平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第五

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平家物語巻第五
治承二年正月一日、院御所には拝禮行はれ、四日朝
覲の行幸ありて、例にかはりたる事はなけれども、
去年の夏成親卿以下近習の人々多くうすなはれし
事、安からず法皇思召され、御憤りいまだ休まらず、
世の政ものうく思召して、御こころよからぬ事にて
ぞありける、入道も、多田蔵人行綱が告知らせての
ちは、君をも後めたなき御事に思ひ奉りて、世間打
とけたる事なし、上には事なきやうなれども、下に
は用心してただにが笑ひてぞありける、七日彗星東
方に見ゆ、光をます事十八日、蚩尤旗とも申、また
赤気とも申す、陰陽頭泰親朝臣申しけるは、蚩尤旗
にもあらず赤気にもあらず、天文要集のごとくは、
太白犯昂井者、天子浮海、失珍宝、西海血流、
大臣被誅といへり、何事のあるべきやらんと、人怪

みをなす、法皇は三井寺公顕僧正を御師範として真
言秘法の伝じゆせさせ給ひけるに、今年の春、大日
経金剛頂経蘇悉地経と申す三部の秘法を受けさせ給
ひて、二月五日をんじやう寺にて灌頂あるべきよし
思召し立と覚えし程に、天台の大衆此事を憤り申し、
昔より今に至るまで、御灌頂御受戒皆我山にて遂げ
させおはします事、すでに先規なり、然るを就中山
王の化導は受戒灌頂のため也、今三井寺にて遂させ
給ふ事然るべからずと申しければ、さまざまにこし
らへ仰せられけれども、例の大衆の、こはさは、一
切院宣を用ひず、三井寺にて御灌頂あるべきならば、
園城寺を焼拂べきよしせんぎすと聞えければ、御加
行結願して思召とどまらせ給ひけり、されども、法
皇猶その御本意なりければ、公顕僧正を召具して天
王寺へ御幸なりて、五智光院を立て、亀井の水結び
あげて、五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ
伝法くわん頂をばとげさせおはしましける、山門の
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騒動を静めんがために、三井寺の御灌頂はとどまり
たれども、学生と堂衆と中悪くして山上静ならず、
山門に事いで来ぬれば、世も乱るといへり、又いか
なる事もあらんずるやらんと恐し、此事はこぞの春
の頃、義竟四郎叡俊、越中国へ下向して、釈迦堂衆来
乗房が立ておく神領を押へ取て、知行の跡を押領す、
来乗房怒りをなして、敦賀の津にあひて、義竟四郎
をさんざんに打散らして、物の具をはぎ取て恥に及
べり、叡俊山に逃入て、夜に紛れてはうばう登山して
衆徒に訴へければ、大衆大きに憤りて、忽に騒動す、
来乗房又堂衆を語ふ間、同心して来乗房を助けんと
す、
建禮門院その頃中宮と申ししが、春の暮ほどより、
常に御乱れ心地にして、供御をもはかばかしく参ら
ず、御寝も打とけてならざりしかば、何の御沙汰に
も及ばず、総じては天下の騒ぎ別しては平家の歎き
とぞ見えし、太政入道、二位殿きも心を惑はし給ふも

理也、諸寺諸山に御読経はじまり、諸宮諸社に奉幣
使を立てらる、陰陽術を尽し、醫家薬をはこぶ、大
法秘法残所なく修せられき、かくて一両月を経るほ
どに、御悩ただにもあらず、御くわい妊と聞えしか
ば、平家日頃は歎しかども、引かへて、今は悦にて
ぞありける、御懐妊の事定りにければ、高僧貴僧に
仰せて御産平安をいのり、日月星宿につきて皇子御
誕生をいのる、主上今年は十八にならせ給ふ、皇子
もいまだ渡らせおはしまさず、中宮二十二にならせ
給ふ、皇子御誕生などあらんに、いかにめでたかりな
ん、相国、二位殿などは、ただ今皇子御誕生などある
やうにあらましの事をぞ悦れける、平家の繁昌時を
得たり、然れば皇子誕生疑ひなしと人々申けり、か
かりしほどに、六月十八日中宮御着帯とぞ聞えし、月
日積るままに御悩なほわづらはしき様也、常は夜の
おとどにのみぞ入らせ給ひける、少し面やせてまた
ゆげに見えさせ給ふぞ心ぐるしき、さるにつけても、
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いとどらうたくぞ渡らせ給ひける、かの漢の李夫人
の照陽殿の病の床に臥したりけんもかくやありけん
と人申けるとかや、桃李の雨を含み芙蓉の風にしぼ
みけるよりも心ぐるしき御ありさまなり、かかりけ
る御悩の折節にあはせて、こはき御物のけ度々取つ
き奉る、有験の僧ども数多召されて、護身加持隙な
し、よりましら明王の縛にかかりて、さまざまの霊
ども顕れたり、総じては、讃岐院の御怨霊別しては
悪左府の御怨念、成親卿西光法師が怨霊、丹波少将成
経平判官入道康頼法勝寺執行俊寛などが生霊ども占
ひ申けり、是によて入道相国生霊どもたやすからず
と恐しく聞えければ、なだめらるべきよしの御政あ
るべしと計ひ申されけり、
門脇の宰相はいかなる序もがな、丹波少将が事なだ
めんとおもはれけるが、此折を得て急ぎ小松内大臣
のもとに行向ひて、御産の御いのりにさまざまの攘
災行はるべきよし聞え候、いかなる事と申候とも、

非常大赦に過たる事あるべからず、就中成経がめし
返されんほどの功徳善根はいかでか候べき、大納言
が怨霊をなだめんと思召されんにつけても、まづい
きたる成経をこそ召返され候はめと、此事とり申さ
じとは存候へども、娘にて候もの思ひ沈で命も危く
見え候時に、強にかくな思ひそ、教盛かくてあればさ
りとも少将をば申預らんずるぞと慰め申候へども、
教盛を恨候ては涙を流して返事に及ばず候、内々申
し候なるは宰相殿御一門の片端にておはす、親をも
つとも此時はわざとも宰相ほどの親を持べけれ、な
どか少将一人申預けられざるべきと恨候なるが、げ
にもと覚えていたくむざんに覚候、成経が事しかる
べきやうにも申させ給へとなくなくくどきければ、
内府も涙を流して、子のかなしさをば重盛も身につ
みて候へば、さこそ思召され候らめと申候べしとて、
八条に渡り給ひて、入道のけしきいたくあしからざ
りければ、宰相の成経が事を強に歎き申され候こそ
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ふびんにおぼえ候へ、もつとも御許しあるべしと覚
え候、中宮御さんの御いのりに定めて、非常の大赦
をこなはれ候はんずらん、その中に入させ給ふべく
候、宰相の申され候やうに、誠にたぐひなき御祈に
てぞ候はんずらんと覚え候、大かたは人の願をかな
へさせ給ひ候はば、御願成就疑ひあるべからず、御
願成就せば、皇子誕生ありて家門の花いよいよさ
かんなるべしなどこまごまと申給へば、入道今度は
皇子誕生が耳に入て、以外にやはらぎてげにもと思
はれたるげにて、さて俊寛康頼が事はいかにとあり
ければ、それをもゆるされて候はばしかるべくこそ
候はめ、一人もとどめられ候はん事は、中々なる罪
業にてこそ候はんずらめと申されければ、康頼が事
はさる事にて、俊寛は見られし様に随分入道が口入
にて、法勝寺の寺務にも申なし抔して人となるもの
ぞかし、それに人しれず城郭を構へて、事にふれて安
からぬ事のみいひけるよしを聞が、特に奇怪に覚ゆ

る也とぞのたまひける、中宮御さんの御祈りにより
て大赦を行はるべしと入道申行れければ、則職事奉
書を申下さるる間、七月上旬に丹波少将召返さるべ
き事一定になりにけり、其状に云、
為中宮御産御祈、依被行非常大赦、薩摩方硫
黄島流人、前左少将藤原朝臣成経并平判官康頼法
師、可令帰参之由、所候也、依仰執達如(レ)件、
治承二年七月三日
とぞかかれたりける、宰相是を聞給ひて、悦などは
斜ならず、少将の北の方は、猶現とも覚給はずふし沈
みてぞおはしける、七月十三日御使下りければ、平
宰相あまりによろこばしくて、私の使を相添て、夜
を日に繼て下れとのたまひけるぞ哀なる、それもた
やすく行べき船路ならねば、波風あらくて船中にて
日を送りけるほどに、九月半過ぎてぞかの島へ渡り
つきにける、島には春過ぎ夏たけて三ヶ年をぞ送り
ける、折節日もうららかにて、少将も康頼も磯に出
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てはるかに汐干がたを詠れば、まんまんたる海上に
何とやらんはたらくものあり、あやしくてやや入道
殿、あの沖にまなこにさへぎる物あるは何やらんと
少将のたまひければ、康頼是を見て、にほのうきす
の浪にただよふにこそと申けり、次第に近づくを見
れば、船の体に見なしてけり、是は端島の浦人ども
が、硫黄をほりに渡るものあればさにこそと思ふ程
に、磯近くこぎ寄せて船中にいひかはす言葉どもを
聞ば、さしも恋しき都の人の声に聞なし、少将思は
れけるは、我らがやうにつみをかうふりて、此の島
に流さるる人などにこそと思はれければ、とくとく
こぎよせよかし、都の事どもをも尋とはんとぞ思は
れける、されどもまめやかに近づく時は、おのおの
見ぐるしきあり様を、見えんことのはづかしさに、
急ぎ立のき濱松がえだの木の下の岩の隱に休ひて、
見えがくれにこそまたれけれ、さるほどに船こぎつ
けて急ぎ下りて我らが方に近づく、俊寛僧都は余り

