条野採菊:聴露の趣味

                        

菊池眞一

湯朝竹山人『杯洗の雫』(昭和9年3月8日)に「風流趣味雑感」という一章がある。その中の
(二)採菊山人の聴露
という一節は、条野採菊の「露音を聴く」という風流な趣味を紹介したものである。今では考えられない趣味だ。横になって聴いたのでもない。お供の人は身動きもできず、大変だったろう。以下、その文章。


(二)採菊山人の聴露
 新聞記者の先輩の一人、採菊山人条野伝平氏は山々亭有人の名で都々一本だの合巻物の作も遺した人。やまと新聞の創立者であつた。その新聞で伝記小説を書き、劇評に老熟の筆を揮つたといふ。山人は江戸児であつた。今の鎬木清方画伯は山人の息だといふ。山人は明治三十四年、行年七十二で没したといふ。
 この採菊山人に風流な道楽があった。それは向島百花園で聴露の趣味を楽まれたことであつた。秋の百花園の一室、香を焚きながら、草の葉から葉へと落る露の音を聴くことを楽みとされてゐたといふ。何といふ風流な趣味でせう。なんといふわびしい、ゆかしい、幽雅な趣味であらう。
 私の一友人の新聞記者が青年の頃、山人の家の食客であり、この露聴きにお伴を仰せつかりこのお伴ばかりは、別室で夜更けての眠むさの辛さ、いつも閉古頓首だつたと話してゐた。
 江戸の通人の間の一部に伝統した渋い味のあこがれも、思ふに採菊山人あたりが最後の人であつたのかも知れぬ。



この「風流趣味雑感」全文を以下に紹介する。



風流趣味雑感

(一)過去追想の好古癖
 今日まで幾度となく江戸趣味の凋落を歎き、これを口にし筆にした。実際私はこの趣味を憧憬し追想した。
 明治以来私等の生存の六十年、日本が文明的に更生したといふこの時代が、無趣味殺風景で伝統破壊の時勢とのみ思はれた。
 現実に見る世の中と、文学芸術等に伝へられて、そこから回顧する過去の世の中とに対して見る人の眼の著け方で、いろいろの誤つた観点を示すことになる。一概に好古癖に囚はれるのは短見。現在を不満として昔に囚はれるのも損なことだ。
 過去に囚はれることを擯斥し嫌悪するのが現代新人の態度であり特徴である。それが今日の大勢であり潮流である。一部少数の人達がこの傾向を見て心配し憂慮するといふ。だがこの激流の力には対抗が出来ない。激流を逆流させることは出来ぬ。
 新人と旧人との道徳、感情、趣味、信念の諸点が、反対の方向にあるのも、生れた時の異るのと比例するらしい。必ずしも是非善悪の批判をゆるさぬ。是非善悪の標準さへが殆ど調子を狂はさんとしてゐるといふ。規準を失つだ現代人が焦懆に駆られて安心楽天の境地を知らぬらしいのも寧ろ当然の沙汰であらう。
 やがて六十年の齢を重ねようとする私等の所感所思は、とにもかくにも古臭い。努めて新思潮を迎へ新潮流に伴ひ新人と同化しようとしても、心の奥には過去追想の好古癖が擡頭する。好古の癖といふのは風流趣味の心である。

(二)採菊山人の聴露
 新聞記者の先輩の一人、採菊山人条野伝平氏は山々亭有人の名で都々一本だの合巻物の作も遺した人。やまと新聞の創立者であつた。その新聞で伝記小説を書き、劇評に老熟の筆を揮つたといふ。山人は江戸児であつた。今の鎬木清方画伯は山人の息だといふ。山人は明治三十四年、行年七十二で没したといふ。
 この採菊山人に風流な道楽があった。それは向島百花園で聴露の趣味を楽まれたことであつた。秋の百花園の一室、香を焚きながら、草の葉から葉へと落る露の音を聴くことを楽みとされてゐたといふ。何といふ風流な趣味でせう。なんといふわびしい、ゆかしい、幽雅な趣味であらう。
 私の一友人の新聞記者が青年の頃、山人の家の食客であり、この露聴きにお伴を仰せつかりこのお伴ばかりは、別室で夜更けての眠むさの辛さ、いつも閉古頓首だつたと話してゐた。
 江戸の通人の間の一部に伝統した渋い味のあこがれも、思ふに採菊山人あたりが最後の人であつたのかも知れぬ。

