『源平盛衰記』(国民文庫)内閣文庫蔵慶長古活字本巻第九
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理巻 第九

S0901 堂衆軍事
山門の騒動を静られんがために、三井の御幸を被停止たりけれ共、学匠と堂衆と中悪して、山上又不静、山門に事出来ぬれば、世も必ず乱といへり。理や鬼門の方の災害なり、是不祥の瑞相なるべし、又何なる事の有るべきにやと恐ろし。此事は今年の春の比、義竟四郎叡俊と云者、越中国へ下向して、釈迦堂衆に来乗房義慶と云者が、所の立置、神人を、押取て知行しける間に、義慶憤を成て、敦賀中山に下合て、義竟四郎を打散し、物具剥取などして恥に及。叡俊山に逃入て、希有にして命を生、夜にまぎれ匍登山して衆徒に訴ければ、大衆大に憤て、三塔不静、来乗又堂衆等を相語ければ、同心して義慶を助けんとする間、山上坂本騒ぎ合り。八月六日学匠義竟四郎を大将として、堂聚が坊舎十三宇を截払、若干の資財雑物を追捕して、即学匠等西塔東谷大納言の岡に楯籠て、城郭を構ふ。堂衆弥我執を起して、同八日数百人の勢を率して登山して、西塔北谷東陽房(有朋上P276)に向城を構て勝負を決せんとす。露吹結ぶ秋風は、鎧の袖を翻し、雲井に響雷電は、甲の星を耀す。堂衆八人しころを傾て、大納言の岡へ打上り、城戸口近く攻付たり。城内より義竟四郎先陣に進で六人打て出、互に進退一時戦けり。堂衆八人請太刀に成て引けるを、〔義〕竟打嗔て長追す。堂衆難遁して返合て乱会て、散々に戦
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ける程に、義竟四郎長刀の柄を打折て、腰刀を抜て刎て係るかと見程に、頸打落されて失にけり。大将軍の義竟被討ければ、学匠即引退く。十日堂衆等、東陽房より坂本に下り、近江国三箇庄へ下向して、国中の悪党を相語、学匠を亡さんと結構す。所語者と云は、古盗人古強盗、山賊海賊共也。年比日比蓄へもつ処の、米穀絹布の類を施し与へければ、当国にも不限、他国よりも聞伝て、縁を尋便に付て、雲霞の如く集と聞えし程に、九月二十日堂衆数千の勢を相具して、坂本に越、早尾坂に城郭を構て楯籠る。学匠兼て用意有ければ、不日に押寄たりけれ共、散々に打散されて、云甲斐なし。去共去共と又寄又寄しけれ共、毎度に不叶ければ、今は学匠力尽て及奏聞。堂衆等師主の命を背て、悪行を致す間、誡を加る処に、諸国の凶賊等を相語て、衆徒を亡さんとす、衆徒対治をなすといへど、学侶多く討れて、仏法僧法忽に滅とす。官兵を以て可被追討と申ければ、院宣を被下太政入道(有朋上P277)に仰す。入道勅定を蒙て、紀伊国住人、湯浅権守宗重を大将として、畿内近国の武士、三千余騎を相副て、東坂本へ差遣す。十月四日学匠官軍と相共に、早尾坂の城へよす。此山は後は峯高くして下がたく、前は谷嶮して上難き上に、道には大木を切て逆木に引、岡には大石を並て石弓をはる、面を向べき処に非ず。去共武家の軍兵三千余騎、衆徒の軍兵二千余騎、今度は去共と見えけるに、衆徒は官兵を進、官兵は衆徒を先立んと思程に、心々にてはか/゛\しく攻寄戦輩なし。堂衆等は執心深く思ひて面を振ざりける上、所語の悪党ども、賄賂属託に耽て死生不知戦ければ、適進戦輩、射伏
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られ切伏られける中にも、多は石弓に打れてぞ亡ける。官兵も学匠も散々に打落されて、手負は数を知らず、死者二千余人とぞ聞えし。今度被討ける官兵の中に、武蔵国住人、甘糟太郎某、三条川原を東へ向て打けるが、倩案じ思様、我戦場に向ひなば、生て帰らん事有がたし、敵の為に害せられば、悪趣におちん事疑なし、法然上人の折節大谷に御座ければ、出離悪道一句聴聞せんと思出て、彼庵室に推参して、馬より下、小具足付ながら縁のきはに立て、是は武蔵国住人甘糟太郎某と申者にて侍が、堂衆追討の為に、官軍に催されて、戦場に罷向侍、後生菩提の事御言承ばやとて参たる由申入たりければ、上人出合(有朋上P278)給へり。甘糟は我軍の庭に出で〔て〕、修羅闘諍の剣に当りなば、悪趣の苦患其恐不少、されば進んとすれば生死遁がたし、退んとすれば不覚の名憚あり、敵に向ひなば命を生て不可帰、これ弓矢の家を思故、子孫の末を存ずる故也。縦係身にて侍とも、生死を離べき一句を奉ばやと申。上人哀に思召て、御物語をしづ/\と始給へり。源空は本美作国の者也。父母子なくして、観音に祈申て、我を儲たりき。我九歳の時、父は明石の源内と云者が為に、夜討にせられて孤子と成しを、親者が山へ登たりしかば、少き心に父が後世をも弔、我身も生死を離れんと思て、法相、三論、花厳、天台、真言、仏心、乃至小乗律蔵に至まで渡見に、末代罪悪の衆生の為には、唯念仏の一行を得たりと語給へば、到信心、西に向合掌して十念を受。上人十念を唱て後、縦合戦闘乱の中なり共、弓箭身を亡す時也とも、十念成就せば往生不可疑と教訓し給へば、甘糟悦で坂本に越にけり。翌日