にくたびれて、ただ朝夕のかなしみに思ひむすばは
れて、神明仏陀の御名をも唱へず、あらましの熊野
詣もせず、常は岩のはざま苔の下にのみむもれ居ら
れたりけるが、いかにしてただ今の有さまを見られ
けるやらん、此人々のおはする所に来れり、六はら
の使申けるは、太政入道殿の御教書、平宰相殿の御
使用添へられて、都へ御帰りあるべきよしの御使下
りて候、丹波少将殿はいづくに渡らせ給ひ候やらん、
此御教育を参らせ候はばやと申しければ、余りに思
ふ事なれば、なほ夢やらんとぞ思はれにける、三人
一所に並び居られたり、いそぎ出向ひつつ悦ばれけ
る心の中、譬へん方ぞなかりける、三の御文あり、一
は奉書一は入道の施行一は平宰相のわたくし文也、
僧都手水うがひなどして、三度拝で先づ奉書を披て
見られければ、為中宮御産御祈、依被行大赦、
成経、康、頼、可帰洛とありけれども、俊寛といふは
一行もなかりけり、僧都我が身ははやもれにけるよ
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と思ふより、涙双眼に浮びて生きたる心地もせず、
若ひが目かとて又見れども俊寛といふ文字はなし、
又見れとも二人とこそかかれたれ、三人とはよまれ
ず、せめてのかなしさにひろげては巻、巻てはひろ
げ、奥へ見つ端へ見つ、取ては置きおきては取りつ
して、伏まろびてをめきさけび、かなしみの涙をなが
す、抑夢かと思へども現也、現かと思へば又夢かや、
夢に夢見る心地して、かれもいづれもわきがたし、
ことわりや、いかでか歎かざらん、三人同罪にて此
島へ流されしに、二人は召返され、僧都一人残りと
どまり給へば、誠にさこそ思はれけめ、二人の悦び、
一人の歎き水火の違事のきはめとぞみえし、僧都な
くなく申されけるは、三人同罪にて流しつかはされ
たるが、二人は勅免にあづかりてめし返され、俊寛一
人恵澤にもれてとどめらるべきやうはなきものを、
是は入道殿おぼしめし忘れ給ひたるにや、また執筆
の誤りか、申入る人のなかりけるかやと、くちをし

がりて、天に仰ぎ地に伏して泣かなしむこと限りな
し、是を聞に誠にことわりと思へば、都よりの御使も
むざんに覚えて目もあてられず、日頃の思歎は事の
数にもあらず、残り留らんと思ひけるに、いとどせ
ん方なくいかになるべしとも覚えず、その上少将の
もとには、宰相のもとより旅の粧ひさまざまの装束
までおくられたり、判官入道のもとにも、或は妻子或
はゆかりゆかりの方より、様々の消息有りけれども、
僧都のもとへは一行のこととふ文もなし、今はわが
ゆかりの者、都の中に一人もなきよと知り給ふにつ
けても、歎の深さは限なし、さればいかに前世の宿
業やらんとぞ思はれける、少将も判官入道も、しほ
風のさたにも及ばず、今一日もと急ぎて硫黄津とい
ふに移りにけり、僧都余りのかなしさに船津まで来
りて、二人の人々に少しも目をはなたず、少将の袖
に取つきて、涙を流し、判官入道の袂をひかへてさ
けびけり、年ごろ日ころはをのをのおはしつればこ
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そ、昔物語をもしていたう都の恋しき事をも、島の
心うきも申なぐさみてこそありつるに、打捨られ奉
りては一日片時かんにんすべき心地もせず、赦され
なければ都へは思ひもよらず、只船にのせて出させ
給へ、底の水くづ共なりてまぎれうせなん、なかな
か新羅、高麗とかやの方へもわたりゆかば、思ひ絶
えてあるべきに、俊寛一人残り留まりて、島のすもり
とならんことこそかなしけれとて、又をめきさけび
ければ、少将なくなくのたまひけるは、誠にさこそ
おぼしめされ候らめ、成経がまかりのぼる嬉しさは
さることにて候へども、御有様を見おき奉るこそ更
に行空も覚え候はね、御心中おしはかり候へども、都
の御使も叶まじきよし申候うへ、三人船津を出候ひ
しと聞えん事もあしかりぬべし、何ともしてもかひ
なき命ばかりこそ大切に候へ、かつうは成経のぼり
候なば、身にしられて候へば、宰相などに申合せて、
かかるむざんの事こそ候しかと申さば、入道殿気色

をも伺ふべし、なにさまにも御身をなげてもよしな
し、ただいかにもして今一度都のおとづれを聞んと
こそ思召され候はめ、そのほどは日ごろおはせしや
うに思ひなして待せ給へと、かつうはなぐさめ、か
つうはこしらへければ、僧都返事に及ばず、少将に
目を見合せて、俊くわんをばさておき給ひなんずか、
ただしゆんくわんをも具して上り給ふべし、のぼり
たる御とがめもあらば、又も流され候べしなど、さ
まざまくどきけれども、是ほどの罪ふかく残し留め
らる程の人を、宥されもなきに具して上りたらば、
まさるとがにもこそあたれと思はれければ、誠にさ
こそ思召すらめとばかりのたまひて、少将かたみに
は夜のふすまをぞ置かれける、判官入道の忘れがた
みには、本尊持経をぞとどめける、誠に花の春、桜
がりして志賀の山をこえ、よし野のおくへ尋ね入る
人も、風にさそはるる習ひあれば、ちりぬる後は木
の下を惜むとて、岩の枕に夜をもあかさす、家路を
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急ぐなる、月の秋、明月を尋ねてすま明石へ浦伝ひ
する人も、山のはにかたむくためしあれば、入りぬ
る後をしたひて、あまのとまやに宿をもからず、過
し跡を尋ねけり、たとひ恋路にまどふ人までも、我
身にまさるものやあるとたがひにいひかはしつつ、
少将も判官入道も、いそぐ心は情なき道行人の一む
ら雨の木下、おなじ流れをくむ友だにも、過ぎわか
るる名残は猶惜くこそ覚ゆるに、まして僧都の心中
思ひやられてむざんなり、さるほどに順風よかりけ
れば、僧都のもだえこがれける隙に、やほら纜をと
きてこぎ出んとするに、思ひにたへかねて、御使に
向ひて、手をすりてただ倶しておはせよやおはせよやとお
めかれければ、人の身に我身をかへぬことにて候へ
ば、力及ばず情なくぞ答へける、僧都あまりのかな
しさに船のともへに走り廻りて、のりてはおりおり
てはのり、あらましをぞせられける、其有さま目も
当られずぞ覚えける、次第に船をおし出せば、僧都

纜に取つきて、たけの立つ所まではひかれていづ、
そこしも遠浅にて、一二町ばかり行けれども、満く
る汐立かへりて口に入ければ、纜に取つきて、しゆ
んくわんをばすておき給ひぬるとて、また声も惜ま
ずさけびけり、少将もいかにすべしとも覚えず、諸
共にぞ泣かれける、僧都猶も心のありけるやらん、
とかくして波にもおぼれず、磯へかへり上りて、渚
にひれふして、舟を見送りて、幼き者の母やめのと
にすてられて、跡を慕ふやうに足ずりをして、少将
どのや判官入道殿やとをめきさけびけるは、父よ母
よとよぶにぞ似たりける、をめきさけぶ声のはるか
に波をわけて聞えければ、誠にさこそ思ふらめと少
将、康頼も共に涙をぞ流しける、つやつや行空もなか
りけり、こき行く船の跡の白波、さこそはうらやま
しく思はれけめ、いまだこぎ別れぬ船なれども、涙
にくれてこぎ消ぬと見えければ、岩の上に上りて舟
を招きけるは、かの松浦さよひめがもろこし船をし
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たひつつ、ひれふりたりけるにいづれか又劣るべき、
よしなき少将のなさけの詞をたのみて、そのせに身
をもなげざりけるこそ、せめてのつみのむくいとは
見えしか、日すでに暮れけれども、あやしのふしど
へ立返るべき空もおぼえず、なぎさにたふれふし、
澳の方をまぼらへて露にしほれ、浪にうたれつつ、
かうべを扣、むねをうちて、血の涙を流して、よも
すがらくどきあかしければ、袖は涙すそは浪にぞぬ
れにける、少将は情も深く、物の哀をも知りたる人
なれば、かかるむざんなる事こそありしかなど申さ
ば、もしくつろぐ事もやとたのみて、べうべうたる
磯をまはりて、命をたすけ、まんまんたる海をまは
りて心をなぐさめ明かし暮らしけるは、さうりそく
りにことならず、さこそはありけめと推はからる、
されどもそれは兄弟二人ありければ、慰む方もやあ
りけむ、僧都の悲しさはたとへやる方ぞなき、少将
は九月半過てしまを出給ふ、すでに都へ上るべきに

