々の者共も、必志はなかりけれ共、人並々々出立て、漏者こそ無りけれ。昔項羽が鴻門に向しが如し。何かは是を攻落さんとぞ見たりける。(有朋下P357)
S3602 能登守所々高名事
四国九国の輩、我も/\と参ける中に、讃岐国在庁等、平家を背て源氏に心を通じ、船三十(さんじふ)余艘(よさう)に、二千(にせん)余騎(よき)乗連て都へ上けるが、抑源氏へ参に、争か平家に一矢不(レ)射(いず)しては通るべきとて、門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛の、備中国下道郡に五百(ごひやく)余騎(よき)にて御座(おはしまし)ける所へ、押寄て時を造懸たり。教盛事ともし給はず、昨日までは平家に奉公して、馬に草刈水汲し奴原也。今当家を背き源氏に心をかはす条奇怪也、一々に射殺せやとて子息に越前三位通盛、能登守教経大将軍にて、船十余艘(よさう)に乗て押向て、散々(さんざん)に
P0885
禦戦給ければ、在庁等被(二)追散(一)て、はか/゛\しき矢一も不(レ)射(いず)。奥懸に淡路国福良と云所へつく。淡路国に淡路冠者、掃部冠者とて二人あり。故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)が孫共也。淡路冠者は為義(ためよし)が四男、左衛門尉(さゑもんのじよう)頼賢が子、掃部冠者は同五男、掃部助頼仲が子也。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)には共に従父兄弟也。当国住人(ぢゆうにん)等、此両人が下知に随ければ、讃岐在国庁も同彼に靡付にけり。通盛教経是を聞、淡路国へ推渡、一日一夜攻戦ける程に、淡路冠者、掃部冠者共に討れぬ。大将軍二人討れしかば、残る輩、此彼に被(二)追詰(一)て一々に被(二)射殺(一)被(二)射殺(一)、能登守は百三十二人が首を取(有朋下P358)て、姓名書副福原へ進する。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)は、下道郡より福原へ帰給ふ。
伊予国住人(ぢゆうにん)河野四郎通信を責とて、通盛教経二手に分て四国へ渡る。越前三位は阿波国北郡花苑に著給。能登守は讃岐国屋島御崎にぞ著給ふ。河野四郎此事をきゝ、安芸国奴田太郎は源氏に志あり。一に成て軍せんと思て奴田尻へ渡りけるが、今日は備後の蓑島に懸て、翌日は蓑島を漕出て奴田尻に著。能登守是を聞、奴田城に推寄て一日一夜責戦。奴田太郎矢種射尽て、叶じとや思けん、鎧を脱弓を外して降人に参けり。河野は郎等皆討れて主従七騎に成、細縄手を浜へ向て落けるを、能登守の郎等に平八為員と云者、引詰々々射ける矢に、六騎被(二)射落(一)て二人は則死す。四人は半死半生也。河野は、口惜事也、敵一人に六騎まで被(二)射殺(一)て、我一人生たらば何の甲斐かは有べきと思切て、太刀を額に当て、手負の上を飛越々々打懸。平八為員を打取て落けるが、手負四人が中
P0886
に、讃岐七郎為兼と云ける郎等は、命に替て不便の者なれば引起し、肩に懸て小舟に乗せ、伊予国へぞ渡にける。能登守は河野をば討漏たれ共、大将軍奴田太郎を虜て、福原も■(おぼつか)なしとて帰られけり。淡路国住人(ぢゆうにん)に安摩六郎宗益、源氏に志あて、淡路冠者、掃部冠者に同意したりけれ共、両人討れければ、宗益忍て五十(ごじふ)余騎(よき)にて、兵船六七艘に乗て都へ上ると聞けれ(有朋下P359)ば、能登守百五十騎(ごじつき)にて、十二艘に漕連て追けるが、西宮(にしのみや)沖にて追詰、前を切て散々(さんざん)に射。安摩六郎河尻へは不(レ)入して、紀伊路をさして落行けり。
紀伊国住人(ぢゆうにん)園部兵衛重茂も、源氏に志有けるが、淡路安摩六郎、能登殿に被(二)追返(一)て、和泉国吹井谷川と云所に著たりと聞て、一に成て可(二)上洛(一)と聞えければ、能登守紀伊路へ押渡、園部館へ攻入て散々(さんざん)に追払、三十六人が首を切、姓名を注して福原へ進する。
伊予国河野四郎、豊後国尾形三郎、海田兵衛宗親、臼杵次郎維高等が、一に成て備前国今木城に籠たりと聞ければ、能登守二千(にせん)余騎(よき)にて推寄て、一日一夜戦今木城を追落す。尾形は豊後へ漕戻す。河野は伊予へ渡にけり。能登守は今木城を追落て、福原も■(おぼつか)なしとて帰給ふ。能登殿所々の高名、大臣殿大に被(二)感仰(一)けり。誠由々しくぞ見えし。平家は浦々島々にて、朝夕の軍立に過行月日も忘て、憂かりし春にも廻あふ。世が世にてあらましかば、故禅門相国の遠忌を迎て、兼て堂塔をも起立し仏経をも用意して、後世菩提を吊はるべけれ共、懸乱の世中なればそも叶はずして、只男女の人々、
P0887
指つどひては泣給へる計也。
S3603 福原除目付将門(まさかど)称(二)平親王(一)事(有朋下P360)
元暦元年二月四日、平家は福原にて故(こ)入道の忌日とて、仏事如(レ)形被(レ)行て、都へ可(二)帰上(一)之由聞えければ、旧里に残留てさびしさを嘆ける者共、多く隠下ければ、福原にはいとど勢こそ付増けれ。三種の神器を帯して、君かくて渡らせ給へば、爰こそ都なれとて、叙位除目僧事など被(レ)行ければ、僧も俗も官を給る。大外記中原師直が子、周防守師澄は大外記に成、兵部少輔尹明は五位蔵人に成つて蔵人少輔と云。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛卿(のりもりのきやう)をば、正二位(しやうにゐの)大納言(だいなごん)にあがり給へと聞書を送進たりければ、やゝ打見給(たまひ)て御返事(おんへんじ)に、
  今日迄もあればあるとや思ふらん夢の中にも夢を見る哉 K181 
と、誠にと覚えて哀なり。
昔将門(まさかど)が東八箇国を打靡したりけるに、下総国相馬郡に都を立て、我身平親王と被(レ)祝て百官をなす。将門(まさかど)が舎弟(しやてい)、御厨三郎将頼下野守に任ず。同大葦原四郎平将平上野介に任ず。同平将為下総守に任。同平将武伊豆守(いづのかみ)に任ず。常羽御厩別当多治経明常陸介に任ず。藤原玄茂上総介に任ず。武蔵権守奥世安房守に任ず。文屋好兼相模守に任ず。諸国の受領を点定し、王城を建べき記文に云、下総国に可(レ)建(二)立亭(一)、南以(二)礒橋(一)為(レ)都山崎、以(二)相馬郡津(一)京の大津とすべしと申て、大臣納言参議文武六弁八史等、百官を成たりけるに、暦博士計ぞなかりける。是は彼に似べきに非、
P0888
故郷(有朋下P361)をこそ出させ給たれ共、故高倉院(たかくらのゐんの)王子万乗の位に備給へり。内侍所御座(おはしま)せば、叙位除目行はるゝ事非(二)僻事(一)と申けり。大臣殿已下宗徒の人々は福原の旧都に御座(おはしま)して、加様に除目被(レ)行軍の評定あり。一門の若人、諸国の侍共は、東西の城戸に分遣したり。平家は西国(さいこく)悉(ことごと)く打靡して、既(すで)に都へ還入給べしと聞ければ、余党の残留たりけるも皆福原へ参向ふ。其外他家の人々も、実も都へ帰上て、再世にもや御座(おはしま)さんずらんとて、色代の使等閑の消息(せうそく)、各被(レ)下ければ、平家の一門も侍も、いとゞ力付て覚けり。
S3604 維盛住吉(すみよし)詣並明神垂跡(すいしやく)事
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)は、月日の過儘に、明ても暮ても故郷のみ■(おぼつかなく)て、軍の事も心に入給はず、弟の新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)を招具し奉りて深く身を窄し、住吉社へ参給つゝ、一夜の通夜をぞ被(レ)申ける。祈誓は今一度都へ帰入、再妻子令(レ)見給へと也。
抑此明神と申は、元は是高貴徳王の変身として名を仏教に顕し、今は即叡哲聖主の周衛として、化を神州に被らしめ給へり。本地の悲願垂跡(すいしやく)の化導を奉(レ)仰、御祈念あるぞ哀なる。明ぬれば住江殿の釣殿に御座(おはしまし)てつく/゛\と嘯て、彼住吉(すみよし)の姫君、昔誰松風の絶ず吹らんとて、琴掻鳴し給けるを思出(有朋下P362)て、無常の句をぞ被(レ)頌ける。山に入市に交ても難(レ)遁は無常の使、関固め兵を集ても難(レ)防は生死の敵、漢高祖三尺の剣を提し、獄率の武きをば征せず。張良一巻の書に携し、閻王の攻には靡けり。名利身を助れ共、野原の末に被(レ)棄て、雨露骸を潤し、恩愛心を悩せ共、中有の旅に出ぬれ
P0889
ば黒業神に随と、口には誦し給へ共、心は都に通けり。能因法師と云しは中比の数寄者也。在俗の時は永トと云けり。備前守元ト子也。伊豆三島社にては、天降ます神ならばと詠、奥州(あうしう)白川関にしては、秋風ぞ吹白川の関と読て、関屋の柱に筆を止む。其能因が修行の時、
  心あらん人に見せばや津国の難波渡の春のけしきを K182 
と読とゞめて、名にし負歌枕なれば、良詠しめ帰給ふ。
S3605 忠度見(二)名所々々(一)付難波浦賤夫婦事
薩摩守忠度も、源氏も未(レ)寄ければ、能隙と覚して、摂津国(つのくに)名にし負名所々々を巡見給ふ。山には玉坂山、有馬山、待兼山をも見給けり。河には玉川、三島、稲河、芥河とかや。江には三島江、住江、堀江、玉江、難波江、浦には須磨浦、長井(ながゐの)浦、蓋篋浦、野には印南野、(有朋下P363)昆陽野とかや。森には生田森、てくらの森、滝には布引滝、関には須磨関、橋には長柄橋、島には砥島、豊島、田蓑島、里には長井(ながゐの)里、玉川里、此に移り彼に渡て見給。中にも難波浦こそ古の事思出つゝ哀なれ。村上天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)天暦の比とかや、此浦に或人夫婦相住。指もの賤女なりけれ共、妻は情ある女にて、生死の無常を恐れ、慈悲心に深くして、乞食貧人に物を施しければ、夫は邪見放逸にして、更に憐の思なし。我貧は汝が宝を費故也と大に是を嗔けれ共、女是を不(レ)用して、隠忍ても与へければ、夫今は制するに不(レ)及とて、永く其妻を去てけり。女はいみじき心有ければ、蒙(二)諸天の加護(一)て則国主の妻室と成ぬ。男は其後仏神にや被(レ)捨たりけん、貧成てすべき方の無りければ、日々(ひび)
P0890
に難波堀江に行て葦を刈て世過けり。此女輿に乗て道を過ける時、元の夫は葦を刈て立たり。女輿の中にて是を見ていと哀に無慙に思、彼男を召寄て、何汝我を捨ぬれ共、角こそはあれと云ければ、男限なく辱しく思て、
  君なくてあしかりけりと思にもいとゞ難波の浦ぞ住憂き K183 
女の返事には、
  あしからじとてこそ人は別れしか何か難波の浦は住うき K184 (有朋下P364)
と読たりければ、男則消入にけるとなん。或説には、翌日に百石を元の男に送共あり。彼夫婦の住ける所とて里人の教けるを見給へば、今は家の跡だにも見えず、混ら野にこそ成にけれ。物思所なれば、被(二)思知(一)て哀也。浦々島々の名所注して、一巻の書に留給(たま)ひつゝ、福原へこそ帰給けれ。
S3606 維盛北方歎並梶井宮遣(二)全真歌(一)事
三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛は、日重り年阻ぬるに随て、故郷に留置し人々も恋しく聞まほしく思召(おぼしめし)けるに、適商人の便を得て、北方より御文あり。珍とて披き見給へば、相構て迎取給べし。人しれず歎悲心の中、争か知せ奉べきとまで、責ての事には覚て候、只推量給べし、少者共の不(レ)斜(なのめならず)恋しがり奉れば、我身の尽せぬ思に打副て無(二)為方(一)思へば、ながらへ候べし共覚えず、生て物を思も苦しければ、消も入なばやと思へども、又憂世(うきよ)に立廻らば、などか今一度見もし見えもし奉る事なからんと、難面心につながれて、今迄は角て侍れども、遂に如何なるべし共思分ず。若昔語とも成なば、少き人々の父に
P0891
こそ奉(レ)被(レ)捨らめ、母にさへ後て、憑方なき者と成て、奉(二)誰育(一)(たれにはごくまれたてまつらんと)、兼て思も悲くこそ侍れ、さても如何(有朋下P365)に只一人は御座(おはしまし)候なるぞ、心苦くこそ、如何ならん人をも相語ひ給(たまひ)て、旅の御徒然をも慰給へかし、契はそれにしも依べきかはと濃に書給(たま)ひたりれけば、最悲く覚えて伏沈給けるぞ哀に見え給ける。是をば角とも知給はず、三位中将(さんみのちゆうじやう)は、池(いけの)大納言(だいなごん)の様に二心あるにこそとて、大臣殿も打解給事なければ、怒々さは無物をとて、いとゞあぢきなしとて、さらば迎取て一所にて何にも成ばやと、常は思立給けれ共、我身こそ角憂からめ、人の為に糸惜ければとて明し晩し給(たま)ひけるぞ責ての志の深さと覚て哀なる。二位僧都(そうづ)全真は、梶井宮の御同宿也。僧都(そうづ)西海の浪に漂て、何れの国に落居とも不(レ)聞ければ、宮も御心苦事に思召(おぼしめし)、風の便にはと思出けれども、空く月日を送らせ給けるに、都近く福原まで上たりと聞召ければ、旅の有様(ありさま)思召(おぼしめし)遣こそいと御心苦しけれ。都も未(レ)閑、浮世の習と云ながら、何かなるべし共不(二)思召(おぼしめし)分(一)、月日の重るに付て、御恋しさ理に過てこそなど、濃にあそばして御書を被(レ)下けり。奥に一首の歌あり。
  人しれずそなたを忍心をばかたぶく月にたぐへてぞやる K185
全真は此御書を給(たまひ)て、衣の袖をぞ被(レ)絞ける。(有朋下P366)
九郎義経は、平家追討の為に西国(さいこく)へ発向すべしと聞ければ、義経を院(ゐんの)御所(ごしよ)六条殿へ召て、我朝には神代より伝たる三種の御宝あり。則神璽宝剣内侍所是也。天津御神の国津主に伝て、百王鎮護の神宝、
P0892
万民豊饒の霊珍也。相構て無(二)事故(一)都へ奉(二)還入(一)とぞ被(二)仰含(一)ける。義経畏ていと事安げに、子細や候べきとて罷立ければ、法皇御嬉気に被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。
S3607 福原忌日事
二月三日、源氏は一谷(いちのたに)へ向べしとて勢汰あり、評定ありけるには、明日四日は故太政(だいじやう)入道(にふだう)の忌日と聞ゆ。妨(二)仏事(一)(ぶつじをさまたぐる)こと罪深し、延引すべし。五日は西塞り、六日は悪日也。七日の卯刻の矢合と定て、東西の城戸より、兄弟大将軍として攻べきにぞ有ける。
抑源氏は入道の忌日に芳心情あり。忌日と云事は内外の典籍に明文あり。天竺震旦にも有(二)先規(一)。梵網経には、父母兄弟死亡日講菩薩戒律云々、礼記には、忌日には忌人云云。廬山僧慧は鶴を詞けるに、僧慧死して後、彼鶴年々の忌日に来て、羽を垂て終日に啼居たりき。晉代に師曠と云人は、秘蔵して一挺琴を持てんげり。其主死て後、此琴忘形見に留つて空き壁にそばだち、塵積れども払人無りけるに、師曠が年々の忌日に、不(レ)弾に自鳴て悲の音を含けり。琴は非情也、鶴は畜趣也けれども、知(レ)恩の志如(レ)此。況人倫争か不(レ)優。就(レ)中(なかんづく)或経には、忌日には亡者必閻魔宮より暇を得て、旧室に来て子孫の善悪を見るに、善を見ては悦咲、悪を見ては歎泣と云文あり。源氏も此意を得たりけるにや。情を忌日に籠けるも優也と、讃ぬ人こそ無りけれ。(有朋下P367)
S3608 源氏勢汰事
同七日法皇、八条烏丸の御所にして、平氏追討の御祈(おんいのり)に、五尺の毘沙門天像を被(レ)造。始先御衣の木を安置す、二丈(にぢやう)五尺也。南を以為(レ)上。法印院尊為(二)大仏師(一)、権僧正(ごんのそうじやう)定遍奉(レ)加(二)持御衣木(一)西へ向へり。
P0893
法皇は鈍色の裳付衣を召れて、砌下の御座に著御あり。高麗縁の畳一帖を地上に敷て御座とす。御仏作始て後、北に向て立奉て、法皇三度御拝あり。
〔其後九郎義経は、平家追討の為に西国(さいこく)へ発向すべして聞召ければ、義経を院(ゐんの)御所(ごしよ)六条殿へ召て、我朝には神代より伝たる三種の御宝あり、則神璽宝剣内侍所是也、天津御神の国津主に伝て、百王慎護の神宝、万民豊饒の霊珍也、相構て無(二)事故(一)都へ奉(二)還入(一)とぞ被(二)仰含(一)ける。義経畏ていと事安げに、子細や候べきとて罷立ければ、法皇御嬉気に被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。〕
同日卯刻には、源氏已(すで)に発向す。追手の大将軍には蒲冠者範頼、相従ふ輩には稲毛三郎重成、同舎弟(しやてい)榛谷四郎重朝、同森五郎行重〈 兄弟三人 〉、長野五郎清重、梶原平三景時、子息平太景季、同平次景高、同三郎景家(かげいへ)、曽我太郎祐信、千葉介常胤、子息太郎胤将、小次郎(こじらう)成胤、相馬次郎師常、子息国分五郎胤通、同六郎胤頼、武石三郎(有朋下P368)胤盛、舎弟(しやてい)大須賀四郎胤信、佐貫四郎大夫広綱、海老名太郎兄弟四人、中条藤次家長、児玉には、庄太郎家長、同三郎忠家、同五郎広賢、塩谷五郎維広、小林次郎、同三郎小河五郎、勅使河原権三郎有直、秩父武者四郎行綱、大田兵衛重平、広瀬太郎実氏、大田四郎重治、安保二郎実能、中村小三郎時経、玉井四郎助重、高山三郎、八木次郎、同小二郎、河原太郎高直、同次郎盛直、小代八郎行平、久下次郎実光、小野寺太郎道綱等を先として五万余騎(よき)、播磨路に懸て、次の日は摂津国(つのくに)昆陽野に陣を取。入道の仏事の日なれば、馬も我身も休けり。
搦手の大将軍は九郎義経、相従輩には安田三郎義定、一条二郎忠頼、逸見冠者義清、武田右兵衛有義、畠山庄司重忠、久下権頭直光、大内冠者維義、斎院次官親能、山名太郎義範、土肥二郎実平、子息弥太郎遠平、三浦別当義澄、和田小太郎義盛、佐原十郎義連、多々良五郎義春、同次郎光義、糟谷権頭重国、同藤太有季(ありとし)、河越太郎重頼、同小太郎茂房、後藤兵衛実基、猪俣金平六範綱、平
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佐古太郎為重、熊谷次郎直実、子息小次郎(こじらう)直家、平山武者所季重、大川戸太郎広行、師岡兵衛重経、金子与一近範、源八広綱、小川小次郎(こじらう)助茂、山田太郎重澄、原三郎清益、片岡太郎経治、長井(ながゐの)小太郎義兼、筒井次郎義行、伊勢三郎義盛、葦名太郎清高、蓮沼太郎忠俊、(有朋下P369)同六郎国長、岡部六弥太忠澄、同三郎忠康、渡柳弥五郎清忠、江田源三、熊井太郎、蒲原太郎正重、同三郎正成、池上次郎、香河五郎、諏訪三郎、藤沢六郎、平賀次郎景宗、封戸次郎、同六郎正頼、手郎等には奥州(あうしうの)佐藤三郎兵衛継信、同四郎兵衛忠信、城三郎、片岡八郎為春、備前四郎、鈴木三郎重家、亀井六郎重清、武蔵坊弁慶(べんけい)等を始として一万(いちまん)余騎(よき)にて、是も同四日の寅卯刻に都を出て、丹波路に懸て、二日路を一日に打て、播磨、丹波、摂津国(つのくに)、三箇国の境なる丹波国氷上郡、三草山の東の山口、小野原と云里に、戌刻に馳付て、即爰(ここ)に陣を取。但し関東の評定には、梶原平三は、侍大将軍にて九郎義経に付、土肥次郎は、侍大将軍にて蒲冠者に相従べしと被(レ)定たりけるに、実平は範頼を捨て九郎義経に付、景時は義経を離て、五百(ごひやく)余騎(よき)を引分て蒲冠者に属にけり。畠山は、元は九郎義経に打具して宇治川(うぢがは)を渡たりけるが、京にては蒲冠者に伴けり。今度一谷(いちのたに)へ発向には、畠山又範頼の手を引分て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて義経に付、其故は、梶原兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の気色誇して、諸国の侍共を手に握、我儘にと振舞ければ、景時に被(二)下知(一)事目ざましく思ける上、蒲冠者の軍将様、九郎御曹司には雲泥を論じて劣給へりとて、搦手にぞ付にける。九郎義経は此等が出入を見給(たまひ)て、梶原が義経を悪しとて出たれ共、畠山
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又返入たれば、よ(有朋下P370)しよし無(レ)利無(レ)損、同五百(ごひやく)余騎(よき)、武も剛も同事也。去共力は争か畠山に並ぶべきなれば、猶替勝りとぞ宣(のたま)ひける。三草山は山内三里也。源氏既(すで)に東山口に陣を取と聞えければ、平家は西の山口を固べしとて、大将軍には新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛、左少将有盛、備中守師盛、副将軍には平内兵衛清家、江見太郎清平を始として七千(しちせん)余騎(よき)、三草山を西の山口に馳向て陣を取。源平互に大勢にて、三里の山の中に阻て支へたり。
S3609 義経向(二)三草山(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕九郎義経、招(二)土肥次郎(一)て、軍は如何有べき、夜討にやすべき暁や寄べきと問給。土肥未物も云ざる前に、伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)田代冠者信綱と云者申けるは、平家はよも夜討の用意はあらじ、是程の大勢也、定て夜明にぞ軍はあらんずるとて、馬の足休め物具(もののぐ)甘げなんどして休らん、去ば夜討は能候ぬと存ず、敵は七千(しちせん)余騎(よき)と聞ゆ、御方は一万(いちまん)余騎(よき)、何事か有べき、夜の紛に押寄、踏散して通給へかしと被(レ)申ければ、土肥は、田代殿の御儀可(レ)然候、実平も角こそ存候へ、先制(レ)人、後為(レ)人制せらるとも云、一陣破残党不(レ)全とも申せば、先夜討に追落して不(レ)如(レ)乗(レ)勝と同じつゝ、此上はいかにと申せば、夫は元来(有朋下P371)義経が所存也、さはあれ共、一義二義を出して惣に味はゝするは故実也、去ば疾々急給へとぞ宣(のたまひ)ける。彼田代冠者と申は、俗姓は後三条院(ごさんでうのゐん)第四皇子御子、左皇有佐五代の孫とぞ承る。父為綱卿蒙(二)朝恩(一)伊豆(いづの)国司を給り、任国の神拝に下給たりけるが、暫在国の間、工藤介茂光が娘を思て儲たりし子也。任限の後は為綱は上洛しけれ共、信綱は未嬰児の事なれば、外戚の祖父工藤介夫婦是
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を憐て、伊豆国(いづのくに)にて養立ける程に、生年十一歳より流人兵衛佐(ひやうゑのすけ)の見参に入て、内外なき事にて御座(おはしまし)けり。石橋山の合戦にも、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の軍破て杉山へ入給けるに、祖父狩野介が首を取、伯父甥つれて萩野五郎を射払、佐殿の方へ馳参たる剛者也。木曾追討之時、軍兵多く被(二)指上(一)けるに、此田代冠者をば、自然の用心にとて鎌倉に被(レ)留たりけるが、木曾が合戦に勢多討手負て無勢也、猶軍兵を被(レ)副べしと関東へ申されたりけるに依て、九郎都に候へば、何事も被(二)仰含(一)候べしとて、後れ馳に狩野五郎に打具して、五百(ごひやく)余騎(よき)にて上洛せり。文は父方を学、武は外方を伝つゝ、兼帯公家武家、文武一双の達者なりければ角被(二)計申(一)けり。九郎義経は、さらば夜討にせよとて、一万(いちまん)余騎(よき)にて三草山を山越に、西の城戸へと打給。平家の方には、先陣こそ自夜討もやと用心しけれ共、後陣は明日の軍とて、甲を脱箙を解て枕として、打重々々前後(有朋下P372)挿絵(有朋下P373)挿絵(有朋下P374)も不(レ)知伏たりけり。源氏の兵は、幽なる山中を而も無案内にて、木の本いぶせき闇の夜に、過る事こそ難治なれ。上下嘆思けるに、軍将真先蒐て打給。大将も流石(さすが)始たる山なれば、武蔵坊々々々と召、弁慶(べんけい)前に進出たり。例の大続松用意せばやと宣ふ。軍兵等は不(レ)得(二)其意(一)けれ共、弁慶(べんけい)は用意仕て候とて、大勢に先立て、道の辺の家々(いへいへ)に追継々々火を指けり。火焔天に耀て地を照しければ、山中三里は此光にてするりと越にけり。誠に大続松とは今こそ人々心えけれ。既(すで)に子丑刻にも成ぬ。如(レ)法夜半の事なれば、くらさは闇し東西も不(レ)見けるに、夜討の声に驚て、平家取物も取あへず、甲を著て鎧をば棄、矢をば負て弓をば取ず、馬一匹には二三人取付て我先に
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と諍。弓一張には四五人取合て引折たり。主は従者を不(レ)知、親は子を省ず。適太刀を抜て適を斬と思へ共、目指とも知ぬ闇なれば、多は友討にこそ亡けれ。大将軍新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛は、大勢に追散されて、一矢を射までは不(二)思寄(一)、■々(はうはう)落て遁給たりけるが、面目なしとて福原へは入給はず、船に取乗讃岐屋島城へ渡り給。源氏は軍の手合に、門出能とて勇けり。虜共の首切て、西の山口に竿結渡して、百八十人を懸、(有朋下P375)
S3610 平氏嫌(二)手向(一)付通盛請(二)小宰相局(一)事
同五日備中守師盛、平内兵衛清家、大臣殿へ参給(たまひ)て、御方の兵共(つはものども)兼夜討有べき共不(レ)存之間、暁までとて休伏たる処に、源氏等(げんじら)如(レ)法夜半に推寄て散々(さんざん)に懸廻せば、不(二)思寄(一)俄事にて、我先々々にと落失ぬ。山手ゆゝしき大事の所に候、猶も手を向らるべきにて候と被(レ)申ければ、大臣殿浅増(あさまし)き事にこそとて、安芸右馬助(うまのすけ)基康を使にて、方々へ被(レ)仰けれども、面々に辞退申さる。能登殿へ被(レ)仰けるは、三草山既(すで)に夜討に被(レ)破ぬと申、一谷(いちのたに)をば貞能(さだよし)、家仲に仰付ぬれば、さり共と存ず、生田をば新中納言、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)固候ぬれば心安(こころやすく)覚ゆ、山の手には盛俊を遣しぬれ共、大事の所と承はれば心苦しく存る間、なほ手を向ばやと思侍るに、兵共(つはものども)が、大将軍一人もおはしまさでは悪かりなんと歎申に付て、人々に申せば、何の殿原も、悪所なれば向はじと申合する、如何し侍べき、且は身々の御大事(おんだいじ)也、被(レ)向候て兵共(つはものども)をも御下知あれかしと被(レ)仰たり。能登守の返事には、軍は相構て我一人が大事と存じて振舞だにも、時の臨悪き様の事多し、其に心々にて、悪所をば、不(レ)行不(レ)固と嫌、善方へは向はん守らんと申されんには、遂によかるべし共覚えず、悪所(有朋下P376)とて被(レ)簡、兵の命を惜にこそ、
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身をたばはんには軍場へ向ぬには不(レ)如、源平東西に諍て、命を限の軍なれば身命を惜むべからず、死はいつも同事也、人々の強し悪しとて嫌給処をば教経に預給へ、幾度も可(レ)固候、御心安(おんこころやす)く思召(おぼしめせ)とて、能登殿は三草山へぞ被(レ)向ける。誠に由々敷ぞ聞し。越中前司盛俊が仮屋の前に仮屋打て、敵を今や/\とぞ待懸たる。然程に五日も既(すで)に暮にけり。
源氏の大手は、昆陽野に陣を取て遠火を焼。平家は生田森に陣を取て向火を合す。彼方此方の篝火を、更行儘に見渡せば、晴たる天の星の如、沢辺の蛍に似たりけり。
越前三位通盛は、旅の仮屋にて物具(もののぐ)脱置て、小宰相局と申女房を船より被(レ)迎たり。何も会夜の度毎に、眤言尽ぬ中なれば、短き春の夜のうらめしさは、丑みつ計に成にけり。能登守は、宵程は骨なしと覚して不(レ)被(レ)申けるが、既(すで)に夜半も過ければ、高らかに、此手をば強方とて人々も辞申されつれ共、教経向へと候へば罷向ぬ、所の体を見に誠にこはかるべし、後は山々なれ共、平地にして下透たれば馬の馬場と云べし、前は海なれ共遠浅にて、船付わるくして船を難(レ)出、去ば敵後の山より跋と落さば、鎧を著たり共甲を不(レ)著、弓を取たり共矢をはげんに暇あるまじ、去ばこそ新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)も、西の山口をば落れけめ、帯紐解広げて思事なくおはする事勿体なし、女房(有朋下P377)の悲も子の糸惜も、身の豊なる時の事也、自然の事あらば如何はし給べき、其上九郎冠者は謀賢者にて、今もや夜討に攻来らん、御心得(おんこころえ)有べしと被(レ)申ければ、三位げにもと被(レ)思ければ、衣々に起別て、船へぞ被(二)返送(一)
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ける。三位討れて後にこそ是を最後と被(レ)泣けれ。
S3611 清草射(レ)鹿並義経赴(二)鵯越(一)事
〔同〕六日の未明、上の山より巌崩て落、柴の梢ゆるぎければ、城の中には、すはや敵の寄はとて、各甲の緒をしめ馬に騎、筈を取て待処に、雄鹿二雌鹿一つゞきて出来れり。能登守は、此鹿の下様を思に、一定敵が寄ると覚たり、爰(ここ)にはまん鹿だにも人に恐て深く山に入べし、深山(しんざん)の鹿争か人近く下るべき、菩薩を山の鹿に喩たり、招けども不(レ)来といへり、敵の近付る条子細なし、我と思はん者あますなと宣へば、伊予国住人(ぢゆうにん)高市武者所清章は、馬の上にも歩立にも弓の上手なる上に、而も猟師成けるが、折節(をりふし)射付馬の早走に乗たりけり。一鞭あてて弓手に相付て、箙の上ざし抜出して、雄鹿二は同草に射留つ、雌鹿一は逃てけり。不(レ)意狩したり、殿原草分のかふ、そしゞのはづれ、肝のたばね、舌根、(有朋下P378)鹿の実には能処ぞ、鹿食殿原と云けれ共、大形の怱々の上、軍場にて鹿食事憚あり、其上稲村明神とて程近く御座(おはしまし)ければ、松の二三本有ける本に棄置けり。其よりしてこそそこをば鹿松村とぞ名付けれ。大将軍の仰なれ共、只今(ただいま)の矢一は敵十人は防べし、清章が鹿射、由なし/\と口々に云ければ、高名も還をこがましく見けり。〔去(さる)程(ほど)に〕軍は七日の卯刻に矢合と被(レ)定たりければ、義経、田代冠者を招て宣ふ様、土肥次郎実平等を具して、七千(しちせん)余騎(よき)にて、一谷(いちのたに)西の城戸口、山の手を破給へ。義経は音に聞ゆる鵯越を落し候べしとて、佐藤三郎継信兄弟、江田源三、熊井太郎、伊勢三郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、片岡八郎為春、佐原十郎義連、後藤兵衛真基、源八広綱、武蔵坊
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弁慶(べんけい)等を始として、手に立べき究竟の兵三十(さんじふ)余騎(よき)を撰勝り、一万(いちまん)余騎(よき)が中より三千(さんぜん)余騎(よき)を相具して、三草山奥へ入、綱下峠打過て、青山にかゝり、折部山、鉢伏峯、蟻戸と云所へ向けり。軍将の其(その)日(ひ)の装束には、青地錦の直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧著て、鹿毛なる馬の太く大なるに、貝鞍置て乗給ふ。
 < 一説には、赤地錦の直垂に、黄返の鎧著て、宿鴾の馬の太く逞が、尾髪足れるに乗給。名をば青海波とて、東国第一の名馬と云云。 >
太夫と云黒馬には、白覆輪の鞍置て、労て引せらる。此黒は今度の上洛に鎌倉殿(かまくらどの)より得給へり。本名をば薄墨(有朋下P379)とぞ申ける。彼山道は、長山遥(はるか)に連て人跡殆絶たり。鵯越とて由々しき嶮難の石巌也。自鹿計こそ通けるに、軍将前に進で宣(のたまひ)けるは、義経が乗たる大鹿毛は、陸奥国にて名を得たる気高き逸物也、敵にあはん時は必此馬に乗べしとて、平泉を立し時、秀衡が我に得させたりき。鎌倉殿(かまくらどの)のたびたる薄墨にも、底はまさりてこそ在らめ、去ば宇治川(うぢがは)を渡し時も、此二匹の馬共は、鞍取より上を不(レ)濡、逸物也。さても我朝の名馬には、三日月、和琴、鳥形、浦々、荒磯、望月、宮木、大耳子、小耳子、夏引、小花なんど也。或は長七尺(しちしやく)にあまり、或は八尺なんど有けりと云ふ。満政が赤六、貞任が大黒も劣べし共不(レ)覚、音に聞ゆる鵯越の巌石、此馬のかけらざるべき所にしもあらじ、卯刻の矢合也、急や/\夜中にとて、伏木磯道をも嫌ず、木透を守て引懸々々、指窕て打給へば、我も/\とつゞきたり。去共六日の月は既(すでに)入ぬ、山嶮して大木茂り、岩高して道幽也ければ、手綱を引へて踉■(やすらひ)踉■(やすらひ)ぞ歩せける。九郎義経宣(のたまひ)けるは、御方の勢の中に、若此山の案内知たる者やあると問給ふ。答者なし。
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爰(ここ)に武蔵国住人(ぢゆうにん)別府小太郎忠澄、生年十八に成けるが、進出て申けるは、加様の事は先長達の申べき事に候、末の者申入事其恐侍れ共、親にて候し入道の常に教へ候しは、若者は聞も習へ、山越の狩をもせよ、敵をも攻よか(有朋下P380)し、山に迷たらんには、老たる馬を先に立て行べし、其必道に出なりと教訓申候き。今思出られ候、さもや有べかるらんと申ければ、御曹司、戯呼さる事聞侍り、斉国の桓公が胡竹の国を伐ちし時、深雪路を埋て帰事不(レ)叶けるに、管仲と云者、老馬を雪に放て道を得たりと云本文に叶へり、返々も神妙(しんべう)々々(しんべう)とぞ感じ給ける。爰(ここ)に同国住人(ぢゆうにん)平山武者所進出て、季重此山案内よく存知仕りて候、先陣給はらんと申。近打連たる土肥、畠山、熊谷等、取々口々に云けるは、武蔵国者が、今度始て西国(さいこく)の討手に下、今度始て此山を通る、西国(さいこく)初旅也、摂津国(つのくに)と播磨との境なる山の案内をば争知べき、得通の聖者に非、飛行の神仙にもあらじかしと笑ければ、平山云様は、鹿付の山をば猟師知、鳥付の原をば鷹師知、魚付の浦をば網人しり、知恵ある人をば智者ぞしる、吉野泊瀬の花の色、須磨や明石の月の影は、其里人は不(レ)知ども、数奇たる人こそ知る習なれ、於(二)諸事(一)道をば道が知事ぞかし。桃李不(レ)語、下自成(レ)蹊、況敵を招城の内、軍を籠たる山中には、剛者こそ案内者よとて、鞭を揚て先陣に進けり。兵共(つはものども)当座の会釈の面白さに、平山が詞傍若無人也、誰か心に可(レ)劣と計云捨て、各勇進けり。(有朋下P381)
S3612 鷲尾一谷(いちのたに)案内者事
〔去(さる)程(ほど)に〕九郎御曹司下知し給けるは、此山の足立極て悪し、鹿の落しも有らん、熊押なども上たるらん、悪所
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に懸て馬をも人をも不(レ)可(レ)損とて、武蔵坊弁慶(べんけい)と召。弁慶(べんけい)候とて進参す。装束には褐衣の直垂に、黒革威の鎧に、同毛甲に、三尺五寸の黒漆の太刀帯て、黒羽の征矢負て、塗籠の弓に、好長刀取具して馬より下、軍将の前にあり。元来色黒長高法師也。身の色より上の装束まで、牛驚く程に有ければ、焼野の鴉に似たりけり。やゝ弁慶(べんけい)承れ、木陰茂て道見えず、山の案内者尋てんやと宣へば、取定たる事もなきに、候なんとて馬に乗、乾に向て十余町(よちやう)歩はせ下つて谷の底を伺求に、幽に火の見けるを、打寄て見ればけしかる萱屋あり。内に七十余なる翁と六十余なる嫗と、腹掻出して火にあたり居たり。弁慶(べんけい)こわづくろひして事々敷申けるは、鎌倉兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、朝敵追討の院宣を給り御座によりて、軍兵を被(二)指上(一)間、平家都を落て此山に籠、則御弟の蒲御曹司大手に向給ぬ、九郎御曹司搦手として、此上の山に御座、案内者に参との御使に、武蔵坊弁慶(べんけい)とて古山法師の怖者が来れり。疾々可(レ)参也と云。老人急起上て、烏帽子(えぼし)打著て(有朋下P382)申けるは、若侍し時は、摂津国(つのくに)丹波山々暗き所なし、春夏はねらひ射、秋冬は笛待落しくゝり押上、犬山など申て、昼夜に山に侍しかば、木根岩角知ぬはなし、年闌身衰て、此二十余年は不(二)弓引(一)、行歩不(レ)叶候、子息の小冠者は不敵の奴、案内よく知て候らん、被(二)召具(一)べしとて、片屋に有けるを呼起して心を含て進せけり。柿の衣物に同色の袴、節巻の弓に猿皮靭、鹿矢あまた指て半物草をぞはきたりける。弁慶(べんけい)に相具して参たり。続松とぼして見給へば、頬骨あれて輔車たかく、まかぶら覆うて勢大なり。御曹司は、如何に汝が居所をば何くと云ぞ、年はいかに
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と問給へば、歳は生年十七、居所は山鼻が指覆て、鷲の貌に似たりとて、鷲尾と申付て候。さて汝が親には嫡子か末子かと、名乗はいかにと問給へば、名は未(レ)付、親には三郎に相当候と申。旁聞召(きこしめし)て、仏の正法説給し処、鷲に似たれば鷲峯山と被(レ)号、達多が邪法を弘めける砌(みぎり)は、象の頭に似たりとて象頭山と呼けり。震旦には、香炉に似たる山とて香炉山、竜の臥るに似たりとて驪竜山、我朝には比叡山(ひえいさん)は長ければ長柄山、金獄は金の多ければ金峯山と名を得たり。様無にしもあらず、去ば汝をば鷲尾三郎と云べし、名乗は我片名に父が片名を取て経春と付べし、片岡と同名なれ共、多き人なれば事かけじ、只今(ただいま)烏帽子親(えぼしおや)の引出物とて、花憐木の管に白金(有朋下P383)筒の金入たる刀に、鹿毛の馬に鞍置て、赤革威の甲冑小具足付て給たりけり。是より思付奉て、一谷(いちのたに)の案内者より始て八島、文司関、判官奥州(あうしう)へ落下給し時、十二人の虚山伏の其一也。老たる親をも振捨て、悲き妻をも別つゝ、奥州(あうしう)平泉の館にして最後の伴をしたりしも、情ある事とぞ聞し。或人の云けるは、摂津国(つのくに)源氏にて、如(レ)形所領の有けるを、難波(なんばの)次郎(じらう)に被(二)押領(一)山林を狩て此に住けるとぞ云ける。
 < 異説に云、三草山の夜討の時、虜多かりける中に、斬べきをば被(二)斬棄(一)、可(レ)被(レ)宥をば木の本に結付て、山案内者にとて、兵具をば不(レ)許召具し給(たま)ひたりける。男を引出し問給けるは、抑和俗は平家伺候の家人か、国々の駈武者かと。是は平家之家人にも非ず、又駈武者にも侍らず、播磨国、安田庄下司、多賀管六久利と申者にて候が、重代の所領を平家侍越中前司盛俊に被(二)押領(一)て、年来訴申候へ共、理訴を権威に被(レ)押、妻子を養ふ便なければ此山に住、鹿鳥を捕て世を渡り侍つる程に、懸る源平の御合戦と
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承れば、軍に交つて疵をも蒙り、命をも失たらば、子孫の安堵にも成候へかしとて、自然に伴たりと申。偖ば汝を深く山の案内者には憑、所領の安堵子細あらんとて、誡を免して、馬鞍兵具たびて被(二)召具(一)たりけり。問答鷲尾三郎が如し。平家亡て後、九郎判官加(二)判形(一)、安田庄の安堵を給と云云。 >
御曹司(有朋下P384)は、如何に鷲尾、山の案内はと問給ふ。此山をば鵯越とて極たる悪所、左右なく馬人通るべし共覚ず、上七八段は屏風を立たる様にて、白砂交の小石なれば、草木不(レ)生、馬の足留がたし、夫より下五六段は岩磯にて、人だにも難(レ)通と申す。さて此山には鹿は無か、彼悪所をば鹿は通らずやと問給ふ。鹿こそ多候へ、世間寒く成候へば、雪の浅りに■(くらは)んとて、丹波の鹿が一谷(いちのたに)へ渡り、日影暖に成ぬれば、草の滋みに臥さんとて、一谷(いちのたに)より丹波へ帰候也と申す。さて其下には落堀ひしなど植たりやと問ば、去事承らず、御景迹候へかし、馬も人も通べき所ならねば、争其用意侍べきと答。御曹司は是を聞給(たま)ひ、殿原さては心安(こころやす)し、やをれ鷲尾、鹿にも足四、馬にも足四、尾髪の有と無と、爪の破と円と計也。西国(さいこく)の馬は不(レ)知、東国の馬は鹿の通所は馬場ぞ、打や殿原とて、岩の鼻岸の額、馬の足を手綱に合て馳落し馳上、尻輪に乗懸前輪に平み、引居引詰、鞭と鐙と打合せ打乱し、狼の如くに翔り虎の如くに走て、北の山の下にぞ至りける。義経兵法其術を得て、軍将其器に足り、相従ふ者又孟賁の類樊■(はんくわい)の輩成ければ、連て同通にける。二月上の六日の事なれば、月は宵よりはや入ぬ。木陰山陰(やまかげ)暗して、夜も五更(ごかう)に及けれ共、鷲尾に被(レ)具て、敵の城(じやう)の後なる鵯越をぞ登ける。鷲尾東に指
P0905
て申けるは、あれにほの見え候は(有朋下P385)河尻、大物浜、難波浦、昆陽野、打出浜、西宮(にしのみや)、葦屋里と申、南は淡路島、西は明石浦、汀(みぎは)に続て火の見しは平家の陣の篝火、此下社一谷(いちのたに)よ、東西の城戸の上、東岡をば平■(へいりう)とて、海路遥(はるか)に見渡して、眺望殊に面白ければ、望海楼をも構ぬべし、西の岡をば高松原とて、春の塩風身に入て、秋の嵐の音冷き所也とぞ申たる。軍兵を漫々たる海上に見渡し、渚々の篝の火、海士の篷屋の藻塩火やと、最興ありて思けるに、鷲尾角申つゞけたれば、御曹司は武き事がらも、優なる詞をも感じ給つゝ、皆紅に日出したる扇を以鷲尾にたび、是にて敵を招き高名仕れ、勲功は乞によるべしとぞ宣(のたまひ)ける。空も未ほの晩かりければ、暫爰(ここ)にて馬の足をぞ休めける。
 < 異説には、扇を多賀菅六久利にたびて、安田庄の下司、不(レ)可(レ)有(二)子細(一)と宣(のたま)ひけり。>
大手の勢は、宵の程は昆陽野に陣を取たりけるが、三草山の手に向たる越前三位、能登守の陣の火を、湊河より打上て、北の岡に燃たりけるを、搦手已(すでに)城戸口に馳付給へりと心得(こころえ)て、打や/\とて、我先に/\と五万余騎(よき)、手毎に松明捧て急けり。所々に火を放ければ、汀(みぎは)につゞき海上に光て、身の毛竪て夥(おびたた)し。七日の暁は、源氏大手搦手挟みて東西の城戸口まで攻寄たり。(有朋下P386)
S3613 熊谷向(二)大手(一)事
〔去(さる)程(ほど)に〕六日の夜半計に、熊谷は子息の小次郎(こじらう)を近く招て私語(ささやき)けるは、明日の軍は磯を落んずれば、打こみの合戦にて、誰先陣と云事あらじ。又馬損じても由々しき大事、一方の一陣を懸て、鎌倉殿(かまくらどの)にも聞え奉、子孫のため名をも挙ばやと思也。宇治川(うぢがは)にても先陣を志行桁を渡しに、佐々木四郎、生■(いけずき)と云土竜
P0906
に乗て渡しかば、直実二陣にさがりぬ、心憂かりしか共、身独が事ならねば自害するに及ばず、又向の岸より馬を遅越たりしかば、九郎御曹司と相共に院(ゐんの)御所(ごしよ)へも不(レ)参、旁本意を失ひき。去ば潜に此手をば出て、音に聞える播磨大道の渚(なぎさ)に下て、一谷(いちのたに)の城戸口へ先陣に寄ばやと思は如何が有べき、矢合は卯刻也、今は寅の始にもなるらんと覚ゆ、さもあらば急がんと云。小次郎(こじらう)は、直家も存処にて候、平山が山案内者たててひしめき候つるも音もせず、よに奇く覚候、其上此殿は郎等に先陣懸さする事おはしまさず、自一陣を懸給ふ時に、此殿に連たらん侍共の、先陣つとめて高名する事は難(レ)有覚候、疾々急給へと勧む。熊谷は子ながらも、あの年齢にはしたなく思もの哉と思。さらば小次郎(こじらう)同心ぞとて、搦手をば密に出て、渚々の篝火を(有朋下P387)験として大手へとて下りけるが、内々平山が陣を見せければ人なしと云。さればこそ平山も大手を志て一陣を蒐ると思にこそ、急々とて、旗指具して親子三騎、坂を下に歩せたり。熊谷は褐鎧直垂(よろひひたたれ)に、家の紋なれば、鳩に寓生をぞ縫たりける。黒糸威(くろいとをどし)の鎧に同毛の甲、大中黒の征矢に二所籐弓を持、紅の母衣懸て、権太栗毛に乗たりけり。此馬は、熊谷が中に権太と云舎人あり。李緒が流をも不(レ)習、伯楽が伝をも不(レ)聞けれ共、能馬に心得(こころえ)たる者成ければ、召向て、当時に源平の合戦あるべし、折節(をりふし)然べき馬なし、海をも渡し山をも越べき馬尋得させよと云て、上品の絹二百匹持せて奥へ下す。権太陸奥国一戸に下て、牧の内走廻て撰勝つて、四歳の小馬を買たりけり。長こそちと卑かりけれ共、太逞こたへ馬の、はたはりたる逸物也。
P0907
さてこそ此馬をば権太栗毛とは呼けれ。
 < 燕昭王は、五百両の金にて、駿馬の骨を買てこそ駿足後に至りけれ、熊谷直実は二百匹の絹を以て、栗毛の馬を商なひて、軍陣の先を懸にけり。 >
子息小次郎(こじらう)は、練貫に沢潟摺たる直垂に、ふし縄目の鎧著て、妻黒の征矢重籐の弓持て、是も紅の母衣懸て、白浪と云馬に乗たりけり。此馬は奥州(あうしう)姉葉と云所に、白波と云牧より出来たる上に、尾髪飽まで白ければ白浪と名けり。権太栗毛に上下論じたる逸物也。又西楼と云秘蔵の馬あり。後(有朋下P388)戸風と云舎人男に引せたり。権太栗毛いかなる事もあらん時はとて、乗替の料に引せたり。白き馬の太逞が、尾髪飽まで足れり。三戸立の馬也。余に秘蔵して、仮居の西に厩を立て、昼は人目を憚て、夜は引出し愛しければ、馬の白きを月に喩、西の厩を楼に喩へ、西楼とぞ号けたる。熊谷兼て舎人に云含けるは、乗たる栗毛は終夜(よもすがら)山坂馳たる馬なれば、明日の軍には西楼にのるべし、其意を得べき也、狩場に出て鹿を射に、先なる鹿をとほしぬれば、射手手迷して次々の鹿やすく通る、軍は重々城を構たれ共、一の城戸を破ぬれば、後陣の兵武く勇と、鎌倉殿(かまくらどの)被(レ)仰しかば、千万騎軍も籠れ、我は城戸口をば離るまじきぞ、西楼をば引儲よとぞ下知しける。旗差は、秋の野摺たる直垂に、洗革の鎧著て、鹿毛馬に黒鞍置て乗。主従三騎打連て、播磨大道の渚(なぎさ)と志て下けるに、小峠坂の人宿りに、人あまた音しけり。忍聞ければ平山と成田と也。此等も大手へ行にやと心得(こころえ)て、物具(もののぐ)裹み轡とらへ、峠の下七八段打
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下、深く忍て通けり。其後はいとゞうしろいぶせく覚て、鞭に鐙を合せければ、寅の終に一の城戸口へ馳付たり。くらさは暗し敵に未(二)出合(一)、御方に続く勢はなし、只三騎ぞ引へたる。夜半の嵐に誘れて、寄来波ぞ高かりける。木綿付鳥の音もせず、明行鐘の響もなし。やもめ烏のうかれ声、渚(なぎさ)の鵆音信(おとづれ)(有朋下P389)て、武き心の中までも、物哀にぞ覚しける。さても城の構ぞ夥(おびたた)しき。山の岸より海の遠浅まで大なる岩を取積て、岩の上に大木を切伏、其上の櫓を二重にかいて狭間を開たり。上には楯を並て兵共(つはものども)矢たばね解、弓張立て並居たり。下には岩の上に逆茂木を引懸て、郎等下部まで熊手薙鎌持て、あと云ばさと出べき体成けり。其後には鞍置馬二三十里に引立て其数を不(レ)知、其と云ばつと可(二)引出(一)様也。南の海の浅所には大船を傾て、其を便として櫓を隙なく掻、深所には儲(レ)舟、数万艘(すまんさう)うかべたり。蒼天に行を乱せる雁の如くなり。大形高所には弩を張柵を掻、卑所には堀ほりひしを植、屋形(やかた)屋形(やかた)の前には、此にも彼にも赤旌立並て、天に耀き地を照せり。鬼神と云共輙難(レ)落こそ見えたりけれ。(有朋下P390)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十七

P0909(有朋下P391)
佐巻 第三十七
S3701 熊谷父子寄(二)城戸口(一)並平山同所来付成田来事
熊谷父子城戸口に攻寄て、大音揚て云けるは、武蔵国住人(ぢゆうにん)熊谷次郎直実、同小次郎(こじらう)直家生年十六歳、伝ても聞らん、今は目にも見よや、日本(につぽん)第一の剛者ぞ、我と思はん人々は、楯面へ蒐出よと云て、轡を並べて馳廻けれ共、只遠矢にのみ射て出合者はなし。熊谷城の中を睨へて申けるは、去年の冬、相模国(さがみのくに)鎌倉を出しより、命をば兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に奉り、骸をば平家の陣に曝し、名をば後代に留んと思き、其事一谷(いちのたに)に相当れり、軍将も侍も、我と思はん人々は、城戸を開き打て出て、直実、直家に落合、組や/\と云へ共、出者もなく名乗者もなかりければ、此城戸口には恥ある者もなき歟、父子二人はよき敵ぞ、室山、水島二箇度軍に高名したりと云なる越中次郎兵衛、悪七兵衛等はなき歟、所々の戦に打勝たりと宣ふなる能登殿はおはせぬか、高名も敵によりてする者ぞ、流石(さすが)直実父子には叶はじ者を、穴無慙の人共や、いつまで命を惜らん、出よ組ん出よくまんといへ共、高櫓(有朋下P392)の上より城戸を阻て、雨の降が如にぞ射ける。熊谷小次郎(こじらう)に教へけるは、汝は是れぞ初軍、敵寄すればとて騒ぐ事なかれ、射向の袖を間額にあてよ、あき間を惜て汰合よ、常に鎧つきせよ、立はたらかで裡をかゝすな、あふのき懸て内甲射さすな、指うつぶきて手返射らるな、賢かれとぞ申ける。直実は小次郎(こじらう)を矢前(やさき)にあてじと、鎧の袖をかざし
P0910
て立隠せば、家直は父を孚て、前に進て箭面に立、武心の中にも親子の情ぞ哀なる。かく寄て一軍したりけれ共、夜は猶深し、城戸口は不(レ)開、御方も未続ねば、死る命は何も同事なれ共、晩闇に証人もなく死にたらんは、正体なしと思ければ、明るを遅と侍居たり。
平山も熊谷が心に少も不(レ)違、先陣を心に懸て、三草の閑道にかゝりて浦の手に打出て、後陣を待て城戸口を破らんと思ひ、あれこそ浦へ出る道よと云ける計を聞、大勢をば弓手に見なし、三草の山を打過、尾一つ越て、須磨の浦を指てうつ程に、先立て武者一人歩せ行。あれは誰ぞと問ければ、景重と答。成田五郎にてぞ有ける。成田思ひけるは、平山が馬は聞ゆる逸物也、我馬は弱ければ、打つれて先陣蒐事叶ふまじ、たばかり返さんと思て、馬の鼻を引返て平山に云けるは、高名は大手搦手に依まじ、聞が如きは平家の大勢、なほ三草小野原越に向て、両方より指合せ、源氏を中に取籠て洩じと支度する也、(有朋下P393)誠に被(二)取籠(一)なばゆゝしき大事也、其上大勢の中を忍出て先を蒐たりとても、誰かは証人に立べき、後陣の勢を相待て、先陣をこそ蒐べけれと云ければ、げにもさるべしとて、暫く休居たれば、成田白地なるやうにもてなして、甲の緒をしめて進行。平山は、我をたばかるにこそと思て、馬に打乗、鞭に鐙を合て行ければ、成田今は叶はじと思ひて、へらぬ体にもてなし、誠は家正馬弱て、如何にも御辺(ごへん)に先せられぬと思つれば、たばからんとて申たり、強からん乗替一匹たべ、命生たらば後の証人にもし給へかしと云けれども、平山耳にも不(二)聞入(一)、成田を弓手に見成て打ち通りける
P0911
が、遥(はるか)に延て思けるは、成田が馬を乞つれ共、余(あまり)の悪さに返事いはざりつる事情なし、見合たらば取て乗かしとて、宿鴾毛なる馬の五臓太なるが、七寸(しちすん)に余たるに鞍置たるを、道の耳なる木に繋付てぞ通りける。成田此馬を見て、同じくれば早くれて、共に打つれて行なましと、一人言して打乗つつ、鞭を打てぞ馳行ける。
熊谷暫休みて小次郎(こじらう)に云けるは、実や平山も打こみの軍をば不(レ)好、小手向に音のしつるは、一定爰(ここ)へぞ来らんずる、城戸口開事あらば、相構て先蒐らるなと云教ゆ。平山は成田をば打捨て、山の細道分行ば、暗さは闇し、さしうつぶき/\見ければ、薄氷を踏破て馬の通る跡あり。既(すで)に熊谷に先懸られぬよと本意なく(有朋下P394)て、いとゞ馬をぞ早めける。其(その)日(ひ)の装束には、重目結の直垂に、赤威の鎧著て、二引量の母衣を懸て、目油馬にこそ乗たりけれ。熊谷は西の城戸口浜の際に扣へて、誰かは先をば蒐べき、はや城戸口を開けかしとぞ相待ける。後の方に馬の足おと、人影のする様に覚えければ、雲透に是を見るに、武者二騎馳来れり。近付を見れば平山也。案に不(レ)違と思て、いかに平山殿歟。季重、問は誰ぞ、熊谷殿歟。直実と名乗合、共に一所に寄合たり。平山熊谷に語けるは、打籠の軍は剛臆見えず、如何にも追手にて鍔金顕さんと思て、子時に山の手を忍出たりつれば、寅時には爰(ここ)へ来付べかりつるを、小手向にて成田来て申様、御辺(ごへん)は追手へ向給ふ歟、誰もまかるぞ打列給へ、只一人敵の中へ打入たり共、証人なき所にて死たらば、なにともなき徒事、犬死とは左様の事也、御方のつゞきたらん時に、先
P0912
を懸命を捨てこそ我も人も高名にて子孫に勲功もあらんずれ、闇討に射殺されては、且は嗚呼の事、卯の始の矢合といへ共、辰の始にぞあらんずる、是非軍は夜の凌晨(しののめ)、暫此にて馬労り後陣を待給へ、家正も休と云つれば、げにもさりと思て、暫峠に下居て、腹帯くつろげ甲脱で、人宿に休程に共に休、暫ためらひて、成田甲打著、馬に乗坂を上、先にすゝむ時に、我をたばかるにや、悪き事也、其義ならば劣まじと言を(有朋下P395)懸て、馬に乗一鞭あてて追並、鐙の鼻にて成田が馬を一摺すらせて先立つれば、馬を所望しつる間、悪くけれ共道に馬を繋せて先立たり。彼は谷河を下に、西の尾を北へ廻つれば、今十二十町はさがりぬらん、されば如何にも弓箭取身はよき馬を可(レ)持也、季重は馬は武蔵国姉埣立の名馬也。左の目にちと篠突のあれば目油毛と申。熊谷殿の御馬と勝劣あらじと語りつゝ、共に夜の明るをぞ待居たる。去(さる)程(ほど)に成田五郎も主従三騎にて追来れり。各浜際に打並て、渚(なぎさ)に寄来白波に、馬の足洗はせて、城内をきけば、櫓の上に伎楽を調べ管絃し、心を澄して被(レ)遊けり。夜深更に及で山路に風やみ、海上に水静なれば、寄手の者共も弓杖にすがりて是を聞。熊谷感じて云けるは、実や大国にこそ、軍の庭にして管絃し、歌を詠じ調子を糺し、勝負を知ると云事は有なれ、我朝には未其例を聞ず、哀げに上搏s人は情深く、心もやさしき事哉、斯る乱の世の中に、竜吟鳳鳴の曲を調べ、詩歌管絃の興を催す事の面白さよ、我等(われら)いかなれば邪見の夷と生れ、いつまで命を生んとて、身には甲冑をはなたず、手には弓矢を携て、加様の人に向奉り、闘諍の剣を研事の悲さよとて、涙ぐみけるこそ
P0913
哀なれ。去(さる)程(ほど)に夜もほの/゛\と明にけり。(有朋下P396)
S3702 平家開(二)城戸口(一)並源平侍合戦事
平山、熊谷に云けるは、城の構様を見に、二重の櫓には平家の侍、国々の兵共(つはものども)並居たり、高岸に副て屋形(やかた)を並て大将軍御座、海には石を畳重て、大船共を片寄置り、上には櫓を掻り、城戸口には逆茂木重重に引廻してひらかねば、輙く蒐入事叶難し、如何すべきと云程に、城内の兵共(つはものども)の評定しけるは、熊谷父子と名乗て、組ん組んと■(ののし)るを、此陣固ながら漏さん事云甲斐なし、さりとて大勢にも非ず、只三騎也、さて又後陣の大勢の連にもあらず、東国にはげに是等こそ名ある者にて有らめ、日本(につぽん)第一の剛者と名乗をば、如何空は返すべき、いざ殿原、熊谷父子虜にして、大臣殿の見参に入れんと云。然べしとて、越中次郎兵衛尉盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経、後藤内定綱已下、早り雄の若者共二十三騎、城戸口の逆母木(さかもぎ)を引却させて、轡並て喚て蒐出ける処に、平山は波打際より馬を出して、主従二騎懸出つゝ、武蔵国住人(ぢゆうにん)平山武者所季重、角こそ先をば懸れとて、城戸口へぞ馳入たる。城内の者共は、熊谷鬼神成共、廿余騎(よき)の勢にては手取にせんと見る所に、指違て平山と名乗て懸入ければ、廿三騎も平山(有朋下P397)に付て内に入。城中(じやうちゆう)には、源氏の大勢に城戸口を破られぬと心得(こころえ)て引退。櫓の上より是を見て、敵は二騎ぞ痛な騒そとて、矢をはげ射んとすれ共、御方は多し敵は二騎、一所にたまらず、電なんどの様なれば、弓を引てはゆるし、引ては免しけれ共、矢のあて所はなかりけり。櫓にて下知しけるは、平山と名乗は、本所経たる名ある侍、よき敵ぞ、其男取て引落せ、中
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に坂東者は馬の上にてこそ口は聞共、組で後には物ならじ、落合へ/\殿原と、両方の櫓の上より進けれ共、平家の侍の乗たる馬は、船にゆられ飼事は希也、乗事は隙なし。日数は遥(はるか)に経たり。平山が目油馬は、勇嘶たる大馬の、狂象のたける様に、弓手妻手を嫌ず、一所にとまらず馳ければ、相構てあてられじとぞためらひける。まして落合までは思よらず、熊谷父子は、二十三騎が後を守て喚て蒐。二十三騎は平山をば内はに成して、取て返て熊谷に向ば、平山又喚て蒐。二十三騎は熊谷を外様に成して、取て返して平山に向ば、熊谷又をめきて蒐く。三廻四廻くるり/\と廻たれ共、何にも不(レ)組して、終には敵五騎(ごき)をば、外様に成てぞ禦たる。熊谷は平山を休めんとて、暫和殿は気を継給へとて、父子二人面に立て散々(さんざん)に戦。左右櫓より射ける箭は、雨の足の如くなれども、冑に立ば裏かゝず、あきまを射ねば手を負はず。越中次郎兵衛尉盛嗣、好装束(有朋下P398)なれば、紺村紺の直垂に、赤糸威の鎧著て、白星の甲に、葦毛の馬に乗、先に進て、熊谷に打並て組まんずる様にはしけれ共、熊谷父子は上食しつゝ、間もすかさず待懸て、父に組ば直家落合、子に組ば直実落重なるべき気色にして、少も退かざりける頬魂、叶じとや思けん、盛嗣一段計を阻て申けるは、大将軍に遇てこそ命をも捨め、和君に不(レ)可(レ)有(二)組事(一)と云。熊谷勝に乗て、きたなし盛嗣よ、直実をだにも恐てくまぬ者が、大将軍にくまんと云はへらぬ体の詞か、先直実にくんで、源氏の郎等の手の程見よやと云けれ共、盛嗣終に組ずして、廓ぬ体にて引へたり。悪七兵衛景清は、盛嗣が不(レ)組けるを悪しとや思けん、次郎兵衛をば妻手になし、
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渚(なぎさ)の方より熊谷に組んと喚て懸ければ、直実父子景清に目を懸て進ける有様(ありさま)は、鬼をすに指て食んずる景気也。既(すで)に組んとしけるを、次郎兵衛、やゝ七郎兵衛殿、君の御大事(おんだいじ)是に限まじ、あれ程のふて癩に会て、命を捨ん事無益也、止まり給へ無(レ)詮無(レ)詮と制しければ、悪七兵衛も事がらには出たりけれ共、何がして留らんと思処に、角制しければ立止て不(レ)組けり。其外二十三騎の者共、口々には■(ののしり)けれ共、熊谷平山に近付よる者はなし。共に武蔵国住人(ぢゆうにん)、直実季重日本(につぽん)第一の剛の者、一人当千(いちにんたうぜん)の兵と名乗て、逸物の馬共に乗たれば、爰かとすれば彼にあり、彼かとすれば此(有朋下P399)にあり、二三疋が走廻ける有様(ありさま)は、四五十疋が馳違ふに似たり。平家侍組事は不(レ)叶して馬を射る。熊谷馬の腹を射させて頻(しきり)に駻ければ、足を越て下立、落合へ/\といへ共終に人落合。小次郎(こじらう)は、父が馬に矢立ぬとみてければ、今は最後と思切て、二の垣楯の際まで押寄て、熊谷小次郎(こじらう)直家生年十六歳、軍は今日ぞ始、くめや者共落合へ人共と云ければ、平家の侍共、狐の子は頬白と、親に似たる不敵者哉、聞ば十六と云、誠にさ程にぞ成らん、あますなとて散々(さんざん)に射ける矢に、小肱を射させて引退。熊谷は小次郎(こじらう)手負ぬと思、打寄て見ければ、直家父に向て此矢抜て給へと云。熊谷是は非(二)痛手(一)、暫ししこらへよ隙のなきぞと云捨て、又喚て攻入戦けり。
平家追討の軍兵今度上洛の時、鎌倉殿(かまくらどの)の侍所にて評定あり。十五六は少、十七以上は可(二)上洛(一)と被(レ)定たりけるに、小次郎(こじらう)は十六也、有の儘に申ては御免あらじ、十七と名乗て父が伴せんと思ければ、鎌倉
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にて其定に申。父も我身の伽にもせん、軍をもし習へかしと思ければ、同(おなじく)十七と申て、西国(さいこく)まで具したりけれ共、一谷(いちのたに)にては、実正に任せて十六歳とぞ名乗ける。
平山は暫し休みて馬をも気を継せけるに、熊谷は馬を射させて歩立に成。小次郎(こじらう)も手負ぬと見ければ、又入替て戦けり。旌指は黒糸威(くろいとをどし)の鎧に三枚甲を著たり。馬より真倒に被(二)射落(一)たりければ、不(レ)安思て、余(有朋下P400)の者には目を不(レ)懸、旗指が敵に押並べ、引組で馬の上にて頸を切、手に捧、一人当千(いちにんたうぜん)の兵平山武者所季重、一陣懸て敵の首取て出づ、剛者の挙動見よや殿原、我と思ん者組や者共とて、城の外へこそ出にけれ。誠に由々敷ぞ見えたりける。平山が二度の蒐とは是也けり。平家の侍共、平山一人をば安く討べかりけるを、後に熊谷ありけるをいぶせく思て、終に漏して出しにけり。後日に関東にて、一陣二陣の諍ありけるに、熊谷は城戸口へ寄事は一陣、平山は城の内に蒐入事一陣、而も敵の頸を取、甲は何れも取々なれ共、平山先陣に定りけり。
其後成田五郎三騎にて押寄て、一戦して出にけり。次に白旗一流上て、五十(ごじふ)余騎(よき)にて馳来る。熊谷誰人ぞと問へば、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)村上二郎判官代(はんぐわんだい)基国と名乗て、一時戦て出づ。此等を始として、高家には秩父、足利、三浦、鎌倉、武田、吉田、党には小沢、横山、児玉党、猪俣、野与、山口の者共、我も我も白旗さゝせて、十騎(じつき)二十騎(にじつき)百騎二百騎、入替入替劣じ負じと戦けれ共、西国(さいこく)第一の城(じやう)なれば、可(レ)落様こそなかりけれ。赤旗白旗相交り、風に靡ける面白さは、竜田の山の秋の暮、白雲懸る紅葉ばや、
P0917
梅と桜と挑交て、花の都に似たりけり。喚叫音山を響し、馬の馳違ふ音如(レ)雷、太刀長刀のひらめく影如(レ)電。組で落る者もあり、矢に当て死者もあり。指違へて臥者もあり、蒙(有朋下P401)(レ)疵て退者もあり、源氏も平氏も隙ありと見えず。源平此にて多討れにけり。
S3703 景高景時入(レ)城並景時秀句事
〔去(さる)程(ほど)に〕大手の大将軍蒲御曹司後陣に引へて、武蔵相模の若者共、敵に息な継せそ、責よ蒐よと下知し給へば、三百騎五百騎(ごひやくき)、入替々々喚叫て戦けり。天帝修羅の合戦も、角やと覚て恐しや。敵の頸を取る者は、気色して城戸に出。主親を討せたる者は、涙を流して引退。馬を射させたる者は歩立にて出るもあり、蒙(レ)疵者は、人に被(レ)助て出るもあり。寄る時には旗指あげ、名対面して入けれ共、引時は又旗かき巻て出るとかや。梶原平三景時が二男に平次景高、一陣に進んで責入る。大将軍宣(のたまひ)けるは、是は大事の城戸の口、上には高櫓に四国九国の精兵共を集置たるなるぞ、■(あやまち)すな、楯を重馬に冑を可(レ)著、無勢にしては悪かりなん、後陣の大勢を待そろへて寄べしと下知し給へば、人々承り継て、大将軍の仰也、勢を待儲て寄給へといへば、梶原はきと見かへりて、
  武士のとりつたへたる梓弓引ては人の帰る物かは K186 
と詠じて、城戸口近く押寄て散々(さんざん)に戦。是を見て、党も高家も面々に、轡を並て三千(さんぜん)余(有朋下P402)騎、我先々々にと攻付たり。白旌其数を不(レ)知指上たれば、白鷺の蒼天に羽を並るが如し。平家は高櫓より矢衾を造て散々(さんざん)に射。城は究竟の城(じやう)也。生田杜を一の城戸と定て、三方には堀をほり、東の方に引橋渡して、重々に
P0918
逆木(さかもぎ)を曳、北の山本より南の海の際まで垣楯掻、矢間をあけて、一口こそ開たれ。城の内へ入るべき様もなかりけるに、武蔵国住人(ぢゆうにん)篠党に、河原太郎高直、同(おなじく)二郎盛直、兄弟二人馳来て馬より飛下、藁下々をはき、木戸口に責寄て、今日の先陣と名乗て逆木(さかもぎ)を登越々々、城の内へ入けるを、讃岐国住人(ぢゆうにん)真鍋五郎助光、弓の上手精兵の手足成ければ、木戸口に被(二)撰置(一)たりけるが、さし顕れて能引、暫竪て放つ矢に、河原太郎が弓手の草摺の余を射させて、弓杖にすがりて立すくみたりけるを、弟の次郎つと寄、肩に引懸て帰けるを、助光二の矢を以て、腰の骨懸て冑かけず射こみたりければ、兄弟逆木(さかもぎ)のもとに、太刀の柄を把て並居たり。真鍋が下人是を見て、櫓の下よりつと出て落合けれ共、二人ながら痛手なれば、左も右も戦に及ずして、二人が頸はとられにけり。心の甲は熊谷、平山に劣らずこそ思ひけれ共、運の極に成ぬれば、敵一人も不(レ)取して討れけるこそ無慙なれ。同国猪俣党に、藤田三郎大夫行安、つゞきて逆木(さかもぎ)を登越んとしけるを、真鍋引固て放矢に、同此にて討れにけり。藤田(有朋下P403)が妹の子に江戸四郎と云者あり。今年十七に成けるが連て蒐入、散々(さんざん)に戦程に鎧の胸板(むないた)を射られて弱る処を、阿波民部大輔成良が甥に、桜間外記大夫良連が手に討れぬ、人見四郎も此にして討れにけり。勲功の時、河原太郎と藤田行安が子共に、生田庄を給、其墓所の為也。今の世までも彼社の鳥居の前に、堂塔を造立して菩提を弔ふとかや。真鍋五郎は櫓より下、河原兄弟二人が首を手鋒に貫、木戸の上に昇、高く捧て、源氏の殿原是を見よ、進敵をば角こそ取、つゞけ/\と招たり。梶原是を聞、口惜
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人共也、つゞく者がなければこそ兄弟二人は討れたれとて、五百(ごひやく)余騎(よき)にて押寄せつゝ、足軽四五十人に腹巻きせ、手楯つかせて、曳声出して逆茂木を引除。爰(ここ)に討れたる鎧武者一人あり、見れば藤田小三郎大夫行安也。穴無慙、敵に首とらすな隠せとて、沙の中に堀埋て、後に角と云ければ、子息郎等共(らうどうども)堀起て、生田庄に納てけり。櫓よりは逆木を引せじと、矢衾を造て是を射る。寄手は是を引せんと、指詰指詰矢倉を射る。是や此天帝須弥より刃を雨し、修羅大海より箭を飛すらん戦なるらんと夥(おびたた)し。両方の箭の行違事は、群鳥の飛集れるが如し。懸けれ共、足軽共一つ二つと引程に、逆木をば遂皆引除にけり。梶原は、今は軍庭平也、寄せよ者共とて、子息の源太相具して五百(ごひやく)余騎(よき)、喚て中へぞ入にけ(有朋下P404)る。此手には中納言父子、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)、大将として御座(おはしまし)けるが、敵内に乱入と見給(たまひ)て、二千(にせん)余騎(よき)を指向て、梶原が五百(ごひやく)余騎(よき)を中に取籠て、あますな漏すなとて、一時計ぞ戦ける。何れも互に引ざりけるが、流石(さすが)無勢なれば、梶原下手に廻て、さと引てぞ出たりける。源太は如何にと問へば、御方を離て敵の中に取籠られ給ぬと云。穴心憂、さては討れぬるにや、景時生て何かせん、景季が敵に組で死なんとて、二百(にひやく)余騎(よき)を相具して、平家の大勢蒐散して内に入、声を揚て、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)鎌倉権五郎平景政が末葉、梶原平三景時ぞ。彼景政は八幡殿の一の郎等、奥州(あうしう)の合戦の時、右の目乍(レ)被(レ)射、其矢を抜ずして、当の矢を射返して敵を討、名を後代に留し末葉なれば、一人当千(いちにんたうぜん)の兵ぞ、子息景季が向後■(おぼつかな)くて返入れり、我と思はん大将も侍も、組や/\と名乗懸て、轡を並べて責入ければ、名にや実に恐けん、左右
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へさとぞ引退く。源太尋よとて責入見れば景季未(レ)討、初は菊地の者共と射合けるが、後には太刀を抜合せて名乗けり。和君は誰そ。菊地三郎高望和君は誰そ。梶原源太景季と、名対面して切合たり。源太は甲を被(二)打落(一)、大童にて三十(さんじふ)余騎(よき)に被(二)取籠(一)て切合けるが、菊池三郎に押並て引組で、馬の際に落重て菊地が頸を取、太刀の切鋒に指貫て馬に乗出けるが、父の梶原に行合たり。平三景時源太を後に成て、矢面(有朋下P405)にすゝみ禦戦つゝ、其間に源太に鎧きせ、暫し休めて寄つ返つ戦けり。城戸口に真鍋四郎五郎と名乗て出合たりけるが、四郎は梶原に討れぬ、五郎は手負て引退く。平家の兵共(つはものども)も、入替入替戦けれ共、景時は源太が死なぬ嬉さに、猛く勇て竪さま横さま戦けり。暫し息をも継ければ、父子相具して、引て木戸へぞ出にける。さてこそ梶原が、生田杜の二度の蒐とはいはれけれ。
詩歌管絃は公家仙洞の翫物、東夷争磯城島難波津の言葉を可(レ)存なれ共、梶原は心の剛も人に勝れ、数寄たる道も優也けり。咲乱たる梅が枝を、蚕簿に副てぞ指たりける。蒐れば花は散けれども、匂は袖にぞ残りける。
  吹風を何いとひけん梅の花散くる時ぞ香はまさりける K187 
と云ふ古き言までも思出ければ、平家の公達は花箙とて、優也やさししと口々にぞ感じ給ける。此梶原、右大将家(うだいしやうけ)の奥入し給(たまひ)けるとき、名取川にて、
  我独けふの軍に名とり川
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と、くり返し/\詠じ給(たま)ひければ、大名小名うめきすめきけれ共、付る者なかりけるに、梶原
  君もろともにかちわたりせん K188(有朋下P406)
と付たりけり。又京上の御伴に、相模国(さがみのくに)円子川を渡給へりけるに、梶原少用ありて片方に下居たりけるが、御伴にさがりぬと、一鞭あてて打程に、此川の川中にて馳付奉たりけるに、沛艾の馬にて、鎌倉殿(かまくらどの)に水をさゝと蹴懸奉、御気色(おんきしよく)悪くてきと睨返し給(たまひ)たりけるに、梶原
  円子川ければぞ波はあがりける
と仕りて、手綱をゆりすゑければ、御気色(おんきしよく)なほり給(たまひ)て打うそぶき、ければそ波はあがりけると、二三返詠じ給(たまひ)て、向の岸に打上り、馬の頭を梶原に引向て、
  かゝりあしくも人や見るらん K189 
と付給(たま)ひ、いかに発句脇句いづれ増りとぞ仰ける。懸るやさしき男成ければ、さしもの戦場思寄べきにあらね共、折知貌の梅が枝を、箙にさして寄たれば、源氏の手折れる花なれ共、平家の陣にぞ香ける。
東国の兵共(つはものども)百騎二百騎、入替入替我も/\と戦けり。此にて源平の兵多く討れけり。東西の城戸口、人種は尽共可(レ)落様とは見えざりけり。
S3704 義経落(二)鵯越(一)並畠山荷(レ)馬付馬因縁事(有朋下P407)
〔同〕七日の暁、九郎義経は鷲尾を先陣として、一谷(いちのたに)の後鵯越へぞ向ける。比は二月の始也、霞の衣立
P0922
阻て、緑を副る山の端に、白雲絶々聳つゝ、先咲花かとあやまたる。未歩なれぬ山路也、行末はそこと知ね共、征馬の足に任せつゝ、各先にと進けり。まだ夙暗程也。道には泥けれ共、矢合時を定たれば、明るを待に及ばずして、谷に下峯に登、引懸引懸打けるに、一谷(いちのたに)の後に、篠が谷と云所に人の音しければ、押寄て何者(なにもの)ぞと問。名乗事はなくて散々(さんざん)に射ければ、此奴原は平家の雑兵にこそ有らめ、一々に搦捕頸を切、軍神に祭れとて、源氏も散々(さんざん)に射ければ、此にて平家多討れにけり。其後鷲尾尋承にて下上打程に、辰半に鵯越一谷(いちのたに)の上、鉢伏礒の途と云所に打登。兵共(つはものども)遥(はるか)に指のぞきて谷を見れば、軍陣には楯を並突、士卒は矢束をくつろげたり。前は海後は山、波も嵐も音合せ、左は須磨右は明石、月の光も優ならん。追手の軍は半と見えたり。喚叫声射違鏑の音、山を穿谷を響し、赤旗赤符立並て春風に靡く有様(ありさま)は、劫火の地を焼らんも角やと覚たり。時既(すで)に能成たり。大手に力を合せんとて見下せば、実に上七八段は小石交の白砂也。馬の足とゞまるべき様なし。歩にても馬にても落すべき所に非ず。さればとてさて有べき事ならねば、只今(ただいま)まで乗たりける大鹿毛には、佐藤三郎兵衛を乗せ、我身(有朋下P408)は大夫と云馬に乗替て、谷へ打向け給、鹿の通路は馬の馬場ぞ、各落せ落せと勧給ふ。兵共(つはものども)、我も我もと馬をば谷へ引向けて、心は先陣とはやれ共、流石(さすが)いぶせき■(がけ)なれば、手綱を引へて踉■(やすらへ)ば、馬も恐て退けり。互に顔と顔とを見合て、いづくを落すべし共見ず。軍将宣(のたまひ)けるは、一は馬の落様をも見、一は源平の占形なるべしとて、葦毛馬に白覆輪白ければ、白旗に准へて
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源氏とし、鹿毛馬に黄覆輪赤ければ、赤旗になぞらへて平氏とて追下す。各木間にて是を見上るに、七八段は小石交の白砂なれば、宛転ともなく落るともなく下つゝ、巌の上にぞ落著たる。良暫有、岩の上より宛転下り、越中前司盛俊が、仮屋の後に落付て、源氏の馬は這起つゝ、身振して峯の方を守、二声(ふたこゑ)嘶、篠草はみて立たり。平家馬は身を打損じ臥て再起ざりけり。城中(じやうちゆう)には是を見て、敵のよすればこそ鞍置馬は下らめとて騒ぎ迷ひける処に、御曹司は源氏の占形こそ目出けれ、平家の軍様あるべし、人だに心得(こころえ)て落すならば、■(あやま)ち更にあるまじ、落せ/\と宣へども、我だに恐て落ねば、人も恐てえおとさず。白旗五十流計、梢に打立て宣(のたま)ひけるは、守て時を移べきに非、■(がけ)を落すには手綱あまたあり、馬に乗には、一つ心、二つ手綱、三に鞭、四に鐙と云て四の義あれ共、所詮心を持て乗物ぞ、若き殿原は見も習乗も習へ、義経が(有朋下P409)馬の立様を本にせよとて、真逆に引向、つゞけ/\と下知しつゝ、馬の尻足引敷せて、流落に下たり。三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、大将軍につゞけとて、白旌三十流城の内へ指覆、轡並て手綱かいくり、同様に尻足しかせて、さと落して壇の上にぞ落留る。夫より底を差のぞいて見れば、石巌峙て苔むせり。刀のはに草覆へる様なれば、いといぶせき上、十二十丈もや有らんと見え渡る。下へ落すべき様もなし、上へ上るべき便もなし、互に竪唾を呑て思煩へる処に、三浦党に佐原十郎義連進出て、我等(われら)甲斐信濃へ越て狩し鷹仕時は、兎一つ起いても鳥一つ立ても、傍輩に見落されじと思には、是に劣る所やある、義連先陣仕らんとて、手綱掻くり鐙
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踏張、只一騎(いつき)真先蒐て落す。御曹司是を見給(たまひ)て、義連討すなつゞけ者共/\と下知して、我身もつゞきて落されけり。畠山は赤威の冑に、護田鳥毛の矢負、三日月と云栗毛馬の、太逞に乗たりけり。此馬鞭打に、三日の月程なる月影の有ければ名を得たり。壇の上にて馬より下り、差のぞいて申けるは、爰(ここ)は大事の悪所、馬転して悪かるべし、親にかゝる時子に懸折と云事あり、今日は馬を労らんとて、手綱腹帯より合せて、七寸(しちすん)に余て大に太き馬を十文字に引からげて、鎧の上に掻負て、椎の木のすたち一本ねぢ切杖につき、岩の迫をしづ/\とこそ下けれ。東八箇国に大力と(有朋下P410)は云けれ共、只今(ただいま)かゝる振舞、人倫には非ず、誠に鬼神の所為とぞ上下舌を振ける。
 < 倩竜樹論の■(しよ)を考るに、馬は是十二神将(じふにじんじやう)の封体の中也とも云、又は南方旃檀香仏の変化身共云。馬郁経には、観自在菩薩、為(レ)成(二)大功徳力(一)、重事成(レ)馬来償(二)人役(一)、人の以(二)六歩(一)為(二)馬一歩(一)、広天上には馬為(レ)竜、人中には竜為(レ)馬。又或経には、父は成(二)吉馬(一)為(レ)子被(レ)乗、母は為(二)吉魚(一)為(レ)子被(レ)食、旁以不(レ)疎、此心を得たりけるにや。 >
畠山は、此岩石に馬損じては不便也、日比(ひごろ)は汝にかゝりき、今日は汝を孚まんと云ける。情深しと覚たり。其後三千(さんぜん)余騎(よき)、手綱かいくり鐙踏張、手をにぎり目を塞ぎ、馬に任せ人に随て、劣らじ/\と落しけるに、然べき八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御計にやと申ながら、馬も人も損せざりけるこそ不思議なれ。落しもはてず、白旗三十流さと捧、三千(さんぜん)余騎(よき)同時に時を造、山彦答て夥(おびたた)し。平家の城郭(じやうくわく)に乱入て、竪さま横さま蜘蛛手十文字に馳廻り、喚叫て戦ければ、城中(じやうちゆう)には東西の城戸口ばかりこそ防けれ。さしも恐しき
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巌石より、敵よすべし共思はざりければ、打延て、左右の城戸口の弱からん時軍せんとて、鎧物具(もののぐ)脱置て、小具足ばかりにて居たる所へ、はと寄せ咄と時を造りたれば、弓矢を取馬にのる隙を失ひ、周章(あわて)迷、御方の兵も皆敵に見えければ、適馬にのり弓矢を番ける者も、御方討に討殺れ切殺されて、上に成(有朋下P411)下に成て、肝も心も身にそはず、失(レ)度騒ふためきける有様(ありさま)は、少魚のたまり水に集り、宿鳥の枝を諍に異ならず、御曹司下知し給けるは、城郭(じやうくわく)広博也、賊徒数を不(レ)知、多く官軍を亡さん事最不便也、火を放てと宣へば、武蔵房弁慶(べんけい)、屋形(やかた)に打入仮屋に火をさす。折節(をりふし)西の風烈くして、猛火城の上へ吹覆、平家の軍兵煙に咽び火に被(レ)責て、今は敵を防に及ず、取物も取敢(とりあへ)ず、浜の汀(みぎは)に逃出つゝ、海の藻塩に馳入、船にのらんとぞ迷ける。助舟も多有けれ共、そも然べき人々をこそ乗けれ、次々の者共をば乗ざりければ、乗んのせじとする程に、多く海にぞ沈ける。猛火の煙蹴立の灰、逃去道も見えざりければ、皆敵にぞ討れける。されば助かるは希に亡るは多し。無慙と云も疎なり。
S3705 則綱討(二)盛俊(一)事
能登守教経は、室山、水島、淡路島、高綱、苑部、今木城、所々の合戦に高名し給へりと聞えしか共、大勢傾立ぬれば力及ざる事にて、薄墨と云馬にのり、須磨関屋を指て落、夫より船に乗移、淡路の岩屋に渡給ふ。越中前司盛俊は、迚可(レ)遁身に非、角傾ぬる上はとて思切、只一人残留て、馳合馳合戦けるが、猪俣近平六則綱に馳並て、引組でど(有朋下P412)うと落、盛俊は聞えたる大力の大の男、徐には二十人が力と云けれ共、内々は六十人にして上下す大船を、一人してあつかひける者也ければ、七八十人
P0926
が力もや有けん、近平六も普通には力勝たる人と云けれ共、盛俊に遇ぬれば数ならず、取て押付られて不(レ)働。既(すで)に甲の手変を■(つかみ)上、刀を頸にさしあてて掻落さんとしけるに、近平六は刀を抜にも及ず、刎落すにも力なし。去共はかり事賢き甲者にて、少も不(レ)騒申けるは、抑御辺(ごへん)は誰人ぞ、敵をば慥に名を聞て後、首を取てこそ勲功の賞にも預れ、誰とも知ぬ頸取ては何にかはすべき、我身は東国には恥ある侍、誰か不(レ)知、されども平家の公達にも、侍の殿原にも被(二)見知(一)たる事なければ、是は誰が頸とも見る人有まじ、唯犬鳥の頸の定や、名乗せて切て実検(じつけん)に合せ給へと云。盛俊さもと思て、おさへながらさて和君は誰と問。是は武蔵国住人(ぢゆうにん)、猪俣近平六則綱とて、東国には名誉の者也、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)御内には、一二の者に数へられたり、抑又御辺(ごへん)はたれぞと返て問。是は平家の侍に、京童部(きやうわらんべ)までも数へらるゝ越中前司盛俊と云者ぞと答へたり。近平六、あゝさては聞え給ふ人にこそ、弓矢取ても並者なく、情も類少しと伝承、則綱只今(ただいま)御辺(ごへん)に切れんずれ共、よき敵に組てけり、同は死ぬとも雑人の為に切れんよりは然るべき事にや、但殿原は今は落人ぞかし、されば則綱一人(有朋下P413)を討たりとても、平家世におはせん事有まじ、主世におはせずば、縦則綱が首を捕たり共、神妙(しんべう)とて勧賞勲功に預給はん事いさ不(レ)知、只則綱が命を生られよかし、鎌倉殿(かまくらどの)に申て、和殿並親き人々をも宥申さんと云ければ、盛俊嬉敷思て、猶抑ながら、実に助給べきか猪俣殿と問。子細にや及べき、我を助給たらん人をば、争か我も助奉らで有べき、怪の鳥獣だにも恩をば不(レ)忘とこそ申せ、況人として非(レ)可(レ)忘、ためし
P0927
外になし、池の尼御前の兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)をたすけさせ給たれば、同平家の御一門ながら、池殿の公達をばたすけ進すべしとぞ承はり候へと云ければ、盛俊実にと思ひて、おめ/\と引起して、前は畠後は水田なる所の中に畔のあるに、二人尻打懸て、心静に物語(ものがたり)を始む。越中前司申けるは、やゝ猪俣殿、盛俊は男女の子供二十余人(よにん)持て候ぞよ、我一人に侍ならばいかでも候べし、彼等が行末の悲さに、御辺(ごへん)の命を助奉也、同御恩あるべくば、何れをも相構て申宥給へと云。近平六は、宗徒の御辺(ごへん)を助奉んに、末々の事はさこそ候はんずれ、中々仰にや及べきと云処に、塩谷五郎惟広と云者、五騎(ごき)にて浜の方より馳来る。哀よき敵に行合て分捕せばやと思たる景気也。盛俊是を見て、よに恠げに思て、源平軍兵近付候、降人也と会釈ひ給へ猪俣殿と云。近平六立上り是を見て、イヤ/\事かくまじ、塩谷五郎惟広(有朋下P414)也、■(おぼつかな)く思給ふべからずといへ共、猶惟広に目を懸たり。則綱思けるは、惟広を待付て盛俊を討たらば、二人して討たりと人のいはんも本意なし、和与して命は生たれ共、とても遁まじき盛俊也、塩谷に取れて云甲斐なし、後の世をこそ弔はめと思ひ、則綱角て候へば、心苦く思ひ給ふべからずとて、本所に居直る様にて、左右の手に力を加て、真逆に後の深田に突倒す。盛俊頭は水の底に足は岸の耳に、起ん/\としけるを、則綱上にのらへて頸を掻、太刀の鋒に貫て、高く捧て馬に乗、大音揚て、敵も御方も是を見よ、平家の侍、今日近来鬼神と聞えつる越中前司盛俊が頸、猪俣近平六則綱分捕にしたりと叫けり。誠に由々敷ぞ聞えける。彼刀は薩摩国住、浪平造の一物なりけり。
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S3706 一谷(いちのたに)落城並重衡卿(しげひらのきやう)虜事
〔斯りける処に〕一谷(いちのたに)を中に挟、大手五万余騎(よき)は東の城戸口より攻寄ける上に、熊谷平山一陣二陣に蒐入ぬ。今は防ぐ者なし。搦手は一万(いちまん)余騎(よき)の内、七千(しちせん)余騎(よき)は三草山の山口、西の城戸口へ廻て責む。三千(さんぜん)余騎(よき)は鵯越より落し合せて攻む。東生田杜をば三千(さんぜん)余騎(よき)にて固たれ共、屋形(やかた)屋形(やかた)は猛火燃ひろがりて夥(おびたた)し。東西より火に責られ人に被(レ)責て、皆舟に(有朋下P415)のらんと渚(なぎさ)に向て落行けるも、海へのみこそ馳入けれ。助船有けれ共、余に多くこみ乗ければ、大船三艘は目の前に乗沈めける。然るべき人々をば乗すれども、次様の者をば不(レ)可(レ)乗と■(ののしり)けれ共、暫しの命も惜ければ、若や/\とて、舟にのらんと取付けるを、太刀長刀にて薙ければ、手打落され足切折れて、皆海にぞ沈ける。角はせられて死けれども、敵に組で死する者はなし。多は御方打にぞ亡にける。
先帝を始進せて、女院、北政所(きたのまんどころ)、二位殿(にゐどの)三位殿(さんみどの)已下の女房達(にようばうたち)、大臣殿父子已下の人々は、兼てより御船に召て、海上に出浮てこれを被(二)御覧(一)、いかばかりの事をか思召(おぼしめし)けんと哀なり。
本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡は、国々(くにぐに)の駈武者取集て、三千(さんぜん)余騎(よき)にて生田杜を固給たりけるが、城中(じやうちゆう)乱つゝ、火焔屋形(やかた)屋形(やかた)に充満て黒煙空に覆、軍兵散々(さんざん)に蒐阻られて東西に落失ぬ。恥をも知たる者は敵に組で討れぬ。走付の奴原は、海に入山に籠けれ共、生るは少なく死るは多く、敵は雲霞の如し、御方の勢なかりければ、重衡卿(しげひらのきやう)今は叶じとて、浜路に懸り渚(なぎさ)に打副て、西を指て落給ふ。其(その)日(ひ)の装束は、褐衣に白糸を以て群千鳥を縫たる直垂に、紫すそごの鎧をぞ著給へる。馬は童子鹿毛とて究竟の逸物
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早走也。大臣殿の御馬を預給(たまひ)てぞ乗り給へる。庄三郎家長が、よき大将軍と見て、父子乗替の童三騎にて追て懸。三位中将(さんみのちゆうじやう)は蓮の池をも(有朋下P416)打過、小馬の林を南に見なし、板宿須磨にぞ懸給ふ。庄三郎に目に懸て、鞭に鐙を合せて追けれ共、逸物には乗給へり。只延にのび給ける間、今は叶はじと思、十四束取て番て、追様に馬を志て遠矢に射、其矢馬の草頭に射籠たり。其後は障泥ども打共、疵を痛て働かず。三位中将(さんみのちゆうじやう)の侍に、後藤兵衛尉守長とて、少くより召仕給(たまひ)て、如何なる事有とも一所にて死なんと深く契給(たま)ひて被(二)召具(一)たり。三位中将(さんみのちゆうじやう)の秘蔵せられたりける夜目なし鴾毛と云馬にぞのせられたる。是は童子鹿毛若の事あらば、乗かへんとの約束也。馬も秘蔵の馬也、主は深く憑給へる侍也けれ共、童子鹿毛に矢立ぬと見て、守長は我馬召れなば我如何せんと思て、主を打捨奉り、射向の袖の赤注かなぐり棄て、西を指て落行けり。三位中将(さんみのちゆうじやう)は、如何に守長其馬進せよ/\と仰けれ共、空聞ずして馳行けり。穴心憂や、年来は角やは契し、重衡を見棄ていかに守長何の国へ行ぞ、留れ守長、其馬進せよと宣へども、耳にも不(二)聞入(一)見もかへらず、渚(なぎさ)に添て馳行けり。三位中将(さんみのちゆうじやう)今は不(レ)及(レ)力して、相構て馬を海へぞ打入れんとし給ふ。そこしも遠浅なりける上、馬も弱て進ざりければ、汀(みぎは)に下立、刀を抜冑の引合を切、自害し給はんずるにや、又海へ入給はんずるかと見えければ、家長手しげく責より、馬より飛下、乗替に持せたる小長刀を取、十文字(有朋下P417)に持て開き、する/\と歩より、君の御渡と見進せて家長参て候、如何に正なく御自害(ごじがい)有べからず、いづくまでも御伴仕べきとて、畏て有ければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)
P0930
自害をもし給はず、遠浅なれば海にも入給はず、立煩給たりけるを、家長つと寄、我馬に奉(二)掻乗(一)指縄にて鞍のしづわにしめ付て、我身は乗替に乗てぞ帰にける。其勲功の賞には、陸奥国しつしと云所を給けり。多くの人の中に、重衡卿(しげひらのきやう)一人被(レ)虜給へる事、大仏焼失の報にや、重衡は只悋(二)七歩之命(一)、纔(わづか)に遁(二)一旦之死(一)、曝(二)顔於都鄙(一)、辱(二)名於遠近(一)けり。去頃東大寺(とうだいじ)大仏上人の夢に、我右の手急ぎ鋳成べし、敵を討せんが為也と示給と見てければ、急ぎ奉(レ)鋳てけり。去七日右の御手成給けるに、彼卿虜れける事、測知ぬ大仏の御方便也と云事を、末代也といへ共、霊験まことにいちじるくぞ覚ける。さても後藤兵衛尉守長は、逸物に乗たりける甲斐ありて、命計は生にけり。後には熊野法師に尾張法橋と云ける者の、後家の尼に後見してぞ在ける。彼尼訴訟有、後白川【*後白河】(ごしらかはの)法皇(ほふわう)の御時、伝奏し給ふ人の許へ参じたりけるに、人是を見て、三位中将(さんみのちゆうじやう)のさばかり糸惜し給しに、一所にて如何にも成べき者がさもなくて、指もの名人の不(二)思懸(一)、尼公の尻舞して、晴の振舞こそ人ならねと、悪まぬ者こそなかりけれ。又人の云けるは、剛臆も賢愚も、世を治るはかりごと、命を助る(有朋下P418)有様(ありさま)、とり/゛\の心ばせ、争是非を弁べし、弓矢を取身が前には、不覚とも云べけれ共、命を惜時は、臂(ひぢ)を折し様も有ぞかし、され共此守長は、歌の道にはやさしき者にて、帝までも知召たる事也。一年一院〈 後白河院(ごしらかはのゐん) 〉鳥羽御所に有(二)御幸(一)有(二)御遊(ぎよいう)(一)き。比は五月の廿日余(あまり)の事也。卿相(けいしやう)雲客(うんかく)列参あり、重衡卿(しげひらのきやう)も出仕せんとて出立給(たま)ひけるが、卯花に郭公書たる扇紙を取出て、きと張て進よとて守長にたぶ、守長仰奉て、急張ける
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程に、分廻をあし様に充て、郭公の中を切、僅(わづか)に尾と羽さき計を残したり。■(あやまち)しぬと思へ共、可(二)取替(一)扇もなければ、さながら是を進する。重衡卿(しげひらのきやう)角共知ず出仕し給(たまひ)て、御前にて披て仕給けるを、一院叡覧ありて、重衡の扇を被(レ)召けり。三位中将(さんみのちゆうじやう)始て是を見給つゝ、畏てぞ候はれける。御定再三に成ければ、御前に是を閣れたり。一院ひらき御覧じて、無念にも名鳥に疵をば被(レ)付たる者哉、何者(なにもの)が所為にて有ぞとて打咲はせ給ければ、当座の公卿達も、誠にをかしき事に思合れたり。三位中将(さんみのちゆうじやう)も、苦々しく恥恐れ給る体也。退出の後守長を召て、深く勘当し給へり。守長大に歎恐て一首を書進す。
  五月やみくらはし山の郭公姿を人にみするものかは K190 
と、三位中将(さんみのちゆうじやう)此歌を捧て御前に参、しか/゛\と奏聞し給たりければ、君、さては守長が(有朋下P419)此歌よまんとて、態との所為にやと有(二)叡感(一)。ためしなきに非ず、能因入道が、
  みやこをば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白川のせき K191 
と読たりけるを、我身は都に有ながら、いかゞ無念に此歌を出さんとて、吾妻の修行に出ぬと披露して、人に知られず籠居て、照日に身を任せつゝ、色を黒くあぶりなして後に、陸奥国の方の修行の次でに、白川関にて読たりとぞ云ひろめける。又待賢門院の女房に、加賀と云歌よみ有けり。是も、
  兼てより思し事をふし柴のこるばかりなる歎せんとは K192 
と云歌を読て年比持たりけるを、同は去べき人に云眤て、忘られたらん時によみたらば、勅選なんど
P0932
に入たらん面も優なるべしと思けり。さて如何したりけん、花園大臣に申そめて、程経つゝかれ/゛\に成にけり。加賀思の如くにや有けん、此歌を進せたりければ、大臣いみじく哀におぼしけり。世の人、附子柴の加賀とぞ云ける。さて思の如く千載集に入にけり。守長も角しもや有らんと覚束(おぼつか)なし。秀歌なりければ、鳥羽御所の御念珠堂の杉障子に彫付られて今にあり。されば賢も賤も讃も毀も、とり/゛\なるべしとぞ申ける。(有朋下P420)
S3707 忠度通盛等最後事
薩摩守忠度は生年四十一、色白くして鬚黒く生給へり。赤地錦直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の冑に、甲をば著給はず、立烏帽子(たてえぼし)計にて、白鴾毛の馬に、遠雁の文を打たる鞍置てぞ乗たりける。かるも河、須磨、板宿を打過つゝ、渚(なぎさ)に付てぞ落給ふ。武蔵国住人(ぢゆうにん)岡部六弥太忠澄、十余騎(よき)の勢にて鞭を打て追懸て、爰(ここ)に西を差て過給は、敵か御方か名乗れと云。是は源氏の軍兵ぞと答て、いとゞ駒を早めて落給ふ。御方には立烏帽子(たてえぼし)に、金付たる人はなき者を、是は一定平家の大将軍にこそと思て、追て懸処に、源次源三百兵衛と云侍共、中を塞て防けり。彼等三人をば郎等に打預てなほ進けり。熊王と云童、主を延さんと命を棄て戦けり。熊王は敵一人切殺して、我身も爰(ここ)にて討れにけり。源次源三百兵衛も、太刀の切鋒打そろへて散々(さんざん)に振舞けるが、敵二人討取て、余多(あまた)に手負せ、三人一所に亡にけり。今は忠度一人に成給たりけるを、忠澄馳並て引組で落、六弥太上に成。忠度は赤木の管に、銀の筒金巻たる刀を抜儲て座しければ、六弥太を三刀までぞ突給ふ。馬の上にて一刀、落ざまに一刀、落付て一刀、隙あり
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共見えず。一二の刀は鎧の上を突給へば手も負ず、三(有朋下P421)の刀に胸板(むないた)を突はしらかし、頷の下片頬加へにつと突貫、忠澄既(すで)にと見えければ、郎等落合て、薩摩守をみしと切、射鞴を以て合せ給たりければ、妻手の腕射鞴加に打落さる。忠度今は叶はじと思召(おぼしめし)ければ、上なる六弥太を持興て片手に提、こゝのけ、念仏申て死なんとて抛給へば、弓長二長ばかり抛られて、忠澄とゝ走て安堵せず。其間に忠度は鎧の上帯切、物具(もののぐ)脱捨て端座して西に向、念仏高声に唱へ給ふ。其後忠澄太刀を抜寄ければ、今は汝が手に懸て討れん事子細なし、暫相待て最後念仏申さんと宣へば、忠澄畏て、抑君は誰にて渡らせ給候ぞと問ければ、薩摩守、己は不覚仁や、何者(なにもの)ぞ。名乗といはば名乗べきか、景気を以て見も知れかし、己(おのれ)に会て名乗まじ、去ながら最後の暇えさせたるに、己はよき敵取つる者ぞ、同じ勲功と云ながら、必よき勧賞に預りなんとて、最後の十念高声に唱つゝ、はやとくと宣(のたまひ)ければ、六弥太進寄て頸を取、脱捨給へる物具(もののぐ)とらせけるに、一巻の巻物あり。取具して頸をば太刀の切鋒に貫て指上つゝ、陣に帰て是は誰人の頸ならん、名乗と云つれ共しか/゛\とて名乗ざりつれば、何なる人共見しらざりけるに、巻物を披見れば、歌共多く有ける中に、旅宿花と云題にて一首あり。
  行暮て木下陰を宿とせば花や今夜のあるじならまし K193 (有朋下P422)
忠度と書れたりけるにこそ薩摩守とは知りたりけれ。此人は入道の弟公達の中には、心も剛に身も健に御座(おはしまし)けれども、運の極に成ぬれば、六弥太にも討れにけり。勧賞の時は、六弥太神妙(しんべう)なりとて、
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薩摩守の知行の庄園五箇所を給(たまひ)て、勲功に誇けり。
越前三位通盛は、紫地錦直垂に、萌黄に沢潟威たる鎧に、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に乗て、湊河の耳を下に落給ふ。団扇の旗指て、児玉党七騎にて追懸奉る。三位幾程命を生んとて、鞭をあててぞ落給ふ。然べき運の極にや、馬を逆さまに倒て頸へ抜てぞ落給ふ。児玉党いまだ不(二)追付(一)けるに、近江国佐々木庄住人(ぢゆうにん)木村源三成綱と云者、落合ひて組でけり。両鼠木の根を嚼、其木たふれば、毒竜底に在て害を成んとする喩あり。児玉党追懸たり、佐々木待得たり、実遁がたくぞ見え給ふ。三位上に成給ふ。源三駻返々々としけれ共、三位力増也ければ、抑て更に働さず。刀をぬき、源三が頸を掻共掻共落ず、持上是を見給へば、鞘ながら脱たれば不(レ)切けり。源三成綱は、紀中将成高の四代の孫、木村権頭が子息なり。佐々木庄に居住したりけるが、本は小松大臣に奉公せし程に、おくれ奉て後は新中納言殿(ちゆうなごんどの)に奉(レ)付ければ、平家の人々には見馴奉たりけり。源平の合戦に、佐々木源三秀能が子息等、皆関東へ下ける間、源三成綱も近く鎌倉へ下たりけり。軍兵に被(レ)催て上たれば、越前(有朋下P423)三位とも奉(レ)組。成綱叶はじと思ければ、下に臥ながら、誰やらんと奉(レ)思候へば、君にて渡らせ給けり。知進せて候はんには、争か近く可(二)参寄(一)、年比平家に奉公の身なれば、御方へこそ参べきにて侍つるに、心ならず親者共に詐し下されて、今戦場に被(二)駈向(一)たり、何の御方も疎の御事は候はね共、殊に見なれ進て奉(二)御眤思(一)、只今(ただいま)角組れ進せぬる事よ、同は人手に懸なんより嬉しくこそと申。三位は誰もさこそ
P0935
は思へ、年比日比(ひごろ)見馴し者なれば、不便にも思へ共、軍の道は力なし。今加様に申を聞ば、実にさこそ思らめとて踉■(ためらひ)給ける程に、佐々木五郎義清、主従五騎(ごき)にて波打際を歩せ来る。成綱是を見て、五郎はよも見放たじ者をと思て、三位案じ煩たる処に、太刀の管と■(えびら)とにかせいて、甲の透間の有けるより、源三刀をぬき三位を二刀さす。指れて弱り給けるを、力を入て駻返、起しも立ず軈三位の首を取。此世に源三が郎等二人、三位侍三騎、互に主を育て、爰(ここ)にて五人亡にけり。源三三位首を取、郎等に項の重はいかにと問。疵を負給へりと云。三位刀を取て見れば、鞘ながら掻たれば、鞘尻二寸(にすん)ばかり砕て、刀の鋒二寸(にすん)入て、其疵にてぞ在ける。源三成綱は左手にて頷さゝへ、右の手に首を捧て陣に帰、ゆゝしくぞ見えたりける。蔵人大夫業盛は今年十七に成給ふ。長絹の直垂に、所々菊閉して、緋威(ひをどしの)冑(有朋下P424)に、連銭葦毛(れんせんあしげの)馬に乗給へり。御方には離ぬ、いづちへ如何に行べき共知給はざりければ、渚(なぎさ)に立て御座(おはしまし)けるを、常陸国住人(ぢゆうにん)泥屋四郎吉安と組で落、上に成下に成ころびける程に、古井の中へころび入て、泥屋は下になる。兄を討せじとて、泥屋五郎落重つて、大夫の甲のしころに取付て、ひかん/\としければ、大夫頭を強く振給ふに、甲の緒を振切。五郎甲を持ながら、二尋計ぞ被(レ)抛(なげうたれ)たる。去共不(二)手負(一)ければ、起上て業盛の頭を取。兄をば井より引立たり。十七歳の心に、よく力の強く座(おは)しけるにやと、人皆是を惜けり。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十八