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上人大谷庵室に縁行道し給けるが、折節候ける摩訶部の敬仏、かくはりの浄門弥陀仏を呼出して、あれ見給へ、紫雲西山に聳て、比叡山に係れり、是は一定昨日来りたりし甘糟が、敵に討れて、念仏申て往生する瑞相と覚たり、浄阿弥陀仏御房は力強足早し、急坂本に越て、甘糟死にたらば、骸をも隠し首をも取て来給へと被仰ければ、かくはりの浄阿(有朋上P279)坂本に走越て、八王子山のすそ早尾坂の辺を見廻に、死人の多き事算を散せるが如し。木の本草の末皆紅に変けり、無慙と云も疎也。此彼見程に、一人の童死人を抱て泣居たる処あり。近付寄て是を問へば、我は武蔵国甘糟殿の下人也、敵に打合給しが、長刀にて両膝を切おとされ、西に向ひ合掌して、念仏三百返ばかり申て死給。旅の空なれば何にすべしとも不覚して、かくて侍也とて泣けり。浄阿弥は泣々頸を掻落し、童が直垂に裹せて檜笠の下に引かくし、童相具して、大谷の庵室に来れり。上人見之給へば、昨日鮮に肝々しげなりし有様に、今日は魂もなき生首、憂世の習と云ひながら、夢の心地し給へば、墨染の袖をぞ絞られける。さて念仏申て終ぬる事細々と語申ければ、上人神妙神妙とて、やがて上の山にて首を焼、骨をば拾て童にたび、七日念仏申されて武蔵国へぞ被下ける。平野先生頼方と云者あり。官兵にさゝれて堂衆を攻けるが、強弓の手だれなり。打物取ても足早、唯電なんどの如し。我一人と戦ければ、堂衆多くは是が為に討れたり。敵も安からず思ければ、いかにもして頼方を討ばやと目に係たり。頼方は子息小冠者相具して、散々に戦ける程に、敵多打て懸り、あますなとて手繁く戦ければ、引退処にいかがしたりけん、我身は遁て子息の小冠を被虜ぬ。頼方心細
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悲く思て、今は命生ても(有朋上P280)何にかせんと思ければ、命も不惜振舞けり。堂衆は此小冠が頸を切べきにて有けるを、父の頼方を招んが為に、子息を城戸口に出して、我命を助んと思はば城の中に入とよばはらせければ、頼方子が頸を続ん為に、甲を脱矢をはづして城の内へぞ入にける。大国の陵母は子を思て剣に伏し、我朝の頼方は、子を悲て城に入、恩愛親子の情こそ、とりどりには覚えけれ。同五日学匠等一人も残らず離山して、此彼に息つぎ居たり。義竟四郎神人の一庄を押取て知行すとも、何計の所得か有べきに、敦賀の中山にて恥を見、剰取かへもなき命を失、山門の滅亡、朝家の御大事に及ぬるこそ浅猿けれ。人は能々思慮有べき者也。貪欲は必身を食といへり。此事可慎。
十一月五日、学匠等又上座寛賢并斉明を大将軍として、堂衆が城郭へ推寄て攻戦けり。夜に入て学匠又被打落て四方に散失ぬ。討るゝ者百余人、今はいかにも力なくして、学匠等散々にこそ成にけれ。其後は山門弥荒果て、西塔院の禅衆の外、止住の僧侶無りけり。末代の作法にや、悪者は強善人は弱なりて、行ひ人は強して、智者の謀も不及して、有縁の方に行別て、人なき山に成にけり。中堂衆など云者も失ぬ、当山草創より以来如事なし。只仏法の滅亡のみに非、祭礼も又廃にけり。社頭は死骸にけがされて、神供備る人もなく、在家は親子に別れば、幣帛(有朋上P281)捧る者もなし。緋の玉垣みだれつつ、引立たる標縄も絶々なり。
S0902 山門堂塔事
抑当山は是伝教大師草創の砌、桓武天皇の御願也。天長地久の長講は、止観院に置れたり。本尊と申
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は、大師自斧を取、薬師の像を造つゝ、未来の衆生を利益し給へと誂申給しに、半作の仏像のうなづき給ひしも、憑しくこそ覚れ。梵釈四天の像は、又忠仁公の造立也。十二神将の像は寛仁の入道大相国の所造也。日光月光の二菩薩は宇治の関白の所造なり。効験何もとり/゛\に、利生実に厳重也。法花三昧堂は、又伝教大師の草創也。一乗転読の髑髏は、此砌にぞ住ける。半行半座の三昧、此道場に修すとかや。常行三昧院は慈覚大師の建立、法道和尚の引声此道場に遷さる。戒壇院と申も、同大師の建立、円頓無作の大乗戒、此霊場に行る。惣持院と申は、文徳天皇の御願、真言上乗の秘法は、此伽藍に修せらる。如来遺身の御舎利、多宝塔に納、鎮護国家の道場、名称実に憑しや。
深草天皇の定心院、朱雀天皇の延命院、花山法皇の静慮院、承雲和尚の五仏院、後冷泉院の実相院、弘宗王の大講堂、文徳天皇の四王院、皆是国家鎮守の道場也。西塔院の(有朋上P282)釈迦堂は延秀菩薩の造立也。寂光大師施主として、護命僧正導師たり。弘法大師は咒願し、別当慈覚両大師、梵音を誦じ、安恵恵亮の和尚達、錫杖をぞ勤ける。本尊と申は、伝教大師の御作也。中堂の薬師と印相更違ず、医王善逝かと思しに、天人香呂の岡に天降給ひて、閼伽の御盞を備つゝ、敬礼天人大覚尊の、四句の文を誦しけり。九旬安居の供花も、此伽藍より始れり。
横川の中堂と申は、慈覚大師帰朝の時、悪風に放たれて、羅刹国に至しに、観音海上に現じ給ひ、不動毘沙門艫舳に現じ給へり。赤山明神は蓑笠を著給ひ、弓箭を手に杷て、大師を守護し奉る。彼の三体
