平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)
凡例
底本 『平家物語 長門本』黒川真道、堀田璋左右、古内三千代 校。国書刊行会・明治39。名著刊行会・昭和49再刊。底本・国書刊行会蔵本(現在、所在不明。)
参考
昭和49再刊に伴う別冊『平家物語箚記』(高橋伸幸・昭和50。延・長・盛三本の記事対照表、長門本の和歌索引等)。*この索引は本文と漢字や仮名の表記が異なります。W134とW152が抜けています。
『岡山大学本平家物語 二十巻 一〜五』 岡山大学池田家文庫等刊行会・森岡常夫。福武書店・昭和50〜52。底本・岡山大学蔵池田侯御筆本。
ページ数を記し、底本通りに改行しました。上段と下段の間は1行空けました。
傍書は、[B ]、又は[B 「 」に「 」と傍書]としました。
傍書補入は、O[BH ]としました。
漢文表記の返り点は、(レ)、(二)、(一)等としました。
カタカナの小さい「ノ」、「ン」は、[B ノ]、[B ン]としました。
漢字表記や仮名遣いは一部改めました。
和歌には独自に、通し番号としまして、W+番号3桁を後に付けました。
その後に、国歌大観の番号をK+番号3桁を後に付けました。1〜247は、「延慶本平家物語」の番号です。248〜296までが、「異本歌」としての「平家物語 長門本」の歌です。
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平家物語巻第一
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有、沙羅双樹の
花の色、生者必衰の理をあらはす、奢れる者も久しか
らず、唯春の夜の夢の如し、武き者も終には亡ぬ、
たとへば[B 「たとへば」に「ひとへにイ」と傍書]風の前の塵におなじ、遠く異朝をとふらへ
ば、夏の寒〓、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐
の禄山、是らは皆賢きをば譏り、才有をば妬み、酒
を以て漿を忘れ、侫なるをもて好とせり、旧主先皇
の政にも従はず、奢を恣にし楽を極めて、更に民黎
の愁をしらざりしかば、久しからずして亡びにしも
の也、たとひ人事をいつはるといふとも、天道をば
はかり難きものをや、王れいかくのごとし、人臣の
位に居る者いかでか不(レ)慎べき、まちかく本朝を尋
れば、神武天皇より此かた人王八十余代、或時は君
臣を誅し、或時は臣君を背くことありき、承平に将
門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、奢れる
心も猛き事も、とりどりにこそありけれ共、はやき瀬
に有とはみゆるうたかたの、音なくきゆるが如く也、
まぢかくは太政大臣平の清盛入道と申ける人の有様
を、伝へ承るこそ心も詞も及ばれね、彼先祖を尋れ
ば、桓武天皇第五の王子一品武部卿葛原[B ノ]親王の九代
の後胤、讃岐守正盛が孫刑部卿忠盛の朝臣の嫡男也、
彼親王の御子高見[B ノ]王、無官無位にして失せ給ひぬ、
其御子高望[B ノ]王の時、寛平二年五月十二日に始て平朝
臣の姓を給はりて、上総介に成給ひてより此かた、忽
に王氏を出て、則人臣に列なる、其子鎮守府の将軍
義茂、後には常陸の大掾国香と改む、国香より貞盛
陸奥守、惟ひら伊豫守、正のり越前守、正衡出羽守、
正盛讃岐守に至る迄、六代は諸国の受領たりといへ
ども、いまだ殿上の仙籍をばゆるされず、忠盛の朝
臣備前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進
して、三十三間の御堂をたて、一千一体の御仏をす
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へ奉り、天承元年辛亥十一月十六日、公卿六人、職
事、弁官惣じて六十四人、清暑堂の大床にして供養
の日時を評定ありて、向廿一日午の時と定めらる、
すでに可(レ)被(レ)遂にて有けるに、其時刻に及びて、大風
雷雨夥しかりければ、其日は延引す、同廿五日に官
の庁にて猶せんぎ有、廿九日天老日なりければ、遂
らるべきにて有けるに、次の雨夥しく降下る、然る
間、牛馬車人打そんぜられて出行に及ばず、仍て其日
も延引せり、禅定法皇なげき思召れて、供養三ケ度
延引の後重ねて僉議あり、同じき次の年三月十三日、
曜宿相應の良辰なりとて、其日供養と定められぬ、禅
定法皇叡覧をふるに、外廊内院一つとして叡慮に應
ぜずといふ事なし、鐘楼、塔婆に至るまで、珠玉をか
ざり金銀をちりばめたれば、佛像端厳にしてがらん
美麗なり、きんこくのこずゑ、しやうゑんちの景気、
石の立様、言語道断也、供養の時刻に至りぬれば、
楽人乱声をそうし、衆僧伽陀を唄す、誠に諸天もこ
の所に影向し、龍神も忽ちに来臨し給ふらんと覚へ
たり、鍛冶番匠そま山の工、惣じて結縁経営の人夫
にいたるまで、ほどほどに随て、勧賞を蒙ること眞
実の御菩提なりとおぼえたり、さて供養の師事は、天
台座主大僧正忠尋と御評定ありしかども、堅くじた
い申させたまひて参り給はず、さらばとて興福寺の
別当僧正を召れけるに、是も再三辞し申されて参り
給はず、扨は誰にてか有べきと仰有けり、其時諸寺、
諸山より、名僧別当、我も我もと望申さるる貴僧高
僧、十三人ぞ有ける、其十三人と申は浄土寺の僧正実
印、同別当覚恵僧都、興福寺の大進法橋実信、同寺大
納言法印経雲、御室の御弟子祐範上人、園城寺の権大
僧都良円、同寺智覚僧都、東大寺大納言法印隆範、
花山院僧正覚雲、蓑尾法眼蓮生、徳大寺兵部卿僧都
祐全、宇治僧正観信、櫻井宮上人円妙、以上十三人
なり、此智徳たちは、或は法皇の御外戚、或は法皇の
御師範、或は御祈祷僧、其名徳皆以て公請を勤らる
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る人々也、誠に種姓尊[B 高イ]貴にして智恵分明也、浄[B 正イ]行持
律にして、説法富楼那のあとをつたへ給へり、我こ
そ天下第一の名僧よ、我こそ日本無双の正道よと、
おのおの驕慢を起して望申させ給ふもことわり也、
実にも天台座主の外は、此人々こそ器量よと、法皇
も御諚有、されば思召煩ひてぞ渡らせ給ひける、毎
日公卿僉議有けれ共未定らず、されば法皇いかヾす
べき、一人を導師に用ひば、残る十二人の恨を遺すべ
し、朕は人の恨を息んとこそ思召に、御堂供養の時、
十二人愁をおはん事社浅ましけれと仰下され、公卿
僉議して一向に申されけるは、彼十三人の僧達に、面
面に〓をとらせられ候へかし、〓を取当らんは悦也、
取当らざらんは力なき事にこそ候はんずれ、其恨候
まじと申さる、〓は如何様にか有べき、一を導師と
被(レ)遊て、十二人をば白紙にて候べしと申さる、法皇
仰有けるは、朕が現当二世の大事、只此事にあり、
白紙と導師と十三の〓を取らすならば、一定独りは
取当らんずらん、但十三ながら彿意に叶はぬ僧にて
もや有ん、されば若誠に導師たるべき人、此十三人の
外にや猶ましますらん、冥の照覧も知がたし、され
ば今一の〓をくはへて十四になすべし、十三の白紙
と一の〓と、都合十四の〓を取らすべしと仰下され
き、かねて此禅侶達を皆得長寿院に召れたり、ゆゆ
しき見物にてぞ侍りける、御諚に任せて十四の〓を
出されたり、十三人の僧徒面々に取給ふに皆白紙也、
御導師に可(レ)成〓一は残たり、冥の照覧誠に様有べし
と被(レ)仰けり、十三人の智徳達各宝の山に入て、手を
空しくしてぞ帰りける、法皇此僧共は佛意に叶はざ
りけり、されば導師は外に在と知し召して、此人々の
外誰にて可(レ)有とも覚えず、只願くは必ずしも智者に
非ずとも、能説に非ずとも、種姓下劣也とも、心に慈
悲有て、身に行徳いみじくて、天下第一に貧ならん僧
を、導師に用ひばやと思召はいかにと仰下されけれ
ば、公卿たち、いかなる人の参んずらんとあやしみを
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成し給ふ、或時法皇、得長寿院に御幸なりたり、八十
有余計なる老僧の、頭には雪をいたたきたる白髪生
ひ、額には四海の波をたたみ、腰ふたへにして杖に
すがり、蓑笠着たるが平あしだはきて惣門より来臨
す、怪しと御覧ずる所に、御前の階に参り、蓑笠ぬき
おきて、藤の衣の浅ましげなるを着て、古きけさのさ
んざんなるを懸たり、公卿殿上人挙ていかなる事候
や、かかる御座鋪に参りよるべきものにてもなし、狼
藉也罷出よと追はる、此僧少しも驚きたるけしきも
なくて、法皇の御前に参りて申けるは、誠にて候やら
ん、此御堂供養の御導師には、無智下賎なりとも心に
慈悲有て、行徳有ん貧僧を召るべしと承及候、此小僧
慈悲行徳はかけて候へども、貧者ばかりは日本第一
にて候、真実の御定にて候はば、参るべくや候はんと
奏す、其時公卿殿上人さこそ仰せ有んからに、和僧程
のものをばいかでか御導師に召るべき、見ぐるし、
とくどく罷出よと仰有、法皇不思議なりと思召なが
ら、和僧はいづくにぞ有ぞと御尋あれば、僧申けるは、
当時東坂本の地主権現の大床の下に、時々には草む
しりて候と申、扨はまめやかの無縁貧道の僧にこそ
あんなれとて、御導師に定らるる処也、来十三日午の
時以前に、此御堂に参るべしと御定の間、僧泪をはら
はらとこぼして、手を合て法皇を拝み参らせ、蓑笠を
取て打きてまかでにけり、其時法皇御つぼの召次を
召て、あの僧の居所を見て参れ、いか成有様したる
ぞ、能々見て参れとてつかはさせおはします、御使見
えがくれに行程に、申つるごとく、比叡山の東坂本地
主権現の大床の下に入ぬ、居所の有様は薦引廻して、
絵像の阿彌陀の三尊東向にかけて、はな机に花香供
して薫りしめたり、みのかさぬぎ置て、はな机の下に
紙にひねりたる物有、それを取出して茶器に少入て、
閼伽桶なる水を入てかき立てぞぶくしける、扨其後
獨言に申けるは、兎角してまうけたる松葉もはやす
くなく成にけり、いかにしてか露の命も支ふべき、
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哀れとく御仏事の日に成給へかし、扨もめでたき法
皇の御善根の潔きかな、南無山王大師七社権現じひ
納受を垂れて、法皇を守護し奉り給へかしと申て、念
珠うちして目をふさぎてぞ侍ける、召次感涙を流し、
急ぎ帰り参りて此由奏聞しければ、法皇聞召て大に
感じ思召れて、尊がらせましましける、去ほどに既に
御供養の日に成ければ、彼聖のもとへ四方輿を迎ひ
につかはす、聖申けるは、輿車に乗べき御導師を召
るべきならば、望み申さるる所の高僧をこそ召るべ
く候へ、わざと無縁貧道の僧をこそ供養せさせ給ぬ
れ、されば精誠の御善根なり、いかでか有名無実の
虚假の相をば現じ候べきとて、輿をば返し奉りて、
吉日吉良辰は十三日の午の刻也、されば午の時以前に
御幸行幸も成せ給ひぬ、男女雲客皆参り給へり、況や
京中田舎近国遠国の貴賎上下、幾千万と云数を知ら
ず参り集りたり、彼導師すでに参りのぞみ給ふ、蓑
笠こそけふはきねども、袈裟はただ有しまま也、老
老として腰かがまり給へり、従僧と覚しくて若き僧
二人有、御ふせ持たせん料と覚しくて、下僧十二人庭
上に候て、誠に弱気なるすがたなれば、万人目を
驚してぞ侍る、あなあさましのものや、いかなる事
にかさばかりの大願の御導師、是ほど成べしや、乞丐
人とは申も愚也、あなあさましあなあさましと口々に申あは
されけり、時にのぞんですでに御導師高座に登り給
へば、ひざふるひわななきて、法則の次第も前後ふか
くげに見え給へり、浅ましきやう也、りん打ならし、
何事をか申されけん、つぶつぶとくどき給ふを、聞わ
けたる人もなし、浅ましく覚えて、人々頭を打うな
だれて聞所に、暫くありて勧請の句をはたと打あげ
給ひたりければ、伽陵頻伽の声に過、三十三間の御
堂に響き渡り、一千一体の御仏も御納受有らんとめ
でたかりけり、表白ことに玉を吐、説法彌懸河の辯
説也、顕密教法、八万聖教十二部経引出されぬ法門も
なし、聴聞の衆皆随喜の泪を流して、無始の罪障よ
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り現在の悪業に至る迄、皆消除しぬらんと、見聞覚知
の道俗、歓喜の袖をかき合せて、即身菩薩の旨も発ぬ
べし、法皇も龍顔より御泪せきあへさせ給はず、か
かりける人をいるかせに思ひ奉りけん、凡夫の身の
口惜さよと思し召れける、むかししゆだつ長者が、祇
園精舎に四十九院を建て、如来の供養有りけんも、結
縁利生の御法は是には過じと覚えたり、御説法三時
ばかり有けるを、法皇は永々しとも思召れず、唯一口
刹那の程とぞ思召れける、ゑかうのすず打ならして、
高座よりおりて正面の左りの柱のもとに居給へり、
初は墨染の藤の衣と見えつれ共、今は錦の法服より
も増りて尊くぞ見え給ひし、御布施は千石千疋金千
両、其上に御加布施御堂の前に積置れたり、山の動
くが如くぞありける、御布施は無辺のくどくとなれ
とて、非人共に給りにけり、御導師身に相応する程
の御ふせにこそ預り[B 「り」に「るべくイ」と傍書]候へとて、御布施一つ取給けり、
二人の従僧も十二人の下僧も、同く一つ宛取てけり、
むかし田村の御門の御時、高子と申女御かくれさせ
給ひて後、安祥寺にて御わざせさせ給ひけるに、在
中将のよみたりける
山のみなうつりてけふにあふ事は
春のわかれをとふと成べし W001 K001
御善根の御志の深きは、御布施の色に顕れて目出た
かりし御事也、夕陽西に傾きて夜陰に及びければ、御
導師の前に万燈会をとぼされたり、御導師既に帰り
給ひけるに、聴聞の衆多くしてたやすく出させ給ふ
べき様もなし、其時御導師は初は正面より出でて、土
の上二尺計も歩ませ給ひけるが、後にはこくうをさ
して飛上りて、惣門の上よりかき消す様にて、行方見
え給はず、法皇彌不思議に思召されて、何様にも唯
事に非ず、仏菩薩の化現にて御座しけりと尊く思召
れて、真実の正体しめさせ給へと、其夜もすがら御祈
念あり、少し御まどろみ有けるに、二人の従僧と見
えつるは、日光月光の二菩薩光を輝し、十二人の下僧
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と見えつるは、十二神将にておはします、御導師は鎮
守権現の御本地、比叡山の根本中堂の薬師如来にて
おはします、各虚空に現じ給ふと夢幻ともなく、此仏
事に影顕ありと思召て、則悟らせ給ひけり、末代とい
へ共願主の御心精誠なれば、仏神のゐくわう猶以て
厳重なり、法皇御心の中さこそ悦しく思召けめ、申も
愚也、我仏意に叶けるこそうれしけれとて、随喜の
御泪せきあへさせ給はず、此御説法聴聞有ける、大宮
の女御、黄疔と申す瘡重くならせ給ひて、御限なり
けるが、さいごの御聴聞御結縁と思召て、希有にして
御参詣ありけるが、則御平愈ありけり、其の外聴衆一時
の中に、上下男女二万六[B 三イ]千七百余人が病立所にいえ
たり、それよりしてぞ此寺を平愈堂とも申けり、昔聖武天
皇の御願、東大寺金銅十六丈の盧舎那仏供養の導師
に、行基菩薩と御定有りけるに、行基菩薩堅く辞し申
させ給ひてけることは、此御願南閻浮提第一の大仏
事也、小国の比丘更に及び難し、昔霊山浄土の同聞
衆婆羅門尊者と申大阿羅漢、今猶天竺にましますと
承る、むかひを遣すべしとて寶瓶に花をたて、閼伽
折敷にすへて、難波の海に浮べ給ひければ、風に隨
て西を差て流れ行、七日を経て後、供養の日婆羅門尊
者、あみの折敷に乗て難波の津に来り給へり、其時行
基出むかひてのたまはく、
霊山のしやかの御前にちぎりてし
ふけんの光り爰にかかやく、 W002 K002
波羅門尊者の返事
かひら会の苔の莚に行逢し
文珠の御かほ今見つるかな、 W003 K003
其時一天の君を初め参らせて、万人皆感涙を押へず
といふ事なし、扨婆羅門尊者を講師として、行基菩薩
を講師じゆ願とし奉りて供養をとぐ、是に依りて婆
羅もん尊者を、則僧正になし奉んと宣旨なりけれど
も、不日に天竺にかへり給ひぬ、行基菩薩其後天平
勝寶元年二月中の五日、年八十にて入滅し給き、彼歌
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の心にて婆羅もん尊者、普賢菩薩、行基ぼさつは大
聖文珠也、さらば普賢、文珠の二菩薩来りて、大仏殿
の供養ましましき、しかのみならず天王寺をば難波
津の海より僧来りて供養す、だるま和尚と申、興福
寺をば曇天国の僧権化来りて供養す、今の得長寿院
は根本中堂の薬師如来、日光、月光を従僧とし、十二
神将をけんぞくとして御供養有、はるかに昔の聖跡
にも、当がらんの有様は勝り給へりと万人仰ぎ奉る
所也、忠盛朝臣か様に仏意に相叶ふ程の寺造営す、仍
て勧賞には闕国を給ふべき由仰下さる、凡国の費ひ
民の煩にも不(レ)及、僅に一両年の間に、成風の功を得
たりけるによりて、禅定法皇猶叡感にたへさせおは
しまさず、折節但馬国の明たりける故、忠盛年三十
七にして内の昇殿を許さる、雲の上人憤含[B 憎イ]みて、同年
十一月五節廿三日豊のあかりの節会の夜、闇討にせ
んとしけるを、忠盛の朝臣の郎等に、木工[B ノ]権[B ノ]佐平[B ノ]
貞光が孫進三郎大夫季房が子に、左兵衛尉家貞と云j
者ありけり、備前守の許に行向ひて申けるは、祖父貞
光は乍(レ)恐御一門のすゑにて候けるが、故入道殿の御
時、初て郎等職のふるまひを仕る、家貞祖父に勝るべ
き身にも候はねば、相[B 猶イ]続て御奉公を仕つり候、今年の
五節の御出仕には一定僻事出来べき由、粗承及ぶ旨
の候、殿中に我も我もと思ふ人どもあまた候らめど
も、か様の御詮の折節にはあひ参らせんと思ものは、
さすがにすくなくこそ候らめなれば、五節の出仕の
御供に於ては、家貞可仕と内々申たりければ、忠盛
是を聞て我右弼の身に非ず、武勇の家に生れたり、可
然とて具せられたり、武勇の家に生れ、今不慮の恥
に逢し事、家の為身のため心うかるべし、身を全くし
て君に仕るは臣の忠なれば、其用意こそせめとて、
一尺三寸有ける黒鞘巻の刀を用意して、着座の始め
より乱舞の終り迄、束帯の下にしどけなげにさして、
刀の柄四五寸計差出し、常は手打懸つくり眼して、火
のほのぐらき陰にては此刀をぬき出して、鬢髪に引
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あててのごはれけり、よそ目には氷抔の様にぞ見え
ける、傍輩の雲客是を見て恐れをののく心あらば闇
討はせられじとの籌也、家貞元より去ものなりけれ
ば、忠盛に目を懸て木賊色の狩衣の下に萌黄[B ノ]縅の腹
巻の胸板せめて、つる袋付たる太刀脇にはさみて、
殿上の小庭に候ひけるが、同じき舎弟薩摩の平六家
房とて十七歳なりけるが、健か者のたけ高く骨太く
力すぐれ度々はがねを顕はしたる者有けり、ひはだ
色の狩衣の下に黒糸縅の腹巻を着て、備前作りの三
尺五寸有けるわり鞘の太刀脇にはさみて、狩衣の袂
より手を出して、犬居につゐひざまづいて、殿上の
方を雲透に見すかして居たりければ、貫首以下殿上
人怪みをなして、六位蔵人を召て、うつぼ柱より内
に布衣の者の候は何者ぞ、狼藉也、罷出よといはせ
ければ、家貞少も不騒、相伝の主備前守殿今夜闇討
にせらるべき由承れば、ならん様を見果んとてかく
て候へば、えこそ罷出まじけれとて、面魂眼ざし主
の事にあはば小庭より堂上迄も切上らん景色にて畏
て候ひければ、人々よしなしとや思しけん、其夜の
闇討はせられざりけり、五節の宴醉と申は昔清見原
の天皇の御時より始れり、清見原の天皇と申は天智
天皇の御弟也、御門譲りを受させ給ふべきにてまし
ましけるに、大伴の皇子のなんを恐れて、髪を剪て
出家と名付て吉野の奥に籠らせたまひけり、清見原
と申所に住せ給けるによりて、其所をつかせ給ふ、心
を澄せ給ひ、吉野川の水上にして琴をひかせ給ひし
に、神女天よりあま下り、
乙女子かおとめさひすもから玉の
おとめさひすも其から玉を W004 K115
五声うたひ五度袖を飜す、是ぞ五節の初めなる、扨
御門是を御覧じとどめさせ給ひて、御即位の時、其
御業を学ばせ給ふ、今の五節是也けり、扨御前の召有
て忠盛朝臣参られける時、内大臣拍子をかへて伊勢
平氏はすがめ也けるとぞはやされたる、此忠盛の朝
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臣は桓武天皇の御末と乍(レ)申、中古よりは無下に打く
だりて、官途も浅く、地下の殿上人にて、都の住居
もうとうと敷、常は伊賀、伊勢にのみ住国久しく成
て、此一門をば伊勢平氏と申習はしたるに、忠盛は右
目の少しすがみたりければ、彼国のうつはものに対
して伊勢平氏はすがめ也けりとぞ囃したりければ、
彼国の器に対して侍ると也、殿上のかたぬぎの拍子
には、白薄様、厚染紫紙、巻上の糸[B 筆イ]、巴かきたる筆
のぢくなんどこそはやすに、かくはやされければ、忠
盛心うしと思はれけれども、いかにすべき様もなく
て、御遊もいまだはてぬに、深更に及で罷出らるる
とて、紫宸殿の御後にて此腰の刀をかたへの殿上人
あまた見らるる所にて主殿司を召して、此刀殿上の
大盤に置べしとて預けて出られにけり、家貞は忠盛
朝臣を待受て、いかに別の事候はずやと尋ければ、
別の事なしとぞ答へられける、太宰権帥季仲卿は色
の黒かりければ、黒輔[B 帥イ]とぞ申ける、昔蔵人頭たりし
時、それも五節にあな黒々、黒き頭哉、いか成人の
漆ぬりけんとぞはやしたりければ、彼季仲に並たり
ける蔵人頭色の白かりければ、季仲の方人とおぼし
き殿上人、あな白々、白き頭哉、いか成人の粉をぬり
けんとはやしたりける、花山院の太政大臣忠雅公十
歳と申ける時、父の中納言忠家卿に後れ給ひて孤に
ておはしけるを、中御門中納言家成卿播磨守たりし
時聟に取、花やかにもてなし侍ければ、是も五節に
播磨米は木賊か、むくの葉か、人の綺羅をみがくは
とはやしたりけり、上代は如(レ)此の事させることもな
かりけり、末代は如何有んずらんと覚束なし、昔よ
りして昇殿の人の五節[B ノ]坊にて懐刀さす事なし、罪科
に申行べしなど人々憤申さるる由聞えしほどに、五
節はてにしかば、案の如く殿上人一同に各々訴申さ
れけるは、雄剱を帯して公宴に列し、兵仗を給て宮
中を出入するは皆格式礼を守り、綸言より有る先規
なり、然るを忠盛郎従をして兵具を帯せしめて、殿
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上の小庭に召置、其身又腰刀を横たへさして節会の
座に列す、両條共に希代未聞の狼藉也、事既に重疊
す、罪科尤のがれがたし、早々御札を削りて解官停
任すべき由訴申さる、主上崇徳院聞し召れて驚かせ
給ひ、忠盛を召て御尋有、則陳じ申けるは、先郎従
小庭に祇候の事、忠盛はかくご不仕候、但近日人々
相たくまるる仔細あるかの間、年来の家人此事を伝
へ承るによて、其恥を助んが為に、忠盛に知せずして
潜に参りける條力不(レ)及次第也、若猶罪科たるべきに
候はば其身を召進べきか、次に腰刀の事、件の刀既
に主殿司に預け置候、急ぎ是を被(二)召出(一)て、刀の実
否に付きて科の左右有べきかと申ければ、主上尤可
(レ)然と被(二)思召(一)て、彼刀を召出して叡覧有ければ、上
はさや巻の黒ぬり也けるが、中は木刀に紙薄白くぞ
押たりける、主上大にゑつぼに入せ御座して仰有け
るは、当座の恥辱を遁んが為に、刀を帯する由を見
すといへ共、後日の訴訟を存じて、木刀を帯しける用
意の程こそ神妙なれ、弓矢に携さはらんものの謀、
もつともかくこそあらまほしけれ、兼ては又郎従、
主の恥を雪がんが為に、潜に参候の條、且は武士の郎
従の習也、忠盛が科に非ずとて、還て叡感ありける上
は、あへて罪科のさたに及ばず、雲上人内々さざめき
あひけるは、上古はかかる事ありき、異国に王あり、
周の成王と申き、彼王の忠臣に早記大臣と云人あり、
世の政道めでたく人を愍む事君王に劣らず、かかり
ければ王の御気色世に超過して並ぶ人なかりけり、
仙客と云大臣是を憎んで、ややもすれば是を亡さん
と擬す、此早記大臣は元より天下無双の兵、弓箭に
携りて武勇の道をたてて事とす、麒麟と云兵有、戦
を究めたりし勧賞に、大臣に任ぜられて、かかる武き
人なれば左右なく討取難きに依て、皇居に左右之分
と云御遊を始て、其中にて闇討にせんと擬して、皆人
人帯剱を禁断す、是は彼大臣に太刀をはかせまじき
が為也、早記大臣は先立て其心をぞんじてければ、
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則木太刀を帯して参候す、かたへの君臣は禁法に任
せて一人も太刀をはかず、是によりて早記其夜の難
をのがれにけり、翌日に雲客参内して、早記当座一
同の僉議にくみせず、綸言を違背するに非ずや、殿上
に雄剱を帯し、大家の党に交る條、ことに違へる所
なり、尤罪科是重し、急ぎ誅せらるべきかと奏す、君
驚き思召て大臣に御尋あるに、早記陳辞の詞をば出
さず、雲客腰にたちをはき、忠臣雄剱を提るは是君
を守護し奉る所也、則此剱は不動の両剱を学ぶ、是
と申は皇居に大営を企るには、四鬼雲に乗じて来り
妨をなすが故に、是を降伏せんが為に、雲客両剱を学
んで太刀を帯せり、何ぞ明君の訴文節を立ながら武
を捨、太刀を戒むべきや、然ども一同の僉議に与す
るが故に、忠臣の法なれば太刀を帯すといへども、
是を見られよとて、木太刀を披見す、君大に御感あ
りて、誠に君を守る忠臣にて有けりとて、よろこび思
召れける上は、なんぞ罪を得んや、しかれば実の賢
臣也けりとて、人々是を仰ぎけり、則忠盛彼あとを
訪ひけるか、上古は太刀、末代は刀、かれは大臣、
是は雲客、さかいはるか也といへ共、擬へし様は対
句也とぞ譽られける、かかりしかども、其子孫は諸
衛佐さへ、殿上の交り人嫌に不(レ)及、忠盛備前国より
都へ上りたりけるに、中御門中納言家成卿、院の殿
上にて名にしおふ明石の浦の月はいかにと問れけれ
ば、忠盛とりあへず、
播磨路や月も明石の浦風に
波ばかりこそよると見えしか W005 K248
と読で参らせければ、ことにふれて心に色有けりと
て人々ののしりもてなされけり、其後千載集を撰ば
れしはじめ、此歌を入られけるに、俊成卿上の五文
字を直されて、
有明の月も明石の浦風に
波ばかりこそよると見えしか W006 K125
とぞ入られたりける、忠盛御所に思はれける女房あ
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り、或時彼の女房の局に月出したる扇を忘れて出ら
れたり、かたへの女房達是はいづくよりの月影ぞや、
出所こそおぼつかなけれとてわらはれしが、かくこ
そ聞えけれ、
雲井よりただもり来たる月なれば
おぼろ気にてはいはじとぞ思ふ W007 K124
似たるを友とかやの風情に忠盛住たりければ、此女
房も優なりとぞ人感じ申ける、忠盛朝臣備前守より
刑部卿にあがりて、仁平三年正月十五日年五十八に
て失給ひにき、清盛嫡男たりしかば、亡跡を継、国々
を譲のみならず、家の寶物他家へうつる事なければ、
清盛是を相つぐ、中にも唐皮小烏と云鎧、太刀は清
盛に授けらる、くだんの唐皮と申は人の作れるには
非ず、仏作の鎧也、其故は桓武天皇の御甥に香円法
印と申けるは、奥儀を究めたる天下第一の真言法の
中より、現在不思議を顕されき、我朝の形見にせんと
仰有ければ、香円綸言に応じて、紫宸殿の御前に壇を
立て、たいざうかいの不動尊を前にして、彼法を修
せらる、七日と申す未の刻に紫雲立て、うづ巻たる其
中よりあららかに壇の上に落たり、是を見るに一領
の鎧也、はじのにほひのすそ金物に白く、黄なる蝶
を打たり、件の毛は糸をどしには非ず、皮をどし也、
裏をかへして見れば、虎の毛所々に相残れり、故に
其名を唐皮とぞ名付られし、是はいかにと御尋あり、
香円申させ給ひけるは、則本朝のかため也、是則不
動明王の鎧也、不動尊は上に降魔の相を顕すといへ
ども、本地彌陀にてましませば、下には慈悲を具し
給へり、火えんを身に現ずるは如我相を顕すといへ
り、如我相といふは大日胎蔵の身を現ぜん科也、大
日胎蔵の身といふは大歳腹体を囲まんがれう也彼
桓[B 「彼桓」に「本のまま」と傍書]鎧にはしかじ、されば不動明王に七領の鎧あり、
兵尾甲冑也、兵頭、兵体、兵足、兵腹、兵背、兵指、
兵面とて皆是五天、五国、五花、五木是を相対せり、
是は人の五体を囲まん科也、然れば国中の守は甲冑
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にしかじ、彼唐皮は彼七領の中の兵面と云鎧なり、
されば本朝の守りには何物か是にしかんや、甲冑を
鎧はん時は、我着ると思ふべからず、国家の壁と思
ふべし、国を囲まん時は五の鎧と思へといへり、し
かる間は此[B 「は此」に「今」と傍書]真言教の中より此甲冑を出せり、六代迄
は内裏の寶と成、其後武家に遣て、将軍にもたせよ
と誓て下されければ、高望王の後平将軍に預け給は
りてより以来、今の唐皮是也、并に小烏と云太刀は
唐皮出来て後七日と申す未の時計に、主上南殿に出
御ありて、東天を御拝あるに、八尺の霊烏飛来りて
大床に侍り、主上御笏を以て御めし有、霊烏御ましの
御縁に嘴を懸たり、霊烏申て曰、我は大神宮よりの御
剱の御使也とて、羽の下より一の御佩刀を御前にお
としたり、主上此御はかせを自らめされて、八尺の
大霊烏の羽の中より出来たる所なればとて、小烏と
は付させ給ふ、唐皮、小烏共に天下の重寶と君執し
思召る、されば本朝の寶物には甲冑、砂金銀、兵杖、
水破、兵破、太刀我国に有と云事是也、頼もしかり
し事也、されば代々内裏に伝りしを、貞盛の時より此
家に伝る希代の寶物是なり、抜丸も此家に伝はるべ
かりしを、当腹さいあいなりし故に、頼盛の家に伝は
る、依(レ)之兄弟の中不快とかや、此清盛は初は希代の
貧者なり、閑に案じて思へり、我は国々の主なり、
たとへ何なくとも生得の儘[B 報イ]なれば、身一つたすくる
分は有とこそ聞、況や清盛が身に於て是程や有べき、
難(レ)有果報哉と怪む、或時清盛蓮台野なる所にて大な
る狐を追ひ出して、弓手に相つけ射んとす、其時狐
光りを放つ、程なく女に変じてにつこと笑て立向ひ、
然べくは命を助給へ、御辺の所望を叶へんと申けれ
ば、矢を差はづしていか成人にて渡らせ給ふぞと問
ければ、七十七道の中の王にて有ぞと聞ゆ、さては
貴孤天皇にておはします、ござんなれとて敬屈す、
其時もとの狐と成て失ぬ、清盛さては我財寶に飢た
る事、荒神の所為ござんなれ、荒神を静めて財寶を
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承[B 求イ]んには弁財妙音にはしかじ、今の貴狐天皇は妙音
の其一也、されば我天[B ノ]法成就せんずる物にこそと
て、妙音、弁財両天を本尊として彼法を被行けると
かや、又かへり案じ給ふに、実やらん外法成就の者
は子孫には伝へずと云ものを、如何可(レ)有と思はれけ
るが、よしよし当時の如くば貧者にて久しからんよ
りは、一時に富で名を上んと思ひて、彼法をたしな
まる、まづ清水寺に参詣して御利生を蒙らんとて、
千日参詣をはじめて満ずる夜は通夜あり、夜半計に
夢想に、左右の眼ぬけ出で、中に廻り剰へ失ぬとみ
る、清盛覚て不思議の事哉、真やらん三寶は来らぬ
報を願ふ[B 「願ふ」に「願ふなるイ」と傍書]事は却りて命をたつと云ものを、哀れ誰も
分らぬ事願ふに申て、観音の憎ませ給ひて魂のさる
がみゆるやらん、浅増ともおろか也、去にても人に
尋て見んとて、夢に我二つの眼ぬけて中に去とみた
るは、好か悪敷かと札を書て清水寺の大門に立られ
たり、或人是を見て打うな付て、哀夢や、此人は日
比煩はしきことをのみ見けるか、三寶に帰依し奉る
が故に、歎の眼を捨てて吉事をみんずる、新しき眼を
入かへんずる相にや、哀夢や哀夢やと、両三度合せて
去ぬ、扨は清盛が好相に有けるものをとて、彼符を
取て天をさして果報を相待、其後七日と申す夜、内裏
に上臥したり、夜半計南殿に鵺の音したる鳥ひびき[B 「ひびき」に「ひらめきイ」と傍書]
渡りたり、藤[B ノ]侍従季賢番にておはしけるが、人や候
人や候と召れければ、清盛其時左衛門尉にて有けるが、
候と答、南殿に朝敵あり、罷出て搦よと仰あり、清
盛こはいかに目に見ゆるもの也とも、飛行自在にて
天を翔らん物を捕る事やは有べき、況やすがたも無、
声計有物をいかでかさるべきと思はれけるが、実や
綸言と号せば、さる事の有物をと、漢家には宣旨の
使と号して、荒たる虎を取、勅定と号してけやけき
獅子を取大臣もあり、末代に及といへども日月いま
だ天に御座す、礼義を以て人臣の堺外なる事なし、い
かでか例を追ざらん、O[BH さらばイ]取て参らせばやと思ひて、畏
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て承候ぬとて、音につゐて宣旨ぞと申てをどりかか
る、鳥騒ぎ左衛門尉の右の袖の中に飛入てけり、取
て参らせたり、叡覧有に、誠に少き鳥也O[BH けりイ]、くせ物也
とて、御評定有て能々御覧ぜらるるに、年老たる毛
朱也、毛朱とは年老たる鼠の唐名也、毛朱が分にて
も皇居に繋念をなしけるにやとて、博士を召せとて
召れたり、各々占ひ申、毛朱が例、漢家本朝に希也、
推仁天皇三年二月二日、毛朱皇居に変をなす、武者
所仰を蒙りて取んとしけるに、捕へずして門外に出
し失へり、故に大災難をなして、あくれば飢饉、兵乱
廿一年が間、上下万民愁る事有き、然るに是は清盛
朝使として威勢重きがゆゑに、綸言の下に依て召と
られぬ、此條以て吉事也、仍て天下は六年が間、風
雨時に隨ひ、霜雪折にあやまつべからずと申、さて
は可(レ)然吉相にこそとて、南面の大竹を召て中に籠
て清水寺の岡に埋られたり、御悩の時は勅使を立て
宣命を含らる、毛朱一竹の塚と云は則是也、公卿僉
議有て天下穏に、万民憂を止んには何事か是にしか
ん、怪異を奉(レ)鎮是則朝敵を討に非ずや、勧賞可(レ)有
とて安芸守に任ぜらる、併清水寺の御夢想の験なり、
鼠と云は大黒の使者なり、此人栄花の前表是はじめ
也、希代不思議ともいふべし、
官途昇進事
保元二年に左大臣世を乱り給ふ時、清盛御方にて勲
功有しかば、播磨守にうつりて、同三年の冬は大宰
大弐と成にき、平治元年に左衛門督謀反の時、又御
方にて凶徒を討平げしに依て、勲功一に非ず、恩賞
是重かるべしとて、次年正三位に叙す、是をだにゆゆ
しきことに思ひしに、其後の昇進は龍の雲にのぼる
より速也、打続き、宰相、衛府、検非違使別当、中納
言、大納言に成あがる、兵仗を賜て、大将にあらね
ども隨身を召具す、牛車輦車を蒙りて、宮中を出入
す、偏に執政の人の如し、礼記月令の文を引かせ給
ひて、寛平法皇の御遺誡にも太政大臣は一人[B ノ]師範と
して四海に義刑せり、国を治め道を論ず、陰陽を和
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げ、柔強を調ふ、その人なくば則闕よといへりとぞ
書置せ給ひたる、されば 則闕官と名付て其人に非ず
ば汚すべき官にあらねども、一天四海掌中に有上は、
子細に不(レ)及、相国か様に繁昌するも只ごとに非ず、
偏に熊野権現の御利生とも覚えたり、其故は清盛そ
のかみ靱負佐たりし時、伊勢路より熊野へ参りたり
けるに、乗たる船の内へ目を驚かす程の大鱸飛入り
ければ、先達これを見て恠と思ひて、則置文をして見
るに、これ様[B 例イ]なき御利生也、急ぎ食給ふべ[B 「ふべ」に「へかイ」と傍書]しと勘へ
申ければ、清盛申されけるは、昔異国に周西伯昌[B 「西伯昌」に「武王」と傍書]と
いひける人の船にこそ白魚のをどり入たりとは申伝
たれ、何事に付ても吉事にてぞ有らん、其上先達の
計ひ申さるる上は、半ば権現の示し給ふ所也、尤可
然とて、さばかり六根情の罪をざんげし、精進けつ
さいの道にて手づから調味して、家の子郎等てふり
強力に至る迄、一人も残さず養はせけり、又清盛三十
七の時、二月十三日夜半に口あけ口あけと天に物いふ
よし夢に見て、驚きて現に恐ろしながら口をあけば、
是ぞ武士の精と云ものよ、武士の大将する者には、
天より精を授くる也とて、鳥の子の様成物の極てつ
めたきを三つのどへ入とみて、心も猛く奢り始けり、
一族親類数国を重ね、顕官、けん職、三品[B ノ]階級に至る
迄、先祖をぞ超られける、かかりし程に清盛仁安三年
十一月十一日歳五十一にて病に犯されて、存命の為
に忽に出家入道す、法名聖[B 清]蓮、程なく改名して浄海
と号す、出家の功徳莫大成故にや、宿痾忽愈えて、天
命を全す、人の隨ひ付事吹風の草木を靡すが如く、
世の普く仰ぐこと降雨の国土を潤すに異ならず、六
波羅殿の一家の公達とだに云てければ、華族も英雄
も面を向へ肩を並る人なかりけり、平大納言時忠卿
申されけるは、此一門にあらざらん者は、男も女も法
師も尼も皆人非人也とぞ申されける、さればいか成
人も相構へて此ゆかりに結ぼれんとぞしける、衣紋
のかき様烏帽子のため様より始て、何ごとも六波羅
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様と云てければ、一天四海の人皆是を学びけり、いか
成賢王聖主の御政をも、摂政関白の成敗をも、人の
聞ぬ所にては何となく世に余されたる従者などは、
云譏りかたむき申事は常の習也、然るにこの入道の
世ざかりの間は、人聞ぬ所なればとて聊も忽に申者
なかりけり、其故は入道の謀にて我一門の上を譏り
云者を尋聞んとて、十四五若は十七八ばかり成童べ
を、髪首の廻りよりそぎつつ、赤き帷子をきせ、黒き
袴を着せて、二三百人計召仕はれければ、京中に充
満して往反しけり、平家の烏と名付て翼に赤印を付
て面々に持せて遊行せさす、是は霊烏頭のみさきと
て神に応ずる大会宴の殊童を学ばれたり、又は耳聞
也、若し浄海があたりに意趣をみば、いるかせにい
ふ者も有んずらん、さあらば聞出して申せよ相尋ん
との給ふ、されば京中小路、門外[B 前]に耳を側つ、自ら
六波羅殿の上をあし様にも申す者あれば、聞出すに
隨つて急ぎ行向て即時に魔滅す、後には御門の上は
さとかやの風情なれば、思も思はざるも、夫をいふは
常の事ぞかし、されば吹毛の科を求て滅し失ふ間、
怖と申も疎なり、されば目に見、心に知るといへど
も、あへて詞には顕していふ者なし、六波羅殿の禿
といひてければ、上下恐れをなして、道を過る馬、車
も曲てぞ通りける、禁門を出入すといへども、姓名
を問はず、京師長吏是がために目を側むとぞみえた
りける、入道悪行張行の余りに、此禿童を召仕様を
案ずるに、昔漢朝に王莽と云大臣有けるが、国の位
を奪んと思ふ心ありければ、謀を回らして、海中の
亀を取集めて、甲の上に勝といふ字を書て、若干の
亀を海中に入る、又銅にて鎧甲を着たる人形の馬に
乗たるが長三寸なるを多く鋳集て、竹のいまだ笋な
る時よごとにわりて、是を入置てけり、また懐胎[B 妊イ]の
女十人に朱砂を煎じ飲せけり、是を万仙薬と云、彼
等が産る子を取集て、潜に深山に隠し置O[BH 養ひたイ]てけり、
十二三に成ければ、彼等を取出して見るに、赤くし
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て偏に鬼のごとし、髪を首の廻りにそぎて、禿童に
なして赤き扇を持せて、王城へ出して歌を教へてう
たはせけり、亀の甲の上には勝と云文字あり、竹の
よ[B ナシイ]の中には銅の人馬あり、彼といひ是といひ、王莽天
下の位を持べき瑞相也とぞうたひける、其時漢帝大
に驚て、海中の亀を取集て是を見るに、甲ごとに勝
と云文字あり、林に入りて見る時に銅の人馬あり、
此事天のなす変也、王位を遁るるにはしかじとて、
位を王莽に譲り給ひぬ、国を持事二十七年といへり、
入道禿を召仕給ふこと少しもたがはぬ体[B 科イ]也、是を伝
聞てかくせられけりと言儀もあり、又家々にささや
きけるは、昔かかる例有やと尋るに、本朝に例なし、
漢家に八葉の大臣と申しける天下第一の賢臣おはし
けり、忠なる者を賞し、罪有者を愍むこと、如来の
大慈悲にことならず、諸国の人民、百姓の愁歎天聴
に達せぬ事多く有らん、汝聞出して奏せよ、直ちに
召質[B ン]とちかひて、今のごとく禿童に八葉の金貴鳥と
言鳥を持せて、国々の辻々に彼等を放し置れたり、か
かりければ愁を残す者なく、恨を含人もなし、国豊に
して世治れり、かかりければ不動尊慈悲を授られた
る金伽羅童子の如しとて、是をば善者童子と名付た
り、入道の禿をば悪者童子とも云つべし、漢家、本
朝隔て善悪共にこと也といへども、権威の程はかわ
らずとぞ申ける、凡只ごとに非ず、我身の栄華を極
るのみならず、嫡子重盛内大臣[B ノ]左大将、次男宗盛中
納言[B ノ]右大将、三男知盛三位[B ノ]中将、四男重衡蔵人頭、
嫡孫維盛四位[B ノ]少将、舎弟頼盛正二位大納言、教盛中
納言、一門の公卿十余人、殿上人三十余人、諸衛府、
所司都合八十余人、世には又人すくなくぞ見えける、
昔奈良の帝の御時神亀五年戊辰、朝家に中衛[B ノ]大将を
定られてより此かた、左右に兄弟相並ぶこと僅に五
ヶ度也、初は平城天皇の御宇、左に内麿内大臣左大
将、右田村麿大納言右大将、文徳天皇の御宇斎衡二
年八月二十二日、閑院贈太政大臣冬嗣、次男染殿関白
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太政大臣〈 忠仁|公 〉内大臣左大将、同九月廿五日男西三條
右大臣良相大納言右大将、朱雀院御宇、天慶八年十
一月廿五日に一條関白太政大臣貞信公の嫡男、小野
宮関白実頼〈 清慎|公 〉内大臣左大将、次男九條右大臣師資
公、同日大納言右大将、冷泉院御宇、左頼通宇治殿、
右頼実堀川殿、共に御堂関白道長の公達也、二條院
御宇永暦元年九月四日、法性寺関白太政大臣忠通公
の御息、松殿関白太政大臣基房公、内大臣左大将に御
任ありて、御弟月輪関白兼実公同十月に右に並び御
座す、其時の落書かとよ、
いよ讃岐左右の大将取籠て
欲のかたには一の人かな W008 K005
是皆摂録の臣の御子息也、凡人に於て未だ其例なし、
上代はかくこそ近衛大将をば惜みおはしまして、一
の人の公達計にてなり給ひしか、是れは殿上の交り
をだにきらはれし人の子孫の、禁色雑袍をゆりて、
綾羅きんしうを身にまとひ、大臣大将に成て兄弟左
右に相並ぶ、末代といへども不思議なりしこと也、
御娘九人おはしき、とりどりに幸ひ給へり、第一の
娘は桜町中納言成範の北の方にておはしけるが、後
中納言平治の逆乱の時、事に逢て失給ひし後は、花山
院左大臣兼雅の御台盤所に成せ給ひて、御子あまた
御座しき、万ひき替たる目出さにて[B 「にて」に「ナシイ」と傍書]おはしける、始
御悦の朝、何者かよみたりけん、花山院の四足の門
のはしらに札を書て打たりける、
花の山高き梢と聞しかと
海士の子なれやふるめひろふは W009 K006
是はさまでのことなかりけり、此北の方八歳の時、
桜町の中納言にはO[BH 申イ]名付られたりと也、成範卿を桜町
と申ける事は、彼卿桜をことにあいし給ひて、姉小
路室町の宿所に惣門の見入より、東西の町かけて並
木に桜を植通されたりければ、春の朝、遠近人の異
名に此町をば桜町とぞ申ける、又はひたすら花に心
を移し給ひて、長春の日も木[B ノ]下にして詠暮し、朧月
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夜も花の陰にて守り明されければ、桜本[B ノ]中納言共甲
けり、誠に此中納言桜をふかく愛せられしかば、過
行春をかなしみ、来れる春を悦び、桜を待し人なれ
ば、桜待の中納言とぞ詔には下されける、町に植と
ほされたりける桜の中に、殊に執し思はれけん花有
けり、七日にちる習を、たらずや思はれけん、花の
祈のためにとて春をむかふる朝には、先づ泰山府君
を祭り、又種々の珍寶、色々の幣帛をささげて、天
照太神に祈申給ひければ、其験にや、七日にちる花
なれども、二十日のよはひ延つづき、三七日まで梢
に名残ぞ残りける、中納言花のよはひの延たる事を
悦びて、かくぞ思ひつづけO[BH られイ]ける、
千はやぶるあら人神の神なれば
はなもよはひを延にけるかな W010 K249
いづ方に付ても彼成範卿はすき心のあらはれて、優
しき人にてぞおはしける、北かたは御はらからの中
に御みめもすぐれ、御心のさまもいうにおはしける
上、天下無双の絵かきにてぞおはしける、花山院の公
卿の座の障子に、いせ物語を所々書せ給ふこと有け
り、昔、氏の中に御子生れ給へり、御産屋に人々歌
をよみ給ひけるに、御祖父方なりける翁のよみける、
我やどに千尋の竹を植つれば
なつ冬たれか隠さざるべき W011 K250
と云所を書給へり、御産屋とは貞員親王の生れ給へ
る御産所也、其産屋の前に鳳凰の居たる千尋の竹の
姿を書給へり、其後彼公卿座の障子のもとに、時々笙
笛を調る音有けり、北の方の被遊たりける千尋の竹
の上なる鳳凰の囀る声にて侍けり、千字文と云文に
曰、鳴鳳は樹にあり、白駒は庭に啄むといへり、昔忠
平中将の扇に書たりける時鳥こそ、扇を開きて使ふ
度毎に、時鳥々々と鳴けるとは承れ、又円心と申け
る絵師が宇治の関白殿中門、法成寺の後戸に書たり
ける鶏こそ、さゆる霜夜の暁は二声三声鳴けれ、又定
朝が作りて金峰山の座王権現に参らせたりし狛犬こ
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そ夜毎にくひ合て大床の下に落けれ、又証賢法橋が
柏木をもて作りて、芹谷の地蔵堂に進じたりし小鬼
こそ失る事ありて、暁は必露にそぼぬれて本座にあ
り、其頃ちかあたりには女常に鬼子を産事ありけり、
寺僧あやしみをなして、金のくさりを以て件の鬼を
つなぎたりければ、其後鬼露にもぬれず女又鬼を産
ことなかりけり、かれは上古也、末代不思議なりし
こと共也、
二は後白川の法皇の第三の皇子高倉の上皇の后に成
給ひて、皇子御誕生の後は院号を蒙らせ給ひて、建
礼門院とぞ申ける、天下の国母にて渡らせ給ふ上は、
とかく子細を申に及ず、
三は法性寺殿の御子息六條摂政基実の北政所也、是
は優れたる琵琶引にてぞ御座しける、経信大納言よ
りは四代の門徒、治部卿の尼上の流を伝へて、流泉啄
木まできはめ給へり、抑流泉と申がくは兜卒天の秘
曲也、もとはぼだい楽とぞ申ける、みろく常に調べ
給ひて、聖衆のためにぼたいをつとめ給ふ故也、其
教文に曰、
三界無安、猶如火宅、発菩提心、永証無為、 G147
と申経文也、漢の武帝仙を求め給ひし時、同院の聖
主下て武帝の前にて調べ給き、時に龍王潜に来りて
南庭の泉の底に隠れ居て此楽を聴聞す、其時泉なが
れて庭上に満たりしよりして流泉とは名付たり、我
朝は逢坂の蝉丸、天人より此楽を伝へたりけり、蝉
丸いたく是を秘蔵せられしを、其弟子に博雅の三位
といひし人、三年がほど潜に立聞て僅に伝たりしか
共、それも又秘蔵せしほどに、今は日本に絶て久し
き曲也、然るをいか成人の伝へにて引せ給ふやらん
と思ふこそめでたけれ、又啄木と申は是も天人の楽
也、本名は解脱楽とぞ申ける、ぼだい、聖衆此楽の
声を聞て、則解脱を得給ふ故也、その文に曰、
我心無礎法界円、我心虚空其体一、
我心応用無差別、我心本来常住仏、 G148
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震旦の蕭山に仙人多く集りて、潜に此曲を引けるに、
山神、虫に変じて木上に是を喰しより啄木と申也、
此楽を引時は、天より必花ふり甘露定て海老尾に結
びけり、かかる目出度秘曲どもを天然として伝へ給
ふぞ不思議なる、況んや高倉上皇の御即位の時、御
母代とて三后に准ふるせんじを蒙りて、世に重き人
にてぞおはしましける、白河殿と申は是也、
四は帥大納言隆季卿の子息冷泉大納言隆房卿の御前
にて、御子あまたおはしましき、是は琴の上手也、
随分管絃還自足、等閑篇詠被人知、
と常には詠じ給けり、是は白楽天の作、文集五十四[B ノ]
巻にあり、しかるを楽天は一天無双の文者にて、聊
も作り給ふ詩篇は人に能しられたり、管絃の道は等
閑なれども、悪くも是を調るに情を養ふみちたりぬ
べしと作給へる心也、其様摂政殿の北政所ほどの琵
琶ひきにてこそおはしまさね共、随分の管絃は心を
養ふと思給へる心也、西園寺の御名王、閑院[B ノ]少将、当
麻寺[B ノ]紅葉、堀河[B ノ]侍従とて四天王にかぞへらるる琴
引ども侍りき、代々の寶物秋風、鈴虫、唐琴、潺波
と云四張の琴を引せて、入道相国常に聞給ひけるに、
異なる瑞相もなかりき、然るに此の卿の北の方村雲
と云琴を引給ひける時、村雲暫くたなびきて、万人
目を驚しけるぞ不思議なる、狭衣の大将源氏の宮な
んどの管絃を奏し給ふ時こそ、あめ若御子も天より
あまくだり、聖衆も影向し給ひしか、世の末なれども
かかる琴引手書き給けるこそ、不思議なれ[B 「なれ」に「と覚ゆれ」と傍書]、
五は六條摂政殿の御子息近衛殿下基通公の北政所也
御形いつくしくして歌人にてぞ御座ましける、され
ば父の入道殿は愛し奉て、衣通姫と呼参らせ給ひけ
れば、よばれてまた答給ひけるもやさし、殿下此由
を聞し召れて、歌道の事実否を知し召れんが為に、
北の政所をそとほり姫とよび参らせ給へば、我名と
心得て、をと答へおはしましたりければ、互に笑は
せ給ひて一所に並居給へり、殿下の仰に、只今俄に
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内より召あり、何事ぞと承れば、当座の御会と申也、
基通天性の遅口なり、少々よみて給[B たび候イ]へと仰あり、北
の方題を知らではいかにと仰有ければ、殿下の仰に
は、頭[B ノ]弁さる心有ものにて、潜に申遣して侍り、聞
ゆるが如くば、春日山神祇、鷲峰山釈教、是心是
仏、また旅立空の秋無常、恋昔旧跡と候也、此五題
を日夕以前と承る、日すでに未の刻に及たり、基通
は装束し侍るべし、少々よみてO[BH 訪せイ]給へとO[BH 仰イ]有ければ、
北の政所打うなづかせ給ひて、やがて墨をすり筆を
染て、
春日山神祇
春日山かすめる空にちはやふる
神の光りも[B 「も」に「はイ」と傍書]のどけかりけり W012 K252
鷲峰山釈教
鷲の山おろす嵐のいかなれば
雲間残らず照す月影 W013 K253
是心是仏
迷ひつつ仏の道を求むれば
我心にぞたづね入ぬる W014 K254
旅立空秋無常
草枕おく白露に身をよせて
ふく秋風を聞ぞかなしき W015 K255
恋昔旧跡
あるじなきやどの軒端に匂ふ梅
いとどむかしの春ぞ恋しき W016 K256
以上五首の歌を脂燭一寸の内によみ給ひたりけり、
父の入道そとほり姫とよび給ひけるも理也とて、殿
下不(レ)斜感じ覚しけるとかや、
六は七條修理大夫信隆卿の北の方也、是も翠黛、紅顔
錦繍の粧、花よりもいつくしく、玉のかんざしてる
月のすがたあたりもかがやくばかり也、是も連歌を
し、歌よみ給ふこと人にもおとり給はず、絵かき花
も結び給ひけり、殊にすぐれておはしましけるは、
慈悲ふかくして人を憐み給ふこと不(レ)斜、さるままに
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は法華八軸を暗に悟りて、ぼだいの道をぞ祈らせ給
ひける、かの龍女作仏のあとを追はせ給ひけるにや
とめでたくぞ覚えし、
七は後白河院へ参らせて、女御の様にておはしまし
き、安芸の厳島の内侍が腹の娘也、さしたる才芸は
おはさねども、形は誰にもすぐれ給へり、嬋娟たる
両鬢は秋のせみの翅、宛轉たる双娥は遠山の色秋の
夜、月を待に山を出る清光を見るが如く、夏の日蓮
を思へば、水を穿つ紅艶の始て開きたるよりも浄し、
更衣の后にてぞましましける、
八は坊門大納言有房卿の御前也、是も絵かき、花結
び、諸道朗におはしましき、女房の身なれ共、連句、
作文、無双にて、手跡もすぐれて、しき紙のかたな
ども書給ふ[B ひきイ]、画圖の障子に百詠の心を絵に書せ給ひ
て、一筆に諸[B 銘イ]文を遊ばしたりければ、院も御覧有て、
希代の珍女也、有難き筆跡と御ほめ有けるとかや、
九は九條院の雑仕ときはが腹の女也是も又天下第一
の美女なり、花山院左大臣殿の御もとに御台盤所の
御妹にておはしければ、上臈女房にて廊の御方と申
けるに、ひそかに姫君一人おはしければ、不(レ)斜もて
なすかしづきおはしましき、三條殿と申は是なり、
和琴の上手にて、かなさへいつくしく遊ばされけれ
ば、手本書せたびて給はり候はんとて、色々の料紙
を人おほく進せたりける、浅緑の紙もあり、こき紅
の紙もあり、だんし、うす様、色々の料紙ども御座
のほとりに集りて、錦をさらす如く[B 「如く」に「砌」と傍書]也、如(レ)此九人の
女子達九重の中にとなへ給ひて、〓利天の栄華もこ
れにはいかで過べきと、聞人羨まずと云事なし、其頃
世にすぐれて貧しき人おはしき、伏見の中将兼時と
ぞ申ける、男子二人、女子三人おはしき、嫡子は持[B 山イ]
病の気重くおはしましければ、世に立給事もなし、次
男おととみに煩て、両眼更に盲目也、大姫君は母方
のうはなり神の崇とていつとなく物狂なり、正念都
て身に副はず、第二の娘は七歳より中風にふして、行
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歩も不(レ)叶、第三の娘は生れ付おしにて物いふことな
かりけり、二人の親達是を歎き給ふこと、猛火の中
に身を焦すが如く、羨ましきかなや、太政入道の男
子八人の栄華に、女子九人の繁昌と、朝夕なきかな
しみ給へけるこそ哀なれ、人間界の果報色々さまざ
まなること共也、
日本秋津島は僅に六十六ヶ国也、平家の知行の国は
三十余ヶ国已に半国に及べり、其上庄薗、田畑は数
を不(レ)知、綺羅充満して、堂上花の如し、車騎群集し
て、門前市を成す、楊州の金、荊岫の玉、呉郡の綾、
蜀江の錦、七珍万寶一つとして缺けたる事なし、歌
堂舞閣の台、魚龍爵[B ママ]馬の弄、帝闕も仙洞もいかでか
是に過べきとめでたくぞ見えし、
昔より源平両氏朝家に被(二)召仕(一)てより以来、皇化に
隨はず、朝憲を軽くするものは互にいましめを加へ
しかば、世の乱なかりしに、保元に為義きられ、平治
に義朝討せられし後は、末々の源氏有しか共、或は
流され、或は誅せられて、今は平家の一類のみはん
昌して、頭を差出す者もなし、いか成ん末の世迄も
何事か有んとめでたくぞ見えける、鳥羽院の御あん
かの後は、兵革打続て、死罪、流刑、解官、停任常
に行れて、海内も静ならず、世間も落居せず、就中
永暦、応保の頃より、内の近習者をば院より誡あり、
院の近習者をば内より誡めらる、かかりければ高き
も卑きも恐れをののきて安き心もなし、深淵に臨で
薄氷をふむがごとし、其故は内の近習者経宗、惟方
が計にて法皇を軽しめ奉りければ、法皇安からぬこ
とに思召て、清盛に仰て阿波国、長門国へ流されけ
り、去程に主上を呪咀し奉る由聞え有て、賀茂上の
社に主上の御形を書て、種々のこと共をする由、実長
卿聞出して奏聞したりければ、宮人一人搦捕てこと
の仔細を召問るるに、院の近習者資長卿など云かく
ごの人の所為也と白状したりければ、資長修理大夫
解官せられけり、又時忠卿の妹小弁殿、高倉院を恨
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み参らせけるにつゐて、過言をしたりけるとて、其
前の年解官せられたりける、か様のこと共行合て、
資長、時忠二人、応保二年六月廿三日一度に流され
にけり、又法皇多年の御宿願にて、千手観音千体の
御堂を造らんとおぼしめして、清盛に仰て、備前国
をもてつくられにけり、長寛二年十二月十七日、御
供養有き、行幸をなしたてまつらんと、法皇おぼし
めされけれ共、主上なじかはとて、御みみにも聞入
させ給はざりけり、寺官の勧賞申されけれども、其
沙汰にも及ばず、親範職事にて奉行しけるを、御所
へめして勧賞の事はいかにと仰られければ、親範許
許候はぬにこそと申て畏て候ければ、法皇御涙を浮
べさせ給ひて、何のにくさにかほどまでは思召たる
らんと仰られけるぞあはれなる、此御堂を蓮華王院
とぞ名付ける、胡摩僧正行慶といひし人は、白河院
の御子也、三井門跡にはぶさうの有智徳行の人、な
りければ、法皇ことに頼みおぼしめされて、真言の
御師にておはしましけるが、此御堂はことに執りさ
たし給て、手体の中尊の丈六の御面像をば、手づか
ら自らあらはされたりけると承るこそ目出たけれ、
主上上皇父子の御中なれば、何事の御へだてかある
べきなれども、かやうに御心よからざる事共多かり
ける中に、人耳目をおどろかし、世もて傾申ける事
ありけり、
二代后事
太皇大后宮と申は、右大臣公能公の御女、御母は中
納言俊忠卿女、近衛院の后也、中宮より太皇大后宮
にあがらせ給たりけるが、先帝におくれまいらせさ
せ給てのちは、九重の外、近衛河原の御所にぞ移り住
せ給ひける、先朝の后宮にして、古めかしく幽なる御
有様なりけるが、永暦、応保の頃は御年廿二三にも
やおはしましけん、御盛り少し過させおはしましけ
れど、天下第一の美人と聞させ給ひければ、主上〈 二條|院 〉
御心にのみ染る御心地にて、世の謗をも御顧みもな
かりけるにや、高力士に詔して、潜に外宮に捜し求む
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るに及んで、忍びつつ彼宮に御消息あり、あへて聞
召入られず、さればひたすらはやほに顕はれまし
まして、后入内可有由、右大臣家に宣旨を下さる、
此事天下に於て異なる笑じなりければ、公卿僉義あ
りて、先異朝の先蹤を尋るに、則天皇后は太宗、高
宗両帝の后に立給る事有き、則天皇后は太宗の后、
高宗皇帝の継母なり、太宗の後室と成て、感業寺に
籠り給ふ[B 「給ふ」に「給へり」と傍書]高宗の給はく、願はくは宮室に入て助け給
へと、天使五度来るといへども、あへて従ひ給はず、
爰に帝自ら感業寺へ臨幸して、朕あへて私の心を遂
んとには非ず、只天下の為なりと、皇后更に勅にな
びく言葉なし、先帝の他界をとぶらはん為に、たま
たま釈門に入、再び塵衣にかへるべからずと、皇帝
内外の群籍を勘て、強て還幸を勧むといへ共、皇后
くわく然としてひるがへさず、爰に扈従の群士等よ
こしまに取奉るが如くして都に入奉れり、高宗在位
卅四年、国静に民楽む、皇帝、皇后と二人政を治めき、
故に彼御時をば二和御宇と申き、高宗崩御の後、皇
后女帝として位に即給へり、年号を神功元年と改む、
周の王孫なるが故に、唐の世を改て大周則天大聖皇
帝と稱す、爰に臣下歎て曰く、先帝の太宗世を経営し
給へる事、其功を次ぎて古今類なしと云つべし、太
子なきにしも非ず、願くは位を授けて太宗の功業を
長からしめ給へと、仍て在位廿一年にして、高宗の
御子中宗皇帝に授給へり、則、代を改て神龍元年と稱
す則我朝の文武天皇慶雲二乙巳年に当れり、両帝の
后に立ち給ふこと、異朝には如(レ)此例ありといへど
も、本朝の先規を勘るに、神武天皇より此かた、人皇
七十四代、未だ二代の后に立給へる例を聞不(レ)及と、
諸卿の僉義一同也、法皇も此事聞召て不(レ)可(レ)然由、
度々申させおはしましけれ共、主上の仰有けるは、
天子に父母なし、万乗の寶位を忝くせん上は、是程
のこと叡慮に任せざるべきとて、既に入内の日時迄
宣下せらるる上は仔細に及ばず、此事被(二)聞召(一)ける
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より、宮は物うき事に思召して、引きかつぎてふさせ
給へり、御歎きの色ふかくぞみえさせ給ひける、誠
に覚えて哀なり、先帝におくれ参らせし久寿の秋の
はじめに、同草葉の露とも消え、家をば出て世を遁
れたりせば、かかるうきことをば聞かざらまし、口
惜き事哉とぞ思召れける、父の大臣参じ給ひて、なぐ
さめ申されけるは、世に隨はざるを以て狂人とすと
いへり、既に詔命を被下たり、仔細を申に所なし、
只速に参らせおはしますべきなり、是偏に愚老を資
け、且は孝養の御はからひたるべし、不(レ)知又此御末
に皇子御誕生有て、国母といはれましまして、愚老
も帝祖といはるべき家門の栄花にてもや侍らん、大
かたか様の事は此世一ならぬ上に、天照太神の御計
ひにてこそ候はめと、さまざま申させ給へども、御い
らへもなかりけり、其頃何となき御手習にかくぞ書
すきませ給ひける、
浮ふしに沈みもやらてかは竹の
世にためしなき名をや流さん W017 K008
世にはいかにしてや[B 「や」に「ナシイ」と傍書]もれ聞えけるやらん、哀にやさ
しきためしにぞ讃歎せし、既に入内の日時定りけれ
ば、御出立様々に営給ひけり、出車の儀式常よりも
珍らかに、心ことに出立せ参らせ給へり、宮は物う
かるべき出立なればとみに出させ給はず、遥に打ふ
け小夜も半過てぞ、御車には助けのらせおはしまし
ける、殊更色ある御衣なども召れず、白き御衣十四
五計りぞ召れたりける、内へ参らせ給にしかば、軈、
恩を承らせ給ひて、れいけい殿にぞ渡らせおはしま
す、清涼殿の画圖の御障子に秋月を書れたる所あり、
近衛院未だ幼帝にて渡らせ給ひける、そのかみ何と
なき御手ずさみに書くもらせおはしましけるが、少
しもむかしにかはらずして有けるを御覧ぜられける
に、先帝のむかしの御俤思召出させおはしまして、
何となく思召つづけらる、
思ひきやうき身なからにまよひ[B 「まよひ」に「廻りイ」と傍書]きて
P030
同じ雲井の月を見んとは W018 K009
此御詠哀に類少くぞ聞えける、楊貴妃がたぐひいで
きなんずと人申けり、さまざまにちかはせ給ふも有
けり、大方其頃は是のみならず、か様の思ひの外の
事共多かりけり、世澆季に及び、人凶悪を先とする故
也、
かかりし程に永万元年の春の頃より主上御不豫の事
御座ますと聞えしかば、其年の夏の始に成しかば、殊
にかは[B 「かは」に「よわイ」と傍書]らせ給ひき、是によりて大膳大夫兼成が娘の
腹に、主[B 今イ]上の御子二歳に成せ給ひしを、皇太子に立
させ給べき由聞しほどに、六月廿五日に俄に親王の
宣旨を被(レ)下て、頓て其夜位を禅らせ給ひしを、何と
なく上下あわてたりき、我朝の童帝は清和天皇九歳
にて、文徳天皇の御譲を請させ給しより始れり、周公
旦の成王にかはりつつ、南面にして一日に万機の政
を行ひしになずらへて、外祖忠仁公幼主を輔佐し給
へり、摂政又是より始まれり、鳥羽院五歳、近衛院三
歳にて御即位有しをこそ、疾き事に人思ひしに、是
は纔に二歳、先例なし、物さわがしと人思へり、六
月廿七日新帝御即位のこと有しに、閏七月廿八日御
年廿三にて新院失させ給ひにき、御位を去せ給ひて、
纔三十余日也、新院とは二條院の御事也、天下の憂
喜相交りて、取あへざりしに、八月七日香隆寺にあ
からさまにやどし参らせて後、彼寺の艮に蓮台野と
云所に納め奉り、八條の中納言長方卿其時左大弁宰
相にておはしけるが、御葬送の御幸を見て、かくぞ
思ひつづけらる、
常に見し君か御幸を今朝とへは
かへらぬたひと聞そかなしき W019 K010
忠胤僧都が秀句此時のこと也、七月廿八日如何なる
日ぞや、去る人のかへらず、香隆寺いか成所ぞや、
出御ありて還御なしと被申しかば、皆人袂をしぼ
りけり、哀なりしこと共なり、近衛大宮は此君にお
くれ参らせ給しかば、頓て御髪おろさせましましけ
P031
るとぞ聞えし、定めなきよのためし今更に哀也、
額立論事
御葬送の夜、延暦寺、興福寺の僧徒の輩がく打論をし
て、互に狼藉に及ぶ、昔は主上、上皇の崩御には南
北二京の大小僧徒等悉く供養有て、我寺々の印に行
を立、額をうたれしに、三條院の御時よりうたれざ
りしを、初て額立あり、南都は東大寺、興福寺を始
として、末寺々々相伴ふ、東大寺は聖武天皇の御願、
あらそふべき寺なければ一番也、二番は大職冠淡海
公の氏寺興福寺の行を立、園城寺、元興寺、清水寺、
雲居寺、東光寺、遍照寺、大覚寺、歓喜寺とて末々
の額を打、各々気色節に觸たる景気ども面白かりし
見物なり、今度の葬送の時延暦寺の衆徒等先例を背
き、ことを猥りて、東大寺の次、興福寺の上に行を立
る間、衆徒僉議しけるは、東大寺、興福寺は一二也、
自由に任せて延暦寺の額を興福寺の上に打せぬるこ
そ安からね、山をやせむべき、延暦寺をや焼き亡すべ
きなど議する所に、清水寺は興福寺の末なる故に、
清水寺法師に観音房、勢至房、金剛房、力士房とて四
人あり、進出でて申けるは、愚意の至に候へども、此
御せん議は延て覚候、只今打破りて本意を遂んとて、
四人の悪僧等小具足犇々と取付て、或は三枚冑に、
左右の小手、或は大荒目の鎧草搦長なるを一色にさ
ざめかせて、茅のほの如くなる、大長刀を持て走り
廻りて、さんざんに切破りて、延暦寺の額を切倒し
て、うれしや水なるは滝の水とはやして、興福寺の衆
徒の中に走入ぬ、此観音房と申は昌春とぞ名乗ける、
後には土佐房と改名して、南都西金堂の衆徒となる、
延暦寺の衆徒即時に手向ひをすべきに、心深くねら
ふこともや有けん、其時は一言も出さざりけり、扨
も一天の君、万乗の主、世を早くせさせおはしましか
ば、心なき草木迄愁たる色あり、いはんや人倫僧徒
の法に、其歎き浅からずこそ侍に、喧嘩出きたりて、
或は散々として高きも賎きも、誰を敵ともなければ
四方へ退散す、れんだい野の奥船岡山のほりにぞ落
P032
入ける、さけぶ声雲を響かし、地を動す、誠に此君
は宮の御弟子になし参らせて、仁和寺に入らせおは
したりしを、王胤猶大切なりとて取かへし奉りて、
頓て立坊有けり、されば御室は此御眤にて御位の時
も殊に頼み被(二)思召(一)て、二條内裏の辺、三條坊門烏丸
に御壇所を造給て渡らせ給ければ、常には万の政に
御口入有けるとぞ聞えし、
仰彼昌春南都をうかれける事は、興福寺領針圧と云
所有、去る仁安の頃、衆徒代官を入たりけるを、西金
堂の御油衆の代官として、小河四郎遠忠と云者、是
非なく庄務をうち止る間、衆徒の中より侍従五郎快
尊を遣して、遠忠が乱妨を押へさす、其時西金堂衆
土佐房昌春、数輩の悪徒と結[B 語ひイ]て、遠忠を夜打にして、
則彼庄を横領せんとけつかうする間、衆徒昌春を追
入[B 籠イ]て、仔細を奏聞の為に、御榊を先に立奉りて上洛
する由聞えければ、昌春多勢を率して彼御榊をさん
ざんに切すて奉りてけり、是によりて衆徒彌々憤り
をなして、昌春を召捕て禁獄せらるべき由訴申問、
長者より時の別当兼忠僧正に仰て召れければ、昌春
あへてこと共せず、然る間是を拵へて昌春が申所其
謂れ有るか、委く聞召て御成敗可(レ)有由重て被(二)仰下(一)
間、昌春おめおめと上洛したりけるを、寺家に仰付
て昌春を召取て、大番衆土肥次郎実平に預られぬ、
昌春鬼神にとられたる心ちして、年月を渡りける程
に、後には土肥と親しく成にけり、又其後公家より
も御さたもなかりければ、南都は皆敵なれば、しゐ
て還住せんことたよりなし、まことや伊豆国流人兵
衛佐こそ頼母しき人なれと思召して、土肥と云合せ
て北條に下て兵衛佐に奉公す、心ききたる者也けれ
ば、兵衛佐にも大切に思はれけり、兵衛佐治承四年
に院宣、高倉の宮の令旨を給て、謀反起し給し時、昌
春は二文字に結雁金の旗を給て、切者にて有ける間、
人申けるは、春日大明神の罰を蒙べかりける者をや
と申けるに、其後鎌倉殿より九郎大夫判官討とて京
P033
都へ差上られたりけるに、打そんじて北をさして落
けるが、くらまの奥、僧正が谷よりからめとられ、
六條河原にて頭をはねられける、時は遅速こそあり
けれ、神明の罰は恐しきことかなと人申けるとかや、
同九日午の時計に、山門の大衆下ると聞えければ、
武士、検非違使、西坂本へ馳向たりけれども、衆徒
神輿をささげ奉りて押破りて乱入す、貴賎さわぎ迷
へる事不(レ)斜、内蔵頭教盛の朝臣布衣にて、左衛門の
陣に候はる、上皇山の大衆に仰て、平中納言清盛卿
を追討せらるべき故に、山門衆徒都へ入と何者かい
ひ出したる事聞えければ、平家一類六波羅へ馳集る、
上下あわてたりけれ共、左衛門督重盛卿壹人ぞ、何故
に只今さるべきぞとて静められける、法皇も驚き思
召て、急ぎ六波羅へ御幸なりて、全く去事なしとぞ
仰られける、御幸の上は中納言も大に畏て驚かれけ
り、山門大衆は清水寺へ押寄て焼払べき由聞えけり、
去る七日の夜の会稽の恥をすすがんと云也、異朝に
稽山の洞と云所有、彼山得分有、夫と申は十七の蠶
あり、まゆ一を以て糸千両を置く、されば一万七千
両の糸也、故に此山をば蠶山と名付たり、会稽山共い
ふ、彼山に二人の主あり、会台将軍、稽貞鬼風と云、
弐人して一年づつ此得分を取、七月七日合戦を遂て、
去年勝たる者は今年負、今年かちたる者は、来年負
くる故に、稽山の麓にて年々打替て本意を遂る故に、
先の恥を今清む、仍ち会稽のはぢを清むとはいへり、
去七日は山門忽に恥にあひ、今九日は清水寺又恥を
見る、されば則会台鬼風に違ふべきや、清水寺法師
老少をいはず二手に分て相待けり、一手は滝尾の不
動堂に陣を取、一手は西門にて待懸たり、山門の搦
手はすでにくくめ路、せんがん寺、歌の中山迄責来
る、大手は覇陵の観音寺迄寄せて坊舎に火を懸けれ
ば、折節西風はげ敷して、黒煙り東へふきおほふ、
かかりければ清水寺法師一矢を射るに不(レ)及、取物も
取あへず四方にたいさんす、
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昔嵯峨天皇の第二[B 三イ]の皇子門居親王の后二條右大将坂
の上田村丸の御娘春子女御御懐妊の時、若御産平安
ならば、我氏寺に三重の塔をくむべき由御願に立さ
せ給ひし、九りん高く輝かし三重の塔も焼にけり、兒
安の塔と申は是也、いかがしたりけん塔にて火は消
にけり、本堂一宇計ぞ残りける、無動寺法師に伯耆
の竪者乗円と云ふ学匠悪僧の有けるが、進み出て申
けるは、罪業もとより所有なし、妄想轉倒よりおこ
る、心性O[BH 深イ]清ければ、衆生即仏也、只本堂に火を懸
よや懸よやと罵りければ、衆徒尤尤と同じて、手毎
に松明を燈して、本堂の四方へ付たりければ、煙り
忽に雲井はるかに立上り、一時がほどに回禄す、浅
ましとも愚なり、思ふ[B のイ]ごとく堂舎一宇も残さず焼払
て帰上りければ、上皇も還御なりにけり、重盛卿は
御送りに参られけれ共、清盛は留まられにけり、猶
用心のためにや、左衛門督御供より帰られたりけれ
ば、中納言宣ひけるは、法皇の入せおはしましつる
こそ畏れ多けれ、乍(レ)去かけてもO[BH 思ひよりイ]仰らるる旨のあれ
ばこそか様にも聞ゆらめ、其故は善導の御釈をひら
き見るに、一切の隠密を久しく不(レ)可(レ)行といへり、
必披露する事は聞えねとも、密する事は顕はるぞと
よ、それいかんとなれば、水[B ノ]下の砂に隠るる魚は鵜
のためにあらはれ、深山に籠る鳥ははやき鷹のため
にのがれぬといへり、必有事は聞えけるぞとよ、され
ば夫にも打とけらるまじと宣へば、左衛門督はこの
こと努々御気色にも御詞にも出さるべからず、人の
心付て申はあしきこと也、叡慮に背き給はず、人の
ために仁おはしまさば、神明三寶のかご有べし、仍
御身の恐有べからずとて立給へば、左衛門督はゆゆ
しく大様成者かなとぞ中納言は立給ひける、法皇は
還御の後、うとからぬ近習者あまた御前に候はれけ
れば、さるにてもふしぎの事をいひ出しつる、誰か
かかる事はいひつらんと仰有ければ、西光法師が候
ひけるが、天に口なし人を以ていはせよとて、六波
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羅辺殊の外に過分に成行は、天道の御罰にやと申け
れば、此ことよしなし壁に耳有と云事あり、恐し恐し
とぞ申合ける、清水寺焼たりける後朝に火坑変成池
は如何にと札を書て、大門の焼柱に打たりければ、
歴劫不思議これなりと返礼をたてたりけり、いか成
跡なし者のしはざ成けんとおをかしかりけり、是は去
年にて、今年は諒闇にて有しかば、御禊、大嘗会も
なし、同十二月二十五日、東御方の御腹に法皇の御子
親王の宣旨蒙らせ給ふ、今年五歳に成せ給ふ、年来は
打籠られて座しつるに、万機の政法皇聞召は御憚無、
東の御方と申は、時信朝臣の娘、知信の朝臣の孫也、
弁殿とて候はせ給けるを、法皇時々召れける程に、皇
子出き給ひければ、彌々重き人にて、始は皇后宮と申
けるが、皇子位に即せ給ひてのちは、院号有て、建
春門院とぞ申ける、相国の次男宗盛をば彼女御御子
にせさせ給ひければにや、平家殊にもてなし申され
ける、仁安元年今年は大嘗会有べきなれば天下の営
み也、同年三月七日、去年親王の宣旨蒙らせ給ひたり
し皇子、東三條にて春宮立の御事有、春宮と申は、
御門の御子也、是を太子と申、又御門の御弟の儲の
君に備らせ給ふ事あり、是をば太弟と申、皇太弟共
申、それに是は御甥はわづかに三歳、春宮伯父六歳
にならせ給ふ、昭穆相かなはず、ものさわがしとい
へり、但寛仁二年、一條院は七歳にて御即位、三條
院は十一歳にて春宮に立せ給ふ、先例なきに非ずと
人申けり、同三年二月十九日東宮高倉院八歳にて大
極殿にて御即位有しかば、先帝は五歳にて御位を退
き給ひて、新院と申き、いまだ御元服なくて御童形
にて太上天皇の尊号ありき、漢家、本朝是ぞはじめ
成らんと珍しかりけること也、此君の位に即せおは
しましぬることは、彌々平家の栄華とぞ見えし、国母
建春門院と申は、平家の一門にておはしまし候上、
とりわき入道の北の方二位殿の御姉にておはしまし
ければ、相国の公達に二位殿の腹は、当今の従父兄弟
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にむすぼほれ奉りて、ゆゆしかりけることども也、
平大納言時忠卿と申は女御の御せうと、主上の御外
戚にておはしましければ、内外に附たる執権の人に
て、叙位、除目以下公家の御政偏に此卿のさた也、
されば世に平関白とぞ申ける、当今御即位の後は、法
皇もいとどわく方なく院に近く召仕はるる、公卿殿
上人上下北面の輩に至迄、ほどほどに隨ひて官位ほ
うろく身に余る迄朝恩を蒙りたれども、人の心の習
ひなれば、猶あきたらず覚えて、此入道の一類、国
をも官をも多くふさげたる事を目ざましく思ひて、
此人亡びたらば其国はあきなん、其官はあきなんと、
心中には思ひけり、疎かならぬ輩は忍びつつささや
く時も有けり、法皇も内々思召れけるは、昔より今に
朝敵を打平ぐる者多けれ共、斯る事やあらじ、貞盛、
秀郷が将門を討、頼義が貞任を亡し、義家が武衡、
家衡を攻しも勲賞行れしこと受領には過ざりき、清
盛がさしたるし出したることもなくて、心の儘に振
まふ事こそ然るべからね、是も世の末に成りて、王
法の尽ぬるにやと思召けれども、ことの次なければ
君も御誡なし、又平家も朝家を恨み奉る事もなかり
しなり、世の乱れ初めける根元は、去ぬる嘉応二年
十月十六日、小松内大臣重盛公の次男新三位中将資
盛、其時は越前守たりし時、蓮台野に出て小鷹狩を
せられけるに、小侍共二三十騎打むれて、鷂あまた
据させて、鶉、ひばり追立て、折しも雪は降て枯野の
気色面白かりければ、終日狩暮して夕日山の端にか
かりければ、帰られけるに、時の関白松殿基房、院
の御所法住寺殿へ参らせ給ひて、還御有けるに、六
角京極にて参り逢、よるにてありければ、殿下の御
出とも不(レ)知越前守おごり勇みて世を世ともせざり
ける上、召具したる侍共みなみな十六七の若者にて、
骨法を弁へたる者壹人もなかりければ、殿下の御出
ともいはず、一切下馬の礼義もなし、依(レ)之前駈の御
隨身、しきりに是をいらつ[B ふイ]、何者ぞ御出なるに、速
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に罷留りて下り候へと申けれども、更に耳にも聞入
ず、蹴ちらして通りけり、暗きほどの事にてありけ
れば、御供の人々も、つやつや入道孫とも知ざりけ
れば、資盛以下侍五六人馬より取て引落し、頗る恥
辱に及ぶ、資盛の朝臣六波羅の宿所へかへりて、祖
父入道になくなく訴へければ、入道さいあいの孫に
ておはしけり、大にいかりて、殿下也ともいかでか
入道があたりの事をば憚り思はざるべき、おいさき
有若者に、さうなく恥辱をあたへらるるこそ意恨な
る次第なれ、此事思ひしらせ申さではえこそ有まじ
けれ、かかる事より人にもあなづりはじめらるると
て、殿下を恨奉らばやと宣ひければ、小松内府此事
を聞て、夢々不(レ)可有、重盛が子共なんど申さんず
る者の、殿下の御出に参りあうて馬よりも車よりも
おりぬこそ尾籠にて候へ、左様にせられ参らするは
ひと数に思召なさるるによりてなり、この事却りて
面目に非ずや、頼政、時光なんど体の源氏などにあ
ざむかれたらば誠に恥辱にても候なん、かやうの事
より[B 「より」に「はイ」と傍書]大事に及で世の乱ともなることにて候と宣ひけ
れば、其後は内府には宣ひあらせず、片田舎の侍共の
こはらかにて入道殿の仰より外に重き事なしと思ひ
て、前後も弁へざる者十四五人計り招寄て、来二十
一日主上の御元服の定に、殿下御参内有んずる道に
て待請申て、前駈御隨身等のもとどりきれと下知せ
られければ、其日に成て中[B ノ]御門猪のくま辺に六十余
騎の軍兵を揃へて、殿下の御出を待請たり、殿下は
かかる事有とも知し召れず、主上明年の御元服の加
冠、拝官のさだめのために、今日より大内の御直廬
に七日候はせおはしますべきにて有ければ、常の御
出よりも引繕せ給ひて、今度は待賢門より入せおは
しますべきよしにて、何心なく中[B ノ]御門を西へ御出な
りけるを、猪のくま堀川の辺に六十余騎の軍兵待受
参らせて、射殺し切殺さね共、さんざんにかけちら
して打落しはり落す、馬に任せて逃る者もあり、馬
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を捨て隠るる者もあり、前駈、御隨身共れうりやく
して、前駈六人次第に本鳥を切てけり、其中に藤蔵
人の大夫高則が本鳥を切ける時、汝が本鳥を切には
非、汝が主の本鳥を切也といひ含めて是を切、隨身
十人が内右府生武光、同本鳥を切られにけり、剰へ
御牛の尻がへを切たちて、御車の内へ弓をあららか
につきいれければ、殿下も御車よりくづれ落させた
まひて、あやしの賎の家に立入せ給ひければ、前駈
も御隨身もいづちへか失たりけん壹人も無りけり、
供奉の殿上人或は物見うちやぶられ、或はしりがひ、
むながひ切はなたれて、くもの子をちらす様にしち
らして、中御門おもてにて悦の鬨を作りて六波羅へ
帰りにけり、入道はゆゆしくしたりとかんじけるに、
小松大臣こそ大にさわがれ、景綱、家貞きくわいな
り、たとへ入道いか成ふしぎを下知し給ふとも、い
かでか重盛には夢にも知ら[B 「にも知ら」に「をば見イ」と傍書]せ給はざりけるぞとて、
行向ひたる侍共十余人勘当せられけり、重盛なんど
が子共にて有んものは、殿下を恐れ奉り、礼義をな
してふるまふべきに、云甲斐なき若者共を召具して、
左様の尾籠を現じて、剰父祖の悪名を立る事不孝の
至り、偏に汝にあり、自今以後は親子の儀に非ずと、
越前守をも深く誡めらるとかや、この大臣は何事に
付ても能人とぞ世にも人にも[B 「人にも」に「ナシイ」と傍書]誉られける、其後は殿
下の御行衛も知参らせたる人壹人もなかりけるに、
御車ぞへの古老の者に、淀の住人因幡[B ノ]先使国久丸と
申ける男、下臈なりけれどもさかさかしかりける者
にて、抑君はいかにならせ給ひぬるにかとて、爰か
しこを尋求め参らせけるに、殿下はあやしの賎の家
に遣戸の際に立かくれて、御直衣しほしほとして渡
らせ給ひけり、国久丸只壹人しりがひ、むながひむ
すび集めて御車仕りて、是より中御門へ還御なりに
けり、還御の儀式心うしとも疎也、摂政関白のかか
るうきめを御覧ずる事昔も今もためしすくなくこそ
有けめ、是ぞ平家の悪行の初なる、
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翌日西八條の門前に作り物をぞしたりける、法師の
腰からみて長刀を荷て持上て物を切んとするけいき
を作りたり、又前に石鍋にし[B もイ]立たる物を置たり、道
俗男女門外に市をなす、されども心得たる者壹人も
なし、こは何事を申[B 「を申」に「ナシイ」と傍書]ぞやと云所に、五十ばかりなる
僧のさし寄打見て申けるは、さればよべの事を作り
たる也と申せば、何ぞと云に、よべ殿下の御出なり
けるを、平家の侍、中御門ゐのくまにて待うけ参ら
せて、さんざんに追ちらし、御車をくつがへし、前
駈、御隨身の本鳥を切たりけるを作りたり、是こそ
むし[B くイ]物にあうてこしがらみといふことよと申せば、
一同にはと笑ひてのく、如何成あとなし者のしわざ
成らんとおかしかりけり、扨前駈者たりける蔵人大
夫高範あやなく本鳥を切られたり、いかにすべき様
なくて宿所にかへり、引かつきてふしたりけるが、
俄に大とのゐの綾織のなかに目あかく、手のきき
たらん二人ばかり、きと召し進せよといひければ、
妻子ども何事やらんと、覚束なく思ひける所に、程
なく召して参りたりけるを、妻子けんぞくにも見せ
ず、一間成所に籠りゐて、切られたる本鳥をかづら
をさ[B たをイ]して、一夜の内に結びて続せて、びんしととか
き、ゑぼし打着て、蔵人所に参して申けるは、我いや
しくも武家に生れ、如(レ)此弓矢を取て重代罷り過ぐ、
其日しかるべき不祥にあひたりしかども、そくたい
をまとひ、つめきるほどの小刀体の物も身に隨へず、
人に手をかくる迄こそなくとも、あたる所口をしき
めを見んよりは、自害こそ仕るべかりしも不(レ)叶、剰
へ本鳥を切れたりと云不実さへいひ付られ、弓矢取
者の死ぬべき所にて死ざるが致す所也、則世をもの
がれ家をも出べけれども、左右なく出家したらば本
鳥を切れたるは一定也とさたせられんずらん事、生
生世々のかきん也、今一度誰誰にも対面と存じて
参りたり、但し憖(なまじひ)に人並々に立まじればこそ、かか
る不実をもいひ付らるれ、思ひ立たること有とて、
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懐より刀を取出して本鳥をおし切て、乱髪にゑぼう
し引入て袖打かつぎて罷出けるこそ賢かりけれ、廿
二日摂政殿は法皇に御参りありて、心うきめにこそ
あうて候へと申させ給ひつれば、法皇も浅ましく思
召て、此由を入道にこそいはめと仰ありける、入道
此よしをもれ聞て、殿下の入道がことを院に訴へ申
されたりけるとて、又しかりののしりけり、殿下か
く事にあはせ給ひければ、廿五日院殿上にてぞ御元
服の定は有ける、さりとて、さて有べきにあらねば、
摂政殿十二月九日兼て宣旨を蒙らせ給ひて、十四日
太政大臣に成せ給、これは明年御元服の加冠の科也、
同十七日に御拝賀有、ゆゆしくにがりてもありし、
太政入道第三の姫后立御定あり、今年十五にぞ成給
ひける、建春門院の猶子也、
妙音院の入道太政大臣の内大臣の右大将にておはし
ましけるが、もとより出家の御志有ける上、入道相
国年を経、日に隨て過分に成て、天下の事を我儘に
執行し、重盛を大将になしつる上、次男の宗盛を大
将になさんと心に懸て、其闕を窺ふ由聞せ給ひける、
折節松殿かく事にあひ給ふに附ても、一定大将はが
れなんずと思召て、急ぎ大将を辞退申されけるを、
徳大寺大納言実定の一の大納言にておはしましける
が、理運にて成給べきよし聞えけり、其外花山院の
兼雅も所望せられけり、さては殿[B ノ]三位中将帥家卿抔
や成給んずらんと世間には申合ける程に、故中[B ノ]御門
中納言家成卿三男新大納言成親卿平に申されける、
院御気色善りけれ様々の祈を初て、去ともと思れ
たり、或時八幡宮に僧を籠めて真読の大般若を読せ
られける程に、半部ばかり読たりける時、高良大明
神の上なる松の木より山鳩二つ来りて、くひ合ひて
死にけり、鳩は八幡大菩薩の第一の使者也、宮寺に
かかるふしぎなしとて、別当浄清ことの由を公家へ
奏聞したりければ、神祇官にて御占あり、天子、大
臣の御慎に非ず、臣下の慎とぞ占ひ申たりける、是
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のみならず賀茂の上社へ七ヶ日、下鴨社へ七ヶ日、
忍びて歩行にて日詣をして百度詣をせられけるに、
第三日に当る夜詣で下向して、中[B ノ]御門の宿所に大納
言臥れたりける夜の夢に、詣で上の御前に候と覚し
きに、神風すごく吹下し、寶殿の御戸をきつと開れ
たりける、やや暫く有て、ゆゆ敷けだかき女房の声
にて一首の歌を詠ぜさせ給ひけり、
梅の[B 「梅の」に「桜イ」と傍書]花賀茂の川かぜうらむなよ
ちるをばえこそとどめざりけれ W020 K011
成親卿夢の内にうちなきて驚れけり、我[B 是にイ]もしひず、
上の社には仁和寺の俊尭法印を籠めて真言秘[B 「真言秘」に「だきにてんのイ」と傍書]法を行
せられける程に、七日に満る夜、俄に天ひびき、地
揺く程の大雨ふり、大風吹て雷なりて寶殿の後の妻
戸杉に雷落かかり、火もえ付て若宮の社は焼にけり、
神は非礼を受給はねば、かかる不思議も出来にける
とかや、成親卿猶是にも思ひ知り給はぬぞ[B 「ぬぞ」に「ざりけるこそイ」と傍書]浅ましき[B けれイ]、
去程に嘉応元年正月三日、主上御元服せさせ給て、
十三日てうきんの行幸とぞ聞えし、法皇、女院御心
もとなく待受参らせ給ひて、初冠の御すがたらうた
くいつくしく渡らせ給ひける、三月入道相国第二[B ノ]
娘、女御に参らせ給ひて、中宮徳子とぞ申ける、法皇
御猶子の儀なり、七月には角力の節あり、重盛宿運お
はしければ、右のあくやにて事を行ひ給ふを、人見て
申けるは、果ほうこそめでたく、近衛大将に成んから
に、容儀進退さへ人にすぐれ給ふべしやはと申あひ
けりとかや、加様にほめ奉りて、切ての事には末代に
相応せで、御命やみじかくおはせんずらんと申ける
こそいまはしけれ、御子息大夫侍従羽林なんどいひ
て、あまたおはしけるも皆いうにやさしく花やかな
る人にておはしあひける上、大将は心ばへよき人に
て、子息たちも詩歌、管絃を習はせ、事にふれてよし
有事をすすめらる、去ほどに此程の叙位、除目は平家
のままにて、公家、院中の御計にてもなし、摂政関白
の御成敗にてもなかりければ、治承元年正月十四日
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の除目に、徳大寺、花山院、中将殿もなり給はず、まし
て新大納言思ひやはよるべき、入道の嫡子重盛右大
将にておはしけるが、左にうつりて、次男宗盛中納言
にておはしけるが、数輩の上臈を超過して、右にかは
られけるこそ申計もなかりけれ、嫡子重盛の大将に
成給ひたりしをだにゆゆしき事に人思へりしに、次
男迄打続並び給ふ、世には又人有とも見えず、中にも
後徳大寺の大納言、一の大納言にて才学優長に、家重
代にて越られ給ひしこそ不便の事なりしか、定て御
出家など有んずらんと、世の人申あひけれども、此世
の成らんやうをも見はてんと思ひ給ひけるか、猶余
の悲しさに大納言を辞し申て御籠居有、既に出家し
て山林に交るべき由思召立けるに、源蔵人大夫賢基
が申けるは、御出家候て世を捨させ給はば、君の頼み
参らせ候青侍青女たち皆餓死になんず、口惜く候、平
家四海を打平げ、天下を掌に握、爰に一天の君をだに
なやまし参らせ候、左ほどの人のふるまひをとかく
申に不(レ)及、三家の君達に越られさせ給て候はばこ
そ、御恨みにても候はめ、世は謀を以て先とす、安芸
の厳島へ御参あるべしと存候、七日の御参籠候はば、
其社のみこをば内侍と申候、それに種々の引出物を
たびて、内侍四五人相具して京へ御上り可(レ)有候、内
侍京へ上候程ならば、太政入道に一定見参し候はん
ずらん、何しに上りたるぞと尋られ候はば、内侍有の
ままに申候はば、大将は一定参らぬとおぼえ候とて、
様々に拵へ申されければ、さらばとて厳島へ参らせ
給へり、案のごとく内侍共参りたり、支度したる事な
れば、種々の引出物をたびて、色々様々にもてなし給
ひけり、かくて七日の御参籠もはてければ、京へ上り
給ひけるに、内侍共名残を惜み奉りて、一日送り参ら
せて、次日内侍ども帰んとする所に、徳大寺殿被(レ)仰
けるは、やや内侍達、王城の鎮守を差置き参らせて、
国を隔て海を分て参りて候志を思ひやられ候べし、
内侍達をば大明神とこそ思ひ奉れ、今一日名残を惜
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み給へかしと宣ひければ、承りぬとて送り奉る、次日
又内侍いとま申て帰んとする所に、種々の引出物を
たびて、内侍を情なし、今一日送れかしと宣ひけれ
ば、承りぬとて又送り奉る、かくて一日々々送り奉る
ほどに、都近く送奉る、徳大寺殿被(レ)仰けるは、是迄上
りたるに、いざかし都へ内侍たちに京づとをも尋て
取らせんと宣ひければ、承りぬとて、内侍十余人京へ
のぼる、内侍共申けるは、太政入道殿に見参に入て下
らんとて参じたれば、入道殿出会て見参し給ひて、内
侍ども何しにのぼりたるぞと問れけり、内侍申ける
は、徳大寺殿大将を超られさせ給ひたるとて、御出家
ありて山林に交らんとせさせ給ふが、厳島大明神は
れいげんあらたに渡らせ給へば、祈請申て其後出家
せんとて御参籠候つるに、御心いうにやさしく御座
つる間、御名残惜くて、一日々々と送り参らせ候つる
程に、京へ上りて候へば、見参に入ていとま申さんと
て参りて候と申ければ、入道打うなづきて一定か、内
侍達さん候とぞ申ける、入道宣ひけるは、浄海があが
め奉る大明神を尊く渡らせ給ふと伝聞て参り給たり
けるこそいとをしけれ、大明神御威光も恐れあり、と
くどく重盛大将あけよとて、徳大寺殿左大将になし
奉る、新大納言彌口惜と思はれけり、いかにして平
家を亡して本望を遂んと思ふ心付にけるこそ恐しけ
れ、父卿は中納言迄こそ至られしに、其末の子にて位
正二位官大納言、年僅に四十二、大国あまた給はり
て、家中たのしく子息所従に至迄、朝恩にあきみち
て、何の不足ありてか、かかる心付にけん、是も天魔
の致す所也、信頼の卿の有様をまのあたり見し人ぞ
かし、其度の謀反にも与して、既に誅せらるべきにお
はせしが、小松内大臣の恩を蒙て首を継たりし人に
非ずや、然を疎き人も入ざる所にて兵具を調へ集め
て、可然者を語らひ、此いとなみの外他事なかりけ
り、東山に鹿の谷と云所は、法性寺の執行俊寛が領
也、件の所は後は三井寺に続きてよき城也とて、そこ
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に城郭を構へて、平家を討て引籠らんと支度せらる、
多田蔵人行綱、法性寺の執行俊寛、近江の中将入道れ
ん生〈 俗名は|なりまさ 〉山城守もとかね、式部大夫のり綱、平判官
康頼、宗判官信房、新平判官すけゆき、左衛門の入道
西光寺を始として北面の下臈あまた同意したりけ
り、平家を亡すべき与力の人々、新大納言成親卿を始
として、鹿の谷俊寛が坊を会所として、常により合
より合だんぎしけり、法皇も時々入らせ給て聞し召け
り、入せ給ふ所ごとに、俊寛がさたにて、御儲ていね
いにしてもてなし参らせて、御延年抔有時もあり、か
の人々例の俊寛が坊に寄合て終日酒宴して遊ばれけ
り、去程に酒盛半に成りて、万興有けるに、多田蔵人
が前に盃流れとどまりたり、新大納言青侍を壹人招
よせて、何事やらんささやきてければ、程なく清げな
る長びつ一合縁の上にかきすへたり、尋常なる白布
五十端取出して、やがて多田蔵人が前に置せて、大納
言めをかけて日頃だんぎ申つる事、大将軍には一向
御辺を頼み奉る、其弓袋の料に進候、今一度候はばや
としひたりければ、行綱畏て三度して、布に手うちか
けて押のけ、是は則郎等寄て取てけり、其頃静憲法印
と申けるは、故少納言入道しんせいが子也、万事思知
りて引入て真の人にてぞ有ければ、平相国も殊に用
ひて、世の中のことなど時々いひ合せられけり、法皇
の御気色もよくて、蓮華王院の執行に成しなんどし
て、天下の御政常には仰合せられけるに、成親卿取あ
へず、平氏既に倒れたりと申されければ、法皇ゑつぼ
に入らせ給ひて、康頼参りて、当弁仕れと、仰のあり
ければ、己が能なれば、つゐ立て、凡近頃は平氏が余
り多くしてもてあつかひておぼえ候、首をこそ取候
はめとて、瓶子の首を取て入にけり、法皇も興に入せ
給ふ、着座の人々もゑみを含みてぞおはしける、静憲
法印計は浅ましと思ひて、物をも宣はず打頷きて、声
もあらく立ざりけり、彼康頼はもとは阿波国[B ノ]住人、
人品さしもなき者也けれども、諸道に心得たる者に
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て、君にも近く召仕れ参らせて、検非違使五位の尉ま
で成にけり、末座に候ひけるが召出されけるも時に
取て面目とぞ見えける、土の穴をほりていふなる事
だにも、もるると云ことあり、まして左程の座席なり
ければ、なじかはかくるべき、人人聞伝へてささやき
けり、空恐しく覚えける、成親卿のもとに、みめよき
上わらは二人ありけり、名をば松の前、鶴の前とぞい
ひける、松は顔すぐれたりけれ共、心の色少しさしお
くれたり、鶴は顔は尋常なれ共、心に哀[B 念イ]あり、此談義
のために俊寛始めて大納言のもとへおはしたりけれ
ば、杯酌進けるに、彼上童二人出して色々さまざまに
しゐたりけり、是を始として俊寛常はよばれければ、
二人ながら時々こしうたせなどせられけるほどに、
鶴が腹に女子一人出来たりけるとかや、彼俊寛は木
寺の法印寛雅の子、京極の源大納言雅俊の孫也、させ
る弓矢とる家にはあらね共、彼大納言ゆゆ敷心猛く、
腹あしき人にておはしけり、京極の家の前をば人を
もたやすく通さず、常は歯をくひしばりておはしけ
れば、人歯ぐひの大納言とぞ申ける、かかる人の孫な
ればにや、此俊寛も僧なれども心たけくおごりし人
にて、か様のことにもくみせられけるにや、
三月五日除目に内大臣師長公太政大臣に任じ給へる
かはりに、左大将重盛、大納言定房卿を超て、内大臣
に成給ひにけり、院御所三條殿にて大饗行はれ、近
衛大将に成給し上は、子細に及ばねども、大臣の大将
いと目出たし、左右の大将只今闕あり気なし、師長押
上られ給へり、又一[B ノ]上こそ前途なれども、宇治左大
臣の御例憚あり、又太政入道も心元なげにいはれけ
れば、よしなしと被(レ)仰けるとかや、五條中納言邦綱[B ノ]
卿大納言にならる、年五十六、一の中納言にておはし
けれども、第二迄は中[B ノ]御門中納言宗長卿、第三迄は
花山院中納言兼雅卿、此人々の成給ふべかりけるを
おそとどめ、邦綱卿のなられける事は、太政入道万事
思ふ様成が故也、此邦綱卿は提中納言兼輔の八代の
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末葉、式部大夫盛綱が孫前右馬介盛国が子也、然る
に二三代は内[B ノ]蔵人だにもならず、受領、諸司[B ノ]助など
にてありけるが、進士、雑色とて、近衛院の御時近く
召仕はれけるが、去久安四年正月七日、家を起して、
蔵人頭に成にけり、其後次第に成上りて、中宮の亮ま
で成にけり、法性寺殿かくれさせ給て後、太政入道に
取入て様々宮仕ける上、毎日何にても一種を獻ぜら
れければ、所詮現世の得意に此人に過たる人有まじ
とて、子息二人入道の子にして、清国とて侍従になさ
れぬ、又三位中将重衡を聟になして後、中将内の御乳
母子になられたりければ、其北の方は御母代にて、大
納言典侍とぞ申ける、治承四年の五節は福原にてぞ
有ける、殿上の淵醉の日、雲客后宮の御方に推参せら
れたりけるに、式部卿の竹湘浦に斑也と云朗詠を投
げ出されけるを、此邦綱の卿聞給て、取あへず、あな
浅まし、是は禁忌とこそ承れ、かかる事聞とも、聞か
じとて、ぬき足をしてにげられけり、させる屬文の人
にておはせざれども、か様の事まで聞とがめ、貴賎を
いはず親疎をわかず必訪はれけり、人望もすぐれた
り、何よりも一の所の御家領の事を計ひ申されける
が、目出たき事にてぞ有ける、此邦綱卿の母、賀茂大
明神に志をはこび奉りつつ詣ては、邦綱に一日の蔵
人を経させ候はばやと祈申されけるに、賀茂の御社
の氏人檳榔の車をいて来て、我家の車やどりに立る
と夢みたりけるを、不(二)心得(一)覚えて、人にかかる夢こ
そ見たれと語ければ、公卿の北の方にこそ成給はん
ずらんといひければ、我身年たけたり、夫まうくべき
に非ずと思ひ給ひけるに、邦綱の卿蔵人は事もおろ
そかや、忝く夕郎貫首を経て、終に正二位大納言に至
らせ給ふ[B 「せ給ふ」に「れけるイ」と傍書]ものを、太政入道のさりがたく思ひ給ひけ
るも、しかしながら賀茂大明神の御利生なりとぞ人
申ける、
平家物語巻第一終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第二
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平家物語巻第二
北面は上古にはなかりけり、白河院の御時はじめ置
れて、衛府どもあまた候けり、為利、盛重わらはべ
より千じゆ丸、今犬丸とてきりものにて有けり、千
手丸は三浦、後には駿河の守、今犬丸は周防国の住
人、後には肥後のかみ、鳥羽院の御時も、季範源左
衛門の大夫、子息やすすゑ河内の守、同季頼大夫尉、
父子近く召仕はれて、傳奏するをりも有と聞えしか
共、皆身の程をばふるまひてこそありしに、此御時
の北面の者共は、殊の外に過分にて、公卿、殿上人を
も物ともせず、禮義もなかりけり、下北面より上北
面にうつり、上北面より殿上を許さるるも有けり、
かくのみ有る間、驕れる心どもありけり、其中に故
小納言入道のもとに師光、成景と云者あり、小舎人
童、もしは恪勤者などのけしかる者ども也けれども、
さかさかしかりければ、院の御目にもかかりて召仕
はれけり、小納言入道の事にあひし時、二人共に出
家して、法名の一字を加へて左衛門入道西光、右衛
門入道西景とぞ云ける、二人ながら御蔵n預りにて召
仕はれけり、其西光が子に師高もきりものにて有け
れば、検非違使五位の尉迄成りて、安元元年十二月廿
九日、追儺除目に加賀守に任て国務を行ふ間、様々
のひほふひれい張行せし餘りに、神社、仏寺、権門、
勢家の庄頭をたふし、さんざんのこと共にてぞ有け
り、たとへ邵公があとをへだつとも、おんびんの政
をこそ行ふべかりしに、よろづ心の儘に振舞しほど
に、同二年八月に白山末寺に温泉寺と云山寺にいで
湯あり、彼湯に目代馬を引入て洗ひけるを、大衆申
けるは、是は白山権現の一切衆生の諸[B 衆イ]病の薬の為に
いだし給ふ所の出湯也、悉き所に馬を引入て、洗ふ
事狼藉也と制しをくはふ、猶きかず、然る間大衆起り
て、白山、中宮八院三社のそう長吏、智積、覚明等張
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本として、とねり男が本どりを切、馬の尾を切て追
ひ放つ、目代申けるは、馬の湯あらひれいなくば、
何度もせいしをこそくはふべけれ、さうなく馬の尾
を切べき様やある、はぢ有者の乗馬の尾を切る事、本
どりを切に同じといふ、安からぬこと也とて、国方
より大勢を揃へて押寄て、温泉寺の坊舎を焼拂ふ、
此事によつて八院の大衆の中に、秀衡が孫に金台房
を大将軍として、明台房、室大房、能登房、加賀房、
越前房、同白山の大衆五百餘騎にて加賀の国府へ押
寄せて、かう堂にたて籠りて、廰へ使をたてたれば、
目代はひがごとしつとや思ひけん、廰屋にもとまら
ずして、迯げて京へぞ上りにける、大衆力及ばで、そ
れよりて帰てせんぎしけるは、此所は本山の末寺也、
しよせん叡山へ訴へ奉らん、若訴訟叶はぬものなら
ば、我等長く生土へ帰らじと一同にせんぎして、神
水、仏水を飲み、同年八月に白山の早松の御輿をか
ざり奉り、むねとの大衆三百餘人、御輿をささげ奉
りて上洛す、富時の天台座主は明雲僧正にておはし
ます、此事聞たまひて、専当法師、宮仕法師二人を
とて、当時は院の御熊野詣也、上洛せられたりとも、
御裁許有るべからず、とくとく是より帰られて、御
悦の時、上洛せらるべき由被r仰けれども、白山大衆
猶聞かず、明雲僧正此事を聞給ひて、門跡の大衆四
十餘人差下して、早松の御輿をば奪取り、かねがさ
きの観音堂に休め奉り、白山の大衆を追返す、衆徒
等よりあひて歎けるは、我等此訴訟叶はずは、長く
しやうどへ帰らじと誓たるに、いつしか敦賀の津よ
り帰らん事こそ口惜けれ、いかがすべき、我等生土
へかへるべからずと一同に神水仏水を飲つ、おして
上るべしとて、八月五日宇河を立て、勧成寺に着き
給ふ、御供の大衆すでに一千餘人なり、勧成寺より
同じき六日、仏が原、金剣宮へ入らせ給ふ、爰に一両
日逗留す、同九日留守所より牒状あり、使者には橘n
次郎大夫則次、但田次郎大夫忠利等也、
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留守所、牒(二)白山中宮衆徒(一) 衙
欲3早停(二)止衆徒参洛(一)事
牒、奉(レ)捧(二)神輿(一)、衆徒企(二)参洛(一)、令(レ)致(二)訴訟(一)事之
趣、非(レ)無(二)不審(一)、因(レ)茲差(二)遺在庁忠利(一)、尋(二)申仔
細(一)之処、為(二)石井法橋訴申(一)令(二)参洛(一)之由、有(二)返
答(一)云々、此[B ノ]条理豈不(レ)可(レ)然、争依(二)小事(一)、可(レ)奉(レ)動(二)
大神(一)哉、若為(二)国之沙汰(一)、可(レ)為(レ)裁(二)許訴訟(一)歟、者
賜(二)其解状(一)可(二)申上(一)也、乞哉察(レ)状、以牒、
安元三年二月九日 散位財部朝臣
散位大江朝臣
散位源朝臣
目代源朝臣
とぞ書たりける、依(レ)之衆徒返牒在(レ)状云、
白山中宮大衆政所返牒 留守所
来牒一紙被(レ)載(二)送神輿御上洛(一)事
牒、今月九日牒、同日到来、依(レ)状案(二)仔細(一)、在(二)神明
和合(一)、而黙(二)定吉日(一)進(二)発旅路(一)次、以(二)人力(一)不(レ)可(二)
成敗(一)之、冥罰豈不(レ)恐(レ)之哉、仍以後日任(二)牒返之
状(一)仔細[B ノ]状如件、
安元三年二月九日 大衆等
同十日仏原を出て、椎津へ着せ給ふ、同日又留守所
より使二人あり、税所大夫成貞、橘次郎大夫則次等、
野代山に大衆の後陣に追付たり、則、件の使者落馬
して又馬の足折れたり、是を見て衆徒弥々神力を取、
同十一日に二人の使、椎津に到来す、あへて返牒な
し、ことばを以て使者神輿を留め奉るといへ共、こ
と共せず上洛す、明雲僧正重ねて奉(レ)留、神輿守護衆
徒状云、
謹請 延暦寺御寺牒
欲(レ)被(二)裁許(一)奉(レ)振(二)上神輿於山上(一)、目代師高罪
科事
右雖(レ)令(レ)言(二)上仔細(一)、于(レ)今不(レ)蒙(二)裁許(一)之間、神輿
入洛之処、抑留之条是一山之大訴也、倩案(二)事之情(一)、
白山者雖(レ)有(二)敷地(一)、是併三千之聖供也、雖(レ)有(二)免
P050**
田(一)、当任有名無実也、然者仏神事、断絶顕然也、
仍当年八講、三十講、同以断絶、我山者大悲権現
和光同塵之素意候、近来参向拝社之族、又以断絶、
当(二)此時(一)而深歎切也、然者奉(レ)振(二)神輿(一)、所(レ)啓(二)参
向(一)也、永忌(二)向後之栄(一)、五尺之洪鐘徒響、黄昏之
勤誰明、冥道之徳、在(二)于人倫(一)迷癡之用深也、蓋
全元(二)現将来吉凶(一)哉、権現御示現有(レ)之、然則不(レ)被
(レ)拘(二)制法(一)、既令(レ)附(二)敦賀[B ノ]津(一)、任御寺牒(一)之状、止(二)
神輿[B ノ]上洛之儀(一)、可(レ)侍(二)御裁報(一)之状如(レ)件、
安元三年二月廿日 衆徒等
とぞ書たりける、同廿一日せん当此状を取て帰り上
ぬるうへは、裁報を相待所に、遅々の間、衆徒等潜
に神輿をぬすみ出し奉りてとらばやと伺ふ所に、御
輿守護の者共は、専当法師、宮仕法師等也、是を呼
び寄て、白き小袖を一つづつとらせて、酒をしひふ
せたり、宮仕、専富しひられて、前後も知らで酔伏
せり、其間に早松の御こしをぬすみ取、東路にかか
りて、丹生の御輿を柳井が瀬を通り、近江国河内の
濱にぞ着にける、それより小船に御輿をかきのせ奉
りて、東坂本へ押渡らんとする処に、辰巳の風荒くし
て、小松が濱にぞ吹付たる、白山の大衆手づから御
輿捧げ奉りて、十ぜんじの御前にかきすへ奉る、山
門の大衆等せん議しけるは、末社の神おろかならず、
本社の権現のごとし、まつじの僧徒いやしからず、
本山の大衆と同じ、目代ほどのものに一院を燒れて、
いかでかさて有べき、尤山門の大訴たるべし、但当
時は院の御熊野詣也、御悦を相待参らせんとて、白
山権現をば日吉には客人の社といはひ参らせたり、
早松の御輿を客人の社に休め奉りて、院の御熊野詣
の御悦を相待参らせけり、去程に院すでに御下向有、
山門の大衆等、白山の訴状を受取て、末寺の僧徒等
が申状かくのごとし、真実この事もだしがたく候や、
国司師高を流罪に行はれ、目代もろつねをきんごく
せらるべきよし奏聞せしを、裁許おそかりければ、
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太政大臣以下、さも可(レ)然公卿たちは、哀とくとく御
裁許可(レ)有ものを、山門の訴訟は昔より他に異なる
事也、大蔵卿為房、太宰の帥季仲は朝家の重臣なり
しかども、大衆の訴訟によりて流罪せられにき、師
高などがことは物の數ならず、仔細にや及ぶべきと、
内々は申されけれども、言葉に顕はして奏聞の人な
し、大臣は禄を重んじてものいはず、小臣は罪を恐
れて諌めずと云事なれば、各口をとぢておはしけ
り、其時の見任の公卿に兼実、師長をはじめとして、
貞房隆季に至るまで、身を忘れて君を諌め奉り、力
を盡して国を全ふすべき人々にておはせし上に、武
威をかがやかして、天下をしづめし入道の子息、重
盛などの夙夜のきんらうをつみてこそおはせしに、
かれといひ是と云、師高一人にはばかりて、言葉に
はかたぶけ申されけれども、いさめ申さざりければ、
君に仕ふまつるに、私法然るべきや、前車のくつが
へるをたすけずば、後車のめぐる事を頼んやとこそ
蕭何をば太宗は仰られけれ、君もくらく、臣も諂ふ
べき人々にやおはせし、いかにいはんや、君臣の国
を乱らんに於てをや、又権勢の政事のたがはんに於
てをや、鴨河の水、双六のさい、山法師是ぞ我心に
叶はぬものと、白河院も仰ありけると申伝へたり、
鳥羽院の御時、平泉寺を以ておんじやう寺に附らる
べき由、其聞えあり、依(レ)之山門の衆徒たちまちに騒
動して奏状す、其状に云、
延暦寺衆徒等解申請(二)院庁裁(一)事
請曲垂(二)恩恤(一)任(二)応徳寺牒(一)、以(二)白山平泉寺(一)永
為(二)当山末寺(一)状
右謹検(二)案内(一)、去応徳元年白山僧徒等、以(二)彼平泉
寺(一)寄(二)附当山末寺(一)已畢、于時座主良真任(二)寄文旨(一)、
成(二)寺牒(一)附(二)彼山(一)畢、自(レ)爾以降依(レ)無(二)住僧之訴
訟(一)、不(レ)及(二)衆徒之沙汰(一)、然間去春彼山之住僧等、
来訴(二)于当山(一)、是延暦寺之末寺也、応徳寺[B ノ]牒尤足(二)
證験(一)、爰薗城寺之覚宗、任(二)彼別当職(一)、非法濫行遂
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(レ)日倍増、積愁為(レ)枕之間、以(二)当山(一)、欲(レ)為(二)薗城
寺之末寺(一)云々、此条当山自(レ)本非(レ)無(二)本山(一)、就(レ)中
日吉客人宮者白山権現也、垂跡猶測(二)彼神慮(一)、定有(二)
其故(一)歟、叡慮忽変、非(二)君之不明(一)、非(二)臣之不直(一)、
我山[B ノ]仏法将以欲(レ)令(二)滅逃(一)也、泣而有(レ)余、仰(二)蒼天(一)
而揮(レ)涙而何為丘中丹銷(レ)魂、衆徒若忽(二)諸朝威(一)者、
懷愁不(レ)可(レ)止、一山之騒動裁報(レ)之、何無(二)〓迹(一)、望
請(二)庁裁(一)、曲垂(二)恩恤(一)以(二)白山平泉寺(一)如(レ)旧可(レ)為(二)
天台末寺(一)之由、被(二)裁許(一)者、将(レ)慰(二)浄行(一)三千之愁
吟、弥祈(二)仙院数百之遐齢(一)、仍勒(レ)状謹解、
久安三年四月 日
とぞ書たりける、此申状に依て下さるる院宣云、
集(二)官軍(一)可(レ)決(二)雌雄(一)之由、謳(二)歌山上(一)風(二)聞洛中(一)、
此事非(二)叡慮(一)之間、武士解(レ)郡、被(レ)返(二)本国(一)畢如(二)
衆徒[B ノ]申(一)者、仰(二)上裁(一)之間、六時不断之行法不(二)退
転(一)之条、非(レ)無(二)叡感(一)、然者於(二)白山平泉寺(一)者、被
(レ)付(二)山門(一)畢、此条依(レ)不(レ)浅(二)当山御帰依(一)、以(レ)非
為(レ)理、所(レ)被(二)宣下(一)也、但含(二)一山之咲(一)、招(二)諸寺之
嘲(一)歟、於(二)自今以後(一)者、可(レ)停(二)止非義之濫妨(一)之
由、可(レ)被(レ)觸(二)仰衆徒(一)之旨所(レ)候也、仍執啓如(レ)件
久安三年四月八日 民部卿顕頼
天台座主御房
昔江[B ノ]中納言匡房とて和漢の才人の申されける様は、
神輿を陣頭にふりくだし奉て訴申さん時は、君はい
かが叶はせ給ふべきと申されたりけるに、げにもだ
しがたきことなりとぞ仰せられける、去嘉応元年甲
戌、美濃守源の義綱朝臣、当国の新立の庄をたふす
間、山門久住者円応をせつがいす、此事訴申さんと
て、大衆参洛すべき由聞えければ、武士を河原へ差
遣して防がれしほどに、日吉[B ノ]社のしやし、延暦寺の
寺くわん三十余人許、申文を捧げて、押破りて陣頭
へさんじけるを、後二条関白殿、中づかさの丞源の
頼治におほせて防がる、猶内裏へ押入らんとする間、
よりはるが郎等八騎是をいる、矢に当るもの八人、
P053
死ぬる者二人、社司、所司四方へ迯げ失せぬ、もん
との僧綱仔細を奏聞のために下らくせんとしけれ
ども、武士を西坂元へ差遺して入られず、大衆日吉
の神輿を中堂に振上奉て、関白殿を呪咀し奉る、い
まだ昔より此の如きのことなし、神輿を動し奉る事
是が始とぞ承はる、匡房の卿申されけるは、あはれ
亡国の基かな、宇治殿の御時、大衆の張本とて頼寿、
良円等ながさるべきにて有しだにも、山王の御たく
せんいさぎよかりしかば、則罪名を宥められて、さ
まざまの御おこたり申させ給ひしぞかし、されば、
此事いかが有んずらんと歎申されけり、三千人の衆
徒等は八王子へ参りてしんどくの大般若を読誦し奉
て、申あげの導師には中胤僧都也、その頃の説法は
表白に秀句を以て先とす、かね打ならして、大音聲
をあげて申されけるは、我等がけしの竹馬よりおふ
したてられ奉る七の社の御神たち、さをじかの耳ふ
り立て聞給へ、後二条関白殿へ鳴矢一[B ツ]放たせ給へ、
さらずば三千人の衆徒等に於ては長く住山の思ひを
たち、離山の思ひにぢうして、八王子権現二度拝し
参らせんこと有がたしと申、権現御納受渡らせ給
へと申上を聞て、三千人の大衆一同にそとぞ喚きた
る、其頃或人八王子の社に詣て通夜をしたりける夜
の夢にみたりけるは、御殿の内よりけだかき御聲に
て、兵主々々とぞ召れければ、近江国夜須郡におは
します兵主の大明神おはしまして参りて候と申させ
給ひければ、神のおんてきかうぶくせよと仰られけ
れば、承り候ぬとて、白箆にうすやうづくりに作り
たるかぶら矢を重籐の弓に打くはせて、西へ射給ひ
ければ、其かぶら矢夥く京中をなり廻りて、二条の
御所のもやの御みすのへりに立と見て、夢打驚き覚
てうつつに聞ければ、御殿の上のほどよりかぶら矢
の聲出て、ひえの大たけをこえて、西を差て行ぬ、
不思議のこと也と思ひける程に、其あした二条殿の
かうしの役しける侍の見ければ、もやの御みすのも
P054
かうにしきみの葉[B 枝イ]一たちたりけり、それより関白殿
は山王の御とがめとて、左の御かほ先に御かぶれ出
て、頓ておもらせ給ひしかば、御兄にて天台貫主仁
源理智房のざすと申し人は、大峯などにのぼりて世
に聞えある有験の人にておはしければ、随分に祈申
されけれども、其験もなかりければ、大殿の北の政
所、せめての御歎の余りにや、御すがたをやつさせ
給ひ、忍びて十禅師の御前に七ヶ日御参籠有て、関
白もろみちの御病をやめて、命ばかりをたすけさせ
給へとぞ祈申させ給ひける、もろみち今度寿命助け
させ給たらば、一には東坂本より西坂本へ、廻廊を
建て、山僧らが三山の参詣の時、霜雪雨露を凌がんが
ため也、一には八王子の御前より十ぜんじの御前迄
廻廊を造て、大衆以下の参り下向の輩に風雨を凌ん
と也、一には三千人の衆徒に毎年の冬に小袖一づつ
着せ参らせ候べし、一には我一期の間、郡の住居を捨
て、宮籠りと相交はりて、宮仕へ申候べし、一には長
日の法花八講たいてんなく修行候べし、一には廊の
御かぐら退転なく、又七社権現に御百度四季にこれ
を勤ずべく候、一には大とうろうをかかげ候べし、一
にはもろみち五人のむすめあり、王城一の美女也、
是を以て田楽をせさせて、七社の権現にみせ奉んと
なり、なくなく立願ありけり、此御立願は御心中に
こそ思召けれ、人是を不(レ)知、然るを山王権現あした
にあらはさせ給ひける事こそおそろしく、身の毛も
立ちて覚えけれ、折節其頃出羽の国羽黒より、月山
の三吉と申ける童御子一人上りて、御社に参籠した
りけるが、俄に御前の庭にをどり出て、一時ばかり
舞をどり庭に倒れふして絶入したりければ、かきい
だせとて、門より外へいだしすてられけり、二時ば
かり有て、生出て十ぜんじの御前に、参りて、舞を
どる事おびただし、参詣の諸人、こはいかにと是を
みる、しばらくありて大息をつきて汗を押拭ひて申
けるは、我円宗教法をまぼらんがために、遙に実報
P055
花王の土を捨て、穢悪じうまんの塵にまじはり、十
地円満の光を和げて、この山の麓に年久し、鬼門の
凶害を防がんとては、嵐はげしき峰にて日をくらし、
皇帝の宝祚を守んが為には、雪ふかき谷にて夜を明
す、抑ぼん夫はしれりや否や、前関白師実の北のま
ん所、子息師通が所労のこと祈り申さんがために、
此七ヶ日我前に参籠して、肝腑をくだき、紅涙を流
して、せめてのことにや、心中に種々の立願あり、
第一の願には八王寺の社より此砌まで廻廊を立て、
衆徒の参社の時、雨露の難をふせぐべしとなり、此
願誠に有がたし、されども我山の山僧等三の山の参
籠の間、霜雪雨露にうたるるを以て、行心のせつをあ
はれふ、同じく又八王子の八町坂の廻廊、是誠に殊勝
の事に思ふらん、され共一切衆生迷ひ多く、さとり
すくなし、されば皆悪道に落つべし、是をあはれみ
て、和光同塵のけちえんとして、此ふもとに所をしめ
て、我にちかづかんものをばあはれまんと也、されば
廻廊の願はうけ思召すべからず、次に五人の娘、王城
一の美女を以て、田楽の事誠に此願の事、申に付て哀
也、せめての思の余りと覚えたり、尤可(レ)然といへど
も、摂政関白の御娘達に、いかが左様の役をばせさせ
奉るべき、十方旦那多ければ、此願とりどりに多し、
さればうけ思召すべからず、次に大殿の北の政所、
我下殿に参籠して、きね[B 「きね」に「禰宜イ」と傍書]に交らんとの願、此事又同
じくいとをしく思ひ奉る、さはあれども大殿の北の
政所程の人を、争でかそれに同座せさせ奉るべき、
此事逆事也、一々の願の中に、八王子八講に於ては、
仏事なれば我受思召す、今生に於ては叶ふまじ、後
生をばたすけ奉らん、疑ひ思召べからず、誠に親子
の眤び、恩愛の契りなれば、さこそかなしく思ひ給
ふらめ、但しもろみちに武士に仰て、我を馬のひづ
めにけさせ、衆徒多く疵を蒙り、宮仕、せんたう、射
殺されぬ、三千の衆徒なくなく本山へかへりのぼり
て、をめきさけんでせんぎする音、天をひびかし、
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地を動かす、則衆徒の愁に非ず、しかしながら我な
げき也、武士どもが射たる矢めといふは、則我身に
当る[B 「当る」に「ありイ」と傍書]、諸人是を見よとて、みこかたぬぎたれば、左の
脇の下に大なるかはらけの口計、かけ破れて血流れ
たり、見る人身の毛だちて恐しなどは云ばかりなし、
是はいかに、我ひがごとか、祈るとも叶ふまじ、定
業かぎり有、我力及ばずとて、山王上らせ給ひにけ
り、是を聞せ給ひけん北の政所の御心の中、いかば
かりなりけん、誠に、御身の毛立ち、御涙にくれてなく
なく御下向あり、いつ習はせ給ひたる御あゆみなら
ねども、御子のかなしさに人目をもつつませ給はず
御下向あり、御心ざしのほどこそ哀なれ、されば仏
も父母の恩深き事、大海のごとしとぞ仰られける、
神罰かぎりある事なれば、いのるいのりもかなはせ
給はず、色々の御願も御納受なし、関白殿のさいご
の御詞には、あなむつかしのさるのおほさよおほさよ
とばかり仰られて、去承徳元年六月二十六日に大殿
にさきだたせ給て、つゐにうせさせ給ひにけり、御
年三十八、御心のたけくことわりゆゆしき人にてわ
たらせ給ひけれども、まめやかに事の急になりにけ
れば、御命をぞをしませ給ひける、まことにをしか
るべき御命なり、四十にだにいまだたらせ給はず、
おやにさきだたせ給ふもくちをし、時に取てあさま
しかりし御事也、此御やまひかん病し奉る人、御う
しろに候人も、御前に候人も、立ゑぼしきたるが、
見えぬ程の事にて、高く大きに腫れたりけり、入棺
し奉るべき様もなかりけり、大殿是を御らんじて、
御涙にむせばせ給ひつつ、御いかけめして、かすが
の大明神の御方をふしをがませ給ひて、申させ給ひ
ける事こそあはれなれ、たとひ山王大師の御とがめ
にて、もろみち世をはやうし候とも、かかるありさ
まにて、恥を隠すべき様も候はず、定業かぎりある
命を申さばこそ、難き事をも申とも思召され候はめ、
此おびたたしきすがたを、もとの形になして給はり
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候へ、けうやう仕候はんと申させ給ひたりければ、
御納受有ければにや、忽ちに御腹の腫しえさせ給ひ
て、入棺事終りにけり、其御願の中に、長日[B ノ]八講の
こと、関白殿かくれさせ給ひぬる上は、はたすに及
ばず、八王子の御憤り深くして、後二条関白殿を八
王子の後ろの御子の、大ばんじやくの下に籠てせめ
奉り給ふ、雨ふり風吹さゆる夜半ごとに、ばんじや
く重く成てくるしみたへがたき間、聲を上げてをめ
き給ふ、目には見えず、聲ばかりする間、上下諸人
おそれをののく処に、宮籠りに附きてたくせんせら
られけるは、我は二条関白師通といふ者なり、山王
の御憤り深くして、此ばんじやくの下に籠られけり、
此くるしみいかがせんとて、左右の袖をおもてに当
てなき給ふ、宮仕是を聞て大殿へ此よしを申す、誠
しからず、実否を見て参れとて、侍一人差遣す、誠
に夥しくをめく聲はすれども、一定の関白殿とも知
まいらせず、疑ひをなす処に、御子わらはにうつり
て、いかに汝は我をばしれりや否や、二条関白師通
といふ者なり、山王の御憤り深くして、いまだ中有
迄も行ずして、此大ばんじやくの下に籠られ奉る、
其故は大殿の北の政所、師通が為に御願だてさせた
まふ中に、八王子の法華八講は受思召して、後生ぼ
だいを助けんと、御りやうじやう有しを、もろみち
死したればとて、勤められざるに依て、此大ばんじ
やくの下に籠めらるる、ばんじやくのおす事たとへ
ん方なくたへがたし、神に祈り仏に誓ふとも、助る事
有べからず、件の八講を勉めて、此苦を逃れしめば、
草の陰にも立そひて、くらき所にはともし火ともな
り、あしからん道には橋とも成らんずるぞと申、親
に先立奉る我身の果報の拙なさ云ばかりなし、急ぎ
帰りて此由を申せと計にて、雨しづくと泣き給ふ、侍
も只今見奉る心地して、左右の袖をしぼりあへず、
泣く泣くはせかへりて、此由を申せば、大殿仰せられ
けるは、一期のほどををはらず、命を召れぬる上は、
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是ほど又深き御勘当こそ口惜けれ、春日の大明神は
渡らせ給はぬにこそ、同じ氏子と申ながら、関白に昇
るほどの者をすてさせおはしまして、是程末迄物な
くせめさせ給ふ事、生々世々口惜く候と、くどき立
て泣き給ひけれども、かひなき事にてぞ有ける、さ
て八講つとめよとて、日別に供料をあげて、八講を
つとめさす、七日と申けるに、関白殿大ばんじやく
の下をのがれさせ給ひて、紫雲にのり西をさしてお
はするとて、大殿の御所の上にて、大きなる聲を以て
宣ひけるは、恐れても恐るべきは七社権現の御風情、
頼ても頼むべきは八王子権現の本地、千手千眼の御
ちかひなり、我法華八講の功徳に依りて、只今極楽
浄土へ参り候、御心安く思召候へ、とほき守りとな
り参らすべしと告げしめし給へば、大殿庭上に走出
させ給ひて西へ行、紫雲に御手を合せて、我をも同
じく具しておはせよやとて、人目をも憚らず御聲を
上げてをめきさけび給へどかひなし、其後彼の八講
の為に、御家領紀伊国田中の庄をぞ寄られける、老
少不定也、必親に先立まじといふことはなけれども、
生死のおきてに随ふ習ひ、まんとく円満の世尊、十
地究竟の大士も、力及ばざることなれば、慈悲具足
の山王なさけなく、降伏し給ふべしやなれども、和光
利もつの方便なれば、折節とがめさせ給ふ、されば
むかしも今も山門の訴訟は、恐しきこととぞ申し伝
へたる、
安元二年六月十二日、高松の女院かくれさせ給ひぬ、
御年三十三、是は鳥羽院第六の姫宮、二条院の后に
ておはしましき、永寿元年に御年廿二にて御出家あ
りき、大かたの御心様わりなき人にて、人をしみ奉
る事かぎりなし、
同年七月八日建春門院かくれさせ給ひぬ、御年卅五、
是は贈左大臣時のぶの御娘也、法皇の女御、当帝高
倉院の御母儀也、先年に不例の御願をはたさんとて、
御歩行にて御熊野詣有けり、四十日に本宮に参り着
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せ給ひて、権現法楽のために、胡飲酒と云舞をまは
せておはしましけるに、俄に大雨ふりけれども舞を
とどめず、ぬれぬれ舞けり、せんじを返す舞なれば、
権現もめでさせ給ひけるにや、去春の頃より御身の
中くるしく、世の中あじきなく思召けるが、去る十
日院號を御じたいあり、今日の朝に御出家ありて、
夕に無常の道に赴かせ給ふ、院中の御歎き申も愚な
り、天下諒闇のせんじを下さる、かかりければ御孝
養の為に、殺生きんだんを行はれけり、其頃折節伯
耆の僧都玄尊、近江の国大鹿の庄を召されて歎ける
に、院御歎やうやく期過て、人々に御目ざまし申さ
れける時、げんそんつい立て、殺生きんだんとはい
へども殺生きんだんとはいへどもと三度申て、院の御前近く参りて、大鹿
はとられぬと申て走り入ぬ、院ゑつぼに入せ給ひて、
彼大鹿を返給てけり、同廿七日六条院崩御、御年十
三、故二条院の御嫡子ぞかし、御年五歳にて、太上
天皇の尊號有しかども、いまだ御元服なくて、崩御
なりぬるこそ哀なれ、
治承元年丁酉四月十日は日吉の御祭りにて有べかり
けるを、大衆打とどめて、十三日辰の時に、衆徒日吉
七社の御輿をかざり奉り、中堂へ振上奉りて、八王
子、客人、十ぜんじ等の三社の御輿を陣頭へふり下
し奉て、師高を流罪せらるべきよしを訴へ申さんと
て、西坂本、さがり松、きれつつみ、賀茂河原、糺の
とうほく院、法城寺辺に神人、宮仕充満して、聲を
上てさけぶ、京中白川の貴賤来集りて是を拝み奉る、
是につづきて、ぎおん、北野二社、都合十一社の御
輿を陣頭へふりくだし奉る、その時の皇居は、里内
裏閑院殿にてありけるに、白玉、金鏡、緑羅、紅絹
をかざり奉る、神輿朝日の光りにかがやきて、日月
の地に落給ふかとあやまつ、一条を西へ入せ給ひけ
るが、十ぜんじの御輿既に、二条、烏丸、室町辺に近
付せたまひければ、源平の兵四方の陣をかためたり、
其時平氏の大将軍には小松の内大臣重盛公、俄の事
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なりければ、直衣に矢負てこがね作りの太刀帯て、
連銭葦毛の馬のふとくたくましきに、黄ぶくりんの
鞍置きてのり、伊賀、伊勢両国の若党ども、三千余
騎相具して、東おもての左衛門のぢんをかためたり、
源兵庫頭頼政は、顕紋紗の狩衣に上ぐくりて、ひを
どしの鎧に切生の征矢に、重籐の弓の真中とり、二
尺九寸のいかもの作の太刀、かもめじりにはきなし、
鹿毛なる馬に白ぶくりんの鞍置きて乗たりけり、連
の源太、授、省、競、唱とて一人当千のはやりをの
若党、三百余人相具して、北のぢんの唐もんをぞかた
めける、神輿彼もんより入らせ給ふべきよし聞えけ
れば、頼政さる古兵にて、神輿を敬屈し奉る由を見
せんとて、馬より飛おりて甲をぬぐ、大将軍かくす
れば、家の子郎等以下三百余人皆かぶとを脱、大衆
是を見て、様有らんとて暫く御輿をゆらへ奉る、頼
政は郎等渡部の丁七唱を召て、大衆の中へ使者をた
つ、唱は生年三十四、長七尺計成男の白く清げなる
が、褐衣の鎧直垂に、黒皮をどしの大荒目の鎧のか
なもの打たるに、豹の皮のしりざやの太刀をはきて、
黒つ羽のそやの角はず入たる廿四さしたるを、かし
ら高におひなして、ぬりごめ籐の弓の握り太なるに、
大長刀取添たり、鹿毛の馬の太くたくましきに、黒
鞍置てぞ乗たりける、御輿既に近付せ給へば、馬よ
り飛で下り、かぶとを左のうでにかけて、弓取直し
て、御輿の前にひざまづきて申けるは、北おもての
唐門をば源兵庫の頭頼政かためられて候、大衆の中
へ申せと候、昔は源平両家左右のつばさのごとくに
て、少しも勝劣候はざりしが、源氏に於ては保元、
平治より皆絶はてて、大りやくなきがごとし、雁股
をさかさまにはむる身にて候へども、六孫王のすゑ
とては、頼政一人こそ候へ、山王の御輿陣頭へ入べ
き由、其聞え候間、公家ことに噪ぎ驚ましまして、
源平の官兵四方の陣をかたむべき由、宣旨を蒙り候
に依て、王土にはらまれながら、勅命をたいかんせ
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んも其恐れ有に依て、なまじひに此門をかためて候、
この度山門の御訴訟利運の条勿論に候、御聖断の遅
遅こそよそ迄もゐこんに候へ、其上頼政はいわう山
王にかうべをかたむけて年久しく候、わざ共此門よ
り入参らすべく候へども、神威を恐れ奉て、御輿を
入れ参らせ候はんは、綸言をかろくする科あり、綸
言をおもんじて神輿を防ぎ奉らば、冥の照覧はかり
難し、しんたい是れきはまれり、かつうは又小松内
大臣以下の官兵、大勢にて固めて候門々をばえやぶ
らせ給はで、わづかの小勢の所を御覧じて入らせ給
ひぬるものならば、山の大衆はめだりいんぢをしけ
りなどと、京わらんべの口のさがなさは申候はん事
も、山の御名折にてや候はんずらん、かつはことに天
聴をも驚かし奉らんと思召され候はば、わざとも東
西の多勢の門を打やぶらせ給ひて入せ給ひ候はば、
弥山王の御威光も目出度ましまし、衆徒の御訴訟も
成就しましまさんこと、今一気味にて候ぬべければ、
御輿をば左衛門陣へ廻し参せらるべくや候らん、所
詮かく申候はん上を、押破らせ給へ候はば力及候は
ず、後代の名が惜く候へば自今以後に於ては、六孫
王より伝へて候弓矢の手をこそ放ち候はんずらめ、
命を山王大師に奉り、骸をば御輿の前にて曝すべし
と申せと候、御使は渡辺丁七唱と申者にて候とて、
射向の袖を引納て畏て候ければ、大衆是を聞、何条
別の仔細にや及ぶべき、只打破れと云者もあり、其
中に西塔法師摂津竪者高運と申けるは、三塔一の言
口、大悪僧也けるが、萌黄糸縅の腹巻、衣の下に着
て、太刀脇に挟て進み出て申けるは、此頼政は年頃
地下にのみ有し事を歎きて、
いつとなく大内山の山もりは
木かくれてのみ月を見る哉 W021
とよみて、昇進ゆりたりしやさ男ござんなれ、また
四十計なる大衆の素絹の衣に頭つつみたるが、しは
がれたる大の聲にて申けるは、今頼政が条々申立る
P062
所、其いはれなきに非ず、神輿を先に立て奉て、衆
徒訴訟をいだしながら、善悪大手を打破つてこそ後
代の名もいみじからめ、さすが頼政は六孫王より以
後、弓矢のげいにのぞんで、いまだ其ふかくを聞き
及ばず、武芸においては当家の職なれば如何はせん、
風月のたつしや、和歌の才人にて世に聞えある名人
ぞかし、一年近衛院御時、鳥羽殿にて当座の御会に、
深山の花と云題を簾中より出されたりけるに、左中
将有房など聞えし歌人共も読わづらひたりしに、頼
政召されて、頓て仕りたりける、
深山木の其梢ともみえさりし
桜は花にあらはれにけり W022 K012
と云名歌を読だりしかば、天感有、満座興を催して、
勅禄に預て名を上たりしものぞかし、又同院の御時、
嵯峨野へ御行の有しに、道にてかるかやと云題給て、
遠山をまもりにきたる今夜しも
そよそよめくは人のかるかや W023 K257
うちつづき御方の北の対にて、ひだりまきの藤鞭、
きりびをけ、よりまさと云題を給て、
水ひたりまきのふちふちおちたぎり
ひをけさいかによりまさるらん W024 K258
とよみて勅感にあづかりけるものぞかし、それのみ
ならず、弓矢に取てこそぶさうのものなれ、鳥羽院
の御時、ぬえと申化鳥が、竹の御つぼに鳴事度かさな
りければ、天聴を驚かし奉る、公卿せん議有て、武
士に仰て射べきに定りて、頼政を召て仕れと仰下さ
る、昔より内裏を守護して奉公しける間、辞し申に
及ばず、かしこまて承候ぬとて、仕るべきに成ぬ、
頼政思ひけるは、けさ八幡へ参りたりつるが、さい
ごにてありけり、是を射はづしつるものならば、弓
と本取とは唯今切捨んずるものをとて、八幡大菩薩
源氏をすてさせ給はずば、弓矢にたちかけりまぼら
せ給へときせいして、しげ籐の弓にかぶら矢二筋と
りぐして、竹のつぼへまいる、見物の上下諸人目も
P063
あへず見るほどに、夜更人静まりてのち、例の怪鳥
二聲ばかりおとづれて、雲井はるかに飛上る、頼政
おししづめて、一の矢に大き成かぶらを打くはせて、
よぴきて暫しかためて、ひやうといたり、大鳴りし
て雲の上へ上りければ、化鳥かぶらの音に驚きて、
上へは上らず、しもへちがひて飛さがる、頼政是を
見て、二の矢にこかぶらを取てつがひ、こびきにひ
きてさし当[B あげてイ]、ひやうと射たり、ひふつと真中を射切
ておとしたり、手元にこたへて覚ければ、えたりお
ふと矢さけびする、太上天皇御感の余りに、御衣を
一重かつげさせおはしますとて、御前のきざはしを
なからばかりおり給ふ、頃は五月の二十日余りの事
なるに、左大臣しばしやすらひて、
五月やみ名をあらはせる今夜哉
と連歌をしかけられたりければ、三階に右のひざを
つきて、左の袖をひろげて御衣を給とて、頼政好む
口なれば、
たそかれ時も過ぬと思ふに W025 K084
とぞつけたりける、左大臣是を聞し召して、余りの
おもしろさに立帰らせ給はず、しばしやすらひて、
五月やみ名をあらはせる今夜哉
たそかれ時も過ぬと思ふに W025 K084
と押返し押返し詠じ給ひたりけり、昔の養由は雲の外
に雁を聞て、夜聲を射る、今の頼政は雨の中にぬえ
を得たりとぞほめたりける、是はいかに、弓矢取て
もならびなし、歌道の方にもやさしをのこの、山王
にかうべをかたぶけ参らせたる者の、固めたる門よ
り、なさけなくやぶりて入参らせて、いかでか辱降
をばから[B かイ]すべき、色なしや色なしやとののしりければ、
数輩の大衆尤も尤もとぞ同じける、やがて神輿をす
すめ奉て、内大臣重盛のかためられける左衛門のぢ
んへぞ入ける、閑院殿へ神輿を振り奉ること是はじ
め也、内大臣の軍兵我劣らじと、馬のくつばみを並
べて防ぎけれども、大衆神輿を先として押入らんと
P064
する間、心より外の狼藉出来て、武士矢を放つ、矢
十ぜんじの御輿にたつ、神人一人、宮仕一人、矢に
あたりて死ぬ、其外疵を被る者多し、神輿に矢立ち、
神人、宮仕射殺されける上は、衆徒声をあげてをめ
きさけぶ、梵天までも及ぶらんと夥しき、是れを聞
く貴賤上下、悉く身の毛よだつ、大衆神輿を陣頭に
捨置奉りて、ほう[B 「ほう」に「なくイ」と傍書]ほう本山へかへり登りにけり、
抑かの高運訴訟ありて、後白河法皇に参りたりける
に、折節南殿に出御あり、ある殿上人を以て、何者ぞ
と御尋有けるに、山僧摂津の竪者高運と申者にて候
と奏す、扨は山門に聞ゆる僉議者ござんなれ、おの
れが山門の講堂の庭にてせんぎすらん様に、只今申
せ、そせうあらば直に聖断有るべきよし仰下さる、
高運かうべを地に付て、山門の申候はことなる事に
て候、先王舞を舞候には面摸の下にて、はなをにが
む事にて候なる、定に三塔のせんぎと申候は、大か
う堂の庭に三千人の衆徒会合仕て、やぶれたる袈裟
にてかしらをつつみて、入堂杖とて二三尺計候杖を
めんめんにつきて、みちしばの露打拂ひ、ちいさき
石を一つづつ持て、其石に尻をかけて居並びて候へ
ば、どうしゆくなども得しらぬ様にて候、満山の大
衆たちめぐられ候へやと申て、そせうの趣をせんぎ
仕候に、然るべきをばどうずとこたへ候、然るべか
らざるをばいはれなきとは、我山の定れる法にて候、
勅定にて候へば迚、ひた面にてはいかでかせんぎ仕
候べきと申たりければ、法皇奥に入せおはしまして、
とくとくさらば、汝が山門にてせんぎすらん様に、
いでたちて参りて、せんぎ仕れと仰せ下さる、高運
勅定を蒙りて、同宿十余人にかしら裏ませて、下部
の者どもはひたたれ、小袖などをもて頭裏みたりけ
る、以上二三十人ばかり引具して、御所の雨うちの
石にしりかけて、各居並びて、高運おのれがそせ
うの趣をはじめよりをはり迄、一時したりければ、
同宿ども兼て議したることなれば、一同に尤々と申
P065
たりければ、法皇興に入せましまして、当座に勅裁
をかうぶりたりし、高運なりとぞ聞えし、神輿の御
事、蔵人左少弁仰を奉て、先例を大外記出羽守もろ
直に尋らる、保安四年癸卯七月、神輿御入洛の時は、
座主に仰て、神輿を赤山の社へ送り奉る、又保延四
年戊午四月、御入洛の時は祇園[B ノ]別当に仰て、神輿
を祇園へ送り奉らるなど勘へ申ければ、殿上にて俄
にせんぎあり、今度は保延の例たるべしとて、神輿
を祇園の社へわたし奉るべきよし、諸卿一同に定め
申されければ、未の刻に及びて、彼社の別当権大僧
都澄憲を召して、神輿をむかへ奉るべき由仰せ下されけ
れば、澄憲申されけるは、此神と申は天下無双の垂
跡延寿鎮護の霊神なり、はくちうに塵灰の中にけた
て奉て、当社へ入奉ること、生々世々口惜かるべし、
王法は是仏法のかごを以て国土を保ち行に非ずや、
されば、昔嵯峨天皇の御時、弘仁九年に諸国飢饉、
疫病おこりて、死人道路にみてり、其時、帝、民を憐
み給ひ、御志ふかくして、諸寺、諸山に仰て、是を
祈らせ給ひけれども、更に其しるしなかりしかば、
帝思召し歎かせ給ひて、叡山の衆徒に仰て、是を祈
らるべきよし仰下さる、三塔の大衆会合して、此事
いかがあるべからん、昔より雨をいのり日をいのり
て、ふらしてらす事はあれども、飢饉、疫病をたち
所にいのる事、未だ承り及ばず、さればとて辞し申
さば、王命を背くに似たり、しんたい是極れりとい
ふ衆徒もあり、又仏法の威げんおろそかならねば、
ききん、疫病なりとも、などか我山の医王山王の御
力にてしりぞけ給はざるべきなれば、法華経を講じ
奉て、きねん有べしとせんぎする大衆もあり、或は
大衆の申けるは、法華経は諸経の王なれども、護国
護王の方法、悪魔たいさんのきせいは、仁王経にし
くは非ず、仁王経を講どくし奉るべきよし申ければ、
尤々と同じて、三千人の衆徒たんせいを出してこん
ぽん中堂、大講堂、文珠楼にて七ヶ日の間に、十四
P066
萬七千余座の仁王経を講読し奉て、供養はいかが有
べきとせんぎす、御経すでに本地医王善逝の御前に
て講じ奉りつ、供養はすゐじやく山王の御宝前にて
遂げらるべきかと有る、大衆申ければ、誠に然かる
べしとて、地主十ぜんじの社だんにて、供養有り、
頃は卯月の半のことにや、飢饉、疫病にせめられて、
おや死ぬる者は其子歎きしづみ、子におくれたる親
は其思ひまだ深かりければ、いがきにのぞむ人もな
し、是を以て導師、説法はてがたに、卯月はすゐじ
やくの月なれども、弊帛捧る人もなし、八日は薬師
の日なれども、南無ととなふる音もせずと申たりけ
れば、衆徒あはれに覚えて、一度にはつとかんじて、
衣の袖をぞぬらしける、扨其夜、帝御夢想のありけ
るは、ひえの山より童子一人京へ下りて、青き鬼と
赤き鬼と有けるを、白拂にてうち拂ければ、鬼神ど
も南をさして飛行ぬと御覧じて、本山のきせいすで
にかん応して、飢饉も疫難も直りぬと思召して、御
夢想の次第を御自筆に遊ばして、御感の綸旨を衆徒
へ下されけるとぞ承る、其後国土立直りて、民のか
まど賑ひて、けぶりたちければ、帝かくぞ詠じさせ
給ひけり、
高き屋にのぼりて見れば烟たつ
民のかまどはにぎはひにけり W026 K013
かかる目出度やんごとなき御神を日中に雑人にまじ
へ奉て、祇園へ入参らせんこと心うかるべしと申て、
日すでに入、くらきほどに成て、当社の神人、宮仕
参りて、三社の御輿を祇園へ入奉る、神輿に立所の
矢をば、神人にてぬかせらる、大衆、山王の御輿を
京へふり下し奉り、陣頭へ参ることは永久元年より
以来、既に六ヶ度也、武士をもて防がせらるる事も
度々也、然れ共まさしく神輿に矢を射立て奉る事、
あさましといふもおろか也、人憤り神怒れば、災害
必おこるとはいへり、唯今天下の大事出来なんとぞ
思ひあひけり、
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十四日に大衆猶下るべき由聞えければ、夜中に主上
腰輿に召して、院[B ノ]御所法住寺殿へ行幸なる、大臣重
盛以下、供奉の人々、非常けいごにて、直衣に矢負
ひて供奉せらる、左少将雅賢は、脇立に平えびら負
ひて供奉せらる、内大臣のずゐひやう御輿の前後に
うちかこみて候、中宮は御車にて行啓あり、禁中の
上下驚き騒ぎ、京中の貴賤走りまどへり、関白以下
大臣、諸卿、殿上の侍臣、皆走せ参る、裁報遅々の
上、神輿に矢たちて、神人、宮仕矢にあたりて死す、
衆徒多く疵を蒙る上は、今は只山門の滅亡此時也と
て、大宮、二宮以下の七社、かう堂以下の諸堂一字
ものこさず焼拂ひて、山野にまじはるべき由、一同
にせんぎすと聞こえければ、山門の上綱を召して、衆
徒の申ところ御成敗有るべき由仰下す、十五日に僧
綱等、勅定を奉て、仔細を衆徒に相觸れんが為に登
山するところに、衆徒猶いかりをなして追返す、僧
綱等色を失ひて迯下る、院より衆徒をなだめんがた
めに、大衆の鬱訴を達すべき由の勅使とて、とうざん
すべき由仰下されけれ共、公卿の中にも殿上人も、我
勅使にたたんと申人なし、皆辞し申されける間、平大
納言時忠其時は中納言右衛門督にておはしけるを、
登山すべき由仰下されければ、時忠卿心中には無益
の事かなと思はれけれども、君の仰背がたき上に、
かつは家のめんぼくなりと存じて、殊にきらめきて
出立給へり、侍十人花を折て、雑色までよろづ清げ
にて登山して、大講堂の庭に立れたりければ、三塔
の大衆蜂のごとくに起り合ひて、院々谷々よりをめ
きさけびて群集する有さま、夥しなどは斜ならず、
時忠卿色を失ひ魂をけしあきれて立たりけるに、衆
徒等時忠卿を見て弥いかりをなして、何の故に時忠
登山すべきぞや、返々奇怪なり、不思議なり、既に
山王大師の御敵なり、すみやかに大衆の前に引出し
て、紗冠を打落して、足手を引はりて、もと取を切
て水海にはめよやと、声々にののしりけるを聞て、
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供なりつる侍も雑色も、いづ地にか行ぬらん、皆う
せぬ、時忠あぶなく思はれけれども、元よりさる人
にて、乱の中の面目とや思はれけん、さわがぬ體に
て宣ひけるは、衆徒の申さるる所尤いはれあり、但
人を損ふもの君の御敵たるべきか、非例を訴へ申さ
るるによて、御裁報遅々すること国家の法なり、さ
れども今御成敗有るべき由仰下さるる上は、なんぞ
衆徒強ちに憤り、いかりをなさるるやとて、懐中より
小硯を取出して、承仕を召して水を入させて、たた
う紙をひろげて、一句を書て大衆の中へなげ出され
たり、
大衆致(二)濫悪(一)魔縁之所行歟、明王加(二)制止(一)善逝之
加護也、
大衆是を見て、各々興に入て、あちとりこちとり見て
かんじあへり、老僧どもは打なきなどして、夥しか
りつる大衆のけいきも少ししづまりければ、其まぎ
れに中納言迯下り給ひけり、其時迯かくれたりつる
侍、雑色、爰かしこの荊蕀の中より出来て、主をも
てなしかしづきて下向す、をこびれてぞみえける、
一紙一句を以て、三塔三千人の愁を休め、洛中山王
の乱を鎮るのみに非ず、虎の口をのがれ、公私の恥
をきよむる、有がたかりけること也、山門に衆徒は発
向のかまびすき計りかとこそ存じつれ、理をも知た
りけるにこそ、いかで御成敗なるべきとぞ申あはれ
ける、扨時忠卿は院の御前へ参られたりければ、扨
も衆徒の所行いかにととりあへず御尋有ければ、大
方ともかくも申に及び候はず、只山王大師助けさせ
給とばかりにて、はふばふ迯下て候、いそぎいそぎ御
裁報有べく候と奏聞せられければ、法皇力及ばせ給
はずして、加賀守師高解官して、尾張国へ流罪のよ
し宣下せらるる状に云、
従五位上加賀守藤原朝臣師高解官追位尾張国、
職事権中納言光能仰(二)上卿別当忠親(一)、々々右少弁藤
原光雅仰、光雅左京大夫小槻隆職仰、官符、参議
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平頼宗卿、少納言藤原維基等参請(二)印官符(一)、又仰云、
検非違使右衛門志中原重成、早可(レ)追(二)遣配所(一)者、
今月十三日、叡山衆徒舁(二)日吉社感神院等神輿(一)、不
(レ)憚(二)勅制(一)、乱(二)入陣中(一)、爰警固輩相(二)禦凶党(一)之間、
其矢誤中(二)神輿(一)事、雖(レ)不(レ)図何不(レ)行(二)其科(一)、宜仰(二)
検非違使(一)召(二)平利家、同家兼、藤原通久、同成直、
同光景、田使俊行等(一)給(二)獄所者(二)畢、加賀守師高流
罪、并奉(レ)射(二)神輿(一)官兵六人禁獄事、今日宣下訖、件
間事二通遣(レ)之、以(二)此之旨(一)可(下)令(レ)披(二)露山上(一)給(上)
之由所(レ)候也、恐々謹言、
四月廿日 権中納言藤原光能
執当法眼御房
追申
禁獄官兵交名山上令(二)不審(一)歟、仍内々委細相尋、
究付交名一通所(レ)披(二)相副(一)也、禁獄人等平利家字平
次、是者薩摩入道家秀孫中務丞家資子、同家兼字
平五、筑前入道家貞孫平内太郎家継子、藤原通久
字加藤太、同成直、早尾十郎右馬允成高、同光景
字新次郎、前右衛門尉忠清子、田使俊行難波五郎
也、
か様にぞ書たりける、
廿四日亥の刻ばかりに樋口、富[B ノ]小路より火出来ける
が、辰巳の風はげしく吹て、京中多く焼にけり、昭
宣公の堀川殿、忠仁公の閑院殿、冬嗣大臣のそめ殿、
よしすけ公の西三条、具平親王の千草殿、高明親王
寛平法皇の亭子院、北野天神の紅梅殿、神泉苑、鴨居殿を
はじめとして、名所廿一ヶ所、公卿の家十七ヶ所焼
にけり、殿上人、諸大夫の家は数を知らず、のちに
は大裏へ吹付けて、朱雀門より始て応天門、会昌門、
大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、真言院まで
焼ほろびにけり、家々の日記、代々の文書、資財、
雑具、七珍萬寶さながら灰塵となりぬ、人の焼死る
事数百人、牛馬犬の類数を知らず、総じて都三分一
は焼にけり、樋口、富[B ノ]小路よりすぢかへにいぬゐの
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方をさして、大裏へしやりんばかりなるほむらとび
行けり、おそろしなどはいふばかりなし、只事に非
ず、ひえい山より猿ども多く松に火を付けて持下り
て焼とぞ、人の夢にはあまた見えける、
大極殿は清和天皇御宇貞觀十八年四月九日、始めて
焼たりければ、次の年正月三日陽成院の御即位は、豊
楽院にてぞ有ける、元慶元年四月九日事はじめあり
て、同三年十月八日つくり出されたりけり、後冷泉
院御宇天喜五年二月廿一日また焼たり、治暦四年八
月二日、事始有て、同じ年十月十日上棟ありけれど
も、作りも出されずして、後冷泉院はかくれさせ給
ひにけり、後三条院御時、延久四年十月五日作り出さ
れて行幸ありて、宴会行はれて、文人詩をたてまつ
り、伶人がくを奏す、今は代末になり、国の力おと
ろへて、又作り出さん事もかたくや有んとぞ歎きあ
へる、
治承元年五月五日、天台座主明雲僧正、公請をとど
められ、上蔵人を遣はして、如意輪の御本尊を召返
し、御持僧を改易せらる、すなはち使[B ノ]庁のつかひを
つけて水火のせめに及ぶ、今度神輿を捧げ奉りて、
陣頭へ参りたる大衆の帳本を召さる、加賀の国に座
主の御坊領有り、師高是を停廢の間、其しゆくいに
依て門徒の大衆を語らひて、そせうをいたす、既に
朝家の御大事に及ぶ由、西光法師父子がざんそうの
間、法皇大にげきりん有て、重科に行はるべき由思
召けり、明雲はか様に法皇の御気色あしかりければ、
印鑰を返し奉て、座主を辭し申けり、十一日、七宮、
天台の座主にならせ給、鳥羽院第七宮、故青蓮院大
僧正行玄の御弟子也、十二日、前座主所職をとどめ
らるる上に、検非違使二人付けて、水火の責に及ぶ、
此事に依て大衆、奏状を上げて憤り、猶参洛すべき
由聞えければ、内裏并に法住寺殿に軍兵を召集めら
る、京中貴賤さわぎあへり、大臣、公卿馳参、廿日
前座主ざいくわ有べきせんぎとて、太政大臣以下、
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公卿十三人参内して、ぢん[B ノ]座につきて、定め申さる、
八条中納言長方卿、其時は左大弁さいしやうにてお
はしけるが申されけるは、法家の勘申に任せて、死
罪一等をほろぼして、遠流せらるべしといへども、
明雲僧正は顕密兼学、浄行持律の上、大乗妙典を公
家にさづけ奉る、明王聖主には一乗円宗の御師範た
り、太上天皇には日頃受戒の和尚たり、御経の師、
御戒師、重科に行れん事は冥の照覧はかり難し、還
俗遠流をゆるさるべきかと、憚る所なく申されけれ
ば、残十二人の公卿各々左大弁定申さるる儀にどうず
と申されけれども、法皇御憤り深く思ひければ、猶
流罪に定にけり、是によりて三千の大衆等、大講堂
の庭に三塔会合して、落書有り、其状に云、
告申自(二)大衆中(一)可(レ)被(レ)遣(二)入道相国許(一)事、
夫座主明雲僧正者、挑(二)法燈於三院之学〓(一)、灑(二)戒
水於四海之受者(一)、顕密之大将大戒之和尚也、三觀
之隙必専(二)金輪之久転(一)、六時之次先奉(レ)祈(二)玉體之長
生(一)、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆之思深
援(二)九院之朽梁(一)、護国之志厚而却(二)六蠻之凶徒(一)、依
(レ)之法侶擅(二)修学(一)、悪党隠(二)矢弓(一)、已運(二)修羅道之巧(一)、
而餝(二)護国之道場(一)、豈非(レ)為(二)山門之奇異(一)哉、亦停(二)
兵俗之具(一)而残(二)法僧之具(一)、寧非(二)朝家嚴制(一)也、為(二)
天朝(一)為(二)国家(一)治者明人也、然有(二)一類謗家(一)而所
(レ)悪也、成(二)創瘠(一)矣、是不(レ)被(レ)糺(二)是非(一)、不(レ)尋(二)真
僞(一)、預(二)於重科(一)、蒙(二)流罪(一)之条、非(二)是君[B ノ]有(一)(レ)偏、非(二)
是臣無(一)(レ)忠、讒奏酷僞言之巧故也、讒口鑠(二)荒金(一)、
毀言銷(二)白骨(一)此謂歟、抑明法道之勘状所(レ)載三箇条
事、先快修僧正事、全以非(二)前座主之推印(一)代々
座主之替補、未(レ)任(二)自由(一)、唯衆徒探(二)器量(一)而申(二)
乞貫首之職(一)、亦先座主依(レ)為(二)二宗[B ノ]英花(一)、主(二)於一山
之貫長(一)、是只衆徒之採用也、全非(二)自力結構(一)也、
矧雖(レ)有(二)犯過(一)、於(二)赦免之後(一)者、非(レ)所(レ)糺(二)法量(一)、
何由無罪而被(レ)趣(二)勘責(一)哉、若本自不(レ)叶(二)叡情(一)者、
何於(二)其時(一)可(レ)被(レ)補(二)座主職(一)哉、次成親卿訴訟発
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起之由、亦以無実也、夫末寺末社之訴者、非(レ)始(二)
当代(一)、皆是往代之例也、或将(レ)断(二)根本之常燈(一)、或
闕(二)恒規之祭祀(一)依(レ)之受(二)末所之愁訴(一)而及(二)本寺之
悲歎(一)、列(二)大師門徒(一)之習皆成(レ)之、教納者不(レ)歎(二)三
聖之威光消(一)、誰輩不(レ)悲(二)一山之仏法滅(一)、衆徒三千
之蜂起、何被(レ)引(二)座主一人之結構(一)哉、何况於(二)先
座主(一)者、大畏(二)勅制(一)而頻雖(レ)制(二)大衆[B ノ]蜂起(一)、依(レ)残(二)
愁訴(一)、尚以蜂起矣、抑於(二)成親卿師高(一)者、瑕瑾何
事哉、於(二)今度事(一)、自(レ)始固雖(レ)加(二)禁制(一)、及(二)大事(一)
者、不(レ)拘(二)禁遏(一)、戴(二)三社神輿(一)而参(二)九重之金闕(一)、
曩時之例中古之法也、厥皇化者専(二)天下之大平(一)、貫
首者慕(二)山上之安穏(一)、臣下可(レ)思奏者可(レ)量、有(二)何
幸(一)者可(レ)存(二)乱世之基(一)、豈勸(二)騒動於三千人之衆
徒(一)、招(二)朝勘於一身(一)乎、凡大衆不(レ)叶(二)貫首[B ノ]進止(一)、遂(二)
訴訟之本意(一)事、先皇之代在(レ)之、明哲之時有(レ)之、
天之所(レ)壊不(レ)可(レ)支歟、衆徒所為不(レ)可(レ)妨、已此理
歟、為(レ)承(二)罪科之由緒(一)、雖(レ)挙(二)度々[B ノ]陳状(一)、於(レ)事依(二)
怨家之語(一)而全不(レ)達(二)上聞(一)、弁官隨(二)奸人之謀(一)不(二)
奏聞(一)、然間不(レ)被(レ)決(二)理非(一)、忽蒙(二)使庁之責(一)、不(レ)被
(レ)糺(二)実否(一)、俄定(二)配流之国(一)、是傷(レ)人之言甚(二)劔〓(一)
此謂歟、以(二)好言(一)而全(レ)人、以(二)悪口(一)而損(レ)人者也、
故忘(二)先例讒達之巧(一)故也、亦君非(レ)寄(二)叡山[B ノ]仏法(一)、
怨人之不(レ)顧(レ)所(レ)疵歟、誠魔界競(二)我山(一)而法滅之期
得(二)此時(一)歟、波旬荒(二)洛城(一)而無実之咎達(二)叡聽(一)歟、
爰衆徒等悲(二)仏法之命根之断(一)歎(二)大戒之血脈[B ノ]失(一)之
処、如(二)風聞(一)者、師高行(二)向二村之辺(一)、可(レ)夭(二)害先
座主(一)云々、弥々失(二)前後(一)亡(二)思慮(一)、且芳(二)明徳(一)、且為(二)
最後[B ノ]面拝(一)、被(レ)向(二)宿所(一)而為(レ)陳(二)申仔細(一)、乍(レ)恐留(二)
申先座主(一)之許也、夫根朽枝葉枯、一宗長[B ノ]者衰、三千
之倶可(レ)哀、非(レ)痛(二)貫首之流罪(一)、且悲(二)師資相承之
断(一)、非(レ)惜(二)人名(一)、偏惜(二)法[B ノ]疵〓(一)、祇(二)候於鳳城(一)而皆
護(二)持龍顔(一)、縦雖(レ)有(二)重疊之〓(一)、何不(レ)被(レ)免(二)於積
労(一)、縦雖(レ)有(二)過去之業(一)何不(レ)被(レ)置(二)禮於戒師(一)、若
夫有(二)證據(一)者、尤可(レ)賜(二)正文(一)也、非(レ)返(二)勅定(一)、陳(二)
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仔細(一)也、又恵信僧正事、謂(二)其例(一)者、不(レ)及(二)大海
之一滴(一)、不(レ)足(二)須弥之蠧害(一)、而彼寺僧進而申(二)朝罰(一)、
此者依(レ)為(二)天台依怙(一)、而衆徒軽惜(二)流罪(一)而已、以(二)
此旨(一)可(レ)被(二)執啓(一)、夫国之理乱者、任(二)臣之忠否(一)也、
若不(レ)被(レ)糺(二)邪正之道(一)者、寧天子之守在(二)海外(一)矣、
とぞ書たりける、太政入道是を見給ひて、尤いはれ
ありと思はれければ、此事申とどめんとて参られた
りければ、御風気と仰せられて、御前へも仰されざ
りければ、憤りふかくして出られにけり、
廿一日、前座主明雲僧正をば僧の流罪の例にせられ
んとて、度縁を召返されて、大納言大夫藤井[B ノ]松枝と
俗名を附けていづの国へ流さるべきよし宣下せらる
皆人傾申けれども、西光法師のむじつのざんそうに
依てかく行はれけり、其頃京中にはきせん上下門々
にさかもぎを引きて用心しけり、かかりければいか
なる者がよみたりけん、ふだに書て立たりけり、
松枝は皆さかむきになり果て
山には座主にするものぞなき W027 K014
衆徒西光法師父子が名字を書きて、根本中堂におは
します十二神将のとら神に当り給へる金毘羅大将の
御足の下に踏せ奉て、十二神将、七千夜叉時刻を廻さ
ず西光法師もろたか父子二人が一つのたましひを召
給へやと、じゆそしけるこそをそろしけれ、今夜都
を出し奉れと院宣厳しく、追立のけんびゐし白河の
坊に参りて、此由申ければ、廿一日白河の坊を出給
ひて、伊豆国の配所へ赴給ふ御有様こそかなしけれ、
昨日までは三千人の貫首と仰られて、堂輿、四方輿
にこそ乗給へるに、あやしげなるてんまにゆひぐら
と云物をきてのせ奉り、いつくしげなる御手に皆す
ゐしやうの御ねん珠を持給たりけるを、手綱に取ぐ
してくらの前輪にうつぶき入給ひて、みなれ給ひし
御弟子一人も附奉らず、門との衆徒も見送り奉らず、
官人どものさきに追立られて、関より東に赴き給ふ、
御心のうち、中有のたびとぞ覚しける、爰にゆめみ
P074
る心地して、流るる涙に御目もくれ、行先も見え給
はず、是を見奉て上下涙を流さぬはなかりけり、日
もすでに暮ければ、あはたぐちの辺、一切経の別所
と云所にやすらひ給ふ、夜を待あかして、次の日の
午の時ばかりにあはづの国分寺の堂にしばらく休み
給ふ、是に依て満山の大衆一人も残らず東坂本へ下
りて、十ぜんじの前にしゆ会して、せん議しけるは、
伝へ聞く、震旦の天台山は長安より丑寅、我朝のひ
えいざんは、平安城より鬼門也、伝経、慈覚、智證
大師の御ことは申に及ばず、義真和尚より此かた五
十五代、いまだ天台座主流罪の例を聞かず、末代と
いへどもいかでか我山に疵をばつくべき、所詮三千
人の大衆身を我山の貫首に奉り、命をばいわう山王
に奉て、あはづへ罷向ひ貫首を取とどめ奉るべし、
但追立の官人、領送使あんなれば、取得奉んこと難
し、山王大師の御ちかひより外は頼方なし、事故な
く取得奉べくは、只今しるしを見せ給へと、三千人
の衆徒一同にかんたんを碎きてきねんす、爰に一人
の物ぐるひ出来れり、無動寺ぼうしに乗円律師の童
べに生年十八に成けるが、暫く狂ひをどり、五體よ
り汗を流して申けるは、世はすゑなれども、日月は
いまだ地におちず、国はいやしけれども、霊神光を
かがやかす、爰に貫首明雲は我山の法燈、三千の依
怙たり、然るを罪なくして、他国へうつされん事、
一山のかきん、生々世々心うかるべし、さ有んに取
ては、我山のふもとに跡をとどめて何かせん、本土
へこそ帰んずらめとて、袖を顔に押当て、さめざめ
となきければ、大衆是をあやしんで、誠に山王の御
たくせんならば、我等ねんじゆを奉らんを、少しも
たがへず元の主にかへし給へとて、念珠を同時に宝
前へなげたりければ、物狂ひ是を悉く拾ひ集めて、
いかに我をば引みるぞ、返す返す存外なる次第也、
左はあれどもくわくわうけとれと、一々にもとのぬ
しになげ返したびけり、殊に我山の七社権現の霊験
P075
あらたかにおはします忝なさに、大衆涙を流しつつ、
さらばとくとくむかへ奉らんとて、或はべうべうた
る志賀の唐崎の濱路に、駒にむち打衆徒もあり、或は
まんまんたるやまだ、やばせの湖上に舟にさほさす
大衆もあり、東坂本よりあはづへつづいて、国分寺
の堂におはしましける座主をとめ奉りければ、きび
しげなりつる追立の官人も見えず、領送使もいつち
にか行ぬらんうせにけり、座主は大きにおそれ給ひ
て、勅勘のものは月日の光にだにもあたらずとこそ
申せ、時刻をめぐらさず追ひ下すべきよし宣下せら
るる処に、しばらくもやすらふべからず、衆徒こと
ごとく帰登り給へとて、はしぢかく居給ひて宣ひけ
るは、三台槐門の家を出で、四明幽渓のまどに入し
より此かた、広く円宗の教法をまなび、わが山興隆
をのみ思ひ、国家をいのり奉こともおろそかならず、
門徒をはごくむ心ざしもふかかりき、身にあやまる
ことなく、両所、三聖も定めて照覧し給ふらん、無
実のざんそうに依て、遠流の重科を蒙る、是も前世
の宿業にてこそ有らめと思へば、世をも人をも神を
も仏をも更に恨み奉る事なし、是まで訪ひ来り給へ
る衆徒のほうしこそ申盡しがたけれとて、涙にむせ
び給ふ、香ぞめの御袖もしぼる計也、これを見奉て、
そこばくの大衆も皆涙を流し、やがて御輿をよせて
乗せ奉らんとしければ、昔こそ三千人の貫首たりし
かども、今はかかる様になりぬれば、いかでかやん
ごとなき修学者、智恵深き大徳たちにはかかげられ
て、我山へはかへり上るべき、わらぐつなど云もの
しばりはきて、おなじ様に歩みつづきてこそ上らめ
とて、のり給はざりければ、らんげきの中なれども、
萬もの哀也けるに、西塔、西谷に戒浄房の阿闍利祐
慶とて、三塔に聞えたる荒僧有けり、黒草をどしの
鎧の大荒目なるを草ずりながに着て、三枚甲を猪首
にきなし、三尺五寸の大長刀の茅の葉の如く成をつ
き、大衆の御中に申候はんとて、さしこえさしこえ分行
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て、座主の御前に参りて、かぶとをぬぎ、荊の方へ
がはとなげ入ければ、しもべ法師原取てけり、長刀
を脇にはさみ、ひざをかがめて申けるは、か様に御
心つたなくわたらせ給ふに依て、一山に疵をもつけ
させ給ひ、心憂めをも御らんぜられ候ぞかし、貫首は
三千人の衆徒にかはりて流罪の宣旨を蒙り給ふ、三
千の衆徒は貫首にかはり奉て、命を失ふとも何の愁
か有ん、とくとく御輿に召れ候へと申て、座主の御
手をむずと取て、御輿にかき乗せ奉りければ、座主
はわななくわななく乗給ひぬ、やがて祐慶輿の先ぢんを
かく、後ぢんわかき大衆、行人などかき奉りて、あ
わづより鳥の飛がごとくして登山する、祐慶阿闍梨
には一度もかはらざりけり、長刀の柄もこしのなが
えもくだくる計ぞ見えたりけり、後ぢんは怺へずし
て各々かはりけれども、さしもさかしき東坂本を平
地を歩むにことならず、大講堂の庭にかきすへ奉る、
行歩叶はであはづへくだらぬ老僧共は、此事はか様
に有るべきぞや、日頃一山の貫首とあふぎ奉りつれ
ども、今は勅かんを蒙り給ひて、遠流せらるる人を
中途にて横取にとどむる事、始終いかが有べからん
など議すれども、祐慶少しもはばからず、扇子ひら
きつかひ、むねをしあけて、むな板きらめかして申
けるは、恵良、脳をくだきしかば、一人是をたつと
び、尊意、威を振ひしかば、萬方是をあふぐ、然れば
我山は是れ日本無双の霊地ちんご国家の道場也、山
門の御威光弥々さかんにして、仏法、王法牛角也、し
ゆとの意趣も余山に越、いやしき小法師原に至まで、
世以て猶かろしめず、いかにいはんや明雲僧正は智
恵かうきにして、一山の和尚たり、徳行無双にして、
三千の貫首たり、しかるを罪なくして罪を蒙給ふこ
と、是しかしながら山上洛中の鬱り、興福をむじや
う寺のあざけりか、かなしき哉や、此時に当て、けん
みつの主をしくわんのまどの前には蛍雪のつとめす
たれ、三みつのだんの上にはごまのけぶりたえず、
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心うき事に非や、伝へ聞く、ぎをん寺の住僧は密多羅
王の宣をかへし、せい凉山の斉僧は会昌天子の軍を
防ぐ、法のために身を殺し、師にかはりて命を捨る、
月氏、震旦、其例是多し、誠に中途にしてとどめ奉
たる事、違勅の罪科のがれがたくば、所詮今度三塔
の張本にさされて、きんごく流罪せられ、かうべを
はねられんこと、全いたみ存べからず、かつうは今
生の面目めいどの思ひ出たるべしと高声にののしり
て、両眼より涙をながしければ、満山の衆徒是を聞
て、老たるも若きも衣の袖をぬらしつつ、尤尤と
一同す、頓て座主をかき奉て、東塔の南谷妙光坊へ
ぞ入り奉りけり、夫よりして祐慶をば異名にはいか
め房とは名附けれ、其弟子慧慶律師をば子いかめ、
其弟子さんけい、備前注記を孫いかめと申けるとか
や、
時のわうわいは権化の人ものがれざりけるにや、大
唐の一行阿闍梨は玄宗皇帝の御時、無実のあやまち
に依てつみを蒙りしことありけり、其故は楊貴妃と
云人おはしき、もとは仙女にておはしけるが、唐女
とげんじ給へり、蓬莱宮へ帰り給ふべき期も近くな
りにけり、御兄の楊国忠を召して、帝にわかれ奉る
べき期の近づきたるやらん、此程は胸さわぎうちつ
づきはかなき夢の見えて、常は心のすむぞとよと宣
ひければ、人の身に拂難延命事、受戒のくりきにし
くはなし、一行阿闍梨を召して、后戒受け給べき由
聞えけれども、帝の御ゆるしなるらんには、たやす
く戒を授奉り難き旨を申さる、和尚は菩薩の行を立
てて、一切衆生みちびき給ふなるに、なんぞ我身一
にかぎりて戒を授け給はざるべきやと、后うらみ給
ひければ、さらばとて野坂宮といふ所へ入奉り、七
日七夜ぼさつの浄戒を授け奉る、其ころあんろくざ
んといひける大臣、奸心をさしはさみて、やうこく
ちうを失ひて、国務をとらばやと思ふ心深くして、
つゐでをもとめける折節、此事をもらし聞て、密に
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皇帝に申けるは、后すでに帝にふた心おはしまして、
国忠に御心を合せて、一行に近附給ふことあん也、
君うちとけ給ふべからずと、帝是を聞給ひて、貴妃
は我に心ざし浅からず、一行又尊き僧也、何故にか
只今さること有るべきと宣ひけれども、実否を知給
はんために、やうきひの真のすがたを少しもたがへ
ず繪に書き奉べきよしを一行に仰らる、一行もとよ
り大唐一のにせゑの上手にておはしければ、斯るは
かりごと有とも知給はず、筆を盡して貴妃の形をう
つして参られけるほどに、いかがしたりけん筆を取
はづして、貴妃のほぞの程にあたりて墨附てけり、
墨の附所に貴妃のほぞには黒子と云もの有けるとか
や、書直さばやと思はれけれども、帝おそしとせめ
給ひければ奉りぬ、帝是を見給ひて、安禄山は誠を
いひけり、一行貴妃に近づき給はずば、いかでかは
だへなる黒子をば知るべきとて、すなはち一行を火
羅国といへる国に流さる、件の国はふるき王宮なり
ければ、彼の国へ下る道三あり、一をば林池道とい
ふ、此道は行幸の道也、一の道をば極池道と名附、
貴賤上下を嫌はず行通ふ道也、一の道をばあんけつ
道と名附たり、犯科の者の出来ぬれば、遣す道也、
此道は四十里の河あり、水湛々としてきはもなく、
もろもろの毒蟲あり、さればわたり着事難し、自然
わたり附ぬれば、又七日七夜空を見ずして行道ある
国也、冥々としてひとり行、峰よりみねに登れば、
雲霧風をわけて跡もなし、谷より谷に下れば、がん
くつそびえて底もなし、行天くらくして、前後道ま
どひ、しんしんとして人なし、幽谷の鶏一声鳴、さ
こそ心細く思ひ給ひけめ、思ひやられて哀也、一行
無実にて遠流の罪を蒙る事、天道あはれみ給ひて、
九曜のかたちを現じて守り給ふ、一行ずゐきの余り
に、右の小ゆびをくひ切、左の三衣の袂に九曜のか
たちをうつしとどめ給ひにけり、火羅の圖とて我朝
まで流布する九曜まんだらと申は是也、抑一行阿闍
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梨と申は、元は天台一行三まいの禅師也、其後真言秘
法にうつりて、専此行を行給ひしかば、一行とは名付
たり、其聖跡を尋ぬれば、大日八代の末葉、龍猛菩
薩よりは五代、龍智阿闍梨よりは四代、善無畏三蔵
の孫弟子、金剛智三蔵の嫡弟也、国家の重寶として
人しんの依怙たりしを讒し申けることこそ浅ましけ
れ、我朝の明雲僧正は両宗の法燈をかかげて、一朝
の護持を致す、遠くは釈迦、大日の教法を学び 、近
くは伝教、慈覚の余流をくむ、法雲一天におほひ、
徳水四海にみてり、先賢にもありがたく、後哲にも
まれなるべし、末代に相応し給はで、かかるうきめ
を見給ふこそかなしけれ、昔の禄山は一行をざん奏
して、ほどなくめつしにき、今の西光は明雲を讒言
して、即時に亡ぶべきかと智臣傾申けるとかや、大
衆前座主を取とどめ奉るべき由、法皇聞し召し、いと
ど安からず思召けるに、西光入道内々申けるは、昔
より山門の大衆乱れがはしき訴訟仕ることは、今に
はじめねども、いまだ是ほどの狼藉承り及ばず、今
度ゆるゆるに御さたあれば、世は世にても有べから
ず、能々御いましめ有べしなどとぞ申ける、身の只
今亡びんずる事をもかへり見ず、山王の神辺をも憚
からず、か様にのみ申て、震襟をなやまし奉る、浅
ましきことなりけり、讒臣国をみだし、妬婦家をや
ぶる、実なる哉、〓蘭欲茂、秋風敗之、王者欲明、
讒臣蔽(レ)之といへり、斬(レ)人刃自(レ)口出斬(レ)之、敬(レ)人種
自(レ)身出蒔(レ)之と云、本文違はず、西光法師が天台座
主を様々に讒奏し奉り、山門の滅亡、朝家の御大事
を引出す事こそ浅ましけれ、此事武家に仰せられけ
れども、すすまざりければ、新大納言以下の輩、武
士を集めて山をせめらるべき由さた有けり、物も覚
えぬ若き人々、北面、下臈などは興有ことに思てい
さみあへり、少し物の心をも弁へたる人は、只今天
下大事出来なんこは心うきわざかなと歎きあへり、
又内々大衆をも拵へ仰せられければ、院宣度々下る、
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かたじけなければ、左のみ詔命をたいかんせんも恐
れ有ければ、思ひ返しなびき奉る衆徒もありけり、
座主は妙覚坊におはしましけるが、大衆二必有と聞
給ひければ、何にと成んずらんと心ぼそくぞ思しけ
る、
成親卿は山門の騒動により、私の宿意をばおさへら
れけり、其内儀したくさまざまなりけれども、儀勢
ばかりにて叶ふべしとも見えざりけり、初は太相国
うつべきしたく各々はかり申けるは、来六月七日は祇
園の神事にて京中六波羅何となくひしめく事有らん
ず、其紛れに、多田蔵人大将軍として八条おもてに
よすべし、法勝寺の執行平判官は七条がまへの小川
に向ふべし、近江入道式部大夫修善寺の西裏へ押寄
て、後ろの竹林に火をかけて攻んに、太政入道天へ
あがり地に入べきか、只今宿望は遂なんずとぞ申あ
へけり、其中に多田蔵人行綱はさしものちぎり深く
頼れたりけるが、この事無益なりと思ふ心つきにけ
り、さて弓袋の料に新大納言より得たりける五十た
んの布ども、ひたたれ、はかまに裁繼して、家の子
郎等に着せつつ、目うちしばだたきて居たりけるが、
つらつら平家のはん昌する有さまを見るに、当時や
すくかたぶけがたし、大納言のかたらはれたる兵も
いくほどなし、よしなき事に與力してけり、若此事
もれぬるものならば、誅せられん事疑ひなし、いひ
がひなき命こそ大切なれ、他人の口よりもれぬ先に
返り忠して命生なんと思ひて、五月廿九日夜うち更
て太政入道の方へ行向ひて、行綱こそ申べきこと候
て参て候へと申ければ、常にも参らぬ者の、只今夜
中に来るこそ心得ね、何ごとぞきけとて、平権頭も
り遠が子主馬判官もり国を出されたり、人伝に申す
べきことにては候はず、直に見参に入て申すべしと
申ければ、入道右馬頭重衡を相具して、中門の廊に
出あはれたり、入道宣ひけるは、六月無禮とてひもと
かせ給ひ、入道も白衣に候ぞとて、白かたびらに大
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口ふみくくみて、すずしの小袖うちかけて、左の手
にうち刀ひさげて、右の手にて蒲あふぎつかはる、
此夜はまさにふけぬらん、いかに何事におはしたる
にか、行綱近々とさし寄て、小声に成りてささやき
申けるは、いと忍て申すべきこと候て、昼は人めの
つつましきに、わざと夜に入て紛て参りて候、院中
の人々兵具を調へ、軍兵を召し集めらるる事をばし
ろし召れて候やらんと申ければ、いざ我は山の大衆
を責らるべきとこそ承れと、いと事もなげに宣ひけ
れば、其儀にては候はずとて、日頃年月新大納言を
始として、俊寛が鹿の谷の山庄にて寄合々々、内議
支度しける事、某はとこそ申候しが、かくこそ申候
しがと、人のよきことしたるを、我が申たりと云ひ、
我が悪口したるをば人の申たるに語なし、五十たん
の布のことをば一端もいひ出ざりけり、有のままに
さし過て、さまざまの事ども取つけて委く申ければ、
入道大に驚きて宣ひけるは、保元平治より此かた、
君の御ために命をすてんとする事すでに度々也、人
はいかに申とも、君々にて渡らせ給はばいかで入道
をば子々孫々迄も捨させ給ふべき、おほそれながら
君もくやしくこそ渡らせ給はんずらめ、抑此こと院
は一定しろし召れたるかと宣ひければ、仔細にや及
候、大納言の軍兵催され候しも、院宣とてこそ催さ
れ候しかとて、其外もさまざまの事どもいひちらし
て、いとま申とて帰にけり、新大納言にさしもちぎ
りふかく頼れける行綱が、返り忠しけるうたてさよ、
曲戦在昔不変も心とこそ文選の中にも申されたれ、
空行鳥をも取つべし、海底の魚をも釣つべし、唯は
かりがたきは人の心のうち也、弓矢取ほどの者の同
じくは思切べかりけるものをとぞのちは人申ける、
入道大音にて子どもよびあげられけるけしき、門外
まで聞えければ、行綱さしもやはとこそ思ひつるに、
たしかの證人にや立られんずらん、あなおそろしと
て、野に火を附たる心地して、人も追はぬにとりは
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かまして急ぎ馳かへりぬ、入道貞能を召して、むほ
んの者どものあんなるぞ、侍どもきと召集めよ、一
家の人々にも各々ふれ申せと宣ひければ、面々に使を
はしらかして、此由を申に、およそいづれもいづれもさ
わぎあひて、我先にとはせあつまる、右大将宗盛、
三位中将知もり、左馬頭重衡、其外の人々、侍、郎等
各々かつちうをよろひ、弓矢を帯してはせつどふ、其
勢雲霞のごとし、夜の内に五千余騎に成りにけり、
六月朔日いまだほのぐらき程に、入道の内のけんび
ゐし安部の資成を召して、院の御所へ参りて大膳大
夫の信業を呼出して申べしよな、ちかく召仕はるる
者共の朝恩にほこる余りに、世を乱さんと仕由承候
へば、尋さた仕るべく候と申せとて参らせらる、資
成急ぎ院の御所へ参りて、信業を呼出して此由を申
ければ、信業色を失ひて御前へ参りて奏聞しけれど
も、分明の御返事なかりける、此事こそ御心得られ
ね、こは何事ぞとばかり仰あり、資成急ぎ馳帰りて
此由を申ければ、入道よし御返事あらじ、何にとか
は仰有るべきぞや、君もしろし召されたりけり、行綱
はまことしけりとて、筑後守家貞、常陸守景家等を
召して、むほんの輩其数あり、上下北面の者ども、
一人ももらさずからめとるべきよし下地せられけれ
ば、或は一二百騎、二三百騎を以て押寄からめ取け
り、
西光法師事
其中に左衛門入道西光は日の始より根本與力の者な
りければ、かまへてからめ迯すなとて、松浦太郎重
としが承り、方便を附て伺ひける程に、西光は院の
御前にて人々の事にあひける事を聞て、人のうへと
も思はず浅ましと思ひて、あからさまに宿所を出て、
又御前へ参けるに、物のぐしたる武士には目もかけ
ず、足ばやにあゆみけるを、先に待かけたる武士申
けるは、八条の入道殿より、きと立より給へ、申合す
べき事有と仰せられ候といひければ、西光少し赤面
してにが笑ひし、公事に附て申上べき事候、やがて
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参り候べしと云ひて、あゆみすぎんとするに、後に有
ける武士かはひや和入道らが何事をか君に申べき、
世の大事を引出して、我も人もわづらひあり、物な
いはせそとて、打ふせてつな附けて、武士十余人が
中に追立て行て、八条にてかくと申入たりければ、
門より内へは入られず、すなはち重俊が承て、事の
起りを尋られければ、はじめは大きに争ひて、我身
にあやまたぬ由をちんじければ、入道大に腹を立て
乱形にかけて打せたげて向ひければ、有事無きこと
皆落にけり、かかせて判せさせて、入道殿に奉る、
入道是を見給ひて、西光とりて参れと宣ひければ、
重俊が家の子郎等ら、空にもつけず地にもつけず、
中にさげて参りたり、やがてめんだうの唐かきの前
に引すへらる、入道は長絹の直垂に黒糸をどしの腹
巻にこがね作りの太刀かもめじりにはきなして、尻
きれはきて、中門の簀の辺に立れたり、其気色やく
なげにぞ見えられける、西光をにらまへて宣ひける
は、いかに己ほどの奴は入道をかたぶけんとするぞ、
もとより下郎の過分したるはかかるぞとよ、あれほ
どの奴原を召し上げて、なさるまじき官職をなし給
ひて召仕はせ給へば、父子ともに過分のふるまひす
るものかなと見しに合て、罪もおはせぬ天台座主ざ
んげんし奉て、遠流に申行て、天下の大事引出して、
あまつさへ此事に與力してけるが、根元よりきの者
と聞たり、其仔細具に申せと宣ひければ、西光もと
よりさる者なりければ、少しも色も変せずわろびれ
たる気色もなくて、あざ笑ひて、のちことせんとて
申けるは、院中に召し仕はるる身にて候へば、執事
別当新大納言殿、院宣とて催され候しことによりき
せずとはいかでか申べき、與力して候き、但耳にと
どまる御言葉をつかはせ給ふもの哉、他人の前は知
らず、西光が前にては過分の詞はえこそつかはせ給
ふまじけれ、見ざりしことか、入道殿の父忠盛は中
御門のとう中納言家成卿の辺に朝夕ひらあしだはき
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て閑道より通り給ひしをば、人高平太と申て笑ひし
が、わ入道殿も忠盛の嫡子といひしかども、十四五
迄は叙爵をだにもし給はず、かふりをだにも給はら
せ給はで、継母の池の尼上に小目見せられて有し時
は、あは六波羅の高平太が通るはとて、京童はゆび
をさして申しが、其後故刑部殿海賊張ぼん三十余人
からめ参せられたりし軍功の賞に、去保延の頃とか
や、とし十八九がほどにて四位して、兵衛佐になり
給ひしをこそゆゆしきことかなと、世以て傾申しか、
王孫とはいひながら、数代久なりくだりて、殿上人
の交りをだにも嫌はれて、闇討にせられんとし給ひ
し人の子にて、今恭く即闕官を奪ひ取て、太政大臣
まで成あがりて、剰天下を我ままにせらるる、是を
こそ過分と申べけれ、侍ほどの者の受領検非違使靱
負尉になる事、傍例、先例なきに非ず、なじかは過
分なるべき、わ入道こそ過分よ過分よとゐたけ高く成
て、詞もたわまずさんざんに申ければ、入道余りにい
かりて物も宣はず、暫ありてはらをすへかねて、つ
とあゆみよりて、尻きれはきながら、西光がつらを
ひたひたとけて検非違使の下部を召して、西光めさ
うなくくびきるな、よくよくさいなめと宣ひければ、
重としが郎等つつとよりて、大しもとをもて七十五
ヶ度の考棒を、ほうに任てくはへてけり、心たけく
西光思ひけれども、もとより問ぞんぜられたりける
上、しもとの身にしみて術なければ、声をあげてぞ
さけびける、西光法師は三位[B ノ]中将知盛のめのと紀伊
次郎兵衛尉ためのりがしうとなりければ、三位[B ノ]中将
も西光を我に預け給へと、二位殿に附て申されけれ
ども、聞入られず、ためのりも人手にかけ候はんよ
り、預り候ていましめ候はんと申けれども、預給は
ず、是によて三位中将も、次郎兵衛も、二人ながら
世を恨みて、世間さわがしかりけれども、さしも出
されざりけるとかや、
新大納言成親事
其後入道小平太と云中げんを召して、中御門新大納
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言の許に行て、申合すべきことあり、急ぎ立寄給へ
と申べしと宣ひければ、使はしりつきて此様を申、
大納言思はれけるは、あはれ是は例の山の大衆のこ
とを申されんずるやらん、此事はゆゆしく御憤り深
げなり、叶ふまじきものをと思ひて、我身の上とは
露ちり知給はで出立れけるこそはかなけれ、八葉の
車のあざやかなるに、前駈二人、侍三四人ばかり召
具して、なゆ清げなる布衣たほやかに着なし、雑色、
牛かひまでも常の出仕より引繕ひたる體にて出られ
ける、それを最後の出仕とは後にぞ思ひ合せ給ひけ
めと哀也、入道おはする西八条近くやりよせて、其
程を見給へば、軍兵充満したり、あな夥し、こはい
かなる事ぞ、只今山を責られんずるにやと、胸打さ
わぎて車よりおり給ひければ、門の内には兵、所も
なくうちこめて、只今ことの出来たる體也、中門の
戸にこぐそくばかりつけたる者二人立向ひ、大納言
の左右の手を取て飛が如くにして内へ入ければ、た
だ夢の心地して、あきれて物も覚え給はざりけるに、
又兵七八人ばかりつとよりて、しや、もとどりを取
ぬれば、御ゑぼうしも落ち、布衣も破れにけり、兵
前後に立圍みて、中門の上へ引のぼせて、侍の上に
一間成処に押こめつ、是を見てともに有つる諸大夫、
侍も、雑色牛かひも目口はたかりて、とかく物もい
はれず、牛車を捨て四方に逃失ぬ、大納言は六月の
さしもあつきに、一間なる処に籠られて、装束もく
つろげずしておはしければ、あつさもたへがたさも、
せん方なくて涙も汗も争ひてぞながれける、中にも
はや日頃あらましことの聞えけるにこそ、いか成者
のもらしつらん、北面の者の中にこそ有らん、小松
大臣は見え給はぬやらん、さりとも思ひはなち給は
じものを、同じく死ぬるとも、物一こといひ置て死
ばやと思はれけれども、誰して宣ふべしともなし、
身のかくなるに附てもあとの有さまいかならん、お
さなきものども覚束なしなど、さまざまあんじつづ
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け給ひけるほどに、良久有りて、内の方より人の足
おと高らかにして来りければ、大納言は只今失はれ
んずるやらんと、気も心もけして居られたりけるに、
入道、大納言のおはしける後の障子を荒らかにさつ
と明られたり、そけんの衣のみじからかなるを、白大
口とふみくくみて、ひじり柄の刀をおしくつろげて、
大にいかれる気色にて、大納言をにらみ附て宣ひけ
るは、大納言殿一とせ平治の逆乱の時、信より義朝
に御同心あて、朝敵と成給ひたりし時、越後の中将
とてしまずりの直垂にはかま着て、折ゑぼし引入て、
六波羅のむまやの前に引すへられておはせしかば、
死罪に定りて、すでに誅せらるべきにて有しを、内
府がとかく申なだめたりしかば、七代まで守りの神
とならんと手を合せて、なくなく宣ひし事は忘給ひ
たるな、人はみめかたちのなだらかなるをば人とは
申さぬぞ、恩をしるを人と申ぞ、わ殿の様なる者を
こそ人のかはを着たるちく生とはいへ、されば何に
のくわたいに依て当家を亡すべき御結構は有けるや
らん、されども微運盡ざるに依て、此事顕はれてむ
かへ申たり、日頃御結構の次第、只今直に承るべし
と宣ひければ、大納言涙を流して、なまじひに身に取
て全く誤りたる事候はず、人のざんげんにて候はん、
委くは御尋有べく候と宣ひければ、入道いはせもは
てず、西光法師が白状参らせよと宣ひければ、捧て
参りたり、入道急ぎ引広げて、くり返しくり返し二三通
までよまれたり、成親卿を始として、俊寛が鹿の谷の
坊にて平家を亡すべき結構の次第、法皇の御幸、
康頼がこたへに、一事としてもるる所なく、四五枚
にしるされたり、是はいかに、此上はひちんにや及
ぶべき、是をばどこを争ふぞ、荒にくやとて、白状
を大納言の顔に投附て、障子をちやうとたてて入給
ひけるが、なほはらをすへかねて、つねとほ、兼や
すはなきかと宣ひければ、つねとほ、かねやす、す
ゑさだ、盛国など参りければ、誰が下知にて大納言
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をば、障子の内にはのぼせたるぞ、あれ坪の内に引
おとして取ふせて、したたかにさひなみて、おめか
せよと宣ひければ、つね遠以下兵どもつとよりて、
大納言を庭に引おとす、其中にすゑさだ元より情あ
る者にて、大納言を取ておさへて、左の手にて大納
言の首を強くとらへ、右の手にて胸をおす様にて、
さすが強くもおさず、すゑさだ口を大納言の耳にさ
し当て、入道殿の聞せ給はん様に、御声を只をめか
せ給へとささやきければ、大納言声を上て二声三声
をめかれけるを、入道聞給ひて只おしころせやおしころせや
とぞ宣ひける、其ありさまめも当られず、地獄にて
ごくそつ阿防羅刹の浄はりの鏡に罪人を引むかへ、
先世につくりし所の業によて呵責をくはへ、業のは
かりにかけて、軽重を糺して、刑罰を行はんも、か
くやと覚えて哀なり、かくしてすゑさだ退にけり、
なんばの次郎つね遠と云あたかほなし、我もかくし
て御気色に入んと思ひて、又つと寄りて、大納言の
上にひたと馬のりに乗ゐて、左の手の中の指をのけ
ざまにおり附けて、縄附け候べきやらんと申ければ、
入道さすがに今日こそ敵ならめ、昨日まで禁裏、仙
洞にて扇を並べし卿相に、忽にはぢを見せんこと、
かはゆくや思はれけん、おとなしにておはしければ、
又兵よて引起しておし立てて、もとの所に押込てけ
り、昔蕭囚執、韓彭〓醢、晁錯受(レ)戳、周魏見(レ)〓、
受(二)小人之讒(一)、受(二)禍敗之辱(一)といへり、蕭何樊〓、韓
信、彭越、皆高祖の功臣たりしかども、かくのみこそ
ありけり、唐朝にも限らず、我朝にも保元、平治の頃
は浅ましかりしことども有しぞかし、新大納言一人
に限らずこはいかにせんずるとて、人歎あひける、
小松内大臣しげ盛公は其後いと久ありて、ゑぼし、
直垂にて子息中将車の尻に乗せて、衛府四五人、ず
ゐじん二三人ばかり召具して、それも皆布衣にて物
具したる者一人も具せず、いとのどやかにおはした
り、入道をはじめ奉て、人々思はずに思ひ給へり、
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いかに是ほどの大事出来たるにはと、人々宣ひけれ
ば、内府宣ひけるは、天下の御大事をぞ大事とは云、
何程のことか有るべきぞと仰せられければ、人々皆
しらけにけり、兵具を帯したる者そぞろきてぞ有け
る、内府さるにても大納言をばいかにしけるやらん、
今のほどには死罪、流罪にはよも及ばじと覚して見
廻り給へば、侍の障子の上にふしぬぎと云大きなる
木をくもでにゆひちがへたる一間なる所あり、日ご
ろはかかる様にもなし、俄に出来ければ、爰に大納
言は籠らせたりなどおぼして、只今通る由をおとづ
れらる、あんの如く大納言はくもでのあいより内府
を見附けて、地蔵菩薩を見奉りたるも、是には過じと
うれしくて、是ぞいかなることにて候ぞ、誤りたる
ことも候はぬものを、さておはしませば、さりとも
とこそ思ひ奉り候とて、はらはらとなき給ふもむざ
ん也、大臣は人のざんげんにてぞ候はん、御命ばか
りは申請ばやと思へども、それもいかが候はんずら
んと頼もしげなく宣へば、心うし、平治のらんの時、
うせぬべかりしに、御恩をもて命をいけられ奉て、
位正二位、官大納言にいたり、年すでに四十あまりに
なり侍ぬ、生々世々にも報じがたくこそ思給へ、今
度は命ばかりを同じくいけさせ給へ、髪をおろして
かうや粉がはにもこもり居て、一筋に後生のつとめ
をせんと宣へば、哀に覚えて、重盛かくて候へば、
さりともと思召さるべし、御命にかはり奉るべしと
て立れにければ、かく宣ふに附ても、かひなき涙の
みぞ流れける、少将も召とられぬらん、残りとどま
るあとの有さまもいか成らん、おさなきものどもも
覚束なし、我身の御事は去事にて、是を思ひつづく
るにも、むねもせき上げて、あつさもたへがたきに、
くるるを待て、命もたえぬべくぞ思ひ給ひける、内
大臣のおはしつるほどはいささかなぐさむ心地もし
つるに、いと言葉すくなくてかへり給ひて後は、今
少しものもおそろしくかなしくぞおぼされける、大
P089
臣は入道の前におはしたりければ、入道宣ひけるは、
大納言むほんの事と聞れざるか、さん候皆承て候、
さていか様なる罪に行はるべきにて候やらん、こと
もおろかや、只今きらんずるものをと宣ひければ、
扨は不便のことにてこそ候なれ、大納言失はれん事
は、能々御はからひ候べし、七条修理大夫あきすゑ
の卿、白河院に召仕はれてよりこのかた、家久しく
成てすでに位正二位、官大納言までのぼりて、当時
も君の御いとをしみの者なるを、我身に仇をなせば
とて、忽にかうべをはねられん事いかが有べからん、
かく聞し召れ候とも、若僻事にても候はば不便の事
にて候はずや、北野の天神は時平の大臣のざんげん
によて、八重のしほぢに赴給ふ、西の宮の左大臣は
多田新発意がざんげんに依て尾張辺どへうつされ給
ふ、各々無実なりけれども、流罪せられ給ひき、是皆
えん喜聖主、安和御門の御僻事とこそ申伝へたれ、
上古猶かくのごとし、いかにいはんや末代をや、賢
王猶御あやまりあり、いはんや凡夫をや、くはしく
御尋あるべし、御思惟も有べきか、ものさわがしき
事は後悔先にたたずとこそ申候へ、すでにかく召置
れ候上は、急ぎ失はれずとも、何のくるしみか有べ
き、罪のうたがはしをば只軽くせよ、功のうたがは
しきをば只重くせよとこそ申伝へたれ、いか様にも
今夜かうべをきられん事然る可らずと宣ひければ、
入道猶心ゆかずげにて、返事もし給はず、内大臣かさ
ねて申されけるは、重盛彼[B ノ]大納言のいもとに相具し
て候、これもり又大納言のむこ也、か様に近くなり
候へばとて、申とや思し召され候らん、其儀にては
候はず、世のため君のためを存て申也、一年保元逆
らんの時、故少納言入道信西が執権の時に相当て、
本朝にたえて久しかりし死罪を行ひて、左府の死骸
を実検せられし事などは、余りなる御政とこそ覚候
しか、古人の申されしは、死罪を行はるれば、むほ
んの輩絶べからず、此言葉はたして中二年ありて、
P090
平治に事出来て、信西が埋まれたりしをほり出して、
かうべを切て渡されにき、保元に申行事忽に報て、
身の上にむかはれにけり、思ひ合せられて恐ろしく
候ひしが、是はさせる朝敵にもあらず、かたがたお
それ有べし、御身栄華は残る所なければ、今は思召
事なけれども、子々孫々に至るまではん昌こそあら
まほしけれ、しやく善の家には余慶あり、積悪の家
