平家物語 高野本 巻第九
平家 九(表紙)
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平家九之巻 目録
生ずきするすみ 宇治川
河原合戦 木曾最期
樋口討罰(チウハツ)六箇度軍
三草勢揃付三草合戦 老馬
一二のかけ 二度のかけ
坂落 盛俊最期
忠度最期 重衡生捕
敦盛最期 知章(アキラ)最期イはまいくさ
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一の谷落足 小宰相
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平家物語巻第九
『生ずきの沙汰』S0901
○寿永三年正月一日、院の御所は大膳[B ノ]大夫成忠が
宿所、六条西[B ノ]洞院なれば、御所のていしかる【然る】べからず
とて、礼儀おこなはるべきにあらねば、拝礼も
なし。院の拝礼なかりければ、内裏の小朝拝も
おこなはれず。平家は讃岐国八島の磯にをくり【送り】
むかへ【向へ】て、年のはじめなれども、元日元三の儀式
事よろしからず。主上わたらせ給へども、節会
もおこなはれず、四方拝もなし。■魚も奏せず。
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吉野のくず【国栖】もまいら【参ら】ず。「世みだれたりしかども、
みやこ【都】にてはさすがかくはなかりしもの【物】を」とぞ、
おのおののたまひ【宣ひ】あはれける。青陽の春も来
り、浦吹風もやはらかに、日かげ【日影】ものどか【長閑】になり
ゆけど、ただ平家の人々は、いつも氷にとぢこめ
られたる心ち【心地】して、寒苦鳥にことならず。東
岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝の梅
開落已に異にして、花の朝月の夜、詩歌・管絃・
鞠・小弓・扇合・絵合・草づくし【草尽し】・虫づくし【虫尽し】、さまざま
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興ありし事ども、おもひ【思ひ】いでかたりつづけて、
永日をくらしかね給ふぞあはれ【哀】なる。同正月十一
日、木曾[B ノ]左馬頭義仲院参して、平家追討の
ために西国へ発向すべきよし奏聞す。同十三日、
既に門出ときこえ【聞え】し程に、東国より前兵衛佐
頼朝、木曾が狼籍【*狼藉】しづめんとて、数万騎の軍兵
をさしのぼせ【上せ】られけるが、すでに美乃【美濃】国・伊勢国に
つくときこえ【聞え】しかば、木曾大におどろき、宇治・勢
田の橋をひいて、軍兵ども【共】をわかちつかはす【遣す】。
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折ふし【折節】せい【勢】もなかりけり。勢田の橋は大手なれ
ばとて、今井[B ノ]四郎兼平八百余騎でさしつかはす【遣す】。
宇治橋へは、仁科・たかなし【高梨】・山田の次郎・五百余騎
でつかはす【遣す】。いもあらひ【一口】へは伯父の志太の三郎
先生義教三百余騎でむかひ【向ひ】けり。東国よりせめ【攻め】
のぼる大手の大将軍は、蒲の御曹司範頼、からめ
手【搦手】の大将軍は九郎御曹司義経、むねとの大名
三十余人、都合其勢六万余騎とぞ聞えし。
其比鎌倉殿にいけずき【生食】・する墨【摺墨】といふ名馬
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あり【有り】。いけずき【生食】をば梶原源太景季しきりに望み
申けれども、鎌倉殿「自然の事のあらん時、物の
具して頼朝がのるべき馬也。する墨【摺墨】もおとらぬ
名馬ぞ」とて梶原にはするすみ【摺墨】をこそたうだり
けれ。佐々木四郎高綱がいとま申にまい【参つ】たりけるに、
鎌倉殿いかがおぼしめさ【思し召さ】れけん、「所望の物はいくらも
あれども、存知せよ」とて、いけずき【生食】を佐々木にたぶ。
佐々木畏て申けるは、「高綱、この御馬で宇治河
のまさきわたし候べし。宇治河で死て候ときこし
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めし【聞し召し】候はば、人にさきをせられてげりとおぼし
めし【思し召し】候へ。いまだいきて候ときこしめさ【聞し召さ】れ候はば、さだ
めて【定めて】先陣はしつらん物をとおぼしめされ候へ」と
て、御前をまかり【罷り】たつ。参会したる大名小名みな
「荒涼の申やう【申様】かな」とささやきあへり。おのおの鎌倉
をたて、足柄をへてゆく【行く】もあり、箱根にかかる
人もあり、おもひおもひ【思ひ思ひ】にのぼるほど【程】に、駿河国浮島
が原にて、梶原源太景季たかき【高き】ところ【所】にうちあが
り、しばしひかへておほく【多く】の馬ども【共】を見ければ、思ひ
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おもひ【思ひ思ひ】の鞍をい【置い】て、色々の鞦かけ、或はのり口【乗り口】に
ひかせ、或はもろ口【諸口】にひかせ、いく【幾】千万といふ数を
しら【知ら】ず。引とをし【通し】引とをし【通し】しける中にも、景季が給は
たるする墨【摺墨】にまさる馬こそなかりけれと、うれしう
思ひてみる【見る】処に、いけずき【生食】とおぼしき馬こそ
出来たれ。黄覆輪の鞍をいて、小総の鞦かけ、しら
あは【白泡】かませ、とねり【舎人】あまたつい【付い】たりけれども、なを【猶】
ひきもためず、おどら【躍ら】せていで【出で】きたり。梶原源太
うちよて、「それはたが御馬ぞ」。「佐々木殿の御馬候」。
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其時梶原「やすからぬ物也。おなじやうにめしつか
はるるかげすゑ【景季】 をささ木【佐々木】におぼしめしかへられける
こそ遺恨なれ。みやこ【都】へのぼ【上つ】て、木曾殿の御内に
四天王ときこゆる[* 「きここゆる」とあり「こ」1字衍字]【聞ゆる】今井・樋口・楯・祢[B ノ]井にくんで
死ぬるか、しからずは西国へむかう【向う】て、一人当千と
きこゆる【聞ゆる】平家の侍どもといくさ【軍】して死なん
とこそおもひ【思ひ】つれども【共】、此御きそく【気色】ではそれも
せんなし。ここで佐々木にひ【引つ】くみさしちがへ、よい侍
二人死で、兵衛佐殿に損とらせたてまつら【奉ら】む」と
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つぶやいてこそ待かけたれ。佐々木四郎はなに心【何心】も
なくあゆませていで【出で】きたり。梶原、おしならべてや
くむ【組む】、むかふさま【向う様】にやあて【当て】おとす【落す】とおもひ【思ひ】けるが、
まづ詞をかけけり。「いかに佐々木殿、いけずき【生食】たま
はら【賜ら】せ給てさうな」と言ひければ、佐々木、「あぱれ、此
仁も内々所望すると聞し物を」と、きとおもひ【思ひ】
いだし【出し】て、「さ候へばこそ。此御大事にのぼりさうが、
定て宇治・勢田の橋をばひいて候らん、の【乗つ】て
河わたすべき馬はなし、いけずき【生食】を申さばやとは
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おもへ【思へ】ども、梶原殿の申されけるにも、御ゆるされ【許され】ない
とうけたまはる【承る】間、まして高綱が申ともよもたま
はら【賜ら】じとおもひ【思ひ】つつ、後日にはいかなる御勘当も
あらばあれと存て、暁たたんとての夜、とねり【舎人】
に心をあはせ【合はせ】て、さしも御秘蔵候いけずき【生食】を
ぬすみすまひてのぼりさうはいかに」といひければ、
梶原この詞に腹がゐて、「ねたい、さらば景季も
ぬすむべかりける物を」とて、どとわら【笑つ】てのき【退き】にけり。
『宇治川先陣』S0902
○佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、きは
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めてふとう【太う】たくましゐ【逞しい】が、馬をも人をもあたり
をはら【払つ】てくひければ、いけずき【生食】とつけられたり。
八寸の馬とぞきこえ【聞え】し。梶原が給はたるする墨【摺墨】
も、きはめてふとう【太う】たくましき【逞しき】が、まこと【誠】に黒かり
ければ、する墨【摺墨】とつけられたり。いづれもおとらぬ
名馬也。尾張国より大手・搦手ふた手【二手】にわかてせめ【攻め】
のぼる。大手の大将軍、蒲[B ノ]御曹司範頼、あひ【相】とも
なふ人々、武田[B ノ]太郎・鏡美[B ノ]次郎・一条[B ノ]次郎・板垣[B ノ]
三郎・稲毛[B ノ]三郎・楾谷[B ノ]四郎・熊谷[B ノ]次郎・猪俣[B ノ]小
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平六を先として、都合其勢三万五千余騎、
近江国野路・篠原にぞつきにける。搦手[B ノ]大将軍
は九郎御曹司義経、おなじくともなふ人々、安田[B ノ]
三郎・大内[B ノ]太郎・畠山[B ノ]庄司次郎・梶原源太・佐々木
四郎・糟屋[B ノ]藤太・渋谷右馬允・平山[B ノ]武者所をはじめ
として、都合其勢二万五千余騎、伊賀国をへ
て宇治橋のつめにぞをし【押し】よせ【寄せ】たる。宇治も勢田
も橋をひき【引き】、水のそこには乱ぐゐ【乱杭】う【打つ】て、大綱
はり、さかも木【逆茂木】つないでながしかけたり。比はむ月【睦月】
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廿日あまり【余り】の事なれば、比良のたかね、志賀の
山、むかしながらの雪もきえ、谷々の氷うちとけて、
水はおりふし【折節】まさりたり。白浪おびたたしう【夥しう】みなぎり
おち【落ち】、灘まくら【瀬枕】おほき【大き】に滝な【鳴つ】て、さかまく水も
はやかりけり。夜はすでにほのぼのとあけゆ
けど、河霧ふかく立こめて、馬の毛も鎧の毛
もさだかならず。ここに大将軍九郎御曹司、河の
はたにすすみいで【出で】、水のおもてをみわたして、
人々のこころ【心】をみんとやおもは【思は】れけん、「いかが
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せむ、淀・いもあらひ【一口】へやまはるべき、水のおち足【落ち足】
をやまつべき」とのたまへ【宣へ】ば、畠山、其比はいまだ生
年廿一になりけるが、すすみ出て申けるは、「鎌倉にて
よくよく此河の御沙汰は、候しぞかし。しろしめさ【知ろし召さ】ぬ
海河の、俄にできても候はばこそ。此河は近
江の水海の末なれば、まつともまつとも水ひまじ。橋
をば又誰かわたひ【渡い】てまいらす【参らす】べき。治承の合戦
に、足利又太郎忠綱は、鬼神でわたしけるか、重忠
瀬ぶみ仕らん」とて、丹の党をむねとして、五百余
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騎ひしひしとくつばみをならぶるところ【所】に、
平等院の丑寅、橘の小島がさき【崎】より武者二
騎ひかけ【引つ駆け】ひかけ【引つ駆け】いできたり。一騎は梶原源太景季、
一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何とも
みえ【見え】ざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、
梶原は佐々木に一段ばかりぞすすんだる。佐々木
四郎「此河は西国一の大河ぞや。腹帯ののびて
みえ【見え】さうは、しめたまへ【給へ】」といはれて、梶原さもあるらん
とやおもひ【思ひ】けん、左右のあぶみをふみすかし、
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手綱を馬のゆがみ【結髪】にすて【捨て】、腹帯をといてぞ
しめたりける。そのまに佐々木はつとはせ【馳せ】ぬい【抜い】て、
河へざとぞうちいれ【入れ】たる。梶原たばかられぬとや
おもひ【思ひ】けん、やがてつづい【続い】てうちいれ【入れ】たり。「いかに
佐々木殿、高名せうどて不覚し給ふな。水の
底には大づな【大綱】あるらん」といひければ、佐々木太刀を
ぬき、馬の足にかかりける大綱どもをばふつふつ
とうちきりうちきり、いけずき【生食】といふ世一の馬には
の【乗つ】たりけり、宇治河はやしといへども、一文字に
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ざとわたひ【渡い】てむかへ【向へ】の岸にうちあがる【上がる】。梶原が
の【乗つ】たりけるするすみ【摺墨】は、河なか【河中】よりのため【篦撓】がたに
おしなされて、はるかのしもよりうちあげたり。
佐々木あぶみふばりたちあがり【上がり】、大音声を
あげて名のりけるは、「宇多[B ノ]天皇より九代の
後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、
宇治河の先陣ぞや。われとおもは【思は】ん人々は高綱
にくめや」とて、おめい【喚い】てかく。畠山五百余騎で
やがてわたす。むかへ【向へ】の岸より山田次郎がはなつ【放つ】
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矢に、畠山馬の額をのぶか【篦深】にい【射】させて、よはれ【弱れ】ば、
河なか【河中】より弓杖をつい【突い】ておりたたり。岩浪甲
の手さきへざとおしあげけれども、事共せず、
水の底をくぐて、むかへ【向へ】の岸へぞつきにける。
あがら【上がら】んとすれば、うしろに物こそむずとひかへたれ。
「た【誰】そ」ととへば、「重親」とこたふ。「いかに大串か」。「さ候」。
大串次郎は畠山には烏帽子子にてぞあり【有り】ける。
「あまりに水がはやうて、馬はおしながされ候ひぬ。
力およば【及ば】で、つきまいらせ【参らせ】て候」といひければ、
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「いつもわ【我】殿原は、重忠がやう【様】なるものにこそ
たすけ【助け】られむずれ」といふままに、大串をひ【引つ】さげ
て、岸のうへ【上】へぞなげ【投げ】あげたる。なげ【投げ】あげられ、
ただなを【唯直つ】て、「武蔵国の住人、大串[B ノ]次郎重親、
宇治河〔かちたち〕の先陣ぞや」とぞなの【名乗つ】たる。敵も御方も
是をきい【聞い】て、一度にどとぞわらひ【笑ひ】ける。其後
畠山のりがへにの【乗つ】てうちあがる【上がる】。魚綾の直垂に
火おどしの鎧きて、連銭葦毛なる馬に黄覆
輪の鞍をいての【乗つ】たる敵の、まさきにすすんだるを、
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「ここにかくる【駆くる】はいかなる人ぞ。なのれ【名乗れ】や」といひければ、
「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱」となのる【名乗る】。
畠山「けふのいくさ神【軍神】いははん」とて、をし【押し】ならべて
むずととて引おとし【落し】、頸ねぢきて、本田[B ノ]次郎が
鞍のとつけにこそつけさせけれ。これをはじめて、
木曾殿の方より宇治橋かためたるせい【勢】ども、しばし
ささへてふせき【防き】けれども【共】、東国の大勢みなわた
い【渡い】てせめ【攻め】ければ、散々にかけなされ、木幡山・伏見
をさい【指い】てぞおち【落ち】行ける。勢田をば稲毛[B ノ]三郎重成が
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はからひにて、田上供御の瀬をこそわたしけれ。
『河原合戦』S0903
○いくさ【軍】やぶれにければ、鎌倉殿へ飛脚をもて、
合戦の次第をしるし申されけるに、鎌倉殿まづ
御使に、「佐々木はいかに」と御尋あり【有り】ければ、「宇治
河のまさき候」と申す。日記をひらいて御覧ずれ
ば、「宇治河の先陣、佐々木四郎高綱、二陣梶原
源太景季」とこそかか【書か】れたれ。宇治・勢田やぶれぬ
ときこえ【聞え】しかば、木曾左馬頭、最後のいとま申
さんとて、院の御所六条殿へはせ【馳せ】まいる【参る】。御所には