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を移て、本尊とし給ひ、赤山明神を西坂本に崇けり。如法堂と申も、慈覚大師の御建立、六根懺悔の行義は、此道場より始れり。三十番神の守護こそ貴くは覚ゆれ。相応和尚の不動尊、南山の洞に坐し給ひ、大楽大師の大威徳、西塔院に御座、或は秘密瑜伽の精舎もあり、或は法華読誦の道場もあり、念仏三昧の砌あり、円頓教の窓あり、目出かりし峯なれども、谷々の講演も皆断絶し、堂々の行法も、悉く退転す。修学の枢を閉塞、座禅の床に塵積る。三百余歳の法燈は挑る人もなく、六時不断の香の烟、絶やしぬらんおぼつかな。堂舎高顕て三重の構を青漢の中に挟み、棟梁遥に秀でて、四面の垂木を白霧の間に瑩しかども、今は供仏を峯の嵐に任せ、(有朋上P283)金容を空瀝に潤。夜月燈を挑て、軒の隙より漏、暁の露玉を垂て、蓮座の粧を添。夫末代の俗に至ては、三国の仏法も次第に衰微せるとかや。遠く天竺に仏跡を訪へば、貞観三年の秋仏法興隆の為に、玄弉三蔵、流沙葱嶺を凌て、仏生国へ渡り、春秋寒暑一十七年経廻けるに、耳目見聞三百六十箇国。彼国の中に大乗の弘れる、十五箇国には過ざりけり。仏の教説し給ひける、祇園精舎も、竹林精舎も孤狼の棲となり、鷲峯山も、孤独園も、只柱礎のみ残れり。白鷲池には水絶て、草のみ深く茂り、退凡下乗の卒都婆も霧に朽て傾ぬ。六年苦行の壇特山、成等正覚の金剛座、大林精舎、鹿野園、凡て悉達誕生の、伽毘羅城より始て、如来入滅の沙羅林中に至るまで、一化早く極て、八音響絶にしかば、衆生利益の聖跡も荒にけるこそ悲けれ。震旦の仏法も同く滅にき。天台山、五台山、双林寺、玉泉寺も、近頃は住侶なき様になり果て、大小乗の法文
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は箱の底にぞ朽にける。我朝の仏法も又同。南都には七大寺も荒果て、八宗九宗跡絶ぬ。瑜伽唯識の両宗の外は残る法文もなし。東大興福両寺の外は、残堂舎もなし。北京には愛宕、高雄の山も、昔は堂塔軒を碾、行学功を積けれ共、一夜の中に荒しかば、今は天狗の栖と成にけり。去ば止事なき天台の仏法計こそ有つるに、治承の今に至て滅果ぬるにやと、心あるきはの人(有朋上P284)不悲と云事なし。離山しける僧の坊の柱に、書付たりけるは、
  祈りこし我たつ杣の引かへて人なき嶺となりや果なん K049 
と、伝教大師当山草創の昔、阿耨多羅三藐三菩提の仏達、我立杣に冥加あらせ給へ K050 と、祈申させ給ける事を、思出て読たりけるにや、最哀に情深くぞ聞えし。大衆離山して、今は人なき峯に成はてて、鎮護国家の道場には、青嵐独咽、住持仏法の窓前には、白雪空に積る由聞召ければ、慈鎮和尚の未慈円阿闍梨にて御座ける時、いと悲く思食つゞけさせ給ければ、白雪の朝、尊円阿闍梨の許へ送らせ給けり。
  いとゞしく昔の跡は絶なんと今朝降雪ぞ悲しかりける K051 
御返事に、
  君が名ぞ猶あらはれん降雪に昔の跡は絶えはてぬとも K052 
抑堂衆と申は、本学匠召仕ける、童部の法師に成たるや、若は中間法師などにて有けるが、金剛寿院の座主覚尋僧正御治山の時より、三塔に結番して、夏衆と号して、仏に花奉し輩也。近来行人とて、
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山門の威に募、切物奇物責はたり、出挙借上入ちらして、徳付公名付なんどして、以外に過分に成、大衆をも事共せず、師主の命を背、加様に度々(有朋上P285)の合戦に打勝て、いとゞ我慢の鋒をぞ研ける。古人々の申けるは、山門に事出来ぬれば、必世の乱あり、一年天下の騒も山門より乱初たりと聞ゆ。今年又何事の有るべきやらん、鬼門の方の災夭也。帝都尤可鎮とぞ歎申ける。
S0903 善光寺炎上事
今年三月廿四日、信濃国善光寺炎上あり、是又浅猿き事也。彼如来と申は、昔天竺の毘舎離国に、五種の悪病発て、人民多亡き。毘舎離城の、月蓋長者と云者あり。最愛の女子、如是と云者、病の床に臥て、憑なく見えければ、恩愛の慈悲に催れ、釈尊説法の砌に参て歎申けるは、如来は大悲を法界に覆て、衆生を一子と孚給へり。而を毘舎離城の人民多滅亡、最愛の女子亡せんとす、願は慈悲を垂て、悪病を済給へと。釈尊勅して云、我力を以て、彼鬼病を助がたし。是より西方十万億土を過て仏御座、其名を阿弥陀仏と云。至心に祈誓し奉らば自其病を助るべしと教給ふ。長者蒙仏勅、家に帰て遥に西に向ひ、香花を備へ、十念を唱祈申しかば、弥陀如来、観音、勢至、西方の虚空より飛来、一光三尊の御体一■手半の御長にて、長者の門閾に現じ給たりけるを、閻浮檀金を以て奉鋳移、閻浮提(有朋上P286)第一の仏像也。如来滅度の後、天竺に留給ふ事五百歳、仏法東漸の理にて、百済国に渡御座て、一千年の其後、欽明天皇の御宇に、浪に浮本朝に来給ひたりしを、推古天皇の御宇に、信濃国水内郡住人、本田善光と云者、遥に負下奉て、我家を堂とし、我名を寺号に付つゝ安置し奉りてより、
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以降、日本最初の仏像、本師如来と仰て、貴賤頭を低、道俗掌を合つゝ、既に六百歳に及べり。炎上の例雖及度々、王法亡んとては、必仏法先に亡といへり。去ばにや加様にさしも止事なき霊寺霊場の多亡失給は、王法の末に臨、天下の穏しかるまじき瑞相にやとぞ、尊も卑も歎ける。
S0904 中宮御懐妊事
建礼門院も、其時は中宮にて御座しか、春の暮より御悩とて、貢御もつや/\進らず、打解御寝も成らずと聞えしかば、人々怪をなす、何なる御事やらん、御物気などにやと疑申時の后宮にて御座かば、天の下の歎なる上、平家の一門は殊に騒合へり。太政入道二位殿共に、理に過て肝心を迷し給程に、ただならぬ御事なりとて、引替悦あへり。主上今年十八、いまだ皇子もおはしまさず、若皇子にて渡せ給はゞ、如何に目出からんとて、平家(有朋上P287)の人々は、只今皇子御誕生などのある様に、あらまし事共申て悦給へり。平家の角栄給へば、一定皇子にてぞ御座んと、徐人も色代申けり。
S0905 宰相申預丹波少将事