には余殃とどまるとこそ承れ、されば周の文王は大
公望に命ぜられて、おのれがかうべを恐るるごとく
にせよ、唐の太宗は張温古を切りて、後五覆奏を用
ひらる、又善を行へば、則休徴報(レ)之、あくをおこな
へば、すなはち咎徴随(レ)之などとも申たり、又世をし
づめん事は琴を鳴すがごとし、大絃急なる時は小絃
絶ずきるとこそ、天りやくの帝も仰られけれなどと
こまごまこしらへ申されければ、げにもとや思はれ
けん、今夜切べき事は思ひなだめて、其日は暮にけ
り、内大臣はかくこしらへおき給ひけるが、猶心安
からず覚えて、然るべき侍どもを召て宣ひけるは、
仰なればとて、重盛にしらせずして、左右なく大納
言を失ふこと有べからず、腹の立ちのままものさわ
がしき事は後悔先に立給ふまじ、ひが事仕出して、
重盛を恨むなといましめられければ、武士ども舌を
ふりておぢあへり、つねとほ、かねやすなどが大納
言になさけなく当りたりける、返す返す奇怪也、重
盛がかへり聞ん所をばいかでか憚らざるべき、忠清、
景家ていの者ならば、たとひ入道殿いかに仰らるる
ともかくはよもあらじ、かた田舎の者はかかるぞと
よと宣ひければ、難波次郎、瀬の尾太郎ら恐れ入
たり、
平家物語巻第二終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第三
P091
平家物語巻第三
偖大納言供したりける者共走帰て、大納言殿は西八
条に召こめられ給ひぬ、夕さり失ひ奉るべしとてく
るるを待とこそうけ給つと、ありつる有様をなくな
く申ければ、北方よりはじめて、男女声を上てをめ
きさけぶ、さこそかなしかりけめと推量せられてあ
はれなり、夢かや夢かやと思へども、うつつにてぞ有
ける、叫喚地獄の衆生とぞみえし、あたりの人の申
けるは、いかにかくては渡らせ給ふやらん、叶はざ
らんまでも、立忍ばせ給へ、少将殿を始奉て、きん
達皆召させ給べしとこそ承つれ、涙もかきあへず申
あひければ、是ほどの事に成て残りとどまる身とも
あんをんにて何のかひかは有べき、我も一野の露と
消なん事こそ本意なれ、けさを限りと思はざりつる
ことのかなしさよとて、伏まろびてなきかなしみ給
ふもことわり也、すでにつはもの来り向ふと申けれ
ば、かくて恥がましく有ん事もさすがなるべければ、
ひとまどなりともたち忍んとて出給ふ、跡先ともな
きおさなき人どもとりのせて、いづくをさして行と
もなくやりいだす、牛飼これはいづくへ仕べきにて
候やらんと申ければ、北山の方へと車の内よりのた
まへば、大宮を上りに、北山の雲林院の辺までまし
ましにけり、その辺なりつるそう坊におろしすへた
てまつりて、送りの者ども、身々のすてがたければ、
各いとま申てなくなく帰りにけり、今はいひがひな
き小歳人々ばかりとどまりゐて、又事とふ人もなく
てましましけむ、北方の心中推量せられていとをし、
日のくれ行影を見給ふにつけても、大納言の露の命
今夜を限りなりと思ひやられて、消入心地ぞせられ
ける、女房侍ども、かちはだしにて恥をもしらずま
よひいでにけり、家中の見ぐるしきものども、取し
たたむるにも及ばず、門をだにもおしたつる人もな
P092
し、馬どもは馬屋に立並びたれども、草かふ者もな
し、夜あくれば馬車門に立て、賓客座につらなり、
遊びたはぶれ舞をどり、世は世とも思はず、近きあ
たりの人は物をだに高くいはず、門前を過るものも
おぢ恐れてこそ昨日までも有つるに、夜の間にかは
り行こそかなしけれ、盛者必衰のことわり、目の前
にこそあらはれけれ、此北方と申は、山城守敦方が
娘にてましましけるを、けんしゆん門院の御乳母諸
人とて、御身近き人に召仕はれけるものなりけるが、
我身あやしの下臈なるを、御身ちかく召仕はるる事
おそれありとて、養子にして参らせけるを、法皇浅
からず思召して、十四の年より十六まで御いとをし
み深かりけるを、二条院の御位の時是を御覧じて、
忍忍に御書を遣されけり、しばしはとかくれ申
けれども、ただ法皇をばすて参らせて参るべき由、
仰しきりなりければ、内々諸人にいひ合せられける
に、女院の思召す所も恐れ覚ゆれども、力及ばずし
てこそ過しつれ、左程に仰のあらん上は、内へ参ら
せ給たらば、かたがた然るべしと許しければ、法皇
の御所を遁出て、内裏へ参り給にけり、兼て思ひあ
らまし給けるにもたちまさりて、御心ざしたぐひな
く深かりけり、最後の御惱の重らせ給ひける御事も、
此人のとがなりとて、大夫三位殿とて重き人のさぶ
らひけるにもただ御里へ出給へ、かくてはいよいよ
あしかりなんとて、いさめ申されける間、闇路に迷
ふ心地して、思ばかりはなけれども、泣々まかり出
給ひぬ、事なをざりなる御惱ならば、更に許し奉ま
じけれども、日に添へておもくならせ給へば、力及
ばで出給ぬ、又十六歳より内へ参り給て、中二年に
て十九と申けることし、御門かくれさせ給ひにけり、
日頃月頃給らせ給ひける御書どもあさまにならんう
しろめたさに、返し奉べき仰ありければ、くちせぬ
千代の御かたみともしのばれ、濱千鳥跡ばかりだに
もと、ためらひ申されけれども、御心うちをもらせ
P093
給ひたるにうちそへて、是まで御心ぐるしく、仰の
ありければ、唐ねこほりはめたる御手箱二合にをさ
めて、なくなく参らせたりければ、新大納言経之卿
承りて、御前にて煙もよそにたきあげられにけり、
いかばかりかは女房もをしくかなしかりけん、御前
に候人々も袖をしぼらぬはなかりけり、崩御成にし
後は、諸人が宿所に大炊御門たか倉なるもろおり戸
の内にとぢこもりて、君の御菩提をのみとぶらひ奉
給て、年月ましましけるを、此大納言成親卿中御門
烏丸の花亭を磨て徒移の夜は、法皇の御幸なり奉る
べき由申されけり、其ころ御所に大納言の局、三条の
局とてさぶらひ給ひける女房どもも、大納言は心ざ
し有ければ、此人々思はれけるは、法皇入れ参らせ
んあるじには、我々にてぞ有んずらんとおのおの思
はれけるに、大納言御所へ参りて申されけるは、忝
く御幸をなし参らせ候はんずるに、家童子がねこそ
覚候はね、三条も大納言もあるじには不能覚候と
ぞ内々申されける、是まで打とけもらし申されけり、
法皇暫く御あんあて仰のありけるは、御幸あらんに
つけても、なみなみならんものは、誠に然るべから
ず、抑諸人が参らせたりし今参りとて、有しものこ
そ二条院も心ざし浅からぬと聞えしか、崩御の後は
諸人がもとに、かきこもりたる由聞召す、いかなる
玉をつらねたらん花亭のあるじといふとも、かたは
らいたからんものを、諸人はみなれたりしかば、こ
しらへよりて聞けかしと、ゑみをふくませ給ひて仰
の有ければ、新大納言うけ給もはてず罷出て、諸人
をぞ尋ける、則ち参りたりければ、故女院の御時は
つねにみなれ申しに、などかおのづからも是へ入給
はぬとのたまへば、誠に女院御かくれの後は、月日
の光り失へるごとくにて、あけくれはなきふしての
み、とぢこもりて侍れば、いづれの御方にも対面申
さずと申けるに、やがて酒すすめて美絹百疋ひきで
物にとり出されければ、諸人いかにも思ひまうけぬ
P094
心地して覚給けるに、大納言宣ひけるは、さても此
ほど宿所のわたましに法皇入せ給ふべき由仰あて、
今更面目も色そふ心地にて覚ゆるに、あるじかねを
もち給へるよしを聞、あひかまへてあひかまへてよきやうに
計ひ給へと、おどしつこしらへつうちくどかれけれ
ば、諸人申けるはいかに申ともわかき人の御心には、
雲井の月のむかしがたりわすれかねて、たへぬなが
めの夜な夜なは、袖香る光をも物すさまじくうらみ
給へば、こしらふともかなひがたくこそと、うちと
けがたく答けれども、大納言思ひかね、ほどへだた
らばさはりもぞ出でくるとて、やがて諸人がかへり
つかぬ先に、さしちがへて女房どもを取のせて、車
をかの宿所にやり入て、事の由をばこまかにいひ聞
せ奉らず、心ならずたすけのせ奉りて帰りにけり、
其後しばしは引かつぎてふし給へたりけれども、さ
すが男女の習ひなれば、近附給てより後、志たがひ
に浅からず、御子もあまた出来にければ、目出度御中
らひとこそ人々羨みけるも、今はかかる物思ひにな
られけるも、しかるべき先世のむくいと覚て、よそ
の袂もしほれけり、彼大納言日ごろ浅からず思はれ
ける遊君のありさまを伝聞て、宿所をみれば、い
つしかかはりて主なきやどと荒にければ、あまりの
かなしさにとびらにかくぞ書つけける、
おほかたは誰あさがほをよそに見む
日かげを待ぬ世とはしらずや W028 K259
夜もやうやう明ければ、大納言は今夜失はるべきと
聞給ければ、命のあらん限り、ただ今ばかり誰かあ
らん、此世に思ひ置事どもいひ置ん、北の方幼きも
のども、いかが成ぬらん、あはれあはれ言伝を今一た
びせばやとかなしみ給、しなん事は力及ばぬ事なれ
ども、是が心に懸るこそよみぢのさはりなれと、覚
しつづけてさめざめとなき給ふもことわりなり、今
夜ばかりの命なれば、今や今やと待給ふほどに、夜
も明がたに成にけり、大納言殿は今夜とこそ聞つる
P095
に、いかに今まではさたなきやらん、もし御命のた
すかり給はんずるにやとて武士ども悦あへり、
坂東大夫親信事
此大納言は大かたおほけなく思慮なき心したる人に
て、人の聞とがめぬべき事をもかへりみ給はず、常
にたはぶれにくき人にて、はかなき事にも物のたま
ひすぐすこともありけり、後白河院の近習者にて坊
門中納言親信といふ人ましましき、父左京大夫信輔
朝臣、武蔵守たりし時、彼国へ下されしにまうけら
れける子也、叙爵し給ひたりければ、異名に坂東大
夫とぞ申ける、院にさぶらひ給ければ、兵衛佐にな
られにけり、又坂東兵衛佐などと申けるを、ゆゆし
くほいなき事に思入られたりける程に、新大納言法
皇の御前に候はれけるが、げにや親信坂東に何事か
あると申されたりければ、とりあへず別の事候はず、
縄目の色革こそ多く候へと、返答せられたりければ、
成親卿かほけしきすこしたがひてせき面して、又物
ものたまはざりけり、人々あまた候はれけり、按察
大納言入道資賢も候はれけるが、後にのたまひける
は、兵衛佐はゆゆしく返答はしたりつるものかな、こ
との外にこそにがりたりつれと申されけるとかや、
これと申は新大納言いまだ官も浅く、殿上人にて越
後中将と申し時、しのぶずりのひたたれをきせ、を
り烏帽子の引たてたるをきせさせて、六波羅のむま
やの前にひかへられたりし事を思ひ出で、なはめの
いろがはとは返答せられけり、
丹波少将被召取事
新大納言嫡子丹波少将成経、歳二十一、院御所に上
臥して、未だ罷出られぬほどなるに、大納言の御と
もなりつる侍一人、殿の御所へ馳参て、大納言殿は
西八条に召籠られ給ぬ、夕さり失奉るべきよし聞え
候、公達皆めされさせ給べしとこそ承りつれと申け
れば、こはいかにとあきれ給ひて、物も覚え給はざ
りけり、さりとも宰相のもとよりいかにつげ給はぬ
やらんと、しうとの門脇の宰相をぞ怨給ひける、去
程にやがて宰相のもとより使あり、具し奉て来れと
P096
八条より申されたり、いそぎいそぎわたり給へ、こはい
かなる事にか、浅ましともおろかなりと申されたり、
その時少将は誠と聞定め給ひて、院御所に候ける兵
衛佐と云女房を尋出して、かかる勝事こそ候なれ、
よべより世間物さわがしと承候つれば、例の山の大
衆のくだるやらんと、よそに思て候へば、身の上に
て候也、御所へも奉り候て君をも拝み参らせ候べき
に、今はかかる身にて候へば、はばかり候とて罷出
ぬと、披露せさせ給へとのたまひもあへずなき給、
日頃なれ奉る女房達出て、浅ましがりて泣給へり、
少将重ねて申されけるは、成経は八歳にて見参に罷
入て、十二歳よりは夜ひる御前に候て所労などの候
はぬ外は、一日も御前へ参らぬ事も候はざりつるも
のを、君の御いとをしみ忝して、朝夕龍顔に咫尺し
て、朝恩にのみあきみちてこそ明しくらし候つるに、
今はいかなるめを見べきにて候やらん、大納言も今
夜死罪に行はるべきと承り候、もし左様に罷成候な
ん上は、成経が身も同罪にこそ行はれ候はんずらめ
と、いひつづけて、かり衣の袖もしぼるばかり也、
よその袂もしぼりあへず、女房御前へ参りて、此由
申されければ、法皇も大に驚かせ給ひて、是等が内
々はかりし事のもれにけるよとおぼしめすもあさま
し、今日相国が使のありつるに、事いできぬとはお
ぼしめしつ、さるにても是へと御気色ありければ、
世はおそろしけれども、今一度君をも拝し参らせん
と思はれければ、御前へ参られたりけれども、君も
仰やりたるかたもなし、龍顔より御泪のみせきあへ
ぬ御様なり、少将も又申やりたる方もなし、袖をか
ほにおしあてて罷出ぬ、日頃なれ睦給へる女房達、
門まではるかに見送りて、誰か限りの名残を惜まざ
らん、しぼらぬ袂もなかりけり、法皇も遥に御覧じ
やりて御涙をおしのごはせ給ひて、又御覧ぜぬ事も
やとおぼしめすぞあはれなる、末代こそこころうけ
れ、かくしもやあるべき、王法のつきぬる事こそ口
P097
惜けれとぞ申られける、近く召仕はるる人々も人の
上と思ふべきにあらず、いかなる事かあらんずらん
と、やすき心なし、此事聞給へるより、少将の北方
はあきれまどひて、物も覚えぬ体にてぞましましけ
る、ちかく座し給ふべき人にて、何となく月ごろも
なやみ給つるに、かかる浅ましき事を聞給へば、い
とどふししづみ給、少将はけさより流るる涙つきせ
ぬに、北方の気色を見給ふに、いとどせん方なくぞ
おぼさるる、あはれ此人の身を身とならんを見置て、
いかにもならばやと思はれけるも、せめての事と覚
えていとをしけれ、六条とて年頃つき奉たる乳母の
女房ありけり、此事を聞より、伏まろびて、もだえ
こがるる事斜ならず、ちの中にましまししを取上参
らせて、洗ひあげ奉りて、いとをしかなしと思そめ
奉りしより、冬の寒き朝には、しとねをあたためて
ねせ奉り、夏のあつき夜は、すずしき所にすへ奉て、
明てもくれても、此御事より外、又いとなむことな
し、我身の年のつもるは知らず、いそぎ人に成給は
んことをのみ思ひて、夜のあくるもおそく、日のく
るるも心もとなくて、廿一までおふし奉りて、院内
へ参給て、おそく出給へば、覚つかなくて、恋しく
のみ思奉りつるに、こはいづくへとて出させましま
すべきぞや、すてられ奉りて、一日片時もあるべし
とこそおぼえねと、くどきてなけば、げにもさこそお
もふらめとおぼせば、少将涙をおさへて、いたくな
思ひそ、我身あやまたねば、さりともとこそ思へ、
宰相さてましませば、命ばかりはなどか申うけられ
ざるべきと、なぐさめ給へども、人目もしらずなき
もだえけるぞむざんなる、又八条よりとて使あり、
おそしとあれば、何さまにも罷むかひてこそ、とも
かくも申さめとて、宰相出給へば、車に乗具して少
将も出給ぬ、なき人をとり出すやうに見送りて、泣
あひけり、保元、平治より此かた、平家の人々たの
しみ栄えはあれども、悲歎はなかりつるに、門脇宰
P098
相ばかりこそ、よしなかりけるむこ故にかくは歎を
せられけれ、八条近くやりよせられたれば、その四
五町には、武士充満していく千万と云数を知ず、い
と恐ろしなどはいふばかりなし、少将は是を見給ふ
につけても、大納言殿の御事をおぼすぞ悲しき、宰
相車を門外にとどめて、案内を申給へば、内へは入
れ給まじとありければ、少将をばその辺近き侍の家
におろし置きて、宰相ばかり内へ入給ひぬ、見もし
らぬ兵あまた来て、居廻てまほり申、少将は、憑たり
つる宰相は入給ひぬ、いとど心細くかなし、宰相入て
見給へば、おほかた内のありさま、武士どものいそ
めきあへるけしき、誠におびただし、教盛こそ参り
て候へ、見参に入候はんと宣ひけれども、入道出あ
ひ給はざりければ、季貞をよび出して、宰相申され
けるは、よしなき者に親しくなり候こと、今更思ひ
合せられて、くやしく候へども、かひ候はず、成経
に相ぐせさせて候ものいたくもだえこがれ候ほど
に、おんあいの道、力及ばざることにて、むざんに覚
え候、近く産すべきものにて候が、いかに候やらん、
月頃なやみ候へつるに、此歎うちそへ候なば、身を
身とならぬさきに、命もたえ候なんず、たすけばや
と思ひて、おほそれながら申候、成経をば申あつか
り候はばや、教盛かくて候へば、いかでひが事せさ
せ候べき、覚束なく思召すべからずと、なくなく申
給ふ、季貞此由を入道殿に申ければ、世に心得ずげ
にて、とみに返事ものたまはず、宰相中門にていか
にいかにと待給ふ、良久ありて、入道のたまひけるは、
成親卿此一門をほろぼして、天下を乱さんとする企
ありけり、しかるを一家の運盡ざるによて、此事顕
れたり、少将はすでにかの大納言の嫡子也、したし
くましますとても、えこそなだめ申まじけれ、かの
企遂まじかば、それ御辺とてもおたしくてやましま
すべき、いかに御身の上をばかくはのたまふぞ、聟
も子も身にまさるべきかと、少しもゆるきけもなく
P099
のたまへば、すゑさだかへり出て、此よしを申けれ
ば、宰相大にほいなげに思ひ給ひて、おし返しのた
まひけるは、加様の仰に及ぶ上を、かさねて申はその
恐れふかけれども、心中に思はんほどのことを、残
さんも口惜ければ申ぞ、季貞今一度よく申せよ、保
元、平治両度の合戦にも、身を捨て御命にかはり奉
らんとこそ思ひしか、是より後も、荒き風をばまづ
防がんとこそ思候へ、のり盛こそ今は年の寄て候と
も、若き者どもあまた候へば、御大事もあらん時は、
などか一方の御かためとなして候べき、のりもりが
たのみ奉候ほどは、つやつや思召され候はざりける、
成経をしばらくまかり預らんと申を、覚つかなく思
召て、御ゆるされのなからんは、すでに二心有もの
と覚し候にこそ、是ほどうしろめたなきものにおも
はれ奉て、世にあても何かはすべき、世にあらば又
いかばかりの事かはあるべき、ただ今身のいとまを
給て、出家入道もして、片山寺に籠りゐて、後生菩
提のつとめを仕るべし、よしなきうき世のまじはり、
世にあればこそ望もあれ、望かなはねばこそ恨みも
あれ、しかしただ世をのがれて、誠の道に入なんに
はとのたまへば、季貞にがにがしき事かなと思ひて、
此よしをくはしく入道殿に申ければ、物に心得ぬ人
かなとて、また返しものたまはず、季貞申けるは、
宰相殿はおぼしめしきりたる御気色に渡らせ給め
り、よくよく御計やあるべく候らんと申ければ、其
時入道のたまひけるは、先御出家あるべきよし仰ら
れ候なるこそ驚存候へ、大方是ほどに、恨みられ参
らすべしとこそ存ぜねども、かほどの仰に及ばん上
は、少将をばしばらく御宿所におかれ候べしと、し
ぶしぶにありければ、宰相悦で出給ひにけり、少将
は何となくたのもしげに思ひて、いかにと問給ふぞ
哀なる、宰相仰せられけるは、あなむざんのありさ
まや、我身にかへて申さざらんには叶ふまじかりつ
る命ぞかし、人の娘子を持事はむやくのことかな、
P100
我子の縁に結ぼれざらんには、人の上とこそ見べき
ものを、身の上になして肝心をけすこそよしなけれ
とぞ仰せられける、いざとよ、入道殿の憤りなのめ
ならず、ふかげにて、のりもりには対面もしたまは
ず、叶うまじきよしたびたびのたまひつれども、季
貞をもて出家入道をもせんとまで申たりつれば、し
ばらく宿所に置給へとばかりのたまひつれども、し
じうよかるべしとも覚えずのたまひければ、少将申
されけるは、成経御恩にて一日の命ものび候にける
こそ一日とてもおろかの儀にて候はず、たすかり候
はんことこそ然るべきにて候へ、是につけても大納
言の行衛いかがきこしめされ候つるとのたまへば、
宰相はいざとよ御事をこそとかく申つれ、大納言殿
の御事までは、心も及候はずとのたまひければ、げ
にも理りかなと思へども、大納言今夜失はれ候はば
御恩にて、成経けふばかり命生ても、なにかはし候
べき、しでの山をも諸ともに越え、片時もおくれじ
とこそ存候へ、おなじ御恩にて候はば大納言のいか
にも成候はん所にて、ともかくも罷成候はばや、同
くはさやうに申行はせましますべうや候らんとてさ
めざめとなかれければ、宰相又心にくげにて、まこ
とや大納言殿は内大臣のとり申されければ、それも
今夜はのび給ぬるやらんとこそ聞候つれ、心やすく
思ひ給ふべしとのたまひければ、少将その時手を合
て悦給ひけり、今夜ばかりなりとものび給へかしと
て悦ばれけるを見給ふにこそ、宰相又むざんやな、
子ならざらんものは、ただ今誰かは是ほどに我身の
上をさし置て、覚束なくも思ひのびたるを聞て、身
にしみてうれしく思ふべき、誠の思は父子の志にこ
そとどめてけれ、子をば人のもつべかりけるものを
と、頓てぞ思ひ返されける、宰相は少将を具して帰
り給にけり、宰相の宿所には、少将殿出給つるより、
北方を始として、母上乳母の六条、ふし沈みて、い
かなる事をか聞んずらんと、気も心もまどひておぼ
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しける程に、宰相帰り給ふといひければ、いとどむ
ねせきあげて、打捨ててましますにこそ、いまだ命
もましまさば、いかにいよいよ心細く思すらんと、
悲しく思はれけるに、少将殿もかへらせ給ふと、先
に人はしり向ひて告申たりければ、車よせに出むか
ひて、誠かやとて、又声々に泣給へり、のちは知ら
ずかへりましましたれば、死したる人の生がへりた
るやうに覚えて、悦泣どもし合れけり、此平宰相と
申は、太政入道のさいあいの弟にて、片時も身を放
ち給はず、されば六波羅の惣門の内小屋を立すへら
れたりければ、人異名に門脇宰相と申けり、当時は入
道八条にましませども、世もなほつつましとて、門
さし蔀のかみばかりあけてぞおはしける、
入道相国可押寄院御所事
入道はか様に人々あまたいましめをかれたりけれど
も、猶心ゆかず思はれければ、善悪法皇をむかへ奉
て鳥羽殿におしこめ奉て、いづちへも御幸なし奉ら
んと思こころつきにけり、赤地の錦のひたたれに、
白かな物打たる黒糸をどしの腹巻のむな板せめて、
其かみ安芸守と申し時、いつくしまの社より、神拝
の次に、霊夢を蒙りてまうけられたる白がねのひる
巻したる秘蔵の長刀手ほこの常の枕を放たれざりけるを
左の脇にはさみて、中門の廊につと出て立れたり、
其気色ゆゆしくぞ見えける、貞能をめす、筑後守貞
能は木蘭地の直垂にひをどしの鎧着て、御前にひざ
まづいて候、入道のたまひけるは、貞能此事いかが
思ふ、浄海が存ずるはひが事か、一年保元の逆乱の
時平右馬助忠正を始として、したしきものども中
半過て院の御方に参りにき、一の宮の御事は故刑部
殿の養君にて渡らせ給しかば、かたがた思ひ放ち奉
りがたかりしかども、故院の御遺誡に任せて、御方
にて先をかけたりき、是一の奉公なりき、次に平治
の逆乱の時、信頼、義朝が振まひ、入道命を惜みて
はかなふまじかりしかば、命を捨て凶徒を追落して、
天下をしづむ、その後つね宗、これかたを誡にいたる
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まで、君の御ために命をすてんとする事度々也、た
とへ人はいかに申とも、浄海が子孫をいかで捨させ
給ふべき、されば浄海がことをいるかせに申さんも
のをば、御いましめあるべきに、いましめらるるま
でこそなからめ、大納言が讒訴につかせ給ひて、な
さけなく此一門を追討せらるべきよし、院中の御結
構こそ遺恨なれ、此事行綱告知らせずばあらはるべ
しや、あらはれずば入道あんをんにあるべしや、猶
北面の下臈どもが諌め申事あらば、当家追討の院宣
下されぬと覚ぬるぞ、朝敵ならん後は、悔に益ある
まじ、世をしづめんほど、仙洞を鳥羽の北殿へうつ
し奉るか、然らずば御幸を是へなし奉らんと思ふな
り、其儀ならば北面の者どもの中に、矢をも一筋い
んずる者もありぬと覚ゆるぞ、侍どもに用意せよと
ふれべし、大かたは浄海、院方の宮仕思ひ切たり、
きせながども取出せ馬に鞍置せよとぞ、下知せられ
ける、鳥羽殿への御幸とは聞えけれども、内々は法
皇を西国の方へながし参らすべき由をぞ議せられけ
る、
小松殿被諌父事
主馬判官盛国此景色を見奉て、小松殿へ馳参て、大臣
殿に申けるは、今かうと見え候、入道殿すでに御き
せながめされ候、侍ども皆打立候、法住寺殿へよせ
られ候か、鳥羽殿への御幸とは聞え候へども内々は
西国の方へ御幸なしまいらすべきにて候やらんとこ
そ承り候へ、いかに此御所へは今まで御使は候はぬ
やらんと、いきもつぎあへず申ければ、内大臣大に
さわがれけり、いかでさしもの事あるべきと思へど
も、けさの入道の気色さる物ぐるはしきことも有ら
んとおぼされければ、内府急ぎ馳来、その時もおな
じく甲冑をよろふに及ばず、八葉の古車のけしかる
に、子息のこれ盛車の尻に乗て、衛府四五人、隨身
二三人召具して、今朝のていにて烏帽子、直衣にて
ぞおはしたりける、西八条へさし入て見られければ、
一門の卿相雲客数十人、思ひ思ひの直垂に、色々の
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鎧着て、中門の廊に二行に着かれたり、衛府、諸司、
諸国の受領などは、梃に居こぼれて、つぼにもひし
と並居たり、はたざほ引そばめて、馬のはるびをし
めて、甲をばひざの上に置て、ただいまかけ出んず
る体と見えたりけるに、内大臣、烏帽子、直衣にて、
さしぬきのそばを取て、さやめき入られけり、事の外
にぞみえられける、入道は是を遠くより見給て、少
ふしめに成て、例の此内府が世をへうする様にふる
まふはとて、心得ずげに思はれたり、此内大臣は内
には五戒を持、外には五常をみださず、仁義禮智信
にただしく、無双の賢人にてましましければ、子な
がらもさすが此すがたに腹巻を着て、あひむかはん
こと、面はゆくや思はれけむ、障子をすこし引たて
て、腹巻のうへに素絹の衣を引かけて、胸板の金物
のはづれて、きらきらとして見えけるを隠さんと、
しきりにむねを引ちがへ引ちがへぞせられける、内大臣
は弟の右大将宗盛卿より上に座たかく着座せられた
り、檜扇中半に開きてつかはれけり、内大臣もしば
しは物ものたまはず、入道殿も又音もし給はず、良久
あて、入道のたまひけるは、抑此間の事、西光法師
にくはしく相尋候へば、成親父子がむほんの企は事
の始にて候けるぞ、大かた近来よりいとしもなき近
習者どもが、折にふれ時に隨て、さまざまのことを
すすめ申なる間、御かろがろ敷君にて渡らせ給、一
定天下の煩、当家の大事引出させ給ぬと覚ゆる間、
法皇を是へむかへ参らせて、片辺に押籠参らせんと
存ずる間、此事申合奉らんとて、待奉つるに、いか
なるちちにか候、大方は浄海が思と思ふ事、御辺の御
心に一々に違ひ候らん事こそ、遺恨に覚え候らへと
宣へば、内府畏承候ぬと計にて、御眼よりはらはらと
涙を落し給ふ、入道浅ましと覚して、こはいかにと
のたまへば、内府直衣の御袖にて、涙をおしのごひ
て、申されけるは、此仰をかうふり候に、御運のす
でに末になり候と覚えて、不覚の涙のこぼれて、先
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なにかの仔細は知候はねども、此御すがたを見参ら
せ候こそ少もうつつとも覚候はね、さすが我朝は辺
鄙粟散の境と申ながら、天照太神の御子孫、国のあ
るじとして、天津兒屋根の尊の御末、朝政を典給し
より以来、太政大臣にのぼれる人、甲冑をよろふ事
輙かるべしとも覚えず、就中出家の御身となり、か
たがた御はばかりあるべかりけるものを、夫三世諸
仏の解脱幢相の法衣をぬぎすて、忽に甲冑を帯しま
しまさんこと、内には既に破戒無慚の罪を招き給ふ
のみに非ず、外にはまた仁義禮智信の法にも背き候
ぬらんとこそ覚え候へ、先重盛一々に御意に違ひ、
ふしぎ成仰を蒙候上は、すでに不孝の仁に罷成候に
こそ候なれ、さやうに候はんに於ては思ふことを心
中に残し候はんは、口惜かるべう候へば、一々に申
開くべし、おほそれながら暫く御心をしづめさせお
はしまして、重盛が申状を具に聞召さるべうや候ら
ん、かつうは又最後の申状にて候、ただ今御院参の
条何事に哉、たとへ御院参有べう候とも、重盛に仰
合され、申所の一儀をも聞召され候べかりける物を、
以の外に物さわがしく覚え候物かな、むほんの輩召
置れ候ぬる上は、何とか君をば恨み参らせ給ふべき、
まさしく君の叡慮より思召し立つ御事よも候はじ、
近習の人々の申すすめ参らせ候によてこそ、御許容
なども候らめ、たとひ又君の御結搆にて、正しく院
宣をもてむほんの事仰せ下さるといふとも、しゐて
御ひが事ども覚候はず、その故は上古を思ひやり候
に、平将軍貞盛、将門を討たりしも、勸賞に預りし
事受領には過ざりき、伊予守頼義が十二年まで戦ひ
て、貞任、宗任を亡したりしも、いつか丞相位に昇
て父子ともに朝恩にあづかりし、しかるを此一門は
代々に朝敵をうち平げ、四海の逆浪をしづめば、隨
分忠なりといへども、其賞に預る事は、已に身に余
れり、先例傍れいなし、君事の序をもて、余りの事
なりと御気色あらん事、全以御ひが事とも覚え候は
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ず、むほん張本と仰られて、新大納言召置るる事、
是又ふつうの儀に非ず、我君の御寵臣あるひは禁中
伺候の人を、我が為にあだをなせばとて、心のまま
に召おかれ、罪科に行はれん事然るべからず哉、い
く度も君に仔細を奏して、御気色にこそ任せらるべ
きに、押て召捕られぬるは、すでに君をなめなめに
しまいらするにあらずや、此上は今は御身を慎で君
の御ためには、いよいよ奉公の忠節を存じ、民のた
めには倍々憮育の御あいれんをいたしましまし、先
非を悔いさせ給ひて、政務に私あらじと思召さば、
諸天善神の擁護浅からず、神明仏陀の御加護しきり
にして、君の御政引かへて、逆臣忽に滅亡し、凶徒
則退散し、四海の狂乱しづかに、満点の嵐やまんこ
と、掌を返さんよりも猶早々なるべし、大方は諸経
の説相不同にして、内外存知各別なりといへども、
しばらく心地觀経第二巻によらば、世に四恩あり、
一には天地恩、二には国王恩、三には師長父母恩、
四には衆生恩是也、是を知るを以て人倫とし、知ざ
るを以て鬼畜とす、その中に殊に重きは朝恩也、あ
まねく天下王土に非ずと云事なし、率土の濱王臣に
非ずと云ことなし、就中国王の恩此一もん極れり、
日本はわづかに六十六ヶ国、しかるを三十余ヶ国は、
一門の分国にて政を執行す、その上庄薗、田畠、
家門の所領也、此一門の朝恩にほこる事は、依法将
軍とも云つべし、昔も今もためしすくなし、彼頴川
の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を取ける賢人も、勅命
の遁れがたき禮儀をば存ずとこそ承はれ、忝くも御
先祖桓武天皇の御苗裔、葛原親王の御後胤と申しな
がら、中古より無下に官途も打くだり、わづかに下
国の受領をだにもゆるされずして候けるに、故刑部
卿殿備前の国務の時、鳥羽院の御朝、得長寿院造進の
勧賞によて、久絶たりし内昇殿をゆるされ給し時も、
万民口びるを返しけるとこそ承れ、いかにいはんや、
御身はすでに拝任の例を聞ざりし、太政大臣の位き
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はめさせ給ひ、御末又大臣大将にいたれり、所謂重
盛などが短才愚暗の身をもて、蓮府塊門の位に至る、
是希代の重恩にあらずや、今是等の朝恩を忘れて、
君をかたぶけ参らせ給はんこと、天照太神、正八幡
宮、日月星宿、堅牢地神に至るまで、御許や候べき、
唯今天の責を蒙て朝敵となり給ふべし、朝敵となる
ならば、近くは百日、遠くは三年を出ずとこそ申伝
へたれ、君事の次をもて、奇怪なりと思召さんこと
は尤ことわりにてこそ候へ、しかるを御運いまだ盡
ざるによて、此事すでに顕はれて、仰合らるる人々
か様に召置れぬ、たとひ又君いかなる事を思召し立
といふとも、暫何の恐れかましますべき、大納言已
下の輩に所当の罪科を行はれ候はん上は、しりぞい
て事の仔細をちんじ申させ給ふべきにてこそ候へ、
みだれがはしく法皇をかたぶけ参らせられん事、然
るべしとも覚え候はず、以父命不辞王命、以王
命辞父命、以家事不辞王事、以王事辞家事
ともいへり、又君と臣とを准ずるに、親疎をわけて
君に附奉るは忠臣の法也、道理と僻事とを並べんに
いかでか道理につかざらんや、是は君の御道理にて
こそ候へ、重盛に於ては、御院参の御供仕べしとも
存じ候はず、叶はざらんまでも、院中を守護し参ら
せんとこそ存候へ、その故は重盛始て六位に叙せし
より、今三公のすゑにつらなるまで、朝恩を蒙る事、
身に於てはすこぶる過分也、その重きを思へば、千
顆万顆の玉にも越え、其深きことを諭ずれば、一入
再入の紅にも過たるらん、然れば重盛君の御方へ参
候はば、侍二三万騎はなどか候はざらん、その中に
命にかはり身にも代らんと思ふ侍、二三百人はなど
か候はざらんや、是等を引具して院の御方へ参りて、
禦戦候はば以の外の御大事にてこそ候はんずらめ、
是を以て昔を案ずるに、保元逆乱の時、六条判官為
義は新院の御方に候、子息下野守義朝は、内裏に候
て、合戦事終て、大炊殿戦場の煙りの底に成し後は、
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一院讃岐の国へ御下向、左府はながれ矢に当りうせ
給ひて後、大将軍法師に成りて、子息義朝がもとへ
降人になり、手を合て向ひたりけれども、今度朝敵
の大将軍なりとて、断罪に定りにければ、義朝力及
ばず、人手に懸らんよりとて、朱雀大路に引出して、
父がかうべを刎候しこと、同じ勅定と申しながら、
悪逆無道の至り口惜き事かなとこそ存候しか、今度
君討かたせましまし候はば、彼保元の例に任て、重盛
五逆のその一にやなり候はんずらんと存候こそ、予
て心うく候へ、かなしきかなや、君の御為に忠を致
さんとすれば、迷盧八万の頂なほくだれる父の恩、
忽にわすれて不孝の罪かろからず、いたましきかな
や、不孝の罪をのがれんとすれば、また君の御為に
不忠の逆臣となりぬべし、君々たらずといふとも、
臣以臣たらずば有るべからず、父々たらずとも、子以
子たらずばあるべからず、是といひ、かれといひ、
むやくのことにて候、末代に生をうけてかかるうき
めを見る、重盛が果報のほどこそ口惜く候へ、され
ば申うくるところ、猶御承引なくして、御院参有べ
う候はば、先重盛がかうべを召さるべう候、所詮院
中をも守護すべからず、 又御供をも仕べからず、申
うくるごとく、只首を召さるべき也、いざ思しめし
合せましまし候へ、御運一定すゑになりて候と、お
ぼえ候也、人の運のすゑにのぞむ時こそ、かかる僻
事を思ひ企つる事にて候なれ、老子の言葉こそ思ひ
合られ候へ、功成名遂、退身避位、即不遇害と
も申、彼漢蕭何は大功を立つる事傍輩に越えたるに
よて、官太相国に至り、劒を帯し沓をはきながら、殿
上にのぼることをゆるされたりき、しかれども、叡
慮に背くことありしかば、高祖来て重くいましめて、
廷尉にくだして深くつみせられき、論語と申文には
邦無道則富且貴恥也と云文あり、かやうの先蹤を
思ひ合せ候にも、御富貴といひ、朝恩といひ、重職
といひ、一かたならずきはめて、年久しくなりまし
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ませば御運の盡ん事も非可堅、富貴の家、禄位重
疊せるは、猶再び実る木其根如傷ともいへり、心
細くこそ覚候へ、いつ迄命いきて乱れる世を見候べ
き、只急ぎ急ぎかうべを刎られ候べし、侍一人に仰
付て、ただ今御つぼに引出されて、かうべをはねら
れん事は、よにやすき事にてこそ候はんずれ、是は
殿原いかが聞給やとて、直衣のふところの中より、
たたう紙を取出して、はなうちかみうちかみ、さめざめ
と泣諌め申されければ、一門の人々よりはじめ、侍
どもに至るまで、鎧の袖をぞぬらされける、入道も
岩木ならねば、道理につまりて、返事もし給はず、
すがたのはづかしさに、障子のおくへすべり入て、
かたづをのんでましましけるが、のたまひけるは、
是程まではあるべくも候はず、唯ものも覚えぬ悪党
等が申さん事に付き給ひて、御僻事やいでこんずら
んと思ふばかりぞとくどきのたまひければ、内府申
されけるは、たとひいか成御僻事出で来とも、いか
がせさせ給ふべき、掛巻もかしこく少しも思召寄ほ
どのことをこそ御言葉にも出され候はめ、あなまが
まがしとて、がはと立ち給ふ、車のうちに用意せら
れたりける物の具召し寄せて、紫地の鎧直垂に、は
じのにほひの鎧を着て、白星のかぶと、春近といふ
雑色のくびにかけさせて、おとどの右大将宗盛の黒
くり毛の馬に黄ぶくりんの鞍置て、とねりが扣へた
るを引かなぐりて、乗給ひ馬をひかへて打立給ふ、
さも然るべき侍兵にあひて、のたまひけるは、重盛
が申つる事は各々承はらずや、されば院参の御供に於
ては、重盛がかうべをはねられんを見て後仕べきと
覚ゆるはいかに、けさより是にてかなはざらんまで
も、諌め申さばやと存ずれども、是体のありさま、
ひたあわてに見えつる間、存ずる旨あて、かへりつ
る也、今ははばかる所あるべからず、頸を召さるべ
きよし申つれば、その旨をこそ存ぜめ、但今までさ
も仰出されぬはいかなるべきぞや、今日より後は中
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違奉る、重盛を重盛と思はん人どもは、よろうて小松
へ参れ、是を以て志のありなしをば見んするぞと、
のたまひ捨て御馬を飛せつつ、急ぎ小松殿へかへり
給ひぬ、是を聞て西八条にありける侍ども、入道殿
にかくとも申さで、我先にとぞ馳参る、おぼろげに
てはさわぎたまはぬ人の、かかる仰の下るは、別の
仔細あると覚ゆとて、夜明にければ、洛中の外、白
河、西京、木はた、伏見、宇治、岡のや、淀、羽束
瀬、醍醐、小栗栖、日野、勸修寺、大原、志津原に
至まで、我劣らじと馳集りければ、西八条には青女
房古尼公より筆執などぞ少々残りける、弓箭携へた
る者は一人もなかりけり、入道殿人やあると喚れけ
れば、貞能候とて、肥後守つと参る、侍に誰々かあ
る、貞能ならでは、一人も候はず、去にても、誰か
ある、小松殿へ皆参りて貞能が外は一人も候はぬも
のをと申ければ、入道殿去にてもとて、走り出て見
給へば、げにも侍には人一人もなし、ここにやある、
かしこにやあると、ここのかくれ、かしこのえんと
うのぞきありき給ひけれども、人一人も見えざりけ
り、こはいかに、内府に中違ては、片時も世に立ま
ひてあらん事は、かなふまじかりけるものをとてこ
そ、うそぶきてよに心えず、興さめげにて、腹巻脱
ぎ置て、縁行道してそけんの衣に袈裟打かけて、い
と心も起らぬ念珠くりてぞおはしける、貞能にのた
まひけるは、いかに世間の様何とあらんずるぞとの
たまひければ、貞能申けるは、御子も御子にこそよ
らせ給候へ、何か苦しく候べき、御退望候て、御中を
直らせましまし候へかしとこそ存候へと申ければ、
入道さこそとよ、能いひたり、入道もかくこそ存ずれ
とのたまふ所に、入道の舎弟さつまの守忠度小具足
ばかりとりつけて、ただ一騎はせ来られけり、入道
此人を見つけて、少し力づきたる心地して、あれは
薩摩殿か、さん候、内府が元へましましたりつるか、
さん候参りて候つ、いかによろふと聞は誠候か、さ
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ん候御よろひ候、それは何事ぞ、入道殿御悪行、法に
過させましまし候へば、いか様にも父の悪行子孫に
報いて、日本国に末代には子孫一人もあるべからず、
されば恩重しといへども、朝恩にくらぶれば、みぢ
んのごとし、君の御方に参りて、君を守護し参らせ
んとて、小具足召れ候て、只今院参有んと候と申さ
れければ、入道興さめて、や殿薩摩殿、わどのと内
府とは以の外に心通て、中よき人にてましませば申
也、まづまづ問ひてなだめて見給へかし、何となだ
め参らせ候はんずるやらん、なだめ給はんずる様は、
此ほど世の中しづかならねば、法皇をしばらく鳥羽
殿に置参らせて、世を静めんとすれば、嫡子に捨ら
るるこそかなしけれ、老て子に捨らるるは、朽木の
枝なきがごとくなり、院参に於ては思ひとどまり候
ぬ、自今以後は内府の計ひ申されん事をば、一切背
き申まじきぞ、きと立寄給へ、なに事も申承べしとの
たまふべしとぞ申されける、さつ摩の守小松殿へ馳
向て、此由を申されければ、小松殿袖を顔におし当
てて、はらはらと泣給ふ、いと久しくあての給ひけ
るは、おろかなる親にも隨ふは能子也、入道殿いか
に愚に渡らせ給ふとも、その子なれば隨ひ奉るべき
にてこそあれども、君をなやまし奉る事のかなしさ
に、君を守護し奉らんとすれば、いかにも隨ひ奉る
べき重盛に、父の御身として却て順ひ給ふことこそ
哀なれ、仏神のいかに思召すらん、抑御院参あるべき
由仰られ候つればこそ、御中違奉り、院を守護し参
らせんとは申つれ、御院参思召とどまり候はんにお
いては、いかが中をば違参らすべき、やがて仰に隨
て参るべく候、総じて事の心をあんずるに、父の命
に隨ひて、君を捨奉候はん事は、恩をしらぬ畜生に
似たり、父を捨て君の御方へ参候はば、又不孝の重
盛罪深し、所詮君の御方へも参るべからず、父の命
にも順ふまじ、しかじただもとどりをきり、山野に
まじはり、後生菩提の勤より外他事候まじとこそ御
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返事は申されけれ、さつ摩守馳帰て此由を申された
れば、入道殿是を聞て、はづかしきにつけても、よ
きにつけても、さしも邪見にましましけるが、墨染
の袖をぞしぼられける、それにつけても、おくちな
くぞ見えられける、さて小松殿は西八条殿へ入せ給
ひてこそ、御中は和平し給ひけれ、
幽王被討事
小松殿は参り集たる侍共にあひて仰られけるは、ひ
ごろの契約たがへず、かやうに参りたるこそ神妙な
れ、重盛別して不思議を聞出したりつるほどに、か
くは催したりけれども、その事聞直しつ、ひが事に
ありけるぞ、いそぎいそぎ帰れ、異国にか様のためし
あり、昔唐国に周幽王褒氏国を責給ふ時、国亡て防
ぎ戦ふに力すでに盡ぬ、褒氏国の人はかりごとをめ
ぐらして、千年経たる狐の子を取て、有験の僧に加
持せさせて、目出度美女に加持し出す、褒氏国の大臣
公卿集てのたまはく、君は昔は千里の野を栖とする
獣なり、今は人に加持しなす、いかでか奉公を知らざ
らんや、此国すでに幽王にせめられ、父母兄弟に放
れ畢ぬ、ねがはくは、君幽王のもとへましまして、
皇の心をたばかりて、此国をたすけ給へ君と、くど
き立て幽王の許へ申送りけるは、此世にありがたき
美女を奉らん、亡し給ふことやめ給ひてんやと申け
れば、幽王答て曰、誠に有がたき美女ならば朕請取
て、国をかたむくる事をば則とどむべしと返答あり、
よて件の美女を幽王のもとへつかはす、天下無双の
美女楊貴妃、李夫人のごとし、然れば則褒氏妃と名
づけ、幽王の第一の后と定む、幽王の后たちは褒氏后
に光をとられて、籠居し給へり、大王褒氏后をおぼ
しめすことわりなく類ひすくなかりけり、されども
此后あへて物いふことをし給はず、いはんやまたゑ
みをふくむこともなし、此后に物をいはせて聞き、
ゑみをふくませて、見んずると思召されけり、彼国
には官兵を召集んとての籌には、飛火をあぐるなら
ひあり、烽火とは我朝にも飛火の野もりといひて、
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たかき峯に火をとぼす事ありき、ある時幽王朝敵を
亡さんとて烽火大皷と云物あり、烽火大皷とは大鼓
の中に火を入て天を翔飛する術あり、是則遠国のつ
はものを集るはかりごと也、今此飛火をあげたる時、
褒氏后のいはく、ふしぎや大鼓翅はなけれども、天
を翔る術ありけりとて、始て物をのたまひて大に笑
ひ給ひき、其時幽王悦で、すはこの后は物のたまひた
るぞ、ゑみをふくみ給ひけるはとて、后を笑はせ奉
らんずるはかりごとには、飛火をあぐ、是を見て諸
国の官兵驚きて、王宮にこと出来とて馳参る、かか
る謀なりければ、事なき故に各本国へかへりけり、
東海へ帰る者は山ざとの山川を分、西海へ赴く者は、
八重のしほぢを凌ぎけり、かくする事すでに度々な
り、その後は兵心得て、馳せ参ずる事もせず、かく
国をたばかりおほせて、秦公と云大将軍をもて、褒
氏国より幽王の内裏へおし寄たり、大王人々驚きて、
頻りに飛火を揚るといへども、兵是を見て、例の后
の物のたまひ笑み給ふと思ひければ、馳参る事もせ
ざりけり、兵王宮へ乱入て、幽王をうちとり国を亡
してけり、かくして後は褒氏后は白狐の尾三つ有に
現して失にけり、異国にもかかるためしあるぞとよ、
重盛別して大事を聞出しつる間、相催したるに時を
かへず、各々馳参ずる条、返々神妙なり、たのもしく
覚ゆるものかな、今此事を聞直しつ、ただ今事なけ
ればとて、努々幽王の類ひに隨ふことなかれ、自今
以後も重て相催す事あらば、更に遅々あるべからず、
急ぎ急ぎ帰て物の具ぬぎて、やすまれよとて、兵と
もをば返されけり、着到披露ありければ、二万七千
三百余騎とぞしるしたる、抑美女をけいせいとは、
幽王の時より名付たり、都をかたむくるといふ談あ
り、此よみをばそのかみは、いましめられけれども、
当世都には傾城とぞよばるなる、狐の女にばけて人
の心をたぶらかすと云本説あるにや、内大臣まこと
はさしたる事をも聞出されざりけれども、父入道を
P113
諌め奉つる言葉に隨ひて、我身に勢のつくか、付ぬ
かのほどをも知り、かつうは又父と軍をせんにはあ
らず、父のむほんの心をもや思宥め給んとのはかり
ごとなるべし、内大臣の存知のむね、文宣公のたまひ
けるに違はず、君の為に忠あり、父の為に孝あり、
あはれゆゆしかりける人かな、法皇此次第を聞召さ
れて今に始ぬことなれども、重盛が心中こそはづか
しけれ、あだをば恩をもて報ぜよといふ文あり、九
はやあだを恩にて報ぜられけりと、仰ありけるとぞ
聞えし、その後さゑもん入道西光をば、朱雀の大路に
引出して首をはねらる、郎等三人同はねられにけ
り、
成親流罪事
二日、成親卿をば、夜のやうやう明方に公卿座に出
奉て、物参らせたりけれども、むねせきのども塞り
て、いささかも召さず、やがて追立の官人参りて、
車をさし寄て、急ぎ急ぎと申ければ、心ならずのり
給ひぬ、御車のすだれをさかさまにかけて、うしろ
様にのせ奉て、先火丁一人つと寄て引落し奉りき、
誡の〓を三度あて奉る、次に看督長一人寄て、殺害
の刀とて、二刀つくまねをし奉る、次に山城判官秀
助宣命をふくめ奉る、かかる事は人の上にても御覧
じ給はじ、まして御身の上にはいつかならひ給ふべ
きと、御心中推量せられてあはれ也門外よりは軍兵
数百騎、車の前後に打圍みて、守護すれども、我方様
の者は一人もなし、いかなる所へ行やらんもしらす
る人もなし、内大臣に今一度あひ奉らんとおぼしけ
れども、それもかなはず、ただ身にそふものとては
盡せぬ御涙ばかり也、朱雀を南へ下りに行ければ、
大内山をはるかにかへり見て、思ひ出す事多かりけ
り、昔唐の呂房といひし人、故宮の月に膓を断、是
も旅行に月を見てこそありしか、彼大納言は日月の
光りをだにも見せ奉らず、車の前後に障子をぞ立た
りける、大納言の御歎きの深さに、くるるを待つべ
しとも覚えずなん、難波の次郎経遠をもて、内府へ申
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されたりければ、その後月日の光をゆるされ給ひに
けり、かかる歎きの中にもかくぞ思ひつづけられけ
る、
極楽とおもふ都をふり捨てて
ならくの底に入らんかなしさ W029 K015
鳥羽院につき給へば、年ごろ見なれ奉つる舎人、牛
飼ども、並み居つつ涙をながす、あやしの賤の男、
しづの女に至るまで、よそのものだにもあはれをか
く、まして都に残りとどまる跡の有さま、いかばか
りかなしかりけん、我世にありし時は、したがひ付
たりしもの一二千人もありけんに、一人も身にそふ
者なく、けふを限りにて都を出るこそかなしけれ、
重き罪を蒙て遠国へ行者も、我方ざまの人一人具せ
ぬ事やはあると、さまざまひとり言をのたまひて、
車の内にて声もをしまず泣給へば、車の前後に近き
兵は、鎧の袖をぞぬらしける、鳥羽殿を過給へば、
此御所へ御幸のなりしには、一度も外れざりしもの
をなどと思ひ給ひて、我とのゐ所の前を通り給へば、
今はよそに見入て過給ふも哀也、南門を出ぬれば、
河原まで御舟のしやうぞく急ぎ急ぎといそがす、こ
はいづくへやらん、失はるべくはただ此ほどにても
あれかしとぞおぼす、せめてのかなしさのあまりに
や、近く付たりける武士を是はたぞと問ひ給へば、
経遠と名乗けり、難波次郎と云者也、此程に我ゆか
りの者やあると尋てんや、舟に乗らぬ前にいひ置く
べきことありとのたまひければ、その辺近きあたり
を打めぐりて尋けれども、あへて答ふるものもなし、
帰参りてこのよしを申ければ、世におそれをなした
るにこそ、などかはゆかりの者のなかるべき、命に
もかはらんといひ契りし者一二百人もありけんもの
を、よそにも我有さま見んと思ふ者のなきこそ口惜
けれとて、涙をながし給へば、武きもののふなれど
も、哀とぞ思ひける、大納言御舟に乗給ひて、鳥羽
殿を見渡して、守護の武士に語給ひけるは、去永万
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の頃、法皇鳥羽殿に御幸あて、ひねもすに御遊あり
き、四条太政大臣師長、御びはの役にきんぜらる、
花山院中納言忠雅、御笛の役に参らせらる、葉室の
中納言俊賢、ひちりきの役に参りたまふ、楊梅三位
あきちか笙の笛を仕り、もり定、行ざね打ものの役
をつとむ、かかりしかば宮中すみ渡り、群集の諸人
かんるゐを流しき、時に調子ばんしき調、万秋楽の
ひきよくを奏せられしに、五六の調になりしかば、
天井の上にびはの音ほのかに聞ゆ、着座の公卿各々色
を失ふ、君少もさわがせ給はず、その日四位少将に
て末座にしこうしたりしを召されて、いかなる人に
て渡らせ給ふぞ、尋申べきよし仰下されしかば、成
親畏て天井に向て君はいかなる人にて渡らせ給ふぞ
と、院宣の趣を申たりしかば、我は住よしの辺に候
小掾なりと答て、やがてびはの音もせず、答ふる人
も失にけり、住吉大明神の御影向ありけるにや、か
かりし御遊の時も人こそ多くありしかども、成親こ
そ召ぬかれて、御使をもしたりしが、いま朝敵にも
非ずして、配所へ赴くこそかなしけれとて、声もを
しまず泣き給へば、経遠をはじめとして、多くの武
士共鎧の袖をぞぬらしける、熊野、天王寺まうでなど
には、二瓦三棟につくりたる船にて、次の船二三十
艘漕續けてありしに、是はけしかるかきすへやかた
の舟に、大幕引廻して我方ざまの者一人もなくて、
見もしらぬ兵どもに乗具していづちといふことも知
らずおはしけん、さこそかなしかりけめ、よどの渡
り、草津、くずはの渡、きんや、かた野山、心細くぞ
ましましける、さるほどにはしら松といふ所に着き
給ふ、
柱松因縁事
此名は大和言葉にはあらずして、仏説ともいひつべ
し、その故は天ぢくに唯円上人と申人ましましき、
五天竺無の僧也、生は死の始とて年闌行法功積で、
期近づき給しかば唯円入滅し給き御弟子唯智と申僧
ありき、長老入滅し給しことを歎わび、別れし事を
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悲しみ、我後れ奉て、輪廻する事の悲しさよと窃に
覚されて、日数は積れども、昨日けふの様に覚えて
其思ひ浅からず、斯りし程に、来年の初秋の中の五
日の暮程に、いつよりも故上人の御事恋しかりけれ
ば、御墓所に詣でて、やうやうに御菩提を弔ひ奉てま
しますが、御面影身にそふ心地して、旧跡哀に覚え
ければ、唯智思はれけるは、盂蘭盆経には七月十四、
十五日には、亡者必ずしやばに来て、弟子、子息恩
愛の供養をうくるといふ事あり、誠に来り給ふもの
ならば、則現し給へとちかひつつ、御墓の御前に神
応草一もとありけり、我朝には芭蕉といふ是なり、
彼神応草の枝に、不死教草といふ草のかれ葉をとり
かけて、火をつけて、此光りにげんざいにさり給し
影をあらはし給へ、現身照光明と唱へ給へば、故上
人古のかたちをすこしもたがへず、現ぜられたり、唯
智しんかんにめいじ、哀に覚えて泣涙ひきうして、
是ほどに有がたきをおんみつせん事むねんなりと
て、国中に流布せらる、是を聞人々名残をしき父母
親類におくれたる人、七月半の盂蘭盆に葬所に光明
揚とて、夕に火をとぼす事は、其光りにて恋しき故
人を見む心ざしなり、
花秋大納言事
此事少しもたがはず、かかる風情我朝にあり、崇神
天皇の御宇に、花秋大納言と申ける人他界せられた
りき、御子の少将と聞えし人、おくれ奉て後は、か
なしみの心いつもその日の心地して、紅の涙を流し
つつ、昔の唯智が跡を聞伝へて、来年の七月中の五
日の暮ほどに、父の御墓にまうでつつ、やうやう後
世を弔ひ奉て、彼唯智がしわざを違へずして、御墓
所の前にかれたる木の一本ありけるに、草のかれ葉
をむすびかけ、火をとぼして、
玉すがたしのばば我に見せ給へ
むかしがたりの心ならひに W030 K260
と書つけて、火をかけられたり、誠に昔の風情に違
はず、故大納言現じて、御子の少将に見え給ふ、少
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将手を合せて隨喜の涙ひまもなし、昔の権化はした
がふ弟子にほどこし、今の賢人は恋る子にまみえ給
ふ、抑是をば諸名をさし伝へんとて、昔漢国に六宮
明寿と云皇ましましき、大願をおこして我国中の衆
生等がたぐひ少からんものの、父母妻子死して、先
だたんをれんぼせん者の、心をやすむるじゆつをえ
させんとちかひ給ふ、彼ちかひに応じて、天に声あ
て告、なんぢが皇居より北に命還山といふ山あり、
此山の頂に高部といふ松あり、その松を取て丸き柱
と磨て立よといふ声あり、此教によりて、彼高部の
松を取て、まはり一丈二尺、高さ五丈八寸に磨て、
かれをば真言秘蔵威勢移柱と名付たり、西の角に立
られたり、入さの月の影うつる時、彼松の根にして、
わかれし故人を念ずれば、入日の影に映じて必ず現
ずといへり、さればてんぢくの神応草も、彼柱に似
たり、我朝の少将の古松も是がごとし、然れば是は
六宮の移柱にことよせて、是れを柱松と名付べしと
て、初秋の十四五日の暮、もしはひがんを待て、高
きも賤しきも草を結び、火をとぼし、霊にたむくる
ともし火を柱松とぞ申ける、我朝に此火をともし初
ることは、此因縁ありしをもて、柱松といふ名をあ
らはす事、今にたえず、成親住吉天王寺まうでども
のありし時、かやうの所々を過しにも何とも思ひ寄
ざりしが、我身に歎のある時ぞむかしの思もしられ
ける、
土仏因縁事
所々を過行ば 、つち仏といふ所に着き給ふ、是は孝
徳天皇の御宇、吉野尾少将と申し人、月花門の女御
に近付奉るといふあだ名をたちて、備後国篠尾とい
ふ所に配流せらる、少将無実を蒙るだにもかなしき
に、か様の遠流の重科を蒙る事かなしみの中の悲な
れば、いかにもして無実をはればやと思はれければ、
其所にありける仏工に仰て、土をもて千仏の薬師を
つくり、義見僧をもて、供養せらる、かかりしくり
きにや、程なく無実はれてめし返さる、それよりし
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て是をば、現仏の浦とも申、土仏の湊とも申けるを、
此所の者のいひやすきままに、土仏と名けてほど久
しくなりぬ、是は大唐の一行あじやり、楊貴妃に近
づくと名をたちて火羅国にうつされたりけるが、さ
る権化の僧にてかやうに配所にさせんせらるるこ
と、後代にもこころ憂思はれければ、こがねを以て、
千仏を作りて、此無実をはれんと誓はれけり、ほど
なく願望をとげて、御しやめん蒙りて、八祖の内に
入給ふ、徳をほどこしたりし事を思ひ寄せて、千仏を
土像に作らる、是といひかれといひ、思ひ寄せて、
我方に悲しみのある時は、昔の歎きも知られけり、
かやうに思ひつづけて、入江入江すざきすざきを行ほ
どに、大納言爰はいづくといふぞと問はれければ、
津の国長柄と申ければ、
津の国やその名ながらのくちもせで
むかしのはしを聞わたるかな W031 K261
と打詠てさしていそがずすぐれとも、いとど都の遠
ざかる、爰に人のものを荒くいふも失はんとするや
らんと、きもをけし、かしこにささやき舟をおさふ
るも、我をしづめんとするやらんと、心をまよはす、
耳にふれさせ給ふこととては、すざきにさわぐ千鳥、
みぎはにそよぐあしたづ、きし打浪の音ばかり也、
暮にければ西河尻の内大もつにぞ着給ふ、
二日新大納言死罪をゆるされて、流罪に定りにけり
と聞えければ、さも然るべき人々は悦びあはれけり、
内府の入道に強にのたまひけるゆゑなり、国に諌臣
あれば、その国必安し、家にかん子あれば、その家
必直しといへり、まことや此大納言の宰相中将の時、
異国より来る相人に逢給ひたりければ、位正二位官
大納言に昇給ふべし、但獄に入べき相のましますぞ、
然らずば流罪せられ給ふべき人なりと相したりける
とかや、今思ひ合せられてふしぎ也、又中納言にて
ましましける時、尾張の国知行し給ひけるに、去嘉
応元年の冬のころ、目代右衛門尉政朝当国へ下ると
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て 、杭瀬川に泊りたりけるに、山門領美濃の国平野
庄神人事をいたす事ありけり、平野庄神人葛をうり
けるに、彼まさともが宿にてあたひの高下をろんじ
けるが、後には葛に墨を付たりけるをとがめけるほ
どに、互にいひあがりて、神人をにんじやうしたりけ
り、是によて、平野庄の神人山門へ訴へければ、同
年十二月廿四日に、例の大衆起て、日吉七社の神輿
を捧げ奉りて陣頭へ参す、武士をさし遣はして、防
がれけれどもかなはず、近衛御門より入て、建禮門
の前に並べすへ奉て、成親卿を流罪せられ、目代政
朝を禁ごくせらるべきよし訴へ申ければ、成親卿備
前国へ流され、目代政朝を獄舎に入らるべきよし宣
下せらる、大納言はすでに、西朱雀なる所まで出ら
れたるほどに、大衆たちどころに裁訴を蒙ることを
悦て、成親卿の罪科をば、ゆるさるべきよし申間、
同廿八日に召返されて、同廿九日に本位に復して、
中納言に成り帰給ふ、同正月五日右衛門督を兼して
検非違使別当にならる、其後も目出度時めき栄え給
ふ、去承安二年七月廿一日従二位し給ふ時も、すけ
かた、兼まさをこえ給ひき、すけかたは古人おとなに
てましましき、兼雅は清花の人なりしに、こえられ
給ひし、不便なりし事なり、是は三条殿を造進の賞
なり、御移徒の日也、同三年四月十三日に又正二位
し給ふ、今度は中御門中納言宗家卿こえられ給ふ、
去々年承安元年十一月廿日、第二中納言をこえて権
大納言にあがりて、かやうに繁昌せられければ、人
嘲て山門の大衆には、のろはるべかりけるものをと
ぞ申ける、されどもその後にや、今かかるめを 見給
ふぞおそろしき、神明のばちも人のじゆそも、とき
もあり、おそきもあり、不同事也、
三日いまだあかつきに京より御使ありとてひしめき
けり、すでに失へとにや聞給へば、備前の国へとい
ひて、舟を出すべきよしののしる、内大臣のもとよ
り御文あり、都近き山里などに置奉んと、再三申つ
P120
れども、叶はぬことこそ世にあるかひ候はね、是に
つけても、世の中あぢきなく候へば、親にも先だち
て、後生を助け給へと、天道にも祈り申候へ、心に
かなふ命ならば、かはらまほしく思へども、叶候は
ず、御命ばかりは申うけて候ぞ、御心ながくおぼし
めせ、程へなば、入道聞直す事もやとこそ存候へと
て、様々の御よういこまごまと調へて奉り給へり、
なんばの次郎の許へも御文あり、あなかしこ、おろ
かにあたり奉るな、宮仕よくよくすべし、おろかに
あたり申て、我恨むなとぞ仰られたりける、大納言
はさばかり不便に思召したる君にもはなれ奉り、い
とけなきものどもをもふり捨てて、いづちと行らん、
二たび都へ帰て、妻子を見ん事もありがたし、一年
山の大衆によて、日吉七社の御輿ふり奉て、朝家の
御大事に成て、夥しかりしだにも、西七条に五ヶ日
こそありしか、それも御ゆるされありき、是は君の
御いましめにもあらず、大衆の訴にもなし、こはい
かにしつる事ぞやと、天にあふぎ地にふしておめき
さけび給へどもかひなし、夜も漸明ければ、舟をお
し出しつつ、難波の浦、蘆屋のさと、いく田の前を
こぎ過て、すまの関やの浦づたひも、しほたれてや
ながめたまひけん、住吉の方を遠見すれば、遠き松
のみどりも、今ばかりや見んずらんと思ふも、夢の
心地す、我九歳より住吉大明神を敬し奉て、すでに
四十にあまり五十に及まで、こころざしをはこぶ事
今におこたらず、いのり奉ん事も今ばかり也、しば
らく船をとどめて、すずりをめしよせて、自筆にて
大明神に願書を参らせらる、其状に云、
敬白住吉大明神御寳前立願事、
一可奉唱毎日千返本地寳號事、
一可奉唱毎日千返垂跡御名事、
一可奉納重代御劒事、
右甄録如斯、夫以郷向鴻雁之北屬秋而重〓、
還桜花之根、迎春而忽開、再会〓期者永別也、
P121
男女子息尚在花洛九重内、成経所生之中為嫡子、
鐘愛不残、撫育此深、然則歎炎焼而難消、如胸
火増薪、悲涙落而不留、似眼下灑雨、仰願大
明神憐無二丹誠、令納受心中立願、成経以下男
女令守平安給也、仍立願如(レ)件、
治承二年六月三日 成親 敬白
と書給ひて、難波次郎に仰せられけるは、竹現と申
太刀、門脇宰相のもとにあり、それを取て此願書と
ともに、必参らせよと経遠に仰付らる、仰のごとく
是をまいらす、竹現は神劒と成て寳蔵第一の重寳と
ぞ聞えし、今の世までにあり、まことに祈は叶ふこ
とにやと覚ゆる事は、げにも此大納言は業因つたな
かりけるにや、配所の土となり、いわうが島まで流
罪せられ給へる少将は召返されて、二たび殿上に昇
られし事ありがたかりし事ども也、爭、成親の祈叶は
ざらん、
諸仏念衆生、 衆生不念仏、 父母常念子、
子不念父母、 K262
とて思はぬ子をだにもこそ、親のじひは思ふ習なれ、
是は父子の禮儀といひながら、心ざし深かりしかば、
神明も憐をたれ給ふらんとぞ覚えし、今は舟をとく
とくいださせとて、浪路はるかにこぎうかぶ、思を
思はぬ人だにも、わだのみはらの旅の空、心をなや
ますすさみぞかし、まして一かたならぬ歎き取集め
たる心ぐるしさ、さこそかなしくましましけめ、尾
上吹こす松風、すずしく袖にぞわたりける、高砂の松
よそになるに附ても、いとど都遠ざかりぬるこそか
なしけれ、故郷は雲井はるかに立帰り、むしの音し
げき遠国は、日にしたがひて近くなりまさる、爰の
しま、かしこの浦、入江々々、名所々々過ぎ行程に、日
数も積りにければ、備前国小島の内下津井と云所を
ば通庄と云、是につけて、田井の浦にましまして、
それよりして民の家のあやしげなる、柴のあみ戸の
内へぞ入給ひにける、三方は土にて壁をぬりまはし
P122
て、口一をあけたれば、はにふの小屋とも云つべし、
大納言は殊更家居を結構し、山庄をすごく面白くこ
そ好まれしに、身は習はしのものといひながら、か
かる所にも住めば住るるやと、身のおき所なくぞ思
はれける、されども思に消えぬ命なれば、明しくら
し給ひけり、後は山、前は磯なれば、松にこたふ嵐
の声、岩にくだくる浪の音、浦に友よぶはま千鳥、
しほぢにさわたるかもめ、たまたまさし入ものとて
は、都にて詠めし月の光ぞ面かはりせず、すみまさ
りける、大納言はただねてもさめても故郷のみ恋し
くて、朝夕は故郷に帰らんことをのみぞ祈り給ひけ
る、せめて心ぐるしさには、濱のほとりに出て遊び
給ひけるが、澳の方を見給へば、海士のいさり火い
くらともなく見えければ、大納言おもひつづけて、
大海にうつらば影のきゆべきに、
底さへもゆるあまのいさり火、 W032 K263
と打ながめて、さめざめとなき給ふ御心の中さこそ
はと覚えて哀也、大納言父子にもかぎらず、いまし
めらるる人多くありき、近江入道蓮浄をば、土肥次
郎預りて、常陸の国へ遣はす、新平判官資行をば、
源大夫判官預りて、佐渡の国へ遣はす、山城守もと
かねをば、進次郎むね正預りて、淀の宿所にいましめ
置く、平判官康頼、法勝寺の執行俊寛僧都をば、備中
国の住人瀬尾太郎兼やす預りて、福原に召しおかる、
丹波少将をば、しうとの平宰相に預けらる、
加賀守師高被討事
西光の嫡子前の加賀守師高、舎弟右衛門尉師近、右
衛門尉師平等追討すべきよし、太政入道下知し給ひ
ければ、武士尾張の国の配所井土田へ下りて、河狩を
はじめて、遊君をめし集めて酒もりして、師高をお
びき出して、頭を刎ねべきよしを支度したりけるほ
どに、五日師高が母の許より使を急ぎ下して申ける
は、入道殿は西八条より召捕られ給ひぬ、さりとも
院御所よりたづね御さたあらんずらんと思しほど
に、やがて其夕にきられ給ぬ、尾張の子息たちも追
P123
討せらるべきよし承及、急ぎ下りて夢みせよといひ
ければ、則、使此よしを申ければ、師高井土田を迯去
て、当国に蚊野と云所に忍びてゐたりけるを、小熊
郡司惟長と云者聞つけて、よせてからめんとしける
に、師高なかりければ、兵ども帰らんとしけるとこ
ろに、檀紙にて髪のあかをのごひて、捨たるがあり
けり、是を見つけて、猶よくよくあなくりもとめける
ほどに、民の家にはつしと云所あり、それに師高か
くれて居たりけるを、求め出してからめんとしけれ
ば、自害してけり、郎等に近平四郎何某と申ける者
一人附たりけるも、同く自害してけり、師高が首を
ば、小熊郡司取て六波羅へ奉る、骨をば師高が思ひけ
る鳴海の宿の遊君手づからとり納めけるぞむざんな
る、西光父子きりものにて、世を世と思はず、人を
も人と思はざりけるあまりにや、さしもやんごとな
くましましける人の、あやまり給はぬをさへやうや
うに讒言を奉たりければ、山王大師の神罰冥罰を立
所に蒙て、時こくをめぐらさず、かかるめにあへり、
さ見つることよさ見つることよとぞ人申あへりし、大かたは下
臈はさがさがしきやうなれども、思慮なきもの也、
西光も下臈のはてなりしが、さばかり君に召仕はれ
参らせて、果報やつきにけむ、天下の大事引出して、
我身もかくなりし、浅ましかりし事ども也、廿日福
原より太政入道、平宰相のもとへ、丹波少将是へわた
し給へ、相はからひていづちへもつかはすべし、都
の内にてはあしかるべしとのたまひければ、宰相あ
きれて、こはいかなる事にか、人をば一度こそころ
せ、二たびころす事やある、日数も隔らばさりとも
とこそ思ひつれ、中々有し時ともかくもなしたらば、
二度物は思はざらまし、おしむとも叶うまじと思は
れければ、とくとくとのたまひて、少将諸共に出立給
ふ、今までもかく有つるこそ不思議なれと、少将の
たまひければ、北方乳母も六条も思ひ儲たることな
れども、今更もだえこがる、猶も宰相の申給へかし
P124
とぞ思ひあへる、存ずる所はくはしく申つ、その上
はかやうにの給はんは、力及ばず、今は世を捨るよ
り外はなにとかは申べきと宰相のたまひける、さり
とも御命のうする程の事はよもとこそ覚ゆれ、いづ
くの浦にましますとも、訪ひ奉らんずる事なれば、
たのもしく思ひ給へとのたまふも哀なり、少将はこ
とし四歳に成給へる若君をもち給へり、若き人にて、
日頃は公達の行末など細々にのたまふ事もなかりけ
れども、其恩愛の道のかなしさ、今の都に成ぬれば、
さすが心に懸けられけん、小歳者今一度見んとて、
呼寄られたり、若君少将を見給ひて、いとうれしげ
にて、取附給ひたれば、少将髪をかき撫でて、七歳
にならば男になして、御所に参らせんとこそ思ひし
かども、今は其こといひがひなし、かしらかたく生
ひたちたらば、法師になりて我後世をとぶらへよと、
おとなに物いふやうに涙もかきあへずのたまへば、
若君何と聞分給はざりしかども、父の御顔を見あげ
てうなづき給ふはいとをしき、是を見て北方も六条
もふしまろびて、声もをしまずおめきさけび給ひけ
れば、若君もあさましげに覚しける、今夜は鳥羽ま
でとて急ぎ給へば、宰相は出だち給ひたりけれども、
世のうらめしければとて、此度は伴ひ給はぬにつけ
ても、いよいよ心細くぞ思はれける、
平家物語巻第三終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第四
P125
平家物語巻第四
廿三日、少将福原におはしつきたれば、瀬尾太郎が
預りて、頓て宿所に置奉る、我方様の者一人もつけ
ざりけり、瀬尾は宰相の帰り聞給はん事を思ひける
にや、さまざまにいたはり志ある様にふるまひけれ
ども、慰む方もなし、さるにつけてもかなしさの尽
せず、仏の御名を唱へて、夜も昼もなくより外の事
もなし、備中の国せのをといふ所にながさるべきと
聞へければ、少将は打あんじて、大納言殿は備前の
国へと聞えければ、そのあたり近くにや逢見奉るべ
きにてはなけれども、あたりの風もなつかしかりな
んとのたまひけるぞ哀なる、その儀にはあらず、法
勝寺執行俊寛、平判官康頼、硫黄が島へ流されける、
同罪にてさつまがたへとぞ聞えし、少将は一すぢに
きゆべき身の、父のりん国のよし聞えしなつかしさ
に、あやしのつけにかかへられて、今日まできえずし
て、重ねてうき事を聞くかなしさよ、ふかきより深
きに沈み、くらきより暗に逢ふ心地して、いとど歎
ぞ重りける、
六月廿五日には少将福原を立給ひ、三人つれて西国
へ赴く、平判官康頼は一条より上紫野といふ所に老
たる母のあるを始て、妻子親しきものどもあまたあ
り、今一度行ていとまをもこひ、名残をしまばやと
思ひながら、くだる歎きのほどは、誰にもおとらじ、
さつまがたへ下りなん後は、二たび召返されんこと
かたしとて、津の国こまの林と云所にて出家してけ
り、本どりはしそくの康もとがともしたりけるにも
たせて、都へのぼす、出家はもとより好みけり、か
やうに栄花の袂を引かへて、墨ぞめの袖となる折を
得て、かくぞ思ひつづけける、
いにしへのはなの衣をぬぎかへて、
いまぞ着そむる墨ぞめの袖、 W033 K264
P126
終にかく背きはてける世の中を、
とくすてざりしことぞ悔しき、 W034 K021
と打ながめて、法名性照と名乗れり、なくなく三人
つれて西国へ下向せられけり、既に備中国せのをに
下着せり、少将瀬尾をめして、いかにまことか、兒
島、せのをの間、ま近きよし聞ゆ、かかる身なれば、
見奉り見え奉らんといはばこそかたからめ、御文を
参らせて、大納言殿の御返事を取て得させよ、生た
らんほどの形見にもせむ、又死せばそれをしるしに
て後生までも尋奉らん、我硫黄が島へくだりなん後
は、帰り上らんことかたきによて、かやうにいふな
りと仰せられければ、片道僅に海上二三里の道を兼
康かくし申けり、仰のむねかしこみて承りぬ、備前、
備中はりん国とは申候へども、せのを、兒島の遠さ
は、片道三十余日に罷り候、上下向六十余日の道に
て候へば、宣下の時刻推移て叶ふまじきよしを申せ
ば、少将あな心憂や、行ゑしらせじとぞ、かやうに
はいふやらん、日本は纔に三十三ヶ国にてありしを、
崇神天皇の御宇より六十六ヶ国に別られたり、つく
しは島一つにてありしかども、九州の名をつけ、伊
予は一ヶ国にてありしを、阿波、土佐、讃岐を出て、
四国と名づく、はりまは一ヶ国にてありしを、備前、
摂津、美作、丹波を出て、五州と名づく、これてい
に国の名をかさぬといへども、いかでか境を遠く、
国中広くはなるべき、漢土に万里の山なければ、獅
子住まず、日本に千里の野なきが故に、虎すまずと
こそみえたれ、成経も一院の御おぼえ人におとらざ
りしかば、大国あまたふさぎ、大庄その数知行して
過つれども、又こそ西国に三十余日つづいて、片道
のあるは聞ざりしが、つくしより〓の使の上るこそ
廿日の道とは聞えしか、瀬尾、兒島遠しといふとも、
二三日にはよも過じ、あはれ是は行衛しらせじとて
いふよと思はれければ、何とすべき方なくて、泣よ
り外の事ぞなき、
P127
式部大輔章綱は、播磨の国明石に流されける、増位
寺と云薬師の霊地に参籠して、都帰のことをかんた
んをくだきて祈り申ける程に、百日満じける夜の夢
想に、
きのふまで岩間をとぢし山川の
いつしかたたく谷の下水 W035 K017
と御帳の内より詠じ給ふと見て、打驚て聞けば、御
堂の妻戸をたたく音しけり、誰なるらんと聞く程に、
京にて召仕し青侍也、いかにと問へば、太政入道殿
の御免の御文とて持ち来る、悦ばしなどいふばかり
なくて、頓て本尊にいとま申て出にけり、ありがた
かりし御利生也、
廿三日、大納言すこしくつろぐこともやとおぼしけ
れども、いとどおもく聞えければ、形をかへずして
つれなく月日すぐさんも恐れあり、何事を待にや猶
世にあらんと思ふかと、人の思はむもはづかしけれ
ば、出家の志あると内々小松殿に申合せられたりけ
れば、さもし給べしとのたまひたりければ、大納言
備中の安養寺の住侶調語房と云戒師請じて、出家し
給ひけり、大納言の北の方の北山の住居推はかるべ
し、住なれぬ山ざとはさらぬだに物うかるべし、い
と忍てすまゐければ、過行月日も暮しかね、あかし
わづらふさま也、女房侍どもも、その数多かりしか
ども、身の捨がたければ、世を恐れて人めをつつむ
ほどに、とひ訪ふ者もなかりけり、その中に大納言
の年ごろ近く召つかひける源右衛門尉のぶとしとい
ふ侍あり、よろづなさけあるをのこにて、時々奉事
問、ある暮ほどに参たりければ、北の方簾の際近く
召してのたまひけるは、あはれや、とのはびせんの国
兒島とかやに流され給ひけるが、過ぬる頃より有木
の別所といふ所にましますとばかり聞しかども、世
のつつましければ、是よりも一人も下ることもな
し、生きてやおはすらん、その行衛も知らず、いま
だ命も生ておはせば、さすが此あたりの事いかばか
P128
りか聞かまほしくおぼすらん、のぶとしいかなるあ
りさまをもしても、尋参りなんや、文の一をも遣は
して、返事をも待みるならば、限りなき心の内も少
し慰む事もやと思ふはいかがすべきとのたまひけれ
ば、のぶとし涙をおさへて、誠にとしごろ召仕はれ
し身にて候へば、限りの御ともを仕るべくこそ候
しかども、御下りの有さま、人一人もつき参らすま
じきよし承り候ひしかば、力に及ばずしてまかりと
どまり候き、あけても暮ても、君の御事より外、何
事をか思ふべく候、召され候し御声耳にとどまり、
諌られ参られ候し御言葉も肝にめいじて忘れず候、
今此仰を承る上は、身は何になり候ともいかがは仕
候べき、御ふみを給はりて、尋まいり候はんと申け
れば、北の方大に悦び給ひて、御文くはしくかきて
たびてけり、若君姫君も面々に父の御もとへとて、
御文かきてたびてけり、のぶとし是を給りて、備前
のこ島へ尋参りて、武士なんばの二郎に、今一度見
奉る事もやとて、年ごろの侍源左衛門尉信俊と申者
はるばると尋参り候と申ければ、武士もあはれとや
思ひけん、ゆるしてけり、参りて見奉れば、土を壁
にぬり廻して、あやしげなる柴の庵の中に、わらの
つかみといふものの上に、僅の御まし一枚しきて、
すへ奉りける、御住居の心うさもさることにて、御さ
まさへかはりにけりと、墨染の袂を見奉るに付ても、
目もくれ、心も消えはてにけり、大納言入道殿も今
更かなしみの心ぞ増給ふ、多くのものどもの中に、
いかにして尋来るぞとのたまふもあへず、こぼるる
涙も哀也、信俊なくなく申けるは、北の方去六月一
日より北山雲林院の僧房にぼたい講を行ふ所候、彼
所に忍びて渡らせ給候が、御歎きの深く渡らせ給ふ
事斜ならず候、公達のこひかなしひ給ふ事、又仰せら
れつる次第、くはしく申て、御文取出して参らせけ
り、大納言入道是を見て、涙にくれて、水ぐきのあ
とそことも見えわかねども、若君姫君の恋かなしひ
P129
給ふ有さま、我身もまた月日を過ぐべき様もなく、
心細くかすかなる御有さまを思つづけ給ひたりける
を見給ひては、日ごろ覚束なかりつるよりも、いと
どもだえこがれ給へる有さま、げにことわりと覚え
て哀也、信俊二三日は候けるが、泣々申けるは、かく
てつきはて参らせて、かぎりの御ありさまをも見は
てまいらせ候はばやと存候へども、都にもまたみゆ
づり参らせ候方も候はざりつる上、つみ深く、御返事
を今一度御覧ぜばやと思召され候つるに、むなしく
程を経候はば、跡もなくしるしもなくや思召され候
はんずらん、心ぐるしく思ひやり参らせ候、今度は
御返事を給候て、もちて参りて、又こそやがてまい
り下り候はめと申ければ、大納言よに名残をしげに
思はれながら、誠にさるべし、とくとく帰り上れ、
汝がこんたびを待つくべき心地もせぬぞ、いかにも
なりぬときかば、後生をこそとぶらはめとて、御返事
くはしく書き給ひて、御ぐしの有けるを引包みて、
かつうは是をかた見とも御らんぜよ、ながらへてし
も聞はてられ奉らじ、こん世にこそなど心細く書つ
づけて、給ひてそのおくに、
行あはむことのなければ黒髪を
かたみとてやる見てもなぐさめ W036 K018
と書とどめてたびてけり、若君姫君の御返事もあり、
信俊持てかへり上るが、いでもやらず、大納言もさし
てのたまふべきことは皆つきにけれども、したはし
さの余りに、たびたび是をめし返す、たがひの心さこ
そありけめと推量せらる、さてもあるべき事ならね
ば、信俊都へ上りにけり、北山へ参りて御返事奉け
れば、北の方あなめづらし、いかにいかに、さればい
まだ御命はいきてましましけるなとて、急ぎ急ぎ御
返事を引ひろげて見給ふに、御ぐしのくろぐろとし
てありけるを、ただ一目ぞ見給ひける、此人は様か
へられにけりとばかりの給ひて、又物ものたまはず、
引かつぎてふし給ひぬ、此御ぐしをふところに入て
P130
むねにあて、かほにあててぞもだえこがれ給ひける、
うつり香もいまだ尽ざりければ、御ぬしは只面影ば
かり也、若君姫君もいくら父御前の御ぐしはとて、
面々に取わたし取わたしして泣給ふぞむざんなる、かた
見こそ今はあだなれ、是なかりせば、今更かくは思
はざらまじとぞ覚されける、太政入道此事を聞ての
たまひけるは、誰がゆるしにて、大納言は本どりを
切たりけるぞ、さやうのことをこそじゆの事とはい
へ、流し置たらばさてはあらでふしぎ也とて、小松
殿にはかくしてなんばがもとへ、大納言急ぎうしな
ふべしとぞのたまひ遣しける、
丹波少将は備中のくに瀬尾の湊、ゆく井といふ所よ
り御船に召して波路はるかにこぎうかぶ、是は伊予
の国夏地につきてめぐられける、高く聳えたる遠山
のはるかに見えければ、あれはいづくぞと少将問給
へば、土佐のはた、足摺みさきと申ければ、少将思い
だして、さては昔、理一と申僧ありき、有漏の身をも
て、ふだらく山を拝んと誓ひて、一千日の行ほうを
始めて御弟子のりけんと申一人ばかり召具して、御
船にめして、おしうかび給ふに、むかひ風烈しく吹き
て、元のなぎさに吹返す、理一猶行法の功をはらざ
りけりとて、又百日の行法をし給ひて、百日過けれ
ば、聖人もとより人を具してはかなふまじとて、御
船にただ一人めす、彼舟はうつほ船なり、白きぬの
の帆をかけて、順風に任す、げにもおいて事をへだ
て、遥に遠ざかる、御弟子のりけんは、聖人に捨て
られ奉りて、ふだらくせんををがむべからざる事を
かなしむ、りんゑして生死を出まじきやらんと、はや
御船のかくるるほどなれば、名残をしくしたひ奉り、
余りのたへがたさに倒れふし、足摺をしておめきか
なしむ、足摺地をうがち、身をかくすばかりになり
ぬ、聖人をしたひ奉りし志の切なりしによりて、魂
去りて現に聖人のともをして、普陀らくせんを拝み
奉りき、すがたは此所にとどまれり、本地くわんを
P131
んにてましませば、垂跡足摺の明神にてましますご
ざんなれ、昔の別れ、因位の時の御事しり給はず、
成つねが歎をやめさせ給へ、本地観世音菩薩、すゐ
じやく大慈大悲足摺明神とて、よそながらふし拝み
奉り、はるかにこぎわかる、何事なるらんとて、又少
将の御有さま、あはれともおもはぬものはなかりけ
り、かくて日数をふるほどに、伊予と豊後との境な
るさがのみさきのわたりして、心づくしにも着給ら
て、さて豊後の国米水の浦と申所に、花見てとひけ
る歌人おほうみの水のみかさやまさるらんといひけ
る、をちの瀧そのしら瀧のあの浦はたたなるらんと
ぞ思はれける、あはれ歩行にて下る事なりせば、小
野小町が歌のふし、あづまや、かちを、駒いななけ
ば、たにくら谷とかやを見てましものをと思はれけ
り、かくて日数もつもりゆけば、日向の国あや部の
港わかの津にこそ着かれけれ、それよりして、鐡輪三
足のさかに取り上りたまふ、下臈はかなは坂とも申
けり、是は我朝人皇のはじめ、神武天皇の日向国宮
崎の郡に、帝都をたて、御即位有し時、三女一男下
りて土の仏を作りて、てつりん三足をたてて、供御
をしてまつりけり、それよりして、最初竈門三足の
峯とも申、都にありし時は家の日記を以て是れを知
るといへども、いかでか親に見べき、をん流の思ひ
でには、かかる名所を見るこそすこしなぐさむ心地
すれ、それ室野、船引、大山といひて月影日影もささ
ぬ深山の峨々たるせきがんを凌きこえて、日向国西
方が島津の庄に着給ふ、彼庄内にあさくら野と云所
に、ひとつの峯高くそびえて、煙りたえせぬ所あり、
日本最初の峯、霧島のだけと號す、金峯山、しやかの
だけ、富士の高根よりも、最初の峯なるが故に、名
付て最初の峯といふ、六所権現の霊地也、彼いただ
きに巌穴あり、長時に猛火もえ上りて、雲に續く、
いつとなく黒砂ふり下りて、すゑ何千里とはかる事
なし、然れども彼峯を何の本地ともしらざりけるを、
P132
はりまの国、書写の山を建立してける、證空上人彼峯
に登山して、我この神の本地を拝み奉らんと誓ひ給
ひて、七日参籠して、法花経をどくじゆせられける、
五日といふ子の刻ばかりに、大山震動して、岩崩れ、
めう火もえて、ことに煙りうずまきて、暫ばかりし
て、廻り一二丈そのたけ十余丈ばかりある大蛇の、
角はかれ木の如くおほひかかり、眼は日月の如くか
がやきて、大にいかる様にて出来給ふ、上人是を御
覧じて、此山の有さまを見るに、もとより龍宮じや
うとはぞんぜられ候ぬ、思ふにすゐじやくは龍のす
がたにてあつし候か、本地をこそ拝み奉度候へ、と
くとく本地を現はさせ給へ、あしくもげんぜさせ給
ふものかなとて、はたと守り奉る、大蛇本地に帰り
ぬ、つぎの日の未の刻計に、三尺計なる大鷹の尾ふ
さの鈴をふりならして、めう火の中より飛び出て、
前なる平岩に居たり、しやうくう腹を立て、龍をだ
に用ひ奉らず、いはんやいやしき野鳥のすがたをば
用奉るべきや、然らば心眼ともにひらきて、仏体を
拝み奉らんとこそ思ふに、見仏せざらんには、双眼
ともに無益なりとて、どこを持て双眼をささんとし
給へば、鷹去てしばらく計して、十一面の観音光明
かくやくとして幻のごとくにて見えさせ給ふ、その
時上人夢うつつともわかず、ずゐき申ばかりなくし
て涙を流されけり、性空上人心中のせいぐわんには、
こんど仏たいを拝み奉程ならば、法華の行者と成て、
彼教に従ひて、衆生をけどせんと誓はる、したがひ
て心願成就のうへは、法華を殊に信仰し給へり、此
煙の中より光さして末のとどまらん所を、我在所と
定めんと思召されけるに、煙の中より光をさして、
はりまの国書寫にとどまる、よてかの所をこんりう
して、長きすみかとし給ふ、かかるごんけの人の徳
をほどこし給へる峯なれば、成経も参籠して拝まば
や、我さつま方へ行なん後は、二たび故郷にかへら
んことかたし、しやさんして後世をたすからんと思
P133
ふはとありければ、預りの武士なさけある者にて、
何かくるしく候はんとて、具し奉り参りたり、殊に
地ぎやうすぐれて、眺望世にこえたり、ためし少き
所也、少将あまり名残をしくして、七日参籠して、
法華廿八品、尺の石の面に書寫してこめ奉りて、そと
ばを作り、五輪をきざみ、梵漢両字を書きなどして、
忘れがたみを残し、梅桜をみづから植置き、さまざま
に、彼山にかたみをのこしなどして、御宿に下向あ
り、少将月日の重るにつけても、ただ故郷のみ恋し
くて、暮にも及びければ、今様をうたひ、らう詠を
しなど心をすまし、涙を流し、いつとなくしほれた
る御有さま也、心あるも心なきも、互に袖をぞしぼ
りける、預の武士ども申けるは、此君になれ参らせ
て、名残はをしく成ませども、思ひあき奉る事はな
し、さればとて都に聞れん事も恐れあり、とくさつま
がたへ渡し奉らんとて、又出立せ奉る、少将是をこ
そ、ずゐぶんにつらき所と思ふに、猶いたましき所
のあらんずるにやと先しられてかなしかりけり、さ
てはやに夏影、とかみ、あかさかといふ所を打過て、
大隅の国けしきのもりにつき給ふ、少将此森を見給
ひて、
秋近きけしきの森になく蝉の
涙の露や下葉染むらん W037 K265
と云名所は是やらんとぞ思しめしける、正八幡宮の
御あたりをよそながら拝み奉り、宿願をたてて、通
られけり、少将は都にてさつまがたへと聞給ひしか
ば、さもやはと思給けるに、九州のうちには有ざり
けり、誠に世の常の流罪だにかなしかるべし、まし
て此島の有様伝聞ては、各もだえこがれけるこそむ
ざんなれ、道すがら旅の寒さこそ哀を催しけめと、
推量せられて哀也、せんどにまなこさきだつれば、
とくゆかんことをかなしみ、きうりに心をとうずれ
ば、はやく帰らん事かたし、或は海辺すいたくの幽
かなるみぎりには、蒼波眇々として、恨心綿々たり、
P134
或は山関よう谷のくらき道には、巌路峨々として、
ひるはゆうゆうたり、さらぬだに旅のうきねはかな
しきに、更る夜の月のほがらかなるに、夕つげ鳥か
すかに音づれて、遊子残月に行けむ、凾谷の思ひ出
られてかなしからずといふ事なし、さつまがたとは
惣名也、きかいは十二の島なれば、くち五島は日本
へ随へり、おく七しまはいまだ我朝に従はずといへ
り、白石、、あこしき、くろ島、いわうが島、あせ納、
あ世波、やくの島とて、ゑらぶ、おきなは、きかい
が島といへり、くち五島の内、少将をば三のとまり
の北いわうが島に捨て置く、康頼をばあこしきの島、
しゆんくわんをば白石がしまにぞ捨置ける、彼島に
は白鷺多くして、石白し、水の流に至るまで、波白く
ぞ見えていさぎよし、かかりければ白石島とは云け
るかや、せめては一島にも捨てられたらば、なぐさむ
方も有るべきに、遥なるはなれ島どもにすて置きけ
れば、かなしきなどいふも愚也、かかるはういつじ
やけんの島には、一島にあらんだにもかなしかるべ
し、まして所々の思いかにして一日片時も日を送る
べきとなきけり、とかくして俊くわんも、康よりも、
少将のましましけるいわうが島へたどりつきて、互
に血の涙をぞ流しける、彼島西北十里の島也、その
地乾地にして、山田うつ賤が業もなければ、米穀も
なし、そののくわをもかはざれば、絹布のたぐひも
希なり、島の中に高き山あり、峯には火もえ、麓に
は雨ふり、雷なる事ひまなかりければ、魂をけすよ
り外の事なし、めいどにつづきたるともいへり、寒
暑ことわりにも過たり、さつまがたよりはるばると
浪路をわたりて行く道なれば、おぼろげにては人の
通ふことなし、をのづから有ものも此土の人には似
ず、色黒くて牛のごとし、身には毛長く生たり、け
ん布の類ひなければ、きたるものもなし、男と覚し
きものは木の皮をはぎて、たうさぎにかき、はねか
づらといふものをし、女は木の皮を腰にまきたれど
P135
も、男女のかたちもみえわかず、髪は空ざまへおひ
上り、びんは夜しやにことならず、いふ事も聞しら
ず、偏に鬼の如し、何事につけても聞しらず、命生
くべき様なかりけり、少将はただ中々首を切られた
らばいかがせん、生きながら地ごくに落ちぬるこそ
とぞかなしまれける、各が身のかなしさはさる事に
て、故郷に残りとどまる父母妻子どもの此有さまを
伝へ聞て、もだえこがれける心中どもむざん也、人
の思ひのつもる平家のすゑこそおそろしけれ、彼海
まんまんとして風かうかうたる雲の波煙の浪にむせ
ぶなる、蓬莱方丈瀛洲の三の神山の島には、不死の
くすりもあんなれば、すゑもたのもしかるべし、此
さつまがたの白石、あこしき、いわうが島には、何
事かは慰むべき、哀也、眼にさへぎるものとては、
山の峯にもえ上る、耳にみてるものとては百千万
の雷の音、ひたすら無間大じやうと覚えて、見聞に
つけても、ただ身の毛ばかりぞたちける、少将判官
入道は、きえもうせなんと思けれども、せめてのか
なしさのあまりに、浦々島々を見廻りて、都の方を
詠めやる、僧都はあまりにかなしみやせて、岩のは
ざまに沈みいたり、慰む事とては常には一所になみ
居つつ、尽せぬ昔物語のみして、さればとて一日に
もきえもせぬ身どもなれば、木の葉をかき集め、も
くづを拾ひて、かたのごとくなる庵を結びて、あか
しくらしける、されども少将のしうと、平宰相の領、
ひぜんの国かせの庄といふ所あり、折節につきて忍
び忍びにあひとぶらはる、太政入道の聞給はん所を
恐れて、思ふほどこそなけれども、かたのごとく衣
食を送られければ、康頼もしゆんくわんもそれにか
かりて日を送りけり、此人々露の命きえやらぬ身に、
惜むべきには有らねども、朝な夕なをとぶらふべき
人一人もつきしたがはぬ事なれば、いつならはねど
も、薪をひろはんとて、山路にまどふ時もあり、水
を結ばんとては、澤につかるる折もあり、さこそた
P136
よりなくかなしかりけめと、推量せられてむざん也、
判官入道申けるは、さのみなき歎てもいかがせむ、
仏の御名を唱へてこそ、みやうけんの恵をあふぎて
二度都に帰らんことをねがひ、後生ぼたいをも祈ら
めと申て、己がのふなれば、歌をうたひ、舞をまひ
て、島の明神に報じ奉る、島の者ども、時々来て是
を見て、興に入てなくもあり、笑ふもあり、康頼日
にそへて、都の恋しさもなぐさまず、中にも母の七
十有余なるが、紫野にありしを思ひやりけるに、い
とどせん方なく、我流されし時もかくと知せまほし
かりけれども、きかば老のなみに歎きかなしまんず
ることのいたはしさに、思ながら告ざりしかば、今
一度見もしみえざりしに、此有さまを伝へ聞て、今
までながらへてあらむ事をもあり難しなど、来し方
行末のことまでつくづくと思ひつづけられて、ただ
なくより外の事ぞなかりける、康頼島に着きて、廿
日と申けるに、不思議の夢をぞ見たりける、夢の心
地に前の濱に出で遊びけるに、海上を見渡しければ、
こがねにて作りたる大船一艘出できたる、艫舳には
しやうしんの龍をすへたり、やかたには幔の幕を引
きたり、風のさつと吹上げたるたえ間より見入たれ
ば、十七八ばかりの女房たち、琴をだんじ、びはを
引き、今様をうたひ、朗詠し管絃しすましたり、都
をはなれて後、いまだ是ほど心を養ひたる事こそな
けれと思ふ所に、よはひたけたる老僧五六人なみゐ
させ給ひて、こんでいの法華経机に置きまいらせて、
同音に読じゆあり、しんかんにめいじて、随喜なの
めならず、船の帆には、一乗妙法蓮華経の文字様々
にあらはれさせ給ひたるをかけて、順風に任せ、前
の浦を走通ると見たり、あなたつとや、是は此極楽
浄土のくぜいの船とかやは、是やらんと思ふ所に、
我子の康基が、白き馬に乗て、此島にあがると見た
りけり、康頼入道夢さめて、あな不思議や、夢と知
りせば今暫くもまどろみて見てまし、はやくも覚め
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ぬる事のむねんさよと恨む、誠に此夢は康頼入道が
子息、康基が毎日都清水寺に参詣して、法華経の二
の巻の信解品をどくじゆし奉て、南無千じゆ千眼大
慈大悲観世音菩薩、願はくはこの経の功力によて、
父の骸姿を今一度見せさせ給へときせい申ける、誠
熊野参詣事
にくわん音の御利生あて康頼を守らせ給ふやらんと
ぞ覚えし、天性康頼は、熊野信心のものにてありけ
れば、或時少将に申けるは、此島に熊野権現をいは
ひ奉て参りて、帰洛の祈誓を申候ばやと思ひ候はい
かにと申ければ、少将我も昔は君の御ともに参りて
候き、又私にも参詣しき、成経都に候し時猶参詣の
志深く候しを、一方ならぬまぎれに、本意をとげず
して、かやうにまかり下て候事、後生ぼたいのさは
りともなりぬと覚え候とありければ、康頼入道申け
るは、権現遠からず願へば、その心に来り給ふ、仏
陀近きにあり、きせいすれば、道場に入り給ふといへ
り、然れば当山権現と申は、本地はあみだ如来にて
まします、いかならん野の末、山のふもとなりとも、
衆生の真実をいたさば、いくわうをささんとちかひ
給ふ、此島なりとも、我等まことをいたし奉てあがめ
奉らんに、などかは光をさし給はざらん、いざさせ
給へ、此島を廻りて見候はんに、くまの山に似させ
給ひたる所候はば、権現を崇め奉て、帰洛の祈をも
仕候はばやと申ければ、少将是を感じ悦び給ひけり、
法勝寺の執行にのたまひあはせければ、御宿願はさ
る事にて候へども、若都にめしかへされて候はん時、
さんそうどもの、比叡のじむじやは、本社へだにも
参詣せず、法勝寺の執行こそ硫黄が島へ流罪せられ
てありける、かなしさのあまりに、よしなきもろも
ろの岩の角を熊野権現と崇めて、拝みありきたりけ
りと笑はれん事のはづかしく候へば、参り候まじ、
山王の御事ならばさもありなんとて、参詣にはあた
はざりけり、二人の人々島をめぐりて見給ふに、は
るかにわけ入て、人跡たえて鳥の声だにもせぬ所に
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河ながれたり、音なし河に相似たり、高く聳えたる
峯あり、雲取志古峯と名づけて、遥の峯に上りて、
南の方を見わたせば、雲海ちんちんとして、蒼天霞
をこめ、へきがん峨々として、奥のたきを見わたせ
ば、白浪峰より流れたり、瀧の音も涼しく、松吹く
風も神さびたり、そのけいき瀧山ひりやうごん現の
まします、なちの御山に似たりければ、則ち那智山
と號す、東をはるかにかへり見れば、いさごへいへ
いとして銀河渺茫たり、月真如の影をうかぶ、元和
十五年の秋、長安倡家の女の船中にしてびはを弾ぜ
しかば、白楽天月毛の駒をとどめ詠めけん、〓陽江
の辺もかくやと思ひなずらへて、新宮の湊にたとへ
たり、すこしうちはれたる所あり、大きなる岩屋あ
り、それに松一むら生たり、是を本宮と名づけ奉て、
草打拂ひ、しめ引まはしたり、傍に石巌高く聳え、
白雲腰に〓き、神さびたる所あり、神くらにぞたと
へたる、浪間左右にむらだちて、みぎはのしら洲も
入ちがひ、千鳥しばなく所をば、玉津しまの明神、
和歌、吹上など、三の山にかたどりて、道々の岩を
ば、切部、藤代、鹿の瀬、米持、こんがう童子五だい
王子と名付けつつ、四方の木の下には、一万十万禪
師、聖兒子宮、岩代はしもと、あひどく山など、王
子々々とまりどまりの名をつくる、その夜はくろめに
下向して、法勝寺の執行に御参り候へや、眺望本社
におとらせ給はずとのたまひければ、僧都難澁なり
ければ二人の人々たちかふべき浄衣なければ、麻の
衣を洗ひつつ、澤辺の水を垢離にかき、七日精進し
てまうでけり、津の国くぼ津の王子よりはじめてま
うずる時、さして道のれいぎおこたらず、なれこま
ひなど、かたの如くかなでてぞ通りける、康頼法師
は己がのうなれば、さまざまにあはれなる事どもか
ぞへつづけて、舞ひすまして通りけり、是しかしな
がら我等丹誠をいたす心ざしの深さを権現納受し
て、地形便を得、かつがうの信心をまし給ふ上は、
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いかでか所願成就せざるべきとたのもしくぞ覚えけ
る、夕に濱路を出るには、千里の濱思出られて、山
川谷川を渡るには悪業煩悩、無始の罪しやう、消ゆ
なるものをと頼もしくぞ思ひける、かくの如くして、
八十余所の王子々々詣で過て、本宮しやうじやうでん
御前にまうでつつ、本地あみだ如来にてまします、
十悪五逆をもすて給はぬ御ちかひあるなれば、遠き
近きにはよるまじ、心の至誠なるをこそ権現金剛童
子も、あはれみ覚さんずらめと思ひて、南無日本第
一大霊験熊野三所権現、和光の恵を施して、成経性
照、今一度都へ返させ給へと、肝胆を碎きていのり
申されける、康頼けつさいの次にのつとをぞ思ひつ
づけ申あげける、性照御幣紙に花ぶさをささげて、
謹請再拝、維当歳次治承二年戊戌月並十月二月日
数三百五十四ヶ日、八月廿八日神己未択吉日良辰、
掛畏忝日本第一大霊験熊野三所権現、並飛龍大薩
〓、教令宇津弘前、信心大施主羽林藤原成経沙弥
性照致一心清浄誠、抽三業相応志、謹以敬白、
夫證誠大権現濟度苦海教主、三身円満覚王也、
両所権現或東方浄瑠璃醫王主、衆病悉除如来也、
或南方補堕落能化主、入重玄門大士、若王子娑婆
世界本主、施無畏者大士、頂上仏面現、衆生所願満
給、雖然法性真如都出、自和光同塵道入給以
来、神通自在難化衆生誘、善巧方便利益施給、因
茲自上一人迄下万民、朝結清水肩懸、煩悩
垢濯、暮向深山寳號唱、感応無懈時、峨々峯高
神徳高喩、嶮々谷深弘誓深准、雲分昇露凌下、爰
利益地不憑爭歩運嶮難道権現徳不施、何必幽
遠堺御、仍證誠大権現飛龍大薩〓青蓮慈悲眦相並、
早鹿八御耳振立、我等無弐丹誠知見、一懇志令納
受給、成経性照遠流苦止、早旧城故郷令付、当
人間有為妄執改、速法性無為證真理而已、然則
結早玉両所権現、各機隨有縁衆生引導、無縁群類
為救、七寶荘厳棲捨、八万四千和光、六道三有
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塵同給、故定業亦能将求長寿、得長寿禮拝、連
袖無隙、漫々深海、罪障垢重々、峨々高峯、懺
悔風扇、戒律乗急心調、忍辱衣重、覚道花捧、神
殿床動、信心水澄利生地湛、神明納受給、諸願何
不成就、仰願十二所権現利生翅並、遥翔苦海底、
慰左遷愁速令遂帰路本懐給、敬白再拝、
とぞ申ける、康頼は子息左衛門尉康基が示し知らせ
ける夢想の事なんど思ひ出して、大江の匡房が無常
の筆をぞ思ひ續けて、生死の嶮路定めがたし、老少
いづれの時を期すべき、ぼうこんいたづらに去て、
野外の崇廟幽々たり、彼かんやう宮のけぶり片々と
して雲となる、いづ方へか去ん、思へば皆夢の如し
とて、本宮をいで、苔路をさしたるまねをして、新
宮へつたふ、雲とりしこの峰と申、けはしき山こえ
て、なちへ詣でつつ、三山の奉幣とげにければ、悦
の道になりて、切めの王子のなぎの葉を、稲荷の社
の杉の葉にとりかさねて、今は黒めにつきぬと思ひ
てぞ下向しける、かく詣づる事こぞの八月より懈ら
ず、さるほどに、同九月上旬にもなりにけり、或日
本宮に詣で、法施をつくづくと手向け奉てありけれ
ば、いつよりも信心肝にめいじ、五体に汗出て、身
の毛よだち、ごんげんこんごう童子の御影向も忽に
ある心地して、嵐すごく吹おろして、木の葉かつち
りけるに、なぎの葉二つ、康頼がひざに散りかかる
を見れば、一は帰雁とむしくひたり、一には二文字
をくひたり、又よくよく見れば、歌を一首むしくひ
たるを見出したり、
千早振神のいかきを頼む人
などか都にかへらざるべき W038 K032
康頼入道是を御覧候へ、此島にはなぎは候はぬに、此
葉の出て来たり候はとて、少将に奉る、少将取りて
見て、あら不思議や、いまは権現の御利生に預りて
都へ返らん事は一定也とて、弥々祈念せられけるに、
康頼入道申けるは、入道が家には蜘蛛だにもさがり
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ぬれば、むかしより必ず悦を仕候が、けさの道にこ
ぐものおちかかり候つるに、権現の御利生にて、少
将殿召返されさせ給はん次に、入道も都へ帰り候は
んずるにやと思ひて候つる也、さても帰雁二とよま
れて候こそあやしく候へ、いかさまにも残りとどま
る人候はんずると覚え候とて、涙を流して下向せら
れけり、康頼はあやしげなる草堂のまねかたを作り
て、浦人、島人集りたる時、念仏をすすめて、同音
に申させて、念仏を拍子にて、乱拍子を舞ひけり、
あみだの三ぞんのいみじき事をばしらねども、此舞
のおもしろさに、是をはやすとて心ならず念仏をぞ
申ける、彼草堂は島人どもが寄合所にて、今にある
とかや、又をのづから汀に寄たる木を拾ひ集めて、
千本のそとばを刻みて一面には阿字を書きて、その
下に年號月日を書たり、一面には二首の歌を書く、
さつまがた沖の小島に我ありと
親には告げよ八重の潮風 W039 K034
思ひやれしばしと思ふ旅だにも
猶古さとの恋しきものを W040 K033
此二首の歌の下に平判官やす頼法師とかな、まなを
書きて心あらん人、是を御覧じて、康頼が故郷へ送
り給へとぞ、卒都婆ごとに書きたりける、書終りて、
天に仰ぎてちかひけるは、願くは上ぼんてん帝釋、四
大天王、閻羅王、けんらう地神、別しては日本第一
大霊験、熊野證誠一所、両所権現、一万十万、金剛
童子、日吉山王、厳島明神、哀と思し召して、我書
付くる言の葉、必ず日本の地へつけさせ給へときね
んして、西風の吹く度に此そとばを、八重のしほぢ
へぞなげ入ける、其きねんのこたへて、思ふ思ひや風
となりけん、まんまんたる波の上なれども、同じ流
のすゑなれば、浪に引かれ風にさそはれて、はるか
の日数を経て、そとば一本は熊野の新宮のみなとへ
よりたりけり、浦の者取て熊野の別当の許へ持て行
たりけれども、見とがむる人もなくてやみにけり、
P142
又そとば一本は、安芸の国厳島の大明神の御前にぞ
よりたりける、哀なる事は康頼がゆかりある僧の、
康頼西海の波に沈みぬと聞えければ、あまりのむざ
んさに、何となく都をあくがれ出て、西国の方へ修
行しける程に、便風もあらば彼島へ渡りて、生死を
も聞かばやと思はれけれども、おぼろげにては船も
通ふ事なし、おのづからあき人などの渡るも、はる
かに順風を待ちてこそわたれなど申ければ、たやす
く尋渡るべき心地せず、さりながらいかにもしてそ
のおとづれを聞かばや、生死も覚束なし、いかがは
すべきなどと思ひて、あきの国まで下りにけり、び
んぎなりければ、厳島の社へぞまうでにける、明神
の御在所をはいけんするに、後には御山高くそびえ
て、等覚、めうがくの迹門は十四、十五の秋の月に
かたどり、内せう、げせうのしやだんには、三十三
天の春花をくらすと見えたり、誠に大日の霊地、し
んごんひみつの浦と相応せり、潮来ては海となり、
潮去ては島となる、それ和光同塵の利生さまざまな
りといへども、いかなりけるいんえんにて、此神か
やうに海畔のうろくづに縁を結ぶらんと思ふも哀
也、当社大明神は、三十三の大願あり、第一の願に
は道心の者をまぼらんとの御誓なれば、一度参詣す
れば、後生ぼだいの憑あり、一切衆生の所望を悉く
かなふべしとの御誓あり、我のぞむ所は舎兄康頼入
道が死しても候はば、そのしるしを見せ給へ、若生
きて候はば、そのおとづれを聞候ばやときせい申け
り、まことや此神は太政入道ことに崇敬し給へるぞ
かし、されば平家のいきどほり深き人をかやうに思
へば、神もいかに思召すらんと恐しくて、ぬさも取
あへぬ程あれば、ひねもすにほつせたむけ奉りける、
日も暮方になりにけり、月出で汐みちけるに、そこは
かとなき藻屑の流れける中に、小そとばのやうなる
もの見えければ、あやし、何なるらんと思ひて取り
て見れば、彼二首の歌をぞ書たりける、是を見て哀
P143
なる事限りなし、ずゐきの涙を流しつつ、おいのか
たにさして都へもちて上て、康頼が母の宿所紫野に
行て、とらせたりければ、老母妻子集りて、各々是を
見て悲しみの涙をぞ流しける、新宮の湊によりたり
けるそとばも、熊野より出来ける山伏につけて、お
なじく都へ着きたりけるぞふしぎなる、たとひ一丈、
二丈の木なりとも、硫黄が島にてまんまんたる海に
入たらんは新羅、高麗、百済、震旦へもゆられゆか
で、安芸国までよるべきや、まして渚にうち上げら
れたるもくづの中に、交はりたるこけらにて、千本
まで作りたりけるそとばなれば、一二尺にはよも過
じ、文字はゑり入きざみつけたりければ、なみにも
洗はれずして、あざあざとして彼しまより都まで伝
はりけんこそ哀なれ、余りに思ふ事はかくほどなく
かなひけるも目出たし、康頼三年の命消えやらで、
都へ文を伝へたりとて、此二首の歌を都に披露しけ
れば、彼のそとばの事えいぶんに及びて、召し出し
てえいらんあり、誠に康頼法師が手跡也、少しもま
ぎるべくもなし、露の命消えやらで、いまだ彼島に
有ける事のむざんさよとて、法皇龍顔より御涙を流
させ給ひけるぞかたじけなき、昔大江のさだもと、
出家の後、大唐国にて、仏生国阿育大王の作り給へ
りし八万四千基の石塔内、日本江州石塔寺に一基留
る事を、かの震旦国にしてかきあらはしたる事の、は
りまの国そうゐ寺にながれよりたりけん、ためしに
も、此有がたさはおとらざりけるものをやと哀なり、
此事小松内府聞給ひて、かかる哀なる事こそ候はね、
康頼が硫黄が島にての手跡都に伝はりて哀なる事に
て候とて、世間には披露し候こそ不便に候へとて、
入道殿に申されければ、入道は音もし給はず、柿の
もとの人麿は、島がくれ行船をおしみ、山辺の赤人
は、あしべのたづをながむ、住吉の大明神は、かた
そぎの思ひをなし、三輪の明神は杉たてる門をさす、
そさのをのみこと、三十一字をはじめ給ひしよりこ
P144
のかた、諸明神、此字の内に、百千万の思ひをのべ
給ふ、いはんや太政入道木石にあらねば、いかでか
此歌をあはれと思ひ給はざるべき、
昔唐国に漢の武帝と申す帝ましましけり、王昭君と
いふ后を胡国のえびすに給りたりける事をくやしと
思し召して、彼の后を奪ひとどめんために、李陵と
いふ者を大将軍として、十万騎を卒して、ここくへ
つかはす、李陵微力をはげまして、せめ戦ひけれど
も、胡国の軍こはくして、官兵皆亡びて、敵のため
に李陵とらはれて、ここくの皇につかはる、武帝是
を聞て、李陵をばむねと憑み思ひつればこそ、大将
軍にえらびつかはしつるに、かく二心ありけるもの
をとて、李陵が母をとらへて、せめ殺し、父が墓を
ほりて、その骸をうつ、是のみならず、李陵がしん
るゐ兄弟皆以て罪せらる、李陵是を伝へ聞て、かな
しみを含みて曰く、我思ひき、胡国追討の使にえら
まれし時は、彼国を亡して君のために忠を致さんと
す、然れども軍やぶれて後、胡王のためにとらはれ
てつかはるといへども、隙をうかがひて、胡王を亡
して日ごろの恨を報ぜんとこそ思ひつれども、今か
かるめにあひぬる上はとて、胡王を頼みて年月を送
りけるに、武帝我に志ありけるよしを聞給ひて、李
陵をよび給ひけれども来らず、さて漢の軍まけぬる
事を帝安からぬ事におぼして、天漢元年に李将軍と
いふ兵また蘇子荊と申つはもの、とし十六になりけ
るを右大臣になして大将軍として、又十二万騎の勢
をもて、胡国を攻につかはされけるに、蘇子荊をば
蘇武といふ、彼をめして軍の旗を給ふとて、武帝仰ら
れけるは、此旗をば汝が命とともに持べし、若汝死
なば、我方へ返すべしと、宣命を含められけり、さ
て蘇武ここくへ行てせめ戦ひけれども、蘇武まけに
ければ、大将を始としてむねとのもの三十人生捕ら
れて、窟の中にこめおく、三年といふに取出してひ
ざぶしよりかた足を切て、あれ田にはなちおく、或
P145
は一日二日に死ぬるもあり、或は五六日に死するも
あり、蘇武一人生き残りて、年月をふるに、故郷の
恋しき事旦暮片時忘るる時もなし、ただ恋しきこと
かぎりなし、草葉を引結ぶあやしのかりのやどりも
なければ、ただ野澤の田中にはひありきて、春は田
豆をほり、秋はほを拾ひ、羊のちちをのみなどして
ぞまどひありきける、かかりければ、禽獣鳥類のみ
友となれり、秋の田の面の雁も、他国へ飛行けども
春はこし路に帰る習あり、我思ふ国へもや行らんと
なつかしくぞ思ひける、朝夕みなるる事なれば、雁
一、殊に近づきたりけるに、蘇武右の指をくひ切り
て、そのちをもて、柏の葉に一筆書すさみて、雁の
翅に結びつけてことづてけり、武帝上林苑といふ所
に御行あて、千草の色を御覧じて御遊ありける所に、
雁一行飛び来て、遥かに雲の上に初音の聞ゆると覚
ゆるに、一の雁ほどなく飛下る、あやしとえいらん
をふる所に、翅に結びつけたる文をくひほどきて、
落したりけるを、官人是を取て、漢王に奉る、帝み
づから叡覧あり、其状に云、
昔被籠巌崛洞、徒送三春之愁歎、今被放秋山
田〓、空為胡狄之族失一足、設此身留而朽胡
国、魂還而再仕漢君、
とぞ書たりける、是を御覧じて、帝御涙おさへがた
くして、蘇武はいまだ生きてありけるものをとて、
永律といふ賢者を大将軍として百万騎の勇士を卒し
て、又胡国をせめ給ふに、此度は胡国の軍まけにけ
り、蘇武片足は切られたりけれども、十九年の星霜
をへて、王昭君をとり返して都へ帰りけるに、李陵
君の御ために二心なし、就中に胡国追討の大将軍に
えらばれ参らせし事、誠に面目のその一也、然れど
も我宿運尽ぬることにや、官軍破れて我胡国にとら
はれぬ、されどもいかにもして胡王を亡して、御門
の御ために忠をいたさんとこそ存つるに、今母を殺
され参らせ、父が骸をほりおこして打たたかる、亡
P146
魂いかに思ひけんとかなしくてせん方なし、またあ
やまらぬしんるゐ兄弟も、残らず皆罪せらるる事、
つみふかくこそ候へども、文を一巻書て蘇武にこと
づてて武帝に奉る、帝是を見給ふに、その状に云、
双鳧倶北飛、一鳥獨南翔、
とぞ書たりける、帝大に憐を含て、後悔し給ひけれ
どもかひなし、蘇武かんていに参りて賜たりし旗を
懐よりとり出して奉る、さて御方のいくさ破れて、
胡王にとらはれける、田にはなたれて、年月かなし
かりつる事、李陵がかなしみ歎し事を、委しく語り
申ければ、武帝悲涙せきあへ給はず蘇武生年十六歳
にて、胡国におもむき、久沒したりしかども、三十
五にて旧都へ帰りたりしに、白髪の老翁にぞなりに
ける、後に伝息国といふ官を給て、君に仕へ奉る、
孝宣皇帝の御代、神爵二年に八十余にて死にけり、
その後廿露三年に御門賢人どもを、麒麟閣に昼し給
ひけるに、蘇武その中にあるとかや、是よりして文
をばがん書といひ、がんさつとも名づけたり、使を
ばがんしともいへるとかや、彼は胡国、是は硫黄が
島、彼は雁の翅、是はそとばの面、彼は一筆、是は
二首の歌、彼は雲路を通し、是は浪の上を伝ひ、か
れは十九年を送りむかへ、是は三年の夢さめにけり、
有がたかりける事どもかな、上古末代、昔今世はか
はり、さかひはへだたれども、思ひはひとつにて、
哀れにぞ覚えける、康頼が嫡子、平左衛門尉やすも
と、津の国こまの林まで父康頼がともして見送りた
りけるが、康頼出家したりければ、やすもとなくな
くこまの林より都へ帰り上て、頓て精進けつさいし
て、百日清水寺へ参詣す、法華経の廿八品のその中
に、信解品を習ひ読て、百ヶ日の間隔夜にする折も
あり、〓[B 通イ]夜する時もあり、願はくは大慈大悲千手千
眼、枯たる木草も花さき実なるべしと御ちかひある
なり、されば此体をかへずして、二たび父にあはせ
給へと三千三百三十三度の拝を参らせける、かかり
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けるしるしにや、硫黄がしまなる判官入道の夢想に
も、やすもとが白馬に乗りて来るとみえけり、くわ
んおんの御へん化は白馬に現じさせ給ふとかや、偏
に是やすもとがきねん感応して、観音の御利生にて
都へ帰り上にけりと、後には父子共に涙をぞ流しけ
る、少将、康頼入道は本宮に参りて、各々能を尽さんと
て、少将に拍子をうたせ奉りて、舞を面白くまひす
ましたり、少将はやうぢやう取出して、万秋楽の秘
曲を吹かれけり、その夜は本宮に通夜し給ひ、夜深
更に及びて、少将夢想あり、なにとなく沖の方を見
給へば天かきくもり俄に時雨うちして、沖の方より
大船一艘出来りけり、次第に近づくにしたがひて、
浪はしづまりぬ、かの船の中に迦陵頻迦の声にて法
華経のだいぼほんをぞよまれける、やや久あて、う
つくしげなる童子八人出来て、仰せられけるは、汝
らが拝にいのり申によて、権現御納受あり、故郷へ
帰られん事疑ひあるべからず、来暮秋のころしるし
あるべし、我を誰とか思ふ、娑竭羅龍宮の八天童子
也、万秋楽こそことに奇異なれ、今はいとま申とて
帰り給ひぬと、夢に見給ひけり、悦ばしきなどは、
事もおろか也、是につけても、弥々権現をば信敬し給
ひけり、
新大納言成親卿若くよりしだい昇進かかはらず、家
にいまだなかりし大納言に至る、栄花先祖にすぐれ
給へり、めでたかりし人の、いかなる前世の宿業に
てうきめを見給ひて二たび、故郷にかへり給はで配
所にて失給ひけん、少将も硫黄が島へ流されそのお
ととどもの幼少におはするも安堵ならず、爰かしこ
に迯かくるなどと聞給ひて、いとど心ぐるしくて、
日に隨ていよいよわり給へり、思ひの積りにや、
なやみ給ひて、七月十日ころより起臥もたやすから
ず、是につけてもわかれにし人々のみ恋しく今一度
思ひ見る事もならで、露の命消えはてん事をぞかな
しくおばされける、かく御心地のなやましくくるし
P148
きに付ても、あと枕にゐて哀といふ人一人もなし、
前に近きものとては、あらげなきつはものばかり也、
大納言殿をば小松内府にはかくして、入道相国のも
とよりとくとく失ひ奉るべきよし、つね遠うけ給け
れば、或時つね遠もとより大納言のかいしやくにつ
けたりける智明と申ほうし、大納言入道殿に申ける
は、是は海中の島にて候間、何事につきてもすみう
く候、此所につね遠所領の近く候所に、きびの中山、
ほそたに川など申て、名ある所にある木のべつしよ
とていたいけしたる山寺の候こそ、水木たたへてよ
き所にて候へ、それに渡らせ給ひ候へかし、わたし
参らせんと申ければ、大納言げにもと覚して、とも
かくもはからひにこそ隨はめとのたまひければ、彼
山寺に難波の太郎としさだが作り置きたりける僧房
を借て、わたしすへ奉てけり、はじめはとかくいた
はり奉るよしにて、同七月十九日坊の後にあなをふ
かくほらせて、穴の底に〓(ひし)を植へて上にかりばしを
わたして、その上に土をはねかけて、年ごろふみつけ
たるやうに調へておきたりけるを、大納言入道知り
給はで、ひえおはすとて、その上をあゆみ給ふとて、
落入給けるを、用意したる事なれば、やがて上に土
をはねかけて埋みてけり、此事かくしけれども、世
間に披露しければ、北の方此よしを伝へ聞給けん心
の中こそかなしけれ、
黄泉何所、一住不還、去台何方、再会無期、懸
書欲訪、存沒隔路兮飛鳥不通、擣衣欲寄、
生死界異兮意馬徒疲、
といへり、かはらぬすがたを今一度見ゆる事もやと
てこそ、憂き身ながら髪をもつけてありつれども、今
はいひがひなしとて、北の方自ら御くしをきり給ひ
て、雲林院のぼたい講と申す古寺にて、忍で戒を保
ち給ひけり、又その寺にてぞ形のごとく追ぜんなど
もいとなみて、彼のぼたいを弔ひ聞えける、若君あ
かの水をむすび給ひける日は、姫君は樒をつみ、姫
P149
君水をとり給ふ日は、若君花を手折りなどして、父
の後生を弔ひ給ふも哀也、時うつり事さり、たのし
み尽てかなしみ来、天人の五衰とぞ見えし、されど
も大納言の御妹、小松内府の北の方より、折にした
がひてさまざまのおくりものありけり、是を見る人
涙を流さぬはなし、なきあとまでも内大臣の志のふ
かきこそやさしけれ、大納言の最期のありさま都に
はさまざまに聞えけり、歎き日数をつみてやせ衰へ
て、思死にに給たりともきこゆ、又酒にどくを
入てすすめ奉たりとも申、また沖にこぎいだして海
に入たてまつりたりともさたしけり、但〓(ひし)につらぬ
かれて死給ひたる事は、まこととおぼしき事は、彼
の智明がさいあいの娘三人あり、七月下旬の頃より
一度にやまひつきて、俄に物に狂ひて、竹の林の中
にはしり入て、竹の切ぐいにつらぬかれて三人なが
ら一度に死にけり、是則ち大納言の霊と覚えて、忽
に報いけるぞ恐しかりし事どもなる、さても大納言
かくれ給ひて、九日と申けるに申の刻計に、天かき
くもり、雨俄にそそいてふり下る、一時ばかりふり
ければ、大洪水いづる程なり、雷電夥く鳴り落ちて、
地のそこに声ありき、つね遠に別のいしゆなし、然
るを我命終りし時、くらくらとしてほだいの道に妨
をなせり、汝においては安穏にあるべからずとて、
なりくだりなりくだり五六ヶ度震動す、難波の次郎此事を聞
て、大に恐れつつ、文武二道のをのこなりければ、
かりぎぬ着し、ゑぼしのぎしきを正しくして、幣帛
を捧げ、かしこまて天に向ひて、我あやまりなし、
主君の命によるよしをつぶさに敬白す、大納言の霊
ことわりとや思はれけん、しづまりにけり、則ち彼
雷落ちたるところをば龍宮城と號す、人申けるは、
此大納言は遠祖にも超過し、位正二位を極め、あま
つさへ大将に心をかけ給へる事は、かかる人なるに
よて也、又目をとめて見ければ、此人の京の宿所の
うへに常に黒雲おほふ事ありけり、龍の住む所にこ
P150
そ、かかる事はあれなどと怪みしに、かやうに死し
て後、かたのごとくの瑞相現じけり、返すがえす恐し
かりし事ども也、
新院讃州配流の後は、さのきの院と申けるを、廿九
日追號あり、崇徳院と申、去保元元年七月に当国に
うつされ給ひて、はじめはなほ島にましましけるが、
後にはさぬきの国の一在廰野太夫たかとをが堂に渡
らせ給ひけるが、後にはつづみの岡に御所を立てぞ
わたらせ給ひける、さぬきの院の主上にて渡らせ給
ひける時、小河の侍従隆憲と申けるが、院かくなら
せ給ひければ、後の御門に仕へむ事も物うかるべし
とて、もとどり切りて、今は蓮如上人とぞ申ける、
山林に交はりて一向まことの道に入たりけるほど
に、院の御跡を尋参らせて、さんしうへまいり、な
ほ島といふ所に、ついがき高くして惣門を隔てて、
内には屋一宇をつくりて、門に武士をそへて、外よ
り鎖をさし、供御をまいるより外はたやすく門を開
くことなし、かかりければ、蓮如参りたりけれども、
見参に入事もせず、我かかる遁世の身なり、何かく
るしかるべき、一目見参らせて罷上り候ばや、まげ
て御許を蒙らんと、守護の武士になくなく申けれど
も、ゆるされず、力及ばず此蓮如俗にてありし時、
笛を面白く吹ける間、笈の中に笛を入て持たりける
を取出して、参りたりとだにも知らせ参らせんとて、
一町の築垣を終夜笛を吹てぞまはりける、是をきこ
しめして、年ごろ是に笛吹くものこそなかりつれ、
いかなる者の吹やらん、小河侍従隆憲が吹し笛の音
に、少しも違はぬものかなと思し召して、今更恋し
くならせ給ひて、惣門近く出御あて、きこしめせば、
姿は御らんぜねどもたかのりが声にて、今生の思ひ
出、後生の訴に、今一度をがみ参らせんとなくなく
申けり、院是を聞召して、かなしみの御涙せきあへ
ず、蓮如なくなくかくぞ申ける、
身を捨てて木の丸殿に入ながら
P151
君にしられで帰るかなしさ W041 K266
院是を聞召して、さればこそと思召されければ、人
にもはばかり給はず、御声をあげてなかせ給ふ、や
や久しくあて、何とも御詞をば出さずかたみにせよ
とや思召されけん、御一筆を書きすさみて、門より
外へなげ出し給ひぬ、蓮如是を給て、月の光に見け
れば、
あさくらやただいたづらに返すにも
つりするあまの音をのみぞなく W042 K267
蓮如此御一筆をむねにあて、かほにあてて、ただこ
がるる事限りなし、心のゆくほどなきあきて、あな
口をしや、生をへだてて候らんもかくこそ候らめ、
六道の巷にこそおもはしきものの声ばかりは聞候な
れと、目に見る事はなかんなれ、その定に多くの国
国を隔てて、浪路はるかにわけ参りて候に、わづか
に壁を隔てて見参に入候はぬ事こそ口惜く候へ、た
だし是に付ても今生はただうき所と思召し、此度生
死をはなれて極楽浄土へ参らせ給へ、蓮如も此身に
なり候へば、ただ極楽浄土の恋しさに、うき世をい
とひて候なり、君もはかなきかりのやどに都へ帰ら
せ給ひても、何かはせさせ給ふべき、ただ急ぎ浄土
へ参らんと思召さるべしと、蓮如も必来世にては参
りあひ候べしとて、笈を肩にかけて、島をなくなく
罷出ぬ、蓮如が申ける事肝に思召されて、今生のこ
とを思召し捨て、後生ぼだいのために、五部の大乗
経を、御筆に三年の間書集めさせ給ひて、御室へ申
させ給ひけるは、墨付に五部の大乗経を三年が間に
書き集めて候を、かいかねの声せぬ遠国に捨て置き
奉らんことうたてしく覚え候、御経ばかり都近き八
幡辺に置き奉候はばやと申させ給ひける、御書のお
くに、
はま千鳥跡は都に通へども
身は松山にねをのみぞなく W043 K268
御室より此由関白殿へ申させ給ふ、関白殿内裏へ申
P152
させ給ひければ、少納言入道信西が申けるは、いか
でかさる事候べき、叡聞に及ぶべからずと、大に諌
め奉りければ、御経を都へ入参らする事叶ふべから
ずと仰下されけり、新院此事聞召して、心うかりけ
るためしかな、しんら、はくさい、けいたんに至る
まで、或は兄弟位を論じ、或はをぢをひ国を争ひて、
合戦をいたす事、常の習ひなれども、果報のましお
とりにより、兄もまけをぢまくる、されども手を合
せて、降人に来れば、かさねて科におこなふ事にや
ある、我今悪行の心をもて、かかる人を見れば、今
生の事を思ひ捨てて、後生ぼだいのために経を書き
奉る、置所だにもゆるされず、此世ひとつのかたき
のみにあらず、後生までのかたきござんなれと、大
悪心をたてて思し召しければ、御舌のさきをくひ切
らせ給ひて、その血をもて御経の軸のもとごとに、
御誓言をぞ遊ばしける、我此五部の大乗経を、三悪
道になげこうて、此大善根の力をもて、日本国をめ
つする大まゑんとならんと誓はせ給ひて、その後は
御爪も切らせ給はず、生ながら天狗の形にならせ給
ひて、九年と申長寛二年秋八月廿六日、御年四十二
にて志度といふ処にてつゐにかくれさせ給ひにけ
り、御骨をばかならず高野山へ送り奉れとさいごに
仰せられけるとかや、それもいかがならせ給ひけむ
覚束なし、
去仁安三年の冬の頃、佐殿兵衛入道西行、後には大
法房円位と改名しける、国々修行しけるに、讃岐の
松山といふ所にて、是は新院の渡らせ給ひし所ぞか
しと思ひ出奉て参りたりけれども、そのあとも見え
ず、松の葉に雪ふりかかりつつ、道を埋みて人の通
ひたる跡もなし、なほ島より志度といふ所にうつら
せ給ひて、年久なりにければ、ことわり也、
よしさらば道をばうづめつもる雪
さなくば人の通ふべきかは W044 K045
とうち詠じて、白峯といふ所の御はか所に尋参りた
P153
りけるに、怪しの国人の墓のやうにて草ふかくしげ
りたり、いかなりける御宿業にて渡らせ給ふやらん
と、心うく覚えて、昔は十善のあるじとて、九重の
内にまつはれて、あかし暮し給ひしに、今は三途の
闇にまどひて、八重の葎の下にふしましましけんと、
かなしからずといふ事なし、翠帳紅閨の中には、三
千の主と仰がれ、龍楼鳳闕の中には、二八の主とか
しづかれ給ふ、辨才世にかまびすし、威徳朝にふる
ひ給ひしに、徒に名ばかりとどまるならひなれば、
宮もわらやもはてしなし、世の中はとてもかくても
有ぬべきかなと、思ひつづけてつらつらと、御墓所
のまへに候へども、法華三まいつとむる禅侶もなく、
念仏三まい勤むる僧も一人もなかりければ、
なほ島の波にゆられて行く舟の
行衛も知らずなりにける哉 W045 K269
とよみたりければ、御墓震動して、俄に黒雲うづ巻、
真黒ざまになりにけり、斜ならず御憤り深かりける
を、行衛もしらずと読みたりけるを、御とがめあり
て、あしく読奉りけるにやとて、ひがさをのけ、袖
かきつくろひて、
よしや君昔の玉のゆかとても
かからん後は何にかはせん W046 K047
と読みたりければ、御はか元の如くしづまらせ給ふ、
この歌に怨霊も御心なだまり給ふらんとぞ覚えし、
さて松の枝にて、庵をむすびて七日七夜ふだん念仏
申て御菩だいを弔ひまいらせて、罷出けるが、庵の
前なる松にかくぞ書付ける、
ひさに経て我後の世をとへよ松
あと忍ぶべき人もなき身を W047 K048
八月三日宇治の左大臣贈位の御事あるべしとて、勅
使の少納言これもと彼墓にまかりて、宣命を捧げて
太政大臣正一位を贈らるるよしをぞ読かけ奉りけ
る、件の御はかは大和国添の上郡河上の林、般若野
の五三まいなり、昔保元の秋のはじめに掘おこして
P154
捨られし後は、死骸を路頭の土となして、年々の春
の草のみ茂るに、今勅使尋ね来て、宣命を伝へけん、
亡魂いかが思ひけん覚束なし、思の外の事どもあり
て、世の乱は、ただ事にあらず、偏に怨霊のいたす
所也と、人々はからひ申されければ、かやうに行は
れけり、或人夢に見たりけるは、さぬきの院鳳輦の
御輿に乗奉り、左府又腰輿に召て、先陣に候はせ給
ふ、平右馬助忠正後陣を仕り、六条判官為義子息ど
も皆引具して、都合その勢三百余騎にて、白旗赤旗
さしぐして、御輿の前後に候けるが、忠正鳥羽の南
門にて、馬をゆらへて、是は何方へ御輿をば仕るべ
く候やらんと申ければ、左府の仰に、院の御所法住
寺殿へと仰せられければ、忠正申けるは、それには
当時ことに御祈きびしくて、日吉山王の御宿直かた
く候へば、かなふべしとも存ぜずと申ければ、さら
ば太政入道の西八条へと仰られければ、承候ぬとて
三百余騎の兵ども、同時にときをつくりて、さうな
く惣門より攻入ぬとぞ見えたりける、さればにや程
なく入道相国例ならぬ心づきて、法皇を押込めなや
まし奉り、物ぐるはしきことのみありて、悪行数を
尽しける、恐しとも申に及ばざりけり、冷泉院の御
ものぐるはしくましまし、花山法皇の位を去らせ給
ひ、三条院の御目くらかりし、元方民部卿の悪霊の
たたりとこそ承はれ、抑三条院の御目も御覧ぜられ
ざりけるこそ、心うかりけれ、御眼はいと清らかに、
いささかもかはりたる事わたらせ給はざりければ、
空事のやうにぞ見えさせ給ひける、伊勢斎宮のたた
らせ給ふに、くしなげさせ給ひたりけるを、見奉ら
せてこそは、たたらせ給ひけめ、是を人見参らせて
こそ、さればこそとは申けれ、むかしも今も怨霊は
恐しき事なれば、早良の廢太子をば崇道天皇と號し、
井上内親王をば皇后の職位に補す、是皆怨霊をなだ
め給ひけるはかりごと也、同十二月廿四日彗星出、
又いかなる事のあらんずるやらんと人あやしみあへ
P155
り、彗星は五行之気、五星之変、内有大兵外大乱
といへり、
平家物語巻第四終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第五
P156
平家物語巻第五
治承二年正月一日、院御所には拝禮行はれ、四日朝
覲の行幸ありて、例にかはりたる事はなけれども、
去年の夏成親卿以下近習の人々多くうすなはれし
事、安からず法皇思召され、御憤りいまだ休まらず、
世の政ものうく思召して、御こころよからぬ事にて
ぞありける、入道も、多田蔵人行綱が告知らせての
ちは、君をも後めたなき御事に思ひ奉りて、世間打
とけたる事なし、上には事なきやうなれども、下に
は用心してただにが笑ひてぞありける、七日彗星東
方に見ゆ、光をます事十八日、蚩尤旗とも申、また
赤気とも申す、陰陽頭泰親朝臣申しけるは、蚩尤旗
にもあらず赤気にもあらず、天文要集のごとくは、
太白犯昂井者、天子浮海、失珍宝、西海血流、
大臣被誅といへり、何事のあるべきやらんと、人怪
みをなす、法皇は三井寺公顕僧正を御師範として真
言秘法の伝じゆせさせ給ひけるに、今年の春、大日
経金剛頂経蘇悉地経と申す三部の秘法を受けさせ給
ひて、二月五日をんじやう寺にて灌頂あるべきよし
思召し立と覚えし程に、天台の大衆此事を憤り申し、
昔より今に至るまで、御灌頂御受戒皆我山にて遂げ
させおはします事、すでに先規なり、然るを就中山
王の化導は受戒灌頂のため也、今三井寺にて遂させ
給ふ事然るべからずと申しければ、さまざまにこし
らへ仰せられけれども、例の大衆の、こはさは、一
切院宣を用ひず、三井寺にて御灌頂あるべきならば、
園城寺を焼拂べきよしせんぎすと聞えければ、御加
行結願して思召とどまらせ給ひけり、されども、法
皇猶その御本意なりければ、公顕僧正を召具して天
王寺へ御幸なりて、五智光院を立て、亀井の水結び
あげて、五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ
伝法くわん頂をばとげさせおはしましける、山門の
P157
騒動を静めんがために、三井寺の御灌頂はとどまり
たれども、学生と堂衆と中悪くして山上静ならず、
山門に事いで来ぬれば、世も乱るといへり、又いか
なる事もあらんずるやらんと恐し、此事はこぞの春
の頃、義竟四郎叡俊、越中国へ下向して、釈迦堂衆来
乗房が立ておく神領を押へ取て、知行の跡を押領す、
来乗房怒りをなして、敦賀の津にあひて、義竟四郎
をさんざんに打散らして、物の具をはぎ取て恥に及
べり、叡俊山に逃入て、夜に紛れてはうばう登山して
衆徒に訴へければ、大衆大きに憤りて、忽に騒動す、
来乗房又堂衆を語ふ間、同心して来乗房を助けんと
す、
建禮門院その頃中宮と申ししが、春の暮ほどより、
常に御乱れ心地にして、供御をもはかばかしく参ら
ず、御寝も打とけてならざりしかば、何の御沙汰に
も及ばず、総じては天下の騒ぎ別しては平家の歎き
とぞ見えし、太政入道、二位殿きも心を惑はし給ふも
理也、諸寺諸山に御読経はじまり、諸宮諸社に奉幣
使を立てらる、陰陽術を尽し、醫家薬をはこぶ、大
法秘法残所なく修せられき、かくて一両月を経るほ
どに、御悩ただにもあらず、御くわい妊と聞えしか
ば、平家日頃は歎しかども、引かへて、今は悦にて
ぞありける、御懐妊の事定りにければ、高僧貴僧に
仰せて御産平安をいのり、日月星宿につきて皇子御
誕生をいのる、主上今年は十八にならせ給ふ、皇子
もいまだ渡らせおはしまさず、中宮二十二にならせ
給ふ、皇子御誕生などあらんに、いかにめでたかりな
ん、相国、二位殿などは、ただ今皇子御誕生などある
やうにあらましの事をぞ悦れける、平家の繁昌時を
得たり、然れば皇子誕生疑ひなしと人々申けり、か
かりしほどに、六月十八日中宮御着帯とぞ聞えし、月
日積るままに御悩なほわづらはしき様也、常は夜の
おとどにのみぞ入らせ給ひける、少し面やせてまた
ゆげに見えさせ給ふぞ心ぐるしき、さるにつけても、
P158
いとどらうたくぞ渡らせ給ひける、かの漢の李夫人
の照陽殿の病の床に臥したりけんもかくやありけん
と人申けるとかや、桃李の雨を含み芙蓉の風にしぼ
みけるよりも心ぐるしき御ありさまなり、かかりけ
る御悩の折節にあはせて、こはき御物のけ度々取つ
き奉る、有験の僧ども数多召されて、護身加持隙な
し、よりましら明王の縛にかかりて、さまざまの霊
ども顕れたり、総じては、讃岐院の御怨霊別しては
悪左府の御怨念、成親卿西光法師が怨霊、丹波少将成
経平判官入道康頼法勝寺執行俊寛などが生霊ども占
ひ申けり、是によて入道相国生霊どもたやすからず
と恐しく聞えければ、なだめらるべきよしの御政あ
るべしと計ひ申されけり、
門脇の宰相はいかなる序もがな、丹波少将が事なだ
めんとおもはれけるが、此折を得て急ぎ小松内大臣
のもとに行向ひて、御産の御いのりにさまざまの攘
災行はるべきよし聞え候、いかなる事と申候とも、
非常大赦に過たる事あるべからず、就中成経がめし
返されんほどの功徳善根はいかでか候べき、大納言
が怨霊をなだめんと思召されんにつけても、まづい
きたる成経をこそ召返され候はめと、此事とり申さ
じとは存候へども、娘にて候もの思ひ沈で命も危く
見え候時に、強にかくな思ひそ、教盛かくてあればさ
りとも少将をば申預らんずるぞと慰め申候へども、
教盛を恨候ては涙を流して返事に及ばず候、内々申
し候なるは宰相殿御一門の片端にておはす、親をも
つとも此時はわざとも宰相ほどの親を持べけれ、な
どか少将一人申預けられざるべきと恨候なるが、げ
にもと覚えていたくむざんに覚候、成経が事しかる
べきやうにも申させ給へとなくなくくどきければ、
内府も涙を流して、子のかなしさをば重盛も身につ
みて候へば、さこそ思召され候らめと申候べしとて、
八条に渡り給ひて、入道のけしきいたくあしからざ
りければ、宰相の成経が事を強に歎き申され候こそ
P159
ふびんにおぼえ候へ、もつとも御許しあるべしと覚
え候、中宮御さんの御いのりに定めて、非常の大赦
をこなはれ候はんずらん、その中に入させ給ふべく
候、宰相の申され候やうに、誠にたぐひなき御祈に
てぞ候はんずらんと覚え候、大かたは人の願をかな
へさせ給ひ候はば、御願成就疑ひあるべからず、御
願成就せば、皇子誕生ありて家門の花いよいよさ
かんなるべしなどこまごまと申給へば、入道今度は
皇子誕生が耳に入て、以外にやはらぎてげにもと思
はれたるげにて、さて俊寛康頼が事はいかにとあり
ければ、それをもゆるされて候はばしかるべくこそ
候はめ、一人もとどめられ候はん事は、中々なる罪
業にてこそ候はんずらめと申されければ、康頼が事
はさる事にて、俊寛は見られし様に随分入道が口入
にて、法勝寺の寺務にも申なし抔して人となるもの
ぞかし、それに人しれず城郭を構へて、事にふれて安
からぬ事のみいひけるよしを聞が、特に奇怪に覚ゆ
る也とぞのたまひける、中宮御さんの御祈りにより
て大赦を行はるべしと入道申行れければ、則職事奉
書を申下さるる間、七月上旬に丹波少将召返さるべ
き事一定になりにけり、其状に云、
為中宮御産御祈、依被行非常大赦、薩摩方硫
黄島流人、前左少将藤原朝臣成経并平判官康頼法
師、可令帰参之由、所候也、依仰執達如(レ)件、
治承二年七月三日
とぞかかれたりける、宰相是を聞給ひて、悦などは
斜ならず、少将の北の方は、猶現とも覚給はずふし沈
みてぞおはしける、七月十三日御使下りければ、平
宰相あまりによろこばしくて、私の使を相添て、夜
を日に繼て下れとのたまひけるぞ哀なる、それもた
やすく行べき船路ならねば、波風あらくて船中にて
日を送りけるほどに、九月半過ぎてぞかの島へ渡り
つきにける、島には春過ぎ夏たけて三ヶ年をぞ送り
ける、折節日もうららかにて、少将も康頼も磯に出
P160
てはるかに汐干がたを詠れば、まんまんたる海上に
何とやらんはたらくものあり、あやしくてやや入道
殿、あの沖にまなこにさへぎる物あるは何やらんと
少将のたまひければ、康頼是を見て、にほのうきす
の浪にただよふにこそと申けり、次第に近づくを見
れば、船の体に見なしてけり、是は端島の浦人ども
が、硫黄をほりに渡るものあればさにこそと思ふ程
に、磯近くこぎ寄せて船中にいひかはす言葉どもを
聞ば、さしも恋しき都の人の声に聞なし、少将思は
れけるは、我らがやうにつみをかうふりて、此の島
に流さるる人などにこそと思はれければ、とくとく
こぎよせよかし、都の事どもをも尋とはんとぞ思は
れける、されどもまめやかに近づく時は、おのおの
見ぐるしきあり様を、見えんことのはづかしさに、
急ぎ立のき濱松がえだの木の下の岩の隱に休ひて、
見えがくれにこそまたれけれ、さるほどに船こぎつ
けて急ぎ下りて我らが方に近づく、俊寛僧都は余り
にくたびれて、ただ朝夕のかなしみに思ひむすばは
れて、神明仏陀の御名をも唱へず、あらましの熊野
詣もせず、常は岩のはざま苔の下にのみむもれ居ら
れたりけるが、いかにしてただ今の有さまを見られ
けるやらん、此人々のおはする所に来れり、六はら
の使申けるは、太政入道殿の御教書、平宰相殿の御
使用添へられて、都へ御帰りあるべきよしの御使下
りて候、丹波少将殿はいづくに渡らせ給ひ候やらん、
此御教育を参らせ候はばやと申しければ、余りに思
ふ事なれば、なほ夢やらんとぞ思はれにける、三人
一所に並び居られたり、いそぎ出向ひつつ悦ばれけ
る心の中、譬へん方ぞなかりける、三の御文あり、一
は奉書一は入道の施行一は平宰相のわたくし文也、
僧都手水うがひなどして、三度拝で先づ奉書を披て
見られければ、為中宮御産御祈、依被行大赦、
成経、康、頼、可帰洛とありけれども、俊寛といふは
一行もなかりけり、僧都我が身ははやもれにけるよ
P161
と思ふより、涙双眼に浮びて生きたる心地もせず、
若ひが目かとて又見れども俊寛といふ文字はなし、
又見れとも二人とこそかかれたれ、三人とはよまれ
ず、せめてのかなしさにひろげては巻、巻てはひろ
げ、奥へ見つ端へ見つ、取ては置きおきては取りつ
して、伏まろびてをめきさけび、かなしみの涙をなが
す、抑夢かと思へども現也、現かと思へば又夢かや、
夢に夢見る心地して、かれもいづれもわきがたし、
ことわりや、いかでか歎かざらん、三人同罪にて此
島へ流されしに、二人は召返され、僧都一人残りと
どまり給へば、誠にさこそ思はれけめ、二人の悦び、
一人の歎き水火の違事のきはめとぞみえし、僧都な
くなく申されけるは、三人同罪にて流しつかはされ
たるが、二人は勅免にあづかりてめし返され、俊寛一
人恵澤にもれてとどめらるべきやうはなきものを、
是は入道殿おぼしめし忘れ給ひたるにや、また執筆
の誤りか、申入る人のなかりけるかやと、くちをし
がりて、天に仰ぎ地に伏して泣かなしむこと限りな
し、是を聞に誠にことわりと思へば、都よりの御使も
むざんに覚えて目もあてられず、日頃の思歎は事の
数にもあらず、残り留らんと思ひけるに、いとどせ
ん方なくいかになるべしとも覚えず、その上少将の
もとには、宰相のもとより旅の粧ひさまざまの装束
までおくられたり、判官入道のもとにも、或は妻子或
はゆかりゆかりの方より、様々の消息有りけれども、
僧都のもとへは一行のこととふ文もなし、今はわが
ゆかりの者、都の中に一人もなきよと知り給ふにつ
けても、歎の深さは限なし、さればいかに前世の宿
業やらんとぞ思はれける、少将も判官入道も、しほ
風のさたにも及ばず、今一日もと急ぎて硫黄津とい
ふに移りにけり、僧都余りのかなしさに船津まで来
りて、二人の人々に少しも目をはなたず、少将の袖
に取つきて、涙を流し、判官入道の袂をひかへてさ
けびけり、年ごろ日ころはをのをのおはしつればこ
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そ、昔物語をもしていたう都の恋しき事をも、島の
心うきも申なぐさみてこそありつるに、打捨られ奉
りては一日片時かんにんすべき心地もせず、赦され
なければ都へは思ひもよらず、只船にのせて出させ
給へ、底の水くづ共なりてまぎれうせなん、なかな
か新羅、高麗とかやの方へもわたりゆかば、思ひ絶
えてあるべきに、俊寛一人残り留まりて、島のすもり
とならんことこそかなしけれとて、又をめきさけび
ければ、少将なくなくのたまひけるは、誠にさこそ
おぼしめされ候らめ、成経がまかりのぼる嬉しさは
さることにて候へども、御有様を見おき奉るこそ更
に行空も覚え候はね、御心中おしはかり候へども、都
の御使も叶まじきよし申候うへ、三人船津を出候ひ
しと聞えん事もあしかりぬべし、何ともしてもかひ
なき命ばかりこそ大切に候へ、かつうは成経のぼり
候なば、身にしられて候へば、宰相などに申合せて、
かかるむざんの事こそ候しかと申さば、入道殿気色
をも伺ふべし、なにさまにも御身をなげてもよしな
し、ただいかにもして今一度都のおとづれを聞んと
こそ思召され候はめ、そのほどは日ごろおはせしや
うに思ひなして待せ給へと、かつうはなぐさめ、か
つうはこしらへければ、僧都返事に及ばず、少将に
目を見合せて、俊くわんをばさておき給ひなんずか、
ただしゆんくわんをも具して上り給ふべし、のぼり
たる御とがめもあらば、又も流され候べしなど、さ
まざまくどきけれども、是ほどの罪ふかく残し留め
らる程の人を、宥されもなきに具して上りたらば、
まさるとがにもこそあたれと思はれければ、誠にさ
こそ思召すらめとばかりのたまひて、少将かたみに
は夜のふすまをぞ置かれける、判官入道の忘れがた
みには、本尊持経をぞとどめける、誠に花の春、桜
がりして志賀の山をこえ、よし野のおくへ尋ね入る
人も、風にさそはるる習ひあれば、ちりぬる後は木
の下を惜むとて、岩の枕に夜をもあかさす、家路を
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急ぐなる、月の秋、明月を尋ねてすま明石へ浦伝ひ
する人も、山のはにかたむくためしあれば、入りぬ
る後をしたひて、あまのとまやに宿をもからず、過
し跡を尋ねけり、たとひ恋路にまどふ人までも、我
身にまさるものやあるとたがひにいひかはしつつ、
少将も判官入道も、いそぐ心は情なき道行人の一む
ら雨の木下、おなじ流れをくむ友だにも、過ぎわか
るる名残は猶惜くこそ覚ゆるに、まして僧都の心中
思ひやられてむざんなり、さるほどに順風よかりけ
れば、僧都のもだえこがれける隙に、やほら纜をと
きてこぎ出んとするに、思ひにたへかねて、御使に
向ひて、手をすりてただ倶しておはせよやおはせよやとお
めかれければ、人の身に我身をかへぬことにて候へ
ば、力及ばず情なくぞ答へける、僧都あまりのかな
しさに船のともへに走り廻りて、のりてはおりおり
てはのり、あらましをぞせられける、其有さま目も
当られずぞ覚えける、次第に船をおし出せば、僧都
纜に取つきて、たけの立つ所まではひかれていづ、
そこしも遠浅にて、一二町ばかり行けれども、満く
る汐立かへりて口に入ければ、纜に取つきて、しゆ
んくわんをばすておき給ひぬるとて、また声も惜ま
ずさけびけり、少将もいかにすべしとも覚えず、諸
共にぞ泣かれける、僧都猶も心のありけるやらん、
とかくして波にもおぼれず、磯へかへり上りて、渚
にひれふして、舟を見送りて、幼き者の母やめのと
にすてられて、跡を慕ふやうに足ずりをして、少将
どのや判官入道殿やとをめきさけびけるは、父よ母
よとよぶにぞ似たりける、をめきさけぶ声のはるか
に波をわけて聞えければ、誠にさこそ思ふらめと少
将、康頼も共に涙をぞ流しける、つやつや行空もなか
りけり、こき行く船の跡の白波、さこそはうらやま
しく思はれけめ、いまだこぎ別れぬ船なれども、涙
にくれてこぎ消ぬと見えければ、岩の上に上りて舟
を招きけるは、かの松浦さよひめがもろこし船をし
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たひつつ、ひれふりたりけるにいづれか又劣るべき、
よしなき少将のなさけの詞をたのみて、そのせに身
をもなげざりけるこそ、せめてのつみのむくいとは
見えしか、日すでに暮れけれども、あやしのふしど
へ立返るべき空もおぼえず、なぎさにたふれふし、
澳の方をまぼらへて露にしほれ、浪にうたれつつ、
かうべを扣、むねをうちて、血の涙を流して、よも
すがらくどきあかしければ、袖は涙すそは浪にぞぬ
れにける、少将は情も深く、物の哀をも知りたる人
なれば、かかるむざんなる事こそありしかなど申さ
ば、もしくつろぐ事もやとたのみて、べうべうたる
磯をまはりて、命をたすけ、まんまんたる海をまは
りて心をなぐさめ明かし暮らしけるは、さうりそく
りにことならず、さこそはありけめと推はからる、
されどもそれは兄弟二人ありければ、慰む方もやあ
りけむ、僧都の悲しさはたとへやる方ぞなき、少将
は九月半過てしまを出給ふ、すでに都へ上るべきに
てありけるが、下向の時大隅正八幡宮に宿願ありき、
願望成就したり、その願を遂んとて正宮にぞ参詣し
給ひける、さつまがた、房の泊りといふ所より、鹿兒
島、逢の湊、木入津、向島をも押過ぎて、鳩脇八幡崎
にぞ着き給ふ、それより取りあがりて、宮中の馬場
執印清道と申がもとにやどせられたり、御湯仕出し
て、溢せ参らせ、さまざまに御身いたはりなどし奉
る、その後正宮の御宝前に参りてさまざま念誦あり、
折ふし月の夜なりければ、宮中澄みわたり、ことに
面白かりけり、台明寺法師に俊恵房あじやりと申究
竟の歌皷の上手のありけるに、撃せて少将今様をぞ
うたはれける、
月もおなじ月空もおなじ空のいかなれば今夜の空
のてりまさるらん、 W048 K270
と押返し押返しぞうたはれける、心なき賤の男賤の女
にいたるまで、かんるゐをぞ流しける、
少将はつくづくと古の事を思ひつづくるに、当社大
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菩薩のそのかみあはれにぞ覚さるる、因位の御時は
人皇十四代、仲哀天皇御后婆伽羅女神功皇后の御腹
に宿り給ふ時に、新羅高麗発向して、わが朝をかた
ぶけんとせし時、皇后女帝の御身として新羅を打平
げて本朝へ返りましまして、王子産給へり、応神天
皇是なり、その後唐国に陳の大王と申王ましましき、
七歳の姫宮渡らせ給ひけり、俄にただならぬ御事お
はします、父の大王仰せられけるは、汝七歳なり、
いかなるしさいあてかくは聞ゆるぞと御尋ありけれ
ば、姫君答給はく、われことなるしさいなし、朝日
むねの中に光りをさし給つる時より、心乱ておぼえ
き、それより外は他事なきよしを申させ給へば、大
王諸道のはかせを召集めて勘へ聞召されける時、各
申けるは、当州の主にあらず、是より東方に日本国
といふ国の神明たるべきよし奏聞す、大王勅定あり
けるは、さては此国にては誕生あるべからず、親子
のなごりはをしけれども、日本へわたり給へとて、
珠杖銀杖印鎰を授け奉て、ただ一人空船に乗せ奉て、
波路はるかにおしうかべ、万里の波涛を凌いて、臣海
を分けて、日本西州大隅国姫木浦銚子の島に寄せ給
ふ、鳥の羽音の聞えければ、汀近くなりたるかと思
召されて、姫君空船の窓を開きて御覧ずれば、已に
汀に寄せたり、浪の音立る鳥は、山鳩なりけり、件
の鳩巌と成て今の世にあり、しかればここを鳩脇と
名づけたり、姫君は二の杖藜をしるべとして、州中
にいたり給ふ、大菩薩の使者に鳩をする事は、最初
にわが朝に着給ふ時、御迎に参りたる故也、さて当
国の戸神をかたらひて、大隅国の主早人を打ちて、石
が城の岩の上にてとり返して、早人失て後、こと井
隅前海老隅の麓頭良向の中に宮室をたて、王子を産
給へり、則天をあふぎて我が正覚の位につきぬ、神
號を給はらんと誓ひましましし、その時、天より八
の旗降り下りしが故に、八幡大菩薩と號す、今の七
歳の姫君と申は、昔の神功皇后是也、応神天皇と申
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は今の八幡大菩薩の御事也、因位の御時も母ごとな
り、垂跡の今も母ごとまします、御ちぎりのほどの
めでたさを凡夫はいかでか申べき、御本地事石体に
現はれ給へり、石体の文は深さ八寸ゑり入たる、金
銘云、
昔於霊鷲山、説妙法華経、今在正宮中、示現
大菩薩、
となり此ことは御本地は釈迦と覚えたり、本朝に八
幡参所と申は、大隅宇佐男山是を三所八幡とは申也、
中にも正宮は石体にとどまれり、されば大隅を正八
幡とは號す、ここに本朝に異国の賊徒可襲来よし
其聞えありしに、牒使をつかはして、大船一万艘着
べき湊を伺ひ見せしに、当州によき湊あり、すでに
よせんとする所に、敵をよせじがために、一夜の中
に田畑二千余町ばかりの島をつかせ給ふ、かの島の
影異国までうつりしかば、異敵すみやかに退散しぬ、
故に彼島を向島と號す、是則八幡大菩薩の御力なり、
七歳の姫君と申は、昔神功皇后因位のひぐわんなり
ければ、筑前国糟屋東郷香椎宮にあとを垂まします、
聖母大多羅如知女是なり、異敵降伏の為に女帝の御身
ににんにくの鎧を奉り、逆謀をしりぞけ、手には智
恵の劍をにぎりて、本朝の悪賊を鎮め給ひつつ、日
夜に君をまもり奉り、国を助くる霊神なり、抑八幡
大菩薩宇佐より行教和尚の袂にやどりましまして、
男山石清水に移りて和光同塵結縁始、八相成道利物
終とて、さまざまに方便を廻らし、霊跡をたれ給ふ、
石体銘文の如くば、八幡の御本地は釈迦にて渡らせ
給ふを、末代のためにとて行教の袂にやどり給ひし
時より、弥陀の三尊と現じ給ひき、大菩薩の御祭に
放生会といふ事あり、神功皇后の昔、異敵をせめん
とて、旱珠を大海に入給ひしに、多くの生を亡し、大
隅におはしましては、向島をつき給ふとて、数多の
うろくづの命をたち給ふ、然ればかの孝やうのため
にとて、御濱殿と名づけて、生をはなつ会と號して、
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梵網経を読誦し奉給へり、毎年八月十五日の放生会
は是なり、かやうにめでたき霊神に渡らせ給へども、
因位の御時、本国を去らせ給ひて、御父母の御わか
れさこそかなしく思召されけめ、か様の御歎きを思
召しいたさせおはしましつつ、今、成経が思を休めさ
せ給ふやらんと思ひ参らすれば、かつうはめでたく、
かつうは哀に覚えけり、あけにければ宿所に下向せ
させ給ひけり、
宿のあるじ清道が妻女は少将の京にて御覧じたりし
人なり、久我大臣殿の侍に左衛門尉朝重と申けるが
娘に、童名牛王殿とてありけるが、太政入道殿の西
八条に宮仕して、伯耆の局とて候けり、斜ならず心
さま花やかにて、事様も優なりけり、少将見参して、
わりなき事どもなりけるに、少将ながされ給ひて後、
伯耆殿その心くるしさに、宮仕もすさまじく、ものう
かりければ、引籠りて思入てありけり、清道は入道
殿御気色よきものにて、都へ上りたる時は入道殿の
内にはえて振舞ひけり、その時あからさまにこの伯
耆殿を見そめしより、命もたえてあるべしとも覚え
ずかなしかりければ、かの清道が謀に人をもていは
せけるは、少将殿をば、清道が預かり奉りたるなり、
今一度此世にて見奉らんと思ひ給はば、かの船に忍
び乗りて、下て見奉り給ふべしと隔なくそのあたり
の者をもていはせければ、伯耆局はかのあたりとい
はん所には、虎伏す野べりなりとも尋ねまほしく思ふ
折節なれば、夢ともわかぬほどに嬉しくて、忍びて
かの便船をして大隅に下り給ひにけり、清道が家に
着きにければ、少将はいづくにましますらんと思へ
ども、急ぎて見する事もなし、さらば此おとづれを
だに聞かせたくは思へども、当時はこちなしとて、日
数をふる余りにおとつれを聞ばやと歎かれければ、
清道申けるは、誠には少将殿は薩摩がたとて日本国
にも離れて、澳の小島に硫黄がしまと申所に流され
てまします也、便の風もかれへ吹く事まれなり、さ
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れば船の行ことも思ひ切りたり、是へ具し奉し事は
思ひよらぬ事なれども、男女の習ひよそながら見参
らせし面影、さながらその時の心地して覚え侍りし
ほどに、申下し奉りたり、何かはくるしかるべき、下
紐とけておはしませといひし時こそ、心うさの余り
にきえ失なんとかなしくぞ覚えける、都をばうかれ
いで、恋しき人には近づかず、途中になりぬる我身
かな、長安倡家の女のあき人にかたらはれ、涛陽江の
頭に捨られて、びはを弾じてなぐさみけん心中も是
には過じとぞ覚えし、清道しきりにあひなるべきよ
し契をすといへども、伯耆殿しばらく三年がほどは
かなふまじ、いとまをえさせよとこひうく、夜毎に
正宮に通夜をして、ひねもすよもすがら法華経をど
く誦し、少将の帰洛の祈をしけるが、げにもかなひ
けるにや、かやうに再び帰給ひ、又見奉るも哀なり、
すでに少将曉立給はんとての夜は、伯耆殿少将殿に
見参し給ひて、ありし世の歎き今に至る迄の思ひ、
こまごま申つらねて、涙を流す、少将立給へば伯耆
殿涙の中に、
限りあればさはにおりぬるあしたづの
もとの雲井に帰る嬉しさ W049 K272
少将
君ばかりおぼゆる人があらばこそ
思ひもいでめ山のはの月 W050 K273
とて、をしき名残をふり捨て立給ふ、袖に霜をおき
すごくも宮内を立給ふ、それより都へ上らんと急が
れけるほどに、門脇の宰相のもりより重て使者下り
て、去々年よりかの島にましまして、さだめて身も
つかれ損て、病もつきておはすらん、寒き空にはる
ばると上り給はば、道にてあやまちも出来ぬべし、
肥前国かせの庄といふ所はのり盛が所領なり、此冬
は彼所におはして身をもいたはりて、明春風やはら
かになりて、長閑にのぼり給へといひ遣されたりけ
れば、その冬はかの庄にとどまりて、ゆあみなどし
P169
て便りの風をぞ待れける、さるほどに年もすでに暮
ぬ、
学生堂衆合戦事
八月六日、学生、義竟四郎を大将軍として堂衆が坊舎
十三宇きり拂ひて、そこばくの資財雑具を追捕し取
て、大納言が岡に城郭を構へて立籠る、八日夜堂衆
登山して、東陽坊に城郭を構へて、大納言が岡に立
籠る所の学生と合戦す、堂衆八人しころをかたぶけ
て、城戸口へせめよせたりけるを、学生義竟四郎を
始として六人打出て、一時ばかり打組ける程に、八
人の堂衆引退きけるを義竟四郎うちいかりて、長追
しけるほどに、堂衆返し合せて、又打組む所に、義
竟四郎長刀の柄をひる巻のもとより打折りにけり、
腰刀をぬきてはねてかかりけるを、首をうち落しぬ、
大将軍とたのみたる四郎討れにければ、学生おちに
けり、十日堂衆東陽坊を引きて近江国三ヶ庄へ下向
して、国中の悪黨をかたらふ、数多の勢を引卒して
学生を亡さんとす、堂衆に語らはさるる所の悪黨と
申は、古盗古強盗山賊海賊等也、年来貯持たる米穀、
絹布の類をあたへければ、当国にも限らず他国より
も聞伝へて、津の国河内大和山城の武勇の輩、雲霞
のごとく集りけりと聞えしほどに、九月廿日、堂衆
数多の勢を相具して登山して、早尾坂に城郭を構へ
てたて籠る、学生不日に押寄たりけれども、散々に
打落されぬ、安からぬ事に思ひつつあかりをかりけ
れどもかひなし、大衆公家に奏聞し、武家に觸れ申
しけるは、堂衆等師生の命を背きて、悪行を企つる
間、衆徒等誡を加ふる所に、諸国の悪徒を相語らひ
て、山門へ発向して、合戦すでに度々に及で、学侶
も多くうたれぬ、仏法忽に失はんとす、はや官兵を
差添へられて、追討せらるべしと申、是によて院よ
り太政入道に仰せ下さる、入道院宣を承て、紀の国
の住人湯浅権守宗重を大将軍として、大衆三千人、
官兵二千余騎、都合五千余騎をさし遺はす、つくし
人并和泉紀の国伊賀伊勢つのくに、河内の武者なり、
P170
然るべきものはなかりけり、
十月四日、学生官兵を給て、早尾の城へ押よす、今
度は去ともと思ひけるに、衆徒は官兵をすすめんと
す、官兵は衆徒を先だてんと思へり、斯の如くの間は
かばかしく責寄する者なし、堂衆は執心ふかくおも
てもふらざりける上、語らふ所の悪黨等は、欲心強盛
にして死生知らずの奴原の、各我一人と戦ひければ、
官兵も学生もさんざんに打落されて、戦場にして死
ぬる者二千余人、手負は数を知らずとぞ覚えし、五
日、学生一人も残らず下洛して、かしこここに宿し
つつ、息つき居たり、かかるままには、山上は谷々
の講説ことごとく断絶し、だうだうの行法皆たいて
んす、修学窓をとぢ座禅の床を空しくす、四教五時
の春の花も匂はず、三蹄即是の秋の月もくもれり、
義竟四郎神人一庄をおさへ取て、知行すとも、しゐ
ていかほどの所得かあらんずるに、つるがの中山に
て、恥を見るのみにあらず、とりかへなき命を失ひ、
山門の滅亡朝家の御大事に及びたることこそ浅まし
けれ、人はよくよく思慮あるべきものをやとぞ覚え
ける、貪欲は身をはむといへり深く慎むべし、
十一月七日、学生等上座寛賢并威儀師斉明等大将軍
として、堂衆が立籠る早尾坂のじやうへ押寄せて戦
ふ、夜に入て、学生終に責落されて四方へにげ失せ
ぬ、学生の方にうたるる者百余人、その後山門弥あ
れはてて、西塔衆の外は、山住の僧侶もなし、当山
草創よりこのかた、未だかくのごとくの事はなし、
世のすゑにはあしき者は強く、善者はよわくなれば
にや、行人はよわく智者の謀も及ざれば、皆散々に
行別て、人なき山となりにけり、中堂衆などと云も
のも、又うせにけり、八日は薬師の日なれども、南
無と唱ふる人もなし、卯月はすゐじやくの月なれど
も、へいはく捧ぐるものもなし、あけの玉がき神さび
て、引しめなはもたえにけり、三百余年の法燈をか
かぐる人もなし、六時不断の香のけぶりもたえやし
P171
にけん、堂舎高くそびえて、三重の花構を青漢の中
にさしはさみ、棟梁遥に透て四めんのたるき白霧の
懸りたりき、めでたかりし高山なりしかども、今は
供仏を峰の嵐に任せ、金客を空瀝に潤す、夜の月の
ともし火をかかげて、天井のひまよりもり、軒の板間
よりもる、あか月の露玉をたれて、蓮座のよそほひ
をそふ、それ末代の俗に至ては、三国の仏法も次第
にすゐびせり、遠く天竺の仏跡をとぶらへば、昔釈
尊の法を説き給ひし祇園精舎も、竹林精舎も、給狐獨
園も中比より虎狼野干のすみかとなり、礎のみこそ
残るなれ、白鷺池には水たえて、草のみ深く茂れり、
退凡下乗のそとばには、苔のみむしてかたむきぬ、
震旦の仏法も同じく滅しにき、天台山五台山双林寺
玉泉寺も、此ころは住侶なき様になりはてて、大小
乗の法文も箱の底にぞくちにける、菩提樹院観音の
霊像も御身は土にむもれて、烏瑟ばかりぞ残りける、
すでに遐代に及で、烏瑟もともにかれやし給ひぬら
んと思ひやるこそ悲しけれ、我朝の仏法も又同じ、
南都七大寺も皆荒れはてて八宗九宗もあとたえぬ、
瑜伽唯識の両部の外は残る法文もなく、東大寺興福
寺の外は残る堂舎一宇もなかりき、あたご高尾の山
もむかしは堂舎軒をきしりたりけれども、一夜の中
に荒れにしかば、今は天狗のすみかとなりはてぬ、
昔玄弉三蔵貞観三年の比、仏法を弘めんとて流砂〓
嶺をしのいで、仏しやう国へ渡り給ひしに、春秋寒
暑一十七年、耳目見聞一百三十八ヶ国、或は三百六
十余の国々を見まはし給ひしに、大乗流布の国わづ
かに十五ヶ国ぞありける、さしもひろき月氏の境に
だにも、仏法流布の所はあり難かりけるぞかし、さ
ればやらん、やむ事なかりける天台の仏法も、治承
の今に至て亡びはてぬるにやと、心ある人々はかな
しまずといふことなし、離山したりける僧の中に、
堂のはしらに書付けるとかや、
祈こし我たつ杣の引かへて
P172
人無き山と荒やはてなん W051 K052
昔伝教大師当山草創の後、阿耨多羅三藐三菩提の仏
達に、祈申させ給ひけることを思出て読たりけるに
や、いとやさしくぞ覚えし、法性寺殿の御子、宮の御
弟子天台座主慈円大僧正、其時は法印にておはしけ
るが、人知れず此事をかなしみて、雪のふりけるあ
した、尊円阿闍梨がもとへつかはされける、
いとどしく昔のあとやたえなんと
思ふもかなしけさのしら雪 W052 K053
尊円あじやり返事、
君が名ぞ猶あらはれんふる雪に
むかしのあとは絶えはてぬとも W053 K054
堂衆は学生の所従にて、あしだ、しりきれなどとる
わらはべの法師になりたるが、中げん法師どもなり、
僣上をおこしつつ、きりものよせもののさたして、
徳つきて、けさ衣きよげになりて、行人とて、はて
は公名つき、学生をも物ともせず、大湯屋にも申の
時をば堂衆とこそ定られたりけるに、午の刻よりお
りて学生の後にゐて、ゆびをさして笑ひければ、か
くやはあるべきとて、学者是を咎めければ、堂衆申
けるは、われらなからん山は山にてもあるまじ、学
生とて、ともすれば聞もしらぬ論議といふことはな
んぞ、あなおかしなどいひあひけり、近頃金剛寿院の
座主覚尋権僧正治山の時より三塔に度衆とて結番し
て仏に花香を奉るとぞ聞えし、
善光寺炎上事
去三年廿四日信濃国善光寺炎上のよしその聞えあ
り、この如来と申すは、昔中天竺舎利国に五種の
悪病おこりて、人だね皆つきし時、月蓋長者がさい
あいのひとり娘に悪病つきて命のびがたし、月蓋は
外道が弟子也、はじめて釈尊のみもとに参りて申け
るは、ただ一人持て候娘に、五種の悪病つきて候、
願はくは釈尊此悪病を拂ふ術ををしへ給へと申、仏
外道をあざむきてのたまひけるは、われもその悪病
を拂ふ術を知らずとのたまへば、月蓋重ねて申ける
P173
は、我は外道が弟子にて候、外道が術及がたき間、
外道の門を出て始めて釈尊の御弟子になり奉り候、
仏も知給はずば、外道と以同前にこそ候なれ、さては
何をもてか貴しと思ひ奉らんと申せば、其時釈尊の
たまひけるは、誠にはいかでか件の悪病を拂ふ術を
知ざらんや、是より西方に十万おくの国を隔てて仏
土あり、名をば極楽世界と名つけ、其院主阿弥陀如
来と申仏のおはしますぞ、請じ参らせよ、五種の悪
病をば立所に拂ひ給はんずるぞと教給ふ、月蓋申け
るは、是又釈尊の御いつはりと申すべし、西方十万
億まで遠く隔てていますなる、弥陀如来をばいかで
か請じ参らすべきと申せば、釈尊のたまひけるは、十
万億まで遠くおはします如来を迎へ奉らんこと、使
者をもてはかなふまじ、これにつきても仏の方便の
不思議なるを知れりや、六字名号といふ事あるを、
南無はこれ帰命のこと葉、阿字の体は仏のかたちな
り、これをかさねて六字名號陀羅尼とす、こころを
いたして西方に向ひ、たなごころを合て南無阿弥陀
仏と申さば、西方十万億まで、遠くおはするあみだ
如来ききつけて、須臾の間に来つつ悪病を拂ひ給は
んずるぞと教給ふ、月蓋是をうけ給はりて誠に尊く
候とて、西方に向ひ合掌隨喜の涙を流しつつ、南無
阿弥陀仏南無阿弥陀仏と三べん唱へはてぬに、観音勢至引具
して月蓋が前に現じ給ひつつ、十方へ光りをはなち
給ふ、仏の光りに恐れつつ悪病立所にやみぬ、月蓋
が娘の悪病やむのみにあらず、近く死したる者三万
余人皆活く、かくて阿弥陀如来は極楽浄土へかへり
給ふところに、月蓋長者是程にしんへんあらたに渡
らせ給ふあみだ如来を、今日より後いかにして拝し
奉るべき、願くはみだ如来極楽浄土へ相具しておは
しませと名残を惜み奉て、かなしみなく、釈尊是を
見給ひて善哉善哉とほめつつ、あみだ如来の御形を
とどめ奉らんために、もくれん尊者を龍宮へ遣はし
て、ゑんぶだんごんを召寄せて、釈尊とかせうと長
P174
者と一心にて鋳うつし奉りし一磔手半の弥陀の像、
閻浮提第一霊仏也、仏滅し給ひて後、天竺にとどま
りおはします事五百歳、仏法東漸のことわりにて、百
済国に渡り給ひて一千歳の後、欽明天皇御宇に及で、
逆臣守屋にあひたまひて、難波の堀江にすてられて、
光うづもり給ひてのち、聖徳太子世に出で給ひて、
逆臣守屋を討て、難波四天王寺に仏法を弘め給ふ時
に、信濃国の民本太善光、年貢運上の為に難波の京へ
上りける時、如来難波堀江を出で給ひて、十方へ光
を放ちつつ、ことばをあらはしてのたまひけるは、
なんぢは我が三生の檀那なり、我は汝が三生の本尊
なり、汝をまたんとて難波の堀江に光をうづみて年
久し、汝が過去の因をしらしめん、つぶさにきけ、
天竺にしては月蓋長者といひき、百済国にて斉明王
とかしづかれ、日本国に渡りては遠国の民本太善光
といふ也と告げ給ふ、善光是を承て、三生まで生れ
合ひまゐらせけるちぎりのほどの忝さに、善光袖を
顔にあてて、声も惜まず泣きにけり、良久あて、う
しろをさし任せ奉りければ、阿弥陀観音勢至善光が
後にとび付き給ひぬ、善光如来を負ひ奉りて、夜は
かたかたに立て参らせて打ふして、ねぬるかと思ひ
たれば、如来善光を負給ふ、よるひる下り給ひけれ
ば、ほどなく下着給ひて、信濃国水落郡をうみの東
人本太善光あんちし奉りてよりこのかた、五百八十
余歳の星霜を送り給ふとぞ聞えし、王法傾かんとて
は、仏法先滅すといへり、さればにやか様にさしも
やんごとなき霊寺霊山も多く滅しぬるは、王法の末
にのぞめる瑞相にやと歎きあへり、
中宮御産事
十月十二日寅の時より中宮の御産気渡らせ給とて、
天下ののしりあへり、去月廿八日の頃より、時々其
気渡らせおはしましけれども、取立たる御事もなか
りける程に、この暁よりは隙なく取しきらせ給へど
も、御産もならずとて、平家の一門は申すに及ばず、
関白殿を始め奉りて、公卿殿上人馳参らせらる、法
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皇は西おもての小門より御幸なる、御げんじやには
房覚昌雲兩僧正、豪禅実全両僧都、俊尭法印、此上
法皇も祈申させ給ひけり、内大臣は善悪についてい
とさわがぬ人にて、少し日たけて公達あまた引具し
て参り給へり、のどやかにぞ見え給ひける、権亮少将
維盛、左少将清経、越前侍従資盛などやりつつけさ
せて、御馬十二疋、御劔七腰、御衣十二兩広蓋に入
て参られたり、きらきらしくぞ見えける、女院后宮
の御産の御祈に、時にのぞんで大赦行はるること先
例也、且大治二年九月十一日待賢門院の御産、当法
皇御誕生時也、大赦行はれき、その例とて重科の者
十二人寛宥せらる、内裏より御使しきなみ也、右中
将通親朝臣、左中将隆房朝臣、右衛門権佐貞仲朝臣、
蔵人所衆、瀧口等各二三返づつ馳参らる、永万には
寮の御馬を給て是に乗る、今度はその儀なし、殿上
人をのをの車にて馳参らる、所衆などは騎馬にてぞ
ありける、八幡賀茂日吉春日北野平野大原野などへ
行啓あるべきよし御願を立らる、啓白は五檀法隆三
世のあじやり全玄法印とぞ聞えし、又神社には石清
水加茂を始め奉て、北野平野いなり祇園今西宮東光
寺にいたるまで四十一ヶ所、仏寺には東大寺興福寺
延暦薗城広隆円宗寺にいたるまで、七十四ヶ所の御
読経あり、神馬をひかるる事太神宮石清水をはじめ
参らせて、厳島にいたるまで廿五社也、内大臣の御
馬を参らせらるる事は然るべし、后宮の御せうとに
ておはするうへ、殊に父子の御契なれば、寛弘に上
東門院御産の時、御堂関白神馬を奉らる、その例相か
なへり、今度五条大納言邦綱、神馬を二疋参らせらる
る事然るべからずと人々傾きあへり、志のいたりか
徳の余りか、物をしらざるかとぞ申ける、仁和寺守
覚法親王は孔雀経御修法、山座主覚快親王は七仏薬
師法、長吏円恵法親王は金剛童子法、この外五大虚
空蔵、六観音、一字金輪、五だん法、六字阿臨、八
字文珠、普賢延命、大熾盛光に至るまで、残る所も
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やあるべき、仏士法印召されて、等身の七仏薬師並
五大尊の像造りはじめらる、御誦経の御劔御衣諸寺
諸社へ奉らせ給ふ、御使には宮侍の中に有官輩之を
勤む、平文狩衣に帯劔したる者どもの、東の対より
南庭を渡りて、西の中門へ持つづきてゆゆしき見物
にてぞありける、相国、二位殿はつやつや物も覚え給
はず、余りの事にて人の物申ければ、ともかくもと
てあきれてぞおはしける、さりとも軍の陣ならばか
くも臆せじものをとぞ、後には入道のたまひける、
新大納言西光法師さまざまの御物のけ、さまざま申
者共ありて、御産とみになりやらず、時刻おしうつ
りければ、御げんじやたち面々各々にそうかの句あ
げて、本寺本山の三宝年来所持の本尊帰状し奉り、
各黒煙をたてて、声々にもみふせらるる気色心中ど
も、おしはからる、いづれもいづれも誠にさこそはと覚
えて、尊き中にも法皇の御声の出でたりけるに社、
今一きは事かはりて人々皆身の毛たち涙を流しけ
れ、をどりくる御よりましどもの縛どもも少しう
ちしめりたり、その時法皇御帳近く居よらせおはし
まして、千手経を尊くあそばして仰ありけるは、阿
遮一睨窓前には、鬼病手束懐、多隷三遏床上には魔
軍かうべをふりておそる、いかなる悪霊なりとも、
この老法師かくて候はんには、いかでか近づき奉る
べき、いかにいはんやあらはるる所の悪霊ども、皆
丸か朝恩にて人と成し輩にはあらずや、たとへ報謝
の心をこそ存ぜざらめ、あに障碍をなすに及ばんや、
その事然るべからず、速に罷りしりぞき候へとて、
女人胎臨生産時、邪魔遮障苦難忍、至心稱誦
大悲咒、鬼神退散安楽生、
とて御ねん珠をさらさらとおしもませおはしませ
ば、御産やすやすとなりにけり、頭中将重衡朝臣中
宮亮にておはしけるが、簾中よりつと出でて、御産平
安皇子御誕生と高らかに申されければ、入道は余り
の嬉さに声をあげ、手を合せてぞなかれける、中々
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いまいましくぞ覚えし、関白殿太政大臣以下公卿殿
上人、御修法の諸の大阿闍梨助修数輩の御験者、陰
陽頭典薬助より始めて道々のともがら、雲上堂下の
人人一同にあつと悦ける、声とよみてぞありける、し
ばしは静りやらざりけり、内大臣参りて天をもて父
とす、地もて母とすと、祝参らせて、金の吉文字の
銭九十九文御枕におきて、やがて御ほぞのをを切参
らせ給ふ、故建春門院の御妹あの御方いだき参らせ
給ふ、左衛門督時忠卿の北の方洞院殿、御乳付に参り
給ひにけり、圍碁手の銭を出したり、弁、靱負佐かけ
ものにて、是をうつ、是又例ある事にや、法皇は新
熊野へ御参詣有べきにてありければ、急ぎ出させお
はしまして、御車を門外に立てられたり、むかしよ
り御后の御産常のことなれども、太上法皇の御げん
者は希代の例也、前代にも聞かず後代にもありがた
かるべし、是は当帝の后宮にて渡らせ給へば、法皇
も御志浅からざるうへ、猶太政入道を重く思召さる
る故也、但此事軽々しきに似たり、然るべからず
と申す人もありき、凡そかろがろしき御ふるまひを
ば、故女院受けさせ給はぬ御事に申させ給ひしかば、
法皇も憚り思召しけり、今も女院だに渡らせ給はま
しかば、申留め参らせ給ひなましと、事のまぎれに
旧女房たちささやきあひ給へり、富士綿千両、美濃
絹百疋御験者の禄に法皇に参らせらるるこそ、いよ
いよ奇異の珍事にてありけれ、此送文を法皇御覧じ
て丸は験者してもすぐべきよなとぞ仰ありけり、あ
まつさへ来十七日法住寺殿にて御請用ほこりあるべ
しなど申て、京童笑ひ合けり、陰陽頭助以下多く参
り集りたりけるが、御占ありけるに、亥子丑寅の時
などと申けり、姫君と申けるが、陰陽頭安部泰親朝
臣一人ばかりぞ御産はただ今也、皇子にて渡らせ給
ふべしと申ける、詞いまだ終らざるに、御産はなり
にけり、さすの御子とぞ申ける、
内大臣よのはかせどもは巳午申酉亥子丑の時抔とさ
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まざまに申けるに、しかも姫君などと申に、何として
泰親は御産ただ今しかも皇子とは申けるやらん、尋
ねばやと思給ひて、陰陽頭は是に候かと御尋ありけ
れば、候とて参りたり、いかに自余の博士どもは、
時刻不定に姫宮などと申に、汝は御産只今しかも皇
子とは申けるぞと仰られければ、泰親さ候、せいめ
いが流にはまづ推条をする候ぞ、その故は晴明が推
条のはじめには、或時春雨つれづれとふりて、もの
うく候けるに、数返してえんに立て候けるに、男が
からかさをさして来候けるが、門のからいしきには
づしてたてて入る気色を見候て、あはれ此者は物問
に来ござんなれ、推条をさして返さんと思ひて、い
かにあれは何者ぞと尋ね候ければ、やはたよりさわ
く事候て、尋ね参らせんとて参りて候と申ければ、
晴明その時己が家のかまの前に茸の生たるかと申候
ければ、さん候と答ふ、ゆめゆめくるしかるまじき
ぞ、とくとく帰れとて返して候けり、さ候へばこの
推条にて名をあげ候也、その時の君御前にて、此箱
の中なる物を占て参らせよと仰せられければ、打あ
んじて見る所に、鳥の木の枝をくひて西へ行を見て
くりに候と申ければ、服物のうらは恥かましき事に
てありけりと思召しながら、尚左大臣殿この中なる
ものを申せとて、桶を出されて候けるに、打あんじ
て蛇といはんとすれば是足あり、龍といはんとすれ
ば角なし、いかが申べき、陰陽道すたれなんず、あ
はれとかげにて候やらんと申たりければ、仔細なし
とて開かれぬ、かやうに徳を施したる推条にて候、そ
の語をうけて五代にあたり候間、推条をむねとして
申て候、皆人々は色を失ひて立たせ給ひ候へども、君
は少しもさわがせ給はず、泰親に御産はいつぞと仰
せ候て障子をさつと明けて出でさせ給ひ候つるが、
少しもさはる所も候はず、君又目出度き男子にて渡
らせおはしまし候へば、さてこそ御産は只今しかも
皇子とは申て候へといふ、大臣殿げにもと思ひ給ひ
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て、柑子二らん箱に入て御封を付て、陰陽頭と時春と
両人が中に出されたり、陰陽頭はきと見渡せば、御つ
ぼの柑子の木の北へさしたる枝に二さがりたるを見
て、とりあへずかん子ふたつ候と申、時春はとこには
ねずみこそ二候へと申、大臣殿時春はふかくしたり
と思給ひて取入んとせさせ給ふに、時春が唯御前に
て御封をとかれ参らせんと申けり、されども時春も
当時は九重の中に一二の者にてあるに、ここにてふ
かくをしつるものならば、長きかきんにてあらんず
ると、不便に思召し、つづらをとり入れさせ給ふに、
時春がただひらかれ奉らんと申、さらば開けとて御
封を切てふたを開かれたりければ、鼠二いでて坪の
中へ走り入りたり、こはいかに不思議の事かなとて
所衆をもて召し寄せ御覧ずれば、たがはぬ柑子也、
いかに泰親はとりあへずかん子と申けるぞと仰せら
れければ、ただ今御坪の柑子の本の枝に二さがりた
るを見候て、とりあへず柑子とは申て候と申す、時
春は又柑子をば鼠とは申ぞと仰せられければ、左は
候へども、始めに泰親が柑子と申て候に、時春がそ
れ候と申候はん事、無下に覚え候ほどに鼠とは申て
候、誠に鼠を出して御目にかけ候はずばこそと申、
座敷の人々いかに泰親がかん子と申ながら鼠とはな
すぞと仰せければ、時春が封じ違へてこそ候へと申
す、内大臣聞給ひて誠にいづれもいづれも神妙なり、あ
はれくせものどもかなとて、御馬四疋きぬ十疋召寄
せて、絹五疋馬二疋づつ添へてひかせ給ひけり、大
臣殿ろくのかけやう目出度ぞ見えさせ給ひける、国
を守り位を執する臣下とは覚えてめでたくぞおぼえ
し、今度の御産にさまざまの事どもありける中に、
めでたかりし事は、太上法皇の御加持有がたかりけ
る御事也、不思議なりし事は太政入道のあきれざま、
優なりける事は小松大臣殿の振舞、ほいなかりける
事は右大将の籠居、出仕し給ましかばいかにめでた
からまし、あやしかりし事は甑を姫宮の誕生のやう
P180
に、北の御つぼにまろばかして、又とり上げて南へお
としたりける事ぞ希代の勝事とは人申ける、をかし
かりける事は、前陰陽頭安部時春が千度御祓勤めけ
るが、ある所のめんだうにてかうふりをつき落して
ありけるが、余りにあわててそれをも知らず、束帯
ただしくしたるものの、もとどりはなちにてさばか
りの御前へねりいでたりける気色、かばかりの大事
の中に公卿殿上人腹を切り給へり、こらへずして閑
所へ入る人もありけり、御産の間参り給人々、
松殿関白基房 妙音院太政大臣師長
徳大寺左大臣実定 大炊御門左大臣経家
月輪右大臣兼実 小松内大臣重盛
源大納言定房 三条大納言実房
五条大納言邦綱 藤大納言実国
中御門中納言宗家 按察使資賢
花山院中納言兼雅 左衛門督時忠
藤中納言資長 別当春宮大夫忠親
左兵衛督成範 右兵衛督頼盛
源中納言雅頼 権中納言実綱
皇太后宮大夫朝方 右宰相中将実家
平宰相教盛 左宰相中将実宗
六角宰相家通 右宰相中将実清
堀川宰相頼定 新宰相中将定範
左大弁俊経 右大弁長方
左京大夫修範 太宰大弐親信
菩提院三位中将公衡 新三位中将実清
以上三十三人右大弁外は直衣にて参給へり、
不参の人々、
花山院前太政大臣忠雅〈 自近事無出仕 〉前大納言実長〈 同 〉但布衣を
着して、太政入道の宿所へ向給へり、大宮大納言隆
季、第一女法性寺殿御子息左三位中将兼房室、去る
七月の頃難産の事によて出仕なし、不吉と存らるる
にや、前右大将宗盛、去七月に室家逝去の事によて
出仕し給はず、彼所労の時大納言並大将両官辭し申
P181
さる、前治部卿光隆、近衛殿の御子息二位少将基通、
宮内卿永範、七条修理大夫信隆、前三位基家、権大
納言朝経所労、新三位隆輔、松殿御子息三位中将隆
忠、〈 以上十二人不参とぞきこえし、 〉御修法結願して、勧賞を行はるる、
仁和寺法親王は公家の御沙汰にて、東大寺修造せら
れて後七日御修法、大元法灌頂興行せらるべき由宣
下せらるるうへ、御弟子法印覚成をもて権大僧都に
任ぜらる、座主宮は二品並牛車の宣旨を申させ給ひ
けるを、仁和寺法親王ささへ申させ給ひけるによて、
しばらく御弟子法眼円良を以て法印に任ぜらる、こ
の両事蔵人頭皇太后宮大夫右兵衛督光能朝臣承て是
を仰す、醍醐聖宝僧正余流権少僧都実繼、准〓牛王
加持を勤めて、大僧都に任ず、この外の勧賞どもは毛
擧にいとまあらず、右大将宗盛卿の北の方御帯を参
らせられたりしかば、御めのとに参り給ふべかりし
が、去七月失せ給ひにければ、左衛門督御乳母に定
り給ひぬ、北方洞院殿は故中山中納言顕時卿女、も
とは建春門院に候はれき、皇子受禅の後は内侍のす
けになりたまひて輔典侍殿と申ける、中宮日数経に
ければ、内へ参らせ給ひぬ、
十二月八日皇子親王宣旨を下さる、十五日皇太子に
たたせ給ふ、十七日伝には小松内大臣、大夫には右
大将宗盛、権大夫には時忠卿ぞなられける、いみじ
かりしことどもなり、
室泊遊君歌事
建禮門院后に立たせ給ひにければ、いかにして皇子
御誕生あて位につけ奉て、外祖父にて弥天下を掌に
握らんと思はれければ、入道、二位殿日吉社に百日の
日詣をしていのり申されけれども、しるしなかりけ
るほどに、入道思はれけるは、さりともなどか我祈
り申さんに、かなはざるべきとて、殊に憑み参らせ
られたる安芸国一宮、厳島の社へ月詣を始めて祈申
されけり、或時入道相国下向の時、室の泊につかれ
たり、かの所の習ひなれば、遊君ども参りて思ひ思ひ
に幸ひをひく、或君一人その中に縁やなかりけん、
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思ひむすぶ方もなし、浪のうへに浮でこなたかなた
へたどりけり、夜もすでに深更に及で鶏鳴しきりな
り、扨あるべきならねば宿所へおし帰る、ふねを漕
ぎ行きけるが、心のすみければ、暁白拍子をかぞへ
すましたり、誠に声もくまもなし、ふしもたらひた
る上手にてありける、是を聞く人袖をしぼるばかり
に哀にいひあへりけるに、所こそ多けれ、入道殿め
しの御船のもとにて歌をやめて世の定めなきうさを
思ひつづけて、
はなうるしぬる人もなき我身かな
むろありとてもなににかはせん W054 K275
入道ねざめし給ひて心すまれけるに、かく申を聞給
ひて、いと面白き事に思召して、いそぎせかいに立
出給ひて、是へ是へと召しあげて、越中次郎兵衛尉を
めしよせて、この御前に引出物せよと仰せられけれ
ば、盛次巻絹百疋しや金百両ひきたりけり、入道い
しうもふる舞たりとぞほめられける、
西八条被立札事
入道殿の西八条の宿所の東門に札をぞ一つ打たりけ
る、
世を見るに瀬の如し、人の奢はうたかたに似たり、
今はありとすれども消るがごとし、就中平入道禅門
のふるまひ旧宅に超え、その仁のためにくわぶんな
り、今の栄花たるにも先祖をなどか恥ざらん、高望
王の時始て皇闕を出て、大家の宗をうしろにあて、
雲上より此かた上天に乗ずる事たえぬ、しかる間、
忠盛が昇殿を人めづらしき事に思ひ、卿相驚きて深
夜に恥を施さんとす、然れども先立ちて忠盛この心
を得てしかば、横心の謀をめぐらして、希有に恥を
たすかりし仁の末としてすでに三公を極る事、しか
しながら先世の行徳の熟するがいたす所なり、全以
てその仁にあらずといへども、当君の御いとをしみ
によて、家の名をあげ身の名をあぐる、是誠に過分
也、よくつつしむで涯分をはかるべき所に、なんぞ
皇子を孫に持ちて外祖父にあらんとこのむ所、偏に
P183
浄海が運命の極まる瑞相をあらはさんが為なり、欲
心は身を亡すといへり、またはんくわいがじひには
一代のはん昌よりは、重代の悦喜を思へといへり、
なんぞ我身ひとつのよくをのみおもひて、子孫の歎
をしらざらんや、太政入道不当哉々々々とぞ書たり
ける、並歌、
入道はかずの栄花をもちかねて
あらぬさまなるまどひをぞする W055 K276
と札をぞ打たりける、是を見て腹をたていかられけ
れどもかなはず、か様の事は歌人文者ならねばいか
でかすべきとて、京中のすき人文者を数を尽して召
しおかれたり、大方ふしやうにてぞありける、小松
内府申されけるは、北野天神は無実をはらさんと誓
ひ給ふ、か様のわざは一人の所行なり、しかるを万
人を召置かれん事諸人の歎なり、中宮御なうの折ふ
ししかるべからず覚え候、北野の御前にて、起請文を
かかせて、失を守りてとがを行ひ候はばやと申され
ければ、此儀然るべしとて、奉行人書手十六人をも
て、天神の御前にて終日終夜かの起請をかかす、し
かるに羅土水金日火計月木とて九曜の中に火曜星又
計或星といふ、この星七十七星詞をのぶる所為なり、
げにも、かの星の天下の事を仁口としてやのたまひ
つらん、その中に一人として失をあらはす者なし、心
得たる人々申けるは、賢人世のなんをなげかば政道
世にあらはるといへり、げにも大臣のしきりに人の
損ずる事を歎思給ひけるにや、天神の御心に叶ひ参
らせて、人を損ぜじと失をば顕はさせ給はざりけり
と哀なり、起請文を書く所の人数一千三百三十六人
なり、
宋朝班花大臣事
宋朝のはんくわ大臣は、一日一夜の内に一千人、詩人
を集めて、誦の風流をせさせて見物す、今の入道浄
海は、一夜の中に一千余人歌人を集めて、とがに処
せんと企つ、本朝漢土はかはれども、権威のほどの
ゆゆしさは違ひなくぞ覚ゆる、
P184
厳島次第事
今度の厳島参詣に入道相国夢さうの告あり、光くま
なき剣を給てしばらく后の御懐にもたせ参らせて後
には、二位殿給りたまふと夢見給ひてけり、皇子誕
生疑ひあるべからずと悦んで下向あり、そのしるし
ありけるとかや、その頃京童申けるは、かやうに祈
精をせざらん者は、娘に産せさせて孫をまうくまじ
きか、さらば貧者のためにはいしゐ大事かなとぞ申
ける、平家厳島を信じたまひける事は、鳥羽院の御
宇に清盛安芸守たりし時、彼国をもて高野の大塔破
壊したりけるを、造営すべしと院より仰下されたり
ければ、渡辺黨にゑんどう六よりかたといひける侍
を奉行につけて、六ヶ年に造営せられにけり、入道高
野へ詣で給ひて供養を遂げたまふ時、八十有余の老
僧かうべには雪に似たる白髪をいただき、額には四
海の浪をたたみ、腰はふたへにして杖にすがりたる
が、一人出来、貞能を呼び出して、や殿、肥後守殿
わどのの主の安芸守殿の見参に入たまひてんやとの
たまひければ、貞能安芸守殿に此よしを申、事のよ
しを聞きて、たたびとに非ずとや思はれけん、新しき
むしろしき直し、是へと請じ入れ奉り見参に入る、
此老僧のたまひけるは、高野の大塔造営したまひつ
ること返々貴し貴し、但又仔細のあらんずるぞ、越
前国気比の社は金剛界の神なり、北陸道は畜生道た
り、仍てあらちの中山は畜生道の口なり、されば北
国の輩かの所に落べし、気比大ぼさつ是を憐み給ひ
て、この所の麓をしめて、和光同塵の結縁として、
我に近づかん者をば畜生の苦をのがれて、来世には
必ず浄土へ引導せんといふ願を立て、敦賀の津に跡
をたれ給へり、されば気比の社さかんなり、安芸国
厳島の社は胎蔵界の神なり、この二神は胎金両部の
垂跡なり、厳島の社破壊してなきがごとくなり、わ
どの申て造進し給へ、造進しつるものならば、官位
に於ては肩を並ぶる人あるまじきぞ、清盛是を承て
たた人ならずとおもひ奉りければ、深くかしこまて
P185
承候畢と領状申す、かの老僧大に悦て感涙を流して
立たまひぬ、安芸守、貞能を招き寄せて、此老僧の入
給はん所を見て来れ、ただびとにはいませじ、僧に
しらせ参らすなと教へて遣はす、貞能はるかに引さ
がりて、僧のおはします後に行く、よも知り給はじ
と思ふ所に、三町ばかり行て後、この老僧立帰ての
たまひけるは、貞能近く参れ、いかに隠るるぞ、こ
の老僧は知たるぞとのたまへば、貞能近く参りたり、
老僧のたまひけるは、あはれわどのが主の安芸守殿
はゆゆしき人かな、この大塔を造進しつるこそ返々
嬉しけれ、又安芸国厳島の社破壊したるを増進しつ
る者ならば、官位と云[B ヒ]一門繁昌肩を並ぶる人あるべ
からず、但それも一期ぞよとのたまひて、かき消や
うにうせたまひぬ、弘法の御告と覚えて身の毛よだ
ちて覚えけり、このよし安芸守へ語り申ければ、一
期と聞くこそ心細けれ、一期は夢のごとし、子孫相
伝へてはん昌せんことこそあらまほしけれ、この事
祈り申さんとて、寺中に籠居して、金堂に曼陀羅を
書きて安置せられける、西まんだらは、静妙行智と
て院にも召仕はせ給ひける繪師をもてかかせらる、
東まんだらをば、清盛かかむとて、自筆に八葉九尊宝
冠をば清盛わがなうの血を出してこそかかせけれ、
さて下向の後、清盛院参して大師しめしたまひつる
事をありのままに奏聞せられたりければ、任をのべ
て修造すべしとて彼厳島を修造せらる、社々を作り
かへ、鳥居を立てかへ、百廿間の廻廊をつくる、修
造功終りて入道厳島へ詣でたまへり、遷宮したまひ
たりけるに、大明神内侍につきて託宣あり、汝しれ
りや、高野弘法を以告げしめしし事はいかに、修造事
終る事、返々目出たし、一期に於ては我まぼるべし、
但今夜夢に財をさづけんずるぞ、それをもて今生の
まぼりとすべし、努々おそれ思ふべからずとて、大
明神あがらせ給ひぬ、清盛悦でその夜御前に通夜せ
られたりければ、宝殿内より白がねのひる巻したる
P186
少長刀を給はると見たりけるが、うち驚きてかたは
らをさぐりければ、まことにあり、かしこまて是を
給つつ下向せられにけり、それよりしてぞ平家いよ
いよ厳島の大明神をばことに崇敬し給ひける、
厳島大明神と申は、旅の神にまします、仏法興行の
あるじ慈悲第一の明神なり、婆竭羅龍王の娘八歳の
童女には妹、神宮皇后にも妹、淀姫には姉なり、百
王を守護し、密教を渡さん謀に皇城をちかくとおぼ
して、九州より寄給へり、その年記は推古天皇の御
宇端政五年癸丑九月十三日、播磨国印南野に七声鳴
く鹿あり、御門えいらんあらばやと綸言あり、佐伯
蔵本綸言を承て、河内国柿明神の檀を取て、弓に作
りて、いなみ野に分入て、件の鹿を射取て見参に入、
此鹿金色の鹿にて、九色の鹿なり、公卿僉議ありて、
むかし金色の鹿ありき、是権者也といへり、しかれ
ば権者を殺害の輩罪科ふかしとて、安芸国ささら浜
に流さる、蔵本飢をやすめんがため、つれづれをな
ぐさまんれうにやありけん、あみ舟つり舟に乗など
して、此浦々を伝ひあるく所に、或日午の時ばかり
におきの方を見れば、くれなゐの帆をひきたる大船
一艘出来、近づくを見れば、船にはあらず、瑠璃の
つぼにありき、ぬさをつけて順風に任せ、佐伯が舟
に寄せたり、いかにと見る所に、壷の中よりめでた
き貴女の十二一重に成見え給へるが、我は是西の国
にありつるが、思ふ心ある故にはるかに遠旅せり、
我すでに食物たえてつかれにのぞめり、食物をあた
へよと仰せられければ、蔵本大きに恐れて、折節御
食物になり候べき候はずと申せば、さるにてもとお
し返し御尋あり、白米こそ少し候へと申、いかほど
と御尋あり、本器の五升と申、それを参らせよと仰
せらる、何としてと申せば、洗ひてと仰す、よて洗
ひてうつはものを尋ぬ、かしこに見ゆる塩、かやの
葉にと仰せければ、かやうにして奉る、殿はいづく
と申せば擁護のことば、
P187
大宮より左八右九中は十六、かかる御たくせんに
つきてそのかずを奉供す、
今は飢をやめぬとてわれ此所に住まんと思ふ、しか
るべくは汝先達として此島を見せよと仰せられけれ
ば、蔵本仰に隨ひて島廻りす、あをこけ、むかふ、あ
りの浦、をいしま、よぶへ、こもりの浦、三笠の浜此所
所を御覧ずるに、中にもこもりの浦みかさの浜とい
ふ所を御らんじて、あらいつくしと仰せられたりし
をもて、いつくしまと號す、もとは御賀島と申す、そ
の故は神武天皇長門国にうつり住せ給ひし時、この
島の眺望殊勝なるよし聞召されて、この島に渡らせ
給ひて御賀の舞をせさせてえいらんあり、波のうへ
に舞台をしつらひて蝶鳥の舞を遂げさせらる、折節
夕日浪にうつりて山の端も又かざられたり、かんざ
しの花をうごかし、錦の袖にひるがへす、天に主あ