(三)篁村翁の観雨
 篁村饗庭与三郎翁は明治二十年頃、須藤南翠と共に新聞の続き物作者として知られ、南翠は馬琴張の脚色を特色とし、篁村は八文字屋風の短篇物で筆致の軽妙洒脱を特色としたといふ。篁村翁は竹の舎主人の名で東京朝日新聞に劇許の筆を執り、大正十一年死亡の年まで続け、私等も翁一流の大入めでたしめでたしの評を見続けた。歌舞伎座や新富座の二階の棧敷で、ちびりちびりと独酌しながら、翁が芝居を観てをられた姿が私等の眼に遺つてゐる。
 篁村翁もまた風流の人であつたといふ。いつころのことか、不忍池畔の某亭で観雨の趣味を掬さうとされたさうだ。無論夏のことであつたらう。池の蓮花蓮葉にそそぐ雨を眺めて興をやらうとされた。この時の催しが珍しいといふので、多くの俗輩が翁の清興をさまたげたといふ話の伝はるところから察して、趣向に翁一流の風流のあつたことだらうけれど、その点を聞き漏す。残念とする。
 二十余年前、私は向島の翁の門を叩き、風流な唄の話でも聞かせて頂かうとした。対座された翁は朝酒の酔顔で、いい気持らしく思へた。朝の翁の酔顔は私にのどかな感じを与へた。

(四)得知翁の座敷の竹
 その時分、私はかういった先輩を歴訪して、昔の唄の話でも聞かせて頂かうとした。だが唄の話などは聞けなかつた。けれど親しく訪問して、それ等のやがて世を去らうとする老人達に一風違つた風趣を観察し、足を運んだことが無駄でなかつたと思ふ。
 根岸の閑居に幸堂得知翁を訪れたのもその時分であった。座敷の牀注の横に、牀下から伸び上つた青竹が、すツくと牀の間に立つてゐるのを見て、珍しいと思ひ風流にも思つた。翁の雅懐をうれしく思つた。
 日本橋万町の常盤木倶楽部の落語研究会へは私も好んで聴きに行つたが、翁は殆ど毎会欠さず出席されてゐた。記者席で翁と一緒に聴いた。故人むらくの天才的洒落には翁も快心の破顔を見せてをられた。翁の上品な容貌と美ごとな白髯とは、当時文壇耆宿中の一異彩であった。

(五)如電翁の印象
 大槻如電翁は磐水の孫、磐溪の息、言海の著者文彦博士の兄。東北仙台藩出身で学者筋の人であらう。文彦博士は一度お逢ひしたが、温厚の君子と見た。兄の如電翁は両度ばかりお邪魔して唄の話を聴かせて頂いたが、印象に残るところ好感でないのを遺憾とする。
 第一の面会中に、古曲一中節の話など聞いた。小包郵便を包みながらを話された。話最中に座を立ち家を出られたと思つたら、近所の郵便局へ小包を出して来られたらしかった。やがてまた雑話を続けられた。浅草の翁の邸宅はその附近で学者の住宅らしい閑静と広さのある立派な家だと思つたが、便所の屋根が破損し、雨の時は傘をさして用を達すといふやうな噂もあつた。翁はそんなこと位は平気な人であらうと思へたが、さて老奥様は嘸お困りでせうなどといふ人もあった。
 第二度目は震災後、根岸の文彦博士邸へ訪問した。令弟邸内へ同居してをられた。相も変らず翁は、東洋のことなら何んでも知らぬことはないなどと自慢してをられた。これほどの自慢を平気でいふ人らしく思へた。私等がお訪ねして唄の話でも尋ねた場合、記憶を話すのをみづから惜まれるやうな風にも見えた。只で物を与へるのは損だとでもいふやうな風が見えた。明治初期から二十年頃までの唄の話は私等には大層参考となり、恰も翁の最も熟知し見聞されてゐる時代に属するので、少少の不快を忍んでも翁の話を聞かせて頂きたいと思ふ心は切だつたけれど、ツイ気が進みかねた。折角話を聞いても、翁の態度が感謝の念を失はせた。途で出会した場合にも、挨拶をしていいのかわるいのか、一寸躊躇させるほどの人柄に思へた。
 如電翁作の三絃唄の数章を見ても、山谷堀出身の婦人を内室とされて、夫婦で一中節を弾れたであらうと思へるほど、風流な学匠であらうと思つたが、現実の翁は、とてもそんな風流気を漂はせる人柄ではなかつた。

