平家物語 高野本 巻第九

平家 九(表紙)
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平家九之巻 目録
生ずきするすみ   宇治川
河原合戦      木曾最期
樋口討罰(チウハツ)六箇度軍
三草勢揃付三草合戦 老馬
一二のかけ     二度のかけ
坂落        盛俊最期
忠度最期      重衡生捕
敦盛最期      知章(アキラ)最期イはまいくさ
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一の谷落足     小宰相

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平家物語(へいけものがたり)巻(くわん)第九(だいく)
『生(いけ)ずきの沙汰(さた)』S0901
○寿永(じゆえい)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)一日(ひとひのひ)、院(ゐん)の御所(ごしよ)は大膳[B ノ](だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)が
宿所(しゆくしよ)、六条(ろくでう)西[B ノ](にしの)洞院(とうゐん)なれば、御所(ごしよ)のていしかる【然る】べからず
とて、礼儀(れいぎ)おこなはるべきにあらねば、拝礼(はいらい)も
なし。院(ゐん)の拝礼(はいらい)なかりければ、内裏(だいり)の小朝拝(こでうはい)も
おこなはれず。平家(へいけ)は讃岐国(さぬきのくに)八島(やしま)の磯(いそ)にをくり(おくり)【送り】
むかへ【向へ】て、年のはじめなれども、元日(ぐわんにち)元三(ぐわんざん)の儀式(ぎしき)
事(こと)よろしからず。主上(しゆしやう)わたらせ給(たま)へども、節会(せちゑ)
もおこなはれず、四方拝(しはうばい)もなし。■魚(はらか)も奏(そう)せず。
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吉野(よしの)のくず【国栖】もまいら(まゐら)【参ら】ず。「世(よ)みだれたりしかども、
みやこ【都】にてはさすがかくはなかりしもの【物】を」とぞ、
おのおののたまひ【宣ひ】あはれける。青陽(せいやう)の春(はる)も来(きた)
り、浦(うら)吹(ふく)風(かぜ)もやはらかに、日(ひ)かげ【日影】ものどか【長閑】になり
ゆけど、ただ平家(へいけ)の人々(ひとびと)は、いつも氷(こほり)にとぢこめ
られたる心(ここ)ち【心地】して、寒苦鳥(かんくてう)にことならず。東
岸(とうがん)西岸(せいがん)の柳(やなぎ)遅速(ちそく)をまじへ、南枝(なんし)北枝(ほくし)の梅(むめ)
開落(かいらく)已(すで)に異(こと)にして、花(はな)の朝(あした)月(つき)の夜(よ)、詩歌(しいか)・管絃(くわんげん)・
鞠(まり)・小弓(こゆみ)・扇合(あふぎあはせ)・絵合(ゑあはせ)・草(くさ)づくし【草尽し】・虫(むし)づくし【虫尽し】、さまざま
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興(きよう)ありし事(こと)ども、おもひ【思ひ】いでかたりつづけて、
永(ながき)日(ひ)をくらしかね給(たま)ふぞあはれ【哀】なる。同(おなじき)正月(しやうぐわつ)十一
日(じふいちにち)、木曾[B ノ](きその)左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)院参(ゐんざん)して、平家(へいけ)追討(ついたう)の
ために西国(さいこく)へ発向(はつかう)すべきよし奏聞(そうもん)す。同(おなじき)十三日(じふさんにち)、
既(すで)に門出(かどいで)ときこえ【聞え】し程(ほど)に、東国(とうごく)より前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)
頼朝(よりとも)、木曾(きそ)が狼籍【*狼藉】(らうぜき)しづめんとて、数万騎(すまんぎ)の軍兵(ぐんびやう)
をさしのぼせ【上せ】られけるが、すでに美乃【美濃】国(みののくに)・伊勢国(いせのくに)に
つくときこえ【聞え】しかば、木曾(きそ)大(おほき)におどろき、宇治(うじ)・勢
田(せた)の橋(はし)をひいて、軍兵(ぐんびやう)ども【共】をわかちつかはす【遣す】。
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折(をり)ふし【折節】せい【勢】もなかりけり。勢田(せた)の橋(はし)は大手(おほて)なれ
ばとて、今井[B ノ](いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)八百(はつぴやく)余騎(よき)でさしつかはす【遣す】。
宇治橋(うぢはし)へは、仁科(にしな)・たかなし【高梨】・山田(やまだ)の次郎(じらう)・五百(ごひやく)余騎(よき)
でつかはす【遣す】。いもあらひ【一口】へは伯父(をぢ)の志太(しだ)の三郎(さぶらう)
先生(せんじやう)義教(よしのり)三百(さんびやく)余騎(よき)でむかひ【向ひ】けり。東国(とうごく)よりせめ【攻め】
のぼる大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)は、蒲(かば)の御曹司(おんざうし)範頼(のりより)、からめ
手(て)【搦手】の大将軍(たいしやうぐん)は九郎(くらう)御曹司(おんざうし)義経(よしつね)、むねとの大名(だいみやう)
三十(さんじふ)余人(よにん)、都合(つがふ)其(その)勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)とぞ聞(きこ)えし。
其(その)比(ころ)鎌倉(かまくら)殿(どの)にいけずき【生食】・する墨(すみ)【摺墨】といふ名馬(めいば)
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あり【有り】。いけずき【生食】をば梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)しきりに望(のぞ)み
申(まうし)けれども、鎌倉(かまくら)殿(どの)「自然(しぜん)の事(こと)のあらん時(とき)、物(もの)の
具(ぐ)して頼朝(よりとも)がのるべき馬(むま)也(なり)。する墨(すみ)【摺墨】もおとらぬ
名馬(めいば)ぞ」とて梶原(かぢはら)にはするすみ【摺墨】をこそたうだり
けれ。佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)がいとま申(まうし)にまい(ッ)(まゐつ)【参つ】たりけるに、
鎌倉(かまくら)殿(どの)いかがおぼしめさ【思し召さ】れけん、「所望(しよまう)の物(もの)はいくらも
あれども、存知(ぞんぢ)せよ」とて、いけずき【生食】を佐々木(ささき)にたぶ。
佐々木(ささき)畏(かしこまり)て申(まうし)けるは、「高綱(たかつな)、この御馬(おんむま)で宇治河(うぢがは)
のま(ッ)さきわたし候(さうらふ)べし。宇治河(うぢがは)で死(しに)て候(さうらふ)ときこし
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めし【聞し召し】候(さうら)はば、人(ひと)にさきをせられて(ン)げりとおぼし
めし【思し召し】候(さうら)へ。いまだいきて候(さうらふ)ときこしめさ【聞し召さ】れ候(さうら)はば、さだ
めて【定めて】先陣(せんぢん)はしつらん物(もの)をとおぼしめされ候(さうら)へ」と
て、御(おん)前(まへ)をまかり【罷り】たつ。参会(さんくわい)したる大名(だいみやう)小名(せうみやう)みな
「荒涼(くわうりやう)の申(まうし)やう【申様】かな」とささやきあへり。おのおの鎌倉(かまくら)
をた(ッ)て、足柄(あしがら)をへてゆく【行く】もあり、箱根(はこね)にかかる
人(ひと)もあり、おもひおもひ【思ひ思ひ】にのぼるほど【程】に、駿河国(するがのくに)浮島(うきしま)
が原(はら)にて、梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)たかき【高き】ところ【所】にうちあが
り、しばしひかへておほく【多く】の馬(むま)ども【共】を見(み)ければ、思(おも)ひ
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おもひ【思ひ思ひ】の鞍(くら)をい(おい)【置い】て、色々(いろいろ)の鞦(しりがい)かけ、或(あるい)はのり口(くち)【乗り口】に
ひかせ、或(あるい)はもろ口(くち)【諸口】にひかせ、いく【幾】千万(せんばん)といふ数(かず)を
しら【知ら】ず。引(ひき)とをし(とほし)【通し】引(ひき)とをし(とほし)【通し】しける中(なか)にも、景季(かげすゑ)が給(たま)は(ッ)
たるする墨(すみ)【摺墨】にまさる馬(むま)こそなかりけれと、うれしう
思(おも)ひてみる【見る】処(ところ)に、いけずき【生食】とおぼしき馬(むま)こそ
出(いで)来(き)たれ。黄覆輪(きぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)て、小総(こぶさ)の鞦(しりがい)かけ、しら
あは(しらあわ)【白泡】かませ、とねり【舎人】あまたつい【付い】たりけれども、なを(なほ)【猶】
ひきもためず、おどら(をどら)【躍ら】せていで【出で】きたり。梶原(かぢはら)源太(げんだ)
うちよ(ッ)て、「それはたが御馬(おんむま)ぞ」。「佐々木殿(ささきどの)の御馬(おんむま)候(ざうらふ)」。
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其(その)時(とき)梶原(かぢはら)「やすからぬ物(もの)也(なり)。おなじやうにめしつか
はるるかげすゑ【景季】 をささ木【佐々木】におぼしめしかへられける
こそ遺恨なれ。みやこ【都】へのぼ(ッ)【上つ】て、木曾殿(きそどの)の御内(みうち)に
四天王(してんわう)ときこゆる[* 「きここゆる」とあり「こ」1字衍字]【聞ゆる】今井(いまゐ)・樋口(ひぐち)・楯(たて)・祢[B ノ]井(ねのゐ)にくんで
死(し)ぬるか、しからずは西国(さいこく)へむかう【向う】て、一人当千(いちにんたうぜん)と
きこゆる【聞ゆる】平家(へいけ)の侍(さぶらひ)どもといくさ【軍】して死(し)なん
とこそおもひ【思ひ】つれども【共】、此(この)御(ご)きそく【気色】ではそれも
せんなし。ここで佐々木(ささき)にひ(ッ)【引つ】くみさしちがへ、よい侍(さぶらひ)
二人(ににん)死(しん)で、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に損(そん)とらせたてまつら【奉ら】む」と
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つぶやいてこそ待(まち)かけたれ。佐々木(ささき)四郎(しらう)はなに心(ごころ)【何心】も
なくあゆませていで【出で】きたり。梶原(かぢはら)、おしならべてや
くむ【組む】、むかふさま(むかうさま)【向う様】にやあて【当て】おとす【落す】とおもひ【思ひ】けるが、
まづ詞(ことば)をかけけり。「いかに佐々木殿(ささきどの)、いけずき【生食】たま
はら【賜ら】せ給(たまひ)てさうな」と言(い)ひければ、佐々木(ささき)、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、此(この)
仁(じん)も内々(ないない)所望(しよまう)すると聞(きき)し物(もの)を」と、き(ッ)とおもひ【思ひ】
いだし【出し】て、「さ候(さうら)へばこそ。此(この)御大事(おんだいじ)にのぼりさうが、
定(さだめ)て宇治(うぢ)・勢田(せた)の橋(はし)をばひいて候(さうらふ)らん、の(ッ)【乗つ】て
河(かは)わたすべき馬(むま)はなし、いけずき【生食】を申(まう)さばやとは
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おもへ【思へ】ども、梶原殿(かぢはらどの)の申(まう)されけるにも、御(おん)ゆるされ【許され】ない
とうけたまはる【承る】間(あひだ)、まして高綱(たかつな)が申(まうす)ともよもたま
はら【賜ら】じとおもひ【思ひ】つつ、後日(ごにち)にはいかなる御勘当(ごかんだう)も
あらばあれと存(ぞんじ)て、暁(あかつき)たたんとての夜(よ)、とねり【舎人】
に心(こころ)をあはせ【合はせ】て、さしも御秘蔵(ごひさう)候(さうらふ)いけずき【生食】を
ぬすみすまひ(すまい)てのぼりさうはいかに」といひければ、
梶原(かぢはら)この詞(ことば)に腹(はら)がゐて、「ね(ッ)たい、さらば景季(かげすゑ)も
ぬすむべかりける物(もの)を」とて、ど(ッ)とわら(ッ)【笑つ】てのき【退き】にけり。
『宇治川(うぢがはの)先陣(せんぢん)』S0902
○佐々木(ささき)四郎(しらう)が給(たま)は(ッ)たる御馬(おんむま)は、黒栗毛(くろくりげ)なる馬(むま)の、きは
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めてふとう【太う】たくましゐ(たくましい)【逞しい】が、馬(むま)をも人(ひと)をもあたり
をはら(ッ)【払つ】てくひければ、いけずき【生食】とつけられたり。
八寸(はつすん)の馬(むま)とぞきこえ【聞え】し。梶原(かぢはら)が給(たま)は(ッ)たるする墨(すみ)【摺墨】
も、きはめてふとう【太う】たくましき【逞しき】が、まこと【誠】に黒(くろ)かり
ければ、する墨(すみ)【摺墨】とつけられたり。いづれもおとらぬ
名馬(めいば)也(なり)。尾張国(をはりのくに)より大手(おほて)・搦手(からめて)ふた手(て)【二手】にわか(ッ)てせめ【攻め】
のぼる。大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)、蒲[B ノ](かばの)御曹司(おんざうし)範頼(のりより)、あひ【相】とも
なふ人々(ひとびと)、武田[B ノ](たけたの)太郎(たらう)・鏡美[B ノ](かがみの)次郎(じらう)・一条[B ノ](いちでうの)次郎(じらう)・板垣[B ノ](いたがきの)
三郎(さぶらう)・稲毛[B ノ](いなげの)三郎(さぶらう)・楾谷[B ノ](はんがいの)四郎(しらう)・熊谷[B ノ](くまがへの)次郎(じらう)・猪俣[B ノ](いのまたの)小
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平六(こべいろく)を先(さき)として、都合(つがふ)其(その)勢(せい)三万五千(さんまんごせん)余騎(よき)、
近江国(あふみのくに)野路(のぢ)・篠原(しのはら)にぞつきにける。搦手[B ノ](からめての)大将軍(たいしやうぐん)
は九郎(くらう)御曹司(おんざうし)義経(よしつね)、おなじくともなふ人々(ひとびと)、安田[B ノ](やすだの)
三郎(さぶらう)・大内[B ノ](おほうちの)太郎(たらう)・畠山[B ノ](はたけやまの)庄司(しやうじ)次郎(じらう)・梶原(かぢはら)源太(げんだ)・佐々木(ささき)
四郎(しらう)・糟屋[B ノ](かすやの)藤太(とうだ)・渋谷(しぶやの)右馬允(うまのじよう)・平山[B ノ](ひらやまの)武者所(むしやどころ)をはじめ
として、都合(つがふ)其(その)勢(せい)二万五千(にまんごせん)余騎(よき)、伊賀国(いがのくに)をへ
て宇治橋(うぢはし)のつめにぞをし(おし)【押し】よせ【寄せ】たる。宇治(うぢ)も勢田(せた)
も橋(はし)をひき【引き】、水(みづ)のそこには乱(らん)ぐゐ(らんぐひ)【乱杭】う(ッ)【打つ】て、大綱(おほづな)
はり、さかも木(ぎ)【逆茂木】つないでながしかけたり。比(ころ)はむ月(つき)【睦月】
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廿日(はつか)あまり【余り】の事(こと)なれば、比良(ひら)のたかね、志賀(しが)の
山(やま)、むかしながらの雪(ゆき)もきえ、谷々(たにだに)の氷(こほり)うちとけて、
水(みづ)はおりふし(をりふし)【折節】まさりたり。白浪(はくらう)おびたたしう【夥しう】みなぎり
おち【落ち】、灘(せ)まくら【瀬枕】おほき【大き】に滝(たき)な(ッ)【鳴つ】て、さかまく水(みづ)も
はやかりけり。夜(よ)はすでにほのぼのとあけゆ
けど、河霧(かはぎり)ふかく立(たち)こめて、馬(むま)の毛(け)も鎧(よろひ)の毛(け)
もさだかならず。ここに大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)御曹司(おんざうし)、河(かは)の
はたにすすみいで【出で】、水(みづ)のおもてをみわたして、
人々(ひとびと)のこころ【心】をみんとやおもは【思は】れけん、「いかが
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せむ、淀(よど)・いもあらひ【一口】へやまはるべき、水(みづ)のおち足(あし)【落ち足】
をやまつべき」とのたまへ【宣へ】ば、畠山(はたけやま)、其(その)比(ころ)はいまだ生
年(しやうねん)廿一(にじふいち)になりけるが、すすみ出(いで)て申(まうし)けるは、「鎌倉(かまくら)にて
よくよく此(この)河(かは)の御沙汰(ごさた)は、候(さうらひ)しぞかし。しろしめさ【知ろし召さ】ぬ
海河(うみかは)の、俄(にはか)にできても候(さうら)はばこそ。此(この)河(かは)は近
江(あふみ)の水海(みづうみ)の末(すゑ)なれば、まつともまつとも水(みづ)ひまじ。橋(はし)
をば又(また)誰(たれ)かわたひ(わたい)【渡い】てまいらす(まゐらす)【参らす】べき。治承(ぢしよう)の合戦(かつせん)
に、足利(あしかがの)又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)は、鬼神(おにかみ)でわたしけるか、重忠(しげただ)
瀬(せ)ぶみ仕(つかまつ)らん」とて、丹(たん)の党(たう)をむねとして、五百(ごひやく)余
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騎(よき)ひしひしとくつばみをならぶるところ【所】に、
平等院(びやうどうゐん)の丑寅(うしとら)、橘(たちばな)の小島(こじま)がさき【崎】より武者(むしや)二
騎(にき)ひ(ッ)かけ【引つ駆け】ひ(ッ)かけ【引つ駆け】いできたり。一騎(いつき)は梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)、
一騎(いつき)は佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)也(なり)。人目(ひとめ)には何(なに)とも
みえ【見え】ざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心(こころ)をかけたりければ、
梶原(かぢはら)は佐々木(ささき)に一段(いつたん)ばかりぞすすんだる。佐々木(ささき)
四郎(しらう)「此(この)河(かは)は西国(さいこく)一(いち)の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)ののびて
みえ【見え】さうは、しめたまへ【給へ】」といはれて、梶原(かぢはら)さもあるらん
とやおもひ【思ひ】けん、左右(さう)のあぶみをふみすかし、
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手綱(たづな)を馬(むま)のゆがみ【結髪】にすて【捨て】、腹帯(はるび)をといてぞ
しめたりける。そのまに佐々木(ささき)はつ(ッ)とはせ【馳せ】ぬい【抜い】て、
河(かは)へざ(ッ)とぞうちいれ【入れ】たる。梶原(かぢはら)たばかられぬとや
おもひ【思ひ】けん、やがてつづい【続い】てうちいれ【入れ】たり。「いかに
佐々木殿(ささきどの)、高名(かうみやう)せうどて不覚(ふかく)し給(たま)ふな。水(みづ)の
底(そこ)には大(おほ)づな【大綱】あるらん」といひければ、佐々木(ささき)太刀(たち)を
ぬき、馬(むま)の足(あし)にかかりける大綱(おほづな)どもをばふつふつ
とうちきりうちきり、いけずき【生食】といふ世一(よいち)の馬(むま)には
の(ッ)【乗つ】たりけり、宇治河(うぢがは)はやしといへども、一文字(いちもんじ)に
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ざ(ッ)とわたひ(わたい)【渡い】てむかへ【向へ】の岸(きし)にうちあがる【上がる】。梶原(かぢはら)が
の(ッ)【乗つ】たりけるするすみ【摺墨】は、河(かは)なか【河中】よりのため【篦撓】がたに
おしなされて、はるかのしもよりうちあげたり。
佐々木(ささき)あぶみふ(ン)ばりたちあがり【上がり】、大音声(だいおんじやう)を
あげて名(な)のりけるは、「宇多[B ノ]天皇(うだのてんわう)より九代(くだい)の
後胤(こういん)、佐々木(ささき)三郎(さぶらう)秀義(ひでよし)が四男(しなん)、佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)、
宇治河(うぢがは)の先陣(せんぢん)ぞや。われとおもは【思は】ん人々(ひとびと)は高綱(たかつな)
にくめや」とて、おめい(をめい)【喚い】てかく。畠山(はたけやま)五百(ごひやく)余騎(よき)で
やがてわたす。むかへ【向へ】の岸(きし)より山田(やまだの)次郎(じらう)がはなつ【放つ】
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矢(や)に、畠山(はたけやま)馬(むま)の額(ひたひ)をのぶか【篦深】にい【射】させて、よはれ(よわれ)【弱れ】ば、
河(かは)なか【河中】より弓杖(ゆんづゑ)をつい【突い】ておりた(ッ)たり。岩浪(いはなみ)甲(かぶと)
の手(て)さきへざ(ッ)とおしあげけれども、事(こと)共(とも)せず、
水(みづ)の底(そこ)をくぐ(ッ)て、むかへ【向へ】の岸(きし)へぞつきにける。
あがら【上がら】んとすれば、うしろに物(もの)こそむずとひかへたれ。
「た【誰】そ」ととへば、「重親(しげちか)」とこたふ。「いかに大串(おほくし)か」。「さ(ン)候(ざうらふ)」。
大串(おほくし)次郎(じらう)は畠山(はたけやま)には烏帽子子(えぼしご)にてぞあり【有り】ける。
「あまりに水(みづ)がはやうて、馬(うま)はおしながされ候(さうら)ひぬ。
力(ちから)およば【及ば】で、つきまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て候(さうらふ)」といひければ、
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「いつもわ【我】殿原(とのばら)は、重忠(しげただ)がやう【様】なるものにこそ
たすけ【助け】られむずれ」といふままに、大串(おほくし)をひ(ッ)【引つ】さげ
て、岸(きし)のうへ【上】へぞなげ【投げ】あげたる。なげ【投げ】あげられ、
ただなを(ッ)(ただなほつ)【唯直つ】て、「武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん)、大串[B ノ](おほくしの)次郎(じらう)重親(しげちか)、
宇治河(うぢがは)〔かちたち〕の先陣(せんぢん)ぞや」とぞなの(ッ)【名乗つ】たる。敵(かたき)も御方(みかた)も
是(これ)をきい【聞い】て、一度(いちど)にど(ッ)とぞわらひ【笑ひ】ける。其(その)後(のち)
畠山(はたけやま)のりがへにの(ッ)【乗つ】てうちあがる【上がる】。魚綾(ぎよりよう)の直垂(ひたたれ)に
火(ひ)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)に黄覆
輪(きぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)ての(ッ)【乗つ】たる敵(かたき)の、ま(ッ)さきにすすんだるを、
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「ここにかくる【駆くる】はいかなる人(ひと)ぞ。なのれ【名乗れ】や」といひければ、
「木曾殿(きそどの)の家(いへ)の子(こ)に、長瀬(ながせの)判官代(はんぐわんだい)重綱(しげつな)」となのる【名乗る】。
畠山(はたけやま)「けふのいくさ神(がみ)【軍神】いははん」とて、をし(おし)【押し】ならべて
むずとと(ッ)て引(ひき)おとし【落し】、頸(くび)ねぢき(ッ)て、本田[B ノ](ほんだの)次郎(じらう)が
鞍(くら)のと(ッ)つけにこそつけさせけれ。これをはじめて、
木曾殿(きそどの)の方(かた)より宇治橋(うぢはし)かためたるせい【勢】ども、しばし
ささへてふせき【防き】けれども【共】、東国(とうごく)の大勢(おほぜい)みなわた
い【渡い】てせめ【攻め】ければ、散々(さんざん)にかけなされ、木幡山(こはたやま)・伏見(ふしみ)
をさい【指い】てぞおち【落ち】行(ゆき)ける。勢田(せた)をば稲毛[B ノ](いなげの)三郎(さぶらう)重成(しげなり)が
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はからひにて、田上(たながみの)供御(ぐご)の瀬(せ)をこそわたしけれ。
『河原合戦(かはらがつせん)』S0903
○いくさ【軍】やぶれにければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)へ飛脚(ひきやく)をも(ッ)て、
合戦(かつせん)の次第(しだい)をしるし申(まう)されけるに、鎌倉(かまくら)殿(どの)まづ
御使(おんつかひ)に、「佐々木(ささき)はいかに」と御尋(おんたづね)あり【有り】ければ、「宇治
河(うぢがは)のま(ッ)さき候(ざうらふ)」と申(まう)す。日記(につき)をひらいて御覧(ごらん)ずれ
ば、「宇治河(うぢがは)の先陣(せんぢん)、佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)、二陣(にぢん)梶原(かぢはら)
源太(げんだ)景季(かげすゑ)」とこそかか【書か】れたれ。宇治(うぢ)・勢田(せた)やぶれぬ
ときこえ【聞え】しかば、木曾(きその)左馬頭(さまのかみ)、最後(さいご)のいとま申(まう)
さんとて、院(ゐん)の御所(ごしよ)六条殿(ろくでうどの)へはせ【馳せ】まいる(まゐる)【参る】。御所(ごしよ)には
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法皇(ほふわう)をはじめまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、「世(よ)は只今(ただいま)うせ
なんず。いかがせん」とて、手(て)をにぎり、たてぬ願(ぐわん)も
ましまさず。木曾(きそ)門前(もんぜん)までまいり(まゐり)【参り】たれども、東
国(とうごく)の勢(せい)すでに河原(かはら)までせめ【攻め】入(いり)たるよし聞(きこ)え
しかば、さいて奏(そう)する旨(むね)もなくてと(ッ)てかへす【返す】。
六条高倉(ろくでうたかくら)なるところ【所】に、はじめて見(み)そめたる
女房(にようばう)のおはしければ、それへうちいり最後(さいご)のなご