り、波に人あり、空に楽あり、海に舞あり、大かた
殊勝なる御見物にてぞありける、御門殊更御かんの
余りに島に官をなして、御賀島とぞ申しける、然る
を今の明神の御詞によていつく島と改めたり、蔵本
に仰られけるは、とくとく御殿十七間廻廊百八十間
造進し我を入れ参らせよとありければ、仰に隨ひて
かり殿を造りて入れ参らせんとす、始めは一身にて
ましましけるが、後には三十三所にて入らせ給ふ、
蔵本都に上り、朝に申入れよと仰せられければ、我
も遠流の者なり、流人として赦免を蒙らずして、上洛
せん事いかが候べかるらんと申ければ、大明神のた
まはく、汝を是へ下すもわがはからひなり、印南野
に金色の鹿に現ぜしも我なり、汝を下して乳母にせ
んがため也、とくとく上洛して伝奏をへよ、その時
霊烏と成て、一二万榊の枝を啄集めて紫宸殿の上に
置き、大星三星に三光を放ちて、皇居を照さん時、
驚きて神領を寄進あるべしと仰す、仍て恐恐蔵本
上洛して仔細を申あぐ、怪をなさるる所に仰られし
如く、大きなる光三つ御座のしとねの上にさす、驚
P188
きて神領四十八箇所を寄せらる、蔵本下向して、彼
神に宮仕へしき、今の神主是也、擁護の詞に曰、
我一心精誠を抽で、孤島の霊幽に詣ず、是則道心
を発し仏法を興行せんが為なり、仍て三十三の大
願を発す、中に道心の願第一也、其文の心に曰、
一度参詣諸衆生、三途八難永離苦、
和光同塵結縁者、八相成道常作仏、
といへり、一度参詣の輩はながく悪道に堕せずと誓
あり、その證據弘法大師に御ちいんをもてその色を
あらはす、我朝に密宗の渡ることはこの神の御願な
り、鎮西〓門峯を去つてこの島にうつらせ給ふこと
は、しかしながら此志の故なり、されば弘法大師こ
の神に生れあひ参らせ給へり、弘法と申すは漢家本
朝代々の賢人也、東方朔大公望黄石公弘法と申是な
り、賢王代にいでたまふ時はともに出て仕へ、愚王
世に出でたまふ時は則迯かくれて出でず、然るに我
朝に弘法生れ給ひて、今此真言を伝へたまふ、御入
唐の時は先づ厳島に詣でて、七日参籠あて、願くば
我密宗を伝へんと思ふ心ざし懇切なり、三千三の願
の中に第一の御願のごとくは、我に力をそへさせ給
へときせい申させ給ふ、大明神新に御対面あて、我
神武天皇御代のたちはじめに、供御の峰なるが故に、
かまど山に居すといへども、是を去つて此島にうつ
りたることしかしながらこの法を興行のためなり、
とくとく御入唐あるべし、我現じて力をそへ奉るべ
しと云々、よつて弘法入唐を遂げたまひて、恵果和
尚に逢ひ奉て、真言の奥義を極めて、帰朝せんとした
まひし時、天台山に上り、あかの水を取て桶に入て
天になげらる、黒雲来り、是を巻上て、我朝高野の峰
に置く、今の奥院のあかの水是なり、この黒雲と申
は、厳島の御妹のよど姫の威現なり、又大師三鈷を
なげ給ふべき事を厳島先立て、知見ありければ、御
妹よど姫に仰て、御父婆竭羅龍王に参らせて西門の
金松を申、高野山に植ゑ置かれぬ、然るに大師三鈷を
P189
なげ給ふとて、誓てのたまはく、此三鈷のおちつき
たらん所を我、ながき在所と誓ひ給ふに、三鈷飛来
て、彼金松にかかる、仍てこの峰に住みたまふ、今
の三鈷松是也、大師是ほどまで執したまひし峰なれ
ば、誠に両部の山にてぞありける、弘法帰朝の時も、
先づ厳島に参詣あて大明神に金泥法華経一部、唐鞍、
瑪瑙の枕、多羅葉此等を参らせられけり、彼のたら
えうに本地の文をかかれけり、
本体観世音、常在補陀落
為度衆生故、示現大明神
ある岩の下に隠して納め置かる、秘密第一の秘所に
て、人是を知らず、大縁起につけて、高野山に是を
知れる人一人ばかりあるべしといへり、かやうに仏
法をかねて守り給へる神明なり、慈悲広大にして誓
願自余に超過し給へり、かくのごとくれいげん厳重
の神にまします間、院も御信敬ましますにや、
平家物語巻第五終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第六
P190
平家物語巻第六
后腹の皇子はもつともあらまほしき事なり、白河院
御在位の時、六条左大臣あきふさの御娘を、京極大殿
猶子にしまいらせ給ひて、入内ありしかば、皇后宮
賢子と申き、その御腹に皇子御誕生あらまほしく思
召されて、三井寺に実誠房の阿闍梨頼豪と聞えし有
験の僧を召して、皇子誕生祈申されき、御願成就せ
ば、けんしやうは請によるべしと仰下されたりけれ
ば、頼豪かしこまてうけ給候ぬとて肝胆を碎きて、
祈念し申されけるほどに、かひがひしく中宮御くわ
いにんあて、承保元年十二月十六日おほしめすまま
に、皇子御誕生ありしかば、主上殊にえいかんあり
て、頼豪をめして御皇子誕生の勧賞には、何事をか
申うくると仰せ下されければ、頼豪別の所望候はず、
三井寺のかいだんを建立して、年来の本意を遂げん
と申けり、主上仰のありけるは、こはいかに、かか
るけんしやうとや思し召されし、我身二かいの僧正
なんどを申べきかとこそ思召されつれ、是存外の所
望也、凡そ皇子誕生ありて祚をつがしめん事も、海
内無為の儀を思召す故也、今汝が所望を達せば、山
門憤り深くして、世上静なるべからず、両門合戦出
来りて、天台の仏法忽に亡びなんずとて、御ゆるし
なかりければ、頼豪悪心に住したるけしきにて申し
けるは、この事を申さんとてこそ、老の波に肝胆を
碎きて候ひつれ、かなはざらんには思死にこそ候な
れとて、水精のやうなる涙をはらはらと落して、な
くなく三井寺にまかり帰りつつ、持仏堂にたて籠り
て飲食を断ず、主上是をきこしめして震襟安からず、
朝政怠らせ給ふに及べり、御歎の余りに、江中納言
匡房その時は美作守と申けるを召して、頼豪が皇子
誕生の勧しやうに、園城寺に戒壇を建立せんと申す
を、望み申す旨御ゆるしなしとて悪心を発すよし聞
P191
ゆ、汝は契深からんなり、罷向ひてこしらへなだめ
てんやと仰下されたれば、頓て内裏より装束をも改
めず、そくたい正しくして、頼豪が宿坊へ罷向ひて
見れば、持仏堂のあかり障子護摩のけぶりにふすぼ
りて、何となく身の毛も立て覚ゆれども、宣旨の趣
を仰含とてかくと申入たりけれ共、対面もせず、持
仏堂にたて籠り、ねんじゆうちしてありけるが、や
や久しくありて、もての外にふすぼりたる幕の内よ
りはひいでて、持仏堂のしやうじあららかにさとあ
けて、さし出でけるを見れば、よはひ九十有余なる
僧のしらがながく目くぼみ、かほの正体も見えず、
誠におそろしげなるけしきにて、しはがれたる声に
て、何事をか仰せらるべきぞ、天子に二言なし、綸
言あせの如し、出でてかへらずとこそ承はれ、これ
程の所望をかなふまじからんには、いのり出し参ら
せし皇子を具し参らせて、ただ今魔道へ罷候なんず
とばかり申て、しやうじをちやうと立てて入にけり、
匡房力及ばず帰られにけり、頼豪は其後七日と申け
るに、持仏堂にて干死にしににけり、さしもやはと
思召ける程に、皇子常はなやませ給ひければ、御祈
おこたらせ給はず、頼豪があく霊になりにければ、
一乗寺御室戸なんどいふ智證の門徒に尊き僧ども召
して、御加持ありけれどもかなはず、承暦元年八月
六日、皇子御年四歳にてつひにうせさせ給にけり、
敦文親王の御事これなり、主上殊に歎思召されて、
西京座主りやうしん大僧正、その時は円融房の僧都
と申て、山門にあるやんごとなき人なりけるを召し
て、此事を歎き仰られければ、いづれの御代にも、
我山のちからにてこそ、か様の御願は成就すること
にて候へ、九条の右丞相慈恵僧正に契申されしによ
てこそ、冷泉院の御たんじやうもありしか、なじか
は御願成就ましまさざるべき、本山へ帰のぼりて、
両所三聖いわうぜんせいに他念なく祈祷申ければ、
同三年七月九日、御産平安皇子誕生ありき、堀河の
P192
院の御事なり、是より座主は二間三ョ[B ママ]に候はれけり、
思召さるに応徳三年十一月二十六日春宮にたたせ給
けり、同十二月廿九日御即位、寛治二年正月廿日御
とし十一歳にして御元服ありき、されどもおそろし
き事どもありて、御在位廿二年、嘉承二年七月十九
日御歳廿九にて、法皇にさきだたせましまして崩御
ありき、是も頼豪が死霊のいたす所なりとぞ時の人
申ける、さて頼豪は山門のささへにてこそ我宿願は
遂ざりしかとて、大なる鼠となりて山の聖教をくひ
ける間、この鼠を神といはふべしとせんぎありけれ
ば、社を作りて祝ひて後、かの鼠静りにけり、東さ
かもとに鼠のほこらとて当時あるは則是なり、今も
山には大なる鼠をば頼豪とぞ申ける、頼豪ゆゑなき
もうしうにひかれて、多年の行ごうをすて、畜趣の
報をぞ感じける、かなしかりかる事也、つつしむべ
しつつしむべし、治承三年にもなりぬ、正月元三の儀式、い
つよりもはなやかにめでたかりし事どもなり、誠に
さこそありけめとおしはからる、
丹波少将都遷
丹波の少将は、正月廿日賀世庄を立て京へ上り給へ
り、都に待人もいかに心もとなく思ふらんとて急が
れけれども、余寒も猶はげしくて、海上もいたくあ
れたりければ、浦伝ひ島伝ひして、二月十日頃に備
前の兒島にこぎよせて、船よりおりてそのあたりの
けいきを見給に、谷河の流水の色悠々として幽なり、
鶯のなみだのつらら打とけて、いそやま桜ほの見え
て、必春の霞秋の霧にはあらねども、海人の塩やく
島なれば、けぶりはいつもたえざりけり、故大納言
の御座ける所へ尋入て向給ひければ、国人申けるは、
始はこの島に渡らせ給ひしが、是は猶あしかりなん
とて、是より北備前備中両国の境に、細谷川を帯に
せる吉備の中山の麓、板倉の郷の内、悉談寺青蓬寺と
の中に有木別所と申す山寺の候に、難波太郎俊定と
申者の古屋に渡らせ給候と承り候しが、はや昔語り
にならせ給にきと申ければ、少将さぞかしといよい
P193
よかなしく思して、まづ初父大納言のおはしましけ
る所をたち入て見給へば、庭には葎のみはひかかり
て、柴のいほりに竹のあみ戸を引たてたり、浅まし
き山辺なり、岩間を伝ふ水の音、幽々として絶々た
り、峰を吹すさむ嵐の音さつさつとして心細し、い
かばかりかは思にたへず、かなしく御座けんと袖も
しぼりあへ給はず、それより又舟にのりてかのあり
木の別所を尋ね入て見給へば、是又うたてげなるし
づがふせ屋なり、かかる所に暫くもおはしましける
事よと、後までもいたはしくて、内に入て見廻給へ
ば、古き障子に手習したる所やぶれのこりたり、あ
はれ是は故大納言のかきおかれたるよなど打見給ふ
に、涙さつと浮びければ、少将袖を顔をおしあてて
立のき、やや入道殿それに書たる物御覧ぜよとすす
め給へば、判官入道近くよりて見れば、前には海水
〓々として月真如の光りを浮べ、後には巌松森々と
して風常楽の響を奏す、雲東天にはれ、波西海に静
也、まことに三尊来迎の儀式もたよりあり、九品往
生の望たりぬべし、けいべんがまくちて蛍むなしく
さる、諌鼓苔深うして鳥驚かずとぞかかれたる、是
を見奉るにこそ、いささか厭離穢土欣求じやうどの
心もおはしましけるにやと、かぎりなき思ひの中に
も少し心安くおぼしけれ、又常に居給ひけるかと覚
しき、かたはらの障子に、六月十三日出家、同廿七
日のぶとし下向とぞかかれたりける、故入道殿の御
手跡とこそ見参らせ候へと申ければ、少将なくなく
立よりてこまこまと見給ふに、まことに父の手跡違
はず、さてこそ源左衛門尉が下りたりけるよと知り
給ひにけれ、信俊が都より下りたりける事を悦ばし
さの余りにや、ゐられたりける所の西の障子にぞ、
日かずを忘れじとかかせ給たりけると思しくて哀な
り、誠に父存生の筆のあと、其御子として後に見給
ひけん手跡は千年もありぬべしとは、是やらんと悲
しくて少将かくぞ思ひつづけられける、
P194
はかなしや主はきえぬる水ぐきの
あとを見るこそかたみなりけれ W056 K278
康頼入道、
くちはてぬその名ばかりはありきにて
あとかたもなくなりちかのさと W057 K056
御墓はいづくぞと問給へば、この屋のうしろの一村
の松のほどと申ければ、少将涙をおさへて、草葉を
わきて尋ね入給へば、露も涙もあらそひてぬれぬ所
もなかりけり、そのしるしと見る事もなし、誠に誰
かは立べきなれば、卒都婆の一本も見えず、ただ土
の少し高くて、八重むぐら引ふさぎたるが苔深く茂
る計りなるぞそのあととも見えける、少将その前に
つゐ居給ひて、袖をかほにおしあてて、涙にむせび
給ふ、判官入道も是と見て、余りにかなしくて、墨
染のたもとしぼるばかりなり、少将やや久しくあり
て、涙をおさへて、さても備中国に流さるべきと承
りしかば、渡らせ給ふ国近くや候らんと悦ばしくて、
相見奉る事はなくとも、何となくも頼母しく悦ばし
くこそ候つるに引かへて、さつまのかたに、流され
候てのちに、かの島にてはやはかなくならせ給ひて
候と計り、僅鳥なんどのおとづれて通る様に、かす
かに承り候し心中のかなしさは、唯おしはからせ給
ふべし、万里の波涛を渡りて鬼海が島へ流されし後
は、一日片時もたえてあるべしとも覚え候はざりし
に、遠きまほりとならせ給たりけるにや、露命消え
ずして、三年を待くらし、ふたたび都へかへり、妻子
を見る事は悦ばしく候へども、ながらへて渡らせ給
はんと見奉らばこそ、かひなき命のあるかひも候は
め、たとひ定業かぎりある御命なりとも、などか去
年の秋より今年の春まで、是に御座ざらん、これま
ではいそぎつれども、これより後は行空もあるべし
とも覚え候はずと、生たる人に物をいふ様に、墓の
前に夜もすがらくどき給へども、春風にそよぐ松の
音ばかりにて答ふる人も更になし、歳さり年来れど
P195
も、忘れがたきは撫育のむかしの恩、如夢如幻而、尽
がたきは恋慕の今の涙、求姿而無容、只想像苔の
底朽る骨、尋声而無益、徒聞墳墓松風こそかなし
けれ、成経が参りたりと聞給はんに、いかなる火の
中水の底におはしますとも、などか一言のなかるべ
き、生死をへだつるならひこそかなしけれとのたま
ひて、なくなく旧苔をうち拂ひ、はかをつき、父の
御ためとて、道すがらつくり持たせられたりけるそ
とばを取よせて、かの有木の別所院主、覚円房の阿
闍梨とて、貴僧を請じて供養をいたさる、聖霊決定と
いふ文の下に、孝子成経と自筆に書き給ひて、はか
に立てて、くぎぬきしまはして、又も参らぬ事もこ
そあれとて、はかにかり屋を作り、七日七夜ふだん
念仏申て、くわこしやうりやうしやうとう正覚とん
せうほだいといのり給ふ、草のかげにもいかに哀れ
と思ひ給ひけん、あやしの賤のを賤のめに至るまで、
袖をぬらさぬはなかりけり、父の御名残もをしく思
はれけれども、北の方少なき人々の御行へもさすが
覚束なく思ひ給ひければ、まうじやにいとま申て、な
くなく備前国をもこぎいで給ひにけり、都もやうや
う近づき侍につけても、哀はつきせずぞ覚えける、
宰相は少将の上り刻限も近くなりたりとて、むろた
かさごの島まで迎ひに人を遣しつつ、しかるべき船
なんどの通る時は、かかる人やおはするなど、尋ける
心の程こそ返々せつなりけれ、三月十六日に少将い
まだあかかりけるに、鳥羽につき給へり、今夜六波
羅の宿所へ急ぎ行ばやと思しけれども、三とせが間
余りにやせ衰へたる有さまを、人々に見られんこと
もはづかしくて、宰相の方へ文にて申されけるは、
これまではとかくしてたどりつきてこそ候へ、昼は
見苦しく候に、ふくるほどに牛車給るべしと申され
たりければ、宰相のもとには、少将の御文とて、鳥羽
までつき給ふよし青侍来りて申たりければ、宰相を
始め奉りて、高きも賤しきも悦び給へり、福原へめ
P196
し下されし御歎きの涙よりも、只今上り給ふよし聞
給ひける御悦びの御涙ははるかにまさりたり、つぼ
ねつぼねの女房めの童迄、昼はいかなるぞや、必しも
ふけて入せ給ふべき事やはとて、心もとなげにぞ申
あひける、
成親山荘事
新大納言の宿所は都の内、山ざとにも限らず、所々に
あまたありける中に、鳥羽の田中の山庄はてうぼう
四方にすぐれて、地形水色興をまし哀を催す所なり、
大納言随分秘蔵して洲浜殿と名づけて作くり置かれ
たりし亭なり、少将かの宿所に暫くやすらはれける
に、いつしか田舎に引かへてありしにもあらぬさま
也、されども三とせが程聞かざりし入相のかねのこ
ゑごゑおとづれて、日の入ほどになりにけり、比は
三月の中六日のことなれば、やうばいたうりの色折
しりがほなるにほひもなつかしく、うぐひすの百囀
の声すでに老たれども、詠ぜし人も今はなし、庭の
桜は所々にちり残りて、また名残がもとさすがに哀
なり、少将内へ入て見めぐられければ、門はあれど
も戸びらなし、ついぢはあれどもおほひなし、らん
もんみだれて地に落ち、から垣破れて〓[B ママ]滋り、田向
の桟敷をはじめとして、屋数はむらむら残りたれど
も、ひはだも椽もくちはてて、しとみやり戸もなか
りけり、軒にしのぶ草おひ茂り、月もれとてはふか
ねども、いたくまばらになりにけり、庭には人あと
たえてあともなし、みたりとも覚えぬ千草生て、ふ
みわけたるあともなし、あさぢがはずゑに露むすび、
鶉の床とぞなりにける、故大納言はかれよりこそい
でられしか、ここは妻戸なりしかば、故大納言はこ
こにはいられしかなど、つくづくと思ひ続け給ひて
そぞろに涙ぞ流れける、大納言ひざうして、住吉の住
の江殿をうつしてつくられたり、去ぬる応保二年二
月廿一日に事はじめありて、同三年に造畢あり、造り
出して廿一日と申に法皇御幸なる、大納言家の面目
これに過ずと思はれければ、様々にもてなし参らせ
P197
て 、法皇の御前には八葉の御車に五をの御すだれか
けて壹岐太とてひざうせられたる御牛にかけて、御
車皆ぐし進らる、公卿十人にうし一かしらつつに南
廷十宛、殿上人十二人に鞍置馬一疋、裸馬一疋あて、
上北面十六人にそめ物十二、絹十、綿五十両づつそへ
られたり、下北面の輩にはいろいろの装束に白布十
たんづつ具られたり、御力者とねりうしかひ御車ぞ
ひなんどが中には、鵝眼五百貫出されたり、かかり
ければ人耳目を驚かす、其の日も暮にければ、終夜
の御酒宴ありけるに、夜しんかうに及ぶ、一つのふ
しぎあり、法皇南殿を御覧じ出して渡らせ給ひける
に、御えんの柱に年八十有余なる老翁白髪をいただ
きて、たえゑぼししりさがりにきなして、すそはく
ずのはかまにしたくぐりて、上はけんもしやのかり
衣の、もてのほかにすすけたるをたほやかにきて、
ひさまづいてつまじやくとりて、畏て居たり、余の
人はかかる人ありとも見知りたる気色もなし、法皇
御めをかけて、あれは何者ぞと御尋ありければ、しは
がれたる声にて是は住吉の辺に候こせうにて候が、
君にうつたへ申すべき事候て、恐れをかへりみず推
参仕て候なり、われ年来ひざうして朝夕愛し候住の
江と申所を、此ていしゆにうつされて候間、住吉無
下にあさまになりて、ないがしろになりはて候なん
ずと存候て、その仔細を歎き申さんとて、よひより
参りて候つれども、見参に入る人も候はぬ間、五夜
まさに明なんと仕候へば、直奏仕候事恐入て候、所せ
んこのよしをよくよく仰ふくめらるべく候やらん、
か様に申入候はんをも、御用ひ候はずば、常に参り
かよひ候はんずれば、御はからひに候とて、南をさ
して飛さりぬ、法皇不思議の事かなと思召されてけ
れども、御披露にも及ばず、そのうへ御醉乱のほどな
りければ、後には思召わすれさせ給ひけるにや、大
納言も常に宿し山水木立面白き所なればとて、法皇
も時々御幸なりて、さまざま御遊ありければ、住吉
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のとがめも通り給ひけるにや、次の年の夏の頃、住
吉の明神の御とがめとて、上皇常に御なう渡らせ給
ひければ、御存命のために御出家ありけるとぞ聞え
し、さればなりちかの卿もかの明神の御とがめにや、
いく程なく備前のこじまへ下られければ、後にぞ彼
所もあれはてて、今は野干のすみかとなりはてぬ、
いよいよおそろしくこそ覚しか、少将見めぐり給へ
ば旧苔ひきふさぎて人跡まれなる宿なれや、弥生も
中の六日になりぬれば、青陽の春もすでに暮れなん
として、宮の鴬の声も既に老たり、桜梅は四季をわ
すれず咲きたれど、花にともにちりはてて、詠ぜし
友は目に見ず、されば古き詩を思ひいでて、
桃李不言春幾暮、烟霞無跡昔誰栖、 K057
人はいさ心もしらず古さとの
花ぞむかしにかはらざりける W058 K058
さて姑射山仙洞の池の汀を望ば、白波うちかけて鴛
鴦白鴎せうようして、興せし人の恋しさに涙もさら
にとどまらず、南楼の木の下には嵐のみおとづれて
夢をさます友となり、木の間もる月影の袖に宿借し
名残をしたふかと覚えたり、終日になきくらし給ふ
ほどに、宰相殿より御迎の車参りたりと申ければ、
少将判官入道おなじく車にあひのりて北へぞ向はれ
ける、判官入道申けるは、一ごう所かんの事なれど、
先世の芳縁も浅からず、しかれども、漕出し硫黄が
島たへがたう悲しかりし事、僧都の残しすてられて
なげきかなしみしあり様、我等があらましの熊野ま
うでのしるしにや、二たび都へかへりのぼりぬる事
のありがたさなんどたがひにかたりつつ、各袖をぞ
しぼられける、さても三とせの間はなれ参らせ候つ
る御なごりこそ、この世にて忘るべしとも覚え候は
ね、今は同じ都のすまゐにて候はんずれば、日比の
御名残は参り候て申べしとこそ、契ねんごろにして、
墨染の袖しぼるばかりにて申けるは、むかしめしつ
かひ候し下人、ひんがしやま双林寺と申所に候、い
P199
まだながらへて候はば、草のいほりを結びて、今は
一向後生ほだいのいとなみの外は他事候まじ、もし
真如堂雲居寺なんどへ御参詣候はん御ついでには、
必す御たづね候へ、性照も世しづまり候はば、つね
は六はら辺へは参り候べしとて、七条東の朱雀より
おりて、東山へぞ行ける、少将は六波羅へおはした
れば、乳母の六条は黒かりしかみも白みて見え、北
の方も事の外にやせおとろへ給へり、思歎きの浅か
らざりける程も思ひやられて哀なり、わが流されし
時、四になりし若君も、髪くびのまはりなりしが、お
ひのびてゆふ程なり、見わすれ給はざりけるにや、少
将の御ひざ近くなつかしげに近づきたまふ、又北の
方のかたはらに、三ばかりなるおさない人のおはし
ましけるはたぞとのたまひければ、北の方これこそ
とばかりにて、涙を流しうつぶしたまふにこそ、さ
てはながされし時、心ぐるしく見おきし腹のうちな
りしが、生れて人となりにけるよと心得てければ、
是を見るにもつきせぬものはただ涙ばかり也、むか
しもろこしに臣宗憲朔とて二人のあきひとありき、
天台山にのぼりけるが、帰らんずる道をわすれて、
山の中にまよひしに、谷河よりさかづきの流れいで
たるを見つけて、人の栖家の近き事を心得て、その
水上を尋ねつつ行こといくばくをへずして、一の仙
家にいたりにけり、ろうかく重疊として草木もみな
春の景気なり、しかうして帰らん事を望みしかば、
仙人いでて、帰るべき道を教ふ、急ぎ山を出でて、
おのれがさとをかへり見れば、人も栖家もことごと
くありしにもあらずなりにけり、浅ましく悲しくて、
くはしく行末を尋ねければ、あるもののいはく、わ
れはむかし山に入てうせにし人のその名残七世の孫
也とぞ答へける、少将今度の宿所の荒にけるありさ
ま、此人どもの人となりたまひけるを見たまひしこ
そ、彼仙家より帰りけん人の心地して、夢のやうには
おぼされけれ、少将はいつしか御所へ参りて、君を
P200
も拝み奉らばやと思しけれども、恐れをなして、左
右なくも参り給はず、法皇もいつしか御らんぜまほ
しく思はせたまひけれども、世にはばかりありて召
されざりけり、判官入道は東山の旧跡に行てつくづ
くと見れば、見しにもあらずかはりたれども、植置
し草木は花盛に咲みだれつつ、さ夜ふくるままに、い
つよりも月すみていとど心のすみければ、
古郷の軒のいたまに苔むして
思ひしよりももらぬ月哉 W059 K060
少将は世も猶おそろしくつつましければ、人にもい
で合ひたまはず、深く忍びてぞおはしましける、六
はらの門脇なれば、別に何事かはあるべきなれども、
常はもとどりをはなち、しとみのうへばかりをあけ
て、用心して御座ける、都帰りしたまひて後、十二
三日の程にもやなりたまひけん、少将のもとへと康
頼入道が許へ、太政入道使者をつかはして、時のほ
どに西八条に立寄らせ給候へ、申談ずべき事候とぞ
よばれける、人々是を聞て何となく又なきあひけり、
中にも康頼入道が母の歎こそ申ばかりなくむざんな
れ、我が子の袖に取つきて、三とせがほどなきくら
して、たまたま帰京の恩赦にあうて後は、そこをこ
そは今世後生も頼み思ふに、それまでこそなからめ、
剰へ重ねて老の涙に袖をぬらすかなしさよ、ありし
時露命のきえたらましかば、二たび物は思はざらま
しと泣き悲みければ、母の思ひさこそと思ひやられ
て、康頼入道も袖をぞしぼりける、使者二三度に及び
ければ、少将もあまりの事にて物ものたまはず、さ
いしやうの北の方、少将の北の方、六条寄あひてを
めきかなしむ、これ程ならば、ただ島にても置たて
まつらで、今一度あひ見奉るは嬉しけれども、又目
の前にてうしなひ奉て歎んことこそ悲しけれ、当時
何事をか入道殿、少将殿にのたまひ合られん、この御
言葉は御身にあててはいまいましき言ぞかし、大納
言のうせ給とても、時の程立寄らせ給へとてこそ、
P201
二度も帰り給はで、終にむなしく成らせ給ひしか、
然らばこの少将殿もいかなる罪にかあたりたまはん
ずらんといひつづけて、泣悲しむ中にも宰相殿のた
まひけるは、あな心うや一とせ目の前にて失せたま
ふべかりしを、様々に申こうてあづかり奉りし程に、
ほどなく召し返されて、硫黄が島に流されにき、そ
の時心うく思ひしかば、思ひ切るべかりしを、恩愛
の道力及ばぬことなれば思ひ切らずして、人のそし
り恥をもかへり見ず、隙を伺ひて申のぼせ奉りたれ
ば、又幾ほどなくかやうにのたまへば、今度少将い
かにもなりはて給はば、教盛も本どり切り、かうや
粉河にもとぢ籠り、うき世はいくほどならぬ習なれ
ば、しづかに念仏申て後生をたすからん、少将の後
生もとぶらふべしとて泣き給へば、少将の北の方こ
のありさまを見奉りて、御志は今にはじめぬ事なれ
ども、是程まで思召つらん事よと、且はかたじけな
く且はいたはしくて、とにかくに尽きせぬものは涙
なり、さればとてあるべきにもなきうへ、使者重疊
してければ、少将後世にてはかならずといとまこひ
てなくなく出給ひにけり、先には流罪なりしかば、
ひまもあらばさりともと頼まれつるに、今度は定め
て死罪にてぞあらんずらん、今ぞ限りのわかれにや
となきかなしみ給ふぞ理なる、さて少将西八条にお
はしたれば、康頼入道ともに中門の廊に入奉る、何
なるうき目を見んずらんと思ひ給ふ所に、太政入道
出たまひて居直り上居して暫くありて、人や候と召
されけり、越中の前司盛俊とて参りたり、御酒参ら
せよとのたまひければ、かねて用意したりければに
や、瓶子一具に種々の肴けつかうして出されたり、こ
れも何事なるらんと二人の人々おそろしかりけり、
されどもことなる仔細なかりけり、入道酒をすすめ
給て、酒もりなかばになりにければ、少将の前に馬
十疋に鞍おきて、その上になんりやう砂金よき羽な
んどあまた出されけり、康頼入道もともにもてなさ
P202
る、少将殿をば本の如く安堵せさせ奉る、重ねて庄
園三ヶ所奉られけり、かくもてさなるるは何故ぞと
尋ぬれば、この少将のしうと平宰相と申は、入道の
さいあいの舎弟なり、この少将殿を三年がほど心を
いたましめ給へるその思ひを慰め奉り、かつうは宰
相の心をもなだめんが為に、かくもてなさるるとぞ
うけ給る、入道よき事顔に、いかにこのほどすまれ候
けん、硫黄が島の眺望はいかで、いかなる所にて候
けんぞと問ひ給へば、少将彼島と申候は山高くそび
えて、火常にもえ上り、いかづちなりさかり、隣里
には雨しげくふり候て、物うき所の一にて候と、世
につらげに申されければ、入道うちうなづきて、さ
ては興ある所にて候ひけり、さぞ御名残はおしく思
され候らんと大に笑ひて内へいり給ぬ、今は別事よ
もあらじとて二人つれて出で給ふ、先使者を遣して
少将殿事故なく帰りたまふよしを申ければ、人々是
をあまりに思ふ事なれば、夢にてばしやあるらん、
夢ならば覚めて後いかにせんとぞ思はれける、少将
車より下りて入給ふを見奉るにこそ、誠とも思はれ
けれ、死たる人のよみがへりたるが如く悦びなきど
もせられけり、入道使をたてて申つかはされけるは、
少将殿もとの如く御所の出仕候べしとのたまへば、
少将引つくろひはじめて出仕あり、御所中の女房た
ちしかるべき人々少将を見たまひて、露命きえやら
ずしておなじ世にある人は、あひ見る事にこそ、硫
黄が島と聞し時は、二たび見奉らんとも思はざりし
に、おなじ君の御代に出仕せしめたまふ事の不思議
さよと、哀に思はれければ、人々袖をぞしぼりける、
院は少将を御前に召して一目御覧じて、両眼ところ
せくおはしますぞかたじけなき、少将も涙にむせび
てものも申されず、たがひに哀なる御ありさまなり、
やや久しくありて法皇いかにと御定あり、硫黄が島
のてうばうは、いはまの波のおと、松吹嵐のすさま
じく、旅泊に夢をやぶり、何事につけても一日露命
P203
のながらへ候べき様も候はねども、君を拝み参らせ
候べき縁の候けるにこそ、けふまでつれなくながら
へて、龍顔を拝み参らせ候へと申されたりければ、
理なりとて哀に思召けり、誠に父大納言住吉に祈り
申されし事のかなひければにや、はるかに命ながら
へて万里の波涛を凌ぎ帰り、二たびめしつかはれ、
父大納言の家を継ぎて、雲上につらなり、宰相の中
将になりて、後には祖父跡中納言までになられしこ
そ、ありがたくは人思ひけれ、かやうに栄花の家にか
へりてこそ、さつまがた鬼海が島の思ひをも慰めた
まひけれ、さても俊寛僧都ばかりは罪深く方人もな
ければ、非常の大赦にももれて、心うき島のすもり
となりはてて、ただひとりまよひありきけるこそむ
ざんなれ、その中にことに哀なりし事、僧都世にあ
りける時、多く思召仕はれける者どもの中に、殊に
不便に思はれける者兄弟二人あり、兄をば亀[B 松カ]王丸、
弟をば有王丸とぞ申ける、彼等二人は、越前国水江
庄の住人黒居三郎が子どもなり、かの水江は法勝寺
の寺領也、沙汰すべき事ありて、執行自身下られた
りけるが、かの黒居が子どもを見給ひて、よきわら
べどもなりとて、われに得させよとありければ、奉
りけり、斜ならずいとをしみの者に思はれたり、上
にはわらはにつかはれけれども、心ざしは子の如く
思はれてありけり、中にも松王丸は法師になりて法
勝寺の一のあづかりにてぞありける、弟はわらはに
てつかひ侍りけり、さるほどに有王丸は僧都の流さ
れて、淀におはしましける所へ尋ね行て、さいごの
御ともはこれが限りにて候へば、いづくまでも参り
候べしとなくなく申ければ、僧都の給ひけるは、誠
に主従のちぎりむかしも今も浅からずといへども、
多くの者共のありしかども、今の世におそれてとひ
来るもの一人もなけれども、それ更にうらみ思ふべ
きに非ず、汝が一人かく申必ざしの程こそ返す返す
哀なれ、ただしわれ一人にも限らず、丹波の少将に
P204
も判官入道なんどにも人一人もしたがはずとこそき
け、各皆さつまの国硫黄が島とかやへ流さるべしと
聞ゆれば、命のあらん事もありがたし、道のほどに
てもやはかなくならんずらん、我身の事はさておき
ぬ、都に残りとどまる女房幼き者どもの心ぐるしさ
思ふばかりなし、かの人々につきて杖はしらともな
るべし、我につきたらん心ざしにはつゆすくなかる
まじきぞ、とくとく帰れとのたまひける所に、宣旨
の御使並びに六波羅の使、何事を申わらはぞと怪し
め尋ぬれば、おそろしさになくなくよどより都へか
へりにけり、兄の松王丸は僧都に別れ奉りてのちは、
宮仕侍る方もなくして、或は大原、しづはら、さが法
輪寺の方にまよひ行て、峰のはなをつみ谷の水をむ
すびて、山々寺々の仏の前に報じ奉りて、我主に今
一度あはさせ給へとぞ祈り申ける、有王丸は女房お
さなき人々に仕へて心ざしを尽し、其ひまには、ちや
うもんのみぎりや見物の所々に忍び行て、僧都の行
衛をぞ尋ね聞きける、ある所にて人の申けるは、去
々年の秋の比、硫黄が島へ流されし人々召しかへさ
れたるよし承りしが、丹波少将も平判官もすでに鳥
羽までつき給ふよし申ければ、有王丸我主も定てお
はしますらんと、斜ならず悦びて急ぎ見奉らん、か
つうは御迎にもとて四つかまで走りたりけるに、此
人々に行逢ひたてまつりたれども、僧都は見え給は
ず、わらは浅ましと思ひて、さがりたる人に立より
てひそかに問ければ、その御房いまだ島におはしま
すとこそきけとばかりにて分明ならず、一定を承ら
んとて六波羅へ行向ひ、少将の辺に尋ねとひければ、
今度の赦免にはもれていまだ島におはしますとぞ答
へける、わらはこのよしを聞定てければ、むねふさ
がりて東西も覚えず、涙にくれてうちふしけるが、
かなしみてもかひなし、なきてもあまりあり、もし
生きてもおはしまさば、いかばかり心うく思し召す
らん、したしきものにもかくともいはず、我身はい
P205
かになるとてもいかがせんと思ひ切りて、ただ一人
都をすごすご迷ひいでて、まだしらぬ道をはるばる
とさつまがたへぞ尋ね行きける、卯月十日ごろ都を
立ちて、足に任せてぞ下りける、道すがらもあやし
の者の行あひたるにつけても、我主もかくぞおはす
らめと思ひつづけられて、或時は海上に船をこし、
あるときは山川にまよふ時もあり、日数やうやうつ
みければ、百余日も過て七月下旬にぞかの鬼海が島
には着きたりける、彼島のありさま、日ごろ都にて
伝へ聞しはことの数ならず、東はまんまんたる蒼海
に、白浪ちんちんとしてうろくづだにも浮ばす、西
はががたるせい山に雲霞ふんふんとして、鳥だにも
かけらず、峰嶺に黒けぶりもえて眼にさへぎり、野
沢におつるいかづちの音耳にみてり、北の方をかへ
り見ればべうべうとしてあとも見えず、ぜんとをは
るかにのぞめば、悠々として底もわかず、何事につ
けても心細き事多かりけり、さても漁する海人に逢
うて尋ければ、京より流されさせたまひし法勝寺の
執行僧都の御房の御事やしりたるととひければ、か
しらをふりて、答ふるものなかりけり、聞もしらず
といふやらん、てんせいしらずといふやらん、いか
にも不定やことわりや、是等がありさまをみるに、
法勝寺とは何をいふやらん、執行とは何ものやらん、
僧都とは人の名ともしるべきならねば、其後は一と
せ流されておはしまししが、二人は召し帰されて今
一人おはします人はといふ時、おのづからある者申
けるは、いざとよさる人は過しころまでは何となく
まよひありきしかども、行末もしらずといひければ、
有王丸少し心落居て、この人はいまだ世におはしま
するにこそと思ひつつ、四五日はさとをめぐりて尋
ねけれども見え給はず、もしやとて山路の方にわけ
入ば、さんろに日くれぬれども、耳に満る物なし、
山遠くして雲行客のあとを埋むと覚えたり、磯べに
いでて夜を明す、松寒くして風旅人の夢をやぶる、
P206
樵歌牧笛の音にも非ずして、ただ耳に聞え眼にさへ
ぎるものとては、雷の声のみなり、わらはいかにす
べしとも覚えずして、峰より谷へくだり谷より峰に
上るに、渓鳥嶺猿の外おとづれを聞く事なし、白雲
あとを埋みて、往来の迹もさだかならず、青嵐ゆめ
を破りてその面かげだにも見え給はで、この人思ひ
にたへずしてはかなくなられけるにや、せめてはあ
れこそその人の骨よとしる人のあれかし、骨なりと
も拾ひて帰り上らんと思て、なくなくまた磯のかた
へ出にけり、この間は打續き空かきくもり浦風すさ
まじかりけるが、けふは日ものどかに波も心やはら
かなりければ、汐ひがたをはるばると行けども、荒
いそにて船も人もかよへるけしきもみえず、砂頭に
印をきざむかもめ、沖の白洲にすだく浜千鳥の外は
あとふみつくるかたもなし、都をいでて後、多くの
うら山をしげくわけこし、心ざし深けれども、さす
がに日数経にければ、身もつかれくたびれつつ、磯
の松陰にしばらく寄ふしたれば、僧都のありし昔の
姿にて幻のごとく見られたり、さらぬだに旅人の夢
をやふるといひながら、しばしありてほどなくさめ
ぬる事のかなしくて、涙を流しけり、けふは日もく
れぬれば、岩の枕に宿をしむ、耳にともなふものと
ては磯辺の波の音、松ふく風ばかりなり、かくて夜
も明ぬれば、今は力も尽きて覚えける時、いそのか
たより人か人にもあらざるか、がけろふなどのやう
なるものはたらくが、あやしやなどいかなるらんと
おそろしながら、さすがにゆかしければ、近づきよ
りて見れば、もとは法師なりけるかと覚えて、いた
だきの髪は天をさしてのぼりたりけるもの、やせく
ろみたるが、きたるものはきぬぬのの類にも非ずし
て、しでなんどの様なるものを身に引まとひつつ、
こしにはあらめをはさみ、左右の手にはちいさき魚
を二三にぎりて、かげもなげにてよろよろとして来
るが、ずゐぶんにあゆむやうには見えけれども、一
P207
所にゆるぎ立ちたり、誠にくるしげなるけしきを見
て、あなむざんの者のありさまや、京にてひん人こ
つがい多く見しかども、かかる者はいまだ見ず、物
いふべしとは思はねども、もしかやうなる者のふし
ぎに知たる事もやと思ひて、物語りせんとて近づき
よる、あはれ我主もかやうにこそ御座すらめ、せめ
てはあれほど御座すとも、いのちいきて尋ねあひ奉
りたらば、いかに悦ばしからましと思て、ややもの
申べき事あり、一とせ都より流されさせ給ひたりし
法勝寺の執行の御房のことやしり給ひたると問けれ
は、僧都はわらはを見わすれざりければ、我こそそ
よといはばやと思ひけれども、すがたこそかはらめ、
腰にさすあらめ手にもつ所の魚、いづれもいかがせ
ん、心さへ拙くなりにけるよと思はん事こそはづか
しけれ、名のらじとは思はれけれども、はるばると
尋来る心ざしをうしなはん事つみふかしなど思かへ
して、我こそそなれ有王丸かといひもはてず、手に
もちたる魚なげ捨てて、わらはが前にうつぶしに倒
れにけり、わらは我名をよぶもまことなり、その名
を名のるも実正也、かくのたまふよりなつかしくお
ぼえて、我主のなり給へるかたちを見るにせん方な
くて、僧都と手をとりちがへて涙にむせび、しばし
はたがひになくより外はなくて、一言葉もいださず、
やや久しくありて、僧都起上りつつのたまひけるは、
抑いかにしてこれまでは尋ね来るぞ、この事こそ更
にうつつとも覚えね、明ても暮ても都の事のみ思ひ
たれば、恋しき者どもの面かげは夢にも見ゆる折も
あり、うつつにまみゆるやうなる時もありき、身も
いたくつかれてのちは、夢ともうつつともわけざれ
ば、汝が来るともひとへに覚えぬぞ、朝なゆふなは
いたく都の事をおもへば、天魔、野干の我をたぶら
かさんとて、汝が姿にへんげして来ると覚ゆるぞや、
此事夢ならばさめての後いかがせん、わらはなみだ
をおさへて申けるは、誠の有王丸にて候けり、御心
P208
安く思召せと申ければ、僧都少し心の落居て、わら
はが手に手をとり組みて、またのたまひけるは、さ
ても多くの者の中に汝ひとり尋ね来る心ざしのよろ
こばしさは、中々とかく云に及ばず、先づ我身のあ
りさま聞よな、この島は多くの海山をへだて、雲の
よそなれば、おぼろげならでは人のかよふ事もなし、
されば都のことづてもありがたく、丹波少将のあり
し程は平宰相のもとより春のつばくらめ、秋のかり
がねにおとづれしかば、送りしものを三人してすご
しき、よろこばしき事もかなしき事も、たがひにい
ひ合せて、いたう都の恋しき時は、昔物がたりをも
し、浦づたひ島伝ひして、心をやる折もありしに、
その人々にも去年の秋より打捨られて後は、たより
なかりし事ただおしはかるべし、この輩の別れし時、
淵瀬に身をもなげ、底のみくづともならんとせしを、
少将今一度都の音づれを待聞けと、よしなく情をか
けし言葉につらされて、おろかにもしやと待つつな
がらへばやとせしかども、島の内には食事なければ、
身の力のありし程は、山に入てしほ木といふものを
きり、また硫黄をほりて、おのづから九国へかよふ
あき人にあひて、是をあきなひなんどして過しかど
も、今はちからもおとろへて、そのわざもせず、さ
ればとてすてられぬ命なれば、こつじきをせしなり、
この島じやけんの所にて、かてをあたふる人もなし、
かやうに日も静なる時は、つりする海人に向ひて、
手を合せひざをくつしてかかる魚を貰ひ、又あらめ
など拾ひてやはらかなる所をくひてこそ過ぎしか、
さらでは誰かはたすくべき、露の命の何にかかりて
けふまできえやらざるらんと思ひたれば、汝が心ざ
しを今一度見んとてけふまでありけるぞや、汝一人
を見るをもて、都の人々を皆見たる心地すとてなき
給ふもあはれなり、有王丸は涙を流しながら、九国
の地よりさまざまの菓子どもを用意しければ、取出
してなくなく進めけれども、かかる物のきびも今は
P209
忘れたるうへ、ただ今是をくひたればとて、しじう
是をくふべきやとて目をもかけ給はず、日暮方にな
りければ、いざ我すみか見せんとて、わらはに手を
引れておはしましけり、見れば松の四五本ある下に
竹二本よせかけて、上には草の枯葉よせきたるもく
づをひしととりかけたり、雲の通ひぢ雨風もたまる
べくもなし、下には物もしかず、砂をほりくぼめて
よろづの木葉をかきおきたり、内に入てふし給ひた
れば、足はほかにさし出たり、京のわらはの犬の家
とて作りたるは猶まだし、目もあてられずむざんな
りともおろかなり、かたはらなる竹柱に、
見せばやな哀と思ふ人やあると
ただひとりすむ岩のこけやを W060 K061
かきのからなんどにてかきつけたりなんどおぼしく
て、かすかにただよひたるやうにぞ書きたりける、
かの僧都のぞくしやうを尋ぬれば、かたじけなくも
村上のせんていの七代の後胤、官位をいへば権少僧
都、大がらんの寺務八十八ヶ庄の領を司りたまひし
かば、むねがど平門を立て、三百余人の所従けんぞ
くにゐねうせられてこそ過られしか、白河殿御坊、
鹿の谷のさんざう、京極殿宿所、ちりもすへじとみ
がかれおぼされしものを、まのあたりにかかるやう
にならせ給ふこそ、とかくいふばかりもなかりけれ、
僧都は内にてなき給へば、わらはは外にて悲しみけ
り、業にさまざまのごうあり、順現、順生、順後、順
不定業といへり、僧都一期のあいだの所用は、伽藍
の寺物しやうじやの仏物にあらずといふ事なし、然
れば信施の無所謝罪歟、何なるつみの報いなるら
んとぞ覚ゆる、
燈台鬼
昔推古天皇の御宇、迦留大臣といひし人、遣唐使に
渡りて、おんやう道をならひ、えんていをつくし奥
儀を極めて、帰朝せんとせし時、おんやうの淵源、
日域へわたさん事ををしみて、かるの大臣の帰朝を
留め、つらのかはをはぎ、ひたひにとうかいをうち、
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とうだいきと作りなせり、そののち皇極天皇の御時、
かるの大臣の御子弼の宰相、親の行末を悲しみて渡
唐せられたりけるに、かのとうだい鬼に行あはれた
りけれども、鬼はその子を見知りたれども、子は親
をしらざりけり、鬼かくぞ書たりける、
吾是日本花京客、汝則同性一宅人、
成祖成子前世契、隔山隔海慕情辛、
経年落涙蓬蒿宿、累月馳思蘭菊親、
形壊他州成燭鬼、何還旧里捨此身、
と書たりけり、宰相これを見てこそ、我が父かるの
大臣とはしり給ひしか、俊寛が主従こそかの弼の宰
相父子にちがはざりける物をや、これは有王丸との
たまふにこそ、しゆんくわん僧都とは知られける、
かれは万里の波涛を凌ぎて、唐土まで渡り、是は千
里の山川をわけて硫黄が島へ尋ねけり、昔今は異な
れども、徳を謝する心ざし是おなじ、父子主従はか
はりたれども、恩をはうずる心はひとつなり、僧都
のたまひけるは、此島のありさまあらあら見つべし
な、急ぎてかひなき旅なれども、かかる所にしもす
めばすまるる習ひにてありけるぞ、海山を隔て、
げに人渡らねば、暦博士を見ざれども、白月黒月の
光りをはかりて、一月二月とさとり、越路へ帰しか
りがねもやうやうまたおとづれ、峯の木葉もつもり、
雪もかつふりしくを見ては、冬になりけりと知り、
谷の氷も漸くとけて、花のさまざまに咲けるに鶯の
木ずゑにさへずるあそびを見ては、春の来にけりと
思ふに、卯花なでしこ咲みだれ、山ほとどぎすの鳴
く声聞ては、夏になりけりと思ふ、そのうつりかは
る気色をはからへば、年の三とせをおくれり、それ
にさしもの便に一こど葉のつてをいひ、文をだにな
かるらんことのうらめしさよ、いきたりとも死たり
とも、その行末を聞ばやと歎くもののなかりけるこ
そうたてけれ、我身のかくなるにつけても、故郷の
事はゆかしくこそ覚ゆれ、心つよくも三とせを過し
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つるものかな、さてもさてもおさないものどもの、事
こそ聞まほしけれ、少将の迎への便にも文もなし、
おのれが便にもおとづれもせぬは、是へ下るともい
はざりけるにや、又したしき人々は一人もなきかと
うらみ給へば、有王丸涙をおさへて申けるは、哀れ
猶君ははかなくおはしまし候ひけるものを、君の西
八条に召こめられさせ給ひし時、すなはち追捕のつ
かひ入り候うて、御あたりの人々上下を嫌はずとら
へからめて、らうの人やに入、せめいたましめて、
むねんの事を尋問はれ候て知も知らざるもみなうし
なはれ候ぬ、たまたま残る者も、諸国七道へ落ちう
せ、或は山林ににげかくれ、跡をとどむる者一人も
候はず、御一家人々わづかに残りとどまり給ふも、
いかにもしたまふまでの事は思ひよらず候、女房公
達の御事はただ思食やらせ給候へ、その時すでには
ぢに及び給ふべく候しかども、とかくしてもれ出つ
つ、鞍馬のおくや、醍醐なる所に忍ばせ給つつ、僅
かに御身命ばかりこそたすからせ給ひ候しかども、
いふがひなきやうにて渡らせ給ひ候し間、若御前は
常におさなき御心に、我父はいづくに渡らせ給らん、
行ばやと仰候しかば、この子はそなたとをしへ侍る
人あらば、一定行んずるものぞ心のはやりのままに
走りいでたりとも、島へも行つかず、是へも帰らず、
中にてうせん事のかなしきに、あなかしこあなかしこ、し
らすなと母御前の仰候しほどに、人のし候もがさと
申ものをせさせ給ひ候て、去年の七月十四日にはか
なくならせ給ひ候き、女房は一かたならぬ御歎の中
に、いとど思召しづませ給ひて候しが、御やまひつ
かせたまひて、同十月上旬に失させ給ひ候き、今は
姫御前ばかりこそ御わたり候が、御ありさまとかく
申もおろかなり、母御前うせ給ひて後は、都の御住
居も便なくて、去ぬる正月より奈良のおば御ぜんの
御もとに渡らせ御はしませども、心うきことのみ候
とこそ承り候へ、是へたづね参り候はんと思ひ立候
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し時、参り候て、かくと申入て候しかば、昔はいか
でか直に仰を承り候べきに、はし近く御出候て、な
のめならず御悦候て、あはれ女の身程口をしかりけ
るものはなし、おのこ子ならば、なんぢにつれてゆ
きなまし、父の恋しきはたとへんかたはなけれども、
思に叶はぬ事なれば、さてこそありつれ、多くの人
の中に汝一人尋ね参る悦ばしさよ、たいらかに参り
つきたらば、是を参らせよ、余りになかれて筆のた
てども覚え候はずとて、給りて候し御文などをば、島
の津にて奪ひとり候よし人のおどし候し間、もとゆ
ひの中にしこめて参りたりとて、取出して奉る、僧
都なくなくひろげて見給へば、父御前には生ながら
わかれ参らせて、すでに三とせになり候、御事をこ
そ明ても暮ても三人してなげき候しほどに、若君は
こぞの秋はかなくなり候ぬ、母御前と二人して、生
てのわかれ死してのわかれのかなしきを歎き候しほ
どに、思ひ歎きのつもりて、やまふとならせ給て、
母御前にも同冬かくれさせ給ひて候へば、母御前の
我が死なば、いかがしてたへてもあるべき、奈良のさ
とに伯母といふものあり、尋ね行と最期に仰られ候
しかば、ならの伯母御前のもとに候へども、昼はひ
めもすにかべに向ひてなきくらし、夜はよもすがら
枕とともになきあかし、月日の空しく過行につけて
も恋しく思ひ参らせ候に、かまへてかまへてこのわらは
に具して上らせ給候へと、はかなげにうら書はし書
うすくこく、さまざまに書下し給へり、僧都是を見
て暫くは物ものたまはず、此文をかほにあててたえ
入たえ入はせられけり、やや久しくありておき上りつ
つのたまひけるは、みやうけん三ぼういかにしたま
ひぬる事ぞや、たとひくわはう尽きてかかるありさ
まになるとも、夫妻は二世のちぎりと申に、去年の
秋よりはかなくなりておはしましけるを、かくと夢
にも告げ知らせ給はざりける口惜しさよ、かひなき命
のをしく故郷の恋しきも、今一度妻子を見んためな
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り、さりとしりたりせば、何しに今までながらふべ
きぞ、干死にもすべかりけるものを、さても姫が文
のやうこそむざんなれ、此子は今年十三か四かとこ
そ思ふに、年のほどよりもおとなしくこと葉つづき
も尋当也、されどもいふかひなき一筆をかきたるこ
そはかなけれ、この心ばへにてはいかでか身をもた
すくべき、とくとくしてのぼれとは何事ぞ、うちま
かせたるいなかくだりとこそ覚えたれ、心に任せた
る身ならば、何しにかくは留るべきとて、恩愛の道
のかなしさは、我身の上をばさしおきて、この子の
ゆくゑを思ひやりなかれけるこそあはれなれ、さて
わらは山に入て硫黄をほりてあき人にうり、いそに
いでては磯なを摘みなどして主の命をたすけつつ、
いかにもなりはて給はんを見んと思ひける程に、僧
都のたまひけるは、今までながらへつるは、恋しき者
どものゆくゑを聞んためにこそありつれ、今はかへ
り上りて何にかはせん、その上この島へ流されし時
も、一人も人をつれられざりしに、今人こそ下りてつ
きたれと都に聞えん事も憚りあり、さればとくとく
帰り上れとのたまひければ、有王丸主に向てつまは
じきをして申けるは、あな口をしや、その御身のあ
りさまにても猶世をばおそろしく思召され候か、こ
の上はいかやうなる御目を御覧じ候べきぞ、東方朔
が言葉には、用る時は虎となり、捨る時は鼠となる
と申ければ、いざとよ我こそかく類ひなき罪に沈む
とも、おのれさへ心うき所にてむなしくなさん事の
不便さに、かくはいふなりとのたまへば、京都を立
出し時、思ひ切りて捨てたる命を、このしまにて思
ひ返すべきにても候はず、たとひまかりのぼり候と
も、この御ありさまを見おき候て、いかでかのぼる
空も候べき、同じくは、いかにもならせ給ひ候はん
時を見参らせ、をはらせ給ひて候はん日をもさだか
に知りて、我主はいづれの月いづれの日をはらせ給
ひ候と、かつうは姫御前にも申、かつうは御教やうを
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も申候はん為なりとかきくどき泣ければ、僧都こと
わりと思ひて、さらばこのわらはのあるときいかに
もならばやと思ひ給へどもかなはず、日数を送り給
へり、されども日々に隨ひて次第によわり給ひけれ
ば、さまざまの遺言どもしおき給ひ、今はかぎりと
見え給へば、念仏すすめて、都へかへらざりつる事
の口惜さなど、思召わすれざる御心おはしますべか
らず、今は極楽浄土へ参らんと思召せと申せば、僧
都のたまひけるは二人召返されしにもれし後は、思
ひ切りてこそありしかども、同じつみにてありし身
なれば、なほさりともと思ふ心もありつるに、今はい
ふにかひなしとて泣給へども、涙も落ちず声もいで
ず、かくして二三日ぞありける九月中ばの比、かの
庵の下にて終にはかなくなりにけり、むなしきかば
ねをわらはは取り収て、心の行々なきあきて、我身
も同じく後世の御供仕るべく候へども、やがて出家
して御ぼだいを弔ひ奉るべく候、かつうは姫御前に
今一度この御ありさまをも申さんと思ひければ、だ
だ一人ぞとかくいとなみて、そのもとの土をあらた
めず、松の落葉あしのかれ葉などとりおほひて、夕
の雲とたきあげて、葬禮事終りぬれば、骨をばとり
てくびにかけつつ、なくなく都へのぼりて、奈良の
姫御前にこのよし申ければ、ものをものたまはず、
父の骨を御覧じて、さめざめと泣給へる心の中、誠に
さこそ思召らめとおしはかられてあはれなり、わら
はも涙をおさへて申けるは、御文を御覧ぜられ候て
こそ、殊に御歎はまさらせ給て候しか、彼所は硯も
紙も候はで、御返事にも及ばずして思召候し御心中
さながらむなしく候し事、御遺言の次第こまこまと
語り申ければ、姫御前いよいよ涙にむせびて返事も
し給はず、出家の心ざしありとばかりのたまひて、
引かつぎてふし給へり、日も暮るる程に自ら髪をは
さみ切りて、いづくをさすともなくまよひ出給ひに
けり、後に聞えけるは、高野の山の麓にあまのとい
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ふ別所にとぢ籠りけり、心しづかに行ひて、真言の
行者となり父のぼだいを弔い給ひにけり、念仏の功
つもりつつ、一生不犯にて、終に往生のそくわいを
遂げにけり、有王丸は主の骨を首にかけ、高野の山
にのぼりつつ、奥の院にをさめ置、則ち法師になり
主のぼだいを弔ひける志のほどこそ、いよいよたぐ
ひなく覚ゆれ、かやうの人々の思ひ歎きの積りける
平家のすゑこそおそろしけれ、
旋風
同年六月十四日、おびただしく吹て、人の家多く
てんだうす、風は中御門京極の辺より起りて、未申
の方へ吹きもて行く、棟門平門などふきぬきて、四
五町十町ふきもてゆきて、なげすてなどしけるうへ
は、桁、うつばり、なげし、柱などは虚空に散在して、
かしここにぞちりける、人馬六ちく多くうちころ
されにけり、ただ舎屋の破そんするのみならず、命
を失ふもの多し、法勝寺の九重のたうも上六重は吹
落す、おたぎの十三重の塔も僅に二重ばかりぞ残り
ける、此時の風に堂舎、仏閣、禁裏、仙洞皆ことご
とく破損しぬ、そのほか資財雑具七珍万宝のちり失
せし事いかばかりぞ、此事ただ事にあらずぞ見えし、
天下に於てことなるせうじなりければ、御うらあり、
百日が内に大葬白衣の怪異天子大臣の御つつしみな
り、就中禄おもき大臣のつつしみ、別ては天下大兵
乱仏法王法共にめつし、ひやうかくさうぞくし、き
きんえきれいの相なりとぞじんぎくわんおんやうれ
うどもうらなひ申けるほどに、
重盛逝去
同年〈 治承三年 〉八月一日小松内大臣重盛公うせたまひぬ、
今年四十三にぞなりたまひける、いまだ五十にだに
もみち給はず、世はさかりと見え給ひつるに、父に
先だちてこうじ給ひぬるこそくちをしけれ、ようが
ん美麗にしてさいかくいうちやうなり、一門に並び
なく他家にたぐひすくなかりき、この大臣のうせ給
ひぬるは、平家の運のつくるのみならず、世のため
人のため愚あるべし、入道よこがみをやぶり給つる
P216
も、この大臣のなだめられつるにこそ、世はおだや
かなりつるに、行すゑいかにならんずらんと、高き
も賤しきも歎きあへり、老たるはとどまり、わかき
は先だつならひ、老少不定のさかひなれば、はじめ
て驚くべきにあらねども、時にとりては浅ましかり
しことどもなり、前右大将の
平家物語巻第六終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第七
P217
平家物語巻第七(原本無題)
治承三年十一月十四日、太政入道数万騎の軍兵を率
して、福原より上洛すと聞えしかば、京中何と聞わけ
たる事はなけれども、さわぎつぶやく、此程は小松
殿の御事を歎き給ひて、とぢ籠りておはしつるに、
又いかなる事のあらんずるやらんとて、さわぎける
程に、朝家を恨み奉るべきよし披露す、上下万人こ
はいかにとあきれまどふ、関白殿も内々聞召さるる
事やありけん、内裏の御直廬より御参内あり、入道
相国の入洛の事は、偏にもとふさをほろぼすべきよ
し結搆と承る、いかなるめをか見候はんずらんと世
に心細げに奏せさせ給へり、主上もつての外にえい
りよ驚かせおはしまして、臣いかなるめをも見られ
ば偏に丸が見るにて社あらんずれとて、御衣の袖を
ぬらさせましますぞかたじけなき、天下政務は主上
の御気色を伺ひ摂政の御はからひにてこそあるに、
たとひその儀こそなからめ、いかにしつる事ぞや、
天照太神春日大明神の神慮もはかりがたし、十五日
入道朝家を恨みたてまつるべきよし聞えければ、法
皇じやうけん法印をもて、御使として入道のもとへ
仰せつかはされけるは、およそ近年朝廷静ならずし
て人の心もととのほらず、世間も落居せぬさまにな
りゆく事さうべつにつゐて聞しめし歎かるれども、
さてそこにあればたのみ思召されてこそあるに、天
下をしづむるまでこそなるらめ、事にふれてがうが
うなるていにて、あまつさへ丸を恨むる由風聞あり、
こは何事ぞこの条甚だをんびんならず、いか様なる
仔細にてさやうには思ふなるぞと仰せられければ、
じやうけん法印院宣を承りて六はらへわたられた
り、出あはれざりければ、中門にて源大夫判官すゑ
さだをもて、院宣の趣き申入て、御返事をあひまた
れけれども、巳の刻より申の刻に至るまで無音なり
P218
ければ、さればこそとやくなくおはするに、子息左
兵衛督知盛をもて、院宣の趣畏て承候畢ぬ、但入道
度々朝家の御ために命を惜まず候へども、忽に思召
し捨てられ候ぬる上は 自今以後に於ては院方の宮
仕は思ひ止まりぬれば、御返事に及ばずとこそ御ひ
ろう候はめと申されければ、法印是を聞て世間もい
よいよおそろしく思はれけれども、直に申すべき仔
細多く候が、見参に入ず候へばまかり出候ぬとて出
られければ、さすがに入道いかが思はれけん、庭まで
出られたりけるに、法印呼かへして中門に出であひ
てひざを並べて申されけるは、入道が内々君を恨み
奉るはひが事か、まづ内府がみまかり候ぬる事は、
唯恩愛のわかれのかなしきのみにあらず、当家の運
命をはかるに入道随分涙をおさへてまかりすぎ候、
けふともあすとも知らぬ老のなみにのぞんで、かか
る歎にあひ候心中をばいかばかりとかおぼしめされ
候、されば法皇いささかも思召し知りたる御気色に
て候はず、越前の国は重盛が軍功の賞にあて給候し
所を、内府死にはて候しかば、則召返して他人にた
び候き、たとへ重盛子息一人も候はずといふとも、
入道が一期はなどか思召しあてられざるべき、まし
て維盛以下の子息そのかず候、ぐん功の賞は子々孫
々につたはるとこそ承候へ、かつうは重盛かの国を
あて給候し時も、子々孫々までとこそ承候しか、か
つうは御へんの御心にも推察候へ、保元平治以後ら
んげき打つづき、君安き御心も渡らせ給はざりしに、
入道はただ大かたをとり行ふばかりにてこそ候し
か、内府こそまさしく手をおろして身を碎きたるも
のにて候へ、されば万死に入一生を得る事も度々な
り、その外臨時の御大事朝夕の政務君の御為に忠を
いたす事、内府程の功臣はあり難くこそ候らめ、こ
こをもて、むかしを思ふに、かの唐の大宗は魏徴大
臣におくれて、かなしみのあまりに彼墳墓にりん幸
あり、むかしの殷宗は良弼を夢中に得、今の朕は賢
P219
臣を覚ての後に沒す、といふ碑文を手づから書きて、
かの廟に立て、くわん幸ありけるとは承はれ、まぢ
かくは鳥羽院の御時まさしく見られし事に候、あき
よりの民部卿の逝去したりしかば、故院も殊に御歎
あて、旧臣一人失ひたるは朝家の御歎きとて、八幡
の御幸も延引し、御遊もやめられき、たださだのさ
いしやう中将闕国の時も、是を鳥羽院御歎きありし
かば、たださだ伝へ承りて、老の涙を催しき、然れ
ば忝き御幸かなとこそ人々感じ申しか、すべて臣下
の卒する事をば、代々の君も御歎きある事にて候ぞ
かし、さればこそ親よりもしたしく子よりもなつか
しきは、君と臣との中なりとは申事にて候へ、それ
に内府が中陰の間に、八幡の御幸もありき、所々の
御遊も候き、御歎きの色一事も見えず、たとひ入道
が歎きをあはれみましまさずといふとも、などか内
府が忠を思召しわするべき、たとひ内府が死去をあ
はれみおはしまさずとも、などか入道が歎きをあは
れみ思召さざるべき、父子共に叡慮に叶はざる事今
に面目を失ふ、是一、次に入道が高位我意に任する
よし、今更院中の御さたと承候事、代々朝敵を討ち
平げて、君の御世になし奉るによて昇進仕る条、全
く事由にあらずや、朝敵を討ちて、忠賞にあづかる
事、古今例なきにあらず、田村丸は刑部卿坂の上か
り田丸が子なり、然れども聖武天皇の御宇天平年中
に、奥州のえびすあくしのたか丸が謀反の時、追討
の官兵に下されて、正二位大納言左近衛大将を直任
せられき、是則ち辺土の凶害にて、都の騒動にはあ
らざりき、然れども忠賞の先規かくのごとし、ここ
に保元以後度々朝敵を打靡かししあひだ、昇進にあ
づかる、是二、次に中納言のけつの候し時、二位中
将殿御所望候しを、入道再三申候しに、摂政殿の御
子息三位中将殿をなし参らさせ給ひし事、入道いか
ばかりか口惜く候し、たとひ入道いかなるひきよを
申行ひ候とも、などか一度は聞し召し入られざるべ
P220
き、いかに申さんや、一の人の御子息なり、ちやく
けといひ、かかいといひ、理うんさらに及ばず候し
を引違へられ候し事、偏に入道を御あたみの候ゆゑ
なり、ずゐぶんほいなき御はからひとこそ存候しか、
是三、次に近習に人々をもて、此一門をほろぼさる
べきよしの御はからひ候、これ又かれらが私の計略
にあらず、しかしながら御許容たるによてなり、い
まめかしき申事にて候へども、たとひいかなるあや
まり候とも、いかでか七代までは思召しすてらるべ
き、入道すでに七旬に及で余命幾程ならず、一期の
間にもほろぼさるべきよしの御気色にて候、いはん
や子孫相續して召仕はれん事かたし、凡そ老て子を
失ふは朽木の枝なきにてこそ候へ、内府におくるる
をもて、運命のすゑにのぞみ候事、思ひ知られ候、
又天気の趣あらはれ候なり、然ればいかやうなる奉
公をいたすとも、叡慮に応ぜん事よも候はじ、その
上はいくばくならざるに、身心を尽しても何かせん
なれば、とてもかくても候なんと思なりて候なりと、
かつうは腹をたてかつうは涙を流されける間、法印
は哀にもおそろしくも覚えてあせ水になられたり、
その時はたれたれも一言の返事にも及びがたかりけ
り、その上我身も近習の人なり、成親の卿以下のは
からひし事ども正しく見聞し事なれば、その人数と
や思けがされんなれば、唯今も召籠られん事もやあ
らんずらんと、心の中には案じつづけらるるに、龍
のひげをなで、虎の尾をふむ心地せられけれども、
法印さる人にて驚かぬ体にて答へられけるは、誠に
度々の奉公浅からず、一たん恨み申させましますむ
ね、そのことわりなきに非ず、ただし官位といひ、
俸禄といひ、御身にとりてはみな満足す、既に軍功
ばく大なるをもて思召しあてられたるとこそ見えて
候へ、然るに近臣事をはからひ君の御きよやうある
などといふ事、偏に謀臣の凶がいと覚え候、耳をし
んじて目を疑ふは、俗弊なり、少人の浮言を信じま
P221
しまさんこと、めうけんに付てその憚すくなからず、
凡そ天地は蒼々としてはかりがたく、叡慮さだめて
その政候らん、下として上を逆する事、豈人臣のれ
いたらんや、よくよく御思惟候べし、さればとて忽
に院方の御出仕思召しとどまらん事いかがあるべく
候らん、君々たらずといふとも、臣もて臣たらずん
ばあるべからず、父々たらずといふとも、子もて子
たらずんばあるべからず、君は君の振舞たらずとい
ふとも、臣は臣のふるまひまさしかれとこそ、本文
には見えて候へ、所詮このよしをこそ披露仕候はめ
とてたたれけり、居並びたる軍兵耳をすまして、あ
なおそろしの法印の御房や、是程入道殿のくどき給
はんには、ただうちうなづくばかりにてこそ立たる
べきに、しづしづと本文申てたたれぬるいみじさよ
とささやきあひければ、貞能申けるは、さればこそ
そこばくの人の中に、僧なれども択び出されてかか
る御使にはたたるらめとぞ申ける、帰参して御返事
くはしく奏せられければ、道理しごくして、法皇更
に仰やられたる方もなし、こはいかにすべきとぞ仰
せられける、
治承三年十一月十五日、入道朝家を恨み奉るべきよ
し一定と聞えければ、さしもやはと人々思はれける
に、関白〈 松殿基房 〉同御子息中納言中将師家をはじめ奉り
て、太政大臣師長、按察大納言資賢以下の公卿殿上
人北面の輩、そうじて四十二人官職をとどめられて
追ひこめらる、この中に関白殿をば太宰権帥にうつ
し奉て、筑紫へ流し奉る、関白殿はかかる浮世にな
がらへて何かせんと思召しけるに、御命も危くおぼ
しければ、淀のこなた古河と云ところにて、大原の
本上々人を召して、御ぐしをおろさせ給ひけり、御
年三十五、御世中さがりとおぼしめし、れいぎもめで
たくしろしめして、くもりなきかがみにておはしつ
るものと申て、人々惜み奉る、出家の人は本、約束の
国へは赴かぬ事にて、筑紫へはくだし奉らずして、
P222
備前国湯迫といふ所へぞおはしましける、参議皇太
后権大夫右兵衛督藤原光能卿、大蔵卿左京大夫兼
伊予守高階泰経朝臣、蔵人右少弁兼中宮権大夫藤
原泰親朝臣、以上三官をやめらる、按察使大納言源
資賢卿、中納言中将師家卿、右近衛権少将兼讃岐守
資時朝臣、太皇太后宮権少進兼備中守藤原光憲朝
臣、以上二官をやめらる、
大臣流罪の例は左大臣〈 蘇我赤兄 〉右大臣〈 豊成公 〉右大臣〈 菅原今北野天神御事也 〉
左大臣〈 高明公 〉内大臣〈 伊周公 〉に至るまでその例すでに六人
なり、されども忠仁公照宣公よりこのかた摂政関白
の流罪せられ給ふ事是ぞはじめなる、浅ましかりけ
る事也、故中殿基実公御子二位中将基通公と申は、
今近衛入道殿下の御事なり、その時太政入道の御聟
にてましましけるを、一度に内大臣関白になし奉ら
る、
円融院の御宇天禄三年十一月一日、一条摂政伊尹〈 謙徳公 〉
御年四十九にて俄にうせさせ給ひしかば、御弟の法
興院入道、殿大納言大将にてわたらせ給ひけるが、内
大臣正二位にあがりて内覧の宣旨を蒙らせおはしま
したりしをこそ、時の人々不日にて驚きたる御昇進
と申しに、是はそれにも超過せり、非参議にて二位
中将より宰相大納言を経ずして、大臣関白になり給
へる、是やはじめなるらん、されば大外記大夫史執
筆の宰相にいたるまで、皆あきれたる体なり、大方
高きも賤しきも、ぜひにまよはぬは一人もなかりけ
り、去々年の夏の頃、成親の卿父子俊寛僧都北面下
臈どもが事にあひしをこそ浅ましと君も思召し、人
も思ひしに、是は今一きはの事なり、されば是は何
事の故ぞと覚束なし、此関白にならせ給へる二位中
将殿、中納言になり給ふべきにてありけるを、関白殿
の御子三位中将師家とて八歳になり給ひけるが、そ
ばよりおしちがへてなり給へる故とぞ人申ける、さ
れどもさやはあるべき、さらば関白殿こそいかなる
とがにもあたり給はめ、四十余人まで人の事にあふ
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べしや、なにさまにもやうあるべし、天満外道入道
の身に入かはりにけるとぞ見えける、按察大納言資
賢卿の子息左少将資時、まごの右少将まさかたの朝
臣以上三人をば京中ををはるべきよし、藤大納言さ
ねくにの卿上卿として博士判官中原章貞を召して宣
下せらる、いづくを定ともなく、都の外へおはるるこ
そかなしけれ、中有の旅とぞ覚えける、くわん人参
りて追ひければ、おそろしさの余りにものをだにの
たまひおかず、子息召し具していそぎ出給ふ、北の
方より始めて、女房侍どもをめきさけぶこと夥し、
三人涙にくれて行先も見えねども、その夜の中に九
重の内を紛れ出でて、八重たつ雲の外へぞ思ひたた
れける、七条朱雀より西をさして、彼大江山いく野
の道へぞ赴き給ひける、夢路をたどる心地す、いづ
み式部が保昌にあひぐして丹後の国に下向の時、内
裏に御賀の御会あり、少式部内侍母を尋ぬるかの勅
使度々たまはりて御返事に、
大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天のはし立 W061 K279
と申てめいしよたりけん道にかかりて、丹波の国村
雲といふ所に暫くやすらひ給ひけるが、のちには信
濃の国に落ちとどまり給ひけり、ある時諏訪の下宮
に詣で給ひて歌をうたひ給へるに、神殿俄に震動し
てあつと感ぜさせ給ふ御声ありけり、資賢の卿も身
の毛よだちて、神官等も感涙をおさへて御悦必定候
べしと申けり、その後程なく内侍所の御神楽のため
に資賢めしかへされ給ひけり、神感むなしからず、
ためしもすくなくぞ覚えし、さてかの卿入洛の夜、
院の御所へ参られたりければ、いつしかうたこそ聞
たけれと仰のありけるに、
信濃にあんなるきそぢ川
君に思ひの深かりし W062 K280
といふ歌をまさしく見るなれとて、しなのにありし
木曾路川とうたひたまひければ、ことにえいかんあ
P224
りけるとかや、さて資賢卿つづみをば参詣の時大明
神に参らせられたりければ、彼社に今にあるとぞ聞
えし、この卿は今様、らうえいの上手にて、院の近
習者の当時の、さいしんにておはしければ、法皇諸
事内外なく仰合せられける間、入道殊にあたまれけ
るとかや、太政大臣は去保元々年七月父悪左府のえ
んざによて、兄弟四人流罪せられ給ひし時、中納言
中将と申て御年十九にて同八月に土佐の国へ流され
たまひたりしが、御兄の右大将兼長卿も、御弟左中
将たか長朝臣、範長禅師も帰洛をまちつけず、配所
にてうせ給ひき、此太政大臣は九年を経て長くわん
二年六月廿七日めしかへされて、同十月十三日に本
位に復して内裏へ参り給ひたりければ、君をはじめ
参らせて雲客卿相、各いかなる曲をか配所にてたん
じ給ひたるらん、一曲候はばやと君も臣もおぼしけ
る御気色ありければ、大臣賀王恩といふがくをひき
給ひけり、是はことわりなり、皇の恩をよろこぶと
いふ楽なり、次にげんじやうらくをひき給ひけるに、
君も臣も思ひの外に聞し召しけり、そかう万秋楽の
五六調にかかりてさまざまの曲もあるぞかし、なぞ
尻ふりよこたはりたるげんじやうらくをひきしこと
はと御たづねありければ、都へかへりてたのしむと
申がく也と大臣申されければ、君をはじめ参らせて
感じ申されけるとかや、永まん元年八月十七日に正
二位に叙せらる、仁安元年十一月五日前中納言より
権大納言にうつり給ふ、大納言あかざりければかず
の外にぞ加はりたまひける、大納言六人になる事是
よりはじまれり、又前中納言にうつること、後山科
の大臣三守公、宇治大納言たか国卿の例とぞ聞えし、
先例まれなりとぞ申ける、くわんげんの道を長じ才
能人にすぐれて、君も臣もおもんじ奉り給しかば、
次第の昇進滞らず程なく太政大臣にあがらせ給へり
しに、いかなるぜん世の御宿業にて、又かかる事に
あはせ給らんとぞ申ける、保元のむかしは、南海土
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佐の国へうつり、治承の今は東関尾張の国へおもむ
き給ふ、もとより罪なくして配所の月を見んといふ
事は心ある人の願ふ事なれば、大臣あへて事ともし
給はず、十一月十七日暁ふかく出たまへば、あふ坂
山につもるゆき、四方の杪もしろくして、在明の月
の光ほのかなり、あいゑんこずえゑにおとづれて、遊
子ざん月に行けんかんこくの関おぼし出されて、昔
蝉丸の嵐を凌ぎ給ひけん、わらやの跡をうち詠め、
うちでの浜につき給ふ、
天智天皇の御宇、大和の国あすかの岡本のみやより
彼所にうつらせ給ひけん、昔の皇居のあとぞかしと
思ふにも涙とどまらず、あはづの原をうち過、瀬多
のから橋うちわたる程に、あけぼのの空になり行け
ば、水うみはるかにあらはれて、かのまんせい沙弥
が比良の山に居て、漕ぎ行く舟と詠めけん跡の白波
あはれなり、野路のしゆくにもかかりぬれば、かれ
野の草における霜、日影にとけて旅衣かわくまもな
くしほれつつ、しの原東西見渡せば、はるかに遠き
岡あり、北には郷人すみかをしめ、南には池水広く
すめり、むかひのみぎはには、みどり深き十八公、白
浪の色にうつろひて、南山影をひたさねども青くし
てくわうやうたり、すざきにさわぐをしかもの、あ
してをかくかと疑はれ、都を出る旅人は、此宿にの
みとまりしが、うちすぐるのみ多くして、むらさびし
くなりにけり、是を見るにつけてもかはり行く世の
有様は、飛鳥の川の淵は瀬にもかぎらざりけりとあ
はれなり、かかみの宿にもつきぬれば、大伴黒主が、
鏡山いざたちよりて見てゆかん
としへぬる身は老やしぬると W063 K224
と詠めけんもかの山の事なり、やどとりたくは思へ
ども、その夜は無作寺にとどまりぬ、あばらなると
この冬の嵐、夜ふくるままに身に入て、都には引か
はりたる心地なり、枕に近きかりがねの声、暁の空
におとづれて、かの遺愛寺の草の庵の、寐ざめもか
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くやと思ひしられけり、蒲生野を過行ば、おいその
もりの杉村に横雲幽にかかる雪、あさ立袖に拂ひか
ね、音に聞ゆるさめが井の、くらき岩ねに出る水、九
夏三伏の夏の日も、班〓〓が團雪の扇、かんふうにか
ふる名所なれば、玄冬そせつの冬の空、月にともな
ふせつせんのほとりなる、無熱の池を見る心地して、
関山にかかりぬれば、谷川雪のそこに音むすび、せ
いらん松の木ずゑに時雨つつ、日影も見えぬ木の下
の道、心細くも打すぐる、不破のせき屋の板びさし、
年ふりにけりとうちながめ、株瀬川へぞつきたまふ、
霜月廿日の事なれども、夜ふけ人静まれば、皆白妙の
はなの空、清き河瀬にうつろひ、照る月波もすみわ
たり、二千里が外の故人の心、思ひやられて旅の道、
いとどあはれに思しめす、尾張の国井戸田につきた
まふ、かの唐の太子ひんかく白楽天、元和十五年秋
のころ九江郡の司馬にさせんせられ給ひ、じんやう
江のほとりに踟〓とやすらひ、びはを聞給ひけんふ
るきよしみを思しめし出されて、なるみがたしほぢ
はるかに遠見して、常は浪月をのぞみ、浦吹風にう
そぶき、びはをたんじ、詩を詠じ、なほざりにあか
しくらし給ひけり、ある夜当国第三の宮熱田の明神
へ参詣あり、森の木の間よりもりくる月はさし入て、
あけの玉垣色を添へ、和光利物の庭に引くしめなは
風に乱れ、何事につけても神さびたるけいきなり、
此社と申はすさのをのみことなり、はじめはいづも
の国に宮造りありけり、やくもたつといふやまとこ
とのはも、是よりぞはじまりける、その後景行天皇
御宇に、このみぎりにあとをたれ給へり、此宮の本
体は、くさなぎと號し奉る神劔なり、景行天皇の第
二の皇子日本武の尊、東夷を平げて帰り給ふ時、尊
は白鳥になりて飛びさり給ひぬ、つるぎはあつ田に
とどまり給ひぬともいへり、さても一条院の御時、大
江の匡衡当国の守にて国務の時、大般若をとげける
ぐわんもんに、我願すでにまんじぬ任限又きはまり
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ぬ、故郷に帰らんとする期いくばくならずと書きた
りしこそ、哀に覚えてうらやましくは覚されけれ、
大臣大明神法楽のために宵のほどは笛をあそばし、
更闌人静まれば、風香調の中に花ふんふくの匂をふ
くむ、流泉の曲の間には、月清明の光をますといふ
朗詠をせさせたまひて、びはの三曲をととのへたま
ふ、大げんは〓々としてむら雨のごとし、少げんは
せつせつとしてさざめごとに似たり、されば妙音大
師は四徳のかたちをあらはして、左の御手のいんさ
うにふかき故ありと申はいまの三曲是也、かるが故
に明神も是に幸臨し仏陀も是を納受せり、もとより
むちの俗なればなさけをしれるもの希なり、邑老村
女漁人野叟、頭をたれ耳をそば立つといへども 更に
せいぢよくをわかちりつりよを知ることなし、され
ども瓠巴琴をたんじしかば、魚鱗をどり迸り、虞公
歌を発せしかば、れうぢんうごきさわぐ、物の妙をき
はむる自然のかんを催すことわりにて、まん座涙を
さそふ、その声〓々せつせつとしてまたしやうしやう
たり、大絃小げんのきんけいの操、大珠小珠の玉盤
におつるに相似たり、調弾数曲を尽し夜漏深更に及
て、願以今生世俗文字業狂言綺語過、飜為当来世々
讃仏乗因転法輪縁、
といふ朗詠を兩三返せさせ給ひければ、神明かん応
にたへず宝殿震動す、衆人身の毛よだちて奇異の思
ひをなす、大臣は平家のかかる悪行を致さずば、今
このずゐさうをはいせましやはと、かつうはかんじ、
かつうは悦給ひけり、十二三ばかりのかんなぎの御
ほう前にて、地の上三尺ばかり空に立て託宣にいは
く、君配所におもむき給はずば我今いかで此秘曲を
聞べき、然れば帰京のそくわいうたがひなし、じや
うじゆしてほん位に復したまふべき事ただいまなり
と申てあがらせ給ひけり、衆人身のけよだちて感涙
をぞ流しける、抑此秘曲と申は、仁明天皇御宇承和
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二年に掃部頭定敏勅宣を承て、遣唐使として牒状を
もて、観察府奉しに、上覧に達して、琵琶のはかせ
をのぞみ申しに、海清二年の秋の比、れんせうぶを
送られて秘曲をさづけられて後、我朝に伝へしは、
流泉啄木陽真操の三曲なり、或時此大臣御とぜんの
余りに、宮地山に入らせ給ふ、比は神無月廿日あまり
の事なれば、木ずゑまばらにして落葉道をうづみ、
白霧山をへだてて鳥の一声かすかなり、山又山をか
さぬれば里遠し、賤が居所もほど隔りぬ、松山峨々
として白石に瀧の水みなぎり、落る所もあり、則ち
石上流泉のたよりを得たる勝地なり、苔石面に生て、
上雲の曲を調へつべし、いつもの御事なれば、しと
うの甲の御琵琶一めん、御ずゐじんあり、石の上な
がら皮をうちしき、北に向ひて御琵琶を御膝の上に
かきすへ、ばちをとりつつ、絃をうちならし、四絃
弾の中にはきうしやう弾をむねとし、五絃弾の中に
は玉商弾をさきとせり、風香調の中は花ふんふくの
気をふくみ、流泉の曲の間には月せいめいの光を添
ふ、かろくおさへゆるく捻て撹ては又撹返す、はじ
めは霓裳をなす、後にはりくえうす、大げんは〓々
としてむら雨のごとし、小絃はせつせつとしてさざ
めごとに似たり、第一第二の絃は索々たり、春の鶯
くわんくわんとして花のもとになめらかなり、第三第
四の絃は颯々たり、寒泉幽咽して氷の下なやまし、
大珠小珠の玉盤に落つる声金桂の操、鳳凰鴛鴦の和
鳴、音をそへずといへども、事のてい山神感をたれ
給ふらんと覚えたり、さびしき木ずゑなれども、そ
う花喙木はそらに玲瓏のひびきを送る、曲おはりば
ちををさめ給ふに、水の底より青黒色の鬼神出現し
てひざ拍子うち給ひ、びはにつゐていつくしげなる
声にて、しやうかせり、何者のしわざなるらんと思
召しながらおはしますに、鬼神申さく、我は是水の
底にいまして多くの年月をふるといへども、いまだ
かかるめでたき御事をうけ給はらず、此御悦にはい
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ま七日のうちに御帰洛のあらんずる候と申もはてね
ば、かきけつやうにうせにけり、水神の所行とはい
ちじるし、是等の事を思召しつつくるに、あくえん
はすなはち善えんにてありけりと思召知られけり、
その後第五日と申に、御帰洛あるべきよしの奉書下
されて、則ち上洛ありけり、くわんげんの音曲を極
め、近代までも妙音院の太政大臣と申し人の御事な
り、妙音ぼさつのげんじ給へるとぞ申ける、村上の
聖主天暦のすゑのころ、神無月の半、月すさまじく風
の音しづかに、夜ふけ人静まりて、清涼殿にましまし
て水牛の角のばちにてげんじやうらくの破を調させ
給ひつつ、御心をすまさせ給けるに、雲、南殿に引お
ほひて、影の如くして仙人飛び来てひさしの間にや
すむ、みかど是を御覧じて誰人ぞととはせましませ
ば、我は是れ大唐の琵琶のはかせれんせうぶと申者
なり、天人の果報を得て虚空を飛行する身にて候、
ただ今是をまかりすぎ候が御琵琶の音をうけ給るに
つきて参りたり、いかにとなれば、去承和のころ、定
敏にさづけしに秘曲を一のこせり、君玄上を弾じ給
ふがめでたければ、おほそれながら君に授け奉らん
と申せば、聖主ことに感じ給ひて御琵琶をさしおき
給へば、れんせうぶ是を給て妙にことなる秘曲をぞ
尽しける、上玄石上是なり、帝是を伝へ給ひしかば
仙人飛去りぬ、みかど雲ゐはるかにえいらんありて、
感涙を流させ給ひけり、物の妙を極むる自然の感を
催すことわり是也、されば山神も影向し給ひけるに
にそ、高転と申人の母重き病ひを身に請けて存命不
定なりしかば、稲荷のやしろに七ヶ日参籠して母の
病を祈り申しに、夜深更に及びて、この曲を弾ぜし
時、御前のとうろの火消えんとしけるを、ほうでんよ
り童子一人出現して、法燈をぞかかげ給ひける、神
慮の御納受たのもしく覚えて下向の後、母の病たち
どころに平癒す、かかるめでたき秘曲なれば、神明
の恵みもことわりなり、此大臣を平家殊に悪み申さ
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れける事は、大唐より難字を作りて公家へ送りたり
けり、是を読む人なかりけるに、此殿よまれたりけ
り、これは平家の為にあしかりける故なり、文字三
あり、一には国のつくり、是をば王なき国と読まれた
り、一には国のつくりの中に分といふ字を三書きた
り、是は国みだれてかまびすしとよまれたり、一に
は身体の身文字を二つならべて書きたり、是をばし
たためにやらんずとよまれたり、有否兩度の文を此
殿見給ひて、唇をあけて笑ひて皆読まれたりけれど
も、うけ給ける人々はこまかに覚えず、是は平家の
悪行異国まで聞えて、国王をはぢしめ奉る文なるべ
しとぞのちには人申ける、左衛門佐なりふさは伊豆
の国へ流さる、備中守光憲はもとどりきりてんけり、
江大夫判官遠業は、流罪せらるべき四十二人の中に
入たりと聞いて、今はいかにものがるべからずと思
ひて、誠にや流人前兵衛佐頼朝こそ平治の逆乱に、
父下野守誅せられてのち切りのこされて、伊豆の国
蛭の島に流されておはすなれ、かの人は頼母しきひ
となり、うち頼みて下りたらば、もしこの難やのが
るる事もやとて、かはら坂の家を打いで、父子二人い
なり山に籠りたりけるが、よくよく思へば、兵衛佐た
うじは世にある人にてもなし、左右なく受とる事も
ありがたし、又あふ坂不破の関こえ過ん事もおだし
かるべしとも覚えず、その上平家の家人国々に充満
したり、路頭にしていひがひなくからめとられて、
生ながら恥をさらさん事、心うかるべしとて、思ひ
返してかはら坂の宿所へ帰りて、家々に火をさして
父子手をとりくむで、ほのほの中へ走入て焼しにに
けり、時に取てはゆゆしかりけることどもなり、此
外の人々も迯迷ひあわて騒ぎあへり、浅ましともい
ふ計りなし、去々年七月讃岐院御追號、宇治左府贈
官の事ありしかども、怨霊も猶しづまり給はぬやら
ん、此世のありさま偏にてんまの所行とぞ見えし、
およそ是にてもかぎるまじ、入道腹をすへかね給へ
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り、のこりの人々おぢをののきける程に、そのころ
左少弁行隆とておはしける人は、故中山中納言顕
時卿の長男にておはせしが、二条院御代に近く召仕
はれて、弁になりたまへり、はいにんの時も右少弁
長方をこえなどして左にくははり給へり、正五位上
し給ふ時も、顕要の人八人をこえてゆゆしかりしが、
二条院におくれ参らせて時をうしなへりしかば、仁
安元年四月六日、官をやめられて籠居し給ひしより、
長くせんどを失て、十五年の春秋を送りつつ、夏冬
の更衣にもおよばず、朝夕の食事も心にかなはずし
て、かなしみてあかしくらし給ひけるほどに、十六
日のさ夜ふくるほどに、太政入道よりとて使者来て
立よりたまへ、急ぎ申合すべき事ありといへり、何
事やらんとて行隆さわぎ給へり、人々多くことにあ
はるめり、我もいかなるべきにか、此十四年の間は
何事にもあひまじはらねばとはおぼしけれども、さ
るにつけてもむほんなどに與力するよし、人の讒言
したるむねばしのあるやらんと思はぬ事もなく、む
なさわぎしておぼしけり、いそぎ参るべきとのたま
ひたりけれども、牛車もなし、装束もなし、おもひ
煩ひて、弟の前左衛門佐ときみつと申ける人おはし
けり、かかる事こそあれといひ送られたりければ、
牛車ざつ色の装束などいそぎ奉り給へりければおは
しけり、北の方公達などはいかなる事にやとてきも
心をまどはし給へり、西八条へをののくをののくおはし
たれば、入道げんざんし給ひてのたまひけるは、故
中納言殿と親しくましまししうへ、殊にたのみ奉て
大小事申合せ候き、その御名残にてましませば、おろ
そかに思ひ奉る事なし、御籠居年久くなりにき、そ
の事なげき思給へども、法皇の御はからひなれば力
及ばざりつるに、今は御出仕あるべく候、さも思召
し候はば、御くわんとの事不日に口入申すべしとあ
りければ、行隆のたまひけるは、此十四五年は迷者
になりはて候て、出仕のありさま見苦しげにこそ候
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はんずれども、ともかくもいかでか仰をば背き申す
べき、今の仰偏に春日大明神の御はからひと仰ぎ奉
候とて、涙を流して出られぬ、ともなる者ども別の
事なしと思ひて急ぎ帰り、弟の左衛門佐の許へ人を
つかはして、只今帰りて候とつげられたりければ、
やがておはしたり、行隆、入道の宣ひつるやうを語
られければ、北の方よりはじめて、皆泣笑して悦あ
へり、後の朝に源大夫判官すゑさだが、小八葉の車
に入道のうしかけて牛飼装束あひぐして、百疋百兩
百貫百石を送られたりけるに、家中の上下手足の置
所をしらず、余りの事にて夢かとぞ思ひける、さて
十七日左少弁親宗追ひ籠られしそのかはりに、行隆
左少弁になりかへりて、十八日五位蔵人に補せられ
き、今年五十一になり給ふ、いささかわかやぎ給ふ
もあはれなり、
廿日院御所七条殿に軍兵雲霞の如く四面に打圍みた
り、二三万騎もあるらんと見ゆ、こは何事ぞと御所
中に候あひたる公卿殿上人、上下の北面の輩、つぼ
ねの女房までもさこそ浅ましくおぼしけめ、心中た
だおしはかるべし、むかし悪右衛門督が三条殿をし
たりけん様に、火を懸て人を皆焼き殺さんとすると
いふ者もありければ、局の女房うへわらはなどはお
めきさけびて、かちはだしにて物をだにかつがずし
て、恐れふためきまとひてさわぎあへる事いふばか
りなし、日ごろの世の有さまにあひて、今日の軍兵
の圍みざま、さにこそとはおぼし知られけれども、
さすがに忽に是ほどの事あるべしとも思し知られず
やありけん、法皇もあきれさせおはしますていなり
けるに、右大将宗盛参られたり、こは何事ぞ、いかに
なるべきにてあるぞ、遼遠なる島へはなたれんとす
るか、さ程に罪深かるべしとこそ覚えね、主上さて
おはしませば、政に口入するばかりにてこそあれ、
その事さるまじくば、是より後は天下の事いろはで
こそあらめ、我さてあれば思はなたじとたのみてこ
P233
そあるに、いかにかく心うきめを見するぞと仰せら
れければ、大将申されけるは、さしもの御事はいか
が候べき、世をもしづめ候はんほど暫く鳥羽殿へわ
たらし参らせ候べき由を入道申候つと申せば、とも
かくもと仰せられければ御車をよす、大将やがて御
車寄に候、右衛門佐と申女房出家の後は、あまぜとめ
さるあま女房一人ぞ御車の尻に参りける、御物の具
には御経のはこ一合ばかりぞ御車には入られける、
法皇は、さらば宗盛も参れかしと仰せありけれども、
入道気色に恐れて参らず、夫につけても法皇は、内
府には殊の外に劣りたりけるものかなとぞ思召され
けるもことわりなる、丸は一年かかるめを見べかり
しを、内府が命にかはりていひとどめざりしによて
こそ、いままであんをんなりつれ、内府うせぬる間、
今は諌る人なしとて、その所を得てはばかる所もな
くかやうにするにこそ、行末こそ更にたのもしから
ねとぞ思し召されける、公卿殿上人の一人も供奉す
るもなし、北面下臈二三人と御力者金行法師ばかり
ぞ、君はいづくへ渡らせ給ひぬるやらんと思ひける、
心うさのあまりに御車の尻に、下臈なればかい紛れ
てぞ参りける、その外の人々は七条殿より皆ちりぢ
りにうせにけり、御車の前後左右には、二三万騎の
軍兵うち圍みて、七条を西へ朱雀を下りに渡らせ給
へば、京中の貴賤上下、賤のをしづのめまでも、院の
流されさせ給ふとののしりて見奉らんとて、たけき
武士までも涙を流さぬはなかりけり、鳥羽の北殿へ
入らせ給ふ、肥前守泰綱と申ける平家の侍、守護し
奉る、法皇の御住居おしはかり参らすべし、然るべ
き人も候はず、この右衛門佐と申あま女房ばかりぞ
ゆるされて参りける、ただ夢の御心地して長日の御
修法毎日の御勤め、御心ならずたいてんせさせおは
しましまさず、供御参りたりけれども、御覧じも入
ず、先立ものは御涙ばかりなり、門の内外に武士充
満したり、国々よりかり上られたりしえびすなれば、
P234
見なれたるものはなし、つらたましげなるかほけし
き、うとましげなることがらなり、大膳大夫業忠
は十六歳の年、兵庫助と申けるが、いかにとしてま
ぎれ参りたりけるやらん、候けるを召して、今夜我
をば一定うしなはれぬと覚ゆるをいかがせんずる、
御行水を召さばやと思召すはかなはじとやと仰あり
ければ、業忠さらぬだにけさよりはきもたましひそ
の身に隨はず、おんはくばかりにてありけるが、此
仰を承りければ、いとどきえ入やうに覚えて、もの
も覚えずかなしかりけれども、余りのかたじけなさ
にじやう衣の上に玉だすきかけて、水汲み入て、小柴
垣をこぼち、大ゆかの束柱をわりなどして、とかく
して御湯し出して参らせたりければ、御行水召され
て御経とり出させ給ひて、御おこなひぞありける、
さいごの御つとめと思召されけるこそかなしけれ、
されども別の御事なくその夜は明にけり、去七日の
大地震はかかる不思議のあるべかりけるぜんへうに
て、十六洛叉の底までもこたへて、堅牢地神もおど
ろきさわぎ給ひけるとぞ覚えし、陰陽頭泰親朝臣は
せ参て、なくなく奏聞しけるもことわりなり、かの
康親の朝臣は、晴明五代の跡をうけて天文のえんげ
んをきはめ、上代にもたぐひすくなく、当世にもな
らびなし、すゐ条たな心をさすが如く、一事もたが
はず、さすの御子とぞ申ける、去安元の夏のころ、泰
親院の御所法住寺殿へ参りけるに、七条河原より夕
立して雷おろおろなりけるが、柳原かはら坂の辺に
ては、殊の外に夥しくなて、いなびかり隙なくして、
泰親が車のあたり近く落ちぬべかりければ、車をや
りとどめて、ざつしき牛飼をば車の下にいれて、天
やくのいんをむすび、五気親をじゆつして少しもさ
わがず、雷ことにたかくなりて、あやまたず、車の
右一丈ばかりのきてぞ落ちたりける、見れば何とは
知らずかがやきて目もあざやかなり、誠にや雷はあ
しざまに落ちぬれば、えあがらざんなる物をと思ひ
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て、急ぎ車より飛おりて、笏を捧げたれば、是に取
りつきてぞ上りける、但し雷火に上の衣の袖ばかり
はやけにけれども、その身はつつがもなかりけり、院
の御所へ参りてしかじかと奏しければ、法皇聞しめ
して泰親はただものに非ずとぞ仰せられける、じや
うけん法印は今度は御つかひの儀にはなくて、思ひ
切たるけしきにて、太政入道の方に行むかひて申さ
れけるは、法皇の鳥羽殿に渡らせおはしまし候なる、
人一人もつき参らせ候はぬよし承り候が、余りにか
なしく存候、しかるべくはじやうけん一人許されを
蒙りて、参り候はばやとなくなく申されければ、入
道、法印はうるはしき人の、心正直に事あやまつまじ
き人にておはしければ、ゆるされにけり、法印手を
合せて悦で急ぎ鳥羽殿へ参られたりければ、法皇は
うちあげうちあげ御経たつとくあそばす御声もことにす
ごく聞えさせおはします、御前には一人も候はざり
けり、法印参られたりけるを御覧じて、うれしげに
思召して、あれはいかにと仰られはてぬに、御経に
御涙をはらはらと落ちかからせおはしますをきうた
いの御袖を御顔におしあて、わたらせましますを、
法印見参らせて余りにかなしく覚えければ、何と申
やるかたなくて、御前にうつぶしに伏て、声もをし
まずなきたまへり、女房右衛門佐も思入てふししづ
みたりけるが、法印の参られたりけるを見て、起き
上りてのたまひけるは、昨日のあした七条殿にて供
御参りたりし外は、夜べもけさも御湯漬をだにも御
覧じ入られず、ながき終夜御しんもならず、御歎き
のみくるしげに渡らせましませば、ながらへさせた
まはん事もいかがと覚ゆる事こそ悲しけれとて、は
らはらとなきければ、法印涙をおしのごひて申され
けるは、いかに供御は参らぬにや、此事更に歎き思
召すべからず、平家世をわがままにして既に廿余年
になり候ぬ、何事も限りある事なれば、栄華極まつ
て宿運つきなむとする上、天魔のかの入道が身に入
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かはりて、かやうに悪行を企つといへども、君あや
まちたまふ事なし、かくて渡らせたまふとも、伊勢
太神宮正八幡宮以下君のとりわけたのみ参らせさせ
たまふ、日吉山王七社一乗しゆごの御ちかひたがふ
事なくして、かの法花八軸に立かかりてこそ君を守
り参らせさせましますらめ、私あらじと思召めさば、
天下は君の御世に帰り、あくとは水のあわと消えう
せん事ただ今の事なり、とくとく供御参候へとてす
すめ参らせられければ、御湯漬少し御覧じ入られに
けり、かかりければあまぜも少しちからづきて思は
れけるうへ、君もいささかなぐさむ心おはしけり、
法印その日より出られず、やがてしこうして、朝夕
にかやうの事どもとぞ申なぐさめ参らせられける、
此右衛門佐と申女房は、若くより法皇の御母儀、待賢
門院の御妹の上西門院に候はれけるが、器量いみじ
き人にてはなかりけれども、さかさかしきうへ、然
るに一生ふばんの女房にておはしければ、清きもの
なりとて、法皇御幼稚の時より近くめしつかはせた
まひけり、臣下も君の御気色によりてあま御前とか
しづきてよばれけるを、法皇の御かたことにあまぜ
と仰ありけるとかや、
主上高倉の院は臣下の多く滅びうせ、関白殿事に合
せ給ふだにも、なのめならず歎き思召されて後は、
何事も聞召入ぬさまなり、日を経つつ思ししづみて
供御もはかばかしく参らず、御しんも打とけてもな
らず、常は御心地なやましとて、夜のおとどにのみ
ぞ入らせましませば、后宮をはじめ参らせて、近く
候はせ給ふ女房達も、いかなるべき御事ぞやと心ぐ
るしくぞ見参らせ給ひける、
廿日法皇鳥羽殿に打こめられさせ給ひし日より、内
裏には俄にりんじの神楽はじめられて、毎夜に清涼
殿の石灰の壇の上にて太神宮をぞ拝し参らせましま
しける、法皇の御事を祈り申させましましけるにこ
そ、同じ御親子の御なからひと申ながら、是ほど御
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志の深さこそやんごとなかりけれ、それ行に百行あ
り、百行の中にて孝行をもてさきとす、明王は孝をも
て天下ををさむともいへり、されば唐尭は老おとろ
へたる母をたつとび、虞しゆんはかたくななる父を
敬ふといへり、漢の高祖帝位につき給ひて後、父大
公をうやまひ給ひしかば、天に二の日なし地に二の
主なしとていよいよおそれ給ひしに、太上天皇の位
を父にさづけたまひき、かの賢皇聖主の先規をおは
せましましけん、天子の御まつり事こそ目出たけれ、
二条院も賢王にて渡らせ給ひしかども、御位につか
せ給ひて後は、天子に父母なしと常には仰られて、
法皇の御諌も用ひ参らせ給はざりしかば、ほいなき
御事に思召たりし故にや、世をしろし召事もほどな
かりき、されば、継体の君にてわたらせ給はず、ま
さしく御ゆづりを受させおはしましたりける御子の
六条院も、御位ありてわづかに三ヶ年、宝算五歳に
て御位退かせ給ひて、太上天皇の尊號ありしかども、
いまだ御元服もなくて、御年十三にて、安元二年七
月廿七日に失せさせ給ひにき、よき事ならざりし事
也、内裏には鳥羽殿へ忍て御ふみあり、世もかくな
り君もさやうにて渡らせ給はんうへは、かくて雲井
に跡をとどめて何にかはすべき、かの寛平のむかし
の跡を尋ね、花山のふるきよしみをとぶらひて、家
をも出で世をものがれて、山林るらうの行者ともな
り候はんと申させおはしましたりければ、鳥羽殿よ
りの御返事は、我身は君のさてわたらせおはします
をこそひとつの憑にては候へ、さやうに思召し立な
ん後は、何のたのみか候べき、ともかくも愚老がなり
はてん様を聞召し果んと社思召され候はめ、ゆめゆ
めあるべからざる御事なり、いたくしんきんをなや
まし給はん事、返て心苦しかるべし、さな思召され候
ひぞなどと、細々と慰め申させおはしましければ、
主上此御返事を龍顔にあてさせおはしまして、御涙
にむせばせおはしますぞかたじけなき、ことわりや
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内典外典のおきてにも、孝養のともがらをほめ給ふ、
天神地神も孝やうのかうべをなで給ふ、あはれなる
父子の御なからひなり、およそ君は舟なり臣は水な
り、水、浪をしづむれば舟よくうかぶ、水、浪をたたふ
れば、舟又くつがへす、臣よく君をたもつ、臣又君
をくつがへす、保元平治兩度のげきらんには入道相
国君をたもち奉るといへども、安元治承の今は君を
くつがへし奉る、貞観政要の文にたがはざりけるも
のをや、
廿六日明雲大僧正天台座主に還補したまふ、七宮御
しだいありけるとかや、入道はか様にしちらして、
中宮内裏に渡らせ給ふ、関白殿我御聟なり、かたがた
心やすかるべしとや思はれけん、天下御政一筋に内
裏の御計ひたるべしと申すてて福原へ帰り下られけ
り、宗もり卿参内して此よしを奏せられけれども、
主上は院の御譲りを給へえたる代ならばこそ政をも
しらめ、院は心うきありさまにて鳥羽殿に渡らせ給
ふに、何のいさましさに世の政をも知るべき、ただと
くとく執柄に申合せて、宗盛はからふべしと仰られ
て、あへて聞召入られず、あけてもくれても法皇の御
事をのみぞ、御心苦しくいたましく思召されける、
法皇は城なんのりきうにしてことしもすでに暮にけ
り、鳥羽殿には月日もかさなるにつけても、御なげ
きはおこたらず、をりをりの御遊、所々の御賀表めで
たく、いまやう合の興ありし事も思召し忘れず、相
国もゆるし参らせず、法皇も恐れさせ給へば、参り
よる人もなし、秋の山のあらしの音のみいつくしく、
故宮の月の影のみぞさやけき、しづがいたすうぶね
のともしは、御目の前をすぎ、りんうに擣衣のつち
のおと、行客の車馬は御みみにこたへて、眠りを覚
し奉る、庭には雪ふりつもれども、あとふみつくる
人もなし、池には氷のみとぢかさねて、むれ居し鳥
も見えず、大寺のかねの声はゐあい寺の聞をおどろ
かす、四方の山の雪の色かうろ峯ののぞみを催す、
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あかつきの氷をきしる車の音は、遥に門の前に横た
はり、夜の霜にさむけききぬたのおと、幽に御枕に
かよふなり、浜田を過る行人、征馬のいそがはしげな
るさもうき世を渡るありさま思召ししられてあはれ
なり、宮門を守るはんいの、夜ひるけいごをつとむ
るも、前世にいかなる契にていま縁をむすぶらんと
思召し続くるもあはれ也、さるままにはくわいきう
の御涙おさへがたくて年も暮ぬ、治承四年正月にも
なりぬ、元三のあひだ年去り年来ども、鳥羽殿へは
事とひ参る人もなし、とぢこめられ給ひけるぞかな
しき、とう中納言なりのり卿、左京大夫修範兄弟二
人ぞゆるされて参られける、ふるく物など仰せあは
せられし大宮太相国三条内大臣、はむろの大納言、
中山中納言などと申し人々もうせられにき、いまは
古き人とては宰相なりより、民部卿ちかのり、左大
弁宰相としつねばかりこそおはせしも、此世のなり
ゆくありさまを見るに、とてもかくてもありなん、
朝廷につかへて身をたすけ、三公九卿にのぼりても、
何にかはせん、たまたまよわうをのがれ給ひし人も、
高野の雲に交はり大原の別所に居をとめ、或はだい
ごの霞にかくれ、仁和寺の閑居にとぢ籠りて、一向
後生ぼだいのいとなみより外二心なくおこなひすま
してぞおはしける、むかし商山の四皓、竹林の七賢
是皆はくらんせいてつにして、世をのがれたるにあ
らずや、中にもなりより卿は、この事どもを伝へ聞
て、あはれ心とくも世をのがれにけるものかなと、
かくて聞も同じ事なれども、世に立ち交はりて、見
聞ましかば、いかばかり心うからまし、保元平治の
乱をこそ浅ましと思ひしに、世のすゑになれば、い
やましましにのみなり行めり、此後又いかなる事か
あらんずらん、雲をわけてものぼり土をほりても入
りぬべくこそ、覚ゆれとぞのたまひける、世のすゑ
なれどもゆゆしかりける人々なり、
廿日はとう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花
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やかなる事ども世間にはののしりけれども、法皇は
耳のよそに聞召すぞあはれなる、
二月十九日春宮御ゆづりを受けさせ給ひて、御即位
あり、是を安徳天皇と申、今年三歳にこそならせお
はしませ、いつしかなりと人おもへり、先帝も異な
る御恙もおはしまさぬに、おしおろし奉る、是太政
入道の万事思ふさまなるがいたす所なり、或人あは
れいつしかなる譲位かな、二歳三歳の例はいとよく
もなきものを、老子経に云、飄風は朝をへず、霓雨
は月を終ずといへり、飄風とは疾風也、霓雨とはあ
らしの雨也、いふ心は、疾するものはながき事能は
ず、頓にする者は久しからずといへり、此君とく位
につかせ給ひて、とく位を退き給はんずらんとささ
やきければ、平大納言のもとへ或人の又行向ひて、
かさねて京都にふるくさかさかしき仁の、この御位
をはやしと譏り申候はといひければ、時忠卿申され
けるは、今度譲位なりしかばいつしかなりと人かた
ぶけ申べき、異国には周成王三歳、晋穆帝二歳、吾
朝には近衛院三歳、六条院二歳、各きやうほうの中
に包まれて、衣帯をただしくせざしかども、或は摂
政おひて位につけ、或は母后抱きて朝にのぞむとも
いへり、後漢のかうやう皇帝は、生れて百余日の中
にせんそありき、和漢かくの如くなり、人かたむけ
申すべきやうやはあるとていかられければ、その時
有職の人々はあなおそろしものいはじ、さればそれ
がよき例かとぞつぶやきける、春宮御ゆづりをうけ
させおはしましてのち、外祖父外祖母とて、入道夫
婦ともに准三后のせんじを蒙りて、年官年爵を賜て、
上日のものを召仕はれければ、ゑかき花つけたる侍
出入して、偏に院宮のごとくにぞありける、出家入
道の後も、えいやうはつきせざりけりとぞ見えける、
出家の人の准三后のせんじを蒙る事は、法興院大入
道殿の御例なり、それも一の人の御例准じがたくや
とぞ人申ける、か様にはなやかにめでたき事はあり
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けれども、世間はおだしからず、
廿九日申の時ばかりに、京中に大きなるつじ風吹き
て、一条大宮よりはじめて東へ十二町とみの小路よ
りはじめて、南へ六町、中御門東へ一町、京極を下
りに十二町、四条を西へ八町、西の洞院わたりにて
とどまりぬ、又その間の門々家々についがきつつみ
を吹ぬき、たふれ吹きちらすありさま、木の葉のご
とし、馬人牛車などを吹あげておちつく所にてうち
そんじ死ぬるもの多し、むかしも今もためしなきほ
どのもののけとぞ申あへりける、
三月十七日新院安芸の一宮厳島の社へ御幸なるべき
にありけるが、東大寺興福寺園城寺の大衆等、京へ
うち入べきよし聞えて、京中さわぎければ、御幸俄
に思召とどまらせ給ひけり、帝皇は位を去らせ給ひ
て後、諸社の御幸のはじめには先八幡賀茂春日平野
などへ御幸ありてこそいづれの社へも御幸なれ、い
かにして島国にわたらせ給ふ神へ御幸はなるやらん
と人あやしみければ、白河院位を去せ給ひて後、熊
野へ御幸也、法皇は日吉へ御幸なりき、先例かくの
ごとし、すでに知ぬえい慮にありといふことを、そ
のうへ御心中に深く御ぐわんあり、又夢想の告あり
などとぞ仰事ありける、この厳島の社は、入道相国
しきりにあがめ奉る、かの社に内侍とてありける御
子までもてなし愛せられけり、かかりければ、上は
御同心のよしにて、下には神明御はからひにて、入
道のむほんの心もやはらぎやすると思召して、御祈
祷の為に八幡賀茂よりも先に、彼社へは参らせ給ふ
ともいへり、是は法皇のいつとなく押こめられさせ
給ひて渡らせ給ふ事を歎き思召しける余りにや、さ
る程に南都三井寺の大衆もしづまりければ、厳しま
へ御幸とげさせおはしますとぞ聞えし、
十八日かねて思召しまうけたる御幸なれども、御言
葉にも出させ給はざりけるが、そのよひになりて、
前大将宗盛をめして、明日びんぎにてもあり、鳥
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羽殿へ参りて対面申さばやと思召すはいかに、相国
に知らせずしては悪かりなんやと仰せられあへず、
御涙の浮びければ、大将もあはれに覚えて、何かは苦
しく候べきと申されければ、世にうれしげに思召し
て、さらば鳥羽殿にその気色を申せと仰ありければ、
大将急ぎ申されたり、法皇なのめならず御悦思召し
て、余りに思召す事なれば、夢に見ゆるやらんとま
で、仰のありけるぞかたじけなき、
十九日太政入道の西八条の宿所よりいまだ暁出させ
給ふ時は、三月十日余りの比なれば、露に曇る有明
の月の光もおぼろにて、雲路をさして帰雁の遠ざか
り行声々も、折から殊にあはれなり、御供の公卿に
は、五条大納言国つな、前右大将宗盛、土御門宰相中
将通親、四条三位たかすゑ、殿上人には右中将たか
ふさ、右中弁かね光、宮内少輔むねのりとぞ聞えし、
春の影既にくれなんとし、夏の木立になり、残のは
なの色おとろへて、宿の鶯の声老たり、こぐらくさ
びしきけしきなれば、門をさし入せ給より、御涙ぞ
すすみける、去正月四日朝覲のために、七条殿へ行
幸なりし事など思召し出て、世の中はただ皆夢なり
けり、諸衛陣をひき、諸卿れつにたち、がくやに乱
声を奏し、院司の公卿さんかうして幔門をひらき、
掃部寮莚道をしき、ただしかりしぎしき一事もなし、
なりのり中納言参りて気色申されければ、法皇は又
寝殿の階隠の間まで御幸あて、心もとなく待ち参ら
せおはします、はるかに御らんじ出せば、上皇いつ
しか入らせ給ひにけり、法皇も上皇も、御目を御ら
んじあはせて、物をも仰せなくて、ただ御涙にのみ
むせばせ給ふ、すこしさしのきて、あま女房一人候
けるも、両所の御有さまを見奉てうつぶして涙を流
す、やや久しくあて、法皇御涙をおしのごはせ給て、
召し立つにやと申させたまへば、上皇は深く思もや
すむね候とばかり申させおはしまして、又はじめの
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如く御涙の浮ばせ給ひければ、さればこそ我身の御
事を祈り申させ給はんとてよと御心得あておはしま
しけるに、いとどかなしく思召して、法皇も上皇も
又御涙にむせばせおはします、御衣の袖もしぼるば
かりにぞ見えさせおはしましける、昔今の事どもた
がひに申かよはさせおはしましけるほどに、日をか
さね夜をかさぬとも尽すべからず、よろづ御名残惜
く思召されて、とみにもえたたせ給はず、上皇は今
日の御対面を悦び申させおはします、上皇はことし
いまだはたちにたたせおはしまさず、御もの思ひに
月日をかさねて、少し御おもやせてわたらせ給ふに
つけても、御冠ぎはよりはじめてけだかくあいあい
しく、此世の人とも見えさせ給はず、いと清げなる
御びんぐきほがらかに、御じやう衣の御袖さへあさ
露にしほれにけるも、いとどらうたく故女院に似参
らせ給ひたれば、むかしの御面影覚し召し出られて
あはれにそ思召されける、今一度見まいらせずして
いかなる事もやと心うく候つるにとて、上皇たたせ
給へば、法皇は御名残尽せずおぼされけれども、日
影たかくなれば、え今しばらくとも申させ給はず、
何となきやうにもてなさせおはしましけれども、御
涙にかはかせおはしまさず、御袖いたくしほれけれ
ば、しるくぞ見えさせ給ひける、人々も皆袖をぞう
るほしにける、上皇は法皇のりきうの故亭にて幽閑
せきばくの御住居を御心くるしく見置参らせおはし
ませば、法皇は又上皇の旅泊の御行宮、船中浪の上
の御ありさまをぞいたましく思ひやり参らせおはし
ます、互の御心中いづれもいづれもあはれにかたじけな
し、誠に宗廟八幡賀茂などをさしおき奉て都をはな
れ、八重のしほぢを凌ぎて、はるばると安芸の国ま
で思召し立けん御志の深さをば、神明も定めて御納
受あるらん、御願成就疑ひなしとぞ覚えし、法皇は
御うしろのかくれさせ給ふ迄、のぞきて御覧じ参ら
せ給ふ、成範修範二人門まで参りて御こしの左右に
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候はれければ、上皇ひそかに仰のありけるは、人こ
そ多くあれ、かやうにちかづき給ふこそ本意なれ、
御いのりはよくよく申べしと仰ごとありければ、各
畏まてじやう衣をしぼりてとどまりにけり、南門に
御舟をまうけたりければ、ほどなくうつらせ給ひに
けり、供奉の上達部大様は船津より帰られぬ、安芸
の国まで参られける人々は、各じやう衣にて参りま
うけられたり、前の右大将のずゐひやうじんじやう
に出立て、数百騎に及べり、きらきらしくぞ見えけ
る、
十七日、御つきあり、御願書を神殿にこめさせおは
します、七日御参籠ありて、澄憲僧都を召具せられ
たりければ、御けつぐわんの日一座の説法あり、そ
の後神主佐伯景弘座主尊仁国司在経蒙勧賞御悦の
時、かさねてくわんしやうあるべきよし、直に仰下
さる、御子十人召されて、色々のろくにあづかる、
日数事終りて還幸なる、
四月七日福原につかせ給ふ、太政入道待まうけ参ら
せらる、儀式一期の大栄、今じやうの思出と見えた
り、平家一門公卿殿上人くびすをつぎ、蔵人青待御
船のつなをひく、新院くがへあがらせ給へば、入道
御手をひき参らせ給ふ、時忠卿御衣のすそをとて
新都の地形を御覧ありけり、さてこそ島の御所へは
入御なりけれ、くわいらい苫屋形に袖をつらねて拍
子を扣、遊君は船の中にかさをならべて皷をうつ、
琴曲を集めて御前をかがやかす、紅葉をかさねて、
れんぐわいをかざる競馬あり、隨身鳴絃伶人あり、
平家の侍さるがくあり、うしろ戸にてすまうあり、
貢御あり、夜に入て管弦あり、連歌会あり、丹波守
清国両道のきりやうたるによて、立所にて有賞に預
る、五位上下す、色々のろくを給、さまざまの忠を
いたす、惣じてきだいの見物ぶさうのてうもんなり、
然れば諸天も是にあまくだり、龍神も此浦にうかせ
給ふらんと覚えたり、あくれば九日けふばかりとし
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きりに相国とどめ申されけれども、御かんもなかり
けるやらん、おして還幸なる、平家一門西宮の沖ま
で送り参らせらる、相国は福原へ帰られぬ、上皇は
京へ入らせおはします、御迎の人々には鳥羽の草津
へ参らる、右宰相中将さねもり卿一人その外雲各四
五人ぞ参られける、今日新主はじめて大裏へ還幸あ
りければ、人々大略それへ参られけるによて也、い
つくしま供奉の人々は、舟津にとどまりてさがりて
京へいられけり、
廿二日新帝御即位あり、御即位は大極殿にて行はる
る事なれども、去々年焼にしかば、後三条院の御即
位治暦四年の例に任せて、太政官庁にて行はるべき
にてありけるを、官庁は凡そ人にとらば公文所てい
の所なり、大ごく殿なからんには、紫しんでんにて
こそ行はるべけれと左大臣申させ給ひけり、その故
ありとて、紫宸殿にてぞ御即位ありける、
康保四年十一月一日冷泉院の御即位紫宸殿にてあり
ける事、御邪気の故大極殿へ御幸叶はざりし故也、
その例いかがあるべからん、ただまちかくは、後三
条院の嘉例について、官の庁にてあるべかりけるも
のをと、人々申させおはしましけれども、左大臣の
御はからひ時に取て左右なき事也ければ、子細に及
ばず、中宮弘徽でんより仁寿殿へうつされおはしま
して、高御くらへ参らせ給ひける御有さま、いはん
かたなく目出たかりけり、されども内々はさまざま
のさとしどもありけるとかや、平家の人々は、宗も
り卿行幸の供奉せらる、また小松大臣の公達は重盛
うせ給ひしよりは、維盛、資盛、有盛なども、皆い
ろにて籠居し給へり、ほいなかりし事なり、左兵衛
督知盛、蔵人頭重ひら朝臣出仕せられたりける、後
朝に蔵人左衛門権佐定長、昨日の御即位事に相違な
くめでたかりし由、こまごまと四五枚に書つけて二
位殿へ参らせらる、相国二位殿ゑみをふくみて悦あ
られけり、
P246
一院第二の御子もちひとの王と申は、御母はかがの
大納言すゑなり卿の御娘とかや、三条高倉の御所に
ましましければ、高倉の宮とぞ申ける、去永万元年
十二月十六日、御とし十五と申しに、太皇太后宮の
近衛河原の御所にて御元服ありしが、今年は三十に
ならせ給ひぬれども、いまだ親王のせん旨をだにも
かうむらせ給はず、ちんりんしてぞ渡らせ給ひける、
御手跡もいつくしく遊ばし、和かんの才に長じ給へ
りしかば、位にもつかせおはしましたらば、末代の
賢王とも申つべしなど人々申されけれども、此女院
には継子にて、うちこめられて、花のもとの春の遊
には、宸筆をおろして手づから御製をかき、月の前
の秋の夕には、玉笛を吹てみづから雅音をあやつり
まことに心細く幽なる御ありさま也、
卯月九日ひそかに夜うち更るほどに、源三位入道頼
政忍て彼宮の御所に参りて、勧め申ける事こそ恐し
けれ、君は天照太神四十九世の御苗裔、太上法皇第
二の皇子なり、太子にも立せ給ひ、帝位にもつかせ
給ふべき御身の、親王のせんじをだにもゆるされお
はしまさずして、すでに三十にならせおはしましぬ
る事、心うしとはおぼし召されずや、平家世をとて
廿余年になりぬ、何事もかぎりある事なれば、悪行
とし久くなりて栄華たちまちに尽なんとす、君この
時いかなる御はからひもなくては、いつを期しさせ
おはしますべきぞ、とくとくおぼし召し立て、源氏に
おほせて、平家を追討せらるべし、慎しみすごさせ
給ふとも、終にあんをんにて果てさせおはしまさん
事もありがたし、君さやうにもおぼし召し立ば、入
道も七十に余り候へども、子ども一両人候へば、な
どか御供仕候はざるべき、世のありさまを見候に、
うへこそしたがひたる様に候へども、内々は平家を
そねまぬものやは候、就中ほうげん平治以後ほろび
うせたりとは申候へども、その外の源氏どもこそさ
すが多く候へとて申つづく、京都には、
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出羽判官光信子、伊賀守光基、出羽蔵人光重、源判
官光長、出羽冠者光義、熊野には為義が子、十郎義
盛とて、平治の乱よりくま野の御宮にかくれて候、
津の国には、
多田蔵人行綱、多田次郎知実、同三郎高頼、大和国
には、宇野七郎親治子、宇野太郎有治、同次郎清治、
同三郎義治、同四郎業治、近江国には、山本、柏木、
錦古利八島一党、美濃尾張には、山田次郎重弘、河
辺太郎重直、同三郎重房、和泉太郎重光、浦野太郎
重遠、葦敷次郎重頼、同太郎重助、同三郎重隆、木
田三郎重長、関田判官代重国、八島先生斉時、同三
郎時清、甲斐国には逸見冠者義清、同太郎清光、武
田太郎信義、加賀見次郎遠光、一条次郎忠頼、板垣
次郎兼光、武田兵衛有義、同五郎信光、小笠原次郎
長清、信濃国には、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、
同四郎義信、帯刀先生義賢子、木曾冠者義仲、伊豆
国には兵衛佐頼朝、為義子〈 義朝養子 〉、志田三郎先生義憲、
佐竹冠者昌義、同太郎忠義、同次郎義宗、同四郎高
義、同五郎義孝、陸奥には、義朝末子九郎冠者義経、
また頼政法師が一党にも、仲綱、兼綱以下少々候ら
ん、是等は皆六孫王の苗裔多田新発意満仲が後いん
也、また佐々木が一党も源氏と申、此等は皆大衆を
もふせぎ、凶徒をもしりぞけ、朝賞にもあづかりし
ゆく望をとげし事、源平両家はたがひに勝負なかり
しかども、当時は雲泥のまじはりをへだてて、主従
の礼よりもなほことなり、わづかにかひなき命ばか
りは生くれども、国々の民百姓となりて、所々にか
くれ居たり、国にはもく代にしたがひ、庄にはあづ
かり所につかはれ、公事ざうじにかり立られて、よ
るひる安き心なし、いかばかり心うく候らん、君思
召し立て、令旨をだに下されば、夜を日に継ぎてう
ち上て、平家を亡さん事、時日をめぐらすべからず、
平家をほろぼして法皇の打籠られておはします御心
も、休め奉りたまひたらば、かつうは御至孝にてこ
P248
そ渡らせたまひ候はめ、なかんづく今年尋、治承四
年庚子者、相当如陽子平相国被追討之時代、何
当此時而令黙止哉、爰浄海当時之謀叛者、超先
代事、稍過千万億矣、昔将門者出都城外而企
濫悪、今浄海者於洛陽之内発謀叛、所謂捕納
言宰相、搦関白大臣、而配流、或追籠当今聖主、
奪位譲子孫責出新本天皇入楼、留理政哉、此
謀叛絶古今、先代未聞之処也、仍云院宣、云勅
宣、令宣下事、皆以漏宣也、是則下何君勅定、
何院之宣旨哉、抑自平治元年以降、平家持世廿
一年、是故一昔帝氏而相当源氏世之持乎、而今案
事情捧平氏赤色持世、是火性也、今既果報之薪
尽而無可令放光之処、又平氏以平治元年号而
持世之事、治承之比、上下之字具水以黒色水可
滅赤色火、昔平治、今治承以三水之字作年号、
只本末以水火事、古今不(レ)可有疑者也、兼又今年
支干金与水也、故色者白与黒也、爰尋其先跡者、
八幡太郎義家捧白色則金性也、刑部卿忠盛、捧黒
色黒色則水性也、金与水和合生長之持相也、浄海生
年六十三歳支干共土也、死冬季、水者冬旺、当冬
季而可破滅時也、然者被討平氏之事、更不(レ)可
有其疑者也、就中八幡大菩薩百王守護八十一代
也、全其誓不(レ)可誤給、此時不被報会稽之恥者、
又何時乎、当冬季而水性也、利令滅火有徳、事
不(レ)可被延今明、日本国中之挙向源氏可令入
洛也、是又機感相応之時也、早打入王宮静天下
可奉改国土、凡如風聞者、飽与財産相語山
門南都僧徒云々、是則御発起遅々故也などと細々と
申たりければ、此事いかが有べからんと返々思召さ
れけれども、少納言伊長と申ける人は、右大臣とし
家の息阿古丸大納言むねみちの孫、肥後の前司すゑ
みちの子也、めでたき相人にておはしければ、時の
人相少納言とぞ申ける、その人の此宮をば位につき
給ふべきさうまします、天下の事思召しはなさせ給
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ふまじと申しかば、是も然るべき事にてこそ、頼政
入道もかく申すすむらめと、かつうは天照太神の御
使にてやあるらんと思召ければ、既に令旨を国々へ
つかはされて、思召し立せ給ひにけり、その令旨云、
下東山東海北陸三道諸国軍兵等所可被追
討早清盛法師并従類叛逆輩事
右前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣、奉最勝親王
勅〓、清盛法師并宗盛等、威勢職而起凶徒、亡国
家、令悩乱百官万民掠領五畿七道閇籠皇院
流罪臣公、視命沈身、込楼潔資則領勅奪官
職、赴配過、即冠超昇、巫女宮室不留尤多或不
守高僧威徳、禁獄修学之僧徒、或給下叡岳之絹
米、相具於謀叛粮米、失百皇懇切一人之験、帝皇
違逆、仏法破滅、無古代者也、于時天地悉悲
之、臣民皆愁之、仍一院第二皇子呼天武皇帝
旧、俄追討王位催凡下之輩、任上宮太子古、
打亡諸仏法破滅之党類、唯非憑人之稱位
仰天地臣理也、帝皇如有三宝神冥也、何况
無四岳合力哉、則源家之人藤氏之人、兼三道諸
国之旨[B 堪勇士者同令与力(東鑑)]〓莫任被聞食与力追討清盛、可行配流
追禁之罪主者若於有勝功者、先諸国之使庄兼
御即位之後、必依宣行之、
治承四年五月九日 伊豆守正五位下源朝臣
とぞ書かれたりける、此令旨を兵衛佐給はりて、国
国へ令旨の趣、書き下給状云、
被最勝親王之勅命〓、召具東山東海北陸道湛
武勇之輩、守令旨可致用意、今明行幸於洛
陽者、近江国源氏令執行国務、廻北陸道、之
而令参向勢多之辺、相待御上洛可被供奉洛
陽也、依親王之御気色、執達以宣、
治承四年七月日 前兵衛佐源朝臣
と書きてぞ国々へ下されけり、これによて、勇士等
皆兵衛佐の下知に従ひければ、そむくもの一人もな
かりけり、抑源三位入道がかかるあしき事を宮にす
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すめ申奉る事は、嫡子伊豆守仲綱恨みふかき事あり
けり、仲綱としごろ家人東国にありけるが、ぬかの
そだちのかげなる馬のふとくたくましきに、くきや
うのいちもつなりけるを、伊豆守に送りたりけり、
武士のたからには、馬にすぎたるたからはいかでか
あるべきに、ある殿上人の仲つなが下にこそ、東国
よりくきやうの馬出で来て候なれと申たり、大将さ
る人にて、伊豆守のもとへいひつかはされたりける
は、誠にや面白き御馬をまうけておはしまし候なる、
給て見候はばやといはれければ、伊豆守しばしは物
もいはず、良久しくありて、心得ざる事のたまふ人
かな、いまだあかぬ馬なりとてさる馬まき、遠国よ
りのぼせて候間、つめをかいて見ぐるしく候しかば、
いたはり候はんとて此ほどゐなかへ下して候と返事
したりけるに、つゐしやうする人あて申けるは、そ
の馬はただ今それに候つるものを、ゆあらひし候つ
るなどと申ければ、大将やがておし返して、一定い
ままでそれに候なるものを、是に給らんには候はず、
聞ゆる御馬にて候へば、ちと見候はんずるばかりな
り、後には返しまいらせべしと、一日に三度までつ
かひをつかはさるれども、仲綱とかくいひまぎらか
して、つかはさざりければ、次日五度までせめたり、
三位入道此事を聞給ひて、馬鵜や鷹ていのものをば、
人のこひかけたらんに、いかでかをしむべき、まし
て当世あの人々のことばをかけんをば、たとひ白か
ねこがねをまろめたる馬なりとも、をしみおきては
家の中にて乗んずるか、つかひの又こぬ先に急ぎそ
の馬つかはすべしとのたまひければ、仲つな力及ば
ず、父の命をそむくべきにあらねば、をしとは思は
れけれども、馬を大将のもとへ遣はしけり、大将馬
をとりながら返しもしたまはず、もとよりよき馬な
れば仲綱といふ名を附て、とねり数多つけて内うま
やにたてて、秘蔵して伺はれけるほどに、人々大将
のもとへおはしたりけるに、ある人伊豆守が秘蔵の
P251
木の下丸是に参りて候よしうけ給り候、はやばしり
のきよく、しんたいの逸物にて候ものを、あはれ見候
ばやと申されければ、その馬此ほど是へつかはして
候、其仲綱めにくつわはめて引出してうちはて、庭
のりして見せ参らせよとのたまひければ、木の下丸
を引出して、侍庭のりをしけるに、大将此馬をおそ
くえさせたりけるをねたしとや思はれけん、その仲
綱丸つよくうちはてのれと、思ふさまにのたまひけ
る事、やがて其日伊豆守伝へ聞て、父の入道の方に
行て、仲綱こそ此馬故に現に皇城の笑ひぐさになり
て候へとて、なくなくいひければ、平家は桓武天皇
末葉時代久しくなり下て候、当家は清和天皇の御末
まちかき事にて候、源平両家いづれか甲乙の候べき、
されどもくわはうのまさりおとり力をよばず、大将
がこと葉の憎く候しかば、木の下丸をばおしみ遂候
はばやと存じ候しを、ただつかはすべしと仰の候し
かば、御命ありがたく候てつかはして候へば、返事
をだにも候はず、あまつさへ昨日自門他門の人々多
く集まりて酒宴の候けるに、その座しきにて仲綱め
に轡はめて、引出してうちはて庭のりして人々に見
せ奉れと、度々大将申候ける事返々口惜しく候、すで
にちく生にたとへられ候なれば、今生のいこん何事
か是に過ぎ候べき、此うへは又再び人におもてを合
すべき身にて候はねば、宗もりが方へまかり向ひて
いかにもなるべく候、そのぎかなふまじくば、いと
ま給て山林にとぢこもりて、世をすつるより外、他
事候まじと、涙をかきあへず申ければ、入道も是を
聞て、親の身なればさこそ思ひ給ひけめ、是よりし
ていかにも平家をほろぼさんと思ふ心つきにけり、
さて思ひの余に、此あしき事をば宮にも申すすめ奉
りたりけるとぞ、のちには聞えし、此大将は小松大
臣には心ぎはよりはじめて少しも似たまはず、事の
外にふるまひことがらおとりたまへり、是につけて
も小松殿の御事をしのび申さぬ人はなかりけり、あ
P252
る時内府内裏へ参られたりけるに、夜陰に清涼殿に
て帥のすけ殿を呼びいだし参らせて、御物がたりあ
りけるに、いつよりいできたるともなく、五尺ばか
りなる口なはひとつ出来けるが、内府のかたにはひ
かかりたりける、内府是を見たまひけれども、驚き
たまはずふり捨たまはば、此女房おそれさわぎ給な
んずとおもひたまひて、御身をうごかしたまはで、
つくづくとものがたりせられけるほどに、くちはは
は内府のさしぬきのももだちにはひ入て、又左のも
もだちへかしらをさし出す時、左の手にて袖ごしに
頭を押へて、右の手にて尾をおさへて、その後人や
候と召しけれども、参る人もなかりければ、かさね
て六位や候と召されけるに、その時伊豆守にて候け
るが、仲つな候とて参りたりければ、内府ももだち
を引きあけて、是は見らるるかとのたまへば、さん
候と申てさし寄りて右の手にて頭をにぎり、彼くち
なはを表衣のふところの中に入て左の手にて尾をに
ぎり、女房に見えずして南殿へ出て御つぼのめしつ
ぎをめして、これとてすつべしとて、ふところより
差出したりければ、めしつぎ色を失ひ逃げ失せにけ
り、その後仲綱が郎等に渡辺党はぶくの次郎といふ
者を召して給たりければ、はぶくくちなはをとて罷
いづるとて、右の手にてくちなはの中をにぎりたり
ければ、五からみ六からみからまれて、差上げて門
より外にもて出で捨ててけり、そのあしたに内府自
筆に状を書きて、仲綱がもとへつかはされける、よべ
の御ふるまひげんじやうらくとこそ見奉て候しか、
是へ申てこそ参らすべく候へども駑馬一疋秋霜一佩
まいらせ候とて、黒き馬のふとくたくましきに、白
ふくりんの鞍をいてあつふさのしりがひかけて、長
ふくりんの銀剱錦の袋に入てもりつぐを使にておく
られたり、伊豆守はこはいかにと覚えて、則ち返事
を申さる、六位の者なればりうていきんげんかしこ
まてくだし預り候畢、誠に夜部の仰を承り候し時は、
P253
げんじやうらくの心地こそ仕て候しかなどとある由
の体にて申されたりけり、小松殿はかくこそ、御な
さけもふかく御心も優におはしまししか、此大将は
むげになさけなくひあいなる人かな、人のをしむ馬
をこひとりて、ぬしの名を馬につけてたちまちにむ
ほんを思企てさせけるこそ浅ましけれ、
一院は成親父子のごとく、をん国はるかなる島にも
はなちうつさんとするかと思召しけるほどに、城南
りきうにして春すぎ、夏たけぬれば、すでに二年に
もなりにけり、いかなるべきやらんと御心細く思召
されて、読誦の御経もいよいよしんかんにめいじて
ぞ思召されける、大将もさすが鳥羽殿へ御幸なりし
時も涙を流しけるが、つねに案内を申されけり、此
人のおとづれを頼み思召して渡らせたまひける程
に、常に御心ながく思召され候へ、事のつゐでごとに
御方人をば仕り候なり、さすが入道の心をば終には
宗盛こそ申くつろげ候はんずれなどど申されけれ
ば、法皇も嬉しく思召され人々もたのもしく思へり
ける程に、五月十二日午の刻ばかりに、俄に赤く大き
なるいたちいづくより来参りたりとも覚ぬに、御前
を二三返走り廻りてきらめいて法皇にむかひ奉て、
をどり上りをどり上り御衣の御袖にくひつきなどしてうせ
にけり、法皇大にあやしみさわぎ思召す、きんじゆ
鳥類のけをなす事多しといへども、此けだものはこ
とに様あるもの也、入道の憤りなほふかくして死罪
に行はんずるやらんと思召さるるにつけても、南無
普賢大士十羅刹たすけさせ給へと、御きねんありけ
るぞかなしき、そのころ源蔵人仲かねと申者ありけ
り、後には近江守とぞ申ける、法皇鳥羽殿に渡らせ
給へどもたやすく参りよる事もなかりければ、余り
にかなしく覚えて、忍びつつ参りけるを、法皇御覧
じて、仲かねにただ今しかじかの事あり、此占かた
をもて泰親が宿所へはせ向ひよくよく占ふべしとい
ふべしと御定ありければ、仲かねうけ給もあへず御
P254
占形を給てやすちかが宿所へ馳向ひて門をたたきけ
れば、いづくよりと答ふ、鳥羽殿よりと申ければ、
泰親俄におり向ひてかしこまて、御占かたを給りて、
重代相伝の秘書ども披見して、よくよく占ひて、今
三日の中に大きなる御悦候べしと勘へ申ければ、そ
の勘文をもて鳥羽殿へ帰参てこのよしを奏し申けれ
ば、法皇ただ今何事の悦かあるべきなどと思召しけ
るほどに、大将しきりに法皇の御事を歎き申されけ
れば、入道漸く悪行の心直りて、同十四日鳥羽殿よ
り八条烏丸の御所へ渡し奉る、是偏に新院の厳島御
幸の故とぞ見えし、例の軍兵御車の左右にうちかこ
み奉る、泰親今三日の内に御悦あるべしと占ひ申た
りける、少しもたがはず、大将いつしか参て、御悦
を申ぬ、申入るべき事どもつもりて、心もとなく思
されけれども、相国におそれて思ひながらまいられ
ざりけるほどに、口惜かりける事は、いかなるもの
かもらしたりけん、その日高倉の宮謀叛の御企あり
と聞えければ、入道大にいかりて、ぜひなくとり奉
て土佐のはたへ流し奉るべしとぞ聞えし、職事蔵人
左少弁行たかそのよし披露す、上卿三条大納言さね
ふさ卿宣奉勅、別当時忠卿仰を承て、官人源太夫判官
かね綱、出羽判官光長、博士判官かねなり等を召し
てもちひとの王を土佐のはたへ配流し奉るべきよし
仰す、此宮の御謀叛のとくあらはれける事は、熊野
の本宮より聞えたりけるとぞ披露しける、その故は
那智と新宮とは、十郎蔵人義盛を源氏の大将とす、
本宮は平家方にて合戦しけるほどに、本宮まけにけ
り、その憤りを大江法橋、高坊法橋、正寺主、権寺
主等夜を日につぎて馳上て、太政入道にうつたへ申
けるは、宮の令旨を給て、かれらたちまちに謀叛を
企て候よし申たりけるとかや、かねつなやがて父三
位入道のもとへ夢見せたりければ、則ち宮へ告申た
りけり、三位入道のすすむる事ども、平家つやつや
知給はで子息大夫判官をしもつけられけるも不思議
P255
也、宮はすこしも思召しよらで、五月雨のはれまの
月うち御覧じて御心すましわたらせたまひけるに、
入道のもとより、御文ありとて、使者さわぎたるけ
しきにて、馳来りしと申ければ、何事やらんとて急
ぎ文を御らんぜられければ、世をみださせ給ふべき
御企ありとて取参らせんとて、ただ今けんびゐしど
も参り候なるぞ、かね綱もその中にて候也、ひとま
となりとも、急ぎ立忍ばせたまへ、入道も急ぎまゐ
るべく候、京都はいづくも悪く候なんずれば、いか
にもして三井寺までだにも、事なく渡らせたまひな
ば、さりともと申たり、宮是を御覧ずるに、浅まし
ともおろかなり、佐大夫宗信といふ人の候けるを召
してかかる事こそあれ、こはいかがせんずると仰ら
れければ、振ひわななくばかりにて、申やりたる方
もなかりけり、長兵衛尉長谷部信連といふ侍あり、
さかさかしきものにてぞありける、此宮の御年ごろ
の青侍にも非ず、妻は日吉の神子にてありけるが、
宮の青女房に思ひつきて常に参りかよひけるが、後
には宮の見参に入て、時々参りて御とのゐなど仕り
けるが、折節その夜候けるを召して仰合せられけれ
ば、やすく候、女房の御すがたにて出御候べしとて、
御もとどりをみだし参らせて、うすぎぬをうちかつ
がせ参らせ、いちめがさをめさせ参られて、まぎれ
出させ給ひにけり、御所中の人々一人も知参らせず、
くろ丸といふ御中間、佐大夫宗信といふ殿上人、侍に
は信連ばかり御供には参りけり、宗信はけしかるひ
たたれ小ばかまにからかさ一本打かつぎて、くろ丸
にはふくろ一もたせてありければ、青侍体のものの
女むかへて行とぞ見えたりける、五月雨のころなれ
ども、雲はれて月くまなかりけるに、溝のひろかり
けるをしやくとこえさせたまひたりければ、あひ参
らせたりける人の女房かとおもへば、はしたなくも
こえたるものかなとおもひたるげにて、たちとどま
りて、あやしげに見おくりまいらせたりけるにぞ、
P256
佐大夫いとどひざふるひて、つやつやあゆまれざり
ける、
景行天皇第二皇子日本武尊は、伊勢国川上郡にたけ
るといふものありけるをも、乙女の姿をかりてこそ
賊主の河上にたちたりけるをば、討たまひたりけれ、
とりあへざりし事なれば、御所中をとりしたためら
るるに及ばず、きいの御ほう物ども皆打捨させおは
します、御づしに置れたりける御ほんこどもなから
んあとまでもいかがと思召さるる、御琵琶以下御遊
のぐそくいづれもいづれも御心にかからずしもはなけれ
ども、その中にさえたといふ聞えし寒竹の御笛、誠
に御秘蔵ありけるをば、いかならん世までも、御身
をはなたじとこそかねて思召けるに、あまりの御心
まどひにただ今しも常の御所の御枕に残しとどめら
れけるこそ、ひしと御心にかけて立帰らせたまひて
もとらまほしきほどに思召して、のびもやらせおは
しまさず、信連を召して仰ありけるは、かやうの有
さまにては何事も心にかかるべきならねども、小枝
しもわすれぬる事の口をしさよ、いかがすべきと仰
ありければ、信つらさるをのこにて、いとやすきこ
とにこそ候なれ、とりて参り候べしとて走りかへり
にけり、御所中の見ぐるしきものどもとりしたため
て、此御笛を取て二条高くらにて追つき参らせたり
ければ、御涙を流して悦ばせおはします、信連申ける
は、日ごろはいづくのうらまでも御供仕るべきよし
をこそ存候つれとも、こんどは御所中にまかりとど
まり候はんとぞんじ候、そのゆゑは、官人ただ今御所
へむかひ候はんずるに、もの一言葉申もの候はざら
んこそ、むげにくちをしき次第にて候へ、信つらは
なかりけるか、逃にけるこそなど、平家のかへり聞
候はんもゐこんに覚え候、弓矢をとるならひ、かり
にも名こそをしき事にて候へといとまを申ければ、
宮は誠に申旨もさることなれども、汝にはなれては、
いたくたよりなかるべし、野山のすゑまでも見おく
P257
らん事こそ、本意なるべけれと仰ありけれども、信
つらしゐて御いとまを申ければちから及ばず、我身
とても、いづくまでかと思へば、後世にこそと仰せ
られもあへず、御涙のこぼるるを見参らせけるに、
信連もきえ入やうに覚えけれども、かく心よわくて
はかなふまじきものをと思ひ切りて、涙をおしのご
ひてはせ帰りにけり、
平家物語巻第七終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第八
P258
平家物語巻第八
高倉宮御所には、検非違使いまだ向はざりけり、信
連はうすあをのかりぎぬのしわまへよられたるに、
衛府の太刀をはきて、つるぶくろうしろへおしまは
して、ゑぼしぼんのくぼに推入て、狩衣の小袂より
手を出して、中門の中にたたずみたり、宮は今十余
町ものびさせ給ひぬと覚しきほどに、けんびゐし三
人、その勢三百余騎にておし寄せたり、源大夫判官
は、存ずる者ありと見えて、はるかに門外に扣へた
り、博士判官、出羽の判官、乗ながら門の内へう
ち入て申けるは、君世をみださせ給ふべきよし聞え
候によて、仔細をうけ給らん為に、別当宣を承てく
わん人光長かねなり参りて候と高らかに申ければ、
信連出合ひて当時は是は御所にて候はず、忍たる御
所にて候ぞ、参りて奏聞仕るべく候と申ければ、は
かせの判官、こはいかに、此御所ならでいづくにわ
たらせたまふべきぞ、下部どもはなきか、御所をお
しまきてもとめまいらせよと下知しければ、信連、
ものも覚えぬ田舎けんびゐしどもの言ばかな、我君
今こそかたきと思ふとも、乗ながら門の内へ入たる
も奇怪なるに、下部どももとめ参らせよとは、いかに
当時是は御所にてはなきぞといはばいはせよかし、
口のあきたるままに申ものかな、かねても聞置きた
るらん宮の侍の中に、右兵衛尉長谷部の信連といふ
ものなり、いまだ知らぬかとて、かり衣のおび引き
りてなげて、はかまのそば高くはさむ、草ずりのす
そ見えたり、衛府の太刀をぬきてとんでかかるまま
に、事もあたらしく使庁の下べら是をからめんとて
よる所を、さんざんに切りはらひ、七八人は切りふ
せたり、やがて光長が前へうちてかかる、光長が下
部にかねたけと申けるくきやうのはういつのありけ
るが、大はらまきに左右の小手さいて打刀をぬき合
P259
せて、中にへだてたりければ、それをば打捨てて、
御所へ乱れ入んとしたりける官兵五十余人が中へは
しり入て、さんざんに切りまはりければ、木の葉の
風に吹れてちるやうに庭へさつとぞちりにける、信
つら御所の案内は知たり、今は限りと思ひければ、
あそこにおいつめて丁ときり、ここに追ひ詰め、は
たと切る、信つら、もとよりさるものにてゑふの太
刀なれども、身をば少し心得て作らせたれども、あ
まりに打れてゆがみければ、ひざにあてておしなほ
しおしなほしして、また廿余人切り伏せたり、手負は数を
しらず、うちとるかたき三十余人とぞ聞えし、信連
あまりに戦ひつかれて柱に立添ひてあるを、かねな
りが郎等近藤四郎行なりといふ者、長刀をもちてね
らひよりて、長刀のえをかけず、すんと切りてけれ
ば、長刀の柄を捨てて、逃るを追ひざまにうしろを
たてざまに切られてうつぶしにふしにけり、光長が
下部に七郎康清とて、たけ七尺ばかりなる男の大力
のものの十余人が力持たりと聞えし、猿眼の赤髭な
るが、もえ黄糸をどしの腹巻鎧に、白柄の長刀持ち
たりけるが、一人当千の思ひをなして主の馬のくつ
ばみにつきたりけるが、甲をばきず、大わらはに成て
長刀をひらめて、信連が方へとんでかかりければ、
信連さしりたりとて、十文字に向ひ、康清すそをさ
つとなぐ、信つら太刀をさげて丁と合す、二の太刀
をうたせず、むずとくんで、此男を左の脇にかいは
さみて、右の手にて太刀を打振りて、出羽判官は是
をば見候はぬかや、我君の随分頼たるなる、聞ゆる猿
眼の赤髭男めをこそつかみそんじつれ、たすけたく
ばたすけよといひけれども、光長あへておともせず
さりければ、しばししめて命をたつべけれども、己
ほどの奴原つみつくりにとて、強くすてたりければ、
死入て庭にうつぶしにふしにけり、信つらにさきさ
まに追立られて、逃ちりたりける下部ども、まかげ
をさして見けるが、さる眼の赤髭のさうにはよらざ
P260
りけりといひあひければ、誠にかなしげなる顔をも
ちあげて申けるは、まさる犬まなこにあひぬれば、
かなはぬぞかしと申けるぞおかしかりける、信つら
はものの疵いた手なりければ、かなはじとや思ひけ
ん、小門より走り出で、東をさして高倉をのぼりに
名乗りけるは、長兵衛尉信連大事の手おひたり、留め
んと思はんものはとどめよやとののしりて、しづし
づと行けるを、かねなりが下部にたけみつといふ者
ねらひよりて、長刀をくきみじかに取て、さつとな
ぎけるを、信連長刀の柄にのらんとしけるほどに、
いかがしたりけんのりはづして、生けどられにけり、
則信連をからめて六波羅へゐて参る、前右大将宗盛
卿大に怒て信連を庭上に引すゑてのたまひけるは、
まづ汝がせんじの御使に向ひて、種々の悪口放言に
及びたるだにきつくわいなるに、あまつさへそこば
くの下部せつがいにんじやうの条はいかに、せんず
る処きうもんを加へて、宮の御在所并事の仔細を委
しく召問ひて白状記録の後は、河原に引き出してか
うべをはねよとのたまひければ、信連少しもさわが
ずあざ笑ひて申けるは、日本国をかたきにうけてお
はします君の御内に候ほどの者の、せんじの御使を
悪口し、使庁の下べを刃傷事もおろかに候へ、たと
ひ何万騎の軍兵なりとも、一人してうちとらばやと
こそ存つれども、折節の太刀をとりあへず候て、思
ふほども切りえず候て、あんをんにて、多く返し候
ぬるこそ、返す返すゐこんにて候へ、所詮とりかへ
なき命を君に参らせて、一人御所に残とどまり候ぬ
る上は、たとひ君の御在所知り参らせて候とも申候
まじ、その上何方へか渡らせたまひ候ぬらん知り参
らせず候、侍ほどの者の申さじと申切なん事を糾問
によて申すべき哉、是は存の中の事にて候、君の御
ために信連が頭をはねられん事、今生の面目冥途の
思ひ出也、とくとく首を召さるべしとぞ申ける、是を
聞たまひて、何条別の仔細にや及ぶべき、とくとく
P261
河原に引出して、頭を切れとぞのたまひける、侍ど
も口々に申けるは、弓矢とるものの手本御覧じ候へ、
かくこそあるべけれ、信連は度々高名したりし者ぞ
かし、一年本所に候ける時、末座の衆の、事をいた
して狼藉に及ぶ間、ともにもて聞ゆるがうの者にて
あり、諸衆等力及ばずして一らう二らう座を立てさ
わぎ合ひけるに、信つらよて是をしづむるに叶はざ
りければ、信連つとよるままに二人を取ておさへて
左右の脇にはさんで座を罷いで、狼藉をしづめて、
高名その一なりと聞えし者ぞかしと申せば、またあ
る侍申けるは、その次のとしと覚ゆる、大番衆ども
がとどめかねて、通りける大和強盗六人を、のぶ連
ただ一人してよせ合て、四人をばただちにうちとど
め、二人をば生捕にしたりしげんしやうぞかし、
兵衛尉は毎度にはがねを顕はしたりし者ぞかし、か
かる名誉のものをやがて切れん事こそふびんなれ、
是体の者をこそいくらも召仕はれ候はめ、思ひ直し
て御内に候はば一人当千の者にてこそ候はんずれ、
あたら者かなあたら者かなと面々にささやきて、壁見参に惜
み合へり、さらばな切そとてすてられにけり、後に
聞えしは、信連は本所衆長右馬允忠連が子なり、
伯耆国にれいらくして金持が辺に経めぐりけるを、
平家滅亡の後兵衛佐頼朝是を聞給ひて、信連はさる
者にてあんなり、さやうの者こそ大せつなるべけれ
とて、彼国の守護に仰て、去文治二年に関東へ召下
されて、奉公をいたすほどに、隨分きりものにて、兵
衛佐自筆のかなの下文にて、能登国大屋庄〈 号蛤庄 〉を信
連たまはり始めけるよりして、その後庄園あまた給
ひて、大名にてぞありける、高倉の宮失せさせ給ぬ
とののしりければ、京中も馳さわぎけるうへに、山の
大衆既に三条京極の辺までくだるよし聞えければ、
平家の人々右大将以下の軍兵馳向ひたりけれども、
法師一人も見えざりけり、凡あとかたなきひが事な
りければ、静まりにけり、天狗よくあれにけるとぞ
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覚えし、十五日に高倉宮三井寺に逃籠らせたまふよし聞えけ
り、此宮と申も法皇の御子にてましませば、よその
事にあらず、いつしかかかる浅ましき事出来たれば、
ただ鳥羽殿にしづかにましまさで、よしなくも都へ
出けるかなとぞ思召されける、相国の嫡子重盛、去
年八月にうせたまひしかば、次男右大将宗盛に、わ
くかたなく世間の事ゆづりて、入道福原へ下り給ひ
し手合せに、大衆不覚して宮を逃し参らせたる事口
惜しとぞ申あひける、宮は高倉をのぼりに近衛河原
まで出させ給て、やがてその夜の中に如意山へぞ入
せたまひける、知らぬ山路をよもすがら入せましま
しけるに、夏草のしげみが下の露けさは、さこそ所
せばくも思召されけれ、されば御足皆そんじてつか
れよわらせ給ひつつ、はふはふぞ渡らせ給ひける、
いと道もなき深山の中を、心あてにたどり渡らせ給
ければ、白くいつくしき御足葎のためにあかくなる、
黒く翠なる御くしささがにのいとにまつはれ、是は
いかになりはてんずることやらんと思召しつづくる
折節、ほととぎすの一声幽に聞えければ、御心の中
にかくぞ思召つづけらる、
時鳥しらぬ山路にまよふには
なくぞ我身のしるべなりける W064 K068
昔、天武天皇大友の皇子におそはれて、よし野山へ
入たまひけんも、かくこそ思し召れけめとおしはか
られてあはれなり、さて三井寺にたどりつかせ給ひ
て、かひなき命のをしさに大乗を憑て来れり、助け
よとなくなく仰られければ、大衆起りて、ほうりん
院といふ所に御所かまへつつ、入参らせて、さまざ
まにいたはり奉る、衆徒せんぎしけるは、当寺の世
上の体を案ずるに、仏法すゐび王法の牢籠この時に
ありと云つべし、爰に宮入御の事是偏に正八幡の擁
護しんら明神の御たすけなり、じやうすゐもはら今
にあり、此時に当つて平相国がぼうあくをいましめ
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ずば、いつの時をか期すべきや、天神地祇も納受を
垂れ、仏力神力降伏をくはへましまさん事何の疑ひ
あるべき、抑北嶺はゑんしゆいちみのえいち、南部
は夏臈得度の戒だんなり、てつそうの所になんぞ与
力せざらんや、同心々々もつともしかるべきよし衆
議一同して、山門へも南都へも牒状をつかはすべし
とぞ申ける、山門へ可合力之由遣牒状其状云、
薗城寺牒、延暦寺衙、
欲殊致合力、被助当寺仏法破滅状
右入道浄海恣失皇法、又滅仏法愁歎無極之間、
去十五日夜、一院第二皇子不慮之外、所令入寺
給也、爰号院宣雖有可奉出之責、皇子令固
(辞)之処、可放遣官軍之旨、有其聞、当寺破滅
将当此時、延暦園城両寺者、雖相分門跡二所、
学是同、円頓一味教文也、譬如鳥二翔、亦似車
二輪、於一方関者、争無其歎者、特致合力
被助仏法破滅者、早忘年来之遺恨、復住山之
昔、衆徒之僉議如斯、仍牒送如(レ)件、
治承四年五月廿一日 小寺主法師成賀
都維那大法師定算
寺主大法師忍慶
上座法橋上人位忠成
とぞ書たりける、山門の衆徒此牒状を見て、山門の
末寺にて当寺と山門とは鳥の二のつばさの如く、車
の二輪に似たりと、押て書之条無其謂と一同に僉
議して、返牒なし、又南都へも遣牒状、
薗城寺牒 興福寺衙
請蒙殊合力被助当寺仏法破滅状
右仏法殊勝事者、為守皇法、皇法亦長久事者、
則依仏法也、然頃年以降、入道前太政大臣平清
盛恣盗国威、乱朝制、付内付外成恨成歎之
間、今月十五日夜、一院第二皇子忽為免不慮之
難、俄令入当寺給、然号院宣、可奉出当寺
之由、雖有責、不能奉出、衆徒一向奉惜之、
P264
仍彼禅門欲入武士於当寺、云皇法云仏法、一
時正欲破滅諸衆盍愁歎乎、昔唐恵性天子以
軍兵令滅仏法時、清涼山之衆徒合戦防之、皇
憲猶如斯、何況於謀叛八逆之輩哉、誰人之恊猜
哉、就中南都者、無例無罪、被配流長者、定位
由内動、非今度者、何日遂会稽之願衆徒内
助仏法之破滅、外退悪逆之伴類、同心之至可足
本懐、衆徒会議如斯仍牒送如(レ)件、
とぞ書たりければ、これについて興福寺返牒云、
興福寺牒 薗城寺衙
被載来牒一紙、為清盛入道浄海欲滅貴
寺仏法由事
牒今月廿日牒状〓、今日到来披閲之処、悲喜相交、
如何者、玉泉玉花雖立両家之宗義、金章金句同
出一代之教文、南京北京共如来弟子也、貴寺他寺
互可伏調達之魔障、就中貴寺者我等本師弥勒慈
尊常住之精舎也、或公家、或姑射山諸宮、或上聞
**
講砌之時、令戦智諍議事、是則天台法相三論華
厳等、若一宗相関、豈不恨哉、〈 是一 〉、次天台学徒、
被魔滅之、法相獨留為何、凡論師之論甲乙者
則是兄弟之諍也、白衣之仏法欲蔑如者、寧非魔
軍之企哉、悲喜之所及尤可相済者也、〈 是二 〉、次異
域并本朝之時、携弓馬之類力労苦身雖平皇
敵、抽賞以不過千金万戸、官位未必不(レ)及子孫兄
弟〈 是三 〉、次我朝者、古貴武之道、授高位事無之、
既異当家、天平御宇大野東人雖切魁首、僅預末
座、〈 是四 〉、次弘仁御宇坂上将軍遠払奥州甲活、近鎮
平城之淵陣、僅加九卿無昇三公、〈 是五 〉、次清盛入
道者、平氏糟糠、武家塵芥也、祖父正盛者、仕蔵
人五位之家、執諸国受領之鞭大蔵卿為房為加州
之刺史、被補検非違使、〈 是六 〉、次修理大夫顕秀卿為
播磨太守之昔、任馬屋別当職、〈 是七 〉、次親父忠盛昇
殿之時、都鄙老少皆惜蓬壷之瑕瑾、内外之英豪、
各泣馬台之懺文、忠盛雖副青雲之翅、世人猶
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令軽白屋之種、惜名青侍莫莅其家、〈 是八 〉、次平
治元右金吾信頼卿謀叛之時、太上天皇感合戦之
功、被行不次賞之時、高位昇相国、兼賜兵仗、
男子者、或忝台階、連羽林、女子備中宮職、或
准后蒙宣、群弟庶子皆歩玉路、其孫彼甥者、悉
割竹符、〈 是九 〉、加之通領九州不弁符賀納官進
退百司、皆為奴婢僕従、一毛違心者、縦雖皇公
禁之、片言逆耳雖為公卿搦之、為是於究醤
之、爰以為延君一旦之身命欲逢片時聾耳之
苦、万乗聖主猶成面展媚、重代之君還致七孝之
礼、雖奪代々相伝之家領、上裁恐命、巻舌、
雖取宮々相承之庄薗、憚権威無言、乗勝之
余、其驕倍増、〈 是十 〉、次去年十一月追捕太上皇之棲、
抄掠種々之財宝、押流博陸公之身、奪取国々
庄薗、謀逆之甚、誠絶古今、其時我等須行向賊衆
可問其罪、〈 是十一 〉、然而或相量神慮、或依稱皇憲
押欝陶送光陰之間、清盛入道重起軍兵、打
囲一院第二親王宮之処、八幡三所賀茂春日権現速
垂影向、捧銭弼、送貴寺奉預新羅権現之処、
打開枢皇法不(レ)可尽之旨明白也、〈 是十二 〉、隨捨貴
寺命奉守護之条、顔色之類、誰不被隨喜、我
等在逢恩域感其情之処、清盛入道重起兵器
欲打入貴寺之由、幽以承及、兼致用意、為成与
力、廿二日辰旦、起大衆、同廿三日牒送諸寺、
下知末寺調軍士之後、欲達案内之処、飛
来青鳥、投一芳緘、数日之欝念一時皆散、〈 是十三 〉、次
彼唐家清涼山密宗尚返武副之官兵、況和国南北両
門之衆徒、盍打払謀臣之群類、能固良宴左右之
陣、宜我党待進発之告者、録衆議牒送如(レ)件、
請察状莫成疑貽之故牒、
治承四年五月廿三日 都維那法師祐実
権寺主大法師俊範
寺主大法師顕盛
権上座法橋上人位禅慶
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上座法橋上人位朝芸
廿日、今夜三位入道頼政、子息伊豆守仲綱、次男大
夫判官兼綱、三郎三位判官代頼兼、六条蔵人仲家、
同子息蔵人太郎長光、侍には渡島党さつく、播磨の
兵衛はぶく、播磨の次郎あたふ、右馬允つづく、源
太丁七となふ、清進を始として三百余騎、皆三井寺
へ馳参る、かの六条蔵人と申は、父帯刀の先生よし
かた討れて後、みなし子にてありけるを、三位入道
養ひ子にしたりけるとかや、兼綱も三位入道の実子
には非ず、三位判官代と申は舎弟源蔵人大夫頼行が
四男にてありけるを、幼少よりをぢの三位入道とり
て養育して、仲綱がとぎにせんとて、甥を養子にし
たりけるとぞ聞えし、三位入道のもとに侍数多あり
ける中に、入道もふかくたのみ、主をも大事に思ひ
ける三田の源太が末葉競の滝口といふ者ありけり、
本所の三臈なり、右大将の宿所は六条也、かの宿所
のうらついぢの中にきおふが家はありけるに、三位
入道寺へ参られける時、侍ども競に告候はばやと申
ければ、入道思よらずただ今かくと知せたらば、女
童べ以下資財雑具東西南北へ持ちはこびなどせば大
将怪しみてんず、さるものなれば、追て参らんずら
ん、告げてきおふがちじよくかかすなとて、一党引
きぐして落ちにけり、入道おちぬといふ事ののしり
ければ、三位入道は三井寺へ落ぬ、きおふは是にあ
るかとて、内々見せられけるに、是に候と申ければ、
さらばきおふめせとて、召しよせて大将のたまひけ
るは、いかに三位入道の宮の御供にて、三井寺へ参
るに参らざりけるぞ、きおふ申けるは、相伝の主も
告られ候はば参り候はめ、弓矢とるものの鎧着る程
の事に、心をおきて告げられ候はざらんに参るべき
に候はず、したがふも様にこそより候へと申ければ、
大将年ごろほししほししと、三位入道にも度々こはれ
けれども奉給はず、競は渡辺党のその一、王城第一の
美男也、右大将のうらついぢのうちより朝夕出入す
P267
る、ほししほししと思はれける間、此をりふしを得て、
さらばわどの宗盛をたのまれ候へ、三位入道のし給
ひたらん恩には、少しも劣るまじきぞとのたまひけ
れば、競かしこまて候ぬと御返事申す、大将大によ
ろこびて、先しよさんしたる引出物にとて、あし毛
なる馬の太くたくましきと、黒鹿毛なる馬のいち物
なるとよき鞍置て給ひたり、競申けるは黒馬を御恩
に蒙るべきにて候はば、同くは伊豆殿より参りて候
し木下丸が、かひ口になり候ばや、御用の時は進上す
べく候と申ければ、大将あざ笑ひて、一定か、さん候、
かひ口になり候て御用の時は必進上すべく候と申た
れば、木下丸を競に給てけり、宿所にかへる、その
のち大将より競はあるかととはるれば、候候と度
度答へて日のくるるをぞ待ける、さる程に日すでに
くれて入相のかねつくほどに、木下丸には競乗り、
あし毛の馬には乗かへのわらは乗せて、家子三騎郎
等二騎我身ともに六騎つれて、ひたかぶとにて、大
将殿の惣門の前を下馬もせず、少し見入て通りけり、
大将殿の侍ども是を見て、むかへの競こそ此御所よ
り今朝給て候つる二疋の御馬のうち、木下丸には競
乗てあし毛にはのりかへのわらはをのせて、家子三
騎郎等二騎我身ともに六騎つれて、此御所の御門を
下馬も仕らで通り候、奇怪に覚え候、追かけて一矢
い候はばやと申ければ、右大将のたまひけるは、
きおふは聞ゆる強弓精ひやう、矢つぎばやの手きき
なり、そやはかねよく調へて廿四さしておひたり、
追かけたらばさる剛の者にて返合せてたたかはん程
に、矢つぼをさしているものにてあんなれば、宗盛
がをしと思ふ侍廿四五人も一定射殺されなん、左様
のしれ物にはめなかけそ、音なせそとぞのたまひけ
る、さればにや手さすものなくて、三井のかたへぞ
馳せ参る、きおふこそ参りて候へと申ければ、三位
入道さればこそとぞのたまひける、同僚どもに申け
るは、無下なる殿原かな、年比日比は一所に死なん
P268
とこそ契りしに、などきおふには告げざりけるぞと
申ければ、三位入道殿のなつげそ、只今はくちうに告
げたらば、女わらんべ資財ざうぐ東西南北へはこび
ありかんほどに、大将に聞つけられて、競にはぢか
かすな、さるものなれば、追て参らんずるぞと仰ら
れつればこそ、告げ申さねと口々に申ければ、さては
参るべきものと思召されけるこそうれしけれとぞ申
ける、又申けるは、きおふこそ以外のぬすみして参
りて候へ、大将殿より召され候つるに、きおふ参り
て候へば、宗盛をたのめと候間、畏うけ給候ぬと返
事申て候へば、大将殿大に悦で、あし毛なる馬と黒鹿
毛の馬と、二疋によき鞍おきて給て候つる間、黒馬
を御恩に蒙るべきにて候はば、伊豆殿より参りて候
し木下丸がかひ口になりて、御用の時は進上候はん
と申て候へば、大将殿心よげにて木下丸を給て候間、
乗て参りて候なり、されば競を君をはなれ参らせて、
他門につくべきものと大将殿見給ひけん事こそ、あ
ぶなくものたまふものかなと高声に申ければ、人々
一同にどつと笑ひけり、伊豆殿のたまひけるは、一
定わどのは木下丸を取て来りたまひたるか、仲綱に
その馬えさせよとのたまへば、さうけ給り候とて、
引出したり、伊豆守是を見たまひて、いかなる先世
の宿ごうにて、此馬故にかかる大事を思ひ企つらん、
うれしくもわどの取て帰り来給ひたり、いかなる大
将なれば是程志を思ふに、世になき仲綱に思ひつき
て身をいたづらになし給ふ、いかにしてこのうれし
さを思ひ知らせ奉るべき、世になくてさて果てて心
を見せ奉らざらん事こそ口惜けれとて、涙ぐみ給ひ
ければ、侍ども皆袖をしぼりける、重ねてのたまひ
けるは、あし毛馬もわどの一定得給ひたるか、さん
候、さらばそれも仲綱に得させよとのたまひければ、
参らせ候はんとて、引出して参らせける、伊豆殿是
を見給ひて、大将の秘蔵する京中第一の名馬、なんれ
う丸にてありけるや、大将よくわどのをほしと思け
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る、命とともにと聞しなんれう丸をも、わどのにと
らせたり、木下丸をもとらせたり、いかなる人は是
ほどに志深きぞ、仲綱も志は深けれども、世になき
ものにて思ひ出もなき事こそ口をしけれども、なん
れう丸を名を改めて左右のももに宗盛といふかねや
きをあてられける、木下丸をせられけるやうに宗盛
め引出して、なでよはたけよ、宗盛めうちはりて、
あららかに庭のりせよなどのたまひ、三井寺の大衆
大津の在家人などに聞せて、その後京中の人に見も
し聞せんために、とねり男を召し寄せて、やや此宗
盛めを乗て京へ上りて、大将が宿所二三町が程にて
くつわはづして追はなちてとてつかはす、とねり男
乗りて京へ上りて、たそがれ時程に大将の宿所近く
乗上り、くつわはづして追はなちたれば、かひたる
所にてありしかば、大将の宿所へ走り入、侍どもこ
れを見て、こはいかに競に給て候つるなんれう丸が
かへり参りて候と口々に申ければ、とらへよとて、
あつまりて火をともして引まはさせて見給ふに、左
右のももに宗盛といふ火印あり、大将是を見給ひて
かなしうたうはせられたり、それにつけても競こそ
いとをしけれ、身を捨てとどまりゐて、たばかりて
馬をとり返して行かんずるものをと思ひけんこそあ
はれなれ、是をしらずしてぬけぬけととられてたう
わをせられたるこそ安からね、あはれ人のはぢある
侍をば、命にかへても深く思ふべきぞ、ただ一人残
りとどまりて、二疋の馬を取て行、はぢのたうわをし
返したる事こそいとをしけれとぞ競をほめあひけ
る、
山門ならびに南都の大衆同心のよし、その聞えあり、
山へは太政入道座主めいうん僧正をあひかたらひ奉
て、近江米一万石往来に寄せたる、うちしきにはみ
のぎぬ三千疋相添てのぼせて、谷々坊々に四五疋十
疋づつなげ入られけり、米絹送らるる状に云、
園城寺者、本是可謂謀叛之地誠哉此事、非寺
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之訴非人之訴訟、八逆之輩恣失皇法、欲滅仏
法、早今日中企登山、勅定之趣仰聞衆徒、内祈
善神、外降伏悪魔耳、抑深懸叡念於叡山、盍
隨一寺於一門、其上以兵甲防凶徒、定隠遁
山上歟、以此之旨兼被守護者尤可宜守院
宣之趣状如斯、仍而言上如(レ)件、
治承四年五月廿五日 左少弁行隆奉
謹上山座主御房
とぞ書たりける、これによて座主登山したまひて衆
徒等をなだめせいしたまひければ、山門いよいよ与
力せざりけり、山門心かはりしければ、南都大衆、座
主経一巻実語教一巻作りて、根本中堂に送置、
欲心貪如説経
爾時座主三千人の大衆に告てのたまはく、汝等よく
聞け、よく是を思念せよ、近江米壹万石おりのべ絹
三千疋は、大衆の身においてあひてもあひがたきも
の也、我是もろもろの絹米を以て、衆にあてんと思
ふ、ただし大衆の心に於ていかん、座主に申て云、
我今日に於て大利を得て、心大にくわんきをなす、た
だ願くは座主その故をときたまへ、時に座主説ての
たまはく、汝等三井寺の大衆に与力する事なかれ、
教の如くならば我ぐわんすでに満じ、衆ののぞみ又
たりぬ、その時大衆せつの如く、三井寺の大衆により
きの心をたつ、時に座主もろもろの絹米をもて、大
衆に与、咒説言
〓山法師衣ありや、米もありや、はろきていあら
ばさなやそはか
実語教一巻
山高きが故にたつとからず、
僧あるをもてたつとしとす、
僧こえたるが故にたつとからず、
恥あるを以て貴しとす、
織延は一たんの宝、
身めつすれば則ともに破る、
P271
恥は是れ万代のきず、
命をはれどもともにうする事なし、
倉内のたからは朽ることあり、
身中のはぢは朽ることなし、
よくは是一生のはぢ、
恥なきをもて愚人とす、
四大日々におとろへて、
三たう夜々にくらし、
かるが故に書を読むともがらなし、
学文さらにあとをめつす、
眠を除いて夜討を好、
うへを忍で城郭を構ふ、
四等のふねにのらずば、
海ぞくの道を得がたし、
師に逢ふといへどもおそれず、
弟子に逢といへども恥ぢず、
師君には孝なし、
木石に異ならず、
父母常に向拝せず、
なほしちくしやうに同じ、
みはほりのべにかへつ、
妻子にえさせて相ほどこす、
これ学文のはじめ也、
命終るまで忘失する事なかれ、
一乗仏子と名乗りては、
一文ふつうのたぐひなり、
二宮参りと名付ては、
二目かけたる山法師、
三井の堂舎を焼てこそ、
三づのぐほうを定めけれ、
四海にかけりて朝夕に、
四ちうきんをぞ犯しける、
五きにつみたる悪行は、
五道しやうじのもとゐ也、
P272
六くん比丘のすがたにて、
六はらにこそつかはるれ、
七社の神輿をふりてこそ、
七道諸国流さるれ、
八宗の名をだにさとらねば、
八講ごとにねをぞなく、
九重のさたをする時は、
公卿せんぎにもちゐなし、
十種供養に事よせて、
十方施主にすすめこふ、
百姓をどして物をとる、
千僧供をこそせめいたせ、
慢心驕慢高けれど、
臆病一のけ武者なり、
帰命預礼平将ぐん、
今日より我等を捨てずして、
生々世々につげつかへ、
在々所々にともをせん、
又ぬりあしだに歌二首、
山法師おりのべ衣薄くして
はぢをばえこそかくさざりけれ、 W065 K069
山法師味噌かひしほかさかしほか
へいしのしりにつきてめぐれば、 W066 K070
此事洛中にこぞりてののしり嘲りつつやきつつ、中
にもしほのこうぢの童は、みそ大衆とぞはやしける、
きぬにもあはざりける山僧のよみたりけるとかや、
おりのべを一切もえぬ我等さへ
うす恥をかく数に入るかな、 W067 K072
源三位入道山門くみせざりける事を聞て、かくぞよ
みける、
たき木こるしづがねりそのみじかきか
いふことの葉のすゑのあはぬは、 K068 K071
主上俄に太政入道の宿所西八条へ行幸なる、新院日
ごろ是に渡らせ給ふ、日次かたがたあしかりけれ共、
P273
そのさたにも及ばず、ことの外にさわぎてぞ聞えし、
御輿の前後には軍兵数千騎うち囲みて候けり、
堀川院御宇永保元年十一月八日、八幡賀茂両社に行
幸の日、園城寺の悪徒等さんらくすべしと聞えしに
よて、前陸奥守義家弓箭を帯して軍兵三千余騎相具
して、御輿の前後右衛門の陣に候しをこそ万人目を
驚し、希代の事に申しに、近来の行幸には、つはも
の前後に仕ぞ浅ましき、同廿三日、源三位入道頼政
寺より六はらへ押寄せて、太政入道を夜討にせんと
ぞ支度しける、老僧たちを引ぐして如意が峯より一
千人ばかり手々に松明をともして、足軽ども少々白
川の在家中へさし遣はして、火をかけさせんに、六
はらよりはやりをの武者ども、軍を招かれてはせ向
はば、矢どもいさせて岩坂桜下に引あがりて、戦場
によきもの四五百人ばかり引ちがへて、六はらへ入
て、風上より火をかけて、入道を討たん事相違ある
べからずと申ける、この儀もつともしかるべし、山
門の大衆も心がはりしてくみせず、南都の大衆もけ
ふけふと申せども、いまだ見えず、いつを限りと待
べきぞとて、貝鐘をならしければ、講堂に大衆発向
してせんぎす、その中に太政入道のいのりの師、一
如房阿闍梨真海、弟子同宿廿余人引具して、せんぎ
の庭にすすみ出て申けるは、かやうに申せば相国の
方人とぞ各思召され候らん、たとへ方人にても候へ、
門跡の名といひ我寺のはぢといひ、いかでか門徒の
中をばはなれ参らせ候べき、又我等が名を惜まで候
べき、昔源平両家左右の翅にて、たがひに威勢を争
ひしかども、近来よりは源氏果報おとりて運命つき
ほろびはて候ぬ、今は太政入道一天四海を守護し、
天下の守となつてなびかぬ草木もなし、内々かのた
ちのありさまを見候に、たやすく小勢をもて思ひか
からるべきに非ず、但蚊虻岡をになひ、蟷螂車をく
つがへすといふ事あれば、それにはよるまじけれど
も、各々なほ勢をも催しぐして、はかりごとをも外に
P274
めぐらして、後日のさたあるべきにて候かとて、夜
をふかさんとて、長せんぎをす、ここに乗円房のあ
じやりけいしう、衣装束にかしらつつみて、大なる
うち刀さしてすすみ出て申けるは、証據を外にもと
むべきにあらず、我寺の本願清見原天皇、大友の皇
子におそはれて、吉野山を出させ給ひて、大和の国
宇多の郡をすぎさせたまひけるには、上下十七騎と
ぞうけ給る、伊賀伊勢をへて美濃尾張の勢を催して、
美濃と近江との境川といふ所を隔てて、大友の皇子
と戦ひたまふに、その川黒血にて流れたりけり、そ
れよりして此川を黒血川と申なり、さて終に軍に勝
ち給ひたりとぞ申伝へたる、窮鳥ふところに入れば
じんりんあはれむ心ありといふ本文あり、忝くも宮
此寺をたのみ給ひて入せおはしましたらんに、いか
で力をあはせまいらせざるべき、余はしるまじ慶秀
が弟子六波羅にうち入て、太政入道の首取て参らせ
よとぞ申たる、ゑんまん院の大輔といふ悪僧すすみ
出て申けるは、せんぎばし多し、然るを五月の短夜
に時刻おしうつるに、さらばとくとく打立とて、二
手にわかつ、如意越をば源三位入道頼政ぜうゑん房
のあじやりけいしう、帥のほういん善智、その弟子
きほうぜんえい、白川よりして五十騎を引ぐして来
りくははる、老少ともなく千余人、手々につい松を
して白川へ向ひけり、六はらの手にはほうりん院の
大輔弟子あら土佐、りつじやう房日印が弟子伊門房、
ゑんまん院の大輔、是等三人は打もの取ても弓矢取
ても、一人当千の悪僧也、平等院にはいなばのりつ
しや、あら大夫松井の肥後、すみの六郎房、松島のあ
じやり、北院には金光院の六天狗、しきぶの大輔、
能登、加賀、佐渡、備後等なり、じやうき院の鬼佐
渡、筒井法師に郷あじやり、あく少納言、かなちくぜ
ん、南勝院の肥後、日尾定雲、四郎房、大箭修定、後
中院の但馬、ぜうゑん房のあじやり、房六十人の中、
加賀光乗刑部房、一来法師、是等ぞすぐれたるつは
P275
ものにてありける、堂衆には筒井の浄妙明俊、小倉
尊月、尊栄、慈慶、楽住、かなこぼし源王房、武士
には伊豆守仲綱、源大夫判官かねつな、六条蔵人仲
家、蔵人太郎、渡辺のはぶくはりまの次郎、さづく
さつまの兵衛、つづく源太、競の滝口、あたふ右馬允、
長七となふ、きよし、すすむを始として、七百余人、六
はらへとて向ひけり、如意が峰の手は遅々しけり、
その故は宮、寺へ入御の後は、大関小関を堀切りさか
もぎを引きたりければ、逆茂木取のけ、はし渡しなど
するほどに、時刻おしうつりて、関路のにはとり鳴
きあへり、仲つな申けるは、五月の短夜なれば、夜
すでに明なんとす、無勢にて多勢をうつ事夜討こそ
よかりつれ、日中はかなふまじ、とくとく各々帰り給
へと申ければ、ゑんまん院の大輔すすみ出て申ける
は、宋朝は三百六十箇国の地也、かのはんこくの将
軍是をなづけてまうしやうくんといふ、威勢殊にす
ぐれて、三千人を朝夕に召仕ひて、昼夜にけいゑい
す、時の気色雲上のふるまひに異らず、てうおんを
もかんぜず、人のそしりをもかろくせず、ふるまひ
世にすぐれたり、こはくきうといふ物をまうしやう
くん秘蔵して持たりけるを、秦の昭王この事を聞給
ひて、所持のこはくきう我に得させよとのたまひけ
れば、我身に於ては、第一のたからと思ひけれども、
是を与へずば我ほろびなんと思ひて、こはくきうを
昭王に与ふ、則ち官軍に納めてけり、然るをまうし
やうくんおごりをきはむるあひだ、八ぎやくにしよ
せらるべしとて、忽にてう敵となる、まうしやうく
んは裘をうしなひたる事安からぬ事に思ひて、日別
のしよくじをやめて裘の惜き事を歎けり、この人心
広き賢者にて、さまざまの能ある者を召つかひけり、
或は鶏の鳴くまねをする者もあり、或は犬のほゆる
まねするものもあり、或は盗に長じたる者もあり、
その中に李父丁といふ者盗に長ぜり、ただ狐白裘盗
み出して奉らんといひければ、孟嘗君大に悦で李父
P276
丁を遣す、則ち昭王のかたに行て宝蔵を事故なく開
きてかの裘を盗出で、まうしやうくんに奉る、われ
朝敵となりぬる上は、暫くもやすらふべからずとて、
三千人の客を引具して落ちて行道に長飼山、龍剱山、
竹業山、明谷山、拾嶺山などいふ所々にて戦ふ事す
でに廿七ヶ度に及ぶといへども、とかくしてうち勝
て通り行くほどに、今頭牛山をうち過ぎて、函谷関
にかかる、城戸五あり、第一の城戸をば函谷名関と
いふ、是は日夜をきらはず、尊勝陀羅尼を誦する者
をば開きて通す関なり、ここにかくの中に、尊名と
いふつはものあり、文武二道の武者なり、尊勝陀羅
尼を七返となへたりければ、鎖をはづしてさつとと
ほす、第二の城戸にはかつちうよろひて弓矢を帯し
ては通さざる関あり、これは摩尼宝冠の関といふ、
たいはうしうといふ者あり、聖教にもくらからず、
武道にも達せり、又その身の力は八千三百人が力也、
まうしやうくん方の弓箭兵仗かつちうを取り集め
て、大箱に入て、是は八万聖教の箱と号して戴きて、
かのまにほうくわんに向ひて迷故三界城、悟故十万
空、本来無東西、何所有南北、朝去朝来道、惣じて
かかる所無、何心のあるによて関の戸をとづるぞや
といふ、関守答へていふ、弓矢を袋に入てもち、兵
仗をかくして禍を好む輩に於ては通すべからずと云
ふ、たいはうしう答へていふ、我則ち凶徒に非ず、
九しう山の衆徒なり、召ぐする所は一山の大乗なり、
持所は聖教の箱也、是を見よとて関の戸に当りたれ
ば、大地震のごとし、関守あらしとて、あけんとて
戸を開あひだ、むらむらとかけ通る、その後兵具を
帯せり、かくのごとく芸能一づつある客は、皆是主
のせんにたたんずるため也、その中に文武二道にも
かけ、力よわき事水草のごとし、然れども大食大酒
也、されども心ひとつたけくして、合戦と聞てはわ
れ一人先をかけんと勇みける事、殊に余人に超えた
り、傍輩是を見てにくみそしる事限りなし、その名
P277
を鶏鳴といふ、兵糧米の費え也、又万人の威をうし
なへるもの也、先を争といへども廿八ヶ度の戦にあ
へて以てその益なし、召しぐせられてむやく也とい
へり、君もしろし召たりといへども、にはとりの鳴
声をまねけるが、少しもたがひぬべくもなかりけれ
ば、是を愛して召つかはれけり、すでに第三の城戸
かんこくの関といふにかかる、是は鶏の鳴ざる外は
戸をひらかざるせき也、ただ今はいぬの終り亥の刻
のはじめ也四方のにはとりいまだ鳴ず、仍て関の戸
更にあけがたし、如何せんと孟嘗君歎きて、ただ今
手取にせられなんと恥をかなしむ、その時鶏鳴みて
りの法をかぢして、かたきを三まい儀を前後にはた
らかさず、木ずゑにあがり、殊鷲木といふ木あり、
かの杪に上りあがつて、水印を成就し、関守がため
にあけんと思ふ心をつけて烏帽子をたたきて、鶏の
鳴声をしたりければ、四方の鶏うけ取うけ取はらはら
となく、よくよく時をはかる関路の博士にある金花
といふ鶏、請取て三声鳴ける上はあけんとて、急ぎ
戸をあけたり、まうしやうくん悦をなして、はつと
打通す、鶏鳴は左右の翅をうごかし、中天にかけて
水印をやむ、見ればいまだ亥の刻也、関守いかに夜
や長きとて鶏鳴ともにおちにけり、その時関守驚き
て陰陽も不調也、博士も不覚したりけりと、かさね
て通る事あらば、関のきずといひ、勅勘のがれがた
しとて、天をよくまもりて、関の戸をさしかたむ、こ
こに官軍追かけてまうしやうくんをとどめんとす、
しかれども関の戸を開かざる間、夜の明くるを待程
にはるかに打のびて孟嘗君当座のはぢをのがれにけ
り、是則ち鶏鳴が徳也、されば人は心広くもいやし
き能なりとも賞すべかりけりと思へり、今命を助く
る事何事か是にしかんや、上古にも合戦の道のはか
り事かくの如し、しかれば一如房がはかりごとに関
路のにはとりを鳴せつらん夜をはかり馬を限りにう
つべしとて、手々に火をともしよせよやよせよやと申け
P278
れども、夜はただ明に明にければ、是は一如房が長せ
んぎのしわざなりとて、かの房へおしよせて切りは
らひ、一如房が弟子ども防ぎ戦ひけるほどに、同宿
多く討れにけり、あじやりはうはう六はらへ行向ひ
て、此よしを訴ふ、六はらにはもとより馳せ集たり
ける勢なれば、少しもさわがず、宮は山の大衆与力
せばかくて暫く渡らせ給ふべきに、山門与力せざり
ければ、寺ばかりにてはかなはじとて、廿四日南都
へ赴かせ給ひけり、その次に金堂に御入堂あり、此
宮小枝、せみをれといふ二の御笛をもたせ給ひたり
けり、蝉をれを弥勒に奉給ふ、此御笛は鳥羽院御時こ
がねを千両唐土の御門に奉らせたまひたりければ、
その御返報とおぼしくて漢竹一を奉らせ給けり、院
秘蔵し思召されて、三井寺のほうりん院僧正覚祐に
仰て、壇の上に立て、七日加持ありてほらせられた
りける御笛なり、おぼろげの御遊には取いだされず、
御賀のありけるに、高松中納言実平卿給てふかれた
りけるに、御遊はてて不通のやうに思て、ひざの下
におきて又取出してふかんとせられければ、笛とが
めてや思ひけん、取はづして落して蝉をうちをりて
けり、希代の不覚何事か是にしかんや、是よりして、
彼御笛をば蝉をれとは名付られたり、高倉の宮くわ
んげんに長じて渡らせ給ひけるうへ、殊更御笛の上
手にてわたらせ給ひければ、後白河法皇よりたまは
らせ給ひけるなり、御かた見とてしうしんふかく思
召されたりしかども、龍花の値遇のためとや思召し
けん、終夜万秋楽を遊されて後、此笛をばみろくに
奉らせ給へり、そののちある雲客日吉へまうでて、
夜陰に下向しけるに、三井寺に笛の声のしければ、
暫くやすらひて立聞ければ、故宮の蝉折の音に聞な
して仔細を尋ねければ、金堂執行慶俊あじやり、その
ころ笛ふく児を持たりけるに、時々此御笛を取いだ
してふかせたりける也、ゆゆしく聞しりたりける人
かな、大衆此由を聞て、此御笛をおろそかにする事
P279
あるべからずとて、その時より始めて一和尚の箱に
納められて、園城寺の宝物のその一なり、今にあり
とかや、
乗円房の阿闍梨慶俊〈 ○前段作慶秀与此齟齬 〉はとの杖にすがりすす
み出て申けるは、よはひ八旬にたけて、としきみを
こえぬ身にて候へば、御ともには参り候まじ、是に
候弟子、ぎやうぶ房俊秀とまうす法師は、相模の国
の住人山内すどう刑部丞としみちと申者の子息、父
は平治の乱の時義朝が供にて、五条河原にて討れ候
ぬ、みなし子にて候しを取おき候て、けいしゆんが
跡ふところよりそだて候へば、心ふるまひもよくよ
く知りて候なり、不敵の法師にて候、御身をはなた
せ給はで、此僧が参りて候と思召れ候て、召具せさ
せましまし候へとて、涙を流しければ、宮是を御覧
じていつのなじみ、いつの対面ともなきに、いかに
してかくは思ひ入たるやらんと思召すに、御涙うる
ばせ給ひけり、御方には三位入道の勢并寺の悪僧彼
是都合三百余騎にて、醍醐路より南都へおもむかせ
たまひけるが、御馬にがうごせさせ給はで、寺と宇
治との間にて六度まで御落馬あり世の人桃尻とぞ申
ける、此ほど御しんもならでねぶり落させたまふに
こそとて、宇治橋を中三間ばかりひきて暫く平等院
に立入せ給ひて御休みあり、平家是を聞て軍兵をさ
しつかはして是を追伐せらる、則
左兵衛督知盛、蔵人頭重衡朝臣、新少将資盛朝臣、
権亮少将維盛、中宮亮通盛、左少将清経朝臣、左馬
頭行盛、三河守知度、薩摩守忠度、侍には上総介忠
清、飛騨守かげ家、河内守安つな、飛騨判官景高、
上総の太郎ただつな、武蔵の三郎左衛門尉有国、以
上三万余騎木幡山をはせ越て、平等院へぞ向ひける、
軍兵すでに雲霞の如くにて、馳来るといふほどこそ
あれ、平等院にかたきありと見てければ、馬のはな
をならべてときを作る事三ヶ度也、三位入道もとよ
り思ひまうけたる事なれば、少しもさわがず、三百
P280
余騎にてときをぞ合せける、平家の方より上総介忠
清討手の先陣うけ給て、三百余騎の勢にてはし上へ
ぞ進みける、宮の御方に三井寺の悪僧筒井のじやう
妙めいしゆんといふもの、自門他門にゆるされたる
者也、橋の上の手へこそ向ひけれ、めいしゆん事を
好て装束したり、褐衣の鎧直垂に黒革のをどしの大
あらめの鎧に、黒つ羽の三矢廿四さしたるを、かし
ら高におひなして、七曲したる黒ぬりの弓持ち、三
尺五寸の太刀に熊の皮の尻ざや入てさげはいたり、
三枚甲を猪首に着なし、好む長刀取ぐしてからす黒
の馬のふとくたくましきに黒鞍おきて乗たりけり、
同宿廿余人皆おなじ色の褐衣の直垂に黒革をどしの
鎧着たり、足軽三十余人同黒革をどしのはらまきき
て、橋の上へあゆみ向ひて申けるは、さしたる世に
あるものにてなければ、音にはよもきかせ給はじ、
筒井のじやう妙めいしゆんとて、園城寺にはかくれ
なし、我と思はん人々は、明俊に向へやとて、引き
たる橋げたを隔てて、半時ばかり射合たり、廿四さ
したる矢にて敵十二人射殺して、十一人に手おはせ、
矢一はえびらに残りたり、明俊矢をさしはづして申
けるは、殿原暫く軍をとどめよ、その故はかたきの
たてに我矢を射たて、敵の矢を我たてにいたてられ
ては、いつ勝負あるべしとも見えず、橋の上の戦ひ
は、明俊が命を捨てて、勝負あるべし、つづかんと
思はん人々は、急ぎつづけやといふままに、馬より
とびおりて、弓をからとなぎすてけり、あれはいか
にと見る所に、箙をとき捨て、つらぬきて、好む長
刀のさやはづして、左の脇にかいはさんで、いむけ
の袖をゆり合せて、甲の錏をかたぶけて、橋の行け
たを走り渡り、敵三百騎が中へ向て入にけり、人の
一条二条の大路を走るよりも、猶やすく見えたりけ
る、余人はおそれて一人も渡らざりけるに、生年十七
歳になりける一来法師ぞ少しも劣らず渡りにける、
もとよりつかひつけたる長刀をけふを限りとつかひ
P281
ければ、面をむくる者もなし、されども八人薙ぎ倒
し、九人といふに長刀のめぬきの際より折れにけり、
やがて太刀をぬきて戦ひける、太刀にて四人切伏せ、
五人といふに余りにうちしかりて、向ひあひたる敵
の甲のまつかうを強くうちたりけるほどに、目貫の
もとより打折りて、太刀は河へさつと入、今はたの
む所は腰刀ばかりなり、暫く気つきて、刀のつかに
手うちかけて小をどりしてぞ立たりける、後なる一
来法師明俊がわきよりつといで、前に立きりてぞふ
せぎける、めいしゆんうたせじとて、三位入道の郎
等渡辺のはぶく、さづく、競、つづく、あたふ、き
よし、すすむをはじめとして、一文字名のりどもし
て廿二人ぞ渡りける、明俊是等を後に立てて、忠清
が三百余騎の勢と戦ひたる、三十余騎は大略明俊一
人して討取てければ、残ひき退きけるを、平家の大
勢是を見て、先陣の討手のひくこそ見苦しけれ、返
し合せよとて、我も我もと橋の上へぞ馳かさなる、こ
こには敵のよするぞ、あやまちすなといふも聞ず、
二百余騎我先にと打あがる間、河霧たちてくらかり
ければ、後陣の勢に押されて先陣二百余騎おとされ
て流れにけり、此まぎれに明俊は敵二人手とりにし
て、大事の手負て行げたを走りかへりて、平等院の
後にて、物の具ぬぎおきて、おりかけたる矢をかぞ
へて見れば六十二筋、大事の手は五所、薄手は数を
知らず、此いくさを見れば、かなふべしとも覚えず
とて、ふる衣うちきてかしらゆひて、弓きり折りて、
杖につきて、南無阿弥陀仏と申て奈良の方へ行にけ
り、渡辺党廿四人が中に二人は討れぬ、十人はいた
手おひ、のこりはうす手をおひて、皆分どりして首
どもひさげしてひさげして走り帰りたりけり、上総の介忠
清、討手の先陣にて橋の上に向ひたりけれども、めい
しゆん一人がために或はうたれ或はうち落されぬ、
わづかに二百騎がうちになりて引帰、同寺の悪僧大
矢の修定但馬房は、平家の先陣引返すを見て、黒皮を
P282
どしのよろひを着、三尺五寸の大長刀の茅のはのご
とくなるを持て、橋の上を走りわたりて、おもしろ
く長刀をふりてぞをどりける、平家方より矢先をそ
ろへて是をいる、さがる矢をばをどり越、あがる矢
をばさしうつぶきてうち落し、向ひてくる矢をば切
おとす、横に来る矢をもきりければ、時のほどに三
百三十筋までぞ切たりける、向ふ敵十四人きりころ
す、それよりして矢切修定の但馬房とはいはれける、
是は三井寺第一の大矢を射けれども、手少あはらな
りければ、その日は弓をばもたざりけり、打物取て
は一番の手ききなり、信濃国の住人吉田安藤右馬允
かさ原の平三、千葉三郎等二百余騎にておしよせた
り、千葉三郎はうち甲をいさせて引退く、平家の軍
兵宇治橋の北のつめにくつばみをならべて打ち立た
りけるが、橋の上を走り渡り走り帰るものもあり、
うへが上にこみければ、折ふし川霧たちて、いまだ
くらさはくらし、橋を三間引たりけるをも知らず、
後陣の勢におされて、先陣二百余騎また河へ入にけ
り、色々のよろひ色々のかさじるしの宇治川に浮た
りければ、嵐の紅葉を心のままに吹ちらしたるに似
たりける、その中に伊勢国住人古市白児党に館六郎
貞康、同十郎真景、黒田後平五、已上三騎馬をいさ
せて火をとしあかじるしの鎧武者河に流れて、うき
ぬしづみぬして、網代にながれかかりて、弓のはず
を岩のはざまにねぢ立て、それに取つきてうきたり、
その時三位入道はかくぞ申ける、
伊勢武者は皆ひをどしの鎧きて、
宇治の網代にかかりぬるかな、 W069 K075
忠清引き帰て、知盛の卿に申けるは、今日の軍の手
合せこそいと然るべしとも覚え候はね、この河を見
候へば、五月雨のころにて、ことに水早く候へば、
橋よりうはても渡るべしとも覚え候はず、したても
渡るべき所見え候はず、さればとて馬をはなれて、
行げたを渡すにも及ばず候、いかが仕るべく候、夜
P283
に入て是より下供御の瀬の方へ人をつかはして、瀬
ぶみをせさせて、静に明日川をや渡るべき、又上に
案内を申て、淀芋あらひ河内路などを廻べきかと申
ければ、数万人の兵の中に、もの申者もなかりける
に、下野の国の住人足利の又太郎忠綱といふもの進
み出で、あはれ上総殿ならぬ事を申され候ものかな、
此河は近江の水うみの下なれば、待とも更に水はひ
まじ、川をへだて山をへだてたればとて、目にかけ
たる敵をうたであるべきやうやはある、善悪軍の延
びてよき事は候はざらんものを、就中奈良法師三万
余騎の大勢にて、宮の御迎に参る由聞え候、敵に勢
をつけてなんのせんか候べき、かたきの無勢なる時、
ただ渡して急ぎ勝負を決せらるべし、淀いもあらひ
をば唐土天ぢくのつはものをめしては、よも渡され
じなれば、終には各が大事にもこそむかはんずれ、
昔秩父足利と中を違ひて、度々合戦をしけるに、武
蔵と上野との境に利根川といふ大河あり合戦のため
によする時は、瀬を尋て渡せども落つる時は、ふち
瀬もきらはず渡りけり、人もながれず馬も死なず、
ある時足利より秩父へよせし時、上野新田入道を憑
てからめ手をよせさす、大手は長沢の渡をす、搦手
は古我粉の渡りといふ所をわたさんとすれば、ちち
ぶが方より五百余艘の舟を河原に引あげられて、新
田わたりをせざりしに、人にたのまれて、今日の軍
のからめ手によするもの、敵に舟をとられたればと
て、ここにひかへてあるものならば、かへりちうし
てけりと思けがされん事口をしかるべし、かべねは
そこのみくづとなすとも、名をば此河に流がせやと
て、五百余騎の勢にて馬いかだをつくりて渡して、
その日のいくさにはかちにけり、されば新田も渡せ
ばこそ渡してけめ、此河を見るに橋より上のながれ
やう長井の渡りによもすぎじ、いざわたさん殿原と
て、伴なふ者ども、足利が一党のものどもには、小
野寺の禅師太郎、吉水五郎、戸矢子七郎、その子太
P284
郎、佐貫広綱四郎大夫、大子、大室、深栖、山上那和太
郎、郎等には金子丹次郎、大岡太郎、利根四郎、彦
田四郎、田中藤太、宗太、鎮西八、喜里宇六郎、うぶご
やの次郎をはじめとして、家子七十余騎、郎等二百
余騎くつばみを並べてさつとわたす、是を見てむか
へのきしより、三位入道の三百余騎矢先をそろへて
射けれども、馬も射させず、手も負はず、忠綱申け
るは、つよき馬をば、うは手に立てよ、弱き馬をば
したてにたてよ、かたを並べて手をとりくめ、先な
る馬の尾に取つけ、遠からんものには弓はずをとら
せよ、あまたが力を一にして、馬の足の及ばん所を
ば、手綱をすくひてあゆませよ、馬の足のたたぬ所
をば、手綱をくれておよがせよ、かしらあがらば前
輪にかかれ、かしらしづまば、しづわにのりさがれ、
うは手のあぶみを強くふめ、水には多く馬にはすく
なくかかるべし、手綱にみをあらせよ、さればとて
引かつぐな、河中にて弓ばし引くな、かぶとの錏を
かたぶけよ、かたぶけすごしててへん射さすな、射
むけの袖をまつかうにあてよ、水ははやし、底は深
し一文字にな渡しそ、水にしなひて、五六段はさが
らばさがれ、馬たをひて敵によわげ見ゆるな、渡せ
や渡せや殿原とて、三百余騎一騎も流さず、橋より下
五六段ばかりさがりて、むかへのきしにさつとつき
てうちあがり、あぶみふんばり弓杖つきて、馬の気
つかせて、暫く物の具の水はしらかす、さるほどに
夜もほのぼのとあけにけり、忠綱もくらん地の直
垂に、ひをどしの鎧のおもだかをば金ものにうちた
るに、鍬がたうちたる白星のかぶとをゐくびに着な
して、紅のほろをかけ、大中黒の廿四さしたる征矢
かしら高におひなして、重籐の弓の真中取てれんぜ
んあしげなる馬の七寸にはづみ、ふとくたくましき
に、白ふくりんの鞍おきてぞ乗たりける、平等院の
前にうちよせて、皆くれなゐのあふぎひらきつかひ
て申けるは、ただ今此河を渡して候者をば、何者と
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も君はよもしろしめされ候はじ、是は、昔承平の比
朝敵将門を討ちて、帝王のげんざんに入て、名を後
代にあげて候し俵藤太秀郷には五代の孫、下野国住
人足利の又太郎忠綱、童名王法師、生年十七歳、小
事はしらず、大事にあふ事三ヶ度、いまだ不覚を仕
らず、か様の無官無位の身にて君に向ひ参らせて、
弓を引き、矢をはなち候はん事、神慮も御照覧候へ、
その恐れ少なからず候へども、太政入道殿御使にて
候へば、くわほうも冥加も、入道殿に任し奉り候、
今日先陣に於ては、忠綱渡して候、源三位入道殿に
見参に入候はんとて、やがて門の内へぞせめ入ける、
是を見て平家の軍兵我も我もと渡しけり、三万余騎
の大勢一度に河に打入たりければ大勢にせかれて水
流れやらず、暫くよどみてぞ見えける、下の瀬を渡る
雑人などは腹巻のくさずりもぬらさでわたり着く、
乗かへ郎等などの河の案内もしらぬ者共の、むまや
人やとひざよりをのづからはづむ水に、なにもたま
らずながれけり、かれ是八百余騎は流れにけり、そ
の外は皆渡り着にけり、三万余騎の勢大略渡りたり
ければ、宮の御方の兵三百余騎を中にとりこめて戦
ふ、三位入道頼政は、ちやうけんの直垂にしながは
をどしの鎧を着、今日を限りと思はれければ、わざ
とかぶとをば着ざりけり、子息伊豆守仲綱は、赤地
の錦の直垂に黒革をどしの鎧きて、是も矢束をなが
くひかんがためにかぶとをば着ざりけり、舎弟源太
夫判官かね綱は、萠黄のすずしの直垂に、緋威の鎧
に白星のかぶとを着て、白あしげなる馬にぞのりた
りける、六条蔵人父子渡辺の郎等共、我も我もと命
を惜まず戦ひけり、此間に宮はのびさせたまひける
を、平家の大勢せめかかりければ、兼綱父をのばさ
んと返合て戦ひけるぼどに、兼綱大事の手負ひてぶ
ちをあげて、奈良路をさして落けるを、上総の太郎
判官忠綱、七百余騎にて追かけて、此先へ落たまふは
源大夫判官殿とこそ見えたれ、いかでうたてくも源
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氏の名折に、鎧のうしろをば敵に見せ給ふぞ、きた
