投書家の出世

                        

菊池眞一

『口から出まかせ』第十一号(明治25年3月21日)に、「投書家の出世」と題する記事がある。明治初期の投書家の動向が知られて興味深い。以下、引用。


 投書家の出世
          浪越 年魚市園
此頃当市の書肆東雲堂主人が、大坂の土産とて口から出まかせを一部おくられしが、その面白きこと近年になき好雑誌誌なれば、以后自分も投書せんことを誓ひて、まづ今回は出鱈目の初投書とは出かけたり

世の中に一度滑稽、風雅雑誌の発兌せられしより、投書家といふ連中が出来たり、まづ此投書家には如何なる所得があるかといふに、いづれも商人の息子、又は番頭手代を始めとして、士なり、工なり、農なり、神官なり、寺僧なりにて、自己の業の外になぐさむか、又は親達主人等の目を忍び、最初は内証で、発句か情歌の一つも送り、段々それが雑誌に掲載さるゝともう外のたのしみより面白くて、いまゝでは寸暇にかいた原稿を、今度は朝おきて顔もろくろく洗はないうちから、机にもたれて新題の句に苦しむも、今日親のすねを囓る息子さんなどは、まづ大目に見ても、主人持の身では、この場合に至りては、もう外の事は万事がお留守で「コレ若い衆や、駸七は居りませんか、「ヘイ、只今一寸認めものを致して居ります「さうかナ、此頃戎橋の花本さんから、注文の品はどうしました「ヘイ、アノー狂歌あす持ツて参ります積りで、ソノなんで御座ります、今こしらえて居りますので、もう下の五つが工合よくはいらぬので……ヘイ、抔と万事がお留守になツて、夢中に投書をやらかし、扨末遂に如何なる大家になれるかといふに、イヤモウ好きこそ物の上手なれ、といふ程効能のないはこの投書家なり、今筆のついでに、明
治十三年以来の雑誌の名目を記さんに

団々珍聞。親釜集。月とスツポンチ。よし与誌。俳諧大熊手
(のち滑稽と改む)、粋の友、於見喃誌、開化珍聞、我楽多珍報、
伊勢古事記。笑事記。面白誌。方円珍聞。能弄戯珍誌。磊々
珍報。鯰猫珍報。水茎新誌。転愚叢誌。青柳珍誌。楽善叢誌。
驥尾団子。風雅新誌。雅流の友。女好路誌。有佐葉楽誌。粋
滑稽。風雅粋誌。厚釜集。芳草花園。花の友。愛京誉誌。可
愛楽誌。雅友叢誌。すきや誌。花圃。鬼ころ誌。雅学新誌。
妙々雑爼。新浮世。浮世珍聞。浮世叢誌。浮世の写真。此花
新誌。話の種。鴨涯珍誌。吾嬬ぶり。花期嵯峨誌。この外当
時発刊せざる分も数多あれど、数ふるに暇あらざれば、略す
ることゝせり