り【名残】おしま(をしま)【惜しま】んとて、とみにいで【出で】もやらざりけり。
いままいり(いままゐり)【今参り】したりける越後[B ノ](ゑちごの)中太(ちゆうだ)家光(いへみつ)といふものあり【有り】。
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「いかにかうはうちとけてわたらせ給(たま)ひ候(さうらふ)ぞ。御敵(おんかたき)
すでに河原(かはら)までせめ【攻め】入(いり)て候(さうらふ)に、犬死(いぬじ)にせさ
せ給(たま)ひなんず」と申(まうし)けれども、なを(なほ)【猶】いで【出で】もやらざり
ければ、「さ候(さうらは)ばまづさきだち【先立ち】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、四手(しで)
の山(やま)でこそ待(まち)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)はめ」とて、腹(はら)かき切(き)(ッ)て
ぞ死(しに)にける。木曾殿(きそどの)「われをすすむる自害(じがい)にこそ」
とて、やがてう(ッ)【打つ】たち【立ち】けり。上野国(かうづけのくに)の住人(ぢゆうにん)那波(なは)の
太郎(たらう)広純(ひろずみ)を先(さき)として、其(その)勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりには
すぎざりけり。六条河原(ろくでうかはら)にうちいで【出で】てみれ【見れ】ば、
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東国(とうごく)のせい【勢】とおぼしくて、まづ卅騎(さんじつき)ばかり
いで【出で】きたり。その中(なか)に武者(むしや)二騎(にき)すすんだり。一騎(いつき)は
塩屋[B ノ](しほのやの)五郎(ごらう)維広(これひろ)、一騎(いつき)は勅使河原(てつしがはら)の五O[BH 三]郎(ごさぶらう)有直(ありなほ)なり。
塩屋(しほのや)が申(まうし)けるは、「後陣(ごぢん)の勢(せい)をや待(まつ)べき」。勅使河原(てつしがはら)
が申(まうし)けるは、「一陣(いちぢん)やぶれぬれば残党(ざんたう)ま(ッ)たからず。ただ
かけよ」とておめい(をめい)【喚い】てかく。木曾(きそ)はけふをかぎりと
たたかへば、東国(とうごく)のせいはわれう(ッ)【討つ】とらんとぞすすみ
ける。大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)義経(よしつね)、軍兵(ぐんびやう)ども【共】にいくさ【軍】をばせさ
せ、院(ゐん)の御所(ごしよ)のおぼつかなきに、守護(しゆご)し奉(たてまつ)らん
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とて、まづ我(わが)身(み)ともにひた甲(かぶと)【直甲】五六騎(ごろくき)、六条殿(ろくでうどの)
へはせ【馳せ】まいる(まゐる)【参る】。御所(ごしよ)には大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)、御所(ごしよ)の東(ひがし)の
つい垣(かき)【築垣】のうへ【上】にのぼ(ッ)【上つ】て、わななくわななく見(み)まはせば、しら
旗(はた)ざ(ッ)とさし【差し】あげ【上げ】、武士(ぶし)ども五六騎(ごろくき)のけかぶとに
たたかひ【戦ひ】な(ッ)て、いむけ【射向】の袖(そで)ふきなびかせ、くろ煙(けぶり)
けたて【蹴立て】てはせ【馳せ】まいる(まゐる)【参る】。成忠(なりただ)「又(また)木曾(きそ)がまいり(まゐり)【参り】候(さうらふ)。あな
あさまし」と申(まうし)ければ、今度(こんど)ぞ世(よ)のうせはてとて、
君(きみ)も臣(しん)もさはが(さわが)【騒が】せ給(たま)ふ。成忠(なりただ)かさね【重ね】て申(まうし)けるは、
「只今(ただいま)はせ【馳せ】まいる(まゐる)【参る】武士(ぶし)どもは、かさじるし【笠印】のかは(ッ)て候(さうらふ)。
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今日(けふ)都(みやこ)へ入(いる)東国(とうごく)のせい【勢】と覚(おぼえ)候(さうらふ)」と、申(まうし)もはてねば、
九郎(くらう)義経(よしつね)門前(もんぜん)へ馳(はせ)まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、馬(むま)よりおり、門(もん)をたた
かせ、大音声(だいおんじやう)をあげて、「東国(とうごく)より前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼
朝(よりとも)が舎弟(しやてい)、九郎(くらう)義経(よしつね)こそまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうら)へ。あけさせ
給(たま)へ」と申(まうし)ければ、成忠(なりただ)あまりのうれしさに、つい
垣(かき)【築垣】よりいそぎおどり(をどり)【躍り】おるるとて、腰(こし)をつき損(そん)じ
たりけれども、いたさはうれしさにまぎれておぼ
えず、はうはう(はふはふ)【這ふ這ふ】まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て此(この)由(よし)奏聞(そうもん)しければ、法皇(ほふわう)
大(おほき)に御感(ぎよかん)あ(ッ)て、やがて門(もん)をひらかせていれ【入れ】られけり。
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九郎(くらう)義経(よしつね)其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、
紫(むらさき)すそごの鎧(よろひ)きて、くわがた【鍬形】う(ッ)たる甲(かぶと)の緒(を)しめ、
こがねづくり【黄金作】の太刀(たち)をはき、きりう(きりふ)【切斑】の矢(や)おひ【負ひ】、しげ
どう【滋籐】の弓(ゆみ)のとりうち【鳥打】を、紙(かみ)をひろさ一寸(いつすん)ばかりに
き(ッ)て、左(ひだり)まきにぞまいたりける。今日(けふ)の大将軍(たいしやうぐん)の
しるしとぞみえ【見え】し。法皇(ほふわう)は中門(ちゆうもん)のれんじ【櫺子】より
叡覧(えいらん)あ(ッ)て、「ゆゆしげなるものども【共】かな。みな名(な)のら
せよ」と仰(おほせ)ければ、まづ大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)義経(よしつね)、次(つぎ)に安
田[B ノ](やすだの)三郎(さぶらう)義定(よしさだ)、畠山(はたけやまの)庄司(しやうじ)次郎(じらう)重忠(しげただ)、梶原(かぢはら)源太(げんだ)景
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季(かげすゑ)、佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)、渋谷(しぶやの)右馬允(うまのじよう)重資(しげすけ)とこそ
なの(ッ)【名乗つ】たれ。義経(よしつね)ぐし【具し】て、武士(ぶし)は六人(ろくにん)、鎧(よろひ)はいろいろ也(なり)
けれども、つらだましゐ(つらだましひ)【面魂】事(こと)がらいづれもおとらず。
大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)成忠(なりただ)仰(おほせ)をうけたまは(ッ)【承つ】て、九郎(くらう)義経(よしつね)を
大床(おほゆか)のきはへめし【召し】て、合戦(かつせん)の次第(しだい)をくはしく【詳しく】
御尋(おんたづね)あれば、義経(よしつね)かしこま(ッ)て申(まうし)けるは、「義仲(よしなか)が
謀叛(むほん)の事(こと)、頼朝(よりとも)大(おほき)におどろき、範頼(のりより)・義経(よしつね)をはじめとして、むねとの兵物(つはもの)卅(さんじふ)余人(よにん)、其(その)勢(せい)六万(ろくまん)O[BH 余]騎(よき)
をまいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうらふ)。範頼(のりより)は勢田(せた)よりまはり候(さうらふ)が、いまだまいり(まゐり)【参り】
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候(さうら)はず。義経(よしつね)は宇治(うぢ)の手(て)をせめ【攻め】おとひ(おとい)【落い】て、まづ
此(この)御所(ごしよ)守護(しゆご)のためにはせ【馳せ】参(さん)じて候(さうらふ)。義仲(よしなか)は
河原(かはら)をのぼりにおち【落ち】候(さうらひ)つるを、兵物(つはもの)共(ども)におはせ候(さうらひ)つ
れば、いま【今】はさだめて【定めて】う(ッ)とり候(さうらひ)ぬらん」と、いと事(こと)
もなげにぞ申(まう)されたる。法皇(ほふわう)大(おほき)に御感(ぎよかん)あ(ッ)て、
「神妙(しんべう)也(なり)。義仲(よしなか)が余党(よたう)な(ン)ど(なんど)まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、狼籍【*狼藉】(らうぜき)もぞ
仕(つかまつ)る。なんぢら此(この)御所(ごしよ)よくよく守護(しゆご)せよ」と仰(おほせ)ければ、
義経(よしつね)かしこまりうけ給(たま)は(ッ)【承つ】て、四方(しはう)の門(もん)をかため
てまつほど【程】に、兵物(つはもの)ども【共】はせ【馳せ】集(あつま)(ッ)て、ほど【程】なく一万
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騎(いちまんぎ)ばかりに成(なり)にけり。木曾(きそ)はもしの事(こと)あらば、
法皇(ほふわう)をとりまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て西国(さいこく)へ落(おち)くだり【下り】、平家(へいけ)と
ひとつにならんとて、力者(りきしや)廿人(にじふにん)そろへても(ッ)たり
けれども、御所(ごしよ)には九郎(くらう)義経(よしつね)はせ【馳せ】まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て守護(しゆご)
したてまつる【奉る】よし【由】きこえ【聞え】しかば、さらばとて、
数万騎(すまんぎ)の大勢(おほぜい)のなかへおめひ(をめい)【喚い】てかけいる。既(すで)に
うた【討た】れんとする事(こと)度々(どど)に及(およぶ)といへども、かけ【駆け】
やぶり【破り】かけ【駆け】やぶり【破り】とをり(とほり)【通り】けり。木曾(きそ)涙(なみだ)をながひ(ながい)【流い】て、「かかる
べしとだにしり【知り】たりせば、今井(いまゐ)を勢田(せた)へはやらざらまし。
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幼少(えうせう)竹馬(ちくば)の昔(むかし)より、死(し)なば一所(いつしよ)で死(し)なんとこそ
契(ちぎり)しに、ところどころ【所々】でうた【討た】れん事(こと)こそかなし
けれ。今井(いまゐ)がゆくゑ(ゆくへ)【行方】をきかばや」とて、河原(かはら)のぼりに
かくる【駆くる】ほど【程】に、六条河原(ろくでうかはら)と三条河原(さんでうかはら)のあひだ【間】に、
敵(かたき)おそ(ッ)てかかればと(ッ)てかへしと(ッ)てかへし、わづかなる小勢(せうぜい)
にて、雲霞(うんか)の如(ごとく)なる敵(かたき)の大勢(おほぜい)を、五六度(ごろくど)までぞ
お(ッ)【追つ】かへす【返す】。鴨河(かもがは)ざ(ッ)とうちわたし、粟田口(あはたぐち)・松坂(まつざか)にも
かかりけり。去年(こぞ)信濃(しなの)を出(いで)しには五万(ごまん)余騎(よき)と
きこえ【聞え】しに、けふ四(し)の宮河原(みやがはら)をすぐる【過ぐる】には、主従(しゆじゆう)
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七騎(しちき)に成(なり)にけり。まして中有(ちゆうう)の空(そら)、おもひ【思ひ】
『木曾(きその)最期(さいご)』S0904
やられて哀(あはれ)なり。○木曾殿(きそどの)は信濃(しなの)より、ともゑ【巴】・
山吹(やまぶき)とて、二人(ににん)の便女(びんぢよ)をぐせ【具せ】られたり。山吹(やまぶき)は
いたはり【労】あ(ッ)て、都(みやこ)にとどまりぬ。中(なか)にもともゑ【巴】は
いろしろく【白く】髪(かみ)ながく、容顔(ようがん)まこと【誠】にすぐれたり。あり
がたきつよ弓(ゆみ)【強弓】、せい兵(びやう)【精兵】、馬(むま)の上(うへ)、かちだち、うち物(もの)も(ッ)て
は鬼(おに)にも神(かみ)にもあはうどいふ一人当千(いちにんたうぜん)の
兵(つは)もの也(なり)。究竟(くつきやう)のあら馬(むま)のり、悪所(あくしよ)おとし【悪所落し】、いくさ【軍】
といへば、さねよき鎧(よろひ)きせ、おほ太刀(だち)・つよ弓(ゆみ)【強弓】もたせて、
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まづ一方(いつぱう)の大将(だいしやう)にはむけられけり。度々(どど)の高名(かうみやう)、
肩(かた)をならぶるものなし。されば今(この)度(たび)も、おほく【多く】の
ものどもおち【落ち】ゆきうた【討た】れける中(なか)に、七騎(しちき)が内(うち)まで
ともゑ【巴】はうた【討た】れざりけり。木曾(きそ)は長坂(ながさか)をへて丹波
路(たんばぢ)へおもむくともきこえ【聞え】けり。又(また)竜花越(りゆうげごえ)にかか(ッ)て
北国(ほつこく)へともきこえ【聞え】けり。かかりしかども、今井(いまゐ)がゆく
ゑ(ゆくへ)【行方】をきかばやとて、勢田(せた)の方(かた)へ落(おち)行(ゆく)ほど【程】に、
今井(いまゐの)四郎(しらう)兼平(かねひら)も、八百(はつぴやく)余騎(よき)で勢田(せた)をかためたり
けるが、わづかに五十騎(ごじつき)ばかりにうちなされ、旗(はた)をば
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まかせて、主(しゆう)のおぼつかなきに、みやこ【都】へと(ッ)てかへす【返す】
ほど【程】に、大津(おほつ)のうちで【打出】の浜(はま)にて、木曾殿(きそどの)にゆき
あひたてまつる。互(たがひ)になか一町(いつちやう)ばかりよりそれと
みし(ッ)【見知つ】て、主従(しゆじゆう)駒(こま)をはやめてよりあふ(あう)たり。木曾殿(きそどの)
今井(いまゐ)が手(て)をと(ッ)ての給(たま)ひけるは、「義仲(よしなか)六条河原(ろくでうかはら)で
いかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくゑ(ゆくへ)【行方】の恋(こひ)しさに、
おほく【多く】の敵(かたき)の中(なか)をかけわ(ッ)て、これ【是】まではのがれ【逃れ】
たるなり」。今井(いまゐの)四郎(しらう)、「御諚(ごぢやう)まこと【誠】にかたじけなう【忝なう】候(さうらふ)。
兼平(かねひら)も勢田(せた)で打死(うちじに)つかまつるべう候(さうらひ)つれ共(ども)、御(おん)ゆく
P09037
ゑ(ゆくへ)【行方】のおぼつかなさに、これまでまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうらふ)」とぞ申(まうし)
ける。木曾殿(きそどの)「契(ちぎり)はいまだくちせざりけり。義仲(よしなか)
がせい【勢】は敵(かたき)にをし(おし)【押し】へだてられ、山林(さんりん)にはせ【馳せ】ち(ッ)て、この【此の】
辺(へん)にもあるらんぞ。汝(なんぢ)がまかせてもたせたる旗(はた)あげ
させよ」とのたまへ【宣へ】ば、今井(いまゐ)が旗(はた)をさし【差し】あげ【上げ】たり。京(きやう)より
おつるせい【勢】ともなく、勢田(せた)よりおつるものともなく、
今井(いまゐ)が旗(はた)をみ【見】つけて三百(さんびやく)余騎(よき)ぞはせ集(あつま)る。木曾(きそ)
大(おほき)に悦(よろこび)て、「此(この)せい【勢】あらばなどか最後(さいご)のいくさ【軍】せざるべ
き。ここにしぐらうでみゆる【見ゆる】はたが手(て)やらん」。「甲斐(かひ)の
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一条(いちでうの)次郎殿(じらうどの)とこそ承(うけたまはり)候(さうら)へ」。「せい【勢】はいくらほどあるやらん」。
「六千(ろくせん)余騎(よき)とこそきこえ【聞え】候(さうら)へ」。「さてはよい敵(かたき)ごさん
なれ。おなじう死(し)なば、よからう敵(かたき)にかけ【駆け】あふ(あう)【合う】て、大勢(おほぜい)
の中(なか)でこそ打死(うちじに)をもせめ」とて、ま(ッ)さきにこそ
すすみけれ。木曾(きその)左馬頭(さまのかみ)、其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の
直垂(ひたたれ)に、唐綾(からあや)おどし(からあやをどし)【唐綾威】の鎧(よろひ)きて、くわがたう(ッ)たる
甲(かぶと)の緒(を)しめ、いかものづくりのおほ太刀(だち)はき、石(いし)うち
の矢(や)の、其(その)日(ひ)のいくさ【軍】にい【射】て少々(せうせう)のこ(ッ)たるを、かしら
だか【頭高】におひ【負ひ】なし、しげどう【滋籐】の弓(ゆみ)も(ッ)て、きこゆる【聞ゆる】
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木曾(きそ)の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬(むま)の、きはめてふとう【太う】たく
ましひ(たくましい)【逞しい】に、黄覆輪(きぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)【置い】てぞの(ッ)【乗つ】たりける。あぶみ
ふ(ン)ばり立(たち)あがり【上がり】、大音声(だいおんじやう)をあげて名(な)のりけるは、
「昔(むかし)はききけん物(もの)を、木曾(きそ)の冠者(くわんじや)、今(いま)はみる【見る】らん、左馬
頭(さまのかみ)兼(けん)伊与【*伊予】守(いよのかみ)、朝日(あさひ)の将軍(しやうぐん)源(みなもとの)義仲(よしなか)ぞや。甲斐(かひ)の一
条(いちでうの)次郎(じらう)とこそきけ。たがひ【互ひ】によいかたき【敵】ぞ。義仲(よしなか)
う(ッ)【打つ】て兵衛佐(ひやうゑのすけ)にみせよ【見せよ】や」とて、おめい(をめい)【喚い】てかく。一条(いちでう)の
二郎【次郎】(じらう)、「只今(ただいま)なのる【名乗る】は大将軍(たいしやうぐん)ぞ。あますなものども【共】、
もらす【漏らす】な若党(わかたう)、うてや」とて、大(おほ)ぜいの中(なか)にとり【取り】
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こめ【籠め】て、我(われ)う(ッ)とらんとぞすすみける。木曾(きそ)三百(さんびやく)
余騎(よき)、六千(ろくせん)余騎(よき)が中(なか)をたてさま・よこさま・蜘手(くもで)・
十文字(じふもんじ)にかけ【駆け】わ(ッ)【破つ】て、うしろへつ(ッ)といでたれば、五十騎(ごじつき)
ばかりになりにけり。そこをやぶ(ッ)【破つ】てゆくほど【程】に、土肥(とひ)の二郎(じらう)実平(さねひら)二千(にせん)余騎(よき)でささへたり。其(それ)をも
やぶ(ッ)【破つ】てゆく【行く】ほど【程】に、あそこでは四五百騎(しごひやくき)、ここでは二三
百騎(にさんびやくき)、百四五十騎(ひやくしごじつき)、百騎(ひやくき)ばかりが中(なか)をかけわりかけわり
ゆくほど【程】に、主従(しゆじゆう)五騎(ごき)にぞなりにける。五騎(ごき)が内(うち)まで
ともゑ【巴】はうた【討た】れざりけり。木曾殿(きそどの)「おのれ【己】はとうとう【疾う疾う】、
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女(をんな)なれば、いづちへもゆけ。我(われ)は打死(うちじ)にせんと思(おも)ふ
なり。もし人手(ひとで)にかからば自害(じがい)をせんずれば、木曾
殿(きそどの)の最後(さいご)のいくさ【軍】に、女(をんな)を具(ぐ)せられたりけりな(ン)ど(なんど)
いはれん事(こと)もしかる【然る】べからず」とのたまひ【宣ひ】けれども【共】、
なを(なほ)【猶】おち【落ち】もゆかざりけるが、あまりにいはれ奉(たてまつり)て、
「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、よからうかたき【敵】がな。最後(さいご)のいくさ【軍】して
みせ【見せ】奉(たてまつ)らん」とて、ひかへたるところ【所】に、武蔵国(むさしのくに)に、きこえ【聞え】
たる大(だい)ぢから【大力】、をん田(だ)の(おんだの)【御田の】八郎(はちらう)師重(もろしげ)、卅騎(さんじつき)ばかりでいで【出で】
きたり。ともゑ【巴】その中(なか)へかけ入(いり)、をん田(だ)の(おんだの)【御田の】八郎(はちらう)に
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おしならべて、むずとと(ッ)てひき【引き】おとし【落し】、わがの(ッ)【乗つ】たる
鞍(くら)の前輪(まへわ)にをし(おし)【押し】つけて、ち(ッ)ともはたらかさ【働かさ】ず、頸(くび)
ねぢき(ッ)てすてて(ン)げり。其(その)後(のち)物具(もののぐ)ぬぎすて、
東国(とうごく)の方(かた)へ落(おち)ぞゆく。手塚(てづかの)太郎(たらう)打死(うちじに)す。手塚(てづか)の
別当(べつたう)落(おち)にけり。今井(いまゐ)の四郎(しらう)、木曾殿(きそどの)、主従(しゆじゆう)二騎(にき)に
な(ッ)てのたまひ【宣ひ】けるは、「日来(ひごろ)はなにともおぼえぬ
鎧(よろひ)が、けふはおもう【重う】な(ッ)たるぞや」。今井(いまゐの)四郎(しらう)申(まうし)けるは、
「御身(おんみ)もいまだつかれ【疲れ】させたまは【給は】ず、御馬(おんむま)もよはり(よわり)【弱り】候(さうら)は
ず。なにによ(ッ)てか一両(いちりやう)の御(おん)きせなが【着背長】をおもうはおぼし
P09043
めし【思し召し】候(さうらふ)べき。それは御方(みかた)に御(おん)せいが候(さうら)はねば、おく病(びやう)【臆病】
でこそさはおぼしめし【思し召し】候(さうら)へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候(さうらふ)とも、余(よ)の武者(むしや)
千騎(せんぎ)とおぼしめせ【思し召せ】。矢(や)七(ななつ)八(やつ)候(さうら)へば、しばらくふせき矢(や)【防き矢】
仕(つかまつ)らん。あれにみえ【見え】候(さうらふ)、粟津(あはづ)の松原(まつばら)と申(まうす)。あの松(まつ)の
中(なか)で御自害(おんじがい)候(さうら)へ」とて、う(ッ)【打つ】てゆく【行く】程(ほど)に、又(また)あら【新】手(て)の
武者(むしや)五十騎(ごじつき)ばかりいで【出で】きたり。「君(きみ)はあの松原(まつばら)へい
ら【入ら】せ給(たま)へ。兼平(かねひら)は此(この)敵(かたき)ふせき【防き】候(さうら)はん」と申(まうし)ければ、木曾
殿(きそどの)のたまひ【宣ひ】けるは、「義仲(よしなか)宮(みや)こ【都】にていかにもなるべかり
つるが、これまでのがれ【逃れ】くるは、汝(なんぢ)と一所(いつしよ)で死(し)なんと
P09044
思(おも)ふ為(ため)也(なり)。ところどころ【所々】でうた【討た】れんよりも、一(ひと)ところ【一所】で
こそ打死(うちじに)をもせめ」とて、馬(むま)の鼻(はな)をならべてかけ【駆け】
むとしたまへ【給へ】ば、今井(いまゐの)四郎(しらう)馬(むま)よりとびおり、主(しゆう)の
馬(むま)の口(くち)にとりつい【付い】て申(まうし)けるは、「弓矢(ゆみや)とりは年来(としごろ)
日来(ひごろ)いかなる高名(かうみやう)候(さうら)へども、最後(さいご)の時(とき)不覚(ふかく)しつれば
ながき疵(きず)にて候(さうらふ)也(なり)。御身(おんみ)はつかれ【疲れ】させ給(たま)ひて候(さうらふ)。
つづくせい【勢】は候(さうら)はず。敵(かたき)にをし(おし)【押し】へだてられ、いふかひなき
人(ひと)、郎等(らうどう)にくみおとさ【落さ】れさせ給(たまひ)て、うた【討た】れさせ給(たまひ)なば、
「さばかり日本国(につぽんごく)にきこえ【聞え】させ給(たま)ひつる木曾殿(きそどの)をば、
P09045
それがしが郎等(らうどう)のうちたてま(ッ)【奉つ】たる」な(ン)ど(なんど)申(まう)さん事(こと)
こそ口惜(くちをし)う候(さうら)へ。ただあの松原(まつばら)へいらせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、
木曾(きそ)さらばとて、粟津(あはづ)の松原(まつばら)へぞかけたまふ【給ふ】。
今井[B ノ](いまゐの)四郎(しらう)只(ただ)一騎(いつき)、五十騎(ごじつき)ばかりが中(なか)へかけ入(いり)、あぶみ
ふ(ン)ばりたちあがり【上がり】、大音声(だいおんじやう)あげてなのり【名乗り】けるは、「日来(ひごろ)
は音(おと)にもききつらん、今(いま)は目(め)にも見(み)たまへ【給へ】、木曾殿(きそどの)の
御(おん)めのと子(ご)【乳母子】、今井(いまゐ)の四郎(しらう)兼平(かねひら)、生年(しやうねん)卅三(さんじふさん)にまかり【罷り】
なる。さるものありとは鎌倉(かまくら)殿(どの)までもしろしめさ【知ろし召さ】れ
たるらんぞ。兼平(かねひら)う(ッ)【打つ】て見参(げんざん)にいれよ【入れよ】」とて、い【射】のこしたる
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八(や)すぢの矢(や)を、さしつめ【差し詰め】引(ひき)つめ【引き詰め】さんざん【散々】にいる【射る】。死生(ししやう)は
しら【知ら】ず、やにわ(やには)【矢庭】にかたき【敵】八騎(はちき)い【射】おとす【落す】。其(その)後(のち)打物(うちもの)ぬい
てあれにはせ【馳せ】あひ、これに馳(はせ)あひ、き(ッ)てまはるに、
面(おもて)をあはするものぞなき。分(ぶん)どり【分捕】あまたしたり
けり。只(ただ)「い【射】とれや」とて、中(なか)にとりこめ、雨(あめ)のふるやう【様】に
い【射】けれども、鎧(よろひ)よければうらかかず、あき間(ま)をい【射】ねば
手(て)もおはず。木曾殿(きそどの)は只(ただ)一騎(いつき)、粟津(あはづ)の松原(まつばら)へかけ
たまふ【給ふ】が、正月(しやうぐわつ)廿一日(にじふいちにち)入相(いりあひ)ばかりの事(こと)なるに、うす氷(ごほり)
はは(ッ)たりけり、ふか田(た)【深田】ありともしら【知ら】ずして、馬(むま)をざ(ッ)と
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うち入(いれ)たれば、馬(むま)のかしら【頭】もみえ【見え】ざりけり。あをれ(あふれ)【煽れ】