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法皇をはじめまいらせ【参らせ】て、公卿殿上人、「世は只今うせ
なんず。いかがせん」とて、手をにぎり、たてぬ願も
ましまさず。木曾門前までまいり【参り】たれども、東
国の勢すでに河原までせめ【攻め】入たるよし聞え
しかば、さいて奏する旨もなくてとてかへす【返す】。
六条高倉なるところ【所】に、はじめて見そめたる
女房のおはしければ、それへうちいり最後のなご
り【名残】おしま【惜しま】んとて、とみにいで【出で】もやらざりけり。
いままいり【今参り】したりける越後[B ノ]中太家光といふものあり【有り】。
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「いかにかうはうちとけてわたらせ給ひ候ぞ。御敵
すでに河原までせめ【攻め】入て候に、犬死にせさ
せ給ひなんず」と申けれども、なを【猶】いで【出で】もやらざり
ければ、「さ候ばまづさきだち【先立ち】まいらせ【参らせ】て、四手
の山でこそ待まいらせ【参らせ】候はめ」とて、腹かき切て
ぞ死にける。木曾殿「われをすすむる自害にこそ」
とて、やがてう【打つ】たち【立ち】けり。上野国の住人那波の
太郎広純を先として、其勢百騎ばかりには
すぎざりけり。六条河原にうちいで【出で】てみれ【見れ】ば、
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東国のせい【勢】とおぼしくて、まづ卅騎ばかり
いで【出で】きたり。その中に武者二騎すすんだり。一騎は
塩屋[B ノ]五郎維広、一騎は勅使河原の五O[BH 三]郎有直なり。
塩屋が申けるは、「後陣の勢をや待べき」。勅使河原
が申けるは、「一陣やぶれぬれば残党またからず。ただ
かけよ」とておめい【喚い】てかく。木曾はけふをかぎりと
たたかへば、東国のせいはわれう【討つ】とらんとぞすすみ
ける。大将軍九郎義経、軍兵ども【共】にいくさ【軍】をばせさ
せ、院の御所のおぼつかなきに、守護し奉らん
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とて、まづ我身ともにひた甲【直甲】五六騎、六条殿
へはせ【馳せ】まいる【参る】。御所には大膳大夫成忠、御所の東の
つい垣【築垣】のうへ【上】にのぼ【上つ】て、わななくわななく見まはせば、しら
旗ざとさし【差し】あげ【上げ】、武士ども五六騎のけかぶとに
たたかひ【戦ひ】なて、いむけ【射向】の袖ふきなびかせ、くろ煙
けたて【蹴立て】てはせ【馳せ】まいる【参る】。成忠「又木曾がまいり【参り】候。あな
あさまし」と申ければ、今度ぞ世のうせはてとて、
君も臣もさはが【騒が】せ給ふ。成忠かさね【重ね】て申けるは、
「只今はせ【馳せ】まいる【参る】武士どもは、かさじるし【笠印】のかはて候。
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今日都へ入東国のせい【勢】と覚候」と、申もはてねば、
九郎義経門前へ馳まい【参つ】て、馬よりおり、門をたた
かせ、大音声をあげて、「東国より前兵衛佐頼
朝が舎弟、九郎義経こそまい【参つ】て候へ。あけさせ
給へ」と申ければ、成忠あまりのうれしさに、つい
垣【築垣】よりいそぎおどり【躍り】おるるとて、腰をつき損じ
たりけれども、いたさはうれしさにまぎれておぼ
えず、はうはう【這ふ這ふ】まい【参つ】て此由奏聞しければ、法皇
大に御感あて、やがて門をひらかせていれ【入れ】られけり。
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九郎義経其日の装束には、赤地の錦の直垂に、
紫すそごの鎧きて、くわがた【鍬形】うたる甲の緒しめ、
こがねづくり【黄金作】の太刀をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、しげ
どう【滋籐】の弓のとりうち【鳥打】を、紙をひろさ一寸ばかりに
きて、左まきにぞまいたりける。今日の大将軍の
しるしとぞみえ【見え】し。法皇は中門のれんじ【櫺子】より
叡覧あて、「ゆゆしげなるものども【共】かな。みな名のら
せよ」と仰ければ、まづ大将軍九郎義経、次に安
田[B ノ]三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景
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季、佐々木四郎高綱、渋谷右馬允重資とこそ
なの【名乗つ】たれ。義経ぐし【具し】て、武士は六人、鎧はいろいろ也
けれども、つらだましゐ【面魂】事がらいづれもおとらず。
大膳大夫成忠仰をうけたまは【承つ】て、九郎義経を
大床のきはへめし【召し】て、合戦の次第をくはしく【詳しく】
御尋あれば、義経かしこまて申けるは、「義仲が
謀叛の事、頼朝大におどろき、範頼・義経をはじめとして、むねとの兵物卅余人、其勢六万O[BH 余]騎
をまいらせ【参らせ】候。範頼は勢田よりまはり候が、いまだまいり【参り】
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候はず。義経は宇治の手をせめ【攻め】おとひ【落い】て、まづ
此御所守護のためにはせ【馳せ】参じて候。義仲は
河原をのぼりにおち【落ち】候つるを、兵物共におはせ候つ
れば、いま【今】はさだめて【定めて】うとり候ぬらん」と、いと事
もなげにぞ申されたる。法皇大に御感あて、
「神妙也。義仲が余党などまい【参つ】て、狼籍【*狼藉】もぞ
仕る。なんぢら此御所よくよく守護せよ」と仰ければ、
義経かしこまりうけ給は【承つ】て、四方の門をかため
てまつほど【程】に、兵物ども【共】はせ【馳せ】集て、ほど【程】なく一万
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騎ばかりに成にけり。木曾はもしの事あらば、
法皇をとりまいらせ【参らせ】て西国へ落くだり【下り】、平家と
ひとつにならんとて、力者廿人そろへてもたり
けれども、御所には九郎義経はせ【馳せ】まい【参つ】て守護
したてまつる【奉る】よし【由】きこえ【聞え】しかば、さらばとて、
数万騎の大勢のなかへおめひ【喚い】てかけいる。既に
うた【討た】れんとする事度々に及といへども、かけ【駆け】
やぶり【破り】かけ【駆け】やぶり【破り】とをり【通り】けり。木曾涙をながひ【流い】て、「かかる
べしとだにしり【知り】たりせば、今井を勢田へはやらざらまし。
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幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ
契しに、ところどころ【所々】でうた【討た】れん事こそかなし
けれ。今井がゆくゑ【行方】をきかばや」とて、河原のぼりに
かくる【駆くる】ほど【程】に、六条河原と三条河原のあひだ【間】に、
敵おそてかかればとてかへしとてかへし、わづかなる小勢
にて、雲霞の如なる敵の大勢を、五六度までぞ
お【追つ】かへす【返す】。鴨河ざとうちわたし、粟田口・松坂にも
かかりけり。去年信濃を出しには五万余騎と
きこえ【聞え】しに、けふ四の宮河原をすぐる【過ぐる】には、主従
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七騎に成にけり。まして中有の空、おもひ【思ひ】
『木曾最期』S0904
やられて哀なり。○木曾殿は信濃より、ともゑ【巴】・
山吹とて、二人の便女をぐせ【具せ】られたり。山吹は
いたはり【労】あて、都にとどまりぬ。中にもともゑ【巴】は
いろしろく【白く】髪ながく、容顔まこと【誠】にすぐれたり。あり
がたきつよ弓【強弓】、せい兵【精兵】、馬の上、かちだち、うち物もて
は鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の
兵もの也。究竟のあら馬のり、悪所おとし【悪所落し】、いくさ【軍】
といへば、さねよき鎧きせ、おほ太刀・つよ弓【強弓】もたせて、
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まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名、
肩をならぶるものなし。されば今度も、おほく【多く】の
ものどもおち【落ち】ゆきうた【討た】れける中に、七騎が内まで
ともゑ【巴】はうた【討た】れざりけり。木曾は長坂をへて丹波
路へおもむくともきこえ【聞え】けり。又竜花越にかかて
北国へともきこえ【聞え】けり。かかりしかども、今井がゆく
ゑ【行方】をきかばやとて、勢田の方へ落行ほど【程】に、
今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたり
けるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をば
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まかせて、主のおぼつかなきに、みやこ【都】へとてかへす【返す】
ほど【程】に、大津のうちで【打出】の浜にて、木曾殿にゆき
あひたてまつる。互になか一町ばかりよりそれと
みし【見知つ】て、主従駒をはやめてよりあふたり。木曾殿
今井が手をとての給ひけるは、「義仲六条河原で
いかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくゑ【行方】の恋しさに、
おほく【多く】の敵の中をかけわて、これ【是】まではのがれ【逃れ】
たるなり」。今井四郎、「御諚まこと【誠】にかたじけなう【忝なう】候。
兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれ共、御ゆく
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ゑ【行方】のおぼつかなさに、これまでまい【参つ】て候」とぞ申
ける。木曾殿「契はいまだくちせざりけり。義仲
がせい【勢】は敵にをし【押し】へだてられ、山林にはせ【馳せ】ちて、この【此の】
辺にもあるらんぞ。汝がまかせてもたせたる旗あげ
させよ」とのたまへ【宣へ】ば、今井が旗をさし【差し】あげ【上げ】たり。京より
おつるせい【勢】ともなく、勢田よりおつるものともなく、
今井が旗をみ【見】つけて三百余騎ぞはせ集る。木曾
大に悦て、「此せい【勢】あらばなどか最後のいくさ【軍】せざるべ
き。ここにしぐらうでみゆる【見ゆる】はたが手やらん」。「甲斐の
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一条次郎殿とこそ承候へ」。「せい【勢】はいくらほどあるやらん」。
「六千余騎とこそきこえ【聞え】候へ」。「さてはよい敵ごさん
なれ。おなじう死なば、よからう敵にかけ【駆け】あふ【合う】て、大勢
の中でこそ打死をもせめ」とて、まさきにこそ
すすみけれ。木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の
直垂に、唐綾おどし【唐綾威】の鎧きて、くわがたうたる
甲の緒しめ、いかものづくりのおほ太刀はき、石うち
の矢の、其日のいくさ【軍】にい【射】て少々のこたるを、かしら
だか【頭高】におひ【負ひ】なし、しげどう【滋籐】の弓もて、きこゆる【聞ゆる】
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木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとう【太う】たく
ましひ【逞しい】に、黄覆輪の鞍をい【置い】てぞの【乗つ】たりける。あぶみ
ふばり立あがり【上がり】、大音声をあげて名のりけるは、
「昔はききけん物を、木曾の冠者、今はみる【見る】らん、左馬
頭兼伊与【*伊予】守、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一
条次郎とこそきけ。たがひ【互ひ】によいかたき【敵】ぞ。義仲
う【打つ】て兵衛佐にみせよ【見せよ】や」とて、おめい【喚い】てかく。一条の
二郎【次郎】、「只今なのる【名乗る】は大将軍ぞ。あますなものども【共】、
もらす【漏らす】な若党、うてや」とて、大ぜいの中にとり【取り】
P09040
こめ【籠め】て、我うとらんとぞすすみける。木曾三百
余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・
十文字にかけ【駆け】わ【破つ】て、うしろへつといでたれば、五十騎
ばかりになりにけり。そこをやぶ【破つ】てゆくほど【程】に、土肥の二郎実平二千余騎でささへたり。其をも
やぶ【破つ】てゆく【行く】ほど【程】に、あそこでは四五百騎、ここでは二三
百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中をかけわりかけわり
ゆくほど【程】に、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで
ともゑ【巴】はうた【討た】れざりけり。木曾殿「おのれ【己】はとうとう【疾う疾う】、
P09041
女なれば、いづちへもゆけ。我は打死にせんと思ふ
なり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾
殿の最後のいくさ【軍】に、女を具せられたりけりなど
いはれん事もしかる【然る】べからず」とのたまひ【宣ひ】けれども【共】、
なを【猶】おち【落ち】もゆかざりけるが、あまりにいはれ奉て、
「あぱれ、よからうかたき【敵】がな。最後のいくさ【軍】して
みせ【見せ】奉らん」とて、ひかへたるところ【所】に、武蔵国に、きこえ【聞え】
たる大ぢから【大力】、をん田の【御田の】八郎師重、卅騎ばかりでいで【出で】
きたり。ともゑ【巴】その中へかけ入、をん田の【御田の】八郎に
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おしならべて、むずととてひき【引き】おとし【落し】、わがの【乗つ】たる
鞍の前輪にをし【押し】つけて、ちともはたらかさ【働かさ】ず、頸
ねぢきてすててげり。其後物具ぬぎすて、
東国の方へ落ぞゆく。手塚太郎打死す。手塚の
別当落にけり。今井の四郎、木曾殿、主従二騎に
なてのたまひ【宣ひ】けるは、「日来はなにともおぼえぬ
鎧が、けふはおもう【重う】なたるぞや」。今井四郎申けるは、
「御身もいまだつかれ【疲れ】させたまは【給は】ず、御馬もよはり【弱り】候は
ず。なにによてか一両の御きせなが【着背長】をおもうはおぼし
P09043
めし【思し召し】候べき。それは御方に御せいが候はねば、おく病【臆病】
でこそさはおぼしめし【思し召し】候へ。兼平一人候とも、余の武者
千騎とおぼしめせ【思し召せ】。矢七八候へば、しばらくふせき矢【防き矢】
仕らん。あれにみえ【見え】候、粟津の松原と申。あの松の
中で御自害候へ」とて、う【打つ】てゆく【行く】程に、又あら【新】手の
武者五十騎ばかりいで【出で】きたり。「君はあの松原へい
ら【入ら】せ給へ。兼平は此敵ふせき【防き】候はん」と申ければ、木曾
殿のたまひ【宣ひ】けるは、「義仲宮こ【都】にていかにもなるべかり
つるが、これまでのがれ【逃れ】くるは、汝と一所で死なんと
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思ふ為也。ところどころ【所々】でうた【討た】れんよりも、一ところ【一所】で
こそ打死をもせめ」とて、馬の鼻をならべてかけ【駆け】
むとしたまへ【給へ】ば、今井四郎馬よりとびおり、主の
馬の口にとりつい【付い】て申けるは、「弓矢とりは年来
日来いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば
ながき疵にて候也。御身はつかれ【疲れ】させ給ひて候。
つづくせい【勢】は候はず。敵にをし【押し】へだてられ、いふかひなき