P0936(有朋下P425)
幾巻 第三十八
S3801 知盛遁(二)戦場(一)乗(レ)船事
〔去(さる)程(ほど)に〕新中納言知盛卿は、浜へ向て落給けるを、武蔵国司にて御座により、奉(二)見知(一)たりけるにや、児玉党団扇旗指て、三騎をめきて奉(二)追懸(一)。爰(ここ)に落給ふは大将軍とこそ見進せ候へ、如何にまさなく後をば見せ給ふぞとて、無下に近付寄ければ、中納言の侍に、監物太郎頼賢は究竟の弓の上手、能引放矢に、旗指頸の骨を射させて馬より落。二騎の者共■(しころ)を傾て打て懸る。中納言危く見え給ければ、御子武蔵守知章中に阻て、引組て落て、取て押て頸を掻、敵の童落重つて武蔵守をば討てけり。監物太郎頼賢、弓矢をばからと棄て落合童が首を取。頼賢は主の首と童が頸と取具して、馬にのらんとしけるが、膝の節を射させ、今は最後と思ければ、人手にかゝらじとて、腹掻切て死にけり。其紛に新中納言は、井上と云究竟の馬に乗給(たまひ)たりければ、海上三町(さんちやう)計游せて、船に乗移て助り給にけり、知章は忽獲(二)勇兵之首(一)、専顕(二)荘士之名(一)、遂救(二)父子死(一)、永亡(二)己之命(一)。船には馬立(有朋下P426)べき所なかりければ、舟のせがいより馬の頭を礒へ引向て、一鞭あてたれば馬は游返けり。阿波民部大夫成良が、あの御馬射殺給へ、敵の物に成なんと申けれ共、中納言は、敵の馬に成とても、如何我命を助たらん馬をば殺すべきとて、遺惜げにぞおはしける。馬は渚(なぎさ)に游上り、塩々とぬれて、年来の好みを慕ひつゝ、舟の方を見返り
P0937
て三度嘶たりけるこそ蓄類なれ共哀なれ。此馬は中納言の武蔵国司にて座しける時、当国河越より進たりければ、名をば河越の黒とぞ申ける。余に秘蔵し給(たまひ)て、馬の為に月に一度太山府君の祭をぞせられける。其験にや馬の命も四十に成けり。我御身も今度被(レ)助給ぬ。九郎御曹司、此馬を院(ゐんの)御所(ごしよ)へ被(レ)進たりければ、聞ゆる名馬也とて、御厩にぞ立られける。
S3802 平家公達最後並頸共掛(二)一谷(いちのたに)(一)事
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛の子に若狭守経俊は、兵庫(ひやうご)の浦まで落延給たりけるを、那和太郎に組で討れ給ふ。同経盛末子に無官(むくわんの)大夫敦盛は、紺錦直垂に、萌黄匂の鎧に、白星の甲著て、滋籐弓に十八指たる護田鳥尾の矢、鴾毛の馬に乗給、只一騎(いつき)、新中納言の乗給ぬる舟を志て、一町計游せて、浮ぬ沈ぬ漂給ふ。武蔵国住人(ぢゆうにん)熊谷次郎直実は、哀よき敵に組ばやと、(有朋下P427)渚(なぎさ)に立て東西伺居たる処に、是を見付(みつけ)て馬を海にざぶと打入。大将軍とこそ奉(レ)見、まさなくも海へは入せ給ふ者哉、返給へや/\、角申は日本(につぽん)第一の剛者、熊谷次郎直実と云ければ、敦盛何とか思はれけん、馬の鼻を引返し、渚(なぎさ)へ向てぞ游せたる。馬の足立程に成ければ、弓矢をば抛捨て、太刀を抜額にあて、をめきて上給けるを、熊谷待受て上もたてず、水鞠さと蹴させつゝ、馬と/\を馳並て取組、浪打際にどうと落、上に成下になり、二度三度は転たりけれ共、大夫は幼若也、熊谷は古兵也ければ、遂に上に成、左右の膝を以て冑の袖をむずと押たれば、大夫少も働給はず。熊谷は腰の刀を抜出し、既(すで)に頸をかゝんとて内甲を見ければ、十五六計の若上掾A薄気壮に金黒也、にこと笑て見え給ふ。熊谷は穴無慙や、弓矢取身は何やらん、
P0938
是程若く厳き上揩ノ、いづこに刀を立べきぞと心弱ぞ思ける。抑誰の御子にて渡らせ給ふぞと問ければ、只とく切とぞ宣(のたまひ)ける。奉(レ)斬て雑人の中に棄置進せんも無(レ)便侍り、うきふしも知ぬ東国の夷下揩ノ逢て、名乗まじと被(二)思召(一)(おぼしめさるる)か、それも理に侍れ共、存ずる旨有て申也と云。大夫思はれけるは、名乗たり共不(二)名乗(一)とも非(レ)可(レ)遁、但存ずる旨とは勲功の賞を申さん為にこそ有らめ、組も切るゝも先世の契、讐をば恩で報也、さあらば名乗んと思ひつゝ、存る旨の有なれば(有朋下P428)聞するぞ、是は故太政(だいじやう)入道(にふだう)の弟に、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛と云人の末の子、未無官(むくわん)なれば無官(むくわんの)大夫敦盛とて、生年十六に成也と宣(のたまひ)けり。熊谷涙をはら/\と流けり。穴心憂の御事や、さては小次郎(こじらう)と同年にや、実に左程ぞ御座らん、岩木をわけぬ心にも、子の悲みは類なし、況や是程わりなく厳き人を奉(レ)失て、父母も悶こがれ給はん事の哀さよ、中にも小次郎(こじらう)と同年に成給なる糸惜さよ、奉(レ)助ばや、又御心も猛人にて座しけり、日本(につぽん)第一の剛者と名乗に、落武者の身として、此年の若に返合給へるも、大将軍と覚たり。是は公軍也、穴惜や如何せんと思ひ煩て、暫し押へて案じけるに、前にも後にも組で落、思々に分捕しける間に、熊谷こそ一谷(いちのたに)にて現に組たりし敵を逃して、人にとられたりといはれん事、子孫に伝て弓矢の名を折べしと思返て申けるは、よにも助進せばやと存侍れ共、源氏陸に充満たり、迚も遁給べき御身ならず、御菩提をば直実能々訪奉べし、草の陰にて御覧ぜよ、踈略努々候まじとて、目を塞歯をくひあはせて涙を流し、其頸を掻落す。無慙と云も愚也。敦盛不(レ)恐(レ)死不(レ)降(レ)心、雖(レ)為(二)幼齢之人(一)、頗非(二)凡庸之
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類(一)けり。平家の人々は、今被(レ)討給までも情をば不(二)捨給(一)、此殿軍の陣にても、隙には吹んとおぼしけるにこそ、色なつかしき漢竹の笛を、香もむつましき錦の袋に入て、鎧の引合に指れたり。熊谷是(有朋下P429)を見奉り、糸惜や此程も城の中に、此暁も物の音の聞えつるは此人にて御座(おはしまし)けり。源氏の軍兵は東国より数万騎上たれ共、笛吹者は一人もなし、如何なれば平家の公達は、加様に優には御座らんとて、涙を流して立たりけり。彼笛と申は、父経盛笛の上手にて御座(おはしまし)けるが、砂金百両宋朝に被(レ)渡て、よき漢竹を一枝取寄、殊によき両節間を一よ取、天台座主(てんだいざす)前明雲(めいうん)僧正(そうじやう)に被(レ)仰て、秘密瑜伽(ゆが)壇に立て、七日加持して、秘蔵して被(レ)彫たりし笛也。子息達の中には、敦盛器量の仁なりとて、七歳の時より伝て持れたりけり。夜深る儘にさえければ、さえだと名付られける也。熊谷は笛と頸とを手に捧、子息の小次郎(こじらう)が許に行、是を見よ、修理(しゆりの)大夫殿(だいぶどの)の御子に無官(むくわんの)大夫敦盛とて、生年十六と名乗給(たま)ひつるを、奉(レ)助ばやと思けれ共、汝等(なんぢら)が弓矢の末を顧て、角憂目を見悲しさよ、縦直実世になき者と成たりとも、穴賢奉(二)後世吊(一)と云含、其よりして熊谷は弥発心の思出来つゝ、後は軍はせざりけり。
但馬守経正は大夫敦盛の兄也。赤地錦直垂に、鎧は態と不(レ)著けり。身を軽くして落給はん料にや、小具足計、長覆輪の太刀を帯、黄駱馬に乗、侍一人も具し給はず、大蔵谷へ向て落給ふ。是は武蔵国住〔人〕(ぢゆうにん)城四郎高家と云者也。此に落給は平家の公達と奉(レ)見、返合て組給や/\と申懸て追て行。経正きつと見返て、逃には非(有朋下P430)己を嫌也とて馬を早む。高家腹を立て、まさなき殿の詞哉、軍の習は不
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(レ)嫌(二)上下(一)、向ふ敵に組は法也、其義ならば虜にして恥を見せよ、打や者共/\とて、主従三騎鞭をあてて追て懸る。今は叶はじと思給ければ、馬より飛下、腹掻切て臥給にけり。高家落合、首を捕て見ればたぶさに物を結付たり。軍終て人に是を問ければ、梵字の光明(くわうみやう)真言也。其真言の奥に、縦朝敵と成て頸をば被(レ)渡とも、此真言をば必たぶさに可(レ)被(二)結付(一)とぞ被(レ)書たる。哀にぞ覚えける。首を被(レ)渡ける時聞えけるは、此経正は仁和寺(にんわじ)の守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)の年比の御弟子にて、都を落し時、彼宮に参て御暇を申けるに、宮哀と思召(おぼしめし)、御自筆にあそばして給たりける真言也。哀也とて結付たりける定にして、頸をば渡されける也。獄門の木に被(レ)懸て後、御室より被(レ)申て、骨をば高野に送られて、様々御追善有ける也。土沙加治の功徳、なほ無間の苦を免といへり、況即身に受持てらんに於をや。師資の契は多劫の因縁といへり、誠なるかな此事をや。
備中守師盛は、軍場をば遁出て、小舟に乗て渚(なぎさ)を漕せて、助船に移らんとおぼしける程に、武者一人高岸に立て云、あれは備中守殿の御舟と見進す、是は薩摩守殿の御内に、豊島九郎実治と申者にて侍り、助させ給へやと云て招ければ、只一人也、それ乗よと宣ふ。水手等、御船狭候、如何と申けれ共、只(有朋下P431)寄て乗せよと被(レ)仰ければ、漕寄たり。実治は大の男、而も鎧著ながら、高岸より力を添て飛乗。船ばたに飛懸て、船を踏傾けたるを、のり直さん/\としける程に、踏返て皆海に沈にけり。師盛は浮上たりけるを、伊勢三郎義盛、熊手に懸て引上、首を取てけり。
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 < 異本には、大臣御乳人子(おんめのとご)に、清九郎馬允と名乗て舟を覆と云々。 >
一谷(いちのたに)にて被(二)討残(一)たる平家の人々、船にこみ乗波にゆられて、浮ぬ沈ぬ有か無かに漂ひけり。
新中納言、大臣殿に被(レ)申けるは、武蔵守にも後れぬ、頼賢も討れぬ、家長、有国などもよも生侍らじ、心細こそ候へ、只一人持たる子が、父を助んとて敵に組を見ながら、親の身にて子を育心なく落延たるこそ、命はよく惜者哉と、身ながらもうたてく覚候へ、人々の思召(おぼしめす)らんも恥敷こそとて、さめ/゛\と泣給ふ。大臣殿は、武蔵守は心も剛に手もきゝ、能大将軍にて座せし者を、穴惜やとて御子の右衛門督(うゑもんのかみ)を打見給、今年は同年にて十七ぞかしとて涙ぐみ給ければ、人々も皆袖をぞ絞ける。家長とは伊賀平内、左衛門有国とは武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもん)也。此等は新中納言の一二の者にて、命にも替、一所にて如何にもならんと契深かりければ、中納言も子息の武蔵守と同惜み給ける侍共也。
九郎義経は、一谷(いちのたに)に棹結渡て、宗人の首共取懸たり。千二百とぞ注したる。大将軍には、越前三位通盛〈 門脇子 〉蔵人(有朋下P432)大夫業盛、〈 同子 〉薩摩守忠度、〈 入道弟 〉武蔵守知章、〈 新中納言子 〉備中守師盛、〈 小松殿(こまつどの)子 〉若狭守経俊、但馬守経正、無官(むくわんの)大夫敦盛〈 已上三人は修理(しゆりの)大夫(だいぶ)子 〉、侍には越中前司盛俊、伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)家長、武蔵三郎左衛門有国已下、京都辺士の輩、四国西国(さいこく)者共也。其外はさのみ名を注すに及ず。箭にあたり剣に触て巷に臥族、一谷(いちのたに)の城郭(じやうくわく)の内、東西の城戸辺、死人の多き事麻を散せるが如也。水に溺山に隠し者は幾千万と云事を知ず。主上女院二位殿(にゐどの)、
P0942
内大臣(ないだいじん)、平大納言已下、并に人々の北方、御船に召てまのあたり是を被(二)御覧(一)。いかばかりの御事思召(おぼしめし)けんと、被(二)推量(一)哀也。翠帳紅閨万事の礼法引替て、船中波の上一生の悲、喩ん方こそ無りけれ。親は波の上に漂、子は陸の砂に倒、妻は船の中に焦(こがれ)て、夫は渚(なぎさ)の側に亡ぬ。友を忘主を忘ても、片時の命を惜み、兄を奇て弟を奇も、しばしの身をぞ畜たる。小水の魚の淡に■(きつく)が如く、客舎の羊の屠所に歩むに似たり。いつまで命を生んとて、各身をぞ惜ける。被(二)討漏(一)たる人々は、水手梶取、八重の塩路に棹指て、波にぞゆられ給ける。或は生田沖を漕過て、雀の松原、混陽の松、南宮の沖を沖懸に、紀伊の地へ移る船もあり、或芦屋の沖に懸て、九国へと急船もあり、鳴門沖を漕過て、屋島へ渡る船もあり、明石浦の浪間より、淡路の狭迫を漕過て、島隠れ行船もあり、未一谷(いちのたに)の沖に漂(有朋下P433)て、波にゆらるゝ舟もあり、霜枯の小竹が上の青翠、紫野に染返し、細谷川の水の色、薄紅にて流たり。汀(みぎは)の波湊の水、錦を濯ふに似たりけり。
S3803 熊谷送(二)敦盛頸(一)並返状事
熊谷次郎直実は、敦盛の頸をば取たれ共、嬉敷事をば忘て、只悲みの涙を流し、鎧の袖を濡けり。倩事の有様(ありさま)を案ずるに、愚なる禽獣鳥類までも、子を思ふ道は志深し。焔の中に身を亡し、矢さきに当て命を失ふ事も、子を思情に有、人倫争憐まざらん。弓矢取身とて、なにやらん子孫の後を思つゝ、他人の命を奪らん、蜻蛉の有か無かの身を以て、何思べき世の末を、是程に若く厳き上揩失歎給ふらん、父母の心中こそ糸惜けれ。縦勲功之賞には不(レ)預共、此首遺物返送、今一度替れる貌をも奉(レ)見ばやと思ひければ、実検(じつけん)にも合せ、懸頸にもしたりけれ共、大将軍に申請て、馬、鞍、冑、甲、
P0943
弓矢、漢竹の笛、一も取落さず、一紙の消息(せうそく)状に相具して、敦盛の首をば、父修理(しゆりの)大夫(だいぶ)へぞ送りける。其状に云、
直実謹言上、不慮奉(レ)参(二)会此君(一)之間、挿(下)呉王得(二)匂践(一)、秦皇遇(二)燕丹(一)之嘉直(上)欲(レ)決(二)(有朋下P434)勝負(一)之刻、依(レ)拝(二)容儀(一)、俄忘(二)怨敵之思(一)、忽抛(二)武威之勇(一)、剰加(二)守護(一)、奉(二)供奉(一)之処、大勢襲来之間、始雖(下)辞(二)源氏(一)参(中)平家(上)彼多勢也、此無勢也、樊■(はんくわい)之威還縮、養由(やういう)之芸速約、爰直実適禀(二)生於弓馬家(一)、幸眩(二)武勇於日域(一)、廻(レ)謀落(レ)城、靡(レ)旗、虐(レ)敵、雖(二)天下無双之得(一)(レ)名、如(下)蟷螂(たうらう)合(レ)力而覆(レ)車、螻蟻一(レ)心而穿(上)(レ)岸、憖挽(レ)弓放(レ)箭、空被(レ)奪(二)愚命於同軍之戟塵(一)、覃(二)于憂名於傍輩之後代(一)、自他背(レ)身之本望、非(二)家之面目(一)、然間奉(レ)仰(二)此君御素意(一)之処、早賜(二)御命(一)、可(レ)訪(二)菩提(一)之由、依(レ)被(二)仰下(一)、乍抑(二)落涙(一)、不(レ)謀而賜(二)御頸(一)畢、恨哉此君与(二)直実(一)奉(レ)結(二)縁於悪世(一)、悲哉宿運久萌至(レ)今、成(二)怨酬之害(一)、雖(レ)然翻(二)此逆縁(一)者、争互截(二)生死之糾(一)、不(レ)成(二)一蓮之実(一)哉、然則偏卜(二)閑居之地形(一)、懇可(レ)奉(レ)祈(二)御菩提(一)、直実所(レ)申、真偽定後聞無(二)其隠(一)候歟、以(二)此趣(一)、可(レ)有(レ)洩(二)御披露(一)候、恐惶謹言。   
  二月十三日                    直実状
進上  平左衛門尉殿(さゑもんのじようどの)として書たりける。
修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛は、此頸遺物を送得て、夢か現か分兼て、物も覚えず泣給ふ。公達あまた御座(おはしまし)けれ共、
P0944
此殿は末の子にて、殊に憐給つゝ、前にて生立て、み(有朋下P435)めも心も世に有難人にて、分方なく思はれしに、軍場に出て其後、敵にや取られけん深海にや沈けん、遁て徐にや有らんと、其行末を知給はねば、忍の涙を拭て、神に祈仏に誓て、存命せるか死せるか知ばやと被(レ)思けるに、今は不審は晴れたれ共、見ては歎ぞ増りける。生しき首を膝の上に舁載て、如何にや/\敦盛よ、懸貌をみする事こそ悲けれとて、流るゝ涙は雨の如し。前に候ける女房も兵も、只夢の如くに思つゝ、袖をのみこそ絞けれ。使の侍も心元なしとて、泣々(なくなく)返事せられけり。其状に云、
敦盛并遺物等給候畢、此事自(下)出(二)花洛之古郷(一)、漂(中)西海之波上(上)以降、兼所(レ)存也、今非(レ)可(レ)驚、故望(二)戦場之上(一)者、何有(二)再帰之思(一)哉、盛者必衰者、無常之理也、老少前後者、穢土之習也、然而為(レ)親為(レ)子、先世之契不(レ)浅、釈尊愛(二)羅■(らご)之存(一)、楽天悲(二)一子之別(一)、応身権化猶以如(レ)此、況凡夫争不(レ)歎哉、而去七日、自(下)討(二)立于戦場(一)之朝(上)迄(二)于後旅船之暮(一)、其面影未(レ)放(レ)身、来燕之声幽、帰雁之翅空、死生無(二)告者(一)、而迷(二)行方存亡(一)聞(二)音信(おとづれ)(一)、而知(二)由緒(一)、仰(レ)天伏(レ)地訴(レ)之、砕(レ)心焦(レ)肝祈(レ)之、偏仰(二)神明之納受(なふじゆ)(一)、併待(二)仏陀之感応(一)之処、於(二)七日之内(一)今見(二)此之貌(一)、仏神之効験有(レ)誠而不(レ)虚、内哀傷徹(レ)骨、外感涙洒(レ)袖、生而不(レ)劣(二)再来(一)、蘇而相(二)同重見(一)、抑非(二)貴辺芳恩(一)者、争今得(二)相見(一)哉、一門(有朋下P436)風塵猶捨退、況於(二)軍徒怨敵人(一)乎、訪(二)和漢両国之儀(一)、顧(二)古今数代之法(一)、未(レ)聞(二)其例(一)、此恩深厚須弥頗下、蒼海還浅、進酬自過去遠々、退難(レ)報
P0945
未来永々者歟、万端雖(レ)多難(レ)尽(二)筆紙(一)、謹言。   
  二月十四日                 左衛門尉(さゑもんのじよう)平公朝 
  熊谷次郎殿  御返事(おんへんじ)とぞ被(レ)書たる。
直実は此返事を給(たまひ)て、いとゞ涙を流しつゝ、為方なくぞ思ける。穢土の習を悲みて、遁ばやと思けるが、西国(さいこく)の軍鎮て、黒谷法然房に参つゝ、髻を切蓮生と名を付て、終に世をこそ背けれ。
S3804 小宰相局付慎夫人事
偖も今度討れ給へる人々の北方、皆髪を下して姿を替、流るゝ涙に袖朽て、身を墨染に窄しつゝ、念仏申て後世弔合れけるこそ哀なれ。其中に本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)の北方も、既(すで)に御髪下さんとし給けるを、内御乳母(おんめのと)也、いかゞは猿御事侍べきと、大臣殿強ちに被(二)制申(一)ければ、力及ずして尼には成給はざりけり。越前三位通盛は、大臣殿の御聟にておは(有朋下P437)しけれ共、女房未少く御座(おはしまし)ければ、近付き給事はなし。小宰相の局と申女房をぞ相具し給たりける。彼局と申は、故(こ)刑部卿(ぎやうぶきやう)憲方の娘、上西門院の女房也。心に情深く、形人に勝給たりと聞えしかば、心を懸ぬ人はなし。上西門院四方の花を御覧の為に、北野御幸有けるに、小宰相局をも召具せさせ給へり。越前三位の左衛門佐にて座しけるをも御伴にさゝれて参けり。万里を飛し梅の花、一夜に生る松枝、現神人の効験も、今更貴く思召(おぼしめし)、漸社壇も近付ば、大内山の霞は木隠てのみ見渡る。女院御車より下させ給へば、小宰相局も下給けり。通盛風見給(たまひ)て、宿所に帰て忘れんとすれ共忘ず、如何せんとぞ思はれける。又萌出る春の草、主なき宿の埋火は、下にのみこそ
P0946
焦れけれ。乳母(めのと)の女房を招て、いかゞはせんと此物語(ものがたり)ありければ、不(二)思寄(一)御事也、当時女院の御方に候はせ給(たまひ)て、片時も御前を立離させ給はぬものをと申ければ、一筆の文までも叶まじき歟と問給へば、それは何か苦く侍るべきと申。さらばとて御文あり。
  吹送風のたよりに見てしより雲間月に物思ふかな K194 
と書て奉る。小宰相は人や見つらん浅増(あさまし)や、不(二)思懸(一)とて返事なし。此を便として三年が程、書尽ぬ水茎の数積れ共、終に返事なかりけり。通盛御所の舎人を語ひて、御文を(有朋下P438)書て、是を持て小宰相局に奉て、散ぬ所に打置とて給(たまひ)てけり。舎人御文を給(たまひ)て隙を伺けるに、局女院(によゐんの)御所(ごしよ)へ参給けり。折節(をりふし)御所近成て、車の物見より投入て、使ははや失にけり。小宰相局、車の内にて忍騒給。是は如何なる人の伝へぞやと宣へ共、御伴の者も知ずと申ければ、大路に捨んも流石(さすが)也、車に置んもつゝましく思煩、いかにすべき様もなくて、袴の腰に挟みて御前へ参らせ給ぬ。隙なき御遊(ぎよいう)に打紛て御座(おはしまし)ける程に、女院の御前にしも此文を落給にけり。女院御衣の御袂(おんたもと)に引隠させ御座(おはしま)して、御遊(ぎよいう)の後、女房達(にようばうたち)の中にて懸文を求めたり、主誰ならんと仰ければ、我も/\不(レ)知と申させ給けるに、小宰相局ゆゝしく浅増気なる有様(ありさま)にて、あきれてぞ見え給ふ。女院此文を取出させ給へば、妓炉の煙に薫つゝ、香もなつかしき匂あり。手跡もなべてならず厳く、筆の立所もめづらかなり。
  わがこひは細谷川の丸木橋ふみ返されてぬるゝ袖かな K195
P0947
  踏かへす谷のうき橋浮世ぞと思しよりもぬるゝ袖かな K196 
難面御心も、今は中々嬉くてなんと書たり。是は逢ぬを恨たる文也。何と思なるべき人やらん、左衛門佐の申とは聞召しかども、細かには不(二)知召(一)、あまりに人の心づよきも讐(有朋下P439)となる者をや。此世にはまのあたり青鬼と成て、身を徒になし、又後世の障ともなる。今の世には又独行道にしも合て、情なき事を宛共申伝侍、人をも身をも鬼になして何にかせん、懸念無量劫とかやも罪深し、中比小野小町と云けるは、容顔人に勝、情の色も深かりければ、見人も聞人も、肝を働かし心を傷しめぬはなかりけり。去共其道には心づよき名を取たりけるにや、人の思の積つゝ、はては風を禦便もなく、雨を漏さぬわざもなし。空に陰らぬ月星を涙にやどし、人の惜む物を強て乞ひ、野辺の若菜摘て命を継げるには、青鬼こそ床をば並べける。一夜契何か左程苦しかるべきとて、女院御自御硯引寄せ御座(おはしまし)て、
  たゞ憑め細谷川の丸木橋ふみ返(かへし)ては落る習(ならひ)ぞ K197
  谷水の下に流(ながれ)て丸木橋ふみ見て後ぞ悔しかりける K198
と遊して、女院御媒にて渡らせ給へば、力及ばで終に靡き給(たま)ひにけり。仙宮玉妃、天地を兼て契りけん深き志も床敷て、雲上の御遊(ぎよいう)にも、今はすゝましからぬ程のなからひ也。角て馴初給(たまひ)て日比(ひごろ)へけるに、通盛或女房に心を移してかれ/゛\に成ければ、小宰相局角ぞ怨やり給(たま)ひける。(有朋下P440)
  呉竹の本は逢夜も近かりき末こそ節は遠ざかりけれ K199 
P0948
本より悪からざりける中なれば、通盛此文にめで給、互に志浅からずして、年比にもなり給(たま)ひければ、是までも具し下り給(たま)ひけり。
 < 昔漢文帝、上林園に御幸あり。慎夫人といへる女御座を並て御座、爰■(ゑんあう)と云臣下、夫人の座を退く。帝御気色(おんきしよく)かはり、夫人嗔れる色あり。爰■(ゑんあう)畏つて申。公に后御座、又妾御座、妾は座を不(レ)並とも、后は席を一にす。夫人は妾にして后に非ず、何ぞ公と床を一にせん。昔の人■(じんし)がためしを思知給へと云ければ、夫人此言を悟得て、爰■(ゑんあう)が賢心を歎給、金五十斤を給といへり、迎たるを云(レ)妻、走れるを云(レ)妾本文あり。>
越前三位通盛も、此事を思知給けるにや、大臣殿の御娘は妻室也。夫婦契におはしければ、小宰相局は仮初の眤也、妾にてぞ御座(おはしま)しける。一つ御船には住給はで、別の舟に宿し置奉、三年の程波の上に漂、時々事を問給へり。中々情ぞ深かりける。軍より先に三草山の仮屋へ奉(レ)呼給けり。旅寝の空の草枕を、今こそ最後と知給へ。三位の侍に宮太滝口時員と云者あり。一谷(いちのたに)の合戦に被(二)討漏(一)たりけるが、船の中に参て申けるは、三位殿(さんみどの)は湊川下にて、近江国住人(ぢゆうにん)、佐々木の一党木村源三成綱と云者が手にかゝりて討れさせ給(たま)ひぬと泣々(なくなく)語申ければ、北方は露物も仰られず、兼て思はぬ外の事(有朋下P441)の様に引かづき臥給(たまひ)て後は、枕も床も浮ぬ計ぞ泣給ふ。今度討れ給へる人々の北方、いづれも歎悲み給へる有様(ありさま)、疎也共見えざりけれ共、是は理にも過給へり。乳母子(めのとご)成ける女房の只一人奉(レ)付たりけるも、同枕に臥沈たりけるが、涙を押へて申けるは、今は如何に思召(おぼしめす)共甲斐あるまじ、御身身
P0949
とならせ給(たまひ)て後、御さまをも替、後世をも弔進せさせ給へ、懸浮世の習なれば、始て驚思召(おぼしめす)べからず、御身一の事也共如何はせん、人々の北の御方も皆角こそなど慰め申けれ共、只泣より外の事なし。返事をだにもし給はず。一定討れぬとは聞給けれ共、若や生て帰ると待給けるに、日数経て四五日にも成ぬ。一谷(いちのたに)は七日に落されたりけるに、十三日までぞ臥沈給へる。明日十四日に屋島の磯へ付べしと聞えける其夜、人定て乳母子(めのとご)の女房に宣(のたまひ)けるは、三位は討れたりと人毎(ひとごと)に云つれ共、余(よ)の人々もかなたこなたに落散給ぬと聞ば、さもや有らんと思て誠とも思はざりつるが、此暁よりはげにもさも有らんと思定めたる也、其故は、明日打出んとての夜は、終夜(よもすがら)いつよりも心細き事どもを云継て涙を流つゝ、如何にも我は明日の軍に討れんずると覚ゆるぞ、去ば後にいかなる有様(ありさま)にてか、世にもおはせんずらんと思こそ心苦しけれ。世の習なれば、さてはよもおはせじな、如何なる人にか見え給はんずらん、そも心憂など云し(有朋下P442)かば、いかに角は宣ふやらんと、心騒して覚えしかども、必しも懸べしとは思はざりしに、げに限にて有ける事の悲さよ、生て物を思ふも苦ければ、水の底にも入なんと思ふ也、是まで付下りて、一人残り居て思はん事こそ糸惜けれ、故郷に待聞て歎給はんも罪深けれども、此世に存へて有ならば、心の外の事も有ぞかし、なき人の魂、草の陰にて見んもうたてかるべし、如何なる男なれば、蓬が杣にも後じとは契りけるぞ、如何なる女なれば、難面く残居て歎くべきぞ、たゞならず成たる事を、其夜始て知せたりしかば、不(レ)斜(なのめならず)悦て、我三十に成ぬれ共、未子のなかり
P0950
つるに、始て見ん事は嬉けれども、角いつとなき船の中、波の上の住居なれば、身々とならん時も通盛いかゞはせんずると、只今(ただいま)あらんずる事の様に歎しぞや、はかりなかりける兼言哉、中々何しに知せけんとて、涙も関敢ず泣給ければ、乳母子(めのとご)の女房思けるは、日比(ひごろ)は泣給より外の事なくて、墓墓敷物も宣はざりつるに、角細やかに、来方行末の事まで口説給こそ怪けれ、げにも千尋の底までも思入給はんずるやらんと、胸打騒申けるは、水の底に入らせ給たりとても、恋しき人を非(レ)可(レ)奉(レ)見、今は云に甲斐なき御事也、其よりは只平かに身々とならせ給(たまひ)て後、をさなき人をも奉(二)生立(一)、御形見共御覧じ、又故郷に御座(おはしま)す人々にも奉(レ)見御座(おはしま)し候べし、御(有朋下P443)身をなき者になし給(たまひ)ては、何の詮かは侍るべき、我身も故郷に老たる親をも棄て、是まで下侍し事は、いかならん野末山の奥までも奉(レ)離らじとこそ思ひしか、されば無人の御事は、今は力なき御事にて侍り、童も知ぬ旅の空、習ぬ船の中に住居して、夜昼心を砕、憂目を見候事も、御故にこそ堪へ忍ても過し侍、志を忘させ給(たまひ)て、誰を憑何に慰とて左様の事思召(おぼしめし)立らん悲さよ、責ては御貌を替させ給(たまひ)て、墨染の袖に身を窄し、苔むす庵に籠居て、閼伽を結花を採、御菩提をこそ訪御座(おはしま)すべきに、悲の余りに海に入せ給(たま)ひたらんは、中々罪深御事にてこそ候はめなど、細々に慰制しける程に、夜も漸更にければ、乳母子(めのとご)の女房もまどろみて、船の中もはや定たりけるに、小宰相局忍びて船耳に立出給つゝ、念仏百返ばかり申て後、南無(なむ)西方極楽世界、大慈大悲阿弥陀如来(あみだによらい)、本願■(あやまり)給はず、別にし三位通盛と、一仏浄土(じやうど)の蓮葉
P0951
に導給へと、忍音に祈つゝ、漫々たる海上なれば、いづくを西とはわかね共、月の入さの山の端を、そなたと計伏拝、海へぞ飛入給ける。三位は此女房の十五と申けるより見初給(たまひ)て、今年は十九に成給ふ。束の間も難(レ)離思はれけれ共、大臣殿の御聟にて御座(おはしまし)ければ、其方様の人には知せじとて、官兵共の船に奉(二)宿置(一)て、時々見参せられけり。屋島へ漕返夜半計の事なれば、船人も皆より臥たり(有朋下P444)挿絵(有朋下P445)挿絵(有朋下P446)けるに、梶取共は是を見て、こは如何に、女房の海へ入給ぬるぞやと■(ののしり)ければ、乳母子(めのとご)の女房打驚き心迷して、傍を探るに人もなし。穴心憂やあれや/\と叫ければ、各海に飛入て、取上奉らんとしけれ共、折しも月さへ朧にて、阿波の鳴戸癖なれば、満塩引塩諍て、潜共々々見えざりけり。相構て取上たりければ、此世にもはや無人に成給にけり。白袴に練貫の二衣引纏て、髪より始てしをれつゝ、僅(わづか)に息ばかり通給けれども、目に見開給はず、寝入たる様にぞ座しける。乳母子(めのとご)の女房をめき叫て近づくより、手を取組て、如何に角心憂き目をば見せ給ふぞや、多人の中に相具せんと候しかば、老たる親にも別れ少子をも振捨て、是まで付進らせて下りたる志をも思召(おぼしめし)忘させ給、我身一人を残置、角成給ぬる事の口惜さよ、水の底へも引具してこそ入給はめ、片時離れ奉らんとも思ざりつる者をや、長き世の恨如何にせよとて、責ては今一度物被(レ)仰て聞させ給へ、さしも終夜(よもすがら)此事をこそ申侍しに、まどろむを待給ける悲さよとて、手に手を取、顔に顔を並て口説けれども、一言の返事もし給はず。舟の中の上下是を見て、皆涙をぞ流しける。夜も既(すで)に明なんとして、程も経にければ可(レ)叶も見えず。たま/\通ける息
P0952
も止て、事切果にけり。さてしも有べきに非とて、三位の著背の残たりけるに、浮もぞ上るとて押巻、又(有朋下P447)海へ入奉、乳母子(めのとご)の女房も後れじと連て海へ入けるを、人々取留たりければ、船の中に臥倒をめき叫けり。理に過て無慙也。余りの悲さに自髪をはさみ下したりければ、中納言律師忠快、尼になし戒を授給ふ。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)も、憑給へる嫡子越前三位と、最愛の乙子蔵人大夫業盛とて今年十七に成り給へりし二人の御子達(おんこたち)を討れつゝ、旁歎深かりけるに、三位の形見とて、此小宰相局をこそ見奉らんとおぼしけるに、角成給ぬる哀さよ。兎にも角にも涙関敢給はず、心の中只可(二)推量(一)。薩摩守忠度、但馬守経正、此人々の北方も座し合れけれ共、涙に沈ながらさてこそおはしけれ。昔も今も夫に後れて、様などかゆるは尋常の習也。忽(たちまち)に身を投る事はためし少なくぞ有らん。昔天竺の金地国の后は、王の遺を惜て、王と一所に生れんとて、葬火の中に飛入て亡にけり。今日本(につぽん)の通盛の北方は、三位の別を悲て、海に沈みて消にけり。火に飛入水に入る志、とり/゛\にこそ哀なれ。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛は、此有様(ありさま)を見給(たまひ)て打涙ぐみ、賢ぞ此人共を心づよく留置てける。我も具したりせば、懸事にこそあらんずらめと宣(のたまひ)けるこそ糸惜けれ。
S3805 平家首掛(二)獄門(一)付維盛北方被(レ)見(レ)頸事(有朋下P448)
源氏は、七日卯時に一谷(いちのたに)の矢合して、巳時に平家を追落し、二千(にせん)余人(よにん)が首共切懸。其内宗徒の人々十人が首取持せて、同(おなじき)十日上洛と披露あり。平家のゆかりの人々、さすが多く京に残留たりければ、是を聞、誰々なるらんと肝心を消す。其中に権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の北方は、遍照寺の奥、小倉山の麓、大覚寺と
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云所に忍て住給けるも、隙なき襟にてぞおはしける。風の吹日は、今日もや此人の舟に乗給ふらんと肝を消し、軍と聞ゆる折節(をりふし)は、今日や此人の討れ給ぬらんと閑心なく思しけるに、首共の多上るなれば、此中にはよもはづれ給はじと思はれけるこそ糸惜けれ。三位中将(さんみのちゆうじやう)と云ふ人の、虜にせられて上と聞えければ、少き者共の恋しさも難(レ)忍、いかにして此世にて今一度相見んずると返々云しかば、都に有ならば、若見る事もやなど思て、此人の生ながら取れて上たるやらん、縦見々えん事は嬉しけれ共、京鎌倉恥をさらさん事は、其身の為心憂かるべしなど口説つゞけ給(たまひ)て、伏沈てぞ座しける。さても三位中将(さんみのちゆうじやう)とは、重衡卿(しげひらのきやう)の事也と聞て後も、今度はづれ給たりとも、終には如何聞えんずらんと、慰む心もなきぞよとて袖を絞給ふこそ責ての事と哀なれ。
同七日夜半に、西海の追討使源九郎義経、飛脚を奉て申けるは、逆徒自(二)去五日(一)摂津国(つのくに)一谷(いちのたに)に、上には構(二)城郭(じやうくわく)(一)軍陣を張、下には砂浜を掘て逆木を立、大将軍前内大臣(ないだいじん)(有朋下P449)已下は、兵船に乗て浮(二)海上(一)、其(その)勢(せい)十万余騎(よき)也。南浜の繋手は範頼、北の山の搦手は義経、今日辰刻に両方より繋(二)襲賊徒之軍(一)、忽(たちまち)に敗れ、平三位通盛卿、前但馬守経正、前薩摩守忠度、前若狭守経俊、前備前守国盛、前備中守師盛、前武蔵守知章、散位業盛、敦盛、郎従、前越中守盛俊等、討捕畢。此外斬(レ)首者三百八十人、前左三位中将(さんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、甲冑を脱棄て上の山へ遁入といへ共、延やらずして、即虜れ畢。前内大臣(ないだいじん)、前平中納言教盛已下は、乗(レ)船逃去畢とぞ申たりける。
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十三日に大夫判官(たいふはんぐわん)仲頼、六条河原にて、九郎義経の手より平氏の首共請取て、東洞院(ひがしのとうゐん)の大路を北へ渡して、左の獄門の樗木に懸らる。通盛、忠度、知章、経俊、師盛、経正、業盛、〈 已上大将軍 〉盛俊、家貞(いへさだ)、〈 侍 〉此人々の頸也。抑此頸ども、大路を渡し獄門に可(レ)被(レ)懸之由、範頼、義経、兄弟両人奏し申ければ、法皇思召(おぼしめし)煩はせ給(たまひ)て、蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)を御使にて、太政大臣(だいじやうだいじん)、左右大臣、内大臣(ないだいじん)、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)に有(二)御尋(おんたづね)(一)、五人公卿一同に被(レ)申けるは、此輩は先帝の御時、戚里の臣として久朝家に奉(レ)仕、就(レ)中(なかんづく)卿相(けいしやう)の首、大路を渡し獄門に掛らるゝ事、未其例なし。範頼義経が申状、強に不(レ)可(レ)有(二)御許容(一)と被(レ)申ければ、渡さるまじきにて有けるを、九郎義経重て奏し申けるは、父義朝(よしとも)は、保元の逆乱に御方に参て、凶徒(きようと)を退け雖(レ)抽(二)合戦之忠(一)平治(有朋下P450)に悪衛門督信頼卿(のぶよりのきやう)の語により、不(レ)意蒙(二)勅勘(一)間、其頸大路を渡されて、曝(二)骸於獄門(一)、彼を以案(レ)之、平家昨日までは朝家之重臣として雖(レ)列(二)卿相(けいしやう)(一)、今日は国家之逆臣として已(すでに)蒙(二)勅勘(一)。就(レ)中(なかんづく)軽(レ)命捨(レ)身合戦を仕事、且は奉(レ)重(二)朝威(一)、且は為(レ)雪(二)父之恥(一)也。舎兄鎌倉頼朝(よりとも)深此旨を存ず、而を且取得処の平家之首、任(二)申請(一)大路を渡れずば、向後何の勇有てか朝敵を可(二)誅戮(一)と殊に憤申ければ、力及せ給はで、終に大路を渡し獄門に懸られけり。昔は列(二)北闕之群臣(ぐんしん)(一)足雲上之台を踏しか共、今は成(二)西海之凶賊(一)、首を獄門之枝に懸られたり。京中の貴賤多く是を見。老たるも若も、涙を流し袖を不(レ)絞と云事なし。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の北方は、此事伝聞給(たまひ)て、彼首の内には我人よも遁給はじとおぼしければ、斎藤五、斎藤六
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を召て、己れ等は無官(むくわん)の者とて、出仕の伴をもせざりしかば痛く人に知れず、此二三年の程入籠て色も白くなり、老替りたる様なれば、知たる者も今は見忘たるらんと覚ゆるぞ、渡さるゝ頸の中に、此人やましますらん、見て参れと被(レ)仰ければ、兄弟様を窄し姿を替て、大路に出て是を見るに、維盛の御頸はなかりけれ共、一門の人々の首共なれば目もあてられず、哀に悲く覚えて、つゝむ袂(たもと)の下より余て涙ぞこぼれける。片辺の者ども怪げに見ければ、流石(さすが)空恐しく覚えつゝ、急大覚寺に帰て申け(有朋下P451)るは、小松殿(こまつどの)の公達には、備中守殿の御頸ばかりぞ御座(ござ)候つる。其外は誰々と語申ければ、北方は、心憂や人の上共覚えずとて泣給(たま)ひけるぞ誠にと覚えて糸惜き。斎藤五が申けるは、見物の者の中に、雑色かとおぼしきが、由々しく案内知りたりげに候つるが、四五人立て互に物語(ものがたり)申侍りつるは、小松殿(こまつどの)の公達は、今度は三草山の大将軍にて、新三位中将殿(しんざんみのちゆうじやうどの)、小将殿、備中殿、三所向せ給たりけるが、陣を破られて、二所は御船に召て讃岐の地へ著給にけりと聞るに、此備中殿は、いかにして兄弟の御中を離て、討れ給けるやらんと申つるに、偖三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)はいかにと尋進せ候つれば、其殿は御所労にて今度は打立給はず、船に乗給(たまひ)て淡路へ渡らせ給けるぞと、語り候つると申ければ、北方穴痛しや、故郷に残留給へる身々の事の悲さに、思歎の積つゝ、病と成にけるにこそ、世にも又心強き人かな、所労大事ならば、角こそ有て軍にもあはず淡路へ渡ぬると、などや音信(おとづれ)給はざるらん、人は加様に心強きにこそとて、又雨々と泣給へば、げに理と覚えつゝ、よその袂(たもと)も絞にけり。さても都を出
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給しより後は、我身の侘しき事をば一言も宣はず、少き者共はわぶるか、終には一所にてこそすまんずれとのみ時々音信(おとづ)れ給ふ計也。それも憑もしくも覚えず、皆人も具すればこそ野の末山の奥にも、一所にあらば互に悲しき事(有朋下P452)をも慰べきに、所々に住ばこそ折に触て角のみ心をも砕き又人も労り給ふらめ、いかゞして人を下して、何事の御労ぞと慥の事をも聞べきと、怨み口説給(たま)ひければ、六代殿〔仰けるは、〕などやをれ斎藤五、其程に細々と物語(ものがたり)する程の者に、何の御労ぞとは問はざりけるぞ、穴不覚の者やと宣(のたま)ひければ、斎藤五は未少御心に、是まで思召(おぼしめし)寄ける事よと、いとゞ涙を催しけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)も通心の中なれば、被(レ)渡頸の中に我首なくば、水の底にも入にけるやらんと、如何に■(おぼつか)なく思らんとて、疎ならぬ者を使にぞ被(レ)上ける。今日までは露の命も消やらでこそ侍れ。打棄て下りし後は、いかにして世にも立廻給らんと心苦し。少き者共の方に何事かなど細やかに書給へり。心の中に思立給こと有ければ、是を限とおぼしけるに、涙にくれて書もやり給はず。若君姫君の御許へも御文あり。旅の空に憂事もやとて留置たりしか共、中々心苦ければ、必迎取互に相見んずる也、若又世になき者と聞なし給はば、是を形見にも御覧ぜよと書給たれ共、是が最後の筆のすさみ共争か思召(おぼしめす)べき。只いつか無人と聞なさんずらんと、兼ておぼすぞ悲しき。
S3806 重衡京入並定長(さだなが)問答事(有朋下P453)
本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、庄三郎家長に虜れて、再都へ帰上給ふ。掛らるゝ頸共も去事なれ共、生ながら故郷に恥を曝し給こそ無慙なれ。六条を東へ渡れけり。貴賤男女市の如くに集り是を見る。口々に
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申けるは、あまたの殿原の中に、入道殿(にふだうどの)にも、二位殿(にゐどの)にも、覚えの御子にて御座(おはしまし)しかば、一家の人々も重ずる事に思給たりき、院内へ参り給しかば、老たるも若も所を置、■(もてな)し奉らせ給き、時々は口をかしき事なんどをも云置て、人に忍ばれ給し者を、如何なる罪の酬にて、角は成給(たま)ひぬるやらんといへば、或人の申けるは、争可(レ)不(レ)報、親り南都東大寺(とうだいじ)より始て、仏像経巻焼亡しゝ報なれば、懸る憂目を見給にや。去共哀、事に触て人に情を懸、万に甲斐々々敷はなやかなりし人々ぞかし。親のいとほしみも去事にて、よその人迄も憑しき事に思申しゝぞかしなんど、上下口々に憐けり。院宮の女房達(にようばうたち)の中にも、馴近付給たる人々も多く御座(おはしまし)ければ、是を聞見ては、只夢の心地してぞおぼしあはれける。十四日蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)、依(二)法皇之仰(一)故中御門中納言家成卿の八条堀川(ほりかはの)御堂にて、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)を可(レ)被(二)召問(一)とて、土肥次郎実平同車(どうしや)して来給へり。重衡卿(しげひらのきやう)は、紺村紺の直垂に練貫の二小袖を著られたり。折烏帽子(をりえぼし)を引立給へり。土肥次郎は、木蘭地直垂に膚に腹巻を著たり。郎等三十人を相具して皆甲冑を著す。(有朋下P454)蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)は赤衣に剣笏を帯せり。昔は人の数共おぼさゞりしに、今は生ながら冥官に値給へる心地して恐しくぞ被(レ)思ける。定長(さだなが)院宣趣条々、委重衡卿(しげひらのきやう)に被(二)思含(一)ける中に、三種神器を都へ返入奉らば、頼朝(よりとも)に仰られて死罪をも被(レ)宥、西国(さいこく)へも可(レ)被(二)返遣(一)とぞ仰ける。重衡卿(しげひらのきやう)、院宣の御返事(おんへんじ)被(レ)申けるは、先祖平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)が時より、故(こ)入道(にふだう)相国(しやうこく)に至まで、代々朝家の御守として一天の御固たりき、而を入道薨去之後、子孫君に棄られ進せて西海の浪に漂ふ。通盛
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已下の一門、多一谷(いちのたに)にして被(レ)誅、其首獄門に掛られぬ。重衡又懸る身に成ぬれば、一人西国(さいこく)に帰下て候(さうらふ)共(とも)、負べき軍に勝事侍まじ、不(レ)被(二)返下(一)共、勝べき軍に負事候まじ、宿運忽(たちまち)に尽て、一門の中に重衡一人虜れて、故郷に帰上り恥をさらす、されば親き者に面を合べし共不(レ)覚、今一度見んと思ふ者はよも候はじ、若母の二位の尼などや、恩愛の慈悲にて無慙とも思候はん、其外は哀を懸べし共不(レ)存、就(レ)中(なかんづく)主上の帰入せ給はざらんには、三種神器計を奉(レ)入事は難(レ)有こそ存候へ、然而忝蒙(二)院宣(一)上は、若やと私使にて申試侍べしとて、平左衛門尉(へいざゑもんのじよう)重国と云侍を可(二)下遣(一)由被(レ)申けり。此重国と云は、重衡卿(しげひらのきやう)の少くより不便の者に思はれて、自烏帽子(えぼし)を著せ給。片名をたびて重国と呼れけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)、加様に甲斐々々敷御返事(おんへんじ)をも被(レ)申けれども、心(有朋下P455)憂事におぼされつゝ、打うつぶきて只涙をのみぞ流し給ふ。御使定長(さだなが)も、岩木をむすばぬ身成ければ、落涙に袖ぬれて、赤衣の袖を絞りけり。
S3807 重国花方帯(二)院宣(一)西国(さいこく)下向同上洛奉(二)返状(一)事
同(おなじき)十五日に、重衡の使平左衛門尉(へいざゑもんのじよう)重国、院宣を帯して西国(さいこく)へ下向。院よりは御壺召次に、花方と云者を被(二)副下(一)けり。彼院宣に云、
一人聖帝出(二)北闕九重之台(一)、而幸(二)于九州(一)、三種神器移(二)南海四国之境(一)、而経(二)数年(一)、尤朝家之御歎、亡国之為(レ)基也、彼重衡卿(しげひらのきやう)者、東大寺(とうだいじ)焼失之逆臣也、任(二)頼朝(よりとも)申請之旨(一)雖(レ)須(レ)被(レ)行(二)死罪(一)、独別(二)親類(一)已為(二)生虜(一)、籠鳥恋(レ)雲之思、遥浮(二)千里之南海(一)、帰雁失(レ)友之情、定通(二)九重之中途(一)歟、然
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則於(レ)奉(レ)返(二)入三種神器(一)者、速可(レ)被(レ)寛(二)宥彼卿(一)也、者院宣如(レ)此、仍執達如(レ)件。   
  元暦元年二月十四日               大膳大夫業忠奉  
 平(へい)大納言殿(だいなごんどの)とぞ被(レ)書たる。
三位中将(さんみのちゆうじやう)も、内大臣(ないだいじん)、並平(へい)大納言(だいなごん)の許へ、院宣の趣委く被(二)申下(一)けり。母(有朋下P456)二位殿(にゐどの)へも、御文細やかに書て、今一度重衡を御覧ぜんと思召(おぼしめさ)ば、内侍所を都へ返入進する様に、よく/\大臣殿に申させ給へとぞ書下し給ける。北方大納言佐殿(だいなごんのすけどの)へも御文進せ度思けれ共、私の文はゆるさゞりければ、詞にて、旅の空にも人は我に慰、我は人にこそ奉(レ)慰しに、此六日は必限共知ず、申置度事も多く有し者を、憑もしき人もなきに、明し暮し給ふ覧と想像こそ心苦しけれ。又身の有様(ありさま)も心の中も只推量り給へ、憂かりし船の中波の上も、今は思出して恋くこそと宣もあへず泣給へば、重国も涙を流しけり。預り守武士も、鎧の袖をぞ絞合ける。
十六日(じふろくにち)には、重て重衡卿(しげひらのきやう)を召問れけり。平家は都を出て西国(さいこく)に落下給たりけれ共、只浪の上舟の中にのみ漂て、安堵し給はざりける上に、一門多く一谷(いちのたに)にて亡にければ、いとゞ為方なくぞおぼされける。被(二)討漏(一)たる人々も、春の尾上の残の雪、日影に解る風情して、消なん事を歎けり。
十八日(じふはちにち)には、在々所々に武士の狼藉を止べき由、蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)、依(二)院宣(一)頭左中弁光雅朝臣に仰。廿二日には、諸国兵粮米の貢を可(レ)止之由、定長(さだなが)、依(二)院宣(一)光雅朝臣に仰す。
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二十七日(にじふしちにち)には、両国へ被(二)下遣(一)重衡卿(しげひらのきやう)の使重国、召次花方、両人帰洛して、右衛門権佐(うゑもんごんのすけ)定長(さだなが)の宿所に行向て、前内大臣(ないだいじん)宗盛の被(レ)申たる奉(二)院宣御返事(おんへんじ)(一)、定長(さだなが)則院参(ゐんざん)して是を奏聞す。彼状に云、(有朋下P457)
右今月十四日院宣、同(おなじき)二十四日、讃岐国屋島浦到来、謹所(レ)承如(レ)件、就(レ)之案(レ)之、通盛已下当家数輩、於(二)摂津国(つのくに)一谷(いちのたに)(一)、已(すでに)被(レ)誅畢、何重衡一人可(レ)悦(二)寛宥之院宣(一)、抑我君者、受(二)故高倉院(たかくらのゐん)之御譲(一)、御在位既四箇年、雖(レ)無(二)其御恙(一)、東夷結(レ)党責上、北狄成(レ)群乱入之間、且任(二)幼帝母后之御歎尤深(一)、且依(二)外戚外舅之愚志不(一)(レ)浅、固(二)辞北闕之花台(一)、遷(二)幸西海之薮屋(一)、但再於(レ)無(二)旧都之還御(一)者、三種神器争可(レ)被(レ)放(二)玉体(一)哉、夫臣者以(レ)君為(レ)体、君者以(レ)臣為(レ)体、君安則臣不(レ)苦、君憂則臣不(レ)楽、謹思(二)臣等(しんら)之先祖(一)、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)、追(二)討相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)(一)、而自(レ)鎮(二)東八箇国(一)以降、伝(二)子々孫々(ししそんぞん)(一)、誅(二)戮朝敵之謀臣(一)、及(二)代々世々(一)、奉(レ)守(二)禁闕之朝家(一)、就(レ)中(なかんづく)亡父太政大臣(だいじやうだいじん)、保元平治両度合戦之時、重(二)勅威(一)、軽(二)愚命(一)、是偏奉(レ)為(レ)君非(レ)為(レ)身、而彼頼朝(よりとも)者、父左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)謀叛之時、頻可(二)誅罰(一)之由、雖(レ)被(レ)仰(二)下于故(こ)入道大相国(たいしやうこく)(一)、慈悲之余所(レ)申(二)宥流罪(一)也、爰頼朝(よりとも)已(すでに)忘(二)昔之高恩(一)、今不(レ)顧(二)芳志(一)、忽以(二)流人之身(一)、濫列(二)凶徒(きようと)之類(一)、愚意之至思慮之讐也、尤招(二)神兵天罰速(一)、期(二)廃跡沈滅(一)者歟、日月為(二)一物(一)不(レ)暗(二)其明(一)、明王(みやうわう)為(二)一人(一)不(レ)抂(二)其法(一)、何以(二)一情(一)不(レ)覚(二)大徳文(一)、但君不(レ)思(二)召忘亡父数度之奉公(一)者、早可(レ)有(レ)御(二)幸于西国(さいこく)(一)歟、于(レ)時臣等(しんら)奉(二)院宣(一)、忽出(二)蓬屋之新館(一)、再帰(二)花亭之旧都(一)、然者(しかれば)四国九国、如(レ)雲集靡(二)異賊(一)、(有朋下P458)西海(さいかい)南海、如(レ)霞随誅(二)逆夷(一)、
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其時主上帯(二)三種神器(一)、幸(二)九重之鳳闕(一)、若不(レ)雪(二)会稽之恥(一)者、相(二)当于人王八十一代之御宇(ぎよう)我朝之御宝(一)、引(レ)波随(レ)風、赴(二)新羅、高麗、百済、契丹(一)、雖(レ)成(二)異朝之財(一)、終無(二)帰洛之期(一)歟、以(二)此旨(一)可(レ)然之様、可(下)令(レ)洩(二)奏聞(一)給(上)、宗盛頓首謹言。   
  元暦元年二月二十八日(にじふはちにち)                 内大臣(ないだいじん)宗盛請文
とぞ被(レ)書たりける。御壺の召次花方は、平左衛門尉(へいざゑもんのじよう)重国に具して、院宣の副使に西国(さいこく)へ下たりければ、平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、花方を捕て以(レ)金焼(レ)頬に、波方とぞ焼付たる。其後髻を切鼻を■(そい)で、是は己をするには非ずとて追放けり。無益の院宣御使勤て、身のかたはをぞ付にける。さてこそ花方をば、異名には波方とも呼けれ。時忠卿(ときただのきやう)の己をするに非ずと宣(のたまひ)けるは、されば法皇の御事を申けるにや、畏々とぞ人皆舌を振ける。偖重国申けるには、依(二)東国之逆乱(一)、西国(さいこく)に臨幸あり。主上無(二)還御(一)、三種神器輙難(レ)被(レ)奉(二)返入(一)、倩慮(二)夷狄之俗(一)、已(すでに)同(二)虎狼之性(一)、只殉(レ)利不(レ)殉(レ)名、偏忘(二)廉譲之思(一)、深淫(二)色欲之心(一)、然忽被(レ)賞(二)異類之賊(一)、永被(レ)棄(二)一族之輩(一)、或称(二)勲功(一)、或振(二)威猛(一)、云(二)国衙(こくが)(一)、云(二)庄園(一)、無(二)立(レ)針之土地(一)、虜(二)掠之(一)、無(二)片粒之官物(くわんもつ)(一)、却(二)略之(一)、世之衰乱逐(レ)日弥甚、国之残滅積年(有朋下P459)益滅歟、臣若被(レ)献(二)国家安全之諌言(一)、君何不(レ)廻(二)天下和平之叡慮(一)哉、前内大臣(ないだいじん)被(レ)申之由を奏しける。(有朋下P460)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三十九