(六)六合翁の印象
 六合新三郎翁は鼓の家元であった。歌舞伎座で音曲の方面に出勤した人であつた。大層物識で、その方面の貴重な書物を所収されてもをるといふので、たしか明治四十五年頃だつたと思ふ。浅草の翁の家を訪ひ、糸竹大全その他古い唄の本を見せてもらつたことがある 震災後に広田星橋兄と二人で再訪した時は同じ浅草で居を移し、翁の体も自由を失つてゐた。だが病体ながら口舌は依然として達者だつた。
 この六合翁と如電翁とは住居が近所なのと物識同士なのとで仲好しだつたさうだが、双方負けぬ気性、口達者なので、ツイ時折喧嘩をされて絶交状態が続き、その内に、また仲直りをされたらしい。大正十二年の大震の時も、六合翁の家で両翁が偶然に安政の地震談をやつてゐる最中に大震が襲ひ、如電翁があわてて家へ帰ると、家が焼けてゐたなどいふ話を耳にした。
 六合翁から聞いた話は失念したが、今でも覚えてゐるのは、九代目市川団十郎は世評通りの傑出した名優ではなかった。世間が押上げて名優にして仕舞つたのだ。昔は俳優より音曲師の方が位置が高く、座へ出勤しても俳優の方から挨拶に来たものだ。然るに位置が転換して俳優が意張り、音曲師の方が頭を下るやうになつた。かういつた話を聞いた。それから高野斑山博士へ本を借したのに返してくれないので、博士の先生に当る上田万年博士へ厳談に及んだら、折折さういふ消息を耳にするので困つてゐるといふ挨拶だつたなど奮激の言を漏してゐた。翁は茲に書きにくいやうな言葉を漏してゐたので、私等は驚き入つたことであつた。
 先年、この翁も極楽へ行き、今年は如電翁も極楽へ行かれたのだが、元気な両翁の気焔には閻魔さんもさぞさぞ持て余してゐることかと思ふ。

(七)露伴博士の転住
 幸田露伴博士は久しく向島に住んでをられたが、震災後は山の手へ転住された。向島の博士の幽居へ二度ばかりお邪魔をしたのは矢張二十余年前だが、二度目の時には博士の家の隣に待合らしい家が出来てゐるほど向島一帯の変化に驚かされた。
 その時の博士のお話に、向島へは鶯もたづねてくれる、時鳥の声も聞けたのだが、工場地と化し煙突の煤煙で墨田川の水が濁流と変化して、鶯も来なくなった。時鳥は夜分に時時まぎれて来ることもあるけれど、モハヤ向島には住めないと俗化を歎いてをられた。
 私が初めて坐禅の入門をしたのは芝愛宕山下の仏教館高田道見老師の膝下だつた。往年老師が本郷駒込吉祥寺時代、二十歳ばかりの一青年が原人論の講義を聴きに来たが、それが露伴といふ今の小説家だつたと老師から聞いたことがあり、博士へお尋ねして見ると事実であつた。
 博士は若い時分から仏典を読んでゐられたらしく、容貌態度にも脱俗の高風が見られ、一般文学者とは別の世界の高士の如くに私等には思はれた。

