『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十九

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屋巻 第二十九
S2901 般若野軍事
五月九日卯刻に、源氏六千余騎、白旗三十流指上て、喚叫で般若野に推寄たり。平家も時を合て散々に戦ふ。二百騎三百騎五十騎百騎、出し替入違て、寄つ返つ切つ切れつ、息をも継せず馬をも不休、未刻まで戦たり。夕に及で平家禦兼て引退。源氏勝に乗て追懸たり。平家は礪並郡、小矢部の河原まで、返合々々散々に戦けるが、落ぬ討れぬ二千余騎は失にけり。残三千余騎、夜に入て礪並山、倶梨伽羅が峯を引越て、加賀国へぞ帰りにける。
S2902 平家礪並志雄二手事
平家一所に集て、木曾追討の為に、十万余騎を二手に分て、越中国に入て国中の兵を責随へんと評定す。搦手の大将軍には越前三位通盛、三河守知度、侍には越中前司盛俊、(有朋下P108)上総守忠清、飛騨守景家、三万余騎を相具して、志雄山へこそ向ひけれ。彼山は能登加賀越中三箇国の境也。能登路白生を打過て、日角、見室尾、青崎、大野、徳蔵宮腰までぞつゞきたり。追手の大将軍には三位中将維盛、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍には上総判官忠経、河内判官季国、高橋判官長綱、越中権頭範高が一党五千余騎を先として、都合七万余騎は、加賀と越中の境なる倶梨伽羅山へぞ向ひける。加賀国、井家津、播多、荒井、閑野、竹橋、大庭、崎田、森本まで連たり。
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追手搦手十万余騎、赤旗赤じるし塩風に吹れて、浦々は錦を曝し、緑の梢を隠して、山々は紅を染成せり。平家既に倶梨伽羅、志雄山、二手に分て下と聞えければ、木曾は越後国府を立て越中に入、国々軍兵馳集て木曾に加る。越前には、本庄、樋口、斎藤が一族、加賀国には、林、富樫、井家津、播多、能登国には、土田、関、日置、越中国には、野尻、河上、石黒、宮崎等参けり。
S2903 三箇馬場願書事
木曾は六動寺の国府に著、兵具くらべ勢汰して著到あり。其勢五万余騎とぞ注しける。木曾(有朋下P109)は物書に、大夫房覚明を招て軍兵の中にして云、軍は謀と云ながら、平家は聞体大勢也、仏神の擁護に非んば輙く靡し難し、幸に今北国第一の霊峰、効験無双の明神の御麓近く参たり、白山妙理権現に願書を進せばやと有ければ、軍兵も覚明も、然るべしとて、覚明は箭立取出て旨趣を顕す。其状に云、敬白、
  立申大願事
一 可奉勤仕加賀馬場白山本宮三十講頭事
一 可奉勤仕越前馬場平泉寺 三十講頭事
一 可奉勤仕美濃馬場長龍寺 三十講頭事
右白山妙理権現者、観音薩■[*土+垂]之垂跡、自在吉祥之化現也、卜三州高岩之霊窟利四海卒土之尊卑、参詣合掌之輩、満二世之悉地、帰依低頭之類、誇一生之栄耀、惣鎮護国家之宝社、天下無双
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之霊神者歟、而自近年以降、平家忽昇不当之高位、飽誇非順之栄爵、忝蔑如十善万乗之聖主、恣陵辱三台九棘之臣下、或追捕太上法皇之陬、或押取博陸殿下之身、或打囲親王之仙居、或奪取諸宮之権勢、五畿七道何処不(有朋下P110)愁之、百官万民誰人不歎之、已欲断王孫、豈非朝家怨敵哉、是一、次焼南京七寺之仏閣、断東漸八宗之恵命、尽園城三井之法水、滅智証一門之学侶、其逆勝調達、其過越波旬、月氏之大天再誕歟、日域守屋重来歟、已魔滅仏像経巻、忽焼払堂舎僧坊、寧非法家之怨敵哉、是二、次源氏平氏之両家、自昔至于今、如牛角、天子左右之守護、朝家前後之将軍也、而触事決雌雄、伺隙致鉾楯、仍代々企合戦、度々諍勝負、既有宿世之怨心、是非当時之大敵歟、是三、因茲忝蒙神明神道之冥助、為降仏法王法之怨敵、立大願、於三州之馬場、仰感応於三所権現耳、就中先代伏王敵、皆由仏神之贔屓、此時降謀叛、寧無権現之勝利哉、加之白山之本地観音大士、於怖畏急難之中、能施無畏、縱雖平家之軍兵如雲集如霞下、衆怨悉退散之金言有憑、縱雖謀臣之凶徒、加咒咀致怨念、還著於本人之誓約無疑、然者還念権現本誓、感応不可廻踵、何況武家自先祖、仰八幡大菩薩之加護、振威施徳、而八幡之本地者、観音本師阿弥陀也、白山御体者、弥陀、脇士観世音也、師弟合力、感応潜通者歟、況弥陀有無量寿之号、不授千秋万歳之算哉、観音現薬樹王之身、寧不含不老不死之薬乎、云本地云垂跡、勝利掲焉、