扨。右の雑誌へ追々投書を送るも、明治十六年頃までは新聞原稿として郵送すれば、無税にて各社に送られしも、以来は信書同様二銭以上を帖用することゝなりて、この連中も多く減じたるかはり、又おひおひに新顔ふえたり、自分これまで雑誌はすきでも、投書したことはなかりしが、今口から出まかせを見るに、その雅号卜ン卜知る人少なく、いづれも近頃の新参、(親や主人に苦をかける連中、これは失敬、あながちに此連中のみならねど)なるべし、その投書家が末はいかなる人物に成るかといふにこれまで熱心に投書して、天晴投書大家といへど、該雑誌が廃刊すれば、そのまゝ雅号も立消となりて、只連号に歌か発句が掲げあるまでの事にて、少しも糊口の助けにも、世の利益にもならぬが、此滑稽的雑誌の投書家なりとおもへど、又考一考すれば、あながちに無益でもなく、投書の度の過ぎる程有名となり、花柳社会のみならで、地方にても、あれが近頃売出しの雑誌での新駒の福助か、雁二郎かといはるゝやうにこともあれど、それまではなかなか骨の折れるものなるが、彼の団珍の売出しの頃、華族の本店子爵が木一庵酔痴と称し、京都には石井俊郎、大阪には猫文子、岡田美亭等の諸氏が盛大の頃の狂句に「投書蚊変じて編輯蝶となる云々とありて、今の都新聞(東京)の小説家彩霞園柳香氏は、未だ二交園といひて、広岡の姓も雑賀といふた時分、大坂梅田小桜橋にて磊々珍報を出し、夫から京都に行きて我楽多珍報を発刊しながら、京都日報の編輯となられし如く、その頃は、新聞記者へ狂句の如く、オイソレとなられるものではなく、矢張り滑稽雑誌の編輯を担当するか、百一、木散、青軒、小文の諸氏が我楽多を担任するか、四海浪人、岡田美亭の諸氏が能弄戯珍誌を創業する如きで、是れといふ出抜けた先生を見受け、否聞かざりしが、近頃各地の新聞紙を見るに、その以前いづれも有名なる雑誌投書家の名を、新紙上の小説に、雑報に、論説に見受けたれば、自分の知るだけを五月蠅くも左に掲げて、聊か初心の投書家諸君の参考に供せんと思へり、先づ
東京にては
総生寛氏、最初『滑稽演説会』といふを発行して、団々珍聞社に入り、号を天保道人、竹夭子といへり、後ち東京公論の編輯となれり、
野崎城雄氏は西紺屋町に粋文社を設け於見喃誌を発行し、近年神戸に在りて雅友叢誌の詩、狂歌を撰み、又東雲新聞の編輯たりしが、今は国会の編輯記者、号は蟹の家左文広岡豊太郎氏は前に演べし如くの外改進、絵入朝野に在りて話しの種の投書家にて、東洋太郎といへり
久保田米僊氏は画工なれど我楽多珍報へ草の家鱗子と号して投書もありしが、今は国民新聞にあり
大坂にては
榎本義路氏、紀州和歌山の方円珍聞の編輯、其後神戸又新日報にありて、目下は大坂朝日新聞にあり、号は鴛鴦亭春海
渡辺勝氏は正流後ち華隆氏と号し転愚叢談に投書し、名古屋の新聞に従事し、東京に行きて絵入自由、絵入朝野の小説家たりしが、その後東京朝日にありしも、今は大坂朝日の記者朝霞こと霞亭といふ
香川倫三氏は初春新昇(故人)の高弟にて、遠塵舎宝集といふ、最初此花新聞にありしが、目下大坂毎日新聞の小説家にて、号を蓬洲といへり
横溝小八氏は曩に雅友叢誌を発行し、笹の家酔花と号し、あほら誌、鬼ころ誌のかけ持ち、今は日本魂の記者なるべし
京都にては
日の出新聞の金子錦二氏、越後より可猫子と号して団珍の投書家なりしも、その後大坂の此花新聞より、今の社の記者となれり
又同社の菊酔散人も、東京万字堂話しの種に一時従事せし人なり
旧京都日報の木村与三郎氏は、京都に於て滑稽盛大の頃、珍猫庵、道義(故)露香抔と咄珍社洒連会を設立して、自ら幹事となり、大いに仙都会にも其名艶々として、百一、小文、木散、米畔の諸氏と共に高かりし。五新堂別号夕顔といひたり、我楽多休刊して京都日報発行し、其社の記者となれり
扨又地方にては
島田象二氏、団珍以来滑稽雑誌を多く発刊せしも、永続せず、先年より名古屋にあり、号は任天(其余略)今は流れて流れて近江の湖南日報社にあり
石井俊郎氏、団珍、我楽多に名を掲げし岡崎精郎も、今は北地に漂流して、北陸新報の記者たり
渡辺太余文氏は萎文といひて俳諧の師家となり、先般披露ありしにも似ず南猫房と号して、金沢の自由警鐘の補助記者なり
仙台の北村孤邨氏は似鯰堂髯成と号し楽善叢誌を発行せしも、当時は磐城新聞の記者たり
東京の前野氏も蒿亭金鳥と号したる投書家なりしが、今は静岡の新聞記者となれり
次に名古屋にては青柳、転愚等を発行して、滑稽家の名空しからぬ大口六兵衛氏、号を三国一、不二の家高根といふ、最初愛岐日報の記者たりしも、其後名古屋絵入新聞、黄金新聞に有りしが、廃刊して今は金城新報にあり
竹内福之助氏は東京魯文流にして猫々小僧といへり、京に来りて浮川福平の号ありて、鴨涯珍誌出づ、夫より西京新聞に入り、京都絵入新聞、大坂絵入新聞に入社して、当時は扶桑新聞の小説家なり、号を浮川舎票爪といへり
三浦常太郎氏、性は井上と最初いひし頃、我楽多の投書家たりし、号を珍妙庵直秋、後ち珍猫庵都子、おいろ粋史といひ、風雅粋誌を発行し、その后東京にて愛京誉誌、紫奇誌を発行し、紅の家恋師といひ、名古屋に在りて時務日報社の記者たりしが、辞して扶桑新聞の小説家となり、東京都新聞の特派員として同地にあり

以上の如く、まだ此余に数多あれど一先読切として、次号には、新聞記者より投書家となりし人、及び投書の為めに身代を棒にふり、又は情死せし人等おひおひ投書すべし

(『口から出まかせ』第十一号。明治二十五年三月二十一日)




2016年2月15日公開

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