なしや、返し合せよやといひてせめかかりければ、
是は宮の御ともに参るぞと答へけれども、敵無下に
責よりたりければ、今はかなはじとや思ひけん、我
身相具してただ十一騎ぞありける、馬のはなを引返
して、十文字にかけ入たりければ、中をあけてさつ
ととほす、一人もくむものなかりければ、立さま横
さまにさんざんにぞかけたりける、忠綱これをみて
よくひきていたりければ、兼つな内かぶとをいさせ
て、少しひるむやうにしける所を、忠つながわらは
次郎丸すぐれたる大りきなりけるが、おしならべて
組で落ちぬ、取ておさへたりけれども、暫く首をか
かざりけるを、忠つなが郎等落ち合ひて鎧の草ずり
をたたみあげて、二刀さしたりければ、内かぶとも
いた手にてよわりたりけるうへ、かくさされてけれ
ば、はたらかざりけるを、首をかき切てけり、三位
入道是をも知らず、兼つなが引返すを見て、同く引
返て平家の大勢をたびたび河ばたへ追返して、敵数
多討取り、手おはせてさいごのかつせんとぞはげま
れける、此入道わかくてはゆゆしき精兵と聞しかど
も、七十にあまりて、今は弓の力もことの外におと
り、矢つかもみじかく成たりけれども、なべての人
にはにざりけり、矢おもての物ども、うらかかせず
といふ事なし、矢だね皆つくして太刀をぬいて走り
まはりける程に、右のひざぶしすねあてのはづれを
いさせて、あぶみをふまざりければ、郎等のかたに
かかりて、平等院のつりどのへぞ入にける、伊豆守
も父のもとに同く引籠りぬ、鎧ぬぎける所へ六条蔵
人仲家、三位入道のもとへ使をたてて申けるは、御
やくそくたがへ参らせで、防ぎ矢をばよくよく仕候
ぞ、源大夫判官どのもすでに討れたまひぬ、しづか
に御念仏申させたまへ、やがて御とも仕るべく候と
申つかはしたりければ、その時三位入道今はかうご
ざんなれと思ひて、郎等どもにふせぎ矢いさせてじ
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がいせんとしけるが、箙の中より小硯をとりいだし
て、つりどののはしらにかくぞ書付られける、
むもれ木の花さく事もなかりしに
身のなりはてぞ哀なりける W070 K076
此時など歌よむべしとも覚えね共、かやうの時もせ
られけるにこそとあはれなり、さてわたなべの丁七
となふをよびて首をうてといふ、主の首うたん事さ
すがにかはゆく覚えて、御自害候べしとて、太刀を
さしやりたりければ、入道太刀をぬきて、伊豆どの
自害ばしわろくすな、是は後代の物語にてあらんず
るぞ、是を本にしたまへとて、念仏百へんばかり申
て太刀の先をはらにあててたふれかかり死にけり、
その後下総国住人下河辺藤三郎よりて首をとり、直
垂の袖に包みて、板敷のかべ板をつきやぶりて、か
くしてけり、伊豆守是をみていなばの国住人弥太郎
もりかねといふものを召して、我首をば入道どのの
首といつしよにおけとて、はらかき切りてふしにけ
り、盛兼首をとつて、平等院の後戸の壁板をはなち
てなげ入たり、人是を知ず、後日に血の流れ出たりけ
るを見て、かべをうちはなちて見ければ、死人の首
一あり、伊豆守なり、さてこそじがいの門とて今に
あり、六条蔵人は門にて郎等どもと防ぎ矢いけるが、
もりかね走り出て、すでに入道どのも伊豆殿も御自
害候ぬといひければ、仲家いまはかうござんなれと
て、父子自害して伏しにけり、大将軍ども自害して
ければ、渡辺の者どもの中にも、競となふ以下のむ
ねとの者どもは、自害しつ、おちつべきものども落
ちにけり、下河辺のものどもあまたありけるも、落
ちにけり、伊豆守のかたに、伊豆国住人工藤四郎五
郎とて、兄弟ありけるも、落ちにけり、その中に滝
口が事をば大将安からぬ事にして、軍兵うちたちけ
る所にて、相かまへて競いけどりにせよ、のこぎり
にて首をきらんとのたまひければ、侍ども随分心に
懸たりけれども、競先に心得て、敵にとられば、自
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害してんず、一度もはぢをば見まじき物をと思ひ切
て、さんざんに戦ひて、敵あまた打ち取て自害して
けり、人は皆落ちけれども、はぶくは、宇治橋のを
とこ柱をこだてに取て、命もをしまず戦ひけり、二
人の子ども尋ね来て、三位入道どのも伊豆殿も御自
害候ぬと申ければ、入道殿には誰かつき参らせたる
と言ければ、丁七となふが附き参らせて候と申けれ
ば、さては心安し、御首など無下に敵にとらるる事
よもあらじとて軍をばせで、中ざしぬきてをとこ柱
に並べ立て、歌をぞ一首よみたりける、
君がために身をばはぶくとせし程に
世を宇治川に名をばながしつ W071 K281
といひはつれば、自害せんとしけるを、二人の子ど
も、左右の手に取付て、わかれを惜みてなく、力及
ばで親子三騎にておちけるが、栗子山のたうげへは
せ行て、いかが思ひけん、はぶくいひけるは、抑弓
矢取者のちぎりを変ずる様やある、三位入道殿一所
にてと御ちぎり有つるに、入道殿は平等院にて自害
したまひぬ、はぶくかひなき命をここまで落たるこ
そ口惜けれ、たとひ人々の落つるといふとも、日
本国を敵にうけたり、いづくへ行たりともおだしか
るべしとも思はず、ここにて自害して入道殿に追付
参らせん、わどの原はとくとく伊豆の兵衛佐殿に参
るべし、末頼もしき人ぞ、若ければいかなるふるま
ひをもして、各々が身ひとつを助かりて、兵衛佐殿
の御ありさまを見はて参らせよ、はぶくが後世をも
とぶらへとて、自害せんとしければ、二人の子ども、
我もともに自害せんとなきけり、若くさかんなる子
どもの命を失はん事ものうかるべしとて、思わづら
ひて居たりけるが、いと久しくあて、水のほしく覚
ゆるぞ、いかがせんといひければ、軍にはしつかれ
たり、さる事あるらんとて、二人の子ども谷へ走り
下て、水をもとむ、はぶく水のほしきといひけるは、
子どもをのけんとのはかりごと也、二人の子どもお
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りたりける所に、物の具ぬぎすて、念仏百返ばかり
となへて、腹かきやぶりて死にぬ、二人の子ども谷
に行て、小川のありける所にて水をくみて行べきも
のもなかりければ、白帷子をぬぎ、よくよく谷川に
て洗ひて、水をしめて持ちて行たれども、父は自害
して死にぬれば、水を進むるに及ばず、父が足手に
取つきて、声もをしまずなき居たり、されども帰来
る事に能はず、力及ばずしてむなしき父の首をかき
落して、鎧直垂の袖に包みて、なくなく落行けるこ
そむざんなれ、ゑんまん院の大輔は、ひをどしの鎧
にゆひがしらして、大長刀をくきみじかに取なして、
宮いまだ是に渡らせたまふ、我と思はんものどもは
参りて見参に入やと申ければ、兵ども馬の足をなが
れじとて、百人ばかり馬よりおりたちて、太刀をぬ
きてかかりければ、大輔長刀打ふりて、百余人が中
へおめいて走り入ければ、敵中をあけてさつと散る
所を走り越えて、河へ入て水の底をくぐりむかへの
岸にののしりあがる、しころ打ふり、よろひぬぎし
て、物の具の水はしらかしけり、長刀打ふりて平家
の殿ばらここに来られなんや、いとま申てとて頭打
ふりて、寺のかたへぞ落にける、宮は平等院をおち
させたまひて、男山をふしをがませ給ひて、二井の
池をもすぎさせ給ひにけり、此のほど御しんはなら
ず御のどかわかせたまひて水参りたく思召されけれ
ば、ある所に小川ながれたりけるを、汲みて参らせ
たり、此所をばいづくといふぞ、又此川をば何川と
いふぞと尋させ給ひけるに、此辺をば山城の井での
たかのは川と申、川をば水なし川と申候と申たりけ
れば、御うちうなづかせ給ひて、
山城のたかのわたりに時雨して
水なし川に波やたつらん W072 K077
と口ずさませ給ひて、光明山の前にぞかからせ給ひ
ける、飛騨の判官かげたか、宮は先立せたまひぬと
見てければ、平等院の軍をばうち捨てて、宮の御あ
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とにつきて追奉りけるほどに、光明山の鳥居の前に
て追ひ付き奉けり、郎等ども、遠矢に射るほどに、流
矢宮の御そば腹に中りて、御馬よりさかさまに落さ
せ給ひぬ、御目も御覧じあげられず、寺法師にさぬ
きのあじやり覚尊といひけるもの、御ともにありけ
るが、此ほど宮に思ひ付参らせて、御身近く候けり、
そけんの衣にちがへ袖して、したはら巻着て、三位
入道の秘蔵の馬あぶら鹿毛にぞ乗たりける、此馬に
乗て御ともすべしとてえたりけるとかや、かくそん
馬よりとび下りて、宮をかかへ参らせてありけれど
も、ものも仰せられずして御息たえにけり、くろ丸と
いふ御中間、御馬にかきのせ奉りけれどもかなはず、
さるほどに敵すでにせめかかりて、飛騨判官鞭を差
てあれあれといひければ、郎等どもあまたおち合ひ
て、宮の御首を取奉らんとするに、かくそん太刀を
抜きて打払ひていひけるは、わぎみは飛騨の判官か
げたかと見るはいかにひが事か、君かくて渡らせ給
ふ、又かくそんあるにいかに馬にのりながら事をば
下知するぞ、おのれは日本第一のしれものかなとい
ひければ、さないはせそとて、郎等十余人落合たり、
かくそんも驚かず、中へとび入てさんざんに切まは
る、寺法師に、りつじやう房日胤が弟子伊賀房、ぜ
うゑん房が弟子、刑部房俊秀等のこりとどまりて、
命を惜まず八方を切まはる、ここによて、十余人の
者ども皆討れにけり、遠矢に射ける程にかくそんが
膝ぶしをかせぎに射つなぬかれて、片膝ついて、腰
刀をぬきて、腹巻の引あはせをおし切りて腹かき切
つて、宮の御とのごもりたる御あとにふして、腹わ
たくり出して、やがて御ともに参るぞとて死ににけ
り、日胤はなほ敵の中へ走り入て、敵六人うちとり
て討死す、伊賀房は八人切伏せて、四人に手を負せ
て、奈良の方へぞ落ちにける、此紛れに黒丸も失せ
にけり、さて宮の御首をば、景高まいりて取参らせ
てけり、寺法師りつじやう房日胤は、伊豆の兵衛佐
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頼朝いまだ国におはしける時、諸寺諸山にきそうを
尋ね聞て、忍で祈りをせさせられけるに、園城寺に
は日胤をもて、いのりの師とせられけるが、日胤八
幡に千日こもりて、無言にて大はんにやを読誦しけ
り、七百日にあたる夜、御ほう殿よりこがねのかぶ
とを給はると示現を蒙りてありければ、日胤伊豆の
国へはしり下りて、兵衛佐にかたり申、佐大きに悦
で、なにさまにも末頼母しき事にてこそ候なれと、
夢合せし給ひて、頼朝世にあらば思ひしるべしとぞ
のたまひける、さるほどに騒動ありと聞えければ、に
ちいん急ぎはせ上て、此事にあひて死にけり、平家
ほろびて後、兵衛佐代を取て、彼りつじやう房尋られ
けるに、去治承のころ、高倉の宮に御とも申て討死
仕て候と、寺より申たりければ、さてはひぶんのこ
とにこそあんなれとて、かつうは祈りの師なり、
昔かたりし夢のくわんしやうにも、孝養すべし、是
しかしながら律静房の故なりとて、かの報恩孝養い
まにたえずぞありける、
南都大衆三万余人御迎に奉る、すでに先陣は木津川
までむかふ、後陣はいまだ興福寺の南大門にありな
んとののしりければ、たのもしく思召されけれども、
今四五十町渡らせ給つかで、討れさせ給ひけるこそ
かなしけれ、まさしき法皇の御子なり、位につかせ
給ひて、代をしろし召すとても、かたかるべきに非
ず、それまでこそなからめ、今かかる御事あるべき
や、いかなる先世の御宿業ぞと思ふもあはれなり、
宮は、光明山の鳥居の前にてうたれさせ給ひぬと聞
えければ、大将軍のおはせざらんいくさすべきに非
ずとて、南都の大衆なら坂より引退きにけり、佐大
夫宗信は、馬よわくて、宮の御ともにもえ参りつか
ず、さがりたりけるが、後には敵すでにせめかかり
たり、せん方なくて、二井の池の南のはたの水の中
に入て、草にて顔をかくして、わななきふせりける
が、軍兵どものけかぶとになりて、道あらそひて、
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いくらともなく馳行ありさま、おそろしなどはいふ
ばかりなし、宮はさりとも今は木津川を渡らせたま
ひて、なら坂などへはかからせ給ひぬらんと思ひけ
るに、浄衣きたる死人の首もなきを、たごしにのせ
てかきて通りけるを見れば、宮の御むくろなり、御
笛を御腰にささせ給へり、はや討れさせたまひけり
と見参らせければ、やがてめもくれ、心も消えはて
て、いだきつき参らせばやと思ひけれども、さすが
走りも出られず、その時は命はよくをしかりけるも
のかなと身ながら覚えける、御笛は御秘蔵のさえだ
なりけり、此笛を我死にたらば、必棺に入れよとま
で仰られけるとぞ、のちには人々かたりける、佐大
夫は、夜に入て池の中よりはひ出でて、はうはう京
へ帰りにけり、かひなき命ばかり生きて、五十まで
よるかたもなかりけるが、正治元年に改名して伊賀
守になりて邦輔とぞ申ける、此宗信は、六条宰相宗
保の孫、左衛門佐宗光の子なり、
さて宮よりはじめ奉て、源三位入道以下五十余人が
首をささげて、軍兵都へ帰入、事のありさま目もあ
てられず、頼政入道の首とて持ちたりけるは、はる
かに若き首をぞ、頼政が首とて渡しける、惣じて宮
の御かたにてうたるる者六十余人、手負四十余人也、
平家の方には、手負数をしらず、しぬる者七百余人
とぞ聞えし、此宮は、常に人の参りよる事もなかり
ければ、はかばかしく見知り参らせたる者もなかり
けり、たれ人か見知り参らせたると、京中を尋ねら
るれば、典薬頭定成朝臣こそ先年に御悩の時御療治
に参りて、見知り参らせたる人と申ければ、定成朝
臣を召して見せらるべきにてありければ、定成是を
聞ておほきにいたみ申ける程に、よくよく見知り参
らせたる女房を尋出されて、見せられたりければ、
御首見けるより、ともかくもものもいはで、袖をか
ほにおしあて、さめざめとなきければ、一定の御首
とはしりにけり、年ごろなれ近づき奉て、御子もお
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はしましければ、おろかならず思召しける人なり、
女房もいかにもして、今一度見奉んと思はれける志
の深さの余に、見奉りけり、中々よしなかりける事
かなとぞ覚えし、心の中いかばかりなりけん、おし
はかられていとをし、宮は御顔にきずの渡らせたま
ひて、すでにあやうくわたらせ給ひけるを、定成朝
臣すぐれたる名醫にてありければ、めでたくつくろ
ひ出し参らせて、そのたびたすからせ給ひにけり、
御かほのきずはそのあととぞうけたまはる、かの定
成朝臣は、いえがたき痛をもいやしければ、時に取
ては耆婆、扁鵲の如くにおもへり、
平家物語巻第八終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第九
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平家物語巻第九
治承四年六月二日、俄に太政入道としごろ通ひ給ひ
ける福原へ行幸ありけり、都うつりとぞ申ける、中
宮、一院、新院、摂政殿を始奉て、公卿、殿上人皆
参り給へり、三日と聞えけるを、俄に引あげられけ
る間、供奉の人々、上下いとどあわてさわぎ、取る
物も取あへず、帝皇の幼くおはしますには、后こそ
同輿には奉るに、御めのと平大納言時忠卿の北の方
典侍殿と申しぞ参り給ける、是は先例なき事なりと
ぞ人あざみあへりける、
三日池大納言頼盛の家を皇居と定めて、主上渡らせ
たまふ、四日頼盛家のしやうをかうぶりて、正二位
したまへり、右大臣兼実の御子右大将よしみち越ら
れ給へり、
法皇福原に三間なる板屋をつくりて、四面にはたい
たしまはして、南にむけて口一あけたるにぞわたら
せ給ひける、いつものくせなれば童、楼の御所とぞ
申ける、法皇鳥羽殿にてはさすがにひろくてよかり
しものを、よしなくも出にけるものかなとぞ思召し
ける、せめての事とおぼえてあはれなり、筑紫の武士
いはとの小郷たねなほが子に、佐原大夫たねます守
護し奉る、守護の武士きびしくて、一日に二度供御
の参る外は、たやすく人も参らざりけり、鳥羽殿を出
させ給ひしかばくつろぐやらんと思召しけるに、
高倉の宮の御事出きて、今又かくのみあればいかに
となりなんずるやらんと御心細くぞ思召しける、今
は世の事もしろし召したくもなし、花山法皇のまし
ましけるやうに、山々寺々をも修行して、御心に任
せておはしまさばやとぞ思召されける、
神武天皇は天神七代地神五代十二代の御すゑをうけ
つつ、人代百王のはじめの帝にておはしましける、
辛酉の年、日向の国宮前郡にて、皇王の宝祚をつぎ
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給へり、五十九年と申しつちのとひつじの年十月、
東征して、豊葦原の中津国にとどまりつつ、大和の
国うねび山をてんじて、帝都を立てて、橿原の地を伐
り払ひて、宮室を作りたまひき、則ち橿原の宮と申
ししよりこのかた、代々帝皇の御時都を遷さるる事
三十度に余り四十度に及べり、神武天皇より景行天
皇まで十二代は大和の国に所々に宮造してうつりお
はしまししが、
成務天皇元年、大和国より近江の国志賀の郡に都を
うつし給ふ、
仲哀天皇二年九月、長門の国に移りてとよらの郡に
御座す、仁徳天皇元年に、津の国難波に都を立て
て、高津宮にすみ給ふ、
覆中天皇二年、大和国に帰て十市郡に都を立、反正
天皇元年大和の国より河内の国に遷り、柴籬の宮に
おはします、
允恭天皇四十二年に、河内の国よりまた大和国へ帰
て、遠明日香の宮をつくる、
安康天皇三年、大和国泊瀬朝倉に宮を定、
継体天皇五年、山城国つづきにうつされて十二年お
はしき、そののち乙国に住給ふ、
宣化天皇元年に、猶大和の国へ帰て、桧曲の盧入野に
宮居し給ふ、欽明天皇より皇極天皇まで七代は、大
和国郡々におはしまして、他国へはうつり給はず、
孝徳天皇大化元年、津の国ながらにうつされて豊
崎に宮をたつ、
斉明天皇[B 「天皇」に「女帝」と傍書]二年に、猶大和の国へ帰て、あすかの岡本の
宮におはします、
天智天皇六年に、また近江国志賀郡にうつりて、大
津の宮をつくる、天武天皇元年に大和国へ帰て、
岡本の南宮に住み給ふ、ここをあすかの清見原の宮
と申、持統天皇より光仁天皇まで九代は、猶大和
の国奈良の京におはしまししが、桓武天皇の御宇延
暦三年の十月に、山城の国長岡に移り給ひて、十年は
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此京にましましし程に、同十二年の正月に、大納言
藤原小黒丸、参議左大弁古佐美、大僧都賢〓等を遣
はして、当国の葛野郡宇太村を見せらるるに、両人
ともに申ていはく、此地は、左青龍、右白虎、前朱雀、
後玄武、四神相応地なりと申ければ、愛宕郡におは
します、加茂大明神つげ申されて、同十三年、長岡
京より此の平安城へ移り給ひしより、都を他所へ移
されず、帝皇は三十二代星霜は四百余歳也、むかし
より多くの都有けれども、此京ほどのめでたき所な
しとて、いかがして末代まで此京を他国へうつされ
ぬ事あるべきとて、大臣公卿諸道の博士才人達を召
し集めて、せんぎあて長久成るべき様とて、土にて
八尺の人形を作りて、甲冑をきせつつ、弓矢を持せ
て、王城を守れとて東山の嶺に西に向て立て、ほり埋
みたり、将軍塚とて今にあり、天下に事いてき、ひ
やうかく起らんとては、必ず告知らしめんとて、此
塚なり動くといへり、かしは原の天皇と申は、平
家の先祖にておはします、先祖の御門これ程にしゆ
し思召したる都を、その御末をうけて、さしたるそ
の故もなく、他所へ移す事心得がたし、此京をば字
には平安城といふ、平やすしとかけるめり、かたが
たもて捨てがたし、就中主上も上皇も皆もて平家の
外孫にて、おはします君もいかですてさせ給べき、
是は国々のえびす共せめ上りて、平家都に跡をとど
めず、山野に交るべきずゐさうなりとぞ覚えたる、
ただ今世はうせなんず心うきこと也、もはら平家も
てなしたまふべき都を他国へうつし、当帝をおろし
奉て、太政入道の孫を位につけ奉て、高倉宮の皇子
うち奉てかうべをきり、関白松殿を流し奉て、我む
こ近衛殿をなし奉り、大臣公卿殿上人以下北面の下
臈にいたるまで、或は流し或は殺す、悪行のある限
りをつくして、残る所都遷りばかりなれば、かくし
給ふにこそと人申ける、嵯峨天皇御時大同五年に、
都を他国へうつさんとしても、人さわぎ歎きしかば、
P297
とどまらせ給ひにき、一天の君万乗の主だにもうつ
しえ給はぬ都を、たやすく凡人の身として思企てら
れけんぞおほけなき、
まことにめでたかりつる平安城ぞかし、王城鎮守の
やしろやしろ四方に光を和らげ、れいけん殊勝の寺々
上下に居をしめ給ふ、百姓万民も煩ひなく、五畿七道
に便あり、是を捨給はん事守護の仏神非をうけ給ふ
べしや、四海の黎民鬱あるべし、いかに況んや論語云
犯人者有乱亡患、犯神者有疾夭禍恐ろし恐ろし
といへり、此京は西方分なり、大将軍酉にあり、方
角すでにふさがる、されば勘文を召されける中に、
陰陽博士安倍季弘の勘状云、
本脩所差、大将軍王相、不論遠近、同可忌避
諸事、然而至遷都者、先例不避之歟、桓武天
皇延暦十三年十月廿一日、長岡京より遷都於葛野
京、今年為冬分、当王相方已不被避之、是依
旧不論方忌、次大将軍之禁忌猶不(レ)及、王相方
就延暦之佳例被遷都、雖為大将軍之方、何可
有其憚哉、
といへり、是を聞てある人申けるは、延暦の遷都に
御方違ありといへり、ながく旧都をすてられんに於
ては、方角の禁忌あるべからずともいへり、何様にも
御方違はあるべかりけるものをと人唇を返しける、
新都へ供奉の人の中に、旧都の柱にかきつけらる、
百年を四かへりまでに過きにし
おたぎの里のあれやはてなん W073 K086
咲出るはなの都をふりすてて
風ふく原のすゑぞあやうき W074 K088
六月九日、福原の新都の事始とぞ聞えし、福原とい
ふ所は北には神明跡をたれ、いく田、広田、西の宮、
千代にかはらぬみどりは雀の松原、みかけの松、雲
井にさらす布引の滝、南をのぞめば、うみまんまん
たるあはぢ島山、眼の前にさへぎる船、ゑんほの行
かふも哀に心すめる眺望なり、上卿は左大将実定、
P298
宰相には右中将通親、奉行には頭左中弁経房、蔵人
左少弁行隆とぞ聞えし、河内のかみ光行丈尺をとり
て、和田の松原西野に宮城の地を定られけるに、一
条より五条までこそ小路ありけれ、五条より下其所
なかりけり、土御門宰相中将通親三条大路の広さを
あけて、十二の通門をたつ、大国にもかうこそしけ
れ、我朝に五条まであるはなんの不足かあるべきと
ぞ申されける、されども行事官どもちから及はで帰
りにけり、さては小屋野にてあるべきか又いなみ野
にてあるべきかなど、公卿僉議ありけれども、事も
ゆかず先づ里内裏を作るべきよし議定あて、五条大
納言国綱、周防国を給てつくり進せらるべきよし、
太政入道申されければ、六月廿三日事はじめあて八
月十日棟上あるべしと定め申されけり、
彼大納言大福長者なり、つくり出さん事は左右に及
ばねども、いかでか民の煩ひなかるべき、殊にさし
あたりたる大会を差置て、かかる世の乱に遷幸造
内裏海賊かつきぬとぞ見えたる論語に云、楚起章花
之台而黎民散、秦興阿房殿而天下乱ともいへり、
又帝範云茅茨不剪、採椽不〓、舟車不餝、衣服無
文といへり、唐の太宗の驪山宮を作りながら、民の
費をいたみて、終に臨幸なくしてかきに苔むし瓦に
松生ひてやみにけり、さるままに新都は繁昌して、
旧都は荒れはてて、たまたま残れる家々には門ぜん
に草生て、庭上につゆふかし、空しきあとは雉兎禽
獣のすみか、黄竹紫蘭の野辺とぞ成にける、
廿一日園城寺の円恵法親王と申は、後白河院の御子
なり、天王寺別当とどめられたまひて、検非違使つ
きて悪僧を召され給ふ、院宣云、
園城寺悪僧等違背朝家、忽企謀叛、仍門徒僧綱以
下皆悉停止公請解却見任并綱徳兼又末寺庄園
及彼寺僧等私領仰諸国宰吏早令収公、但於有
限寺用者、為国司之沙汰付寺家、所司任其
用途莫令退転、恒例仏事無品円恵法親王宜令
P299
停止所帯天王寺検校職、
とぞかかれたりける、上綱には
僧正房覚、権僧正覚智、法印権大僧都定慧、能慶、実
慶、行乗、権少僧都真円、豪禅、兼智、良智、顕舜、
慶智、権律師道顕、覚増、勝成、行智、行舜、〈 以上十七人 〉
見任解却、
法印公経、行暁、慶実、法眼真勝、道澄、道俊、弁
窓、実印、倫円、源獻、観忠、法橋良俊、忠祐、良
覚、前大僧正覚讃、前権僧正公顕、前権少僧都道任、
〈 以上廿人准上、 〉次二会講師、円全、障〓、証兼、公胤〈 以上四人令停止公請、 〉
殊僧綱十三人、公請をやめられ、官を召さる、所領
を没官して、同使庁使を付て水火のせめに及で、悪
僧を召さる、
房覚一乗院僧正をば飛騨判官景高朝臣承る、実慶常
陸法印をば、上総判官忠綱朝臣承る、行乗中納言法
印をば、博士判官章貞承る、能慶真如院法印をば、
和泉判官仲頼承る、真円亮僧都をば、源大夫判官季
貞承る、覚智美濃僧正をば、摂津判官盛澄承る、勝
慶蔵人法橋をば、祇園博士判官基広承る、公顕宰相
僧正をば、出羽判官光長承る、覚讃僧正をば、斎藤
判官友実承る、乗智明王院僧都をば、新志明基承る、
実印右大臣法眼をば、任府生経広承はる、観忠中納
言法眼、行暁大蔵法印をば、紀府生兼康承はる、去
五月に高倉宮扶持し奉りし事によて、三井寺せめら
るべしとさたありければ、大衆発て大津の南北の浦
にかひたてかき矢倉かきて、防ぐべきよし結構す、
十一月十七日、頭中将重衡朝臣を大将軍にて、一千
余騎の軍兵を卒して、三井寺へ発向す、衆徒防ぎ戦
ふといへども、何事かはあるべき、三百余人討れに
けり、残る所の大衆こらへずしておちにけり、重衡
朝臣寺中にうち入て、次第に是を焼拂ふ、南北の中
三院内焼所の堂舎塔廟、神社、仏閣、本覚院、鶏足
坊、常喜院、真如院、桂薗院、尊皇院、王堂、普賢
堂、青龍院、大宝院、今熊野宝殿、同拝殿等、護法
P300
善神社檀教待和尚本坊〈 同御身影像同本尊等 〉鐘楼七宇、二階大門、
〈 右金剛力士 〉八間四面大講堂、三重宝塔一基、阿弥陀堂、同
宝蔵、山王宝殿四足一宇、四面廻廊、五輪院、十二
間大坊三院、各別灌頂堂〈 各一宇 〉、但金堂ばかりはやけざ
りけり、其外の僧房六百宇大津の在家千五百余家地
を拂畢、
仏像二千余体、顕密両宗章疏大師の渡したまへる唐
本一切経五千余巻、忽に灰燼と成ぬ、又焼死する所
の雑人既に千余人とぞ聞えし、凡顕密須臾に滅して
伽藍更にあともなし、三密道場もなければ、振鈴の
声も聞えず、一花も仏前になければ、あかの水もた
えにけり、宿老有智の大徳も行学に怠り、受法相承
も経教にわかれたり、此寺と申は本は近江大領私の
寺たりしを天智天皇に寄進し奉りしより以来、御願
寺となる、本仏と申も彼の帝の御本尊なりしを、生身
の弥勒如来と聞給ひし、教待和尚百六十二年行て、
その後、智証大師に附属したまひたりける弥勒とぞ
聞えし、都史多天上摩尼宝殿よりあまくだりましま
して、はるかに龍花下生の朝を待たまふと聞つるに、
こはいかになりぬるやらん、当時の恵命もすでに尽
き果てぬるにやとぞ見えし、天智天武持統三代の帝
の御鵜葺湯の水を汲たりける故に、御井寺と名付た
り、または此所を伝法灌頂の霊跡として、井花水を
汲む事慈尊の朝を待故に、三井寺とも申也、かくや
んごとなき聖跡ともいばず、弓矢を入、凶徒乱入して
塵灰となされける事こそ悲しけれ、
廿一日園城寺円恵法親王、天王寺別当をやめられ給
ふ、彼宮と申は、後白河院御子なり、院宣云、
園城寺悪僧、奉違背朝家、企謀叛仍門徒僧綱
以下悉停止公請、兼又末寺庄園及彼寺僧等私領、
仰諸国宰吏可令収公、但有限寺用者、為国
司沙汰、付寺家所司、任其用途勿令退転、恒
例仏寺無品円恵法親王、宜令停止天王寺検校
職、
P301
とぞかかれたりける、〈 ○今按二十一日以下之文恐衍 〉新都は益々繁昌し、
旧都は弥あれゆくめり、小路には辻毎に堀をほり、
逆茂木を引きて、車など通ふべくもなければ、たま
さかに小車に乗る人も、道をへてぞ行通ひける、程
なく田舎にたたなりになるも、夢の心地して浅まし
き、人々の家々皆こぼちつつ、筏にくみて福原へと
ぞ賀茂川かつら川にうけて下す間、むなしきあとの
み多ければ浅ぢが原、よもぎがそま、鳥のふしどと
なりはてて、虫の声のみぞ恨むる、残る所も門をと
ぢて、庭には草深くして茂き野辺とぞなりにける、心
細くかなしからずといふ事なし、新都の道のほとり
を見れば、車にのるべきものは、馬にのり、衣冠布
衣なるべき者は、多く直垂を着たり、都の手ぶり忽
に改りて、ただひなびたる武士に異ならず、秋もふ
かくなり行けば、心ある人々名所々々の月を見る、
源氏大将のあとを追、須磨より明石へ浦伝ふ人もあ
り、あはぢの瀬戸をおし渡りゑじまの月見る人もあ
り、都のほとりの恋しさに広沢へ行人もあり、この
中に後徳大寺の左大将実定古き都を恋て、八月十日
余の比にや、入道の宿所に行向ひて、今一度旧都の
月を見候はばやと存候、実定いとまを給候なんやと
のたまひければ、入道いつよりも心よげにて、何か
くるしく候べき、とくとくとありければ、実定悦で
むちをあげてぞのぼられける、鳥羽田のおもの秋の
暮、稲葉がすゑを渡る風、恨むる虫の声までも身に
しみ、露も涙に争ひて袂をしぼるばかりなり、大将
その夜は大宮の御所にまいらせたまひ、待宵の小侍
従をぞ尋ねたまひける、かの小侍従と申は、もとは
安房の局とぞ申ける、高倉院御位の時御悩あて供御
も参らず、歌よみたらは供御参りてんとありければ、
時もかはらず、
君が代は二万の里人数そひて
今も備ふるみつぎものかな W075 K091
とよみたりければ、その時のけん賞に侍従には成さ
P302
れたりけるとぞ申、のちには皇太后宮に参り、せい
のちいさかりければ、小侍従とぞ召されける、かの
母と申は、鳥羽院の御内に小大進の局とて候けるが、
いささかなる事によて、御内を住うかれ、かた辺土
なる所にかすかなる住居にてぞ候ける、或時小大進
のつぼねうづまさに参りて七日籠り、我身のありわ
びたる事をぞいのり申ける、七日にまんじける暁、
下向せんとての夜半ばかり、薬師の十二の誓願の中
に、衆病悉除のたのもしきことを思ひ出し、
南無薬師憐み給へ世の中に
すみわびたるも同じ病ひぞ W076 K282
と読で参らせ下向し、十二日と申しに、やはたのけ
ん校広清にぐそくしてまうけたりし子なり、此子二
と申けるに、父母ともに南おもてに出てぞ遊びける、
此子母がひざよりおり広縁をはひありきけり、比は
九月中旬のころ南面の籬に薯蕷はひかかり、その蘇
なりさがりたりけるを、広清これを見て、
いもが子ははやはふほどに成にけり、と口ずさみた
りければ、母此子をいだきてとるとて、
いまはもりもやとるべかるらん、 W077 K283とぞつけたりける、
父母ともにすきたりける者なりければ、かの小侍従
も歌よみにてぞ候ける、大将年ごろ浅からず思ひて
通はせられけるに、ある夜待わび、さむしろ打拂ひ
富士のけぶりのたえぬ思の心地して、宵のかねうち
過おくれがねかすかに聞えければ、侍従なくなくか
うぞ思ひ続けける、
待宵のふけゆくかねの音きけば
あかぬわかれの鳥はものかは W078 K093
と申たりける事を聞召されてぞ上様にも待宵の小待
従とは召されける、大将かの御所に参らせ給ひ、惣
門をたたかせられければ、内より女のこゑしてたぞ
や、此程はよもぎふの露打払ひ参よる人一人も候は
ぬに、小夜もはるかに更さふらひぬるにととがめけ
れば、御供の人々福原より後徳大寺殿の御参り候に
P303
と申ければ、さては惣門は鎖のささりて候に、西表
の小門より入せ給へといひ捨てて、女は内へぞ入に
ける、大将西表へまいり給ひけり、侍従も小門へ参
りあひ参らせ、手をとり組みてぞ入給ひける、たえ
て久とはれ奉らぬ事を恨み申てなき居たり、大将の
たまひけるは、此ほどは新都の事はじめあるべし、
よろづひまなく候つれば、かきまぎれて候よしを仰
せられければ、侍従誠にも思召さるるそのいろふか
くば、たとひ海山をば隔つとも、などか一度のつて
には預らざらんと恨申てなきければ、大将もげにこ
とわりやと思召され、御直衣のそでしぼるばかりに
なり給ひける、ややあて大将、宮はいづくに渡らせた
まひ候やらんととひたまひければ、月を待せ給はん
とて東のだいに御びは遊ばしてましまし候と申けれ
ば、さては参りて候由を申され候へと仰られければ、
侍従参りて此よしを申す、宮聞召され、あな珍し、
これへとの御気色なり、大将うけたまはり、しやく
にやうちやうとりそへて、南庭をわたり東おもてへ
ぞ参られける、宮は秋風楽と申がくを三返あそばし、
御びはをさしおかせ給ひける、ばちしてこれへと招
かせたまへば、大将月の光ともろともにさしぞ入せ
給ひける、さてこそ源氏の宇治巻には、うばそくの
宮の御むすめ秋の名残を惜みつつ、びはを調べて夜
もすがら、御心を慰め給ひけるに、八月十五夜ゐま
ちの月を待わび、猶たへずやおぼされけん、ばちし
て招きたまひける、その夜の月のおもかげも今こそ
思召し知られけれ、折しりがほなる初雁の声ほのか
におとづれ、妻恋鹿の恨こゑ、虫の声々たえだえな
るも時しあればと思召れ、草の戸ざしもかれにけり、
更け行ままに大将やうちやう音とりすまし御びはに
つけ、がく二三あそばし、ふるき詩を詠じ給ひける、
霜草欲枯虫思苦、風枝未定鳥栖難、古き都の荒行
けるを、大将今やうにつくりてぞうたはれける、古
き都を来てみれば、浅茅が原と荒れはてて、月の光
P304
はくまなくて、秋風のみぞ身には入と、押返押返二
三べんうたはれければ、大宮をはじめ参らせて、侍
従以下の女房たち袖をしぼらぬはなかりけり、
たまたまの御上なれば、暫御逗留あらんずらんと思
召されけれども、八声の鳥もかさなり、しののめや
うやう明けければ、大将いとまを申て帰られけり、
御所中の女房たち御名残ををしみ参らせ、はるかに
見送り参らせ、涙にむせび給ひけり、まして侍従が
心中さこそと思ひ知られてあはれなり、大将も心づ
よくは出給たりけれども、ただうしろ引返す心地し
て駒更にすすまれず、御ともに候ける蔵人をめし、
侍従が門送りしてはるかまで出たりつるを、何とも
いはで帰りたるが心にかかりて覚ゆるぞや、行て何
事をもいひかけて帰れかしと仰られければ、蔵人承
て侍従がなきゐたりける所に馬よりおり、是は大将
殿の申せとの仰にて候と申、
ものかはと君がいひけん鳥の音の
けさしもいかにかなしかるらん W079 K094
と申ければ、侍従もなくなく御返事申けり、
またばこそ更け行かねもつらからめ
あかぬわかれの鳥の音ぞうき W080 K095
蔵人六田河原の辺にて追つき参らせたり、大将蔵人
を待得給ひ、よにうれしげに思召したるげにて、い
かにと御尋ある、蔵人しかじかとぞ申ける、わりな
し神べうなりとて、津の国なるしきの庄をぞ給ける、
それよりしてこそ蔵人をば、物かはの蔵人ともめさ
れ、又やさ蔵人とも申けれ、夏もすぎ秋にもなりぬ、
月日はすぎ行けれども世はいまだ静まらず、胸に手
を置たる心ちして、常に心さわぎ打してぞありける、
平家の人々は、二位殿をはじめ奉てさまざまに夢見
あしく、さとしども多くありければ、神社仏寺、事に
祈りぞ頻りなりける、そのころ入道福原にましまし
けるに、不思議の瑞相ども多くぞありける、ある夜
のゆめに入道見たまひけるは、まだ早旦なる心地し
P305
てえんぎやうだうしてましましけるに、されかうべ
二いでて、東西よりねりあひねりあひぞしける、初は二
ありけるが、のちには十廿五十百千万、後には幾千
万といふ数を知らず、つぼにみちみちてぞ候ける、
是等が集り居て、上なるかうべは下になり、下なる
かうべは上になり、かしひしとぞくひあひける、さて
その後静まりて、かうべどもがおもてを並べて入道
をはたとにらまへてぞ候ける、此かうべどもは面に
目一づつぞ候ける、入道もまけじと是等をにらみ給
ふ、たとへば人の目くらべをする様に、たがひにま
たたきもせずはたとにらまへてぞ候ける、ややあつ
て一同に声を上げてどつと笑ひて、霧霞雪霜などの
ごとく消失せて、後にはあとかたちなくぞなりにけ
る、その後入道夢うちさめて、むなさわぎしてぞま
しましける、又あるときゆめに見給ひけるは、八間
の所にはばかるほどのされかうべあて、これも目一
ありけるが、また入道と目くらべし、是もにらみま
けて失せにけり、かかる事どもを見たまひ、その後
はつねに物ぐるはしき心ぞ出きける、
其頃京極源中納言雅頼卿内の青侍が、ある夜の夢に
見ける事はいづくとも其所をばたしかに覚えず、大
内裏の内神祇官かとおぼしき所に衣冠正しくしたる
上臈たち並居たまひて評定ありけり、ことに尋常に
ましましける上臈の仰られける事は、このほど清盛
入道に預け給ふ所の剱をば召返して、伊豆国の流人
前兵衛佐頼朝に給ふべしとぞ仰ありける、弓手の方
に居させ給ひたりける上臈、是を請取て仰ありける
は、もつともこのつるぎをば召返して頼朝に給べく
候、頼朝一期の後は我に給て、孫にて候者に給べき
よしを仰られける、同じく居させ給ひたりける上臈
中座に出させましまして、冠を地につけて仰られけ
るは、此ほど清盛入道に預けたまふ所の剱をば何の
罪科に召され候ぞ、今暫し給りましませかしと仰あ
りければ、じんじやうにましましける上臈大にいか
P306
りをなし、かの清盛入道と申は、朝位をいるかせに
し、仏法王法の敵なり、何によてか今しばしも給ふ
べき、此座に清盛入道の方人申さるべき人あるべし
とこそ覚え候はね、上日の者や候とぞ召されける、は
るかの末座に居たりける人、せきいにけんしやくを
たいしたりけるが候とて、御前に参られたり、彼を
出し奉れと仰ければ、二人さしよりて、左右の手を
取て、引たてはるかの門外におし出し奉る、しほしほ
として出させ給ふ、青侍は是を承り、つくづくと見
参らせ、傍なる人に向ひて申ける事は、あら目出た
の上臈達や、近くは見参らせたりとも覚えぬものか
な、是はいかなる上臈にていまし候やらんと申けれ
ば、彼人答へていふ、汝しれりやいなや、是こそ日
本国中の神たち参り給ひて、源平の評定あれ、座上に
まします上臈の清盛入道に給所の剱を召返して、頼
朝にたばんと仰られつる上臈こそ源氏の氏神正八幡
の本地応神天皇にてましませど、其次にまします上
臈の、頼朝一期の後は、我に給て孫にて候者にたぶ
べきよし仰られつる上臈こそ、藤原氏の先祖春日大
明神にてましませ、中座に出させ給て、彼剱をば清
盛に今しばし給候へと申させ給ひつる上臈は、平家
氏神厳島の大明神是なり、上日の者と召れ、赤衣に剱
笏を持ちて参られたりつるこそ、今日の番頭三十番
神の其一住吉すはの大明神にてましませ、御ざしき
にありける事をくれぐれ申、さてその後青侍も夢う
ちさめて、恐しさのあまりに五体よりあせみちみち
てぞ候ける、青侍天晴れて後、主の雅頼卿にこの事を
ありのままに申ければ、雅頼卿ゆめゆめこの事披露
すべからず、入道この事を聞給ては、汝もいかなる
目をか見んずらんと口をしめし給ひけれども、京中
にこの事聞えて人の五人三人寄合所には、ただ此事
のみぞ申あひける、入道この事聞給ひ、越中次郎兵
衛盛次を召してのたまひけるは、源中納言雅頼のも
とにあるらん者が、入道があたりの事を夢に悉く見
P307
たるよしを承る、是を給て委しく承候べしと申、召
し取て参れ、委く尋聞べしとぞのたまひける、盛次
承て、雅頼のもとへまかり向ひけり、雅頼此事を聞
給ひ、青侍召してのたまひけるは、さしも口をしめ
しつるかひなく、此事披露して汝を召しに人むかふ
なり、いかなるめをか見んずらん、我も汝故によか
るべしとも覚えず、いづくの方へもうせよとぞのた
まひける、青侍もこれを承り、よしなきゆめゆゑに
都の外へぞ出にける、越中次郎兵衛、雅頼のもとに罷
向て、入道のたまひつる事をありのままに申ければ、
雅頼その返事に、畏て承候此ものかかる事申て後は、
世をはばかりいづちへか行候ぬらん、行すゑをも知
らず候とのたまひければ、次郎兵衛帰て入道にかう
とぞ申ける、入道猶も腹居ぬげにてのたまひけるは、
かかる者までも入道が事を申らんこそ不思議なれ、
世の事を思ふにこそとぞのたまひける、雅頼卿もか
様に返事をばしたまひたれども、猶も世の恐しさに
入道の方へぞ参られたる、入道中門の廊に中納言を
入奉り、出あひ対面してのたまひけるは、別の仔細候
はず、それに候なる青侍が、夢を委く見たるよし伝
へ承候つる間、委く参らんためにこそ申て候へ、是
までの御入こそ殊に悦入候へ、別の仔細候まじ、と
くとく帰たまへと仰られければ、中納言悦急ぎ宿所
へぞ帰られける、青侍も都をいで、丹波の国あなた
の辺に候けるが、猶もふかく尋らるる事を聞て、そ
の後は行方しらずうせにけり、宰相入道正頼は、此
事を聞、万人の愁を聞てはともにうれひ、徳政を聞
てはともに悦び給けるが、是を聞、さては入道の世
は今はかうござんなれ、厳島明神と申は、しやかつ
ら龍王の第三の姫宮、胎蔵界の垂跡女体にてこそい
ますに、俗体に現じたまひける不思議さよ、越前国
気比の宮と申は、金剛界のすゐ跡なり、厳島に客人
の宮と申は、けひの宮是也、けひの宮に沖の御前と
申は厳島是也、胎金両部の垂跡顕れてましませば、俗
P308
体に現じ給ひけるはことわり也とかんぜられける、
春日の大明神の、頼朝の後には俄に給て、まごにて
候ものにたばんと仰られけるこそ不思議なれ、此後
藤原氏の世をもたんずる事のあるべきやらんとぞ仰
られける、其後、頼朝世を取て日本将軍といはれた
まひ、一天四海を掌に握りて、代を保ちたまふ、頼
家実朝頼朝の跡をつぎ、三代将軍の後、義時代を取
てありけるが、天子の恐れを思ひ公家に仔細を申て、
車内納言なにがしの将軍とて、関東に下し給ひし時
にこそ、青侍が見たりし夢はまことなりけりと、万
人かんじ申けり、
治承四年九月二日、大庭三郎景親東国より早馬をた
て、新都につき、太政入道殿に申けるは、伊豆国流人
前右兵衛佐頼朝、一院の院宣高倉宮令旨ありと申て、
伊豆の国の住人北条四郎時政を先として、忽にむほ
んを企て、去八月十七日の夜、同国の住人和泉判官
兼隆が屋牧のたちへおし寄せて、兼たかをうち、館
に火かけてやき拂ひぬ、同廿日北条四郎時政が一る
ゐを卒して、相模の土肥へ打越て土肥、土屋、岡崎
等与力して三百余騎の兵をひきゐつつ、石橋といふ
所にたて籠りて候を、同国の住人大庭三郎景親、武蔵
相模に平家に心ざし思ひ参らする者どもを招きて、
三千余騎にて、同廿三日石橋へよせてせめ候しかば、
兵衛佐無勢なるによて、さんざんにうち散らされて、
椙山といふ所に引籠る、同廿四日さがみの国由井の
小坪といふ所にて、畠山庄司重能が子庄司次郎重忠、
五百余騎にて兵衛佐の方人三浦大介義明が子ども三
百余騎と合戦して、畠山庄司次郎かけちらされて、
武蔵国へ引退く、同廿六日に武蔵の国住人江戸太郎
重長、河越小太郎重頼等を大将として、党者どもに
は、金子、むら山、丹党、よこ山、篠党、児玉党、
野与、綴喜党等をはじめとして、二千余騎にて相模
国へ越て、三浦をせむ、三浦の者ども衣笠の城に籠
りて、一日一夜戦ひて、矢だね射尽して舟に乗、安
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房の国へ渡り候ぬとぞ申たりける、平家の人々此事
を聞てさわぎあひけり、畠山庄司重能、同舎弟小山
田別当有重兄弟二人平家に奉公して候けるが、此事
を聞て何事の候はんずるぞ流人兵衛佐方人して、朝
敵とならんとおもふ者たれかは候べき、したしく候
へば、時政ばかりこそ候はんずれ、今聞召し直させ給
ひなんとぞ申たる、平家のわかき人々、興ある事を
ききたるやうに思ひて、あはれとく討手に向はばや
などといひけるこそあはれなれ、畠山庄司次郎重忠
三浦の人どもと合戦しけるは、父庄司重能、叔父小
山田別当有重等平家につきて、在京の間、そのかう
べをつがんためなりとぞ聞えし、太政入道のたま
ひけるは、昔義朝は信頼にかたらはれて、朝敵とな
りて追討せられにしかば、その子孫一人も生られま
じかりしを、頼朝をば池大納言頼盛が子と申、ゆる
ししかば死ざいをのがれて、流ざいになしにき、い
のちを生られたる恩を忘れて、忽に国家を乱る、我
が子孫に向ひ弓をひき矢を放たん事、仏神もいかで
か御ゆるされあるべき、天のせめただ今蒙らんずる
頼朝なり、あやしの鳥獣もおんとくを報ずるとこそ
聞け、されば我が子孫に向ひて、頼朝七代まではい
かで弓を引べきと、くり返ししかり給ひける、時の
才人たち内々申されけるは、入道のたまふもそのい
はれなきにあらず、但恩をわすれ徳をもむくいず、
野心をさしはさみしもの昔も多くありき、
日本盤余彦御宇四年己未春、紀伊国名草郡高尾村
(土)蜘蛛あり、身短く手足長くして、力人にすぎた
り、皇化に従はざりければ、官軍葛の網を結て終に
おほひ殺す、それより以来野心をさしはさんで朝家
を背きし者おほし、すなはち
大山皇子、大石山丸、大伴真鳥、守屋大臣、蘇我入
鹿、山田石川、右大臣豊成、左大臣長屋、太宰少弐
広継、恵美押勝、井上皇后、氷上川継、早良太子、
伊与親王、藤仲成、橘逸勢、文屋宮田、武蔵権守、
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平将門、伊与守藤原純友、安部頼長、子息厨川次郎
大夫貞任、同鳥海三郎宗任、対馬守義親、悪左府、
悪右衛門督にいたるまで惣て廿余人なり、されども
一人として素懐をとげたるものなし、みな頭を獄門
にかけられ、尸を山野にさらしき、南蛮北狄東夷西
戎、新羅高麗百済国にいたるまで、我朝を背く事な
し、此世にこそ王威も無下にかろけれ、上古には宣
旨と申てければ、枯たる草木も忽にひこばえ、天を
かける鳥、山にすむ獣までも、したがひけり、近ごろ
の事ぞかし、延喜御時、池のみぎはに鷺居たりける
を、御門御らんじて、蔵人を召して、あの鷺取て参
れと仰られければ、蔵人取らんとて、まかりければ、
鷺羽づくろひをして、すでに立んとしけるを、せん
じぞわ鷺まかりたつなと申ければ、鷺飛去らずして
とられにけり、御所へ持て参りたりければ、やがて
放されにけり、まだら鷺御用なかりけれども、皇威
のほどをしろしめさんがためなり、
我朝にもかぎらず唐国の燕の太子丹といふ者、秦の
始皇といくさをするに、太子丹軍にまけて始皇に取
こめられて、年月をふるに、すでに六ヶ年いましめ
置れたり、かの太子丹我身のいましめられたる事は
さる事にて、殊に父母を恋心せちなりけり、時に燕丹
曰く、今はゆるしたまへ、本国へ帰て恋しき父八十
になる母を今一度見候はん、六ヶ年を過てきんごく
のれいや候と申ければ、始皇あざむきて、烏のかし
らの白くなり馬に角のおひたらん時、本国へ返すべ
しとのたまひければ、燕丹こころうき事なり、さて
は我恋しと思ふ父母をも見ずして、ここにて徒に死
なんずるこそと思ひけるに、今更かなしくせん方な
くして、夜はよもすがら天に仰きてなき明し、昼は
ひねもすに祈誓しければ、かしら白き烏飛び来れり、
燕丹是を見て、今ゆるされなんずるにこそ、山烏か
しらも白くなりにけれ、我帰べき時や来にけんと思
ひけるに、是にもゆるされず、馬に角のおひたらん
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時返すべしとて、ゆるし給はざりければ、今は日頃
たのみもつきはてて、いかにすべしとも覚えず、妙
音菩薩は霊山しやうどに詣て不孝の輩をいましめ、
孔子老子は大唐震旦にあらはれて孝道章を立、上梵
釈四王より下堅牢地神にいたるまで、孝養のものを
ば憐み給ふなるものをとて、涙にむせびて天道に祈
念し、仏神にいのり申事、明けても暮ても怠らざり
けるしるしにや、角おひたる馬庭上に出来る、始皇
是を見給ひて驚きおぼして、燕丹は天道の加護の者
にてありけるぞやと申て、烏頭馬角の変ずるに驚き
て、燕丹を本国へかへしつかはす、なほ安からずお
ぼして、本国へ帰みちに大河に橋あり、かのはしを
かたぶけてあばらになしてけり、ゑんたん是を知ら
ず、このはしを渡るに、則ち落にけり、されども河
の底へも入らず、平地を歩むが如くにして、むかひ
の地につきて上りにけり、みれば千万の亀出来て、
甲を並べてぞ渡したりける、是またふしぎの事なり、
本国へ帰たれば、父母親類兄弟等来集り悦あへり、
燕丹始皇に取こめられて、かなしかりつる事をかた
りて、いかにもゆるされまじかりつるを、しかじか
の事ありてゆるされたりと母に語ければ、母悦てあ
りがたき事にこそ、いかにしてか、かしら白き烏を憐
まむと思ひけれども、行けん方もしらず、たとひ知
たりともいかがはせんとて、せめての事にや黒烏を
集めて、ものをたびにけるに、かしら白き烏出来た
りけるとかや、是も不思議のことにてぞありける、
ゑんたんはいましめ置れたりし事を心うき事に思ひ
て、いかにもして始皇帝をほろぼさんと心にかけた
るに、荊軻といふ臣下のありけるが申けるは、太子
のゆるされ給へるは、始皇の宥免にはあらず、しか
しながら天神地祇の御助なり、されば秦の国に押寄
せて始皇帝を討んといひければ、もつともしかるべ
しとて、せん非を悔いず契を変じて、始皇をほろぼ
すべき謀をめぐらす、燕丹返されたる悦に燕の国を
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始皇帝に参らする、国々の券文ゑんのさしづあひぐ
してつかはす、又〓嶺の形を金にて鋳て、さしづの
箱に入、かの箱の中に、仙秘の剱とて一尺八寸ある
剱をかくし入て、けいかに持せて秦の国へやる、ま
た河付僧欲といふ者二人を副将軍にて、すでに秦の
国へ向ひけり、又先生といふ者を語らふ、先しやう
たのまれて申けるは、きりんといふ馬は一駅に千里
をとぶ、しかれども年老衰へぬれば駑馬にもおとれ
り、我身さかむなりし事を聞おぼしてたのませ給ふ
か、兵をかたらひて参らせんと申て立ちぬ、燕丹さ
らばあなかしこ、この事披露すなよとぞ申ける、国
国驕兵披露すなと仰られたらん事を流布したらんに
すぎたる恥はいかでかあるべき、我命ながらへてあ
らば、もし披露あらん時は、先生こそ披露したるら
めと思召さんこと口惜かるべしといひて、生年七十
一にて腹かき切て死にけり、皇帝には敵あまたあり
ける中に、はんゑきといふ者ありけり、けいかはん
ゑきをかたらふ、はんゑきはもと秦の国の者なり、
皇帝のために親おうぢ兄弟子息皆ほろぼされて、我
身一人残て此国に逃げこもりたりけり、せんじを四
海にくだされて、はんゑきがかうべ参らせたらんも
のには、五百斤の金を与へんと仰ありける、けいか
はんゑきに申けるは、汝がかうべは金五百斤に報い
たるかうべ也、汝が首を我にかせ、始皇帝に奉てそ
の命を奪はんといふ、はんゑき膝をかかげをどり上
りて、我父おうぢ親類兄弟皆始皇帝にほろぼされて、
夜ひるの思ひこつずゐに通りたへがたし、わが頭を
汝にかさんに、始皇帝の命を奪はん事塵芥よりもや
すかるべしといひて、首をすなはちとらす、此外秦
の国に舞陽といふものあり、十三にておやの敵を討
て此国に逃籠りたりけり、にらめば七尺の男も絶入
し、笑へば三子もいだかるといへり、まことなるか
な、はんゑきがかうべ舞陽に持せて秦の国へおもむ
く、始皇帝の内裏は空へぞ高く作りたりける、東西
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へ九町、南北へ五町、かんやう宮の高さ三十六丈に
作りたり、八丈のはたほこをたて、大床の下に五丈
のはたほこを並べ立たるに、心も詞も及ばず、はん
ゑきがかうべ鉾に貫きて舞陽に持たせたり、燕の国
のさしづ、国々の券契相ぐして、けいかぞ持ちたりけ
る、かのはこの中に仙秘の剱とて一尺八寸の剱をか
くせり、道すがら太鼓を打ちて行く、すでに秦の国
の境へ入て王宮へ望ければ、燕の太子丹こそ免され
たる悦に、秦の国の第一の朝敵はんゑきが首を窺ひ
取て、当国へ参るなれなど聞えければ、さじきをうち
て是を見る、秦の国の官兵内裏の四方の陣をかため
たり、けいか、ぶやう二人の臣下、咸陽宮の阿ほう殿
へ参りて、玉の階をのぼりて、甍を見れば、眼もつか
れぬべし、安西城郭にはついぢをつき、秋の田の面の
雁の春は、越路に帰るも飛行自在のさはりあれば、
ついぢには雁門とて穴をぞ明けたりける、かかる九
重のうちに始皇は住み給へり、これめいどの使をよ
せじの謀なり、はんゑきが頭ほこに貫きて持たるぶ
やう、ただ今あく事をいたさんずる心やあらはれけ
ん、左右の膝わなわなとふるひて、玉の階をのぼり
わづらふ、庭上に並居たるつはものども色をうしな
ひてさわぎあへり、大将軍とおぼしき者是を見て、
暫くおさへてふしんを相尋る所に、けいかさとられ
なんずと驚きて申けるは、翫其積礫不窺玉淵
者、未知驪龍之所蟠、習其弊邑不視上邦者
未知英雄之所宿、といひければ、つはものども静
まりにけり、たとへば土くれを積でもてあそびもの
とするほどのものは、玉に望なければ、なんだ、ばつ
なんだ等の龍の蟠まれる淵を知らず、あやしの柴の
庵に住ならひたる賎の女は花の都をも見なれねば、
礼義の正しき事をしらぬなりとぞちんじたりける、
そのとき二人の臣下南殿近くのぼりあがて、はんゑ
きが頭を皇帝に奉らんとしける所に、官使うけとり
て上覧すべきよし仰下されければ、けいか申けるは、
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かかるありがたき朝敵のかうべをいかでたやすくつ
てには上覧仕るべき、燕の国小国なりといへども、
かの国の臣下なり、直に進報仕らん事何の恐れか候
べきと申ければ、誠に日ごろへたる宿意ふかき朝敵
なり、申所そのいはれありとて始皇自らとり給ふべ
き儀式にて、玉体けいかに近づき給ふ、はんゑきが
死してくわいけいの恥を雪がんと、たばかりたりし
事少しもたがはざりけり、けいかはんゑきが頭を奉
る、始皇是をかんじ給ふ所に、ゑんの国のさしづ券
契入たるはこをけいかあけたれば、秋の霜冬の氷の
如くなる剱のさきのかがやきて見えければ、始皇大
に驚き給ひて逃たまふ、けいか御衣にとりつき奉り
て、かの仙秘の剱を取て、始皇の御むねにあててい
はく、誠には燕の太子丹を六ヶ年までいましめ置か
れたりつるくちをしさに、かくたばかりたりといひ
て、すでに剱をふらんとしければ、始皇涙を流して
のたまひけるは、我一天の君万乗の主として武王の
中の武王なり、昔も今も朕にならぶ帝なし、されど
も運命限りありければにや、今はのがるべき身に非
ず、但臨終のまうねんになりぬべきよしみ残れり、
九重の中に千人の后を置たり、その中に第一の皇后
琴をいみじくひきたまへり、その曲を今一度聞ばや
とのたまひければ、けいか思ひけるは、我辺土の臣
下なり、始皇の宣旨を直に蒙る事あり難し、とりこ
め奉ぬる上は、何事かあるべきと思ひて、暫くゆる
べたりければ、始皇悦給ひて、南殿に七尺の屏風を
立てて、后行啓しあて、琴を引給ふに、さまざまの
秘曲今は限りと聞たまひて、いつよりもあはれなり、
心細きこと限りなし、さて終り方に七尺の屏風はを
どらは越つべし、羅〓の袂もひかばきれなんといふ
曲をたびたび引給ひけるに、けいか、ぶやう二人の臣
下は、くわんげんの道やうとかりけん、この曲を聞
知らず、始皇は聞知り給ひて女人の身なれども、を
りに隨ひて、武き心もありけるにや、我武王の中の
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大武王として敵にとりこめられたる事を心うしと、
がうじやうの心忽に起りて、七尺の屏風を後さまに
がばと越給ひける時、けいか琴の音に心をすまして
ねぶりたる体なりけるが、打驚き剱をおひざまにな
げかけたりければ玉体にはあたらで、かの銅の柱を
半ばかりぞ切入たりける、夏附旦といふ番の醫師が
侍醫といふつかさにて、折節御前に候けるが、とり
あへずくすりの袋を玉体近く投たりけり、皇帝疵一
所もおはせ給はねば醫師袋、要にはなけれども、時に
取てはゆゆしかりける事也、皇帝立帰り、我宝剱を
ぬきて、けいか、てんくわう先生、しん舞陽等を八
さきにさかれにけり、やがて燕の国へ軍兵をさし遣
はして燕丹をほろぼし給ひてけり、その時白虹日を
貫てとほらずといふ天変ありけり、日を通りたらば、
皇帝の御命危かるべかりけるに、つらぬきながら通
らざりければ、その天変は災に非ずといへり、され
ば、昔の恩をわすれたるによて、燕丹かくほろびぬ、
同意の者も討れにけり、されば昔の恩を忘れて、よ
りとももいかで平家を背きむほんを企べきとぞ入道
のたまひける、
兵衛佐は、永暦元年三月廿日流罪せられてのち、廿
一年の春秋を送り、年ごろ日ごろさてこそすぎつる
に、今年いかにしてかかるむほんを企つらんと人恠
をなしけり、後日に聞えけるは、高尾の文覚がすすめ
たりけるとぞ承はりし、その文覚をば在俗の時は、
遠藤三郎盛遠とぞいひける、上西門院の衆にて、後
には武者所に参りたりければ、遠藤武者とぞいひし、
十八の年道心起して、もとどりを切りつつ、文覚房
とて熊野に籠りて行ひけり、高野、こかは、山々寺
々参りありきけるが、都へ帰りて高尾辺に住けり、
このたかをの神護寺をちしき奉加にてつくらんとい
ふねがひを起しつつ、十方旦那をすすめありきける
程に、院の御所法住寺殿へ参りて、御奉加あるべき
よしを申けるを、折節御遊のほどにて奏者御前へ参
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らず、申入人もなかりければ、御前のこつなきとは
思はで、人の申入ぬにこそと心得て、大慈大悲の名
にてぞ渡らせ給ふに、などか聞し召入られざらん、
人のうたてきにてこそあれと思ひけるうへ、天せい
ぶたうのものぐるはしきものにてありければ、常の
御前の御つぼの方へすすみ入て、以外の大音声をは
なちてくわん進帳をよむ、状云、
勧進僧文覚敬白
請蒙殊貴賎道俗助成高雄山霊地建立一院
令勤修二世安楽大利子細状、
夫真如広大雖絶生仏之假名法性隨意雲厚覆自
〓十二因縁之峯、以降本有心蓮之月光幽而、未
顕三徳四曼之大虚悲哉、仏日早没、生死流転之
〓、冥冥只耽色耽酒、誰謝狂性跳猿之迷、徒謗
人謗法、豈免〓羅獄卒之責乎、爰文覚偶払俗
塵、雖餝法衣、悪業於意逞、与造于日夜、善苗又
耳逆、廃于朝暮哉、再帰三途之火坑永廻四生
之苦輪、所以牟尼之憲法千万軸、々々明仏種之因
隨縁至誠之法、一而無不至菩提之彼岸、故文覚
無常之観門落涙、催上下親類之結縁、上品蓮台
運心立妙覚王之霊場也、抑高雄者山堆而顕鷲
峯山之梢、谷禅而敷商山洞之苔、巌泉咽曳布、
嶺猿〓遊枝、人里遠而無囂塵、咫尺好而有信
心、地形勝尤可崇仏天、奉加微誰不助成乎、
風聞聚沙為仏塔之功徳、忽感仏因、何況於一
紙半銭之宝財乎、願建立成就、而禁闕鳳暦、御願
円満乃至都鄙遠近親疎里民歌尭舜無為之化、
開椿葉再会之咲、況聖霊幽儀前後大小速遊一仏
菩提之台、心翫三身、満徳之月、仍勧進修行之趣、
盖以如斯
治承三年三月日
とぞよみたりける、四条太政大臣、按察大納言資賢、
右馬頭すけ時、源少将まさかた、四位侍従もりさだ
等座に候て、資賢卿拍子を取て、風俗さいばらをう
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たひ、太政の弟琵琶かきならし朗詠し給ひ、資賢も
りさだ今様謳ひなどして目出度面白かりければ、院
奥に入らせましましたりけるに、この大音声に調子
もたがひ、人々もおどろき、興さめてければ、法皇
忽に御げきりんあり、北面に候けんびゐしどもにそ
くびをつくべきよし仰下されければ、平判官すけ行
さうなくそくびをつかんとて走よりたりけるを、く
わん進帳を取直して烏帽子をうち落し、やがてむね
をつきてのけにつきまろばしてけり、北面に候あひ
たるものども我も我もと走りかかりけるを、ふとこ
ろより七寸ばかりなる刀の柄に、馬の尾をまきたる
が氷などのやうなるを抜出して、走り向ひたりけれ
ば、北面の者ども、大ゆかの上へ逃上りぬ、かかる
間院中さうどうす、公卿、殿上人、御前の座を立さ
わぎ給ふ、たけ七尺ばかりなる法師のすぐれたる大
力なりけるが、腰刀をぬきて走りめぐりたりければ、
思ひ寄らぬにはか事にてはあり、こはいかなる事ぞ
やとて上下皆さわぎあへり、宮内判官公朝近くよて、
やや上人の御房まかり出られよ、既にからめとらる
べきにて人々の来なりと申ければ、神護寺に庄一所
よせられざらん程は、いかにもまかり出まじと申て、
弥くるひまはりけるを安藤右馬大夫忠宗がたうしよ
くのとき、武者所に候けるが、太刀をぬきて走向ひ
て、太刀のみねにてしたたかに左の肩を首へかけて
うちたりけるに、少しひるむやうにしけるを、太刀
をすてていだきたりけり、忠宗こがひなをつかれた
りけれども、はなたずいだきたりけり、その後ここ
かしこより人々多く出来て取つきて、手々にはたら
く所の定か[B 「定か」に「ママ」と傍書]らして門へひき出して、平判官が下部に
たびてけり、すけ行は烏帽子うちおとされて恥がま
しくぞありける、忠宗は御かむにあづかりて右馬允
になりにけり、文覚悲しきめを見たりけれども、口
へらざりけり、右の獄に入られたりけるに、いつしか
非常の大しやありけるに、文覚ゆりてけり、されど
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もくちしひず、ものすすめにありきて、さまざまの
狂言はなちて、いまいましき事ともをのみいひけれ
ば、遠く流せとて、伊豆の国へつかはしける、かの
くには伊豆守仲綱国司にて知行し給ひければ、仲綱
院宣を承りて、渡辺党さつま兵衛はぶくに具せさせ
て下すべかりけるに、をりふしいづのくにの御家人、
近藤七国平といふ者のぼりたりけるに、文覚をぐせ
させて、南海道より伊勢路をぞくだしける、文覚船
にのりける日より、天にあふぎてちかひをなしける
は、我願成就すべきならば、湯水を呑ずとも国へつ
かんまで命を全くすべし、願成就すまじくば、今日
より七日の中に、命終るべしといひて、三宝神明か
ならず御知見たれ給へとちかひて、おんじきをたち、
人くはせけれども、喉へも入ず、廿一日と申に、伊
豆の国へつきたりけり、そのあひだに、湯水をもの
まずして、五穀はいふに及ばず、されども、色かほ
おとろへず、おこなひうちしてぞありける、ただも
のにはあらざりけるやらん、ふしぎの事どもなり、
平家物語巻第九終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十
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平家物語巻第十
か様に文覚は心そうぞうにして物ぐるはしき様なれ
ども、父にも母にもわかれて孤にて候ひし間、朝夕
は只彼ぼだいを弔ふより外は他事をまじへず、愛別
離苦に堪へずして、出家入道するには似たれども、
本意はただ至孝報恩の道心なり、されば大龍王の第
一の願に答へてしゆごし給ふべき文覚なり、第二の
願は閑林出家と候へば、十八にして出家して、今に至
るまで、山林流浪のしんじやなり、などか守護し給
はざらんや、第三の願と云は仏法興隆の者を守護す
べしとちかひ給ひたれば、当時も文覚こそ仏法興隆
の志深くして、和殿原にはにくまれたれども、八大
龍王は憐み給ふらんものを、かかる法文聖教を悟る
身にて候し間、小龍などは物の数ならずと存ずるに
依て、龍王め龍王めとは申伝るなり、さ申和殿原も、親
の孝養する心ざしもふかくば、入道出家して閑林に
閉籠りて、仏法興隆のいとなみをもし給はんには、
八大龍王に守護せられ給ふべし、必しも文覚一人を
守らんと誓ひ給へる誓願にはあらず、かまへて殿原
も親の孝養して仏法に志しをはこび給ふべし、今生
後生の大幸なり、是こそ因果の理りなるにや、さて
もさても法皇の邪見こそ口惜けれ、さこそ小国の皇と
申ながら、きたなき人の欲心かな、大国は不企破戒
なれども、比丘をばうやまひ、無実なれども、くわん
しんには入給ふことにて侍るぞ、和殿原も相かまへ
て仏法疎略の人どもとみるぞ、能々はからひ給へ、
いかにだうりをのぶれども、文覚が言葉を信用し給
はぬ事の浅ましさよ、小龍を招きて風波の難を減じ
て、各の有さまを見、又文覚が仏法修行の徳用をも
つみ知らせ奉らんとして候なり、されば案の如くに
身の上に相当りたる難の来る時、驚きてぜむつきた
る礼義こそはかなくあはれに覚え候へ、小龍のさは
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ぎだになのめならず、ましてむじやうの風はさまざ
ま文覚だにも叶ふまじ、無上世尊だに入滅し給ひき、
此上は日本の主もよも叶ひ給はじ、まして其外の殿
原遁るべしとも覚えず、今度文覚が悪口して伊豆国
へ流罪せらるるは、仏の方便としり給ふべし、一向
文覚が申さんに隨ひて、今日より後は仏道に心をか
くべし、一樹の陰にやどるすら前世のちぎりと申な
り、いかにいはんや数日同船の睦びをや、抑仏道に
心をかくると申は、内心に常に念仏すれば、臨終に
必ず来迎し給へり、観音、勢至、阿弥陀如来、無数の
聖衆諸ともに弘誓の船にさほさして、廿五有の苦海
を渡り、宝蓮台の上に往生して、菩薩と共に遊ばん
事誰かこれのぞまざらんやと、かしこき父の子を教
る様に、事にふれて教訓しけり、かく折々にこしら
へけれども、真実に道心を起す者はなし、放寃〈 盛衰記作免 〉
両三人の中に生年廿三歳に成れる刑部丞県明隆と
いひける男計ぞもとどり切て、文覚が弟子に成てあ
りければ、文覚戒さづけて名をば文明とぞつけたり
ける、其外のもの共は聞時計ぞ道念にも趣きける、
まして出家とんせいするまでの者はなかりけり、但
しんかうしける色は紅よりも猶ふかかりけり、是程
通を得たる人にておはしける間、物をものとも宣は
ざりけり、さしも貴くおはしける人を賎しみ申ける
事の浅ましさよとて、敬ひかしづくこと斜ならず、
此文覚房は天狗の法を成就して、法師をば男になし、
男をば法師になしけるとかや、天狗と申は人にて人
ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬にもあらず、足
手は人、かしらは犬、左右に羽生ひて飛ありくもの
なり、人の心を転ずる事、上戸のよき酒をのめるが
ごとし、小通を得てすぎぬることをば知らずといへ
ども、未来をば悟る、是と申は持戒のひじりもしは
智者、若は行人などの我に過ぎたる者はあらじと慢
心を起したる故に、仏にもならず悪道にも落ずして、
かかる天狗といふ物に成なり、諸々の有験利生の人
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驕慢を起さずと云ことなし、然る間此果報を得るな
り、さても文覚伊勢国より大願を起していはく、我
もし二度故郷に帰て、彼神護寺を修造すべくば、国
へ下り着くまで断食すとも命全く絶べからず、若宿
願むなしかるべくば、今日より七日が中に死ぬべし
とて、つやつや物をも喰ず、湯水だにものどへ入ず、
廿一日と申に伊豆国へ着にけり、されども色かたち
も変ずる事もなく、行ぼううちして、かりそめにも
睡眠する事なかりける、常にはおかしき物語しつつ、
ぬしも笑ひ、人をも笑はせけり、つれづれ更になし、
伊豆国なごやのおくにとぢ籠りて、多くの年月を送
りけり、行法くんじゆ功つもりて、大悲誓願のぞみ
深し、昼はひねもす千手経をよみ、夜はつや三時行
法怠らず、人多くあはれをかけて、折々に物など送
りけれども受取ることは希なり、何としてとき料な
ども有べしとも覚えねども、同宿もあまたあり、凡
彼所にはをちこち人の旅寐には、炉壇のけぶりに心
をすまし、磯辺のあまの楫枕もとうろの光にめをす
ます、千鳥、かもめ、よぶこ鳥、懺法の音にともなひ
て、仏法僧をぞ唱へける、東がん西がんのうろくづ
も震鈴の音にうかびぬべし、霊山浄土のしやうじゆ
も常にはここに影現し、鷲峯けいぞくのほらの内も
思ひやられて哀なり、されば彼国の目代も信仰して、
かうべをかたむけ、帰依の思ひをなしけれども、諂
ふ心もなかりければ、真実にいさぎよかりけるひじ
りかなとて、上下万人敬ひけり、抑文覚が道心の因
縁を尋ぬれば、れんぼがふれいのすさび、愛別離苦
のかなしみにもよらざりけるに依てなり、たとへば
文覚がためには外戚のをば一人ありき、事の便り有
るに依て、昔は奥州の衣河にぞ住しける、是に依て
一家の者ども衣河殿とぞ申ける、わかくさかりなり
し時はみめかたち人にすぐれて、心ばへなども優に
やさしかりける女なり、しかれども今はさかり過ぎ
て、世の有さまも衰へたり、やもめずみのならひな
P322
れば、常は只物さびしきすまゐなり、娘一人有けり、
親に似たることなれば、青黛のまゆつき愛々しく、
翡翠のかんざしたけに余れり、芙蓉のまなじりけだ
かくして、柳髪風にけづれる粧ひ、楊貴妃、李夫人も
かくやとぞ覚えたるに、優婆忍辱を身に受て、物を
あはれみとがを恐るる事斜ならず、深窓にかしづか
れて、十四の春をむかへたり、然ればのきばの梅の
匂ひうるはしく、まがきの竹のたをやかなる気色も
すでに見えければ、母はただ此娘にのみなつさひて、
あかしくらしける程に、聞及ぶ人心をかけ便りをも
とめずといふ事なし、其中に左衛門尉わたるといふ
ものは一門なりけるが、頻りに心ふかく申ければ、
むこに取けり、男柄優に、なさけ深かりければ、下
紐とけし日よりして、日々の契浅からず、かくて三
とせを過けるに、或時衣河のもとへもののふ一人来
りつつ、さうなく刀をぬきて、ぜひなく衣河を取て
おさへて殺害せんとす、女あわてまどひて、いか成
ものぞと見れば、甥の遠藤武者盛遠なり、女泣々手
を合せて申けるは、抑和殿は我には他人にあらず、
現在の甥ぞかし、なんぢが父母死して後は親とも頼
み給へ、又我をのこ子なき身なれば同じ甥とはいひ
ながら、一向子とこそ頼み奉たるかひもなく、たと
へいかなる人のざんげんありとも、一度はなどか思
ひゆるし給はざるべき、いはんや何事のあやまりか
有べき、ただ理をまげてたすけ給へとて、手をすり
て泣けれども、盛遠一分のじひもなく、伯母がたて
くびを取て、伯母なれども盛遠をころさんとし給へ
ば敵ぞかし、わたなべとうのならひにて、一日なれ
ども敵を目にかけて置事なし、頓て只今ころし申さ
むとて、刀をぬきてくびにさしあてたり、をばさわ
ぎあわてていはく、誰人の申ぞ、わどのをころさん
とするとは思ひもよらぬ事なり、盛遠申ていはく、
人の申事はなし、我心にさ存候なり、娘御前を盛遠
がことし三年恋奉るによつて、空蝉などのやうに成
P323
て命ながらふべしとも覚えず、すでに限りと思ひ侍
るなり、昔よりこひに死にたるためし今にはじめぬ
事なれば、いろこそかはり心こそことなれども、命
を失ふ事は只いづれも同じ事なれば、則をば御前の
盛遠をころし給ふにあらずやとぞ申ける、をば是を
聞て、さては安きほどの事にこそあんなれ、はや刀
をさされ候へ、頓てよびて見参せさせ奉らんといひ
ければ、盛遠悦で、誠に左様にも候べくばはなし奉
らん、但しいまの難をのがれんが為にすかし給ふほ
どならば、御命を失ひ奉るのみならず、死骸までも
つみし奉らんずる也と申ければ、事もおろかや、いか
でか左様の空事を可申とげにげに敷かためければ、
刃をさやにさしつつ、こしうやうちして、夕さりは一
定なりとて帰にけり、伯母は涙を押のごひて、さて
も不思議の難にあひぬるものかな、もにすむ虫の我
からにうきめを見る事よとて、文をかきて娘のもと
へ遣はしけるは、いと久しくこそ何事か候らん、さて
は、此二三日煩ふこと侍るが、なほざりならず覚え
候なり、さればとてことごとしく披露し給はずして、
忍やかにおはしまし候へ、申合すべき事あり、病ま
ぬ身すらはかなき事のみ候、世の習ひくやしき事も
こそとて申候也、返々忍びつつ御渡り候べしとぞ書
たりける、娘是を見て、心細き御文の有さまかなと
て、はしたもの一人具してかりそめに出るやうにて、
ほどなく母のもとへ来たりければ、母は涙にむせび
つつ、引かつぎて泣ふしたり、いかにやいたはり給
はんからに、なき給ふこそあやしけれと、胸打さわ
ぎて心得わきたることはなけれども、すずろに袖を
ぞしぼりける、良久しく有て母申けるは、人はみな
子を生そだてては此世にては心安くはごくまれ、な
きあと迄もとぶらはるるかと思ひしに、和御前に我
身をころされぬるこそ口をしけれ、敵を知らずして、
便りなき身の有様に、わりなくはごくみそだてける
こそはかなけれと、涙もせきあへず泣ければ、娘こ
P324
れを聞て、かかる事とは知らずして、いかにかくは
仰給ふやらん、御子とてはわらは一人より外に又も
候はねば、御命の有らんかぎりは一日片時も立はな
れ奉らんとも覚え候はねども、御計ひとしてわたる
がもとへ遣はされ候しかば、この三とせがほどはつ
き添ひ奉る事も候はねども、母御前の御事より外は
朝夕心ぐるしき事候はず、わたるも偏に重き御事に
思ひ参らせて候へばなるらん、御あとまでも心の及
び候はんほどは、御孝養申べき身にてこそ候に、ふ
けうのよしをうけ給るこそ返々も口をしくこそ思ひ
参らせ候へと、かきくどき申ければ、母申けるは、
心ざしのおろかにおはすとは今始めて申なり、ただ
思ひの外の事ありて、盛遠がころさんとておもひ切
ふるまひつる有さま、又甲斐なき命を延んとて、約束
したりつること共かずかずに語りける、よの常の習
ひ、娘を持たる人の親は、夫一人にて今生をばさて
はてよ、又妻をかさぬるなとこそ教訓する事なるに、
是は忽に命をたたるべかりつる間、早すでにはかな
くも事うけしつるぞや、此物の有さま此こと本意を
遂させずば、しばしも生けて置べしとも覚え候はね
ば、よき様に計ひ給へ、母が命を生けんとも殺さん
とも、そこの心にて有べきなりとくどきけり、是を
聞より何事も覚えずあきれまどひけり、わたる左衛
門に隨ひてよりこのかた、今年三とせが間相互にわ
く方なかりしに、母の心やぶらじとて、盛遠になび
きぬるものならば、日比の契も乍併いつはりに成な
んず、其上盛遠が有さまを聞くに、あひ見て後とて
もさてはよもあらじ、いとどうき名をこそ世にはふ
らさんずれ、とてもかくても世の中にかひなき命の
あればこそかかるうきめにもあふらめと思ひつつ、
時をかへず水のそこにも入ばやとは思へども、すこ
しものびたることならばや、わらはが聞なしにや、
今夜と定られけることのかなしさよ、我はやすかさ
れけりと思ひて、母にうきめを見せ奉らんは、わら
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はが殺すになりぬべし、母子ともにないりのそこに
しづみなば、無量劫にも出難しと思ひければ、せん
方なくかなしけれども、母をたすけんとて、いかに
も仰をば背き参らすまじきなりと申ければ、心安く
ぞ思ひける、さる程に日も早暮ぬれば、盛遠は仕お
ほせたりと思ひて、ひとり笑み打しつつ、びんかき
ひげかきなでて、色めきてはや来てふせりけり、是
を聞かれを見るにつけても、夫のわたるが事のかな
しさも、我身の行衛の口惜さに、袖もしぼるばかり
なり、夜更人しづまりて、女かしこに至りたれば、
盛遠年比のいぶせさくどきければ、言葉すくなにあ
ひしらひけるほどに、鶏すでに鳴ければ、女心中に
嬉しくて、いとまを乞ければ、盛遠申けるは、あは
ずばあはぬにてこそあらめ、弓矢とる者のあかぬ女
にいとまを取せて、恋する習ひいまだ聞ず、あはで
思ひし夕は物の数ならず、いかなることになるべく
とも、いとま参らせんとは申まじ、けふより後は偕
老同穴のちぎりなりとて、たち刀をぬきてたて置て、
今は一向に世のみだれぞ、あふにしかへばさもあら
ばあれ、御前の為に命も更にをしからず、和ごぜんの
不祥、盛遠が不祥、わたるが不肖、三つの不祥一度
に来べき宿習にてこそありつらめとて、思ひ切たる
けしきにて、おどしければ、いかにも叶はじと思ひ
て、女申けるは、げに何事も此世ならぬことにてこ
そ候なれば、是をおろそかに思ひ参らせず、いつし
かかやうに申せば、御きやうしやくも有ぬべけれど
も、打とけ今は申なり、わたる左衛門に相馴れて今
年は三とせに成ぬれども、相思ひなさけも更になし、
されども母の仰の背き難きにこそ忍びすぐす妻とも
なれ、寔に御心ざしも深く思召さば、わたるをいけ
て置てはいかでか打とけ殿にも逢奉るべき、ただ左
衛門の尉を殺し給へ、其後心安く侍らんずるはかり
ごとをして、たやすくころさせ参らせんずるぞと申
ければ、盛遠是を聞て悦ぶ事限りなし、さて何とた
P326
ばかり給ふべきぞといへば、わらは夕さり帰りて、
左衛門尉に酒をすすめてゑひふさすべし、たかどの
に入てふさすべし、戸もたてをさむる事有まじけれ
ば、もとどりさぐりて首をかき給へと申ければ、盛
遠よき計ひなりとて、其儀に固く定めてけり、女い
とま得て帰りにけり、約束の如く渡左衛門を呼寄せ
て、酒肴を尋常にいとなみて申けるは、母のいたは
りの大事なりと聞たりつれば、あわてさわぎて行た
れ共、ことなる事も侍らねば、うれしなどいふ計な
し、悦のあそびせんずるなり、御心おちに参りたら
ば嬉しからんとすすめければ、是を聞て渡も何かは
すまふべき、じやうごまではなけれ共、もとより愛
酒にて好みける程に、思ひの如くゑはせてけり、其
後ちやうだいに入て、渡がたぶさをみだして女の髪
にけづりなし、我はたけなるかみをたぶさたけに切
てもとどりになしてけり、我身生きてあるならば、
母より始めて多くの人の命をほろぼすべし、ただ其
つみはわが身ひとりに報いなん、いかでかしやする
ことを得ん、昔東武の節女は夫の命にかはりけり、
今我身の上と覚えつつ、渡酔ひてふしたるけしきの
はかなさよ、今夜を限りの見はてなれば、さこそ悲
しく思ひけめ、宵のほどはかすかに火をかき立てて、
みぐるしき物したためて、か様に思ひ定めて、盛遠
にころされぬる有さまどもこまごまと書置て、夜更
人しづまりにければ、十念を唱へ侍る所に、子の刻
に及びて、盛遠おそひ来りければ、女いよいよ心を
一にして、弥陀の本願を念じてさし顕れてねたりけ
るを、さうなくもとどりをさぐりて、只一刀に首を
かきて、ひたたれの袖に包みて出にけり、首をば深
くをさめて家に帰つつ、日のたくるまで空寝して、
ふせる心のそこに思ひけるは、ことし三年寺々山々
に参詣して、財宝を尽し、こつずゐを砕きてきねん
申たりつるしるしはげんじやうにこそ覚えけれ、昔
も今も仏神の利生はやんごとなし、今より後いよい
P327
よ精進潔斎して、一々の寺社に参詣して悦申さんと
思ふ所に、郎等走り来て申けるは、不思議のことこ
そ候へ、何者か仕りて候やらん、渡左衛門殿の女房
の御首を今夜切参らせて候なる間、左衛門殿は首も
なきむくろをかかへて、閉門して渡らせ給ひ候と承
ると申ければ、盛遠浅ましやと思ひつつ、をさめ置
たる首を取出してみたりければ、今年三とせ恋ひ恋
ひて、只一夜あひたりつる女房の首にて侍ければ、
盛遠一目見てけるより、倒れふしておめきさけび、
声もをしまず悲しみけり、たけきもののふなれども、
恋の道には迷ひけり、辰の時より泣はじめて、未の
時までさけびけるが、四時計有て後、剛の物のしる
しにや、涙押のごひて、此事思ひつづくるに、なく
べきやうもなかりけり、中々一の悦なり、我と思は
ん郎等どもは、さいごの供仕るべしといひて出けれ
ば、郎等眷屬我も我もとなりみあひて、きらきら敷
こそ見えたりけれ、渡左衛門が許に打向ひて、盛遠
参りて候といはすれば、門をとぢてひらく事なし、
御わたり悦入て候へども、自今以後は人々のげんざ
んに候はじと申願をおこして候間、是へとも申さず
候なり、御光臨の条こそ悦入て候へといふ、盛遠か
さねて申けるは、けさ急ぎ参り御心ざしに、女房の
御首切参らせて候やつを不慮の外に承り出して、頓
てそこに打向ひてからめとりて参りて候なり、急ぎ
門を開かせ給へと申ければ、其時げにもとや思ひけ
ん、門を開きて入てけり、左衛門尉は首もなき女房
のかたはらにそひふして、肌にはだへを合せて泣し
づみてぞ居たりける、盛遠走り入て、御敵人具して
参りて候、御覚候へとて、懐より女房の首を取出し
て、其むくろにさし合せて、腰の刀をぬきて左衛門
尉にあてていはく、盛遠が所行なりとて、始めより
有つる次第を一事も残さず語りければ、左衛門尉は
我身に替りけるよと思ふより、いとど歎きぞ深かり
ける、盛遠は首をのべて、はやとくとく切落して少
P328
し心ゆかせ給へと申、自害せんとは思へども、同し
くは和殿の手に懸らんとて、思ひ切りて参りたるな
りと頻りにすすめて申ければ、左衛門尉申けるは、殊
に和殿も敵対の心をなして城にもたて籠りたらば、
尤討入てこそ其の本意遂ぐべけれども、かくし給は
ん上は、たとひ女房いきかへるべきことにても切奉
るべからず、自害も又せんなし、それよりはただな
き人の後生をとぶらひ、我も人も一仏浄土の往生こ
そあらまほしく覚ゆれ、今生後生むなしからんこと
永劫ちんりんの不覚なるべし、是にもかくし候なり
とて、渡刀を抜て盛遠が首をばかかずして、我本ど
りをこそ切たりけれ、其時盛遠これを見て、然るべ
し、此度生死をはなるべき善知識とや思ひけん、左
衛門尉をふし拝みて、これももとどりを切りてけり、
さて有べきならねば、有為無常の習ひ、力及ばずと
て、彼女房をばとりべ山に送りにけり、両方の家人
これを見て、あま、法師に成もの三十余人なり、衣河
の母も尼になりて、濃き墨染の袖いつかわくべしと
も見えざりけり、彼女房のせうそくこまごまと書置
て、箱の中にをさめたりけるをあけて見れば、いと
どしく女の身はつみ深き事にて候なるに、わらはが
故に多くの人のうせぬべく覚え候へば、我身ひとつ
を捨ぬるなり、但殊更つみ深く覚え候事は、老たる
母に先立参らせて、物を思はせまいらせんのみこそ
心うく候へ、あひかまへて後生よくよく弔はせ給ひ
候べし、ことには母の御命にかはり参らせぬるわら
はが身にて候なり、よろづ何事も細に申べく候へど
も、落る涙にかきくれて委しからず候こそほいなく
候へ、返々我身のぜん世のしゆくしうこそ悲しく覚
え候へとて、歌をぞよみたりける、
露深くあさぢが原に迷ふ身は
いとどやみぢに入ぞかなしき W081 K284
限りとてかく水ぐきのあとよりも
ぬるるたもとぞまづきえぬべき、 W082 K285
P329
げにも涙にかきくれて、心まどひしけるよと思しく
て、そこはかとなく書乱したり、母これを見るに、
いとど目もくれ心もきえはてて、もだえこがるるあ
り様はためし有べしとも覚えざりけり、めいどにも
ともにまどひ、猛火にもこがるる事ならばいかがは
せん、生きてかひなき露の身をむぐらの宿に留め置
て、恋慕の涙いつかわく時を得む、責てのことにじ
やうはりの鏡にうかんでや見ゆるとて、歌の返事を
よみて、泣々かたはらにぞならべける、
闇路にもともに迷はでよもぎふに
ひとりつゆけき身をいかがせん W083 K286
と書て、其後は天王寺に参りて、ただはやく命を召
して極楽に道引き給へ、仏道なりて後生をも求めつ
つ、一はちすの中に再会を遂げんと、祈念すること
怠らざる程に、いのる祈りやみてぬらん、次の年の
八月八日に生年四十五にて往生のそくわいを遂にけ
り、渡左衛門は年比の師匠を請じてうるはしく髪を
そりて、三聚浄戒を保ち、法名渡阿弥陀仏とぞ申け
る、在俗の時の名のりなり、心ざしはしやうじのく
がいを渡りて、ぼだいのきしに至らんことをぞくわ
んじける、遠藤武者盛遠入道はこれも始めには盛の
字を法名として、盛阿弥陀仏とぞ申ける、うせにし
女の骨を取て、うしろのそのにつかをつき、三年の
忌果までは、行道念仏たいてんなく勤めつつ、後往
生をぞいのりける、墓の上に蓮花ひらけたりと夢に
みて、歓喜の涙をぞ流しける、其後は東岱の煙[B 灯]との
ぼり、朝に反魂香の思ひをなし、西獄雲はれ、暮に
はれんだいののぞみをそふとぞ観じける、さて一首
君故にうき世をそむくすがたをば
こけの下にもさこそ見るらめ W084 K287
とて盛阿弥陀仏は日本国を修行してぐほうの心ざし
ねんごろなり、後にはさうなき智者に成て文覚房と
ぞ申ける、利根聡明にして、有験さへ世にすぐれたり
ける、かかる悪縁に引入て、罪業をつくるににたり
P330
といへども、つらつらことの心を案ずるに、彼女房
と申はしかしながら観音の変化にて、此人々を仏道
に入給ひけるとぞ覚えたる、毒薬変じて甘露となり、
ぼんなうそくぼだいのいはれをも、只今此事にこそ
と知られぬれ、或人申けるは、文覚は昔よりさるい
かめしきものにて、身の程顕はしたるものぞかし、
そのかみ道心を起してもとどりを切て、高野、粉河、
山々寺々修行しありきて、ある時はだしにて五穀を
たちて、熊野へ詣でて、三の山の参詣事故なく遂て、
那智の滝に七日断食してうたれんといふ不敵の願を
起しけり、比は十二月中旬の事なりければ、極寒の
最中にて、谷のつららも打とけず、松風も身にしみ
てたへがたく悲しき事限りなし、滝にうたれけるほ
どの久しさはせんぽう阿弥陀経おのおの一巻よむほ
どなり、すでに二三日にも成にければ、一身ひえつ
まりて、〓にたるひといふものさがりて、からから
となる程なり、しかも裸にてありければ、ひえつま
りて僅にいき計通へども、のちには通ひつる息も留
りて、すでに此世にもなきものになりて、那智の滝
つぼへぞ倒れ入にける、ある者の滝のおもてにて文
覚をひたと取てたてりと思へば、童子二人来て、左
右の手と思しき所を取て、文覚が首より足手の爪の
先までひしひしとなで下しければ、ひえたる身も皆
とけて、文覚、人心地つきて息出にけり、さて文覚息
の下に、我を取てなで給ひつるは誰人にて渡らせ給
ひつるぞと問ひければ、いまだ知ずや、大聖不動明
王の御使こんがら、せいたかといふ二人の童子の来
れるなり、恐るる心有べからず、汝此滝にうたれん
といふ願を起したるが、其願果さずして命終るを明
王御覧じて、此滝けがすな、彼法師依てたすけよと
仰られつる間、我等来るなりとて帰給へば、文覚不
思議の事ござんなれ、さるにてもいかなる人ぞ、末
代の物語にもせんと思ひて、立帰りて見ければ、十
四五計にて赤頭なる童子二人、雲をわけて上り給ひ
P331
にけり、文覚思ひけるは、これほどに明王の守護し
給はんには、此次に今三七日うたれんといふ願を起
して、すなはち又うたれぬ、其後は文覚が身には水
一もあたらず、もれてあたる水は湯の如し、かかり
ければ思ひの如くに三七日うたれて、終に宿願を遂
げにけり、さる文覚なれば、さも有らんと恐れあひ
けり、
かくて伊豆国に下着して、年月を経ける程に、北条
ひるが島の傍になごやが崎といふ所になごや寺とて
観音の霊地おはします、文覚彼所に行て諸人をすす
めて草堂を一宇立てて、毘沙門の像を安置し奉て、
平家を咒咀しけり、彼堂に三十町の免田今にあり、
此堂の側に湯屋を立てて一万人によくす、ある時折
ゑぼしにかうの小袖一つ着て、白き小ばかまにあし
だはきて、黒漆の太刀脇にはさみて杖つきたる男一
人来て、湯屋の東西を見まはる、文覚は目ももてあ
げず、釜の火打たきて居たりけるに、又たかしこつ
けたる男の黒漆の弓持たる一人来る、先に来つる人
の下人とおぼしくてともにあり、小童べどもが兵衛
佐殿こそおはしたれといひてささやくめり、其時文
覚さては聞ける人にこそと思ひて、かほをもちあげ
て見れば、彼人湯におりぬ、ともにある男来て申様、
御房湯の呪[B 宿イ]願とかやして人にあびせ参らせよといへ
ば、かやうの乞食法師の近く参るも恐れあり、水舟
に湯を汲てたべ、ここにてともかくも呪[B 宿イ]願のまねか
たせんといひければ、いふごとくして湯浴せらる、
いまだざう人はおりず、ともの男文覚がそばにゐて
火にあたる、文覚忍びやかに、これは流されておは
す兵衛佐殿かと問ければ、男にが笑ひて物もいはず、
文覚あれこそ入道が相伝の主と申ければ、男申ける
は、主ならば見知り奉りたるらんに、事新しくとは
るるものかなといふ、文覚申けるは、そよ和殿おさ
なくおはせしほどは宮仕、かやうに乞食法師になり
て後は、国々に迷ひありくほどに、参りよる事もな
P332
し、世におとなしくなられたり、人は名のりよかる
べきぞ、頼朝といふ名のよきぞ、大将軍のさうもおは
します、君に申て勅勘をもゆり、父の恥をもすすが
んとは思さぬか、さればこそかかる貴賎上下集る湯
屋などへは出給ひぬらめ、人は思ひたもちある事こ
そよけれ、此法師とても敵にてあらば難かるべきか、
人に首打切られうとて不覚人かなといひければ、此
男ふしぎのひじりのひた口かなと思へども、とかく
いふに及ばずして、余りに雑人の多く候に、はやあ
がらせ給へと主をすすめて、此よしを主にささやき
けるにや、此男立かへりてさとに出給ひたらん時は、
必尋ねておはせよと文覚が耳にささやきければ、わ
殿下りはてば、見参に入ばやと思ひしかども、さすが
ことごとしくすゐさんも事なくて罷り過候つるに、
今日びんぎに御目に懸りぬる事こそ嬉しけれ、便宜
には必参るべし、先に申つるすずろ事、みづから口
の外に洩し給ふなとぞいひける、其後兵衛佐恥かし
く思して、彼湯屋にはおはせず、廿日計すぎて文覚
里にいでたりける次に、さらぬ様にて兵衛佐のもと
へ尋来りければ、佐は法華経よみて居られたる所へ
よび入られたりければ、文覚手を合せて、尤本意に
て候、たうとく候とて、さめざめとなく、酒、菓子
体のもの取出して進められて後、さても御房今日は
しづかに居給ひて、世間の物語して遊び給へ、つれ
づれなるにと宣ひければ、さうけ給り候とて、兵衛
佐殿膝近く居よりて申けるは、花一時人一時と申す
たとへあり、平家は世のすゑに成たりと見ゆ、太政
入道の嫡子小松内大臣こそはかりごともかしこく心
もかうにして、父のあとをも継ぎ、また天下をも治
むべき人にておはせしが、小国に相応せぬ人にて、
父に先立て失給ひぬ、其弟はあまたあれども、右大
将宗盛をはじめとして、いうじやくはう〈 盛衰記作柔弱放逸 〉の人
どもにて、一人として日本国の大将軍となりぬべき
人見ぬぞや、殿はさすがに頼母しき人にておはする
P333
上、かう運の相もおはす、大将軍になり給ふべき相
もあり、されば小松殿についでは殿ぞ日本国の主共
成給ふべき人にておはす、今は何事かはあるべき、
はや謀叛を起して、日本国の大将軍となり給へ、か
つうは天の与へをとらざれば、返て其とがをうく、
時至て行ざれば、返て其禍をうくといふ本文あり、
文覚はかく賎しけれども、究竟の相人にて、右の眼
は大聖不動明王なり、左の眼は孔雀明王の御眼なり、
人の果報を知りて、日本国を見んと覚ゆる事たなご
ころをさすが如し、今も末も少しもたがはず、何様
にも殿は大果報の人と見申ぞ、とくとくおもひ立給
へ、いつを期し給ふべきぞと、憚る所もなく細々と
語ければ、佐おぼされけるは、心ふかく恐しき者に
て流さるるほどの者なれば、かく語らひよりてもろ
く相従はば、頼朝が首を取て平家に出して、汝がつ
みをのがれんと計るやらんとおぼされければ、佐宣
ひけるは、去永暦元年の春の比より、池の尼御前に
たすけられて、命を生きて当国に住して廿余年を送
りぬ、また池の尼御前の仰せらるる旨有しかば、毎
日に法華経を二部読みて、一部をば池の尼御前の御
ぼだいに回向し奉り、一部をば父母の孝養するより
外に、また二つといつなむ事なし、勅勘の者は日月
の光にだにも当らずとこそ申伝へたれ、いかでか此
身にて左様の事をば思立べきと、言葉すくなに宣ひ
けれども、心中には南無八幡三所大菩薩、伊豆箱根
の権現願くは神力を与へ給へ、多年の宿望を遂げて
かつうは君臣の憤りをやすめ、かつうは亡父のそく
わいを遂げんと思ふ心ざし深かりければ、隙を窺け
るものをとおぼされども、文覚には打とけられざり
けり、やや久しくして文覚帰りぬ、又四五日ありて
文覚来りければ、佐殿出あはれたり、いかにと宣へ
ば、文覚懐より白布のふくろの持ならしたるが中に
物を入たるを取出したれば、佐殿何やらんとあやし
く思はれけるに、文覚申けるは、是こそ殿の父御下
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野殿の御首よ、去平治の乱の時、左のごくもんのあ
ふちの木に懸られたりしが、ほどへて後はめもみか
けず、木の下に落て有しを、是へ流さるべしとかね
て聞たりし時に、年比見奉りし本意も有ぬ、世はとか
うして有ものなれば、みづから殿に対面の事もあら
ば奉りてんと思ひて、獄所のしもべをすかして乞と
りて、持経まぼりとて首にかけて、人めには我親の
かうべをたくはへたる様にて、京を流されて出る時
に、いかにもして世を取らん人を旦那にして、本意
を遂げばやと思ひし志深く、三宝に祈りて、声をあ
げて我願成就せよと、おめきさけんでものもくはで
有しかば、見聞人は皆文覚には天狗のつきて物に狂
ふかなどと申あひたりき、今其願みちぬ、はや殿世
におはして此法師をもかへり見給へ、其ためにこそ
年ごろたくはへ持て侍しか、念仏どく経の音にはこ
んぱく聞給ひて、めつざいの道ともなられぬらんと
て、さめざめとなきければ、人の心を見んとて、何
となくいふかと思ひたれば、まめやかに心ざしのあ
りけるこそ哀れなれ、定めて此世一の事にあらじと
思はれければ、一定はしらねども、父のかうべと聞
よりなつかしく覚えて、直垂の袖を広げて泣々請取
給ひて、経のしよくの上に置て、哀なるちぎりかな
とて、涙をこぼし給ふぞいとほしき、後にこそまこ
とならずと知られけれども、其時はまことと思はれ
ければ、それより後は打とけられけり、又とちぎり
て文覚帰りにけり、さて彼かうべを箱に入て仏の御
前に置て、兵衛佐誓はれけるは、誠に我父のかうべ
にておはしまさば、頼朝に冥加をさづけ給へ、頼朝
世にあらば過にし御恥をもすすぎ奉り、後生をもた
すけ奉らんとて、仏経の次でには花を供し香をたき
て供養せらる、其後文覚又来ければ対面して、扨も
いかがして勅勘をゆるさるべき、さなくば何事も思
立べからず、何様にも道ある事こそ始終はよかるべ
けれ、さても藤九郎盛長を具して、三島に夜々一千
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日のまうでをして、まんぜし夜、通夜したる夢に、
三島の東の社より猶二町ばかり隔てて、第三の王子
の前に大なる楠木あり、其王子の前を又二町ばかり
行て、また大なる楠木あり、此木二本が間に黒がね
の網をはりて、あけのいとをすやりにして、平家の
人々の首をかけ並べたりとみたりしは、いかなるべ
きやらんとのたまひければ、それは殿天下を打平げ
て、朝てき平氏の一門を亡し給はんずる事うたがひ
有べからずとぞ申ける、将又勅勘申ゆるし奉らん事
安じたべ、京へ上て院宣申て奉らん、其身勅勘の身
にておはしますやは叶ひ給ふべきとあれば、文覚申
けるは、院の近習の者に右兵衛の督光能といふ人あ
り、彼人内々ゆかり有りて、年比申うけ給はる事あ
り、彼人のもとへみそかにまかりて此由を申べし、
物ぐるはしくいつともなく承るものかなと思召すな
とて、弟子どもには三七日入ぢやうすべきなり、も
し人尋ねばかくあひしらへとて、弟子共へも知らせ
ずして、みそかに京へ上りにけり、
院は其時福原の楼の御所に渡らせ給ひけるに、夜に
紛れて光能卿のもとに行て人に知らせず、あるつぼ
ねの女房をもてみそかにふみを遣したりければ、光
能げんざんして、さても夢の様にこそ覚ゆれ、いか
にと問ひ給ひければ、文覚近くよりて、やぶに目、
かべに耳といふ事あり、いとど忍びて申合すべき事
ありて、わざと人にも知らせず、夜に紛れて参りて
候なり、さてささやきけるは、伊豆国に候兵衛佐頼
朝こそ院のかくて渡らせ給ふ事を承りて、歎きて院
宣を給りたらば、東八ヶ国の家人相催して、京へ打
上て君の御敵平家を亡して、逆鱗をやすめ奉り、人
人の歎きをもしづめて参らせんと申候へ、東国の大
名小名一人も従はぬものはよも候はじ、此やうをみ
そかに法皇に申させ給へといひければ、光能卿誠に
君もかく打籠られさせ給ひて世の政をもしろし召さ
ず、我も参議右兵衛督皇太后宮権大夫三官皆平家に
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やめられて心うしと思ひ歎き居たりと思はれけれ
ば、何様にも隙を窺ひて御気色を取べし、かく宣ふ
も然るべき事にこそあるらめ、今二三日の程はこれ
におはせよとて其夜も明けぬ、次の朝に光能卿院参
せらる、夕に帰て彼事隙なくていまだ奏せぬなりと
有ければ、文覚かたすみにかがまり居たり、次の日
参り給ひて、ひそかに御気色を伺ひ給へけるに、法
皇仰の有けるは、浄海が当時のふるまひを見るに、
頼朝世を取らん事有がたくこそ思召せ、もし果し遂
ずば、君も臣も安穏なるべからず、此事いかが有べ
からんと思召し煩はせおはしまして、俄に御精進あ
りて、鳥羽院よりつたはりおはします不動尊の像を
両殿にかけ奉らせ給ひて、頼朝兵略をめぐらし朝敵
を退くべくば、一つの瑞相を知らしめ給へと終夜の
御行法有けるに、其しるしなかりければ、次の日一
日一夜御祈誓有て、願くは生生而加護の御誓むなし
からずば感応をたれ給へと、御かんたんを砕きてい
のり申させ給ひけるに、暁方に法皇仏前に暫くまど
ろませおはしましけるに、御夢想に白き装束したる
男一人、白羽の矢負て弓脇にはさみて、南庭に畏り
て候けり、何者ぞと御尋有けるに、伊豆の国の流人
前右兵衛佐頼朝と名乗と御覧じて、打おとろかせお
はしまして、急ぎ光能を召て、とくどく院宣を下す
べきよし御ゆるし有ければ、院宣を書て給りけるを、
文覚給りて首にかけて、昼夜五日に伊豆の国へはし
り下りて、兵衛佐殿に奉たりければ、手口洗ひてO[BH 浄衣にイ]ひ
もをさして院宣を見給ふ、
可早追討清盛入道并一類事
右彼一類非忽諸朝家、失神威亡仏法、既為
仏神怨敵、為皇法朝敵、仍仰前右兵衛佐源頼朝、
宜令追討彼輩、奉息逆鱗之状、依院宣執達
如(レ)件、
治承四年七月六日 前右兵衛督藤原光能奉
前右兵衛佐殿
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とぞ書れたりける、兵衛佐此院宣を見奉りて、泣々
都の方へ向ひて、八幡大菩薩をふし拝み奉る、当国
には伊豆箱根二所に願を立てて、先北条四郎時政に
宣ひ合せて思ひ立給へり、石橋の合戦の時も白旗の
上に此院宣を横様にむすび付られたりとぞ聞えし、
兵衛佐流され給ひて後廿一年と申に、院宣を給て北
条四郎時政を招き寄せて、如何すべきと宣へば、時
政申けるは、東八ヶ国中に誰か君の御家人ならぬも
のは候はじ、かづさの介八郎広常、平家の御勘当に
て其子息大和の権守忠常京に召籠られて候つるが、
此ほど逃下りてようじんして候と承る、上総介広常、
千葉介常胤、三浦大介義明此三人を語らひ給へ、是
等だにもしたがひ付参らせ候ほどならば、土肥、岡
崎、ふところ島、是等はもとより心ざし思ひ参らせ候
ものにて候へば、参り候はんずらん、もし君を強く
射参らせ候はんずるものは、畠山の庄司次郎重忠、
しぶ谷兄弟、いなげの三郎重成是等なり、父畠山庄
司重能、同じき弟小山田別当有重兄弟二人、平家に
仕へて候へば、強き御敵にて候べし、相模の国には
鎌倉党大場の三郎景親、三代相伝の御家人にて候へ
ども、当時平家の大御恩の者にて候へば、君を射奉
らんずる者にて候、広常、党胤、義明是等三人だに
もまいり候なば、日本国は御手の下に思召せと申け
れば、兵衛佐宣ひけるは、此事頓て明日にてもと思
へども、八月十五夜以前に思ひ立べしとも覚えず、
其故は、謀叛を起さば、諸国にいははれ給ふ八幡大
菩薩の放生会の違乱となりなんず、しかれば彼放生
会の後思立べしと宣ひければ、時政尤さ候べしとて、
月日の立を待けるほどに、八月九日大場の三郎京よ
り下りて、佐々木三郎秀義をよびて申けるは、長田
入道、上総介が許へ伊豆の兵衛佐を、北条四郎かもん
の丞引立奉りて、謀叛を起さんとしたく仕る由承る、
急ぎ召上て隠岐の国へながさるべしといふ文をつけ
たりけるを、上総の介取出して、景親に見せ候しか
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ば、かもんの丞ははや死に候き、北条四郎はさも候
はんと申たりしかば、いかさまにも太政入道殿の福
原よりのぼらせ給ひたらんに、げんざんに入らんと
て、銘かきて置き候き、此度高倉の宮の三井寺に引
籠らせ給ひて後は、国々の源氏一人もあらすまじと
候しかば、よもただは候はじと語りけるを、秀義浅
ましく思ひて、急ぎ宿所に帰りて、景親がかかる事
をこそ語申つれ、伊豆の国へ申さんとしけるに、三
郎ふけうの子なり、次郎はいまだ佐殿見しり給はず、
太郎行けとて、下野の宇都宮にありける太郎定綱を
よびて、態と定綱を参らせ候、日ごろ内々だんぎ申
候と、景親もれ聞たるげに候ぞ、思召したたば急が
るべし、さなくば奥州へ越させ給へ、是までは藤九
郎計を具して渡らせ給へ、子供を附け参らせて送り
申べしとて遣しけり、十二日定綱はせ参て申ければ、
此事くはしく承候畢、頼朝も先達て聞たるなり、召
に遣さんと思ひつるに、神妙に来りたり、さらば頓
て是に候へととどめ給ひけれども、急ぎ罷帰て弟ど
もをも具し、物の具をも取て参らんと申しかば、さ
てはよも来じ人にも聞せられんなどと宣ひしかば、
誓言を立て候しを聞給ひて、十六日には必来れ、汝
を待つけて伊豆のもの共を具して、兼隆をば討んず
るなり、但次郎をばしぶやの庄司が聟にして、子に
もおとらず思ひたるなれば、よも与力はせじ、三郎
ばかりを具せと仰有ければ、次郎経高是を聞て申け
るは、三郎にも四郎にもなつげ給ひそ、是等は如何
にも思ひきるまじき者どもなり、兵衛佐殿さほどの
大事を思ひ立給はんに人をば知るべからず、経高に
於ては善悪参るべしと申ければ、さらばとて頓て相
模の国波多野に有ける、三郎盛綱が許へ使者をはし
らかす、四郎高綱平家に奉公して有けるが、兵衛佐
謀叛の企有と聞ければ、うき雲にふちをあげて東国
へはせ下て、太郎が方にかくれ居たる方へも使者を
ぞ遣しける、つつむとすれども、景親是を伝へ聞て、
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如何すべきと国中の人々にいひ合する由聞えけり、
さる程に佐々木の者ども兄弟四人はせ集りて、頓て
夜のうちに北条へ行けるに、次郎経高しうとのしぶ
やの庄司、人を走らかして経高に申けるは、いかに
人をばまどはせんとはするぞ、ことなる人どもは行
とも、経高はとまるべしといひつかはしたりければ、
経高申けるは、こと人どもこそ恩を得たれば、大事
とも思ひ給はめ、経高はさして見えたる恩も更に大
事とも思はず、かくいふにとまらずば、妻子を取て
いかにもこそはなさめ、おもひ切て出ぬることなれ
ば、全く妻子のこと心にかからず、さりとも佐殿世
をも取給はば、経高が妻子をば誰かとりはつべきと、
さんざんに返答して打通りぬ、十六日にも成にけれ
ば、兵衛佐北条四郎を召て宣ひけるは、日ごろ月日
の立こそ待つれ、今夜平家の家人当国の目代和泉の
判官兼隆が屋牧の館に有なるをよせて、夜討にせん
と思ふなり、もし打損じたらば自害をすべし、うち
おほせたらば頓て合戦思ひ立べし、これを以て頼朝
がみやうがの運と又和人共の運不運をばしるべし、
但佐々木の者共にやくそくしたりしが、いまだ見え
ぬこそ本意なけれと宣ひければ、時政申けるは、今
夜は当国の鎮守三島大明神の御神事にて、当国の中
に弓矢を取事不(レ)叶、かつうは佐々木の者ども待給
へ、吉日にても候、明日にて候べしとて出にけり、
さる程に佐々木の兄弟十七日未の時計に北条へはせ
つく、兵衛佐あはせの小袖に藍摺の小ばかまばかり
着て、ゑぼし押入て、姫君の二つばかりにやましまし
けんを側にすへ奉りて、是が末よと見給ひて、よに
うれしげに思して、経高はしぶやが浅からず思ひた
るなれば、よも参らじとこそ思ひつるに、いかにし
て来りたるぞと宣へば、千人の渋谷を君一人に思か
へ参らせ候べきにあらずと申ければ、さ程に思はん
ことはとかくいふに及ばず、頼朝此事を思ひたつは
和人どもが冥加とは知らぬかと宣ひければ、只今ぞ
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世ならぬことまでは思ひ候はず、但かほどの大事を
思召し立たらんには、今日参り候はでは、いつをか
期すべきと存ずる計なりと申ければ、頼朝はもとは
肥たりしが、此百日ばかり夜昼此事を按ずるほどに、
やせたるぞとよ、今日十七日丁酉の日を吉日に取て、
此暁当国目代和泉の判官平の兼隆を討たせんと思ひ
つるに、口惜くをのをの昨日みえざるに依て、今日
さてやみぬ、明日はしやうじんの日なり、十九日は
日なみ悪しし、廿日迄のびば返て景親におそはれぬ
と覚ゆるぞと宣ひければ、三郎四郎をも待ち候し上、
折節此程の大雨大水に思はずに三日逗留して候と申
ければ、あはれ遺恨の事かな、さらばをのをのやす
み給へと宣ひければ、侍に出て休みてありけるほど
に、日すでに暮てくらく成ぬ、又暫く有て各々物の
具してこれへと有ければ、やがて物の具して参りた
れば、是にあるげす女を兼隆ざつしき男がめにして
有けるが、只今是に来りけるなり、是がけしきをみ
てしうにかたりなば、一定おそはれぬべければ、彼
男をからめ置たるなり、兼隆が館に用心するやいな
や、内々相尋ぬる所に、当時は別に用心の儀なく候、
其上宗徒の殿原十五六人は、伊豆の島田の宿に遊君
と遊ばんとて出られ候ぬ、残る人々廿余人は候らめ
ども、さるべき人はすくなく候よし申なり、此上は
とくとく今夜よせて討べしと宣ひければ、十七日子
の刻に北条四郎時政、子息三郎宗時、小四郎義時、
佐々木太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱以
下、彼是馬上歩行ともなく三十余人、四十人計もや
あるらん、屋牧の館へぞ押寄ける、門を打出ければ、
当国の住人加藤次景廉と申は、元は伊豆の国の住人
加藤五景員が子息加藤太光員が兄なり、父かげかず
敵に恐れて、伊豆国を逃出て、工藤の介茂光が聟に
なりて居たりけり、弓矢の道兄弟いづれもおとらざ
りけれど、殊に景廉はくくきりなきはやりもの、そ
ばひら見ずの猪武者にて有けるが、いかが思ひけん、
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兵衛佐に奉公しけるが、其夜佐殿の御もとにひしめ
くことありと聞て、何事やらんとて行たりけるなり、
北条、佐々木の者共は、ひた河原といふ所に打出て、
北条四郎申けるは、屋牧へ渡るつつみのはなに、い
づみの判官が一の郎等権の守兼行といふ者あり、殿
原はそれより寄せて討給へ、時政は打通りておくの
判官をかこむべしとて、案内者をつく、定綱と高綱
とは彼案内者を先として、うしろへからめてにまは
る、前よりからめてのまはらぬ先に打入て見れば、
もとよりふるつはものにて待うけたり、さしりたり
とて、さんざんに射る、かたきは未申にむかふ、経
高は丑寅に向ふ、月はあかかりければ、互のしわざ
かくるることなし、寄合せて戦ふほどに、経高薄手
負ぬ、さる程に高綱うしろより来くははりたりける
に、矢をばぬかせてけり、さて兼行をば定綱、盛綱
押寄せて討おほせつ、判官が館と兼行が家との間五
町計なり、敵打おほせて後、頓て奥のやまきの館へ
ぞはせ通りける、兵衛佐は縁に立れたりけるが、景
廉が来るを見給ひて、折ふし神妙なり、景廉は頼朝
が所に候へとて置れたり、遥に夜更て後、今夜時政
を以て兼隆を討に遣しつるが、討おほせたらば家に
火をかけよといひつるが、はるかになれ共火の見え
ぬは、打損じたるやらんとひとり言に宣ひければ、
景廉聞あへず、さては日本第一の御大事を思召し立
けるに、景廉にしらせ給はざりける事の心うさよと
いふままに、かぶとの緒をしめてつと出けるを、兵
衛佐景廉を召返して、白金のひる巻したる小長刀を
手づから取出して、是を給はる、兼隆が首をば是に
て貫きて参れとぞ宣ひける、景廉はやまきへ馳むか
ふ、歩人一人ぞ具したりける、佐殿よりざつしき一
人付られたりけるに長刀をば持せて、判官が館へ馳
よせて見れば、北条は家の子郎等にあまた手負せて、
馬ども射させて、しらみて立たる所に、景廉来くは
はりければ、北条いひけるは、敵手ごはく、すでに五
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六度まで引退きたるぞ、佐々木の者共兼行を討て此
館のうしろへからめてに向ひたるなりといへば、し
たたかならんものにたてつかせてたべ、一あて当て
見んと申ければ、北条がざつしき男源藤次といひけ
る者にたてをつかせて、馬よりおりて、弓矢をば元
よりもたざりければ、人の弓一張、矢三すぢかなぐ
りて、たてのかげより進み出て、矢面に立もの三人
射殺しつ、さて弓をば投げ捨て、長刀をみじかに取
なして、かぶとのしころをかたぶけて、打払ひて内
へつと入り侍るをみれば、高燈台に火かきたてて、
其前にじやう衣着たる男の、長刀を鞘はづして立む
かへけるを、加藤次走り違て、小長刀にて弓手の脇
をさしてなげ伏たり、頓て内へ攻入てみれば、額突
の前に火おこしたりぬ、火白くかきたてたり、ふし
から紙の障子をたてたりけるをほそめにあけて、太
刀のおびとり、五六寸計引残して、敵これに入たり
と思ひて、見出したり、加藤次小長刀を以て障子を
さしひらきてみれは、いづみの判官をば住所に付て、
やまきはう官とぞ申ける、判官かたひざを立て太刀
をひたいひあてて、入らば切らんと思ひたるげにて
待かけたり、加藤次しころをかたぶけて、つと入ら
んとする様にすれば、判官敵を入れじとむずと切る
所に、上の鴨居に切付て太刀をぬかんぬかんとしける
を、ぬかせもはてさせず、しや胸を突き貫きて、な
げふせて首をかくを見て、判官が後見の法師、元は
山法師にて注記といふもの、つとよる所を、二の太
刀に首を打落しつ、さて主従二人が首を取て、障子
に火を吹附て、つと出て、兼隆をば景廉が討たるぞ
やとぞののしりける、判官が宿所焼けるを兵衛佐見
給ひて、兼隆をば一定景廉が打たりと覚ゆるぞ、門
出よしとて悦び給ひける程に、北条使者をたてて、
兼隆をば景廉が討て候なりと申たりければ、兵衛佐
さればこそとぞ宣ひける、是を始めとして伊豆の国
より兵衛佐に相隨ふ輩、北条四郎時政、子息三郎宗
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時、同次郎義時、工藤の介茂光、子息かのの五郎親
光、宇佐美の平太、同平次、同三郎すけなか、加藤
太光員、舎弟加藤次景廉、藤九郎盛長、天野の藤内
遠景、同六郎、新田四郎忠常、きせう房じやうしん、
堀の藤次親家、佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三
郎盛綱、同四郎高綱、七郎武者信親、中四郎惟重、
中八惟平、橘次頼時、くしまの四郎宗房、近藤七郎
国平、大見平次家秀、新藤次俊長、小中太光家、城
平太、あひざはの六郎宗家、懐島平権の守景義、舎
弟豊田四郎景俊、筑次次郎義行、同八郎義安、土肥
の次郎実平、同子息弥太郎遠平、新貝の荒四郎実重、
土屋三郎宗遠、同小四郎義清、県の弥次郎忠光、岡
崎四郎義実、真田の余一義忠、中村五郎、同次郎、
飯田五郎、平佐古太郎為重、大沼四郎、多毛三郎
義国、丸五郎信とし、安西四郎為景〈 已上五十一人 〉等を召具
して、八月廿日相模の国土肥へ越て、時政、宗遠、
実平ごときのおとなどもを召て、さて此上は如何有
べきと評定あり、実平先申けるは、国々の御家人の
方へ廻文候べきなりと申ければ、尤さるべしとて、
藤九郎盛長を御使にて、廻文を遣はさる、先相模の
国住人はた野の小次郎、馬の允信景を召れけれども、
参らず、上総介広常、千葉介常胤左右なく領状申た
りけれども、わたりあまた有て、八月下旬のことな
れば、風波の難によつて遅参す、山内須藤刑部丞義
通が孫、須藤滝口俊通が子共、滝口三郎、同四郎を召
れければ、三郎弟の四郎に向ひて、盛長が聞をも憚
らず申けるは、人は至てわびしく成ぬれば、すまじ
き事をもし、思ひよるまじき事をも思ふとは是なり、
其故は兵衛佐殿当時のさほふにて、平家に立会奉ら
んとてかくの如くのことを引出し給ふ事よ、ほうの
ごとくふじの山と長くらべし、猫のひたひにある物
を鼠のねらふに似たり、南無阿弥陀仏、々々々々々
々とぞ高声に申ける、御返事に及ばず、三浦の介義
明がもとへ御文持むかひたりければ、折節風気とて
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ふして有が、兵衛佐殿より御文ありと聞て、急ぎ起
き上りてゑぼし押し入て、直垂うちかけて、盛長に
出向ひて、廻文披見して申けるは、故左馬頭殿御末
は、皆絶はて給ひぬるにやと思ひたれば、義明が世
にも御末出来給はん事、只身一人の悦なり、子孫皆
来るべしとて集りける、嫡子椙下太郎義宗は、長寛
二年秋の軍に、あはの国長狭城を攻るとて、大事の
手負て、三浦に帰りて、百日に満じけるに、廿九に
て死にけり、次男三浦別当義澄、大和多三郎義直、
佐原十郎義連、孫共には和田の小太郎義盛、同次郎
義茂、同三郎宗実、多々良三郎、同四郎、佐野平太
惣八、橘五、矢藤太、三浦藤平是等をよびすへて申け
るは、昔は三十三年を以て一昔としき、今は廿一年
を以て一昔とす、廿一年過ぬれば、淵は瀬になる、
平家既に廿余年のかぎり天下を保つ、今はすゑに成
て、悪行日を経てばいぞうす、滅亡の期来るかとみ
えたり、其後又源氏繁昌疑ひなし、各々はやばや一味
同心に兵衛佐殿御方へ参るべし、君冥加おはせずし
て討死をもし給はば、各又かうべを一所に並ぶべし、
山賊海賊をもしたらばこそ瑕瑾ならめ、佐殿若くわ
はうおはして、世をも取給はば、をのれ等が中に一人
も生残りたらん者、世に有て繁昌すべしと申ければ、
各左右に及ばずとぞ申ける、
去程に兵衛佐殿は北条時政、佐々木が一類を始とし
て、伊豆相模両国の住人同意与力する輩三百余騎に
は過ざりけり、八月廿二日の夕、土肥の郷を出て早
川尻に陣を取る、早川党申けるは、戦場には悪く候
べし、湯本の方より敵山を越て後を打囲み、中に取
籠られ候なば、一人ものがるべからずと申ければ、
引退きて石橋といふ所に陣を取て、上の山越には掻
楯をかき、下大道をば切ふさぎてたて籠る、平家の
方人当国の住人大場三郎景親、武州相州の勢を招き、
同廿三日寅卯の時おそひ来、相従ふ輩には、大場三
郎景親、舎弟股野五郎景久、長尾の新五新六、八木
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下五郎、香河五郎以下鎌倉の者ども一人も洩ざりけ
り、此外は、ゑびなの源八権守秀定、子息おぎのの五
郎、同彦太郎、ゑびなの小太郎、川村の三郎、原惣
四郎、曾我太郎祐信、渋谷の庄司重国、山内滝口三
郎、同四郎、稲毛三郎重成、久下権の守直光、同舎
弟熊谷次郎直実、瀬間三郎、広瀬太郎、岡部の六弥
太忠澄などを始として、むねとの者三百余人、家の
子、郎等都合三千余騎にて石橋の城へ押よす、道々
兵衛佐方人の家々焼払ひて、谷を隔てて海を後に当
てて陣をとる、さる程に酉の時にもなりにけり、稻
毛の三郎いひけるは、今日は既に暮たり、合戦は明
日たるべきかと申、大場の三郎申けるは、明日なら
ば兵衛佐殿方に、勢いよいよはせ重るべし、後より三
浦の人々来ると聞、両方を防がんこと、道せばくし
て足立悪し、明日は一向三浦の人々と勝負を決すべ
しとて、三千余騎を整へて鬨を作る、兵衛佐の方より
も、ときの声を合せて、蟇目かぶらを射ければ、山彦
こたへて敵の大勢にも劣らずぞ聞えける、大場の三
郎景親鐙ふんばり弓杖ついて立あがりて申けるは、
抑近代日本国に光を放ちて肩を双ぶる人なき平家の
御世を、傾け奉らんと結構するは誰人ぞや、北条四郎
あゆみ出て申けるは、汝は知らずや、我君は清和天皇
第五の皇子六孫王経基より八代の後胤、八幡太郎殿
には御彦兵衛佐殿にてまします也、忝くも太上天皇
の院宣を給て首に懸させ給へり、東八ヶ国中の輩誰
人か御家人にあらざるや、馬に乗ながら仔細を申条
甚奇怪なり、速に下りて申べし、さて御供には北条
四郎時政を始として、子息宗時、同四郎義時、佐々
木が一党、土肥、土屋をはじめとして、伊豆、相模両
国の住人忝く参りたり、景親又申けるは、昔八幡殿後
三年の合戦の御供して、出羽国金沢の城をせめられ
し時、十六歳にて先陣かけて、敵に左の眼を射させ
て、当の矢射てその敵取て名を後代に留めし鎌倉の
権五郎景政が末葉、大場の三郎景親を大将軍として、
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兄弟親類其勢三千余騎なり、御方の勢こそ無下にす
くなく見え候へ、いかでか敵対せさせ給ふべき、時
政申けるは、抑景政が末葉と名乗申か、さては仔細
は知たりけり、いかでか三代相伝の君に向ひ奉て、弓
を引矢を放つべき、速に引退候へ、景親又申けるは、
主にあらずとは申さぬぞ、但昔は主、今は敵、弓矢
取もとらぬも恩こそ主よ、当時は平家の御恩、山よ
りも高く海よりもふかし、昔ぶりして降人に成べき
にあらずとぞ申ける、兵衛佐宣ひけるは、武蔵、相
模に聞ゆるもの共あんなり、中にも大場三郎、股野
は名高き兵と聞置たり、誰人にてくますべきぞ、岡
崎の四郎進み出で申けるは、敵一人に組ぬ者の候か、
親の身にて申べきには候はねども、義実が子息白物
冠者義忠こそ候はめと申ければ、さらばとて真田の
余一義忠を召して、今日の軍の一陣仕れと宣ひけれ
ば、余一承りぬとて立にけり、余一が郎等文三家安
を招き寄て申けるは、母にも女房にも申せ、義忠今
日の軍の先陣をかくべき由兵衛佐殿仰を承る間、先
陣仕るべし、おととひ、それを打出候しを限りと思召
し候へ、生きて二度帰るべからず、若兵衛佐殿世を
うちとらせ給はば、二人の子息等佐殿に参らせて、
岡崎と真田とを継で子共の後見して、義忠が後生を
も弔ひてたべといへと申ければ、文三申けるは、殿
を二歳より今年廿五に成給ふまでもりそだて奉て、
只今死ぬると宣ふを見捨てて帰るべきにあらず、こ
れ程の事をば三郎丸して宣へかしとて、三郎丸召し
て家安此よしをいひ含めて遣はしけり、余一十七騎
の勢にてあゆみ出て申けるは、三浦大助義明、舎弟三
浦悪四郎義実が嫡子、さなだの余一義忠生年廿五歳、
源氏の世を取給ふべき軍の先陣なり、我と思はん輩
は出てくめとてかけ出たり、平家の軍兵是を聞て、
真田はよき敵ぞや、いざ我股野くんで取らんとて、
すすむ者ども長尾の新五、新六、八木下五郎、荻野の
五郎、曾我太郎、渋谷の庄司、原四郎、滝口三郎、
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稲毛の三郎、久下権の守、加佐摩三郎、広瀬太郎、
岡部六弥太、熊谷次郎を始として、むねとの者共七
十三騎、我劣らじとおめいてかく、弓手は海、妻手
は山、くらさはくらし、雨はいたくふる、道はせば
し、心は先にとはやれども、力及ばぬ道なれば、馬
次第にぞかけたりける、真田、文三家安あゆみ出て申
けるは、東八ヶ国の殿原、誰人か君の御家人ならず
や、明日ははつかしからんずるに、矢一つ射ぬ先に
御味方に参れやと申ければ、渋谷の庄司重国が、か
く申は誰人の言葉ぞや、家安申にや、あたら詞を主
にはいはせで、人々しくまた郎等のと云ければ、家
安重ねて申けるは、人の郎等、人ならぬか二人の主
にあはず、他人の門に足ぶみ入ず、和殿原こそ秩父の
末葉とて口はきき給へども、一方の大将軍をせで、
大場の三郎がしりまひして迷ひ行給へ、よき人のき
たなきふるまひするをこそ人とはいはぬ、矢一すぢ
奉らんとて、鶴の本白の中ざしをぬき出して、ぬり
ごめの弓に十三束をよひきて射たりければ、かぶと
の手先を射つらぬく、其時敵も味方も一同にわつと
ぞ笑ひける、さる程に廿三日たそがれ時にも成にけ
り、大場の三郎、舎弟股野の五郎に申けるは、股野
殿構へてさなだにくめよ、景親も落あはんずるぞと
いふ、股野いはく、余りにくらくして、敵も味方も
見わかばこそ組候はめといひければ、大場いひける
は、真田はあしげ成馬に乗たりつるが、かたしろの
鎧にすそ金物打て白き母衣かけたりつるぞ、それを
印にてかまへてくめとぞ申ける、承り候ぬとて、股
野すすみ出て申けるは、抑さなだの余一がここに有
つるが見えぬは、はや落けるやらんといへども、さ
なだ音もせず、敵間近くはせよせて、有どころ慥に
聞おほせて、股野が傍らにゐたり、真田の余一ここ
にあり、かう申は誰人ぞやといふ声に付て、股野五
郎景久なりと云はつれば、頓て押しならべてさしう
つぶひてみたりければ、馬あしげなり、よろひのす
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そ金物きらめいて見えければ、打よせて引組でどう
と落にけり、上に成下に成、山のそばを下りに大道
まで三段計転びたり、今一返し返したらば海へ入な
まし、股野は大力と聞えたりけれども、如何したり
けん下に成うつぶしに、くだり頭にふしたりければ、
枕はひくしあとは高し、起きん起きんとしけれ共、さ
なだ上にのり居たりければ、叶はじとや思ひけん、
大場の三郎舎弟股野五郎景久、さなだの余一に組だ
り、つづけやつづけやと云ければ、家安を始として郎等
共皆かけ隔てられてつづく者なかりけり、股野が従
弟長尾の新五落合ひて、上や敵下や敵と問ければ、
余一は敵の声に成て上ぞ景久、長尾殿あやまちすな、
股野は下にて下ぞ景久、長尾殿あやまちすなといふ
程に、かしらは一所にあり、くらさはくらし、いづ
れとも見わかず、上ぞ景久、下ぞさなだ、下ぞ景久
と互にいふ、股野いひけるは、不覚の者哉、よろひ
の毛をもさぐれかしといひければ、二人の者共が鎧
の引合せをさぐりけるを、さなださぐられて、右の
足にて長尾がむねをむずとふむ、新五ふまれて、そば
ざまに二弓だけばかりとどばしりて倒れにけり、其
間にさなだ刀をぬいてかくにきれず、させどもさせども
通らず、刀をもちあげて雲すきに見れば、さやまき
のくりかたかけて、さやながら抜たり、さやじりを
加へてぬかんとする所を、新五が舎弟新六落重りて、
余一が箙のあはひにひたと乗ゐて、かぶとのてへん
に手を入てむずと引、あをのけてさなだが首をかき
たれば、水もたまらずきれにけり、頓て股野を引起
して手負たるかと問ければ、頂こそしびて覚ゆれと
いふを、さぐれば手のぬれたりければ、敵の刀を取
て見れば、さや尻一寸計くだけて有、誠につよくさ
したるとみえたりけり、其手を痛みて、股野は軍も
せざりけり、股野の五郎景久、さなだの余一をうち
取たりとののしりければ、源氏の方には歎き、平家
の方には悦けり、父の岡崎が兵衛佐殿に余一冠者こ
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そすでに討れて候へと申ければ、兵衛佐はあたら兵
を討せけるこそ口惜けれ、若頼朝世にあらば、義忠
が孝養はすべしとて、あはれげに思されけり、岡崎
申けるは、十人の子におくれ候とも、君の世に渡ら
せ給ひ候はんことをこそ願はしく候へと申ながら、
さすが恩愛の道なれば、よろひの袖をぞぬらしける、
文三家安は余一が討れたる所より尾一隔てて戦ひけ
るを、稲毛の三郎云けるは、主は既にうたれぬ、今
は和君落よかしといひければ、家安申けるは、幼少
よりかけ組む事は習ひたれ共、逃る事はいまだ知ら
ず、さなだ殿討れ給ひぬと聞つるより、心こそいよ
いよたけくこそおぼゆれとて、くきやうの敵八人分
捕して討死しけり、軍はよもすがら有けり、暁方に
成て、兵衛佐の勢土肥をさして引退く、佐殿も後陣
にひかへて、あな心うや、同じ引ともおもふ矢一射
て落よや落よやと宣ひけれ共、一騎も返さず皆落ぬ、
堀口といふ所にて加藤次景廉、佐々木四郎高綱、大
和田の三郎よしなほ落残て、十七度まで返合せて、
さんざんに戦ふ、敵は数千騎有けれ共、道せばく足
だち悪くして、一度にも押寄せず、僅に二三騎づつ
ぞかけたりける、此者共敵多く討取て、矢種射尽し
てければ、同じく一度に引退く、さる程に夜もほの
ぼのとあけにけり、廿四日辰の刻に山上人々引退き
けるを、荻野五郎末守、同子息彦太郎秀光以下兄弟
五人、兵衛佐の跡めに付て追かかりて、此先に落給
ふは大将軍とこそ見申せ、いかに源氏の名折に鎧の
後をば見せ給ふぞ、きたなしや返し合せ給へと、お
めいてかく、佐殿叶はじとや思されけん、只一人返
合せて、矢一つこそ射られけれ、荻野五郎が弓手の
草ずりぬひざまに射つらぬく、二矢にはくらのふく
りんに射立、次の矢には荻野が子息彦太郎が馬のむ
ながひつくしに立にけり、乗馬はねふしければ、足
をこしており立ぬ、伊豆の国の住人大見の平次が佐
の前にははさまりけり、又佐々木四郎馳来て大見が
P350
前に扣へたり、昔物語にも大将軍の御軍なき事にて
候、只ここを落させ給へと申ければ、防矢射る者な
ければこそと宣ひければ、伊豆の国の住人飯田の三
郎家能候と申て、矢三すぢいたりけり、敵三人は射
落しつ、兵衛佐椙山に入給ひにけり、残りの人ども
みちさかしくて、たやすく山へ入べき様もなかりけ
り、太刀計はきてぞ山へは入にける、伊豆国の住人
工藤介茂光は太りて大なる男にて、山へものぼら
ず、あゆみも得ず、のぶべきとも覚えずして、子息
狩野五郎ちか光を招き寄せて、人手にかくな、我首
を討てと云ければ、親光父の生首を切らんことの悲
しさに、父を肩に引かけて山へ上りしが、峨々たる山
なれば、たやすく上るべしとも覚えねば、とみにも
のびやらず、敵は間近く攻かくるとて、すでにいけ
どりにせらるべかりければ、茂光腹かききりて死に
けり、茂光がむすめ伊豆の国の国司為綱が具してま
うけたりける田代冠者信綱これを見て、祖父工藤介
が首取て、子息かのの五郎に取せて山へ入にけり、
北条が嫡子三郎宗時も伊藤の入道祐信法師に討れに
けり、兵衛佐は峰に上りてふし木の有けるにこし打
かけておはしたりけるに、人々あとめを尋て来りけ
れば、佐宣ひけるは、人々多くては中々あしかりな
ん、各々是よりちりぢりになるべし、我世にあらば
必尋ぬべし、各も尋らるべしと宣ひければ、人々申
けるは、我等もすでに日本国を敵にうけて候へば、
いづくへまかるべしとも覚え候はず、同じくは一所
にてこそ塵灰ともなり候はめと申ければ、頼朝思ふ
様有てこそかくもいふに、相従はずば不興なり、し
ゐていはん人は存ずる旨ありと心を置べしと宣ひけ
れば、此上はとて思ひ思ひにおち行けり、北条時政、
子息義時父子二人はそれより山伝へに甲斐の国へ赴
きにけり、加藤次景廉、田代冠者信綱とは伊豆国三
島の御宝殿に籠りたりけるが、夜のほのぼのと明に
ければ、御宝前を出て思ひ思ひに落行く、景廉は兄
P351
の光員に行合ひて甲斐の国へ落にけり、残る輩は伊
豆、駿河、武蔵、相模の山林に逃籠る、兵衛佐に附
き山にある人とては土肥の次郎、同子息弥太郎、甥
の新貝の荒次郎、土屋の三郎、岡崎の四郎以上侍五
人、下臈には土肥の次郎が小舎人男七郎丸、兵衛佐
殿をぐし奉て、上下ただ七人ぞ有ける、土屋が申け
るは、天喜年中に故伊予入道殿の貞任をせめ給ひし
時、僅に七騎に落なりて、一旦は山に籠り給ひしか
共、終に其御本意をとげ給ひけり、今日の御有さま
こそ少しもそれにたがはず候へ、尤吉例なりとぞ申
ける、兵衛佐殿すでに敵近付くといふ、ここを去り
ても山の案内を知たらばこそ中々敵に行合ひぬと覚
ゆ、さり共ここには来らじとて、彼杉のまろぶしの
うつろの中に七人入籠り給ひぬ、大場あとめにつき
て尋ね来て、ふし木の本までさがしたり、足あとは
是まで来たりたるが、すゑは見えぬぞ、おぼつかな、
いか成らんとてふし木のそばひらにおりゐたり、大
場をはじめて、不思議の事かな、まさしくここまで
六七人がほどの足あと有ものを、いづちへ落ぬらん
とて、東西をさがす、むちを以てふし木を打たたけ
ば、中、大にうつろなり、是はいかに、此木はまはり
大きなり、此うつろには人籠るとも十人廿人もこも
らんずるものを、若此中にもや有らん、入てさがせ
やと下知しける、大場の平三景時、後には梶原と申
者立寄て見るに、ふし木のそばにまろ穴あり、誠に
左もや有らんとて、さしうつむきて見入たれば、人
六七人が程あり、其中にしも兵衛佐殿の御目にきら
りと見合せたり、すでに思ひ切たる御有さまなり、
是を見て景時思ひけるは、あな心うや、いへば此殿
は譜代相伝の主人ぞかし、然れども一旦の恩により
て平家に従ひて、弓を引て向ふといひながら、浅ま
しき事かな、たとひ勝負をする事ならばいかがはせ
ん、ここにていひがひなく討奉らんこと心うしと思
ひければ、若世にも渡らせ給はば、思召し知らせ給
P352
へかしと思ひければ、足を以て此穴をふみかくして、
何ものの此木の穴には有べきぞ、さりながらいで入
てさがして見んとてふし木の中に入り、口にふさが
りて人を入らじとて弓矢むちを以てからりからりとさ
がし廻る、人々我も我もと入らんとしけれども、景
時口にふさがりて尋さがしければ、各腰の刀を抜て
自害せんとし給ふ所に、景時此気色を見て、小声にて
そそめきて、あな心うや、景時が候ぞ、何事も有る
まじく候、御自害思ひも寄べからずと申て、はひ出
て申けるは、有りがたきふし木めかな、景時に骨を
折せつる、焼すつべけれども、後には思ひしれよとて、
伏木を荒らかにたたきたり、兵衛佐殿、景時は我に心
を寄するものにこそとおぼししづめ、八幡大菩薩た
すけさせ給へときせい申給ひけるに、彼木のまろの
中より兎三つ連て、大場が前にはしり出たり、大場
これをみて、こはいかに珍らしき兎あり、これや殿
原といへば、人々諸共に我も我もと射て取らんとて
はせ向ふ、よにいよげにて三の道にかかりて、しづ
しづと走る、此兎に従て大勢大道に出にけり、佐殿
敵行さりてのち、あらふしざや、八まん大菩薩誠に
頼朝をば守らせ給ひけり、月の前に兎ありといふ事
の有ものを、大菩薩の本地阿弥陀と申せば、観音、
勢至、脇士としてまします、月即ち勢至なり、今は
東国をしるべき因縁うたがひあらじとて、大にかん
じ給ひけり、
三浦の人々はまりこ河のはた、浜の宮の前に陣を取
て、各申けるは、石橋の軍は此夕までなかりけり、
今日は日も暮ぬ、暁天あけてのちよすべしとて、こ
らへて有ける程に、兵衛佐の方に大沼四郎といふ者
あり、敵の中を紛れて、三浦の人々の陣の前を河端
に来て呼はりければ、たぞといふ、大沼四郎なり、
石橋の軍既に始りて、さんざんの事どもあり、其次
第を参て申さんとすれば、馬にははなれぬ、夜は更
たり、河のふち瀬も見えわかず、馬をたべ、参りて
P353
申さんといひければ、急ぎ馬を渡しけり、大沼来て
申けるは、酉の刻に軍始りて只今まで火の出る程合
戦あり、工藤の介、真田の余一すでに討れぬ、兵衛
佐殿も討れ給ひけるとぞ申合ひて候つれ、誠にのが
れ給ふべき様もなかりつる上、自ら手を砕きて戦ひ
給ひつれば、一定討れ給ひぬらんとぞ申ける、人々
是を聞て、兵衛佐殿討れ給ひたりといふ共、実正を
知らず、但大将軍ましますと聞ばこそ、百騎が一騎
になるまでも戦はめ、前には大場の三郎、伊東入道
雲霞の勢にて待かけたり、後には畠山次郎、武蔵党
の物共引ぐして、五百余騎にて金江河のはたに陣を
取る、あんなる中に取籠られて、一人ものがるべし
共覚えず、たとひ一方を打破りて通りたり共、朝敵
となる上は、安穏にて有まじ、しかじ人手にかからん
よりは、各自害をすべしといひければ、義澄申ける
は、しばし殿原じがいあまりに物さわがしとよ、か
やうの事はひがごと空ごとも多し、兵衛佐殿一定討
れてもやましましぬらん、のがれもやし給ひぬらん、
其かばねを見申さず、土肥、岡崎は相模の国の人々
なり、先此人々討れて後こそ大将軍は討れ給はめ、
海辺近ければ船に乗給ひて、あはかづさの方へもや
心ざし給ひぬらん、石橋山深山かすかにつらなりた
れば、それにもや籠りてましますらん、何様にも兵
衛佐殿の御おとづれを聞かん程は、自害せん事悪か
りなん、さりとも兵衛佐殿荒涼に討れ給はじものを、
たとひ死に給ふとも、敵にものをば思はせ給はんず
らん、何さまにも大場にも畠山にも一方に向ひて討
死射死をこそせめ、畠山が勢五百余騎と聞く、此勢
三百余騎押向ひたらば、などかしばしもささへざる
べき、是を破りて三浦に引籠りたらんには、日本国
の勢一方によせたりとも、火出る程に戦ひて矢だね
射尽なば、其時こそ義澄は自害をもせんずれとて、
頓てかぶとの緒をしめて、夜半計に小磯原を打過て、
波うち際を下りに、金江河の河尻へ向てぞあゆませ
P354
ける、和田の小太郎義盛が舎弟次郎義茂は高名ある
兵、大太刀、大矢の精兵、大力のものなりけるが、
此道はいつもの習ひの閑道ぞや、上の大道をばうち
給はぬか、只大道をうちて過ざまに畠山が陣をかけ
破りて、強馬ども少々取集めてゆかんといひければ、
何条すずろごと宣ふか、畠山此程馬かひたてて休み
居たり、強馬取らんとて返てよわき馬とられよかし、
馬の足音は波に紛れて聞まじ、くつわをならさで通
れ、若党と下知しければ、或はうつぶしてみづつき
を取り、或は轡をゆひからげてぞ通りける、案のご
とく畠山の重忠聞付て、めのとはん沢の六郎成清を
呼ていひけるは、只今三浦の人々の通ると覚ゆるぞ、
重忠此人々に意趣なしといへ共、かれらは一向佐殿
の方人なり、重忠父庄司平家に奉公して、当時在京
したり、是を一矢射ずして通しぬるものならば、大
場、伊東などにざん言せられて、一定平家の勘当蒙
りぬと覚ゆるなり、いざ追かけてひと矢射むといひ
ければ、成清尤さ候べしとて、馬の腹帯強くしめて
追かけたり、三浦の人々はかくともしらで、相模河
を打渡り、腰越、稲村、由井の浜などを打過て、小
坪坂にも打上れば、夜も漸く明にけり、小太郎義盛
がいひけるは、是までは別の事なく来りたり、今は
何事か有べき、たとひ敵追来たりとも、足立わろき
所なれば、などか一ささへせざるべき、馬をも休め
わりごなども行給へかし、殿原とて各馬よりおりゐ
て、後の方を見帰たれば、稲村崎に武者こそ三四十
騎ばかり打出たれ、小太郎これを見て、ここに来た
る武者は敵か、又此ぐそくのさがりたるかといひけ
れば、三浦の藤平実光、ぐそくにはさるべき人も候
はず、次郎殿ばかりこそ鎌倉を上りに打せ給ひつれ、
あれより来るべき人覚えずと申ければ、小太郎、さ
ては敵ござんなれとて、叔父の別当義澄に向ひてい
ひけるは、畠山すでに追かけたり、殿ははや東の地
にかかりてあぶずり究竟の城なれば、かいたてかか
P355
せて待給へよ、義盛はここにて一軍して、もし叶は
ずば、引かけて諸共に戦ふべしと申ければ、義澄尤
さるべしとて、あぶずりへぞ行ける、畠山次郎五百
余騎にて赤はたかがやかして、由井の浜、稲瀬河の
はたに陣を取、畠山次郎使者を立て、和田の小太郎
が方へいひ送りけるは、重忠是までこそ来て候へ、
各に別の意趣を思ひ奉るべきにあらねども、父庄司、
叔父小山田別当、平家の召に依て折節六波羅に伺公
す、重忠が陣の前を無音にて通し奉りたらば、平家
に勘当せられんこと疑ひなきに依て是まで参たり、
是へ出させ給べきか、それへ参り候べきかと申とて
遣しけり、義盛、実光を召て彼使者に相具して返答
しけるは、御使申様、こまかに承り候ぬ、仰尤その
いはれあり、但庄司殿と申は大介の孫聟ぞかし、さ
れば曾祖父に向ひて、いかでか弓矢を取て向ふべき、
尤宿意有べしといはせたりければ、重忠かさねて云
けるは、元より申つる様に介殿御事と申、各の御事
といひ、意趣思ひ奉らず、ただ父と叔父との首をつ
がんが為に是迄来るなり、さらば各々三浦へかへり給
へ、重忠も罷帰るべしとて、和平して帰る所に、か
様に問答和平するも、いまだ聞定めぬ先に、義盛が
下人一人舎弟義茂が方へ走り行て、由井の浜に軍す
でに始りて候といひければ、義茂是を聞て、あな心
うや、太郎殿はいかにといひて、甲の緒をしめて、
犬懸坂を走せ越て、名越の下まで浜を見渡せば、何
とは知らずひた甲四五百騎計うち立たり、義茂只一
騎にておめいてかく、畠山これを見て、あれはいか
に、和平のよしは空事なり、からめてを待たんとて
いひけるものを、安からずいだしぬきけるにやとて
かけ出んとす、さる程に兄の義盛小坪坂にて是を見
て、ここに下ざまに七八騎計にてはしるは次郎よな、
和平の仔細を聞もひらかず、左右なくかくると覚ゆ
るなり、次郎討すな、いざさらば戦はんとてかけ出
たり、小太郎義盛、実光に云けるは、楯突の軍は度々
P356
したれども、はせ組の軍は是ぞはじめ、いか様に有
べきぞと云ければ、実光申けるは、今年五十八には
成候が、軍に合ふ事十九ヶ度、誠に軍の先立実光に
て有べしとて申様、敵も弓手、我も弓手に合んずる
なり、打とけ弓を引べからず、あき間を心にかけて
ふり合せふり合せして、内申ををしみ、あだ矢を射じと
矢をはめながら、矢をたばひ給ふべし、矢一つ放ち
ては、次の矢を急ぎ打くはせて、敵の内甲を心に懸
給へ、昔様は馬を射る様はせざりけれ共、中比より
は先しや馬のふと腹を射つれば、はねおとさせてか
ち立に成ぬれば、手やすきぞ、また近代はやうもな
く押並べて組で中に落ぬれば、太刀、刀にて勝負は候
なりとぞ申ける、さる程にあぶずりに引上て、かい
たてかいてまちつる三浦別当義澄、すでに合戦始ま
ると見て、小坪坂をおくればせにして押よす、道せ
ばくして僅に二三騎づつ走せ来ければ、遥につづき
て見えければ、畠山此勢を見て、三浦の勢計にては
なかりけり、上総、下総の人々共一味に成てけり、
大勢に取込られて叶はじとて、おろおろ戦ひて引退
く、三浦の人々いよいよかつに乗り、追ざまに射け
れば、浜の御霊井の前にて和田の次郎義茂と相模の
国の住人連の太郎と組で落ぬ、連は大の男の人にす
ぐれて長高くふつたいなり、和田はすこしせいちい
さけれども聞ゆる小相撲にて、敵をまめにかけてゑ
い声を出して波打際に枕をせさせて、のけざまにな
げ寄せて、胸板の上をふまへて刀をぬいて首をかく、
是を見て連が郎等落合たりけれ共、和田太刀を内か
ぶとに打入たりければ、唯一うちに首を打落す、二
の首をすすがせて休み居たる所に、連が子息の次郎
走せ来てさんざんに射ければ、義茂がいひけるは、
親の敵をば手取にこそとれ、和殿が弓勢にてしかも
遠矢に義茂が鎧は通らじものを、討れぬ先に落合か
し、恐しきか寄らぬは、但し義茂軍につかれたれば
手向はすまじ、首をばのべて切れんずるぞとはげま
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されて、つらの次郎太刀を抜て落合たり、和田の次
郎はわざと甲のはちをからとうたせて取て引よせ、
みしと押へて刀をぬいて首をかく、二の首をくらの
とつけに附て、連が首をば片手に持て帰来たり、其
日の高名和田の次郎に極りたりと、敵も味方ものの
しりけり、畠山が方には連の太郎、河口次郎大夫、
秋岡四郎等を始として、究竟の者ども三十余人ぞ
討れける、手負は数を知らず、三浦方には、多々良
十郎、同次郎と郎等二人ぞ討れける、其時畠山我方
の軍兵あまた討れ、引退くけしきを見ていひけるは、
弓矢取道ここに返合すは各永く弓矢を小坪坂に切す
つべしとて、片手矢はめてあゆみ出て申けるは、音
にも聞、目にも見給へ、武蔵の国の住人秩父の余流、
畠山庄司重義次男庄司次郎重忠生年十七歳、軍にあ
ふ事今日ぞはじめ、我と思はん人々は出合とてかけ
出たり、はん沢の六郎はせ並べて、馬のくつばみに
取付て申けるは、命を捨る事は様にこそより候へ、
さしたる宿世の敵親の敵にもあらず、か様の公事に
付たる事に命をすつる事は候はず、若御心の趣あら
ば後の軍にて有べしとて、取とどめければ、力及ばず
相模の本間の宿に引き退く、かの宿に兵衛佐殿の方
人多く居住したりければ、其家に火を懸て、山下の
村まで焼払ふ、三浦の人々は此軍の次第を大助に語
ければ、ふるまひ尤神妙なり、就中義茂が高名左右
に及ばずとて、太刀一振取出して孫の義茂にとらす、
敵只今来らんず、急ぎ衣笠の城に籠るべしと云けれ
ば、義茂が申けるは、衣笠は口あまた有て無勢にて
は叶まじ、奴田城こそ廻りは石山にて一方は海なれ
ば、よき者百人計候はば、一二万騎寄たり共苦しか
るまじき所なれと申ければ、大介いひけるは、さか
しき冠者のいひ事哉、今日は日本国を敵に請て討死
せんと思はんずるに、同じくは名所の城にてこそ死
べけれ、先祖の聞えある館にて討死してけりと、平家
にも聞れたけれといひければ、尤さるべしとて、衣
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笠の城に籠りけり、
上総の介広常が舎弟金田大夫よりつねは義明がむこ
なりければ、七十余騎にてはせ来りて、同じ城に籠
りけり、此勢相具して四百余騎に及びければ、城中
にも過分したり、大介いひけるは、若党をはじめて
うまや冠者原に至るまで、強弓の輩矢ぐらをかまへ
てさんざんに射べし、又討手にかしこからん者ども
は、手々に長刀を以て深田に追はめて討べし、城の西
裏の手をば義澄防ぐべしとぞ下知しける、かく云程
に廿六日辰の刻武蔵の国の住人江戸太郎、河越太郎、
党の者共には金子、村山、股野、山口、児玉党を始
として、八百余騎にて押寄せたり、先連の五郎は、父
と兄とを小坪にて討せたる事を安からず思ひける故
に、真先にかけて出来たり、支度のごとく城内より
矢先を揃へて射る、一方は石山、二方は深田なれば、
寄する武者多く討れけり、又打物冠者原肩を並べて
打向ひて戦ひければ、面を向る者なかりけり、かか
りければ連がとう少し引退きけるを、金子の者共入
替へて、金子十郎木戸口へせめ寄せたり、城中より
例の矢先を揃へて射けれども、金子少しも退かず、
廿一まで立たる矢をば折かけ折かけして戦けり、其時
内よりこれをかんじて、酒肴一具家忠が方へ送りて
いひけるは、軍の様誠に面白く見えたり、此酒召し
て力つきて手際の軍し給へといひ送りたりければ、
金子返事に申けるは、さ承り候ぬ、能々のみて城を
ば只今落し申べしとて、頓て甲の上に浅黄糸をどし
の腹巻を打かけて、少しもひるまずせめ寄せければ、
大介是を見て、若物共に下知しけるは、あはれいひ
がひなき者共かな、二三十騎馬のはなをならべてか
けいでて、武蔵の国の者共の案内も知らぬ深田へ追
はめて笑へかしとののしりければ、いく程もなき勢
にて打出ん事も中々あしかりなんとて、出ざりけれ
ば、大介らうらうとしてしかも所労の折節なりける
が、白き直垂にゑぼし押入て馬にかきのせられて、
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ざつしき二人を馬の左右に付て、膝をおさせて太刀
計はいて、敵の中へ打出んとしければ、いとこの佐
野平太はせ来て、介殿は物に付給ひたるか、うち出
給ひては、何のせんか有べきとて引とどめければ、
おのれらぞ物の付たるとは見る、軍といふはきけ、
或時はかけ出て敵をも追ちらし、ある時は敵に追れ
て引退きなどするこそめをも覚して面白けれ、いつ
といふ事もなく草鹿、さをじか、まとなど射る様に
みならはずといふ儘に、佐野平太をむちをもて打た
りける、さる程に日暮ぬ、軍に各しつかれて、大介
殊の外によわげにみえけれ共、いひけるは、各され
ばとて、自害すべからず、兵衛佐殿はよも荒涼に討れ
給はじ、佐殿の生死をも聞定めむほどは、かひなき
命を生て始終を見はて奉るべし、いかにも、あは、か
づさの方へ落給ひぬらん、今夜ここをひきて舟にの
りて佐殿の行末を尋奉るべし、義明は今年七十九に
せまれり、其上所労の身なれば、義明幾程の命を惜
みて城中をば出けるぞと、後、見聞ん人のいはん事
も口惜ければ、我をば捨て落べし、更に恨み有べか
らず、急ぎ急ぎ佐殿に落加はり奉て、本意を遂ぐべ
しと云けれ共、さればとてすて置べきにあらず、子
孫とも手ごしにかきのせて落んとしければ、大介大
にしかりて、手ごしにも乗らず、されどもとかく拵へ
て押乗せて、城中をば落にけり、むねとの者どもは
浜の御崎にありける船共に打乗々々、安房の方へぞ
おもむきける、大介がこしをばざつしき共がかきた
りけるが、敵はちかくせめ懸りければ、こしを捨て
にげにけり、近く付つかはれける女一人ぞ付たりけ
る、敵の冠者原追かけて大介が衣裳をはぎければ、
我は三浦大介といふ者ぞ、かくなせそといひけれど
も、叶はず、直垂はがれてけり、さる程に夜も明に
けり、大介あはれ我はよくいひつる物を、城中にて
こそ死なんと思ひつるに、若者共がいふに付て、犬死
してんずるこそ口惜けれ、さらば同じくは畠山が手
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にかかりて死ばやと云けれども、江戸太郎はせ来て
大介が首を討にけり、いかにもおとなのいふ事は様
有べし、もとより大介がいひつるやうにすて置たら
ば、か程の恥に及ばざらましとぞ人申ける、
兵衛佐は土肥のかちやが入といふ山に籠りてましま
しけるが、峯にて見ければ、伊藤の入道土肥におし
寄せて、重ねて実平が家を追捕しやき払ひけり、実
平山の峯より遥に見下して、土肥に三光あり、第一
の光は八幡大菩薩の君を守り奉給ふ御光、次の光は
君の御はんじやうありて、一天四海をかがやかし給
はんずる御光也、次の光は実平が君の御恩にて放光
する光なりとて、舞かなでしければ、人皆笑ひけり、
さる程に実平が妻子の方より使者をつかはしていひ
けるは、三浦の人々は小坪の軍には勝て、畠山の人
人多く討れたりけるが、衣笠の城の軍に打落されて、
君を尋奉て安房の国へ赴きけり、いそぎ彼人々に落
くははり給ふべしと申たりければ、実平此由を聞て、
さては嬉しき事ござんなれとて、相かまへて今夜中
に海船を召て、安房の国へ落給ひて、重ねて広常、
常胤等を召て、今一度冥加のほどをも御らん候べし
と申ければ、尤さるべしとて、小袖といふ所へ出給
ひて、船一艘に乗りて安房の国へぞおもむき給ひけ
る、兵衛佐以下の人々七人ながら皆大わらはにて、
ゑぼし着たる人もなかりければ、其浦に次郎大夫と
て有ける者、かひがひ敷ゑぼし十かしら参らせたり
ければ、兵衛佐悦給ひて、此勧賞には国にても庄に
ても汝が功によるべしとぞ宣ひける、次郎大夫宿所
に帰りて妻子に向ひて申けるは、ゑぼし一だにも持
ち給はぬ落人にて、逃まどふ人の荒涼にも預りたう
つる国庄かなと申て笑ひけり、実平この御船取出せ
といひければ、子息弥太郎遠平暫く御待事候といひ
ければ、をのれが舅の伊藤入道待つけて、君をも我
らをも討せんとするか、岡崎殿其弥太郎めがしや首
うち落してたべといひければ、岡崎いかでか主と父
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との事を舅に思ひ替て、さやうの心おはすべきとぞ
いひける、頓て船さし出しければ、案の如く伊藤の
入道三十騎計、ひたかぶとにて片手矢はめて追て来
る、追様にも数百騎にてせめ来たる、かしこくぞ御
船を出しけるとぞ人々いひ合ける、さて北条時政は
かひの国へ越えて、一条、武田、小笠原、安田、か
きそねのぜんじ、那古若人此人々に告けるをば、
兵衛佐殿知給はで、此事甲斐の人々に知せばやとて、
宗遠行けとて、御文書て遣はされけり、夜に入て足
柄を越ければ、関屋の前に火高くたきたり、人数多
ふしたり、土屋三郎歩み寄て足音高くしはぶきして
ののしりけれども、たぞともいはず、土屋の三郎思
ひけるは、寝入たる由をして通して、先に人を置て
中に取込んとするやらん、さればとて帰るべきにも
あらずとて、はしり通りければ、誠に寝入たりける
間、おともせず、さて一人行合たれども、恐れて物
もいはず、是もおぢて音もせず、一反計隔てて互に
にらまへて時をうつす程立たり、土屋の三郎はさる
古兵にて有ければ、声をかへて問けり、只今此山を
越るはいかなる人ぞといひければ、かく宣ふは又い
かなる人ぞと、和殿はたぞたぞと問ほどに、互に知
りたる声に聞なして、土屋殿のましますか、宗遠ぞ
かし、小次郎殿か、よしもち候、土屋はもとより子
なかりければ、兄の岡崎の四郎が子を取ておひなが
ら養子にして、平家に仕へて在京して有けるが、此
事を聞て夜昼下りけるが、然るべき事にや親に行合
ひけり、夜中の事なれば、互にかほをば見ず、声ば
かりを聞て、手に手を取組ていひやりたる方もなく、
只いかにいかにとぞいひける、山中へ入て木のもとに
ゐて、小次郎申けるは、京にて此事を承りて下り候
つるが、今日五日は馬をたうして歩行にて下り候つ
るに、下人もえ追付ず、此昼きせ川にて承りつるは、
石橋の軍には兵衛佐殿も討れ給ひぬ、土屋、岡崎も
討れたりと申つれば、なまじひに京をば罷出で候ぬ、
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浪にも磯にもつかぬ心地して候つるなりと語りけれ
ば、土屋思ひけるは、人の心のにくさは誠の親にて
もなし、かれは只今まで平家に仕はれたり、是は源
氏をたのみてあり、首を取て平家の見参にもや入ん
と思ふらんと思ひければ、有の儘にも語らざりけり、
討れたる人とては和殿の兄の余一と北条三郎、さは
の六郎、工藤の介は自害しつ、甲斐国へと聞、時に尋
奉らんとて赴くなり、いざさらば和殿もとて具して
行、甲斐国へ越て、一条次郎のもとにてぞ有のまま
には語りける、三浦の人々は主にははなれぬ、親に
はおくれぬ、舟ながしたる心地して、安房の北方に
りう島にぞ着にける、暫くやすらふ程に、はるかの
沖に雲井に見えて、船こそ一艘みえたりけれ、此人
人申けるは、あれにみゆる船こそあやしけれ、此ほ
どの大風大浪にあま舟つり舟商人船などはあらじ、
あはれ兵衛佐殿の御船にてや有らん、また敵の船に
てや有らんとて、弓の弦しめして用心して有けるが、
船は次第に近附、是を見れば誠に兵衛佐殿の御船な
りと笠印を見付て、三浦の船よりも笠印をぞさし上
たる、猶用心して兵衛佐殿をば打板の下に隠し奉て、
其上に殿原並居たり、三浦の人々はいつしか心もと
なくて、御船にぞ押合せける、和田の太郎申けるは、
いかに佐殿は渡らせ給はぬか、岡崎申けるは、我等
も御行衛を知まいらせぬ間、尋参らせて行なりとい
ふ、三浦は大介がいひし事ども語りてなく、岡崎は
余一が討れし事はとてなく、昨日一昨日の軍の物語
をぞしける、兵衛佐は打板の下にて是を聞給ひて、
あはれ世に有て、是等に恩をせばやとぞさまざまに
思はれける、いたく隠れて是等に恨みられじとて、
頼朝は爰に有はとて、うち板の下より出給ひたりけ
れば、三浦の人々是を見奉て、各悦てなき合ひけり、
和田の小太郎申けるは、父も死ね、子孫も死ね、只
今君を見奉れば、それに過たる悦はなし、今は本意
を遂ん事疑ひ有べからず、君今は只侍共に国々をば
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わけ給へ、義盛には侍別当をたぶべし、上総の権の守
忠清が、平家より八ヶ国の侍別当を捨てもてなされ
候しが、浦山しく候しにとぞ申ける、兵衛佐殿安房の
国安戸新八幡大菩薩に参詣して、千返の礼拝奉て、
みなもとはおなじ流れぞいは清水
せきあけ給へ雲のうへまで W085 K106
其夜の夢想に御宝殿より
ちひろまでふかくもたのめいは清水
只せきあげん雲のうへまで W086 K107
平家物語巻第十終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十一
P364
平家物語巻第十一
兵衛佐殿は、使者を上総介、千葉介方へ遣して、各々急
ぎ来らるべし、是程の大事を引出しつつ、此上に頼
朝を世にあらせんとも、世にあらせじとも両人が心
なり、広常をば父と頼、常胤をば母と思ふべしと宣
ひける、両人ともに元より領状したりければ、常胤
三千余騎の軍兵を卒して、雪の浦に参会して、則兵
衛佐殿を相ぐし奉りて、下総の国府に入奉りてもて
なし参らせけり、常胤申けるは、此川のはたに大幕百
帳計り引ちらし、白旗六七十流打立打立置れ候べし、
是を見ん輩は江戸、葛西の者ども皆参り候はんずら
んと申ければ、尤さるべしとて、其定めにせられけ
るほどに、六千余騎に成りにけり、上総介広常は此
次第を聞て、我遅く参りぬとおもひて、当国中伊比
南、庁北、庁南、望西、望東、畔蘇、ほり口、むさ
山辺の者ども平家の方人して、強き輩をば押寄押寄
是をうち取、隨ふ者をば相具して一万余騎にて下総
の国府に参会す、この仔細を申あげたりければ、兵
衛佐殿聞給ひて、実平を使として宣ひけるは、遅参
の条存の外に覚ゆれども、さたの次第尤神妙たり、
速に後陣に候べきよしいはせらる、此勢相具して一
万六千余騎になりにけり、広常やかたに帰りて、む
ねとの郎等どもに逢ひていひけるは、此兵衛佐殿は
一定の大将軍也、広常是程の多勢を卒してむかひ参
りたらんには、悦感して急ぎ出会て耳と口とさし合
して、ささやきごと追従などをこそ宣はんとおもひ
けるに、実平を以て宣ひつる詞、一にはおほけなく、
一には大くわいなるこころなり、誰人にも荒涼にせ
られ給はじ、一定本意は遂給はんずらん、むかし将
門東八ヶ国を打ふさぎて、頓て王城に責入らんとし
けるに、俵藤太謀をめぐらして語らひよらんと思ひ
て、多勢を卒して来りければ、将門余りに悦んでけ
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づりける髪を取上ずして、白衣にて大童成が出向ひ
て、さまざまの饗応事をいひければ、秀郷さるかし
こき者にて、此人の体以の外に軽さう也、いかにも
日本国の大将軍とは得ならじとて、うちてけり、そ
れ迄こそなくとも、責ては御前近く召るべかりつる
ものをとぞいひける、扨て兵衛佐殿武蔵国と下総国
との境に角田川のはたに陣を取、武蔵の国の住人江
戸太郎葛西三郎等が一類、数をふるひて参上す、兵
衛佐殿宣ひけるは、彼等は皆衣笠の城にて我を射た
りし者にはあらずや、大庭、畠山同じ心にして、凶
心を挟みて参りたるやといはせられたりければ、彼
等再三陳じ申に依て免除せられぬ、兵衛佐殿宣ひけ
るは、平家の嫡孫小松新少将維盛を大将軍にて、五
万余騎にて上総介忠清を先陣として、斎藤別当実盛
を東国の案内者にて下るべき由聞ゆ、然らば甲斐、
信濃両国の敵の方にならぬ先に、此川をわたして足
柄を後にあて、富士川を前に当、陣をとらんとおも
ふなりと有ければ、此儀尤可然とぞ各々申ける、さ
らば江戸太郎此程の案内者也、浮橋を渡して参らせ
よと宣ひければ、江戸は兵衛佐殿の御きげんに入ん
と思ひければ、左右なく浮橋をわたして参らせける、
此橋を打渡して武蔵国豊島の上、滝の川の板橋とい
ふ所に陣を取、其勢すでに七万騎に及べり、八ヶ国
の大名、小名、別当、権守、庄司、大夫などいふ様
なる一党のものども我劣らじと、或は二三十騎、あ
るひは四五十騎、百騎面々に白旗をさしてぞ集りけ
る、兵衛佐はまづ当国六所の大明神にまいり給て、
上矢を抜て獻ぜらる、その時畠山次郎、めのとのき
さいの六郎成清を呼ていひけるは、当時世間のあり
さま如何なるべしとも覚えず、父庄司、叔父別当六は
らに伺公の上は、余所に思ふべきにはあらねども、
三浦の人々と一軍してかつは其仔細三浦の人々にも
いひ置ぬ、いま兵衛佐殿繁昌ただ事ともおぼえず、
ひらに推参せばやとおもふ也、いかにといひければ、
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成清申けるは、其事候、此旨を只今申合せんとぞん
じ候つる也、弓矢をとる習ひ、父子両方にわかるる事
常のことなり、かつうは又平家は今の主、佐殿は四
代相伝の君也、とかくの儀に及べからず、とくとく御
推参有べし、遅々せば定めて追討の使被遣ぬと覚え
候と申ければ、五百余騎にて白旗、白弓袋をさして
参りて、げんざんに入べきよしをぞ申ける、兵衛佐
殿宣ひけるは、汝は父重能、叔父有重平家に仕はる、
就中小坪にて我を射たりし上、頼朝が旗同じ様なる
をささせたり、定めて存る旨あるらんと宣ひければ、
重忠申けるは、小坪にて軍の事は、存の旨三浦の人
人に再三申置ぬ、その次第定めて披露候はん、私の
宿意にも候はず、君の御ことをも忽諸することも候
はず、次にはたのこと、御先祖八幡殿、武衡家衡を
追伐させ給ひし時、重忠が四代の祖父十郎武綱はじ
めて参りて、此旗をさして御供つかまつりて先陣懸
て、則ち彼の武衡追伐せられ候き、近くは御舎兄悪
源太殿、帯刀先生殿を大倉館にて責られし時の軍に、
重忠が父此はたをさして、即時に打落候き、源氏の
御ためには旁重代相伝の御祝也とて、其名を吉例と
申なりと陳じ申ければ、兵衛佐、千葉介、土肥など
にいかか可候と問はれければ、是等申けるは、畠山
をば御勘当な候そ、畠山だに御勘当候なば、むさし、
相模の者ども努々御方に参り候まじ、彼等は畠山こ
そ守り候らめと一同に申ければ、まことに理りなり
と思はれければ、畠山に宣ひけるは、誠に陳じ申と
ころいはれなきにあらず、さらばわれ日本国を打平
げんほどは、一向先陣をつとむべし、汝が旗にはこ
の皮をおすべしとて、あゐ皮を一もん被遣けるとか
や、夫よりしてぞ小紋のはたとは申ける、是を聞き
て武蔵、相模の国の住人等一人ものこらず馳集る、
大庭の三郎此次第を聞きて叶はじと思ひて、平家の
迎ひに上りけるが、足柄を越てあひ沢の宿に着たり
けるが、先には甲斐源氏二万余騎にて駿河国へ越て
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けり、後には兵衛佐殿の勢、雲霞のごとく責来ると聞
えければ、中にとり込られて叶はじとて、鎧の一の
草ずりを切落して、二所権現へ奉りて、相模国へ引
かへりて奥の山へ逃籠りける、平家はか様におびた
だ敷儀をば不(レ)知、いか様にも兵衛佐の勢のつかぬ先
に討手を下すべしとて、太政入道の孫小松内大臣の
嫡子維盛と申少将并に入道の舎弟薩摩守忠度とて、
熊野より育ちて心猛き人と聞ゆる選び具せらるる、
又入道の末の子にて三河守知教と申、此三人を大将
軍として、侍には上総介忠清以下、伊藤、斎藤、有
官、無官数百人、その勢三万余騎をむけらる、かの
の維盛は貞盛よりは九代入道相国の嫡孫小松内大臣
重盛公の嫡男也、平家の嫡々正統として、今凶徒の
乱をなすによりて、大将軍の選びに当る、ゆゆしかり
しことなり、十一月に頼朝追伐すべきよし被御宣
下、官符宣言、
左弁官下 東海東山道諸国
応早追討伊豆国流人源頼朝并与力輩事、
右大納言藤原実定 勅宣奉、伊豆流人源頼朝、忽
相語凶党、欲虜掠当国隣国、叛逆之至、既絶常
篇、宜令追討、右近衛権少将維盛、薩摩守忠度、
三河守知教、兼又東海東山両道、堪武勇者、同
可追討之、其中抜群有義功輩、可加不次之
賞、依宣行之、
治承四年九月十六日 左大夫小槻宿禰
蔵人頭左中弁藤原経房
承るとかかれたり、昔は朝敵の討手、外出に向ふ大
将軍まづ参内して節刀を給る、宸儀南殿に出御有り
て、近衛階下に陣を引き、内弁、外弁、公卿参列し
て、中儀節会を行はれ、大将軍、副将軍各々礼儀を
正して是を給はる、されども承平、天慶の先蹤も年
久しく成りてたとへがたし、今度は堀川院の御時、
康和二年十二月、因幡守正盛が前対馬守源義親を追
伐の為に、出雲の国へ下向せし例とぞ聞えし、鈴ば
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かりをば給て皮の袋に入て、雑色の首に懸させたり
けるとかや、朱雀院の御時、承平年中に、平将門下
総国相馬の郡に住して八箇国を押領し、みづから平
親王と号して、都へ打上り帝位を傾ぶけ奉らんとす
る謀反のきざし有ければ、花洛のさわぎ不(レ)斜、天台
山には法性坊の大僧都の尊意を始として、諸寺、諸
山に調伏の祈祷を被致けるに、此人々の先祖平の貞
盛無官にて上平太と申ける時、つはものの聞え有て、
将門追伐の宣旨を承はるに、先例に任せ節刀を給る、
鈴の奏を以て、相撲節会の時、方屋左右の大将の礼
儀ふるまひなり、弓場どの南のほそどのより罷出け
るに、大将は貞盛、副将軍は宇治民部卿忠文なり、
東国へ向ふ道すがら、さまざまの猛くやさしき事も
あまた有けり、中にも駿河国清見が関、浮島が原に
とまりける時、清原重藤と云者民部卿に伴ひて、軍
監といふ官に行けるに、漁舟火影寒焼浪、駅路鈴声
夜過山といふから歌を詠じたりければ、折節優に聞
えて、民部卿涙をながしてぞ行ける、貞盛すでに将
門が館に打入て、戦宣旨うけ給るに依て、程なく将
門討れにけり、其かうべを抱へて、貞盛都へ上りて
奏聞す、君を始奉りて九重の貴賎上下是を悦ばずと
いふことなし、則大路を渡して獄門にかけられてけ
り、時に勧賞を行はれける、上平太たりし貞盛たち
まちに平将軍と仰下され、其時陣[B ノ]座の作法、左大臣
実頼〈 小野宮殿 〉、右大臣師輔〈 九条殿 〉、の外公卿、殿上人、陣の座に
列し給ひたりけるに、九条殿申させ給けるは、大将
軍進て襲来朝敵を平げたる事はさうに及ばねども、
後陣に副将軍、のちに襲来を頼もしく思ひて、合戦
の思ひいよいよ猛なり、然るに貞盛一人勧賞行はる
る事、忠文本意なくや存ずらん、大将軍ほどの賞に
こそ行はれずとも、すこしに応ずる賞や忠文に行は
るべくや候らんと申させ給けれども、小野宮殿さの
み勧賞行はるべき事、むげにむねんに候なんと申さ
せ給ひければ、民部卿忠文賞をば終に行はれざりけ
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り、忠文忽に怒りをなして、内裏を罷出られけるに、
天上も地も崩るる計なる大音声をあげて、小野宮殿
末葉、ながく九条殿のやつことならせ給へとさけび
て、手をはたと打ちて左右の手を握り給ける、十の
爪二三寸計目にみすみすなりて、手の甲迄にぎり通
したりければ、見るも夥しくくれなゐをしぼるがご
とし、頓て宿所にかへりて思ひじにに死けり、悪霊
とはなりにける、さればにや、小野宮殿の御すゑは
たえはてて、おのづからある人も人かずならず、九
条殿の御末は摂政たえさせ給はず、小野宮殿の御末
は皆九条殿の婢にぞ成にける、朝敵を平らぐる儀式
は、上代はかくこそ有けるに、維盛が討手の使の儀
式先蹤を守らぬに似たり、なじかは可奉行とぞ時
の人申合ける、維盛以下討手の使、九月十六日福原
の新都をいで、同じき十八日古き都に著く、是より
東国へ赴し甲冑、弓矢、馬鞍、郎等に至るまで、か
がやく計出立ちたりければ、みる人幾千万といふこ
とを不(レ)知、権亮少将維盛は赤地の錦の直垂、大くび、
はたそでは紺地の錦にて、いろへたるもよぎにほひ
のをどしの鎧に、れんぜん蘆毛なる馬のふとくたく
ましきに、いかけ地のきんぷくりんの鞍置きて乗り
たりけり、年二十一、みめ形ちすぐれたりければ、
絵にかくとも筆も及ぶべき共見えず、又忠度心ざし
浅からざる女房の許より、小袖を送り遣しけるに、
かくぞ書遣しける、
東路の草葉をわけん袖よりも
たへぬ袂の露ぞこぼるる W087 K108
と申送りたりければ、忠度
わかれ路をなにかなげかん越えて行
せき[B 「せ」に「さイ」と傍書]をむかしのあととおもへば W088 K109
と返したりけり、此人貞盛が流れなれば、昔将門が
討手の使のことをよめるにや、女房の本歌は大かた
の名残はさる事にて、返歌はいまいましくぞ覚えし、
薩摩守はかの貞盛のながれなればにや、此人大かた
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いうにやさしき人にてぞおはしける、是のみならず、
そのかみ或宮ばらの女房をかたらひよりて、夜な夜
な通はるる事有けり、大に忍ばるる習ひにて、相互
に深くつつまれける程に、或夜とみの事有りて、み
づからかしこへわたられたり、つかひなどいるべき
所にもなければ、まがきのもと迄立よりて、つくづく
と待れけれども、内よりも人も出ず、ことわり過る
ほどに成しかば、知らせんとや、扇をはらはらとつか
ひならし給ひたりければ、女房是を聞き内よりしの
びたる声にて、野もせにすだくむしの音かとぞいは
れければ、扇をやがてつかひやまれけり、はるかに
小夜も半に成りて後に、女房出あひて、など扇をば
つかひやみ給ひぬるぞ、いざかしかましとやらん承
つればよと、「かしかまし野もせにすだく虫の音よ我
だに物をいはでこそ思へ」といふ歌をおもひ出し、
かくいはれたりけるを、此人心得てかくふるまはれ
けり、互の心の中やさしくぞ覚えし、十九日ふるき
都より東国へ打立、今度合戦はじめにて、馬鞍、物
の具もあざやかなり、中にも大将軍維盛の朝臣其道
を思ひ入たりけるにや、平家は六はらより河原をの
ぼりにあゆませけり、その勢三万余騎なり、高辻河
原にて良空法印車にのりながら、維盛にやりかけて
鈴ふりかけつつ通りけり、ゆゆしくぞ見えける、見物
は幾千万といふことを不(レ)知、粟田口の十禅寺の社の
まへにて、年六十余りなる老僧の練色の衣をうちか
づきて、ぬり足駄はきて、香色の扇にて口おほひし
て鷲鼻なるが、維盛をつくづくと見てべし口してい
ひけるは、維盛は容顔は美麗なれども、大将軍の相
なし、軍兵千万騎ありとも、敵を平ぐることあるま
じ、道より逃帰る相有といひて、かきけすやうに失
にけり、何者のいひけるぞと尋ぬれ共、天狗の人に
変じていひければ見るに能はず、九月二十二日新院
また厳島へ御幸、去三月にも御幸ありき、其しるし
にや、一両月のほど、天下静りたる様に見えて、法
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皇鳥羽殿を出御などありしに、去る五月高倉の宮の
御事によつて、打つづき静りやらず、天変頻りにし、
地震常にありて、朝廷穏かならず、総じては天下静
謐の祈念、別しては聖体不予の御祈祷のためなり、
一年二度の御幸は、神慮もいかでか悦給はざるべき、
御願成就疑なしとぞ覚えける、御供には入道相国、
右大将宗盛以下、卿相雲客八人とぞ聞えし、この度
は、素紙墨字の法華経を書て供養せらる、其外御手
づから金泥にて提婆品を披遊たり、件の御願文も、
御宸文とぞ聞えし、其ぐわんもんにいはく、
蓋聞、法性山静、十四十五之月高晴、権化地深、
一陰一陽之風旁扇、夫伊都岐島社者、名稱普聞場、
効験無双之砌也、遙嶺之廻社壇也、自顕大慈之
高時、臣海之及祠宇也、暗表弘誓之深広、伏惟
初以庸昧之身、忝踏皇王之位、今翫謙遜於〓郷
之訓楽閑放於射山之居而偸抽一心精誠、先
詣孤島之幽、趣瑞籬之下、仰冥恩、凝懇念、
而流汗、宝宮之裏、垂霊託有其告銘意、就中
殊指怖畏謹慎之期、専当季夏初秋之候、而間病
痾忽侵、弥思神威之不空、萍桂頻轉、猶無医術
之施験、雖求祈祷、難散霧露、不如抽心府
之志、重企斗薮之行、漠々寒嵐之底、臥旅泊而
破夢、凄々微陽之前、望遠路而極眼、遂就枌
楡之砌、敬展清浄之筵、奉書寫色紙墨字妙法蓮
華経一部、開結二経般若心経阿弥陀経一巻、又手自
奉書寫金泥提婆品、于時蒼松蒼栢之陰、共添善
利之種、潮去潮来之響、暗和梵唄之声、彼弟子辞
北闕之雲八日、雖无涼燠之多廻、凌西海之波
二度、深知機縁之不浅、抑朝祈之客匪一、暮賽
之者且千、但尊貴之帰敬雖多、院宮之往詣未聞
之、禅定法皇、初貽其儀、弟子眇身深運其志、
彼嵩高山之月前、漢武未拝和光之影、蓬莱島之
雲底、天仙空隔垂跡之塵、仰顧大明神、如当社
者、曾无比類、伏乞一乗経典、新照丹祈、忽彰玄
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応、敬白、
治承四年九月二十八日 太上天皇敬白
御奉幣の後、廻廊に御通夜ありけるが、夜更て御前に
伺公の人をば皆除られて、入道ならびに宗盛として
ひそかに申されけるは、東国兵乱おこりて候、源氏
に御同心あらじと、御起請文被遊て入道に給候へ、
心安く存じ候て、いよいよ宮仕申候べし、若被聞召
候はずば、此離れ島に捨置参らせて罷帰り候べしと
被申たりければ、上皇少しもさわがせ給はで、その
条いと安し、ただし年来何事かは入道のはかり申た
つことを背きし、今初て二心ある身と思ふらんこそ
本意なけれと仰られければ、宗盛頓て硯、紙を以て
参られたり、扨いかにと書かんぞ、言葉は何と仰ご
とあり、入道申ままに被遊て給る、入道是を拝見し
て、上皇を奉拝て、今こそ頼母しく候とて、右大将
に見す、およそ目出度候と被申ければ、入道とりて
懐中に引入て退出す、其後人々御前に御参り候へと
て、常よりも心地よげなる気色にて被申ける時、国
綱卿被参たり、かたへの人々つやつや其心を得ず、
余りに覚束なかりけるとかや、十月五日還幸、今度
は福原の新都より御幸なれば、斗薮の御わづらひな
かりけり、十七日夢殿と云所に法皇新しき御所をた
てて渡らせ給けるが、三条どのへ渡らせ給べき由、
入道相国被申ければ、渡らせ給へき、御輿にてぞ有
ける、御供には右京大夫修範候はれけり、ろうの御所
とて忌々しき名ある御所を出させ給ふぞ目出度き、
是も厳島の御幸のしるしにや、入道殊の外になほる
はとこそ思召れけれ、
平家の討手使三万よきの軍兵を率して、国々宿々に
日を経て宣旨を読かけけれ共、兵衛佐の威勢に恐れ
て従ひ附者なかりけり、さる程に兵衛佐足柄を取こ
えて、駿河の国うき島が原に陣を取り勢を揃へける、
二十万六千余騎と記したり、兵衛佐木瀬川に宿し給
ぬ、平家は三万余騎にて、同じ国の内蒲原の宿に陣
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を取る、十月二十四日明日は矢合せとぞ定めらる、
爰に常陸国の住人たけの次郎よしともが下人もりの
五郎真近が男、主の使に文持ちて京上するに、平家
の先陣は上総介忠清が、彼文を奪取てあやしとて見
られけるに、別のことなき文也、とくとくのぼれと
て、文はたびてけり、抑兵衛のすけの勢はいくらほ
どか見つる、真近が男申けるは、いくら程とは下郎
は其たけは計知候はず、但当時の勢はひたちの国白
川よりして、武蔵の国府へひしと続きて候、先陣は
きせ川へつづきて候、総じて八日、九日の道ひまな
く候、山も川も皆武者にて候と申せば、上総介是を
聞て申けるは、大将軍の御心ののびさせ給るばかり
口をしかりける物はあらじ、同じいとまを給はるな
らば、とくだに給はりなば、今は足柄をこえて大庭
の三郎、畠山の次郎を召ぐしたらんには、兵衛佐に
よもぜいつかじと申けれども、大将軍ただふさ斎藤
別当実盛を召て、あすの合戦のことをぎせられける
序に、そもそも頼朝が勢の中に、己れ程の弓勢の物
はいか計有なんと問はれければ、実盛をだにも弓勢
の物と思召され候か、おくざまには十二束、十三束、
十四そくを射るもののみこそ多く候へ、弓は二人ば
り、三人ばりをのみ持て候、鎧二三領などかさねて
羽房までいぬき候もの、実盛覚えてだにも七八十人
も候はん、馬は早走りのきよく進退の逸物なるに、
くつきやうの乗尻共が乗おほせて、馬のはなを並べ
て、親もしね、主もしね、子もしね、従者もしね、
それをもみあつかはんづる事もゆめゆめ候はず、如
何なる郎等も一人して、強き馬四五匹づつ乗かへに
もたぬ者は候はず、京武者、四国の者どもは一人手
おひぬれば、それをかきあつかふとて、先へ退く、
馬はばくらう馬の京出四五町ばかりこそ頭も持上候
へ、下りつかれて候はんに、東国の荒手の武者ども
に一あてあてられなば、いかでか、面をむかひ候べ
き、坂東むしや十人に京武者二百人をむけられ候と
P374
も、こたへ候べしとも覚えず候、就中源氏の勢は二
十万余騎と聞え候、御方の勢はわづかに三万余騎に
てこそ候へ、同じほどに候はんだにも猶四分一にて
こそ候へ、彼等は国々の案内者にて候、各々は国の案
内も知り候はず、追立られたち候なば、ゆゆしき御
大事にて候べしと、京よりさばかり申候しものを、
当時源氏に与力したる人々の名字粗承り候に、敵た
い候はぬとも覚えず候、急ぎ御下向有て、むさし、
さがみへ入せ給ひて、当国の勢を召具して、長井の
渡りに陣を取りて敵を待せ給べしと、再三申候ひし
を聞召候はで、兵衛佐に当国の勢をとられ給ぬる上
は、今度のいくさ叶ひがたく候はんずらん、かく申
候へばとて、実盛落ていくさをせじと申すには候は
ず、さは候へども、右大将どの御恩重き身にて候へ
ば、今一度見参に入て、急ぎいとまを給て帰り参り
て討死仕るべしとて、千騎勢を引わけて京へ帰り上
りけり、大将軍聞臆して心よわく思はれけれども、
上には実盛がなき所には軍はせぬか、いざさらば頓
て足柄山を打越て八箇国にて軍せんと、大将軍達は
はやられけるを、ただ清申けるは、八箇国のつはも
の皆兵衛佐に従ふよし聞候、伊豆、駿河の者共参るべ
きだにも未だみえず候、御勢は三万余騎とは申候へ
ども、事にあひぬべきもの二三百人にはよも過候は
じ、左右なく山を打越てはなかなか悪しく候べし、
ただ富士川を前に当て防がせ給て、勢をめして又こ
そ御下り候はめと申ければ、大将軍の命を背く事や
あるといはれけれども、それも事のやうにより候、
福はらを立給ひし時、入道殿の仰に、合戦の次第は
忠清が計らひ申さんに、隨はせ給べきよし正しく仰
候き、そのことば聞召候けん者をとて、すすまざり
ければ、一人かけ出るにも及ばず、手綱をゆらへて
顔見合せて敵を相待けるほどに、十月二十二日兵衛
佐八箇国の勢をふるひて、足柄を越て木瀬川に陣を
とりて、つはものの数をしるしけり、侍、郎等、乗替
P375
相具して、馬上二十八万五千余騎とぞ記しける、其
外甲斐源氏に一条次郎忠頼を宗徒として二万余騎に
て兵衛佐に加はる、平家の勢は富士の麓に引上げて、
ひらばり打ちてやすみけるに、兵衛佐使を立てて、
親の敵とうどんげにあふ事は、極めて有がたき事に
て候に、御下り候こと悦存候、あすは急ぎ見参に入
候べく候といひおくられたり、使は雑色新先生とい
ふ者なり、布きせたる者八人具してむかひて平家の
人々の陣を次第に觸れ廻りけるに、人々まんのまく
打明て入られたりけれども、返事云ふ人もなし、此
御返事はいか様成べきぞと相待所に、返事に及ばず
かの使をからめて、一々にくびを切りてけり、兵衛
佐是を聞きて、むかしより今に至るまで、牒使のく
びを切ることいまだ聞及ばず、平家はすでに運尽に
けりと宣ひければ、軍兵いよいよ兵衛佐に帰服した
りけり、
さる程に兵衛佐の方には、九郎義経奥州より来り加
はられければ、佐いよいよ力附きて、夜もすがら昔
今の事ども語りて相互に涙を流す、佐殿宣ひけるは、
此二十余年の間、各をば音には聞けれども、その顔
をいまだ見申さざりければ、如何にして見参すべき
と思給ひけるに、最前に馳来り給へば、故殿の生か
へり給へるかと覚えて頼もしく覚え候、かの項羽は
沛公を以て秦を滅すことをえたりき、今は頼朝、義経
を得たり、なにか平家を誅伐して、亡父の本意を遂
ざるべきとぞ宣ひける、抑此合戦のことを聞きて、
秀衡いかが申けるぞと尋られければ、ゆゆしく感じ
申候つ、新大納言以下近臣を失ひ、三条の宮をうち、
源三位入道を誅せし折節毎には、兵衛佐は聞給らん
などと申候き、去ぬる承安四年の春の比より都をい
でて、奥州へ罷下りて候しに、秀衡むかしのよしみ
を忘れず、事にふれて憐を致し候き、かく参り候つ
るも甲冑、弓矢、馬鞍、郎等に至るまで併出したて
られ候しかば、かく参り候、不然してはいかでか郎
P376
等一人も相具し候べき、十余年がほど彼がもとに候
し志、いかにして報じ尽しぬとも覚えず候とこそ九
郎義経は申されけれ、
二十四日あすは両方の矢合せと定めて、日も暮にけ
り、平家の軍兵、源氏の方を見やりたれば、かがり
火の見ゆること野山といひ、里村といひ、雲霞、空
の星、浜の真砂のごとくなり、東南北三方は敵の方
なり、西一方ばかりぞ我方の勢なりける、源氏の軍
兵弓のつる打、鎧つきしとどめきさけびける音に、
ふじの沼に群居たる水鳥共、羽打返し立居する音お
びただしかりけり、これを聞きて敵すでに寄せて、
鬨を作るとおもひて、搦手へ廻らぬ先に、取るもの
もとりあへず、平家の軍兵われさきにとまどひ落け
り、鎧は著たれども兜を取らず、矢は負ひたれども
弓をとらず、あるひは馬一疋に二三人取附きて、誰
が馬といふこともなく乗らんとす、或はつなぎ馬に
のりてあをりければ、くるくるとめぐるものもあり、
か様にあわてさわぎて、一人も残らず夜の内に皆落
けり、夜やうやう暁方に成りて、源氏の方より二十
八万六千余騎は勢を調へて、鬨を作ること三箇度な
り、東八箇国をひびかして、山のかせぎ、川のいろ
くづに至るまで肝をけし、こころをまどはさずとい
ふことなし、おびただしなどいふ計なかりけれども、
平家の方には鬨の声も合せず、つやつや音もせざり
ければ、怪みをなして人を遣して見せければ、屋形
屋形に大幕をもとらず、鎧、腹巻、太刀、刀、弓矢、
具足いくらといふこともなくすて置きて、人一人も
見えざりけり、兵衛佐是を聞きて、此こと頼朝がか
うみやうに非ずと、〈 落行歟 〉表矢をぬきて奉り給けり、か
の水鳥の中に鳩あまた有けるとかや、其ころ海道の
遊女どもが歌につくりて笑ひけるは、
富士川の瀬々の岩越す水よりも
はやくもおつるいせ平氏かな K089 K110
十五日、東国へ下りし維盛以下の官兵共、けふ旧都
P377
へ入が、昼は人目をはぢて、夜にかくれてぞ入ける、
三万余騎を卒して下りし時は、昔より是ほどの大勢
をいまだ聞もし見も及ばす、保元平治の兵革の時、
源氏、平家両方我も我もと有しかども、是が十分一
にだにも及ばざりき、あなおびただし、誰かは面をむ
かふべき、ただ今打靡かしなんずと見えしほどに、
矢一筋も射ず、敵の顔をも見ず、鳥の羽音におどろ
きて、兵衛佐のぜいおほく有らんと聞臆して逃のぼ
る、其間人々多く源氏の方へつきにければ、いよいよ
兵衛佐の勢重なりにけり、古き都の人々是を聞きて
申けるは、むかしより物の勝負に見にげといふこと
は伝へたり、それだにもうたてきに、是は聞にげに
こそあんなれ、手合せの討手の使、矢一も射ずして
逃上る、あな忌々し、向後もはかばかしかるまじき
ござんなれ、一陣やぶれぬれば、ざんとう全からず
とて、聞人爪はじさをぞしける、例の又いかなるあ
どなし者がしわざにや有りけむ、平家をひらやとよ
み、討手の大将をば権亮と云、都の大将をば宗盛と
いへば、是等を取合せて歌によみたりけり、
ひらやなるむねもりいかにさわぐらん
柱と頼むすけをおとして W090 K111
上総守忠清が実名とりて歌によみたりけり、
ふじ川に鎧はすてつすみ染の
衣ただきよのちの世のため W091 K112
ただかげはにげの馬にやのりにけん
かけぬに落るかづさしりがい W092 K113
忠清が本名をばただかげといひければ、かくよみた
りけるにや、げににげの馬にやのりたりけん、当時
奈良法師こそ平家をばあだを結びたりければ其所行
にや有けん、入道相国よに口をしがりて、権亮少将
は鬼界が島に流し、忠清をばくびを切らんとぞ宣ひ
ける、忠清まことに身のとがのがれがたく、いかに
ちんずともかひあらじ、いかがせましとためらひけ
るが、折節主馬の判官盛国以下人ずくなにて、かや
P378
うのさたども有ける所へ、忠清おづおづ窺ひよりて
申けるは、忠清十八の年と覚え候、鳥羽殿に盗人籠
りて候しを、よるものも候はざりしに、築地よりの
ぼり越て入てからめて候しよりこのかた、保元、平
治の合戦をはじめとして、大小事に一ども君を離れ
参らせ候はず、又不覚をもしたること候はず、今度
東国へはじめて罷下り候て、かかる不覚を仕ること
は、ただ事とも覚え候はず、よくよく御祈り有べし
と覚え候と申ければ、入道相国げにもとやおぼしけ
ん、物も宣はず、忠清勘当に及ばざりけり、
十一月二十二日五条大納言国綱卿内裏作りいたして
主上渡せら給、ただし遷幸のぎしきよのつねならず
ぞ聞えし、今年は大嘗会遂げ行はるべきかといふ、
議定有けれども其さたもなし、大嘗会は十月の末に
東河に御幸して御禊あり、大内の北野に斎場所を作
りて、神服、神膳を調へ、大極殿の龍尾堂の壇下に
廻立殿をたて、御湯を召す、大嘗宮をつくりて神膳
を備ふ、清暑堂にして神宴あり、御遊あり、大極殿
にて大礼行はる、豊楽院にて宴会あり、然るにこの
里内裏の体、大極殿もなければ、大礼行ふべき所な
し、豊楽院もなければ宴会も行ふべからず、礼儀行
ふべき所つやつやなかりければ、新嘗会にて五節ば
かりは有べき由、諸卿定め申されければ、二十八日福
原にて五節ばかりは行はる、新嘗会のまつりは古き
京の神紙宮にて是を行はる、五節と申は昔清見原の
帝、吉野の宮にて御心をすまして、かうりと申楽を
琴にたんじ給しかば、神女天より下りて「乙女子が
乙女をひすもから玉を乙女さひすもそのから玉を W093 K115」
と五こゑうたひ給て、廻雪の袖をひるがへす、是を
五節の初とす、
旧都は山門、南都ほど近くて、ともすれば大衆日吉
の神輿を捧げ奉りて下落し、神人春日の御榊を持奉
りて上洛す、か様のこともうるさし、新都は山重り
江重り、行道は遠くして程隔たりたればたやすから
P379
じとて、遷都といふ事は、太政入道計ひいたされたり
けれども、諸寺諸山の訴へ、貴賎上下の歎きなる上、
山門の衆徒三箇度まで奏状を捧て、天聴を驚かし奉
る、第三箇度の状に曰、
延暦寺衆徒等誠惶誠恐謹言、
請被特蒙天恩停止遷都子細状、
右釈尊以遺教、附属国王者、仏法皇法之徳、互
護持故也、就中延暦年中、桓武天皇、伝教大師、
深結契約、聖主則興此都、親崇一乗円宗大師
又開当山、備百王御願、其後歳及四百余廻、
仏日久耀四明之峯、世過三十代、天朝各保十善
之徳、盖山洛占隣、彼是相助故也、而今朝議忽変、
俄有遷幸、是総四海之愁、別一山之歎也、況山僧
等峯嵐雖閑、恃花洛以送日、谷雪雖烈、瞻
王城以継夜、洛陽隔遠路、往還不容易者、豈
不辞姑射山之月交辺鄙之雲哉、若変荒野
者、峯豈留人跡乎、悲哉数百歳之法燈、今時忽消、
千万輩之禅林、此世将滅、当寺是鎮護国家之道場、
為一天之固、霊験殊勝之伽藍、秀満山之中、所
令魔滅何亦無衆徒之愁歎乎、法之滅亡、豈非
朝家之大事哉、況七社権現之宝前、一人拝観之霊
場也、若王宮路遠、社壇不近者、瑞籬之月前、鳳
輦勿臨、〓祠之露下、鳩集永絶、若参詣疎、礼奠
違例者、非無冥応、恐又残神明恨歟、凡当都
者、輙不(レ)可捨勝地也、昔聖徳太子記文云、所有
王葉、必建帝城、大聖遠鑒、誰忽諸之、況左青
龍、右白虎悉備、前朱雀、後玄武勿闕、天然吉処、
不(レ)可不執、彼月氏之霊山、則攀王城之東北、
大聖遊〓、日域之叡岳、又峙帝都之丑寅、護国之
勝地、忝同天竺勝境、久払鬼門之凶害、所謂賀
茂、八幡、比叡、春日、平野、大原野、松尾、稲
荷、祇園、北野、鞍馬、清水、広隆、仁和寺、如
此之神社仏寺、大聖垂跡者、占地建護国護山之
宗廟、安勝敵勝軍之霊像、遶王城八方、利洛中
P380
万人、貴賎帰依往来為市、仏神利生感応如(レ)此、
何避霊応之砌、忽赴無下之境哉、誤新建精舎
更請神明、世及濁乱、人非権化、大聖感降、必
不在歟、此等霊壇之中、或有諸家氏寺、修不退
勤行、子胤相続、自興仏法之所也、而〓従公務
乍愁捨去、豈非抑人之善心之応乎、諸寺衆徒、
各従公請之時、朝参逢壷、暮帰練若、宮城遠
移、往還云何、若捨本尊、若背王命、左右有憚、
進退惟谷、夫憶昔国豊民厚、興都無傷、今国乏民
窮、遷移有煩、是以或有忽別親属企旅宿者、
或有纔破私宅不堪運載者、歎之声已動天
地、仁恩之至、不顧之乎、諸国七道之調貢、万
物運上之便宜、西河東津、有便無煩、若移余所、
定有後悔歟、又大将軍在酉方角已塞、何背陰
陽、忽違東西、山門禅徒、専思玉体安穏、愚意之所
及、争不鳴諌皷、俄有遷都、是依何事乎、
若由凶徒乱逆者、兵革既静、朝廷何動、若因鬼
物怪異者、可帰三宝謝夭災、可撫育万民
資皇徳、何動本宮、故棄仏神囲遶之砌、剰企
遠行、態犯人民脳乱之咎、抑退国之怨敵、払朝
家之夭厄、従昔以来、偏山門之営也、或大師祖師
擁護百皇、或医王山王誓護一天、或恵亮摧脳、
或尊意振剱、凡捨身事恩、無如我山、古今勝
験、載在人口、今何有遷都、欲滅此処哉、尭
雲舜日之耀一朝、天枝帝葉之伝万代、即是九条
右丞相願力也、豈非慈慧大僧正加持乎、聖朝詔
云、朕是右丞相末葉也、何背慈覚大師之門跡、忘
前蹤、不顧本山滅亡邪、山僧之訴訟、雖不必
当理、且以所功労久、為蒙裁許由来哉、
於此鬱望者、非獨衆徒愁、且奉為聖朝、兼又
為兆民哉、加之於今度之事、抽愚忠、一門園
城雖相招、仰勅宣、万人之誹謗、充閭巷、伏祈
御願、何因尽勤労、還欲滅、此処運功蒙罰、
豈可然哉、縦雖無別天感、只欲蒙此裁許、当
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山之存亡、只在此左右故也、望請天恩再廻叡慮、
被止件遷都、三千之衆徒等、胸火忽滅、百千万
衆徳、鬱水弥乏、衆徒不耐悲歎之至、誠惶誠恐謹
言、
治承四年七月日 大衆法師等
是に依て二十一日俄に都帰有べしと聞えければ、高
きも賎しきも手をすり額をつきよろこびあへり、山
門の訴訟は昔も今も、大事も小事も空しからぬ事な
りければ、いか成非法非礼なれども、聖代明主もか
ならず御裁許あり、いかにいはんや是程の道理を以
て再三か様に申さんに、いかに横紙をやぶり給ふ入
道相国なりとも、いかでか靡かざるべき、是を聞き
て右京に残りてさびしさを歎きつる人々も、悦び給
ふことかぎりなし、二十二日新院福原を出御有て、
旧き都へ御幸なる、大方も常には御不予の上、新都
の体、宮室卑質にして、城地くだりうるほへり、一
のあくき漸くたりて、風波いよいよすさまじ、都帰
なしとももとより旧都へ還幸成べきにて有ければ、
仔細に及ばず、
二十五日、主上は五条の内裏へ行幸なる、両院六波
羅池殿へ還幸、平家の人々太政入道以下皆かへり上
らる、まして他家の人々は一人も留らず、世にも有り
人にもかぞへらるる輩は皆うつりたりければ、家々
はことごとく運びくだして、此五六箇月の間造立し
てゐつつ、資財、雑具を運び寄せたりつるほどに、
又物狂はしく都帰りあれば、何の顧みにも不(レ)及、古
京へ帰るうれしさに、取る物も取あへず、資財、雑
具を運び返すに不(レ)及、まどひ上りたれば、いづくに
落附きていかにすべしとも覚えず、今更旅立ちて西
山、東山、加茂、八幡などの片辺につきて、廻廊や
社の拝殿などにたちとまりてぞ、然るべき人々おは
しあひける、とてもかくても人を煩はする外はさせ
ることもなし、
十二月一日、兵乱の御祈祷に安芸の厳島へ奉幣の使
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を立らる、当時近江国の凶賊道をふさぐ間、太神宮
への御使進発に不能して、暫く神紙官におかる、討
手の使都へ帰りのぼりにし後は、東国北国の源氏ど
もいとど勝に乗りて、国々のつはもの多く靡きつつ、
勢は日々に隨ひてつきにけり、間近き近江国にも山
本、柏木などいふあふれ源氏さへ東国に心を通はし
て、関をとぢ道をかためて、今は人をも通さず、
十二月一日、土佐の国の流人ふく田の冠者希義を誅
せらる、かの希義は故左馬頭義朝が四男、頼朝には
一腹一姓の弟也、去る永暦元年に当国に流されて、
年月を送りける程に、関東に謀反起りければ、同意
の疑にて、かの国の住人蓮池の次郎清常に仰せて、誅
せられにけりとぞ聞えし、同じ月伊予の国の住人河
野大夫越智通清こころを源氏に通はして、平家を背