てありけるが、下向の時大隅正八幡宮に宿願ありき、
願望成就したり、その願を遂んとて正宮にぞ参詣し
給ひける、さつまがた、房の泊りといふ所より、鹿兒
島、逢の湊、木入津、向島をも押過ぎて、鳩脇八幡崎
にぞ着き給ふ、それより取りあがりて、宮中の馬場
執印清道と申がもとにやどせられたり、御湯仕出し
て、溢せ参らせ、さまざまに御身いたはりなどし奉
る、その後正宮の御宝前に参りてさまざま念誦あり、
折ふし月の夜なりければ、宮中澄みわたり、ことに
面白かりけり、台明寺法師に俊恵房あじやりと申究
竟の歌皷の上手のありけるに、撃せて少将今様をぞ
うたはれける、
月もおなじ月空もおなじ空のいかなれば今夜の空
のてりまさるらん、 W048 K270
と押返し押返しぞうたはれける、心なき賤の男賤の女
にいたるまで、かんるゐをぞ流しける、
少将はつくづくと古の事を思ひつづくるに、当社大
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菩薩のそのかみあはれにぞ覚さるる、因位の御時は
人皇十四代、仲哀天皇御后婆伽羅女神功皇后の御腹
に宿り給ふ時に、新羅高麗発向して、わが朝をかた
ぶけんとせし時、皇后女帝の御身として新羅を打平
げて本朝へ返りましまして、王子産給へり、応神天
皇是なり、その後唐国に陳の大王と申王ましましき、
七歳の姫宮渡らせ給ひけり、俄にただならぬ御事お
はします、父の大王仰せられけるは、汝七歳なり、
いかなるしさいあてかくは聞ゆるぞと御尋ありけれ
ば、姫君答給はく、われことなるしさいなし、朝日
むねの中に光りをさし給つる時より、心乱ておぼえ
き、それより外は他事なきよしを申させ給へば、大
王諸道のはかせを召集めて勘へ聞召されける時、各
申けるは、当州の主にあらず、是より東方に日本国
といふ国の神明たるべきよし奏聞す、大王勅定あり
けるは、さては此国にては誕生あるべからず、親子
のなごりはをしけれども、日本へわたり給へとて、

珠杖銀杖印鎰を授け奉て、ただ一人空船に乗せ奉て、
波路はるかにおしうかべ、万里の波涛を凌いて、臣海
を分けて、日本西州大隅国姫木浦銚子の島に寄せ給
ふ、鳥の羽音の聞えければ、汀近くなりたるかと思
召されて、姫君空船の窓を開きて御覧ずれば、已に
汀に寄せたり、浪の音立る鳥は、山鳩なりけり、件
の鳩巌と成て今の世にあり、しかればここを鳩脇と
名づけたり、姫君は二の杖藜をしるべとして、州中
にいたり給ふ、大菩薩の使者に鳩をする事は、最初
にわが朝に着給ふ時、御迎に参りたる故也、さて当
国の戸神をかたらひて、大隅国の主早人を打ちて、石
が城の岩の上にてとり返して、早人失て後、こと井
隅前海老隅の麓頭良向の中に宮室をたて、王子を産
給へり、則天をあふぎて我が正覚の位につきぬ、神
號を給はらんと誓ひましましし、その時、天より八
の旗降り下りしが故に、八幡大菩薩と號す、今の七
歳の姫君と申は、昔の神功皇后是也、応神天皇と申
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は今の八幡大菩薩の御事也、因位の御時も母ごとな
り、垂跡の今も母ごとまします、御ちぎりのほどの
めでたさを凡夫はいかでか申べき、御本地事石体に
現はれ給へり、石体の文は深さ八寸ゑり入たる、金
銘云、
昔於霊鷲山、説妙法華経、今在正宮中、示現
大菩薩、
となり此ことは御本地は釈迦と覚えたり、本朝に八
幡参所と申は、大隅宇佐男山是を三所八幡とは申也、
中にも正宮は石体にとどまれり、されば大隅を正八
幡とは號す、ここに本朝に異国の賊徒可襲来よし
其聞えありしに、牒使をつかはして、大船一万艘着
べき湊を伺ひ見せしに、当州によき湊あり、すでに
よせんとする所に、敵をよせじがために、一夜の中
に田畑二千余町ばかりの島をつかせ給ふ、かの島の
影異国までうつりしかば、異敵すみやかに退散しぬ、
故に彼島を向島と號す、是則八幡大菩薩の御力なり、

七歳の姫君と申は、昔神功皇后因位のひぐわんなり
ければ、筑前国糟屋東郷香椎宮にあとを垂まします、
聖母大多羅如知女是なり、異敵降伏の為に女帝の御身
ににんにくの鎧を奉り、逆謀をしりぞけ、手には智
恵の劍をにぎりて、本朝の悪賊を鎮め給ひつつ、日
夜に君をまもり奉り、国を助くる霊神なり、抑八幡
大菩薩宇佐より行教和尚の袂にやどりましまして、
男山石清水に移りて和光同塵結縁始、八相成道利物
終とて、さまざまに方便を廻らし、霊跡をたれ給ふ、
石体銘文の如くば、八幡の御本地は釈迦にて渡らせ
給ふを、末代のためにとて行教の袂にやどり給ひし
時より、弥陀の三尊と現じ給ひき、大菩薩の御祭に
放生会といふ事あり、神功皇后の昔、異敵をせめん
とて、旱珠を大海に入給ひしに、多くの生を亡し、大
隅におはしましては、向島をつき給ふとて、数多の
うろくづの命をたち給ふ、然ればかの孝やうのため
にとて、御濱殿と名づけて、生をはなつ会と號して、
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梵網経を読誦し奉給へり、毎年八月十五日の放生会
は是なり、かやうにめでたき霊神に渡らせ給へども、
因位の御時、本国を去らせ給ひて、御父母の御わか
れさこそかなしく思召されけめ、か様の御歎きを思
召しいたさせおはしましつつ、今、成経が思を休めさ
せ給ふやらんと思ひ参らすれば、かつうはめでたく、
かつうは哀に覚えけり、あけにければ宿所に下向せ
させ給ひけり、
宿のあるじ清道が妻女は少将の京にて御覧じたりし
人なり、久我大臣殿の侍に左衛門尉朝重と申けるが
娘に、童名牛王殿とてありけるが、太政入道殿の西
八条に宮仕して、伯耆の局とて候けり、斜ならず心
さま花やかにて、事様も優なりけり、少将見参して、
わりなき事どもなりけるに、少将ながされ給ひて後、
伯耆殿その心くるしさに、宮仕もすさまじく、ものう
かりければ、引籠りて思入てありけり、清道は入道
殿御気色よきものにて、都へ上りたる時は入道殿の

内にはえて振舞ひけり、その時あからさまにこの伯
耆殿を見そめしより、命もたえてあるべしとも覚え
ずかなしかりければ、かの清道が謀に人をもていは
せけるは、少将殿をば、清道が預かり奉りたるなり、
今一度此世にて見奉らんと思ひ給はば、かの船に忍
び乗りて、下て見奉り給ふべしと隔なくそのあたり
の者をもていはせければ、伯耆局はかのあたりとい
はん所には、虎伏す野べりなりとも尋ねまほしく思ふ
折節なれば、夢ともわかぬほどに嬉しくて、忍びて
かの便船をして大隅に下り給ひにけり、清道が家に
着きにければ、少将はいづくにましますらんと思へ
ども、急ぎて見する事もなし、さらば此おとづれを
だに聞かせたくは思へども、当時はこちなしとて、日
数をふる余りにおとつれを聞ばやと歎かれければ、
清道申けるは、誠には少将殿は薩摩がたとて日本国
にも離れて、澳の小島に硫黄がしまと申所に流され
てまします也、便の風もかれへ吹く事まれなり、さ
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れば船の行ことも思ひ切りたり、是へ具し奉し事は
思ひよらぬ事なれども、男女の習ひよそながら見参
らせし面影、さながらその時の心地して覚え侍りし
ほどに、申下し奉りたり、何かはくるしかるべき、下
紐とけておはしませといひし時こそ、心うさの余り
にきえ失なんとかなしくぞ覚えける、都をばうかれ
いで、恋しき人には近づかず、途中になりぬる我身
かな、長安倡家の女のあき人にかたらはれ、涛陽江の
頭に捨られて、びはを弾じてなぐさみけん心中も是
には過じとぞ覚えし、清道しきりにあひなるべきよ
し契をすといへども、伯耆殿しばらく三年がほどは
かなふまじ、いとまをえさせよとこひうく、夜毎に
正宮に通夜をして、ひねもすよもすがら法華経をど
く誦し、少将の帰洛の祈をしけるが、げにもかなひ
けるにや、かやうに再び帰給ひ、又見奉るも哀なり、
すでに少将曉立給はんとての夜は、伯耆殿少将殿に
見参し給ひて、ありし世の歎き今に至る迄の思ひ、