人、郎等にくみおとさ【落さ】れさせ給て、うた【討た】れさせ給なば、
「さばかり日本国にきこえ【聞え】させ給ひつる木曾殿をば、
P09045
それがしが郎等のうちたてま【奉つ】たる」など申さん事
こそ口惜う候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申ければ、
木曾さらばとて、粟津の松原へぞかけたまふ【給ふ】。
今井[B ノ]四郎只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入、あぶみ
ふばりたちあがり【上がり】、大音声あげてなのり【名乗り】けるは、「日来
は音にもききつらん、今は目にも見たまへ【給へ】、木曾殿の
御めのと子【乳母子】、今井の四郎兼平、生年卅三にまかり【罷り】
なる。さるものありとは鎌倉殿までもしろしめさ【知ろし召さ】れ
たるらんぞ。兼平う【打つ】て見参にいれよ【入れよ】」とて、い【射】のこしたる
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八すぢの矢を、さしつめ【差し詰め】引つめ【引き詰め】さんざん【散々】にいる【射る】。死生は
しら【知ら】ず、やにわ【矢庭】にかたき【敵】八騎い【射】おとす【落す】。其後打物ぬい
てあれにはせ【馳せ】あひ、これに馳あひ、きてまはるに、
面をあはするものぞなき。分どり【分捕】あまたしたり
けり。只「い【射】とれや」とて、中にとりこめ、雨のふるやう【様】に
い【射】けれども、鎧よければうらかかず、あき間をい【射】ねば
手もおはず。木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけ
たまふ【給ふ】が、正月廿一日入相ばかりの事なるに、うす氷
ははたりけり、ふか田【深田】ありともしら【知ら】ずして、馬をざと
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うち入たれば、馬のかしら【頭】もみえ【見え】ざりけり。あをれ【煽れ】
どもあをれ【煽れ】ども、うてどもうてどもはたらか【働か】ず。今井がゆくゑ【行方】のおぼ
つかなさに、ふりあふぎたまへ【給へ】るうち甲【内甲】を、三浦[B ノ]石田の
次郎為久、お【追つ】かかてよつぴいてひやうふつといる【射る】。いた
手【痛手】なれば、まかうを馬のかしら【頭】にあててうつぶしたま
へ【給へ】る処に、石田が郎等二人落あふて、ついに【遂に】木曾殿の
頸をばとてげり。太刀のさきにつらぬき、たかく
さし【差し】あげ【上げ】、大音声をあげて、「此日ごろ【日比】日本国に聞え
させ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久が
P09048
うち奉たるぞや」となのり【名乗り】ければ、今井四郎いくさ【軍】
しけるが、これ【是】をきき、「いまはたれをかばはむとてかいくさ【軍】
をもすべき。これ【是】を見たまへ【給へ】、東国の殿原、日本一の
剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口に
ふくみ【含み】、馬よりさかさまにとび落、つらぬか【貫ぬかつ】てぞうせに
『樋口被討罰』S0905
ける。さてこそ粟津のいくさ【軍】はなかりけれ。○今井が兄、
樋口次郎兼光は、十郎蔵人うたんとて、河内国長野
の城へこえたりけるが、そこにてはうちもらし【洩らし】ぬ。紀伊
国名草にありときこえ【聞え】しかば、やがてつづひ【続い】てこえ
P09049
たりけるが、都にいくさ【軍】ありと聞て馳のぼる。淀の
大渡の橋で、今井が下人ゆきあふたり。「あな心う【憂】、是は
いづちへとてわたらせ給ひ候ぞ。君うた【討た】れさせ給ひ
ぬ。今井殿は自害」と申ければ、樋口の次郎涙を
はらはらとながひ【流い】て、「これ【是】をきき【聞き】たまへ【給へ】殿原、君に
御心ざしおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】給はん人々は、これよりいづ
ちへもおち【落ち】ゆき【行き】、出家入道して乞食頭陀の行を
もたて【立て】、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】たまへ【給へ】。兼光は都
へのぼり打死して、冥途にても君の見参に
P09050
入、今井四郎をいま一度みんとおもふ【思ふ】ぞ」といひけ
れば、五百余騎のせい、あそこにひかへここにひかへ
おち【落ち】ゆく【行く】ほど【程】に、鳥羽の南の門をいでけるには、其勢
わづかに廿余騎にぞ成にける。樋口二郎けふすでに
みやこ【都】へ入ときこえ【聞え】しかば、党も豪家も七条・朱雀・
四塚ざまへ馳向。樋口が手に茅野太郎といふ【云ふ】もの
あり【有り】。四塚にいくらも馳むかふ【向う】たる敵の中へかけ入、大
音声をあげて、「此御中に、甲斐の一条次郎殿の
御手の人や在ます」ととひければ、「あながち一条の
P09051
二郎【次郎】殿の手でいくさ【軍】をばするか。誰にもあへかし」
とて、どとわらふ【笑ふ】。わらは【笑は】れてなのり【名乗り】けるは、「かう申は
信濃国諏方【*諏訪】上[B ノ]宮の住人、茅野大夫光家が子に、
茅野太郎光広、かならず【必ず】一条の二郎殿の御手を
たづぬるにはあらず。おとと【弟】の茅野[B ノ]七郎それにあり【有り】。
光広が子共二人、信乃【信濃】国に候が、「あぱれわが父はようて
や死にたるらん、あしうてや死にたるらん」となげかん処に、
おとと【弟】の七郎がまへで打死して、子共にたしかに
きかせんと思ため也。敵をばきらふまじ」とて、あれに
P09052
はせ【馳せ】あひこれ【是】にはせ【馳せ】あひ、敵三騎きておとし【落し】、
四人にあたる敵にをし【押し】ならべて、ひ【引つ】く【組ん】でどうどおち【落ち】、
さしちがへてぞ死にける。樋口二郎は児玉[B 党]にむす
ぼほれたりければ、児玉の人ども【共】寄合て、「弓矢とる
ならひ、我も人もひろい【広い】中へ入らんとするは、自然の
事のあらん時、ひとまどのいきをもやすめ、しばしの
命をもつが【継が】んと思ふためなり。されば樋口次郎が
我等にむすぼほれけんも、さこそは思ひけめ。今度
の我等が勲功には、樋口が命を申うけん」とて、使者を
P09053
たてて、「日来は木曾殿の御内に今井・樋口とて
聞え給ひしかども、今は木曾殿うた【討た】れさせ給ひ
ぬ。なにかくるしかる【苦しかる】べき。我等が中へ降人になり給へ。
勲功の賞に申かへて、命ばかりたすけ【助け】たてまつら【奉ら】ん。
出家入道をもして、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】給へ」
と云ければ、樋口二郎、きこゆるつはものなれども、
運やつきにけむ、児玉党の中へ降人にこそ
成にけれ。これ【是】を九郎御曹司に申。院御所へ
奏聞してなだめ【宥め】られたりしを、かたはらの公卿
P09054
殿上人、つぼね【局】の女房達、「木曾が法住寺殿へよせ
て時をつくり、君をもなやましまいらせ【参らせ】、火をかけ
ておほく【多く】の人々をほろぼしうしなひ【失ひ】しには、あそこ
にもここにも、今井・樋口といふ声のみこそありしか。
これ【是】らをなだめ【宥め】られんは口おしかる【惜しかる】べし」と、面々に申
されければ、又死罪にさだめ【定め】らる。同廿二日、新摂政
殿とどめ【留め】られ給ひて、本の摂政還着したまふ【給ふ】。
纔に六十日の内に替られ給へば、いまだ見はてぬ
夢のごとし。昔粟田の関白は、悦申の後只七ケ日
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だにこそおはせしか、これは六十日とはいへども、その内
に節会も除目もおこなはれしかば、思出なきにも
あらず。同廿四日、木曾[B ノ]左馬頭并余党五人が頸、大路
をわたさる。樋口次郎は降人なりしが、頻に頸のとも【伴】
せんと申ければ、藍摺の水干、立烏帽子でわたされけり。同廿五日、樋口次郎遂に切られぬ。範頼・義
経やうやうに申されけれども、「今井・樋口・楯・祢[B ノ]井と
て、木曾が四天王のそのひとつ【一つ】なり。これ【是】らをなだ
め【宥め】られむは、養虎の愁あるべし」とて、殊に沙汰あて
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誅られけるとぞきこえ【聞え】し。つて【伝】にきく【聞く】、虎狼の
国衰へて、諸侯蜂の如く起し時、沛公先に
咸陽宮に入といへども、項羽が後に来らん事を
恐て、妻は美人をもおかさず、金銀珠玉をも掠め
ず、徒に函谷の関を守て、漸々にかたき【敵】をほろぼ
して、天下を治する事を得たりき。されば木曾の
左馬頭、まづ都へ入るといふ【云ふ】とも、頼朝朝臣の命
にしたがはましかば、彼沛公がはかり事にはおとら
ざらまし。平家はこぞの冬の比より、讃岐国八島の
P09057
磯をいで【出で】て、摂津国難波潟へをし【押し】わたり、福原の旧
里に居住して、西は一の谷を城郭にかまへ【構へ】、東は
生田[B ノ]森を大手の木戸口とぞさだめ【定め】ける。其内福原・
兵庫・板やど【板宿】・須磨[B 「須間」とあり「間」に「磨」と傍書]にこもる勢、これは山陽道八ケ国、
南海道六ケ国、都合十四ケ国をうちしたがへてめさ
るるところ【所】の軍兵なり。十万余騎とぞきこえ【聞え】し。
一[B ノ]谷は北は山、南は海、口はせばくて奥ひろし。岸
たかくして屏風をたてたるにことならず。北の山
ぎはより南の海のとをあさ【遠浅】まで、大石をかさね【重ね】あげ、
P09058
おほ木【大木】をきてさかも木【逆茂木】にひき【引き】、ふかきところ【所】に
は大船どもをそばだてて、かいだて【垣楯】にかき、城の面
の高矢倉には、一人当千ときこゆる【聞ゆる】四国鎮西の
兵物ども【共】、甲冑弓箭を帯して、雲霞の如くに
なみ居たり。矢倉のしたには、鞍置馬ども【共】十重
廿重にひ【引つ】たてたり。つねに大皷をう【打つ】て乱声を
す。一張の弓のいきほひは半月胸のまへにかかり、
三尺の剣の光は秋の霜腰の間に横だへたり。たかき【高き】
ところ【所】には赤旗おほく【多く】うちたてたれば、春風にふか
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れて天に翻るは、火炎のもえあがる【上がる】にことならず。
『六ケ度軍』S0906
○平家福原[B 「福原」に「一谷イ」と傍書]へわたり給て後は、四国の兵ものしたがい【従ひ】
たてまつら【奉ら】ず。中にも阿波讃岐の在庁ども、
平家をそむいて源氏につかむとしけるが、「抑我等は、
昨日今日まで平家にしたがうたるものの、今はじ
めて源氏の方へまいり【参り】たりとも、よももちひ【用ゐ】ら
れじ。いざや平家に矢ひとつ【一つ】い【射】かけて、それを面[* 下欄に「表」と注記]に
してまいら【参ら】ん」とて、門脇の中納言、[* 「中納言の」と有るのを他本により訂正]子息越前の三
位、能登守、父子三人、備前国下津井に在ますと
P09060
きこえ【聞え】しかば、討たてまつら【奉ら】んとて、兵船十余艘
でよせたりけり。能登守これ【是】をきき「にくひやつ
原かな。昨日今日まで我等が馬の草きたる奴原が、
すでに契を変ずるにこそあんなれ。其義ならば
一人ももらさ【漏らさ】ずうてや」とて、小舟どもにとりの【乗つ】て、
「あますな、もらす【漏らす】な」とてせめ【攻め】たまへ【給へ】ば、四国の兵物共、
人目ばかりに矢一射て、のか【退か】んとこそおもひ【思ひ】けるに、
手いたうせめ【攻め】られたてま【奉つ】て、かなは【叶は】じとや思ひけん、
とをまけ【遠負】にして引退き、都のかた【方】へにげのぼるが、
P09061
淡路国ふくら【福良】の泊につきにけり。其国に源氏二人
あり【有り】。故六条判官為義が末子、賀茂冠者義嗣・淡
路冠者義久ときこえ【聞え】しを、四国の兵物共、大将に
たのん【頼ん】で、城郭を構て待ところ【所】に、能登殿やが
てをし【押し】よせ【寄せ】責給へば、一日たたかひ【戦ひ】、賀茂冠者打死す。
淡路冠者はいた手【痛手】負て自害してげり。能登殿
防矢い【射】ける兵ものども、百卅余人が頸切て、討手の
交名しるい【記い】て、福原へまいらせ【参らせ】らる。門脇中納言、其
より福原へのぼり給ふ。子息達は、伊与【*伊予】の河野
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四郎がめせ【召せ】どもまいら【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、四国へぞ渡
られける。先兄の越前三位通盛卿、阿波国花園の
城につき給。能登守讃岐の八島へわたり【渡り】給ふと聞
えしかば、河野の四郎道信【*通信】、安芸国住人沼田次郎は
母方の伯父なりければ、ひとつ【一つ】にならんとて、安芸
国へをし【押し】わたる。能登守これ【是】をきき、やがて讃岐の
八島をいで【出で】ておはれけるが、すでに備後国蓑島に
かかて、次日、沼田の城へよせ給ふ。沼田二郎・河野四郎
ひとつ【一つ】になてふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。能登殿やがて押寄
P09063
せめ【攻め】たまへ【給へ】ば、一日一夜ふせき【防き】たたかひ【戦ひ】、沼田二郎叶
はじとやおもひ【思ひ】けん、甲をぬいで降人にまいる【参る】。
河野四郎はなを【猶】したがひ【従ひ】たてまつら【奉ら】ず。其勢
五百余騎あり【有り】けるが、わづかに五十騎ばかりにうち
なされ、城をいで【出で】てゆく【行く】ほど【程】に、能登殿の侍平八兵衛
為員、二百騎ばかりが中にとりこめられて、主従
七騎にうちなされ、たすけ舟【助け船】にのらんとほそ道に
かかて、みぎはの方へおち【落ち】ゆく程に、平八兵衛が子息
讃岐七郎義範、究竟の弓の上手ではあり、お【追つ】かかて、
P09064
七騎をやには【矢庭】に五騎い【射】おとす【落す】。河野四郎、ただ主従
二騎になりにけり。河野が身にかへておもひ【思ひ】ける
郎等を、讃岐七郎をし【押し】ならべてくむ【組ん】でおち【落ち】、とて
おさへ【抑へ】て頸をかかんとする処に、河野四郎とて
かへし、郎等がうへ【上】なる讃岐七郎が頸かき切て、深
田へなげ入、大音声をあげて、「河野四郎越智の道
信【*通信】、生年廿一、かうこそいくさ【戦】をばすれ。われとおもは
む人々はとどめよ【留めよ】や」とて、郎等をかたにひ【引つ】かけ、そこ
をつとのがれ【逃れ】て小舟にのり、伊与【*伊予】国へぞわたりける。
P09065
能登殿、河野をもうちもらさ【漏らさ】れたれども、沼田二郎
が降人たるをめし【召し】ぐし【具し】て、福原へぞまいら【参ら】れける。
又淡路国の住人安摩の六郎忠景、平家をそむ
いて源氏に心をかよはし【通はし】けるが、大舟二そう【艘】に兵粮
米・物具つう【積う】で、宮こ【都】の方へのぼる程に、能登殿福
原にてこれ【是】をきき、小船十艘ばかりおしうかべ【浮べ】て
おは【追は】れけり。安摩の六郎、西宮の奥にて、かへしあは
せ【合はせ】ふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。手いたうせめ【攻め】られたてま【奉つ】て、かな
は【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、引退て和泉国吹井の浦に
P09066
つきにけり。紀伊国住人園辺兵衛忠康、これ【是】も平
家をそむいて源氏につかんとしけるが、あまの六郎が
能登殿に責られたてま【奉つ】て、吹井にありと聞え
しかば、其勢百騎ばかりで馳来てひとつ【一つ】になる。
能登殿やがてつづゐ【続い】てせめ【攻め】給へば、一日一夜ふせき
たたかひ【戦ひ】、あまの六郎・そのべの兵衛、かなは【叶は】じとや思ひ
けん、家子郎等に防矢い【射】させ、身がらはにげて京へ
のぼる。能登殿、防矢い【射】ける兵物ども【共】二百余人が頸
きりかけて、福原へこそまいら【参ら】れけれ。又伊与【*伊予】国の
P09067
住人河野四郎道信【*通信】、豊後国住人臼杵二郎
維高・緒方三郎維義同心して、都合其勢二千
余人、備前国へをし【押し】わたり【渡り】、いまぎ【今木】の城にぞ籠ける。
能登守是をきき、福原より三千余騎で馳くだり【下り】、