き、国中を管領し、正税官物を抑留するよし聞えけ
れば、東は美濃の国まで源氏に討とられぬ、西国さ
へかかれば、平家大に驚きさわぎて、阿波民部大輔
しげよし、備後の国の住人貫賀野入道高信法師に抑
せて是を追討せらる、通清いかめしく思ひ立ちけれ
ども、力を合するものなければ、俄に高信法師が手
にかかりて討れにけり、
三日、左兵衛督知盛、小松少将資盛、越前三位通盛、
左馬頭行盛、薩摩守忠度、左少将清経、筑前守貞能
以下の軍兵、又東国へ発向す、其勢七千余騎、路次
のは武者催し倶したりければ、その勢一万余騎にて
下向す、山本、柏木、并に美濃、尾張の源氏を追伐
のためなり、四日山本冠者よしまさ、柏木判官代よ
し兼を攻落す、やがて美濃国へ越て、尾張国まで討
手くる由聞えしかば、太政入道すこしきそく直りて
ぞみえられける、
南都の大衆いかにも静らず、いよいよさう動す、公
家よりも御使しきなみに下されつつ、されば何事を
鬱申ぞ、存の旨あらば幾度も奏聞にこそ及ばめと被
仰下ければ、別の訴訟候はず、ただ清盛入道に逢ひ
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て死候はんとぞ、唯一口に申ける、是もただ事に非
ず、入道相国と申は、忝も当今の御外祖ぞかし、夫
に少しも不憚か様に申けるもあさまし、凡南都の大
衆にも天魔の附にけるとぞみえし、ことのもれ易き
は禍を招く媒也、ことの不慎は取敗の道也といふ、
三井寺より牒状を遣したりし返牒に、平氏の先祖の
瑕瑾を筆を尽して書たりしを、安からぬことに相国
おもはれたり、さればぜひ有まじ、急ぎ官兵を遣し
て南都を攻めらるべしといふさた有りて、かつかつ
とて備中国妹尾太郎兼康と云侍を、大和国の検非違
使所になして、三百余騎のつはものを相倶して下し
遣す、衆徒一切不用、いよいよ蜂起して、兼康がも
とに押寄せて、さんざんに打ちらして、兼康が家の
子郎等三十六人が首を切りて、猿沢の池のはたにか
けたりけり、兼康は希有にして逃上る、其後南都い
よいよ騒動す、又大なる法師の頭を作りて、太政入
道清盛が頭なりと銘をかきて、毬打の玉のごとくあ
ちこち打上げふみけり、入道是を伝へ聞きて安から
ぬことなりとて、三千余騎の軍兵を南都へ差向らる、
大衆此由を聞きて、奈良坂、般若寺の二道を切ふさ
ぎて、在々所々に城郭を構へて、老少、中年、弓矢
を帯しかつちうをよろひて待かけたり、
十二月二十八日、重衡の朝臣、南都へ発向す、三千
余騎を二手にわけて、奈良坂、般若寺へ向ふ、大衆
かち立打物にて防ぎ戦ひけれども、三千余騎の軍兵
馬上にてさんざんにかけたりければ、二の城戸口ほ
どなく破れにけり、其中に坂四郎房永覚とて聞ゆる
悪僧あり、打物取ても弓矢取ても、七大寺十五大寺
に肩をならぶるものなし、大力の強弓、大矢の矢継
早の手ききにて、さげ針もいはづさず、百度射ると
もあだ矢なきおそろしきものなり、其たけ七尺計也、
褐衣よろひ直垂に、萌黄の糸をどしの腹巻の上に、
黒皮をどしの鎧かさねて著て、三尺五寸の太刀をは
き、二尺九寸の大長刀を持ちたりけり、同宿十二人
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左右に立て、足軽の法師原三十余人に楯つかせて、
手掻門より打出たりけるのみぞ、しばしは支へたり
ける、多くの官兵馬足をきられてうたれにけり、さ
れども大勢のしこみければ、永覚一人たけく思ひけ
れ共かひなし、いた手負ひて落にけり、重衡朝臣は
法華寺の鳥居の前に打立ちて、南都をやきはらふ、
軍兵の中にはりまの国福井庄司次郎大夫俊賢といふ
者、たてを破りてたいまつにして、両方の城を初と
して、寺中に打入て、敵の籠りたる堂舎坊中に火を
かけて是をやく、恥をもおもひ名をもをしむほどの
者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて討れにけり、
身の力もあり、行歩に叶へる輩はよし野、十津川の
方へ落失せぬ、行歩にも叶はぬ老僧、修学者、ちご
共、女房、尼などは山階寺の天井の上に七百余人かく
れのぼる、大仏殿の二かいのもこしの上には、千七
百余人逃のぼりにけり、敵をのぼせじとてはしごを
引きてけり、十二月のはてにては有けり、風はげし
くして、所々に懸たる火一にもえあひて、多くの堂
舎にふきうつす、興福寺より始て、東金堂、西金堂、
南円堂、七重の塔、二階楼門、しゆろう、経蔵、
三面僧房、四面廻廊、元興寺、法華寺、やくし寺迄
やけて後、西の風いよいよ吹ければ、大仏でんへ吹
うつす、猛火もえ近附くに隨ひて、逃上る所の一千七
百余人の輩、叫喚大叫喚、天をひびかし、地をうご
かす、何とてか一人も助かるべき、焼死にけり、かの
無間大城のそこに罪人共がこがるらんも是には過じ
とぞみえし、千万の骸は仏の上にもえかかる、守護の
武士は兵仗に当りて命を失ふ、修学の高僧は猛火に
まじりて死にけり、悲しき哉、興福寺は淡海公の御
願、藤氏の一家の氏寺なり、元明天皇の御宇和銅二
年庚戌年、建立せられてより以来、星霜五百六十
余歳に及べり、東金堂におはします仏法最初のしや
かの像、西金堂におはします自然湧出の観世音、る
りを並べし四面廊、紫檀を学べる二階の楼、九輪空に
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かがやきし二基の塔も、空しく烟りと成にけるこそ
かなしけれ、
澄憲僧都の法滅の記と云ものをかかれたりける、そ
の詞こそめでたかりしか、山階の三面の僧房には五
分の花再不開、春日四社の社壇には法燈かがくるこ
ともなし、仏像経論の烟には、大梵天王の眼忽にく
れ、堂塔、僧坊のもえ音には、堅牢地神もむねをこ
がし給けんとぞかかれたりける、東大寺は常在不滅
実報寂光の生身の御仏と思召しなずらへて、釈尊初
成道の儀式を表し、天平年中に聖武天皇思召立ち、
高野天皇、大炊天皇三代の聖主手づから精舎を建立
し、仏像を冶鋳し奉り給ふ、婆羅門僧正、澄尊、律
師、良弁僧正、行基菩薩、鑒真和尚等の菩薩聖衆た
ち、導師咒願として供養し給ひてより以来、四百七
十余歳になりにし、金銅十六丈の盧遮那仏、烏瑟高く
あらはれて、半天の雲にかくれ、白毫新に磨いて、
万徳の尊容を摸したりし尊像、八万四千の相好の秋
の月、五重の雲にかくれ、四十一地の瑠璃の夜のほ
し、空しく十悪の風ふかし、烟は中天の上ひまなく、
猛火虚空に満ちみてり、みぐしはやけ落ちて地に有、
御身は涌合ひて湯のごとし、まのあたりに奉見もの
目もあてられず、はるかに伝へきく人も涙を流さぬ
はなかりけり、瑜伽、唯識両部を始として、法文聖教
一巻も不残、我朝は申に不(レ)及、天竺、震旦にも是
ほどの法滅はいかでか有べき、されば梵釈四王、龍
神八部、冥官、冥衆に至るまで、驚きさわぎ給けん
とぞ覚えし、法相擁護の春日野の露の色かはり、三
笠の山の嵐の音も恨るさまにぞ似たりける、今焼る
所の大舎、東大寺には大仏殿、講堂、金堂、四面の
廻廊、三面僧坊、戒壇、尊勝院、安楽院、真言院、
薬師院、東南院、八幡宮、気比の社、気多の社、興
福寺には金堂、講堂、南円堂、東金堂、五重の塔、
北円堂、東円堂、四面廻廊、三面僧坊、観自在院、
西院、一乗院、中院、松陽院、北院、唐院、松の院、
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伝法院、真言院、円城院、皇嘉門御塔、総宮、一
言主社、龍蔵社、住吉社、鐘楼、経蔵、大湯屋〈 但釜不焼 〉、
宝蔵、四十四宇、此外大小諸門寺外の諸堂は、注す
るに不(レ)及、然るべき所々は院の御堂、長者の御塔、
四面の廻廊、門楼、一切経蔵、章疏、形木、率川社、
佐保殿もやけにけり、此外菩薩院、龍華院、円坊両
三宇、彈定院、新薬師寺、春日の社四所、若宮社な
どぞわづかに焼残りたりける、焼死ぬる所の雑人、大
仏殿にて千七百余人、山階寺にて七百余人、ある御
堂に三百余人、ある御堂には二百人、後の日に委し
くかぞへたりければ、総じて一万二千三百余人とぞ
聞えし、戦場にて討るる所の大衆七百余人、内四百
余人が首をば法華寺の鳥居の前にかけてけり、残る
所三百余人が首をば都へ上す、その中に尼公の首も
少々有けるとかや、〈 校者曰く此文段澄憲以下堅牢地神も云々迄数行若宮社などぞわづかに云々の次に
繰込める別本あるが如し、 〉
二十九日、重衡の朝臣南都を滅して京へ帰り入らる、
入道相国一人ばかりぞ憤りはれて悦び給ひける、そ
れも多くの大がらんの焼ぬることをば、心中には浅ま
しくこそ思はれけめ、一院、新院、摂政殿以下、大臣、
公卿を始奉て、少しも前後を弁へ心ある程の人は、
こはいかにしつることぞや、悪僧をこそ失ふとも、
さばかりのがらんどもを焼亡すべしや、口惜しき次
第なりとぞ悲しみあひ給ける、衆徒の頭ども大路を
渡して獄門にかけらるべきにて有けるが、東大、興
福の焼にける浅ましさに、渡すに及ばず、爰かしこ
の溝や堀にぞなげ入られにける、穀倉院の南の堀を
ば、奈良法師のかうべにて埋みてけりとぞさたしけ
る、聖武天皇の書置かせ給ける東大寺の碑文云、吾
寺興復せば天下も興復せん、吾寺衰微せば天下も衰
微せんとなり、今灰燼と成ぬる上は、国土の滅亡疑
ひなしとぞ悲しみあひける、左少弁行隆先年八幡に
参りて通夜せられたりける、夜の示現に東大寺奉行
の時は是を持べしとて、笏を給ると見て、打驚て見
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るに、真に有けり、不思議に覚えて、此笏を以て下
向したりけれども、当時何ごとにかは東大寺造替せ
らるる事あるべきと、心中におもひ給て、年月を送り
給ふほどに、此焼失の後、大仏殿造替のさたありけ
る時、弁官の中に此行隆えらばれて奉行すべきよし
被(二)仰下(一)、其時行隆宣ひけるは、勅勘を蒙らずして次
第に進みのぼらましかば、今迄弁官にてはあらざら
まし、多年を隔てて今弁官に成て奉行の弁に当る、
是も先世のしゆくえん浅からぬことよと悦給て、八
幡大菩薩より給りたりし笏をとり出して、大仏殿造
営の事はじめの日よりもたれたりけるこそありがた
かりけれ、
平家物語巻第十一終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十二
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平家物語巻第十二
正月一日新玉の年立返りたれども、内裏には東国の
兵革、南都の火災に依て朝拝もなし、節会ばかりは
行はれたりけれども、主上も出御なし、関白以下藤
氏公卿一人も参らず、氏寺焼失に依てなり、唯平家
の人々計りぞ少々参りて執行はれける、夫も物の音
も吹ならさず、舞楽も不奏、よし野の国栖も参らず、
〓も不奏、かたのごとくの事にてぞ有ける、二日殿
上の淵醉なし、男女打ひそめて禁中の儀式淋しくぞ
見えける、朝儀も悉くすたれ、仏法王法ともにつき
にけるにやとぞ見えし、五日南都の僧綱等解官して、
公請を停止、所職没収せらるべき由の宣旨を下さる、
東大寺、興福寺を始めとして、堂塔、僧坊皆灰燼と
なる、衆徒は若きも老たるも、或は討たれ或は焼こ
ろされにけり、残るは山野に交りて跡をとどむるも
のなし、其うへ上綱さへかやうになりぬれば、南都
は併ながら失せはてけるにこそ、但かたのごとくも
御斎会は行はるべしとて、僧名の沙汰有けるに、南
都の僧は公請を止むべき由、五日に宣下せられぬ、さ
れば一向、天台宗の人計りを受らるべきか、又御斎
会を止らるべきか、又延引せらるべきかの由、官外
記に尋ねて、其申状を以て諸卿に被尋ところに、偏
に南都をすつべからざる由、各々被申ける間、三論宗
の僧成実已講と申、勧修寺に有ける僧一人を講師と
せられける、さる程に新院日比よりも御心地怠らず
のみ渡らせおはしましけるが、此世の中の有様を思
召なげきけるとかや、御悩いよいよ重くなりましま
す、かかりしかば、何のさたも不(レ)及、一院こそいか
がせんと歎き思召しけるほどに、十四日六波羅の池
殿にて終に崩御なりぬ、新院仰せ置かせ給ひけると
て、今夜頓て東山の麓清閑寺と云山寺へおくり奉る、
御供には上達部五人、隆季、邦綱、実定、通親其外
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殿上人十人、前駈十人供奉仕りけるとぞ聞えし、邦
綱卿御娘別当三位殿を始として、近く召仕れける女
房三人御髪下してけり、春の霞にたぐひ暮の煙と上
らせ給ひぬ、御歳僅に二十一にぞならせ給ける、内
には五戒を以て慈悲を先とし、外には五常を乱さず、
礼儀を正しうし給ひし末代の賢王にて渡らせ給ひし
かば、万人惜み奉る事一子を失へるよりも甚し、実
国大納言御笛を教へ奉りておはしければ、人しれず
哀にかなしくぞおもはれける、殿上にて後の御諱の
沙汰有につけても、高倉はいかなる大路にて浮名の
形見のこり、東山いかなる嶺にて終のすみかと定む
らんと思ふも悲し、大かた聖賢の名揚、仁徳の行を
施す事、皆君成人の後清濁をわかたせ給ひての上の
事にてこそ有るに、此君は無下に幼稚におはしまし
し時より、性を柔和に受させおはしまして、有がたく
哀なりし御事共こそ多かりしか、其中にも去ぬる嘉
応、承安のころ御在位の始め方なりしかば、御年十
歳計りにや成らせおはしましけん、紅葉を愛せさせ
給ひ[B 「給ひ」に「ましましイ」と傍書]て北の陣に小山を築き、紅葉山と名づけて、櫨、
鶏冠木なんどの色美しく、紅葉したるを折り立て、
終日に叡覧ありけれども、猶あきたらず思召けるに、
ある夜野分のはげしく吹たりけるに、この紅葉ふき
倒されて落葉頗狼藉なり、殿主の伴の宮つこ朝清め
するとて、悉く是をはき捨ぬ、残る枝ちれる木の葉か
き集めて風冷まじかりける朝、縫殿の陣にて酒をあ
たためてたべけるたき木にしてけり、近習の蔵人行
幸より先に急ぎ行て山を見るに、紅葉一枝もなし、
事の次第を尋るに、しかじかと申、蔵人手を打ち驚
きていふ、さしも君の執し思召したりつるものを、
か様にしつる浅間しき事也、しらず汝を只今鳥部吉
祥に仰せて禁獄もやせられんずらん、将又流罪にも
や行はれんずらんと仰ふくめられけり、是等まこと
に下臈の不覚のあやまりなれば、力及ばずいかなる
めをか見んずらんと、後悔しても益なし、蔵人もい
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かやうなる逆鱗かあらんずらんと、胸打塞がりて居
たる所に、御昼に成にければ、例の朝政にも不(レ)及、
夜のおとどを出もあへ給はず、いと疾くかしこへ行
幸なりて、紅葉を叡覧あるに、殊更あとかたもなし
いかがと御尋あり、蔵人何と奏せん方なかりければ、
恐れ恐れありの儘に奏聞す、天気殊に御こころよげ
にうち笑ひおはしまして、林間煖酒焼紅葉、石上題
詩払緑苔といふ事をば、それらにはたが教へたり
けるぞや、やさしくもしたりける物かなとて、返て
叡感に預りける上は仔細に不(レ)及、あへて勅勘もな
かりけり、かかりしかば、あやしの賎の男賎の女に至
るまで、唯此君の万歳千秋の御宝祚をぞいのり奉り
ける、され共願もむなしく、民の思ひも叶はざりけ
る世のならひこそかなしかりけれ、
建礼門院入内のころ、安元のはじめの年、中宮の御
方に候はれける女房の召つかひける女童の、思はざ
る外の事有りて、龍顔に咫尺する事有て、唯何とな
きあらまし事にてもなく、よなよな是をめされけり、
此事天下に其聞え有りしかば、当時謠詠云、生女勿
悲酸生男勿嘉歎、又曰男不封候女為妃、只今
女御、后にも立、国母、仙院ともいはれんず、いみ
じかりける幸哉と、申罵と聞召れて、後にはあへて
召るることもなし、御心ざしの尽たるにはあらねど
も、只世のあざけりを思召なりけり、されば常は詠め
がちにて夜のおとどにぞ入せ給ける、大殿此事を聞
し召て、御心苦敷御事にこそあんなれと、申なだめ[B 「なだめ」に「慰めイ」と傍書]
参らせんとて御参内ありて、さやうに叡慮にかから
せおはしまし候はば、何条御事か候べき、件の女召
され候べしと覚候、俗姓を尋らるるに不(レ)及候、忠通
猶子に仕候べしなんど申させ給ければ、いざとよ、
大臣の申さるるところも去ことなれども、位を退て
後はさる事希に有と聞け共、正敷在位の時袙など云
て、裾もなきもの着て、あやしきふるまひする程の
者を、身に近付事を不聞、丸が世に始んこと後代の
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あざけりたるべし、不(レ)可然と仰有ければ、法性寺
殿御なみだを押へて罷出させ給ひけり、其後何とな
き御手習の序に、古き歌をあまたかきすさませ給ひ
ける中に、みどりのうすやうの寔ににほひ深きに歌
をぞ遊ばしける、
しのぶれど色に出にけり我恋は
ものやおもふと人のとふまて W094 K117
御心知りの蔵人此手ならひを取て、彼女房に給はす、
女是を懐に引入て、心地例ならずとて引かつぎて伏
にけり、煩ふこと廿日ばかりにて、是をむねの上に当
て俄にはかなくなりにけり、いとど哀なりし事なり
けり、
主上是を聞召して御涙にむせばせ給ひ、為君一日
恩、誤妾百年身、寄言癡少人家女、慎勿将身軽
許人、とこそいましめたれども、恋慕の御思ひもさ
る事にて、世のあざけりをぞ猶ふかく歎思召ける、
彼唐大宗の鄭仁基が娘を元[B 得イ]花殿に入れられんとし給
ひしを、魏徴、彼の女既に陸氏に約せしと誡申せし
に依て、殿に入れらるる事を止られけるにも、猶増
れる御心ばせなり、又誠に哀れに忝なかりしことは、
御母儀建春門院かくれさせ給ひたりしをば、なのめ
ならず御歎有けり、帝王御いとまのほどは定れる習
ひにて、廃朝とて政を止られける、政を止め給ふこ
と返々天下の歎なり、一日を以て一月にあて、十二
日を以て十二月にあてて、十二日を過ぬれば御除服
ある事なれば、其日数過て御除服有けるに、参りあ
わせ給へつる人、皆殊更此御事色にも出されず、何
となきそぞろごとども申紛はしつし給ふ、君も何と
なき様にもてなしましましながら、なにとやらんみ
えさせおはします御気色、おのおの心の内には哀れ
と見奉り給ふ、高倉中将泰通朝臣参りて、既に御衣
めしかへけるに、御帯あて参らせたりけれども、結
びもやらせましまさず、御後より結び参らせけるに、
あたたかなる御涙の手にかかりけるを、泰通朝臣も
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たへずして涙を流されけり、是を見奉て多く参りつ
どはれたる公卿、殿上人も皆涙を流しけり、其後も
御袂を龍顔におし当てて御らんじもやらず、頓て夜
のおとどへ入てなかせおはしますとぞ聞えし、かや
うに何事に付てもかく思召入られたる御あり様なり
しかば、万人をしみ奉る事たとへん方なし、まして
法皇の御歎ことわりにも過たり、恩愛のみちなれば
何事もおろかならねども、此ことはさしも御心ざし
深かりき、故女院の御腹にておはしまししかば、位
につかせおはします其きは迄一つ御所にて、朝夕な
じみ参らせおはしましたりしかば、互の御心ざし深
かりけるにこそ、去々年の冬鳥羽殿に籠らせましま
したりしをも、不(レ)斜御歎有て、御書など奉らせ給た
りし事など思召し出ても、誠に高きも賎きも親の子
を思ふはせんかたなきわざぞかし、ましてかかる賢
王におくれ参らせおはします御心の内さこそは思し
けめ、さればむかし白河の法皇、堀河院におくれ参
らせて御歎有けんも理りに思召知られけり、彼堀河
院の御政を承るこそ、此君の御有様に不違似させま
しましたりけれ、此君は三代の曾祖父ぞかし、優に
やさしく人の思ひつき参らせける筋は、おそらくは
延喜、天暦もかくしもおはしまさずや有けんとぞ覚
えし、去る永長元年十二月、或所の御所へ御方たがへ
の行幸なりたりけるに、さらぬだに鶏人唱暁声驚
明王之眠程に成しかば、何れも御寝覚がちにて、王
業の艱難をとかく思召つづけらるるに、さゆる霜夜
の天気殊にはげしかりければ、うちとけ御寝もなら
ず、彼延喜の聖帝の四海の民いかにさむかるらんと
て、御衣をぬがせ給けんことなど思召出して、我帝
徳の至らぬことを歎おはしましつつ、御心をひそめ
返してましましけるに、遥にほど遠く女の声にてさ
けぶ声あり、供奉の人々は何とも聞とがめられざり
しに、君聞召咎めて、上臥したる殿上人を召して、上
日のものや候、只今さけぶものは何者ぞ見て参れと
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仰下さる、殿上人宣旨の趣を仰含らる[B 「含らる」に「ふくむイ」と傍書]、本所衆急ぎ
走行て見れば、怪しげなる女童なり、ある辻に長持
の蓋ひさげて泣て立たり、ことの仔細をとへば、わ
らはが主のをうなの朔日の出仕に奉らんとて、只一
所もたせ給ひて候つる御さとをうりて、仕立られて
候つる御装束を持て参候つる程に、男三人詣できて
うばひとりて罷り候ぬるぞや、今は御装束の候はば
こそ御所にも候はめ給はめ、又御里候はばこそたち
も入らせ給ひ候はめ、日数の延びて候はばこそ又も
仕立参らせ候はめ、又はかばか敷立寄せ給べき近き
御方も候はず、此ことをとかくおもひ煩ひ候へば、
きえも失なんと思ひ候なりとてさけび居たり、走り
帰りて此由を奏す、主上龍顔に御涙を流させ給ひて、
あなむざんや、いか成者の仕業にてあるらん、昔夏
禹犯者を罪するとて涙をながし給ひき、臣下の云、
犯せる者を罪するあはれぶにたらず、夏禹の云、尭
代の民は尭の心を心とする故に、人皆正しきなり、
今の世の民は朕がこころを以て心とする故に、かた
ましき者有て罪を犯す、豈かなしまざらんやと歎給
ふ、今又丸が心の正しからざらん故に、〓物朝に有
て法を犯す、是丸が恥なりとて歎かせまします、扨も
とられつらん衣の色はいかにと問はせおはします、
しかじかと申せば、中宮の御方へ左様の御衣や候と
申させ給へば、今少し先のよりも清らかに美敷が参
りければ、この女童に給はす、夜いまだ深し、又も
やさるめにあはんとて、上日の者にて、主の女房のつ
ぼねへ送り遣したりけるとかや、彼女房の心の内い
か計か有りけん、同じ比究めて貧なる所の衆侍けり、
衆の交りもすべきにて有けるが、総じて思ひ立べき
便もなし、さりとて此事いとなまずば、衆に交らん
ことも人ならず、唯かかる身は世に有ても何かはせ
ん、出家入道をしてうせなんと思ひけり、去ままに
は妻子のことはさる事にて、何となく歳比なれむつ
びける衆の名残せんかたなくて、いはんや日比期し
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たりつる前途後栄をも空しくて、朝夕詣づる御垣の
内をふり捨て、山林流浪せんこと心細とも愚なり、
とてもかくても人の身に貧に過たる口惜き事なかり
けりと覚しつづくるに、先世の戒徳のうすきも思ひ
しられて打ち沈まる折々は、泣より外のことなかり
けり、しかも此君近習の女房臣下に内々仰の有ける
は、率土皆皇民なり、遠民何疎、近民何親、仁を施ば
やと思召せども、一人の耳には四海のことを不聞、
黄帝は四聴四目の臣に任せ、舜帝は八元八〓の臣に
委すなどいへり、され共遠き事はさのみ奏する人も
なければ、おのおの聞及ぶことあらば、穴賢、告知
らせ参らせよと仰せ置かれたりければ、或女房此所
の衆の歎く事を聞及びて奏聞したりければ、あなむ
ざんやと計にて、何といふ仰もなかりけり、西京の
座主良真僧正御持僧にて侍りけるに仰ありけるは、
臨時の御いのり有べし、日時并に何法といふ事は追
て宣下せらるべし、先兵衛尉一人の功、今度の除目
に召付申さるべしと仰也、僧正勅命にまかせて、成
功の人を召付て、貫首に頓て被成にけり、其頃の兵
衛尉の功は五百疋に有りしかば、これを座首坊に収
置て、日時のせん下を相待けれども、日数へければ、
良真夜居の次に思召しわすれたるかと奏せられけれ
ば、主上おぼせ有けるは、遠近親疎をろんせず、民
の患をなだめばやとこそ思召共、叡聞に不(レ)及事さだ
めて多からん、耳にもるる事有んをば、相かまへてめ
ぐみをほどこさばやと深く思召なり、然るに某と言
本所の衆あり、家貧にして衆の交り難叶間、既に其
身を失ふべしと聞召せども、明王有私人似金石
珠玉、无私人以官職事業、言事もあれば、何かは
苦しかるべき、但世にひろうせん事憚あり、只僧正
良真が給はす体にもてなすべし、御祈は長日の御修
法にすぎたる事あるべからずと仰ければ、僧正とか
くの御返事に不(レ)及、いか成大法秘法も是に過たる御
祈有べからず、良真己が微力をはげましたらん御祈、
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猶百分が一にも不(レ)及とて泣々退出す、依て彼所の衆
を西の京の坊に召て、勅命の趣をつぶさに仰ふくめ
て、その五百疋を給はりけり、此ものの心の内いか
計なりけん、又金田府生時光と言笛吹と市佐和与部
の茂光といふ篳篥吹有けり、常に寄合て碁を打て、
〓頭楽と云唱歌をして、心をすましけり、二人寄合
て碁をうちぬれば、世間のこと公私に付て総て聞も
入ざりけり、或時内裏より問のこと有て時光を召け
る、例の癖なれば更に耳に不聞入、こはいかに宣旨
の御使ありといへどもいへども唱歌打して不聞入、家中
の妻子所従までも大きにさわぎて、いかにいかにとい
へどもきかず、宣旨を欺くとて帰り、此由を有のま
まに奏聞す、いか計の勅定にて有んずらんとおもひ
ければ、王位は口惜きことかな、かほどのすきもの
に伴はざりける事よ、あはれすきたる者の心哉とて、
御涙を流して、あへて勅勘なかりける上は仔細にお
よばず、
小松大臣うせ給て後程なく、入道悪逆を極給けり、
其頃少納言入道信西の末の娘に天下第一の美人有け
り、容色もこまやかに芸能も世にすぐれたり、琵琶
のばち音世に聞え、琴の爪音珍らかに、手跡も寔に
美しくたぐひすくなき御事なり、楊梅桃李の粧ひ、は
なやかさも双ぶ方なし、世下りてより此かた、かやう
にみめも形も能もたぐひたる人あらじとぞ聞えし、
三条小河に住給ひければ、小河どのとぞ申ける、盛
まだしき程に、冷泉大納言の未だ少将にてましまし
ける時、何としてか見奉り給けん、人不(レ)知おもひの
病と成て、ひまなく御文通はしけれども、聞も入給は
ず、折節主上かかる人おはすと聞召て、小河殿を忍
び忍び夜な夜な御召あり、御気色浅からざりければ、
しのびて内裏に候はせ給ひけり、冷泉少将もこの事
を聞かるるより、さしたる用はなけれども、もしや
余所ながらも見参らせて慰むかたもやとて、夜の明
れば出仕とて、毎日参内有て、くつがたの板の御間
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に小河殿は住み給ひけり、其あたりをば常に通ひ給
ひけり、去れども見奉ること更になし、されば逢は
ぬ恋にうつもれて、絶て有べしともおもはず、とて
もかくても無甲斐出仕なれば、宿所に引かつぎて
いかがせんとぞ泣れける、君の御気色あさからぬ御
事にて、当時小河どの内裏にわたらせ給ふといふ事、
太政入道聞給ひて、小河がふるまひこそすべて心得
られね、冷泉の少将も入道が聟なり、一人は恋路に迷
ひて死ぬべしと聞く、二人の聟を損ざしぬる事無益
の次第なり、獵師山に有時は獣のこころ安からず、
光女さとにあるときは男子心をいたましむとは、こ
れ体のことをいふにこそ、されば何職の女房にても
おはせよ、入道が娘の女院をすさめ奉らせ給ふべき
様やはある、総じて小河の局があればこそ女院をば
すさめ給ふらめ、あな安からずや、さらんにおいて
は入道が娘のかたきなり、人手にかくまじ、髪をき
りてあまとなさんと叱り給ふよし、小河殿きき給ひ
て、寔にこの人の心にてはさし置せ給はじ、爰にて
はぢをさらし、人手にかからんよりはとて、忍びて
なくなく御所を出給ひけり、小河どの失せ給ひけれ
ば、主上の御歎き弥ふかく成給ひて、女院の御方へ
も行幸ならず、供御もつやつやまいらず、常は南殿
に出御ありて、月をのみ御覧じて、龍顔に御涙をう
かべ、御なうと成て御命も頼すくなくぞみえさせ給
ひける、太政入道此由を聞給ひて、大に腹を立て、
君こそ誠やらん、小河が失たるとて供御も参らず、
一日万機の政も怠らせ給ふなれ、其儀ならば浄海も
計ふ旨ありとて、百官の出仕を打とどめ、内侍、釆
女、御くしげ、更衣、女官召次さへ打とどめ、人跡
まれにもてなし、四面の御かうしもたてをさめ、日
月の光をさへ隔て参らせて、唯禁籠のごとし、禁中
忌々敷ぞなりにける、主上是をば少しも苦しとも思
召されず、唯小河どのの行衛を知らばやと歎かせ給
ふ、只一筋に位を去ばや、天下のあるじにて万乗の
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宝位を忝なくせば、これほどのことをえいりよに任
せたらばこそ、浮世の思ひ出にてもあらめ、心づき
なる人一人さへもたぬほどの御身にては、十善の位
につきても何のせんか有べき、只位を退て国々をも
修行し、契りあらばなどか小河にあはざらんとぞ思
召されける、或時更行くままに御心すみわたり、を
じか鳴く音と詠じけん、さか行く秋のよの中物うく
のみ思召されける、をりしも小河殿御覧じたくおぼ
しめして、人や候と召れけるに、夜深更に及びても
勅答申人もなし、重て人やあると御尋有ければ、高
兼と申て殿上蔵人候とて参りたり、近く参れと御定
有ければ、大床迄参りたり、猶近く参れ、仰せふく
むべき事ありと御気色ありければ、高兼近く参りた
り、高兼よ、小河が行衛尋ねて参りてんやと仰有け
れば、あら忝なの御事や、かほど通ふ御心の深きを、
太政入道なさけなくふるまひ給ふことこそ浅ましけ
れとおもひけるに、涙せきあへず、袖を顔に押あて
てしばしはうつ伏して候けるが、いと久敷有て申け
るは、仰下されし宣旨かたじけなく候へば、雲の末[B 果イ]
海のはてまでも、たづね参らせ候べしと申ければ、
神妙なり、いざとよ、仁和寺の方折戸とや聞ぞと勅
定有ける故、頓て罷出ぬ、主上めし返して、是に乗
てたづねよとて、御つぼにたてられたる寮の御馬を
給て、宣旨を頼みて、内野を筋違に、仁和寺の西の
端、常盤の辻にたちやすらひて、道行人にいひける
は、何れにて候ぞ、仁和寺の方折戸、小河のつぼね
の御宿所はと、高兼尋ければ、人興に入て、そぢや
うそこ、いづくの方折戸とこそ尋ぬるに、唯うはの
空に仁和寺の方折戸と尋ねたるはといひて、人多く
笑けり、高兼は、方折戸々々々と、夜もすがらたづ
ね行、さらぬだに、秋の哀れはものうきに、草むら
に声々すだく虫の音打副て、心細からずといふこと
なし、高兼駒を控へて、昔は宣旨と申ければ、枯た
る草木もたちまちに花さきみなり、飛鳥の類までも、
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落けるとこそ申つたへたれ、末の世こそ口をしけれ、
正敷寮の御馬を給て、直に宣旨を下されて、尋奉る
に、そことだにも知せぬ悲しさよ、君を守護し給天
照太神、正八幡宮、日月星宿堅牢地神は、おはしま
さぬやらんとなみだをながして、空敷かへりまいり
たらば、違勅のものになりなんず、是より髻を切て
失なんとおもひ、衣笠大路を下り、駒に任せて行ほ
どにまことや左様の人は、法輪寺なんどに、参り給
ひたることもやとおもひて、法輪寺を心ざし、大井
川の橋をわたらんとする所に、かめ山近きあたりに、
松の一村ありけるかた、秋霧の絶間より、爪おとや
さしき琴の音、幽にきこえければ、峯の嵐か松風か、
尋る人の琴の音かと、うたがはしき折節、高兼寔や
小河殿こそことの上手にて、ましまししとききしも
のをとおもひて、琴の音をしるべにて、衣笠大路の
北のつらに、長桧垣の破れたるにつたはひかかり、
奥深げなる方折戸あり、是なるらんと思ひて、高兼
門をあららかにたたけば、弾きつる琴の音もせず、
内より老たる尼出て、いづくよりと申、内裏よりの
御使、殿上蔵人高兼と申者参りて候、小河の御つぼ
ね、是に渡らせ給ふよし聞召して、御参り有べき由、
宣旨とぞ申ける、此尼申けるは、是には左様の人は
渡らせ給はず、おもひ寄らずとて門をたてんとす、
立られなんには、いかにも叶はじとおもひて、高兼
はしたたかに押入て、縁の際へ参りて、内裏よりの
御使にて候と申ければ、其時内よりおとなしき女房
出て、去こと是に候べき、此程是に渡らせ給ひしが、
昨日の朝出させ給ひて候が、御行衛をも不(レ)知と申け
り、其時高兼被遊つる御琴の音を、正敷承しり参ら
せて候ものを、宣旨を背かせ給はんは、恐有御事に
て候ものをとぞ申ける、小河どのは、内々支度し給
ひけるは、君の御気色はかたじけなけれども、入道
のおそれあり、何となく迷ひ出しかば、如何成もの
にかこころを通はすらんと、思召候はんも浅まし、
P399
此世幾ほどならず出家して、後世を願はんとて、既
に戒の師を受て、御ぐしをすまし袈裟ころも用意し
て、只今髪をそらんとし給ひけるが、今生にて心に
かかることあらば、後生の障とも成なんずとて、朝
夕手馴給たりける琴を取寄て、最期の楽と思ひて、
ひかせ給ける折節に、この高兼は参りたり、高兼申け
るは、宣旨の御使にて候へば、急ぎ御返事候へとて、
御文を参らせけり、
せみの羽の薄き契りの甲斐なくて
結びもはてぬ夢ぞ悲しき W095 K288
と被遊けり、小河殿御顔に当て、涙にむせび給ひけ
り、まことに君の御名残、かたじけなく思召て、今
一度龍顔に近付参らせばやと、御心弱く思召なられ、
出家もし給はず、たへかねてすだれの際より、我は
是にあり、世の中ものうく、恥しきこと有るべしと
聞えしかば、おそろしきまま迷ひ出たり、汝はいか
にして尋来りたるぞ、夢とこそおぼゆれ、まことに
君の御事わすれ参らせねば、あらはれて汝に逢たる
ことこそ不思議なれ、此よし奏聞せよ、我は今宵計
ぞこれにあらんずる、明なば小原の奥に、おもひ立
事有と計にて、御涙押へ難き気色にて、すだれより
外まで聞えければ、蔵人も忍難く、狩衣の袖を顔に
押し当て、人の聞くをもかへりみず、声を出して泣
居たり、良久しく有て、あるじの女房呼び出して申
けるは、小原の奥に思召し立とは、御出家有べきに
こそ、目放ち参らせ給ふな、此由奏聞して、頓て帰り
参るべしとて、蔵人は寮の御馬に打乗て、急ぎはせ
帰ぬ、内裏へ参りて、南殿の階を上りて、南庭を見
参らせければ、主上は宵に月御覧じて、打ふしてま
します所に、少もはたらかせ給はず、高兼を待せ
まします、蔵人を御覧じつけて、あれはいかに高兼
か、小河の局には尋ね逢たるかと仰下されければ、
尋ね逢ひ参らせて候と、申聞召もあへず、いとうれ
しげに、思召たる御気色にて、御涙のこぼれければ、
P400
蔵人も袖を顔におし当て、御前にひき伏て泣き居た
り、主上良久しく有て仰ありけるは、そこはかとも
なくしらざるに、何として尋ね逢けるぞと御尋あり、
嵯峨野内をば尋かね参らせ候て、法輪寺の方へたづ
ね参り候つる程に、大井川の岩波高き所に、河瀬の
波に迷ひつつ、琴をひかせ給ふが、御楽は想夫恋と
申御楽を、くりかへしくりかへしひかせましまし候つる間、
それに付て尋参りて候つると申せば、いしうもたづ
ね逢たり、件の楽は男を恋る楽也、扨は小河局も忘
るる事はなかりけり、世のおそろしさに、我にしら
れずして失にけるこそ哀なれ、車を迎に参らせよと
仰有ければ、蔵人夜の中に車をしたため、小河のつ
ぼね内裏へ入参らせたりければ、主上不(レ)斜悦せば給
ひて、人もしらざる所に隠し置奉り、時々忍びて召
れけり、それより高兼をば、琴聞の三位になさせ給
ふ、周の穆王の時、湯流と言ひし賢人、月を見て、
月見の大臣に補せらる、今高兼は琴を聞て三位に至
る、やさしかりし例也、かかりければ、人口のおそ
ろしさは、此ことささやきつぶやきける程に、太政
入道聞付て、大にいかりをなし、福原より馳上り、
小河の局のおはする亭に破り入て、たけなる髪を入
道手にからませて、つぼの内へ引出して見られけれ
ば、誠に君の思召るるも理りなり、天下第一の美人
にて有けるものをとて、世になつかしげにおもはれ
けり、剰へ耳にさし寄りて、入道に近付給へ、今の
なんを助け奉らんと聞えければ、小河殿、日月はい
まだ天にまします、玉体に近付参らせながら、いか
でか去このと候べき、貞女両夫にまみえざることは
しらせ給へるかと、いささかもゆるげなきよし宣ひ
ければ、入道腹を立、もとよりの意趣なりければ、
ふしぎのふるまひをせらるるこそきくわいなれ、入
道が帰り聞事といひ、又女院の思召るる所を、いか
でか思はざるべきと宣ひて、髪を切尼になし、耳を
切はなをそぎて追放つ、入道人倫の法として、情け
P401
なくもし給たり、つみの深さよと人あざみ申て、袂
をしぼらぬはなかりけり、扨も小河の局、いかがな
り給ぬらんとおもひやるこそむざんなれ、主上この
事聞召して、口惜き事也、我万乗の主と云ながら、
是ほどのこと叡慮に任せぬことこそ口惜けれ、丸が
代に始て、王法つきぬるこそかなしけれと、御歎有
しよりして、いとど中宮の御方へも行幸もならず、深
く思召し沈ませ給けるが、御病となり、終にはかなく
成らせ給ひにけりとぞ承りし、仁風率土に蒙らしめ、
孝徳天に顕はるる、誠に尭舜禹湯周の文武漢の文景
と言とも、かくこそはとぞ覚えし、
されば後白河法皇、此君におくれ参らせ給ひて後、
仰の有けるは、世を此君に継せたてまつらせたまは
ましかば、おそらくは延喜天暦の昔にも、立かへり
なましとぞおもひけるに、かく先立ち給ひぬる事は、
ただ我身の微運の尽ぬるのみにあらず、国の衰〓、
民の果報の拙きが致すところ也とぞなげかせ給ひけ
る、目近くは故院の近衛院に、おくれ参らせ給たり
けん御ありさま、挙賢義孝先少将後少将といはるる
も、さばかりなりし人の兄弟、一日の中に失たりしか
ば、父一条摂政伊尹公、母その北の方の思ひなどを
始て、彼二条関白師実公におくれ給ひ、京極の摂政
の思ひなど、数々思召て、朝綱が澄明におくれて、
悲之至悲、莫過於老後子之悲、恨而更恨、莫過
於少先親之恨、雖老少不定、猶迷前後相違とな
くなく書たりけん、さこそかこつ方なかりけめと、
御涙せきあへず、永万元年七月に、第一の御子、二
条の院も失させたまひにき、第二の御子高倉の宮、
治承四年五月に誅せられ給ぬ、現世後生とふかく頼
奉り給へる新院さへ、か様に先立せ給ぬ、今はいと
ど心弱くならせ給ひて、いか成べしとも思召わかず、
老少不定は人間のならひなれども、先後相違は、生
前の御恨み猶深し、ひよくの鳥れんりの枝と、天に
仰ぎ星をさして、御契り浅からざりし建春門院も、
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安元二年七月七日、秋風情けなくして夜半の露と消
させ給ひしかば、雲のかけはしかきたえて、天の河
の逢瀬を余所に御覧じて、生者必滅、会者定離の理
を深く思召とりて、年月は経たれども、きのふけふ
の様に思召て、御涙未だかわきあへぬに、又この御歎
きさへ打そひぬるぞ申ばかりなき、近く召つかはれ
し輩、睦しく思召しし人々も、或は流され、あるひは
誅せられにき、今は何ごとにか御心をも慰さめさせ
給ふべき、去ままには、一乗妙典の御読誦も怠らず、
三密行法の御薫修も積れり、今生の妄念は思召捨て、
唯来世の御つとめより外に他事ましまさず、これ又
かつうは然るべき善知識哉とぞ思召されける、天下
諒闇になりしかば、雲の上人花の袂をひるがへして、
藤衣に成にけり、興福寺別当権僧正教縁も、伽藍炎
上のけぶりを見て、病付てほどなく失せられにけり、
誠に心有らん人の、たへてながらふべき世とも見え
ず、法皇の御心の内申もおろか也、我十善の余薫に
報いて、万乗の宝位を忝くす、四代の帝王を思へば、
子なり孫也、いかなれば万機の政務をも止められて、
年月を送るらんと、日比の御愁も休むかたなかりけ
る上、新院の御事さへ打そへぬれば、内外につきて
思召しづませまします、入道相国此有様を伝へ聞て、
いたく情なくふるまひたりしことを、恐しとや思ひ
けん、廿四日太政入道の乙娘、安芸の厳島の内侍が腹
に、十七に成給けるを院へ参らせ給て、上臈女房数
多候はせ、公卿殿上人多く供奉して、女御参の儀式
などの様にありける、かかりけるに付ても、法皇は
こは何ごとぞとすさまじくぞ思召れける、高倉の院
かくれさせ給ひてのち、けふ僅十四日にこそなるに、
いつしか斯るべしやと、ねざめ悲しくぞ覚けるに、
御召仕の[B 「と、ねざめ悲しくぞ覚けるに、御召仕の」に「はきつねめかしくぞおぼえしそれに候はれしイ」と傍書]女房の中に、鳥飼大納言伊実の娘おはしけ
り、大宮殿とぞ申ける、一条大納言の御娘をば近衛
殿とぞ申ける、それも時めき給ひけれども、その中
に大宮殿ぞ御気色はよかりける、御妹〈 盛衰記作せうと 〉の実保
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伊輔、二人一度に少将に成れにけるぞ、ゆゆしく聞え
し程に、相模守業房が後家忍びて参り〈 参考源平盛衰記に召れとあり 〉け
るに、姫宮出来給へり、二人の上臈女房も本意なき
ことにぞ思召されける、大宮殿は、後には平中納言
親実卿、時々通ひ給ひける、北の方にも成らずして、
物思ふこそ口惜けれ、近衛殿は、後には九郎判官義
経が一腹の弟、侍従能成に名立られけるぞ、うたて
くはきこえし、かの能成は、判官が世に有し程は、武
者だちてゆゆしかりけるが、判官西国へ落し時、紫
藤染のかの綾の直垂に、赤をどしの鎧に蘆毛なる馬
に乗て、判官が尻に打たりしが、大物の浦にてちり
ぢりに成にけり、夫より和泉の国へ迷ひ行けるが生
捕られて、上野国小幡と云所へ流されて、三年あり
けるとかや、近衛殿はけがされたる計りにて、本意
なかりけり、
信濃の国安曇郡木曾といふ所あり、故六条判官為義
が孫、帯刀先生義賢が二男、木曾冠者義仲と云者有、
国中の兵を隨ひ付たること[B 「を隨ひ付たること」に「徒を付る事イ」と傍書]、一千余人に及べり、彼
義賢、去る仁平三年の夏のころ、上野国多胡郡に居
住したりけるが、秩父次郎大夫重隆が養子に成て、
武蔵国比企郡へ通ひける程に、当国にも不限、隣国
迄もしたがひけり、かくて年月を経ける程に、久寿
二年八月十六日、故左馬頭義朝が一男、悪源太義平
が為に、大蔵の館にて義賢重隆共に誅せられにけり、
其時義仲は二歳になりけるを、母泣々相ぐして信濃
に越て、木曾の仲三兼遠と云者を見て、これを養ひ
て置たまへ、世の中は用ある者ぞなど打頼ければ、兼
遠是を得てあないとをしと云て、木曾の山下と云所
にて育てけり、二歳より兼遠が懐の内にて人と成よ
り、万おろそかならずぞありける、此ちごみみかた
ちあしからず、色しろく髪美しくて、やうやう七歳
に成にけり、弓など翫(もてあそ)ぶありさま、殊に末頼もしく、
人これを見て、此ちごのみめのよさよ、弓射たるは
したなさよ、誠の養子かなど問ひければ、これは相知
P404
たる遊君の、父なし子を産て、兼遠にたびたりしを、
乳の中よりとり置きて候が、父母と申候也、扨其の
ち男になしてけり、打ふるまひ物などいひたる有様
も、まことにさかりしげなり、かくて廿年が程、隠
し置て養育す、成長する程に武勇の心猛くして、弓
矢の道人に勝れたりければ、兼遠妻に語りけるは、
此冠者君少より手習学問させ、法師になして誠の父
母の孝養をもせさせ、我等が後世をも弔はせんと思
ひしに、心さかさかしければ、用有と思ひて男にな
したり、たが教たる事なけれども、弓矢を取たる姿
のよさよ、力もこの比の人にはすぐれたり、馬にも
したたかに乗り、空飛ぶ鳥地を走るけだ物、矢所に
まいるもの、射はづすと云ことなし、歩行立馬の上
の風情、誠に天の授ける業なり、酒盛などして、人
をもてなしあそぶ有様もあしからず、さるべき人の
娘がな、いひ合せんと思ふに、流石無下成はいかが
とためらひけり、或時この冠者、今はいつを期すべ
しとも不覚、身のさかり成時京へ上りて、公家の見
参にも入て、先祖の敵平家を討て、世をとらばやと
いひければ、兼遠打笑ひて、其ためにこそ和殿をば、
是ほどまでは養育したりけれとぞいひける、義仲さ
まざまの謀を廻らして、平家を窺ひ見ん為に、忍び
て京へ上り、人に紛れて日夜窺ひけれども、平家さ
かりなりければ、本意を遂ざりけり、義仲本国へ帰
り下りけるに、兼遠都の物語し給へといひければ、
京を王城とはよくぞ申ける、三方に高き嶺あり、も
しものことあらば、逃籠りたらんに、きと恥に逢ま
じ、六波羅は無下のひとへ所、西風北風吹たらんと
き、火をかけたらんに、いづれも残るまじとこそ見
えて候へとぞいひける、明暮れ過ける程に、平家此
事をもれ聞て大におどろき、仲三兼遠を召て、汝義
仲を養ひ置、謀叛を起し天下を乱すべき由企てあん
なる、不日に汝が頭をはぬべけれども、今度はゆる
めらるるぞ、急ぎ義仲を召進すべきよし、起請文を
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書せて本国へ返しつかはす、兼遠起請文は書ながら、
年来の養育むなしく成らんことを歎て、おのれが命
の失んことをばかへり見ず、木曾が世を取んずる謀
をのみぞ、明ても暮ても思ひける、其後は世の聞え
をおそれて、当国の大名根井小弥太、滋野幸親と云者
に義仲を授け、幸親これを請取て、もてなしかしづ
きける程に、国中挙て木曾御曹司とぞいひける、父
多胡先生義賢が好にて、上野国勇士、足利が一族以
下、皆木曾に従付にけり、去程に伊豆国の流人、兵衛
佐頼朝謀叛を起して、東八ヶ国を押領するよし聞え
ければ、義仲も木曾のかけはしを強く固めて、信濃国
を押領す、彼所は信濃国にとりては、西南の隅、美
濃国の境なれば、都も幾程も遠からずとて、平家の
人々さわぎあへり、東海道も兵衛佐に打とられぬ、
東山道も又かかれば、あわてさわぐもことわりとぞ
申ける、是を聞て平家の侍ども、何事かは有べき、
越後国には城太郎資長兄弟あり、多勢の者也、木曾
義仲が信濃国の兵を語ふとも、十分が一にも及ぶべ
からず、只今誅して奉りなんずといひけれども、東
国の背くだにも不思議なるに、北国さへかかれば、
これすぐなる事にあらずとぞ申あひける、
廿八日東国源氏、尾張国迄せめ上る由、彼国目代早
馬を立て申たりければ、亥時ばかり六はら辺さわぎ
あへり、都に打入たるやうに、物を運び東西南北へ
隠し持さまよふ、馬に鞍置き腹巻しめなんどしけれ
ば、京中さわぎて、こはいかにせんずるぞと上下迷
ひあへり、畿内より上る所の武士の郎等ども、兵粮の
さたはなし、飢にのぞむ程に、人の家に走り入、食
物を奪ひとりければ、一人としておだしからず、
廿九日右大将宗盛卿、近江国の総官に捕せられ、天
平三年の例とぞ聞えし、十郎蔵人といふ源氏、美濃
の国蒲倉と云所に楯籠りたりけるを、平家の征夷大
将軍左兵衛督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、
薩摩守忠度、侍大将には尾張守貞康、伊勢守景綱以
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下、三千余騎にて馳下りて、上の山より火を放ちけれ
ば、堪へずして追落されて、当国の中原と云所に、
千余騎にてたて籠りたるとぞきこえし、平家、近江美
濃尾張三ヶ国の凶徒、山本柏木錦古利佐々木の一族
打従てければ、平家の勢五千余騎に成て、尾張国墨
俣川といふ所につくとぞ聞えし、
二月七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王
を書き、供養し奉るべきよし宣下せらる、兵乱の御
祈とぞ聞えし、諸寺の御読経、諸社の御奉幣使、大
法秘法残る所なく行はれけれども、其験なし、源氏は
只せめにせめ上る、何としたらばはかばかしき事の
あらんずるぞ、ただ人苦しめなり、神は非礼を受け
給はずといふ事あり、誤りは心の外のことなれば、
ざんげすれば助かることなり、平家のふるまひは余
りなりつる事なりといひて、僧侶も神主もいさいさ
とておのおの頭を振合やみけり、
九日武蔵権守義基法師が首、并子息石河判官代義兼
を生捕にして、検非違使七条河原にて、武士の手よ
り請取て、頭を獄門の木にかけて、生捕を禁獄せら
る、見物人数を不(レ)知、馬車衢に充満して夥し、諒闇
の歳、賊首大路を渡さるる事まれなり、康和二年七
月十八日、堀河天皇崩御、同三年正月廿九日、対馬
守源義親が首を、渡されし例とぞ聞えし、彼義基は、
故陸奥守義家孫、五郎兵衛尉義明の子、河内国石川
郡の住人なり、兵衛佐頼朝に同意の間、忽ち誅戮せ
られぬとぞきこえし、
十三日宇佐宮大宮司公通、かくりき[* 「かくりき」に「脚力」と振り漢字]を立申けるは、
九州の住人菊地次郎高直、原田四郎大夫種益、緒方
三郎伊能、臼杵経続、松浦党を始として、しかしな
がら謀叛を企つ、太宰府の下知に不従と申たりけれ
ば、こはいかなる事ぞとて、手を打てあざみけり、
東国謀叛の限りと思ひて、西国は手武者なれば、め
しのぼせて合戦させんとこそ頼ければ、承平将門天
慶純友が、一度に東西に乱逆を起したるに相にたり
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とて、大に驚きさわぎあへり、肥後守貞能が申ける
は、ひが事にてぞ候らん、いかでかしやつばら君を
ば背き参らせ候べき、東国北国をば君にまかせ参ら
せ候、西国は手の下に覚え候、貞能罷り下り候てし
づめ候べしと、頼もしげにぞ申ける、
十七日近江美濃両国の凶徒が首を、七条堀川にて武
士の手より、検非違使請取て、大路を渡し西獄門に
かく、其日午の時計り、伊予の国より飛脚来り申け
るは、当国の住人河野介通清、去年の冬より謀叛を
起して、当国の道前道後の境なる高直の城に楯籠た
りけるを、備中国の住人、沼賀入道西寂、彼を討た
んとて、備後の鞆より十余艘の兵船をととのへて、
通清を攻む、昼夜九日ほど戦ひけれども、勝負をも
決せず、爰に西寂が甥、沼賀七郎伊重といふ者、城内
に攻め入て戦ひけるところに、いかがしたりけん、
太刀をひらめける所を、通清よき隙と思ひて、馬の
首より足を越して、得たりやあふとて、沼賀七郎に
引組んだり、伊重暫くからかひけれども叶はざりけ
り、力劣りなりければ、生捕れて城内へ押込められ、
辛き目に逢たりける、此所に折を得て、通清が舎弟
北条三郎通経といふ者、勝に乗りて城内より主従轡
を並べて駈け出て戦けり、西寂甥をとられてやすか
らずとやおもひけん、今を限りと思ひきりて戦ける
に、通経が郎等を討取、唯一人に成て戦けるを、西
舜多勢の中に取籠めて、通経を手取にするぞ悲しき、
西寂使者を以ていひけるは、城内にも生捕候らん、
又生捕を取かへて、弓矢に付て互に勝負を決すべき
よし申たり、通清申けるは、敵に生捕るるほどの不
覚人をば、いけても何かはせん、只斬るに過たる事
なしとて、則使の見る所にて、沼賀七郎伊重が首を
切る、使者帰て此由を申ければ、通経をも切可と有
ければ、通経申けるは、弓矢取る習ひ、生捕らるる
事常の法なり、同じ兄弟の中に、情けなくもするこ
そ口惜けれ、一日の暇をゆるし給へ、館の案内者な
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り手引して、通清を打落すべし、其後生死は入道殿
のはからひなりと申ければ、西寂これを放してけり、
其夜の子の刻ばかりに、北条三郎通経を案内者とし
て、後の渦地より押寄て、時をどつと作り、竹林に
火をかけ、一時が程攻ければ、こらへずしてとる物
もとりあへず落ちにけり、大将軍河野介通清も討れ
にけり、子息通信は落ちにけり、安芸国へ押渡りて、
沼田郷に引籠る、爰に通清が養子出雲坊宗厳と云僧
あり、是は平家の忠盛が子也、大力の剛の者なり、
軍以前に他行したりけるが、是を聞て急ぎ伊予へ越
て、舎弟通信に尋ね逢せて、西寂を窺ひける程に、西
寂運の極むる事は、去月朔日より、室高砂の遊君共
を召集めて、浅海にて舟遊びどもしける処を、家の
子郎等ども磯に下りひたりて、西寂只一人残りたり
けり、出雲坊さらぬやうにて舟に乗移り、ともづな
舳綱を打ち切て、西寂をば舟梁に縛り付て、沖をさ
してこぎ出ぬ、家の子郎等しばしは入道のこぐと心
得て目もかけず、次第に沖の方へ遠くなりければ、
あれはいかにあれはいかにと申せ共、又外に舟もなければ力
不(レ)及、ぬけぬけととられけり、出雲坊は夜に入て或
なぎさに舟をつけて、通信を尋るところに、河野は
沼田郷より多勢を引卒して、伯父北条三郎を討取て、
并に太子源三を生捕て、出雲坊に行逢ぬ、二人の敵
を生どりて、おのおの是を悦び、高直の城に持帰り
て、太子をば磔にして、西寂をば首を鋸にて切てけ
り、これに依て当国には、新井武知が一族を始とし
て、皆河野にしたがひて候なり、惣じて四国住人等、
ことごとく東国に与力したりと申たりければ、平家
又さわぎあへり、又熊野の別当田辺法印湛増以下、
吉野十津川の悪党等までも、花の都を背き、東夷に
属する由きこゆ、東国北国既に背きぬ、南海西海静
かならず、逆乱の瑞相頻りなり、兵革忽に起り、仏
法ほろび王法なきがごとし、我朝唯今失なんとす、
こは心うき業かなとて、平家の一門ならぬ人も、物
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の心をもわきまへたる人は歎あへり、
十七日前右大将宗盛、法皇の御所に参られたり、常
よりも心よげ成気色にて、法皇にかはらはせ給て御
覧ぜらる、大将畏て申されけるは、入道申上よと申
候つるは、世に有んと仕るは君の御宮仕の為なり、
二つ共なき命を奪はんと仕敵をば、命も沙汰仕べく
候、夫に君も御方人をば思召まじく候、其外のこと
は何事も、天下の政もとのごとく、御はからひ有べ
く候とまめやかに申されければ、法皇仰ありけるは、
丸が然るべき運命の催やらん、此二三年は何となく
世間あぢきなくて、後生ぼだいのことより外は思は
ねば、今は政に口入せんともおもはず、唯おのおのこ
そはからはめ、さなきだにも心うきめを見るにあな
よしなやと被(レ)仰ければ、宗盛卿申されけるは、いか
にかくは仰候ぞ、入道は親ながらもおそろ敷ものに
て候、此事申かなへず候はば、君の御気色の悪敷か、
又は君の入道をにくませ給ふかとて、腹を立候なん
ず、ただきこしめしつとばかり仰せ候べきなりと被
申ければ、さればこそ何れにもはからへと被(レ)仰て、
御経をとらせ給ひて遊ばされければ、宗盛少し気色
かはりて御前を立れけり、是を承る人々ささやき合
けるは、何となく世の中そそろく間、入道流石お
それ奉てかく申成べし、あなことも愚や、天下は大
王の御計ひぞかし、何とこは申やらんとぞ云あはれ
ける、
廿七日前右大将宗盛、数千騎を引率して、関東へ下
り給べきにて、出立ち給ひける程に、入道相国例な
らず心地出来よしありければ、けしからじといふ人
もありけり、又年来片時も不例と云ことをせざりつ
る人の、折節か様におはすれば、たとへ打立て後に
道にて聞給たり共、御帰りあるべし、まして是を御
覧じ置ながら、捨て奉りて立給べきやうなしとあり
ければ、止り給にけり、
太政入道所労付事
廿八日には太政入道重病と成給て、六波羅辺騒ぎあ
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へり、様々の祈祷共始められけると聞えしかば、さ
みつる事をとぞ貴賎ささやきつつやきける、病付給
へる日よりして、白き水をだに咽へ入給はず、身の内
あつきこと火の燃るがごとく、臥給へる二三間が内
へいるものは、あつさたへがたければ、近く寄るも
の希なり、宣ふこととてはあたあたと計なり、少し
も直る事はみえず、二位殿より始め奉りて、公達近き
人々いかにすべきとも覚えず、あきれてぞましまし
あひける、さるままには、きぬぎぬの糸綿の類は云
に及ばず、馬、鞍、鎧、甲、太刀、刀、征矢、胡〓、
金銀、七珍万宝を積て、神社仏寺に奉り、大法秘法
数を尽して修し奉り、陰陽師七人を以て、如法泰山
符君を祭らせ、残る所の祈もなく、いたらぬ療治も
なかりしかども、次第に重く成にけり、可然定業と
ぞみえける、入道は声いかめしき人にておはしける
が、声わななき息もよわく、殊の外によわりて、身の
膚の赤きことべにを差たるにことならず、吹出すい
きの末にあたるもの、炎にあたるに似たり、
閏二月二日、二位殿あつさはたへがたけれども、屏
風を隔て、枕近く居寄て泣々宣ひけるは、御病気日
日に重く成て頼すくなくみえ給ふ、御所に於ては心
の及ぶほどは尽しつれども、そのかろみもなし、今
は一筋に後生のことを祈給へ、又思召置く事あらば、
いひ置給へと申されければ、入道くるしげ成声にて、
息の下に宣ひけるは、我平治元年よりこのかた、天
下を掌に握り、世を保つ事廿三年、何ごとかは心に
かなはざりし、四海を足の下に靡かして、自らを傾
けんとせしものは、時日を廻らさず忽に滅しき、帝
祖太政大臣に至て、栄花既に子孫に及べり、一人と
して背く者なかりしかば、一天四海に肩をならぶる
人なし、されども死と云ことは人毎に有をや、我一
人がことならばこそ始て驚かめ、但し最期に安から
ずと思ひ置ことあり、流人頼朝が頭を見ざりつるこ
とのみこそ口惜けれ、死出の山を安く越べしとも覚
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えず、入道死して後には、追福作善のいとなみ努々
有べからず、相かまへて頼朝が頭を切て、我はかに
懸よ、それをぞ草の陰にても嬉しとは思はんずる、
我を思はんずる子共侍らば、深く此旨を存じて、頼
朝追討の志を先として、仏法供養の沙汰に及べから
ずと遺言し給ける、大将より始めて御子達並居て聞
給へり、いとど罪ふかくぞ覚えし、晴明が術、道満が
印を結て祈けれども軽みなし、其日のくれ程に、入
道病に責伏られてたへがたさに、比叡山の千手院の
水を取下して、石の舟に入て入道彼水に入て冷給へ
共、下の水上に湧上り、上の水は下に湧きこぼれけ
れども、少しも助かり給ふ心ちもし給ざりければ、
せめての事にや板敷に水を汲流して、其上に臥まろ
びて冷給へども、猶も助かる心地もし給はず、後に
は帷子を水にひたして、二間を隔てて投げかけ投げかけ
しけれども、ほどなくはらはらとなりにけり、かか
へおさふる人一人もなし、口にてはとかくののしり
けれども不(レ)叶、悶絶僻地して、七日と申に終にあつ
さ[B ちイ]死に死たまひけり、馬車はせ違ひ上下騒ぎののし
る、京中は塵灰にけたてられて、暮れのやみにぞ有
ける、禁中仙洞までも静かならず、一天の君いか成
ことのおはしまさんも、是ほどにはあらじとぞみえ
し、夥しなとはなのめならず、今年六十四にぞなり
給へる、七八十迄ある人も有ぞかし、老死と云べき
にあらざれども、宿運たちまちに尽きて、天の責の
がれず、立てぬ願もなく、残る祈もなけれども、仏
力神力も、事により時に従ふ事なれば、すべてその
しるしなし、数万騎の軍兵有しか共、ごくそつのせ
めをば防ぐに能はず、一家の公達も多けれども、め
いどのつかひをば隔つるに及ばず、命に替り身に替
らんと、契りしものも許多有しかども、誰かは一人
としてつき従ふべき、死出の山をばただ一人こそ越
給ふらめと哀なり、つくり置し罪業計りや身に副ぬ
らん、
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太政入道死去し給はんとて、前七日に当りけるに、
夜半計りに入道のつかひ給ける女房、不思議の夢を
ぞみたりける、たてぶち打たる八葉の車の内に、炎
の夥しくもえ上りたる、其中に無と云文字を札に書
て立たりけるを、青き鬼と赤き鬼と二人、福原の御
所東の四あしの門へ引入ければ、女房夢の心地にあ
れはいづくよりぞといへば、鬼神答へて云く、日本
第一の大伽藍、聖武天皇の御願、金銅十六丈の廬遮
那仏を焼奉りたる、伽藍の冥罰のがれがたきに依て、
太政入道取入んとて、ゑんま王の炎の車を持来る也
と申ければ、女房見るも身の毛だちておそろしなど
云計りなし、浅ましとおもひて、女房さてあの札は
何ぞと問へば、永く無間大城のそこに入んずる囚人
なるが故に、無と云文字を書たる也、無間地ごくの
札なりと、申とおもひければ夢さめけり、むなさわ
ぎして冷あせたりて、おそろしなど愚かなり、彼女
房のこの夢みたりけるより、病付て二七日と云に死
にけり、
播磨国福井庄司次郎大夫信方といふもの、南都の軍
はてて、都へ帰りて三ヶ日と云に、ほむら身を責む
る病付て、死けるこそおそろしけれ、正月には高倉
院の御こと悲しかりき、わづかに中一月を経て又此
ことあり、世の無常今に始めぬことなれども殊に哀
なり、七日六波羅にて焼上げて、骨を円実法眼、首
に懸て福原へ下りて納めけり、扨もその夜六波羅の
南に当りて、二三十人が音して、舞躍る者ありけり、
嬉しや水と云拍子を取て、をめき叫びてはやしのの
しり、はつと笑ひなどしけり、高倉の院失させ給て
諒闇になりぬ、其御中陰の内に、太政入道も失せら
れぬ、しかるに今宵は、六波羅にて火葬しける最中
に、かかる音のしければ、いかにも人の仕業にあら
ず、天狗の所行にてぞ有らんなど思ひけるほどに、
法性寺殿の御所の侍二人、東の釣殿に人を集めて、酒
もりをしける程に、酒に酔て舞ひけり、越中前司盛
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俊、御所領左衛門尉基宗に相尋ねければ、御所侍二
人が結構と申ければ、彼二人の輩を搦めて、右大将
の許へゐて参りたり、ことの仔細を尋ねられければ、
相知りて候もの、数多来て候つるに、酒をすすめ候
つるほどに、俄に物狂ひの気出来て、そぞろに舞候
つるなりと申ければ、科に処せらるるに及ばずとて、
即追ひ払はれけり、醉狂ひとはいひながら、さしも
やは有べき、天狗の附にけるよとぞ人申あひける、
興福寺の角、一言主明神とて社あり、前に大なる木
〓子の木あり、彼焼亡の火、此木のうつろに入て焼
上りけり、大衆の沙汰にて水を汲て度々入けれども、
烟少しも立止まず、水を入ける度ごとに火焔立増り
ければ、木のもと近く立寄者、烟にむせびければ、
その後はさたもせず、七日に及びて太政入道死し給
て後、彼火も消えにけり、是も其比の世の物語にて
ぞ有ける、人の死するあとには、怪しの物だにもほど
ほどに隨ひて、朝夕に例時懺法など読せて、かね打
ならすは常のことぞかし、是は供仏たえ、僧の営に
も及ばず、追福追善のさたもなかりけり、明ても暮
ても、軍合戦の営みより外は他事なし、うたてく心
うかりしこと共也、入道一人こそおはさねども、年
比日ごろさばかり貯へ置し、七珍万宝はいつちにか
行べき、たとへ愚に遺言し給ふとも、などかをりを
り仏事孝養せられざるべきと、人爪を弾きける事な
のめならず、さしも執し作り磨かれし八条殿も、去
る六日に焼けぬ、人の家の焼るはつねの事なれども、
折節がらも浅まし、いか成者のつけたりけるやらん、
放火とぞ聞えし、何者がいひ出したりけん、謀叛の
輩、八条殿に火をさしたりけりと聞えければ、京中
は地をうちかへしたるが如く、騒ぎあへる事夥し、上
下心を迷はす事ひまなし、誠あらん事はいかがせん、
か様にそらごとにさわぎあへる事の心うさよ、如何
に成なんずる世の中やらん、天狗もあれ怨霊もこは
くて、平家の一門運尽なんとぞ覚えし、
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此入道、運命漸く傾たりしころ、家にさまざまの怪
異ある中にも、不思議あり、坪の厩に立られたりけ
る秘蔵の馬の尾に、鼠巣をくひて子を産たりけり、
舎人数多付て夜昼なく飼ふ馬の尾に、一夜に巣をく
ひて子を産事、返す返すも有がたしとぞ聞えし、入
道驚きて陰陽師七人にうらなはせられければ、おの
おの重きけとぞ申ける、これに依てさまざまの御願
どもを立られけり、その馬をば、陰陽頭泰親にぞ給
ひける、黒駒の額白かりければ、名をば望月とぞ申
ける、相模の国住人大庭三郎景親が、東八ヶ国第一
の名馬なりとて奉りし馬なり、此事昔も今も不思議
にて、例しあるべしともおぼえぬ事なり、むかし天
智天皇元年壬戌四月に、寮の御馬の尾に、鼠巣をく
ふ事ありけり、それも驚きおぼしめして、御卜筮な
ど行はれけるに、御慎浅からずと申けり、彼御代に
おいせなど言事有て、世のなか静ならず、其後幾ほ
どもなくて、天皇崩御なりにけりとかや、此外さま
ざまの不思議多くぞ有ける、
福原の常の御所と名付られたる坪の内に、植そだて
て朝夕愛し給ひつる五葉の松の、片時が程に枯にけ
り、入道召仕の禿の中に、天狗数多交りて、常は田
楽を躍とどめきけり、大かたさらぬ不思議ども多か
りけるとかや、
兵庫島築始事
この入道、最期の病の有様はうたてけれども、一期
の運命一生の果報は、只人にしも有ざりけるやらん
とぞ覚ゆる事も多かりけり、神社を敬ひ仏法を崇む
る事も人にはすぐれたり、日吉の社へ参らせけるに
も、人の加茂春日などへ参詣有らんも、是ほどの事
あらじとぞみえし、殿上人前駈、上達部やりつづけ
などしてぞましましける、日吉にて持経者のかぎり
をえらびて、千僧供養有けり、有がたくゆゆしかり
し事なり、中にも福原の経のしま築かれたるこそ、
人の仕業ともおぼえず不思議なれ、彼海はとまりの
なくて、風と波とのたち合ぬれば、通へる船を覆し、
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乗る人の死すること昔より絶えず、怖しき渡りと人
人申ければ、入道聞給ひて、阿波民部大夫成良に仰
せて、謀をめぐらし人を勧めて、去ぬる承安三年癸
巳歳築始めたりしを、次の年風にうち失はれて、次
の年、石の面に一切経を書て、船に入ていくらとい
ふこともなく沈められけり、扨こそこの島をば経島
とは名付られけれ、石は世に多きものなり、さのみ
惜むべきにあらねども、船は人の宝也、さのみ船を
積ながら沈めらるること、国家の費也、またさのみ
経を書んも筆をとるたぐひ希なり、唯往返の船に仰
せて、十の石を取もちて彼島に入べし、末の世まで
も此仰を背くべからずと、宣旨を申下さるべしと、
成良以下計ひ申ければ、誠にさも有なんとて、其様
を定められけり、はたより沖、一里三十六町出して
ぞ築出したりける、始めは河船計ぞ有ける、それを
便りにて波にゆらるるもくづ、風にふき寄られて程
なく広く成にけり、同じくは陸へ築つづけたらばよ
かりなんとて、やうやく築続けられぬ、催しはなけ
れども、心有る人は皆土をはこび石をつきけり、み
るみる船もとどまり、家なども出来、日月星宿の光
明々として、蒼海の眺望渺々たり、今少し年月を重
ぬるものならば、名高き室高砂にもおとるべしとも
みえざりけり、世を過す習なれば、遊女の有もにく
からず、小船の陰に居て、四周を見渡せば、心細き
方もあり、遊女二三人来て、「こぎ行舟のあとのしら
波」と歌をうたひ遊ぶめり、或は屋形の内にて、船中
浪上の歓会惟同じと詠めて、和琴緩調臨潭月、唐櫓
高推入水烟、など朗詠をす、皷をならし拍子を打ち、
余波をしき曲を謡ふ、いろある旅人は、笛を吹き絃
を弾き、この時は故郷の亭の鬼瓦のことわすれぬ、
国司以下は長持のそこをはらひ、商人下臈はもと手
を倒しつつ、のちは悔ゆれども、逢にしなれば力な
き習ひなり、されば唐土の大王迄も聞給ひて、日本
輪田平親王と号して、帝王へだにも奉り給はぬ宝物
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ども召渡されけるとかや、古人の申けるは、此人の
果報かかりけるこそ理りなれ、正しく白河院の御子
孫ぞかし、其故は、かの院の御時、祇園女御と申け
る幸人おはしましき、彼女御、中宮に中臈女房にて
有けるを、上皇しのびて召るる事有けり、或時忠盛、
殿上の番勤めて伺公したりけるに、遥に夜うち更て、
殿上口を人の通ふ音しけり、火のくらき隙よりみた
りければ、優なる女房にてぞ有ける、忠盛誰とも見
知るまではなかりけれども、何となく彼女房の袖を
扣へければ、女いたくもはなたぬ気色にて、立止り
てかくぞ詠じける、
おぼつかなたれ杣山の人ぞとよ
此くれに引く主をしらばや W096 K123
忠盛、こはいか成ことぞやと、やさしく覚えて、袖
をはづさずして、
雲間より忠盛きつる宵なれば
おぼろげにてはあかすべきかは W097 (K124)
と申て、女の袖をはづしつ、女すなはち御前へ参り
て、此由を有のままに申たりければ、扨は忠盛ござ
んなれとて、頓て忠盛を召て、いかにおのれは丸が
もとへ参る女をば、殿上口にて引たりけるぞと御尋
ありければ、忠盛色を失ひてとかく申に及ばず、如
何なるめをか見んずらんと、恐れをののきてありけ
るに、上皇打笑はせ給ひて、此女一首をしたりける
に、取あへず辺歌したりけるこそやさしけれ、さら
ばと仰有て、別の勅勘なかりければ、其時ぞ心落付
きて罷出ける、是をもれきく人申けるは、歌をば人
の読べきもの哉、是をよまずば如何成めをか見るべ
き、この歌に依て御かんに預る事、時に取ては希代
のめんぼくなり、是も先世のことにやとぞ申ける、
上皇思召けるは、忠盛が秀歌こそ面白けれとて、心
をかけたる女、序もがな、忠盛に給はんと御心にか
けて、月日を送らせ給けるほどに、永久の頃、上皇
若殿上人一両人召具して、俄に彼御所へ御幸成ける
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に、五月の廿日余のことなれば、大かた空もいぶせ
き程の夜半なるに、五月雨にさへかきくれて、何とな
うそぞしき御心地しけるに、常の御所の方に立るも
の有けり、頭は白銀の針などのやうにきらめきて、
右の手には槌の様成物を取て、左の手には光物を捧
げて、とばかり有てはさつと光りさつと光りしけり、供奉
の人々是を見て、ならはぬ心地にさこそ思ひあはれ
けめ、疑なき鬼なり、持たる物はきこゆる打出の小
槌にや、穴おそろしやとてをののき消え入てぞ候け
る、院もけうとく思召す、忠盛上北面の下臈にて候
へけるを召て、彼射も留め切も留めよと仰有ければ、
忠盛承候ぬとて、少しも憚る所なくあゆみ寄けるが、
さしもつよかるべきものと覚えず、思ふに狐狼体の
物にてこそ有るらめ、射も殺し切りも殺したらば、
返て念なかるべし、手とりにして見参に入れんとお
もひて、此度光る所をいだかんと次第に向ひ寄り、
案のごとく光る所をみしといだく、抱かれて此者こ
はいかにとさわぐ、いや人にてぞ有ける、何者ぞと
とへば、承仕法師にて候と答ふ、火をとぼさせて御
覧ずれば、六十計なる法師の、片手には手瓶といふ物
に油を入て持ちたり、片手には土器に火を入れて持
てり、頭には雨にぬれじとて、小麦と云ふ物のから
を、笠の様に引結びてうちかづきたり、御堂の承仕
が御幸なりぬと聞きて、御あかし参らせんとて、後
ろ戸の方より参りけるが、火や消えたるみんとて、
持たる火を道々吹けるなり、かづきたる小麦のから、
針のやうにみえけるなり、ことのやう一々に顕れぬ、
是をあわてて射も殺し、打も殺したらば、いかにか
はゆくふびんならまし、忠盛が思慮ふかくぞ有ける、
弓矢取者は猶予ありけりとて、其勧賞に件の女を賜
はる、上皇仰せありけるは、此女懐姙に成りて五月
なるぞ、男子ならば忠盛が嫡子に立よ、女子ならば
丸が子とせんと仰られて、忠盛是を給りて罷出にけ
り、月日漸く重なる程に男子を産めり、養育したて
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て忠盛が嫡子とす、清盛則是也、此児生れたりける時
も、女御珍しきことに思召して、幼き児とくとく見
んとて、産の内より若女房どもはいだき遊びけり、
此児ひるは音もせで、夜もすがらなき明しける、後
には他の人まで憎み合ければ、女房心ぐるしきこと
に思ひて、人にとらせんとしけれる夜、女御の御ゆ
めに、夜なきすと忠盛たてよ此子をば
清く盛ふることもこそあれ W098 K126
と御覧じて有ければ、この故にや夜なき俄にやみて、
人となるままに、姿も人にすぐれて心もかしこかり
けり、清盛と名のる清く盛ふるといふよみあり、彼
女御の御夢少しも違はず、不思議なりし事なり、かか
りければ、忠盛が詞にあらはれていはざりけれども、
偏に是を重くしけり、院もさぞかしと思召しはなた
ず、生年十二より左兵衛佐に成、十八の年四位兵衛
佐と申けるを、花族の人などこそかくあれなど人の
申ければ、清盛も花族は人におとらじものをと、鳥
羽院も仰有けるとかや、院も知し召たりけるにや、
まことに王胤にておはしければにや、一天四海を掌
の内にして、君をもなやまし奉り、臣をも戒られ、
始終こそなけれども、遷都迄もし給ひけるやらん、
昔もかかる例有けり、天智天皇の御時、姙み給へる
女御を、大職冠に賜ふとて、この女御産したらん子、
女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子とすべ
しと仰せられけるに、男子を産みたまへり、やうい
くして大職冠の子とす、淡海公には御兄、藤原真人
と申き、後には出家して定恵と号し、多武峯建立し
て住給ひけるが、求法の為に入唐して、返朝の後入
滅、定恵和尚と申は是なり、
同六日宗盛卿院奏せられけるは、入道既に薨じ候ぬ、
天下の御政務、今は御計ひたるべき由申けるに依て、
院の殿上にて兵乱のこと定申さる、二月八日東国へ
は、本三位中将重衡を大将として遣はさるべし、鎮
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西には貞能下向すべし、伊予の国へは召次を下さる
べきに定め、其上兵衛佐頼朝以下、東国北国の賊徒を
追討すべきよし、東海東山へ院庁の御下文を下さる、
其文に云、
応早令追討流人右兵衛佐源頼朝事
右奉仰〓、件頼朝去永暦元年、坐〓配流伊豆国、
須悔身之過、永可従朝憲之所、而尚懐〓悪
之心、旁企狼戻之謀、或虐[B 寃イ]陵国宰之使、或侵奪
土民之財、東海東山両道国々、除伊賀伊勢飛騨出
羽陸奥之外、皆従其勧誘之詞、悉随彼謀[B 布イ]略之中、
因茲差遣官軍、殊令防禦之処、近江美濃両国
之叛者、即敗績、尾張三河以東之賊、尚以同、仰
源氏等皆悉可被誅戮之由、依有風聞、一姓之
輩発悪云々、此事於頼政法師者、依顕然之罪
科、所被加刑罰也、従院宣之趣帰皇化者、
仍奉仰下知件諸国、宜承知依宣行、敢不(レ)可
違失之、故下
養和元年閏二月十二日 左大史小槻宿禰奉
十五日頭中将重衡、権亮少将維盛、数千騎の軍兵を
相具して東国へ発向す、前後追討使、美濃国に聚会
して、既に一万余騎に及べり、太政入道失せ給ひて、
けふ十二日にこそなるに、さこそ遺言ならめ、仏経
供養のさたにも及ばず、合戦におもむき給ふ事、け
しからずとぞ申あひける、
十九日越後国城太郎平資長と云者あり、是は余五将
軍維茂が後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が
子也、国中に争ふものなかりければ、境の外までも
背かざりけり、又陸奥国奥郡に、藤原秀衡と云者あ
り、彼武蔵守秀郷が末葉、修理権大夫経清が孫、権
太郎清衡が子なり、出羽陸奥両国を管領して、肩を
並ぶる人なかりければ、隣国までも靡きにけり、彼
二人に仰せて、頼朝義仲を追罰すべき由、宣旨を申
下さる、去年十二月廿五日除目の聞書、今年二月廿
二日に到来、資長当国守に任ず、資長朝恩の忝なき
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事を悦びて、義仲を追罰の為に、同廿五日に五千余
騎にて暁に打立つ所に、雲の上に音有て、日本第一
の大伽藍、聖武天皇の御願たる、東大寺盧遮那仏焼
たる太政入道の方人するもの、唯今召とれやと罵る
声しければ、これをききける時より、城太郎中風に
あひ、片[B 遍イ]身すくみてつやつやはたらかねば、思ふこ
とを書置かず、舌もすくみければ、思ふ事をもいひ
置かず、男子三人女子一人有けれども、一言の遺言
にも不(レ)及、其日の酉の時ばかりに死しけり、怖しな
ど云ばかりなし、同く舎弟城次郎資職、後には城四
郎長茂と改名す、春のほどは兄の孝養して、本意を
遂げんと思ひけり、秀衡は頼朝の舎弟九郎義経、承
安元年のころより、打頼みて来りしを、十ヶ年の間
養育して、兵衛佐の許へ送り遣しき、多年のよしみ
を空しくして、今宣旨なればとて、彼に敵たいする
に不(レ)及とて、領状申さざりけり、
五条大納言死去事
廿三日五条大納言邦綱卿失せ給ひぬ、太政入道と契
り深く、心ざし浅からずおはせし人也、その上頭中
将重衡の舅にておはしければ、殊に甚深かりけり、
この邦綱卿近衛院の御時、進士雑色にておはしける
時、仁平三年六月七日、四条内裏焼亡ありけり、主
上関白の亭に行幸なるべきにてありし折節、近衛司
一人も参りもあはず、御輿のさたする人もなかりけ
れば、南殿に出御ありけれども、思召しわかず、あ
きれてたたせ給ひけるに、此邦綱つと参りて、か様
の時は腰輿にこそ召れ候なれとて、腰輿をかき出し
て参りたりければ、主上出御成ぬ、かく申は何者ぞ
と御たづね有ければ、進士雑色藤原邦綱也と申けれ
ば、下臈なれどもさかさか敷もの哉と思召て、法性
寺殿御対面の時、御感の余りに御物語有ければ、そ
れよりして殿下殊に召仕れて、御領数多賜ひなどし
て候はれけるに、同帝の御時、八月十七日石清水の
行幸有けるに、いかがしたりけん、人長が淀川に落
入て、ぬれ鼠の如くにて、かたかたに振ひ隠れ居て、
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御神楽にも参らざりけるに、此邦綱、殿下の御許に
候けるが、何として用意したりけん、人長が装束を
目出度して持たりけるを取出して、いと神妙には候
はね共、人長が装束は候者をとて、一具参らせけれ
ば、人長是を着て御神楽ことなく行はる、少しへだ
ちけれ共、神楽の音もすみ上り、舞の袖も拍子に合
て、いつよりも面白かりけり、ものの音身に入て面
白きことは、神も人も同じ心なり、伝へ聞、昔天の
巌戸を押ひらかれし神代のこと迄も、かくやと推計
られてぞ覚えける、時に取てはゆゆしき高名なりけ
り、それのみならず、か様の行幸にいろいろの装束
用意し持つれさせられたりけり、かやうに思ひがけ
ぬ用意、ためしすくなかりけり、此人の先祖、山蔭
の中納言と申人有き、太宰大弐にて鎮西へ下されけ
る、道にて継母の謬りの様にて、二歳に成ける継子
を海へ落し入れてけり、失せにける母の、当所天王
寺へ参りけるに、鵜飼が亀を取てころさんとしける
を、彼女房はうすぎぬをぬぎて、彼亀を取[B おきイ]〈 盛衰記作買 〉て、
思ひしれとて放ちてけり、件の亀昔の恩を思ひ知て、
甲に乗せて浮出て、助たりける也とぞ伝たる、如無
僧都とぞ申ける人、帝尊み給ひて重くせさせ給ひき、
昌泰元年の比、寛平法皇大井川に御幸有けり、此僧
も候はれける、月卿雲客袖をつらね、もすそを並べ
て其数多かりけり、中に和泉大将定国、いまだ若殿
上人にて、供奉せられたりけるが、嵐山の山おろし
はげしかりけるに、烏帽子を大井川に吹き入れられ
て、せんかたなくて、袖をもてもとどりを押へてま
しましけるを、僧都三衣の袋より烏帽子を取出して、
彼大将に渡されたりければ、見る人耳目を驚かしけ
り、是も時に取ては思ひ寄ざりける高名也、又一条
院の御孫、平等院僧正行尊は鳥羽院の御持僧なり、
或時御遊びの始りたりけるに、琴をひかれける時、
殿上人、琴の緒を切らしてひかざりければ、彼僧正、
畳紙の中より緒を一筋取出して、渡されけるとかや、
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此人々は用意も深く、知恵もかしこかりければ、申
に及ばず、此邦綱は、さしもかしこかるべき文才に
はなけれども、度々の高名こそ有難けれ、太政入道
にせめての心ざしのふかきにや、同日に病付きて、
同月に遂に失せ給ひぬ、哀れなりける契かなとぞ人
申ける、
廿五日法皇法住寺殿へ御幸あり、治承四年の冬の御
幸には、武士御車の前後に候て、夥しくのみありし
に、是は公卿殿上人数多供奉し、うるはしき儀式に
て、警蹕の声なども、ことごと敷やうなりければ、
今更珍らしく目出度ぞ覚えし、鳥羽殿へ御幸ありし
ことまでも、福原の遷都の忌々敷名有し御所の御事
までも思召し出されけり、御所共少し破壊したりけ
れば、修理して渡し参らせんと前右大将申されけれ
共、只とくとくと仰せ有て御幸なりぬ、此御所は、
応保元年四月十三日御わたましありて後、山水木立
方々の御しつらひに至るまで、思召す様にさせまし
ましつつ、新日吉、新熊野をその近辺にいはひ参らせ
て、年を経ましまししに、此二三年旅立てましまし
ければ、御心うかれ立て渡らせ給へば、今一日もと
くと思召しけり、中にも前の女院の御方など御覧ぜ
らるるに、峯の松、汀の柳、ことの外に木高くなりけ
れば、それに付ても、彼自南宮西内に遷給けるむ
かしのあと、思召し出すに、大掖芙蓉未央柳、対此
如何涙不垂、
三月一日東大寺興福寺の僧綱本位に復し、寺領等も
とのごとく、知行すべき由宣下せらる、此上は大会
共に行はるべしと会議して、恒例の三会行はる、十
四日舎利会、十五日船若会つねのごとし、仏力は尽
ぬるかと思ひつるに、法燈の光消えずして、十六日
常楽会と申は、南閻浮提第一の会也といへり、されば
日本国の人、閻魔庁にさんだん有には、興福寺の常楽
会は拝みたりしかと、先一番に閻魔王の問給ふと申
伝へたり、されば鳥羽院の鳥羽殿を建立有りて、此
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会をうつして行はれ給けるは、恐らくは本寺には、
無下に劣りたりと云沙汰有りて、其後は又も行はれ
ざりけり、此寺の下は竜宮城の上に当りたる故に、
楽の拍子も舞の曲節も、殊にすむとかや、されば尾
張国より、熱田大明神の此見物に渡らせ給ふなれば、
河南浦と云舞をまふ、中門の前にて、三尺の鯉を切
りて、呑む様を舞とかや、河南浦の包丁、古徳楽の
酒盛とは、是を云成べし、別当僧正良円のさたとし
て、楽人の禄物、常よりも花を折りて、目出度見物
にてぞ有りける、
墨俣河合戦事
知盛重衡維盛以下の追討の使、去ぬる二月廿日、美
濃国杭瀬河まで下りたりけるが、源氏の大勢、尾張
国まで向ふと聞えければ、平家の軍兵、墨俣河の南
の鰭に陣を取て、源氏を相待つ所に、三月十一日の
曙に、東の河原に武者千騎計り馳せ来る、すなはち
東の河端に陣をとる、是は兵衛佐には伯父、十郎蔵
人行家と名乗る、又千騎計り馳せ来る、是は兵衛佐の
弟、鳥羽の卿公円全と云僧なり、常盤が腹の子、九
郎一腹一姓の兄なり、十郎蔵人に力を付んとて、兵
衛佐、千騎の勢を付てさし上りたりけるなり、十郎
蔵人が陣に二町計り隔てて陣を取る、平家は西の河
端に七千余騎、源氏は東の河原に二千余騎、河を隔
てて陣を取る、明る卯の刻に東西の矢合せと聞ゆ、
行家と円全と互に先を心にかけたり、同巳刻計に、
墨染の衣に桧笠頸に懸たる乞食法師一人、源氏の陣
屋に来て、経を読て物を乞ひけるを、警固見る者に
こそあんなれとて、是非なく搦め捕てけり、結付て
置たりければ、乞食殺させ給ふや、あら悲しや、飯
たべやなど申き、其法師め、足挟みて問へなどいひ
けるを聞て、此法師縄を引切て河へさと飛び入て、
およぎてにげけるを、あはさればこそとて人あまた
追懸て射ければ、矢の来る時は水のそこへつと入、
射止めばうき上る、浮きぬ沈みぬおよぎける程に、
平家のかたよりふねに楯をつかせて、河中に押合せ
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て船にとりのぼせて帰りにけり、さればこそ、すな
はち首を切ばやといひけれども叶はず、去程に暫く
有て、この法師褐衣の鎧直垂に、黒革威の鎧着て、
もみゑぼし引入て、鹿毛なる馬に乗て、河端に歩ま
せいだして河ごしに申けるは、人は高名して名乗こ
そいみじけれ、にげて名乗はおかしけれども、只今
捕はれて、河をおよぎけるは此法師なり、かく申は
主馬判官盛国が孫、越中前司盛俊が末子、近江の国
石山寺の住僧、悪土佐全蓮と名乗て入にけり、卿公
は平家けこみて一定渡されなんず、十郎蔵人に先を
懸られては、兵衛佐に面を合すべきかと思ひければ、
明日の矢合せを待けるが、余りに心もとなさに、人
一人も召し具せず、只一人馬に乗て陣より二町計り
歩せ上て、烏森といふ所をするりとわたして、敵陣
の前岸の陰にぞ扣へたる、十郎蔵人は夜の明ぼのに、
余波をつくりて河を渡さんと聞くより、円全今日の
大将軍と名乗懸んとおもひて、東やしらむ、夜や明
ると待懸たり、平家の勢十騎計、松明をてにてに灯
して河ばたを巡りけるに、峯の陰に馬を引立て、其
側に人こそ立たりけれ、是をみて、爰なる者は敵か
御方かと問ひたりければ、これを聞きて円全すこし
もさわがず、御方の者の馬かひひやし候と答へたり、
御方ならばかぶとをぬぎて名乗れといひければ、馬
にひたとのりて陸へ打あがり、兵衛佐頼朝が舎弟、
鳥羽卿公円全といふ者なりと名乗て、十騎が中へか
け入、十騎の者共中をさとわけて通しけり、円全は
三騎を打とりて二騎に手を負せて、残五騎に取籠め
られて討れにけり、十郎蔵人是を知らずして、卿公
に先をかけさせじとて、使を遣して卿公が陣を見せ
けるに、大将軍見え給はずと申ければ、さればこそ
とて十郎蔵人打立にけり、千騎の勢をば陣に置きて、
二百騎を相具して、稲葉河の瀬を歩ませて、河を西
へさと渡して、平家の中へぞ駈入ける、去程に夜も
明がたに成ければ、平家敵の大勢にて夜討に寄たり
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とさわぎけるが、火を出して見れば、わづかに二百
騎計なり、無勢にて有けるものをて、七千余騎に
て差向ひたり、十郎蔵人大勢の中にかけ入りて、時
をうつす迄戦ふに、大勢に取こめられて、手取足取
に捕はれし程に、二百余騎わづかに二騎に打なされ
て、河を東へ引退く、二騎の中一騎は大将軍とみえ
たり、赤地の錦の直垂に、小桜を黄にかへしたる鎧
に、鹿毛成馬に金ふくりんの鞍置てぞ乗たりける、
東の汀につきて、鎧の水はたはたと打て歩み行、大
将軍とは見けれども、平家無左右追はざりけり、
尾張源氏泉太郎重光百騎の勢にて、きのふより搦手
に向ひたりけるが、大手の鬨の声を聞て、平家の大
勢の中へ馳せ入けり、是も取こめられて、半分は討
れて残りは引退く、大将軍和泉太郎も討れにけり、
十郎蔵人は、墨俣の東に小熊と云所に陣を取る、平
家は七千余騎の勢にて押寄せたり、射しらまかされ
て引退く、二番には上総守忠清、一千余騎にて差向
ひたり、是も射しらまかされて引き退く、三番には
越中前司盛俊、千騎の勢にて向ひたり、是も射しら
まかされて引退く、四番には高橋判官隆綱、千騎の
勢にて向ひたり、是もしらみて引退く、五番には頭
中将重衡、権亮少将維盛、両大将軍二千余騎にて入
替りたり、平家七千余騎を、五手に分て戦ひければ、
十郎蔵人心計は猛く思へども、こらへずして小熊を
引退く、折津宿に陣を取る、折津の陣をもおひ落さ
れて熱田へ引退く、熱田にて在家をこぼちて、かい
だてを構へ、爰にて暫く支へたりけれども、熱田を
も追落されて、三河の国失矧河の東の峯に、かいだ
てを構へてささへたり、平家頓て矢矧へ追かくる、
河より西に扣へたり、額田郡の兵共走り来て、源氏
について戦けれども、叶ふべくもなかりければ、十
郎蔵人謀をして、雑色三人旅人の体に装束せさせて、
笠蓑持せて平家の方へ遣はす、何と聞く事あらば、
兵衛佐東国の大勢、只今矢矧に着て候時に、今落ち
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候つる源氏は、其勢と一つに候ぬらんといひて遣し
けり、案のごとく平家聞ければ、教のごとく申けれ
ば、聞ゆる東国の大勢にとり籠られてはいかがせん
とて、平家取物も取あへず、思ひ思ひに逃ふためき
て、同廿七日に都へかへり上りにけり、十郎蔵人は
乗替を方々へはせさせて、美濃尾張の者ども、平家
を一矢も射ざらん者は、源氏の敵なりと申させたり
ければ、源氏に心ざし有者ども、平家を追かけてさ
んざんに射る、平家は答の矢をも射ずして、西をさ
してぞ馳せ行ける、十郎蔵人は軍に負てはせ帰る、
水沢を後にすることなかれとこそいふに、河を後に
して戦ふ事尤もひがごとなり、今源氏の謀あしかり
けりとぞ申あひける、
十郎蔵人伊勢進願事
十郎蔵人三河国府より、伊勢太神宮へ、願書をぞ奉
りける、其願書に云、
伊勢野度会乃、伊鈴乃河上乃、下津磐根仁、大宮柱
広敷立天、高天原仁千木高知天、奉称申定、天照
皇太神乃広前仁、恐美申給恵止申、正六位上源朝臣
行家、去治承三年之比、蒙最勝親王勅、云、太相
国入道、自去平治元年以来、昇不当之高位、令
随百官万民之間、去安元元年、終不蒙勅定、
正二位権大納言藤原成親、同子息成経等、処遠流、
夫称同意之輩、院中近習上下諸人、其数令殺
害、其身或流、遠近無指事、智之[B 臣イ]前太相国入道以
下四十余人、処罪科、或今上聖主、奪位、譲于
謀臣之孫、或本新天皇入楼、已留於理政、又為
一院第二皇子当国之器、同四年五月十五日夜、俄
可被配流之由風聞、呑[B 奔カ]園城寺退入之処、以
左少弁行隆恣称漏宣、放天台山副於与力、或
仰護国之司集軍兵、已絶於皇法擬滅仏法
之処、早尋天武天皇之旧儀、討王位押取之輩、訪
上宮太子之古跡、已仏法破滅之類如元、国之政奉
仕一院、令諸寺之仏法繁昌、無諸社神事違例、
以正法治国、誇万民鎮天許、爰行家先跡者、
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昔天国押開給御宇、清和天皇王子、貞純親王七代
孫、自六孫王下津方、励武弓護朝家、高祖父
頼信朝臣、搦忠常蒙不次之賞、曾祖父頼義朝
臣、康平六年鎮奥州之党、後代為規摸、祖父義
家朝臣、寛平年中雖不経上奏、為国家不忠、
討武平家平等、威振于東夷、名上于西洛、親父
為義、奈良大衆之発向討止、鎮護王法、無宝位
驚、太上天皇之威及夷域、普照四海掌内、懸百
司心中、王事靡監、而去平治元年、此氏被止出
仕、後入道偏以武威、都城内蔑官事、洛陽之外
放謀宣、然則行家訪先代、天照太神初日本国岩
戸扉天、新豊葦原水穂濫觴之給、彼天降給聖体忝
行家三[B 六ヵ]十九祖宗也、垂跡以来、鎮護国家之誓厳重
天、冥威无隙之処、入道不恐神慮、企逆乱、是
所致愚意也、遙昇高位、所致朝恩也、又行
家親父朝臣、如太相国、誇私威非于起謀反、
依上皇之仰参白河御所許、然称謀反之仇、依
不仕朝廷、相伝所従、塞於耳目天不随順、
普代之所領者、被止知行無衣粮、独身不屑行
家、彼入道万一所不(レ)及也、然入道忽依起謀反
天、行家為防朝敵、東国下向天、頼朝朝臣相共、
且誘於源家子孫、且催相伝之所従、所企於上
洛也、如案任意、東海東山諸国已令同意畢、
是朝威之貴所致、且所令神明之然、百王守護之
誓、所令感応也、随又如風聞者、自太神宮放
鏑、入道其身已没、見之聞之上下万人、況宮中
民等、何人不恐於霊威、誰人不仰於源家、仰
東海諸国之神宮御領事、依先例分神役、可令
備進之旨、雖加先下知、或恐平家不(レ)可下
使者、或人令下使者、有奉納備進之所、不令
制止於神領、僅兵粮米催計也、早可令停止、
又始自院宮諸家臣下之領等、国々庄々之年貢闕
如之事、全不誤也、数多軍兵、或云源家、云大
名、参集思々之間、不慮外難済歟、就中、国郡
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村閭住人百姓等之愁歎、同難制止有多其煩、行
家同哀歎不少、雖切撫民之意、徒送数月、爰
行家帰参於王城、奉護於王尊、於頼朝者居
東州之辺堺、耀西洛之朝威也、神明必垂神願、
早鎮於天下給、縦云平家之兄弟骨肉、於護国
家之輩、速施於神恩給、又云源家之子孫累葉、
度有二意者、必令冥罰給、皇太神此状平安聞
召天、無為無事令遂於上洛、速成鎮護国家之衛
官[B 宮イ]給、天皇朝廷之宝位無動、源家大小従類、無
患夜守昼護幸給、恐々申給へと申、
治承五年五月十九日 正六位源朝臣行家
とぞ書たりける、四月廿日、兵衛佐頼朝を討べきよ
し、常陸国の住人佐竹太郎高義がもとへ、院の庁の
御下文を申さる、其故は、高義が父佐竹三郎昌義、
去年の冬、頼朝がために誅罰せらるる間、定めて宿
意有るらんとて、彼よしをぞんして、平家かの国の
守に高義を以て申任ず、これに依て高義頼朝と合戦
を致す、然れ共物のまねかさんざん[B 「さんざん」に「ちりちりイ」と傍書]に打ちらされて、
高義奥州へにげ籠りたり、去々年小松内大臣被薨
ぬ、今年又入道相国も失せられぬ、此上は平家の運
尽ぬる事顕れたり、然れば年来の恩顧の輩の外は、
従付もの更になし、去程に去年諸国七道の合戦、諸
寺諸山の破滅もさることにて、春夏の炎旱夥しく、
秋冬の大風洪水打続きてしかば、いつしか東作の業
を致すといへども、西収の業もなきがごとし、かか
りければ、天下大に飢饉して多く餓死に及ぶ、かく
て今年も暮にけり、明年はさりとも立直ることもや
とおもひしほどに、ことしは又疫癘さへ打そへて、
餓死病死の者数を知らず、死人砂の如し、されば事
宜しきさましたる人も、すがたをやつし、又さまを
かくしてへつらひありくかとすれば、病付きて打臥
し、ふすかとすれば軈て死しけり、かしこの木のもと
築地の脇、大路中門の前ともいはず、死人の横たは
れふす事算を乱せるが如し、されば車なども直にか
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よはず、死人の上をぞやり通はしける、臭香充満し
て行き通ふ人もたやすからず、さるままには、人の
家を片はしよりこぼちて、市に持ち出して薪のため
に売けり、其中に箔や朱やなどの付ける木の有ける
は、すべき方なき迷人の卒塔婆や、ふるき仏像など
やぶりて売りけるにや、誠に乱世乱漫の世といひな
がら、口惜かりしことどもなり、
平家物語巻第十二終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十三
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平家物語巻第十三
六月三日、法皇園城寺へ御幸あり、山科寺の金堂被
造始行事弁官など下さるべき由聞えけり、去二月
廿五日、城の四郎長茂、当国廿七郡出羽迄催して、
敵の勢かさを聞せんと、雑人まじりにかり集めて、
六万余騎とぞ記したる、信濃の国へ越んとぞ出立け
る、先業限あり、あすを越べからずとよばひて打立
つ、六万余騎を三手に分て、築摩越には浜小平太、
伴太郎、大将軍にて一万余騎を差遣はし、植田越に
は津張庄司大夫宗親、一万余騎を差遣はし、大手に
は城四郎長茂大将軍にて、四万余騎の勢を引具して、
越後国府に着きにけり、明日信濃へ越えんとする所
に、先陣争ふ者ども誰々ぞ、笠原平五、其甥平四郎、
富部三郎、閑妻六郎、風間橘五、家の子には三河次
郎、渋谷三郎、庇野太郎、将軍三郎、郎等には相津
乗湛房、其子平新大夫、奥山石見守、子息藤新大夫、
坂東別当、里別当、我も我もと争ひければ、城四郎
味方打せさせじとて、何れも何れも争はずして、四万
余騎を引具して、信濃国へうち越えて、築摩川横田
の庄に陣を取る、城四郎はあはれ急ぎ寄せて聞ゆる
木曾を見ばやとぞ申ける、木曾これを聞て兵を召け
るに、信濃、上野両国より走参ると云条、其勢千騎
には過ざりけり、当国の内白鳥河原に陣を取る、楯
六郎申けるは、親忠にいとまを給候へかし、横田河
原に打向ひて、城四郎が勢見て参らんとぞ申ける、
此儀然るべしとて親忠を遣はす、親忠乗替ばかり相
具して、白鳥河原をうち出て、塩尻ざまへあゆませ
行て見渡せば、城四郎が方より、横田、篠野井、石河
ざまに火を懸て焼払ひ、親忠是を見て大本堂に走せ
寄せて、馬よりおりて甲を脱ぎ、八幡宮を拝して、
南無帰命頂礼八幡大菩薩、今度の合戦に木曾殿勝給
はば、十六人の八乙女、八人の神楽男、同じく神領
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を寄進し奉んとぞ祈申ける、親忠帰参してしかじか
と申ければ、八幡宮焼せぬ先に討や者共とて、引か
け引かけ歩ませて、夜の暁に本堂に馳付て、願書を八
幡に納めつつ、すなはち打立けるに、瀬下四郎、桃
井五郎、信濃には木角六郎、佐井七郎、根津次郎、
海野大平四郎、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀
七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、野沢太郎、本沢
次郎、千野太郎、諏訪次郎、平塚別当、手塚太郎ぞ
争ひける、木曾は人々の恨をおはじとて下知せられ
けるは、郎等乗かへを具すべからず、むねとの者ど
もかけよとぞいはれける、此計ひ然るべしとて、百
騎の勢くつばみを並べて、一騎もさがらず築摩川を
さつと渡す、敵の陣を南より北へはたと懸渡して、
後へつと通り、又引返して南へ駈通りけり、城四郎
十文字にかけ破られたるこそ口惜けれ、今度の戦ひ
如何有んずらんと危くて、笠原の平五を招きていひ
けるは、無勢にたやすく破られたるこそ口惜けれ、
ここかけ給へと云ければ、笠原平五申けるは、頼直
今年五十に成候ひぬ、大小事合戦に廿六度合ぬれど
も、不覚を仕らず、爰をかけて見参に入候はんとて、
百騎計りの勢を相具して、河をさつと渡して名乗け
るは、当国の人々知音とくいにて、見参せぬはすく
なし、他国の殿原も音には聞らん、笠原頼直ぞよき
敵なり、打取て木曾殿の見参に入よと呼はりてかけ
廻る、是を聞て上野国に高山の人々三百余騎計かけ
出て、笠原が勢の中へかけ入てさんざんに戦ひける、
両方の兵ども目をすます、しばしこらへて東西へさ
つと引て退にける、高山が三百余騎の勢は五十余騎
にせめなされ、笠原が百騎の勢は五十七騎討れて、
残る四十三騎に成にけり、大将軍の前にのけかぶと
に成て、馬よりおりて合戦のやう如何御らんぜられ
つるぞと申せば、城四郎是を感じて、御辺の高名今
に始ぬことにて候、中々余人ならば嘆く所いくらも
候ものかなといはれて、誉るに増る詞なれば、すず
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しげにこそおもひたれ、木曾の方には高名の者ども
残り少く討れて、安からぬ事におもひてある所に、
佐井七郎五十余騎にて、築摩川をかけ渡る、緋威の
鎧に白星の甲着て、紅の母衣懸て白あし毛なる馬に、
白ふくりんの鞍置て、乗たりけり、是を見て城四郎が
方より富部三郎十三騎にてあゆませ出たり、富部は
赤革威の鎧に鍬形打たる甲の緒をしめて、母衣をば
懸ざりけり、連銭蘆毛なる馬に、金ふくりんの鞍置
てぞ乗たりける、互に弓手に懸合せて、信濃国の住
人富部三郎家俊と名乗を、佐井七郎はたとにらまへ
て、扨は君は弘資にはあたはぬ敵ござんなれ、聞た
るらんものを、承平の将門を討て名を上し俵藤太秀
郷が八代のすゑ、上野国の住人佐井七郎弘資と名乗
ければ、富部三郎取あへず、わぎみは次かな、氏文
よまんとおもひけるは、家俊が品をば何としりて嫌
ふぞとよ、今に是名乗ずしてあらば、富部三郎はいか
程の者なれば、横田の軍に佐井七郎に嫌はれて名乗
返さであるぞと、人のいはんずれば、名乗ぞとよ、
わぎみ慥に聞、鳥羽院の上北面に有し下野兵衛大夫
正弘が嫡子左衛門大夫家弘とて、保元の合戦の時、新
院の御方に候て合戦仕たりし、其故に奥州に流され、
其子に富部三郎家俊とて、源平の末座に附ども嫌は
ず、汝をこそ嫌ひたけれ、正なき男の言葉かなと、
いひもあへず十三騎くつばみを並べて、佐井が五十
余騎の中をかけ破て、後へさつとぬけては又取て返
して、堅様横様にさんざんにかく、佐井面もふらず
戦ひけり、佐井五十騎は十三騎に討なされにけり、
富部が十三騎は四騎に成、佐井は敵を嫌ひて爰を引
けば、人に笑はれなんずとおもひて退かず、富部は
嫌れし詞を安からず思ひて、佐井も富部も互に目を
懸て、弓手を弓手とにさし向て組ん組んとしけれど
も、家の子郎等押隔て押隔てしければ組ざりけり、両方
ひしめきて戦ふ程に、あなたこなたの旗差も討れに
けり、やみやみと成て大将軍と引組んで落もしらざ
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りけり、富部三郎軍にも疲れたる上薄手数多負たり
ければ、佐井七郎に首をとられにけり、佐井七郎此
首を高らかに差上て、富部をこそ討たれやとて引退
く、富部が郎等に、杵淵小源太重光と云死生不(レ)知の
兵あり、此程主に勘当せられて、越後国の供もせざ
りけるが、今度城四郎に付ておはすなれば、よから
ん敵一騎討取て、勘当ゆるされんと思ひて居たりけ
るが、軍有と聞て急ぎ馳来りて、富部殿はいづくに
と問ければ、あそこにただ今佐井七郎と戦けるこそ
そよと教へければ、むちを上ておめいて馳入て見れ
ば、敵も味方も死臥り、旗ざしもうたれて見えず、
我主の馬と物の具とを見てそこへ馳よりて、上野佐
井七郎殿とこそ承れ、富部殿の郎等杵淵重光と申な
り、軍より先に御使に罷りて軍に外れて候ぞや、そ
の御返事を申且は主君の御顔をも、今一度見参らせ
ばやとて参りたり、持せ給たる御首に向奉て御返事
申さんと言ければ、新手の奴には叶はじと思ひて、
鞭を上て逃る、重光は馬も疲れず、佐井七郎は我身
もよわりたり、二反ばかり先立たりけれども、五六
たんが内に追ひ詰て、馳並て引組でどうと落たり、
重光は聞ゆる大力の剛者にて有ければ、佐井七郎を
取て押へて首をかく、水もさはらず切れにけり、重
光は鞍のとつけに、我主の首の附たるを切落して、
敵の首に双べ置て、泣々申けるは、重光こそ参りて
候へ、人のざん言に依て、あやまちなき重光を勘当
せられて候つれども、聞も直られ候はんずらん、始
たる人に使はれて今参りといはれ候はんこと口惜候
へば、今度の軍によき敵打取て御勘当をゆるされ候
はんとこそおもひつるに、かく見なし参らせ候こそ
悲しけれ、重光候はば先討れ候て、後にこそ討れ給
べきに、遅く参りて討れさせ給たるこそ口惜けれ、
去ながら御敵の佐井七郎が首は直にとりて候ぞ、死
出の山をば安く越させ給へと申て、二の首を左右の
手に差上て、敵も味方も是を見給へ、佐井七郎殿の手
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に懸りて富部三郎殿は討れ給ひぬ、富部殿の郎等に
杵淵小源太重光、主の敵をばかくこそうてやとぞ申
ける、其時佐井七郎が家の子郎等三十七騎おめいて
かく、重光二つの首を結び合せて、取付につけて、
馬にひたと乗て太刀を抜き、中に馳入てさんざんに
戦ひ切落けるは、胡人が虎がり、縛多王が鬼がりと
ぞ覚えける、敵廿余騎打取て後へさつと出にけり、
追つくるものこそなかりけれ、其時重光申けるは、
敵も味方も御らんぜよ、終に遁るべき身ならねば、
主の供するぞやとて、太刀の先を口に含みて逆さま
に貫ぬかれて死にけり、是を見て惜まぬ者こそなか
りけれ、木曾是を見て、哀けのやつかな、あれ程の
者五十騎あらば、一万騎の敵なりとも面は合すまじ
とぞ宣ひける、城四郎は多勢なれども、皆かり武者
にて、手勢の者はすくなし、木曾は僅の無勢なれど
も、或は源氏の末葉、或は年頃の思ひ附たる郎等共
なれば、一味同心に入れ替へ入れ替へ戦ひけり、信濃源
氏に井上九郎光盛とて、殊にいさめる兵あり、内々
木曾に申けるは、大手に於ては任せ奉る、搦手に取
ては光盛に任せ給へと、相図をさしたりければ、本堂
の前にて俄に赤はたを作りて、赤鈴を付て、保科党
三百余騎を引具してかけ出る、木曾これを見て、怪
しみをなし、あれはいかにと問ければ、光盛日頃の
やくそく違へ奉るべき者と御覧ぜられ候か、只今御
らんじ候へとて、築摩川の端を艮にむかつて、城の
四郎が後陣へぞあゆませける、木曾下知しけるは、
井上は早駈出たり、からめて渡しはてて、義仲渡し
合せてかけんずるぞ、一騎もおくるな若党共とて、
甲の緒をしめて待所に、城四郎は井上が赤はたを見
付て、搦手に遣しつる津破庄司宗親が勢と心得て、
こなたへはな渡しそ、敵はむかへぞと使を立て下知
する所に、そら聞ずして築摩川をさつと渡して、敵
の陣の前に打上る、彼陣の前には大きなる堀あり、
広さ二丈計なり、光盛さしくつろげて堀を越す、向へ
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のはたにとび渡り、続いて渡る者あり、堀の底に落る
者もあり、光盛越はつれば赤旗かなぐり捨、白はた
をさつと上て申けるは、伊予入道頼義舎弟乙葉三郎
頼遠が子息、隠岐守光明孫浅羽の次郎長光が末葉、信
濃国住人井上九郎光盛、敵をばかくこそたばかれと
て、三百余騎の馬の鼻をならべて、北より南へかけ
通る、大手の木曾二千余騎にて南より北へかけ通る、
搦手も大手も取て返し取て返し、七より八よりかけけれ
ば、城四郎が大勢四方へかけ散されて、むら雲だち
にかけなされて、立合ふ者は討れにけり、逃る者は
大やう川にぞ馳こみける、馬も人も水におぼれて死
にけり、大将軍城四郎、笠原平五返合せて戦けるが、
長茂はこらへかねて、越後へ引退く、川に流るる馬
や人は、くがより落る人よりも先に湊へ流れ出づ、
笠原平五山に懸りて、かひなき命生きて申けるは、世
世生々子々孫々に伝ても、頼むまじきは越後武者の
方人なり、今度の大勢にては、木曾をば生どりにもし
つべかりつるものを、逃ぬることこそ運の極なれと
て、出羽国へぞ落にける、木曾横田の軍に切かくる
所の首五百余人なり、即城四郎が跡につきて、越後
の国府に着たれば、国の者ども皆源氏に従ひける、
城四郎安堵しがたかりければ、会津へ落にけり、
北陸道七ヶ国の兵皆木曾に附て、従ふ輩誰々ぞ、越
後国には稲津新介、斎藤太、平泉寺長吏斉明威儀
師、加賀国には林、富樫、井上、津能、能登国には
土田の者共、越中国には野尻、石黒、宮崎、佐美太
郎等、是等互に牒状を遣して申けるは、木曾殿こそ
城四郎打落して、越後の国府に着てせめ上て御座す
なれば、いざや志ある様にて、召されぬ先に参らんと
言ければ、仔細なしとて打連れ打連れ参れば、木曾悦
で信濃馬一疋づつぞ給りたりける、扨こそ五万騎に
成にけれ、定めて平家の討手下らんずらん、京近き
越前国の火打城を拵へて籠候へと下知し置て、我身
は信濃へ帰りて、横田の城にぞ住しける、七月十四
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日改元有て、養和元年とぞ申ける、
八月三日、肥後守貞能鎮西へ下向す、太宰少弐大蔵
権亮が謀叛の聞え有に依て、為追討也、
九日官庁にて大仁王会被行、承平将門が乱逆の
時、座主奉にて是を被行例とぞ聞えし、其時朝綱の
宰相の願文を書てしるし有と聞えしかども、今度は
さる沙汰も聞えず、
廿五日除目に城四郎長茂彼国守に被成、同兄城太郎
資長、去十二月廿五日他界間、長茂任国す、奥州の
住人藤原秀衡彼国守に被任、両国ともに似頼朝義
仲為追討也とぞ聞ゆ、書には被載たりけれども、
越後国は木曾押領して、長茂を追落す上は、国務に
も及ばざりけり、廿六日中宮亮通盛、能登守教経以
下北国へ下向す、木曾義仲を追討の事は、城四郎長
茂に仰附たれども、猶下し遣す官兵、九月九日越後
国にして源氏と合戦す、平家終に追落されにけり、
かかりければ、廿八日左馬頭行盛、薩摩守忠度、軍
兵数千騎を率して、越後国へ発向す、兵革の御祈一
方ならず、さまざまの御願を立られ、諸社に神領を
寄られ、神紙官人諸社の宮司、本宮末社までをのをの
祈申べき由院より仰せらる、諸寺の僧綱、神社仏閣
まで調伏の法を行はれ、天台座主明雲僧正は摂政殿
の御さたにて、根本中堂にして七仏薬師の法を行は
れ、園城寺の円恵法親王は新宰相泰通の奉にて、金
堂にて北斗尊星王法を行はれ、仁和寺の守覚法親王
は九条大納言有遠の奉にて、孔雀法を被行、此外諸
僧勅宣を奉て、不動、大元、如意輪法、普賢延命、大熾
盛光法に至る迄、をのをの肝胆を砕きて被行けり、
院御所にては五檀の法を行はれ、中檀の大阿闍梨は
房覚前大僧正、降三世の檀は昌雲権僧正、軍荼利は
覚誉権大僧都、大威徳は公憲大僧正、金剛夜叉は朝
憲僧正等、面々抽忠勤丹精をいだして行はる、逆
臣いかでか亡ざらんとぞ人申ける、又日吉社にて謀
叛の輩を調伏のために、五檀の法を三七日始行しに、
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初七日の第五日に当りて、降三世の大阿闍梨覚算法
印、大行事の彼岸所にて寝死に死にけり、神明三宝
も御納受なしと云事既に焉也、又朝敵追討の仰を
奉て、大元法を被行ける、安祥寺の実厳阿闍梨、御
巻数を進たりけるを披露有る所に、平家追討の由注
進したりけるこそ浅ましけれ、仔細を尋ねらるる所
に、申けるは、朝敵を調伏の由被宣下間、当時の
体を見るに、平家こそ朝敵とは見えたれ、仍て平家
を調伏す、いかにとが有るべきやとぞ申ける、平家此
事を憤りて、この僧流罪にや行はるべき、いかがす
べきとさたありけれども、大少事怱劇にて、何とな
くやみぬ、さる程に平家亡びて、源氏の世となりし
かば、源氏大にかんじて仔細を奏聞す、法皇ことに
御感ありて、其勧賞に権律師になされにけり、又去
十一日に神紙官にて神饗例幣を廿一社に立られ、十
四日鉄の御甲冑を太神宮へ奉らる、昔天慶に将門を
追討の御祈に、鉄の鎧甲を奉られたるが、去嘉応元
年十二月廿一日の炎上の時焼にけり、今度もその例
とぞ聞えし、御使は神紙権少副大中臣定隆これを勤
む、父祭主も同じく下向す、同十七日伊勢離宮院に
下着す、申の時ばかりに天井より一尺四五寸ばかり
成くちなは落かかりて、定隆が左の袖の中へはひ入
にけり、怪しと思ひて袖を振ひけれども見えず、座
をたちて上の衣を脱て懐を見れどもみえず、不思議
かなとて扨止ぬ、折節人々数多寄合ひて酒を呑ける
に、何となく日も暮にけり、扨其の夜の丑の刻計に、
定隆寝入ながら苦しげにうめきければ、父の祭主い
かにいかにと驚かしけれども驚かず、すでにいき少く
みえければ、築地より外にかき出したりければ、定
隆頓て死にけり、父の祭主忌に成ぬ、去る程に奉幣
使の中臣に事の闕たりければ、大宮司祐成がさたに
て、藤侍従従五位下在信以下を遣して、次第に御祭
に成にけり、此外臨時の官幣を立て、源氏追討の御祈
有けるに、宣命に雷電神猶三十六里をひびかさず、況
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や源頼朝日本国を響すべしやと書くべかりけるを、
源氏頼にと書れたり、宣命の外記奉て書例成に、態
とは書あやまたじ、是も可然失錯也、頼の字は資く
といふよみあり、源をたすくと書れたり、僧も俗も
平家の方人する者は、忽に亡びにけるこそ怪しけれ、
されば神明も三宝も御納受なしといふこと掲焉也、
十一月今年諒闇に成しかば、大嘗会又行はれず、大
嘗会は天武天皇の御時より始れり、七月以前御即位
あれば、其年の内に行はるることなれども、去年は
遷都にて有しかば、新都にて叶ふべくもなかりけれ
ば、さまざまの評定ありて、五節計ぞ形のごとく行
はれて、終に行はれず、今年又諒闇なればさたにも不
及、大嘗会延引の例は平城天皇の御時、大同二年御
禊有て、十一月に大嘗会行はるべかりしを、兵革に依
て同三年十月に御禊有て、十一月にとげ行はる、嵯峨
天皇の御宇、同四年大嘗会有べかりけるを、平城宮
を作らるるに延引して、次の年弘仁元年十一月にぞ
行はれける、朱雀院の御時は承平元年七月十九日、
宇多院失させ給ひしかば延にけり、三条院の御時、
寛弘八年十一月廿四日、冷泉院の御ことに依て行は
れず、次の年長和元年にぞ行はれける、次の年まで
延ける例は有といへども、二ヶ年延引の例は未だ聞
及ばず、去年新都にてその所なかりしかば、力及ば
ず、大極殿、豊楽院は未だ作り出さず、三条院の御
時の例に任せて、太政官庁にて行はるべかりつるに、
天下諒闇になりぬる上は、とかくの仔細に及ばず、
二ヶ年まで延ぬること、いか成べきことやらんと入
怪しみ申けり、
十二月三日皇嘉門女院失させ給ひぬ、御年六十一、
是は法性寺の禅定殿下の御娘、崇徳院の后、院讃岐
へ遷されましましし時の御物、思いか計なりけん、
おもひやるこそ哀なれ、命限りある御ことにて、思
ひには死なれぬなれば、頓て御出家ありて、一向後
生ぼだいの御いとなみより外は、他事おはしまさざ
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りければ、院の御ぼだいの賽共也、我御身の御得道
も疑ひなし、したがひて時を覚えさせ給て、最期の
御あり様目出たく、仏前に霊香有、御善知識には大
原来迎院の本成坊湛敬とぞ聞えし、昔の御名残とて
残らせ給たりつると覚えて哀也、同六日戌の刻計に、
前座主覚快法親王失させ給ぬ、是は鳥羽院第七の宮
にて渡らせ給ふ、御年四十八とぞ聞えし、十三日院
御所わたましあり、公卿十人、殿上人四十人供奉し
て、うるはしき粧ひにてぞ有ける、もと渡らせ給ひ
し法性寺殿の御所をこぼちて、千体御堂の旁に作れ
り、女院方々すへ並べ参らせて、思召すさまにてぞ
渡らせ給ひける、
養和二年壬寅改元あり、寿永元年と号す、正月一日
諒闇に依て節会も行はれず、十六日踏歌の節会もな
く、当帝御忌月たるに依て留めらる云々、二月廿三
日、太白犯昴星、是重変也、天文要録云、太白犯
昴星、大将軍失国堺、又云、四夷来在兵起事とい
へり、
四月十四日、前権少僧都顕真、貴賎上下をすすめて、
日吉の社にて如法に、法華経一万部を転読すること
ありけり、法皇御結縁のために御幸成たりける程に、
何者がいひ出したりけるにや、山門の大衆法皇を取
奉て、平家を討んとすると聞えしかば、平家の人々
さわぎ合て六波羅へはせ集る、京中の貴賎まどひあ
へり、軍兵内裏へ馳参て四方の陣をかたむ、十五日
本三位中将重衡卿大将軍として、三十騎の官兵を相
具して、日吉の社へ参向す、山上には又衆徒源氏と
与力して、北国へ通ふよし平家洩れききて、山門追
討の為に軍兵既に東坂下に寄すると聞えければ、大
衆くだりて大宮門楼の所に三塔会合す、かかりしか
ば山上、洛陽騒動夥しきこと斜ならず、法皇大に驚
かせおはしまして、供奉の公卿、殿上人色を失へり、
北面の輩の中には黄水をつく者もありけり、此上は
むやくなりとて急ぎ還御なりぬ、重衡の卿穴穂辺に
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て向へとり奉りて帰りにけり、誠には大衆平家をせ
めんと云事もなし、平家又山門を追討せんと云事も
なし、何れも何れもあと方なきこと共なり、是偏に天狗
の所行也、御結縁も打さましつ、かくのみあらば、御
物詣も今は御心に任すまじきやらんとぞ思召ける、
五月廿四日臨時に廿二社の奉幣使を立らる、飢饉疾
疫によつてなり、九月四日、右大将宗盛大納言に還
任して、十月三日内大臣に成り給ひ、大納言の上臈五
人超られにき、中にも後徳大寺左大将実定一の大納
言にて、花族英雄才覚優長にて御座ますが、大将の
時といひ此度といひ、二か度まで超られ給ひしこそ
ふびん成しか、七日兵仗を給はりぬ、十三日賀申あ
りき、当家他家の公卿十二人、扈従蔵人以下、殿上
人十六人前駈す、我劣らじと面々にきらめき給ひし
かば、目出たき見物にてぞ有ける、東国、北国の源
氏蜂のごとくに起り合ひて、只今せめ上らんとする
に、浪の立、風の吹やらんも知らず、花やか成こと
のみ有も、いひがひなくぞみえし、かく花やか成こ
とはあれども、世の中は猶静まらず、南部北嶺の大
衆、四国九国の住人、熊野、金峯山の僧徒、伊勢太
神宮の神官、宮人に至るまで、悉く平家を背きて源
氏に心を通はす、四方に宣旨を下し、諸国へ院宣を
下さるといへども、宣旨も院宣も皆平家の下知との
み心得ければ、したがひ附もの一人もなかりけり、
廿一日大嘗会御禊〈 三条が末 〉、十一月廿日大嘗会〈 近江丹波 〉行はる、
かくて年も暮ぬ、
寿永二年正月一日、節会以下常のごとし、三日八条
殿の拝礼あり、今朝より俄にさたありけり、鷹司殿
の例とかや、建礼門院は六波羅の泉[B 池イ]殿に渡らせ給ふ、
其御所にて此事あり、中次は左少将清経朝臣、公卿九
人、内大臣宗盛、平大納言時忠、按察使頼盛、平中
納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、三位侍従
清宗、三位中将重衡、新三位中将維盛、殿上人十三
人、頭蔵人右大弁親宗朝臣、右中将隆房朝臣、右中
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将資盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、但馬守経正朝臣、右
中将清経朝臣、勘解由次官親国、左馬頭行盛、八条
殿の御方に可有拝礼由は、御せうとの左衛門督申
行はれたりけり、皇后宮母后に准じ給ひければ、拝
礼なかりけり、八条殿の拝礼さし過てぞ覚ゆる、二
条の大宮にも上西門院母后に被准けれども、拝礼な
かりしものを、東国北国の乱天下静ならず、世すで
に至極せり、今は入舞にやとぞ宰相入道成頼は被申
けるとかや、世を遁れ深き山に籠り居たまへ共、折
節に附てはかくのみぞ申されける、うるはしき人に
思ひ奉りけり、
二月二日、当今始て朝拝の為に、院御所、蓮花王院
の御所へ行幸あり、鳥羽院六歳にて朝覲行幸あり、
其例なり、正月御忌月なれば此月に及べり、建礼門
院夜拝ありと聞ゆ、新中納言帛袷敷新めたりけるが、
女院の御座上敷したり、平大納言時忠卿見とがめて、
新中納言知盛を以て敷直されにけり、
三月廿五日官兵今日門出すと聞ゆ、来る四月十七日
に北国へ発向して、木曾義仲を追討のためなり、
廿六日宗盛公従一位に叙せらる、廿七日内大臣を辞
し申さるれども御許なし、只重任を遁れむがため也、
八条高倉の亭にて此事あり、平大納言時忠卿、按察
大納言頼盛卿、新中納言知盛卿、左三位中将重衡卿、
右大弁親宗朝臣ぞ御座ける、その外の人は見えざり
けり、
去比より兵衛佐と木曾冠者と不和の事ありて、木曾
を討たんとす、其故は兵衛佐は先祖の所なればとて、
相模国鎌倉に住す、伯父十郎蔵人行家は、太政入道の
鹿島詣でと名付て、東国へ下あるべかりけるに、大庭
三郎がさたとして、作りまうけたりける相模国松田
の御所にぞ居たりける、所領一所もなければ、近隣
の在家を追捕し、夜討強盗をして世をすごしけり、
或時行家兵衛佐の許へいひ遣しけるは、行家御代官
として美濃国の墨俣へ向ふ事十一ヶ度なり、八ヶ度
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は勝て、三ヶ度は負ぬ、子息を始として家の子郎等
ども多く打取られぬ、其歎き申ばかりなし、国一ヶ
国預けたまへ候へ、是等が孝養せんとぞ書たりける、
兵衛佐の許より則返事あり、其状にいはく、木曾冠
者は信濃、上野両国の勢を以て北陸道七ヶ国を討取
て、已に九ヶ国の主に成て候也、頼朝は僅六ヶ国こ
そ打従へて候へ、御辺もいくらの国を討んとも御心
にてこそ候はめ、院、内よりも当時頼朝が支配にて、
国庄を人に分与ふべしと云仰をも蒙り候はずと有け
れば、行家兵衛佐を頼て、世に有ん事有がたし、木
曾を頼まんとて、千騎の勢にて信濃へ越にけり、兵
衛佐是を聞て、十郎蔵人がいはんことに附て、木曾
は頼朝をせめんと思ふ心附てんず、おそはれぬ先に
急ぎ木曾を討んとぞ思ひける、折節甲斐源氏武田五
郎信光兵衛佐に申けるは、信濃木曾次郎は去年六月
に越後城四郎長茂を討落してより以来、北陸道を管
領して、其勢雲霞のごとし、梟悪の心をさしはさみ
て、平家のむこになりて、佐殿を討奉らんとはかる
由承る、平家をせめんとて京へ打上る由聞ゆれども、
まことは平家の小松内大臣の女子の十八に成候なる
を、伯父内大臣の養子にして、木曾をむこに取らん
とて、内々文ども遣し候なるぞ、其御用意有るべし
と密かに告申たりければ、佐大に怒りて、十郎蔵人
が語ふに附て、さる支度有るらんとて、鎌倉を立て北
国へ向はんとしけるを、其日坎日と成ければいかが
有るべき、明る暁にて有べき物をと老輩諌め申けれ
ば、佐宣ひけるは、昔頼義朝臣貞任が小松の館をせ
め給ひける時、今日往亡日也、明日合戦すべしと人
人申されければ、武則先例を勘へて申けるは、宋の
武帝敵を討しこと往亡日也、兵の習ひ敵を得て以て
吉日とすと申て、小松の館を打落したりけり、況や
坎日何の憚か有べき、先規を存ずるに吉例なりとて
打立たり、木曾此由を聞て、国中の勇士を卒して、
越後国へ越て、越後と信濃の境関山と云処に陣を取
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て、厳敷固めて兵衛佐を待懸たり、兵衛佐は武田五
郎を先に立て、武蔵、上野を打通り、臼井坂に至け
れば、八ヶ国の勢共我劣らじと馳重なりて、十万余
騎に成にけり、信濃国佐樟川の端に陣を取、義仲此
事を聞て、軍は勢の多少に寄るべからず、大将軍の
冥加の有無に寄るべし、城四郎長茂は十万余騎と聞
えしかども、義仲二千余騎にてけちらしき、されば
兵衛佐十万余騎と聞ゆれども、さまでのことはよも
有らじ、但当時兵衛佐と義仲と中たがひたるは、平
家の悦にて有べし、いとどしく都の人の、平家は皆一
門の人々思ひ合ひて有しかば、おだしくて廿余年を
も保ちつれ、源氏は親を討ち子を殺し同士討せん程
に、又平家の世にぞならんずらんと云なれば、当時
兵衛佐に敵対するに不(レ)及とて引返し、信濃へ越えけ
るが、又いかが思ひけん、猶関山を固めさせて、越
後の国府へ帰りにけり、木曾是より兵衛佐の許へ文
を遣はす、其状にいはく、殿は源氏の嫡子の末なれ
ば、大将軍と仰ぎ奉り、義仲は次男の末なれば、如
本意平家をせめんと思ふ心ざし深し、然るを今何の
故を以て義仲をせめらるべきぞと申、兵衛佐此文を
見て、たばかりいふらめとて返事なし、木曾重ねて
状を遣はす、顕には八幡大菩薩御照覧わたらせ給ふ
べし、内には鎌倉殿の御代官と存る所に、義仲追討
の由存外の次第也、内に附外に附虚言を申ならば、
仏神の冥罰神罰を義仲罷蒙るべしと詳に書れたり、
此文を兵衛佐驚きて返事はせず、天野藤内遠景と岡
崎四郎義実二人を使者として、佐宣ひけるは、木曾
次郎にあひて言んずる様はよな、平家内には違勅の
族なり、外には相伝の敵也、然るを今頼朝かれを可
追討之由、承院宣条、生涯の天恩にあらずや、且
は君を敬奉り、且は家をおもひ給はば、尤可有合
力の処、一族の義を忘れて、平家と被同心之由洩
承る間、実否を承らん為に是迄参向する所なり、十
郎蔵人がいはんことに付きて、頼朝を敵とし給ふか、
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さも有るべくば蔵人を是へ返し給へと申さるべし、
返さじと申さば、御辺の子息清水太郎義守を頼朝に
たべ、隔てなき人と頼み奉らん、頼朝は成人の子を
持ねばか様に申す也、彼をも是をも仔細を申さざれ
ば、頓て押寄せて勝負を決すべしと慥にいふべし、
面まけて云かいはぬか慥に聞けとて、足立新三郎清
経と云雑色を差添へて遣しけり、此こと申さんとて
罷り向ふ所に、犀川の水増りて三日逗留す、此事聞
えて犀川に浮橋を渡して、二人の御使を迎へよす、
天野藤内罷向ひて、面も振らず少しもおとさず、兵衛
佐の詞の上に己が詞を加へてしたたかにぞいひたり
ける、木曾是を聞て、根井小室の者共を召集めて、
我心にて我身の上の事ははかりにくきぞ、是計へと
云ければ、郎等ども一同に申けるは、日本国は六十
余ヶ国と申を、僅に二十余ヶ国をこそ源氏は討取ら
せ給ひて候へ、今四十余ヶ国は当時平家の儘にて候、
打あけられたる所もなくて鎌倉殿と御中違はせ給候
ては、平家の悦にてこそ候はんずらめ、蔵人殿返ら
じと候はば、何かくるしく候べき、清水の御曹子を
鎌倉殿へ渡し参らせさせ給へかしと申ければ、木曾
がめのと子今井四郎進み出で申けるは、恐れたる申
事にて候へ共、おのおの悪く申させ給ふ者哉、弓矢取
の習は後日を期する事はなき者を、遠くしては御中
よかるべし共覚え候はず、多胡先生殿をば悪源太殿
の討参らせておはしませば、親の敵とぞ思ひ給ふら
んと、定めて鎌倉殿もおもひ給ふらん、何様にも一
軍さは候はんずらんものを、唯はや事のついでに、
御冥加のほどをも御らんぜよかしと云ければ、木曾
是を聞て、今井はめのと子也、根井小室は今参なり、
めのと子が云はん事に附て、是等がいふことを用ひ
ずば定めて恨みなんず、是等にすてられてはあしか
りなんとて、使をたぞと聞すれば、天野藤内遠景、
岡崎四郎義実と申ければ、聞ゆる者共也、岡崎の四
郎は三浦介が弟、東国にはおとな也、天野藤内はか
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まくら殿のきりもの也、能き者共にて有けり、是へ
とて出屋へ請じ入て、木曾殊に引繕ひて対面す、木
曾申けるは、御使おのおの心得て申給へ、十郎蔵人
殿は鎌倉殿の御為にも、義仲がためにも、伯父にてお
はする人の打頼みて越され候間、すげなくあたり奉
らん事、其憚少なからず候ほどに、只有か無かにて
こそ候へ、それを出すか出さぬかとの仰せは、存の
外におぼえ候、おやかたなどをいかでか出し参らせ
候はんとも、出し参らせじとも申候べき、清水の冠
者は子にて候へば、何事も仰に従ひて参らせ候べく
候、義仲が参りて宿直宮仕のごとくに思召され候べ
し、義仲一方へむかひ候とも、御代官にてこそ候へ
と、能々心得て申され候べしとて、歳十一歳に成清
水冠者を呼出して、おのれは子共多しといへども、
初めに儲けたる子なれば、身をはなたじと思へども、
鎌倉殿の子にせんと乞はるれば遣すぞ、義仲に宮仕
と思ひて、鎌倉殿を背べからず、少も命を背くもの
なれば切られんずるぞ、そこを心得てふるまへ、平
家を攻んといふ志も、子どもを世に有せんが為なり、
義仲にはなれたればとて心細く思ふべからず、たと
へ副たりといふとも、果報なくば運命縮まるべし、
はなれたりと云とも、果報あらば親子の契り浅から
じ、一所に寄合ふべきなり、そこを心得て鎌倉殿の
命を少しもたがふべからずと宣ひければ、清水御曹
子さすが十一歳の人なれば、とかく返事もし給はず、
父の宣ふ事ごとにさ承候ぬと計宣ひて、母やめのと
の方へ行て宣ひけるは、冠者をば鎌倉殿の子にせん
と宣へばとて遣はされ候なり、二たび見参らせ又み
え参らせ候はんこともかたく候べし、其故は鎌倉殿
と父御前とは、親しくおはしまし候と承候に、させ
るすごしたる御ことも候はねども、父御前を討参ら
せんとて越られて候也、去程に情なき人にておはし
まさんずる上は、少しも御命を背くならば切られん
ずるぞと、父御前も仰候、是最期の別れにて候はんず
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るにこそ、自らかひなき命ながらへて、罷帰らんほ
どのかたみにせさせ給へとて、笠懸七番射て、母や
めのとにみせければ、母もげにも是がみ果にや有ら
んとて、泪を押へて見給けるこそ悲しけれ、其後木
曾二人の使に酒をすすめて、種々の引出物の上に信
濃馬一疋づつひかれけり、心得て申されよとて、清
水冠者をぞ遣はしける、二人の御使共御曹子を請取
てぞ帰りにける、清水冠者には同じ年成侍二人うぶ
ごやの太郎行氏、海野小太郎重氏と云ける者をぞ附
たりける、清水冠者は道すがら歎きければ、いかに
かくは渡らせ給ふぞ、幼けれども弓矢の家に生れぬ
るは、さは候はぬものを、まさなしと申ければ、義隆
かくぞいひける、
はや来つる道の草葉や枯ぬらん
あまりこがれてものをおもひば W099 K127
といひたりければ、重氏
思ふには道の草葉もよもかれじ
涙のあめのつねにそそげば W100 K128
武田五郎信光木曾をあたみて、兵衛佐に讒言しける
意趣は、彼清水冠者を信光聟に取らんと云けるを、
木曾請ひかで返事に申けるは、同じ源氏とてかくは
宣ふか、娘持たらば参らせよ、清水冠者につがはせ
んといひけるぞ荒かりける、信光是を聞て安からず
思ひて、いかにもして木曾を失はんと思ひて、兵衛
佐に讒言したりけると後には聞えけり、兵衛佐木曾
が返答を聞て、尤本意也、元よりさこそ有べけれと
て、清水冠者を相具して、鎌倉へ引返しけり、義仲
は木曾に帰りて、きり者三十余人が妻どもを呼び集
めて申けるは、各々が夫共の身代に清水冠者を遣しつ
る也、いかにと云に、冠者を遣さぬ物ならば、鎌倉殿
打越えて軍あるべし、軍あらば義仲も恥をおもへば
手は引まじ、和人共の夫々も討死すべし、されば世
の中を鎮めんとて、清水冠者を嫡子なれども引放ち
てやりつるぞと宣ひて、猛き心なれども涙をぞ流さ
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れける、三十余人の女房ども是を聞て、あな忝なの
御ことや、か様に思召されたる主を打すて参らせて、
妻子共が恋にければとて、何くの浦よりも落来らん
夫共をば、あひみ候はじ、照る日月の下にすまじ、社
社の前を通らじと、おのおの起請を書てぞ立たりけ
る、夫共は是をみて手を合せて悦びけり、
四月十七日、木曾義仲を追討の為に官兵等北国へ発
向して、次東国にせめ入て、兵衛佐頼朝を追討すべき
由聞えけり、大将軍には権亮三位中将維盛卿、越前
三位通盛卿、薩摩守忠度朝臣、三河守知度朝臣、但
馬守経正朝臣、淡路守清房朝臣、讃岐守維時朝臣、
刑部大夫広盛、侍大将には越中前司盛俊、同子息越
中判官盛綱、同次郎兵衛盛次、上総守忠清、同子息
五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、飛騨守景家、同子
息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官季国、高
橋判官長綱、武蔵三郎左衛門尉有国以下、受領検非
違使、靱負尉、兵衛尉、有官輩三百四十余人、大略
数を尽す、其外畿内は山城、大和、摂津、河内、和
泉、紀伊国の兵共、去年の冬の頃より催し集められた
り、東海道には遠江已東の者共こそ参らざりけれ、
伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の者共少々参りけり、
東山道には近江、美濃、飛騨三ヶ国の者共少々参り
けり、北陸道には若狭已北の者ども惣て一人も参ら
ず、山陰道には丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石
見、山陽、南海、西海道、四国の者どもは参らざり
けり、播磨、美作、備前、備中、安芸、周防、長門、豊前、
筑前、筑後、大隅、薩摩、此国の人々も去年の冬よ
り召集められ、明年は馬の草飼に附て、合戦有べしと
内儀有けれども、春も過夏に成てぞ打立ける、其勢
十万余騎、大将軍六人、宗徒の侍廿余人、先陣後陣
を定むる事もなく、思ひ思ひに我先にと進みけり、
此勢には何か面をむくべき、只打従へなんずとぞ見
えし、片道を給てければ、路次に逢たる者をば、権門
勢家をいはず、正税官物といはず、逢坂より奪ひ取
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ければ、狼藉斜ならず、大津、唐崎、三津、山田、
やばせ、まの、高島、比良の麓、塩津、海津に至る
迄次第に追捕す、人民山野に逃隠る、義仲此事を聞
て、我身は信濃に有ながら、平泉寺長吏斉明威儀師
を大将にて、稲津新介、斎藤太、林、富樫、井上、
津幡、野尻、川上、石黒、宮崎、佐美が一党、落合
五郎兼行等を始として、五千余騎にて越前国火打城
をぞ堅めける、火打城元より究竟の城なれば、南は
荒地、中山、近江の湖、北の橋、塩津、海津、浅妻の
浜に続き、北は海津、柚尾山、木辺、戸倉と一なり、
東は帰[B ル]山の麓、越の白根に続きたり、西は能美、越
海山ひろく打廻りて、越路はるかにみえ渡り、磐を峙
て山高く立上て、四方峯を連ねたりければ、北陸道
第一の城郭也、山を後にして山を前に当つ、両峯の
間城郭の前、東より西へ大き成山河流れ出たり、大
きなる巌を重ねて、柵にかきて水をせき留たり、あ
なたこなたの谷をふさぐ、南北の岸夥し、水の面遙
に見え渡りて、水海のごとし、かげ南山を浸して、
青くして滉瀁たり、浪西日を沈めて、紅にして〓淪
たり、かかりければ舟なくしては輙く渡すべきやう
もなかりけり、
四月廿七日、平家の軍兵火打城にせめ寄せたり、城
の有様いかにして落すべしともみえざりければ、十
万余騎の勢向への山に宿して、徒に日を送る程に、
源氏の大将軍斉明威儀師、平家の勢十万余騎に及べ
り、かなはじとや思ひけん、忽に変ずる心有て、我
城をぞせめさせける、或時城の中より平家の方へ鏑
矢を一射懸たり、怪しと思ひて取てみれば、中に結
びたる文あり、是をとりて見れば、城の内へ寄すべ
き様をぞ書たりける、此川のはたに五町ばかり行て、
河の端に大き成椎の木あり、彼木のもとに瀬あり、
おそが瀬と云、其瀬を渡りて東へ行けば、ほそぼそ
したる谷あり、谷のままに二三町計行けば道二わか
れたり、弓手なる道は城の前へ通りたり、めでなる
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道は後へ通りたり、此道を城の後へ押寄せて、軍の
鬨を作り給へ、鬨の声を聞ならば城に火を懸候べし、
然ば北へのみぞ落候はんずる、其時大手を押合せて
中に取込めてうち給へ、又川は山川をせき上て候へ
ば、河尻へ足軽を廻してしがらみを切落し候はば、水
はほどなく落候べし、斉明が一党五十余騎にて城の
後へ落候べし、若敵かとて闇紛れにあやまちし給な、
頓て御方へ参候べし、外戚に附て親しかりければ、
越中次郎兵衛殿へとぞ書たりける、平家の軍兵是を
見て、是はたばかりておびくやらんと思ひけれども、
ことの体さも有なんと思ひければ、よき兵五百余騎
を選びて遣しけり、状に書たる旨に任せてあゆませ
行けば、河端に椎の木あり、瀬あり、打入て渡せば、
鐙のはなも濡ざりけり、打越て見れば谷あり、道あ
り馬手なる道を行けば、案のごとく城の後へぞ出た
る、又教のごとくしがらみを切落しければ、夥しく
見えつる水もへりぬ、甲の緒をしめ、やなみかいつく
ろひて、勢を待揃へて声をととのへて鬨を作る、頓
て城のうちより火を出す、是をみて敵既に打入て火
を懸たりとて、城のうちに籠りたる者どもあわてさ
わぎて、我劣らじと木戸を開き、北へぞまどひ落け
る、平家の大半[B 軍カ]押寄せて、中に取込めて戦ひければ、
源氏の軍兵数を知らず討れにけり、斉明頓て平家の
方に落くははりて、北陸道の案内者は斉明に任せ給
へとぞ申ける、源氏の軍兵火打城を追落されて、加
賀の国へ引退く、安高の橋を引て支へたり、平家の
先陣越中前司盛俊、五千よきにて安高の湊へ打入て、
渡せや渡せやと下知しつつ、我劣らじと渡しけり、加
賀の国の住人富樫の太郎、越中国の住人宮崎太郎二
人馳帰りて、一人も渡すな、河に射はめよ者共とて、
河中へ落ふさがりて戦けり、富樫の太郎は越中前司
盛俊がはなつ矢に首の骨射させて、河中に真逆に落
にけり、宮崎太郎も内かぶとを後へ射ぬかれて河中
に落たりけるを、郎等四五人寄て肩に懸て上りたり、
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河端に置たれば、僅に目計働きけり、郎等共今は力
及ばず、敵は已に近付候、人手にかけ参らせんより
は、御首を給て本国に帰りて、女房にみせ参らせん
と云ければ、一門の者ども五十余人さし集りて、い
かでかはゆく目の働くほどの人の首をばかくべき、
我等今は生きても何かはせん、死なんまで防ぎ矢は
射んずるぞ、あをだにかいて行けとて、あをだにか
かせて先に立て、一門の者共五十余人防ぎ矢射て戦
ひければ、平家の大将やがても続かず、こと故なく
越中国へぞ越にける、宮崎は宿所へかき入て、それ
にてくすしをつけて医療する程に、療治に叶ひて、
廿日と云に療治やめつ、畏くぞ首をかかざりける、
去程に平家越中前司盛俊が一党五千余騎にて加賀国
を馳せ過る所に、富樫太郎宗親、林六郎光明、一城
に籠る、件の城の構へ様は前は深田の細縄手也、後
は大竹しげくして巌石なり、上のだんに矢倉を箕の
ふちの様にかきて、下手には所もなく石弓を張て、
何万騎の勢襲ひ来るとも、一騎も遁るべからざる構
へなり、平家の侍越中前司盛俊、飛騨判官景高六千
余騎にて押寄せたれども、大方落べき様もなかりけ
り、城の内には頻りに招く、いかにしてよすべきと
議する所に、夜に入て斉明威儀師が謀に、野にいく
らも放ちたる牛共を取集めて、松明に火をともして
牛の角に結付て、五千余騎城の木戸口の上の坂へ向
て追上げたり、後にはどつと鬨を作りたりければ、
牛は陣の上へ走り向ふ、敵已に夜討に寄せたりと心
得て、急ぎ石弓を切放ちければ、下り坂になじかはた
まるべき、転ぶ間、牛共頭の火のあつさといひ、石
弓転ぶに驚きて走り廻る、或は城に向ひて角をかた
ぶけて走り入り、或は深田に落ひたりておめき狂ふ
もあり、又打殺さるるもあり、牛のためこそ不祥な
れ、かくひしめく間に、平家入替々々攻ければ、林、
富樫しばしこそ戦ひけれども力及ばず、皆追落され
にけり、昔斉燕両国の軍有けるに、田単と云者、斉の
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将軍にて有けるが、燕国より斉を討たんとするに、
田単五十余頭の牛を設けて、赤衣をきせて龍の文を
書き、剱を牛の角に結付て、葦を束ねて尾に結付て、
油を濯ぎて火を附て、城の内より燕の軍の中へ追入
つつ、早走の剛の者五千人、牛のあとに附きて追ふ、
牛の尾の火もえ上りければ、燕の兵是を見るに、龍
文にて物怖しけなる牛共が、尾の火のあつさにたへ
ずして、軍の中に走りさわぐほどに、当る人は皆角
の剱に切突れて死にけり、城中には鼓を打鐘をうち、
おめきののしる声天地を響かしけり、燕の兵大に敗
れて、斉国かちにける、斉明その事を思出して、我
身の謀のほどをあらはしけるこそゆゆしけれ、
林六郎光明城をば追おとされて、山に籠りて有ける
が、早馬を立て、木曾にこの由を告たりければ、是を
聞て木曾大に驚きて打立ける所に、子息清水冠者の
弟四人有、力寿とて十歳、鶴王とて八歳、余名王と
て三歳、又当歳の女子あり、十と八とを呼び寄せて
宣ひけるは、おのれ等は十四五とだに思ひなば、弓
手馬手にうたせてこそ上るべけれども、幼ければと
どむるぞ、清水冠者をば鎌倉殿へ乞はれぬ、一あれ
ば一はかくるならひにて、物を思ふこそ悲しけれ、世
を取らばやと思ふもおのれ等が為也、北陸道より帰
らば二月三月にはよも過じ、頓て京へも上らば、一
二年も有んずらん、其程のつれづれならであれよ、
常には精進して八幡へ参りて祈をせよ、心も慰めよ
などいひて、五万よきを引率して上る、是が最期に
て有けるとも後にこそ人に申出して悲しみけれ、木
曾既に国山を越て、砺波山へ向ひける、合戦の祈祷
にとて、願書を書きて白山へ奉る、彼願書云、
立申大願事 三ヶ条何れも馬長
一可奉勤仕加賀馬場白山本宮卅講事、
一可奉勤仕越前馬場平泉寺卅講事、
一可奉勤仕美濃馬場長滝寺卅講事、
右白山妙理権現者、観音薩〓之垂跡、自在吉祥之化
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現也、卜三州高嶺之巌窟、利四海率土尊卑、参詣
合掌輩、満二世之悉地、帰依低頭類、誇一生之栄
耀、惣鎮護国家之宝社、天下無双之霊神者歟、而自
今年以来、平家登不当之高位、飽誇非巡之栄爵、
忝蔑如十善万乗之聖主恣陵辱三台九棘之臣下、
或追捕太上法皇之陬、或押取博陸殿下之身、或
打囲親王之仙居、或奪取諸宮之権勢、五畿七道
何処不愁之、百官万人誰人不歎、已欲断王孫、
豈非朝家之御敵乎、〈 是第一 〉、次焼南京七寺之仏閣、
断東漸八宗之恵命、尽三井園城之法水、減智証
一門之学侶、其逆勝調達、其過越波旬、月支大天
之再誕歟、日域守屋重来歟、已磨滅仏像経巻、并
焼払堂塔僧坊、寧非法家怨敵哉、〈 是第二 〉、次源平両
家、自昔至自今如牛角、天子左右之守護、朝
家前後之将軍也、而觸事決雌雄、伺隙致鉾楯、
仍代々企合戦、度々諍勝負、已有宿世之怨、是
私之大敵歟、〈 是第三 〉、因忝蒙神明之冥助、為降伏
仏法王法之怨敵、立大願於三州馬場、仰感応於
三所権現、就中先代伏王敵、皆由仏神贔負、此
時降謀叛輩、寧無権現之勝利哉、加之白山本
地観音大士者、於怖畏急難之中、能施無畏、雖
平家軍兵如雲集如霞下、衆怨退散之金言有憑、
縦雖謀臣凶徒加咒咀致怨念還著於本人之誓
約无疑、然者還念権現本誓、感応不(レ)可廻踵、
何況我家自先祖、仰八幡大菩薩之加護、振威施
徳、而八幡本地者観音本師阿弥陀也、白山御体弥
陀脇士観世音也、師弟合力者、感応潜通者歟、況
弥陀有無量寿之号、豈不授千秋万歳之算哉、
観音現薬於王之身、寧不食不老不死之薬、云
本地云垂迹、勝利掲焉也、附公附私、欲遂
素懐、所志无私、奉公在頂、偏為降王敵、
為守天下、忽為興仏法、為仰神明、伝聞天
神无怒、但嫌不善、地祇無崇、唯厭過失所
以平家奪王位、是不善之至歟、謀臣滅仏法、亦
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過患之甚也、日月未堕地、星宿懸天、神明為
神明者、此時施験、三宝為三宝者、此時振威、
然則権現、照我等之懇誠、宜令罰平家之族、
我等蒙権現加力、顕欲討謀叛之輩、若酬丹祈、
感応速通者、上件大願无解怠可果遂也、而者
弥悦源氏面目、新添社檀之荘厳、鎮誇神道之冥
加、倍致仏法之興隆矣、仍所立申如件、敬白、
寿永二年四月日 源義仲敬白
とぞ書たりける、五月二日、林六郎光明并に富樫太
郎が城廓二ヶ所を打破られて、次第にせめ入る由、官
兵国々より早馬を立て申ければ、都には嘉〓けり、
平家は白山の一橋を引てぞ籠りける、十一月平家十
万余騎の勢を二手に分て、三万余騎をば志雄の手に
向けてさし遣し、七万余騎をば大手へ向けて、越中
前司盛俊が一党五千余騎を引分て、加賀国を打過て、
終夜砺波山を越て、中黒坂の猿が馬場にひかへたり、
木曾是を聞て、五万よきを相具して、越中国へ馳せ
越て、池原の般若野にこそ控へたれ、越中国住人木
曾に付中にも、宮崎太郎は安高の湊の軍に内かぶと
を射させて、前後不覚なりけるを、あをだにかきて
越中国へ越て、宮崎にていたはりけるに、廿日と云
に疵は愈ぬ、うひだちに鎧着て、木曾殿へ参りたり
ければ、木曾殊に是を感じ給、弓矢とる身こそ哀な
れ、二つもなき命を的に懸けて、大事の手を負て、
已に死ぬべかりける人のよみがへりて、又鎧着て出
給たるこそいとをしけれ、今度の軍は殿原を頼むぞ、
義仲は小勢なり、平家は大勢と聞ゆ、面白く計ひて
敵を討たんずるぞ、此山の案内者をば殿原にて有ら
んずるぞ、今度の軍にかたせうかたせじは殿原の計
ひぞと宣ひければ、宮崎申けるは、誠に山の案内は
いかで知らで候べき、此砺波山には三の道候なり、
北黒坂、中黒坂、南黒坂とて三候、平家の先陣は中黒
坂の猿が馬場に向へて候也、後陣は大野、今湊、井
家、津幡、竹橋なんどに宿して候也、中の山はすい
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てぞ候らん、よも続き候まじ、南黒坂のからめては
楯六郎親忠千騎の勢にてさし廻して、鷲が島うち渡
りて弥勒山へ上るべし、中黒坂の大将軍は根井小弥
太、千騎の勢にて倶利迦羅を廻りて、弥勒山へ打合
せよ、北黒坂の大将は、巴といふ美女千騎の勢にて安
楽寺を越て、弥勒山へ押寄て、三手が一手に成て鬨
を作るならば、搦手の鬨はよも聞えじ、平家後陣の
勢続きて襲と思ひて、後へ見返らば、白旗のいくら
も有らんをみて、源氏の搦手廻りたりと心得て、あ
わてながら鬨を合候はんずらん、其時鬨の声聞え候
はんずらん、其時搦手は廻りにけりと心得て、是よ
り大勢に押寄に押寄すならば、前にはいかでよるべ
き後には搦手あり、逃べき方なくて、南の大谷へ向
けて落候はんずらん、矢一射ずとも安く討んずるぞ
と申ける、木曾是を聞てあら面白や、弓矢取の謀は
かくぞとよ、平家何万騎の勢有りとも、安く討ちて
んずるな、殿原とて、宮崎が計ひに附きて搦手をぞ
廻しける、楯六郎親忠千騎の勢にて、南黒坂をうち
めぐりて、弥勒山へぞ上ける、根井小弥太千騎の勢
にて中黒坂を打廻り、くりからを廻りて、是も弥勒
山へぞ上りける、巴も千騎の勢にて北黒坂を打廻り、
安楽寺を越て、弥勒山へぞさし合する、去程に木曾
は搦手を廻して後、木曾宣ひけるは、平家の大手す
でに砺波山を打越て、黒坂柳原へ打出づと聞ゆ、聞
てい大勢也、柳原の広く打出たる物ならば、馳合の
合戦にて有べし、はせ合の合戦は勢の多少によるこ
となれば、大勢のかさにかけられて、あしきことも
や有んずらん、敵を山に籠めて日を暮して後、くり
からが谷の巌石に向けて追落さんと思ふなり、其儀
ならば義仲先急ぎて、黒坂口に陣を取るべし、敵す
でに向ひたりといはば、此山四方巌石なり、無左右
敵よも寄せじ、いざ馬の足安めんとて山に下り居た
り、但平家の先陣山を越さじとて、はたさじ一人強
き馬に乗せて、砺波山の東の麓なる大宮林の高木の
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末に白旗一流結立たり、案のごとく平家是を見て、
あはや源氏の先陣向ひたりとて、敵は案内者也、各
は無案内なり、無左右広みへ打出て、四方よりか
け立られてあしかりなん、此山は四方巌石也、敵無
左右よせつとも見えず、馬の草飼水の便りともに能
き所也、山をからせて馬の蹄もよわりたるままに、
おり下りて休めばやとて、砺波山に下り居つつ、猿
が馬場にぞ陣をとる、
木曾殿は平家が山を越ぬ後にとて、つよき馬をかき
えりかきえり取乗て、十三騎にてあゆませをどらせつ、
あがらせつきて砺波山の東の麓に馳せ着ぬ、四方を
きつと見まはすに、一村の森あり、夏山の緑りの木
の間より朱の玉垣ほの見えて、かたそぎ作りの社あ
り、前には鳥居ぞ立にける、里の長を召て、あれは
何の宮と申ぞ、如何なる神を崇め奉りたるぞと問ひ
給へば、是は埴生の社とて、八幡大菩薩をいはひ奉
る、当国の新八幡宮と申候と云ければ、木曾先喜び思
て、手書きに大夫坊覚明と云者有けるを呼びて云け
るは、義仲幸に当国の新八幡宮の御宝前に近付き奉
りて合戦を遂げんとす、今度の軍には疑なくかちぬ
と覚ゆるぞ、それに取ては且は後代の為め、且は当
時祈祷にも願書を一筆書て進せばやと思ふぞ、いか
が有るべきと云ければ、尤可然候なんと云て、箙の
中より小硯を取出して、帖紙を押広げて書く、覚明
其日褐衣の鎧直垂に首丁頭巾して、ふしの縄目の鎧
に黒羽の矢負ひて、赤銅作りの太刀の少し寸長なる
に、ぬりごめ籐の弓脇に挟みて、木曾が前に膝まづき
て書たり、あはれ文武の達者かなとぞみえたりける、
其状に云、
帰命頂礼八幡大菩薩者、日域朝廷之本主、累聖明
君之曩祖也、為護宝作、為利衆生、顕三身之
金容、扉三所権扉、爰頃年之間、平相国云者、管
領四海而令悩乱万民、是既仏法〓、皇法敵也、
義仲苟生弓馬家、僅継箕裘芸、見彼暴悪、不
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能顧思慮、任運於天道、投身於国家、試起義
兵欲退凶器、而闘戦雖合両陣、士卒未得一
致勇之間、區心忙処、今於一陣揚旗為戦場、
忽拝三所和光社壇、機感之純熟既明也、凶徒誅戳
無疑、歓喜降涙渇仰銘肝、就中、曾祖父前陸奥
守義家朝臣、寄附身於宗廟之社族、号於名八幡
太郎、以降、為其門葉者莫不帰敬、義仲為其
後胤、傾首年久、興今此大功、縦以嬰児蠡量
臣海、蟷螂取斧如向立車、然而為君為国興
之、志之至神〓在暗、〓哉悦哉、伏願冥慮加威、
霊神合力、決勝於一時、退〓於四方、然則丹祈
叶冥慮、顕有加護、先令見一瑞相給、敬白、
寿永二年六月一日 源義仲敬白
とぞ書たりける、此願書と十三表矢をぬきて雨降け
るに、簑笠着たる男の簑の下にかくし持せて、忍び
やかに大菩薩の社壇へ送り奉る所に、〓哉八幡大菩
薩、其二なき志をや〓給ひけん、霊鳩天より飛来り
て、白旗の上に翩翻す、義仲馬よりこぼれ落て、か
ぶとをぬぎ、首を地に附て是を拝し奉る、平家の軍
兵は遙にこれを遠見して、身の毛立てぞ覚えける、
去程に木曾が勢三千よきにて馳せ来る、敵に勢のか
さを見られてはあしかりなんとて、松長、柳原に引
かくす、とばかりありては五千余騎、とばかり有ては
一万余騎、三万余騎の勢を四五度十度にぞ馳せ付に
ける、皆柳原に引かくす、平家砺波山の口、くりか
らがだけのふもとに松山を後にして、北向に陣を取
る、木曾は黒坂の北の麓に松長、柳原を後にして、
南向に陣をとる、両陣の間僅に五六段隔てて、おの
おのたてをつき向へたり、木曾は勢をまち得ても合
戦を急がず、平家の方よりも進まず、鬨の声三ヶ度
合て後は、静り返りてぞみえける、しばらくあひし
らひて、源氏の陣の方より精兵十五騎を楯の表へ進
ませて、十五の鏑を同音に平家の陣へぞ射入ける、
平家少しもさわがず、十五騎を出し合せて、十五の
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鏑を射返さす、両方十五騎づつともに、楯の表へ進
み出て、互に勝負を決せんとはかりけれども、内よ
り制して招き入れつ、又とばかり有て、三十騎を出
せば、三十騎を出して射返さす、五十騎を出せば、
五十騎を出す、百騎を出せば、百騎を出合て、矢を
射て返させたる計にて、両方勝負に及ばず、本陣へ
引退く、かくすること辰の刻より巳の時迄六ヶ度に
及べり、平家は源氏の搦手のまはるを待て、日を暮
さんとする謀は知らずして、共にあひしらひて日を
暮しけるこそはかなけれ、去程に日もくれがたに成
にければ、今井四郎兼平、楯六郎親忠、八島四郎、
落合五郎を先として、一万余騎の勢にて平家の陣の
うしろ、西の山の上よりさし廻して、鬨をどつと作
り懸たりければ、黒坂口、柳原に扣へたる大手二万
余騎、同時に鬨を作る、前後四万余騎がをめく声、谷
をひびかし峯にひびきて夥し、平家は北は山巌石也、
夜軍よもあらじ、夜明けてぞ有らんとゆだんしける
処に、鬨を作り懸たりければ、東西を失ひてあわて
さわぐ、後は山深くして嶮かりつれば、搦手へ向ひ
ぬべしともおぼえざりけるものを、いかがせんずる、
前は大手なればえすすまず、後へも引返されず、鳥
にあらねば天へものぼらず、日はすでに暮れぬ、案
内は知らず、力及ばぬ道なれば、心ならず南谷へ向
けてぞ落しける、さばかりの巌石を闇の夜に我先に
と落ちける間、杭につらぬかれ岩に打れても死にけ
り、前に落るもの後に落す者にふまれ死ぬ、後に落
す者は今落す者にふみころさる、父落せば子も落す、
子おとせば父もつづく、主落せば郎等も落重なる、
馬には人、人には馬、上が上に落重なりて、くりから
が谷一をば平家の大勢にて馳埋てけり、谷の底に大
なる柳あり、一枝は十丈計有けるが、かくるるほど
に埋たりけるこそむざんなれ、大将軍三河守知度以
下、侍には飛騎判官景高、衛府、諸司、有官の輩百
六十人、宗徒の者ども二千人はくりからが谷にて失
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せにけり、巌泉血を流し、死骸岡をなせり、されば
くりからが谷には、箭の孔、刀痕、木の本毎に残り、
枯骨谷にみちて、今の世まで有とぞ承る、木曾か様
に平家の大勢打落して、くりからが黒坂口の手向に
弓杖突て扣へたる所に、平家の馳重て埋たる谷の中
より俄に火炎もえ上る、木曾大に驚きて郎等を遣し
て見するに、今剱の宮の御宝殿にてぞ渡らせ給ひけ
る、今剱の宮と申は白山の剱宮の御こと也、木曾馬
より下り、かぶとをぬぎて三度拝し奉りて、此軍は
義仲が力の及ぶ所にあらず、白山権現の御計ひにて、
平家の勢は亡びにけるこそとて、剱の宮はいづくに
当りて渡らせ給やらん、御悦び申さんとて鞍置馬廿
疋、手綱結びて打かけ、白山の方へ追遣す、これほ
どの神験をばいかでかさて有べきとて、加賀国林六
郎光明が所領横江庄を白山権現に寄進し奉る、今に
違はず神領にて伝はりけるとかや、
平家物語巻第十三終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十四
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平家物語巻第十四
同二日志雄軍に、十郎蔵人行家負色に成たりければ、
越中前司盛俊勝に乗りてせめ戦ふ、平家は又木曾に
砺波山を追落されて、あたかの橋を引きて篠原の宿
に十三日迄息つき居たり、其間平家の方のがうの者
五十余人同意して、仮屋々々にてかたの如く、巡酒
はじめてあそびける程に、其間軍の内儀さまざま評
定す、伊東九郎がかり屋にて此人々申けるは、いざ
殿原我等五十余人、かいつるうて源氏の御方へ参ら
ん、其故は運命つき果てて、平家は度々の軍に戦ひ負
けぬ、源氏の繁昌疑ひなしとみえたり、我等五十人
源氏の御方へ参たらば、あはや平家方のがうの者ど
も皆源氏へ参りたりとて、一定御恩あらんずるぞ、
此御恩を蒙りて、妻子と死のりべつまでそはんはい
かに殿原といひければ、もつとも然るべしとて其日
も過にけり、次の日やくそく必定と各源氏へ参らん
と出立けるが、長井の斎藤別当実盛が仮屋に寄合ひ
て、巡酒してあそびけるに、おんざになりて実盛申
けるは、昨日との原の評定に、我等五十余人源氏の
御方へ参らんと候しかば、実盛一同すと申候ぬ、いか
に其事は変改せられまじきか、又いかならんと問ひ
ければ、またくもて変改すまじきよしを申ければ、
実盛重て申けるは、や殿原此ことを実盛終夜案ずる
に、叶はじと案じ出したるぞ、其故は我等源氏の御方
へ参たらば、是等こそ平家の宗徒の侍よ、先がけの
者どもよ此等が平家をすて源氏へ参たるこそ神妙
なれとて、一たんは一定御恩はあらんずらんと覚ゆ
るぞ、その御恩を蒙りたればとて、相伝の主を情な
くいたてまつるべしとは思ひ候はず、年ごろ日頃は
一所にて死んと申契り、雲のはて海の果までも、御供
仕候べしとこそ申契りたりしに、契りを変じて御供
をこそ申さざらめ、剰へ立帰りてい奉り亡し奉んこ
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と、実盛におきては眼をあつべしとも覚えず、たと
ひ又主をい奉りて源氏の恩を蒙りたりとも、子々孫
孫まで伝らんこと有るまじきぞや、又源氏の侍東国
の人どもさだめて申さんずるぞ、平家の侍どもうた
てき者どもにて有けるぞ、弓矢とる習、運命尽ぬる
事は力及ばず、名を後代に留むるこそ武士の法なれ、
平家世にましましし程は、此人々こそ一二の者にて、
受領けんびゐしをもけがし、あくまで恩のうるほひ
にもほこりしが、今平家負軍になればとて、相伝の
主を棄て源氏の御方へ参る無道さよと、朝夕見ら
れんずる事こそ恥かしけれ、又ささやきつつやきせ
んほどに、源氏も事の謂を存じて、相伝の主をすつ
る程の不道人を、当時忠を致し功を入るればとて、心
をうちとくべからず、又平家強くば後矢射んずる奴
原也、かやうの者に恩をするならば、東国の弓取ど
もが世の中は、とてもかくても有ぬべし、世に有ん方
には靡くべきとて、命を捨る者はあらじとて、世静
らば、傍輩向後の為とて一定切られぬと覚ゆるぞ、
されば御恩を蒙りて妻子に添はてん事有がたし、再
ものをおもはせんこと中々不便なり、実盛ばかりに
はいとまたべ、平家に附き奉りて、年頃の契りをか
へず、討死して死出の山の御供せん、果報有て平家世
に出給ふものならば、実盛も妻子も繁昌せよかしと
終夜おもひ定て候なり、実盛にはいとまたべとぞ同
僚どもに申ける、五十余人の者ども、もつともかう
こそあるべけれと、涙を流していはれたりいはれたり、誠に、
さぞかし、弓とりの心のあまた有は不覚をする事今
にはじめず、斎藤別当の宣ふにつきて、みな一所に
て討死せんずるぞとて、一同に斎藤別当が一言に付
にけり、去程に木曾あたかのみなとへ押寄せて見給
へば、橋を引れたり、渡すべきやうなかりけり、宮崎
太郎が申けるは、此みなとにはやうの候ぞ、大浪立ち
てはいさご打よせられて湊浅くなり、大水増れば砂
打流がされて河深くなり候也、ふかき浅きほとを見
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候べしとて、飼ひたる馬四五疋よき鞍置きて、手綱
結びて追渡す、鎧もぬらさでむかへのはたにかきあ
がる、木曾是を見て、あれみよ殿原よかめるは、ぬし
が心得て手綱かいくり、すがりかかへて、馬に力を
付けて、一あをりあをらば、ものても有まじ、渡せ
や渡せやとのたまひければ、是を聞て、樋口、今井、
楯、根井、大室、小室を始として、五百余騎にてさ
と渡す、先に追渡す四五疋、平家の陣屋の前にをど
りて出来り、平家の侍ども、あは源氏は皆落るは鞍
置き馬出きたり、我とらんと奪合ふ処に、畠山庄司重
能、小山田別当有重兄弟、平家につきたりけるが、進
み出て申けるは、あしく申させたまふ殿原かな、源
氏落るならば鞍置馬に乗りてこそ落つべけれ、是は
安高のみなとの浅きほどをこころみんとて渡したる
馬なり、あはや湊はふさがりたりけるはただ今敵渡
し候らん、重能罷り向ひて見候べしとて、宿をうち
出篠原の岡の上に上りて見けるに、源氏の勢雲霞の
ごとくによせたり、さればこそとぞ思ひける、木曾
方に樋口次郎申けるは、あはや畠山が旗よ、木曾の
たまひけるは、汝は何として見知りたるぞ、兼光能
見知て候、児玉党がむこにて常に武蔵の国へ越え候
しかば、畠山が旗をば見知て候、是こそ東国の弓と
りの名人、恥ある武士にて候へ、戦も定て尋常に仕
候べし、畠山が勢五百余騎と聞え候、この勢二百五
十騎を出して戦はせて御覧候へ、其故は平家は十万
余騎、御勢は五万余騎、されば御方一人が敵二人にむ
かうずるにて候、恥ある弓取のかたき二人にむかは
ぬ事や候、千騎には五百騎、五百騎に二百五十騎、
二百騎には百騎出合て戦はせて御覧候へ、畠山が勢
五百騎と聞え候、されば二百五十騎を出して戦はせ
て御覧候へ、畠山に戦勝て候はば、軍にはかちぬと
思召候べし、残の勢はいくらも候へ、ものにても候
まじと申ければ、さらば汝先陣つかまつれ、畏て承
候とて、二百五十騎にて向ひあひ、音にも聞今は目
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にも見るらん、信濃の国の住人木曾中三権守兼遠が
二男、木曾殿にはめのと子に樋口次郎兼光、平家も
さる者ありと聞召たり、兼光討て高名せよやとのば
らとて、二百五十騎を相ぐして、甲の緒をしめ、く
つばみを並べて、五百余騎が中へ駈入る、畠山是を
きき、樋口次郎はよきかたきぞ、あますな殿原、組
でとれ、押並べて組めやくめやとて、五百余騎心を
一にして中に取こめて戦ひけり、くんで落つる者も
あり、おち重なる者もあり、うちじにする者もあり、
いづれもひまありとも見えず、さんざんに戦ける程
に、畠山が五百騎三百騎討れて二百騎になる、樋口次
郎が二百五十騎は、百五十騎討れて残り百騎になり
て左右へさと引てのく、畠山は小勢にかけられたる
を安からずと思ひて、甲の緒をしめ、かたきの中へ馳
せ入らんとする所に、弟の小山田別当有重、畠山が馬
のくつばみのさうにしたたかにつきて、おおやけの
軍に我一人と戦して命はすてまじ、残の人どもに戦
はせて、よわらん所をかけ給へとてつきたれば、力
及ばず引退く、これをしらまさじと、平家の方より武
蔵三郎左衛門有国、五百騎の勢にてをめいてかくる、
源氏の方より加賀国の住人林六郎光明、二百五十騎
を相具して、五百騎が中へをめいてかけ入、さつとあ
けてぞ通しける、取て返してたて様横様にさんざん
にかく、武蔵の三郎左衛門有国は、練色のぎよりよ[* 「ぎよりよ」に「魚綾」と振り漢字]
うの直垂に、緋威の鎧に白星の甲を猪首に着なし、
大中黒の矢廿四さしたる頭高におひなし、重籐の弓
真中とて、月毛なる馬のふとくたくましきに、黄ふ
くりんの蔵置て乗たりけり、あはれ大将軍やとぞ見
えたる、五百騎の中にすすみ出て戦けるを、光明が
甥に野宮八郎光宗とて、大の男の大ちから精兵が、
十三束あくまでひいて、しばしかためてひやうと射
る、有国が鎧の胸板はたと射破りて後へつとぞ射通
したる、是に少しよわりては見えけれども、馬の上
にてしばしこらへて戦ひけるを源氏の方より我も
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我もと射ける程に、有国が鎧に矢十三筋射立られて、
今はかうとや思ひけん、太刀をぬきて中へはせ入て、
近づく者をば切伏せ切伏せ戦ふ、野宮八郎是を見てさ
しならべて組でどうと落たり、有国は大ちからと聞
えしかども、大事の痛み手あまた負てよわりたりけ
るが、野宮も大ぢからなり、上になり下になり組あ
ふところに、野宮が郎等あまた落合ひて、有国が鎧
の草ずり引き上げて、究竟の所を二刀さされて、そ
れによわりて野宮八郎に有国首とられぬ、是をしら
さまじと平家の方より高橋太郎判官五百騎にておし
よせたり、越中国の住人宮崎太郎二百五十騎にて向
ひ合ふ、宮崎太郎が嫡子入善小太郎為直といふ者あ
り、又宮崎が弟に別府次郎為重と云者あり、宮崎弟の
別府を呼びていひけるは、やや別府殿、あの入善に
目放ち給ふな、あたら若者の先がけこころにすすみ
て、しつきの勢を待ずして、敵の中へ馳せ入て、一
定討れぬと覚ゆるぞといひければ、さ承候ぬとてく
つばみを並べてつれ行くほどに、大勢の中へはせ入
て、押隔てられて入善が行衛を知らざりけり、さる
ほどに平家の侍大将軍高橋判官長綱に入善は引組で
どうと落つる、長綱は三十七八の男、人に勝れたる
大ちから大がうの者にて有けり、入善はきはめて細
き小男なれば、取ておさへられたり、長綱和ぎみは誰
ぞ、わかけれどもやうある者と見ゆるぞ、名乗れ聞
んといひければ、越中の国の住人宮崎太郎が嫡子、入
善小太郎為直生年十七歳と名乗る、長綱是を聞て、
あないとをしあないとをし、わぎみはあたら剛の者かな、お
ほけなくも長綱には組たるものかな、十七歳と名乗
るこそ殊にいとをしけれ、我も十七歳になる子を持
たるぞ、和ぎみと同年になる、わぎみを討たりとも、
負くべき軍に勝つべきに非ず、討たず共勝つべき軍
にまくべきにてもなし、我子と同年になるがいとを
しければ、我子にむくへと思へば汝を討つまじとて
引おこす、別府は入善を見失ひて、入善よ入善よと呼び
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ありく、かたきに組たるところに呼び逢ひたれば、入
善是を聞きて、為直是に有るぞ、助けよ別府どのと
いふ、別府是を聞て、あな浅ましと思ひて、急ぎ馬
よりとび下りて、長綱が甲のてへんにゆびを入て、本
どりをつかみてひきあげて首をかく、水もたまらず
切れにけり、其後下なる入善を引起して手や負たる
とて、とかく是を見る程に、長綱が首をば前に打す
てて、ただ入善を引まはして見けれども、入善手も
負はずと申、ここに前なる首をうばうて入善にげた
り、別府是を見て、やれ入善物に狂ふか、其首おけや
おけやとて追て行く、入善是を聞ず足早に逃げて、
木曾殿の前に持ちて参て、是は高橋太郎判官が首に
て候、侍大将軍の首にて候を、為直が分取に仕て候と
て参らせたり、別府やがて追付きて、あれは為重が
取て候首也、入善を見失ひて入善々々と呼びありき
候処に、高橋判官と組んで下におさへられて候が、
爰にあるぞ助けよと申候つる間、浅ましやと存候て、
急ぎ馬より飛下て、長綱が首をかき前に置き、入善
を引起して手や負たるかと問候へば、おはずと申す
てて前なる首をとて逃げて参て、我取たると申候と
いひければ、木曾殿是を聞て、是はいかにと問ひた
まへば、入善さん候、是は少しもたがひ候はず、さて
はいかに、首は一なり主は二人あり、誰か取てあら
んずるぞ、入善申けるは、別府が申候は少しもたが
ひ候はず、木曾殿たがはざらんにはいかに我とりた
りと申条存外也とのたまへば、入善申けるは、是は
やうの候、為直長綱に組て下に押へられて候ところ
に、名乗れと申候つる間、宮崎が嫡子入善の小太郎為
直生年十七歳と名乗て候へば、いとをしいとをしあたら
剛の者也、我も十七になる子を持ちたり、和君が名乗
るを聞ば我子と同年なり、我子にむくへとおもへば、
汝をば討まじきぞとて、押へて候、さては助からん
ずるござんなれ、助けんとてはなちて候はん時、草
摺にかなぐり付、ぬきまうけたる刀なれば、二刀ば
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かりさしてよわらんずる処は、ぢやうの首と思ひて
候へば、ただ是れ為直が取りたる首と申ければ、木
曾殿面白し面白し、是聞けや殿原、弓矢とりはかうこ
そ心をかくべけれ、わかけれども下に押へられなが
ら、放ちたらん所をば、定の首とねらひたり、是ほ
ど心静にねらはんには、難なくねらひおほせんず、さ
れどもげには別府がとりたる首なり、汝には別の恩
賞あるべし、是をば別府が取たる首になせとぞ下知
せられける、是をしらまさじと、平家の方より長井
の斎藤別当実盛、赤地の錦の直垂着て、三百余騎に
て押寄たり、源氏の方より信濃国の住人手塚別当、二
百五十騎にて向ひ合ひ互に入くみ戦ふ、手塚が郎等
さんざんに戦ひければ、実盛が勢残なくうたれて落
にけり、実盛思ひ切りにしかば、一騎になる迄戦ひ
けり、手塚、実盛をおつかけて申けるは、ただ一人と
どまりて戦ふこそ心にくけれ、名乗れや名乗れや、かく
申は信濃国の住人諏訪郡住人手塚別当金刺光盛と名
乗りかけたり、実盛申けるはさるものありとは聞置
たり、但わぎみをさくるに非ず、ようのあれば名乗る
まじ、ただ首をうちてげんさんに入よ、木曾殿は御
覧じ知たるらんぞ、思ひ切りたれば一人残りて戦ふ
ぞ、かたきはきらふまじ、よりこ手塚と申ままに、弓
わきはさみてあゆませむけたり、其時手塚が郎等一
人、馬手に並べて中に隔つるとぞ見えし、実盛にむ
ずと組む、実盛さしりたりとてさしおよびて、手塚
が郎等の押付の板をつかまへて、左の手にては手綱
かいくりて、弓手馬手の鎧つよくふみて、むずと引
たりければ、手塚が郎等引落されぬ、実盛押付の板
をしたたかにつかまへて、馬の腹に引付て、さげ
てまかる、足は地より一尺ばかりあがりたり、手塚
是を見て馬手にかい廻りて、実盛が鎧の袖につかみ
付て、ゑい声を出すままに、鎧を越て前に落たり、
実盛二人のかたきをあひしらふとせしほどに、引落
されぬ、引落されながら、実盛郎等を取て押へ、腰
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の刀を抜て首をかく、手塚その紛れに実盛が弓手の
くさずりを引きあげて、そば腹をさしたりけり、さ
されて後少しよわる所をふみまろばして、上に乗居
て申けるは、軍と申はかたきの名乗るをも聞き、我
名をも名乗りて、かたきに聞せたればこそ面白けれ、
誰人ぞよき人ならばけうやうをもせん、わろき首な
らばとりても何かせん、堀溝にもすてんずるぞとい
ひければ、斎藤別当名乗るまじきぞと一度いひてん
上は名乗まじ、我首をば人見知らんずるぞ、よき首
取りつるものかな、たやすく棄つべからずといひけ
れば、力及ばず首をぞかきはなつ、おくればせに来
りける郎等に物の具剥がせて、首を持ちて木曾の前
に来りて申けるは、光盛かかるくせ首をこそ持ちて
候へ、名乗れと責ふせ候つれ共、木曾殿は御覧じ知
たるらんとばかり申て名乗り候はず、侍かと存候へ
ば、錦の直垂を着て候、大将軍かと存候へば続く勢
も候はず、京者西国の御家人かと存候へば、声は坂
東声にて候つと申、木曾あはれ是は武蔵の国住人斎
別当にこそあんめれ、但それならば一年義仲がおさ
な目に見しかば、しらがの糟尾なりしぞ、今はこと
の外白髪になりぬらんに、鬢髭の黒きこそ怪しけれ、
あらぬ者やらん、樋口はふるどうれう[* 「ふるどうれう」に「古同僚」と振り漢字]にて見知たる
らん、見せよとて樋口を召す、樋口本どりをとて引
あふのけてただ一目みて、はらはらとなきて、あな
むざんや、実盛にて候けりと申、木曾何とてびん髭
は黒きぞと問はれければ、樋口さればこそ、其仔細
申候はんとし候が、心よわく涙のこぼれ候也、弓矢
取る者は、聊かの事にても思ひで有る詞をば、つかひ
置くべきことにて候、武蔵の国に常に通ひ候し時、
斎藤別当がもとへまかり候き、心も尋常に勇なる者
にて候し、兼光に申候し事は、六十に余りて後は、
軍の陣に向はんには白髪の恥かしからんずれば、鬢
髭に墨をぬりて若やがんと思ふなり、その故は老武
者とてあなづるも口惜し、又若殿原に争ひて先をか
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けんもおとなげなしと申候しが、げに墨をぬりて候
けるぞや、水を召して洗はせて御覧候へと申せば、
さもあるらんとて、洗はせて見給へば、しらはふきに
洗なしたり、さてこそうたがひなき実盛とも知りて
けれ、錦の直垂を着たりける事は、実盛京を出ける
日、内大臣に申けるは、一年東国の討手に罷り下りて
候しに、一矢も射ずして蒲原より帰上て候し事、実
盛が老の後の恥、唯此事に候と存候へば、北陸道へ
まかり下候はんには善悪生きてはまかり帰候まじ、
年はまかり寄りて候とも、真先かけて討死仕候べし、
夫にとて実盛もとは越前国の住人にて候しが、近年
所領に付きて武蔵の国に居住仕て候き、事のたとへ
に申候、故郷には錦のはかまを着よと申候ぞ、今度
且は最期の所望也、錦の直垂の御免を蒙るべしと申
ければ、内府かつうはあはれに思し召されて、さうに
及ばずとて許されにければ、悦びてきたりけり、是
をしらまさじとて、平家方より妹尾太郎二百五十騎
にてをめはてかく、源氏の方より加賀国住人倉光太
郎、百騎の勢にて向ひ合ふ、妹尾が二百騎の中へはせ
入てさんざんに戦ふ、倉光妹尾に押並べて組んでど
うと落つる、倉光は大ちからなりければ妹尾を取て
押へたり、倉光が郎等四五騎落ち重りて、妹尾を生捕
にしてけり、さて木曾殿へいて参りぬ、是をしらまま
じとて、平家方より伊東入道が子息伊東九郎二百余
騎にて押寄せたり、木曾方より根井小矢太百騎勢に
て、伊東九郎が二百騎の中へはせ入て、堅様横様さん
ざんにかく、根井小矢太は伊東九郎に組んでどうと
落つ、伊東九郎をとて押へて首をかく、この伊東九
郎は源氏に付くべかりけるが、平家へ参る事は、父
伊東入道、兵衛佐を討たんと内々議しけるを、ひそ
かに佐殿に告げ奉りて、伊豆の御山へ逃したりしに
よて、奉公に兵衛佐殿坂東を討取て鎌倉に居住の初、
いとう入道日頃のあだのがれ難さに、自害してうせ
し時、九郎を召出して、汝は奉公の者なりとて、御
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恩あるべきよし仰せられければ、九郎申けるは、誠
に御志畏り入て存候へども、父の入道御かたきとな
りてうせ候、又その子として世に候はんこと面目な
くおぼえ候、昔父の入道君をい参らせんとし候し時、
潜に告げ申て候し事は、一切末に御恩を蒙らんと思
ひよらず候き、はやく首を召さるべく候、然らずば
いとまを給て京へまかりのぼり候て、平家に付き奉
て、君を射奉るべしと申ければ、兵衛佐殿打ちうな
づきて、奉公の者なればいかでか切べき、汝一人あ
りともそれによるまじ、申所返々神妙也、早く平家
につけとていとまをえさせつ、よて九郎平家に付き
奉りて北陸道に下りて、つゐにけふ討れぬるこそあ
はれなれ、其後木曾は郎等今井、樋口、楯、根井、
大室、小室を始として我劣らじとせめ入る間、平家
の軍兵まばらになり、面も向けず引退く、大庭五郎、
間下四郎返し合せて防ぎけり、間下四郎、みなとよ
り三段ばかり沖に大なる岩あり、其上におりゐて寄
せ来るかたきをば射はらひて、自害せんとやおもひ
けん、小具足をきりすつる所を、内甲を射させて死
にけり、難波次郎経遠馬を射させて、叶はねば、自
害してうせにけり、大庭五郎みなとに打立ちて、よ
きかたきぞや、くめやといふところに、武者二騎つ
れてさうよりつとよりけるを、二人をつかんでひざ
の下に押へて、軈てしき殺す、されども根井小矢太
に首の骨を射させて死にけり、大将軍権亮三位中将
のたまひけるは、いかなれば毎度軍に負くるぞ、御
方は大勢なり、敵は小勢也、手組の軍に負る事こそこ
ころ得ね、今日七月一日、朝日に向ひて軍をすればこ
そ負くるらめ、引け後日の軍にせよとて、引退く、
木曾は是を見て、すは平家は落るは、一騎ももらす
な、射取れや者共とて、追物射にこそ射たりけれ、木
曾五百余騎の勢をめいてかけ入、さんざんにけ破り
て、引かへせば、今井四郎三百余騎を相具して、入
かへて又戦ひけり、しばし戦ひてひかへたれば、樋
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口次郎三百余騎にて入かへてこそ攻めたりけれ、か
たき数多討取りて引退きたれば、根井小矢太二百余
騎相ぐして、中へはせ入りて攻たりければ、木曾是
を見て、隙なあらせそ、射取や射取やと下知したまへ
ば、小室太郎五百余騎を相具して入かへてせめたり
ければ、平家しばし引けとのたまへども、源氏いと
まもくれず、追かけて追物射にさんざんに射ければ、
平家とつてもかへさず、やがて京へぞのぼられにけ
り、去四月には十万よきにて下りしに、今七月の軍
にまけて帰り上るには、其勢僅に二万余騎、残る七
万よきは北陸道にて討れて、かばねを道のほとりに
さらしけり、平家こんど然るべき侍、大略数をつく
して下されけるに、かく残少く討たれぬる上は、とか
くいふかひなし、流を尽して漁時は太く魚を得とい
ふとも、明年に魚なし、林を焼て狩時は多く獣をと
るといへども、明年に獣なし、後を存て壮健にすく
やかなるを遣はして、少々は官兵を残さるべかりけ
るものをと申人もありけり、内大臣むねと頼み給ひ
たるつる弟の三河守も討れ、又長綱も返らず、一所
にていかにもならんと契り給ひたりつる、めのと子
の景高もうたれぬる上は、大臣殿も心細く覚されけ
るに、父景家申けるは、景高におくれぬる上は、生
ても何かはせん、今は身のいとまを給て、出家遁世
して、後生を弔ふべしとぞ申ける、今度討れたる者
どもの父母妻子のなきかなしむ事限なし、家々には
門戸をとぢて声々に念仏申あひければ、京中はいま
いましき事にてぞありける、昔天宝大きに兵徴駆向
て何処にか去、五月に万里に雲南に行、雲南に瀘水
有、大軍徒より渉に、水湯の如し、未戦十人が二三は
死、村南村北に哭声悲し、児は爺嬢に別れ、夫は妻
に別る、前後蛮に征者千万人行て一人し帰る事なし、
新豊県に男あり、雲南の征戦を恐れつつ、年二十四
にて夜深人静りて後、自ら大石を抱て臂を鎚折き、弓
を張り旗を挙るに倶にたへずして、右の臂は肩によ
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り、左のひぢは折たりといへども、雲南の征戦を免
かれ、又骨くだけ筋傷て昔はさにあらざれども、臂
折てよりこのかた六十年、一支はすたれたりといへ
ども、一身は全し、今に至るまで風吹雨降空くもりさ
ゆる夜は、天の明にいたるまで痛で不眠、されども
終悔ず、悦処は老の身の今に有事を、然らざらましか
ば、当初瀘水の頭に死て、雲南の望郷の鬼となりて、
万人の塚の上に哭こと幻々たらまし、よはひは八十
八、かしらは雪に似たりといへども、其孫に助けら
れて店前に行、命あればかかる事にもあへるにや、
一枝を折らずばいかに桜ばな
八十余りの春にあはまじ W101 K130
五日北国の賊徒事、院御所にて定有、左大臣経宗、右
大臣兼実、左大将実定、皇后宮大夫実房、堀河大納言
忠親、梅小路中納言長方、此人々を召されけるに、
堀河右大臣は参り給はざりけり、右大将、大蔵卿泰経
を御使にて、堀河大納言忠親は唯よくよく御祈祷行
はるべき由を申されける、左大臣は門々をかためら
るべしと申されけるぞ云がひなかりける、右大臣は
東寺にて秘法あり、かやうの時行はるべきにや、宗の
長者に仰せらるべきかと申させ給ふに、長方卿軍兵
の力今は叶ふまじきかと、前内大臣に尋らるべし、其
後の儀にてあるべきかとぞ申されける、廿一日より
延暦寺にて薬師経の千僧の御読経を行はるべし、是
も兵革の御祈也、御ふせには手作布一反、供米袋一、
院別当左中弁兼光朝臣仰を承て、催沙汰有り、行事
の主典代、庁官、御布施供米を相具して西坂本赤山堂
にて是を引くほどに、小法師原をもてうけとる、一
人してあまたをとる法師もあり、又手を空しくして
とらぬものもありけり、然る間、行事官と法師原と
事をいたす、主典代、庁官、烏帽子打落されて、さんざ
んの事にてぞありける、はては主典代とらへて山へ
上せけり、平家の主とする神事仏事の祈り一として
しるしなかりけり、同日、蔵人右衛門権佐定長承て、
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祭主神祇大副大中臣親俊、殿上口に召して兵革平が
ば、太神宮へ行幸あるべきよし申させ給ひけり、太
神宮と申は、昔高天原より天降りましまししを、垂仁
天皇御宇廿五年と申し戊申三月に、伊勢の国度会郡
五十鈴川の上、したつ岩ねに大宮柱ふとしきたてて、
祝ひ始め奉り給ひしより、宗廟社稷の天照御神にて、
御代ごとに崇敬奉行事、吾朝六十余州の三千七百余
社の、大小神祇冥道にも勝てましまししかども、代
代帝の臨幸はなかりしに、ならの御門の御時、右大
臣不比等の孫式部卿宇合の御子、右近衛権少将兼太
宰大弐藤原広継と云人ましましき、天平十二年十月
に肥前国松浦郡にて一万人の凶賊を相語らひて謀叛
を起し、帝をかたむけ奉らんと計る由聞えしかば、
大野東人と申し人を大将軍にて、国々の官兵二万余
人かり集めて、さし遣して打落されにき、其御祈に同
十一月に始めて太神宮へ行幸ありき、今度其例とぞ
聞えし、彼広継討れて後、其亡霊あれて恐しき事ど
も多かりけり、同十八年六月に、太宰府の観世音寺
供奉せられけるに、玄〓僧正といひし人を導師に請
られしを、俄に空かき雲り、黒雲の中より龍王下り
て、彼僧正を取りて天に上りにけり、恐しなどいふば
かりなし、是により彼霊を神と崇められき、今の松
浦の明神是也、其僧正は吉備大臣と入唐して法相宗
を吾朝へ渡したりし人也、入唐の時宋人其名を難じ
て、玄〓とはいかに還て亡といふ通音あり、本朝に帰
りて事に逢べき人なりと申たりけるとかや、さて遙
にほどへて後、彼首を興福寺西金堂の前に落して、
空にはと笑ふ声のしけり、此寺は法相宗の寺なるが
故なり、昔もかかる兵乱の時の御願を立らるる事有
にや、嵯峨天皇の御時、大同五年庚寅平城帝尚侍のす
すめにより世乱れにしかば、其時の御祈に、始て帝
の第三皇女有智子内親王を、加茂の斎に立奉らせ給
ひき、是又斎院の始也、朱雀院の御時、天慶二年〈 乙亥 〉将
門純友が謀反の時の御願に、八幡臨時の祭始れり、
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今度もか様の例ども尋ねらるとぞ聞えし、木曾冠者
義仲は度々の合戦に打勝ちて、六月上旬には、東山
北陸二道の二手に分て打上る、東山道の先陣は尾張
国すのまた川につく、北陸道の先陣は越前国府につ
く、評定しけるは、抑山門の大衆は未だ平家と一也、
おのおの西近江を打上らんずるに、東坂本の前小事
なをかとつ、唐崎、三津、河尻などよりこそ京へは入
らんずるに、例の山の大衆の憎さはとどめやせんず
らん打破りて通らんずるも安けれども、当時は平家
こそ仏神をもいはず、寺をも亡し僧をも失ひ、か様の
悪行をばいたせ、我等は此守護の為に上る者が平家
と一なればとて、山門の大衆を亡さん事、少しも違
はぬ二のまひたるべし、さればとて、此事にためら
ひて、上るべからん道を逗留するに及ばず、是こそや
す大事なれ、いかがあるべきといひければ、手書に
相ぐしたりける、木曾大夫覚明申けるは、山門の骨
法粗承り候に、衆徒は三千人必定一味同心する事候
はず、思ひ思ひ心々なれば、いみじう申奉る事も異
儀を申者あらば、破る事も候、されば三千人一同に
平家と一なるべしといふ事も不定なり、源氏に志思
ひ奉る大衆もなどかなかるべき、牒状を遣して御覧
候へ、事の様は返牒に見え候ぬと覚え候といひけれ
ば、もつとも然るべしとて牒状を山門へ遣す、彼牒
状をばやがて覚明ぞ書きたりける、彼覚明はもとは
ぜんもんなり、勧学院に進士蔵人とて有けるが、出
家して西乗房信救とぞ申ける、信救奈良に有ける時、
三井寺より牒状を南都へ遣したりける、返牒をば信
救ぞ書たりける、太政入道浄海は、平家の糠糟武士の
塵芥と書たりける事を、安からぬ事に思ひて、いか
にもして信救尋取て、誅せんとはかるよし聞えけれ
ば、南都も都のほど近ければ叶はじと思ひて、南都
を逃出べきよしおもひけれども、入道道々に方便を
つけて置かれたるよし聞えければ、いかにももとの
すがたにては叶まじとおもひて、漆を湯にわかして
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あみたりければ、膨脹したる白癩の如くになりにけ
り、かくして南都を真白昼に逃げちれども、手かく
る者なかりけり、信救猶都の辺りにてはとられなん
ずと思ひて、鎌倉へ下りけるに、十郎蔵人行家平家
追討の為に、東国より都へ攻上りけるが、墨俣川に
て平家と合戦をとぐ、行家さんざんに打落されて引
き退く、三河国府に着きてありける所に、信救行合
て行家に付にけり、真の癩にあらざりければ、次第
に膨脹も直りてもとの信救になりにけり、行家三河
国府にて伊勢太神宮へ奉ける願書も、信救ぞ書たり
ける、其後行家兵衛佐に中たがひて、信濃へ越て木
曾に付たりける時よりして、信救、木曾を頼みて、改
名して木曾大夫覚明とぞ申ける、山門への牒状六月
十六日山上に披露す、大講堂の庭に会向して是を披
見す、其状に云、
奉親王宣欲令停止平家逆乱事
右、平治以来、平家跨張之間、貴賎〓手、緇素戴
足、忝進止帝位、恣虜掠諸国、或追捕権門勢家、
令及恥辱、或搦取月卿雲客、無令知其行方、
就中治承三年十一月、移法皇之仙居於鳥羽故
宮、遷博陸之配流於夷夏西鎮、加之不依蒙咎、
無罪失命、積功奪国、抽忠解官之輩、不(レ)可
勝計者歟、然而衆人不言、道路以目之処、重去
治承四年五月中旬、打囲親王家、欲断刹利種
之日、百王治天之御運未尽、其員本朝之守護之神
冥尚在本宮、故奉保仙駕於園城寺既畢、其時
義仲兄源仲家依難忘芳恩、因以奉扈従、翌日青
鳥飛来、令旨密通、有可急参之催、忝奉厳命、
欲企頓参之処、平家聞此事、前右大将喚籠義
仲乳母中原兼遠之身、其上住所付之伺之、怨敵
満国中、郎従無相順、心身迷山野、東西不覚間、
未致参洛之時、有御僉議云、園城寺為体、地形
平均、不能禦敵、仍奉進仙蹕於南都之故城、
遂合戦於宇治橋之辺之刻、頼政卿父子三人、仲
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綱兼綱以下卒爾打立、心中相違之間、被討者多、遁
者少、骸埋龍門原上之土、名施鳳凰城都之宮、畢、
哀哉令旨数度之約、一時難参会、悲哉同門親眤
之契、一旦絶面謁事、抑貴山被同心当家、忠戦
哉否令与力平家悪逆哉否、若被党令与力者、
定我等不慮対天台衆徒、企非分之合戦歟、速
飜平家値遇之僉議、被修当家安穏之祈祷、若猶
無承引者、自滅慈覚門徒、定有衆徒後悔歟、
如(レ)此觸申事、全非恐衆徒之武勇、偏只尊当住
三宝故也、何況叡山衆徒、殊護持国家者先蹤
也、詔書云、朕是右丞相之末葉也、慈覚大師之門
跡也、是則慈恵僧正終所致給験也、早遂彼先
規、上祈請百皇無為之由、下被廻万民豊饒之計
者、七社権現之威光益盛、三塔衆徒之願力新成歟、
爰義仲以不肖之身、誤打廻廿余国、〓渭之間、北
国諸庄園、不遂乃貢之運上、誠是自然是恐戦也、
申而有余、謝而難遁、努々莫処将門純友之類、
神不禀非礼者、忝令知見心中之精勤耳、宜
以此等之趣内令達三千之衆徒、外被聞重貴
賎者、生前之所望也、一期之懇志也、義仲恐惶謹
言、
寿永二年六月十日 源義仲申文
進上 恵光坊律師御房
山門三千の衆徒木曾が牒状を見て、僉議まちまち也、
或は平家の方へよる者も有り、或は源氏の方へよら
んといふ者もあり、されば心々の僉議まちまちなり
けれども、所詮我等、専、金輪聖王天長地久を祈り奉
る、平家は当帝の御外戚、山門にして帰敬を致され
ば、今にいたるまで彼の繁昌を祈りき、されども頃
年よりこのかた平家悪行法にすぐるる間、四夷乱を
起し万人是を背くによて、討手を遣はさるといへど
も、諸国へ還て異賊に追落されて、度々逃帰り畢、是
偏に仏神不加加護運命末に臨めるによりて也、源
家は近年度々の合戦に打勝て、官外皆以帰伏す、機
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感時至り運命既開たり、何当山獨宿運傾たる平家に
同意して、運命さかんなる源氏を背くべきや、此条山
王七社いわう善逝の冥慮はかりがたし、就中今の牒
送之趣、道理非無半、須平家値遇の思ひを飜して、
速に源家合力の思ひに任すべき旨、一同にせんぎし
て返牒を送る、其状に云、
右、六月十日御書状、同十六日到来、披閲之処、数
日之欝念一時解散、故何者源家者、自古携武弓、
奉仕朝廷、振威勢禦王敵、爰平家者背朝章
起兵乱、軽皇威好謀叛、不被征平家者、争
保仏法哉、爰源家被制伏彼類之間、追取本
寺之千僧供物、依侵損末社之神輿、衆徒等深訴
訟、欲達案内之処、青鳥飛来幸投芳札、於今者
永飜平家安穏之祈祷、速可随源家合力之僉議
也、是則歎朝威之陵遅、悲仏法之破滅故也、夫
漢家貞元之暦、円宗興隆、本朝延暦之天、一乗弘
宣之後、桓武天皇興平安城、親崇敬一代五時之
仏法、伝教大師開天台山、遠奉祈百王無為之御
願以来、守金輪護玉体、在三千之丹心飜天
変払地天、唯是一山之効験也、因茲代々賢王、皆
仰蘿洞之精誠、世々重臣、悉恃台岳之信心、所謂
一条院御宇之時、偏慈覚大師門徒之日綸言明白也、
九条右丞相并御堂入道太相国、発願文曰、雖居
黄閣之重臣、願為白衣之弟子、子々孫々、久固帝
王皇后基、代々世々、永得大師遺弟之道、同施賢
王無為之徳、加之永治二年鳥羽法皇忝叡山御願文
云、昔践九五之尊位、今列三千之禅徒者也、倩
思之感涙難押、静案之随善尤深、星霜四百廻、皇
徳三十代、天朝久保十善之位、徳化普四海之民、
守国守家之道場、為君為家之聖跡也、運上本
寺千僧供物、雖作末社神興、末寺諸庄園併如旧
被安堵者、三千人衆徒合掌、而祈玉体於東海之
光、一山揚声、而傾平家於南山之宮、凶徒傾首来
詣、怨敵束手乞降、十乗床上、鎮扇五日之風、三密
