延慶本 平家物語 読み下し版(漢字ひらがな交じり)

凡例
底本 大東急記念文庫蔵、重要文化財「延慶本平家物語」全六巻十二帖
『延慶本平家物語一~三』古典研究会1964年 3冊、別冊『延慶本平家物語 解説・対校表』伊地知鉄男氏 編著 付
*延慶本平家物語は、応永26,27年の間に根来寺において書写されたもので、「根来本」、また後世の所蔵者によって「角倉本」、「嵯峨本」とも呼ばれます。延慶本系としては、他に文政十三年書写の松井本(静嘉堂蔵)、朽木本(内閣文庫蔵)と朽木本を影写した平道樹書写本(国立国会図書館蔵)の3本が有り、前二者は、大東急記念文庫蔵本の虫損までを忠実に影写した写本です。従って、大東急記念文庫蔵本は、延慶本諸本のうち、最古の写本ということになります。

原本通りの翻刻では、読みやすいものにはなりませんので、できるだけ読みやすい本文を提供したいと思います。
古典研究会 1964年の影印本のページを記しました。P+巻数(1~3)+3桁。その後に、( )の中に、原本の丁数、表、裏をそれぞれオ、ウを記しました。単語が分割される場合は、検索の便を考え、後に移動した箇所があります。
片仮名を平仮名に改め、仮名の大小を区別せず、仮名遣いは、できる限り、歴史的仮名遣いに改めました。
句読点・濁点は、適宜施しました。
会話や心中思惟の部分には、「 」、『 』を付けました。
促音は、表記のない場合も「つ」としました。
 原本には各冊の冒頭に「目録」がありますので、それぞれの巻頭につけました。
 本文中には、章段番号のみで、章段名は、有りませんが、〔 〕の中に入れました。章段番号の無い場合は、内容的に判断して、〔 〕の中に記しました。
 漢文的表記の箇所は読み下しました。訓読に際しては、原本の送り仮名・振り仮名・ヲコト点に従うことを原則としましたが、一部、他の『平家物語』諸本を参考にして定めました。
 漢字は、原則として「常用漢字表」にある字体に従いました。異体字はおおむね通行の字体に直しましたが、一部に異体字、旧字を残しました。パソコンで入力出来ないコードの無い字(第一・第二水準以外)は、〓で表示し、一部、〓[ + ]で文字を示しました。
 原本には多くの誤字・脱字があり、それらのいくつかには、正しいと思われる字や脱字が書き込まれています。適宜それらを採用し、他の諸本を参照しながら、訂正したり、補ったりしました。補った場合は〔 〕に入れて示しました。
 当て字と判断されるものは、正しい文字に直しましたが、一部に原本の文字を残しました。
 原本の割注は 〈  〉 に入れて示しました。
 本書の訓読には、下記を、大いに参考に致しました。
『延慶本平家物語本文篇』(上・下)(大東急記念文庫蔵本)1999:2冊 著者:北原 保雄氏 著者:小川、 栄一氏 勉誠出版
『延慶本平家物語索引篇』(上・下)(大東急記念文庫蔵本)1996:2冊 勉誠出版
延慶本平家物語全注釈 著者 延慶本注釈の会編 出版社名 汲古書院 *2009年に、平家物語 四(第二中)刊行、以後一年に一冊の刊行予定です。



平家物語 一(第一本)

P1001(八オ)
 一 平家先祖の事
 二 得長寿院供養の事〈付けたり導師山門中堂の薬師の事〉
 三 忠盛昇殿の事〈付けたり闇打の事 付けたり忠盛死去の事〉
 四 清盛繁昌の事
 五 清盛の子息達官途成る事
 六 八人の娘達の事
 七 義王義女の事
 八 主上上皇御中不快の事〈付けたり二代の后に立ち給ふ事〉
 九 新院崩御の御事
 十 延暦寺と興福寺と額立論の事
十一 土佐房昌春の事
十二 山門大衆清水寺へ寄せて焼く事
十三 建春門院の皇子春宮立ちの事
十四 春宮践詐の事
十五 近習の人々平家を嫉妬の事
十六 平家殿下に恥見せ奉る事
十七 蔵人大夫高範出家の事
十八 成親卿八幡賀茂に僧を籠むる事
十九 主上御元服の事
二十 重盛宗盛左右に並び給ふ事
P1002(八ウ)
廿一 徳大寺殿厳嶋へ詣で給ふ事
廿二 成親卿人々語らひて鹿谷に寄り会ふ事
廿三 五条大納言邦綱の事
廿四 師高と宇河法師と事引き出だす事
廿五 留守所より白山へ牒状を遣はす事〈同返牒の事〉
廿六 白山宇河等の衆徒神輿を捧げて上洛の事
廿七 白山の衆徒山門へ牒状を送る事
廿八 白山の神輿山門に登り給ふ事
廿九 師高罪科せらるべき由人々申さるる事
三十 平泉寺を以つて山門に付けらるる事
卅一 後二条関白殿滅び給ふ事
卅二 高松の女院崩御の事
卅三 建春門院崩御の事
卅四 六条院崩御の事
卅五 平家意に任せて振る舞ふ事
卅六 山門の衆徒内裏へ神輿振り奉る事
卅七 毫雲の事〈付けたり山王効験の事 付けたり神輿祇園へ入り給ふ事〉
卅八 法住寺殿へ行幸成る事
卅九 時忠卿山門へ上卿に立つ事〈付けたり師高被罪科せらるる事〉
四十 京中多焼失する事

P1003(九オ)
平家物語第一本
 一 〔平家先祖の事〕 S0101
 祇薗精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りを顕す。驕れる人も久しからず、春の夜の夢尚長し。猛き者も終に滅びぬ、偏へに風の前の塵と留らず。遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の禄山、是等は皆、旧主先皇の務にも従はず、民間の愁ひ、世の乱れを知らざりしかば、久しからずして滅びにき。近く我が朝を尋ぬれば、承平の将門、天慶に純友、康和の義親、平治に信頼、驕れる心も猛き事も取々にこそ有りけれ(けめ)ども、遂に滅びにき。縦ひ人事は詐ると云ふとも、天道詐りがたき者哉。王麗なる猶此くの如し、況や人臣位者、争か慎まP1004(九ウ)ざるべき。間近く、太政大臣平清盛入道、法名浄海と申しける人の有様、伝へ承るこそ心も詞も及ばれね。
 彼の先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五皇子一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛孫、刑部卿忠盛朝臣嫡男也。彼の親王の御子高見の王、無官無位にして失せ給ひにけり。其の御子高望の親王の御時、寛平二年五月十二日に、初めて平の朝臣の姓を賜りて、上総介に成り給ひしより以来、忽に王氏を出でて人臣に列なる。其の子鎮守府将軍良望、後には常陸の大拯国香と改む。国香より貞盛、維衡、正度、正衡、正盛に至るまで六代、諸国の受領たりと云へども、未だ殿上P1005(一〇オ)の仙藉を聴されず。
二 〔得長寿院供養の事〈付けたり導師山門中堂の薬師の事〉〕 S0102
 忠盛朝臣、備前守たりし時、鳥羽院御願、得長寿院を造進し、三十三間の御堂を立て、一千一体の聖観音を安置し奉る〈中尊丈六等身千体〉。仍りて、天承元年〈辛亥〉三月十三日〈甲辰〉吉日良辰を以て、供養を遂げられ畢(を)はんぬ。忠盛は、一身の勧賞には備前国を給はる。其の外、鍛冶・番匠・杣師、惣じて結縁経営の人夫までも、ほどほどに随ひて勧賞を蒙る事、真実の御善根と覚えたり。
 御導師には天台の座主と御定めあり。而るに、何なる事にかおはしけむ、座主再三辞し申させ給ふ間、「さては誰にてか有るべき」と仰せあり。其の時、所々の名僧、寺々のP1006(一〇ウ)別当、望み申すところ十三人也。浄土寺の僧正実胤、同じく別当道忠僧都、興福寺の大臣法眼実信、同寺の大納言法印成運、御室の御弟子祐範上人、薗城寺権大僧都良円、同じく智覚僧正、東大寺大納言法印隆〓、花山の僧正覚雲、蓑尾の法眼蓮浄、兵部卿僧都祐全、宇治僧正寛深、桜井の官の聖人円妙〈已上十三人〉、此の智徳達は、皆法皇の御外戚、或いは法皇の御師徳、或いは法皇の御祈祷所の満徳也。皆公請を以て勤めらるる人々也。誠に種姓高貴にして智恵明了也。浄行持律にして説法に冨留那の跡を伝へ、「吾こそ天下一の名僧よ」、「吾こそ日本無双の唱導よ」と、各々〓慢の幡幢P1007(一一オ)をたてて、望み申させ給ふも理也。「げにも天台の座主の外は此の人々こそ器量よ」と、法皇も御定めあり。されば、思し食し煩ひてぞ渡らせ給ひける。毎日に公卿僉議ありけれども、さして誰とも定まらず。「さらば孔子に取るべし」とて、彼の禅侶等を皆、得長寿院に召されたり。ゆゆしき見物にてぞ有りける。
 さて、孔子の次第は、十三の内に一には「御導師たるべし」と書きて、余の十二は物も書かざる白孔子也。
法皇の仰せに、「丸が現当二世の大事、只此の仏事にあり。若実の導師たるべき器量の人、此の十三人の外にて猶や有らん。冥の照覧知り難し。されば、今一つを加へて、十四の孔子に成すべし」と云々。仍りて、御定にP1008(一一ウ)任せて十四にして、十三人寄りて面々に取り給ふに、皆白孔子を取りて、「御導師たるべし」と云ふ孔子は残りたり。「冥の照覧、実に様有るべし」と仰せあり。十三人の智徳、各宝の山に入りて手を空しくして帰り給へり。
 其の後、法皇、「此の人々の外に誰有るべしとも覚えず。只願はくは、必ずしも智者に非ず、能説に非ずとも、種姓下劣なりとも、心に慈悲ありて、身に行徳いみじく、天下一番に貧しからむ僧を導師に用ゐばやと思ふはいかに」と仰せあり。公卿未だ御返事申されざる処に、蓑笠着たる者、門前に臨みたり。奇しく御覧ずる処に、蓑笠をば唐居敷に指し置き、黒き衣袈裟懸けたる僧一人、老々としてP1009(一二オ)法皇御前に参りて、「実にて候やらん、得長寿院供養の御導師には、無智下賎なりとも、心に慈悲有りて身に徳行あらん貧僧を召さるべしと承はる。愚僧こそ、慈悲と行徳とは開けて候へども、貧窮の事は日本一にて候へ。真実の御事にて候はば、参るべく哉候ふらん」。其の時公卿殿上人、「さこそ仰せあらんからに、和僧様の者をば争か召さるべき。不思議也、見苦しし。とくとく罷り出でよ」と云ふ。法皇の仰に、「いかなる所にある僧ぞ」と御尋ねあり。僧申しけるは、「当時は坂本の地主権現の大床の下に、時々庭草むしりて候ふ」と申す。法皇、「さては、まめやかに無縁貧道の僧にこそあむなれ。不便P1010(一二ウ)なり。御導師に定め思し食す所也。来る十三日の午時以前に、彼の御堂に参るべし」と御定あり。僧、涙をはらはらとこぼして、手を合はせて法皇を拝み進らせて、蓑笠取りて打ちきて罷り帰りけり。
 其の時法皇、人を召されて、「あの僧の住所見て参るべし。いかなる有様したる僧ぞ。能々みよ」とて遣はす。御使、みがくれに行く程に、げに地主権現の大床の下に入りぬ。居所の有様、雨皮引き廻して、絵像の弥陀の三尊かけて、仏の前机に焼香散花の匂ひ薫じたり。さては何事もなし。但、机の下に紙にひねりたる物あり。其を取りて茶坏にちと入れて、閼伽桶なる水にすすぎて服しけり。さて、其の後独言に申しP1011(一三オ)けるは、「とかくして儲けたりし松の葉も、はや乏しく成りぬ。なにをもてか露命をも支ふべき。あはれ、はや御仏事の日に成れかし。さても目出たき法皇の御善根のきよさかな。南無山王大師、七社権現、慈悲納受を垂れて、清浄の御善根修行し給へる法皇を守護し進らせ給へ」とて、念珠して侍り。御使、帰り参りて此の由を奏聞す。法皇大きに感じ思し食す所也。
 既に御供養の日、彼の大床の下の聖の許へ四方輿を迎へに遣はさる。聖申しけるは、「輿車に乗るべき御導師を召さるべきならば、望み申す所の十余人の高位の僧をこそ召され候ふべけれ。而るに、今は態と無縁貧道のP1012(一三ウ)僧を供養ぜさせ給ふ。清浄の御善根也。争か有名無実の虚仮の相をば現じ候ふべきや」とて、四方輿を返し進らせ畢(を)はんぬ。
 吉日は十三日、良辰は午時也。以前に御幸もなり、行幸も成りぬ。女房・男房、すべて雲上の人々、皆参り給へり。何に況や、都鄙遠近、貴賎上下の諸人、幾千万と云ふ事を知らず参り集まり、件の御導師も已に臨み給へり。ありし蓑笠をこそ今日はき給はねども、衣袈裟は只其の時のままなり。老々として、腰少し亀まり給へり。従僧とおぼしくて、若僧二人あり。御布施持たせむとおぼしくて、下僧十二人、庭上にあり。実に〓弱(わうじやく)たる体、諸人皆目をP1013(一四オ)驚かしてぞ侍りける。導師已に高座に登り給へば、膝振ひわななきて、法則次第も前後不覚に見えたり。暫く有りて、勧請の句を、はたと打ち上げ給ひたりければ、三十三間をひびき廻り、一千一体の御仏も納受をたれ給ふらむとぞ目出たかりける。表白実に玉を吐き、説法弥々富楼那の弁舌あり。聴聞集会の万人、随喜の涙を流して無始の罪障を濯ぎ、見聞覚知の道俗は、歓喜の袖を〓(かいつくろ)ひて、即身の菩提を悟る。苗、須達長者が四十九院の祇薗精舎を建てて釈迦善逝の御供養ありけんも、利益結線の砌、これには過ぎじと目出たし。御説法永くして、三時ばかりありP1014(一四ウ)けるを、法皇は刹那程とぞ思し食されける。已に廻向の金鳴らして、高座より下りて、正面の左の柱の本に居給へり。始めには墨染の袈裟衣は、今は錦の法服よりも貴くぞみえける。
 御布施千石千貫・金千両、其の上に御加布施、御堂の前に山の動き出でたるが如し。田村の御門の御時、たかき御子と申す女御、隠れさせ給ひて、安祥寺にてみわざし給ひけるに、堂の前にささげもの多くして山の如し。其を在中将よみたりける、
 山のみなうつりて今日にあふ事は春の別をとふとなるべし
善根の志の深きには、御布施の色に顕れたり。
 月輪西山にP1015(一五オ)隠れて夜陰に及びければ、御堂の前に万燈会をともされたり。御導師已に帰り給ひけるに、聴聞の衆庭に多くして、出でさせ給ふべき様も無かりければ、御堂の正面より虚空を飛び上がりて、惣門上に暫くおはしましけり。二人の従僧は、日光・月光、光りをかかやかし、十二人の下僧は薬師の十二神将也。御導師は地主権現の本地、叡山中堂の伊王善逝にてぞ坐しける。世已に末代たりと云へども、願主の信心清浄なれば、仏神の威光猶以て厳重也。法皇の御心の中、さこそうれしく思し食しけめ。
 聖武天皇の御願、東大寺供養の御導師は、P1016(一五ウ)行基菩薩と御定め有りけるに、行基堅く辞し申させ給ひける様は、「御願、大仏事也。小国の比丘、相応せず。霊山浄土の同聞衆、婆羅門尊者と申す大羅漢、今に天竺にあり。迎へに遣すべし」とて、宝瓶に花をたて、閼伽をしきに居ゑて、難波の海に置き給ひければ、風も吹かざるに、閼伽をしき、流れて西をさして行く。七日を経て後、供養の日、彼の婆羅門尊者、閼伽をしきに乗りて、難波の津に来て、大仏殿をば供養し給ひにき。それをこそ奇代の不思議と承るに、これは猶勝れたり。さて、彼のばら門尊者、南天竺より難波の浦に到来P1017(一六オ)の時、行基菩薩対面して宣はく、
  霊山の尺迦のみまへに契りてし真如くちせずあひみつる哉
婆羅門尊者の返事
  迦毘羅えの苔の莚に行き遇ひし文殊の御かほ又ぞ拝する
さて、ばら門尊者は読師、行基菩薩は講師にて、大仏殿をば供養ありき。其の時、ばら門をば僧正に成して、「東大寺の長老し給へ」と宣旨成りけれども、不日に天竺に帰り給ひにき。行基菩薩は、八十にて天平勝宝元年二月に入滅し給ひき。彼の歌の心にて、ばら門僧正は普賢、行基菩薩は文殊なり。普賢・文殊等の二菩薩、大仏殿をば供養じ給へり。今P1018(一六ウ)此の得長寿院をば、中堂の薬師如来、日光・月光等の二菩薩を従僧とし、十二神将等を眷属として、御供養あり。「遥かに昔の聖跡よりも、当伽藍の効験は勝れ給へり」と、万人皆讃め奉る所也。
三 〔忠盛昇殿の事 付けたり闇打の事 付けたり忠盛死去の事〕 S0103
 鳥羽禅定法皇、叡感に堪へさせ御座さず、忠盛に但馬国を給はる上、年三十七にて内昇殿を聴さる。昇殿は、是生涯の撰びなり。設ひ院の昇殿すら然也、何に況や、内の昇殿に於いてを哉。雲上人、欝り猜んで、同年十一月五節、廿三日、豊の明りの節会の夜、暗討にせむと擬す。忠盛朝臣、是の事を風に聞きて、「我右筆の身に非ず。武勇の家に生まれP1019(一七オ)て今此の恥に遇はむ事、家の為、身の為、心うかるべし。所詮身を全くして君に仕へよと云ふ本文あり」と宣ひて、内々用意ありけり。
 忠盛朝臣の郎等、元は忠盛の一門なりけるが、後には父讃岐守正盛が時より郎等職に補す、進三郎大夫平季房が子に、左兵衛尉家貞と云ふ者あり。備前守の許に参りて申しけるは、「父季房、恐れながら御一門の末にて候ひけるが、故入道殿の御時、始めて郎等職の振舞を仕り候ひけり。家貞父に増さるべき身にて候はねども、相継ぎて奉公仕り候ふ。今年の五節の御出仕には、一定僻事出来候ふべき由、粗承る旨候ふ。殿中に我も我もと思ふ人共あまた候ふらめP1020(一七ウ)ども、加様の御瀬の折節にあひまいらせむと思ふ者は、さすがすくなくこそ候ふらめなれば、五節の出仕の御共をば家貞仕るべし」と内々申せば、忠盛是を聞きて、「然るべし」とて召し具されたり。
一尺三寸ある黒鞘巻の刀を用意して、着座の始めより乱舞の終はりまで束帯の下にしどけなき様に指して、刀の柄を四五寸計り指し出だして、常は手打ちかけて作り眼して居られたり。傍輩の雲客此を見て恐惶の心あるならば、闇討はせざらましの謀也。
 家貞、元よりさる者にて、忠盛に目をかけて、木賊の狩衣の下に萌黄の糸威の腹巻胸板せめて、太刀脇に挟みて、殿上P1021(一八オ)の小庭に候ふ。同じき弟、薩摩平六家長とて齢十七になりけるが、長高く骨太にて、力おぼえ取りて、度々はがね顕はしたる者ありけり。松皮の狩衣の下に紫糸威の腹巻着て、備前作の三尺五寸ありけるわりざやの太刀かいはさみて、狩衣の下より手を出だして、犬居につい跪きて、殿上の方を雲すきに見すかして居たりければ、貫首以下殿上人あやしみて、蔵人を召して、「空柱より内に布衣の者の候ふ。何者ぞ、狼籍なり。罷り出でよ」と云はせければ、家貞少しもさわがず、「相伝の主刑部卿殿、今夜闇討にせらるべき由承り候へば、成らむ様見候はむとて、P1022(一八ウ)かくて候ふ。えこそ罷り出づまじけれ」とて、畏まりて候ひける。頬魂、事がら、主事にあはば、小庭より殿上まで切り上りつべき気色なりければ、人々由なしとや思はれけむ、其の夜の闇討せざりけり。
 其の上、忠盛朝臣、大の刀をぬきて、火のほのぐらかりける所にて鬢髪に引きあてて拭はれけり。余所目には氷などの様にぞ見えける。彼と云ひ是と云ひ、あたりを払ひてみえければ、由なくぞ思はれける。
 さて、御前に召しありて、忠盛朝臣参られけるに、五節のはやしと申すは、「白うすやうのこぜむじのかみ、まきあげふで、ともえ書きたる筆のぢく」とこそはやすに、是は拍子をかへて、「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやしたり。忠盛、P1023(一九オ)左の目の眇みたりければ、かくはやしたり。桓武天皇の末葉と申しながら、中比よりはうちさがて、官途もあさく、地下にのみして、都のすまゐうとうとしく、常は伊勢国に住して久しく人となりければ、此の一門をば伊勢平氏と申しならはしたるに、彼の国の器に対して、「伊勢平氏は酢瓶なりけり」とはやしたりけるとかや。忠盛、すべき様無くてさてやみぬ。
 抑、五節と申すは、清見原の天皇の御時、唐土の御門より崑崙山の玉を五つ進らせさせ給へり。其の玉、暗を照らすなり。一の玉の光、五十両の車に至る。是を豊の明りと名付けたり。御秘蔵の玉にて、人足を見る事なし。其の比、又、唐土の商山より仙女五人来たりて、P2024(一九ウ)清御原の庭にて廻雪の袂を翻す事五度あり。但し暗天にして其の形みえざりしかば、彼の五の玉を出だして廻雪の形を御覧じき。玉の光あきらかにして、昼よりも猶明し。而るに、五人の仙人の舞ふ事、各異節也。故に此を五節と名付けたり。其の時より、彼の仙人の舞の手を移して、雲上人舞ひけり。
 其の時の拍子には、「白うすやう、こぜむじの帋、まきあげふで」とはやしけり。其の故は、かの仙人の衣のうすくうつくしき事(有イ)さま、白薄様、こぜむじの帋に相似たり。舞の袖をひるがへし、簪より上ざまにまきあげたる形に似たりければ、巻あげの筆とははやしき。されば、舞人の形ありさまをはやすべき事にてぞ有りける。
 而るに、すがめP1025(二〇オ)なりけりとはやされて、御遊も未だはてぬに、深更に及びて罷り出でられけるに、「いかに何事か候ひつる」と申せば、面目なき事なれば、「何事もなし」とて出でられにけり。
 さて、忠盛出で給ひけるとき、腰刀をば主殿司に預けて、大盤の上におかれてけり。後日に公卿殿上人、此を申されけるは、「傍若無人の体、返す返す謂はれなし。さこそ重代の弓取ならむからに、かやうの雲上の交はりに、殿上人たる者の腰刀をさし顕す事、先例なし。夫雄剣を帯して公宴に列し、兵仗を賜はりて宮中を出入するは、皆格式の礼を守り、綸命由ある先規也。然るに忠盛朝臣に及びて、或いは相伝の郎等と号して布衣の兵を殿上の小庭に召し置き、其の身、腰刀を横だへ差して節会の座に列す。両条P1026(二〇ウ)共に希代未聞の狼籍也。事既に重畳せり。罪科尤も遁れ難し。早く御札を削りて、解官停止せらるべき」由、各一同に訴へ申さる。上皇、驚き思し食されて、忠盛を召して御尋ねあり。陳じ申しけるは、「先づ郎従小庭に祇候の事、忠盛是を存知せず。但し、近日人々相巧まるる子細有るかの間、年来の家人、此の事を伝へ承るかに依りて、其の恥を助けむ為に、忠盛に知られずして竊かに小庭に参候の条、力及ばざる次第也。此の上、猶其の科を遁れ難くは、其の身を召し進らすべく候ふ哉。次に腰刀の事、件の刀、主殿司に預けて候ふ。急ぎ召し出だされて、刀の実否に付きて、咎の左右有るべきか」と申されければ、主上、「尤も然るべし」と思し食されて、彼の刀を召し出だして、P1027(二一オ)「殿上人ぬけ」と仰せ下さる。叡覧を経るに、上はさやまきの黒塗なりけるが、中は木刀に銀薄を押したりけり。主上頗るゑつぼに入らせ給ひて、仰せの有りけるは、「当座の恥辱を遁れんが為に、刀を帯する由を構ふと云へども、後日の訴訟を存知して、木刀を帯したる用意の程こそ神妙なれ。弓箭に携らむ者の謀は、尤もかくこそあらまほしけれ。兼ねては又、郎従、主の恥を濯がむと思ふに依りて、ひそかに参候の条、且は武士の郎従の習ひなり。全く忠盛が咎に非ず」とて、還りて叡感に預りける上は、敢へて罪科の沙汰に及ばざりければ、各憤り深くて止みにけり。
 中納言太宰権帥季仲卿は、色の黒かりければ、黒帥とぞP1028(二一ウ)申しける。昔蔵人頭たりし時、其も五節に「穴黒々、くろいとうかな。何なる人のうるしぬりけむ」とはやしたりければ、かの季仲に並びたりける蔵人頭、色の白かりければ、季仲の方人とおぼしき殿上人、「穴白々、白い頭かな。いかなる人の薄をぬりけむ」とはやしたりけり。花山院入道太政大臣忠雅、十歳と申しける時、父中納言に後れ給ひて、孤子にしておはしけるを、中御門中納言家成卿、幡磨守たりし時、聟に取りて花やかにもてなされけるに、是も五節に、 「幡磨米は木賊か椋の葉か。人のきらをみがき付くるは」とはやしたりけり。代上がりては、かかる事にもさせる事も出で来ざりけり。末代はP1029(二二オ)いかがあらんずらむ、人の心おぼつかなし。
 忠盛卿、子息あまたおはしき。嫡子清盛、二男経盛、三男教盛、四男家盛、五男頼盛、六男思房、七男忠度、已上七人なり。皆諸衛佐を経て、殿上の交はり、人嫌ふに及ばず。日本には男子七人ある人を長者と申す事なれば、人うらやみけり。此も直事に非ず、得長寿院の御利生のあまりとぞ覚ゆる。
 但し命は限りありける習ひなれば、仁平三年正月十五日、生年五十八にて、忠盛朝臣北亡す。歳未だ六十に満たざるに、さかりとこそみえ給ひしに、春の霞と消えにけり。さしたる病もおはせず、正月十五日は毎年に精進潔済し給ひければ、今年も又、身心をきよめ沐浴して、P1030(二二ウ)本尊の御前に香を焼き、花を薫じ給ひけるが、西に向かひて眠るが如くして引き入り給ひにき。今生は一千一体の仏の利益を蒙りて、一天四海に栄花を開き、終焉の暮には三尊の来迎に預かりて、九品蓮台に往生す。女子五人、男子七人、各涙を流して惜しみ給ひき。
 男女十二人の腹族、皆取々に幸ひ給ひき。乙姫君ばかりぞ、今年は九に成り給ひければ、母に付きて空しき宿に独りおはしける。父の恋ひしき時は、殖ゑ置き給ひし坪の内の桜の本に立ちより、泣くより外の事なし。明けぬ晩れぬと過ぎ行く程に、正月も過ぎ、二月弥生の比にも成りければ、坪の内の桜うるはしく開(さ)きたり。姫君これをみ給ひて、P1031(二三オ)
 みるからに袂ぞぬるるさくらばなひとりさきだつちちや恋ひしき
四 〔清盛繁昌の事〕 S0104
 清盛嫡男たりしかば、其の跡を継ぐ。保元元年、左大臣代を乱り給ひし時、安芸守とて御方にて勲功ありしかば、幡磨守に移りて、同年の冬、大宰大弐に成りにき。平治元年、右衛門督謀叛の時、又御方にて凶徒を討ち平げしに依りて、「勲功一に非ず、恩賞是重かるべし」とて、次の年、正三位に叙す。是をだにもゆゆしき事に思ひしに、其の後の昇進、龍の雲に昇るよりも速かなり。打ち継き、宰相、衛府督、検非違使の別当、中納言に成りて、丞相の位に至り、左右を経(へ)ず、内大臣より太政大臣に上がる。兵杖を賜りて、大将にあらねども随身P1032(二三ウ)を召し具して、牛車・輦車の宣旨を蒙りて、乗りながら宮中を出で入る。偏へに執政の人の如し。されば、史記の月令の文を引き御して、寛平法皇の御遺誡にも、「太政大臣は一人に師範として、四海に儀刑せり。国を治め、道を論じ、陰陽を柔げ、其の人無くは(に非ずは-異本)、即ち闕けよ」と云へり。是を則闕の官と名付けて、其の人に非ずは〓すべき官にては無けれども、一天掌の内にある上は子細に及ばず。
 相国のかく繁昌する事、偏へに熊野権現の御利生也。其の故は、清盛当初、靭負佐たりし時、伊勢路より熊野へ参りけるに、乗りたる船の中へ目を驚かす程の大きなる鱸飛び入りたりけるを、先達是を見て驚き怪しみて、即ち巫文をしてみるに、「是はためしP1033(二四オ)なきほどの御悦びなり。是は権現の御利生也。怱ぎ養ひ給ふべし」と勘がへ申しければ、清盛宣ひけるは、「唐国の周の西伯留と云ひける人の船にこそ、白魚躍り入りたりけるとは伝へ聞け。此の事いかが有るべかるらむ。去りながら、先達計らひ申さるる上は、半ば権現の示し給ふなり。尤も吉事にてぞ有るらむ」と宣ひて、さばかり十戒を持ち、六情根を懺悔し、精進潔斎したる道にて、彼の魚を調美して家子・郎等、手振・強力に至るまで、一人も漏らさず養ひけり。