いまぎ【今木】の城をせめ【攻め】給ふ。能登殿「奴原はこわい御敵
で候。かさね【重ね】て勢を給はらん」と申されければ、福原より
数万騎の大勢をむけらるるよし聞えし程に、城の
うちの兵物ども【共】、手のきはたたかひ、分捕高名しきは
めて、「平家は大勢でまします也。我等は無勢なり。
P09068
いかにも叶まじ。ここをばおち【落ち】てしばらくいき【息】をつが【継】
む」とて、臼杵二郎・緒方三郎舟にとりのり、鎮西へ
おしわたる。河野は伊与【*伊予】へぞ渡りける。能登殿「いまは
うつべき敵なし」とて、福原へこそまいら【参ら】れけれ。
大臣殿をはじめたてま【奉つ】て、平家一門の公卿殿上人
より【寄り】あひ給ひて、能登殿の毎度の高名をぞ
『三草勢揃』S0907
一同に感じあはれける。○正月廿九日、範頼・義経院参
して、平家追討のために西国へ発向すべきよし
奏聞しけるに、「本朝には神代よりつたはれる三の御宝
P09069
あり【有り】。内侍所・神璽・宝剣これ也。相構て事ゆへ【故】なく
かへし【返し】いれ【入れ】たてまつれ【奉れ】」と仰下さる。両人かしこまり
うけ給は【承つ】てまかり【罷り】いで【出で】ぬ。同二月四日、福原には、故入
道相国の忌日とて、仏事かた【形】のごとく【如く】おこなはる。
あさゆふのいくさだち【軍立ち】に、過ゆく月日はしら【知ら】ね共、こぞ【去年】は
ことしにめぐりきて、うかり【憂かり】し春にも成にけり。
世の世にてあらましかば、いかなる起立塔婆のくはたて【企て】、
供仏施僧のいとなみもあるべかりしかども【共】、ただ男女
の君達さしつどひて、なく【泣く】より外の事ぞなき。
P09070
其次でに叙位除目おこなはれて、僧も俗も
みなつかさ【司】なされけり。門脇中納言、正二位大納言に
なり【成り】たまふ【給ふ】べきよし、大臣殿よりの給ひ【宣ひ】ければ、教盛卿、
けふまでもあればあるかのわが身かは
夢のうちにもゆめ【夢】をみる【見る】かな W067
と御返事申させ給ひて、つゐに【遂に】大納言にもなり
たまは【給は】ず。大外記中原師直が子、周防介師純、大外記
になる。兵部少輔正明、五位蔵人になされて蔵人少輔
とぞいはれける。昔将門が東八ケ国をうちしたがへて、
P09071
下総国相馬郡に都をたて、我身を平親王と
称して、百官をなしたりしには、暦博士ぞなかりける。
これ【是】はそれにはにる【似る】べからず。旧都をこそおち【落ち】給ふと
いへども、主上三種の神器を帯して、万乗の位
にそなはり給へり。叙位除目おこなはれんも僻事
にはあらず。平氏すでに福原までせめ【攻め】のぼ【上つ】て、
宮こ【都】へかへり入べきよし聞えしかば、故郷にのこり
とどまる人々いさみよろこぶ事なのめならず。二位[B ノ]
僧都専親【*全真】は、梶井[B ノ]宮の年来の御同宿なりければ、
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風のたよりには申されけり。宮よりも又つねは御をと
づれ【音信】あり【有り】けり。「旅の空のありさま【有様】おぼしめし【思し召し】やるこそ
心ぐるしけれ。宮こ【都】もいまだしづまらず」などあそばひ【遊ばい】
て、おくには一首の歌ぞあり【有り】ける。
人しれずそなたをしのぶ【忍ぶ】こころをば
かたぶく月にたぐへてぞやる W068
僧都是をかほ【顔】にをし【押し】あてて、かなしみの涙せきあへ
ず。さるほど【程】に、小松の三位中将維盛卿は年へだたり
日かさなるにしたがひ【随ひ】て、ふる郷【故郷】にとどめ【留め】をき給ひし
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北方、おさなき【幼き】人々の事をのみなげきかなしみ
たまひ【給ひ】けり。商人のたよりに、をのづから文などの
かよふにも、北方の宮こ【都】の御ありさま、心ぐるしう
きき給ふに、さらばむかへ【向へ】[M と]てひとところ【一所】でいかにも
ならばやとはおもへ【思へ】ども、我身こそあらめ、人のため
いたはしくてなどおぼしめし、しのび【忍び】てあかし
くらし給ふにこそ、せめての心ざしのふかさ【深さ】の程も
あらはれけれ。さる程に、源氏は四日[B 「四」に「二月イ」と傍書]よすべかりしが、
故入道相国の忌日ときい【聞い】て、仏事をとげさせんが
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ためによせず。五日は西ふさがり、六日は道忌日、七日の
卯剋に、一谷の東西の木戸口にて源平矢合
とこそさだめ【定め】けれ。さりながらも、四日は吉日なれば
とて、大手搦手の大将軍、軍兵二手にわかて
みやこ【都】をたつ。大手の大将軍は蒲御曹司範頼、
相伴人々、武田太郎信義・鏡美次郎遠光・同小次郎
長清・山名次郎教義・同三郎義行、侍大将には梶原
平三景時・嫡子[B ノ]源太景季・次男平次景高・同三郎
景家・稲毛三郎重成・楾谷四郎重朝、同五郎行重・
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小山[B ノ]小四郎朝政・同中沼五郎宗政・結城七郎朝光・
佐貫四郎大夫広綱・小野寺[B ノ]禅師太郎道綱・曾
我太郎資信・中村太郎時経・江戸四郎重春・玉[B ノ]井[B ノ]
四郎資景・大河津太郎広行・庄三郎忠家・同四郎
高家・勝大八郎行平・久下二郎重光・河原太郎
高直・同次郎盛直・藤田三郎大夫行泰を先として、
都合其勢五万余騎、二月四日の辰の一点に都
をたて、其日申酉[B ノ]剋に摂津国■陽野に
陣をとる。搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同く
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伴ふ人々、安田三郎義貞・大内[B ノ]太郎維義・村上判
官代康国・田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎実
平・子息[B ノ]弥太郎遠平・三浦介義澄・子息[B ノ]平六義村・
畠山庄司次郎重忠・同長野三郎重清・三浦佐原
十郎義連・和田小太郎義盛・同次郎義茂・同三郎
宗実・佐々木四郎高綱・同五郎義清・熊谷次郎直
実・子息[B ノ]小次郎直家・平山武者所季重・天野次郎
直経・小河次郎資能・原三郎清益・金子十郎家
忠・同与一親範・渡柳弥五郎清忠・別府小太郎清
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重・多々羅五郎義春・其子の太郎光義・片岡太郎
経春・源八広綱・伊勢三郎義盛・奥州[B ノ]佐藤三郎嗣信・
同四郎忠信・江田[B ノ]源三・熊井太郎・武蔵房弁慶を先
として、都合其勢一万余騎、同日の同時に宮こ【都】を
たて丹波路にかかり、二日路を一日にう【打つ】て、播磨と
丹波のさかひなる三草の山の東の山ぐち【山口】、小野原に
『三草合戦』S0908
こそつきにけれ。○平家の方には大将軍小松新三位中将
資盛・同少将有盛・丹後侍従忠房・備中守師盛、
侍大将には、平内兵衛清家・海老次郎盛方を初として、
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都合其勢三千余騎、小野原より三里へだてて、三草
のやま【山】の西の山口に陣をとる。其夜の戌の剋ば
かり、九郎御曹司、土肥次郎をめし【召し】て、「平家はこれ【是】
より三里へだてて、三草の山の西の山口に大勢でひかへ
たんなるは。今夜夜討によすべきか、あすのいくさ【軍】か」と
のたまへ【宣へ】ば、田代冠者すすみいで【出で】て申けるは、「あすのいく
さ【軍】とのべ【延べ】られなば、平家せい【勢】つき候なんず。平家は三千
余騎、御方の御せい【勢】は一万余騎、はるかの理に候。夜
うち【夜討】よかんぬと覚候」と申ければ、土肥次郎「いしう
P09079
申させ給ふ田代殿かな。さらばやがてよせさせ給へ」
とてう【打つ】たち【立ち】けり。つはものども【共】「くらさはくらし、
いかがせんずる」と口々に申ければ、九郎御曹司「例
の大だい松はいかに」。土肥二郎「さる事候」とて、
小野原の在家に火をぞかけたりける。これ【是】をはじ
めて、野にも山にも、草にも木にも、火をつけ
たれば、ひるにはちともおとらずして、三里の山を
こえ【越え】ゆき【行き】けり。此田代冠者と申は、父は伊豆国の
さきの国司中納言為綱の末葉也。母は狩野介
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茂光がむすめをおもふ【思う】てまうけたりしを、母方の
祖父にあづけて、弓矢とりにはしたて【仕立て】たり。
俗姓を尋ぬれば、後三条院第三王子、資仁親王
より五代の孫也。俗姓もよきうへ【上】、弓矢とても
よかりけり。平家の方には其夜夜うち【夜討】によせ【寄せ】んずる
をばしら【知ら】ずして、「いくさ【軍】はさだめて【定めて】あすのいくさ【軍】で
ぞあらんずらん。いくさ【軍】にもねぶたい【眠たい】は大事の事ぞ。
ようね【寝】ていくさ【軍】せよ」とて、先陣はをのづから
用心するもあり【有り】けれども、後陣のものども【共】、或は
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甲枕にし、或は鎧の袖・ゑびら【箙】などを枕にして、先
後もしら【知ら】ずぞふしたりける。夜半ばかり、源氏一万騎
おしよせて、時をどとつくる。平家の方にはあまりに
あはて【慌て】さはひ【騒い】で、弓とるものは矢をしら【知ら】ず、矢とる
ものは弓をしら【知ら】ず、馬にあてられじと、なか【中】をあけ
てぞとをし【通し】ける。源氏はおち【落ち】ゆく【行く】かたき【敵】をあそこ
にお【追つ】かけ、ここにお【追つ】つめせめ【攻め】ければ、平氏の軍兵
やには【矢庭】に五百余騎うた【討た】れぬ。手おふものどもおほ
かり【多かり】けり。大将軍小松の新三位中将・同少将・丹
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後侍従、面目なうやおもは【思は】れけん、播磨国高砂
より舟にの【乗つ】て、讃岐の八島へ渡給ひぬ。備中守
は平内兵衛・海老二郎をめし【召し】ぐし【具し】て、一谷へぞ
『老馬』S0909
まいら【参ら】れける。○大臣殿は安芸右馬助能行を使
者で、平家の君達のかたがた【方々】へ、「九郎義経こそ、
三草の手をせめ【攻め】おとひ【落い】て、すでにみだれ入候な
れ。山の手は大事に候。おのおのむかは【向は】れ候へ」とのた
まひ【宣ひ】ければ、みな辞し申されけり。能登殿のもとへ
「たびたびの事で候へども、御へんむかは【向は】れ候なんや」と
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のたまひ【宣ひ】つかはさ【遣さ】れたりければ、能登殿の返事には、
「いくさ【軍】をば我身ひとつ【一つ】の大事ぞとおもふ【思う】てこそ
よう候へ。かり【猟】すなどり【漁】などのやうに、足だち【足立】のよか
らう方へはむかは【向は】ん、あしからう方へはむかは【向は】じなど候
はんには、いくさ【軍】に勝事よも候はじ。いくたびで
も候へ、こはからう方へは、教経うけ給は【承つ】てむかひ【向ひ】
候はん。一方ばかりはうちやぶり候べし。御心やすう
おぼしめさ【思し召さ】れ候へ」と、たのもしげ【頼もし気】にぞ申されける。
大臣殿なのめならず悦て、越中前司盛俊を先
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として、能登殿に一万余騎をぞつけられける。
兄の越前三位道盛【*通盛】卿あひ具して山の手をぞ
かため給ふ。山の手〔と〕申は鵯越のふもと【麓】なり。
通盛卿は能登殿のかり屋【仮屋】に北の方むかへ【向へ】たてま【奉つ】て、
最後のなごりおしま【惜しま】れけり。能登殿大にいかて、
「此手はこはひ方とて教経をむけられて候也。
誠にこはう候べし。只今もうへ【上】の山より源氏ざと
おとし【落し】候なば、とる物もとりあへ候はじ。たとひ弓を
もたりとも、矢をはげずはかなひ【叶ひ】がたし。たとひ
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矢をはげたりとも、ひか【引か】ずはなを【猶】あしかる【悪しかる】べし。
ましてさ様にうちとけさせ給ては、なんのよう【用】にか
たたせ給ふべき」といさめられて、げにもとやおも
は【思は】れけん、いそぎ物の具して、人をばかへし給ひ
けり。五日のくれがた【暮れ方】に、源氏■陽野をたて、
やうやう生田の森にせめ【攻め】ちかづく【近付く】。雀の松原・御影の
杜・■陽野の方をみわたせ【渡せ】ば、源氏手々に陣を
とて、とを火【遠火】をたく。ふけゆくままにながむれば、
山のは【端】いづる【出づる】月のごとし【如し】。平家もとを火【遠火】たけやとて、
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生田[B ノ]森にもかたのごとくぞたいたりける。あけ【明け】ゆく【行く】
ままにみ【見】わたせ【渡せ】ば、はれ【晴れ】たる空のほし【星】のごとし【如し】。これや
むかし沢辺のほたる【蛍】と詠じ給ひけんも、今こそ
思ひしられけれ。[B 老馬イ]源氏はあそこに陣とて馬やすめ、
ここに陣とて馬かひ【飼ひ】などしけるほど【程】にいそがず。
平家の方には今やよする【寄する】いまやよする【寄する】と、やすい心
もなかりけり。六日のあけぼの【曙】に、九郎御曹司、一
万余騎を二手にわかて、まづ土肥二郎実平をば
七千余騎で一の谷の西の手へさしつかはす【遣す】。我身は
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三千余騎で一の谷のうしろ、鵯越をおとさ【落さ】んと、
丹波路より搦手にこそまはられけれ。兵物ども【共】
「これはきこゆる【聞ゆる】悪所であなり。敵にあふてこそ
死にたけれ、悪所におち【落ち】ては死にたからず。あぱれ
此山の案内者やあるらん」と、めんめんに申ければ、
武蔵国住人平山武者所すすみいで【出で】て申けるは、
「季重こそ案内は知て候へ」。御曹司「わとのは東国
そだちのものの、けふはじめてみる【見る】西国の山の
案内者、大にまことしからず」との給へ【宣へ】ば、平山かさね【重ね】
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て申けるは、「御諚ともおぼえ候はぬものかな。吉野・
泊瀬の花をば歌人がしり、敵のこもたる城の
うしろの案内をば、かう【剛】の者がしる候」と申ければ、
是又傍若無人にぞきこえ【聞え】ける。又武蔵国住人
別府[B ノ]小太郎とて、生年十八歳になる小冠
すすみ出て申けるは、「父で候し義重法師がおしへ【教へ】
候ひし[* 「候へし」と有るのを他本により訂正]は、「敵にもおそはれよ、山越ごえの狩をもせよ、深
山にまよひたらん時は、老馬に手綱をうちかけて、
さきにお【追つ】たててゆけ。かならず【必ず】道へいづる【出づる】ぞ」とこそ
P09089
をしへ【教へ】候しか」。御曹司「やさしうも申たる物かな。「雪は
野原をうづめども、老たる馬ぞ道はしる【知る】」といふ【云ふ】
ためし【例】あり」とて、白葦毛なる老馬にかがみ鞍【鏡鞍】
をき、しろぐつは【白轡】はげ、手綱むすでうちかけ、さき
にお【追つ】たてて、いまだしらぬ深山へこそいり給へ。比はきさ
らぎ【二月】はじめの事なれば、峰の雪むら消えて、花
かとみゆる所もあり【有り】。谷の鴬をとづれて、霞
にまよふところ【所】もあり【有り】。のぼれば白雲皓々として
聳へ、下れば青山峨々として岸たかし【高し】。松の
P09090
雪だに消やらで、苔のほそ道かすか【幽】なり。嵐に
たぐふおりおり【折々】は、梅花とも又うたがはるれ。東西に
鞭をあげ、駒をはやめてゆく【行く】程に、山路に日くれ
ぬれば、みなおりゐて陣をとる。武蔵房弁慶
老翁を一人具してまいり【参り】たり。御曹司「あれは
なにもの【何者】ぞ」と問たまへ【給へ】ば、「此山の猟師で候」と申
す。「さては案内はし【知つ】たるらん、ありのままに申せ」とこそ
のたまひ【宣ひ】けれ。「争か存知仕らで候べき」。「これ【是】より平
家の城郭一谷へおとさ【落さ】んとおもふ【思ふ】はいかに」。「ゆめゆめ
P09091
叶ひ候まじ。卅丈の谷、十五丈の岩さきなど申所は、