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壇前、遙濯十旬之雨者、依衆徒僉議執達如件、
寿永二年七月日 大衆等
木曾冠者牒を見て、大に悦で、もとより語ふ所の悪
僧白井法橋幸明、慈雲房法橋寛覚、三神闍梨源慶等
を先として登山す、平家又是をも知らずして、興福
寺園城寺は大衆憤りを含みたる折節なれば、語ふと
もなびくまじ、山門は当家の仇を結ばず、当家又山
門のために不忠を存ぜず、山王大師に祈請して三千
の衆徒を語らはばやとて、一門卿相十余人同心連署
して、願書を山上へ送、其状云、
敬白
可以延暦寺帰依准氏寺以日吉神尊崇
如氏社一向仰天台仏法事
右、当家一族之輩、殊有祈請、旨趣何者、叡山者
桓武天皇御宇、伝教大師入唐帰朝後、弘円頓教法
於斯処、伝舎那大戒於其中以来、為仏法繁昌
之霊跡久備鎮護国家道場、方今伊豆国流人前
右兵衛権佐源頼朝、不悔身過、還嘲朝憲、加之
与奸謀致源氏義仲行家以下凶党同心、抄掠数
国土貢、押領万物、因茲且追累代勲功之蹤、且
任当時弓馬之芸、速追討賊徒、可降伏凶党之
由、苟〓勅命頻企征伐、魚鱗鶴翼之陣、官軍不
得利、星旗電戟威、逆徒似乗勝、若非仏神之
加被、争鎮叛逆之凶乱、是以一向帰天台之仏法、
不退恃日吉之神恩而已、何況忝憶臣等之曩祖、
可謂本願余〓、弥々可崇重、弥々可恭敬、自今以
後、山門有慶為一門之慶、社家有鬱、為一家
之鬱、付善付悪成喜憂、各伝子孫、永不失墜、
藤氏者以春日社興福寺、為氏寺氏社、久帰依
法相大乗宗、当家者以日吉社延暦寺、如氏社氏
寺、親値遇円実頓悟之教、彼者遺跡也、為家思
栄幸、是今之精祈也、為君請討罰、仰願山王七社
王子眷属、東西満山護法聖衆、十二上願、医王善逝、
日光月光、十二神将、照無二之丹誠垂唯一之玄
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応然則邪謀逆心之賊、束手於軍門、暴虐残害之
徒、伝首於京都、我等精苦、諸仏神其捨給哉、仍当
家公卿等、一口同意作礼、而祈請如件、敬白、
寿永二年七月日
従三位行右近衛権中将平朝臣資盛
従三位平朝臣通盛
従三位行右近衛権中将兼丹波権守
平朝臣維盛
正三位行左近衛権中将兼但馬守平朝臣重衡
正三位右衛門督平朝臣清宗
参議正三位行太皇太后宮権大夫兼
修理大夫備前権守平朝臣経盛
征夷大将軍従二位行権中納言兼
左兵衛督平朝臣知盛
従二位行中納言平朝臣教盛
正二位行権大納言兼
陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
前内大臣従一位平朝臣宗盛
近江国佐々木庄領家預所得分等、且為朝家安穏
且為資故入道菩提、併所回向千僧供料候也、
件庄早為寺家御沙汰可令知行給候、恐々謹
言、
七月廿九日 平宗盛
謹上 座主僧正御房
とぞ書たりける、大衆を語ひし事は、延暦二年伝教大
師当山に上り給ひて、鎮護国家の道場を開、一乗円
宗の教法を弘め給しより此かた、仏法さかりにして
王法を守奉る事年久し、然るを此二三年が間東国北
国の凶徒等、多くの道々をふさぎ、国税官物を不奉、
庄には年貢所当をよくりうし、朝家を敵として綸言
に随はず、剰へ都へ攻上らんとす、防戦に力既に尽
ぬ、仍神明の御資にあらざらんよりは、争か悪党を退
けん、山王大師憐みを垂給へ、三千の衆徒力を合せよ
と也、是を聞人々したしきもうときも、心あるも心
なきも涙をながし、袖をしぼらぬはなかりけり、さ
れども年頃日頃のふるまひ、神慮にも叶はず、人望
も背き果しかば、力及ばず、既に源氏同心の返牒を
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送る、かるがるしく今又其儀を変るに能はず、誠に
さこそはとて大衆事のよしを憐みけれども、許容す
る衆徒もなかりけり、かかりければ人口のにくさは
あは面白き事を、源氏は勢も多く手もきき心もたけ
かんなれば、一定源氏勝て平家まけなんずとて、己が
上に徳つき官なりたる様に、面々にささやき悦びけ
るぞ浅ましき、十八日、肥後守貞能鎮西より上洛、
西国の輩謀叛の由聞えければ、其儀鎮めん為に、去
去年下りたりけるに、菊池次郎城郭を搆へてたて籠
る間、輙くせめ落し難く有りけるに、貞能九州の軍
兵を催してこれをせむる、軍兵多く打落されてせめ
戦に力なし、ただ城を打囲て守る、日数積りにけれ
ば、城の内に兵粮米つきて菊池終に降人になりにけ
り、貞能九国に兵粮米あて催す、庁官一人宰府使二
人貞能使一人其従類八十余人、権門勢家の庄園をい
はず責催す、菊池原田が党類帰伏す、彼等を相具し
て今日入洛す、未尅ばかりに八条を東へ河原を北へ、
六はらの宿所へ着にけり、其勢僅に九百余騎千騎に
足らざりけり、前内大臣宗盛車を七条に立てて見給
へり、鎧着たる者二百よき、其中に前薩摩守親頼う
す青のすずし、ぎよれう[* 「ぎよれう」に「魚綾」と振り漢字]の直垂に赤威の鎧着て、白
蘆毛なる馬に乗て、貞能が屋形口にうちたりけり、
預刑部卿憲方孫相模守頼憲が子也、勧修寺の嫡々な
り、指武勇の家に非ず、こはいかなる事ぞやと見る
人ごとにそしりあへり、今日の武士には目もかけず、
ただ此人をぞ見ける、西国は僅に平ぎたれども、東
国は弥勢付て、すでに都へ打上ると聞えしかば、平
家次第に心よわくなりて、防ぎ支へる力もつきて都
にあとを留め難ければ、内をも院をも引具し参らせ
て、一まどなりともたすかりやすると、西国の方へ落
行給ふべきよしをぞ議せられける、
七月十三日、暁より何といふ事は聞分けねども、六
波羅の辺大に騒ぐ、京中も又静かならず、資財雑具
東西に運び隠す、こはいかにしつる事ぞやとて、魂
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をけす事斜ならず、大方は帝都は名利の地鶏鳴安思
なしといへり、治れる世だにも此の如し、況んや乱
れたる時は理也、吉野の奥までもいらまほしく思へ
ども、諸国七道一天四海の乱なれば、深山遠国もい
づくの浦かおだしかるべき、三界無安、猶如火宅、
衆苦充満、甚可怖畏と説き給ふ、如来の金言一乗の
妙文なり、なじかは違ふべきや、如何して此度生死
をはなれて、極楽浄土へ往生すべきとぞ歎きあへり
ける、此暁俄にさわげる事は、美濃源氏佐渡右衛門
尉重実といふ者あり、一年筑紫八郎為朝が、近江国北
山寺に隠れて有りけるを搦めて出しけるに依て、右
衛門尉になり、源氏にはなたれて平家にへつらひけ
るが、乗かへ一騎ばかり相具して、瀬多を廻りて夜半
ばかりに六はらに馳上て、北国の源氏既に近江の国
へ打入て、道々をうちふさぎ、人を通さざるよしを申
たりければ、六波羅京中騒ぎあへり、かかりければ新
三位中将資盛卿大将軍として、貞能以下宇治橋をめ
ぐりて近江国へ下向す、其夜は宇治にとどまる、其
勢二千余騎、又新中納言知盛卿、本三位中将重衡大将
軍として瀬多より近江国へ下向す、それも今夜は山
科に宿す、其勢三千余騎、去程に源氏の大衆と同心
してしかば、宇治勢多をば廻らずして、山田、矢馳、
堅多、多木の浜、三津、河尻所々の渡より、小舟をま
うけて湖の東浦より西浦へ押渡して、十日は林六郎
光明を大将軍として、五百余騎天台山へ競ひあがる、
惣持院を城郭とす、三塔の大衆同心して、ただ今大
嶽を下て平家を討とすとののしる、凡東坂本には、
源氏の後陣じうまんせり、此上は、新三位中将も宇
治より京へせめ入、本三位中将も山科より都へせめ
入ぬ、又、十郎蔵人以下摂津国河内のあぶれ源氏ど
も、河尻、渡辺を打ふさぐとののしる、足利判官代義
清も丹波に打越えて、大江山生野の道をうちふさぐ
と聞ゆ、かかりければ平家の人々色を失ひて、さわ
ぎあひけり、権亮三位中将維盛北方にのたまひける
P480
は、我身は人々に相具して都を出べきにて候ぞ、い
かならん野のすゑ山のすゑまでも、相具し奉るべき
にてこそ候へども、おさなき者ども候へば、いづくに
落付べきともなき旅のそらに出て、波にただよはん
こと心うし、行先にも源氏道をきりてうち落さんと
すれば、おだしからんことも有がたし、世になきも
のと聞なし給ふとも、あなかしこあなかしこ、さまなどやつ
し給ふべからず、いかならん人にも見え給ひて、幼
きものどもをはごくみ、我が身もたすかり給へ、あ
はれいとをしといふ人もなどかなかるべきとのたま
へば、北の方是を聞給て、袖を顔におしあてて、と
かくの返事もし給はず、引かづきてふし給ぬ、やや
久しくありて起上りてのたまひけるは、日頃は志浅
からぬやうにもてなし給ひければ、人しれずこそ深
く頼み奉りしに、いつの間にかはりける御心ぞと恨
めしけれ、いかならん所へも伴ひ奉りて、同野の露
ともきえ、同底のみくづともなりなん事こそ本意な
れ、父もなし母もなし、あはれをかくべき親しき方
もなし、人を頼み奉るより外は又頼む方なし、先世
の契りあれば、御身濁りこそあはれと思ひ給ふとも、
人ごとに情をかくべきに非ず、いかならん人にも見
えよなど承る事の恨めしさよ、別奉らん後は又誰に
かはみえ候べき、幼き者共も打捨られ奉らせては、い
かにして明し暮し候べき、誰かはごくみ誰か憐むべ
しとて、か様に留め置き給ふやらんとて、涙もかき
あへずなき給へば、三位中将又のたまひけるは、誠
に人は十四維盛は十六の年より見そめ奉りて、今年
は十年になりぬとこそ覚ゆれ、火の中水の中にもい
らばともに入、沈まばともに沈み、限ある道にも後
れ先立ち奉らじとこそ思ひつれども、かく心うき有
様にて合戦の道に思ひ立ちては、ながらへん事も不
定なり、行衛も知らぬ旅の空にてうきめを見せ奉ら
ん事も、心苦しなど思ふ故にてこそあるに、かやう
に怨給ふこそ立別れ奉る悲しさにまさりて、心苦し
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く覚ゆれとてなき給ふ、若君姫君のさうにまします
も、女房どもの前に並居たるも、是を聞て声ををし
まずなき合ひけり、げにことわりと覚えて哀也、此
北の方と申は、中御門新大納言成親卿の御娘也、容
顔世に越えて心優におはしますことも、尋常にはあ
り難し、かかりければ、なべての人にみえん事いたは
しく覚されて、女御后にもと父母思ひ給けり、かく
聞えければ、人々哀と思はぬはなかりけり、法皇此
よし聞召て、御色に染める御心にて忍びて御書あり
けれ共、是もよしなしとて御返事申させ給はず、
雲井より吹来る風のはげしくて
涙の露のおちまさるかな W102 K132
と口ずさみ給ひけるこそやさしけれ、父成親卿法皇
の御書ありけるよし聞給て、あわて悦び給けれども、
姫君あへて聞入給はねば、親のため不孝の人にてま
しましける也、父子の儀おもひけるこそ悔しけれ、
けふより後は父子のちぎりはなれ奉りぬ、御方へ人
行通ふべからずとのたまひければ、上下恐れ奉りて
通ふ人もなし、めのとごの兵衛佐と申ける女房一人
ぞわづかに許されてかよひける、是に付きても姫君
は世のうき事を御もとゆひにてすさみ給ける
結びつる歎きもふかき元結に
ちぎる心はほどけもやせし W103 K133
と書きて引むすびてすてたまひけり、兵衛佐是を見
て後にこそ思ふ人ありともしりにけれ、色に出ぬる
心の中をいかでか知るべきと、さまざま諌め申ける
は、女の御身とならせ給ては、かやうの御幸をこそ
神にも祈り、仏にも申させ給て、あらまほしき御事に
て候へと申ければ、姫君涙を押へて、我身には人し
れず思ふ事あり、いく程ならぬ夢幻の世の中に、つ
きせぬ思ひの罪ふかければ、何事もよしなきぞよと
て引かづきてふし給ふ、兵衛佐申けるは、幼きより
立去る方もなくなれ宮仕ひ奉るに、かく御心置せ給
ひけるこそ心うけれと、さまざまに終夜恨み奉けれ
P482
ば、姫君まげてありし殿上人の宴醉に見初めたりし
人の、ひたすら愛顕ていひし事を聞かざりしかば、此
世ならぬ心の中をしらせたりしかば、いかばかりか
くと聞かば、歎かんずらんと思ひてぞよとのたまへ
ば、小松殿の公達権亮少将殿こそ申させ給ふと聞し
が、さては其御事にやと兵衛佐思ひて、小松殿へ忍
で参りてしかじかの御事など申ければ、少将さるこ
とありとて、忍びやかに急ぎ御車を遺はして迎へ奉
りけり、年ごろにもなり給にければ、若君姫君まう
け給へる御中なり、若君は十歳姫君は八にぞ成給け
る、我をば貞能が五代とつけたりしかばとて、是を
ば六代といはんとて、若君をば六代御前とぞ申ける、
姫君をば夜叉御前とぞ聞えし、
廿四日亥の刻計りに主上忍びて六はらに行幸あり、
れいよりも人少にて、こといそがはしく人々あわて
さわぎたり、ある北面下臈法住寺殿へ馳参て、潜に
法皇に申けるは、小山田別当有重とて相親しく候が、
此二三年平家に番勤め候けるが、唯今語申候つる平
家の殿原は、暁西国へ落らるべく候とて、以外にひ
しめき候なるが、ぐし参らせんとて既に公家を迎へ
参らせて候也、君をば程近う渡らせ給へば、安しき
と渡し参らせよとて、人々少々参候よし申ければ、
法皇は御心よげなる御気色にて嬉しう告げ申たり、
此事又人に語るべからず、御はからひあるべしと仰
の有けるを、承りもはてず、いそぎ御所をばまかり
出にけり、其後に夜ふくるほどに、内大臣は薄塗の
烏帽子に、白帷子に大口ばかりにて、ひそかに建礼門
院御方に参りて申給ひけるは、此世の中さりともと
こそ思ひつれども、今はかなふまじきにこそ候ぬれ、
都の中にて最後の合戦して兎も角もならんと申さる
る人も候へども、それも然るべしとも覚え候はず、
主上の御行衛君の御有様、いといたはしく忝く思ひ
参らせ候へば、かなはざらんまでも、西国の方へお
もむきて見候ばやとおもひ候、主上皇宮をも具し奉
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り参らせ候はんずれば、鎮西の輩よもそむき候はじ、
源氏はいみじく都へ入て候とも、誰をか頼み候べき、
唯天を仰で主なき犬のやうにてこそ候はんずれ、其
の時にならば与力のやつばらも、一定心がはりして
思ひ思ひになり候はんず、其後は主上都へ帰し入参
らせ候べきよし存候と申されければ、女院は御涙に
むせばせましまして、兎も角もただよき様にとぞ仰
ありける、内府又申されけるは、主上の御事はさる
事にて、儲君の二宮をも具し参らせ候へ、やがて法
皇をもぐし参らせ候べし、院、内をだにも方人にとり
参らせ候なば、いづくへまかりたりとも、世の中は
せばかるまじ、源氏の奴原いかに狂ひ候とも、誰を
方人にしてか世をも取候べきなど申て、其夜は女院
の御前に、終夜越方行末の事共細々と申承に付ても、
御袖もいたく萎れにけり、女院は御衣の袂に余る御
涙、いとどところせきてぞ見えさせ給ける、秋の長
夜の明方ちかくぞなりにける、さても同夜半計に法
皇密に殿上に出御ありて、今夜の番は誰そと御尋あ
り、左馬頭資時と申されたりければ、北面に伺公し
たらん者、皆召して参れと御定あり、壱岐判官知康、
薩摩判官信盛、源内左衛門尉定安候けるを、資時召し
て参られたりけるを、やおのれらは是にあれ、ただ
今きと忍びてあるかばやと思ふぞ、かやうの事を下
臈に聞かせければ、披露する事もあり、各々心を一に
して此女房ごし仕れと法皇仰せありければ、御前立
さらば後あしき事もこそあれとて、各々畏て頓て御輿
をつかまつる、下すだれかけられたり、西の小門と仰
ありて出させまします、浄衣着たる男一人参りあふ、
あれは誰ぞと申ければ、為末と名乗る、法皇聞召し
しらせ給て、御供仕れと仰ありければ、参りけり、
年来伊勢氏人為末とて北面に候ける者也、七条京極
を北へいそげと仰せ有りければ、各々あせ水になりて
仕る、為末近き御幸かとおもひたれば、遠き御幸に
てありけるよとて、知りたる人を尋ぬるに二所まで
P484
空し、二条京極にて、征矢に黒ぬりの弓をかりえて、
浄衣のそばたかくはさみてはしる、これを待ちつけ
んとや思召けん、いそがずともくるしきにと仰有り、
一条京極にて弓のつるつけするおと聞ゆ、其こゑい
かめしく聞ゆ、院は糺の明神をふし拝ませ給て、東
のしらむほどになりにければ、法皇御後を御覧ずれ
ば、為末矢おひながら脇ごしに参るぞ、頼もしき武
者かなと仰ありて笑はせ給けり、かくて夜もほのぼ
のと明ければくらま寺へぞ入せ給ける、
廿五日、橘内左衛門尉季康と申ける平家の侍は、院
にも近く召仕はれければ、折しもその夜法住寺殿に
うへぶしたりけるが、常の御所のかたさわがしくさ
さめき合ひて、しのび声にて女房たちなかるる声の
しければ、怪しと思ひて聞ければ、御所の渡らせ給
はぬは、いづちへやらんとて騒ぎあへり、季康浅ま
しと思ひて、急ぎ六波羅へはせ参りたり、内府はい
まだ女院の御所より出給はぬほど也、やがて女院の
御所へ参りて、内大臣殿呼び出し奉りて此由を申、
内府大にあわてさわぎて、ふるひ声にてよもさる事
あらじ、ひがごとにてぞ有るらんとのたまひながら、
急ぎ法性寺殿へ馳参り給ひて、尋ね参らせられけれ
ば、夜番近く候はれける人々皆候はれけり、まして
女房丹後のつぼねを始めとして、一人もはたらき給
はず、大臣殿、君は何処に渡らせ給ふぞと申されけれ
ども、我こそ知り参らせたれといふ人もなし、ただ
各々なきあへり、浅ましなど云ばかりなし、去程に夜
も明ぬ、法皇渡らせ給はずと披露ありければ、上下
諸人はせ集りて、御所中まどひさわぐ事斜ならず、
まして平家の人々、唯今家々にかたきのうち入たら
んも限りあれば、これには過じとぞ見えし、軍兵落
中に充満してありければ、平家の一門ならぬ人も、さ
わぎ迷はぬは一人もなかりけり、日比は法皇の御幸
をもなし奉らんと、支度せられたりけれども、かく
渡らせ給はねば、内府は頼む木下に雨のたまらぬ心
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地して、さりとては行幸ばかりなりともなしまいら
すべしとて、御輿さしよせたり、忝き鳳輦を西海の
浪にいそぐべきにはあらねども、主上いまだいとけ
なき御よはひなれば、何心なく奉りぬ、神璽宝剱と
り具し、建礼門院も同じ輿に奉る、内侍所も渡し奉
りぬ、印鑑、時簡、玄上、鈴鹿に至る迄、とり具すべ
しと平大納言時忠下知し給ひけり、されどもあまり
にあわてにければ、とりおとす物多かりけり、昼御
座の御剱も残しとどめてけり、御輿いださせ給ひけ
れば、前後に候人は、平大納言時忠、内蔵頭信基ば
かりぞ、衣冠正しうして供奉したりける、其外の人
人は、公卿も近衛司も、御綱佐も皆鎧を着給へり、
女房は二位殿をはじめ奉りて、女房輿十二ちやう、
馬の上の女房は数をしらず、七条を西へ朱雀を南へ
行幸なる、夢などの様なりし事どもなり、一年都う
つりとてあはただしかりし御幸は、かかるべかりし
しるしにてありけるよと、今こそ思ひ合すれ、かかる
さわぎの中に何者かたてたりけん、六はらの惣門に
札に書てたてけるは、あづまよりともの大風吹来れば
西へかたぶく日にやあるらん W104 K134
六波羅の旧館西八条の蓬屋よりはじめて、池殿、小
松殿以下の人々の宿所三十余所、一度に火をかけた
れば、余炎数十町に及びて、日の光も見えざりけり、
或階下誕生の霊跡、龍楼幼稚春宮、博陸補佐の居所、
或相府丞相旧室、三台槐門の故亭、九棘怨鸞の栖也、
門前繁昌堂上栄花砌、如夢如幻、強呉滅長有荊蕀、
姑蘇台之露〓々、暴秦衰長無虎狼、咸陽宮之煙片々
たりけん、漢家三十六宮の楚項羽の為に亡されけん
も、是には過じとぞ見えし、無常春花随風散、有涯
暮月伴雲隠、誰栄花如春花不驚、可憶命葉与
朝露共易零、蜉蝣戯風懇逝之楽幾許、螻蛄諍露
合散之声伝韻、崑閣十二楼上仙之楼終空、雉蝶一万
里中洛之城不固、多年経営一時魔滅、法皇仙洞を出
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させおはしまして見えさせ給はず、主上は鳳闕を去
て、西国へとて行幸なりぬ、関白殿は吉野山の奥に
籠らせ給ぬと聞ゆ、院宮みやばらは、嵯峨、大原、八
幡、賀茂などの片辺にかくれさせ給ひぬ、平家は落
ちたれども、源氏もいまだ入かはらず、此都すでに
主もなし、人もなきやうにぞなりにける、天地開闢
より以来、いまだかかる事あるべしとは誰かしらま
し、彼聖徳太子の未来記にも、今日の事こそゆかしけ
れ、平相国禅門をば八条太政大臣と申き、八条より
北、坊城より西方に一町の亭有し故也、彼家は入道
の失せられし暁にやけにき、大小棟の数五十余に及
べり、六波羅とてののしりし所は、故刑部卿忠盛の
世にいでし吉所也、南は六はらが末、賀茂河一町を隔
てて、もとは方一町なりしを此相国の時造作あり、
これも家数百七十余宇に及べり、是のみならず、北
の鞍馬路よりはじめて、東の大道をへだてて、辰巳
の角小松殿まで廿余町に及ぶ迄、造作したりし一族
親類の殿原の室、郎等眷属の住所細かにこれをかぞ
ふれば、五千二百余宇の家々一どに煙と上りし事、
おびただしなどいふばかりなし、法住寺の院内ばか
りは「しばしやけざりければ、仏の御力にて残るかと
思ひしほどに、筑後守家貞が奉行にて、故刑部卿忠
盛、入道相国、小松内府の墓所どもを掘りあつめて、
かの御堂の正面の間に並べ置きて、仏と共にやきあ
げて、骨をば首にかけ、あたりの土をばなら[B がイ]し、家貞
主従落ちにけり、此寺は入道相国、父の孝養のために
多年の間造磨て、代々本尊木像と云、画像と云、烏瑟
を並べ金客を交てましまししが、荘厳美麗にして時
にとりてならびなし、今朝まで住侶貝を吹、禅侶声を
ならし、たうとかりし有様の、須臾の間に永く絶に
けり、されば仏のとき置きたまへる畢竟空の理は是
ぞかし、あはれ也、諸行無常眼前なり、権亮三位中
将の方に人参りて申けるは、源氏既に打入て候、暁
より法皇も渡らせ給はずとて、六波羅にはあわて騒
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ぎ、西国へ行幸ならせたまひ候、大臣殿以下の殿原、
我も我もとうち立ち給ふに、いかに今までかくて渡
らせ給ふぞと申ければ、三位中将は、日頃おもひ儲
たりつる事なれども、さしあたりては、あな心うやと
おもひ給ひて出給ひぬ、つかの間もはなれがたき人
人を、頼もしき人一人もなきに、捨てて出なんずる
事こそ悲しけれと思召すに、涙先立ちてせきあへ給
はず、北の方おくれじと出立給へども、兼て申しや
うに具し奉りては人のためいとをしきぞ、ただ留り
給へとのたまへば、いかにかくはのたまふぞとて、涙
もせきあへずさけび給へば、さまざまに拵へ給へど
も更に叶ふべくもなし、程もふれば、大臣殿さらぬ
だに、維盛をば二ある者とのたまふなるに、今まで
打出ねば、いとどさこそ思ひ給ふらめとて、なくな
く出給へば、北の方袖をひかへてのたまひけるは、
父もなし母もなし、都に残し留めては、いかにせよ
とてふりすてて出給ふぞ、野の末、山のすゑまでも、
引具してこそともかくも見なし給はめとて、人目を
つつまずなきこがれ給ふぞ心ぐるしき、さりとては
いづくにも落留まらん所より、急ぎ迎へとり参らせ
んとなぐさめ給ふほどに、新三位中将、左中将以下の
弟たち四五人はせ来りたまひて、我等は此御方をこ
そ守り参らせ候に、行幸は遙かに延びさせ給ふに、
いかなる御遅参ぞやとのたまへば、弓の筈にてみす
をかきあげて、これ御覧ぜよとのばら、ただ軍の先
をこそかけめ、是をばいかがやるべきとて、弟なん
どにもはばからず涙をぞながされける、さても有る
べきにあらねば、思ひきりて出給けり、中門廊にて
鎧取てきて馬引寄せて、既に打出んとし給ひければ、
六代御前姫君中門に走り出、鎧の左右の袖に取つき
て、父御前はいづくへわたらせ給ふぞや、我等も参
らんとて慕ひ給ひしこそ、げにうき世のほだしとは
見えけれ、誠に目もあてられずぞ有ける、斎藤五宗
貞、斎藤六宗光とて、年来身近く召仕ひ給ふ侍あり、
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兄弟也、中将此二人を召してのたまひけるは、己等
をば年頃かげの如く、身をはなさず召仕つれば、召
ぐしていかにもなりたらん所にて、恥をも隠させん
とこそ思ひつれども、いとけなき者ども留置くが覚
束なければ、己等二人は留りておさなき者どもの杖
柱ともなり、もし安穏にて帰る事あらば、汝等西国
へ下らん志にはおもひ落すまじきぞ、己等ならでは
此等がために心ぐるしかるべきぞと、こしらへ給へ
ば、二人の者どもくつばみの左右にとりつきて申け
るは、君に仕へまゐらせしより、もしもの事あらば、
いのちをすて候はんと思ひきりて候き、こんどすて
られまいらせば、ほうばいに再おもてをあはせ候な
んや、理をまげて御供に候べしと申ければ、多くの
者共の中に思ふ仔細ありてこそ留めおけ、など口を
しくかくは申やらん、かかるをりふしなれば、ただ
とてもかくても思ふにやとうらみたまへば、心うく
悲しくは思ひけれども、涙を押へながら留りぬ、遙に
見送り奉りて、なほも走りつきてしたひけれども、
まこと思召すやうのありてこそ留め給ふらめ、しき
りにこしらへ給へる事を、そむき申さん事もかへり
て不忠なるべければ、追こそまいらめと思ひて、な
くなく留りにけり、中将はかく心づよくふりすて出
給ひけれども、なほさきへは進み給はず、うしろへ
のみ引返すやうに覚えて、涙にくれて行先も見え給
はず、鎧の袖もいたくしほれにければ、弟たちの見
給ふもさすがつつましくぞ思召す、北の方は年頃あ
りつれども、これ程なさけなき人とはしらざりけり、
いつよりかはりける心ぞやとて、引かづきてふし給
へば、若君姫君も前にふしまろびてなき給ふ、かく
捨られ給ひぬれば、いかにして片時もあかし暮すべ
しともおぼしめさず、世の恐しさも堪へ忍ぶべき心
地もし給はず、身一人ならばせめてはとにもかくに
もありなん、幼き人々の事を思ひ給ふぞ、いとど道
せばくかなしかりける、池大納言頼盛は、池殿に火
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かけて子息保盛、為盛、仲盛、光盛等引具して打出ら
る、侍ども皆おち散りて、わづかに其勢百騎、鳥羽
の南の赤井河原に暫くやすらひており居られ、大納
言四方を見廻してのたまひけるは、行幸にはおくれ
ぬ、かたきは後にあり、中空なる心地のするはいか
にとの原、此度などやらんにげ憂きぞとよ、ただ是
より帰らんと思ふなり、都にては弓矢とりの浦やま
しくもなきぞ、されば故入道にも従ひてしたがはざ
りき、さうなく池殿を焼つるこそ返々もくやしけれ、
いざさらば京の方へ鎧をば各々用意のために着るべ
し、人は世にあればとて、奢るまじかりけることか
な、入道のすゑは今はかうにこそあんめれ、いかに
もはかばかしかるまじ、都を迷ひ出ていづくをはか
りともなく、女房をさへ引ぐして旅立ぬる事の心う
さよ、侍ども皆赤印取すてよとのたまひければ、と
かくする程に、未の時ばかりになりにけり、京へ今
は源氏打入ぬらん、いづちへか入らせ給ふべきとさ
ぶらひども申ければ、何様にも京を離れてはいづち
へか行べき、とくとくとて大納言前に打て馬を早め
て帰給ふ、みるもの怪しくぞ思ひける、九条より朱雀
を上りに、八条女院御所、仁和寺の常葉殿へ参り給
ふ、大納言は女院の御めのと子、宰相殿と申女房に相
ぐせられたりければ、此御所へ参らるる、女院より
始め参らせて女房たち侍ども、いかに夢かやと仰あ
り、大納言は鎧ぬぎ置給ひて、直垂計りにて御前近く
申されけるは、世の中の有さまただ夢のごとくにて
候、池殿に火をかけて心ならず打出て候つれども、
つらつらあんじ候へば、都に留りて君の見参にも入、
出家入道をも仕りて、静に候て後生をも助からんと
存候て、かく参りて候と申されければ、女院、三位殿
を御使にて、誠にそれもさる事なれども、源氏既に
京へ入て平家を亡すべしと聞ゆ、さらんにとりては、
此内にてはかなふまじ、世の世にてあらばや、仰も
仰にてあらめと仰ありければ、頼盛畏て申されける
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は、誠に左様の事になり候はば、いそぎ御所をもま
かり出候なん、なじかは御大事に及候べきと申され
ければ、女院又いかにもよくよく相はからはるべし、
但源氏とののしるは、伊豆の兵衛佐ぞかし、それは
のぼりぬるやらん、のぼりたらばさりともよも別事
あらじ、かしこくこそ故入道と一心におはせざりけ
れ、今は人もよし、平家の名残とて世におはしなん
ずと仰の有ければ、頼盛世にあらんと申候はんでう
今何事か候べき、ただ今落人にてここかしこさまよ
ひ候はんことのかなしさにこそ、かやうに参りて候
へ、故母池尼上が事申出して、其かたみと頼朝は思
はんずるぞ、世にあらんと思ふもその為也と、頼朝が
度ごとに申遣はして候し也、其文どもこれに持ちて
候とて、中間男の首にかけさせたる皮袋よりとり出
して見参に入られけり、同じ筆なるもあり、またかは
りたるもあり、然れども判はいづれもかはらずと御
覧あり其上討手づかひ上るにも、あなかしこあなかしこ、
池殿の殿原に向ひて弓をも引くべからず、弥平佐衛
門宗清に手かくなと、国々軍兵にも兵衛佐いましめ
られけるとかや、越中次郎兵衛盛次、大臣殿御前に
進み出て申けるは、池殿は留まらせ給ひ候にこそ、
あはれ安からず口惜く候ものかな、上はさる御事に
候とも、侍共が参り候はぬこそいこんに候へ、矢一射
かけて参り候はんと申ければ、中々さなくともあり
なん、年比の重恩をわすれて、いづくにもおちつか
ん所を見送らずして、留まる程の者は、源氏とても心
ゆるしせじ、さほどの奴ばらありとてもなににかは
せん、とかくいふに及ばずとぞ大臣殿のたまひける、
三位中将はいかにと問たまひければ、小松殿の公達
もいまだ一所も見えさせ給はずと申ければ、さこそ
有んずらめとて、よに心細げにおぼして、御涙の落
ちけるを押のごひ給ふを、新中納言見給ひて、皆お
もひまうけたる事也、今更驚くべきに非ず、都を出
ていまだ一日だにも過ぬに、人々の心も皆かはりぬ、
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行先こそおし計らるれ、都にていかにもなるべかり
つる物をとて、大臣殿の方を見やり給て、つらげに
おほされたり、げにもと覚えて哀也、去程に、権亮
三位中将維盛、新三位中将資盛、左中将清経以下兄
弟五六人引ぐして、淀東、六田河原を打過て、関戸院
のほどにて行幸に追ひ付給へり、其勢僅に三百騎ば
かりぞありける、大臣殿は此人々を見つけ給ひて、
すこし力付きたる心地して、今まで見え給はざりつ
れば、覚束なかりつるに、うれしくもとのたまひけ
れば、三位中将幼き者どものしたひ候つる程に、今
までとて御涙の落けるを、さりげなき様に紛らかし
給ける有様、まことに哀にぞみえける、大臣殿又いか
に具し奉り給はぬぞ、留置き奉りては心ぐるしき事
にこそとのたまへば、行末とてもたのみ候はずとて、
問につらさといとど涙ぞ流しける、池大納言の一類
は、今や今やと待給けれども終に見え給はず、其外
の公卿には、前内大臣宗盛、平大納言時忠、平中納
言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、左衛門督清
宗、本三位中将重衡、権亮三位中将維盛、越前三位
通盛、新三位中将資盛、殿上人には、内蔵頭信基、
皇后宮亮経正、左中将清経、薩摩守忠度、小松少将
有盛、左馬頭行盛、能登守教経、武蔵守知章、備中
守師盛、小松侍従忠房、若狭守経俊、淡路守清房、
僧綱には、二位僧都全親、法勝寺執行能円、中納言
律師忠快、侍には受領、検非違使、衛府、諸司亮、百
六十余人、無官の者数を知らず、此二三ヶ年の間、
東国北国度々の合戦に皆討れたるが、僅に残る処也、
其時近衛殿下と申は、普賢寺内大臣基通の御事也、
太政入道の御聟にて平家に親み給たりける上、法皇
西国へ御幸なるべきよし聞えければ、摂政殿も御供
奉あるべきよし御領状ありければ、内大臣殿より已
に行幸なり候ぬと告げ申されたりければ、摂政殿御
出ありけれども、法皇の御幸もなかりければ、御心
中に思召し煩はせたまひけるに、御供に候ける進藤
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左衛門尉頼範が、法皇の御幸もならせ給候はず、平家
の人々も多く落ち留らせ給ひ候ぬ、これより還御あ
るべくや候らんと申たりければ、平家の思はん所は
いかがあるべきと御気色ありければ、頼範しらぬ顔
にて頓て御車を仕る、御牛飼に目を見合せたりけれ
ば、七条朱雀より御車をやり返す、一ずはえへあてけ
れば、究竟の牛にてありければ、飛がごとくにて、朱
雀を上りに還御なりにけり、平家の侍越中次郎兵衛
盛次これを見奉て、殿下も落させ給ふにこそ口をし
く候ものかな、留め参らせ候はんと申ままに、片手
矢はげて追ひかけけり、頼範返合せて戦けるを、大
臣殿見給て、年頃の情を思ひ忘れて、落ん人をばい
かでもありなん、一門の人々だにもあまたみえたま
はず、せんなしとよと制し給ひければ、盛次引帰に
けり、摂政殿へ都へは帰らせたまはで、西林寺とい
ふ所に渡らせたまひて、それより知足院へぞ入せた
まひける、是を知らずして、摂政殿は吉野の奥へと
ぞ申あひける、河尻に源氏廻りたりと聞えければ、
肥後守貞能馳向たりけるが、僻事にてありければ、帰
り上りけるに、此人々の落たまふに行合ひけり、貞
能はこむらごの直垂に、黒かは威しの鎧着て、大臣
殿の御前にて馬より下りて、弓脇にはさみて、爪弾
をして申けるは、あな心うや、これはいづちへとて
渡らせ給ふぞや、都にてこそとにもかくにもならせ
給はめ、西国へ落させ給たらば、遁れさせ給べきか、
又たひらかに落着かせたまふべしとも覚え候はず、
落人とてここかしこにうち散らされて、かばねを道
の辺りにさらしたまはん事こそ心うけれ、こはいか
にしつることぞや、新中納言、本三位中将殿引返ら
せたまへ、興あるいくさ仕て、後代の物語にせさせ
候はん、弓矢取る習ひ、かたきに討るる事全く恥にて
非ず、何事も限り有る事なれば、平家の御運こそつき
させ給ひぬらめ、さればとてかなはぬもの故、かた
きに後を見えんことうたてく候と申ければ、新中納
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言は大臣殿の方をにらまへて、誠に心うげに思ひた
まへり、大臣殿のたまひけるは、貞能はまだ知ぬか、
源氏天台山に上りて谷々に充満したん也、此夜半ば
かりより、院も渡らせ給はず、各々が身一ならばい
かがはせん、女院二位殿を始め奉て、女房あまたあ
り、忽にうきめをみせん事もむざんなれば、一まど
もやと思ふぞかし、かつうは又、禅門名将の御墓所に
まうでて、思ふほどのことをも申置きて、塵灰とも
ならばやと思ふ也とのたまへば、貞能又申けるは、
弓矢取習ひ、妻子を憐む心だに候へば、おもひきら
ぬ事にて候、さこそ夥しく聞え候とも、源氏忽によ
もせめ寄り候はじ、又法皇をばいかにして逃し参ら
せて、渡らせたまふにか、よひより参りこもらせ給
ひて、御目をはなち参らせでこそすすめ申させたま
ふべく候けれ、季康などぞ告げ申て候らん、さりと
も女房達の中に知り参らせぬ事はよも候はじ、足を
はさみてこそ糾問せさせ給ひ候はめ、季康が妻と申
候奴は、御内には候はざりけるか、しやつが中げん
にてぞ候らん、憎さはにくし、貞能に於てはかばね
を晒すべしとて帰上る、盛次、景清、同貞能につきて
帰上る、其勢二千余騎ばかりぞ有ける、義仲これを
聞て申けるは、貞能が最後の軍せんとて、かへり上
りたるこそ哀なれ、弓矢取の習さこそあるべけれ、
相構へて生捕にせよとぞ下知しける、酉の時まで待
てども待てども大臣殿以下の人々帰り上り給はず、今朝
家々は皆焼ぬ、何に着べしともなくて法住寺の辺に
一夜宿す、貞能都へ帰り上りぬと聞えける上、盛次、
景清大将軍として都に残り留る、平家ども討べしと
聞えければ、池大納言は色を失ひて騒がれける、さ
れども源氏もいまだ打入ず、平家には引わかれぬ、波
にもいそにもつかぬ心地して、八条院にもしもの事
候はば、助させ給へと申されけれども、それもかか
る乱れの世なれば、いかがはせさせ給べき、院の御
所には、さればこそいかにも事の出来ぬと、女房た
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ちあわてさわぎて、終夜物をはこびなどしければ、
北面の者どもいたく物さわがしくあわて給ふべから
ず、たとへば平家の方より院の渡らせ給ふ所を尋ね
申さんずるか、山に渡らせ給ふよし聞えければ、其
旨いひてんずとて各々いもねず、其夜も明けぬれば、
貞能御所へをし入て、何といふ事もなく御厩に立ら
れたりける御馬を、かいえりかいえり引出して、則御所を
ば出にけり、盛次、景清が入洛の事は僻事にてぞ有け
る、貞能はたけく思へども力及ばずして、西をさし
落にけり、心の中こそかなしけれ、日ごろ召置たり
つる東国の者ども、宇都宮左衛門尉朝綱、畠山庄司
重能、小山田別当有重在京してありけるが、子息所
従等皆兵衛佐に属しにければ、是等は召籠られて有
しを、西国へぐし下て斬るべしとさた有りけるを、
貞能是等が首ばかりを召されたらんによるまじ、妻
子けんぞくもさこそ恋しく候らめ、ただとくとく御
ゆるしあて、本国へ下さるべく候と、再三申ければ、
誠にさもありなん、汝等が首を切たりとも、運命尽き
なば世をとらん事かたし、汝等をゆるしたりとも宿
運あらば、又立帰ることもなどかはなかるべき、と
くとくいとまとらするぞ、若世にあらば忘るなよと
てゆるされにけり、是等も廿余年のよしみ名残なれ
ば、さこそ思ひけめども、各々悦びの涙をおさへて罷
りとどまりにけり、其中に宇都宮左衛門は、貞能が
預りにて日来も事にふれて芳心有りけるとかや、源
氏の世になりてのち、貞能宇都宮を頼みて東国へ下
りければ、昔のよしみ忘れず、申預り芳心しけるとか
や、平家の人々は淀の渡せの程まで、船を尋ねて乗
給ふ、御心の内こそかなしけれ、或はしきつの浪枕、
八重の塩路に日を経つつ、船に棹さす人もあり、或
遠きはげしきを忍びつつ、馬に乗人もあり、前途を
いづくとも定めず、生涯を闘戦の日に期して、思々
心々にぞ落られける、権亮三位中将の外は、大臣殿
を始めて宗徒の人々皆妻子を引具し給へども、侍共
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はさのみ引しろふに及ばねば、皆都に留置しかば、各
別れを惜みつつ、夜がれをだにも心苦しく思ひし者
どもの、行も留るも互に袖をしぼりけり、ただかり
そめのわかれをだに恨みしに、後会其期を知らず、
別れけんこそ悲しけれ、相伝譜代の好も、年ごろ浅
からざる重恩も、いかでか忘るべきなれば、悲しみの
涙を押へつつ、大方催されては出けれども、進まれ
ず、都をはなれがたし、留め置し妻子も忘れがたけ
れば、いづれも行やらざりけり、淀の大渡にてぞ男
山ふし拝み、南無八幡三所今一たび都へ返し入させ
給へとぞ各々祈念し給ひける、されども神慮もいかが
ありけんはかりがたし、誠に古郷をば一片の煙りに
隔てて、前途万里の波を分け、いづくに落付べしと
もなく、あこがれ落給ひけん心の内、おしはかられて
哀なり、其中にやさしく哀なりしことは、薩摩守忠
度は当世随分の好士なり、其頃皇太后宮大夫俊成卿、
勅を奉て千載集を撰れけり、忠度乗かへ四五騎がほ
ど相具して四づかの辺より帰て、彼俊成卿の五条京
極の宿所の前にひかへて、門をたたかせければ、内
よりいかなる人ぞと問へば、薩摩守忠度と名乗りけ
れば、落人にこそと聞きて、世のつつましさに、返
事もせられず、門も明ざりければ、其時忠度別の事に
ては候はず、此程百首をつらねて候を、見参に入ず
して外土へ罷り出ん事の口惜さに、持て参りて候、
何かくるしく候べき、立ながら見参に入候はばやと
いひたりければ、三位哀と思して、わななくわななく出
合給へり、世静り候なば、定て勅撰の功終候はんず
らん、身こそかかる有さまにて候とも、なからんあ
と迄も、此道に名をかけん事、生前の面目たるべし、
集撰ばれ候中に、此巻物の中にさるべき句も候はば、
思召立て一首入られ候なんや、かつうは又念仏をも
御弔ひ候べしとて、箙の中より百首の巻物を取出し
て、門より内へ投入て、忠度今は西海の浪に沈む共、
此世に思ひ置く事候はず、さらば入せ給へとて、涙
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をおさへて帰りにけり、俊成卿涙をおさへて内へ帰
り入て、燈のもとにて此巻物を見られければ、歌ど
もの中に古さとの花といふことを、
さざ波やしがの都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな W105 K137
忍恋
いかにせんみかきが原につむ芹の
ねのみなけども知る人のなき W106 K138
其後いく程なくて世静りにければ、かの集撰ばれけ
るに、忠度此道にすきて道より帰りたりし志浅から
ず、但勅勘の人の名を入る事、はばかりある事なれば
とて、此二首をよみ人知らずとぞ入られたりける、
延喜天暦は年号を名によばれ、花山一条皇居を御名
に付給ふ、その身朝敵とはいひながら、口惜かりし
こと也、左馬頭行盛も、幼少より此道を好て、京極
中納言入道定家卿、其比少将にてましましけり、彼
行盛常にましましてむつび給ひき、此道をのみたし
なみ給き、さるほどに一門都を落し時、日頃の名残
を惜みて、何となくよみたる歌ども書集て、後の思
ひ出にもとやおぼされけん、文こまかに書て袖書に
かくぞ書たりける、
ながれ名のなだにもとまれ水ぐきの
あはれはかなき身はきえぬとも W107 K140
定家少将、此歌を見たまひて、感涙をながして、若
撰集あらば必ずいれんとぞ思はれける、俊成卿忠度
の歌をよみ人知らずとて、千載集に入られたりし事
を心うき事におぼして、後堀河院の御時、新勅撰を撰
ばるるとき、三代名を顕すことこそ恐れなりつれ、
今は三代過給ひたれば、何かくるしかるべきとて、
左馬頭行盛と名を顕はして、此歌を入られたりしこ
そ優しく哀れに覚えしか、皇后宮亮経正は、幼少より
仁和寺守覚法親王の御所に候はれしが、昔のよしみ
忘れがたく思されければ、これも引返して侍二人打
ぐして、五宮御所へ参りて、人して申入ければ、一
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門運尽ぬるに依て、けふ既に帝都を罷出候上は、身
を西海の浪に沈め、かばねを山野の辺に曝し候はん
事疑ひ候まじ、但此世に心留り候事は、君を今一度
見参らせ候はで、万里の波にただよひ候はんことこ
そ、かなしみの中の悲みにて候へと申入たりければ、
宮は世おほきに憚り思召しけれども、またも御覧ぜ
ぬこともこそあれとて、則御前へ召されけり、経正
は練貫に鶴を縫ひたる鎧直垂に、萌黄糸をどしの鎧
をぞ着たりける、二人の侍教朝重時も冑きたり、経
正なくなく申されけるは、十一歳と申候ひし時より、
此御所に初参仕て、朝夕御前をたちはなれ参らせ候
はず、叙爵仕て後も、禁裏仙洞の出仕のはばかりに
は、いかにもして此御所に参らんとのみ存候しかば、
一日に二度参る日は候へ共、参らぬ日は候はざりし
に、都をまかり出候て鎮西の旅泊にただよひ、八重
のしほ路を漕へだて候なん後は、帰京其期を知らず
候、されば今一度君を見参らせんと存候て、きげん
をかへりみ候はず、推参仕て候と申て、藤九郎有盛に
もたせたりける御琵琶を取寄て、あづけ下されて候
青山をば、いかならん世までも、身をはなち候まじと
存候つれども、名宝を西海の底に沈め候はん事、心
うく候て持ちて参りて候也とて、錦の袋に入れなが
ら御前に差おかる、是を御覧じて御涙にむせばせま
しまして、御返事に及ばず御衣の袖もしぼる計也、
此青山と申御琵琶は、村上天皇の御時、秋の夜月く
まなく風の音身にしみて、何となく物哀なるに、此御
琵琶をかきならし、帝万秋楽の秘曲を弾ぜさせたま
ひしに、更闌夜閑かになるままに、御ばち音いつよ
りもすみのぼりて、身にしみて聞えけるに、五六帖
の秘曲に至りて、天人あま下りて、廻雪の袖をひる
がへして、則雲をわけてのぼりにけり、其後かの御
琵琶を、凡人ひくことなかりけり、代々の帝の御財に
て有けるを、次第に伝はりて、この宮の御方に参り
て、御宝物の其一にてありけるを、此経正十七歳に
P498
て初冠して、宇佐の宮勅使に下されし時、申下して宇
佐の拝殿にて、わうしきてうにて海青楽を弾きたり
しに、神明御納受ありて、天童の形をして、社壇に
てまひ給ふ、経正此奇異の瑞を拝して、神明御納受
ありけりとて、楽をば引やみて、三曲の其一流泉の
曲を暫くしらべられければ、宮人心ありければ、各々
袂をうるほしけり、村上御宇より此かた、凡人此び
はをひく事経正一人ぞありける、かかる宝物なりけ
れば、経正身にかへて惜くはおぼされけれども、是
を御覧ぜんたびごとに、思召出つまとなれかしなど
おぼされければ、御びはを参らせあぐるとて、
呉竹のもとの筧はかはらねど
猶すみあかぬ宮の中かな W108 K141
宮御涙を押へさせ給ひて、
あかずしてわかるる袖に涙をば
君がかたみにつつみてぞおく W109 K143
御前に浅からずちぎりし人々あまた有ける中に、侍
従律師行経といひける人、ことに深く思ひ入られた
り、
皆ちりぬ老木もこきも山ざくら
おくれさきだつ花も残らじ W110 K144
経正なくなく、
旅衣よなよな袖をかたしきて
思へば遠く我はゆきなん W111 K145
との給ひて、今は心にかかる事候はねば、いかにな
る身の果までも、おもひ置事露候はずとて、御前を
立れければ、朝夕見たまひし人々、鎧の袖に取付き
て衣の袖をしぼられけり、誠に夜を重ね日を重ぬと
も御名残は尽候まじ、行幸は遙にのびさせたまひ候
ぬらん、さらばいとま申てとて、甲の緒をしめて、
馬に打乗、宮の御前へ参る時は、世をも御憚ありとて
つつみつれども、まかりいでける時は、赤はた一な
がれささせて、南をさしてあゆませけり、かく心づ
よくは出たれども、住なれし古京を、ただ今を限りに
P499
て、打出られければ、鎧の袖もしぼるばかりにて、
行幸に追付参らせんと、ふちを上げられける心の内
こそ哀なれ、さて行幸に追付参らせて、何となく心
のすみければ、かくぞ思ひつづけける、
御幸するすゑも都と思へども
猶なぐさまぬ浪のうへかな W112 K146
平家は福原の旧里に着きて、一夜をぞ明されける、
各々禅門の御はか所に参りて、過去聖霊、出離生死、
往生極楽、頓証菩提と祈念して、存生の人の前に物
をいふ様に、つくづくとくどき給ふ、岩木もいかで哀
と思はざるべき、さても主上は島の御所へ入らせ給
へば、月卿雲客みな故入道のはか所へ参られけり、
女院二位殿も参らせ給ふ、其間主上をば時忠卿いだ
き奉て、雪御所のめんだう[* 「めんだう」に「馬道」と振り漢字]に立給ふ、内大臣以下の
一門の人々みなつれて、墓所を見給へば、五輪落散
りて苔むせり、忍草生茂りて牛馬の蹄も行かふ道な
く、円実法眼が書写供養したりし、法華経八軸の石御
経も所々に〓壊したり、女院自ら是を拾ひ直させ給
こそ哀なれ、二位殿御袖を顔に押当て仰られけるは、
たとへ業報限ありて他界し給ふとも、いつしかかか
るべしや、さしも執ふかくましまししに、草の陰に
も守りたまへ、女院も是に渡らせ給候ぞ、さしもい
とをしくし給し小松内府の子共も、みな是にありな
どかきくどき、涙もせきあへずのたまへば、答ふる
者もなかりけり、さらぬだに秋に成行旅の空、物う
からずといふ事なし、さこそ心細くおぼされけめ、
其後主上は島の御所へ入せ給ふ、二位殿いだき参ら
せて南面にまします、内大臣宗盛、新中納言知盛、大
床の左右より参り給て、知盛卿申されけるは、兵ど
もを見候へば、例ならず見え候、心がはりして候や
らん、召して仰含めらるべきよし申されければ、肥
後守貞能、飛騨守景家、越中前司盛俊以下侍共を召
て二位殿仰られけるは、積善余慶家に尽て積悪の余
殃身に及び、神明にも放たれ奉り、君に捨てられ奉
P500
り、帝都を迷ひ出て旅泊にただよへる上は、さこそ
心細く頼み少くあるらめども、一樹のかげに宿るも
前世のちぎり浅からず、一河の流を汲むも他生の縁
猶深し、何ぞいはんや、汝等は一旦語ひをなす家人
に非ず、累祖相伝の門客也、或は親近の好み異他も
あり、或は重代の芳恩これふかきもあり、家門繁昌の
昔は、恩潤によて私をかへり見き、楽み尽きて悲し
み来る、今は何の思慮をめぐらしてか救はざらんや、
其上十善帝王、三種の神器御身に随へてましませば、
天照太神も立帰て、我君をこそ守りはぐくみ給ふら
め、つらつら此事を思ふに、宿運強き我也、速に合
戦の忠を励まして、再び都へ返し入奉て、逆徒を討
取て、徳は昔に超、名をば後代に留めんと、思ふ心を
一にして、野の末、山のはてまでも、君の落付せまし
まさん所へ送り奉るべし、火の中へ入水の底に沈む
とも、今は限りの御有さまを見はて奉るべし、との
たまへば、三百余人御前に並居たる者ども、老たる
も若きも、涙を流し袖をしぼりて申けるは、心は恩
のためにつかへ、命は義によて軽ければ、命をば相
伝の君に奉候ぬ、あやしの鳥獣だにも、恩を報じ徳を
報ふ志候とこそ承はれ、いかに申さんや、人として
いかでか年来日来の重恩を忘れて、君をば捨参らせ
候べき、廿余年の間官位と云ひ俸禄といひ、身に於
て名にあげん事も、妻子をあはれみ、郎従をかへり
みしことも、しかしながら君の御恩にあらずといふ
事なし、就中弓矢の道に二心を存をもて、長く世の
恥とす、たとへ日本国の外なる新羅、高麗、百済国、
雲のはて海の果なりとも、おくれ奉るべからずと一
同に申候れば、二位殿大臣殿も今更に頼もしく思召
て、嬉しきに付きてもつらきに付きても、涙にむせ
ばせ給ふ、薩摩守忠度かくぞくちずさみ給ひける、
はかなしや主は雲井にわかるれど
やどはけぶりとのぼりぬるかな W113 K148
修理大夫経盛卿、
P501
古さとを焼野の原にかへりみて
すゑも煙りの波路をぞゆく W114 K149
平大納言、
こぎ出て波とともにはただよへど
よるべき浦のなき我身かな W115 K150
同北の方、
磯なつむ海人よをしへよいづくをか
都のかたを見るめとはいふ W116 K151
誠にしばしと思ふ旅だにも、別行は悲しきぞかし、
是は心ならず立はなれて、いづくをさすともなく、
ただよはれけん、さこそ心細かりけめとおしはから
れて哀なり、中にも入道の立置き給ひし花見の春の
岡の御所、初音を尋ぬる山田の御所、月見の秋の浦
の御所、雪の朝の萱の御所、島の御所、馬場殿、泉
殿、二階のさじき殿より始て、五条大納言の作り置れ
し里内裏、人々の家々にいたるまで、いつしか三年
のほどにいたくあれ果てて、みすもすだれもなかり
けり、旧苔道をふさぎ、秋の草門をとぢ、かはらに松
生ひ、垣につた茂りて分入袖も露けく、行かふ道も
絶えにけり、ただ音づるる物とては松吹風の音計也、
つきせずさし入ものとては、もりくる月のみぞ面が
はりせざりけり、さらぬだに秋に成行、大方は物う
きに、昨日は東海の東にくつばみを並べ、けふは纜を
西国の西にとく、雲海沈々として、蒼天既に明けな
んとす、孤島に霞立ちて、月海上に浮ぶ、長松の洞
を出て駒の蹄を早むるは、嶺猿の声に耳を驚かし、
極浦の浪を分て、潮に引れて行船は半天の雲にさか
上る、夜深起きて見れば、秋の初の廿日余の月出て、
弓張に深行空もしつ嵐の音すごくして、草葉にすが
る白露も、あだの命によそならず、秋の初風立ちし
より、やうやう夜寒に成行ば、旅寝の床の草枕、露も
涙も争ひて、そぞろに物こそかなしけれ、二位殿大
臣殿も一所にさしつどひて、さてもいづくに落付せ
給ふべき、故入道かかりける事をかねてさとられけ
P502
るにや、此所をしめて家を立て、船を作りおかれた
りける事の哀さよなど、こし方行末の事どものたま
ひかよはして、互に涙を流し給ひけるほどに、夜も
ほのぼのと明にけり、平家の跡と源氏に見すなとて、
浦の御所より始て御所に火を掛て、主上女院をはじ
め奉りて、二位殿北の政所以下人々皆船に召して、
万里の海上に浮びたまひければ、余炎片々として海
上赫奕たり、都を立ちしほどこそなけれども、これ
も名残は惜かりけり、海人のたくもの夕しほ[B 煙カ]、尾上
の鹿の暁の声、渚々によする波の音、袖に宿かる月
の影、目に見耳にふるる事、一として涙を催さずとい
ふ事なし、平家は保元の春の花とさかえしかども、
寿永の秋の紅葉とちりはてて、八条、峯里、六はら
の旧館より始めて、福原の里内裏に至る迄、暮風塵を
揚げ煙雲焔をはく、龍頭鷁首を海上に浮べて、波の
上の行幸安き時もなかりけり、いそ辺の躑躅の紅は、
袖の露より咲くかと疑はれ、五月の旅寝の苔の雫は、
故郷の軒のしのぶにあやまたれ、月をひたす潮の深
き愁に沈み、霜おほへる蘆の葉のもろきいのちを危
ぶむ、すざきにさわぐ千鳥の声は、暁のそへはいに[B 「そへはいに」に「本のまま」と傍書]
かかるかぢ浪は、夜半にこころを砕くかな、白鷺の
遠き松に群居るを見ては、源氏のはたをなびかすか
とうたがひ、夜雁の遼海になくを聞きては、兵の船
をこぐかと驚き、青嵐に膚を破て、翠黛紅顔の粧ひ
漸く衰へ、蒼波眼を穿て懐土望郷の涙おさへがたし、
卿相雲客の朝敵と成て、都を出そめしをきくに、昔
藤原の仲麿といふ人有けり、贈太政大臣武智麿の子
也、高野女帝の御時、帝の従父兄弟にて、内外執行し
て候給ひける程に、御寵臣と成て、天下の政を心のま
まに執行して、世をも世と思はず、驕て一族親類悉く
朝恩に誇れり、帝御覧ずれば心にゑまほしく思召さ
るとて、二文字を加へて恵美仲麿と名付、それを
もあらためて後には押勝とぞつきにける、大保大師
に至りしかば、恵美大臣とぞ申ける、日を経年を重
P503
ぬるに随ひて、威雄重くして、人の怖畏るることい
まの平家のごとし、めでたかりし程に、昔も今も世
の恐しき事は、河内国弓削といふ所に、道鏡法師とい
ふものあり、召されて禁中に候けるが、如意輪法を
行けるしるしにやありけん、帝の御寵愛はなれがた
くて、恵美大臣の権勢事の数ならずおしさげられて
けり、法師の身にて太政大臣になされ、御位を譲ら
んと思召して、大納言和気清麿を御使として、宇佐宮
へ申させ給ひたりけるが、御許されもなかりければ、
力及ばせ給はず、ただ法皇の位を授けられて弓削法
皇とぞ申ける、恵美大臣は弓削法皇をそねみて、帝
を恨み奉けるあまり、天平宝字八年九月十八日、国
家をかたぶけ奉らんとはかる、罪逆にあたりしかば、
寵臣なりしかども官をやめられて、死罪に行はんと
し給ひしかば、大臣兵を集めて防ぎたたかひせんず
れども、坂上苅田丸を大将軍として、官兵多くせめ
かけければ、たまらずして一門引具して都を出で、
東国へ赴きて凶徒を語ひて、猶朝家を打たんとたく
みけるを、官兵騒て、瀬多の橋を引ければ、高島へ
向ひて塩津海津を過て敦賀の山を越て、越前国へ逃
げ下り、相具したりける輩をば、是は帝にて渡らせ
給ふ、彼は大臣公卿なりとて、人の心をたぶらかし
し程に、官兵追ひつづきてせめしかば、船にこみ乗
てにげけれども、風はげしく波荒く立ちて、既にお
ぼれなんとしければ、船よりおりて戦し程に、大臣
こらへずして、同つゐに近江国にて討れにけり、一
族親類同心合力の輩、首あたま都へ持参られけり、
公卿だにも五人首を刎られぬ、上古もかかる浅まし
き事ども有けるとぞ承る、平家栄えめでたかりつる
有さまも、又朝敵と成りて家々に火かけて、都を落ぬ
る事がらも、恵美大臣にことならず、西国へ落ち給
たりとも、幾月かあるべき、ただ今亡びなんずる物
をとぞ人々申あひける、法皇は鞍馬寺より薬王坂小
竹が峯などいふ、さかしき山を越えさせ給ひて、横川
P504
へ上らせ給て、解脱の谷、寂場坊へぞ入せ給ひける、
本院へうつらせ給べきよし大衆申ければ、東塔へう
つらせ給ひて、南谷の円融房へぞわたらせたまひけ
る、かかりければ衆徒も武士も弥々力付きて、円融房
の御所近く候けり、あくる日廿五日、法皇天台山に
渡らせ給ふと聞えければ、人々我先にと馳参らる、摂
政殿近衛殿、左大臣経宗、右大臣兼実公九条殿、内大臣
実定公後徳大寺より始奉り、大中納言、参議、非参議、
四位、五位、殿上人、上下北面の輩に至るまで、世
に人ときざまるる輩、一人ももれずさんぜられけれ
ば、円融坊には、堂上堂下門外ひまなかりけり、誠に
山門の繁昌門跡の面目とぞ見えし、平家は落ぬ、さの
み山上に渡らせましますべきならねば、廿八日御下
洛あり、近江源氏錦古利冠者白旗をさして先陣に候
けり、此程は平家の一族赤旗赤印にて供奉せられし
に、源氏の白旗今更珍しくぞ思召されける、卿相雲客
済々として蓮花王院の御所へ入らせ給ひけり、去程
に其日の辰の時計り、十蔵蔵人行家伊賀国より木ば
た山を越て京都に入る、未刻計に木曾冠者近江国よ
り東坂本を通りて、同く京へ入りぬ、又其外甲斐信
濃美濃尾張の源氏ども、此両人に相従ひて入洛す、其
勢六万余騎に及べり、入はてしかば在々所々を追捕
し衣裳をはぎとり、食物を奪ひとりしかば、洛中の
狼藉なのめならず、
廿九日いつしか義仲、行家を院の御所へ召して、別当
左衛門督実家、頭左中弁兼光をもて、前内大臣宗盛以
下平氏の一類追討すべき由両将に召仰す、両人庭上
に膝まづきて是を承る、行家は褐衣の鎧直垂に、黒
革威の鎧を着て右に候、義仲は赤地錦の直垂に、唐綾
をどしの冑着て左に候けり、各々宿所候はぬ由を申
ければ、行家は南殿のかやの御所給て、東山をしゆ
ごす、義仲は大膳大夫信業が六条西洞院の亭を給て、
洛中を警固す、此十余日の前までは、平家こそ朝恩
にほこりて、源氏を追討せよといふ院宣宣旨を下さ
P505
れしに、今又かやうに源氏朝恩にほこりて、平家を
追討せよとの院宣を下さる、いつの間に引かへたる
有さまぞと哀なり、主上外家の悪党に引かれて、西
国へ赴給ふ事もつとも不便に思召されて、速に返し
入奉るべきよし、平大納言時忠卿の許へ院宣を下さ
るるといへども、平家用ひねば力及ばずして新主を
すへ奉るべき由、院殿上にて公卿僉議あり、主上還
御あるべきよし御心の及ぶほどは仰せられて、今は
とかくの御さたに及ぶべからず、但びんきの君渡ら
せ給はずば、法皇こそ、還り殿上せさせましますべけ
れと申さるる人々もあり、重祚の例は、百五十[B 誤カ]六代皇
極天皇、三十八代斉明天皇、是は女帝なり、男帝の重
祚は先例なしと申さるる人もありけり、或は鳥羽院
の乙姫宮八条院、即位あるべきかと申さるる人もあ
り、女帝は第十五代の神功皇居より始め奉て、推古、
持統、元明、元正也、法皇思召し煩はせ給けり、丹後
の局申されけるは、故高倉院宮王子二をば平家拘引
奉りぬ、三四の宮は慥に渡らせ給ふ、平家の世には、
御世をつつませ給てこそ渡らせ給ひけれども、今は
何かは御はばかりあるべきと申されければ、法皇う
れしく思召して、もつとも其儀左もありぬべし、同
くば吉日に見参すべしとて、泰親に日次を御尋あり
ければ、来八月十五日と勘申、その儀なるべしとて、
事定らせ給けり、
平家物語巻第十四終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十五
P506
平家物語巻第十五
寿永二年八月十五日、高倉院御子、先帝外三所おは
しましけるを、二宮をば、儲の君とて平家取立まつ
りて、西国におはしけり、三四宮を法皇迎へたてま
つりて、見参せさせ給ければ、三宮は法皇を面嫌ま
いらせて、おびただしくむつがらせ給ければ、とく
とくとて帰し参らせさせ給にけり、四宮をば法皇是
へと申させ給ければ、無左右御膝の上にわたらせ
給て、なつかしげにぞおもひまいらせさせたまひた
りける、そぞろならんものの、かかる老法師をばなに
とてかなつかしくおほすべき、この宮ぞまことの孫
なりけるとて、御ぐしかきなでて、故院のおさなく
おはせしにたがはざるものかなとて、只今のやうに
ぞ覚ゆる、かかる忘れがたみを留めおき給へるを、
今までみざりける事よとて、御涙をながさせ給へば、
浄土寺の二位殿、其時は丹後殿と申て御前に居給け
るも、御袖をしぼりつつ、とかくの御さたも力及ば
ず、御位はこの宮にてこそ渡らせ給はめと申させ給
ければ、法皇さこそあらめと仰ありて、定まらせ給に
けり、後鳥羽院と申は此御事なり、内々御いきどほ
りのありけるにも、四の宮子々孫々迄も、日本国の主
にて渡らせ給ふべしとぞ、神祇官陰陽寮ともに占申
ける、四歳にならせ給、御母は七条修理大夫信隆の
女にておはしけるが、建礼門院の中宮と申せし時、
中納言内侍とて上臈女房にてありけるが、忍びつつ
内の御方へ召されさせ給ひける程に、皇子さしつづ
き二所出来らせ給けるを、修理大夫平家の辺をも、
中宮の御きそくも深くおそれさせ給ひけるを、八条
二位殿御乳母に付き奉らんとせられけり、此宮をば
法勝寺執行能円法眼養ひ奉りけるが、西国へ平家に
ぐしておちける時も、あまりにあわてて、北の方をも
ぐせられざりければ、宮も京に留まらせ給ひたりけ
P507
るを、西国より人をかへして宮相具し参らせて、急
ぎ下給ふべしと申されたりければ、御母の妹の紀伊
守範光、かしこここを尋ね参らせて留め参らせたり
けり、それもしかるべき事なれども、範光ゆゆしき
奉公とぞ申されける、只今御運は開けんずるものを、
ものにくるふかとてとどめまいらせたりけるに、そ
の次日院は御尋ねありて、御車を御迎に参らせられ
たりけり、六日平家の一類、公卿、殿上人、衛府、
諸司、百八十人官を止めらる、時忠卿父子三人は此
中にもれにけり、十善の帝王三種の宝物かへし入さ
せ奉らしめ給へと、かの人の許へ仰せくだされたり
けるによりて、被宥けるとぞ聞えし、
昔田邑帝と申御門おはしましける、王子十二人、姫
宮十七人ぞましましける、第一の皇子をば惟喬の親
王と申、御母は紀氏、三国町と申けるとかや、御門こ
の御子を殊にいとをしく思召しければ、春宮に立せ
奉りて、御位をもつがせたてまつりたく思召しけれ
ども、惟仁親王とて后の腹にてまします、后の御父は
白河太政大臣良房公、天下の摂政として御後見にて
おはしける上は、世の人重く思ひ奉りて、此御子東
宮に立給ふべきを、御門猶惟喬の親王をいとをしき
御事に思ひわづらはせ給ひて、惟喬の御子、惟仁の御
子の御方を合せて、十番の競馬あるべし、その勝負
に付て東宮には立せ奉らんと仰下さる、惟喬の御方
には、よき乗尻を召しあつめて、寮の御馬をもよき
をゑり奉らせ給へば、一定勝給ふべしと人思ひけり、
御母の妹に柿本の紀僧正真済と申は、東寺の長者に
て貴人御祈し給ひけり、惟仁の親皇の御かたよりは、
相撲の節あるべしと仰下さる、御祈の師には、比叡
山に恵良和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、目出た
き上人御祈し給ひけり、和尚は比叡山の西塔に平等
坊といふ坊にて、大威徳の法をぞ行ひ給ひける、惟喬
の親王の御方よりは、六十人が力もちたりと聞えし、
名虎兵衛佐と言ける人を出されたりけり、惟仁親王
P508
御方には能雄少将とて、なべての力の人なりけるを
ぞ出されたりける、方々の御祈師肝胆を砕き給けり、
その日になりしかば、名虎はもとより大力なりけれ
ば、能雄の少将を提てなげけるを、見物の人々あはや
と思ひける程に、能雄一丈ばかり投られて、つくとし
て立たりける、やがて寄合てゑ声を出してからかひ
けり、競馬は右近馬場にて侍けるに、和尚は番勝
負を知度思ひ給ひて、右近馬場より平等坊迄、人を
立置給ひける事櫛のはの如し、勝負を云ひ伝ふるこ
とほどなく聞えけり、惟喬の御方引つづけて四番勝
にけり、和尚是を聞給ひて、今六番つづけてこなた
かたずば、惟仁親王かち給べからず、四番既に彼御
方勝ぬれば、後の頼みなしとおぼして、年来の所持
の獨古を以て、自御頂を突破て脳を取出して、炉壇の
火に置給ひたりければ、絵像の本尊大威徳の水牛、忽
に声を出してほえたりけり、それよりして引つづけ
て、惟仁親王御方六番勝にけり、又相撲節にも惟喬
の御方の名虎負にけり、能雄少将勝にければ、惟仁位
に即せ給にけり、清和の御門と申はすなはちこの御
門の御事なり、帝無本位思召給ひし事限なし、其
時三超といふ落書あり、御兄惟喬、惟修、惟彦、此三
人の親王を超えて、春宮にたて給事を落書にしたり
けるなり、此君御年三十にて御ぐし下して、水尾と
いふ所にましまして、行ひすまし給ひて、次年うせさ
せ給にけり、水尾の天皇とも申けり、惟喬御祈師柿
下紀僧正真済は、此事を鬱し思ひて、恵良和尚の御
弟子をぞ取失ひける、平等坊の座主慈念僧正と申人
は、和尚の末の門弟にてましましけり、彼僧正尊勝陀
羅尼を満てて、〓行道しておはしけるに、庭上にほ
れぼれとある物の、おろおろとしたる物をきて、老
法師の眼おそろしげなるが、うづくまり居たりける
を、僧正ただものにあらずと見給ひければ、あれは
何者ぞと問給ひければ、我は真済なり、和尚の御弟
子をば末までとり奉んと思て、僧正を思ひ懸け奉り
P509
てうかがひ侍るほどに、尊勝陀羅尼を尊くじゆせさ
せ給へるを聴聞仕て、悪念忽にとけて、信心発り侍
れば、このよしをしらせ申さんとてみえ奉るなり、
今は御弟子となりて縁を結び奉るべし、御弟子の中
に異様のもの出来ば、我と思召すべしと云てうせに
けり、僧正は真済の顕れて出し事を不思議に思して、
年月を送り給ふに、兵部卿の親王と申人の御子の若
君をぐし奉りて、僧正の御もとにおはして、弟子に
なしてかへり給ける、この君の食物をば、あれより奉
るべしとて出で給ければ、僧正も心得ず思召ける程
に、京より若君の御召物とて、大豆を送らせ給ひけ
り、この若君大豆より外は召さざりければ、僧正思
召けるは、真済の異様の者出来ば、我としれとのたま
ひしかば、此君は紀僧正の再誕とぞ知り給ける、出
家の後は鳩の禅師とぞ人申ける、文徳天皇、惟喬親王
を春宮の位に即奉り給はぬ事、心元なく覚しめして
左大臣信公を召て、東宮をしばしやりて、惟喬をな
して後に、清和に返しつけ奉らばやとて、仰せあはさ
れければ、東宮とならせ給て、たやすく改めがたく
候と申せしかば、力及ばずぞ有ける、此大臣信公は
嵯峨の天皇の御子北辺の大臣と申て、河原大臣融の
御兄なり、東宮位につき給て後、貞観八年閏三月十
日夜半に、大納言善男、応天門を焼きてけり、西三
条右大臣良相公と心を合て、此門をやく事を、堀川関
白基経公の宰相中将にてましましけるに仰て被宣
O[BH し字脱歟]とけるを、宰相中将、太政大臣は知り給へりO[BH や字脱歟]と申給
ければ、大納言、太政大臣は偏に仏法に帰して、朝議
を知る事なしと申されければ、宰相中将無宣下ば
たやすく難行とて、太相国の直廬にましまして、此
山を申給ければ、相国驚き給ひて、左大臣は君の御た
めに奉公の人なり、いかでか無左右とがおこなひ
侍るべきとて、退参して留め給ひけり、堀川関白と申
は、白河太政大臣忠仁公の御甥ながら、御子にし給
たりける、後には照宣公と申、平等坊の座主は延昌僧
P510
正なり、慈念は御いみ名なり、尊勝陀羅尼にて往生
し給へる人なり、されば帝王の御位は、凡人の申さん
にはよるべからず、天照太神正八幡宮の御はからひ
なれば、四の宮の御事もかかるにこそとぞ人々申さ
れける、
義仲行家任官之事
八月十日、法皇蓮花王院の御所より南所へ移らせ給
て、小除目行はる、木曾の冠者義仲左馬頭になされ
て、越後国を給はる、十郎蔵人行家、備後守になされ
にけり、各国を嫌申されければ、十六日除目に、義
仲は伊予国を給り、行家は備前守にうつされぬ、安田
三郎義宣は遠江守になされけり、その外源氏十人勲
功の賞とて、靱負尉、兵衛尉、受領、検非違使にな
されける、上使の宣旨を蒙る者もありけり、此十余
日先には、源氏を追討せよとのみこそ宣旨は下され
て、平家こそかやうに勧賞にあづかりしに、今は平
家を追討せよとのみ宣旨を下されて、源氏朝恩にお
ごるこそ、いつしか引かはりたるこそあはれなれ、
心ある人々は思ひつづけて、袂をぞしぼりける、
院の殿上にて除目を行はれし事、昔より未だ承及ば
ず、先例なし、今度始とぞ聞えし、珍しき事なり、
同十七日、平家筑前国御笠郡太宰府につき給へり、
都はすでに雲のよそにぞなりにける、はるばる来に
けりと思すにも、いとど古郷こそ恋しく思召されけ
れ、したがひ奉るところのつはもの菊池次郎高直、
石戸小将種直、臼木、戸続、松浦党を始として、各々
里内裏をぞ営みつくりける、かの内裏は山の中なれ
ば、木丸殿もかくやとこそ覚えしか、人々の家々は
野中田中なりければ、麻の衣はうたねども、とをぢ
の里とも申つべし、萩の葉向の夕嵐、ひとりまろね
の床の上、かたしく袖もしほれにけり、思ひやりぬ
れば都もはるかにへだたりぬ、かの在原の業平の都
鳥に事とひし、すみ田川のほとりもかくやと覚えて
あはれなり、
宇佐参詣事
主上を始め参らせて女院、北の政所、前の内大臣以下
P511
の一門の人々、皆宇佐宮へぞ参られける、拝殿は主上
の皇居となり、廻廊は月卿雲客の居所になる、大鳥
居は五位六位の官人等かためたり、庭上には四国九
国のつはもの甲冑をよろひ、弓箭を帯してかためた
り、ふりにしあけの玉籬も再磨けるかとぞ見えし、
御神馬七疋引せて七ヶ日御参籠あり、祈誓の御趣、主
上旧都還幸をぞ祈らせ給ける、第三日に当りける夜
半ばかりに、御神殿おびただしく震動してやや久あ
つて、御殿の内よりけだかき御声にて神歌あり、
世の中のうさには神もなきものを
こころつくしになに祈るらん W117 K172
此後ぞ大臣殿、なにのたのみも弱りはてられける、
これをきき給けん一門の人々、さこそは心ぼそくお
ぼされけめ、
廿四日、四宮は院の御車にて閑院殿へ入せ給にけれ
ば、公卿殿上人法皇の宣命にて節会行れけり、神璽
宝剱も渡らせ給はず、内侍所もましまさで、践祚の例
是ぞ始なる、摂政近衛殿かへり給はず、御所に住な
し給ひて、万とり行はせ給ふ、平家の御聟にてましま
しけれども、西国へも落させ給はぬによりて、三宮
の御乳母は、無本意口惜き事に思ひて、なき給けれ
ども其かひなし、帝王の御位などは凡夫のとかく思
ふにもよるべからざる事なり、天照太神の御はから
ひとこそ承れ、天に二の日なし、地に二人の主なしと
は申せども、異国にか様の例もあるにや、我朝には
帝王ましまさで、或二年或三年などありけれども、京
田舎に二人の帝王座す事いまだきかず、世のすゑに
なればかかることもありけり、四宮こそ既に践祚あ
りと聞えければ、平家の人々は、あはれ三宮四宮を
も取ぐし参らせでと申されければ、さらましかば、高
倉の宮の御子、木曾が具し奉りて上りたるこそ位に
は即給はましかと申あはれけり、平大納言時忠、兵部
少輔尹明などの申けるは、天武天皇は春宮にて御座
しが、天智天皇の御譲を受させ給べきにて有けるに、
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大伴の皇子の、位に即給はば討奉り給はんといふ事
を聞給ひて、御虚病を構へさせ給ひて、遁れ申させ
給ひけるを、帝強ちに住申させ給ければ、大仏殿の
南面にして髪ひげをそらせ給て、吉野山へ入らせ給
たりけるが、伊賀伊勢尾張三ヶ国の兵発て、大伴の皇
子をうち奉て位に即き給にけり、孝謙天皇も位辞さ
せ給て尼にならせ給ふ、御名を法基尼と申けれども、
位に返つかせ給ひにき、唐の則天聖皇帝も、又位に
帰て即せ給へりしぞかし、されば木曾が申宮、何条御
事かあらめと申て、咲あひ給ひけるとかや、九月二
日、院より公卿勅使を立られ、平家追討の御いきどほ
りなり、勅使参議修範とぞ聞えし、太上天皇の伊勢
へ公卿の勅使を立らるる事、朱雀白河鳥羽院三代の
蹤跡ありと云事ども、皆御出家以前の御事ども也、
御出家以後の例今度始とぞ承る、八幡宮放生会も九
月十五日にぞ延びにける、此日法皇日吉社へ御幸あ
り、公卿殿上人束帯にてうるはしき御幸なり、御神
馬も数多引れけり、御車のともには中納言朝方、検
非違使など仕る、
筑紫には内裏既に造て、大臣殿より始め奉りて、人々
の館ども造り始めて「少し安堵して思はれけり、然に
豊後国は刑部卿三位頼輔の知行にてありければ、子
息頼経国司代官にてくだりけるに、三位いひ下され
けるは、平家年頃朝家の御敵にてありしが、人民を
なやまし悪行年積て鎮西へおちくだつて、九国の輩
悉く帰伏の条、既に招罪科所行なり、須く当国の
輩に於ては、殊更其旨を存じて敢て成敗に従ふべか
らず、是またく非私下知、しかしながら一院の御定
なり、当国にも限るべからず、九国二島の輩後勘を
かへりみ、身を全くせぬと思はんものは、一味同心に
九国中を追出すべしと、云つかはされたりければ、
頼経朝臣、当国住人緒方三郎伊能に下知せらる、伊能
豊後国より始て、九国二島の弓矢とるともがらに申
送りければ、臼木、戸続、松浦党を始として皆平家
P513
を背てけり、其中に原田大夫種直、菊池の二郎高直が
一類ばかりぞ、伊能が下知にしたがはず、平家につき
たりける、其外は皆伊能が命に随ひけり、かの伊能
は恐ろしき者の末にて、国土をも討取らんとおほけな
き心あり、九国二島には従はぬものなかりけり、国
王よりかかる仰を承うへは、子細に及ばずとて興に
入たりけり、豊後国に知田村と云所に、赤雁大夫と
いふ者の娘ありけり、柏原御許とぞいひける、国中に
同程なるものの、聟にならんといひけれ共用ひず、
我よりすぐれたる者はいはざりけり、随分に秘蔵し
て後園に尋常なる屋一宇造てわたり、なにさまにし
つらひて、この娘住せける程に、たかきも賎しきも、
男といふ者をば通はさず、常には淋しさをのみ思ひ
て明しくらす程に、或年の九月半より、此娘よもす
がら心をすましてうちながめてふしたりけるに、い
づくより来れるとも覚えぬに、尋常なる男の狩衣着
たるが、この女房のそばにたをやかにさしよりて、さ
まざま物語しけるに、しばしはつつみけれども、
夜な夜な度重りければ、この娘さすが岩木ならぬ身
なれば、打とけにけり、その後夜がれもせず、通ひけ
るをかくしけれども、使はれける女房など父母にか
くとかたりければ、驚き騒ぎて急ぎ娘を呼出して、
事のさまを問ければ、面はぢていはざりけれども、
父母あながちに尋ねける程に、親の命背きがたくて、
ありのままにぞかたりける、不思議の事ござんなれ
とて、さらばかの人の来らん時、しるしをしてその
行末を尋ぬべしと、ねんごろに教へけり、狩衣のくび
かみと覚しき所に、しづのをだまきのはしに針を付
てさしてけり、夜明後父母にかくと告たりければ、誠
にしづのをだまきくりはへて、千尋百尋に引はへた
り、大夫父子三人、をとこ家人四五十人ばかり引ぐし
て、糸の行衛を尋ける程に、当国の中に深山あり、嫗
嶽と云山の奥に、苔深き巌の穴へぞ引入たりける、
彼穴の口にて聞ければ、大に痛み悲しむ声あり、是を
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聞るに、皆人身の毛よだつてぞ覚ける、父が教によ
りて娘糸をひかへて、わらはこそ参たれ、何事をい
たはり給ふぞ、見奉らんと云ければ、塚の穴の中より
大に恐しき声にて、我はそれへよなよな通ひつる者
なり、去夜思ひの外に頷に疵を蒙りてそれをいたは
るなり、これまで尋来る心ざしの程は目出たし、見
もしみえもすべけれども、日ごろの変化の力すでに
つきたり、其の上凡夫の身に非ず、本身はこれ此山
を領する大蛇也、汝に見えば肝魂もあるべからずと
いひければ、なにかはくるしかるべき、夜な夜なな
じみ奉りて久しくなりしかば、当時の姿をかへずし
てみえ給へといひけれども、見ゆべきならば始めよ
りこそ見えべけれ、汝を不便と思ふが故に見えぬな
り、但汝が胎内に一人の男子をやどせり、相構て安
穏にそだつべし、九国二島を領するほどの者にもな
るべし、草の陰にても守らんずるなりといひて、其
のちは音もせざりければ、父大夫を始として恐しき
事なのめならず、あわて騒ぎ各々にげ帰りにけり、
さても月日もやうやく満ちければ、一人の男子を生
てけり、生長するに随て、容顔ゆゆしく心ざまもた
けく、九国に聞ゆる程の大力、何事に付ても人にす
ぐれたるものにてぞありける、元服せさせて、母方
の祖父が片名を付て大太とぞいひける、足にはおび
ただしくあかがり切ければ、異名に赤雁大太とぞ申
ける、今の伊能はかの大太が五代の孫にて、心猛く
恐ろしき者にて有けるが、院宣を下さるる上は、興に
入て九国二島の武勇の輩をかり催して、数万騎の兵
を引率して、太宰府へ発向しければ、九国の者ども
皆平家を背きて伊能に随ひけり、平家の人々此一両
月は少しおちゐて、今は所をしめ跡を留めて、内裏
をも作り家々をも作りしかば、いかがして源氏をほ
ろぼして都へ帰り上るべき、さまざまのはかりごと
を廻らして、寄合寄合評定しける所に、かかる事を
聞てさこそ浅ましく思されけめ、筑前守家貞が申け
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るは、小松殿公達両人を相具し参らせて、勢多くい
り候まじく候、四五十騎ばかりにて豊後国へ越て、伊
能をこしらへて見候はばやと申たりげれば、もつと
もしかるべしとて、新三位中将清経、小松新少将有
盛二人を大将にて、六十余騎計りにて豊後国へ打こ
えて、伊能を拵へ宥めければ、伊能申けるは、一院
の御定にて候へば力及ばず、やがて公達をもとりこ
め参らせたく候へども、大事の中に小事なしと存候
へば、とりこめ参らせず候、又とり籠参らせ候とも
いかばかりの御事か候べき、とくとく御帰候て、一
所にていかにもならせ給候へと申ければ、家貞面目
をうしなひて帰にけり、やがて緒方三郎が嫡子小太
郎伊久、次男野尻次郎伊村とて二人ありけるが、伊
村を使として平家の方へ申送りけるは、御恩をも蒙
りて候き、相伝の君にて渡らせ給候上、十善の帝王
にて渡らせ給ひ候上は、奉公可仕由存候へども、九
国中を追出し参らせよと院宣下され候間、今は力及
ばず候、とくとく出させ給へと申たりければ、平大
納言時忠、ひをくぐりの直垂に糸蘭の袴きて、野尻次
郎に出向ての給ひけるは、我君は天孫四十九世の正
統、人皇八十一代の帝、太上天皇の后腹の第一の王子
也、伊勢太神宮入替り給へり、御裳濯川の流、忝神代
より伝りたる神璽宝剱内侍所をば、正八幡宮も守り
奉り給らん、九国の人民いかでかたやすくかたむけ
奉るべき、その上当家平将軍貞盛、相馬小二郎将門
を追討して、東八ヶ国を平げてより以来、故入道太政
大臣、右衛門督信頼を誅戮して、朝家を鎮めしに至
るまで、代々の間おのおの国家の固めとして、帝王
の御まぼりなり、就中鎮西の輩は皆召仕はれて、重
恩の者どもにてあるに、それに頼朝義仲が東国北国
の凶徒を相語て、我うちかちたらば国をもとらせん、
庄をもとらせんといふに、鳴呼奴原が実と思ひて与
力して、軍兵に対して軍するこそ不便なれ、九国の
輩当家の重恩を忘れて、鼻豊後が下知にしたがはん
P516
事甚だしかるべからず、能々相はからふべしとのた
まひければ、伊村は畏承候畢、父伊能に此やうを申
候べしとて立かへりぬ、伊能は縁塗の烏帽子に引梯
の直垂打かけて、引かたぬひで、弓の弦をさしつゐ
て居たる所に、伊村帰り来れり、伊能はいかに心も
となく思ひつるに、物語せよといひければ、伊村此よ
しを語りて、是はところところこそ申候へ、聞知候は
ぬ事どもいくらも申されつる間、人にとひ候へば、
このもの仰せられ候人は、平大納言殿とこそ申候つ
れ、仰られ候ひし詞は、紙三四枚にも記し候はんずる
なり、大かたかね黒なる公達若殿原誰とか申候らん、
いくらも集り居てましまし候つるが、軍などにはか
ひがひしくあるべしとも見え候はぬといひければ、
伊能申けるは、汝もよくよく案ぜよ、帝王と申奉る
は京都におはしまして、宣旨を四角八方へ下さるれ
ば、草木も靡くことにてあるにこそ、この帝王は事
事しくのたまふなれども、源氏に責おとされて、こ
れまでゆられおはしたる、且は見苦しき事ぞかし、
是は院には御孫ぞかし、法皇はまさしき祖父にて、京
都にはたらかでましませばこそ、誠の帝王よ、親祖
父にまさり給ふべき事やある、今は今、昔はむかしに
てこそあれ、院宣を下さるる上は、子細にや及ぶべ
きと申て、やがて博多津に押寄てときを作りたりけ
れば、平家の方には、筑前守貞家を大将軍として、
菊池原田が一党を差向て防がれけれども、三万余騎
の大勢責かかりければ、とるものもとりあへず太宰
府をぞ落されける、かの頼もしかりし天満天神のし
めのあたりを、心細くぞ立はなれ給ひける、主上は
駕輿丁もなければ、荵花鳳輦の玉の御輿にもめされ
ず、御供の公卿殿上人さしぬきのそばをとり、女房
達は裳唐衣泥にひたして、かちはだしにて我先にと
逃出給ひけり、折節降雨は車軸を流し吹風いさごを
あぐ、住吉の社を左にし筥崎の松原に一夜明、あく
る日香椎、宗像など伏拝みて、みちのたよりの法施に
P517
も立願の心ざし、主上今一度旧都の行幸のみぞ被申
ける、されども前業の致す処なれば、今生の感応空
しきに似たり、雨もなみだもいづれともみえわかず、
鳥にもあらねば天にかけらず、龍にあらねば雲へも
のぼりがたし、かの玄弉三蔵の流砂葱嶺を凌がれけ
るも、是にはいかでか増るべき、かれは求法のためな
れば、後世菩提の資糧也、是は順業の悲みなれば、来
世の苦輪頼みなし、后妃、女は涙を流して岩石を凌
ぎ、三公、九卿、群寮、百司の数々に随ひ奉る事もな
し、其日は蘆屋の津といふ所にとどまり給ふ、都より
福原に通ひ給ふ時聞給し里の名なれば、いづれの里
の名よりもなつかしくて、今さらあはれぞまさりけ
る、きかい高麗の方へも渡らばやとはおぼせども、
浪風心に叶はねば、山鹿の兵藤次秀遠に伴て山鹿城
にぞ籠りたまふ、去程に九月中旬にもなりにけり、
ふけ行く秋の哀さはいづくもといひながら、旅の空
には忍びがたく、海辺の泊も珍らしく覚しける、あま
人の柴の苫屋に立る煙、朝げの風も身にしみて、蘆間
をわけてつたふる船より又虫の声嵐の音、ものにふ
れ折に随ひて、もにすむ虫の我からとねをのみぞな
かれける、十三夜は名を得たる月なれど、殊に今宵
はさやけくて、都の恋しさもあながちなりければ、
各一所にさしつどひてながめけるに、薩摩守かくぞ
詠じ給ける、
月を見し去年の今宵の友のみや
みやこに我を思ひいづらん W118 K177
修理大夫経盛
恋しとよこぞのこよひのよもすがら
月見しともの思ひ出られて W119 K178
平大納言時忠
君すめば是も雲ゐの月なれど
なほこひしきは都なりけり W120 K179
左馬頭行盛
名にしおふ秋の半も過ぬなり
P518
いつより露の霜にかはらむ W121 K180
大臣殿
うちとけてねられざりけり梶枕
今宵の月のゆくへ見んとて W122 K181
思ひきや彼の蓬壷の月を、此海上にうつして見るべ
しとは、九重の雲の上、久方の花月になれし友がら、
今さら切に思ひ出られて、思ひ思ひに口ずさみ給ふ、
さこそ悲しくおぼしけめ、かくて暫く慰む心地して
ありける程に、又緒方三郎十万余騎にてよすると聞
えければ、山鹿城をも取ものも取あへず、たかせ船
に棹して、通夜豊前国柳浦といふ所にぞおちつき給
ひける、河の辺の叢になく虫のねまでもよわり果ぬ
るを聞給ひて、大臣殿かくぞ思ひつづけ給ける、
さりともと思ふ心も虫の音も
よわりはてぬる秋のゆふ暮[B 「ゆふ暮」に「くれかな」と傍書] W123 K182
彼所は地景眺望少し故ある所也、桜梅桃李引植て、
九重の景気思ひ出ければ、さても渡らせ給ふべき御
心ありけり、薩摩守忠度何となく口ずさみに、
都なる九重のうち恋しくば
柳の御所を春よりて見よ W124 K518
緒方三郎やがて襲来ると聞えければ、かの御所にも
わづかに七ヶ日ぞおはしける、御船に召て通夜おぼ
しけるに、ころは九月のすゑなれば月くまなくさえ
たり、修理大夫経盛、
すみなれし旧き都の恋しさを
神もむかしを思ひ出らめ W125 K154
さて四国の方へおもむき給けるに、小松内大臣の三
男左中将清経、都をば源氏に追落され、鎮西をば伊
能に追出され、いづくへ行たらばかなふべきや、終に
は不(レ)可遁とて、閑に御経よみ念仏申て海にぞ沈給
ひける、人々惜み給けれどもかひなし、長門は新中
納言殿国務し給ければ、目代紀伊民部大夫通助、平家
小船に乗給へると聞て、安芸周防長門三ヶ国の桧物
や正木つみたる船卅六艘點定して平家に奉ければ、
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夫に乗給ひて讃岐国へ越え給けり、阿波民部大夫盛
良は折ふし讃岐の屋島にありけるが、澳の方に木の
葉のごとく船どもの浮で候と、遠見に置たる者いひ
ければ、盛良申けるは、源氏はいまだ都を出たりと
も聞えぬものを、もし平家の公達の九国の者にすげ
なくあたられて、帰上り給ふござんめれ、敵か御方
か盛良行向て見奉るべし、源氏ならば盛良は死なん
ずらん、矢一射ずるなりといひ置て、小船に乗てこ
ぎ向ふ、御方の船と見えければ、大臣殿の御船に参り
て、盛良申けるは、左候へばこそ最前より只是には
わたらせ給候へと能々申候しが、鎮西の者どもは志
深く思ひ参らせ候はん者は参るべし、二心を存ぜん
者はよも参り候はじ、ここかしこ渡らせ給て、人々も
背き参らせ候はば、中々あしく候なんと、さしも申
参らせつるものを、此屋島の浦は城郭にて候なり、
只是に御渡らせ給べきなりと申て、入参らす、あや
しの民の家を皇居とするにたらざれば、しばらく御
船をもて御所とす、大臣殿以下の月卿雲客は賎の伏
屋に夜を明し、あまの苫屋に日を送り、草枕梶枕波
に引れ露にしほれて、明し暮し給ける、かかる住居
は、誰もいつか習ひ給べきならねど、あだし世のう
き身の習なれば、人々涙を流しふし沈給ふもあはれ
なり、盛良は馳向て阿波国の住人等を始として、四
国の者ども靡かして頼もしきやうに振舞ければ、盛
良が御気色ゆゆしき者なりとて、阿波守になされに
けり、家貞は九国をも従へず、追出されにければ力な
し、原田大夫種直、菊池二郎高直、肥前豊前の守に
なりけれども、伊能に追出されて国務にも及ばず、
ただ名ばかりにてありける上は心がはりしてけり、
何事も盛良がはからひ申にしたがひ給ければ、四国
の者ども彼が心にしたがはんとふるまひける、その
中に伊予河野四郎通信ばかりぞ参らざりける、盛良
がさたにて、内裏とて板屋の御所を作出したりけれ
ば、主上わたらせ給ふ、人々もあやしの丸やども造
P520
りて住給けり、
都には法皇の御なげきなのめならず、その故は三種
の神器外土にまします事、月日多く重りぬれば、追
討の使を遣はさんとするに付ても、異国の財ともな
り、海底の塵ともやならんずらんとぞ思召し、代の
すゑになるといひながら、我目の前にかかる不思議
のあるこそ心うけれ、御禊大甞会もすでに近くなり
たり、いかがして都へ帰入奉り候はんと、さまざまの
御祈どもを始めらる、人々に仰合せられなどしけれ
ば、御使を下されて時忠卿に仰候べしと議定ありけ
り、誰か使節をつとむべしと評定ありけるに、時光
をめし、かれを下さるべきよし諸卿はからひ申され
ければ、法皇修理大夫時光にのたまひけるは、吾朝
の大事唯この事にあり、西国へまかり下て、子細を
委しく時忠に仰含よと仰られければ、時光申けるは、
朝家の御大事君の仰、かたがた申すべき子細にては
候はず、急ぎまかり下るべく候、但まかり下候はば、
帰参候はん事ありがたかるべし、その故は西国へ平
家おもむき候し時、必相伴ふべき由を時忠申候しか
ば、君の御幸なり候はば力及ばず候、しからずばお
もひよらずと、心中に存候し程に、君の御幸も候は
ざりしかば止り候き、その後もまかり下るべきよし
度々申遣して候しかども、たとひ万人の肩をこえて、
三公に至り候べく候とも、君をはなれ参らせて、外
土へ赴くべしとも、かねておもひよらず候事なれば、
返答にも及ばずして、罷りすぎ候なりと申されたり
ければ、さては帰り上らん事誠にかたかるべしとて、
修理大夫時光は留められけり、かの時光、は平大納言
の北方、安徳天皇の御乳母、帥典侍の妹にてありけれ
ば、時忠にしたしくて、西国よりも左様に申されけ
るとかや、さらば院宣を下さるべしとて、蔵人左兵
衛権佐宣長院宣を書て、御壷の召次にて平大納言の
もとへ下されたり、その院宣を平大納言見給ひて大
に瞋て、彼院宣をなげすて、御使を召出して顔に火印
P521
をさして追上せらるる、是によるべき事にあらず、
大納言の所行返々おとなげなく情なしとぞ申あはれ
ける、天性腹あしき人にて、思ひの余りにかくせられ
けり、兵衛佐頼朝は輙く都へは上りがたかるべしと
て、鎌倉に居ながら征夷大将軍の宣旨を蒙る、その
状にいはく、
左弁官下、五畿内、東海、東山、北陸、山陰、山陽、
南海、西海已上諸国、
可令為早源頼朝朝臣征夷大将軍事
使 左史生中原康定
右史生同景家
右、左大臣藤原兼実宣、奉勅、従四位下行前右兵衛
権佐源頼朝之朝臣可令為征夷大将軍、者宜令
承知、依宣行之、
寿永二年八月日 左大史小槻宿禰
左大弁藤原朝臣在判
とぞ書れたりける、御使左史生中原康定、同九月四日
鎌倉に下着して、兵衛佐に院宣を奉り、勅定の趣を仰
含て、兵衛佐の請文を請取て、同廿七日に上洛して、
院御所の御壷の内に参りて、関東の有様をくはしく
申たり、兵衛佐の申され候しは、頼朝は勅勘を蒙と
いへども、御使を奉て朝敵を退て、武勇の名誉を長じ
たるに依てなり、忝征夷将軍の宣旨を蒙る、都へさ
んぜずして宣旨を奉請取事、其恐不少、若宮にて
可奉請取と申され候しかば、康定若宮の社だんへ
まいりむかふ、又康定は雑色男に宣旨袋をかけさせ
て候き、若宮とは、鶴が岡と申所に八まんを遷し奉
て候なり、地形石清水に相似て候、其に宿院あり、
四面の廻廊あり、作り道十余町見下たり、さて院宣
をば誰してうけとり奉るべきと評定候けるに、三浦
の介義澄をもて可奉請取と被定候、かの義澄は
東八ヶ国第一の弓取、三浦平太郎為継とて、柏原天皇
の御末にて候なる上、父の大介義明は君の御為に命
をすてたる者なり、然れば義明が黄泉の冥暗をも照
P522
さんがためなり、義澄は家の子二人郎等十人相ぐし
て候き、家の子二人と申一人は、比企藤四郎能員、
一人は和田三郎宗実と申者にて候、郎等十人は大名
十人して俄に出したてて候なり、以上十二人はみな
ひた甲、義澄は赤威の鎧を着て、甲をば着候はず、
弓わきばさみて、左のひざをつき、右のひざをたて、
宣旨をうけとり参らせんと仕る、宣旨をばつづらの
はこのふたに入参らせて、抑御使はたれたれにて候
ぞと尋申候しかば、三浦介とは名乗らで、三浦荒次郎
義澄と申て、宣旨をうけとりたてまつらせて後、良久
しく候て、らん箱のふたに、砂金百両入られて返し
候ぬ、拝殿にむらさき縁のたたみ二帖しきて康定を
居候て、高杯肴二種にて酒をすすめ候に、斎院次官
を陪膳にたて、五位一人出し肴に馬引候しに、大宮の
侍の一臈にて候し工藤左衛門祐経是を引候ぬ、其日
兵衛佐の館へは、請じ候はず、五間なる萱屋をしつ
らひて、〓飯豊にして、厚絹二領小袖十重長櫃に入
ておき、此外上品の絹百疋、次絹百疋、白布百端、
紺藍摺百端づつ積て候き、馬十三疋送て候しに中に、
三疋はくら置候、あくる日兵衛佐の館へ罷越候しに、
内外に侍候、ともに十二間にて候、外侍には国々の大
名ども肩を並べて居候、内侍には源氏どもひざを組
で並居候、末座には郎等ども居たり、少引のけて、
紫縁の畳しきて康定を居候しが、良久しく有て兵衛
佐の命に随て、康定寝殿へ高麗縁のたたみ一帖しき
て、簾を上られたり、広簷に紫縁のたたみを一帖敷
て、康定を居させ候ぬ、兵衛佐出合たり、布衣に葛
袴にて候、容顔あしからず、顔大にして少しひきぶ
とにみえ候、かたち優美にて言語分明なり、仔細と
うこまかに述べられしなり、行家義仲は頼朝が使に
都へは向ひ候ぬ、平家は頼朝に討れて、京都に跡を
とどめず、西国へ落うせ候、その跡にはいかなる尼
君なりともなどか打入ざるべき、それに義仲行家わ
れ高名がほに、恩賞に預り、剰へ両人ともに国をき
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らひ申候なる、返々奇怪に候、義仲僻事仕候はば、
行家に仰て誅せられ候べし、行家ひが事仕候はば、
義仲に仰て誅せられ候べし、当時も頼朝が書状の表
書には、木曾冠者、十郎蔵人と書て候へども、返事は
してこそ候へと申され候し程に、折ふし聞書到来候
とて、兵衛佐是を見てよに不得心気に思ひて、秀衡
が陸奥守になされ、資職が越前守になさる、隆義が
常陸介になりて候とて、頼朝が命にしたがはず候し
も、無本意次第に候へば、早く彼等を追討すべきよ
し、院宣を仰下され候べしとこそ申候しか、其後康定
色代仕候て、故名簿をして参るべく候へども、今度
は宣旨の御使にて候へば、追て申候べし、舎弟にて
候史大夫重良同心に申候きと申て候しかば、当時頼
朝が身として、争か各々名簿をば給はり候べき、さ候
はずとも、疎略の儀候まじと返答してこそ候しか、
都にも覚束なく思召され候らんに、頓てまかり立べ
きよし申て候しかば、今日ばかりは逗留あるべしと
申候間、其日は宿へまかり帰て候しに、追様に荷懸
駄卅疋送りたびて候き、次の日兵衛佐の館へ向て候
しかば、金作の太刀に九指たる征矢一腰給て候き、
其上鎌倉を出で候し日よりして、かがみの宿迄宿々
には米五石あて置候間、沢山なるに依て少々は人に
とらせて候、又みちみち施行に引てこそ候つれと、
こまかに申たりければ、人にとらせて康定が得分に
はせでとぞ、法皇は仰あて笑ばせたまひける、むか
し武蔵権守平将門以下の朝敵首両獄門に収められ、
文覚白地に獄に宿入られたらん者の、いかでか輙く
左馬頭義朝が首を掠取べき、只偽て兵衛佐に謀叛を
申すすめんが為に、野原にすてたる頸を取て、かく
申たりけるに依てなり、石橋の軍には兵衛佐負たり
けれども、次第に勢付て、所々の軍に打勝てのち、
父の恥を清め、誠に義朝死て後、会稽を雪たりと覚
て哀なり、
木曾冠者義仲はみやこの守護にて候けるが、みめか
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たちは清く美男にてありけれども、起居の振舞のこ
つなさ、ものなどいひたる詞つづきのかたくななる
事、堅固の田舎人にて浅猿くおかしかりけり、実にも
理なりとぞ人々申ける、信濃国木曾の山下といふ所
に、二歳よりして廿余迄隠居たりければ、さるべき
人ともなれ近付たる事もなし、今始めて都人となれ
ける程に、なじかはおかしからざるべき、
猫間中納言光隆卿、木曾が方へおはして、雑色をも
て参てこそ候へ、見参に入れ候はんと申せといはせ
入させ給たりければ、木曾が方に今井四郎、樋口次
郎、高梨子、根井といふ四人ありけり、其中に根井と
いふ者、木曾に猫殿の参りてこそ候へと仰せられ候
と云たりければ、木曾心得ずげにて、とはなんぞ、猫
の来るとは何といふ事ぞ、猫の人に見参する事やあ
ると云て、腹立ける時、根井又立返て、使の雑色、
猫殿参りたりとは何事ぞ、御料のしからせ給ふとい
ひければ、雑色おかしと思て、七条坊城壬生の辺を
ば南猫間と申候、是は北猫間に渡らせ給ひ候、上臈の
猫間中納言殿と申参らせ候人にて渡らせ給候なり、
鼠取候猫にては候はぬなりと、こまごまと云たりけ
れば、其時能々心得たりげにて、根井委しく木曾に
申たりければ、さては人ござんなれ、いでさらば見
参せんとて、中納言殿を請じ入奉りて出合けり、木
曾取あへず猫殿のまれまれわしたるに、根井やもの
参らせよといひければ、中納言浅ましく覚て、只今
何も所望なしと宣ひけれども、いかが食時にわした
るに物参らせではあるべき、無塩平茸もありつ、と
くとくといひければ、よしなき所へ来にけりと、今
更帰らん事もさすがなり、かばかりの事こそなけれ
と思して、の給ふべき事もよろづ興さめて、かたづを
呑みてましましけるに、いつしか黒々としてけだち
たる飯を、高く大にもりあげて、御さい三種平茸の
汁一折敷にすへて根井持来りて、中納言の御前に据
たり、大かたとかく云ばかりなし、木曾がまへにも
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同じ様にすへたり、すへはつれば、木曾箸を取てお
びただしきさまにくひけり、中納言は青醒ておはし
ければ、いかにかめさぬぞ、がうしをきたなみたまふ
か、あれは義仲が観音講に毎月にすふる精進合子に
て候ぞ、ただよそへ無塩平茸の汁もあり、猫殿かひ
給へやといひければ、食てもあしき事もやありとて、
食まねせられたりければ、木曾はつかとくひて、手
づから合子も皿も取かさねて、中納言を打みて、あ
の猫殿は天性小食にておはしけるや、猫殿今少しか
ひ給へと申けり、根井よりて猫間殿のそなへをあげ
て、猫殿御供の人や候と申たりければ、因幡潤と云
雑色是に候とて参たりければ、是は猫殿の御わけぞ、
給はれとて取らせたりければ、とかく申すに及ばず、
縁の下へなげ入たりけるとかや、是のみならず、か
やうにおかしき事ども数を知らずぞ有ける、
木曾官なりたるしるしもなく、さのみ直垂にてある
も悪しとて、布衣取装束して車に乗て、院参しける
が着も習はぬたてゑぼしより始て、さしぬきのすそ
までかたくなさ、事もいふばかりなし、牛飼童は平
家の内大臣の童を取たりければ、高名のやつなりけ
り、我主の敵ぞかしとめざましく心うかりければ、
車にこそ乗たるありさまいふばかりなし、おかしか
りけり、人形か道祖神かとぞみえし、鎧うちきて馬
に乗たるにはにず、あぶなく落つべしとぞ見えける、
牛車共に、屋島大臣殿のをおさへとりたりけり、牛
飼童も大臣殿次郎丸なり、世にしたがへばとられて
使はれけれども、主の敵なればめざましく思ひて、い
と心にも入ざりけり、牛は聞ゆるこあめなり、逸物
のこの二三年すへかうたるが、門出に一ずはえにて
あてたらんに、なじかは滞るべき、飛出たりければ、
木曾あふのけに車の内にまろびけり、牛はまひあが
りてをどる、いかにと木曾浅ましく思ひて、起き上ら
んとしけれども、なじかは起上るべき、袖を蝶の羽
を広げたるがごとくにて、足を空にささげて、なま
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り声にてしばしやれしばしやれといひけれども、牛飼そら
きかずして、四五町ばかりがほどあがらせたりけれ
ば、供奉にある郎等ども走り付て、いかに御車をと
どめよといひければ、御牛のはなこはくて留り兼て
候、其上しばしやれしばしやれと候へばこそ仕て候へとぞ
陳じける、車留て後、木曾ほれぼれとして起上りけ
れども、猶あぶなく見えければ、牛飼童さしよりて、
それに候手形にとりつかせ給へといひければ、いづ
れを手形ともしらぬげにて、見まはしければ、それ
に候穴に取つかせ給へといひける折、取付てあはれ
したくや、是は牛小舎人の支度か、主殿のやうが木
のなりかとぞとひたりける、車の後よりおりんとし
ける間、前よりこそ下させ給はめと雑色申ければ、天
性はり魂の男にて、いかでかすどほりをばせんずる
といひけるぞ、おかしかりける事どもなり、
平家は讃岐国八島にありながら、山陽道をぞ打取け
る、木曾左馬頭只今是を聞て、信濃国住人矢田判官
代海野矢平四郎行広を大将軍として、五百余騎の勢
を差遣しけり、平家は讃岐国屋島にあり、源氏は備中
国水島がみちにひかへたり、源平たがひに海を隔て
支へたり、閏十二月一日水島が途に小舟一艘出来、
海舟釣舟かと見る所に、それにはあらず、平家の牒使
の船なりけり、源氏是を見てともづなをといて、ほ
しあげたる船どもをめき叫びておろしけり、平家是
を見て、五百余艘の船を二百余艘をば敵の方へ差う
け、残る三百余艘をば、百艘づつ手々に分て、源氏
の船を一そうも漏さじと、水島が途を押まひたり、
源氏大将軍海野矢平四郎行広、搦手の大将軍矢田判
官、平家の大将軍には本三位の中将重衡、新三位中将
資盛、越前三位通盛、からめ手の大将軍には新中納
言知盛、門脇の中納言教盛、次男能登守教経也、教
経の給ひけるは、東国北国の奴原に始めて生捕にせ
られ、随仕へん事をば返りみるべからず、軍こそゆ
るなれ、船軍はやうある物也とて、唐巻染の小袖に、
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精好の大口に黒糸威の鎧のすそ紅に端匂ひしたるを
きて、小船に乗て三尺にすぎたる大長刀の、銀のひる
巻したるを取持て、敵の船にのりうつりて、ともよ
りへ、へよりともざまになぎてめぐりければ、面を
向る者もなし、或は切たをされ、或は海へ落入しけ
るほどに、敵多く亡びうせぬ、其上五百余艘のとも
づなを結合て、中にはもやひを入て上には歩の板を
引渡たれば、平々として足立よし、船の中にて遠者を
ば射、近者をば打物にて勝負をする、熊手にかけて
とるもあり、組て落るものもあり、さしちがへて死
ものもあり、思ひ思ひこころこころに勝負をぞ決しけ
る、巳の刻より未の下刻に至るまで、隙ありとも見
えざりけり、然るに源氏終にまけ軍になりて、大将軍
矢田判官代も討れにけり、海野矢平四郎行広は、今
は叶はじと思ひて、郎等我身ともに鎧武者八人はし
舟にのりて、沖の方へこぎさりける程に、舟はほそ
し浪風烈しかりけり、踏沈で一人ものこらず皆死に
けり、平家は船中に鞍置馬ども用意したりければ、
五百余艘の船のともづなを切放て渚に舟をよせて、
船腹を乗傾けて、馬をさつとおろす、ひたと乗て教
経を先として、をめいてかけ給ひければ、討漏され
たる源氏の郎等ども、取物もとりあへず、はうはう
都へ逃上る、義仲是を聞て安からぬ事に思ひて、夜
を日についで備中国へはせ下る、去六月北陸道加賀
国安高篠原の戦に、備中の妹尾太郎兼康、平泉寺長吏
斉明威儀師を生捕にしたりけるが、斉明をば六条河
原にて切られ、又兼康はさる古兵にて、木曾に二心な
きやうに随けり、去六月頃よりかひなき命を助けら
れ参らせて候へば、今は夫に過ぎたる御恩何にかは
候べき、自今以後命候はんずる限は、御先をかけて、
命は君に参らせ候はんと申て、内々はひまあらば木
曾を討んとぞ狙ひける、蘇子卿が胡国にとらはれ李
少卿が漢国へ帰らざりしがごとし、遠く異朝に着す
ること昔の人の悲しめりし所なり、〓は〓〓の幕こ
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れらを以て寒温を防ぎ、〓き肉を酪漿、彼等を以て
は飢饉を養、夜はいぬる事あたはず、昼は悲の涙を
たれて明しくらす、薪をとり草を切らずといふばか
りなり、何事に付ても心うく悲しからずといふ事な
し、されども二心なく木曾につかはれけり、心中に
はいかにもして故郷へ帰てふるき主をも見奉り、本
意をも遂げんと思ふ心深かりけり、さる間謀にかく
は振舞けるをば、木曾つゆも知らざりけるにこそ、
寿永二年十月四日、木曾都を出て播磨路にかかりて
今宿といふ所に着ぬ、今宿より妹尾を先達にて備中
の国へ下り、船坂といふ所にて兼康木曾にいひける
は、今に兼康いとまを給て、先立て親き奴原数多候
へば、御馬の草をも儲させ候ばやと申ければ、木曾
もつとも然るべしとて、さらば義仲はここに三日逗
留すべしと申ける、兼康木曾をばよくすかしおほせ
つと思て、子息に太郎兼道宗俊等を相具して下らん
とす、兼康をば加賀国の住人倉光五郎といふ者に生
捕られて、木曾には仕へけり、兼康倉光にいひける
は、や給へ倉光殿、兼康を生捕にし給ひたりし勧賞
いまだ行ひ給はず、備中の妹尾はよき所也、兼康が
本領也、勲功の賞に申給て下り給へかし、同くは打
具し奉てといひければ、倉光の五郎、実と思ひて妹尾
を望申ければ、木曾下文をなしてけり、倉光五郎頓て
兼康を先に立て、下りける道にて思ひけるは、倉光を
妹尾まで相ぐし下りぬるものならば、新司とて国の
者どももてなしてんず、又悦ぶ者もあらば、倉光勢
付てはいかにもかなはじと思ひて、備前国に別の渡
といふ所より東に藤野寺といふ所にて、兼康、倉光に
申けるは、斯る乱の世なれば所も合期せん事かたし、
兼康先立て所にもふれ廻り、親き者どもにもかかる
人こそ下り給へと申て、御儲をもいとなませ候はん
とて、彼所に倉光をばすかし置て、兼康先に立にけ
り、草加部といふ所に宿して、その夜倉光を夜討に
して、西川、三のわたりして、近隣の者ども驅催して、
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福龍寺なはてを堀切る、かの畷と申は、遠さ廿町ば
かりなり、北は峨々たる山、南は海へつづきたる沼
なり、西は石ばいの別所とて寺あり、この寺を打すぎ
て、当国の一宮を伏拝みて、ささが迫に懸りにけり、
小竹が迫は西の方は高山なりければ、上に石弓をは
りて木曾を待かけたり、後は津高町とて谷口は沼也、
何万騎の敵向ひたりとも輙くおとしがたし、爰に兵
どもをさしおきて、我身は唐皮の宿に引籠る、倉光五
郎もとよりすくやかなる者にて、妹尾太郎を生捕に
するのみにあらず、度々高名したる者にてあるに、
いかにして兼康にはいふかひなくおびき出されて、
うたれにけるやらんと人申ければ、或者の申けるは、
ことわりや、北国の住人ながら傍輩をかへり見ず、
案内者たたでここかしこにあなぐりありき、もとよ
りも馬のはなも向はぬ所へも武士を入なんどして、
木曾に悪き事を申すすむれば、悪行積りて本社の御
咎めやあるらん、それも知らず、又斉明威儀師を六条
河原にて首をきられしも、倉光が讒言なり、末社の
長吏なれば白山権現の御祟にて、倉光もいひ甲斐な
くうたれにけりとも申けり、妹尾太郎申けるは、兼
康こそ北陸道の軍に生捕にせられてありつるが、木
曾をすかいて、いとまをえて平家の御方へ参れり、木
曾は既に船坂に着たり、御方に志思ひ参らせん者ど
もは、兼康に付て木曾を一矢射よやと、山彦、木だま
のごとくののしりて通りければ、妹尾の者どもは、
馬鞍郎等をも持たる輩は、皆平家について屋島に参
りぬ、物の具持たぬ者は妹尾に留ま[B ッ]てありけるが、
是を聞て或は柿のひたたれに、つめひぼゆひたる者
もあり、或は布小袖にあづまをりしたる者もあり、狩
うつぼにさび矢四五さいてかきおひ、箙に鷹俣五六
指てかきつけたる者、あなたこなたより二三百人ば
かり集りにけり、物具したる者七八人には過ぎざり
けり、妹尾太郎に夜討にうちもらされたる倉光が下
人、船坂山に罷り向て木曾に申けるは、倉光殿こそ
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夜討に討れて候へ、妹尾太郎殿は先立て馬草をも尋、
御儲をもせさせ候べし、其程は此寺にましませと申
て、倉光殿をば古堂に止置奉りて、急ぎ使を奉るべ
しと申て罷候しが、使も参らせ候はぬと申ければ、木
曾殿大に驚て、さて夜討の勢は何ほどかありつると
とへば、四五十騎には過候はじといひければ、さて
は兼康めがしわざにこそ、さ思ひつる物を安からぬ
ものかなとて、木曾腹立て、三百余騎にて今宿を打
出で夜を日についで馳下り、その暮方には三石につ
き、明る日藤野につきて、倉光さてはここにてうた
れ候けるよとて、それをも打すぎて、別のわたりを
して福龍寺畷堀切りたりければ、加波郷へ行て、惣
官をしるべにて北の方の鳥岳を廻りて、小竹が井を
こそおとしけれ、妹尾は木曾は今宿に三日の逗留と
いひしかばとて、いまだ城郭をもかまへぬに、木曾は
と押よせたりければ、思ひまうけたる事なれども、
あわて騒ぎたりけり、さはあれども、暫くこらへて支
へたり、走り武者どもはこらへずして皆落てうせぬ、
少恥をもしり名をも惜むほどの者は、一人も残らず
皆討れにけり、多くは深田に追はめられて、頸をぞ
被切ける、妹尾太郎は矢種つくして、主従三騎千本
山へぞ籠りけるが、相構へて屋島に伝らんと心ざし
たりけるが、妹尾嫡子小太郎兼道は、父には似ず肥
ふとりたる男にて、歩みもやらず、足をはらして、
山の中に留りにけり、父は小太郎をもすてて、思ひ
切りて落行けるが、恩愛のみち力及ばざる事なれば、
小太郎が事を思ふに行もやらず、郎等宗俊にいひけ
るは、兼康は年来数千騎の敵の中に向て戦しかども、
四方はればれとしてぞ覚えしに、只今は行先もみえ
ぬは、小太郎をすてて行時に、眼に霧ふりて行先もみ
えぬと覚ゆるぞ、いづくへ行たり共、しなば一所に
てこそ死にたけれ、屋島へ参じて今一度君をも見奉
り、又軍に木曾殿に生捕られて、此日比朝夕仕へつる
事共をも、語り申さばやとこそ思へども、妹尾こそ
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最期にあまりにあわてて、子をすてて落たりといは
れん事も心うし、そのうへ小太郎も恨めしくこそあ
るらめと思へば、もとより取て返し、小太郎と一所に
て死ばやと思ふはいかにといへば、宗俊もさこそ存
候へ、急ぎ帰らせたまへとて、十余町走り帰て、小
太郎が足病て臥たる所に走付て、汝と一所に死なん
と思ひて、帰りたるなりと云ければ、小太郎おきあ
がりて手を合せて涙を流し、前にはしがきをさし矢
間をあけ、うしろには大木を当てて、木曾をまちか
けたり、さるほどに木曾三百余騎にて、妹尾が跡め
に付て追かけたり、兼康此山に籠りたるは、いづく
にあるやらんとて、人を入てさがさせよものどもと
いひければ、聞もあへず妹尾太郎兼康ここにありと
いふままに、さしつめさしつめ射る、十三騎をば射おとし
つ、馬九疋をば射ころしぬ、妹尾矢だねつきてけれ
ば、腹を切てふしにけり、子息小太郎もさんざんに
戦て、同じく自害して臥にけり、郎等宗俊はしがき
の上より、妹尾が郎等に宗俊といふ剛の者の、自害す
るを見よや殿原と云て太刀の先を口に含て、さかさ
まに落ちつらぬかれて死にけり、木曾、妹尾が父子自
害の頸を取て、備中国鷺の森へ引退き、万寿庄に陣を
取て勢を揃へける、去程に京の留守に置たりける樋
口次郎兼光、早馬をたて申けるは、十郎蔵人殿こそい
たちのなきまにてん[* 「てん」に「貂」と振り漢字]ほこる風情して、院の切人して
木曾殿を討奉らんと、支度せらると告げたりければ、
木曾大に驚て、平家をば打すてて、夜を日についで都
へはせのぼる、十郎蔵人是を聞て木曾にたがはんと
て、十一月二日、三千余騎にて丹波国へかかりて、
播磨路へぞ下りける、木曾は津国より京へいる、
平家は門脇の中納言教盛、本三位中将重衡を大将軍
にして、其勢一万余騎、はりまの国室の津につく、
平家討手を五にわかつ、一陣には飛騨の三郎左衛門
景経五百余騎、二陣は越中次郎兵衛盛次五百余騎、
三陣は上総五郎兵衛五百余騎、四陣は伊賀平内左衛
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門家長五百余騎、五陣は大将軍新中納言七千余騎に
て、室坂を歩ませ向ふ、ここに十郎蔵人出来、一陣の
勢是を防ぎ、暫く支へて二陣に向ひたり、此手も防
様にてめての林へおち下る、それを追ひ落て三陣の
勢にあゆませ向ふ、そこをもこらへずして北のふも
とを射落さる、四陣によせ合ひたり、是もかなはず
南の山際へ追ひ落さる、五陣の大勢によせ合たり、
新中納言の侍に紀七、紀八、紀九郎とて兄弟三人あり
けるが、精兵の手ききなりけるを先として、弓の上
手をそろへていさせければ、面をむかへ寄べきやう
もなかりけり、行家かなひがたくて引退きければ、
軍兵ときを作りておつかくる、鬨の声を聞て、四陣
三陣二陣一陣の勢、山のみねよりもとの跡に来り集
りて、是をささへたり、行家は敵にたばかされけり
と心得て、中にとりこめられじとて、敵に向て弓を
ひかず、太刀をもぬかず、ここを通せや若党どもと
て、四陣をけやぶり三陣につぎ、爰をもかけとほり、
一陣同じくかけ破りて通つつ、十郎蔵人後を返りみ
れば、三千余騎の勢皆討とめられて、わづかに五十
よきになりにけり、此中にも手負数多ありける、大
将軍行家ばかりぞ手一ヶ所もおはざりける、行家あ
まの命生て津国へおちにけり、平家の勢いふしろ
にしこみければ、さんざんに射払ひてのぼる、播磨
の方は平家に恐る、都は木曾に恐れて、和泉国へぞ
落ちにける、平家、室山、水島両度の軍に打勝てこそ、
会稽の恥をば清めけれ、源氏の世になりたりとも、さ
せるゆかりならざらん者は、何の悦かあるべきなれ
ども、人の心のうたてさは、平家の方弱ると聞けば悦
び、源氏の方つのると聞ては興に入てぞ悦びあひけ
る、さはあれども、平家西国へおち給しかば、其騒
ぎにひかれて安き心なし、妻子を東西南北へはこび
かくし候ほどに、引失ふこと数をしらず、穴を掘て
埋みし物をも或は打破り、或は朽損じてぞ失せにけ
る、浅ましともおろかなり、まして北国の狄打入て
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後は、八幡、加茂の領地をも憚らず、麦田を刈らせて
馬に飼ひ、人の倉を打あけて物をとる、可然大臣家
などをばしばしは憚りけれども、かたほとりに付て
は、武士乱入して少しも残す所なし、家々を追捕し、
家々には武士ある所にもなき所にも、門々に白はた
を立置て、道をすぐる者安き事なし、衣裳をはぎ取
ければ、男も女も見苦しき事にてぞありける、平家の
世には六波羅殿御一家と云てければ、ただ恐をなし
てこそありしか、か様に目を合て食物着物を奪ふ事
やはありし、老たるも若きも歎あへる事なのめなら
ず、木曾かかる悪事を振舞ける事は、加賀国井上次郎
師資が教に依てとぞ後には聞えし、院の北面に候け
る壱岐の判官知康をば、異名には皷の判官とぞいひ
ける、それを御使にて、狼藉をとどむべきよし被(レ)仰
下ければ、木曾遠国の夷とはいひながら、無下にひ
たすら者不覚の荒夷にて、院宣をも事ともせず、さん
ざんにふるまひければ、前入道不便に思召て、内々木
曾に仰せられけるは、平家の世にはかやうの狼藉な
る事やはありしと諸人云歎く也、人を殺し火を放つ
事不尽と聞ゆる、急ぎ鎮めらるべしと被(レ)仰けれど
も其しるしなし、院よりなほ知康をもて上洛して、叛
逆の徒を追ひ落したる事は本意也、誠にや室山より
備前守行家が引退きける由聞ゆ、尤覚束なし、さて
は此間洛中狼藉にて諸人の歎きあり、はやく可鎮と
仰有ければ、木曾義仲畏申けるは、先行家が引退候
なるも、やうこそ候らめ、さればとてやは平家世をば
取候べき、はからふむね候、驚き思召さるべからず
候、次に京都の狼藉つやつや不存知仕、いかさま
尋ねさた仕候べし、下人など多く候へばさやうの事
も候らん、又義仲が下人に事をよせて、落たる平家の
家の子もや仕候らん、又京中なる古盗人もや仕候ら
ん、目に見え耳に聞え候はんには、いかでかさやう
の狼藉仕らせ候べき、今日より後義仲が下人と申て、
左様の事仕候はん者をば、直に搦め給はるべく候、
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一々頸を切て見参に入奉るべしと申ければ、知康帰
り参じて義仲が申つる様に、こまこまと申上たりけ
れば、存知の所よく申にこそとぞありける、義仲かく
はきらきらしく申たりけれ共、京中の狼藉はあへて
止まらざりければ、猶知康をもて相構々々狼藉を止
めよ、天下泰平とこそ祈申事なるに、かく乱れがは
しき事せんなしと仰下されければ、木曾今度は気色
あれて目も持ちあけず、和御使殿をば誰といふぞと
問ければ、壱岐の判官知康と申也とぞ答へける、わど
のを皷の判官と童のいひけるは、よろづの人のたた
くか、はられたるか、皷にておはせばとひやうしけれ
ば、義仲が申たる旨を院に申されねばこそ、さやう
に狼藉するらん者をも、搦めて遣はさざるらめなど
云事、さたの道をも不覚とて殊の外いかりければ、
知康さらば罷帰りなんといひければ、木曾そへに帰
らでは何事をしたまふべきと、あららかにいひけれ
ば、知康帰参して義仲は鳴呼の者にて候けり、向ふ
さまにかくこそいひ候つれ、勢を給て追討仕候はば
やとぞ申ける、此知康は究竟の皷の上手にてありけ
れば、皷の判官とぞ申ける、是を木曾伝聞てかくは
申たりけるにや、木曾かかる荒夷にて院宣をも事と
もせず、さんざんに振まひければ、平家にかへおと
りとて、院の御所の御前に札に書て立たりけり、
赤さいて白たなごいにとりてかへて
頭にまける小入道かな W126 K185
後には山々寺々に乱入して、堂塔仏像を破り焼払け
れば、とりどり云に及ばず、神社にも不憚狼藉とど
めざりければ、早く義仲を追討して、洛中の盗人を
とどむべきよし、知康申ける上、法皇も奇怪に思召さ
れければ、はかばかしく人々に仰合せらるるにも不
及して、ひしひしと思召立て、法住寺殿に城郭を構
て、兵共を召集められ、松葉をもて笠印にすべし、
明雲天台座主に帰り給たりけると、八条宮の寺の長
吏にましましけるを、法住寺へよび参らせて、山、三
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井寺の悪僧共を召て参らすべきよし仰けり、其外君
に心ざし思ひ参らせん者は、御方へ可参由仰られけ
れば、義仲に日来随ひたる摂津国、河内の源氏近江美
濃のかり武者、北陸道の兵者ども、木曾を背て我も
我もと参り籠にけり、これのみならず、諸寺諸堂の
別当長吏に仰て兵を召されければ、北面の者どもわ
か殿上人諸大夫などは、面白きことに思ひて、興に入
たりけり、少しも物の心をわきまへおとなしき人ど
もは、こは浅ましき事哉、只今天下の大事出来など
すとあざむきあへりけり、知康は御方の大将軍にて、
門外に床子に尻かけて、赤地の錦の直垂に脇楯具足
計りにて、廿四さいたる征矢を一筋ぬき出して、さら
りさらりとつまよりて、あはれしれ者の頸の骨を、此矢
を以て只今射貫かばやとぞ詈りける、又よろづの大
師の御影を書集めて、御所の四方の隣に広げかけた
り、御方の人々のかたらひたりける者共は、堀川商
人町冠者原、向礫、関地、乞食法師、合戦の様もいつか
習ふべき、風も荒く吹ば倒れぬべくて、逃足のみぞ
ふみたる者多く参籠りける、物の用に可立もの一人
もなかりけり、木曾是を聞て申けるは、平家の謀叛
を起して君を君ともし奉らず、人をも損じ民をもな
やまし、悪行年久しきによりて、義仲命をすてて責
落して、君の御代になし奉りたるは、希代の奉公にあ
らず哉、それ何の咎あて、只今義仲をうたるべきや、
東西の国々ふさがつて都へ物ものぼらず、もて来る
方もなし、餓飢して死ぬべければ、命を助からんた
めに兵粮米をとり、青田を刈らせて馬に飼ふ、力及
ばざる事也、さればとて王城を守護してあらん者が、
馬一疋宛のらせではいかでかあるべき、さりとて宮
原へも打入り大臣家へも乱入て、狼藉をもせばこそ
奇怪ならめ、かた畔に付て、少々物とりなどせんを
ば、院強ちに咎め給ふべき様やある、是は皷めが讒
言也、やすからぬもの哉、皷めを討破てすてんとい
ひければ、左右に及ばずといふ者もあり、樋口次郎
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兼光、今井四郎兼平など申けるは、十善の帝王に向
参らせて、弓を引き矢を放たせ給はん事、いかがあ
るべからん、只あやまたせ給はぬよしを、幾度も陳
じ申させ給ひて、甲をぬぎ弓をはづして、降人に参
じ給ふべくや候はんと申ければ、木曾申けるは、義
仲年来何ヶ度か軍しつる、北国、信濃、たけをみまの
軍を始として、横田川、砥並山、安高、篠原、黒坂口、
備中国板倉の城を落ししまで、以上九ヶ度の軍をし
つれども、一度も敵に後を見せず、十善帝王にてま
しますなればとて、甲をゆぎ弓をはづして、おめおめ
と降人に参ずべしとは覚えず、皷めに頸打切られて、
悔とも益あるまじ、法皇は無下に思ひ知りおはせぬ
ものかな、義仲に於ては今度最後の軍也とぞ申ける、
木曾かくいひけりと聞きければ、知康いとど嗔をな
して、急ぎ義仲を可追討由をぞ申行ひける」、義仲北
国の合戦に、所々にて官兵を打落して都へ責上るに、
比叡坂本を通らん時、衆徒輙く通さじとて、越前国
府中より書状を書て、山門へ送りたりしに、衆徒木
曾に与力してければ、源氏の軍兵天台山へ登りにけ
り、其後木曾都へ打入て、狼藉なのめならず、山門
の領に所を置かず、悪行法に過ければ、衆徒契を変じ
て木曾を可背由聞えければ、依(レ)之義仲怠状書て山
門へ遣しける、其状に云、
山上貴所義仲謹解
叡山之大衆、忝振上神輿於山上、猥構城郭於
東西、爰不開修学窓、偏専兵仗之営云云、尋
其根源者、義仲結構悪心、可追捕山上坂本之
由風聞、此条極僻事候、且満山三宝護法可令垂
知見給、自企参洛之、奉仰医王山王之冥助、
顕者憑山上大衆之与力、今始何致忽諸哉、雖
有帰依(レ)之志、無凶悪之思者也、但於京中搦
山僧之由、有其聞之条、尤恐怖、号山僧好
猛悪之輩在之、仍為糺真偽、粗尋承之間、自然
狼藉出来候歟、全不満通儀、惣山者聞可令軍
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兵登山之由、依(レ)之大衆下洛之由承之、是偏所天
魔之構出歟、相互不(レ)可有信用、怱以此旨可
令披露山中之給状、如件、
十二月十三日 伊予守義仲
進上 天台座主御房へ
とぞ書たりける、山上には是にも鎮まらず、弥蜂起
するよし聞えたり、昔周の武王殷の王を討んとしけ
るに、冬天に雲寒て、雪降る事高さ二十丈に余れり、
五車二馬に乗れる人、門外に来て王を助け、紂を誅す
べしと云てさんぬ、深雪に車馬のあとなし、是則海
人の天使として来るなるべし、然る後紂を討事を得
たりき、漢の高祖は韓信が軍に囲れて危くありける
に、天俄に霧降闇して遁るる事を得たり、木曾為人
倫有讎、仏神に憚りをなさず、何によてか天の助に
も預り、人の憐みあるべきなれば、法皇の御憤も弥
深く、知康も日に随て急ぎ可追討之由申行ひけり、
知康は赤地の錦の直垂にわざと鎧は着ざりけり、甲
計をぞきたりける、四天王の像を絵に書て、甲には
さ[B をイ]し、右の手には金剛鈴をふり、左には鉾をつき、
法住寺殿の四面の築地の上にのぼりて、事を招きて
時々舞にけり、是を見る者、知康には天狗の付にけり
とぞ申ける、木曾が軍の吉例に、陣をとるに七手に分
けて、一手は二手に行合けり、樋口次郎兼光は三百余
騎にて新熊野の方へさし遣す、残六手は各々居たる家
小路より河原へ馳出、七条河原へ行合べしとて、二
条をかくる者もあり、楯、根井は三条をかく、物井、
蛭川は四条をかく、滋秋兄弟は楊梅をかく、手塚別
当、手塚太郎は佐妻牛をかく、仁科、高梨、山田次郎は
六条をかくれば、左馬頭、今井四郎を始として、七
条河原に馳向ふ、六手が一に行合たり、其勢千騎に
過ざりけり、義仲既に打立由聞えければ、大将軍知
康以下近国の官兵北面の輩、公卿殿上人侍中間山法
師以下二万余騎とぞ詈りける、木曾河原へ打出るほ
どこそあれ、鬨をどと作て高くをめき、荒くはせて西
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面の門際へ責寄せたり、知康進出て申けるは、汝等
忝も十善帝王に向て、弓を引矢を放ん事いかでかあ
るべき、昔は宣旨を読懸られしかば、枯たる草木も
花開き菓なり、無水池には水湛へ、悪鬼神も奉随
けるとかや、末代と云ながら、夷の身としていかで
か君をばそむき奉るべき、汝等が放む矢は還て己等
が身にあたるべし、ぬきたる剱にては吾身を切るべ
し、御方より放矢は征矢とがり矢をすけずとも、己
等が甲はよもたまらじ、速に引退き候へやと云けれ
ば、木曾大にあざ咲て、さないはせそとて、をめい
てかく、やがて御所の北の在家に火をかけてければ、
折節北風烈しく吹て、猛火御所へ吹覆て東西を失へ
るに、御所の後口今熊野の方より、樋口次郎三百余騎
にて鬨を作て寄たりければ、参り籠りたりける公卿
殿上人、山々寺々の僧徒駈武者肝魂も身にそはず、手
足の置所を知らず、太刀の柄をとらへたれども、さ
しはたらかで逃られず、長刀を逆に突て己が足を突
き切りなどぞしける上は、まして弓を引矢を放ん事
までは、思ひもよらず、か様の者のみ多く参り籠り
たりけり、西は大手せめ向ふ、北は猛火もえ来る、東
の後からめてまはりて待かけたり、南門を開いてぞ
まどひ出られける、西面の八条が末をば山法師のか
ためたりけるが、楯の六郎懸破て入にければ、築地の
上にて金剛鈴を振つる知康も、いつちへ失ぬらん人
より先に落にけり、知康落失ける上は、残留りて防ん
と云者なかりけり、名をも惜み恥をも知るほどの者
はみな討死しけり、其外の者どもは、匐々御所を逃
出て、あそこここにて打伏切伏らるる事其数を知ら
ず、むざんとも云ばかりなし、七条末は摂津国源氏
多田蔵人、豊島冠者、左田太郎固めたりけれ共、七条
を西へ落にけり、軍以前に在地の者どもに、落ん者
をば打伏よと知康下知したりければ、在地人等、家
の上に登りて楯をつき、石つぶてをもて拾ひ置きて
待処に、御所の兵どもの落けるを敵の落ると心得て、
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我おとらじとうちければ、是は御方ぞ院方ぞと面々
名乗て助よと云ければ、さはいはせそ、院宣にてある
ぞ、落武者は唯打伏よ打伏よと打ければ、多くの人々打
損ぜらる、はうはうにして軒の下に立寄て助らんと
する者をば、向の屋の上より打間、こらへずして物[B ノ]
具ぬぎすてはうはうにぞ落にけり、御所にもよきも
のども少々ありけり、出羽判官光長は伯耆守に成、
子息左衛門尉光経は検非違使に成たりけり、父子共
に懸出、散々に戦て討死する、信濃国住人村上判官
代父子七人籠たりけるが、三郎判官代計ぞ討死して
けり、残六人は落けり、天台座主明雲僧正は香染の
御衣に、みな水精の念珠をもち給ひて、殿上の小侍
の妻戸をさし出て、馬に乗らんとし給けるを、楯の
六郎が放矢に御腰骨を射させて、犬居に倒給けるを、
兵よりてやがて御頸をとり奉りけり、寺の長吏円恵
法親王御輿にて東門より出させ給けるを、兵馳せつ
づき追落し奉りければ、或は小家に逃入せ給はんと
せしところを、根井小矢太が射ける矢に、右の御耳
の根よりかぜに射貫かれさせ給て臥給けるを、兵よ
りて御頸を切奉りけり、法皇は御輿にめし、南の門
より出させおはしましけるを、武士ども多く責かか
り参らせければ、御力者御輿を捨て奉りて、面々に
逃失せにけり、公卿、殿上人も皆立隔られてさんざん
になりて、御供にも参る者もなかりけり、豊後の少将
宗長計ぞ木蘭地の直垂小袴にくくりあげて、御供に
候はれける、宗長はもとよりしたたかなる人にて、
法皇に少しもはなれ参らせで附たりけり、武士追付
て既に危かりけれども、少将立向て、是は院の渡ら
せ給ふぞ、誤り仕るなと申たりければ、武士馬より
下りて畏、何者ぞと尋ければ、信濃国住人根井小矢太
并楯六郎親忠、弟八島四郎行綱と申者にて候と申て、
三人制参らせて、五条内裏へ奉渡て、守護し奉る、
宗長ばかりぞ御供に候はれける、其外の人々は一人
も不見、大かたとかく申計なし、更にうつつとも覚
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えず、主上の御事をもさたし参らする人もなし、兵ど
も乱入ぬ、御所には火かかりたり、七条侍従信清、
紀伊守範光只二人候けるが、池にありける御船に乗
まいらせて、さしのけたりけれども、流矢まきかくる
やうに参りければ、信清是は内のわたらせ給ふぞ、
いかにかくは射参らするぞと申されけれども、猶狼
藉なりければ心うく悲くて、主上をば御船の底に伏
参らせ奉りてぞ居たりける、夜に入て坊城殿へ渡し
参らせて、それより閑院殿へ入せ給ふ、行幸の有さ
ま只推量るべし、いまいましとも愚なり、法住寺殿
は御所より始て、人々の家々軒をきしりて作たりつ
るを、一宇も残らず皆焼亡にけり、播磨中将雅賢は
させる武略の家にはあらねども、天性武勇の人にて
おはしけるが、糸威の腹巻に重目ゆひの直垂を被着
たりけるが、殿上の西面の下侍の妻戸を押開て被出
けるを、楯の六郎能引て頸の骨を志て射たりけるが、
烏帽子の上を射付て、妻戸に矢は立にけり、其時我
は播磨の中将と云者ぞ、過ちすなと騒がぬ体にて宣
ひければ、楯の六郎馬より飛下り、生捕にして我宿
所に戒め置き奉る、又越前守信行と云人有けり、布
衣に下括して有けるが、ともに具したる侍も雑色も、
いづちへか失けん一人も見えす、二方よりは武士せ
め来り、一方よりは黒けぶり押覆て、いかにともす
べきやうもなし、大垣の有けるを越えむ越えむとしけ
る程に、後より射貫かれて死にけり、むざんとも云
ばかりなし、主水正近業は大外記頼業真人が子、薄
青の狩衣に上ぐくりして葦毛の馬に乗て、七条河原
を西へ馳けるが、木曾の郎等今井四郎馳並て、妻手
の脇つぼを射たりければ、馬より逆に落て死にけり、
狩衣の下に腹巻着たりけるとかや、明経道の博士也、
兵具を帯する事不(レ)可然と人傾申けり、河内守光資、
弟蔵人仲兼は南の門を固めたりけるが、近江源氏錦
古利冠者義弘打通りさまに、殿原は何をかためて今
までおはするぞ、院他所へ行幸成たるものをとて落
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ければ、さてはとて河内守はうへの山に籠りぬ、源蔵
人は南へ向て落にけり、河内国の住人加賀坊源秀と
云ける者、葦毛なる馬の極て口強なるに乗たりける
が、源蔵人に打並で申けるは、此馬のあまりにはや
りて、乗給へるべしとも覚えず、いかにし候べきと
申たりければ、いざさらば仲兼が馬に乗替んとて、
栗毛なる馬に裏尾白かりけるに乗かへたり、主従八
騎打つれて、瓦坂の手向に三十騎計にてひかへたる中
へかけ出ぬ、半時計り戦てさつと引てのきければ、加
賀坊を始として五騎討れぬ、仲兼主従三騎計破て通
りけり、加賀坊が乗たる裏白馬走り出たりければ、
源蔵人の家子に信濃次郎頼成と云もの、源秀が乗か
へたるをばしらで、舎人男のありけるが、此馬は蔵人
殿の馬と見たるは僻事か、さん候、我主は討れにけ
り、さ候へばこそ御馬は候らんといひければ、あな
心うや、蔵人より先に討れてこそみえんと思ひつる
に、何地へむきてかけつるぞや、あの見えつる勢の中
へこそと申ければ、信濃治郎さござんなれとて、をめ
いてかけ入討死してけり、源蔵人は木幡山にて、近衛
殿御車にて落させ給ひけるに追付奉りぬ、あれは仲
兼か、さん候、人もなきに近く参れと仰ありければ、
宇治まで御とも仕て、それより河内国へぞ落にける、
刑部卿三位は迷ひ出で帰られけるが、七条河原にて
表裏皆はがれけり、烏帽子さへ落にければ、十一月
十九日の事にてはあり、河原風さこそ寒く身にしみ
給けんに、赤裸にて立れたりけるに、此三位の姉聟
に越前法橋章救といふ人なりけり、彼法橋のあとに
ありける中間法師、さるにても軍はいかが成ぬらん
と思て立出たりけるが、此三位の有さまを見て、目
も当られず、浅ましく思ひて、我着たる衣をぬぎて
着せ奉りたりければ、衣をうつ[* 「うつ」に「空」と振り漢字]にほうかぶりて、こ
の中間法師を先に立てぞおはしける、御供の法師も
白衣也、三位もほうかづきしたる人なれば、人々お
かしげに思ひしかば、とくとく歩み給へかしと思ひ
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けれども、急ぎ歩み給はで、ここはいづくぞ、あれ
は誰家ぞとしづしづとの給ひけるぞ、余りにわびし
かりしかとぞ、後に人々に語りけるとかや、是のみな
らず、おかしく浅ましかりしことども多かりけり、
寒中に一衣着たる者をも、上下をいはずとられけれ
ば、男も女も皆赤裸にはがれて心うき事限りなし、か
ひなき命ばかり生たる人もにげかくれつつ、都の外
なる山へぞまじはりける、
廿一日辰の時に、木曾六条河原に出で、昨日きる所の
頸ども竹に結でかけさせたり、左の一の頸には、天台
座主明雲大僧正の御頸、右の一には寺の長吏円恵法親
王の御頸をぞ懸たりける、其外七重八重にかけ並べ
たる首ども、惣じて三百余とぞ人かぞへ申ける、是
を見て天に仰ぎ地に倒て、をめきさけぶ者多かりけ
る、父母妻子などにてもこそありけめ、むざんとも
愚なり、越前守信行朝臣、近江前司為清、主水正近業
などが首も此中にありけり、先にこりさせ給はで、か
かるいひがひなき事引出させ給ひて、万人が命を失
はせ給のみならず、我身も禁囚せられさせ給ふ事、せ
めての御罪の報かと、後世迄もいかならんとぞ、貴賎
上下遠近親疎爪弾をして申あひける、八条の宮坊官
大進法橋行清と云者ありけり、宮の討れさせ給ひぬ
と聞ければ、こき墨染の衣につぼね笠を着て、六条
河原へ出て頸どもを見るに、明雲僧正の御頸と宮の
御頸をば、左右の一番に懸たり、行清法橋見奉て、
人目もつつましかりけれども、余りの心うさに衣の
袖を顔にあてて、御頸に取付き奉らばやと思ひけれ
ども、さすがそれもかなはねば、泣々帰りにけり、其
夜行清忍びて彼御頸を盗み取りて、高野に閉籠りて
宮の御菩提をぞ奉訪けり、故少納言入道の末子宰
相修憲と云人おはしけり、此合戦の有さま心うく思
はれける上、院をも木曾奉取て、兵物厳しく奉守と
聞えければ、いかにしてか今一度見参らせんと思は
れければ、俗体にてよもゆるされじ、出家したらんの
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みぞ宥されんずると思ひて、俄にもとどりを切て頭
をそり、五条内裏へ参られたりければ、守護の武士
ゆるして入てけり、法皇の御前に参り給て、俄に出
家を思立候事、今一度龍顔を拝し奉らんが為にと申
されたりければ、法皇聞召されて、真実の志かなと
て、感涙をぞ流させ給ける、人多く誅せられたりと
聞召つれば、覚束なく思召しつるに、命全かりけるこ
そうれしく思召せとて、御涙を流させ給ければ、宰
相入道墨染の袖をしぼりあへず、良久あて、仰有け
るは、抑今度の軍に誰々か討れたると御尋ありけれ
ば、宰相入道涙を押へて申されけるは、八条の宮も
見えさせ給ひ候はず、山の座主明雲僧正もながれ矢
に当て失せ給ぬ、信行、為清も討れ候ぬ、能盛も手負
て万死一生とこそ承り候へと申されたりければ、む
ざんや明雲は非業の死をすべき人にてはなき物を、
今度は我いかにもなるべかりけるに、かはりにける
こそとて、御涙を流させ給けるこそ忝かりける、良
久ありて、又仰ありけるは、我国は辺地[B ノ]悪敷とはい
ひながら、我前生に十戒の力有て、十善の位に生な
がら、先世の罪報に一度ならず斯るうきめをみるら
んと、国土の人民の思ふらんこそ恥かしけれとて、
御涙をうかめさせ給ひければ、宰相入道被申ける
は、龍顔をあやまち奉る事、是言語の及ぶ所にあら
ず、いはんや法体を苦しめ奉らんに於てをや、日月
天にかがやけり、照さぬもの誰かある、神明地を照
し給へば、災害を起す者いき給はんや、さりとも宗
廟すて給はじものを、只神慮をはからせ給はずして、
知康如きの奴原が奏し申けるを、御許容候けるのみ
こそ口惜く覚え候へとて、墨染の袖をばしぼりける、
木曾は昨日の軍に打勝て、今日頸ども六条河原にか
けて返て万事思ふさまなれば、内にならんとも院に
ならんとも我心也、但内は小童なり、一日みしかば
院は小法師なり、内にならんとても、童にもなりが
たくもなし、院に成んとて法師にもいかでかなるべ
P544
き、関白にかならましと云ければ、今井以下の郎等
どもいひけるは、関白には藤原氏ならでは、えなら
ぬとこそ承り候へ、君は源氏にて渡らせ給へば、難
叶こそと云ければ、判官代にならばやと申ければ、
今井、代は吉官にては候はぬござんめれと申ければ、
さらば院の御厩の別当にならんとて、押て御厩の別
当になりにけり、
廿一日に摂政を奉止、松殿御子権大納言師家とて
十三に成けるを、大臣に奉成て、頓て摂政の詔書を
被下、大臣折節あかざりければ、後徳大寺の左大将
実定の内大臣にてましましけるを、暫く借て成給た
りければ、昔こそ迦留の大臣と申人おはしけれ、こ
れはからるるの大臣とぞ時の人申ける、かやうの事
をば大宮太相国伊通卿[B ママ]こそ宣けるに、其人おはせね
ども、申人もありけるにや、
廿八日三条大納言朝方卿以下、文官諸国受領都合四
十九人を木曾解官してける其中に、公卿五人とぞ聞
えし、僧には権少僧都範玄、法勝寺執行安能も所帯
を没官せられき、平家四十二人をこそ解官したりし
に、木曾は四十九人を解官す、平家の悪行にはなほ
こえたりけり、かかりしほどに、北面に候ける宮内
判官公朝、藤左衛門尉時成、二人よるひる尾張国へ馳
くだる、その故は兵衛佐の弟蒲冠者範頼、九郎冠者義
経、両人熱田大宮司の許におはすとききければ、木
曾が僻事したるよしを申さんとなり、この人尾張ま
で被上けることは、平家世をみだられし後、東八ヶ
国の年貢を不進送之間、領家本家は誰人やらん、国
司目代も何やらんとも不(レ)知、そのうへ道のらうぜき
もありければ、平家落て後三ヶ年が未進、皆たづね
さたして、O[BH 此処落行歟]千人を兵士を着副て、兄弟二人を法住寺
殿によせて合戦をいたし、御所をやきはらひたりけ
る最中に、東国より大勢のぼるときこえければ、な
にごとやらんとて、今井四郎をさしつかはして、鈴
鹿不破関をかためたりときこえけるあひだ、この人
P545
人兵衛佐に申あはせずして、さうなく木曾といくさ
せん事あしかりなんとて、引しりぞく、熱田の大宮
司の許にゐて、鎌倉へ飛脚をたてて、其返事をあひ
まちけるをりふし、公朝、時成馳下て、このよしを申
ければ、九郎義経申されけるは、ことの次第分明に
うけたまはりぬ、別の使あるべからず、やがて御辺
はせくだりて、申さるべしと宣ひければ、公朝夜を
日に継で鎌倉にはせくだる、いくさの時みなにげう
せて、下人一人もなかりければ、生年十五歳になり
ける嫡子宮内公朝を下人にしてくだりけり、よるは
子を馬に乗せ、ひるは父を馬にのせて程なく下着す、
知康が凶害にて、このたび乱を発したるよし申けれ
ば、兵衛佐大に驚て、義仲奇怪ならば、いくたびも
頼朝に仰せてこそ誅候はめ、無左右君を申勧まい
らせて、御所をやかせたるこそふしぎなれ、さやう
のものを召つかはれんにおいては、自今以後ひがご
とのもの出来べし、知康めしつかふべからざるよし
申たりければ、知康陳ぜんとて、追付鎌倉へ下て、
兵衛佐の許へ参て、見参に入らんと伺申けれども、
めなみせそとの給ければ、申入るる人もなかりけり、
侍所に推参したりければ、兵衛佐簾中より見出して、
子息左衛門督頼家の未だ稚くましましけるに、あの
知康は究竟の比布の上手にてあんなるぞ、是にて比
布あるべしとて、砂金十二両若君に奉り給たりけれ
ば、若君此をもて、比布あるべしと宣べしとありけれ
ば、知康十二両の金を給て、砂金は吾朝の重宝なり、
輙く争か玉にはとるべきやとて、懐中するままに、
庭より石三を取て、やがて挺を上りさまに、目より下
にて数百千の比布をかた手にてつき、左右の手にて
つき、さまざまに乱舞して、応といふこゑをあげて、
一時ばかりついたりければ、簾中より始めて、参会し
たる大名小名興に入て、ゑつぼのおもひにてぞあり
ける、誠に名をえたるもの、しるしはありけりとて、
其後見参せられたりければ、知康、木曾が都へせめ入
P546
て、在々所々を追捕し、大臣公卿に所をおかず、権
門勢家の御領をもはばからず乱入して、狼藉なのめ
ならず、神社仏寺にもおそれたてまつらず、堂塔を
やぶりたきはてて、院の御所法住寺殿へ押寄て合戦
をいたし、八条[B ノ]宮も討れさせ給ひぬ、天台座主明雲
僧正も討れ給ぬなど、あることもなきこともくはし
く申けれども、兵衛佐先立てこころ得たりければ、
よろづ無返事にてましましければ、知康棹をのみた
るここちして、すくみて匐々にげのぼりにけり、人
も能はあるべきものかな、知康をばさしもいきどほ
りふかくして、院にてもめしつかはせ給べからずと
申されたりけるに、はかなき比布にめでて、兵衛佐
見参せられたりけり、
さる程に、東国より兵衛佐の舎弟、蒲の御曹司範頼、
九郎御曹司義経を大将軍として、数万騎の軍兵差副、
都へ上せ、木曾を可討之由申のぼせらる、山門にも
牒状あり、其状云、
牒、遠尋往昔、近思今来、天地開闢以降、世途之
間、依仏祖之鎮護、天子治政、依天子敬礼、仏祖
増威光、云仏祖、云天子、奉守故也、于茲云
源氏、云平民、以両氏之奉公者、為鎮海内之
夷敵、為誅国土之〓士也、而当家親父之時、依
不慮之勧誘処叛逆之勅罪、其刻頼朝被宥幼稚、
預于配流、然而平氏獨歩洛陽之楼、恣究爵賞之
位、家之繁昌、身富貴而誇両箇朝恩、偏蔑如皇威、
奉討三条宮、因茲頼朝為君為世、追討凶徒
仰相伝之郎従、起東国之武士、去治承以後、励
勲功之間、以山道北陸之余勢、先令襲之処、平
氏退散、落向西海之浪、爰義仲等忽忘朝敵之追
討、先申賜勧賞、次押領国庄、無程追平家之跡、
専逆意、去十一月十九日、奉襲一院、焼払御所、
追捕卿相、就中当山座主并御子宮、令入其列、
叛逆之甚古今無比類、仍催上東国之軍兵、可追
討逆徒也、権其首雖無疑、且祈請仏神且大
P547
衆之与力、殊欲被引率、仍牒送如件以牒、
寿永二年十二月廿二日 前右兵衛佐源頼朝
とぞかかれける、山門の衆徒此牒状を見、三塔会合
して既に兵衛佐に与力してけり、平家又西国よりせ
めのぼる、木曾東西に通じて、平家と一に成て、関
東をせむべきよしおもひたち、さまざま謀をめぐら
して、人にしらすべき事にあらねば、おとなしき郎等
などにも云合するにもおよばず、世になし人の手能
書やありと尋ねければ、東山より或僧を一人語ひて、
郎等具してきたりたり、木曾此僧を一間なる所に入
て、引出物に小袖二給て、酒などすすめ、ぎやく心
なきよし申文をかかせけるに、木曾がいふにすこし
もちがはず、此僧文を書、二位殿へは見めよきひめ
やおはする、聟に成たてまつらん、いまより後は、
すこしもうしろめたなく思ひ給ふべからず、もしも
空事を申さば、諏訪大明神の御罸をあたへらるべし
などかかせたり、惣じて文二通かかせ、一通をば平家
大臣殿へと書す、一通をば其母の二位殿へと書かせ
て、雑色男を召よせて、西国へつかはしけり、此文
を見て大臣殿ことに悦給けり、二位殿もさもやとお
もはれたりけるを、新中納言の給けるは、故郷にか
へりのぼらんはうれしけれども、木曾と一に成てこ
そと人は申さんずらめ、頼朝がおもはん所もはづか
しく候、弓矢をとる家は名こそをしく候へ、君かく
てわたらせおはしませば、甲をぬぎ弓をはづして降
人にさんずべしと返答あるべしとぞの給ける、木曾
都へうち入て、在々所々を追捕し、貴賎上下をなや
まし奉り、院の御所法住寺殿を焼き、殿上人を誡め
おきて、少しもはばかる所なきよしを、平家伝聞て
申されけるは、君も臣も山も奈良も、此一門をそむ
いて源氏の世になしたれども、さもあるにやと、大
臣殿よりはじめたてまつりて、人々興に入てぞ申さ
れける、権亮三位の中将は、月日の過行けるままに
は、あけてもくれても、故郷の事をのみ恋しくおぼし
P548
て、唯かりそめの新まくらもかたり給はずあまりに、
左兵衛重景、石童丸などを近く御そばにおき、北の
かた、若君、ひめぎみの御事をのみぞの給いだし、い
かなる有様にてかあるらん、誰かあはれみたれかい
とをしといふらん、我身のおきどころだにあらじ、
おさなきものどもをひきぐして、いかばかりの事を
おもふらん、ふりすてていでしこころつよさもさる
ことにて、いそぎむかへとらんとこしらへおきし事
も、程へぬれば、いかにうらめしく思ふらんとの給
ひつづけて、なみだをながし給ふぞいとをしき、北[B ノ]
方はこのありさまをつたへききて、只いかならん人
をもかたらひて、心をもなぐさめ給へかし、さりと
ておろかにおもふべきにあらずとて、つねには引か
づきふし給ふも無慙なれ、木曾は五条内裏に候て、
法皇をきびしく守護しまいらせけるあひだ、公卿殿
上人一人もまいらず、合戦の時生捕にしたりし人を
もゆるさず、なほいましめおきたりければ、前人道
殿下、内々木曾におほせられけるは、かくはあるまじ
き事ぞ、ひが事なり、能々思慮あるべし、故清盛入
道は神明をもあがめたてまつり、仏法にも帰依し、
希代の大善をもあまた修したりしかばこそ、一天四
海を掌の内にして、二十余年までたもちたりしか、
大果報の者也、上古にも類すくなく当代にもためし
すくなし、其が法皇をわづらはしたてまつりしより、
天の責をかうむりて忽に亡びにき、子孫又たえはて
ぬ、おそれてもおそるべきは悪行なり、非道をのみ
好で世を保つ事はあるべからずと仰られければ、誡
め置たりし人々をもあはれみ、禁獄しつる事をもや
めてけり、物の心をもしらぬあらえびすなれども、
かきくどきこまかに被(レ)仰ければ、奉(レ)靡けり、され
どもなほもとのこころはうせざりけり、仏事にもむ
くいたらば、平家こそ百年まで世をたもため、弓矢
をとるならひ、二なき命をうばはれん敵は、今より
後も手向ひせではよもあらじ、我腹のゐんまではと
P549
思へども、入道殿をこそ親とも申したれ、親のおほ
せのあらん事を、子とてはいかでかただはあるべき
と云ける事こそおかしけれ、十二月十日は、法皇五条
の内裏をいでさせ給て、大膳大夫業忠が六条西洞院
へわたされ給にけり、かくてその日より歳末の御懺
法は始められけり、同十三日木曾除目を行ておもふ
さまに官途も成てけり、木曾が所行も、平家の悪行
におとらずぞきこえし、我身は御厩の別当に押成て、
左馬頭伊予守になりし上に、丹波国を知行して、其
外畿内近国の庄国、院、宮の御領、又上下の所領をし
かしながらおさへとり、神社仏寺の庄領をも不憚振
舞けり、前漢後漢の間、王莽といひけるもの[B 「王莽といひけるもの」に「王刹玄と云ける者二人イ」と傍書]、世を
取て、十八年わがままにおこなひけるがごとく、平
家はおちたれども、源氏は未だうちいらず、其中間
によしなか行家二人して、京中をほろぼしけるも、
いつまでとおぼえて、あやうくこそ見えけれ、され
どもあぶなながらことしもくれぬ、東は近江国、西
は摂津国まで、みちふさがつて、君のみつぎ物もた
てまつらず、京中の貴賎上下、すこしき魚の水にあ
つまれるごとく、ほしあげられていのちもいきがた
くぞ見えられける、
平家物語巻第十五終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十六
P550
平家物語巻第十六(原本無題)
元暦元年正月一日、院は去年十二月十日五条[B ノ]内裏よ
り、大膳大夫業忠が六条西洞院の家へ渡らせ給たり
けるが、世間未だ落居せざるうへ、御所の体礼儀行
はるべき所にもあらねば、拝礼もなし、院の拝礼な
かりければ、殿下の拝礼も行はず、内裏に主上渡ら
せたまへども、例年は寅の一天に被行四方拝もな
し、清涼殿の御簾も上げられず、解陣とて南殿の御
格子三げんばかりをあげたりける、平家は讃岐国屋
島の磯に春を迎へて、年の始めなりけれども、元日元
三の儀式こそよろしからざりけれ、先帝おはしませ
ども四方拝もなく、小朝拝もなし、節会も行はず、
氷のためしも奉らず、〓使も奏せず、世乱たりしか
ども、都にてはさすがにかくはなかりし物をと哀な
り、青陽の春も来て、浦吹風も和に日影も長閑にな
り行けども、平家の人々は寒苦鳥にことならず、い
つとなく氷にとぢられたる心地して、春の朝、月の
夜、詩歌、管絃、小弓、扇合、絵合、様々興ありし事
思ひ出して、ながき日くらしかねたまふぞ哀なる、
十日、伊予守義仲、平家追討のために西国へ下らんと
て、今日門出すと聞えし程に、東国より兵衛佐の弟
蒲冠者、源九郎等を大将として、数万騎の軍兵をさ
しのぼせて、義仲を追討すべきよし聞えけり、其故
は義仲上皇を取籠め奉り、人々を解官して、平家の
悪行にも劣らず、朝威を忽諸し奉るよし頼朝是を聞
きて、義仲をさし上するは、仏神をもあがめ奉り、
王法をも恭くし、天下をも鎮め君をも守護し奉れと
てこそ上せしに、さやうに狼藉をいたす条甚奇怪也、
既に朝敵なりとて、いかりをなして差のぼする所の
勢、既に先陣は美濃国不破関につきたり、後陣尾張
国鳴海がたまでつづきたるよし聞えければ、義仲こ
れを聞きて、宇治勢多二道をふさがんが為に、親類
P551
郎従を分ち遣す、平家又福原へせめ上る、其比兵衛
佐の許に、摺墨、池月とて二疋の名馬あり、京へ立さ
まに、池月が事を蒲殿を始めとして、梶原源太景季
以下の侍、我も我もと所望しけれど、自然の事あらん
時、頼朝物の具して乗んずるとて惜まれければ、力
及ばずして、さもあれ今一度申て見んとて、かさね
て申たりければ、摺墨を与へんとてたびてけり、景
季悦でまかりいでぬ、その後佐々木四郎高綱、上洛
のいとま申に参りたりければ、兵衛佐いかがおもは
れけん、この馬に乗りて宇治川の先かけて高名せよ
とて、かの秘蔵の池月をたびてけり、面目いふばか
りなし、高綱申けるは、今度の合戦に高綱死にけり
と聞召させ候はば、宇治川の先陣に於ては、人にせら
れ候けりと思召され候べし、生て候と聞召し候はば、
一番してけりと御心得候べしとて出にけり、各々鎌倉
を打出て、浮島が原に人々おりゐて、馬かひける所
にて、多くの馬共をみるに、景季がするすみにまさ
る馬こそなけれ、さもあれ猶も見んとて、高き所に
打あがりてこれをみる、引馬ども何千疋といふ事を
知らず、思ひ思ひの鞍に色々のしりがひかけて、或は
もろくちに引くもあり、或は片口に引せ、乗引に引
せて引通し引通ししける中に、池月とおぼしき馬に金
覆輪の鞍置きて、こぶさの鞦かけて、しらあはかま
せて、舎人二人して引て出来、梶原打よて見れば、
まことの池月也、ふり事がら少しもたがはず、あれ
は誰が馬ぞと問、佐々木殿の御馬候、佐々木殿とは
三郎殿か四郎殿か、四郎殿[B ノ]御馬候、其時景季思ひけ
るは、同じ侍にて景季が先に申たるには給らで、佐
佐木にたびたりけるこそいこんなれ、日本国の大将
軍も時によりては偏頗したまひけるものを、これほ
どに思はれ奉りて、奉公して何にかはせん、平家の
侍に組んで死も同じ事也、今は是こそ敵なれ、佐々
木に言葉をかけんに悪く返答せば、真中いて射落し
て、景季自害して、大事を前にかかへておはする兵衛
P552
佐殿に、よき侍二人失はせてそんとらせんと思ひて、
佐々木を待所に、高綱何心もなく出来り、景季思ひ
けるは、おし並べてや組む、又向ふさまにやあて落す
といろいろになりて、や殿、佐々木殿、池月をば給
はられたりけるなと言葉をかく、高綱梶原がけしき
を見て、前に心得てければ、少しも騒がず、されば
こそ折ふし申つれどもたまはらず、時にびんぎよか
りつれば、盗みて宵にさかはまで遣はして、かくして
乗りたるぞ、昔天竺の国王の千頭の象をもち給ひた
りけるに、他国よりせめ来りし間、せめ戦はんがた
めに、兵をあつめて九百九十九頭の象をたびて軍に
向はせけり、今一頭の象をばもしの事あらば、国王召
さんとて残されたりけるを、或兵密に夜かの象を盗
みて乗りつつ、一番をかけてかたきの大将を討取り
て、勲功に預る由申伝へたり、高綱私の用にあらず、
兵衛佐殿の御為なり、和殿も所望せらるるこそ聞つ
れと申ければ、梶原打うなづきて、腹ゐたりげにて、
ねたびさらば、景季もぬすまでとぞ申ける、此馬を
池月といひける事は、馬をも人をも食ふ馬也、八寸(やき)
の馬とぞ聞えし、摺墨は黒き馬のふとくたくましき
にてぞありける、
十一日、伊予守義仲可為征夷大将軍由、被宣下
ける程に、木曾義仲を為追討、廿日辰の刻に東国よ
り軍兵二手に宇治勢多両方より都へ入る、勢多の大
将軍には蒲冠者、武田太郎、加々見太郎、同次郎、
一条次郎、板垣三郎、侍大将には、土肥次郎、稲毛
三郎、半替[B 「半替」に「榛名イ」と傍書]四郎、小山、宇都宮、山田、里見者共を
始めとして、三万五千余騎也、宇治の大将には、源九
郎義経、侍大将には畠山庄司次郎、梶原平三、嫡子
源太、佐々木四郎、渋谷庄司、糟屋藤太、平山武者
所を始めとして二万三千余騎、伊賀国を廻て宇治橋
に至る、二手の勢六万余騎にはすぎざりけり、木曾
義仲折節勢こそなかりけれ、樋口の次郎兼光をば、十
郎蔵人行家が、河内国石河と云所にあるよし聞えけ
P553
れば、それをせめんとて五百余騎にて下してけり、
今井四郎兼平を勢多を固めにさし遣はす、方等三郎
先生義弘、仁科、高梨子、三百余騎にて宇治へ向ふ、
京には力者三十人を副て、もしの事あらば、院をもと
り奉り、西国へ御幸なし奉らんと支度して、上野国
那和太郎弘隆を相具して、義仲が勢僅に百騎には過
ざりけり、今井四郎兼平、方等三郎先生義弘、宇治
勢多両方橋引て河には乱杭打、大綱をはへ、逆茂木
を緤ぎながしかけたりければ、輙く渡すべき様なか
りけり、九郎義経宇治川のはたに打寄せて見れば、比
は正月廿日余りの事なれば、比良の高根、志賀の山、
昔ながらの雪消えて、雪しるに水は増りけり、両岸
さかしくして白波おびただし、瀬まくら頻りにたぎ
りて、さかまく水も早かりければ、川ばたに兵共く
つばみを並べて、水の落あしを待べきなんど云所に、
畠山庄司次郎重忠生年廿一、長絹の直垂に赤綴の鎧
に、重籐の弓取直して、大中黒の矢負て、いか物作り
の太刀をはき、黒き馬にいかけ地の鞍置てぞ乗たり
ける、川端に打よせて向の岸を見渡して申けるは、兵
衛佐殿も、定めて宇治川勢多両所の橋は引んずらん
とこそ仰せられ候き、かねて知し召されぬ海川の、
俄に出来らばこそ扣へてかくとも申さめ、此河、近江
の水海のすゑなれば、待とも更に引かじ、誰かは橋
をも渡して参らすべき、此河の体を見るに、馬の足
立ぬ所五六反にはよもすぎじ、高倉の宮の御時足利
又太郎も渡せばこそ渡しけめ、神のなりてはよも渡
さじ[B 「神のなりてはよも渡さじ」に「鬼神にてはよもあらじイ」と傍書]、いでいで重忠瀬踏仕らん、武蔵の若党ども続
けやとて、丹党を始として五百余騎くつばみを並て
さとおとす所に、平等院の丑寅の隅、橘の小島が崎
より、佐々木四郎高綱と梶原源太景季とは、素より
いどむかたきなれば、我先にと二騎ひきかけひきかけ急
ぎたり、いまだ卯の時ばかりの事なれば、河霧深く
立こめて、馬のけも鎧の毛もさだかならず、梶原、三
たんばかり差進みたり、高綱、河の先せられんと思ひ
P554
て、やとの梶原殿、此河はやうある河ぞ、上も下も
早くて馬の足いく程ならず、はるびのびたるとみゆ
るぞ、しめよかしといひければ、さも有るらんと思
ひて、鐙をふみすかしてつゐ立上りて、はるびを二
三度ひつめひつめしけるまぎれに、佐々木めての脇よ
りはせぬけて、河へさとぞ打入れける、和殿にはだ
しぬかるまじきぞといひて、続て打入たり、河の半
ばかりまでは、佐々木に近付たりけるが、河中より
は梶原少し押流されて見ゆ、佐々木は河の案内者な
るうへ、池月といふ第一の馬にぞ乗たりける、馬の
首に大つなかかりたりけれども、兼てぞんぢしまう
けたる事なれば、三尺二寸の太刀を抜きてふつと切
て、十もんじに向への岸の思ふ所にさと着ぬ、近江
国住人佐々木四郎高綱、この河のまさき渡したりと
て、五百余騎が中へはせ入たり、是を見て橋の下に
ひかへたる畠山も渡しけり、木曾が手には山田次郎
が郎等表に立ちて放つ矢に、畠山が馬の額に深くた
つ、射られて馬よわりければ、鐙を越しており立た
り、水は早し底は深し、甲の星をあらはせてぞ通り
ける、水も早く鎧も重けれども、畠山少しもたゆま
ず渡りて行く、武蔵国住人大櫛次郎川の面を見下
して、あらいしの河の早さよといひいひ流れて、す
でにあぶなかりけるを、下手をきとみれば、弓だけ
ばかり下に甲のはちこそみえたれ、大櫛、畠山とみて
ければ、是を目にかけてするりとよつて、甲の鉢に
ぞ取付たり、畠山は是をも知らず渡し行ほどに、何
となくいしう甲の重きは、水の増るか我身のよわる
かと思ひて、ふりあふのいてうしろをみれば、褐衣
の直垂に洗革の鎧着て、黒つはの矢負たる武者也、
其時畠山甲に取付たるはいかなる物ぞ、とりあへず
大櫛次郎安則にて候と申せば、いしう取付たりとて、
渡りけり、畠山乱杭に渡りつきて申けるは、向への
岸へは三弓たけばかりにはよも過じ、河岸深くてな
んぢがためには叶ふまじ、是より向へに投げ越さん
P555
いかに、大櫛とも角も御はからひにて候べしと申け
れば、畠山、大櫛を弓手のかひなに乗せてなげこした
り、大櫛足をかがめて弓杖をついてぞ立ちたりける、
大櫛かぶとのををしめて弓取直して申けるは、橋よ
り下先陣は畠山先とは見ゆれども、向への岸に着事
は、武蔵国住人大櫛次郎安則渡したりやと申ければ、
敵も味方もわとぞ笑ひける、畠山渡りければ、二万五
千余騎の勢ども、我も我もと渡しけり、水はせかれ
て下は浅し、雑人共は下手につきて渡りければ、膝
よりかみは濡さざりけり、爰に渋谷右馬允重助、佐
々木五郎義清は、馬よりおりて橋桁に渡りければ、
平山武者所末重、糟屋藤太有季ぞ続きたる、三百余
騎矢先を揃へ、弓のほこを並べて射けれども、大勢せ
めかかりければ、宇治の川の手は破れて、都の方へ
ぞ落にける、勢田は稲毛三郎、榛谷四郎が計らひに
て、たながみの、貢御の瀬といふ所を渡して追落す、
今井四郎、三郎先生防ぎ戦ひけれども、素より無勢
なりければ、さんざんに駈ちらされて、同く京へ帰
り入る、さて宇治勢多渡したる日記鎌倉へ下りけれ
ば、兵衛佐取あへず、高綱ありやと問たまふに、候
と申ければ、此者ははや先してけりと覚して、日記
を見たまふに、今度宇治川の先陣は、近江国住人佐々
木四郎高綱とぞ有ける、義経は馬次第に京へはせ入
る、木曾は、宇治勢多両方落されぬと聞て、十四五騎
計りにて、院の御所六条殿へ馳参りて、義仲こそ勢
多もおとされて、さいごの見参に参て候へと申けれ
ば、法皇を始め参らせて、公卿殿上人北面の輩に至
るまで、またいかなる事をかせんずらんとて、おの
おの色を失ひておぢ騒ぎたまひける程に、敵すでに
最勝光院、柳原まで責近づくと聞えければ、南庭ま
では馬に乗ながら参りたりけれども、さして申旨も
なくて、木曾まかりいでにけり、院中には上下手を
挙、立ぬ願もなかりけるしるしにや、其後は急ぎ門々
さされにけり、木曾はあるみや腹の女房とりて置た
P556
りけるが、別を惜みてひき物の中に有けるを、越後
中太家光といふ者、かたきすでに近付たり、いかに
かくてはおはしますぞといへども、木曾はおともせ
ざりければ、家光終にのがるべからずとて、腹かき
切てふしにけり、木曾是を見て、義仲をすすめける自
害にこそとて、五百余騎の勢にて打立て河原へいづ
る、九郎義経が郎等、六条河原にて行あひて合戦す、
義仲最期の戦ひと思ひ切て戦ひけれども、運のきは
めになりにければ、義仲さんざんにかけちらされて、
思ひ思ひに落にけり、義経が郎等はせ付きて、是を
追ふ、大膳大夫業忠は、御所の東の築垣の上に上て
四方をみるに、六条東洞院より武者六騎、御所をさ
してはせ参り候と申ければ、法皇大に驚せおはしま
す、義仲帰り参るにや、此度こそ君も臣もうせはて
よ、こはいかがすべきとて、人々ふるひわななきけ
るに、業忠能々見て、義仲が与党にては候はざりけ
り、笠印ばかり見え候、只今京へ入候は、東国兵と
覚え候と申程に、九郎冠者門近くはせよて、馬より
飛下りて業忠に向て、鎌倉兵衛佐頼朝舎弟源九郎義
経と申者こそ参りて候へ、見参に入させたまへと申
たりければ、業忠余りのうれしさに、急ぎついがき
の上より飛おりるとて、こしをつきそんじてけり、
いたくじゆつなかりけれども、悦ばしさに紛れて、
はふはふ御所へ参りてそうしければ、上下大に悦給
けり、門を開きたりければ、義経赤地にしきの直垂
に、萌黄のから綾、裾紅の綴の冑に、鍬がた打たる甲
をば着ずして持せたり、金作りの太刀をはきたりけ
る、弓とりうちの程に、紙を一寸ばかりに切て、南
無宗廟八幡大菩薩とかきて左巻に巻たりけり、九郎
義経に相具して六人ぞありける、残り五人が中一人
は、武蔵国の住人秩父末葉畠山庄司次郎重忠、白き
唐綾の冑直垂の射向の袖には、紺地の錦をいろへた
るに、紫綴の鎧に大中黒のそやの篦には、やきゑをし
たるを負たりけり、一人は同国の住人河越太郎重頼、
P557
しげめゆひの直垂に、いむけの袖には赤地の錦をい
ろへたるに、黒糸をどしの冑、に大きりふの征矢のう
はやに、あまのをもてはぎたるをおひたりけり、一人
はさがみ国の住人渋谷三郎庄司重国、褐衣の直垂
に、大あらめの洗がはの冑に、烏がをの征矢をおひ
たり、一人は同国の住人梶原源太景季、蝶目ゆひの
直垂に、薄紅の綴の冑きて、妻白の征矢おひたり、
一人は近江国住人佐々木四郎高綱、萌黄のすずしの
冑直垂に、小中黒の征矢をぞ負たりける、重忠より
始て次第に名乗り申、六人の兵共甲をば皆持せたり、
直垂も冑も思ひ思ひ色々に変りたりけれども、弓は
皆塗籠にてぞ有ける、義経を始として中門の外車宿
の前に立並びたり、頬魂ひ、骨柄、何れこそ劣りたり
共覚えず、法皇中門のれんじより叡覧有て、ゆゆし
げなる奴原哉とて仰有けり、大膳大夫業忠仔細承て
尋ねければ、義経申けるは、義仲が謀叛の由頼朝承候
て、舎弟蒲冠者并に義経を始として、宗徒の郎等三
十人参らせ候、其勢六万余騎に及候、二手に分け宇治
勢多両方より罷り入候、範頼は勢多よりまかり入候
が、いまだ見えず候、義経は宇治を渡して先に参りて
候、義仲は河原を上りに落候つるを、郎等どもあま
た追かけ候つれば、今は定て討候ぬらんと、いと事も
なげにぞ申たる、院宣には、義仲が与党なども帰参
りて狼藉も仕らば、義経は此御所にて、よくよく守
護仕れと仰下されければ、何条事か候へきと申て、
門々堅めて候けり、その後義経が勢三十騎ばかり六
条河原に打立たり、三十騎が中に大将二人有けり、
一人はしほの屋五郎通成、一人は勅使河原権三郎有
直なり、しほの屋が申けるは、後陣の勢を待つべき
か、勅使河原申けるは、一陣破れぬれば、残党全か
らず、ただかけよやとぞ申ける、去程に追つづきて
三万よき馳来り、木曾は上野国住人那和太郎弘隆相
具して、その勢百騎にて三条河原と六条河原との間
にて、返し合せ返し合せ五六度までかけなびかして、終
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に三条河原をかけ破りて、北国の方へぞ落にける、去
年の春は北国の大将軍として上りしには、五万よき
にて有しかども、今粟田口に打出にければ其勢七騎
也、まして中有のたびのそら、思ひやるこそかなし
けれ、七騎が中一騎は女鞆絵といふ美女也、紫格子
のちやうの直垂に、萌黄の腹巻に、重籐に弓うすべ
うの廿四さしたる矢負ひて、白蘆毛なる馬のふとく
逞しきに、二どもゑすりたる貝鞍置てぞ乗たりける、
ここには誰とは知らず武者二騎追かけたり、ともゑ
叶はじとや思ひけん、馬をひかへて待処に、左右よ
りつとよる、その時左右の手をさし出して、二人が
冑のわたがみをとて、左右の脇にかいはさみて、一
しめしめてすてたりければ、二人ながら首ひしげて
死ににけり、女なれども究竟のがうの者、強弓の精
兵、矢つぎばやの荒馬乗の悪所おとしなり、木曾い
くさごとに身をはなさず具したりけり、よはひ三十
二にぞなりける、わらはべを仕ふ様につかひけり、
此ともゑはいかが思ひけん、逢坂よりうせにけり、
後に聞えけるは越後国友椙といふ所に落留りて、尼
になりてけるとかや、木曾もろば山の前、四宮河原に
打出でてみれば、今井四郎勢田を落て、五十騎ばか
りにてはたを巻て、京の方へ入る、木曾、今井と見て
ければ、急ぎ歩ませより、くつばみを並べて打立た
れども、夢の心地して物もいはざりけり、良久く有
て、木曾、都にて討死すべかりつれども、今一度汝
に見えもし見んと思て来たる也といへば、兼平勢多
にて討死すべく候つれども、御行衛の覚束なさに、
今一度見参らせんとて参りて候とぞ申ける、木曾が
はたざしは射殺されてなかりければ、兼平が旗をさ
せとてささせければ、勢多より落くははるともなく、
京より追つく者ともなく、五百よき馳くははる、木
曾是を見て、などか此勢にて一軍せざらんとて、甲
斐の一条次郎忠頼六千余騎にてひかへたるに、木曾
赤地の錦の直垂に、薄がねといふ唐あやをどしの鎧
P559
に、白星の甲きて、廿四差たる切生の矢に、金作の
太刀はきて、塗ごめ籐の弓取直し、蘆毛なる馬に金
覆輪の鞍おきて、厚ぶさの尻がいかけて乗たりけ
る、あゆませむかひて、清和天皇の十代の御末、八
幡太郎義家に四代の孫、帯刀先生義賢が次男木曾冠
者、今は左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲、甲斐一条次
郎と聞は誠か、義仲はよき敵ぞ、打取て頼朝に見せて
悦ばれよとて、くつばみを並べて、をめいてかけ入
て、十文字にぞ戦ひける、忠頼是を聞て、名のる敵討
てや若党どもとて、六千余騎が中に取こめて火出る
ほど戦てければ、其勢三百よき計に打なされて、佐
原十郎義連五百余騎にてひかへたる中へかけ入て、
しばし戦てかけ破り出ければ、百騎ばかりに討なさ
る、土肥次郎が五百余騎が中へ駈入て、しばし戦ひ
てかけやぶりて出たれば、五十騎に討なさる、其後
かしこに百騎、ここに四五十騎、所々ゆきあひゆきあひ
戦ふほどに、粟津の辺にては主従五騎にて落にけり、
手塚別党、同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎
家包と云者つづきたり、相構へて生捕にせよと、仰
せられたるぞ、家包ならば軍をやめたまへ、助け奉
らんと申けるを、何条さる事あるべきぞとて、今は
かうと戦ひけれども、終に生捕られてけり、木曾、今
井に向ひていひけるは、日頃何とも思はぬ薄がねの
重く覚ゆるぞと云ければ、今井が申けるは、日頃に
かねもまさず、べちのものもつかず、何か今にはじ
めぬ御きせながの重く思召され候べき、御身の疲れ
にて渡らせ給らん、勢のなしと思召して、臆病にて
ぞ候らん、兼平一人をばよの者の千騎と思召され候
べし、あれに見え候松のもとへ打よらせ給て、しづ
かに念仏申させ給ひて御自害候べし、射残して候矢
七八候、防矢仕候べしと申て、粟津の松のもとへは
せ寄けり、去程に勢多の方より武者三十騎計り出来
る、是を見て殿ははや松中へ入せ給へ、兼平はこの
荒手に打向ひて、死なば力及ばず、いきば帰り参ら
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ん、兼平が行衛を御らんじ果て、御自害候へとて、
かけんとする所に、木曾申けるは、都にて討死すべ
かりつるに、是まで来る事は、汝と一所に死なんが為
也、二騎に成てここかしこにて死なん事こそ口惜け
れとて、馬のはなをならべんとする所に、今井申け
るは、武者は死て後こそさねはかたまるものにて候
へ、年比日比はいかなる高名をして候へども、最後の
時ふかくしつれば、ながき世のきずにて候也、いふか
ひなき郎等共にこそ、木曾殿は討れ給ひにけれと、
いはれさせ給はん事こそ口惜く候へと云ければ、こ
とわりとや思はれけん、うしろ合せに馳せておはし
けり、彼松の本と申は、道より三町計り南へ入たる
所なり、それを守りて木曾落行、ここに相模国の住
人石田小次郎為久といふ者追かけて、大将軍とこそ
見参らせ候へ、きたなしや、源氏の名をりに返し合せ
給へといひければ、木曾射残したる矢一ありけるを
とてつがひて、おしひらいて射たりければ、石田が
馬のふと腹にのすくなく立たりけり、石田はまさか
さまに落にけり、木曾は松の方へ落行、頃は元暦元
年正月廿日の事なれば、粟津の下のひろなはての、
馬の頭もうづもれる程の深田に、氷のはりたりける
を、はせ渡らんと打入たりければ、馬もよわりて働か
ず、ぬしも疲れて身もひかず、さりとも今井はつづ
くらんと思ひて、うしろを見かへりけるを、為久よ
ひいて射たりければ、木曾が内甲に射つけたり、甲
のまかうを馬の頭にあてて、うつぶしに伏たり、為
久が郎等二人馬より飛びおりて、たうさぎをかき、
深田におりて、木曾が頸を取る、今井は木曾討れぬ
と見て、あら手にむかひ命を惜まず戦ひけり、今井
あゆませ出して申けるは、音にも聞き目にも見よ、信
濃国住人木曾仲三権守兼遠四男、今井四郎兼平と
は我事ぞ、木曾殿には乳母子、鎌倉殿もさる者あり
と知し召されたり、兼平が首とて、あれ功の一所に
もあへや殿原とて、数百騎の中へをめいてかけ入、
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たてざまよこざまにさんざんにかけけれども、大力
の剛の者なれば、よてくむものなかりけり、ただ引
つめてとほ矢にぞ射ける、されども鎧よければうら
かかず、あき間を射ねば手もおはず、さる程に八の
矢にて八騎のかたきは射殺す、日本第一の剛のもの、
主の御ともにじがいする、見習や八ヶ国のとのばら
とて、太刀をぬきてきつ先をくはへて、馬よりまへ
に落て、つらぬかれてこそ死にけれ、太刀の先二寸
ばかり草ずりのはづれに出たりけり、是よりしてこ
そ粟津の軍はとどまりにけれ、樋口次郎兼光は、十
郎蔵人行家を討べしとて、河内国へ下りたり、蔵人
を討逃して、兼光女どもを生捕にして京へ上りける
が、淀の大渡の辺にて木曾討れぬと聞きければ、生捕
ども皆ゆるして、命惜と思はん人は、是よりとくとく
落給へといひければ、五百余騎の者ども思ひ思ひに
落にけり、残る者僅に五十騎ばかりもありけるが、
鳥羽の秋山のほどにもなりければ、三十騎ばかりに
なりて、ここに児玉党に庄三郎庄四郎とて兄弟あり
けり、三郎は九郎御曹司につき奉りけり、四郎は木
曾殿にあり、然るを木曾討れ給ひて後、樋口が手に
付きて上ると聞えければ、兄の三郎使者をたてて弟
四郎にいひけるは、誰を誰とか思ひ奉るべき、木曾
殿は討れ給ひぬ、九郎御曹司へ参り給へかし、さる
べくば其様申あげ候はんといひ遣しければ、兄弟の
よしみ今にはじめぬことに候へども、誠に喜入て承
り候ぬ、急ぎ参らんとぞ返事したりける、兄三郎さ
ればこそといひ待ちけれども、見えざりければ、重
て使を遣したりければ、四郎申けるは、誠両度の御
使然るべく候へば、参るべくこそ候へども、且は御辺
の御為も面目なき御事也、弓矢取習ひ二心有を以て
今生の恥とす、昨日までは木曾殿に付奉りて、御恩
を蒙り、二なき命を奉らんと思ひき、今は又討れ給
て、幾程なく命を助らんとて、本主の敵九郎御曹司
に参らん事口惜候へば、御定は然るべく候へども、
P562
えこそ参り候まじけれ、御悦には先かけて討死して
名を後代にあげ、三郎殿の面目をもほどこし奉るべ
しと申たりければ、三郎力及ばず、さては四郎さる
者なれば、言葉違へずして死すべきなんずらん、人に
討せじ、同くは我討取て御曹司の見参に入べし、弓矢
取者のしるし是こそと思ひて待かけたり、案の如く
庄四郎うちはの旗ささせて、真先に進んで出で来る、
是を見て庄三郎、あはや四郎は出来るはと思ひて、
とかくの仔細に及ばず、扨並べてくんで落たり、し
ばしはからかひけるが、兄弟同じ程の力にてやあり
けん、互に組で伏したりけるを、三郎は多勢なりけ
れば、郎等数多落合ひて、四郎をば手取に取てけり、
御曹司に参らせたりければ、庄三郎神妙に仕たり、
四郎が命はたすくる也とのたまひければ、四郎申け
るは、命を助られ参せたらん印には、自今以後軍の候
はんには、真先かけて君に命を参らせ候べしとぞ申
ける、皆人是をかんじけり、去程に樋口次郎兼光、作
り道を上りに四塚へ向きてあゆませけり、兼光京へ
入と聞えければ、義経の郎等我も我もと七条朱雀四
塚へ向て合戦す、樋口が甥信濃国の武者千野太郎光
弘、進み出て申けるは、いづれか甲斐一条殿の御手
にて渡らせたまひ候ぞ、かく申は信濃武者諏訪上宮
千野大夫光家が嫡子、千野太郎光弘と申者ぞと云け
るを、筑前国の住人原十郎高綱進出申けるは、やと
の必一条殿の御手に限りて軍は有か、誰にてもあれ、
かたきな嫌ひそといひければ、十郎にてもあれとて、
十三束よひいて射たりければ、高綱が物いふ口をむ
かはせはたと射通して、鉢付の板にぞ射付たる、光弘
いひけるは、しれものをばかくならはすぞ、敵を嫌
ふにはあらねども、光弘が弟千野七郎が一条殿の御
手にある間、かれが見る前にて討死して、信濃に有
る妻子ども、光弘が最期の時、いかが有けんと思はん
事も不便なれば、弟七郎を証人に立んと思ひてこそ、
一条殿の御手とも申つれとて、引取引取さんざんに
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射る、敵余多射落して自害してこそ失にけれ、其弟
千野七郎も駈出て、敵四騎討取て討死してうせにけ
り、去程に児玉党うちわのはたささせて出来る、樋
口は児玉党が聟にてありければ、人の一家の広き中
へ入らんと云は、かかる時のため也、軍とどめよ、わ
どのをば助けんといひて、樋口を中に取こめて忽に
河を上りに具して、九郎御曹司に申ければ、院に申
べしとて、樋口をゐて、参りて奏聞す、
廿日、新摂政師家を留め奉りて、もとの摂政基通に
なし帰らせ給へり、わづかに六十日程のなさみはて
ぬ夢なり、粟田関白兼通と申は、内大臣通隆の御子、
正暦元年四月廿七日ならせ給ひて、御拝賀の後只七
日こそおはせしか、斯るためしもあるぞかし、これ
は六十日の間に除目も二ヶ度行ひ給ひしかば、思出
おはしまさぬにはあらず、一日にても摂を黷し、万
機の政を執行し給ひしこそやさしけれ、いはんや六
十日をや、
廿六日、伊予守義仲が首渡さる、法皇御車を六条東
洞院に立て御覧ぜらる、九郎義経六条河原にて検非
違使の手へ渡す、検非違使是を請取て、東洞院大路
を渡して左の獄門の前の椋の木にかく、首四あり、
伊予守義仲、郎等には高梨六郎忠直、根井小弥太幸
親、今井四郎兼平也、樋口次郎兼光は降人也、大路
を渡して禁獄せらる、是れはさせる其物にもなし、死
罪に行はるべきにあらざるを、法住寺殿へよせて合
戦しける、御所へ打入、然るべき女房達を取奉りて衣
裳をはぎとて、兼光が宿所に五六ヶ日迄こめ置き奉
りける故に、彼女房達以下かたへの女房達を語らひ
て、兼光をきらせ給はずしてなだめられば、淀川桂
川へ身を投げ深き山へ入、御所をも出なんと口々に
申されければ、力及ばずとて、樋口次郎兼光頸をはね
らる、彼兼光は昨日大路を渡して禁ごくせらるれど、
義仲が四天王の其一也、死罪をゆるされば、虎を養
ふ愁有るべしとてきられにけり、伝聞く虎狼国衰て
P564
諸将如蜂起りしに、沛公先咸陽宮に入といへども、
項羽後に来らん事を恐れて、金銀朱玉をも掠めず、
細馬美人をもをかさず、徒に函谷関を守て、漸々に
敵を亡て、終に天下を治むる事を得たり、義仲先都
に打入と雖も、其慎を以て頼朝の下知を待ましかば、
沛公の謀には劣らざらまし物をと哀也、義仲悪事を
好みて天命に従はず、剰叛逆及余殃身に積て、首を
京都に伝ふ、前業の拙き事おしはかられてむざんな
り、いかなる者かしたりけん、札に書てたてたり、
宇治川を水つけにしてかき渡る
木曾のごれうを九郎判官 W127 K187
田畠の作り物皆かりめして
木曾のごれうはたえはてにけり W128 K188
名に高き木曾のごれうはこぼれにき
よし中々に犬にくれなん W129 K189
木曾が世にありし時は、御料といはれて草木も靡き
てこそありしに、いつしか天下口遊に及べり、はか
なき世の習といひながら、咎むべき人もなし、日頃
の振舞も不当也、自業自得果の理りなれば、とかく
いふに及ばず、
九郎御曹司は上洛し、はてはいそぎ鞍馬へ参りて、
師の東光坊に見参して、祈精をも申さんと思はれけ
るに、このみだれ打つづき隙なくして、思ひながら
さて過ぎられけり、木曾も討れぬ、京中も静まりて
後、伊勢三郎義盛、渋谷右馬允重助、佐藤三郎、同
四郎以下郎等十余騎にて鞍馬へ参りて、東光坊に見
参し給ひて、昔今の物語して、互に喜泣をぞせられ
ける、夜に入て御だうに参り給て、夜もすがら昔申
し本意をとげたるよし申されて、少しまどろみ給ひ
たるに、御宝殿の中より八十余りの老僧出で給て、
汝に是を取らせんとて置たるぞとて、しろさやまき
を給ふとみて、驚きて見給へば、夢に示し給へるさや
まき也、いよいよ頼もしく思ひて、感涙を流し、師の
御坊に帰りてかくなんと申されたり、東光坊是を聞
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きて、毘沙門のはなち思召されざりけるにやとぞ申
されける、御曹司暫く候て、心静に申べき事候へど
も、京都も覚束なし、又こそ参り候はめとて、下向せ
らる、きぶねへ参りて、社頭昔にたがひたる事はな
けれども、いにしへ見し草木ども遙に茂りて、神さ
びたる有様あはれに覚えて、暫くねんじゆせられけ
る程に、神主いかが思ひけん、白羽のかぶら矢を一取
出して、いささか夢想の告候とて奉れば、御曹司か
しこまて給て出でられけり、さてこそやしまへ渡り
給ひし時、大風に船もあやうく見えしかば、此矢を
白はたの竿にぞゆひつけられける、
廿九日、九郎義経いつしか平家征伐の為に、西国へ下
向、義経を院御所六条殿へ召して仰ありけるは、我朝
に神代より伝りたる三の御宝あり、神璽、宝剱、内侍
所是也、相構へて事ゆへなく都へ返し入奉れと仰下
さる、義経畏承候ぬとてまかりいでぬ、平家は播磨
国室山、備中国水島、両度の合戦に打勝て、山陽道七
ヶ国南海道六ヶ国、都合十三ヶ国打なびかして、其
勢十万よきに及べり、木曾討れぬと聞えければ、さ
ぬきの国八島をこぎいでて、摂津国と播磨とのさか
ひなる、難波がた、一谷といふ所にぞ籠りける、去正
月よりこれはくつきやうの城なりとて、城郭を構へ
て、先陣は生田森、湊川、福原の都に陣を取る、後
陣は室、高砂、明石の浦迄つづき、海上には数千艘
の船をうかべ、浦々島々にみちみちたり、一谷は口
挟て奥広し、みなみは海、北は山、岸高くして屏風
をたてたるが如し、馬も人も少しも通ふべきやうな
かりけり、誠にゆゆしき城也、赤旗其数を知らず、
立て並べたりければ、春風に吹れて天に飜るは火焔
の燃上るが如し、誠に夥く敵もおくしぬべくぞ見え
ける、平家は年比祇候人伊賀伊勢近国の死に残りた
る輩、北陸南海よりぬけぬけに参りつきたる者ども
は申に及ばず、山陽山陰四国九国より宗と聞えて参
りけるは、播磨の国には、津田四郎高基、美濃国には
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江見入道、豊田権守、備前国には難波次郎経遠一類、
同三郎経房、備中国には妹尾太郎兼康一類、石賀入
道、建部太郎、新見郷司、備後国には奴可入道、伯
耆国には小鴨介基康、村尾海六成盛、日野郡司義行、
出雲国には塩屋大夫、多久七郎、朝山、木次、身白、横
田兵衛惟行、富田押領使、安芸国には源五兵衛頼房、
周防国には石国源太維道、介太郎有朝、周防介高綱、
石見国には案主大夫、横川郡司、長門国には、豊東
郡司秀平、豊西大夫義親、厚東入道、鎮西の輩には菊
池次郎高直、原田大夫種直、松浦太郎高俊、郡司権
頭真平、佐伯三郎是康、坂三郎維良、山鹿兵藤次秀
遠、坂井兵衛種遠、阿波民部大夫成良が謀にて、伊
予、河野四郎通信が与党の外は大略参りにけり、昔項
羽が鴻門に向ひしがごとし、何かは是をせめ落しな
んとぞ見えける、さる程に讃岐国在庁、少々平家に
中をたがひて、源氏に心を通はして、船十三艘に乗
りて都へ上る、其勢二千余騎には過ざりけり、源氏
方へ参るにいかがただは参らん、平家に矢一射かけ
て、是を表に立てて参らんと思ひて、備前国へおし渡
るが、門脇中納言教盛父子三人五百余騎にて、備前
国下居郡におはしますと聞て、かしこへ押寄せ、討
奉らんずる由聞えければ、越前三位通盛、能登守教
経此事を聞きて、にくき奴原かな、きのふまでは、
我らが馬の草かひたる物どもの、二心あらんこそき
つくわいなれ、其儀ならば一人も余すまじとて、彼
等がたて籠りたる所へ押寄せて戦ふ、彼等は人目ば
かりに矢一射かけんとこそ思つるに、能登守大にい
かりて攻ければ、在庁こらへずして都の方へおもむ
きけるが、暫く息継がんとて淡路福津と云所に着に
けり、彼国に掃部冠者、淡路冠者とて源氏二人あり、
是は六条判官為義が孫也、掃部冠者は掃部介頼仲が
子也、淡路冠者は四郎左衛門頼方が子なりければ、
淡路国住人皆この両人につきにけり、讃岐国在庁も
此二人を大将と頼みけり、是を聞きて通盛、教経、淡
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路へ渡りて、一日一夜戦ける程に、掃部冠者も淡路冠
者も討れにけり、能登守、在庁以下百三十二人が首を
切て、交名かき添へて福原へ奉る、越前三位、能登守
二人は、伊予河野四郎通信をせめんとて、三手に分け
て四国へおし流る、三位は阿波国北郡花薗につき給
ふ、能登守讃岐国屋島の御所に着給ふ、通信此事を
聞きて、安芸奴田太郎も源氏に心ざし有る由聞えけ
れば、奴田太郎と一にならんとて、奴田尻へ渡るが、
今日は備後国簑島にとどまる、次日みの島を出でて、
奴田城に着きにけり、平家やがて追かけて一日一夜
せめけるに、矢種い尽しければ、奴田太郎甲をぬぎ弓
をはづして降人に参りけり、河野四郎通信は郎等三
十余人討取られて、わづかに主従七騎になりて落け
るを、能登守の侍に平八為員といふ者、引取引取討た
りければ、六騎をば落してけり、六騎が内三人は目の
前にて死にけり、残三人は未だ死なず、河野立帰り
て、平八為員をばうちにけり、三人の中讃岐七郎為
包といふ者は、命にかへて思ふ郎等なりければ、河
野肩に引かけて小船にのせて伊予の国へ落にけり、
能登守、河野をば討ち逃したりけれども、大将たる奴
田太郎を生捕にして、福原も覚束なしとて帰り給に
けり、淡路国住人阿間六郎宗員、是も源氏に心ざしあ
りて都へ上りけるを、能登守聞給ひて、小船三十艘に
百五十人をもて追かけけり、西宮の沖にて追付たり、
あまの六郎は矢一も射ずして、紀伊路をさして落ち
にけり、紀伊国住人薗部兵衛重光と云者、是も源氏に
志ありけるが、淡路のあまの六郎こそ源氏に志あり
て京へ上なるが、紀伊国ふけい、たがはと云浦に着
ぬと聞きて、一になりてありけるを、能登守、紀伊路
におし渡りてこれをせむ、兵三十人首を切りて福原
へ奉る、備前国今木城に河野四郎通信、豊後国住人
緒方三郎惟能、海田兵衛宗通、臼木次郎惟高等に、一
になりて籠りたる由聞えければ、能登守二千余騎勢
にて、今木城へ押寄せて一日一夜戦ひて、城内まけ
P568
にければ、鎮西の者ども惟能を始めとして、豊後の
地へ落にけり、河野はれいの事なれば、四国の方へ
落にけり、能登守今木城をせめ落して、福原も覚束
なしとて、夜を日につぎて帰り給にけり、能登殿申さ
れけるは、頓て四国九国へもおし渡りて、彼等をせ
め落して参らすべく候と思ひつれども、京より源氏
の勢向ふと承て、覚束なさに参りて候と申されけれ
ば、天晴大将軍やとぞ見えし、
元暦元年二月四日、平家福原にて、故太政入道忌日
とて、かたの如く仏事行はれけり、過行月日しらねど
も、手を折てこれをかぞふれば、去年もことしにめ
ぐり来て、うかりし春にもなりにけり、世の世にて
あらましかば、起立塔婆、供仏施僧の営も、さすがに
耳目を驚かす事にてこそあるべきに、かたの如くの
いとなみあはれ也、男女の公達さしつどひてかなし
まれけるこそかなしけれ、既に都へ帰り入給ふべき
よし聞えければ、残り止りたりし門客郎従、おち下て
勢いとどつきにけり、三種の神器を帯して、君かく
て渡らせ給へば、今は是こそ都なれとて、叙位除目
僧事などを行はれて、僧も俗も官なされたり、大外記
中原師兼が子周防介師隆は、大外記になり、兵部少
輔政明は五位蔵人になさる、蔵人少輔とぞ申ける、
昔将門が東八ヶ国を靡かして、下総の国相馬郡に都
をたて、我身は平親王と称して、百官をなしたりけ
るが、暦博士ばかりこそなかりけれ、是は夫に似る
べきにあらず、古京をこそ出させ給ひたれども、万
乗の位に備り給へり、内侍所おはしませば、叙位除
目行はるるもひが事とも覚えずと人々申けり、権亮
三位中将維盛は、年隔たり日重るに随ひて、故郷に
とどめおきし人々の事をのみ恋しく思されて、あき
人の分便などにおのづから文などの通ふにも、北方は
構へて迎へとり給へ、幼きものども斜ならず恋しが
り奉る、我もつきせぬ歎きにながらふべくもなしな
ど、細々と書つづけ給へるを見給ひては、むかへと
P569
りて、一所にてとも角もならばやと、思ひ給ふ事はひ
まなかりけれども、人の為いとをしければ、思忍び
て日を送る、さるままに与三兵衛石童丸などを跡枕
に置き給て、明けても暮れても唯此事をのみのたま
ひて、伏し沈みておはしければ、人々もこのやうを
見たまひて、三位中将は池大納言の様に、頼朝にここ
ろを通はして二心ありとて、大臣殿もうちとけ給は
ねば、努々さは思はぬ物をとて、いとどあぢきなくぞ
おぼさるる、愛欲増長一切煩悩の文を思ふには、穢
土をいとふいさみなし、閻浮愛執のきづなふかけれ
ば、浄土を願ふに物うし、宿執開発の身ならねば、
今生に妻子を思て、心ふかく合戦に向ふ思ひに身を
落沈めて、来生には修羅道に落んことうたがひなし、
しかしただ一門にしられずして、都に忍び上て、今一
度妻子をも見て、妄念を払ひて、閑に臨終せんより
外の事あるべからずと、思ひなかれにければ、何事
をも思ひ入給はず、ふししづみ給ぞあはれなる、二
位僧部全親は、梶井の宮のとし比の御同宿なりけれ
ば、便の御文つかはされけるにも、旅の空のありさ
ま思ひやるこそ心ぐるしけれ、都もいまだしづかな
らずなど細々あそばして、
人しれずそなたを忍ぶ心をば
かたぶく月にたぐへてぞやる[B 「や」に「見イ」と傍書] W130 K191
四日、源氏二手に分けて福原へよせんとしけるが、
けふの仏事を妨げん事罪深かるべし、五日は西塞り、
六日は悪日とて、七日の卯の刻に東西の城戸口の矢
合と定む、追手の大将軍は蒲冠者範頼、四日京を立
て、津の国播磨路より一谷へ向ふ、相従ふ輩には、
武田太郎信義、同兵衛有義、加賀見太郎遠光、同次
郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、侍大将には
梶原平三景時、同嫡子源太景季、同平次景高、畠山
庄司次郎重忠、稲毛三郎重成、半替四郎重朝、小山
田五郎幸重、千葉介常胤、同太郎常時、同小太郎成
つね、相馬小次郎師胤、同五郎胤道、同六郎胤頼、
P570
武者三郎胤盛、大須賀四郎胤信、山田太郎重助、山
名次郎義幸、渋谷三郎庄司重国、同右馬允重資、讃
岐四郎大夫広綱、村上次郎判官代忠国、小野寺前司
太郎通綱、庄次郎家長、同三郎忠家、同五郎広方、
渋谷五郎通綱、中村三郎時つね、勅旨河原権三郎有
直、河原太郎高直、同次郎盛直、秩父武者四郎行綱、
久下次郎重光、小代八郎行平、海老名太郎、同三郎、
同四郎、同五郎、中条藤次家長、安保次郎種光、品
川次郎清綱、曾我太郎資宣、中村太郎を始として、
五万余騎にて、六日酉刻に摂津国生田の森に着にけ
り、搦手の大将軍九郎義経は、同日京をいでて、三
草山を越えて、丹波路より向ふ、相従ふ輩は、安田
三郎義方、田代冠者信綱、大内太郎惟成、斎院次官
親能、佐原十郎義連、侍大将には土肥次郎実平、嫡
子弥太郎遠平、山名三郎能教、矢野次郎直経、糟屋
藤太有季、河越太郎重頼、同小太郎重房、平山武者
所季[B 末イ]重、平迫太郎為重、熊谷次郎直実、同小次郎直
家、佐々木四郎高綱、小河小次郎佐義、諸岡兵衛重
経、三郎清益、金子十郎家忠、同与一家員、猪俣近
平六教綱、渡柳弥太郎清忠、同四郎忠信、伊勢三郎
義盛、源八広綱、長野太郎能包、奥州佐藤三郎継信、
同四郎忠信、多々良五郎義治、同六郎光義、片岡太
郎経治、筒井次郎能行、葦名太郎清高、蓮間太郎忠
俊、同五郎国長、岡部太郎忠澄、同三郎忠泰、江田
源三、熊井太郎、武蔵房弁慶等を始として、一万余