どもあをれ(あふれ)【煽れ】ども、うてどもうてどもはたらか【働か】ず。今井(いまゐ)がゆくゑ(ゆくへ)【行方】のおぼ
つかなさに、ふりあふぎたまへ【給へ】るうち甲(かぶと)【内甲】を、三浦[B ノ](みうらの)石田(いしだ)の
次郎(じらう)為久(ためひさ)、お(ッ)【追つ】かか(ッ)てよつぴいてひやうふつといる【射る】。いた
手(で)【痛手】なれば、ま(ッ)かうを馬(むま)のかしら【頭】にあててうつぶしたま
へ【給へ】る処(ところ)に、石田(いしだ)が郎等(らうどう)二人(ににん)落(おち)あふ(あう)て、ついに(つひに)【遂に】木曾殿(きそどの)の
頸(くび)をばと(ッ)て(ン)げり。太刀(たち)のさきにつらぬき、たかく
さし【差し】あげ【上げ】、大音声(だいおんじやう)をあげて、「此(この)日(ひ)ごろ【日比】日本国(につぽんごく)に聞(きこ)え
させ給(たま)ひつる木曾殿(きそどの)をば、三浦(みうら)の石田(いしだ)の次郎(じらう)為久(ためひさ)が
P09048
うち奉(たてまつり)たるぞや」となのり【名乗り】ければ、今井(いまゐの)四郎(しらう)いくさ【軍】
しけるが、これ【是】をきき、「いまはたれをかばはむとてかいくさ【軍】
をもすべき。これ【是】を見(み)たまへ【給へ】、東国(とうごく)の殿原(とのばら)、日本(につぽん)一(いち)の
剛(かう)の者(もの)の自害(じがい)する手本(てほん)」とて、太刀(たち)のさきを口(くち)に
ふくみ【含み】、馬(むま)よりさかさまにとび落(おち)、つらぬか(ッ)【貫ぬかつ】てぞうせに
『樋口(ひぐちの)被討罰(ちうばつせられ)』S0905
ける。さてこそ粟津(あはづ)のいくさ【軍】はなかりけれ。○今井(いまゐ)が兄(あに)、
樋口(ひぐちの)次郎(じらう)兼光(かねみつ)は、十郎(じふらう)蔵人(くらんど)うたんとて、河内国(かはちのくに)長野(ながの)
の城(じやう)へこえたりけるが、そこにてはうちもらし【洩らし】ぬ。紀伊
国(きのくに)名草(なぐさ)にありときこえ【聞え】しかば、やがてつづひ(つづい)【続い】てこえ
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たりけるが、都(みやこ)にいくさ【軍】ありと聞(きい)て馳(はせ)のぼる。淀(よど)の
大渡(おほわたり)の橋(はし)で、今井(いまゐ)が下人(げにん)ゆきあふ(あう)たり。「あな心(こころ)う【憂】、是(これ)は
いづちへとてわたらせ給(たま)ひ候(さうらふ)ぞ。君(きみ)うた【討た】れさせ給(たま)ひ
ぬ。今井殿(いまゐどの)は自害(じがい)」と申(まうし)ければ、樋口(ひぐち)の次郎(じらう)涙(なみだ)を
はらはらとながひ(ながい)【流い】て、「これ【是】をきき【聞き】たまへ【給へ】殿原(とのばら)、君(きみ)に
御心(おんこころ)ざしおもひ【思ひ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】給(たま)はん人々(ひとびと)は、これよりいづ
ちへもおち【落ち】ゆき【行き】、出家(しゆつけ)入道(にふだう)して乞食(こつじき)頭陀(づだ)の行(ぎやう)を
もたて【立て】、後世(ごせ)をとぶらひ【弔ひ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】たまへ【給へ】。兼光(かねみつ)は都(みやこ)
へのぼり打死(うちじに)して、冥途(めいど)にても君(きみ)の見参(げんざん)に
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入(いり)、今井(いまゐの)四郎(しらう)をいま一度(いちど)みんとおもふ【思ふ】ぞ」といひけ
れば、五百(ごひやく)余騎(よき)のせい、あそこにひかへここにひかへ
おち【落ち】ゆく【行く】ほど【程】に、鳥羽(とば)の南(みなみ)の門(もん)をいでけるには、其(その)勢(せい)
わづかに廿(にじふ)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。樋口(ひぐちの)二郎(じらう)けふすでに
みやこ【都】へ入(いる)ときこえ【聞え】しかば、党(たう)も豪家(かうけ)も七条(しつでう)・朱雀(しゆしやか)・
四塚(よつづか)ざまへ馳(はせ)向(むかふ)。樋口(ひぐち)が手(て)に茅野(ちのの)太郎(たらう)といふ【云ふ】もの
あり【有り】。四塚(よつづか)にいくらも馳(はせ)むかふ(むかう)【向う】たる敵(かたき)の中(なか)へかけ入(いり)、大
音声(だいおんじやう)をあげて、「此(この)御中(おんなか)に、甲斐(かひ)の一条(いちでうの)次郎殿(じらうどの)の
御手(おんて)の人(ひと)や在(まし)ます」ととひければ、「あながち一条(いちでう)の
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二郎【次郎】殿(じらうどの)の手(て)でいくさ【軍】をばするか。誰(たれ)にもあへかし」
とて、ど(ッ)とわらふ【笑ふ】。わらは【笑は】れてなのり【名乗り】けるは、「かう申(まうす)は
信濃国(しなののくに)諏方【*諏訪】(すはの)上[B ノ]宮(かみのみや)の住人(ぢゆうにん)、茅野(ちのの)大夫(たいふ)光家(みついへ)が子(こ)に、
茅野(ちのの)太郎(たらう)光広(みつひろ)、かならず【必ず】一条(いちでう)の二郎殿(じらうどの)の御手(おんて)を
たづぬるにはあらず。おとと【弟】の茅野[B ノ](ちのの)七郎(しちらう)それにあり【有り】。
光広(みつひろ)が子共(こども)二人(ににん)、信乃【信濃】国(しなののくに)に候(さうらふ)が、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)わが父(ちち)はようて
や死(し)にたるらん、あしうてや死(し)にたるらん」となげかん処(ところ)に、
おとと【弟】の七郎(しちらう)がまへで打死(うちじに)して、子共(こども)にたしかに
きかせんと思(おもふ)ため也(なり)。敵(かたき)をばきらふまじ」とて、あれに
P09052
はせ【馳せ】あひこれ【是】にはせ【馳せ】あひ、敵(かたき)三騎(さんぎ)き(ッ)ておとし【落し】、
四人(しにん)にあたる敵(かたき)にをし(おし)【押し】ならべて、ひ(ッ)【引つ】く(ン)【組ん】でどうどおち【落ち】、
さしちがへてぞ死(しに)にける。樋口(ひぐちの)二郎(じらう)は児玉(こだま)[B 党(たう)]にむす
ぼほれたりければ、児玉(こだま)の人(ひと)ども【共】寄(より)合(あひ)て、「弓矢(ゆみや)とる
ならひ、我(われ)も人(ひと)もひろい【広い】中(なか)へ入(い)らんとするは、自然(しぜん)の
事(こと)のあらん時(とき)、ひとまどのいきをもやすめ、しばしの
命(いのち)をもつが【継が】んと思(おも)ふためなり。されば樋口(ひぐちの)次郎(じらう)が
我等(われら)にむすぼほれけんも、さこそは思(おも)ひけめ。今度(こんど)
の我等(われら)が勲功(くんこう)には、樋口(ひぐち)が命(いのち)を申(まうし)うけん」とて、使者(ししや)を
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たてて、「日来(ひごろ)は木曾殿(きそどの)の御内(みうち)に今井(いまゐ)・樋口(ひぐち)とて
聞(きこ)え給(たま)ひしかども、今(いま)は木曾殿(きそどの)うた【討た】れさせ給(たま)ひ
ぬ。なにかくるしかる【苦しかる】べき。我等(われら)が中(なか)へ降人(かうにん)になり給(たま)へ。
勲功(くんこう)の賞(しやう)に申(まうし)かへて、命(いのち)ばかりたすけ【助け】たてまつら【奉ら】ん。
出家(しゆつけ)入道(にふだう)をもして、後世(ごせ)をとぶらひ【弔ひ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】給(たま)へ」
と云(いひ)ければ、樋口(ひぐちの)二郎(じらう)、きこゆるつはものなれども、
運(うん)やつきにけむ、児玉党(こだまたう)の中(なか)へ降人(かうにん)にこそ
成(なり)にけれ。これ【是】を九郎(くらう)御曹司(おんざうし)に申(まうす)。院(ゐんの)御所(ごしよ)へ
奏聞(そうもん)してなだめ【宥め】られたりしを、かたはらの公卿(くぎやう)
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殿上人(てんじやうびと)、つぼね【局】の女房(にようばう)達(たち)、「木曾(きそ)が法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へよせ
て時(とき)をつくり、君(きみ)をもなやましまいらせ(まゐらせ)【参らせ】、火(ひ)をかけ
ておほく【多く】の人々(ひとびと)をほろぼしうしなひ【失ひ】しには、あそこ
にもここにも、今井(いまゐ)・樋口(ひぐち)といふ声(こゑ)のみこそありしか。
これ【是】らをなだめ【宥め】られんは口(くち)おしかる(をしかる)【惜しかる】べし」と、面々(めんめん)に申(まう)
されければ、又(また)死罪(しざい)にさだめ【定め】らる。同(おなじき)廿二日(にじふににち)、新摂政
殿(しんせつしやうどの)とどめ【留め】られ給(たま)ひて、本(もと)の摂政(せつしやう)還着(くわんぢやく)(クハンヂヤク)したまふ【給ふ】。
纔(わづか)に六十日(ろくじふにち)の内(うち)に替(かへ)られ給(たま)へば、いまだ見(み)はてぬ
夢(ゆめ)のごとし。昔(むかし)粟田(あはた)の関白(くわんばく)は、悦申(よろこびまうし)の後(のち)只(ただ)七ケ日(しちかにち)
P09055
だにこそおはせしか、これは六十日(ろくじふにち)とはいへども、その内(うち)
に節会(せちゑ)も除目(ぢもく)もおこなはれしかば、思出(おもひで)なきにも
あらず。同(おなじき)廿四日(にじふしにち)、木曾[B ノ](きその)左馬頭(さまのかみ)并(ならびに)余党(よたう)五人(ごにん)が頸(くび)、大路(おほち)
をわたさる。樋口(ひぐちの)次郎(じらう)は降人(かうにん)なりしが、頻(しきり)に頸(くび)のとも【伴】
せんと申(まうし)ければ、藍摺(あいずり)の水干(すいかん)、立烏帽子(たてえぼし)(タテヱボシ)でわたされけり。同(おなじき)廿五日(にじふごにち)、樋口(ひぐちの)次郎(じらう)遂(つひ)に切(き)られぬ。範頼(のりより)・義
経(よしつね)やうやうに申(まう)されけれども、「今井(いまゐ)・樋口(ひぐち)・楯(たて)・祢[B ノ]井(ねのゐ)と
て、木曾(きそ)が四天王(してんわう)のそのひとつ【一つ】なり。これ【是】らをなだ
め【宥め】られむは、養虎(やうこ)の愁(うれひ)(ウレイ)あるべし」とて、殊(こと)に沙汰(さた)あ(ッ)て
P09056
誅(き)られけるとぞきこえ【聞え】し。つて【伝】にきく【聞く】、虎狼(こらう)の
国(くに)衰(おとろ)(ヲトロ)へて、諸侯(しよこう)(しよカウ)蜂(はち)の如(ごと)く起(おこり)(ヲコリ)し時(とき)、沛公(はいこう)先(さき)に
咸陽宮(かんやうきゆう)に入(いる)といへども、項羽(こうう)(カウウ)が後(のち)に来(きた)らん事(こと)を
恐(おそれ)て、妻(さい)は美人(びじん)をもおかさ(をかさ)ず、金銀(きんぎん)珠玉(しゆぎよく)をも掠(かす)め
ず、徒(いたづら)に函谷(かんこく)の関(せき)を守(まも)(ッ)て、漸々(ぜんぜん)にかたき【敵】をほろぼ
して、天下(てんが)を治(ぢ)する事(こと)を得(え)たりき。されば木曾(きそ)の
左馬頭(さまのかみ)、まづ都(みやこ)へ入(い)るといふ【云ふ】とも、頼朝(よりともの)朝臣(あつそん)の命(めい)
にしたがはましかば、彼(かの)沛公(はいこう)がはかり事(こと)にはおとら
ざらまし。平家(へいけ)はこぞの冬(ふゆ)の比(ころ)より、讃岐国(さぬきのくに)八島(やしま)の
P09057
磯(いそ)をいで【出で】て、摂津国(つのくに)難波潟(なにはがた)へをし(おし)【押し】わたり、福原(ふくはら)の旧
里(きうり)に居住(きよぢゆう)して、西(にし)は一(いち)の谷(たに)を城郭(じやうくわく)にかまへ【構へ】、東(ひがし)は
生田[B ノ](いくたの)森(もり)を大手(おほて)の木戸口(きどぐち)とぞさだめ【定め】ける。其(その)内(うち)福原(ふくはら)・
兵庫(ひやうご)・板(いた)やど【板宿】・須磨[B 「須間」とあり「間」に「磨」と傍書](すま)にこもる勢(せい)、これは山陽道(せんやうだう)八ケ国(はつかこく)、
南海道(なんかいだう)六ケ国(ろくかこく)、都合(つがふ)十四(じふし)ケ国(かこく)をうちしたがへてめさ
るるところ【所】の軍兵(ぐんびやう)なり。十万(じふまん)余騎(よき)とぞきこえ【聞え】し。
一[B ノ]谷(いちのたに)は北(きた)は山(やま)、南(みなみ)は海(うみ)、口(くち)はせばくて奥(おく)ひろし。岸(きし)
たかくして屏風(びやうぶ)をたてたるにことならず。北(きた)の山(やま)
ぎはより南(みなみ)の海(うみ)のとをあさ(とほあさ)【遠浅】まで、大石(たいせき)をかさね【重ね】あげ、
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おほ木(ぎ)【大木】をき(ッ)てさかも木(ぎ)【逆茂木】にひき【引き】、ふかきところ【所】に
は大船(おほふね)どもをそばだてて、かいだて【垣楯】にかき、城(じやう)の面(おもて)
の高矢倉(たかやぐら)には、一人当千(いちにんたうぜん)ときこゆる【聞ゆる】四国(しこく)鎮西(ちんぜい)の
兵物(つはもの)ども【共】、甲冑(かつちう)弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して、雲霞(うんか)の如(ごと)くに
なみ居(ゐ)たり。矢倉(やぐら)のしたには、鞍置馬(くらおきむま)ども【共】十重(とへ)
廿重(はたへ)(ハタエ)にひ(ッ)【引つ】たてたり。つねに大皷(たいこ)をう(ッ)【打つ】て乱声(らんじやう)を
す。一張(いつちやう)の弓(ゆみ)のいきほひは半月(はんげつ)胸(むね)のまへにかかり、
三尺(さんじやく)の剣(けん)の光(ひかり)は秋(あき)の霜(しも)腰(こし)の間(あひだ)に横(よこ)だへたり。たかき【高き】
ところ【所】には赤旗(あかはた)おほく【多く】うちたてたれば、春風(はるかぜ)にふか
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れて天(てん)に翻(ひるがへ)るは、火炎(くわえん)(クハエン)のもえあがる【上がる】にことならず。
『六ケ度軍(ろくかどのいくさ)』S0906
○平家(へいけ)福原(ふくはら)[B 「福原」に「一谷イ」と傍書]へわたり給(たまひ)て後(のち)は、四国(しこく)の兵(つは)ものしたがい(したがひ)【従ひ】
たてまつら【奉ら】ず。中(なか)にも阿波(あは)讃岐(さぬき)の在庁(ざいちやう)ども、
平家(へいけ)をそむいて源氏(げんじ)につかむとしけるが、「抑(そもそも)我等(われら)は、
昨日(きのふ)今日(けふ)まで平家(へいけ)にしたがうたるものの、今(いま)はじ
めて源氏(げんじ)の方(かた)へまいり(まゐり)【参り】たりとも、よももちひ(もちゐ)【用ゐ】ら
れじ。いざや平家(へいけ)に矢(や)ひとつ【一つ】い【射】かけて、それを面(おもて)(ヲモテ)[* 下欄に「表」と注記]に
してまいら(まゐら)【参ら】ん」とて、門脇(かどわき)の中納言(ちゆうなごん)、[* 「中納言(ちゆうなごん)の」と有るのを他本により訂正]子息(しそく)越前(ゑちぜん)の三
位(さんみ)、能登守(のとのかみ)、父子(ふし)三人(さんにん)、備前国(びぜんのくに)下津井(しもつゐ)(シモツイ)に在(まし)ますと
P09060
きこえ【聞え】しかば、討(うち)たてまつら【奉ら】んとて、兵船(ひやうせん)十余艘(じふよさう)
でよせたりけり。能登守(のとのかみ)これ【是】をきき「にくひ(にくい)やつ
原(ばら)かな。昨日(きのふ)今日(けふ)まで我等(われら)が馬(むま)の草(くさ)き(ッ)たる奴原(やつばら)が、
すでに契(ちぎり)を変(へん)ずるにこそあんなれ。其(その)義(ぎ)ならば
一人(いちにん)ももらさ【漏らさ】ずうてや」とて、小舟(こぶね)どもにとりの(ッ)【乗つ】て、
「あますな、もらす【漏らす】な」とてせめ【攻め】たまへ【給へ】ば、四国(しこく)の兵物(つはもの)共(ども)、
人目(ひとめ)ばかりに矢(や)一(ひとつ)射(い)て、のか【退か】んとこそおもひ【思ひ】けるに、
手(て)いたうせめ【攻め】られたてま(ッ)【奉つ】て、かなは【叶は】じとや思(おも)ひけん、
とをまけ(とほまけ)【遠負】にして引(ひき)退(しりぞ)き、都(みやこ)のかた【方】へにげのぼるが、
P09061
淡路国(あはぢのくに)ふくら【福良】の泊(とまり)につきにけり。其(その)国(くに)に源氏(げんじ)二人(ににん)
あり【有り】。故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)が末子(ばつし)、賀茂(かもの)冠者(くわんじや)義嗣(よしつぎ)・淡
路(あはぢの)冠者(くわんじや)義久(よしひさ)ときこえ【聞え】しを、四国(しこく)の兵物(つはもの)共(ども)、大将(だいしやう)に
たのん【頼ん】で、城郭(じやうくわく)を構(かまへ)て待(まつ)ところ【所】に、能登殿(のとどの)やが
てをし(おし)【押し】よせ【寄せ】責(せめ)給(たま)へば、一日(いちにち)たたかひ【戦ひ】、賀茂(かもの)冠者(くわんじや)打死(うちじに)す。
淡路(あはぢの)冠者(くわんじや)はいた手(で)【痛手】負(おう)て自害(じがい)して(ン)げり。能登殿(のとどの)
防矢(ふせきや)い【射】ける兵(つは)ものども、百卅(ひやくさんじふ)余人(よにん)が頸(くび)切(き)(ッ)て、討手(うちて)の
交名(けうみやう)しるい【記い】て、福原(ふくはら)へまいらせ(まゐらせ)【参らせ】らる。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)、其(それ)
より福原(ふくはら)へのぼり給(たま)ふ。子息達(しそくたち)は、伊与【*伊予】(いよ)の河野(かはのの)
P09062
四郎(しらう)がめせ【召せ】どもまいら(まゐら)【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、四国(しこく)へぞ渡(わた)
られける。先(まづ)兄(あに)の越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)通盛卿(みちもりのきやう)、阿波国(あはのくに)花園(はなぞの)の
城(じやう)につき給(たまふ)。能登守(のとのかみ)讃岐(さぬき)の八島(やしま)へわたり【渡り】給(たま)ふと聞(きこ)
えしかば、河野(かはの)の四郎(しらう)道信【*通信】(みちのぶ)、安芸国(あきのくにの)住人(ぢゆうにん)沼田(ぬたの)次郎(じらう)は
母方(ははかた)の伯父(をぢ)なりければ、ひとつ【一つ】にならんとて、安芸
国(あきのくに)へをし(おし)【押し】わたる。能登守(のとのかみ)これ【是】をきき、やがて讃岐(さぬき)の
八島(やしま)をいで【出で】ておはれけるが、すでに備後国(びんごのくに)蓑島(みのしま)に
かか(ッ)て、次(つぎの)日(ひ)、沼田(ぬた)の城(じやう)へよせ給(たま)ふ。沼田(ぬたの)二郎(じらう)・河野(かはのの)四郎(しらう)
ひとつ【一つ】にな(ッ)てふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。能登殿(のとどの)やがて押(おし)寄(よせ)
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せめ【攻め】たまへ【給へ】ば、一日(いちにち)一夜(いちや)ふせき【防き】たたかひ【戦ひ】、沼田(ぬたの)二郎(じらう)叶(かな)
はじとやおもひ【思ひ】けん、甲(かぶと)をぬいで降人(かうにん)にまいる(まゐる)【参る】。
河野(かはのの)四郎(しらう)はなを(なほ)【猶】したがひ【従ひ】たてまつら【奉ら】ず。其(その)勢(せい)
五百(ごひやく)余騎(よき)あり【有り】けるが、わづかに五十騎(ごじつき)ばかりにうち
なされ、城(じやう)をいで【出で】てゆく【行く】ほど【程】に、能登殿(のとどの)の侍(さぶらひ)平八兵衛(へいはちびやうゑ)
為員(ためかず)、二百騎(にひやくき)ばかりが中(なか)にとりこめられて、主従(しゆじゆう)
七騎(しちき)にうちなされ、たすけ舟(ぶね)【助け船】にのらんとほそ道(みち)に
かか(ッ)て、みぎはの方(かた)へおち【落ち】ゆく程(ほど)に、平八兵衛(へいはちびやうゑ)が子息(しそく)
讃岐(さぬきの)七郎(しちらう)義範(よしのり)、究竟(くつきやう)の弓(ゆみ)の上手(じやうず)ではあり、お(ッ)【追つ】かか(ッ)て、
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七騎(しちき)をやには【矢庭】に五騎(ごき)い【射】おとす【落す】。河野(かはのの)四郎(しらう)、ただ主従(しゆじゆう)
二騎(にき)になりにけり。河野(かはの)が身(み)にかへておもひ【思ひ】ける
郎等(らうどう)を、讃岐(さぬきの)七郎(しちらう)をし(おし)【押し】ならべてくむ(くん)【組ん】でおち【落ち】、と(ッ)て
おさへ【抑へ】て頸(くび)をかかんとする処(ところ)に、河野(かはのの)四郎(しらう)と(ッ)て
かへし、郎等(らうどう)がうへ【上】なる讃岐(さぬきの)七郎(しちらう)が頸(くび)かき切(きつ)て、深
田(ふかた)へなげ入(いれ)、大音声(だいおんじやう)をあげて、「河野(かはのの)四郎(しらう)越智(をち)の道
信【*通信】(みちのぶ)、生年(しやうねん)廿一(にじふいち)、かうこそいくさ【戦】をばすれ。われとおもは
む人々(ひとびと)はとどめよ【留めよ】や」とて、郎等(らうどう)をかたにひ(ッ)【引つ】かけ、そこ
をつ(ッ)とのがれ【逃れ】て小舟(こぶね)にのり、伊与【*伊予】国(いよのくに)へぞわたりける。
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能登殿(のとどの)、河野(かはの)をもうちもらさ【漏らさ】れたれども、沼田(ぬたの)二郎(じらう)
が降人(かうにん)たるをめし【召し】ぐし【具し】て、福原(ふくはら)へぞまいら(まゐら)【参ら】れける。
又(また)淡路国(あはぢのくに)の住人(ぢゆうにん)安摩(あま)の六郎(ろくらう)忠景(ただかげ)、平家(へいけ)をそむ
いて源氏(げんじ)に心(こころ)をかよはし【通はし】けるが、大舟(おほふね)二(に)そう(さう)【艘】に兵粮
米(ひやうらうまい)・物具(もののぐ)つう【積う】で、宮(みや)こ【都】の方(かた)へのぼる程(ほど)に、能登殿(のとどの)福
原(ふくはら)にてこれ【是】をきき、小船(こぶね)十艘(じつさう)ばかりおしうかべ【浮べ】て
おは【追は】れけり。安摩(あま)の六郎(ろくらう)、西宮(にしのみや)の奥(おき)にて、かへしあは
せ【合はせ】ふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。手(て)いたうせめ【攻め】られたてま(ッ)【奉つ】て、かな
は【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、引(ひき)退(しりぞき)て和泉国(いづみのくに)吹井(ふけゐ)の浦(うら)に
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つきにけり。紀伊国(きのくにの)住人(ぢゆうにん)園辺(そのべの)(ソノヘノ)兵衛(ひやうゑ)忠康(ただやす)、これ【是】も平
家(へいけ)をそむいて源氏(げんじ)につかんとしけるが、あまの六郎(ろくらう)が
能登殿(のとどの)に責(せめ)られたてま(ッ)【奉つ】て、吹井(ふけゐ)にありと聞(きこ)え
しかば、其(その)勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりで馳(はせ)来(きたつ)てひとつ【一つ】になる。
能登殿(のとどの)やがてつづゐ(つづい)【続い】てせめ【攻め】給(たま)へば、一日(いちにち)一夜(いちや)ふせき
たたかひ【戦ひ】、あまの六郎(ろくらう)・そのべの兵衛(ひやうゑ)、かなは【叶は】じとや思(おも)ひ
けん、家子(いへのこ)郎等(らうどう)に防矢(ふせきや)い【射】させ、身(み)がらはにげて京(きやう)へ
のぼる。能登殿(のとどの)、防矢(ふせきや)い【射】ける兵物(つはもの)ども【共】二百(にひやく)余人(よにん)が頸(くび)
きりかけて、福原(ふくはら)へこそまいら(まゐら)【参ら】れけれ。又(また)伊与【*伊予】国(いよのくに)の
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住人(ぢゆうにん)河野(かはのの)四郎(しらう)道信【*通信】(みちのぶ)、豊後国(ぶんごのくにの)住人(ぢゆうにん)臼杵(うすきの)二郎(じらう)
維高(これたか)・緒方(をかたの)三郎(さぶらう)維義(これよし)同心(どうしん)して、都合(つがふ)其(その)勢(せい)二千(にせん)
余人(よにん)、備前国(びぜんのくに)へをし(おし)【押し】わたり【渡り】、いまぎ【今木】の城(じやう)にぞ籠(こもり)ける。
能登守(のとのかみ)是(これ)をきき、福原(ふくはら)より三千(さんぜん)余騎(よき)で馳(はせ)くだり【下り】、
いまぎ【今木】の城(じやう)をせめ【攻め】給(たま)ふ。能登殿(のとどの)「奴原(きやつばら)はこわい(こはい)御敵(おんかたき)
で候(さうらふ)。かさね【重ね】て勢(せい)を給(たま)はらん」と申(まう)されければ、福原(ふくはら)より
数万騎(すまんぎ)の大勢(おほぜい)をむけらるるよし聞(きこ)えし程(ほど)に、城(じやう)の
うちの兵物(つはもの)ども【共】、手(て)のきはたたかひ、分捕(ぶんどり)高名(かうみやう)しきは
めて、「平家(へいけ)は大勢(おほぜい)でまします也(なり)。我等(われら)は無勢(ぶせい)なり。
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いかにも叶(かなふ)まじ。ここをばおち【落ち】てしばらくいき【息】をつが【継】
む」とて、臼杵(うすきの)二郎(じらう)・緒方(をかたの)三郎(さぶらう)舟(ふね)にとりのり、鎮西(ちんぜい)へ
おしわたる。河野(かはの)は伊与【*伊予】(いよ)へぞ渡(わた)りける。能登殿(のとどの)「いまは
うつべき敵(かたき)なし」とて、福原(ふくはら)へこそまいら(まゐら)【参ら】れけれ。
大臣殿(おほいとの)をはじめたてま(ッ)【奉つ】て、平家(へいけ)一門(いちもん)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)
より【寄り】あひ給(たま)ひて、能登殿(のとどの)の毎度(まいど)の高名(かうみやう)をぞ
『三草勢揃(みくさせいぞろへ)』S0907
一同(いちどう)に感(かん)じあはれける。○正月(しやうぐわつ)廿九日(にじふくにち)、範頼(のりより)・義経(よしつね)院参(ゐんざん)
して、平家(へいけ)追討(ついたう)のために西国(さいこく)へ発向(はつかう)すべきよし
奏聞(そうもん)しけるに、「本朝(ほんてう)には神代(じんだい)よりつたはれる三(みつ)の御宝(おんたから)