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付公家付私宅、(有朋下P111)欲遂素懐、所志無私、奉公在頂、偏為降王敵、専為接天下、忽為興仏法、鎮為仰神明也、伝聞天神無怒、但嫌不善、地祇無崇、但厭過患、所以平家奪王位、是不善之至哉、謀臣滅仏法、忽過患之甚也、日月未堕地、星宿猶懸天、神明為神明者、此境施験、三宝為三宝者、此刻振威、然則権現照我等之懇誠、宜令罰平家之逆族、我等蒙権現之加力、願欲打謀叛之輩、若酬丹祈、感応速通者、上件大願無懈怠、可果遂也、者弥施源家之面目、新副社壇之荘厳、鎮誇神道之冥加、倍致仏法之興隆矣、仍所立申如件。
   寿永二年五月九日               源義仲敬白
と書て、木曾が前にて読上たりければ、武士各感涙を流しけり。
抑白山妙理権現と申は、昔越前国麻生津に、三神の安角が二男、越大徳神融禅師と云人まし/\き。久修練行年積、難行精進日地に新也き。元生天皇御宇、養老元年に、和尚当国大野郡伊野原に遊止し給ひたりけるに、一人の貴女化現して云、日本秋津島は本是神国也。我天神最初の国常立尊より跡を降してこのかた、百七十九万二千四百七十六歳、上上皇を護(有朋下P112)下下民を撫、吾本地の真身は在山頂、往て可礼と云て、化女即隠れ給ぬ。和尚霊感を仰て白山の絶頂に攀登、緑の池の辺に居て、三密印観を凝し、五相身心を調て、祈念加持し給ひければ、池中より九頭竜の大蛇身を現ぜり。
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和尚責て云、此は是方便示現の形、全本地の真身にあらじとて、咒遍功を増ければ、十一面観音自在尊、慈悲の玉体顕給へり。妙相遮眼光明身を耀せり。和尚悲喜胸に満て感涙面を洗ふ。帰命頂礼し奉て云、願は大聖本地垂跡、哀を垂て、像末の衆生を抜済利益し給へと被申ければ、爾時に観世音、金冠を動し慈眼を瞬し給て、妙体速に隠れ給ふ。又和尚左の峯に登給へば、一宰官人にあへり。手に金の箭を把り肩に銀の弓を懸たり。咲を含て語て云、我は是妙理大菩薩の神務輔佐の貫首、名をば小白山、別山大行事と云。大徳当知、聖観世音の化身也と云て隠れぬ。又和尚右の嶺に登給へば、一の老翁有。語て云、我は是妙理大菩薩の神務、静謐啓■輔弼也、名をば太已貴と云。蓋又西刹の教主、阿弥陀也と云て隠れ給ひぬ。是を白山三所権現と申也。峻嶺高々として、■利の雲も手に取べし、幽谷深々として風際の底も足に蹈つべし。効験一天に聞え利益四海に普し。されば木曾義仲も、眼を塞で白山を礼拝し、掌を合権現に奉帰、敬先致祈誓けり。(有朋下P113)
S2904 倶梨迦羅山事
木曾は六動寺の国府より打上て、般若野御河端へ著にけり。是にて軍の談議あり。平家は大勢と聞、御方は無勢也、彼礪並山を越れて、松永辺、柳原、小矢部の河原へ打出なば、馳合の軍なるべし、馳合の戦の習は、必勢による事なればゆゝしき大事也、されば先、義仲倶梨伽羅山の北の麓に陣をとらんと思ふ、其故は、源氏礪並郡倶梨伽羅山の麓に陣を取ならば、平家はあは敵向たりとて、山の峠去馬場の辺に引へんずらん、其時義仲搦手へ廻澄して、追手搦手北南より押合て、平家を倶梨伽羅南谷
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へ攻落さんと思ふ也、去ば急馳向て陣を取んとて、信濃国住人星名党を指遣す。巳時ばかりに礪並山の北の麓に著て、日宮林に旗三十流打たてたり。倶梨伽羅山と云は加賀と越中との境也。嶺に一宇の伽藍あり。昔越大徳諸国修行し給ひしに、倶梨伽羅明王の行給ひたりしかば、其よりして此山を倶梨伽羅岳共申とか。越中国礪並郡の内なれば、礪並共申めり。谷深して山高、嶮難にして道細し、馬も人も行違ふ事不輙。(有朋下P114)
S2905 源氏軍配分事
五月十一日に、平家十万余騎を二手に分て、礪並、志雄二の道より越中国へ打入と聞えければ、木曾乳母子の今井四郎を召て、義仲、信濃国横田河原の軍には、三千余騎にて四万余騎をも追落き、是は敵十万余騎、御方五万余騎、一人して敵二人に向、彼等は馳疲たる京家西国の駈武者也、是は在国案内の荒手也、思へば安平也、吉例に任て初は七手に分て、後は一に寄合て、揉に揉て南の谷に追落べしとて、方々手をぞわかちける。