人のかよふべき様候はず。まして御馬などは思ひも
より候はず」。其うへ、城のうちにはおとしあなをもほり、
ひしをもうへて待まいらせ【参らせ】候らん」と申。さてさ様の
所は鹿はかよふ【通ふ】か」。「鹿はかよひ候。世間だにもあたたかに
なり候へば、草のふかい【深い】にふさ【伏さ】うどて、播磨の鹿は
丹波へこえ、世間だにさむうなり候へば、雪のあさりに
はま【食ま】んとて、丹波の鹿は播磨のいなみ野【印南野】へかよひ候」
と申。御曹司「さては馬場ごさんなれ。鹿のかよO[BH は]ふ
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所を馬のかよはぬやう【様】やある。やがてなんぢ案内者
つかまつれ【仕れ】」とぞのたまひ【宣ひ】ける。此身はとし【年】老てかなう【叶ふ】
まじひよしを申す。「汝が子はないか」。「候」とて、熊王と云
童の、生年十八歳になるをたてまつる【奉る】。やがて
もとどり【髻】とりあげ、父をば鷲尾庄司武久といふ間、
これ【是】をば鷲尾の三郎義久となのら【名乗ら】せ、さきうち【先打】
せさせて案内者にこそ具せられけれ。平家追討
の後、鎌倉殿になか【中】たがう【違う】て、奥州でうた【討た】れ給ひし時、
鷲尾三郎義久とて、一所で死にける兵物也。
P09093
『一二之懸』S0910
○六日の夜半ばかりまでは、熊谷・平山搦手にぞ候ける。
熊谷二郎、子息の小二郎をよう【呼う】でいひけるは、「此手は、
悪所をおとさ【落さ】んずる時に、誰さきといふ事もあるまじ。
いざうれ、これ【是】より土肥がうけ給【承つ】てむかふ【向う】たる播磨
路へむかう【向う】て、一の谷のまさきかけう」どいひければ、
小二郎「しかる【然る】べう候。直家もかうこそ申たう候つれ。
さらばやがてよせさせ給へ」と申す。熊谷「まことや
平山も此手にあるぞかし。うちごみ【打込】のいくさ【軍】このま
ぬもの【物】なり。平山がやう見てまいれ【参れ】」とて、下人をつかはす【遣す】。
P09094
案のごとく平山は熊谷よりさきにいで【出で】立て、「人をば
しら【知ら】ず、季重におゐてはひとひき【一引】もひくまじひ
物を」とひとり事【独り言】をぞしゐ【居】たりける。下人が馬を
かう【飼ふ】とて、「にくい馬のながぐらゐ【長食】かな」とて、うち
ければ、「かうなせそ、其馬のなごり【名残】もこよひ【今宵】ばかりぞ」
とて、う【打つ】たち【立ち】けり。下人はしり【走り】かへ【帰つ】て、いそぎ此よし
告たりければ、「さればこそ」とて、やがてこれ【是】もうち
いで【出で】けり。熊谷はかち【褐】のひたたれ【直垂】に、あか皮おどしの
鎧きて、くれなゐ【紅】のほろをかけ、ごんだ栗毛といふ
P09095
聞ゆる名馬にぞの【乗つ】たりける。小二郎はおもだか【沢瀉】を
一しほ【一入】す【摺つ】たる直垂に、ふしなは目【節縄目】の鎧きて、西楼と
いふ白月毛なる馬にの【乗つ】たりけり。旗さし【旗差し】はきちん【麹塵】の
直垂に、小桜を黄にかへい【返い】たる鎧きて、黄河原毛
なる馬にぞの【乗つ】たりける。おとさ【落さ】んずる谷をば弓手に
みなし、馬手へあゆま【歩ま】せゆく程に、としごろ【年来】人も
かよはぬ田井の畑といふふる道【古道】をへて、一の谷の
浪うちぎはへぞ出たりける。一谷ちかく【近く】塩屋といふ
所に、いまだ夜ふかかり【深かり】ければ、土肥二郎実平、七千
P09096
余騎でひかへたり。熊谷は浪うちぎはより、夜に
まぎれて、そこをつとうちとをり【通り】、一谷の西の
木戸口にぞをし【押し】よせたる。その時はいまだ夜ふかか
り【深かり】ければ、敵の方にもしづまりかへ【返つ】ておと【音】もせず。
御方一騎もつづかず。熊谷二郎子息の小二郎をよう【呼う】
でいひけるは、「我も我もと、先に心をかけたる人々は
おほかる【多かる】らん。心せばう直実ばかりとはおもふ【思ふ】べからず。
すでによせたれども、いまだ夜のあくるを相待て、
此辺にもひかへたるらん、いざなのら【名乗ら】う」どて、かいだて
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のきはにあゆま【歩ま】せより、大音声をあげて、「武蔵国
住人、熊谷次郎直実、子息の小二郎直家、一谷
先陣ぞや」とぞ名の【名乗つ】たる。平家の方には「よし、をと【音】な
せそ。敵に馬の足をつからかさ【疲らかさ】せよ。矢だねをい【射】つく
させよ」とて、あひしらふものもなかりけり。さる程に、
又うしろに武者こそ一騎つづひ【続い】たれ。「たそ」ととへば
「季重」とこたふ。「とふはたそ」。「直実ぞかし」。「いかに熊谷
殿はいつよりぞ」。「直実は宵[B 「夜居」に「宵」と傍書]より」とぞこたへ
ける。「季重もやがてつづひ【続い】てよすべかりつるを、成田
P09098
五郎にたばかられて、いま【今】まで遅々したる也。成田が
「死なば一所で死なう」どちぎるあひだ、「さらば」とて、
うちつれよする【寄する】あひだ【間】、「いたう、平山殿、さきかけばや
り【先駆逸り】なしたまひ【給ひ】そ。先をかくるといふは、御方のせい【勢】を
うしろにをい【置い】てかけたればこそ、高名不覚も人に
しら【知ら】るれ。只一騎大勢の中にかけいて、うた【討た】れたらん
は、なんの詮かあらんずるぞ」とせいする【制する】間、げにもと
思ひ、小坂のあるをさきにうちのぼせ【上せ】、馬のかしら【頭】を
くだりさまにひ【引つ】たてて、御方のせい【勢】をまつところ【所】に、
P09099
成田もつづひ【続い】ていで【出で】きたり。うちならべていくさ【軍】の
やう【様】をもいひあはせ【合はせ】んずるかとおもひ【思ひ】たれば、さは
なくて、季重をばすげなげにうちみて、やがて
つとはせ【馳せ】ぬいてとをる【通る】あひだ【間】、「あぱれ、此ものはたば
かて、先かけうどしけるよ」とおもひ【思ひ】、五六段ばかり
さきだたるを、あれが馬は我馬よりはよはげ【弱気】なる物
をと目をかけ、一もみもうでお【追つ】ついて、「まさなうも
季重ほどの物をばたばかりたまふ【給ふ】ものかな」といひ
かけ、うちすててよせつれば、はるかにさがりぬらん。よも
P09100
うしろかげをも見たらじ」とぞいひける。熊谷・平山、
かれこれ【彼此】五騎でひかへたり。さる程に、しののめやうやう
あけゆけ【行け】ば、熊谷は先になの【名乗つ】たれども【共】、平山がきく
になのら【名乗ら】んとやおもひ【思ひ】けん、又かいだて【垣楯】のきはにあ
ゆま【歩ま】せより、大音声をあげて、「以前になの【名乗つ】つる
武蔵国の住人、熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、
一の谷の先陣ぞや、われとおもは【思は】ん平家の侍共
は直実におち【落ち】あへ【合へ】や、おち【落ち】あへ【合へ】」とぞののしたる。是
をきい【聞い】て、「いざや、夜もすがらなのる【名乗る】熊谷おや子【親子】
P09101
ひ【引つ】さげてこん」とて、すすむ平家の侍たれたれぞ、
越中二郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛
景清・後藤内[B 「五藤内」とあり「五」に「後」と傍書]定経、これをはじめてむねとのつは
もの【兵】廿余騎、木戸をひらいてかけいで【出で】たり。ここに
平山、しげ目ゆひ【滋目結】の直垂にひおどし【緋縅】の鎧きて、
二ひきりやう【引両】のほろをかけ、目糟毛といふきこゆる【聞ゆる】
名馬にぞの【乗つ】たりける。旗さし【旗差し】は黒かは威の鎧に、
甲ゐくび【猪頸】にきないて、さび月毛なる馬にぞの【乗つ】たり
ける。「保元・平治両度の合戦に先かけたりし武蔵
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国住人、平山武者所季重」となの【名乗つ】て、旗さしと
二騎馬のはなをならべておめい【喚い】てかく。熊谷
かくれば平山つづき、平山かくれば熊谷つづく。たがひに
われおとら【劣ら】じと入かへ【換へ】入かへ【換へ】、もみにもうで、火いづる【出づる】
程ぞせめ【攻め】たりける。平家の侍ども【共】手いたうかけ
られて、かなは【叶は】じとやおもひけん、城のうちへざと
ひき【引き】、敵をとざま【外様】にないてぞふせき【防き】ける。熊谷は
馬のふと腹い【射】させて、はぬれば足をこえ【越え】ており
立たり。子息の小二郎直家も、「生年十六歳」となの【名乗つ】て、
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かいだてのきはに馬の鼻をつかする程責寄て
たたかひ【戦ひ】けるが、弓手のかいな【腕】をい【射】させて馬より
とびおり、父とならでたたりけり。「いかに小二郎、手おふ
たか」。「さ候」。「つねに鎧づきせよ、うらかかすな。しころをかた
ぶけよ【傾けよ】、うちかぶとい【射】さすな」とぞをしへ【教へ】ける。熊谷
は鎧にたたる矢ども【共】かなぐりすてて、城の内をにら
まへ【睨まへ】、大音声をあげて、「こぞの冬の比鎌倉を出
しより、命をば兵衛佐殿にたてまつり【奉り】、かばねをば
一谷でさらさんとおもひ【思ひ】きたる直実ぞや。「室山・
P09104
水島二ケ度の合戦に高名したり」となのる【名乗る】越中
次郎兵衛はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、
能登殿はましまさぬか。高名も敵によてこそすれ。
人ごとにあふ【逢う】てはえせまじものを。直実におち【落ち】あへ【合へ】
やおち【落ち】あへ【合へ】」とののしたる。是をきい【聞い】て、越中次郎兵衛、
このむ装束なれば、こむらご【紺村濃】の直垂にあかおどし【赤威】の
鎧きて、白葦毛なる馬にのり、熊谷に目をかけて
あゆま【歩ま】せよる。熊谷おや子【親子】は、なか【中】をわられじとたち【立ち】
ならんで、太刀をひたいにあて、うしろへひとひき【一引】も
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ひかず、いよいよまへへぞすすみける。越中次郎兵衛叶
はじとや思ひけん、とてかへす【返す】。熊谷これ【是】をみて、
「いかに、あれは越中次郎兵衛とこそみれ【見れ】。敵にはどこを
きらふぞ。直実にをし【押し】ならべてくめやくめ」といひ
けれども、「さもさうず」とてひ【引つ】かへす【返す】。悪七兵衛是
をみて、「きたない殿原のふるまひ【振舞ひ】やうかな」とて、
すでにくまんとかけいで【出で】けるを、鎧の袖をひかへ
て「君の御大事是にかぎるまじ。あるべうもなし」
とせいせ【制せ】られてくまざりけり。其後熊谷はのり
P09106
がへにの【乗つ】ておめい【喚い】てかく。平山も熊谷おや子【親子】が
たたかふ【戦ふ】まぎれに、馬のいきやすめて、是も又つづい
たり。平家のかた【方】には馬にの【乗つ】たる武者はすくなし、
矢倉のうへ【上】の兵ども【共】、矢さき【矢先】をそろへて、雨の
ふるやう【様】にい【射】けれども、敵はすくなし、みかた【御方】はおほし、
せい【勢】にまぎれて矢にもあたらず、「ただをし【押し】ならべて
くめやくめ」と下知しけれども【共】、平家の馬は
のる事はしげく、かう【飼ふ】事はまれなり、舟にはひさ
しう【久しう】たて【立て】たり、より[B 「より」に「彫」と傍書]きたる様なりけり。熊谷・平山が
P09107
馬は、かい【飼ひ】にかう【飼う】たる大の馬ども【共】なり、ひとあてあてば、
みなけたをさ【倒さ】れぬべきあひだ【間】、をし【押し】ならべてくむ
武者一騎もなかりけり。平山は身にかへて思ひ
ける旗さし【旗差し】をい【射】させて、かたき【敵】のなか【中】へわていり、
やがて其敵をとてぞ出たりける。熊谷も分捕あ
またしたりけり。熊谷さきによせたれど、木戸を
ひらかねばかけいらず、平山後によせたれど、木戸を
あけたればかけ入ぬ。さてこそ熊谷・平山が一二の
『二度之懸』S0911
かけをばあらそひけれ。○さるほど【程】に、成田五郎も
P09108
出きたり。土肥次郎まさきかけ、其勢七千余騎、色々
の旗さし【差し】あげ【上げ】、おめき【喚き】さけ【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。大手
生田の森にも源氏五万余騎でかためたりけるが、
其勢のなか【中】に武蔵国住人、河原太郎・河原次郎
といふものあり【有り】。河原太郎弟の次郎をよう【呼う】でいひ
けるは、「大名は我と手をおろさねども【共】、家人の
高名をもて名誉す。われら【我等】はみづから手をおろ
さずはかなひ【叶ひ】がたし。かたき【敵】をまへにをき【置き】ながら、矢
ひとつ【一つ】だにもい【射】ずして、まちゐたるがあまりにこころ【心】
P09109
もとなう覚ゆるに、高直はまづ城の内へまぎれ
入て、ひと矢い【射】んとおもふ【思ふ】なり。されば千万が一もいき【生き】
てかへらん事ありがたし。わ殿はのこりとどま【留まつ】て、後の
証人にたて」といひければ、河原次郎涙をはらはら
とながひ【流い】て、「口惜い事をものたまふ物かな。ただ
兄弟二人ある物が、あに【兄】をうたせておとと【弟】が一人のこ
りとどま【留まつ】たらば、いく程の栄花をかたもつ【保つ】べき。
所々でうた【討た】れんよりも、ひとところ【一所】でこそいかにも
ならめ」とて、下人どもよびよせ、最後のありさま【有様】
P09110
妻子のもとへいひつかはし【遣し】、馬にものらずげげ[B 「げげ」に「芥下」と傍書]をはき、
弓杖をつい【突い】て、生田森のさかも木【逆茂木】をのぼりこえ、
城のうちへぞ入たりける。星あかり【星明かり】に鎧の毛も
さだかならず。河原太郎大音声をあげて、「武蔵
国住人、河原太郎私[B ノ]高直、同次郎盛直、源氏の
大手生田[B ノ]森の先陣ぞや」とぞなの【名乗つ】たる。平家の方
には是をきい【聞い】て、「東国の武士ほどおそろし
かり【恐ろしかり】けるものはなし。是程の大ぜい【大勢】の中へただ
二人入たらば、何ほど【程】の事をかしいだすべき。よしよし
P09111
しばしあひせよ【愛せよ】」とて、うたんといふものなかりけり。
是等おととい【兄弟】究竟の弓の上手なれば、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】
さんざん【散々】にいる【射る】あひだ【間】、「にくし、うてや」といふ程こそ
あり【有り】けれ、西国にきこえ【聞え】たるつよ弓【強弓】せい兵【精兵】、備中国住
人、真名辺[B ノ]四郎・真名辺五郎とておととひ【兄弟】あり【有り】。
四郎は一の谷にをか【置か】れたり。五郎は生田森にあり【有り】
けるが、是を見てよぴいてひやうふつといる【射る】。河原
太郎が鎧のむないたうしろ【後】へつとい【射】ぬかれて、弓杖に
すがり、すくむところ【所】を、おとと【弟】の次郎はしり【走り】よ【寄つ】て
P09112
是をかたにひ【引つ】かけ、さかも木【逆茂木】をのぼりこえんと
しけるが、真名辺が二の矢によろひ【鎧】の草摺の
はづれをい【射】させて、おなじ枕にふしにけり。真名辺が
下人おち【落ち】あふ【逢う】て、河原兄弟が頸をとる。是を新
中納言の見参に入たりければ、「あぱれ剛の者かな。
これ【是】をこそ一人当千の兵ともいふべけれ。あたら者
どもをたすけ【助け】てみで」とぞのたまひ【宣ひ】ける。其時下
人ども【共】、「河原殿おととい【兄弟】、只今城の内へまさきかけて
うた【討た】れ給ひぬるぞや」とよばはり【呼ばはり】ければ、梶原是を
P09113
きき、「私の党の殿原の不覚でこそ、河原兄弟
をばうたせたれ。いま【今】は時よくなり【成り】ぬ。よせよや」とて、
時をどとつくる。やがてつづひ【続い】て五万余騎一度に
時をぞつくりける。足がる共にさかも木【逆茂木】取のけさせ、
梶原五百余騎おめひ【喚い】てかく。次男平次景高、余
にさきをかけんとすすみければ、父の平三使者を
たてて、「後陣の勢のつづかざらんに、さきかけたらん
者は、勧賞あるまじき由、大将軍のおほせぞ」と
いひければ、平次しばしひかへて
P09114
「もののふのとりつたへたるあづさ弓
ひいては人のかへすものかは W069
と申させ給へ」とて、おめい【喚い】てかく。「平次うたすな、
つづけやものども【共】、景高うたすな、つづけやもの【者】ども【共】」
とて、父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。梶原