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あり【有り】。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)これ也(なり)。相(あひ)構(かまへ)て事(こと)ゆへ(ゆゑ)【故】なく
かへし【返し】いれ【入れ】たてまつれ【奉れ】」と仰(おほせ)下(くだ)さる。両人(りやうにん)かしこまり
うけ給(たま)は(ッ)【承つ】てまかり【罷り】いで【出で】ぬ。同(おなじき)二月(にぐわつ)四日(よつかのひ)、福原(ふくはら)には、故(こ)入
道(にふだう)相国(しやうこく)の忌日(きにち)とて、仏事(ぶつじ)かた【形】のごとく【如く】おこなはる。
あさゆふのいくさだち【軍立ち】に、過(すぎ)ゆく月日(つきひ)はしら【知ら】ね共(ども)、こぞ【去年】は
ことしにめぐりきて、うかり【憂かり】し春(はる)にも成(なり)にけり。
世(よ)の世(よ)にてあらましかば、いかなる起立(きりふ)(キリウ)塔婆(たふば)(タウバ)のくはたて【企て】、
供仏(くぶつ)(グぶつ)施僧(せそう)のいとなみもあるべかりしかども【共】、ただ男女(なんによ)
の君達(きんだち)さしつどひて、なく【泣く】より外(ほか)の事(こと)ぞなき。
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其(その)次(つい)でに叙位(じよゐ)除目(ぢもく)おこなはれて、僧(そう)も俗(ぞく)も
みなつかさ【司】なされけり。門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)、正(じやう)二位(にゐの)大納言(だいなごん)に
なり【成り】たまふ【給ふ】べきよし、大臣殿(おほいとの)よりの給(たま)ひ【宣ひ】ければ、教盛卿(のりもりのきやう)、
けふまでもあればあるかのわが身(み)かは
夢(ゆめ)のうちにもゆめ【夢】をみる【見る】かな W067
と御返事(おんぺんじ)申(まう)させ給(たま)ひて、つゐに(つひに)【遂に】大納言(だいなごん)にもなり
たまは【給は】ず。大外記(だいげき)中原(なかはらの)師直(もろなほ)(もろナフ)が子(こ)、周防介(すはうのすけ)師純(もろずみ)、大外記(だいげき)
になる。兵部少輔(ひやうぶのせう)正明(まさあきら)、五位(ごゐの)蔵人(くらんど)になされて蔵人(くらんどの)少輔(せう)
とぞいはれける。昔(むかし)将門(まさかど)が東(とう)八ケ国(はつかこく)をうちしたがへて、
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下総国(しもつふさのくに)相馬郡(さうまのこほり)に都(みやこ)をたて、我(わが)身(み)を平親王(へいしんわう)と
称(しよう)(セウ)して、百官(ひやくくわん)をなしたりしには、暦博士(こよみのはかせ)ぞなかりける。
これ【是】はそれにはにる【似る】べからず。旧都(きうと)をこそおち【落ち】給(たま)ふと
いへども、主上(しゆしやう)三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)して、万乗(ばんじよう)の位(くらゐ)
にそなはり給(たま)へり。叙位(じよゐ)除目(ぢもく)おこなはれんも僻事(ひがこと)
にはあらず。平氏(へいじ)すでに福原(ふくはら)までせめ【攻め】のぼ(ッ)【上つ】て、
宮(みや)こ【都】へかへり入(いる)べきよし聞(きこ)えしかば、故郷(ふるさと)にのこり
とどまる人々(ひとびと)いさみよろこぶ事(こと)なのめならず。二位[B ノ](にゐの)
僧都(そうづ)専親【*全真】(せんしん)は、梶井[B ノ]宮(かぢゐのみや)の年来(としごろ)の御同宿(ごどうじゆく)なりければ、
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風(かぜ)のたよりには申(まう)されけり。宮(みや)よりも又(また)つねは御(おん)をと
づれ(おとづれ)【音信】あり【有り】けり。「旅(たび)の空(そら)のありさま【有様】おぼしめし【思し召し】やるこそ
心(こころ)ぐるしけれ。宮(みや)こ【都】もいまだしづまらず」な(ン)ど(なんど)あそばひ(あそばい)【遊ばい】
て、おくには一首(いつしゆ)の歌(うた)ぞあり【有り】ける。
人(ひと)しれずそなたをしのぶ【忍ぶ】こころをば
かたぶく月(つき)にたぐへてぞやる W068
僧都(そうづ)是(これ)をかほ【顔】にをし(おし)【押し】あてて、かなしみの涙(なみだ)せきあへ
ず。さるほど【程】に、小松(こまつ)の三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)維盛卿(これもりのきやう)は年(とし)へだたり
日(ひ)かさなるにしたがひ【随ひ】て、ふる郷(さと)【故郷】にとどめ【留め】をき(おき)給(たま)ひし
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北方(きたのかた)、おさなき(をさなき)【幼き】人々(ひとびと)の事(こと)をのみなげきかなしみ
たまひ【給ひ】けり。商人(あきびと)のたよりに、をのづから(おのづから)文(ふみ)な(ン)ど(なんど)の
かよふにも、北方(きたのかた)の宮(みや)こ【都】の御(おん)ありさま、心(こころ)ぐるしう
きき給(たま)ふに、さらばむかへ【向へ】[M と]てひとところ【一所】でいかにも
ならばやとはおもへ【思へ】ども、我(わが)身(み)こそあらめ、人(ひと)のため
いたはしくてな(ン)ど(なんど)おぼしめし、しのび【忍び】てあかし
くらし給(たま)ふにこそ、せめての心(こころ)ざしのふかさ【深さ】の程(ほど)も
あらはれけれ。さる程(ほど)に、源氏(げんじ)は四日(よつかのひ)[B 「四」に「二月イ」と傍書]よすべかりしが、
故(こ)入道(にふだう)相国(しやうこく)の忌日(きにち)ときい【聞い】て、仏事(ぶつじ)をとげさせんが
P09074
ためによせず。五日(いつかのひ)は西(にし)ふさがり、六日(むゆか)は道忌日(だうきにち)、七日(なぬかのひ)の
卯剋(うのこく)に、一谷(いちのたに)の東西(とうざい)の木戸口(きどぐち)にて源平(げんぺい)矢合(やあはせ)
とこそさだめ【定め】けれ。さりながらも、四日(よつかのひ)は吉日(きちにち)なれば
とて、大手(おほて)搦手(からめて)の大将軍(たいしやうぐん)、軍兵(ぐんびやう)二手(ふたて)にわか(ッ)て
みやこ【都】をたつ。大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)は蒲(かばの)御曹司(おんざうし)範頼(のりより)、
相伴(あひともなふ)人々(ひとびと)、武田(たけたの)太郎(たらう)信義(のぶよし)・鏡美(かがみの)次郎(じらう)遠光(とほみつ)・同(おなじく)小次郎(こじらう)
長清(ながきよ)・山名(やまなの)次郎(じらう)教義(のりよし)・同(おなじく)三郎(さぶらう)義行(よしゆき)、侍大将(さぶらひだいしやう)には梶原(かぢはら)
平三(へいざう)景時(かげとき)・嫡子[B ノ](ちやくしの)源太(げんだ)景季(かげすゑ)・次男(じなん)平次(へいじ)景高(かげたか)・同(おなじく)三郎(さぶらう)
景家(かげいへ)・稲毛(いなげの)三郎(さぶらう)重成(しげなり)・楾谷(はんがいの)四郎(しらう)重朝(しげとも)、同(おなじく)五郎(ごらう)行重(ゆきしげ)・
P09075
小山[B ノ](をやまの)小四郎(こしらう)朝政(ともまさ)・同(おなじく)中沼(なかぬまの)五郎(ごらう)宗政(むねまさ)・結城(ゆふきの)(ユウキの)七郎(しちらう)朝光(ともみつ)・
佐貫(さぬきの)四郎(しらう)大夫(だいふ)広綱(ひろつな)・小野寺[B ノ](をのでらの)禅師(ぜんじ)太郎(たらう)道綱(みちつな)・曾
我(そがの)太郎(たらう)資信(すけのぶ)・中村(なかむら)太郎(たらう)時経(ときつね)・江戸(えどの)四郎(しらう)重春(しげはる)・玉[B ノ]井[B ノ](たまのゐの)
四郎(しらう)資景(すけかげ)・大河津(おほかはづの)太郎(たらう)広行(ひろゆき)・庄(しやうの)三郎(さぶらう)忠家(ただいへ)・同(おなじく)四郎(しらう)
高家(たかいへ)・勝大(せうだいの)(セウタイノ)八郎(はちらう)行平(ゆきひら)・久下(くげの)二郎(じらう)重光(しげみつ)・河原(かはら)太郎(たらう)
高直(たかなほ)・同(おなじく)次郎(じらう)盛直(もりなほ)・藤田(ふぢたの)三郎(さぶらう)大夫(だいふ)行泰(ゆきやす)を先(さき)として、
都合(つがふ)其(その)勢(せい)五万(ごまん)余騎(よき)、二月(にぐわつ)四日(よつかのひ)の辰(たつ)の一点(いつてん)に都(みやこ)
をた(ッ)て、其(その)日(ひの)申酉[B ノ](さるとりの)剋(こく)に摂津国(つのくに)■陽野(こやの)に
陣(ぢん)をとる。搦手(からめて)の大将軍(たいしやうぐん)は九郎(くらう)御曹司(おんざうし)義経(よしつね)、同(おなじ)く
P09076
伴(ともな)ふ人々(ひとびと)、安田(やすだの)三郎(さぶらう)義貞(よしさだ)・大内[B ノ](おほうちの)太郎(たらう)維義(これよし)・村上(むらかみの)判
官代(はんぐわんだい)康国(やすくに)・田代(たしろの)冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)、侍大将(さぶらひだいしやう)には土肥(とひの)次郎(じらう)実
平(さねひら)・子息[B ノ](しそくの)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)・三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)・子息[B ノ](しそくの)平六(へいろく)義村(よしむら)・
畠山(はたけやまの)庄司(しやうじ)次郎(じらう)重忠(しげただ)・同(おなじく)長野(ながのの)三郎(さぶらう)重清(しげきよ)・三浦(みうらの)佐原(さはらの)
十郎(じふらう)義連(よしつら)・和田(わだの)小太郎(こたらう)義盛(よしもり)・同(おなじく)次郎(じらう)義茂(よしもち)・同(おなじく)三郎(さぶらう)
宗実(むねざね)・佐々木(ささき)四郎(しらう)高綱(たかつな)・同(おなじく)五郎(ごらう)義清(よしきよ)・熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直
実(なほざね)・子息[B ノ](しそくの)小次郎(こじらう)直家(なほいへ)・平山(ひらやまの)武者所(むしやどころ)季重(すゑしげ)・天野(あまのの)次郎(じらう)
直経(なほつね)・小河(をがはの)次郎(じらう)資能(すけよし)・原(はらの)三郎(さぶらう)清益(きよます)・金子(かねこの)十郎(じふらう)家
忠(いへただ)・同(おなじく)与一(よいち)親範(ちかのり)・渡柳(わたりやなぎの)弥五郎(いやごらう)清忠(きよただ)・別府(べつぷの)小太郎(こたらう)清
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重(きよしげ)・多々羅(たたらの)五郎(ごらう)義春(よしはる)・其(その)子(こ)の太郎(たらう)光義(みつよし)・片岡(かたをかの)太郎(たらう)
経春(つねはる)・源八(げんぱち)広綱(ひろつな)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)・奥州[B ノ](あうしうの)佐藤(さとう)三郎(さぶらう)嗣信(つぎのぶ)・
同(おなじく)四郎(しらう)忠信(ただのぶ)・江田[B ノ](えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)を先(さき)
として、都合(つがふ)其(その)勢(せい)一万(いちまん)余騎(よき)、同(おなじき)日(ひ)の同(おなじき)時(とき)に宮(みや)こ【都】を
た(ッ)て丹波路(たんばぢ)にかかり、二日路(ふつかぢ)を一日(ひとひ)にう(ッ)【打つ】て、播磨(はりま)と
丹波(たんば)のさかひなる三草(みくさ)の山(やま)の東(ひがし)の山(やま)ぐち【山口】、小野原(をのばら)に
『三草合戦(みくさかつせん)』S0908
こそつきにけれ。○平家(へいけ)の方(かた)には大将軍(たいしやうぐん)小松(こまつの)新三位(しんざんみの)中将(ちゆうじやう)
資盛(すけもり)・同(おなじく)少将(せうしやう)有盛(ありもり)・丹後(たんごの)侍従(じじゆう)忠房(ただふさ)・備中守(びつちゆうのかみ)師盛(もろもり)、
侍大将(さぶらひだいしやう)には、平内兵衛(へいないびやうゑ)清家(きよいへ)・海老(えみの)次郎(じらう)盛方(もりかた)を初(はじめ)として、
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都合(つがふ)其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)、小野原(をのばら)より三里(さんり)へだてて、三草(みくさ)
のやま【山】の西(にし)の山口(やまぐち)に陣(ぢん)をとる。其(その)夜(よ)の戌(いぬ)の剋(こく)ば
かり、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)、土肥(とひの)次郎(じらう)をめし【召し】て、「平家(へいけ)はこれ【是】
より三里(さんり)へだてて、三草(みくさ)の山(やま)の西(にし)の山口(やまぐち)に大勢(おほぜい)でひかへ
たんなるは。今夜(こよひ)夜討(ようち)によすべきか、あすのいくさ【軍】か」と
のたまへ【宣へ】ば、田代(たしろの)冠者(くわんじや)すすみいで【出で】て申(まうし)けるは、「あすのいく
さ【軍】とのべ【延べ】られなば、平家(へいけ)せい【勢】つき候(さうらひ)なんず。平家(へいけ)は三千(さんぜん)
余騎(よき)、御方(みかた)の御(おん)せい【勢】は一万(いちまん)余騎(よき)、はるかの理(り)に候(さうらふ)。夜(よ)
うち【夜討】よかんぬと覚(おぼえ)候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、土肥(とひの)次郎(じらう)「いしう
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申(まう)させ給(たま)ふ田代殿(たしろどの)かな。さらばやがてよせさせ給(たま)へ」
とてう(ッ)【打つ】たち【立ち】けり。つはものども【共】「くらさはくらし、
いかがせんずる」と口々(くちぐち)に申(まうし)ければ、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)「例(れい)
の大(おほ)だい松(まつ)はいかに」。土肥(とひの)二郎(じらう)「さる事(こと)候(さうらふ)」とて、
小野原(をのばら)の在家(ざいけ)に火(ひ)をぞかけたりける。これ【是】をはじ
めて、野(の)にも山(やま)にも、草(くさ)にも木(き)にも、火(ひ)をつけ
たれば、ひるにはち(ッ)ともおとらずして、三里(さんり)の山(やま)を
こえ【越え】ゆき【行き】けり。此(この)田代(たしろ)冠者(くわんじや)と申(まうす)は、父(ちち)は伊豆国(いづのくに)の
さきの国司(こくし)中納言(ちゆうなごん)為綱(ためつな)の末葉(ばつえふ)也(なり)。母(はは)は狩野介(かののすけ)
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茂光(もちみつ)がむすめをおもふ(おもう)【思う】てまうけたりしを、母方(ははかた)の
祖父(そぶ)にあづけて、弓矢(ゆみや)とりにはしたて【仕立て】たり。
俗姓(ぞくしやう)を尋(たづ)ぬれば、後三条院(ごさんでうのゐんの)第三(だいさんの)王子(わうじ)、資仁親王(すけひとのしんわう)
より五代(ごだい)の孫(そん)也(なり)。俗姓(ぞくしやう)もよきうへ【上】、弓矢(ゆみや)と(ッ)ても
よかりけり。平家(へいけ)の方(かた)には其(その)夜(よ)夜(よ)うち【夜討】によせ【寄せ】んずる
をばしら【知ら】ずして、「いくさ【軍】はさだめて【定めて】あすのいくさ【軍】で
ぞあらんずらん。いくさ【軍】にもねぶたい【眠たい】は大事(だいじ)の事(こと)ぞ。
ようね【寝】ていくさ【軍】せよ」とて、先陣(せんぢん)はをのづから(おのづから)
用心(ようじん)するもあり【有り】けれども、後陣(ごぢん)のものども【共】、或(あるい)は
P09081
甲(かぶと)枕(まくら)にし、或(あるい)は鎧(よろひ)の袖(そで)・ゑびら(えびら)【箙】な(ン)ど(なんど)を枕(まくら)にして、先
後(ぜんご)もしら【知ら】ずぞふしたりける。夜半(やはん)ばかり、源氏(げんじ)一万騎(いちまんぎ)
おしよせて、時(とき)をど(ッ)とつくる。平家(へいけ)の方(かた)にはあまりに
あはて(あわて)【慌て】さはひ(さわい)【騒い】で、弓(ゆみ)とるものは矢(や)をしら【知ら】ず、矢(や)とる
ものは弓(ゆみ)をしら【知ら】ず、馬(むま)にあてられじと、なか【中】をあけ
てぞとをし(とほし)【通し】ける。源氏(げんじ)はおち【落ち】ゆく【行く】かたき【敵】をあそこ
にお(ッ)【追つ】かけ、ここにお(ッ)【追つ】つめせめ【攻め】ければ、平氏(へいじ)の軍兵(ぐんびやう)
やには【矢庭】に五百(ごひやく)余騎(よき)うた【討た】れぬ。手(て)おふものどもおほ
かり【多かり】けり。大将軍(たいしやうぐん)小松(こまつ)の新三位(しんざんみの)中将(ちゆうじやう)・同(おなじく)少将(せうしやう)・丹
P09082
後(たんごの)侍従(じじゆう)、面目(めんぼく)なうやおもは【思は】れけん、播磨国(はりまのくに)高砂(たかさご)
より舟(ふね)にの(ッ)【乗つ】て、讃岐(さぬき)の八島(やしま)へ渡(わたり)給(たま)ひぬ。備中守(びつちゆうのかみ)
は平内兵衛(へいないびやうゑ)・海老(えみの)二郎(じらう)をめし【召し】ぐし【具し】て、一谷(いちのたに)へぞ
『老馬(らうば)』S0909
まいら(まゐら)【参ら】れける。○大臣殿(おほいとの)は安芸(あきの)右馬助(うまのすけ)能行(よしゆき)を使
者(ししや)で、平家(へいけ)の君達(きんだち)のかたがた【方々】へ、「九郎(くらう)義経(よしつね)こそ、
三草(みくさ)の手(て)をせめ【攻め】おとひ(おとい)【落い】て、すでにみだれ入(いり)候(さうらふ)な
れ。山(やま)の手(て)は大事(だいじ)に候(さうらふ)。おのおのむかは【向は】れ候(さうら)へ」とのた
まひ【宣ひ】ければ、みな辞(じ)し申(まう)されけり。能登殿(のとどの)のもとへ
「たびたびの事(こと)で候(さうら)へども、御(ご)へんむかは【向は】れ候(さうらひ)なんや」と
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のたまひ【宣ひ】つかはさ【遣さ】れたりければ、能登殿(のとどの)の返事(へんじ)には、
「いくさ【軍】をば我(わが)身(み)ひとつ【一つ】の大事(だいじ)ぞとおもふ(おもう)【思う】てこそ
よう候(さうら)へ。かり【猟】すなどり【漁】な(ン)ど(なんど)のやうに、足(あし)だち【足立】のよか
らう方(かた)へはむかは【向は】ん、あしからう方(かた)へはむかは【向は】じな(ン)ど(なんど)候(さうら)
はんには、いくさ【軍】に勝(かつ)事(こと)よも候(さうら)はじ。いくたびで
も候(さうら)へ、こはからう方(かた)へは、教経(のりつね)うけ給(たま)は(ッ)【承つ】てむかひ【向ひ】
候(さうら)はん。一方(いつぱう)ばかりはうちやぶり候(さうらふ)べし。御心(おんこころ)やすう
おぼしめさ【思し召さ】れ候(さうら)へ」と、たのもしげ【頼もし気】にぞ申(まう)されける。
大臣殿(おほいとの)なのめならず悦(よろこび)て、越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)を先(さき)
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として、能登殿(のとどの)に一万(いちまん)余騎(よき)をぞつけられける。
兄(あに)の越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)道盛【*通盛】卿(みちもりのきやう)あひ具(ぐ)して山(やま)の手(て)をぞ
かため給(たま)ふ。山(やま)の手(て)〔と〕申(まうす)は鵯越(ひよどりごえ)のふもと【麓】なり。
通盛卿(みちもりのきやう)は能登殿(のとどの)のかり屋(や)【仮屋】に北(きた)の方(かた)むかへ【向へ】たてま(ッ)【奉つ】て、
最後(さいご)のなごりおしま(をしま)【惜しま】れけり。能登殿(のとどの)大(おほき)にいか(ッ)て、
「此(この)手(て)はこはひ(こはい)方(かた)とて教経(のりつね)をむけられて候(さうらふ)也(なり)。
誠(まこと)にこはう候(さうらふ)べし。只今(ただいま)もうへ【上】の山(やま)より源氏(げんじ)ざ(ッ)と
おとし【落し】候(さうらひ)なば、とる物(もの)もとりあへ候(さうら)はじ。たとひ弓(ゆみ)を
も(ッ)たりとも、矢(や)をはげずはかなひ【叶ひ】がたし。たとひ
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矢(や)をはげたりとも、ひか【引か】ずはなを(なほ)【猶】あしかる【悪しかる】べし。
ましてさ様(やう)にうちとけさせ給(たまひ)ては、なんのよう【用】にか
たたせ給(たま)ふべき」といさめられて、げにもとやおも
は【思は】れけん、いそぎ物(もの)の具(ぐ)して、人(ひと)をばかへし給(たま)ひ
けり。五日(いつかのひ)のくれがた【暮れ方】に、源氏(げんじ)■陽野(こやの)をた(ッ)て、
やうやう生田(いくた)の森(もり)にせめ【攻め】ちかづく【近付く】。雀(すずめ)の松原(まつばら)・御影(みかげ)の
杜(もり)・■陽野(こやの)の方(かた)をみわたせ【渡せ】ば、源氏(げんじ)手々(てんで)に陣(ぢん)を
と(ッ)て、とを火(び)(とほび)【遠火】をたく。ふけゆくままにながむれば、
山(やま)のは【端】いづる【出づる】月(つき)のごとし【如し】。平家(へいけ)もとを火(び)(とほび)【遠火】たけやとて、
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生田[B ノ]森(いくたのもり)にもかたのごとくぞたいたりける。あけ【明け】ゆく【行く】
ままにみ【見】わたせ【渡せ】ば、はれ【晴れ】たる空(そら)のほし【星】のごとし【如し】。これや
むかし沢辺(さはべ)のほたる【蛍】と詠(えい)じ給(たま)ひけんも、今(いま)こそ
思(おも)ひしられけれ。[B 老馬イ]源氏(げんじ)はあそこに陣(ぢん)と(ッ)て馬(むま)やすめ、
ここに陣(ぢん)と(ッ)て馬(むま)かひ【飼ひ】な(ン)ど(なんど)しけるほど【程】にいそがず。
平家(へいけ)の方(かた)には今(いま)やよする【寄する】いまやよする【寄する】と、やすい心(こころ)
もなかりけり。六日(むゆか)のあけぼの【曙】に、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)、一
万(いちまん)余騎(よき)を二手(ふたて)にわか(ッ)て、まづ土肥(とひの)二郎(じらう)実平(さねひら)をば
七千(しちせん)余騎(よき)で一(いち)の谷(たに)の西(にし)の手(て)へさしつかはす【遣す】。我(わが)身(み)は
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三千(さんぜん)余騎(よき)で一(いち)の谷(たに)のうしろ、鵯越(ひよどりごえ)をおとさ【落さ】んと、
丹波路(たんばぢ)より搦手(からめて)にこそまはられけれ。兵物(つはもの)ども【共】
「これはきこゆる【聞ゆる】悪所(あくしよ)であ(ン)なり。敵(かたき)にあふ(あう)てこそ
死(し)にたけれ、悪所(あくしよ)におち【落ち】ては死(し)にたからず。あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)
此(この)山(やま)の案内者(あんないしや)やあるらん」と、めんめんに申(まうし)ければ、
武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん)平山(ひらやまの)武者所(むしやどころ)すすみいで【出で】て申(まうし)けるは、
「季重(すゑしげ)こそ案内(あんない)は知(しり)て候(さうら)へ」。御曹司(おんざうし)「わとのは東国(とうごく)
そだちのものの、けふはじめてみる【見る】西国(さいこく)の山(やま)の
案内者(あんないしや)、大(おほき)にまことしからず」との給(たま)へ【宣へ】ば、平山(ひらやま)かさね【重ね】
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て申(まうし)けるは、「御諚(ごぢやう)ともおぼえ候(さうら)はぬものかな。吉野(よしの)・
泊瀬(はつせ)の花(はな)をば歌人(かじん)がしり、敵(かたき)のこも(ッ)たる城(じやう)の
うしろの案内(あんない)をば、かう【剛】の者(もの)がしる候(ざうらふ)」と申(まうし)ければ、
是(これ)又(また)傍若無人(ばうじやくぶじん)にぞきこえ【聞え】ける。又(また)武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん)
別府[B ノ](べつぷの)小太郎(こたらう)とて、生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)になる小冠(せうくわん)
すすみ出(いで)て申(まうし)けるは、「父(ちち)で候(さうらひ)し義重(よししげ)法師(ぼふし)がおしへ(をしへ)【教へ】
候(さうら)ひし[* 「候(さうら)へし」と有るのを他本により訂正]は、「敵(かたき)にもおそはれよ、山越(やま)ごえの狩(かり)をもせよ、深
山(しんざん)にまよひたらん時(とき)は、老馬(らうば)に手綱(たづな)をうちかけて、
さきにお(ッ)【追つ】たててゆけ。かならず【必ず】道(みち)へいづる【出づる】ぞ」とこそ
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をしへ【教へ】候(さうらひ)しか」。御曹司(おんざうし)「やさしうも申(まうし)たる物(もの)かな。「雪(ゆき)は
野原(のばら)をうづめども、老(おい)たる馬(むま)ぞ道(みち)はしる【知る】」といふ【云ふ】
ためし【例】あり」とて、白葦毛(しらあしげ)なる老馬(らうば)にかがみ鞍(くら)【鏡鞍】
をき(おき)、しろぐつは(しろぐつわ)【白轡】はげ、手綱(たづな)むす(ン)でうちかけ、さき
にお(ッ)【追つ】たてて、いまだしらぬ深山(みやま)へこそいり給(たま)へ。比(ころ)はきさ
らぎ【二月】はじめの事(こと)なれば、峰(みね)の雪(ゆき)むら消(ぎ)えて、花(はな)
かとみゆる所(ところ)もあり【有り】。谷(たに)の鴬(うぐひす)をとづれ(おとづれ)て、霞(かすみ)
にまよふところ【所】もあり【有り】。のぼれば白雲(はくうん)皓々(かうかう)として
聳(そび)へ(そびえ)、下(くだ)れば青山(せいざん)峨々(がが)として岸(きし)たかし【高し】。松(まつ)の
