紫檀楼古木

                        

四代目 春風亭柳枝演


 エヽ今回金港堂さんより何か一席滑稽な落語(おわらひ)をとの御依頼でございますが、私は未(ま)だ若年未熟者でございますから一応は御辞退申しましたが、強(しい)てとの御望みに付き多猥(たわい)もない落語(おわらひ)を一席申上げます。尤も落語(おはなし)は罪のないのが宜しいとしてございます。此落語(おはなし)の起源(みなかみ)は其昔宇治大納言高国卿が宇治の茶亭に於て諸国から参る者の話を聴き、又話を御聴かせなすつたと云ふことが落語(おはなし)の起源(もと)となりまして、中古落語(おはなし)の流行を致しましたのが天明の頃だと申すことでございます。して見ますると滑稽(こつけい)落語(おとしばなし)は狂歌から出たものではないかと思はれます。
 此度私(てまい)が御饒舌(おしやべり)を致します紫檀楼古木と云ふ人は、其昔蔵前の通りに伊勢屋と申す羅宇問屋(とひや)がございました。其処(そこ)の主人の俳名を紫檀楼古木と申し、皆様(みなさん)も御存知の有名な人で、当今(ただいま)もつて深川森下町の長源寺と云ふ寺に墓が遺(のこ)つて居ります。此人はナカナカ粋(いき)な人でございまして、今日は何処(どこ)の参会、明日は何処(どこ)に運座があると云ふので、毎日狂歌ばかりやつて楽しみにして居(をり)ます。店に番頭の二三人に小僧位は使つて居(をり)ましたが、肝腎の主人が己れの家業を頓と振向いて見ませぬ所から、善くない奉公人が居つたものと見えて、帳面に穴をあけたり、種々(いろいろ)勝手なことを致しました為に、到頭店を閉(しまは)なければならぬことに相成り、悲しいかな、終(つひ)に店を閉(しま)ひ、夫婦子供三人で先づ裏店(うらだな)へ引込(ひつこ)んで仕舞ひましたが、古木先生は相変らず風流三昧に誠に呑気に暮して居ります。何か商売と思つたが最早資本も無く、狂歌の点位致して居りましてはナカナカ妻子を養ふと云ふ所に手が届きませぬ、所が幸ひ羅宇竹の方は眼が利いて居るものですから、煙管のすげかへになつたら宜(よ)からうと云ふ所から、遂に煙管のすげかへとまで零落(おちぶれ)まして、ボロボロした着物を着まして羅宇の荷を背負つて江戸市中を『羅宇屋きせーる』と云つて歩くやうに相鳴りました。今日(こんにち)では羅宇屋さんの荷も以前(むかし)とはガラリ変(かはり)まして、誠に体裁の宜(よ)い結構なことになりましたが、其時分は素(もと)より当今(いま)のやうに世の中が進んでは居(をり)ませぬから、羅宇屋のお爺さんと云へばモウヨボヨボしたお爺さんと極(きま)つて居りました。京都から大阪の方へ参りますと『羅宇のすげかへ』とか『煙管のすげかへ』とか言て歩きますが、東京に限つて『羅宇屋きせーる』と言つて歩きます。是も自分が妻子を養ふ為の稼業ですから、成(なる)たけ人家の多い所を歩きまして五本より十本、十本よりも十五本と一本でも余計にすげかへてお鳥目(ちようもく)を沢山取らうと云ふ考(かんがへ)がありさうなものですが、元より風流に身を持崩し稼業などには疎い人ですから、却つて人家の沢山ある五月蠅(うるさ)い所では面白くないと云ふ所から、雪の降るのに向島の土手を『羅宇屋きせーる』と言つて歩いて、雪景色は何(ど)うだとか、又枯野は何うだとか、其様(そん)なことばかり言つて居りますから、どうも稼業が繁昌致しませぬ、女房が八釜敷(やかまし)く云ふけれども、夫(それ)が為に身代を潰す位の人ですから、唯(ただ)毎日出掛けるには出掛けますが、今日は何処何処(どこそこ)を通ると斯(か)う云ふことがあつたから狂歌を詠んで帰つて来たなどと云つて、持(もつ)て参る鳥目も少いものですから、女房も呆れて仕舞ひ、或る日紫檀楼先生に向ひまして、『お前さん私と夫婦になつて子まで生(な)した中ゆゑ、必ず別れたいとは思ひませぬが、是程零落(おちぶれ)ても稼がうと云ふ思召のないのは誠に困つたものでございます、二人が間に出来ましたる此倅誠に不憫でなりませぬから、私は縦令(たとへ)奉公を致してなりと此子を養つて行ますからどうか離縁(おひま)を下さいまし』と涙ながらに申しますと、流石風流人でも女房から離縁(ひま)を呉れろと言はれたのですから、二つ返事で隅にあつた万歳扇を取りましてスラスラと狂歌を認(したゝ)めて之を持して遣(や)りました、女房も仕方がありませぬから、其扇を持まして媒介人(なかうど)の所へ参り、一伍一什(いちぶしぢう)の話を致しますると、其扇を早速に媒介人が開ひて見ました、
  紙鳶(いかのぼり)ながきいとまにさるや《「な」カ?》らば
    切れて子供の泣やあかさん、
僅か一首の狂歌ではありますけれど親子夫婦の情(じやう)の深い所が其中に充分籠つて居(を)りますから、そこで媒介人(なかうど)から女房に説得して聞かせましたので、涙を払つて女房が再び家へ帰つて参りました、(女房)『誠に私が離縁(おひま)を戴きましたのは相済みませぬ、大変に此狂歌とやらに、情が籠て居(を)るさうでございます、して見ますと此子供を正哉(まさか)乾殺(ほしころ)すやうな不人情なことはなさいますまい、勝手気儘を申すやうでございますが、どうか元の通りに夫婦になりたうございます』と云ふと、大抵な者なら一旦亭主から離縁(りえん)を貰つた者が、縦令(たとへ)媒介人(なかうど)から意見をされたと云つて帰つて来ても、這入ることはならぬと引入ぬのでございますが、其処(そこ)が風流人ですから『さう云ふ訳なら相変らず居(ゐ)るが宜しい、此扇は火鉢の抽斗(ひきだし)に入て置くから俺に別れたくなつたら此扇を持て何時(なんどき)でも帰るが宜(よ)い』とさう云ふことには頓着(とんぢやく)なく、例(いつも)の通り風流を片手に市中を歩いて居ります、所が子供と云ふ者は無心なもので夫婦の間(なか)に出来た子供は男の子でございまして、大変な腕白者(いたづらもの)ですから始終戸外(おもて)へ出ては喧嘩ばかりして居る、或時子供が戸外(おもて)から声をあげて泣て参りました、親子の情は左もあるべきことで、幸ひ家に紫檀楼先生が居りましたから、上総戸を明て戸外(おもて)に出て、『コレコレ何を泣んだ、頭に瘤(こぶ)が出来た、誰と喧嘩したんだ……ナニ左様(さう)ぢやないのか何したのだ』、(子)『何したつて阿父(おとつ)さん、今自身番の前で遊んで居たんだ、別に乱暴(いたづら)をしないのに町代の伯父さんがポカーりと擲(なぐ)つたので、さうしたら此様(こんな)に瘤が出来て仕舞つた』、(紫)『ナニ自身番の前で乱暴(いたづら)をして町代が止(よ)せと云つても止さぬから頭を擲つたんだろうが、何もサウ瘤の出来る程子供の頭を擲らなくつても宜(よ)い、町代も随分分らねへ奴だな、俺が蔵前で羅宇問屋をして居る時分は随分世話をして遣つたのに、今俺が零落(おちぶれ)て斯様(こん)な稼業をして居るからと云つて、子供の頭を打つには及ばぬ』、其処(そこ)は親の情(じやう)でございます、此町代と云ふは当今(ただいま)の子供衆や婦人方は御存知ありますまいが、其昔の自身番と云ふものは詰り町役人の代りをして居るものですから、之を町代と称(とな)へたので、尋常の者なら町代の所に押掛けて行くのだが、其処(そこ)が風流人のことですから、(紫)『サアモウ泣かずと町代の所へ之(これ)を持て行け』と汚い紙に一首の狂歌を書いて渡すと、子供心に手紙でも書いて呉れたのであろうと、町代の所へ持つて行つた、其時の狂歌が