一手は十郎蔵人行家、足利矢田判官代義兼、楯六郎親忠、宇野弥平四郎行平、成合、落合を始として、可然者共一万余騎、志雄山の搦手へ差遣す。
一手は根井小弥太を大将として、二千余騎、越中国住人、蟹谷二郎を案内者に付られて、鷲島を打廻、松永の西のはづれ、小耳入を透て鷲尾へ打上り、弥勒山を引廻す。
一手は今井四郎兼平大将として二千余騎、越中国住人石黒太郎光弘、高楯二郎光延、案内者に打
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具して、松永の日宮林へ差遣す。
一手は樋口次郎兼光を大将にて三千余騎、加賀国住人、林、富樫を打具して、笠野冨田を打廻、竹橋の搦手にこそ向ひけれ。
一手は信濃国住人、余田次郎、円子小中太、(有朋下P115)諏訪三郎、小林次郎、小室太郎忠兼、同小太郎真光の大将にて三千余騎、越中国住人、宮崎太郎、向田荒次郎兄弟二人を案内者にて、安楽寺を通り、金峯坂を打上り、北黒坂を引廻し、倶梨伽羅の峠の西のはづれ、葎原へ差遣す。
一手は巴女を大将にて一千余騎、越中国住人、水巻四郎、同小太郎を案内者にて、鷲岳下へ差向けり。此巴と云女は、木曾中三権頭が娘也。心も剛に力も強、弓矢取ても、打物取てもすくやかなり。荒馬乗の上手、去し養和元年、信濃国横田の軍にも向ふ。敵七騎討捕て、高名したりければ、何くへも召具して、一方の大将には遣しけり。
一手は木曾、三万余騎にて小矢部河を打渡し、垣生庄に陣を取。勢のかさを見んとて、胡頽子木原、柳原に引隠す。平家は礪並山、倶梨伽羅が峯を打越て、坂を下に東へ歩せつゝ、遥に麓を見渡せば、日宮林に白旗四五十流打立たり。あはや源氏は寄せたるは、此山四方岩石也。敵左右なくよも寄じ、能登路志雄山をば指固ぬ。西は御方の勢也。東は口一方の所也。高嶮して道狭ければ、源氏に矢種を射尽させよとて、倶梨伽羅の堂、国見猿馬場の塔橋の辺に引へて、赤旗山々岡々に立並たれば、龍田山
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の秋の暮、時雨に染たる紅葉葉も、角やと覚て面白や。源氏の謀にも少も不違、平家引へて左右なくよせず。源平陣を合て二町には過ず。(有朋下P116)
S2906 新八幡願書事
木曾は軍をば不急けり。先四方を屹と見渡ば、北山のはづれに当て、夏山の緑の木間より、緋玉墻風の見えて、片割造の社壇あり。山林高聳て、鳥居久苔むせり。木曾当国住人池田次郎忠康を召て、彼は何宮と申ぞ、又如何なる神を奉祝たるぞと尋給へば、答て申、八幡大菩薩を祝進せて侍るが、垣生庄にましませば、垣生新八幡と申候と云。木曾大に悦て、手書に大夫房覚明を召れたり。此僧は本は勧学院の文章博士、進士蔵人通広と云ける者也。出家して西乗坊信救と名をつきて、南都に便宜の物書して居たりける程に、高倉宮御謀叛の時、三井寺より南都へ牒状を越して、同心与力して宮をも奉助、仏法の破滅をも見継べしと申たりけるに、返牒を此信救に誂。本より家の能なれば、種々に是を書ける内に、太政入道浄海は、平家之糟糠、武家之塵芥と書たりけるを、入道安からぬ事に思て、其信救め、いかにもして打殺せよとて、内々伺ければ、南都に安堵し難して、漆を湯に沸して身に沐、■脹して如癩人成て南都を迷出、人是を不知。命の惜さに離難き都を徐に見て、東国へ落下ける程に、十郎蔵人行家、平家追討の為に、東国よ(有朋下P117)り都へ責上て、墨俣河にて平家に被打落て、三河の国府に御座ける所に行合て、行家を憑てしか/゛\と云ければ、不便也とて湯あびせ労りなどしければ、誠の癩病ならねば、■脹次第に直、本の信救になる。行家参河の国府より伊勢太神宮へ進ける祭文も、此信救ぞ書ける。行家兵衛佐に中
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違て信濃へ越ける時、又木曾に思付にけり。木曾信救を改て古山法師に造成て、木曾大夫坊覚明と呼。白山三箇之馬場願書をも此覚明書たり。筆に得於自在詞に兼於徳たれば、木曾云けるは、やゝ大夫殿、幸に当国新八幡宮御宝前に近づき奉て合戦を遂んとす、今度の軍勝ん事疑なし、但且は後代の為、且は当時の祈に、願書一紙、社殿に進せばやと存ず、其相計ひ給へと云。覚明馬より下、木曾が前に跪て、箙の中より矢立取出し、墨和筆染畳紙、押開て古物を写が如、案にも及ばず書之。其状云、