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雪(ゆき)だに消(きえ)やらで、苔(こけ)のほそ道(みち)かすか【幽】なり。嵐(あらし)に
たぐふおりおり(をりをり)【折々】は、梅花(ばいくわ)とも又(また)うたがはるれ。東西(とうざい)に
鞭(むち)をあげ、駒(こま)をはやめてゆく【行く】程(ほど)に、山路(やまぢ)に日(ひ)くれ
ぬれば、みなおりゐて陣(ぢん)をとる。武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)
老翁(らうおう)を一人(いちにん)具(ぐ)してまいり(まゐり)【参り】たり。御曹司(おんざうし)「あれは
なにもの【何者】ぞ」と問(とひ)たまへ【給へ】ば、「此(この)山(やま)の猟師(れふし)で候(さうらふ)」と申(まう)
す。「さては案内(あんない)はし(ッ)【知つ】たるらん、ありのままに申(まう)せ」とこそ
のたまひ【宣ひ】けれ。「争(いかで)か存知(ぞんぢ)仕(つかまつ)らで候(さうらふ)べき」。「これ【是】より平
家(へいけ)の城郭(じやうくわく)一谷(いちのたに)へおとさ【落さ】んとおもふ【思ふ】はいかに」。「ゆめゆめ
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叶(かな)ひ候(さうらふ)まじ。卅(さんじふ)丈(ぢやう)の谷(たに)、十五(じふご)丈(ぢやう)の岩(いは)さきな(ン)ど(なんど)申(まうす)所(ところ)は、
人(ひと)のかよふべき様(やう)候(さうら)はず。まして御馬(おんむま)な(ン)ど(なんど)は思(おも)ひも
より候(さうら)はず」。其うへ、城のうちにはおとしあなをもほり、
ひしをもうへ(うゑ)て待まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候らん」と申。さてさ様(やう)の
所(ところ)は鹿(しか)はかよふ【通ふ】か」。「鹿(しか)はかよひ候(さうらふ)。世間(せけん)だにもあたたかに
なり候(さうら)へば、草(くさ)のふかい【深い】にふさ【伏さ】うどて、播磨(はりま)の鹿(しか)は
丹波(たんば)へこえ、世間(せけん)だにさむうなり候(さうら)へば、雪(ゆき)のあさりに
はま【食ま】んとて、丹波(たんば)の鹿(しか)は播磨(はりま)のいなみ野(の)【印南野】へかよひ候(さうらふ)」
と申(まうす)。御曹司(おんざうし)「さては馬場(ばば)ごさんなれ。鹿(しか)のかよO[BH は]ふ(う)
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所(ところ)を馬(むま)のかよはぬやう【様】やある。やがてなんぢ案内者(あんないしや)
つかまつれ【仕れ】」とぞのたまひ【宣ひ】ける。此(この)身(み)はとし【年】老(おい)てかなう(かなふ)【叶ふ】
まじひ(まじい)よしを申(まう)す。「汝(なんぢ)が子(こ)はないか」。「候(さうらふ)」とて、熊王(くまわう)と云(いふ)
童(わらは)の、生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)になるをたてまつる【奉る】。やがて
もとどり【髻】とりあげ、父(ちち)をば鷲尾(わしをの)庄司(しやうじ)武久(たけひさ)といふ間(あひだ)、
これ【是】をば鷲尾(わしを)の三郎(さぶらう)義久(よしひさ)となのら【名乗ら】せ、さきうち【先打】
せさせて案内者(あんないしや)にこそ具(ぐ)せられけれ。平家(へいけ)追討(ついたう)
の後(のち)、鎌倉(かまくら)殿(どの)になか【中】たがう【違う】て、奥州(あうしう)でうた【討た】れ給(たま)ひし時(とき)、
鷲尾(わしをの)三郎(さぶらう)義久(よしひさ)とて、一所(いつしよ)で死(しに)にける兵物(つはもの)也(なり)。
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『一二(いちに)之(の)懸(かけ)』S0910
○六日(むゆか)の夜半(やはん)ばかりまでは、熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)搦手(からめて)にぞ候(さうらひ)ける。
熊谷(くまがへの)二郎(じらう)、子息(しそく)の小二郎(こじらう)をよう【呼う】でいひけるは、「此(この)手(て)は、
悪所(あくしよ)をおとさ【落さ】んずる時(とき)に、誰(たれ)さきといふ事(こと)もあるまじ。
いざうれ、これ【是】より土肥(とひ)がうけ給(たまはつ)【承つ】てむかふ(むかう)【向う】たる播磨
路(はりまぢ)へむかう【向う】て、一(いち)の谷(たに)のま(ッ)さきかけう」どいひければ、
小二郎(こじらう)「しかる【然る】べう候(さうらふ)。直家(なほいへ)もかうこそ申(まうし)たう候(さうらひ)つれ。
さらばやがてよせさせ給(たま)へ」と申(まう)す。熊谷(くまがへ)「まことや
平山(ひらやま)も此(この)手(て)にあるぞかし。うちごみ【打込】のいくさ【軍】このま
ぬもの【物】なり。平山(ひらやま)がやう見(み)てまいれ(まゐれ)【参れ】」とて、下人(げにん)をつかはす【遣す】。
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案(あん)のごとく平山(ひらやま)は熊谷(くまがへ)よりさきにいで【出で】立(たち)て、「人(ひと)をば
しら【知ら】ず、季重(すゑしげ)におゐて(おいて)はひとひき【一引】もひくまじひ(まじい)
物(もの)を」とひとり事(ごと)【独り言】をぞしゐ【居】たりける。下人(げにん)が馬(むま)を
かう(かふ)【飼ふ】とて、「に(ッ)くい馬(むま)のながぐらゐ(ながぐらひ)【長食】かな」とて、うち
ければ、「かうなせそ、其(その)馬(むま)のなごり【名残】もこよひ【今宵】ばかりぞ」
とて、う(ッ)【打つ】たち【立ち】けり。下人(げにん)はしり【走り】かへ(ッ)【帰つ】て、いそぎ此(この)よし
告(つげ)たりければ、「さればこそ」とて、やがてこれ【是】もうち
いで【出で】けり。熊谷(くまがへ)はかち【褐】のひたたれ【直垂】に、あか皮(がは)おどし(をどし)の
鎧(よろひ)きて、くれなゐ【紅】のほろをかけ、ごんだ栗毛(くりげ)といふ
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聞(きこ)ゆる名馬(めいば)にぞの(ッ)【乗つ】たりける。小二郎(こじらう)はおもだか【沢瀉】を
一(ひと)しほ【一入】す(ッ)【摺つ】たる直垂(ひたたれ)に、ふしなは目(め)【節縄目】の鎧(よろひ)きて、西楼(せいろう)と
いふ白月毛(しらつきげ)なる馬(むま)にの(ッ)【乗つ】たりけり。旗(はた)さし【旗差し】はきちん【麹塵】の
直垂(ひたたれ)に、小桜(こざくら)を黄(き)にかへい【返い】たる鎧(よろひ)きて、黄河原毛(きかはらげ)
なる馬(むま)にぞの(ッ)【乗つ】たりける。おとさ【落さ】んずる谷(たに)をば弓手(ゆんで)に
みなし、馬手(めて)へあゆま【歩ま】せゆく程(ほど)に、としごろ【年来】人(ひと)も
かよはぬ田井(たゐ)(タイ)の畑(はた)といふふる道(みち)【古道】をへて、一(いち)の谷(たに)の
浪(なみ)うちぎはへぞ出(いで)たりける。一谷(いちのたに)ちかく【近く】塩屋(しほや)といふ
所(ところ)に、いまだ夜(よ)ふかかり【深かり】ければ、土肥(とひの)二郎(じらう)実平(さねひら)、七千(しちせん)
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余騎(よき)でひかへたり。熊谷(くまがへ)は浪(なみ)うちぎはより、夜(よ)に
まぎれて、そこをつ(ッ)とうちとをり(とほり)【通り】、一谷(いちのたに)の西(にし)の
木戸口(きどぐち)にぞをし(おし)【押し】よせたる。その時(とき)はいまだ夜(よ)ふかか
り【深かり】ければ、敵(かたき)の方(かた)にもしづまりかへ(ッ)【返つ】ておと【音】もせず。
御方(みかた)一騎(いつき)もつづかず。熊谷(くまがへの)二郎(じらう)子息(しそく)の小二郎(こじらう)をよう【呼う】
でいひけるは、「我(われ)も我(われ)もと、先(さき)に心(こころ)をかけたる人々(ひとびと)は
おほかる【多かる】らん。心(こころ)せばう直実(なほざね)ばかりとはおもふ【思ふ】べからず。
すでによせたれども、いまだ夜(よ)のあくるを相(あひ)待(まち)て、
此(この)辺(へん)にもひかへたるらん、いざなのら【名乗ら】う」どて、かいだて
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のきはにあゆま【歩ま】せより、大音声(だいおんじやう)をあげて、「武蔵国(むさしのくにの)
住人(ぢゆうにん)、熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直実(なほざね)、子息(しそく)の小二郎(こじらう)直家(なほいへ)、一谷(いちのたに)
先陣(せんぢん)ぞや」とぞ名(な)の(ッ)【名乗つ】たる。平家(へいけ)の方(かた)には「よし、をと(おと)【音】な
せそ。敵(かたき)に馬(むま)の足(あし)をつからかさ【疲らかさ】せよ。矢(や)だねをい【射】つく
させよ」とて、あひしらふものもなかりけり。さる程(ほど)に、
又(また)うしろに武者(むしや)こそ一騎(いつき)つづひ(つづい)【続い】たれ。「たそ」ととへば
「季重(すゑしげ)」とこたふ。「とふはたそ」。「直実(なほざね)ぞかし」。「いかに熊谷
殿(くまがへどの)はいつよりぞ」。「直実(なほざね)は宵(よひ)[B 「夜居(よゐ)」に「宵」と傍書]より」とぞこたへ
ける。「季重(すゑしげ)もやがてつづひ(つづい)【続い】てよすべかりつるを、成田(なりだ)
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五郎(ごらう)にたばかられて、いま【今】まで遅々(ちち)したる也(なり)。成田(なりだ)が
「死(し)なば一所(いつしよ)で死(し)なう」どちぎるあひだ、「さらば」とて、
うちつれよする【寄する】あひだ【間】、「いたう、平山殿(ひらやまどの)、さきかけばや
り【先駆逸り】なしたまひ【給ひ】そ。先(さき)をかくるといふは、御方(みかた)のせい【勢】を
うしろにをい(おい)【置い】てかけたればこそ、高名(かうみやう)不覚(ふかく)も人(ひと)に
しら【知ら】るれ。只(ただ)一騎(いつき)大勢(おほぜい)の中(なか)にかけい(ッ)て、うた【討た】れたらん
は、なんの詮(せん)かあらんずるぞ」とせいする【制する】間(あひだ)、げにもと
思(おも)ひ、小坂(こざか)のあるをさきにうちのぼせ【上せ】、馬(むま)のかしら【頭】を
くだりさまにひ(ッ)【引つ】たてて、御方(みかた)のせい【勢】をまつところ【所】に、
P09099
成田(なりだ)もつづひ(つづい)【続い】ていで【出で】きたり。うちならべていくさ【軍】の
やう【様】をもいひあはせ【合はせ】んずるかとおもひ【思ひ】たれば、さは
なくて、季重(すゑしげ)をばすげなげにうちみて、やがて
つ(ッ)とはせ【馳せ】ぬいてとをる(とほる)【通る】あひだ【間】、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、此(この)ものはたば
か(ッ)て、先(さき)かけうどしけるよ」とおもひ【思ひ】、五六段(ごろくたん)ばかり
さきだ(ッ)たるを、あれが馬(むま)は我(わが)馬(むま)よりはよはげ(よわげ)【弱気】なる物(もの)
をと目(め)をかけ、一(ひと)もみもうでお(ッ)【追つ】ついて、「まさなうも
季重(すゑしげ)ほどの物(もの)をばたばかりたまふ【給ふ】ものかな」といひ
かけ、うちすててよせつれば、はるかにさがりぬらん。よも
P09100
うしろかげをも見(み)たらじ」とぞいひける。熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)、
かれこれ【彼此】五騎(ごき)でひかへたり。さる程(ほど)に、しののめやうやう
あけゆけ【行け】ば、熊谷(くまがへ)は先(さき)になの(ッ)【名乗つ】たれども【共】、平山(ひらやま)がきく
になのら【名乗ら】んとやおもひ【思ひ】けん、又(また)かいだて【垣楯】のきはにあ
ゆま【歩ま】せより、大音声(だいおんじやう)をあげて、「以前(いぜん)になの(ッ)【名乗つ】つる
武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん)、熊谷(くまがへの)二郎(じらう)直実(なほざね)、子息(しそく)の小二郎(こじらう)直家(なほいへ)、
一(いち)の谷(たに)の先陣(せんぢん)ぞや、われとおもは【思は】ん平家(へいけ)の侍(さぶらひ)共(ども)
は直実(なほざね)におち【落ち】あへ【合へ】や、おち【落ち】あへ【合へ】」とぞののし(ッ)たる。是(これ)
をきい【聞い】て、「いざや、夜(よ)もすがらなのる【名乗る】熊谷(くまがへ)おや子(こ)【親子】
P09101
ひ(ッ)【引つ】さげてこん」とて、すすむ平家(へいけ)の侍(さぶらひ)たれたれぞ、
越中(ゑつちゆうの)二郎兵衛(じらうびやうゑ)盛嗣(もりつぎ)・上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)忠光(ただみつ)・悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)
景清(かげきよ)・後藤内[B 「五藤内」とあり「五」に「後」と傍書](ごとうない)定経(さだつね)、これをはじめてむねとのつは
もの【兵】廿(にじふ)余騎(よき)、木戸(きど)をひらいてかけいで【出で】たり。ここに
平山(ひらやま)、しげ目(め)ゆひ【滋目結】の直垂(ひたたれ)にひおどし(ひをどし)【緋縅】の鎧(よろひ)きて、
二(ふたつ)ひきりやう【引両】のほろをかけ、目糟毛(めかすげ)といふきこゆる【聞ゆる】
名馬(めいば)にぞの(ッ)【乗つ】たりける。旗(はた)さし【旗差し】は黒(くろ)かは威(をどし)の鎧(よろひ)に、
甲(かぶと)ゐくび【猪頸】にきないて、さび月毛(つきげ)なる馬(むま)にぞの(ッ)【乗つ】たり
ける。「保元(ほうげん)・平治(へいぢ)両度(りやうど)の合戦(かつせん)に先(さき)かけたりし武蔵
P09102
国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん)、平山(ひらやまの)武者所(むしやどころ)季重(すゑしげ)」となの(ッ)【名乗つ】て、旗(はた)さしと
二騎(にき)馬(むま)のはなをならべておめい(をめい)【喚い】てかく。熊谷(くまがへ)
かくれば平山(ひらやま)つづき、平山(ひらやま)かくれば熊谷(くまがへ)つづく。たがひに
われおとら【劣ら】じと入(いれ)かへ【換へ】入(いれ)かへ【換へ】、もみにもうで、火(ひ)いづる【出づる】
程(ほど)ぞせめ【攻め】たりける。平家(へいけ)の侍(さぶらひ)ども【共】手(て)いたうかけ
られて、かなは【叶は】じとやおもひけん、城(じやう)のうちへざ(ッ)と
ひき【引き】、敵(かたき)をとざま【外様】にないてぞふせき【防き】ける。熊谷(くまがへ)は
馬(むま)のふと腹(はら)い【射】させて、はぬれば足(あし)をこえ【越え】ており
立(たち)たり。子息(しそく)の小二郎(こじらう)直家(なほいへ)も、「生年(しやうねん)十六歳(じふろくさい)」となの(ッ)【名乗つ】て、
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かいだてのきはに馬(むま)の鼻(はな)をつかする程(ほど)責(せめ)寄(よせ)て
たたかひ【戦ひ】けるが、弓手(ゆんで)のかいな(かひな)【腕】をい【射】させて馬(むま)より
とびおり、父(ちち)となら(ン)でた(ッ)たりけり。「いかに小二郎(こじらう)、手(て)おふ(おう)
たか」。「さ(ン)候(ざうらふ)」。「つねに鎧(よろひ)づきせよ、うらかかすな。しころをかた
ぶけよ【傾けよ】、うちかぶとい【射】さすな」とぞをしへ【教へ】ける。熊谷(くまがへ)
は鎧(よろひ)にた(ッ)たる矢(や)ども【共】かなぐりすてて、城(じやう)の内(うち)をにら
まへ【睨まへ】、大音声(だいおんじやう)をあげて、「こぞの冬(ふゆ)の比(ころ)鎌倉(かまくら)を出(いで)
しより、命(いのち)をば兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)にたてまつり【奉り】、かばねをば
一谷(いちのたに)でさらさんとおもひ【思ひ】き(ッ)たる直実(なほざね)ぞや。「室山(むろやま)・
P09104
水島(みづしま)二ケ度(にかど)の合戦(かつせん)に高名(かうみやう)したり」となのる【名乗る】越中(ゑつちゆうの)
次郎兵衛(じらうびやうゑ)はないか、上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)、悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)はないか、
能登殿(のとどの)はましまさぬか。高名(かうみやう)も敵(かたき)によ(ッ)てこそすれ。
人(ひと)ごとにあふ(あう)【逢う】てはえせまじものを。直実(なほざね)におち【落ち】あへ【合へ】
やおち【落ち】あへ【合へ】」とののし(ッ)たる。是(これ)をきい【聞い】て、越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)、
このむ装束(しやうぞく)なれば、こむらご【紺村濃】の直垂(ひたたれ)にあかおどし(あかをどし)【赤威】の
鎧(よろひ)きて、白葦毛(しらあしげ)なる馬(むま)にのり、熊谷(くまがへ)に目(め)をかけて
あゆま【歩ま】せよる。熊谷(くまがへ)おや子(こ)【親子】は、なか【中】をわられじとたち【立ち】
ならんで、太刀(たち)をひたい(ひたひ)にあて、うしろへひとひき【一引】も
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ひかず、いよいよまへへぞすすみける。越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)叶(かな)
はじとや思(おも)ひけん、と(ッ)てかへす【返す】。熊谷(くまがへ)これ【是】をみて、
「いかに、あれは越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)とこそみれ【見れ】。敵(かたき)にはどこを
きらふぞ。直実(なほざね)にをし(おし)【押し】ならべてくめやくめ」といひ
けれども、「さもさうず」とてひ(ッ)【引つ】かへす【返す】。悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)是(これ)
をみて、「きたない殿原(とのばら)のふるまひ【振舞ひ】やうかな」とて、
すでにくまんとかけいで【出で】けるを、鎧(よろひ)の袖(そで)をひかへ
て「君(きみ)の御大事(おんだいじ)是(これ)にかぎるまじ。あるべうもなし」
とせいせ【制せ】られてくまざりけり。其(その)後(のち)熊谷(くまがへ)はのり
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がへにの(ッ)【乗つ】ておめい(をめい)【喚い】てかく。平山(ひらやま)も熊谷(くまがへ)おや子(こ)【親子】が
たたかふ【戦ふ】まぎれに、馬(むま)のいきやすめて、是(これ)も又(また)つづい
たり。平家(へいけ)のかた【方】には馬(むま)にの(ッ)【乗つ】たる武者(むしや)はすくなし、
矢倉(やぐら)のうへ【上】の兵(つはもの)ども【共】、矢(や)さき【矢先】をそろへて、雨(あめ)の
ふるやう【様】にい【射】けれども、敵(かたき)はすくなし、みかた【御方】はおほし、
せい【勢】にまぎれて矢(や)にもあたらず、「ただをし(おし)【押し】ならべて
くめやくめ」と下知(げぢ)しけれども【共】、平家(へいけ)の馬(むま)は
のる事(こと)はしげく、かう(かふ)【飼ふ】事(こと)はまれなり、舟(ふね)にはひさ
しう【久しう】たて【立て】たり、より[B 「より」に「彫」と傍書]き(ッ)たる様(やう)なりけり。熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)が
P09107
馬(むま)は、かい(かひ)【飼ひ】にかう【飼う】たる大(だい)の馬(むま)ども【共】なり、ひとあてあてば、
みなけたをさ(たふさ)【倒さ】れぬべきあひだ【間】、をし(おし)【押し】ならべてくむ
武者(むしや)一騎(いつき)もなかりけり。平山(ひらやま)は身(み)にかへて思(おも)ひ
ける旗(はた)さし【旗差し】をい【射】させて、かたき【敵】のなか【中】へわ(ッ)ていり、
やがて其(その)敵(かたき)をと(ッ)てぞ出(いで)たりける。熊谷(くまがへ)も分捕(ぶんどり)あ
またしたりけり。熊谷(くまがへ)さきによせたれど、木戸(きど)を
ひらかねばかけいらず、平山(ひらやま)後(のち)によせたれど、木戸(きど)を
あけたればかけ入(いり)ぬ。さてこそ熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)が一二(いちに)の
『二度(にど)之(の)懸(かけ)』S0911
かけをばあらそひけれ。○さるほど【程】に、成田(なりだ)五郎(ごらう)も
P09108
出(いで)きたり。土肥(とひの)次郎(じらう)ま(ッ)さきかけ、其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、色々(いろいろ)
の旗(はた)さし【差し】あげ【上げ】、おめき(をめき)【喚き】さけ(ン)【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。大手(おほて)
生田(いくた)の森(もり)にも源氏(げんじ)五万(ごまん)余騎(よき)でかためたりけるが、
其(その)勢(せい)のなか【中】に武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん)、河原(かはら)太郎(たらう)・河原(かはら)次郎(じらう)
といふものあり【有り】。河原(かはら)太郎(たらう)弟(おとと)の次郎(じらう)をよう【呼う】でいひ
けるは、「大名(だいみやう)は我(われ)と手(て)をおろさねども【共】、家人(けにん)の
高名(かうみやう)をも(ッ)て名誉(めいよ)す。われら【我等】はみづから手(て)をおろ
さずはかなひ【叶ひ】がたし。かたき【敵】をまへにをき(おき)【置き】ながら、矢(や)
ひとつ【一つ】だにもい【射】ずして、まちゐたるがあまりにこころ【心】
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もとなう覚(おぼ)ゆるに、高直(たかなほ)はまづ城(じやう)の内(うち)へまぎれ
入(いり)て、ひと矢(や)い【射】んとおもふ【思ふ】なり。されば千万(せんまん)が一(ひとつ)もいき【生き】
てかへらん事(こと)ありがたし。わ殿(との)はのこりとどま(ッ)【留まつ】て、後(のち)の
証人(しようにん)にたて」といひければ、河原(かはら)次郎(じらう)涙(なみだ)をはらはら
とながひ(ながい)【流い】て、「口惜(くちをし)い事(こと)をものたまふ物(もの)かな。ただ
兄弟(きやうだい)二人(ににん)ある物(もの)が、あに【兄】をうたせておとと【弟】が一人(いちにん)のこ
りとどま(ッ)【留まつ】たらば、いく程(ほど)の栄花(えいぐわ)をかたもつ【保つ】べき。
所々(ところどころ)でうた【討た】れんよりも、ひとところ【一所】でこそいかにも
ならめ」とて、下人(げにん)どもよびよせ、最後(さいご)のありさま【有様】
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妻子(さいし)のもとへいひつかはし【遣し】、馬(むま)にものらずげげ[B 「げげ」に「芥下」と傍書]をはき、
弓杖(ゆんづゑ)をつい【突い】て、生田森(いくたのもり)のさかも木(ぎ)【逆茂木】をのぼりこえ、
城(じやう)のうちへぞ入(いり)たりける。星(ほし)あかり【星明かり】に鎧(よろひ)の毛(け)も
さだかならず。河原(かはら)太郎(たらう)大音声(だいおんじやう)をあげて、「武蔵
国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん)、河原(かはら)太郎(たらう)私[B ノ](きさいちの)高直(たかなほ)、同(おなじく)次郎(じらう)盛直(もりなほ)、源氏(げんじ)の
大手(おほて)生田[B ノ]森(いくたのもり)の先陣(せんぢん)ぞや」とぞなの(ッ)【名乗つ】たる。平家(へいけ)の方(かた)
には是(これ)をきい【聞い】て、「東国(とうごく)の武士(ぶし)ほどおそろし
かり【恐ろしかり】けるものはなし。是(これ)程(ほど)の大(おほ)ぜい【大勢】の中(なか)へただ
二人(ににん)入(いつ)たらば、何(なに)ほど【程】の事(こと)をかしいだすべき。よしよし
P09111
しばしあひせよ(あいせよ)【愛せよ】」とて、うたんといふものなかりけり。
是等(これら)おととい【兄弟】究竟(くつきやう)の弓(ゆみ)の上手(じやうず)なれば、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】
さんざん【散々】にいる【射る】あひだ【間】、「にくし、うてや」といふ程(ほど)こそ
あり【有り】けれ、西国(さいこく)にきこえ【聞え】たるつよ弓(ゆみ)【強弓】せい兵(びやう)【精兵】、備中国(びつちゆうのくにの)住
人(ぢゆうにん)、真名辺[B ノ](まなべの)四郎(しらう)・真名辺(まなべの)五郎(ごらう)とておととひ(おととい)【兄弟】あり【有り】。
四郎(しらう)は一(いち)の谷(たに)にをか(おか)【置か】れたり。五郎(ごらう)は生田森(いくたのもり)にあり【有り】
けるが、是(これ)を見(み)てよ(ッ)ぴいてひやうふつといる【射る】。河原(かはら)
太郎(たらう)が鎧(よろひ)のむないたうしろ【後】へつ(ッ)とい【射】ぬかれて、弓杖(ゆんづゑ)に
すがり、すくむところ【所】を、おとと【弟】の次郎(じらう)はしり【走り】よ(ッ)【寄つ】て
P09112
是(これ)をかたにひ(ッ)【引つ】かけ、さかも木(ぎ)【逆茂木】をのぼりこえんと
しけるが、真名辺(まなべ)が二(に)の矢(や)によろひ【鎧】の草摺(くさずり)の
はづれをい【射】させて、おなじ枕(まくら)にふしにけり。真名辺(まなべ)が
下人(げにん)おち【落ち】あふ(あう)【逢う】て、河原(かはら)兄弟(きやうだい)が頸(くび)をとる。是(これ)を新
中納言(しんぢゆうなごん)の見参(げんざん)に入(いれ)たりければ、「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)剛(かう)の者(もの)かな。
これ【是】をこそ一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ともいふべけれ。あ(ッ)たら者(もの)
どもをたすけ【助け】てみで」とぞのたまひ【宣ひ】ける。其(その)時(とき)下
人(げにん)ども【共】、「河原殿(かはらどの)おととい【兄弟】、只今(ただいま)城(じやう)の内(うち)へま(ッ)さきかけて
うた【討た】れ給(たま)ひぬるぞや」とよばはり【呼ばはり】ければ、梶原(かぢはら)是(これ)を
P09113