こまごま申つらねて、涙を流す、少将立給へば伯耆
殿涙の中に、
限りあればさはにおりぬるあしたづの
もとの雲井に帰る嬉しさ W049 K272
少将
君ばかりおぼゆる人があらばこそ
思ひもいでめ山のはの月 W050 K273
とて、をしき名残をふり捨て立給ふ、袖に霜をおき
すごくも宮内を立給ふ、それより都へ上らんと急が
れけるほどに、門脇の宰相のもりより重て使者下り
て、去々年よりかの島にましまして、さだめて身も
つかれ損て、病もつきておはすらん、寒き空にはる
ばると上り給はば、道にてあやまちも出来ぬべし、
肥前国かせの庄といふ所はのり盛が所領なり、此冬
は彼所におはして身をもいたはりて、明春風やはら
かになりて、長閑にのぼり給へといひ遣されたりけ
れば、その冬はかの庄にとどまりて、ゆあみなどし
P169
て便りの風をぞ待れける、さるほどに年もすでに暮
ぬ、
学生堂衆合戦事
八月六日、学生、義竟四郎を大将軍として堂衆が坊舎
十三宇きり拂ひて、そこばくの資財雑具を追捕し取
て、大納言が岡に城郭を構へて立籠る、八日夜堂衆
登山して、東陽坊に城郭を構へて、大納言が岡に立
籠る所の学生と合戦す、堂衆八人しころをかたぶけ
て、城戸口へせめよせたりけるを、学生義竟四郎を
始として六人打出て、一時ばかり打組ける程に、八
人の堂衆引退きけるを義竟四郎うちいかりて、長追
しけるほどに、堂衆返し合せて、又打組む所に、義
竟四郎長刀の柄をひる巻のもとより打折りにけり、
腰刀をぬきてはねてかかりけるを、首をうち落しぬ、
大将軍とたのみたる四郎討れにければ、学生おちに
けり、十日堂衆東陽坊を引きて近江国三ヶ庄へ下向
して、国中の悪黨をかたらふ、数多の勢を引卒して
学生を亡さんとす、堂衆に語らはさるる所の悪黨と

申は、古盗古強盗山賊海賊等也、年来貯持たる米穀、
絹布の類をあたへければ、当国にも限らず他国より
も聞伝へて、津の国河内大和山城の武勇の輩、雲霞
のごとく集りけりと聞えしほどに、九月廿日、堂衆
数多の勢を相具して登山して、早尾坂に城郭を構へ
てたて籠る、学生不日に押寄たりけれども、散々に
打落されぬ、安からぬ事に思ひつつあかりをかりけ
れどもかひなし、大衆公家に奏聞し、武家に觸れ申
しけるは、堂衆等師生の命を背きて、悪行を企つる
間、衆徒等誡を加ふる所に、諸国の悪徒を相語らひ
て、山門へ発向して、合戦すでに度々に及で、学侶
も多くうたれぬ、仏法忽に失はんとす、はや官兵を
差添へられて、追討せらるべしと申、是によて院よ
り太政入道に仰せ下さる、入道院宣を承て、紀の国
の住人湯浅権守宗重を大将軍として、大衆三千人、
官兵二千余騎、都合五千余騎をさし遺はす、つくし
人并和泉紀の国伊賀伊勢つのくに、河内の武者なり、
P170
然るべきものはなかりけり、
十月四日、学生官兵を給て、早尾の城へ押よす、今
度は去ともと思ひけるに、衆徒は官兵をすすめんと
す、官兵は衆徒を先だてんと思へり、斯の如くの間は
かばかしく責寄する者なし、堂衆は執心ふかくおも
てもふらざりける上、語らふ所の悪黨等は、欲心強盛
にして死生知らずの奴原の、各我一人と戦ひければ、
官兵も学生もさんざんに打落されて、戦場にして死
ぬる者二千余人、手負は数を知らずとぞ覚えし、五
日、学生一人も残らず下洛して、かしこここに宿し
つつ、息つき居たり、かかるままには、山上は谷々
の講説ことごとく断絶し、だうだうの行法皆たいて
んす、修学窓をとぢ座禅の床を空しくす、四教五時
の春の花も匂はず、三蹄即是の秋の月もくもれり、
義竟四郎神人一庄をおさへ取て、知行すとも、しゐ
ていかほどの所得かあらんずるに、つるがの中山に
て、恥を見るのみにあらず、とりかへなき命を失ひ、

山門の滅亡朝家の御大事に及びたることこそ浅まし
けれ、人はよくよく思慮あるべきものをやとぞ覚え
ける、貪欲は身をはむといへり深く慎むべし、
十一月七日、学生等上座寛賢并威儀師斉明等大将軍
として、堂衆が立籠る早尾坂のじやうへ押寄せて戦
ふ、夜に入て、学生終に責落されて四方へにげ失せ
ぬ、学生の方にうたるる者百余人、その後山門弥あ
れはてて、西塔衆の外は、山住の僧侶もなし、当山
草創よりこのかた、未だかくのごとくの事はなし、
世のすゑにはあしき者は強く、善者はよわくなれば
にや、行人はよわく智者の謀も及ざれば、皆散々に
行別て、人なき山となりにけり、中堂衆などと云も
のも、又うせにけり、八日は薬師の日なれども、南
無と唱ふる人もなし、卯月はすゐじやくの月なれど
も、へいはく捧ぐるものもなし、あけの玉がき神さび
て、引しめなはもたえにけり、三百余年の法燈をか
かぐる人もなし、六時不断の香のけぶりもたえやし
P171
にけん、堂舎高くそびえて、三重の花構を青漢の中
にさしはさみ、棟梁遥に透て四めんのたるき白霧の
懸りたりき、めでたかりし高山なりしかども、今は
供仏を峰の嵐に任せ、金客を空瀝に潤す、夜の月の
ともし火をかかげて、天井のひまよりもり、軒の板間
よりもる、あか月の露玉をたれて、蓮座のよそほひ
をそふ、それ末代の俗に至ては、三国の仏法も次第
にすゐびせり、遠く天竺の仏跡をとぶらへば、昔釈
尊の法を説き給ひし祇園精舎も、竹林精舎も、給狐獨
園も中比より虎狼野干のすみかとなり、礎のみこそ
残るなれ、白鷺池には水たえて、草のみ深く茂れり、
退凡下乗のそとばには、苔のみむしてかたむきぬ、
震旦の仏法も同じく滅しにき、天台山五台山双林寺
玉泉寺も、此ころは住侶なき様になりはてて、大小
乗の法文も箱の底にぞくちにける、菩提樹院観音の
霊像も御身は土にむもれて、烏瑟ばかりぞ残りける、
すでに遐代に及で、烏瑟もともにかれやし給ひぬら

んと思ひやるこそ悲しけれ、我朝の仏法も又同じ、
南都七大寺も皆荒れはてて八宗九宗もあとたえぬ、
瑜伽唯識の両部の外は残る法文もなく、東大寺興福
寺の外は残る堂舎一宇もなかりき、あたご高尾の山
もむかしは堂舎軒をきしりたりけれども、一夜の中
に荒れにしかば、今は天狗のすみかとなりはてぬ、
昔玄弉三蔵貞観三年の比、仏法を弘めんとて流砂〓
嶺をしのいで、仏しやう国へ渡り給ひしに、春秋寒
暑一十七年、耳目見聞一百三十八ヶ国、或は三百六
十余の国々を見まはし給ひしに、大乗流布の国わづ
かに十五ヶ国ぞありける、さしもひろき月氏の境に
だにも、仏法流布の所はあり難かりけるぞかし、さ
ればやらん、やむ事なかりける天台の仏法も、治承
の今に至て亡びはてぬるにやと、心ある人々はかな
しまずといふことなし、離山したりける僧の中に、
堂のはしらに書付けるとかや、
祈こし我たつ杣の引かへて
P172
人無き山と荒やはてなん W051 K052
昔伝教大師当山草創の後、阿耨多羅三藐三菩提の仏
達に、祈申させ給ひけることを思出て読たりけるに
や、いとやさしくぞ覚えし、法性寺殿の御子、宮の御
弟子天台座主慈円大僧正、其時は法印にておはしけ
るが、人知れず此事をかなしみて、雪のふりけるあ
した、尊円阿闍梨がもとへつかはされける、
いとどしく昔のあとやたえなんと
思ふもかなしけさのしら雪 W052 K053
尊円あじやり返事、
君が名ぞ猶あらはれんふる雪に
むかしのあとは絶えはてぬとも W053 K054
堂衆は学生の所従にて、あしだ、しりきれなどとる
わらはべの法師になりたるが、中げん法師どもなり、
僣上をおこしつつ、きりものよせもののさたして、
徳つきて、けさ衣きよげになりて、行人とて、はて
は公名つき、学生をも物ともせず、大湯屋にも申の