 又の年、三十七の時、二月十三日の夜半計りに、「口あけ口あけ」と、天にものいふよし夢に見て、驚きて現におそろしながら口をあけば、「是こそ武士の精と云ふ物よ。武士の大将をする者は、天より精を授くる」とて、鳥のP1034(二四ウ)子の様なる物の極めてつめたきを三、喉へ入ると見て、心も武く奢りはじめけり。
 されば、熊野より下向の後、打ちつづき悦びのみ在りて、謗りは一も無かりけり。保元に事有りて、大国給はりて大弐に成り、平治に熊野詣でし給ひたりける道に事出で来て、参詣を遂げず、道より下向して合戦を致し、其の功に依りて、親子兄弟大国を兼ね、兼官兼職に任じける上、三品階級に至るまで九代の前蹤をぞ越えられける。是をだにゆゆしき事と思ひしに、子孫の昇進は龍の雲に昇るよりも猶速かなり。
 かかりし程に、清盛、仁安三年十一月十一日、歳五十一にして病に侵されて、存命の為、忽ちに出家入道す。法名浄蓮と申しけるが、程P1035(二五オ)なく改名して浄海と云ふ。出家の功徳は莫大なるに依りて、宿病立所に癒へて、天命を全くす。人の従ひ付く事、吹く風の草木を靡かすが如し。世の普く仰げる事は、降る雨の国土を湿すに異ならず。六波羅殿の一家の君達と云ひてければ、花族も英雄も、面を向かへ、肩を並ぶる人無かりけり。さればにや、平大納言時忠卿申されけるは、「此の一門に非ざる者は、男も女も法師も尼も人非人たるべし」とぞ申されける。されば、いかなる人も相構へて其のゆかりにむすぼほれんとぞしける。衣文のかき様、烏帽子のため様より始めて、何事も六波羅様とて、一天四海の人皆是をまなびけり。
 いかなる賢王聖主の御政も、摂政関白P1036(二五ウ)の成敗をも、人のきかぬ所にては、なにとなく代にあまされたるいたづら者のかたぶけ申す事は、常の習ひ也。而るに、此の入道の世さかりの間は、人の聞かぬ所なれども、聊もいるがせに申す者なし。其の故は、入道の謀にて、「我が一門の上を謗り云ふ者を聞かん」とて、十四五、若は十七八ばかりなる童部の髪を頸のまはりに切りまはして、直垂・小袴きせて、二三百人召し仕ひければ、京中に充満して、自ら六波羅殿の上をあしざまにも申す者あれば、是等が聞き出だして、吹毛の咎を求めて、行き向かひて即時に滅す。おそろしなど申すも愚か也。されば、眼に見、心に知ると云へども、詞に顕れてものいふ者なし。上下恐ぢをののきて、道を過ぐる馬・車も、よきP1037(二六オ)てぞ通りける。禁門を出で入ると雖も、姓名を問はず。京師の長吏、之が為に目を側むとぞ見えたりける。直事には非ずとぞみえし。
 其の比、或る人の申しけるは、「抑此の禿童こそ心得ね。縦ひ京中の耳聞の為に召し仕はると云ふとも、
只普通の童にてもあれかし。何ぞ必ずしもかぶろをそろふる。此等が中に一人も闕けぬれば入れ立てて、三百人を際とするも不審也。何様にも子細有らん」と云ひければ、或る儒者の云はく、「伝へ聞く、異国にかかるためし有りけり。漢帝の御世に、王莽大臣と云ふ賢才殊勝の臣下有りけり。国の位を貪らむが為に謀を廻らす様は、海辺に出でて、亀を幾千万と云ふ数を知らず取り集めて、其の亀の甲の上に勝と云ふ字を書きて、浦々P1038(二六ウ)に放ちぬ。又、銅の馬と人とを造りて、竹のよを通して是を容る。近国の竹の林に多く此を籠められけり。然る後、懐妊七月の女を三百人召し集めて、朱砂を煎じて曼薬と云ふ薬を合はせて此をのます。月満じて産める子、色赤くして偏へに鬼の如し。彼の童を、人に知らせずして深山に籠めて此をそだつ。やうやう生長する程に、哥を作りて習はしむ。『亀の甲の上には、勝と云ふ文字あり。竹の林の中には、銅の人馬あり。王莽天下を持つべき験なり』と。かくして、十四五計りの時、髪を肩のまはりに切り廻して都へ出だすに、此等拍子を打ちて、三百人同音に此の哥を謡ふ。此の気色、普通ならざる間、人怪しみて、帝に奏聞す。即ち彼の童を南庭に召され、先の如くに拍子を打ちてP1039(二七オ)此の哥を謡ひ、庭上に参り臨みければ、頗る叡慮怪しからずと云ふこと莫し。即ち公卿僉議有りて、哥の実否を糺さむが為に、浦々の海人に仰せて亀を召す。其の中に、甲の上に勝の字書ける亀あまたあり。又、近隣の竹の林を求むるに、其の中に銅の人馬多く取り出だせり。帝、此の事を驚き思し食して、怱ぎ御位を避り、王莽に授けられにけり。天下を持ちて十八年とぞ承はる。されば、入道も此の事を表して、三百人召し仕はるるにこそ。位をも心に懸けてやおはすらん。知り難し」とぞ申しける。
五 〔清盛の子息達、官途成る事〕 S0105
 入道、我が身の栄花を極むるのみにあらず、嫡子重盛内大臣の左大将、二男宗盛中納言右大将、三男知盛三位中将、P1040(二七ウ)四男重衡蔵人頭、嫡孫惟盛四位少将、舎弟頼盛正二位大納言、同教盛中納言、一門の公卿十余人、殿上人三十余人、諸国の受領・諸衛府妻要所司、都合八十余人、代には又人もなくぞ見えける。
 奈良御門の御時、神亀五年〈戊辰〉、中衛大将を始めて置かれたりしが、大同四年、中衛を改めて近衛大将を定め置かれてより以降、左右に兄弟相並ぶ事、僅かに三ヶ度也。初めは平城天皇の御宇、左に内麻呂内大臣左大将、田村丸大納言右大将。次に文徳天皇の御宇、斉衡二年八月廿八日、閑院贈太政大臣冬嗣の二男、染殿関白太政大臣良房〈忠仁公〉、内大臣左大将に御任有りて、同九月P1041(二八オ)廿五日、五男西三条左大将良相公、大納言右大将。次に朱雀院の御宇、天慶八年十一月廿五日、小一条関白太政大臣貞信公嫡男、小野宮関白実頼〈清慎公〉内大臣左大将に御任有り、二男九条右大臣師輔公、関白大納言右大将。次に冷泉院の御宇、左に頼通宇治殿、右に頼宗掘河殿、共に御堂関白道長公の公達也。近くは二条院の御宇、永暦元年九(十イ)月四日、法性寺殿関白太政大臣忠通公御息、左に松殿基房公、右に月輪殿関白太政大臣兼実公、同じき十月、右に並び御す。其の時の落書かとよ、
 伊与さぬき左右の大将とりこめてよくの方には一の人かな
P1042(二八ウ)是皆、摂録の臣の御子息也。凡人においては、未だ其の例なし。上代はかうこそ近衛大将をば惜しみおはしまして、一の人の君達ばかりなり給ひしか、是は殿上の交はりをだに嫌はれし人の子孫の、禁色維袍をゆりて綾羅錦繍を身に纏ひ、大臣の大将に成り上がりて、兄弟左右に相並ぶ事、末代と云へども不思議なりし事共也。
六 〔八人の娘達の事〕 S0106
 御娘達八人御坐しき。其も取々に幸ひ給へり。一は桜町中納言成範卿の北の方と名付けられて、八歳なる、おはせしが、平治の乱出で来て、遂げずしてやみぬ。後には花山院の左大臣の御台盤所に成り給ひて、御子あまたをはしまして、万づ引き替へて目出たかりP1043(二九オ)けり。其の比、いかなる者かしたりけむ、花山院の四足の扉に書きたりけるは、
 花の山たかき梢とききしかどあまの子共かふるめひろふは
 此の成範卿を桜町中納言と云ひける事は、此の人、心すき給へる人にて、東山の山庄の町々なりけるに、西南は町に桜を殖ゑとほされたり。北には〓を殖ゑ、東には柳を殖ゑられたりける。其の中に屋を立てて住み給ひけり。来れる年の春毎に花を詠じて、さく事の遅く、散る事の程なきを歎きて、花の祈りの為にとて、月に三度必ず泰山府君を祭りけり。さてこそ、七日にちるならひなれども、此の桜は三七日まで梢に残りありけれ。西南P1044(二九ウ)の惣門の見入より桜見えければ、異名に桜町中納言とぞ申しける。桜待中納言とも云ひけるとかや。花の下にのみおはしければ、桜本中納言とも申しけり。されば、君も賢王に御坐せば、神も神徳を耀かし、花も心ありければ、廿日の齢を延べけり。いづ方に付けても、数奇たる心あらはれて、やさしくぞ聞えし。
 二には、内大臣重盛公の御子とす。即ち后に立ち給へり。皇子御誕生ありしかば、皇太子に立ち給ふ。万乗の位に備はり給ひて後は、院号有りて建礼門院と申す。太政入道の娘、天下の国母にて御坐しし上は、とかく申すにおよばず。
 三は、六条摂政殿の北政所にておはしまししが、高倉院のP1045(三〇オ)御位の時、御母代とて、三公に准る宣下あつて、人重く思ひ奉る。後は白河殿と申す。
 四は、右兵衛督信頼卿の息、新侍従信親朝臣の妻、後には冷泉大納言隆房の北の方にて、其も御子あまたおはしき。
 五は近衛入道殿下の北の政所なり。
 六は七条修理大夫信隆卿の北の方。
 七は安芸厳嶋内侍腹也けるが、十八の年、後白河院へ参り給ひて、女御の様にておはしけり。
 此の外、九条院雑士常葉が腹に一人御しき。花山院の左大臣の御許に、御台盤所の親しくおはすればとて、上臈女房にて、廊御方と申しけるとかや。内侍は後には越中前司盛俊相具しけるとぞP1046(三〇ウ)聞えし。
 日本秋津嶋は僅に六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり。其の上、庄薗田畠、其の数を知らず。綺羅充満して、堂上花の如し。軒騎群集して、門前市を成す。揚州の金、荊岫の玉、呉郡の綾、萄江の錦、七珍万宝、一として闕けたる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍雀馬の翫物、帝闕も仙洞も、争か是には過ぐべきと、目出たくぞ見えし。
 昔より、源平両氏、朝家に召し仕はれて、皇化に随はず、朝憲を軽んずる者には、互ひに誡めを加へしかば、代の乱れも無かりしに、保元(ほうげん)に為義(ためよし)切られ、平治(へいぢ)に義朝(よしとも)誅たれて後は、末々(すゑずゑ)の源氏(げんじ)少々(せうせう)ありしかども、或いは流され、或いは誅たれて、今は平家(へいけ)の一類(いちるい)
P1047(三一オ)
のみ繁昌(はんじやう)して、頭(かしら)をさし出だす者なし。何(いか)ならむ末(すゑ)の代までも、何事(なにごと)かあるべきと、目出(めでた)くぞ見えし。
七 〔義王義女の事〕 S0107
 其の比、都に白拍子二人あり。姉をば義王、妹をば義女とぞ申しける。天下第一の女にてぞ有りける。此は閇と云ひし白拍子が娘なり。凡そ白拍子と申すは、鳥羽院の御時、嶋の千歳・若の前と云ひける女房を、水旱袴に立烏帽子きせて、刀ささせなどして舞はせ初められたりけるを、近来より、水旱に大口許りにて、髪を高くゆはせて舞はせけり。
 彼の義王・義女を、太政入道召しおかれて愛せられけるに、殊に姉の義王をば、わりなく幸ひ給ひければ、人々上下、入道殿の御気色に随ひて、もてなしP1048(三一ウ)かしづきける事限りなし。在所さる体にしつらひて、由あるさまにて居られたり。貞能に仰せ付けて、母・妹などにも、さるべき様に家造りて、彼の徳にて不足なし。毎日に十疋十石を送られけり。其の上、折節に付きて当たられければ、ゆかりの者共までたのしみ栄へけり。是れを見聞く人うらやまずと云ふ事無し。
 かくのみ目出たかりしほどに、其の比又、都に白拍子一人出で来たり。みめ形、有様より始めて、天下に並び無き優女にてぞ有りける。名をば仏とぞ申しける。入道の義王をもてなされけるを見聞きて、「よもさりとも空しく帰さるる事はあらじ。能などをば愛し給はんずらむ」と思ひて、或る時、推参P1049(三二オ)をぞしたりける。侍共、入道殿に、「仏と申して、当時都に聞こえ候ふ白拍子の、只今参りて候ふ」と申しければ、「さやうの遊び者は、人の召しによりてこそ参れ。左右無く参る条、不思議なり。其の上、義王御前の有らん所には、仏も神も然るべからず。とくとく罷り帰るべし」とぞ宣ひける。此の上は力およばずして罷り出でけるを、義王御前聞きて、入道殿に申しけるは、「いかにや、あれにはすげなくては帰させ給ふぞ。あれら体の遊び者の習ひ、めされねどもかやうの所へ参るは常の事にて候ふ。御見参に入らずして罷り帰るは、いかに本意なく思ひ候ふらむ。『義王が御所へ推参して、御目もみせられまいらせで帰りにけり』と、人の申さむも不便にP1050(三二ウ)覚ゆ。今こそ、かく御目をみせられまいらせずとも、必ずしも人の上と覚え候はず。心の中、思ひ遣られ候ふに、然るべくは召し返して見参して帰させおはしませ。我が身の面目と思ひ候ふべし」と申しければ、入道宣ひけるは、「こはいかに。彼をすさめて帰しつるは、御前の心をたがへじとてこそかへしつれ。さやうに申すほどならば、召し帰せ」とて、呼びかへさせて出で合ひ給ひたり。「かやうに見参するほどならば、なににても能あるべし」と宣ひければ、仏は取りもあへず、
 君をはじめてみるおりは、千代もへぬべしひめこ松
 御所の前なるかめをかに、つるこそむれゐてあそぶなれ
と云ふ今様を、おしかへしおしかへし、三反までこそP1051(三三オ)うたひけれ。入道此を聞き給ひて、「今様は上手にておはしけり。舞はいかに」と宣ひければ、「仰せに随ひて」とて、立ちたりけり。大方、みめ事がら、勢、有様はさておきつ、物かぞへたるこはざしよりはじめて面白し。当時名を得たる白拍子也。年の程十八九許り也。さしもすさめて追ひ返し給ひつるに、入道殿、二心もなく見給ひけり。義王は入道殿の気色を見奉りて、をかしく覚えて少し打咲(ゑ)みて有りけり。入道いつしかついたちて、未だ舞もはてぬさきに、仏がこしに抱き付きて、帳台へ入れ給ひけるこそけしからね。
 さて申しけるは、「いかにや加様におはしますぞ。わらはが参りてP1052(三三ウ)候ひつるに、見参叶はずして空しく帰り候ひつれば、『なにしに推参し候ひぬらむ』と世の人の聞きて、『さればこそ。遊び者の恥のなさは、めされぬ所へ参りて、御目もみせられずして追ひ返されまゐらせたり』と申し沙汰せられむずらむと心憂くおばえ候ひつれば、いづくの浦へもまかり行かんと、今日を限りにはてぬべく候ひつるを、実やらむ、義王御前の強ちに申させ給ひて、召し返させ給ひたりとこそ承り候へ。わらはが為には世々生々の奉公なり。いかが忽ちに此の恩を忘れて、心の外の事は候ふべき。義王御前の思ひ給はむも恥づかし。能に付きての仰せは、いかにも背くべからず。なめてならぬ御車は、ゆめゆめP1053(三四オ)思し食し留まり給へ」とぞ申しける。入道宣ひけるは、「義王いかに云ふとも、浄海が聞き入れざらむには、なじかは呼び返すべき」とて、いかに申せども、仏も力及ばずして、明くるも晩るるもしらず幸ひ臥し給へり。
 さる程に、はかなき世の習ひにて、色みえでうつろふものは世中の人の心の花なれば、只一すぢに仏に心をうつし、はては義王をすさめて、「今はとく罷り出づべし」と宣ひけるぞ情なき。人行き向かひて、此の由を義王御前に申しければ、聞くよりはじめて、心憂しなど申すも中々愚か也。今まで入道殿目みせ給ひつれば、上下諸人もてなしかしづきつる事、只夢とのみ覚えたり。「かやうなる遊び者P1054(三四ウ)なれば、必ずさてしも長らへはて給はじ。終にはかくこそあらんずらめ」と思へども、指し当たりての人目の恥づかしさ、心のあやなさ、なごりの悲しさ、とにかくに推し量られて無慙也。悲しみの涙せきあへず。此を見給ひける人々は、余処のたもとも所せくぞあはれなる。さてしも有るべきならねば、此の日来住みなれし所をあくがれ出づるぞ悲しき。涙を押へて、そばなる障子にかくぞ書き付けて出でにける。
 もえ出づるもかるるもおなじのべの草いづれか秋にあはではつべき
 さて、里に帰りて、義王、母に泣く泣く申しけるは、「哀れ、我いかなる方へもみやたて、いかなる人の子ともなし給はで、かやうなP1055(三五オ)遊び者となし置き給ひて、今はかかるうき目をみせ給ふ事よ。さもあらん人を取り居ゑて、我を思ひ捨て給はむは力およばず。同じさまなる遊び者に思ひ替へられぬる事の口惜さよ。かかる身の有様にて長らふべき契りにはあらねども、一旦なれどもなのめならず不便にし給ひつれば、近きも遠きもうらやみて、『目出たかりつる事哉』とて、祝のためしにもひかれつる事の、いつしかかくのみなれば、『さればこそ。ほどならぬ者の成りぬるはてよ』と云はれむもはづかし。夢幻の世なれば、とてもかくても有りなむ。義女御前が候へば、母はそれをたのみて、うき世の中を渡り給へ。わらはには只身の暇をたべ。いづくの淵河にもP1056(三五ウ)沈みなむ」とぞ云ひける。妹の義女も、「共にこそ、いかにも罷り成らめ。ひとり向かひて、誰をたよりにてか明かし暮らすべき」と悲しむ。母申しけるは、未だ行末はるばるの人々を先立てて、老いおとろへたる我が身の残り留まりて、幾程の年をか送るべき。或いはみたらし河にみそぎして神をかこつ習ひ、或いは望夫石のうらみ、かかるためし多けれども、忽ちに身など投ぐる事は有りがたき習ひ也。又我も諸共に身をなげば、各母を殺す罪有りて、五逆とかやの其の一にて、おそろしき地獄に落ち給はむもつみふかし。あな賢思ひ止まり給へ」と制し止めて、三人一所に泣き居たり。天人の五衰もかくやと覚えて哀れ也。
 さる程に、入道は、P1057(三六オ)義王に当たり給つるにはさし過ぎて花やかにもてなされければ、目出たさ申すばかりなし。親しきあたりまで、日に随ひてたのしみを成す。義王は、入道のあはれみ給ひつるほどは、楽しみにほこりて、世間の事も支度なし。捨てられて後は、一すぢに思ひ沈みて、是を営む事なし。されば次第に衰へけり。此れを見、彼れを聞く人の、心(こころ)有るも心(こころ)無きも、涙(なみだ)を流し袖をしぼらぬぞ無かりける。
 さる程に、年も已に暮れぬ。明くる年の春の比、入道殿よりとて、義王か許へ御使あり。何事なるらむとあやしみ思ふところに、「是にある仏御前が余りにつれづれげにてあるに、参りて能共ほどこしてみせよ。さるべき白拍子P1058(三六ウ)あらば、余た具足して参るべし」とぞ宣ひける。義王是を聞きて又母に申しけるは、「有りし時、よく思ひとりて候ひしものを許し給はずして、今かやうの事を聞かせ給ふ事の悲しさよ。たとひ参ぜざらむ咎に、都の外へ移さるるか、又命をめさるるか、是の二つにはよも過ぎじ。中々さもあらばあれ、恨み有るまじ」とて、御返事も申さず。「いかにいかに」と、押し返し度々めされけれども、猶参らず。入道腹を立てて、「参るまじきか。今度申し切れ。相計らふ旨有り」と、にがにがしく宣ひたり。此を聞きて、母泣く泣く義王に申しけるは、「いかにや参り給はぬぞ。思ひ切りしを制し止め奉りしも、老の身にうき目をみじが為也。P1059(三七オ)それに今参り給はぬものならば、忽ちにうき目をみせ給ふべし。只生きての孝養、是に如くべからず。怱ぎ参り給ひて後、さまをやつして、何ならむ片辺りにも草の庵りを結びて、念仏申して後生の祈りをし給へ」など、くどきければ、是を聞きて、義王は、母の思ひの悲しさに、心ならず出で立ちけり。
 我身、妹の義女、又若き白拍子二人、惣じて四人、一車に取り乗りてぞ参りける。車より下りて指し入りたれば、未だありしにもかはらぬ御所の有様、なつかしとも云ふばかりなし。さて内へ入りたれば、入道殿、仏御前を始めて、子息あまた並居給へり。此の義王をば〓[木+延](えん)におかれて、一所にだにおき給はで、P1060(三七ウ)今、一なげしさがりたる所にぞ居ゑられける。是に付けても悲しみの涙せきあへず。心の中には母をのみぞ恨みける。重盛・宗盛已下の人々、目も当てられずして、さばかりかたぶき申されけれども、力及ばず。「いかにいかに、何事にてもとくとく」と宣ひければ、義王は、参るほどにてはさてしも有るべきならねばと思ひて、今様の上手にて有りければ、
 仏も昔は凡夫なり我等も終には仏なり
 何れも三身仏性具せる身をへだつるのみこそ悲しけれ
と、押し返し押し返し、三反までこそ歌ひけれ。是を聞く人、よそのたもとも所せきて、仏御前もともに涙を流しけり。されども入道は、少しも哀をかけ給はず。ましてP1061(三八オ)泣くまでは思ひもよらず。暫く有りて、入道いかが思はれけむ、会尺も無くて内へ入り給ひぬ。其の後、義王は人々に暇申して、涙と共にぞ出でにける。
 宿所にかへり、母に向かひて申しけるは、「さればこそ、よく参らじと申しつるを、母の仰せの重くして参りたれば、うき目みる事の悲しさよ」とて、なきゐたり。
 さて其の後、世の人、「入道殿すてはて給ひぬ」と聞きければ、心にくく思ひて、我も我もと文をかよはし、縁に付きて契りを結ぶべき由申しけれども、聞き入れずして、義王は廿二、義女は廿、母は五十七にて、一度にさまをかへて、皆墨染に成りつつ、嵯峨の奥なる山里に、草の庵を引き結び、三人一所に籠り居て、偏へに後生浄土、P1062(三八ウ)往生極楽と祈る外他事無くて、既に三月許りに成りけるに、ある夜、夜半ばかりに庵のとぼそをほとほとと叩く者ありけり。此の人々思ひけるは、「こはなにものにてか有るらん。都にも、さるべかりし人々も皆かれはてて、誰事とふべしとも覚えず。かかる柴の庵のすまひなれば、なにのたよりにか尋ぬべき。さなくは、後生菩提を妨げむとて、天魔などの来るやらむ。などかは山神とかやもあはれみ給はざるべき。さりながらも」とて、おづおづ柴の編み戸をあけたれば、「いかにや、いたくな怖ぢ給ひそ」とて指し入りたるをみれば、仏御前にてぞ有りける。「さても、いかにこの日来の御心の中共は」とばかり云ひて、涙もせきあへP1063(三九オ)ずぞ泣きける。其の時、義王は更にうつつとも覚えず。只夢の心地して、野干などのばけて来るやらむ、おそろしながら義王申しけるは、「其の後は、なにはの事も覚えずして、よろづあぢきなくのみ有りしかば、只一筋に思ひ切りてあかしくらす草の庵をば、いかにして聞き伝へておはしたるぞ」と申しければ、仏、涙を押さへて、「さればこそ。わらはが入道殿へ推参して、御気色あしくて罷り帰りしを、それに申させ給ひけるによりて、召しかへされたりしかば、思ひの外に入道殿に見参に入りにき。さる程に、入道殿、心より外の気色におはせしかば、あまりにあさましく覚えて、『只今、入道殿に見参に入るも、それの御故にこそ候へ。いかがはうしろめたなきP1064(三九ウ)事は候ふべき』と、さしもいなみ奉りしかども、女の身のはかなさは、思ひの外の事共の有りき。『たとひさりとも、あれ体の人の習ひなれば、一すぢには思ひ給はじ。あまたをこそ見給はんずらめ』と思ひしほどに、其の義も無くて打ち捨て奉りし事のあへなさ、申すばかり無かりき。余りに心苦しかりしかば、度々申ししかども叶はず。これを人の上と思はざりしかば、又いかなる人にかと、なにはの事もあぢき無くて、『只身の暇をたべ』と申ししかども、ゆるし給はざりしかば、昨日の昼程に、隙の有りしに逃げ出でて候ふ也。諸共に後生を祈り、此の日来の恨みをも休め奉らんとて、うはの空に、いづ方としも分かず迷ひ行き候ひつるほどに、P1065(四〇オ)思ひかけざる道行人、『さやうの人はこの奥にこそ』と申し候ひつれば、是まで尋ね参りたり。御心おき給ふべからず。吾もかやうに成りたり」とて、かづきたるきぬを引きのけたれば、尼にぞ成りたりける。
 義王申しけるは、「是程に志の浅からずおはしける事よ。実にかやうのためしは皆先世の事なれば、人を恨み奉るに及ばず。只身の程のつたなさをこそ思ひしかども、凡夫の習ひのうたてさは、思はじとすれども恨みられし事も時々有りつるなり。かく契りを結び給はん上は、いかが心をおき奉るべきなれば、懺悔しつるぞ」とて、隔てなく四人一所に勤め行ひて、終には仏道を遂げにけり。
 さてこそ、後白河法皇の長講堂の過去帳には、今も「義王・義女・仏・閉」とは読まれP1066(四〇ウ)けれ。「義王は恨むる方もあれば、さまをやつすも理也。仏は当時の花と上下万人にもてなしかしづかれて、豊かにのみ成りまさり、人にはうらやみをこそなされつるに、さりとて年も僅に廿のうちぞかし。是程に思ひ立ちける心の中の恥づかしさ、類ひ少くぞ有らん」とて、見聞く人の袂を絞らぬは無かりけり。
 さて、入道殿は仏を失ひて、東西手を分けて尋ぬれども叶はず。後にはかくと聞き給ひけれども、出家してければ力及ばず。さてやみ給ひき。
八 〔主上上皇御中不快の事、付けたり二代后立ち給ふ事〕 S0108
 鳥羽院御晏駕の後は、兵革打つづき、死罪、流刑、解官、停止、常に行はれて、海内も静まらず、世間も落居せず。就中、P1067(四一オ)永暦・応保の比より、内の近習をば院より御誡めあり、院の近習をば、内より御誡めあり。かかりしかば、高きも賎しきも恐れ怖きて、安き心なし。深淵に臨みて薄氷を踏むが如し。其の故は、内の近習者、経宗・惟方が計らひにて、法皇を軽しめ奉りければ、大きに安からざる事に思し食して、清盛に仰せて、阿波国・土佐国へ流されにけり。
 さる程に、又主上を呪咀し奉る由聞こえ有りて、賀茂の上の社に主上の御形を書きて種々の事共をする由、実長卿聞き出だして奏聞せられたりければ、巫男一人搦め取りて、事の子細を召し問ふに、「院の近習者資長卿など云ふ格勤の人々の所為也」と白状したりければ、資長卿、修理大夫解官せられぬ。又、P1068(四一ウ)時忠卿、妹小弁殿、高倉院恨み奉らせける時、過言したりしとて、其の前年解官せられたりけり。かやうの事共行ひ相ひて、資時・時忠二人、応保二年六月廿三日、一度に流されにけり。
 又、法皇多年の御宿願にて、千手観音千体御堂を造らむと思し食し、清盛に仰せて備前国をもて造られけり。長寛二年十二月十七日、御供養あり。行幸成し奉らむと法皇思し食されけれども、主上「なじかは」とて、御耳にも聞き入れさせ給はざりけり。寺官、勧賞申されけれども、其の御沙汰にも及ばず。親範が職事奉行しけるを、御堂の御所へ召し、「勧賞の事はいかに」と仰せ下されけれP1069(四二オ)ば、「親範が計らひにては候はぬ」由申して、畏りて候ひければ、法皇、御泪を浮けさせ給ひて、「何のにくさに、かほどまでは思し食したるらむ」と仰せの有りけるこそ哀なれ。此の堂を蓮花王院とぞ名付けられける。胡摩僧正行慶と云ひし人は、白河院の御子也。三井門流には左右なき有智徳行の人なりければ、法皇殊に馮み思し食して、真言の御師にておはしけるが、此の御堂をば殊に取沙汰し給ひて、千躰中尊の丈六の面像をば、自らきざみ顕はされたりけると承るこそ目出(めでた)けれ。主上、上皇父子の御中なれば、何事の御隔てか有るべきなれども、加様に御心(こころ)よからぬ御事共多かりけり。是も世澆季に及び、人凶悪をP1070(四二ウ)先とする故也。