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遊巻 第三十九
S3901 友時参(二)重衡許(一)付重衡迎(二)内裏女房(一)事
本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の侍に木工馬允友時と云者は、八条院に兼参しける者也。平家都を落と聞えしかば、友時も定て重衡に具して下らんずらんとて、八条院より、友時を召て人に預置れたりければ、力及で西国(さいこく)へも不(レ)下して有けるが、三位中将(さんみのちゆうじやう)虜れて都に上り給たりと聞て、預の武士の許に行向て、是は八条院に木工馬允友時と申者にて侍が、是に御渡候ける三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)は、年来の主君にて御座(おはしまし)しかば、御一門に相具して西国(さいこく)下向の時御伴申べかりしを、折節(をりふし)身に相労事あて、心ならず罷留たりしかば、如何成給ぬらんと、月頃日頃(ひごろ)御向後の奉(二)■(おぼつかなく)思(一)つるに、御上と承れば、今一度余りに見進せ度て推参仕れり、可(レ)然ば蒙(二)御免(一)なんやと申けれども、武士不(レ)免(レ)之。友時腰の刀を抜て武士の中へ抛入て、腕頸を取腰をかゞめ、僻事更に候まじ、只年来の御情(おんなさけ)奉(二)難(レ)忘思(一)、一目見えもし奉り見も進ばやの志ばかりの事也と泣々(なくなく)歎申せば、土肥次郎世にも哀に思ひければ、何かは苦かる(有朋下P462)らんとて免入けり。三位中将(さんみのちゆうじやう)は友時を見付(みつけ)給、傍近く呼び寄て、あれは如何にして参たるぞ、珍くこそと宣も敢ず、袖を顔に押当て、御涙(おんなみだ)関敢給はざりければ、友時も共に袂(たもと)を絞りけり。良久有て、互に昔今の物語(ものがたり)し給ける中に、中将宣(のたまひ)けるは、さても内裏に、年頃不(レ)疎申馴たる女房
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あり、都を落し時も敢あへぬ事也しかば、云たき事も有しか共空く止ぬ、年月の重りぬるに付てもいぶせさのみ積れば、文をやりて返事をも見ならば、懸憂身の慰にもとは思へ共、誰してやるべし共なかりつるに、友時持て行なんやと宣へば、安き程の御事にこそと申。三位中将(さんみのちゆうじやう)悦て、土肥次郎に被(レ)仰けるは、年頃相知たる女房の許へ、文をやらばやと思ふは叶はじやと問給ければ、猛き夷なれ共流石(さすが)岩木ならねば、哀とや思けん、何か苦しく候べきとて奉(レ)免。乍(レ)去御文をば見進せんと申ければ、被(レ)見けり。土肥次郎是を披見れば、誠に女房の許へも御文也。歌もあり。実平哀にぞ思ける。友時御文を給(たまひ)て内裏へ参けるが、未(レ)明ければ、其辺近き小家に立入て、晩程に彼女房の局近くたゝずみて思様、そも三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)は角思召(おぼしめせ)共、女房は御心替もや有らん、左様ならんにはいみじからぬ御身に、中々如何有べからるらんと思つゝ、良久立聞ば、彼女房の音して、かたへの女房に語とおぼしくて、人にも勝て世の覚も有き、又心様も類なかり(有朋下P463)しかば、情を懸ぬ者も無りき、我身も馴初て年頃にも成しかば、何事に付ても阻なく、憑しき事にこそ云しか、都を落なんとせしにも、不(二)取敢(一)事也しかば、墓々しく心静なる事もなかりしに、云し事は、我は西国(さいこく)へ落行なんず、別て後の恋さを兼て思こそ悲けれ、人は同心ならずもや有らん、我心よりおこらぬ事なれ共、日本(につぽん)第一の大伽藍を焼亡したれば、末の露本の雫に帰つゝ、人に勝て罪深くこそあらんずれ、終に如何聞なし給はんずらんと物語(ものがたり)せしか共、そもさるべきかはと思しに、人しもこそ多きに、生ながら捕れて、京田舎恥
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を曝す事の心憂さよ、三位都を出にし後には、堪忍ぶべし共思ざりしかば、雲の上のまじはりも倦けれども、独隙なく歎かんも罪深ければ、時の間も慰忘るゝ事もやとこそ思しに、露命と云ながら、消もうせなで又憂事を聞悲さよとて、忍もあへず泣悲み給音しけり。友時、さては此女房も忘れず歎給けりと、哀に覚て立寄、戸を打扣、もの申さんといへば、内より童指出て、いづこ[* 「いとこ」と有るのを他本により訂正]よりと問。忍音に三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)よりと申せば、さき/゛\は人にも見え給はぬ女房の、余りの有難さにや、人目も恥も忘つつ、端近く出給(たま)ひ、いかにや/\と問給へば、御文候とてさし上たり。披見給へば、いかならん野の末山の奥にも、甲斐なき命あらば、申事も有なんとこそ思しに、そも叶で生な(有朋下P464)がら捕れて、恥をさらす事の心うさ、是も可(レ)然先の世の報にこそと思へば、我身の咎と覚て人を怨事なし、偖も此世に候はん事今明にこそ、争今一度可(レ)奉(二)相見(一)なんど、哀に心細き事共細々書続て、奥に一首ぞ有ける。
  涙河浮名を流す身なれども今一しほの逢せともがな K200 
女房此文を見給ふに、いとゞ為方なくて倒臥し、引かづきてぞ泣給ふ。友時も奉(レ)見(レ)之、よしなかりける御使哉とぞ悶ける。良久ありて起あがり、使の待らんも心つきなしとて、細に返事書給(たま)ひつゝ被(レ)帰けり。三位中将(さんみのちゆうじやう)返事を待得て限なく悦、披見給へば、何国の浦にもましまさば、自申事こそ難くとも、露の命のあらん限は、風の便にはとこそ思侍つるに、偖は近く限に座すらん事こそ
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悲けれ、誠に人のさもおはせんには、我が身とても日来の歎に打副て、ながらへん事も有難し、誠にいかにもしてか今一度見奉るべきと書給(たまひ)て、
  君故に我も浮名を流しなば底のみくづと共に成ばや K201 
中将は此文を見給(たまひ)ては、物も覚ず只泣給ふ計也。此女房と申は、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の孫、桜町中納言成範卿の娘、中納言局とぞ申ける。今年二十一にぞ成給。琴琵琶の上手にて、(有朋下P465)絵書、花結、歌読、手厳書給ける上、貌細やかに情深き人にて座しければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)殊にわりなき事に思入給(たまひ)て、替る心なく申通じ給ける御中也。御子一人御座(おはしまし)けれ共、北方、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)に憚給(たまひ)て、世には角とも披露なし。西海の旅までも、引つれ奉度思しけるが、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、先帝の御乳母(おんめのと)とて下らせ給へば、そも叶はで都に残し置給ける也。三位中将(さんみのちゆうじやう)返事披見給、悲しき中にも不(レ)斜(なのめならず)悦、又土肥次郎に宣(のたまひ)けるは、此文の主の女房を呼て、最後の見参して申度事の侍るは免し給(たまひ)てんや、懸身に成ぬる上は、何事をかとおぼすらめ共、尽ぬ思の晴難ければ、今一度逢みばやと思ふ也、如何有べきと問給へば、実の女房にて御座侍らんには、などか苦しかるべきとて奉(レ)免。中将悦て、友時して乗物尋出て内裏へ遣す。女房世もつゝましく思召(おぼしめし)けれ共、責ての志の余に御車に召出給けるが、涙にくれて行さきも見え給はず。彼宿所におはし付て、車差寄せて下んとし給ければ、中将急立出て、武士のみんも見苦く侍るにとて、我身は縁に乍(レ)立、車の簾うち纏、手に手を取組、互の涙せき兼給へり。中将やゝ有て宣(のたまひ)けるは、都を
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落下し時、友時が他行して侍し程に、何事も不(二)申置(一)、文をも奉ずして下たりしかば、年頃日頃(ひごろ)申しゝ事は皆偽言にて有けるよと、思召(おぼしめし)なん恥しさよと思しかば、軍に出る日は、今日は矢に中て死な(有朋下P466)ば、又申さでもや果なんと思はれ、船に乗時は、今日や水に沈みて、晴る事なくて止んと悲かりしに、今度生ながら捕れて、故郷の大路を渡されたるは、人を可(レ)奉(二)再見(一)契の朽ざりけるにやとて泣給へば、女房は詞も出されず、只泣より外の事なし。深行儘に終夜(よもすがら)御物語(おんものがたり)し給ける。中にも女房は、三位中将(さんみのちゆうじやう)の事は、今は猿事にて如何がはせん、御子の事をぞ歎れける。西海に落下り給(たまひ)て後は、東国の武士家々(いへいへ)に充満て、うつゝなき世中なれば、如何なる憂事をか見聞んずらんと、明けても暮ても肝心を迷し、爰(ここ)に隠れ彼に忍なんとするも、墻壁もいぶせければ、便に伝て下し奉らばやと、責の事には思しか共、人にこそ生ながら奉(レ)別らめ、行末遠き少人をさへ、旅の空に打棄ん事よと悲ければ、さてこそ過し侍しか。西海の波の上に、偖も御座(おはしまし)し程は、再昔に還事もやと愚に被(レ)思つるに、今は角成給ぬれば憑む甲斐なし。さては何と成べき世中ぞや、御身の果如何聞なし奉るべきと忍音にて泣給けり。三位中将(さんみのちゆうじやう)は、我罪深き者とて懸身に成ぬる上は申置しあらましも夢の中の物語(ものがたり)也、罪深き者の子なれば、枝葉までも末憑しくはなけれ共、如何にもして助隠して、片山寺に下置、僧になして我苦を弔はせ給へと被(レ)仰て、袖のしがらみ関兼給へり。昔今の物語(ものがたり)、夜を重日を重ぬ共難(レ)尽おぼしけるに、暁かけて打響く(有朋下P467)野寺の鐘の声、孀烏の一声、今夜も明ぬと告渡る。尾上
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に廻白雲、西山に傾く暁の月、互に遺りは惜けれども、さて有べき事ならねば、疾々とて返されける。女房別を悲て、車の内に倒伏、物も覚ず泣給ふ。既(すで)に車を遣り出さんとし給へば、三位中将(さんみのちゆうじやう)、飽ぬ遺の悲さに、女房の袂(たもと)を引へつゝ、命あらば又も奉(レ)見嬉こそ、世になき者と聞給はば、必後世弔給へと宣て、
  あふ事も露の命ももろともに今宵ばかりや限なるらん K202 
女房泣々(なくなく)、
  限りとて立別なば露の身の君よりさきに消ぬべきかな K203 
とて出給けるが、此に御座(おはしま)さん程は常によと計にて、又物も宣はず、車を遣出し給けり。後にこそ是を最後とはおぼしけん、永き別の心中、帰るも止るも被(二)推量(一)哀也。女房内裏に帰給たりけれ共、打臥給(たまひ)て衣引纏て、只泣より外の事ぞなき。傍の女房達(にようばうたち)も、共に袖をのみぞ絞りける。其後は中将仰られけれ共、武士奉(レ)免事なかりければ、時々消息(せうそく)計こそ友時して通けれ。女房は内裏にも角ておはせん事つゝましくおぼしければ、里にのみこそ住給へ、責ての事と哀也。(有朋下P468)
S3902 重衡請(二)法然房(一)事
三位中将(さんみのちゆうじやう)は九郎義経の許へ、出家をせばやと思ふは、免し給(たまひ)てんやと宣(のたまひ)ければ、義経が計には難(レ)叶、御所へ申入て可(レ)依(二)其御左右(一)とて奏聞あり。頼朝(よりとも)に不(二)仰合(一)して出家暇を免ん事、難(レ)治之由被(二)仰下(一)ければ、御気色(おんきしよく)角とて不(二)及(レ)力給(一)。中将重て、出家は御免なければ今は申すに及ばず、さあら
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ば年来相知て侍る上人を請じて、後世の事をも尋聞ばやと有ければ、上人は誰にて御座ぞと問奉。黒谷法然房と被(レ)申たり。兼て貴き上人と聞給ければ、後世の情にと思つゝ是を奉(レ)免。三位中将(さんみのちゆうじやう)不(レ)斜(なのめならず)悦て、軈友時を使にて、黒谷の庵室へ申されたりければ、法然上人来給へり。中将泣々(なくなく)宣(のたまふ)。重衡が身の身にて侍し時は、誇(二)栄花(一)驕楽■慢(けうまん)の心は在しか共、当来の昇沈かへり見る事侍らず、運尽世乱て後は、此にて軍彼にて戦と申て、人を失ひ身を助んと励悪念は無間に遮て、一分の善心会て起らず、就(レ)中(なかんづく)南都炎上(えんしやう)の事、公に仕り世に随ふ習にて、王命と申父命と申、衆徒之悪行を鎮ん為に罷向処に、不(レ)側に伽藍の滅亡に及し事、不(レ)及(レ)力次第也といへ共、大将軍を勤めし上は、重衡が罪業と罷成候ぬらん、其報にや、多き一門の中に我身一人(有朋下P469)虜れて、京田舎恥を曝すに付ても、一生の所行墓なく拙き事今思合するに、罪業は須弥よりも高く、善業は微塵計もたくはへ侍らず、さても空く終なば、火穴刀の苦果且て疑なし、出家の暇を申侍れ共、責ての罪の深さに御免なければ、頂に髪剃を宛て、出家に准へ奉(レ)受(レ)戒候ばや、又懸罪人の一業をも、まぬかるべき事侍らば一句示し給へ、年来の見参其詮今にありと宣(のたまひ)ければ、上人哀に聞給(たまひ)て、誠に御一門の御栄花は、云(二)官職(一)俸禄と申、傍若無人にこそ見え御座(おはしまし)しか、今角成給へば、盛者必衰の理夢幻の如也。されば善に付悪に付、怨を起し悦をなす事有べからず、電光朝露の無益の所、兎ても角ても有ぬべし、永世の苦みこそ恐れても恐あるべき事にて侍れ。難(レ)受人界の生也、難(レ)値如来(によらい)の教也。而今悪逆(あくぎやく)
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を犯して悪心を翻し、善根無して善心に住して御座(おはしま)さば、三世の諸仏争随喜し給はざらん、先非を悔て後世を恐るゝ、是を懺悔滅罪功徳と名。抑浄土(じやうど)十方に構、諸仏三世に出給へ共、罪悪不善の凡夫入事実に難し、弥陀の本願念仏の一行ばかりこそ貴く侍れ、土を九品に分て、破戒闡提嫌(レ)之事なく、行を六字につゞめて、愚痴暗鈍も唱るゝに便あり。一念十念も正業となる、十悪五逆も廻心すれば往生と見えたり。念々称名常懺悔と宣て、念々ごとに御名称ずれば、無始の罪障悉(ことごと)く懺悔せられ、一声(有朋下P470)称念罪皆除と釈して、一声も弥陀を唱れば、過現の罪皆のぞかる。故に南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)と申一念の間に、よく八十億劫之生死の罪を滅す、憑ても憑むべきは五劫思惟の本願、念じても念ずべきは此弥陀の名号也。行住坐臥を嫌ねば、四儀の称念に煩なく、時所諸縁を論ぜねば、散乱の衆生に拠あり。下品下生の五逆の人と称して已(すで)に遂(二)往生(一)、末代末世の重罪の輩も、唱へば必可(レ)預(二)来迎(一)、是を他力の本願と名。又は頓教一乗(いちじよう)の教と云。浄土(じやうど)の法門(ほふもん)、弥陀願巧、肝要如(レ)此とぞ善知識せられたりける。其後上人剃刀をとり、三位中将(さんみのちゆうじやう)の頂に三度宛給。初には三帰戒を授、後には十重禁をぞ説給。御布施と覚しくて、口金蒔たる双紙箱一合差おき給へり。此箱は中将の秘蔵しおはしけるを、侍のもとに預置給(たま)ひたりけるが、都落の時取忘給たりけるを思出給(たま)ひて、友時を以て召寄給(たま)ひたりける也。偖も三位中将(さんみのちゆうじやう)は、今の知識受戒の縁を以、必来世の得脱を助給へと宣も敢ず泣給へば、上人は衣の袖に双紙箱を裹、何と云言をば出し給はず、涙に咽て出給へば、武士も皆袂(たもと)を絞けり。
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此法然上人と申は、本美作(みまさかの)国(くに)久米、南条、稲岡庄の人也。父は押領使染氏、母は秦氏、一子なき事を歎て仏神に祈る。母髪剃を呑と夢に見姙たりければ、父汝が産なん子、必男子として一朝の戒師たるべしと合たりけり。生れて有(二)異相(一)、抜粋に(有朋下P471)して聡敏也。童形より比叡山(ひえいさん)に登、出家得度して、博八宗の奥■(あうさく)を極て、専円頓の大戒を相承せり。世挙て知慧第一の法然房と云。依(レ)之(これによつて)王后卿相(けいしやう)も戒香の誉を貴、道俗緇素智徳の秀たる事を仰ければ、重衡卿(しげひらのきやう)も最後の知識とおぼし、戒をも持ち給けり。
S3903 重衡関東下向付長光寺事
三月二日、三位中将(さんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)をば、土肥次郎実平が手より、梶原平三景時奉(二)請取(一)、宿所に置奉る。五日主馬入道盛国(もりくに)父子五人、九郎義経召捕て誡置、七日板垣三郎兼信、土肥次郎両人、平家追討の為に西国(さいこく)へ発向す。
十日本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、兵衛佐(ひやうゑのすけ)依(レ)被(二)申請(一)、梶原平三景時に相具して関東へ下向。昨日は西海の船の中にして、浮ぬ沈ぬ漕れしに、今日は初めて東路に、駒を早めて明し暮さん事、されば是は如何なりける宿報の拙さぞとおぼすぞ悲き。御子の一人もおはしまさぬ事を恨給しかば、母二位殿(にゐどの)も本意なき事におぼし、北方大納言佐殿(だいなごんのすけどの)も不(レ)斜(なのめならず)歎給(たまひ)て、神に祈り仏に申給しに、賢くぞ子のなかりける、子あらましかば、いかばかり心苦しからましと宣ふぞ責の事と覚えて哀なる。既(すで)に都を出給、三条を東へ賀茂川、白川打越て、粟田口、松坂、四宮河原を通には、延喜第(有朋下P472)四の皇子蝉丸の、藁屋の床に捨られて、琵琶の秘曲を弾じ給しに、博雅三位三年まで、よな/\ごとに通つゝ、秘曲を伝たりけん
P0971
も、思ぞ出給ける。東路や袖くらべ、行も帰も別てや、知も知ぬも会坂の、今日は関をぞ通られける。大津浦、打出宿、粟津原を通るに、心すごくぞおぼされける。左は湖水、波浄くして一葉(いちえふ)の船を浮べ、右は長山遥(はるか)に連りて影緑の色を含めり。三月十日余(あまり)の事なれば、春も既(すで)に晩なんとす。遠山の花色、残雪かと疑れ、越路に帰る雁金、雲井に名のる音すごし。さらぬだに習に霞春の空、落涙に掻暮て、行さきも不(レ)見けり。駒に任て鞭を打、道すがら思ひ残さる事ぞなき。帰雁歌(レ)霞、遊魚戯(レ)浪、雲雀沖(レ)野、林鶯囀(レ)籬、禽獣猶春楽に遇共、我身独は秋の愁に沈めりと、目に見耳にふるゝ事、哀も催思を傷しめずと云事なし。さこそは歎きも深かりけめ。勢多唐橋野路宿、篠原堤、鳴橋、霞に陰る鏡山、麓の宿に著給ふ。明ぬれば馬淵の里を打過て、長光寺に参て、本尊の御前に暫念誦し給へり。此寺は武川綱が草創、上宮王の建立(こんりふ)也。千手大悲者の常住の精舎、二十八部衆擁護の寺院として、法華転読の声幽に、瑜伽(ゆが)振鈴(しんれい)の音澄り。中将寺僧に硯を召寄て、柱に名籍を書給。正三位行左近衛権中将平朝臣重衡とぞ被(レ)注たる。今の世までも其銘幽残れり。後世を祈給けるやらん覚束(おぼつか)なし。(有朋下P473)
抑長光寺と云は武作寺の事也。昔聖徳太子(しやうとくたいし)、近江国蒲生郡、老蘇杜に御座(おはしまし)けるに、太子の后高橋の妃、御産の気ありて十余日まで難産し給ければ、太子妃に語て曰、汝偏(ひとへ)に新道をのみ信じて未仏法(ぶつぽふ)を不(レ)仰、胎内の小児は必聖人なるべし、汝が身は不浄也、早く精進潔斎し、清浄の衣
P0972
を著して仏力を憑まば、自平産せんとのべ給。妃曰、妾君を仰事日月星宿に相同じ、不(レ)可(レ)違(二)正命(一)、我産賀して如在ならば、君と仏法(ぶつぽふ)に合力して、伽藍を興隆し群生を可(二)済度(一)、但仏法(ぶつぽふ)真あらば、威力を示給へと誓給ふ時、老蘇宮の西南の方より、金色の光照し来て、后の口中に入ければ、王子平産あり。異香殿中に匂て栴檀沈水の如くなり。妃瑞相に驚、武川綱に仰て光の源をみせらる。命を承つて尋行て是を見れば、西南に去事三十(さんじふ)余町(よちやう)を阻て、一山の麓に方三尺の石あり、青黄赤白紫の五色にて、眼を合するに目まぎれせり。傍に八尺余(あまり)の香薫の木あり、匂人間に類なし。此由妃に奏すれば、妃又太子に奏せらる。太子宣て曰、石は補陀洛山にしては宝石と名、或は金剛石と云。大唐には瑪瑙と名たり。木は是白檀なり、天竺には栴檀と云。海中に入ては沈香共号せり。何れも人物に不(レ)可(レ)用、早く以(二)白檀(一)仏を造、彼石の上に安置せよ、彼所は転妙法輪の跡、仏法(ぶつぽふ)長久の砌(みぎり)也と。妃大に随喜して、武に仰て彼木石の上に(有朋下P474)して、仮初に三間の堂を造覆給けり。武が作れる寺なれば、武作寺と云けるを、法興元世二十一年、〈 壬子 〉二月十八日(じふはちにち)、太子と妃と相共に、彼寺に御幸して、手自地を引柱を列ね、金堂法堂鐘楼僧堂を建闊、太子自彼以(二)白檀(一)后高橋妃の等身に千手の像を造て宝石の上に安置し、法華、維摩、勝鬘等の三部の大乗を籠られつゝ、武作寺を改て長光寺と定らる。異光遠より照来て、妃口中に入しかば是を寺号とし給へり。来詣参入之類、花散し合(レ)掌之輩、普現には千幸万福に楽て、当には補陀洛山に生んと誓ひ給へる寺也けり。
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上宮建立(こんりふ)の聖跡、千手大悲の霊像に御座(おはしま)せば、重衡も武士に暇を乞ひ給、暫念珠せられけり。其後寺を出給、平の小森を見給ふにも、杉の木立の翠の色、羨くぞおぼしける。鶉啼なる真野の入江を左になし、まだ消やらぬ残の雪、比良の高峯を北にして、伊吹がすそを打過つゝ、心を留めんとには無れ共、荒て中々やさしきは、不破の関屋の板庇、如何に鳴海の塩干潟、涙に袖ぞ絞ける。在原業平が、きつゝ馴つゝと詠ける三川国八橋にも著しかば、蛛手に物をや思らん。浜名の橋を過行ば、又越べしと思はねど、小夜中山も打過、宇津山辺の蔦の道、清見が関を過ぬれば、富士のすそ野にも著にけり。左には松山峨々と聳て松吹風蕭々たり。右には海上漫々と遥(はるか)にして岸打浪瀝々たり。浮島原(有朋下P475)を過給へば、是や此、恋せば痩ぬべしと歌給(たま)ひし足柄関をば余所に見て、同(おなじき)二十三日には、伊豆(いづの)国府にぞ著給ふ。
S3904 頼朝(よりとも)重衡対面事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、折節(をりふし)伊豆奥野の焼狩とて、狩場に御座(おはしまし)けり。此由角と申たりければ、北条へ奉(レ)入と也。翌の日は北条へ奉(レ)具、其(その)日(ひ)は浄衣をきせ奉て、以(二)白帯(一)左右手をしたゝかに奉(レ)誡。中将うち涙ぐみ、罪深き罪人の冥途へ趣くにこそ白き物著て閻魔庁へは望むと聞、それに少も違はぬ重衡が有様(ありさま)哉と、心細くぞ思はれける。北条へ入給たりければ、一法房を使にて、是まで御下向、返々難(レ)有覚え侍り、此間焼山狩仕て、狩場の灰など懸りて見苦く候へば、静に可(レ)入(二)見参(一)と宣棄て、鎌倉へ入給けり。二十五日に梶原平三、三位中将(さんみのちゆうじやう)奉(二)相具(一)、同二十六日(にじふろくにち)に鎌倉へぞ入にける。二十七日に兵衛佐(ひやうゑのすけ)と、三位中将(さんみのちゆうじやう)と対面有べきの由披露あり。大名小名門前成(レ)市。其(その)日(ひ)に成ければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)
P0974
相具し奉て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の宿所へ参。佐殿の屋形(やかた)新く造て、未門をば不(レ)被(レ)立、四方に築地つき、三方は覆したりけれ共、今一方せざりけり。寝殿に引つゞきて、内侍に九間、外侍七間、十六間にしつ(有朋下P476)らはれたり。内侍の上十二間を拵へ、中に障子を立切、六間づつにしつらひ、上の六間に高麗縁の畳を敷、三位中将(さんみのちゆうじやう)を奉(レ)居、内には国々の長大名並居たり。外侍には若侍其数来集れり。内外の侍を見給へば、古平家に仕て重恩深き者も多くあり。瀝々としたる所に只一人ぞ座しける。良久有て白き直垂著たる法師来、三位中将(さんみのちゆうじやう)の向ておはする御簾を半ばに揚、錦の縁刺たる畳押直して返にけり。法昌寛是也。良ありて兵衛佐(ひやうゑのすけ)、渋塗の立烏帽子(たてえぼし)に白直垂著して、寝殿に出て著座。空色の扇披仕て、梶原平三景時を使にて、三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)に被(レ)申けるは、頼朝(よりとも)、故(こ)入道殿(にふだうどの)の御恩山よりも高く海よりも深く罷蒙て候へば、御一門の事露疎ならね共、朝敵とて追討の院宣を下さるゝ上は、私ならねば力及ず、加様に思よらぬ世の習にて候へば、何様にも屋島の大臣殿の見参にも入ぬとこそ覚て、加様に申ばとて御意趣有べきに非ず候へ、なほ/\是までの御下向、不(二)思寄(一)難(レ)有悦入て候と申べきと宣ふ。梶原、三位中将(さんみのちゆうじやう)の前に跪て申さんとしければ、何条申継とや思はれけん、一門運尽て都を落し上は、西国(さいこく)にて如何にも成べき身の、是まで下向思よらざりき、実に故(こ)入道の芳恩思忘給はずば、今一両日の内に兵に仰て、被(レ)刎(レ)頭事いと安事に侍り、但事の心を案ずるに、殷紂は夏台に囚れ、文王は■里(ゆうり)に囚ると云文あり、上古(有朋下P477)猶如(レ)此、況末代をや、王者又難(レ)遁、況凡夫をや。
P0975
就(レ)中(なかんづく)我朝には、源平両家昔より午角の将軍として、奉(レ)守(二)護帝位(一)互に狼藉を誡き、而重衡一谷(いちのたに)にして、討にも非遁るにも非、誤つて虜れて再故郷に還て憂名流し、今此恥を蒙る、昨日は人の上、今日は我に懸れり、雖(レ)似(二)身恥(一)、弓矢取の敵に虜るゝ事非(レ)無(二)先例(一)、これ先世の宿業也、又怨憎の果ぬ処也、只御芳恩には急頸を可(レ)召と宣(のたまひ)ければ、大名小名皆涙をぞ流ける。景時又佐殿に申さんとしければ、佐殿よしや皆聞つるぞ、昌寛参れと被(レ)召たり。一法来り畏る。宗茂召て参れと宣(のたまひ)ければ、狩野介召れて参。四十計なる男の小鬚なるが、浅黄の直垂著て前に進む。やゝ宗茂、三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)奉(レ)入、よく/\■(なぐさめ)進せよ、疎にあたり奉て頼朝(よりとも)恨な、南都の衆徒も申旨有とて入給ぬ。宗茂武具したる者五十人ばかり具し来て、中将を中に取籠我屋形(やかた)へ入奉て守護しけり。重衡卿(しげひらのきやう)、一谷(いちのたに)にては庄四郎に虜れ、都へ上るには九郎義経に被(レ)具、京中にては土肥次郎に被(二)守護(一)、関東下向の時は梶原に被(レ)渡、今は狩野介預らる。譬へば娑婆世界の罪人の冥途中有の旅にして、七日々々に十王の手に渡さるらんも角やと思知れたり。(有朋下P478)
S3905 重衡酒宴付千寿伊王事
〔同〕晦日比(ごろ)に成て、狩野介湯殿尋常にこしらへて、御湯ひき給へと申す。中将嬉事かな、道の程疲て見苦かりつるに、身浄めん事の嬉しさよ、但今日は身を清め、明日はきらんずるにやと心細くぞ思はれける。一日湯ひき給ふ程に、昼程に及て、二十計かと見ゆる女の、目結の帷に白き裳著たりけるが、湯殿の戸少し開て、無(二)左右(一)内へも不(レ)入。中将如何なる人ぞと問給ふ。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)より御垢に参れと仰つる也と聞しは、有べくも侍らず
P0976
と被(レ)仰けるに、狩野介湯の奉行して候けるが、兎角の事な申されそ、はや参給へと聞ければ、女湯殿の内に入、湯とり水取などしてひかせ奉。晩程に十四五計なる美女の、地白の帷に染付の裳著たりけるが、金物打たる楾に、新き櫛取具して、髪に水懸洗梳なんどして上奉る。休所に入奉て、暫有て此女、何事も思召(おぼしめさ)ん事をば無(二)御憚(一)承べしといへば、中将宣(のたまひ)けるは、指て可(レ)申事なし、只此髪のそり度計也と。彼女佐殿に角と申ければ、私の宿意計ならば安事なれ共、朝敵とて下向し給たる人を、私に出家を赦す事難(レ)叶、南都の大衆も申旨のある者をと宣へば、女此由角と申せば、中将打頷許て又も物宣はず、其(有朋下P479)夜に入て、佐殿狩野介を召て、三位中将(さんみのちゆうじやう)は無双の能者にて座します也、和君が私なる様にて琵琶弾せ奉れ、頼朝(よりとも)も汝が後園にたゝずみて聞べしと宣(のたまひ)けり。宗茂宿所に帰て、時の景物尋て、奉(二)酒勧(一)と支度したり。酌取には昼の女を出して、狩野介瓶子懐き、家子侍肴盃面々に持て参たり。中将酒三度うけて、最無興に思はれたり。狩野介女に向て、兎ても角ても御前御徒然を慰進せん料也、一声挙て今一度申させ給へと云ければ、女兼て心得(こころえ)たる事なれば、酌さしおきて、
  羅綺之為(二)重衣(一)妬(二)無(レ)情於機婦(一) 管絃之在(二)長曲(一)怒(二)不(レ)■(をへ)於伶人(一)
と云朗詠を二三返したりけるが、節も音(こゑ)も調て、大方優にぞ聞えける。中将宣(のたまひ)けるは、折節(をりふし)の朗詠こそ思合て痛はしけれ。此句は北野天神の、春嫩無(二)気力(一)と云ふ事を、内宴序にあそばせり。譬へば
P0977
春嫩とはみめよき女也、無(二)気力(一)とは力の弱き也、上句に羅綺とて、薄く厳き衣を著して、美女の舞時には軽き衣も重く覚、これは機婦に妬とて、機織けん女もうらめしく覚え、下句に管絃をさしも面白けれ共、舞姫の舞弱りて力なければ、速に入ばやと思へ共、長曲を弾ずる時、伶人に怒るとて、管絃する人も悪覚ゆと云心也。されば永日ながら湯ひかせ、夜さへ又長々と酒勧る事よとおぼして、此朗詠をばし給ふ(有朋下P480)か、誠に心元なくこそ覚れ、湯も酒も我心よりおこらね共、折から優に聞ゆる者哉、但天神此句をあそばして、我ながらいみじくも作りたり。此句を詠ぜん所には、必我魂行望て、其人を守らんと御誓ありけり。重衡は逆罪の身にて、神明にも仏陀にも奉(レ)被(レ)放たれば、其助音仕るに憚あり、仏道成べき事あらば、さも有なんと宣(のたまひ)ければ、女承りて、
  十方仏土中以(二)西方(一)為(レ)望、九品蓮台間雖(二)下品(一)応(レ)足、雖(二)十悪(一)兮猶引接、
  甚(レ)於(三)疾風之披(二)雲霧(一)、雖(二)一念(一)兮必感、応(レ)喩(三)之巨海之納(二)涓路(一)。
とて朗詠して、
  極楽欣はん人は、皆弥陀の名号唱ふべし、阿弥陀仏(あみだぶつ)々々々々(あみだぶつ)、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)、阿弥陀仏(あみだぶつ)阿弥陀仏(あみだぶつ)、大悲阿弥陀仏(あみだぶつ) K204 と云ふ今様四五返うたひけるにぞ、中将助音し給ける。其後三度うけて女に賜ふ。女給(たまひ)て宗茂に譲る。親き者共五六人取渡て止ぬ。纐纈の袋に入たる琵琶一面、錦の袋に入たる琴一挺、女の前に置たり。中将琵琶を取寄見給ふ。女柱立て弾たりけり。中将宣(のたま)ひけるは、只今(ただいま)あそばす楽をば五章楽とこそ申習はして侍れども、重衡が耳には後生楽とこそ聞侍れ、往生の急つげんとて、てんじゆねぢ
P0978
つつ、妙音院殿の口伝の御弟子にて御座(おはしま)せば、皇障の急、撥音気高く弾らる。楽二三反弾じ給(たまひ)て、同は一声と勧め給へば、女承はつて、一樹の陰に宿り一河の流を汲人も、先世(有朋下P481)の宿縁也と云。契の白拍子を、一時かすへ澄したりけるが、夜は深更になりぬ、人は鳴を静たりければ、徐までも耳目を驚し、袂(たもと)を絞計也。懸りければ、人々是を見奉らんとて、障子を細目にあけたる間より、風吹入て前の燈消にけり。狩野介、星燈参せよと申けるに、中将爪調べして、
  燈暗数行虞氏涙 夜深四面楚歌声 K205 
と云朗詠を二三反し給けり。夜明にければ女暇給(たまひ)て帰ぬ。中将人を召て、夜部の女は如何なる者ぞと尋給ければ、白川宿長者の娘、千手前とて今年二十に罷成、当時は鎌倉殿(かまくらどの)のきり人にて、御気色(おんきしよく)よき女房也とぞ申ける。さて召具したりつる美女はいかにと問給へば、猶子にて侍とぞ答ける。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、斎院次官親義を招て、中将の朗詠に、燈闇うしては数行虞氏涙と云つるは、如何成心ぞと問給。親義申けるは、此は史記項羽本紀文也、項羽と云し人は天下に並なき兵、身の長八尺鼎を挙けり。漢高祖と天下を諍事九箇年、相戦事七十一度、毎度項羽勝けるに、漢大将軍に韓信と云者の謀を以、項羽を囲て既(すで)に難(レ)遁かりければ、楚国の軍敗て落去ければ、漢の兵楚の陣に入て、漢旗を立て楚国の歌をうたひければ、我兵も皆敵に随にけりと悲みて、騅と云第一の馬に乗て出(有朋下P482)んとするに、馬身を振て出ず、駅と云第二の馬に乗て出けるに、項羽が妻の虞氏、夫の別を惜て泣ければ、
P0979
項羽歌つて云、力抜(レ)山威は覆(レ)天、天不(レ)福騅何、天不(レ)福虞氏何んと歌て、終に別て失にけり。燈の闇き下にして、虞氏別を惜て数行の涙を流しかば、燈暗数行虞氏涙とは申也。大国法には、軍に勝ぬれば必悦の歌をうたふ。譬ば我朝に、軍に勝て悦の時を造る是也。項羽軍に負て、夜深耳を側てて聞ば、敵打入て四方に楚の歌をうたひて心細かりければ、夜深四面楚歌声とは申て侍る、其様に暁かけて燈消、千手の前も帰らんずれば、さすが遺の惜くおぼすにこそ、虞氏は夫の別れを悲み、中将は女の好を慕ふかと覚たり、偖も朗詠し歌を謡ふも、敵の中より慰る音なれば、心細思はれつゝ、燈の消たる折節(をりふし)に、此朗詠を思出給ふにこそとぞ釈しける。さて楽はいかにと問給へば、親義申けるは、廻骨と云楽にて候、文字には骨を廻すと書り、大国には死人を野外へ葬送するには、必斯楽を弾と承る、朗詠の様、楽の弾様、遂に我死せん事を思兼て、此楽をひき給ふにと哀に候とて、涙を流しければ、佐殿も中将の琵琶をひき朗詠し、千手が琴を弾歌をうたひたりしよりも、親義一々に釈し申たりければ、哀に思給(たまひ)て同袖を絞給。やゝ有て兵衛佐(ひやうゑのすけ)は千手に向ひて、さても頼朝(よりとも)が媒こそしすまして覚ゆれと(有朋下P483)被(レ)仰ければ、女顔打赤めて、全く情を懸給事侍らずと申。年来只千手をば正直者ぞと思たれば、真ならぬ時も有けるや、争か御前にて可(二)偽申(一)、さて汝誓言してんやと宣へば、御赦し候はば安く候と申。其時佐殿顔けしき悪ざまに成つて、是までは仰らるまじけれ共、汝をやるは中将を慰ん為也、中将争か汝に情を懸ざらん、争か悪きに、さらば誓言仕と仰す。女涙を流つゝ、若中将に召ながら、御前にて
P0980
偽り言申侍らば、近くは江柄足柄伊豆箱根より奉(レ)始、日の下に住し給諸の神のにくまれを蒙らんとぞ申たる。佐殿手をはたと打て、頼朝(よりとも)が心には、並は有とも勝はあらじと思たる千手を、中将に嫌れたるこそ無念なれ、吾内に女のなきに似たりとて、平六兵衛が姪女に伊王前とて歳二十に成りけるが、みめ形たらひ、遊者ならねば、今様朗詠こそせざれ共、琵琶琴の上手にて、歌連歌よろづ情ありける女也。はなやかに出立て、結四手と云美女相具して中将へ被(レ)進、敵ながらも頼朝(よりとも)は、都なれてやさしき女を余多(あまた)持たりけり、又情深くも振舞たりとおぼしければ、終夜(よもすがら)優におかしき御物語(おんものがたり)は有けれ共、是にも心は移されず。夜も明にければ女暇申て帰けり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)待得て、よにも心元なく覚て、いかに伊王と尋給ふ。是も奉(レ)被(レ)嫌たりと申せば、偽かと被(レ)仰。誠にと申ければ、佐殿、是きけ人共、中将は院内の御気色(おんきしよく)(有朋下P484)も人に勝れ、父母にも覚えの子、上下万人に重く思はれけるは理也、三十の内外の人の千手と伊王とを見て、争か打解る心なかるべき、去共只今(ただいま)敵の前に思入たる気色なく、其道あらじと思ける、武くもやさしくもおはしけり、去ばとて寂しめ奉べからず、二人毎(レ)夜に参べけれ共、出立も煩あり、是におはせん程は、夜まぜに参りて宮仕せよ、努々疎に仕べからずと仰られければ、千手は榊葉と云美女を具し、伊王は結四手と云美女を共にて、今年の卯月の一日より、明る年の六月上旬迄、打替打替参つゝ、御宮仕ぞ申し〔け〕る。偖も中将南都に被(レ)渡て斬れ給にしかば、二人の者共さしつどひて臥沈てぞ歎ける。由なき人に奉(レ)馴、憂目を見聞悲さよ、中将岩木を結ばぬ身なれば、などか我等(われら)
P0981
に靡心もなかるべきなれ共、加様に成給べき身にて、人にも思をつけじ、我も物を思はじと、心強御座(おはしまし)ける事の糸惜さよとて、共に袖をぞ絞りける。何事も先の世の事と聞ば、思残すべき事はなけれども、後世弔ふべき一人の子のなき事こそ悲けれと被(レ)仰し者をとて、二人相共に佐殿に参て、故三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)に去年より奉(二)相馴(一)、其面影忘奉らず、後世を助べき者なしと歎き仰候き、見参に入侍けるも可(レ)然事にこそ候なれば、暇を給り様を替て、菩提を助奉らんと申けれども、其赦しなければ、尼にはならざりけれ共、戒を持ち念仏唱へ(有朋下P485)て、常は奉(レ)弔けり。中将第三年の遠忌に当けるには、強て暇を申つゝ、千手二十三、伊王二十二、緑の髪を落し、墨の衣に裁替て、一所に庵室を結び、九品に往生を祈けり。中将は狩野介に被(レ)具て、且く伊豆におはしけり。
S3906 維盛出(二)屋島(一)参(二)詣高野(一)付粉川寺謁(二)法然房(一)事
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛は、故郷は雲井の余所に成果て、思を妻子に残しつゝ、人なみ/\に西国(さいこく)へ落下給たりけれども、晴ぬ歎きにむすぼほれ、其身は屋島に在ながら、心は都へ通ひけり。三月十五日に、与三兵衛尉重景、石童丸と云童、船に心得(こころえ)たる者とて武里と申舎人、此三人を具し給、忍つゝ屋島館を出て、阿波国由木浦にぞ著給ふ。心憂き浪路の旅と云ながら、今までも一門の人々に相具して明し晩しつるに、今日を最後と思召(おぼしめし)ければ、御余波惜くて、■(あま)の篷屋の柱に、
  折々はしらぬ浦路のもしほ草書置跡を形見共見よ K206 
重景御返事(おんへんじ)申けり。
P0982
  我恋は空ふく風にさも似たりかたぶく月に移ると思へば K207 (有朋下P486)
石童丸、大臣殿御事を思出し給らんと思奉りて、
  玉鉾や旅行道のゆかれぬはうしろにかみの留ると思へば K208 
さても御舟に乗移り給、音に聞阿波の鳴戸沖を漕渡り、紀伊の路をさして楫を取。比は三月十日余(あまり)の事なれば、尾上に懸る白雲は、残の雪かと疑れ、礒吹風に立波は、旅の袖をぞ濡しける。きやうけいのうかれ声おしあけ方に成しかば、八重立霞のひまより、御船汀(みぎは)に押寄たり。爰(ここ)はいとこなるらんと尋給へば、名にしおふ紀伊国和歌浦とぞ聞給。夫より吹上の浦を過給けるに、一門を離兄弟にも知れねば、一は恨に似たれ共、かゝらざらましかば、係名所をば争か可(レ)見と聊慰給けり。彼和歌浦と申は、衣通姫卜(レ)居、山の岩松礒打波、沖の釣船月の影、しらゝの浜の真砂に、吹上の浦の浜千鳥、日前国懸の古木の森、面白かりける名所哉。されば衣通姫、玉津島姫明神と彰て此所に住給へり、理也とぞ思召(おぼしめし)、由良の湊と云所に舟をつけ、是より下り給へり。山伝に都へ上て、恋き人共をも今一度見ばやと思けるが、御様(おんさま)を窄給へ共、猶尋常の人にはまがふべくもなし。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の虜られて、京田舎恥を曝すだに心憂に、我さへ憂名を流さんも口惜く思はれければ、千度心は進けれ共、心に心をからかひて、泣々(なくなく)高野へ参給ふ。思召(おぼしめし)出事ありけ(有朋下P487)れば、此次に粉川寺へぞ被(レ)参ける。此寺は大伴小手と云し人、我朝の補陀落是也とて、甍を結べる所也。去治承の比、小松殿(こまつどの)熊野参詣の次に、彼寺に
P0983
参給たりけるに、書置給へる打札あり。今一度父の手跡を見給はんと思出給けり。彼札を御覧ずれば、落涙に墨消て、文字の貌は見えね共、重盛(しげもり)と云字計は彫りて墨を入たれば、有しながらに替らねば、泣々(なくなく)之をぞ見給ける。手跡は千代の形見也と云置けることのはも、げに哀にぞ思召(おぼしめす)。御堂に入、観音の御前に念誦して御座(おはしまし)けるに、僧一人来て共に念誦して有けるが、あやしげに見奉て、是はいとこより御参ぞと問。京の方よりと答給へば、法然上人の入給へるを聞召(きこしめし)て御参りかと云。三位中将(さんみのちゆうじやう)は其事兼て不(レ)知、何事に入寺し給へるぞと返し問給へば、此間念仏法門(ほふもん)の談議也と申て、細かに問答して立ぬ。中将は与三兵衛を招て、態も都に上、法然房に奉(レ)逢、後世の事をも尋聞べきにこそあれ共、道狭き身なれば力なし、上人たま/\此寺におはす也、憚あれ共、見参し奉ん事いかゞ有べきと宣へば、重景畏つて、何の御慎(おんつつし)みか候べき、上人をば生身の仏と承、然べき善知識にこそ、後世菩提の御為に御聴聞あらん折節(をりふし)、たとひ災害にあはせ給ふとても、痛み思召(おぼしめす)べからず、闘諍合戦の場にして、身を失て修羅の悪所にも生候なるぞかし、況聞法随喜の窓にして、命を(有朋下P488)亡す事あらば、弥陀の浄刹に往生せんと可(レ)被(二)思召(一)(おぼしめさるべし)など小賢申ければ、可(レ)然とて、夜に入て重景を御使にて、法然上人へ申されけるは、維盛高野参詣之志有て、屋島を忍出て是まで罷伝て侍るが、折節(をりふし)可(レ)然事と存候、出離の法門(ほふもん)一句承らばやと仰られけり。上人哀におぼして、軈三位中将(さんみのちゆうじやう)を奉(二)請入(一)、見参し給(たまひ)て、いかにや/\難(レ)有こそ思奉れ、都を出給(たまひ)て後、人々此彼にて亡給ふと承るに付ては、御身如何成給ぬらんと心苦く思奉るに、
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奉(レ)入再見参御事、哀に悦入侍り、偖もさしもの世の乱の中に、遥々(はるばる)と高野参詣の御志目出くも思召(おぼしめし)立ける御事哉とて泣給ふ。中将宣(のたまひ)けるは、家門の栄花既身に極て、先帝を始進せて、一族悉(ことごと)く西海に落下りし上は、人なみ/\にあくがれ出て候ぬ、憂き事も多かりし中に、難波潟一谷(いちのたに)にて卿相(けいしやう)雲客(うんかく)数亡ぬ、適被(二)討残(一)たる者もある空も侍らず、夜は終夜(よもすがら)今や水底に沈むと歎、昼は終日に今や敵に失るゝと悲む、兎にも角にも閑心なし、されば遂に遁まじきもの故に、貴き結戒の地と承はれば、高野に参て出家をもして、其後如何にもならばやと思事侍て、屋島を出て是まで伝つゝ、奉(レ)見こそ嬉しけれとて、其夜は庵室に留給、泣口説物語(ものがたり)し給けるが、暁方に、維盛少より身を放たず、日所作に奉(レ)読御経御座(おはしま)す、水の底にも沈まん時は、同沈め奉らん事罪深く覚え候、若世に(有朋下P489)なき身と聞給はん時は、思出して後世弔給へと宣て是を奉(レ)渡。上人請取給(たまひ)て、縦是なし共争か可(レ)奉(レ)忘なれ共、角思召(おぼしめし)入て承れば、披見ん折々は可(レ)奉(二)必弔(一)とて拝奉ば、四半の小双紙に、金泥に書たる小字の法華経(ほけきやう)也、最哀にぞ思ける。三位中将(さんみのちゆうじやう)は、今日は留て遺をも惜度侍れ共、維盛をば平家の嫡々とて、頼朝(よりとも)ことに可(二)相尋(一)と披露あり。人口も恐ろし、戒を持暇申ばやと宣へば、上人は此間説戒の程、御聴聞もあれかしと存れ共、御急と承れば可(レ)奉(レ)授(レ)戒とて、円頓無作の大戒、梵網の十重禁をぞ説給ふ。上人結して曰、塔中の釈迦は此法を説て、仏位を十界の衆生に授、台上の舎那は此戒を受て、正覚を花蔵世界に唱ふ。法華一実の妙戒は、能持の一言に戒珠を■(むね)の間に研、合掌の十指に十界を実際に
P0985
安じ、衆生正覚の直道、即身成仏(じやうぶつ)の要路也、是則薄地底下の凡夫の、一毫の善なき者の罪悪、生死の衆生の出離の期なき輩、修行覚道に不(レ)入ども、速に仏果を成ずる計と此戒に如くはなし、依(レ)之(これによつて)梵網経に曰、一切有心者、皆応摂仏戒、衆生受仏戒、即入諸仏位、位同大覚已、真是諸仏子、一度受此戒者、入諸仏位同大覚位と説給へば、誠難(レ)有功徳也。戒師戒を授るは、授戒灌頂(くわんぢやう)とて、仏前智水を後仏に授る意なれば、此戒を受るは即身に正覚を唱ふる也。故に此戒をば、一得永不失の戒とて、一度受て後、永失(有朋下P490)事なしとぞ宣(のたまひ)ける。中将も聴衆も、皆随喜の涙を流けり。其後念仏の法門(ほふもん)、弥陀の本願こま/゛\と説給、様々被(二)教化(一)ければ、維盛然べき善知識と嬉くて、泣々(なくなく)庵室を出給けるが、契あらば後生には必参会と宣て、夫より高野へ参給ふ。上人も哀に思給、遥(はるか)に見送奉り、衣の袖を濡し給へば、見る人袂(たもと)を絞りけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)は高野山に参つゝ、人々をぞ尋給ける。
S3907 時頼横笛事
三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼入道と云者也。彼時頼は小松大臣殿に候けるが、高倉院(たかくらのゐん)御位の時、建礼門院(けんれいもんゐん)后宮にて渡らせ給けるに、二人の半物有、横笛、刈萱とぞ云ける。共にみめ形類なく、心の色も情あり。刈萱をば越中前司盛俊相具しけり。横笛と云は、本は神崎(かんざき)の遊君、長者の娘也。大方も無双の能者、今様朗詠は、所の風俗なれば云に及ず、琴琵琶の上手、歌道の方にも勝たり。太政(だいじやう)入道(にふだう)、福原下向之時召具たりけるを、女院未中宮にて渡らせ給けるとき被(レ)進たり。小松内府如何覚けん、横笛と名を付られたり。時頼人しれぬ見参して、白地と思けれ共、松蘿の契色深、蘭菊の情匂細やか(有朋下P491)にして、
P0986
志切にして思ける。父此事を聞て滝口を呼つゝ、横笛は当時殿上の官女也、それに汝が契を結通ふと云事、世に普く披露あり、此事若達(二)上聞(一)珍事出来りなん、加様に尾籠ならんを、其親として不(二)教訓(一)之条奇怪也と被(二)仰下(一)ば、身に取て一期の大事、可(レ)失(二)面目(一)、其上憑しき人の聟に成て世に立べき振舞も有べし、加様の独人を相憑ては、遂にいかなるべきぞ、由なき事也と様々云けれども、可(レ)然先世の契にや、つゆ難(レ)忘かりければ、父母の諌にもかゝはらず、いとゞ志浅からず通ければ、父茂頼重て時頼を呼向へて様々教訓して、所詮不(レ)随(二)親命(一)者不孝也と云ければ、仰畏て、承候ぬと申て父が前を立、常に住ける所に立入て、安然として思けるは、穴あぢきなの事共や、程なき此世に住ひつゝ、心に任ぬ悲さよ、縦長命を保とも、七八十にはよも過じ、若又栄花に誇とも、二十年をば不(レ)可(レ)出、夢幻の世中に、楽ければとて悪からん女に相具せん事心憂し、同僚傍官が欲にふけると笑はん事も最恥し、但是程の父の教訓し給事を不(レ)用ば逆罪也、不孝父母当堕悪道と云故に、さても終りなば地獄に入べし、親の命に随、女の心を違へば永き世の恨あり、懸念無量劫と云故に、兎にも角にも世にあらば、悪縁也不孝也、不(レ)如奇恩入無為は、真実報恩の者といへり。然べき善知識にこそと思きり、生年十八(有朋下P492)の歳菩提心を発しつゝ、嵯峨(さがの)奥の法輪寺にして出家し、法名阿浄と名を付て行澄て居たりけり。深く契し中なれ共、時頼角共云ざれば、横笛つゆも知ざりけり。日比(ひごろ)月比経けれ共、夫も見えず音信(おとづれ)もなし。只仮初の契かや、移れば替る心かと、独思に焦れけり。縦我許へこそ不(レ)通とも、本所
P0987
の衆にて侍に、出仕の止るべき事はなしと、昼は終日に思くらし、夜は八声の鳥と鳴明す。心は日々(ひび)に駿河なる、不尽の高峯と焦るれども、煙たたねば人とはず。さりとて人に知れねば、語りて慰方もなし。呉竹の夜ごとに物が思はれて、音のみ泣れて琴の音の、伊勢の国鈴鹿の山の心して、何と成べき我身やらんと、朝夕歎けるこそ哀なれ。適ありと聞えつゝ、我故様を替けん事の無慙さよ、背(レ)世深き山に籠共、などかは角と知せざる、夜かれ日枯をだにも歎しに、絶ぬる中こそ悲けれ。人こそ心強く共、尋て恨んと思ければ、忍て内裏を紛れ出て、法輪寺へぞ尋行。暮行秋の習とて、道芝の露深ければ、夜寒に成ぬ旅衣、重し妻こそ恋しけれ。十市の里の砧の音、よわり終ぬる虫の声、一方ならぬ哀さも、誰ゆゑにとぞ悲みける。都をば月と共に出たれども、まだ踏なれぬ道なれば、涙に曇る夜の空、此彼にぞ迷ける。つゞきの里もおともせず、人を咎むる里の犬、声澄程に成てこそ、法輪寺には入にけれ。此寺とは聞たれども、(有朋下P493)住らん坊は不(レ)知けり。女其夜は御堂に詣、仏の御前に通夜しつゝ、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)大聖虚空蔵菩薩、あかで別し滝口に、今一度と心中に祈念して、礼拝をぞ奉ける。人の心を尽しつゝ、我も思にこがるとぞ、思合て悲みける。五更(ごかう)の鐘も鳴ければ、さすが人目もいぶせくて、空く帰ける程に、責ては其庵室共知ばやとて、此彼やすらひけり。住荒したる僧坊の、流石(さすが)よしある門の中に、法華経(ほけきやう)の提婆品をよむ声しけり。いと奇く立聞ば、若有善男子善女人、聞妙法華経(ほけきやう)提婆達多品、浄心信敬不生疑、或者不堕地獄、餓鬼畜生、生十方仏前、所生之処、常聞此経若生人天中、受勝妙楽、
P0988
若在仏前、蓮華化生と読止て声を揚て、戯呼三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生、是三無差別と云華巌経の文をくり返/\二三返をぞ唱へたる。聞ば尋る滝口入道が声也けり。思か呼声はきこゆ〔る〕なるためしも誠なる心地して、暫是を立聞ば、滝口入道申けるは、我親世に有しかば、何不足とも思はざりしか共、横笛がことに心に叶はぬ憂世(うきよ)の中も思知れて、様をかへ角行て候へば、悲き女は還て菩提の善知識と覚えたり、人は心弱ては仏道は遂まじきにて有けるぞ、後生はさり共助りなんものをなんとぞ口説たる。横笛慥に是を聞得つゝ、軒近く立寄て、竹の編戸を扣けり。内より誰と問ければ横笛とぞ答ける。滝口入道是を聞、誠な(有朋下P494)挿絵(有朋下P495)挿絵(有朋下P496)らぬ事哉と■(むね)打騒、障子の間より是を見れば、実に横笛にぞ有ける。色々の小袖に薄衣引纏ひ、そやうの耳踏きりて、袖は涙、すそは露にぞしをれたる。通夜尋侘たるけしきは、竪固の道心者も心弱くぞ覚えける。無慙やな誰これにとは教へけん、何とて是まで来りけん、出て物語(ものがたり)をもせばや、見えて心をも慰ばやと思ひけれ共、主の見るも恥しく、云つる言も験なく、さては仏道成なんやと思切。人を出して、是には去事候はず、人違へにておはするか、滝口とは誰人ぞと、事外に云ければ、横笛しひて申様、げに入道の声のし給(たま)ひつる者をや、様をこそ替給はんからに、心さへ強面なり給けるうらめしさよ、させる妨に成まじ、我故に貌をやつし給へると承れば、今一度墨染の姿をも奉(レ)見、又便あらば自も苔の袂(たもと)に裁替て、花を求め香を焼、共に後生を助らんと思てこそ遥遥(はるばる)尋参たれ、其まで誠に不(レ)叶ば、只出給(たまひ)て今一度見え給へと云ければ、入道千度百度出ばやと思へ
P0989
共、云つる事も恥しく、出て由なき事もやと思つゝ、遂に隠て不(レ)逢けり。比は十月中の六日の事なれば、嵐に伴ふ暁の鐘、今夜も明ぬと打響、月に耀紅葉葉も、幾重軒端に積るらん、落る涙に時雨つつ、横笛袖をぞ絞ける。適有と聞得つゝ、声をたよりに尋れば、主の僧ははしたなく、なしと答て出さねば、憂身の程もあらはれて、今は人を恨(有朋下P497)に及ず、さすが明行空なれば、人のためつゝましと思ひつゝ、
  山ふかみ思ひ入ぬる柴の戸の真の道に我をみちびけ K209 
と読棄て、此世の見参は不(レ)叶共、朽せぬ契にて、後世には必と、さらば暇申て入道殿(にふだうどの)とて、女そこより帰にけり。時頼入道も、心強は出ねども、悪からぬ中なれば、庵室の隙より後姿を見送りて、忍の袖をぞ絞りける。横笛は泣々(なくなく)都へ帰けるが、つく/゛\物を案じつゝ、如何なる滝口は悲き中を思切、かく心づよく世を背ぞ、如何なる吾なれば、蚫の貝の風情して、難面くながらへて、由なき物を思べきぞと思ければ、桂川の水上、大井川の早瀬、御幸の橋の本に行、潜たりける朽葉色の衣をば柳の朶にぬき懸、思ふ事共書付て同じ枝に結置、歳十七と申に河のみくづと成にけり。法輪近き所にて、入道此事を聞河端に趣、水練を語て淵に入、女の死骸を潜上、火葬して骨をば拾ひ頸に懸、山々寺々修行して、此彼にぞ納ける。いかにも都近ければこそ懸る憂事をも見聞とて、高野山に登つゝ、奥の院に卒都婆を立て、女の骨を埋つゝ、我身は宝幢院の梨坊にぞ住しける。
 < 異本には、蓮華谷、小松大臣の建立(こんりふ)と云云。 >(有朋下P498)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十

P0990(有朋下P499)
目巻 第四十
S4001 法輪寺附中将相(二)見滝口(一)並高野山事
抑法輪寺は道昌僧都(そうづ)の建立(こんりふ)、勝験無双の霊地也。彼小僧都(せうそうづ)法眼和尚(くわしやう)位道昌は、讃岐国香川郡の人、弘法大師の御弟子也。俗姓は秦氏、秦始皇(しくわう)六代孫、融通王の苗裔也。淳和帝御宇(ぎよう)、天長五年に就(二)弘法大師(一)、登(二)灌頂(くわんぢやうの)壇(一)、真言の大法を伝受せり。三十歳。其後虚空蔵求聞持法を修せんとて、勝地を尋求けるに、大師教て云、於(二)葛井寺今法輪寺(一)、可(レ)修(レ)之、彼山霊瑞至多、勝験相応の地也と。仍同六年に此寺に参籠して、一百(いつぴやく)箇日求聞持の法を修し給ふ。五月の頃、皓月隠(二)西山(一)、明星出(二)東天(一)時、奉(レ)拝(二)明星(一)、汲(二)閼伽水(一)之処、光炎頓耀て、宛如(二)電光(一)、恠で是を見明星天子来影、虚空蔵菩薩現(レ)袖、非(レ)■(あらずゑにあらず)非(レ)造、如(レ)縫如(レ)鋳、雖(レ)経(二)数日(一)、其体不(レ)滅、尊相厳然として異香芬馥せり。是則生身御体として、奇特の霊像也、誰不(レ)致(二)帰敬(一)(レ)之誠、爰道昌造(二)虚空蔵形像(一)、其木像の御身に件の影像を奉(レ)納、於(二)神護寺(一)、弘法大師是を奉(二)供養(一)、彼像の前にして不断の行法を修しけ(有朋下P500)るに、利生誠に新也。貞観十六年に、引(二)山腹(一)埋(二)幽谷(一)、建(二)仏閣(一)安(二)置件霊像(一)、改(二)葛井寺(一)名(二)法輪寺(一)。鎮守(ちんじゆ)は本地虚空蔵、号(二)法童法護大菩薩(だいぼさつ)(一)。阿弥陀堂と申は当山最初の旧寺の跡也。天平年中にこれを建立(こんりふ)して葛井寺と云けり。天慶年中に空也上人参籠之時、貴賤上下を勧進して、旧寺を修行して
P0991
常行堂とするとかや。詠(レ)月遊興之輩は、明神忽(たちまち)に与(二)巨益(一)、往詣参籠之人は、本尊必満(二)願望(一)給ふ。月照(レ)窓之夜は、煩悩之雲正に晴、嵐吹(レ)松之時は、妄想之夢必覚。斯る目出(めでた)き寺なれば、滝口も閉籠て行澄して居たりけり。妹背の情に引れつゝ、尋行ける横笛も、菩薩の善巧方便にて、善知識とぞ覚えける。
 < 異説云、比は二月半の事なれば、梅津里の春風は、徐まで匂ふ垣根哉、桂里の月影は、朧に照す折なれや、亀山(かめやま)や、すそより出る大井川、殊更心細して、久方のそこ共知ず尋行。此坊彼坊尋れど、上人が行末は不(レ)知けりと。又異説には、横笛は法輪より帰て髪をおろし、双林寺に有けるに、入道の〔許〕より、
  しらま弓そるを恨と思ふなよ真の道にいれる我身ぞ K210 
と云たりければ、女返事に、
  白真弓そるを恨と思しにまことの道に入るぞ嬉しき K211 (有朋下P501)
 < 其後横笛尼、天野に行て入道が袈裟衣すゝぐ共いへり。異説まち/\也。いづれも哀にこそ。>
滝口入道は法輪寺を出て高野に籠、五六年にぞ成ける。然べき人々は滝口入道と云けるを、一家の者共は、高野の上人とぞ云ける。時頼入道は幼少より小松殿(こまつどの)に候けるが、出仕の時は、絵書花付たる狩衣に立烏帽子(たてえぼし)、私の行には、直垂に折烏帽子(をりえぼし)、衣文を立て鬚を撫、さしも花やかなりし有様(ありさま)に、今は黒き衣に同色の袈裟に、窄れにけりと哀也。三十にたらぬ若入道の、いつしか老僧姿に成
P0992
果て、剃たる髪はさかり過て生延、麻の衣の香の煙にしみかをり、思入たる道心者、羨しくぞ見給ける。入道は三位中将(さんみのちゆうじやう)を見奉て、夢か現かとあきれ迷たるさまなり。泣涙に咽て物もえ申さず。三位中将(さんみのちゆうじやう)も袖を絞りて宣ふ事もなし。入道良久ありて申けるは、屋島に御渡りと承侍しかば、世中の今は昔に替り行有様(ありさま)、御一門の人々思召(おぼしめさ)るらん、御心中も推量り候へば、罷下て憂世(うきよの)有様(ありさま)をも承、又歎申入ばやと折節(をりふし)毎に思ひ出し侍りつれ共、憖(なまじひ)に出家入道して、加様に引籠りて、身は松の煙にふすぼり、形は藤の衣に窄て、御前に参可(レ)懸(二)御目(一)有様(ありさま)にもあらねば、中々にと身に憚て罷過侍りき、如何にして是までは伝御座(おはしまし)けるやらん、更にうつゝ共覚え候はず、故殿常の仰には、賢人は不(レ)誇(二)栄花(一)、卜(二)居於草庵(一)仰し物を、只今(ただいま)思合られ候(有朋下P502)ぞやと申て、墨染の袖を顔にあてて泣けり。中将宣(のたまひ)けるは、都にて何にも成べかりしに、人なみ/\に西国(さいこく)へ落下りたりつれ共、肝心も身にそはず、留置し者共も、理に過て恋しく■(おぼつか)なければ、何事に付ても、世の中あぢきなければ、思ほれて年月を経る程に、是をば角とも知給はで、大臣殿も、池(いけの)大納言(だいなごん)の様に二心ある者とおぼして打解け給はねば、いとゞ心も止まらで、あくがれ出て是まで来れり、いかにもして故郷に伝ひ、替ぬ貌を今一度見えばやと思つれ共、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の生ながら捕れて、父の骸に血をあやす事もうたてければ、是にて髪を下して、水の底にも入なんと思ふなり、但熊野へ詣んとの志ありと宣も敢ず泣給へば、上人誠に夢幻の世の中は、兎ても角ても有なん、長き世の闇こそ苦しかるべけれ、目出も思召(おぼしめし)立ける御事也と申。夜明にけれ
P0993
ば、三位中将(さんみのちゆうじやう)は入道を先達として、先本寺より始て院々堂々巡礼あり。彼高野山は、帝城を去て二百里、郷里を離て無(二)人声(一)、晴嵐梢を鳴して夕日の影も閑也。金剛八葉峯の上、秘密瑜伽(ゆが)の道場也。一度参詣の輩は、永三途の苦を離る、十三大会(たいゑの)聖衆には、肩を並て阻なし、三十七尊の聖容は、心の中にぞ坐し給ふ。八の尾八の谷に、修生本覚の心蓮華を像り或上或下る、行願証義菩提心を顕せり。金堂と申は嵯峨(さがの)天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)也。或釈尊涅槃の像を写せる道場もあ(有朋下P503)り、在世の昔を慕ふかと哀也。弥陀来迎の粧を画霊場もあり、終焉の夕を待かと覚えたり。若は説法衆生の庭、坐禅入定の窓もあり。若は秘密修行の室、念仏三昧の砌(みぎり)もあり。顕教密教掻交、聖道浄土(じやうど)各也。峨々として高き山、渺々として遠き峯、霖霧の底に花綻、尾上の霜に鐘響、嵐に紛ふ鈴の音、雲井に上香の煙、取々にこそ貴けれ。夫より檜原杉原百八十町分過て、奥院に参給。大師の御廟(ごべう)を拝給へば、瓦に松生て、垣に蘿はへり。庭に苔深うして、軒にしのぶ茂たり。是や此仁明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、承和二年三月二十一日の寅の一点に、入定し給へる石室なるらんと、過にし方を数へければ、三百(さんびやく)余歳(よさい)も越にけり。
S4002 観賢拝(二)弘法大師之影像(一)付弘法入唐事
 < 延喜の聖主、有(二)御夢想(ごむさう)告(一)とて、檜皮色の御装束を被(二)進奉(一)、勅使に般若寺の観賢僧正(そうじやう)に仰たりければ、御弟子に石山の内供奉俊祐と相共に、奥院に詣つゝ、御帳を押開て宣命を奉(レ)伝、御装束を進せ替んとし給しに、雲霧忽(たちまち)に立隔る心地して、大師の御体を不(レ)奉(レ)拝。観賢涙を流しつゝ、我一生の間未(二)禁戒犯(一)、有(二)何罪(一)かは見え給はざるとて、五体を地に(有朋下P504)投て発露啼泣し給へば、速に雲晴て日の出るが如くに、大師の御体顕御座(おはしまし)けり。観賢又随喜の涙に香染の衣の袖を絞りつゝ、御肩の廻まで黒黒
P0994
と生延させ給(たま)ひける御髪を奉(レ)剃、御装束を進替させ給つゝ、内供奉に、此御有様(おんありさま)をば奉(レ)拝哉と問給ければ、俊祐霞に籠たる心地して、不(レ)奉(レ)見と答ければ、僧正(そうじやう)自内供奉が手を取て、大師の御膝に引宛て、是こそ御膝よと宣へば、俊祐三度まで撫進せけり。其御移香失せずして、石山の聖教に移り、何の箱とかやに残留て、今の世までも有とかや。目出貴き事共也。其後僧正(そうじやう)、御廟(ごべう)の御戸を立て帰給はんとし給ふに、大師帝への御返事(おんへんじ)に、
  我昔遇(二)薩■[*土+垂](さつた)(一) 親悉伝(二)印明(一) 発無(レ)此(二)誓願(一) 陪(二)辺地異域(一)  昼夜愍(二)万民(一) 住(二)普賢悲願(一) 肉身証(二)三昧(一) 待(二)慈氏下生(一) K212 
とぞ仰ける。>
其後後朱雀院御宇(ぎよう)、長暦三年〈 己卯 〉三月の比、当山に貴僧在て、観賢僧正(そうじやう)の例を尋て、奉(レ)拝(二)御形(一)らんと云願を発して宣旨を申、御廟(ごべうの)御前にて致(二)祈誓(一)御帳を開たりけるに、御体隠なく拝れさせ給、御鬚の生延させ給たりければ、彼僧正(そうじやう)の如く奉(レ)剃(レ)之けるに、御膚を見んとて、以(二)剃刀(一)御頭を小切たりければ、血のさとあえさせ給たりけるに、目くれて雲霧に向る心地して、則急出にけり。其時内より帳を打付られ(有朋下P505)て、其後は開かれずとぞ承る。昔は宣旨と申ぬれば、仏神もこれを背給はざりけり。末世になればにや、当世は云甲斐なき人民に至まで、勅命を軽ずるこそ悲けれ。彼迦葉尊者の鶏足洞に入、弘法大師の高野の石室に籠給しより以来、五十六億七千万歳の春秋を隔てて、慈尊三会の暁を待給ふこそ遥かなれ。三位中将(さんみのちゆうじやう)は御廟(ごべうの)前に良久念誦して、又もと思ふ参詣も心に任ぬ我身也、遠うして又遥也、維盛進んでは釈迦の出世にあはず、退きては慈氏の下生難(レ)期、恨らくは其中間に留つて、空く三途
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に帰らん事を。今暮雲のこころ難(レ)繋、既(すで)に朝露の命消なんとす、願の妄執を廟松の風に払て、永く煩悩を法水の波に洗ふ、三界の火宅を出て、無苦の宝刹に生んとぞ被(レ)奉(レ)拝ける。さても維盛が身は、雪山の鳥の今日不(レ)知(レ)死と啼らん様に、今日歟明日歟と思者をと宣て、左右の袖を顔にあて、雨々と泣給へば、阿浄も重景も、共に袂(たもと)を絞りけり。其後時頼入道が庵室に帰、持仏堂にさし入て拝廻し給へば、本尊かた/゛\に奉(二)安置(一)、閼伽をしな/゛\奉(レ)備有様(ありさま)、浄名居士の方丈に、三万二千の床を立て、三世十方の諸仏を崇奉たりけんも、角やと覚えて最貴し。行儀の作法を見給ふにも、昔は世俗奉公の袖を掻をさめしに、至極甚深の床の上には、心地の玉を瑩くらんと覚えたり。後夜晨朝の鐘の声には、生死の睡を覚すらん(有朋下P506)と聞えけり。尾上の嵐はげしくて、檐のしのぶに露乱、雲井の月さやけくて、苔むす庭も静なり。晋七賢の籠けん竹林寺の庵の中、漢の四皓の住ひけん商山洞の窓の前、かくやと思知れたり。遁れぬべくば角てこそあらまほしくおぼしけれ。其夜は来方向末の物語(ものがたり)して、互に泣より外の事なし。夜も已(すで)に明にければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)、時頼入道に仰けるは、故郷に留置し少き者共の、さしもわりなかりしをも、其母が強ちに慕ふをも、今一度見もしみえばやとこそ思て、屋島をば忍出しか共、そも今は叶はず、さらば出家して熊野へ参らばやと思也と語り給へば、入道涙ぐみて、此世は夢幻の所、憂事も悲事も、始て驚思召(おぼしめす)べきに非、都に留め置せ給、公達北方の御事、尤思召(おぼしめし)切せ給べし、分段輪廻の境に生たる者、誰か死滅の恨をまぬかれたる、妄想如幻の家に会輩、終に別離の悲み
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あり、彼沙羅林の春の空を尋れば、万徳の花萎て、一化の緑永く尽ぬ、歓喜園の秋の風を聞けば、五衰の露消て、巨億の楽み早く空、況下界泡沫の質に於てをや、不定短命の州に於てをや、依(レ)之(これによつて)老たるも去、若も去つて、大小の前後定なし、貴も逝賎も逝て、上下の昇沈難(レ)知、三界二十五有の栖、何者(なにもの)歟此苦を脱れん、五虫千八百(はつぴやく)の類、争か其愁を離るべき、可(レ)厭は憂世(うきよ)也、可(レ)悲は此身也、君御一門の余執に引れて、西海の旅に趣給へ(有朋下P507)る上は、敵の為に捕れ御座歟、水底に沈み給べきか、大師入定の霊地也、両部結戒の道場也、此峯にして忽(たちまち)に俗服脱、法衣を著し御座(おはしま)さん事、即身に安養の浄刹に詣し給へりと思召(おぼしめし)作べし、如何にと申に、日本(につぽん)一州仏法(ぶつぽふ)流布の所、広く大師先徳弘法利生の人多し、就(レ)中(なかんづく)此寺は是、真言上乗弘通の砌(みぎり)、秘密教興隆の境也、高祖大師は大権化現也、讃岐国多度郡人、俗姓は佐伯氏、母の夢に、天竺より聖人来て、我懐に入と見て姙て生子也、生産の後、四天大王蓋を取て随従し給へり、石淵勤操僧正(そうじやう)に師とし事へて、初には虚空蔵求聞持の法を学し、終に二十の歳出家して沙弥の十戒(じつかい)を受、名を教海と云、其後改て如空と称す、具足戒の時、又改て空海と号す、延暦(えんりやく)二十三年〈 甲申 〉五月に、遣唐使正三位藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)賀能が舟に乗て入唐して、青竜寺恵果和尚(くわしやう)に謁する日、和尚(くわしやう)笑を含みて云、我兼て汝が来る事を知れり、相待こと日久し、今始て相見大に好、大に好、汝はこれ非(二)凡従(一)第三地の菩薩也、内に大乗の心を具し、外に小国の僧を示す、為(二)密教之器(一)、悉可(二)授与(一)とて、五部灌頂(くわんぢやう)誓水を灑、三密持念印明を授て、両部の曼荼羅、金剛乗教二百(にひやく)余巻(よくわん)、三蔵付法の
P0997
道具等与畢て云、我此土の縁尽たり、不(レ)能(二)久住(一)、汝速に本国に帰て天下に流布せよと、空海和尚(くわしやう)行年卅四、平城(へいじやう)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大同二年〈 丁亥 〉八月に、帰朝の船を泛る(有朋下P508)日、発願祈誓して曰、所学の教法秘密撰所感応の地あらば、此三鈷到点せよとて、日本(につぽん)に向て抛上給に、遥(はるか)に雲中に飛入て、東を差て去にけり。和尚(くわしやう)行年三十三(さんじふさん)、嵯峨(さがの)天皇(てんわう)弘仁七年〈 丙申 〉高野山登給ふ。道にあやしき老人あり、和尚(くわしやう)に語て云、我は是丹生明神、此山の山神也、恒に厭(二)業垢(一)、久得道を願、今方に菩薩到来し給へり、妾が幸也と云て、山中心に登て、御宿所を示して芟掃所、海上にして抛処の三鈷、光を放て爰(ここ)に在、秘法興隆の地と云事明也。依(レ)之(これによつて)和尚(くわしやう)慈尊三会の暁に至迄、密蔵の燈を挑んために、一十六丈の多宝と塔婆を建立(こんりふ)して、過去七仏の所持の宝剣を安置し給へり事奇特也、法の効験也、女人影を隔てて、五障の雲永くをさまり、僧俗心を研て、三明(さんみやう)の月高晴たり、誠に穢土にして浄土(じやうど)を兼、凡夫にして仏陀に融す、難(レ)有聖跡也、賢くぞ女房公達を留置給ける、引具給たりせば、争か此霊場へも御参有べき、御心強かりける御事は、然べき御得脱の期の至御座、永離三悪の峯に登、生仏不二の覚を開き給べきにこそと細々とぞ申しければ、
S4003 維盛出家事
三位中将(さんみのちゆうじやう)涙を流し打頷許給(たまひ)て、誠に都を出し日より敵の為に亡されて、骸を山野の道の(有朋下P509)辺りに曝て、名を西海の波の底に沈むべしとこそ思しに、懸べしとは懸ても思寄ざりき、是も善業の催す処と云ながら、如何にも故郷の少者共の事のみ思出つれ共、其事思棄て参詣せし程に、粉河にて法然上人に対面して、念仏往生の法門(ほふもん)を聴聞し、大乗無作の大戒を授られ、剰へ上乗瑜伽(ゆが)の霊峯に登、大師草創の仏閣を拝、
P0998
堂堂巡礼して、六道(ろくだう)輪廻の業を滅すらんと存上、加様に目出く貴き事共承はれば、昔は家門主従の礼儀たりしか共、今は菩提の大善知識とこそ思召(おぼしめし)、さらば急出家をと宣ふを見奉に、潮風に黒み、尽せぬ御襟に痩衰へ給(たまひ)て、其人共見えず成給たれ共、猶人には勝て粉ふべくもなし。らふたくうつくしくぞ御座(おはしまし)ける。如何なる讐敵成共哀と思ぬべし。御戒の師には、東禅院に理覚坊の心蓮上人と申僧を請じ奉、時頼入道出家の御具足取調へたりけるに、三位中将(さんみのちゆうじやう)は、与三兵衛、石童丸二人を近く召て宣(のたまひ)けるは、我身こそ懸る道狭き者と成て様を替るとも、己等はいかなる形勢(ありさま)をすとも、なじかはながらへざるべき、如何にもならん様を見終なば、都へ上身々をも助、少者共の便ともなるべしと宣へば、二人共にはら/\と泣て、暫は物も不(レ)申、良有て与三兵衛申けるは、重景が父与三左衛門尉(さゑもんのじよう)景康は、平治の合戦の時、故殿の御伴に候けるが、二条堀川(ほりかは)にて、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が郎等、鎌田兵衛正清に(有朋下P510)組で、悪源太義平に被(レ)討けり、其時は重景二歳にて候けり、母には七歳にて後れぬ、竪固の孤子に成果て、哀糸惜と申親者もなかりけるを、景康は我命に代し者也、其子なれば殊に不便の者也とて、御前より生立御座(おはしまし)て、九と申しゝ年、君の御元服(ごげんぶく)の次でに、忝(かたじけな)くも軈本鳥を取上られ進て、盛の字をば御代に奉(レ)付とて君つかせ給ぬ、重の字をば松王に給とて、重景とは付させ給けり、童名を松王と呼れけるも、二歳の時母が懐て参たりければ、此家をば小松といへば付る也とて、松王とは被(レ)召けり、君の御元服(ごげんぶく)の年より、取分て御方に仕て、今年は十七年に罷成、表裏ともなく被(二)召具(一)しかば、遊戯進せ、一日片時
P0999
立離進せず、小松殿(こまつどの)隠れさせ給し時は、此世の事つゆ思召(おぼしめし)棄させ給(たまひ)て、一言をも仰置せ給はざりしか共、御いとほしみあれかしの御志にて、さしも多き侍の中に、重景よく/\少将に奉公して御心に違ふなと計こそ最後の御詞にて候しか、されば君、神にも仏にもならせ給(たま)ひなん後は、いかなる楽栄侍るとも、世に有べしとこそ存じ候はね、東方朔西王母が一万歳の命、皆昔語に名を伝へ、欲色二界の快楽の天、限あれば衰没の悲みありと承る、生死の友には会て別やすく、輪廻の門には別てあひ難し、同は菩提の種を植て、一つ蓮に座を並候べしとて、腰の刀を脱出し本鳥を切、三位中将(さんみのちゆうじやう)よりさきに、(有朋下P511)時頼入道に剃せてけり。法名戒実と云。石童丸も八歳よりつき奉り、跡懐より生立て、今年は十一年にぞ成ける。志深く御糸惜くし給ければ、重景にもおとらず思奉けり。多の人の中に、屋島より打解、是まで召具せられ奉て、真の道に非(レ)可(レ)奉(レ)被(レ)捨と申て、本結際より推切て、同入道に剃せけり。法名戒円と云。此等が先立て剃を御覧じ給にも、御涙(おんなみだ)関敢給はず。時頼入道は、本尊の御前に香を焼、花を供し儲たり。三位中将(さんみのちゆうじやう)は本鳥を左右に結分て、四恩師僧を拝し給ふ。心蓮上人髪剃を取、泣々(なくなく)御後に立寄つゝ、流転三界中、恩愛不能断、奇恩入無為、真実報恩者と、三反唱へて剃給けるにも、北方に今一度かはらぬ貌を見せて角もならば、思事なからましとおぼすぞ、愛執煩悩、罪深しと云ながら、誠にと覚えて糸惜き。奉(二)御髪剃落(一)ければ、御衣を召替て、心蓮上人、大哉解脱服、無相福田衣被(レ)服、如(レ)戒行広度(二)諸衆生(一)と唱て、奉(レ)授(二)御袈裟(一)、法名戒法房とぞ申ける。
P1000
 < 或説云、父小松内府出家して浄蓮と申ければ、我身をば心蓮といはんと仰けりと云云、可(レ)尋(レ)之。 > 
三位中将(さんみのちゆうじやう)も与三兵衛も、同年にて二十七、石童丸は十八也、三人共に盛をだにも過給はぬ人々の、かく剃給(たま)ひつゝ居並たるを見渡て、心蓮上人も時頼入道も、墨染の袖を絞けり。中将入道、舎人武里を召て宣(のたまひ)けるは、我兎(と)も角(かく)も成(有朋下P512)なば都へは向ふべからず、後の形見に今一度、日比(ひごろ)恋かりつる事をも云、又様を替身の成果を書やらばとは思へ共、はや世になき者と聞ならば、思歎に堪ず、髪を落し貌を窄さんも不便也、それは責てもいかゞはせん、淵河に身をも沈めて、少き者共が便なく、父には生て別ぬ、母には死て後れぬと、小賢く歎悲まんも糸惜かるべし、終には隠れ有まじけれ共、何鹿知せじと思也、急迎とらんと誘へ置し事も空く成ぬ、いかばかりかはつらく思ふらん、都に留りて歎思ふらんよりも、旅の空にあくがれて為方なく悲き心をば知ず、恨ん事もいと痛しとて、御涙(おんなみだ)関敢ず。只是より屋島に行て、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)、左中将達に有の儘に申せ、侍共いかに■(おぼつか)なく思らん、誠に角とも知せねば、誰々もさこそ恨給らめ、抑唐皮と云鎧、小烏と云太刀は、当家代々の重宝として、我まで嫡嫡に相伝はれり、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が許に預置けり、其をば取て三位中将(さんみのちゆうじやう)に奉れ、もし不思議にて世も立なほらば、後には必六代に譲り給へと可(レ)申とて、雨々とぞ泣給ふ。
S4004 唐皮小烏抜丸事
彼唐皮と云は非(二)凡夫之製(一)、仏の作り給へる鎧也。桓武天皇(てんわう)の御伯父に慶円とて、真言の(有朋下P513)奥義を極め給へる貴き上人御座(おはしまし)き。綸言を給(たまひ)て、紫宸殿の御前に壇を拵へ、胎蔵界の不動の前に智印を結び、意
P1001
を安平に准へて、彼法を加持せらる。七日と云未刻に、紫雲起りてうづまき下り、其中よりあらゝかに壇上に落る物あり。雲消壇晴て是を見れば一両の鎧あり。櫨の匂に白き黄なる両蝶をすそ金物に打て、糸威には非して皮威也。裏を返て見るに、実のあひ/\に虎毛あり、図知ぬ虎の皮にて威たりと。故に其名をば唐皮とぞ申ける。帝御尋(おんたづね)有ければ、慶円申させ給けるは、是はこれ本朝の固め也、是不動降伏の冑也。彼明王(みやうわう)は、外に降魔の相を現ずといへ共、内に慈悲哀愍を具足せり。火焔を身に現ずれば、女我の相を顕す。女我の相とは、大日胎蔵の身を現ずる也。大日胎蔵の身と云は、大歳の腹体を垣断也。彼垣冑にしかず。されば不動に七両の鎧あり、兵頭、兵体、兵足、兵腹、兵背、兵指、兵面也。皆是五天、五国、五花、相承相対せり。人五体を囲はん料也。然者(しかれば)州中の守不(レ)如(二)甲冑(一)、此鎧は七両が中の兵面と云鎧也。本朝の守には何物か是に増るべき。人甲冑を著せし時は、専国家壁と思て、我物の想をなさじ、国を囲はん時は、偏(ひとへ)に州頭の壁とのみ思はざれ、皇の御衣と思ふべき也と被(二)奏聞(一)けり。されば此鎧は、真言秘教の中より不動明王(ふどうみやうわう)の化現し給へる処也。国家の守として、六代ま(有朋下P514)では大内の御宝也けり。其後武道に遣して将軍にもたすべき由、日記に留給たりけるを、高望王の御孫、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)に被(二)下預(一)より以来、維盛迄は嫡々九代に伝はれり。今の唐皮と云は是なり。
又小烏と云太刀は、彼唐皮出来て後、七日と申未刻に、主上南殿に御座(おはしまし)て東天を御拝有ける折節(をりふし)に、
P1002
八尺霊烏飛来て大床に侍、主上以(二)御笏(一)被(二)招召(一)けり。烏依(二)勅命(一)躍上、御座の御縁に觜を懸て奏し申さく、我は是、太神宮より剣の使者に参れりとて、羽刷して罷立けるが、其懐より一の太刀を御前に落し留けり。主上御自此剣を被(レ)召て、八尺の大霊烏の中より出たる物なればとて、小烏とぞ名付させ給(たま)ひける。唐皮と共に宝物に執し思召(おぼしめす)。されば太刀も冑も同仏神の御製作なり。本朝守護の兵具也。仍代々は内裏に伝りけるを、貞盛(さだもり)が世に下預て、此家に伝て希代の重宝なり。又平家に抜丸と云剣あり。池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)にあり。中古伊勢国(いせのくに)鈴鹿山辺りに、賎貧男あり、身の乏事を歎て、常に精進潔斎して太神宮に詣て、世にあらん事を祈申、年比日比(ひごろ)おこたる事なかりければ、神明其志を憐んで、汝深山(しんざん)に遊猟して獣を得て妻子を養へと示現し給ければ、御託宣(ごたくせん)を憑、鈴鹿の山を家として、夜昼猟して獣をとる。得たる時は妻子を養ひ、得ざる時は口を空くす。是を以一期活命の便と成べし共覚えざりければ、我年来(有朋下P515)参詣の功に依て霊夢を感ず、任(二)神慮(一)、深山(しんざん)に遊猟すれ共、身を助るはかりごと成べし共覚えず、太神宮如何にと御計有やらんと、愚にも冥慮を奉(二)恨思(一)ける折節(をりふし)、三子塚と云所にて奇太刀を求得たり、此太刀儲て後は、聊も目に懸る禽獣鳥類遁事なし、然べき宝なりけり。我聞漢朝の高祖は、三尺の剣を以て座ながら諸国の王を従へたり。日本(につぽん)の愚猟一振の剣を求て帯ながら山中の獣を得たり。是天照太神(てんせうだいじん)の冥恩也と思ければ、昼夜に身を放ず。或夜鹿を待て大なる木の下に宿す。太刀を大木に寄せ立て其夜を明す。朝に此木を見れば、古木の如く
P1003
して、枝葉皆枯たり。猟師不思議にぞ思ける。月比日比(ひごろ)も此木の下を栖とせしか共、さてこそ有しに、夜部までは翠の梢盛にこそ有しに、今夜此太刀を寄懸たる故にや、一夜が内に枯ぬるこそ奇しけれ、是定て神剣ならんとて、木枯とぞ名付たる。其比刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛、伊勢守にて御座(おはしまし)けるが夙聞て件の猟師を召、此太刀を見給ふに、異国はそも不(レ)知、我朝には難(レ)有剣也とて、よに欲思はれければ、栗真庄の年貢三千石に替て取れけり。さてこそ猟師家富身ゆたかにして、弥太神宮の御利生共思知けり。忠盛都に帰上、六波羅の池殿の山庄にて、昼寝して前後も知ず座しけるが、此木枯の太刀を枕に立て置たり。大蛇池より出て口を張、游近付忠盛を呑んとす。木枯鞘よ(有朋下P516)りさと抜て、かばと転び倒るゝ音に驚て、忠盛起直て見給に、剣は抜て鐔を蛇に向たり。蛇は剣に恐て水底に沈にけり。太刀かばと倒るゝは主を驚さんがため、鞘より抜るは主を守て、大蛇を切んが為也けり。其よりして木枯の名を改て抜丸とぞ呼れける。平治の合戦に、頼盛(よりもり)三川守にて、熊手に懸られて討るべかりけるにも、此太刀にて鎖金を打切て遁給けり、懸る目出(めでた)き剣なれば、嫡々に伝はるべかりけるを、頼盛(よりもり)当腹にて相伝ありければ、清盛(きよもり)頼盛(よりもり)兄弟なれ共、暫は中悪く御座(おはしまし)けりと聞えきなんど、細かに物語(ものがたり)し給(たまひ)て、唐皮小烏は、重代の重宝家門の守也、世立直らば必六代に伝へ給へと、よく/\仰含けり。
S4005 維盛入道熊野詣附熊野大峰事
此より熊野参詣の志ありとて、修行者の様に出立給ければ、如何にも成給はん様を見奉らんとて、時頼入道も御伴申て参けり。紀国三藤と云所へ出給(たま)ひ、藤代王子に参り、暫らく法施を奉り給ふ。所願(しよぐわん)
P1004
成就(じやうじゆ)と祈誓して、峠に上給へば、眺望殊に勝れたり。霞籠たる春の空、日数は雲井を隔れど、妻子の事を思出て、故郷の方を見渡して、涙のこりを(有朋下P517)ぞかき給ふ。和歌浦、玉津島の明神を伏拝給ふにも、昔遠明日香天皇(てんわう)の后、衣通姫と申しが、帝を恋奉り、行幸のなれるを知ずして、
  我せこがくべき宵なりさゝがにのくもの振舞兼て知しも K213 
と詠じ給(たま)ひたりけるを、帝立聞給(たまひ)て、叡感の御情(おんなさけ)いとゞ深くぞおぼしける。彼を思ひ出るにも、古郷の人の悲さに、絞りかねたる袂(たもと)也。衣通姫此所を目出くおぼしければ垂(レ)跡給へり。吹上の浜、与田浦、日前国懸の古木の森、沖の釣舟磯打浪、哀は何れも取々也。蕪坂を打下、鹿瀬の山を越過て、高家王子を伏拝、日数漸く経程に、千里の浜も近付けり。岩代の王子を通給ふ。其辺にて狩装束したる者、七八騎ばかり会たりけり。敵の来り搦捕んずるにやと、肝心を迷して、各腰の刀に手を懸て自害せんとしける程に、はらはらと馬より下、深く平みて通にけり。見知たる者にこそ、誰ならんと浅増(あさまし)くいぶせく思ひ給ければ、いとゞ足ばやにぞ指給ふ。当国住人(ぢゆうにん)に湯浅権頭入道宗重が子息、湯浅兵衛尉宗光と云者也。郎等共(らうどうども)も奇げに思て、此道者は誰人にて御座(おはしまし)候ぞと問ければ、宗光、あれこそ平家の故小松大臣の御子に、権亮三位中将殿(ごんのすけさんみのちゆうじやうどの)よ、一門の人々に落連て西国(さいこく)にとこそ奉(レ)聞しに、如何にして屋島より是まで伝給けるやらん、小松殿(こまつどの)の御時は、常に奉公(有朋下P518)申て御恩をも蒙、此殿をも見馴奉りたれば、近く参て見参にもと思ひつれ共、道狭き御身と成て、憚思召(おぼしめす)御気色(おんきしよく)あらはなりつればさて
P1005
過ぬ、穴痛しの御有様(おんありさま)や、替る代の習と云ながら、心憂かりける事哉とて、馬を留てはら/\と泣ければ、郎等共(らうどうども)も皆袖をぞ絞ける。三位中将(さんみのちゆうじやう)入道(にふだう)は、日数経れば岩田川に著給(たまひ)て、一の瀬のこりをかき給。我都に留置し妻子の事、露思忘るゝ隙なければ、さこそ罪深かるらめども、一度此河を渡る者、無始の罪業悉滅すなれば、今は愛執煩悩の垢もすゝぎぬらんと、憑もしげに仰られて、
  岩田川誓の船にさをさして沈む我身も浮ぬる哉 K214 
と詠じ給(たまひ)ても、父小松大臣の御熊野詣の悦の道に、兄弟此河水あみ戯て上たりしに、権現に祈申事あり、浄衣脱替べからず、御感応ありとて、是より重て奉幣有し事思出給(たまひ)ても、脆きは落涙也。其(その)日(ひ)は滝尻に著給、王子の御前に通夜し給、後世をぞ被(二)祈申(一)ける。彼王子と申は、本地は不空絹羂索、為衆生利益とて、垂跡此砌(みぎり)、当来慈尊の暁を待給ふこそ貴けれ。明ぬれば峻しき岩間を攀登、下品下生の鳥居の銘、御覧ずるこそ嬉しけれ。
  十方仏土中以(二)西方(一)為(レ)望 九品蓮台間 雖(二)下品(一)可(レ)足 K215 
注し置たる諷誦の文、憑もしくこそおぼしけれ。高原の峯吹嵐に身を任せ、三超の巌を(有朋下P519)越には、■利(たうり)の雲も遠からず、発心門に著給。上品上生の鳥居額拝給(たまひ)ては、流転生死の家を出て、即悟無生の室に入とぞ思召(おぼしめす)。夫より本宮に著給(たまひ)ては、寂静坊阿闍梨(あじやり)が庵室に入給ふ。此坊は故小松内府の師なれば也。阿闍梨(あじやり)中将入道を奉(レ)見、夢の心地して哀にもなつかしくも覚えければ、御前に参て、七旬の余算を持
P1006
て、奉(レ)拝(二)再御顔(一)事嬉しさよ、故大臣の御参詣、只今(ただいま)の様に覚えてこそとて、老の袂(たもと)を絞りけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)も、今更昔に立かへる御心地(おんここち)して、父の大臣の御事、げに昨日今日の様に思出られ給ふにも、尽せぬ御襟に打副て、阿闍梨(あじやり)が袖を絞るを見給ふにぞ、今一際の悲みも増ける。さても中将入道殿(にふだうどの)は、参社せんとて坊を出給つゝ、此御山を見給に、大悲利物の霞は、熊野山に聳、和光(わくわう)同塵(どうぢん)の垂跡は、音無川に住給ふ。常楽我浄の春風に、妄想の氷解、仏性真如の月影に、生死の闇も晴ぬらんと、信心肝に銘じつゝ、証誠殿の御前に、再拝念誦し給けり。常住の禅徒客僧の山伏、参集りて懺法をぞ読ける。一心敬礼の声澄ば、三世の諸仏随喜を垂、第二第三の礼毎に、無始の罪障滅らんと、最貴く思召(おぼしめし)ければ、賢くぞ思立ける。父の大臣の、命を召て後世を助給へと被(レ)申ける事思出て、懸るべき事を兼てさとり給けると覚えて哀也。此権現と申は仏生国の大王、善財太子と相共に、女の心を悪みて遥飛来(有朋下P520)つゝ、此砌(みぎり)にぞ住給。斗薮の行者を孚、修験の人を憐。大峯と申は、金剛胎蔵、両部曼荼羅の霊地也。此山に入人は、此社壇より出立、役優婆塞は、三十三度の修行者、竜樹菩薩に値奉て、五智三密の法水を伝へ、伊駒嵩に昇つて、二人の鬼を搦て末代行者の使者とせり。弘法智証の両大師、行者の跡を尋て大峯にぞ入給ふ。山王院大師、熊野権現の在所を尋て参詣し給ふに、雲霞峯を隔て、荊棘道を埋て東西を失、滝尻に留、七日祈誓し給へば、八尺の霊烏飛来て、木の枝を食折て其路を示せば、跡を趁て上つゝ社壇に詣給き。八尺の長頭巾この表示とぞ聞ゆる。花山法皇の那智籠、寛平法皇
P1007
の御参詣、後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)の卒都婆の銘、忝(かたじけなく)ぞ覚ゆる。善宰相は、浄蔵貴所の祈祷により閻魔宮よりかへされ、通仁親王は、行尊僧正(そうじやう)の加持により冥途の旅より蘇息せり。皆是大峯修行の効験、権現掲焉の利生也。凡彼山の為(レ)体、三重の滝に望ば、百丈の浪六根の垢を洗ひ、千草の岳に上れば、四季の花一時に開て盛也。ふきうの峯には寒嵐衣を徹し、古家の宿には時雨袖を濡す。彼馳児宿竜のむなしき、大禅師小禅師屏風のそば道、釈迦岳、負釣行者帰、何れも得通の人に非ば争か爰を通ん。然而権現金剛童子の加護にて、無(レ)恙こそ貴けれ。或は高山に登て薪を採、或深谷に下て水を汲。大王の阿私仙に従て、千歳の給仕に相似た(有朋下P521)り。太子の檀特山に入て、六年の苦行に不(レ)異。一見の新客は初僧祇の功徳を得、三度の古衆は三祇却の万行を満たり。誠哉一陀羅尼の行者は智者の頭を歩といへり。是皆垂跡(すいしやく)権現の善巧方便の利益也。証誠殿と申は本地は阿弥陀如来(あみだによらい)、誓願を饒王の往昔に発て、大悲を釈迦の在世に弘め、正覚を十小劫に成して、済度を極十歳に留。一念十念をも不(レ)嫌、五逆十悪猶助給へり。一座無為の実体は、遥(はるか)の西にましませど、随縁化物の権迹は、此砌(みぎり)にぞ住給ふ。前に大河流たり、水功徳池の波を添、後に長山連なれり、風宝林樹の枝に通らし。本地の悲願を仰ぎて、本願誤給はず、必西方浄土(じやうど)に引導給へと申給ける。中にも古里に留置し妻子安穏にと祈給けるこそ、憂世(うきよ)を遁実の道に入りても、妄執は猶尽ざりけりと悲けれ。明ぬれば寂静坊に暇を乞ふとて、和光(わくわう)同塵(どうぢん)は区にましませ共、利益衆生は一なり。両度参詣の契を以て、一仏浄土(じやうど)に必とて、本宮を出給(たま)ひ、備崎
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より舟に乗、時々に苔路をさし、新宮に詣給ふ。一夜通夜し給(たまひ)て、祈誓は本宮に同事、翌日は明日香神蔵に、暫念誦し給(たまひ)て、那智へぞ参給ける。佐野の浜路に著給へば、北は緑の松原影滋く、南は海上遥(はるか)に際もなし。日数の移るに付ても、あた命の促るほど、屠所の羊の足早く、心細くぞおぼしける。那智御山は穴貴と飛竜権現御座、本地は千手観音化現也。(有朋下P522)三重百尺の滝水、修禅の峯より流出て、衆生の塵垢を洗き。千手如意の本誓は、弘誓の船に棹して、沈淪の生類を渡給ふも憑しや。法華読誦(どくじゆ)の音声は、霞の底に幽也。如来(によらい)の説法し給し、霊山浄土(じやうど)に相似たり。観音薩■[*土+垂](さつた)の霊像は、岩の上にぞ座し給ふ大悲の生を利益する、補陀落山とも謂つべし。去し寛和の比、花山法皇の行給にける所とて、時頼入道奉(レ)教ければ、滝本へ下給(たまひ)て其旧跡を拝すれば、今は御庵室も霧に朽て其跡なし。庭上に若草繁して墻根に蔦まとへり。昔の遺を忍べとや、千代の形見に引植させ給ける老木の桜計こそ、折知がほに咲にけれ。加様の事共御覧じけるに、彼は明哲聖主の君、猶浮世をば厭ひ給けり。我は愚昧凡人の臣、何にか執を留べきと思召(おぼしめし)けるにこそ、無始の罪障露消ぬ共おぼしけめ。偖も社頭に念誦し給たりけるに、社参の客僧の中に、五十有余(いうよ)とおぼしき山伏の雨々と泣有。かたへの僧、けしからず、何事にかく泣給ぞと問ければ、此僧答て曰、余に哀なる事有て、そゞろに角泣るゝ也、各知給はずや、只今(ただいま)御前に参給へる道者をば誰とか見給ふ、あれこそ平家の嫡々、故小松大臣の一男、権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛よ、一門に落具して屋島にと聞しが、如何にして是までは伝ひ給たるやらん、
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出家し給たるにこそ、御髪の剃様近き程と見えたり、最哀なる事哉、右の方に少指出て居(有朋下P523)たるは、軈父小松の大臣の侍に、三条斎藤左衛門大夫望頼が子、斎藤滝口時頼よ、あれも建礼門院(けんれいもんゐん)の雑司に、横笛と云女に心を移て通しを、父が勘当を得て、わりなく思し妻に別、親にもしられずして、十八と申しに偸に出家して、高野に登て行澄して有と聞しが、先達して参りたるにこそ、善知識の料と覚たり、左の方に少指退きて居たるは、平治の時悪源太に討れし与三左衛門尉(さゑもんのじよう)景康が子、与三兵衛重景よ、其後なる小入道は、此殿の召仕し石童丸と見えたり、皆出家してけるや、斯る世中に是まで参り給へるは、後世の事を祈念して、水の底にも入なんと思召(おぼしめす)やらん、父の大臣も此御前に参給(たまひ)て後世の事を祈給、下向して程なく失給(たま)ひにしかば、其事思出給ふと覚ゆるぞ哀なる、安元(あんげん)二年の春の比、法皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて五十の御賀の有しに、時の■(きら)に付て、青海波の曲を舞給しに、前には月卿(げつけい)玉冠を研て十二人、後には雲客(うんかく)花の袂(たもと)を連ねて十五人、其中に父大臣は内大臣(ないだいじん)の左大将、叔父宗盛は中納言右大将(うだいしやう)、知盛は三位中将(さんみのちゆうじやう)、重衡は蔵人頭(くらんどのとうの)中宮亮已下、一門の月卿(げつけい)雲客(うんかく)、今日を晴ときらめきて、皆花やかなる貌にて、舞台の垣代に立給たりし時は、さしもうつくしくおはせしが、中にも此時は、四位(しゐの)少将にて舞給たりしかば、嵐に類花の色、匂を招く舞の袖、天を照し地も耀程に見えしかば、簾中簾外皆さゞめき立(有朋下P524)て、桜梅の少将とこそ申しゝか。哀にうつくしく見え給ふ人かな、今三四年が程に、大臣の大将は疑あらじものをと、諸人に謂給しぞかし。去共竜樹菩薩の釈に曰、世間如(二)車輪(一)、時変似(二)
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輪転(一)文、げに只今(ただいま)の有様(ありさま)に引替て御座るを見れば、朝の紅顔夕の白骨、理也と思合て泣るゝなりと語ければ、皆人々柿の衣の袖をぞ絞りける。
S4006 中将入道入(レ)水事
中将入道(にふだう)、三の山の参詣事ゆゑなく被(レ)遂ければ、浜宮の王子の御前より、一葉(いちえふ)の舟に棹さして、万里の波にぞ浮給ふ。遥(はるか)の沖に小島あり、金島とぞ申ける。彼島に上りて松の木を削つゝ、自名籍を書給(たま)ひけり。
平家嫡々正統小松内大臣重盛公(しげもりこう)之子息、権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)維盛入道、讃岐屋島戦場を出て、三所権現之順礼を遂、那智の浦にて入水し畢。
元暦元年三月二十八日(にじふはちにち)、生年二十七と書給(たま)ひ、奥に一首を被(レ)遺けり。
  生ては終にしぬてふ事のみぞ定なき世に定ありける K216 
其後又島より船に移乗、遥(はるか)の沖に漕出給ぬ。思切たる道なれど、今を限の浪の上、さこそ心細かりけめ。三月の末の事なれば、春も既(すで)に暮ぬ。海上遥霞籠、浦路の山も幽(有朋下P525)也。沖の釣舟の波の底に浮沈を見給ふにも、我身の上とぞ被(レ)思ける。帰雁の雲井の余所に一声二声(ふたこゑ)音信(おとづるる)を聞給(たまひ)ても、故郷へ言伝せまほしくおぼしけり。西に向ひ掌を合、念仏高く唱へつゝ、心を澄し給へり。既水に入給かと見えけるが、念仏をとゞめて宣(のたまひ)けるは、噫呼今を限とは争か都に知るべきなれば、風の便の言伝は、折節(をりふし)毎にあひまたんずらん、終に隠れあるまじければ、世になき者と聞て、いか計か歎悲まんずら
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ん、思連らるぞや、縦水の底に沈む共、などや今は限の文一なからんと、恨ん事も糸惜かるべし、されば後の世の形見にもなれかしと思へば、最後の文をかゝばやと思也とて、軈(やが)て書給へり。さて都を出て西国(さいこく)に落留たらば、迎奉らんとこそ思申しに、敵に攻られて此にも彼にも安堵せねば、そも不(レ)叶、とても遁るまじき身也、年月を重て積る思も晴がたければ、忍つゝ山伝して、今一度見もしみえ奉て、如何にもならんは力なしと思立て、屋島をばあくがれ出たれ共、浦々島々に敵充満たりと聞ば、平かに上付て、人々を見奉らん事もかたし、甲斐なき者共に虜れて、重衡卿(しげひらのきやう)のやうに恥をさらさん事も、身の為人の為、日比(ひごろ)の思に打そへて、由なく思侍つれば、道より思返て、高野に登髪を落し、戒を持つて、貴き所々拝廻、熊野に参後世を祈、那智の海にて空く成侍りぬ、角と聞給(たまひ)ての御歎、兼て思置(有朋下P526)奉こそ痛しけれ。御身と云少者と申、後いかならんと思残す事侍らず、心の中只推量給べし、舟中より申せば、筆の立所もさだかならず、朽せぬ契ならば、後世には必とて、奥に、
  故郷にいかに松風恨らん沈む我身の行へしらずば K217 
とあそばして、武里にたびて後宣(のたまひ)けるは、やゝ入道殿(にふだうどの)、哀人の身に妻子は持まじき者也けり、此世にて物を思のみに非、後世菩提までの妨と成事の心憂さよ、親人にも知らせで、屋島を出しも若や都へ忍著て、今一度相見事もやと思立たりしか共、其事叶べくもなし、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の虜れて、京都鎌倉恥をさらすだにも心憂に、我さへとられ搦られて、父の頭に血をあやさん事もうたてければ、
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思切て髪を剃し上は、今更妄念有べし共覚えざりしに、本宮証誠殿の御前にて、終夜(よもすがら)後世の事を祈申しに、少き者共の事思出て、我身こそ角成ぬ共、故郷の妻子平安に守給へと申されき。又未来の昇沈は、最後の一念によると聞ば、一心に念仏申て、九品の蓮台に生んと、今を最後の正念と思へば、又思出ぞや、誠や思事を心中に残すは妄念とて、罪深しと聞ば懺悔する也と語給へば、時頼入道涙を押拭て、尊き卑も、恩愛の道は繋けるくさりの如くとて、力及ざる事に侍り、さ(有朋下P527)れば迷を捨て悟をとる、釈迦如来(しやかによらい)菩提の道に入らんとて、十九にして城を出給(たま)ひしに、耶■陀羅女(やしゆだらによ)に遺を惜て出兼給けり、仏猶如(レ)斯、況凡夫をや、尤悲むべし、争か不(レ)痛、中にも夫妻は一夜の契を結ぶ、既(すで)に五百生の宿縁と申せば、此世一の御事にあらず、角思召(おぼしめす)尤理なれ共、生者必滅会者定離は憂世(うきよの)習なれば、縦遅速こそ有とも、後れ先立御別、終になくてや侍べき、いつも同事と可(レ)被(二)思召(一)(おぼしめさるべし)、但第六天の魔王と云外道は、欲界人天を我奴婢と領じて、此中の衆生の仏道を行し、生死を離るゝ事を惜み憤りて、様々の方便を廻し、是を妨内、或子と成て菩提の大道を塞、或妻と成て愛執の牢獄を不(レ)出、去共三世の諸仏者、一切衆生を悉に我御子の様に思召(おぼしめし)て、浄土(じやうど)不退の地に勧入んとし給ふに、妻子と云者生死を繋紐なるが故に、仏の重く誡給ふは即是也、御心よわく不(二)思召(一)(おぼしめさず)、伊予入道頼義(らいぎ)は、東国の俘囚貞任宗任を亡さんとて、十五年の間、人の首を切事、一万五千人(いちまんごせんにん)、山野の獣、江河の鱗に至まで、其命を断事幾千万と云数を知ず。去共一念菩提心を発しに依、往生する
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事を得たり。御先祖平将軍(へいしやうぐん)は、相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)を討て、東八箇国を鎮給しより以来、相続朝家の御守にて、嫡々九代に成給へば、君こそ今は日本国(につぽんごく)の大将軍にて御座(おはします)べけれ共、故小松大臣世を早うせさせ給(たまひ)しかば、御身に積る御罪業ある(有朋下P528)べし共覚えず、況出家の功徳は莫大なれば、先世の罪障悉に亡給らん。謹で諸経の説を案ずるに、百千歳が間百羅漢を供養するも、一日出家の功徳には及ず、縦人ありて七宝の塔を立ん事、高さ三十三天(さんじふさんてん)に至とも、一日出家の功徳には猶及難しといへり。又一子出家すれば、七世の父母皆得脱す共明せり、七世猶如(レ)此、況我身に於をや。さしも罪深き伊予入道、心強きが故に往生を遂、させる罪業おはしまさゞらんに、などか極楽へ参給はざるべき。中にも弥陀如来(みだによらい)は、十悪五逆をも嫌ず、一念十念をも導給はんと云悲願御座、彼願力を憑まん人疑やは有べき。二十五の菩薩を引具し給(たまひ)て、伎楽歌詠し、只今(ただいま)極楽の東門を出来給べし。観音捧(二)蓮台(一)、勢至合(レ)掌迎給はんずれば、今こそ蒼海の底に沈と思召(おぼしめす)とも、則紫雲の上にこそ昇り給はんずれ。成仏(じやうぶつ)得脱して、神通身に備給(たま)ひなば、娑婆の故郷に還て恋しき人をも御覧じ、悲き人をも導給はん事、いと安かるべしと申ければ、中将入道然べき善知識にこそと嬉敷て、忽(たちまち)に妄念を翻て正念に住し、又念仏高く唱給、光明(くわうみやう)遍照十方世界、念仏衆生、摂取(せつしゆ)不捨と誦し給(たま)ひつゝ、海にぞ入給にける。与三兵衛入道、石童丸も、同連て入にけり。舎人武里是を見て、余(あまり)の悲さに海へいらんとしけるを、如何にうたてく御遺言(ごゆいごん)をば違るぞ、下揩アそ口惜けれとて、時頼入道(有朋下P529)いだき留たりければ、船の中に
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伏まろび、喚叫事不(レ)斜(なのめならず)。悉達太子の十九にて檀特山に入給(たま)ひし時、車匿舎人が被(レ)棄て悶焦けんも、是には過じとぞ見えし。時頼入道も流石(さすが)哀に悲くて、墨染の袖絞り敢ず、若浮もぞ上り給ふとて暫見けれ共、三人ながら深沈みて見えざりけり。日も既(すで)に暮ければ、名残(なごり)は惜く思へ共、空き舟を漕もどす。梶の雫落る涙、何れもわきて見えざりけり。礒近く成儘に、渚(なぎさ)の方を見れば、海士共多く集て沖の方へ指をさし、何とやらん云ければ、奇しく覚えて船を指寄て問。老人申けるは、沖の方に例ならず音楽の声しつれば、各奇く聞侍つる程に、又先々もなき紫色の雲一村、彼の程に出来て侍つるが、程なく見えず成ぬ。既(すで)に八十に罷成ぬれ共、未あれ様の雲も見侍ずと語けり。さては此人々の往生の瑞相顕れぬ、如来(によらい)の来迎に預て、紫金の台に乗給にけりと思ければ、別離の涙、随喜の袂(たもと)とり/゛\どり也。
 < 或説に云、三山の被(レ)遂(二)参詣(一)にければ、高野へ下向ありけるが、さてしも遁はつべき身ならねばとて、都へ上り院(ゐんの)御所(ごしよ)へ参て、身謀首にも侍らねば、罪深かるべきにも非ず、命をば助らるべき由をぞ申入ける。事の体不便に被(二)思召(一)(おぼしめされ)て、関東へ被(二)仰遣(一)けり。頼朝(よりとも)御返事(おんへんじ)に、彼卿を下し給(たまひ)て、体に随て可(二)申入(一)と申たりければ、可(二)罷下(一)由法皇より被(二)仰下(一)ける。後は飲食を断たりけ(有朋下P530)るが、廿一日と云けるに、関東へも下著せず、相模国(さがみのくに)湯下宿にて入滅ともいへり。禅中記に見えたり。
或説には、那智の客僧等是を憐て、滝奥の山中に庵室を造りて隠し置たり。其所今は広き畑と成て、彼人の子孫繁昌しておはす。毎年に香を一荷那智へ備ふる外は別の公事なし。故に爰を香■(かうはだ)と云と、入海は偽事と云云。 >
P1015
時頼入道は高野へ上にけり。武里は讃岐屋島に下にけり。御弟の新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)に奉(レ)逢、三位中将(さんみのちゆうじやう)入道殿(にふだうどの)宣(のたまひ)ける事共、有の儘に語申せば、穴心憂や、如何なる事成共、などや資盛には知せ給はざりける、さあらば御伴申て同水底にも入なまし物を、我憑奉る程は思給はざりけるうらめしさよ、一所にて如何にもならんとこそ申しゝかとて、涙を関敢ず流しけるこそ無慙なれ。三位中将(さんみのちゆうじやう)をば、池(いけの)大納言(だいなごん)の如くに、頼朝(よりとも)に心通はして京へ上にけりと、大臣殿も心得(こころえ)給(たまひ)て、資盛にも打解給はざりつるに、さては身を投給ける事の悲しさよ、云置給事はなしやと問給へば、武里泣々(なくなく)申けるは、京へは穴賢上るべからず、屋島へ参て有つる事共委申せ、一所にて如何にもならんとこそ思侍りしか共、都に留置し少き者共の余に■(おぼつか)なくて、有そらもなかりしかば、若や伝ひ上て今一度見ると思て、あくがれ出たりしか共、叶ふべき様なければ角罷成ぬ、備中守も討ぬ、維盛もかく成ぬれば、如何にも便なく思召(おぼしめす)らんと(有朋下P531)心苦しくこそ侍れ、又唐皮小烏までの事、細々と申たりけるを聞給(たまひ)て、今は資盛とても非(レ)可(レ)叶と、宣も敢ず御涙(おんなみだ)を流し給ふ。故三位中将(さんみのちゆうじやう)にゆゝしく似たれば、武里も見奉りては、共に袖をぞ絞りける。(有朋下P532)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十一