時をば堂衆とこそ定られたりけるに、午の刻よりお
りて学生の後にゐて、ゆびをさして笑ひければ、か
くやはあるべきとて、学者是を咎めければ、堂衆申
けるは、われらなからん山は山にてもあるまじ、学
生とて、ともすれば聞もしらぬ論議といふことはな
んぞ、あなおかしなどいひあひけり、近頃金剛寿院の
座主覚尋権僧正治山の時より三塔に度衆とて結番し
て仏に花香を奉るとぞ聞えし、
善光寺炎上事
去三年廿四日信濃国善光寺炎上のよしその聞えあ
り、この如来と申すは、昔中天竺舎利国に五種の
悪病おこりて、人だね皆つきし時、月蓋長者がさい
あいのひとり娘に悪病つきて命のびがたし、月蓋は
外道が弟子也、はじめて釈尊のみもとに参りて申け
るは、ただ一人持て候娘に、五種の悪病つきて候、
願はくは釈尊此悪病を拂ふ術ををしへ給へと申、仏
外道をあざむきてのたまひけるは、われもその悪病
を拂ふ術を知らずとのたまへば、月蓋重ねて申ける
P173
は、我は外道が弟子にて候、外道が術及がたき間、
外道の門を出て始めて釈尊の御弟子になり奉り候、
仏も知給はずば、外道と以同前にこそ候なれ、さては
何をもてか貴しと思ひ奉らんと申せば、其時釈尊の
たまひけるは、誠にはいかでか件の悪病を拂ふ術を
知ざらんや、是より西方に十万おくの国を隔てて仏
土あり、名をば極楽世界と名つけ、其院主阿弥陀如
来と申仏のおはしますぞ、請じ参らせよ、五種の悪
病をば立所に拂ひ給はんずるぞと教給ふ、月蓋申け
るは、是又釈尊の御いつはりと申すべし、西方十万
億まで遠く隔てていますなる、弥陀如来をばいかで
か請じ参らすべきと申せば、釈尊のたまひけるは、十
万億まで遠くおはします如来を迎へ奉らんこと、使
者をもてはかなふまじ、これにつきても仏の方便の
不思議なるを知れりや、六字名号といふ事あるを、
南無はこれ帰命のこと葉、阿字の体は仏のかたちな
り、これをかさねて六字名號陀羅尼とす、こころを

いたして西方に向ひ、たなごころを合て南無阿弥陀
仏と申さば、西方十万億まで、遠くおはするあみだ
如来ききつけて、須臾の間に来つつ悪病を拂ひ給は
んずるぞと教給ふ、月蓋是をうけ給はりて誠に尊く
候とて、西方に向ひ合掌隨喜の涙を流しつつ、南無
阿弥陀仏南無阿弥陀仏と三べん唱へはてぬに、観音勢至引具
して月蓋が前に現じ給ひつつ、十方へ光りをはなち
給ふ、仏の光りに恐れつつ悪病立所にやみぬ、月蓋
が娘の悪病やむのみにあらず、近く死したる者三万
余人皆活く、かくて阿弥陀如来は極楽浄土へかへり
給ふところに、月蓋長者是程にしんへんあらたに渡
らせ給ふあみだ如来を、今日より後いかにして拝し
奉るべき、願くはみだ如来極楽浄土へ相具しておは
しませと名残を惜み奉て、かなしみなく、釈尊是を
見給ひて善哉善哉とほめつつ、あみだ如来の御形を
とどめ奉らんために、もくれん尊者を龍宮へ遣はし
て、ゑんぶだんごんを召寄せて、釈尊とかせうと長
P174
者と一心にて鋳うつし奉りし一磔手半の弥陀の像、
閻浮提第一霊仏也、仏滅し給ひて後、天竺にとどま
りおはします事五百歳、仏法東漸のことわりにて、百
済国に渡り給ひて一千歳の後、欽明天皇御宇に及で、
逆臣守屋にあひたまひて、難波の堀江にすてられて、
光うづもり給ひてのち、聖徳太子世に出で給ひて、
逆臣守屋を討て、難波四天王寺に仏法を弘め給ふ時
に、信濃国の民本太善光、年貢運上の為に難波の京へ
上りける時、如来難波堀江を出で給ひて、十方へ光
を放ちつつ、ことばをあらはしてのたまひけるは、
なんぢは我が三生の檀那なり、我は汝が三生の本尊
なり、汝をまたんとて難波の堀江に光をうづみて年
久し、汝が過去の因をしらしめん、つぶさにきけ、
天竺にしては月蓋長者といひき、百済国にて斉明王
とかしづかれ、日本国に渡りては遠国の民本太善光
といふ也と告げ給ふ、善光是を承て、三生まで生れ
合ひまゐらせけるちぎりのほどの忝さに、善光袖を

顔にあてて、声も惜まず泣きにけり、良久あて、う
しろをさし任せ奉りければ、阿弥陀観音勢至善光が
後にとび付き給ひぬ、善光如来を負ひ奉りて、夜は
かたかたに立て参らせて打ふして、ねぬるかと思ひ
たれば、如来善光を負給ふ、よるひる下り給ひけれ
ば、ほどなく下着給ひて、信濃国水落郡をうみの東
人本太善光あんちし奉りてよりこのかた、五百八十
余歳の星霜を送り給ふとぞ聞えし、王法傾かんとて
は、仏法先滅すといへり、さればにやか様にさしも
やんごとなき霊寺霊山も多く滅しぬるは、王法の末
にのぞめる瑞相にやと歎きあへり、
中宮御産事
十月十二日寅の時より中宮の御産気渡らせ給とて、
天下ののしりあへり、去月廿八日の頃より、時々其
気渡らせおはしましけれども、取立たる御事もなか
りける程に、この暁よりは隙なく取しきらせ給へど
も、御産もならずとて、平家の一門は申すに及ばず、
関白殿を始め奉りて、公卿殿上人馳参らせらる、法
P175
皇は西おもての小門より御幸なる、御げんじやには
房覚昌雲兩僧正、豪禅実全両僧都、俊尭法印、此上
法皇も祈申させ給ひけり、内大臣は善悪についてい
とさわがぬ人にて、少し日たけて公達あまた引具し
て参り給へり、のどやかにぞ見え給ひける、権亮少将
維盛、左少将清経、越前侍従資盛などやりつつけさ
せて、御馬十二疋、御劔七腰、御衣十二兩広蓋に入
て参られたり、きらきらしくぞ見えける、女院后宮
の御産の御祈に、時にのぞんで大赦行はるること先
例也、且大治二年九月十一日待賢門院の御産、当法
皇御誕生時也、大赦行はれき、その例とて重科の者
十二人寛宥せらる、内裏より御使しきなみ也、右中
将通親朝臣、左中将隆房朝臣、右衛門権佐貞仲朝臣、
蔵人所衆、瀧口等各二三返づつ馳参らる、永万には
寮の御馬を給て是に乗る、今度はその儀なし、殿上
人をのをの車にて馳参らる、所衆などは騎馬にてぞ
ありける、八幡賀茂日吉春日北野平野大原野などへ

行啓あるべきよし御願を立らる、啓白は五檀法隆三
世のあじやり全玄法印とぞ聞えし、又神社には石清
水加茂を始め奉て、北野平野いなり祇園今西宮東光
寺にいたるまで四十一ヶ所、仏寺には東大寺興福寺
延暦薗城広隆円宗寺にいたるまで、七十四ヶ所の御
読経あり、神馬をひかるる事太神宮石清水をはじめ
参らせて、厳島にいたるまで廿五社也、内大臣の御
馬を参らせらるる事は然るべし、后宮の御せうとに
ておはするうへ、殊に父子の御契なれば、寛弘に上
東門院御産の時、御堂関白神馬を奉らる、その例相か
なへり、今度五条大納言邦綱、神馬を二疋参らせらる
る事然るべからずと人々傾きあへり、志のいたりか
徳の余りか、物をしらざるかとぞ申ける、仁和寺守
覚法親王は孔雀経御修法、山座主覚快親王は七仏薬
師法、長吏円恵法親王は金剛童子法、この外五大虚
空蔵、六観音、一字金輪、五だん法、六字阿臨、八
字文珠、普賢延命、大熾盛光に至るまで、残る所も
P176
やあるべき、仏士法印召されて、等身の七仏薬師並
五大尊の像造りはじめらる、御誦経の御劔御衣諸寺
諸社へ奉らせ給ふ、御使には宮侍の中に有官輩之を
勤む、平文狩衣に帯劔したる者どもの、東の対より
南庭を渡りて、西の中門へ持つづきてゆゆしき見物
にてぞありける、相国、二位殿はつやつや物も覚え給
はず、余りの事にて人の物申ければ、ともかくもと
てあきれてぞおはしける、さりとも軍の陣ならばか
くも臆せじものをとぞ、後には入道のたまひける、
新大納言西光法師さまざまの御物のけ、さまざま申
者共ありて、御産とみになりやらず、時刻おしうつ
りければ、御げんじやたち面々各々にそうかの句あ
げて、本寺本山の三宝年来所持の本尊帰状し奉り、
各黒煙をたてて、声々にもみふせらるる気色心中ど
も、おしはからる、いづれもいづれも誠にさこそはと覚
えて、尊き中にも法皇の御声の出でたりけるに社、
今一きは事かはりて人々皆身の毛たち涙を流しけ