 主上は、上皇をも常には申し返させ給ひける。其の中に、人耳目を驚かし、世以て傾き申しける御事は、故近衛院の后太皇后宮と申すは、左大臣公能公の御娘、御母は中納言俊忠の娘なり。中宮より皇太后宮にあがらせ給ひけるが、先帝に後れまゐらせ、九重の外、近衛河原の御所に、先帝の故宮にふるめかしく幽かなる御有様也。永暦・応保の比は、御年廿二三にもや成らせ給ひけむ、御さかりも少し過ぎさせ給ひけれども、此の后、天下第一の美人の聞こえ渡らせおはしましければ、主上二条院、御色にのみ染める御心にて、世の謗りをも御かへりみ無かりけるにや、好色に叙し御して、P1071(四三オ)外宮に引き求めしむるに及びて、忍びつつ御艶書あり。后敢へて聞し食し入れさせ給はねばひたすら穂に出でましまして、后入内有るべき由、父左大臣家に宣旨を下さる。
 此の事、天下において殊なる勝事なりければ、怱ぎ公卿僉議あり。「異朝の先縦を尋ぬれば、則天皇后は、太宗・高宗両帝の后に立ち給へる事あり。則天皇后と申すは、唐の太宗の后、高宗皇帝の継母也。太宗に後れ奉りて、尼と成りて盛業寺に籠り給へり。高宗の宣はく、『願はくは、宮室に入りて政を扶け給へ』と。天使五度来ると云へども、敢へて随ひ給はず。爰に、帝已に盛業寺に臨幸あつて、『朕敢へて私の志をP1072(四三ウ)遂げむとには非ず。只偏へに天下の為なり』と。皇后更に勅になびく詞なし。『先帝の他界を訪はむが為に、適釈門に入れり。再び塵象に帰るべからず』と仰せられけるに、皇帝、内外の君平に文籍を勘がへて、強ひて還幸を進むと云へども、皇后確然として翻らず。爰に扈従の群公等、横しまに取り奉るが如くして、都に入れ奉れり。高宗在位三十四年、国静かに民楽しめり。皇后と皇帝と、二人政を摂め給ひし故に、彼の御時をば、二和の御宇と申しき。高宗崩御の後、皇帝の后、女帝として位に即き給へり。其の時の年号を神功元年と改む。周王の孫なる故に、唐の代を改めて、大周則天大皇帝と称す。爰に臣下歎きて云はく、『P1073(四四オ)先帝の高宗、代を経営し給へる事、其の功績古今類ひ無しと謂ひつべし。天子無きにしも非ず。願はくは、位を太子に授け給ひて、高宗の功業を長からしめ給へ」と。仍て在位廿一年にして、高宗の子、中宗皇帝に授け給へり。即ち代を改めて、又大唐神龍元年と称す。則ち吾が朝文武天皇、慶雲二年乙巳歳に当れり。「両帝の后に立ち給ふ事、異国には其の例有りと云へども、本朝の先規を勘ふるに、神武天皇より以来人皇七十余代、然而も二代の后に立ち給へる其の例を聞き及ばず」と、諸卿一同に僉議し申されけり。
 法皇も此の事を聞こし食して、然るべからざる由、度々申させ給ひけれども、主上仰せの有りけるは、「天子P1074(四四ウ)に父母なし。我万乗の宝位を忝くせむ日は、などか是程の事、叡慮に任せざるべき」とて、既に入内の日剋まで宣下せられける上は、子細に及ばず。
 后、此の事聞こし食してより、侶無き事に思し食されて、引きかづきて伏し給へり。御歎きの色深くのみぞ見えさせ給ひける。実と覚えて哀なり。先帝に後れまゐらせられし久寿の秋の初めに、同じ草葉の露ときえ、家をも出でて世をも遁れたりせば、かかるうき事は聞かざらまし。口惜しき事哉」とぞ思し召されける。父左大臣なぐさめ申されけるは、「『世に随はざるを以て狂人とす』と云へり。既に詔命を下されたり。子細を申すに所なし。只偏へに愚老を助けさせ御さむは、孝養のP1075(四五オ)御計らひたるべし。又、此の御末に皇子御誕生あつて、君も天下の国母にてもや御坐さむ。愚老も外祖父と云はるべき。家門の栄花にてもや候ふらむ。大方かやうの事は、此の世一つの事ならぬ上、天照大神の御計らひにてこそ候ふらめ」など、様々に誘へ申させ給ひけれども、御返事も無かりけり。只御泪にのみ咽ばせ給ひて、かくのみぞすさませ給ひける。
 うきふしにしづみもはてぬ河竹の世にためしなき名をや流さむ
世にはいかにして漏れ聞こえけるやらむ、哀にやさしき事にぞ申しける。
 既に入内の日時定まりにければ、父大臣、供奉の上達部、出車の儀式、常よりもめづらしく、心も詞も及ばず出だし立てまゐらせP1076(四五ウ)給へり。后はものうき御出立なりければ、とみにも出でさせ給はず、遥かに夜深け、さよも半ば過ぎてぞ、御車には扶け乗せられ給ひける。殊更色ある御衣はめさざりけり。白き御衣、十四五ばかりぞめされたりける。御入内の後は、やがて恩をかぶらせ給ひて、麗景殿にぞ渡らせ給ひける。朝政を進め申させ給ふ。清涼殿の画図の御障子に、月をかきたる所あり。近衛院未だ幼年帝にて渡らせ給ひける当初、何となく御手まさぐりにかきくもらかさせ給ひけるが、少しも昔にかはらで有りけるを御覧ぜられけるに、先帝の昔の御面影、思し食し出でさせ給ひて、御心所せきて、P1077(四六オ)かくぞ思し食しつづけさせ給ひける。
 思ひきやうき身ながらにめぐり来て同じ雲井の月をみむとは
此の間の御なからへ、哀にたぐひ少くぞ聞えし。其の比は、是のみならず、かやうの思ひの外の事共多かりけり。
 かかる程に、永万元年の春の比より、主上二条院、御不予の事御坐すと聞こえしが、其の年の夏の初めになりしかば、事の外によはらせ給ひにき。是に依りて、大膳大夫紀兼盛が娘の腹に、今上の一の御子、二歳にならせ給ふ王子御坐ししを、皇太子に立たせ給ふべき由、聞こえし程に、六月廿五日、俄に親王の宣旨を下されて、やがて其の夜、位を譲り奉らせ給ひにき。なにとなく上下周章たりしP1078(四六ウ)事共也。
 我が朝、童帝の例を尋ぬるに、清和天皇、九歳にて父文徳天皇の御譲りを受けさせ給ひしより始まれり。周公旦の成王に代はりつつ、南面にして一日万機の政を行ひ給しに准へて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給ひき。摂政又是より始まれり。「鳥羽院五歳、近衛院三歳にて御即位ありしをこそ、『とし』と人思へりしに、是は僅かに二歳、未だ先例なし。物騒がし」と云へり。
九 〔新院崩御の御事〕 S0109
 永万元年六月廿七日に、新帝御即位の事ありしに、同七月廿八日に、新院御年廿三にて失せさせ給ひき。新院とは二条院の御事なり。御位さらせ給ひて三十余日也。P1079(四七オ)天下憂喜相交はりて、取り敢へざりし事也。同八月七日、香隆寺に白地に宿し進らせて後、彼の寺の 艮に蓮台野と云ふ所に納め奉る。八条中納言長方卿、其の時大弁宰相にて御坐しけるが、御葬の御幸を見奉りて、
  つねにみし君が御幸をけさとへば帰らぬ旅と聞くぞかなしき
忠胤僧都が秀句も此の時の事也。七月廿八日、いかなる日ぞや。去りぬる人帰らず。香隆寺、いかなる所ぞや。御出ありて還御なき。哀なりし事共なり。
 近衛院大宮は、二代の后に立ち給ひたりしかども、又此の君にも後れまゐらせさせ給ひしかば、やがて御ぐしおろさせ給ひけるとぞ聞えし。高きも賎しきP1080(四七ウ)も、定めなき世のためし、今更哀れ也。
十 〔延暦寺と興福寺と額立論の事〕 S0110
 御葬送の夜、興福寺・延暦寺の僧徒、額立論をして、互に狼籍に及べり。国王の崩御有りて、御墓へ送り奉る時の作法、南北二京の大小僧徒等、悉く供奉して、我が寺々の額を打つ。南都には、東大寺・興福寺を始めとして、末寺々々相伴なへり。東大寺は聖武天皇の御願、諍ふべき寺なければ、一番なり。二番、大織冠淡海公氏寺、興福寺の額を打ちて、南都末寺々々、次第に立て並べたり。興福寺に向かひて、北京には延暦寺の額を打つ。其の外、山々寺々、あなたこなたに立て並べたり。
 今度、御葬送之時、延暦寺衆徒、P1081(四八オ)事を乱りて、東大寺の次、興福寺の上に神を立つる間、山階寺の方より、東門院衆徒西金堂衆土佐房昌春と申しける堂衆、三枚甲に左右の小手差して、黒革威の大荒目の鎧、草摺長なる、一色ざざめかして、茅の葉の如くなる大長刀を以て、或いは凍りの如くなる太刀をぬきて走り出でて、延暦寺の額をま逆まに伐りたふして、「うれしや水、なるはたきの水」とはやして、興福寺の方へ入りにけり。延暦寺の衆徒、先例を背きて狼籍を致せば、即座に手向かひあるべきに、心深く思ふ事有ければ、一詞も出ださず。
 抑、一天の君、万乗の主、世を早くせさせ給ひしかば、心なき草木までも猶愁ひたる色浅からずP1082(四八ウ)こそ有りけむに、かかるあさましき事にて、或いは散々として、高きも賎しきも、誰を得としも無ければ、四方に退散す。或いは蓮台野、船岡山の溝にぞ多く走り入りける。をめき叫ぶ声、雲をひびかし、地を動かす。誠におびたたしくぞ聞こえける。
十一 〔土佐房昌春の事〕 S0111
 大和国に針庄と云ふ所あり。此の庄の沙汰に依りて、西金堂の御油代官小河四郎遠忠が打ち留むる間、興福寺上綱侍従の五師快尊を率して、件の針庄へ打ち入りて、小河四郎を夜討にす。土佐房昌春、元より大和国住人也。侍従五師、大衆を語らひて、昌春を追ひ籠めて、「御榊の餅り奉りて、洛中へ入れ奉りて、奏聞を経べし」とて、衆徒等発向する処に、昌春、数多の凶徒を率して、P1083(四九オ)彼の榊を散々に伐り捨てけり。大衆弥蜂起して訴へ申す間、昌春を公家より召すに、敢へて勅に従はず。時に、別当兼忠に仰せて御聖断有るべき由、昌春に仰せ下さる。之に就きて昌春上洛せしむる処に、即ち兼忠に仰せて昌春を召し取りて、其の時、大番衆土肥二郎実平に預けられて月日を送る程に、土肥二郎に親しく成りたりけるとかや。随ひて又、公家にも御無沙汰にて御坐しけり。
 「南都には敵人こはくして、還住せむ事難かりければ、重ねて南都のすまひも今は叶ふまじ。流人兵衛佐殿こそ末たのもしけれ」と思ひて、伊豆北条に下りて、兵衛佐に奉公したりけり。心ぎは、さる者にて有りければ、兵衛佐身をはなたず召し仕はれけり。兵衛佐、P1084(四九ウ)治承四年に院宣・高倉宮の令旨を給はりて、謀叛を起こし給ひし時、昌春二文字に洪雁の文の旗を給はり、きり者にて有りける間、人の申けるは、「春日大明神の罰を蒙るべかりける者をや」と申しけるに、後に鎌倉殿より、「九郎大夫判官討て」とて、京都へ差し上せられたりけるに、討ち損じて、北を差して落ちけるが、鞍馬の奥、僧正が谷より搦め取られて、六条河原にて首を刎ねられける時、「遅速ぞ有りける、明神の罰は怖ろしき事哉」とぞ人申しける。
十二 〔山門大衆、清水寺へ寄せて焼く事〕 S0112
 同じき八月九日の午剋ばかりに、山門の大衆下ると聞こえければ、武士・検非違使、西坂本へ馳せ向かひたりけれども、衆徒、神輿をP1085(五〇オ)捧げ奉りて、押し破りて乱れ入りぬ。貴賎上下、騒ぎ〓(ののし)る事斜めならず。内蔵頭平教盛朝臣、布衣にて右衛門陣に候はる。何者の云ひ出だしたりけるにや、「上皇、山の大衆に仰せて、平中納言清盛を追討すべき故に、衆徒都へ入る」と聞こえければ、平家の一類、六波羅へ馳せ集まる。上下周章たりけれども、右兵衛督重盛卿一人ぞ、「何の故に只今さるべきぞ」とて、静められける。上皇、大きに驚き思し食して、怱ぎ六波羅へ御幸なる。平中納言清盛も、大きに畏り驚かれけり。
 山門の大衆、清水寺へ押し寄せて焼き払ふべき由、聞こえけり。去んぬる七日の会稽の恥を雪めんとなり。清水寺は興福寺の末寺なる故にてぞ有りける。清水寺法師、P1086(五〇ウ)老少を云はず起こりて、二手に分かれて相待ちけり。一手は滝尾の不動堂に陣を取る。一手は西門に陣を取る。山門の大衆、搦手は久々目路、清閑寺、歌の中山まで責め来る。大手は覇陵の観音寺まで責め寄せたり。やがて坊舎に火を懸けたりければ、折節西風はげしくて、黒煙東へふき覆ひてければ、清水寺法師、一矢を射るに及ばず、四方に退散す。終には大門に吹き付けたり。昔、嵯峨天皇の第三皇子門居親王の后、二条右大将坂上田村丸の御娘、春子女御、御懐妊の御時、「御産平安ならば、我が氏寺に三重の塔を組むべき」由、御願にて、建てさせ給ひし三重の塔、九輪高くP1087(五一オ)耀きしも、焼けにけり。児安塔と申すは是也。如何がしたりけむ、塔にて火は消えにければ、本堂一宇ばかりぞ残りける。
 爰に、無動寺法師に伯耆竪者乗円と云ふ学生大悪僧の有りけるが、進み出でて僉議しけるは、「罪業本より所有なし、妄想顛倒より起こる。心性源清ければ、衆生即ち仏也。只本堂に火を懸けて焼けや者共」と申しければ、衆徒等「尤々」と申して火を燃し、御堂の四方に付けたりければ、煙、雲井はるかに立ち昇る。
感陽宮の異朝の煙を諍ふ。一時が程に回禄す。あさましと云ふも疎か也。
 衆徒かく焼き払ひて返り登りければ、法皇還御成りにけり。右兵衛督重盛も御送りにP1088(五一ウ)参らる。右兵衛督、御共より帰られたりければ、父中納言清盛宣ひけるは、「法皇の入らせ御坐しつるこそ返す返すも恐れ覚ゆれ。さりながら、聊も思し食し寄り仰せらるる旨のあればこそ、かやうにも漏れ聞こゆらめ。其等にも打ち解けらるまじ」と宣ひければ、右兵衛督、「此の事、ゆめゆめ御色にも御詞にも出ださせ給ふべからず。人々心付きて、中々あしき事也。叡慮に背き給はず、人の為によく御坐さば、三宝神明の御加護有るべし。さらむに取りては、御身の恐れあるまじ」とて、立ち給ひぬ。「兵衛督はゆゆしく大様なる者哉」とぞ、中納言宣ひける。
 法皇還御の後、うとからぬ近習者共、御前に候ひける中に、按察使入道資賢P1089(五二オ)も候はれけり。法皇、「さるにても不思議の事云ひ出だしつる者哉。何なる者の云ひ出だしつらむ」と仰せ有りければ、西光法師が候ひけるが、「『天に口なし、人を以ていはせよ』とて、以ての外に平家過分に成り行けば、天道の御計らひにて」と申しければ、「此の事由なし、壁に耳ありと云ふ。おそろしおそろし」とぞ人々申しける。
 さても清水寺焼たりける後朝に、「火坑変成池は何に」と札に書きて、大門の前に立てたりければ、次の日、「歴劫不思議是也」と返し札をぞ立てたりける。何なるあとなし者のしわざなるらむと、をかしかりけり。
十三 〔建春門院の皇子春宮立ちの事〕 S0113
 永万元年、今年は諒闇にて、御禊、大嘗会も無し。P1090(五二ウ)同じき年の十二月廿五日、東の御方の御腹の法皇の御子、親王の宣旨蒙らせ給ふ。今年は五歳にぞ成らせ給ひける。年来は打ち籠められて御坐しつるが、今は万機の政わく方なく法皇聞こし食しければ、御慎みなし。此の東の御方と申すは、時信朝臣の娘、知信朝臣の孫なり。小弁殿とて候ひ給ひけるを、法皇時々忍びて召されけるが、皇子位に即かせ給ひて後、院号有りて建春門院とぞ申しける。相国の次男宗盛、彼の女院御子にせさせ給ひたりければにや、平家殊にもてなし申されけり。
 仁安元年、今年は大嘗会有るべきなれば、天下其の営みなり。同じき年十月七日、去年親王のP1091(五三オ)宣旨蒙らせ給ひし皇子、東三条殿にて東宮立の御事ありけり。春宮と申すは、常は帝の御子也。是をば太子と申す。又、帝の御弟の、儲君に備はらさせ給ふ事あり。御弟を大弟と申す。其に主上は御甥、僅かに三歳、春宮は御叔父、六歳に成らせ給ふ。「昭穆相叶はず。物騒がし」と云へり。「寛仁三 (二イ)年に、一条院は七歳にて御即位あり。三条院、十三歳にて春宮に立ち給ふ。先例なきに非ず」と、人々申しあはれけり。
十四 〔春宮践祚の事〕 S0114
 六条院、御譲りを受けさせ給ひたりしかども、僅かに三年にて、同年二月十九日、春宮〈高倉院〉八歳にて大極殿にて践祚ありしかば、先帝は僅かに五歳にて御位退かせ給ひて、新院とP1092(五三ウ)申して、同六月十七日に上皇御出家あり。後白河法皇とぞ申しける。未だ御元服なくて、御童形にて太上天皇の尊号ありき。漠家・本朝、是ぞ始めなるらむと、めづらしかりし事也。
 此の君の位に即かせ御坐すは、弥平家の栄花とぞみえし。国母建春門院と申すは、平家の一門にて御坐す上は、とりわき入道の北の方二位殿、御妹にて御坐しければ、相国の公達、二位殿の御腹は、当今の御いとこにてむすぼほれ進らせて、ゆゆしかりける事共也。平大納言時忠卿と申すは、女院の御せうと、主上の御外戚にて御坐しければ、内外に付けたる執権の人にて、叙位除目已下、公家のP1093(五四オ)御政、偏へに此の卿の沙汰なりければ、世には平関白とぞ申しける。当今御即位の後は、法皇もいとど分く方なく、万機の政を知ろし食されしかば、院・内の御中、御心(こころ)よからずとぞ聞えし。
十五 〔近習之人々、平家を嫉妬する事〕 S0115
 院に近く召し仕はるる公卿、殿上人、下北面の輩に至るまで、ほどほどに随ひて、官位俸禄、身に余る程に朝恩を蒙りたれども、人の心の習ひなれば、尚あきたらず覚えて、此の入道の一類、国をも庄をも多く塞ぎたる事、目ざましく思ひて、「此の人の亡びたらば、其の国は定めて闕けなむ、其の庄はあきなむ」と、心中に思ひけり。うとからぬどしは、忍びつつささやく時も有りP1094(五四ウ)けり。
 法皇も内々思し食されけるは、「昔より今に至るまで、朝敵を平ぐる者の多けれども、かかる事やはありし。貞盛・秀郷が将門を討ちて、頼義が貞任・宗任を滅ぼしたりし、義家が武衡を攻めたりしも、勧賞行はるる事、受領には過ぎず。清盛が指してし出だしたる事も無くて、かく心のままに振舞ふこそ然るべからね。此も末代に成り、王法の尽きぬるにや」と、安からず思し食されけれども、事の次無ければ、君も御誡めもなし。又平家も朝家を怨み奉る事も無くて有りけるほどに、代の乱れける根元は、
十六 〔平家、殿下に恥見せ奉る事〕 S0116
 去んぬる嘉応二年十月十六日に、小松内大臣重盛公の二男、新三位P1095(五五オ)中将資盛、越前守たりし時、蓮台野に出でて小鷹狩をせられけるに、小侍二三十騎ばかり打ちむれて、はひたか〔  〕あまたすゑさせて、鶉、雲雀、追ひ立てて、終日かり暮らされけり。折節、雪ははだれに降りたり、枯野の景気面白かりければ、夕日山の端に傾きて、京極を下りに帰られけり。其の時は、松殿基房、摂禄にて御座しけるが、院の御所法住寺殿より、中御門東洞院の御所へ還御成りけるに、六角京極にて、殿下の御出に資盛鼻つきに参り会はれたり。越前守、誇り勇みて代を世ともせざりける上、召し具したる侍共、皆十六七の若者にて、礼儀骨法を弁へたる者の一人P1096(五五ウ)も無かりければ、殿下の御出とも云はず、一切下馬の礼儀も無かりければ、前駈・御随身、頻りに是をいらつ。「何者ぞ、御出の成るに、洛中にて馬に乗る程の者の下馬仕らざるは。速かに罷り留まりて下り候へ」と申しけれども、更に耳に聞き入れず、けちらして通りけり。闇き程にてはあり、御共の人々もつやつや入道の孫とも知らざりければ、資盛朝臣以下、馬より引き落とし、散々に〔  〕せられにけり。匍々六波羅へ逃げ帰り、「此の事、穴賢披露すな」と警められけれども、隠れ無かりけり。
 入道の最愛の孫にてはおはしけり、大きに怒りて、「設ひ殿下なりとも、争か入道があたりをば憚り思ひ給はざるべき。少き者に左右無く恥辱P1097(五六オ)を与へておはするこそ、遺恨の次第なれ。此の事、思ひ知らせ申さでは、えこそ有るまじけれ。かかる事より、人にはあなづらるるぞ。殿下を怨み奉らばや」と宣ひければ、小松内府、「此の事努々々有るべからず。重盛なむどが子共と申さむずる者は、殿下の御出に参り会ひて、馬よりも車よりも下りぬこそ尾籠にて候へ。さ様にせられ進らするは、人数に思し召さるるによつて也。此の事、還りて面目にて非ずや。頼政・時光体の源氏なむどにあざむかれたらば、誠に恥辱にても候ひなむ、加様の事より代の乱れとも成る事にて候ふ。努力々々思し食し寄るべからず」と宣ひければ、其の後は内府にはかくとも宣はず。
 片田舎の侍共の、こはらかにて、入道殿のP1098(五六ウ)仰せより外には重き事無しと思ひて、前後も弁へぬ者共、十四五人召し寄せて、「来たる廿一日、主上御元服の定めに、殿下の参内有らむずる道にて待ち請けて、前駈・随身等が本鳥切れ」と下知せられて、又宣ひけるは、「殿下の御出に、御随身廿人にはよも過ぎじ。随身一人に二人づつ付け。其の中に、相模守通貞とて、齢ひ十七八計りぞ有るらむ。彼は具平親王の末葉にて、父も祖父も聞こえたる甲の者なり。通貞も定めて甲にぞ有るらむ。彼には兵十人付くべし」とぞ云はれける。
 其の日に成りて、中御門猪熊辺にて、六十余騎の軍兵を率して、殿下の御出を待ち懸けたり。殿下は、かかる事有りとも知ろし食さず、主上の明年の御元服P1099(五七オ)の加冠拝官の為に、今日より大内の御直慮に七日候はせ御坐すべきにて有りければ、常の御出仕よりも引きつくろはせ給ひて、今度は待賢門より入内あるべきにて、何心も無く中御門を西へ御出なりけるに、猪熊掘河の辺にて、六十余騎の軍兵待ち請け進らせて、射殺し切り殺さねども、散々に懸け散らして、右の府生武光を始めとして、引き落とし引き落とし、十九人まで本鳥を切る。十九人が中、藤蔵人大夫高範が本鳥を切りける時は、「是は汝が本鳥を切るには非ず、主の本鳥を切る也」と云ひ含めてぞ切りける。
 其の中に、相模守通貞は、長高く色白きが、手綱をくりしめて、左右をきと見る。兵寄りて引き落とさP1100(五七ウ)むとしければ、懐より、一尺三寸有りける刀の、鞆に馬の尾巻きたるを抜き出だして、向かふ敵の内甲を指しければ、左右無く寄る者なし。馬より飛び下りて、刀を額にあてて、兵の中を打ち破り、そばなる小家に走り入りけるを、兵の寄りて打ち留めむとしければ、立ち帰りて、刀をもて思ふさまに切りたりければ、取り付かむとしける者の小肘を、小手を加へてつと切り落とし、片織戸を丁と立てて、後へつと逃げにければ、つづいて懸くる者もなし。かかりければ、通貞計りは遁れて、残りは恥にぞ及びける。
 殿下は、御車の内へ弓のはずをあららかにつき入れつき入れしければ、こらへかねて落ちさせ給ひて、あやしの民の家に立ち入らせ給ひにけり。前駈、P1101(五八オ)御随身もいづちか失せにせむ、一人も無かりけり。供奉の殿上人、或いは物見打ち破られ、或いは鞦むながい切り放たれて蜘昧を散らすが如く逃げ隠れぬ。六十余騎の軍兵かやうにし散らして、中御門面にて悦びの時をはと作りて、六波羅へ帰りにけり。入道は、「ゆゆしくしたり」と感ぜられけり。
 小松内大臣、此の事を聞きて、大きにさわがれけり。「景綱・家貞、奇怪なり。設ひ入道いかなる不思議を下知したまふとも、争か重盛に夢をばみせざりけるぞ」とて、行き向かひたりける侍共十余人、勘当せられけり。凡は重盛などが子共にてあらむ者は、殿下をも重んじ奉り、礼儀をも存じてP1102(五八ウ)こそ有るべきに、云ふ甲斐無き若き者共召し具して、かやうの尾籠を現じて父祖の悪名を立つる、不孝の至り、独り汝にあり」とて、越前守をも諌められけるとかや。惣じて此の大臣は、何事に付けても吉き人とぞ、代にも人にもほめられ給ひける。
 其の後、殿下の御ゆくへ知りまゐらせたる者無かりけるに、御車副の古老の者に、淀の住人因幡の先使国久丸と申しける男、下臈なりけれどもさかざかしかりける者にて、「抑吾が君はいかがならせ給ひぬらむ」とて、ここかしこ尋ねまゐらせけるに、殿下はあやしの民の家の遣戸のきはに立ち隠れて、御直衣もしほしほとして渡らせ給ひけり。国久丸、只一人、しりがひ・P1103(五九オ)むながい結び合はせて、御車仕りて、是より中御門殿へ還御成りにけり。その御儀式、心憂しとも愚か也。摂政関白のかかるうき目を御覧ずる事、昔も今もためしありがたくこそ有りけめ。是ぞ平家の悪行の始めなる。
 明けぬる日、西八条の門前に作り物をぞしたりける。法師の引きこしがらみて、長刀を以て物を切らんとする景気を作りたり。又、前に石鍋に毛立したるものを置きたり。道俗男女、門前市をなす。されども心得る者一人もなし。「こは何事ぞ」と云ふ処に、歳五十余計りなる老僧、指し寄りて、打ち見て申しけるは、「此は夜部の事を作りたるにや」と申せば、「それは何事ぞ」とP1104(五九ウ)云ふに、「夜部殿下の御出なりけるを、平家の侍、大炊の御門猪隈にて待ち請けまゐらせて、散々と追ひ散らして、御車覆し、前駈・御随身、本鳥を切られたりけるを作りたり。是をこそ『むし物にあうてこしがらむ』と申すは」と云ひければ、一同にはと咲ひけり。いかなる跡なし者のしわざなるらむと、をかしかりける事共なり。
十七 〔蔵人大夫高範出家の事〕 S0117
 さて、前駈したりける蔵人大夫高範は、あやなく本鳥切られたりければ、いかにすべき様も無くて、宿所に帰りて引きかづきて臥したりけるが、俄に、「大とのゐの綾をりが中に、目あかく手ききたる二人ばかり、きと召して進らせよ」と云ひけれP1105(六〇オ)ば、妻子共、なにやらむと穴倉く思ひける処に、程無く召して参りけるを、妻子眷属にもみせず、一間なる所に籠り居て、切られたりける本鳥を、かづらをたふして、一夜の中に結びつがせて、蔵人所に参りて申しけるは、「苟しくも武士に生まれて、形の如くの弓箭を取り、重代罷り過ぐ。其の日、然るべき不祥に合ひたり。然而るに、身に束帯をまとひ、爪切ほどの小刀体の物をも身にしたがへず。人に手をかくるまでこそ無くとも、あたる所の口惜しき目を見るよりは、自害をこそ仕るべかりしかども叶はず。剰さへ本鳥切られたりと云ふ不実さへ云ひ付けられ、弓箭取る者の死ぬべき所にて死なざるが致す所也。P1106(六〇ウ)則ち、世をも遁れ、家をも出づべけれども、左右無く出家したらば、『本鳥切られたる事は一定なり』と沙汰せられむ事、生々世々の瑕瑾なり。今一度、誰々にも対面申さむと存じて参りたり。但し、憖に人なみなみに世に立ち交じればこそ、かかる不実をも云ひ付けらるれ。思ひ立ちたる事有り」とて、懐より刀を取り出だして、本鳥押し切りて、乱し髪に烏帽子引き入れて、袖打ちかづきて罷り出づるこそ、賢かりけるし態なれ。
