尾崎紅葉自伝

                        

菊池眞一


大屋専五郎編『現今名家記者列伝』(春陽堂。明治22年7月1日)に、尾崎紅葉が自らの経歴を綴った書簡が掲載されている。どういうわけか、岩波書店『紅葉全集』には掲載されていないようだ。
紅葉の自伝は次のとおり。

   ○尾崎徳太郎君        文庫(硯友社)
(大屋居士本書ノ編纂ヲ思ヒ立チシ当時ハ非常ニ取込ノ用事アリシヲ以テ紅葉山人尾崎君ヘ宛テ詳細ナル経歴事実書並写真ヲ贈与セラレ度旨ノ書束を出セシニ数日ヲ経テ伝記入ノ面白キ回答ヲ得タリ依テ茲ニ其全文ヲ掲載スルコトトナシヌ)
此度《新聞雑誌記者列伝》御編纂のよしにて。私如きをも諸名家の一列に加へさせられんとの事。冥加のほど恐ろしく候。 幼少よりの伝記を詳細にとの御言葉には候へども。私如き若輩づれの生立に。何の記すべきほどの事可有之や。大石良雄、宮本武蔵の実伝一代記などはこれあり候へども。下部可内(べくない)家主佐次兵衛の履歴をかいたものいまだ見当り不申候。これとてもかいてかけぬ事はあるまじう候らへど。かくべき価直なければこそに御座候。私可内ほども人の用にたちしこと無之。まして佐次兵衛が人の世話。及びもなき事に候。是ばかりは堅く御断申上候。もつとも母の胎内を出で候ひしより二十余歳の今日まで。虫気もなくすこやかに成人致し候は。大分の年月かゝり居申候へば。其問に何事のなきには候はず。書立申候処が。まことにつまらないのみに御座候。 それにても苦しからずと仰せられ候はゞ。まづかやうなものに御座候。但し手前味噌少々加味仕候その段は御承知被下度候。  私芝の出生に御座候。此土地は魚売の本場に有之候へば。自然人気荒く候へども。私は蒲容柳質ずんと華奢なうまれと。近所のもの至極誉め申候よし。親どもの物語にて聞及び候。しかしこれは甘酒進上の頃の事なれば。自分今に毛頭覚へ無之候。 七歳の秋寺児屋入りを致候。此頃より追々芝ツ子気象あらはれ。喧嘩口論好に相成。いまなほ眉間に残る切疵は。此折り石を投げられしものに御座候。五六歳の頃より玩具、絵本、絵草紙を殊の外好み申候。自讃で申せば蛇は一寸にして其気を顕はすといふ処にや覚束なく候。 右寺児屋明治六年頃私立高等小学校に相成。こゝに十五歳まで罷在り専ら漢籍を稽古いたし候。此年の秋始めて英学を志ざし……是も自分量見にて修業いたさうなどゝ。左様な高慢ちやくれたる考はすこしも無之親がしきりにやれやれと申候ゆゑ。無拠ウエブスターの綴字編を。さる官員の私宅にて教へ貰ひ候。私性来豆腐と数字大嫌ひにて間平開立を稽古いたし居候頃。四則雑題も覚束なく数学にかけては朋輩に頭が上らず。隣家の漢方医の書生にて心安きものは。私を解毒剤と諢名いたし候。これは山帰来―算嫌ひ―といふ洒落のよしに御座候。十五歳より英学塾、漢学塾、官立学校。合せて六七度も学校を替へ申候へども学問は思ふ半分も上達致さず。其内にふと為永の人情本に迷ひ。世の中にこんなおもしろいものはなきやうに覚へ。その味片時も忘れ難く毎夕散歩と見せかけ。隣町の貸本屋へ通ひ一部五六冊を内懐へ押込み二階(これが書斎なりし)へ持帰り昼は史記としるせる本箱の奥に忍ばせ。夜は十時まで課業の書籍をいやいやながら閲読し。それより寝床へもぐり例の陰し妻をとり出だして二時位まで人知れず楽み申候。かゝる小説は娼婦冶郎の見るものとして。親どもの厳禁に候へば。随分これには苦労をいたし候。久しからずしてこれも見倦き。三馬の滑稽物に気を移し諸事本丁庵の事だらうなどゝ。此人を伯父さんのやうに吹聴し。かたはら京伝の洒落本に魂を打込み西洋小説を字書の後見つきで。一時間に六七行を油汗まじりに読ずとも。わが日の本にこんな物がこんな物がと斜めならず執心致し候。しかし馬琴、種彦はあまり好まぬ方にて。八犬伝はとび読。田舎源氏は絵解にて満足致し何か外に珍本はと求候ひしがその頃は当時ほど小説流行致し候はねば。斯道の好者にあふ事なくたゞ貸本屋での珍らしい本を相手にいたし。ひとり「をつをつ」とよがり候のみ。 明治十七年の夏。朋輩両名と我楽多文庫をはじめ陳渉の席旗これと。大分夢中に相成。此頃から全く小説にとりつかれ。ゆくゆくはこの道にて第一流の名家たらんと。けしからぬ大望をさしはさみ候ひしに。惜ひかな皇天此英才子を妬み。十八年の十月花の盛りの十九歳を一期として。眠れるごとく往生を遂げかねまじき脳病にかゝり。医薬其力なきばかりなれは。自分もこれまでと思ひ人知れず辞世の狂歌を鼻紙にしるして蒲団の下へ蔵し置きたる手際などは。まことに凡夫の及ばざる処と衆みな感ぜずといへども。自分常に心服いたし居候。此年十二月半に至り全癒いたし候へども。其後は脳力以ての外薄らぎ気根つゞかざれば名案名文も無之。実に二十世紀の大家を一人見殺しにせしやうなものと。いつも思ひ出し候ては両袖をひたし申候
前記の通り幼少の折は。一方ならぬあばれものにて候ひしが。此頃はわるく老成に相成。常に書斎に垂籠て。俗物のいはゆる物見遊山を好まず性偏にして曠かましき席。または知らぬ人多き処へまかり出ることを喜ばず。寝転んで煙草をふかしながら。小説を見ると駄洒落をいふ事第一の好物に御座候。 扨又写真御所望には候へども生憎手元に一枚も無之。これから写すと申しても日数かゝり候へば。友人松岡緑芽君に依頼いたし御覧の通りに写して貰ひ候。男を損ぜぬやう彫刻最も念入に願上候以上
  五月節句              尾崎徳太郎
       大屋専五郎様



『愛書趣味』第十一号(昭和2年7月15日)3・4頁では、
『現今名家記者列伝』より
として、この自伝を引用している。編集者・斎藤昌三は末尾に次のように注記している。

この書は明治二十二年七月に春陽堂から出版したもので、編者は大屋専五郎となつて居り、大半その手によつて綴られたものであるが、珍しくも紅葉丈は自ら執筆したものらしい。四六判僅に百十二頁計りのもので、末広を筆頭に、紅葉、犬養、杉江、高田(早苗)、山県(悌)、美妙、加藤政之助、三宅米吉、篁村、日下部三之助、吉田?六、戸城伝七郎、滝本誠一、伴直之助、青木匡、辰巳小二郎、関直彦、南翠等を評してゐる。文に見える挿絵などは一枚もない。



2016年1月21日公開
2016年1月25日追補

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