中宮五月にて御帯賜御座て、六月二十八日吉日とて御著帯あり。御懐姙事定らせ給ければ、御産平安王子御誕生の御祈、内外に付て頻也。平宰相折節を得て、小松殿に被参申けるは、中宮御産の御祈に、定て様々の攘災行れずらん、成経が事今度申宥れなんや、何事にも勝たる御祈たるべし、さらば御産も平に、皇子も御誕生疑あらじと泣口説給。大臣は、誰も子は悲き物なれば、誠にさぞ覚すらん、心の及ん程は申見べしとて、入道殿に被申けるは、成経が事を宰相の痛く歎申るゝこそ不便に侍れ、御産の御祈に非常の大赦行はれて、丹波少将其中に入らるべくや候らん、宰相の申さるゝ如く無双の御祈
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たるべし、人の思歎を休、物の所望を叶させ給なば、皇子御誕生有りて、家門の栄花もいよ/\開ぬと相存ず、誠に人の親として子のうれへ歎を見聞ん程に、身にしみ肝を焦す事、何かは是にまさるべき。為善者には天報ずるに福を以し、為非者には天報るに殃を以す(有朋上P288)と承る。縦異性他人なり共、かゝる折に当ては、広大の慈悲を可施、況や御一門の端に結て、か程に歎申さんに、争か御憐なかるべき。然べきの様に御計あらば、上なき御祈と成て必御悦びも報なんと、様々に宥被申たれば、入道今度は事の外に和て、去は俊寛康頼は如何と宣けり。其も同罪とて同配所なれば、倶に御免あらぬと申れけり。何も詳なる事はなけれ共、日来には似ず思の外になだらかに返事し給へば、大臣うれしとおぼして被出けり。宰相待受ていかゞと問給ふ。今度はもて離たる事はなし、相計るゝ旨もありなんと宣へば、宰相手を合て悦の涙を流し給けるぞ糸惜き。教盛御一家の片端に侍れば、高山とも深海とも奉憑上は、是程の事などかは御免を蒙らでも有べき。女子にて侍れば、親に向声振立て、それ/\と申までこそなけれ共、教盛を見度にうらめしげに思て、常は涙ぐみて見え侍れば、思はじと思へ共、恩愛の道には力なく、無慙に覚えてかく歎申、相構て助る様に、御口入御座と宣ければ、大臣は上下品替といへ共、子を思道は等閑ならねば、誠にさこそ思召らめ、猶もよく/\申侍るべしとて立給ひぬ。
中宮は月日の重る儘に、いとゞ御身を苦ぞ思召ける。係折をえて御物気煩しくぞ御座など申ければ、御験者隙なく召れて護身頻なり。少し面痩させ給て、御目だゆげに見えさせ給け(有朋上P289)る御有様は、
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漢李夫人の照陽殿の病の床に臥たりけんも、角やとぞ人申ける。新大納言父子、并俊寛康頼等が霊共とて、御物付に移て様々に申事共有けり。生霊死霊軽からず、おどろ/\しくぞ聞えける。係ければ丹波少将可被召返由定にけり。宰相聞給ては、心の中の嬉さ、たゞ可推量。北方は猶も誠とも思給はざりけるにや、臥沈給けるぞ糸惜き。七月上旬に丹波少将召返とて、六波羅より使あり、入道の侍に、丹左衛門尉基安と云者也。宰相の許よりも、私の使を相添られたり。漫々たる万里の波、浦々島々漕過つゝ、心は強に急げども、満来塩に沂吹立浪も荒して、海上に日数を経、八月下旬に薩摩の地に着く。九月上旬にぞ硫黄島には渡ける。さても此人々、日比露の命の消ざれば、さすが憂身の有程は、朝な夕なの渡居を、さばくる者もなければ、何習たるにはあらね共、手自営けるぞ無慙なる。少将山に入て爪木を拾、朝には康頼沢に出て根芹をつみ、俊寛谷に下て水を結、夕には少将浦に行て藻をかきけり。僧俗の品もなく、上下の礼も乱つゝ、賄けるぞ糸惜。角て春過夏闌ても、思を故郷に馳、年を送り月を迎ても悲を旧里に残す。月日の数も積ければ、島の者共のいふ言も、各聞知給けり。彼等も此人々の言をも自聞知奉る物語の次に島の者共が申けるは、此御棲より五十余町を去て一の離山あり、峯高し(有朋上P290)て谷深し、其名を鸞岳と云。彼岳には夷三郎殿と申神を奉祝、岩殿と名付たり、此島に猛火俄に燃出て、殊に熱たへ難時は、様々の供物を捧て祈祭れば、火静風のどかに吹て、自安堵すとぞ語りける。少将これを聞て、係る猛火の山、鬼の住所にも、神と云事の侍にこそと
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宣ば、康頼答けるは、申にや及侍る、炎魔王界と申は、地の下五百由旬にあり、鬼類の栖として、猛火の中に侍、其にだにも十王とも申、十神共名付て、十体の神床を並て住給へり。況や此島は扶桑神国の内の島なれば、夷三郎殿もなどか住給はざらん。抑性照三十三度、熊野参詣の宿願有りて、十八度までは参て、今十五度を残せり。当来得道の為に、岩殿の御前にて果さばやと存、露の命もながらへば、都還をも祈らんと思なり。大神も小神も屈請の砌に影向し、権者も実者も渇仰の前に顕現じ給ふ事なれば、権現も定て御納受有べし、同心あらば然べし、各いかゞ思食と云ければ、少将成経はやがて入道を先達として可詣とぞ悦給ける。俊寛の云けるは、日本は神国也、天開け地竪り、国興り人定て後、光を高間原に和げ、跡をあらかねの地に垂給ふ、大小の神祇三千七百余所也、多は九成正覚の如来大悲闡提菩薩也、又吉備大臣神明の数を注たりけるには、上には一万三千、下は粟三石が員といへり。其名帳の中に、硫黄島の岩殿と云神よもあらじ、就中(有朋上P291)後生菩提の為ならば、乃至十念若不生者不取正覚と誓給へり、弥陀念仏をも唱べし。都還の祈ならば、現世安穏後生善処とも説、病即消滅不老不死とも演給へり。遠流の罪に行れて、日積歎に悲も、是又病に非や、されば法華経もよみ給べし、凡神明には権実の二御座。権者の神と申は、法性真如の都より出て、分段同居の塵に交り、愚痴の衆生に縁を結給。実者の神と申は、悪霊死霊等の顕出て、衆生に崇をなす者也。彼を礼し敬は、永劫悪趣に沈故に、或文に云、一瞻一礼諸神祇、正受蛇身五百度、現世福