れ、をどりくる御よりましどもの縛どもも少しう
ちしめりたり、その時法皇御帳近く居よらせおはし
まして、千手経を尊くあそばして仰ありけるは、阿
遮一睨窓前には、鬼病手束懐、多隷三遏床上には魔
軍かうべをふりておそる、いかなる悪霊なりとも、
この老法師かくて候はんには、いかでか近づき奉る
べき、いかにいはんやあらはるる所の悪霊ども、皆
丸か朝恩にて人と成し輩にはあらずや、たとへ報謝
の心をこそ存ぜざらめ、あに障碍をなすに及ばんや、
その事然るべからず、速に罷りしりぞき候へとて、
女人胎臨生産時、邪魔遮障苦難忍、至心稱誦
大悲咒、鬼神退散安楽生、
とて御ねん珠をさらさらとおしもませおはしませ
ば、御産やすやすとなりにけり、頭中将重衡朝臣中
宮亮にておはしけるが、簾中よりつと出でて、御産平
安皇子御誕生と高らかに申されければ、入道は余り
の嬉さに声をあげ、手を合せてぞなかれける、中々
P177
いまいましくぞ覚えし、関白殿太政大臣以下公卿殿
上人、御修法の諸の大阿闍梨助修数輩の御験者、陰
陽頭典薬助より始めて道々のともがら、雲上堂下の
人人一同にあつと悦ける、声とよみてぞありける、し
ばしは静りやらざりけり、内大臣参りて天をもて父
とす、地もて母とすと、祝参らせて、金の吉文字の
銭九十九文御枕におきて、やがて御ほぞのをを切参
らせ給ふ、故建春門院の御妹あの御方いだき参らせ
給ふ、左衛門督時忠卿の北の方洞院殿、御乳付に参り
給ひにけり、圍碁手の銭を出したり、弁、靱負佐かけ
ものにて、是をうつ、是又例ある事にや、法皇は新
熊野へ御参詣有べきにてありければ、急ぎ出させお
はしまして、御車を門外に立てられたり、むかしよ
り御后の御産常のことなれども、太上法皇の御げん
者は希代の例也、前代にも聞かず後代にもありがた
かるべし、是は当帝の后宮にて渡らせ給へば、法皇
も御志浅からざるうへ、猶太政入道を重く思召さる

る故也、但此事軽々しきに似たり、然るべからず
と申す人もありき、凡そかろがろしき御ふるまひを
ば、故女院受けさせ給はぬ御事に申させ給ひしかば、
法皇も憚り思召しけり、今も女院だに渡らせ給はま
しかば、申留め参らせ給ひなましと、事のまぎれに
旧女房たちささやきあひ給へり、富士綿千両、美濃
絹百疋御験者の禄に法皇に参らせらるるこそ、いよ
いよ奇異の珍事にてありけれ、此送文を法皇御覧じ
て丸は験者してもすぐべきよなとぞ仰ありけり、あ
まつさへ来十七日法住寺殿にて御請用ほこりあるべ
しなど申て、京童笑ひ合けり、陰陽頭助以下多く参
り集りたりけるが、御占ありけるに、亥子丑寅の時
などと申けり、姫君と申けるが、陰陽頭安部泰親朝
臣一人ばかりぞ御産はただ今也、皇子にて渡らせ給
ふべしと申ける、詞いまだ終らざるに、御産はなり
にけり、さすの御子とぞ申ける、
内大臣よのはかせどもは巳午申酉亥子丑の時抔とさ
P178
まざまに申けるに、しかも姫君などと申に、何として
泰親は御産ただ今しかも皇子とは申けるやらん、尋
ねばやと思給ひて、陰陽頭は是に候かと御尋ありけ
れば、候とて参りたり、いかに自余の博士どもは、
時刻不定に姫宮などと申に、汝は御産只今しかも皇
子とは申けるぞと仰られければ、泰親さ候、せいめ
いが流にはまづ推条をする候ぞ、その故は晴明が推
条のはじめには、或時春雨つれづれとふりて、もの
うく候けるに、数返してえんに立て候けるに、男が
からかさをさして来候けるが、門のからいしきには
づしてたてて入る気色を見候て、あはれ此者は物問
に来ござんなれ、推条をさして返さんと思ひて、い
かにあれは何者ぞと尋ね候ければ、やはたよりさわ
く事候て、尋ね参らせんとて参りて候と申ければ、
晴明その時己が家のかまの前に茸の生たるかと申候
ければ、さん候と答ふ、ゆめゆめくるしかるまじき
ぞ、とくとく帰れとて返して候けり、さ候へばこの

推条にて名をあげ候也、その時の君御前にて、此箱
の中なる物を占て参らせよと仰せられければ、打あ
んじて見る所に、鳥の木の枝をくひて西へ行を見て
くりに候と申ければ、服物のうらは恥かましき事に
てありけりと思召しながら、尚左大臣殿この中なる
ものを申せとて、桶を出されて候けるに、打あんじ
て蛇といはんとすれば是足あり、龍といはんとすれ
ば角なし、いかが申べき、陰陽道すたれなんず、あ
はれとかげにて候やらんと申たりければ、仔細なし
とて開かれぬ、かやうに徳を施したる推条にて候、そ
の語をうけて五代にあたり候間、推条をむねとして
申て候、皆人々は色を失ひて立たせ給ひ候へども、君
は少しもさわがせ給はず、泰親に御産はいつぞと仰
せ候て障子をさつと明けて出でさせ給ひ候つるが、
少しもさはる所も候はず、君又目出度き男子にて渡
らせおはしまし候へば、さてこそ御産は只今しかも
皇子とは申て候へといふ、大臣殿げにもと思ひ給ひ
P179
て、柑子二らん箱に入て御封を付て、陰陽頭と時春と
両人が中に出されたり、陰陽頭はきと見渡せば、御つ
ぼの柑子の木の北へさしたる枝に二さがりたるを見
て、とりあへずかん子ふたつ候と申、時春はとこには
ねずみこそ二候へと申、大臣殿時春はふかくしたり
と思給ひて取入んとせさせ給ふに、時春が唯御前に
て御封をとかれ参らせんと申けり、されども時春も
当時は九重の中に一二の者にてあるに、ここにてふ
かくをしつるものならば、長きかきんにてあらんず
ると、不便に思召し、つづらをとり入れさせ給ふに、
時春がただひらかれ奉らんと申、さらば開けとて御
封を切てふたを開かれたりければ、鼠二いでて坪の
中へ走り入りたり、こはいかに不思議の事かなとて
所衆をもて召し寄せ御覧ずれば、たがはぬ柑子也、
いかに泰親はとりあへずかん子と申けるぞと仰せら
れければ、ただ今御坪の柑子の本の枝に二さがりた
るを見候て、とりあへず柑子とは申て候と申す、時

春は又柑子をば鼠とは申ぞと仰せられければ、左は
候へども、始めに泰親が柑子と申て候に、時春がそ
れ候と申候はん事、無下に覚え候ほどに鼠とは申て
候、誠に鼠を出して御目にかけ候はずばこそと申、
座敷の人々いかに泰親がかん子と申ながら鼠とはな
すぞと仰せければ、時春が封じ違へてこそ候へと申
す、内大臣聞給ひて誠にいづれもいづれも神妙なり、あ
はれくせものどもかなとて、御馬四疋きぬ十疋召寄
せて、絹五疋馬二疋づつ添へてひかせ給ひけり、大
臣殿ろくのかけやう目出度ぞ見えさせ給ひける、国
を守り位を執する臣下とは覚えてめでたくぞおぼえ
し、今度の御産にさまざまの事どもありける中に、
めでたかりし事は、太上法皇の御加持有がたかりけ
る御事也、不思議なりし事は太政入道のあきれざま、
優なりける事は小松大臣殿の振舞、ほいなかりける
事は右大将の籠居、出仕し給ましかばいかにめでた
からまし、あやしかりし事は甑を姫宮の誕生のやう
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に、北の御つぼにまろばかして、又とり上げて南へお
としたりける事ぞ希代の勝事とは人申ける、をかし
かりける事は、前陰陽頭安部時春が千度御祓勤めけ
るが、ある所のめんだうにてかうふりをつき落して
ありけるが、余りにあわててそれをも知らず、束帯
ただしくしたるものの、もとどりはなちにてさばか
りの御前へねりいでたりける気色、かばかりの大事
の中に公卿殿上人腹を切り給へり、こらへずして閑
所へ入る人もありけり、御産の間参り給人々、
松殿関白基房 妙音院太政大臣師長
徳大寺左大臣実定 大炊御門左大臣経家
月輪右大臣兼実 小松内大臣重盛
源大納言定房 三条大納言実房
五条大納言邦綱 藤大納言実国
中御門中納言宗家 按察使資賢
花山院中納言兼雅 左衛門督時忠
藤中納言資長 別当春宮大夫忠親

左兵衛督成範 右兵衛督頼盛
源中納言雅頼 権中納言実綱
皇太后宮大夫朝方 右宰相中将実家
平宰相教盛 左宰相中将実宗
六角宰相家通 右宰相中将実清
堀川宰相頼定 新宰相中将定範
左大弁俊経 右大弁長方
左京大夫修範 太宰大弐親信
菩提院三位中将公衡 新三位中将実清
以上三十三人右大弁外は直衣にて参給へり、
不参の人々、
花山院前太政大臣忠雅〈 自近事無出仕 〉前大納言実長〈 同 〉但布衣を
着して、太政入道の宿所へ向給へり、大宮大納言隆
季、第一女法性寺殿御子息左三位中将兼房室、去る
七月の頃難産の事によて出仕なし、不吉と存らるる
にや、前右大将宗盛、去七月に室家逝去の事によて
出仕し給はず、彼所労の時大納言並大将両官辭し申
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さる、前治部卿光隆、近衛殿の御子息二位少将基通、
宮内卿永範、七条修理大夫信隆、前三位基家、権大
納言朝経所労、新三位隆輔、松殿御子息三位中将隆
忠、〈 以上十二人不参とぞきこえし、 〉御修法結願して、勧賞を行はるる、
仁和寺法親王は公家の御沙汰にて、東大寺修造せら
れて後七日御修法、大元法灌頂興行せらるべき由宣
下せらるるうへ、御弟子法印覚成をもて権大僧都に
任ぜらる、座主宮は二品並牛車の宣旨を申させ給ひ
けるを、仁和寺法親王ささへ申させ給ひけるによて、
しばらく御弟子法眼円良を以て法印に任ぜらる、こ
の両事蔵人頭皇太后宮大夫右兵衛督光能朝臣承て是
を仰す、醍醐聖宝僧正余流権少僧都実繼、准〓牛王
加持を勤めて、大僧都に任ず、この外の勧賞どもは毛
擧にいとまあらず、右大将宗盛卿の北の方御帯を参
らせられたりしかば、御めのとに参り給ふべかりし
が、去七月失せ給ひにければ、左衛門督御乳母に定
り給ひぬ、北方洞院殿は故中山中納言顕時卿女、も