帰命頂礼、八幡大菩薩、日域朝廷之本主、累世明君之嚢祚、為守宝祚為利蒼生、改三身之金容、開三所之権扉、爰項年之間、有平相国、恣管領四海、悩乱万民、猥蔑万乗、焚焼諸寺、已是仏法之讎(あだ)、王法之敵也、義仲苟生弓馬之家、僅継箕裘之塵、見聞彼暴悪、不能顧思慮、任運於天道、投身於国家、試起義兵、(有朋下P118)欲退凶器、闘戦雖合両家之陣、士卒未得一塵之勇之処、今於一陣上旌之戦場、忽拝三所和光之社壇、機感之純熟已明、兇徒之誅戮無疑矣、降歓喜之涙、銘渇仰於肝、就中曽祖父前陸奥守義家朝臣、寄附身宗■氏族、自号名於八幡太郎以降、為其門葉者無不帰敬矣、義仲為其後胤、傾頭年久、今起此大功、喩如嬰児以■量巨海、蟷螂取斧向奔車、然間為君為国起之、為身為私不起志之至、神鑒在暗、憑哉、悦哉、伏願冥慮加威霊神合力、勝決一時、怨退四方、
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然則丹祈相叶冥慮、幽賢可成加護者、先令見一之瑞相給、仍祈誓如件。
   寿永二年五月十一日                 源義仲敬白
とぞ書たりける。覚明其日の装束には、褐衫の鎧直垂に、首丁頭巾して、■縄目の冑に、黒つ羽の征矢負て、三尺一寸の赤銅造の太刀帯、塗籠籐の弓脇に挟で、左の手に捧願書、右の手に筆を持てぞ居たりける。哀文武道の達者哉とぞ見えたりける。此願書と十三の表矢とを抜て、折節雨降ければ、蓑著たる男に蓑の下に隠し持せて、忍やかに大菩薩の社壇へ進る。憑哉八幡三所、誠の志の深を御納受ありけるにや、白鳩空より飛来て、白旗の上に翩翻す。木曾馬より覆下て、甲を脱ぎ、首を地に著て是を拝奉る。大将軍(有朋下P119)角しければ、兵皆下馬して同く拝之。平家の先陣もはるかに是を見て、身の毛竪てぞ覚ける。
S2907 砥並山合戦事
木曾は礪並山黒坂の北の麓、垣生社八幡林より、松永、柳原を後にして、黒坂口に南に向て陣を取。平家は倶梨伽羅が峠、猿の馬場、塔の橋より始て、是も黒坂口に進み下て、北に向て陣を取。両陣相隔事五六段には不過、互に楯を突向へたり。木曾は勢を待得ても合戦をば不急、平家の方よりも源氏の様を守て進み戦事なし。時の声三箇度合て後は、両陣静返てぞありける。良暫有て、源氏の陣より精兵十五騎を楯の面に出して、十五の表矢の鏑を同音に射さすれば、平家も十五騎を出合て、是も十五の鏑を射返す。互に勝負せんと進みけれ共、陣より制して招ければ、源氏は楯の内に入。源氏入れば平家
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も同入にけり。とばかり有て、二十騎出して射さすれば、又二十騎を出合てあひしらふ。三十騎五十騎出合々々射けれ共、互に勝負はなし。角操日を晩して、夜に入、後の山より搦手を待て、追手搦手押寄て、南の谷へ追落さんと計けり。平家是をば不知して、あひし(有朋下P120)らふこそ無慙なれ。五月十一日の夜半にも成にけり。五月の空の癖なれば、月朧に照す月影、夏山の木下暗き細道に、源平互に見え分ず。平家は夜討もこそあれ、打解寝べからずと催けれ共、下疲たる武者なれば、冑の袖を片敷、甲の鉢を枕とせり。源氏は追手搦手様々用意したりける中に、樋口次郎兼光は搦手に廻たりけるが、三千余騎、其中に、太鼓、法螺貝、千ばかりこそ籠たりけれ。木曾は、追手に寄けるが、牛四五百疋取集て、角に続松結付て、夜の深るをぞ相待ける。去程に樋口次郎、林富樫を打具して中山を打上、葎原へ押寄せたり。根井小弥太二千余騎、今井四郎二千余騎、小室太郎三千余騎、巴女一千余騎、五手が一手に寄合せ、一万余騎、北黒坂南黒坂引廻し、時を作、太鼓を打、法螺を吹、木本萱本を打はためき、蟇目鏑を射上てとゞめき懸たれば、山彦答て幾千万の勢共覚えざりけるに、木曾すはや搦手は廻しける、時を合せよとて、四五百頭の牛の角に松明を燃して平家の陣に追入つゝ、胡頽子木原、柳原、上野辺に引へたる軍兵三万余騎、時の声を合をめき叫、黒坂表へ押寄る。前後四万余騎が時の声、山も崩岩も摧らんと夥し。道は狭し山は高し、我先々々と進む兵は多し、馬には人人には馬共に厭に押れて、矢をはげ弓を引に及ばず、打物は鞘はづし兼たり。追手は搦手に押合せんと責上。搦手は追手(有朋下P121)と一にならんとをめき