P1016(有朋下P533)
弥巻 第四十一
S4101 頼朝(よりとも)叙(二)正四位下(しやうしゐのげ)(一)附崇徳院遷宮事
元暦元年三月二十八日(にじふはちにち)の除目に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)正四位下(しやうしゐのげ)に叙す。尻付には追(二)討義仲(よしなか)(一)賞とぞ有ける。元従五位下なれば、已五階の賞に預る。勲功の越階、其例あるに依なり。
同四月十五日子時に、崇徳院遷宮あり。春日が末北河原の東也。此所は大炊殿の跡、先年の戦場也。去し正月の比より、民部卿成範卿、式部権少輔範季、両人奉行として被(二)造営(一)けるが、成範卿は故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が子息也。信西保元の軍の時、御方にて専事行はれ、新院を傾け奉たる者の息男也。造営の奉行神慮はゞかり有とて、成範を改られて、権大納言(ごんだいなごん)兼雅卿奉行せられけり。法皇御宸筆(ごしんぴつ)の告文有、参議式部大輔(たいふ)俊綱卿(としつなのきやう)ぞ草しける。権大納言(ごんだいなごん)兼雅卿、紀伊守範光、勅使をつとむ。御■(ごべう)の御正体には御鏡を被(レ)用けり。彼御鏡は、先日御遺物を兵衛佐(ひやうゑのすけの)局に御尋(おんたづね)ありけるに、取出て奉たりける八角の大鏡也。元より金銅普賢の像を鋳付奉たりける。今度平文の箱に被(レ)奉(レ)納たり。又故宇治左大臣の■(べう)(有朋下P534)同東の方にあり。権大納言(ごんだいなごん)拝殿に著して、再拝畢て告文を披かれて、又再拝ありて、俗別当神祇大副卜部兼友朝臣に下給ふ。兼友祝申て前庭にして焼(レ)之けり。玄長を以別当とす。〈 故教長卿子 〉慶縁を以て権別当とす。〈 故西行法師子 〉遷宮の有様(ありさま)、事に於て厳重也き。
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S4102 忠頼被(レ)討付頼盛(よりもり)関東下向事
同廿六日(にじふろくにち)に、甲斐の一条次郎忠頼被(レ)誅けり。酒礼を儲て謀て、宮藤次資経、被官滝口朝次等是を抱たりけり。忠頼為方なくて亡にけり。郎等あまた太刀を抜て縁の上に走昇り、打て懸りけるを搦捕んとしける程に、疵を蒙者多かりけり。忽二三人は伏誅せられ、其外は皆虜られぬ。忠頼が父、武田太郎信義を追討すべき由、頼朝(よりとも)の下知に依、安田三郎義貞は甲斐国へ発向す。義貞が為には信義は兄也、忠頼は甥ながら聟なりけり。世に随習とて、兄誅罰に下りけるこそ無慙なれ。
同五月十五日、前大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)上洛し給へり。関東にて被(二)賞翫(一)給ける事、心も詞も及がたし。此人鎌倉へ下り給(たま)ひける事は、平家都を落給しに、共に打具して下給ふ程に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)兼ての状を憑て、道より返給へり。彼状には難(レ)遁命を寛して生られ奉りし事、偏(ひとへ)に池尼御前の芳恩に侍り、其御志生生に忘(有朋下P535)難、頼朝(よりとも)世に経廻せば、御方に奉公仕て、彼御恩に可(レ)奉(レ)報、此条■飾(けうはう)の作言に非、且は二所八幡の御知見を仰ぐと、度々被(二)申上(一)たりければ、深其状を憑て落残給たれ共、頼朝(よりとも)こそ角は思共、木曾冠者(きそのくわんじや)十郎蔵人、我に情を置べきに非、如何成行んずらん、波にも著ず、磯にも著ぬ風情して、肝心を砕て過給ける程に、行家は木曾に恐て都の外に落ぬ、義仲(よしなか)は九郎冠者に討れければ、聊安堵し給へるに、兵衛佐(ひやうゑのすけ)より重て状を上せ給へり。企(二)上洛(一)可(二)参申(一)之処、其状当時難治に侍り、急御下向あらば畏存ずべし、且故尼御前を見奉と思侍べし、宗清左衛門尉(さゑもんのじよう)、同可(レ)被(二)召具(一)と被(レ)申たりけるに依て下向給(たま)ひけり。弥平左衛門尉(やへいざゑもんのじよう)宗清と云は、本は平家の一門なりけり。当時侍振舞にて、
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池殿には相伝専一の者也。頼朝(よりとも)の命に任て可(二)召具(一)由被(レ)仰けるに、宗清辞申けり。大納言(だいなごん)如何にと問給へば、君は角て御渡あれ共、御一門の公達西海に漂て、安き御心なし、思遣奉に心憂く覚えて、安堵の心侍らず、今度の御伴をば暇給(たまひ)て、追て可(二)下向仕(一)と申也。大納言(だいなごん)苦々しく恥思給(たまひ)て、一門を引別て落留る事、我身ながらもいみじとは存ね共、妻子もあれば世も難(レ)捨て、甲斐なき命も惜ければ憖(なまじひ)に留りき、此上は留るべきに非ず、下らんと思也、大小事汝にこそ被(二)仰合(一)しか、落留し事不(レ)受思はば、其時などや所存を申さざりけるぞと(有朋下P536)宣へば、宗清、人の身に命に過て惜き物やは候べき、身あれば又世は捨られぬ事なれば、御とまりを悪しとには非ず、兵衛佐(ひやうゑのすけ)も命を被(レ)生進せてこそ懸幸にも合給へ、平治之時預置時、情ある体にて相当りし事、又故尼御前仰にて、近江国篠原宿まで送奉し事、忘ぬと承れば、御伴申て下たらば、定て所領引出物なんど給はんずらん、其に付ても西海に御座(おはしま)す公達侍共の待聞ん事恥しく侍れば、今度は暫罷留るべし、君は落留御座上は、御下向なからんも中々様がましかるべし、兵衛佐(ひやうゑのすけ)尋申されば、折節(をりふし)労る事ありと申度こそ侍れとて下らざりければ、聞人げにもと感じ申けり。大納言(だいなごん)鎌倉に下著し給たりければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)急見参し給けるに、先宗清左衛門尉(さゑもんのじよう)は御伴歟と被(二)尋申(一)労事有て下向なしと宣(のたまひ)ければ、世にも本意なげにて、頼朝(よりとも)召人にて宗清がもとに預置れたりしに、事にふれて情深あたり申しかば、難(レ)忘恋しくも覚えて、必可(レ)被(二)召具(一)由兼て申上せて侍れば、御伴には定めて下り候らんと相存知て候へば、返々
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遺恨に候き。平家都を落ぬ、今更頼朝(よりとも)に面を合ん事よ、など云意趣も残侍にやとまで宣て、誠に本意なしと思へる気色也。宗清が料とて、所領の宛文まで成儲、馬鞍絹染物等、様々の引出物用意あり。其上大名三十人に仰て、一人別の結構(けつこう)には、鞍置馬裸馬各一匹、長櫃一合、其中には宿物一領、小袖(有朋下P537)十領、直垂五具、絹十匹入べし、此外不(レ)可(レ)過(レ)分と被(二)下知(一)ければ、三十人面々(めんめん)に我おとらじと、馬は六鈴沛艾を撰び、鞍は金銀を鏤たりけれ共、下らざりければ、是も面々(めんめん)に本意なき事にぞ思ひ申ける。大納言殿(だいなごんどの)をば、暫鎌倉にも御座(おはしま)し候へかしと宣(のたま)ひけれ共、京都にも■(おぼつかな)く思ふらんとて、急被(二)上洛(一)ければ、大納言殿(だいなごんどの)に可(レ)奉(二)成返(一)之由被(レ)申内奏ける上、本の知行庄園は一所も無(二)相違(一)、其外所領八箇所下文等書副て奉。鞍置馬二十匹、裸馬廿匹、長持二十合、中には衣染物砂金鷲羽など被(レ)入たり。其値十万余貫に及べりと云。兵衛佐(ひやうゑのすけ)加様にもてなし給ければ、大名小名我も/\と引出物を奉。宗清が料の用意も皆此殿にぞ奉りける。去ば上り給けるには、馬も三百匹に余けり。命を生給へるだにも難(レ)有、剰徳付所知得給へりと披露有ければ、人の口様々也。或は家の疵を顧ず、一門を引分て、永く名望を失て、今に存命を全する事不(レ)可(レ)然と謗る者もあり。又池尼公、頼朝(よりとも)を宥生ずば、頼盛(よりもり)争か虎口を遁て鳳城に還らん、積善の家には必有(二)余慶(一)と云、誠なるかなと、羨嘆る者もあり。其口何れも理也。
S4103 義経関東下向附親能搦(二)義広(一)並除目事(有朋下P538)
同六月一日、源九郎義経、不(レ)申(二)身之暇(一)、潜に関東へ下向す。梶原平三景時が為に讒言せられて、無
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(レ)誤事を謝んとぞ聞えし。其間に土肥次郎実平、西国(さいこく)より飛脚を立つ。九国の輩大略平家に同意之間、官兵不(レ)得(レ)利之由言上したりけれ共、義経平家追討の事を抛て下向したりければ、人皆傾け申けり。
同三日前斎院次官親能、〈 前明経博士広季子頼朝(よりとも)之臣専一者也 〉双林寺にして前美濃守義広を搦捕間、両方疵を蒙者多し、木曾(きそ)義仲(よしなか)に同意して、去正月合戦之後、跡を晦してなかりけるに、今在所をあなぐられて、遂に被(二)搦捕(一)けり。此義広と云は、故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)が末子也。武を以ては夷賊を平げ、文を以は政務を糺すとこそ云に、親能は明経博士也。義広は源家の勇士也。今重代武勇の身と生れて、儒家の為に虜れけるこそ口惜けれと、人皆脣をかへして爪を弾く、実と覚えたり。
同六日、前大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)大納言(だいなごん)に還任す。蒲冠者範頼参川守に任じ、源広綱駿河守に任じ、源(みなもとの)義延武蔵守に任じけり。此等は内々頼朝(よりともの)朝臣(あそん)吹挙申けるとぞ聞えし。
S4104 三日平氏付維盛旧室歎(二)夫別(一)並平氏歎事
同八日、去晦日、平氏備前国に責来る。甲斐源氏に板垣患者兼信、〈 信義次男 〉美濃国を出(有朋下P539)て、備後国に行向て合戦しけり。平氏の船十六艘を討取間、両方命を失ふ者其数を不(レ)知、依(レ)之(これによつて)兼信、美作(みまさかの)国司に任ずべき由言上しけり。
伊賀国山田郡住人(ぢゆうにん)、平田四郎貞継法師と云者あり。是は平家の侍肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が弟也。平家西国(さいこく)に落下て、安堵し給はずと聞えければ、日比(ひごろ)の重恩を忘れず、多年の好みを思て、当家に志ある輩、
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伊賀伊勢両国の勇士催し、平田城に衆会して謀叛を起し、近江国を打従へて、都へ責入べしと聞えければ、佐々木源三秀義驚騒ぎけり。我身は老体なれば、東国西国(さいこく)の軍には、子息共を指遣不(二)下向(一)、近き程に敵の籠たるを聞ながら、非(レ)可(二)黙止(一)とて、国中(こくぢゆう)の兵を催集て、伊賀国へ発向ければ、甲賀上下郡の輩、馳集て相従けり。秀義は法勝寺(ほつしようじ)領大原(おほはらの)庄に入、平家は伊賀壬生野平田にあり、行程三里には不(レ)過けり。源平互に、勝に乗べきか、敵の寄るを待べき歟と評定しけり。平家の方に伊賀国住人(ぢゆうにん)壬生野新源次能盛と云ふ者の計ひ申けるは、当国は分限せばし、大勢乱入なば国の煩人歎也、近江国へ打出て、鈴鹿山を後に当て軍せんに、敵弱らば蒐てんず、敵健ならば山に引籠、などか一戦せざるべきと云ければ、然べしとて、源次能盛、貞継法師、三百(さんびやく)余騎(よき)の兵を引率して、柘殖郷、与野、道芝打分て、近江国甲賀郡、上野村、■窪(ふしくぼ)、篠鼻田、堵野に陣を取て、北に向て引へたり。(有朋下P540)佐々木は、大原(おほはらの)庄油日明神の列、下野に南へむけて陣を取。源平小河を隔て扣へたり。両陣七八段には過ざりけり。互に名対面して、散々(さんざん)に射殺ぬる者もあり、手負者も多し。平家は思切たりければ、命も惜ず戦ふ。源氏の軍緩なりければ、源三秀義一陣に進んで、平氏は宿運既(すで)に尽て西海に落給(たま)ひぬ、残党争源家を傾くべき、蒐よ若党、組や者共と下知しける処に、壬生野の新源次能盛、十三束三伏を、よ引竪めて放つ矢に、透間を射させて馬より落。秀義が郎等、敵をもらさじと目に懸て、暫竪めて放つ矢に、能盛馬より下へ射落さる。敵に頸を取れじと、乗替の童馬より飛下、主の頸を掻落して、
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壬生野の館に馳帰る。源氏郎等共(らうどうども)も、今日の大将軍源三秀義を誅して、五百(ごひやく)余騎(よき)轡を並て、河をさと渡して、揉に揉てぞ蒐たりける。西国(さいこく)の住人(ぢゆうにん)等散々(さんざん)に蒐立られて、自先立者は遁けれ共、後陣は多討れにけり。今は返合するに及ずとて鈴鹿山に引籠。夫よりちり/゛\にこそ成にけれ。平家重代之家人也、相伝恩顧の好難(レ)忘して、思立ける志は哀なれ共、大気なしとぞ覚えたる。三日平氏と笑けるは此事也。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)平氏軍兵等舟に乗り、摂津国(つのくに)福原の故郷に襲来る由、梶原平三景時、備前国より飛脚を以て申上たりければ、都のさわぎ不(レ)斜(なのめならず)。
権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)入道(にふだう)の北方は、自の言伝も絶果、風の便の音信(おとづれ)をも聞給はで(有朋下P541)程ふれば、覚束(おぼつか)なくぞ思召(おぼしめし)ける。月に一度などは必文をも待見給へ共、春を過夏も闌ぬ。いかにと成給ぬるやらんと思召(おぼしめし)けるに、三位中将(さんみのちゆうじやう)は屋島には御座(おはしま)さずと云人ありと聞給(たまひ)て、浅猿(あさまし)さの余りに、人を屋島へ奉たりけれ共、それも急返り上らず、早秋にも成にければ、いとゞ為方なくぞおぼされける。七月七日御使返り上たり。如何に御返事(おんへんじ)はと尋給へば、御使涙を流して、去し三月十五日に屋島を出させ給(たまひ)て、高野へ参給たりけるが、時頼入道の庵室にて御髪おろし、其より熊野へ伝給つゝ、三山拝せ給(たまひ)て後、那智の沖にて御身を抛させ給ければ、重景も石童丸も出家し侍りけるが、後世迄の御伴とて同水に入ぬと、熊野迄御伴申たりける舎人武里、たしかに語り申侍りしが、是を最後の御文言伝申侍るとて進せたれば、北方
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取上披き給ふにも及ず、さればこそ怪かりつる者をとばかり宣(のたま)ひて倒れ臥、喚叫給事理にも過給へり。若君姫君も声々に悶焦れ給へり。消も入給ぬと見えければ、若君の乳母(めのと)の女房泣々(なくなく)慰め申けるは、今更驚思召(おぼしめす)べきに非ず、是皆兼て思召(おぼしめし)儲し御事也、本三位中将殿(ほんざんみのちゆうじやうどの)の様に、生ながら取れて御恥をさらし、又弓矢のさきにかゝり御命を失ひ給はば、同御別と申ながら、いかばかりかは悲侍べきに、高野にて御髪おろし御戒持て、熊野へ参御座(おはしまし)て、故小松殿(こまつどの)の御様(おんさま)に、後世の事を厭しく申させ(有朋下P542)給つつ、臨終正念にて沈入せ給(たま)ひけり。願てもあらまほしき御事なれば、御心安(おんこころやすく)こそ思召(おぼしめす)べけれ、痛敷御歎候まじ、今は如何なる山の中岩の迫にても、少き人々を生立、御形見にも御覧ぜんとこそ思召(おぼしめ)さめ、無人の御為に、心を尽し身を苦しめさせ給(たまひ)ても何の詮かは侍べき、泣歎き御座(おはしま)す共、返来り給ふべきに非ず、都を落て道狭き御身となり御座(おはしまし)し上は、賢くも御計ひ候けりとこそ思召(おぼしめし)候はめなど申ければ、女房涙の隙より、御文を披見給ふに、
  古郷にいかに松風恨むらん沈む我身の行へしらずば K218 
と読給(たまひ)ては、其文を顔にあて胸に当て、忍兼給へる有様(ありさま)なり。様をも窄し身をも投給べきまでに見給ぞ無慙なる。三位中将(さんみのちゆうじやう)高野に上り出家し、那智の澳に沈ぬと聞えければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)宣(のたまひ)けるは、あゝ賢かりし人の子にて、賢計し給けり、但隔なく打向来りせば、命をも宥申てまし、小松内府の事疎ならず、池尼御前の御使として、頼朝(よりとも)を流罪に申宥られしは、偏(ひとへ)に彼人の芳恩たりき、争か其
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恩を忘べきなれば、其子息達疎に思はず、殊入道出家し給けん上は子細にや及べき、高野に籠て心静に後世をば祈給はで、糸惜糸惜とぞ宣(のたま)ひける。
平家は屋島に返り給(たまひ)て後、又東国より討手二十万(にじふまん)余騎(よき)、既(すで)に都に著て西国(さいこく)(有朋下P543)へ責下共聞ゆ。九国の輩尾形三郎を始として、臼杵、戸槻、松浦党等、二千(にせん)余艘(よさう)にて四国へ渡るべし共聞。此を聞彼を聞にも、心を迷し肝を砕く。一門の人々は一谷(いちのたに)にて多く討れ給ぬ、憑給へる侍共も又残少く討れにき、今は力尽果て、只阿波民部大夫成良が、四国の輩を語たるばかりを深憑給へるぞ危き。そも東西より責るにはおだしからん事有まじと、兼ておぼすぞ悲き。女院二位殿(にゐどの)を始奉て、女房達(にようばうたち)さしつどひつゝ、涙にのみぞ咽給ふ。
七月二十五日には、平家去年の朝までは都に在し者を、泡立しく去年の今日、花の栖を迷出て、草の枕に仮寝して、明ぬれば磯打波に袖をぬらし、晩ては藻塩の煙に肝を焦す、つながぬ月日と云ながら、角て程なく廻来にけりと思召(おぼしめす)にも、最都の恋さに、各袂(たもと)を絞けり。
S4105 新帝御即位付義経蒙(二)使宣(一)並伊勢滝野軍事
同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)には、新帝太政官庁にて御即位あり。大極殿(だいこくでん)いまだ造れねば、是にして被(レ)行。治暦四年七月に、後三条院(ごさんでうのゐん)の御即位の例とぞ聞えし。神武天皇(じんむてんわう)より以来八十二代、神璽宝剣なくして御即位例、今度始とぞ申す。
八月六日、九郎義経左衛門尉(さゑもんのじよう)に成て、即使の(有朋下P544)宣を蒙て、九郎判官と申けり。是は一谷(いちのたに)合戦勧賞とぞ
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聞し。同(おなじき)十一日九郎判官義経は、和泉守平信兼が、伊勢国(いせのくに)滝野と云所に城郭(じやうくわく)を構て、西海の平家に同意すと聞て、軍兵を指遣して是を責。信兼に相従郎等百余人(よにん)城内に籠て、皆甲冑を脱棄て大肩脱に成、楯の面に進出て散々(さんざん)に射ければ、義経が郎等多被(二)討捕(一)けり。矢種尽にければ城に火を放ち、信兼已下自害して、炎の中に焼死けり。誠に由々敷ぞ見えし。負(二)■苡(よくい)之讒(一)、遂に亡けるこそ無慙なれ。〔又九月十八日(じふはちにち)に、九郎判官義経叙(二)従五位下(一)、検非違使(けんびゐし)如(レ)元。〕
S4106 屋島八月十五夜附範頼西海道下向事
同(おなじき)十五日、屋島には秋も既(すで)に半に成にけりと哀也。何しか稲葉の露も置増つゝ、荻吹風も身に入に、蜑人の燃藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、哀も催す便也。さらぬだに秋の空は物憂に、宿定らぬ旅なれば、何事に付ても心を傷しめずと云事なし。此春より後は、越前三位の北方の様に、波の底に身を沈むるまでこそなけれ共、女房達(にようばうたち)の明ても暮ても臥沈み泣給も糸惜。顧(二)故郷於万里之雲外(一)、忍(二)旧儀於九重月前(一)、今夜は名を得たる月なれば、人々隈なき空を詠けるに、左馬頭(さまのかみ)行盛かくぞ読給(たま)ひける。(有朋下P545)
  君すめばこれも雲井の月なれど猶恋しきは都なりけり K219 
と、是を聞ける人々、皆涙を流しけり。
九月二日、参川守範頼、平氏追討の為に西海道に下向す。相従輩には、足利蔵人義兼、武田兵衛有義、板垣冠者兼信、斉院次官親義、佐々木三郎盛綱、北条四郎時政、土肥次郎実平父子、千葉介経胤、其孫境平次経秀、三浦介義澄、子息平六能村、土屋三郎宗遠、渋谷庄司重国、長野三郎重清、稲毛
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三郎重成、弟に榛谷四郎重朝、葛西三郎重清、宇都宮四郎武者所茂家、子息太郎朝重、小山小四郎朝政、同七郎朝光、中沼五郎宗正、比企藤内朝宗、同藤四郎能員、大多和次郎義成、安西三郎秋益、同小次郎(こじらう)秋景、公藤一郎祐経、同三郎秋茂、宇佐美三郎祐能、天野藤内遠景、大野太郎実秀、小栗十郎重成、伊佐小次郎(こじらう)友政、浅沼四郎弘綱、安田三郎能貞、大河戸太郎弘行、同三郎弘政、中条藤次家長、一法房昌寛、土佐房昌春、小野寺禅師太郎通綱等を始として、其(その)勢(せい)十万余騎(よき)、軍船千余艘(よさう)にて室泊に著。去共十二月廿日比(ころ)迄は、室高砂に逗留して、遊君に遊宴して、国は正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)を費し、所には人民百姓は煩はしけれ、上下是を不(二)甘心(一)、大名も小名も、急四国に渡て敵を責られよかしと思けれ共、大将軍の下知による事なれば力及ず。(有朋下P546)
S4107  盛綱渡(二)藤戸(一)児島合戦附海佐介渡(レ)海事
同(おなじき)十八日(じふはちにち)に、九郎判官義経叙(二)従五位下(一)、検非違使(けんびゐし)如(レ)元。平家讃岐屋島に乍(レ)有、山陽道を打靡し、左馬頭(さまのかみ)行盛を大将軍として、飛騨守景家(かげいへ)以下侍を相具して、二千(にせん)余艘(よさう)にて備前国児島著。参川守範頼も、室泊に有けるが、舟より上、同国西河尻、藤戸渡に押寄て陣取。源平海を隔て引へたり、海上四五町には過ざりけり。
同廿五日に、平家海を隔て、扇をあげて源氏招。源氏是見、海を渡せと云こそ、船なくして叶べきならねば、是も以(レ)扇招合ふ。源平遥(はるか)に見渡て、其(その)日(ひ)も徒に晩にけり。爰(ここ)に佐々木三郎盛綱、夜入て案じけるは、渡べき便のあればこそ平家も招らめ、遠さは遠し淵瀬はしらず、如何はせんと思けるが、其
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辺を走廻て浦人を一人語ひ寄て、白鞘巻を取せて、や殿向の島へ渡す瀬は無か、教給へ、悦は猶も申さんと云へば、浦人答て云、瀬は二候、月頭には東が瀬になり候、是をば大根渡と申、月尻には西が瀬に成候、是をば藤戸の渡と申、当時は西こそ瀬にて候へ、東西の瀬の間は二町計、其瀬の広さは二段は侍らん、其内一所は深候と云ければ、佐々木重て、浅さ深さをば争知べきと問へば、浦人、浅き所は浪の音高く侍ると申す。さらば和殿を深く憑也、盛綱を具して瀬踏 (有朋下P547)して見せ給へと懇に語ひければ、彼男裸になり先に立て、佐々木を具して渡りけり。膝に立所もあり、腰に立所もあり、脇に立所もあり。深所と覚ゆるは鬢鬚をぬらす。誠に中二段計ぞ深かりける。向の島へは浅く候也と申て、夫より返る。佐々木陸に上て申けるは、や殿暗さは闇し、海の中にてはあり、明日先陣を懸ばやと思ふに、如何して只今(ただいま)のとほりをば知べき、然べくは和殿人にあやめられぬ程に、澪注を立て得させよとて、又直垂を一具たびたりければ、浦人斯る幸にあはずと悦て、小竹を切集て、水の面よりちと引入て、立て帰て角と申。佐々木悦で明るを遅しと待。平家是をば争か可(レ)知なれば、二十六日(にじふろくにち)の辰刻に、平家の陣より又扇を挙てぞ招たる。佐々木三郎盛綱は、黄生衣の直垂に、緋威(ひをどし)の冑、白星甲、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に、金覆輪の鞍置てぞ乗たりける。家子に和比八郎、小林三郎、郎等に黒田源太を始として、十五騎轡をならべて海へ颯と打入てぞ渡ける。参川守、馬にて海を渡す事やはある、佐々木制せよと宣(のたま)ひければ、土肥、梶原、千葉、畠山承、継て■(あやまり)し給な、返せ返せと声々に制しけれ共、兼て瀬踏
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して澪注を立たれば、耳にも聞入ず渡けり。頭の烏頭、草脇、胸帯尽に立所もあり、深所をば手綱をくれ游せて、浅くなれば物具(もののぐ)の水はしらかし、弓取直し向の岸へさと上る。鐙踏張弓杖にすがりて名乗(有朋下P548)挿絵(有朋下P549)挿絵(有朋下P550)けるは、今日海を渡し、敵陣にすゝむ大将軍をば誰とか見る、宇多天皇(てんわう)の王子、一品式部卿(しきぶきやう)敦実親王より九代の孫、近江国住人(ぢゆうにん)佐々木源三秀義が三男に、三郎盛綱也、平家の方に我と思はん者は、大将も侍も落合て、組や/\と喚て蒐入、散々(さんざん)に蒐。源氏の兵是を見て、海は浅かりけり。佐々木討すな渡せ者共とて、土肥、梶原、千葉、畠山、我先々々と打入打入、五千(ごせん)余騎(よき)向の岸へさと上る。平家は扇を以て度々に招けれ共、流石(さすが)海なれば争か渡すべきと、思ひ延て有けるに、角押寄せ時を造ければ、互に時を合せ、喚叫て戦けり。遠きをば弓にて射、近をば熊手にかけて取、或は射殺され切殺され、源平互に乱合て、隙をあらせず息を継ず、討もあり被(レ)討もあり、取もあり被(レ)取も有ければ、少時と思時の間に、両方八百(はつぴやく)余騎(よき)こそ亡にけれ。佐々木三郎の家子に、上総国住人(ぢゆうにん)和比八郎と、平家の侍に讃岐国住人(ぢゆうにん)加部源次と組合ひて馬より落、上になり下に成、弓手にころび妻手に転び、からかひけるが、源次は遥(はるか)に力勝にて、和比八郎を取つて押へて頸をかく。源平目をすましてぞ見たりける。八郎が従兄弟に小林三郎重隆と云者、加部源次に落合て引組で、是も上に成下に成転びけるが、海の中へぞころび入にける。郎等に黒田源次続きたりけれども、共に海へ入りたりければ、水の底へつゞくに及ばず、汀(みぎは)に立て、今(有朋下P551)やあがる/\と待けれ共、此者共はなほ水底にて、上になり下に成転びければ、波
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の荒き所へ弓のほこを指入れて、彼此を捜りければ、敵の源次弓の筈に取付たり。引上見れば敵也。主の小林も、源次が腰にいだき付て上りければ、敵の源次をば頸を切、主をば取上助てけり。平家是を見て、今は叶はじとや思ひけん、舟にとり乗漕退、矢鋒をそろへて、指詰指詰散々(さんざん)に射。源次は勝に乗、汀(みぎは)をまはりて是も散々(さんざん)に射ければ、平家は児島の城(じやう)を落て、讃岐屋島へ漕返れば、源氏は馬を游がせて、藤戸の陣へ帰にけり。佐々木四郎高綱が、宇治川(うぢがは)の先陣を渡したりをこそ高名と云ひたりしに、同三郎盛綱が、馬にて海を渡す事、漢家本朝ためし無きとぞ源平共に感じける。誠にゆゝしくぞ見えたりき。
 < 或説に云く、平家立籠備前国児島、之時、盛綱遥(はるか)に海上を渡し、先陣を蒐て群敵を責落畢。依(レ)之(これによつて)右大将家(うだいしやうけ)御自筆之御下文云、自(レ)古渡(レ)河雖(レ)有(二)先例(一)、未(レ)聞(二)遥渡(レ)海之例(一)と、即賜(二)彼島(一)之上、賜(二)伊予讃岐両国(一)畢。昔備前国に、海佐介と云けるこそ兵の聞え有ければ、西戎を鎮められんが為に、官兵を指副られたりけるに、官軍は船に乗けれ共、佐介は馬に乗ながら、先陣に進て海上を渡る。程なく賊徒を責随へて、又馬に乗ながら海の面を歩せて本国に帰りけるが、備前の内海にて、海鹿と云魚に馬を誤たれた(有朋下P552)りけれ共、馬少もひるまずして、佐介を陸地に著て、後に馬は死けり。其所に堂を立て孝養しけり、馬塚とて今に有。時の人云、馬は竜也、佐介直人に非ずとぞ申ける。佐介は波上を歩せて西戎を従へ、盛綱は水底を渡して平家を落す。>
S4108 義経拝賀御禊(ごけい)供奉附実平自(二)西海(一)飛脚事
十月十一日、義経拝賀を申。拝賀とは、使の宣を蒙て、従五位下に叙しける御悦申也。其夜内の昇殿をゆるさる。火長前を追べしや否やの事、内々大蔵卿(おほくらのきやう)泰経卿に尋申ければ、希代の例なれば、
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身には不(レ)存とて、梅小路中納言長方卿に被(レ)向ければ、殿上の六位の検非違使(けんびゐし)前を追へり。五位尉として相並て雲上に在、前を不(レ)追頗る光花無歟と被(レ)申ければ、前を追へり。総て其作法佐にたがふ事なかりけり。院(ゐんの)御所(ごしよ)にては御前へ被(レ)召けり。伴には布衣の郎等三人を召具す。左衛門尉(さゑもんのじよう)時成、右兵衛尉義門、左馬允有経也。此外武士三百(さんびやく)余人(よにん)路次にまはれり。用心の為にやと覚えたり。
同(おなじき)二十五日に大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)あり、源九郎大夫判官(たいふはうぐわん)義経本陣に供奉す。色白して長短し、容貌優美にして進退優なり。木曾などが有様(ありさま)には似ず、事外に京馴て見えしか共、平家の中にえりくづと云し人にだに(有朋下P553)も及ねば、心ある者は皆昔を忍て袖を絞る。豊御衣今年ぞせさせ給(たま)ひける。節下は後徳大寺(ごとくだいじ)内大臣(ないだいじん)実定公勤給ける。敷政門を入て著陣せられける形勢(ありさま)、最ゆゑ/\しくぞ見え給ける。去々年先帝の御禊(ごけい)には、節下は前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛勤給き。作法進退優美に見え給しに、今は公庭にて再見奉べきに非ずと申出て、涙流す者多かりけり。平家一族の人々、公事の庭には取々にはなやかにのみ見え給しに、今日は一人も見え給はず、移行世の有様(ありさま)、幾程を経ざれ共、替果にけりと哀なり。
土肥次郎実平が許より飛脚を立て、九郎判官へ申送けるは、前平中納言知盛卿、既(すで)に文字関に攻入、安芸周防已下皆平氏に従ふ、其(その)勢(せい)甚多し。兵船は百余艘(よさう)を以毎度に襲来。船中には大楯を組て其身を顕さず、陸地より馳向時は、矢間を開て馬の腹を射、乗人馬より落時は、歩兵の輩数百人(すひやくにん)、舟より下降て打取間、度々の合戦に官平皆敗畢。親類の者共も多く被(二)討捕(一)畢。実平老体の上重病を
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受、当時の如くは敵対に叶はず、急軍兵を可(レ)被(二)相副(一)と申上せたり。平家は児島の軍に打負て、屋島の館へ漕戻。屋島には、大臣殿を大将軍として、城郭(じやうくわく)を構て待懸たり。新中納言知盛は、長門国彦島と云所に城を構たり。是をば引島とも名付たり。源氏此事を聞て、備前、備中、備後、安芸、周防を馳越て、長門国にぞ著にける。当国の国府には(有朋下P554)三御所あり、浜御所、黒戸御所、上箭御所と云。参川守は此御所御所を見んとて、今夜は爰(ここ)に引へたり。蒼海漫々として、磯越す波旅の眠を驚し、夜の月明々として、水に移影鎧の袖を照しけり。同征馬の旅なれ共、殊に興ありてぞ覚えける。明なば引島の城(じやう)を責べしと議定有けるに、文字、赤間の案内知らでは叶はじとても豊後地へ渡、尾形三郎を先として責べしとて、先使を維能が許へ遣しけり。維能五百(ごひやく)余艘(よさう)の兵船をそろへて参川守を迎奉ければ、範頼是に乗て豊後の地へ渡にけり。去(さる)程(ほど)に十月の末にも成しかば、屋島には浦吹風も烈く、磯越浪も高ければ、船の行通も希なり。空掻陰打時雨つゝ、日数経儘には、都のみ思出て恋しかりければ、新中納言知盛、
  住馴し都の方はよそながら袖に波こす磯の松風 K220 
と口ずさみ給(たまひ)て、脆はたゞ涙なり。三河守範頼追討使として、既(すで)に発向すと聞えければ、いとゞ心を迷しあへり。
S4109 被(レ)行(二)大嘗会(だいじやうゑ)(一)付頼朝(よりとも)条々奏聞事
十一月十八日(じふはちにち)には、大嘗会(だいじやうゑ)被(二)遂行(一)けり。大極殿(だいこくでん)焼失しにければ、去々年には紫宸殿にし(有朋下P555)て被(レ)行たりける
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が、先帝西国(さいこく)へ落下らせ給たれば、今度不吉例去れんが為に、治暦嘉例に任て、太政官の庁にして被(レ)行けり。
去治承四年より以来、諸国七道の人民百姓、或平家為に被(二)追補(一)、或源氏為に被(二)却略(一)ければ、家烟捨て山林に交、妻子に別れて道路吟て、春東作企忘、秋西収営を棄てければ、国衙(こくが)も庄園も、正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)の所済なければ、如何にしてか加様の大礼(たいれい)も被(レ)行べきなれ共、さて又黙止べき事にあらざれば、如(レ)形被(二)遂行(一)けり。
平家は西海波漂ひて、死生いまだ定らず、東国北国は鎮たれ共、花落上下西国(さいこくの)人民、是非に迷て不(二)安堵(一)。依(レ)之(これによつて)兵衛佐(ひやうゑのすけ)より条々奏聞あり。其状云、
  源(みなもとの)頼朝(よりとも)謹奏聞条々事
一朝務以下除目等事
 右守(二)先規(一)、殊可(レ)被(レ)施(二)徳政(一)、但諸国受領等、尤可(レ)有(レ)計(二)御沙汰(ごさた)(一)候歟、東国北国両道之国々、追(二)討謀叛輩(一)之間、土民不(二)安堵(一)、於(二)于今(一)者、牢人如(レ)元可(レ)令(レ)帰(二)住旧里(一)候、然者(しかれば)来秋之時被(二)仰含(一)、国司被(レ)行(二)吏務(一)者可(レ)宜候。
一平家追討事
 右畿内近国、号(二)源氏平氏(一)、携(二)弓箭(一)之輩、并住人(ぢゆうにん)等、早任(二)義経之下知(一)可(二)引率(一)之由、(有朋下P556) 可(レ)被(二)仰下(一)
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候、海路雖(レ)不(レ)幾、殊急可(二)追討(一)之旨、可(レ)被(レ)仰(二)付義経(一)候也、於(二)勲功之賞(一)者、逐可(二)計申上(一)候。
一諸社事
 我朝者神国也、往古之神領不(レ)可(レ)有(二)相違(一)候、其外今度又始於(二)諸社神明(一)、可(レ)被(三)新 加(二)所領(一)候歟、就(レ)中(なかんづく)去比鹿島大明神(だいみやうじん)御上洛之由、風聞出来之後、賊徒追討神戮不(レ)空者、 敵兼又諸社若有(二)破壊顛倒之事(一)者、随(二)破損之分限(一)、可(レ)被(レ)召(二)付受領之功(一)候、其後可 (レ)被(二)載許(一)候。
一恒例神事
 守(二)式目(一)、無(二)懈怠(一)可(二)勤行(一)之由、可(レ)被(レ)尋(二)沙汰(一)候。
一仏寺事
 諸山御領、如(二)旧例(一)勤行、不(レ)可(二)退転(一)、如(二)近年(一)者、僧家皆存(二)武勇(一)、忘(二)仏法(ぶつぽふ)(一)之間、竪閉(二)修学之枢(一)、併失(二)行徳之誉(一)、尤可(レ)被(二)禁制(一)候、兼又於(二)濫行不信之僧(一)者、不 (レ)可(レ)用(二)公請(一)、至(二)僧家之武具(一)者、自今以後、為(二)頼朝(よりとも)之沙汰(一)任(レ)法奪取、可(レ)与(二)賜朝敵追討之官兵等(一)之由、所(二)思給(一)候也。以前条々言上如(レ)件。(有朋下P557)   
  元暦元年十一月日             従四位下(じゆしゐのげ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)
とぞ被(レ)申たる。大膳大夫成忠卿此旨を被(二)奏聞(一)。法皇叡覧有て、頼朝(よりとも)は賢人成けるにやとぞ仰せける。
S4110 義経院参(ゐんざん)西国(さいこく)発向附三社諸寺祈祷事
元暦二年正月十日、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)義経は、平家追討の為西国(さいこく)へ発向す。先院(ゐんの)御所(ごしよ)に参り、大蔵卿(おほくらのきやう)康経
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朝臣を以奏聞しけるは、平家は栄花身に極、宿報忽(たちまち)に尽て神明にも放たれ奉、君にも捨られ進て西国(さいこく)に漂ひ、此三箇年が間、多の国々を塞、正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)を押領し、人民百姓を悩乱す、是西戎の賊徒にあらずや、今度罷下なば、人をば不(レ)知、義経に於ては、彼輩を悉不(二)討捕(一)者、王城へは不(レ)可(二)帰上(一)、鬼界高麗新羅百済までも、命を限に可(レ)責之由を申、ゆゝしくぞ聞えし。院(ゐんの)御所(ごしよ)を出て西国(さいこく)へ下けるにも、国々の兵共(つはものども)に向て、後足をも踏、命をも惜と思はん人々は、是より返下給へ、打つれては中々源氏の名折也、義経は鎌倉殿(かまくらどの)の御代官なる上、忝勅宣(ちよくせん)を奉たれば、角は申也とぞ宣(のたまひ)ける。
同(おなじき)十三日九郎大夫判官(たいふはうぐわん)、淀を立て渡部へ向。相従輩には、佐渡守義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、(有朋下P558)畠山庄司次郎重忠、佐々木四郎高綱、平山武者季重、三浦十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、同四郎能胤、多々良五郎能春、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景能、比良佐古太郎為重、伊勢三郎義盛、庄太郎家永、同五郎弘方、椎名六郎胤平、横山太郎時兼、片岡八郎為春、鎌田藤次光政、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)等を始として、其(その)勢(せい)十万余騎(よき)也。
同(おなじき)十四日伊勢、石清水、賀茂三社へ奉幣使を被(レ)立、平家追討の御祈(おんいのり)之上、三種神器無(二)事故(一)可(二)返入給(一)之由、被(レ)載(二)宣命(一)けり。上卿は堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親卿(ただちかのきやう)也。又今日より神祇官(じんぎくわん)人并諸社司等、本宮本社にして追討の事可(二)祈申(一)之由、院より被(二)仰下(一)けり。又延暦(えんりやく)、園城寺(をんじやうじ)、東寺、仁和寺(にんわじ)にして、七仏薬師(しちぶつやくし)五壇法、大元延命熾盛光等の秘法数を尽し、調伏の法も被(レ)行けり。
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S4111 平家人々歎附梶原逆櫓事
屋島には、隙行駒の足早く、留らぬ月日明晩て、春は賤が軒端に匂ふ梅、庭の桜も散ぬれば、夏にもなりぬ。垣根つゞきの卯花、五月の空の郭公、啼かとすれば程もなく、秋の色に移て、稲葉に結ぶ露深く、野辺の虫の音よわりつゝ、冷じき比も過暮て、冬の景気(有朋下P559)ぞ冷き。麓の里に時雨して、尾上は雪も積けり。角て春を送春を迎て既(すで)に三年にもなりぬ。東国の兵の責来と聞えければ、越前三位の北方の様に、身を投るまでこそ無れ共、有空も覚えねば、女房達(にようばうたち)はさしつどひつゝ、唯泣より外の事ぞなき。
内大臣(ないだいじん)宣(のたまひ)けるは、都を出て既(すで)に三年になりぬ。浦伝島伝して、明し晩すは事の数ならず、入道の世を譲りて福原へ下給たりし其跡に、高倉宮(たかくらのみや)とり逃し奉たりし程心憂かりし事はなしと被(レ)仰ければ、新中納言は、都を出し日より、少も後足を可(レ)引とは思はず、東国北国の奴原も、随分に重恩をこそ蒙たりしか共、今は恩を忘契を変じて、悉に頼朝(よりとも)に随付ぬ、西国(さいこく)とても憑しからず、さこそはあらんずらんと思ひしかば、唯都にて弓矢太刀刀の続かん程は禦戦て、討死射死をもして、名を後の世に留、家々(いへいへ)に火をも懸て、塵灰とも成んと思しを、身一人の事ならねばとて、人なみ/\に都をあくがれ出て、終に遁まじき者故に、斯憂目を見るこそ口惜けれとて、大臣殿の方を拙気に見給(たまひ)て、涙ぐみ給(たま)ひけるぞ哀なる。
同(おなじき)十五日に、源氏は西国(さいこく)へ発向す。日比(ひごろ)渡部、神崎(かんざき)両所にて舟ぞろへしけるが、今日既(すで)に纜を解て、三河守範頼は神崎(かんざき)を出て、山陽道より長門国へ赴き、大夫判官(たいふはうぐわん)義経は、南海道より四国へ渡るべしとて、
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大物が浜にあり。平家は又屋島を以て城郭(じやうくわく)とし、彦島を以軍の陣とす。(有朋下P560)前中納言知盛卿、九国の兵を卒して門字関を固たり。大夫判官(たいふはうぐわん)は大物浦にて、大淀の江内忠俊を以て船揃して、軍の談議ありけるに、梶原平三景時申けるは、船に逆櫓と申物を立候て、軍の自在を得様にし候ばやと申けり。判官、逆櫓とは何と云事ぞと問給へば、梶原は、逆櫓とは船舳に艫へ向て櫓を立候。其故は、陸地の軍は、進退逸物の馬に乗て、心に任て懸るべき処をば蒐、可(レ)引折は引も安き事にて侍り。船軍は押早めつる後、押戻すはゆゝしき大事にて侍べし、敵つよらば舳の方の櫓を以て押戻し、敵よわらば元の如艫の櫓を以て押渡し侍らばやと申たりければ、判官、軍と云は、大将軍が後にて蒐よ責よと云ふだにも、引退は軍兵の習なり、況兼て逃支度したらんに、軍に勝なんやと宣へば、梶原、大将軍の謀の能と申は、身を全うして敵を亡す、前後をかへりみず、向ふ敵ばかりを打取んとて、鐘を知ぬをば、猪武者とてあぶなき事にて候、君はなほ若気にて、加様には仰せらるゝにこそと申。判官少色損じて、不(レ)知とよ、猪鹿は知ず、義経は只敵に打勝たるぞ心地はよき、軍と云は、家を出し日より敵に組て死なんとこそ存ずる事なれ、身を全せん、命を死なじと思はんには、本より軍場に出ぬには不(レ)如、敵に組で死するは武者の本也、命を惜みて逃は人ならず、去ば和殿が大将軍承たらん時は、逃儲して(有朋下P561)百挺千挺の逆櫓をも立給へ、義経が舟にはいま/\しければ、逆櫓と云事聞とも聞じと宣へば、あたり近兵共(つはものども)是を聞て、一度に咄と笑ふ。梶原、よしなき事申出してけりと赤面せり。判官は、抑景時が義経を
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向う様に猪に喩る条こそ希怪なれ、若党ども景時取て引落せと宣へば、伊勢三郎義盛、片岡八郎、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)等、判官の前に進み出で、既(すで)に取て引張るべき気色なり。景時是を見て、軍談議に兵共(つはものども)が所存をのぶるは常の習、能義には同じ悪きをば棄、如何にも身を全して、平家を亡すべき謀を申景時に、恥を与んと宣へば、返殿は鎌倉殿(かまくらどの)の御為には不忠の人や、但年比は主は一人、今日又主の出きける不思議さよとて、矢さしくはせて判宮に向。子息景季、景高、景茂等つゞきて進む。判官腹を立て喬刀を取て向処を、三浦別当能澄判官を懐止。畠山庄司次郎重忠梶原を抱て動さず。土肥次郎実平は源太を抱く。多々良五郎能春は平次を懐く。各申けるは、此条互に穏便ならず、友諍其詮なし、平家の漏聞んも嗚呼がましし、又鎌倉殿(かまくらどの)の被(二)聞召(一)(きこしめさるる)も其憚在べし、当座の興言くるしみ有べからずと申ければ、判官誠にと思てしづまれば、梶原も勝に乗に及ず、此意趣を結てぞ判官終に梶原には弥讒せられける。判官は、都を出時も申しし様に、少も命惜しと思はん人々は是より返上給へ、敵に組で死なんと思は(有朋下P562)ん人々は義経付と宣へば、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、渋谷庄司重国、子息右馬允重助、土肥次郎実平、子息弥太郎遠平、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、伊勢三郎義盛、渡部源五馬允眤、鎌田藤次光政、奥州(あうしうの)佐藤三郎兵衛継信、其弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)等は判官に付、梶原は逆櫓の事に恨を含、判官につき軍せん事面目なしと思ひければ、引分れて参川守範頼につき、長門国へ向ふ。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十二