きき、「私(し)の党(たう)の殿原(とのばら)の不覚(ふかく)でこそ、河原(かはら)兄弟(きやうだい)
をばうたせたれ。いま【今】は時(とき)よくなり【成り】ぬ。よせよや」とて、
時(とき)をど(ッ)とつくる。やがてつづひ(つづい)【続い】て五万(ごまん)余騎(よき)一度(いちど)に
時(とき)をぞつくりける。足(あし)がる共(ども)にさかも木(ぎ)【逆茂木】取(とり)のけさせ、
梶原(かぢはら)五百(ごひやく)余騎(よき)おめひ(をめい)【喚い】てかく。次男(じなん)平次(へいじ)景高(かげたか)、余(あまり)
にさきをかけんとすすみければ、父(ちち)の平三(へいざう)使者(ししや)を
たてて、「後陣(ごぢん)の勢(せい)のつづかざらんに、さきかけたらん
者(もの)は、勧賞(けんじやう)あるまじき由(よし)、大将軍(たいしやうぐん)のおほせぞ」と
いひければ、平次(へいじ)しばしひかへて
P09114
「もののふのとりつたへたるあづさ弓(ゆみ)
ひいては人(ひと)のかへすものかは W069
と申(まう)させ給(たま)へ」とて、おめい(をめい)【喚い】てかく。「平次(へいじ)うたすな、
つづけやものども【共】、景高(かげたか)うたすな、つづけやもの【者】ども【共】」
とて、父(ちち)の平三(へいざう)、兄(あに)の源太(げんだ)、同(おなじく)三郎(さぶらう)つづいたり。梶原(かぢはら)
五百(ごひやく)余騎(よき)、大勢(おほぜい)のなかへかけいり、さんざん【散々】にたたかひ【戦ひ】、
わづかに五十騎(ごじつき)ばかりにうちなされ、ざ(ッ)とひい【退い】てぞ
出(いで)たりける。いかがしたりけん、其(その)なかに景季(かげすゑ)はみえ【見え】ざり
けり。「いかに源太(げんだ)は、郎等(らうどう)ども【共】」ととひければ、「ふかいり【深入り】し
P09115
てうたれさせ給(たま)ひて候(さうらふ)ごさ(ン)めれ」と申(まうす)。梶原(かぢはら)平三(へいざう)
是(これ)をきき、「世(よ)にあらんとおもふ【思ふ】も子共(こども)がため、源太(げんだ)うた
せて命(いのち)いきても何(なに)かはせん、かへせや」とてと(ッ)て
かへす。梶原(かぢはら)大音声(だいおんじやう)をあげてなのり【名乗り】けるは、「昔(むかし)八幡
殿(はちまんどの)、後三年(ごさんねん)の御(おん)たたかひ【戦ひ】に、出羽国(ではのくに)千福(せんぶく)金沢(かなざは)の城(じやう)
を攻(せめ)させ給(たま)ひける時(とき)、生年(しやうねん)十六歳(じふろくさい)でま(ッ)さき
かけ、弓手(ゆんで)の眼(まなこ)を甲(かぶと)の鉢付(はちつけ)の板(いた)にい【射】つけられな
がら、当(たう)の矢(や)をい【射】て其(その)敵(かたき)をい【射】おとし【落し】、後代[B 氏](こうたい)に名(な)を
あげたりし鎌倉(かまくらの)権五郎(ごんごらう)景正(かげまさ)が末葉(ばつえふ)、梶原(かぢはら)平三(へいざう)
P09116
景時(かげとき)、一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ぞや。我(われ)とおもは【思は】ん人々(ひとびと)は、景
時(かげとき)う(ッ)【打つ】て見参(げんざん)にいれよ【入れよ】や」とて、おめい(をめい)【喚い】てかく。
新中納言(しんぢゆうなごん)「梶原(かぢはら)は東国(とうごく)にきこえ【聞え】たる兵(つはもの)ぞ。あます
な、もらす【漏らす】な、うてや」とて、大勢(おほぜい)のなかに取(とり)こめて
攻(せめ)給(たま)へば、梶原(かぢはら)まづ我(わが)身(み)のうへ【上】をばしら【知ら】ずして、
「源太(げんだ)はいづくにあるやらん」とて、数万騎(すまんぎ)の大勢(おほぜい)の
なかを、たてさま・よこさま・蛛手(くもで)・十文字(じふもんじ)にかけ
わりかけまはりたづぬる程(ほど)に、源太(げんだ)はのけ甲(かぶと)に
たたかい(たたかひ)【戦ひ】な(ッ)て、馬(むま)をもい【射】させ、かち立(だち)になり、二丈(にぢやう)計(ばかり)
P09117
あり【有り】ける岸(きし)をうしろにあて【当て】、敵(かたき)五人(ごにん)がなか【中】に取(とり)
籠(こめ)られ、郎等(らうどう)二人(ににん)左右(さう)にたて【立て】て、面(おもて)(ヲモテ)もふらず、命(いのち)も
おしま(をしま)【惜しま】ず、ここを最後(さいご)とふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。梶原(かぢはら)是(これ)
を見(み)つけて、「いまだうた【討た】れざりけり」と、いそぎ馬(むま)
よりとんでおり、「景時(かげとき)ここにあり【有り】。いかに源太(げんだ)、しぬ
る【死ぬる】とも敵(かたき)にうしろをみすな」とて、おや子(こ)【親子】して
五人(ごにん)の敵(かたき)、三人(さんにん)う(ッ)とり、二人(ににん)に手(て)おほせ【負せ】、「弓矢(ゆみや)とりは
かくる【駆くる】もひくもおり(をり)【折】にこそよれ、いざうれ、源太(げんだ)」とて、
かい具(ぐ)してぞ出(いで)たりける。梶原(かぢはら)が二度(にど)のかけ【駆け】とは
P09118
『坂落(さかおとし)』S0912
これ【是】なり。○是(これ)をはじめ【始め】て、秩父(ちちぶ)・足利(あしかが)・三浦(みうら)・鎌倉(かまくら)、党(たう)
には猪俣(ゐのまた)・児玉(こだま)・野井与(のゐよ)・横山(よこやま)・にし【西】党(たう)・都筑党(つづきたう)・私(し)
の党(たう)の兵(つはもの)ども【共】、惣(そう)じて源平(げんぺい)乱(みだれ)あひ、いれ【入れ】かへいれ【入れ】かへ、
名(な)のりかへ名(な)のりかへおめき(をめき)【喚き】さけぶ【叫ぶ】声(こゑ)、山(やま)をひびかし、
馬(むま)の馳(はせ)ちがふをと(おと)【音】はいかづちの如(ごと)し。い【射】ちがふる矢(や)は
雨(あめ)のふるにことならず。手負(ておひ)(テヲイ)をば肩(かた)にかけ、うしろへ
ひき【引き】しりぞくもあり。うすで【薄手】おふ(おう)【負う】てたたかふ【戦ふ】もあり【有り】。
いた手(で)【痛手】負(おう)て討死(うちじに)するものもあり【有り】。或(あるい)はおしならべて
くんでおち【落ち】、さしちがへて死(し)ぬるもあり、或(あるい)は
P09119
と(ッ)ておさへ【抑へ】て頸(くび)をかくもあり、かかるるもあり、いづれ
ひまありとも見(み)えざりけり。かかりしかども【共】、源氏(げんじ)
大手(おほて)ばかりではかなふ【叶ふ】べしとも見(み)えざりしに、
九郎(くらう)御曹司(おんざうし)搦手(からめて)にまは(ッ)て七日(なぬか)のひの明(あけ)ぼのに、
一(いち)の谷(たに)のうしろ鵯越(ひよどりごえ)にうちあがり【上がり】、すでにおとさ【落さ】ん
としたまふ【給ふ】に、其(その)勢(せい)にや驚(おどろい)たりけん、大鹿(おほじか)二(ふたつ)妻鹿(めじか)
一(ひとつ)、平家(へいけ)の城郭(じやうくわく)一谷(いちのたに)へぞ落(おち)たりける。城(じやう)のうちの
兵(つはもの)ども是(これ)を見(み)て、「里(さと)ちかから【近から】ん鹿(しし)だにも、我等(われら)に
おそれ【恐れ】ては山(やま)ふかうこそ入(いる)べきに、是(これ)程(ほど)の大勢(おほぜい)の
P09120
なかへ、鹿(しし)のおちやう【落ち様】こそあやしけれ。いかさまにも
うへ【上】の山(やま)より源氏(げんじ)おとす【落す】にこそ」とさはぐ(さわぐ)【騒ぐ】ところ【所】に、
伊与【伊予】国(いよのくにの)住人(ぢゆうにん)、武知(たけち)の武者所(むしやどころ)清教(きよのり)、すすみ出(いで)て、「なんで
まれ、敵(かたき)の方(かた)よりいで【出で】きたらんもの【物】をのがすべき
やう【様】なし」とて、大鹿(おほじか)二(ふた)つい【射】とどめ【留め】て、妻鹿(めじか)をばい【射】でぞ
とをし(とほし)ける。越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)「せんない殿原(とのばら)の鹿(しし)のいやう【射様】
かな。唯今(ただいま)の矢(や)一(ひとつ)では敵(かたき)十人(じふにん)はふせか【防か】んずる物(もの)を。
罪(つみ)つくりに、矢(や)だうなに」とぞせいし【制し】ける。御曹司(おんざうし)城郭(じやうくわく)
はるか【遥】に見(み)わたい【渡い】ておはしけるが、「馬(むま)ども【共】をとい(おとい)て
P09121
みむ」とて、鞍(くら)をき馬(むま)(くらおきむま)【鞍置馬】をO[BH 追(おひ)]おとす【落す】。或(あるい)は足(あし)をうちお(ッ)(をつ)【折つ】て、
ころんでおつ、或(あるい)はさうい(さうゐ)【相違】なくおち【落ち】てゆく【行く】もあり【有り】。
鞍(くら)をき馬(むま)(くらおきむま)【鞍置馬】三疋(さんびき)、越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)が屋形(やかた)のうへ【上】におち【落ち】つい【着い】
て、身(み)ぶるい(みぶるひ)【身振るひ】してぞ立(たち)たりける。御曹司(おんざうし)是(これ)をみて
「馬(むま)ども【共】はぬしぬしが心得(こころえ)ておとさ【落さ】うにはそんずまじ
ひ(まじい)ぞ。くはおとせ【落せ】、義経(よしつね)を手本(てほん)にせよ」とて、まづ
卅騎(さんじつき)ばかり、ま(ッ)さきかけておとさ【落さ】れけり。大勢(おほぜい)みな
つづひ(つづい)【続い】ておとす【落す】。後陣(ごぢん)におとす【落す】人々(ひとびと)のあぶみの
鼻(はな)は、先陣(せんぢん)の鎧(よろひ)甲(かぶと)にあたるほどなり。小石(こいし)まじりの
P09122
すなご【砂子】なれば、ながれおとし【流落】に二町(にちやう)計(ばかり)ざ(ッ)とおとひ(おとい)【落い】て、
壇(だん)なるところ【所】にひかへたり。それよりしもを見(み)くだ
せば、大盤石(だいばんじやく)の苔(こけ)むしたるが、つるべおとし【釣瓶落し】に十四〔五〕(じふしご)丈(ぢやう)ぞ
くだ(ッ)たる。兵(つはもの)ども【共】うしろへと(ッ)てかへすべきやうもなし、
又さきへおとすべしともみえず。「ここぞ最後(さいご)と申(まうし)て
あきれてひかへたるところ【所】に、佐原(さはらの)十郎(じふらう)義連(よしつら)すすみ
いで【出で】て申(まうし)けるは、「三浦(みうら)の方(かた)で我等(われら)は鳥(とり)ひとつ【一つ】たて【立て】ても、
朝(あさ)ゆふか様(やう)【斯様】のところ【所】をこそはせ【馳せ】ありけ【歩け】。三浦(みうら)の方(かた)
の馬場(ばば)や」とて、ま(ッ)さきかけておとし【落し】ければ、
P09123
兵(つはもの)ども【共】みなつづい【続い】ておとす【落す】。ゑいゑい声(ごゑ)(えいえいごゑ)をしのび【忍び】に
して、馬(むま)にちからをつけておとす【落す】。あまり【余り】のいぶせ
さに、目(め)をふさいでぞおとし【落し】ける。おほかた【大方】人(ひと)のしわ
ざとはみえ【見え】ず。ただ鬼神(きじん)の所為(しよゐ)とぞみえ【見え】たりける。
おとし【落し】もはてねば、時(とき)をど(ッ)とつくる。三千(さんぜん)余騎(よき)が声(こゑ)
なれど、山(やま)びこにこたへて十万(じふまん)余騎(よき)とぞきこえ【聞え】
ける。村上(むらかみ)の判官代(はんぐわんだい)康国(やすくに)が手(て)より火(ひ)をいだし【出だし】、平
家(へいけ)の屋形(やかた)、かり屋(や)【仮屋】をみな焼払(やきはら)ふ。おりふし(をりふし)【折節】風(かぜ)は
はげしし、くろ煙(けぶり)おしかくれば、平氏(へいじ)の軍兵(ぐんびやう)ども【共】
P09124
あまり【余り】にあはて(あわて)【慌て】さはひ(さわい)【騒い】で、若(もし)やたすかると前(まへ)の
海(うみ)へぞおほく【多く】はせ【馳せ】いりける。汀(みぎは)にはまうけ舟(ぶね)[B 「まうけ」に「タスケイ」と傍書]【設け船】いく
らもあり【有り】けれども、われさきにのらうど、舟(ふね)一艘(いつさう)には
物具(もののぐ)したる者(もの)ども【共】が四五百人(しごひやくにん)、〔千人(せんにん)〕ばかりこみ【込み】のら【乗ら】うに、
なじかはよかるべき。汀(みぎは)よりわづかに三町(さんぢやう)ばかり
おしいだひ(いだい)【出い】て、目(め)の前(まへ)に大(おほ)ふね【大船】三(さん)ぞう(さんざう)【三艘】しづみに
けり。其(その)後(のち)は「よき人(ひと)をばのすとも【共】、雑人共(ざふにんども)をば
のすべからず」とて、太刀(たち)長刀(なぎなた)でなが【薙が】せけり。かくする
事(こと)とは知(しり)ながら、のせ【乗せ】じとする舟(ふね)にとり【取り】つき【付き】、つかみ
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つき、或(あるい)はうで【腕】うちきられ、或(あるい)はひぢ【肘】うちおとさ【落さ】れ
て、一(いち)の谷(たに)の汀(みぎは)にあけ【朱】にな(ッ)てぞなみ【並み】ふし【臥し】たる。
能登守(のとのかみ)教経(のりつね)は、度々(どど)のいくさに一度(いちど)もふかく【不覚】せぬ人(ひと)の、
今度(こんど)はいかがおもは【思は】れけん、うす黒(ぐろ)【薄黒】といふ馬(むま)にのり、
西(にし)をさい【指い】てぞ落(おち)たまふ【給ふ】。播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)より舟(ふね)に
『越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)最期(さいご)』S0913
の(ッ)【乗つ】て、讃岐(さぬき)の八島(やしま)へ渡(わた)り給(たま)ひぬ。○大手(おほて)にも浜(はま)の
手(て)にも、武蔵(むさし)・相模(さがみ)の兵(つはもの)ども【共】、命(いのち)もおしま(をしま)【惜しま】ずせめ【攻め】
たたかふ【戦ふ】。新中納言(しんぢゆうなごん)は東(ひがし)にむか(ッ)【向つ】てたたかい(たたかひ)【戦ひ】給(たま)ふとこ
ろ【所】に、山(やま)のそは【岨】よりよせける児玉党(こだまたう)使者(ししや)をたてま(ッ)【奉つ】て、
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「君(きみ)はO[BH 一年(ひととせ)]武蔵(むさし)の国司(こくし)でましまし候(さうらひ)しあひだ【間】、これ【是】は児玉(こだま)
の者(もの)ども【共】が申(まうし)候(さうらふ)。御(おん)うしろをば御覧(ごらん)候(さうら)はぬやらん」と
申(まうす)。新中納言(しんぢゆうなごん)以下(いげ)の人々(ひとびと)、うしろをかへりみたまへ【給へ】ば、
くろ煙(けぶり)をし(おし)【押し】かけたり。「あはや、西(にし)の手(て)はやぶれに
けるは」といふほど【程】こそありけれ、とる物(もの)もとりあへず
我(われ)さきにとぞ落(おち)行(ゆき)ける。越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)は、山(やまの)手(て)
の侍大将(さぶらひだいしやう)にてあり【有り】けるが、いま【今】はおつ【落つ】ともかなは【叶は】じ
とやおもひ【思ひ】けん、ひかへて敵(かたき)を待(まつ)ところ【所】に、猪俣(ゐのまた)の
小平六(こべいろく)則綱(のりつな)、よい敵(かたき)と目(め)をかけ、鞭(むち)あぶみを合(あは)せて
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はせ【馳せ】来(きた)り、おしならべてむずとくう【組う】でどうどおつ。
猪俣(ゐのまた)は八ケ国(はつかこく)にきこえ【聞え】たるしたたか者(もの)【強者】也(なり)。か【鹿】の角(つの)の
一二(いちに)のくさかりをばたやすうひ(ッ)【引つ】さき【裂き】けるとぞ聞(きこ)えし。
越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)は二三十人(にさんじふにん)が力(ちから)わざ【力業】をするよし人目(ひとめ)には
みえ【見え】けれども【共】、内々(ないない)は六七十人(ろくしちじふにん)してあげをろす(おろす)【下す】舟(ふね)を、
唯(ただ)一人(いちにん)しておしあげをし(おし)【押し】おろす程(ほど)の大力(だいぢから)なり。
されば猪俣(ゐのまた)をと(ッ)ておさへ【抑へ】てはたらかさ【働かさ】ず。猪俣(ゐのまた)
したにふし【臥し】ながら、刀(かたな)をぬかうどすれども、ゆび【指】はたか(ッ)て
刀(かたな)のつかにぎる【握る】にも及(およ)ばず。物(もの)をいはうどすれども【共】、
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あまりにつよう【強う】おさへ【抑へ】られて声(こゑ)もいで【出で】ず。既(すで)に
頸(くび)をかかれんとしけるが、ちから【力】はおと(ッ)たれ共(ども)、心(こころ)はかう【剛】
成(なり)ければ、猪俣(ゐのまた)すこし【少し】もさはが(さわが)【騒が】ず、しばらくいきを
やすめ、さらぬてい【体】にもてなして申(まうし)けるは、
「抑(そもそも)なの(ッ)【名乗つ】つるをばきき給(たま)ひてか。敵(かたき)をうつといふは、我(われ)も
なの(ッ)【名乗つ】てきかせ、敵(かたき)にもなのらせて頸(くび)をと(ッ)たればこそ
大功(たいこう)なれ。名(な)もしらぬ頸(くび)と(ッ)ては、何(なに)にかしたまふ【給ふ】
べき」といはれて、げにもとやおもひ【思ひ】けむ、「これ【是】は
もと平家(へいけ)の一門(いちもん)たりしが、身(み)不肖(ふせう)なるによ(ッ)て
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当時(たうじ)は侍(さぶらひ)な(ッ)たる越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)盛俊(もりとし)といふもの【者】也(なり)。わ君(ぎみ)
は何(なに)もの【何者】ぞ、なのれ【名乗れ】、きかう」どいひければ、「武蔵国(むさしのくにの)住
人(ぢゆうにん)、猪俣(ゐのまたの)小平六(こべいろく)則綱(のりつな)」となのる。「倩(つらつら)此(この)世間(よのなか)の有(あり)さま【有様】を
みる【見る】に、源氏(げんじ)の御(おん)かた【御方】はつよく、平家(へいけ)の御(おん)かた【御方】はまけい
ろ【負色】にみえ【見え】させ給(たまひ)たり。いま【今】はしう(しゆう)【主】の世(よ)にましまさばこそ、
敵(かたき)のくびと(ッ)てまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、勲功(くんこう)勧賞(けんじやう)にもあづかり【預り】
給(たま)はめ。理(り)をまげて則綱(のりつな)たすけ【助け】給(たま)へ。御(ご)へんの一
門(いちもん)なん十人(じふにん)もおはせよ、則綱(のりつな)が勲功(くんこう)の賞(しやう)に申(まうし)
かへてたすけ【助け】[* 「たけん」と有るのを他本により訂正]奉(たてまつ)らん」といひければ、越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)大(おほき)に
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怒(いかつ)て、「盛俊(もりとし)身(み)こそ不肖(ふせう)なれども【共】、さすが平家(へいけ)の一門(いちもん)也(なり)。
源氏(げんじ)たのま【頼ま】うどは思(おも)はず。源氏(げんじ)又(また)盛俊(もりとし)にたのま【頼ま】
れうどもよも思(おも)はじ。に(ッ)くい君(きみ)が申(まうし)やう【申様】かな」とて、
頸(くび)をかかんとしければ、猪俣(ゐのまた)「まさなや、降人(かうにん)の頸(くび)かく
様(やう)や候(さうらふ)」。越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)「さらばたすけ【助け】ん」とてひき【引き】おこす。
まへは畠(はたけ)のやうにひあが(ッ)【上がつ】て、きはめてかたかりけるが、
うしろは水田(みづた)のごみふかかり【深かり】けるくろ【畔】のうへ【上】に、二人(ににん)の
者(もの)ども【共】腰(こし)うちかけていきづきゐたり。しばしあ(ッ)て、
黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)きて月毛(つきげ)なる馬(むま)にの(ッ)【乗つ】たる武者(むしや)
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一騎(いつき)はせ【馳せ】来(きた)る。越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)あやしげにみければ、「あれは
則綱(のりつな)がしたしう【親しう】候(さうらふ)人見(ひとみ)の四郎(しらう)と申(まうす)者(もの)で候(さうらふ)。則綱(のりつな)
が候(さうらふ)をみてまうで【詣で】くると覚(おぼえ)候(さうらふ)。くるしう【苦しう】候(さうらふ)まじ」と
いひながら、あれがちかづひ(ちかづい)【近づい】たらん時(とき)に、越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)に
くんだらば、さりとも【共】おち【落ち】あはんずらんと思(おも)ひて
待(まつ)ところ【所】に、一段(いつたん)ばかりちかづい【近づい】たり。越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)はじめ【始め】
はふたりを一目(ひとめ)づつ見(み)けるが、次第(しだい)にちかう成(なり)ければ、
馳(はせ)来(きた)る敵(かたき)をはたとまも(ッ)【守つ】て、猪俣(ゐのまた)をみぬひまに、
ちから足(あし)をふんでつい立(たち)あがり【上がり】、ゑい(えい)といひて
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もろ手(て)をも(ッ)て、越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)が鎧(よろひ)のむないた【胸板】をばく
とつい【突い】て、うしろの水田(みづた)へのけにつき【突き】たをす(たふす)【倒す】。おき【起き】
あがら【上がら】んとする所(ところ)に、猪俣(ゐのまた)うへ【上】にむずとのりかかり、
やがて越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)が腰(こし)の刀(かたな)をぬき、鎧(よろひ)の草摺(くさずり)ひき【引き】
あげて、つかもこぶし【拳】もとをれ(とほれ)【通れ】とをれ(とほれ)【通れ】と三刀(みかたな)さいて
頸(くび)をとる。さる程(ほど)に人見(ひとみ)の四郎(しらう)おち【落ち】あふ(あう)【合う】たり。か様(やう)【斯様】の
時(とき)は論(ろん)ずる事(こと)もありとおもひ【思ひ】、太刀(たち)のさきに
つらぬき、たかくさし【差し】あげ【上げ】、大音声(だいおんじやう)をあげて、「この【此の】
日来(ひごろ)鬼神(おにかみ)ときこえ【聞え】つる平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中(ゑつちゆうの)前司(せんじ)
P09133
盛俊(もりとし)をば、猪俣(ゐのまた)の小平六(こべいろく)則綱(のりつな)がう(ッ)たるぞや」となの(ッ)【名乗つ】て、
『忠教【*忠度】(ただのりの)最期(さいご)』S0914
其(その)日(ひ)の高名(かうみやう)の一(いち)の筆(ふで)にぞ付(つき)にける。○薩摩守(さつまのかみ)忠教【*忠度】(ただのり)
は、一(いち)の谷(たに)の西(にしの)手(て)の大将軍(たいしやうぐん)にておはしけるが、
紺地(こんぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に黒糸(くろいと)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、
黒[B キ](くろき)馬(むま)のふとう【太う】たくましきに、い(ッ)かけ地(ぢ)(いつかけぢ)【沃懸地】の鞍(くら)をい(おい)【置い】て
のり【乗り】給(たま)へり。其(その)勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりがなか【中】に打(うち)かこま【囲ま】れ
ていとさはが(さわが)【騒が】ず、ひかへひかへ落(おち)給(たま)ふを、猪俣党(ゐのまたたう)に
岡辺(をかべ)の六野太(ろくやた)忠純(ただずみ)、大将軍(たいしやうぐん)と目(め)をかけ、鞭(むち)あぶ
みをあはせ【合はせ】て追(おつ)付(つき)たてまつり【奉り】、「抑(そもそも)いかなる人(ひと)で
P09134
在(まし)まし候(さうらふ)ぞ、名(な)のらせ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、「是(これ)はみかた【御方】ぞ」
とてふりあふぎたまへ【給へ】るうちかぶとよりみ【見】いれ【入れ】
たれば、かねぐろ也(なり)。あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)みかた【御方】にはかねつけたる
人(ひと)はないものを、平家(へいけ)の君達(きんだち)でおはするにこそと
おもひ【思ひ】、をし(おし)【押し】ならべてむずとくむ。これ【是】をみて百騎(ひやくき)
ばかりある兵(つはもの)ども【共】、国々(くにぐに)のかり武者(むしや)【駆武者】なれば、一騎(いつき)も
落(おち)あはず、われさきにとぞ落(おち)ゆき【行き】ける。薩摩
守(さつまのかみ)「に(ッ)くひ(につくい)やつかな。みかた【御方】ぞといはばいはせよかし」とて、
熊野(くまの)そだち大(だい)ぢから【大力】のはやわざにておはしければ、
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やがて刀(かたな)をぬき、六野太(ろくやた)を馬(むま)の上(うへ)で二刀(ふたかたな)、おち【落ち】つく
ところ【所】で一刀(ひとかたな)、三刀(みかたな)までぞつか【突か】れける。二刀(ふたかたな)は鎧(よろひ)のうへ【上】
なればとをら(とほら)【通ら】ず、一刀(ひとかたな)はうちかぶと【内甲】へつき入(いれ)られ
たれども【共】、うす手(で)【薄手】なればしな【死な】ざりけるをと(ッ)ておさへ【抑へ】
て、頸(くび)をかかんとし給(たま)ふところ【所】に、六野太(ろくやた)が童(わらは)(ハラハ)をく
れ(おくれ)【遅れ】ばせに馳(はせ)来(きた)(ッ)て、うち刀(がたな)【打刀】をぬき、薩摩守(さつまのかみ)の右(みぎ)の
かいな(かひな)【腕】を、ひぢのもとよりふつときり【斬り】おとす【落す】。今(いま)は
かうとやおもは【思は】れけん、「しばしのけ【退け】、十念(じふねん)となへん」
とて、六野太(ろくやた)をつかうで弓(ゆん)だけばかりなげ【投げ】のけ
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られたり。其(その)後(のち)西(にし)にむかひ【向ひ】、高声(かうしやう)に十念(じふねん)となへ、
「光明(くわうみやう)遍照(へんぜう)十方(じつぱう)世界(せかい)、念仏(ねんぶつ)衆生(しゆうじやう)摂取(せつしゆ)不捨(ふしや)」とのたまひ【宣ひ】