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報更不来、後生必堕三悪道と見えたり。されば漢朝に霊験無双の社あり、人崇之牛羊の肉を以て祭けり、其神体を尋れば、古釜にて有りけるとかや。一人の禅師来て、釜を扣て云、神何の処より来れるぞ、霊何の処にか有と云て、さながら打砕て捨けり。禅師角して帰時、青衣の俗人現て、冠を傾け僧を礼云、我こゝにして多苦患を受き、而に禅師今無生の法をとき給ふ、吾聴聞して忽に業苦を離れて、天に生ずる事を得たり、其恩報じ難しと云て、忽然として失にけり。されば我等が身には、今生の事更に不可思、偏に後世の苦をまぬかるゝ方便をこそ、あらまほしく侍れ。神明と申は、権者の神も、仏菩薩の化現として、仮に下給へる垂跡也、直に本地の風光を尋て、出離の道に入給べし。其に念仏を憑て、往生を期し(有朋上P292)給はば、行往坐臥念々歩々、口に名号を唱へ、心に極楽を念て、臨終の来迎を待給べし。聖道の修行ならば、凡聖元より二なし。自身の外に仏を不可求、邪正自一如也、自土の外に浄土なし。三界一心と知ぬれば、地獄天宮外になし。心仏衆生一体と悟ぬれば、始覚本覚身を離れず、自性の本仏、もとより己身に備と観ずれば、無窮の聖応、響の声に応ずるが如し。生死断絶の観門、出過語言の要路也。達磨西来の、直指見性成仏の秘術、皆自身の宝蔵を開にあり、神明外になし、只我等が一念也、垂跡也に非、専自己の本宮にありなんと、たふ/\と云散す処に、此島の習なれば、暴風俄に吹て地震忽に起、山岳傾崩て、石巌海に入、其時古詞を詠じけり。
  岸崩殺魚其岸未受苦、 風起供花其風豈成仏。
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  崩れつる岸も我身もなき物ぞ有と思ふは夢に夢みる K053 
詠じて、只仏法を修行して、今度生死を出給べし、但我立杣の地主権現、日吉詣ならば、伴なん、熊野の神は中悪とて不与けり。康頼申けるは、教訓の趣は、誠に貴く侍り、尤甘心し奉る。但仏教の中に、神の御事希也と申せども、以離るべきに非。其故は、末世の我等が為には、後の世を欣はん事も必神明に奉祈べしと見えたり。釈尊入滅の後二千(有朋上P293)余年、天竺を去事数万里也、僅に聖教渡るといへ共、正像既過ぬれば、行する人も難く其験も希也。是以て諸仏菩薩の慈悲の余に、我等悪世無仏の境に生て、浮期無らん事を哀て、新道と垂跡して、悪魔を随仏教を守、賞罰を顕し信心を起し給ふ、是則利生方便の懇なるより始れり、是を和尚同塵の利益と名たり。我国の有様を見に、神明の御助なくば、争人民を安し、国土も穏からん。小国辺土の境なれば、国の力も弱く、末世独悪の此比なれば、人の心も愚也、隠ては天魔の為になやまされ、顕ては、大国の王にあなづらる、縦仏法渡給とも、魔障強は独世の今ひろまり難し、天竺は南州の最中にて、仏出世し給し国なれども、像法の末より、諸天の擁護漸衰へて、仏法亡給しが如。然を我国は、伊弉諾、伊弉冊尊より、百王の今に至まで、始終神国として、加護他に異也、剰神功皇后の古へは、新羅、高麗、支那、百済なんど申て、勢ひ大なる国をも随て、五独乱漫の今までも、大乗広まり給へり。若国に逆臣あれば、月日を不廻亡之、若天魔仏法を妨れば、鬼王と成て対治し給。依之仏法も王法も不衰、土民も国土も穏也。公の御為には高き
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大神と顕れ、民の為には賤き小神と示す、智者の前には本地を明にし、邪見の家には垂迹を現す、後世を不知輩も、猶祈て歩を運ぶ、因果に暗き人も又罰を恐て奉仰、神明顕給は(有朋上P294)ずは、何に依てか露計も、仏法に縁を結奉らん、化度利生の構は彼榊幣より始かたくる、きねが鼓の音までも、開示悟入の善巧は、哀に忝き御事也。故に為度衆生故、示現大明神とも説、和光同塵は結縁の始とも釈せり。現世の望をこそ仮の方便とかろしめ給ども、生死を祈らん為には、争済度の本懐を顕し給はざらん。民なくは君ひとり公たらんや、神なくは法独法たらんや。是を以て薬師の十二神将、千手の廿八部衆、般若の十六善神、法花の十羅刹女、皆是神法を守り、法神に持たれたり。
S0906 康頼熊野詣附祝言事
誘給へ少将殿とて、精進潔斎して、熊野詣と准て岩殿へこそ参けれ。俊寛は詞計は云散たりけれども、法華を読己身を観ずる事もなく、日吉詣もせざりけり。唯歎臥たる計にて、聊も所作はなかりけり。少将と入道とは、岩殿に参拝して、熊野権現と思なぞらへて、証誠殿と申は本地は弥陀如来、悲願至て深ければ、十悪五逆も捨給はず、垂迹権現は利生方便の霊神也、遠近尊卑にも恵を施し給へば、両人御前に跪き、南無日本第一、大霊験三所権現、和光の利益本誓に違ず、我等が至心の誠を照覧し給て、清盛入道の悪心(有朋上P295)を和げ、必都へ還し入給へと、祈誓しけるぞ哀なる。結願の日に成りけるに、康頼入道、社壇の御前にて、歌をうたひて、法楽に備けり。
  白露は月の光にて、黄土うるほす化あり、権現舟に棹さして、向の岸によする波 K054 