(八)寒月翁と久良岐兄
  震災後、神田連雀町の江沢菜魚君が焼跡へ喜雀苑を造り、苑内の蕃茶亭と杉酒屋とは私も時時遊びに行つた。蕃茶亭では向島梵雲庵主の淡島寒月翁と出会しお話をした。人相も態度も談話も生粋江戸の純粋通人を思はせる上品な老人だつた。東北岩手出身の如電翁を閻魔さんに見立てるなら、江戸の寒月翁は観音さまに見立てたい人品だつた。翁も亡き人となられた。
 元禄の西鶴を明治に復活させた第一先達といはれる寒月翁は、紅葉、露件、斎藤緑雨、樋口一葉の諸氏へ西鶴吟味を促した指導者だった。これ等のことは内田魯庵氏の著書に詳述してある。翁の直話に三十年間書き続けられた随筆数十巻を、震災の時に灰燼に帰せられたといふ。世界の玩具の蒐集は翁の多年の趣味であつたといふ。無論それも皆焼失して仕舞つたといふ。
  杉酒屋で微酔を買ひ、小唄など唱てゐると傍で川柳の阪井久良岐兄がニコニコして短冊に筆を走らせてくれたりした。震災直後は、まだ呑気さが浮動してゐた。兄もまた純粋の江戸児である。感情、気風等が江戸児の代表の一人と評すべき人だといふ。江戸趣味の神髓を体認する一人だといふ。昭和四年四月十四日、上野公園養寿院で笠森稲荷とお仙の会が催され、翌五月五日、王子の扇家で川柳初松魚の会が催され、私へも案内があつたので両会とも出席した。扇家の時の案内状の一節に曰く、
  目下江戸の研究者は次第々々に殖えた、五月鯉の草書をウルサイと読む人も減つて来たが、只単に智識上の江戸研究で有つて、一向に江戸の心即ち川柳の心が理解されてゐない、古文書や地図計を引出して見ても、出版書肆の上には必要で有らうとも、ソコに何等江戸の心、江戸の感じは浮び出ない、反つて其の研究が盛んになると同時に一種の囚はれを生じて、似た山半可の徒の横行するやうになるのは吾人の尤悲む点であらねばならない。
と、いつてゐる。この一節の唱道は、久良岐兄平生の持説なのである。

(九)天恵も破壊の斧鉞
 風流趣味を理解する人達は次第に死亡する。名所も旧跡も年一年と破壊されて行く。伝統文化と伝承感情との推移変遷が暗示するところを思念したい。さりながら時潮の変化と世相の変化は大勢とかいつて、眼には見えぬある力が押出すので、誰の力もこの勢を防ぐことは出来ない。私等はいたづらに昔をのみなつかしみ、新文化新思想を毛嫌するほど褊狹ではないけれど日本には日本の宝として世界に誇るに足る信仰もあり感情もあるはずだ。過去の芸術と文化と生活とに民族的誇負があり自覚のあるはずだ。その心を失ひたくはない。これ等の尊い宝までも棄てねば世界と肩を並べて歩けぬといふことは信じられぬ。温故知新だ。新しい頭で古を顧ることを忘れてはならない。
 今、私等は日本の到るところで、天恵の自然さへ破壊されてゐるのを知る。再び原型に復し能はぬ天然物まで斧鉞が揮はれてゐるを見る毎に、涙の禁じ能はぬ心地がする。なんといふ恐しい現代であらう。物質文明の便利軽便といふことが、それほど価値のあることか。誤れる進歩主義の恐るべきは、頑迷な保守主義の恐るべきと同一に思へる。今は自然天然どころではなく、国民の心に魂に斧鉞が破壊を促してゐるやうにも思へる。

(一〇)宇治の茶味の変化
 趣味の凋落などと歎いてをられる時節ではない。今の世は万事が民衆相手の薄利多売主義だ。従て大量生産が信条だ。そこで機械製造が現代生活の基調となつて来たのだ。
 宇治の茶を京の水で味はうことが、京の矜であり京の趣味であつたといふ。それが今では昔話になつたといふ。茶のひき加減は、力まかせにひかず、ゆつくりとひくところに呼吸があつた。売れ残りの遊女に茶をひかせたのでお茶ひきの名さへ伝つた。昔は客への馳走として主人みづから茶をひいたほどだ。今日ではそんな悠長をゆるされぬ。焙炉も電熱が使用されるといふ。茶味の低下は当然である。低下は低価なり。安からう悪からう。機械製造、大量生産の結果に外ならぬ。豈、茶のみならんや。