騎丹波路よりかかりて、三草山の山口に其日の戌の
刻ばかりに着たり、九郎義経は、赤地の錦の直垂に
黄返の冑きて、宿鴾毛なる馬の太くたくましきが、飽
まで尾かみたらひたるが、名をばあまぐもと云にぞ
乗りたりける、東国一の名馬なり、二日路を一日に
ぞうちたりける、三草山は山内三里なり、平家は是
を聞きて、三草山の西の山口を固むべしとて、大将
軍には新三位中将資盛、同少将有盛、備中守師盛、
副将軍には平内左衛門清家、江見太郎清平を先とし
P571
て、七千余騎にて三草山へぞむかひける、三里の山
を隔て、源平両方に陣を取る、東の山口にて、九郎
義経、土肥次郎実平を相具して、一万余騎にて扣へた
り、九郎義経土肥次郎にのたまひけるは、軍のはか
らひいかが有るべき、夜うちにやすべき、又明日に
やなすべきといはれければ、土肥にはいはせで、伊豆
国の住人田代冠者信綱は近く候けるが、申けるは、
平家はよも今夜用心候はじ、夜討よく候ぬとおぼえ
候、平家の勢は七千余騎と承候、御方は一万余騎な
り、はるかの理にて候也と申ければ、土肥、田代殿い
しう申させ給たり、実平もかく社存候へとぞ申ける、
田代冠者と申は、伊豆国司為綱在国の時、工藤介茂
光が娘を思てまうけたる子也、為綱任はてて上りけ
れども、信綱は母方の祖父工藤介茂光に付て、伊豆
国にて育てられたりけるが、生年十歳の年より流人
兵衛佐の見参に入て宮仕けるが、弓矢とて勝れたる
上、ゆゆしき剛の者、精兵の手ききにてぞありける、
石橋の合戦の時、伊東入道祐親法師を追落して、御
方を山へのばし奉りし兵なり、かかりければ、九郎
が副将軍に成りたまへとて、兵衛佐さしそへられた
り、俗姓を尋ぬれば、後三条院第三王子御子左皇の
五代の孫とぞきこえし、さては夜討にすべしとて、
其夜の丑の刻計りに一万余騎にて、三草山の西の山
口をかためたる平家の陣へ押寄せたり、平家の先陣
はおのづから用心しけれ共、後陣は明日の軍にてぞ
有んずらんとて、軍にもねぶたきは大事也、今夜よ
く寐て軍せんとて、甲を脱て枕にし、或は箙をとき、
冑の袖をたたみ枕として伏たりける所に、押寄せて
鬨を作りて、しばしもひかへず、やがて蹴散して通
りければ、弓とるものは矢をとらず、矢とるものは
弓をすて、馬の蹄にかけられじとて、あわて惑ひて
逃る者のみ有けれども、軍せんとする者は一人もな
かりけり、一騎も打留めず、皆通しつ、大将軍新三
位中将は追落されて、おはする事面目なしとや思は
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れけん、福原へは帰り給はず、船にのりこみて讃岐
国へぞ渡り給ひにける、弟備中守師盛、平内左衛門
清家は、明日五日大臣殿へ参りて、三草山は去夜の
夜半ばかりに、源氏の軍兵に散々に追落され候ぬ、猶
山へ手を向けられべくや候らんと申たりければ、大
臣殿大に驚きて、東西の城戸口へ重ねて勢を遣さる、
さて安芸右馬助能康を御使にて、能登守の方へいひ
遣はされけるは、三草山の手は既に破られ候也、一
の谷へは貞能、家仲を差遣し候ぬれば、さりともと覚
え候、生田へは新中納言向はれ候へば、それ又心安
く候、山の手には盛俊むかへ申候へば、山は一大事
の所にて候と承候へば、重ねて勢をさしそへばやと
存候、いづれの殿原も山へはむかはじと申候、いか
が候べき、さりとては御辺向はせ給へと仰られけれ
ば、能登殿申されけるは、軍と申は面々に我一人が
大事と思ひて、同心に候こそよく候へ、其手は叶はじ
その人むけ、かの手は向はじなど候はんには、軍に
勝つ事は候まじ、向後もはかばかしかるべしとも覚
え候はず、されば人の上の大事と各々思召しあはるる
かや、但幾度もこはからん方へは教経を差遣はされ
候へ、命あらん限りは身をたばひ候まじとて、頓て義
康が見る処にて、打立て物具ひしひしとして向はれ
けり、誠に甲斐々々しくぞみえ給ける、程なく三草山
へ馳つきて、越中の前司盛俊が陣の前に、仮屋をう
ちて待かけたり、さる程に五日もくれぬ、源氏小屋
野に陣をとて、遠火をたてたり、平家生田より見渡
せば、更行くままに晴たる空の星の如し、平家の方
にも向火焚けとて、生田の森にもかたの如く焚たり
けり、其夜越前三位は、弟能登守の仮屋に物具ぬぎ
て、女房むかへて伏し給けり、能登守是を見て申され
けるは、いかにか様に打とけて渡らせ給ぞ、此手は
敵こはくて教経向へと候つれば向て候、誠にこはか
るべき所と見えて候、弓を手に持たりとも、矢をは
げずばおそかるべし、矢をはげたりとも、引かずば
P573
猶おそかるべし、上のかさより敵只今押かけて候は
んには、取ものも取あへ候まじ、まして物具ぬぎお
かせ給ひては、何の用にかあはせ給べきと、再三申
されければ、心ならずおきわかれ、まだむつ言もつ
きなくに、宵のまぎれに引わかれて、女を返しつか
はさる、後に思ひ合せられけるに、それを最期のみは
てなる、哀なりしわかれのほど、思ひやるこそ悲しけ
れ、
六日卯刻に上の山より岩崩れして落る音しけり、す
はや敵のよするとて、各々馬に乗甲の緒をしめて、矢
筈を取て待所に、敵には非ず、大鹿二、妻鹿一出来る、
平家の人々申けるは、いかにかからんずる鹿も、人
に恐れて山深くこそ入べきに、この鹿のここへ落た
るこそ怪しけれ、野に人伏す時は、飛雁行を乱ると
いふ事のある物を、あはれ上の山より敵のよするに
こそといふほどに、伊予国住人武智武者所清章と云
ふ者、大鹿二は射とりて妻鹿一をば逃してけり、心
ならぬ狩したり、鹿めせ殿原とぞ申ける、軍は七日
卯刻に矢合あるべしと定らる、義経が勢中に奥州佐
藤三郎継信、同四郎兵衛忠信、江田源三、熊谷次郎直
実、平山武者所季重、片岡八郎為治、佐原十郎義連、
後藤兵衛実元を始として、兵三十余騎、その勢二千
余騎、義経に附き、残り七千余騎をば、土肥次郎、田
代冠者両人を大将軍として、山の手を破り給へ、我
身は三草山をうち廻りて、鵯越へむかふべしとて歩
ませける、九郎義経宣ひけるは、抑此山悪所にてあ
んなる物を、馬を落してあやまちすな、誰か此山の
案内知りたると尋ければ、平山武者所弓取なほして、
季重こそ案内はしるべく候へ、御免蒙りて先陣を仕
るべしと申ければ、熊谷次郎取もあへず申けるは、
幼少より武蔵国に住居して、今始めて見る山の案内
せんと申されけるこそ、まこととも覚えね、山につづ
かんと思はん人は、用意はかうこそあらめといひけ
れば、季重申けるは、心すきたる歌人、吉野龍田に
P574
分入て花紅葉を尋ぬるに、花はみねの梢におもしろ
く、紅葉は谷河の岸の岩根に色深し、されどもその
里人はしらねども、すき人こそ知れ、敵の籠る城の
うしろの山なれば、さこそあるらめと思ひなして、
剛の者こそ案内者よ、さてこそ季重先をかけんと申
たれといひければ、人々是を聞きて、面白しと声々
に感じてぞあゆませける、御曹司是を聞給て、傍若無
人なりとぞの給ひける、かくはいさみののしれども、
まことには山の案内知りたる兵一人もなし、いづれ
の谷へ落し、いづれの嶺を越ゆべしともしらざりけ
り三草山の夜討の時、生捕数多したりけるを、切べ
きは忽にきられぬ、国々のかり武者のけしかるをば、
木のもとにしばりつけなどして通りけるに、生捕の
中に祗候させんとて、一人ぐせられたりけるを、召出
してとはるるに、申けるは、此山は鵯越とて冷じき山
にて候、底には落穴をほり、馬も人も通ふべくも候
はず候、すこしもふみはづし候はんものはおとさん
とて、底に管をうへて候とぞ申ける、抑此山に鹿は
あるかとの給へば、いくらも候、さて鹿は彼悪所を
ば通るかとありければ、世間寒くなり候へば、浅み
にはまんとて、丹波の鹿は一の谷へわたり、世間暖
になり候へば、草深に伏さんとて、一の谷より丹波
へ帰り候と申ければ、さては鹿の通ふ程の道を、馬は
通はぬ事やは有る、よき馬場ござんなれ、唯落せとぞ
のたまひける、さて和君は平家の祗候人か、国々の
かり武者かととはれければ、平家の家人にても候は
ず、狩武者にても候はず、播磨国安田庄下司、賀古管
六久利と申者にて候が、去る比先祖相伝の所領を、故
なく平家の侍越中前司盛俊と申者に押領せられて、
此二三年の間訴申候へ共、未還して罷過候て、きず
なく死し候はんよりは、弓矢取て軍にこそ死候はめ
と存候て、此手に付て候と申ければ、扨は平家の祗候
人にてもなかりけり、誠に山の案内者久利にすぎじ
とて、先にたててぞおはしける、比は二月六日の事な
P575
れば、いまだ宵ながら傾く月をうちまもりて、四方
をただしくして行くほどに、嶽々のふもとにつもる
残の雪、花かと見ゆる所もあり、白雲重して高く聳
えたる所もあり、くだらんとすれば谷深くして峯高
く、深山には松のゆきまも消やらで、苔の細道かす
か也、木々の梢も重なれば、友まよはせる所もあり、
さる程に月も高根にかくれて、山深くて道見えず、
心計りはいそげども、夢に道ゆく心地して、馬次第に
うちける程に、敵の城のうしろなる鵯越にぞあがり
ける、菅六東を指て申けるは、あれに見え候所は、大
物が浜、難波の浦、こや野、打出、蘆屋の里と申候
は、あのあたりにて候なり、南は淡路島、西は明石の
浦汀つづきにて候、火の見え候も、播磨摂津国二ヶ国
堺、両国の内には第一の谷にて候間、一の谷と申候
なり、冷はみえ候へども、小石交りの白すなごにて、
御馬は損じ候はじ、一の谷こそ大事の所にて候へ、
磐石高く聳えふして馬の足立べしとも見えず候、踏
はづして転び候なん、馬骨を砕かずといふ事候まじ、
東西の城戸の上、東の岡は檀原とて、海路遙に見渡
して眺望面白く、望海楼をも構へ候べし、西の岡は
高松の原とて、春塩風秋の嵐の音、殊に烈しき所に
て候也とぞ申ける、大将軍は宗徒の侍近くめして、
おのおのやかたをならべ、その外の兵は、東西の城戸
口に二重に屋形をならべて候なり、弓矢取の習にて、
恥が悲しく候間、室山、水島の軍に度々命をすて、合
戦仕て候へども、思もしりたまはぬがくちをしく候
へば、今日ぞ始めてかばねを顕はして、見参に入候
はんずるとぞ喜びける、九郎義経は空もみえぬ深山
の道を、いづくともしらず歩ませつつ、かかる山を
打出でて、漫々たる海上を見渡せば、なぎさなぎさの
篝火、海人の苫屋のもしほ火かと、御曹司面白くぞ思
はれける、感にたへ給はず、兵仗具足をば態と取ら
せぬぞよ、是にて敵を招きて打物奪取て高名せよ、勲
功は取申べしとて、皆紅に月出したる扇をぞ賀古菅
P576
六に給ける、未だ夜深かりければ、暫くここにて馬の
足をば休めける、大手の勢は宵の程はこや野に陣を
取り、しころをならべて居たりけるが、越前三位、能
登守、三草の手に向ひたりける陣の火、湊川よりうち
あがて、北の岡に火をぞたきたりける、大手の兵こ
れを見て、九郎御曹司既に城戸口につき給へり、う
てやうてやとて、我先にかけんと、五万余騎手ごとに続
松をもちて急ぎけり、所々に火をはなちければ、万
燈会の如く、生田の森迄続きたり、海上光り渡りて、
身の毛もよだちて夥し、源氏平家の陣の火、見えぬ所
ぞなかりける、熊谷次郎子息次郎に申けるは、此大
勢にぐして山を落さんに、高名ふかくも知まじ、其
上明日の軍は打こみにて誰先といふ事も有まじ、今
度の合戦に一方の先を駈たりと、兵衛佐殿に聞かれ
奉んと思ふぞ、其故は兵衛佐殿しかるべき侍どもを
一間所に呼び入て、今度の軍には汝一人を頼むぞ、
妻にもいふべからず、今度の軍に於ては、忠を尽し
て頼朝を恨よとぞのたまひける、直実もかく仰せら
れし事を承りて、一方の先をば心にかく、いざこれ
小次郎、西の方より播磨に下りて、一の谷に先せん、
卯時の矢合なれば、只今が始にてぞあらんとて、打出
んとしけるが、あはれ平山も先を心にかけたると見
しものを、平山は前にや此山を出ぬらんと思ひて、
下人を遣はして平山が陣を見せけるに、下人走帰り
て申けるは、平山殿の御陣には只今馬のはみ物して
がうげに候、そのうへ御物具召し候かとおぼしくて、
御鎧の草ずりの音幽かに聞え候、御乗馬かと覚えて、
鞍置てくつは計りはづして、舎人ひかへて物かひ候
が、平山殿の御声とおぼしくて、八幡大菩薩も御覧
ぜよ、けふの軍には真先せんずるものをと候と申け
れば、熊谷さればこそと思ひて、小次郎直家と旗ざ
しともに三騎にて、浜路をみぎみぎに心をかけて打
出んとする所に、武者こそ四五騎出来れ、申されけ
るは、只今爰に出来る者は何者ぞ、名乗り候へと云け
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る声聞けば、九郎御曹司の声とききて直実申けるは、
是は直実にて候、君の御出と承て御供に参り候と申
ける、後に申けるは御曹司の御声、其時聞たりしは、
百千のほこ先を身にあててきられたらんも是には過
じと恐しく候しとぞ申ける、御曹司は若も我より先
にかかる者や有る、また敵や襲来ると思て夜廻りし
給ひけるなり、いしう参りたるとの給ひて引かへり
ける所に、ともするやうにてぬき足にこそあゆませ
たれ、抑渚へ出る道の案内しらぬはいかがせんずる、
なまじひにいでは出ぬ山に迷ひては、笑はれてかへ
りて恥がましかるべしと申ければ、小次郎申けるは、
武蔵国にてある人申候しは、山に迷はぬ事はやすき
ことにて候也、山沢を下に谷にまかり候へばいかに
も人ざとへ出るとこそ申候しか、そのぢやうを山沢
を尋て下させ給へと申ければ、さもありなんとて、
山沢の有けるをしるべにて下ける程に、思ひの如く
播磨路の渚に打出て、七日卯の刻計りに一の谷の西
の城戸口へ押寄せて見れば、城郭の構へ様誠に夥し、
陸には北山の麓迄大木を切伏せて、そのかげに数万
騎の勢なみゐたり、渚々には山の麓より海の遠浅ま
で大石をたたみて大船数を知らず、其蔭に数万疋の
馬ども十重廿重にひきたてたり、うしろには数千艘
のまうけ船をうかべたりければ、容易く破るべしと
もみえざりけり、熊谷次郎直実は褐衣の冑直垂に、紺
村濃の鎧に紅の母衣かけて、ごんだくり毛と云馬に
黒鞍置てぞ乗たりける、大中黒の廿四さしたるを頭
高に負ひて、二所籐の弓のきはめて太く強げなるを
ぞ持たりける、子息小次郎直家はおもたかを所々に
すりたる直垂に、藤縄目の冑に、鹿毛なる馬に黒鞍
置てぞ乗たりける、旗ざしは秋の野すりたる直垂に、
洗革の鎧に三枚甲をきて、黒月毛なる馬の名をば白
浪とぞいひける、まことの逸物なり、此馬は陸奥栗
原あねはといふ所の牧よりいでたり、尾髪逞しく白
かりければ、白浪とぞつけたりける、熊谷父子二騎
P578
城戸口近くせめよりて、武蔵国住人熊谷次郎直実、
嫡子小次郎直家生年十六歳、伝へても聞くらんもの
を、我と思はん人々は楯の表にかけ出よやといひて
父子くつばみをならべてはせ参りけれども、出合ふ
者なかりけり、ただ遠矢にてさんざんにぞ射ける、
熊谷馬の太腹射させてはね落せば、鎧をこしており
立たり、しころを傾け、弓杖つきて、城の内をにら
まへて申けるは、去年の冬相模国鎌倉を立ちし日よ
り、命をば兵衛佐殿に奉り、かばねをば一の谷にさら
し、名をば後代にとどむべし、平家の侍ども落合や
落合やと大音あげてののしりけれども、落合ふ者な
かりけり、室山、水島二ヶ度の合戦に、高名したりと
云なる越中次郎兵衛、悪七兵衛、上総五郎兵衛はな
きか、高名は敵によてこそすらめ、直実おや子にあ
ひては高名えせじものを、能登守殿はおはせぬか、あ
らむざんの殿原や、かけ出て組めや組めやといひけれ
ども、かけいづるものなかりけり、やや久しくまて
ともども落合はず、城戸口の上の高矢倉より雨のふ
るごとく射ける矢をば、冑の袖をふり合せふり合せして
ぞ射させける、熊谷子息直家にいひけるは、敵よれば
とてさわぐ事なせぞ、鎧のいむけの袖を甲の真向に
当て、あきまをおしめゆり合せゆり合せして、常に鎧づ
きせよ、働かで鎧にうらかかすなとぞ云ける、去程
に夜もほのぼのと明ければ、熊谷又申けるは、平山
は九郎御曹司の御供にて山はよもおとさじ、浜の手
には心はかけたるらん、今つづくらんものをと、父
子いひて立ちたる所に、いひもはてぬに浜の方より
平山武者所旗ざし相具して、二騎出来り、平山はし
げめゆひの直垂に、赤がは威の鎧に三枚甲に薄紅の
母衣かけて、目かす毛といふ馬にぞ乗たりける、旗
ざしは、黒糸威の鎧に、三枚甲を着たりけり、熊谷、
平山を見て、あれは平山殿かといひければ、季重と
名乗りて城戸口へせめ寄りければ、さればこそとぞ
申ける、平山申けるは、季重もとくより寄すべかり
P579
つるに、成田五郎にすかされて、今まで和殿にさが
りたるぞ、成田いふやうは先をかくといふ共、大勢
を後にあててこそかくる事なれ、唯一騎かけ入たら
ば、百に一命を生たりとも、誰か証人にも立つべき、
後陣の勢を待つと云に、げにもとおもひて暫くひか
へてまつ所に、やがて成田先へのぶる間、此君は季
重をだしぬくよ、其儀ならば馬の尻にはつくまじき
ぞ、和殿が馬は弱きものをとて、弓手になして一ふ
ちあてて、あゆませつれば、二三だんばかりさがり
つると見つるが、今は十四五町さがりつらん、たけ
く思へども馬弱くては先をかくる事かなふまじき物
を、熊谷殿の馬と季重が馬とはあはれ逸物やとぞ申
ける、かくいふほどに、城には矢倉を二重にかまへ
て、上には平家の侍、下には郎等国々の兵どもなみ
居たり、岸にそへてやかたをうちて大将軍ゐられた
り、口一開たりければいづくよりかけ入べしともみ
えざりけり、其後城内よりいざ夜もすがら悪口しつ
る熊谷生捕にせんとて、越中次郎兵衛盛次、上総五
郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、
後藤内定綱以下究竟の若武者廿三騎、城戸の逆茂木
引のけさせて、くつばみをならべてをめいてかけ出
たり、越中次郎兵衛盛次真先かけて出来、このむ装
束なれば、紺村濃の直垂に、赤綴の鎧に、白星の甲
き、白あし毛なる馬にぞ乗たりける、熊谷におしな
らべて組まんとはしけれども、少しも退かず父子あ
ひもすかさず立たりけり、越中次郎兵衛一たん許隔
てて、和君に逢ひては命はすつまじきぞ、大将軍に
あひてこそくみたけれといひければ、熊谷きたなし
やきたなしや組めや組めやとぞ申ける、越中次郎兵衛がひか
へたるを憎しとやおもひけん、悪七兵衛景清、次郎兵
衛をめ手になしてかけけるを、次郎兵衛申けるは、
わどの君の御大事は是に限るまじ、あれ程のふてが
たきにあひ、命を失ひてせんなしや、とのとのといひ
ければ、悪七兵衛かけざりけり、廿三騎の者ども熊
P580
谷にくまざりけり、互に戦ふばかりなり、平山をば
其時まで誰とも知らず、熊谷が郎等かと平家の方の
人々思ひて目かくる者もなかりけり、城戸口を開た
るを喜で、遠くは音にも聞け、近くは目にもみよ、武
蔵国住人平山武者所季重、けふの軍の真先と名乗り
てをめいて城の内へかけ入ぬ、是を見て城内雲霞の
勢さわげり、高矢倉の上よりその男に組めや組めやと
口々に詈りけれども、平山が乗たる馬は逸物なり、
城内の者共が乗りたる馬は、船に立たる馬なれば疲
損じたり、一あてあてたらば倒れぬべければ、おそ
ろしさに近づく者なかりけり、廿三騎の者どもは熊
谷父子をうち捨てて、平山がうしろをおひてぞかけ
たりける、平山は旗ざしをうたせて、其敵平山打ち
てその首を取てと付につけ、熊谷父子は、廿三騎が
後につづいてかけ入ぬ、廿三騎の者ども平山をも取
こめず、城内にかけ入て、熊谷平山を外様になして
ぞ戦ひける、熊谷小次郎直家生年十六歳、軍はけふ
ぞ始なるとて、かいだての際にせめ寄せて戦けるが、
小ひぢをいさせて引しりぞく、平山ははたざしをう
たせたりけれども、城戸口ひらきたりければ、平山
は先にかけ入ぬ、さてこそ熊谷、平山が一陣二陣をあ
らそふ所はこれなり、さるほどに、西の渚より成田
五郎三十騎ばかりにてはせ来る、それにうちつづき
又五六十騎出来る、熊谷是を見て誰人にておはしま
すぞととひければ、信濃国住人村上次郎判官代基国
と名乗りて、をめいてかく、是を始として秩父、足
利、武田、吉田、三浦、鎌倉その外小沢、横山、児
玉、猪俣、野寺、山口の者ども我劣らじとかけ入て、
源平両家白はた赤はたあひまじはりたるこそおもし
ろけれ、龍田山の秋の暮、白雲かかる紅葉の風にちれ
るにことならず、互に乱れ合ひてをめきさけぶ声山
をひびかし、馬のはせちがふ音大地震いかづちのご
とし、組で落つるものもあり、おちかさなる者もあ
り、源平いづれひまありとも見えざりけり、熊谷平
P581
山馬の足休め、我身も息継がんとて、引退く時は母
衣をかなぐり落し、又かかるをりは母衣をかけてを
めいてかけ入る、ここにて平家の軍兵残りすくなく
討れにけり、一の谷の北の小篠原あけになりてぞみ
えわたる、源氏搦手一万余騎なりけるが、七千余騎三
草山へ向ひぬ、三千余騎は、はりまぢのなぎさに副
て、一の谷へぞ寄せたりける、平家は摂津国生田森
を一の城戸口としてほりをほり、逆茂木を引き、東
にはほりに引橋をわたして、口一あけたり、北の山
よりみなみの海際までかいたてをかきて、さまをあ
けてまちかけたり、浜の大手より蒲冠者範頼、大将
軍として三千余騎にておしよせたり、白はたその数
をしらずさしあげたれば、白さぎのつばさならべた
るがごとし、我も我もと先陣を志すつはもの多く有
ける中に、武蔵国住人私党に河原太郎高直、同次郎
盛直、兄弟二人はせ来りて馬より飛下り、生田森の
城戸口へせめよてつらぬきはきて、逆茂木をのりこ
えて城内へ入けるを、城内より備中国住人真鍋四郎
同五郎とて兄弟ありけるが、四郎は一の谷におかれ
たり、五郎助光は究竟の弓の上手せい兵手ぎきなり
けるを、城戸口に置れたりけるが、河原太郎がのぼり
越を見て、さしつめてよひいていたりければ、河原
太郎が弓手のくさずりのはづれを射させて、ひざす
くみて弓杖にすがりて落ちたりけるを、弟次郎つと
よて兄を肩に引かけて帰る所を、助光又よひいて二
の矢をいたりけるに、次郎が馬手の膝の節にあたり
にければ、兄と一枕にたふれにけり、真鍋が下人落
合ひて取ておさへて兄弟が首をとていりにけり、梶
原平三これを見て、口惜きとのばらかな、つづきて
人のいらねばこそ、太郎兄弟をばうたせたれ、あた
ら者どもをとて、五百余騎おしよせて足かろどもに
逆茂木を引のけさせて、をめいてかけ入ば、新中納
言の父子、本三位中将重衡、二千余騎にて梶原平三
を中に取こめて、一時ばかり戦ひけるが、無勢なり
P582
ければかけたてられて引退くが、郎等どもに源太が
見えぬはととへば、源太殿は大勢の中に取籠られて
戦ひつれば、討れてもおはすらんと申ければ、梶原
聞もあへず、あな心うや、源太うたせて景時一人生
残りたらば、何事かあるべきとて、又押寄せて、相
模国住人鎌倉権五郎景政が末葉梶原平三景時一人当
千の兵也、誰かおもてをならぶべきといひてかけ入
たりければ、名乗にやをめけん、城内の兵ともさつ
と引てぞのきにける、源太はいまだうたれずして、
敵三騎が中に取こめられて、大あらはになりて、岩
かげに後をあてて、今は限りと戦けり、梶原かけ入
て是にあるぞといひて、源太を後になして、我身は
矢おもてにふさがり散々に射払ひて、源太に息つか
せて、いざこれ源太とてかいつれて、かけ破りていで
にけり、梶原が一の谷二度のかけとは是也、梶原源
太かくる時は、はたをささげ母衣をかけ、ひく時は
旗を巻き母衣をぬきて、度々入かへ入かへ戦ひけり、
武芸道ゆゆしく見えける中に、やさしき事は、片岡
なる梅のまだ盛なるを、一枝折て箙にさしぐして、
敵の中へかけ入て、戦時もひく時も、梅は風にふか
れてさとちりければ、敵も味方も是を見て感じける
所に、城内よりよはひ三十ばかりなる男の、褐衣の
直垂に洗皮の鎧着て、馬にはのらず、弓脇に挟みて
すすみ申けるは、本三位中将殿御使にて候、梅かざ
させ給て候に申せと候、こちなくも見ゆるものかな
桜狩と申もはてぬに、源太馬より飛下りて、しばし
御返事申候はんとて、生捕とらん為と思へばとぞ申
たりける、九郎義経一の谷の上、鉢伏と蟻のとと云
所へ打上りて見れば、軍は真盛りと見えたり、下を
見おろせば、或は十町ばかりの谷もあり、或は廿町
ばかりの岩もあり、人も馬も通ふべき様もなし、さ
ても馬おりぬべきか心みんとて、よき馬二疋に鞍を
置き、白轡をはげ、手綱を結びて頸にかけて、下へ
むけて追落す、一町ばかりは白石まじりのすなごな
P583
れば、すべるともなく落るともなく、越中前司盛俊が
やかたに落てけり、一疋は足をそこなひて伏たり、
一疋は身ぶるひして立たりければ、思ひよらぬ上の
山より鞍おきたる馬の二疋おちたりければ、敵のよ
すればこそ此馬どもはおちたるらめとて、城内さわ
ぎあへり、九郎義経はるかにのぞきて是を見て、一
疋は伏たり一疋は立たり、主が心えておとさば損す
まじきぞ、ただ落せ殿原とて、白旗三十流を城の上
へ靡かして、七千余騎さとおちたり、少平なる所に、
落ち留てひかへて見おろせば、底は屏風を立てたる
が如く、苔むしたる岩なりければ、落すべき様もな
し、返りあがるべき道もなし、いかがすべきと面々
に扣へたる所に、佐原十郎義連進み出て申けるは、
三浦にて朝夕狩するに、狐を一落しても鳥を一立て
ても、是より冷じき所をも落せばこそ落すらめ、い
ざこれ若党共とて、我が一門には、和田小太郎義盛、
同小次郎義茂、同三郎宗実、同四郎義種、蘆名太郎
清澄、多々良五郎義春、郎等には三浦藤平、佐野平
太を始として御曹司の前後左右に立ち直り、手綱か
いくり鎧ふんばり、目をふさぎ馬に任せて落しけれ
ば、義経よかんめるは、落せや若党とて、前に落し
ければ、おちとどこほりたる七千余騎兵共我劣らじ
と皆落す、畠山は赤綴のよろひに薄べうの矢負て、
みか月といふ黒馬のふとくたくましきにぞ乗たりけ
る、ふちうちに月がたのありければ、みか月とぞつ
けたりける、一騎も損ぜず城のうしろかりやの前に
ぞ落つきたる、おとしはつれば白旗三十ながればか
りさとささげて、平家の数万騎の中へ乱れ入て、鬨
をどと作りたれば、味方も皆敵にぞみえけるうへは、
あわてまどふ事限なし、馬より引落し射落さねども、
おちふためき、上になり下になりける程に、城の後
の仮屋に火をかけたりければ、西の風烈しくふきて
猛火城の上に吹きおほひける上は、煙にむせびて目
も見あけず、取物もとりあへず、海へのみぞ馳入け
P584
る、助船あまたありけれども、船に乗は少く海に沈む
は多かりけり、所々にて高名せられたりし能登守も
いかが思はれけん、平三武者が薄雲といふ馬に乗り
て、須磨の関屋へ落給ひて、それより船にて淡路の
岩屋へぞおちにける、越中前司は、とてものがるべ
き身ならばこそとて、一引もひかず残り止て戦ひけ
り、盛俊も猪俣小平六則綱とよせ合せて引組んで馬
より落にけり、盛俊は世に聞えたる大力の大男なり、
人には三十人が力もちたりとしられたりけれども、
内には七十人しておろしける大船を、一人してやす
やすとあげつおろしつしけり、小平六もしたたか者
にて、ふつうには強かりけれども、下におし付らる、
盛俊少も働かさず、小平六刀をぬかんとつかに手を
かけたれども、大男の大力の取ておさへたりければ、
刀をぬくに及ばず、既に頸かかんとしけるに、がう
の物しるしにや、力は劣りたれども、小平六申ける
は、やとの和殿は誰といふぞ、敵をうつ法には名字
をたしかに名乗らせて討たればこそ、勲功の賞にも
あづかれ、名もしらぬ頸をいくらとりたりとても、
物の用に立つべからず、我名のりつるをば聞給ひつ
るかと問ければ、よくも知らずと答ふ、さらば名乗
て聞せ奉らん、武蔵国住人猪俣小平六則綱とて名誉
の者にて、兵衛佐殿までも知り給たるぞ、和殿原は
落軍なれば、則綱を討ちて何にかはし給ふべき、平
家うち勝給はん事今はかたかるべし、されば主の世
におはせばこそ勲功にも勧賞にもあづかり給はん、
殿原は落人ぞ、則綱が命を助け給ひたらば、兵衛佐
殿に申て、和殿の親しき人どもあらば、何十人も助
け奉らんずるはいかが、和殿は誰と云人ぞと問けれ
ば、これは平家の侍越中前司盛俊とて、昔は一門にて
有しが、近頃より侍になりたる也、さては殿は聞ゆ
る人ござんなれといひければ、さぞかし盛俊いひけ
るは、子共数多あり、男子女子の間に廿余人候ぞ、
さらば助け給へ、一定かといへば、仔細に及ばず、い
P585
かでか命を助けたらん人をばたすけ申さざるべき、
八幡大ぼさつの罰あたらん、いかで空事を申べきと
いひければ、悦ばしさの余りに頸をかくに及ばず、
ぬきたる刀をさしてひき起して居たり、後は深田前
は水田の中に堀の有けるに、盛俊は冑の高紐といて、
二人の者ども尻打かけて息つき居たり、去程に猪俣
党に、人見四郎と云者、黒糸綴の冑にかはらげなる
馬に乗て、浜の方より出来たり、盛俊小平六には打
とけて目もかけず、今来る人見四郎に目をかけて、
ここに来る武者は何者ぞと問て、あやしげに思ひた
り、小平六少しも騒がず、あれは則綱が母方のいと
こ人見四郎と云者也、覚束なく思ひたまふべからず
といひければ、猶人見に目をかけて猪俣には心を置
ず、後をさし任せて居たり、則綱人見を待ち付て、討
ちたらば、二人してこそ討たれといはれなんずと思
ひ、諸手をもて先へ強く突きたれば、盛俊まさかさ
まに深田の水のそこに頸をつきこみて、足は上にあ
りて、起きん起きんとしけるを、則綱ひたとのりゐて
とておさへて、起しもたてず太刀をぬきて柄もこぶ
しも通れとさして、やがて頸かいて、太刀の先にさ
し貫きて、指あげて申けるは、聞ゆる平家の侍越中
前司盛俊が首ぞや、正しく則綱これをうちたり、証
人に立給へ殿原とぞ申ける、かの刀は浪平が作也、
つかにはくはに竹を合はせたるとぞ聞えし、又猪俣
党に藤田三郎大夫は深入て戦けるが、姉が子に武蔵
国住人江戸四郎とて十七になる若武者が、藤田をば
敵と思てよひいて遠矢にて射たりければ、母方の伯
父がふりあふのきて物見んずる頸の骨をぞ射たりけ
る、射られてかたぶきける所を、阿波民部大夫成良
が甥、桜葉の外記大夫良連が郎等落合てうちてけり、
か様に思ひ思ひに戦ふ程に、大事の城戸口をば熊谷
平山かけ入、信濃源氏村上判官代基国、平家の仮屋に
火をかけたれば、西の風冷じくて黒烟東へ吹覆ひて、
東の大手生田森を固めたる軍兵、是を見て今はいか
P586
にも叶はじとて、船に乗らんと渚に落行ども、唯海
へのみぞ入りける、たすけ船あれども多くこみ乗り
ければ、目の前に船二艘乗沈めぬ、然るべき人々を
ばのせ申すべし、つぎつぎの者をば乗すべからずと
て、船によりつく者をば、太刀長刀などにて薙ぎけ
れば、手などきらるる者もあり、かくはせられけれ
ども、敵にあひて死なんとはせざりけり、唯いかに
もして船にのらんとぞしける、御方うちにぞ多くう
たれにける、先帝を始奉りて、女院北の政所二位殿
以下の女房達大臣殿御子の右衛門督、然るべき人々
は兼て御船に召て海に浮び給けり、一の谷の渚を西
へさして武者一騎落行く、齢ひ四十ばかりの人〓黒
なるが、黒革威の冑毛色も見えぬほどなるに、射残
したると覚しくて、箙に大中黒の矢四五残りたり、
白葦毛なる馬に遠雁うちたる鞍置て、小房の鞦かけ
てぞ乗たりける、引返引返蘆屋を下へ落ちけるを、
武蔵国住人岡部の六弥太忠澄といふものはせ付て、
ここにただ一騎落行は誰ぞや、敵か味方か名乗給へ
といひければ、御方ぞと答へけり、忠澄はせならべ
てさしうつぶいて見れば、うすかね付たり、源氏の
方にはかね付たる人は覚えぬ者をと思ひてきたなく
も敵に後を見せ給ものかなといふ時、忠度、六弥太に
おしならべて組で、馬二疋があひに落てけり、忠度
落さまに三刀まで敵をさす、一の刀には手がいをつ
き、二の刀には口をつき、三の刀は内かぶとをつき
たれば頬をつき貫きたり、六弥太が郎等落合ひて、
打刀をもて忠度の弓手のかいなをかけず討落す、さ
れども忠度少しもひるまず、馬手のかひなに六弥太
をのせて三尋計り投げられたり、忠澄起上て忠度に
組む、上に乗りゐて押へて誰人ぞ名乗り給へといふ、
おのれにあひては名乗まじきぞ、おのれがみしらぬ
こそ人ならね、さりながらよき勧賞には預らんずら
めとぞいはれける、六弥太が郎等落かさなて、忠度
の冑のくさずりを引あげてさす、忠澄も敵の名乗ね
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ばとて、いつとなくおさへて待つべきならねば、刀
をぬきて内甲をさすかとみければ、首は前に落にけ
り、忠澄首を太刀の先に貫きて、此頸を名乗れとい
ひつれども、名乗らず、誰人やらんと思ひけるに、
箙に巻物一巻さされたり、是を取出してみけるに、
旅宿の花といふ題にて
行くれて木の下蔭を宿とせば
花や今宵の主人ならまし W131 K289
と書きて、奥に薩摩守と書れたりけるほどにこそ、
忠度とはしりたりけれ、忠澄、兵衛佐殿の見参に入
て、薩摩の守の年来知行の所五ヶ所ありけるを忠澄
に給けり、
本三位中将重衡卿は、生田の森の大将軍にておはし
けるが、国々の駈武者なれどもとり集めて三千余騎
ばかりやありけん、城内やぶれにければ皆かけへだ
てられ、四方へ落うせぬ、少しも恥をしり名を惜む
ほどの者は皆うたれにけり、走り付の奴原は或は海
に入り、或は山へこもりぬ、それも生くるは少く死
者は多くぞありける、中将その日は褐衣に村千鳥を
縫たる直垂に、紫すそごの冑に童子鹿毛と云て、兄
の大臣殿より得給ひける馬に乗られけり、花やかに
いうにぞみえられける、中将もしの事あらば乗かへ
にせんとて、年来秘蔵して持たれたりける夜目なし
月毛と云馬には、一所に死なんと契り深かりし、後
藤兵衛盛長といふ侍に乗せて身をはなたずうたせら
れたり、御方には、おしへだてられぬ、助船どもこ
ぎ出しにければ、西をさしてぞあゆませける、経島
を打過て湊川を打渡りて、刈藻河、駒の林をば弓手に
見なし、蓮池をば馬手になし、板屋戸、須磨にぞかか
らせ給ふ、明石のうらを渚にそひてひかへひかへおち
られけり、ここに源氏の侍梶原平三景時、乗かへ一
騎相ぐして、中将に目をかけて追かけたり、中将乗
給へる童子鹿毛ははやあしの逸物なりければ、ただ
のびにはせられける間、景時叶はじとや思ひけん、
P588
もしやとおふやうに遠矢にいたりければ、童子鹿毛
が三頭の上に立にけり、馬に矢たちて後はいかに鐙
を合せ給へども働かず、盛長是を見て思ひけるは、
我身をも冑着たり、後には敵せめ来、此馬めされな
ばかなふまじと思ふうへ、甲斐なき命こそ大切なれ
と思ひて、射向けの袖なるあかじるしかなぐりすつ
るとぞみえける、ふちをあてひらみて逃ぐ、中将は
是をみ給てあた心うや盛長よ、年比はさやは契らじ、
我を捨ていづくへ落るぞや、其馬参らせよ参らせよと声
をあげての給へども、一目も見かへらずいよいよ鞭
をあげて落ちにけり、中将力及ばず、海へうち入れ
られたりけれども、馬よわくてはたらかねば、おり
下て汀におり立て、刀をぬき冑のひきあはせを押き
り、高紐はづして小具足ちぎりすてぬぎすてられけ
れば、自害せんとや海へ入らんとや思ひ煩ひ給たる
体にてたたれたり、敵せめかけければ、自害すべき
ひまもなし、遠浅なりければ海へも入給はず、去ほ
どに梶原平三はせ付て馬より飛下り、長刀をひらめ
てかしこまて申けるは、景時こそ君の渡らせ給ふと
見参らせて御迎に参りて候へ、御乗替の逃候こそ無
下に見苦く候へ、いかにあれが様なる侍をば召仕は
れ候けるやらんと申て、とくとく御馬にめされ候へ
とて、我乗たる馬にとて打のせ申て、さし縄にて鞍
の前わにしめつけて、我身は乗替に乗りて先に立て
てぞまかりける、大将軍いきながらとられけるこそ
口惜けれ、重衡後にのたまひけるは、その時言葉か
けられたりしは、たとへば三百の鉾にて一度にむね
をさかれたらんも、これにはいかでまさらじとぞお
ぼえしとぞのたまひける、盛長はいきながき逸物に
乗ければ、はせ延て命ばかり助りにけり、後には熊
野法師に雄中法橋と申ける僧の後家あまが後見して
ぞありける、かの尼訴訟ありて、後白河法皇の伝奏
し給ひける人の許へまいりけるに、盛長ともしたり
けり、人之を見て申けるは、本三位中将のさばかり
P589
いとをしくし給しに、一所にていかにもならで、さ
ばかりの名人にてあるものの、思ひがけぬ尼君の尻
先にたちて、はれふるまひするこそむざんなれとて
あざみければ、盛長さすがものまばゆく思て、隠れ
けるこそあまりににくかりけれ、
新中納言知盛卿は武蔵国の国司におはしければ、児
玉党見知り奉りけるにや、武者一騎はせ来て、大将
軍に申せと候、御後を御覧じ候へ、今は何を御戦候
やらんと申ければ、中納言後をみかへり給へば、黒
烟り吹おほひたり、大手は破れけるかとの給ひて、
浜へむきて歩ませ給ふ、船ども皆沖へ漕ぎ出してけ
れば、乗をくれ給ひてあきれてぞおはしける、うち
わの旗ささせたるこそ児玉党にや、三騎をめいてか
けけるを、新中納言の侍監物太郎頼堅とて、強弓の上
手にてありけるがよひていたり、あやまたず旗ざし
が頸の骨を射させて逆さまに落にけり、残二騎少し
もしらまず、しころを傾けてかかりけるを、中納言
の御子武蔵守知章、中に隔てて組で落ち、とておさ
へて首をかき給けるを、敵の童おち合て武蔵守をば
討ちてけり、監物太郎又落重て童が首を取る、頼堅
も膝ぶし射させて立上らず、腹かき切て死にけり、
此間に中納言のび給ひぬ、井上といふ逸物の馬に乗
給ひたりければ、海上三町計り游て船につき給ひけ
り、船も所なくて馬立べき様もなかりければ、中納
言せがいに乗うつりて、馬のくびを磯へ引むけて、
一鞭あて給ひけれども、馬船に付て二三度迄游ぎ廻
りけれども、のすべきけしきもなかりければ、游ぎ
帰て敵の物になりなんず、射殺し給へと阿波民部成
良申ければ、敵の物になるとても、命を生たる馬を
ばいかでか殺すべきとぞの給ひける、馬は渚に游ぎ
上りて、しほしほとして、畜生なれども年比のよし
みをや忘れがたく思ひけん、船の方を見送りて、二
三度いなないて足がきしけるぞむざんなる、九郎義
経此馬を取て院へ被進たりければ、名高き馬なりと
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て、御馬屋に立られけり、黒き馬の太く逞しきにて
ぞ有ける、中納言武蔵国務の時、河越といふ所より、
信濃の井上小次郎といふ者が奉りたりければ、河越
黒とつけられたり、又井上とも申しけり、中納言此
馬を余りに秘蔵して馬の祈の為とて、小博士と申陰
陽師に、月に一度泰山府君を祭られけり、其故にや今
度の軍にこの馬に助けられて、御命ものび給ひ、馬
の命も生にけりとぞ人々申ける、爰に赤地の錦の直
垂に赤威の冑き、白星の甲に滋籐の弓持ち、切めの
矢負ひて金作の太刀はきて、月毛なる馬に金覆輪の
鞍置きて、あつぶさのしつがいかけて乗たる武者一
人、中納言に続きて打入ておよがせたり、一たん計
りおよぎてうきぬ沈みぬただよひけり、熊谷次郎直
実渚に打立けるが、是をみて大将軍とこそ見奉り候
へ、まさなく候物かな、返させ給へや返させ給へやと詈かけ
られて、いかが思はれけん、渚へむきてぞ漂せける、
馬の足立程になりにければ、弓を投げすて太刀をぬ
き額にあてをめいてはせあがる、熊谷まちまうけた
る事なれば、あげもたてずくんで波うちぎはにどう
と落つ、上になり下になりみはなれ四はなれ組みた
りけれ共、終に熊谷上になる、左右の膝をもて、冑
の左右の袖をむずと押へたれば少しも働かず、熊谷
刀を抜て内甲へ入、引あげてみれば、齢十五六計り
なる若上臈の薄化粧してかね黒なり、熊谷あないと
をしやと心よわく覚えて、抑君は誰人の御子にて渡
らせおはしまし候ぞと問ければ、とくきれとぞの給
ひける、直実又申けるは、雑人の中にすて置参らせ
候はん事の余りに御いたはしく思参らせ候、御名を
つぶさに承て必御孝養を申候べし、これは武蔵国住
人熊谷次郎直実と申者にて候也と申たりければ、何
のなじみ早晩の対面といふ事もなきに、これ程にな
さけを思ふらん不便なれと思はれければ、我は太政
入道の弟修理大夫経盛の末子、大夫敦盛とて生年十
六歳になるぞ、はやきれと宣へば、熊谷殊に哀に思
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て、直実が子息直家も生年十六歳になるぞかし、さ
ては我子と同年にておはしますなり、かく命を捨て
軍をするも直家が末の世を思ふ故也、我子を思ふや
うにこそ人の親も思ひ給らめ、此殿一人うたずとも、
兵衛佐殿かち給ふべき軍よも負は給はじ、うちたり
ともまけ給ふべくば、それによるべからず、敦盛討
れぬと聞給て、経盛いかに歎き給はんずらんなど思
ひ煩ひける程に、後にも組で落る者あり、首を取者
もあり、去程に土肥次郎実平三十騎計りにて出来れ
ば、土肥次郎がみる所にて此殿を助たらば、熊谷こ
そ手取にしたる敵をゆるしてけれと、兵衛佐殿に帰
りきかれ奉らんも口惜かるべしと思ひければ、君を
ただ今助参らせて候とも、終にはのがれさせ給ふべ
からず、御孝養に於ては直実よくよく仕候べしとて、
目をふさぎて首をかき切けり、波うち際に伏したり
けるむくろを返してみければ、ねりぬきに五色の糸
をもて、籬に菊をぬひたりける直垂をぞ召されたる、
冑を引のけ見れば、漢竹の篳篥の色なつかしきを、紫
檀のいへに入て引合にぞさされたる、それに細き巻
物さし具せられたり、これを見るに打出で給ひける
近日の程に、よまれぬるかと覚しくて、四季の長歌
をかかれたり、桜梅桃李の春初になりぬれば、すに
囀る鶯の野辺になまめく心地して、野径の霞の顕は
れて、そともの桜いかばかり、しげく咲らん八重桜、
九夏三伏の夏の天にもなりぬれば、藤波厭ふ時鳥、よ
なよなかがりびした燃えて、忍べる恋の心地する、
黄菊紫蘭の秋の晩にもなりぬれば、かきねにすだく
きりぎりす、荻の上風身にしみて、妻こふ鹿のうら
む声、白菊黄菊とりどりに、龍田の紅葉色かへて、
からにしきとやまがふらん、玄冬素雪の冬のそらに
なりぬれば、谷のを川も氷柱ゐて、皆白妙になりに
けり、名残をしかりし故郷の、木々の梢をふりすて
て、万里の波涛に身を任せ、今は摂津国難波のほと
り、一の谷の苔のしたに埋れんとぞかかれたる、熊
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谷是をみ、さては打いでたまひけるその日より、し
ぬべしとはかねて思ひまうけ給ひけるにこそと、か
れを見是を思ふにも、いとど涙もせきあへず、さて
こそ熊谷が発心の心はつきにけれ、元暦元年二月七
日巳の尅、平家は一谷を落されて、同十三日讃岐国屋
島のいそに着給ふ、同八日熊谷は見し面影のみ身に
添ひて、忘れがたさぞまさりける、此首をおくらば
やとは思へども、私の物になしせめての思の余りに
や召されたりける御直垂に空しき死骸を押巻、かの
篳篥さしそへて、雑色二人水手二人添へて、釣船に
乗せ、屋島の磯へぞ送りける、同十三日酉の刻ばか
りに、熊谷使平家の船にはおひつきたり、御船に申
べき事候と申ければ、平家の船よりいづくよりぞと
いひければ、源氏の御方に候給ふ、熊谷殿よりの御
使とぞ申ける、平家の船中何となく熊谷が使ときき、
あわてさわぐ事斜ならず、去程に熊谷が使の船も近
付きて、五たんばかりにぞゆらへたる、新中納言の
たまひけるは、いかなる樊噌張良が乗たりとも、か
程の小船に何事のあるべきぞ、平内左衛門はなきか、
行向ひて事の仔細尋よかし、伊賀平内左衛門尉家仲
は、木蘭地に色々の糸をもて、獅子に牡丹をぬひたる
ひたたれ、こしあて小具足ばかりにて、郎等二人に腹
巻きせ、はし船にとり乗り、熊谷が使の船におしむ
かひて、事の様をぞ尋ねける、源氏の御方に候熊谷
殿より、修理大夫殿へ御状の候と申ければ、新中納
言見給ひて、これは私の状と覚ゆるぞとて、修理大夫
殿へ奉らる、修理大夫殿あけて見給ふに、御子敦盛
の空しき死骸をぞ送りたりける、打いで給ふその日
よりして、いまやいまやと期したりける事なれども、
時にさしあたりては恩愛の道力及ばぬ御事にて、御
涙更にせきあへず、御母北の方夢の様なる心地して、
御涙にぞかきくれける、見そめ見えそめしそのいに
しへさへくやしくて、後悔せらるるぞ哀なる、御船
に候ける貴賎上下皆袖をぞぬらしける、熊谷はされ
P593
ばひたすらあらゑびすかとこそ思ひたれば、情深く
もこれをば送りたる物かなとて、御涙をおさへ、修
理大夫殿、熊谷が状をあけて見給ふ、其状に云、直
実謹言上、不慮奉此君参会間、直欲決勝負刻、
俄忘怨敵思、忽〓武意之勇、剰加守護奉供奉
所、雲霞之大勢襲来、成落花過時、直実始参平家
雖射源氏、彼多勢是無勢也、樊噌還而縮、慎養由芸、
爰直実適得生於弓馬家、幸耀武勇於日域、謀廻
洛西、怨敵靡旗、寃敵、雖得天下無双名、群蚊
虻成雷、蟷螂集如覆流車、〓引弓放矢、抜剱築
楯命於奪、同方軍士名於流西海浪、於世々繁
繁以非自他面目哉、雖然奉仰君之御素意所、唯
御命於早給直実、可奉訪御菩提由、頻被(二)仰下(一)
間、落涙乍抑、不量給御頸畢、怨哉悲哉、此君
与直実、結怨縁於多生、歎哉痛哉、宿縁既除而奉
成怨敵害、非彼逆縁者、争互切生死縛、一蓮身還
而至順縁哉、然則自卜閑居地行、可奉訪御菩
提、直実申状進否真偽、定後聞無其隠歟、以此旨
可然様可有洩御披露候歟、誠惶誠恐謹言、
寿永三年二月八日 直実
進上 伊賀平内左衛門尉殿
とぞかきたりける、修理大夫殿御涙にぞかきくれ給
ひける、御母、北方一所にさしつどひて空しき死骸
を中に置き、件篳篥をあなた此方へ取渡し、こはさ
れば夢かや夢かやとて、唯なくより外の事ぞなき、さ
れども熊谷が使の余りに久しく待けるが、さすがに
おもはれければ、修理大夫殿御涙をおさへて御返事
あり、今月七日、於摂州一谷、被討所敦盛死骸
并遺物等慥送給畢、此事出花洛古郷、自漂西海浪
上已来、思尽運命事、今更非可驚、自元望戦
場上者、何有思返哉、会者定離者憂世之習、生者
必滅者穢土之悲、釈尊すら御子羅〓羅尊者を悲給、
応身権化猶以如(レ)此、何況於凡夫哉、成親成子前
世之契不浅、去七日打出自朝其面影未離身、燕
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来囀無聞其声、双翅雁飛帰、不通音信、必定被
討之由、雖伝承、未聞実否間、何風便聞其音
信、仰天臥地、奉祈誓仏神、相待感応之処、七
ヶ日中、得見彼死骸、是併守仏天之処也、然則
内々信心弥銘肝、外感涙増催心浸袖、但生二度
如帰来、又是相同即活、抑非貴辺芳恩者、争得
見之哉、一門風塵皆以捨之、矧於怨敵、尋和漢
両朝、古今未聞其例、貴恩高、須弥山頗低、芳志深、
蒼溟海還而浅、欲進而酬、過去遠々、欲退而報未
来永々、万端雖多、難尽筆紙併察之、恐々謹言、
同年二月八日 修理大夫経盛
熊谷次郎殿
小松殿未の御子備中守師盛は小船に乗りて渚を落給
ふ、助船へと心ざしておちたまひけるに、薩摩守郎
等豊島九郎直治といふ者、究竟の剛の者大力にて有
けるが、岸の上に立ちて、あれは備中守殿のわたら
せ給とみ参らせ候が、ひが事にて候か、薩摩守殿御
内に豊島九郎と申者にて候、守殿には後れ参らせ候
ぬ、助させ給へと申たりければ、年比ほしと思はれ
ける直治なりければ、此船寄て乗せよとの給ひけれ
ば、御船狭く候、いかにして乗せ候べきと侍ども申
ければ、ただ寄せて乗せよとの給ふ、力なく寄せて
けり、直治は大の男の冑きながら高岸より飛び乗り
ければ、舷に飛びかかりて船を踏かたむけて、乗直
さんとしける程に、ふみ返して一人も残らずみな海
に入にけり、是を見て河越太郎重頼が郎等、十郎大夫
八騎はせ来りて、熊手にかけてこれらを引あげて首
をきる、長刀持たる男の首をかかんとてよりて申け
るは、かね付させ給て候は、平家の御一門にてわたら
せ給候ござめれ、名乗らせ給へといふ、師盛宣ける
は、おのれらにあひては名乗まじきぞ、後に人にと
へとて名乗り給はずして討れ給にけり、或人にとひ
ければ、小松殿御子備中守殿とぞ申ける、爰に常陸
国住人臂屋四郎、五郎といものあり、四郎、弟の五郎
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に申けるは、今日一定よき敵と組んと覚ゆるぞ、過
し夜の夢見よかりつると申もはてねば、兵二人出来
る、一人は大あらはなりけるを、臂屋四郎馳よせて、
かみをつかんで前わにおし付けて首をかく、一人は
萌黄匂ひの冑に鹿毛なる馬にのておちけるを、臂屋
五郎はよき敵と目をかけて、さしならべてくで落ぬ、
渚のはたに古き井の有ける中へ二人くで落入てふし
たり、五郎は下に敵は上に有けれども、井の中はせ
ばし、おちはさまで、互に何ともせざりけり、四郎
はせめぐり見れども、弟の五郎見えざりけり、井の
ありけるをはせ来りてさしのぞき見れば、兵二人あ
り、五郎はここにあるかととへば、かすかなるこゑ
にて安重と名のりければ、馬より飛おりて敵の首を
かく、十六七ばかりの若き人の薄化粧してかね黒な
り、これは門脇中納言御子大夫業盛にておはしけり、
むざんともいふばかりなし、新中納言大臣殿に申給
けるは、武蔵守にもおくれ候ぬ、頼賢もうたれ候ぬ、
今は心よわくこそ覚え候へ、家長もよもいき候はじ、
只一人持たる子の、親を助けんとて敵にくむと見な
がら、引も返さざりつるこそ命はよく惜きものかな
と恨めしく覚ゆれ、いかに人の思ふらんとてなき給
ひければ、大臣殿の給ひけるは、武蔵守は手もきき、
心も剛にてよき大将軍にておはしつるものを、あら
をしや、あたらものかなとて、御子の左衛門督のお
はするを見給ひて、ことしは同年十七ぞかしとて、
涙ぐみ給へば、是をみる人々皆鎧の袖をぞぬらしけ
る、家長は伊賀平内左衛門也、是は新中納言の近習
なり、命にもかはり一所にていかにもならんと、契
ふかかりしものなり、然るべき人々の頸、竹をゆひ
渡してとりかけたり、千二百人とぞしるしたる、大
将軍には越前三位通盛、薩摩守忠度、但馬守経正、
若狭守経俊、武蔵守知章、小松殿公達には、備中守
師盛、門脇中納言御子蔵人大夫業盛、修理大夫経盛
の御子敦盛以上八人、侍には、越中前司盛俊、筑後
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守家貞うたれにけり、惣じて大将軍とおぼしき人十
人とぞきこえし、或は利剱を蹈て地に倒れ、或は流
矢に中て失命類、麻をちらせるが如し、水に溺れ山
に隠れし輩、幾千万かありけん其数をしらず、主上、
女院、内大臣、平大納言以下の人々の北の方船にめ
し、親くこれを御らんぜられけり、いかばかりの事
をおぼしけむ、御心の中おしはかられてあはれなり、
翠帳紅閨万事の礼法異るのみにあらず、船中浪上、
一生の悲みたとへん方もあらじ物をと、思ひやられ
てむざんなり、父は船にあて子は磯に倒れ、妻は船
にあれば夫は渚に伏す、友を捨て主を捨ても、片時
の命ををしむ、兄を忘れ弟をわすれてもしばしの身
をたばふ、湖中の魚の泡にいきつくが如し、龍頭の
羊の笙楽を恐るるに似たり、主上をはじめ参らせて、
宗徒の人々御船にめして出給ふ、船路の習なれば潮
にひかれて伊勢へ赴く船もあり、或は蘆屋のさとを
こぎ出で、便風を待もえず、浪に漂ふ船もあり、須
磨明石を浦伝ひ行く船もあり、順に四国へ渡る船は
鳴門の沖をこぎ渡る、いまだ一谷の沖にかかるもあ
り、浦々島々は多けれども、互に死生をしりがたし、
国を靡す事も十三ヶ国、勢のつき随ふ事も十万余騎、
都へ近付く事も一日路也、今度はさりとも思はれけ
る一谷をもおちられける上は、ちからつきはてて
ぞおもはれける、この度討れ給へる人々の北の方、
皆さまをかへて、墨染のたもとになりつつ、念仏申
て後生をとぶらひ給ふ、本三位中将の北方大納言典
侍殿ばかりぞ、内の御乳人なればとて、大臣殿制し
申されければ、さまをやつし給はざりける、
小宰相身投給事
越前三位通盛卿は、大臣殿の御娘となづけられ給け
れども、姫君いまだおさなくおはしければ、近づき
給事もなし、故藤刑部卿憲方の御娘小宰相殿とて、
上西門院の中宮と申ける時、宮中一の美人の聞えあ
りておはしけり、容がん人にすぐれて心操なさけふ
かくおはしければ、きく人思かけぬはなかりけり、
P597
其中に越前三位の左衛門佐とて未だ若冠にておはし
ける時、小宰相殿も幼くおはしけり、朝夕は一所に候
給て、心さまつれなき人とぞ見給ける、かくと知給
て後は、文の数のみつもりけれども、聞入給はずして
年月をぞ重ねける、御文つたへける人は間近く参る
人なりければ、三位みとせの思ひにたへずして、今
は思ひ切て、世をのがるべきなど細々とかきまうけ
て、便宜を窺ひける程に、或時小宰相殿御所へ参り
給、伝ふる人御心を合せて、青侍をして此文を車の
内へなげ入させて、使はかきけすやうにうせにけり、
小宰相殿是を如何なる人のつてぞやとて、車の内に
てしのびしのびにさわぎ給へども、御供の者ども知ら
ずと申ければ、大路にすてんもさすが也、車に置か
んもつつまじくて、思ひ煩ひ給ひける程に、御所近
くなりければ、いかにすべき様もなくて、袴の腰には
さみて御車よりおり給ひにけり、折しも御あそびの
ほどなりければ、御前へ参りて御かひおほひなどし
て遊び給ける程に、此文を落し給けり、女院の御目
にしも御覧じいだして、御ふところにひき入させ給
て、女房達を召し集めて、やさしきものをこそ求め
たれ、人々これ御覧ぜよとて取出させ給たりければ、
かの文也、女房達我も知らず知らずと仏神にかけて申
されければ、小宰相殿顔気色かはりて御渡らせ給へ
ば、御涙うくほどにぞ見えられける、女院御文をひ
らきて御覧ぜらるるに、妓爐煙なつかしくにほひて、
筆の跡なのめならず、いふによしありてかくぞかき
たりける、
ふみかへす谷の浮橋うき世ぞと
思ひしりてもぬるるそでかな W132 K195
つれなき御心も中々いま嬉しくなどかきたり、女院
仰のありけるは、是は逢はぬを恨みたる文にこそあ
れ、いかに思なるべき人にや、内々は殿上の交りを
もすさむと聞ゆる、当時太政入道の子孫どものなに
のともしさにか斯は思ふべき、左衛門佐とかやと風
P598
に聞しかど、こまかにはしらず、余りに人の心強き
も身の仇となりぬらめ、此世には親り青き鬼となり
て、身を徒らになし、獨なさけなき事にあたり、後の
世迄もさはりとなりて、世々に身をはなれぬとこそ
きけ、人をも身をも鬼となして何かはせん、繋念無
量劫とかやも罪深し、小野小町といひけるものは、
いろすがた人にすぐれ情もふかかりければ、見る人
聞く人心をいためぬはなかりけり、されどもその道
には心強き名をとりたりけるにや、人の思ひやうや
う積りて、はては風を防ぐ便もなく、雨をもらさぬわ
ざもなし、やどに雲らぬ月星を涙にやどして日をお
くり、人の惜むものをしゐてこひける悲しさ、野辺
の若菜をつみて命を継ぎけるに、青鬼のみ身をはな
れず、友となりて此世も後の世もよしなき事ぞとよ、
さてしもあらじ、終に人に見え給はんには、余り人々
のいはん事をばいかでかきき給はざるべき、唯思ひ
直りて人の心を休め給へ、此返事をばわがせんとて、
御硯引寄せ給て、
谷水の下にながれてまろきばし
ふみみての後ぞくやしかりける W133 K197
かくぞ遊ばして遣はさせ給ければ、小宰相殿力及び
給はず、終になびき給にけり、仙宮玉妃の天地をか
ねて契り深かりし心にや、ゆかしく潔き御心にて、
せいなる事のみ多かりける、よのつねの夫の思はぬ
を打歎きてくやしき事などこそあれ、これはもの思
ひ顔にて、雲の上宮中の御遊びにも物うく思ひ給け
るにや、やさしかりし習也、かくてなれそめ給ひて、
年ごろにもなり給にければ、互に御心ざし浅からず
思はれたりければ、ちち母したしき人々にもはなれ
ておはしましけるにや、越前三位のつかひ給ける宮
太滝口時貞といふ侍、走来て北の方に申けるは、三
位殿は湊川のしもにて佐々木四郎高綱が勢とて、七
騎が中に取籠られて討れさせ給ぬ、やがて討死をも
自害をも仕て、後世の御ともをも申すべきにて候つ
P599
れども、我いかにもなりなん後は命をすてずして、
かまへて御行衛みつぎ参らせよと、かねて仰おかれ
て候し程に、つれなく参りて候となくなく申ければ、
北の方是を聞き給て、討れ給ぬとは聞給へども、も
しやひが事もやと思て、二三日の旅に出たる人を待
つ御心地しておはしけるこそはかなけれ、さるほど
に空しき日数はかさなりて、四五日にもなりければ、
もしやのたのみもよわりはてて、いよいよ思ひぞま
さりける、めのと子なりける女房のただ一人付奉り
たりけるに、十三日の夜のうちふけて、人しづまての
ち、北の方なくなくのたまひけるは、あはれ此人の
あすうち出んとて、世中の心うき事どもいひつづけ
て、涙を流ししかば、いかにかくはいひ給らんと、
心さわぎして覚えしかども、必かかるべしとも思は
ざりしに、限りにてありける事よ、我いかにもなり
なん後、いかやうなるありさまにてあらんずらんと
思ふも心苦し、世中の習なれば、さてしもあらじ、
いかなる人にみえんずらんとそれも心うしなどいひ
し時、ただならぬ事をその夜はじめてしらせたりし
かば、よろこびて通盛すでに三十になりなんずるに、
子といふものなかりつるに、始て子を見んずる事の
嬉しさに、あはれ同くは男子にてあれかし、さるに
つきても斯いつとなき船の中、浪の上のすまゐなれ
ば、身々ともなり給はん時もいかがせんずらんと、
ただ今あらんずる事のやうに歎きし物を、はかなか
りけるかね事かな、軍はいつもの事なれば、それを
最期とは思はざりしに、六日の暁を限りと思はば、
後世とも契なまし、誠やらん女は身々となるは十に
九は死なれば、かくてはぢがましき目を見んよりも、
ともかくもならん、此世をしのびすぐしてながらへ
ても、心にまかせぬ世のならひなれば、ふしぎの事
にて思はぬ事もあるぞかし、さもあらば、草のかげ
にて見んもはづかしければ、この世にながらへても
なにかはせん、まどろめば夢に見え、さむれば面影
P600
に立ぞとよ、さればこのついでに底のみくづとも思
入て、しでの山三づの川とやらんをも同じ道にとの
み思ふが、そこにひとりとどまりゐて歎かん事もい
とをし、故郷に聞給て歎き給はん事こそ罪深けれど
も、思はざる外の事もあるぞかし、さもあらばわら
はが装束をばいかならん僧にもとらせて、我後世を
も亡き人のぼだいをもたすけ給へ、書置たる文ども
をば都へ届給へと、来し方行末の事迄も細々とかき
くどきの給ひければ、ひごろはなくより外の事なく
て、物をだにのたまはざりつるに、かやうにかきく
どき給ふこそあやしけれ、実にも千尋の底までも、思
入給はんずるやらんとむね打さわぎて申けるは、今
はいかに思召すともかひあるまじ、始てさわぎ思し
めすべきにも非ず、其上御身ひとりの御事にても候
はず、薩摩守殿、但馬守殿、若狭守殿、備中守殿の北
の方の御歎きいづれも愚ならず、されどもかたがた
御さまをかへて、後世をこそとぶらひ参らせ給へど
も、御身を投給人もおはしまさず、又同じ道にとは思
召すとも、生れかはらせ給ぬれば、六道四生の間に、
いかなるくにていかなる道へかおもむき給はんずら
ん、行合せ給はん事もありがたし、いづれにも平ら
かに身々とならせ給ひて、幼き人をもそだて、なき
人の御かたみとも見参らせ給へかし、猶それもあき
たらず思召さば、御さまをもかへさせ給ひて、いか
ならん片山寺にもとぢ籠らせ給て、静に念仏申させ
給て、故殿の御ぼだいをとぶらひまいらさせ、我御
身の後世をも助からせ給はんに、すぎたる御善根は
いかでか候べき、其上都に渡らせ給ふ人々の御事を
ば、誰に見ゆづり、いかにならせ給べきとて、かくは
思召たつにか、わらはも老たる親にも離れ、おさな
き子をもふりすてて、ただ一人つき奉るかひも候は
ず、かく憂目をみせんと思召すらんこそ口惜しけれ
など、かきくどきさまざま慰め申ければ、懐妊の身
となりては、死する事遠からずといふなれば、かや
P601
うにて浪の上にてあかしくらせば、思ひがけぬ浪風
にあひて、心ならず身を徒らになすためしもあるぞ
かし、たとへこのたびおもひのびたりとも、おさな
きものをそだてて見んをりをりは、昔の人のみ恋し
くて、思ひの数はまさるとも、忘るる時はよもあら
じ、今は中々みそめ見えそめし、雲の上の夜半の契さ
へくやしくて、かの源氏大将の朧月夜の内侍尚侍、
弘徽殿のほそ殿も、我身の上と覚ゆるぞとひそかに
の給ひければ、此四五日ははかばかしく湯水をだに
見入給はぬ人の、かやうにこまごまとのたまへば、
げにも思立給ふ事もやと、大方はげにさこそ思召す
らめなれば、いかならん海河の底へ入らせ給ふとも、
おくれまいらせ候まじきぞ、憂目見せさせ給ふなよ
と、涙もかきあへず申しければ、此事悟られてとぶら
はれなんずとや思しけん、これはその身の上に思ひ
なして、すいりやうしてごらんぜよ、わかれのみち
のかなしさは、大方の世のうらめしさに、身をなげ
ばやといふ事は、世の常の事ぞかし、さればとてげ
にはいかで思立つべき、又たまたま人界の生をうけ
たるものが、月日の光をだに見せずして失はん事、か
はゆくもあるぞかし、たとひいかなる事を思ひ立と
も、いかでそこにしらせではあるべき、心やすくお
もひ給へとの給て、三位殿筆にてかき給ひたるさご
ろもを取出して、あはれなる所々よみて、しのびしのび
に念仏申給ければ、げに思のべ給にこそと心やすく
覚えて、御側にありながら、ちとまどろみたりける
ひまに、やをら舷に立出給たれば、漫々たる海上な
れば月朧に霞渡りて、いづくを西とは分かねども、
月の入さの山のはを、そなたの空と思なし、たなご
ころを合せて念仏をぞ申給ける、心の中にも、さす
がにただいまこそ限りとは、都にはよもしられじ、
たよりもがな、かくとしらせんと思ひ乱れ給につけ
ても、沖のしらすに鳴く千鳥、とわたるふねのかぢ
ごたへ、かすかに聞ゆるゑいや声、いづれも哀也、さ
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て念仏百返計り申て、南無西方極楽世界、大慈大悲
阿弥陀如来、本願謬給はず浄土に導給て、あかで別
れしいもせの中、一蓮の縁となし給へとて、千尋の
底へ入給ぬ、一谷より屋島へ漕ぎもどる夜半計りの
事なれば、人皆寝入にけり、梶取一人見付奉りて、
こはいかに女房の海へ入給ぬと叫びければ、乳母の
女房うち驚きて、あは此人の沈み給ぬるよと、心う
くてかたはらを求むれども人もなし、あれやあれやと
さわぎあわてけれども、阿波の鳴門のしほざかひ、満
しほ引しほ早くして、船も心に任せねば、折しも月
は朧也、きぬも白し、浪も白かりければ、しらみあ
ひてしばしは見つくる事もなし、とかくしてかづき
あげ奉りけれども、はやなき人になり給にけり、白
き袴にねりぬきの二衣ひきまつひて、かみよくあげ
てしほしほとして、わづかにいきばかりすこしかよ
ひ給けれども、目も見あげ給はず、なでしこの露に
そぼちたるやうにて、死たる人なれども、ただね入り
たるやうにて、らうたくぞ見え給ける、乳母の女房
御手に手をとりくみて、御かほにかほをあはせて、
なくなく申けるは、子をも親をも振すてて、つき奉
る志をも知り給はず、いかにかく心うき目をば見せ
給ぞ、げにおぼしめしたらば、浪の底へもひきぐして
こそ入給はめ、かた時立はなれ奉らんとも思はぬ物
をや、今一度一ことばの給てきかせ給へとて、もだ
えけれども、なじかは一言葉の返事にも及ぶべき、
僅に通ひ給へる御いきも止まりてきれはてければ、
みる人袖をぞしぼりける、さる程に、朧にかすみた
る月かげも雲上にかたぶきて、かすめる空もあけに
ければ、さてしもあるべき事ならねば、故三位の着
背の一両残りたりけるに、浮もぞあがり給とて、おし
巻て又海へ入てけり、乳母女房おくれじととび入け
るを、人数多とりとどめければ、船の底にふしまろ
びてをめき叫ぶこと限なし、かなしみの余りに自ら
髪をきりおろして、門脇中納言御子律師忠快とてお
P603
はしけるが、戒をたもたせられけり、三位此女房の
十三の年より見そめ給ひて、ことしは十九にぞなら
れける、片時も離れ給はんとは思ひ給はざりけれど
も、大臣殿の御聟にておはしければ、そなた様の人
人には知られじとて、軍兵どもの乗たる船にやどし
置給て、時々げざんせられけり、三草山の仮屋にて
見参ありけるも此女房の御事也、中納言は頼みきり
給たりつる嫡子越前三位、又乙子の斜ならず悲がり
給つる大夫業盛も討れ給ひにければ、かたがた歎き
給ひけるに、此北の方さへかくなり給ぬる哀さに、
なきふしてぞおはしける、御心の中さこそは悲しか
りけめとおし量られていとをし、薩摩守但馬守の北
方もおはしけれども、なげきに沈みながらさてこそ
おはしましけれ、昔も今も夫におくるる人多けれど
も、さまなどかふるは世の常の事也、忽に身を投た
る事は例すくなくぞ覚ゆる、みる人きく人涙を流さ
ずといふ事はなし、されば忠臣は二君に仕へず、貞女
は両夫にまみえずといへり、誠なるかな此言、権亮
三位中将は此有さまを見給て、か様に一人あかしく
らすは慰む方もなけれども、かしこくも此者どもを
とどめてける、我も引具したりせばかかる事こそあ
らましかと、せめての事には思ひつづけ給ひけり、
七日、九郎義経一谷に押寄て、卯の刻に矢合して、
巳の刻に平家を攻落して、宗徒の人々の頸、同十日京
へ入と詈合たりければ、平家方の人々の京にのこり
とどまりたる肝心をまどはして、誰々なるらんと思
ひあひけるぞいとをしき、其中に権亮三位中将北
方、遍照寺の奥小倉山のふもと、大覚寺といふ寺に忍
びてすみ給けるが、風の吹日はけふもや此人船に乗
り給たるらんと心をけし、今日は軍と聞ゆる日は、此
人も討れやしぬらんと思ひつるに、さては此頸ども
の中にはよもはづれ給はじとおぼすにも、なくより
外の事ぞなき、三位中将といふ人生捕にせられての
ぼると聞ゆれば、幼きものどもの恋しさも忍びがた
P604
し、いかにもして此世にて相見んずらんと返々いひ
たりしかば、同じ都の中に入たらばなど思ひて、わざ
ととられて上るやらんとさへ、一方ならず思乱れて
ふし沈給へば、若君姫君も同枕に伏給へり、頸どもの
中にも御座まさず、三位中将と申は本三位中将の御
事也と、人慰め申けれども、猶誠とも思ひ給はず、
若君は父の御事にてはあらぬと申ぞ、御ゆづけまい
れ、われもくはんとおとなしくの給へば、それに付
けても哀にて、此たびはづれたりとも、終にはいか
が聞なんずらんと思へば、とけん心地もせぬぞとの
たまひければ、若君の心の内にも、げにもかと覚さ
れけん、またはらはらと泣き給へば、御前なる女房
達もなみだをぞながしける、
十三日、大夫判官仲頼以下検非違使六条河原に出会
ひて、平氏の首どもを武士の手より請取て、東洞院
の大路を北へ渡して、左の獄門の木にかく、越前三
位通盛、薩摩守忠度、但馬守経正、前武蔵守知章、
前備中守師盛、門脇中納言乙子業盛、修理大夫経
盛子息敦盛、此二人は未だ官おはしまさず、大夫と
ぞ申ける、越中前司盛俊が頸も渡されけり、鳳闕に跌
を蹈みし昔は、怖恐る輩多かりき、街衢に頸を渡さ
る今は、哀憐の者すくなし、愛楽忽変じぬ、これを見
ん人深く心得べきものかな、くびどもおのおの大路
を渡して後、獄門にかけらるべき由、範頼義経申さ
れければ、法皇思召し煩はせ給ひて、蔵人右衛門権
佐定長御使にて、太政大臣、左右大臣、内大臣、堀河
大納言等に召とはる、五人の公卿各々申されけるは、
先朝の御時此輩戚里の臣として、久しく朝家に仕て
候き、就中卿相の頸大路を渡して獄門に懸らるる事、
未だ其例をきかず、其上範頼義経が申状、強而不(レ)可
有許容と申されたりければ、渡さるまじきにてあ
りけるを、父の恥を清めんが為、君の仰を重くする
によて、命を惜まず合戦を仕て、申請所御免なくば、
自今以後何の勇みありて朝敵をば追討すべきと、よ
P605
しつね殊更申されければ、渡されてかけられにけり、
権亮三位中将の北方は、此度一谷にて平家残少く討
れ給ぬと聞給ひければ、何れも此人のがれじと思け
る余りに、斎藤五宗員をめして、おのれらは無官の
者にて、晴の供をもせざりしかば、人には見知られ
じと覚ゆるぞ、くびどもの渡されたる中に、此人の
首もあるかみて参れとの給ければ、承候ぬとてさま
をやつしてみれば、我主の頸はなけれども、事の有
さま目もあてられず、つつめども涙もれ出ければ、
人のあやしげにみるもおそろしくて、ほどなく帰参
りにけり、申けるは小松殿公達は、備中守殿計りぞ
渡らせ給候つる、其外は誰々と申ければ、北の方聞
給て、さればとて、少しも人の上とは思はぬぞと泣給
ければ、斎藤五申けるは、雑色と覚しくて、男四五人
物見候つるかげにてみつれば、それ等がどしに申候
つるは、小松殿の公達は今度三草山を固めておはし
けるが、一谷に落ければ、新三位中将殿二所船にの
りて讃岐の地へつき給にけり、此備中守殿は、いかに
して兄弟の御中をはなれて、討れ給ひけんと申つる時
に、さては権亮三位中将殿は、其殿は軍以前に御所
労とて、御船にて、淡路の地へ着給にけりとこそ承れ
と、申つると申ければ、あな心強の人や、所労あらば
かうこそとなどかつげざるべき、軍にあはぬ程の所
労なれば大事にこそあらめ、思ふ嘆きの積りにや、病
のつきにけるこそ、都を出しより我身の佗しきとい
ふ事は一度もいはず、ただ幼き物どもこそ心うけれ、
終に一所にこそすまんずれとのみなぐさめしかば、
左こそ頼たるに、さては身のわづらひけるこそ皆人
もぐすればこそぐしたるらめ、野のすゑやまのおく
までも引具して一所にあらば、たがひに心苦しき事
も慰むべきに、何となく海山をへだてて、折にした
がひ事にふれて、音をのみなく悲しさよとてなげき
給へば、いかなる御やまひぞとこそとはましかと、
若君の給ひけるぞいとをしけれ、いかで問候べき、
P606
いとどあやしげに人の見候間、まぎれてこそ帰り参
りて候へとぞ申ける、いかがして人をもつかはして、
慥に御行衛を聞かましと思召けれども、誰して遣す
べしともなく、かきくらす心地して又涙もかきあへ
給はず、中将もかよふ心なれば、都にいかに覚束な
くおぼすらん、くびどもの中にもなければ、水のそ
こにも入にけるとこそ思ふらめ、風の便もあらば、
忍びて住所を人にみせんもさすがなれば、うとから
ぬ思ひにこそ、一くだりの文をもつかはさめと思召
して、隔てなくおもはれける侍を一人、ひそかに出
立たせてぞ上せられける、今日までは露の命もきえ
やらず、おさなき人々何事かあるらんなど、こまごま
にかき給て、おくにかくぞ、
いづくともしらぬ渚のもしほ草
かきおくあとをかたみとは見よ W134 K198
と書給へり、心の中には思給ふ事どもあれば、これ
ばかりにてか有んずらんと思しけるに、涙にくれて
つづけ給はざりけれども、世になき者となりなば、か
たみにもせよかしとて、若君の御方へも御文奉り給
ふ、はるかに久しく見奉らずして、恋しさ云ばかり
なし、いかにおとなしく見忘るる程になりぬらん、
いそぎ迎へとりてあらせんずるぞ、心細くな覚しそ
など、頼もしげに細々と書つけ給も、ついにいかに
ききなして、いかばかりの事をおもはんずらんとお
ぼすぞかなしき、
平家物語巻第十六終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十七
P607
平家物語巻第十七(原本無題)
二月十四日、本三位中将重衡卿を六条を東へ渡す、
上下万人是を見る、いかなる罪の報いにや、あはれ
此人は、入道殿にも二位殿にも覚えの子にておはせ
しかば、一家の公達も重き人に思はれ給しものを、
院へも内へも参り給ひぬれば、老たるも若きもとこ
ろをおき詞をかけ奉りき、口をかしき事などいひ置
たまひて、人にしのばれ給ひしものを、南都をほろ
ぼし給ひぬる罪のむくいにやとぞ申合ひける、さて
河原まで渡して、蔵人右衛門の権の佐定長、法皇の仰
を蒙りて、故中の御門の中納言家成卿の八条堀川の
うらにて、重衡を召し問はる、土肥次郎実平、同し
やして来れり、土肥はもくらんぢの直垂に肌にはら
まきして、郎等三十人ばかり鎧着せて具したり、三
位中将はこむらごの直垂にねりぎぬの二小袖を着給
へり、蔵人右衛門権佐は、赤衣に笏をもたれたり、
昔はかくは覚えざりしさだながを、今は冥途にてめ
うくわん[* 「めうくわん」に「冥官」と振り漢字]にあへる罪人の心地も、かくや有らんと恐
しくぞ思はれける、院宣の趣条々おふせふくむ、せ
んずる所内侍所を都へ返し入奉らば、西国へ返しつ
かはすべしとぞありける、重衡申されけるは、今はか
かる身にまかりなりて候へば、親しき者どもに面を
合すべし共覚え候はず、又今一度見んと思ふ者候ま
じ、母にても候へば、もし二位の尼などやむざんとも
思ひ候らん、其外の者は情をかくべき者なるべしと
も覚え候はず、三種の宝物は神代より伝りて、人皇
の今に至る迄、暫くも帝王の御身を放ちたる事候は
ず、先帝ともに都へいらせおはしまし候はば、尤然
るべく候、さ候はざらんには、内侍所計り入奉る事
はあるべしとも覚え候はず、さりながら仰せ下さる
る旨忝く候へば、もしやと私の使にて申心見候べし、
前の右衛門の尉重国を下し遣すべき由申さるる、此
P608
重国は重衡の重代相伝の家人也、平家の人々いづれ
もといひながら、此三位中将は殊に誇り勇みたりし
人の、なのみならず心うげに思ひて目も見あげず、
涙のみ流して御返事も申もやらず、蔵人の佐も岩木
ならねば、赤衣の袖をぞぬらしける、十五日重衡卿
の御使、右衛門尉重国院宣をたいして、西国へ下る、
彼院宣云、
一人聖帝出北闕九禁之台而遷幸九州、三種神器、
於南海西海之境、而経御数年事、尤朝家之御歎、
又亡国之基也、彼重衡卿者焼失東大寺逆臣也、
任頼朝申請之旨、雖須被行死罪、独別親類
已為生虜、恋籠鳥雲之思、遙浮千里之南海、
失帰雁友之情、定通于九重之途中歟、然則奉
帰入三種之神器者、可被寛宥彼卿也、院宣
如斯、仍執達如件、
元暦元年二月十四日 大膳大夫江業忠奉
平大納言どのへとぞかかれたりける、三位中将も、内
大臣ならびに平大納言の許へ、院宣の趣を申給ふ、
二位殿へは御文こまごまとかきて奉り給へり、今一
度御覧ぜんとおぼされば、内侍所の事を大臣殿へよ
くよく申させ給へ、さなくては此世にて見参に入べ
しとも覚え候はずなどぞありける、北のかた大納言
典侍殿へも、御文奉りたく思はれけれども、私の文
はゆるされねば、詞に此六日を必限るとも思はず、
申うけ給し事のはかなさよ、頼もしき人もなうて、
いつとなく旅の空にあかし暮し給ふこそ心ぐるしけ
れ、心の中も身の有様もおしはかり給ふべしと、の
給ひもあへず涙にむせびたまへば、しげくにも涙を
流しけり、預り守り奉る武士も袖をぞぬらしける、
十三日に猶重衡を召とはる、重衡の卿年頃召仕ひけ
る侍に、むくの右馬允朝時と云者ありけり、土肥の
次郎が許に行むかひて申けるは、是は三位中将殿に、
年頃召仕はれ候し杢の右馬允と申者にて候が、さし
たる弓矢とる者にも候はねば、軍の御供をも仕り候
P609
はず、ただはぎのこうばかりをつかまつり候き、西
国へも御供仕るべく候しかども、八条院に見参の身
にて候しが、上つ方にはかねて知し召されて候ける
間、召し置れて候しかば、西国への御とも仕候はず、
昨日大路にて見参らせ候し事のあはれに悲しく覚え
候、然るべく候はば御ゆるしを蒙りて近く参りて、
今一度さいごの見参に罷り入候はばや、腰刀をもさ
して候はばこそ僻事も仕候はめと、なくなく申けれ
ば、実にもさよと思ひ給ふらめ、入奉りたりとて、
守護の武士余多あり、いかばかりの事をかし給ふべ
きとてゆるしてけり、さて朝時参りたりければ、中
将悦で昔今の物語などして、互に涙をぞ流されける、
中将のたまひけるは、抑汝をして文やりし人はいま
だだいりにかとのたまひければ、朝時さこそ承候へ
と申ければ、都を出し時も、汝がなかりし時に文を
も書置ず、物をもいひ置ざりしかば、年頃契りしこ
とは、皆偽にてありけりと思ふらんこそはづかしけ
れ、文をもやらばやと思ふはいかにとありければ、
安き御事にこそ候なれ、遊ばし候へとて、やがてか
きたりければ、懐中して出けるを、守護の武士いか
なる御文にてかあるならんとあやしみ申ければ、さ
らば見せよとてみせらる、誠に女房への御文と覚え
て、べちの御事なかりけりとて許しければ、朝時も
ちて内裏へ参りたりけれども、ひるは人目しげけれ
ば、近き程なる小家に立入て、たそがれ時計りにま
ぎれ入て、つぼねのへんにたたずみて聞ば、かの女房
の御声と覚えて、人にもすぐれて世のおぼえもあり
き、見め心地もきらきらしかりければ、なさけをか
けぬ人もなかりしに、人しもこそあれ、などや中将の
いけどられて都の大路をば渡さるらん、人は皆奈良
をやきたるつみのむくいといふなる、げにさやらん
とおぼゆる、此事中将さこそいひしか、我心におこ
らず、やけともいはず、されどもあまたのせいの中な
れば、心ならず火を出したれば、多くのがらんほろ
P610
び給ひぬ、末の露本の雫となるなれば、誠に我罪に
社ならんずらめといはれしが、げにさと覚ゆるとて
さめざめとなき給へば、あらいとをし、おなじ御こ
ころに思給へるあはれさよとおぼえて、物申さんと
うちたたけば、女房出でていづくよりと問ふ、三位
中将殿よりと申せば、女房うちより走りいで給ひた
りければ、御文奉りにけり、昔は恥ぢて出給はざり
けるが、余りのうれしさにや、みづからはしりいで
給ひたりけるこそあはれなれ、女房いそぎうちへ入
て文を見給へば、いかならん野山の末海河の底迄も、
かひなき命だにもあらば、申事も有なんとこそ思ひ
しに、そも叶はで生ながら捕れて、かく恥をさらす事
の心うさよ、是も此世ひとつの事にてあらじと思へ
ば、人をも身をも恨むべからず、此世に有ん事もけ
ふあすばかり、いかがして人づてならで今一度申う
け給るべきなど、哀なる事どもしほしほと書給ひて、
涙川うきなを流す身なれども
今一たびのあふせともがな W135 K199
此女房此文を見給ひて、涙にむせびて引かづきて伏
給へり、良久しく有りて起上りて、使者いつとなく
居待たるも心なければとて、御返事書き給てつかは
さる、誠にいづくの浦にもおはしまさば、みづから
申さん事こそかたくとも、露の命だにもきえやらで
あらば、風の便にはなどかとこそ思ひつるに、さては
けふを限りにておはすらん事こそかなしけれ、さも
あらば我身とてもながらへん事もありがたし、いか
にもして今一度みづから申べきなどと書給ひて、
君ゆゑに我もうき名を流せども
底のみくづとともになりなん W136 K200
中将是を見給ひて、二三日は慰む心地し給ひけり、
中将、土肥次郎に仰のありけるは、一日の文ぬしを
よびて見ばやと思ふはいかに、叶はじやとの給ひけ
れば、実にも女房にて渡らせ給はんには、何か苦しく
候べきと申せば、中将悦び給ひて、又朝時を召して乗
P611
物をからせられけるに、車をかり出したりければ、
やがて内裏の局へ参らせらる、女房おそろしくは思
はれけれども、心ざしをしるべにて急ぎ出給ひたり
ければ、中将のおはする方へ朝時車をさしよする、
中将出迎ひて、なおりさせ給ひそ、武士の見るが恥か
しきにとて、我身はあらはにて、車の簾ばかりを打
ちかづきて、互に目を見合せて、手を取組み、涙に
むせびて言葉もいだされず、良久しく有て中将の給
ひけるは、西国へ赴きし時も朝時がなかりしかば、
思ひながら何事も申さず、軍合戦の日も、けふ矢にあ
たりて死なば、又もおとづれ申さで、年比日比ちぎ
りし事ども皆空しき事にやならんずらんと思ひつる
に、生ながら捕れて大路を渡されし事は、人に二た
び見参すべき事にて侍つるものをといひもあへず、
涙流れければ、女房諸ともに涙せきあへ給はず、互
に言葉も出されざりける、此頃は夜ふけぬれば大路
の狼藉あんなるに、しづまらぬ先にとくとく帰らせ
給へ、後生には必ず一蓮のみとならん、さて軍をさ
し出さんとするに、袖をひかへて中将、
あふことも露の命も諸ともに
今夜ばかりと思ふかなしさ W137 K201
とありければ、かぎりとて立ち別れなば露の身の
君よりさきにきえぬべきかな W138 K202
とて立別れ給ひぬ、是にましまさんほどは、常によ
とありけれども、其後は武士ゆるし奉らねば、朝時
常に文ばかりはかよひけれども、逢見奉らず、女房
局へ帰り給ひて、引かづきてふし沈み給ひたれば、女
房達も実にことわりかなとて、皆袖を顔に当てて泣
給へり、其後は内裏へも参り給はず、常は御里にの
みぞおはしける、せめての事とおぼえて哀なり、
中将、土肥次郎に宣ひけるは、出家の志あり、かく
てあるも然るべからず、出家の志はいかにと宣ひけ
れば、実平、御曹司にこそ申候はめとて、九郎殿に申、
P612
義経、院へ申されたりければ、頼朝がはからひにこそ
法師にもなさめ、是にてはいかでか許すべきと仰あ
りければ、実平このよしを中将に申、中将又のたま
ひけるは、年頃頼み奉りし僧に今一度逢ひて、後生の
事を申談ぜんと思ふはいかにとありければ、上人を
ば誰と申候やらん、法然房と申人也とのたまへば、
さてはくるしく候まじとてゆるし申、嬉しと覚して
上人を請じ奉りて、中将泣々の給ひけるは、今度生
ながら捕れて候けるは、今一度上人の見参にまかり
入べきにて候けり、南都を亡し候し事重衡が所行と
人も申候、上人もさこそ思召され候らめ、其事努々
重衡が心を起して焼たる事候はず、大勢にて候へば、
いかにとして候けん、火出来しかば、折節風はげし
くて、心ならず多くの伽藍、仏像、経殿焼けほろび候
ぬ、責一人にきすと申候へば、重衡が下知にあらね
ども、さながら我罪にこそなるらめ、されば無間大
じやうの底に落ちて、ながく出離の期あらじとこそ
存候つるに、今日生ながら捕れて大路を渡され候ぬ
れば、無間の業生ながら報い候ぬとこそ存候へ、其
上皆人のしやうじん[* 「しやうじん」に「生身」と振り漢字]の如来と仰奉る上人のおんがん
を拝し候ぬれば、今は思ひ置く事候はず、出家はゆ
るされなければ、もとどりを付ながら戒を請け参ら
さばやと存候、さて重衡が後生いかがし候べき、身
の身にて候し時は、出仕にまぎれ世の望にほだされ
て、けうまんの心のみ深くして、当来のしやうじん
をかへり見ず、いはんや運尽き世乱てより後は、是
にあらそひ彼に争ふ、人をほろぼし身を助けんとい
となみ、悪心のみさへぎりて、善心はかつて起らざ
りき、就中南都炎上の事、王命といひ父の命といひ、
君に仕へ代に従ふ法のがれがたくして、衆徒の悪行
をしづめんがためにまかりむかひて候き、いかにし
て一こうも助かるべしとも覚え候はぬこそ心うく候
へ、つらつら一生のしよぎやうを思ひしり候に、罪
業は須弥よりも高く、善業は微塵よりもすくなし、
P613
かくして空しく命をはりなば、火穴刀の苦、はたし
あへで疑ひなし、願くは慈悲をおこし憐みを垂給ひ
て、かかる悪人を助りぬべき方法候はば、示し給へ、
其時上人涙を流して、しばしは物ものたまはず、良
久しく有て、誠にうけがたき人身を受けながら、空
しく三途に今おはしまさん事、悲しみても猶余りあ
り、然れば今穢土をいとひ浄土を願ひ、悪心を捨て
善心を起し給ふ事は、三世の諸仏も定てずゐきし給
ふべし、それしゆつりの道まちまちなりといへども、
末法ぢよくらむ[* 「ぢよくらむ」に「濁乱」と振り漢字]の機には、称名をもてすぐれたりと
す、志を九品にわけ、愚癡闇鈍のものもとなふるに
たよりあり、然れば則ち罪深ければとてひげし給ふ
べからず、十悪五逆も回向すれば往生す、功徳すく
なければとて望をたち給ふべからず、一念十念をい
たせば来かうす、専称名号至心西方と釈して、もは
ら名号を称すれば、ざんげするなりと教へ給へり、
利剱即是弥陀号と頼めば魔縁もちかつかず、一声称
念罪皆除としんずれば、罪皆のぞかるとみえたり、
浄土宗の至極各々畧を存して、大略是を肝心とす、但
し往生のとくふ[* 「とくふ」に「得否」と振り漢字]は、信心の有無によるべし、ただ深
心にして努々疑ひをなすことなかれといへり、もし
深くこの教をしんじて、行住座臥、時所諸縁をきら
はず、三業四儀に於て心念くせうをわすれずして、
畢命を期として、この苦域の界をいでて、彼の不退
の土に往生し給はん事、何の疑ひか有んと教化し給
ひければ、中将うれしと思ひて、ずゐきの涙を流し
て、此ついでに戒を受候ばやと存候、出家仕候はで
は、かなひ候はじやとのたまひければ、出家せぬ人も
戒を保つ事常の事なりとて、いただきにかみそりを
あててそるまねして、十戒をさづけられければ、中将
悦で是を受け奉り保たれけり、上人よろづに哀に覚
えて、かきくらす心地し給ひければ、泣々戒をぞと
かれける、御布施と覚しくて、年頃常にありてあそび
給ひける侍の許に、何としてか取落されたりけん、
P614
草紙箱をとり寄せて上人に奉り給ふ時、是は常に御
目のかかり候はん所に置れ候て、それが物ぞかしと
御覧ざられ候はん度ごとに思し出して、いつも御念
仏は怠り候はねど、其故と思召しきざして念仏候べ
し、御ひまには経をも一巻御回向候はば、然るべく
候など申されければ、上人ふところに入て泣々帰り
給ひにけり、十八日、在々所々の武士狼藉をとどむ
べきよし、蔵人右衛門の権の佐定長、院宣をうけ給
りて頭の右中弁光政の朝臣におほす、廿二日、諸国
兵粮米のせめをとどむべきよし、又蔵人佐、頭弁に
仰す、
重国西国へ下着し、院宣を平家につげ奉り、并に重
衡卿のの給ひける様を、さきの内大臣に申ければ、
時忠の卿を初として一門の月卿雲客、寄合て勅答の
趣を僉議せらる、重国、三位中将の御文二位殿に奉た
りければ、二位どのさめざめと泣きて、文を顔におし
当てて、人々の並居られたる所の障子を明けて、内
大臣の前にたふれふして、泣々のたまひけるは、三
位中将が京よりたびたる文御覧ぜよ、かきつづけた
ることのむざんさよ、実にも心の中にいか計りの事
をか思ひたるらん、唯あまりに思ひゆるして、内侍
所を都へ返し入奉り給へとのたまひければ、人々浅
ましと思ひあひ給へり、内大臣のたまひけるは、誠
に宗盛もさこそ存候へども、さすが世の聞えもいひ
がひなく候、かつは頼朝が思はん事もはづかしく候
へば、左右なく内侍所を返し入参らせん事も叶ひ候
まじく候、帝王の世をたもたせ給ふ事は、内侍所の
御故也、子のかなしきも様にこそより候へ、三位中
将一人に、数多の子共をも親しき人々にも、思召しか
へさせ給ひなんやとのたまひければ、二位殿又のた
まひけるは、故入道におくれて後は、片時も命生て
有るべしとも思はざりしかども、主上かくていつと
なく旅立せ給へる心ぐるしさと、又君たちをも世に
あらせばやと思心ざしの深きにこそ、けふまで存へ
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てもありつれ、中将は一谷にて生捕にせられぬと聞
しより、気もたましひも身にそはず、いかにして此
世にて今一度逢見べきと思へども、夢にだにもみえ
ねば、いとど胸せきあげて湯水をも咽へ入らず、此
文をみて後は弥々おもひやる方なし、中将世になしと
聞かば、我も同じ道にきえむずれば、二度ものを思
はぬ先に、ただ尼を失ひ給へとをめきさけばれけれ
ば、実にもさこそ思はるらめと覚えて、人々涙をお
さへて立給ひぬ、さて重国を召して時忠卿院宣の受
文をたぶ、二位殿は泣々中将の返事をぞ書給ひける、
涙にくれて筆のたてども覚え給はねども、心ざしを
しるべにて、こまごまと書き給ひて重国に給てけり、
北の方大納言典侍殿は、唯泣より外の事なくて、つ
やつや返事もし給はず、さこそ思ひ給ふらめと推は
かられていとをし、重国も狩衣の袂をしぼり涙を押
へて立にけり、廿七日帰参して、前内大臣の申され
ける院宣の御受文を、蔵人右衛門権の佐定長の宿所
へ参りて奉りければ、定長の朝臣院へ参りて奏聞す、
今月十四日院宣、同廿四日到来讃岐国屋島磯、謹
以承所如件、就之案之、通盛以下当家数輩、於摂
津州一谷已被誅畢、何重衡一人可悦寛宥之院
宣哉、我君者、受御高倉院御譲、而御在位已四箇
年、雖無御患、東夷北狄結党成群入洛之間、
且幼帝母后之御情殊深、且依不浅外舅外家之
志、暫雖有遷幸西国、於無還幸旧都者、三
種之神器、争可被離玉体哉、夫臣者以君為体、
君者以臣為体、君安又臣安、君上愁臣下労、臣内
不楽帝外無悦、爰平将軍貞盛、追討朝敵誅臣、
伝代々世々、奉守禁闕朝家、然間亡、父太政大臣、
保元平治之合戦之時、重勅命而軽愚命畢、是
偏奉為君非為身、而不顧身命、就中彼頼朝
者、父義朝謀叛之時、頻可討罰之由、雖被(二)仰下(一)
故相国禅門、以慈悲憐愍余、所申宥流罪也、
忘昔之高恩、不顧今芳志、忽以流人之身、濫連
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凶徒之列、愚意之至、思慮之儲也、尤招神兵、天罰
期廃跡沈滅者歟、日月未堕地照天下、其明王
者為一人不枉其法、以一失猜不蔽其徳、
若不忘思食亡父数度之奉公、君早可有御幸
西国也、然者為始四国九国、都西国之輩、如雲
集如雨通、靡異賊事不(レ)可有疑焉、其時奉
相具主上帯三種神器、可奉成行幸之還御、若
不雪会稽之恥者、人王八十一代之御宇、牽浪随
風、可零行御新羅高麗百済鶏旦、終可成異国
之財歟、以此等趣、可然之様可令奏聞給、宗
盛謹言、
元暦元年二月廿八日 前内大臣宗盛
とぞかかれたりける、かかりければ、平家帰京其期
を知らず、西国にも安堵しがたくして、既にほろび
なんとす、公家より兵衛佐の許へ仰遣はさるる事、
平家所知之事
一文書紛失并義仲行家等給事
右子細被書載目録畢、
一庄領惣数之事
各被一族知行庄領、数百箇所之由、世間風聞、而
院宮并摂録家庄園、或芳恩有之、或所従等、致
慇懃輩預之、如(レ)此所々全非御進止、皆是本所
左右也、仍注入惣数許也、又院御領庄々等、近
年逆乱之間、有限相伝預所本主等、依令愁歎、
少々返給之除之、或又損亡事、非無由緒、
少々沙汰給也、
一諸国家領等事
右文書紛失之間、暗不注付、且大概此中歟、
一東国領之事
右有御存知之旨、被残畢、他国々未補、又
以同前也、於今者可令領知給、縦非平家知
行之地、東国御領山田庄以下便宜之御領、随令
申請、可成給御下文、於御年貢者、可令
進済給歟、以前条々仰旨如(レ)此、執達如件、
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三月七日 前大蔵卿奉
前兵衛佐殿
とぞ仰下されける、
三月二日、本三位中将重衡、土肥の次郎実平が許より
九郎義経の許へ渡す、三位中将を土肥次郎が守護し
ける事は、梶原は大手蒲冠者の方の侍大将也、九郎
申されけるは、義経が上の山より落さずば、東西の
木戸口破れがたし、生捕も死捕も義経が見参に入て
こそ、とも角もはからふべきに、物の用にも叶ひ給
はぬ蒲殿の見参に入るこそ心得ね、三位中将是へ渡
し給へ、給はらずば参りて給はらんとの給ひければ、
土肥梶原にいひ合せて土肥が許へ渡しければ、其後
預りにけり、置申すべき処家の後に作りてまたれけ
り、巳の刻計りに下すだれかけたる女房車にて、庭
の内にやり入たり、武士ども実平を始として三十騎
ばかりあり、九郎義経は木蘭地の直垂に下腹まき着
て、妻戸よりおり迎ひて、門させと下知せられぬ、
中将手づから簾を巻あげて居られたり、九郎袖かき
合せて御うらなし参らせよと、あなおびただしの雑
人哉と申て、中将を先にたてて供し奉て入る、中将
は白き直垂をぞ着給ひたりける、九郎申けるは、内へ
入せ給ひて御装束ぬがせ給ひて御休息あれと申て、
四壷所を清げに拵へたり、中将内へ入られたり、九郎
は縁に候て申されけるは、哀口をしく渡らせ給ふ御
命かな、いかなる事をかおぼすらん、御心中推はか
り参らせ候、鎌倉兵衛佐の許より、下し参らせよ見
参せんと申候、いかが御はからひ候と申ければ、中
将は扇をつかひていかにもとぞ有ける、夜は一間な
る所に籠奉りて、外よりかけがねをかけて、火をと
もして武士守り申けり、七日板垣三郎兼信、土肥
次郎実平、平家追討の為に西国へ下向す、十日、重衡
をば兵衛佐申請られければ、関東へ下し申す、中将
もいづれの日やらんと不審に思召して、守護の武士
に問はれけれども、しらぬ由を申ける、とかくいふ
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程に夜もほのぼのとあけける時、夏毛のむかばきに
二毛なる馬に乗せ参らせて、白布をよりて鞍に引廻
して、外より見えぬ様にまへわにからめ付けて、竹笠
のいとしなきをぞ着せたりける、あゆずりの直垂着
たる男に馬の口をとらせ、先陣三十騎ばかりうちて、
次に又三十騎計りうちたる中に、打ぐせられたりけ
れば、よそには何とも見わかず、梶原平三景時を始
として、後陣は百騎ばかり也、東路へおもむかるる
心の中いかばかりなりけむ、先立ものは唯涙ばかり
也、日数もふれば、三月半すぎて、春も既に暮なん
とす、遠山の花は残の雪かと見えて、浦々もかすめ
り、こし方行末の事さまざまに思ひつづけても、さ
ればこはいかなる前世のしゆくしうのうたてさよと
おぼすぞかなしき、御子の一人もなき事をなげきし
かば、二位殿も北の方も、本意なき事に思ひ給ひて、
仏神に申されしものを、哀かしこくぞ子のなかりけ
る、あらましかばいかに心ぐるしからましと、それ
さへおぼすぞせめての事と覚えてあはれなり、頃は
三月十日あまりの事なれば、霞に曇る鏡山、比良の
高根を北にして、伊吹が嶽にも近付きぬ、心をとむ
るとしもなけれども、あれて中々にやさしきは、不
破の関屋の板びさし、いかに鳴海の汐干潟、神は涙
にしほれつつ、彼在原の業平が、きつつなれにしと
詠めけん、三河の国の八はしにも着給へば、蜘手に
ものをぞ思はれける、浜名の橋をも過行ば、又越べ
しとも覚えねば、さよの中山あはれなり、つたやか
へでの生茂る、宇津の山べの蔦の道、清見が関をも
過ぬれば、富士の裾べにもなりにけり、左には松山
ががとそびえて、松吹く風もさくさくたり、右には
海上漫々として、岸打浪もれきれきたり、恋せばや
せぬべし、恋せずも有ぬべしと、うたひ始め給ひし
足柄の関も過ぬれば、こよろぎのいそ相模川、八松
やとがみ河原、みこしが崎をも打過て、鎌倉へも下
り着給ひにけり、廿八日大ばと云所に未の刻ばかり
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に着きて、そこにて立烏帽子に浄衣を着せ参らせて、
静に下し奉る、是より鎌倉へは一里といひ合ひけり、
常の道より人しげし、中将何となくむなさわぎして
ぞおはしける、さてほどなくかくと申入たりければ、
門外にて粧あり、左右の御手をむねの内に納め参ら
せてけり、門はしら二本ばかりにて、棟もあげず、
扉もたてず、大垣も跡ばかりみえてくわうくわうとあ
り、内を見入れば、南面に三間四面に新しき板ぶき
のしん殿に、すだれかけたり、東舎東のまへに、五
間四面の板屋あり、梶原平三先達ちて中将を入らる、
板やの内西の庄には小紋の畳三畳敷きて、東座には
紫べりの畳五畳敷きたり、中将西の座の畳に東向に
居らる、景時は北より第二けんのえんに居たり、み
る人数を知らず、暫くありて新殿の母屋の西の間の
左のみすを一枚、僧の浄衣着たるが出来て巻上げて、
僧は北の間の縁に居たり、兵衛佐は渋塗の烏帽子に、
白小袖に長絹の直垂に袴着て、空色の扇の月出した
る持ちて、母屋の間の東の柱のもとにさし出られた
り、中将をつくづくとまぼりて、良久しくありて、
兵衛佐のたまひけるは、父の恥を清め、君の御憤り
を休め奉らんと思ひたりし上は、平家を亡し奉らん
事案の内に候き、よろづは唯天道を仰ぎまいらせて
候に、近きげんざんにこそ身にとり候て高名と存候
へ、一ぢやうかたへの公達にも見参に入ぬと覚え候、
抑南都を焼給し事は、太政入道殿の仰にて候しか、
また時にのぞめる御計らひにて候けるか、以外罪
業にてこそ候へとのたまひければ、中将是を聞れて
涙を袂にのごひて、目のふち少しあかみての給ひけ
るは、昔より源平両家朝家の御守にて、帝皇の宮仕を
仕り、近頃源氏の運傾き候し事、ことあたらしく始
めて申すべきに非ず、人皆知る事にて候、其げんし
やうを始めとして、平家世中を平ぐる間、一天の君
の御外戚として、一族の昇進八十余人、廿余年のこの
かた楽みさかえ申ばかりなし、今又運尽きぬれば、
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重衡めし人にて参る、此くわんしやう[* 「くわんしやう」に「勧賞」と振り漢字]にいたらせ給
はん事疑なし、夫れ帝皇の御敵を討たる者は、七代
迄朝恩失はずといふはひがことにて候けり、故入道
は法皇の御為には申せばおろか也、御命にかはり奉
る事も度々也、され共わづかに其身一代の幸にて、
後にはかばねを山野にさらし、名を西海に流すべし
とこそ存ぜず候しか、是まで参るべしとは曾て思は
ざりき、ただ先世の宿業こそ口惜く候へ、但殷は夏
台に捕はれ文王は〓里に捕はるるといふ文あり、上
古なほかくの如し、況や末世をや、弓矢とる習、敵の
為に捕はれて命を失ふ事全く恥に非ず、御芳恩には
急ぎ急ぎ首を召さるべしとぞのたまひける、兵衛佐
又平家を私の敵と思ひ奉る事努々候はず、帝皇の仰
こそ忝候へとぞのたまひける、中将又宣ひけるは、
事新しく平家は公私の敵を、かたきならずとあるべ
しとも存ぜずとの給ひければ、是を聞て人々涙を流
す、世の人も此中将殿は、いたいけしたる口ききか
なとぞ誉ける、さて兵衛佐、宗茂これへと有ければ、
えむなる僧是を召つぐ、東のえんより白き直垂着た
る男の、年四十計りにもやあるらんと覚しきが出来
て、兵衛佐の前にえんをおさへて、腰を屈めて立て
り、兵衛佐のたまひけるは、あの三位中将殿預り参
らせて、よくよくもてなしいたはり奉れ、懈怠をし
て我を恨むなとのたまひて、手づからみすを引おろ
して立れけり、むねもちもとの侍にかへりて、とも
のものどもにいひ合せて、新殿の前にこしうやまふ
様して、西の屋のえんなる景時とささやき事して、
さらば今は出させ給へと申ければ、中将立出らる、
景時は門よりいとま申て止りぬ、むねもちが郎じう
三十人ばかりひしひしと来て、鹿毛なる馬にかき乗
せ奉て、打こみて行ぬ、めいどにて罪人を七日々々
に獄卒の手へ渡すらんもかくこそあるらめ、又いか
なる情なき者にてか有るらんと、いとど心細くぞ思
はれける、廿九日狩野介むねもちがさたにて、新し
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き湯ぶね構へて、三位中将に湯あみせ奉らんとす、有
がたくぞ思はる、中々道すがらよりも是にてはいた
く厳しからずして、守護の武士も近く参らず、夜は
えんに、ひるは庭にあり、さればとてにげさるにも
非ず、門外道つじまでもさこそ囲むらんとおしはか
らる、此日ごろあせくらはしくありつるにとて、嬉
しくぞ思召されける、又一つには身を清めて、とも
かくもせんとにや、心むなばしりて思はれける所に、
色白く清げに髪のかかりなどさる様なる女の、いふ
によし有るが、齢ひ廿六七にやと覚しきが、三めゆ
ひの帷子に白き裳着て、袷の小袖打かづきたるが来
て、湯屋の妻戸を細目にあけて、御身あかに参り候
はんと申ければ、中将こはいかにとあきれ給ひて、
これは誰ぞと有りければ、女申、兵衛佐殿より参ら
せられて候、男も童部も人こそ数多候へども、こつ
なく思召されん事も候、女はくるしかるまじ、何事
なりとも仰承れとてなん参りて候と申ければ、むね
もちかなへ殿よりして、何事をか事ながく申さるる
ぞ、とくとく御あかに参れよといへば、女内へ入ぬ、
また年十三四ばかりなる女童の紫の小袖着て、髪は
おびし程成が、かなもの打ちたる盥に櫛二入て来り、
先の女あかに参りぬ、かみを洗ひて良久しくあみて
あがらせ給ひぬ、其後此二人の女湯あみて、中将の
前に来りて、何事にて候とも、思召さん事こまかに仰
候へ、兵衛佐殿には申べしと申ければ、何事をか申
すべし、唯思ふ事とては、此髪をそらばやとぞ申た
きとあり、あすほど首きられんずるよと心えて、し
のびしのび念仏をぞ申されける、かの女帰て、中将のの
たまひけるやうをかたりければ、佐これを聞給ひて、
是こそ心得られね、私の敵にて取籠参らせたらば、
さも計らふべきに、是は朝の御敵として預り参らせ
たるぞかし、返々もあるべくもなしとぞ申されける、
折しも此夕雨少し降りて物さびしかりけるに、昼の
女来て仰のやう申て候へば、兵衛佐の仰しかじかと
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申ければ、中将打うなづきてものものたまはず、さ
るほどに日も暮にければ、上燈参らせたり、むねも
ち参りたり、郎じう十余人あり、中将宵より伏され
たる所に、此女琵琶を持て来りければ、中将おきあ
がり、是を見らる、宗茂御酒をかかへて参りたりけ
れば、此女酌をとる、中将すこしさしうけていと興
もなかりければ、宗茂申けるは、かつうは聞召され
て候つらん、かまへてよくもてなし参らせよ、愚に
て我恨むなと兵衛佐仰候しかば、是にては旅にて
候へども、心の及び候はんほどは宮づかひ候べし、
御前一声申てすすめ参らせよと申ければ、女酌をさ
し置きてうちうめきて、羅綺為重衣といふ朗詠を
四五へんしたりければ、声もすみふしもととのほり
て、よろづ心すみたりけり、又しやくとりて近く参
る、中将のたまひけるは、此朗詠せん人をば一日に
三度守らんと、北野天神の御ちかひあるよし承る、
但重衡が身今生はすてられまいらせぬ、助音申ても
何かせん、此身に取ては今は命も惜しからず、後生
こそ願はしけれ、ざいしやうのかろみぬべき事なら
ば、じよいんも申なんとのたまひければ、此女又さ
しうつむいて、十悪なりと云ともなほ引接すといふ
朗詠を四五へんして、極楽願はん人は皆といふ今様
をうたひすまして、酌を取りてすすめ申ければ、中
将ちとさしうけらる、この女給りて、宗茂とりなが
して、郎等四五人たべ止めつ、其後此女琴を引く、
中将琵琶をとりてばちをならさる、女しばしは琴を
つけけれども、しらべあはざりければ引とどまりぬ、
夜漸く更け行くままに、静にものあはれ也、又何事
まれとのたまひければ、女、一樹の陰にやどるもと
いふ白拍子をかそへたり、中将ともし火くらうして
は数行ぐしが涙といふ朗詠を、二三遍せられて後、
此世の思ひ出なるべし、今はとくやすまれよ、我も
夢見んとて、母屋のまくを引おろされければ、武士
ども畏てまかり出ぬ、中将は枕を西にそばだてらる、
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此女御前にふしにけり、其夜ほどなく明ければ、女
起きていづ、よろづ心にくう覚えて、中将しとみあ
げらる武士に、さてもよべの女はいたいけしたり、い
づくより参りたるにか、名をば誰とかいふととはれ
ければ、武士申けるは、あれは白河の関の君が娘に
て候が、何となく心ざま情あるものにて候間、此五
六年隔なく召仕はれ候、名をば千寿と申候とぞ申け
る、かの千寿、兵衛佐のあした法華経よみておはしけ
る所に来る、因幡前司広元文書きて居られたり、兵衛
佐うち笑ひて、千寿に中人をば面白くしたる物かな、
平家の人々は弓矢の外はいとなみあらじとこそ思ひ
つるに、此中将は口ずさみびはのばち音夜もすがら
立聞つ、いかに聞れずやとのたまひければ、広元筆
をさし置きて、平家の殿原は、代々の歌人にておは
し候、近頃都に花喩といふ落書の候しに、此中将は
いまだおさなくてそれには入候はず、兄の小松大臣
をば、牡丹の花園の大臣と申て、西国におはする大臣
をふかみ草の花にたとへ申候しぞかし、よべいささ
か相煩ふ事候て承候はず、後には必立聞候べしと申
ければ、兵衛佐のたまひけるは、朗詠にともし火く
らうしてといふは、いかなる事やらん、広元申ける
は、[B 已下本のまま]昔唐に漢の高祖と申ける帝、ぐしと申みめよき
女をけう愛せられけり、楚の項羽と申者高祖を襲ひ
候けるに、すゐといふ馬一日に千里を飛ぶに乗て、
此ぐしとともにさりなんとし給ひけれども、馬いか
が思けん、足をととのへて働かざりければ、かうそ
は涙を流して、我威勢既にすたれたり、今はのがる
べき方なし、襲ひ来らば事の数ならず、此虞氏に別
れんずる事こそかなしとて、歎かれけるほどに、灯
火くらくなるままに心細くて、虞氏涙を流し、夜深
くなるままに、四面にときを作り候けり、是を橘の相
公がともし火くらうして数行虞氏が涙、夜ふけ四面
のそのうたふ声と作りて候也、兵衛佐又びはに引か
れしがくは何やらんとのたまひければ、千寿申ける
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は、はじめはわうじやうのきう[* 「わうじやうのきう」に「皇〓急」と振り漢字]にて候しが、後には
くわいこつにて候しと申ければ、くらいこつとは文
字には骨を回(めぐ)るとかきて候、大国には人の死たる葬
送には必この楽をし候なり、中将の今の心中、朗詠
のふしびはの曲、終りに合て哀に候とて、広元涙を
流す、佐もさすが敵なれどもあはれげに覚されたり、
翌くれば四月一日、いつしか兵衛佐の方よりとて、
長持の蓋に三重の浅黄の直垂に、すずしのこうしの
袴、白き帷子、絵扇、だむし一束入て、湯屋に来し女
童にいただかせて千寿参りて、三位中将殿に申、中
将打見給ひて、ともかくも物ものたまはず、千寿はお
もはずに思ひて、物も仰せられ候はずと申ければ、
佐打笑ひてぞおはしける、
権亮三位中将維盛は、与三兵衛重景、石童丸と、武
里と云舎人、此三人を召しぐして、忍びつつ屋島の
たちを出で、阿波国雪の浦より鳴戸の沖をこぎ渡
り、和歌の浦、吹あげの浜、玉津島明神、日前、国
懸の御前を過ぎて、紀伊ぢの由良の湊といふ所に着
給へり、是より山伝ひ都へ赴きて、こひしき人々を
も今一度見んとぞ覚しけるが、さまをやつし給へど
も、よの人にはまがふべくもなし、本三位中将の生な
がら捕へられたるにも心うきに、我さへうき名をな
がさんもかなしくて、千たび心はすすみ給けれども、
心にからかひて、泣々高野へ参り給ひて、人をぞ尋
ねられける、三条斎藤左衛門大夫もちよりが子に、
斎藤滝口時頼とて小松殿に候けるが、建礼門院の后
宮にて渡らせ給ける時、刈萱、横笛とて、二人の美
女あり、かる萱には越中の次郎兵衛盛次さいあいし
て通ひけり、横笛には滝口時頼二世の縁を結びて通
ひけり、横笛が先跡を尋ぬれば、神崎の君の長者の
侍従が娘也、みめかたちはけうらんにして、姿は春
の花、顔は秋の月、翡翠のかんざしもながければ、
せいたいがたて板に水を流せるがことくみゆ、肌も
白ければ、王昭君にもことならず、入道福原より上
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洛有しに、都へとて相ぐし内へ参らせらる、折節滝
口本所に候しが、横笛を見しよりむしんの心ざし丹
誠のまことをたのみ契しに、父もちより此よしをも
れ聞き、滝口を召よせて制して申けるは、然るべき
世にあらん人の聟子ともなして、出仕の便ともなら
ば、みんもめやすかりなん、世になき者にもとさま
ざまいさめけれども、諌にも憚らず、人の世に有す
まゐには心に任せたるを思ひ出とす、是程の事を心
に任せざらんには、世にありても何かはせん、此世は
幾程もあるまじき所也、命長しといふとも七八十に
はよも過じ、栄花ありとも廿余年に過べからず、た
のしければとて、あしき女に相ぐしてなにかはすべ
き、親の諌を背かば不孝の身になりぬべし、従はば
又あぢきなし、女の思ひをかうぶれば、五障三従の罪
深しと思ひ切りて、生年十八の年俄にぼだい心を起
し、嵯峨なる所にて出家して、往生院と云所に行ひ
すまして有けるに、横笛此由を知らずして、とはれ
ぬ事をかなしみて、滝口が年頃申むつびし三条にい
たりて、滝口殿はといひしかば、返事はなくて扇を
一本なげいだす、一首の歌あり、
そるまでも頼しものをあづさゆみ
誠の道に入ぞうれしき W139 K207
と書たるをみてこそ、滝口出家してけれと思ひて、萩
がさねの小袖に紅梅のきぬ一重ばかりにて、桔梗か
るかや女郎花、かきわけかきわけ行程に、裾は露袖は涙
にくちはてて、かはく所ぞなかりける、其夜の夜半ば
かりに法輪寺に参りて、虚空蔵の御前に終夜の祈念
にかくぞ申ける、虚空蔵菩薩は衆生の願をみて給ふ
ぼさつなり、今生にてあかで別れしつまを、今一度逢
せてたばせ給へと申、虚空蔵ぼさつも哀とか覚しけ
ん、風は吹ねども御戸をさつと開き、いうなる御声
にて、汝が夫妻[B 「夫妻」に「ママ」と傍書]は是より北の谷に、柴の庵を結びてあ
る也、此世の対面うすかるべしとて、御戸はをさま
りぬ、其時よりよこ笛夢の枕に驚きて、東に横雲引
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しかば、やもめ烏のうかれ声、哀にぞ覚えける、夜
もほのぼのと明けしかば、示現のごとくに北の谷に
行てみければ、滝口があんしつと覚しくて、柴の庵
を引結び、松の柱、竹すがき、かけ樋の清水、しきも
習はぬすがむしろ、法花経の提婆品をよみて居たり
けり、其時横笛、竹の編戸をほとほととたたく、内よ
り誰人ぞと問ふ、声を聞ば我尋ぬる人の声也、是に
有りける物をと思ふに、今更かなしく涙もかきあへ
ず、やや久しく有て、御行衛を知らせ給はぬ事は、い
かなる御こころづよさとや、虎伏すのべ蓬が杣なり
とも、おくれじと契り給ひし事は、さながら偽にてあ
りけるものを、されども昔のよしみ忘れがたくて、
是まで尋ね参りたり、一蓮の身ともならんといひも
あへず、泣く声を聞ば、我わりなく思ひし女の声と聞
に、胸さわぎてかきくらす心地して、いかにして是
まではおはしたるぞと云て、走出ばやと思ひけれど
も、さては仏に成らん哉、生死のきつなにこそと心づ
よく思ひて、いとど門をとぢて返事もせざりければ、
横笛心をしるべにて是迄等尋来りたるかひもなく、と
ぢ籠り給へる御心強さよ、せめては今一度御声なり
とも聞させ給へやといひけれども、深くとぢ籠りて
一言葉の返事もせざりければ、女恨みて、時雨にそ
むる松だにも、かはらぬ色はあるものを、後の世ま
でと契りしに、早くもかはる心かなとて、袖をしぼり
つつ帰りにけり、神無月六日の事なれば、嵐にたぐ
ふ鐘の音、けふも暮ぬと打響き、涙のかかる袖の上、
いく重木葉の積るらん、おしはかられてむざん也、
さて横笛法輪寺をばよそにみて、梅津の里へと行し
が、かかるうき世に存へて、何にかはせんと思ふに、
ただし思おく事とては都に老たる親一人、それも仏
道なるならば、などか迎へ取ざらんと思ひて、さつ
た王子のうへたる虎に身を投げ、生年十七と申に、
底のみくづとなりにけり、桂川の辺に女房の身をな
げたるといひければ、その時入道あやしく思ひて、
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尋行て見れば、あらざるさまになりたり、入道云ば
かりなくて、みづからたき木を拾ひ、栴檀の煙りと
たき上げ、空しく骨をひろひ、都の辺り猶妄念もこそ
おこれとて、高野へ上て奥の院に行ひすまして、五六
年になりにけり、高野の御山にてきれん坊とぞ申け
る、一門の者どもは高野の上人の御房と申て、いと
をしがりもてなしけり、かれを尋ねて三位中将おは
したりければ、聖、見参したりけり、幼少より小松殿
に候けるが、十三の年より本所にしこうして、大内
の出仕の時は、絵かき花結びたる狩衣に立ゑぼし、
私のありきには、直垂に折ゑぼし、鬢をなで衣紋をか
きしきそくをや、出家の後はけふ初めて是を見給ふ、
いまだ三十にだにも成らざるに、殊の外にやせおと
ろへて、いつしか老僧姿になりたり、こき墨ぞめの
衣に同じ色の袈裟を打かけて、香の煙りにしみかへ
り、かしこげに思ひたる心中うらやましくぞ思はれ
ける、庵室を見給へば、槇の板戸につた茂り、晋の
七賢がこもりたりけん竹林寺、漢の四皓が住し商山
も、斯やありけんと思ひ合せられて哀也、聖、中将
を見奉りて夢の心地してあきれまどひたる様なり、
中将も涙にむせびてものものたまはず、良久しくあ
りて滝口入道申けるは、君はやしまに渡らせ給ふと
こそ承つるに、いかにして是まで伝ひ渡らせ給にや、
更に現とも覚えずとて泣ければ、三位中将のたまひ
けるは、都にていかにもなるべかりしに、人並々に
西国へ落下りてありつれども、きも心も身にそはず、
故郷にとどめ置きし者どもの事より外に、心にかか
ることなくて、世の中あぢきなく思ひ、年月を経し
かば、大臣殿も池大納言の様にありなんとおぼして
打とけ給はねば、いとど心もとどまらず、あくがれ
出て是までまとひ来り、いかにも故郷へ向ひて、か
はらぬすがたを今一度見ばやと思ひつれども、本三
位中将の生ながらとられて、京鎌倉引しろはれて、恥
を曝すだにも心うきに、此身さへ又とられて、父の
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かばねに血をあやさん事のうたてければ、是にて髪
をおろして水の底にも入なんと思ふ也、父の大臣殿
いまだ世ざかりにおはせしだにも、後生のことのみ
祈り申、命を権現に奉り給ひき、いはんや我身は期
する所なし、来世のことより外は心にかかる事なし、
父の跡を尋て、権現に祈誓申さばやと思ふ也とのた
まへば、時より入道申けるは、老衰へたる父母を心
づよくふりすてて、か様にまかりなりて候も、世の
中のはかなき事を深く思ひとりて候ゆゑなり、程々
の栄花に候へば、くわしよく[* 「くわしよく」に「花族」と振り漢字]嫡家の、近衛大将も、
家の殿原の三事をかねて大弁の宰相に昇り給ふも、
侍の廷尉をけがし、大夫尉が拾遺をかがやかすに劣
らず、滝口が弓矢をたいして禁〓を出入し、布衣の
姿にて、龍顔にまみえ奉る身に於ての面目、名残も
惜く、身もすて難くて覚え候き、されども弃恩入無
為とも観じ、唯戒及施とも思ひ取て、人並々にかく
まかりなりし事、月日の隔たりにしたがひてうれし
く候也、況や君の御一門御繁昌きはめ残さるる事一
事も候はず、大臣殿の一男にておはしまししかば、
兼官昇進滞らせ給はず、御運ここに極らせおはしま
して、一族皆亡びさせ給ふ事御身ひとつの恥に非ず、
申せば此世は秋の芭蕉の霜に〓よりもあやうく、夜
の雲の嵐に随ふよりもあたなり、ついでなくともす
てたき身なり、悦ありとても何にかはせん、是然る
べきは善智識なりと思して、順縁逆縁ともに菩提の
たね也、悦も恨みも得道の縁と思しかへさせ給ふべ
し、ぶんだむりんゑ[* 「ぶんだむりんゑ」に「分段輪廻」と振り漢字]のさとに生るる者、必ず死滅の恨
みを得、妄想如幻の家にきたるもの、終に別離のか
なしみあり、かのしやらりん[* 「しやらりん」に「娑羅林」と振り漢字]の春の霞をたづぬれば、
万徳の月かくれ、一他の縁ながくつきぬ、くわむぎ[* 「くわむぎ」に「歓喜」と振り漢字]
苑の秋の風を聞ば、五衰の露きえて、千年のたのし
み又むなし、況や人間電泡の身に於てをや、ゑんぶ[* 「ゑんぶ」に「閻浮」と振り漢字]
たん命の国に於てをや、これによて老たるも去る、
若きも去ておほく生死のくいきめぐる、貴も過ぎ、
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賎も過て、併ながら三づのけんだんにしづむ、三界
廿五有のすみか、いづれの所か此苦しみをまぬかれ
ん、六しゆたいらんしつけ[* 「しゆたいらんしつけ」に「趣胎卵湿化」と振り漢字]のかたち、いづれの族か
其患をのかるべき、もつともいとふべきは浮世、も
つとも願ふべきは浄せつ也、君御一族の公達にとも
なはせ給て、西国に赴き給へるうへは、敵の為にと
られて海中にこそ沈給べきに、やんごとなき大師入
定の霊地、胎金両部の聖地に参り給て御出家有ん事、
現身に安養浄刹に参り給ふべしと思召さるべしとぞ
申ける、やがて聖を先達にて、堂塔巡礼したまふに、
説法衆会の庭もあり、念仏三眛のみぎりもあり、入
定座禅の窓もあり、瑜伽しん鈴の壇もあり、奥の院
に参りて大師の御廟を拝み給ふに、誠に高野御山は
帝城を去りて二百里、郷里をはなれて無人声、青嵐
こずゑをならせども、夕日の影は閑也、嵐にまがふ鈴
の音、雲井にきゆる香の煙、いづれも尊くぞ覚ゆる、
花の色林霧のそこによどみ、鐘の声斉江の霜にひび
き、河原に松おひ垣に苔むして、星霜久しくおぼゆ
るも哀也、中将は御廟の御前に少し差のいて、念誦し
ておはしけるに、かたはらにしらぬ老僧の、齢七十
有余なる参りて観念をしてあり、中将差よりて、大師
御入定は、いくら程経て渡らせおはすらんと問れけ
れば、老僧申けるは、御入定は仁明天皇の御宇六十二
年と申、承和二年三月廿一日寅の一點の事なれば、
既に三百余歳に成侍り、釈尊御入滅の後、五十六億
七千万歳を経て、都卒陀天より、弥勒慈尊下生しお
はしまさんずる、三会の暁を待給ふ御誓ひありと申
ければ、御入じやうののち、御たいを拝みまいらせ
たる人や候らんと、中将のたまひければ、老僧又申
けるは、延喜の比にて侍けるにや、般若寺のくわん
けん僧正と申ける人、御廟たうに参りて石室を開き
て、生身を拝み奉らんと祈誓申けるに、霧深く立籠り
てみえさせ給ざりければ、僧正かなしみの涙を流し
て、我生をうけしより此かた、禁戒をおかさず、何
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の故に大聖に隔てられ奉るべきとて、五体を地にな
げてはつろざんげし給ひければ、念願は至りけん、
忽に霧はれて、月の雲間を出てたるがごとくして、
生身の御体少しもくもりなく拝まれさせ給にけり、
御ぐしのながく生て御膝に余りけり、僧正随喜の涙
をおさへて、御くじをそり奉りければ、風そぞろ吹
てもとの御衣をば吹やられにけり、さてひはだ色の
御衣を着せ参らせて、まかり出んとし給ひける時、
僧正の弟子に石山の内供奉しゆんいう[* 「しゆんいう」に「俊祐」と振り漢字]と申人は、其
時いまだ若くておはしけるに、大師の御体を拝し奉
るかと問ひ給ひければ、見えさせ給はずと申給ひけ
れば、さらばとて御弟子の手を取て、御膝をさぐら
せ給ひけるに、御ひざあたたかにてさぐられ給ひに
けり、其後一生のうち右の手のかうばしくおはしけ
りと、五分法身の香にふれ給ひける故にこそ侍りけ
め、其後醍醐の天皇の御夢想のつげによりて、香ぞ
めの御衣を調へて送り奉り給ひける、勅使に相ぐし
て又僧正先の如く参り給ひて、きせ参らせ侍りける
に、今度は御出立ありて御勅答は申させ給ひける、
其詞とぞ申伝へ侍ける、
我昔遇薩陲、親恙伝印明、発無比誓願、莅辺
地異域、昼夜愍万民、住普賢悲願、肉身証三眛、
待慈尊下生、
とぞ申させ給ひける、惣じて生身の御体を拝み奉る
ことたやすからず、末代に人是を拝み奉らずば、疑ふ
心をなすべしとて、其後は石室をとぢて永く出入を
止められけり、其後公家よりも勅使もいらず、御体を
拝み奉る人侍らず、白河院御時寛治二年正月十五日、
臣下卿相せんとうにて、種々の御だんぎどもありけ
る、其中にある人、抑当時天竺に如来出世し給ひて、
説法利生しましますと聞きおよばむに、参りて聴聞
すべしやといふ一言いでたりけるに、皆人参らんと
ぞ仰せられける、其ころ江帥まさふさ卿いまだ右大
弁三位にて、末座に候はれけるが申されけるは、皆
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人は参らんと仰せられ候へども、匡房においては参
るべしとも覚え候はず候とぞ申されける、月卿雲客
疑ふ心をなして、皆人の参らんと仰せらるる中に、
御辺一人参らじと申さるる子細、いかやうなる事ぞ
や、匡房かさねて申されけるは、さん候、本朝大宋
のさかひは、よのつねのとひなれば、安きことも候
なん、天竺震旦のさかひ、流沙葱嶺の嶮難、渡りがた
く越えがたき道なり、先葱嶺と申山は、西北は大雪
山につづき、東南は海はるかに聳え出でたり、此山
をさかひて、西を天竺といひ、東を震旦と名づく、
道の遠さは三千余里、草木も生ひず水もなし、銀漢
にのぞんて日を暮し、白雲を踏で天に上る、多く嶮難
ある中に殊に、高き峯あり、〓波羅最難と名付たり、
雲の表衣を抜割て、苔の衣もきぬ、山の岩の角を挑つ
つ十日にこそ越はつなれ、此峯に上りぬれば、三千
世界の広狭は眼前にあきらかに、一閻ぶたいのゑん
きんは足下にあつめたり、又流沙といふ川あり、こ
の河を渡るには、水を渡りては河原を行、河原を行
ては水を渡る事、八ヶ日の間に六百四十七度なり、
昼は驚風吹起りて、砂を飜して雨の如し、夜は妖鬼走
り散て、火をとぼす事星に似たり、青淵水巻て木葉
を沈め、白浪みなぎり落ちて岩石をうがつ也、たと
ひ深き淵を渡るといふとも、妖鬼の害のがれがたし、
たとひ鬼魅の怖畏をまぬかるとも、水波のただよひ
さりがたし、さればかの玄弉三蔵も、六度迄此界に
赴きて命を失ひ給ひき、されども次の受生の時にこ
そ法をば渡し給けれ、然るに天竺に非ず、震旦に非
ず、我朝高野山に生身の大師入定してまします、此霊
地をだにもいまだふまずして、徒に月日を送る身の、
忽に十万余里の山海を凌ぎ険難をすぎて、霊鷲山迄
参るべしとも覚え候はず、天竺の釈迦如来、我朝の
弘法大師、ともに即身成仏のむねを得たる、験証こ
れあらたなりとぞ申されける、昔嵯峨の皇帝御時、
大師勅命によて清涼殿にて四家の大乗宗を集め、顕
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密法門の論談をいたし給ふことありけるに、法相宗
には源仁、華厳宗には道応、三論宗には道性、天台宗
には円澄、おのおの我宗のめでたき様を立て申す、
先法相宗の源仁は、三時教を立てて一代の聖教を判
ず、所謂有空中これなり、三論宗の道性、我しうには
二蔵をたてて一代の聖教をおさむ、二蔵とはしやう
もん蔵ぼさつ蔵是なり、華厳宗の道応、吾しうには
五教を立て一切の聖教ををしふ、聖教とは、小乗教、
始教修教、頓教円教、是也、天台宗の円澄、我宗には
四教五味を立てて一切のしやう教を教ふ、四教とは
蔵、通、別、円これ也、五味といふは乳、酪、生、熟、醍
醐是也、其時真言宗の弘法、我宗にはしばらくじさう[* 「じさう」に「事相」と振り漢字]
けうさう[* 「けうさう」に「教相」と振り漢字]を教ふといへども、唯身成仏の義をたつ、
一代の聖教広しといへども、いづれか是に及ふべき
や、其時四人のせきとく、真言の即身成仏を各々疑ひ
申されけり、先法相宗の源仁僧都、弘法を難じ奉る、
そのことばに曰く、凡一代三時の教文をみるに、皆
三時成仏の文のみ有て、即身成仏の文なし、何れの文
証によりて即身成仏の義を立てらるるぞや、つぶさ
にもんせうあらばいだされて、衆会の疑をはらさる
べしといへり、弘法答てのたまはく、汝が聖教の中
には皆三劫成仏の文のみあて、即身成仏の文なし、
もんせうをいだしてのたまはく、
若人求仏慧、通達菩提心、父母所生身、即証大覚
位、
この文をはじめとして文証を引給ふ事、その数はん
たなり、源仁重ねていはく、文証は既に出されたり、
其文のごとく即身成仏のむねを得たる人せう誰人ぞ
や、弘法答てのたまはく、遠く尋れば大日金剛薩〓、
ちかく尋ぬれば我身即是也、忝も龍顔に向ひ奉り、
口に密言を誦し、手に密印を結び、祈念をこらし、
身にききをそなふ、生身のにくしん忽に変じて、紫
磨わうごんの肌となりたまふ、かうべに五仏の宝冠
を現じ、光明蒼天をてらし、日輪光をうばひ、朝廷
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婆梨に輝きて、浄土の荘厳を現はす、其時皇帝御座
を去りて礼をなし、臣下身をつづめて驚愕して地に
伏す、百官かうべをかたむけ、諸衆掌を合す、誠に
南部六宗の賓、地につくばひてけいしゆし、北嶺四
明の客、ていにふして、せつそく[* 「せつそく」に「接足」と振り漢字]す、成仏きそく[* 「きそく」に「軌則」と振り漢字]の
流派には、源仁円澄も舌を巻き、発心色相のなんた
うには、道応常性も口をとぢ、終に四宗帰伏して門
葉に交り、一朝しんかうしてたうりをうけ、三密五
智の水、四海に満ちて塵垢をそそぎ、六大無礙の月、
一天にかがやきて長夜をてらす、されば御一期の後
も、しやうじん不変にして、慈尊の出世を待ち、六
性かはらずして祈念の報恩を聞し召す、此故に現世
の利生も頼あり、後生の引導も疑ひなしとぞ申され
ける、上皇是を聞召し、誠にもめでたき御事なり、
是を今までおぼしめし知らざりけるこそ返々もおろ
かなれ、か様の事は延引しぬれば、自然に障ある事
もあり、やがて明日の御幸とぞ仰られける、匡房重
て申されけるは、明朝の御幸余りに卒爾に覚え候、
昔釈尊霊山説法の砌に、十六の大国の諸王たちの御
幸し給ひし儀式、金銀をのべて宝輿を作り、珠玉を
つらねて冠葢をかざり給ふ、これ皆希有難遭のおも
ひをこらし、随喜渇仰のこころざしを尽し給ひし作
法なり、君の御幸それに劣らせたまふべからず、高
野山をば霊鷲山と思召しなずらへて、御幸の儀式、引
繕はせ給ふべくや候らんと申されければ、実にもと
て卅日をのべさせおはします、綾羅錦繍をあつめて
衣裳をととのへ、金銀をのべて鞍馬を給ふ、これ
高野御幸のはじめ也、白河院かやうに高野をしゆ[* 「しゆ」に「執」と振り漢字]し
思召されけるにや、其御子にて清盛も高野の大塔を
修理せられけるにや、不思議なりしことどもなりと
委しく申ければ、中将嬉しく承り候ぬとの給ひて、
下向し給ひけるに、道にての給ひけるは、大師の御
入じやうは承和二年のことなれば、過にしかたも三
百余歳になるに、猶五十六億七千万歳の慈尊三会の
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暁を待ち給ふらんこそはるかなれ、維盛が身の雪山
の鳥鳴らん、かやうにけふか明日かと思ふ物をとて、
涙ぐみ給ふぞいとをしき、塩風に黒み尽せぬ物思ひ
に衰へて、其物ともなくなり給ひたれども、猶人に
はまがふべくもみえ給はず、いかなる敵なりとも哀
れと思ひぬべし、其日も暮れにけり、時頼入道が庵
室に帰て、昔今の物がたりし給ひて、互になくより
外のことなかりけり、聖が行儀を見給へば、しごくし
んじんの床のうへには、真理の玉を磨き、入我々入
のくわんの前には、人性の月あらはるらんと思ひや
るこそたつとけれ、軒窓に風さえて、音さへさむき
暁の、深夜の月の光りこそ、涙を催す友となれ、後
夜じん朝の鐘の音には、生死の眠をさますらんと覚
えたり、のがれぬべくば、かくてこそあらまほしく
は思はれけれども、かひなし、明けぬれば、東禅院
智覚上人と申しける上人を請じ奉りて、出家せんと
ぞせられける、三位中将、与三兵衛石童丸にのたまひ
けるは、我こそ道せばく遁れがたき身なれ、此頃は
世にある人こそおほけれ、己等はいかならん有様を
すとても、なじかはながらへざるべき、いかにも成
んさまを見はてなんうへは、都へ帰上りて各々身を
も助けよ、妻子をもはごくみ、かつうは維盛が後生
をも、とぶらふべしなどとの給ひければ、重景も石
童丸もかたがたに向ひて、さめざめとなきて、重か
げが父かげやすは、平治の乱の時、故殿の御ともに
候けるが、義朝が郎等鎌田次郎政清に組で、悪源太
に討れ候にけり、其年重景は二歳にて候けるが、七
歳にて母にはおくれ候ぬ、あはれいとをしと申、し
たしき者も候はざりしに、景康は我命にかはりたり
し者の子なればとて、殊に御憐み候て、御前よりお
ほし立られ参らせて、九と申候し年、君の御元服候
しに、かたじけなくも、其夜もとどりをとりあげら
れまいらせて、もりの字は家の字なれば五代につけ
り、重の字をば松王にたぶとて、重景とは付させお
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はしまして候き、童名を松王と付させ給ひて候事も、
二さいの年母がいだきて参りて候ければ、此御家を
ば小松と云ば、いはひて付くるなりと仰せ候き、と
りわけ御方に候て、としは十七年になり候とこそ覚
候へ、隔てなく召仕はれて、一日片時も立離れ参らす
る事も候はず、故殿の失せさせ給ひし時は、此世の
事を一すぢに思召しすてさせ給ひて、仰おかせ給ふ
事も候はざりしかども、重景を召して汝は重盛を父
がかたみと思ひ、重盛は汝を景やすがかたみと思て
こそ慰みつれ、今度の除目には靭負尉になして、己
が父を召候様にめさばやとこそ思ひつるに、空しく
なるこそ本意なけれ、少将殿に宮仕へよくよくして、
御心にたがふなと計りこそ、さいごの御詞にて候し
か、世にある人こそ多けれど、仰を蒙り候は、源氏
の郎等こそ候なれ、左候へば日比はいかならん御事
も候はば、すて参らせて落べき者と思召候けるが、
御心中こそはづかしく候へ、君の神にも仏にもなら
せ給ひなん後、いかなるたのしみ栄ありとも、世に
あるべしとこそおぼえ候はね、西王母、東方朔が三千
年の命、皆昔がたりにて名をのみ伝へ聞候と申て、
みつから髻を切りて時頼入道にぞそらせける、石ど
う丸是を見て、同じく元結際より切りてけり、これも
八よりつき奉て、中将の跡ふところより生立ちて、
ことしは十一年にぞ成ける、志ふかくいとをしがり
給ひければ、重景にも劣らず思ひ給ひたりけり、是
等がさきだちてそるを見給ふにつけても、御涙せき
あへ給はず、
流転三界中、恩愛不能断、弃恩入無為、真実報恩者
と三度となへてそり給ひけるにも、あはれ北の方に
かはらぬすがたを、いま一度見えて、ともかくもな
らば、思ふ事あらじとおぼすぞ罪深き、三位中将も
与三兵衛も同年にて廿七也、石どう丸十八にぞなり
ける、中将たけさとにのたまひけるは、我ともかく
もなりなば、都へ向ふべからず、今一度何事もいひ
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やらばやと思へども、今は世になきものときかば、
思にたへずしてさまをもかへ、すがたをもやつさん
事不便也、幼き者どものこざかしく歎かん事もいと
をし、終にはかくれあるまじけれども、いつしかし
らせじと思ふぞ、急ぎ迎へとらんとこしらへおきし
事も、終に空しくなりぬ、いかばかりかはつらしと
思はんずらん、心中をばしらず恨るもことわりなり
との給ひて、御涙せきあへ給はず、ただ是より屋島
へ帰て、三位中将、左中将などにもありのままに申す
べし、かつうは御覧ぜられし様に、大かたの世間も
物うきさまにのみまかりなりしかば、よろづあぢき
なさも数そひて、各々にも別れ奉てかくなり侍りぬ、
侍どももいかに不審に思ふらん、かくとも知らせず
とて、いかに恨むらんと思こそ中々心ぐるしけれ、
抑唐皮といふ鎧、小烏といふ太刀、平将軍よりこの
かた、当家嫡々相伝して、我までは九代に当れり、其
鎧太刀貞能が許にあづけ置たり、急ぎ取よせて三位
中将殿に奉れ、若し不思議にて代にもおはせば、六
代にたべなど申せと細々と泣々の給ひけり、是より
熊野へ参らんとのたまひければ、いかにもなりたま
はん有さまを見奉らんとて、時頼入道も参りけり、
山伏修行者の体にて、紀伊国山東と云所に出つつ、
藤城の王子よりぞ参り給ひける、それより峠にのぼ
り給へば、眺望殊にすぐれたり、故郷の方を雲井は
るかに眺めつつ、妻子の御事思ひ出し給ひて、御涙
にむせび給けり、かれは姫の明神、衣通姫の旧跡、こ
れは玉津島、和歌、吹上の浦とかや、よたの浦、苫
屋潟、日前、国懸の古木の森、沖の釣舟磯うつ浪、あ
はれはいづれもとりどり也、千里の浜の南、岩代の
王子のほどにて、狩装束したる者七八騎ばかり打連
て逢たりければ、既に敵来てからめとられぬと思ひ
て、各々腰の刀に手をかけて、自害せんとし給ひける
程に、急ぎ馬よりおりてふかく畏て通りければ、み
知たる者にこそ、誰なるらんと浅ましく思して、い
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とど足ばやにさし給ふ、是は湯浅権守入道宗重が子、
湯浅兵衛宗光といふ者なりけり、郎等ども此山伏は
誰にておはすぞと問ければ、小松大臣殿の御子権
亮三位中将殿よ、屋島よりこれ迄は、いかにしてつ
たはり給ひけるにか、近く参りて見参にも入たかり
つれども、はばかりも思召すと思てすごす、あない
とをしの御有様やとて涙をながしけり、やうやうづ
つさし給へども、日数経ければ岩田河にかかりぬ、
一瀬の水をかき、この河をわたれば、悪業煩悩無始
のざいしやうきゆるなる者をとのたまひて、頼もし
くぞ思ひ給ひける、其日は滝のしりに着給ふ、王子
に一夜つやし給ひて、後生の事をぞ申されける、不
空〓索にておはする、当来じそんの暁を待ち給ふこ
そめでたけれ、これより山路に入給ふ、高天の峯に
身をまかせ、中天ぢくも遠からず、発心門をうち過
ぎて、本宮にもかかぐり着き給ひにけり、仏性真如
の月の影は、生死の御かほにくまぞなき、此御山の
景気、誠に心も言葉も及ばれず、大悲応護の霞は熊
野山の峯にそ[B なカ]びき、和光利物のかげは音無河に跡を
たれ給へり、めでたかりける地形なり、一人かうべ
をかたぶけ、万人掌を合せけるも、ことわりかなとぞ
思はれける、一心敬礼と唱れば、三世諸仏も随喜し、
第二第三と礼すれば、むしのざいしやうも皆滅しぬ
べし、証誠殿の御前につい居給ふより、父大臣の命
をめして、後生を助させ給へと申給ひけん事おぼし
いだして、ただ今の様にぞ思はれける、其夜は通夜
し給ひて、後生の事を申されける中にも、我身こそ
かくなりぬとも、故郷の妻子平安にと祈り給ふこそ、
浮世を厭ひ誠の道に入ても、忘れぬものは恩愛の道
なりけりと、あはれを催すたよりなり、明ぬれば本宮
を出で、新宮へつたひ、雲取、しこの峯といふががた
る山を分け過て、やけいの露にそぼぬれて、神のく
らを伏拝み、那智へ参り給ひけり、佐野の渡りをは
るばるとさし給ふ、まんまんたる南海を見渡せば、
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補陀落山も思ひやらる、三の御山の景気、いづれもと
りどりなりと云ながら、当山殊にすぐれたり、垂跡
飛滝権現の本地、千手観音の化現也、三重百尺の滝
の水は、衆生の塵垢をすすぎ、六根ざいしやうもけ
し、千手如意輪の本誓は、弘誓の船にさをさして、
沈淪の生類を、どし給ふときくこそたのもしけれ、
遙なる岩の上にはくわん音の霊像座し給へり、補陀
落山ともいひつべし、法花読誦の声は霞の底に聞ゆ、
霊鷲山とも申つべし、千手千眼観世音、生々世々希
有者、一聞名号滅重罪、無量仏子得成就とふしをが
みて、妙法さいせうが峯を拝み給ふに、昔仏説法し
給ひし、祇園精舎きつこどくおんも、是には過じと
みえたり、中にも如意輪の滝へまいりて、ついでに
去寛和のころ、花山の法皇のおこなひ給ひける、滝
もとへ下りて、その旧しつを拝み給へば、庭の若草
茂りつつ、人跡たえて苔深し、時を待ち昔を忍ぶと
よみ給ひける、老木の桜も咲にけり、それより千手
堂へ参りたりけるに、当山籠の僧の中に、都にて見知
奉たりける山伏あり、同行の僧に語りけるは、あれ
におはする道者こそ、平家小松内大臣殿の嫡子、権
亮三位中将殿よ、あの殿の四位少将と申し時、安元
二年の春の頃、法皇法住寺殿にて、報恩経供養の時、
五十の御賀の有しに、父重盛は内大臣の左大将、叔父
宗盛は中納言右大将にて、階下に着座せられたりき、
頭中将通盛、三位中将重衡卿以下の卿相うんかく十
余人、はなやかなる姿にて引つくろひて、垣代にた
たれたりし中より、桜梅を折かざして、青海波を舞て
出られたりし景気は、たとへば嵐にたぐふ花の匂ひ
御身にあまり、風にひるがへる袂天にかがやき、地
をてらすばかりなりし、御有様の今の様におぼゆる
ぞや、今両三年もあらば、大臣の大将疑ひあらじと
こそ見奉りしに、今かく見なし奉るべしとは、かつ
て思はざりし事かな、うつればかはる世の習といひ
ながら、むざんのありさま哉とて、袖を顔におしあ
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ててければ、心あるかたへの僧共、苔の袖をぞぬら
しける、此僧と申は越中前司盛俊が叔父兄弟にて有
ければ、いとけなきより見奉りてかくいひけるにや、
さて三山の参詣事故なくとげられにければ、浜の南
宮と申王子の御前より、一葉の船に棹さして、万里
の沖へぞ浮ばれける、はるかに漕ぎ出で、山なりの
島といふ島あり、かしこへ漕ぎよせて大なる松をけ
づりて、中将の名せきを書付らる、平家太政入道清
盛法名浄海には孫、小松内大臣左大将重盛には嫡子、
権亮三位中将維盛生年廿七歳、合戦の最中に讃岐
の国屋島をいで、熊野の御山へ参詣せしめて、今生の
たのしみさかえかたをならぶる人なし、後生ぜん所
また権現の御ちかひたのみあり、元暦元年三月廿八
日、那智の沖にして入水しをはんと書付給ひて、漕ぎ
出で給ひぬ、思ひ切たる道なれ共、今は限りの時に
のぞみければ、心細くかなしからずといふ事なし、
頃は三月の末なれば、春のそら何となく名残をしか
るべけれども、唯へんしの詠め其色とはわかねども、
雲も海も一にて浪にきえ入様にぞ覚えける、海人の
〓〓(こぶね)のさすがにきえもはてぬを見給ふにも、我身の
上とぞおぼしける、おのが一つら引連て、今はと帰
るかりがねの、越路をさして飛行にも、故郷へこと
づてせまほしく、蘇武が胡国のうらみまで思ひ残さ
る[B ぬカ]くまもなし、何となくこし方ゆく末の、うれしう
つらかりし面影、或は龍顔に咫尺して春の花を見て
も遊び、或は旧院に〓夜して秋月を詠め、或はもじ
の関の波上にうきねして、からろの音に夢を残し、或
は屋島のあまの苫屋に、かたしく袖に月を宿し、見
しことまでも思ひ出さずといふことなし、抑是は何
事ぞ、妄執の拙きにこそと思ひかへして、正しく西
方に向ひ念仏申給ふ中にも、すでに只今を限りとは
いかでか知るべきなれば、風の便のことづても、今
や今やと待らんに、終に隠れあるまじければ、此世
になきものと聞て、いかばかり歎かんずらんと思ひ
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つづけ給へば、主従念仏をやめて、合掌して聖に向
ひてのたまひけるは、あはれ人の身に、妻子と云物
をば持まじかりけるものかな、此世にてものを思は
するのみにあらず、後生菩提の妨となりけることの
口惜さよ、親しき人にもしられずして、屋島の館を
出でしも、もしや都へかかぐりつきて、今一度見も
しみえもやするとてこそ迷ひ出て有しかども、本三
位中将の事人の上とも思はず、我さへと思念じて、
か様に出家しなん上は、更に妄念あるべしとも覚え
ざりしに、本宮、証誠殿の御前に通夜したりし時も、
終夜後生の事を申中にも、故郷の妻子平安に守り給
へと申き、かつうは神慮の中も恥しくこそ覚えしか、
只今も最ごの一念なれば、又何ごとをか思ひますべ
きに、いかに聞てもたへこがれんずらんと思ひ出ら
るるぞや、是をほだしといひ、是をきづなと名づく
るも今こそ思合すれ、思ふ程の事を残すは罪ふかし
と申なれば、ざんげする也とのたまへば、聖もあは
れに思ひけれども、我さへ心よわくては叶ふまじと
思て、涙を押のごひてさらぬ体にもてなして、誠に
さこそおぼしめすらめ、高きも賎きも恩愛の道は、
力及ばぬ事にて候也、中にも夫妻は一夜の枕を双べ
たる、猶五百生の縁と申せば、此世一の御契りにも
非ず、生者必滅会者定離は、人界の定まれる習、六道
の常の理なれば、さらぬ別のみならず、心に任せぬ世
の有様、末の露本の雫のためしあれば、たとひ遅速
の不同はありとも、おくれ先だつ御わかれ、終には
なくてしもや候べき、かの驪山宮の秋の夕のちぎり、
終には心をくだくはしとなり、かんせん殿のしやう
ぜんのおんも、をはりなきにしにも非ず、松子梅生々
涯限在等覚十地生死のおきてにしたがふ、君たとひ
長生の楽みにほこり給ふとも、前後相違の御歎はの
がれさせたまふまじ、たとひ百年の齢を保たせ給と
も、此恨は唯同じ事なりと思召さるべし、第六天の
魔王と云外道は、欲界六天を我物と領して、此界の
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衆生の生死をはなるる事ををしみて、諸々の方便をめ
ぐらして、或は妻となり或は夫となり、是を妨ぐる
に、三世の諸仏は、一切衆生を我子の如くおぼして、
極楽浄土の不退の地にすすめ入れんとし給ふに、人
の身に妻子といふものは、無始曠劫よりこのかた、
永く仏種をだんじ、生死に流転するきづななるが故
に、仏是をいましめ給ふはすなはち是也、さればとて
御心よわく思召すべからず、源氏の先祖伊予守入道
頼義、十二年の間人の首を切る事一万五千人、山野
の獣、江海の鱗、その命をたつ事幾千万といふ事を知
らず、されども臨終の一念の菩提心を起ししに依て、
往生のそくわいを遂げたりとぞ、往生伝には見えて
候へ、又ある経文にいはく、一念ほつきぼたいしん[* 「ほつきぼたいしん」に「発起菩提心」と振り漢字]
しようおざうりう[* 「しようおざうりう」に「勝於造立」と振り漢字]百千塔とも説れたり、御先祖平将
軍貞盛、将門を追討し給ひて、東八ヶ国を守り給し
より以来、代々相続して朝家の御守りにて、君迄は
嫡々九代に当らせ給へば、君こそ日本国の大将軍に
て渡らせ給へども、故大臣殿世を早くせさせ給しか
ば、力及ばず、されば其末にて御罪業も重かるべし
とも覚えず候、就中出家の功徳莫大なれば、前世の
罪障皆悉く滅しさせ給ぬらん、百千歳の間、百羅漢
を供養したらん功徳も、一日出家の功徳には及ばず、
たとひ人あて七宝の塔を建ん事、高き三十三天に至
るとも、出家の功徳には及ばずと説給へり、ある経
には一子出家すれば、七世父母皆成仏すともとき給
ひき、一日の出家万劫の罪を滅すとも見えたり、さ
しも罪深かりし頼義、心の健故に往生を遂ぐ、さし
たる御罪業おはしまさざらんに、などか浄土へまい
り給はざるべき、其上当山権現は、本地阿弥陀仏に
ておはす、はじめ無三悪趣の願より、終り得三法忍
の願に至るまで、一々の誓願衆生化度の願ならずと
云事なし、中にも第十八の願には、設我得仏、十方衆
生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正
覚と説れたれば、一念十念頼みあり、小阿弥陀経に
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は、成仏以来於今十劫ともときて、正覚ならじと誓
ひ給ひし、仏すでに正覚なりて十劫を経給へり、さ
れば聊も本願に疑をなさず、無二の懇念を出して、
若は十遍若は一遍となへ給ふものならば、弥陀如来、
八十万おく那由多恒河沙の御身をつつめて、丈六八
尺の御かたちにて、観音勢至無数のしやうじゆ、化
仏菩薩百重千重に囲繞し、妓楽歌詠して、只今極楽
の東門を出、来迎し給はんずれば、御身こそ蒼海の
底に沈むと思しめすとも、紫雲の上にのぼらせ給ふ
べし、来迎引摂はかの仏の本願なれば、努々疑ひお
ぼしめすべからず、成仏得道して、悟をひらかせ給
ひなば、しやばの故郷に立帰らせ給ひて、さいしを
みちびきましまさん事、還来穢国度人天の本願、な
じかは疑ひ侍るべき、待我閻浮同行人少しもあやま
るべからずとて、頻にりんを打鳴し、ひまなくすす
め奉りければ、中将入道、然るべき善知識かなと嬉く
おぼして、忽に妄念を飜して西に向ひて手を合せ、
高声に念仏三百遍計り唱へすまして、海へ入給ひに
けり、兵衛入道も石童丸も同く御名を唱へつつ、つ
づきて海にぞ入にける、たけさとも悲しさの余りに
たへかねて、続て入らんとしけるが、いかにうたて
くも御遺言をばたがへ奉るぞ、下らうこそなほ口惜
けれとて、聖なくなくとりとどめければ、船の底に
伏まろび、をめき叫びけるありさま、悉達太子十九
にて王宮を出で、檀特山へいり給ひし時、舎匿舎人
がすてられ奉りてもだえこがれけるも、是には過じ
とぞ見えし、暫くは船を押廻らして浮びやあがると
見けれども、三人ともに深く沈て見え給はず、いつ
しかあみた経一巻読誦して、過去聖霊、出離生死、往
生極楽と回向しけるこそ哀れなれ、去程に夕陽西に
傾きて海の面もくらくなりければ、名残は尽せず思
へども、さてしもあるべきならねば、空しき船を漕
ぎ戻し、熊野灘の習にてみち来る汐さかひ、と渡る船
のかいしづく、聖が袖に伝はる涙も、あらそひかね
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てぞ泣れける、聖は高野へ入られければ、武里はや
しまへ帰りにき、維盛の弟新三位中将に、有の儘に
申ければ、心うやいかなる事なりとも、などかすけ
もりには知らせ給はざるべき、我頼み奉る程は、思ひ
給はざりけるこそ口惜けれ、一所にていかにもなら
んとこそ契り申ししかとて、涙もかきあへず泣給ふ、
池大納言の様に、頼朝に心をかよはして京へ上りに
けりと、大臣殿も心得て、資盛にも打とけ給はざり
つるに、さては御身を投ておはするむざんなれ、さる
にてもいひ置き給ふ事はなかりしかと問ひ給へば、
たけさと申けるは、京へはあなかしこのぼるべから
ず、屋島へ帰て有つる様を委く申せ、一所にていか
にもならんとこそ思ひしかども、都にとどめ置きし
物どもの、あながちに覚束なく恋しくて、あるそら
もなかりしかば、もしみづからつたはり上て、今一
ど見もやするとて、あくがれ出たりしか共、叶ふべ
くもなかりしかば、かくなん罷りなりぬ、備中守も
討れぬ、維盛もかくなりぬれば、いかに便なく思ひ給
ふらんと心ぐるしくこそ、唐皮といふ鎧、小烏と云
太刀の事までも、おとさずこまごまと申たりければ、
我身とてもながらふべしとも覚えずとのたまひもあ
へず、さめざめと泣給ふこそいとをしけれ、故三位
中将殿に似給ひたりければ、見奉るもかなしく覚ゆ
るぞと申て、見る人ごとに涙をぞながしける、
三月廿八日、鎌倉兵衛佐頼朝四位正下し給ふ、もと
は五位なりしに、五階を越え給へるぞゆゆしき、是は
伊予守義仲を追討の勧賞とぞ聞えし、
四月十五日、崇徳院を神に崇奉るべしとて、昔合戦
のありし大炊殿の跡に、社をたてて遷宮あり、加茂
の祭り以前なれども、院の御さたにて、公家しろし
めさずとぞ聞えし、
池大納言関東下向事
五月三日、池大納言頼盛関東へ下り給ふ、頼朝代に
あらん限りは、いかにもいかにも宮仕ふべし、故尼御前
の御恩をば、大納言殿に報じ奉るべしと、八幡大菩薩
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をかけ奉て、誓文をして度々申されければ、落残り給
ひにけり、兵衛佐こそかくは思ひ給へども、木曾も
十郎蔵人もいかがせんずらん、魂を消すより外の事
なし、かくておはしけるが、兵衛佐より故尼御前を
見奉ると思ひて、とくとく見参せんとのたまひけれ
ば、大納言下り給にけり、弥平左衛門尉宗清といふ
侍あり、相伝専一の者なりけるが、相具し奉ても下
らざりければ、大納言いかにと問ひ給ければ、今度
は御とも仕候はじと存候、其故はかくて渡らせ給へ
ども、御一家の公達の、西海の浪の上に漂はせ給ふ
事、心うく覚え候て、いまだ安堵しても覚え候はず、
こころ少し落ゐて追ひざまに参るべしと申ければ、
大納言にがにがしく恥かしく思ひ給て、の給ひける
は、一門を引別れて残とどまりたるは、我身ながら
もいみじとは思はねども、さすが身もすてがたく命
もをしければ、なまじひにとどまりにき、其上は下
らざるべきにあらず、はるかの旅の空におもむくに、
いかでか見おくらざるべき、うけず思はば、など留
まりし時はさはいはざりしぞ、大小の事一向汝にこ
そ云合せしかとのたまひければ、宗清居直り畏て申
けるは、高きも賎きも人の身に、命ばかり惜きもの
や候、又身をばすつれども、世をばすてずとこそ申
候ぬれ、御とどまりをわろしとには候はず、兵衛佐
も命を生けられ参らせて候しかばこそ、今かかる幸
も候へ、流罪せられし時も、故尼御前の仰にて篠原
迄送りて候き、其事など忘れずと承候へば、御とも
にまかり下て候はば、定めて引出物きやうようせら
れ候はんずらんと覚え候、それにつけても心うかる
べく候、西国におはします公達侍共のかへり聞候は
ん事、返々恥かしく候へば、今度ばかりはとどまり
候べく候、君は落ちとどまらせ給ひ候程にては、い
かでか御下りなうて候べき、はるばると旅立たせ給
ふ御事は、誠に覚束なく御心ぐるしく思ひ参らせ候
へども、敵をせめに御下り候はば、一陣にこそ候べ
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けれども、是は参らずとても更にくるしき御事候ま
じ、兵衛佐尋ねられ候はば、聊いたはる事ありと仰
候べしと申ければ、心ある侍共は、是を聞て涙を流
さぬはなかりけり、大納言もさすが恥かしくぞ思は
れける、さればとてとどまり給ふべきにあらねば、
やがて立給ひぬ、十六日池大納言鎌倉に下り着き給
ひたりければ、兵衛佐見参し給ふ、まづ宗清は御と
もして候かと尋ね申されければ、此程あひいたはる
事ありて下らずとのたまひければ、世にほいなげに
思ひ給て、いかに何事の候べきぞ、なほ意趣を存候
にこそ、むかし宗清が許に候しに、事にふれてあり
がたくあり候し事、わすれがたく覚えて恋しく候へ
ば、急ぎ見たく候て、一定御供に参り候はんずらん
と、心もとなく存候へば、口惜しくも候はぬものか
なとて、まめやかにほいなげにぞのたまひける、所
知たばんとて、下文あまたなしまうけて、馬鞍引出
物などたばんとて、然るべき大名どもに馬鞍物具以
下の物用意したりけるに、下らざりければ、上下本
意なきことにぞありける、六月五日、池大納言関東
より帰上給ふ、兵衛佐暫くもかくておはせかしとの
給ひけれ共、都にも覚束無く思ふらんとて、上り給
ひければ、大納言になしかへさるべき由、院へ申さ
れたりけるうへ、もと知給ける庄薗私領、一所も相
違あるまじき由下文を奉り給ふ、此外所知八ヶ所が
下文書き副て奉らる、鞍おき馬三十疋、はだか馬三
十疋、長持三十えだ、羽こかねそめ物巻絹ていの物
入てぞ奉らる、兵衛佐かやうにもてなし奉られけれ
ば、大名小名我も我もと引出物奉る、馬だにも三百疋
に及べり、命いき給ふのみに非ず、とくつきてぞ帰
上られける、
十八日、伊賀伊勢両国の住人、肥後守貞能が兄平田
入道貞継法師を大将軍として、近江国へ発向して合
戦をいたす、然るに両国の住人等、一人も残らずさ
んざんにうちおとさる、平家重代相伝の家人、皆昔
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のよしみを忘れぬ事は哀なれども、思ひ立こそ覚束
なけれ、せめての思ひの余りにやとこそ覚ゆれ、三
日平氏とは此ことをいふにや、
七月四日、権亮三位中将の北方、おのづから風の便
の事づても絶果てて久しくなりにければ、何とした
ることやらんと待給へども、春も過ぎなつもたけぬ、
三位中将は今は屋島にはおはせぬ物をと、云人あり
と聞給ひければ、いかになり給ひけるぞとあさまし
く覚えて、心うくかなしく思はれけるあまりに、屋
島へ人を奉り給ひたりけれども、急ぎ立帰らず、秋
にもなりぬ、八月中旬にかのつかひ帰来る、いかに
御返事はと尋給へば、去三月十五日に屋島をいで、
高野へ詣でて御ぐしおろして、熊野へつたはりつつ、
那智の沖にてみを投げ給ひてけりと、御ともしたり
ける舎人たけ里がかたり申しと申ければ、北のかた
さればこそあやしかりつるものをとばかりのたまひ
て、引かづきてをめき給ふ、若君姫君もこゑごゑにか
なしみ給へり、若君の御めのとなりける女房なくな
く申けるは、此御事今更驚き思召さるべきにあらず、
日頃思ひ設けたりつる御事ぞかし、本三位中将殿の
様に、生ながらとられさせ給ひて都へ帰り、弓矢の
先にかかりて御命をうしなはせ給ひ候はば、いかば
かりかはかなしかるべきに、高野にて御ぐしおろさ
せ給ひて、熊野へ参らせ給ひて、後生の御事よくよく
申させ給ひつつ、りんじう正念にして失せさせ給ひ
ぬる御事、御心安くこそ思召候べけれ、いたくな歎
かせ給ひそ、今はいかなる岩のはざまにて、おさあひ[B 「あひ」に「なきカ」と傍書]
人をおほし立て参らせて、世になき人の御かたみと
も見参らせんと思召せとなぐさめ申ければ、思ひ忍
びてながらへ給ふべしともみえず、さまをもかへ、
身をも投給ふべくぞみえ給ふもむざんなり、権の亮
三位中将高野に詣でて、身をなげ給ひたりと兵衛佐
聞給ひて、あはれ隔てなく打向ひて来給ひたらば、
命ばかりは生け申てまし、小松の内府の事おろかに
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思ひ奉らず、池の尼御前の御使にて、頼朝を流罪に
申なだめられし事、偏にかの大臣の芳恩なりき、い
かでか其恩を忘るべきなれば、その子息たちおろか
に思はず、まして出家などせられたらん上は、子細
にや及ぶべきとぞのたまひける、
平家屋島へ渡り給ひて後も、東国より荒手の軍兵二
万余騎京に着きて、既に西国にせめ下ると聞ゆ、ま
た九州よりをがたの三郎、臼杵、戸槻、松浦党をは
じめとして、三千余艘にて渡らんとすともいへり、
彼を聞是を聞にも唯耳を驚かし、たましひをけすよ
り外の事なし、一門の人々も、一谷にて七八十人迄
討たれにき、頼み切たる侍ども半過てうせぬ、今は
力つきはてて、阿波の民部大夫成良が兄弟、四国の
輩を語らひて、さりともといひけるを、たかき山深
き海とぞ頼まれける、女房には、女院二位殿を始め
奉て、さしつどひて唯泣より外の慰めぞなかりける、
去程に廿五日にもなりけり、去年のけふ都を出しぞ
かし、程なく廻り来にけりと思すも、せめての事に
やと哀也、あはただしかりし事どものたまひいだし
て、泣きぬ笑ひぬぞせられける、荻のうは風も漸く
すさまじく、萩の下露もいよいよしげく、いな葉打
そよぎ、木葉も猥て物思はざらんだにも、秋になり
行くたびの空はかなしかるべし、まして此春より後
は、越前の三位の北方の様に、身を海の底に沈むる
迄こそなけれども、明ても暮ても伏しづみて、物を
思ひ給へる人々、いかばかりの事どもを思ひつらね
給ふらんと哀なり、
廿八日には、新帝御即位あり、大極殿はいまだ作り
出されねば、太政官の庁にてぞおこなはれける、後
三条院御即位、治暦四年七月の例とぞ聞えし、神璽宝
剱もなくて、御即位ある事、神武天皇より以来八十
二代、是ぞ始なる、
八月六日、九郎義経一谷の合戦の勧賞に左衛門中尉に
なさる、即、使の宣旨を蒙りて九郎判官とぞ申ける、
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十五日、屋島には、秋も半になりにけりと哀に覚え
て、さやけき月をながめても、都の今夜いかなるら
んと思ひやられて心をすまし、涙を流してぞあかし
くらされける、
九月十八日、九郎判官は五位尉に叙して、大夫判官
とぞ申ける、蒲の御曹司範頼三河守になさる、
同廿二日、三河守、平家追討のために西国へ発向す、
相したがふ輩、足利蔵人義兼、北条四郎時政、武田
兵衛有義、侍大将には、千葉介経胤、同孫境平次経
秀、長野三郎重清、稲毛三郎重成、同弟半替四郎重
朝、笠井三郎重清、小山四郎朝政、同七郎朝光、中
沼五郎宗政、宇都宮四郎武者知家、子息太郎朝重、
佐々木三郎盛綱、比企藤内朝宗、同藤四郎能員、大
多和次郎義成、安西三郎秋益、同小次郎秋景、公藤
一臈資経、同三郎秋義、宇佐美三郎助義、天野藤内
遠景、大野太郎実秀、小栗十郎重成、井佐小次郎朝
正、朝沼間四郎広綱、安田三郎義兼、同小太郎、大河
戸太郎広行、同三郎広政、中条藤次家長、一法房昌
寛、土佐房昌俊、小野禅師太郎道綱等を始として、
三万余騎の軍兵、数千艘室に着きて、急ぎやしまへも
責寄せず、西国にやすらひて、室、高砂の遊君遊女を
召集めて、遊びたはぶれてぞ月日を送りける、され
ば国を費し民を煩はすより外の事ぞなき、東国の大
名小名ども多くありけれども、大将軍の下知にした
がふ事なれば、一人たけく思へども、力及ばず、平
家は讃岐のやしまにありながら、山陽道をうち取て
けり、左馬頭行盛、飛騨守景家を大将軍として、一万
余艘にて備前国小島に着たりけり、源氏の大将軍三
河守も室に着きたりけるが、船より上て備前備中両
国の境、西河智、河尻、藤戸の渡りと云所に押寄せて
陣を取る、かの渡りは、海のおもて地より近くて、陸
へ五町ばかり隔たりたる所にて、平家の方より海の
底には菱をうへ、くもでゆひて、陸には軍兵をすへた
り、船をば皆島に引付たりければ、地の方より渡す
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べき様もなし、土肥、梶原を始として、源氏の軍兵多
かりけれども、力及ばず、平家の方より源氏の方へ渡
せや渡せやとぞ招きける、九月廿五日の夜半ばかり、
佐々木三郎盛綱唯一騎打出て、彼浦の者を語ひて、
さしたりける白鞘巻を取らせて、此渡りに浅みはな
きか、有のままに教へよ、教へたらばこれならず悦
すべしと約束しければ、浦人申けるは、此渡りに瀬
は二候なり、月がしらには東が瀬になり候、是をば
大根川と申す、月の末には西が瀬になり候、是をば
藤戸の渡りと申候、当時は西が瀬になり候ぞ、東西
二の瀬の間、とほき中二町ばかり候、瀬のはたばり
二反ばかり候、其うち馬の足たたぬ所二三反にはよ
も過ぎ候はじと申ければ、扨は其浅さ深さをいかで
か知るべきと問ひければ、浅き所は浪のたちやう高
く立候ぞと申ければ、さらば瀬踏して見せよといひ
て、彼浦人を先に立てぞ渡りける、膝に立所もあり、
股腰に立所もあり、むねわきに立所もあり、ふかき
所ぞかみをぬらす程なる、中二反計りぞありける、
さて是より島の方は浅く候とぞ申て帰りにける、あ
くる廿六日辰の刻に、平家又扇を上げて、渡せや渡せや
とて源氏を招く、思まうけたる事なれば、佐々木三
郎盛綱、黄なる生絹の直垂に黒いと威の鎧に、黒い
馬にぞ乗たりける、家子郎等相ぐして已上廿七騎に
て、盛綱瀬踏仕らんとて渡しけり、三河守、土肥の次
郎是をみて、馬にて海を渡すやうやあるといさむれ
ども、盛綱耳にも聞入ず、渡しけり、馬の草わきむ
な帯つくし、鞍壷に立所もあり、馬のおよぐ所もあ
り、浅々なれば源氏の軍兵是を見て(我も我もと渡し
けり、佐々木三郎以下敵の前に渡り着きて戦ふ、上野
の住人八いろの八郎と、平家郎等讃岐国の住人かへ
の源次と組だり、かへの源次が郎等、八いろの八郎を
さしたりければ、則まろびにけり、八いろが従弟に小
林の重隆と云者、かへの源次に組だりけり、組ながら
二人海へさつと入たりけり、小林が郎等に岩田源太
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しうは海へ入ぬ、つづきて入べきやうもなかりけれ
ば、弓の筈をとらへてあわの立つ所へさし入てうち
ふれば、物こそ取つきたれ、引あげて見れば敵也、主
は敵が腰につかみ付たり、主をば取上て、敵をば船
のせがいにおし当て、首をかい切てけり、平家是を
見て、船どもおし出してけり、源氏は船なければ、
追ても行かず、遠矢に射れども、勝負を決せず、力
及ばでもとの陣へぞ帰りける、昔より馬にて大海を
渡すことなかりけるに、佐々木三郎もりつな海を渡
す事是ぞ始めなる、時に取てはゆゆしき高名にてぞ
ありける、十月又冬にもなりぬ、屋島には浦吹風も
はげしく、磯越す浪も荒ければ、おのづから兵のせ
め来ることもなし、船の行かふも稀也、天もかきく
もり、いつしかうち時雨つつ、日数ふれば、いとど
消入る心地し給ひければ、新中納言知盛、かくぞ詠
じたまひける、
住なれし都の方はよそながら
袖に浪こすいその松風 W140 K213
廿三日、都にははらへの行幸あり、同廿五日に豊の
禊今年ぞせさせ給ひける、節下には後徳大寺左大臣
実定の、其時内大臣の左大将にておはせしが勤め給
ひけり、去々年の先帝の御はらへの行幸には、平家内
大臣宗盛の節下のおはせしが、節下の幄に着て、前に
たつのはた立つつ居給へるありさま、あたりを払ひ
てみえ給ひしものを、冠りぎは袖のかかり、表袴の
すそまでも、殊にすぐれて見え給ひき、其外一門の
人々三位中将以下の、近衛佐の御縄に候はれしには、
又立並ぶ人もなかりき、九郎大夫判官義経も、其日
は本陣に供奉したりき、木曾などがありさまには少
も似ず、ことの外に京なれてぞ見えける、されども
平家の中に撰びすてられし人々にだにも及ばず、な
ほ無下におとりてぞ見えける、
十一月十八日には、大じやうゑをとげ行はる、去治
承四年より以来、諸国七道の人民百姓等、平家の為
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に悩まされ、源氏のために滅ぼされて、郷里をすてて
山林にまじはりき、春は東作の思を忘れ、秋は西収
のいとなみにも及ばず、公家の貢物をも奉らず、い
かにしてかかやうの大礼をば行はるべきなれども、
さてしもあるべき事ならねば、かたのごとくぞとげ
行はれける、
十二月廿日比までは、三河の守のりより西国にやす
らひて、しいだしたる事なくて、今年も暮れにけり、
平家都を落ちて、西海の浪上に漂ひ給へども、死生
いまだ定らず、東国北国は鎮まりたれども、都は上
下諸国の住民等、是非にまどひけるこそ不便なれ、
是によて兵衛佐より院へ申されける、状に云、
一朝務以下除目等事
右、守先規、殊可施徳政、但諸国受領等、尤可
有計御沙汰候歟、東国北国、此両道国々、追討
謀叛輩之間、如元土民自今者、浪人等帰住旧里、
可令安堵候、然者来秋之時被(レ)仰国司、被行
吏務者可宣候、
一平家追討事
右、畿内近国、号源氏携弓箭輩、住人等、早任
義経之下知、可引率之由、可被(二)仰下(一)候、海路
雖不任意、殊可追討之由、可被(レ)仰付義
経候也、於勲功賞者、其後頼朝可計申上候、
一諸社事
我朝者神国也、往古之神領無相違、其外今度初各々
可被新加歟、就中去比、鹿島大明神御上洛之
由、風聞出来之後、賊徒追討、神戮不空者歟、兼又
若有諸社破壊顛倒之事者、随功之程可被召
付受領之功候、其後可被裁許候、
一恒例神事
守式目無懈怠、可勤行之由、可尋沙汰候、
一仏寺事
諸山御領、如旧恒例勤不(レ)可退転、如近年者、僧
家皆存武勇、忘仏法之間、行徳不同、先閇枢
P652
候、尤可被禁制候歟、於自今以後者、為頼朝
沙汰於僧家之武具者、任法奪取、可与給追
討朝敵之官兵等之由、所思給候也、以前条々
言上如件、
とぞ書かれたりける、
平家物語巻第十七終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十八
P653
平家物語巻第十八
元暦二年正月十六日、九郎大夫判官義経、院の御所へ
参りて、大蔵卿高階泰経朝臣をもて申されけるは、平
家は宿報皆尽て、神明神道にも放たれ奉て、都の外に
迷ひ出て、波の上にただよふ落人を、此二三ヶ年の
間うち落さずして、多くの国々をふさがれたること
安からず候へば、平家をせめに西国へ向ひ候べし、
平家一人もありと聞かば、新羅、高麗、契丹、百済に至
迄る、せめ落さずば人をば知るべからず、義経は都
へ帰入べからずとぞ申されける、仰られけるは、相
構へて三種神器、事故なく帰し入るべしとぞの給ひ
ける、判官宿所に帰りて、国々の大名小名家子郎等
どもにのたまひけるは、義経は鎌倉殿の御代官とし
て、院宣を承て西国へ赴く、海は櫓棹のとどき、陸は
駒の蹄の通はん所までもせむべき也、少しも命を惜
み名をも惜まざらん人は、是より止り給へ、義経に
於ては、命あらん限りはせむべき也とぞのたまひけ
る、何かはおもてをあはすべきとぞ見えける、屋島
にはひま行駒の足早くして、元暦元年二月もたち、
三月も過ぎ四月にもなり、春草かれて秋風に衰へ、
秋風やみて冬も過ぎ、三とせにもなりぬれば、東国
の兵せめくだると聞えければ、又いかなる事かあら
んずらんと、女房達さしつどひ泣くより外の事ぞな
き、内大臣は、都を出で此二三ヶ年、浦伝ひ島伝ひ
して、あかし暮すは事のかずならず、入道世を去り
て福原へましましたりし手合に、高倉宮搦迯したり
し程、心うかりし事はなしとぞ宣ひける、新中納言
申されけるは、都を立し日より少しも後足をも踏み、
命をも惜むべしとは思はず、東国北国の奴ばらも、
ずゐぶん重恩をこそ蒙りたりしかども、今は恩を忘
れちぎりを変じて、皆頼朝に語らはれにき、西国と
てもさこそあらんずらめと思ひしかば、ただ都にて
P654
討死をもし、家に火をかけてちり灰ともならんと思
ひしに、人なみなみに心よわくも都を迷ひ出て、か
かるうきめを見るよとて、泣給ふぞ哀れなる、二月
十五日、三河守範頼、西河神崎を出て西国へ下向す、
山陽道より長門国に赴く、九郎大夫の判官義経四国
へ渡らんとす、日比は淀の江内忠俊をもて、神崎渡
辺両所にて船ぞろへしつるが、けふ既に纜をとく、
各々寄合々々軍の評定しけるに、梶原申けるは、陸の
軍には、弓手へ廻すもめてへ廻すも、よするもひくも
進退なれ、船は寄するも戻すも煩しく候に、船に逆
櫓を立て、艫舳を直さずとも、駈たからむ所をばか
け、ひきたからん所をばこぎちがふるしたくをせば
やと申、判官あるべからざる事なり、浦は一引もひ
かじ、一所にてしなんと思ふだにも、びんぎに従へ
ば親子も知らず落つるに、兼てよりにげ支度せん事
こそ物の始めにいまはしけれ、梶原重て申けるは、
武士の能と申は、かくべき所をば駈け、引くべき所
をば引候こそよきと申候へ、かけ足ばかりを知りて
引足を知らざるは、猪武者とて嫌はれたりげに候も
のをとぞいひける、判官いざとよ、よしつねはかの
しか猪は知らず、軍には幾度もひらぜめに攻て、勝
たるぞ心地はよき、和殿が船には立たくば百挺千挺
も立てよ、義経が船にはいまいましければ立たうも
なしとの給ひければ、満座どよみて〓笑けり、梶原
よしなき事を申出して、どよみたてられて、赤面し
てそぞろぎてぞ見えける、此君を大将軍としては、
軍は得せじとぞつぶやきける、それより判官を悪み
はじめて終に讒し失ひてけり、十六日大南烈しく吹
きて、船ども数多は損じたりければ、其日は船ども
しゆりして、翌日十七日出さんとしけるに、きのふ
の返し風大地木を折りてぞ吹たりける、判官此船只
今出し候へと下知せらる、水手梶取申けるは、かほ
どの大風大波には、けふ海の面に船の通ふ事あるま
じく候と申す、判官のたまひけるは、野の末山の奥
P655
にて死ぬるも、海河に入て死も、しかしながら前世
の宿業也、ただの時は敵も用心したるらん、かかる
時打とけたらんに押寄てこそ思ふ敵をば討んずれ、
ただ出し候へとせめ給へば、水手梶取ども、身を全う
して君に仕へよと申事こそ候へ、ふつとかなふまじ
く候と申す、判官瞋りての給ひけるは、鎌倉殿の御
代官として勅宣を承候、義経が下知をたびたび返す
は、おのれ等こそ朝敵なれ、きやつ原の首をきりて
軍神にまつれやとのたまへば、伊勢三郎義盛射殺さ
んとしければ、とても死ぬるものならば、馳死にし
ねやとて、船を出す、判官の勢六千余騎が船百五十
艘也、其中に船五艘ぞ出しける、判官の船、奥州佐
藤三郎兵衛継信が船、同四郎兵衛忠信が船、伊勢三
郎義盛が船、淀江内忠俊が船也、此等の船五艘に、
宗徒の者五十余人ぞ乗りたりける、乗かへぐそくす
るに及ばず、馬一疋舎人一人づつぞぐしたりける、
判官のたまひけるは、数多の船に篝をたきて船かず
見すな、義経が船にかがりを焚殿原とて、二月十七
日の寅の刻に渡辺富島を押出して、南に向ひてわづ
かにきなかに帆をあげて、とり梶になりおも梶にな
して走るほどに、十八日のいまだあけざるに、三日
の海上を二時計りに、阿波国八間浦、尼子が津にこそ
吹つけたれ、夜もあけければ渚の方に、赤旗さして
五十騎計りにてかためたり、あはや敵のかためたは、
渚について馬おろさば、さんざんにいられんずるに、
馬に鞍置て追おろせ、船ばたに引つけておよがせよ、
足立ならばおのおのひたと乗てかけよとぞ下知しけ
る、我劣らじと鞍を置き、追おろし追おろし船ばたに引
付て泳がせけり、足立ちければおのおのひたひたと
乗て、をめいてさつと打上る、敵一矢も射ずして、
上の野に二町計りぞ引たりける、判官はおひ手もお
はせず、渚に打立て、馬の後足に波のかかる程に扣
へ給ひて、伊勢三郎を召して、きやつ原無下の下ら
うどもにてありけるぞ、行向ひて是等が中に宗徒の
P656
もの一人ぐしてまいれとのたまへば、義盛ただ一騎
あゆませ向ひて、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿、こ
の浦につかせ給ひたるぞや、我と思はん者共は、甲
をぬぎて急ぎ参れとぞ詈り廻りける、此者ども聞あ
へずみな甲をぬぐ、其中に大将とおぼしき者、褐衣
鎧直垂に黒革をどしの鎧に、鹿毛なる馬に乗て、よ
はひ五十余なるものを、甲をぬがせ弓を弛、先に立
てでぞ参りたる、判官汝はいづくの者ぞと尋給へば、
阿波国坂西の奥に臼井の近藤六親家と申者にて候、
もとより源氏の御方に心ざしを思ひ参らせ候、幸に
今参合まいらせたりとぞ申ける、判官神妙に申たり、
さりながら大将軍ばかりは物具なせそとて、鎧を脱
せられけり、抑屋島のせいいか程あるぞ、当時は屋
島に勢はよも候はじ、伊予国の住人河野四郎通信が
召せども参らず、せめよとて阿波民部成良が嫡子田
内左衛門成直大将として三千余騎向ひ候ぬ、残一二
千騎ぞ候らん、阿波讃岐両国の浦々津々を、百騎五十
騎にて固められて候へば、屋島には勢は候はすとぞ
申、屋島はいか程の道ぞ、二日路候、此先に軍しつ
べき所やある、是より一里計り打せ給候はば、阿波
民部が伯父桜馬助良遠、八十余騎にて固めて候と申
ければ、さらば道しるべせよとて、先に追立てて桜
馬助良遠が館に押寄せてときをつくる、桜馬一矢も
射ずして落けり、館に火をかけてやき払ふ、判官こ
れをば何といふ所ぞと尋ね給へば、勝浦と申候、軍
に吉例とおもひて、汝は色代を申か、さは候はず、
御室御領五ヶ庄内、下臈はかつらと申候べとも、字
には勝浦と書て候、昔崇道尽敬天皇異賊を平らげ給
ひしに、軍かち給しよりして、勝浦と申伝へたりと
ぞ申、判官大に悦てこれきき給へ殿原、軍しに来る
義経が勝うらに着たる不思議さよ、さても義経が渡
りたりと屋島に聞かざらん先に、うてや者どもとて、
所々打従へてかけ足になりぬ、あゆませつをどらせ
つうつ程に、阿波の国坂東坂西打過て、阿波と讃岐
P657
の境なる中山のみなみ口にぞ陣を取る、翌日十九日
に夜立して中山を打こえ給へば、中山の北の口より
一町ばかり入たる竹内に、粟守庄御領に金山寺と云
堂にて百姓太郎ども集りて観音講しけるが、大饗も
りそなへてすでに行はんととどめきけるを、判官聞
給ひてここにこそ敵のあんなれとて、ときをどつと
つくりて馳込たれば、百姓等取物も取あへず、山の
奥谷の底、ここかしこに逃げかくれにけり、判官う
ち入て見給へば、饗どももりそなへたり、我等がま
うけしたりけるぞや殿原、講の座につきて行ひ給へ
やとて、判官座に着給へり、判官の前には講の師の
御房の料とおぼしくて、殊に大きなる大饗を三本立
にぞ取すへたる、いかでかただは行べき、講式よみ
給へや殿原との給へば、伊勢の三郎義盛は、日光そ
だちの児なりければ、甲を脱て側に置き、矢おひな
がららいばん[* 「らいばん」に「礼盤」と振り漢字]に上りて、花机なる式をよみすました
り、此講師の御房の装束こそけしからねども、式は
いつよりもよみすましたりとぞ人々笑合ひける、饗
ども行をはりぬれば、今日の講はいしうしたりなど
言て打出けるが、判官の給ひけるは、義経が曾祖父
八幡太郎義家は、貞任をせむるとて、十二年が間合戦
し給ひけるには、甲の座臆の座を立ちて、甲座につ
きたるつはものをもてこそ、貞任をば討給ひけれ、殿
原今日一人も残らず、甲座に着給ぬれば、平家を亡さ
んこと疑ひなしとぞ笑ひ給ひける、昨日十八日の観
音講にて有けるを、大風にやみて、けふ十九日にぞ延
たりける、屋島には大臣殿、小博士清基を御使にて、
能登殿の許へ仰られけるは、源九郎義経、既に阿波
国八間尼子浦に着たる由聞え候、定て通夜中山をば
越候らん、御用心候べしとぞのたまひける、判官う
てや殿原とて、馬を早め道をすすめてうつ程に、げ
す男一人宣下と覚えて、藤染の直垂に立烏帽子にた
てふみ持たるが、判官より先に行きけるにこそ追付
たれ、判官此男を呼び留めて、いづくよりいづくへ
P658
行く人ぞ、京より屋島の内裏へ参り候なりとぞ申け
る、京よりはいかなる人の御もとよりぞ、六条摂政
殿北政所の御方より候と申、判官我も召されて参る
が道を知らぬぞ、つれておはせよとて具して行が、
破子の所にてあの殿に破子めさせよとて、わりごく
はせて又ぐして行に、判官ちかくうちよせて問はれ
けるは、屋島の城はいかなる所ぞと、無下に浅間に
候ぞ、敵がしらでこそ申候へ、汐のみちたる時こそ
島になり候て、船なくて通ふべくも候はね、汐干候
ぬれば、西にそひて馬の太腹もつからず候ぞ、かれ
に添ひて落さんには何も候まじとぞ申ける、城近く
なりければ、その男捕へて縛り付よとて、道の辻の
率都婆に縛付て、持たるたてぶみとりて見給へば、
此ほど源九郎義経が大将にて渡り候也、さるすすど
き男にて、此大風吹候とも定めて寄せんずらんと覚
候、勢を召して用心候へとぞ書かれたる、判官悦で
是こそ義経に天の与給つる文なれ、鎌倉殿に見せ奉
らんとて、おし巻て鎧の胸板にさしはさみてうち給
ふ、其日は引田浦、白鳥、丹生の社、牟礼、高松郷
を打過て、同廿日の寅の刻には屋島の城にぞ押寄せ
ける、いまだ汐がひずして、くらつめひたる程なる
に、しばらく引抱て塩たるむ、伊勢の三郎が申ける
は、かかる大将軍を頼みて討死せん事疑ひなし、但
多勢を打すてて、僅の小勢にて此城へ押寄する事以
外の僻案か、かく申せば命を惜むに似たれども、義
盛其先にこそ死んずれとて、塩花蹴立させて、先陣に
かけてぞ寄たりける、平家の方には敵の馬の蹄にけ
立てられて、塩花のあがるをば二三千騎の大勢とこ
そは見たりけれ、かれに取こめられなば叶ふまじ、
とくとく御船に召さるべしとて、惣門の前の渚に付
けたりける船どもに、主上を始め参らせて各々皆召さ
れにけり、ここに惣門の前に真先かけて武者一騎出
きたれ、赤地の錦の直垂に、唐紅裾滋のきせながに、
烏黒なる馬の六寸計りなるに、黄覆輪の鞍置きて、
P659
躍らせてこそ出来たれ、誰なるらんと平家の方には
思ふ所に、船方に向ひて、一院の御使検非違使五位尉
源義経とぞ名乗りたる、其次に鹿島六郎惟明、金子
十郎家貞、同余一家忠、伊勢三郎義盛と名乗て、五
騎打連てぞかけたる、平家の方より、あれや源九郎
にて有けるものを、あれ討てやといへども、力及ば
ず、城をすてぬる上は、敵城内にかけ入て、火をさ
して焼はらひてかけ出けり、平家は是をみて、遠矢
にいる人もあり、さし矢に射るものもあり、五騎の
者ども弓手にあゆませめてにすらせていてとほる、
残りの兵後藤兵衛真基、新兵衛基清、片岡兵衛経忠、
佐藤三郎兵衛次信、同四郎兵衛忠信と名乗て、四十
余騎の兵ども我劣らじとぞかけたりける、越中次郎
兵衛盛次が、舟の屋形の上にのぼりて申けるは、名
乗つれども海上はるかにへだたりて分明に承らず、
今日の大将軍は誰人にておはするぞといふ、伊勢三
郎歩ませ出で申けるは、あな事もおろかや、清和天
皇十代の御苗裔、八幡太郎義家には四代の御孫、鎌倉
殿の御弟、九郎大夫判官殿にて渡らせ給ふぞかしと
申、盛次申けるは、去事あるらん、平治の乱に義朝討
れて後、尋出されて九条院雑仕常葉が抱て参りたり
し、二歳子が赦免の後、舎那王丸とてくらまにあり
し小童か、金商人が従者にて、粮料せおうて陸奥へ
まよひくだりし小冠者が事かとぞ申ける、伊勢三郎
申けるは、舌の動くままに、判官殿の御事を掛くも
忝く申か、いとど冥加のつくるに、明日甲斐なき命の
惜からんずれば、助けさせ給へとこそ申さんずらめ、
かく申者はとなみ山のいくさにまけて、山に追籠ら
れて、はうはう乞食して京へ上りたりし者どもか、
口のあきたるままに申かといへば、次郎兵衛が申け
るは、我君の御恩にていとけなくより衣食にとぼし
からず、何とてか乞食すべき、さ申人どもも、年来は
跂跪[B 「跂跪」に「ママ」と傍書]こそありしか、汝等は高瀬両村の辺にて、山賊
して妻子を養ひけるとこそ聞け、それらはさすがあ
P660
る事なれば、得あらがはじ物をとぞ申ける、金子十
郎家貞申けるは、せんなき殿原の雑言かな、なき事
をいはんには、たがひに夜ぞ明け日ぞ暮んずる、去
年の春一谷にて、武蔵さがみの若殿原の手なみは、
皆よく見たるらんものをとぞ申ければ、同余一がな
らびて立たりけるが、よく引て暫しかためて放ちけ
れば、悪口する越中次郎兵衛盛次が鎧の胸板に、し
たたかにこそ当りたれ、其後こそ詞戦ひは止りて音
もせざりけれ、能登の守、口惜きものかな、運の尽る
とてなになるらん、あれ程の無下の小勢を、大勢と見
て城を捨てて、御所内裏を焼せられぬるこそ安から
ね、いざや一矢射ん、船軍はやうある物ぞとて、唐
巻染の小袖にたうさぎかきて、唐綾をどしの鎧を着
て、渚に飛下りて、内裏の前のしばついぢにかいそ
ひて、寄する敵をまち給ふ、判官の乳母子に、奥州の
佐藤三郎兵衛次信とてかかりけるを、能登殿よくひ
きて放たりければ、弓手の脇をめてへつと射させて、
真逆様にぞ落ちける、のとの守童菊王丸とて大力の
剛のもの、長刀とりて三郎兵衛が首を取らんと寄せ
合するを、弟の四郎兵衛忠信が放つ矢に、菊王丸が
浅ぎ糸威しの腹巻の引合を、のぶかにこそ射通した
れ、菊王丸犬居に伏す、四郎兵衛菊王丸が首をとら
んと落合けるを、能登守差越して、大刀を抜きて片
手うちに禦ぎて、片手にては我童の左の脇をつかん
で、乗たる船にこそ投入れ給ひたれ、敵に首をば取
られねども、痛手負たる者を強く投られて、なじか
はたすかるべき、やがて船の底にて死ににけり、判
官頼みたりつる乳母子討れて、陣の後の松原に引過
ぎており居給ひつつ、三郎兵衛が首を膝の上にかき
のせて、次信いかが覚ゆるとのたまへば、いきをつ
き出して申けるは、源平両家の御あらそひのはじめ
に、屋島の浦にてかばねをさらしたりし次信といは
れんこそ、後代の面目なれ、但君の御戦未だ終らぬ
を、見置参らせて失せ候ぬるこそ、憂世に思ひ置事と
P661
ては候へと、申もあへずきえ入ければ、判官涙を流
して、此あたりに僧や有との給へば、あるもの僧一
人尋ね出して参らせたり、奥の秀衡入道が参らせた
りしするすみとて、黒馬の六寸にはづんで太くたく
ましかりけるが、鎌倉に早打にも、此馬一疋にて陸
奥より通りたりければ、奉公の馬也とて、我五位尉
になり給ける時、五位になして、大夫黒と名付けて
秘蔵の馬に、黄覆輪の鞍置て、件の僧にひけとて、
是は殊に思ふ様ありて引なり、相かまへて彼等が孝
養よくよくせよとてひかれければ、兵共是を見て、
此君のために誰か命をすてざらんとて、涙を流しけ
る、昔唐の太宗の高麗国を討んとて、自ら戦場に臨
幸し給て、大軍柳城に宿るに及んで、前後の戦に死
たる亡卒の遺骸を集て、哭し悲しみ給て大牢の備を
儲、自ら是を祭給へり、死兵の爺嬢是を聞て、男子
の喪せるをば天子啼哭給て、自ら是を祭り給へる上
は、死ても怨こころなしとて、帝徳をぞ感ける、諸
の勇士も是を見、いよいよ忠義を竭けんと思ひ知り
てあはれ也、武蔵国住人片岡兵衛経忠とて、をめい
てよせければ、能登守能ひきて放ち給へば、経忠が
鎧の引合羽房までこそ射こうたれ、しばしもたまら
す落にけり、是をしらまさじと新兵衛基清をめいて
駈ければ、能登守の放つ矢に内甲をしころへ射出さ
れて、矢に付てこそ落にけれ、能登守の矢先にかか
りて究竟の者五六騎は失にけり、それを始として平
家の侍ども揉にもうで戦ひける、其日判官軍に負て
引退けり、当国内牟礼高松の境なる野山に陣をとて
居給てけり、其夜平家、源氏を夜討にせんとぞ支度し
ける、平大納言の北方帥典侍殿の半物関屋が夫は、東
国の者にて、葛原又太郎と申者、源氏の陣を伺ひ見
て参候はん、今夜夜討にせさせ給へと申ければ、平
家の人々尤さもあらんとて、当国住人島尾次郎を差
添へてぞ遣しける、二人の者ども夫男の様にて、か
いまじはりて見ければ、甲を脱ぎて枕にしたるもあ
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り、箙を解て枕にしたるもあり、手負て吟居たるも
あり、いたみて東西を知らざるもあり、かかりけれ
ば、彼等走帰りて此由を申ければ、能登守大将軍と
して、我をば敵卅人にむけよとて、鎧とて打着て大
長刀つきて出立給へり、越中次郎兵衛盛次、上総悪
七兵衛尉、美濃国住人恵美次郎と三人副将軍の仰を
蒙て、寄すべきにて有けるに、源氏の方には判官と
片岡太郎経春と伊勢三郎義盛ばかりぞ、平家定めて
今夜夜討にせんと計るらん、一昨日渡辺より阿波国
へただ三時に走りて、大浪にゆられて又早打して、
今日終日戦ひ暮したる者どもにて、皆疲れふして音
するものこそなかりけれ、此三人ばかりぞ敵只今寄
せなんずとて、高き所にて遠見しつ、窪所には木楯
を構へて、敵来らば打おとさんと窺ひけり、されど
も越中次郎兵衛と美恵次郎と先を争ふ程に、既にど
しいさかひせんといとなむ程に、其夜の夜討はせざ
りけり、是も平家の運の尽ぬる所也、さる程に、阿
波と讃岐とに平家を背きて、源氏に志を思ふともが
ら、あそこの山のはざま、谷の底より隠れ居てあり
けれが、ここかしこよりはせ集りて、判官の勢三百
余騎にぞなりにける、其外又引別れて武者こそ七騎
来りけれ、判官何者ぞと尋ね給ふに、八幡殿の御め
のと子に、雲上の後藤内範明が三代の孫、後藤兵衛範
忠と申者也、年来山林に隠れ居て候つるが、源氏の
御代にならせ給ふと承りて、参りたりとぞ申ける、判
官は昔の好み思ひやられて殊に哀にぞ覚されける、
あくる廿一日の未明けざるに、判官又屋島の城にぞ
よせ給ふ、平家は昨日より船に乗居て、或は二三町
四五町に押うかびて、互にときを作りて寄合、時うつ
る迄射合けり、去程に日もくれほどになりて、尋常
にかざりたる船一艘、渚に向ひて船を平付に直す、
是は何船やらんと見る所に、紅のはかまに、やなぎ
の五衣きたる女房の、よはひ十八九計りと見えたる
が、紅の扇をくしにはさみて、船の舳さきにさし上
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げて是をいよとぞ叩きたる、判官是をみて、いかが
はすべき、射ざらんも無下なるべし、射はづしたら
んも不覚也、いつべき物やあると尋ね給けるに、後
藤兵衛真基申けるは、下野国の住人奈須太郎助高が
子に、奈須余一惟宗こそ、かけ鳥なんどを三かひな
に二かひなは仕る者にて候へ、小兵にてこそ候へど
も、余一を召て仕らせ給へとぞ申ける、余一仰を承
りて、褐衣の鎧ひたたれに、くろかはをどしの鎧き
て、きかはらげなる馬にのりて、渚に向ひてあゆま
せけり、馬の太腹つかるまで打入て見れば、馬はし
きりにすすみけるを、小手綱にゆらへて引拘たれば、
扇立てたる所は七たんばかりぞ見えたりける、かぶ
ら矢打くはせてみるに、扇は風に吹けて座敷にたま
らず、くるりくるりとぞめぐりける、まことに射にく
げなり、余一矢をはづして目を塞ぎて、帰命頂礼吾
国仏神、取わけては日光の大権現、宇津宮大明神、
この矢はづしつる物ならば、再び我が国へ帰るべか
らず、ただ今腹かき切りてすなはち海に沈むべし、
願くは此矢はづさせ給ふなと祈念して、目を見あげ
たれば、扇の座敷ぞ定りたり、矢束は十二束、飽ま
で引てしばしかためて放ちたれば、弓はつよし、海
の面に長なりして、あやまたずかなめ所を一寸ばか
りあげて、ひいはたと射たり、扇は空にさつと上る、
紅の扇の夕日にかがやきて、空にしばしひらめきた
るぞ面白き、海のおもてにさと落て、白波にこそ浮
びたれ、龍田河の紅葉の、河瀬の波に散まよふに異
ならず、月出したる扇の、浪の上にただよひたるが
面白さに、陸には箙をたたきてどよむ、海にはふな
ばたをたたきて感じけり、此の興に入て、黒皮威の
鎧を着たる武者の五十余ばかりなるが、扇立たる所
にさし出て、三時ばかり舞ひたりけり、奈須余一中
指をとてつがひて、首の骨をひやうつと射きりけれ
ば、海へ逆さまにこそまろび入けれ、こんどはにが
りて音もせず、色もなういたりと云人もあり、手全
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く射たりと云者もあり、彼扇たてたる女房は、もと
は建春門院の雑仕に参て、玉虫と召されけるが、当
時は平大納言時忠卿の中愛の前とぞ申ける、天下に
聞えたる美女なり、是をもて扇をたてたらば、九郎
判官さるなさけある男なれば、近く打寄せて興に入
んずらんとはかりて、船の艫屋形に簾をかけて、そ
の中に能登守教経、上総悪七兵衛景清以下惣じて十
余人、究竟の手たりの精兵をととのへて、近付より
たらば、一矢にい落さんと巧みて、さらぬ様にもて
なして、渚近くさし寄せたれば、判官先に心えて、
はるかに引退てぞ見られける、蘇武が胡国に囚られ
し事も、一百の城をかまへたりけるに、九十九の城
おとして、今一の城を攻落さんとしたるに、美女を
出て扇をたてて射させけるに、心ゆるしをやしたり
けん、生ながらとられて、十九年の春秋をぞ送りけ
る事どもぞんぢし、平家のはかりごと賢かりけれど
も、源氏それに落ざりけるこそいみじけれ、去程に
平家の方より、はし船に弓取一人、打ものもちたる
一人、楯付一人、以上三人乗せてするりと押し寄せ
て、渚に下りて楯を付きて、敵をよせよと招きたり、
判官これを見給ひて、先若党一あてあてよとのたま
へば、常陸国住人水深屋十郎、同弥藤次、同三郎、
武蔵国住人金子十郎、同余一、究竟の者五騎連てを
めいてかく、真先に水深屋が進むを、楯の陰より黒
つはの征矢の、塗のの十二束三ぶせあるを能引て放
ちければ、水深屋が馬の草分に、矢筈隠るる迄こそ
射こうたれ、馬がはぬれば足をこしてひらとたつ、
太刀を抜て額にあてて飛でかかるに、楯の陰より大
の男の大長刀持ちて走り向ふを、水深屋十郎しばし
むかひあひけるが、大長刀に叶はじとや思ひけん、
かいふして迯げけり、やがて追かけたり、大長刀を
ば左の脇にはさみて、右の手を差のべて、水深屋が
甲のしころをつかまんつかまんとするが、二三度取はづ
しけるが、追懸てむずととらへて、ゑいとひく、水
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深屋一すまひすまふやうにぞ見えける、鉢付の板よ
りしころをつと引ちぎりてぞ迯げたりける、残の四
騎は馬を惜みてかけず、どうれうどもが馬のかげに
迯入てかへり見れば、たけ七八尺ばかりなる大の男
が、左の手には大長刀を持て、右の手にはしころをさ
げて、あざ笑ひてぞ立たりける、我をば誰とか見る、
わらべの云なる上総悪七兵衛景清とこそ申なれとて
帰りにけり、平家は是をもて少し色直りたり、平家
勝に乗て船三十余艘を渚に押寄せて、兵三百人おり
立て源氏を射る、判官安からず思ひて、せめよや者
共平せめにせめよとてをめいてかく、源氏は馬武者
にて、さんざんにかけては引退て、馬の息を休め、又
押寄せては散々にせめ、我身をも休め、平家は徒武者
にて敵のよするをば防げ共、引時敵におつかけず、平
家はさんざんにかけられてけちらされ、こらへずし
て取物も取あへず、我先にと船に取乗て押出す、判
官は馬の太腹つかるまでせめ入て戦ひけり、船の中
より熊手を打かけて、判官の甲のしころをひかんと
す、如何したりけん弓をかけ落されて、うつぶして
是を取らんとするに、既にしころの上に熊手をから
と打かけたり、兵ども後に扣へて、御棲枝[B 「棲枝」に「たらしイ」と傍書]ただ捨て