もはてねば、六野太(ろくやた)うしろよりよ(ッ)【寄つ】て薩摩守(さつまのかみ)
の頸(くび)をうつ。よい大将軍(たいしやうぐん)う(ッ)たりとおもひ【思ひ】けれども【共】、
名(な)をば誰(たれ)ともしら【知ら】ざりけるに、ゑびら(えびら)【箙】にむすび付(つけ)
られたる文(ふみ)をといてみれ【見れ】ば、「旅宿(りよしゆくの)花(はな)」といふ【云ふ】題(だい)
にて、一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞよまれたる。
ゆき【行き】くれて木(こ)のしたかげ【下陰】をやどとせば
花(はな)やこよひのあるじならまし W070
P09137
忠教【*忠度】(ただのり)とかかれたりけるにこそ、薩摩守(さつまのかみ)とはしり【知り】て(ン)げれ。
太刀(たち)のさきにつらぬき、たかく【高く】さし【差し】あげ【上げ】、大音声(だいおんじやう)を
あげて、「この【此の】日来(ひごろ)平家(へいけ)の御方(おんかた)にきこえ【聞え】させ給(たま)ひ
つる薩摩守殿(さつまのかみどの)をば、岡辺(をかべ)の六野太(ろくやた)忠純(ただずみ)がうちたて
ま(ッ)【奉つ】たるぞや」と名(な)のりければ、敵(かたき)もみかた【御方】も是(これ)を
きひ(きい)【聞い】て、「あないとをし(いとほし)、武芸(ぶげい)にも歌道(かだう)にも達者(たつしや)
にておはしつる人(ひと)を、あ(ッ)たら大将軍(たいしやうぐん)を」とて、涙(なみだ)を
『重衡(しげひら)生捕(いけどり)』S0915
ながし袖(そで)をぬらさ【濡らさ】ぬはなかりけり。○本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう)
重衡卿(しげひらのきやう)は、生田森(いくたのもり)の副将軍(ふくしやうぐん)にておはしけるが、
P09138
其(その)勢(せい)みなおち【落ち】うせて、只(ただ)主従(しゆうじゆう)二騎(にき)になり給(たま)ふ。
三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、かち【褐】にしろう【著う】黄(き)なる
糸(いと)をも(ッ)て、岩(いは)に村千鳥(むらちどり)【群千鳥】ぬう【縫う】たる直垂(ひたたれ)に、紫(むらさき)すそ
ご【紫裾濃】の鎧(よろひ)きて、童子鹿毛(どうじかげ)といふきこゆる【聞ゆる】名馬(めいば)に
のり給(たま)へり。めのと子(ご)【乳母子】の後藤兵衛(ごとうびやうゑ)盛長(もりなが)は、しげ目(め)ゆい(しげめゆひ)【滋目結】
の直垂(ひたたれ)に、火(ひ)おどし(ひをどし)【緋縅】の鎧(よろひ)きて、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)の秘蔵(ひさう)せ
られたりける夜目(よめ)なし月毛(つきげ)にのせ【乗せ】られたり。梶原(かぢはら)
源太(げんだ)景季(かげすゑ)・庄(しやう)の四郎(しらう)高家(たかいへ)、大将軍(たいしやうぐん)と目(め)をかけ、
鞭(むち)あぶみをあはせ【合はせ】てお(ッ)【追つ】かけたてまつる【奉る】。汀(みぎは)にはたすけ
P09139
舟(ぶね)【助け舟】いくらもあり【有り】けれども、うしろより敵(かたき)はお(ッ)【追つ】かけ
たり、のがる【逃る】べきひまもなかりければ、湊河(みなとがは)・かるも河(がは)
をもうちわたり、蓮(はす)の池(いけ)をば馬手(めて)にみて、駒(こま)の林(はやし)
を弓手(ゆんで)になし、板(いた)やど【板宿】・須磨(すま)をもうちすぎて、
西(にし)をさいてぞ落(おち)たまふ。究竟(くつきやう)の名馬(めいば)にはのり
たまへ【給へ】り、もみ[B 「み」に「リイ」と傍書]ふせたる馬(むま)共(ども)お(ッ)【追つ】つくべしともおぼえ
ず、ただのびにのびければ、梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)、あぶみ
ふ(ン)ばり立(たち)あがり【上がり】、もしやと遠矢(とほや)によ(ッ)ぴいてい【射】た
りけるに、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)馬(むま)のさうづ【三頭】をのぶか【篦深】にい【射】させて、
P09140
よはる(よわる)【弱る】ところ【所】に、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)盛長(もりなが)、我(わが)馬(むま)めされなんず
とや思(おも)ひけん、鞭(むち)をあげてぞ落(おち)行(ゆき)ける。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)
これ【是】をみて、「いかに盛長(もりなが)、年(とし)ごろ【年来】日来(ひごろ)さはちぎら
ざりしものを。我(われ)をすて【捨て】ていづくへゆくぞ」との給(たま)へ【宣へ】
ども【共】、空(そら)きかずして、鎧(よろひ)につけたるあかじるし【赤印】
かなぐりすて【捨て】、ただにげ【逃げ】にこそにげ【逃げ】たりけれ。
三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)敵(かたき)はちかづく【近づく】、馬(むま)はよはし(よわし)【弱し】、海(うみ)へうちいれ【入れ】給(たま)ひ
たりけれども【共】、そこしもとをあさ(とほあさ)【遠浅】にてしづむべき
様(やう)もなかりければ、馬(むま)よりおり、鎧(よろひ)のうは帯(おび)【上帯】きり、
P09141
たかひもはづし【外し】、物具(もののぐ)ぬぎすて、腹(はら)をきらんと
したまふ【給ふ】ところ【所】に、梶原(かぢはら)よりさきに庄(しやう)の四郎(しらう)高
家(たかいへ)、鞭(むち)あぶみをあはせ【合はせ】てはせ【馳せ】来(きた)り、いそぎ馬(むま)より飛(とび)
おり、「まさなう候(さうらふ)、いづくまでも御供(おんとも)仕(つかまつ)らん」とて、
我(わが)馬(むま)にかきのせ【乗せ】奉(たてまつ)り、鞍(くら)の前輪(まへわ)にしめつけて、
わが身(み)はのりがへにの(ッ)【乗つ】てO[BH 御方の陣へ]ぞかへりける。後藤兵衛(ごとうびやうゑ)は
いき【息】ながき【長き】究竟(くつきやう)の馬(むま)にはの(ッ)【乗つ】たりけり、そこをば
なくにげ【逃げ】のびて、後(のち)に熊野(くまの)法師(ぼふし)、尾中(をなか)の法橋(ほつけう)を
たのん【頼ん】でゐたりけるが、法橋(ほつけう)死(しし)て後(のち)、後家(ごけ)の尼公(にこう)
P09142
訴訟(そしよう)(ソセウ)のために京(きやう)へのぼりたりけるに、盛長(もりなが)とも【供】し
てのぼ(ッ)【上つ】たりければ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)のめのと子(ご)【乳母子】にて、上下(じやうげ)
にはおほく【多く】見(み)しら【知ら】れたり。「あなむざん【無慚】の盛長(もりなが)や、
さしも不便(ふびん)にしたまひ【給ひ】しに、一所(ひとところ)でいかにもならず
して、おもひ【思ひ】もかけぬ尼公(にこう)のとも【供】したるにくさよ」と
て、つまはじき【爪弾き】をしければ、盛長(もりなが)もさすがはづかしげ
『敦盛(あつもりの)最期(さいご)』S0916
にて、扇(あふぎ)をかほ【顔】にかざしけるとぞ聞(きこ)えし。○いくさ【軍】
やぶれにければ、熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直実(なほざね)、「平家(へいけ)の君達(きんだち)た
すけ舟(ぶね)【助け船】にのらんと、汀(みぎは)の方(かた)へぞおち【落ち】たまふ【給ふ】らむ。
P09143
あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)、よからう大将軍(たいしやうぐん)にくまばや」とて、磯(いそ)の方(かた)へ
あゆま【歩ま】するところ【所】に、ねりぬき【練貫】に鶴(つる)ぬう【縫う】たる
直垂(ひたたれ)に、萌黄匂(もよぎにほひ)の鎧(よろひ)きて、くはがた【鍬形】う(ッ)たる甲(かぶと)の
緒(を)しめ、こがねづくりの太刀(たち)をはき、きりう(きりふ)【切斑】の矢(や)おひ【負ひ】、
しげどう【滋籐】の弓(ゆみ)も(ッ)て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)に黄覆
輪(きぶくりん)の鞍(くら)をい(おい)ての(ッ)【乗つ】たる武者(むしや)一騎(いつき)、沖(おき)なる舟(ふね)に目(め)を
かけて、海(うみ)へざ(ッ)とうちいれ【入れ】、五六段(ごろくたん)ばかりおよが【泳が】せたる
を、熊谷(くまがへ)「あれは大将軍(たいしやうぐん)とこそ見(み)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)へ。まさ
なうも敵(てき)にうしろをみせ【見せ】させたまふ【給ふ】ものかな。
P09144
かへさ【返さ】せ給(たま)へ」と扇(あふぎ)をあげてまねきければ、招(まね)かれ
てと(ッ)てかへす【返す】。汀(みぎは)にうちあがら【上がら】んとするところ【所】に、
おしならべてむずとくん【組ん】でどうどおち【落ち】、と(ッ)ておさ
へ【抑へ】て頸(くび)をかかんと甲(かぶと)をおしあふのけてみ【見】ければ、
年(とし)十六七(じふろくしち)ばかりなるが、うすげしやう【薄化粧】してかねぐろ也(なり)。
我(わが)子(こ)の小次郎(こじらう)がよはひ程(ほど)にて容顔(ようがん)まこと【誠】に
美麗(びれい)也(なり)ければ、いづくに刀(かたな)を立(たつ)べしともおぼえず。
「抑(そもそも)いかなる人(ひと)にてましまし候(さうらふ)ぞ。名(な)のら【名乗ら】せ給(たま)へ、たすけ【助け】
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】ん」と申(まう)せば、「汝(なんぢ)はた【誰】そ」ととひ給(たま)ふ。「物(もの)そのもの
P09145
で候(さうら)はねども【共】、武蔵国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん)、熊谷(くまがへの)次郎(じらう)直実(なほざね)」となの
り【名乗り】申(まうす)。「さては、なんぢにあふ(あう)【逢う】てはなのる【名乗る】まじひ(まじい)ぞ、
なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名(な)のらずとも頸(くび)をと(ッ)
て人(ひと)にとへ。み【見】しら【知ら】ふずる(うずる)ぞ」とぞのたまひ【宣ひ】ける。
熊谷(くまがへ)「あ(ッ)ぱれ(あつぱれ)大将軍(たいしやうぐん)や、此(この)人(ひと)一人(いちにん)うちたてま(ッ)【奉つ】たり共(とも)、
まく【負く】べきいくさ【軍】に勝(かつ)べきやう【様】もなし。又(また)うちたて
まつら【奉ら】ずとも【共】、勝(かつ)べきいくさ【軍】にまくる事(こと)もよもあらじ。
小二郎(こじらう)がうす手(で)【薄手】負(おひ)たるをだに、直実(なほざね)は心(こころ)ぐるしう
こそおもふ【思ふ】に、此(この)殿(との)の父(ちち)、うた【討た】れぬときひ(きい)【聞い】て、いか計(ばかり)か
P09146
なげき給(たま)はんずらん、あはれ、たすけ【助け】たてまつら【奉ら】ばや」
とおもひ【思ひ】て、うしろ【後】をき(ッ)とみければ、土肥(とひ)・梶原(かぢはら)
五十騎(ごじつき)ばかりでつづひ(つづい)【続い】たり。熊谷(くまがへ)涙(なみだ)をおさへて
申(まうし)けるは、「たすけ【助け】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】んとは存(ぞんじ)候(さうら)へども【共】、御方(みかた)の
軍兵(ぐんびやう)雲霞(うんか)のごとく【如く】候(さうらふ)。よものがれ【逃れ】させ給(たま)はじ。人
手(ひとで)にかけまいらせ(まゐらせ)【参らせ】んより、同(おなじ)くは直実(なほざね)が手(て)にかけ
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、後(のち)の御孝養(おんけうやう)をこそ仕(つかまつり)候(さうら)はめ」と申(まうし)ければ、
「ただとくとく【疾く疾く】頸(くび)をとれ」とぞのたまひ【宣ひ】ける。熊谷(くまがへ)あ
まりにいとをしく(いとほしく)て、いづくに刀(かたな)をたつべしとも
P09147
おぼえず、目(め)もくれ心(こころ)もきえはてて、前後(ぜんご)O[BH 不]覚(ふかく)に
おぼえけれども、さてしもあるべき事(こと)ならねば、
なくなく【泣々】頸(くび)をぞかいて(ン)げる。「あはれ、弓矢(ゆみや)とる身(み)
ほど口惜(くちをし)かりけるものはなし。武芸(ぶげい)の家(いへ)に生(むま)れ
ずは、何(なに)とてかかるうき目(め)をばみる【見る】べき。なさけなうも
うちたてまつる【奉る】ものかな」とかきくどき【口説き】、袖(そで)を
かほ【顔】にをし(おし)【押し】あててさめざめとぞなき【泣き】ゐたる。良(やや)久(ひさ)
しうあ(ッ)て、さてもあるべきならねば、よろい(よろひ)【鎧】直垂(びたたれ)を
と(ッ)て、頸(くび)をつつまんとしけるに、錦(にしきの)袋(ふくろ)にいれ【入れ】たる
P09148
笛(ふえ)をぞ腰(こし)にさされたる。「あないとおし(いとほし)、この暁(あかつき)城(しろ)の
うちにて管絃(くわんげん)し給(たま)ひつるは、此(この)人々(ひとびと)にておはし
けり。当時(たうじ)みかた【御方】に東国(とうごく)の勢(せい)なん万騎(まんぎ)かあるらめ
ども、いくさ【軍】の陣(ぢん)へ笛(ふえ)もつ人(ひと)はよもあらじ。上臈(じやうらふ)は
猶(なほ)もやさしかりけり」とて、九郎(くらう)御曹司(おんざうし)の見参(げんざん)に
入(いれ)たりければ、これ【是】をみる【見る】人(ひと)涙(なみだ)をながさずといふ事(こと)
なし。後(のち)にきけば、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)の子息(しそく)に大夫(たいふ)篤
盛【*敦盛】(あつもり)とて、生年(しやうねん)十七(じふしち)にぞなられける。それよりして
こそ熊谷(くまがへ)が発心(ほつしん)のおもひ【思ひ】はすすみけれ。件(くだん)の
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笛(ふえ)はおほぢ【祖父】忠盛(ただもり)笛(ふえ)の上手(じやうず)にて、鳥羽院(とばのゐん)より
給(たま)はられたりけるとぞきこえ【聞え】し。経盛(つねもり)相伝(さうでん)せら
れたりしを、篤盛【*敦盛】(あつもり)器量(きりやう)たるによ(ッ)て、もたれたり
けるとかや。名(な)をばさ枝(えだ)【小枝】とぞ申(まうし)ける。狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の
ことはり(ことわり)【理】といひながら、遂(つひ)(ツイ)に讃仏乗(さんぶつじよう)(サンブツゼウ)の因(いん)となる
『知章(ともあきらの)最期(さいご)』S0917
こそ哀(あはれ)なれ。○門脇(かどわきの)中納言(ちゆうなごん)教盛卿(のりもりのきやう)の末子(ばつし)蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)
成盛【*業盛】(なりもり)は、常陸国(ひたちのくにの)住人(ぢゆうにん)土屋(つちやの)五郎(ごらう)重行(しげゆき)にくんで
うた【討た】れ給(たま)ひぬ。修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)の嫡子(ちやくし)、皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)
経正(つねまさ)は、たすけ舟(ぶね)【助け船】にのらんと汀(みぎは)の方(かた)へ落(おち)給(たま)ひ
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けるが、河越(かはごえの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)が手(て)に取(とり)籠(こめ)られてうた【討た】
れ給(たま)ひぬ。若狭守(わかさのかみ)経俊(つねとし)・淡路守(あはぢのかみ)清房(きよふさ)・尾張守(をはりのかみ)清定(きよさだ)、
三騎(さんぎ)つれてかたき【敵】のなかへかけ入(いり)、さんざんにたたか
ひ【戦ひ】、分捕(ぶんどり)あまたして、一所(ひとところ)で討死(うちじに)して(ン)げり。新中
納言(しんぢゆうなごん)知盛卿(とももりのきやう)は、生田森(いくたのもりの)大将軍(たいしやうぐん)にておはしけるが、
其(その)勢(せい)みな落(おち)うせて、今(いま)は御子(おんこ)武蔵守(むさしのかみ)知明【*知章】(ともあきら)、侍(さぶらひ)に
監物(けんもつ)太郎(たらう)頼方(よりかた)、ただ主従(しゆうじゆう)三騎(さんぎ)にな(ッ)て、たすけ
舟(ぶね)【助け船】にのらんと汀(みぎは)のかた【方】へ落(おち)たまふ【給ふ】。ここに児玉党(こだまたう)と
おぼしくて、うちわ(うちは)【団扇】の旗(はた)さい【挿い】たる者(もの)ども【共】十騎(じつき)計(ばかり)、
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おめい(をめい)【喚い】てお(ッ)【追つ】かけ奉(たてまつ)る。監物(けんもつ)太郎(たらう)は究竟(くつきやう)の弓(ゆみ)の
上手(じやうず)ではあり、ま(ッ)さきにすすんだる旗(はた)さし【旗差し】がしや
頸(くび)のほねをひやうふつとい【射】て、馬(むま)よりさかさまに
い【射】をとす(おとす)【落す】。そのなかの大将(だいしやう)とおぼしきもの、新中
納言(しんぢゆうなごん)にくみ奉(たてまつ)らんと馳(はせ)ならべけるを、御子(おんこ)武蔵守(むさしのかみ)
知明【*知章】(ともあきら)なか【中】にへだたり、おしならべてむずとくんで
どうどおち【落ち】、と(ッ)ておさへ【抑へ】て頸(くび)をかき、たち【立ち】あがら【上ら】ん
としたまふ【給ふ】ところ【所】に、敵(かたき)が童(わらは)おちあふ(あう)【逢う】て、武蔵守(むさしのかみ)
の頸(くび)をうつ。監物(けんもつ)太郎(たらう)おち【落ち】かさな(ッ)【重なつ】て、武蔵守(むさしのかみ)うち【討】
P09152
たてま(ッ)【奉つ】たる敵(かたき)が童(わらは)をもう(ッ)【打つ】て(ン)げり。其(その)後(のち)矢(や)だね
のある程(ほど)い【射】つくし【尽し】て、うちもの【打ち物】ぬいてたたかひ【戦ひ】けるが、
敵(かたき)あまたうちとり、弓手(ゆんで)のひざぐちをい【射】させて、
たち【立ち】もあがら【上ら】ず、い(ゐ)【居】ながら討死(うちじに)して(ン)げり。此(この)まぎれに
新中納言(しんぢゆうなごん)は、究竟(くつきやう)の名馬(めいば)にはのり【乗り】たまへ【給へ】り。海(うみ)の
おもて廿(にじふ)余町(よちやう)およが【泳が】せて、大臣殿(おほいとの)の御舟(おんふね)に
つきたまひ【給ひ】O[BH ぬ]。御舟(おんふね)には人(ひと)おほく【多く】こみの(ッ)【乗つ】て、馬(むま)たつ
べきやう【様】もなかりければ、汀(みぎは)へお(ッ)[M 「お」をミセケチ「を」と傍書]【追つ】かへす【返す】。阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)
「御馬(おんむま)かたき【敵】のものに成(なり)候(さうらひ)なんず。い【射】ころし【殺し】候(さうら)はん」とて、
P09153
かた手矢(てや)【片手矢】はげて出(いで)けるを、新中納言(しんぢゆうなごん)「何(なに)の物(もの)にも
ならばなれ。我(わが)命(いのち)をたすけ【助け】たらんものを。ある
べうもなし」とのたまへ【宣へ】ば、力(ちから)及(およ)ばでい【射】ざりけり。
此(この)馬(むま)主(ぬし)のわかれ【別れ】をしたひつつ、しばしは舟(ふね)をもはなれ【離れ】
やらず、沖(おき)の方(かた)へおよぎ【泳ぎ】けるが、次第(しだい)にとをく(とほく)【遠く】成(なり)
ければ、むなしき【空しき】汀(みぎは)におよぎ【泳ぎ】かへる。足(あし)たつほど【程】にも
成(なり)しかば、猶(なほ)舟(ふね)の方(かた)をかへりみて、二三度(にさんど)までこそ
いななき【嘶き】けれ。其(その)後(のち)くが【陸】にあが(ッ)【上がつ】てやすみけるを、
河越(かはごえの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)と(ッ)て、院(ゐん)へまいらせ(まゐらせ)【参らせ】たりければ、
P09154
やがて院(ゐん)の御厩(みむまや)にたてられけり。もとも院(ゐん)の
御秘蔵(ごひさう)の御馬(おんむま)にて、一(いち)の御厩(みむまや)にたてられたりしを、
宗盛公(むねもりこう)内大臣(ないだいじん)にな(ッ)て悦申(よろこびまうし)の時(とき)給(たま)はられたりける
とぞきこえ【聞え】し。新中納言(しんぢゆうなごん)にあづけられたりし
を、中納言(ちゆうなごん)あまりに此(この)馬(むま)を秘蔵(ひさう)して、馬(むま)のいの
り【祈り】のためにとて、毎月(まいぐわつ)ついたち【朔日】ごとに、泰山府君(たいざんぶくん)
をぞまつられける。其(その)ゆへ(ゆゑ)【故】にや、馬(むま)の命(いのち)も
のび、ぬしの命(いのち)をもたすけ【助け】けるこそめでたけれ。
この【此の】馬(むま)は信乃【*信濃】国(しなののくに)井(ゐ)の上(うへ)だち【立ち】にてあり【有り】ければ、井上
P09155
黒(ゐのうへぐろ)とぞ申(まうし)ける。後(のち)には河越(かはごえ)がと(ッ)てまいらせ(まゐらせ)【参らせ】たりければ、
河越黒(かはごえぐろ)とも申(まうし)けり。新中納言(しんぢゆうなごん)、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへに
まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て申(まう)されけるは、「武蔵守(むさしのかみ)にをくれ(おくれ)【遅れ】候(さうらひ)ぬ。監物(けんもつ)太郎(たらう)
うたせ候(さうらひ)ぬ。今(いま)は心(こころ)ぼそうこそまかり【罷り】な(ッ)て候(さうら)へ。いかなれば、
子(こ)はあ(ッ)て、親(おや)をたすけ【助け】んと敵(かたき)にくむ【組む】を見(み)ながら、
いかなる親(おや)なれば、子(こ)のうたるるをたすけ【助け】ずして、
かやうにのがれ【逃れ】まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうらふ)らんと、人(ひと)のうへ【上】で候(さうら)はば
いかばかりもどかしう存(ぞんじ)候(さうらふ)べきに、我(わが)身(み)の上に成
ぬれば、よう命(いのち)はおしひ(をしい)【惜しい】物(もの)で候(さうらひ)けりといま【今】こそ
P09156
思(おも)ひしら【知ら】れて候(さうら)へ。人々(ひとびと)の思(おも)はれん心(こころ)のうちども【共】
こそはづかしう候(さうら)へ」とて、袖(そで)をかほ【顔】におし【押し】あててさめ
ざめとなき【泣き】たまへ【給へ】ば、大臣殿(おほいとの)これ【是】をききたまひ【給ひ】て、
「武蔵守(むさしのかみ)の父(ちち)の命(いのち)にかはられけるこそありがた
けれ。手(て)もきき【利き】心(こころ)もかう【剛】に、よき大将軍(たいしやうぐん)にて
おはしつる人(ひと)を。清宗(きよむね)と同年(どうねん)にて、ことしは十六(じふろく)な」
とて、御子(おんこ)衛門督(ゑもんのかみ)のおはしけるかた【方】を御覧(ごらん)じて
涙(なみだ)ぐみ給(たま)へば、いくらもなみゐたりける平家(へいけ)の
侍(さぶらひ)ども【共】、心(こころ)あるも心(こころ)なきも、皆(みな)鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらし
P09157
『落足(おちあし)』S0918
ける。○小松殿(こまつどの)の末子(ばつし)、備中守(びつちゆうのかみ)師盛(もろもり)は、主従(しゆうじゆう)七人(しちにん)小舟(こぶね)に
の(ッ)【乗つ】ておち【落ち】給(たま)ふところ【所】に、新中納言(しんぢゆうなごん)の侍(さぶらひ)清衛門(せいゑもん)
公長(きんなが)といふもの【者】馳(はせ)来(きた)(ッ)て、「あれは備中(びつちゆうの)守殿(かうのとの)の御
舟(おんふね)とこそみ【見】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)へ。まいり(まゐり)【参り】候(さうら)はん」と申(まうし)ければ、
舟(ふね)を汀(みぎは)にさしよせたり。大(だい)の男(をのこ)の鎧(よろひ)きながら、馬(むま)
より舟(ふね)へかはと飛(とび)のらうに、なじかはよかるべき。舟(ふね)は
ちいさし(ちひさし)【小さし】、くるりとふみかへして(ン)げり。備中守(びつちゆうのかみ)うき
ぬしづみぬしたまひ【給ひ】けるを、畠山(はたけやま)が郎等(らうどう)本田(ほんだの)次
郎(じらう)、十四五騎(じふしごき)で馳(はせ)来(きた)り、熊手(くまで)にかけてひき【引き】あげ
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奉(たてまつ)り、遂(つひ)に頸(くび)をぞかいて(ン)げる。生年(しやうねん)十四(じふし)歳(さい)とぞ聞(きこ)
えし。越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)道盛【通盛】卿(みちもりのきやう)は山手(やまのて)の大将軍(たいしやうぐん)にておはし
けるが、其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、あかぢ【赤地】の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾
威(からあやをどし)の鎧(よろひ)きて、黄河原毛(きかはらげ)なる馬(むま)に白覆輪(しろぶくりん)の鞍(くら)
をい(おい)てのり【乗り】たまへ【給へ】り。うち甲(かぶと)【内甲】をい【射】させて、敵(かたき)にをし(おし)【押し】
へだてられ、おとと【弟】能登殿(のとどの)にははなれ給(たま)ひぬ、しづか【静か】
ならん所(ところ)にて自害(じがい)せんとて、東(ひがし)にむか(ッ)【向つ】ておち【落ち】
給(たま)ふ程(ほど)に、近江国(あふみのくにの)住人(ぢゆうにん)佐々木(ささき)の木村(きむらの)三郎(さぶらう)成綱(なりつな)、武蔵
国(むさしのくにの)住人(ぢゆうにん)玉井(たまのゐの)四郎(しらう)資景(すけかげ)、かれこれ【彼此】七騎(しちき)がなか【中】に
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取(とり)こめられて、ついに(つひに)【遂に】うた【討た】れたまひ【給ひ】ぬ。其(その)時(とき)までは
侍(さぶらひ)一人(いちにん)つき奉(たてまつり)たりけれども【共】、それも最後(さいご)の時(とき)は
おち【落ち】あはず。凡(およそ)東西(とうざい)の木戸口(きどぐち)、時(とき)をうつす程(ほど)也(なり)ければ、