 廿二日に、摂政殿は、法皇に御参ありて、「かかる心うき目にこそ逢ひて候へ」と歎き申させ給ひければ、法皇もあさましと思し食して、「此の由をこそ入道にも云はめ」とぞ仰せ有りける。入道漏れ聞き、P1107(六一オ)「入道が事を院に訴へ申されたり」とて、又しかり〓(ののし)りけり。殿下かく事にあはせ給ひければ、廿五日、院の殿上にてぞ御元服の定めは有りける。
 さりとて、さて有るべきならねば、摂政殿は、十二月九日、兼ねて宣旨蒙らせ給ひて、十四日に太政大臣にならせ給ふ。是は明年御元服の加冠の料也。
 同十七日、御拝賀あり。ゆゆしくにがりてぞ有りける。太政入道第二の娘、后立の御定めあり。今年十五にぞ成り給ひける。建春門院の猶子也。
十八 〔成親卿、八幡賀茂に僧籠むる事〕 S0118
 妙音院入道殿、其の時は内大臣左大将にて御坐しけるに、太政大臣にならせ給はむとて、大将を辞し申させ給ひけるを、後徳大寺P1108(六一ウ)の大納言実定、一の大納言にて御坐しけるが、理運に充てて成り給ふべき由、聞こえけり。其の外、花山院の中納言兼雅卿も所望せられけり。殿三位中将師家卿など申す、御年の程は無下に少く御坐せども、成り給はむずらむと世間には申し合ひける程に、故中御門中納言家成卿三男、新大納言成親卿、平に申されけり。院の御気色よかりければ、様々の祈りを始めて、さりともと思はれけり。此の事祈請の為には、或る僧を八幡に籠めて、真読の大般若を読ませられけるに、半分ばかり読みたりける時に、瓦大明神の御前なりける橘の木に山鳩二つ来て、食ひ合ひて死にけり。鳩は大菩薩の侍者也。宮仕にかかる不思議P1109(六二オ)なしとて、別当清浄、事の由公家に奏聞したりければ、神祇官にて御占あり。「天子・大臣の御慎みに非ず。臣下の御慎み」とぞ占ひ申ける。 是のみならず、賀茂の上社に七ヶ日、鴨御祖社に七ヶ日、忍びて歩行の日詣をして、百度せられけり。「帰命頂礼、別雷大明神、所修納受して、所祈に答へ給へ」と祈られけるに、第三日に当たる夜、詣でて下向し給ひて、中御門の宿所に亜相臥し給ひたりける夜の夢に、神の御前に候ふとおぼしきに、神風心すごく吹き下して、御宝殿の御戸を屹と押し開かれたりけるに、良暫く有りて、ゆゆしく気高き女房の御音にて、一首の歌をぞ詠ぜられける。
 P1110(六二ウ)さくら花賀茂の河風うらむなよちるをばえこそ留めざりけれ
成親卿夢中に打ち歎きて驚かれけり。
 是にも憚らず、上の社には仁和寺俊堯法印を籠めて、真言秘法を行ひけり。下若宮には三室戸法印を籠めて、〓枳尼天(だきにてん)を行はれけるほどに、七日に満ずる夜、俄に天ひびき、地動くほどの大雨ふり、大風吹きて、雷鳴りて、御宝殿の後の椙木に雷落ちかかり、天火燃え付きて、若宮の社焼けにけり。神は非例を稟け給はねば、かかる不思議出で来にけるにや。成親卿、是にも思ひ知らざりけるこそあさましけれ。
十九 〔主上御元服の事〕 S0119
 さる程に、嘉応三年正月三日、主上御元服せさせ給ひて、十三日、P1111(六三オ)朝覲の行幸とぞ聞こえし。法皇・女院は御心もとなく待ち請け進らせ給ふ。新冠の御体も良たくぞ渡らせ給ひける。
 三月には、入道相国の第二の御娘、女御に参り給ひて、中宮の徳子とぞ申しける。法皇御猶子の儀也。
 七月には相模節あり。重盛右に連なりおはしければ、「近衛大将に至らむからに、容儀身体さへ人に勝れ給へるは」と申しあひけるとかや。かやうに讃め奉りて、せめての事にや、「末代に相応せで、御命や短く御坐せむずらむ」と申しあひけるこそ、忌まはしけれ。御子達、大夫、侍従、羽林など云ひて、余た御坐しけるに、皆優にやさしく花やかなる人にて御坐しける上、大将は心ばへよき人にて、子息達にもP1112(六三ウ)詩歌管絃を習ひ、事にふれ、由ある事をぞ勧め教へられける。
廿 〔重盛・宗盛、左右に並び給ふ事〕 S0120
 さる程に、此の比の叙位除目は平家の心のままにて、公家・院中の御計らひまでも無し、摂政関白の成敗にても無かりければ、治承元年正月廿四日の除目に、徳大寺殿、花山院中将殿も成り給はず、況や新大納言、思ひやよるべき。入道の嫡子重盛、右大将にて御坐ししが左に移りて、次男宗盛、中納言にて御しけるが、数輩の上臈を越えて右に加はられけるこそ、申す量り無かりしか。嫡子重盛の大将に成り給ひたりしをこそ、ゆゆしき事に人思へりしに、二男にて打ちつづき並び給ふ。世には又人ありともみえざりけり。
廿一 〔徳大寺殿、厳嶋へ詣で給ふ事〕 S0121
P1113(六四オ) 中にも徳大寺一大納言にて、才覚優長し、家重代にて、越えられ給ひしこそ不便なりしか。「定めて御出家などや有らむずらむ」と、世の人申しあひけれども、「此の世の中の成らむ様をも見はてむ」と思ひ給ひければ、籠居し給ひて、「今は世に有りてもなにかせむ。本鳥をも切りて山林にも交はりて、一向まことの道に入らむ」と宣へば、源蔵人大夫資基、歎き申しけるは、「平家四海を打ち平げて、天下を掌に挙り、万事思ふ様なる上、摂政関白に所をおかず恥辱を与へ奉り、万機の政を心のままに取り行はる。非例非法張行する平家の振舞をうらみさせ給はば、多くの青女房達、皆餓死し候はんずらむ事こそ口惜しく候へ。世は謀にてこそ候へ。P1114(六四ウ)太政入道の殊に崇め給ふ、安芸国の一宮厳嶋へ御参詣有るべく候ふ。大将の御祈梼の為に御参籠渡らせ給はば、其の神子をば内侍と申し候ふ、多く参りて候はば、種々の御引出物たびて〓(もてな)させおはしませ。さて御下向あらば、定めて内侍共、御送りに参り候はむずらむ。様々にすかして、内侍四五人相伴はせ御坐して、京へ御上り候へ。内侍、京にて定めて太政入道殿の見参に入り候はんずらむ。『なにしに上りたるぞ』と問ひ給はば、内侍共、ありのままに申さば、『我が憑み奉る所の厳嶋の大明神に参り給ひたりけるごさむなれ。争か神の御威光をば失ひ進らすべき。大将に進らせよ』とて、一定進り候ひぬと存じ候ふ。かやうに御計らひP1115(六五オ)や有るべく候ふらむ。徳大寺を此の御時失はせ給はむ事、口惜しく候ふ」と、泣く泣く誘へ申しければ、げにもとや思し食されけむ、御心ならず厳嶋へ御詣であり。案の如く、内侍共つどひたりければ、種々の御引出物給ひて、様々にもてなし給ひけり。
 かくて七日御参籠有りて、御下向ある処に、内侍共余波を惜しみ進らせて、一日送り進らせけり。次の日帰らむとするに、徳大寺殿仰せの有りけるは、「情なし。内侍達、今一日送れかし」と宣ひければ、「承りぬ」と申して送り奉る。次の日帰らむとする処、又色々の御引出物給ひて、「やや内侍達、都を立ち出でて、多くの国々を隔てて、波路を分けて参りたる志は何計りとかや思ふ。されば、大明神御名残P1116(六五ウ)惜しく思ひ進らするに、内侍達の是まで送り給ひたるは併しながら大明神の御納受と仰ぎて信を取る。其の上は、只今引き分かれ給はむ事、あまりに余波をしきに、今一日送れかし」と宣へば、「承りぬ」とて、又参りにけり。「今一日」「今一日」と宣ふ程に、内侍もさすがに振り捨てがたくて、都近く参りにけり。徳大寺殿の宣ひけるは、「内侍、さすがに城は近く、我等が本国は遠く成りたり。同じくは、いざ都へ。京づとばしも取らせむ」と宣へば、「承りぬ」とて、内侍十人、京へ上る。「此の上は又、太政入道殿の見参に入らざらむ事も恐れ有り」とて、内侍共、入道殿へ参じけり。出で合ひて対面し給ひけるに、入道宣ひけるは、「なにしに上りたるぞ」と問ひ給ひければ、「徳大寺殿、P1117(六六オ)大将超えられ給ひて、其の御歎きに御籠居候ひけるが、御出家有りて後生菩提の御勤めせむと思し食し立ちて候ひけるが、誠や、厳嶋の大明神こそ、現弁も新たに渡らせ給ふなれ。此の事祈請して叶はずは御出家有るべきにて、御詣で候ひて、御参籠の間、御心優にわりなく渡らせ給ふ。内侍共にも色々の御引出物給ひて、御情深く渡らせ給ふ程に、御名残をしみ進らせて、一日送り進らせて候へば、『今一日』『今一日』とて送り進らせ候ひつる程に、京まで参りて候ふ。上る程にては、争か又見参に入らざるべきとて、参りて候ふ」と申しければ、入道殿、「一定か、内侍達」。「さむ候ふ」と申しければ、「糸惜し糸惜し。さては厳嶋へ御詣で有りけるごさむなれ。浄海、P1118(六六ウ)大明神を深く崇敬し奉る。争か権現の御威光をば失ひ奉るべき。重盛大将に上げよ」とて、大将へ押し上げて、徳大寺殿を左大将に成し奉る。
廿二 〔成親卿人々語らひて鹿谷に寄り会ふ事〕 S0122
 さて、新大納言成親卿思はれけるは、殿の中将殿、徳大寺殿、花山院に超えられたらば何がせむ。平家の二男に超えられぬるこそ遺恨なれ。いかにもして平家を滅ぼして本望を遂げむ」と思ふ心付きにけるこそおほけなけれ。父の卿は中納言までこそ至りしに、其の子にて、位正二位、官大納言、年僅かに四十四(二イ)、大国あまた給はりて、家中たのしく、子息所従に至るまで朝恩に飽き満ちて、何の不足有りてか、今かかる心の付きにけむ。是も天魔P1119(六七オ)の致す所也。信頼卿の有様を親りみし人ぞかし。其の時、小松大臣の恩を蒙りて、頸をつがれし人に非ずや。外き人も入らぬ所にて兵具を調へ集め、然るべき者を語らひて、此の営みより外は他事無かりけり。
 東山に鹿谷と云ふ所は、法勝寺の執行俊寛が領也。件の処は、後は三井寺につづきて吉き城也とて、彼こに城郭を構へて、平家を討ちて引き籠らむとぞ支度しける。多田蔵人行綱、法勝寺執行俊寛、近江入道蓮浄〈俗名成雅〉、山城守基兼、式部大夫章綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、左衛門入道等を始めとして、北面の下臈あまた同意したりけり。平家を滅ぼすP1120(六七ウ)べき与力の人々、新大納言を始めとして、常に寄り合ひ寄り合ひ談義しけり。法皇も時々入らせ給ひて、聞こし食し入れさせ給ふ。毎度俊寛が沙汰にて、御儲け丁寧にしてもてなし進らせて、御延年ある時も有りけり。或る時、彼の人々、俊寛が坊に寄り合ひて、終日に酒宴して遊びけるに、酒盛半ばに成りて万づ興有りけるに、多田蔵人が前に盃流れ留まりたり。新大納言、青侍一人招き寄せてささやきければ、程なく清げなる長櫃一合、〓(えん)の上にかきすゑたり。尋常なる白布五十端取り出だして、やがて多田蔵人が前に置かせて、大納言目かけて、「日来談義し申しつる事、大将には一向御辺を憑み奉る。其の弓袋の料に進らす。P1121(六八オ)今一度候はばや」と云ひたりければ、行綱畏りて布に手打ち係けて押しのけければ、郎等よりて取りてけり。
 其の比、静憲法印と申しける人は、故少納言入道信西が子息也。万事思ひ知りて振る舞ふ人にて有りければ、平相国も殊に用ゐて、世の中の事共、時々云ひ合はせられけり。法皇の御気色もよくて、蓮花王院執行にもなされなどして、天下の御政常に仰せ合はせられけるに、「さても此の事はいかが有るべき」と法皇仰せの有りければ、「此の事奴刀々々有るべからずと覚え候ふ。今は人多く承り候ひぬ。何がし候ふべき。只今、天下の大事出で来候ひなむず。我が君は天照大神七十二代、太上法皇の尊号にて御坐し候ふといへども、王法の代末に成り、清盛又朝家P1122(六八ウ)に盛り也。其と申すは、君の御恩ならずと云ふ事なし。然而、朝敵を平ぐる事度々也。されば、何を以て清盛をば失はせ給ひ候ふべき」と、憚る所無く申されければ、成親卿、気色替はりて立たれけるが、御前なる瓶子を狩衣の袖に係けて倒したりけるを、法皇、「あれは何に」と仰せ有りければ、取り敢へず、「平氏すでに倒れて候ふ」と申されたりければ、法皇御ゑつぼに入らせおはしまして、「康頼参りて当弁仕れ」と仰せありしかば、康頼が能なれば、つい立ちて、「凡そ近来は、平氏が余り多く候ひて、もてゑひて候ふ」と申したりければ、成親卿、「さて其をばいかがすべき」と申さる。康頼、「それをば頸を取るには如かず」とて、瓶子の頸を取りて入りにけり。法皇も興に入らせ給ひて、着座P1123(六九オ)の人々もゑみまけてぞ咲はれける。静憲法印ばかりぞ、あさましと思ひて物も宣はず、声をも出だされざりける。
 彼の康頼は、阿波国住人にて、品さしもなき者なりけれども、諸道に心得たる者にて、君に近く召し仕はれ進らせて、検非違使五位の尉まで成りにけり。末座に候ひけるを召し出だされけるも、時に取りては面目とぞみえし。土の穴を掘りて云ふなる事だにも漏ると云へり。まして、さほどの座席なれば、なじかは隠れあるべき。空怖ろしくぞ覚ゆる。
 彼の俊寛は、木寺法印寛雅が子、京極大納言雅俊が孫也。指して弓箭取る家にあらねども、彼の大納言、ゆゆしく心の武く、腹あしき人にて御座しければ、京極の家の前をば人をも轍くとほさず、常に歯をくひしばりP1124(六九ウ)て、嗔りて御坐しければ、人、「歯くひの大納言」とぞ申しける。かかりし人の孫なればにや、此の俊寛も、僧なれども心武く奢れる人にて、かやうの事にも与せられたりけるにや。
 就中、此の俊寛僧都と成親卿と、殊更親しく昵びける事は、新大納言の内に、松・鶴とて、二人の美女有りけり。俊寛、彼の二人を思ひて通ひける程に、鶴は今すこし容貌は増さりたり、松は少し劣りたれども、心ざま離り無かりければ、松にうつりて、子息一人儲けたりける故に、大納言も隔なく打ち憑み語らひける間、与力したりける也。
 三月五日、除目に、内大臣師長公、太政大臣に転じ給へる替はりに、左大将重盛、大納言定房卿を越えて内大臣に成られにけり。P1125(七〇オ)院の三条殿にて大饗行はる。近衛大将に成り給し上は子細に及ばねども、又宇治の左大臣の御例憚りあり。又太政入道心もとなげに云はれければ、「由なし」と仰せられけるとかや。
廿三 〔五条大納言邦綱の事〕 S0123
 五条中納言邦綱卿、大納言に成らる。歳五十六。一の中納言にて御坐しけれども、第二にて中御門中納言宗家卿、第三にて花山院中納言兼雅卿、此の人々成り給ふべかりけるを止めて、邦綱卿のなられける事は、太政入道、万事思ふさまなる故也。此の邦綱卿は、中納言兼輔卿八代の末葉、式部大夫盛綱が孫、前右馬助成綱が子也。然而、三代は蔵人にだにも成らず、受領、諸司助などにて有りけるが、進士の雑色とて、近衛院の御時、近くP1126(七〇ウ)召し仕はれけるが、去んぬる久安四年正月七日、家を発(興歟)して蔵人頭に成りにけり。其の後次第に成り上りて、中宮亮などまでは法性寺殿の御推(吹歟)挙にて有りし程に、法性寺殿隠れさせ給ひて後、太政入道に執り入りて、さまざまに宮仕へける上、日ごとに何にても一種を奉られければ、
 「所詮現世の得意、此の人に過ぎたる人有るまじ」とて、子息一人入道の子にして経邦と申し付けて侍従に成されぬ。三位中将重衡を聟になしてけり。後には、中将、内の御乳母に成られたりければ、其の北の方をば母代とて、大納言の典侍とぞ申しける。
 〔北面は〕上古には無かりけり。白河院の御時始め置かれて、衛府共あまた候ひけり。中にも、為俊・盛重、童より千手丸・今犬丸などとて、切者にてP1127(七一オ)有りけり。千手丸は本は三浦の者也。後は駿河守になさる。今犬丸は周防国住人、後は肥後守とぞ申しける。鳥羽院の御時も、季範・季頼父子、近く召し仕はれて、伝奏するをりもありと聞きしかども、皆身の程をば振る舞ひてこそ有りしに、此の御時の北面の者共は、事の外に過分して、公卿殿上人をも物ともせず、礼儀も無かりけり。下北面より上北面に移り、上北面より又殿上をゆるさるる者も有りけり。かくのみある間に、驕れる心ありき。彼の季範と申すは、源左衛門大夫康季が子息、河内守是也。季頼は季範が子也。大夫尉と云ふも是也。其の中に故少納言入道の許に師光・成景と云ふ者ありけり。小舎人童、若は格勤者にて、けしかるP1128(七一ウ)者共なりけれども、さかざかしかりける間、院の御目にかかりて召し仕はれけり。師光は左衛門尉、成景は右衛門尉に、二人一度に成りたりけり。少納言入道の事に合ひし時、二人共に出家して、各名乗の一字を替へず、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とぞ云ひける。二人ながら御倉預にて召し仕はれけり。西光が子師高も切者にて有りければ、検非違使五位尉まで成りにけり。
廿四 〔師高と宇河法師と車引き出だす事〕 S0124
 安元二年十一月廿九日、加賀守に任じて国務を行ふ間、さまざまの非例非法張行せしあまり、神社、仏事、権門の庄領をも倒し、散々の事共にてぞ有りける。縦ひ邵公が跡を伝ふとも、穏便P1129(七二オ)の務をこそ行ふべかりしに、万づ心のままに振る舞ひし故にや、同じき三年八月に、白山の末寺に宇河と云ふ山寺に出温あり。彼の湯屋に目代が馬を引き入れて湯洗ひしけるを、寺の小法師原、「往古より此の所に馬の湯洗ひの例無し。争か、かかる狼籍有るべき」とて、白山の中宮八院三社の惣長吏、智積・覚明等を張本として、目代の秘蔵の馬の尾を切りてけり。目代是を大きに嗔りて、即ち彼の宇河へ押し寄せて坊舎一宇も残さず焼き払ひにけり。宇河白山八院の大衆、金大房大将軍として、五百騎にて加賀国府へ追ひ懸かる。露吹むすぶ秋風は鎧の袖をひるがへし、雲井を照す稲妻は甲の星をかかやかす。かくて講堂に立て籠もり、P1130(七二ウ)庁へ使を立てたれば、目代、僻事しつとや思ひけむ、庁にはしばしもたまらずして逃げ上りにけり。
 宇河の大衆共、力及ばずして僉議しけるは、「所詮本山の末寺也。本山へ訴へ申すべし。若此の訴訟叶はずは、我等永く生土に帰るべからず」。「尤も尤も」とて、神水を呑み、一同して、神輿をやがて振り上げ奉る間、安元三年二月五日、宇河を立ちて、願成寺に着き給ふ。御共の大衆、一千余人也。願成寺より、同六日、仏が原金剣宮へ入り給ふ。茲に於て一両日逗留す。
廿五 〔留守所より白山へ牒状を遣はす事 同じく返牒の事〕 S0125
 同じき九日、留守所より牒状あり。使者には楠二郎大夫則次、但田の二郎大夫忠利等也。彼の牒状に云はく、
留守所の牒、白山宮の衆徒の衙
 P1131(七三オ)早く衆徒の参洛を停止せられんと欲する事
牒す。神輿を振り奉りて、衆徒参洛を企てて、訴訟を致さしむ。事の趣き、重からざること無きに非ず。茲に因りて、在庁忠利を差し遣はして、子細を尋ね申す処に、石井の法橋訴へ申さんが為に、参洛せしむと返答有りと云々。此の条、豈然るべからず。争か小事に依りて大神を動かし奉るべき哉。若し国の沙汰と為て裁許為るべき訴訟か。者れば、解状を賜りて申し上ぐべき也。乞ふ哉、状を察して以て牒す。
  安元三年二月九日              散位朝臣
                        散位朝臣P1132(七三ウ)
                        散位朝臣
                        目代源朝臣在判
とぞ書きたりける。之に依りて衆徒の返牒に云はく、
白山中宮の大衆政所、返牒、所の衛
 来牒一紙に載せ送らるる、神輿御上洛の事
牒す。今月九日の牒、同日到来す。状に依りて子細を案ずるに、神明和合し在す。而るに吉日を点定して旅路に進発す。次に人力を以て之を成敗すべからず。冥慮、豈之を恐れざらん哉。仍りて、後日を以て牒返の状に任せん。子細の状、件の如し。
 P1133(七四オ)安元三年二月九日   中宮大衆等
廿六 〔白山宇河等の衆徒神輿を捧げて上洛の事〕 S0126
同じき十日、仏が原を出でて推津へ差し給ふ。同日又留守所より使二人あり。税所大夫成貞、橘二郎大夫則次等、野代山にて大衆の後陣に件の使追ひ付きたり。即ち落馬しぬれば馬の足折れたり。是れを見て衆徒弥神力を取る。同じき十一日に二人の使推津に到来す。敢へて返牒無し。詞を以つて使者神輿を留め奉るといへども、事ともせず上洛す。其の時の貫首は六条大納言源顕通の御子、久我大政大臣の御孫、明雲僧正にて御す。門跡の大衆三十余人P1134(七四ウ)を差し下し、敦賀の中山にて神輿を留め奉る。敦賀の津、金崎の観音堂へ入れ奉りて、守護しけり。
廿七 〔白山衆徒山門へ送牒状事〕 S0127
 白山衆徒等、山門へ牒状を遺す。其の状に云はく、
謹請 延暦寺御寺牒
 白山の神輿を山上に上げ奉り、目代師経罪科を裁許せられんと欲する事
右、子細を言上せしむと雖も、今に裁報を蒙らざる間、神輿御入洛の処、抑留の条、是一山之大訴也。倩ら事情を案ずるに、白山は敷地有りと雖も、是併しながら三千の聖供也。免田有りと雖も、当任は有名無実P1135(七五オ)也。之に依りて、仏神の事断絶、顕然也。仍りて当年の八講・三十講、同じく以て断絶す。我が山は是大悲権現、和光同塵の素意に候ふ。近来忝くも向拝の族、又以て断絶す。此時に当たりて、深く歎き切也。然れば、神輿を振り奉り、群参を企つる所也。永く向後の栄えを忘れ、五尺の洪鐘、徒に黄昏の勤を響かす。誰か冥道の徳を明らかにせむ。人倫に在りて、迷癡の用深き也。蓋ぞ全く将来の吉凶を現ぜざらん哉。権現の御示現、之に在す。然れば則ち、制法に拘はらずして、既に敦賀津に附かしめ、御寺牒の状に任せ、神輿上洛の儀を止め、御裁報を待つべき状、件の如し。
P1136(七五ウ)  安元三年二月廿日   衆徒等
廿八 〔白山神輿山門に登給ふ事〕 S0128
 とぞ書きたりける。
 同じき廿一日、専当等、此の状を取りて帰り上るあひだ、裁許を相待つ処に、重ねて使者来たりて云はく、 「上洛せられたりと云ふとも、御裁許有るべからず。其の故は、院、御熊野詣でなり。御下向の後、上洛せらるべし」とて、彼の神輿を奪ひ取り奉り、金崎観音堂に入れ奉りて、大衆、宮仕、専当等、是を守護し奉る。白山の衆徒、竊に神輿を盗み取り奉りて、敦賀の中山道へは係からで、東路にかかり、入の山を越え、柳瀬を通り、近江国甲田の浜に着く。其より船に御輿を舁き載せ奉りて、東坂本へ入れ奉んと欲す。折節、〔巽〕の風はげしく吹きて、海上静かならずして、小松が浜へ吹き寄せられP1137(七六オ)給ひけり。其より東坂本へ神輿を振り上げ奉る。
 山門の衆徒、三塔会合して僉議しけるは、「末社の神輿疎かならず、本社の権現の如し。末寺の僧賤しからず、本山の大衆に同じ。争か訴訟を聞き入れざるべき」と、一同に僉議して、日吉社には白山をば客人と祝ひ奉りたれば、早松の神輿をば客人の宮に安め奉りて、山門の大衆等、院の熊野詣の御帰洛をぞ相待ちける。
廿九 〔師高罪科せらるべきの由人々申さるる事〕 S0129
 さる程に、院御下向あり。「白山の衆徒等、訴訟此くの如し。げに此の事黙止がたく候ふ哉。然れば、師高を流罪に行はれ、師恒(経)を禁獄せらるべき」由、奏聞せしに、御裁許遅かりしかば、太政大臣、左右大臣已下、さも然るべき公卿達は、 「哀れ、とく御裁許有るべきP1138(七六ウ)者を。山門の訴訟は、昔より他に異なる事也。大蔵卿為房・大宰権師季仲は、朝家の重臣なりしかども、大衆の訴訟に依りて流罪せられにき。まして師高などが事は、ものの数ならず。子細にや及ぶべき」と、内々は申されけれども、詞に顕れて奏聞の人無し。「大臣は禄を重んじて申されず、小臣は罪を恐れて諌めず」と云ふ事なれば、各口を閉ぢ給へり。其の時の現任の公卿には、兼実・師長を始めとして、定房・隆秀に至るまで、身を忘れていさめ奉り、力を尽くして国を助くべき人々にておはしける上、武威を耀かして天下を鎮めし入道の子息重盛など、夙夜の勤労をつつ 〔し歟〕みておはせしに、彼と云ひ此と云ひ、師高P1139(七七オ)一人に憚りて、心に傾けながら、詞には諌め申されざりける事、君に仕ふる法、豈夫然るべけん哉。「前車の覆へるを扶けずは、後車の廻るを豈恃まん哉」とこそ、蕭荷をば大宗は仰せられけれ。恐らくは、君もくらく覚えさせ給ふべきに非ず、臣も憚りあひ給ふべき人々にやおはせし。何に況や、君臣の国においてをや。権勢の政ひがまむにおいてをや。「賀茂河の水、双六の〓(さい)、山法師、是れぞ我が心に叶はぬもの」と、白河院は仰せ有りけるとかや。されば鳥羽院の御時、平泉寺を以て薗城寺に付けらるべき由、其の聞こえ有り。山門の衆徒忽ちに騒動して奏状を捧げ申す。
其の状に云はく、P1140(七七ウ)
卅 〔平泉寺を以て山門に着けらるる事〕 S0130
延暦寺の衆徒等、解して院庁の裁を請ふ事
 曲げて恩恤を垂れ、応徳の寺牒に任せて、白山平泉寺を以て、永く当山の末寺と為さむと請ふ状
右、謹みて案内を検するに、去んぬる応徳元年、白山の僧等、彼の平泉寺を以て当山の末寺に寄進す。時に座主良真、寄文の旨に任せ、寺牒を成して彼の山に付け畢(を)はんぬ。尓りしより以降、僧侶の訴訟無きに依りて、衆徒の沙汰に及ばず。然る間、去んじ春、彼の山の住僧等、来たりて当山に訴へて云はく、「是、延暦寺の末寺也。応徳の寺牒、尤も証験に足れり」と云々。覚宗、P1141(七八オ)彼の別当の職に任せ、非法濫行、日を遂ひて倍増し、愁へを積みて枕と為す。結句、当山を以て薗城寺の末寺と為さんと欲すてへり。当山は本より本寺无きに非ず。就中、日吉の客人宮は白山権現也。垂跡、彼の神慮を測るに、定めて其の故有らむか。叡慮忽ちに変ず。君の不明に非ず、臣の不直に非ず。我が山の仏法、将に以て滅びんとする兆也。愁へて余り有り。蒼天を仰ぎて涙を押さへ、悲しみて何が為ん。中丹に丘して魂を銷す。衆徒若し勅命に乖違せば、千僧の公請に応ずべからず。衆徒若し朝威を忽緒せば、愁へを懐きて一山の騒動を止むべからず。裁報の処、何ぞ〓迹(きやうしやく)無からむ。望み請ふらくは、曲げてP1142(七八ウ)恩恤を垂れ、白山平泉寺を以て、旧の如く天台の末寺と為すべき由、裁許せられば、将に浄行三千の愁吟を慰めて、弥仙院数百の遐齢を祈り奉らむ。仍りて勒状、謹みて解す。
 久安三年四月 日