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叫ぶ。平家は両方の中に被取籠たり。軍は明日ぞあらんずらんと取延て思ひける上、如法夜半の事なるに、俄に時を造懸たれば、こは如何せんと、東西を失ひ周章騒、弓取者は矢をとらず、矢をば負共弓を忘、冑を著て甲をきず、太刀一には二人三人取付、弓一張には四五人つかみ付けり。馬には逆に乗て、後へあがかせ、或は長刀を逆に突て、自足を突切て立あがらざる者も有ければ、蹈殺され蹴殺さるゝ類多し。主の馬を取ては主を忘れ、親の物具を著ては親を顧ず、唯我先々々にと諍へ共、西は搦手也、東は追手也、北は岩石高して上るべき様なし。南は深き谷也、下すべき便なし。暗さはくらし案内は不知、如何すべきかと方角を失へり。此山は左右は極て悪所也、後は加賀御方也、三方は心安思つるに、後陣より敵のよせける危しさよと思ひければ、只云事とては、打破て加賀国へ引や者共々々と呼けれ共、搦手雲霞の如くなり、追手上が上に責重ければ、先陣後陣に押あまされて、道より南の谷へ下る。爰に不思議ぞ有ける。白装束したる人三十騎ばかり、南黒坂の谷へ向て、落せ、殿原あやまちすな/\とて、深谷へこそ打入けれ。平家是を見て五百余騎連て落したりければ、後陣の大勢是を見て、落足がよければこそ先陣も引返ざるらめとて、不劣々々と、父落せば子も落す、主落せ(有朋下P122)挿絵(有朋下P123)挿絵(有朋下P124)ば郎等も落す。馬には人々には馬、上が上に馳重て、平家一万八千余騎、十余丈の倶梨伽羅が谷をぞ馳埋ける。適谷を遁者は、兵杖を不免、兵杖を遁る者は、皆深谷へこそ落入けれ。前に落す者は、今落す者に蹈殺され、今落す者は後に落す者に被押殺。加様にしては死けれ共、大勢の傾立ぬる習にて、敵と組で死んと云者
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は一人もなし。
去程に夜明日出る程に成にけり。参川守知度は、赤地錦の直垂に、紫すそごの冑に、黒鹿毛なる馬に乗て、西の山の麓を北に向て、五十余騎を相具して、声をあげ、鞭を打て、敵の中へ懸入ければ、右兵衛佐為盛、魚綾の直垂に萌黄匂冑に、連銭葦毛の馬に乗て、同連て蒐入けり。此両人、倶に、容貌優美也ける上、冑毛直垂の色、日の光に映じて耀計に見えければ、義仲是を見て、今度の大将軍と覚たり、余すな者共とて、紺地の錦直垂に、黒糸威の冑に、黒き馬にぞ乗たりける。眉の毛逆に上りて、目の尻悉にさけたり。其体等倫に異也。二百余騎を率して、北の山の上より落し合て押囲み、取籠て戦けり。知度朝臣は馬を射させてはねければ、下立たりけるを、岡田冠者親義落合たり。知度太刀を抜て甲の鉢を打たりければ、甲ぬけて落にけり。二の太刀に頸を打落てけり。同太郎重義続いて落重る。知度朝臣の随兵二十余騎、おり重て彼を討せじと中にへだたらんと(有朋下P125)す。親義が郎等三十余騎、重義を助んとて、落合つゝ互に戦けり。太刀の打違る音耳を驚し、火の出る事電光に似たり。爰にてぞ源平両氏の兵、数を尽て討れにけり。知度朝臣は難遁かりければ、冑の引合切捨つゝ、自害して伏にけり。兵衛佐為盛は岡田小次郎久義に組んで、木曾が郎等樋口兼光に頸を取られたり。伊勢国住人、館太郎貞康、八十余騎にて扣たり。貞康が叔父小坂三郎宗綱と云者あり、名を得たる兵也。貞康に申けるは、前陣は已に敗れ、後陣は又囲れぬ。宗綱齢已に七旬、命旦暮にあり、戦て死るP0707
は兵の法也と云ければ、貞康答けるは、今度の合戦、官軍は十万余騎逆徒は五万騎、而に軍を敗れて、生て帰て、面を人に守られん事、恥の中の辱也、今示給趣日来の本意也とて、三箇度時を作て、伊勢国住人館太郎貞康と名乗、敵の中に懸入、宗綱を始として八十余騎の輩、懸並べ/\組で落指違てぞ死にける。貞康は大見七郎光能に組で互に討れにけり。八十余人の輩、敵を得ぬはなかりけり。源氏の兵、貞康が党にぞ多く討れにける。抑倶梨伽羅が谷と云は、黒坂山の峠、猿の馬場の東にあり。其谷の中心に十余丈の岩滝あり、千歳が滝と云。彼滝の左右の岸より、杼の木多く生たり。谷深して梢高し。其木半過る程こそ、馳埋たれ。澗河血を流し死骸岡をなせり。無慚と云も愚也。されば彼谷の辺には、矢尻(有朋下P126)古刀、甲の鉢鎧の実、岸の傍木の本に残、枯骨谷に充満て今の世までも有と聞。さてこそ異名には地獄谷共名け、又馳籠の谷共申なれ。三十人計の白装束と見えけるは、垣生新八幡の御計にやと、後にぞ思ひ合せける。