(一一) 趣味の衣食住
 贅沢好みの東京の著道楽家は、一般向きの三越、白木などで買物はせぬといふ。日本橋では大彦、銀座では江島屋が彼等の要求を満す店であつた。斯く申す筆者も往年は江島屋の筵織を道行に仕立てもらつたこともあつた。今はそれ等の店の消息も知らず、著道楽などいつてはをれぬほど、時勢は趣味的に堕落した。単に茶と衣服のみではない。
 東京の割烹店の腕利の板前は、客の脱いだ履物を見て、その客人の趣味を知らうとさへするほどだつたといふ。とにもかくにもそれほどに料理の上に良心をもつてゐた。今日の新東京の新人は背広に靴である。洋食と支那料理とカクテルとコーヒーといつたやうな乱雑な刺激味覚のために舌神経を麻痺されてをり、苦心された珍味も佳肴も料理塩梅もこれを味ふの素地を有しない。香気と香味と風味と雅味と風韻と、一流野趣味を生命とする日本独特の原料と調理が、食へどもその味を知らぬといふのでは、日本に生れた甲斐もない。
 一口に食味とはいへ、日本食通の教養は感覚芸術の味解にある。食味哲学は必ずしも料亭に立脚するものではない。これを科学の支配にゆだねんとするは皮相なる檐板漢者流の僻見だ。機械生産の蹂躙にまかせざるを得ぬ現代では、食味哲学は破壊だ。現代人は食通宗の外道だ。
 日本の風土には伝統家屋の幸福が思はれる。洋材洋風建築の殺風景が新人には気がつかぬ。家庭の道具、日常の小道具、一として伝承趣味を備へざるはなき民族趣味を理解し能はぬことになつて来た。洒掃応対の情味と礼儀とが洋材洋風の家屋に維持し難いのは当然かも知れぬ。
 斯く思惟し来る時、我等が身に纒ひ口に食ひ起居する所、一切の生活様式と品質とが、俗悪野卑なる脱落を示さざるはない。生活の真趣が失はれて動物化されようどしてゐる。私は民衆主義から貴族主義への復元対策を唱へたい。

(一二)文学も機械製造
 今の文士の作品を見よ、彼等は眼前の小景と身辺の瑣事を描写するか、もしくは幕末の低級なる講談本の焼直を能事としてゐる。学問浅薄、見聞幼稚。彼等の述作は僅に青年子女の娯楽対象に添へば満足としてゐる。一方に無産階級の新興文学といふのが、例の赤の宣伝小説で、資本と労働との闘争文学で、新聞の三面記事同様で、警察記事の引伸しに過ぎない。どこに思想があり信仰があるのか。時人また高等たる芸術品を観賞するの感情も余裕も持たぬ。安価低調のいはゆる大衆文芸の流行するゆゑんである。
 新詩人は詩歌を机上の上で工夫し、活字に化し、又はレコードに化し又は舞台に使用され、作料を請取て宣伝されたら、それで満足とするのである。美術家は美術の理想を知らず。手先の技巧で、浅薄な色彩技術に甘んじ、芸術の精神を認識しない。
 今の時代は芸術を創作する時代ではないのか。寧ろ破壊する時代ではないのか。芸術を尊重する人が少くなり観賞する心が失はれつつあるのではないのか。文学芸術は貴族主義である。断じて大衆主義を排斥せねばたらない。蓋し贅沢を要求の心理こそ、芸術趣味の母胎であらねばならぬ。古今東西にわたり、伝承の芸術品は、貴族階級が贅沢の要求から産れた。過去の高価な芸術が今日に伝へられたのも、少数貴族階級の恩恵といはねばならぬ。
 真成の芸術は、芸術良心の所産である。民衆の間の天才人が、その良心的苦心と努力とで芸術を渾成した。だがそれは貴族なり特権階級なりの要求する所に限られた。今日の如き芸術を商品化する時代には、機械生産を要求するの外はない。機械から芸術は産れない。

(一三)小唄の真風も没没却
 私等が嗜んとする一流小唄も、世上の流行が盛んとなるにつれて、その真風賞味が没却されて仕舞つた。流行は心を消失する。芸術を商品とする。一人で楽むべきを多数が楽む真似をする。そこに真風が失はれる。茶道が復活して流行繁昌の結果、茶道の真趣が失はれた。茶道の心を知らずして、その形式を学ぶことに囚はれた結果に外ならぬ。
 小唄は江戸平民の間に嗜まれた。そのころの江戸平民の通人は、今日の政治家や資本家や文学者や大学教授や新聞記者等よりも、ヨリ以上に風流を解し趣味を解し洒落を解した。それは時勢の感化であつた。伝承民俗趣味を理解した。また風流を嗜む感情の余裕もあつた。今日の焦燥から顧て時勢の変化を思はせる。小唄は江戸通人の間に嗜まれた貴族趣味であつた。今の世に流行させるべき唄ではない。
 風流趣味について所思の一端を述べようと筆を執つた。ツイ執筆中に主題を外れ、題に添はぬ雑文となった。他日この題で改めて書きたいと思ふ。
(湯朝竹山人『杯洗の雫』昭和9年3月8日)




2016年1月13日公開

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