とぞ書きたりける。此の申し状に依りて、公卿僉議有りて、山門に付けらるべく院宣を下されて云はく、院宣を被りて稱はく、衆徒の騒動、制止に拘はらず、事濫訴為り。茲に因りて、且は梟悪の輩を禦がんが為、且は蜂起の類を停めんが為に、先例に任せてP1143(七九オ)武士を儲けらるる所也。而るに、勇士、鉾を競ひて雌雄を決せんと欲る由、洛中に謳歌し、山上に風聞す。既に叡慮に非ず。仍りて、武士乃ち群を解いて本国に返し遺し畢(を)はんぬ。何に況や、今度、公請と云ひ、神事と云ひ、只勅命を専らにして、勤行せしむる由、披陳の旨、叡念の中に争か哀憐無からん哉。仍りて僧正覚宗云はく、彼の白山平泉寺を以て延暦寺の末寺たるべき由、宣下せらるべし。但し、自今以後、末寺庄薗の事に依りて、非道の訴へを致すべからず。此の条に於いては、殆諸衆の誹謗を招くか。一山の瑕瑾を残すに似たり。然るに、御帰依の僧浅からずして、遂に非を以て理と為して、裁許せらるる所也。各歓喜の掌(心)を合はせて、百二十年之算を祈り奉るべき由、仰せ遣はすべきP1144(七九ウ)者也。宣に依りて、上啓件の如し。
 久安三年四月廿七日            民部卿奉
とぞ書きたりける。昔、江中納言匡房の申されける様に、「神輿を陣頭へ振り奉りてへ訴申さむ時は、君いかが御計らひ有るべき」と申されたりけるには、「げに黙止しがたき事なり」とこそ仰せられけれ。
卅一 〔後二条関白殿滅び給ふ事〕 S0131
 堀河院御宇、去んぬる嘉保元年〈甲戊〉、頼義〔 〕男、美濃守源義綱朝臣、当国の新立の庄を顛例する間、山の久住者円応を殺害す。之に依りて、山門欝り深くして、同じき十月廿四日、此の事を訴へP1145(八〇オ)申さむとて、寺官神官を先として大衆下洛する由風聞ありしかば、武士を河原へ差し遺して防かる。然るに、寺官等三十余人、申文を捧げ、押し破りて陣頭へ参上せむとしけるを、師通後二条関白殿、中宮大夫師思が申状に依りて、御侍大和源氏中務丞頼治を召して、「只法に任せて当るべき也」と仰せられければ、頼治承りて防きけるに、猶大内へ入らむとする間、頼治が郎等散々に射る。疵を蒙る神人六人、死ぬる者二人、社司諸司等四方に逃げ失せぬ。誠に山王の神襟、いかばかりか思し食すらむとぞ見えける。中にも八王子の祢宜友実に矢立ちたりけるこそあさましけれ。
 大衆、憤満の余り、同廿五日、神輿を中堂へ振り上げ奉り、P1146(八〇ウ)祢宜をば八王子の拝殿に舁き入れて、静信・定学二人を以て関白殿を呪咀し奉る。其の啓白の詞に云はく、「吾等が菁種の二葉よりおほし立てたまふ、七の社の神達、左右しかの耳ふり立てて聞き給へ。(茄物に合ひてこしがらうで)山王の神人・宮仕射殺し給ひつる、生々世々に口惜し。願はくは、八王子権現、後二条関白殿へ鏑矢一つ放ち当て給へ。第八王子権現」と、たからかにこそ祈請しけれ。其の比の説法表白は、秀句を以て先とす。申上の導師は忠胤僧都とぞ聞こえし。江中納言匡房申されけるは、「師忠が申状、甚だ神明の恥辱に及ぶ。哀れ亡国の基哉。宇治殿の御時、大衆張本とて、頼寿・良円等を流さるP1147(八一オ)べきにて有りしに、山王の御詫宣掲焉かりければ、即ち罪名を宥められて、様々に御おこたりを申させ給ひしぞかし。されば此の事いかがあらんずらむ」と、疑ひ申されけり。さても不思議なりしには、八王子の御殿より鏑矢の声出でて、王城をさして鳴りて行くとぞ、人の夢には見えたりける。其の朝、関白殿の御所の御格子を上げたりければ、只今山より取りて来たる様に、露にぬれたる樒一枝、立ちたりけるこそおそろしけれ。やがて、後二条の関白殿、山王の御とがめとて、重き御労りを受けさせ給ふ。
 母上大殿の北の政所、斜めならず御歎き有りて、御様をやつしつつ、賎しき下臈の為をして、P1148(八一ウ)日吉の社に御参籠有りて、七日七夜が間祈り申させ給ひけり。先づ顕はれての御祈りには、百番の芝田楽、百番の一つ物、競馬、矢鏑馬、相摸、各百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一〓手半の薬師百体、等身の薬師一体、并びに釈迦・阿弥陀の像、各造立供養ぜられけり。又御心中に余の御立願あり。御心の中の事なれば、人争か知り奉るべき。
 それに不思議なりし事は、八王子の御社にいくらも並み居たるまゐり人の中に、みちの国よりはるばると上りたりける童神子、夜半ばかりに俄に絶え入りけり。遥にかき出だして祈りければ、程無く生き出でて、立ちて舞かなづ。人奇特の思ひをP1149(八二オ)成して是を見る。半時ばかり舞ひて後、山王下りさせ給ひて、様々の御詫宣こそおそろしけれ。「衆生等たしかに承はれ。我円宗の教法を守らんが為に、遥かに実報花王の土を捨てて、穢悪充満の塵に交はり、十地円満の光を和げて、此の山の麓に年尚し。鬼門の凶害を防かんとては、嵐はげしき嶺にて日をくらし、皇帝の宝祚を護らん為には、雪深き谷にて夜を明かす。抑凡夫は知るや否や、関白の北の政所、我が御前に七日籠らせ給ひて、御立願さまざまなり。先づ第一の願には、『今度殿下の寿命助けてたべ。さも候はば、八王子の社より此の砌まで廻廊作りて、衆徒の参社の時、雨露の難をP1150(八二ウ)防くべし」と。此の願、誠に有り難し。されども、吾が山の僧侶、三の山の参籠の間、霜雪雨露にうたるるを以て、行者の功を哀れみて和光同塵の結縁として、此の所を卜めて我にちかづく者を哀れまんとなり。第二には、『三千人の衆徒に、毎年の冬、小袖一つ着せん』との願、是又請け思し食されず。其の故は、九夏三伏の暑きには、汗を拭ひて終日に三大即是の〓(はなぶさ)を手向け、玄冬素雪の寒きにも、身を忘れて通夜止観明浄の月を翫ぶを以て、止住僧侶の行とせり。第三には、『自ら一期の間、月の障りを除きて、都のすまひを捨てて宮籠に交はりて宮仕ひ申さむ』となり。此の願殊に糸惜し。然りと雛も、大殿の北政所程の人P1151(八三オ)を、宮籠の者に並べ奉らむ事、叶ふまじ。第四の願には、『御娘五人の姫君、何れも王城一の美女也。彼を以て芝田楽せさせてみせ進らせん』との御志切なれども、摂政関白の御娘達、いかがさ様の振舞をばせさせ奉るべき。第五には、『八王子の御社にて、毎日退転なく法花問答講行ふべし』となり。此等の御願共、何れも疎かならねども、法花問答講は誠にあらまほしくこそ思し食せ。今度の訴訟は無下にやすかりぬべき事を、御裁許無くして、師通・頼治に仰せて我を馬の蹄に蹴さするのみならず、神人・宮仕射殺され、人多く疵を蒙りて、泣く泣くまゐりて我が御前にて訴へ申す事が心P1152(八三ウ)うければ、いかならむ末の代までも忘るべしとも思し食さず。彼等に立つところの矢は、併しながら和光垂跡の御はだへに立ちたるなり。実・虚言は是を見よ」とて、肩脱ぎたるをみれば、左の脇の下、大なる土器の口ほど穿げのきたるこそ奇特なれ。「これがあまりに心うければ、いかに申すとも始終の事は叶ふまじ。一定法花問答講行はすべくは、三年が命を延べ奉らむ。それを不足に思ひ給はば力及ばず」とて、山王上がらせ給ひけり。母上人に語らせ給はねば、たれ漏らしつらむと疑はせ給ふ方も無かりしに、御心の中の事どもありのままに御詫宣有りしかば、いとど心肝に染みて貴くぞ覚えける。P1153(八四オ)泣く泣く申させ給ひけるは、「たとひ一日片時長らへ候ふとも、ありがたうこそ候ふべきに、まして三とせが命をのべて給はらむ事、しかるべうさふらふ」とて、日吉の社を御下り有りて、都へ入らせ給ひけり。やがて、殿下の御領、紀伊国田仲庄と云ふ所、永代寄進せられけり。されば、今の代に至るまで、法花問答講毎日退転なしとぞ承る。
 かかりし程に、後二条関白殿、御病かるませ給ひて、元の如くに成らせたまふ。上下喜びあはれしほどに、三とせの過ぐるは夢なれや、永長二年に成りにけり。六月廿一日、又後二条関白殿、山王の御とがめとて、御ぐしのきはにあしき御瘡出で来させ給ひて、打ち臥さP1154(八四ウ)せ給ひしが、同じき廿七日、御年三十八にて、つひに隠れさせ給へり。御心の武さ、理のつよさ、さしもゆゆしくおはせしかども、まめやかに今はの時にも成りしかば、御命を惜しませ給ひける也。誠に惜しかるべき御よはひなり。四十にだに満たせ給はで、大殿に先立ちまゐらせさせ給ふこそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしと云ふ事は無けれども、生死のおきてに随ふ習ひ、万徳円満の世尊、十地究竟の大士達も力およばせ給はず。慈悲具足の山王利物の方便なれば、御とがめ無かるべしとも覚えず。彼の義綱も程なく自害して、一類皆滅びけり。師忠も程無く失せにけり。昔も今も山王の御威光は恐るべき事とぞ申し伝へたる。P1155(八五オ)
 惣じて代々の帝、北嶺を崇重せらるる事、他山に越ゆ。仏法・王法、互に之を護れば、一乗・万乗、共に盛り也。されば、「山門の訴訟は、只衆徒の歎き、山王独りの御憤りにも限るべからず。別しては国家の御大事、惣じては天下の愁ひなり。神国に住みて神代を継ぎ、神を崇め給ふ事、朝家の徳政なれば、山王にかたさり御しても、などか御裁許無からん」とぞ、人傾き申しける。誠に仏法・王法は五岳(牛角歟)の如し。一も闕けては有るべからず。法有れば国静か也。仏法若し滅びなば、王法何ぞ全からむ。山門若し滅亡せば、
円宗何か存すべき哉。
 世、末法に移りて既に二百余歳、闘諍堅固の時に当たれり。人魔・天魔の力強くして、人の心摂まらず。
 凡そ叡山の地形の体を見るに、師子の臥せるに似たりとぞ承はる。P1156(八五ウ)人の心、住所に似たる事、水の器に随ふが如しと云へり。居を高嶺に卜め、鎮にけはしき坂を上り下れば、衆徒の心武くして、〓慢(けうまん)を先と為。されば、昔将門、宣旨を蒙りて御使に叡山に登りけるが、大獄と云ふ所にて京中を直下すに、僅かに手に挙る計りに覚えければ、即ち謀叛の心付きにけり。白地の登山、猶然なり。何に況や、旦暮の経歴に於いてを哉。
 抑延暦寺と申すは、伝教大師草創の砌、桓武天王の御願也。伝へ聞く、伝教大師、御年十九と申す延暦四年七月の比、叡山に攀ぢ登り給ひて、伽藍を建立し、仏法を弘めむとて、本尊を作り奉らんが為に山中に入り給ひて、「利益衆生の仏像と成るべき霊木やおはする」と、声を上げて叫び給ひけるに、虚空蔵の尾の北P1157(八六オ)なる林の中に、「ここにあり」とぞ答へける。彼の霊木を切りて、大師手づから自ら薬師如来の形像をぞ刻み顕し給ひける。一たび削りては、「普く長夜の闇を照らし給へ」と、削る度に礼拝し給へば、御頭より始めて、面像顕れ御す。御胸の程にも成りしかば、大師礼し給ふ毎に、霊像頭を低れてうなづき給ふ。
其の時、衆生済度をば事請けし給ひぬ。「あなかしこ、一人も漏らし給ふな」とて、造畢し給ひにけり。長五尺五寸の皆金色の立像也。同じき七年に本堂を造りて安置し奉り給へり。慈覚大師、彼の仏像と常に物語し給ひけるとかや。相応和尚ばかりぞ、御声をば聞き給ひける。
 同じき十三年、長岡京より平安城に遷りて、皇居P1158(八六ウ)定められけるに、鬼門の方に当たりて高き嶺あり。「彼の嶺に伽藍を建てば、都の凶害有るべからず」と、帝思し食して、伝教大師に仰せ合はせられければ、「吾が寺を君に献るべし」とて、本仏薬師如来は御息災の御ため尤も相応し給へり。造立の次第など細かく申させ給ひければ、天皇大きに叡感有りて、大師と深く師檀の契りを結び給ひて、御願寺と定められにけり。帝余りに当山を執し思し食して、御詞のつまにも「我が山」とぞ仰せ有りける。されば、近来も山門を「我が山」と申すは、彼の御詞の末とかや。大師は「我がたつ杣」とも宣へり。叡慮に比へるが故に、「比叡山」とも名づく。又「叡岳」とも云ふなるべし。眺望余所に勝れて、四方遠く晴れたるが故に、P1159(八七オ)「四明山」とも名づくとかや。又、天台宗の寺なるが故に、「天台山」とも名づけたり。大体、唐の天台山に似たりと云へり。
 さても天台宗は、南岳・天台、共に霊山の聴衆として、震旦に出で給ひて仏法を弘め給ひしより、師資相承せり。震旦国に鑑真和尚と云ひし人、玄義・文句・止観の三大部を持ちて本朝へ渡りしに、機根堪へざりしかば、石の室に納めて披露せざりしを、伝教大師、諸宗の教相を伺ひ給ふに、天台の法文に心付き給ひければ、我が山に流布し給ひて、諸宗の明徳を〓[口+屈](くつ)して開講の論義を談ぜられけるに、理崛猶極まらず思はれければ、同じき廿三年四月に、御年三十八にして入唐す。先づ彼のP1160(八七ウ)聖主に奏して天台の遺跡を巡礼し給ひけるに、一の宝蔵あり。天台大師入滅の朝より今に至るまで、鎰無くして開く人なし。大師の記文に云はく、
「吾滅後に東国より上人来たりて、此の宝蔵をば開くべし」と云々。伝教大師、是を聞き給ひて、懐より鎰を取り出だし、「是は、本朝にて伽藍建立のため地を引きし時、土の中より掘り出だしたりしを、様有るべしと思ひて、昼夜に身を放たず持ちたり。若し此の鎰や合ひたる、試みに開けて見む」と宣ひて、件の鎰を指し合はせ給へば、宛も符契の如くして、宝蔵開きにけり。聖主に此の由を奏し申しければ、前世の宿縁浅からざる事を叡感有りて、彼の庫蔵に納むる所の聖財、悉く大師にP1161(八八オ)渡し奉り給へり。則ち大師是を請来し給ひて、吾が山にぞ納められける。今の御経蔵と申すは是也。伝教大師常儀の道具、章安大師の渡し給へる聖教等、皆彼の経蔵に納まれり。此の中に、天台の一の箱と名づけて、一生不犯の人一人して見る事にて、輙く開く座主希なり。
 彼の渡唐の時、道〓和尚・行満座主に遇ひて、教相を伝持し、順暁あざりに金胎両部の秘法を伝授して、同じき廿四年六月に帰朝し給へり。顕密の奥義を極められしかば、一天仰崇し、四海帰伏す。三仙の長講を制作して、千秋の宝祚を祈り、六基の塔婆を六州に分かち居ゑ奉りて、万春の安寧を祈請し給ふ。P1162(八八ウ)さればにや、天下治まりて、国郡豊かなりき。
 次に常行堂の阿弥陀は、慈覚大師帰朝の時、海上に示現して光を放ち声を上げて引声を唱へ給ひし尊像を、大師迎へ奉り安置し給へる、自然涌出の仏也。彼の大師、横河の椙の洞にて三年の間行ひて書写し給へる如法経、我が朝の有勢無勢の神達、昼夜に結番して守護し給ふとかや。無動寺の本尊は、相応和尚生身の不動を拝み奉らんと誓ひて、北方へ向かひてあこがれ御しける処に、文殊の化身なる老翁に教へられて、桂河の第三の瀧に至りつつ、丹精の誠を致して祈誓せられければ、生身の不動出現し給へり。和尚随喜の涙を流しつつ、又「都率天P1163(八九オ)に至りて、生身の弥勒を拝せさせ給へ」と祈念せられければ、御肩にのせつつ、程無く都率の内院に上り給ひて、現身に弥勒菩薩を拝し奉り給ひける、生身の不動尊是也。
 此の外、大権の垂跡、其の数多し。高僧の行徳新たなるも多かりき。彼の恵亮脳を摧き、尊恵剣を振るひし効験、誰人か肩を並べん哉。惣じて、西塔・横川、大師先徳の造立、利生結縁の本尊、数を知らず。其の霊験、繁多也。是皆、仏日照覧を表示し、聖朝安穏の奇瑞に非ず哉。誠に天下無双の霊山、鎮護国家の道場なり。桓武天皇の勅願なれば、代々の賢王聖主、皆我が山を崇め給ひ、諸院諸堂、勅願に非ずといふこと無し。堂塔・行法、P1164(八九ウ)今に断へず。星霜四百余廻、薫修幾くか積もるらむ。法は是一乗三密の妙法、仏法の源底に非ず哉。人は止観舎那の行、菩薩の大戒を持てり。
 就中、日吉山王七社、王城守護の鎮将として、鬼門の方に跡を垂れ給へり。此の日吉山王と申すは、欽明天皇の御時、三輪の明神と顕れて、大和国に住み給ひき。天智天皇の御時、大和国より此の砌へ移り給ひて、当山草創に先立ち給ふ事百余歳、後に一乗円宗を弘めらるべき事を鑑み給ひけるにや。或いは南海の面に五色の波立ちけるが、「一切衆生悉有仏性」と唱へける、其の御法の声を尋ねて、此の砌へは移り御したりとも申しき。始めは大津の東浦に現じ御して、P1165(九〇オ)其より西の浦に移らせ給ひて、田仲の常世が船に召して、幸崎の琴の御館、牛丸が許へ入らせ給ひにけり。牛丸、直人に非ずと思ひて、荒薦を敷きて居ゑ奉りて、常世、粟の御飯を進らせたりければ、常世に託し給ひけるは、「汝我が氏人と成りて、毎年出仕の時、粟の御飯を供御に備ふべし」とぞ宣ひける。今の大津の神人は、彼の常世が末葉也。其の時の儀式に准へて、卯月の御祭の時、必ず粟の御々供を献るとかや。
 さて、牛丸が船に乗り給へば、いづちへ渡らせ御すやらむと怪しみ見たてまつるほどに、彼の庭前の大木の梢にぞ、現ぜさせ給ひける。牛丸、不思議の瑞相を拝みて、奇異の思ひを成す処に、「是よりP1166(九〇ウ)西北に勝地あり。汝、我が氏人として草を結びたらむを験にて、宝殿を造り奉るべし」と示し給へり。牛丸、「さて、御号をば何と号し奉るべきぞ」と申しければ、「竪に三点を立てて横に一点を引き、横に三点を引きて竪に一点を立つべし」と、教へ給へり。則ち、「山王」と云ふ文字也。牛丸、神明の教へに任せて、西北の方へ尋ね行きて見るに、封ゆひ給へる所あり。是を験として宝殿を造進し、大木の上に顕れ給ひたりし御影を摸し奉りて、祝はれ給へり。今の大宮と申すは是也。
 爾りしより以降、大小の神祇、年々歳々に跡を垂れ給ひて、彼も此も眷属と成り給へり。二宮は狗留尊仏の時より神明と顕れ給ひにけり。始め修禅の北、横川のP1167(九一オ)西南に、大比叡と云ふ山の中に御しけるが、東南の麓に移住し給ひけるに、今の大宮来り給ひければ其の所を避らせ給ひて、樹去の西敷地に移住し給へり。
 地主権現十禅師と申すは、天照大神の御子也。惣じて日域の地主にてぞ渡らせ給ひける。彼の三聖は、伝教大師に契りを結びて、吾が山の仏法擁護の鎮守として学徒を省み、円宗を守らんと誓ひ給ひて、三聖共出家授戒せさせ御し、同じく法号を授けられ給へり。唐の天台山の麓にも、山王垂跡御すと云へり。伝教は天台の化身なれば、権者の儀も合ひ給ひけるやらむと、貴くぞ覚ゆる。
 住吉明神は、地主五代の尊也。始めは悪神として、一百一十の邪神P1168(九一ウ)に伴ひて仏法を信じ給はざりけるに、伝教大師、彼の御社に詣でて仁王経を講読せられければ、邪心を改め、仏法の大檀那と成りて、円頓の教を守らんと誓はせ給ひて、大宮に移住せさせ給へり。東竹林、是也。彼の御託宣に云はく、「天慶年中に凶徒を集誅せしには、吾大将として、山王は副将軍なりき。康平の官軍には、山王大将、吾副将軍たりき。凡そ吾が朝の大将として夷賊を征伐する事、既に七ヶ度なり。山王は鎮へに一乗の法味に飽満し給へるが故に、勢力吾に勝れ給へり」とぞ示し給ひける。八幡若宮も、伝教大師に契りを結び給ひて、我が宗を守らんとて、大宮に御す。西竹林、是也。P1169(附箋)
卅二 〔高松の女院崩御の事〕 S0132
 安元二年六月十二日に、高松女院隠れさせ給ひにけり。御年三十三。是は、鳥羽院第六姫宮、二条院后にて御しき。永万元年に、御歳二十二にて御出家ありき。大方の御心ざまわりなき人にて、惜しみ奉りけり。P1170(ナシ)P1171(九二オ)
卅三 〔建春門院崩御の事〕 S0133
 同七月八日、建春門院隠れさせ給ひぬ。御歳三十五。是は贈左大臣時信の御娘なり。法皇の女御、当帝の御母儀なり。
 先年不例の時、御願を果たさむとて、御歩行にて御熊野参詣ありけり。四十日に本宮へ詣で着かせ給ひて、権現法楽の為に胡飲酒と云ふ舞をまはせてましましけるに、俄に大雨ふりけれども、舞を止めず、ぬれぬれ舞ひければ、宣旨を反す舞なれば、権現めでさせ給ひけるにや、忽ちに天晴れて、さまざまの霊瑞ども有りけり。
 さて、御下向有りて、幾程を経(へ)ずして、去んじ春比より御身の中苦しくして、世中をあぢきなく思し食して、去んぬる六月十日、院号御辞退あり。今朝に御出家、夕にP1172(九二ウ)無常の道に趣き給ふ。院・内の御欺き、何れも愚かならず。天下諒闇の宣旨を下さる。
 其の御孝養の為に、殺生禁断と云ふ事を行はれける。折節、伯耆僧都玄尊、近江国大鹿庄を召されて歎きけるが、御歎き漸く期過ぎて、人々御目さまし申しける時、玄尊立ちて、「殺生禁断とは」と云ふ舞を至す事、三度ありき。院の御前近く参りて、「大鹿は取られぬ」と申して走り入りぬ。院ゑつぼに入らせましまして、彼の大鹿庄を返し賜りにけり。
卅四 〔六条院崩御の事〕 S0134
 同じき廿七日、六条院崩御なる。御年十三。故二条院の御嫡子ぞかし。御歳五歳にて太上天皇の尊号ありしかども、P1173(九三オ)未だ御元服も無くて崩御なりぬるこそ哀なれ。加様に打ち続き天下に歎きのみ多く、人の心の定まらざる事は、偏へに平家の一門のみ栄えて一天四海を掌に挙りて、先例に違へる 務 を申し行へる故とぞ、内々は申しあひける。
卅五 〔平家意に任せて振る舞ふ事〕 S0135
 推古天皇の御宇、聖徳太子、十七箇条憲法を作り給ひて、世の不調なる事を顕し給ひしかども、大方の禁め許りにて、当代の御煩ひに非ざりき。文徳天皇の御宇、不比等の大臣律令を撰び給ひき。各十巻の書を作りてましまししかども、是を閣きて僻まれしかば、行はれざりき。其の後百余年を経て、淳和帝の御宇にこそ、世乱れ直ならざりしかば、法令を先として代をP1174(九三ウ)治め給ひて四百余歳、其より以来、代は日を送りて衰へ、人は時々に随ひて僻めり。平治の逆乱の時までは、源平両氏肩を並べて互ひに朝敵を鎮められき。此の両氏、皇化に随ひ奉る歟と見えし程に、平治以後、源氏滅びて、平家奢りて恐るる方無し。太政入道、天下の政を執行して、非義非例を重ねしかば、争か神慮の恵み然るべき。「政務を執り行はむ日は、我が心不調にしては有るべからず。上鎮まりて下乱れず」と云へり。「身正しくして影曲む事無し」とこそ申すめれ。されば、「人の煩ひを致すべからず」とぞ人申しける。
卅六 〔山門の衆徒、内裏へ神輿を振り奉る事〕 S0136
 治承元年丁酉四月十四日、御祭りにて有るべかりけるを、大衆打ち留めて、同十三日辰剋に、衆徒、日吉七社の御輿、同八王子・P1175(九四オ)客人・十禅師等の三社、山一社の神輿を陣頭へ振り下したり。「師高を流罪せらるべき由、訴へ申さん」とて、西坂本・下り松・切堤・賀茂河原・忠須・梅多田・東北院・法城寺の辺、神人・宮仕充満して、声を上げてをめき叫ぶ。京・白河、貴賎上下集まり来りて之を拝し奉る。其れに就きて、祇園に一社、京極に二社、北野に二社、都合十一社の神輿を陣頭へ振り奉る。其の時の皇居は里内裏、閑院殿にて有りけるに、既に神輿、二条烏丸室町辺に近づき御す。其の時、平氏の大将は小松内大臣重盛公、俄事なりければ、直衣に衵さしはさみて、金作りの太刀帯きて、連銭葦毛の馬の太く逞ましきに黄伏輪P1176(九四ウ)の鞍置きてぞ乗られける。伊賀・伊勢両国の若党共三千余騎相具せられたり。東面の左衛門陣を固めたり。
 源氏の大将兵庫頭頼政は、結紋紗の狩衣に紫の指貫生縊りて、火威の鎧に、切符矢に重籐の弓の真中取りて、二尺九寸のいかもの作りの太刀はきて、烏帽子の縁り引き切りて押し入れて着るままに、鹿毛なる馬に白伏輪の鞍置きて乗りたりけり。連の源太、授・省・競・唱を始めとして、一人当千のはやり男の若党三百余人相具して、北の陣を固めたり。神輿、彼の門より入り給ふべき由聞えければ、頼政馬より下りて甲を脱ぐ。大将軍かくすれば、家子郎等も又此くの如し。P1177(九五オ)大衆是を見て、様有らむとて暫く神輿を舁き留めたてまつる。
 頼政が郎等、渡部の競の瀧口を召して、大衆の中へ使者に立つ。競は生年三十四、長七尺ばかりなる男の、白く清げなるが、褐衣の鎧直垂に、大荒目の鎧の小桜を黄に反したる、裾金物打ちたるに、豹の皮の尻鞘の大刀帯きて、黒つ羽の征矢の角筈入れたる廿四指したる、頭高に負ひ成して、塗籠藤の弓のにぎり太なるに、大長刀、歩行走に持たせて、弓手の脇に相具したり。鹿毛なる馬の太く逞しきに黒鞍置きてぞ乗りたりける。神輿近付かせ給ひければ、馬より飛び下りて、甲をぬぎ左肩にかけ、P1178(九五ウ)弓取り直し、御輿の前に跪きて申しけるは、「此の北の陣をば、源の兵庫頭頼政の固めて候ふが、大衆の御中へ申せと候ふは、『昔は源平両家左右に並びて、少しも勝劣候はざりしが、源氏においては保元・平治の比より皆絶え失せて、大略無きが如し。六孫王の末葉とては、頼政ばかりこそ候へ。山王の御輿、陣頭へ入らせ御し候ふべき由、其の聞え候ふ間、公家殊に騒ぎ驚き御して、源平の軍兵四方を固むべき由、宣旨を下され候ふ。王土にはらまれながら勅命を対捍せむも其の恐れ候ひて、憖に此の門を固め候ふ。又、今度山門の御訴訟、理運の条勿論に候ふ。御聖断遅々こそ余所にても遺恨に候へ。其の上、頼政P1179(九六オ)元より神明に首を傾け奉りたる身にて候へば、わざと此の門よりこそ入れ奉るべう候ふ間、門をこそ開けて候へ。但し、自今以後に於いては、永く弓矢の道こそ離れはて候はんずれ。神威に怖れ奉りて御輿を入れ奉り候はば、綸言を軽んずる過あり。宣旨を重んじて神輿を防き奉らば、冥の照覧測り難し。進退惟谷れり。且は又、小松内大臣以下の官兵、大勢にて固めて候ふ門々をば破り給はで、頼政僅かなる無勢の所を御覧じて入らせ御しぬる物ならば、山の大衆は目だり印治をしけりなど、人の申し候はん事も、山の御名折にてや候はんずらむ。且は殊におどろおどろしく天聴を驚し奉らんと思し食さP1180(九六ウ)れ候はば、東面の左衛門の陣は小松内大臣三千余騎にて固めて候ふ。多
勢の門を打ち破りて入らせ御し候はば、弥よ神威の程も顕れて、大衆の御威も今一気味にて候ひぬべければ、神輿をば左衛門の陣へ廻し入れ奉らるべうもや候ふらむ。所詮かく申し候はん上を、猶破り給はば、力及ばず候ふ。後代の名惜しく候へば、命をば山王大師に奉り、骸をば神輿の前にて曝し候ふべしと申せ』と候ふ。御使は、渡部党に箕田の源七綱が末葉、競の滝口と申す者にて候ふ」とて、射向の袖引きつくろひて、畏りてぞ候ひける。