五百余騎、大勢のなかへかけいり、さんざん【散々】にたたかひ【戦ひ】、
わづかに五十騎ばかりにうちなされ、ざとひい【退い】てぞ
出たりける。いかがしたりけん、其なかに景季はみえ【見え】ざり
けり。「いかに源太は、郎等ども【共】」ととひければ、「ふかいり【深入り】し
P09115
てうたれさせ給ひて候ごさめれ」と申。梶原平三
是をきき、「世にあらんとおもふ【思ふ】も子共がため、源太うた
せて命いきても何かはせん、かへせや」とてとて
かへす。梶原大音声をあげてなのり【名乗り】けるは、「昔八幡
殿、後三年の御たたかひ【戦ひ】に、出羽国千福金沢の城
を攻させ給ひける時、生年十六歳でまさき
かけ、弓手の眼を甲の鉢付の板にい【射】つけられな
がら、当の矢をい【射】て其敵をい【射】おとし【落し】、後代[B 氏]に名を
あげたりし鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三
P09116
景時、一人当千の兵ぞや。我とおもは【思は】ん人々は、景
時う【打つ】て見参にいれよ【入れよ】や」とて、おめい【喚い】てかく。
新中納言「梶原は東国にきこえ【聞え】たる兵ぞ。あます
な、もらす【漏らす】な、うてや」とて、大勢のなかに取こめて
攻給へば、梶原まづ我身のうへ【上】をばしら【知ら】ずして、
「源太はいづくにあるやらん」とて、数万騎の大勢の
なかを、たてさま・よこさま・蛛手・十文字にかけ
わりかけまはりたづぬる程に、源太はのけ甲に
たたかい【戦ひ】なて、馬をもい【射】させ、かち立になり、二丈計
P09117
あり【有り】ける岸をうしろにあて【当て】、敵五人がなか【中】に取
籠られ、郎等二人左右にたて【立て】て、面もふらず、命も
おしま【惜しま】ず、ここを最後とふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。梶原是
を見つけて、「いまだうた【討た】れざりけり」と、いそぎ馬
よりとんでおり、「景時ここにあり【有り】。いかに源太、しぬ
る【死ぬる】とも敵にうしろをみすな」とて、おや子【親子】して
五人の敵、三人うとり、二人に手おほせ【負せ】、「弓矢とりは
かくる【駆くる】もひくもおり【折】にこそよれ、いざうれ、源太」とて、
かい具してぞ出たりける。梶原が二度のかけ【駆け】とは
P09118
『坂落』S0912
これ【是】なり。○是をはじめ【始め】て、秩父・足利・三浦・鎌倉、党
には猪俣・児玉・野井与・横山・にし【西】党・都筑党・私
の党の兵ども【共】、惣じて源平乱あひ、いれ【入れ】かへいれ【入れ】かへ、
名のりかへ名のりかへおめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】声、山をひびかし、
馬の馳ちがふをと【音】はいかづちの如し。い【射】ちがふる矢は
雨のふるにことならず。手負をば肩にかけ、うしろへ
ひき【引き】しりぞくもあり。うすで【薄手】おふ【負う】てたたかふ【戦ふ】もあり【有り】。
いた手【痛手】負て討死するものもあり【有り】。或はおしならべて
くんでおち【落ち】、さしちがへて死ぬるもあり、或は
P09119
とておさへ【抑へ】て頸をかくもあり、かかるるもあり、いづれ
ひまありとも見えざりけり。かかりしかども【共】、源氏
大手ばかりではかなふ【叶ふ】べしとも見えざりしに、
九郎御曹司搦手にまはて七日のひの明ぼのに、
一の谷のうしろ鵯越にうちあがり【上がり】、すでにおとさ【落さ】ん
としたまふ【給ふ】に、其勢にや驚たりけん、大鹿二妻鹿
一、平家の城郭一谷へぞ落たりける。城のうちの
兵ども是を見て、「里ちかから【近から】ん鹿だにも、我等に
おそれ【恐れ】ては山ふかうこそ入べきに、是程の大勢の
P09120
なかへ、鹿のおちやう【落ち様】こそあやしけれ。いかさまにも
うへ【上】の山より源氏おとす【落す】にこそ」とさはぐ【騒ぐ】ところ【所】に、
伊与【伊予】国住人、武知の武者所清教、すすみ出て、「なんで
まれ、敵の方よりいで【出で】きたらんもの【物】をのがすべき
やう【様】なし」とて、大鹿二つい【射】とどめ【留め】て、妻鹿をばい【射】でぞ
とをしける。越中前司「せんない殿原の鹿のいやう【射様】
かな。唯今の矢一では敵十人はふせか【防か】んずる物を。
罪つくりに、矢だうなに」とぞせいし【制し】ける。御曹司城郭
はるか【遥】に見わたい【渡い】ておはしけるが、「馬ども【共】をといて
P09121
みむ」とて、鞍をき馬【鞍置馬】をO[BH 追]おとす【落す】。或は足をうちお【折つ】て、
ころんでおつ、或はさうい【相違】なくおち【落ち】てゆく【行く】もあり【有り】。
鞍をき馬【鞍置馬】三疋、越中前司が屋形のうへ【上】におち【落ち】つい【着い】
て、身ぶるい【身振るひ】してぞ立たりける。御曹司是をみて
「馬ども【共】はぬしぬしが心得ておとさ【落さ】うにはそんずまじ
ひぞ。くはおとせ【落せ】、義経を手本にせよ」とて、まづ
卅騎ばかり、まさきかけておとさ【落さ】れけり。大勢みな
つづひ【続い】ておとす【落す】。後陣におとす【落す】人々のあぶみの
鼻は、先陣の鎧甲にあたるほどなり。小石まじりの
P09122
すなご【砂子】なれば、ながれおとし【流落】に二町計ざとおとひ【落い】て、
壇なるところ【所】にひかへたり。それよりしもを見くだ
せば、大盤石の苔むしたるが、つるべおとし【釣瓶落し】に十四〔五〕丈ぞ
くだたる。兵ども【共】うしろへとてかへすべきやうもなし、
又さきへおとすべしともみえず。「ここぞ最後と申て
あきれてひかへたるところ【所】に、佐原十郎義連すすみ
いで【出で】て申けるは、「三浦の方で我等は鳥ひとつ【一つ】たて【立て】ても、
朝ゆふか様【斯様】のところ【所】をこそはせ【馳せ】ありけ【歩け】。三浦の方
の馬場や」とて、まさきかけておとし【落し】ければ、
P09123
兵ども【共】みなつづい【続い】ておとす【落す】。ゑいゑい声をしのび【忍び】に
して、馬にちからをつけておとす【落す】。あまり【余り】のいぶせ
さに、目をふさいでぞおとし【落し】ける。おほかた【大方】人のしわ
ざとはみえ【見え】ず。ただ鬼神の所為とぞみえ【見え】たりける。
おとし【落し】もはてねば、時をどとつくる。三千余騎が声
なれど、山びこにこたへて十万余騎とぞきこえ【聞え】
ける。村上の判官代康国が手より火をいだし【出だし】、平
家の屋形、かり屋【仮屋】をみな焼払ふ。おりふし【折節】風は
はげしし、くろ煙おしかくれば、平氏の軍兵ども【共】
P09124
あまり【余り】にあはて【慌て】さはひ【騒い】で、若やたすかると前の
海へぞおほく【多く】はせ【馳せ】いりける。汀にはまうけ舟[B 「まうけ」に「タスケイ」と傍書]【設け船】いく
らもあり【有り】けれども、われさきにのらうど、舟一艘には
物具したる者ども【共】が四五百人、〔千人〕ばかりこみ【込み】のら【乗ら】うに、
なじかはよかるべき。汀よりわづかに三町ばかり
おしいだひ【出い】て、目の前に大ふね【大船】三ぞう【三艘】しづみに
けり。其後は「よき人をばのすとも【共】、雑人共をば
のすべからず」とて、太刀長刀でなが【薙が】せけり。かくする
事とは知ながら、のせ【乗せ】じとする舟にとり【取り】つき【付き】、つかみ
P09125
つき、或はうで【腕】うちきられ、或はひぢ【肘】うちおとさ【落さ】れ
て、一の谷の汀にあけ【朱】になてぞなみ【並み】ふし【臥し】たる。
能登守教経は、度々のいくさに一度もふかく【不覚】せぬ人の、
今度はいかがおもは【思は】れけん、うす黒【薄黒】といふ馬にのり、
西をさい【指い】てぞ落たまふ【給ふ】。播磨国明石浦より舟に
『越中前司最期』S0913
の【乗つ】て、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。○大手にも浜の
手にも、武蔵・相模の兵ども【共】、命もおしま【惜しま】ずせめ【攻め】
たたかふ【戦ふ】。新中納言は東にむか【向つ】てたたかい【戦ひ】給ふとこ
ろ【所】に、山のそは【岨】よりよせける児玉党使者をたてま【奉つ】て、
P09126
「君はO[BH 一年]武蔵の国司でましまし候しあひだ【間】、これ【是】は児玉
の者ども【共】が申候。御うしろをば御覧候はぬやらん」と
申。新中納言以下の人々、うしろをかへりみたまへ【給へ】ば、
くろ煙をし【押し】かけたり。「あはや、西の手はやぶれに
けるは」といふほど【程】こそありけれ、とる物もとりあへず
我さきにとぞ落行ける。越中前司盛俊は、山手
の侍大将にてあり【有り】けるが、いま【今】はおつ【落つ】ともかなは【叶は】じ
とやおもひ【思ひ】けん、ひかへて敵を待ところ【所】に、猪俣の
小平六則綱、よい敵と目をかけ、鞭あぶみを合せて
P09127
はせ【馳せ】来り、おしならべてむずとくう【組う】でどうどおつ。
猪俣は八ケ国にきこえ【聞え】たるしたたか者【強者】也。か【鹿】の角の
一二のくさかりをばたやすうひ【引つ】さき【裂き】けるとぞ聞えし。
越中前司は二三十人が力わざ【力業】をするよし人目には
みえ【見え】けれども【共】、内々は六七十人してあげをろす【下す】舟を、
唯一人しておしあげをし【押し】おろす程の大力なり。
されば猪俣をとておさへ【抑へ】てはたらかさ【働かさ】ず。猪俣
したにふし【臥し】ながら、刀をぬかうどすれども、ゆび【指】はたかて
刀のつかにぎる【握る】にも及ばず。物をいはうどすれども【共】、
P09128
あまりにつよう【強う】おさへ【抑へ】られて声もいで【出で】ず。既に
頸をかかれんとしけるが、ちから【力】はおとたれ共、心はかう【剛】
成ければ、猪俣すこし【少し】もさはが【騒が】ず、しばらくいきを
やすめ、さらぬてい【体】にもてなして申けるは、
「抑なの【名乗つ】つるをばきき給ひてか。敵をうつといふは、我も
なの【名乗つ】てきかせ、敵にもなのらせて頸をとたればこそ
大功なれ。名もしらぬ頸とては、何にかしたまふ【給ふ】
べき」といはれて、げにもとやおもひ【思ひ】けむ、「これ【是】は
もと平家の一門たりしが、身不肖なるによて
P09129
当時は侍なたる越中前司盛俊といふもの【者】也。わ君
は何もの【何者】ぞ、なのれ【名乗れ】、きかう」どいひければ、「武蔵国住
人、猪俣小平六則綱」となのる。「倩此世間の有さま【有様】を
みる【見る】に、源氏の御かた【御方】はつよく、平家の御かた【御方】はまけい
ろ【負色】にみえ【見え】させ給たり。いま【今】はしう【主】の世にましまさばこそ、
敵のくびとてまいらせ【参らせ】て、勲功勧賞にもあづかり【預り】
給はめ。理をまげて則綱たすけ【助け】給へ。御へんの一
門なん十人もおはせよ、則綱が勲功の賞に申
かへてたすけ【助け】[* 「たけん」と有るのを他本により訂正]奉らん」といひければ、越中前司大に
P09130
怒て、「盛俊身こそ不肖なれども【共】、さすが平家の一門也。
源氏たのま【頼ま】うどは思はず。源氏又盛俊にたのま【頼ま】
れうどもよも思はじ。にくい君が申やう【申様】かな」とて、
頸をかかんとしければ、猪俣「まさなや、降人の頸かく
様や候」。越中前司「さらばたすけ【助け】ん」とてひき【引き】おこす。
まへは畠のやうにひあが【上がつ】て、きはめてかたかりけるが、
うしろは水田のごみふかかり【深かり】けるくろ【畔】のうへ【上】に、二人の
者ども【共】腰うちかけていきづきゐたり。しばしあて、
黒革威の鎧きて月毛なる馬にの【乗つ】たる武者
P09131
一騎はせ【馳せ】来る。越中前司あやしげにみければ、「あれは
則綱がしたしう【親しう】候人見の四郎と申者で候。則綱
が候をみてまうで【詣で】くると覚候。くるしう【苦しう】候まじ」と
いひながら、あれがちかづひ【近づい】たらん時に、越中前司に
くんだらば、さりとも【共】おち【落ち】あはんずらんと思ひて
待ところ【所】に、一段ばかりちかづい【近づい】たり。越中前司はじめ【始め】
はふたりを一目づつ見けるが、次第にちかう成ければ、
馳来る敵をはたとまも【守つ】て、猪俣をみぬひまに、
ちから足をふんでつい立あがり【上がり】、ゑいといひて
P09132
もろ手をもて、越中前司が鎧のむないた【胸板】をばく
とつい【突い】て、うしろの水田へのけにつき【突き】たをす【倒す】。おき【起き】
あがら【上がら】んとする所に、猪俣うへ【上】にむずとのりかかり、
やがて越中前司が腰の刀をぬき、鎧の草摺ひき【引き】
あげて、つかもこぶし【拳】もとをれ【通れ】とをれ【通れ】と三刀さいて
頸をとる。さる程に人見の四郎おち【落ち】あふ【合う】たり。か様【斯様】の
時は論ずる事もありとおもひ【思ひ】、太刀のさきに
つらぬき、たかくさし【差し】あげ【上げ】、大音声をあげて、「この【此の】
日来鬼神ときこえ【聞え】つる平家の侍越中前司
P09133
盛俊をば、猪俣の小平六則綱がうたるぞや」となの【名乗つ】て、
『忠教【*忠度】最期』S0914
其日の高名の一の筆にぞ付にける。○薩摩守忠教【*忠度】
は、一の谷の西手の大将軍にておはしけるが、
紺地の錦の直垂に黒糸おどしの鎧きて、
黒[B キ]馬のふとう【太う】たくましきに、いかけ地【沃懸地】の鞍をい【置い】て
のり【乗り】給へり。其勢百騎ばかりがなか【中】に打かこま【囲ま】れ
ていとさはが【騒が】ず、ひかへひかへ落給ふを、猪俣党に
岡辺の六野太忠純、大将軍と目をかけ、鞭あぶ
みをあはせ【合はせ】て追付たてまつり【奉り】、「抑いかなる人で
P09134
在まし候ぞ、名のらせ給へ」と申ければ、「是はみかた【御方】ぞ」
とてふりあふぎたまへ【給へ】るうちかぶとよりみ【見】いれ【入れ】
たれば、かねぐろ也。あぱれみかた【御方】にはかねつけたる
人はないものを、平家の君達でおはするにこそと
おもひ【思ひ】、をし【押し】ならべてむずとくむ。これ【是】をみて百騎
ばかりある兵ども【共】、国々のかり武者【駆武者】なれば、一騎も
落あはず、われさきにとぞ落ゆき【行き】ける。薩摩
守「にくひやつかな。みかた【御方】ぞといはばいはせよかし」とて、
熊野そだち大ぢから【大力】のはやわざにておはしければ、
P09135
やがて刀をぬき、六野太を馬の上で二刀、おち【落ち】つく
ところ【所】で一刀、三刀までぞつか【突か】れける。二刀は鎧のうへ【上】
なればとをら【通ら】ず、一刀はうちかぶと【内甲】へつき入られ
たれども【共】、うす手【薄手】なればしな【死な】ざりけるをとておさへ【抑へ】
て、頸をかかんとし給ふところ【所】に、六野太が童をく
れ【遅れ】ばせに馳来て、うち刀【打刀】をぬき、薩摩守の右の
かいな【腕】を、ひぢのもとよりふつときり【斬り】おとす【落す】。今は
かうとやおもは【思は】れけん、「しばしのけ【退け】、十念となへん」
とて、六野太をつかうで弓だけばかりなげ【投げ】のけ
P09136
られたり。其後西にむかひ【向ひ】、高声に十念となへ、
「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」とのたまひ【宣ひ】
もはてねば、六野太うしろよりよ【寄つ】て薩摩守
の頸をうつ。よい大将軍うたりとおもひ【思ひ】けれども【共】、
名をば誰ともしら【知ら】ざりけるに、ゑびら【箙】にむすび付
られたる文をといてみれ【見れ】ば、「旅宿花」といふ【云ふ】題
にて、一首の歌をぞよまれたる。
ゆき【行き】くれて木のしたかげ【下陰】をやどとせば
花やこよひのあるじならまし W070
P09137
忠教【*忠度】とかかれたりけるにこそ、薩摩守とはしり【知り】てげれ。
太刀のさきにつらぬき、たかく【高く】さし【差し】あげ【上げ】、大音声を
あげて、「この【此の】日来平家の御方にきこえ【聞え】させ給ひ
つる薩摩守殿をば、岡辺の六野太忠純がうちたて
ま【奉つ】たるぞや」と名のりければ、敵もみかた【御方】も是を
きひ【聞い】て、「あないとをし、武芸にも歌道にも達者
にておはしつる人を、あたら大将軍を」とて、涙を
『重衡生捕』S0915
ながし袖をぬらさ【濡らさ】ぬはなかりけり。○本三位中将
重衡卿は、生田森の副将軍にておはしけるが、
P09138
其勢みなおち【落ち】うせて、只主従二騎になり給ふ。
三位中将其日の装束には、かち【褐】にしろう【著う】黄なる
糸をもて、岩に村千鳥【群千鳥】ぬう【縫う】たる直垂に、紫すそ
ご【紫裾濃】の鎧きて、童子鹿毛といふきこゆる【聞ゆる】名馬に
のり給へり。めのと子【乳母子】の後藤兵衛盛長は、しげ目ゆい【滋目結】