とは建春門院に候はれき、皇子受禅の後は内侍のす
けになりたまひて輔典侍殿と申ける、中宮日数経に
ければ、内へ参らせ給ひぬ、
十二月八日皇子親王宣旨を下さる、十五日皇太子に
たたせ給ふ、十七日伝には小松内大臣、大夫には右
大将宗盛、権大夫には時忠卿ぞなられける、いみじ
かりしことどもなり、
室泊遊君歌事
建禮門院后に立たせ給ひにければ、いかにして皇子
御誕生あて位につけ奉て、外祖父にて弥天下を掌に
握らんと思はれければ、入道、二位殿日吉社に百日の
日詣をしていのり申されけれども、しるしなかりけ
るほどに、入道思はれけるは、さりともなどか我祈
り申さんに、かなはざるべきとて、殊に憑み参らせ
られたる安芸国一宮、厳島の社へ月詣を始めて祈申
されけり、或時入道相国下向の時、室の泊につかれ
たり、かの所の習ひなれば、遊君ども参りて思ひ思ひ
に幸ひをひく、或君一人その中に縁やなかりけん、
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思ひむすぶ方もなし、浪のうへに浮でこなたかなた
へたどりけり、夜もすでに深更に及で鶏鳴しきりな
り、扨あるべきならねば宿所へおし帰る、ふねを漕
ぎ行きけるが、心のすみければ、暁白拍子をかぞへ
すましたり、誠に声もくまもなし、ふしもたらひた
る上手にてありける、是を聞く人袖をしぼるばかり
に哀にいひあへりけるに、所こそ多けれ、入道殿め
しの御船のもとにて歌をやめて世の定めなきうさを
思ひつづけて、
はなうるしぬる人もなき我身かな
むろありとてもなににかはせん W054 K275
入道ねざめし給ひて心すまれけるに、かく申を聞給
ひて、いと面白き事に思召して、いそぎせかいに立
出給ひて、是へ是へと召しあげて、越中次郎兵衛尉を
めしよせて、この御前に引出物せよと仰せられけれ
ば、盛次巻絹百疋しや金百両ひきたりけり、入道い
しうもふる舞たりとぞほめられける、

西八条被立札事
入道殿の西八条の宿所の東門に札をぞ一つ打たりけ
る、
世を見るに瀬の如し、人の奢はうたかたに似たり、
今はありとすれども消るがごとし、就中平入道禅門
のふるまひ旧宅に超え、その仁のためにくわぶんな
り、今の栄花たるにも先祖をなどか恥ざらん、高望
王の時始て皇闕を出て、大家の宗をうしろにあて、
雲上より此かた上天に乗ずる事たえぬ、しかる間、
忠盛が昇殿を人めづらしき事に思ひ、卿相驚きて深
夜に恥を施さんとす、然れども先立ちて忠盛この心
を得てしかば、横心の謀をめぐらして、希有に恥を
たすかりし仁の末としてすでに三公を極る事、しか
しながら先世の行徳の熟するがいたす所なり、全以
てその仁にあらずといへども、当君の御いとをしみ
によて、家の名をあげ身の名をあぐる、是誠に過分
也、よくつつしむで涯分をはかるべき所に、なんぞ
皇子を孫に持ちて外祖父にあらんとこのむ所、偏に
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浄海が運命の極まる瑞相をあらはさんが為なり、欲
心は身を亡すといへり、またはんくわいがじひには
一代のはん昌よりは、重代の悦喜を思へといへり、
なんぞ我身ひとつのよくをのみおもひて、子孫の歎
をしらざらんや、太政入道不当哉々々々とぞ書たり
ける、並歌、
入道はかずの栄花をもちかねて
あらぬさまなるまどひをぞする W055 K276
と札をぞ打たりける、是を見て腹をたていかられけ
れどもかなはず、か様の事は歌人文者ならねばいか
でかすべきとて、京中のすき人文者を数を尽して召
しおかれたり、大方ふしやうにてぞありける、小松
内府申されけるは、北野天神は無実をはらさんと誓
ひ給ふ、か様のわざは一人の所行なり、しかるを万
人を召置かれん事諸人の歎なり、中宮御なうの折ふ
ししかるべからず覚え候、北野の御前にて、起請文を
かかせて、失を守りてとがを行ひ候はばやと申され

ければ、此儀然るべしとて、奉行人書手十六人をも
て、天神の御前にて終日終夜かの起請をかかす、し
かるに羅土水金日火計月木とて九曜の中に火曜星又
計或星といふ、この星七十七星詞をのぶる所為なり、
げにも、かの星の天下の事を仁口としてやのたまひ
つらん、その中に一人として失をあらはす者なし、心
得たる人々申けるは、賢人世のなんをなげかば政道
世にあらはるといへり、げにも大臣のしきりに人の
損ずる事を歎思給ひけるにや、天神の御心に叶ひ参
らせて、人を損ぜじと失をば顕はさせ給はざりけり
と哀なり、起請文を書く所の人数一千三百三十六人
なり、
宋朝班花大臣事
宋朝のはんくわ大臣は、一日一夜の内に一千人、詩人
を集めて、誦の風流をせさせて見物す、今の入道浄
海は、一夜の中に一千余人歌人を集めて、とがに処
せんと企つ、本朝漢土はかはれども、権威のほどの
ゆゆしさは違ひなくぞ覚ゆる、
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厳島次第事
今度の厳島参詣に入道相国夢さうの告あり、光くま
なき剣を給てしばらく后の御懐にもたせ参らせて後
には、二位殿給りたまふと夢見給ひてけり、皇子誕
生疑ひあるべからずと悦んで下向あり、そのしるし
ありけるとかや、その頃京童申けるは、かやうに祈
精をせざらん者は、娘に産せさせて孫をまうくまじ
きか、さらば貧者のためにはいしゐ大事かなとぞ申
ける、平家厳島を信じたまひける事は、鳥羽院の御
宇に清盛安芸守たりし時、彼国をもて高野の大塔破
壊したりけるを、造営すべしと院より仰下されたり
ければ、渡辺黨にゑんどう六よりかたといひける侍
を奉行につけて、六ヶ年に造営せられにけり、入道高
野へ詣で給ひて供養を遂げたまふ時、八十有余の老
僧かうべには雪に似たる白髪をいただき、額には四
海の浪をたたみ、腰はふたへにして杖にすがりたる
が、一人出来、貞能を呼び出して、や殿、肥後守殿
わどのの主の安芸守殿の見参に入たまひてんやとの

たまひければ、貞能安芸守殿に此よしを申、事のよ
しを聞きて、たたびとに非ずとや思はれけん、新しき
むしろしき直し、是へと請じ入れ奉り見参に入る、
此老僧のたまひけるは、高野の大塔造営したまひつ
ること返々貴し貴し、但又仔細のあらんずるぞ、越
前国気比の社は金剛界の神なり、北陸道は畜生道た
り、仍てあらちの中山は畜生道の口なり、されば北
国の輩かの所に落べし、気比大ぼさつ是を憐み給ひ
て、この所の麓をしめて、和光同塵の結縁として、
我に近づかん者をば畜生の苦をのがれて、来世には
必ず浄土へ引導せんといふ願を立て、敦賀の津に跡
をたれ給へり、されば気比の社さかんなり、安芸国
厳島の社は胎蔵界の神なり、この二神は胎金両部の
垂跡なり、厳島の社破壊してなきがごとくなり、わ
どの申て造進し給へ、造進しつるものならば、官位
に於ては肩を並ぶる人あるまじきぞ、清盛是を承て
たた人ならずとおもひ奉りければ、深くかしこまて
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承候畢と領状申す、かの老僧大に悦て感涙を流して
立たまひぬ、安芸守、貞能を招き寄せて、此老僧の入
給はん所を見て来れ、ただびとにはいませじ、僧に
しらせ参らすなと教へて遣はす、貞能はるかに引さ
がりて、僧のおはします後に行く、よも知り給はじ
と思ふ所に、三町ばかり行て後、この老僧立帰ての
たまひけるは、貞能近く参れ、いかに隠るるぞ、こ
の老僧は知たるぞとのたまへば、貞能近く参りたり、
老僧のたまひけるは、あはれわどのが主の安芸守殿
はゆゆしき人かな、この大塔を造進しつるこそ返々
嬉しけれ、又安芸国厳島の社破壊したるを増進しつ
る者ならば、官位と云[B ヒ]一門繁昌肩を並ぶる人あるべ
からず、但それも一期ぞよとのたまひて、かき消や
うにうせたまひぬ、弘法の御告と覚えて身の毛よだ
ちて覚えけり、このよし安芸守へ語り申ければ、一
期と聞くこそ心細けれ、一期は夢のごとし、子孫相
伝へてはん昌せんことこそあらまほしけれ、この事