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と、未謡も果ざるに、三所権現となぞらへ祝ひ奉る、何も常葉の榊の葉に、冷風吹来動揺する事良久。入道是を拝しつゝ、感涙を押へて、一首の歌をぞ読ける。
  神風や祈る心の清ければ思ひの雲を吹やはらはん K055 
少将も泣々十五度の願満ぬとて、
  流よる硫黄が島のもしほ草いつか熊野に廻出べき K056 
さて少将立あがりて入道を七度まで拝給ふ。性照驚、是は何事にかと申ければ、入道殿のすゝめに依て、先達に奉憑、十五度の参詣已畢候ぬ、神明の御影向も厳重に御座せば、再都へ帰らん事疑なし、さらば併御恩なるべし、生々世々争か忘れ奉べきとて、声も不惜泣れけり。性照も己と我を拝み神として、効験を現し給へば、絞る計の袖也けり。其後康頼入道は小竹を切てくしとし、浦のはまゆふを御幣に挟み、蒐草と云草を四手に垂、清き砂を散供として、名句祭文を読上て、一時祝を申けり。(有朋上P296)
謹請再拝再拝、維当歳次、治承二年戊戌、月の並十二月、日数三百五十四箇日、八月廿八日、神已来、吉日良辰撰、掛忝日本第一大霊験熊野三所権現、并飛滝大薩■[*土+垂]、交量うつの弘前、信心大施主、羽林藤原成経、沙弥性照、致清浄之誠、抽懇念之志、謹以敬白、夫証誠大菩薩者、済度苦海之教主、三身円満之覚王也、両所権現者、又或南方補堕落能化之主、入重玄門之大士、或東方
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浄瑠璃医王之尊、衆病悉除之如来也、若一王子者、娑婆世界之本主、施無畏者之大士、現頂上之仏面、満衆生之所願給へり。云彼云此、同出法性真如之都、従入和尚同塵之道以来、神通自在而、誘難化之衆生、善巧方便而、成無辺之利益、依之自上一人、至下万民、朝結浄水係肩、洗煩悩之垢、夕向深山、運歩近常楽之地、峨々峯高、准是於信徳之高、分雲登、嶮々谷深、准是於弘誓之深、凌露下、爰不憑利益之地者、誰運歩於嶮難之道、不仰権現之徳者、何尽志於遼遠之境、然則証誠大権現、飛滝大薩■[*土+垂]、慈悲御眼並、牡鹿之御耳振立、知見無二之丹精、納受専一之懇志、現止成経性照遠流之苦、早返付旧城之故郷、当改人間有為妄執之迷、速令証新成之妙理而已、抑又十二所権現者、随類応現之願、本迹済度之誓、為導有縁之衆生救無怙之群情、捨七宝荘厳之栖、卜居於三山十二之(有朋上P297)籬、和八万四千之光、同形於六道三有之塵、故現定業能転衆病悉除之誓約有憑、当来迎引接必得往生之本願無疑、是以貴賤列礼拝之袖、男女運帰敬之歩、漫々深海、洗罪障之垢、重々高峯、仰懺悔之風、調戒律乗急之心、重柔和忍辱之衣、捧覚道之花、動神殿之床、澄信心之水、湛利生之池、神明垂納受、我等成所願乎、仰願十二所権現、伏乞三所垂跡、早並利生之翅、凌左遷海中之波、速施和光之恵、照帰洛故郷之窓、弟子不堪愁歎、神明知見証明、敬白再拝再拝と読上て、互に浄衣の袖をぞ絞ける。さらぬだに尾上の風は烈きに、暮行秋の山下風、痛身にしむ心地
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して、叢に鳴虫の音も、古里人を恋るかと、最物哀也けるに、峯吹嵐に誘れて、木葉乱て落散けり。其中に最怪き葉二飛来て、一は成経の前、一は性照が前にあり。康頼入道の前に落たる葉には、帰雁と云二文字を、虫食にせり。少将前の葉には、二と云ふ文字を虫食へり。二の木葉を取合て読連れば、帰雁二と有。二人取かはし/\、読ては、打うなづき/\して、奇や何なれば、帰雁二と有やらん、三人同流されて、誰一人漏べきやらん■な、但信心参詣の志、権現争か御納受なからんなれば、神明の御計にて、我等二人は被召返て、執行など残し置るべきやらん、又何れもるべきぞやと、共に安心(有朋上P298)なし。係程に又楢葉の広かりける、何くよりとも知ず飛来て、康頼入道の膝の上にぞ留りたる。取てみれば歌なり。
  ■振神に祈のしげければなどか都に帰らざるべき K057 
是を見給けるにこそ、二の帰雁と有けるは、成経性照二人とは思定て嬉けれ。二人互に目を見合て、責の事には、これを若夢にやあらんと語けるこそ哀なれ。今日を限の参詣也とて、少将も康頼も、御名残を奉惜て、去夜は是に留て、通夜法施を奉手向。暁方に康頼歌をうたひ、其終りに足柄を歌て、礼奠にそなへ奉る。さてちと、まどろみたりける夢の中に、海上を見渡せば、沖の方より白帆係たる小船一艘浪に引れて渚による。中の紅の袴著たる女房三人舟より上りて、鼓を脇に挟みつゝ、拍子を打て、足柄に歌を合歌たり。
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  諸の仏の願よりも、千手の誓は頼もしや、枯たる木草も忽に、花咲実なるとこそ聞 K058 