 大衆是を聞きて、「何条別の子細にや及ぶべき。只破れ」と云ふ者もあり、又、P1181(九七オ)「暫く僉議せられよや」と云ふ者もあり。其の中に、西塔法師に摂津竪者毫雲と申しける、三塔一の言ひ口、大悪僧なりけるが、萌黄の糸威の腹巻、衣の下に着、太刀脇にはさみ、進み出でて申しけるは、「今頼政が条々申し立つる所、其の謂はれ無きに非ず。神輿を先立て奉りて、衆徒訴訟せらるるならば、善悪大手を打ち破りてこそ、後代の名もいみじからめ。且は又、頼政は六孫王より以来、弓箭の芸に携はりて、未だ其の不覚を聞かず。武芸に於いては当職たる者をいかがはせむ、加之、風月の達者、和漢の才人にて世に聞ゆる名人ぞかし。一年、故院(近衛院)の御時、鳥羽殿にて中殿御会に、『深山の花』と云ふ題を簾中よりP1182(九七ウ)出だされたりけるを、当座の事にて有りければ、左中将有房など聞えし歌人も読み煩ひたりしを、頼政召しぬかれて、則ち仕りたり。
  み山木のその梢ともわかざりしに桜は花にあらはれにけり
と読みて、叡感に預りしぞかし。弓箭取りても並ぶ方なし。歌道の方にもやさしき男にて、山王に頭を傾け進らせたる者の固めたる門よりは、争か情なく破りて入れ奉るべき。頼政が申し請ふ旨に任せて、東面の左衛門陣へ神輿を舁き直し進らせよや」と云ひければ、「尤々」と一同して、左衛門の陣へ舁き奉る。
 御神宝朝日に輝きて、日月の光り地に落給へP1183(九八オ)るかと疑はる。軈神輿を進め奉りて、左衛門の陣へぞ押し入りける。閑院殿へ神輿を振り奉る事、是始め也。軍兵馬の轡を並べて、大衆神輿を先として押し入らむとする間、心より外の狼藉出で来たりて、武士の放つ矢、十禅師の御輿にたつ。神人一人、宮仕一人、矢に中たりて死ぬ。其の外、疵を被る者多し。かかる間、大衆神人のをめき叫ぶ声、梵天までも及ぶらむと、おびたたしくぞ聞えける。貴賎上下悉く身の毛竪つ。大衆、神輿を陣頭に捨て置き奉りて、泣々本山へ帰り登りにけり。
卅七 〔毫雲の事 付けたり山王効験の事 付けたり神輿祇園へ入れ奉る事〕 S0137
 彼の毫雲、訴訟有りて後白河院へ参りたりけるに、折節、法皇南殿に出御あり。或る殿上人を以て、「何者ぞ」と御尋ねありP1184(九八ウ)けるに、「山僧、摂津の竪者毫雲と申す者にて候ふ」と奏す。「さては山門に聞ゆる僉議者ごさむなれ。己が山門の講堂の庭にて僉議すらむ様に、只今申せ。訴訟有らば直に御聖断有るべき」由、仰せ下さる。毫雲頭を地に傾けて、「山門の僉議と申し候ふは、殊なる事にて候ふ。先づ、王の舞を舞ひ候ふには、面摸の下にて鼻をしかむる事の候ふなる定に、三塔の僉議の様は、大講堂の庭に三千人の大
衆会合して、破れたる袈裟にて頭を裹みて、入堂杖とて二三尺計り候ふ杖を面々に突きて、道芝の露打ち払ひて、小さき石を一つづつ持ち候ひて、其の石に腰を係け、居並みて候へば、同宿なれども互ひに見知らP1185(九九オ)ぬ様にて候ふ。『満山の大衆、立ち廻られ候へや』とて、訴訟の趣を僉議仕り候ふに、然るべきをば『尤々』と同じ候ふ。然るべからざるをば、『謂はれ無し』と申し候ふ。我が山の定まれる法に候ふ。勅定にて候へばとて、ひた頭にては争か僉議仕り候ふべき」と申したりければ、法皇興に入らせ御して、「さらば、とく出で立ちて、参りて僉議仕れ」と仰せ下さる。
 毫雲、勅定を蒙りて、同宿十余人に頭裹ませて、下部の者共には、直垂・小袴などを以てぞ、頭をば裹ませける。已上十二三人ばかり引き具して、御前の雨打の石に尻係けて、毫雲、己が訴訟の趣、事の始めより一時申したりければ、同宿共、兼ねて議したるP1186(九九ウ)事なれば、一同に「尤々」と申したり。法皇興に入らせ御して、当座に御勅裁蒙りたりし毫雲とぞ聞えし。
 蔵人左少弁、仰せを奉りて、先例を出羽守師尚に尋ねらる。「保安四年〈癸卯〉七月、神輿入洛の時は、座主に仰せて神輿本山へ送り奉ららる。又、保延四年〈戊午〉御入洛の時は、祇薗の別当に仰せて、神輿、祇薗社へ送り奉る」と勘へ申しければ、殿上にて俄かに公卿僉議有りて、「今度は保延の例たるべし」とて、神輿を祇薗社へ渡し奉るべき由、諸卿一同に申されければ、未の尅に及びて、彼の社の別当、権大僧都澄憲を召し、神輿を迎へ奉るべき由、仰せ下さる。
 澄憲申されけるは、「天下無双P1187(一〇〇オ)の垂跡、鎮護円宗の霊神也。白昼に塵灰の中に蹴立て進らせて当社へ入れ奉る事、生々世々口惜しかるべし。王法は是仏法の加護を以て国土を持ち給ふに非ずや。
 されば、昔、仁明天皇の御宇弘仁九年、諸国飢饉し疫癘衢に起こりて、死人道路に充つ。其の時、帝、民を省み給ふ御志深くして、諸寺諸山に仰せて是を祈らせ給ひけれども、更に其の験無し。帝弥よ歎き思し食して、叡山の衆徒に仰せて是を祈るべき由宣下せらる。三塔会合して、『此の御祈り何が有るべかるらむ。昔より雨を祈り日を祈る事は有りしかども、飢饉疫癘立ち所に祈り留むる例、未だ承り及ばず。さればとて、辞し申さば王命P1188(一〇〇ウ)を背くに似たり。進退惟谷まれり』と云ふ衆徒もあり。又、『仏法の威験、疎かならず。飢饉なりとも、などか我が山の医王山王の御力にて退けたまはざるべきなれば、護国利民の方法、凶害消除の祈祷には、仁王経に過ぐべからず』とて、三千人の衆徒、異口同音に丹誠を致して、根本中堂・大講堂・文殊楼にして、七ヶ日の間、十四万七千余座の仁王経を講読し奉る。供養は地主十禅師の社壇にて遂げられにけり。
 比は卯月半ばの事にや、飢饉温病に責められて、親死ぬる者は子歎きに沈み、子に後れたるは親穢れけるに依りて、瑞籬に臨む人も無し。爰を以て、導師説法の終方に、『卯月はP1189(一〇一オ)垂跡の縁月なれども、幣帛を捧ぐる人も無し。八日は薬師の縁日なれども、南无と唱ふる音もせず。緋の玉墻神さびて、引く四目縄の跡も無し』と申したりければ、衆徒哀を催しつつ、一度に感涙を流して衣の袖をぞぬらしける。
 其の夜、帝の御夢想に、比叡山より天童二人京へ下りて、青鬼と赤鬼との多く有りけるを白払にて打ち払ひければ、鬼神共南を指して飛び行きぬと御覧じて、『本山の祈請已に感応して、病難も直りぬ』と思し食す霊瑞有りければ、帝、御夢の次第を御自筆にあそばして、御感の院(勅歟)宣を衆徒の中へ下されたりけるとぞ承はる。
 即ち国土穏にしP1190(一〇一ウ)て、民の烟もにぎはひて、朝な夕なの煙絶えせざりければ、御門、古き歌を常に詠ぜさせ給ひけるとかや。
 たかき屋にのぼりてみればけぶりたつたみのかまどはにぎはひにけり
かかる目出(めでた)く止む事無き御神を、白昼に雑人に交へ奉りて動かし奉らん事、心憂かるべし」と申して、日既に暮れ、秉燭に及びて、当社の神人・宮仕詣りて、御輿を祇薗社へ入れ奉る。
 凡そ神輿入洛の事、其の例を勘ふるに、永久元年より以来、既に六ヶ度也。武士を召して防かるる事も度々也。然れども、正しく神輿を射奉る事、先例無し。今度十禅師の御輿に矢を射立つる事、あさましと云ふも愚かなり。「『人を怨むる神を怨むれば、国に災害起こる』と云へり。只P1191(一〇二オ)天下の大事出で来なむ」とこそ恐れあひけれ。
卅八 〔法住寺殿へ行幸成る事〕 S0138
 十四日に大衆重ねて下るべき由聞えければ、夜中に主上腰輿に召して法住寺殿へ行幸なる。内大臣重盛以下、供奉の人々、非常の警固にて、直衣に失負ひて供奉せらる。左少将雅賢、闕腋の束帯を着、平胡〓(ひらやなぐひ)負ひて供奉せらる。内大臣の随兵前後に打ち囲みて、中宮は御車にて行啓あり。禁中の上下周章騒ぎ、京中の貴賎走り迷へり。関白以下、大臣諸卿、殿上の侍臣、皆馳せ参りけり。
 「裁報遅々の上、神輿に矢立ち、神人・宮仕矢に当たりて死す。衆徒多く疵を被る上は、今は山門の滅亡此の時也」とて、「大宮・二宮以下の七社、講堂・中堂・諸堂P1192(一〇二ウ)一宇も残さず焼き払ひて山野に交はるべき」由、三千人一同に僉議すと聞えければ、山門の上綱を召して、「衆徒の申す所、御成敗有るべき」由、仰せ下さる。十五日、僧綱等勅宣を奉りて、子細を衆徒に相触れんとて登山する処に、衆徒等猶嗔りを成して追ひ返す。僧綱等、色を失ひて逃げ下る。
卅九 〔時忠卿山門へ上卿に立つ事 付けたり師高等罪科せらるる事〕 S0139
 院より衆徒を宥められむが為に、「大衆の欝訴達すべき由、勅使と為て登山すべし」と仰せ下されけれども、公卿の中にも殿上人の中にも、「我上卿に立たん」と申す人無し。皆辞し申しける間、平大納言時忠、其の時は左衛門督にておはしけるを、登山すべき由、仰せ下されければ、時忠心中には「益無き事哉」と思はれけれども、君のP1193(一〇三オ)仰せ背き難き上、多くの人の中に思し食し入りて仰せ下さるる事、面目と存じて、殊にきらめきて出で立ち給へり。侍一人、花を折りて装束す。雑色四人、当色にて万づ清げにて、登山して大講堂の庭に立たれたり。
 三塔の大衆、蜂の如く起こり合ひて、院々谷々よりをめき叫びて群集する有様、おびたたしなどは斜めならず。時忠卿、色を失ひ神を消して、打ちあきれて立たれたりけるに、衆徒等、時忠を見て弥よ嗔りて、「何故に時忠登山すべきぞや。返 々奇怪なり。既に山王大師の御敵なり。速やかに大衆の中へ引き入れて、しや冠を打ち落とし、足手を引き張り、本鳥切りて、湖に逆まにはめよ」と、音々に〓(ののし)りけるをP1194(一〇三ウ)聞きて、共に有りつる侍も雑色も、いづちか行きぬらむ、皆逃げ失せぬ。時忠危く思はれけれども、本よりさる人にて、乱の中の面目とや思はれけむ、騒がぬ体にて宣ひけるは、「衆徒の申さるる所、尤も其の謂はれあり。但し、人を損ずるは君の御歎きたるべき。非例を訴へ申さるる間、御裁許遅々する事は国家の法也。されども今御成敗有るべき由、仰せ下さるる上は、衆徒強ちに嗔りを成されん哉」とて、懐より小硯を取り出だして、諸司を召し寄せて水を入れさせ、畳紙を押し開きて一句を書きて、大衆の中へ投げ出だされたり。其の詞に云はく、「衆徒の濫悪を致すは魔縁の所行か。明王の制止を加ふるは善逝の加護也」とぞ書かれたりける。P1195(一〇四オ)諸司此の一筆を捧げて、さしもどどめく大衆の前毎に披露す。或る大衆是を見て、「面白くも書かれたる一筆哉」とて、はらはらとぞ泣きける。大衆面々に、「勝に面白く書きたり」と感じ合ひて、時忠を引き張るに及ばず、静まりにけり。大衆静まりて後、山門の訴訟達すべき由の宣旨をぞ披露せられける。其の時こそ、共なりつる者共も、事がらよげに見えければ、ここかしこより出で来て、主をもてなし奉りけれ。
 時忠、一紙一句を以て、三塔三千の衆徒の憤りを休め、虎口を遁れけるこそ有難けれ。山上・洛中の人々、感じあへる事限りなし。「山門の衆徒は発向の喧しき計り歟とこそ存じつれ、理をも知りたりけるにこそ。争か御成敗P1196(一〇四ウ)無かるべき」など、各申し合ひけり。
 さて、時忠卿、院の御所へ参られたりければ、「さても衆徒の所行は何に」と、取り敢へず御尋ねありけり。時忠、「大方兎も角も申すに及ばず候ふ。只山王大師の助けさせ給ひたるとばかり存じて、匍ふ匍ふ逃げ下りて候ふ。怱ぎ御裁報有るべく候ふ」と奏聞せられければ、此の上は法皇力及ばせ給はずして、廿日、加賀守藤原師高解官して、尾張国へ配流せらるべき由宣下せらる。其の状に云はく、
従五位上加賀守藤原朝臣師高、官を解き、位を尾張国に追ふこと
職事頭右中弁(権中納言イ)兼左兵衛督光能朝臣仰す。上卿別当忠雅仰す。右少弁藤原光雅、左大史小槻澄(隆イ)職に仰せて、P1197(一〇五オ)官符を作らしむ。参議平頼定卿、少納言藤原雅基等、御政御印。
官符に又仰せて云はく、検非違使右衛門志中原重成、早く配所へ追ひ遣すべし者ば、今月十三日、叡山衆徒、日吉の社の神輿を捧げ、勅制を軽んぜしめ、陣中に乱れ入らしむるに依りて、警固の輩、凶党を相禦ぐ間、其の矢、誤りて神輿に中たる事、図らずと雖も、何ぞ其の科を行はざらん。宜しく検非違使に仰せて、平利家・同家兼・藤原通久・同成直・同光(元イ)景・田使俊行等を召して、禁獄せしめ給ふべき者也。加賀守師高流罪、并びに神輿を射奉る官兵共六人禁獄の事、今日已にP1198(一〇五ウ)宣下し畢(を)はんぬ。件の間の事二通、之を遺す。此の旨を以て山上に披露せしめ給ふべき由、候する所也。恐々謹言
  四月廿日    権中納言藤原光能
執当法眼御房へ
とぞ書かれたりける。追書に云はく、
  禁獄の官兵等が夾名、山上に定めて不審せしむる歟。仍りて内々委しく尻付の夾名を相尋ね、一通相副へられ候ふ所也。禁獄人等、平俊家、字は平次、是は薩摩入道家季が孫、中務丞家資が子。同家兼、字は平五、故筑前入道家貞が孫、平内太郎家継P1199(一〇六オ)が子。藤原通久、字は加藤太、同成直、字は早尾十郎、馬允成高が子。同光景、字は新二郎、前左衛門尉忠清が子。田使俊行、難波五郎等也。かやうにこそは注されけれ。目代師経をば備前国府へ流されにけり。
四十 〔京中多く焼失する事〕 S0140
 廿八日亥時計りに、樋口富小路より火出で来たる。折節、辰巳の風はげしく吹きて、京中多く焼けにけり。終には内裏に吹き付けて、朱雀門より始めて、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・所司八省・大学寮・真言院・勧学院・穀蔵院、冬嗣のP1200(一〇六ウ)大臣の閑院殿、惟喬の御子の小野宮、菅丞相の紅梅殿、梅殿、桃殿、良明大臣の高松殿、具平親王の秋を好みし千草殿、三代の御門の誕生し給ひし京極殿、忠仁公の染殿、清和院の貞仁公故一条院、山吹さきし故二条院、照宣公の掘河殿、萱御殿、高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼の三位の山の井殿、紫雲立ちし公任の大納言の四条の宮、神泉薗の東三条、鬼殿、松殿、鳩井殿、橘の逸  勢、五条后の東五条、融の大臣の河原院、かやうの名所三十P1201(一〇七オ)余ヶ所、公卿の家だにも十六ヶ所焼けにけり。まして殿上人・諸大夫の家は数を知らず。地を払ひて焼けにけり。
 樋口富小路よりすぢかへに戌亥の方を差して、車の輪計りなる火聚飛び行きければ、恐ろしと云ふも愚かなり。是直事に非ず。偏に叡山より猿多く松に火を付けて京中を焼くとぞ、人の夢に見えたりける。
 大極殿は、清和天皇御時、貞観十八年四月九日始めて焼けたりければ、同十九年正月九日、陽成院の御位は豊楽院にてぞ有りける。P1202(一〇七ウ)元慶元年四月廿一日、事始め有りて、同三年十月八日にぞ造畢せられける。
後冷泉院の御宇天喜五年四(二イ)月廿一日に又焼けにけり。治暦四年八月二日事始め有りて、同年十月十日棟上ありけれども、造畢せられずして、後冷泉院は隠れさせ給ひぬ。後三条院の御宇延久四年十月十(五イ)日造り出だして、行幸有りつつ、宴会行はる。文人詩を献じ、楽人楽を奏す。
 此の内裏は、四位少納言入道信西、勅宣を奉り、国の費も無く民の煩ひも無くして、一両年間P1203(一〇八オ)に造畢して行幸なし奉りし内裏也。今は世の末に成りて、国の力衰へて、又造り出ださむ事も難くや有らんずらむと歎きあへり。
平家物語第一本






平家物語 二
P1205(一オ)
一  天台座主明雲僧正被止公請事
二  七宮天台座主に補給ふ事
三  明雲僧正流罪に定る事
四  明雲僧正伊豆国へ被流事
五  山門の大衆座主を奉取返事
六  一行阿闍梨流罪事
七  多田蔵人行綱仲言の事
八  大政入道軍兵被催集事
九  大政入道院御所へ使を進る事
十  新大納言召取事
十一 西光法師搦取事
十二 新大納言を痛め奉る事
十三 重盛大納言の死罪を申宥給ふ事
十四 成親卿の北方の立忍給ふ事
十五 成親卿無思慮事
十六 丹波少将成経西八条へ被召事
十七 平宰相丹波少将を申請給ふ事
十八 重盛父教訓之事
十九 重盛軍兵被集事〈付周幽王事〉
廿  西光頸被切事
P1206(一ウ)
廿一 成親卿流罪事〈付鳥羽殿にて御遊事成親備前国へ着事〉
廿二 謀叛の人々被召禁事
廿三 師高尾張国にて被誅事
廿四 丹波少将福原へ被召下事
廿五 迦留大臣之事
廿六 式部大夫章綱事
廿七 成親卿出家事〈付彼北方備前へ使を被遣事〉
廿八 成経康頼俊寛等油黄嶋へ被流事
廿九 康頼油黄嶋に熊野を祝奉事
卅  康頼本宮にて祭文読事
卅一 康頼が歌都へ伝る事
卅二 漢王の使に蘇武を胡国へ被遣事
卅三 基康が清水寺に籠事〈付康頼が夢の事〉
卅四 成親卿被れ失は給ふ事
卅五 成親卿の北方君達等出家事
卅六 讃岐院之御事
卅七 西行讃岐院の墓所に詣る事
卅八 宇治の悪左府贈官等の事
卅九 三条院の御事
四十 彗星東方に出る事
P1207(二オ)
平家物語第一末
一 〔天台座主明雲僧正公請を止めらるる事〕 S0201
 五月五日、天台座主明雲僧正、公請を止めらる。蔵人を遣して、如意輪の御本尊を召し返し、御持僧を改易せらる。即ち庁の使を付けて、今度神輿を捧げ奉りて陣頭へ参りたる大衆の張本を召さる。「加賀国に座主の御坊領あり。師高是を停廃の間、其の宿意に依りて、門徒の大衆を語らひて訴訟を出だす。已に朝家の御大事に及ぶ」由、西光法師父子讒奏の間、法皇大きに逆鱗ありて、殊に重科に行ふべき由思し召しけり。明雲は、かやうに法皇の御気色あしかりければ、印鎰を返し奉りてP1208(二ウ)座主を辞し申されけり。
 〔二〕 〔七宮、天台座主に補せられ給ふ事〕
  十一日七宮天台座主にならせ給ふ。鳥羽院第七宮故青蓮院大僧正行玄の御弟子也。
 〔三〕 〔明雲僧正流罪に定まる事〕
 十二日、先座主、所職を止めらるるの上、検非違使二人付きて水火の責めに及ぶ。此の事によりて、大衆又奏状を捧げて憤り申す。猶参洛すべき由聞こえければ、内裏并びに法住寺殿に軍兵を召し集めらる。京中の貴賎騒ぎあへり。大臣公卿馳せ参る。
 廿日、「前座主罪科の事、僉議有るべし」とて、太政大臣以下公卿十三人参内して、陣の座に着きて定め申さる。八条中納言長方卿、其の時は右大弁宰相にておはしけるが、P1209(三オ)申されけるは、「法家の勘へ申すに任せて、死罪一等を減じて遠流せらるべしと云へども、明雲僧正は、顕密兼学して浄行持律也。戒珠光明らかにして一天の下に耀き、定水流れ深くして四海の上に澄めり。三密の教法源を究めて、遥かに恵果・法全の古風を扇ぎ、五瓶の智水底を払ひて、遠く不空・無畏の清流を汲む。智恵高貴にして一山の貫首為り。徳行無双にして三千の和尚為り。其の上、明王聖主には一乗法花の師範たり。太政法皇には円頓受戒の和尚たり。御経御戒の師、重科に行はるる事、冥の照覧測り難し。還俗遠流の儀を宥せられば、天下泰平の基たるべきか」と、憚る所無く申されければ、太政大臣師長公より始めて、十三P1210(三ウ)人の公卿、各「長方定め申さるる儀に同ず」と申されけれども、法皇の御鬱り深かりければ、猶流罪に定まりにけり。太政入道も此の事申し止めむとて参られたりけれども、御風の気と仰せられて、御前へも召されざりければ、憤り深くして出でられにけり。
 四 〔明雲僧正伊豆国へ流さるる事〕
 廿一日、前座主明雲僧正をば、僧の流罪せらるる例とて、度縁を召し返されて、大納言大夫藤井松枝と云ふ俗名を付けて、伊豆国へ流さるべき由、宣下せらる。皆人傾き申しけれども、西光法師が無実の讒奏によりてかく行はれけり。其の時、いかなる者か読みたりけん、札に書きて立てたりけり。
  松枝はみなさかもぎに切りはてて山にはざすにすべきものなし
〔五〕 〔山門の大衆、座主を取り返し奉る事〕
 ▼P1211(四オ)衆徒是を聞きて、西光法師父子が名字を書きつつ、根本中堂に御坐す十二神の寅神に当たり給へる金毘羅大将の御足の下にふませ奉りて、「十二神将、七千夜叉、時尅を廻さず、西光師高父子が一魂を召し取り給へ」と呪咀しけるこそ、聞くも怖しけれ。
 「今夜都を出だし奉れ」と院宣きびしくて、追立の検非違使、白川の御坊に参りて其の由を申しければ、廿三日、白川御坊を出でさせ給ひて、伊豆国の配所へ趣き給ふ御有様こそ悲しけれ。昨日までは三千人の貫首と仰がれて、四方輿にこそ乗り給ひつるに、あやしげなる伝馬に結鞍と云ふ物を置きて乗せ奉る。いつくしげ▼P1212(四ウ)なる御手に皆水精の御念珠を持ち給へるを縄手綱に取り具して、前輪にうつぶし入りて、見馴れ給ひし御弟子一人も付き奉らず、門徒の大衆も見送り奉らず、官人共の先に追ひ立てられて、関より東に趣き給ふ御心の内、中有の旅とぞ思し食しける。夢に夢みる心地して、流るる涙に御目くれ、行先も見え給はず。是を見奉る上下の諸人、涙を流さぬはなかりけり。
 日も既に晩れにければ、粟田口の辺、一切経の別所と云ふ所にしばしやすらひ給ふ。夜を待ちあかして、次の日の午時ばかりに、粟津の国分寺の堂に立ち入りて、しばらくやすみ給ふ。
 之に依りて、満山の大衆、一人も残り留まらず東坂本へ下りつつ、十禅師の▼P1213(五オ)御前に集会して僉議しけるは、「抑も我が山は仏日照臨の地、法水交流の砌也。所以に旧学の高才、踝を継ぎて、天台三観の月を翫び、後進の翹楚、林妙を為して、四教権実の玉を瑩く。月氏雲幽かにして、鷲嶺の視聴を西天の昔に隔つと雖も、日域光朗かにして、全く鵞王の大法を東漸の今に得たり。霊山の八万、質を替へて三千余人の学徒に象り、地誦の十界、体を弊して東西楞厳の文巻を捧ぐ。仏日光を和らげて四明の峯に一乗の法を弘め、覚月塵に同じくして、台嶺の麓に八相の機を調ふ。誠に日域無二の霊山、天下無双の勝地也。又、座主和尚とは、仏教の奥旨を究めて、高位の崇斑に昇り、一山の貫首と仰がれて、三▼P1214(五ウ)千の棟梁為り。両界三部は万練の鏡、大日遍照の秘法に陰り無く、一乗五律は深淵の水、仏衆法海の勝文に波静か也。威風遠く扇ぎて、梢を靡かし、慈雲厚く覆ひて、満山潤ひを受く。止観の窓に臂を朽して、多年南岳・天台の源を尋ね、瑜伽の壇に心を澄まして、数歳龍智・龍猛の流を汲む。貫首と云ひ、山上と云ひ、誰か是を軽しめむ。就中、伝教・慈覚・智証三代の御事は申すに及
ばず、義真和尚より以来五十五代、未だ天台座主流罪の例を聞かず。末代と云へども、争か我が山に疵をば付くべき。詮ずる所、三千の大衆、身を我が山の貫首に代へ奉り、命を伊王山王に進らす。粟津へ罷り向かひて、貫首を取り留め奉るべし。但し、追立の官人、領▼P1215(六オ)送使あむなれば、取り得奉らむ事難し。山王大師の御力より外、憑む方なし。事故なく取り得奉るべくは、只今験見せ給へ」 と、三千人の衆徒一同に肝胆を摧きて祈念す。
 良久しくありて、一人の物付き狂ひ出でて、暫く狂ひ躍る。五体より汗を流して申しけるは、「世は末なれども、日月未だ地に落ちず。国は賎しけれども、霊神光を耀かす。爰に貫首明雲は、我が山の法燈、三千の依怙たり。而るを罪なくして他国に遷されむ事、一山の瑕瑾、生々世々に心憂かるべし。さらむに取りては、我此の山の麓に跡を留めてもなにかはせむ。本土へこそ帰らむずらめ」とて、袖を皃におしあててさめざめと泣きければ、大衆是を怪しみて、「実に山王の御詫宣ならば、我等が念珠を▼P1216(六ウ)献りたらむを、少しも違へず、本の主々へ返し給ふべし」とて、衆徒等念珠を同時に宝前へ投げたりければ、物付是を悉く拾ひ集めて、本の主々へ一々に賦り渡してけり。誠に我が山の七社権現の霊験の新たにおはします忝けなさに、大衆涙を流しつつ、「さらばとうとう迎へ奉れや」とて、或いは眇々たる志賀・唐崎の浜路に、小馬に鞭打つ衆徒もあり、或いは漫々たる山田・矢馳の湖上に、舟に棹さす大衆もあり。東坂本より粟津へつづきて、国分寺の堂におはしましける座主を取り留め奉りければ、きびしげなりつる追立の官人もみえず、領送使もいづちか行きぬらむ、失せにけり。
 座主は大きに怖れ給ひて、「勅勘の者は▼P1217(七オ)月日の光にだにもあたらずとこそ申せ。時剋を廻らさず追ひ下さるべき由、宣下せらるるに、暫しもやすらふべからず。衆徒とくとく返り上り給へ」とて、はし近く居出でて宣ひけるは、「三台槐門の家を出でて四明荊蕀の窓に入りしより以来、広く円宗の教法を学して、只我が山の興隆をのみ思ひ、国家を祈り奉る事も疎かならず、門徒を省む志も深かりき。身に誤つ事なし。両所三聖、定めて照覧し給ふらむ。無実の讒奏によりて遠流の重科を蒙る、是先世の宿業にてこそは有らめと思へば、世をも人をも、神をも仏をも、更に恨み奉る事なし。是まで訪ひ来り給へる衆徒の芳心こそ申し尽くしが▼P1218(七ウ)たけれ」とて、涙に咽び給ふ。香染の御袖も絞る計り也。是を見奉りて、そこばくの大衆も皆涙を流す。
 やがて御輿よせて乗せ奉らむとしければ 「昔こそ三千人の貫首たりしかども、今はかかるさまになりたれば、争か止む事無き修学者、智恵深き大徳達には、かかげささげられて、我が山へは帰り登るべき。藁履なむど云ふ物はきて、同じさまに歩みつづきてこそ上り候はめ」とて、乗り給はざりければ、かかる乱逆の中なれども、万づ物哀れなりけるに、西塔の西谷に戒浄房阿闍梨祐慶とて、三塔に聞こえたる悪僧有りけり。二枚甲を居頸にきなし、黒革威の大荒目の草摺長なるに、三尺五▼P1219(八オ)寸の大擲刀の茅の葉の如くなるをつき、「大衆の御中に申し候はむ」とて、さしこえさしこえ分け行きて、座主の御前に参りて、甲を抜ぎて薮の方へがはと投げ入れければ、下部の法師原取りてけり。擲刀脇に挟み、膝をかがめて申しけるは「かやうに御心弱く渡らせ給ふによりて、一山に疵をも付けさせ給ひ、心憂き目をも御覧ぜられ候ふぞかし。貫首は三千人の衆徒に代はりて流罪の宣旨を蒙り給ふに、三千人の衆徒は貫首に代はり奉りて命を失ふとも、何の愁ひかあらむ。とくとく御輿に奉り候ふべし」と申して、座主の御手をむずと取りて御輿にかきのせ奉りければ、座主わななくわななく乗り給ひぬ。やがて祐慶
輿の先▼P1220(八ウ)陣をかく。後陣は若き大衆、行人なむどかき奉る。粟津より鳥の飛ぶが如くして登山するに、祐慶阿闍梨は一度もかはらざりけり。擲刀の柄も奥の長柄も、くだく計りぞ見えたりける。後陣こらへずして各代はりけり。さしもさがしき東坂を、平地を歩むにことならず、大講堂の庭に舁きすゑ奉る。