P1038(有朋下P563)
資巻 第四十二
S4201 義経解(レ)纜四国渡附資盛清経頸可(レ)上(二)京都(一)由事
十六日(じふろくにち)午刻に、判巻既纜を解て船を出す。南風俄(にはか)に吹来て、兵船渚々に吹上て、七八十艘打破。其を繕とて今日は逗留。今や/\と待けれ共、風弥烈して、二日二夜ぞふきたりける。十七日(じふしちにち)の夜の寅時に、空かき陰急雨して、南の風は静て、北風烈く吹出したり。木折砂を揚。判官は、風既(すで)に直れり、急舟共出せと宣ふ。水手楫取等申けるは、是程の大風には争出し候べき、風少弱候てこそと申。判官大に嗔て、向たる風に出せといはばこそ僻事(ひがこと)ならめ、加様の順風は願処なり、日並もよく海上も静ならば、今日こそ源氏は渡らめとて、平家用心稠くして、浦々島々に大勢指向々々待ん所へ、僅(わづか)の勢が寄たらば、物の用にや可(レ)叶、斯る大風なれば、よも渡らじ、船も通はじなんど思て、打解あはけたらん所へ、するりと渡てこそ敵をば誅すれ、疾々此船共出せ、不(レ)出者ならば己等こそ朝敵なれ、射殺せ斬殺せと下知しければ、伊勢三郎、大の中指打くはせて射殺さんと(有朋下P564)馳廻ければ、水手楫取共如何はせん、是程の風に船出したる事いまだなし、船を出しぬる者ならば、一定水の底に沈まんず、不(レ)出箭に中て死なんず、死は何れも同事、さらば出して馳死にせよとて、寅卯間に判官の船を出す。兵船は数千艘有けれ共、如法夥(おびたた)しき大風なれば、船を出す者なかりけるに、只五艘を出す。一番判官
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船、二番畠山が船、三番土肥次郎船、四番和田小太郎船、五番佐々木四郎船也。五艘の船に馬のせ兵粮米積。夫に随下部歩走なんど乗ければ、一百(いつぴやく)余騎(よき)には過ず。此等は上下皆一人当千(いちにんたうぜん)の兵也。判官は、義経が船ばかりに篝を■(たく)べし、其を本船として各馳よ、自余(じよ)の舟に篝ともすべからず、敵の船の数を見せじ為也と下知して、渡辺島より船を出す。吹風木の枝を折、立波蓬莱を上。水手楫取吹倒されて、足を踏立るに不(レ)及けれ共、究竟の者共にて、舟を乗直し/\、帆柱を立て帆を引事不(レ)高、手打懸計也。風弥強当りければ、帆のすそを切て結分風を通す。纜三筋十丈ばかりに■(より)さげて、沈石綱あまた下して、脇梶面梶を以船をちやうと挟立て、傍風来れば風面に乗懸、眦になれば中に乗、隙なく湯を取らす。舳へ打波摧けて艫を洗、艫を済波いかにも難(レ)叶けれ共、究竟の梶取也、浪の手風の手を作て、大なる波をばついくゞり、小浪をば飛越飛越、馳よ者共漕や者とて、曳声を出して馳け(有朋下P565)れば、押て三日に漕所を、只三時に阿波国はちまあまこの浦にぞ馳著たる。五艘の船一艘も誤なく、皆一所に漕並たり。汀(みぎは)より五六町計上て岡の上に、赤旗余多(あまた)立並て敵籠れりと見ゆ。判官宣(のたまひ)けるは、平家此浦を固たり、各物具(もののぐ)し給へ、船に揺風に吹れて立すくみたる馬共也。左右なく下して誤ちすな、沖より追下して、船に付て游せよ、馬の足とづかば、船より鞍を置べし、其間に鎧物具(もののぐ)取付て、船より馬には乗移れ、敵寄と見るならば、平家は汀(みぎは)に下立て、水より上じと射ずらん、浪の上にて相引して、脇壺内甲射さすな、射向の袖を末額にあてて、急汀(みぎは)へ馳寄よ、敵近付ばとて騒ぐ事なかれ、
P1040
今日の矢一は敵百人(ひやくにん)禦べし、透間をかずへて弓を引、あだ矢射なとぞ下知し給ふ。軍兵随(二)軍将之下知(一)、礒五六町より沖にて馬を追下し、船に引付引付游せたり。馬の足とゞきければ、鎧物具(もののぐ)取付て、船より馬にひたと乗、一百五十(いつぴやくごじふ)余騎(よき)の兵共(つはものども)、射向の袖を甲の末額にあて、轡を並て汀(みぎは)へさと馳上たり。判官先陣に進、此浦固たる大将軍は誰人ぞや、名乗名乗と攻けれ共答る者なし。此浦をば、阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成良が伯父、桜間外記大夫良連軍将として、三百(さんびやく)余騎(よき)にて固たりけれ共、何とか思けん不(二)名乗(一)ければ、判官は、此奴原は近国の歩兵にこそ有めれ、若者共責入て、一々に首切懸て軍将に奉れと下知しければ、河越小太郎(有朋下P566)茂房、堀弥太郎親弘、熊井太郎忠元、江田源三弘基、源八広綱、五騎(ごき)轡を並鞭を打て蒐入けり。城中(じやうちゆう)よりは簇をそろへて散々(さんざん)に射る。源氏は一百(いつぴやく)余騎(よき)後陣に支へて、責よ蒐よ隙なあらせそととゞめきければ、五騎(ごき)の者共郎等乗替相具して、三十(さんじふ)余騎(よき)■(しころ)を傾て攻入ければ、三百(さんびやく)余騎(よき)も不(レ)堪して、さと開て通しけり。取て返て竪さま横さま、おもの射に射ければ、木葉を風の吹が如く、四方へさと逃走けるを駈立つゝ、強る者をば頸を切、弱者をば虜にす。大将軍外記大夫も禦兼、鞭を揚て逃けれ共、不(二)延遣(一)して虜れけり。首共四五十切掛て奉(二)軍神(一)、悦の時二度造、西国(さいこく)の軍の手合也、物能物能とぞ勇にける。備前児島城は、去し冬土肥次郎実平、塩干に渡瀬を求て、暗夜五十(ごじふ)余騎(よき)を卒して、責寄て関を発ければ、平氏の軍兵不(レ)計ける程なれば、防戦に不(レ)及して、船に諍乗て逃けるを、或虜或頸を切ければ、其後は備中備前之輩、悉官軍に相従ひける処に、此春又平氏
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二百(にひやく)余艘(よさう)の兵船を調へて、夜半に彼城へ寄せて合戦しける程に、実平軍敗て、息男遠平疵を蒙り、家人多く被(二)討捕(一)けり。船軍の事西国(さいこく)の賊徒は自在を得たり、東国の官兵は寸歩を失て、実平毎度に被(レ)敗けり。懸りし程に豊後国住人(ぢゆうにん)等、舟を艤て官兵を迎ければ、参川守範頼已下彼国へ入にけり。又三位中将(さんみのちゆうじやう)資盛入道、并左中将清経朝臣を、当(有朋下P567)国輩討捕て、首を範頼の許へ送けり。清経朝臣は不(レ)劣心不(レ)顧(レ)死、敵を討自害し給たりけるを、資盛入道の頸と取具して、京都へ可(レ)献由其沙汰有けり。平家は源氏の討手下ると聞えしより、讃岐国屋島の浦に城郭(じやうくわく)を構へ、軍兵を儲て相待けり。前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛、前平中納言教盛、前権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛、前修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、前(さきの)右兵衛督(うひやうゑのかみ)清宗、小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、五十(ごじふ)余騎(よき)とぞ聞えし。浦々島々指塞てぞ守護しける。
S4202 勝浦合戦附勝磨並親家屋島尋承事
判官虜の者に問給けるは、平家軍兵は、屋島よりこなたには何の所にか在と宣ふ。此より三十(さんじふ)余町(よちやう)罷候て、阿波民部大夫(たいふ)の弟に、桜間介良遠と申す者こそ五十(ごじふ)余騎(よき)計にて陣を取りて候へと申。さては小勢や打や/\とて押寄、時を造る。城内にも時も合たり。良遠は大堀を掘て水を湛、岸に■(ひし)植櫓掻て待受たり。輙く難(二)責落(一)かりけるを、源氏の兵其辺の小家を壊堀に入浸して、■(しころ)を傾一味同心に責入ければ、城内乱て我先にと落行けり。良遠を延さんとて、家子郎等三十(さんじふ)余騎(よき)残留つて禦矢射けるが、一々搦捕れて、忽(たちまち)に首被(レ)刎、被(レ)祭(二)軍神(一)。両陣を追落して後、又浦人を召て、此所をば何と云ぞと問。勝浦(有朋下P568)と申と答。軍に勝たればとて、色代して■飾(けうしよく)を申にこそ、加様の奴原が不思議の事をばし
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出すぞ、返忠せさすな、義盛は無き歟、しや頸斬れと宣へば、伊勢三郎太刀をぬき進出たり。浦人大に恐戦て、其儀は候はず、此浦は御室の御領五箇庄にて、文字には勝浦と書て候なるを、下揩ヘ申安きに付てかつらと呼侍き。上揩フ御前にて侍れば、文字の儘に申上候と云。判官是を聞て、さては神妙(しんべう)神妙(しんべう)、去ためしあり。昔天武天皇(てんわう)の未東宮(とうぐう)位に御座(おはしまし)ける時、大友皇子に、〈 天智子 〉襲て、近江国湖水に船を浮て東の浦に著給。葦の下葉を漕分て船を岸に寄給ふ。田作る男一人あり。春宮(とうぐう)問曰、汝何者(なにもの)ぞ、此をば何所と云ぞと。田夫答て申さく、是をば勝浦と云、我身をば月下勝磨と申也とて、賤が藁屋に請入奉り、様々貢御進め進せたりければ、春宮(とうぐう)大に御悦ありて、朕勝浦に著て勝磨にあへり、軍に勝て帝位につかん事疑なし、御即位の後に御願寺(ごぐわんじ)を可(レ)被(レ)立と御誓ありけるに、果して帝位に即て、彼所に寺を被(レ)立けり。月上寺とて今にありと伝へ聞。義経軍の門出に、はちまあまこの浦にて軍に勝て、又勝浦に著て敵を亡す、末憑しとぞ悦ける。
判官又浦の人に問給ふ。此勝浦より屋島へは、行程いくら程ぞと。二日路候と申。さらば敵の聞ぬ先に打や/\とて、鞭障泥を合て打処に、大将軍と覚しくて、黒革威(くろかはをどし)の鎧に、■(くろ)(有朋下P569)馬に乗て一百(いつぴやく)余騎(よき)にて歩せ来る。笠符も不(レ)付旗も不(レ)指。判官宣(のたまひ)けるは、見来軍兵源平いづれ共不(二)見分(一)、敵の謀やらん、不(レ)可(レ)有(二)心許(一)、義盛罷向て子細を尋て将参と下知しければ、伊勢三郎仰承て、十五騎にて行向て、何とか云たりけん安々と具して参。判官汝は何者(なにもの)ぞ、源平何れ共不(レ)見と問給へば、是は阿波国
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住人(ぢゆうにん)臼井近藤六親家と申者にて侍が、近年源平の乱逆に不(二)安堵(一)、浪にも磯にも著ぬ風情也、何れにても日本(につぽん)の主と成給はん方を主君と憑奉らんと相待処に、平家都を落、源氏軍将の蒙(二)院宣(一)給ふと承る間、白旗を守て馳参ずと申す。判官宣(のたまひ)けるは、神妙(しんべう)也、源氏の大将軍鎌倉の兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の弟に、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)と云は我也、平家追討の蒙(二)院宣(一)西国(さいこく)に発向せり、親家を西国(さいこく)の案内者に憑、屋島の尋承せよ、但所存を知ん程は物具(もののぐ)をば不(レ)可(レ)免とて、甲冑をぬがせて召具しけり。やをれ親家、屋島には勢幾程とか聞と。よも千騎(せんぎ)には過候はじ。凡は五千(ごせん)余騎(よき)とこそ承しか共、臼杵、戸槻、松浦党、尾形三郎等が依(レ)背、平家彼輩を被(レ)誅とて、此間は軍兵等多所々へ被(二)分遣(一)。其外阿波讃岐の浦々島々に、五十騎(ごじつき)三十騎(さんじつき)百騎二百騎被(二)指遣(一)間に、勢は少と承と。偖屋島より此方に敵ありやと問へば、近藤六申けるは、今三十町計罷て勝宮と云社あり、彼に阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成能が子息、伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)成直、三千(さんぜん)余騎(よき)に(有朋下P570)て陣を取たりつるが、此間河野四郎通信を攻んとて、伊予国へ越たりと聞ゆ、余勢などは少々も候らんと云ければ、判官急々とて、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱、平山武者所季重、熊谷次郎直実、奥州(あうしうの)佐藤三郎兵衛継信、同弟四郎兵衛忠信、鎌田藤次光政等、一人当千(いちにんたうぜん)の者共を先として、打や/\とて勝社に押寄せて見れば、伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)が兵士に置たりける歩兵等少々在けれ共、散々(さんざん)に蹴散して、逃るはたま/\遁けり。向奴原一々に頸切懸て打程に、新八幡の宝前をば、判官下馬して再拝すれば、郎等も又如(レ)此。判官は勝浦の勝もかつと読、勝宮の勝もかつ
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とよむ、傍の軍に打勝て、今大菩薩(だいぼさつ)の御前に参、源氏の吉瑞顕然也、平家の滅亡無(レ)疑、八幡三所遠き守と守り幸給へとて、馬に打乗馳つ■(ひかへ)つ/\、讃岐屋島へ打程に、
S4203 金仙寺観音講附六条北政所(きたのまんどころ)使逢(二)義経(一)事
〔斯る処に〕中山と云所の道のはたより、二町計右に引入て竹の林あり、中に古き寺あり、栗守后の御願(ごぐわん)金仙寺と云伽藍なり。本尊は観音、所の名主百姓が集りて、月次の講営とて、大饗盛並盃居て、既(すで)に行はんとしけるが、長百姓は善と嘆、若者共は悪ときらふ。善(有朋下P571)悪しと讃毀程に、百余人(よにん)の講衆とゞめきけり。軍兵是を聞て、敵の籠たるぞと心得(こころえ)て、弓取直し片手矢はげて、時をどと造て押寄たれば、講衆は始て、汁御菜持運たる尼公女童、下取んとて集たる子孫童部(わらんべ)に至まで、取物も取敢(とりあへ)ず、蜘蛛子を散したるが様にぞ逃迷ける。幼少の子孫が尻随たるをも打捨、老耄の親祖父が杖に懸をも不(レ)助、我先我先と此彼に隠忍て是を見。軍兵縁の際まで打寄て、御堂の内に下居て、我物がほに講の座に著す。五種御菜に三升盛を、百二三十前計組調たり。座上に坏居、大桶に汁入、樽二に濁酒入て座中に舁居たり。仏前には花香供じ、仏供燈明備へたり。机上に巻物一巻あり、講式と覚ゆ。判官は座上に著す、兵共(つはものども)思々に列座せり。武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)座より起て、判官の前に五本立に取並て、戯呼今月の講は、随分尋常に営出して覚候、来頭は誰人ぞ、此定候ぞよと云。判官実に此講目出し、来頭は義経営侍るべしと宣へば、兵皆咲壺会也。飯酒共に行て、仏壇の中より老翁を尋出して、是は何講ぞと問へば、翁ふるひ/\、是は月並の観音講にて候が、只今(ただいま)は御景気共の恐しさにわなゝくとぞ云ける。講食てたゞ有べきに
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非ず、誰か可(二)式読(一)と云ければ、弁慶(べんけい)、黒皮威(くろかはをどし)の鎧に矢負太刀帯ながら、礼盤に昇て高声に、観音講式をたゝめかしてよむ。判官は式は観音講、貌は毘沙門講、穴貴おそ(有朋下P572)ろしと云ければ、兵共(つはものども)皆笑けり。さても勇士等西国(さいこく)の軍の門出に、勝浦勝社に著、今また講座に著す、事に於勇あり。昔八幡殿の奥州(あうしう)を被(レ)責けるにこそ剛臆の座をば被(レ)分けれ、今の軍兵一人も洩ず講座に著、平家を亡さん事子細なしとぞ■(ののし)りける。其より屋島へ打程に、中山路の道の末に、貲の直垂に立烏帽子(たてえぼし)、立文持て足ばやに行下種男あり、京家の者と見ゆ。判官馬を早めて追付問けるは、汝は何者(なにもの)ぞ、何所へ行人ぞと。此男判官とは夢にも不(レ)知、国人ぞと思て、是は京より屋島の方へ下者也と答。京よりは誰人の御許より、屋島の何れの御方へぞと問ば、いや只と云て最不(二)分明(一)。判官、はや殿是は阿波国の者にてあるが、屋島の大臣殿の依(二)御催(一)参る者ぞ、誠や九郎判官と云者が、源氏の大将にて下なるが、淀河尻にて舟汰へして、今日明日の程に屋島の内裏へ寄べしと聞ば、御辺(ごへん)は京より下給へば定めて見給ぬらん、勢幾ら程とか申など問て、昼の破子食せ、能々心を取て後、さても御辺(ごへん)は誰れ人の御使ぞと問。是は六条摂政殿(せつしやうどの)の北政所(きたのまんどころ)より、大臣の御方へ申させ給御文なりと申。御文には何事をか被(二)仰下(一)らんと問へば、下揩ヘ争か御文の中を奉(レ)知べき、御詞には源氏九郎大夫判官(たいふはうぐわん)、既(すで)に西国(さいこく)へとて都を立ぬ。浪風静りなば一定渡るべし、さしも鬼神の如くに畏恐し木曾も、九郎上ぬれば時日を廻さず亡し(有朋下P573)ぬる怖しき者に侍り、城をもよく構へ兵をも催集て、可(レ)有(二)御用心(一)とこそ申させ給つれば、御文も定其御心に
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こそ候らめ、誠に淀河尻には軍兵充満て雲霞の如し、六万余騎(よき)が二手に分て、参川守、九郎判官兄弟して、四国長門より指挟みて下るべしと披露しき。波風やみなば今日明日の程には軍は一定あるべし、急々屋島へ可(レ)有(二)御参(一)とて、抜々と判官に相連て行。さて御辺(ごへん)は始て下る人歟、先々も下給へる人歟と問ば、六条摂政殿(せつしやうどの)の北政所(きたのまんどころ)と大臣殿とは、御兄弟(ごきやうだい)の御中にてましませば、西国(さいこく)の御住居(おんすまひ)御心苦く思召(おぼしめし)、源氏上洛の後は、都の形勢(ありさま)人の披露、聞召に随て仰らるれば、常に下向する也と云。さては屋島城の有様(ありさま)はよく知給(たま)ひたるらん、誠や究竟の城(じやう)にて、敵も左右なく難(レ)寄所と聞は実か、哀さやうの城(じやう)にて高名をして、勲功に預ばやといへば、男が云けるは、是は敵に聞すべき事には非ず、御方へ参らるれば申、源氏が知でこそよき城とは申せ、事も無所也、あれに見ゆる松原は武例高松と申、彼松原の在家に火を懸て、塩干潟に付て山のそばに打そうて渡らば、鐙鞍つめの浸る程也、百騎も二百騎も塩花蹴立て押寄ば、あは大勢の寄はとて、平家は汀(みぎは)に儲置たる船に乗て沖へ押出さば、内裏を城にして戦は無念の所也と、細々と語けり。判官是を聞、実に無念の所や、可(レ)然八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御計也とて、(有朋下P574)都の方を拝つゝ、やをれ男め、我こそ九郎大夫判官(たいふはうぐわん)よ、其文進よとて奪取、海の中に抛入て、男をば中山の大木に縛上てぞ通ける。其(その)日(ひ)は阿波国坂東西打過ぎて、阿波と讃岐の境なる中山山口の南に陣を取。翌日は引田浦、入野、高松郷をも打過て、屋島城へ押寄けり。
S4204 屋島合戦付玉虫立(レ)扇与一射(レ)扇事
屋島には、伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)成直が伊予国へ越、河野四郎通信を攻けるが、通信をば討遁して、其伯父
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福良新三郎以下の輩、百六十人が頸を切つて、姓名注して進せたりけるを、内裏にて首実験かわゆしとて、大臣殿の御所にて実験あり。
大臣殿は、小博士に清基と云者を御使にて、能登殿へ被(レ)仰けるは、源九郎義経、既(すで)に阿波国あまこの浦に著たりと聞ゆ、定て終夜(よもすがら)中山をば越候らん、御用意あるべしと被(レ)申。去(さる)程(ほど)に夜も明ぬ。屋島より塩干潟一隔、武例高松と云所に焼亡あり。平家の人々、あれや焼亡焼亡と云ければ、成良申けるは、今の焼亡誤にあらじ、源氏所々に火を懸て焼払(やきはらふ)と覚えたり、敵は六万余騎(よき)の大勢と聞、御方は折節(をりふし)無勢也、急御船に召、敵の勢に随て、船を指寄指寄御軍あるべし、(有朋下P575)侍共は汀(みぎは)に船を用意して、内裏を守護して戦べしと計申ければ、可(レ)然とて、先帝を奉(レ)始、女院二位殿(にゐどの)以下女房達(にようばうたち)、公卿殿上人(てんじやうびと)、屋島惣門の渚(なぎさ)より御船にめさる。去年一谷(いちのたに)にて被(二)討漏(一)たる人々也。
前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛、前平中納言教盛、前権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、前(さきの)右衛門督(うゑもんのかみ)清宗也。小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、侍共は城中(じやうちゆう)に籠れり。大臣殿父子は一船に乗給たりけるが、右衛門督(うゑもんのかみ)も鎧著て打立んとし給けるを、大臣殿大に制して、手を引いて例の女房達(にようばうたち)の中へ座しけるこそいつまでと無慙なれ。
同廿日卯時に、源氏五十(ごじふ)余騎(よき)にて、屋島の館の後より責寄て鬨を発す。平家も声を合て戦。判官は紺地の錦の直垂に、紫坐滋鎧に、鍬模打たる白星甲に、滋紅幌懸て、二十四指たる小中黒
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征矢に、金作の太刀を帯、滋籐の弓真中取、黒馬の太逞に白覆輪の鞍を置、先陣に進で、馬に白沫かませ軍の下知しけり。武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)有国、城の木戸の櫓にて大音声を揚て、今日の大将軍は誰人ぞと問。伊勢三郎義盛歩出して、穴事も疎や、我君は是清和(せいわの)帝(みかど)の九代後胤、八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)に四代の孫、鎌倉右兵衛権佐殿(うひやうゑのごんのすけどのの)御弟、九郎大夫判官殿(たいふはうぐわんどの)ぞかしと云。有国是を聞て大に嘲、故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が妾、九条院雑司常葉が腹の子と名乗て、京都に安堵し難かりしかば、金商人が従者して、蓑笠笈背負つゝ、陸奥へ下し者(有朋下P576)の事にやといへば、伊勢三郎腹を立て、角申は北国砥波山の軍に負て山に逃入、辛命生て、乞食して這々京へ上ける者也。掛忝(かたじけな)く舌の和なる儘に角な申しそ、さらぬだに冥加は尽ぬる者ぞ、甲斐なき命も惜ければ、助させ給へとこそ申さんずらめと云。有国は我君の御恩にて、若より衣食に不(レ)乏、何とて可(二)乞食(一)、東国の者共は、党も高家も跋跪こそ有しか、金商人と云をだに舌の和なる儘と云、況や年来の重恩を忘、十善帝王に向進て悪口吐舌は如何有べき、就(レ)中(なかんづく)汝が罵立耳はゆし、伊勢国(いせのくに)鈴鹿関にて朝夕山立して、年貢正税(しやうぜい)追落、在々所々に打入、殺賊強盗して妻子を養とこそ聞、其は有し事なれば諍所なしと云。金子十郎家忠進出て申けるは、雑言無益也、合戦の法は利口に依ず、勇心を先とす、一谷(いちのたに)の戦に、武蔵相模の兵の勢は見給けん、それよりは只打出て組や/\と云処に、家忠が弟に金子与一引儲て、有国が頸骨を志て射たりけるに、有国甲を合立たりければ、胸板(むないた)にしたゝかに中る。矢風負て後は言戦は止にけり。東国之輩九郎判官を先
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として、土屋小次郎(こじらう)義清、後藤兵衛尉実基、同息男基清、小河小次郎(こじらう)資能、諸身兵衛能行、椎名次郎胤平等、我も/\と諍蒐。平家方より越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、矢野右馬允家村、同七郎高村已下の輩、櫓より下合て防戦けれ(有朋下P577)ば、時を移し日を重けり。能登守教経は、打物取ても鬼神の如し、弓矢を取ても精兵の手聞也ければ、源氏の兵多此人にぞ討れける。判官下知しけるは、平家は大勢也、御方の勢はいまだ続ず、敵内裏に引籠て、出合出合戦はんには優々敷大事、其上兵船海上に数を不(レ)知、屋島の在家を焼払(やきはらひ)て、一方に付て責べしと云ければ、条里を立て造並たる在家、一千五百(いつせんごひやく)余家(よか)ありけるに、軍兵家々(いへいへ)に火を放。折節(をりふし)西風烈く吹、猛火内裏に覆、一時が間に焼亡ぬ。余煙海上に浮て、雲の波煙波と紛けり。城内の軍兵は儲舟に諍乗。船の中の男女は、遥(はるか)に是を見給けり。遂に安堵すまじき旅の宿、是も哀を催す。軍陣忽(たちまち)に陸の辺に乱て、兵船頻(しきり)に波の上に騒。平家は兼て海上に舟を浮べ、舳屋形(へやがた)に垣楯掻たりければ、彼に乗移て、或一艘或二艘、漕寄漕寄散々(さんざん)に射。源氏の方より判官を先として、畠山庄司次郎重忠、熊谷次郎直実、平山武者所季重、土肥次郎実平、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱と名乗て、一人当千(いちにんたうぜん)の兵也。東国にも誰かは肩を並ぶべきなれ共、我と思はん人々は、推並て組めや/\と■(ののしり)懸て、追物射にいる。源平何れも勝負なし。源氏七騎兵は、馬足を休め身の息をも継んとて、渚(なぎさ)に寄居たる船の陰に休居たり。平家も船を奥に漕除て、暫猶予する処に、勝浦にて軍しける輩、屋島浦の煙を見て、軍既(すで)に始れり、(有朋下P578)判官殿(はうぐわんどの)は無勢
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におはしつるぞ、急々とて追継追継に馳加る。此外武者七騎出来れり。判官何者(なにもの)ぞと問給へば、故八幡殿御乳母子(おんめのとご)に、雲上後藤内範明が三代の孫、藤次兵衛尉範忠也、年来は、平家世を取て天下を執行せしかば山林に隠居て、此二十余年明し暮し侍りき。今兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)院宣を承給(たまひ)て、平家誅戮と披露之間、余嬉さに馳参ずと申。判官昔の好を思出て、最哀に思けり。即荒手の兵を指向て、入替入替戦けり。源平互に甲乙なし。両方引退き、又強健処に、沖より荘たる船一艘、渚(なぎさ)に向て漕寄。二月廿日の事なるに、柳の五重(ごぢゆう)に紅の袴著て、袖笠かづける女房あり。皆紅の扇に日出たるを枕に挟て、船の舳頭に立て、是を射よとて源氏の方をぞ招たる。此女房と云は、建礼門院(けんれいもんゐん)の后立の御時、千人(せんにん)の中より撰出せる雑司に、玉虫前共云又は舞前共申。今年十九にぞ成ける。雲の鬢霞の眉、花のかほばせ雪の膚、絵に書とも筆も及がたし。折節(をりふし)夕日に耀て、いとゞ色こそ増りけれ。懸りければ、西国(さいこく)までも被(二)召具(一)たりけるを、被(レ)出て此扇を立たり。此扇と云は、故高倉院(たかくらのゐん)厳島へ御幸の時、三十本切立てて明神に進奉あり。皆紅に日出したる扇也。平家都を落給し時厳島へ参社あり、神主佐伯景広此扇を取出して、是は一人の御施入、明神の御秘蔵也、且は故院の御情(おんなさけ)、帝業の御守たるべし、されば此扇を持せ給(有朋下P579)たらば、敵の矢も還て其身にあたり候べし、と祝言して進せたりけるを、此を源氏射弛したらば当家軍に勝べし、射負せたらば源氏が得(レ)利なるべしとて、軍の占形にぞ被(レ)立たる。角して女房は入にけり。源氏は遥(はるか)に是を見て、当座の景気の面白さに、目を驚し
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心を迷す者もあり、此扇誰射よと仰られんと肝膾を作り堅唾を飲る者もあり。判官畠山を召。重忠は木蘭地直垂に、■縄目(ふしなはめ)の鎧著て、大中黒の矢負、所籐の弓の真中取、■(くろ)の馬の太逞に金覆輪の鞍置、判官の弓手の脇に進出て畏つて候。義経は女にめづる者と平家に云なるが、角構へたらば、定て進み出て興に入ん処を、よき射手を用意して、真中さし当て射落さんと、たばかり事と心得(こころえ)たり、あの扇被(レ)射なんやと宣へば、畠山畏つて、君の仰、家の面目と存ずる上は子細を申に及ず、但是はゆゆしき晴態也、重忠打物取ては鬼神と云共更に辞退申まじ、地体脚気の者なる上に、此間馬にふられて、気分をさし手あはらに覚え侍り、射損じては私の恥はさる事にて、源氏一族の御瑕瑾と存ず、他人に仰よと申。畠山角辞しける間諸人色を失へり。判官は偖誰か在べきと尋ね給へば、畠山、当時御方には、下野国住人(ぢゆうにん)那須太郎助宗が子に十郎兄弟こそ加様の小者は賢しく仕り候へ、彼等を召るべし、人は免し候はず共、強弓(つよゆみ)遠矢打者などの時は、可(レ)蒙(レ)仰と(有朋下P580)深申切たり。さらば十郎とて召れたり。褐の直垂に、洗革の鎧に片白の甲、二十四指たる白羽の矢に、笛籐の弓の塗籠たる真中取て、渚(なぎさ)を下にさしくつろげてぞ参たる。判官あの扇仕れと仰す。御諚の上は子細を申に及ね共、一谷(いちのたに)の巌石を落し時、馬弱して弓手の臂(ひぢ)を沙につかせて侍しが、灸治も未(レ)愈、小振して定の矢仕ぬ共不(レ)存、弟にて候与一冠者は、小兵にて侍れ共、懸鳥的などはづるゝは希也、定の矢仕ぬべしと存、可(レ)被(二)仰下(一)と弟に譲て引へたり。さらば与一とて召れたり。其(その)日(ひ)の装束は、紺村紺の直垂に緋威(ひをどし)の鎧、鷹角反甲居頸に著なし、
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二十四指たる中黒の箭負、滋籐の弓に赤銅造の太刀を帯、宿赫白馬の太逞に、州崎に千鳥の飛散たる貝鞍置て乗たりけるが、進出て、判官の前に、弓取直して畏れり。あの扇仕れ、晴り所作ぞ不覚すなと宣ふ。与一仰承、子細申さんとする処に、伊勢三郎義盛、後藤兵衛尉実基等、与一を判官の前に引居て、面々(めんめん)の故障に日既(すで)に暮なんとす。兄の十郎指申上は子細や有べき、疾々急給へ/\、海上暗く成なばゆゝしき御方の大事也、早々と云ければ、与一誠にと思ひ、甲をば脱童に持せ、揉烏帽子(えぼし)引立て、薄紅梅の鉢巻して、手綱掻繰、扇の方へぞ打向ける。生年十七歳、色白小鬚生、弓の取様馬の乗貌、優なる男にぞ見えたりける。波打際に打寄て、弓手の(有朋下P581)沖を見渡せば、主上を奉(レ)始、国母建礼門院(けんれいもんゐん)、北政所(きたのまんどころ)、方々の女房達(にようばうたち)、御船其数漕並、屋形(やかた)屋形(やかた)の前後には、御簾も几帳もさゝめけり。袴温巻の坐までも、楊梅桃李とかざられたり。塩風にさそふ虚焼は、東袖にぞ通ふらし。妻手の沖を見渡せば、平家の軍将屋島大臣を始奉、子息右衛門督(うゑもんのかみ)清宗、平中納言教盛、新中納言知盛、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛、左中将清経、新少将有盛、能登守教経、侍従忠房、侍には、越中次郎兵衛盛嗣、悪七兵衛景清、江比田五郎、民部大輔(みんぶのたいふ)等、皆甲冑を帯して、数百艘の兵船を漕並て是を見。水手梶取に至まで、今日を晴とぞ振舞たる。後の陸を顧れば、源氏の大将軍、大夫判官(たいふはうぐわん)を始て、畠山庄司次郎重忠、土肥次郎実平、平山武者所季重、佐原介能澄、子息平六能村、同(おなじく)十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、大田和四郎能範、佐々木四郎高綱、平左近太郎為重、伊勢三郎義盛、横山太郎時兼、城太郎
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家永等、源氏大勢にて轡を並て是を見る。定の当を知ざれば、源氏の兵各手をぞ握りける。されば沖も渚(なぎさ)も推なべて、何所も晴と思けり。そこしも遠浅也、鞍爪鎧の菱縫の板の浸るまで打入たれ共、沛艾の馬なれば、海の中にてはやりけり。手綱をゆりすゑ/\鎮れ共、寄る小波に物怖して、足もとゞめず狂けり。扇の方を急見れば、折節(をりふし)西風吹来て、船は艫舳も動つゝ、扇(有朋下P582)枕にもたまらねば、くるり/\と廻けり。何所を射べし共覚ず。与一運の極と悲くて、眼をふさぎ心を静て、帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、日本国中(につぽんごくぢゆう)大小神祇、別しては下野国日光宇都宮、氏御神那須大明神(だいみやうじん)、弓矢の冥加有べくは、扇を座席に定めて給へ、源氏の運も極、家の果報も尽べくは、矢を放ぬ前に、深く海中に沈め給へと祈念して、目を開て見たりければ、扇は座にぞ静れる。さすがに物の射にくきは、夏山の滋緑の木間より、僅(わづか)に見ゆる小鳥を、不(レ)殺射こそ大事なれ、挟みて立たる扇也、神力既(すで)に指副たり、手の下なりと思つゝ、十二束二つ伏の鏑矢を抜出し、爪やりつゝ、滋籐の弓握太なるに打食、能引暫固たり。源氏の方より今少打入給へ/\と云。七段計を阻たり。扇の紙には日を出したれば恐あり、蚊目の程をと志て兵と放。浦響くまでに鳴渡、蚊目より上一寸置て、ふつと射切たりければ、蚊目は船に留て、扇は空に上りつゝ、暫中にひらめきて、海へ颯とぞ入にける。折節(をりふし)夕日に耀て、波に漂ふ有様(ありさま)は、竜田山の秋の暮、河瀬の紅葉に似たりけり。鳴箭は抜て潮にあり、澪浮州と覚えたり。平家は舷を扣て、女房も男房も、あ射たり/\と感じけり。源氏は鞍の前輪箙を扣て、あ射たり/\と誉ければ、舟にも陸
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にも、どよみにてぞ在ける。紅の扇の水に漂ふ面白さに、玉虫は、(有朋下P583)
  時ならぬ花や紅葉をみつる哉芳野初瀬の麓ならねど K221 
平家侍に、伊賀平内左衛門尉(へいないざゑもんのじよう)が弟に、十郎兵衛尉家員と云者あり。余りの面白さにや、不(二)感堪(一)して、黒糸威(くろいとをどし)の冑に甲をば著ず、引立烏帽子(ひきたてえぼし)に長刀を以、扇の散たる所にて水車を廻し、一時舞てぞ立たりける。源氏是を見て種々(しゆじゆ)の評定あり。是をば射べきか射まじきかと。射よと云人もあり。ないそと云者もあり。是程(これほど)に感ずる者をば、如何無(レ)情可(レ)射、扇をだにも射る程の弓の上手なれば、増て人をば可(レ)弛とはよも思はじなれば、な射そと云人も多し。扇をば射たれ共武者をばえいず、されば狐矢にこそあれといはんも本意なければ、只射よと云者も多し。思々の心なれば、口々にとゞめきけるを、情は一旦の事ぞ、今一人も敵を取たらんは大切也とて、終に射べきにぞ定めにける。与一は扇射すまして、気色して陸へ上けるを、射べきに定めければ、又手綱引返て海に打入、今度は征矢を抜出し、九段計を隔つゝ、能引固て兵と放。十郎兵衛家員が頸の骨をいさせて、真逆に海中へぞ入にける。船の中には音もせず、射よと云ける者は、あ射たり/\と云、ないそと云ける人は、情なしと云けれ共、一時が内に二度の高名ゆゝしかりければ、判官大に感じて、白■馬(さめむま)に、〈 尾花毛馬也 〉黒鞍置て与一に賜。弓矢取身の面目を、屋島の浦(有朋下P584)に極たり。近き代の人、
  扇をば海のみくづとなすの殿弓の上手は与一とぞきく K222 
P1055
平家不(レ)安思、楯突一人、弓取一人、打物一人、已上三人小舟に乗、陸に押付浜に飛下、楯突向て寄よ/\と源氏を招。判官は、若者共蒐出て蹴散と下知し給へば、武蔵国住人(ぢゆうにん)丹生屋十郎、同四郎等喚て蒐。十五束の塗箆に、鷲の羽、鷹羽、鶴の本白、矯合たる箭を以て、先陣に進む十郎が馬の草別を、筈際射込たれば、馬は屏風をかへすが如く倒けり。十郎足を越て、妻手の方に落立処に、武者一人長刀を額に当て飛で懸る。十郎不(レ)叶と思て、貝吹て逃。逃も追も雷の如し。十郎希有にして逃延て、馬の陰に息突居たり。敵長刀をつかへて扇ひらき仕。今日此頃、童部(わらんべ)までも沙汰すなる上総悪七兵衛景清、我と思はん人々は落合や、大将軍と名乗給ふ判官は如何に、三浦、佐々木はなきか、熊谷、平山は無歟、打物取ては鬼神にも不(レ)負と云なる畠山はなきか、組や/\といへ共、名にや恐れけん打て出る者はなし。平家方に、備後国住人(ぢゆうにん)鞆(ともの)六郎と云者あり。六十人が力持たりける力士なりければ、大臣殿、判官近付たらば組で海にも入、程隔たらば遠矢にも射殺せとて、船に被(レ)乗たり。松浦太郎艫取にて、屋島浦を漕廻し/\、判官を伺けれ共便(有朋下P585)宜を得ず、責ては日の高名を極たる那須与一を成共射殺さばや、組ばやと伺廻けれ共叶ず。爰(ここ)に伊勢三郎義盛が郎等に、大胡小橋太と云者有。駿河国田子浦にて生立、富士川に習、究竟の水練の上手にて、水底には半日も一日も潜ありきけるが、兵の乗ながら而も軍もせずして漕廻々々するは、大将軍伺やらん、直者にはあらじと危思て、人にも不(レ)知、焼内裏の芝築地の陰より、裸になりて犢鼻褌を掻、刀二持て海へ入、敵も御方も是を不(レ)知。鞆(ともの)
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六郎がせがいに立て、己は軍もせず、人の船を下知して、軍はとこそすれ角こそすれと云ける処に、つと浮上て、足を懐いて曳声を出し、海へだぶと引入たり。陸にてこそ六十人が力と云けれ共、水には不(二)心得(こころえ)(一)ければ、深き所へ引て行、六郎が頸を取、髻を口にくはへて水の底を■(はひ)、源氏の陣の前にぞ上たる。判官見給(たまひ)て尋聞給へば、上件の子細を申。下揩ネれ共思慮賢とて、鷲造の太刀を給り、世静て後、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)も、武芸の道神妙(しんべう)神妙(しんべう)とて、千余石の勧賞あり、誠にゆゝしかりける面目也。平家二百(にひやく)余人(よにん)船十艘に乗、楯二十枚つかせて漕向へて、簇を汰へて散々(さんざん)に射る。源氏三百(さんびやく)余騎(よき)、轡を並て波打際に歩せ出て是を射。矢の飛違事は降雨の如し。源平の叫音は百千の雷の響くに似。平氏は浪に浮みたり、源氏は陸に引へたり。天帝空より降、修羅海より出て、互に(有朋下P586)挿絵(有朋下P587)挿絵(有朋下P588)火焔剣戟を飛せつゝ、三世不(レ)休戦も、角やと覚えて無慙なり。平家射調れて、船共少々漕返す。判官勝に乗て、馬の太腹まで打入て戦けり。越中次郎兵衛盛嗣、折を得たりと悦て、大将軍に目を懸て熊手を下し、判官を懸ん/\と打懸けり。判官■(しころ)を傾て、懸られじ/\と太刀を抜、熊手を打除打除する程に、脇に挟たる弓を海にぞ落しける。判官は弓を取て上らんとす。盛嗣は判官を懸て引んとす。如法危く見えければ、源氏の軍兵あれはいかに/\、其弓捨給へ/\と声々に申けれ共、太刀を以て熊手を会釈ひ、左の手に鞭を取て、掻寄てこそ取て上。軍兵等が、縦金銀をのべたる弓也共、如何寿に替させ給ふべき、浅猿(あさまし)浅猿(あさまし)と申ければ、判官は、軍将の弓とて、三人張五人張ならば面目なるべし、去共平家に被(二)責付(一)て弓を落し
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たりとて、あち取こち取、強ぞ弱ぞと披露せん事口惜かるべし、又兵衛佐(ひやうゑのすけ)の漏きかんも云甲斐なければ、相構て取たりと宣へば、実の大将也と兵舌を振けり。
小林神五宗行と云者あり、越中次郎兵衛盛嗣が、熊手を似て判官を懸て取んとしけるを、大将軍を懸させじとて、続いて游せたりける程に、事由なく上り給たりければ、盛嗣判官を懸弛て不(レ)安思ひ、游艇に乗移り、指寄て宗行が甲の吹返し、熊手をからと打懸て、曳音を出して引。宗行鞍の前輪に強く取付て鞭を打。主も(有朋下P589)究竟の乗尻也、馬も実にすくやか也。水に浮る小船なれば、汀(みぎは)へ向舳浪つかせて、ささめかいてぞ引上たる。宗行熊手に被(レ)懸ながら馬より飛下、貫帯たりけるが、沙に足を踏入つゝ、頸を延て曳々とぞ引たりける。盛嗣も大力、宗行も健者、勝劣何れも不(レ)見けり、金剛力士の頸引とぞ覚えたる。両方強く引程に、鉢付の板ふつと引切、鉢は残て頭にあり、■(しころ)は熊手に留りぬ。盛嗣船を漕返せば、宗行陣に帰入。源平共に目を澄し、敵も御方も感嘆せり。判官宗行を召て、只今(ただいま)の振舞凡夫とは見えず、鬼神のわざと覚えたりとて、銀にて鍬形打たる竜頭の甲を賜はる。此甲と云は、源氏重代の重宝也。銀にて竜を前に三、後に三、左右に一宛打たれば、八竜と名付たり。保元軍に、鎮西八郎為朝の著たりける重代の宝なれ共、命に替んとの志を感じ、強力の挙動神妙(しんべう)也とて是を給ふ。宗行家門の面目と思ひて、畏てぞ立にける。
S4205 源平侍共軍附継信盛政孝養事
大臣殿船中にて是を見給(たまひ)て、能登殿へ被(レ)仰けるは、源氏の軍将九郎冠者を、度々目に懸て討外しぬる
P1058
事、返々遺恨也。最前七騎にて寄たりしには、残党に恐て不(二)討留(一)海上に(有朋下P590)馳入るゝ時は、盛嗣熊手に懸弛ぬ、鍬形の甲に金作の太刀、掲焉装束也、船より上て軍し給へ、相構て九郎冠者を目にかけ給へと宣ふ。能登守は返事に、其条は存ずる処に候とて、飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)景経、同四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、矢野馬允家村、同七郎高村已下、究竟の輩三十(さんじふ)余人(よにん)、船を漕寄陸に上り、芝築地を前にあて後にあて、進退招たり。判官日既(すで)に及(レ)晩、夜陰の軍は有(レ)憚、只今(ただいま)の敵は名ある者共と覚たり、列者共一揉揉んとて打立給へば、土肥次郎実平、大将軍度々の合戦軽々敷候、若者共に預給へとて、判官をば本陣に留置、実平先陣に進ければ、子息弥太郎遠平、畠山庄司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、渋谷庄司重国、子息馬允重助、渡辺源五馬允眤、伊勢三郎義盛、鎌田藤次光政、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春等を始として、一人当千(いちにんたうぜん)の者共五十(ごじふ)余騎(よき)、轡を並て蒐出づ。平家は歩立にて、芝築地より打出て、引詰引詰馬の上を射る。源氏は馬上より指当指当落し矢に射る。寄つ返つ追つ追れつ、入替入替々々射合たり。流るゝ血は砂を染、揚塵は煙の如し。源氏手負は陣に舁入、平家討れば舟に運びのす。此にして、常陸国住人(ぢゆうにん)鹿島六郎宗綱、行方六郎、鎌田藤次光政(有朋下P591)を始として、十余人(よにん)は討れにけり。能登守は心も剛に力も強、精兵の手聞(てきき)なり。源氏が懸廻し懸廻して、ちと踉■(やすらふ)所を見負せて、指詰々々射ける矢に、武蔵国住人(ぢゆうにん)河越三郎宗頼、目の前に被(レ)射て引退。
P1059
次に片岡兵衛経俊、胸板(むないた)被(レ)射て引退く。次に河村三郎能高、内甲被(レ)射落にけり。次大田四郎重綱、小かひな射られ引退。次に判官乳母子(めのとご)、奥州(あうしうの)佐藤三郎兵衛継信は、黒革威(くろかはをどしの)鎧を著たりけるが、首の骨を被(二)射貫(一)、真逆さまに落たりけるを、能登守童に菊王丸と云者あり、本は通盛の下人成けるが、越前三位討れて後、其弟なればとて此人に付たりけるが、萌黄糸威腹巻に、左右射■(こて)さして、三枚甲居頸に著なし、太刀を抜て飛で懸り、継信が首を取らんとする。四郎兵衛忠信立留り、引固て放矢に、菊王丸が腹巻の引合つと被(二)射貫(一)て、一足もひかず覆倒。忠信が郎等に八郎為定、小長刀を以開て、童が首を取んと懸る。能登守童が頸取れじと、太刀を打振つとより、童が手を取引立て、曳声を出して船に抛入。暫しは生べくや有けんに、余り強被(レ)投て、後言もせず死にけり。忠信は此間に、兄の継信を肩に引懸、泣々(なくなく)陣の中へ負て入たり。判官近く居寄給、いかに継信よ/\、義経爰(ここ)に有、一所にとてこそ契しに、先立る事の悲さよ、如何にも後生をば可(レ)弔、冥途の旅心安(こころやすく)思ふべし、さても何事をか思ふ、云置かし(有朋下P592)と宣へ共、只涙を流す計にて、是非の返事はなし。判官重て、汝心があればこそ涙をば流すらめ、猛兵の矢一に中て、生ながら不(レ)言事やはある、左程の後れたる者とは不(レ)存者を、今一度最後の言聞せよと宣へば、継信息吹出し、よに苦しげにて息の下に、弓矢取身の習也、敵の矢に中て主君の命に替は、兼て存る処なれば更に恨に非ず、只思事とては、老たる母をも捨置、親き者共にも別れて、遥(はるか)に奥州(あうしう)より付奉し志は、平家を討亡して、日本国(につぽんごく)を奉行し給はんを見奉ら
P1060
んとこそ存しに、先立奉計こそ心に懸侍れ、老母が歎も労しと申ければ、さしも猛武士なれ共、判官涙をはら/\とぞ流し給ける。実に思ふも理也、敵を亡さん事は不(レ)可(レ)経(二)年月(一)、義経世にあらば、汝兄弟をこそ左右に立んと思ひつるにとて、手に手を取合て泣給へば、継信穴嬉しと、其を最後の詞にて、息絶けるこそ無慙なれ。此を聞ける兵共(つはものども)も、鎧の袖を絞けり。日も西山に傾ける上、判官には多くの郎等の中に四天王とて、殊に身近く憑み給へる者は四人あり。鎌田兵衛政清が子に、鎌田藤太盛政、同藤次光政と、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信也。藤太盛政は、一谷(いちのたに)にて討れぬ、一人闕たる事をこそ日比(ひごろ)歎しに、今日二人を失て、今は軍も無(レ)為とて、継信、光政が死骸を舁て、当国の武例高松と云柴山に帰給(たま)ひて、其辺を相尋て(有朋下P593)僧を請じ、薄墨と云馬に、金覆輪の鞍置て申けるは、心静ならば懇にこそ申べけれ共、斯る折節(をりふし)なれば無(レ)力、此馬鞍を以て、御房庵室にて卒都婆経書、佐藤三郎兵衛尉継信、鎌田藤次光政と廻向して、後世を弔給へとて、舎人に引せて僧の庵室に被(レ)送けり。此馬と云は、貞任がをき黒の末とて、黒き馬の少ちひさかりけるが、早走の逸物也。多の馬の中に、秀衡殊に秘蔵也けれ共、軍には能馬こそ武士の宝なれば、山をも河をもこれに乗て敵を攻給へとて、判官奥州(あうしう)を立ける時、進たる馬也。宇治川(うぢがは)をも渡し、一谷(いちのたに)をも落せし事此馬也。一度も不覚なかりければ、吉例と申けるを、判官五位尉に成りけるに、此馬に乗たりければ、私には大夫とも呼けり。片時も身を放じと思給けれども、責ても継信光政が悲さに、中有の路にも乗かしとて被(レ)引たり。
P1061
兵共(つはものども)是を見て、此君の為に命を失はん事不(レ)惜とぞ勇ける。
源氏は武例高松に陣を取、平家は屋島焼内裏に陣を取、源平の両陣三十(さんじふ)余町(よちやう)を隔たり。源氏は軍にし疲て、箙を解て枕とし、鎧を脱で寄臥たり。伊勢三郎義盛ぞ終夜(よもすが)ら夜打もぞある。打とけ寝給ふなよ/\と、立渡立渡触れ明しける。平家は夜討の評定あり。敵は三百(さんびやく)余騎(よき)にはよも過じ、今夜は軍に疲し、柴山にこそ臥たるらめ、御方の軍兵一千(いつせん)余騎(よき)、足軽に出立て、高松山を引廻し、一人も不(レ)漏などか夜討に(有朋下P594)せざるべきと、此儀可(レ)然とて、思々に出立ける程に、美作(みまさかの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)江見太郎守方と、越中次郎兵衛盛嗣と、先陣後陣を諍程に、其夜も空く明にけり。夜討は実に可(レ)然かりけれ共、是も平家の運の尽るゆゑなり。
廿日夜も既(すで)に暁に成ぬ。野寺の鐘も打響、孀烏のうかれ声、旅寝の眠を驚す。判官急起直り、軍にはよく疲にけり、暫と思ひたれば早明にけり、いざや殿原よせんとて、七十余騎(よき)にて、焼内裏の前、平家の陣へ押寄て時の声を発す。平家も期したりければ声を合せ、楯つき向て支たり。平家には次郎兵衛、悪七兵衛、五郎兵衛、三郎左衛門(さぶらうざゑもん)等、三十人ばかり歩立に成て、熊手、薙鎌、手鋒、長刀を以て、馬をも人をもきらふ事なし。刺たり、突たり、切たり、薙たり、飆(つじかぜ)の吹が如くに狂廻る、面を向べき様もなし。源氏には熊谷、平山、畠山と、佐々木、三浦と、土肥、金子、椎名、横山と、片岡等三十(さんじふ)余騎(よき)、薙鎌長刀に恐て、馬足一所にとめず、弓手に廻し妻手に馳、指詰指詰、追物射にこそ射
P1062
たりけれ。兵五六人被(二)射伏(一)て、平家こらへず舟に乗て漕出す。能登守又二十騎(にじつき)計船より下、芝築地を木陰として、引取指詰散々(さんざん)に射ければ、昨日矢風は負ぬ、進者もなし。武蔵房(むさしばう)、常陸房、旧山法師にて、究竟の長刀の上手にて、七八人(しちはちにん)歩立になり、長刀十文字に採、掃木を以て庭を払が如く薙入ければ、平氏(有朋下P595)の軍兵十余人(よにん)なぎ伏たり。能登守無下に目近く見えければ、打懸る処に、いぶせくや思はれけん、又船に乗て指出す。去(さる)程(ほど)に、大風に恐て留たりける軍兵、跡目に付て屋島の浦に馳来る也。(有朋下P596)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十三

P1063(有朋下P597)
衛巻 第四十三
S4301 湛増同(二)意源氏(一)附平家志度道場詣並成直降人事
熊野別当湛増法眼は、頼朝(よりとも)には外戚の姨聟也。年来は平家致(二)安穏祈祷(一)けるが、国中(こくぢゆう)悉源氏に志を運。湛増一人背ても後難あり、今更平家をすてん事も昔の好を忘に似たり、如何あるべからんと進退思煩ふ。所詮非(レ)可(レ)及(二)人力(一)、可(レ)任(二)神明冥覧(一)とて、田部の新宮にて臨時の御神楽を始む。神明託(二)巫女(一)曰、白鳩は白旗に付と。湛増猶不(レ)信(レ)之、同新宮御前にて、赤は平家白は源氏とて、七番の鶏を合けるに、赤鶏白鶏を見て、一番も不(レ)番逃にけり。此上は奉(レ)任(二)神慮(一)とて、熊野三山、金峯、吉野、十津河、死生不(レ)知の兵共(つはものども)を語集、若一王子の御正体を奉(レ)下、榊枝に飾付、日月山端を出るが如し。旗紋、楯面には金剛童子を画に顕す、見るに身毛(みのけ)竪けり。兵船二百(にひやく)余艘(よさう)を調て、紀伊国田部湊より漕渡て源氏に加る。
河野四郎通信は、元来源氏に志有ければ、所々の軍に家子郎等多く討れたりけれ共、千余騎(よき)の軍兵を卒して、伊予国より馳来て勢を合す。懸りけ(有朋下P598)れば、判官弥力付て、荒手の兵入替々々責ければ、平家遂に被(二)責落(一)て、二十一日の巳刻には、屋島の渚(なぎさ)を漕出て、塩に引れ浪に諍、何を指とはなけれ共、風に任動行こそ悲けれ。先帝を奉(レ)始て、女院二位殿(にゐどの)、女房男房宗徒の人々は、讃岐志度へぞ御座(おはしまし)ける。
P1064
源氏は屋島軍に討勝て、三箇日逗留して四国の勢を招。判官伊勢三郎義盛を召て、河野四郎追討のために、成良が嫡子伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)成直、三千(さんぜん)余騎(よき)にて伊予へ越えたり、召捕て進せよと下知す。依(レ)命起(レ)座。義盛は究竟の山賊海賊、古盗人の謀賢き男也。先下搨jを一人出し立て、次第脛巾、簔笠に旅籠持て、伝内左衛門(でんないざゑもん)に伺遇て云べき様委教て、一日路を先立て伊予国へ越。義盛は三千騎(さんぜんぎ)を従へんとて、十七騎の勢を具して、一日路さかりて向けり。人々嗚呼々々敷思ける。成直は河野が館へ推寄たれ共、通信をば漏つ、家子郎等多く討捕、館に火懸て、首をば兼て進り、虜共あまた編連て、屋島も■(おぼつかなし)とて、伊予より讃岐へ帰けり。道に夫男に遇。伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)、己は何所よりいづくへ通る者ぞと問。屋島より伊予へ罷る者にて候と答。偖屋島には何事かあると問。夫男答て云様は、伊予国河野四郎殿の伯父、福良新三郎殿頸実検(くびじつけん)の日、源氏九郎判官と名乗て、雲霞の勢屋島の内裏へ押寄て、夥(おびたたし)き軍にて候しが、源氏の為に内裏を被(レ)焼て、平家は船に乗て、下会々々(有朋下P599)戦給し程に、平家は無勢に御座、源氏は大勢なれば、平家軍に負て、大臣殿父子、小松殿(こまつどの)公達生捕れ給ぬ、桜間大夫殿(だいぶどの)は十七日(じふしちにち)阿波勝浦の軍に虜と披露あり、民部太輔殿(みんぶのだいふどの)は、軍破て降人に被(レ)参けり、其外の人々死るも被(レ)捕も、いくらも有と聞え候き、能登殿こそ由々しく御座(おはしまし)けれ、源氏も其手に多く討れて、終には小船に乗て漕出し、海に沈み給ぬとて上下嘆奉候き、東国の勢はさる事にて、熊野別当とて二百艘の兵船を漕、河野四郎殿は、千余騎(よき)にて屋島へ被(レ)馳き、其外五十騎(ごじつき)百騎、四国九国より馳集て、
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阿波讃岐の浦々は軍兵にて候。判官は暫逗留して、平家の方人を平ぐべしとぞ承つる、其外の事は不(レ)知と申て過ぬ。伝内左衛門(でんないざゑもん)此言を聞より、心弱く思て、一所にて何とも成べかりける者を、無(レ)由伊予へ越てけり、父降人に参給ける事は、成直を今一度見もし見えん為歟、但下揩フ説不(レ)足(二)信用(一)、実否を聞んとて馬を打て行程に、讃岐国三木郡、琴造の宮と云所にて、伊勢三郎と伝内左衛門(でんないざゑもん)と行会たり。義盛鐙踏張弓杖つき、あれは伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)と見は僻事(ひがこと)歟、是は源氏の郎等に伊勢三郎義盛と云者也、平家は屋島の軍に負て、内裏以下人々の家々(いへいへ)皆焼ぬ、大臣殿父子、小松殿(こまつどの)の公達、恥あるは大底被(レ)虜給ぬ、汝が父民部大輔(みんぶのたいふ)は、頸を延て降人に参ず、桜間大夫勝浦にて虜る、此二人義盛預。汝が父は降人な(有朋下P600)れば頸をば可(レ)継、桜間大夫は死罪難(レ)遁、種々(しゆじゆ)歎申間、御恩に申かへんと存ず、能登殿こそ由々敷振舞給たりしが、判官殿(はうぐわんどの)乳母子(めのとご)佐藤三郎兵衛、鎌田藤次を始として、多の郎等討れぬ、結句舟に乗海に入給ぬ、実の大将軍と覚き、抑汝源氏に可(レ)奉(レ)随か、猶意趣あるか、民部大輔(みんぶのたいふ)の降人に参る事、今一度汝を見んとの恩愛の情と存ず、父をも見故郷にかへらんと思はば義盛につけ、命をば可(二)申請(一)、角云をそむき給はば通し侍るまじと云。弓取直し矢束を解。成直は夫男が詞、義盛口上無(二)相違(一)と思ければ、父左様に参ける上は、成直以て同事とて、弓を弛し甲を脱て義盛に随。伊勢三郎申けるは、降人として軍兵を引卒す、不審可(二)相貽(一)と云。成直郎等に暇をたび、其より散々(ちりぢり)に返す。義盛謀澄して判官の許へ将向。十七騎の勢にて三千(さんぜん)余騎(よき)を従る事、古今無(レ)類。判官は参上神妙(しんべう)
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也、成直己が頸をも継で父をも見んと思はば、状を父が許へ音信(おとづれ)よと宣ふ。成直畏て状を遣す。源平の合戦勝劣雲泥也、後勘有(レ)恐、前(二)降源家(一)、早住(二)同心之思(一)、必遂(二)面謁之志(一)と。阿波民部成良は、平家の軍如何にも叶べくも不(レ)見ければ、心を源氏に懸たりけるに、成直虜れぬと聞ければ、判官に通じて阿波国へ渡ぬ。彼国の住人(ぢゆうにん)等、成良が命を守て皆随(二)属源氏(一)。此三箇年の間は平家に忠を尽して、度々軍にも父子共に忠を致しけるに、忽(たちまち)に心替(有朋下P601)しぬ。平家運尽とはいひながら無慙なり。
二月十七日(じふしちにち)は阿波勝浦の軍、二十一日には屋島を責落し、二十二日(にじふににち)には讃岐志度を被(レ)攻けり。二十三日に梶原已下の兵屋島の渚(なぎさ)に著。諍終のちぎりぎの風情なりとて、人皆口をすくむ。
源氏は讃岐屋島にあり。平家は屋島の城(じやう)を被(レ)落、同国志度へ移たりけれども、爰(ここ)をも被(二)攻出(一)て、長門国引島に著。如何が有べかるらんと■(おぼつか)なし。其をも漕出して、浦伝島伝に落行けり。白鳥丹生の社をも漕過て、筑前国箱崎津に著給ぬ。九国の輩源氏に心を通じて、彼津をも可(レ)責由聞えければ、平家かしこをも出給ぬ。何れの所を宿と不(レ)定れば、浪と共に諍て、漕れ行こそ哀なれ。
S4302 住吉(すみよし)鏑並神功責(二)新羅(一)附住吉(すみよし)諏訪並諸神一階事
元暦二年二月十六日(じふろくにち)夜の子刻に、住吉社第三神殿より、鏑矢の声出て西を指て出行ぬと、当番の神人、并祝等是を聞由、神主長盛、并権祝有遠奏状を進する。賊徒滅亡神兵の力ありと叡信を被(レ)垂ければ、御剣已下色々(いろいろ)の幣帛(へいはく)、種々(しゆじゆ)の神宝即長盛有遠を召て奉進あり。昔第十五代帝仲哀天皇(てんわう)の后、神功皇后(じんぐうくわうごうの)御宇(ぎよう)、新羅の西戎我国を背く由聞えければ、皇后可(レ)責(二)異賊(一)旨、天照太神(てんせうだいじん)に
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被(レ)申、謹で無(レ)懈とて、二人の荒みさきを差副給へり。(有朋下P602)皇后懐胎月満て産月也。纜を解給時、御産の気出来給。皇后仰云、胎内王子慥に聞しめせ、為(レ)守(レ)妾本朝新羅の異賊を責んとて、遥(はるか)に海上に浮、若今生給はば、必水中の鱗と成給ふべし、君吾国の主と成て、百王の位に即せ給ふべくば、異賊を随へ、本朝に帰て誕生(たんじやう)し給へと宣命し給ければ、御産気止りて、異国へ渡り給しに、二人荒みさき艫舳に立て守奉しかば、新羅高麗の西戎を平げて日本(につぽん)に帰、筑前国にして御産あり。其よりして其所を宇美庄と云。即宮を造て宇美明神と名く。皇子位に即給ふ、応神天皇(てんわう)是也。神と顕給(たまひ)ては、宇佐八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と申。二人の荒みさき、一人は摂津国(つのくに)住吉郡に留給ふ、今の住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)是也。巨海の浪に交ては水畜を利益し、禁闕の窓に臨では玉体を守護せり。社は千木の片殺神寂、松の緑生替、形は皓々たる老翁也。幾万世を経給けん。一人は信濃国(しなののくに)諏訪郡に跡を垂、即諏訪明神是也。昔柏原天皇(てんわう)、皇子に沙門開城と申人御座(おはしまし)き。是は摂津国(つのくに)勝尾寺の善仲、善算、両上人に随て、出家受戒の御弟子也。金字如法の大般若経を為(二)書写(一)、奉(レ)祈(二)三宝(一)、得(二)清浄水(一)思召(おぼしめし)けるに、形夜叉の如して、一すくひの水を進むる者あり。皇子怪みて、汝何者(なにもの)ぞ、此水大清浄也やと問給ふ。夜叉答て申さく、我は是信濃国(しなののくに)諏訪南宮也、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の厳命を賜て、西天白鷺池の水を汲、一夜が程に往(有朋下P603)還来れりと申。彼水を硯に入、六箇年の間六百巻を書写せしに、一度入て後、其水終に不(レ)尽けり、不思議なりし事也。道場建立(こんりふ)し、件の経を安置して、遥(はるか)に慈尊の出世を待故に、弥勒寺と名けたり。
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水尾天皇(てんわう)臨幸の時、改(二)寺号(一)勝尾寺と申。懸る現人神達(あらひとがみたち)なれば、新羅征伐之時は、天照太神(てんせうだいじん)も被(二)差副(一)けるにこそ。昔の征伐今の神託、御憑敷ぞ思召(おぼしめす)。
同三月三日平家追討の御祈(おんいのり)に、諸国の明神に被(レ)奉(レ)授(二)一階(一)之由、被(二)宣下(一)けり。凡兵革の祈祷、天下安穏をために、諸国の神明に一階を増さらるゝ事、代々之例也。
仁明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、嘉祥四年正月に、天下諸神不(レ)論(二)有位無位(むゐ)(一)、共叙(二)正六位上(一)云官府を被(レ)下より以降、朱雀院御宇(ぎよう)天慶三年正月諸国諸神奉(レ)増(二)一階(一)、白河院(しらかはのゐんの)御宇(ぎよう)、永保元年二月、同奉(レ)増(二)一階(一)。崇徳院御宇(ぎよう)、永治元年七月、同奉(レ)増(二)一階(一)。高倉院(たかくらのゐんの)御宇(ぎよう)治承四年十二月、同奉(レ)増(二)一階(一)、仍今度もかように被(レ)行けり。
S4303 源平侍遠矢附成良返忠事
平家は屋島をば落ぬ、九国へは入られず、寄方もなく浮宕て、長門、壇浦、赤間、門司関、引島に著て波上に漂、船中に送(レ)日給ふ。源氏は阿波国勝浦に著。所々の軍に討勝て、(有朋下P604)屋島の内裏を追落し、平家の船の行に任て陸より責追。焼野雉の隠なく、鷹の責るに不(レ)異。源氏は於井津部井津と云所に著。平家の陣を去事二十余町(よちやう)也。
同三月二十四日、九郎判官義経已下の軍兵、七百(しちひやく)余艘(よさう)にて夜の陵晨に責寄す。平家待請たり。五百(ごひやく)余艘(よさう)の兵船を漕向へ、矢合して戦。源平両方の軍兵十万余人(よにん)なれば、互に時を発す声鏑矢の鳴違音、上は蒼天に聞え、下は海底に響らんとぞ驚れける。
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参川守範頼、千葉介常胤、稲毛、榛谷、海老名、中条、相馬、大田、大胡、広瀬、小代、中村、久下、塩谷、三万(さんまん)余騎(よき)にて九国地に著、前をきる。籠中の鳥出難く、網代■(ひを)免れんや。海には船を浮たり、陸には轡並たり、東西南北塞て、漏べき方こそなかりけれ。
権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛卿、船の舳に立出て被(レ)申けるは、軍は今日を限、各退く心有べからず、自(レ)昔至(二)于今(一)まで、軍敗運尽ぬれば、名将勇士も、或路人の為に被(レ)獲、或為(二)行客(一)囚、是皆難(レ)去死を遁んと思故也、各命を此時に失て、必名を後の世に留よ、東国の奴原にわるびれて見ゆな、何の科にか命をも可(レ)惜、心を一にして義経を取て海に入よ、今度の合戦の執心此事にありと被(レ)申ければ、近く候ける武蔵三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国、各此仰奉れやと申。悪七兵衛景清が、中坂東の者共は、馬上にてこそ口は聞候へ共、船軍は未練なるべし、只魚の木に登らん如く(有朋下P605)なるべし、必失(二)寸歩(一)可(レ)抛(二)弓箭(一)、一々に取て海に入なんと申。由々敷ぞ聞し。越中次郎兵衛盛嗣申けるは、九郎冠者が軍将として上ると承し間、縁に付て其様を尋聞しかば、面長して身短く、色白して歯出たり。身を窄してよき鎧をきず、日々(ひび)朝夕に物具(もののぐ)を替ふと云き、得(二)其意(一)くまん/\と申。人々口々に、九郎は心こそ猛共、勢が小あるなれば、其冠者何事か有べき、目にかれてんには寄合、片脇に掻挟でつと海へ入なんと申。伊賀平内左衛門(へいないざゑもん)家長は、あゝ世は不思議の事哉、金商人が従者して奥州(あうしう)へ下たりける者が、源氏の大将軍して、君に向ひ進矢を放事よ、御運の尽させ給ふと云ながら、口惜事哉とてはら/\と泣。
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権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛卿、大臣殿の前へ進で被(レ)申けるは、今日の合戦兵の景気勇ありて見え候、但成良は一定心替したりと覚ゆ、頸を切侍ばやと宣へば、大臣殿は、そも実否を聞定てこそ、若僻事(ひがこと)ならば不便也とて不詳ければ、度々被(二)諌申(一)成良を召。木蘭地直垂に、洗革の冑著て、大臣殿の前に蹲踞せり。成良こそ先々の様に事をもおきてね、今日はわるびれて見ゆ、若臆し侍るか、四国の者どもに軍よくせよと下知すべしと被(レ)仰ければ、なじかは臆し侍べきとて立ぬ。知盛卿は太刀の管に手を懸て、頸を打ばやと思召(おぼしめし)けれ共、免し給はねば力なし。肥後国住人(ぢゆうにん)菊地次郎高直、原田大夫種直等は、平家(有朋下P606)に相従たりければ、三百(さんびやく)余艘(よさう)先陣に漕向へ、弓の上手大矢共をそろへて散々(さんざん)に射ければ、源氏の兵多く討れて舟共指退。平家は勝ぬとて、阿波国住人(ぢゆうにん)新居紀三郎行俊、唐鼓の上にのぼりて、責鼓を打て■(ののしり)けり。
判官は軍負色に見えければ、塩瀬の水に口を漱、目を塞て合(レ)掌、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祈念し奉る。加(二)神明擁護(をうご)(一)給、白鳩二羽飛来て、判官の旗の上にぞ居たりける。源平共にあれ/\と云程に、東の方より一村の黒雲たなびき来て、軍場の上にかゝる。雲中より白旗一流おり下て、判官の旗頭ひらめきて雲と共に去ぬ。源氏は合(レ)掌拝(レ)之、平家は身毛(みのけ)竪て心細く覚しける。
源氏の軍兵等、此等の霊瑞を拝ければ勇■(いさみののしり)て、或船に乗移て、漕寄々々戦者もあり。或は陸を歩せて、指詰々々射者もあり。強弓(つよゆみ)精兵矢継早の手だり共、不(レ)劣不(レ)負と散々(さんざん)に射ければ、平家乱合
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て戦、勝劣更に不(レ)見。三浦平太郎義盛、船には不(レ)乗浦路を歩せ、敵の舟をさしつめ/\射けるこそ物に当るも健く、遠も行けれ。
前権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)知盛卿乗給へる船、三町(さんちやう)余を隔て澳に浮ぶ。三浦義盛十三束二伏の白箆に、山鳥の尾を以矯たりけるを、羽本一寸ばかり置て、三浦小太郎義盛と焼絵したりけるを、能引て兵と放つ。知盛卿の舷に立て動けり。中納言此矢を抜せて、舌振して立給へり。三浦は遠矢射澄したりと思て、鐙踏張弓杖つき立上つ(有朋下P607)て、扇をひらいて平家を招。其矢射返せとの心也。中納言是を見給(たまひ)て、平家の侍の中に、此矢可(二)射返(一)者はなきかと被(レ)尋けるが、阿波国住人(ぢゆうにん)新居紀四郎宗長、手は少し亭なれ共、遠矢は四国第一とて被(レ)召たり。宗長三浦が箭をさらり/\と爪遺て、此箭箆姓弱矢つか短し、私の矢にて仕侍べしとて、黒塗の箭の十四束なるを、只今(ただいま)漆をちと削のけ、新居紀四郎宗長と書付て、舳屋形(へやがた)の前ほばしらの下に立て、暫固て兵と放つ。三浦義盛が弓杖に懸けて居たりける甲の鉢射削、後四段計に引へたる三浦石左近と云ふ者が、弓手の小かひな射通す。源氏軍兵等、嗚呼、義盛無益して遠矢射て、源氏の名折ぞ/\と云ければ、判官宗長が矢を取て、これ返すべき者やあると被(レ)尋ければ、土肥次郎実平が申けるは、東八箇国には此矢に射勝べき者不(レ)覚、甲斐源太殿の末子に、浅利与一殿ぞ遠矢は名誉し給たると挙す。さらば奉(レ)呼とて招寄。判官宣(のたま)ひけるは、三浦義盛遠矢射損じて、答の矢被(レ)射たり、時の恥に侍、其返給ひなんやといはれければ、与一は宗長が矢を取て、さらり
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さらりと爪遣て、此は箆誘も尋常に、普通には越侍、但遠忠が為には不(二)相応(一)、私の具足にて仕べしとて判官の前を立。其(その)日(ひ)の装束には、魚綾の直垂に、折烏帽子(をりえぼし)を引立て、黄河原毛馬に、白覆輪の鞍置てぞ乗たりける。白木弓の握太なるを召寄(有朋下P608)て、白篦十四束二伏に誘たる、切府に鵠の霜降破合て矯たる征矢一手取り添て、遠矢の舟はいづれぞと問。舳屋形(へやがた)の前に扇披きつかひて、鎧武者の立たる船と教ふ。遠忠能引固て兵と放つ。宗長が遠箭射澄たりと存て、ほばしらにより懸り、小扇ひらき仕ける鎧の■板(むないた)かけずつと射とほし、其矢はぬけて海上五段計にさと入。宗長ほばしらの本に倒る。其後源平の遠矢はなかりけり。三浦義盛遠矢射劣て、此恥を雪んと思、小船に乗、楯突向て漕廻々々、面に立平家の侍共、差詰々々射倒す。元来精兵の手だりなれば、簇に廻者なし。源氏方に斉院次官親能と名乗■(ののしり)懸て戦ふ。平家方には誰とは不(レ)知武者一人、舷に立て、あゝ親能は右筆ばかりは取も習たるらん、弓矢の道は不(レ)知者をと云たりければ、敵も御方もはつと笑。親能赤面してぞ侍りける。
源氏は大勢也、勝に乗て攻戦。平家は小勢也、今日を限と振舞けり。帝釈修羅の闘諍、争かこれには勝るべき。平家は船を二三重に構たり。唐船には、軍将の乗たる体にて軍兵を乗たり。兵船には大臣殿已下、可(レ)然人々被(レ)乗たり。源氏軍将の唐船を攻ん時、兵船源氏の船を指廻して、中に一人も取籠不(レ)洩うたんとの謀也。民部大輔(みんぶのたいふ)成良は、さしも平家に忠を致しか共、忽(たちまち)に心替して、四国の軍兵三百(さんびやく)余艘(よさう)漕却て、軍の見物して居たり。平家強らば源氏をいん、源氏勝色(有朋下P609)ならば平家を射んとぞ強健
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たる。天をも可(レ)度地をも可(レ)度、只不(レ)可(レ)度は人の心と、誠哉成良。
源氏、海には櫓械を並て兵船数を不(レ)知、陸には轡を並て其(その)勢(せい)雲霞の如。平家如何にも難(レ)叶見えける上、子息伝内左衛門(でんないざゑもん)が事も悲ければ、成良判官へ使を立て申けるは、唐船には、大将軍の乗たる様にて軍兵を被(レ)乗たり、兵船には、大臣殿已下の公達召れたり、唐船を責させて、源氏を中に取こめんと支度し侍、御意有べき中言して、成良が一類、相従四国の者共、三百(さんびやく)余艘(よさう)漕寄つゝ、指合て平家を射。成良は心替者なり、頸を切ばやと中納言のよく宣(のたまひ)ける者をと、大臣殿後悔し給けれ共云がひなし。
S4304 知盛船掃除附占(二)海鹿(一)並宗盛取替子事
〔去(さる)程(ほど)に、〕源氏の兵共(つはものども)いとゞ力を得て、平家の船に漕寄々々乱乗。遠をば射近をば斬、竪横散々(さんざん)に責。水手かんどり、櫓をすて梶を捨て船を直すに及ず、被(二)射伏(一)被(二)切伏(一)、船底倒れ水の底に入。中納言は、女院二位殿(にゐどの)などの乗給へる御船に参られたりければ、女房達(にようばうたち)、こはいかに成侍ぬるぞと宣(のたまひ)ければ、今は兎(と)も角(かく)も申にことば不(レ)足、兼て思儲し事也、めづらしき東男共をこそ御覧ぜんずらめとて打笑給。手自船の掃除して、見苦き物共(有朋下P610)海に取入、こゝ拭へかしこ払へなど宣ふ。さほどの事に成侍なる閑なるに戯言哉とて、女房達(にようばうたち)声々をめき叫給。此に海鹿と云大魚二三百もやあるやらん、塩ふき立て食て来る。安部晴延と云小博士を召て、いかなるべきぞと尋給ふ。晴延占文披いて、此海鹿食返ば源氏有(レ)疑、食通ば御方に無(レ)憑と申けるに、此魚一も不(レ)食返。平家の船の下をついくぐり、ついくゞり食て過ぬ。小博士今はかう候とて、涙をはら/\と流ければ、人々声を立てぞをめき
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給ふ。二位殿(にゐどの)は今を限にこそと聞給ければ、宗盛は入道大相国(たいしやうこく)の子にも非ず、又我子にもなし、されば小松内府が心にも似ず、思おくれたるぞとよ、海に入自害などもせで、虜れて憂目などをや見んずらん、心憂こそ覚れとぞ宣(のたまひ)ける。宗盛、入道の子に成ける故は、二位殿(にゐどの)重盛(しげもり)を嫡子に儲て後、又懐妊したりけるに、入道、弓矢取身は男子こそ宝よ、嫡子に一人あれば心苦、必弟儲て給へ、とぎにせさせんと云。二位殿(にゐどの)不(レ)斜(なのめならず)仏神に祈申、月満じて生れたれば女子也、音なせそ如何がせんとて、方々取替子を尋ける程に、清水寺の北坂に、唐笠を張て商ふ僧あり。憖(なまじひ)に僧綱(そうがう)に成たりければ、異名に唐笠法橋と云ける者が許に、男子を産たりけるに取替つゝ、入道に男子儲たる由告たれば、大に悦で、産所もはてざりけれ共、嬉さには穢事も忘て女房の許に行、あゝ目出(有朋下P611)々々とぞ悦給ける。入道世に有し程は、露の言葉にも出し給はず、壇浦にてぞ初角語給ける。
S4305 二位禅尼入海並平家亡虜人々附京都注進事
二位殿(にゐどの)今は限と見はて給にければ、練色の二衣引纏、白袴のそば高く挟て、先帝を奉(レ)懐、帯にて我身に結合進せ、宝剣を腰にさし、神璽を脇に挟て艇に臨給。先帝は八にぞ成せ給ける。御年の程よりはねびとゝのほらせ給(たまひ)て、御形あてにうつくしく、御髪黒くふさやかにして、御背に懸給へる御貌、無(レ)類ぞ見えさせ給ける。御心迷たる御気色(おんきしよく)にて、こはいづこへ行べきぞと被(レ)仰けるこそ悲けれ。二位殿(にゐどの)は兵共(つはものども)が御船に矢を進せ候へば、別の御船へ行幸なし進せ候とて、
  今ぞしる御裳濯河の流には浪の下にも都ありとは K223 
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と宣(のたま)ひもはてず海に入給ければ、八条殿同つゞきて入給にけり。国母建礼門院(けんれいもんゐん)を始奉て、先帝御乳母(おんめのと)、帥典侍(そつのすけ)、大納言典侍(だいなごんのすけ)已下の女房達(にようばうたち)、船の艫舳に臥まろび、声を調て叫給も夥(おびたた)し。軍喚にぞ似たりける。浮もや上らせ給と暫しは見奉けれ共、二位殿(にゐどの)も八条殿も、深(有朋下P612)沈て不(二)見給(一)。昔は一天の主として、殿をば長生と祝、門をば不老と名けしか共、今は雲上の竜下て、忽(たちまち)に海中の鱗と成給こそ悲けれ。哀哉花に喩し十善の御粧、無常の風に匂を失ひ、悲哉月に瑩し万乗の玉体、蒼海の浪に影を沈御座事を。無常元来定なし、有待誰かは恃有なれ共、清涼紫宸の玉台を振棄て、闘戦兵革の船中に行幸して、未十歳にだにも満せ給はぬ御齢に、忽(たちまち)に波の底に入給けん、哀と云も疎也。女院は後奉らじと、御焼石と御硯の箱とを左右の御袂(おんたもと)に宿し入、御身を重くしてつゞきて海に入せ給(たま)ひけるを、渡辺源次兵衛尉番が子に、源五馬允眤と云者、急飛入て奉(二)潜上(一)けるを、眤が郎等熊手を下て御髪をから巻て御船へ引入奉。弥生の末の事なれば、藤重の十二単の御衣を召れたり。翡翠の御髪より始て、皆塩垂御座ぞ御痛しき。帥典侍(そつのすけ)も同飛入給けるを、衣のすそと御袴とを舷に射付られ給(たまひ)て、沈み遣給はざりけるを、源次兵衛番奉(二)取上(一)。眤はもしやの時とて、鎧唐櫃の底に持たりける唐綾の白小袖一重取出して女院に進たりけるぞ、夷なれ共情あり。眤は近くは不(二)参寄(一)、程を隔畏て、君は女院にて渡らせ御座かと、度々尋申ければ、御覧じ馴ぬ夷の有様(ありさま)、恐しく思召(おぼしめし)けれ共、御言をば出させ給はず、二度打うなづかせ給けり。眤御船を漕て、女院をば判官の船に渡入奉。近衛殿(このゑどの)の北政所(きたのまんどころ)
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も、(有朋下P613)海へ飛入せ給けるを、人々取留奉。判官伊勢三郎義盛を以、海には大事の人々入せ給たるを、取上進せたらん者共、狼藉仕るなと下知しければ、義盛小船に乗て触廻。此彼より女房達(にようばうたち)をば判官の船へ送渡奉る。
兵共(つはものども)先帝の御船へ乱入て、大なる唐櫃の鎖ねぢ破、中なる箱を取出し、箱のからげ緒切解て、蓋をあけん/\としければ、忽(たちまち)に目眩鼻血たる。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)見給(たまひ)て、内侍所の御箱也、狼藉也と宣へば、判官是を聞て制止を加ふ。武士共御船を罷出ぬ。即平(へい)大納言(だいなごん)に申て、如(レ)元御唐櫃に奉(二)納入(一)。末代といへ共かく霊験の御座こそ目出けれ。神璽は海上に浮給たりけるを、片岡太郎経春取上奉る。前左馬頭(さまのかみ)行盛は其盛子、前左少将有盛は小松大臣の息男、共に太政(だいじやう)入道(にふだう)の孫也。同船して御座(おはしまし)けるが、軍の様今を限と思ければ、甲を脱捨鎧の袖切落、身軽して舷に進み出、有盛先陣に在て源氏の兵と射合けり。行盛は暫最後所作と覚くて、船の舳頭にして、提婆品をぞ読給ふ。一品既(すで)に終ければ、西に向て廻向して、有盛と立並、簇をそろへて射けるにこそ数の兵も亡びけれ。熊井太郎忠元、江田源三弘基已下の輩、舟を押廻て両方より乗移ければ、行盛、有盛弓をば棄、剣を抜、不(レ)弱(レ)心不(レ)■(レ)命(いのちををしまず)艫舳に廻て散々(さんざん)に戦、首をならべて討死してぞ亡にける。勇兵の振舞尤くぞ覚ける。行盛提婆品を読給(たま)ひける事(有朋下P614)は、父基盛大和守に任じて上洛時、宇治河(うぢがは)のはたに下て、水練して游けるに、水に流て死けり。其後基盛の女房夢に見えけるは、我思かけず宇治左大臣頼長の為にとられて河の底
に沈ぬ、法華経(ほけきやう)にあらずば得道しがたし、追善には提婆品読誦(どくじゆ)書写して廻向せよと見えたりければ、此夢を阿翁入道殿(にふだうどの)に語たれば、不便なりとて福原の経島に御堂を立て、八人(はちにん)の持経者を置て、毎日に法華経(ほけきやう)を転読し、殊に提婆品をば極信に被(レ)読けり。行盛其此は幼少也、成人して是を聞、毎日に不(レ)懈此品をよみ給けるが、今日は未読給はざりけるやらん、又今を最後と思召(おぼしめし)けるにや、最貴哀にぞ覚えける。
源氏の郎等に後藤三範綱は、平家の船に飛入て、弓をば捨て打物抜て走廻けるを、越中次郎兵衛盛嗣、寄合組で重り、上に成下になり、船中を五ころび六ころびしければ、互に刀を抜隙もなかりける処に、盛嗣を助とて悪七兵衛景清、範綱をばさしてけり。前能登守教経は、元来心剛に身健にして、有(二)進事(一)無(二)退事(一)。軍敗ぬと見えければ思切、死生不(レ)知に振舞。是ぞ聞ゆる能登守とて、我先我先にと諍て懸けれ共、少も面も振ず戦。矢ごろに廻者をば指詰々々指詰射けるに、更にあだ矢なし。近付者をば引寄、提て海へ抛入ければ、面を向がたし。太刀にて切は少く水にはまるは多し。前中納言知盛卿是を見て、由なき事し給者か(有朋下P615)な、此輩は皆歩兵にこそ侍める、強に目にたて給べきにあらず、自害をもし給へかしと宣へば、偖は九郎冠者に組とにこそ、其は存る処也。如何がはせんと伺廻処に、判官の船と能登守の船と、すり合て通りけり。能登守可(レ)然とて、判官の船に乗移、甲をば脱棄大童になり、鎧の袖草摺ちぎり捨、軽々と身を認て、何れ九郎ならんと馳廻る。判官
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兼て存知して、兎角違て組じ/\と紛れ行。さすが大将軍と覚て、鎧に小長刀突て武者一人あり。能登守懸(レ)目て、軍将義経と見るは僻事(ひがこと)歟、故太政(だいじやう)入道(にふだう)の弟、門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛の二男に、能登守教経と名乗、にこと笑飛懸る。判官は組では不(レ)叶と思て、尻足踏でぞやすらひける。大将軍を組せじとて、郎等共(らうどうども)が立隔々々しけれ共、除奴原人々敷とて、海の中へ蹴入取入つと寄。既(すで)に判官に組んとしければ、判官早態人に勝たり、小長刀を脇に挟み、さしくゞりて、弓長二つばかりなる隣の船へつと飛移、長刀取直て、舷に莞爾と笑て立たり。能登守は力こそ勝たりけれ共、早態は判官に及ねば、力なくして舟に留あゝ飛たり/\と嘆。其後能登守、今を限と狂廻ければ面を向難し。爰(ここ)に安芸太郎時家と云者あり。是は安芸国住人(ぢゆうにん)にもなし、安芸守が子息にも非ず、阿波国住人(ぢゆうにん)安芸大領と云者が子也。三十人が力持たりと聞ゆ。郎等二人あり、同三十人づつ力あり。時家二人(有朋下P616)の郎等に云けるは、我等(われら)三人心を一にしてくまんには、鬼神と云共負まじ、能登殿強しと云共、やは三人には勝給べき、三人取つて合すれば九十人が力也、私の力態は人の証拠にたゝず、能登守に組で力をも人に知せ、剛の名をも極めんと思ふは如何にといへば、郎等子細にや及べきとて、三人一度に傾(レ)■(しころをかたぶけ)打て懸る。能登守は、源氏の郎等に名もあり力あればこそ教経には懸るらめ、是ぞ軍の最後なると思ければ、閑々(しづしづ)と相待処に、三人鼻を並透間もなくつと寄。一人をば海中へたふと蹴入、二人をば左右の脇に掻挟で、一凍々て、いざおのれら教経が御伴申せ、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)/\(あみだぶつ)とて海の底へぞ沈ける。
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 < 異説には自害云云。 >
宗盛公、子息清宗二人は海にも入ず自害をもせず、船中を兎違角違々行給ければ、侍共余に悪く思て、通様にて海に奉(二)突入(一)。人は鎧の上に碇を置、冑の上に鎧を重て、身を重してゐればこそ沈むに、是はすはだにて、而も究竟の水練也。清宗は父沈給はば我も沈んとおぼし、宗盛は子沈ば我も沈んと思て、二人ながら沈ず、竪ざま横ざま立游、犬游して沈み給はざりけるを、伊勢三郎義盛船を押寄せて、右衛門督(うゑもんのかみ)を熊手に懸て引上。大臣殿此様を見て、態義盛が船近く游寄て、被(二)取上(一)給にけり。飛騨三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経見(レ)是て、何者(なにもの)なれば我君をば奉(レ)取ぞと云て、太刀を抜て打てかゝる(有朋下P617)処に、義盛が童主を不(レ)討と中に隔り戦けるが、童一の刀に甲を被(二)打落(一)て、二の刀に頸を切落されぬ。即義盛に打懸。危見えけるに、堀弥太郎親弘固て放矢に、景経が内甲を射。ひるむ処を親弘弓を捨て得たりと懐く。上になり下になりころびける処を、親弘が郎等落合て、景経が首をとる。此三郎左衛門(さぶらうざゑもん)と云は、大臣殿の乳母子(めのとご)也。目の当見給へば、さこそ悲く覚しけめ。前(さきの)内大臣(ないだいじん)宗盛は、苟も為(二)征夷之将(一)、忽囚(二)匹夫之手(一)、永懸(二)■(そしり)於万人之唇(一)、独残(二)恥於累祖之跡(一)、無慙と云も疎也。
前修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛卿は、船を遁去て入(二)南山(一)、自害して被(二)堀埋(一)にけり。去(レ)難不(レ)去(レ)死、骨を埋共、不(レ)埋(レ)名。
前平中納言教盛、同新中納言知盛卿は、一所に御座(おはしまし)けるが、伊賀平内左衛門(へいないざゑもん)を被(レ)召て、いかに家長
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見るべき事は見つ、先帝を始進せて、一門の人々自害し海に入ぬ、今までも角あれば、強面命を惜むに似たり、大臣殿は如何に成給ぬるやらんと問給。家長涙を流して、大臣殿右衛門督殿(うゑもんのかみどの)二人は、一度に海に入給たりつるを、敵熊手にかけ奉て、二所ながら引上取進せ候ぬ、景経も討死候ぬと申ければ、知盛卿は穴心憂、など深は沈給はざりけるぞと二度宣て、涙をはら/\と流て、今は何をか可(二)見聞(一)、家長日比(ひごろ)の約束はいかにと仰られければ、今更君に離奉て、いづちへ行べきに候はず、御伴なりと申せば、知盛卿余に嬉し(有朋下P618)げに思て、平中納言教盛卿(のりもりのきやう)と冑脱捨て、西に向念仏申て、両人被(二)自害(一)ければ、有国家長已下侍八人(はちにん)、同枕に自害して伏ぬ。知盛卿は不(レ)辱(二)猛将之聞(一)、教盛卿(のりもりのきやう)は不(レ)劣(二)武勇之名(一)、共亡(二)命於西海(一)、互伝(二)誉於東路(一)たる。
 < 一説云、知盛、教盛両人は、腹巻の上に鎧を著、身を重して手を取組、海に入給ければ、侍共八人(はちにん)同続て入にけり。源氏の兵共(つはものども)哀とみる処に、年三十計の男の、木蘭地直垂に黒糸威(くろいとをどし)の腹巻に、二所籐の塗籠たる弓の真中取、甲をも著ず箙も負ず、矢二三執添て、赤銅作の太刀帯て、中納言の海へ入給へるせがいへつと出来、海を睨て立たり。源氏其意をば不(レ)知、目を澄て是を見、あはれよき侍共をば召仕給ける者哉、或ひは虜、或海に沈て、主は一人もなけれ共、事に遇べき事様也、何者(なにもの)に目を懸伺居たるらんと私語(ささやき)見けれども、近付寄者なければ、仕出せる事はなし。良久海を睨て後、弓矢をざぶと投入つゝ、我身も海につと入、又も浮まで沈にけり。こは何としつる事ぞと、取々不審を成けるに、或人の申けるは、此者は一定中納言の侍なり、中納言さる謀賢人にて、身をばよく認て入たりとも、若浮上事もあらば、敵の手に懸ずして汝射殺と約束せられたり
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けると覚る。大臣父子沈もやらで、敵に虜れ給へるをも心憂こそ覚しけめ、さればこそ主の入たる処を睨で、別に子細はなくして共(有朋下P619)に海には沈らめ。哀此人に世を譲たらば、たとひ運の極也とも、都にて如何にも成給なましと、惜まぬ者はなかりけり。 >
赤旗赤符海上に充満て、紅葉を嵐の吹散したるが如し。海水も血に変じて、渚々に寄波、薄紅にして流ける。主を失へる船は、風に随塩に引れて、越路の雁行を乱れるが如、膚を離たる衣は、水に浮波に諍て、蜀江の錦色を洗かと疑る。玉楼金殿の昔の栄花、船中の浪の底、今の有様(ありさま)、思並て哀なり。
 < 元暦二年の春の暮、如何なる年如何なる日ぞ、一人海底に沈、百官水泡と消ゆ。 >
豊後国八代宮の神主に、七郎兵衛尉某と云者父子は、平家に被(レ)催軍しける程に、壇浦の軍敗て遁べき方なし、自害をせばやと思て、子息の大夫を招て、平家ははや亡ぬ、我等(われら)囚〔びと〕に成なば一定可(レ)被(レ)誅、旧里に帰今一度妻子をも見ばやと思、又可(二)自害(一)歟それ計へと云。子息大夫申けるは、我等(われら)必しも平家重代の侍に非、又心より発て軍せず、十善帝王御座とて、被(二)駈催(一)一旦参ず、強に罪深からず、只旧里に返退て、無(レ)■(あやまりなき)由を陳じ申給へ、但只今(ただいま)舟を漕行ば、落人とてよも不(レ)被(レ)生、年来の水練此時にあり、水底を游給へと云。可(レ)然とて鎧物具(もののぐ)脱棄て裸に成、褌かき、父子共水底に飛入て、豊前国柳浦を志て游行。門司が浦より柳浦までは、海の面五十(ごじふ)余町(よちやう)の処也。今二十町計不(二)行著(一)して、父の兵衛尉(有朋下P620)子息大夫を呼返して云、去共と思つれ共、我左の足を引入/\する者あり、今は故郷に游著ん事難(レ)叶、去ばこそ汝にも游後ると云。大夫は疲給たるにこそ、何物(なにもの)
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かは足を引侍べき、只我肩に懸給へといへば、我身こそ死ぬ共、汝をさへ沈めん事不便也、如何にも足が重ければ叶はじと云へば、大夫水底に入て足を捕て見れば、余に周章(あわてて)、髄当の片方の緒をば解て、今片方を不(レ)解けるが、水にしとみて重かりけり。引切て角といへば、さては游んとて、二時計に柳浦へ游上る。宿所に帰て妻子を見悦事極なし。世静て鎌倉に下陳じ申ければ、難(レ)遁罪科なれ共、社官に被(二)咎行(一)事、思へば神慮難(レ)量とて、八十五町の神田相違なく、如(レ)元被(レ)補(二)神主職(一)罷下にけり。
平家亡て、猪俣近平六と、常陸の八田左衛門知家と乗たる船の本へ、つきうす一つゆられ来。機嫌なしと笑けるに、近平六、平家の臼と見ゆる也けりと云。八田知家、年来の憑も今はつきはててと付、人々興に入てぞ笑ひける。
同四月四日、九郎判官義経合戦の次第注進して、以(二)飛脚(一)院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奏申けり。注進状には、去三月廿四日午刻、於(二)長門国壇浦(一)、平氏悉討取、大将軍前(さきの)内大臣(ないだいじん)已下虜、神璽、内侍所、無為可(二)帰入御座(一)、宝剣厳島神主景弘仰、探(二)求海底(一)、虜人、建礼門院(けんれいもんゐん)、若宮冷泉局、大納言典侍(だいなごんのすけ)、帥典侍(そつのすけ)、前(さきの)内大臣(ないだいじん)、前平中納言時忠卿(ときただのきやう)、前(有朋下P621)右衛門督(うゑもんのかみ)清宗卿、前(さきの)内蔵頭(くらのかみ)信基朝臣、前左中将時実朝臣、前兵部少輔尹明、蔵人大夫親房、全真僧都(そうづ)、能円法師、自害人、前中納言教盛卿(のりもりのきやう)、同知盛卿、前修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛卿、〈 登(レ)山自害掘埋 〉前能登守教経、戦死者、前左馬頭(さまのかみ)行盛朝臣、前左少将有盛朝臣、入(二)海中(一)人、
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先帝、准后、八条局、侍虜、美濃守則清、左衛門尉(さゑもんのじよう)信康、阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成良、降人、前安芸守景弘、〈 厳島神主 〉民部大輔(みんぶのたいふ)景信、雅楽助貞経、〈 貞能(さだよし)男 〉伝内左衛門尉(でんないざゑもんのじよう)則長、矢野右馬允家村、同舎弟(しやてい)高村、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)熊代三郎家直とぞ注し申たりける。法皇大に有(二)御感(一)、貴賎悦あへり。使節広綱を御坪に召れて、合戦の次第委有(二)御尋(おんたづね)(一)。叡感の余り広綱左兵衛尉に補す。
同日に徳大寺(とくだいじの)内大臣(ないだいじん)定実、院(ゐんの)御所(ごしよ)六条殿へ被(レ)参たり。以(二)大蔵卿(おほくらのきやう)泰経卿(一)、神鏡神璽は無為に御座。宝剣は厳島神主仰(二)景弘(一)、探(二)求海底(一)之由、義経言上す。虜前(さきの)内大臣(ないだいじん)已下の罪科、何様に可(レ)被(レ)行哉と被(二)仰下(一)ければ、実定畏て、璽鏡事、弁官并近衛司等を雖(レ)可(レ)被(二)指遣(一)、定て及(二)遅怠(一)歟、先為(二)軍将沙汰(一)、奉(レ)渡(二)淀辺(一)事由を奏せば、供奉人等参向して奉(レ)迎之条可(レ)宜歟、生捕の輩が罪の所致、唯可(レ)被(レ)決(二)叡慮(一)かとぞ被(レ)申ける。同五日猶依(二)御不審(一)、北面下揩ノ、藤判官信盛を西国(さいこく)へ被(二)下遣(一)。信盛宿所に不(レ)帰、鞭を上て急馳下る。権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)北方伝聞給(たまひ)ては、賢ぞ身抛給ける、つひの別は同事と云(有朋下P622)ながら、今迄もながらへて角聞なさば、如何計かは悲しからましと、今こそ思知れけれ。
奉(レ)始(二)建礼門院(けんれいもんゐん)(一)、北政所(きたのまんどころ)、帥典侍(そつのすけ)、大納言典侍(だいなごんのすけ)以下、或は討れ或は捕れたる人々北方、上揄コ搗D底に臥まろび、声を調てをめき叫給へり。人目をも見ぬ人々の、不(二)見馴(一)武士の手に懸て、都へ帰上給しは、王昭君が夷の手に被(レ)渡て、胡国へ行し悲さも、争か是には勝るべき。
P1084
抑依(二)諸国七道合戦(一)、公家も武家も騒動し、諸寺諸山も破滅す。春夏は旱魃して、秋冬は大風洪水、適雖(レ)致(二)東作之業(一)、終不(レ)及(二)西収之勤(一)、三月無(レ)雨、寒風起麦黄不(レ)秀、多横はる。九月に霜降て、秋早寒ければ、秋の穂不(レ)熟して青苗皆乾、兵乱打つづきて、口中の食を奪取ば、天下の人民及(二)餓死(一)。僅命を生たる者も、譜代相伝の田地を棄、恩愛慈育の子孫にわかれ、家を出ても身を助けんと逃隠、境を越ても命を生んと迷行ければ、浪人街■(がいく)にさすらひ、愁の音こゝかしこに充満たり。
S4306 安徳帝不(二)吉瑞(一)並義経上洛事
此帝をば安徳(あんとく)天皇(てんわう)と申て、御位を受させ給(たまひ)て、様々の不思議御座(おはしまし)けり。受禅の日は、昼御座御茵の縁、犬食損、夜の御殿の御帳の中に鳩入籠り、御即位の時は、高御厨子の後(有朋下P623)に、女房俄(にはか)に絶入し、御禊(ごけい)の日は、白子帳の前に夫男上居き。惣じて御在位三箇年の間に、天変地震打続て無(レ)隙、諸寺諸山よりさとしを奏する事頻也。堯の日光を失、舜の雨潤なし。山賊、海賊、闘諍、合戦、天行、飢饉、疫病、焼亡、大風、洪水、三災七難残事なし。貞観の旱、永祚の風、承平の煙塵、正暦の疾疫、上代にも有けれ共、彼は其一事計也。此御代の様は不(レ)及(二)伝聞(一)、御裳濯河の御流、懸るべしやと人傾申けり。漢高祖は太公の子、秦王を討て即(レ)位、秦始皇(しくわう)は呂不韋が子、荘襄王の譲を得、舜王は瞽■(こそう)が息堯王天下を任たり。人臣の位を受、猶以帝位を全せり。先帝は人皇八十代帝、高倉院(たかくらのゐん)の后立の皇子に御座(おはしま)せば、天照太神(てんせうだいじん)も定て入替らせ給、正八幡宮(しやうはちまんぐう)も必守護し奉るらんに、いかに角は申けり。是を聞人云、異国には実にさる様し多し、我朝には、人臣の子として位を践事なし、此
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帝高倉院(たかくらのゐん)の后立の皇子と申ながら、故清盛(きよもり)入道(にふだう)、天照太神(てんせうだいじん)の御計をも不(レ)知、高倉院(たかくらのゐん)の御恙もましまさぬに御位を奉(レ)退、推て奉(二)即位(一)。其身帝祖といはれ、非(二)摂政(せつしやう)関白(くわんばく)(一)、恣に天下を執行、君をも臣をも蔑如にし、諸寺仏閣焼払(やきはらひ)、上下男女多亡しかば、人の歎神の怒、末の露もとのしづくに帰る様に、平家の悪行君に帰し、天地の心にも違、冥慮の恵にも背にあり。
 < 不(レ)患(二)位之不(一)(レ)貴、而患(二)徳之不(一)(レ)崇、不(レ)恥(二)禄之不(一)(レ)夥(おほからざるを)、(有朋下P624)而恥(二)智之不(一)(レ)博云といへり。先帝も猶帝徳の至ましまさゞりけるを、入道横に計申たれば、懸る不思議多して天下も不(レ)治、終に亡御座(おはしまし)けりとぞ申ける。 >
同(おなじき)十六日(じふろくにち)、九郎判官義経虜の人々を相具して、播磨国明石浦に著。名にしおふ名所なる上、今夜はことに月隈なくさえつゝ秋の空にも不(レ)劣、深行儘に女房達(にようばうたち)頭さしつどへて、旅寝の空の旅なれば、夢に夢見る心地にて、終夜(よもすがら)打まどろむ事もなし。唯顔に袖を当て、忍音をのみぞ泣れける。時忠卿(ときただのきやう)の北方帥典侍(そつのすけ)、つく/゛\と泣明し給にも、
  雲の上に見しに替ぬ月かげの澄に付ても物ぞ悲き K224 
判官情ふかき人にて、
  都にて見しに替らぬ月影の明石浦に旅ねをぞする K225 
と。帥典侍(そつのすけ)は、妹背の契の悲さに、思残す事もおはせず、時忠卿(ときただのきやう)も虜れて程近く御座なれ共、相見る事もなければ、昔語も恋しくて、
P1086
  詠ればぬるゝ袂(たもと)にやどりけり月よ雲井の物語(ものがたり)せよ K226 
と、時忠卿(ときただのきやう)も、身は所々に隔たれ共、通ふ心なりければ、
  我思(おも)ふ人は波路を隔てつゝ心幾度浦つたふらん K227 (有朋下P625)
と、二人の心中被(二)推量(一)て哀なり。昔北野天神の移され給ふとて、此所に留給(たま)ひ、
  名にしおふ明石の浦の月なれど都よりなほ雲空哉 K228 
と詠じ給(たま)ひける御心の中、帥典侍(そつのすけ)の、月よ雲井の物語(ものがたり)せよの心の中、取々に哀也。故郷に還上る事の嬉しかるべけれ共、指も眤まじき人々、多は水の底に入ぬ。適生残たるは此彼に被(レ)誡、憂名を流す。縦都に上たり共、家々(いへいへ)は一年都落に焼ぬ。何処に落留誰育べきに非ず。雲上の昔の楽、旅枕の今の歎、思も並て、月よ雲井物語(ものがたり)と口ずさみ給(たまひ)て、涙に咽給へば、人皆袖を絞けり。判官は東男なれ共、物めでし情ある人にて、様々慰労けり。
S4307 神鏡神璽還幸事
同(おなじき)二十一日、神鏡神璽還幸事、院(ゐんの)御所(ごしよ)にして議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣(ないだいじん)実定、皇后宮大夫実房、中御門大納言(だいなごん)宗家、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、前源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼、左衛門督実家、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)通親、新藤(しんとう)中納言(ぢゆうなごん)雅長、左大弁(さだいべん)兼光ぞ被(レ)参たりける。頭(とうの)中将(ちゆうじやう)通資朝臣、諸道勘文を左大臣に下しければ、次第に伝下す。左大弁(さだいべん)読(レ)之。群議之趣雖(二)事多(一)、神鏡(有朋下P626)神璽入御事、供奉之人鳥羽に参向して奉(レ)渡(二)朝所(一)、朝所より儀を整て、可(レ)幸(二)大内(一)とぞ、被(二)定申(一)ける。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十四