て帰らせ給へや帰らせ給へやと申せども、終にふちにてかき
よせて、弓を取て帰給ふ、兵ども申けるは、たとへ
いかなる御弓にて候とも、御命にかへてとらせ給ふ
事、口惜しき事候と申ければ、義経宣ひけるは、弓を
惜むに非ず、大将の弓といはんものは、五人十人し
ても張らばこそあらめ、わうじやくの弓をとりもち
て、源氏の大将が弓よとて笑はん事のねたければ、
命にかへて取たるぞかしとのたまへば、兵ども皆理
とぞ申ける、熊野別当湛増は、源氏の方へや参るべ
き、平家の方へや参るべきとためらひけるが、唯神
慮に任せ奉り、田辺の新宮にて御神楽をしけるに、
御子託宣して申けるは、白鳩は白旗に付と申けれ共、
湛増猶用ひずして赤鶏七、白鶏七とり合せて、白は
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源氏の方、赤鶏は平家の方とて、社頭にて合せける
に、赤鶏は一つがひもつがはず負にけり、此上は疑
ふ所なしとて、若宮王子の御正体下し奉りて、柳の
枝に付け奉りて、旗文には金剛童子、倶利加羅明王を
かき奉り、二百余艘の兵をととのへて、田辺の湊よ
り漕ぎ渡りて源氏に加はる、河野四郎通信、一千余
騎の軍兵を率して、伊予国よりはせ来て源氏に加は
る、かかりければ九郎判官いとどちから付て、入替
入替荒手の兵どもをもてせめければ、平家こらへず
して屋島のいそをば引退、当国のうちしどの道場に
こもりて、伊予の国の勢をぞ相待ける、判官伊勢三
郎義盛を召して、伊予へ越たんなる阿波民部成良が
嫡子、田内左衛門尉成直を召して参れとの給へば、
義盛承候ぬとて十五騎の勢にて向ひけり、田内左衛
門は河野をば打迯しけれども、河野が伯父福茂新次
郎以下のともがら、百六十人が首を切て先に持せて、
家子郎等数多虜にして、館に火をかけて焼払ふ、三
千余騎の大勢にてゆゆしげにて帰る所に、伊勢三郎
義盛はなつきにこそ行合たれ、義盛が申けるは、いか
に和殿はいづくへとてましますぞ、屋島の城は追落
してやき払ひたるぞ、大臣殿はいけどられ、左衛門
尉殿は討死、新中納言殿、能登殿こそいしかりつれ、
和殿の父阿波民部殿は、降人に参てましましつるを、
義盛がもとに預け奉りて候ぞ、源氏の世には平家を
討ち、平家の世には源氏を射る、今に始めざること
ぞ、何か苦しかるべき、和殿も甲をぬぎ弓を弛て参
り給へ、義盛かくてあれば、和殿親子の命は申うけ
んずるぞと申ければ、是を聞て三千余騎の兵ども、
国々よりはせあつまられたる夷なれば、我前にとぞ
おちにける、年頃の者二三十騎残たれども、彼等申
けるは、然るべき事にてこそ候らめ、大殿もあれに渡
らせ給候なるに、唯とく甲を脱ぎて、弓をはづして
参らせ給へと申せども、軍せんおもひきるといふ者
一人もなし、力及ばず、田内左衛門甲をぬいて降人
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に社参りけれ、平家は田内左衛門生捕れぬと聞えけ
れば、頼む木の下に雨のたまらぬ心地して、しどの
浦をも押出し、波にゆられ風に随ひてぞ漂ひける、
阿波民部も、田内左衛門生どられぬと聞しかば、浦
浦島々につきたれども、気も心も身にそはず、我子
のゆくゑをぞかなしみける、四国の輩もこれをみて
進まず、所々の軍も、平家は成良を副将軍とも頼たり
ければ、四国の輩がすすまねば、次第にすいてぞみ
えたりける、廿二日、渡辺神崎両所にありつる源氏
の兵船、五百余艘になりて、かぢはらを先として、む
らめいてこそこぎきたれ、判官のともなりける兵ど
も是を見て、六日の菖蒲会はてての花いさかひ、いさ
かひはててのちぎり木かなとぞ笑ひける、三月十七
日、住吉の神主長盛院の御所へ参りて申けるは、去
十六日の丑刻に、当社の第三の神殿よりかぶらの音
聞えて、西をさして罷りぬと奏しければ、法皇御剱
を長盛に付て、御神宝以下種々のへい帛を相ぐして
奉らせ給ひけり、昔神功皇后新羅をせめ給し時、伊
勢太神宮より二人の荒御前をさし添給ふ、二神船の
ともへに立ちて守り給ふ、ついに新羅をうちたひら
げて、一神は摂津国住吉郡に止り給ふ、今の住吉大
明神と申是也、此大明神は苦海の塵に交り給ひて、
利生を施し給ふ事年久し、社は千木のかたそぎ神さ
びて、行合ぬまの霜をいとひ、御顔はよはひ八旬に
まします老人とぞ承る、一神は信濃の国諏方の郡に
とどまり給ふ、諏方大明神これ也、昔の征伐の事を
思召わすれず、か様にぞ祈り申させ給ひける、源氏
は三月十八日長門国おいつ、へいつに陣をとれば、平
家は門司の関壇の浦、ひく島にこそ陣を取れ、勝浦
引島いかがあるべからん覚束なし、源平両陣中間わ
づかに三十余町なり、四方浦々よりいくらといふ数
をしらず、兵船どもこぎ来り、源氏の勢はかさなれ
ば、平家の勢は落ぞゆく、されども平家の方にも跡目
に付て来り集る、兵船五百余艘なり、源氏のふねは
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三千余艘ぞありける、壇の浦にて判官とかぢはらと
して、いくさせんとする事あり、梶原、判官に申ける
は、今日の先陣は侍どもにたび候へ、判官のたまひ
けるは、義経がなくばこそとありければ、梶原いか
にまさなく君は大将にてましまし候へといへば、判
官、鎌倉殿こそ大将よ、よしつねは御代官として奉行
をこそうけたまはれ、和殿原も義経も唯同じ事ぞ、
一谷は南は海北は山、東西の道ほり切りて、籠る敵
十万余騎、たやすく攻め落しがたかりしを、義経鵯
越より身を捨て、ただ三時に追おとしつ、屋島の城
を落ししも、人は皆波風に恐れて渡らざりしを、義
経がただ五艘にてわたして、屋島の城を追落しつ、
いまはここばかりの詰軍になりたれば、先を駈て鎌
倉殿に奉公申さんずるなりとのたまへば、梶原先陣
を望かねて、此殿は侍のしうにはなりとげじとぞつ
ぶやきける、判官は腹をたてて、梶原は日本一のを
この者にてありけるはとの給へば、梶原もへりもお
かず、是はいかに鎌倉殿の外に主はなきものをとい
ふ、判官馬に打乗て、矢を取て打くはせんとし給ふ、
梶原も馬に打乗て矢取たばさみけり、伊勢三郎義盛
判官の馬の前に進んで、太刀の柄に手をうちかけて
三寸ばかり抜きまうけて、真中切らんと梶原をにら
まへてぞ立たりける、武蔵房弁慶大長刀のさやはづ
してつと寄る、佐藤四郎兵衛忠信つとよる、梶原が
嫡子源太景季、同平次景高、二人父が左右の脇につ
とよる、判官の馬の口に土肥の次郎実平、三浦介義
澄、左右の輿に取付て、両人共に泣々申けるは、是
程の大事を御前にあてさせ給て、同士軍せさせまし
まし候はば、敵の力になり候なんず、偏に天魔の所
為とこそ覚候へ、鎌倉殿のかへり聞召候なん事こそ
穏便ならず候へと申ければ、判官静まり給にけり、
梶原すすむに及ばず止にけり、三月廿四日源氏数万
艘の兵船、夜のあけぼのに押寄せたる、平家の軍兵
十万余人待かけて、互に鬨をつくる声おびただし、
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うへは悲相天までもひびき、下は海龍王も驚くらん
とぞおぼえたる、門司関壇の浦はたぎりて落つる汐
はやなり、平家の船は汐におひて出来たりけり、源
氏の船は汐に向て押落され、沖の汐の早ければ、梶
原船を押へて、敵の船の行ちがふ所を熊手を打かけ
て乗移り、小長刀を取持ちて、ともからへまでぞな
いたりける、首二取りて新中納言知盛の船の真先に
出来ければ、渚よりここなる船は誰が船ぞといふ、
船より答へけるは、東国の奴原の君の御笠印見知り
参らせぬものやある、名乗れと申せば、斎院次官親
能と申、ことわりや親能は古筆などぞとらんずる、
弓矢のかたは珍しなどとてはと笑ふ、和田左衛門尉
が未だ和田太郎とて有けるが、褐衣の鎧直垂に、赤
地錦にて袖かへて、黒皮威の鎧に、黄河原毛なる馬に
乗て打立つ、沖なる新中納言の船をささへて射る、
渚より沖にむけて二町余り三町に及びて、新中納言
の船を射越して、二の征矢を一所にこそ射うかべた
れ、中納言此矢を召寄せて見給へば、鷹の羽染羽、中
黒わり合せて作りたりけるが、かざらぬ十三束三ぶ
せに口巻より一束あけて、白箆に和田小太郎義盛と
焼書をこそしたりけれ、此矢ぞ物にも強く立ちて遠
くも行きける、和田小太郎其矢給はらんとぞ招ける、
新中納言これに遠矢射つべき兵や有ると尋給へば、
伊予国住人新紀四郎親家ぞ撰れて参りける、御船の
屋形に召されて二の征矢を暫くつまよりて、和田太
郎は渚より沖へ二町余り三町をこそ射たるに、是は
沖より渚へむかひて四町余りぞ射たりける、親家一
家の者どもが申けるは、和田小太郎が我ほど射る者
あらじと思ひて、まねきてかきたる黷弓かなとぞ申
ける、和田小太郎射劣りぬと思ひて、意趣を立てて、
小船に乗て漕ぎめぐり漕ぎめぐり、おもてに立たる者を差
つめ差つめ射払ければ、おもてを合するものなかりけ
れば、新中納言船をぞこぎ去り給ひける、新中納言
船の屋形に立出て、四方を見渡し給ての給けるは、
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日本我朝にもかぎらず、天竺震旦にもならびなき名
将勇士といへども、運命の尽ぬるのちは力及ばず、
されども名こそ口惜けれ、東国の奴原に弱げ見ゆる
な者どもとのたまへば、越中次郎兵衛盛次が侍ども、
此仰承れと申ければ、あはれ同くは大将軍九郎義経
に組ばやといふ、盛次が申けるは、九郎はせい小き
男の白きが、向ふ歯そりたるなるぞ、さまをやつし
て尋常なる鎧は着ぬ也、ここにて着たる鎧をば、か
しこにてはかへ、かしこにて着たる鎧をばここにて
かへ、常に鎧を着かゆるなるぞ、これを心得てくめと
云ば、中坂東の奴原は、馬の上にてこそ口はきく共、
船軍はいつ習べきぞ、魚の木に上りたるに似てこそ
有んずれ、九郎は心こそ猛く共、せい小き者なれば、
目懸てんにはなじかは組ざるべき、ひくんで海へ入
んずる物をとぞ申ける、新中納言か様に下知し廻り
て、大臣殿の御船に参り給て、今日は御方の兵共軍は
よくしつと覚え候、侍共が事柄よくみえ候、但し成
良が色の変りてみえ候しや、首討候ばやと申給へば、
只今見えたる事もなきに、いかがさうなく切んずる
ぞ、一定を聞き定めてこそとて、分明の御返事なし、
軈てめせとて、阿波民部成良を召さる、木蘭地の直垂
に、赤威の鎧をぞ着たりける、御船のせがいに畏て
候けり、大臣殿いかに成良は色かはりて見ゆるぞ、
おくしたか、四国の者共に軍よくせよといふべしと
仰ければ、なじかは臆し候べきとて立にけり、新中
納言哀れしや首をうたばやと覚されけれども、大臣
殿ゆるし給はねば力及ばず、平家は五百余艘の船よ
り山鹿兵藤次秀遠、菊池三郎孝康以下、強弓せいび
やうを五百人撰び出して、矢面に立ちて射ければ、
源氏の先陣こらへずして、兵船ども少し退く、平家は
御方勝ちぬとて、せめつづみ打て悦の鬨をぞ作りけ
る、其最中にいくらと云数を知らず、鯨ぞ喰て出来
る、大臣殿、小博士を召していかなるべきぞと御尋あ
れば、博士勘申けるは、此鯨が喰かへらば御方御悦
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なり、喰通りぬる物ならば、御方御大事只今にあり
とぞ申ける、それに平家の方の船の下を無相違喰
通りぬ、博士泣々今はかう候とぞ申ける、是を聞給ひ
ける人々の御心の内、さこそ浅ましく覚されけめ、
判官は射しらまされて、いかがあるべきと思ひ煩ひ
給けるに、しばしは白雲やらんと見えけるが、空よ
り白旗一ながれ判官の船の前に押付け、渚の見ゆる
迄おりければ、八幡大菩薩の現ぜさせ給ひたるとて、
判官以下の軍兵甲を脱ぎて拝み奉る、平家もはるか
に是を見て、 身の毛もよだちてぞ覚えける、平家五
百余艘と申は、松浦党の船百余艘、山鹿兵藤次秀遠が
一党三百余艘、平家の一門の船百余艘也、平家は四
国九州の兵をば、後陣の武者に頼みて、定めてとも
に鬨を合せ進むらんと思ひ給ひければ、四国の者ど
も源氏と一になりて、平家を中に取籠てさんざんに
射る、平家周章てまよひ給にけり、今まで御方と思
しつる者どもが、我に向て弓を引剱をぬきければ、
敵も御方も見分けず、源氏は唐船をぞ心にくうはせ
んずらんとて、唐船にはけしかる物どもを、武者に
作りてのせあつめて、兵船には究竟の船をのせて、
源氏唐船に乗うつらば、兵船にて押まきて討んとし
たりけるに、阿波民部がかへり忠してければ、源氏
唐船に目をもかけず、兵船に押寄せて、水手梶取ど
もを射伏せ切りふせければ、船を直すに及ばず、ろ
棹を捨てて、船の底に倒れ伏しければ、源氏みな平
家の船に乗移り、さんざんに戦ふ、哀れ新中納言の
よくのたまひつる物をと、人々後悔しけれどもかひ
なし、阿波民部成良は此二三年平家に忠をつくし、
度々の軍に父子ともに身命を惜まず戦ひけるが、事
の体いかにも叶はじと思ける上、嫡子成直生捕られ
にければ、判官に心を通はしければ、当国の住人等
源氏に従ひ、忽にかくしけるこそ人の心はむざんな
れ、是も平家の運の尽ぬる故也、新中納言知盛は、
女房達の御船に参りて、見ぐるしきものども取清め
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候へやとのたまへば、女房達軍はいかにと問はれけ
れば、軍は今かう候、はやいつしか珍しき東男どもを
こそ御覧ぜんずらめとて、打笑ひ給へば、何といふ只
今の戯ぞやとて、泣あひ給ひけり、二位殿はこれを
聞召し、鈍色の二衣に袴のそばとりてはさみ、八歳
にならせ給ふ先帝を抱き奉り、我身に二所結付け奉
る、宝剣をば腰にさし、神璽をば脇にはさみて出給
ひければ、先帝是はいづくへぞと仰ありければ、弥
陀の浄土へぞ我君とて、波の下にしづみ給ふとて、
今ぞしる身もすそ川の御ながれ
波の下にもみやこありとは W141 K214
かなしきかなや、無常の風、忽に花のすがたをちら
し奉る、いたはしきかなや、分段の荒き波、忽に玉
体を沈め奉る、昔は万乗の主として、殿をば長生と
名付け、門をば不老と号せしかども、雲上の栄花尽
はて給て、海底に沈み給ふ、女院是を御覧じて、御焼
石御硯箱を左右の御袖に入れさせおはしまして、一
所にぞ入せ給ひける、判官の郎等に渡辺右馬允眤が
熊手に懸て引上奉る、小船にのせ奉りて漕去りぬ、
大納言典侍殿、内侍所をとり参らせ給て、海へ入ら
んとせがひに出給けるを、御衣の裾を船端に射付ら
れて、引もかなぐり給はず、内侍所をおさへ参らせ
て、うち伏せ給たりけるを、斎院次官とり参らせて、
小船にのせ奉りて漕ぎ去りぬ、これを始として女房
達我先にとぞ入給ふ、入らんとするをば扣へたり、
入たるをば取上る、女房取上られてをめきさけび給
ふ声、いくさ叫びにも劣らず、天も響き海中もひび
くばかりなり、先帝御としのほどよりもおとなしく
こえさせ給て、御姿いつくしく、御すがた髪もゆら
ゆらとして御肩すぎ、せ中にふさふさとかからせ給
たり、御面影いつの世まで忘るべきならねば、人々
女房たちも泣かなしみ給ふも理也、門脇中納言教盛、
修理大夫経盛兄弟二人、鎧のうへに碇を負ひて一所
に入給ふ、内侍所の入せ給ひたる御からびつのくさ
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り、かなくりからげをきりて、武士あけんとしまいら
せけるが、忽に目くれ鼻血たりけるを、平大納言時
忠いけどられて、からからおはしけるが、あれは内侍
所のわたらせ給ふ物をとのたまひければ、九郎判官
あらかたじけなの御事や、そこのき候へとのたまへ
ば、武士共ちりぢりにのきけり、判官平大納言に仰
てもとのごとくをさめ給ひぬ、小松御子息新三位中
将資盛、左少将有盛、若くいとけなき人々の弓を差ち
がへ、手を取組みて抱合て一所に入給ふ、丹後侍従
忠房はかきけすやうにうせ給ぬ、大臣殿は入らんと
もし給はず、船端に立ちて四方を見まはしておはし
けるを、余りのにくさに侍が通るやうにてつき入奉
る、是を見て右衛門督飛で入給にけり、大臣殿は右
衛門督沈まば我も沈み、右衛門督取上られば我も生
捕れんとおぼしけるに、右衛門督は大臣殿助り給は
ば我も助り、沈み給はば我も沈まんと思ひて、互に目
をかけあなたこなたゆられ給けり、人は皆鎧の上に
重き物を負ひ、或は抱合て入ればこそ沈みても死け
れ、大臣殿親子は素肌にて入給たりける上、究竟の
水練にておはしけり、立およぎにしつ抜手およぎに
しつ、犬掻游してふつと死げにもなし、伊勢三郎義
盛が熊手に懸て右衛門督をとりて引上げ奉る、大臣
殿はわざと游ぎよつて捕はれ給ひぬ、御乳母子の飛
騨三郎左衛門景経、何者なれば君をば生捕奉るぞと
て、太刀を抜て懸るに、義盛が童中にへたつるが、
景経一の刀に甲を打落す、次の刀に頭を二に切りわ
りぬ、堀弥太郎近くはよらで立止りて、能引て放つ
矢に、景経が内甲を射させて、ひるむやうにしける
を、弓を打捨て引組て投げまるばして、押へて首をぞ
取りてける、大臣殿我身捕上られて、目の前にて乳
母子がかくなりけるを見給て、いかなる御心地し給
ひけんと思ふぞ浅ましき、平中納言教盛の御子能登
守教経は、大力の剛の人、強弓のせいひやう矢つぎ
ばやの手ぎきなり、打もの取ては鬼神にもまけまじ
P674
と振舞給ふ、廿七にぞなり給ふ、矢つぎばやの手ぎ
きなり、打物とりては、所々の軍にいまだきず一所
もおひ給はず、矢比に参る者は射殺さずといふ事な
し、矢だね皆射つくして、打物持てぞ戦ひ給ひける、
向ふ者をばないたりいたり、にぐる物をば追かけて、
さんざんに討取給けり、我太刀長刀皆打折り、向ふ
敵に寄せ合せて、足をあげてふみたをして、其太刀
長刀を奪ひ取りて戦ひ給ひけり、それも皆打折て、
能登守殿黒革威の鎧を袖も草摺もちぎりすて、胴ば
かりを身に巻きて、丸ざやの太刀の鞘ばかりぞ腰に
残りたる、甲をも着給はず、大あらはになりてなに
も持たず、左右の手をひろげて、敵を待てのたまひ
けるは、所知しらんと思はん者は、我を生捕にして
鎌倉に行け、頼朝にいふべき事あり、対面させよと呼
はり給ふ、寄する者をばかいつかんで海へ投入れふ
み入れ、あたりを払ひて振舞ひ給へば、敵も御方も
目をすまして見ける所に、判官是を見て申されける
は、昔より弓箭取て名をなす人にも、まけ軍になり
ぬれば、みな臆する習也、あはれ能登守は手もきき
心も剛なる者かな、あの殿一人を助けて大将にせば
や、此三四年のほど源氏の矢種を尽して、今まで天
下を鎮ざる事、あの殿故ぞかし、のがれ給ふべき事
ならば、あたら大将かなとぞの給ふ、新中納言のた
まひけるは、能登殿や、いたくな罪作り給ひそ、さ
せるよき者にてもなかりけりとのたまひければ、能
登守は、あな是は大将軍九郎に組めとのたまふござ
んなれ、我もさこそ思へども、九郎が見えばこそ、
いかにもして相構へてくまんと思ひ給ふに、能登殿
と判官と寄せ合する事二度ありけり、能登守は鎧甲
に小長刀持ちておはしけり、判官もよろひかぶとに
小長刀にてありけるに、能登守、判官と見てければ、
則ち乗移り給て、艫より舳まてぞ追掛給ふ、既に討
れぬと見えけるに、判官長刀脇にかいばさみて、そ
ばなる船の八尺余り一丈ばかりのきたるに、ゆらと
P675
飛びたまふ、能登守早わざやおとり給ひけん、続て
飛び給はず、かかる事二度ありけり、其後は判官人
をすすめんとて、面にたつやうにせられけれども、人
だにも進めば、かい紛てうちへ入らざりければ、す
べて組べき様ぞなかりける、安芸守が子孫にてはな
けれども、安芸大領が子に、安芸太郎真光といひ
ける大力のがうの者、我身に劣らぬしたたか者二人
を語ひて、三人心を一にして申けるは、いざや能登
殿に組ん、一人づつ寄すればこそ取詰らるれ、我等三
人取付たらんには、たけ十丈の鬼神なりとも、しば
しはなどかひかへざるべき、いざ組んとて、三人小
船に乗て、能登殿の船の袂に小船の舳をがはとつか
せて、打物にて飛でかかりけり、一人進みけるを、能
登殿よせ合せて蹴給へば、海へさとけ入給て、残二
人つと寄を、左右の脇にかいばさみて、一しめしめ
て少しこはしとや思はれけん、いざこれさればおの
れ等とて、はさみながら海へつと飛入給ふ、其後は
又も浮び出ざりけり、新中納言見べき事はみつ、今
はさてこそあらめ、此奴原もけしかる者どもにてこ
そありけれとて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召
して、いかに家長やくそくはとのたまへば、忘れ候
まじとて、主にも鎧二領を着せ奉る、おのれも鎧二領
着て、主と手を取り組て一所にぞ入にける、筑紫の
者に八代の大夫重安は、鎧物の具ぬぎすて、親子二
人連ておよぎけり、にくし射殺せとて、源氏の軍兵
さしつめさしつめ射ければ、海の底をすみて廿余町游て
のち、重安嫡子小太郎重茂に申けるは、右の足を物
がくはへて引入るれば、今は斯と覚ゆるぞ、我を助け
よといひければ、父が足をとりて見れば、余りにあ
はてて右のすね当の上の緒をば解て、下の緒を解か
ざりければ、すねあてがすびきて、海の底に引入る
るやうにしければ、重茂父がすねあての緒を喰ひ切
て捨てたりければ、大息をつきて今は助りぬとて、父
子連て海上一里余り游ぎて、豊前国柳が津にこそ上
P676
りたれ、空しき船は浪にゆられ、風にしたがひてぞ
ただよひける、赤旗赤符海上にちぎりすてたれば、
紅葉を嵐の吹散せるに異ならず、水血に変じて渚に
よる浪も紅なり、生捕には前内大臣宗盛公、御子息
右衛門督清宗、八歳若公童名副将軍殿とぞ申ける、
平大納言時忠、同子息内蔵頭信基、讃岐中将時実、兵
部大輔尹明、僧には二位僧都全親、中納言律師忠快、
経誦房阿闍梨祐円、侍には肥後守貞能、源大夫判官
季貞、摂津判官盛澄、橘内左衛門季康、女房には女
院、重衡北政所、大納言典侍、人々の北方、上下女
房廿三人、都て生捕三十八人也、二位の外は千尋の
底に沈給ふ人もなし、一目も見給はざりつる荒夷ど
もの手にかかりて、都へ帰り給ふ心の中、王昭君が
夷に囚て、胡国へ行けんかなしみも、いかでか是に
はまさるべきとぞ覚えける、此御門受禅の日は、昼
の御座の御しとねの縁を犬喰やぶり、夜の御殿の御
帳の内に鳩入籠る、御即位の時は高御厨後に女房俄
に絶入り、御禊の日は、百子の帳の前に夫男上り居、
御在位三ヶ年が間、天変地夭打続て、諸寺諸社より恠
を奏する事ひまなし、春夏は早魃、秋冬は大風洪水、
東作の業を致すと云ども、西収の勤めにも及ばず、
三月に雨無うしては、青苗秀でずして多く横れ、九
月に霜降て秋早く寒し、秋穂は熟せずして青ながら
乾く、天下人民餓死に及ぶ、わづかにいのち生たる
者も、譜代相伝の住所を捨て、境を越えて浪人となり
て、心をくだき、愁る者里に満て、浦々には海賊、関
関道々には山賊、東国北国の合戦騒動、天行時疫飢饉
疫病大兵乱大焼亡三災七難、残る事なかりき、貞観の
旱永祚の風、上代の事なれども、此御門の御時程の事
はなしとぞ承る、秦始皇は荘襄王が子にはあらね
ども呂不韋が子也、然而天下を持事三十七年ありき、
然れば或人の申けるは、異国には斯る例も多かりけ
り、重華と申す御門は民家より出たりとこそ申しか、
高祖も太公の子なりしかども位につきたりき、本朝
P677
には人臣の子として、位をふむ事未だ承らずとぞ申
ける、元暦二年の春の暮、いかなる年月なればにや、
一人海中に沈み、百官波の上にただよふらん、
元暦二年四月三日未刻ばかり、九郎大夫判官義経、
使を院へ参らせて申けるは、去月廿四日長門国壇の
浦門司関にて、平家の輩悉く生捕にして、三種の神
器、事故なく返し入させ給べしと申たりければ、上
下悦あへり、使、源八広綱とぞ申ける、広綱を御所に
召て合戦の次第委く御尋あり、御感の余りに左兵衛
尉に召仰られけり、五日猶御不審の間、北面の下ら
う藤判官信盛を西国へ下し遣はす、宿所へもかへら
ず、やがてむちを上げてはせ下りける、
十六日九郎大夫判官生捕ども相具して都へのぼる、
播磨国明石浦にとどまりけるに、夜の更行ままに月
隈なくて、秋の空にもおとらざりけり、渚の浪も静
にて、女房たちかしらさしつどひて忍び声になく、
さらぬだにもの哀なるべき磯の苫屋の旅ねなりけれ
ば、さこそは悲しく覚しけめ、中にも帥典侍殿つく
づくと詠め給て、いと思召し残す事なかりければ、
枕もうかぶばかりにて、
ながむればぬるる袂にやどりけり
月よ雲井のものがたりせよ W142 K215
雲のうへに見しにかはらぬ月影は
すむにつけてもものぞかなしき W143 K216
本三位中将北方、
我身こそあかしの浦に旅ねせめ
おなじ水にもやどる月かげ W144 K217
と口ずさみ給ひたりけるが、さこそものかなしくて
昔も恋しかるらめ、折しも哀に聞えけり、
昔北野天神大宰府に遷給けるに、此所に止り給たり
けるに、名にしおふ明石の浦の月なれど都より猶く
もる空哉と、詠じ給ひける御心の中もかくやと覚て
哀也、されどもそれは御身一人の御事なりしかば、
是はさしもむつましく思召しける人々は、そこのみ
P678
くづとなりはて給ひぬ、百官浪の上に浮び、平家の
一門は軍兵に囲まれ、国母官女は東夷西戎にかこま
れて、各々故郷へ帰入せ給たりとても、むなしき跡の
見えて、落付居させ給ふべき所もなかりければ、た
だいかにもならばやとぞ思召ける、せめてのかなし
さの余りに、月よ雲井の物語せよと、常は口ずさみ
給ひけるぞ哀なる、九郎大夫判官東人なれども、優
に艶ある心地して、ものめでしける人なれは、身に
入て哀にぞ思ひ給ひける、
同廿五日に、内侍所神璽鳥羽殿に着せ給ければ、勘
解由小路の中納言経房、高倉宰相中将泰道、権右中
弁兼忠、蔵人左衛門権佐親雅、榎並中将公時、但馬
少将範能御迎に参られけり、御ともの武士には九郎
大夫判官義経、石河判官代義兼、伊豆蔵人大夫頼
兼、同左衛門尉有綱とぞ聞えし、子刻先太政官の庁へ
入せ給ふ、内侍所注の御箱帰り入せ給ふ事はめでた
けれ共、宝剣はうせにけり、神璽を注の御箱と申、海
上に浮たりけるを、常陸国住人片岡太郎経春、取上
げ奉りたりけるとぞ承る、神代より伝はりたる霊剣
三あり、草薙剣、天蛇斫剣、十握剣是也、十握剣は
大和国いその上布留の社にこめらる、天蛇斫剣と申
は、元は羽々斬の剣と申けるとかや、此剣の刃の上
にあたる物の、自ら斫れずと云事なし、されば利剣
と申し候より蛇の剣と申伝たり、此剣は尾張国熱
田宮にあり、草なぎの剣は内裏にとどまる、代々の
御門の御守也、即宝剣と申は是也、昔素盞烏尊、出雲
国素鵞の里に宮作りし給し時、其所に八色の雲常に
たなびきければ、尊御覧じてかくぞ詠ぜさせ給ひけ
る、
八雲たつ出雲八重垣つまごめに
八重垣つくるその八重垣を W145 K219
これぞ大和言葉の三十一字のはじめなる、国を出雲
と号するも、此の故とぞ承はる、素盞烏尊出雲国へ
流され給たりけるに、其国の簸の川上の山にいたり
P679
給時、村南村北に哭する声たえず、これを恠しみて
尋行給ふに、一人の老翁老婆あり、其娘十三人あり、
十二人は年ごとに大蛇のゑじきになりぬ、一人の娘
生年十三になる、容顔人に勝れたり、名をば奇稲田
姫と号す、曾波姫とも申けり、大蛇呑んとする故に
なくなりと申ければ、尊是を憐み給て、其ひめ我に
得させてんやとの給へば、命をいけられ奉りてんに
は、いかでかをしみ奉るべきと申て、かの曾波姫を
尊に奉る、すなはち后になし給にけり、装束せさせ
奉りて、湯津の妻櫛と云に取なして、御もとどりに
さし給て、后の父出雲国美須の郡に長者にて有けり、
名をば手摩乳と云、母妻をば足摩乳といふ、かかる
長者にてありければ、八〓の酒を八の船にたたへて、
后を大蛇の居たるうへの山岡に立て奉りて、そのか
げを酒船の底にうつしたまひたりけるに、大蛇来れ
り、尾頭ともに八あり、せなかの上には苔むしても
ろもろの木生ひたり、眼は日月の光のごとし、年々
人をのむ事幾千万といふ事をしらず、是によて村南
村北に哭する音絶ざりけり、大蛇八の頭八の尾、八の
岳八の谷に匍はびこれり、此酒をみるに、后八の船
にうつり給たりければ、大蛇后の影を見て、后を呑
奉らんと、八の頭八の船に各々一つづ酒船に落入て、
あくまでのみてゑひふしたり、其時素盞烏尊帯給へ
る十握の剱をぬいて、大蛇を寸々に切給ふに、其尾
あへて伐せず、割て見給へば、尾の中に一の剱あり、
是神剱也、則天照太神に獻りつつ、我天岩戸にとぢ
籠りたりし時、近江国伊吹が嶽に落したる剱也と申
されければ、伊吹大明神と申は是也、此剱大蛇の尾
に有る時、常に黒くもおほへり、故に天むらくもの
剱と名づく、天孫天下給しに、天照太神三種神器を
さづけたまひしその一なり、昔ある者鬼神に追れて
逃けるに、いかにも逃のびつべくもなくて、既に囲
まれんとしければ、懐よりつまぐしを取出して、う
ちかきたりければ、鬼神追はずしてかへりにけり、
P680
素盞烏尊も是をおぼし出して、かの后を湯津の妻ぐ
しに取なし給ひけるにや、命はのびにけり、素盞烏
尊と申は、出雲国杵築大社と申は是也、此村雲の剱
は、天の宮の御宝とし給けるに、葦原中国の主にて
天孫をくだし奉り給しとき、御剱を御鏡に添へて獻
り給けり、代々帝王内裏に崇置給たりけるを、崇神
天皇御宇六年に、霊威に恐れて天照御神豊鋤入姫の
命に授け奉りて、大和国笠縫村磯城のひもろぎにう
つし奉りし時、草薙の剱を天照御神に副奉り給ふ、
彼時石凝姫と天目一箇の二神の苗裔にて、剱を鋳改
て御守とし給しに、もとの剱にあひ劣り給はず、草
薙の剱は、崇神天皇より景行天皇迄、天照御神の社
壇に崇置れたりけるを、まきむくの日代の朝の御宇
四十年に、東夷叛逆の聞えある間、日本武尊御心も
剛に御力もすぐれてましましければ、此尊を東国へ
下し奉りけるに、伊勢太神宮へ参りて、倭姫命をもて
御いとまを申させ給けるに、崇神天皇の御時、内裏よ
り納奉し天の村雲の剱を、倭姫命をもて日本武尊に
授け奉給ふ、尊これを給て、東国へおもむき給て、
駿河国に着給ふ、浮島が原にて其国の賊徒偽て、此野
に鹿多し、狩て遊ばせ給へと申ければ、尊野に出て狩
したまひけるに、草深くして弓矢をかくす計り也、
凶徒尊を焼殺し奉らんとて、四面に火を放つ、尊帯
給へる天の村雲の剱をもて草を薙給ければ、火とど
まりにけり、又是より火を出し給たりければ、風忽
に夷賊の方へ吹覆ひて、凶徒悉く焼死にけり、それ
より此所をば焼けつぼといふ、天の村雲剱を是より
草薙の剱とあらたむ、日本武尊国々の凶徒を討平げ
て、所々の悪神を鎮て、同四年〈 癸丑 〉に尾張国へ帰り給
て、伊勢国へ移り給しに、伊吹の山神の毒気に当り
給て、御脳重かりければ、生取の夷共をば太神宮へ
参らせ、日本武彦をば都へ奉て、天皇に奏し給ふ、
去程に御年三十にて薨給て、白鳥となりて西を差て
飛去り給にき、讃岐国に白鳥の明神と申は、日本武尊
P681
の御事也、草薙の剱をば、尾張国熱田の社に納たて
まつりたりしを、其後天智天皇七年に新羅の沙門道
鏡、是を盗み取て新羅へ渡る、波風荒くして忽に海
底に没せんとす、是霊剱の崇也とて、彼剱を海中に
投[B 没イ]つ、龍王是をのせて奉獻す、天智天皇朱鳥元年に、
尾張国熱田社へ送り奉る、是のみならず、陽成院狂
病にをかされ給て、宝剱をぬき給へりけるに、夜の
御殿ひらひらとして雷のごとし、恐怖て宝剱を〓給
たりければ、白旗となりてさやにさしにけり、世の
世にて有る程はかうこそありけれ、平家取て都の外
へ出給ひ、二位殿腰にさして海に入給とも、上古な
らばなじかはうすべき、末代こそ心うけれ、かづき
する海人に仰せて是を求させ、すゐれんするものを
めしているれども見えず、天神地祇に幣帛を奉て、
祈り大法秘法行はれけれども其験なし、竜神是を取
て龍宮に納てければにや、つひに出来らざりけり、
時の有職の申されけるは、八幡大菩薩百王鎮護の御
誓あらたまらずして、石清水の御流つきざる上、天
照御神月読尊、明かなる御光いまだ地に落給はず、
末代澆季なり共、帝運の極る程の事あらじとぞ申給
へりける、或儒士の申けるは、昔出雲国素盞烏尊に打
殺され奉る大蛇、霊剱を惜む執心深くして八頭八尾
標木として、人王八十代後八歳の帝となりて、霊剱
を取返して、海底に入給ふ共申、九重の淵底の竜神の
宝となりにければ、二たび人間に返らざるもことわ
りなりとぞ傾申ける、二宮今夜京へ入らせおはしま
す、院より御迎に御車を参らせらる、七条侍従信清
御供に候はれけり、七条坊城の御母儀のもとに渡ら
せ給ひけるを、もしの事あらば儲の君にとて、二位
殿のさかさかしく具し参らせられたる也、都にまし
まさば、此宮こそ御位に即せおはしまさましか、し
かるべき事なれども、四宮の御運のめでたくましま
すとぞ時の人申ける、御心ならず旅の空に出させ給
て、波の上に三年を過させ給ければ、御母儀も御乳
P682
母の持明院の宰相も覚束なくて、恋しく思ひ奉りつ
つ、いかなる御まさにか聞なし参らせんずらんと思
けるに、安穏に入せ給たりければ、見奉りてたれもた
れも悦泣しておはしましける、此御子は今年七歳に
ならせ給ふとぞ聞えし、四月廿六日には、内大臣以
下平氏の生捕ども京へ入る、八葉の車にのせ奉て、
前後の簾を上げ、右左の物見を開く、内大臣は浄衣を
ぞ着給へる、御子右衛門督清宗御年十七、白き直垂
着て車の尻に乗給へり、季貞、成澄、馬にて供にあり、
平大納言おなじくやりつづく、子息讃岐中将時実、
同車してわたさるべきにてありけるが、身所労なり
ければ渡さず、内蔵頭信基疵を蒙りたりければ、閑
道より入にけり、軍兵前後左右に打囲めていくらと
いふ事をしらず、雲霞のごとし、内大臣は四方を見
廻して、いたく思ひ入り給つる御気色もなし、さし
も花やかになさけありし人の、あらぬものに疲衰給
へるぞ哀なる、右衛門督はうつぶして目も見あけ給
はず、ふかく思入給へる御気色なり、貴賎上下見る
人都の内にも限らず、遠国近国山々寺々より、老た
る若き来集て、鳥羽の南門作道四塚に続きて、是を
見る人は顧ることをしらず、車は轅もめぐらすこと
を得ず、仏の御智恵猶籌尽がたし、治承養和の飢饉、
東国北国の合戦に、人は皆死うせたると思ふに、猶
残り多かりけりとぞ見えし、都を落給てわづかに中
一年也、無下に間近き事なれば、めでたかりし事も
忘れず、今日の有さま夢まぼろしとも分けがたきも
のの、心なきあやしの賎の男しづの女に至るまで、
涙を流し袖を絞らぬはなかりけり、ましてなれちか
づき、詞のつてにもかかりけん人の、いかばかりのこ
と思ひけん、年来重恩を蒙り、親祖父の時より伝はり
たる輩も、身の捨がたさに多く源氏に附きたりしか
ども、昔のよしみは忽に忘るべきにあらず、いかば
かりかなしかりけん、おしはかられていとをし、さ
れば袖を顔におしあて、目も見あげぬ者もありける
P683
とかや、今日内大臣の車やりつる牛飼は、木曾が院
参の時車やりて門を出したりし、孫次郎丸が弟の小
次郎丸也けり、西国にてはかりに男になりて有ける
が、今一度大臣殿の御車をやらんと思ふ心深かりけ
れば、鳥羽にて九郎大夫判官の前にすすみ出て、舎
人牛飼など申者は、下臈のはてにて心あるべき者に
は候はねども、年来おほしたてらて、その志浅から
ず候、さも然るべく候はば、大臣殿の最後の御車を
仕らばやと思ひ候と、なくなく申ければ、九郎大夫
判官憐み給て何かは苦しかるべきとてゆるされにけ
り、手をすりつつ悦で尋常にとてしやうぞきて、大
臣殿の御車をやりたりけり、道すがらもここにけと
どめては涙をながし、かしこにとどめては袖をしぼ
る、人皆袖をぞゆらしける、法皇六条東洞院に御車
を立てて御覧ぜらる、公卿殿上人車を立て並べられ
たり、さしも睦しく思召けるを、けふよそに御覧ず
るぞ憐なる、御供にさぶらはれける人々も、只夢と
ぞ思はれける、いかにしてあの人に目をも見かけら
れ、一詞をもきかばやとぞ思ひしに、かく見なすべ
しとは少しも思はざりし事かなとぞのたまひける、
一年大臣になりて拝賀の時、花山院大納言をはじめ
て十二人供してやりつづけ給へり、中納言四人三位
中将三人迄おはしき、殿上人は蔵人頭右大弁親宗以
下十六人、公卿も殿上人も今日を晴ときらめきてぞ
見えし、此平大納言は時忠左衛門督とておはしき、
院御所を始めて参り給ふ所ごとに、御前へ召され給
ひて、御引出物給てめでたかりし事ぞかし、かかる
べしとは誰かは思ひし、大路を渡して後は、大臣殿
父子、九郎大夫判官の宿所、六条堀河におはしけり、
物参らせたりけれども、御箸もたて給はず、互に物
はのたまはねども、父子御目を見合せ給て、隙なく
涙をぞ流したまひける、夜になれども装束もくつろ
げ給はず、御袖をかたしきてぞふし給ふ、右衛門督
も寝給ひたりけるを、大臣殿御袖を打きせ給ひける
P684
を、源八根井太郎江田源三などいふ、預り守奉りけ
る者ども是を見て、あないとをしや、あれ見給へ、
父子の煩悩ばかりむざんなる事こそなかりけれと
て、猛き武士なれども袖をぞしぼりける、
建礼門院は東山の麓、吉田の頭なる所にぞ立入らせ
給ひける、中納言法橋慶恵と申ける奈良法師の坊な
りけり、住荒して年久しくなりにければ、庭には草高
く軒にはしのぶ茂りつつ、簾絶ねやあらはにて、雨風
もたまるべくもなし、昔は玉の台を磨き、錦の帳にま
とはれて、あかし暮し給ひしに、今はありとありし
人々には皆離れはてて、浅ましげなる朽坊に、只一
人落付給へる御心の内いか計りなりけん、道の程伴
ひ奉りたりける女房達も、これよりちりぢりになり
ぬ、心細さにいとどきえ入るやうにぞおぼしめされ
たれ、はぐくみ奉るべしとも見えず、魚の陸に上り
たるかごとし、鳥の巣を離れたるよりもなほ悲しく、
波の上船の中の御住居、今は恋しくぞ思召さるる、
同じ底の水屑となりぬべかりし身の、せめての罪の
報にや、のこり止りてとおぼせどもかひぞなき、天
上の五衰の悲しみ、人間にもありけるものをとぞ思
し召しあはせられける、四月廿七日、前右兵衛佐頼
朝従二位し給ふ、前内大臣宗盛追討の勧賞とぞ聞え
し、越階とて二階をするこそゆゆしき朝恩にてある
に、もと正下の四位なれば既に三階也、先例なき事
也、今夜内侍所太政官庁より温明殿へ入せ給て、行
幸なりて三箇夜臨時の御神楽あり、長久元年九月、
永暦元年四月の例とぞ聞えし、右近将監秦の好方別
勅を承て、家に伝はりたる湯立宮人といふ神楽の秘
曲仕て、勧賞蒙りしこそやさしけれ、此歌は好方が
祖父、八条判官資忠と申舞人の外は知れる者なし、
後に資忠堀河院に授奉り、子近方には伝へずしてう
せにけるを、内侍所の御神楽を行れけるに、主上御
簾の内にましまして、拍子を取らせ給ひつつ、近方
にをへさせ給けり、希代の勝事いまだ昔よりあらず、
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父に習たらんはよのつねの事也、賎しきみなしごま
で、かかる面目をほどこすこそめでたけれ、道をた
だしく思召たる君の御はからひの忝き事を、世の人
感涙を流しけり、今の好方は近方が子にて伝たりけ
る也、内侍所と申は、天照太神の天の岩戸におはし
ましし時、御かたちをうつしとどめんとて鋳給へる
御鏡也、我子孫此鏡を見ては、我を見るが如くにお
もへ、同殿に祝、床を一にし給へとて、御子天忍穂耳
尊に授け給たりけるが、次第に伝はりて人代に及、
第九代の御門開化天皇の御時までは内侍所と申、御
門と一御殿にましまししが、第十代の崇神天皇の御
宇に及びて、霊威に恐れて別殿にうつし奉る、近比
よりは温明殿にぞましましける、遷幸の後百六十年
を経て、村上天皇の御宇天徳四年九月廿三日子刻に、
内裏中宮を始て焼亡ありき、火左衛門陣より出来け
れば、内侍所の温明殿もほどちかかりけるうへ、如
法夜半のことなれば、内侍も女官も参あはずして、
賢所をも出し奉らず、小野宮殿急ぎ参らせ給て、内
侍所すでにうせさせ給ぬ、世はかうにこそありけれ
と思召て、御涙を流させ給ひけるほどに、南殿の桜
の木の梢にかからせ給たりけり、光明かくやくとし
て、朝日の山のはより出たるが如し、世はいまだう
せざりけりと思召しけるに、悦の御涙せきあへさせ
給はず、右の御膝をつき左の御袖をひろげて、昔天
照御神百王を守り奉らんといふ御誓ひあり、其御誓
ひあらたまり給はずば、神鏡実頼が袖にやどり給へ
と、御詞のすゑいまだ終らざるに飛入せ給へり、御袖
に包み給て御先を参らせて、主上の御在所、太政官
朝所へぞわたし参らせ給ける、此代の人はうけ奉ん
と思ひよるべき人、誰かはましますべき、御鏡も入
せ給ふまじ、上代こそめでたけれと承るにも、身の
毛よだちてぞ覚えける、平大納言時忠、其子讃岐中将
時実、九郎大夫判官の宿所近くおはしけり、大納言は
心猛き人にておはしければ、かく世のなりぬるうへ
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は、とても角てもとおぼすべきに、猶いのちをしく
思しけるにや、御子の中将にのたまひけるは、いか
がせんずる、ちらすまじき大事の皮籠を一合、判官
にとられたるぞとよ、かの文共鎌倉に見えては、人多
くそこねなんず、我身もいけらるまじと歎給ひけれ
ば、中将のたまひけるは、判官は大方なさけある者
にて候なると承る、まして女房などのうちたえ歎く
事をば、いかなる事をももてはなれぬと申めり、何か
苦しく候べき、したしくならせ給へかし、さらばな
どか少し情もかけ奉らざるべきとのたまひければ、
我世に有し時は、姫どもをば女御后にもとこそ思ひ
しか、並々の人に見せんとは思はざりきとて、はら
はらとなき給へば、中将も涙を押のごひて、今は其
事仰せらるるに及ばずとて、当時の北方帥典侍殿の
御腹に今年十八に成給へる姫君の、なのめならずい
つくしく壮なるがおはしけるをと中将はおぼしける
を、其をば大納言惜しくおぼしければ、先の北の方
の腹に、廿八に成給へるをぞ、判官にはみせられにけ
る、年は少しおとなしくおはしけれども、清げに誇
かにて手いつくしく書き、色ありはなやかなる人に
ておはしましければ、判官さりがたくおぼされて、
もとのうへ河越太郎重頼が姫ありけれども、是をば
別のかた尋常にしつらひてもてなされけり、中将の
はからひ少しもちがはず、大納言の御事をもなのめ
ならず哀と申されけり、かの皮籠の封もとかずして、
平大納言の許に返しつかはされけり、大納言悦でつ
ぼのうちにてみな焼すてられにけり、かかるわるき
事を書おき給けるか、日記にてぞありける、
五月一日、建礼門院御ぐしおろさせ給ふ、御戒の師
は長楽寺阿称房上人印西とぞ聞えし、御布施は先帝
の御直衣とぞ承し、上人是を給て、何と云事をば申
さざりけれども、涙を流しすみ染の袖しぼるばかり
なり、先帝海へ入せたまふその期まで奉りたりけれ
ば、御うつり香いまだ尽ず、御かた見とて西国より
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持せ給たり、いかならん世迄も、御身を放たじと思
召されけれども、御布施になりぬべきものなきうへ、
かの御菩提の為とて、泣々取出させ給けるぞかなし
き、印西上人御直衣を給て、女院のいかならん世ま
でも、先帝の御形見と思召して、御身をはなたさせ
おはしまさず、もたせ給たりけれども、後の御菩提
の為とて、取出させ給ひたる御志の程、あはれに悲
しくて、この御直衣をもて御幡を裁継し給て、長楽
寺の常行堂にぞかけられたりける、同追善といひな
がら莫大の御善根也、たとへ蒼海の底に沈おはしま
すとも、此功徳によて、修羅道の苦患をまぬかれお
はしまして、安養の浄刹に御往生疑ひあらじと頼母
しくぞ思召されける、女院は年十五にて内へ参り給
へりしかば、やがて女御の宣旨下されき、十六にて
后妃の位に備はり君王の傍に候し給て、朝には朝政
をすすめ奉り、夜は夜を専にし給ふ、廿二にて皇子
御誕生ありき、いつしか皇太子に立せ給ふ、春宮位
に即せ給ひしかば、廿五にて院号ありて建礼門院と
申き、太政入道の御娘の上、天下の国母にておはし
まししかば、世に重くしたてまつることなのめなら
ず、今年は廿九になり給ふ、桃李に粧ひこまやかに、
芙蓉の御顔ばせいまだ衰させ給はねども、今は翡翠
の簪つけても何かはせさせ給ふべきなれば、御さま
かへさせ給へり、うき世をいとひまことの道に入ら
せ給へども、御歎は休まらせ給はず、人々の今はか
うとて、海に入給ひし有様、先帝の御俤、いかなら
ん世にかおぼしめし忘れさせ給ふべき、露の御命も
何にかかりて今まで消えやらざるらんと、思召つづ
けさせおはしまし、唯御涙のみせきあへさせ給はね
ば、五月の短夜なれども明しかねさせ給て、打まど
ろませ給ふ事もなければ、昔の事を夢にだに御らん
ぜす、かうかうたるかべにそむけたるともし火のか
げかすかに、蕭々たる窓をうつ暗夜の雨の音閑也、
上陽人が上陽宮にとぢられたりけんかなしみもかぎ
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りあれば、淋しさは是には過ざりけんとぞ思召され、
昔をしのぶ妻となれとてや、もとのあるじ移し植た
りけん、軒近き花たちばなのありけるに、風なつか
しくかほりける折しも、時鳥近くおとづれたれば、
御涙をおさへ拭はせ給て、御硯のふたに書すさませ
たまひける、
時鳥はなたち花の香をとめて
なくはむかしの人や恋しき W146 K222
女房達二位殿の外は、さのみ猛水の底に沈み給はね
ば、もののふの荒けなき手にとられ給て、故郷へ帰
り給ふ御心の中、推はかられて哀也、若きも老いた
るも皆さまをかへ姿をやつしつつ、あるにもあらぬ
ありさまにて、思ひがけぬ谷の底、岩のはざまに明
し暮し給ふぞかなしかりける、住なれしやども煙と
なりにしかば、空しき跡のみ残りて、しげき野辺とな
りはてて、そこはかともなく、みなれたりし人の問
くる者なし、仙家より帰り出て、七世の孫に逢たり
けむも、かくやありけんとぞ覚えし、
本三位中将重衡の北方は、五条大納言邦綱卿の御娘、
先帝の御めのとにて、大納言典侍とておはしけるが、
重衡卿一谷にて生捕にせられて、京へ上り給にしか
ば、北の方旅の空に頼もしき人もなくて、悲しみ歎
給しかども、先帝につき奉りてましまししかば、西
国より上りて姉の大夫三位に同宿して、日野と云所
におはしけるが、三位の中将も露の命、草葉にすがり
て消やらずと聞給ひければ、いかにしてか今一度見
もしみえもすべきと、おぼしけれどもかなはねば、
ただ泣くより外の慰なくて、あかしくらし給ふとぞ
聞えし、今は国々も鎮りて、人の行かふも煩ひなし、
都も穏しければ、九郎判官程の人こそなけれとて、
京中の者ども手をすり悦あへり、此事鎌倉の二位殿
聞給て、何事か九郎はしいだしたる、高名などとい
ふなり、法皇の御気色もめでたし、唯此人の世にて
あるべしなどいふときこゆ、頼朝がよくはからひて
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兵を差上すればこそ、平家は滅びぬれ、九郎ばかり
にてはいかでか世をば鎮むべき、かく人のいふにほ
こりて、世も我ままに思ひたるにこそ、下ても定め
て過分の事はからはんずらん、いつしか人こそ多け
れ、平大納言をもてあつかふなるもうけられず、世
におそれをもなさず、平大納言、九郎を聟にとるも、
いはれなしとぞの給ひける、抑々生捕三十人が中、八
歳の童としるしたるは、大臣殿の乙子の若君の御事
也、北方このわかぎみを産置給ひて、七日と申しに
うせ給にけり、北方今は限りになりてのたまひける
は、われはかなくなりぬるものならば、齢若くおは
すれば、いかならん人にもなれ給て、子をも設給ふと
も、此子をばにくまで、我を見ると思して、前にてそ
だて給へといひしかば、左衛門督には世を譲り将軍
をせさせんずるとて、名を副将軍とつけておはしけ
れば、北方よに嬉しげに思給て、今は思ひ置事なし、
死出の山安く越てんずと、是を最期にてうせ給にけ
り、かくいひおきし事なればとて、乳母の許へもや
り給はず、朝夕前にて養ひたまひけり、生ひたちた
まふままには、大臣殿に似給ひつつ、御心きはもわ
りなかりければ、たぐひなくかなしみ給へり、三歳
になり給ければ、冠して能宗とぞ申ける、清宗は大将
軍、能宗は副将軍とあいして常にの給ひければ、此
副将軍御前とぞ申ける、西国の旅にてもよるひる立
離れ給はぬに、檀の浦にて軍破にし後は、若君に添
給はず、若君をば九郎判官の小舅に、河越太郎重房が
預り奉りければ、其宿所に介借乳人女房二人ぞつけ
たりける、はていかならんずらんと、女房達若君を
中にすへて、明ても暮ても泣きかなしみけり、大臣殿
も恋しく覚しけれども、え見給はねば、兎に角にな
みだのかわくひまはなかりけり、去程に九郎大夫判
官、暁に鎌倉へ下るべしと聞えければ、さては近付
にけるにこそとおぼすもかなしくて、若君恋しく思
召ければ、小童未だ世に候はば、今一度見候ばやと
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判官にのたまひければ、何かはくるしかるべき、と
くとくわたし奉れとてわたしければ、若君大臣殿を
見奉りて、急ぎ女房の手をくづれおりて、大臣殿の
御膝の上に居給へり、哀にぞ見えける、大臣殿是を
見給ふに、今更御涙せきあへ給はず、右衛門督も涙
をながし給ふ、若君の介借乳の人もしほたれてぞあ
りける、まぼりたてまつるゑびすどももあはれと思
ひて、岩木ならねば皆袖をぞぬらしける、わかぎみ
浅ましげにおぼして、かひをつくり給ふぞいとをし
き、日もすでにくれければ、今はとくとく帰れ、う
れしく見つと大臣殿の給へば、若君泣き給て、大臣
殿の御浄衣の袖にひしと取付給へば、大臣殿物はの
たまはで、御涙にむせび給ぞ哀なる、右衛門督今夜
は我に見ぐるしき事あるべし、帰りてあす参れとな
くなくのたまへども、若君大臣殿の御浄衣の袖をは
なち給はず、夜もふけければさりとてはとて、乳の
人若君をおさへて取奉りて、泣々出にけり、日比の
恋しさは事の数ならざりけりと、大臣殿泣々の給ひ
けるぞあはれなる、
十六日の暁、大臣殿以下平氏の生捕ども、九郎判官
相ぐして六条堀川の宿所を打出で関東へ下る、大臣
殿の御子右衛門督清宗、源大夫判官季貞、章清、盛澄
なども下るとぞ聞えし、大臣殿武士を呼びて、此おさ
なき者は母もそへぬぞ、殿原不便にし給へとのたま
ひもあへず、御涙すすみけり、若君をば河越小太郎
重房が預りたりけるが、重房は関東へ下り候へば、
若君をば緒方三郎惟能が許に渡し参らせ候べしと申
て、大臣殿の御宿所より車にのせ奉りて、六条河原
にやり出し、ここに車を止めて、敷皮をしきてこれ
と申せば、介借の乳母の女房、日ごろいかが見なし
奉らんずらんと思ひまうけたる事なれども、さし当
りては人目も知らず、こはいかにやと泣もだゆ、若
君もあやしげに覚したり、御乳母の少納言の局、若
君を抱き奉りて放ち給はず、さればとて二人ながら
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切るべきに非ず、思ひわづらひたり、さてあるべき
にあらざれば、夜の明ぬ先にとくとく郎等と河越す
すめ申ければ、少納言のつぼねふところより若君を
出し奉りて、さし殺し奉る、武士どもみな袖をぞし
ぼりける、
大臣殿は都を出給て、あふ坂の関に懸りて都の方を
見送り給ふに、大内山は思ふ事なく越えたり、東路を
けふぞ始て踏見ると、はるかに思召しつづけ給ける
御心の中ぞあはれなる、昔蝉丸といふ世捨人此関の
辺にわらやのとこを結びて、常はびはを弾きて心を
すまし、和歌を詠じて思ひをのべけり、蝉丸は延喜
第四の宮にてぞおはしましける故に、此関のあたり
を四宮河原とぞ名付たりける、東三条院石山に参り
給て還御有りけるに、関清水を過させ給ふとて、
あまたたび行あふ坂の関みづの
けふをかぎりのかげぞ悲しき、 W147 K223
と申させ給ひけり、是もいかなる御心の中やらん、
我身の上にやと思召し続けて、関山を打過ぎ、大津
の浜に出ぬれば、あはづの原と聞し召けるに、昔天
智天皇六年、大和国飛鳥宮より近江の国志賀郡に遷
都ありて、大津の宮を作られたりける所にやと思召
出して、せたのから橋打渡り、湖はるかにあらはれ
て、野路しの原をも打過ぎ、鏡の宿に至りぬれば、
昔ならの叟の老をいとひてよみける歌の中に、
鏡山いざたちよりて見てゆかん
としへぬる身は老やしぬると、 W148 K224
詠じ給ける事思召出して、牟佐寺をも打過て、醒が
井といへるを見給へば、影深き木の下の岩根より、
流れ出る水すずしくすみ渡りて、御心細からずと云
事無し、美濃の国関山にもかかりぬれば、細谷川の
水音すごくおとづれ、嵐、松の梢に時雨れつつ、日影
も見えぬ木の下路に、関屋の板びさし年経にけりと
覚えて、杭瀬川を打波り、萱津の宿を打過ぎ、尾張国
熱田の宮にも至りぬ、是は景行天皇の御代に、此砌に
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跡を垂れ給ふ、一条院御時、大江匡衡と云博士あり
けり、長保の末に当国守にて下りたりけるに、大般
若を書て此宮にて供養をとぐ、其願文に曰く、此願
既に満ぬ任又満たり、故郷へ帰らんとするに、其期
幾程ならずと書たりけん事、我身の上にやと思召知
られて、鳴海がたにもかかりぬれば、いそべの浪袖
をひたし、友なし千鳥時々おとづれ渡り、二村山を
も越ぬれば、三河の八橋を渡り給ふに、在原の業平
が杜若の歌よみたりけるに、皆人干餉の上に、涙を
落したりける所よと思ひ給けるにも、御涙せきあへ
給はず、矢矧の宿をも打過ぎ、宮路山打越え赤坂と
聞ゆれば、三河守大江定基が、此宿の遊君の故に家
を出けんも、ことわりに思召ししられて、たかしの
山をも過ぬれば、遠江国はしもとといふ所あり、南
は海湖あり漁舟浪にうかぶ、北は湖水あり人家岸に
連れり、すざきには松きびしく生つづき、嵐頻に咽
ぶ、松の響浪の音いづれも分がたし、さて池田宿に
とどまり給ぬれば、侍従といふ君御とぶらひにまい
りて、まへじきのたたみにそひふして、涙をながし
て、
東路のはにふの小屋の淋しさに
故郷いかに恋しかるらん、 W149 K203
と申たりければ、大臣殿
故郷も恋しくもなし旅のそら
都もつひの住家ならねば、 W150 K204
池田の宿を立給ぬ、尽せぬ御歎きを武士ども見奉り
て、皆袖をぞしぼりける、天龍河のわたりにもなり
ぬれば、水まされば船覆すと聞召すにも、西国の波の
上のすまゐもおぼしめしいでられける、かの巫峡の
ながれを、我身の危き心にやと思召しつづけて、佐
夜の中山にかかりぬ、あらしきびしく、南は野山、
谷より峰にうつる浮雲に分入心地して、菊川を打す
ぎ、大井川を御覧ずるに、紅葉乱れて流れけん、龍
田川思召し出して哀也、宇津の山にもなりぬれば、
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昔業平が都鳥に事問ひけん程、いづくなるらんと打
詠め給ひて、清見が関にかかりぬれば、朱雀院御時、
将門が討手に宇治民部卿忠文、奥州へ下りける時、
此関に止まりて、唐歌を詠じける所にこそと涙をな
がし、田子の浦にも着ぬれば、富士の高根と見給ふ
に、時わかぬ雪なれども、皆白妙に見え渡りて、浮
島が原にも到りぬ、北はふじの高根、東西はるばると
長沼あり、いづくよりも心すみて、山の翠かげしげ
く、空も水も一なり、葦かり小舟所々に棹さして、
群居鳥もすずろに物さわがしく、南は海上の面渺
渺として、雲の濤いと深き詠め、孤島に眼に遮ぎる、
わづかに遠帆空に連り、眺望何れもとりどりに心細
く、浦々に塩やくけぶりへんへんたり、浦吹風松の
梢に咽ぶ、昔は海上に浮んで、蓬莱の三の島の如く
に有けるによりて、此島をば浮島と名づけたるとか
や、駿河国千本の松原をもすぎ、伊豆国三島の社に
つき給ふにも、此社は伊予国三島大明神をうつし奉
るときき給にも、能因入道、伊予守範国が命に依て、
歌よみ奉りければ、炎旱の天より雨俄にふり、かれ
たる稲葉たちまちにみどりになりたりける、現人神
の御名残なれば、ゆふだすきかけまくも恃しく思召
しけるぞ哀なる、箱根山を打越給ひて、湯下に到り
ぬれば、谷川みなぎり岩瀬の浪に咽ぶ、源氏の物語
に、涙催す滝の音かなといへるもおぼしめし出られ
て、涙せきあへ給はず、九郎大夫判官は事にふれて
情ありける人にて、途すがらも劬はり慰め申されけ
れば、いかにもして父子の命申うけ給へ、法師になり
て心静に念仏申て、後世たすからんと宣へば、御命
計りはさりともとこそ存候へ、奥の方へぞ渡し奉ら
んずらん、義経が勲功の賞には、二所の御命申請候
べしと頼もしげに申されければ、大臣殿嬉しげに思
して、御涙を流しあくろつかるつぼの石碑、かずまひ
なる千島なりとも、かひなき命だにあらばとおぼす
ぞ、せめての事とおぼえてあはれなる、道々すくすく
P694
うちすぎうちすぎ、腰越稲村をも歎き過ぎて、鎌倉に着
給ぬ、大臣殿父子九郎大夫判官ぐしたてまつりて、
鎌倉へ下り給ひぬと女院聞召て、御歎き浅からず伏
し沈ませ給ひける、世の聞えを恐れて、おのづから
言葉のつてにも申人なかりけり、九郎大夫判官はあ
やしの人の為までも情ありければ、まして女院の御
事をば心苦しき事に思ひまいらせて、御衣さまざま
にととのへまいらせて、女房の装束までも奉られけ
り、これを御らんずるにつけても、只夢とのみぞ思
しめされける、だんの浦にてゑびすどもがとりたり
ける物の中にも、御物とおぼしきをば、尋取りて参
らせられたりける、其中に先帝の朝夕御手なれさせ
給たりける、御遊びのぐそくどもあり、御てならひ
しすまさせ給たるほんぐの、御てばこの底に有ける
を御覧じ出して、御顔におしあててしのびあへさせ
給はず、をめきさけばせ給けるこそかなしけれ、恩
愛の道はいづれもおろかなるまじけれども、内裏に
ましまして、雲ゐはるかにて時々見奉る御事ならば、
かほどは思召さざらまし、此二三年の間は、一御船
の中にて朝夕手ならし奉りつつ、いとをしかなしと
もなのめならず、御年の程よりもおとなしく、御す
がた心ばへなどもすぐれておはせし物を、さまざま
くちずさませ給ふぞあはれにきこえし、
十七日大臣殿父子鎌倉へ下りつき給ぬ、判官二位殿
は見参したりけり、いけどりども相具して下りたら
んには、二位殿いかばかり軍の事ども尋ね感じ給は
んずらんと判官おぼされけるに、いとうちすさみた
るけしきなくて、よろづ言葉ずくなにて、くるしく
おはすらん、とくとく休み給へとて、二位殿立給へ
ば、判官は思はずの外に思はれけるに、次のあした
使者にて存る旨あり、暫く金洗沢の辺に宿給ておは
すべし、大臣殿をば是に奉るべき由ありければ、判
官こは如何にと思はれけれども、やうこそあるらめ
とて、彼所に宿しけり、二位殿のたまひけるは、九
P695
郎はあやしき者也、打解べき者に非ず、ただし頼朝
が運のあらん程は、何事かはあるべきと内々の給ひ
て、十八日まで金洗沢におき給て、其後は鎌倉へは
入れられず、さて大臣殿をば是へとありければ、二
位殿のおはしましける処の庭を隔てて、向ひなる屋
に据奉て、二位殿はすだれの中より見出て出あひ給
はず、満座目をすまし耳をそばだつる処に、比企藤
四郎能員をもての給ひけるは、平家の人々更に私の
意趣を思ひ奉らず、其上池殿尼御前いかに申させ給
ふとも、頼朝が流罪に定めし事、ひとへに入道殿の御
恩なり、されば廿余年まで、さてこそ罷りすぎ候し
かども、朝敵になり給て、追討すべき由宣旨を承る上
は、王土に胎て勅命を背くべきにあらされば、力及
ばず、かやうに見参に入こそ本意なれ、又いきんと
や思召す、又死んとや思召すと申せとのたまひけれ
ば、能員このよしを申さんとて、大臣殿の御前にま
いりたれは、居直り畏て聞給けるこそうたてけれ、
右衛門督のたまひけるは、源平二の家はじまて朝家
に召仕はれてより以来、源氏の狼藉をば平家をもて
鎮み、平氏の狼藉をば源氏を以て鎮み、互に牛角の
如くに候き、けふは人の上明日は身の上と思召して、
御芳恩にはただとく首を召さるべしと申せよとぞの
たまひける、国々の大名小名なみ居たり、その中に
京の者もあり、平家の家人たりし者もあり、皆爪は
じきをして申けるは、居直り畏り給たらば、御命の
生給はんずるかや、心うくも振舞給つるものかな、
西国にていかにもなり、海にも沈み給ふべき人の、
是までさまよひ給ふこそことわりなきとぞ、口々に
申ける、ある人又涙を流して、力及ばぬ事にてある
者を、猛虎在深山百獣震恐、反在牢之中搖尾而
求食、云本文有、猛き虎も深山に在る時は、もろもろ
のけもの威におそる、人をも疎き者に思ふ、囚れて
檻牢などにこめられぬる後は、人に向ひて尾をふり
て食を求む、猛き大将軍なれども、かやうになりぬ
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る上は、心もかはる事なれば、大臣殿もかくおはす
るにこそと申す人もありけり、
同十七日改元あり、文治元年とぞ申ける、大臣殿以
下の人々首を刎られん事は、天下の御煩ひ国土の歎
なれば、左右なく首を刎らるるに及ばずとて、大な
る魚に刀を添へて、大臣殿父子おはする中におきた
り、これはもし自害もやし給ふとての謀なり、いま
やいまやとまてどもまてども自害もしたまはず、思ひ寄り
たる気色だにもおはせざりければ、力及ばずとて、
大臣殿をば讃岐権守末国と改名して、又九郎判官に
受取らせて、京へ返し給ふべきにさだまりけり、判
官は二位殿の又見参もあらんずらんと思はれけれど
も、下着の日ちと見えて、その後は音信不通なり、剰
鎌倉をおはれ腰越に追却して、二十二日の間ありけ
れば、おもひの余に状を書き、起請文を添へて二位
殿へ是を参らする、
源義経乍恐申上候意趣者、被撰御代官之其一、
為勅宣御使、傾朝敵顕累代弓箭之芸、雪会稽
之恥辱、可被行忠賞之処、思外依虎口之讒言、
被默止莫大之軍功、義経無犯而蒙咎、有功雖
無誤、蒙御勘気之間、流紅涙、倩案事意、良薬
苦口、忠言逆耳、先言也、因茲不被糺讒者之
実否、不被入鎌倉中之間、不能述素意、徒
送数日、当于此時、永不奉拝恩顔、絶骨肉同
胞之義、既似空宿運之極処歟、将又先世之業歟、
悲哉此条、亡父不再誕給者、誰人申被愚意之悲
歎、何輩不被垂哀憐哉、事新申状、雖似迷
懐、受身体髪膚於父母、不経幾時節、故殿御他
界之間、成無実子、被抱母之懐中、赴大和国宇
多郡龍門牧之以来、一日片時不住安堵之思、雖
存無甲斐命許、京都之経廻難治之間、令流
行諸国、隠身於在々所々、為栖遠土遠国、令服
仕土民百姓、而幸慶忽能熟、而為平家一族追討
令上洛、手合誅戮木曾義仲之後、為責傾平家、
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或時峨々巌石策駿馬、為敵不顧己命、或時漫々
大海凌風波之難、不歎沈身於海底、懸骸於
鯨鯢之〓、加之甲冑為枕、弓箭為業、本意併休
亡魂之憤、欲遂年来之宿望之外無他事、剰
補任義経五位尉之条、当家之面目希代之重職、何
事如是哉、雖然今愁深歎切、自非仏神之御助
者、争達愁訴、因茲以諸寺諸社牛王宝印之裏、不
挿野心之旨、奉請驚日本国中大小神祇冥道、
雖書進数通之起請文、猶以無御宥免、我国神
国也、神不(レ)可禀非礼、所憑非于他、偏仰貴
殿広大之御慈悲、伺便宜令達高聞、被廻秘
計被優無誤之旨、預芳免者、積善之余慶家
門、永伝栄花於子孫、開年来之愁眉、得一期之
安寧、自余不書尽詞、併令省略候畢、諸事欲被
垂御賢察、義経恐惶謹言、
元暦二年五月 日 源義経
大膳大夫殿
広元二位殿にこのよし見参に入れたりければ、鎌倉
殿無返事にてありけるが、やや久しくありて、先づ
生捕ども京へぐして上て、軍功は公家の御はからひ
なりとぞ仰られける、判官は大臣殿父子請取て、六月
九日京へ上らせ給ふ、是にていかにもならんずらん
と、大臣殿おもひ給つるに、都へ返り上りたまへば、
心得ずおぼしけるを、右衛門督ぞよく心得給ひたり
ける、京にて首切りて渡さんずるにこそと思はれけ
り、大臣殿は今少しも日数の延る事を、嬉しき事に
おぼしけるぞいとをしき、道すがらもここにやここにや
とたましひをけし給けるに、国々宿々すき行き、尾
張の国にもなりぬ、野間内海といふ所あり、ここに
て義朝が首を斬りたりし所なり、ここにて一定きら
れなんずとおもはれけるに、そこもすぎ、それにぞ
大臣殿少したのもしく、命のいきんずるやらんとの
たまひけるぞあはれなる、右衛門督なじかはいけん
ずる、かく暑きころなれば首の損ぜぬ様に、京近く
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なりてぞ切られんずらんと思ひ給けれども、大臣殿
いたく心ぼそげにおもひ給はん事の心ぐるしさに、
さはのたまはで、唯念仏をのみぞ申させ給ひける、
大臣殿をも勧め奉り給ふ、日数経れば都も近きて、
同廿日近江の国しの原の宿に着給ふ、きのふ廿日迄
は大臣殿も右衛門督も一所におはしけるを、けふ廿
一日より引わけたてまつりて、所々にすへ奉る、大
臣殿のたまひけるは、さてはけふを限にてあること
よと、悲しく思してさまをかへんと思給へども、鎌
倉殿ゆるし給はねば力及ばず、戒をたもたばやとの
たまへば、篠原と云所よりひじりを召されたり、今
性房湛幸とぞ聞えし、上人参りて最期の御事を勧め
申けるに、大臣殿御涙せきあへさせ給はず、さて右
衛門督はいつくにぞ、手を取組ても死に、かうべは
落たりとも、一むしろにふさんとこそ思ひつれ、生
ながら別れぬる事こそ悲しけれ、十七年が間、一日も
立離れざりつるものを、水の底にも沈まで浮名を流
しつるも、右衛門督が故なりとの給ひて、涙を流し
たまふ、善智識の上人申けるは、今はこの事思しめ
すまじ、最期の御ありさまを見奉らんもみえ奉らん
も、たがひの御こころかなしかるべし、生をうけさ
せ給ひしよりこのかた、たのしみ栄え昔も今もため
し少し、御門の御外戚にて丞相位に至らせ給へり、
今生の栄華一時も残る所無かりき、今かかる事にあ
はせ給ふもぜん世の御宿業なり、世をも人をも恨み
おぼしめすべからず、卅九年を過させ給へるも、お
ぼしめしつづけさせ給へ、ただ一夜の夢の如し、この
後七八十のよはひを保たせ給ふも、又程やはあるべ
き、されば仏この理をしめして、未得真覚、恒処夢中、
故仏説為、生死長夜と申も、又我心自空、罪福無主、
観心無心、法不住法ともいへり、我心おのづから空
なれば、罪福無主心観ずるに心なし、法々の内にぢう
せず、善も悪も空なりと観じつるが、仏の御心に叶
ふ事なれば、何事も有なりとは思召すまじきものな
P699
り、いかなる弥陀如来なれば五劫が間思惟し、おこ
しがたき観をおこしおはしまして、我等を引摂し給
ふ、いかなる我等なれば、値がたき仏教に遇て、一
意の妄執に引れて、おくおく万劫が間生死にりんゑ
して、宝の山に入ながら、手を空くして故郷へ帰り給
はん事、恨の中の怨、ぐちなる中に口惜き事に候は
ずや、一切有為の法をば皆夢也まぼろし也、水月鏡
像也と思ふこそまさしき仏の御本意にて、〓虫有為
をいとふ心あり、寸間寒苦、無宅煩公、只暗夜也、わづ
かの小虫のうき世をいとふ、一寸の心の中にあり、
是生死無常の間なる事を知る、いかでか人として此
ことわりをしろしめさざるべき、今は唯一心不乱に
浄土へ参らんと思召して、余念をかすべからすと申
して、戒を保たせ奉り、念仏すすめ申ければ、大臣殿
西に向ひたなごころを合せて、余言をやめて念仏た
かく二三百遍計り申給けるに、橘右馬允公長が子に
橘三郎公忠、太刀を抜きて大臣殿の左により、御後へ
まはりけるを、念仏をやめて右衛門督もすでにかと
のたまひける、御言葉のいまだおはらざるに、御首
は前におちにけり、上人も切手の公忠も涙かきあへ
ず、猛きもののふなれども、いかでかあはれと思は
ざるべき、況はんや公忠は平家重代相伝の家人、新
中納言の御もとに朝夕しこうの侍なり、世にあらん
と思ふこそうたてけれとぞ申ける、此公忠は西国に
て軍最中に、九郎大夫判官につきたりける者なり、
其後右衛門督も又上人さきの如く、戒たもたせ奉り
て念仏すすめ給けるに、大臣殿のさいごの御ありさ
ま、いかがおはしまし候つるやと問ひ給ひけるこそ
悲しけれ、めでたくましましつと上人申されければ、
涙をながしうれしげにおぼして、いまは疾くとのた
まひければ、今度は堀弥太郎切にけり、九郎大夫判
官相具して京へ上り給ぬ、むくろをば公忠が沙汰に
て、大臣殿も右衛門督も一穴に埋みてけり、さしも
罪深くのたまひければかくしてけり、むざんといふ
P700
も愚なり、故修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正の北
の方は、左大臣伊通の御孫、鳥飼中納言の御娘とか
や、其腹に六歳になる若君おはしけり、仁和寺の奥
なる所に忍びておはしけるを、武士尋出してけふ六
条河原にて首を切てけり、折節大原の上人、此程多
くあるなる死骸ども見て、無常を観ぜんとおぼして
河原へ出られたりけるに、武士五六騎が程物の具し
て出で来りければ、上人世はしづまりたるかとこそ
きくに、物具したる者の出来たるこそ怪しけれと覚
して、目をつけて見給へば、髪肩のまはりなる若君
いたいけしたるを、武士鎧の上に抱きたり、若君手を
さし出てままやままやと泣給ふ、其後朽葉の衣着たる
女房年廿二三と覚しきが、我子よ我子よとなくなく走
るがあり、しばしこそ衣も肩に掛り、うらなしもは
きたりけれ、後にはきぬもぬぎ、うらなしもはかず、
若君よといふ声もたてず、ああといふ声ばかりにて
走る女房あり、上人あれはいかにと見給ふに、武士
かの若君の首をやがてかい切りて河原にすてけり、
おさなければにや、首をも渡さず獄門にもかけられ
ず、彼女房よりて首を取て、身に差合せて、余りの
事なればにや泣もし給はず、只生たるおさなき者を
抱きたる様にいだき、身に気も心もありとも見えず、
ほれぼれとしておはしけり、上人河原を下りに通り
給ひけるが、是を見て立とどまりてのたまひけるは、
今はいかに思召すともかひあるまじ、人は死のえん
とてまちまちなりといへども、根闕の罪業にすぎた
る罪人なし、ただ後生を弔ひて一業もうかべ給はん
事しかるべしと、の給ひけれども放ち給はず、かか
へて泣給けるを、さまざまにけうくんせられて、身
をば河原に埋み給けるを、上人あひともになくなく
石をひろひはかをたて、経をよみ念仏申て後、彼女
房の持たりけるかうべを、御供の法師に持たせて、
いざさせ給へ小原へとてぐし奉り給ひ、小原の来迎
院へ送り置きつ、女房やがて出家せられにけり、か
P701
うべはふところに入れて出られにけり、そののち行
方を知り給はず、上人次の年天王寺に参り給たりけ
るに、大門よりはるかに遠くのきて髑髏のあまとい
ふ非人ありけり、同乞食の中にもまじらず、其故は
懐におさなきもののかうべをもちたるが、日数ふる
ままに、その香なのめならず臭かりければ、非人是
をくはへず、さる程に只一人すごくすぐしけり、上
人立よりて見給へば、さすが心のありけるにや、上人
を見奉て伏目になりにけり、此尼のありさまを見る
に、目も当られずやせ黒みてありし、その形人にて
人ならず、ふところにおさなきものの首の黒みてあ
り、上人是は誰なるらんと、いとをしく思ひて通ら
せ給ふに、次の日未刻ばかりに上人御堂へ参り給ひ
けるに、非人ども数多立ならびたり、又さならぬ在
家人ども数をしらず、立あひなくものもあり、あは
れむ者もあり、上人何事ぞと問ひ給へば、是等申け
るは、是に候つる髑髏の尼の無言にて念仏申つるが、
けさ卯の時程に渡辺の橋の上にて、西に向ひ高声に
念仏申つるが、午の時計りに橋より身を投て候が、紫
雲立音楽していきやう薫じて、殊勝の往生して候を
弔ひ申候也と申ければ、上人渡辺におはしまして、
かの身を取上てけうやうし、経を読み念仏申給ての
ち、よくよくかのあまのゆくゑを尋ね給ければ、あ
りし時河原にて見給て、小原へかへり出家せさせて
おはしましける女房なり、さてこそは皇后宮亮経正
の北方、左大臣伊通の御孫、鳥飼中納言の御娘とも
人は知りにけり、あはれなりし事どもなり、
本三位中将をば、南都の大衆の中へ出して、首を切
て奈良坂にかくべしとて、源三位入道の子息蔵人大
夫頼兼承てぐそくしてのぼる、京へは入れ奉らず、
醍醐路を南都へおはしましけり、猶故郷恋しくぞ思
ひ給ける、はるばる都を見渡し給ふに、いつしか荒
にける物かなと、涙ぐみてぞましましける、三位中
将具し奉りける武士どもになくなくの給けるは、と
P702
しごろ日ごろなさけをかけ、あはれみつる事、ありが
たしうれしとも云尽しがたし、同くは最後の恩をか
うぶるべき事あり、年比相ぐしたりしものの、日野に
大納言の局とて女房のあると聞く、今一度変らぬ姿
を見もし見えばやと思ふはいかに、我一人の子なけ
れば、此の世に思置くべき事なきに、此事心にかか
りて、よみぢもやすく行くべしとも覚えぬぞとの給
へば、武士どもさすがに岩木ならねば各々涙を流しつ
つ、何かはくるしく候はんとてゆるしてけり、三位
中将手を合せて悦給ひて、かの大夫三位の局のもと
へ尋ねおはしましけり、三位の局と申は五条大納言
邦綱卿の御娘也、平家都を落給し時、人々の館に火を
懸て、西国より都へ帰入給たれども、立入給ふべき
所もなければ、日野大夫三位のつぼねは、三位中将
の北の方の姉にておはしければ、彼所に忍びておは
しましける所へ尋ね入て、大納言典侍殿は、是に渡
らせ給ふか、三位中将重衡こそ通り候へ、東国にて
いかにもなるべく候つるが、南都をほろぼしたりと
て、衆徒の手へ渡され候也、立ながら見参せんと申さ
れたりければ、北の方少も誠とも思ひ給はず、夢の
心地し急ぎ迷ひ出見給へば、なめらかなる浄衣着た
る人の痩黒みたるが、縁に居給ひたりけるを、そと
見なし給ひたりけるに、いかにや夢か現か是へ入せ
給へとのたまひける、御声を聞給ふに、三位中将涙
はらはらとおちて、袖を顔にぞ押あてられける、大
納言典侍も、目もくれ心もきえて物もえの給はず、
やや久しく有て、三位中将なからばかり縁に居より
て、すだれをうちかつぎて、何とも言葉をば出し給
はねども、北方の御目に目を見合て、ひまなく涙を
ぞおとし給ける、大納言典侍殿もうつぶしにふして
一言も出し給はず、二所の御心のうちいかにすべし
とも覚えず、只涙にぞむせび給ける、大納言典侍殿
起上りて、是へ入せ給へやとて、三位中将の御手をと
りて、すだれの内へ引入奉りて、先御料参らせよや
P703
とて、白き御れうの二階に有けるを、水に洗ひて参ら
せたりけれども、御むねせきて御のどもふさがりて、
いささかもまいらず、せめての御志の切なる事を見
え奉らんと、水ばかりぞすすめ入れ給ひける、よに
したるげに渡らせ給ふに、これに召かへさせ給へと
て、袷の御小袖白きかたびら取出して奉りたりけれ
ば、練色の御小袖のしほれたるにぬきかへ給へば、
北方是を取て胸にあてさけび給けるぞあはれなる、
三位中将も涙かきあへず、かくぞ申されける、
ぬぎかふる衣も今は何かせむ
けふを限りのかたみと思へば、 W151 K225
北の方なくなく
いかなれどちぎりはくちぬものといへば
のちの世までもわするべきかは、 W152 K292
三位中将申されけるは、去年の春いかにもなりぬべ
かりし身の、せめての罪の報にや、人しれず命生て、
はては奈良の大衆に渡して切るべしとてまかる也、
命いけらん事もけふを限れり、今一度見奉りつ、今
は死出の山安く越てんと思ふこそ嬉しけれ、人にす
ぐれてつみふかくあらんずらめども、後世とぶらふ
べきものもおぼえず、いかならむ御ありさまにてお
はしますとも、忘れ給ふな、出家をもしてかたみに
髪をも奉らんとは思へども、いましめの身なればゆ
るされぬぞやとて、又涙を流し給ふ、北の方も日頃
の思ひ歎きは、事の数ならざりけり、たへしのぶべ
き心地もし給はず、軍は常の事なりしかば、必しも
こぞの二月六日を限りとも思はざりしかども、離れ
奉りて後は、越前三位の上の様に、水の底にも沈む
べかりし身の、先帝の御事の心ぐるしかりし上に、
正しく此世におはせぬとも聞ざりしかば、今一たび
見奉る事もやと思ひて、つれなく昔の姿をかへずし
て、今まですごしつるかひ有りて、見え奉り見奉る
ことこそうれしけれ、けふまでものびつれば、もし
やと思ひつるたのみもありつるに、さてはけふ限り
P704
にておはすらん事の悲しさよとて、泣き給ふぞ心苦
しき、むかしいまの事どものたまひかはすにつけて
も、悲しさのみ思ひ深く成まさりて慰む事はなし、
日を重ね夜を重ぬとてもつくべきに非ず、程ふれば
武士どもの、いつとなく待ゐて思はん事も心なけれ
ば、嬉しくも見奉りつ、今はよみぢやすく罷りなんず
との給ひて立給へば、北の方は袂に取付き、こはい
かに今宵は御とどまり候へかし、武士もなどか一夜
のいとま得させざらん、明年かへりたまはんずると
もたのまれず、五年十年にて帰り給はんずるとも覚
えず、思へば最後の別也、しばししばしとて、三位中
将の御袖に取付給ひて、庭の面まで出給たりけれど
も、さりとてあるべきにあらねばとて、三位中将泣
泣引はなれて出給ひぬれども、馬をも得すすめ給は
ず、引返し引返し涙にむせび給ふ、武士どもこれを見
て、皆袖をぞしぼりける、大納言典侍殿も、走付て
もおはしますべく思しけれども、さすがなれば、衣
引かづきてふし給ふ、異朝の昔を案ずるに、漢高祖
の為に項羽滅されし時、項羽は軍にまけて今は限り
になりしかば、志深く思ひける虞氏がもとへ落迯き
て、互に今を限りの別れを惜み給ひしに、敵まぢかく
攻めかかるよしきこえしかば、なくなく別れ給ひつ
つ、落行き給ひけんも此にはしかじとぞ見えし、さ
れば、燈暗数行虞氏涙、夜深四面楚歌声と云詩をさ
へおぼし合せつつ、羊のあゆみ漸く近づきければ、
新野池も打過て、光明山の鳥居の前にも着給ひぬ、
ここは治承四年五月に、高倉宮の流矢に中りて、失
させ給ひし処にこそと見給ひけるにも、我身の上と
覚えて、あはれをもよほすたぐひなり、又六堂もう
ちすぎ給へば、源三位入道の一門多く当家の敵とな
りて、命をうしなひし所と見られけるにも、むかしい
まうつりかはるも世のならひまで、思ひ残し給ふ事
なし、さるにつけても涙ばかりぞつきせざりける、
平家物語巻第十八終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十九
P705
平家物語巻第十九(原本無題)
三位中将は、石金丸といふ舎人をぞ相具し給ひたり
ける、鎌倉へ下り給ひける時、八条院より、最期の
有さま見よとて、伊豆国迄附られたりける、杢馬
允朝時と云者を、大納言典侍殿召て宣ひけるは、三
位中将は、木津河か、奈良坂にてぞ斯られ給はんず
らん、首は定めて奈良の大衆うけ取て、奈良にぞか
けんずらんぞ、其跡を隠すべきものなきこそうたて
けれ、むくろをば、荒野にこそ捨られんずらめ、そ
れをかき戻れよ、孝養せんと宣ひて、杢馬允に、中
間地蔵冠者、力者十力法師、三人のものどもをそへ遣
はしける、此等も泪にくれて行先も見えざりけり、
唯三位中将の御馬の左右にとり付て、泣々ぞまかり
ける、大納言典侍殿は、はしり付てもおはしぬべく
思召しけれ共、これもさすがなれば、引かづきて伏
給ひぬ、くれ程に起あがりて、法興寺に有ける聖を
請じ奉りて、御髪をそり落してけり、あはれなりけ
る御事どもなり、本三位中将重衡卿、奈良へわたさ
れ候と聞えければ、大衆せんぎしてけるは、重衡卿
重犯の悪人なるうへ、五刑の内にももれたり、修因
感果の道理きはまりなせり、されば重衡卿を請取て、
東大寺興福寺の大垣を三度めぐらして、ほり首にや
すべき、鋸にてや斬べきと申ければ、老僧僉議して
曰く、此重衡と云は、治承の合戦の時、法花寺の鳥
居の前にうちたつて、南都を亡したりし大将軍なり、
其時衆僧が、うちも伏せきりも伏せて、搦めたらば
こそ鋸にてもきり、ほり首にもしてころさめ、武
士にからめられて年を送り、武士の手より請取て、
ほり首にもし、鋸にてもきりて、なぶり殺さん事、
僧徒の行にて然るべからず、ただいづくにても、武
士のきりたらん首をば請取て、伽藍の御敵なれば、
奈良坂にかくべしと僉議しければ、尤々とて、武士
P706
の方へ使者をつかはす、般若路より内へは入まじく
候、いづくにても切られ候へかし、伽藍の御敵にて
候へば、首をばうけ取候べしとぞ申ける、送りの武
士蔵人大夫頼兼、三位の中将を木津河のはたに引す
へ奉りて、切奉らんとす、三位中将は、今を限りと
思ひ給ひければ、せん方なく杢允に、此辺に仏御座
しなんやと宣へば、朝時泪にくれて、行先も見えざ
りけれども、其辺を走り廻りて尋けるに、ある古堂
に阿弥陀の三尊を尋出し奉りて、かはらに東向にす
へまいらせたり、三位中将、浄衣の左右の袖のくく
りを解きて、仏の御手に結び付奉りて、五色の糸を
ひかへたるよしにて、達多が五逆罪、かへつて天王
如来の記別に預る、是すなはち仏の御誓ひにあらず
や、重衡が年比の逆罪を飜して、安養浄土へ引導し
給へ、弥陀如来に四十八願御座す、第十八の願に、
一念十念を撰ばず、極楽浄土の地へすすめ入むと誓
ひおはします、重衡が只今の最期の十念を以て、必
ず極楽浄土へ導給へとのたまひて、西に向て念仏高
声に申させ給ひける、其御声のいまだ終らざるに、
御首は前にぞ落にける、杢馬允首を地に付けてをめ
きさけぶ、見る人幾千万、聞く人涙を流さずといふ
ことなし、杢馬允起あがりて、三位中将の空しき御
むくろを、あをだにかきて、日野へとて帰り行ける
こそむざんなれ、大納言典侍殿、走り出で給ひて、
首もなきむくろに取付きて、声もをしまずをめきさ
けびけるぞいとをしき、年ごろは今一度あひ見るこ
ともなくて、さてやみなんと思ひつる事は物の数な
らず、中々一の谷にて何にも成給たりせば、思ひ忘
るる事も有なまし、今朝は花やかなりし姿にて見奉
るに、夕べの無常の風は、いかなれば紅ふかくぞ染
まるらん、同じ道にもとたへこがれ給へども、今は
かひなし、さて有べき事ならねば、たきぎにつみこめ
て焼上奉りて、灰をば墓を築て卒都婆をたて、骨を
ば高野へ送り給へり、あはれなりし御事どもなり、
P707
三位中将の頸武士ども南都の大衆中へ送りければ、
大衆請取て、東大寺興福寺の大垣を三度めぐらして、
法花寺の鳥居の前にて、治承の合戦の時、ここに打
立て南都を亡したりし者とて、鉾に貫きて高く差あ
げ、人々に見せて、般若野のそとばに釘付にこそし
たりけれ、大仏を焼給はずば、かかるめに逢給ふべ
しやと申て、なみだを流しける人も多かりけり、頸
をば七日が程、奈良坂にかけたりけるを、春乗房上人
に、大納言[B ノ]典侍殿、三位中将のくびを乞ひうけ給て、
高野へ送り奉りたりけり、北の方の御心のうち、押
はかられて哀なり、彼春乗房の上人と申は、左馬大
夫季重が孫、右衛門大夫季能が子なり、上醍醐法師
にておはしけり、東大寺造営の勧進の上人なり、情
おはしましければ、三位中将の首をこひて、北の方
へ奉り給けるも、慈悲の深さも哀なり、つらつらこ
との心を案ずるに、重衡卿、槐門玉楼の家に生ると
いへども、神明仏陀の加護もなく、冥顕につけては
ことごとく、仁義礼智信の法に背き給ひけるかとぞ
覚えける、
同廿三日、大臣殿父子の御頸を、大炊御門河原にて、
武士の手より請取て、大炊御門の大路を西へ渡して、
左獄門の前のあふちの木にかけてけり、法皇、大炊
御門東洞院に御車を立て御覧あり、三位以上の人の
頸を、獄門の木にかくる先例なし、悪右衛門督信頼
卿、さばかりの罪を犯したりしかば、頸をはねられ
たりしかども、頸を獄門の木にかけられず、大臣殿
父子西国より入て、生ながら七条をひんがしへ渡さ
れ、東国より帰り上り給ては、死にて三条を西へ渡
さる、生ての恥死ての恥、いづれもおとらずぞ見え
ける、
女院は、吉田にもかりに立いらせ給ふとおぼししか
ども、五月もたち、六月も半ば過ぬ、今日までもな
がらへさせ給ふべくも、おぼしめされざりしかども、
御命は限りありければ、明ぬ暮ぬと過させ給ひけり、
P708
大臣殿父子、本三位中将、帰り上り給ふと聞し召れ
ければ、まことしからず思召されけれども、若甲斐
なき命ばかりもやと、おぼしめしける程に、大臣殿
父子は都近く、近江国しのはらと云所にて、失ぬと
きこしめしける、御歎きはまことにあさからず、大
臣殿父子、三位中将なんどの、今は限りの御有さま、
御首渡してかけられたりと、人参りて申ければ、女
院今更御胸せきて、御泪かきあへさせ給はず、都近
くてかやうの事を聞召すにつけても、つきせぬ御泪
やすむ時なく、露の御命風をまつほども、深き山の
奥迄も入なばやと思召しけれども、さるべきたより
もなかりけり、
元暦二年七月、平家残りなくほろびて世の中静り、
国は国司に従ひ、庄は領家のままなり、上下安堵し
て思ひし程に、七月九日の戌の時に、大地夥しく動
きて良久し、おそろしなどいふも愚かなり、赤縣の
中、白川の辺、六勝寺九重塔よりはじめて、あるひ
はたふれ崩れ、在々所々、神社、仏閣、皇居、人家、全
きは一宇もなし、崩るる声は雷のごとく、上る塵は
けぶりのごとく、天くらくして日の光りも見えず、老
少ともに魂をけし、禽獣悉く心を迷はす、こはいか
にしつる事ぞやとをめきさけぶ、或は打殺さるるも
のもあり、打損じらるる人も多し、近国遠国も又か
くのごとし、山は崩れて河を埋み、海かたぶきて浜
をひたし、巌われて谷にころび入り、洪水漲り来れ
ば、をかにあがりてもなどか助からざるべき、猛火
燃え来らば、河を隔てても暫くありぬべし、ただ悲
しかりけるは大地震なり、鳥にあらざればそらをも
翔りがたし、龍にあらざれば雲にも入がたし、心憂
しともなのめならず、主上は鳳輦に奉りて、池の汀
に渡らせ給ひけり、法皇は、其比新熊野に御参籠有
けるが、折しも御花参らせさせ給ひけるに、人の家
を振倒して、人多く打ころされて、濁穢出来て、六
条殿へ還御成にけり、天文博士参りて占申、占文か
P709
ろからず、今夜は南殿に仮屋をたてて渡らせ給ふ、
諸宮諸院も御所ども倒れにける上に、ひまなく振け
れば、御車に召し、或は御こしに召してぞ渡らせ給ひ
ける、公卿僉議有て御祈はじまる、今夜の亥子丑寅
の時には、地打かへさんずると、御占ありなんどいひ
て、家の内に居たる人は、上下一人もなかりけり、
戸をたて障子をたてて、天なり地うごく度には、唯
今死にぬといひて、高念仏を申ければ、所々のこゑ
ごゑ夥し、七八十、八九十の者も、いまだかかる事
おぼえずとぞ申ける、世の滅するなどいふ事は、さ
すがけふあすとは覚えざりつる者をといひて、おと
なの泣きをめきければ、おさなき者共もこれを聞て、
諸共にをめきさけぶ事、夥しなんどもおろかなり、
昔文徳天皇の御宇、斎衡三年、朱雀院の御時、天慶
元年四月に、かかる大地震有けりと記せり、天慶に
は御殿を去て、常寧殿の前に五丈の幄屋をたてて、
主上渡らせ給ひけり、四月十五日より八月に至る迄、
うちつづきて振ひければ、上下家中に安堵せずと承
る、それは見ぬことなればいかがありけん、この度
の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、
平家の怨霊にて、世のうすべきよし申あへり、十善
帝王都をせめ落され御座して、御身を海中に沈め、
大臣公卿大路を渡して首をはね、其首を獄門にかけ、
異国には其例ありもやすらん、本朝には未だ聞かざ
る事なり、これ程ならぬ事だにも、昔より今に怨霊
はおそろしき事なれば、いかがあらんずらんとぞ泣
合ける、建礼門院、吉田には去る九日の地震に、御
栖も破れ果てて、築地も崩れ、あれたる宿も傾きて、
住せ給ふべき御ありさまにも見えさせ給はず、頼も
しき人一人も候はず、地うち返すべしなどきこしめ
せば、惜しかるべき御命にてはなけれども、よの常
にて消入ばやとぞ思召されける、緑衣監使、宮門を
守る者、心のなき儘に、荒たる籬はしげき野べより
も露けくて、をりしりがほに、虫の声々に恨むも哀
P710
なり、
八月十四日除目行はる、源氏六人一度に受領になさ
る平家[B 氏イ]誅戮の勲功賞なり、志太三郎先生義憲、伊豆
守大内冠者維義、越中守上総太郎義兼、上総守加々
美次郎遠光、信濃兵衛尉義資、越後守伊予守兼九郎
大夫判官義経とぞきこえし、
同日改元あり、文治元年とぞ申ける、鎌倉源二位宣
ひけるは九郎大夫判官には、伊予国を賜はり、其外
院の御厩の別当になして、京都の守護に候べしとて、
侍十人附られたり、判官思ひ給けるは、父の敵を討
つれば、是に過たる悦び何事かはあるべき、度々の
合戦に、命を捨てすでに大功をなして、世の乱れを
鎮む、是莫大の軍功にあらずや、関より東はいふに
及ばず、京より西をば預け給はんずらんと思ふに、
僅に伊予国と、没管領廿ヶ所計、あて付たるこそ本
意なけれと思はれけれど、さりとも京都にも鎌倉に
も、思召計ひ給ふ様も有なんとて、過しけるほど
に、僅に十人つけたりける侍も、心を合せてければ、
とかく云て東国へ迯下りにけり、判官は西国に恩を
せん、下れとぞいひける、かくいふ程こそあれ、源二
位より判官を討んと計る由聞えけり、都の貴賎上下、
またいか成事の有らんずらんと、爰かしこにささや
きあへりければ、建礼門院聞召して、さては尚鎮か
なるまじきにこそ、少し深くかき籠らばやと思召け
れども、さるべき便もなくて、秋も半になりぬ、つ
きせぬ御もの思ひに、いとど忍びがたくて、夜の漸
く長くなるままに、ねざめがちにて、明しくらしか
ねさせ給けるぞあはれなる、
九月廿三日、平家のよとうの僧俗生捕り、国へ流し
つかはす、平大納言時忠卿をば追立(おつたて)、官人信盛承り
て能登国へつかはす、同じき子息讃岐中将時実をば、
公朝承りて周防国へつかはす、内蔵頭信基をば、章
貞承りて備後国へつかはす、熊野の別当行明法眼を
ば、識[B 誠イ]景承りて常陸国へつかはす、二位僧都全真を
P711
ば、経広承りて安芸国へ遣す、法勝寺執行能円をば、
経広同じく承りて阿波国へ遣す、中納言律師忠快も、
陸奥国とぞ聞えし、東国へ赴く人は、粟田口関山に
打懸る、西国へ下向する人は、西朱雀造り道へぞ赴き
ける、各々心の内推はかられて哀なり、平大納言時忠
卿、建礼門院へ参りて申されけるは、今は生きてか
ひなき身にて候へども、同都にて御あたりの御事、
承り度候つれども、責重くして、けふ既に都を出候
ぬ、いかなる御ありさまにて、渡らせましまし候は
んずらんと、思ひ置き参らせ候こそ、行空も覚え候
まじけれと、こまやかに申されたりければ、女院聞
召して、さては遠国へ赴き給ふらんこそ悲しけれ、
此人ばかりこそ、昔の名残にて有つるにと思召せば、
いとどかきくらす御心地してぞ思召しける、彼平大
納言は、出羽前司知信が孫、兵部権大夫時信が子な
り、建春門院の御思ひ人にておはせしかば、高倉の
上皇の御外戚なり、楊貴妃幸し時、楊国忠思ひもの
にて栄しが如し、八条二位にも妹にておはせしが、
太政入道の小舅にて、世の覚え時のきらめでたかり
き、されば顕官顕職心のままに、思ふがごとく、ほ
どなく経昇て正二位大納言に至り、子息時実時家も、
中少将に成て、太政入道と親くて、万事申合せられ
ければ、天下の事を我儘にとり行はせられける間、
平関白とぞ時の人申ける、検非違使別当にも、三度
迄なられたりき、いまだ先例なきことなり、今暫くも
平家の世にておはせしかば、大臣は疑ひなからまし、
庁務の時も、さまざまのこと強行して、強盗廿八人
が右手切なんどし給ひたりけり、昔悪別当経成と申
人こそ、強盗の首を切落し給たりけれ、此時忠は心
ざま猛き人にておはしければ、西国にましましし時、
院より、帝王都へ入参らせよ、三種の神器返し参ら
せよとおほせつかはす、院宣持て下りたりける、御
つぼの召次花方がつらに、波形と云火印をさして、汝
をするにあらずとぞ宣ひける、されば誰を申されけ
P712
るぞ、故女院の御ゆかりなれば、被宥べかりしかど
も、かかる事ども思召忘れさせ給はねば、法皇の御
気色よからずして、流されけるもこの故とぞきこえ
し、
大納言都を出給ひて、近江国志賀の唐崎を打過て、
堅田と云うらにて、ここはいづくといふ所ぞと、網
人らにとひ給へば、これは堅田の浦と申すと申けれ
ば、時忠卿かくぞおもひつづけ給ひける、
かへりこんことはかた田に引網の
目にもたまらぬ泪なりけり W153 K226
九郎大夫判官にも親く成にしかば、其好みもおろか
ならず、流罪をも申宥んとせられけれども、法皇の御
気色あしく、鎌倉の源二位のゆるしもなかりけり、
合戦の先をかけ給はねども、はかりごとを帷帳の中
にめぐらす事、かの大納言のしわざなり、年たけ齢
傾きて、妻子にも別れ見送る人もなく、遙かの境へ
赴かれける、いかばかり心うく思ひ給けんと、推し
はかられてぞいとをしき、西海の浪の上にただよひ
て、又北国の雪の中に、とぢられんこそむざんなれ、
北の方の帥典侍殿は、何ごとも深くおもひ入給ひた
る人にて、終にすまじきわかれかと思ひ給て、心づ
よくもてなし給ふ、それも今はのことになれば、か
なしみの涙かきあへず、其腹に侍従とて、今年十四
に成給ふ男子ましましけり、是を見おき給ひて、い
つかへるべしとも知らぬ遠国に、赴く事の心うさを
歎き給ふ、侍従もおくれ奉らじと泣かなしみ給へど
も、いふにかひなし、あはれにぞありける、
十月三日九郎大夫判官義経、関東源二位殿を、背き
奉る由きこえて、あしこここにてささやきあへり、
兄弟なる上父子の契りをなして、去年正月に、源二
位の代官として、木曾義仲を追討せしより、たびたび
平氏を討て、今年の春悉く亡しはてて、四海を澄し、
一天を鎮め、軍功比類なきところに、いかなる子細
ありて、いつしかかかるきこえあるらんと人あざみ
P713
あへり、この事は梶原が讒言とぞ聞えし、鎌倉殿梶
原を召て、今は日本国に頼朝が敵に成べきもの、誰か
有と仰せければ、梶原申けるは、今は九郎判官殿の外
は覚えず候、其故は摂津国一の谷の合戦の時も、丹波
国より搦手に廻りて、鵯越とて岨き山を越え、城の内
にかけ入て、平家追おとし給ひしは、偏に判官殿の
御計なり、前は海後は山、東西深き谷にて、遠き者
をば射落し、近き者をば石弓を持ちて打殺し、城の
内にも兵多くして、落すべきやうもなかりしを、た
だ三時のうちに落し給ふ、凡そ凡夫の所為とも覚え
ず候、鬼神の振舞なり、船にて通るべくもなかりし
大風大浪にも、わづかに五艘の船に、五十騎ばかり
打乗り、小勢にて四国の地にはしり渡り、屋しまの
城をせめ落ししも彼計なり、今は日本国の中に、何
人か判官殿にならぶべき、定めて君の御敵と成給ふ
べき人なりと申ければ、源二位殿、我もさ思ふぞと
宣ひけるぞおそろしき、是は去年渡辺にて、合戦の
評定しけるに、梶原船に逆櫓を立べき由申たりしを、
被閉口て安からず思て、意趣深くおもひければ、
かくぞ讒し申ける、判官殿も、箇様の事どもをもれ
聞えて、始終よかるまじと思ひ給ければ、偏に思ひ
切て、頼朝を追討せらるべき由、大蔵卿泰経朝臣を
もて、院へ申されければ、十月六日、蔵人頭右大弁光
雅朝臣、院宣をうけ給りて、従二位源朝臣追討すべ
き由、院宣を下されてけり、上卿は右大臣経宗とぞ
聞えし、京都の堅めにてかくて候、申ところもだし
がたし、義経心ざま情ある、人のため世のため、殊
に心よかりければ、上一人より下万民に至る迄、帰
伏せずといふことなし、さればにや事とはず鳳含の
詔を下されぬ、かかりければおそれをなして、落ちて
鎌倉へ行ものもあり、またとどまりて判官に附くも
のもあり、その間、京中何となくききわきたる事は
なけれども、貴賎上下騒ぎあへり、二位殿、梶原を
召て宣ひけるは、九郎が下りたりしを、金洗沢にと
P714
どめ置て、鎌倉へも入ずして、京都の守護に候へと
て追のぼせしかば、遺恨にぞ思らん、大名をものぼ
せ、しかるべき討手をものぼすならば、用心をもし、
落ち隠るる事もありぬと覚ゆるに、土佐房を差のぼ
せて、討たんと思ふはいかがあるべしとの給ければ、
梶原思ふ事なれば、尤しかるべく候なんとぞすすめ
申ける、昌俊を召して、さらば和僧のぼりて、九郎
を夜討にせよとて、隈井太郎、江田源三、源八兵衛
広継をそへて、文治元年九月廿九日に、鎌倉を立て
上洛す、左女牛町にぞやどしたる、判官のもとへ、
二位殿より一紙の御文もなかりければ、土佐房判官
の宿所へ参らず、土佐房上りたりと判官聞給て、召
されけれども、御使に上りたる事は候はず、七大寺
まいりの志に依て、私に罷り上りて候、精進仕候へ
ば、得参り候はず候、其上さして申べき事も、仰せ
蒙るべき事も候はず、参るべくば、精進果て下りざま
に参るべく候とて、参らざりければ、判官にくいや
つが言葉哉、かいがいしからぬ身こそ安からね、彼
法師ほどの奴が、召に参らぬと宣ひければ、武蔵坊
是を聞て、弁慶召て参候はんとて、萌黄糸威のはら
巻に、三尺五寸の大太刀はき、一尺三寸の打刀を抜
まうけて、昌俊が宿所に馳入、四間の所の椽際にが
はと打寄りて、馬より飛下りて、内へつと入て見け
れば、折節昌俊がより伏たる、しや背中の上にむん
ずとのり懸り、抜まうけたる打刀を咽に差当て、い
かに和僧ほどの奴が、判官殿の召には参らぬぞ、慥
に参れと責たりければ、昌俊聊の儀をものべば、忽
ちに首をかかれぬべければ、同じ死すとも、判官に
逢ひてこそ死なめと思ひて、申けるは、物参りの精
進の間、参らず候事返々恐入候、いかでかゆるがせの
儀存じ候べき、是ほどの仰せに及び候はん上は、い
そぎ具して参り給へと、降をこひければ、弁慶なほ
刀をさし当ながら、直垂着て馬にのせて、我身は尻
馬に乗て、少しもはたらかば、しや首かかんと、刀
P715
を打あててぞ参りたる、そこばくの家の子郎等有け
れども、聊もあらき事もあらば、なかなか主の命を
失ひつべき間、とかく子細に及ばず、昌俊も鬼神にと
られたる心地して、みちに思ひけるは、いかにもして
判官を討たらんこそ本意なれ、我身は何にもなれ、
判官の見参に入ならば、頓て組んと思ひけるに、判
官先に心得て、弁慶、昌俊をいて参らば、きらんと思
ひ設けて、備前みの金作りの太刀を抜まうけて、袖
にてしとしとのごひて待給ふ所に、弁慶、昌俊を具し
て参りたり、よらばきらんとにらまへて有ければ、昌
俊相違して、向ふべき様ぞなかりける、判官宣ひけ
るは、和僧は義経を討に上りしな、大名をも然るべ
き人をも、討手にのぼすべけれども、中々用心をし、
落隠るる事もあり、和僧のぼりて夜討にせよとて、鎌
倉殿の仰せられたるなと宣へば、いかでか其儀候べ
き、起請文仕り候べしと申ければ、必書かせんとは
思はね共、書かうかかじは和僧が心なりと宣へば、熊
野の宝印の裏に起請文七枚かきて、一枚をば昌俊焼
て呑でけり、さてもどつて宿所へ帰る、昌俊起請は
書たれども、今夜討ずんば叶はじと思て、夜討の支
度をぞしける、
判官は其比礒の禅師が娘、しづかと云白拍子を思は
れけり、判官しづかに宣ひけるは、何とやらん心騒
ぎのするぞとよ、土佐房めが夜討によすると覚ゆる
ぞと宣へば、大路は塵灰にけ立て、何となく京中ひ
そめくなり、一定昼の起請法師めが、しわざにてぞ
さぶらふらんとしづか申けり、太政入道殿の十四五、
十六七ばかりなる童べを、かみ肩のまはりにそぎて、
二三百人召仕給けるを、判官これ二人を取てつかひ
給ける、かれ等二人、土佐房が宿所、きつと見てま
いれとて遣して、今や今やと、まてどもまてども見えざ
りければ、半物を以て、年来の寝男を尋ぬるやうに
て、土佐房が宿所見て参れとて遣す、かの女頓て帰
りて、これの御使と覚え候、土佐房が宿所の小門に、
P716
二人打殺されて候、土佐房はあかつき大仏へ参り候
べしとて、大庭に大まく引て候、其内に鞍置馬四五
十疋計引たてて、鎧物具身に取付たるものども、手
綱を取、鞍に手をうち懸て、只今乗らんとしつると
申もはてぬに、後より敵判官の宿所、六条堀川へ押
寄せたり、判官鬨の音を聞て、さればこそ土佐房め
がよするか、何事のあらんぞといひて、すこしも騒
ぎ給はず、物はあなづらぬ事にてさふらふぞとて、鎧
を取て判官になげかけたり、判官其比灸治をしみだ
したりけるが、鎧取て着、太刀引さげて出られたり、
いつのほどにか設たりけん、とねり男馬に鞍置て、
縁のきはに引付たり、判官此馬にひたとのりて、門ひ
らけよやと云て、打出て、日本国に今日このごろ、
義経を夜討にも昼討にもすべき者は、覚えぬものを
といひて、ただ一騎うち出給へば、敵の中をあけて
通す、判官取返し、竪ざま横ざまさんざんにかけた
りけり、木の葉の風にふかるるが如し、あなたこな
たへかけ散らされぬ、去程に判官の手勢も、五百余
騎になりにけり、かかりければ、或は鞍馬の奥、或
は貴布禰の奥、僧正が谷なんどへぞ迯籠りける、隈
井太郎は内甲を射させて、其夜死にけり、源八兵衛広
綱も、膝節を射させて、死生未定なり、土佐房は龍
花越に北山をさして落けるが、判官二手三手に軍兵
共を分てつかはしければ、先をきられてのびやらず、
大原へかへりて薬王坂を越て、くらまの僧正が谷に
ぞ籠りける、判官元より鞍馬の児にてありければ、鞍
馬の大衆昔のよしみ思ひしりて、土佐房をからめて
判官に奉る、褐衣の直垂に袴をぞ着たりける、判官
の前に引すへたり、判官、いかに和僧は、義経討ま
じといふ起請文を書きて呑たるものが、呑も引入ず
義経を討んとする時に、神罸忽にかうぶりたりなと
宣へば、土佐房今はかうと思ひければ、詞もたまは
ずさんざんに悪口ども申たり、判官腹を立てて、しや
首うてとてうたせらる、何にもうたせ給へ、少しも
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痛うも候はず、昌俊が討るるにては候はず、是は鎌
倉殿の討れさせ給ふにて候へば、このかはりには、ま
た殿の御首を、鎌倉殿の打返し参らせさせ給はんず
るに候と申ければ、判官打笑ひ給ひて、汝が心ざし
のほどありがたし、さこそあるべけれ、神妙なり、
命や惜しき、二位殿へ参らせんと宣へば、とりかへ[B 「とりかへ」に「兎も角もイ」と傍書]
もなき命を、鎌倉殿に参せて、鎌倉を立しより、
生て帰るべしとも存じ候はず、夜べ君を討奉らんと
て、御館へまいりて候つれども、討えまいらせずし
て、運のつきぬるにてからめられ候ぬ、今更命を申請
にあらず、御芳恩には、とく首をめせとぞ申ける、
人これを感じける、さらばきれとて、六条河原に引
出して、これをきらんとするに、きらんといふ者一
人もなかりけり、京の者の中に、中務丞知国といふ
者、申請て切てけり、判官には二位殿より、安達新
三郎清経といふ雑色を付られたりけり、きやつは下
臈なれども能者ぞ、若事あらば旗ざしにたのめとて
付られたり、誠には判官のひがごとをもし、謀叛を
も起しげならば、告よとてけんみに付られたりける
が、土佐房がきらるるを見て、其暁鎌倉へ走り下り
て、二位殿に此よしを申す、さては九郎は頼朝を敵
にせられたり、この事今はつつむともかなふまじと
て、二位殿の弟、三河守範頼を大将軍にて、六万余
騎をさしのぼせらる、三河守小具足ばかりにて、熊
王丸と云わらはに甲持せて、二位殿の見参に入給ふ
に、二位殿、和殿も九郎が様に、二舞し給ひそと宣
へば、小具足脱て、いかでか其儀候べき、起請文仕
るべしとて、一日に一枚づつ百日が間百枚の起請か
きて、二位殿に奉り給にけれども、用ひずしてつい
に三河守きられ給ひにけり、大将軍にて上り給ふべ
き三河守はきられ給ひぬ、切給ふ心を人これを知ら
ず、大名小名怪みをなす、其後北条四郎時政を大将
軍にて、三百余騎都へ上せらる、
元暦二年十一月一日、肥後国住人菊地次郎隆直、此
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三ヶ年の間、平家に附て度々の合戦に軍功有しかど
も、平家滅亡の後は安堵しがたくして、もしや命い
きるとて、二位殿へ降人に参りたりけれども、平家
方人として合戦を致す事、其科のがれがたき間、終
に隆直切られにけり、
同二日、判官、大蔵卿泰経朝臣を以て、後白河法皇
に申けるは、義経兵衛佐が代官として、君の御敵平
家を追討つかまつり亡し、父義朝が会稽をすすぎ[B 「すすぎ」に「きよめイ」と傍書]、
四海を澄して頼朝日本国を手に挙て候は、希代の軍
功に候はずや、然るを義経させる其咎も候はねども、
頼朝がために討せらるべしとて、北条四郎時政承り
て上り候なり、東国に罷向ひ候て、日来の軍功又あ
やまりなき子細をも、頼朝に申べく候へども、今は
かなひがたき上、敵対すべきにても候はねば、東国
へもまかり下らず候、又京都にて時政を待請て、何
にも成べく候へども、君の御ため人の煩ひあるべく
候へば、西国へ下り候はばやと存候、やがて御下文
を給候なんや、豊後の国の住人惟栄、雅隆等に始終
を見放たず、心を一つにして力を合すべき由、仰せ
下さるべく候、度々の軍功いかでか思召し捨てられ
候べき、最期の所望、ただこの事に候と申給たりけ
れば、法皇思召し煩はせ給ひて、大蔵卿泰経を以て
殿下〈 近衛殿 〉へ申され、花山院左府兼雅、左大臣経宗に仰せ
下さる、又蔵人左少弁宗長御使にて、右大臣〈 兼実月輪殿 〉
に申あはせらる、各々計ひ申されけるは、義経、時政
等、洛中にて合戦をいたさば、朝家の御大事たるべ
し、逆臣京都を出でば、おだしき御事にてこそ候は
めと、はからひ申ければ、義経が申処、尤不便の次
第なりとて、後京極左大臣良経と名乗せ給へば、判官
義顕と改名して申請がごとく、頓て御下文をなされ
にけり、判官畏て給て、同十一月三日、事の由を申
て、京都に少しも煩ひなさず、卯刻都を出て、西国
へ下向す、備前守同く相伴ふ、かれこれの手勢、わ
づかに五百余騎にはすぎざりけり、関東に志ある在
P719
京の武士近国の源氏ども、追懸て射けれ共、物ともせ
ず、散々に蹴ちらかして、河尻迄は事故なく着にけ
り、大物の浜にて船に乗らんとしけるに、折節大[B 悪イ]風
吹て船を出すに及ばず、摂津国源氏、多田蔵人、豊島
冠者、大田太郎追かけて射ければ、たへずして皆さ
んざんに成にけり、義経も行家も行方を知らず、と
りぐしたりし女房共は、捨おきたりければ、真砂の
うへ松の本に、袖をかたしきはかまをふみしだきて
泣伏したりければ、其辺のものども、あはれみて都
へおくりけり、白拍子しづかばかりぞ判官に付て見
えたりける、
六日美濃近江両国の源氏、義経、行家を追討の為に西
国へ下さる、山陽道南海道の輩、彼両人をめして奉
るべき由院宣を下さる、今又頼朝が申により、義経
を追討せらるべきよしを宣下せらる、世間の不定、
うき世の中の転変なれば、朝になり夕に変ずとは、
加様のことを申にや、
同日関東より源二位の代官、北条四郎時政上洛す、
九郎判官義経都を落ければ、合戦するに及ばず、天
下しづまる上は、諸国に守護を置き、庄園に地頭を
居て、国衙庄保をいはず、段別をあて、十一町に一町
の給田を賜はる、帝王の怨敵を亡す者は、半国を賜は
ると云こと無量義経に見えたりと申せども、この申
状は過分の事なりと法皇思し煩はせ給へども、源二
位の申さるる旨もだしがたきに依て、白河関すでに
東は日本国の半分にあたるなれば、経文にまかせて、
謀叛のともがらを長く断がために、源二位ひらに申
されければ、諸国七道に守護地頭を置れけり、
北条四郎時政披露しけるは、平家の子孫を尋ね出し
たらん者には、訴訟も所望も功によるべしと申けれ
ば、京の者の中に、案内はしりたり、所望は多し、
爰かしこより尋ね出して殺させけり、正しく平家の
子孫にあらざるも、物のほしさに平家の子共と云て、
害させけるぞうたてしき、おさなきをば水に入、土に
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うづみ殺し、少しおとなしきをば頸をきり、母のお
もひめのとの歎きいづれも愚ならず、鎌倉殿、北条
に仰せ含められけるは、権亮三位中将維盛が子息、
中御門の新大納言の娘の腹に、六代といふなるこそ
おとなしくもあんなれ、平家の嫡々にてもあれ、相
かまへて尋出して失ふべしと、追々仰遣はされけれ
ば、北条いかにもとめけれども尋ねいださずして、
暁鎌倉へたたんとしける所に、六波羅にけしかる下
す女、一人いで来て申けるは、是より西に大覚寺と
云山寺の北へ入て、奥深きに作りたる坊にこそ、権亮
三位中将殿の若君一人、姫君一人、ぐそくしてこの
三とせ忍びてましますと告げたりければ、北条人を
遣はして伺ひ見せければ、まがきのはたより犬の子
の出るをとらんとて、なのめならずうつくしげなる
若君の走り出たるを、めのとと覚しきが続て出でて、
あなあさましや、人もこそ見れとて、急ぎ呼び入る
を、是ぞそれなるらんとて、かへりてこの由を申け
れば、次の日、百騎計にて打向て、大覚寺の坊の四
方を打囲て、人を入ていはせけるは、権亮三位中将
殿の若君、六代御前渡らせ給ふよし承り候、御迎に
参りたり、出し奉り給へと申ければ、斎藤五斎藤六、
坊の四方を見れども、若君をもらし奉り候べき方も
なし、いかがはすべきと申ければ、母御前は若君に
とり付て、まづ我をころしてゆけやとなきかなしみ
給ふ、めのとの女房、御足にとりつきてをめきさけ
ぶ、此三とせがほどありつれども、男も女もこゑを
だに高く笑はずして、今は何をか忍ぶべき、何をか
おそるべきなれば、ありとあるもの声もをしまずを
めきさけぶ、北条申けるは、別の御ことは候まじ、
世もいまだしづまり候はねば、その程暫く渡し奉れ
と鎌倉殿よりの仰を承りて、北条四郎時政と申もの
参りて候なり、御輿よせてとくとく奉るべきよし申
けれども、返答せず、皆人をめきさけぶ、たけきも
ののふも、子孫は持たればさこそあるらめと思ひし
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られて、其後はいたく苛薄にもせめざりけり、斎藤
五、母御前に申けるは、今迄もかくて渡らせ候つる
こそ不思儀にて候へ、是はかねて思召し設けつるこ
となりと申ければ、とく遣せ、暫くもあらば、いと
まこひて見まいらせに参り候はんぞ、遅く出させ給
はば、彼等打入てさがさば、見ぐるしき有様、見えさ
せ給はん事口惜しかるべし、疾々遣せと宣へば、此
詞によわりて、母御前も乳母も泣々出し奉る、乳母
は若君の御ぐし結び奉る、今を限りと思ひける心の
うちのかなしさ、たとへんかたぞなかりける、母御
前は黒き念珠の小きとり出して、我をば只今別ると
も、これにて念仏申て、父のありせん所へ生れんと
願ひ給へと宣へば、若君念珠取、いかならん所にて
もあらばあれ、父御前のましまさん所へぞ生れたき
と宣へば、いとど人々泪もせきあへずなきあへり、
若君十二にぞ成給ひける、御せいもふときに、御か
たちもなのめならず、美しくぞ御こころだちもつき
つきしく、わりなくましましけり、若君既に御輿に奉
り、武士によわげを見えじとて、おさふる袖の下よ
りもあまる泪ぞこぼれける、斎藤五斎藤六、歩行に
て御ともにまいりけり、北条乗り替へ共をおろして、
是にのれと申けれども、若君の最期の御ともなれば、
今いくほどか乗るべきとて、大覚寺より六波羅まで、
はだしにてぞ罷りける、母や乳母の許に置て、時々
見ることも有ぞかし、是は持たぬものを持たる様に、
二人が中にてそだてつるものを、此三とせこそ父は
なけれども、二人のものを左右にふせてこそなぐさ
みつるに、一人はあれども一人はなし、おとなしく
成ままに、三位中将に少しも違はず、形見にせんと
こそ思ひつるに、かたみさへとられぬる事の悲しさ
よ、長谷の観音に産[B ういイ]子に申たりしかば、さりともと
観音をこそ深くたのみ奉らせつるに、終にとられぬ
ることの悲しさよ、ほどけも定業をばかなへ給はざ
りけるぞや、此三とせ今や今やと思ひ設けたる事な
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れども、今出来不思議の様にぞ覚えける、平家の子
どもとり集めて、おさなきをば土にうづみ、水に入
て害し、おとなしきをば切ると聞ゆれば、これは少
しおとなしければ、定めてきりこそせんずらめ、い
か計おそろしと思はんずらん、をのこ子ほど悲しき
ものはなし、われを歎かせじとて、暫くもあらばい
とま乞て見に来らんといひて、さりげなくもてなし
て出つる面影、いか成らん世迄もげにいかでかわす
るべき、夢ならば又も見ざらん悲しさよ、いかにせ
んとぞもだえ給ひける、長きよもすがら、まどろみ
給ことなければ、夢にだにも見え給はず、かぎりあ
れば夜も更にけり、斎藤六、六はらより参りたり、御
文候とて参らせけり、母御前御らんずれば、よのほ
ども何事か渡らせましまし候はん、いつしか誰々も
恋しくこそ成らせましまして候へなど、細々にかか
れたり、是にて手習せしよりも、筆の立所のみだれ
たるは、泣々書たるにこそ有らめとぞ泣れける、乳
母の女房、御言葉には何とか仰せられつると尋ぬれ
ば、わびずしてあると申せと、仰せられ候つると申
せば、御科は参りたるかといへば、夕べも今朝も参
らせたれども、御はしをだにもたてさせ給はずと申
ければ、あな心うや、思召入たればこそ御料は参ら
ざるらめ、わらはをわびしめじとて、わびずして有
と仰せられつらん、悲しさよとてもだえこがれける
こそむざんなれ、斎藤六、暫くも覚束なく覚え候へ
ば、帰り参り候はん、御返事を給はりてと申せば、
母御前御返事を書かんとし給ふが、泪にくれて筆の
立所(たちど)も見え給はず、されども思ふ心を知べにて、書
みだしてぞたびたりける、乳母の女房は悲しさの余
りに、有にもあらぬ心地して、足に任せてあるきけ
るほどに、近き程なる者のとぶらひて申けるは、是
より奥、高雄といふ処に、文覚房といふ聖こそ、京都
にも鎌倉にも大事にはせらるる聖なれ、上臈の君達
をも、弟子にしたけれと申ければ、よき事ききつと
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思ひて、母御前にもかくとも申さず、則高雄へ走り
行て、文覚房の坊へ尋行きて申けるは、上臈若君の
なのめならず美しくましましつるを、殺し奉らんと
て、とりまいらせてまかり候ぬるぞや、かれたすけ
参らせて、御弟子にせさせましませやとて、ふしま
ろびこゑもをしまず泣をめきければ、むざんとや思
はれけん、聖事の子細を尋ぬるに、権亮三位中将殿
の北の方、したしき人の御子をとりて、養ひ参らせ
つるを、誠の三位中将殿の御子とや人の申たりけん、
殺し奉るとて、とり参らせて罷り候ぬるぞや、こと
し十二にならせ給ひ候ひつるが、御せいも大きに、
御かたちも美しく、御心だてもおとなしくましまし
つるが、乳のなかより取上げ参らせて、片時も別れ
参らせざりつるものを、昨日よりとられてさふらふ
なり、あれ助させ給へや、御功徳いかでか是に過ん
とて、則聖の前に倒れ伏して悶絶しける有さま、誠に
たへがたげなり、聖武士をばたれとかいひつると尋
ぬれば、北条四郎とかやとぞ申候つれといへば、聖さ
ては助奉りたらば、是に置奉るべきかと問れければ、
あなことも愚かや、命を生られ給ひなば何とも上人
の御心にてこそはと申す、さてはといひて、行向ひ
て見んとて、頓て六はらへおはしにけり、乳母の女
房大覚寺へ帰りて、此由を母御前に申ければ、母は今
朝よりいでて見え給はねば、思にたへずして身を投
給ぬるにやと、我身もいとど便なく、たへて有べし
共覚えずして、水の底へもと思たちつるにとて、声
も惜まず泣給ふ、あはれ聖が乞うけて、今一度我に
見せよかしとてまた泣たまふ、聖六波羅へおはした
れば、北条申けるは、権亮三位中将殿の若君六代御
前を、いかにも尋出し奉らずして、既に下るべきに
て候つるを、思はざる外に求め出して、きのふより
渡り奉て候へども、余りに美しく渡らせ給へば、い
づくに刀をあつべしとも覚えずして候と申ければ、
聖いで見奉らんとて、傍なりければ、ましましける所
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の障子をひきあけて見奉りければ、二重織物の直垂
著給ひたるが、本結際より始めて、袴のすそ迄しな
やかなり、今宵寐給はざりけりと覚えて、少し面疲給
ひたるに付ても哀なり、黒き念珠のちいさきをくり
ておはするが、何とか思はれけん、聖を見て泪ぐみ
てましましければ、聖あなむざんや、何なる怨敵成
とも、いかが是を失ふべきとて、北条にいはれける
は、此若君を見奉るに、余りに不便に覚ゆるなり、
且は知給はざる事ぞかし、法師が鎌倉殿に世をとら
せ奉らんとて、院宣を伺ひにのぼりしに、昼は山中
に隠れありき、夜こそ道には出でしか、富士川のし
りに夜渡り懸りて、押流されてすでに死なんとしけ
る事もありき、高瀬山盗人に逢て、着物を皆はぎと
られて、手をすりて命ばかり生たりし事ありき、又
粮料の支度にも及ばずして、飢に臨みて死なんとせ
し事も度々なり、契りを重くして命をかるくし、千
里の道を遠しともせず、五六日には行かへり、院宣を
伺て奉りし奉公には、いかならん大事なれ共、聖が
いはんことを、鎌倉殿我一期の間は、一事もたがへ
じと宣ひしが、受領神尽給はずば、よも忘れ給はじ
ものを、廿日が命をのべ給へ、申ゆるさんとて、其
暁鎌倉へ下る、斎藤六大覚寺へまいりて此由申けれ
ば、母御前手を摺て悦び給ふ、観音の守らせ給ける
よな、後はしらず、廿日の命の延たる事のうれしさ
よとて、うれしきに付ても又泣給ふ、去程に廿日も
夢のごとくにて過ぬれども、聖の音づれもなかりけ
り、斎藤五斎藤六二人のものども、手を握り心を砕
けどもかひなし、北条はさてしも都にて年を送るべ
きにもあらずとて、下らんとひしめく、此度は斎藤
五大覚寺へ参りて申けるは、北条こそ暁立ち候へ、
聖はいかに待候へ共いまだ見えず候とて、おとなし
き者共は、よしなくも馴れ奉りて、むざんの事を見
んずらん悲しさよとて、泣く者も数多候、又念仏申者
も候と申せば、いづくにてか切らんずるとか聞つる
P725
と宣へば、あふ坂山か、勢多の辺かとこそ承り候つ
れと申ければ、この子はしりたるかと宣へば、しら
せて候へばこそ人の見参らせ候時は、何となき様に
て渡らせ給ひ候へども、人の見参らせぬ時は、泪を
のみながしてましまし候らめと申ければ、あなむざ
んや、いかなれば聖は見えぬやらん、叶はねばこそ
見えざるらめ、暫くもあらば、暇こひて見えに来ら
んといひしかども、廿日も過ぬれども彼も来らず、
人は夢をば頼むまじかりける事ぞや、今夜此子が白
き直垂著て、蘆毛なる馬に乗て、是へ来て、余りに
恋しく思ひ参らすれば、北条にいとま乞て参りて候
とて、傍に居てさめざめと泣くと見つるぞや、ほどな
く打驚きて、もしやとて傍をさぐれどもなし、夢と
思せば今暫くも驚かざらまし、観音の守らせ給けり
と、あはせてありつるに、さては暁たたむずるが見
えけるぞや、今夜計の古さととて何に名残の惜かる
らん、あはれ北条とかやが用ふべからん人のいへか
し、聖が逢ん所迄ぐせよといへかし、もし不思儀にて
も宥され有らんに、はや切てといひたらん口惜さは
いかがせんずるやとてぞ泣れける、さても己等はい
かにと宣へば、いづく迄も御供仕てこそ、御ほねをも
取て、高野粉河にも納め奉り候はんずれと申ければ、
斜ならず悦び給ひて、さればこそ三位中将も、多く
の人の中に己等をば止め置れしか、さればとくとく
行け、心もとなく思らんにと宣へば、斎藤五帰りけ
り、責ての悲しさの余りに、母も乳母もうしろの隠
るる迄見送り給て、もだえこがれ給けり、文治元年
十二月十六日いまだ夜深く、北条四郎時政六代御前
を具し奉りて、六はらを立給ふ、会坂山を見給ては、
是や我臥所と成らんと思ひ給ひけるこそむざんな
れ、あふ坂山を打すぎて、勢多が野路かと思へども、
かがみの宿にも着給にけり、遠ざかり行につけても、
いかばかり心のうちに、ふる里恋しく思ふらんと哀
也、聖や上り逢ふと、二人の者ども思へども、聖も
P726
見えず、明ぬれば鏡の宿をも立て、はるばるの東路
に向て、血の泪を流して、二人の者ども、若君のこし
の左右に付てぞ下にける、馬にのれと北条申されけ
れども、馬にものらず、物をだにもはかず、只袖を
しぼりて泣々足に任せてぞ行ける、若君も駒を早む
るものあれば、我を誅しに来るかと疑はれ、又人々
私語事あれば、我事をいふやらんと覚すに付ても、
御涙せきあへ給はず、年も既にくれぬとて、宿々を
も打すてて、駒をはやめて行ほどに、美濃尾張三河
遠江も過ぎゆきて、駿河国千本松原といふ所におろ
しすへて、北条斎藤五斎藤六に、今は鎌倉もすでに
近くなりたり、各々とくこれより帰り上り給へ、是よ
りおくは、何か覚束なく思はるべきと宣へば、二人
の者ども思ひけるは、ここにて若君をば失ひ奉ぬる
よと、むねもせきものも覚えず、此三ヶ年が間、夜
も昼も付奉りて、一日片時も離れ奉らず、何にも成
給はんを見はて参らせんとてこそ、これまでも参り
て候へと申て、涙もかきあへず泣く、北条も岩木な
らねば、涙を押のごひて、若君をこれまで供し奉り
候つるは、聖や申請て上り候とて、是迄も供し参ら
せ候つれども、けふまで聖も見え候はず、使をだに
ものぼせ候はねば、力及ばず候、鎌倉と申候は、一
日二日の内に過ぎず候、足がら山をも越べく候へど
も、聖箱根をもや上り候らんと、覚束なく候て、こ
こには逗留してこそ候へ、さのみ日数をへて具しま
いらせて山を越候はん事、鎌倉殿の聞召され候はん
所其恐候、日来浅からず思ひ参らせ候つる志は、見
えまいらせ候ぬ、又先世の事と思召候て、世をも人
をも神をも仏をも、恨み参らする御心なくして、窃
に御念仏申させ給候べしと申ければ、若君其御返事
とおぼしくて、二度打うなづかせ給ひける、御心の中
いか計り思ひ給けんといとをし、若君西に向ひて、
今は限りの念仏の声もみだれてぞ聞えける、北条申
けるは、平家の公達尋取らば、暫くも有べからず、
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いそぎ失ひ奉れ、程経べからずと、度々仰を承りた
りしかども、若君の御事は、聖さりがたく申されし
かば、いま迄相待てども、約束の日数もすぎて、久
しくなりぬれば、御ゆるしのなきにこそ、日来なじ
みまいらせて、何にし奉るべしともおぼえずとて、
北条泪をながしければ、家の子郎等共も、若君の首
切らんと云者一人もなし、唯力及ばずとのみ申けれ
ば、あるもの太刀をとりて寄たりけれども、あまり
になみだしげければ、いづくに刀を当べしとも覚え
ざれば、他人に仰付らるべしとてのきにけり、さて
はいかがすべきと云て、思ひ煩ひてありけるに、す
み染の衣はかまきたる僧の、文袋首懸たるが、鴾毛
なる馬にのりたるが上りけり、何なる者ぞと思ひけ
る程に、高雄の聖の弟子なりけり、今一足もいそぎ上
れとて先立ける、北条思ひ煩ひける所に走り付て、
若君ゆるし給たりといふ二位殿の御文あり、北条急
ぎて見給へば、御自筆にて
小松の権亮三位中将維盛の子息、生年十二に成、
字六代といふなるを尋出したるなる、高雄の文
覚上人頻に申請給ぞ、いまだあらば預け奉り給
べし
文治元年十二月廿五日 頼朝
北条四郎殿へ
とぞ書れたりける、北条四郎高くはよみ給はで、神
妙々々と宣ひて打おき給へば、若君ゆり給にけり、
あまりにいとをしく思ひ給つるにと申て、武士共皆
悦びあへり、斎藤五斎藤六が心のうち、いか計あり
けんと推はかられてむざんなり、去ほどに聖も頓て
馳付たり、若君は申預りたり、一足もとくとて、鎌
倉殿の御文をば先立て奉る、定て見給ひつらんと申
て、斜ならず悦ばしげに思へり、平家の嫡々の正統な
り、父三位中将、初度の討手の大将軍なりき、いかに
もゆるしがたしと宣へつれども、ひらに申受たり、聖
が心を破り給ひては、鎌倉殿いかでか冥加おはすべ
P728
きと、からかひ奉る程に、今までありつるなりと申
て、けしきゆゆしげ也、北条宣ひけるは、廿日と宣
ひしに、日数も過しかば、御宥されもなきと思ひて、
さのみ京都に有べきならねば、罷下りつるに、賢ぞ
あやまり仕たらんにとぞ宣ひける、若君はこれより
聖具し奉りて都へかへり上り給ふ、今一時も有せば、
切奉り候べきにてありけるに、蘇り給けるもあさま
し、只夢の心地してぞ御座しける、斎藤五斎藤六猶
うつつとも覚えずとぞ申ける、北条鞍置馬二疋引出
して、斎藤五斎藤六を乗せてのぼす、日比の情有が
たくあたりつることどもいひ続けて、二人ながら又
なく、若君も物こそ宣はね共、日比の歎きのなかに、
情をかけらるるけしき見え給へば、北条も涙をなが
して、今一日も送り参らすべけれども、二位殿に急
ぎ申べき事候へばとて、北条下りにけり、聖は若君
を先立てよる昼急ぎのぼる、文治元年の暮にて有け
れば、尾張国熱田の社にて歳を取る、明日正月五日、
文覚上人の里の坊、二条猪隈へぞ着にける、若君は大
覚寺へましますべきにて有けれども、暫旅の疲を休
みつつ、夜に入て大覚寺へぞましましける、栖なれ
しやどを見れば、たて納めて人もなし、近きほどの
人に問はばやと思へども、夜も更けさ夜も隔たり、
犬の声もすむほどになりにければ、人の音もせずな
りにけり、むかし手なれ飼ひし犬の、籬のひまより
走り出て、尾をふりてなつかしげに向ひければ、我
を見知たりけるものは、おのれ計こそのこりけり、
母御前、乳母の女房、妹の姫君はいづくにぞ、我下り
し其思ひにたへ給はずして、身を投給ひにけるやら
ん、また平家の方人とて、武士のとりけるやらん、
さまざまに思ひつづくるに、心うくて主はいづくへ
ぞと、この犬に問はまほしけれども、御返事すべき
ならねば、思ひ歎き浅からずして、いづくへかまし
まし候べきなれば、今夜はここにとどまりて、こし
方行末のことども、つくづくと思ひつづけ給ひて、
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命のをしかりつるも、かへり上りたかりつるも、此
人々を今一度見奉り、見え奉らんとこそ思ひつるに、
こはいづくへぞや、ありし松原にて如何にも成らで
と、責てのことに思召しけり、限りあれば夜も漸く
明にけり、斎藤五斎藤六、其辺を走り廻りて、人々
に問ひければ、若君は鎌倉へ下り給ぬと母御前御乳
母の女房聞かせ給て、その御歎きあさからずして、ふ
ち瀬にも身を投げんと宣ひしが、もしや帰り上り給
ふとて、かひなき命を惜みて、この世になき人とも
なるならば、山々寺々修行して、後世を弔ひ奉らん
とて、大仏参籠し給て候なるが、歳は奈良にてとら
せ給ひて、当時長谷にこそ籠らせ給たると承ると申
ければ、左もあらんとて、斎藤六長谷へぞ参りにけ
る、母上乳母の女房は、長谷の観音堂の正面に候ひ
給ひて、別れし若君今一度今生にて合せ給へ、それ
かなはず候はば、急ぎ命を召して、若君と一蓮の上
に向へ給へ、大慈大悲の御誓は、枯れたる草木も花
咲き実なるとこそ承はれ、悲願あやまたず合せ給へ
と申もはて給はず、御涙にむせびて、法施の音も弱
りにける、斎藤六是を聞に、袖もしぼるばかりにて、
斎藤六こそ参りて候へと申たりければ、母うへ乳母
の女房、これを聞くに夢の心地して、いかにやいかにや、
この若君はいかになり給たるぞと、問ひ給へば、若
君は別の御事候はず、御上り候て、大覚寺に渡らせ
給ひ候が、急ぎ参りてこの由を申候間、参りたりと
申せば、あなよろこびの事や、年来観音にあゆみを
運び、志をいたしつつ参りし事も、又参籠せし事も
ありき、此度は若君の事を祈り申て、今生かなはず
ば、来世のため共思ひて、百日の参籠と思ひつるも、
この若君の故なり、又こそ参らめとて、観音にいと
ま申て京へ出給ぬ、さても斎藤六、有し鎌倉への下の
道すがらの事をぞかたりける、大慈大悲の御誓は、罪
あるをも罪なきをも引導し給ふ事なれば、昔今もか
かるたぐひ多かりきと宣ひて、大覚寺にて若君を見
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奉り給ふに、猶現とも覚え給はず、夢の心地ぞし給
ける、若君日ごろ思ひつる事、又道すがら旅の哀を
こまごまとかたり給へば、母うへ乳母女房これを聞
き給ふに、御泪のみぞつきせぬ、見る人きく人袂を
しぼらずといふ事なし、若君旅に出で給ひたる効と
おぼえて、日くろみして少しおもやせて見え給ふ、
それにつけてもいとど悲しくて、つきせぬ物は御涙
ばかりなり、若君かくてしばしもましますべけれど
も、世の聞えもおそろし、また聖の思はん事もあれ
ばとて、急ぎ高雄へ入らせ給ぬ、聖斜ならず悦びか
しつき奉り、斎藤五斎藤六をもはぐくみ、母うへの大
覚寺の御すまゐの幽なるをも、こまやかに訪ひ奉け
り、
去程に北条鎌倉へ下る、鎌倉殿より御使はしり向て
申けるは、十郎蔵人行家、志太三郎先生義憲、河内
国にかくれ籠りたる由其きこえあり、搦めとりて参
らせらるべしと申たりければ、北条是迄下りたるを、
かへり上るべきにあらずとて、京の代官に置たる北
条甥平六時定といふもののもとへ、十郎蔵人行家、志
太三郎先生義憲等、河内国に隠れ籠りたるよし其聞
えあり、からめとりて参すべく候由、鎌倉殿より仰
付られたり、これまで下る間かへり上るに及ばず、
かの人々を搦め取て可参候由、時定がもとへ申上せ
たり、時定が郎等に大源次宗安と云者あり、時定申
けるは、此こといかに有るべき、誰にてからめさす
べき、又彼人々を見知たらばこそあらめ、但是に今
まいりの法師の有しは、いまだ是にあるか、召せと
て召出したり、もとは山門西塔法師ひたち房昌明と
云者なり、時定申けるは、十郎蔵人殿、志太三郎先生
殿、両人をからめ捕てまいらせよと、鎌倉殿より仰
かうぶりたり、彼人どもは天王寺に隠れ居たりと聞
ゆ、罷下搦め参らせよと云ば昌明、十郎蔵人殿をこ
そ見知り参らせ候はねと云ければ、時定が郎等大源
次宗安を先として、信濃国住人笠原十郎国久、同国
P731
住人桑原の次郎、上原の九郎、伊賀の国住人羽鳥部
平六、常陸国住人岩下太郎、同次郎等を始として、都
合三十余騎にて天王寺へ下る、天王寺に秦六秦七と
いふ舞人兄弟がもとに隠れ居たり、中にもくぼの学
頭と云者、娘二人あり、かれを十郎蔵人思て忍びて
ましましけり、先昌明、秦六秦七がもとを見るに人
もなく、くぼの学頭兼治がもとをみるに、唯今迄人
ありと見えたるが、そこにもましまさず、昌明力及
ばずして、天を仰て京へ帰り上るに、十郎蔵人熊野
へ立給ふが、暫く和泉国八木郷司が許にあり、郷司
京へ上りて、平六時定に申けるは、和泉国八木郷司
と申者にて候、此四五日某がもとにこそ、あやしば
うたる人は忍びてましまし候へ、一定十郎蔵人殿に
てましますと覚え候と申たりければ、時定悦びて五
十騎計の勢にて下る、東河の桜岸の辺にて昌明に行
合ひたり、十郎蔵人殿は和泉国八木郷と云所にまし
ますなるぞ、急ぎ馳下て搦めよと云て、先に遣はす、
昌明聞あへず、鞭を揚て馳下て、八木郷を尋ぬるに、
此家にこそましまし候へと申ければ、昌明つと入て
見るに、爰にも唯今迄人ありと見えたりけるに御は
せず、昌明仰天して、彼家の後口に立たる所に、ある
下す女の通るをとらへて、かかる人はいづくにまし
ますぞ、慥に申せと云に、知らずと申ければ、いは
ぬ物ならば首を切らんと申て、太刀をぬかんとしけ
れば、女おろしさに、あれに候家にこそ、いかなる
人やらん、尋常なる旅人の忍てましまし候と申けれ
ば、昌明押寄せて彼家を見るに、褐衣に菊とぢした
る鎧直垂着たる男の、唐瓶子にくち包みて取出した
り、唯今行はんとて取ちらしたりけるに、昌明が寄
するを見て、彼男つと出て、北をさして迯るを、昌
明是を十郎蔵人と思ひて追かくる、十郎蔵人は金作
りの太刀左手に持ち給へり、つばは後生菩提のため
とて、熊野山へ誦経にまいらせ給へり、右手には三
尺五寸の大太刀ぬき持て、ぬりごめの前に立向ひた
P732
り、昌明むんずと切れば、行家丁とあはす、行家丁
と切て、左の手に持たる金作りの太刀にて、づばと
さし、づんとをどりのきをどりのきする、昌明も流石太刀
にこらへずあやうくおぼえけり、されども少しもお
そるる事なく、ただ切に切ければ、十郎蔵人こらへ
ずして、ぬりごめの内につと入る、昌明申けるは、
きたなうも後を見せさせ給ふ物かなといふに、さら
ば和僧そこのけ、出んと宣へば、昌明つとをどりの
く、太刀を額に当て蔵人つと出たり、昌明丁と切あは
す、いかがしたりけん、太刀と太刀と切くみて、昌
明太刀を投すてて得たりおうといだきたり、上に成
下に成するに、大源次宗安大石をとり、十郎蔵人の
ひたいを丁と打わりたり、蔵人朱になりて、己は下
臈なり、弓矢を取者は弓矢を持て勝負はすれ、石な
どにて敵をうつ事や有ると宣へば、不覚仁哉、足を
結(ゆひ)かしと申たりければ、宗安、昌明が足をこめて結た
りければ、少しも働かず、蔵人を引起して見れば、
額より流るる血は〓の水をこぼすが如し、蔵人、昌明
を見給て、和僧は行家を組んと思ひしかと宣へば、
山上にて多くの悪僧共に打組む事は候つれども、君
の太刀ほどの事にはいまだあはず、就中左の御手に
てささせ給へる太刀に、何に怺へがたくこそ候つれ
とぞ申ける、又昌明をいかが思召候つる、何とか思
ふべき、和僧にしばられぬる上はとぞ宣ひける、志
太三郎先生義憲、河内国を落ちて、醍醐山に籠りた
りと聞えて、山をさがすに、伊賀国をさして落行け
るを、羽鳥平六を先として、山路を見するに、所々
に太刀腹巻ぬぎすてて、ある深山に隠れ居たりける
が、終に自害してけり、両人が首を刎て、損ぜぬ様
にとて脳をいだして、塩をつけみそをこうて、昌明
が鎌倉へ持下りにけり、いかなる勧賞にか預らんず
らんと人々申けるに、勧賞にはあつからずして、常
陸国へ流されにけり、諸人こはいかなる事ぞやと驚
き申けれ共、其心を知らず、流されて二年と申に、
P733
抑行家誅したりし僧は、常陸国へ流しつるは、未だ
あらば召せとて召し返して、いかに和僧わびしく思
ひつらん、下臈の大将軍たるものを誅しつれば、冥
加のなきぞ、時に和僧が冥加のために流し遣しつる
なりとて、摂津国土室庄、但馬国太田庄をぞ賜たり
ける、平六が勧賞には本領を返し給はる、
権亮三位中将維盛の子息六代御前は、年積り給ふほ
どには、御みめ形ち御心ざま立居の振舞迄、勝れてま
しましければ、文覚上人そら恐しくぞ思はれける、
鎌倉殿も常には覚束なげに宣ひて、六代は頼朝がや
うに、朝敵をも打平げ、親の恥をも清めつべき者
か、又頼朝を昔愛し給ひしが如く、いか様見給へと
申されければ、是はいひがひなき不覚仁なり、少し
も覚束なく思召候まじと申ければ、世を打とらせて
方人してんと思ひ給へばこそ、乞うけ給ふらめ、但
頼朝が一期はいか成者なりとも、いかでかかたむく
べき、子孫の末ぞ知らぬと宣へるぞ怖しき、是に付
ても世をつつみ給ひけるぞいとをしき、九条右大臣
摂禄せさせ給べきよし、鎌倉殿より院へとり申さる
と聞えしほどに、十二月廿八日、内覧宣旨を下され
しを、昌泰の頃、北野天神、本院左大臣相並て内覧
のこと有し外、幼主の御時、左右に並て内覧の例な
しと、右大臣仰られければ、次年三月十三日、摂政の
詔書を下されき、前の日、院より右少弁定長を御使
にて、右大臣摂禄の事頼朝卿尚執申之由、近衛殿へ
申させ給ひたりければ、忽に門さされにけり、御分
丹波国辞し申させ給ひつつ御籠居あり、右大臣撰ば
れましまししもさる御事にて、しばしなれども平家
にむすぼれてましまししかば、理なりとぞ申ける、法
皇殊に歎き思召けれども、鎌倉の源二位の執申さる
ることさりがたければ力及ばず、かうさびて九条に
ましましけるが、保元平治より以後、世のみだれ打
続きて、人の損ずる事隙なく、朝夕歎き思召ける陰
徳むなしからず、陽報忽に顕はれにけるやらん、斯
P734
る悦び有き、かひがひしくみだれたる世を治め、す
たれたる事を起し給ふ、
六代御前十四五にも成給ふ、されば世の恐しさいた
ましさに、とく剃りおとし給へかしと母上も宣へど
も、見奉りては是ほどうつくしき人を、やつし奉ら
ん事の悲しさよ、世の世にて有せば、今は近衛司に
てこそあらましかばなどおぼすぞあまりの事なりけ
る、十六と申年の文治四年の春のころ、さてしも有
べき事あらねばとて、柿衣袴負などしたためて、う
つくしげなる髪を肩の辺りより押切つつ、文覚上人
にいとま乞て、修行に出給ひにけり、斎藤五斎藤六
も、同じやうに出たち供に参る、先高野に参りて、
時頼入道が庵室に尋入て、我はしかじかの者なり、
父の成はて給ひけんことの聞まほしくて、来りたり
と宣へば、時頼入道かく宣ふをききてより、権亮三
位中将の身投給ひしも、只今の事のやうに思ひ出て
哀なり、この山伏すこしも三位中将にたがはず似給
へり、有しはじめより終迄の事、細にかたり申けれ
ば、この山伏ども泪もかきあへず、頓て熊野へまい
り給ひて、新宮那智へ伝ひ給ひ、浜宮の王子の前に
て、父三位中将身を投給たる、漫々たる沖の方をは
るばると打詠め給ひて、そぞろに涙ぞ流しける、父
はこの御前の沖にて、身を投たりけるものを、いづ
くの程、何たる所にてましますらんと覚束なくて、
沖より立きて磯うつ浪にも、父の御もとへ事つてま
ほしくぞ思召しける、ひねもすに泣暮し給ひて、さ
てあるべきにあらねば、浜の砂に仏の御形を書て、
てづから開眼して、念仏申行道して、過去聖霊成等
正覚頓証菩提を祈り給ひて、磯打浪にいとま乞て、泣
泣京へ上り給ひて、高雄の辺に住給ふ、三位禅師の
君とぞ申ける、
建久元年十一月七日、鎌倉殿上洛有て、院内の見参
に入て、正二位し給ひて、頓て正二位大納言に成て、
同年十二月四日、大納言右大将に成給ひて、両官を
P735
辞して、同十六日に関東へ下向、同三年三月十三日
に、法皇隠れさせ給ひにけり、同六年三月十三日に大
仏供養あり、平家の侍上総悪七兵衛景清、鎌倉殿へ降
人に参りたりければ、和田左衛門尉義盛に預らる、
昔平家に候し様に少しも口へらず、和田左衛門に所
をも置かず、一座をせめて盃先に取、或は〓のわき
に、馬引寄て乗たりなどして有ければ、もて扱ひて
他人に預給へと申ければ、常陸国住人八田左衛門尉
知家に預らる、
鎌倉殿、大仏供養の随兵の守護の為に、建久六年二
日に御上洛、同三月十二日南都へ入らせ給ふ、大衆
恐れて引たるが、悉くある中に、怪しばみたる者見
えければ、梶原を召て入らせ給ひつる、南の大門の
東のわきに、怪しばみたる者有と、大衆の中へかき
わけかきわけ入て、頭〓たる袈裟を引剥ぎて見れば、髭
をばそりて頭をばそらざりけり、何者ぞと問ふに、
平家の侍薩摩中務丞宗助と申者にて候なり、それは
いかにといへば、もしや君をねらひ参らせ候とてな
りと申せば、鎌倉殿打うなづかせ給ひて、汝が心ざ
し神妙なりとて、召置れて、大仏供養果てて、都へ
御上り有て、宗助をば六条河原にて斬れにけり、
平家物語巻第十九終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第二十
P736
平家物語巻第二十(原本無題)
抑々平家の侍ども討もらされて、無甲斐命計り生た
る数多有けり、頸をのべて源氏に多く付たり、重代
相伝久成、心ざし深き者七八人有けり、源氏にも心
置れぬべし、我身にも人にも立交て、世にあるべし
とも覚えぬ者ども、山野に交り、爰かしこに隠れあ
りきけり、平家亡果てて、日本国鎌倉どのの世に成
て、大宮の主と申て、世にもおはせざりしが、鎌倉
の源二位の御妹にておはしければ、官位進みのぼり
て、今は一条殿とて、京都のかためにて、人の恐るる
こと斜ならず、見るも目ざましと人申けるとかや、
主馬入道盛国が末子に、主馬八郎左衛門盛久、京都
に隠れ居けるが、年来の宿願にて、等身の千手観音
を造立し奉りて、清水寺の本尊の右わきに居奉りけ
り、盛久ふるにも照にもはだしにて、清水寺へ千日、
毎日参詣すべき心ざし深くして、あゆみをはこび年
月を経るに、人是を知らず、平家の侍、打もらされ
たる越中次郎兵衛盛次、悪七兵衛景清、主馬八郎左
衛門盛久、是等は宗徒のもの共なり、尋出すべき由、
兵衛佐殿、北条四郎時政に被(レ)仰含けり、主馬八郎
左衛門盛久は、京都に隠れ居たる由聞えけれど、北
条京中を尋もとめけれども更に尋得ず、ある時下女
来りて、誠にや、主馬八郎左衛門を御尋さふらふな
るか、かの人は清水寺へ、夜ごとに詣給ふなりとぞ
申ける、北条悦て、いか成ありさまにて詣ずるぞと
とふ、白直垂き給て、ものもはき給はず、はだしにて
詣づる人にて候なりと申ければ、清水寺辺に人を置
き、うかがひ見するに、ある時、白直垂のしほれた
るに、はだしにて盛久詣けるを、召捕て兵衛佐殿へ
奉る、盛久まだしらぬ東路に、千行の泪を拭ひ、暁
月に袂をうるほして、我清水寺の霊場に、千日参詣
の志を運、多年本尊に祈奉る、信心の真をこらしつ
P737
るに、日詣むなしく成ぬ、あはれ西国の戦場に軍破
れて、人々海に入給ひし時、同じく底の水屑とも成
たりせば、今日かかるうきめにはあはじものをと、
おもはぬ事もなく、思ひつづけて歎き暮し、あした
の露に命をかけ、日数も漸く重れば、鎌倉にも下着
しぬ、梶原平三景時、兵衛佐殿の仰をうけて盛久を
召す、心中の所願を尋ね申に、仔細をのべず、盛久、
平家重代相伝の家人、重恩厚徳の者なり、はやく斬
刑に従ふべしとて、土屋三郎宗遠に仰て、首を刎ら
るべしとて、文治二年六月廿八日に、盛久を由井が
浜に引すへて、盛久西に向て念仏十遍計申けるが、
いかが思ひけん、みなみに向て、又念仏二三十遍計
申けるを、宗遠太刀をぬき頸をうつ、その太刀中よ
り打をりぬ、又打太刀も、目ぬきよりをれにけり、
不思議の思ひをなすに、富士のすそより光り二すぢ、
盛久が身に、差あてたりとぞ見えける、宗遠使者を
立て、此由を兵衛佐殿に申す、また兵衛佐殿の室家
の夢に、すみ染の衣きたる老僧一人出来て、盛久斬
首の罪にあてられ候が、まげて宥め候べきよし申す、
室家夢の中に、誰人にておはするぞ、僧申けるは、
我清水辺に候小僧なりと申すとおほじて夢覚て、兵
衛佐殿に、かかる不思議の夢をこそ見たれと宣ひけ
れば、さる事候、平家の侍に、主馬入道盛国が子に、
主馬八郎左衛門盛久と申者、京都に隠れて候つるを
尋取りて、只今宗遠に仰て、由井が浜にて、首をは
ねよとて遣て候、此事清水寺の観音の盛久が身にか
からせ給たりけるにや、首をはね候なるに、一番の
太刀は、中より三に折れて、また次のたちは目ぬき
より折て、盛久が頸は、きれず候よし申て候とて、
盛久を召返されたり、兵衛佐殿、信伏の首をかたぶ
け、手を洗ひ口をすすぎ御直垂めして、盛久に、抑
いかなる宿願ありて、清水寺へは参り給けるぞ、奇
特瑞相をあらはす不審なりと仰らるに、殊なる宿願
候はず、等身の千手観音を造立し奉て、清水寺の観
P738
音に並べ参らせて、内陣の右の脇に立奉て、千日、毎
日参詣をとぐべき由、宿願候て、既に八百余日参詣
し、今二百余日を残して召捕られ候とぞ申ける、右
兵衛佐殿、所帯はなきかと問給へば、紀伊国に候し
かども、君の御領に罷成て候と申す、さぞ候らんと
仰られて、件の所帯は、ながく相違有べからずと、
安堵の御下文たびて、もとのごとく還補すべきよし
仰られて、是を返さるる上、龍蹄一疋に鞍置て是を
給はる、北条四郎時政に仰て、越前国池田の庄をも
て、法住寺仙洞を造進せらるる其奉行せしむべきよ
し、かさねて御下文をたまはる、これは文治二年丙
午六月廿八日の事なり、盛久頸をつなぐのみならず、
本領を返給ふうへ、越前国池田庄を賜るも、これひ
とへに清水寺観音の御利生なり、盛久同七月下旬の
ころ帰洛して、宿所へは落つかず、先清水寺に参詣
して、本尊を拝し奉て、御利生の忝につけて、泪か
きあへず、当寺の師匠の良観阿闍梨に、由井が浜に
て頸きられんとしける事を、なくなく語り申に、良
観も泪をながし、去六月廿八日午の刻に、御辺の安
置し奉り給たりし本尊、俄に倒れおはしまして御手
二つに折れぬ、一寺奇特の思ひをなしつるに、さて
は遼遠の道を分て、信敬の人を資給つる御志、誠に
上代にも超たり、新造の観音の御利益、古仏身にすぐ
れたりと、仰がぬ貴賎上下はなかりけり、
平家の子孫は、去文治二年の冬、北条四郎時政上洛
して、一子二子迄も残らず、腹の中をもあけずと云
計り也、尋ねあなぐりて悉くうしなひはてぬ、権亮
三位中将の御子、六代御前ばかりぞ、高雄の文覚聖
人の申預りしかば、あつけられたりし外は、今は一
人も平家の子孫なしと思ひしに、新中納言知盛の御
子、三歳にて叙爵して、大夫知忠とて、紀伊次郎兵
衛為範が養ひ奉りけるが、ここかしこに隠れありき
給ひけり、年比は、伊賀国或山寺におはしけるが、
年もおとなに成て、地頭守護怪しみぬべかりければ、
P739
建久七年の秋のころより、法性寺の一橋の辺に忍て
おはしけるを、いかなる者かひろめたりけん、一条
二位入道聞給て、北方の乳父後藤兵衛実基が子に、
後藤左衛門基清、同子息兵衛尉基綱十六歳、父子に
仰て、同年十月七日の申の刻ばかり、五十余騎にて
法性寺一橋にはせ向て、新中納言の子息大夫知忠を
からめ取らんとしけるに、その内に思ひ切たる者ど
も、十二人籠りたりけり、彼所は前は深き堀にて、馬
通ふべくもなし、うしろは大竹滋て、人頭をさしい
れがたし、さりければ軍兵馬より下りて、堀にかり
橋渡して、一二人づつ打入けるを、伊賀大夫を始と
して究竟の弓の上手ども成ければ、大肩ぬぎにてさ
し顕て、さしつめ射けるに、多くのものども討殺さ
れて、堀をぞ埋たりける、軍兵はしつきはしつきに馳集
る、南北の家をこぼち退けて、左右より責入り、禦
戦事、時をうつす程なり、たけく思へども、力よわ
りて矢だね尽ければ、人手にかからじとて自害して
けり、打て出る者もなかりければ、軍兵心のままに
乱入て見れば、紀伊次郎兵衛為範は、伊賀大夫の自
害したるを、膝のうへに引懸て、為範も腹かいきり
てふしたり、為範が子、兵衛太郎兵衛次郎兄弟、太
刀を差違て二人うつ伏に伏たり、所々に火をかけた
りけるに、いかがしたりけんもえつかず、為範が舎
人男一人ぞ、腰ぼねを射させて、いきつき居たりけ
る、其外のもの一人も見えず、人は籠りたるかと思ひ
つるに、洩にけるやらんと彼舎人男に問ければ、人
は廿余人おはしつるが、後よりみな落給ぬとぞ申け
る、越中次郎兵衛盛次、上総悪七兵衛景清も、例の生
上手なればみな落にけり、後藤左衛門基清、自害の
頸共ささげて、一条殿へ参れり、二位入道一条にお
はしければ、一条殿とぞ申ける、入道殿、子息左衛
門督高能同車して、一条を南へやりいでて実検せら
る、為範が頸は知たる者ども有けり、其外の頸はし
らざりけり、伊賀大夫知忠の頸は、一定やらんと覚
P740
束なくて、治部卿殿とて、七条院にさぶらひ給ひけ
るを、むかへ奉りて見せられければ、七歳と申しに
捨置て、西国へ中納言に相具して罷りし後は、生た
るとも死たるとも知らず、まして相見ことは思よら
ず、慥にそとも覚えねども、故中納言の思ひ出さる
る所のあるは、さにこそとて、泪を流しけるぞむざ
んなる、
小松殿の御子息六人おはしけるも、爰かしこにて誅
せられ給て、末の子に、丹後侍従忠房とておはしけ
るが、讃岐国屋しまの戦を落て、行方もしらざりけ
るが、紀伊国の住人、湯浅権守宗重がもとにかくれ
居給へり、平家の侍越中次郎兵衛盛次、悪七兵衛景
清なんどもつきたりけり、是を聞て、和泉紀伊国摂
津大和河内山城伊賀伊勢八箇国に隠れ居たりける、
平家の家人ども、一人二人参り集るほどに、五百余
人籠たり、鎌倉殿聞召て、阿波民部大夫成良に仰て
攻らる、成良紀伊国に越て、御所野といふ所に陣を
取て扣へたり、此上熊野別当湛増法眼、子息湛快父
子に仰て攻らる、湯浅には究竟の城あり、岡村岩野
岩村の城とて、三ヶ所あり、彼城のうち、岩村の城
に五百余人楯籠る、此外湯浅が家子郎等数を知らず、
中にも湯浅が甥、神崎尾藤太、舎弟尾藤次、聟に藤
波の十郎、其養子に泉源太、源三兄弟、岩殿三郎宗
賢なんど云、一人当千の兵ども楯籠たる間、たやす
く責落しがたし、湛増たのみ来たる侍、須々木五郎
左衛門允と云者、人に勝て進出て攻め戦けるを、尾
藤太、中ざし十五束有を、あく迄引て放つ矢に、五
郎左衛門尉が甲の鉢付の板を、主を籠て射通したり、
是を寄手の兵ども見て進み戦はず、惣て三月の間、
八ヶ度の戦に、熊野の侍郎等以下多く討れにけり、
湛増鎌倉殿へ申けるは、今は官兵の力つきて候、湛
増計りにては叶べからず候、国をも四五ヶ国寄せさ
せ給ひて後、官兵をもて攻候べきかとぞ申ける、鎌
倉殿仰せられけるは、官兵の云甲斐なきにこそあれ、
P741
始終はいかでか怺へてあるべき、勢をものぼせ、国
をも寄べけれども、籌、山海をよく守護して、山賊
海賊をとどむべし、国を守護せば、凶徒兵粮尽て、
一人二人おちん程に、一人も有まじきぞ、小松殿君
達、降人たらんをば宥め申べし、立合給はん人をば
誅すべし、頼朝平治の乱に流罪に定りたりしかば、
池の尼御前の御使にて、小松殿、太政入道殿に詞を
加へて、よきやうに申されたりしによつて、流罪に
定てありしも、小松殿の御恩なりと申されける、此
上高雄文覚上人をもて、内々湯浅権守宗重を、誘へ
仰られけるは、鎌倉殿にむかひ奉りて、合戦を致す
事は、日本国を敵にしたり、たとひ一年二年こそ怺
へて有とも、始終はいかでか怺ふべきと思て、鎌倉
殿の仰に随ひ奉りにけり、宗重、侍従殿に申けるは、
鎌倉殿申され候なるは、小松殿君達降人たらんをば
宥め奉れ、たて合給はん人をば誅し奉るべしと、官
兵等に仰含められて候なり、始終は宗重も叶ふべか
らず候、只降人に参らせ給へと申ければ、宗重を打
憑て来る事なれば、いかにもよき様にこそはからは
めと申されければ、九郎大夫判官、京都の守護にて
おはしましければ、判官のもとへ丹後侍従を送り奉
る、判官より鎌倉殿へ奉る、鎌倉殿、侍従殿に御対
面ありて、頼朝が流罪に定り候し事は、併小松殿の
御恩なり、其御子息、少しもおろかに思ひ奉らず候、
加様に見参に入候ぬる上は、都の片辺に思ひあてま
いらする事候、とくとく上洛候へとて、都へ返し上
せ奉る、侍従殿、実にも命は生なんと思ひ給ひける
に、都へは入奉らず、近江国勢多にて切奉る、いか
成る事ぞやと人かたぶき申けり、
小松殿の末御子、土佐守宗実と申けるは、頭をおろ
し、東大寺春乗坊の上人の許におはして、我は故小
松内大臣重盛の子なり、生年三歳まで、大炊御門左
大臣経宗の取離て、父母にも見せず、我実子のごと
くにおほし立たりしかば、弓矢の向きたるらんかた
P742
も知らず、されば平家都を落しにも相具せざりき、
おそるる事なく罷過ぎつるが、平家子孫どもならぬ
をも、とらるるなど承はれば、恐をなしてたちしの
びてありつれども、いかにして身一つを隠すべくも
なければ、髻を切て参りたり、甲斐なき命ばかり助
け給へやと泣々宣ふ、年十八にぞなり給ひける、美
しげなる入道なり、上人是をあはれみて、いか様に
も是に暫くおはしませと宣ひて、東大寺油倉と云所
にすへ奉りて、急ぎ使をかま倉へ下し、二位殿へ此
よしを申たまふ、あながちにつみ深くあるべき人に
あらぬうへ、出家入道しておはすなれば、さやうに
てそれに差置給へと、申されたりければ、上人斜な
らず悦びて置奉りけり、後には、高野の蓮花谷とい
ふ所に住して、生蓮房とぞ申ける、伊賀の事出で来、
猶あしかりなんとて、土佐入道生蓮房をば、かまく
らへ呼下されければ、京をいで給ひける日より飲食
を断て、十三日と申に足柄の山を越て、関本といふ
所にて終に失せ給ひぬ、あはれなりける事共なり、
上総悪七兵衛景清は、降人に参りたりけるが、大仏
供養の日をかぞへて、建久七年三月七日にてありけ
るに、湯水をとどめて終に死にけり、越中の次郎兵
衛盛次は、都にも安堵しがたくて、但馬国に落行て、
気比の権守道広がもとに隠れ居たりけり、人これを
知らず、始めは廐につかはれて馬をぞ飼ける、馬を
もよく飼けり、馬洗に出つつ、馬に乗てはせたり、
あがかせたり、物射るまねしたりなんどしけり、後
には、道広が娘のありける方へ遣して、今参のよく
つかはるるぞ、とのゐなどさせよとてつかはしける、
次第にありつる程に、如何したりけん、彼娘に近付
て、よなよな忍びかよひけり、錐ふくろを通す風情
にて、隠れなかりけり、道広も、越中次郎兵衛盛次
にてありと知てけり、盛次忍び度々京へ上りて、年
比しりたりける女のもとへぞかよひける、或夜彼女、
さてもいくつにおはするぞ、か様に昔のよしみを忘
P743
れ給はで、情をかけ給へば、露おろかに思ひ奉らず
と、ねんごろに申ければ、我は但馬国気比の権守通
広といふものの許にあり、あなかしこ、人に披露す
なとぞ語りける、鎌倉殿より越中次郎兵衛盛次を、
からめても打てもまいらせたらん者には、勧賞を行
はるべき由、鎌倉殿より披露あり、いづくにか隠居
たらん、からめて勧賞を蒙らばやとぞ申ける、盛次
がさばかり披露すなと、打とけて語りたるに、女の
うたてさは、わらはこそ次郎兵衛があり所は知りた
れと申たりければ、男悦て女によくよく尋とひて、
鎌倉殿に此由を申す、頓て気比の権守道広に仰て、
からめてまいらすべきよし、建久五年の比仰られに
けり、道広境節[B 「境節」に「ママ」と傍書]大番にて在京したりけり、我身は下
らず、妹聟朝倉大夫高清ならびに家人等に、越中次
郎兵衛盛次をからめて参らせよ、相構へて迯すなと
ぞ申たりけり、たやすくも討べくもなかりければ、
温室にてからむべしとて、温室におろして、したた
か者七八人用意したり、盛次温室におりけるに、腰
刀に帯をまきて、温室のうちのなげしにぞ置ける、
これ用心のためなり、盛次温室におりたり、此七八
人の者からめんとす、盛次さしたるとて、おのれら
には一度もからめらるまじきぞといひて、温室の内
を走出たり、にげも隠れもしつるものならば、権守
が大事になるべし、又からめられずしてあらば、お
ぼつかなくも恐しくも、汝等おもはんずれば、まく
まし縄にてはしばらるまじと云て、帯を以て心とし
ばられけり、気比権守、盛次を鎌倉殿へ参らせたり
ければ、盛次を召出て、いかに汝は平家の侍ながら、
平家の一門にてあんなるに、西海の浪の上にて、平
家の人々と一所にて、打死をもなどせざりけるぞと
仰られければ、平家の君達、させるし出したる事も
なくて亡び給ひぬ、よき主をも執候かとてこそ、残
り留て候へとぞ申ける、抑汝は、九郎につかはれけ
るなと仰られければ、さる事候き、若や伺奉り候と
P744
て、近付奉り候しかども、判官殿意得たりげにて、
心ゆるしも候はず、よるは御ふしども、人しられず
しておはしまし候しかば、恐しくておのづから走向
には、見参に入ことも候しかども、御目をはたと見
合せて、おはしまし候しかば、少しも透間候はで、
組参らせんと思ふ心も候はず、都を落させ給ひて後
は、御心を置せ給はねばこそ候しか、其後は腰刀の
かねよきも、征矢の尻のかねよく候も、鎌倉殿の御
ためとこそをしみ持て候つれども、今は運尽て、か
く召とられ候ぬる上は、力及ばずとこそ申ける、鎌
倉殿打うなづきて、是等生てめしつかはばやとおぼ
しめしけれども、平家の侍の中には、これら一二の
ものなり、虎をやしなふうれひありとて、終に盛次
きられにけり、大名小名惜まぬ人もなかりけり、
平家の子孫といひ侍と云ひ、皆切られぬ、今は何事
かあるべきと申あひけるに、平家のすゑの君達だに
も謀叛起し給ふ、まして高雄の文覚上人の申預り給
し、小松内大臣の御子孫、権亮三位中将維盛の子息
六代御前、平家の嫡々なり、小松内大臣殿、世の中
傾かんずる事、兼て知り給ひて、熊野へ詣給ひ、つ
ゐに申合て命を失ひ給ふ、父三位中将維盛、軍の最
中に、讃岐の屋嶋を迯れ出給て、高野にまいりて出
家し給て、やがて熊野に参り給ひ、那智の沖にて身
を投給ふ、かかる人の御子なり、頭をそり給へども、
心のたけき事よもうせじ、あはれとく失はばやと人
人申けれども、鎌倉殿御ゆるしなかりけり、その故
は、文覚上人の有ん限りは、さてこそあらめと思召
ける、かくこそ鎌倉殿、日来のよしみ御情もありけ
る、有がたき御心ざしなり文覚上人、元より恐し
き心もちたる者にて、内々怒りけるは、当今は御遊
にのみ御心入させ給ひて、世の御政をも知しめさ
ず、九条殿の御籠居の後、郷局のままにてあれば、
人の愁歎も斜ならず、故[B 後カ]高倉院をば、其比二の宮と
申て、二宮こそ学問もおこたらせ給はず、正理を先
P745
としておはしませば、位に即参らせて、世の政を行
はせ参らせんと計ひけれども、源二位昇進かかはら
ず、大納言を経、右大将迄成給ひにけり、右大将お
はせし限りは叶はざりけるが、正治元年正月十三日、
御年五十三にてうせ給ぬ、文覚上人の方人する人も
なかりければ、文覚上人忽に勅勘を蒙りて、二条猪
熊の宿所に、検非違使付て水火の責に行て、終に隠
岐国へ流されにけり、
其後六代御前、打絶え高雄にもおはせず、山々寺々
修行して、父の後生菩提を弔ひ給ひけるが、文覚上
人流罪せられたるよし伝聞給ひて、高雄へ帰おはし
たりけるを、安左衛門大夫資兼に仰て、同年二月五
日、猪熊の文覚の宿所に押寄て、六代御前を召取て、
関東へ下し奉る、駿河国の住人、岡部三郎大夫好康
承て、千本松原にて斬てけり、十二歳にて、北条四
郎時政の手に懸りて、爰にきられ給べき人の、年廿
六まで命のいき給ひける事は、長谷の観音の御利生
なり、終に駿河国千本の松原にて切られ給ひぬる、
先世の宿世とおぼして、哀なりし事どもなり、是よ
り平家の子孫は絶果て給ひにける、
灌頂巻 寂光院
元暦二年四月十六日、平家は物うかりし浪のうへ、
船の中の御住居、あらぬことに成果てて、生捕ども
けふすでに都へ帰り入べきよし聞し程に、其日にも
成ぬれば、女房どもは思ひ思ひに忍び給ふ、或は都
近き山さとへ立入、或は又捨がたかりしやどに帰給
ぬれども、あらぬ草生て、いにしへのかたちもなか
りけり、浦島が子の心地して、いとど悲しくぞ思召
す、国母北の政所は、すみなれ給にし御所などもか
はり果てて、今は入らせ給ふべき様もなし、西八条
の御宿所も焼失して、寄方なく思召ければ、東山の
ふもと、吉田のほとりなる所へ入らせ給ふ、中納言
法橋慶恵と申ける、なら法師の房なりけり、すみ荒
P746
して年久敷成にければ、軒には昔を忍ぶ草生茂り、
いとど露けき宿と成、花は色々匂へども、あるじと
頼む人もなく、月は夜な夜なもり入れど、ながめて
あかす友もなく、庭には草高くしげりて、荊棘道を
とざし、簾絶えてねやあらはなれば、姑蘇台の露清
くすみ、道の程伴ひ奉りし人々も、心々に立別れ、
あやしげ成朽坊の、其跡とも見えぬに落つかせ給へ
ば、見なれさせ給ぬる人もなし、今又御心も消入様
にぞ思召す、露の御命、何にか懸てながらふべしと
も思召し煩へる様なり、さるままには、うかりし船
の中、浪のうへの御住居、今は引かへて恋敷ぞ思召
れける、
蒼波路遠、寄思於西海千里之雲、
白露苔深、落涙於東山一亭之月、
天上の五衰もかくやと思召し知られてあはれ也、五
月一日御ぐしおろさせ給ふ、御年廿九にぞならせ給
ふ、芙蓉の御すがたは、つきせぬ御物思ひに衰へ、
汐風にやせくろませ給ひて、其ものともあらず成せ
給へ共、かかるうき世には、なほ人にはいかでかま
がはせ給べき、然どもひすいのかんざし御身につけ
ても、かかるうき世には、今は何かはせんなれば、
翠黛紅顔もよしなく思召しつつ、御さまをかへさせ
給ふ、御戒師には、長楽寺の印西上人、参らせ給け
り、御布施は、先帝の御直垂を泣々取出させ給ふ、
上人かね打ならして、
流転三界中 恩愛不能断
奇恩入無為 真実報恩者 K293
御願旨趣者、併三宝知見おはしますらんと計り申さ
せ給て、墨染の衣の袖をぞしぼられける、中にも哀
のまさりしは、今はの期迄奉りたりし御衣なれば、
御うつり香もなつかしくのこり、斜ならずゆかしく
て、いかならん世迄も、御身をはなたせ給はじと思
召けれども、差当りて御布施に成ぬべきものなかり
し上、且は彼御菩提の御為にやと、よその袂も絞る
P747
計なり、五月の短夜もあかしかねさせ給ひつつ、お
のづからうちまどろませ給ふこともなければ、むか
しのことをゆめにだにも御覧せず、壁に背ける残の
灯のかげ、幽に窓をうつ暗雨の音閑なり、上陽人が
上陽宮にとぢこめられて、凾谷年深して、自髪人と
いはれけんも恨あれば、さびしさは是にはまさじと
ぞ覚たる、去ままには、もとのあるじの植置たる、
軒近きはなたち花ありけるが、風なつかしき折節、
時鳥幽におとづれければ、女院御泪を押へつつ、御
硯の蓋にかくぞすさませ給ふ、
時鳥はな橘の香をとめて
鳴はむかしの人や恋しき W154 K222
いざさらば泪くらべん郭公
我も雲井に音をのみぞなく W155 K242
かりに立入らせ給ひたりけれども、五月も半に成に
ける、扨も彼所にては、いかにして過させ給ふべき
なれば、六月廿一日に、吉田のほとりなる、野沢の
御所へ入らせ給ふ、彼御所と申は、花山の法皇の世
をのがれさせ給ひし時、造進せられし御山庄(ごさんぞう)なり、
是も人すまで年久しく成にしかば、御所も皆たをれ
ふし、其跡ともなくあれにけり、傾る台のみぎりに
は石ずゑ計りぞ残りたる、或はかたぶきやぶれつつ、
雨風たまるべくもなし、人跡まれ成草村には、白露
のみぞおき増る、取つくろふ人なければ、日にした
がひてあれぞゆく、かかりし程に、七月九日地震お
びただしくして、あれたるやどもたをれふし、築地
も崩れておほひもなく、門は破れて扉もなし、あれ
たる古宮なれば、緑衣の監使の宮門を守るもなし、
荒たるまがきのありさまは、しげき野辺よりも露ぞ
おく、昼は終日に、あれまがきの露を御覧じて、上
越す風もうらめしく、夜は終夜、荒たるやどの板間
より、晴間の月を詠れば、閑亭[B 庭カ]の虫の音もすさまじ
く、心のくだくるは、ほくゑんの草むらに、声もを
しまぬ鈴虫と、壁にうらむるきりぎりす、幽に聞ゆ
P748
る松むしの、秋の最中と名乗して、哀さいとど忍び
がたし、尽せぬ御物思ひに、秋の哀を打そへて、さ
らぬだに思ひみだるる夕暮に、軒にさまよふささが
にの、いとより細き玉の緒の、何にかかりてか今日
までも、ながらふべきとは覚えねども、かぎりあれ
ばあかしくらさせ給ふ程に、秋もやうやう暮なんと
す、また世間もいまだしづまらずなど聞召につけて
も、走馬のいばゆるをも物さわがしく、心うく思召
折ふし、宗盛親子共に、生取られて都へ入らせ給ひ
たりしが、関東へ下らせたまふと聞召ければ、いと
ど心うくて、さりとも奥のかたへぞ下され給はんず
らんと、心すこしとりのべさせ給ひけるほどに、六
月廿一日、近江国にて終に切られ給ひて、京中を渡
さるなど聞召ける、御心の内おし計られて哀なり、
かかりければ、いよいよ深き山の奥にも、とぢこも
らばやと思召けれども、是へと申人もなく、さるべ
き便もなかりければ、思召立つかたもなくて、秋冬
空敷暮にけり、文治元年八月にも成にけり、侍ひ給
ふ女房のゆかりにて、大原のおく、寂光院と申候所
こそ、しづかにて候へとて、尋出して候へと申けれ
ば、その方様は本意なりと思召たたせ給ふ、右衛門
督隆房卿の北の方より、御輿などは沙汰し参らせら
れけり、忍びたる女房車二両参らせられけり、御具
足女房達など取のせて出させ給ふ、比は神無月の始
の事なれば、そらうち雲り、あられはげしくて、木
の葉打みだれて、四方の山辺は紅葉して、そことも
しらぬ草むらを、はるばるわけ行せ給ふに、山陰な
ればにや、日も既に暮れぬと、野寺の鐘の声すごく、
草葉の露に御袖しほれて、虫の音迄も心ぐるしげな
り、
けふもまた暮れぬと鐘の声すなり
いのちつきぬと驚かすかは W156 K294
と思召つづけられしも、哀にかなしくぞ聞えし、西
の山の麓にふりたる草の庵あり、民烟村遠くして、
P749
行かふ人もなく、暁峡蘿深して、巴猿の声すさまじ
く、鹿の遠ごゑ幽に、しらぬ鳥の音のみ鳴き渡り、
田面の雁もおとづれて、荻の上風打そよぎ、松吹風
も身にしみて、谷河の岩に苔むせり、
青苔似衣掛巌肩、白雲似帯廻山腰、 K295
水の音はむなしく昔の浪に准して、行人の衣しぼる
らんも理なり、
村幽翠黛の蔦のとぼそには、小篠のあみ戸をた
て、
即来迎念の夕べの窓には、鈴の簾をかけられた
り、
山より凛々[B 「凛々」に「ママ」と傍書]にかけくだしたる、懸樋(かけひ)の水も氷柱(つらら)ゐて、
人目も草も枯果てて、庭の浅茅の霜がれは、露かさ
なるもなつかしく、樒のはながら花がつみ、かつみ
るからに哀なり、道場のしつらひ迄、心すごき様な
り、座禅床年ふりて、檀上に苔むせり、雨風たまら
ぬ栖なり、たまたまこととふものとては、巴峡の猿
の一さけび、しづが妻木の截[B 鐡カ]の音、かれらが音信な
らでは、まさきのかづら青かづら、来る人稀なる所
なり、
至極甚深の床の上には、真理の玉をみがきかけ、
後夜晨朝の鐘の声には、生死の眠も覚ぬべし、
真(まこと)に得達の門も開くべしと見えたり、聖一人あり、
そのさまを御覧ずれば、濃き墨染の衣の上に、結袈
裟(ゆひけさ)をこそ懸られたれ、髪少し生ひ延びて、護摩の煙
りにふすぼり、薫じかほれる有さま、かくこそあら
まほしく思召されけれ、あれを見これを御覧ずるに
も、閑居のありさま、御心にかなはずと云事なし、
此聖と申は、是は近来成頼の宰相とて、天下に聞え
し賢人なり、世の中の成行あり様を心うく思ひて、
縦大中納言正二位を経ても何かはせんとて、いまだ
四十にも成給はざりしに、出家して高野粉川を廻ら
れけるが、是は少しすごき所なりとて、行すまして
おはしけり、女院は、隆房卿の北の方の計ひにて、
P750
柴の庵結びつつ渡しまいらせらる、これにてぞ、形
の如く御仏事どもいとなみて、御孝養などは有ける、
御供の人々其数おはせしかど、今はわづかに四五人
ばかりなり、一人は女院の御乳母に、帥典侍殿老人
にてぞおはしましける、一人は先帝の御乳母、五条
大納言邦綱卿の御娘、大夫三位の御妹大納言佐殿と
て、本三位中将重衡卿の北の方なり、一人は平大納
言時忠卿最愛の御娘なり、一人は大宮太政大臣伊通
公の孫、鳥飼中納言伊実卿の御娘なり、一人は少納
言入道信西子、弁入道定憲の娘、阿波内侍と申ける
人なり、各々夫妻の契を悲しみ、父母の別れに絶ずと
て籠り給けり、吉田にてはわざとならねども、道行
人の行かふに付ても、おのづから玉章のつては有し
に、今は仮初の事とふ人さへまれなりければ、今更
旅立て便もなくぞ思召ける、かくて神無月中の五日
の夕暮に、ならの古葉を踏しだく音のしければ、事
とふ人にやとて、急ぎみづから網戸を押開て御覧ず
れば、人にはあらずして、鹿ぞ一つれ踏わけて、向
への谷に入りける、是を御覧じて、
岩根ふみ誰かは問はんならのはの
そよぐは鹿のわたる成けり W157
秋も漸たけぬれば、冬の空にも成にけり、岩間をわ
くる谷河の、さざれ水だに音もせず、四方の山辺を
見渡せば、皆白妙に隙もなく、深山の木々の淋しさ
に、梢の月ぞ冴え増る、庭には白雪つもれども、跡
ふみ付る人もなく、池には氷とぢかさね、うき音を
なく鴛鴦もなし、冬のけいきの淋しきは、いづくも
かくとはいひながら、山家の景気は猶かなし、いつ
しか炭釜の煙、霞の空に立かへり、谷立出る鶯の、
涙の氷柱(つらら)打とけて、軒端の梅に鳴く鳥の、うつろふ
こゑを聞せ給ふにも、いかに昔恋しくおぼしめされ
けん、帰雁がねの空に音づるるも、故郷へ事づてせ
まほしく、正月もたち、二月の廿日比にも成ぬれば、
深山木の其梢とも見えざりし、桜は花に顕れて、白
P751
雲かからぬ山ぞなき、いとどわりなくものすごし、
扨も成瀬の宰相入道、かくてもあるべく思はれけれ
ども、世の中おそろしく、又いか成うき名もやたたん
ずらんと思はれつつ、心さとくも立出て、高野の方
へ参られけり、建礼門院と申は、高倉天皇の后、太
政大臣清盛入道の御娘、安徳天皇の御母儀なり、高
倉天皇と申は、後白河法皇の第二の太子なり、女院、
先帝におくれまいらせ給ひて、うき世を背き、真の
道に入らせ給ひつつ、かすかなる御栖居にて、行す
まさせ給ふ由法皇聞召して、まぢかきほどにもすま
させ参らせばやと、常は思召けれども、近習の人々、
源二位の洩れ聞んことあしく候なんと、各々申されけ
れば、おぼしめしわづらひつつ、空しく月日を送ら
せ給ひけり、風の便の御ことづても、せまほしくは
思されけれども、御心に叶はせ給はぬ事にてぞあか
しくらさせ給ける、大原は、浅ましき山家の御栖
居なれ共、流石に過行月日かさなりつつ、文治も二
年に成にけり、昵月は余寒もいまだ尽ず、風はげし
く、残雪もいまだ消やらず、谷の氷も打とけねば、
思召立かたなくて、弥生の中ばに成にけり、南面の
桜咲て、梢こと成あさみどり、もえ出る千草の色迄
も、折知がほにいとやさし、春をとどむるに春とど
まらず、春帰りて人寂莫たり、何事に付ても、日々
に御行衛は聞召たくて、けふや明日やと御心にすす
めども、垣根や春をへだつらん、夏来にけりとしらる
るは、そともに咲る卯の花、葵をかざす祭も過しか
ば、法皇寂光院御幸事、夜をこめて、補陀落寺の御
幸とて出させ給ふ、忍たる御幸なれば、ふりたる車
に下簾を懸て奉る、近習の人々少々めしぐせらる、
後徳大寺の右大臣公能の御子、内大臣実定、右大臣
実隆、当関白花山院太政大臣忠雅の御子、大納言兼
雅、侍従大納言成通の御子、宰相泰通、三条内大臣
公教の御子、大納言実雅、土御門内大臣雅通の御子、
宰相中将通親、閑院大将、吉田中納言などぞ候ける、
P752
其外若き殿上人、北面少々供養す、大江山の麓を過
させ給へば、清原深養父が心をとどめて立置し、補
陀落寺をがませ給ひつつ、小塩の山の麓、芹生(せりふ)の里、
大原の別墅寂光院へぞ御幸なる、頃は卯月の中ばの
事なれば、夏草のしげみがすゑを分入らせ給ふ、道
すがら旧苔はらふ人もなく、寂寞の柴の庵には、無
人声とて人もなし、人跡たえたる程を、且は思ひや
らせ給ふも哀なり、遠山にかかる白雲は、散にし花
のかたみなり、青葉に見ゆる梢には、春の名残ぞ思
はるる、池の汀を叡覧あれば、中島の松にかかれる
藤、岸の青柳いとみだれ、若紫に咲る花、八重たつ
霞[B 雲カ]のたえ間より、初音ゆかしき時鳥、をりしり顔に
音信つつ、おほあらきの森の下草しげりあひ、けふ
の御幸を待顔に、青葉交りの遅桜、風にしられぬ山
陰は、梢に残りて幽なり、残の花の、水の面にちり
しくを御覧じて、法皇御心の内に、
池水に汀の桜ちりしきて
波のはなこそ盛りなりけれ W158 K229
西の山の麓に、一宇の草堂あり、則寂光院是なり、
彼寺の眺望を御覧あれば、山復山、何の工か苔巌の
形をけづりなさざれども、ふりにける石の色、水復
水、誰の人か碧潭(へきたん)の色を染ざれども、落来る水の色
緑蘿の垣、紅葉の山、ゑに書とも筆も及がたし、野
路に僧なくして、護摩の道場すたれ、香花を備ざれ
ば本尊仏像かうさびたり、甍破れて霧不断の香をた
き、枢落て月常住の灯をかかぐ、北の山のおくに一
つの草庵あり、即女院の住せ給ふ御庵室なり、四方
に長山連れり、纔にこととふ物とては、巴峡のさる
の一叫び、妻木こる斧の音計なり、事にふれて愁傷
を断し、閑かなる窓の中には、月影計ぞすみまさる、
かかる閑居のありさまを、忍すぐさせ給らんと思召
やるこそ悲しけれ、垣にはつた、朝がほはひ懸り、
軒には朽葉深くして、忍交りのわすれ草、宿は葎の
しげりつつ、とりのふしどにことならず、瓢箪しば
P753
しば空、草顔淵が巷にしげしとも申つべし、柴の網
戸、竹のすいがき、たかすがき、竹のすだれも荒は
てて、藜〓深鎖、雨原憲が枢をうるほすとも云つべ
し、御庵室に立入せ給ひて、一間なる御障子をのぞか
せ給へば、昔の蘭〓の匂ひを引かへて、空薫れと匂へ
る不断香の煙なり、三尺計の御身泥の、来迎の三尊、
東向におはします、仏の左には、普賢の絵像を懸奉
り、前には八軸の妙文置れたり、右には善辱和尚の御
影を懸、机には浄土の三部経、毎日の御所作と覚しく
て、あそばしさして、半巻ばかりに巻れたり、傍な
る御棚には、浄土の御書ども置れたり、又時々御慰
みと覚して、御双紙ども取ちらし、御障子には諸経
の要文、色紙に書れたり、
一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者 端坐思実相
若有重業障 無生浄土因 乗弥陀願力 必生安楽国
極重悪人 無他方便 唯称弥陀 得生極楽
法身遍満諸衆生 客塵煩悩為覆蔵 不(レ)知我身常如
来 流転生死無出期
と書れたり、又三河入道大江の定基法師が、清涼山(しやうりやうぜん)
の麓に住ける時、詠ける詩もあり、
草庵無人助病起、香爐有火向西眠、笙歌遙聞
孤雲上、聖衆来迎落日前、
とぞ書れたる、其次に女院の御歌とおぼしくて、
かわくまもなき墨染の袂かな
こはたらちめの袖のしづくか W159 K235
又一間なる障子をあけて御覧ずれば、御寝所とおぼ
しくて、あやしげなる竹の簀子に、敷ならしたるた
たみを敷、下にはわらびのほとろを敷て、ふりたる敷
皮引返して置れたる、御竿に懸られたるものとては、
麻の衣に紙の衾(ふすま)をかけさせられたり、御休み所と覚
しき所には、大和絵書たる紙屏風を立て、女院の御
手にて、かくぞあそばされける、
思ひきやみ山の奥に住居して
雲井の月をよそに見んとは W160 K237
P754
東の壁にふりたる琴、琵琶、一面づつ立られたり、
管弦、歌舞の菩薩、来迎の儀式を思召やるにやと哀
なり、かかる御有さまを御覧ずるに、龍顔も所せきあ
へずならせ給ふ、供奉の人々の、直衣の袖もしぼり
るばかりなり、むかしは漢宮入内の居として、御賀
などの折節は、春は南殿の桜に心を懸て、
いにしへの奈良の都の八重桜
けふ九重に匂ひぬるかな W161 K238
夏は清涼殿のすずしきに、御遊ありて、
打しめりあやめぞかほる時鳥
なくや五月の雨の夕くれ W162 K239
など詠じ、秋は九重の中に雲井の月を、
久かたの月のかつらも秋はなほ
紅葉すればやてりまさるらん W163 K240
とながめ、冬は右近の馬場の雪を面白と御覧じて、
待人の今も来らばいかがせん
ふままくをしき庭の雪哉 W164 K241
など打詠じ、傍には玄上、すずか、青葉の曲を聞召て、
紅葉色々の御衣、数を尽して懸られたり、尚侍命を
受てだに、たやすく参らせさりしに、かはりはてぬ
る世の中を、浅ましと思召て、人や有人や有と、宣旨
二三度なりければ、老たる尼一人差出て、侍ふと答
申せば、女院はいづくかと御尋有、此上の山へ、花
つみに入らせ給ぬと申ければ、法皇哀に思召し、世
をのがれさせ給ふとは云ながら、手づからみづから
つませ給はずば、御事やかくべきと仰有ければ、尼
さめざめと泣、泪を押へて申けるは、女院は、入道
相国の御娘、既に天下の国母にておはしまし候御事
は、中々申に及候はず、雖然善現宮の楽も、春の花
久からず、色無色の報も、秋の月早くかくる、生あ
る者は必滅す、始ある者は終あり、されば因果経云、
欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因、
過去の因を知んと思はば、其現在の果を見よとなれ
ば、善因に依て、后妃の位を得給、悪因に酬て、か
P755
かる憂目を御覧ずると思し候ぞ、欲知未来果、見其
現在の因なれば、昔の蘭〓の匂ひにかへ、谷の水を
結び、峯のはなを折、難行苦行を修し、捨身の行ひ
をなしたまはば、九品往生の蓮、御疑ひあるべから
ず、されば悉達太子は浄飯王宮を出て、父の王に忍
て、檀特山に籠らせ給ひ、難行苦行の功に依て、遂
に正覚成らせ給ふ、彼は釈尊是は女院、手づから花
をつませ給ひ、世尊に手向奉り給はん事、何の御い
たはりか候べきと申、法皇此尼の気色を見給ふに、
浅ましき様申ばかりなし、下には四手などのやうな
るきぬに、上には墨染の衣をぞ着たりける、かかる
身の有様にて、か様のことを申不思儀さよと思召て、
汝はいか成者ぞと御尋有けれども、しばしは物も申
さで、度々宣旨有ければ、いかでか勅答申さである
べきと思給て、良久しくありて、申に付て憚多く候
へども、一とせ平治の時、悪右衛門督信頼に失れ候
し、少納言入道信西が子、弁入道定憲が娘、阿波内
侍と申尼にて候と申ければ、法皇聞召もあへず、御
涙にむせばせ給ふ、紀伊の二位にも孫なり、二位と
申は法皇の御乳母なり、さればこの内侍は御乳母の
孫にて、殊に御身近く召仕れしか共、かはりはてぬ
る形にて、御覧じ忘れさせ給けるこそ哀なれ、猶奥に
若き尼一人あり、いか成者ぞと御尋有ければ、前平
大納言時忠卿の御娘、いささか成事有て、九郎判官
義経にしたしまれし時、此御娘をば惜み奉らせ給け
り、北国へ配流の時も、斜ならず心苦しく宣ひける、
帥典侍殿の腹にてぞおはしける、歳わづかに十九歳
と申、是を見、彼を聞召に付ても、哀れにかなしか
らずと云事なく、なかなかよしなし、この有様ども
見奉りける物かなとおぼしめし、逢坂の蝉丸の、心
に懸て詠ける
世の中はとてもかくても有ぬべし
みやもわらやもはてしなければ W165 K230
と真に理なりと思召あはせらる、中にも実隆卿の申
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つげられけるぞをりふし哀れなる、
朝有紅顔誇世路、夕成白骨朽郊原、年々歳
歳花相似、歳々年々人不同、
と詠られけるも、折に随て哀れ也、北の山際のあか
棚に、樒入たる花がたみ置れ、あられ玉散あかのを
しきもかけぐせられたり、良久ありて、後の山より
こき墨染の衣着給へる尼二人、木の根を伝へており
下る、前に立給へるは、樒、つつじ、藤の花入たるは
ながたみ、臂にかけ給へり、是ぞ建礼門院なり、一
人の尼は、爪木に蕨ぐし給へり、是は大宮太政大臣
伊通の御子、鳥飼の中納言伊実卿の娘なり、法皇は
女院を見付参らせて、上へ歩み向はせ給へば、女院
はかくともしらせ給はで、下らせ給けるほどに、法
皇を見付参らせ給て、
十念の柴枢には、摂取の光明を待し、
一念の窓の前には、聖衆の来迎を待つるに、
思の外に法皇の御幸ならせ給にけるよと、思召しけ
るに、胸打さわがせ給て、消えも失せばやと思召せ
ども、霜雪ならねばそれもかなはせ給はず、立隠れ
させ給ふ事もやと思召せども、霧霞ならではさるべ
き御事なかりければ、漸く歩み下らせ給ふ、あかの棚
に花がたみ置せ給て、かみの御ぞの上に御衣引かけ
させ給て、わらざをしかせ給ふ、昔の御名残と思し
くて、にぶ色の二つぎぬ同じく上にめされたり、別
の間なる所へ入参らせ給ひて、御袖かき合せて渡ら
せ給ひければ、法皇、こは浅ましき御栖居かなと計
にて、互に仰せ出さるる事もなし、あきれたる御気
色にて、御顔をのみ赤めさせ給けり、良久有て、法
皇仰の有けるは、人間有為の習ひ、悲しみ有に付て
も、歎きに付ても皆愁あり、然れば昔を思召しいだ
して、今更いかに歎き深く候らん、かかる有様にて
渡らせ給ふとは知り参らせず、誰かは事問ひ参らせ
候と仰有ければ、信隆の卿の北方の計ひにてこそ、
かくても候へ、昔は彼人々のはぐくみにて、世にある
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べしとは思ひよらずこそ候しかと、申させ給ふぞ理
りなる、法皇を始め参らせて、供奉の公卿、殿上人
各々袖をしぼるばかりなり、六条摂政の方よりは、申
事は候はぬにやと仰有ければ、世に恐れてや、其よ
りはかりそめのおとづれも候はすと申させ給へば、
いつしかかはる心ぞと哀れ也、閑院大将は、
昔為京洛磬[B 繁イ]花客、今作江湖僚倒翁、 K296
と詠給ひけり、女院申させ給けるは、扨は君をば高
山深海とも宗盛は憑参らせて、西国へも御幸なし参
せんと、内々計ひ申候しに、渡らせ給はずして山へ
御幸なりて候も、後にこそ承て候しか、君に捨られ
参らせて、頼む木の下(もと)に何とかやの風情にて、宗盛
泣々都を落て、長夜に迷へる心地して、寿永の秋の
空に、主上ばかり取参らせて、都を出候ひし有様、御
輿を差寄て、疾々と進候しかども、主上を抱き奉り、
神璽宝剱計り取具して、自らも心ならず御輿にのり
ぬ、御供には平大納言時忠、内蔵頭信基ばかりぞ候
し、行末も涙にくれて路見えず、西海の浪上に、
御栖居にて明し暮し、浦風、松風、磯辺の千鳥、空
のかりがね声々に、海人のもしほにむせびかね、た
ぐ縄くりかへして長々敷、船の中にて年月を送り、
春は越路にかへる雁、秋は燕(つばめ)の古郷へかへるを羨み、
夜はなぎさの千鳥と共になき明し、昼は磯辺の波に
袖をぬらし、海人のたくもの夕煙、むせびもあへず、
筑前国太宰府とかやに落着て候しかば、近きは夷ど
も皆まいり、遠きは使を参らせて、いまだ参らず、
豊後の住人緒方三郎惟能、一院の御定とて、大勢に
て寄と申しかば、取物も取あへず、駕輿丁も候はね
ば、玉の御輿をも打捨て、主上を次の輿にのせ参ら
せて、怪しの者ども御輿まいらせつつ、公卿殿上人
指貫のそば取、筥崎と申所へ、我先にとあらそひ行
ども行ども、猶道遠く、一日に行き帰る道を行もやら
ず、日も暮れ夜も更けぬ、雨風はげしくて砂をあぐ、
龍にあらねば雲にものぼらず、鳥にあらざれば天に
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もかけらず、ただ長夜に迷へる心地して、男女の泣
き悲しむ声、地獄の罪人もかくやと思ひ知られて、
哀れに悲しく候き、人々は鬼海、高麗とかやへも渡ら
んと申しかども、浪風むかひてかなはねば、山鹿兵
藤次秀遠にぐせられ、山鹿の城に籠りて候しに、な
ほ惟能が寄すると申しかば、高瀬船とてちいさき船
どもにのり連れて、夜もすがら落まかりて、豊後国
柳と申所に着て、其にも七日ぞ候し、是へも敵寄す
ると申しかば、又船に取のりて、汐に引れ風に任せ
て、ただよひ行候しに、小松内大臣の子息、清経中
将は、都をば源氏にほろぼされ、鎮西は惟能に追出
されて、何方へ行かばのがるべきかとて、月隈なく
さぶらひし夜、船の屋形の上にのぼりて、東西南北
見渡して、あはれはかなき世の中、いつまであるべ
き所ぞ、網に懸る魚の様に、物を心苦敷思ふらんと
申て、静に念仏申て、波の底に沈み候き、是ぞうき
ことのはじめにて候し、其後、讃岐の屋島に渡りて、
阿波民部大夫成良、もてなし奉る、内裏作るべしな
ど聞えしかば、少し安堵したる心地して候しほどに、
是をも九郎判官に責落されて、屋しまを漕出て、又
しほにひかれ風に従ひて、いつかたを指して行とも
なく、長門国門司関、壇の浦にて、今はかうとて海
へ入候き、二位の尼も先帝をいだき奉り、ねり袴の
そばたかくはさみて、宝剱は君の御まぼりなればと
て、二位殿の腰にさし、神璽をば脇にはさみて、に
ぶ色の衣打かづきて、船ばたにのぞみ候しかば、先
帝あきれさせ給て、是はいづくへ行かんずるぞと仰
られ候しかば、夷兵ども御船に矢を参らせ候へば、
御船殊に行幸なし参らせ候と、申もはてねば、波の
底へ入候き、先帝の御乳母帥典侍、大納言典侍以
下の女房達、是を見て、声をととのへて、をめき叫
ぶ事おびただし、軍よばひにも劣り候はず、或は波
の底に沈み、或は生捕にせられて命を失ふ中にも、
宗盛清宗父子、生ながらとり上られて候しを、目(ま)の
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あたり見候しことは、いつか忘れ候べき、みづから
も同じく底のみくづと成候しを、渡辺党、右馬允番
とかや申に取あげられて、荒けなき武士の手に懸り
て、都へかへり上り候し事、ただおぼしめしやらせ
給へ、人は生を隔てこそ、六道をば経廻りさぶらふ
なるに、自らこそ此身をかへずして、六道を廻りて
候ぞや、それに付てもいよいよ穢土をいとひ、浄土
を願ふ志のみ日に随て候へば、此たび生死をはなれ
んと、今に於ては思さだめて候なりと、申させ給け
れば、法皇申させ給けるは、是こそ不審におぼえ候
へ、異国の玄奘三蔵は、悟(さとり)のうちに仏経を釈し、我
朝の金峯山の日蔵上人は、蔵王権現の御誓にて、ま
さしく六道を見たりといふ事は、伝てこそ承りしか、
天にのぼり海に入し大梵天も、年を経月をかへしけ
る魯運も、此みながら、六道をば見ずとこそ申伝た
れ、目のあたりに女人の御身として、六道を御らん
ぜられけるこそ、不思議におぼえ候へと仰けれど、
女院申させ給けるは、入道の世に候し時は、何事に
付てもとぼしからず、故院の御位の時、十五にして
内へ参り、十六の年后妃の位に備りて、君王の傍に
侍ひ、朝夕には朝政り事をすすめ奉り、百敷の大宮人
にかしづかれ、龍桜鳳闕の九重の内、綾羅錦繍に身
をまとひ、南殿の春の花、清涼殿の秋の月を詠め、玄
上、鈴鹿、河霧、牧馬のしらべ、常に耳を悦しめ、是
しかしながら、三十三天の雲の上、善現城の宮の内
も、かくやと思ひやられたり、今か様の身に成はて
ぬるは、五衰の悲しみに逢へるにことならず、一の
谷、壇の浦、ここかしこの戦、修羅道もかくやと思
ひやられたり、兵粮米も尽、供御も参らせざりしは、
餓鬼道の苦しみに同じ、玄冬素雪の寒夜も、ふすま
袖みじかく、九夏三伏の炎天にも、松風泉をむすば
ず、是又八寒八熱とかやも思やられたり、ある夜の夢
に、ゆゆしげ成御所に、先帝二位殿を始として、宗
盛以下の公卿殿三人並居たり、是はいづくぞと尋ぬ
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れば、龍宮城とこたふ、此所に苦しみはなきかと問
へば、いかでかくるしみなかるべきと答て夢覚ぬ、
夢現異なりといへども、是則畜生道なり、其後は弥々
谷の水を結び、峯の花をつみ、仏に手向奉り、此人
人の後生菩提を弔ひ候、朝夕の行業積りて罪業をか
ろみ、吾後生菩提もなどかたすかり候はざらんと、
頼もしくこそおぼえ候へ、扨も有がたき御幸に、何
とも口がましき事こそと、仰られもあへず、御涙に
むせばせ給へば、法皇を始め参らせて、御供の人々、
袖をしぼらぬはなかりけり、法皇御涙を押拭はせ給
ひて、一乗妙典の御法をたもち、九品の往生を願ひ、
聖衆の来迎を待ち、過別れさせ給ひし高倉の先帝、
安徳天皇、二品太相国、屋島の内府に至る迄、兄弟
骨肉六親眷属諸ともに、敵のために亡され、浪の底
にしづみし輩、一仏浄土に生まれたまへと、難行苦
行しておはしませば、妄念の罪きえて、菩提に縁を
結び給はんこと、御疑ひあらじと仰申させ給けるに、
漸(やうやう)日も暮がたになりにければ、入相の鐘もおとづれ
て、松風の響身にしみて、御心細からずと云事なし、
供奉の人々も皆しほれて、暁かけて還御なりにけり、
芹生のさとの細道、来迎院の淋しさ、有がたくぞ覚
えける、女院は法皇の還御の後、御うしろの隠れさ
せ給ふ迄、遙に見送りまいらせさせ給て、流石に御
名残をしくおぼしめして、ありし昔の大内山の御栖
家、思召し出させ給ふにつけても、御心ところせば
くぞ思召されける、其後建久三年三月十三日に、御
年六十にて法皇隠れさせ給ひぬ、平家都を落て、西
海の波の上にただよひて、先帝海中に沈ませ給ひ、百
官悉く波底に入りし事、只今の様に思召しけり、い
かなりける罪報にて、うき事をのみ見聞くらんと、
御歎きつきせざりけり、されども山林の御すまひ、
寂莫の境なれば、思召し慰まるる事多かりけり、峯
にならべる梢をば、七重宝樹となぞらへ、岩間を伝
ふ谷水をば、八功徳水と観じつつ、春の花、秋の月、
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山時鳥にたぐへても、西吹く風に心をかけ、御年六
十一と申貞応二年春の比、紫の雲の迎ひを待得つつ、
御往生の素懐を遂させ給けり、一期の御回向空しか
らざれば、御一門の人々も、一仏浄土の縁御疑ひ有
べからず、昔の后妃の位におはしまさば、栄耀御心
に染で、御執心もおはしますべし、源平の逆乱に、
神を砕き、厭離穢土の御志深かりけり、されば悪縁
を善縁として、遂に御本意を成就せられけり、
或人の云、建礼門院は、妙音菩薩の化身にてお
はしますと云々、
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平家物語巻第二十大尾
黒川真道
堀田璋左右 校
古内三千代