 粟津へ下らぬ、行歩に叶はぬ老僧共は、「此の事何様に有るべきぞや。日来は一山の貫首と仰ぎ奉りつれども、今は勅勘を蒙り給ひて遠流せらるる人を、横取りに取り留むる事、始終いかが有るべかるらむ」なむど議する輩もありければ、祐慶少しも憚らず、扇開き仕りて、胸おしあけ、胸板きらめかして申しけるは、▼P1221(九オ)「吾が山は是日本無双の霊地、鎮護国家の道場也。山王の御威光弥よ盛りにして、仏法王法牛角也。衆徒の意趣も余山に越え、賎しき小法師原に至るまで、世以て猶軽しめず。何に況や、明雲僧正は、智恵高貴にして一山の和尚たり。徳行無双にして三千の貫首たり。而るを今罪なくして罪を蒙り給ふ事、是併ら山上洛中の鬱り、興福・園城の嘲りか。悲しき哉、此の時に当たりて顕密の主を失ひて、止観の窓の前には螢雪の勤め廃れ、三密の壇の上に護摩の煙絶ゆる事、心憂き事に非ずや。誠に中途にして留め奉る違勅の罪科遁れ難くは、所詮、祐慶、今▼P1222(九ウ)度三塔の張本に差されて禁獄流罪せられ、首を刎ねらるる
事、全く痛み存ずべからず。且は今生の面目、冥途の思ひ出たるべし」と高声に〓りて、双眼より涙を流しければ、満山の衆徒是を聞きて、老いたるも若きも、皆衣の袖を絞りつつ、「尤も尤も」と一同す。やがて座主を舁き奉りて、東塔の南谷妙光坊へ入れ奉る。
 其より、祐慶をば、異名にはいかめ房と名づけたり。其の弟子、恵海律師をば小いかめ、其の弟子、〓慶備前注記を
ば孫いかめと申しけるとかや。
六 〔一行阿闍梨流罪の事〕
 時の横災は権化の人も遁れざりけるにや。大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の時、無実の疑ひによりて罪を蒙る事有り▼P1223(一○オ)けり。其の故は、玄宗の后に陽貴妃と云ふ人おはしき。元より仙女なりければ、蓬莱宮へ帰り給ふべき期も近くなりにけり。御〓[女+夫]の楊国忠を召して宣ひけるは、「仏前仏後の中間に生まれて、釈尊慈氏の記別に漏れ、行住坐臥の妄念に沈みて、生死流転の業因を結ぶ。三界処広けれども、皆是有為無常の境、四生形多けれども、又是生者必滅の類なり。これに依つて、十力無畏の尊、寂滅を双林の嵐に任せ、六天浄妙の楽しみ、退役を五衰の露に悲しむ。会者定離の理、東岱の煙に見え、老少不定の習ひ、南門の風に聞こゆ。帝に別れ奉るべき期の近付きたるやらむ、此の程は胸騒ぎ打ちして、はかなき夢のみ見へ ▼P1224(一〇ウ)て、常に心のすむぞとよ」と宣ひければ、「南浮不定の棲、諸尊の妙体を憑み奉り、息災延寿の基、菩薩浄戒に如くは無し。彼の一行は、戒珠を瑩きて光を増し、尸羅を織りて色鮮やかなり。彼を召し請じて三摩耶戒を受けさせ給ふべし」と申しければ、一行を召して道場を飾る。捧ぐる所は山野四季の花、仏前に備へて色鮮やかなり。供ふる所
は草木百薬の香、道場に薫りて匂ひ芳し。然れども「帝の御ゆるされなからむには、輙く戒を授け奉り難き」旨を申さる。其の時、貴妃の宣はく、「和尚は菩薩の行を立てて一切衆生を導き給ふなるに、何ぞ我が身一人に限りて戒を授け給はざるべきや」と恨み給ひければ、「さらば」とて七日七夜菩薩▼P1225(一一オ)浄戒を授け奉らる。
 其の比、安禄山と云ひける大臣、奸心を挿みて、楊国忠を失ひて国の務を執らばやと思ふ心深くして、次でを求めける折節、此の事を漏り聞きて、密かに皇帝に申しけるは、「后既に帝に二心おはしまして、楊国忠に御心を合はせて、一行に近付き給ふ事あむなり。君打ち解け給ふべからず」と。帝、是を聞こし召して、「貴妃我に志浅からず。一行又貴僧也。何故にか、只今猿事あるべき」と思ひ給ひけれども、実否を知り給はむが為に、陽貴妃の真の体を少しも違へず画に書きて献るべき由を一行に仰せらる。一行、大唐一のにせ絵の上手にておわしければ、かかる謀有りとも知り給はず、筆を尽くして貴妃の形を移して進らせらるる程に、いかがしたり▼P1226(一一ウ)けむ、筆を取りはづして、貴妃の臍の程に当たりて墨を付けてけり。「貴妃の膚には黒子と云ふ物のありけるとかや、書きなほさばや」とは思はれけれども、帝「おそし」と責め給ひければ、献りぬ。帝、此を見給ひて、「安禄山は実を云ひけり。一行、貴妃に近付かずは、争でか膚なる黒子をば知るべき」とて即ち一行を火羅国と云ふ国へ流さる。
 件んの国は古き王宮なりければ、彼の国へ下る道三あり。一の道をば林池道と云ふ。此の道は御幸の路也。一の道をば遊池道と名づく。貴賤上下を嫌はず行き通ふ道也。今一の道をば闇穴道と名づけたり。犯科の者出できぬれば流し遣はす路也。此の道は下に水湛々として際なく、上には日月星宿の光もみえ給はず。▼P1227(一二オ)七日七夜空をみずして行く道なり
ければ、冥々として天闇く、行歩に前途の路みへず。深々として人もなく、函谷の鶏の一声もなく、さこそは心細く悲しく思ひ給ひけめ。思ひ遣られて哀れ也。
 一行無実によりて遠流の罪を被る事を天道憐れみ給ひて、九曜の形を現じて守り給ふ。一行随喜の余りに、右の指をくひきりて、左の三衣の袂に九曜の形を写し留め給ひにけり。火羅の図とて吾が朝までも世に流布する九曜の曼荼羅と申すは即ち是也。一行阿闍梨と申すは、龍猛菩薩よりは六代、龍智あざりよりは五代、金剛智三蔵よりは四代、不空三蔵よりは三代、善無畏三蔵の御弟子也。▼P1228(一二ウ)「人を斬る刃は口より出でてこれを斬る。人を殺す種は身より出でてこれを蒔ふ」と云ふ本文に違はず。
 大衆、前座主を取り留め奉るの由、法皇聞こし召して、いとど安からず思召されける上に、西光入道内々申しけるは、「昔より山門の大衆猥き訴訟仕る事は今に始めねども、未だ是程の狼藉承り及ばず。今度ゆるに御沙汰有らば、世は世に
ても有るべからず。能く能く御誡め有るべし」とぞ申しける。身の只今に滅せむずる事をも顧みず、山王の神慮にも憚らず、加様にのみ申して、いとど震襟を悩まし奉る、あさましき事なりけり。「讒臣は国を乱り、妬婦は家を破る」とみへたり。「叢蘭茂らむと欲し、秋風これを敗る。王者明らかならんと欲すれども、讒臣これを蔽す」とも云へり。誠なる哉。此の事を武家に▼P1229(一三オ)仰せけれどもすすまざりければ、新大納言以下の近習の輩、武士を集めて山を責めらるべき由、沙汰ありけり。物にも覚へぬ若き人々、北面の下臈なむどは興ある事に思ひていさみあへり。少しも物の心をも弁へたる人は、只今大事出で来なむず。こは心憂き態哉」と歎きあへり。又、内々大衆をも誘へ、仰せの有ければ、院宣の度々下るもかたじけなければ、王土にはらまれながら詔命を対押(捍)せむも恐れ有りければ、思ひ返し靡き奉る衆徒も有りけり。
 座主は妙光坊に御座しけるが、大衆二心有りと聞き給ひぬれば、「何と成りなむずる身やらむ」とぞ思食されける。▼P1230(一三ウ)
七 〔多田蔵人行綱仲言の事〕
 成親卿は山門の騒動に依つて私の宿意をば押へられけり。そも内議支度はさまざまなりけれども、議勢ばかりにて其の事叶ふべしともみえざりけり。其の中に、多田蔵人行綱、さしも契深くたのまれたりけるが、此の事無益なりと思ふ心付きにけり。さて弓袋の料に新大納言より得たりける五十端の布共、直垂小袴に裁ち縫ひて家の子郎等にきせつつ、目打ちしばたたきて居たりけるが、思ひけるは、「倩ら平家の繁昌する有様を見るに、当時輙く傾け難し。大納言の語らはれたる兵、いく程なし。由無きことに与力してけり。若し此の事漏れぬる物ならば誅せられ▼P1231(一四オ)む事疑ひ無し。甲斐なき命こそ大切なれ。他人の口より漏れぬ先に返り忠して、命生きなむ」と思ひて、五月廿九日夜打ち深けて、大政入道の許へ行き向ひて、「行綱こそ、申すべき事あて、参りて候へ」と申しければ、「常にも参らぬ者の、只今夜中に来たるこそ心得ね。何事ぞ。聞け」とて、平権守盛遠が子、主馬判官盛国を出だされたり。「人づてに申すべき事に非ず。直に見参に入りて申すべし」と申しければ、入道、右馬頭重衡相具して中門の廊に出で合ひて、入道宣ひけるは、「六月無礼とて紐とかせ給へ。入道も白衣に候ふ」とて、
白幡に白大口ふみくくみて、すずしの小袖打ちかけて、左の手に打刀ひさげ▼P1232(一四ウ)て蒲打輪仕はる。「此の夜はまうにふけぬらむ。いかに、何事におはしたるにか」。
 行綱、近々と指し寄りて小音になりてささやき申しけるは、「いと忍びて申すべき事候ひて、昼は人目のつつましさに、態と夜にまぎれて参りて候ふ。院中の人々、兵具をととのへ軍兵を召し集めらるる事をば、知食されて候ふやらむ」と申しければ、「いさ、それは山の大衆を責めらるべしとこそ承れ」と、いと事もなげに宣ひければ、「其の儀にては候はず」とて、日来月来、新大納言を始めとして、俊寛が鹿谷の山庄にて、よりあひよりあひ内議支度しける事、「其は、とこそ申し候ひしか、かくこそ申し候ひしか」と人の吉き事云ひたるをば▼P1233(一五オ)我申したりしと云ひ、我悪口したりしをば人の申したるに語りなし、五十端の布の事をば一端も云ひ出ださず、有りのままには指し過ぎて、やうやうさまざまの事ども取り付けて細かく申しければ、入道大きに驚きて宣ひけるは、「保元平治より以来、君の御為に命を捨つる事、既に度々也。人々いかに申すとも、きみ君にて渡らせ給はば、争でか入道をば子々孫々までも捨てさせ給ふべき。恐れながら、君もくやしくこそ渡らせ給はむずらめ。抑も此の事は、院は一定知ろし食されたるか」と宣ひければ、「子細にや及び候ふ。大納言の軍兵催され候ひしも、院
宣とてこそ催され候ひしか」。其の外も様々の事ども云ひちらして、「暇申して」 ▼P1234(一五ウ)とて帰りにけり。
 入道大声にて侍共をよびて、〓りしかられける気色、門外まで聞こえければ、行綱「慥かなる証人にもぞ立つ」とて、「穴怖し」とて、野に火を付けたる心地して、人もおはぬに、取袴をして怱ぎ馳せ帰りぬ。
八 〔大政入道軍兵催し集めらるる事〕
 入道、貞能を召して、「謀叛の者共の有んなるぞ。侍共きと召し集めよ。一家の人々にも、各ふれ申せ」と宣ひければ、面々に使をはしらかして此の由を申すに、凡そいづれもいづれも騒ぎあひて、我先にと馳せ集まる。右大将宗盛、三位中将知盛、右馬頭重衡を始めとして、人々侍・郎等、各甲冑をよろひ弓箭を帯して馳せつどふ。其の勢雲霞ノ如し。▼P1235(一六オ)夜中に五千余騎になりにけり。
九 〔大政入道院御所へ使を進らする事〕
六月一日、未だほのぐらき程に、入道の検非違使安倍の資成を召して、「院御所へ参りて大膳大夫信業を呼び出だして申さむ様はよな、『近習に候ふ者共の恣に朝恩に誇る余りに、世を乱らむと仕る由承り候へば、尋ね沙汰仕るべし』と申せ」とて進らする。資成怱ぎ院の御所へ参りて、信業を呼び出だして此の由を申しければ、信業色を失ひて、御前に参じて奏聞しけれども、分明の御返事なかりけり。「此の事こそえ御心得なけれ。こは何事ぞ」と計り仰せあり。資成急ぎ馳せ帰りて此の由を申しければ、入道、「よも御返事あらじ。何とかは仰せ有るべき。▼P1236(一六ウ)はや君も知らせ給ひたりけり。行綱は実を云ひけり」とて、いかられけり。
十 〔新大納言召取る事〕
 其の後、雑色を以て、「新大納言の許に行きて、『申し合はせ奉るべき事あり。怱ぎ渡らせ給へ』と申すべし」と宣ひければ、使走り付きて此の様を申す。大納言、「哀れ是は例の山の大衆の事を院へ申さむずるにや。此の事はゆゆしく御憤り深げなり。叶ふまじき物を」など思ひて、我が身の上とはつゆ知り給はで、怱ぎ出でられけるこそはかなけれ。八葉の車の鮮やかなるに、前駈三人、侍三四人召し具して、上きよげなる布衣たをやかにきなして、雑色・牛飼に至るまで、常の出仕よりは少し引きつくろひたる体にて▼P1237(一七オ)ぞ出でられける。其も最後のありきとは、後にこそ思ひ合はせ給
ひけめと哀れ也。
 入道のおはする西八条近くやりよせて、其の程を見給へば、四五丁に軍兵充満せり。「あなおびたたし。何なる事ぞ」と胸打ち騒ぎて、車より下り給ひたれば、門の内にも兵所もなく立ちこみて、只今事の出でたる体也。中門のとに怖しげなる者二人立ち向ひて、大納言の左右の手を取りて、引き張りてうつぶさまに投げ臥せて、「警め奉るべきか」と申す。入道殿、「昨日までは院の御所、私所にても肩を比べし卿相也。今こそ敵とはならむからに」と、いかれる心にもかはゆくや思はれけむ、「しからずとも」とて、つと入り給ひぬ。▼P1238(一七ウ)其の後、兵十余人来たりて、前後左右に立ちかこみ、天にも上げず地にもつけず、中に引きくくつて上へ引きのぼせ奉り、一間なる所におしこめつ。大納言、夢の心地してあきれて物も宣はず。是を見て共に有りつる諸大夫・侍も、雑色・牛飼童も、牛・車を捨てて四方へ逃げ失せぬ。大納言は、六月のさしも熱き比、一間なる所にこめられて、装束もくつろげずおはしければ、あつさたへがたし。涙も汗もあらそひてぞ流れける。「我が日来のあらまし事の聞えにけるにこそ。何なる者の漏らしつらむ。北面の輩の中にぞ有らむ。小松大臣は見え給はぬやらむ。さりとも思
ひ放ち給はじ物を」と思はれけれ▼P1239(一八オ)ども、誰して宣ふべしともなければ、涙をこぼし汗を流してぞおはしける。
十一 〔西光法師搦め取る事〕
 其の後、入道、筑後守家貞・飛騨守景家を召して、「謀叛の輩の其の数あり。北面の者共一人も漏らさず搦め取るべき」由、下知し給ひければ、或ひは一二百騎、或ひは二三百騎、押し寄せ押し寄せ皆搦め取りて、警め置きけり。其の中に左衛門入道西光、根本与力の者なりければ、「構へて搦め逃がすな」とて、松浦太郎重俊が奉りにて、方便を付けて伺ひける程に、院の御所にて人々の事に合ひける事共聞きて、人の上とも覚えず、「あさまし」と思ひて、あからさまに私の宿所に出でて、即ち又御所へ参りけるに、▼P1240(一八ウ)物具したる武士七八人計り先に立ちたり。後の方にも十余人有りと見て、此の世の習なれば、武士には目も見かけず、足ばやに歩みけるを、先に待ち懸けたる武士、「八条入道殿より、『きと立ち寄り給へ。怱ぎ申し合はすべき事あり』と仰せられ候ふ」と云ひければ、西光少し赤面して、にが咲ひて、「公事に付けて申すべき事候ふ。やがて参り候ふべし」と云ひて、歩み過ぎんとするに、後にきつる武士、「やは、入道程の者の何事をかは君に申すべき。世の大事引き出だして、我も人も煩ひあり。物ないはせそ」とて、打ちふせて縄付けて、武士十余人が中に追ひ立てて行きて、八条に
て「かく」と申し入れたりければ、門より内へも入ら▼P1241(一九オ)れず。即ち重俊が 奉りにて、事の発りを尋ねられければ、初めは大きにあらがひ申して、我が身にあやまらぬ由を陳じければ、入道大きに腹を立て、乱形にかけて打ちせためて問ひければ、有る事無き事落ちにけり。白状かかせて判せさせて、入道に奉る。入道、是を見給ひて、「西光取りて参れ」と宣ひければ、重俊が家子郎等、空にも付けず地にも付けず、中にさげて参りたり。やがて面道のまがきの前に引きすゑたり。
 入道は、長絹の直垂に、黒糸威の腹巻に、金作りの太刀、かもめ尻にはきなして、上うらなしふみちぎりて、すのこの辺にたたれたり。其の気色益なげにぞみえられける。さて、西光をにらまへて▼P1242(一九ウ)宣ひけるは、「いかに己程のやつは、入道をば傾けむとはするぞ。元より下臈の過分しつるは、かかるぞとよ。『あれ程の奴原を召し上げて、なさるまじき官職をなしたびて召し仕はせ給ふ間、おやこ共に過分の振舞ひする者哉』とみしに合はせて、罪もおはせぬ天台座主讒し奉りて、遠流に申し行ひて、天下の大事引き出だして、剰へ此の事に根元与力の者と聞き置きたり。其の子細具に申せ」と宣ひければ、西光元よりさるげの者なりければ、少しも色も変ぜず、わるびれたる気色もなくて、あざ咲ひて、「いで後言せむ」とて申しけるは、「院中に召し仕はるる身にて候へば、執事別当新大納言殿の、院宣とて催され▼P1243(二〇オ)候ひし事に、与せずとは争か申し候ふべき。与して候ひき。但し耳に止まる御詞をもつかはせ給ふ者哉。他人の前はしらず、西光が前にては過分の御詞をば、えこそつかはせ給ふまじけれ。見ざりし事か。殿は故刑部卿殿の嫡子にて渡らせ給ひしかども、十四五歳までは
叙爵をだにもし給はず。冠をだにも給はらせ給はで、継母の他の尼公のあはれみて、藤中納言家成卿の許へ時々申しより給ひし時は、『あは、六波羅のふかすみの高平太の通るは』とこそ京童部は指を指して申ししか。其の後、故卿殿、海賊の張本卅余人搦め出だされたりし勲功の賞に、去んじ保延の比かとよ、御年十七か八▼P1244(二○ウ)かの程にて、四位して、四位の兵衛佐に成り給ひたりしをこそ、『ゆゆしき事哉』と世以て傾き申ししか。同じき王孫と云ひながら、数代久しく成り下りて、殿上の交はりをだにも嫌はれて、闇打ちにせられむとし給ひし人の子にて、今忝くも即闕の官を奪ひ取りて、太政大臣に成り上りて、剰へ天下を我がままに思ひ給へり。是をこそ過分とは申すべけれ。侍品の者の受領・検非違使・靭負尉になる事は傍例なきに非ず。なにかは過分なるべき。入道こそ過分よ、入道こそ過分よ」と居長高になりて、詞もたばはず散々に申しければ、入道余りに怒りて物も宣はず。
 暫ありて、「西光め左右なく首切るな。能々▼P1245(二一オ)さひなめ」と宣ひければ、重俊が郎等つとよりて、ふときしもとを以て七十五度の考訊を加へたり。西光心は武かりけれども、本より問ひ損ぜられたる上、枳身にしみて術なかりければ、
残りなく落ちにけり。白状四五枚に記されたり。
 良久しくありて、内の方より人の足音高らかにして来りければ、大納言は、「只今失はれなむずるやらむ」と肝心をけして居られたりけるに、入道、大納言のおはしける後ろの障子をあららかにさつとあけられたり。麁絹の衣の短からかなるに、白き大口ふみくくみて、聖柄の刀をおしくつろげて、大きに怒れるけしきにて、大納言をにらまへて▼P1246(二一ウ)宣ひけるは、「やや大納言殿、一年、平治の逆乱の時、信頼・義朝等に御同心あつて、朝敵となり給ひたりし時、越後中将とて嶋摺の直垂・小袴きて、折烏帽子引き立てて、六波羅の馬屋の前に引きすゑられておはせしかば、罪に定まりて既に誅せられ給ふべきにておはせしを、内府とかくして申し宥めたりしかば、『七代までの守りの神とならむ』と手を合はせて、泣々宣ひし事は忘れ給ひたるな。人はみめ貌のなだらかなるをば人とは申さぬぞ、恩を知るを以て人とは申すぞ。わ殿の様なる者をこそ、人の皮をきたる畜生とはいへ。されば何の科怠によりて、当家を▼P1247(二二オ)滅ぼすべき由の御結構ありけるやらむ。されども微運の尽きざるによりて、此の事顕れて迎へ申したり。日来の御結構の次第、只今直に承り候ふべし」と宣ひければ、大納言
涙を流して、憖(愍)に「身に取りては全く誤りたる事なく候ふ。人の讒言にてぞ候ふらん。委く御尋ねあるべく候ふ」と宣ひければ、入道いはせもはてず、「西光法師が白状まゐらせよ」と宣へば、持て参りたり。入道引き広げて、くりかへし高らかに二返までよまれたり。成親卿を始めとして、俊寛が鹿谷の坊にて平家を滅すべき結構の次第、法皇の御幸、康頼が答返、一事として漏るる所なし。四五枚に記されたり。「是はいかに。此の上は▼P1248(二二ウ)披陳にや及ぶべき。是はどこをあらがふぞ。あらにくや」とて、白状を大納言に投げかけて、障子をはたとたてて返り給ひけるが、猶腹をすゑかね給ひて、
十二 〔新大納言を痛め奉る事〕
 「経遠・兼康はなきか」と宣ひければ、経遠・兼康・季貞・盛国・盛俊なむど参りたりければ、「誰が下知にて、あの大納言をば障子の内へはのぼせけるぞ。あれ坪に引き下ろして取りてふせて、したたかにさいなみて、をめかせよ」と宣ひければ、経遠已下の兵共、つとよりて、大納言を庭に引き落とす。其の中に、季貞は元より情ある者にて、大納言を取りてをさへて、左手にて大納言の頸をつよく▼P1249(二三オ)取る様にして、さすがにつよくとらず、右手にて大納言の胸をおす様にして、つよくおさず、季貞が口を大納言の耳に指しあてて、「入道のきかせ給ひ候ふやうに、只御声を立てて、をめかせ給へ」とささやきければ、大納言声をあげて二声三声をめかれけるを、入道聞き給ひて、「只おし殺せや、おし殺せや」とぞ宣ひける。
 其の有様目もあてられず。地獄にて獄卒・阿防羅刹の浄頗梨の鏡に罪人を引き向けて、前世に造りし所の業によりて呵嘖の杖を加へ、業の秤に懸けて軽重を糺して、「異人の悪を作り、異人の苦報を受くるに非ず。自業自得の果、衆生皆是くの如し」と云ひて、刑罰を行ふ▼P1250(二三ウ)らむもかくやと覚えて無慚也。
 「蕭樊、〓韓彭に囚はれて、〓〓されたり。晁錯、戮を受け、周魏、辜せらる。其の余、命を佐け、功を立つる士、賈諠亜夫の徒、皆信に命世の才なり。将相の具へを抱けり。而るに少人の讒を受け、並びに禍敗の憂へを受く」と云へり。蕭荷・樊会・韓信・彭越、皆高祖の功臣たりしかども、かくのみこそ有りけれ。唐朝にも限らず、我が朝にも保元平治の比はあさましかりし事共も有りしぞかし。新大納言一人にも限るまじ。こはいかがはせむずる」と人歎きあへり。
 かくして季貞のきにけり。大納言半死半生にぞみえられける。
 内大臣、此の後いと久しくありて、烏帽子直垂にて、▼P1251(二四オ)子息の少将車の尻にのせて、衛府四五人、随身二三人計り召し具して、それらも皆布衣にて物具したる者一人も具せずして、のどやかにておはしたり。入道を初め奉りて、人々思
はずに思ひ給へり。「いかに是程の大事の出できたるに」と人々宣ひければ、「何事かは有るべき」と宣ひけるにこそ、
人々皆しらけにけれ。兵具を帯したる者、そぞろきてぞ有りける。
 内府、「さるにても大納言をば何としてけるやらん。今の程には死罪流罪にはよも及ばれじ」と思し召して、見廻し給へば、侍の障子の上に、大なる木を以て、くもでを結ひちがへたる一間なる所あり。日来かかる所有りとも思はぬに、俄にいでき▼P1252(二四ウ)たりければ、「哀、ここに大納言をば籠めたるよな」とおぼして、只今こそとほる由、きとおとなはれたりければ、案の如く大納言くもでの間より内府を見付けて、地獄にて地蔵菩薩を見奉りたらむも、是には過ぎじとうれしくて、「是はいかなる事にて候ふぞ。誤りたる事も候はぬ物を。さておはしませば、さりともとこそ思ひ奉りて候へ」とて、はらはらと泣き給ふも無慚也。
 大臣は「人の讒言にてぞ候ふらむ。御命計りは申し請けばやとこそ思ひ給へども、それもいかが候はんずらむ」と、たのもしげなく宣へば、「心うし。平治の乱の時、失せぬべかりしに、御恩を蒙りて命を生けられ奉りて、正二位大納▼P1253(二五オ)言に至り、年既に四十余りに成り侍りぬ。生々世々に報じ尽し奉り難くこそ思ひ給へ。此の度の命計りを同じくは生けさせ給へ。頭を剃りて、高野粉河にも籠りて、一筋に後世の勤めをせむ」と宣ふも哀れ也。「重盛かくて候へば、さりともと思し召すべし。御命にも代り奉るべし」とてたたれければ、かく宣ふに付けても只甲斐なき涙のみぞ流れける。「少将も召しや取られぬらむ。残り留まる跡の有様もいかなるらむ。少き者共もおぼつかなし」。我が身の御事はさる事にて、是をおぼしつづくるに、胸せきあげて熱さも堪へがたきに、晩るるを待たで、命も絶ゆべくぞ覚しける。内の大臣のおはしつる程は、聊かなぐさむ心地もしつるに、いと詞少なにて▼P1254(二五ウ)帰り給ひて後は、今少し物も怖しく悲しくぞおぼされける。
 〔十三〕 〔重盛大納言の死罪を申し宥め給ふ事〕
 大臣殿、入道の前におはしたりければ、入道宣ひけるは、「大納言の謀叛の事は聞かれたるか」。「さん候ふ。皆承りて候ふ。さて何様なる罪に行はるべきにて候ふやらむ」。「事も愚かや、只今切らむずる物を」と宣ひければ、大臣宣ひけるは、「さては不便の事こそ候ふなれ。大納言を失はん事は、能々御計らひ候ふべし。六条修理大夫顕季卿、白川院に召し仕はれ奉りしより以来、家久しくなりて、既に位正二位、官大納言まで昇りて、当時も君の御いとほしみの者なるを、忽ちに首を刎ねられん事、いかが有るべかるらむ。さる事争か候べき。都の外へ出だされ▼P1255(二六オ)たらむに事足り候ひなん。かくは聞こし食せども、若し僻事にても候はば、弥不便の事に候はずや。北野天神は時平の大臣の讒奏によつて、延喜の御門に流され奉り、西宮大神は多田の新発が讒言によつて、安和の御門に流され給ひき。各無実なりけれども、流罪せられ給ひにき。是皆延喜の聖主、安和の御帝の御僻事とこそ申し伝へたれ。上古猶此くの如し。況や末代を哉。賢王猶御誤りあり。況や凡夫を哉。委く御尋ねも有るべし。能々御思惟も有るべし。物さはがしき事は、後悔先にたたずとこそ申せ。既にかく召し置かれぬる上は、怱
ぎ失れずとても、何の苦しみか有るべき。『罪の疑はしきをば惟れ▼P1256(二六ウ)軽んぜよ。功の疑はしきをば惟れ重んぜよ』とこそ申し伝へて候へ。いかさまにも今夜首を切らむ事は然るべからず」と宣ひければ、入道猶心ゆかず、返事もし給はざりければ、内大臣重ねて申されけるは、「申す旨御承引なくは、先一人に仰せ付けて、先重盛が頸を召さるべく候ふ。其の後御心に任せて振舞ひおはしまし候へ。重盛、彼の大納言の妹に相異して候ふ。惟盛、又大納言の聟也。かやうに親しく罷り成りて候へばとて申すとや思し召され候ふらん。いかにも其の儀にては候はず。世の為、民の為、君の為、家の為を存じて申し候ふ也。一年保元の逆乱の時、故少納言入道信西、適ま執権の時に相当たり、本朝に絶えて久しくなりにし死罪を申し行ひて、▼P1257(二七オ)左府の死骸を実検せられし事なむどは、余りなる御政とこそ覚え候ひしか。古人の申され候ひしは、『死罪を行はるれば、謀叛の輩絶ゆべからず』と。此の詞はたして中二年有りて、平治に事出でて、信西が埋まれたりしを掘りおこして、首を切りて渡しき。保元に行ひし事、忽ちに報ひて、身の上にむかはりにけりと思ひ合はせられて、怖しくこそ候ひし