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緋巻 第四十四
S4401 神鏡神璽都入並三種宝剣事
同(おなじき)二十五日、神鏡神璽入御あり。上卿は権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)経房、参議は宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)泰通、弁左少弁(させうべん)兼忠、近衛には、左中将公時朝臣、右中将範能朝臣也。両将共に壺胡■[*竹冠+録](つぼえびら)を帯せり。職事蔵人(くらんど)左衛門権佐(さゑもんごんのすけ)親雅ぞ供奉しける。四塚より下馬して各歩行す。先頭(とうの)中将(ちゆうじやう)通資朝臣参向して行事す。内侍所、内蔵寮新造唐櫃に奉(レ)納、大夫尉義経、郎等三百騎(さんびやくき)を相具して前行す。御後又百騎候。朱雀北行、六条東行、大宮(おほみやを)北行、入(二)御待賢門(一)、在(レ)著(二)御朝所(一)けり。蔵人左衛門尉(さゑもんのじよう)橘清季、兼て此所に候けり。神鏡神璽は入御あれ共、宝剣は失にけり。神璽は海上に浮けるを、常陸国住人(ぢゆうにん)片岡太郎経春が奉(二)取上(一)けるとぞ聞えし。神璽をば注の御箱と申、国手璽也、王者の印なり、有(レ)習云々。
抑神代より三柄の霊剣あり。天十握剣、天叢雲剣、布流剣是也。十握剣をば羽々斬剣と名。羽々とは大蛇の名也。此剣大蛇を斬ば也。又は蝿斬剣と云、此剣利剣也。其刃の上に居る蝿の、不(二)(有朋下P628)自斬(一)と云事なければ也。素盞烏尊(そさのをのみこと)の天より降り給けるに帯給たる剣也。今石上宮に被(レ)籠たり。天叢雲剣をば草薙剣と云。日本武尊草を薙で、野火を免給へる故也。又は宝剣と云、内裏に留て、代々帝の御宝なれば也。布留剣は、即大和国(やまとのくに)添上郡、礒上布留明神是也。此剣を布留
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と云事は、布留河の水上より一の剣流下。此剣に触者は、石木共に伐砕流けり。下女布を洗て此河にあり。剣下女が布に留て不(二)流遣(一)、即神と奉(レ)祀。故に布流大明神(だいみやうじん)と云。宝剣は、昔素盞烏尊(そさのをのみこと)、天より出雲国へ降給けるに、其国の簸河上山に入給ける時啼哭する音あり、声を尋て行て見れば、一の老公と老婆と、小女を中間に置て、髪掻撫哭し居たり。尊問曰、汝等(なんぢら)誰人ぞ、哭する故いかにと。老公答曰、我は是国津神也、名をば脚摩乳と云、女をば手摩乳と申、此河上の山に有(二)大蛇(一)、年年に呑(レ)人、親を食るゝ子を呑、親子互に相歎て、村南村北に愁の音無(二)絶事(一)、就(レ)中(なかんづく)我に八人(はちにん)の有(二)小女(一)、年々八岐の大蛇の為に呑る、今一人を残せり、貌勝(レ)人、心世に無(レ)類、名をば棄稲田姫と云、又曽波姫とも申、今又大蛇の為に呑れんとす、恩愛の慈悲無(二)為方(一)、別を悲て泣也と申せば、尊憐(レ)之給(たまひ)て、汝が娘命を助けば我にえさせてんやと宣へば、老公老婆手を合て悦。縦怪の賤男なりとも、娘の命を助は不(レ)可(レ)惜、況尊をやと(有朋下P629)て即棄稲田姫を進、即奉(二)后祝(一)。小女湯津、湯津とは祝浄詞也、女を后に祝へば也。浄櫛を御髪にさし給ふ。浄櫛とは潔斎の義也。さて山頂に奉(レ)昇、父老公に八■(はちうん)の酒を被(レ)召。老公出雲国飯石郡長者なれば、取出して奉(レ)之。尊彼酒を八の槽に湛て、后を大蛇の居たる東の山の頂に立て、朝日の光に后の御影を槽の底に移し給たりけるに、大蛇匍匐来れり。尾頭共に八あり。背には諸の木生苔むせり。眼は日月の如して、年々呑人幾千万と云事を不(レ)知。大蛇の八尾八頭、八岡八谷にはびこれり。大蛇此酒を見るに、八の槽中に
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八人(はちにんの)美人あり。実の人と思ひ、頭を八の槽に浸して、人を呑んと思て其酒を飲干。大蛇頭を低て酔臥。尊帯給へる十握剣を抜て、大蛇を寸々に斬給ふ。故に十握を羽々斬と名く。蛇の尾不(レ)切、十握剣の刃少欠たり。恠て割破て見(レ)之、一の剣あり。明なること瑩る鏡の如し。素盞烏尊(そさのをのみこと)是を取て、定て是神剣ならん、我私に安かんやとて、即天照太神(てんせうだいじん)に奉る。太神大に悦まし/\て、吾天岩戸に閉籠し時、近江国胆吹嶺に落たりし剣なりとぞ仰ける。彼大蛇と云は、胆吹大明神(だいみやうじん)の法体也。此剣大蛇の尾に有ける時、常に黒雲聳て覆ける故に、天雲叢剣とは名たり。天照太神(てんせうだいじん)の御孫、天津彦尊を葦原瑞穂国の主とせんとて、奉(二)天降(一)時、八咫鏡、叢雲剣、神璽、三種の神器(有朋下P630)を奉(レ)授、其一也。代々帝の御宝なれば宝剣と云。素盞烏尊(そさのをのみこと)と申は、今出雲国杵築大社是也。
 < 彼老公女を尊に奉る時、潔斎の義にて浄櫛をさす。奉(レ)祝(レ)后湯津しけり。湯は祝の義也、津は詞の助也、天津社、国津社と云が如し。されば今の世までも、斎宮群行の時、帝自斎宮の御額に櫛をさして宣はく、一度斎宮に祝給なば、再都に不(レ)可(二)帰給(一)と仰なるは此故也。又櫛に取なし給けるは、蛇の難を遁んと也。爪櫛には悪者の怖事あるにこそ。
或人醜女に追れて逃けるに、如何にも難(レ)遁して捕れなんとしけるに、懐より爪櫛を取出して打蒔たれば、鬼神其より還ぬ。さてこそ命は延にけれ。今の世までも、抛櫛を取ぬと云は是より始れり。老公女を浄櫛に取成して奉(レ)尊たれば、遁(二)大蛇の難命は延給にけり。娘に櫛をさす事を、今の世の人歌にも、
  かつみれど猶ぞ恋敷わきもこがゆづの爪櫛いかゞさゝまし K229 >
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崇神天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)恐(二)神威(一)御座、同殿不(レ)輙とて、更に剣を改鏡を鋳移、古をば太神宮に奉(二)返送(一)、新鏡新剣を御守とす。霊験全く減らせ給はず。
景行天皇(けいかうてんわう)四十年夏六月に、東夷背(二)朝家(一)、関より東不(レ)静。天皇(てんわう)日本武尊に命じて、数万の官兵差副て東国へ発向す。冬十月朔〈 癸丑 〉日本武尊道に出給ふ。〈 戊午 〉先伊勢太神宮を拝し給ふ。厳宮倭姫命を(有朋下P631)以、今蒙(二)天皇(てんわう)之命(一)、赴(二)東征(一)誅(二)諸叛者(一)。こゝに倭姫命、天叢雲剣を取て日本武尊に奉(レ)授云、慎で無(二)懈事(一)、汝東征せんに、危からん時以(二)此剣(一)防て可(レ)得(二)助事(一)。又錦袋を披て異賊を平げよとて、叢雲剣に錦袋を被(レ)付たり。日本武尊是を給(たまひ)て東向。駿河国浮島原著給。其所凶徒等(きようとら)、尊欺んが為に、此野には麋多し、狩して遊給へと申。尊野に出て、枯野荻掻分々々狩し給へば、凶徒(きようと)枯野に火を放て尊を焼殺さんとす。野火四方より燃来て、尊難(レ)遁かりければ、佩給へる叢雲剣を抜て打振給へば、刃向草一里までこそ切れたりけれ。爰(ここ)にて野火は止ぬ。又其後剣に付たる錦袋を披見るに燧あり。尊自石のかどを取て火を打出、是より野に付たれば、風忽(たちまち)に起て、猛火夷賊に吹覆、凶徒(きようと)悉に焼亡ぬ。偖こそ其所をば焼詰の里とは申なれば、此よりして、天叢雲剣をば草薙剣と名たり。彼燧と申は、天照太神(てんせうだいじん)百王の末帝まで、我御貌を見奉らんとて、自御鏡に移させ給けるに、初の鋳損の鏡は、紀伊国日前宮に御座、第二度御鏡を取上御覧じけるに、取弛して打落し、三に破たるを燧になし給へり。彼燧を錦袋に入剣に被(レ)付たりける也。今の
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世までに、人腰刀に錦の赤皮を下て、燧袋と云事は此故也。日本武尊猶夷を鎮んが為に、これより奥へ入、武蔵国より御船に召、上総へ渡給けるが、浪風(有朋下P632)荒して、御船危かりけるに、旅の御徒然の料に、御志深き下女を相具し給たりけるが、風波は竜神(りゆうじん)の所為也、君は国を治んが為に、遥(はるか)に東夷を平げ給、我争か君を助奉らざらん、童竜神(りゆうじん)を宥んとて、舷に立出て、千尋の海に入にけり。実に竜神(りゆうじん)納受(なふじゆ)ありけるにや、風波即静りぬ。尊其後上総に渡り、夷を随へ給ける。折々(をりをり)には海に入し下女恋しく思召(おぼしめし)出ては、常に我妻よ/\と被(レ)召ける。御片言あつま/\とぞ聞させ給ける。東をあつまと云事は、其よりして始れり。尊東夷の凶賊討平、所々の悪神を鎮給(たまひ)て、同四十三年〈 癸丑 〉に帰上給けるが、異賊の為に被(二)呪咀(一)給(たまひ)て、日本武尊、尾張国よりぬるみほとほり給けるが、いとゞ燃焦るゝ御心地(おんここち)し給ければ、御身を冷さんとて、弓の弭にて地を掘り給たりけるに、冷水忽(たちまち)に湧出て河を流す。これに下浸給(たまひ)て御身を冷給へり。近江国醒井の水と云は是也。去共御悩(ごなう)いとゞ重く成給ければ、是より伊勢へ移給。虜の夷并草薙剣を天神に返進て、御弟の武彦尊を御使にて、天皇(てんわう)に奏し申させ給けり。日本武尊終に崩じ給ふ、御年三十。白鶴と変じて西を指て飛去。讃岐国白鳥明神と顕れ給ふ。草薙剣を、天神より尾張国熱田社に預置。天智天皇(てんわう)七年に、沙門道行と云僧あり。本新羅国者也。草薙剣の霊験を聞て、熱田社に三七日籠て、剣の秘法を行て社壇に入、(有朋下P633)盗出して五帖の袈裟に裹て出。即社頭にして、黒雲聳来て剣を巻取て社壇に送入。道行身
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毛(みのけ)竪て弥霊験を貴、重て百日行て、九帖袈裟に裹て近江国まで帰処に、又黒雲空より下、剣を取て東を指て行。道行取返とて追て行。近江国蒲生郡に大磯森と云所あり、追初森也。道行剣を取返さんとて、此より追初ければ也。行業の功日浅ければこそ角はあれとて、道行又千日行して上、二十五帖の袈裟に裹て出。筑紫に下船に乗て海上に浮み、望既足。又新羅国の重宝と悦程に、俄(にはか)に波風荒して不(二)渡得(一)ければ、如何にも難(レ)叶とて海中に抛入。竜王(りゆうわう)これを潜上て、熱田社へ送進す。末代には又懸者も有なんとて、少も不(レ)替剣を四造具して、社頭の中に被(レ)立たり。一の社官が一人に教授る時、五の指を差上てこれを伝る様あり。其外の人、本剣新剣を不(レ)知といへり。天武天皇(てんわう)朱鳥元年六月〈 己巳 〉天皇(てんわう)病崇。草薙剣を尾張国熱田社に被(二)送置(一)。
 < 此事沙門道行は、天智天皇(てんわう)七年に盗(レ)之。たとひ三年行ひたらば、天智天皇(てんわう)九年歟十年歟の事也。天武天皇(てんわう)朱鳥元年は、十四年を隔たり。此時熱田へ送遣すと。両説不(レ)実、可(レ)決。 >
S4402 老松若松尋(レ)剣事(有朋下P634)
〔去(さる)程(ほど)に〕平氏取て都の外に出。准后持て海中に入給たり共、上古ならば失ざらまし、末代こそ悲けれ。潜する蜑に仰て探り、水練する者入れて被(レ)求けれ共、終に不(レ)見。天神地祇に祈誓し、大法秘法を被(レ)行けれ共無(レ)験。法皇大に御歎あり、仏神の加護に非ずば難(二)尋得(一)とて、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に七日有(二)御参籠(一)、宝剣の向後を有(二)御祈誓(一)。第七箇日に有(二)御夢想(ごむさう)(一)、宝剣の事、長門国壇浦の老松若松と云海士に仰て尋聞召と、霊夢新なりければ、法皇有(二)還御(一)、九郎判官を被(レ)召て、御夢旨に任て被(二)仰含(一)。義経百騎の
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勢にて西国(さいこく)へ下向、壇浦にて両蜑を被(レ)召。老松は母也、若松は女也。勅定の趣を仰含。母子共に海に入て、一日ありて二人共に浮上る。若松は子細なしと申す。我力にては不(レ)叶、怪き子細ある所あり、凡夫の可(レ)入所にはあらず、如法経を書写して身に纏て、以(二)仏神力(一)可(レ)入由申ければ、貴僧を集て、如法経を書写して老松に給ふ。海人身に経を巻て海に入て、一日一夜不(レ)上。人皆思はく、老松は失たるよと歎ける処に、老松翌日午刻計に上。判官待得て子細を問。非(レ)可(二)私申(一)、帝の御前にて可(レ)申と云ければ、さらばとて相具し上洛。判官奏し申ければ、老松を法住寺(ほふぢゆうじの)御所に被(レ)召、庭上に参じて云、宝剣を尋侍らんが為に、竜宮城と覚しき所へ入、金銀の砂を敷、玉の刻階を渡し、二階(にかい)楼門(有朋下P635)を構、種々(しゆじゆ)の殿を並たり。其有様(ありさま)不(レ)似(二)凡夫栖(一)心言難(レ)及。暫惣門にたゝずみて、大日本国(だいにつぽんごく)の帝王の御使と申入侍しかば、紅の袴著たる女房二人出て、何事ぞと尋、宝剣の行へ知召たりやと申入侍しかば、此女房内に入、やゝ在て暫らく相待べしとて又内へ入ぬ、遥在て大地動、氷雨ふり大風吹て天則晴ぬ。暫ありて先の女来て是へと云。老松庭上にすゝむ。御簾を半にあげたり。庭上より見入侍れば、長さは不(レ)知、臥長二丈(にぢやう)もや有らんと覚る大蛇、剣を口にくはへ、七八歳の小児を懐、眼は日月の如く、口は朱をさせるが如く、舌は紅袴を打振に似たり。詞を出して云、良日本(につぽん)の御使、帝に可(レ)申、宝剣は必しも日本(につぽん)帝(みかど)の宝に非ず、竜宮城の重宝也。我次郎王子、我蒙(二)不審(一)海中に不(二)安堵(一)、出雲国簸川上に尾頭共に八ある成(二)大蛇(一)、人をのむ事年々なりしに、
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素盞烏尊(そさのをのみこと)、憐(二)王者(一)孚(レ)民、彼大蛇を被(レ)失。其後此剣を尊取給(たまひ)て、奉(二)天照太神(てんせうだいじん)(一)、景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に、日本武尊東夷降伏の時、天照太神(てんせうだいじん)より厳宮御使にて、此剣を賜ひて下し給(たまひ)し、胆吹山のすそに、臥長一丈の大蛇と成て此剣をとらんとす。去共尊心猛おはせし上、依(二)勅命(一)下給間、我を恐思事なく、飛越通給(たまひ)しかば力及ず、其後廻(レ)謀とらんとせしか共不(レ)叶して、簸川上の大蛇安徳(あんとく)天皇(てんわう)となり、源平の乱を起し竜宮に返取、口に含(有朋下P636)挿絵(有朋下P637)挿絵(有朋下P638)るは即宝剣なり、懐ける小児は先帝安徳(あんとく)天皇(てんわう)也、平家の入道太政大臣(だいじやうだいじん)より始て、一門人皆此にあり。見よとて傍なる御簾を巻上たれば、法師を上座にすゑて、気高上搗エ数並居給へり、汝に非(レ)可(レ)見、然而身に巻たる如法一乗(いちじよう)の法の貴さに、結縁の為に本の質を不(レ)改して見ゆる也、尽未来際まで、此剣日本(につぽん)に返事は有べからずとて、大蛇内に■(はひ)入給(たまひ)ぬと奏し申ければ、法皇を奉(レ)始、月卿(げつけい)雲客(うんかく)皆同成(二)奇特思(一)給(たまひ)にけり。偖こそ三種神器の中、宝剣は失侍りと治定しけれ。
 < 疑崇神天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、恐(二)霊威(一)新鏡新剣を移して、本をば太神宮に被(レ)送といへり。然者(しかれば)壇浦の海に入は新剣なるべし。何んぞ竜神(りゆうじん)我宝と云べきや。次素盞烏命蛇の尾より取出たる時、奉(二)太神宮(一)には、天神の仰に、我天岩戸に有し時、落たりし剣也と仰す。今又竜神竜宮の宝と云。然者(しかれば)竜神(りゆうじん)と天照太神(てんせうだいじん)とは一体異名歟、不審可(レ)決云々。 >
同日夜に入て、故高倉院(たかくらのゐん)の第二宮、都へ帰入せ給。法皇より御迎御車被(レ)進、七条侍従信清御伴に候けり。七条坊城の御母儀(おぼぎ)の宿所へ入せ給ふ。此宮は当時の帝の同御腹の御兄、もしの事あらば儲君まで
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と、二位殿(にゐどの)賢々敷被(二)具進(一)たり。都に御座(おはしまさ)ば、此宮こそ御位にも即せ給べきに、其可(レ)然事なれ共、四宮御運は目出かりけりと人申あへり。今年七歳にならせ給ふ。御心ならぬ旅の空に出て、三年を過け(有朋下P639)れば、御母儀(おぼぎ)も御乳人(おんめのと)持明院の宰相も、■(おぼつかな)く恋しく思奉けるに、事故なく入給(たま)ひたれば、奉(レ)見ては誰々も悦泣してぞ御座(おはしまし)ける。
S4403 平家虜都入附癩人法師口説言並戒賢論師事
同四月二十六日(にじふろくにち)申時に、前(さきの)内大臣(ないだいじん)、前平(へい)大納言(だいなごん)時忠、前(さきの)右衛門督(うゑもんのかみ)清宗已下、虜入洛。内府並清宗卿は同車(どうしや)、八葉の車に前後の簾を巻、左右物見をあぐ。各浄衣を被(レ)著たり。時忠卿(ときただのきやう)同車(どうしや)を遣つづけ給へり。子息の讃岐中将時実は、現所労にて不(レ)渡、内蔵頭(くらのかみ)信基、蒙(レ)疵閑道より入。武士百余騎(よき)車の左右にあり、兵三騎又車の前にあり。内大臣(ないだいじん)は四方を見廻して、痛思入たる無(二)気色(一)、さしも声花に麗しかりし人の、あらぬ貌に疲衰へ給へり。右衛門督(うゑもんのかみ)は、うつぶして目も見挙給はず、深思入たる有様(ありさま)也。貴賤上下都の内にも不(レ)限、近国遠国、山々寺々より、老たるも若も来集て、鳥羽の南の門、造道、四塚、東寺、洛中に充満たり。人は顧事を得ず、車は轅を廻らすに不(レ)及、治承養和の飢饉、東国西国(さいこく)の合戦に、人は皆死亡ぬと思へるに、残は猶多かりけりとぞ見えし。都を出給(たまひ)て、僅(わづか)に三年まぢかき事なれば、其有様(ありさま)一として不(レ)忘、今日の(有朋下P640)事がら夢現分兼たり。心なき賤男賤女までも、涙を流し袖を不(レ)絞者なかりけり。増て馴近付言葉にも懸ん人、さこそは哀と思けめ。年来重恩をも蒙、親祖父が時より伝はりたりける輩も、身の棄がたさに、多く源氏に付たりけれ共、
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昔の好み争か可(レ)忘なれば、袖を覆て面をもたげぬ者も多かりけり。其中に鳥羽里の北、造道の南の末に、溝を隔て白帯にて頭をからげ、柿のきものに中ゆひて、■杖(かせづゑ)など突て十余人(よにん)別に並居たり。乞者の癩人の法師共也。年闌たる癩人の鼻声にて語を聞ば、人の情を不(レ)知、法を乱るをば悪き者とて、不敵癩と申たり。去共此病人達の中にも、不敵たるもあり不敵ならざるもあり、又直人の中にも、善者も不善者もこも/゛\也。世の習人の癖也。此法師加様の病を受たる事此七八年也。当初事の縁有て、文章博士殿に候し時、田舎侍に小文を教られしを聞ば、世は人の持にあらず、道理の持也と云事をよまれき。又清水寺に詣て通夜したりし時、参堂の僧の中に、法華経(ほけきやう)を訓に綴読あり。近付寄て聴聞せしかば、不信の故に三悪道に落と読れき。此内外典に教たる二の事、耳の底に留て明暮忘ず、心の中にたもたれて候ぞ、前世の不信の故、道理を不(レ)知ける罪の報にて、此世まで懸る病を受て候へ共、程々に随は、道理をば背かじと不信ならじと、深く思執て候へば、心中(有朋下P641)をば神も仏もかゞみ給(たまひ)て、本地垂跡(すいしやく)の御誓誠ならば、来世は去共と憑思て候ぞ。就(レ)其も不(レ)及事なれ共思合せらる。此平家の殿原の、世にはやらせ給し有様(ありさま)と、今日の事様と、申ても/\浅増(あさまし)く候。故太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)は、申も恐ある事なれ共、道理を不(レ)知人にて、只我思儘に振舞れし事は、世一の事にあらず、前世の果報也とは思ながら、身の程も顧ず、我身より始て、一家の子孫に至るまで、高官位に推なるのみに非ず、掛も忝帝王院宮を奉(レ)煩、多の上搨Bを殺し流し、余に狂して不信故に、三井寺(みゐでら)
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興福寺(こうぶくじ)を亡し、金銅(こんどう)の大仏をさへ奉(レ)焼。本尊聖教の咎は何か有し、家人眷属に至までも、彼心に叶はんとて、欲をかき恥を忘たりき。皆道理を忘たる振舞と承たりしが、答ぬ事にて、入道殿(にふだうどの)世盛にて失られぬ、取つゞきいつしか数の公達郎等までも都を打出でて、今日はよろづの人の口にのり目をさます、皆道理ゆゑと覚ゆ、文虚言せずとは是也。嫡子にて最愛し給し小松(こまつの)内大臣殿(ないだいじんどの)は、みめも心も能人にて、父の入道の余に僻事(ひがこと)せられしを制し兼て平家の世はこたゆまじ、答ざる父の後まで生て何にかはせん。命をめせと熊野に参て被(レ)祈ければ、程もなく腫物をやまれけれ共、様ありとて療治(りやうぢ)もし給はで死給き。其公達あまた御座(おはしまし)けれ共、一人も刀のさきにかゝらず、心と海に入給けり、今の内大臣殿(ないだいじんどの)の有様(ありさま)(有朋下P642)こそはかなく無慙なれ、其に取ても禁忌敷事を承ぞとよ、入道殿(にふだうどの)の世におはせし時より、妹の建礼門院(けんれいもんゐん)に親しくよりて被(レ)儲ける子を、高倉院(たかくらのゐん)の御子と云なして、王位に即申たりけるとかや、不(レ)及心にも、さも有りけるやらんと覚え候ぞ、去ばこそ受禅の君とて、内侍所なんど申す様々の御守共を取加られて御座ながら、不(レ)持して、かゝるひしめきは出来て候にこそ、此事の起たゞ不信よりなる事也、されば入道殿(にふだうどの)も、臨終浅増(あさまし)くして悪道に堕給けり、今わたさるゝ人々も、生ながら三悪道に堕られたりと覚ゆと云。又並居たる長しき乞者が云様は、御房の宣ふ様に、人と生て仁義を不(レ)顧、恥を不(レ)知者をば人癩と云、聞え給大臣殿に近づきよりて見参をせばやな、恥を不(レ)知人に御座(おはしまし)けるにこそ御座(おはしまし)けれ。一門の殿原は皆海に入給けると聞ゆるに、何とて命の惜かるべき
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ぞ、哀人癩の上昵嘯ゥな、子細なき我等(われら)が同僚にや、但此間の御心は、恐らくは我等(われら)には劣給へり、いざ/\御房達、大臣殿の此前をとほり給はん時車を抑て、辱号かくに爪つひず、勘当かぶるに歯かけずと、拍子で舞踊らんと云。是を聞ける徐人々云けるは、哀也、みめさまこそ禁忌しけれ共、心の至は恥しくも語りたりといへば、又傍に有ける僧の云様は、病は四大の不(レ)調よりも発る、又先業の報ふ事もあり、心は失ぬ事なれば形(有朋下P643)にや依べき、天竺に戒賢論師と云けるは法相唯識の法門(ほふもん)を護法へ受伝へて、大小乗の奥義をきはめ、有空中の三時教をぞ立たりける。知慧の光は一天空を耀し、徳行の水は卒土の塵を潤しけれ共、身に癩病を受て、療治(りやうぢ)に力を失へり、如(レ)無(二)仏天加護(一)、三宝冥助し給ざるか、内外の治術不(レ)及して、即に自殺せんとし給けるに、天人来下して告云、汝深く如来(によらい)の教籍を達すといへ共、業病難(レ)助、釈尊頭痛背痛し給へり、況凡身をや、空く身命を不(レ)捨して、宜仏法(ぶつぽふ)を流布すべし、聖僧震旦より来て、必汝が法を伝受すべしと、戒賢諸天の告に驚、捨身をとゞめて相待処に、玄弉三蔵天竺に渡て謁(二)戒賢論師(一)、五相宗の教を伝たり、然して後に論師浮生の重病を厭て、終に自殺し給けり。覚り深き人なれ共、身あれば必病あり、心あらん者は心を浄く持べき事なれば、加様の乱僧なればとて、心さへ拙かるべきに非ずとぞ語ける。去(さる)程(ほど)に内大臣殿(ないだいじんどの)の車近なるとて、見物の上下色めきければ、武士共雲霞の様に打囲て雑人を払ければ、口立る乞者法師原(ほふしばら)も、蜘蛛子を散して失にけり。法皇は六条朱雀に御車を立て御覧あり。人々多御伴に候
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けり。近く召仕れ奉しかば、御心弱く哀に思召(おぼしめさ)れて、御衣の袖を竜顔にあてさせ給。供奉の人々も只夢の心地にて、現とは不(レ)覚けり。貴も賤も目をも懸てし、詞ばにも懸らばやと(有朋下P644)こそと思あへりしに、今角可(二)見成(一)とは不(レ)測也。真竜失(レ)勢同(二)蚯蚓(一)といへり、此ことわざ誠也けり。一年大臣に成給(たまひ)て拝賀の時、公卿には花山院大納言(だいなごん)を始奉て十二人、中納言四人、三位中将(さんみのちゆうじやう)三人、殿上人(てんじやうびと)には、蔵人頭(くらんどのとう)右大弁親宗以下十六人伴をして、公卿も殿上人(てんじやうびと)も、今日を晴と花を折て■(きらめ)き遣列てこそ有しか。即此平(へい)大納言(だいなごん)、其時は左衛門督にて御座(おはしまし)き。院(ゐんの)御所(ごしよ)より始て参給処ごとに、御前へ召れて御引出物給り、もてなされ給へりし気色、目出かりし事ぞかし。今懸るべしとは不(二)思寄(一)、是やこの楽尽て悲み来なる天人五衰なるらんと、只涙を流しけり。
S4404 大臣殿舎人附女院移(二)吉田(一)並頼朝(よりとも)叙(二)二位(一)事
今日車を遣ける牛飼は、木曾が院参(ゐんざん)の時車遣て、出家したりし弥次郎丸が弟に、小三郎丸と云童也。西国(さいこく)までは仮男に成て、今度上りたりけるが、今一度大臣殿の車をやらんと思ふ志深かりければ、鳥羽にて九郎判官の前に進出て申けるは、舎人牛飼とて下揩フはてなれば、心あるべき身にて候はね共、最後の御車を仕ばやと深く存候、御免有なんやと泣々(なくなく)申ければ、何かは苦かるべきとて免てけり。手を合額を突て悦つゝ、心(有朋下P645)計はとり装束てぞ車をば仕りける。道すがら涙に咽て面をももたげず、此に留つては泣彼に留つては泣ければ、見人いとゞ袖をぞ絞ける。大路を渡して後は、判官の宿所六条堀川(ほりかは)へぞ被(レ)遣ける。物まかなひたりけれ共、露見も入給はず、互に目を見合て、たゞ涙をのみ
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ぞ流し給ける。夜に入けれ共装束もくつろげず、袖片敷て臥給へり。暁方に板敷のきしり/\と鳴ければ、預の兵奇て、幕の隙より是を見れば、内大臣(ないだいじん)子息の右衛門督(うゑもんのかみ)を掻寄て、浄衣の袖を打きせ給けり。右衛門督(うゑもんのかみ)は今年十七歳也。寒さを労給はんとて也。熊井太郎、江田源三など云者共是を見て、穴糸惜や、あれ見給へ殿原、恩愛の慈悲ばかり無慙の事はあらじ。あの身として単なる袖を打きせ給たらば、いか計の寒を禦べきぞや、責ての志かなとて、猛きもののふなれ共皆袖を絞けり。建
礼門院(けんれいもんゐん)は、東山の麓吉田の辺に、中納言法橋慶恵と申ける奈良法師の坊へぞ入らせ給(たま)ひける。住荒して年久成にければ、庭には草高く、軒には垣衣繁、簾絶て宿顕なれば、雨風たまるべくもなし。昔は玉の台を瑩、錦の帳に纏れて、明し暮し給しに、今は悲人々には皆別果ぬ。浅増気なる朽坊に、只一人落著給ける御心中、被(二)推量(一)て哀也。道の程伴なひ進せける女房達(にようばうたち)も、一所に候べき様もなければ、是より散々(ちりぢり)に成ぬ。御心細さにいとゞ消入様に被(二)思召(一)(おぼしめされ)け(有朋下P646)り。誰憐誰孚むべし共思召(おぼしめさ)ねば、魚の陸に上りたるが如、鳥の子の栖を離たるよりも尚悲し。憂かりし波の上船の中、今は恋しくぞ思召(おぼしめし)出ける。同底のみくづと成べき身の責ての罪の報にや、被(二)取上(一)残留てぞ思召(おぼしめす)も哀也。天上の五衰の悲みは、人間にも有けりとぞ見させ給ける。
同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)、主上閑院より内裏に行幸有けり。大納言(だいなごん)実房卿以下ぞ被(二)供奉(一)ける。内侍所、神璽、官庁より温明殿(うんめいでん)へ被(レ)奉(レ)渡。上卿、参議、弁次将、皆もとの供奉人なりけり。三箇日被(レ)行(二)臨時御神楽
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(一)けり。三条大納言(だいなごん)実房卿参、件座著て、大外記頼業を召て、源(みなもとの)頼朝(よりとも)、追(二)捕前(さきの)内大臣(ないだいじん)(一)賞に叙(二)従二位(じゆにゐ)(一)由、可(レ)仰(二)内記(一)とぞ仰給ける。頼朝(よりとも)本位正下四位(しゐ)也。勲功の越(レ)階常例也。
S4405 宮人曲内侍所効験事
二十九日、国忌なりければ御神楽被(レ)止、五月一日に又被(レ)行ける。宮人曲多好方仕ければ、勧賞には、子息右近将曹好節を被(レ)任(二)将監(一)けり。宮人の曲と云は、好方祖父八条判官資忠と云々。舞人の外は知者なし。堀川院(ほりかはのゐん)ばかりにぞ奉(レ)授たりける。資忠は山村政連が為に被(レ)殺ければ、此曲永世に絶なんとしけるを、内侍所の御神楽被(レ)行と(有朋下P647)て、堀川院(ほりかはのゐん)、資忠が子息近方を砌下に召置れて、主上御簾の中にして拍子をとらせ給(たま)ひ、近方に被(二)授下(一)けり。父に習ひたらんは尋常の事也。苟孤子として父にだにも不(レ)習者が、懸る面目を施す、道をただしと思召(おぼしめし)、絶たるを継廃れたるを興給へれば、其より以来今に伝(二)彼家(一)。内侍所は、昔天照太神(てんせうだいじん)天岩戸に御座(おはしまし)ける時、我御形を移留給へる御鏡也。捧(二)天神手於宝鏡(一)天忍穂耳尊に授給(たまひ)て云、我子孫此宝鏡を視しては、必我を見と思へ、同殿に床を一にして奉(レ)祝とて奉(レ)授より次第に相伝へて、一御殿に有(二)御座(一)けるを、第十代帝崇神天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に及で、恐(二)霊威(一)給(たまひ)て被(レ)奉(レ)遷(二)別殿(一)、後には温明殿(うんめいでん)にぞ御座(おはしま)す。遷都の後百六十六年を経て、村上天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)天徳四年九月二十三日子刻に、内裏焼亡。火は左衛門陣より出来たりければ、内侍所の御座温明殿(うんめいでん)も程近かりける上、如法夜半の事なれば、内侍も女官も不(二)参会(一)、内侍所をも不(レ)奉(レ)出。小野宮急参給(たまひ)て見給へば、温明殿(うんめいでん)ははや焼けり。内侍所も焼させ給ぬるにや、代は角にこそと思召(おぼしめし)、涙を流し給ける程に、
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灰燼上にして奉(二)見出(一)たりけるに、木印一面其文に、天下太平の四字ありけり。又南殿の桜の梢に飛かゝらせ給たりけるが、光明(くわうみやう)赫奕として朝日の山端を出づるが如し。代は猶不(レ)失けりと悦の涙関敢給はず、右の膝を突左袖を披て、昔天照太神(てんせうだいじん)為(レ)奉(レ)(有朋下P648)守(二)百皇(一)移し留給へる御鏡也。御誓未(二)改給(一)者、神鏡実頼が袖に宿入らせ給へと被(レ)仰ける。御言の未(レ)終に、高梢より飛下らせ給(たまひ)て、御袖に入せ給へり。即つゝみ奉て御前を進で主上の御在所、太政官の朝所へぞ被(二)渡進(一)ける。猛火の中にして無(二)損失(一)けるこそ霊験掲焉と覚ゆれ。今の代には、誰人か請じ奉らんと可(二)思寄(一)、神鏡も飛入せ給はん事そも不(レ)知、上代は目出かりけりと、身毛(みのけ)竪て貴かりけり。
S4406 時忠卿(ときただのきやう)罪科附時忠聟(二)義経(一)事
同五月三日、頭弁光雅朝臣仰承て、内大臣(ないだいじん)実定に被(レ)問けるは、依(二)時忠卿(ときただのきやう)申状(一)、奉(二)扶持(一)先帝、同(二)意謀叛臣(一)畢、令(レ)被(レ)行(二)所当罪(一)之条、更無(レ)所(二)遁申(一)、但於(二)内侍所(一)者、前(さきの)内大臣(ないだいじん)、入(レ)海時可(レ)奉(レ)投(二)海中(一)之由、再三雖(レ)示(レ)之、奉(レ)捧(二)頭上(一)帰降畢、此雖(レ)為(レ)扶(レ)命、又非(二)微忠(一)哉、今度被(レ)免(二)罪科(一)、剃髪染衣と望申之間、内侍所事、被(レ)尋(二)義経(一)之処に、有(二)其実(一)之由所(二)言上(一)也。何様に可(レ)被(レ)行哉、可(二)計申(一)之由被(二)仰下(一)ければ、実定返事被(レ)申けるは、虜の人々の罪科の所(レ)致如(二)臣下(一)、非(レ)可(二)計申(一)、可(レ)被(レ)決(二)叡慮(一)之由、先日申入畢。但於(二)時忠卿(ときただのきやう)(一)者、非(二)武勇人(一)、任(二)申請(一)被(二)優怒(一)之条、尤可(レ)為(二)善政(一)(有朋下P649)歟とぞ被(レ)申たりけれ共、院宣の御使花方が鼻をそぎ、本鳥切などして、己(おのれ)にするに非と狼藉申振舞たりけるに依て、遂に流罪に定にけり。此時忠卿(ときただのきやう)、子息讃岐中将時実も、判官の宿所近く
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おはしけり。心猛人也。かほどに成ぬる上は思切べきに、尚も命の惜く思けるにや、中将に語て、如何がはすべき、散すまじき状共を入たる皮籠を一合判官に取れたり、彼状共鎌倉に見えなば、損する者も多、我身も難(レ)遁(レ)死と歎給。中将計申、判官は大方も情ある上、女などの打堪歎事をばもちはなれずと承侍、懸る身々と成ぬれば非(レ)可(レ)苦、親成給へかし、さらばなどか情をもかけざらんと云。時忠卿(ときただのきやう)涙をはら/\と流して、我世に在し時は女御后にもと思て、なみ/\の人に見せんとは不(レ)思とて袖を顔に当給へば、中将も同涙を流して、今は云に甲斐なし、只疾計ひ給べしと宣(のたま)ひければ、当時の北方帥典侍(そつのすけ)の腹に、今年十八になる姫君の不(レ)斜(なのめならず)厳をぞ中将は申けれ共、其をば猶労く覚して、先腹に二十八に成給へるを、内々人して風めかしければ、判官も可(レ)然とて迎取ぬ、年こそ少し長しく侍けれ共、清たわやかに、手跡うつくしく、色情ありて声花なる人也。判官志深く思ければ、本妻河越太郎重頼が女も有けれ共、是をば別の方をしつらひて居たり。中将の計少しも不(レ)違、やゝ相馴て後、彼文箱の事申た(有朋下P650)りければ、判官封を不(レ)披返送けり。大納言(だいなごん)大に悦て、坪中にして焼(レ)之。何事にか有けん、悪事共の日記とぞ聞えし。
S4407 頼朝(よりとも)義経中悪附屋島内府子副将亡事
〔去(さる)程(ほど)に〕平家は北国西国(さいこく)度々の合戦に亡ぬ。前(さきの)内大臣(ないだいじん)以下被(レ)虜ぬ。今は国々も鎮て、人の行通も無(レ)煩。都の上下安堵したりければ、九郎判官神妙(しんべう)也と法皇被(二)思召(一)(おぼしめさる)。洛中の男女、哀此人の世にて侍れかしと云と鎌倉に披露有ければ、源二位宣(のたま)ひけるは、九郎が高名何事ぞ、以(二)頼朝(よりとも)謀(一)軍兵を指上せて平家を亡し
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天下を穏にす、九郎一人して争か世をば可(レ)鎮、其に法皇の叡慮も不(二)心得(こころえ)(一)、人の云に誇て、世をば我儘に計たるにこそ、早晩しか人こそ多けれ、時忠の聟に成て、彼大納言(だいなごん)をもてあつかふなるも無(レ)謂、又世に恐をなさず、時忠九郎を聟に取も不思議也、此定ならば、九郎鎌倉へ下ても、過分の事共計ん歟、存外々々と宣(のたまひ)ければ、始終中よからじ、世の乱とは成なんと私語(ささやき)けり。
同七日前(さきの)内大臣(ないだいじん)以下虜共、九郎判官義経相具して、関東下向すべしとてひしめきあへり。六日晩に大臣判官に宣(のたまひ)けるは、虜の中に八歳になる小童は、宗盛が末子に侍、誠や明日 (有朋下P651)関東下向と聞侍り、彼小童今一度見たく侍り、免し給なんやと被(レ)仰ければ、判官最安事なりとて、奉(レ)免(レ)之。此児をば判官の兄公に、河越小太郎茂房預て宿所に奉(レ)置。介錯に少納言殿、乳母(めのと)に冷泉殿とて、二人の女房つき奉、はては如何にと見なさんと、若君を中にすゑ奉て旦暮泣歎けり。理也。血の中より手を離たず、八歳まで生立たれば、親をも捨都をも隔て、倦旅の空波の上までも付奉て、今虜れて見馴し父にも引別、恐しき夷中に御座(おはしまし)ければ、歎思も哀也。六日晩程に判官の使とて、少人急度奉(レ)具と申たれば、二人の女房は、穴心憂や、朝鎌倉へと聞に、今夜可(レ)奉(レ)失にこそとて、足手を摺てをめき叫。いづくにあらば可(レ)遁ならね共、左右の袂(たもと)に取付て、悶焦も哀也。既(すで)に出ければ、二人の女房も相連て出たるが、涙にくれて行空も見ず。大臣殿は此間恋しく覚しけるに、若君父を奉(レ)見、急冷泉殿が手を下て、膝上に居給へり。大臣はいかに副将々々とて、髪掻撫はら/\と泣給へば、右衛門督(うゑもんのかみ)二人の女房、共に涙を
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流けり。内大臣(ないだいじん)やゝ有て、涙の隙に仰られけるは、あの右衛門督(うゑもんのかみ)、三歳と申侍る時母には後候ぬ、其後是が母を相具して侍しか共、右衛門督(うゑもんのかみ)七に成まで子もなかりしかば、人の孤子は無慙なる者をと思て、厳島社に参て祈申侍りし程に、明神の御利生に懐妊したりしかば、母(有朋下P652)も不(レ)斜(なのめならず)悦て、同は男子にて侍れかしと申し程に、難産せし間、数の宝を抛て仏神に祈申しかば、此子を生たりしか共、母は命生べき様もなし、よわ/\しく成て、七日と申ししに、既(すで)に限と見え侍しに、母が申し事思出て無慙に候。我身まかりなば、人は齢若ければ、定て人を語、子をも儲給べし、其は尋常の事なれば恨に非ず、此子出来て、幾程もなく無(レ)墓ならん事の悲さよ、人は不(レ)来子をば申まじかりけり。身まかりて後は、相構て我孝養には、別に仏事功徳をば営給はず共、此子不便にせよ、なさぬ中は愛する事と聞見侍れば、七歳の少人をも情を懸て過しき。此事を思に、後世の障と成ぬべしと口説侍しかば、人一人が子ならばこそ角は仰られめ、何も宗盛が子也。な歎給そ、三にならば袴著せ、五にて元服(げんぶく)せさせ、能宗となのらせて兄弟左右におきて、人々の忘形見にみんずれば、心苦しく思給な、夫妻に縁なき身也、今は男聖して二人の者を育んずれば、更に疎の事有まじと申しかば、偖は嬉き事哉、哀さらんを見て死ばや、能宗よ/\、いとゞ命の惜ぞと、是を最後の言にて消入侍き。母が云置し事、よに無慙に侍りしかば、つかの間も突て、朝夕前にて生立侍りき。おとなしく成儘に、よに宗盛に似たりと申せば、いとゞ不便に覚えて、哀これを母に見せばや、さしもこそ歎しにと思侍。(有朋下P653)是を副将と申
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事は、小松内府薨じて、入道世を我に譲りしかば、右衛門督(うゑもんのかみ)は嫡子なれば、大将軍して東国を知せん、是は弟なれば、副将軍とて西国(さいこく)を知せんと存じて、副将々々と申侍ける兼言こそはかなけれとて、浄衣の袖にかゝへ給、髪掻撫てさめ/゛\と泣給ふ。右衛門督(うゑもんのかみ)も二人の女房も、声を不(レ)惜をめき給へば、上下品こそ替共、子は悲事なれば、さこそ覚すらめとて、武士も袂(たもと)を絞けり。若公此有様(ありさま)を見給(たまひ)て、浅増(あさまし)げにぞ覚して、みろ/\とかいを造給ふぞ糸惜き。夜も漸く深ければ、内大臣(ないだいじん)今はとくとく帰れ、嬉しく見つと宣へば、ひし/\と浄衣の袖に取付て泣給ふ。大臣は穴無慙、終につれはつまじき者をとて御涙(おんなみだ)に咽、無(二)為方(一)ぞおはしける。右衛門督(うゑもんのかみ)泣々(なくなく)、今夜は是に見苦き事あるべし、帰て明日とく/\よと宣へ共、父の膝の上を離給はざりければ、兎角すかして押のけ奉る。乳母(めのと)冷泉殿懐取、少納言局と泣々(なくなく)出ければ、内大臣(ないだいじん)は日比(ひごろ)の恋しさは事の数にも侍ず、今を限の別こそとて、袖を顔に押あて給ふぞ糸惜き。判官は河越小太郎茂房を召て、此少者をば夜中に可(レ)失と宣へば、茂房仰承て、駿河次郎と云中間を相具し、二人の女房に懐せて、六条を東川原までこそ出にけれ。今は奉(レ)失べきにこそ、本の宿には帰ぬ方へ行事よと、肝胸騒て現心なし。六条川原に敷皮しき、乳母(めのと)の女房の手よ(有朋下P654)り武士懐きとらんとしければ、二人の女房可(二)惜遂(一)あらね共、永別を悲て、共にかゝへて不(レ)放(レ)之、唯悶焦てをめき叫。さすが岩木をむすばぬ身成ければ、武士も涙を流て、無(二)左右(一)不(レ)取(レ)之、夜も既深ければ、さのみは如何がとて若公を奪取、鎧の上に懐つゝ、二人女房を押
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隔れば、若公あまり恐ろしさに声を挙て、冷泉殿はなきか少納言殿はなきか、我をば畏しき者に預ていづくへ行ぬるぞ、恐々と叫ければ、二人女房も遥(はるか)に是を聞、石上に臥倒てをめきけり。駿河次郎布革のそばに寄、腰刀を抜出して既指殺んとしければ、穴畏し、冷泉殿是いかにせん、少納言殿とて、敵の鎧の袖下に■(はひ)入て、ひし/\とこそ懐付けり。余に悲思ければ、刀の立所も不(レ)知けり。主命力及ねば、目を塞歯をくひ固て、心先三刀指て押退つゝ穴を堀、川原に埋て武士は帰にけり。二人女房は猶留て、指爪のかけ損ずるをも不(レ)顧、空き骸を堀起し、引上中に置、手取足取いかに/\と叫けり。責ての思の余に身を懐き、河の耳を下に行、八条が末に深き所の有けるに、冷泉殿若公の身我身に結びつけ、少納言局と手を取組て、水に沈て死にけり。
S4408 女院出家附忠清(ただきよ)入道(にふだう)被(レ)切事(有朋下P655)
同八日建礼門院(けんれいもんゐん)、吉田辺にて御餝下させ給、御戒師は長楽寺の阿証坊印西上人とぞ聞えし。御布施は先帝の御直衣なりけり。上人給(レ)之、申出せる詞はなくして涙を流す。墨染の袖も絞計也。其期まで召れたりければ、御移香も未残。西国(さいこく)より御形見とて、いかならん世までも御身をはなたじと思召(おぼしめ)されて、朝夕取出して御覧じけれ共、可(レ)成御布施物のなき上、殊に御菩提の御為にとて、泣々(なくなく)御自これを取出させ給けるぞ悲き。上人庵室に帰、十六流の幡に縫、長楽寺常行堂に被(レ)懸たり。阿証坊の印西と申は、柔和を性に受、慈悲の心深し。釈尊平等の思に住し、菩薩抜苦の恵あり。世の人のことわざに、知慧第一法然坊、持律第一葉上房(えふしやうばう)、支度第一春乗房、慈悲第一阿証坊といはれけり。されば
P1108
同追善と云ながら、先帝の御事、奉(二)深思入(一)、道場荘厳の旗に被(レ)懸けり。縦沈(二)蒼海之底(一)、雖(レ)受(二)修羅之苦患(一)、豈生(二)白蓮之上(一)、不(三)誇(二)菩提之快楽(一)やと、憑しくぞ覚えける。女院は御年十五にて入内ありしかば、十六にて后妃の位にそなはり給き。二十二にて皇子誕生(たんじやう)、いつしか立(二)皇太子(一)給(たまひ)て、程なく位に即せ給しかば、二十五にて院号ありき。入道大相国(たいしやうこく)の御女(おんむすめ)の上、天下国母にて御座(おはしまし)しかば、世の重く奉(レ)仰事理にも過たり。今年は二十九にぞ成給へる。桃李粧濃、芙蓉形衰給はね共、高倉院(たかくらのゐん)(有朋下P656)にも後させ給ぬ。先帝も海に入給(たまひ)て、御歎打続き晴る御事なければ、翡翠の簪、今は付ても何かはせさせ給べきなれば、御様(おんさま)を替させ給へり。憂世(うきよ)を厭ひ真の道にいらせ給へ共、御歎は休まらず。人々の今はかうとて海に入し有様(ありさま)、先帝の御面影、いかならん世にかは可(二)思召(おぼしめし)忘(一)。はかなき露の命と云ながら、何に懸て消やらざるらんと思召(おぼしめし)つゞけては、御涙(おんなみだ)にのみぞ咽給ふ。五月短夜なれ共明し兼させ給へり。露まどろませ給ふ御事なければ、昔の御有様(おんありさま)を夢にだにも御覧ぜず、壁に背たる残燈影幽に、暗き雨の窓を打音も閑なり。上陽人が上陽宮に被(レ)閉たりけん悲しみも有(レ)限、寂さは争か是には過じとぞ思召(おぼしめす)。昔を忍妻となれとや、本の主の移し植たりける軒近き盧橘に、風なつかしくかをりける。折しも郭公の鳴渡ければ、角ぞ思召(おぼしめし)つゞけける。
  郭公花たちばなの香をとめて啼けば昔の人や恋ひしき K230 
大納言典侍(だいなごんのすけ)聞給(たまひ)て、
P1109
  猶も又昔をかけて忍べやとやふりしに軒に薫るたちばな K231 
女房達(にようばうたち)多くおはしけれ共、二位殿(にゐどの)の外は水の底にも沈人なし。武士の手に捕れて故郷に帰上たれ共、住馴し宿も煙と昇し後は、空き跡のみ残て滋野辺と成、そこはかとも(有朋下P657)不(レ)見けり。適見馴し人の問来もなし。謬て仙家に入りし樵夫が、里に出て七世の孫に逢たれ共、誰と咎めざりけんも角やと覚ていと悲し。されば若も老たるも様を替形を窄て、在にもあらぬ有様(ありさま)にて、不(二)思懸(一)谷の底にも柴の庵を結。岩の迫に赤土の小屋を修て、露の命を宿しつゝ、明し暮すぞ哀なる。昔は雲台花閣の上にして、詩歌管絃に興ぜしに、今は人跡絶たる朽房に、友なき宿を守御座(おはしま)せば、会坂の蝉丸が、藁屋の床に独居て、宮も藁屋もはてしなければと読けるも、今こそ被(二)思召(一)(おぼしめされ)けれ。此大納言佐(だいなごんのすけ)と申は、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の北方、邦綱卿(くにつなのきやう)の御女(おんむすめ)、先帝の御乳母(おんめのと)にておはしけり。重衡一谷(いちのたに)にて虜られて京へ上給しかば、旅の空に憑もしき人もなくて、歎悲み給にしか共、先帝につき進せて西国(さいこく)におはせしが、水に入せ給にしかば、故郷に還上て、建礼門院(けんれいもんゐん)につき進せて、暫は吉田に候はれけれ共、其も幽なる御有様(おんありさま)にて可(レ)叶もなければ、姉にておはする人、大夫三位に同宿して、日野と云所におはするを憑て移居給へり。重衡卿(しげひらのきやう)も露命未(レ)消と聞給へば、いかゞして今一度見もし見えもすべきと思召(おぼしめし)けれ共、風の便の言伝をだに聞給はねば、唯泣より外の事なくして、明し暮し給ふぞ糸惜き。同(おなじき)十日、上総入道忠清(ただきよ)をば、姉小路川原にして、河越小太郎茂房斬(レ)首。遂に遁ざりけるに、命を惜みて降人になりて、斬られに(有朋下P658)けるこそ無慙なれ。


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十五

P1110(有朋下P659)
裳巻 第四十五
S4501 内大臣(ないだいじん)関東下向附池田宿游君事
去七日は、九郎判官、前(さきの)内大臣(ないだいじん)以下の虜共相具して、都を立て、六条堀川(ほりかは)の宿所を打出けるに、大臣武士を召て、此に在し少者は母もなし、我も下りなば憑もしき者もなくて、いか計かは歎侘侍らん、残し留るこそ心苦く侍れ、相構て不便にし給へと宣も敢ず、御涙(おんなみだ)を被(レ)流けるぞ哀なる。夜部六条川原にて失たるをば知給はず、角宣(のたまひ)けり。猛き夷なれ共、恩愛の道は哀也と、皆袖をぞ絞りける。角て内大臣(ないだいじん)父子、美濃守則清以下、都を出給(たまひ)て会坂関にかゝり、都の方を顧給(たまひ)て、いつしか大内山も隔ぬと、流す涙を袖に裹、東路や今日ぞ始て踏見給(たまひ)て、昔蝉丸と云し世捨人、山科や音羽里に居をしめ、此関の辺に藁屋の床を結びて、常に琵琶を弾つゝ、和歌を詠じて思をのぶ。
  これや此ゆくも帰るも別れてはしるもしらぬも逢坂の関 K232
  世中はとても角ても有ぬべし宮も藁やもはてしなければ K233 (有朋下P660)
流泉啄木の二曲を伝んとて、博雅三位三年まで、夜々(よなよな)通し所也と思出給にけり。蝉丸は延喜第四宮なれば、此関のあたりをば、四宮河原と名けたり。東三条院(とうさんでうのゐん)石山寺に詣給(たまひ)て、還御に関の清水を過させ給ふとて、
P1111
  あまた度ゆきあふ坂の関水をけふを限のかげぞ恋しき K234 
と詠じさせ給(たま)ひしも、我身の上とぞ思召(おぼしめす)。関山関寺打過て、大津の打出浦に出ぬれば、粟津原とぞ聞給ふ。天智天皇(てんわう)六年に、大和国(やまとのくに)明香岡本の宮より、近江国志賀郡に被(レ)遷て、大津宮を被(レ)造ける所にやと思召(おぼしめし)つゞけつゝ、湖水遥(はるか)に見渡せば、跡定めなき蜑小舟、世に憂我身にたぐひつゝ、勢多長橋轟々と打渡、野路野原を分行て、野州の河原に出にけり。三上嵩を見給へば、緑冷山陰(やまかげ)の、麓の森に神住、三上明神と名付たり。此神と申は、第四十四代御門、元正天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、養老年中に天降、日本(につぽん)第二の忌火にて、此所にぞ住給ふ。能宣と云れし者こそ社に詣つゝ
  ちはやぶる三上の山の榊葉は昌ぞまさる末の代までも K235 
と詠じける、思出して羨しくこそおぼしけめ。篠原堤、鳴橋、駒を早めて打程に、今日は鏡に著給。昔七翁の老を厭ひて、(有朋下P661)
  鏡山いざ立寄てみてゆかん年経ぬる身は老やしぬると K236 
詠じけるをも思出して武佐寺を打過ぎて、老曽杜をば心計に拝しつゝ、小野細道露払ひ、醒井宿を見給へば、木陰涼しき岩根より、流るゝ清水冷や。何事に付ても心細くぞ被(レ)思ける。美濃国関山に懸れば、細谷川水音すごく、松吹風に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路に、関の萱屋の板庇、年経にけりと覚えたり。杭瀬川をも打渡、萱津の宿をも過ぬれば、尾張国熱田社に著給。此明神と申は、景行天皇(けいかうてんわうの)
P1112
御宇(ぎよう)に、此砌(みぎり)に跡を留、和光(わくわう)の恵を垂れ給ふ。一条院御時、大江雅衡と云博士、長保末の比当国守にて、大般若を書写して此社にて供養をとぐ。其願文に云、
我願既満、任限亦満たり。故郷に帰登、其期不(レ)幾。と書たりけん事こそ浦山敷(うらやましく)は覚しけれ。鳴海潟、塩路遥眺れば、磯打波に袖を濡し、友なし千鳥音信(おとづ)れり。二村山を過ぬれば、参川国八橋を渡給ふ。昔業平が劇草の歌読たりけるに、皆人袖の上に涙を流しける所と覚しけるも、御涙(おんなみだ)関敢給はず。矢矯宿(やはぎのしゆく)をも打過、宮路山をも越ぬれば、赤坂宿と聞えけり。参河川入道大江定基が、此宿の遊君力寿と云に後れて、真の道に入事も、あらまほしくや思召(おぼしめし)けん。高師山をも過ぬれば、遠江橋本(有朋下P662)宿に著給。眺望殊に勝たり。南は巨海漫々として蜑船波に浮。北は湖水茫々として人屋岸に列れり。磯打浪繁ければ、群居る鳥も声■(いそがは)し。松吹風高ければ、旅客睡覚易し。浜名の橋のあさぼらけ、駒に任て打渡り、池田宿の長庚に、今夜は是に宿を取。侍従と云遊君あり、情深き女にて、終夜(よもすがら)旅をぞ奉(レ)慰。内大臣(ないだいじん)は憂身の旅の空なれば、目にも懸給はね共、女は前なる畳に副臥て明しけり。侍従暇申て帰るとて、
  東路のはにふのこやのいぶせさに故郷いかに恋しかるらん K237 
内大臣(ないだいじん)優しく思召(おぼしめし)て、
  故郷も恋しくもなし旅の空都もつひの栖ならねば K238 
P1113
侍従と云遊君は、此宿の長者湯谷が女也。内に入て今夜の御有様(おんありさま)、歌の返事まで細やかに語ければ、母湯谷哀に思て、紅梅檀紙を引重て、文を書て奉(二)右衛門督(うゑもんのかみ)(一)。取次奉(レ)父たれば、是を披見給ふに一首あり。
  もろ共に思召(おぼしめし)てしぼるらし東路にたつころもばかりぞ K239 
大臣是にや慰み給けん返事あり。
  東路に思ひ立ぬるたび衣涙に袖はかわくまぞなき K240 (有朋下P663)
右衛門督(うゑもんのかみ)聞給(たまひ)て、
  三年へし心尽の旅寝にも東路ばかり袖はぬらさじ K241 
明ぬれば天竜河を渡り給に、水増ぬれば船を覆すと聞給にも、西海の波上被(二)思出(一)けり。彼巫峡の流れ、我命の危き事も思列て、小夜中山に懸ぬ。南は野山谷より峯に移る路、雲を分て入心地して、尾上の嵐も最冷じ。菊川宿打過て、大井河を渡つゝ、宇津山にも成ぬ。昔業平が都鳥に言伝けん、何所なるらん、彼鳥もあらば言伝しまほしく思召(おぼしめし)、清見関に懸りては、昔朱雀院の御時、将門(まさかど)追討の為にとて、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)が奥州(あうしう)へ下りしに、民部卿忠文が、漁舟火影寒焼(レ)波、駅路鈴声夜過(レ)山と云へりし唐歌を詠じける昔の跡ぞ床敷。田子浦を過行ば、富士高峯を見給に、時わかぬ雪なれど、皆白平(しろたへ)に見渡、浮島原に著ぬ。北は富士たかね也、東西は長沼あり、山の緑陰を浸して、雲水も一也。葦分小舟竿刺て、水鳥心を迷せり。南は海上漫々として蒼海渺々たり。孤島に眼遮て、遠帆幽に列れり。原には藻塩
P1114
の煙片々として、浦吹風に消上る。昔は海上に浮て、蓬莱の三島の如なりければ、浮島とも名付たり。駿河国、千本松原打過て、伊豆国(いづのくに)三島社に著給ふ。此宮は伊予三島を奉(レ)祝、天下旱魃して禾穂青ながら枯けるに、伊予守実綱が命に(有朋下P664)挿絵(有朋下P665)挿絵(有朋下P666)より、能因入道が、
  天くだるあら人神(ひとがみ)の神ならば雨下り給へ天くだる神 K242 
と読たりけるに、炎旱の天より俄(にはか)に雨下つゝ、枯たる稲葉忽(たちまち)に緑に成し現人神(あらひとがみ)。木綿だすき懸て、末憑もしく成給へと祈念して、箱根山をも歎越、湯本の宿に著給。谷川漲落て、岩瀬の波に咽けり。源氏物語(げんじものがたり)に、涙催す滝の音哉といへるも思出し給けり。判官は事に触て情ある人にて、道すがら奉(二)労慰(一)ければ、大臣殿宣(のたま)ひけるは、相構て父子が命を申請給へ、出家して心閑に後世を助らんと被(レ)申ければ、御命計は去共とこそ思ひ給し。さらば奥の方へぞ遷奉らんずらん、義経が勲功の賞には、両所の御命を可(レ)奉(二)申請(一)と憑し気に申ければ、内大臣(ないだいじん)俘(二)囚千島(一)也とも、甲斐なき命だにあらば、嬉き事にこそとて、いとゞ涙を流し給(たま)ひけり。日数経れば、大磯、小磯、唐河原、相模河、腰越、稲村、打過て、既(すで)に鎌倉に著給。屠所の羊の歩々の悲み、小水の魚の泡の命、角やと覚て哀也。
S4502 女院御徒然附大臣頼朝(よりとも)問答事(有朋下P667)
建礼門院(けんれいもんゐん)は、吉田辺に歎明し泣暮させ給(たま)ひけるに、内大臣(ないだいじん)父子判官に相具して、鎌倉へ下向の道にて可(レ)奉(レ)失と申者ありければ、今更なる様に思召(おぼしめさ)れて、御心迷して、げにもさこそはと思召(おぼしめし)、哀人々の失し所にて兎(と)も角(かく)も成たらば、憂事をば見聞事あらじと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。世の聞えを恐て言問者もなし。
P1115
判官は情有し人にて、女院の御事不(レ)斜(なのめならず)心苦き事に思進せて、様々の御衣を調へ、女房達(にようばうたち)の装束までも被(レ)進けり。是を御覧ずるにも只夢とのみ思召(おぼしめし)ける。壇浦にて夷共が取たりける物の中にも、御具足と覚しきをば、尋出して進せけり。其中に、先帝の御手馴させ給ける御具足共あり。御手習の反古の御手箱の底にあり。御覧じ出て御顔に押当、忍あへ給はず、さめ/゛\と泣給けるぞ悲き。恩愛の道は何も疎ならね共、内裏に御座(おはしまし)て、時々雲井の徐に奉(レ)見御事ならば、加程はなからまし、此三年が程一御船の中に、朝夕奉(二)手馴(一)給ければ、無(レ)類思召(おぼしめし)、御年の程よりも長しく、御形御心ばへ勝てまし/\し者をと語出しては、御袖を被(レ)絞けり。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)、九郎判官義経、平氏の虜共相具して関東に下著したりければ、源二位対面有けれども、最言すくなにて打解たる無(二)気色(一)。義経も思の外に事違ひて、合戦の事不(二)申出及(一)けり。前(さきの)内大臣(ないだいじん)は、庭隔たる屋に座を儲たりければ、被(レ)著たりけるに、源二位は簾中に座して、比企(有朋下P668)藤四郎能貞を使として被(レ)申けるは、於(二)平家人々(一)、不(レ)奉(レ)存(二)私意趣(一)、其故は専依(二)禅閣之恩言(一)、被(レ)宥(二)頼朝(よりとも)之死罪(一)、争忘(二)違恩(一)忽(たちまち)に有(二)反心(一)哉、然而可(レ)奉(二)追討(一)之由、今被(レ)下(二)宣旨(一)之間、難(レ)背(二)叡慮(一)之故、只随(二)勅定(一)之計也。是源平両氏の、互に昔より今存ぜる事也。不(レ)図に奉(二)見参(一)こそ本意に侍れと宣(のたまひ)ければ、能貞大臣殿の前に進たりけるに、居直り深敬節せられけり。右衛門督(うゑもんのかみ)は不(二)居直(一)、国々の武士多並居たり。右衛門(うゑもん)の督(かみ)ぞ返事しける、当家代々、為(二)朝家之守護(一)、度々鎮(二)賊陣之狼藉(一)、依(二)勲功之労(一)、昇(二)太政
P1116
大臣(だいじやうだいじん)(一)、賜(二)洪恩之賞(一)黷(二)左右大将(一)、雖(レ)無(二)身誤(あやまり)(一)、蒙(二)朝敵咎(一)、是非(二)私恥(一)、世皆所(レ)知也、芳恩には、急被(レ)刎(レ)首よと。聞(レ)之武士、彼に返答の体神妙(しんべう)々々(しんべう)とて、落涙する者多かりけり。父内大臣(ないだいじん)をば宥毀者口々也。毀者は、敬節し給たらば命の助り給べきかは、西海に沈給はずして、東国に恥をさらすこそ理也けれと嘲けり。宥申人は、人心無(二)定主(一)、人身無(二)定法(一)、尊(レ)之則為(レ)将、卑(レ)之又為(レ)虜、抗(レ)之則翔(二)青雲之上(一)、抑(レ)之又沈(二)深淵之底(一)、用為(レ)虎、不(レ)用為(レ)鼠、是又深理也。必しも大臣殿に限に非、猛虎在(二)深山(しんざん)(一)百獣震恐、及(三)其在(二)檻穽之中(一)、揺(レ)尾而求(レ)食云本文あり。心は、いかに猛虎も深山(しんざん)に在時は、百獣恐わなゝきて、あたりに近付事なけれ共、檻穽とて、をりの中被(レ)籠ぬれば、人に向て尾をふりて食(有朋下P669)を求。されば如何に猛軍将なれども、加様に成りぬれば替心にて有ものをとぞ申ける。大臣の刎(レ)首事不(二)容易(一)とて、俎上に大なる魚を置、利刀を相具して内大臣(ないだいじん)父子前に被(レ)置たり。自害し給へとの謀也。大臣は思寄給はずもや有けん、そも不(レ)知、右衛門督(うゑもんのかみ)は、さもと思はれけれ共、壇浦にて水底に沈みはてぬは、父の向後の■(おぼつか)なき故也。今更非(レ)可(二)先立(一)とおぼしければ、自害なし。待ども/\自害し給ざりければ、内大臣(ないだいじん)をば讃岐権守と改名して、九郎判官に被(二)返預(一)けり。
S4503 虜人々流罪附伊勢勅使改元有否事
同廿一日、平家の虜の輩国々へ可(二)流遣(一)之由、被(レ)下(二)官府(一)けり。上卿源(げん)中納言(ぢゆうなごん)通親也。前平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)は能登国、追立使は信盛、此時忠卿(ときただのきやう)は、筆執平氏なり。後に謀叛など起すべき非(レ)人とて、流罪に定られ給けり。子息前左中将時実は周防国、追立使は公朝也。内蔵頭(くらのかみ)信基は備後国、使
P1117
は章貞也。兵部少輔尹明出雲国、使同章貞也。熊野別当法眼行明常陸国、使は職景也。二位僧都(そうづ)全真は安芸国、使は経広也。法勝寺(ほつしようじの)執行能円は備中国、使は同経広也。中納言律師良弘阿波国、使は久世也。中納言律師忠快は飛騨国、使(有朋下P670)は同久世也。六月十六日(じふろくにち)に、伊勢公卿勅使可(レ)被(二)発遣(一)否、又可(レ)有(二)改元(一)否事、人々に被(二)尋下(一)けるに、左大弁(さだいべん)兼光卿云、
天照太神(てんせうだいじん)、手持(二)宝鏡(一)、奉(レ)授(二)天忍穂耳尊(一)時、詔(二)天児屋根命(一)、同侍(二)殿内(一)、善為(二)防護者(一)歟、然則云(二)鏡璽来格之報賽(一)、云(二)宝剣可帰之請祈(一)、思其元始已在(二)彼社(一)、尤公卿勅使可(レ)被(二)発遣(一)とぞ被(レ)申ける。内大臣(ないだいじん)実定は、我君践祚之後、改(二)寿永(一)為(二)元暦(一)以来、逆徒伏(レ)誅、都鄙平定、何強に急有(二)改元(一)哉、彼東漢建武之明時、本朝天慶之佳例、尤可(レ)資(二)准帰(一)歟とぞ被(レ)申たりける。彼両条、人々申状異趣同旨なり。前(さきの)内大臣(ないだいじん)父子、並三位中将(さんみのちゆうじやう)重衡、去九日義経に相具て被(二)上洛(一)けり。鎌倉にて可(レ)被(レ)刎(レ)首とこそ思あはれけるに、又都へ被(二)帰上(一)ければ、いとゞ心を迷給けり。国々宿宿(しゆくじゆく)も過ぬ。尾張国野間内海と云所あり。こゝは故義朝(よしとも)が首を切たりける所也。此にて斬て彼霊に祭らんずるにやと思ひあひ給ける程に、其をも過にければ、大臣殿今は去共と憑し気に宣(のたまひ)けるこそ思ひあまり給へるにやと悲くは覚ゆる。右衛門督(うゑもんのかみ)はよく心得(こころえ)給へり。平氏の正統也、頼朝(よりとも)に見せて後、京にて刎(レ)頸渡さんずるにこそと思召(おぼしめし)けれ共、余に父の歎給ければ角とは不(レ)宣、只道すがら内大臣(ないだいじん)にも念仏をすゝめ、我身も唱給けり。日数ふれば、同廿日は近江国篠原宿に著ぬ。廿二日(にじふににち)
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に勢多にて、大臣殿も(有朋下P671)右衛門督(うゑもんのかみ)も、格別の処に奉(レ)置ければ、今日を限と思給(たまひ)て、右衛門督(うゑもんのかみ)は何れの所にぞ、一所にてこそ如何にも成果んと思つる、生ながら別ぬるこそ悲けれとて、涙を流し給ぞ哀なる。内大臣(ないだいじん)判官に被(レ)仰けるは、出家は免なければ力及ばず、僧を請じて受戒、最後の知識に用ばやと宣へば、其辺相尋て、金性房湛豪と云僧奉(レ)請、僧知識僧参て最後の事勧申けるに、内大臣(ないだいじん)涙せき敢給はず、向(レ)僧宣(のたまひ)けるは、右衛門督(うゑもんのかみ)はいかに成ぬるやらん、被(レ)刎(レ)首共、一筵に手を取組てこそ死なんと思つるに、さもなき事の悲さよ、副将には明日関東へ下らんとせし夜別ぬ、其もいかゞ成ぬらん■(おぼつか)なし、右衛門督(うゑもんのかみ)には今日別れぬ、此十七年間、一日も無(二)立離事(一)。西海の水底に沈べかりし身の、角憂名を流すと云も、右衛門督(うゑもんのかみ)が故也とて泣給へば、知識僧申けるは、今に於は其事不(レ)可(二)思召(おぼしめす)(一)、最後の御有様(おんありさま)を見奉らんも見え給はんも、互の御心中悲かるべし。倩事の心を思ふに、君は為(二)外戚之臣(一)、至(二)丞相之位(一)、為(二)征夷之将統(一)天下之政、上輔(二)導於一人(一)、下照(二)臨於万民(一)、世之奉(レ)仰如(二)日月(一)、人之奉(レ)恐如(二)雷霆(一)、令(レ)失(二)勢於衆人之上(一)、被(レ)奪(二)命於匹夫之手(一)、楽尽悲来之謂、物盛必衰之理、更非(二)当時之災殃(一)、皆是前世之業報任たり。是以色界の天衆猶遇(二)退没之愁(一)、得道羅漢不(レ)免(二)必滅之理(一)、秦始皇(しくわう)侈を極ども驪山墓に埋、漢武帝惜(レ)命ども(有朋下P672)杜陵苔朽、普賢観経云、我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法と、我心自空なれば、罪福全主なし、静に心を観ずるに、定れる心なし。諸法の相を達するに、一法として法の中にあるを不(レ)見、さけば善悪共に空なり。
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世出同無と観ずる、仏の知見に相叶事なれば、何物も始終不(レ)可(レ)有と思召(おぼしめす)べき也。法華経(ほけきやう)には、三界無安猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏とて、栄花名聞も火宅の楽み、重職官位も炎中の勇也。それがために還て招(レ)苦、これが為に必ず懐(レ)憂。妻子眷属は恩愛苦海の波を起し、我執怨僧は邪見放逸の剣を鋭。順縁逆縁共に生死の妄染なれば、自身他身皆火宅の炎に咽ぶ。一切有為の法は、悉如(レ)夢如(レ)幻、水月鏡像の喩にさとりぬべし。未得真覚、恒処夢中、故仏説為、生死長夜と説給へり。誠に真覚のひらけずは、無明の長夜あけ難く、妄想の憂悲み晴事なかるべし。而を弥陀如来(みだによらい)は大悲願を発して、一念十念共に導んと誓給へり。此願億々万劫にも聞がたく、世々生々にも値がたし。たとひ天上勝妙の楽に誇とも、仏法(ぶつぽふ)にあはざれば悲む也。譬ひ卑賤孤独の報を得とも、三宝に帰依するを幸とす。君先世の怨僧に答て、今生の誅害にあひ給へり。一筋に余念を止て、一心に念仏申て、衆苦永く隔り、十楽身に荘、浄土(じやうど)へ生んと思召(おぼしめす)べき也と奉(二)教訓(一)、先授(二)三帰五戒(ごかい)(一)、後に奉(レ)勧(二)念仏(一)。内大臣(ないだいじん)可(レ)然(有朋下P673)知識成と思召(おぼしめし)、西に向合(レ)掌、余言を止て念仏三百返計ぞ唱へ給。橘内右馬允公長、剣引側て後へ廻ければ、大臣殿念仏を止て、右衛門督(うゑもんのかみ)も既(すで)にかと宣(のたまひ)ける。詞の未(レ)終けるに、首は前に落にけるこそ悲けれ。彼公長は平家重代の家人也。新中納言の許に、朝夕伺候の者也けり。身を顧世を渡らんと思ふこそ悲けれとて、涙をぞ流しける。其後上人右衛門督(うゑもんのかみ)の許に行向ひて奉(レ)授(レ)戒、様々教訓し念仏すゝめければ、大臣殿の最後如何御座(おはしまし)つると問給。上人、何事も思召(おぼしめし)
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切、目出こそ御渡候つれと申せば、さては嬉く候とて、念仏高く唱つゝ、今は疾々と被(レ)仰ければ、今度は堀弥太郎切てけり。さしも罪深く難(レ)離し給ければ、身をば公長が沙汰にて、一つ穴にぞ埋てける。
S4504 内大臣(ないだいじん)京上被(レ)斬附重衡向(二)南都(一)被(レ)切並大地震事
同廿二日(にじふににち)、九郎判官義経、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経卿許へ申送けるは、前(さきの)内大臣(ないだいじん)父子、近江辺にして可(レ)斬(二)其首(一)、洛中へ持参して、可(レ)渡(二)検非違使(けんびゐし)(一)歟、将亦勢多辺にして可(レ)棄歟、両箇趣兼て言上、事由可(レ)随(二)勅定(一)之由、頼朝卿(よりとものきやう)所(レ)令(レ)申(レ)之也。又重衡卿(しげひらのきやう)は、可(レ)遣(二)東大寺(とうだいじ)(一)之由、同令(レ)申(レ)之間、相具して可(二)入洛(一)と申たりければ、泰経彼状を有(二)奏聞(一)。内大臣(ないだいじんの)(有朋下P674)許に被(レ)遣て可(二)計申(一)由被(レ)仰ければ、後徳大寺(ごとくだいじの)実定被(レ)申けるは、彼両人被(レ)行(二)斬罪(一)上は、被(レ)渡(レ)首事可(レ)有(二)議定(一)歟、凡渡(レ)頸事は、於(二)京師(一)人為(レ)令(レ)見(レ)実也、而先日乍(レ)生已(すで)に被(レ)渡(二)洛中(一)、今度義経相具して上洛、行(二)斬罪之相(一)、依(二)何不審(一)、重又可(レ)被(レ)渡(二)大路(一)哉と有けれ共、翌日二十三日に、検非違使(けんびゐし)、知康、範貞、信盛、公朝、明基、経弘等、六条河原にして彼両人首を請取、大路を渡して懸(二)獄門左樗木(一)けり。京中白川辺土近国輩、競集て見(レ)之、法皇は三条東洞院(ひがしのとうゐん)に御車を立て有(二)御覧(一)。謹考(二)故実(一)、三位已上の首、懸(二)獄門(一)事無(二)先例(一)、称徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、大師藤原恵美朝臣押勝謀叛時、軍士石村々主、近江国にして斬(二)押勝首(一)伝(二)于京師(一)之由雖(レ)載(二)国史(一)、渡(二)其頸(一)梟(二)獄門(一)之由、無(二)所見(一)。近平治に、右衛門督(うゑもんのかみ)信頼(のぶより)、さしも罪深して被(レ)刎(レ)首たりしか共、獄門には不(レ)被(レ)懸、如(レ)此例、依(二)時儀(一)被(二)始行(一)事なれども、両度被(レ)渡(二)大路(一)之条刑法甚とぞ人傾申ける。哀哉西国(さいこく)より入ては、生て七条を東へ被(レ)渡、東国
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より帰ては、死て洞院(とうゐん)を北へ渡され、死の恥生の辱、とり/゛\にこそ無慙なれ。
本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、前(さきの)内大臣(ないだいじん)父子と相共に、九郎判官に相具して上けるが、内大臣(ないだいじん)父子は勢多にて切れぬ。重衡をば南都大衆へ出して切(レ)首、可(レ)懸(二)奈良坂(一)とて、故源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)が息、蔵人大夫頼兼相具して、(有朋下P675)山階や神無森より醍醐路に懸て、南を指てぞ通ける。住馴し故郷、今一度みまほしく思召(おぼしめし)けれ共、雲井のよそに想像、涙ぐみ給も哀也。小野里、醍醐寺を過て、中将泣々(なくなく)宣(のたまひ)けるは、日比(ひごろ)各情をかけ憐つる事、嬉し共云難(レ)尽、同は最後の恩を蒙べき事あり、年来相具したりし者、こゝ近き日野と云所に在と聞、鎌倉に在し時も、風の便には文をも遣して、返事をも聞ばやと思ひしか共、免しなければ不(レ)叶、南都の衆徒に被(レ)渡なば、再び可(二)還来(一)身に非、されば彼人を今一度、見もし見えもせばやと思はいかゞ有べき、我に一人の子なければ、此世に思置事なし、此事の心に懸て、よみぢも安く行べし共不(レ)覚と宣(のたま)ひければ、武士共も、遉岩木ならねば涙を流つゝ、何かは苦しかるべきとて免しければ、手を合悦給(たまひ)て、日野大夫三位の許へ尋入て案内せられけり。彼大夫三位北方と申は、大納言典侍(だいなごんのすけ)の姉也。大納言典侍(だいなごんのすけ)とは、故五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の御娘、先帝の御乳母(おんめのと)也。平家都を落し時、同西国(さいこく)に下給たりけるが、壇浦軍敗れて後、再都へ帰上たれ共、家々(いへいへ)は都落の時焼ぬ、可(二)立入(一)所もなければ、女院に付進せて、暫吉田に座しけれ共、さても可(レ)叶様なければ、姉の三位局を憑て、彼宿所の片方に忍てぞおはしける。三位中将(さんみのちゆうじやう)の使は石童丸と云舎人也。童内に
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入て、重衡こそ東国にて如何にも成べしと思しに、南都(有朋下P676)亡したる者也とて、衆徒の手に渡され侍りし、兎角武士に暇を乞て立寄侍り、今一度奉(レ)見ばやと云入たりければ、北方物をだにも打纏給はず、迷出て見給ければ、藍摺の直垂、小袴著たる男の、疲れ黒みたるが、縁により居たりけるぞそなりける。如何にや夢か現か、これへ入給へかしと宣(のたま)ひける声を聞給に、目も眩心も消て、袖を顔に覆て泣給ければ、大納言典侍(だいなごんのすけ)も只涙に咽て、宣出る言なし。三位中将(さんみのちゆうじやう)半縁に寄懸り、御簾打纏て、北方に目を見合て、互にいとゞ涙を流し、うつぶし給へり。北方起直りて、是へ入給へとて重衡の手を取り、御簾の内へ奉(二)引入(一)、先物進めたりけれ共、胸塞喉塞て聊も不(レ)叶けれ共、責ての志を見えんとて、水計をぞ勧め入給ける。したるけに見え給へば、著(二)替是(一)給へとて、袷の小袖に白帷取具して奉れば、練貫小袖の垢付たるに脱替給ふ。北方取(レ)之、胸に当顔に当てぞ泣給ける。三位中将(さんみのちゆうじやう)も、いつまで著べき小袖ならね共、最後の著替と思召(おぼしめし)けるに、いとゞ袖をぞ絞りける。涙の隙に、
  脱替る衣も今は何かせん今日をかぎりのかたみと思へば K243 
北方も泣々(なくなく)、
  憑みおく契はくちぬ物といへば後の世までも忘るべきかは K244 (有朋下P677)
三位中将(さんみのちゆうじやう)宣(のたまひ)けるは、去年の春如何にも成べかりし身の、一門の人こそ多き中に、責ての罪の報に、重衡一人虜れて、京鎌倉に曝れて、終には奈良の大衆中に出され切べしとて罷なり。斯る有様(ありさま)なれば、
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中々由なしと思つるが、命存へて二度非(レ)可(レ)奉(レ)見、年来の情、尽ぬ思に任て角と申つる也、奉(二)嬉見(一)ぬる者哉、命のあらん事も只(ただ)今日に限れり。今一度見奉らんと思より外は、此世に思置事なし。程遠き所ならば如何がはせん、爰(ここ)にしもおはして、最後に見みえぬる事、前世の契と云ながら、心中可(二)推量給(一)、子のなかりしをこそ本意なき事に思申しに、賢くぞ子の無りける。在ばいかばかりか心苦からん、今は此世に執心留る事なければ、冥途安く罷なんと思こそいと嬉けれ。人に勝て罪深くこそ侍らんずらめ、哀不便と思し母の二位、深く憑し一門兄弟悉に亡ぬる上は、残留て後の世を弔ふべき者も侍らず、人は若くおはすれば、便にも付給はんずらん、さもして世をも渡給べし、非(二)其恨(一)、日本(につぽん)第一の大伽藍を亡したりしかに、阿鼻の炎兼て想像こそ苦しけれ、いかならん有様(ありさま)にて御座(おはしま)す共、忘給はで弔給へ、多き人の中に、斯身に相馴給ふも、可(レ)然先の世の深き契にこそ侍らめなれば、後の世とても忘給べきかは。出家をもして、髪をも奉(レ)剃見せばやと思へ共、其も免しなしとて涙を流し給へば、北方、日比(ひごろ)の(有朋下P678)思歎は事の数ならず、可(二)堪忍(一)心地もし給はず。軍は常の事なれば、必しも去年二月六日を限とも不(レ)思しか共、別れ奉しかば、越前三位上の様に、水の底にも沈むべかりしに、先帝の御事の、御心苦思奉し上に、正しく世におはせず共不(レ)聞しかば、今一度見奉事もやと思て、強面昔の貌にてすぐし侍つるに、今日を限にて御座(おはしま)すらんこそ悲けれ。今までも延給つれば、若やと思ひつる憑も有つる者をとて、又うつぶし臥給。昔今の事宣通ふに付ても、悲さのみ深く成行ば、日を重ね
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夜を重ぬ共尽べきに非ず。程ふれば武士共の待思はん事も心なければ、奉(レ)見(レ)嬉つとて泣々(なくなく)立給へば、北方、如何にや、さるにてもしばしとて袖を引へ、今日計は留給へ、武士もなどか一日の暇を得させざらん、年を経ても待得べき事に非、又もと思見参も、今日を限の別なればと宣へば、中将、一日の暇を乞たり共、明日の別も同事、心の中たゞ推量給へ、去共遁べきにあらず、契あらば来世にても可(レ)見とて出給へば、北方は人の見るにも不(レ)憚、縁の際まで出給(たま)ひ、臥まろびて喚叫給。中将は馬に乗たりけれ共、進もやり給はず、涙にくれて行前も見ず、其身は南都へ向へども、心は日野にぞ留りける。大納言典侍(だいなごんのすけ)は、走付てもおはしぬるべく覚え給けれども、それもさすがなれば、引纏てぞ臥給ふ。永別の道、さこそは悲く思ふら(有朋下P679)めと、武士も袂(たもと)を絞りけり。中将は石金丸と云舎人を具し給へる。是は八条院より、最後の有様(ありさま)を見よとて鎌倉まで付られたりけるが、南都迄も付たりける也。大納言典侍(だいなごんのすけ)は、木工允友時と云者を召て、三位中将(さんみのちゆうじやう)は、小津河奈良坂の辺にてぞ切れんずらん、首は定て大衆の手に渡らんずらん、身は曠野に棄べし、跡を隠すべき者なし、汝行て身を舁返せ、孝養せん、さしもに後生弔と云つる者をとて、地蔵冠者と云ふ中間と、十力法師と云力者(りきしや)を、友時に相具して進けり。三人の者共泣々(なくなく)走ければ、木幡、岡野屋行過て、宇治辺にて奉(二)追付(一)けり。平等院(びやうどうゐん)をば心ばかりに伏拝、屠所の羊の歩近付ば、新野池をも打過て、光明山の鳥居の前にも著給ふ。治承の合戦に、高倉宮(たかくらのみや)流矢に中て亡給し所也と見給にも、今は身の上とぞ思召(おぼしめし)ける。丈六堂の辺を過給には、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)が一門、為(二)
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当家(一)亡されし所也、亡魂いかゞ思らん、今は昔に替行、憂世(うきよ)の習こそ悲けれと、思残す事なし。大納言典侍(だいなごんのすけ)は引纏ひて臥給(たまひ)たりけるが、暮る程に起上り、法戒寺より上人を請じて様を替給にけり。中将和州小津に著給へば、土肥次郎使者を南都へ立て云、三位中将(さんみのちゆうじやう)重衡をば、関東にして雖(レ)可(レ)被(レ)刎(レ)首、南都両寺(りやうじ)を亡す依(レ)咎、可(レ)渡(二)遣衆徒之手(一)由、源二位家の下知に任て寺辺に発向す。可(三)具足入(二)寺内(一)歟、於(二)境外(一)可(レ)被(二)請取(一)歟と申(有朋下P680)たりければ、東大興福両寺(りやうじ)の大衆、宿老(しゆくらう)若輩貝鐘鳴して、大仏殿の大庭に有(二)会合僉議(せんぎ)(一)。若大衆の僉議(せんぎ)云、天竺震旦の法滅は暫閣、我大日本国(だいにつぽんごく)は神国也、其神慮は為(レ)守(二)護仏法(ぶつぽふ)(一)、而欽明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、仏法(ぶつぽふ)初て渡(レ)従(二)百済国(一)、守屋大臣、為(レ)崇(二)国神(一)欲(レ)滅(二)仏教(一)、然而救(二)世の垂跡(すいしやく)上宮太子、従(レ)討(二)守屋(一)以来、君主専帰(二)正法(一)、臣公同崇(二)三宝(一)、爰故浄海入道悪逆(あくぎやく)之所(レ)催、以(二)重衡(一)為(二)軍将(一)尽(二)園城(をんじやう)三井之法水(一)、消(二)南京二寺之恵燈(一)、悲哉最初成道一十六丈の聖容、必滅之煙聳(二)蒼天之空(一)、痛哉法相三論八不唯識の金言、垂没之露消(二)春日之野(一)、啻匪(レ)亡(二)仏陀之教法(一)、専廃(二)失浄侶之弘通(一)、過(二)守屋之違逆(一)、超(二)調達之謗法(一)五刑之類比(レ)之猶軽(二)五逆伴党、不(レ)可(レ)求(レ)外、衆徒多別亡。君臣大に愁嘆す、常住諸尊仏陀含(レ)恨、護法之善神成(レ)怒、故一門悉沈(二)西海(一)、重衡独為(二)生虜(一)、修因感果究竟、彼卿寺辺廻来、然者(しかれば)早衆徒の手に請取、両寺(りやうじ)の大垣三度廻し、其後七箇日間に堀(レ)頭歟、鋸歟、嬲切に可(レ)殺とぞ申ける。若大衆は、尤可(レ)然と同じけるを、老僧の僉議(せんぎ)に云、重衡卿(しげひらのきやう)重犯事、衆徒の僉議(せんぎ)に同ず、因果道理実必然也。但彼卿治承に南都
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を亡し時、以(二)衆徒力(一)打も留搦も取たらば、刑罪可(レ)任(二)僉議(せんぎ)之旨(一)。而今年月を送て勇士に取れ、武家の手より請取て罪を行事、全非(二)大衆高名(一)。就(レ)中(なかんづく)修学利生之窓中にして、行(二)邪見不(有朋下P681)善科(一)、背(二)菩薩大悲(一)、僧徒の威儀いあらじ、誠に自業自得の所(レ)催、彼卿死罪難(レ)遁歟。然者(しかれば)寺院の内に不(レ)入して、いづくにても武士が切たらん頭をば請取て、伽藍の敵なれば、可(レ)懸(二)奈良坂(一)なりとぞ僉議(せんぎ)しける。此条可(レ)然とて、別の使を相副て、重衡卿(しげひらのきやう)間事被(二)申送(一)、源二位家仰奉畢。但衆徒の手に請取て行(二)刑罪(一)事其憚あり、般若野より南へ不(レ)入して可(レ)被(二)相計(一)。首をば衆徒中に給(たまひ)て可(レ)加(二)一見(一)と返事しけり。南都の返事聞て後、土肥次郎は、其(その)日(ひ)も早暮ければ、河より南の在家の中に、大道よりは東南に向て、一間四面に造たる旧堂あり。是へぞ入奉りける。ゆかけをせばやと宣(のたま)ひければ、近所より新き桶杓を尋出し、水を上て奉る。御堂の傍にて行水し、髪洗たぶさを取、最後御装束と覚えて、武士共兼て用意し持せたりければ、小袖、帷、直衣、褌、扇、笏、沓に至まで取出して奉。日比(ひごろ)著給(たま)ひたる物をば、武士給(たまひ)てのきにけり。武士の申儘に御装束をめし、新き沓には子細ある者をとて、紙を畳て敷さしはきて、縁を歩て、正面よりは東西向にして座しける。此間東の旅に下り上り、風に窄れ日に黒みて、あらぬ貌にして衰給たれ共、遉に余(あまり)の人には替てぞ見え給ける。暫有ければ、御食賂出して進せたり。是や此下揩フ云なる死粮とは、只今(ただいま)死する者の、魚鳥不(レ)可(レ)有とて取除さす。散飯多かに取て仏前(有朋下P682)に備て、其後はまゐらず、又酒を奉(レ)進。只今(ただいま)頸切れ
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んずる者の、極熱に酒は悪かる者をとて、三度請るまねをして、舌の先ばかりに宛て是も進ず。其後手洗嗽て宣(のたまひ)けるは、抑汝等(なんぢら)は、頼朝(よりとも)が政をば善とや思悪しとや思、所謂(いはゆる)善と思へばこそ平家をば角は虐らめ。昔は如(レ)此人を虐、今は又人の為に虐げらる、因果の理世をも恨べからず、但敵を敵へ渡事は、昔よりして未(レ)聞、頼朝(よりとも)も弥勒の代をばよも持じ、今日は人の上と思共、明日は必身の上と思ふべし、重衡を罪深き者と云なれ共、全く罪深からず、心より発て南都を亡たらば、西海の波の底にも沈、東路の頭に骸をも曝すべけれ共、法相三論の学地の辺、華厳法華修行の砌(みぎり)、仏法(ぶつぽふ)流布の境、奈良都に廻来て、切れて其後首を東大興福の両寺(りやうじ)に被(レ)渡事、大乗値遇の過去の縁浅からずと思へば、可(二)罪深(一)共不(レ)覚と宣へば、実平申けるは、二位家の計ばかりにてはよも候はじ、法皇の御計にてこそ候らめ。就(レ)其鎌倉にて善便宜は候し者を、など御自害(ごじがい)は候はざりけるやらんと申せば、中将は打咲ひ給(たまひ)て、人の■(むね)には、三身の如来(によらい)とて仏御座、怖悲しと思て、身より血をあえさん事は仏を害するに似たり、されば自害をばせざりき、只今(ただいま)も首を刎んとせば、流石(さすが)妄念も起りぬべし、何となき振にもてなし、我に不(レ)知首を打と宣へば、武士共目を合て畏る。其後(有朋下P683)中将突立て、正面の東の妻を立廻、後戸の方を見給へば、歳六十余(あまり)の僧、左手には花を持、右手には念珠に打鳴し、取具して参たり。哀僧かな、一人と思召(おぼしめし)つるに神妙(しんべう)にも参給へり、はや入給へとて、中将は本の道より帰りて、正面の東の間、本の座に西向におはしければ、彼僧は西の妻を廻て、正面の西の間、東向にぞ候ける。実平
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は縁にあり、家子郎等は坪中大庭に並居たり。中将僧に向て宣(のたまひ)けるは、善知識の人かなと思つるに、折しも神妙(しんべう)にも候、抑重衡世に在し程は、出仕にまぎれ世務にほだされて、■慢(けうまん)の心のみ起て後世のたくはへ微塵ばかりもなし、況世乱軍起つて後、此三四年間は、禦(レ)彼助(レ)我との営の外は又他事なし、就(レ)中(なかんづく)南都炎上(えんしやう)の事、王命と云武命と云、君に仕世に随習、力及ばす罷向ひ侍りぬ、其に思はずに火出来て、風烈くして伽藍の及(二)滅亡(一)、其を重衡が所為と皆人の申し事の、今思合すれば実に侍けり、さればにや人もこそ多けれ、一門の中に我一人虜れて、京鎌倉に恥を曝し、此迄骸をさらさん事只今(ただいま)に極れり、されば斯る罪人の如何なる善を修しいかなる仏を奉(レ)憑てか、一劫助る事候べき、示給へと泣々(なくなく)掻詢(かきくどき)て宣へば、僧急と土肥に目を見合すれば、実平とも/゛\随(レ)仰被(レ)参候へと申。上人念珠おしすり金打鳴して、阿弥陀経一巻懺法一巻読て後、法華経(ほけきやう)一部と志、早らかに転読す。(有朋下P684)八の巻に及で、実平今は夜も明方に成候ぬ、とくと申せば、八の巻をば巻置奉(レ)授(レ)戒、若浄土(じやうど)に生んと思召(おぼしめさ)ば、西方極楽を歓ひ御座(おはしま)せ、極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽と説れたり、弥陀名号を、口に唱へ心に念じ給べし、若悪道に赴御座(おはします)べくば、地蔵の悲願仰給へ、抜苦与楽慈悲深く、大悲抜苦の誓約あり、依(レ)之(これによつて)■利(たうり)雲上にしては、正しく釈尊殷懃の付属をうけ、奈落炎中にしては、必衆生難(レ)忍の受苦を助給、彼と云此と云、深く憑み奉らば争か利勝なからんと、細々に讃嘆し奉(二)教化(一)ければ、中将も実平も、眼に余る涙の色、家子も郎等も、絞兼たる袂(たもと)也。土肥申けるは、加様に候べしと
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だにも兼て知進せたりせば、御布施なども用意仕るべく候ける者を、是は日比(ひごろ)君の召て候者なればとて、取納たりける御装束裹より取出し、仏前にぞ備へたる。其後又弥陀経一巻、懺法早らかに一巻読けるが、六根段に懸けるに、暁の野寺の鐘の声、五更(ごかうの)空にぞ響ける。中将涙を流し突立て、東の妻を後戸の方へおはす。兵二人影の様にて不(レ)奉(レ)離(二)御身。後戸の縁を彼方此方へ行道し御座(おはしまし)けるに、紫の雲一筋出来りたり。折しも郭公の啼て、西をさして行けるを聞給(たまひ)て、かく、
  思事かたりあはせん郭公げに嬉しくも西へ行かな K245 (有朋下P685)
とすさみ給ける御音計ぞ幽に聞えける。坪の中大庭に並居たりける武士も、はら/\と立にけり。上人は、こゝは何と成給ぬるやらんと思て、立給たる跡を見れば、涙を拭給へる畳紙もぬれながら未あり。庭を見れば、沓の鼻をかゝへてかぶり居たる犬あり。立廻後戸を見れば、頸もなき死人うつぶしに臥たり。犬二三匹そばにて諍(レ)之居たり。穴無慙や、此中将既(すで)に切れ給(たま)ひけるにこそと思、前後なりける犬共を追除て、松葉柴葉を折かざし、経よみ念仏申て奉(レ)弔。大道方には馬の足音稠かりければ、上人急立出て見れば、歳五十計なる男の、貲布直垂に長刀杖に突たる男、北へ向て行けるを袖を引へ、是に御座(おはしまし)つる上揩ヘ、何と成給ぬるやらんと問申ければ、御首(おんくび)をば南都へ奉(レ)渡ぬとて、高念仏申て北をさして過行けり。其後友時泣々(なくなく)来りて、中将の空き身を輿に舁のせて日野へ帰、地蔵冠者、十力法師、共に涙にくれて行先も見えず。
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 < 已上は南都より出たり。次の説は、世に流布の本也。
異説に云、中将日野を出て小津に著給へば、頼兼使者を南都へ立、衆徒僉議(せんぎ)如(レ)上。さては此にて可(レ)切とて、小津川のはたに奉(二)下居(一)、布革の上に奉(レ)居。重衡今を限と思召(おぼしめし)ければ、木工馬允友時を召て、此辺に仏御座なんやと宣(のたまひ)ければ、友時泣々(なくなく)其辺の在家を馳廻けれ共、世間に恐けるにや不(レ)出ければ、古堂より阿弥陀(あみだ)の三尊(さんぞん)(有朋下P686)を尋出、河原の砂に東に向て、三位中将(さんみのちゆうじやう)の前に奉(二)掘立(一)、重衡は浄衣の袖の左右のくゝりを解、仏の御手に奉(二)結付(一)。五色の糸を引へ給へる心地にて、法然房の教訓し給(たま)ひし言を信じ、如来(によらい)大悲の誓願を深く憑て宣(のたまひ)けるは、提婆達多は三逆罪人也。無間の炎の底にして、成仏(じやうぶつ)の記別に預る。下品下生は五逆の業人也。苦痛の床上にして、往生の素懐を遂たり。皆是弥陀平等の大悲に答、法華一実の効験に寄る。重衡逆縁重く萌と云ども、致深懺悔仏法(ぶつぽふ)不思議の力、忽(たちまち)に罪を滅して浄土(じやうど)に導給へ、況弥陀如来(みだによらい)に、一念十念も来迎せんと云願御座、極楽世界に上品下品に往生すと云文あり、重衡彼下品器に当れり、本願に無(レ)誤、大悲に実有らば、最後の十念を以て、浄刹の下品に迎取給へと詢つゝ、西に向合(レ)掌、念仏百返ばかり高声に唱へ給ければ、頸は前にぞ落にける。友時首を地に付て喚叫。見る人も皆涙を流す。良久有て友時は、三位中将(さんみのちゆうじやう)の空き身を輿にのせて日野へ帰、地蔵冠者も十力法師も、涙にくれて行先も見えざりけり。 >
既(すで)に車寄に奉(二)舁入(一)。北方は兼て思儲たりつる事なれ共、今更なる様に覚て、物をだにもはき給はず、車寄に走出て、頸もなき人に取付て、無(二)為方(一)泣給。今一度見る事もなくてさてやみなんと、日比(ひごろ)思けるは物の数ならず、中々一谷(いちのたに)にて何にも成給たらば、今は思忘るゝ事も有なましと(有朋下P11687)おぼすぞ責ての事と哀なる。今朝は声花なる貌にて見給(たまひ)つるに、今夕は紅を染て首もなければ、さこそは悲かり
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けめと、被(二)推量(一)無慙也。無常は世の習、相別るゝは人の癖なれ共、懸べしとは兼て不(レ)知、生て思ふも悲きに、同道にと泣■(なきこがれ)給へ共其甲斐なし。偖もあられぬ事なれば、上の山にて薪に積籠焼あげ奉り、灰を埋て墓を築卒都婆を立て、骨をば拾ひて高野山へ送給ふ。
 < 一説には、重衡をば奈良坂にて首斬といへり。 >
重衡卿(しげひらのきやう)の首をば、頼兼大衆の中へ渡したりければ、衆徒請(二)取之(一)、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)の大垣三度廻らし、法華寺の鳥居の前に、竿に貫高捧て是をさらす。治承の合戦の時爰(ここ)に打立、南都を亡したればとて也。其後般若野の道のはたに大卒都婆を立て、張付にして是をさらす。見る人、大仏を焼給はずば今懸る恥にあひ給べしやとて謗る者もあり、涙を流す人も多かりけり。七箇日の間奈良坂に有けるを、北方大納言典侍(だいなごんのすけ)、内々俊乗坊上人に付て、さしも罪深人なれば、後の世を弔はばやと思侍。衆徒をも宥仰られて、首を返賜ひて孝養せんと被(二)乞請(一)ければ、上人哀に思召(おぼしめし)て、様々に大衆を誘申されて日野へ送進す。北方大に悦て、即高野山に送りて塔婆を立て、追善を営給けり。彼俊乗上人と申は、左馬大夫季重が孫、右衛門大夫季能が息男、黒谷の法然房の弟子也。慈悲深してものを憐。上醍醐(有朋下P688)に蟄居して、専憂世(うきよ)を厭ひける程に、東大寺(とうだいじ)造営の大勧進に被(レ)補、一寺に重き人也ければ、大納言典侍(だいなごんのすけ)も、此上人に付て乞れければ、衆徒も難(レ)背して免遣しける也。倩事の心を案ずるに、因果の道理は如(レ)影随(レ)形、為(レ)善生(レ)天、為(レ)悪入(レ)淵といへり。重衡卿(しげひらのきやう)滅亡、月支東漸之仏教、焼(二)
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失日或南北之霊場(一)、故に冥衆不(レ)祐(二)其人(一)、神祇成(レ)崇(二)其身(一)、生は奮(二)恥於東国(一)、死は曝(二)骸於南城(一)、まして奈落の薪底、想像こそ無慙なれ。前(さきの)内大臣(ないだいじん)父子、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡被(レ)斬、平家無(レ)残亡、山陽、山陰(せんいん)、四国、九国、静也ければ、国は国司に随、庄は領家の儘也ければ、都鄙の上下安堵せり。同七月九日午刻大地震なり。良久振て夥(おびたた)しなど云も愚也。同(おなじき)十二日に又地震あり。九日にはなほ超過せり。赤県中、白川の側、六勝寺、九重塔より始て、破傾き倒崩、大内中堂(ちゆうだうの)廻廊、園城寺(をんじやうじの)廻廊、法勝寺(ほつしようじ)阿弥陀堂も顛倒しけり。神社仏閣も如(レ)此なりければ、増て人屋の全きは一宇もなし。根本中堂(こんぼんちゆうだう)の常燈も、三燈は消にけり。大師手自石火を敲出して、炬し給へる一燈は不(レ)消けり。法滅の期には非ずして、臨時の災と覚えたり。同(おなじき)十四日に弥益々々震けり。堂舎の崩るゝ音雷の鳴が如し。塵灰の揚る事は煙を立たるに似たり。天闇光失、地裂山崩れければ、老少男女肝を消し、禽獣鳥類度を迷す。こは如何に成ぬる世中ぞやとて喚叫、(有朋下P689)被(二)圧殺(一)者もあり、被(二)打損(一)人も多し。近国も遠国も如(レ)此なりければ、山崩て河を埋、海傾浸(レ)浜、石巌破谷にころび、樹木倒て道を塞げり。洪水漲来ば岡に登ても助り、猛火燃近付ば河を阻ても生なん、只悲かりけるは大地震也。鳥にあらざれば空をも不(レ)翔、竜にあらざれば雲にも難(レ)入、心憂しとぞ叫ける。主上鳳輦に召て、池の汀(みぎは)に御座(ござ)あり。法皇は新熊野に有(二)御参籠(一)、御花進給けるが、人屋の倒けるに、人多く被(二)打殺(一)、触穢出来にければ、御参籠の日数不(レ)満けれ共、六条殿へ有(二)還御(一)。天文博士参集て、占文不(レ)軽と騒申。今夜は南庭に仮屋を立
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て御座(ござ)あり。諸宮諸院卿上(けいしやう)雲客(うんかく)の亭共も倒れ傾ける上、隙なく震ければ、車に召船に乗てぞ御座(おはしまし)ける。有(二)公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)(一)、可(レ)有(二)祈祷(一)之由、諸寺諸山に仰す。今夜の亥子丑寅時は、大地可(二)打返(一)と占申たりと云て、家中に居たる者は上下一人もなし。蔀遣戸を放ちて大庭に敷、竹の中、木の本にぞ居ける。天の鳴地の動度には、すはや只今(ただいま)こそ地を打返せと云て、女は夫に取付、少者は親祖父に懐付、貴賎上下高に阿弥陀仏(あみだぶつ)を申ければ、所々の声々夥(おびたた)し。八十九十の者共、未懸事は不(レ)覚とぞ申ける。余に少者年闌たる老人は、目眩心地損ずなど云て、被(二)振殺(一)者多し。謹で釈尊出世の時分を考るに、正像各一千年、末法一万年の其後こそ世は滅すべしなどいへば、後冷泉院の永承年(有朋下P690)中に末法に入て、僅(わづか)に百三十(さんじふ)余年也。遉今日明日とは不(レ)思つる者をとて、長きが泣をめきければ、若き者も音を立て叫。叫喚大叫喚の罪人も、角やと覚て夥(おびたた)し。文徳天皇(てんわう)斉衡三年三月、朱雀院天慶元年四月に、大地震ありと注せり。天慶には主上御殿を避給(たまひ)て、常寧殿の前に五丈の幄を立て渡らせ給けり。四月十五日より八月に至迄、打列震ければ、上下家中に不(二)安堵(一)と伝たれ共、其は見ぬ事なればいかゞはせん、今度の地震は上古末代類あらじと貴賎騒歎けり。平家の死霊にて世の可(レ)滅由申合り。昔も今も怨霊は怖き事也。蚤の息天に上と云事も有ぞかし。況万乗の聖主、玉体を西海の波底に沈、三公の忠臣、屍骸を北闕の獄門に懸たり。其外卿上(けいしやう)雲客(うんかく)、衛府諸司(しよし)、有官無官(むくわん)、軍兵士卒、男女老少、生霊死霊、怖し/\。就(レ)中(なかんづく)異国の例はそも不(レ)知、本朝には昔より為(二)卿相(けいしやう)(一)人、生ても死て
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も、大路を渡曝(二)頸於獄門(一)事なし。世中いかゞ成立んと申けり。
S4505 源氏等(げんじら)受領附義経任(二)伊予守(一)事
同八月十四日に、被(レ)行(二)除目(一)。源氏六人受領す。平氏追討賞とぞ聞えし。志田三郎先生義憲、任(二)伊豆守(いづのかみ)(一)。大内冠者維義越中守、上総太郎義兼上総介、加々美次郎遠光信濃守、遠江守(有朋下P691)義宗が男、兵衛尉義助越後守、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)伊予守に任じけり。鎌倉源二位挙申に依也。大夫判官(たいふはうぐわん)は伊予守を賜はる上、院御厩の別当に成て、京の守護に候へとて、侍十人付られたり。判官思ひけるは、義経度々合戦に命を捨て、既(すで)に世の乱を鎮父の敵を亡す、私の宿意と云ながら国家の固也、これ莫大軍功に非や、而に関より東は云に及ず、京より西をばたばんずらんと思ひつるに、僅(わづか)に伊予一国没官の地、二十箇所知行せよとの源二位の所存、無(二)本意(一)と思けれ共、但重て思計ふ様ありなんと過ける程に、僅付たりける十人の侍も、兼て心を合たりければ、親の所労子の病悩など云て、皆東国へ逃下にけり。判官いとゞ不(二)意得(一)思ける程に、源二位判官を討んとて、関東に様々の計ありと、はと京都に披露ありぬ。何事のあらんずるやらんと、貴賎此彼にさゝめき合へり。建礼門院(けんれいもんゐん)は西国(さいこく)より上り、吉田にも仮に立入せ給と思召(おぼしめし)けれ共、五月も立六月も半過ぬ。今日迄もながらへさせ給べしと不(二)思召(一)(おぼしめさざり)けれ共、御命は限あれば、明ぬ暮ぬとしけるに、大臣殿父子の首、被(レ)渡(二)大路(一)被(レ)掛(二)獄門(一)、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)は奈良坂にて被(レ)切て、卒都婆に付てさらさる。彼人々の今は限に成給へる有様(ありさま)、人参てこま/゛\と申ければ、女院は御■(おんむね)せきて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず、しばしつや/\物をだにも不(レ)被(レ)仰けり。
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良(有朋下P692)在て、此人々帰上と聞召しかば、甲斐なき命計は助りぬるにやと思召(おぼしめし)けるこそ愚に思ひ侍れ、露の命消やらで、斯憂事を聞こそ責ての罪の報なれ、都近かりけるばかり心憂かりける事はあらじ、折に触時に随て、驚(レ)耳心を迷はすも、さすが生る身は口惜き事も多かりけり。露の命風を待らん程も、深山(しんざん)の奥の奥に思入ばやと思召(おぼしめし)けれ共、去べき便なくて過させ給けるに、さらぬだに住荒したる朽坊の、度々の地震に築地崩門も倒れぬ、いとゞ住せ給ふべき御有様(おんありさま)にも見えさせ給はず、憑もしき人一人も侍らず、地打返すべしなど聞召は、可(レ)惜御命にはなけれ共、只尋常の御事にて、消入ばやとぞ思召(おぼしめ)されける。緑衣の監使宮門を守るもなく、伴の御奴朝浄するもなし。心の儘に荒たる籬は、滋き野辺よりも猶露繁く、折知がほにいつしか虫の声々怨むも、我身の上とぞ思召(おぼしめす)。秋も既(すで)に半に欲す、夜もやう/\長くなる儘に、いとゞ御寝覚がちなれば、明し兼させ給けるぞ哀なる。
 < 八月十七日(じふしちにち)に改元有りて文治と云。 >