木曾は平家追落し、黒坂の峠に弓杖突、除甲に成て控へたり。平家馳重て亡たる、倶梨伽羅が谷を見れば、火焔俄に燃上る。木曾大に驚て使を遣して是を見るに、御神宝立て、金剣宮と顕たり。使者帰て角と申せば、誠に願書の験にやと、感涙押へ難して馬より下、三度拝して宣けるは、今度の軍全義仲が力に非ず、偏に白山権現の御計にて平家は亡びにけり。後も亦憑もしくこそ御悦申べしとて、鞍置馬二十匹に手綱打懸々々、金剣宮へぞ送られける。其上猶霊験を貴で、林六郎光明が所願、
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横江庄をぞ寄られける。金剣宮と申は、白山七社の内、妙理権現の第一の王子に御座。本地は倶梨伽羅不動明王也。守国土為降魔民とて、弘仁十四年に此砌に跡を垂。平家已に仏法王法の怨敵也ければ、神明合力給へりと云事掲焉也。
十郎蔵人行家は、志雄の軍負色に見えければ、越中前司盛俊勝に乗て攻戦ふ程に、木曾礪並山を打破り、四万余騎を引率して志雄へ向と聞えければ、追手破れなん上は力なしとて、盛俊此より引返す。平家は礪並山を落されて、加賀国宮腰佐良岳の浜に陣を取、旗(有朋下P127)を上よとて佐良岳山に赤旗少々指上たり。谷々に被討残たる兵共、五騎六騎十騎二十騎馳集り、盛俊も軍兵引率して参たれば、程なく大勢に成にけり。源氏は左右なく追懸ず、押違へて陸地に懸りて、加賀国平岳野の、木立林に陣を取て白旗を挙たり。源平両陣に白旗赤旗立たれ共、霞を阻て遥也。五月二十五日の事也。源平互に馬に草飼、兵粮つかひなんどして有ける程に、源氏の草刈をば平家搦捕、平家の草刈をば源氏搦捕、互に軍の僉議を問けり。平家は源氏の草刈三人搦捕て軍の謀を問。下揩ネれ共相撲は我方とて、跡形なき事共申して、平家を威して申けるは、源氏は夜に入て寄らるべきとて、内々はひしめかれ候つる也と申。やをれ加程に雨降風吹て、闇き夜半には、如何にとして寄べきぞ、謀をば何と構たるぞと問ければ、あの東に見え候森を木立林と申、中に一の板堂あり、彼を壊てなんば平足駄と云物に造て、続松を拵へ、直路に懸りて、押寄て、夜討にせんとこそひしめき侍つれ、加様に雨風の事をば如何せんと申人
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も候つるを、夜討と云は思懸なき時こそよけれ、敵の存じたらんはゆゝしき大事也、是は然べき折節なんど評定候つる也、御用心有べきにて候と云。平家此事を聞て騒あへり。三位中将仰けるは、成合の手にかゝりて、安宅の渡の橋を引て、閑に源氏を待べかりつる者をと宣へば、侍共(有朋下P128)心弱く思て、我先々々にと、藤塚、今湊、安宅を指てぞ落行ける。係ければ三位中将も落給ひにけり。五月廿五日の夜半也、さらぬだに五月の空はいぶせきに、降雨は車軸の如く、吹風は浜の沙を挙て、岸打波に驚ては敵の寄るかと疑はれ、松吹風を聞ては時の声かと■たる。甲冑もしをれつゝ、駒に任て行程に、小川大行事の洪水に、先陣流るれども後陣不扶之、後陣沈め共先陣不顧之、弱馬疲たる人なれば、其夜の中に一千余騎、水に溺れて失にけり。無慙と云も疎也。明れば二十六日、安宅の湊に著集る。橋引掻楯をかき陣を取。爰にて日数を経る間に、或は水に流れたる兄弟、或は敵に討れたる一族、永き別を歎きつゝ、悲の涙を流しける。
S2908 平家落上所々軍事
六月一日は、源氏倶梨伽羅志雄山、追手搦手の大将軍一に成、五万余騎引具して安宅の渡に押寄たり。平家橋を引たり、水は濁て底見えず。源氏も左右なく不渡して、北の耳に引へたり。越中国住人、石黒、宮崎申けるは、我等先に城構て待し時は、平家は渚をこそ渡て候しかば、以案内者渚の瀬踏をして御覧候へかしと申ければ、木曾は加賀国住人林(有朋下P129)六郎を召て、汝は当国住人也、河の案内知たるらん、瀬歩仕れと仰ける。光明仰承て、能馬十匹汰へ、手綱結懸て追入たり。鞍爪力革を