  せつかんを頂戴いたすおかげには
    伜(せがれ)面目なくばかりなり
町代は之を読むが否や早速戸外(おもて)へ立出で菓子の折か何かを持つて紫檀楼先生の所へやつて参りました、(町代)『イヤどうも誠に先生……イヽエ此方(こちら)の坊ちやんではないと存じまして別に打(ぶ)つ気もござりませぬでしたが、一寸其はづみで何(なん)したのでございまして、どうも相済みませぬ、それに又唯今は痛入りまする、一寸(ちよいと)御詫に伺ひました、是は詰らぬ品(もの)ですが坊ちやんに……』、(紫)『イヤ何も菓子の折を持つて謝罪(わび)に来いと言つたのではない、打つ気もないのに瘤が出来たのは是も不思議……』、(町代)『是は面目次第もございませぬ、一寸(ちよいと)打つ真似をしましたら坊ちやんの頭が拳固の方へ触つたので……』、(紫)『戯談(ぢようだん)言つちやあ不可(いけ)ませぬ、マアそれは宜しい、所でモウ一つ狂歌をやるから、それを持つて御帰りなさい、此後(このご)若(も)し子供が悪いことをしても𠮟るだけにして瘤だけは御免蒙りたい』、其時の狂歌が、
  頑是なき子供わるさも紫檀楼
    古きよしみにゆるしたまはれ
と詠んだ程の人でございまして、其後も相変らず、羅宇の荷を背負ひまして神田辺から日本橋の方を廻つて居りましたが、或る日のこと丁度日本橋の中央(たゞなか)に至りますると、馬の背をわけると云ふ所の夕立がザアーッと降って来ましたから、羅宇の荷を濡(ぬら)すまい、又自分も濡れまいと思つて、荷物と自分の身体をかばいながら漸くにして北鞘町までやつて参り、或る家(うち)の軒下に這入つて雨止(あまやみ)を致して居(ゐ)ると、尋常(あたりまへ)の人ならば狂歌の出る訳はございまませぬが、其処(そこ)が風流人でございますから、早速一首やりました、
  振り出しの日本橋から雨にあひ、
    ぬける程ふる鞘町のかど、
是皆御存じの有名な狂歌でございます、さう云ふ風ですから、お客に頓(とん)と諛(へつら)つて出入を拵へるの、或は羅宇のすげかへを殖(ふや)さうのと云ふ考はなく、唯々己(おの)れの稼業であるから拠(よんどこ)ろないと云ふ位で、半年が一年と荷を背負つて歩いて居る中に、商法の道も馴れて参りまして、何(ど)うやら斯(か)うやら親子三人が湯なり粥なり吸(すゝ)つてゆけるやうになりましたので、物に苦労と云ふものがなくなりましたから、之を楽しみに致して振姿(なりふり)に構はず毎日荷を背負つては『羅宇屋きせーる』と云つて江戸市中を歩いて居りましたが、或る冬のこと、厳しい寒い日の夕刻(ゆふがた)モウ商売を仕舞つて自宅へ帰る途中、通りかゝつたが両国薬研堀、左側を一寸見ますると小さな門があつて、其傍(かたはら)に極(ご)く磨上た一間(いつけん)の掃除の行届いた綺麗な出格子の窓がございましたから、余り好(よ)い普請だと、不意(ひよい)と見ると格子の中障子が明(あい)て居(を)ります、寒い時分に北の窓を明けて置くのは威勢の好(よ)いことだと思つて其格子の中を見ると、年齢(としのころ)二十七八半元服と云ふどうも絶世の美人が窓から顔を出して居る、それを紫檀楼先生が色気がないと申しても美(よ)い女を見れば確(たしか)に美い女と云ふことは分る、年の若い者は威勢の好いものだと見る気もなくヂッと見ながら『羅宇屋きせーる』と言ひながら向ふへ行つて仕舞ました、所が此御新造が何で窓から顔を出して居たかと云ふと、至つて綺麗好きの婦人で、平生(ふだん)己(おのれ)の喫(のみ)まする煙管に脂(やに)が少し溜(たま)ると、直(す)ぐ掃除をさせると云ふ位、今日も朝から