源平(げんぺい)かずをつくひ(つくい)【尽くい】てうた【討た】れにけり。矢倉(やぐら)のまへ、
逆(さか)も木(ぎ)【逆茂木】のしたには、人馬(じんば)のししむら【肉】山(やま)のごとし。一谷(いちのたに)
の小篠原(をざさはら)、緑(みどん)の色(いろ)をひき【引き】かへ【替へ】て、うす紅(ぐれなゐ)にぞ成(なり)
にける。一谷(いちのたに)・生田森(いくたのもり)、山(やま)のそは【岨】、海(うみ)の汀(みぎは)にてい【射】られ
きら【斬ら】れて死(し)ぬるはしら【知ら】ず、源氏(げんじ)のかた【方】にきりかけ【懸け】らるる
頸(くび)ども【共】二千(にせん)余人(よにん)也(なり)。今度(こんど)うた【討た】れ給(たま)へるむねとの人々(ひとびと)には、
P09160
越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)道盛【通盛】(みちもり)・弟(おとと)蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)成盛【*業盛】(なりもり)・薩摩守(さつまのかみ)忠教【*忠度】(ただのり)・武蔵守(むさしのかみ)
知明【*知章】(ともあきら)・備中守(びつちゆうのかみ)師盛(もろもり)・尾張守(をはりのかみ)清定(きよさだ)・淡路守(あはぢのかみ)清房(きよふさ)・修理(しゆりの)
大夫(だいぶ)経盛(つねもりの)嫡子(ちやくし)皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)経正(つねまさ)・弟(おとと)若狭守(わかさのかみ)経俊(つねとし)・
其(その)弟(おとと)大夫(たいふ)篤盛【*敦盛】(あつもり)、以上(いじやう)十人(じふにん)とぞきこえ【聞え】し。いくさ【軍】
やぶれにければ、主上(しゆしやう)をはじめたてま(ッ)【奉つ】て、人々(ひとびと)みな
御舟(おんふね)にめし【召し】て出(いで)給(たま)ふ心(こころ)のうちこそ悲(かな)しけれ。塩(しほ)に
ひかれ、風(かぜ)に随(したがひ)て、紀伊路(きのぢ)へおもむく舟(ふね)もあり。
葦屋(あしや)の沖(おき)に漕(こぎ)いで【出で】て、浪(なみ)にゆらるる舟(ふね)もあり【有り】。
或(あるい)は須磨(すま)より明石(あかし)のうらづたひ【浦伝ひ】、泊(とまり)さだめ【定め】ぬ梶枕(かぢまくら)、
P09161
かたしく【片敷く】袖(そで)もしほれ(しをれ)【萎れ】つつ、朧(おぼろ)にかすむ春(はる)の月(つき)、心(こころ)を
くだかぬ人(ひと)ぞなき。或(あるい)は淡路(あはぢ)のせとを漕(こぎ)とをり(とほり)【通り】、
絵島(ゑしま)が磯(いそ)にただよへば、波路(なみぢ)かすか【幽】になき【鳴き】わたり、
友(とも)まよはせるさ夜(よ)鵆(ちどり)【小夜千鳥】、是(これ)も我(わが)身(み)のたぐひかな。
行(ゆく)さきいまだいづくともおもひ【思ひ】定(さだ)めぬかとおぼ
しくて、一谷(いちのたに)の沖(おき)にやすらふ舟(ふね)もあり【有り】。かやう【斯様】に
風(かぜ)にまかせ【任せ】、浪(なみ)に随(したが)ひて、浦々(うらうら)島々(しまじま)にただよへば、
互(たがひ)に死生(ししやう)もしり【知り】がたし。国(くに)をしたがふる事(こと)も
十四(じふし)箇国(かこく)、勢(せい)のつく事(こと)も十万(じふまん)余騎(よき)、都(みやこ)へちかづく【近付く】
P09162
事(こと)も纔(わづか)に一日(いちにち)の道(みち)なれば、今度(こんど)はさりとも【共】と
たのもしう【頼もしう】おもは【思は】れけるに、一谷(いちのたに)をもせめ【攻め】
おとさ【落さ】れて、人々(ひとびと)みな心(こころ)ぼそうぞなられける。
『小宰相(こざいしやう)身投(みなげ)』S0919 以他本書入
越前(ゑちぜん)の三位(さんみ)通盛(みちもり)の卿(きやう)の侍(さぶらひ)に、くんだ【君太】たきぐち【滝口】
時員(ときかず)といふものあり【有り】。北(きた)のかたのお舟(ふね)にまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て
申(まうし)けるは、「君(きみ)はみなと河(がは)【湊河】のしもにて、かたき【敵】
七騎(しちき)が中(なか)にとりこめられて、うた【討た】れさせ給(たま)ひ
候(さうら)ひぬ。其(その)中(なか)にことに手(て)をおろしてうち【討ち】まい
P09163
らせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)ひしは、あふみの国(くに)の住人(ぢゆうにん)佐々木(ささき)の木
村(きむら)の三郎(さぶらう)成綱(なりつな)、武蔵(むさし)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)玉(たま)の井(ゐ)の
四郎(しらう)資景(すけかげ)とこそ名(な)のり申(まうし)候(さうら)ひつれ。時員(ときかず)も
一所(いつしよ)でいかにもなり、最後(さいご)の御供(おんとも)つかまつるべう
候(さうら)へども、かねて【予て】よりおほせ候(さうら)ひしは、「通盛(みちもり)いかに
なるとも、なんぢはいのち【命】をすつ【捨つ】べからず。いかにも
してながらへ【永らへ】て、御(おん)ゆくゑ(ゆくへ)【行方】をもたづね【尋ね】まいらせよ(まゐらせよ)【参らせよ】」
と仰(おほ)せ候(さうらひ)しあひだ、かひなきいのちいき【生き】て、つれ
なうこそこれまでのがれ【逃れ】まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうら)へ」と申(まうし)けれども、
P09164
北(きた)のかた【方】とかうの返事(へんじ)にもおよび【及び】たまは【給は】ず、
ひき【引き】かづひ(かづい)【被い】てぞふし【伏し】給(たま)ふ。一(いち)ぢやう【一定】うた【討た】れぬと
きき【聞き】たまへども、もしひが事(こと)【僻事】にてもやあるらん、
いき【生き】てかへら【帰ら】るる事(こと)もやと、二三日(にさんにち)はあからさまに
出(いで)たる人(ひと)をまつ心(ここ)ち【心地】しておはしけるが、四五日(しごにち)も
過(すぎ)しかば、もしやのたのみ【頼み】もよはり(よわり)【弱り】はてて、いとど
心(こころ)ぼそうぞなられける。ただ一人(いちにん)付(つけ)たてまつり【奉り】
たりけるめのと【乳母】のねうばう(にようばう)【女房】も、おなじ【同じ】枕(まくら)にふし【伏し】
しづみにけり。かくときこえ【聞え】し七日(なぬか)のひの暮(くれ)
P09165
ほどより、十三日(じふさんにち)の夜(よ)までは、おき【起き】もあがり【上がり】たま
は【給は】ず。あくれば十四日(じふしにち)、八島(やしま)へつかんずるよい(よひ)【宵】うちすぐ
る【過ぐる】までふし給(たま)ひたりけるが、ふけ【更け】ゆくままに
舟(ふね)の中(うち)もしづまりければ、北(きた)の方(かた)めのとの女房(にようばう)
にのたまひ【宣ひ】けるは、「このほどは、三位(さんみ)うた【討た】れぬと
きき【聞き】つれども、まことともおもは【思は】でありつるが、この
くれほどより、さもあるらんとおもひ【思ひ】さだめ【定め】て
あるぞとよ。人(ひと)ごとにみなと河(がは)【湊河】とかやのしも【下】に
てうた【討た】れにしとはいへども、そののちいき【生き】てあひ【逢ひ】
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たりといふものは一人(いちにん)もなし。あすうち【討ち】いで【出で】ん
とての夜(よ)、あからさまなるところ【所】にてゆき【行き】
あひ【逢ひ】たりしかば、いつよりも心(こころ)ぼそげにうちなげ
きて、「明日(みやうにち)のいくさ【軍】には、一(いち)ぢやう【一定】うた【討た】れなんずと
おぼゆる【覚ゆる】はとよ。我(われ)いかにもなりなんのち、人(ひと)は
いかがし給(たま)ふべき」なんどいひ【言ひ】しかども、いくさ【軍】はいつ
もの事(こと)なれば、一(いち)ぢやう【一定】さるべしとおもは【思は】ざりける
事(こと)のくやしさよ。それをかぎりとだにおもは【思は】
ましかば、などのち【後】の世(よ)とちぎらざりけんと、思(おも)ふ
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さへこそかなしけれ。ただならず成(なり)たる事(こと)をも、
日(ひ)ごろはかくし【隠し】ていは【言は】ざりしかども、心(こころ)づよふ(づよう)【強う】
おもは【思は】れじとて、いひ【言ひ】いだし【出し】たりしかば、なのめ
ならずうれしげにて、「通盛(みちもり)すでに三十(さんじふ)に
なるまで、子(こ)といふもののなかりつるに、あはれ【哀】
なんし【男子】にてあれかし。うきよ【浮世】のわすれがたみ【忘れ形見】
にもおもひ【思ひ】をく(おく)【置く】ばかり。さていく月(つき)ほど【程】に
なるやらん。心(ここ)ち【心地】はいかがあるやらん。いつとなき
波(なみ)の上(うへ)、舟(ふね)のうちのすまひ【住ひ】なれば、しづかに身々(みみ)と
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ならん時(とき)もいかがはせん」な(ン)ど(なんど)いひ【言ひ】しは、はかなか
りけるかねごと【予言】かな。まことやらん、おんな(をんな)【女】はさやう
の時(とき)、とを【十】にここのつ【九のつ】はかならず【必ず】しぬる【死ぬる】なれば、
はぢがましきめ【目】を見(み)て、むなしう【空しう】ならんも
心(こころ)うし。しづかにみみ【身々】となつてのち、おさなき(をさなき)【幼き】もの
をもそだてて、なき【亡き】人(ひと)のかたみ【形見】にもみ【見】ばやとは
おもへ【思へ】ども、おさなき(をさなき)【幼き】ものをみ【見】んたびごとには、
むかしの人(ひと)のみこひしく【恋しく】て、おもひ【思ひ】の数(かず)はつもる
とも、なぐさむ事(こと)はよもあらじ。ついに(つひに)【遂に】はのがる【逃る】
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まじき道(みち)也(なり)。もしふしぎ【不思議】にこのよ【世】をしのび【忍び】
すぐす【過す】とも、心(こころ)にまかせ【任せ】ぬ世(よ)のならひ【習ひ】は、おもは【思は】
ぬほかのふしぎ【不思議】もあるぞとよ。それもおもへ【思へ】ば
心(こころ)うし。まどろめば夢(ゆめ)にみえ【見え】、さむれ【覚むれ】ばおもかげ【面影】
にたつ【立つ】ぞかし。いき【生き】てゐて、とにかくに人(ひと)を
こひし【恋し】とおもは【思は】んより、ただ水(みづ)の底(そこ)へいら【入ら】ばやと
おもひ【思ひ】さだめ【定め】てあるぞとよ。そこにひとり
とどまつて、なげか【歎か】んずる事(こと)こそ心(こころ)ぐるし
けれども、わらは【妾】がしやうぞく【装束】のあるをば取(とつ)て、
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いかならん僧(そう)にもとら【取ら】せ、なき人(ひと)の御(ご)ぼだい【菩提】をも
とぶらひ【弔ひ】、わらはが後生(ごしやう)をもたすけたまへ。
かきをき(おき)たる文(ふみ)をば都(みやこ)へつたへてたべ」な(ン)ど(なんど)、こま
ごまとのたまへば、めのとのねうばう(にようばう)【女房】涙(なみだ)をはらはら
とながして、「いとけなき子(こ)をもふりすて【捨て】、老(おい)たる
おや【親】をもとどめ【留め】をき(おき)、是(これ)までつきまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て
さぶらふ【候ふ】心(こころ)ざしをば、いかばかりとかおぼしめさ【思し召さ】れさぶらふ【候ふ】ら
む。そのうへ今度(こんど)一(いち)の谷(たに)にてうた【討た】れさせたまひし
人々(ひとびと)の北(きた)の方(かた)の御(おん)おもひ【思ひ】ども、いづれかおろかにわた
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らせ給(たま)ひさぶらふ【候ふ】べき。されば御見(おんみ)ひとつ【一つ】のこと
とおぼしめす【思し召す】べからず。しづかに身々(みみ)とならせ
給(たま)ひてのち、おさなき(をさなき)【幼き】人(ひと)をもそだて【育て】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】、
いかならん岩木(いはき)のはざまにても、御(おん)さまをかへ、仏(ほとけ)の
御名(みな)をもとなへて、なき人(ひと)の御(ご)ぼだい【菩提】をもとぶ
らひ【弔ひ】まいら(まゐら)【参ら】させ給(たま)へかし。かならず【必ず】ひとつ【一つ】道(みち)へとおぼ
しめす【思し召す】とも、生(しやう)かはら【変ら】せ給(たま)ひなんのち、六道(ろくだう)四生(ししやう)の
間(あひだ)にて、いづれのみちへかおもむか【赴か】せ給(たま)はんずらん。
ゆきあはせ【合はせ】給(たま)はん事(こと)も不定(ふぢやう)なれば、御身(おんみ)を
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なげ【投げ】てもよしなき事(こと)也(なり)。其上(そのうへ)都(みやこ)の事(こと)なんど
をば、たれみ【見】つぎ【次ぎ】まいらせよ(まゐらせよ)【参らせよ】とてかやうにはおほせ【仰せ】
さぶらふ【候ふ】やらん。うらめしう【恨めしう】もうけたまはる物(もの)かな」と
さめざめとかきくどき【口説き】ければ、北(きた)の方(かた)此(この)事(こと)あしう【悪しう】
もきかれぬとやおもは【思は】れけん、「それは心(こころ)にかはりて
もをしはかり(おしはかり)たまふべし。大(おほ)かたの世(よ)のうらめしさ【恨めしさ】
にも、身(み)をなげんな(ン)ど(なんど)いふ事(こと)はつねのならひ【習ひ】也(なり)。
されどもおもひ【思ひ】たつ【立つ】ならば、そこにしらせ【知らせ】ずしては
あるまじきぞ。夜(よ)もふけぬ、いざやね【寝】ん」とのたまへ【宣へ】ば、
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めのとの女房(にようばう)、この四五日(しごにち)はゆみづ【湯水】をだにはかばか
しう御(ご)らんじ【御覧じ】いれ【入れ】たまは【給は】ぬ人(ひと)の、かやうに仰(おほせ)らるるは、
まこと【誠】におもひ【思ひ】たちたまへるにこそと悲(かな)しくて、
「相(あひ)かまへて思召(おぼしめし)たつならば、ちいろ(ちひろ)【千尋】の底(そこ)までもひき【引き】
こそ具(ぐ)せさせ給(たま)はめ。おくれ【後れ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】てのち、かた
時(とき)【片時】もながらふ【永らふ】べしともおぼえ【覚え】さぶらはず」なんど申(まうし)て、
御(おん)そば【側】にありながら、ち(ッ)とまどろみたりけるひまに、
北(きた)の方(かた)やはらふなばた【舷】へをき(おき)【起き】いで【出で】て、漫々(まんまん)たる海上(かいしやう)
なれば、いづちを西(にし)とはしら【知ら】ね共(ども)、月(つき)の入(いる)さの山(やま)のは【端】を、
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そなたの空(そら)とやおもは【思は】れけん、しづかに念仏(ねんぶつ)し
たまへば、沖(おき)のしら洲(す)【白洲】に鳴(なく)千鳥(ちどり)、あまのとわたる
梶(かぢ)の音(おと)、折(をり)からあはれ【哀】やまさりけん、しのびごゑ【忍び声】に
念仏(ねんぶつ)百返(ひやつぺん)ばかりとなへ[B 「となた」とあり「た」に「へ」と傍書]給(たま)ひて、「なむ【南無】西方(さいはう)極楽(ごくらく)世界(せかい)
教主(けうしゆ)、弥陀如来(みだによらい)、本願(ほんぐわん)あやまたず浄土(じやうど)へみちびき
給(たま)ひつつ、あかで別(わかれ)しいもせ【夫婦】のなからへ【仲】、必(かならず)ひとつ【一つ】
はちす【蓮】にむかへ【迎へ】たまへ」と、なくなく【泣く泣く】はるかにかきくどき、
なむ【南無】ととなふるこゑ【声】共(とも)に、海(うみ)にぞしづみたまひける。
一(いち)の谷(たに)よりやしま【屋島】へをし(おし)【押し】わたる【渡る】夜半(やはん)ばかりの事(こと)
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なれば、舟(ふね)の中(うち)しづまつて、人(ひと)是(これ)をしら【知ら】ざりけり。
その中(なか)にかんどり【楫取】の一人(いちにん)ねざりけるがみつけ【見付け】奉(たてまつり)て、
「あれはいかに、あのお舟(ふね)より、よにうつくしうまし
ますねうばう(にようばう)【女房】の、ただいま海(うみ)へいら【入ら】せたまひぬる
ぞや」とよばはり【呼ばはり】ければ、めのと【乳母】のねうばう(にようばう)【女房】打(うち)おどろき、
そばをさぐれ【探れ】どもおはせざりければ、「あれよあれ」
とぞあきれける。人(ひと)あまたおり【下り】て、とりあげ奉(たてまつ)
らんとしけれども、さらぬだに春(はる)の夜(よ)の[B 「春の夜は」とあり「は」に「の」と傍書]ならひ【習ひ】に
かすむ物(もの)なるに、四方(よも)の村雲(むらくも)うかれき【来】て、かづけ【潛け】
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どもかづけ【潛け】ども、月(つき)おぼろにてみえ【見え】ざりけり。やや
あ(ッ)てとりあげたてまつたりけれども、はや此(この)世(よ)に
なき人(ひと)となり給(たま)ひぬ。ねりぬき【練貫】のふたつ【二つ】ぎぬ【衣】に
しろき【白き】はかま【袴】を着(き)たまへり。かみ【髪】もはかま【袴】もしほたれて、
とり【取り】あげ【上げ】たれどもかい(かひ)【甲斐】ぞなき。めのとのねうばう(にようばう)【女房】
手(て)に手(て)をとりくみ、かほ【顔】にかほ【顔】をおし【押し】あてて、「などや
是(これ)程(ほど)におぼしめし【思し召し】たつ【立つ】ならば、ちいろ(ちひろ)【千尋】の底(そこ)までも
ひき【引き】は具(ぐ)せさせたまは【給は】ぬぞ。さるにても今(いま)一度(いちど)、
ものひとこと葉(ば)【一言葉】おほせられてきか【聞か】せさせたまへ」と、
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もだへ(もだえ)【悶え】こがれけれども、一言(いちげん)(いちケン)の返事(へんじ)にもおよばず、
わづかにかよひ【通ひ】つるいき【息】もはやたえ【絶え】はてぬ。さる程(ほど)に、
春(はる)の夜(よ)の月(つき)も雲井(くもゐ)にかたぶき、かすめる空(そら)も
明(あけ)ゆけば、名残(なごり)はつきせずおもへ【思へ】ども、さてしも
あるべき事(こと)ならねば、うき【浮き】もやあがり【上り】たまふと故(こ)三位
殿(さんみどの)のきせなが【着背長】の一両(いちりやう)のこり【残り】たりけるにひき【引き】まとひ【纏ひ】
奉(たてまつ)り、ついに(つひに)【遂に】海(うみ)にぞしづめ【沈め】ける。めのとのねうばう(にようばう)【女房】、
今度(こんど)はをくれ(おくれ)【後れ】奉(たてまつ)らじと、つづひ(つづい)【続い】ていら【入ら】んとしけ
るを、人々(ひとびと)やうやうに取(とり)とどめ【留め】ければ、力(ちから)およば【及ば】ず。
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せめてのせんかたなさにや、手(て)づからかみ【髪】をはさみ【鋏み】
おろし【下し】、故(こ)三位殿(さんみどの)の御(おん)おとと【弟】、中納言(ちゆうなごんの)律師(りつし)仲快(ちゆうくわい)
にそら【剃ら】せ奉(たてまつ)り、なくなく【泣く泣く】戒(かい)たもつ【保つ】て、主(しゆう)の後世(ごせ)を
ぞとぶらひ【弔ひ】ける。昔(むかし)より男(をとこ)にをくるる(おくるる)【後るる】たぐひ
おほし【多し】といへども、さま【様】をかふる【変ふる】はつね【常】のならひ【習ひ】、身(み)を
なぐるまでは有(あり)がたきためし【例】也(なり)。忠臣(ちゆうしん)は二君(じくん)に
つかへず、貞女(ていぢよ)は二夫(じふ)にまみえ【見え】ずとも、かやうの事(こと)
をや申(まうす)べき。此(この)女房(にようばう)と申(まうす)は、頭(とう)の刑部卿[* 「形部卿」と有るのを他本により訂正](ぎやうぶきやう)教方【*則方】(のりかた)のむす
め、上西門院(しやうさいもんゐん)のねうばう(にようばう)【女房】、宮中一(きゆうちゆういち)の美人(びじん)、名(な)をば
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小宰相殿(こざいしやうどの)とぞ申(まうし)ける。此(この)女房(にようばう)、十六(じふろく)と申(まうし)し安元(あんげん)
の春(はる)のころ、女院(にようゐん)、法勝寺(ほつしようじ)へ花見(はなみ)の御幸(ごかう)ありしに、
通盛(みちもり)の卿(きやう)、其(その)時(とき)はいまだ中宮(ちゆうぐう)の亮(すけ)にて供奉(ぐぶ)せ
られたりけるが、此(この)女房(にようばう)をただ一(ひと)め【目】みて、あはれ【哀】と
思(おも)ひそめけるより、そのおもかげのみ身(み)にひしとたち【立ち】そひて、わするる【忘るる】ひま【暇】もなかりければ、はじめは
歌(うた)をよみ、文(ふみ)をつくし【尽くし】たまへ共(ども)、玉(たま)づさ【章】のかずのみ
つもり【積り】て、とり【取り】いれ【入れ】給(たま)ふ事(こと)もなし。すでに三(み)
とせ【年】になりしかば、みちもり【通盛】の卿(きやう)いまをかぎりの
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文(ふみ)をかひ(かい)【書い】て、こざいしやうどの【小宰相殿】のもとへつかはす【遣す】。おり
ふし(をりふし)【折節】とり【取り】つたへ【伝へ】たる女房(にようばう)にもあはずして、つかひ【使】
むなしくかへり【帰り】けるみちにて、小宰相殿(こざいしやうどの)は折(をり)ふし【折節】
我(わが)里(さと)より御所(ごしよ)へぞまいり(まゐり)【参り】たまひける。つかひ【使】むな
しう【空しう】かへり【帰り】まいら(まゐら)【参ら】ん事(こと)のほい【本意】なさに、御車(おんくるま)のそば
をつ(ッ)とはしり【走り】とをる(とほる)【通る】やうにて、みちもり【通盛】のきやう【卿】の
文(ふみ)を小宰相殿(こざいしやうどの)の車(くるま)のすだれの中(うち)へぞなげ【投げ】いれ【入れ】
ける。とも【供】のもの共(ども)にとひ【問ひ】たまへば、「しら【知ら】ず」と申(まうす)。さて
此(この)文(ふみ)をあけてみ【見】たまへば、通盛(みちもり)の卿(きやう)の文(ふみ)にてぞ
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有(あり)ける。車(くるま)にをく(おく)【置く】べきやうもなし、おほち【大路】に
すて【捨て】んもさすがにて、はかま【袴】の腰(こし)にはさみ【鋏み】つつ、
御所(ごしよ)へぞまいり(まゐり)【参り】たまひける。さて宮(みや)づかへ〔し〕たまふ
ほど【程】に、所(ところ)しもこそおほけれ【多けれ】、御前(ごぜん)に文(ふみ)をおとさ【落さ】
れたり。女院(にようゐん)是(これ)を御覧(ごらん)じて、いそぎとら【取ら】せおは
しまし、御衣(ぎよい)の御(おん)たもと【袂】にひき【引き】かくさ【隠さ】せ給(たま)ひ
て、「めづらしき物(もの)をこそもとめ【求め】たれ。此(この)主(ぬし)は誰(たれ)なるらん」
とおほせければ、御前(ごぜん)の女房(にようばう)たち、よろづの
神仏(かみほとけ)にかけて「しら【知ら】ず」とのみぞ申(まうし)あはれける。
P09182
その中(なか)に小宰相殿(こざいしやうどの)は、かほ【顔】うちあかめ【赤め】て、物(もの)も
申(まう)されず。女院(にようゐん)もみちもり【通盛】の卿(きやう)の申(まうす)とはかねて【予て】
よりしろしめさ【知ろし召さ】れたりければ、さて此(この)文(ふみ)をあけて
御覧(ごらん)ずるに、きろ【妓炉】のけぶり【煙】のにほひ【匂】ことになつ
かしく【懐しく】、筆(ふで)のたてど【立て処】もよのつねならず、「あまりに
人(ひと)の心(こころ)づよきもなかなかいまはうれしくて」なんど、
こまごまとかひ(かい)【書い】て、おく【奥】には一首(いつしゆ)の歌(うた)ぞ有(あり)ける。
我(わが)こひ【恋】はほそ谷河(たにがは)【細谷河】のまろ木(き)ばし【丸木橋】
ふみかへさ【返さ】れてぬるる袖(そで)かな  W071
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女院(にようゐん)、「これはあは【逢は】ぬをうらみ【恨み】たる文(ふみ)や。あまりに
人(ひと)の心(こころ)づよきもなかなかあたとなる物(もの)を」。中比(なかごろ)
小野小町(をののこまち)とて、みめかたち世(よ)にすぐれ、なさけ
のみち【道】ありがたかりしかば、みる【見る】人(ひと)きくもの肝(きも)たま
しゐ(たましひ)【魂】をいたま【痛ま】しめずといふ事(こと)なし。されども
心(こころ)づよき名(な)をやとり【取り】たりけん、はてには人(ひと)の思(おも)ひ
のつもり【積り】とて、風(かぜ)をふせく【防く】たよりもなく、雨(あめ)を
もらさ【漏らさ】ぬわざ【業】もなし。やどにくもら【曇ら】ぬ月(つき)ほし【星】を、
涙(なみだ)にうかべ【浮べ】、野(の)べのわかな、沢(さは)のねぜり【根芹】をつみ【摘み】て
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こそ、つゆの命(いのち)をばすぐし【過し】けれ。女院(にようゐん)、「是(これ)はいかにも
返(かへ)しあるべきぞ」とて、かたじけなく【忝く】も御(おん)すずり
めし【召し】よせて、身(み)づから御返事(おんぺんじ)あそばさ【遊ばさ】れけり。
ただたのめ【頼め】ほそ谷河(たにがは)【細谷河】のまろ木橋(きばし)【丸木橋】
ふみかへしてはおち【落ち】ざらめやは W072
むねのうちのおもひ【思ひ】はふじ【富士】のけぶり【煙】にあらはれ【現はれ】、
袖(そで)のうへ【上】の涙(なみだ)はきよみ【清見】が関(せき)の波(なみ)なれや。みめは
さいわい(さいはひ)【幸】のはな【花】なれば、三位(さんみ)此(この)女房(にようばう)をたまは(ッ)て、
たがひに心(こころ)ざしあさから【浅から】ず。されば西海(さいかい)の旅(たび)の空(そら)、
P09185
舟(ふね)の中(うち)、波(なみの)上(うへ)のすまひ【住ひ】までもひき具(ぐ)して、
ついに(つひに)【遂に】おなじみちへぞおもむか【赴か】れける。門脇(かどわき)の
中納言(ちゆうなごん)は、嫡子(ちやくし)越前(ゑちぜん)の三位(さんみ)、末子(ばつし)業盛(なりもり)にもをくれ(おくれ)【遅れ】
たまひぬ。いまたのみ【頼み】たまへる人(ひと)とては、能登守(のとのかみ)
教経(のりつね)、僧(そう)には中納言(ちゆうなごん)の律師(りつし)仲快(ちゆうくわい)ばかりなり。
こ【故】三位(さんみ)どののかたみ共(とも)此(この)ねうばう(にようばう)【女房】をこそみ【見】給(たま)ひ
つるに、それさへかやうになられければ、いかが心(こころ)ぼそ
うぞなられける。
平家物語(へいけものがたり)巻(くわん)第九(だいく)