と、三人声を一にして二返までこそ歌ひけれ。渚白女房達、舟にのらんとて汀の方に下けり。少将も康頼も名残惜覚つゝ、遥に是を見送れば、女房立帰つゝ、人々の都帰も近ければ名残を慕て来れりとて、掻消様に水の中へぞ入にける。夢覚て後是を思へば、三所権現の御影向歟、西御前と申は、千手の垂跡に御座せば、■振玉の簾を巻揚て、足柄(有朋上P299)の歌を感ぜさせ給けるにこそ、さらずは又廿八部衆の内に、竜神の守護して海中より来給へる歟、夢も現も憑しくて、二人は終に帰上にけり。俊寛此事を後悔して、独歎悲めども、甲斐ぞなき。さても二人の人々は、新く用べき浄衣もこり払もなければ、都より著ならしたる古き衣を濯て、新しがほに翫しつゝ、藁履はゞきもなかりければ、ひたすら跣にてさゝれけり。人も通はぬ海の耳、鳥だに音せぬ山のそはを、泣々打列御座けん、心の内こそ糸惜けれ。手にたらひ身にこたへたる態とては、入江の塩にかくこり、沢辺の水にすゝぐ口、立ても居ても朝夕は、南無懺悔、至心懺悔、六根罪障と、宿罪を悔、寝ても覚ても心に心を誡て、三帰五戒を守つゝ、半日に不足道なれども、同所を往還々々、日数を経こそ哀なれ。峨々たる山をさす時は、高峯岩角蹈迷、塩風寒浪間の水何度足を濡らん、霞籠たるそばの道、柴折を注に過られけり。浦路浜路に赴てさびしき処をさす時は、和歌、吹上、玉津島、千里の浜と思なし、山陰木影に懸つゝ、嶮所を過には、鹿瀬、蕪坂、重点、高原、滝尻と志し、石巌四面に高して、青苔上に厚くむし、万木
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枝を交つゝ、旧草道を閉塞ぐ。谷河渡る時もあり、高峯を伝折もあり。岩田川によそへては、煩悩の垢を洗、発心門に准ては、菩提の岸にや至るらん。近津井、湯河、音無の滝、飛滝権現(有朋上P300)に至まで、和光の誓を憑つゝ、いはのはざま苔の筵、杉の村立、常葉の松、神の恵の青榊、八千代を契る浜椿、心にかゝり目に及、さもと覚る処をば、窪津王子より、八十余所に御座王子々々と拝つゝ、榊幣挟れたる心の内こそ哀れなれ。奉幣御神楽なんどこそ、力無れば不叶と、王子々々の御前にて、馴子舞計をばつかまつらる。康頼は洛中無双の舞也けり。魍魎鬼神もとらけ、善神護法もめで給計なりければ、昔今の事思ひ出で、
  さまも心も替かな、落る涙は滝の水、妙法蓮華の池と成、弘誓舟に竿指て、沈む我等をのせたまへ K059 
と、舞澄して泣ければ、少将も諸共に、涙をぞ流しける。日数漸重て、参詣己に満ければ、殊に今日は神御名残も惜、何もあらまほしくぞ思はれける。一心を凝し、抽丹誠、彼岩殿の前に、常木三本折立て、三所権現の御影向と礼拝重尊し奉る。其御前にて性照申けるは、三十三度の参詣已に結願しぬ、今日は暇給て黒目に下向し侍べければ、身の能施て、法楽に奉らん、我身の能には、今様こそ、第一と思侍れとて、神祇巻に二の内、
  仏の方便也ければ、神祇の威光たのもしや、扣ば必響あり、仰ば定て花ぞさく K060(有朋上P301)
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と、三返是を歌ひつゝ、先は証誠殿に手向奉り、二度三度は結早玉に奉るとて、心を澄して歌ければ、権現も岩殿もさこそ哀におぼしけめ、神明遠に非、只志の内にあり、熊野の山は、一千五百の遠峯、硫黄島は西海はるかの浪の末、信心浄くすみければ、和光の月も移けり。帰雁二とあれば赦免一定なるべし。秋此島に遷れて、春都へ帰べきにこそと、憑しく覚る、中にも三人の女房の、都還の名残こそ思合て嬉けれ。
 < 陸奥国に有りける者、毎年参詣の願を発て、年久く参たりけるが、山川遠く隔て、日数を経国に下り著て、穴苦し、ゆゝしき大事也けりとて、休み臥たりけるに、権現夢の中に御託宣あり。
  道遠し程も遥にへだたれり、思ひおこせよ我も忘れじ K061 と、深志権現争か御納受なからんと覚えたり。>
彼寛平法皇の御修業、花山院の那智籠、捨身の行とは申しながら、労しかりし御事也。況我等が身として、歎くにたらぬ物なれ共、理忘るゝ涙なれば、袖のしがらみ解けやらず、係るうき島の習にも、自慰便もやとて、少将は蜑の女に契を結び給て、御子一人出来給ひけり。後はいかゞ成りにけん、そも不知。夫婦の中の契は、うかりし宿世と云ながら、最哀なりし事共也。
二人の人々は、岩殿の御前を立ち、悦の道に成、切目の王子の水■葉を、(有朋上P302)稲荷の社の杉の枝に賜、重て黒目につくと思て、険山路を下りつゝ、遥の浦路に出にけり。折節日陰のどかにして、海上遠く晴渡り、五体に汗流て、信心肝に銘ければ、権現金剛童子の御影向ある心地せり。遥に塩せの方を見渡ば、
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漫々たる浪の上に、怪物ぞゆられける。少将見之、やゝ入道殿、一年我等が漕来侍りし、舟路の浪間に、ゆられ来るは何やらんと問れければ、あれは澪の浮州の浪にたゞよひ侍るにこそと申。次第に近付をめかれもせず見給へば、舟也けり。端島の者共が、硫黄取に越るかと思程に、近く漕よせ、舟の中に云音をきけば、さしも恋き都の人の声なり。穴無慙、何なる者の罪せられて、又此島にはなたるらん、思歎は身にも限らざりけりと思ながら、疾おりよかし、都の事をも尋聞んと思けるに、実に近付ば、今更やつれたる有様を見えん事の恥しさに、二人は磯を立退、木陰に忍て見給けり。舟こぎよせ急ぎおり、人々の忍方へぞ進ける。僧都は余りにくたびれて、只夜も昼も悲の涙に沈み、神仏にも祈らず、熊野詣にも伴はず、岩のはざま苔の上に倒れ臥して居たりけるが、都の人の声を聞起あがれり。草木の葉を結集て著たりければ、■を戴ける蓑虫に似たり。頭は白髪長く生のびて、銀の針を研立たる様也。見もうたてく恐し。二人の居たりける処へ進来れり。六波羅の使近付寄て、是は丹(有朋上P303)左衛門尉基安と申者に侍、六波羅殿より赦免の御教書候、丹波少将殿に進上せんと云。人々余の嬉さに、只夢の心地ぞせられける。成経是に侍りとて出合れたり。基安立文二通取出て進る。一通は平宰相の私の消息也。少将ばかり見之。一通は太政入道の免状也。判官入道披之読に云、