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ば過ざりけり。木曾、河は浅かりけり。渡せ者共者共と下知しければ、信濃には、今井、樋口、楯、根井、宇野、望月、諏方上下、越中には、石黒、宮崎、向田、水巻、南保、高楯、福田、賀茂島等、加賀国には、林、富樫、下田、倉光等五百余騎、曳音出して打浸々々さと渡し、南の陸に引へたり。瀬踏の馬共、平家の陣に馳入たりければ、源氏が落るやらん、鞍置馬共迷ひ来れり、我取てのらん/\と面々に追歩。畠山庄司重能、小山田別当有重申けるは、是は落人の馬には非ず、河の瀬蹈の馬なるべし、敵は既に近付たるにこそ、重能有重見て参らんとて、兄弟二人、三百余騎を引具して、安宅港に進処に、如案河の南のはたに兵多く引へたり。畠山は平家へ使者を立、源氏は已に湊を渡して候、先陣は重能仕候べし、若き人々に軍よくせよと仰べしとぞ申ける。木曾樋口を召て、爰に赤旗三流四流指上たるは、誰なるらんと問へば、此は武蔵の畠山と覚候と申。何として見知たるぞと問へば、兼光は武蔵へ時々越候し間、畠山の旗をば見知て候と申。此勢何程有らんと問。三百騎は候らんと。木曾宣けるは、東国には畠山こそ棟人の者よ、高見王より八代後胤、村岡五郎重門(有朋下P130)より四代孫、能敵ぞ、是は馳合の軍なるべし、敵も御方も一手々々押寄せ/\戦べし。先畠山には兼光、先陣仕れと下知すれば、承候ぬとて、一番樋口次郎兼光百五十騎、元来約束の事也、平家の二人源氏の一人を宛たれば、畠山が三百騎に、樋口が百五十騎を相具して、押寄たり。畠山は軍構ぞしたりける。鶴翼の軍とて鶴の羽をひろげたるが如くに、勢をあばらに立広て、小勢を中に取籠る支度也。樋口は魚鱗の
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戦とて、先細に中太に、魚の鱗を並たる様に、馬の鼻を立並ぶ。畠山が三百騎、樋口が百五十騎をくるりと巻籠たれば、兼光が小勢、重能が大勢を、さと打破て出、出れば巻れ、巻ては出ぬ、籠ては散ぬ、散ては籠ぬ、討つ討れぬ、五六度までこそ戦けれ。畠山が勢二百騎討れて、百騎に成ぬ。樋口が勢百騎討れて、五十騎になる。其後両方さと引。
二番上総守忠清、五百騎にて推寄たり。今井四郎兼平、二百五十騎にて出合たり。寄つ返つ、追つ追れつ、暫戦て引退。
三番飛騨守景家、千騎にて向たり。楯六郎親忠、五百騎にて寄合す。弓矢を以て勝負する者もあり、太刀打して死する者も有、引組で腰の刀にて亡も在、暫戦て両方さと引退。
四番越中前司盛俊、二千余騎にて蒐出たり。落合五郎兼行、千余騎にて寄懸たり。或百騎或十騎入組入組、集ては散、散ては集り、一時戦て引退。
五番越中次郎兵衛盛嗣、上総(有朋下P131)五郎兵衛尉忠光、二千騎にて進出でたり。水巻、石黒、林、富樫、佐見、一門、千騎にて、寄合す。懸れば引、引ては懸、射も有、伐も在、退も有、進も在、組組れぬ、互に命も惜まず身も資けず、是を最後と戦て引退。
六番飛騨太郎左衛門景高、五百騎にて懸出たり。信濃国住人、根井小弥太行近、二百五十騎にて押合す。互に追つ返つ、五六度まで戦けるに、景高が勢、三百騎討れて二百騎になる。行近が勢百騎に
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なる。猶退かず戦に、景高が勢百騎になり、行近が勢五十騎に成。猶不退戦けり。景高が勢十五騎に成、行近が勢七騎に成。源平目を澄してぞ見たりける。尚不退死生不知に戦けるが、後には行近景高只二人にぞ成にける。行近十四束を取番ひ、能引て放ける矢に、景高が馬の腹射させて駻落さる。行近馬より飛下て、太刀を抜て打て懸る。景高大音揚て云けるは、骨をば苔の下に埋共、名をば後代に伝ぬべし、人なよせそ、勝負は二人と云ければ、行近子細なきとて切合たり。両人は好処なれば、源平人をば不寄けり。打と切ばはたと合せ、はたと切れば丁と合す。一時が程戦けるに、景高脛巾金より太刀打折て白砂に落。行近云けるは、爰を切べき事なれ共、互に組で勝負也とて、太刀を捨てぞ組だりける。根井は四十計の男也。景高は二十五也。上に成下になり、弓手へころび、妻手へころぶ。根井(有朋下P132)終に上に成、景高を押へて切られにけり。敵も味方も惜みつゝ、各涙を流しけり。七番権亮三位中将維盛已下、宗徒の大将一味同心に三万余騎馳出たり。木曾亦轡並て押合て、互に指詰々々射るも在、馳合々々切るも在、馬は足を休る時もなく、人は手から助くる隙を失へり。角て安宅の城にて、暫し支て戦けれ共、平家負軍に成ければ引て落。源氏勝に乗て続て追。長並、一松、成合までぞ責付たる。自先立者こそ助りけれ共、返合る者の遁はなし。成合にて平家返合て暫し戦、両陣乱合て、白旗赤旗相交、天に翻る事夥し。馬〔の〕馳違音、矢叫の声、雲も響地も動らんと覚えたり。蹴立のほこり空に充満て、朝霧の立が如く也。