の直垂に、火おどし【緋縅】の鎧きて、三位中将の秘蔵せ
られたりける夜目なし月毛にのせ【乗せ】られたり。梶原
源太景季・庄の四郎高家、大将軍と目をかけ、
鞭あぶみをあはせ【合はせ】てお【追つ】かけたてまつる【奉る】。汀にはたすけ
P09139
舟【助け舟】いくらもあり【有り】けれども、うしろより敵はお【追つ】かけ
たり、のがる【逃る】べきひまもなかりければ、湊河・かるも河
をもうちわたり、蓮の池をば馬手にみて、駒の林
を弓手になし、板やど【板宿】・須磨をもうちすぎて、
西をさいてぞ落たまふ。究竟の名馬にはのり
たまへ【給へ】り、もみ[B 「み」に「リイ」と傍書]ふせたる馬共お【追つ】つくべしともおぼえ
ず、ただのびにのびければ、梶原源太景季、あぶみ
ふばり立あがり【上がり】、もしやと遠矢によぴいてい【射】た
りけるに、三位中将馬のさうづ【三頭】をのぶか【篦深】にい【射】させて、
P09140
よはる【弱る】ところ【所】に、後藤兵衛盛長、我馬めされなんず
とや思ひけん、鞭をあげてぞ落行ける。三位中将
これ【是】をみて、「いかに盛長、年ごろ【年来】日来さはちぎら
ざりしものを。我をすて【捨て】ていづくへゆくぞ」との給へ【宣へ】
ども【共】、空きかずして、鎧につけたるあかじるし【赤印】
かなぐりすて【捨て】、ただにげ【逃げ】にこそにげ【逃げ】たりけれ。
三位中将敵はちかづく【近づく】、馬はよはし【弱し】、海へうちいれ【入れ】給ひ
たりけれども【共】、そこしもとをあさ【遠浅】にてしづむべき
様もなかりければ、馬よりおり、鎧のうは帯【上帯】きり、
P09141
たかひもはづし【外し】、物具ぬぎすて、腹をきらんと
したまふ【給ふ】ところ【所】に、梶原よりさきに庄の四郎高
家、鞭あぶみをあはせ【合はせ】てはせ【馳せ】来り、いそぎ馬より飛
おり、「まさなう候、いづくまでも御供仕らん」とて、
我馬にかきのせ【乗せ】奉り、鞍の前輪にしめつけて、
わが身はのりがへにの【乗つ】てO[BH 御方の陣へ]ぞかへりける。後藤兵衛は
いき【息】ながき【長き】究竟の馬にはの【乗つ】たりけり、そこをば
なくにげ【逃げ】のびて、後に熊野法師、尾中の法橋を
たのん【頼ん】でゐたりけるが、法橋死て後、後家の尼公
P09142
訴訟のために京へのぼりたりけるに、盛長とも【供】し
てのぼ【上つ】たりければ、三位中将のめのと子【乳母子】にて、上下
にはおほく【多く】見しら【知ら】れたり。「あなむざん【無慚】の盛長や、
さしも不便にしたまひ【給ひ】しに、一所でいかにもならず
して、おもひ【思ひ】もかけぬ尼公のとも【供】したるにくさよ」と
て、つまはじき【爪弾き】をしければ、盛長もさすがはづかしげ
『敦盛最期』S0916
にて、扇をかほ【顔】にかざしけるとぞ聞えし。○いくさ【軍】
やぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の君達た
すけ舟【助け船】にのらんと、汀の方へぞおち【落ち】たまふ【給ふ】らむ。
P09143
あぱれ、よからう大将軍にくまばや」とて、磯の方へ
あゆま【歩ま】するところ【所】に、ねりぬき【練貫】に鶴ぬう【縫う】たる
直垂に、萌黄匂の鎧きて、くはがた【鍬形】うたる甲の
緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、
しげどう【滋籐】の弓もて、連銭葦毛なる馬に黄覆
輪の鞍をいての【乗つ】たる武者一騎、沖なる舟に目を
かけて、海へざとうちいれ【入れ】、五六段ばかりおよが【泳が】せたる
を、熊谷「あれは大将軍とこそ見まいらせ【参らせ】候へ。まさ
なうも敵にうしろをみせ【見せ】させたまふ【給ふ】ものかな。
P09144
かへさ【返さ】せ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれ
てとてかへす【返す】。汀にうちあがら【上がら】んとするところ【所】に、
おしならべてむずとくん【組ん】でどうどおち【落ち】、とておさ
へ【抑へ】て頸をかかんと甲をおしあふのけてみ【見】ければ、
年十六七ばかりなるが、うすげしやう【薄化粧】してかねぐろ也。
我子の小次郎がよはひ程にて容顔まこと【誠】に
美麗也ければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。
「抑いかなる人にてましまし候ぞ。名のら【名乗ら】せ給へ、たすけ【助け】
まいらせ【参らせ】ん」と申せば、「汝はた【誰】そ」ととひ給ふ。「物そのもの
P09145
で候はねども【共】、武蔵国住人、熊谷次郎直実」となの
り【名乗り】申。「さては、なんぢにあふ【逢う】てはなのる【名乗る】まじひぞ、
なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をと
て人にとへ。み【見】しら【知ら】ふずるぞ」とぞのたまひ【宣ひ】ける。
熊谷「あぱれ大将軍や、此人一人うちたてま【奉つ】たり共、
まく【負く】べきいくさ【軍】に勝べきやう【様】もなし。又うちたて
まつら【奉ら】ずとも【共】、勝べきいくさ【軍】にまくる事もよもあらじ。
小二郎がうす手【薄手】負たるをだに、直実は心ぐるしう
こそおもふ【思ふ】に、此殿の父、うた【討た】れぬときひ【聞い】て、いか計か
P09146
なげき給はんずらん、あはれ、たすけ【助け】たてまつら【奉ら】ばや」
とおもひ【思ひ】て、うしろ【後】をきとみければ、土肥・梶原
五十騎ばかりでつづひ【続い】たり。熊谷涙をおさへて
申けるは、「たすけ【助け】まいらせ【参らせ】んとは存候へども【共】、御方の
軍兵雲霞のごとく【如く】候。よものがれ【逃れ】させ給はじ。人
手にかけまいらせ【参らせ】んより、同くは直実が手にかけ
まいらせ【参らせ】て、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申ければ、
「ただとくとく【疾く疾く】頸をとれ」とぞのたまひ【宣ひ】ける。熊谷あ
まりにいとをしくて、いづくに刀をたつべしとも
P09147
おぼえず、目もくれ心もきえはてて、前後O[BH 不]覚に
おぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、
なくなく【泣々】頸をぞかいてげる。「あはれ、弓矢とる身
ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れ
ずは、何とてかかるうき目をばみる【見る】べき。なさけなうも
うちたてまつる【奉る】ものかな」とかきくどき【口説き】、袖を
かほ【顔】にをし【押し】あててさめざめとぞなき【泣き】ゐたる。良久
しうあて、さてもあるべきならねば、よろい【鎧】直垂を
とて、頸をつつまんとしけるに、錦袋にいれ【入れ】たる
P09148
笛をぞ腰にさされたる。「あないとおし、この暁城の
うちにて管絃し給ひつるは、此人々にておはし
けり。当時みかた【御方】に東国の勢なん万騎かあるらめ
ども、いくさ【軍】の陣へ笛もつ人はよもあらじ。上臈は
猶もやさしかりけり」とて、九郎御曹司の見参に
入たりければ、これ【是】をみる【見る】人涙をながさずといふ事
なし。後にきけば、修理大夫経盛の子息に大夫篤
盛【*敦盛】とて、生年十七にぞなられける。それよりして
こそ熊谷が発心のおもひ【思ひ】はすすみけれ。件の
P09149
笛はおほぢ【祖父】忠盛笛の上手にて、鳥羽院より
給はられたりけるとぞきこえ【聞え】し。経盛相伝せら
れたりしを、篤盛【*敦盛】器量たるによて、もたれたり
けるとかや。名をばさ枝【小枝】とぞ申ける。狂言綺語の
ことはり【理】といひながら、遂に讃仏乗の因となる
『知章最期』S0917
こそ哀なれ。○門脇中納言教盛卿の末子蔵人大夫
成盛【*業盛】は、常陸国住人土屋五郎重行にくんで
うた【討た】れ給ひぬ。修理大夫経盛の嫡子、皇后宮亮
経正は、たすけ舟【助け船】にのらんと汀の方へ落給ひ
P09150
けるが、河越小太郎重房が手に取籠られてうた【討た】
れ給ひぬ。若狭守経俊・淡路守清房・尾張守清定、
三騎つれてかたき【敵】のなかへかけ入、さんざんにたたか
ひ【戦ひ】、分捕あまたして、一所で討死してげり。新中
納言知盛卿は、生田森大将軍にておはしけるが、
其勢みな落うせて、今は御子武蔵守知明【*知章】、侍に
監物太郎頼方、ただ主従三騎になて、たすけ
舟【助け船】にのらんと汀のかた【方】へ落たまふ【給ふ】。ここに児玉党と
おぼしくて、うちわ【団扇】の旗さい【挿い】たる者ども【共】十騎計、
P09151
おめい【喚い】てお【追つ】かけ奉る。監物太郎は究竟の弓の
上手ではあり、まさきにすすんだる旗さし【旗差し】がしや
頸のほねをひやうふつとい【射】て、馬よりさかさまに
い【射】をとす【落す】。そのなかの大将とおぼしきもの、新中
納言にくみ奉らんと馳ならべけるを、御子武蔵守
知明【*知章】なか【中】にへだたり、おしならべてむずとくんで
どうどおち【落ち】、とておさへ【抑へ】て頸をかき、たち【立ち】あがら【上ら】ん
としたまふ【給ふ】ところ【所】に、敵が童おちあふ【逢う】て、武蔵守
の頸をうつ。監物太郎おち【落ち】かさな【重なつ】て、武蔵守うち【討】
P09152
たてま【奉つ】たる敵が童をもう【打つ】てげり。其後矢だね
のある程い【射】つくし【尽し】て、うちもの【打ち物】ぬいてたたかひ【戦ひ】けるが、
敵あまたうちとり、弓手のひざぐちをい【射】させて、
たち【立ち】もあがら【上ら】ず、い【居】ながら討死してげり。此まぎれに
新中納言は、究竟の名馬にはのり【乗り】たまへ【給へ】り。海の
おもて廿余町およが【泳が】せて、大臣殿の御舟に
つきたまひ【給ひ】O[BH ぬ]。御舟には人おほく【多く】こみの【乗つ】て、馬たつ
べきやう【様】もなかりければ、汀へお[M 「お」をミセケチ「を」と傍書]【追つ】かへす【返す】。阿波民部重能
「御馬かたき【敵】のものに成候なんず。い【射】ころし【殺し】候はん」とて、
P09153
かた手矢【片手矢】はげて出けるを、新中納言「何の物にも
ならばなれ。我命をたすけ【助け】たらんものを。ある
べうもなし」とのたまへ【宣へ】ば、力及ばでい【射】ざりけり。
此馬主のわかれ【別れ】をしたひつつ、しばしは舟をもはなれ【離れ】
やらず、沖の方へおよぎ【泳ぎ】けるが、次第にとをく【遠く】成
ければ、むなしき【空しき】汀におよぎ【泳ぎ】かへる。足たつほど【程】にも
成しかば、猶舟の方をかへりみて、二三度までこそ
いななき【嘶き】けれ。其後くが【陸】にあが【上がつ】てやすみけるを、
河越小太郎重房とて、院へまいらせ【参らせ】たりければ、
P09154
やがて院の御厩にたてられけり。もとも院の
御秘蔵の御馬にて、一の御厩にたてられたりしを、
宗盛公内大臣になて悦申の時給はられたりける
とぞきこえ【聞え】し。新中納言にあづけられたりし
を、中納言あまりに此馬を秘蔵して、馬のいの
り【祈り】のためにとて、毎月ついたち【朔日】ごとに、泰山府君
をぞまつられける。其ゆへ【故】にや、馬の命も
のび、ぬしの命をもたすけ【助け】けるこそめでたけれ。
この【此の】馬は信乃【*信濃】国井の上だち【立ち】にてあり【有り】ければ、井上
P09155
黒とぞ申ける。後には河越がとてまいらせ【参らせ】たりければ、
河越黒とも申けり。新中納言、大臣殿の御まへに
まい【参つ】て申されけるは、「武蔵守にをくれ【遅れ】候ぬ。監物太郎
うたせ候ぬ。今は心ぼそうこそまかり【罷り】なて候へ。いかなれば、
子はあて、親をたすけ【助け】んと敵にくむ【組む】を見ながら、
いかなる親なれば、子のうたるるをたすけ【助け】ずして、
かやうにのがれ【逃れ】まい【参つ】て候らんと、人のうへ【上】で候はば
いかばかりもどかしう存候べきに、我身の上に成
ぬれば、よう命はおしひ【惜しい】物で候けりといま【今】こそ
P09156
思ひしら【知ら】れて候へ。人々の思はれん心のうちども【共】
こそはづかしう候へ」とて、袖をかほ【顔】におし【押し】あててさめ
ざめとなき【泣き】たまへ【給へ】ば、大臣殿これ【是】をききたまひ【給ひ】て、
「武蔵守の父の命にかはられけるこそありがた
けれ。手もきき【利き】心もかう【剛】に、よき大将軍にて
おはしつる人を。清宗と同年にて、ことしは十六な」
とて、御子衛門督のおはしけるかた【方】を御覧じて
涙ぐみ給へば、いくらもなみゐたりける平家の
侍ども【共】、心あるも心なきも、皆鎧の袖をぞぬらし
P09157
『落足』S0918
ける。○小松殿の末子、備中守師盛は、主従七人小舟に
の【乗つ】ておち【落ち】給ふところ【所】に、新中納言の侍清衛門
公長といふもの【者】馳来て、「あれは備中守殿の御
舟とこそみ【見】まいらせ【参らせ】候へ。まいり【参り】候はん」と申ければ、
舟を汀にさしよせたり。大の男の鎧きながら、馬
より舟へかはと飛のらうに、なじかはよかるべき。舟は
ちいさし【小さし】、くるりとふみかへしてげり。備中守うき
ぬしづみぬしたまひ【給ひ】けるを、畠山が郎等本田次
郎、十四五騎で馳来り、熊手にかけてひき【引き】あげ
P09158
奉り、遂に頸をぞかいてげる。生年十四歳とぞ聞
えし。越前三位道盛【通盛】卿は山手の大将軍にておはし
けるが、其日の装束には、あかぢ【赤地】の錦の直垂に、唐綾
威の鎧きて、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍
をいてのり【乗り】たまへ【給へ】り。うち甲【内甲】をい【射】させて、敵にをし【押し】
へだてられ、おとと【弟】能登殿にははなれ給ひぬ、しづか【静か】
ならん所にて自害せんとて、東にむか【向つ】ておち【落ち】
給ふ程に、近江国住人佐々木の木村三郎成綱、武蔵
国住人玉井四郎資景、かれこれ【彼此】七騎がなか【中】に
P09159
取こめられて、ついに【遂に】うた【討た】れたまひ【給ひ】ぬ。其時までは
侍一人つき奉たりけれども【共】、それも最後の時は
おち【落ち】あはず。凡東西の木戸口、時をうつす程也ければ、
源平かずをつくひ【尽くい】てうた【討た】れにけり。矢倉のまへ、
逆も木【逆茂木】のしたには、人馬のししむら【肉】山のごとし。一谷
の小篠原、緑の色をひき【引き】かへ【替へ】て、うす紅にぞ成
にける。一谷・生田森、山のそは【岨】、海の汀にてい【射】られ
きら【斬ら】れて死ぬるはしら【知ら】ず、源氏のかた【方】にきりかけ【懸け】らるる
頸ども【共】二千余人也。今度うた【討た】れ給へるむねとの人々には、
P09160
越前三位道盛【通盛】・弟蔵人大夫成盛【*業盛】・薩摩守忠教【*忠度】・武蔵守
知明【*知章】・備中守師盛・尾張守清定・淡路守清房・修理
大夫経盛嫡子皇后宮亮経正・弟若狭守経俊・
其弟大夫篤盛【*敦盛】、以上十人とぞきこえ【聞え】し。いくさ【軍】
やぶれにければ、主上をはじめたてま【奉つ】て、人々みな
御舟にめし【召し】て出給ふ心のうちこそ悲しけれ。塩に
ひかれ、風に随て、紀伊路へおもむく舟もあり。
葦屋の沖に漕いで【出で】て、浪にゆらるる舟もあり【有り】。
或は須磨より明石のうらづたひ【浦伝ひ】、泊さだめ【定め】ぬ梶枕、
P09161
かたしく【片敷く】袖もしほれ【萎れ】つつ、朧にかすむ春の月、心を
くだかぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕とをり【通り】、
絵島が磯にただよへば、波路かすか【幽】になき【鳴き】わたり、
友まよはせるさ夜鵆【小夜千鳥】、是も我身のたぐひかな。
行さきいまだいづくともおもひ【思ひ】定めぬかとおぼ
しくて、一谷の沖にやすらふ舟もあり【有り】。かやう【斯様】に
風にまかせ【任せ】、浪に随ひて、浦々島々にただよへば、
互に死生もしり【知り】がたし。国をしたがふる事も
十四箇国、勢のつく事も十万余騎、都へちかづく【近付く】
P09162
事も纔に一日の道なれば、今度はさりとも【共】と
たのもしう【頼もしう】おもは【思は】れけるに、一谷をもせめ【攻め】
おとさ【落さ】れて、人々みな心ぼそうぞなられける。
『小宰相身投』S0919 以他本書入
越前の三位通盛の卿の侍に、くんだ【君太】たきぐち【滝口】
時員といふものあり【有り】。北のかたのお舟にまい【参つ】て
申けるは、「君はみなと河【湊河】のしもにて、かたき【敵】
七騎が中にとりこめられて、うた【討た】れさせ給ひ
候ひぬ。其中にことに手をおろしてうち【討ち】まい
P09163