祈り申さんとて、寺中に籠居して、金堂に曼陀羅を
書きて安置せられける、西まんだらは、静妙行智と
て院にも召仕はせ給ひける繪師をもてかかせらる、
東まんだらをば、清盛かかむとて、自筆に八葉九尊宝
冠をば清盛わがなうの血を出してこそかかせけれ、
さて下向の後、清盛院参して大師しめしたまひつる
事をありのままに奏聞せられたりければ、任をのべ
て修造すべしとて彼厳島を修造せらる、社々を作り
かへ、鳥居を立てかへ、百廿間の廻廊をつくる、修
造功終りて入道厳島へ詣でたまへり、遷宮したまひ
たりけるに、大明神内侍につきて託宣あり、汝しれ
りや、高野弘法を以告げしめしし事はいかに、修造事
終る事、返々目出たし、一期に於ては我まぼるべし、
但今夜夢に財をさづけんずるぞ、それをもて今生の
まぼりとすべし、努々おそれ思ふべからずとて、大
明神あがらせ給ひぬ、清盛悦でその夜御前に通夜せ
られたりければ、宝殿内より白がねのひる巻したる
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少長刀を給はると見たりけるが、うち驚きてかたは
らをさぐりければ、まことにあり、かしこまて是を
給つつ下向せられにけり、それよりしてぞ平家いよ
いよ厳島の大明神をばことに崇敬し給ひける、
厳島大明神と申は、旅の神にまします、仏法興行の
あるじ慈悲第一の明神なり、婆竭羅龍王の娘八歳の
童女には妹、神宮皇后にも妹、淀姫には姉なり、百
王を守護し、密教を渡さん謀に皇城をちかくとおぼ
して、九州より寄給へり、その年記は推古天皇の御
宇端政五年癸丑九月十三日、播磨国印南野に七声鳴
く鹿あり、御門えいらんあらばやと綸言あり、佐伯
蔵本綸言を承て、河内国柿明神の檀を取て、弓に作
りて、いなみ野に分入て、件の鹿を射取て見参に入、
此鹿金色の鹿にて、九色の鹿なり、公卿僉議ありて、
むかし金色の鹿ありき、是権者也といへり、しかれ
ば権者を殺害の輩罪科ふかしとて、安芸国ささら浜
に流さる、蔵本飢をやすめんがため、つれづれをな

ぐさまんれうにやありけん、あみ舟つり舟に乗など
して、此浦々を伝ひあるく所に、或日午の時ばかり
におきの方を見れば、くれなゐの帆をひきたる大船
一艘出来、近づくを見れば、船にはあらず、瑠璃の
つぼにありき、ぬさをつけて順風に任せ、佐伯が舟
に寄せたり、いかにと見る所に、壷の中よりめでた
き貴女の十二一重に成見え給へるが、我は是西の国
にありつるが、思ふ心ある故にはるかに遠旅せり、
我すでに食物たえてつかれにのぞめり、食物をあた
へよと仰せられければ、蔵本大きに恐れて、折節御
食物になり候べき候はずと申せば、さるにてもとお
し返し御尋あり、白米こそ少し候へと申、いかほど
と御尋あり、本器の五升と申、それを参らせよと仰
せらる、何としてと申せば、洗ひてと仰す、よて洗
ひてうつはものを尋ぬ、かしこに見ゆる塩、かやの
葉にと仰せければ、かやうにして奉る、殿はいづく
と申せば擁護のことば、
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大宮より左八右九中は十六、かかる御たくせんに
つきてそのかずを奉供す、
今は飢をやめぬとてわれ此所に住まんと思ふ、しか
るべくは汝先達として此島を見せよと仰せられけれ
ば、蔵本仰に隨ひて島廻りす、あをこけ、むかふ、あ
りの浦、をいしま、よぶへ、こもりの浦、三笠の浜此所
所を御覧ずるに、中にもこもりの浦みかさの浜とい
ふ所を御らんじて、あらいつくしと仰せられたりし
をもて、いつくしまと號す、もとは御賀島と申す、そ
の故は神武天皇長門国にうつり住せ給ひし時、この
島の眺望殊勝なるよし聞召されて、この島に渡らせ
給ひて御賀の舞をせさせてえいらんあり、波のうへ
に舞台をしつらひて蝶鳥の舞を遂げさせらる、折節
夕日浪にうつりて山の端も又かざられたり、かんざ
しの花をうごかし、錦の袖にひるがへす、天に主あ
り、波に人あり、空に楽あり、海に舞あり、大かた
殊勝なる御見物にてぞありける、御門殊更御かんの

余りに島に官をなして、御賀島とぞ申しける、然る
を今の明神の御詞によていつく島と改めたり、蔵本
に仰られけるは、とくとく御殿十七間廻廊百八十間
造進し我を入れ参らせよとありければ、仰に隨ひて
かり殿を造りて入れ参らせんとす、始めは一身にて
ましましけるが、後には三十三所にて入らせ給ふ、
蔵本都に上り、朝に申入れよと仰せられければ、我
も遠流の者なり、流人として赦免を蒙らずして、上洛
せん事いかが候べかるらんと申ければ、大明神のた
まはく、汝を是へ下すもわがはからひなり、印南野
に金色の鹿に現ぜしも我なり、汝を下して乳母にせ
んがため也、とくとく上洛して伝奏をへよ、その時
霊烏と成て、一二万榊の枝を啄集めて紫宸殿の上に
置き、大星三星に三光を放ちて、皇居を照さん時、
驚きて神領を寄進あるべしと仰す、仍て恐恐蔵本
上洛して仔細を申あぐ、怪をなさるる所に仰られし
如く、大きなる光三つ御座のしとねの上にさす、驚
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きて神領四十八箇所を寄せらる、蔵本下向して、彼
神に宮仕へしき、今の神主是也、擁護の詞に曰、
我一心精誠を抽で、孤島の霊幽に詣ず、是則道心
を発し仏法を興行せんが為なり、仍て三十三の大
願を発す、中に道心の願第一也、其文の心に曰、
一度参詣諸衆生、三途八難永離苦、
和光同塵結縁者、八相成道常作仏、
といへり、一度参詣の輩はながく悪道に堕せずと誓
あり、その證據弘法大師に御ちいんをもてその色を
あらはす、我朝に密宗の渡ることはこの神の御願な
り、鎮西〓門峯を去つてこの島にうつらせ給ふこと
は、しかしながら此志の故なり、されば弘法大師こ
の神に生れあひ参らせ給へり、弘法と申すは漢家本
朝代々の賢人也、東方朔大公望黄石公弘法と申是な
り、賢王代にいでたまふ時はともに出て仕へ、愚王
世に出でたまふ時は則迯かくれて出でず、然るに我
朝に弘法生れ給ひて、今此真言を伝へたまふ、御入

唐の時は先づ厳島に詣でて、七日参籠あて、願くば
我密宗を伝へんと思ふ心ざし懇切なり、三千三の願
の中に第一の御願のごとくは、我に力をそへさせ給
へときせい申させ給ふ、大明神新に御対面あて、我
神武天皇御代のたちはじめに、供御の峰なるが故に、
かまど山に居すといへども、是を去つて此島にうつ
りたることしかしながらこの法を興行のためなり、
とくとく御入唐あるべし、我現じて力をそへ奉るべ
しと云々、よつて弘法入唐を遂げたまひて、恵果和
尚に逢ひ奉て、真言の奥義を極めて、帰朝せんとした
まひし時、天台山に上り、あかの水を取て桶に入て
天になげらる、黒雲来り、是を巻上て、我朝高野の峰
に置く、今の奥院のあかの水是なり、この黒雲と申
は、厳島の御妹のよど姫の威現なり、又大師三鈷を
なげ給ふべき事を厳島先立て、知見ありければ、御
妹よど姫に仰て、御父婆竭羅龍王に参らせて西門の
金松を申、高野山に植ゑ置かれぬ、然るに大師三鈷を
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なげ給ふとて、誓てのたまはく、此三鈷のおちつき
たらん所を我、ながき在所と誓ひ給ふに、三鈷飛来
て、彼金松にかかる、仍てこの峰に住みたまふ、今
の三鈷松是也、大師是ほどまで執したまひし峰なれ
ば、誠に両部の山にてぞありける、弘法帰朝の時も、
先づ厳島に参詣あて大明神に金泥法華経一部、唐鞍、
瑪瑙の枕、多羅葉此等を参らせられけり、彼のたら
えうに本地の文をかかれけり、
本体観世音、常在補陀落
為度衆生故、示現大明神
ある岩の下に隠して納め置かる、秘密第一の秘所に
て、人是を知らず、大縁起につけて、高野山に是を
知れる人一人ばかりあるべしといへり、かやうに仏
法をかねて守り給へる神明なり、慈悲広大にして誓
願自余に超過し給へり、かくのごとくれいげん厳重
の神にまします間、院も御信敬ましますにや、

平家物語巻第五終