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S2909 俣野五郎並長綱亡事
平家の陣より武者一人進出て云けるは、去治承の比、石橋にして右兵衛佐殿と合戦したりし鎌倉権五郎景正が末葉、大場三郎景親が舎弟、俣野五郎景尚と名乗て、竪ざま横ざま、敵も不嫌散々に戦けり。木曾は恥ある敵ぞ、あますなと云ければ、我も/\と蒐籠たり。景尚向者共十三騎討捕て、痛手負ければ、馬より飛下、腹掻切て臥にけり。
平家(有朋下P133)の侍に高橋判官長綱は、練色の魚綾の直垂に、黒糸威の鎧著て鹿毛なる馬に乗、只一騎返合て、成合池の北渚に、馬の頭、浜の方に打向て引へたり。可然者あらば、押並て組ばやとぞ伺ひ見ける。源氏の方に越中国住人、宮崎太郎が嫡子、入善小太郎安家は、赤革威の鎧に、白星の甲著て、糟毛なる馬に金覆輪の鞍置て、只一騎引へたり。是も平家の方に可然者あらば、押並て組んとの志也。成合の池の北渚に、武者の一騎あるを心にくく思ひて打寄て、爰にましますは敵か御方か誰と問。平家の侍に高橋判官長綱、角云は誰。越中国住人入善小太郎安家、生年十七歳と名乗もはてず、押並て組で落、始は上に成下になりころびけれ共、流石安家は二十に足ぬ若武者也、高橋は老すげたる大力也ければ、終には入善下に成を、おさへて頸をかゝんとする処に、高橋腰の刀を落したりける。為方なくして、暫し押へて踉■けり。此に入善が伯父に、南保次郎家隆と云者あり。此軍に打立ける時、入善が父宮崎太郎、弟の南保に語けるは、安家は未幼弱なる上、今度は初たる軍也、相構て見捨給なと云ければ、然べしとて出たりけるが、相具せんとて数万騎が中を尋れ共見えず。南保音を揚て、入善
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小太郎/\と呼で、両陣の中を通けるに、小音にて、安家敵にくみたり、角尋給ふは南保殿かよと云。家隆馬より飛下て腰刀(有朋下P134)を抜、長綱が鎧の草摺引上て、柄も拳もとほれ/\と二刀刺、甲のてへんに手を入て引仰て切頸、左の手には持頸、右の手にて入善を引上て、如何誤ありや、軍は後陣を憑み、乗替郎等を相待てこそ、敵には組事なるに、若者一人立■し給はんとて、去ながら神妙々々と云処に、入善隙を伺、南保が持たる首を奪取て逃走、木曾が前に行向ふ。南保も続て馳参申けるは、長綱が首をば、家隆捕たりと申。入善は我取たりと論ず。南保重て申けるは、入善高橋に組で既危候つるを、家隆落合て、入善を助けて、高橋が頸をば取たりと申。入善陳じ申けるは、安家高橋に組で、上に成下に成候つる程に、高橋が弱処を、高名がほに南保傍より取て候、家隆全く不取、安家が今日の得分にて候つる者也と申ければ、木曾は、入善くむ事なくば南保頸を不可捕、落合事なくば、入善実に難遁、両方共に神妙也とて、高橋が頸をば南保に付、入善には別の勲功を行はる。
S2910 妹尾並斉明被虜事
源氏方より、加賀国住人、倉光三郎成澄、二十余騎にて攻懸たり。平家の方より備中国住人妹尾太郎兼康、是も廿余騎にてをめきて出。妹尾、倉光馳並て組で落。是も上に成下(有朋下P135)に成、持起しつ押付つ、互に勝負不見けるに、妹尾が郎等落あはんと進む処に、倉光が郎等主を討せじとて、命を捨て懸ければ、蒐立られて落る処に、兼康は倉光に虜れにけり。平泉寺の長吏斉明は、随分平家に忠を尽し、燧城を落したりけるが、殊に気色して今日を晴と出立
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つゝ、門徒の悪僧相具して、五騎にて傍若無人に馳出たり。木曾云けるは、自余の兵は逃ば逃す共、斉明あますな若者共、同は生捕にせよ若者共と、下知しければ、岡本次郎成時、是も主従五騎にて歩せ出して、郎等共に、山寺法師思ふにさこそあらんずらめ、斉明は我得分ぞ目をかくな、四騎の武者を打払へと云ければ、四人の郎等、四人の法師武者を追払ふ。其間に斉明と成時と、押並て組て落。兎角操り本意に任て、斉明をこそ生取けれ。(有朋下P136)(有朋下P137)