らせ【参らせ】候ひしは、あふみの国の住人佐々木の木
村の三郎成綱、武蔵の国の住人玉の井の
四郎資景とこそ名のり申候ひつれ。時員も
一所でいかにもなり、最後の御供つかまつるべう
候へども、かねて【予て】よりおほせ候ひしは、「通盛いかに
なるとも、なんぢはいのち【命】をすつ【捨つ】べからず。いかにも
してながらへ【永らへ】て、御ゆくゑ【行方】をもたづね【尋ね】まいらせよ【参らせよ】」
と仰せ候しあひだ、かひなきいのちいき【生き】て、つれ
なうこそこれまでのがれ【逃れ】まい【参つ】て候へ」と申けれども、
P09164
北のかた【方】とかうの返事にもおよび【及び】たまは【給は】ず、
ひき【引き】かづひ【被い】てぞふし【伏し】給ふ。一ぢやう【一定】うた【討た】れぬと
きき【聞き】たまへども、もしひが事【僻事】にてもやあるらん、
いき【生き】てかへら【帰ら】るる事もやと、二三日はあからさまに
出たる人をまつ心ち【心地】しておはしけるが、四五日も
過しかば、もしやのたのみ【頼み】もよはり【弱り】はてて、いとど
心ぼそうぞなられける。ただ一人付たてまつり【奉り】
たりけるめのと【乳母】のねうばう【女房】も、おなじ【同じ】枕にふし【伏し】
しづみにけり。かくときこえ【聞え】し七日のひの暮
P09165
ほどより、十三日の夜までは、おき【起き】もあがり【上がり】たま
は【給は】ず。あくれば十四日、八島へつかんずるよい【宵】うちすぐ
る【過ぐる】までふし給ひたりけるが、ふけ【更け】ゆくままに
舟の中もしづまりければ、北の方めのとの女房
にのたまひ【宣ひ】けるは、「このほどは、三位うた【討た】れぬと
きき【聞き】つれども、まことともおもは【思は】でありつるが、この
くれほどより、さもあるらんとおもひ【思ひ】さだめ【定め】て
あるぞとよ。人ごとにみなと河【湊河】とかやのしも【下】に
てうた【討た】れにしとはいへども、そののちいき【生き】てあひ【逢ひ】
P09166
たりといふものは一人もなし。あすうち【討ち】いで【出で】ん
とての夜、あからさまなるところ【所】にてゆき【行き】
あひ【逢ひ】たりしかば、いつよりも心ぼそげにうちなげ
きて、「明日のいくさ【軍】には、一ぢやう【一定】うた【討た】れなんずと
おぼゆる【覚ゆる】はとよ。我いかにもなりなんのち、人は
いかがし給ふべき」なんどいひ【言ひ】しかども、いくさ【軍】はいつ
もの事なれば、一ぢやう【一定】さるべしとおもは【思は】ざりける
事のくやしさよ。それをかぎりとだにおもは【思は】
ましかば、などのち【後】の世とちぎらざりけんと、思ふ
P09167
さへこそかなしけれ。ただならず成たる事をも、
日ごろはかくし【隠し】ていは【言は】ざりしかども、心づよふ【強う】
おもは【思は】れじとて、いひ【言ひ】いだし【出し】たりしかば、なのめ
ならずうれしげにて、「通盛すでに三十に
なるまで、子といふもののなかりつるに、あはれ【哀】
なんし【男子】にてあれかし。うきよ【浮世】のわすれがたみ【忘れ形見】
にもおもひ【思ひ】をく【置く】ばかり。さていく月ほど【程】に
なるやらん。心ち【心地】はいかがあるやらん。いつとなき
波の上、舟のうちのすまひ【住ひ】なれば、しづかに身々と
P09168
ならん時もいかがはせん」などいひ【言ひ】しは、はかなか
りけるかねごと【予言】かな。まことやらん、おんな【女】はさやう
の時、とを【十】にここのつ【九のつ】はかならず【必ず】しぬる【死ぬる】なれば、
はぢがましきめ【目】を見て、むなしう【空しう】ならんも
心うし。しづかにみみ【身々】となつてのち、おさなき【幼き】もの
をもそだてて、なき【亡き】人のかたみ【形見】にもみ【見】ばやとは
おもへ【思へ】ども、おさなき【幼き】ものをみ【見】んたびごとには、
むかしの人のみこひしく【恋しく】て、おもひ【思ひ】の数はつもる
とも、なぐさむ事はよもあらじ。ついに【遂に】はのがる【逃る】
P09169
まじき道也。もしふしぎ【不思議】にこのよ【世】をしのび【忍び】
すぐす【過す】とも、心にまかせ【任せ】ぬ世のならひ【習ひ】は、おもは【思は】
ぬほかのふしぎ【不思議】もあるぞとよ。それもおもへ【思へ】ば
心うし。まどろめば夢にみえ【見え】、さむれ【覚むれ】ばおもかげ【面影】
にたつ【立つ】ぞかし。いき【生き】てゐて、とにかくに人を
こひし【恋し】とおもは【思は】んより、ただ水の底へいら【入ら】ばやと
おもひ【思ひ】さだめ【定め】てあるぞとよ。そこにひとり
とどまつて、なげか【歎か】んずる事こそ心ぐるし
けれども、わらは【妾】がしやうぞく【装束】のあるをば取て、
P09170
いかならん僧にもとら【取ら】せ、なき人の御ぼだい【菩提】をも
とぶらひ【弔ひ】、わらはが後生をもたすけたまへ。
かきをきたる文をば都へつたへてたべ」など、こま
ごまとのたまへば、めのとのねうばう【女房】涙をはらはら
とながして、「いとけなき子をもふりすて【捨て】、老たる
おや【親】をもとどめ【留め】をき、是までつきまいらせ【参らせ】て
さぶらふ【候ふ】心ざしをば、いかばかりとかおぼしめさ【思し召さ】れさぶらふ【候ふ】ら
む。そのうへ今度一の谷にてうた【討た】れさせたまひし
人々の北の方の御おもひ【思ひ】ども、いづれかおろかにわた
P09171
らせ給ひさぶらふ【候ふ】べき。されば御見ひとつ【一つ】のこと
とおぼしめす【思し召す】べからず。しづかに身々とならせ
給ひてのち、おさなき【幼き】人をもそだて【育て】まいらせ【参らせ】、
いかならん岩木のはざまにても、御さまをかへ、仏の
御名をもとなへて、なき人の御ぼだい【菩提】をもとぶ
らひ【弔ひ】まいら【参ら】させ給へかし。かならず【必ず】ひとつ【一つ】道へとおぼ
しめす【思し召す】とも、生かはら【変ら】せ給ひなんのち、六道四生の
間にて、いづれのみちへかおもむか【赴か】せ給はんずらん。
ゆきあはせ【合はせ】給はん事も不定なれば、御身を
P09172
なげ【投げ】てもよしなき事也。其上都の事なんど
をば、たれみ【見】つぎ【次ぎ】まいらせよ【参らせよ】とてかやうにはおほせ【仰せ】
さぶらふ【候ふ】やらん。うらめしう【恨めしう】もうけたまはる物かな」と
さめざめとかきくどき【口説き】ければ、北の方此事あしう【悪しう】
もきかれぬとやおもは【思は】れけん、「それは心にかはりて
もをしはかりたまふべし。大かたの世のうらめしさ【恨めしさ】
にも、身をなげんなどいふ事はつねのならひ【習ひ】也。
されどもおもひ【思ひ】たつ【立つ】ならば、そこにしらせ【知らせ】ずしては
あるまじきぞ。夜もふけぬ、いざやね【寝】ん」とのたまへ【宣へ】ば、
P09173
めのとの女房、この四五日はゆみづ【湯水】をだにはかばか
しう御らんじ【御覧じ】いれ【入れ】たまは【給は】ぬ人の、かやうに仰らるるは、
まこと【誠】におもひ【思ひ】たちたまへるにこそと悲しくて、
「相かまへて思召たつならば、ちいろ【千尋】の底までもひき【引き】
こそ具せさせ給はめ。おくれ【後れ】まいらせ【参らせ】てのち、かた
時【片時】もながらふ【永らふ】べしともおぼえ【覚え】さぶらはず」なんど申て、
御そば【側】にありながら、ちとまどろみたりけるひまに、
北の方やはらふなばた【舷】へをき【起き】いで【出で】て、漫々たる海上
なれば、いづちを西とはしら【知ら】ね共、月の入さの山のは【端】を、
P09174
そなたの空とやおもは【思は】れけん、しづかに念仏し
たまへば、沖のしら洲【白洲】に鳴千鳥、あまのとわたる
梶の音、折からあはれ【哀】やまさりけん、しのびごゑ【忍び声】に
念仏百返ばかりとなへ[B 「となた」とあり「た」に「へ」と傍書]給ひて、「なむ【南無】西方極楽世界
教主、弥陀如来、本願あやまたず浄土へみちびき
給ひつつ、あかで別しいもせ【夫婦】のなからへ【仲】、必ひとつ【一つ】
はちす【蓮】にむかへ【迎へ】たまへ」と、なくなく【泣く泣く】はるかにかきくどき、
なむ【南無】ととなふるこゑ【声】共に、海にぞしづみたまひける。
一の谷よりやしま【屋島】へをし【押し】わたる【渡る】夜半ばかりの事
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なれば、舟の中しづまつて、人是をしら【知ら】ざりけり。
その中にかんどり【楫取】の一人ねざりけるがみつけ【見付け】奉て、
「あれはいかに、あのお舟より、よにうつくしうまし
ますねうばう【女房】の、ただいま海へいら【入ら】せたまひぬる
ぞや」とよばはり【呼ばはり】ければ、めのと【乳母】のねうばう【女房】打おどろき、
そばをさぐれ【探れ】どもおはせざりければ、「あれよあれ」
とぞあきれける。人あまたおり【下り】て、とりあげ奉
らんとしけれども、さらぬだに春の夜の[B 「春の夜は」とあり「は」に「の」と傍書]ならひ【習ひ】に
かすむ物なるに、四方の村雲うかれき【来】て、かづけ【潛け】
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どもかづけ【潛け】ども、月おぼろにてみえ【見え】ざりけり。やや
あてとりあげたてまつたりけれども、はや此世に
なき人となり給ひぬ。ねりぬき【練貫】のふたつ【二つ】ぎぬ【衣】に
しろき【白き】はかま【袴】を着たまへり。かみ【髪】もはかま【袴】もしほたれて、
とり【取り】あげ【上げ】たれどもかい【甲斐】ぞなき。めのとのねうばう【女房】
手に手をとりくみ、かほ【顔】にかほ【顔】をおし【押し】あてて、「などや
是程におぼしめし【思し召し】たつ【立つ】ならば、ちいろ【千尋】の底までも
ひき【引き】は具せさせたまは【給は】ぬぞ。さるにても今一度、
ものひとこと葉【一言葉】おほせられてきか【聞か】せさせたまへ」と、
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もだへ【悶え】こがれけれども、一言の返事にもおよばず、
わづかにかよひ【通ひ】つるいき【息】もはやたえ【絶え】はてぬ。さる程に、
春の夜の月も雲井にかたぶき、かすめる空も
明ゆけば、名残はつきせずおもへ【思へ】ども、さてしも
あるべき事ならねば、うき【浮き】もやあがり【上り】たまふと故三位
殿のきせなが【着背長】の一両のこり【残り】たりけるにひき【引き】まとひ【纏ひ】
奉り、ついに【遂に】海にぞしづめ【沈め】ける。めのとのねうばう【女房】、
今度はをくれ【後れ】奉らじと、つづひ【続い】ていら【入ら】んとしけ
るを、人々やうやうに取とどめ【留め】ければ、力およば【及ば】ず。
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せめてのせんかたなさにや、手づからかみ【髪】をはさみ【鋏み】
おろし【下し】、故三位殿の御おとと【弟】、中納言律師仲快
にそら【剃ら】せ奉り、なくなく【泣く泣く】戒たもつ【保つ】て、主の後世を
ぞとぶらひ【弔ひ】ける。昔より男にをくるる【後るる】たぐひ
おほし【多し】といへども、さま【様】をかふる【変ふる】はつね【常】のならひ【習ひ】、身を
なぐるまでは有がたきためし【例】也。忠臣は二君に
つかへず、貞女は二夫にまみえ【見え】ずとも、かやうの事
をや申べき。此女房と申は、頭の刑部卿[* 「形部卿」と有るのを他本により訂正]教方【*則方】のむす
め、上西門院のねうばう【女房】、宮中一の美人、名をば
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小宰相殿とぞ申ける。此女房、十六と申し安元
の春のころ、女院、法勝寺へ花見の御幸ありしに、
通盛の卿、其時はいまだ中宮の亮にて供奉せ
られたりけるが、此女房をただ一め【目】みて、あはれ【哀】と
思ひそめけるより、そのおもかげのみ身にひしとたち【立ち】そひて、わするる【忘るる】ひま【暇】もなかりければ、はじめは
歌をよみ、文をつくし【尽くし】たまへ共、玉づさ【章】のかずのみ
つもり【積り】て、とり【取り】いれ【入れ】給ふ事もなし。すでに三
とせ【年】になりしかば、みちもり【通盛】の卿いまをかぎりの
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文をかひ【書い】て、こざいしやうどの【小宰相殿】のもとへつかはす【遣す】。おり
ふし【折節】とり【取り】つたへ【伝へ】たる女房にもあはずして、つかひ【使】
むなしくかへり【帰り】けるみちにて、小宰相殿は折ふし【折節】
我里より御所へぞまいり【参り】たまひける。つかひ【使】むな
しう【空しう】かへり【帰り】まいら【参ら】ん事のほい【本意】なさに、御車のそば
をつとはしり【走り】とをる【通る】やうにて、みちもり【通盛】のきやう【卿】の
文を小宰相殿の車のすだれの中へぞなげ【投げ】いれ【入れ】
ける。とも【供】のもの共にとひ【問ひ】たまへば、「しら【知ら】ず」と申。さて
此文をあけてみ【見】たまへば、通盛の卿の文にてぞ
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有ける。車にをく【置く】べきやうもなし、おほち【大路】に
すて【捨て】んもさすがにて、はかま【袴】の腰にはさみ【鋏み】つつ、
御所へぞまいり【参り】たまひける。さて宮づかへ〔し〕たまふ
ほど【程】に、所しもこそおほけれ【多けれ】、御前に文をおとさ【落さ】
れたり。女院是を御覧じて、いそぎとら【取ら】せおは
しまし、御衣の御たもと【袂】にひき【引き】かくさ【隠さ】せ給ひ
て、「めづらしき物をこそもとめ【求め】たれ。此主は誰なるらん」
とおほせければ、御前の女房たち、よろづの
神仏にかけて「しら【知ら】ず」とのみぞ申あはれける。
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その中に小宰相殿は、かほ【顔】うちあかめ【赤め】て、物も
申されず。女院もみちもり【通盛】の卿の申とはかねて【予て】
よりしろしめさ【知ろし召さ】れたりければ、さて此文をあけて
御覧ずるに、きろ【妓炉】のけぶり【煙】のにほひ【匂】ことになつ
かしく【懐しく】、筆のたてど【立て処】もよのつねならず、「あまりに
人の心づよきもなかなかいまはうれしくて」なんど、
こまごまとかひ【書い】て、おく【奥】には一首の歌ぞ有ける。
我こひ【恋】はほそ谷河【細谷河】のまろ木ばし【丸木橋】
ふみかへさ【返さ】れてぬるる袖かな W071
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女院、「これはあは【逢は】ぬをうらみ【恨み】たる文や。あまりに
人の心づよきもなかなかあたとなる物を」。中比
小野小町とて、みめかたち世にすぐれ、なさけ
のみち【道】ありがたかりしかば、みる【見る】人きくもの肝たま
しゐ【魂】をいたま【痛ま】しめずといふ事なし。されども
心づよき名をやとり【取り】たりけん、はてには人の思ひ
のつもり【積り】とて、風をふせく【防く】たよりもなく、雨を
もらさ【漏らさ】ぬわざ【業】もなし。やどにくもら【曇ら】ぬ月ほし【星】を、
涙にうかべ【浮べ】、野べのわかな、沢のねぜり【根芹】をつみ【摘み】て
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こそ、つゆの命をばすぐし【過し】けれ。女院、「是はいかにも
返しあるべきぞ」とて、かたじけなく【忝く】も御すずり
めし【召し】よせて、身づから御返事あそばさ【遊ばさ】れけり。
ただたのめ【頼め】ほそ谷河【細谷河】のまろ木橋【丸木橋】
ふみかへしてはおち【落ち】ざらめやは W072
むねのうちのおもひ【思ひ】はふじ【富士】のけぶり【煙】にあらはれ【現はれ】、
袖のうへ【上】の涙はきよみ【清見】が関の波なれや。みめは
さいわい【幸】のはな【花】なれば、三位此女房をたまはて、
たがひに心ざしあさから【浅から】ず。されば西海の旅の空、
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舟の中、波上のすまひ【住ひ】までもひき具して、
ついに【遂に】おなじみちへぞおもむか【赴か】れける。門脇の
中納言は、嫡子越前の三位、末子業盛にもをくれ【遅れ】
たまひぬ。いまたのみ【頼み】たまへる人とては、能登守
教経、僧には中納言の律師仲快ばかりなり。
こ【故】三位どののかたみ共此ねうばう【女房】をこそみ【見】給ひ
つるに、それさへかやうになられければ、いかが心ぼそ
うぞなられける。
平家物語巻第九