依中宮御産御祈祷、被行非常大赦之内、薩摩方硫黄島流人丹波少将成経、并平判官康頼法師可帰洛之由、御気色所候也、仍執達如件
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  七月三日とはありけれども、俊寛僧都といふ四の文字こそなかりけれ。執行は御教書とりあげて、ひろげつ巻つ、巻つ披つ、千度百度しけれども、かゝねばなじかは有るべきなれば、やがて伏倒、絶入けるこそ無慙なれ。良有起あがりては、血の涙をぞ流しける。血の涙と申は、涙くだりて声なき血と云といへり。言は出さざりけれ共、落る涙は泉の如し。理や争かなからざらん。三人同罪にて、同島へ流されたるに、死なば一所に死に、還らば同く帰べきに、二人は召かへされて僧都一人留るべしとは思やはよりける、誠に悲くぞ思けん、遥に久有て宣けるは、年比日比は、三人互に相伴、昔今の物語をもして慰つるすら、猶(有朋上P304)忍かねたりき。今人々に打捨られ奉なば、一日片時いかにして堪過すべき。但三人同罪とて、同島に遷されたる者が、二人は免されて俊寛一人留めらるゝ、誠共覚えず、さらでは又別の咎もなき物をや、是は一定執筆の誤と覚たり。若又平家の思召忘給へるかや、執申者の無りけるかや、余も苦しからじ、唯各相具して登給へ、若御免されもなき物を具足し上たりとて御とがめあらば、又も此島へ被流返よかし、其は怨にもあらじ、今一度古郷に帰上、恋き物共をも見ならば、積る妄念をも晴ぞかしと口説けり。少将も判官入道も被申けるは、さこそ思給らめなれども、御教書に漏たる人を具足せんも恐あり、同罪とて同所に被流ぬれば、咎の軽重あらじかし、中宮の御産に取紛れて、執筆の誤にてもあるらん、又平家の思忘たる事にも有らん、今は我等道広き身と成ぬ、僧都の赦免に漏て
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歎悲み給し事不便也、被召返たらば、目出き、御祈祷たるべき由、内外に付て申さば、などか御計なからん、其までの命をこそ神にも仏にも祈り申されめ、更に不可有疎略なんど様々に誘慰けり。僧都は、日来の歎は思へば物の数ならず、古郷の恋しき事も、此島の悲き事も、三人語て泣つ笑つすればこそ、慰便とも成りつれ、其猶忍かねては憂音をのみこそ泣つるに、打捨て上給なん跡のつれづれ、兼て思にいかゞせ(有朋上P305)ん、さて三年の契絶はてて、独留て帰上り給はんずるにや、穴名残惜や/\とて、二人が袂をひかへつゝ、声も惜ずをめきけり。理や旅行一匹の雨に、一樹の下に休み、往還上下の人、一河の流を渡れども、過別るれば名残惜く、風月詩歌の一旦の友、管絃遊宴の片時の語ひ、立去折は忍難くこそ覚ゆれ、況やうき島の有様とは云ながら、さすが三年の名残なれば、今を限の別也、いかに悲く思らんと、打量りては無慙なれども、縦恋路の迷人も、我身に増るものやあると云けんためしなれば、執行をば打捨て、少将も判官入道も急ぎけるこそ悲けれ。判官入道は本尊持経を形見に留む。少将は夜の衾を残し置、風よく侍とて水手等とく/\と進ければ、僧都に暇乞船にのり、纜を解て漕出けり。責の事に、僧都は、漕行舟の舷に取付て、一町余出たれども、満塩口に入ければ、さすがに命や惜かりけん、渚に帰て倒れ臥、足ずりをしてをめきけり。稚子の母に慕て泣かなしむが如也。彼喚叫音の、遥々と波間を分て聞えければ、誠にさこそ思らめと、少将も康頼も、涙にくれて、漕行空も、見えざりけり。僧都は千尋の底に沈まばやとは思けれ共、此人々の都に帰上て、不便の様をも
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申て、などか御免も無るべきと、宥云ける憑なきことのはを憑て、それまでの命ぞ惜かりける。漕行船の癖なれば、浪に隠れて跡形はなけれ(有朋上P306)挿絵(有朋上P307)挿絵(有朋上P308)共、責の別の悲さに、遥々沖を見送て、跡なき舟を慕けり。昔大伴の狭手彦が遣唐使にさゝれて、肥前国松浦方より舟にのり、漕出たりけるに、夫の別を慕つゝ、松浦さよ姫が、領巾麾の嶺に上りて、唐舟を招つゝ、悶焦けんも、又角やと覚て哀也。日も既暮けれ共、僧都はあやしの伏戸へも帰ず、天に仰ぎ地に臥、首を扣き胸を打、喚叫ければ、五体より血の汗流て、身は紅にぞ成にける。只磯にひれふし、浪にうたれ露にしをれて、虫と共に泣明しけり。昔天竺に、早利即利と云し者、継母に悪れて、海岸山に捨られつゝ、遥の島に二人居て、泣悲けん有様も、角やとぞ覚ゆる。彼は兄弟二人也、猶慰事も有けん、是は俊覚一人也、さこそは悲く思けめ。さても庵に帰りたれ共、友なき宿を守て、事問者も無れば、昨日までは三人同く歎きしに、今日は一人留りて、いとゞ思の深なれば、角ぞ思つゞけける。
  見せばやな我を思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を K062 
少将は九月中旬に島を出て、心は強に急けれども、海路の習也ければ、波風荒くして日数を過、同廿日余にぞ九国の地へは著給ふ。肥前国鹿瀬庄は、私には味木庄とも云ひけり。件の所は舅平宰相の知行也。爰に暫く逗留して、日来のつかれをもいたはり給へ(有朋上P309)り。湯沐髪すゝぎなどせられければ、冬も深く成て、年も既に暮、治承も三年に成りにけり。(有朋上P310)