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十六

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勢巻 第四十六
S4601 南都御幸大仏開眼附時忠流罪忠快免事
文治元年八月二十七日(にじふしちにち)、法皇南都へ有(二)御幸(一)。公卿には花山院大納言(だいなごん)兼雅、堤中納言朝方、中山中納言頼実、衣笠中納言定能、吉田中納言経房、民部卿成範、藤宰相親信、平宰相(へいざいしやう)親宗、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経、殿上人(てんじやうびと)には雅方朝臣以下、皆著(二)浄衣(一)被(二)供奉(一)けり。伊予守義経、同著(二)浄衣(一)候す。御後随兵六十騎(ろくじつき)を相具せり。同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)、大仏開眼あり。亥刻に法皇有(二)臨幸(一)けり。左大臣経宗、権大納言(ごんだいなごん)宗家卿以下被(二)参入(一)けり。開眼師は僧正(そうじやう)定遍、呪願は僧正(そうじやう)信円、導師は大僧都(だいそうづ)覚憲也。同晦日弁暁権少僧都(ごんのせうそうづ)に被(レ)仰けり。開眼師定遍僧正(そうじやう)賞譲とぞ聞えし。
同九月二十三日、前平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)は、追立使信盛承て、能登国鈴御崎へ遣す。子息讃岐中将時実は、公朝が沙汰として周防国へ下す。平家僧俗の虜共、去五月に、配所を国々に被(レ)定ける内なり。父子後を合せ、西北境を隔つゝ、波路に流、雪中に赴けるこそ哀なれ。時忠卿(ときただのきやう)建礼門院(けんれいもんゐん)へ被(レ)申けるは、今は有甲斐無身に侍れ(有朋下P694)共、近く候て御鍾事をも承度侍るに、責ての罪重くして、今日都を罷出て、越路の旅に趣侍り、身の有様(ありさま)心中、只推量せ給べし、又いかなる御有様(おんありさま)にてか御座(おはしま)さんずらんと奉(二)思置(一)こそ行空も覚え侍らね、参りて今一度奉(レ)見度侍れども、心に任ぬ身不(レ)及(レ)力など、細か
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に被(レ)申たり。女院聞召(きこしめし)て、此人ばかりこそ昔の遺とて御座(おはしまし)つるに、さては遠国へ赴き給らんこそ悲けれ、逢見る事はなく共、都の中にありと聞召ば、憑敷こそ思召(おぼしめし)つるに、死ても別生ても別なん事こそと、いとゞ掻くらす御心地(おんここち)成ければ、坐に御涙(おんなみだ)ぞすゝみける。彼時忠と申は、出羽前司知信が孫、兵部権大輔(たいふ)時信息男也。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御■(おんしうと)にて御座(おはしまし)しかば、高倉上皇には御外戚也。唐楊貴妃、玄宗皇帝に幸し時、■(しうと)楊国忠が栄しが如し。八条二位殿(にゐどの)も妹にて御座(おはしまし)しかば、太政(だいじやう)入道(にふだう)には兄公也、建礼門院(けんれいもんゐん)には伯父也。世覚時の■(きら)目出かりき。されば兼官兼職心に任、富貴(ふつき)栄花思の如。位正二位(しやうにゐ)、官大納言(だいなごん)に至り、子息時実時家中少将に成にき。太政(だいじやう)入道(にふだう)万事申合つゝ、天下を我儘に執行ければ、時の人平関白(へいくわんばく)とぞ申ける。検非違使(けんびゐし)別当にも三箇度(さんがど)まで成りけり、無(二)先例(一)事也。今暫も平家世にあらば、大臣は疑なからまし。此人心猛理つよに御座(おはしまし)ければ、庁務の時も様々の事張行て、強盗二十八人(にじふはちにん)が右の手を切給けり。昔悪別当恒成(有朋下P695)と云ける人こそ強盗の頸をば切りたりとも伝たれ。西国(さいこく)に御座時も、院より召次を被(レ)下。帝王并三種神器、都へ奉(二)返入(一)と仰遣たりしに、院使花方が頬に浪方と云火印を指、是は汝をするには非ずと申けり。法皇を申けるにや。故女院御ゆかりなれば、平家の一門悉官職を止られしか共、此卿父子をば不(レ)被(二)停止(一)、帰上給へば可(レ)被(レ)宥なれ共、懸る悪事を思召(おぼしめし)忘させ給はず、伊予守と親く成て其好深ければ、流罪をも申宥んと思けれ共、法皇の御気色(おんきしよく)も悪、源二位も免しなければ力及ず。軍の先をば不(レ)蒐ども、謀を惟幄の中に廻らし、兵を敵陣の前に勇る事、偏(ひとへ)
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に此人の結構(けつこう)なれば理なり。年闌齢傾きて妻子にも別れ、見送る人もなくて遠境に被(レ)遷けん心の中こそ無慙なれ。遥(はるか)に西海の波の底を免て、遂に北国の雪中に埋れけるこそ宿習とは云ながら哀には覚ゆれ。北方帥佐殿(そつのすけどの)は、何事も思入たる人にて、心づよく翫給へ共、遉遺の惜ければ、忍音にて泣給へば、其腹に今年十四になる息男あり。尾張侍従時宗と云。不(レ)斜(なのめならず)糸惜がり給けり。是を見置給(たまひ)て、還様知ず遠国赴事よと泣歎給へば、侍従も同道にと宣へ共、免しなければ其甲斐なし。既(すで)に都を出給、関山関寺打過て、志賀の故郷唐崎や、浦路に駒をぞ進めける。日吉社を顧ては、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)七社(しちしやの)権現、願再故郷に返(有朋下P696)入給へと心計に祈念して、菜岡社を過ぎ給へば、比良の高峯に風寒て、湖水に波繁かりけり。蜑の釣舟波の上に漕つれて、網に懸れる魚難(レ)遁を見給にも、我身の上と哀也。浦人にこゝをば何所と云ぞと問給ふ。是こそ名にしおふ比良のすそ野の、竪田浦と申ければ、時忠卿(ときただのきやう)涙ぐみて、
  帰りこん事も竪田に引網のめにあまりたる我涙かな K246 
と最哀にぞ聞えける。其より湖水漫々と見渡して、浦々宿々(しゆくじゆく)打過つゝ、敦賀の中山遥々(はるばる)と、木間を分、岩根を伝て下けり。いつしか打時雨つゝ、嵐烈しては膚を徹し、木葉狼藉しては道を埋、荒乳山、木辺峠を越行ば、越の初雪踏分て、燧山、柚尾坂、越前国分、金津宿、蓮池、細呂宜山を越過て、加賀国須川社を拝しつゝ、篠原、安宅打過ぎて、日数ふれば能登国鈴の御崎に著き給。立渡見給へば、岩間に
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生たる浜松の、岸打波に顕れて、其根あらはに有けるを見給(たまひ)て、浮名を流す旅の空、打解寝入給はねば、我身の思になぞらへて、
  白波の打驚す岩の上にねいらで松の幾世へぬらん K247 
いとあはれにぞ聞えし。
門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛卿(のりもりのきやう)の子息、中納言律師忠快も、配所を飛騨国(有朋下P697)に定められて、検非違使(けんびゐし)久世が許に被(二)預置(一)たりけるに、自(二)鎌倉源二位家(一)関東へ下給ふべしとて、袖かさたる四方輿に、力者(りきしや)十二人、并道の用心にとて、兵士あまた被(レ)上たり。こは何事ぞ、流人に定められたる者の、迎の体こそ難(二)意得(一)けれと、上下おもはずに思へり。律師も最不思議に思て、余(あまり)の事なれば、若人違にやと宣へ共、二位家の消息(せうそく)に、急可(レ)有(二)下向(一)、可(レ)入(二)見参(一)子細侍と判形し給へる分明の状成りければ、関東へ下給けり。近江国鏡宿より始て、宿々(しゆくじゆく)の設共丁寧也。既(すで)に鎌倉に下著して、角と申入たりければ、二位殿(にゐどの)急見参して宣(のたまひ)けるは、先御下向悦存し侍、抑御本尊に、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)や安置し給へると被(レ)問けり。律師さる事候と答。其本尊片手や折給へると宣へば、御手の折させ給へるとは不(レ)覚、奉(二)久納(一)、遥(はるか)に不(レ)奉(レ)拝、則これに持て奉れりとて、錦の御舎利袋より、紫檀を以造て、金銀を以かざりたる厨子を取出して、御戸を開て拝せ奉給へば、仏の荘厳心も言も及ばず。瑪瑙の地盤に、紺瑠璃を以て伽羅陀山をたたみ、水晶の花実に、琥珀の蓮華を葺けり。其上二三寸の地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)を安置
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せり。右に黄金の錫杖を突、左に如意宝珠を持給へるが、うでくび折懸りてぞ御座(おはしまし)ける。二位殿(にゐどの)奉(レ)拝(レ)之、はら/\と涙を流し、五体を地に抛入礼し給ふ。因幡守弘基を召て、厳重殊勝の御仏、拝(有朋下P698)給へと被(レ)仰ければ、弘基同拝をなす処に、二位殿(にゐどの)物語(ものがたり)に宣はく、去比有(レ)蒙(二)霊夢(一)、錫杖つきたる貴僧の容貌うつくしきが、我枕上に立給(たまひ)て、平家門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)の子息、律師忠快と申をば、此僧に免し給へかし、年来深く我を相憑める僧に侍り、不便に覚ゆと被(レ)仰しを、夢の心地に、此御房は地蔵よなど意得たりしかば、承候ぬと申聞給(たま)ひ、返々本意也とて御飾つくろはせ給ふが、左の御手の折れ給へるをよに痛気にせさせ給と奉(レ)見間に、あの御手はいかにと問申せば、西海の船にて、忠快を助け乗せんとせし時に、左の手を■(あやま)りてと仰すと示現を蒙る、末代なれ共加様に威験の御座(おはしま)しける御信心の程こそ目出貴けれと宣へば、弘基も感涙を流して、難(レ)有御事にこそと申けり。律師宣(のたまひ)けるは、都を出て三年、宿定らぬ旅なれば、心閑に奉(レ)拝(二)相好(一)隙も候はず、されば御手の折給へるも争か存知候べき、御尋(おんたづね)につきて候はずば、何としてか左様に御渡り候べきと、よに不審に候つるに、御夢に思合する事候。先帝太宰府に御座(おはしま)しし時、尾形三郎維義が三万(さんまん)余騎(よき)にて責来しに、奉(レ)始(二)主上(一)、周章(あわて)騒船に乗候しに、悪様に乗て、已水に入ぬべく侍しを、下僧の一人来て助乗せて後に、忠快は船にあり、下僧は陸に立て、右手を以て左の腕を拘たりしを、あれは如何にと問ば、悪様に参て手を損じて候へども、事闕候は(有朋下P699)じと申しを、汝は誰人の共ぞと尋しかども、船は急漕出。人は多く阻し程に、返事を聞
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事もなかりき。今の御夢相を承るに、はや是ぞ地蔵の御助にてと、語りも終ず衣の袖を絞りけり。二位殿(にゐどの)もいとゞ帰依の涙を流し給ふ。二位家の北方も、簾中にして聞(レ)之拝給、信心骨髄に徹し、衣小袖を取出して、殊更供養有ければ、女房達(にようばうたち)も取渡々々奉(レ)拝。小袖、染物、鏡、手箱等しな/゛\奉。二位殿(にゐどの)も、砂金百両、巻絹百端、馬三匹を被(レ)引ける也。十二間の内侍外侍に候ける大名も小名も、馬鞍、鷲羽、鷹羽、衣、染物、取寄々々供養しければ、誠に一の法事とぞ見えたりける。則仏師を被(レ)召御手をつぎ奉る。鎌倉中の貴賎男女競来りて、礼拝供養する事市をなせるが如し。偖二位殿(にゐどの)宣(のたまひ)けるは、都へ帰上給べきか、鎌倉に被(レ)坐よかし、縦何所に御座(おはしまし)候とも、頼朝(よりとも)が生たらん程は、如何にも不(レ)可(レ)有(二)粗略(一)と聞えければ、律師は、懸浮者に成ぬれば、いづくにも侍べけれ共、花洛の東山なる所に、一人の老母候が自が外は憑む方なく候へば、罷上度存候。其上静ならん処に隠居して、練行の功をも積度侍り、此事本望に候へばとて、鎌倉を出給けり。本知行の領、一所も違ず有ける上に、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)供養の布施物の外、種々(しゆじゆ)の引出物たびけり。只非(レ)遁(二)流罪(一)、依(二)信力恩徳(一)、大徳付てぞ上給。既(すで)に上洛有ける(有朋下P700)に、二位殿(にゐどの)より角書送り給けり。
  みちのくの里は遥(はるか)に遠くとも書尽してぞつぼの石ぶみ K248 
地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の大悲代苦の悲願憑敷哉忠快は、西海の波上にしては沈べき命を済れ、東路の旅の空にしては、難(レ)遁身を被(レ)助たり。
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S4602 女院入(二)寂光院(一)事
同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)、建礼門院(けんれいもんゐん)、大原(おほはら)の奥に寂光院と云ふ所へ入せ給けり。都近しては心憂事のみ聞召ば、片山陰(かたやまかげ)の柴庵なりとも、御心閑にと日比(ひごろ)思召(おぼしめし)けるに、ある女房のゆかりにて角と申ければ、嬉き事にこそとて思立せ給けり。冷泉大納言(だいなごん)隆房(たかふさ)の北方は御妹にておはしければ、御輿などは被(レ)進けり。大方も西海より御上の後は、様々に被(二)訪申(一)けり。此人の憐にて、角有べしとは兼ても不(レ)思者をとて、難(レ)有さも嬉さも、人わるきまでにおぼし知られけるに付ても、御涙(おんなみだ)をぞ流させ給ける。いと人も不(レ)通谷道を、遥々(はるばる)と分入せ給へば、山陰(やまかげ)なればにや日も既(すで)に暮なんとす。道芝深く茂りつゝ、分入御袖も露滋して、思召(おぼしめし)残す事一もなし。西山の麓北谷奥に寂光院と云堂あり。其傍に怪げなる(有朋下P701)庵室有、年へにけりと覚て痛荒たり。彼へぞ移せ給ける。古にける石の色、落来水の音、緑蘿窓を閉紅葉道を埋り。絵に書共筆も及難ければ、由ある体にぞ御覧じける。いつしか空掻陰り打■(うちしぐれ)つゝ、木葉乱飛鹿の音軒に聞ゆ。嵐に伝ふ鐘の音、風に消行香煙、板間を漏る月光、窓に怨虫の声、何も無常の理を示、偏(ひとへ)に有為の有様(ありさま)を顕せり。かゝらざらましかば、唯朝露の快楽に被(レ)覊、暮日の終焉を不(レ)知ましと思召(おぼしめし)つゞけて、仏前に詣給(たまひ)て、出離生死頓証菩提と、突(レ)額奉(レ)拝給けるにも、先帝御面影、夢にも非現にもあらで御身に添ければ、御心迷ひて消入せ給ぬ。女房達(にようばうたち)拘奉り泣悲み給けるに、やゝ程経て後ぞ御心地(おんここち)も出来にける。
S4603 頼朝(よりとも)義経中違事
伊予守義経、源二位頼朝(よりとも)を背由、此彼にさゝやき合り。兄弟なる上に父子の契にて、殊に其好み深し。
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依(レ)之(これによつて)去年正月に、木曾(きそ)義仲(よしなか)を追討せしより、重(レ)命捨(レ)身、度々平家を攻落して、今年終に亡果ぬ。一天鎮て四海澄ぬ。勲功無(レ)類、可(二)恩賞深(一)処に、如何なる子細にて懸るらんと上下怪をなす。此事は、去年八月に蒙(二)使宣(一)、同九月に五位大夫(有朋下P702)に成けるを、源二位に申合事なし、何事も頼朝(よりとも)が計にこそ依べきに、仰なればとて不(二)申合(一)条自由也。又壇浦の軍敗て後、女院の御船に参会条狼藉也、又平(へい)大納言(だいなごん)の娘に相親む事無(レ)謂、旁不(レ)得(レ)心宣て、打解まじき者也と被(レ)思けるに、梶原平三景時が、渡辺の船汰の時、逆櫓の口論を深遺恨と思ければ、折々(をりをり)に讒す。平家は皆亡ぬ、天下は君の御進退なるべし、但九郎大夫判官殿(たいふはうぐわんどの)ばかりや世に立んと思召(おぼしめし)候らん、御心剛に謀勝給へり、被(二)一谷(いちのたに)落(一)事鬼神の所為と覚えき、川尻の大風に船出給し事人の所行と覚えず、敵には向ふとは知て一足も不(レ)退、誠に大将軍哉と怖しき人にまします、尤の心え有べし、一定御敵とも成給ぬと存と申ければ、頼朝(よりとも)も後いぶせく思なりとて、追討の心を挟給へり。三浦、佐々木、千葉、畠山等多く参集たりける中に、鎌倉殿(かまくらどの)仰けるは、九郎が心金は怖き者也、西国(さいこく)討手の大将軍に誰をか可(レ)立と思しかば、両三人を呼心根見んとて、提絃を焼て、手水かけて進せよと云しかば、始は蒲冠者参て手を焼、あと云て退ぬ。二番に小野冠者来て、是も手あつしとて除ぬ。三番に九郎冠者、白直垂に袖露結肩に懸て、彼焼たる提絃を取て、顔も損せず声も出さず、始より終まで、手水を懸通したる者也。あはれ是を今度の大将と思て、都へ上せ西国(さいこく)へ指下たれば、木曾(有朋下P703)と云平家と云、三年三月の戦に、九郎
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冠者先をのみ蒐けれ共、終にうす手一つも負ず、平家を誅罰して、天下を鎮たるは神妙(しんべう)なれ共、頼朝(よりとも)にかさみて見ゆ。頼朝(よりとも)〔が〕父下野殿は平家討給ぬ、依(二)当腹(一)、十三歳の時六条川原にて可(レ)被(レ)切と有しを、池尼御前の垂伏依(レ)被(レ)申死罪を被(レ)宥、始は伊勢国(いせのくに)御座島にうつされ、是は都近とて、其より東路の末、伊豆国(いづのくに)北条蛭小島に移されて、廿一年さて過ぬ、軍功をいたして花洛へ責上たれ共、未昇殿をだにも免されざりき、何弟の身として、仙洞の御気色(おんきしよく)よければとて、頼朝(よりとも)に不(二)申合(一)、推て五位尉になる事奇怪也、又立ふぢ打たる車に乗、禁中花色の振舞、以外に過分也、頼朝(よりとも)にかさみて見ゆ、我を我と思はん人々、九郎冠者を打てたべと宣(のたま)ひけれ共、閉(レ)口是非の返事申人なし。鎌倉殿(かまくらどの)良相待給へ共、無音の間腹立して、いや/\此中には誰々と云とも、梶原計ぞ侍らん、景時都に上て打て進せよと仰す。梶原心中に思けん、人の上に被(レ)仰事かなと存じたれば、身の上に懸れり、今度は景時遁ばやと思て御前に参、袂(たもと)掻合て、仰の旨なれば、東は駒の爪の通、西は艫棹の至らんまでも可(レ)攻に侍れ共、判官殿(はうぐわんどの)の討手に景時上洛、然べし共不(レ)覚、梶原罷上らば、今明の上洛不(レ)得(二)其意(一)、義経に中悪き者也、追討使を所望して上にこそと被(二)推量(一)なば、還て逆打に討れぬと覚候、人(有朋下P704)を不(レ)損して敵を亡こそよき謀にて候へば、只思懸なからん人に被(二)仰付(一)たばかりて安々と討給へと申して、辞退申して出ぬ。秩父、河越、三浦、鎌倉、高家も党も、不(レ)悪者こそ無けれ。
鎌倉殿(かまくらどの)良案じて、土佐房昌俊を召て事の心を被(二)仰含(一)、九郎を討て進よ、大名などを指上ば、さる者にて
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心得(こころえ)ぬと覚ゆ、和僧は本奈良法師なれば、七大寺詣と可(二)事寄(一)と仰す。仰承て即御前を立ぬ。此昌俊と云は、本大和国(やまとのくにの)住人(ぢゆうにん)なるうへ奈良法師也。当国に針庄とて西金堂の御油料所あり。不慮の沙汰出来て、当庄代官小河四郎遠忠と云者が、西金堂衆に敵して、興福寺(こうぶくじ)の上綱に侍従律師快尊を相語て、年貢所当を打止間、堂衆又昌俊を語ひて大勢を引率し、針庄に推寄て遠忠を夜討にす。快尊又大衆を語ひて、土佐房を追籠て、春日神木をかざり洛中へ奉(二)振入(一)、昌俊を可(レ)被(二)禁獄(一)之由、為(二)奏聞(一)。大衆発向之処に、昌俊数多凶徒等(きようとら)を卒して、衆徒会合を追払、春日神木を奉(二)伐捨(一)。大衆憤深して、就(レ)経(二)天奏(一)昌俊を召けれども、敢て不(レ)従(レ)勅、依(レ)之(これによつて)衆徒之訴訟雖(二)鬱深(一)、両方の理非未(二)聞召開(一)、急企(二)参洛(一)被(レ)申(二)道理(一)者、可(レ)有(二)聖断(一)之由。被(二)宥仰下(一)ければ、昌俊即上洛す。可(二)召誡(一)之旨仰(二)別当兼忠(一)。昌俊を召捕て、大番衆土肥次郎実平に被(レ)預けり。月日を送りける程に、心様甲斐甲斐敷者なりければ、(有朋下P705)実平に親くなりぬ。随又公家にも御無沙汰なりけれ共、南都は敵人強ければ、還住せん事難治にて、実平に相具して関東に下、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に奉公す。心際不覚なしとて、身を不(レ)放召仕給けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)治承の謀反の時、昌俊二文字に結び雁の旗を賜たりけるとかや、去ば本南都の者なり。七大寺詣と号して指上す。
S4604 土佐房上洛事
同(おなじき)二十九日に、土佐房鎌倉を立て、十月十一日に京著、佐女牛町に宿を取。義経が宿所中四町を隔たり。昌俊上洛と聞ども源二位の状なし、昌俊不(二)見来(一)、伊予守子細を存ぜり。同(おなじき)十月十七日(じふしちにち)に、伊予守
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義経、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経を以申入けるは、命(二)糸綸(一)趣(二)千里之路(一)、交(二)矢石(一)忘(二)万死之命(一)、討(二)平氏(一)雪(二)父恥(一)、偏(ひとへ)に義経功也、我君争不(レ)被(二)抽賞(一)哉、頼朝(よりとも)又可(レ)加(二)殊恩(一)之処に、悉奪(二)取所領(一)之上、忽(たちまち)に欲(レ)令(二)誅殺(一)之間、進退失(レ)歩、前後迷(レ)度。枉下(二)賜官府(一)、暫欲(レ)全(二)身命(一)、若無(二)勅許(一)者、早可(二)自害(一)と申ける。詞中に奥旨ありければ、法皇殊驚思召(おぼしめし)て人々に被(二)仰合(一)けり。義経上洛の後、北国の凶徒(きようと)を誅して洛中安堵し、西海の逆賊を亡して天下静謐せり、随(二)所望(一)頼朝(よりとも)が憤憚あり、背(二)彼命(一)義経(有朋下P706)可(レ)懐(レ)恨、いかゞ有べきと。左大臣経宗被(レ)申けるは、為(レ)免(二)其難(一)、云(二)平将(一)云(二)義仲(よしなか)(一)、皆任(二)申謂(一)、被(二)成下(一)畢、限(二)今度(一)被(レ)惜無(レ)益歟、後日に頼朝(よりとも)に被(二)謝仰(一)、何胎(二)腹心(一)哉と被(二)計申(一)ければ、従二位(じゆにゐ)源朝臣頼朝卿(よりとものきやう)を可(二)追討(一)之由、被(レ)下(二)官府(一)ける上、九国四国之勇士、可(レ)従(二)義経行家下知(一)、兼又不(レ)論(二)国衙(こくが)庄園(一)、可(レ)備(二)調庸(一)之由、被(レ)成(二)下庁下文(一)けり。同日に伊予守土佐房を召す。随(レ)召昌俊参。いかに何事に上洛ぞ、など又音信(おとづれ)は無ぞと問。昌俊畏て、且被(二)知召(一)たる様に、本奈良の者にて候が、宿願事侍れ共、近年源平の合戦に打紛て不(レ)遂(二)其願(一)、彼を果さん為に、七大寺詣の志候て罷上て候、明日罷立候間、取乱候へば、奈良より罷上て、心静にと相存ずるに候と申。伊予守嘲咲て、和僧が上洛全非(二)七大寺詣(一)、義経夜討料也、大名などを上せば、九郎用心して天下煩にも成なん、又逃隠事も有べし、和僧奈良法師也、事を七大寺詣と披露して義経討との謀ぞや、和僧、源平糸を乱せるが如く、士卒似(二)蜂起(一)、然共義経上洛後、両年間に亡(二)凶徒(きようと)
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(一)鎮(二)海内(一)、夜討にせんと思寄条頑也、即雖(レ)可(二)召誡(一)、和僧が勝に乗ざる前に、義経手を出ならば、兼て臆病也と後の世までも及(二)口遊(一)事似(レ)恥、且又舎兄源二位の使也、争可(レ)無(二)芳心(一)、随(レ)召参上神妙(しんべう)と云。土佐房陳申て云、全其義侍らず、(有朋下P707)為(レ)散(二)不審(一)起請文を書進せんと云。伊予守は、起請を書たればとて不(レ)可(レ)実、其上事和僧が心任よといへば、昌俊其辺より、熊野牛王尋出して、其裏に上天下界神祇奉(二)勧請(一)、起請文書灰に焼て呑、宿所に帰て思けるは、起請は書たれ共、今夜不(レ)計ば悪かりなんと思て、夜討支度しけり。伊予守は、其比磯禅師が娘、禅と云白拍子を思けり。女に語て云、此晩程よりいと心騒頻也。一定昼の起請法師が夜討に寄んと思ふなりといへば、禅、大路は塵灰立て、何となく人足いそがし、不(レ)可(二)打解給(一)と申。太政(だいじやう)入道(にふだうの)禿童を二人召仕ければ、土佐房が宿所見て帰れとて、彼を遣侍共々々不(レ)見。亥時終程に半物を召て、日比(ひごろ)の寝夫を尋る由にて遣(レ)之。十七日(じふしちにち)の夜半の事なれば、月は隈なく照たり。女程なく帰て大息突申けるは、御使禿童と覚しきは、二人ながら土佐房が宿所の小門に死臥たり、暁大仏詣とて、大庭に大幕引、其中に鞍置馬四五十匹ばかり引立たり、鎧物具(もののぐ)身に取付て手綱を把、鞍に手打懸て、只今(ただいま)乗んずる様に候と云ぞ遅き、土佐房昌俊并児玉党等六十余騎(よき)、十七日(じふしちにち)子刻に、伊予守義経の六条堀川(ほりかはの)宿所に押寄て、時の声を発す。館内には不(レ)処事なれば、義経を始として纔(わづか)七騎ぞ有ける。伊予守時声を聞、さればこそ起請法師が所為也、但其僧は尤からず、何事か有べきとてちとも不(レ)騒。禅、者(有朋下P708)をばあなどるまじき事也とて、
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冑を取て打懸、灸治し乱て労の折節(をりふし)成けれ共、鎧小具足取付て、縁の際に立出て、門を開と下知す。舎人馬を待儲たり。義経馬に乗て蒐出。今日近来、日本国(につぽんごく)に誰かは義経を思懸べき、況昌俊法師をや、あますな者共とて、竪横散々(さんざん)に蒐ければ、木葉を嵐の吹様に、さと左右へぞ散たりける。伊予守、引退て指詰々々射ければあだ矢なし、寄手も矢前(やさき)を汰へて射けり。源八兵衛尉広綱は、内甲を鉢付の板に射付られて、馬より落て死にけり。熊井太郎は、膝節いさせて死生不(レ)定也。義経敵の中に懸入て、あますな射取れと下知しける上、郎等共(らうどうども)此彼より馳集ければ、昌俊が軍敗て、河原を指て逃走る。行家此事を聞馳来ければ、夜討の党類弥四方に敗散。昌俊は川原を上に落けるを、其僧あますな若党とて、義経は暁天に院(ゐんの)御所(ごしよ)へ馳参ず。甲の上に矢多く折懸たり。胡■[*竹冠+録](やなぐひ)に矢纔(わづか)に三筋ぞ残たりける。猛将の条は人の所(レ)知、世の所(レ)免なれ共、其気色実にゆゝしかりければ、人称美しあへり。昌俊は大原路(おほはらぢ)にかゝり、竜華厳を志、北山を指て落けるが、軍兵二手三手(みて)にさし廻し、先を切て延やらず、昌俊大原(おほはら)より薬王坂を越、鞍馬山に逃籠。伊予守児童の時、当時居住の好ありて、大衆法師原(ほふしばら)、山踏して尋ける程に、鞍馬奥僧正(そうじやう)が谷と云所にて搦捕、伊予守に奉。大庭に引居て、(有朋下P709)いかに和僧は、腹黒なしと起請書ながら、加様の結構(けつこう)をば巧けるぞ、冥覧在(レ)頂、神罰不(レ)廻(レ)踵、奇怪々々と云ければ、土佐房今は助るべき身に非と思て及(二)悪口(一)。夜討は二位家の結構(けつこう)、起請は昌俊が私の所作也、必しも非(二)冥罰(一)、只自然の運の尽にこそ、互に其期あるべきと云。伊予守腹を立て、しや頬打とて、つら
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を打せたりければ、昌俊不(レ)振(レ)面不(レ)損(レ)顔、只飽まで打給へ/\、昌俊が顔我つらにあらず、是は源二位家の御頬也、此代には又鎌倉殿(かまくらどの)、伊予守殿の顔を打給はんずれば、思合給はんずらんと申す。伊予守から/\と打笑つて、和僧が志誠に神妙(しんべう)也、主を憑むと云は角こそ有べけれ、召人なれ共、土肥が親く成けるは宣く理なりと感じて、命惜くば助ん、二位殿(にゐどの)へ参れと云ければ、昌俊取替もなき命を奉て、鎌倉を立し日より、生て可(レ)帰と不(レ)存、夜討し損じ虜れぬる上は、非(下)可(二)申請(一)命(上)、芳恩には急頭をめせと申。伊予守以下侍共感じ申けり。さらば切れとて、六条川原に引出して、京者の中務丞友国と云者切てけり。伊予守二位家よりあまた人を付たりける内、安達新三郎清経と云雑色あり、下揩ネれ共能者也。旗指にせよとて付られたりけれ共、実には、九郎冠者謀叛をも発頼朝(よりとも)を背ば、急告よとの検見(けんみ)の使也ければ、土佐房が被(レ)討を見て、清経其暁鎌倉へ逃下て、二位殿(にゐどの)に角と申け(有朋下P710)れば、あゝ九郎は頼朝(よりとも)が敵にはよく成にけり。今は憚るべからずとて、弟に三河守範頼を大将軍にて、六万騎の兵を相副て、可(二)上洛(一)之由被(レ)申ければ、範頼既(すで)に出立て、小具足計にて、熊王丸に甲持せて二位殿(にゐどの)に見参し給ふ。和殿とても非(レ)可(二)打解(一)、九郎が様に二の舞もやと存ずれば、上洛事暫可(二)相計(一)と宣ふ。三河守小具足解置、努々不(レ)存(二)其義(一)、可(二)起請仕(一)とて、不(レ)可(レ)奉(レ)背之由、梵天帝釈下奉て、百日に百枚之起請文を書上たれ共不(レ)用して、範頼暫被(レ)宥けり。為(二)義経誅戮(一)、北条四郎時政、土肥次郎実平、可(二)上洛(一)之由有(二)評定(一)。
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S4605 高直被(レ)斬並義経申(二)庁下文(一)附義経惜(二)女遣(一)事
同(おなじき)十一月一日肥後国住人(ぢゆうにん)原田大夫高直被(レ)切けり。是は此三箇年の間平家に付て、度々合戦に勲功ありしかども、平家滅亡之後は安堵し難うして、命ばかりもやと思て、頸を延て降人に下たりけれども、源家敵対の罪科難(レ)遁とて、かく被(レ)行けり。
同(おなじき)二日伊予守義経、法皇の御所六条殿に参ず。何となく見人上下恐を成してひそまる気色なりけるに、思よりも閑にして、忍やかに大蔵卿(おほくらのきやう)泰経朝臣に案内したりければ、出合有(二)対面(一)け(有朋下P711)るに、義経畏て申様、源二位頼朝(よりとも)が度々の奉公をば忘れて、無(レ)由悪思事更に不(レ)得(二)其意(一)、無(二)其誤(一)由聞や直すと思候へども、弥にこそ承侍也、今は思切て京都にて如何にも可(レ)成候に、君の御為にも人為にも煩あるべし、西国(さいこく)の方へ可(二)罷下(一)由思立侍り、可(レ)然は豊後国住人(ぢゆうにん)惟妙、惟義等が許へ、始終見放さず可(二)合力(一)由、院庁御下文申給候なんや、宸襟を奉(レ)休、度々の軍功争可(レ)被(二)思召(おぼしめし)捨(一)、最後所望唯此事に侍と掻詢(かきくどき)申ければ、泰経奏聞す。法皇聞召、御進退の間思召(おぼしめし)煩て、即以(二)泰経(一)殿下に申る。左大臣に被(レ)仰、又蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)定長(さだなが)を御使にて右大臣に仰す。各計申されけるは、洛中にて合戦に及ば、朝家の御大事(おんだいじ)も出来すべし、軍士を外土へ被(レ)出事穏事にこそと被(二)奏申(一)ければ、任(二)申請(一)庁御下文を被(レ)成にけり。義経畏つて賜(レ)之出ぬ。
同日の夕べ夜に入て、義経最後の別を惜つゝ、女の許へ行けり。前平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の娘也。月比は志深通けれ共、源二位に中悪くなる由披露の後は、此女房にも不(二)打解(一)、平家を亡時忠を虜りたりしに、
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文箱を乞はん料に、不(レ)意情を籠しばかりなり。女成とも義経をばよき敵とこそ思らめなればとて、かれ/゛\に成たりけるが、都を落なん後は、再云通はさん事も有まじ、行て事の様をも見聞んと思て、忍て彼宿所の垣根にたゝずみ聞けれ(有朋下P712)ば、かたへの女房に物語(ものがたり)すとて、伊予守は源二位に中悪く成て、都を出べしと聞ゆ、世をつゝみて云事も無やらん、一夜の契疎ならず、遉積ぬる月日なれば難(レ)忍侍る、などや音信(おとづれ)ざるらん、うらめしくも人の心強面かりけりとて、
  つらからば我もろ共にさもあらでなど浮人の恋しかるらん K249 
と打詠じてさめ/゛\と泣けり。伊予守聞(レ)之、心替りはなかりけりと哀に思ければ、今夜は爰(ここ)に留て、以来向後の物語(ものがたり)、互に袖を絞ける。女房云けるは、母には死て別ぬ、父には生て別ぬ、無(レ)便身也、誰哀を懸べし共不(二)思侍(一)、可(レ)然先世契にこそ近付侍らめ、如何なる有様(ありさま)に御座とも相具し給へと歎給(たまひ)けり。伊予守は、実にさるべきにこそ侍れ共、義経源二位に中違ぬる上は、日本国(につぽんごく)誰か敵にあらざるべき、今は身一の置所(おきどころ)なければ、何方へも可(二)落忍(一)、如何ならん末代までもとこそ思侍しに、心に任ぬ身の憂さよ、奉(二)留置(一)後、いかならんと兼て思こそ心苦しけれとて、衣々になる暁の空、出るも留るも、さこそ遺は惜かりけめ。
S4606 義経行家出(レ)都並義経始終有様(ありさま)事(有朋下P713)
同三日卯時に、義経院(ゐんの)御所(ごしよ)六条殿に参て大庭に跪き、事の由を奏す。赤地錦の直垂に、萌黄の糸威の鎧を著たり。よろづを慎て、都鄙の逆党を平て一天の安全をなす、義経有(二)勲功(一)無(二)邪返(一)、爰(ここ)に頼朝(よりとも)
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軍兵を指上て追討の企を起す、速に時政、実平を待得て雖(レ)可(レ)決(二)雌雄(一)、都煩人歎たるべし、依(レ)之(これによつて)只今(ただいま)洛中を罷出処也、今一度可(レ)奉(レ)拝(二)竜顔(一)由雖(二)相存(一)、其体異形也、非(レ)無(二)其恐(一)、命存へん程は、当時と云向後と云、更不(レ)可(レ)奉(レ)背(二)勅定(一)と申たりければ、聞(レ)之人々、或憐或惜けり。即罷出けれ共、少も人の煩をなさず。備前守行家、同打具して都を出。彼此が軍兵、見人数へければ三百騎(さんびやくき)ぞ有ける。凡義経京中守護間、有(レ)威不(レ)猛、有(レ)忠無(レ)私、深不(レ)背(二)叡慮(一)、遍相(二)叶人望(一)ければ、貴賎上下惜み合りけるに、懸事出来たれば、男女大小歎けり。今度の奏聞次第の所行、荘士の法を不(レ)乱ければ、生ては被(レ)嘆死ては被(レ)忍けり。八幡の伏拝の所にて、義経馬より下(おり)、■(かぶと)をぬぎ、弓脇に挟て跪き申けるは、忝八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は源氏氏神とならせ給ふ、本意を申せば、高祖父頼義(らいぎ)蒙(二)夢告(一)、怪傀儡腹に男子をなす、則八幡の宮に奉て、八幡太郎(はちまんたらう)と世に申伝たり、一天の固として鎮(二)四海(一)、而を近年平家の逆乱さかりになりし間、源氏跡を失事二十一年也。今又平家の宿運尽て源家世を取、中に木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)、朝威を(有朋下P714)挿絵(有朋下P715)挿絵(有朋下P716)軽しめ過分の故に、義経手を下して義仲(よしなか)を誅す、是義経が奉公の始なり。加之四国九州に赴て、若干の平氏を誅戮し畢。此に雖(二)無(レ)誤無(一)(レ)犯、舎兄頼朝(よりとも)が讒訴について、今義経行家都を罷出。譬ば岸の額に離(レ)根草、江頭に不(レ)繋舟の如し。一門一味にして世をとりし平家も、運尽る日は一人もなし。賢しといへ共、頼朝(よりとも)心狭くして、一人世を知んと思事、神慮実に難(レ)測、大菩薩(だいぼさつ)はいかゞ守らせ給らん、今は今生の望候はず、本地弥陀にておはすなれば、後生をば助給へとて、
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指を折て南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)と百返計申て、立様に口ずさみけるは、
  思より友をうしなふ源の家にはあるじ有べくもなし K250 
と云、合(レ)掌伏拝て立程に、伊予守義経備前守行家、源二位に中悪くて、時政実平討手の使として上洛の間、両人西国(さいこく)へ落下と披露有ければ、関東の聞えを恐れ、源二位に志ある在京の武士、馳重馳重是を射けれ共、散々(さんざん)に蹴破て西を指て落行。摂津国(つのくに)源氏多田(ただの)蔵人行綱、大田太郎、豊島冠者等千余騎(よき)の勢を引具し、当国中小溝と云所にて陣を取、矢筈を揃て射けれども事共せず、追散して通にけり。大物が浜より船に乗て九国に下、尾形三郎惟義を憑て支へて見ん、其猶不(レ)叶ば、鬼界、高麗、新羅、百済までも落行んと(有朋下P717)思けれ共、折節(をりふし)十一月の事なる上、平家の怨霊や強けん、度々船を出けれども、波風荒うして、大物が浦、住吉(すみよしの)浜などに被(二)打上(一)て、今は不(レ)及(二)於出(一)(レ)船、敵の兵は追続々々に馳来。可(レ)遁様なかりければ、三百(さんびやく)余騎(よき)の者共も、思々に落にけり。義経、行家其行方を不(レ)知。都より相具したりける女房達(にようばうたち)も、此彼に被(レ)捨て、浜砂に袴を踏漉、松木の本に袖を片敷て泣臥たりけるを、其あたりの人憐みて、都の方へ送けり。白拍子二人、礒の禅師ばかりぞ義経に付て見ざりける。何者(なにもの)か読たりけん、義経が宿所六条堀川(ほりかはの)門柱にかく、
  義経はさてもとみつる世中にいづくへつれて行家をさは K251 
同(おなじき)十二日、太宰権師経房卿奉(レ)仰て、美作(みまさかの)国司に仰けるは、源(みなもとの)義経同行家、巧(二)反逆(一)赴(二)西海(一)、
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去六日に於(二)大物浜(一)、忽逢(二)逆風(一)漂没之由、雖(レ)有(二)風聞(一)、亡(レ)命之条非(レ)無(二)独疑(一)、早く仰(二)有(レ)勢武勇之輩(一)、尋(二)捜山林河沢之間(一)、不日に可(レ)令(レ)召(二)進其身(一)とぞ院宣を被(レ)下ける。昨日は依(二)義経競望(一)、可(レ)追(二)討頼朝卿(よりとものきやう)(一)之由被(レ)下(二)宣旨(一)、今日は恐(二)頼朝(よりとも)威勢(一)、可(レ)捕(二)進義経(一)、之由被(レ)下(二)院宣(一)、朝に成て夕に敗、誰人か信(二)綸言(一)、何輩か帰(二)勅命(一)。さればにや、成頼卿は好(二)文章(一)其性廉なり、親範卿は伝(二)文書(一)熟(二)公事(一)、各遁(レ)世為(レ)臥(二)雲侶(一)(有朋下P718)不(レ)出(二)大原(おほはらの)幽澗(一)。隆季卿は雖(レ)生(二)素■(そざんの)家(一)、頗為(レ)膚(二)文臣(一)、早く以没す。長方卿は大才無(レ)双、文章相兼たり、殆不(レ)恥(二)上古名臣(一)、寄(二)事於素意(一)、剃(二)落鬢髪(一)。悲哉君子道消て小人諍進ことを。最哀。彼義経と云は、母は九条院雑司常葉ぞかし。故下野守左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)に相具して、三人の男子をなす。義朝(よしとも)平治の兵乱に、云に甲斐なく成し後、大弐清盛(きよもり)の許より使を立て常葉を尋ければ、さ思つる事也、中々に逃隠ても悪かりなんとて、十歳に未(レ)満子共三人掻持て、泣々(なくなく)清盛(きよもり)に逢たりけり。容貌事様より始て、振舞心立に付て思増様なりければ、情ある女なりとて、清盛(きよもり)通ける程に、女一人儲たり。廊の御方とて、花山院内大臣(ないだいじん)の北方にて御座(おはしまし)ける。姉公(こじうと)の体に候はれけるは是也。清盛(きよもり)心に情ありて、彼継子三人を憐、中々に披露あるまじ、我子といはんとて、各法師になれとて、教訓しければ、常葉悦て、太郎をも法師になして、後には鎌倉の悪禅師といはれき。次郎をも僧に成て公暁と云き。三郎は義経ぞかし。稚より鞍馬寺に師仕せさせて、遮那王殿とぞ云ける。学文などせんと云事なし。只武勇を好て、弓箭、太刀、刀、飛越、力態などし
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て谷峯を走、児共若輩招集て、碁双六隙なかりければ、師匠も持あつかひて過ける程に、十六に成ける時の正月に、師の僧の云けるやう、今は僧に成て父の後生をも(有朋下P719)弔給へかし、男にならんと思志なんどおはするか、さらば此世中に非(レ)可(二)御座(一)、世になからんに取ては、男の義有べくもなしなんど、懇に語ける時、此児打笑て答様、僧は聖教を読学し、書籍を伝習たるぞさる様にてよけれ、加様の文盲の身にては、法師に成たり共非人にてこそあらめとて、いと心入なかりける気色を見て、此僧の申ける様は、人の果報は凡夫不(レ)知事也、如何にも覚さん儘に、■(はふ)方へ■(はひ)給へとて、笑て止にけり。さて七八日、此児物思ふ様にて有ければ、彼師怪と思て慰けりとする程に、少くより持習たりし弓矢をとり、夜の間に児失にけり。東西尋けれ共、児みえず、母の常葉も同尋けり。其年の二月に、此師の弟子なりける僧の、尾張より上たりけるが、諸の物語(ものがたり)申ける次にや、実に不思議の事侍ふ、此に御座(おはしま)せし遮那王殿こそ男になりて、金商人に具して奥の方へ下給しか、僻目(ひがめ)かとて能々見しかば、いまだ金も落ずしておはしき、角みる事は夜の間なりき、去にても忍やかに物申さんと思て、忍に如何にやと申て候しかば、少し物はゆげに覚して、其事に侍、師御房の僧になすべき由懇に候し旨其謂候き、去共人間に生る間は難(レ)有と申ぞかし、如何にして父の恥をすゝがんと、年比鞍馬寺の毘沙門に祈申き、身の果報を天道に任進せて、東の方へ罷也、坂東に名ある者、一人として(有朋下P720)父祖父の家人ならぬはなしと承れば、去共様有なんと思て罷也、事の次でのあらん時、此由師の御房に語給へ、文なんどにては落
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散事もあり、必人伝ならでと語て、はら/\と涙を流し候しぞと語ければ、彼師も袖を絞つゝ、さらばさこそ宣ふべけれ、如何して其迄もかゝぐり付れけんとて、忍て母の許に行此由を云ければ、常葉手をあかひて、いや/\努々此事又人に語給ふな、空怖しとて止みにけり。其比伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)江三郎義盛とて心猛者ありき。あたゝけ山にして、伯母聟に与権守と云けるを打殺したりし咎に被(二)禁獄(一)、赦免の後東国に落行て、上野国荒蒔郷に住ける時、旅人一人来て遊。義盛、我も本は旅人なりき、慰んと思て、何となく■(むつまじく)て日比(ひごろ)遊けるに、いかにも直人共見えざりければ、不(レ)寂労りけり。又此旅人も、義盛をよき者と見てけり。互に馴遊て年月をふる程に、義盛が申様、我をば義盛と知給へるにや、殿をば誰共不(レ)奉(レ)知、今更可(レ)奉(レ)問、よも義盛が敵にては御座(おはしま)せじと云ければ、旅人答様、人は家をば憑ず心をぞ憑む、見馴進せて久く成ぬ、是は父母もなし親類もなし、天より天降たる者成とて、上下なくて過しける程に、鎌倉にて、流人源兵衛佐(ひやうゑのすけ)の謀叛を起して■(ののし)る由、まめやかに聞えける時、旅人義盛に云様、下人一人やとはかし給へ、四五日が程に帰すべし、年比の本意(有朋下P721)に侍りと有ければ、義盛是非の言なし、藤太冠者と云ける奴を召て、此殿に己をば奉る也、いかにも随(レ)仰へと云てけり。偖彼下人と此旅人と、懇に私語(ささやき)物語(ものがたり)して、通夜消息(せうそく)を書て、明る朝に出し立、旅の殿の教の儘に、藤太冠者は鎌倉に行付て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の御座(おはしまし)ける館を徐に見て、輙く人の行至るべき様もなかりければ、身の毛竪て門にたゝずむ。暫しこそあれ、いつとなくたゝずむ程に、人々怪て、あれは何者(なにもの)ぞやと尋ありける時、懐
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より文を取出たり。暫ある程に返事を持て出て、いづら九郎御曹司の御使と呼けれ共、藤太冠者不(二)意得(一)して居たり。文を取次たる人出来て、あれこそはそよとて、藤太冠者を呼て返事をつらせつ。詞には疾々御渡り候へと申せとぞ云ける。藤太冠者胸はしりつつ、急帰て旅の殿に返事わたして、後に此有様(ありさま)を義盛に語に、志不(レ)浅つる上に弥■(むつまじく)て、九郎御曹司と申てかしづき、主従の礼をなす。さて取物も不(二)取敢(一)様に出立て、義経鎌倉へ上る。義盛一の郎等たり、理なり。夜に入て鎌倉に著、明朝以(二)義盛(一)角と申入らる。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の返答に、只今(ただいま)急に侍り、夕方心閑に可(レ)申とあり。其程は義経義盛忍て宿にあり。戌の半計の時、兵衛佐(ひやうゑのすけ)使を義経の許へ立て被(二)呼寄(一)。見参して鳥の鳴程に被(レ)出ぬ。又朝に指出られたりしより、いつしか又上もなき家の子也。義経木曾殿(きそどの)并に(有朋下P722)平家追討の為(二)討手(一)、京上の時は、伊勢三郎義盛とて先陣を打、西国(さいこく)屋島壇浦までも不(二)相離(一)、義経都を落ける時、義盛君の落著給へらば急ぎ可(二)馳参(一)と様々契申て、思様ありとて暇を乞て、故郷伊勢国(いせのくに)に下、其時の守護人、首藤四郎を伺討つ。国中(こくぢゆう)の武士追かゝりければ、義盛鈴鹿山に逃籠て戦けるが、敵は大勢也、矢種射尽して自害して失にけり。武蔵国住人(ぢゆうにん)河越太郎并一男小太郎被(レ)誅けり。是は故秩父権頭が次男の子ぞかし。然程に、義経都を落て金峰に登て、金王法橋が坊にて、具したりし白拍子二人舞せて、世を世ともせず二三日遊戯て、あゝさてのみ非(レ)可(レ)有とて、白拍子を此より京へ返送とて、金王法橋に誂付て、年来の妻の局、河越太郎が女計を相具して下にけり。義経が舅子舅なるに依て角亡にけり。陸奥国
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権館、秀衡入道が許に尋付たりければ、造作して居侍つて過る程に、秀衡老死しぬ。其男安衡を憑て有けるが、鎌倉に心を通して義経を誅す。其時妻女申けるは、一人の子なれば思置事なし、残居て憂目を見んも心うし、我を先立て死出山を共に越給へと云ければ、義経南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)と唱へて、女房を左脇に挟かとすれば頸を掻落して、右に持たる刀にて、我腹掻割て打臥にけり。昔将門(まさかど)が合戦の時、御方したりし俵藤太秀郷が末葉に、陸奥出羽両国の地頭にて権大夫常清、其一男に(有朋下P723)権太郎御館清衡、其男に御館元衡、其男に御館秀衡、其男に安衡是也。背(二)父遺言(ゆいごん)(一)安衡義経を討たりけれ共、無(二)其詮(一)、源二位頼朝(よりとも)奥入して、安衡をば被(レ)誅けり。源二位或望或欝申事ありて、時政実平を指進せて、可(レ)潜(二)近臣輩(一)由聞えければ、人皆恐怖しけり。
S4607 時政実平上洛附吉田経房卿御廉直事
同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)、両使数百騎(すひやくき)の兵を率して入洛す。義経行家は都を落ぬ。時政実平上洛したれ共、合戦なければ洛中静也。時政源二位の依(二)下知(一)、諸国に守護を置、庄園に地頭を可(レ)成由、吉田藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)経房卿を以奏し申す。又二十六箇国を相分て、庄領国領をいはず、段別兵粮米を充、義経行家追討のためとぞ聞えし。無量義経云、王敵を亡す者には賞するに半国を賜はると見えたれ共、我朝いまだ無(二)先例(一)、頼朝(よりとも)申状頗過分也と、君も臣も思召(おぼしめし)ければ、御返事(おんへんじ)有(二)御猶予(一)ければ、時政奏すらく、吾朝日本国(につぽんごく)に、昔よりして謀叛人多く日記に留れ共、平相国(へいしやうこく)に過たる犯人を不(レ)見。天竺には、提婆達多、仏の御身より血をば出したりけれ共、国を悩す事はなし。唐会昌天子僧尼を亡しけれ共、臣公は(有朋下P724)穏しかりき。
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平家太政(だいじやう)入道(にふだう)は、南都園城(をんじやう)仏法僧(ぶつぽふそう)を滅し、仙洞梁園を蔑ろにし、三公侍臣を流し失、昔も類を不(レ)聞、向後も実に難(レ)有、朝庭これを歎、仏家専悲、是を平ぐるは源氏の高名也、是を鎮るは関東の忠勤也、国を守人をめぐまんが為に被(二)奏申(一)処也、などか御免なからんと申上たりければ、道理はさも有けれども、当時の威応に恐て任(二)申請旨(一)、諸国の守護人、段別の兵粮米、平家知行の跡に地頭識を被(レ)許けり。
吉田中納言経房卿をば、其比は勧解由小路中納言と云き。廉直の姓世に顕れし、忠貞の誉無(レ)隠ければ、源二位今度院奏しけるは、大小事、向後以(二)経房卿(一)可(二)奏聞(一)之由被(レ)申たり。平家時も大事をば此卿に被(二)申合(一)き。故太政(だいじやう)入道(にふだう)の法皇を鳥羽殿(とばどの)に籠奉りし後、院伝奏おかれし時は、八条中納言長方と此大納言(だいなごん)と二人をぞ別当には被(レ)成ける。今度源氏の世に成りても、角憑まれるこそ難(レ)有けれ。三公以下、参議、非参議、前官当職等四十三人中に被(レ)択けるぞ優々敷。平家にむすぼほれたりし人々も、今は源氏に追従して、源二位の許へ状を遣し、使を下して種々(しゆじゆ)にこそ眤けれ共、此卿は露諂事なし、只有に任たる心也。されば後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)建久二年の冬比より御不予(ごふよの)事ありて、同三年正月の末よりは、憑少き御事と思召(おぼしめし)て、種々(しゆじゆ)の御事共(おんことども)仰置給しに、御後の事奉行すべき由、彼経房卿(有朋下P725)承き。執事にて花山院左府(さふ)、近臣にて左大弁(さだいべん)宰相候る。此人々被(二)申沙汰(一)、可(レ)有(二)何不足(一)なれども、思召(おぼしめし)入加様に被(二)仰含(一)事の忝(かたじけな)さよとて、感涙を流し給けるとぞ聞えし。よく実ある人にて、君も角思召(おぼしめし)けるにこそ。
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此卿は、権右中弁(ごんのうちゆうべん)光房朝臣息男、十二歳時父光房に後れ、孤子にておはしけれ共、次第の昇進不(レ)滞三事顕要を兼帯し、夕郎貫首を経、参議右大弁、中納言、太宰師をへて、終に正二位(しやうにゐの)大納言(だいなごん)に至けり。人をば越けれども人には越られず、君も重く思召(おぼしめし)、臣も憚思ふべき、人の善悪は針を袋に入たるが如しといへり。誠に隠れなかりければ、源二位までも被(レ)憑給けり。
S4608 尋(二)害平家小児(一)附闕官恩賞人々事
同年十二月十七日(じふしちにち)侍従忠房、前左兵衛尉実元が預たりけるを、野路辺にて斬(レ)首。又小児五人内、二人は前(さきの)内大臣(ないだいじん)の息、一人は通盛卿男、二人は維盛卿子也。同彼所にして誅殺す。何もとり/゛\に貌有様(ありさま)よし有て見えければ、武士共剣刀の宛所も不(レ)覚ければ、とみに不(レ)斬して程へけるに、此少き人共、或殺さるべしと知て泣悲むもあり、又思分ずして母をよばひ、乳母(めのと)を慕て泣悶るもあり。彼を見此を見るに、無慙にもかはゆ(有朋下P726)くも覚えければ、兵ども涙をぞ流ける。
同日、任(二)源二位申状(一)、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経、右馬権頭経仲、越後守隆経、侍従能成、少内記信康被(二)解官(一)けり。上卿左大臣経宗、職事頭弁光雅朝臣也けり。大蔵卿(おほくらのきやう)父子三人被(二)解官(一)ける事は、義経以(二)彼卿(一)、毎時奏聞しける故とぞ聞えし。能成は義経が同じ母弟、信康は義経が執筆也。又左馬権頭業忠、兵庫頭(ひやうごのかみ)範綱、大夫尉知康、同尉信盛、左衛門尉(さゑもんのじよう)時定、同尉信定等、為(レ)加(二)其刑(一)、関東より召下とぞ聞えし。同晦日解官並流人被(レ)下(二)宣旨(一)けり。参議親宗、右大弁光雅、刑部卿(ぎやうぶきやう)頼経、左馬権頭業忠、大夫史隆職、兵庫頭(ひやうごのかみ)範綱、左衛門尉(さゑもんのじよう)知康、同尉信盛、同尉信貞、同尉時盛被(二)解官(一)けり。光雅朝臣隆職は、官府を成下しける
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故とぞ聞えし。泰経卿は伊豆、頼経朝臣は安房へ配流の由被(二)宣下(一)けり。威(レ)君潜(レ)臣こと不(レ)異(二)平将(一)。時政既天下の権を執ければ、諸公卿士列(二)左右(一)集(二)門下(一)。去二十七日(にじふしちにち)可(レ)預(二)議奏(一)人々とて、関東より交名を注進す。右大臣兼実、右大臣実定、三条大納言(だいなごん)実房、中御門大納言(だいなごん)宗家、堀川(ほりかはの)大納言(だいなごん)忠親(ただちか)、権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)実家、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)通親、藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)経房、藤宰相雅長、左大弁(さだいべん)宰相兼光也。今度源二位注進の状に、入人は其威を振ひ、不(レ)入人は失(二)其(その)勢(いきほひを)(一)、世の重じ人の帰する事平将に万倍せり。是人之非(レ)成、天之所(レ)与也。右大臣可(レ)被(レ)下(二)内覧宣旨(一)之由(有朋下P727)同被(レ)申たりければ、法皇も頼朝卿(よりとものきやう)任(二)申入之旨(一)、於(レ)今者世事偏可(レ)被(二)計行(一)と被(レ)仰ければ、右府頻(しきり)に被(二)謙譲申(一)けり。(有朋下P728)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十七