煙草を喫まずに御新造が羅宇屋の通るを待つて居りました、所へ古木先生が前を通りましたから、(新造)『千代や、妾(わたし)はお前今朝から煙管に脂が溜つて居て、美味(おいし)く煙草が喫まれないから、今に羅宇屋が来るだらうと思つてチヨイチヨイ戸外(おもて)を見て居たが、意地の悪いもので今まで一人も通らないから困つたものだと案じて居ると、今になつて羅宇屋のお爺さんが此前を通つて行つたから、お前此煙管を持つて行つて早くすげかへて貰つてお出で』、(下女)『ハイ畏まりました』、(新造)『畏まりましたは宜いがね、叮寧にすげて貰つてお出で、代は何程(いくら)でも上げるからと云つて……早く行かないとモウ余程(よつぽど)行つたらうよ』、(下女)『畏まりました』と御新造の綺麗好を下女(おさん)は知つて居りますから其煙管を持つて格子から首を出して見ますると成程羅宇屋のお爺さんは十軒も先へ行つて居りますから、(下女)『羅宇屋さん……モシ羅宇屋さん』、(紫)『ヘエ私ですか』、(下女)『外(ほか)に羅宇屋は居ないやアね』、(紫)『御免下さい、誠にお寒いことで』、(下女)『寒いのはお前ばかりぢやアない、皆(みんな)寒いやね』、(紫)『御免なさい何んぞ御用でございますか』、(下女)『何んだえ、馬鹿なことを御言ひでない、羅宇屋を呼べば羅宇のすげかへに極(きま)つて居(ゐ)らアね、何んぞ御用でございますかつて、玉子をお呉れと云つたつてありやアしまい』、(紫)『羅宇屋は余り玉子などは持つて居りませぬなア』、(下女)『此煙管をすげてお呉れ』、(紫)『ヘア、唯今すげますが』、(下女)『今すげなくつて何時(いつ)すげるんだえ』、(紫)『モウ夕刻(ゆうがた)で厶(ござ)いますから、明日(あした)出掛けにお寄り申しては如何(いかゞ)でございます』、(下女)『此の羅宇屋は妙な羅宇屋だよ、明日(あした)でも宜(よ)いと云つても、今晩すげて参りませうと云ふのが当り前だのに、明日(あした)の朝まで待つて呉れつて云ふことがあるものかね、其様(そん)なことを言はないで商法(しようばい)だから今おすげ』、(紫)『ヘエ……』其処(そこ)が稼業で面倒臭いとは思ひましたが、否(いや)だとも言はれませぬから不性無性(ふせうぶせう)に其煙管を手に取つて、(紫)『好(よ)いお煙管ですなア』、(下女)『此煙管は真鍮に何か掛けたり、銀の鍍金(めつき)ぢやないのだから丁寧にすげてお呉れよ』、(紫)『此煙管を私に下さるんですか』、(下女)『戯談(ぢやうだん)言つちや不可(いけ)ない、羅宇屋を呼んで煙管を只遣るものがあるものかね』、(紫)『下さらなけりやア銀でも真鍮でも何でも宜しうございます、下さるものなら御礼を申さなければなりませぬから……』、(下女)『理屈ぽいお爺さんだよ、早くおすげよ』、(紫)『ヘエ』、日の暮れ方に面倒臭いとは思ひましたが、粗末にすげてやらうなどといふ不実は頓とございませぬ、これから羅宇を悉皆(すつかり)すげかへ升と、皆羅宇屋さんは通りの宜(よ)いやうにふッと吹いて見ますもので、紫檀楼先生も矢張他の羅宇屋さんのやうにフッと吹きままして汚れた布子の袖で吹口(すいくち)を拭きました、之を窓から見て居りました御新造が、『千代や……』、(下女)『ハイ何んでございます』、(新造)『どうも不潔(きたない)ぢやないかねへ、彼の羅宇屋さんがね妾(わたし)の煙管をフッと吹いてね又其上彼(あ)の汚い衣服(きもの)の袖で拭いたよ、本統に気味が悪いね』、(下女)『アラマア左様(さう)でございますか、それぢやア宜(よ)うございます、後で妾(わたし)がお湯を通して綺麗に拭いて持て参りますよ』と言ひながら門口へ出て参りまして、(下女)『羅宇屋さん、