P1162(有朋下P729)須巻 第四十七
S4701 北条上洛尋(二)平孫(一)附髑髏尼御前事
平家は一門広かりしかば、彼等が子孫定て京中に多く有らん、尋捜て可(レ)誅と、源二位北条時政に被(二)仰含(一)ければ、時政上洛して、平家の子孫尋得たらん者は、訴訟も勧賞も可(レ)依(レ)謂と披露しければ、案内知りたるも不(レ)知も賞に預からんとて、上下男女伺求ければ、多く尋ね出しけるこそ人の心うたてけれ。実の平氏の子ならぬ者も、多く被(二)召捕(一)けるとぞ聞えし。痛少をば水に沈め土に埋、少成人したるをば指殺し突殺し、母の悲み乳母(めのと)の歎、可(レ)類方なかりけり。北条も子孫多く有ける上、遉岩木ならぬ身なれば、加様に無(レ)情振舞けるもいみじとは不(レ)思、随(レ)世習心憂く思ける。東山長楽寺と云所に、阿証坊印西とて貴き上人座しけり。慈悲の思深して物を憐み、柔和の性静にして不(レ)犯(二)禁戒(一)、世挙て慈悲第一の阿証坊と云。此人西山栂尾の明恵上人に謁して帰給けるに、一条万里小路を通り給ふ。一条面は平門、小路面は両緒戸に、土門薄檜皮の御所の前に、人多く(有朋下P730)集てひしめき合り。立寄て良見ければ、門々に武士あまたあり。内より五六歳計なる少人の、梧竹に鳳凰織たる小袖に、上に練貫の小袖を打著せて、地白の直垂に玉だすき上て、下腹巻に烏帽子(えぼし)かけして、太刀計帯たる男の肩に乗せて、大路に出て西を指て走。見れば不(レ)斜(なのめならず)、厳き小児也。髪黒々と生延て肩の廻過たり。
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乳母(めのと)とおぼしき女房の二十四五計なるが、歩徒跣にて泣々(なくなく)不(レ)後と走行。上人是を見るに、此程聞ゆる平家の子孫を、武士が取て失んとするにこそ、誰人の子孫なるらんと人に問けれ共、分明にも不(レ)謂。非(二)直事(一)、此人の果見んと思て、西方へおはしける程に、又二十余(あまり)の女房の、不(レ)斜(なのめならず)厳きが、いつ土踏たるらん共不(レ)覚、見るも労しかりけるが、唐綾の二小袖に、練貫の二小袖を打纏て、顔も不(レ)隠恥をも忘て、道をもさだかに不(レ)歩、現心もなげにて泣々(なくなく)行を見るに、是は母上ならんとぞ覚えける。旁哀におぼして、駒を早めておはしける程に、蓮台野の方へ向て走けり。遥(はるか)に奥に行て峯の堂と云所あり、此すそに古き墓共多くあり。其辺に下し居て、肩に乗せたる男は、汗押拭て傍に休居たり。継て走ける男、無(二)風情(一)走寄て取て抑て、膝の下におしかふかとすれば、軈(やが)て頸をぞ切てける。頸をば古き石の卒都婆の地輪にすゑて、上なる練貫小袖にて刀押拭て、身をばそばなる堀に投入て、軈走て帰に(有朋下P731)ける。上人つく/゛\と是を見給(たまひ)て涙を流し、穴口惜、斯る事を見つる心憂さよ、何しに中々来けんと、後悔し給へ共無(レ)力。死人の首のもとに立寄て、泣々(なくなく)阿弥陀経(あみだきやう)読、念仏申て後生を弔給ける程に、母上も乳母(めのと)も、涙に汗も争て出来、母は切て居たる首を見て走寄り、懐気に取付て、こは何と成ぬる有様(ありさま)ぞ、夢かよ/\と云ながら、軈倒れて絶入にけり。乳母(めのと)の女房は、堀なる身を懐上て、首もなき死人を把て、是も同消入ぬ。上人是を見給(たまひ)て、日比(ひごろ)は音にこそ聞つるに、今まのあたり懸るかはゆき事を見事よと、落る涙に墨染の袖、白妙(しろたへ)にこそ絞りけれ。夕日既(すで)に山の端に傾き、いぶせき山
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の中なれば、此人々も被(レ)失なんず、如何すべきとて、上人よりて事の子細を尋れ共、暫しはあきれて物もいはず。様々教化して、御命は限有る事に侍り、今日斯憂目を御覧ずるも、前世の事にこそ侍らめ、折節(をりふし)愚僧参会て後世をも奉(レ)弔は、同御事と云ながら、若公の菩提も助り給ぬらん、一度にたへぬは思にてこそ侍るなれば、帰給(たまひ)て後生をこそ弔給はめと宣へば、女房現心もなくして、こは如何にと云事ぞ、此をばいづこと申所にて侍るぞと宣(のたまひ)ければ、上人此は蓮台野と申て、無人を送る鳥辺野也、たま/\ある者は死人の骸、草深うして露滋し、いぶせく奇所也と答給ふ。女房人心地出来て宣(のたまひ)けるは、北条とかや上て、平家(有朋下P732)の子孫失侍など聞えしかば、人の上共不(レ)覚、憂目をや見んずらんと、日比(ひごろ)は思儲たり、され共愚にも只今(ただいま)の事とは思侍らずこそ有つるに、何者(なにもの)か云伝けん、俄(にはか)にたばかりとられて出侍つれば、最後の物などすゝむる事なし、懐糸惜く面影をも見ず、かきくらす別の悲さに、心一に迷出たりつれ共、そこはか共不(レ)覚、元来西も東も不(レ)知身にて侍上、斯る歎さへ打副て物の心も不(レ)覚、今朝の花やかに厳しかりつる有様(ありさま)の、今角見べしとは思ひ侍らず、こは何と成ぬる事ぞやとて、身もなき首を抱て泣給へば、乳母(めのと)の女房は、頸もなき身を懐きて共に泣けり。上人宣(のたまひ)けるは、爰(ここ)に角ては如何御座侍るべき、帰り給(たまひ)てこそ兎(と)も角(かく)も思召(おぼしめし)成給はめ、女房の御身として懸る山に渡らせ給はば、盗人など云情なき者も出来て及(二)御恥(一)、又人を損ずる獣なども参なば、中々可(二)口惜(一)、疾里に出おはしませと様々勧奉れば、女房宣(のたま)ひけるは、今は命を惜べき身にも侍らばこそ、
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帰ても嬉しからめ、左様にて消も失なば、若公と一つ闇路を伴ひたらば、中々嬉敷侍なん、出る日の如くにわりなく思ひつる少き者には後れぬ、又命惜とも不(レ)思とて、声も惜まず泣■(なきののしり)給ければ、上人、さらでだに女人は五障三従とて罪深き御事にて侍り、我御身こそ悲しき地獄に落給共、さしも御糸惜き若公の刀のさきに懸て失給ぬるを御弔もなくて、悪き(有朋下P733)道へ堕し奉らんと思召(おぼしめし)侍か、長き闇路を祈助け給はんこそ遠き御情(おんなさけ)にて侍べけれ、一樹の陰一河の流れと云事もあれば、先立給ふ御歎は去事なれ共、無人の御為にはそも由なしなど、一度は教訓しつ、一度は威しつ宣(のたまひ)けれ共、猶悲みの涙色深うして、同道にと焦れ給けるが、やゝ暫有て女房、さらばこゝにて様を替ばやと宣へば、上人それはさるべき御事にも侍べしとて、蓮台野に池坊と云所あり、其傍に地蔵堂と云御堂に具足し入れ奉て、傍の庵室より剃刀を借寄て、持給へる水瓶にて髪を洗ひ、長に余れる簪をおろし奉。落涙髪の雫、露を垂てぞ争ける。御乳母(おんめのと)も共にならんと云けるを、様々制し給けるが、自髪を切落したりければ、不(二)力及(一)剃給ふ。其後長楽寺の坊に奉(二)誘入(一)て、四十八日(しじふはちにち)の念仏を始、七日七日の仏事営、御菩提を弔給へば、母上も乳母(めのと)も嬉しくこそは被(レ)思けれ。され共首をば身にそへて放ち給はず、又此若公、慰にとて常に翫給ける小車と、二を並置て、恋しき時は是を見てぞ慰給ける。乳母(めのと)は終に思死に失にけり。念仏結願し給ければ、尼御前上人に被(レ)申けり。此少者の父と申は、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)にて侍き。大仏殿奉(レ)焼て、罪深き者に有りしかば、其報にこそ末の露までも懸る憂目にも合侍ら
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め、されば懺悔の為に奈良へ参侍ばやと被(レ)仰ければ、上人、只御心閑に閉籠、御念仏(有朋下P734)申てかた/゛\の御菩提を弔給はば、是に過たる懺悔滅罪の功徳有べからずとすゝめ制し給けれ共、しひて暇を乞、奈良へぞ参り給ける。暫都にも御座(おはしまし)し度は思召(おぼしめし)けめども、若公には別れ給(たま)ひぬ、其形見にもと思給し乳母(めのと)をさへ先立て、難面命の今日までも、何にながらへてとぞ常は歎給ける。奈良に参りて興福寺(こうぶくじ)、東大寺(とうだいじ)の焼跡共を拝廻給にも、さこそ罪深く悲くおぼしけめ。御姿を窄し、乞食修行者の様に成果て、浅増気にて、行寄所を臥どとし、乞得物に命をつぎて悲行ける程に、既(すで)に年の暮にも成ぬ。修行者の尼共多く有けれ共、此尼を見て疎けり。さもぞ怖しき尼よ、ひたすら下揩ゥとすればさにもあらず、なま尋常気なる者か、する事の恐しさよ、我子にて有けるか、養君にて有けるか、五六計なる少者の頸を懐に入持て、常は取出して、厳しき小車に並て見る事のきたなさよ、親子に別るゝ事はよの常の習ぞかし、さまであれ程に有べしとも不(レ)覚とて、悪む者も多し。又堪ぬ思はさのみこそあれ、悲しき子に後れて糸惜さの余、心の置所(おきどころ)のなきにこそするらめ、如来(によらい)在世の往昔に、提婆提女と云けるは、一子の女を先立て、其身を干竪めて頸に懸てありきけり、様なきにもあらずとて、情をかくる者も有けり。角は云けれ共、髑髏の尼と名付て、修行者の中には不(レ)交けり。されども是を不(レ)歎、人の言(有朋下P735)ども聞も入ず、元来思切て出たれば、栖を定る事なし。爰(ここ)の唐居敷彼の築地のはら、木根萱根いづくにも、傾き臥てぞ悲みける。年も既(すで)に明ければ、救世観音の草創也、仏法(ぶつぽふ)最初の霊地也とて、人に相
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具して天王寺へぞ参給ふ。西門にて七日七夜(なぬかななよ)湯水を不(レ)飲、断食念仏して居たりけるが、七日と云ける晩程に、今宮の前木津と云所より海人を語ひて、膚に隠し著たりける綾小袖の垢付たりけるを脱ぎてたび、此難波沖に、此車の主にてある者の、死たる骨を入んと思ふ也とていざなひければ、蜑哀に思て船に奉(レ)乗、遥(はるか)の沖に漕出す。爰(ここ)の程こそ骨をも御経をも入る所にて侍らんと申ければ、さらばとて舷に立寄、西に向て念仏二三百返計申て、車と首とを括合て、入れんとする由にもてなし、手に持給たりけるが、左右の掌を合ながら、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)阿弥陀如来(あみだによらい)、太子聖霊先人羽林、若公御前、必一つ蓮に迎取給へと唱つゝ、海へぞ入給(たまひ)にける。如何にやいかにやと云けれ共、深沈みて不(レ)見ければ、海人力及ずして、空き船を漕戻す。西門に帰て此哀を語ければ、伴なひたりける者共も、糸惜や実にさる人の有つるぞや、此程は断食念仏しつるが、早思切たる人なりけりと涙を流し、次の日のまた朝、蜑共船に乗つれ、遥(はるか)の沖に出て見れば、尼波にぞ浮たる。昨日の事也ければ事切果ぬ。是を取上て灰に焼、元来好給ぬる(有朋下P736)所也とて又海に入れて、西門に集て念仏申し、追善しけるぞ情ある。去(さる)程(ほど)に長楽寺の上人の許には、正月十五日より毎年に四十八日(しじふはちにち)の間、念仏(ねんぶつ)法問(ほふもん)の談議あり。上人の弟子に、天王寺に信阿弥陀仏(あみだぶつ)と云僧、上洛して此談議に遇けるが、法問(ほふもん)の隙に諸の物語(ものがたり)の次に、彼僧申出たりければ、上人聞給(たまひ)て、なに/\今一度語給へとて、委いはせて涙をはら/\と流し、さる事侍き、それは是にて髪をおろしたりし人也、持たる首は子也とて、一条万里小路より蓮台野の有様(ありさま)、
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出家して後世を弔しまでに、泣々(なくなく)語給ければ、諸僧涙に溺、聴衆袖をぞ絞りける。其後一文一句の談議も、随喜聴聞の功徳をも、此人の孝養にぞ被(二)回向(一)ける。其上諸僧を勧進して、一字三礼の一日経(いちにちぎやう)を書、難波の海へぞ送給ふ。母上も若公も、縦罪業深とも、印西上人の志、などか不(レ)出(二)生死(一)。抑此女房と申は、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)には孫、桜町中納言成範卿の娘に、新中納言御局とて、内裏に候はれける人也。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)の時々通給し女房、最後の余波を悲みて、八条堀川(ほりかは)へ迎給し人の事也。
S4702 六代御前事
故三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛の子に、六代と云人あり。是は平家都を落し時、北方、如何ならん野末(有朋下P737)山の奥までも相具し給べし、少者共をば誰に預誰に育とて、打捨て出給ふぞやとて、慕焦(したひこがれ)給(たま)ひしか共、行先とても可(レ)穏かはとて、振捨給し若公也。平家の嫡々なる上、歳もおとなしかりければ、如何にもとて尋出さんとしけれ共、聞事もなければ、明日時政鎌倉へ下向せんとしける其夕暮に、女一人北条が宿所六波羅に来て云けるは、遍照寺の奥小倉山麓、菖蒲谷の北に大覚寺と申所侍り、彼にこそ此二三箇年、権亮三位中将(ごんのすけさんみのちゆうじやう)の北方とて、若公姫君二人相共に忍て住給へと云。北条不(レ)斜(なのめならず)悦て止(二)関東下向(一)、則此女に人を付て伺見。大覚寺北に奥深僧坊あり、女房あまた忍たる体にて住居たる所あり。垣の隙より見れば、犬子の縁に走出たりけるをとらんとて、少き人のいと厳きが続て出たりけるを、又女房出て、穴浅増(あさまし)、人もこそ見侍れとて急呼入ければ、是ならん六代はとて立帰、角と申ければ、次の日北条行向て、四方を打囲て人を入て申けるは、故三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)の若公是におはすと承て、時政御迎に参
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たりといはせたりければ、母上聞給(たまひ)て、露現もなくあきれ迷て、此少き人を拘て、我を今の程に失て後此子をば取べし、命のあらん程は放つべし共不(レ)覚と宣(のたまひ)ければ、乳母(めのと)の女房も前に倒れ臥て悶焦れ、女房達(にようばうたち)も如何はせんと歎あへり。斎藤五、斎藤六兄弟は、三位中将(さんみのちゆうじやう)都を落し時、如何ならん世の末迄も少者(有朋下P738)共が杖柱ともなれとて、留置し侍也ければ奉(レ)付、同忍て居たりけるが、是も色を失ひて、若や奉(レ)出と上の山を立廻て見れども、武士打囲みて可(レ)漏方もなければ、女房の御前にて、兵四方を囲みて、若公可(レ)奉(レ)出隙なしとて涙を流す。日比(ひごろ)は声を呑目をひそめて忍給けるに、今は人の聞をも不(レ)憚、有とある者は声を調へて泣叫。時政申けるは、世も未静り侍らねば、狼藉なる事こそ侍れとて奉(レ)渡也、不(レ)可(レ)有(二)別御事(一)、疾々と責ければ、斎藤五、是皆日比(ひごろ)思召(おぼしめし)儲たる事也、非(レ)可(二)驚給(一)、命はいかにも遁させ給べき方なし、出奉り給へとこしらへけれ共、母上は拘て放給はず、若公は、罷たり共、暇乞てとく帰参べし、痛な歎給そと、涙を拭つゝ宣へば、是を聞て母上も乳母(めのと)の女房も、出なん後は再帰来まじき者を、心細やとて、いとゞ声を不(レ)惜泣ければ、北条も涙も拭ひて、心苦しくや思けん、推入てもとらず、つく/゛\と待居たりけり。日も既(すで)に暮なんとす。さても有べきにあらねば、武士共のいつとなく侍らんも心なしとて涙をのごひ、髪掻撫奉(二)気装(一)などして奉(レ)出、更に現とも不(レ)覚、母上は引纏て臥給へり。消入給たるにやと見けるに、若公既(すで)に出給へば、今を限ぞかしと覚しけん心の中、類べき方なし。小き黒木の念珠を取出して、是にて如何にもならんまでは、念仏申て
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後世たすかれとて進給へば、母上には今(有朋下P739)日既(すで)に奉(レ)別なんとす、今いづく成共、父の御座(おはしま)さん所へぞ詣たきとて、涙を流給ふぞ実に無(二)為方(一)は覚ゆる。今年は十二に成給へ共、年の程よりはおとなしく、不(レ)斜(なのめならず)厳くして、故三位中将(さんみのちゆうじやう)に違はず似給へれば、いとゞ目もくれ心も消て、母上倒臥てぞ歎給ける。いそがれぬ道なれば、若公も居留て、母上の顔をつく/゛\とまもり、目に目を見合ては、互に不(レ)堪涙を流し給へり。既(すで)に輿に乗給へば、妹の姫君、いかにや誰にも離て独はおはするぞ、童も参んとて走出給へば、女房泣々(なくなく)奉(二)取留(一)。若公出給にければ、母上も乳母(めのと)も臥沈みて、物もいはれざりけり。歎き悲む事限なし。誠愚に頑なる子すら、恩愛の道は悲きに、さしもこまやかに厳しく、心様わりなき上、三位中将(さんみのちゆうじやう)の形見とて、男女に只二人座しつれば、徒然の空をも此に慰、三位の恋しき時も、見給(たまひ)ては思を休給つるに、今生ながら別給ける母上の心中、推量れて哀也。斎藤五斎藤六、伴にとて有けるが、涙にくれて行さきも見えね共、泣々(なくなく)輿の左右に付て走ければ、北条是を見て、郎等の乗たる馬を取て、是に乗給へとてたびけれ共、竪く辞して不(レ)乗けり。若公は、母上夜叉御前、乳母(めのと)が事共思ひつゞけて、道すがら袖絞りあへざりけり。日来は平家の子孫取集ては、稚をば土に埋水に入、おとなしきをば首を切指殺すと聞ゆ。此をば如何して失はんずらん、(有朋下P740)此三年の間は、夜昼心を砕魂を迷して、今や/\と思儲たる事なれ共、今出来たる不思議の様に覚ゆるこそ悲けれ。されば如何なる罪の報にて、三位中将(さんみのちゆうじやう)には都落の時生て別ぬ、恋し悲と思暮し歎明して、其事露も不(レ)忘に、
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今又若公を武士にとられて、被(レ)殺別れん事の無慙さよ、終に遁れまじき者と兼て知たりせば、西国(さいこく)に下り、三位中将(さんみのちゆうじやう)と一所にて如何にも成るべかりけるに、心強く残し置て、二度物を思ふこそ悲けれ、日比(ひごろ)の三位の思は物の数にも侍らず、我少より深く奉(レ)憑(二)観音(一)、若公出来し後は、殊に六代安穏とこそ祈申しに、斯る憂目を見事の悲さよ、人の子は、里や乳母(めのと)の許に置て、適見るも恩愛の道は悲きぞかし、是は始て出来たりしかば、つかのまも身を放事なし、朝夕二人が中に生立哀糸惜と、明ても暮ても見るに不(レ)飽者をや、今夜もや失ぬらん、おとなしければ頸をこそきらんずらめ、如何計かは怖敷思らんと■(ののしり)立れば、打臥て泣給ぬ。起上ては、いかにも難(レ)遁事と思取て出ぬる面影、如何ならん世にかは可(レ)忘、遂に世になき者と成とも、今一度いかにしてか可(二)相見(一)とて、声も不(レ)惜泣給ふ。日の暮る儘には、いとゞ可(二)堪忍(一)も覚給はず、夜は若公姫君を左右に臥せてこそ慰つるに、いかなる月日なれば、一人はあれども一人はなかるらんとて、長き夜いとゞ明し兼て露まどろまれねば、夢にだ(有朋下P741)にも其面影を見給ふ事なし。限あれば夜も既(すで)に明ぬ、いかに成ぬらんとしづ心なく思入給へりけるに、斎藤六帰参たり。心迷していかにと問給へば、今までは別の御事侍らず、御文とて取出したり。披見給へば、心苦く思給ふぞ、只今(ただいま)までは何事も侍らず、いつか誰々も恋くこそ奉(レ)思、中にも夜叉御前の御跡慕、難(レ)忘こそ侍れと書給へり。母上是を額に押当てうつぶし給ぬ。斎藤六申けるは、如何に■(おぼつか)なく思召(おぼしめす)らんと思こそ心苦けれ共、終夜(よもすがら)寝も入給はず、今朝も物進せたれ共、露御覧じもいれ給は
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ず、御詞には、自歎くと思召(おぼしめさ)ば、御心苦しく思召(おぼしめさ)んずるに、不(レ)侘してあると申せとこそ候つれと申せば、左様に終夜(よもすがら)寝も入ず、物をだにもくはざる程に思なるに、不(レ)侘してあると云おこせける事よ、哀おとなしきも少きも、男子は心つよき者也けりとて引纏臥給ふ。枕にあまる涙せき敢ずこそ見給へ。程ふれば時の間も■(おぼつか)なく奉(レ)思とて、斎藤六帰参らんと申せば、涙に溺て筆の立所そこはかとなけれ共、心ばかりは細々と書き給へり。斎藤六是を賜て、急六波羅へ参て奉たりければ、御文披見給(たまひ)て、袖に引入てうつぶし臥給へば、斎藤五斎藤六も、無(二)為方(一)悲ける。(有朋下P742)
S4703 文覚関東下向事
〔斯りける処に、〕乳母(めのと)の女房は、責て心のあられぬ儘迷出て其辺を行ける程に、怪尼の過たりけるが、女房は何事を思ふ人ぞ、たゞならずこそ見侍れと問ば、乳母(めのと)涙を流してしか/゛\と語。尼又やゝ墨染の袖を絞りて申けるは、我身も平家の若公を血の中より奉(二)手馴(一)、糸惜哀と奉(レ)孚つる程に、此四五日が前に、北条とかや武士にとられて、水に入られたれば、現心もなくて髪をおろし、貴き所をも拝、彼後世をも弔はんとて浮宕ありく也、世には我のみ物を思ふかと歎たれば、ためし〔も〕有ける悲さよとて、互に語て泣けるが、尼申けるは、此奥に高雄と云所あり。彼におはする上人こそ鎌倉殿(かまくらどの)にも不(レ)斜(なのめならず)重く奉(レ)被(レ)思、世にも赦されたる人にて侍るが、形よき児を求侍ると承れ、哀我養ひ君だにもおはせば、歎申てみんと思へ共、今は甲斐なし、若千万に一もさる事もぞある、行て歎き給へかしと細々に語つゝ、尼も次でに彼山寺拝まんと思立給へと申せば、いと嬉き事に思て、母上には角と不(レ)申、軈(やが)て尼と伴ひて高雄に登、上人の庵室
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に尋行、物申さんといへば、上人障子を引あけて、何者(なにもの)ぞ、是へは女人いれぬ所也、何事をか云べきと(有朋下P743)宣へば、血の中より奉(二)生立(一)、今年十二に成給つる若公を、昨日武士にとられて侍り、鎌倉殿(かまくらどの)には重き御事と承侍れば尋上り侍、命生給なんやとて、上人の前に臥倒れ、手をすり声を挙悶焦るゝ形勢(ありさま)、誠に無慙に見えければ、上人事の様を委尋給ふ。乳母(めのと)起上て泣々(なくなく)申けるは、小松三位中将殿(ちゆうじやうどの)北方の、親く御座人の子を取て、やしなひ奉りつるを、中将殿(ちゆうじやうどの)の実の御子とや人の申たりけん、昨日の晩程に、武士の取て罷侍にき、如何成給ぬらんと云もあへず涙を流す。武士は誰とか聞給しと問ければ、北条四郎とこそは承しかと申ければ、罷向て尋侍るべしとて、上人急出給ぬ。此事恃べきにはあらね共、思量もなかりつるに、上人の憑しげに申けるに、少心地出来て、大覚寺へ帰まうでたれば、母上宣(のたまひ)けるは、身など投に出たるやらんと思つれば、我も可(二)堪忍(一)心地もせねば、水の底にもと思立るゝに、猶心の有やらん、此姫君の事を思に、今までやすらはれつるとて泣給へば、高雄の上人に申つる事、又上人の申つる事とて語申ければ、北方是を聞給(たまひ)て手をすりて、嬉くも尋行て歎けり。哀乞請て今一度見せよかしとて、尽せぬ涙もせき敢給はず。文覚、北条四郎の宿所に行向て角と云ければ、急出て対面あり。誠や平家維盛息男のおはすなるはと問ければ、北条、今度の上洛条々の沙汰侍。平家は一門広かりしか(有朋下P744)ば、子孫定て多かるらん、尋出して失べし、腹の内までも可(レ)見、中にも故中将息、故中御門大納言(だいなごん)の娘の腹に六代と云童は、平氏の正統也、必尋出せと鎌倉殿(かまくらどの)の蒙(レ)仰、心の及程尋奉
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つれ共、行へを知奉り侍ざりつれば、罷下なんと思ひ侍つるに、昨日はからざるに奉(二)迎取(一)たるが、みめ事がら類なく見え給ふ糸惜さに、未兎(と)も角(かく)もし奉らず、中々(なかなか)心苦しくこそ侍れと申。文覚奉(レ)見ばやと云ければ、此内に御座とて障子を引あけて入れたりけるに、二重織物の直垂に、黒き念珠の小きを持給たりけるが、上人を見て、念珠を懐に引入て、顔打赤めて寄居給へり。顔付より始て糸惜く見え給へり。此世の人共不(レ)覚、天人の貌だも限あれば、争是には過べきと覚えたり。今宵は打解寝給はざりけりと覚て面痩給へり。何とか思給(たま)ひけん、上人を見給(たまひ)て打涙ぐみ給へり。如何ならん末の代に敵となる共、いかゞは是を失ふべきと覚ければ、上人も墨染の袖を絞りけり。北条も猛武士といへ共、岩木ならねば涙を流す。文覚申けるは、此若公を奉(レ)見に、先世に如何なる契かあるらん、余に糸惜く思奉れば、鎌倉殿(かまくらどの)へ参て可(二)申謂(一)、今二十日を待給へ、それは御辺(ごへん)の可(二)芳心(一)、文覚鎌倉殿(かまくらどの)に忠を致、奉(レ)入(レ)功事は、且見給し事ぞかし。今更申に及ねども、下野殿の頸を盗取て、文覚が頸にかけて鎌倉へ参しより後は、千里の道を遠し(有朋下P745)とせず、足柄箱根を股に挟みて、摂津国(つのくに)経島楼御所に参、以(二)右兵衛督(うひやうゑのかみ)光能(みつよし)(一)院宣令旨を申給り、二十日余(あまり)の道を七日八日に上下し、其間に富士河大井河にて水に溺、宇津の山高師山にて疲に臨侍し事一度にあらず、命を軽じ契を重くして、加様に奉公し侍し時は、手を合て、我世にあらば如何なる事也共、文覚が所望をばたがへじとこそ宣(のたま)ひしか、今平家を亡して天下を手に把給事、偏(ひとへ)に文覚が非(二)恩徳(一)や、昔の契改給はずば、
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争か其言の末をば違へ給べき、一期の大事此所望にあり、もし若公を預け給はずば、軈文覚鎌倉にて、干死にして死霊と成なば、鎌倉殿(かまくらどの)の為も由なかるべし、人倫の法として、重恩忘給べきならねば、夜を日に継で鎌倉へ下て可(二)申謂(一)とて出でければ、斎藤五斎藤六是を聞て、上人を仏の如くに三度礼拝して、嬉しさの余にも只涙を流ける。若公は少き心に、一門の亡けるは此上人の所為にや、うらめしやとおぼしけれ共、今は我身に当ては、うれしく憑しくぞ思ける。今度は斎藤五、急大覚寺へ参りて、上人の申つる事共を語ければ、人々手を合悦あへり。免されんは不(レ)知、先二十日の命は生ぬるにこそと、母上も乳母(めのと)も心少やすまりぬ。是は偏(ひとへ)に長谷の観音の御助と覚ゆれば、始終も憑しとぞ宣(のたまひ)ける。文覚既(すで)に関東へ下けるが、大覚寺に打寄、乳母(めのと)の女房を呼出して、先世に此若公に、如何(有朋下P746)なる契の有けるやらん、見奉しより糸惜く思ひ奉れば鎌倉に下侍也、さり共申預なんと思侍ふ、免し給たらば必高雄に奉(レ)置給へと云ければ、御命を助給なんには、兎(と)も角(かく)も上人の御計にこそとて涙を流す。母上も見聞給(たまひ)ては、鎌倉のゆるされは不(レ)知とも、指当りてかく憑しく云ければ、嬉しきつらき掻乱して泣給へり。文覚既(すで)に下て後は、明ても暮ても只上人の登をぞ待給(たま)ひける。いかゞ聞なさんと心苦くおぼしけるに、不(レ)留(二)月日(一)過行て、二十日も既(すで)に満ければ、こはいかにと成ぬるやらん、さしも憑しくこそ宣しに、免れのなければこそ音信(おとづれ)も聞ざるらめと肝を砕る程に、北条も、上人は二十日とこそ申しに、今に承事なし、御免のなきにこそ、誠に争か免給ふべき、平家の嫡嫡(ちやくちやく)
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にておはすれば、難(レ)奉(二)容易宥(一)、在京も此左右を待程也、都にて年を晩すべきにあらず、暁罷下なんとて出立ければ、斎藤五斎藤六、手を束ね心を砕共甲斐なくて、此度は二人ながら大覚寺へ参て、上人も今まで見侍ず、此御事に又都にて年を重ぬべきにも非とて、北条も暁下なんと仕、鎌倉へ下つかで、道にて奉(レ)失侍らんずるにこそ、北条より始て家子郎等共(らうどうども)も、奉(レ)見ては涙を流す、終に如何に成奉らんずるにかとて、兄弟袖を顔に覆て泣悲ければ、母上乳母(めのと)宣(のたまひ)けるは、上人憑もしげに申て下し後は心の隙も有つるに、暁に(有朋下P747)成ぬれば、もしやと思しつる憑も弱り果ぬるこそとて、頭をつどへて只泣より外の事なし。偖斎藤五斎藤六如何思と宣へば、いづくまでも最後の御伴申て、斬れさせ給たらば、御身をも奉(二)取納(一)、出家入道し、山々寺々修行〔し〕て、花を摘香を捻て、御菩提をこそ奉(レ)弔侍らめと申せば、母上泣々(なくなく)手を合て悦給へり。定なき世と云ながら、露の命の消も失なで、若きを先立て、彼が為と仏に申さん事の悲さよと、涙に咽給ふぞ哀なる。兄弟は又六波羅へ帰参ぬ。又母上乳母(めのと)夜叉御前、語てはなき泣ては語、終夜(よもすがら)こそ焦れけれ。暁方は母上乳母(めのと)の女房に宣(のたまひ)けるは、只今(ただいま)ちとまどろみたりつる夢に、此子の白馬に乗て来りたりつるが、余に恋しく奉(レ)思つれば、暫の暇を乞請て参たりとて、傍に居てさめ/゛\と泣つるぞや、程なく驚れて、若やと傍を捜ども人もなし、夢なりとも暫しもあらで、覚にけるこそ悲けれと宣へば、乳母(めのと)も是を聞て、共に声を調へてなき明しけり。十六日(じふろくにち)に、北条は六代殿相具して鎌倉へ下る。斎藤五斎藤六血の涙を流し、輿の左右に付て
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下けり。北条これに乗れとて馬をたびたれ共不(レ)乗。あまりの悲さには、痛き事も忘けるにや、物をだにも不(レ)■(はかず)、唯袖を絞て足に任て走けり。既(すで)に都を出て会坂をも越ければ、何鹿故郷も山を隔て見えず。大津浦、粟津原、勢田唐橋打渡、野路篠原も過ぬれば、今日(有朋下P748)は鏡に著にけり。何国も旅寝と云ながら、母上や乳母(めのと)に別つゝ、羊の歩の道なれば、いかに悲しくおぼしけん。明ければ鏡を立て、宿々(しゆくじゆく)国々に過行けり。若公は涙に咽て、道すがらも物まかなひたれ共、露見も入給はず。怪げなる僧の上るを見ては、上人やらんと肝をけし、文持たる者あれば、上人の音信(おとづれ)かと心を迷す。又小馬を早むる者あれば、急我を失へとの使やらんと疑はれ、武士私語する時は、我を切との物語(ものがたり)やらんと■(おぼつか)なければ、御涙(おんなみだ)関敢給はず。此有様(ありさま)を奉(レ)見にも、兄弟の者共無(二)為方(一)、年も既(すで)に暮なんとすれば、馬の足を早めて下りけるが、駿河国千本松原と云所に下居て、北条、斎藤五斎藤六を招いて云けるは、今は鎌倉も近成侍ぬ、各是より帰上給へと云。二人の者共、さては爰(ここ)にて奉(レ)失べきにこそと、胸塞心迷て、云出す事もなくしてうつぶし居たり。良有て、故三位中将殿(さんみのちゆうじやうどの)の蒙(レ)仰て、此三年が間夜昼奉(レ)付、一日片時不(レ)奉(レ)離、如何にも成給はんを見奉らんとて是まで下れり、さては今を限の御命にやとて、声も惜まず叫けり。北条重て申けるは、平家の人々の御子奉(二)尋申(一)たらば時日を経べからず、急奉(レ)失と度々蒙(レ)仰ども、此若公の御事をば、上人も難(レ)去被(レ)申しかば、今までも待侍れ共御免のなきにこそ、今は力の及処にあらず、約束の日数も過て是まで奉(レ)具事も、上人の音信(おとづれ)を聞事もやと思(有朋下P749)侍つる也、
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又足柄の山こそ越侍るべかりつれ共、上人は定て箱根越にこそ上らんと存ずれば、是までは奉(二)具足(一)ぬ、鎌倉へは今一両日の日数を経て、山を越奉ん事、鎌倉殿(かまくらどの)の御気色(おんきしよく)難(レ)知侍れば、此にて御暇を奉べき也とて、北条若公に申けるは、日来奉(レ)馴て、いかにし奉べしとも覚侍らね共、志の程は見え進せぬ、今は何事も先世の事と思召(おぼしめし)、世をも人をも恨給ふべからず、御心静に御念仏候べしと申ければ、若公の御返事(おんへんじ)とおぼしくて、泣々(なくなく)二度打頷許給けり。斎藤五斎藤六に宣(のたまひ)けるは、今を限にこそ有めれ、此まで付下て、終になき者にみなさん事こそ各が心中被(二)推量(一)て最無慙なれ、母御前へ御文進度思へ共、筆の立所も覚えねば叶ず、詞には、鎌倉までは別の事なく下著侍り、日数経るに随て、いとゞ人々の御事恋しくこそ侍れと申せ、此にて失はれたりとは努々申べからず、終に隠れ有まじけれ共、何にとして知せ奉思也、余に歎給はん事の心苦きに、我身こそ角成共、己等は急上て、能々御宮仕申べしと宣つゞけて、涙を流し給へば、兄弟の者どもは、君に奉(レ)後、安穏に都に上著べし共覚侍ずとて、臥倒れて喚叫。此形勢(ありさま)を見て、北条いとゞ涙を流ければ、家子郎等も皆袖を絞けり。日も既晩なんとすれば、偖も有べき事ならずとて、北条泣々(なくなく)疾々と勧めけれども、家の子郎等も、是を爰(ここ)にてきらん(有朋下P750)と云者なし。何も竪く辞退しければ、北条も思煩けるに、
S4704 六代蒙(レ)免上洛附長谷観音並稽文仏師事
東の方より墨染の衣著たる僧の、文袋頸に懸て、鴾毛なる馬に乗て馳せ来あり。何者(なにもの)ならんと思ける程に、上人の弟子に覚文と云僧也けり。今一足も急とて先立て馳けるが、馬より下や遅き高声に、誤(あやま)ちし給ふな北条殿とて、文袋より二位殿(にゐどの)の御免し文取出たり。
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北条披見ければ、自筆にてぞ書れたりける。其詞に云、
小松三位中将(さんみのちゆうじやうの)息六代、高雄上人頻(しきり)に申請間、所(二)預給(一)也と書れたり。北条高らかに読上ぬ。戯呼嬉き者哉とて打置ければ、免し給けるにこそとて、武士共聞て悦あへり。斎藤五斎藤六、是を聞けん心中、幾計也けんと難(レ)測。さる程に上人も軈馳来りたり。馬より下、やゝ北条殿、若公は申預ぬ、今一足もとて免し文を先立て奉ぬ、定めて見給ぬらん。鎌倉殿(かまくらどの)宣(のたま)ひつるは、此童は平家の嫡々の正統也、父の三位中将(さんみのちゆうじやう)は初度の討手に大将軍也、いかにも難(レ)免、頼朝(よりとも)も幼稚を宥られて今斯る身となれり、此童を免し置ては、定後悪かりなんず、上人が奉公其恩忘がたけれ共、此事は難治 (有朋下P751)也とて、つや/\動給はざりつるを、日比(ひごろ)の忠共申続けて、上人が心を破給(たまひ)ては、鎌倉殿(かまくらどの)も争冥加おはすべき、此をたびたらば、軈(やが)て法師になして仏法(ぶつぽふ)修行せんずれば、更に後悪事侍るまじ、若不(二)預給(一)ば、文覚鎌倉にて飲食を断、思死にして御子孫の怨霊とも成べしなど、一度は威つ一度はすかしつ、種々(しゆじゆ)に申つる程に、抑維盛卿息をば、頼朝(よりとも)を相し給し様に見給ふ処ありて、角は申請給歟と問給つる間、是は其儀には不(二)思寄(一)、免方なき程の不覚の人にて、聊も心に籠たる事は侍らず、わりなき姿の不便さに、慈悲の心に催されて、とまで申たれば免給ぬと、ゆゝしく気色してぞ云ける。北条は、承し日数も過しかば、御免なきにこそと思給つれば罷下つるに、賢くぞ■(あやまり)仕ざりける、今一時も遅かりせば、本意なき事も有なましと申ければ、上人、実に日数も延ぬれば無(二)心元(一)つるに、今日まで別事なきは、
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御辺(ごへん)の御恩とぞ悦ける。角て若公は上人に相具して、再都へ帰上給けり。是や此爼上魚の移(二)江海(一)、刀下の鳥の交(二)林薮(一)とは、只夢の心地ぞし給ける。六代御前は猶も現とはおぼさゞりければ、
  消ずとて憑む命にあらね共今朝まで露の身ぞ残りける K252 
と、最哀に糸惜く聞えければ、北条も又涙をぞ流ける。斎藤五斎藤六も、更に現とは思は(有朋下P752)挿絵(有朋下P753)挿絵(有朋下P754)ざりけり。北条、鞍置たる馬二匹引出して兄弟にたびければ、此度は請取けり。申けるは、日来奉(レ)被(レ)懸(レ)情つる御恩、難(二)申尽(一)とて涙を流す。若公も宣ふ言なけれ共、思歎くに■(おぼつかな)くし給へるも、痛敷思給けるに、引替うれしげに覚して顧給へば、北条涙を拭て申けるは、一日も御送に参べけれ共、急申べき大事共侍れば、此より可(二)罷下(一)、奉(二)久馴(一)、御遣こそ難(レ)尽侍と申せば、若公も打涙ぐみ給(たまひ)て、日来の名残(なごり)こそと宣ふも、いとつき/゛\しくこそ聞えけれ。上人は若公奉(レ)具急上けるが、道にて年も暮にければ、尾張国熱田社にて年をとり、正月五日、文覚上人の二条猪熊の里坊に落著給(たまひ)て、旅の疲を労りつゝ、夜に入て大覚寺を奉(レ)尋けれども、建治て人もなし。如何に成給けるやらん、悲の余に身など投給にけるやらん、又平家のゆかりとて武士などの奉(レ)取たるにやと、あきれ迷て其辺を尋けれ共、夜深にければ答る者もなし。縁の上に立やすらひ給たりけるに、若公の飼給ける犬の、籬の隙より走出て、尾打振て向たりければ、人々はいづくへぞ問給へ共、なじかは可(レ)答。責ての思の余に宣ふにこそはと最悲。終夜(よもすがら)三人一所に座して、旅の歎思続て語給ける。中にも命生て帰上たる甲斐には、此人々に見え
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奉たらばこそは嬉しからめ、道の程だにも無(二)心元(一)つるにとて、泣居給へるぞ心苦き。限あれば夜も既(すで)に(有朋下P755)明にけり。其鐘也ける人出来て申けるは、若公出給(たまひ)にし後は、御歎の余に淵河にも身を入んなど仰候けるが、若又帰上給ふ事もぞある、甲斐なき命を生て、上人の左右をも聞ん程、大仏へ参て其より長谷寺に伝、百日籠らせ給べしと承しが、御年をば奈良にてとらせ給けり、今は長谷にと聞侍と申ければ、其はさも侍らんと少心落居て、斎藤五急長谷寺へ参けり。若公は又上人に相具して、高雄へぞ上にける。斎藤五長谷に尋参て、かくなん帰上給へりと申ければ、母上も乳母(めのと)の女房も夢の心地して、露現共覚え給はず。若公下給にし日より、大覚寺をば迷出て、此御堂に夜昼うつぶし臥て、大慈大悲の誓は有(レ)罪をも無(レ)罪をも漏給はず、必願を満給ふなれば、などか今一度相見程の命生給はざらんと、心を砕思を運て、祈申給へる験にやとぞ思給ける。但今度は百日参籠とこそ思ひ侍つれ共、左様に帰上り給なる上は又もこそとて、観音に悦の奉(二)礼拝(一)、師匠に暇を乞給、急出給たりければ、若公も高雄より下合給り。母上も乳母(めのと)も、打見給より互に涙に咽て、共に宣出る事なし。嬉しきにもつらきにも、先立ものは涙也。かく難(レ)遁命の助りて、再糸惜き面影を見る事も、偏(ひとへ)に長谷の観音御利生也とぞ覚ける。
 < 此寺は是聖武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、法道仙人の建立(こんりふ)也。文武天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、此仙人観音の霊像を造らんと云願(有朋下P756)ありて、料木を尋けるに、難波浦に夜々(よなよな)放(レ)光者あり、行て見れば楠流木也。たゞ事に非と思て、是を取て庵を造、加持する事十五年、養老五年に大権の
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化現、稽主勲稽文会と云仏師に誂て、二丈(にぢやう)六尺の十一面観音を奉(レ)造、三時の行法功を積、安置の砌(みぎり)を祈処に、夢中に金人来て示て云、此峯に磐石あり、其面金容なり、大悲菩薩の所座也、我等(われら)神王、天竜八部、梵王帝釈、日月二天、閻魔水天四天王等、番々守護の霊石也と、夢覚て後、雷鳴雨ふりて山崩石砕声あり。明旦其所を見るに、引平たる事宛鏡の面の如し。中に方八尺の馬脳の石あり。石面に大なる足跡あり。人の踏るが如し。仙人寸法を取て菩薩の御足にくらぶるに、更に広狭なし。霊像を奉(レ)居に本跡の如し。公家に奏達せしかば、神亀元年に伽藍を建立(こんりふ)して、同四年三月廿日、以(二)行基菩薩(一)被(レ)遂(二)供養(一)寺也。古老伝云、風輪際より、三俣の大石ありて閻浮提に出世せり。一は中天竺摩訶陀国、寂滅道場の金剛座是也。一は大日本国(だいにつぽんごく)大和国(やまとのくに)、長谷寺の菩薩座是也といへり。 >
斯る目出施無畏薩■[*土+垂](さつた)にて、信心渇仰の人、利益空き事なければ、母上も此菩薩に帰して六代を儲、此大悲を憑て祈誓し給ければ、夢の中には白馬に乗て帰るとみ、現の前には再相見事を得たりけり。さても六代は、不(レ)習旅の東路に、跡に心の留りし事、折に触て北条が情を残し事共、つ(有朋下P757)きづきしく語給(たまひ)ても泣給ければ、見る人も聞人も皆袂(たもと)を絞けり。旅のしるしと覚えて、日黒みして少面痩給(たま)へりければ、母上痛敷悲くぞ見給ける。角ても暫副奉らばやと思給へ共、世の聞えも怖しく、又上人の思はん事も憚ありとて、急高雄へ帰給ぬ。上人は不(レ)斜(なのめならず)かしづき奉て、斎藤五斎藤六をも孚み、母上の大覚寺の住居の幽なるをも訪申けり。若公、姿形心づかひ無(レ)類おはしけるに付ても、文覚は、懸れども如何なる事かあらんずらんと、空怖しく肝つぶれてぞ覚えける。(有朋下P758)


『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四十八

P1183(有朋下P759)
巻 第四十八
S4801 女院吉田御住居(おんすまひ)同御出家(ごしゆつけの)事
建礼門院(けんれいもんゐん)と申は、平家太政(だいじやう)入道(にふだう)清盛(きよもりの)御娘、高倉院(たかくらのゐんの)后、安徳(あんとく)天皇(てんわう)の御母儀(おぼぎ)に御座(おはしまし)き。悪徒(あくと)に引れて都を出て、三年の間西海に落下らせ給(たまひ)て、舟中浪の上に漂給し程に、元暦元年三月廿四日に、長門国、門司関、壇浦にて源氏の為被(レ)攻つゝ、或命を白刃のさきに失、或身を蒼海の底に沈めつゝ、上下悉亡給し時、建礼門院(けんれいもんゐん)も、先帝と同海中におはしけるを、渡辺党に源兵衛尉眤が子に、源五馬允番と云者奉(二)取上(一)たりければ、其よりあらけなき武士の手に懸て、西国(さいこく)より都へ還上給(たまひ)て、東山麓吉田の辺なる所にぞ立入せ給ける。中納言法橋慶恵とて、奈良法師也ける者の朽坊也。住荒して年久成にければ、庭には草深うして軒に忍茂り、簾絶てねや顕なれば、雨風もたまるべくもなし。昔は玉台を瑩き、錦の帳に纏れて、明し暮し給しに、今は有とある人には皆別果て、浅増気なる朽坊に、只一人落著給へる御心の中、幾計なりけん。道の程ともなひ給つる女房(有朋下P760)達も、是より皆散散(ちりぢり)に成果て、御心細さに、いとゞ消入様にぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。誰憐誰可(レ)奉(レ)育共見えず、魚の陸に上るが如し、鳥の子の巣を離たるよりも猶悲く、うかりし波の上船の中の御住居(おんすまひ)、今は恋しく思召(おぼしめさ)るる。同じ底のみくづとも成ぬべかりし身の、責て罪の報にや、残り留りてと思召(おぼしめせ)共甲斐ぞなき。天上
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の五衰の悲み、人間にも有ける者をとぞ思召(おぼしめし)知れける。
五月一日、女院御髪おろさせ給。御戒師には、長楽寺の阿証坊上人印西ぞ被(レ)参ける。御布施は先帝の御直衣とぞ承し。上人是を賜て、何と云言をば不(レ)出けれ共、涙を流墨染めの袖絞るばかり也。先帝の海へ入せ給ける其期まで奉(レ)召たりければ、御移香も未(レ)尽、御形見とて西国(さいこく)より持せ給たりけり。如何ならん世までも、御身を放たじと思召(おぼしめし)けれ共、御布施に成ぬべき物のなき上、彼御菩提の御為にとて、泣々(なくなく)取出させ給けるぞ悲き。上人庵室に還、彼御直衣にて十六流の幡を縫、長楽寺の常行堂に被(レ)懸て、御菩提を奉(レ)弔給けるこそ難(レ)有けれ。縦修羅闘戦の咎に依て蒼海の底に沈み給共、などか常行荘厳の善に答て、青蓮の上に生れ給はざらんと、憑しくこそ覚えけれ。
女印は御歳十五にて内へ参給しかば、軈女御の宣旨下されき。十六にて備(二)后妃位(一)、君王の傍に候し給(たまひ)て、朝には万機をすゝめ奉り、夜は夜を専にせさせ給(たま)ひ、二十二にて王子(有朋下P761)御誕生(ごたんじやう)御座(おはしま)しき。いつしか皇太子に立せ給ふ。東宮(とうぐうの)位に即せ給しかば、廿五にて有(二)院号(一)、建礼門院(けんれいもんゐん)と申き。太政(だいじやう)入道(にふだう)の御娘なる上、天下の国母にて御座(おはしまし)しかば、世の重くし奉事不(レ)斜(なのめならず)、今年は二十九にぞ成せ給ふ。桃李の粧猶こまやかに、芙蓉御形未衰させ給はね共、翡翠の御簪、今は付ても何にかはせさせ給ふべきなれば、御様(おんさま)かへさせ給へり。厭(二)憂世(うきよ)(一)、誠の道に入らせ給へ共、御歎は不(レ)休。人々の今はかうとて海に入にし有様(ありさま)、先帝の御面影、いかならん世にか思召(おぼしめし)忘べき。露の命何に懸て今まで消やらざるらん
P1185
と、思召(おぼしめし)続けさせ給(たまひ)ては、御涙(おんなみだ)せき敢させ給はず。五月の短夜なれ共、明し兼させ給つゝ、自打まどろませ給ふ事なれば、昔の事を夢にだに御覧ぜず。遅々たる残燈の、壁に背たる影幽に、蕭蕭たる暗夜、窓打雨音閑なり。上陽人が上陽宮に被(レ)閉たりけん悲さも限あれば、さびしさは是には過じとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。昔を忍ぶ妻となれとや、本の主や移植たりけん軒近き花橘の風なつかしく薫たりける。折しも山郭公の一声二声(ふたこゑ)音信(おとづれ)て、遥(はるか)に聞えければ、御涙(おんなみだ)を推拭ひ給(たまひ)て、御硯の蓋に角ぞ書すまさせ給ける。
  郭公花橘の香をとめてなくはむかしの人や恋しき K253 
と。大納言典侍(だいなごんのすけ)是を御覧じて、いとゞ悲く思召(おぼしめし)ければ、(有朋下P762)
  猶も又昔をかけて忍べとやふりにし軒にかをるたち花 K254
S4802 大臣父子自(二)鎌倉(一)上洛附女院寂光院入御事
女院は、吉田にも仮に立入らせ給ふと思召(おぼしめし)けれども、五月も立六月も半に過ぬ。今日までもながらへさせ給べくも思召(おぼしめさ)ざりしか共、御命は限あれば、明ぬ暮ぬと過させ給し程に、大臣殿父子、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)、鎌倉より還上給と聞せ給ければ、誠ならず思召(おぼしめし)けれ共、甲斐なき命計もやと思召(おぼしめし)ける程に、大臣殿父子は、都近き近江国勢多と云所にて失給ぬと聞召ければ、悲とも云ばかりなし。三位中将(さんみのちゆうじやう)、奈良の大衆の中へ出されて、今は限の御有様(おんありさま)、御頸は大卒都婆に釘付にせられ給へる事、又大臣殿父子の御頸、大路を渡して獄門の木に被(レ)懸たる事、人参て細々と申ければ、由なく聞せつる者哉と思召(おぼしめし)
P1186
つゝ、御胸塞御涙(おんなみだ)せき敢させ給はず。都に近くて懸事を聞召に付ても、尽せぬ御歎は休せ給はず、露の命風を待程も、深山(しんざん)の奥の奥にも籠入ばやと思召(おぼしめし)けれ共、去べき便もなし。吉田には、去文治元年九月九日の大地震に、築地も崩れ、荒たる屋共もいとゞ傾破て、すませ給べき御有様(おんありさま)にも見えさせ給はず、憑もしき人一人もなし。地震に打復べしなど聞召(きこしめ)せ(有朋下P763)ば、惜かるべき御命にはなけれ共、只尋常にて消入ばやとぞ思召(おぼしめし)ける。晩行秋のさびしさは、いとゞ御心細からぬと云事なし。心の儘に荒たる籬は、繁野辺よりも露けくて、折知がほにいつしか虫の音声々に怨も哀也。都も尚静なるまじき様に聞召ければ、今少かき籠ばやとぞ思召(おぼしめし)ける。何事も替り果ぬる憂世(うきよ)なれば、如何にと申人もなし。自哀をかけ訪申ける草の便も枯果て、可(レ)奉(二)誰育(一)とも不(レ)(二)思召(おぼしめさ)(一)けるに、信隆卿の北方と、隆房卿(たかふさのきやう)の北方と、忍つゝ時々憐申ける。秋も既半に成ぬ。御襟に秋の哀をさへ打副て、いとゞ難(レ)忍思召(おぼしめせ)ば、夜漸長く成儘には、御寝覚がちにして明しぞ兼させ給ける。偖も女院に候はせ給ける女房のゆかりにて、大原(おほはら)の奥に寂光院と申所を尋出したりと申ければ、悦思召(おぼしめし)て、渡らせ給べきに定りにけり。御乗物などは、冷泉大納言(だいなごん)隆房(たかふさの)北方より忍たる様にて、女房車二両被(レ)進けり。彼北方と申は、女院の御妹にて御座(おはしまし)ける故也。大方も常は訪申されければ、嬉しと思召(おぼしめし)けり。此人の憐にて角有るべしとこそ懸ても不(二)思召(一)(おぼしめさざり)しかとて、御涙(おんなみだ)を浮べさせ給へば、候給ける人々も、皆袖をぞ絞りける。
P1187
比は十月末の事にや、いと人通たり共見えぬ道を、遥々(はるばる)と分入せ給に、四方の梢の色衰へたるを御覧ずるに付ても、我身の上やらんと御心すまずと云ふ事なし。山陰(やまかげ)なればにや、日も既(すで)に(有朋下P764)暮懸りぬ。何となく御心細思召(おぼしめす)に、野寺の鐘の入相の音すごく、草葉の露にそぼぬれさせ給へり。角て分入せ給へば、地形幽閑の洞の内、西の山の麓、北山の谷の奥に、寂光院と云御堂あり。怪気なる坊もあり。年経にけりと覚て、古にける石の色、落くる水の音も由ある体也。緑蘿の垣紅葉の山、絵に書とも筆も難(レ)及。いつしか、空掻陰うち■(しぐれ)つゝ、嵐烈して木葉猥がはし。鹿音時々音信(おとづれ)て、虫の怨も絶絶(たえだえ)弱れり。秋の悲秋の哀をさへ取集たる御心すごさに、古歌を思召(おぼしめし)出しつゝ、
  奥山に紅葉ふみ分啼鹿の声聞時ぞ秋は悲しき K255 
〔と〕口ずさませ給けるに付ても、浦伝島伝せしか共、流石(さすが)是程はなかりし物をと思召(おぼしめし)て、責の御事と覚えて哀なる。秋の木葉の霜を待よりも、猶危御住居(おんすまひ)也。窓打雨の音幽に、松吹嵐物騒しく、不(レ)知鳥の声のみ檐近音信(おとづれ)て、たのもの雁は雲井遥(はるか)に啼渡、荻の上風うちそよぎ、鹿鳴草の下露玉をたる。ゆゑある気色難(二)御覧棄(一)、昔の事共思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)て、御涙(おんなみだ)関敢させ給はざりける折しも、外面の谷の楢葉のそよぎけるを、誰ならん、日来はさてこそ有つれ共、事問人もなかりつるに、故郷人の問来にやと御心迷して、急物の隙より御覧ずれば、故郷の人には非して、妻恋鹿の籬の中をぞ通りける。山深き御住居(おんすまひ)、今(有朋下P765)更におぼし知れて、角ぞ思召(おぼしめし)つゞけさせ給ける。
P1188
  岩根ふみ誰か問こんならのはのそよぐは鹿の渡也けり K256 
角て御心すごく、幽なる御住居(おんすまひ)にてぞ渡らせ給ける。常は仏の御前に参給(たまひ)て、過去聖霊、一仏浄土(じやうど)へ導給へと申させ給に付ても、先帝の御面影、二位殿(にゐどの)、今は角とて海へ入せ給し御有様(おんありさま)、如何ならん世にか可(二)思召(おぼしめし)忘(一)、露の命何に懸りて消やらざるらんと思召(おぼしめす)も理也。御歎はひしと御身に添て、忘進する時はなけれ共、殊に悲しく思召(おぼしめし)出させ給折節(をりふし)にや、仏の御前に倒臥させ給(たまひ)て、消入せ給御事も度々なりければ、御前なる尼女房達(にようばうたち)、こは如何にやとて奉(レ)拘つゝ呼叫合へり。良久有てぞ人心地出来させ給ける。不(レ)尽御歎積にやと覚て哀也。角て経(二)年月(一)程に、
S4803 法皇大原(おほはら)入御事
後白川【*後白河】(ごしらかはの)法皇(ほふわう)、女院の幽なる御有様(おんありさま)を聞召(きこしめし)て、御心苦く思召(おぼしめし)ければ、一御所にも住せ給はばやと思召(おぼしめし)けれ共、其比九条殿摂政(せつしやう)にて御座、近衛殿(このゑどの)御籠居也。いつしか引替たる代に成て、都の人心様々也。又十郎蔵人行家、九郎大夫判官(たいふはうぐわん)義経等、都を出たりと(有朋下P766)いへ共生死未(レ)定、人の口もつゝましく、鎌倉源二位の漏聞ん事憚ありと思召(おぼしめし)て、過させ給ふ程に、秋も暮冬も過て、あらたまの年立回り、文治二年にも成ぬ。二月上旬の比、大原(おほはらの)山の奥へ御幸ならばやと思召(おぼしめし)けれ共、余寒猶烈くして、去年の白雪(はくせつ)消遣ず、谷のつららも打解ねば、思召(おぼしめし)とゞまらせ給に、春も過夏にも成にけり。北祭など打過て、卯月の末の三日思召(おぼしめし)立せ給ふ。大原(おほはら)の御幸とは、世の聞えを憚せ給つゝ、補陀落寺の御幸と披露有て、あじろの輿に奉り、夜を籠て忍て寂光院へ御幸あり。御伴の公卿には、後徳大寺(ごとくだいじの)左大将実定、花山院大納言(だいなごん)兼雅、按察使
P1189
大納言(だいなごん)泰通、冷泉大納言(だいなごん)隆房(たかふさ)、侍従大納言(だいなごん)成通、桂大納言(だいなごん)雅頼、堀川(ほりかはの)中納言通亮、花園中納言公氏、梅小路三位中将(さんみのちゆうじやう)盛方、唐橋三位綱屋、源三位資親、殿上人(てんじやうびと)には柳原左馬頭(さまのかみ)重雅、吉田右大弁親季、伏見左大弁(さだいべん)重弘、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)時景、北面には高倉左衛門尉(さゑもんのじよう)、石川判官、河内守長実を始として、已上十八人(じふはちにん)とぞ聞えし。
清原深養父が建たりし、〈 肥後守(ひごのかみ)元輔と云ふ下総守春光の息也、 〉補陀落寺を拝せ給(たま)ひつゝ、女院の住せ給(たま)ひける芹生里、大原(おほはら)や小塩山の麓なる寂光院へぞ御幸なる。分入山の道すがら、秋の比にはあらね共、夏草のしげみが末をたどり入らせ給にも、露にしをるゝ御衣の袖、膚を徹嵐の音、冷くぞ思召(おぼしめす)。卯月末の事なれば、遠山に懸白雲は、散(有朋下P767)にし花の形見とや、青葉に見ゆる梢には、春の遺惜まるゝ。始たる御幸なれば、御覧じ馴たる方もなし。細谷川の水、岩間を過る音すごく、芹生里の細道、誰踏初て通ひけん、逢人稀峙のかけ路、問々入せ給程に、女院の御庵室近成由聞召ども、緑衣之監使宮門を守なし、主殿の伴の御奴、庭を払も不(レ)見けり。彼寂光院景気を御覧じければ、古く造なせる山水木立、何となくわざとにはあらね共、由ある様なる御堂也。甍破霧焼(二)不断之香(一)、枢(とぼそ)落月挑(二)常住之燈(一)とは、加様の所をや申べき。檐には垣衣茂、庭には葎片敷て、心の儘に荒たる籬は、しげき野辺よりも猶乱、氷解ぬる谷川の、筧の水も絶々(たえだえ)也。波に漂池の萍、錦を曝すかと疑れ、露を含める岸の款冬、玉を貫かと誤たる。青葉まじりの遅桜、梢の花も散残、若紫の藤花、墻根の松に懸れるも、
P1190
春の遺を惜めとや、君の御幸を待貌也。八重立雲の絶間より、初音ゆかしき山郭公をば、此里人のみや馴て聞らんと、思召(おぼしめし)知せ給けり。岸の青柳色深くして、池水みどりの浪に立ければ、法皇角ぞ思召(おぼしめし)つゞけさせ給ける。
  池水に岸の青柳散しきて浪の花こそさかりなりけれ K257 
御堂の後に、蓬の軒を並て、怪げなる柴の庵二つ三つ有けるを、女院の御庵室と聞召ば、(有朋下P768)哀なる御棲(おんすみか)かなと有(二)叡覧(一)、以(二)北面下掾i一)、人やあると尋させ給へ共、寂寞の柴の枢なれば、無人声として答人もなし。香煙出(レ)窓、芝草覆無(レ)人、禅侶向(二)壇金(一)、磬鳴有(レ)響瑜伽(ゆが)振鈴(しんれい)の音にこそ、庵室の中に人あり共聞召。香煙細く燃昇、片々として空に消、人跡遥(はるか)に絶果て、蕭然として音もせず、僅人目ありがほに、賤尼一人留守に置れたり。法皇此尼を召て、女院はいづくへ渡らせ給たるぞと御尋(おんたづね)有ければ、尼答て申けるは、此上の山へ、御花摘に入せ給候ぬと申に、法皇是を聞召より、早晩か哀に思召(おぼしめし)て、さこそ世を遁させ給と申ながら、如何に賤がわざをばせさせ給ぞ、御前近召仕はせ給人のなきか、自つませ給はずば、御事の闕させ給べきかと聞えさせ給へば、此尼申けるは、家を出御飾をおろさせ給ふ程にては、などかさる御行もなくて候べき、過去の戒善修福の功に依、忝天下の国母と成せ給たれ共、先の世に加様の懇の御勤の候はざりければこそ、今斯憂目をも御覧ぜられ候へ。去ば欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因とて、依(二)過去業因(一)、現在の
P1191
得報を知、現在の善悪に応て、未来の苦楽を悟べしと被(レ)説候ぬ。我今疾苦、皆由過去、今生修福、報在将来とも被(レ)宣て候へば、大内遊宴の昔の楽は、誠に戒善によれりと申せ共、其戒徳始終持とげさせ給はざりける故、露の御命かりそめに(有朋下P769)置、草の便も枯果させ給へば、因果の道理をも知召、未来の昇沈を兼て覚り御座(おはしまし)て、花を摘水をあぐる御事、いつも御自也、なじかは賤がわざとも可(レ)被(二)思召(一)(おぼしめさるべき)と申を御覧ずれば、色黒うして疲衰へたる老尼の、紙衣の上に、濃墨染の衣をぞ著たりける。あの身の程にて賢々しく、加様の事を申不思議さよと思召(おぼしめし)、己は如何なる者ぞと問せ給へば、尼さめざめと打泣て、暫は物も不(レ)申。いかに/\と度々勅定ありければ、尼泣々(なくなく)申やう、加様の形勢(ありさま)にて、申も愚に覚えつゝ、憚思候へ共、度々勅定恐あれば申なり、我は一年平治の乱の時、悪衛門督信頼(のぶより)に失はれ候し少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が孫、弁入道(べんのにふだう)貞憲が娘に、阿波内侍と申しは尼が事に候きとて、御前にうつぶき臥て泣ければ、法皇聞召、無慙やな、誠や此尼は紀伊二位にも孫也、彼二位と申は、法皇の御乳母(おんめのと)成ければ、此尼も御乳母子(おんめのとご)にて、殊に御身近召仕し人なれば、なつかしかるべき者にこそ。替れる貌とて、御覧じ忘けるこそ哀なれと思召(おぼしめし)、竜顔より御涙(おんなみだ)せき敢ずぞ流させ給(たま)ひける。さて女院を待進させ給、其程に彼方此方たゝずませ給(たまひ)て御覧ずれば、いさゝ小竹に風そよぎ、後は岸前は野沢、山月窓に臨では閨の燈を挑、松風軒を通て草庵の枢を開。世にたゝぬ身の習とて、憂節しげき竹柱、都の方の言伝は、間遠にかこふ竹垣や、僅(わづか)に伴なふ者とては、賤が爪(有朋下P770)木の斧の音、
P1192
正木の葛青累葛、長山遥(はるか)に連て、来人稀なる里なれば、適言問者とては、巴峡の猿の一叫、塒定むる鶏、孀烏のうかれ音、樒の花柄花笥、かつ見るからに哀也。満(レ)耳者樵歌牧笛声、遮(レ)眼者竹煙松霧之色とかや。懸閑居の有様(ありさま)を、忍てすごさせ給けんと、叡覧あるに付ても、御涙(おんなみだ)ぞ進ける。草の庵の御住居(おんすまひ)、幽なる有様(ありさま)、瓢箪屡空、草滋(二)顔淵之巷(一)云つべし。柴の編戸も荒はてて、竹の簀子もあらは也。藜蓼深鎖、雨湿(二)原憲之枢(一)とも覚えたり。何事に付ても、御心を傷しめずと云事なし。偖も竹の編戸を打叩、叡覧あれば、昔の空薫に引替て、香の煙ぞ匂たる。僅(わづか)に方丈なる御庵室を、一間は仏所に修て、身泥仏の三尺の弥陀の三尊(さんぞん)、東向に被(レ)立たり。来迎の儀式と覚えたり。中尊の御手には五色の糸をかけ、御前机に浄土(じやうど)の三部経を被(レ)置ける。内に観無量寿経あそばしさしたりと覚くて、半巻ばかり巻れたり。傍に一巻の巻物あり。披いて御覧ずれば、高倉先帝、安徳(あんとく)天皇(てんわう)を始進せて、太政(だいじやう)入道(にふだう)、小松大臣、屋島の内府以下、一門の卿上(けいしやう)雲客(うんかく)、御身近被(二)召仕(一)ける諸大夫侍に至まで、姓名を被(二)書注(一)たる過去帳也。毎日に読あげ弔はせ給にやと思召(おぼしめし)ければ、竜顔に露を諍て、御衣の袖にもかゝりける。仏の左には普賢の絵像を懸、御前には八軸の法華経(ほけきやう)を被(レ)置たり。右には善導和尚(くわしやう)の御影を奉(レ)懸、(有朋下P771)浄土(じやうど)の御疏九帖、往生要集を被(レ)置たり。北の壁には、琴琵琶各一帳立られたり。管絃歌舞菩薩の来迎の粧を、思召(おぼしめし)准かと覚たり。又時々の御心慰にや、古今、万葉、源氏、狭衣、其外の狂言綺語の物語(ものがたり)、多取散されて、折々(をりをり)の御手すさみ、
P1193
昔の御遺(おんなごり)と覚えて哀也。御傍障子の色紙形には、諸経の要文共被(レ)書たり。中にも一切業障海、皆従妄想生、若欲懺悔者、端坐思実相と見えたり。昇沈不定の悲、此死生(レ)彼歎も、真如平等の理に迷、妄想顛倒の心より起れり。懺悔の方法によらず、争恵日の光に照されんと覚たり。諸行無常、是正滅法、生滅々已、寂滅為楽とも被(レ)書たり。此文の心は、一切の行は皆無常也。無常の虎の声は、明々暮々耳に近づけ共、世路の趨に聞えず、雪山の鳥の音は、日々(にちにち)夜々(よなよな)に今日不(レ)知(レ)死と鳴共、棲を出て忘れず、冥途の使身に競、屠所羊の足早して、親に先立子、子に先立親、妻に別るゝ夫、夫に後るゝ妻、形は芭蕉の風に破るゝが如く、命は水の泡、波に随て消ぬ、万法皆しかなれば、諸行無常と置れたり。若有重業障、無生浄土(じやうど)因乗弥陀願力、必生安楽国とも被(レ)書たり。妄想懺悔も便なく、寂滅為楽も不(レ)覚ば、弥陀悲願の被(レ)済、往生安楽憑ありと覚たり。又三河入道寂照が大唐国へ渡つゝ、清涼山の竹林寺に詣て、終焉をとりける夕べに、詠じける詩もあり。(有朋下P772)
  草庵無(レ)人扶(レ)杖立 香炉有(レ)火向(レ)西眠 笙歌遥聞孤雲上 聖衆来迎落日前 K258
  雲の上にほのかに楽の音すなり人にとはばやそら聞かそも K259 
此詩歌の次に、女院角ぞ思召(おぼしめし)そへられける。
  乾くまもなき墨染の袂(たもと)かなこはたらちねが袖のしづくか K260 
御腰障子にも、女院御手と思くて
P1194
  思きや深山(みやま)の奥に住居して雲井月をよそにみんとは K261
  消がたの香の煙のいつまでと立廻べき此世なるらん K262 
此外、四季の歌も書れたり。
  古の奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな K263
  うちしめり菖蒲ぞかをる郭公啼くや五月の雨の夕暮 K264
  久竪の月の桂も秋はなほ紅葉すればや照まさるらん K265
  さしも亦問れぬ宿と知ながらふまでぞ惜き庭の白雪(しらゆき) K266
此山のはに三尺の閼伽棚をつくり、樒入たる花かつみ、霰玉ちる閼伽の折敷ぞ被(レ)置たる。御傍の障子を引開御覧ずれば、御寝所と覚えて、蕨のほどろを折敷て、鹿の臥猪床を諍へ(有朋下P773)り。夜の御衾とおぼしくて、白御小袖の怪げなるに、麻の衣、紙の御衾取具して、竹の竿に被(レ)懸たり。此等を御覧じ廻すに付ても、片山影の柴の庵の御住居(おんすまひ)、一品ならず哀に御心すまずと云事なし。昔は玉台を瑩き、錦帳の中に、漢宮入内の后として明し暮し給つゝ、漢家本朝の珠玉各数を尽し、綾羅錦繍の御衣色色(いろいろ)袖を調て、御目に御覧ずる物とては、源氏狭衣の狂言をのみ翫、御耳に触物とては、詩歌管絃の音をのみ聞召しに、今は柴曳結庵中、げに消易露の御住居(おんすまひ)、盛者必衰の理、眼の前にあらはなりと、思召(おぼしめし)続させ給にも、昔逢坂の蝉丸が、山階や藁屋の床に住居つゝ、往来の人に身をまかせ、月日
P1195
を送けるにも、
  世中はとても角ても有ぬべし宮もわらやも果しなければ K267 
と詠じける事も限あれば、角こそ思召(おぼしめし)続させ給(たまひ)ては、中々無(レ)由御幸成て、此有様(ありさま)を見つる者哉と、竜顔所せきまで御涙(おんなみだ)を流させ給へば、御伴の公卿殿上人(てんじやうびと)、北面の輩に至まで、皆袖をぞ絞ける。加様に哀なる御事共(おんことども)、良御覧じ廻ける程に、後山の尾上より、岩の峙路を踏渡、木根の間を伝つゝ、尼こそ二人おり下れ。共に濃墨染の衣をぞ著たりける。一人の尼は、妻木に蕨折副て、胸に拘て前にあり。一人尼は、樒、躑躅、藤花入たる花笥、(有朋下P774)肱懸て後にあり。法皇怪く思召(おぼしめし)、御めかれもせず御覧ずれば、爪木に蕨折具して胸に拘たる尼は、大宮太政大臣(だいじやうだいじん)伊通公御孫、鳥飼中納言伊実卿の御娘、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやうの)養子、大納言典侍殿(だいなごんのすけどの)と申て、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)北方、先帝の御乳母(おんめのと)也。花籠肱に懸たるは、即女院にてぞ御座(おはしまし)ける。御留守に置れたるは、弁入道(べんのにふだう)貞憲の娘、阿波内侍と申も、大納言典侍殿(だいなごんのすけどの)と申も、女院の后の宮にて渡らせ給し御時より、つかのまも御身を離進せざりし人共の、実の道に入せ給までも付進せたりける。先世の御契の程、哀とぞ思召(おぼしめし)ける。
法皇は、女院と御覧じ進せられて、忝(かたじけなく)も歩の御行にて、山に向て歩御座(おはしまし)けり。女院は角とも思召(おぼしめし)依せ給はざりければ、おり下らせ給けるが、夏山の翠の木間より、御庵室の方を御覧ずれば、払ぬ庭の叢に、■(あじか)の輿を舁居て、例よりもよに人繁様成ければ、里遠く、人も通ぬ柴の戸に、奇しや誰か
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事問はんと思召(おぼしめし)て、木陰に添てよく/\是を御覧ずれば、法皇の御幸とみなし進させ給つゝ、思の外の御幸哉と、恥しさにあきれさせ給つつ、思召(おぼしめし)煩はせ給(たまひ)て、山へも帰上らせ給はず、御庵室へもすゝみ下らせ給はず、寂寞之柴の枢には、偏(ひとへ)に摂取(せつしゆ)の光明(くわうみやう)を待て、十念之窓の前には、専聖衆の来迎をこそ期しつるに、思の外なる御幸なる上、流石(さすが)御身の有様(ありさま)も、如何にとやらん思召(おぼしめし)、只今(ただいま)の程に消も(有朋下P775)失なばやと思召(おぼしめし)けれ共、霜雪ならねばそも叶せ給はず、霧霞ならねば、立隔御事もなし。心憂しと思召(おぼしめし)て、立すくませ給たりけるが、世を遁様を窄して深山(しんざん)に籠、自花を摘水を揚程にては、何かは苦しかるべき、猶も憂世(うきよ)に留心のあればこそ恥る思ひも有らめと思召(おぼしめし)かへして、難面下させ給にけり。御庵室に入せ給つゝ、昔の御遺(おんなごり)と覚えて、鈍色二衣を御衣の上に引懸させ給(たまひ)て、法皇の御前に参せ給つゝ、何に角遥々(はるばる)の山の奥、浅増(あさまし)き草の庵へ御幸ならせ給候こそ覚共覚え候はねと、被(レ)仰も敢させ給はず、御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ給へば、法皇は、其後御向後の覚束(おぼつか)なさに参たりと計にて、御袖を竜顔に押当させ給(たまひ)て、御涙(おんなみだ)にぞ咽ばせ給ふ。暫は互に御詞も不(二)出給(一)。
良久有て、女院御涙(おんなみだ)の隙より、年比日比(ひごろ)うらめしく思召(おぼしめし)ける御事共(おんことども)を、崩し立て申させ給けるは、君をば高き山深海とこそ宗盛は憑進て、内々は西国(さいこく)へも御幸なし進んと計申候しに、思には違ひて、御所にも渡らせ給はず、後にこそ比叡山(ひえいさん)にとも承候しか、君に被(レ)棄進せ候し後は、憑木本に雨のたまらぬとかやの風情にて、宗盛以下一門の人々泣々(なくなく)都を落、長夜に迷へる心地して、寿永
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の秋の空に、主上ばかりを取進て、あくがれ出候し有様(ありさま)、御輿を指寄て、疾々と進まゐらせ候しかば、まだ幼き主上を奉(レ)懐、神璽宝剣ばかり取具して、自も心な(有朋下P776)らず御輿に乗候ぬ。御伴には平(へい)大納言(だいなごん)時忠、内蔵頭(くらのかみ)信基ばかりぞ候し。行先も涙にしをれて道見えず、都をば一片の煙と焼上て、西海の浪の上に漂、習ぬ船の中にて年月を送、春の雁の越路に伝ひ、秋の燕の故郷に帰を余所にうらやみ、夜は渚(なぎさ)の千鳥と共に泣明し、昼は磯辺の浪に袖を浸、海士の焼藻の夕煙、物や思と燃■(もえこがれ)、枯野の草の朝露に、虫の恨も最悲し。浦吹風もいたく身にしみ、岸打波も音冷。満塩船を挙時は、只今(ただいま)や水の底に入なんと魂をけし、荒風波をたゝふる時は、又すはや船を覆すと心を迷す。
偖も筑前国太宰府とかやに落着て候しかば、近夷は皆参たれ共、遠きは先使を進せ候し程に、豊後国住人(ぢゆうにん)尾形三郎維義が、一院の御諚とて、大勢にてよすると申しかば、取物も取敢(とりあへ)ず、駕与丁もなければ玉御輿をも打捨て、主上を次の御輿にのせ進せて、怪者共にかゝせ進せつゝ、公卿殿上人(てんじやうびと)、指貫のそばをとり、女房北方は裳唐衣を泥にふみ、箱崎と申所へ我先にと諍行ども、猶道遠く覚て、一日に行帰なる道をゆきもやらず、日も暮夜も深ぬ、折節(をりふし)雨風烈くて沙を天にあぐ、竜にあらねば雲へも上らず、鳥にあらざれば天にも翔がたし、唯長夜に迷へる心地にて、男女の泣悲音は、地獄の罪人もかくやと思知(おもひしら)れ候き。人々は鬼界高麗とかやへも渡らんと申候しか共、波風向て叶はねばとて、山鹿兵藤次秀遠(有朋下P777)に被(レ)具て、山鹿城に籠て候しに、維義猶寄と申しかば、竜頭鷁首もなければ、■舟(ぐしう)とて
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小船共に乗つれて、終夜(よもすがら)落行て、豊前国柳と申所に著て、其に七日ぞ候し。是へも敵寄と申しかば、又船に取乗、潮に引れ波に任て漂行候しに、小松大臣が子、三男左中将清経が、都をば源氏に被(二)攻落(一)ぬ、鎮西をば維義に被(二)追出(一)ぬ、何へ行ば遁べきかとて、月の隈なく候し夜、船の屋形(やかた)の上に昇て、東西南北見渡て、哀墓なき世中哉、いつまで有べき所ぞや、網に懸れる魚の様に、心苦く物を思事よとて、念仏静に申つゝ、波の底に沈み候にき、是ぞ憂事の始にて候し。
其後讃岐の屋島に渡て、阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成能がもてなし奉て、内裏可(レ)造など聞え候しかば、少し安堵したる心地の候し程に、こゝをも九郎判官に被(二)責落(一)て屋島を漕出、又塩に引れ風に随て、いづくを差て行ともなくゆられありきて、長門国門司関壇浦にて、今は角とて人々皆海へ入候にき。二位殿(にゐどの)は先帝を奉(レ)懐て、練袴のそば高くはさみ、君の御宝なればとて宝剣を腰にさし、神璽をば脇に挟て、鈍色の二つ衣打被き、臨(レ)舷候しかば、先帝あきれさせ給(たまひ)て、是は何へ行んずるぞと被(レ)仰候しに、兵共(つはものども)が御船に箭を進候へば、こと御船へ行幸なし進せ候也と申や遅き、波の底へ入候にき。偖先帝の御乳母(おんめのと)帥典侍(そつのすけ)、あの大納言典侍(だいなごんのすけ)已下の女房達(にようばうたち)是を見て、声を調(有朋下P778)挿絵(有朋下P779)挿絵(有朋下P780)て喚叫事夥(おびたたし)、軍よばひにも劣候はず、或波の底に沈、或虜にせられて命を失ふ。中にも宗盛清宗父子、沈も果なで生ながら被(二)取上(一)候しを、まのあたり見候し事、いつ可(レ)忘とも覚えず、自も同じ底のみくづと成候しを、渡部の番とかや云者に取上られ、あらけなき武士に被(レ)具、難面命の存へつゝ、再都に帰上、角
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憂身の有様(ありさま)として、君の御幸を見進る事の恥しさよとて、又雨々と泣御座(おはしまし)ければ、法皇仰の有けるは、人間有為の理、三界無安の悲、有に付ても歎多、無に付ても愁繁し、生老病死の仮の身、終に保うる事難、愛別怨憎の定れる報い、人毎(ひとごと)にこれ有、前後の相違耳に近うして常に是を聞、老少不定遮(レ)眼頻(しきり)に是を見、世のさが人のくせと思召(おぼしめし)て、今更御歎候べからず、但此御有様(おんありさま)にて渡らせ給とは努々知進せず、誰かは訪進せ候と申させ給へば、信隆、隆房(たかふさ)の北方の計としてこそ角ても候へ、昔は彼人々の孚にて世に候べしとは兼て不(二)思寄(一)者をとて、御涙(おんなみだ)ぐみ御座(おはしまし)ければ、法皇、如何に六条摂政(せつしやう)の方よりは、申事候はずやと申させ給へば、世に恐て其よりは音信(おとづるる)事候はずと申させ給けり。此御有様(おんありさま)を見聞進て、法皇を始進せつゝ、供奉の公卿殿上人(てんじやうびと)、或冠の巾子を地に付、或束帯の袖を絞けり。其中に後徳大寺(ごとくだいじの)左大将実定は、哀に堪給はず、御前の座を立出て縁に座しけるが、古詩を、(有朋下P781)
  朝有(二)紅顔(一)誇(二)世路(一)  夕為(二)白骨(一)朽(二)郊原(一) K268 
と詠じ給(たまひ)て、御庵室の柱に、
  古へは月にたとへし君なれど光失ふ深山べの里 K269 
書すさまれたりければ、いとゞ哀を催しけり。
S4804 女院六道(ろくだう)廻物語(ものがたりの)事
法皇申させ給けるは、何事に付ても、如何に昔も恋し無(レ)便御事にて候らん、隔なく仰られよ、昔の好み更に忘進らせずと聞えさせ給へば、女院仰の有けるは、何かは無(レ)便候べき、朝夕の事は、隆房(たかふさの)北方訪
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申せば煩なし、斯る身と成て候、一旦の歎に任てこそ君をも恨申し候つれ共、誠は将来不退の悦と、思取てこそ候へ。今更不(レ)及(レ)申事なれ共、偕老同穴の眤を成て、千秋万歳と祝し、竜顔にわかれ奉て、幾程もなく父相国に後候にき。都の外に漂て後は、又八条の尼公にも別、天津御子にも後れ奉ぬ。親き人々を始て、有と有し者共唯一時に亡にき。親を思子を悲心は獣すら猶深しと申、まして人界の類には、何事か是にすぎん、釈尊入滅之時は、身子の羅漢五百の弟子の悲の音、天に(有朋下P782)のぼり地を響かす、迦葉尊者の叫ける音は、三千世界に聞えけり。生者必滅の道、愛別離苦の理なれ共、此身の有様(ありさま)は、昔も今もためし、少こそ候ぬれ。いかばかりかは惜も悲も候し。去共不(レ)殺命限あれば、一人残留て彼後生菩提を弔候へば、賢くぞ残留にける。貧女が一燈とかやも角こそと覚え候。諸仏薩■[*土+垂](さつた)争納受(なふじゆ)し給はざらん。中にも老言の様に候へ共、五障三従の身を持ながら、早く釈迦太師遺弟に列、竜女が成仏(じやうぶつ)憑あり、忝弥陀他力本願を信ず、韋提得悟無(レ)疑、此世は仮の宿なれば、屠所羊足早思をなし、月日の鼠の口騒観を凝しつゝ、三時に六根の罪障を懺悔して、一筋に九品の蓮台を相待、臨終の夕に一念の窓を開て、順次の暁三尊(さんぞん)の迎を得ん事、これ既(すで)に一旦別離の故に候。法華経(ほけきやう)には、善知識者是大因縁と説れたり、彼浄蔵浄眼は、生て父の知識たり。安徳(あんとく)天皇(てんわう)は、崩じて母の知識たり。されば今度離(二)生死(一)菩提に到らん事は、思定て候。三界無安、猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏と説れたれば、さなしとても有(レ)心人は厭べし、況我身かほどの憂目に
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あひながら、争難面不(二)思知(一)、空過候べき。又韋提希夫人の、悪子の為に被(レ)閉て、如来(によらい)を奉(レ)請、不楽閻浮提、濁悪世也此濁悪処、地獄餓鬼畜生、盈満多不善聚と歎給けんも被(二)思知(一)候、その故は、人は皆生を替てこそ六道(ろくだう)(有朋下P783)をば見候へ、そも隔生即妄とて、生死道へだたりぬれば、昇沈苦楽悉に忘、胎卵湿化一として不(レ)覚、それに自こそ生を替ずして、まのあたり六道(ろくだう)の苦楽を経廻候へ、天上人中の快楽も夢の中に戯、地獄鬼畜の愁歎も迷の前の悲み也、今は見たき所もなく、住たき境も候はず、されば随(レ)日衆苦充満の穢土の厭はしく、遂(レ)時快楽不退の極楽は欣はれ候へば、さりとも今度は生死をば離候なんと、憑もしく候へば、世の事露不(レ)思、されば何事にかは、今更貪思もあり、諂心も候べきと申させ給ければ、法皇聞召(きこしめし)て、此条覚束(おぼつか)なく候、天竺には釈迦如来(しやかによらい)の御弟難陀尊者、在俗の時奉(レ)随(二)仏通力、九山八海を廻、天上地獄を見たりき、唐土には玄弉三蔵、解前に六道(ろくだう)を見給き、我朝には金峯山の日蔵上人、蔵王権現の御誓によりて、六道(ろくだう)を見たりとは承伝たり、彼等は皆大権の化現たる上、依(二)仏神通力(一)見て候、女人の御身として正く六道(ろくだう)を御覧じける事、実しからぬ様にこそ覚候へと仰ければ、女院打咲せ給(たまひ)て申させ給けるは、勅定誠にさる事に候へ共、自生を替ずして、六道(ろくだう)の苦楽を経たる有様(ありさま)を、此世に准て申候はん、我身入道(にふだう)相国(しやうこく)の世に候し時、其娘として何事にか乏候し、院の御位の時は后宮にて候しかば、十五にて内へ参、軈女御の宣旨を被(レ)下、十六の時后妃の位に備、君王の傍に候て、朝(有朋下P784)には朝政を進めまゐらせ奉て、夜はよを専
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にして、二十二にて王子御誕生(ごたんじやう)ありしかば、春宮(とうぐう)にこそ立せ給べかりしか共、いつしか天子の位につかせ給しかば、二十五にて院号給(たまひ)て、建礼門院(けんれいもんゐん)と云はれ、天下の国母と被(レ)仰し後は、百敷の大宮人にかしづかれて、一天四海を掌の内に握、百官万民を眼の前に照しつゝ、竜楼鳳闕の九重の中に、清涼紫宸の床を相並、玉簾内錦茵上にして、詩歌管絃、扇合、絵合の興に戯れ、玄上鈴鹿、河霧、牧馬の弾をきゝ、大内山の花の春は、南殿の桜に心を澄して日の長き事を忘、清涼殿の秋の夜は、雲井の月に思ひを懸て夜の明なん事を歎、冬は右近馬場にふる雪を、先笑花かと悦、夏は木陰涼しき暁に、初郭公の音もうれし。玄冬素雪の寒き朝なれ共、衣を重て嵐を防、九夏三伏の熱夕べには、泉に向納涼す。長生不老術を求て不(レ)衰事を願、蓬莱不死の薬を尋て久保ん事を思き。乳泉の滋味朝夕に備たり、綺羅の妙なる色、夜も昼も荘とす。一門の栄花は堂上花の開が如く、万人の群集は門前に市立るに不(レ)異。彼極楽世界の荘厳も、菩薩聖衆の快楽も、争これにはすぎんと覚え候き。貧き事なくほこりて乏事も不(レ)知、無(二)醜事(一)。わすれて善所を不(レ)欣、明ても暮ても楽栄し事は、大梵王宮の高台の閣、天帝釈城の勝妙の楽、衆車園の遊、歓喜園の戯不(レ)楽ふるなる(有朋下P785)■利天(たうりてん)の葡萄、不(レ)打鳴帝釈宮の楽の音、かくこそと思侍き。是は暫天上の楽みと思候しに、去養和の秋の初七月末に、木曾(きそ)義仲(よしなか)に都を被(レ)落て、行幸俄(にはか)に成しかば、九重の内を迷出て、八重立雲の外をさし、故郷を一片の煙と打詠、旅衣万里の浪に片敷て、浦伝島伝して明し暮し、折折(をりをり)
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に、波間幽に千鳥の声を聞、終夜(よもすがら)友なき事を悲み、浦路遥藻塩の煙を見、終日は不(レ)堪思懇也、憑便もなく寄方もなかりし事は、是や此天上の五衰退没の苦ならんと覚き。天上欲退時、心生大苦悩、地獄衆苦痛、十六不及一とかゝれたるも是なり、今度人界に生て愛別怨憎の苦を受、盛者必衰の悲みを含めり。人間の事は今更申に及ず。
同秋の末、九月上旬に成しかば、昔は雲の上にして見し月を、今は伏屋の床にして詠し事の心憂、十月の比にや、備中国水島、幡磨国室山、所々の合戦に打勝たりしかば、人々色少直りて見えし程に、摂津国(つのくに)一谷(いちのたに)と云所にて、一門多亡し後は、直衣束帯の姿を改て、皆鉄をのべて身を裹、諸の獣の皮を以て足手に纏つゝ、冑の袖を片敷、甲の鉢を枕とし、明ても晩ても、目に見ゆる物は弓箭兵杖の具、海にも陸にも、耳に聞ゆる者は箭叫軍呼の声のみ也。是や此須弥の半腹にして、天帝修羅各権を諍、三世にたえず戦、一日三時の闘諍、天鼓自然鳴の報ならんと思へば、修羅道の苦患(有朋下P786)も経たる心地し候し。
豊後国にて、少心を休むるやらんと思候し程に、尾形三郎に追出されて、秀遠に被(レ)具て山鹿城に籠り入りしに、空掻曇り晴間もなかりしかば、唐の一行上人の火羅国に被(レ)流たりけん様に、月日の光をも見ず、浅増(あさまし)き有様(ありさま)にて候ひし程に、それをも追落されしかば、二位殿(にゐどの)は先帝を懐進せ、網代の輿に奉、箱崎方へ落させ給しに、其外の人々は、公卿も殿上人(てんじやうびと)も、かちはだしにて迷出つゝ、兵船に棹を
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さし泣々(なくなく)浪路に焦れ給、よるせも不(レ)知船の中に漂しかば、山野広といへども休とするに無(レ)処、国々悉塞つて御調物もかまへねば、供御を備る人もなし、人天多といへ共、食を願に不(レ)与といへるに不(レ)異、諸の苦中にこれ尤甚し。得尸羅城の餓鬼は、五百生の間終に水を得事なく、師子国の餓鬼は、垣伽河(こうががは)の七度、山と成海となるまで、飲食の名を聞かず、去ばにや、血肉の頭べを破て脳を食し、恩愛の子を生て自食す、以(レ)之倶舎には、我夜生五子、随生皆自食といへり、希に供御を備へたり共、水なければ不(レ)進、万水海に満たれ共、飲んとすれば潮水也、自陸にあがりて菓をもらんとすれば、敵已(すで)に寄るといへば捨て去ぬ、百菓林に結取んとすれば人目しげし、餓鬼道の苦に不(レ)異、一谷(いちのたに)を被(レ)落て後は、夫は妻に別、妻は夫に別、親は子を失、子は親た後れて、喚叫音船の中(有朋下P787)に充満、泣悶る音陸の側に不(レ)尽しかば、叫喚大叫喚と覚たり。助る船有しか共、人多込乗しかば底のみくづと成にき、適船に乗人も、心に任ぬ波の上と云ながら、我淡路のせとを押渡、阿波鳴戸を沖懸に、紀伊地に赴船もあり、或葦屋沖に懸りつゝ、浜南宮を伏拝、九国へ赴く船もあり、思々に漕別れ、蜑の焼火に身を焦し、磯打波に袖ぬらす。白鷺遠樹群居を見ては、源氏の旗かと肝を消し、夜雁雲井に啼渡を聞ては、兵船を漕かと魂を迷す。源平互にまけぬれば、首を刎足手を切、身は紅と染る時は、等活地獄とも覚たり。玄冬素雪の冬の夜は、衾は袖狭くすそ短くして、霜の朝雪の夜も、つまを重ぬる事なければ、紅蓮大紅蓮の氷に如(レ)被(レ)閉、九夏三伏の夏天なれ共、斑女が扇も捨られつゝ、
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泉の水をも結ばねば、木陰涼き便もなし、焦熱大焦熱の炎に焦心地也。今一の道も経たる様に思候へ共、其までは申も事長様に候へばと申させ給へば、法皇仰の有けるは、六道(ろくだう)の有様(ありさま)、生を替ず御覧じ廻由、誠に理に候、但今一を残させ給ふ事最本意なし、仏道には懺悔とて、罪をかくさずとこそ承候へ、御憚有まじきにこそと申させ給へば、女院、家を出て懸身と成候ぬれば、何かは苦るしく候べき、又御伴に候はるる人々も見なれし事なれば、恥しかるべきに非とて、自は君王にまみえられ奉て、后妃(有朋下P788)の位に備候し上は、仮初の妻を重ぬべしとこそ不(レ)思候しに、阿波民部大輔(みんぶのたいふ)成能が、宗盛に心を通はして呼入進せしかば、讃岐国屋島に付て、大裏造などして安堵して候しに、そこをも源氏に被(二)追落(一)て、一船の中に住居也しかば、兄の宗盛に名を立と云、聞にくき事を云をも、又九郎判官に虜れて、心ならぬあだ名を立候へば、畜生道に云なされたり、誠に女人の身ばかり申に付て悲けれ共、我身一人の事にあらず、昔もためしの候ければこそ。
天竺の術婆訶は、后宮に契をなし、夢路を恨て炎と昇、阿育大王の鳩那羅太子は、八万四千(はちまんしせん)の后を亡給けり。震旦には、則天皇后(そくてんくわうごう)は長文成に会給(たま)ひ、遊仙崛を作らせ、雪山と申獣に会けんも口惜や、唐の玄宗皇帝の楊貴妃は、一行阿闍梨(あじやり)に心をうつして、咎なき上人を流し給ふ。
吾朝には、聖武天皇(てんわう)の御娘、孝謙女帝は、道鏡禅師に心を移して恵美大臣を亡し、仁明天皇(てんわう)の五条(ごでう)后と申は、冬嗣大臣の御娘也。業平中将に御心を通して、我通路の関守はと侘給ければ、中将
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も、よひ/\毎に打もねななんと詠けり。文徳天皇(てんわう)の染殿后は、清和(せいわの)帝(みかどの)御母儀(おぼぎ)、太政大臣(だいじやうだいじん)忠仁公の御娘也。柿本紀僧正(きそうじやう)御修法の次に奉(レ)懸(レ)思、紺青鬼と変じて御身に近付たりけん、同道と云ながら怖しくぞ覚る。清和(せいわ)天皇(てんわう)の二条后と申は贈太政大臣(だいじやうだいじん)長良御女(おんむすめ)なりけるが、在原業平が忍つゝ、(有朋下P789)五条(ごでう)渡の西の対の亭に、月やあらぬと詠けり。寛平法皇の京極御息所は、時平大臣の御娘、志賀寺詣の御時、彼寺の上人奉(レ)懸(レ)心、今生の行業を譲り奉らんと申せば、
  よしさらば真の道のしるべして我をいざなへゆらぐ玉の緒 K270 
と打詠給(たまひ)て、御手を授給けり。源氏の女三宮は、柏木右衛門督(うゑもんのかみ)に通て、薫大将を産めり。
  誰が世にか種は蒔しと人問(とは)ばいかゞ岩根の松はこたへん K271 
と、源氏の云けんも恥しや、小衣大将は、聞つゝも涙にくもると忍けり、天竺、震旦、我朝、貴も賤も、燈に入夏の虫、妻を恋秋の鹿、山野の獣の江河の鱗に至まで、此道に迷て心を尽し命を失習也。されば所有三千界、男子諸煩悩、合集為一人、女人為業障と、仏の説給へるも理と覚たり、今も昔も男女の習、不(レ)及力事なれば、兎ても角ても候なん、是をこそ自は六道(ろくだう)を経たりとは申すに候へ、但猶、生死の境にかへるべき恩愛の道の悲しさは、先帝の御事忘んとすれ共不(レ)忘、思消どもけされず、是や妄念ならんと思候へば、仏の御名を唱、経教の文も習、花を摘水を汲事怠らず、よし/\恩愛別離の歎によらずば、争厭離穢土の志もいでこんと、打翻て思へば、ゆゝしき善知識とこそ
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覚て候へ。
長門国壇浦にして、軍は只今(ただいま)を限とて、人々の海へ入給し時、自も(有朋下P790)同波の底に沈まずして武士に被(二)取上(一)、二度都へ帰上り、憂事を見聞候しには、いかなりける先の世の罪の報にやと口惜しく候しか共、今は不(レ)死ける事の嬉しさよと、引替嬉しく候也。其故は、自生不(レ)残ば、誰かは此人々の後世をば弔給候べき。此寂光院と申は、よに静なる所にて候、如何に無(レ)情人也とても、心を澄し哀を催すべき有様(ありさま)なれば、況自は、恨歎身にあまりて候へば、御堂に参て終夜(よもすがら)香の煙と燃焦(もえこがれ)、朝の露と泣しをれて、静に念仏申経を読て、人々の後世を祈申候し験にや、或夜聊まどろみ入て候し夢に、昔の大内には超過して、ゆゝしき所に罷て候しかば、先帝を始進せて一門の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、目出く礼儀して候しかば、都を出て後は懸所は未(レ)見、是はいづこぞと尋候しに、新中納言知盛と覚しき人、是は竜宮城と答しかば、難(レ)有かりける所かな、此には苦はなきかと問候しに、争か苦なくて候べき、竜軸経の中に説れて候、能々御覧じて、後世弔ましませと申と思ひて覚候ぬ。穴無慙や、さては此人々、竜宮城に生にけり、後世を被(レ)弔て、角夢に見えけるにこそと思て、雪の朝の寒にも、峯に登て花を摘、嵐烈き夕にも、谷に下て水を掬、難行苦行日重、転経念仏功績て、仏に祈申候へば、さり共今は此人々、竜畜の依身を改て、浄土(じやうど)菩提に至ぬらんとこそ覚て候へ、化功帰(レ)己の道理(有朋下P791)あれば、自らも此尼女房達(にようばうたち)も憑もしくこそ候へ、さても/\難(レ)有御幸に、何となき詢事のいぶせさこそと被
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(レ)仰もあへさせ給はず、御涙(おんなみだ)に咽せ給へば、公卿殿上人(てんじやうびと)の、籬のはざま杉の御庵の隙より承見進せて、昔まのあたり見進せし御事なれば、いみじかりし御有様(おんありさま)も、只今(ただいま)の様に覚て哀也。有(レ)限、昔釈尊の霊鷲山にて法を説給けんも、争か是にはすぎんとぞ各袖を絞ける。
法皇御涙(おんなみだ)を推拭はせまし/\て、一乗(いちじよう)妙典の御法を持、十念成就(じやうじゆ)の本願を憑て、九品の往生を欣、聖衆来迎を待、すぎ別させ給し高倉先帝、安徳(あんとく)天皇(てんわう)、一品大相国(たいしやうこく)、屋島内府已下、兄弟骨肉、六親眷属もろともに、敵の為に亡され波の底に沈し輩も、一仏浄土(じやうど)に生給へと、難行苦行して御弔ひあれば、妄念の罪早消て、菩提の縁を結給はん事御疑あるまじと申させ給(たまひ)けるに、夕陽西に傾て、入逢の鐘も響けり。小夜も漸深行ば、巴峡の猿の一叫、催(レ)憐友となり、情騒しき■(むささび)も、所からにぞ心澄。飯篠群竹吹風に、旅寝の夢も可(レ)覚。玉巻葛葉の朝露は、行人の袖を絞らん。何事に付ても不(二)御心澄(一)と云事なし。卯月の末の事なれば、晨明の月の出るをしるべにて、法皇還御ならせ給。御遺(おんなごり)惜く思召(おぼしめし)ければ、たゞ先立物とては御涙(おんなみだ)ばかり也。芹生里の細道、来迎院の形勢(ありさま)、難(レ)忘ぞ思召(おぼしめす)。女院も御遺(おんなごり)をしまさせ給つゝ、遥(はるか)に見送(有朋下P792)進せて、ありし昔の大内山の御住居(おんすまひ)、思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)て、御遺(おんなごり)惜く思召(おぼしめし)ければ、泣々(なくなく)立入せ給つゝ、御本尊に向進せて、高声に念仏申させ給(たまひ)て、天子聖霊成等正覚と廻向せさせ給(たまひ)て、絶入やうに御座(おはしまし)けるぞ糸惜き。昔は南に向はせ給(たまひ)て、天照太神(てんせうだいじん)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を拝ませ給(たまひ)て、天子宝算千秋万歳とこそ祈らせ給しに、今は西に向せ給つゝ、弥陀如来(みだによらい)観音
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勢至と唱へて、過去聖霊往生極楽と、たむけさせ給ふも哀也。
建久三年三月十三日に、法皇隠れさせ給ぬ。其後主上代をしろしめす。おり居にならせ給(たまひ)て、承久三年に思召(おぼしめし)立御事の有けるが、御謀叛(ごむほん)の事顕て、院は隠岐国へ被(レ)流まし/\、宮々は国に被(レ)遷給ぬ。雲客(うんかく)卿相(けいしやう)、或は浮島が草の原にて露の命を消、或は菊河の早流に憂名を流すなど披露有りければ、女院聞召(きこしめし)て、今更又悲くぞ思召(おぼしめし)ける。此院は、高倉院(たかくらのゐんの)御子にて御座(おはしまし)しかば、女院には御継子にて、安徳(あんとく)天皇(てんわう)の御弟にまし/\しかば、外の御事共(おんことども)不(二)思召(おぼしめさ)(一)、配流の後は隠岐院とぞ申ける。又は後鳥羽院(ごとばのゐん)共名け奉。平家都を落て西海の浪に漂、先帝海中に沈み給、百官悉亡し事只今(ただいま)の様に覚えて、其愁未やすまらせ給はず、如何なる罪の報にて、露の命の消やらで、又懸事を聞食らんと、不(レ)尽御歎打続せ給けるに付ても、朝夕の行業懈らせ給はざりけるが、御歳六十八と申し貞応三年の春の比、(有朋下P793)五色の糸を御手にひかへ、南無(なむ)西方極楽教主、阿弥陀如来(あみだによらい)、本願■(あやまり)給はず、必引摂し給へと祈誓して、高声に念仏申させ給(たまひ)て引入せ給ければ、紫雲空に聳き、異香空に薫じつゝ、音楽雲に聞ゆ。光明(くわうみやう)窓を照して、往生の素懐を遂させ給けるこそ貴けれ。二人の尼女房も、遅速こそ有けれ共、皆如(二)本意(一)、臨終正念に終けり。
泡沫無常の世の習、分段輪廻の里の癖、いづくか常住の所なる。誰も不退の身ならね共、上一人の玉の台より、下万民の柴の枢に至まで、今も昔も類すくなき事共也。されば女院の今生の御恨は一旦の
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事、善知識は是莫大の因縁なり、昔のごとく后妃の位に御座(おはしま)さば、争か法性の常楽をば経させ給べき、源平両家の諍ありて憂目を御覧じけるは、偏(ひとへ)に往生極楽の勝因のきざしけるにこそと、心ある人は皆貴み申けるとかや。(有朋下P794)