出来たのかへ』、(紫)『ヘエ御待遠様でございます』と言ひながら『少々お待下さいまし』、今御新造の言つたことが紫檀楼先生の耳に這入りましたから大抵の人なら腹を立つのですが、其処が風流人ですから腰から矢立を取り出しまして、鼻紙の端へサラサラと狂歌を一首書きまして、『どうか之(これ)を御新造にあげて下さい』と言ひながら女中に渡しました、(女中)『アライヤだよ此人は、煙管一本に請取証(かきだし)を出すななんて馬鹿に叮寧ぢやないか』、と妙な顔をして御新造の所へ持つて参りました、それを御新造が開いて見ると、
  牛若の御子息なるか御新造が
     我をむさしと思ひたまうて、
(新造)『アラマア感心な羅宇屋さんだよ、一寸(ちよいと)千代や御待よ、妾(わたし)が今返歌をするから』、(下女)『アラマア御新造さん彼のお爺さんと喧嘩をなさるんですか』、(新造)『喧嘩ぢやないよ返歌だよ、返歌と云ふのは今の書いた物の返事をやるのだね』、(女中)『アラママア御新造さん、旦那の御留守に彼の羅宇屋さんと書いた物を遣つたり取つたりして宜いのですか』、(新造)『マア宜いから硯箱と紙を取つてお呉れ』と紙と硯を取寄せままして、是もサラサラと狂歌を一首書いて、『サア之を羅宇屋さんに見せてお呉れ』と女中に持たして遣りました、(下女)『一寸羅宇屋さん、何んだか御新造さんがお前に又書いた物を下すつたよ』、(紫)『是は是は、何んですか拝見致しませう』と読んで見ると、
  弁慶と見たはひが目かすげかへの
    さいづちもありまた鋸(のこぎり)もあり
(紫)『イヤナカナカ御新造は話せるな、御女中モウ一遍之を持つて行つてお呉れ』と又何か書いて遣しまました、(女中)『幾度も五月蠅(うるさ)いねえ』と言ひながら、再び御新造の所へ持つて参りましたから、それを又御新造が見ますと、
  弁慶にあらねど腕の万力は
    煙管の首をぬくばかりなり
           紫檀楼古木
と書いてありましたから御新造は吃驚(びつくり)いたして、『一寸(ちよいと)千代や大変だよ』、(下女)『アラマア御新造何が大変です』、(新造)『何(ど)うしたら宜(よ)からうねへ、失礼なことをしてマア申訳がないよ、彼の羅宇屋さんはね家(うち)の旦那と狂歌仲間で蔵前の羅宇竹問屋の旦那だよ、俳名(おなまへ)を紫檀楼古木先生と云つて……』、(女中)『アラマア、ビタン楼ブル木先生ですか』、(新造)『左様ぢやないんだよ、分らない人だね。何にしろ此お寒いのに彼様(あん)な扮姿(おみなり)でお寒さうぢやないか、失礼だがねへ、此旦那の平生(ふだん)のお羽織を彼の羅宇屋さんに上げてお呉れよ』、(女中)『アラ御新造、彼様(あん)な汚いお爺さんに此様(こん)な絹布(やはらか)いお羽織は勿体なないぢやありませぬか』、(新造)『マア其様(そん)なことを言はないで持つて行つて着せて上げてお呉れよ』、(下女)『左様(さう)ですか』と下女はブツブツ言ひながら其羽織を持つて出て参り、『若し羅宇屋さん、アノネエ御新造がお前に、寒さうで気の毒だから、此羽織を上げるから来て御出でとさア』、(紫)『それはどうも難有(ありがた)うございますが、イヤモウそれには及びませぬ、それを着なくつても、此荷さへ背負へば羽織やアきてーる(羅宇屋きせーる)』
(松渓速記)


典拠:『文芸界』第六号(金港堂。明治三十五年八月十五日)
注:四代目春風亭柳枝は、1868年9月(慶応4年・明治元年)~1927年(昭和2年)4月20日。


2019年5月1日公開
菊池眞一


2016年1月1日公開

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