か。是はさせる朝敵にもあらず。方々怖れ有るべし。御身の御栄花残る所なければ、今は思し召し残す御事なけれども、子々孫々までも繁昌こそあらまほしけれ。『積善の家には余慶あり。積悪の門には余殃留まる』とこそ承れ。周の文王は、大公望に命ぜられて▼P1258(二七ウ)四如己を恐れ、唐の大宗は、張温古を切りて後、五復の奏を用ゐらる。又『善を行へば、則ち徴を休めて之を報ず。悪を行へば、則ち徴を咎めて之に随ふ』なむども申したり。又『世を治むる事は琴をならすが如し。大絃急なる時は、小絃堪えできる』とこそ、天暦の帝も仰せられ候ひけれ」なむど、細々と誘へ申されければ、げにもとや思はれけむ、今夜切るべき事は思ひ宥めて、其の日はくれにけり。
 内大臣はかく誘へおきて帰り給ひけるが、猶心安からず覚えて、さも然るべき侍共を召して宣ひけるは、「仰せなればとて。重盛に云ひ合せずして、左右なく大納言を失ふ事有るべからず。腹の立ち給ふままに物騒しき事あらば、後悔先に立つまじ。僻事▼P1259(二八オ)し出だして、重盛恨むな」と誡められければ、武士共舌を振りて怖ぢあへり。「経遠・兼保なむどが大納言に情なく当たりたりける事、返々奇怪也。されば重盛が返り聞かむ所をば、争か憚らざるべき。忠清・景家体の者ならば、縦入道殿いかに仰せらるとも、かくはよもあらじ。片田舎の者はかかるぞとよ」と宣ひければ、難波二郎・妹尾太郎も恐れ入りたりけり。
十四 〔成親卿の北方の立ち忍び給ふ事〕
 さて大納言の共したりける者共、走り帰りて、「大納言殿は八条殿に召し籠られ給ひぬ。ゆふさり失ひ奉るべしとて、晩るるを待つと承りつる」と、ありつる有様を泣々申しければ、北の方より始めて、▼P1260(二八ウ)男女声を揚げてをめき叫ぶ。さこそ悲かりけめ。理押しはからる。夢かや夢かやと思へども、うつつにてぞ有りける。「いかにかくては渡らせ給ふぞ。
叶はざらむまでも立ち忍ばせ給へ。少将殿を初め奉りて、君達まで召されさせ給ふべしとこそ承りつれ」と、涙もかきあへず申しあひければ、「是程の事になりて、残り留まる身共安穏にてもなむの甲斐かは有るべき。いかにも只一所にて、ともかくもならむこそ本意なれ。けさを限りと思はざりける事の悲しさよ」とて、臥しまろびて泣き給ふ。
 「已に兵来りなむ」と人申しければ、かくて恥がましく有らむ事もさすがなるべければ、「一まどなり▼P1261(二九オ)とも立ち忍び給はん」とて、出で給ふ。尻頭ともなき少き人共取り乗せて、何くを指して行くともなく遣り出だしつ。牛飼、「是はいづちへ仕るべきにて候ふやらん」と申しければ、「北山の方へ」と車の内より宣へば、大宮を上りに北山の雲林院の辺までおはしにけり。其の辺りなる僧坊におろしすゑ奉りて、送りの者共も身々の捨て難ければ、各暇申して帰りにけり。今は甲斐なき少き人々計り留まり居て、憑もしき人一人もなくておはしけむ。北の方の御心の内、押しはかられていとほし。日の晩れ行く影を見給ふに付けても、大納言の露の命、こよひをかぎるなりと思ひ遣られて、消え入る心地ぞせられける。女房・侍共もかちはだしにて、恥▼P1262(二九ウ)をも知らず迷ひ出でにけり。家中の見苦しき物を取りしたたむるにも及ばず。門は扉を開けども、押し立つる又者もなし。馬は馬厩に立つれども、草飼なづる人もなし。夜あくれば車馬門に立ちて、賓客座に列なれり。遊び戯れ舞ひ躍り、世を世とも思はず。近隣の人は物をだにも高くいはず。門前を
                                       ことわリ
すぐる者も怖ぢ恐れてこそ昨日までも有りつるに、夜の間に替はり行く有様、盛者必衰の理、眼の前にこそ顕はれけれ。
 夜も漸くふけければ、大納言は只今失はるべしと聞き給ひければ、「命の有らん事も今計り也。誰にか此の世に思ひおく事云ひおかん。北の方・少き者共もいかがなりぬらん。あはれ、事付を今一度せばや。死なむ▼P1263(三〇オ)事は力及ばぬ事なれども、是が心にかかるこそよみぢの障りなれ」と覚しつづけて、さめざめと泣き給ふも理也。今夜計りの命なれば、「今や今や」と待つ程に、夜も明け方になりにけり。「大納言殿は今夜とこそ聞きつるにいかに。今までは沙汰なきやらん。若御命の助かり給はんずるにや」とて、武士共も悦びあへり。
〔十五〕 〔成親卿無思慮事〕
 大方此の大納言はおほけなく思慮なき心したる人にて、人の聞きとがめぬべき事をも顧み給はず。 常に戯れふかき人にて、墓無き事共をも宣ひ過ごす事も有りけり。
 後白川院の近習者、坊門中納言親信と云ふ人おはしき。父右京大夫信輔朝臣、武蔵守たりし時、彼の国へ下られたりしに儲けられたり▼P1264(三〇ウ)ける子なり。元服して叙爵し給ひたりければ、坂東大夫とぞ申しける。院に候ひ給ひければ、兵衛佐に成りにけり。又坂東兵衛佐なむど申しけるを、ゆゆしく本意なき事に思ひ入れられたりける程に、新大納言、法皇の御前に候はれける時、たはぶれにや、「親信、坂東に何事共か有る」と申されたりければ、取りもあへず、「縄目の色革こそ多く候へ」と返答せられたりければ、成親卿、顔気色少し替はりて、又物も宣はざりけり。人々あまた候はれけり。按察入道資賢も候はれけり。後に宣ひけるは、「兵衛佐はゆゆしく返答したりつる者哉。事の外にこそにがりたりつれ」と申されけるとかや。▼P1265(三一オ)平治の逆乱の時、此の大納言の事に合はれし事を申されたりけり。
十六 〔丹波少将成経西八条へ召さるる事〕
 新大納言の嫡子丹波少将成経、歳廿一になり給ふは、院の御所に上臥して未だ罷り出でられぬ程なりけるに、大納言の御許なりつる侍一人、院の御所へ馳せ参りて申しけるは、「大納言殿は、けさ西八条殿に召し籠められさせ給ぬ。今夜失ひ奉るべきの由、聞へ候ふ。君達も皆召され給ふべしとこそ承りつれ」と申しければ、「こはいかに」とあきれ給ひて、物も覚へ給はず。「さりとも宰相の許よりは、かくと申されんずらん」と思ひ給ひしほどに、宰相の許より使あり。
 「具し奉りて来れと八条より申されたり。と▼P1266(三一ウ)くとく渡り給へ」。こはいかなる事にやあさましとも愚か也。
 少将は近習にておはしける兵衛佐と云ふ女房を尋ね出して、「かかる勝事こそ候ふなれ。夜部より世間物さはがしと承れば、例の山の大衆の下るやらんなむど、余所に思ひて候へば、身の上にて候けり。御前へも参り候ひて今一度君をも見進らせ候べきに、今はかかる身にて候へば、憚り存じ候ひて罷り出で候ひぬと披露せさせ給へ」と宣ふもあへず泣き給ふ。日比、馴れ給ひつる女房達あまた出で来てあさましがりて泣きあへり。「成経八才にて見参に罷り入りてよりは、夜昼候ひて、所労なむどの候はぬ限りは一日も御所へ参らぬ事▼P1267(三二オ)も候はざりつ。君の御いとほしみ忝くて、朝暮に龍顔に咫尺し奉りて、朝恩にのみあき満て明し晩し候ひつるに、何なる目を見るべきにて候やらん、大納言も今夜死罪に行なはるべしと承り候ふ。父のさやうに罷り成り候ひなん上は、成経が身も同罪にこそ行なはれ候はんずらめ」と云ひつづけて狩衣の袖も絞る計り也。余所の袂も絞りあへず。
 兵衛佐、御前に参りて此の由を申されければ、法皇も大きに驚かせ給ひて、「是等が内々謀りし事、漏れにけるよ」など思食すもあさまし。「今朝、相国の使の有つるに、事出ぬとは思食しつ。さるにても是へ」と御気色有りければ、「世は怖しけれども、今一度君をも見奉らん」と思はれければ、御前へ参られたりけ▼P1268(三二ウ)れども、君も仰せ遣りたる方もなし。龍顔より御涙を流させ給ふ。少将も申し述べたる方もなし。袖を顔に押しあてて、罷り出でられぬ。又、門まで遥かに見送りて、御所中の女房達、限りの余波を惜しみ、しぼらぬ袂もなかりけり。法皇も後を遥かに見送らせ給ひて、御涙をのごはせ給ひて、「又、御覧ぜぬ事もや」と思食すぞ忝なき。「末代こそ、うたてく心うけれ。強にかくしもや有べき」とぞ仰せられける。近く召し仕へける人々も、「更に人の上と思ふべきに非ず。何なる事か有らむずらん」と安き心なし。
 少将は、宰相の許へおはしたれば、此の事聞きつるより、少将の北方はあきれ迷ひて物も覚へず、糸惜しき体にてぞおはしける。近く産し▼P1269(三三オ)給ふべき人にて、何となく日比も悩み給ひつるに、かかるあさましき事を聞き給へば、いとど臥し沈み給ふも理也。少将は今朝より流るる涙尽きせぬに、北方の気色を見給ふに、いとどせむかたなくぞおぼさる。「せめては、此の人、身々とならむを見おきて、いかにもならばや」と思されけるも、責めての事と覚えて糸惜し。
 六条とて、年来付き奉りたる乳母の女房有りけり。此の事を聞くより、臥しまろびもだえこがるる事なのめならず。少将の袖に取り付きて、「いかにやいかに、君の血の中におはしまししを取り上げまゐらせて、洗ひ上げ奉りて、糸惜し悲しと思ひそめ奉りしより、冬の寒き朝にはしとねをあたためて据ゑ奉り、夏の熱き夜は冷しき所に臥せ奉りて、明けても晩れても此の御事よりほか、又い▼P1270(三三ウ)となむ事なし。我が年の積もるをばしらず、人となり給はん事をのみ思ひて、夜の明くるをも日の晩るるをも心もとなくて、廿一年を送り、おほし立て奉りて、院内へ参り給ひても、遅くも出で給へば、おぼつかなく恋しくのみ思ひ奉りつるに、こはいづくへおはしますべきぞや。捨てられ奉りて、一日片時も生きて有るべしとこそ覚えね」と、くどき立てて泣く。「げにもさこそ思ふらめ」とおぼせば、少将涙を押さへて、「いたくな思ひそ。我が身誤まらねば、さりともとこそ思へ。宰相さておはすれば、命計りはなどか申し請けられざるべき」となぐさめ給へども、人目もしらず泣き悶ゆるも無慚也。
 八条よりとて使あり。▼P1271(三四オ)「遅し」とあれば、「いかさまにも参り向ひてこそは、ともかくも申さめ」とて宰相出で給へば、車に乗り具して少将も出で給ひぬ。無き人を取り出だす様に見送りて泣きあへり。保元・平治より以来は、平家の人々は、楽しみ栄えは有れども愁歎はなかりつるに、門脇の宰相こそ、由なかりける聟ゆゑに、かかる歎きをせられけるこそ不便なれ。
十七 〔平宰相丹波少将を申し請け給ふ事〕
 八条近く遣り寄せて見れば、其の四五丁に武士充満して、幾千万と云ふ数を知らず。いとど怖しなむどは云ふ計りな
し。少将は是を見給ふに付けても、大納言の御事おぼすぞ悲しき。宰相、車をば門外に留めて案内を申し給へば、「少将をば内へは入れ▼P1272(三四ウ)給ふべからず」 と有りければ、其の辺近き侍の家に下し置きて、宰相内へ入り給ひぬ。見もしらぬ兵あまた来たりて、居めぐりて守り申す。少将は、恃みたりつる宰相は入り給ひぬ、いとど心細く悲し。宰相入りて見給
へば、大方、内の有様、武士共のひそめきあへるさま、誠におびたたし。「教盛こそ参りて候へ。見参に入らん」と宣ひ
けれども、入道出で合ひ給はざりければ、季貞を呼びて宰相申されけるは、「由無き者に親しくなりて、返す返すくやしく候へども、甲斐も候はず。成経に相具して候ふ物、いたくもだえこがれ候が、恩愛の道、力及ばざる事にて、無慚に覚え候ふ。近く産すべき者にて候ふが、いかに候ふやらん、日▼P1273(三五オ)来なやみ候ひつるが、此の歎き打ち副ひ候ひなば、身々ともならぬ先に命も絶え候ひなんず。助けばやと思ひ候ひて、恐れながらかく申し入れ候ふ。成経計りをば申し預かり候はばや。敦盛かくて候へば、争か僻事せさせ候ふべき。おぼつかなく思し召さるべからず」と泣く泣く申し給ふ。季貞此の由を入道に申しければ、よに心得ずげにて、とみに返事も宣はず。宰相、中門にて「いかにいかに」と待ち給ふ。
 良久しくありて入道宣ひけるは、「成親卿、此の一門を滅ぼして、天下を乱らんとする企有りけり。しかれども一家の運尽きぬによつて、此の事顕れたり。少将は既に彼の大納言の嫡子也。親しくおはすとても、えこそ宥め申すまじけれ。彼の企遂げましかば、其れ御辺とても▼P1274(三五ウ)おだしくてや御すべき。いかに御身の上の大事をば、かくは宣ふぞ。聟も子も身に増さるべきかは」と、少しもゆるぎなく宣へば、季貞返り出でて、此の由を申しければ、宰相大きに本意なげに思ひ給ひて、押し返し宣ひけるは、「加様に仰せらる上を重ねて申すは、其の恐れ深けれども、心の中に思はん程の事を残さむも口惜しければ申すぞ。季貞、今一度よくよく申せよ。去る保元・平治両度の合戦にも、身を捨てて御命に替はり奉らんとこそ思ひしか。是より後なりとも、荒き風をば先づ防がむとこそ思ひ給へ。教盛こそ、今は年罷りよりて候へども、若者共あまた候へば、御大事も有らむ時は、などか一方の御国めとも▼P1275(三六オ)ならで候ふべき。夫に教盛が憑み奉りたる程は、つやつや思食され候はざりけり。成経を暫く罷り預からむと申すをおぼつかなく思し召して、御ゆるされのなからむは、既に二心有る者
と思食すにこそ。是程に後めたなき物に思はれ奉りて、世に有りては何にかはすべき。世に有らば又、何計りの事かは有るべき。今は只、身の暇を給はりて、出家入道して片山寺にも籠り居て、後生菩提の勤めを仕るべし。由無き憂き世の交はり也。世に有ればこそ望みもあれ、望みの叶はねばこそ恨みもあれ。如かじ、只世を遁れて実の道に入らんには」と宣へば、季貞にがにがしき事哉と思ひて、此の由を委しく入道に申しければ、「物に心得ぬ人哉」とて、又返事も宣はず。
 季貞申しけるは、「宰相殿は▼P1276(三六ウ)思食し切りたる御気色にて渡らせ給ひ候ふめり。能く能く御計らひ有るべくや候ふらん」と申ければ、其の時入道宣ひけるは、「先づ御出家あるべしと仰せられ候ふなるこそ驚き存じ候へ。大方は是程に恨みられ進らせ候ふべしとこそ存じ候はねども、夫程の仰せに及ばむ上は、少将をば暫く御宿所に置かれ候ふべし」と、
しぶしぶに有りければ、宰相悦びて出で給ひにけり。
 少将はなにとなく憑もしげに思ひて、「いかに」と問ひ給ふも哀れ也。宰相思はれけるは、「あな無慚やな。我が身に替へて申さざらむには、叶ふまじかりつる者の命ぞかし。人の子をあまた持つ事は無益の事かな。我が子の縁にむすぼほれざらんには、人の上の事にこそ見るべき者の事を、身の上になして肝心を消すこそよしな▼P1277(三七オ)けれ」と、おぼされければ、「いさとよ。入道殿の鬱りなのめならず深げにて、教盛には対面もし給はず。叶ふまじき由、度々宣ひつれども、季貞を以て、『出家入道をもせむ』とまで申したりつればやらん、『暫く宿所におき給へ』と計り宣ひつれども、始終よかるべしとも覚えず」と宣ひければ、少将申されけるは、「成経御恩にて一日の命も延び候ひけるにこそ。一日とてもおろかの儀にて候はず。助かり候はん事こそ然るべく候へ。是に付け候ひても、大納言の行方、いかが聞食され候ひつる」と宣ひければ、宰相、「いさとよ。御事をこそ、とかく申し候ひつれ。大納言殿の御事までは心も及ばず」と宣ひければ、げにも理かなと思へども、「大納言、今▼P1278(三七ウ)夜失はれ候はば、御恩にて成経今日計り命生きても、なににかはし候ふべき。死出の山をも諸
共に越へ、片時も遅れじとこそ存じ候へ。同じ御恩にて候はば、大納言のいかにも成り候はん所にて、ともかくも罷り成り候はばや。同じくは、さやうに申し行はせおはしますべくや候ふらん」 とて、さめざめと泣かれければ、宰相又心苦しげにて、「実やらん、大納言の事をば、内のおとど殿とかく申されければ、今夜は延び給ひぬるやらんとこそ、ほのぎきつれ。心安く思ひ給ふべし」と宣ひければ、少将其の時、手を合はせて喜ばれけり。「責めて今夜計りなりとも延び給へかし」とて悦ばれけるを見給ひけるにこそ、宰相、又、「無漸やな。子ならざらん者は、只今誰かは是▼P1279(三八オ)程に、我身の上を差し置いておぼつかなくも思ひ、延びたるを聞きて、身にしみてうれしく思ふべき。実の思ひは父子の志にこそ留めてけれ。子をば人の持つべかりける物を」とぞ、やがて思し返されける。
 さて、宰相は少将を具して帰り給ひければ、宰相の宿所には少将の出で給ひつるよりも、北方を始めとして母上乳母の六条臥し沈みて、「何なる事をか聞かむずらん」と肝心を迷はして思し召しける程に、「宰相帰り給ふ」と云ひければ、いとど胸せき上げて、「打ち捨てておはするにこそ。未だ命もおはせば、何に弥よ心細くおぼすらむ」と悲しく思はれけるに、「少将殿も帰らせ給ふ」と、先に人走り向ひて告げ申したりければ、車寄に出で向かひて、「実かや」とて、又声を整へて泣きあひ給へり。実に宰▼P1280(三八ウ)相、少将乗り具して帰り給へり。後は知らず、帰りおはしたれば、死したる人の蘇生したる様に覚えて悦び泣き共しあはれけり。此の宰相の宿所は門脇とて、六波羅の惣門の内なれば、程隔たらず。入道当時は八条におはしけれども、世も猶つつましくて、門さし、蔀の上計りあけてぞおはしける。
十八 〔重盛父教訓の事〕
 入道は、かやうに人々あまた警めおかれたりけれども、猶心安からず思はれければ、「善悪法皇を先づ迎へ取り奉り
て、此の八条に押し籠めまゐらせて、いづちへも御幸なし奉らむ」と思ふ心、付かれにけり。赤地の錦の直垂に、白金物打ちたる黒糸威の腹巻の胸板責めて、そのかみ安芸守にて神拝せられけ▼P1281(三九オ)る時、厳嶋社より霊夢を蒙りて儲けられたりける、白金の蛭巻したる秘蔵の手鉾の、常に枕を放たざりける、左脇に挟みて、中門の廊につと出でて立たれたり。
其の気色、ゆゆしくぞ見えられける。
 肥後守貞能は、木蘭地の直垂に、緋威の鎧きて、御前に跪いて候ふ。入道、宣ひけるは、「貞能、此の事いかが思ふ。入道が存ずるは僻事か。一年保元の逆乱の時、右馬助を初めとして、親しき者共は半ば過ぎて讃岐院の御方へ参りにき。一宮の御事は、故卿殿の養君にて渡らせ給ひしかば、方々思ひ放ち奉りがたかりしかども、故院の御遺誠に任せて、御方にて先をかけたりき。是一の奉公なりき。次に平▼P1282(三九ウ)治の逆乱の時、信頼・義朝が振舞、入道命を惜しみては叶ふまじかりしを、命を捨てて凶徒を追ひ落として、天下を鎮む。其の後、経宗・惟方を誡めしに至るまで、君の御為に命を捨てむとする事度々也。縦ひ人いかに申すとも、入道が子孫をば争でか捨てさせ給ふべき。されば入道が事を忽緒し申さむ者をば、君も尤も御誡めも有るべきに、誡めらるるまでこそなからめ、大納言が讒に付かせ給ひて、情けなく一門追討せらるべき由の院中の御結構こそ、遺恨の次第なれ。此の事行綱告げ知らせずは、顕るべしや。顕れずは、入道安穏にて有るべしや。猶も北面の下臈共が諌め申す事なむどあらば、当家追討の院宣▼P1283(四○オ)下されぬと覚ゆるぞ。朝敵と成りなむ後は、悔やむに益有るまじ
。世を鎮めん程、仙洞を鳥羽の北殿へ移し奉るか、然らずは御幸を是へなし奉らばやと思ふ也。其の儀ならば、北面の者共の中に、矢をも一筋射出だす者もありぬとおぼゆるぞ。侍共に其の用意せよと触るべし。大方は入道、院方の宮仕へ思ひ切りたり。きせなが共取り出だせ。馬に鞍おかせよ」とぞ下知せられける。
 鳥羽殿への御幸とは聞こえけれども、内々は法皇を西国の方へ流し進らすべき由をぞ議せられける。
 主馬判官盛国、此の気色を見奉りて、小松殿に馳せ参りて、大臣殿に申しけるは、「世は今はかうと見え候ふ。入道殿、既に御きせながを召され候ふ。侍共皆打つ立ち候ふ。法住寺殿へ寄せられ候ふ。鳥羽殿への御▼P1284(四〇ウ)幸とこそ聞こえ候へども、内々は、西国の方へ御幸なるべきにて候ふやらんとこそ、承り候ひつれ。いかに此の御所へは今まで御使ひは候はぬやらん」と、息もつぎあへず申しければ、内大臣大きに騒がれけり。「争でかさしもの事はあるべきとは思へども、今朝の入道殿の御気色、さる物狂はしき事も有らん」と、おぼされければ、内府怱ぎ馳せ来たり給ふ。其の時も同じく甲冑をよろふに及ばず。八葉の召車のけしかるに、子息の惟盛車の尻にのせて、重代伝はりたる唐皮と云ふ鎧、小烏と云ふ大刀、車の内に内々用意して持たれたり。引きさがりて鞍置馬引かせたり。衛府四五人、随身二三人召し具して、深更に及びて、けさの体にて、烏帽▼P1285(四一オ)子直衣にておはしたりけり。
 西八条に指し入りてみられければ、高燈台、侍中門坪々にかき立てて、一門の卿相雲客数十人、各思ひ思ひの鎧直垂に、色々の鎧きて、中門の廊に二行に着座せられたり。衛府・所司・諸国の受領なむどは〓に居こぼれて、壷にもひしと並み居たり。旗棹ども引きそばめ、馬の腹帯をしめて、甲を膝の上に置きて、只今かけ出でむずる体とみえけるに、内大臣直衣にて、大文の指貫のそば取りて、ざやめき入られけり。事の外にこそ見えられけれ。入道此を遥かに見付けて、少し伏し目にこそなられけれ。「例の内府が入道を表する様に振舞ふは」とて、心得ずげに思はれたり。
 内大臣▼P1286(四一ウ)聊も憚る気色なく、ゆらゆらと歩みよつて、中門の廊に着かれたり。弟の右大将宗盛卿より上なる一座に、むずとつかれたり。内府四方を見まはして、「いしげにさう御気色共かな」とて、へし口せられけり。兵杖を帯したる人々も、皆そぞろきてぞ見えられける。客殿を見給へば、大政入道の体、惣じて軽々なり。赤地の錦の直垂に、黒糸威の腹巻きて、左の方には黒糸威の鎧に、白星の甲重ねて置かれたり。右の方には白金の蛭巻したる擲刀立てて、院の御所か、臣家の許へか、只今打ち入りげなる気色なりけるが、入道は是を見給ひて、子ながらも、内には五戒を持ちて、慈悲を先とし、外には五常を▼P1287(四二オ)みだらず、礼義を正しくし給ふ臣なりければ、腹巻を着て相ひ向かはん事の面はゆくや思はれけん、障子を少し引き立てて、腹巻の上に素絹の衣を引き懸けて、胸板の金物のはづれてきらめきてみえけるを隠さむと、頻りに衣の胸を引きちがへ引きちがへぞせられける。内大臣此の気色を見給ひて、「あな口惜し。入道殿には能く天狗付きたりけり」と、うとましくぞ思はれける。
 入道宣ひけるは、「抑も此の間の事を西光法師に委しく相ひ尋ね候へば、成親卿父子が謀叛の企ては枝葉にて候ひけるぞ。真実には法皇の御叡慮より思し食し立たせ給ふ御事にて候ひけり。大方は近来よりいとしもなき近習者共が、折にふれ時に随ひて、さまざまの▼P1288(四二ウ)事を勧め申すなる間、御軽々の君にて渡らせ給ふ。一定天下の煩ひ、当家の大事引き出ださせ給ひぬと覚ゆる時に、法皇を是へ迎へまゐらせて、片辺りに追ひ籠めまゐらせむと存ずる事を、申し合はせ奉らむとて、度々使ひを遣はしつる也」と宣へば、内府、「畏まりて承り候ひぬ」と計りにて、双眼より涙をはらはらと落とし給ふ。入道あさましとおぼして、「こはいかに」と宣へば、内府暫く物も宣はず。
 良久しく有りて、直衣の袖にて涙を拭ひ、鼻打ちかみ宣ひけるは、「なにかの事は知り候はず。先づ御体を見まゐらせ候ふこそ、少しもうつつともおぼえ候はね。さすが吾が朝は、辺地粟散の境と申しながら、天照大神の御子孫、国の▼P1289(四三オ)主として、天児屋根の御末、朝の政を掌り給ひしより以来、太政大臣の位に昇る人、甲冑をよろふ事、輙かるべしとも覚え候はず。方々御憚り有るべく候ふ物を。就中御出家の御身也。夫れ三世諸仏、解脱同相の法衣を脱ぎ捨てて、忽ちに甲冑を帯し坐しまさん事、既に内には破戒無慚の罪を招き給ふのみに非ず、外には又仁・義・礼・智・信の法にも背き候ひぬらんとこそ覚え候へ。能々御栄花尽きて、御世の末に成りて候ふと覚え候ふ間、余りに悲しく覚え候ひて、不覚の涙の先立ち候ふぞや。方々恐れある申し事にて候へども、暫く御心をしづめさせおはしまして、重盛が申し候はん事を具に聞こし召され候ふべし。且は最後の申し状也。心の底に存ぜん程の旨趣を▼P1290(四三ウ)のこすべきに候はず。
 先づ世に四恩と申す事は、諸経の説相不同にして、内外の存知、各別なりと云へども、且く心地観経の第八の巻によらば、一には天地の恩、二には国王の恩、三は師長の恩、四には衆生の恩、是也。是を知るを以て人倫とし、知らざるを以て鬼畜とす。其の中に尤も重きは朝恩也。普天の下、王土に非ずといふこと莫し。率土の浜、王臣に非ずといふこと莫し。されば、彼の穎川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折りける賢人も、勅命の背き難き礼義をば存じてこそ候ふなれ。
 忝くも御先祖、桓武天皇の御苗裔、葛原親王の御後胤と申しながら、中比より無下に官途も打ち下りて、纔かに下国の受領をだにもゆるされでこそ候ひけるに、故刑部卿殿、備前国国務の時、鳥羽院御願、▼P1291(四四オ)得長寿院を造進の勧賞によつて、家に久しく絶えたりし内の昇殿をゆるされける時は、万人脣を翻しけるとこそ承り伝へて候へ。何に況や、御身既に先祖にも未だ拝任の跡を聞かざりし、大政大臣の位を極めさせ給ふ。御末又大臣の大将に至れり。所謂重盛なんどが不才愚暗の身を以て、蓮府槐門の位に至る。加之、国郡半ばは一門の所領也。田園悉く家門の進止たり。是希代の朝恩に非ず乎。今是等の莫大の朝恩を忘れて、君を傾け進らせましまさむ事、天照大神・正八幡宮・日月星宿・堅牢地神までも御免されや候ふべき。『君を背く者は、近くは百日、遠くは三年を出でず』とこそ申し伝へたれ。若し又院宣にて謀叛の御企て有りとも、僻事とも存じ候はず。倩ら上古を思ひ候ふに、嚢祖平将軍貞盛、相馬小二郎将門▼P1292(四四ウ)を誅ちたりしも、勧賞を行はれ候ひし事、受領には過ぎざりき。伊与入道頼義が貞任・宗任を誅戮し、陸奥守義家が武衡・家衡を滅ぼしたりしも、いつかは丞相
の位に昇り、不次の賞に預かりたりし。而るを此の一門代々朝敵を追討して、四海の逆浪を鎮むる事は無双の忠なれども、面々の恩賞に於いては、傍若無人とも申しつべし。
 されば、聖徳太子の十七ヶ条の憲法には、『人皆心有り。心各執有り。彼を是すれば我を非し、我を是すれば彼を非す。是非之理、誰か能く定むべき。相ひ共に賢愚なり。環の如くして端無し。是を以て、彼の人嗔ると雖も、還りて我が失を恐れよ』とこそ候へ。之に依つて、君事の次を以つて、奇怪也と思し召さん事は、尤も理りにてこそ候へ。然而御運尽きざる歟に依つて、此の事既に顕れて、仰せ合はせられ候ふ人々、かやうに召し置かれ▼P1293(四五オ)候ひぬ。縦ひ又君いかなる事を思し召し立ち候ふとも、且く何の怖れかはおはしますべき。大納言以下の輩に、所当の罪科行はれ候ひなん上は、退きて事の由を陳じ申させ給ひて、君の御為には弥奉公の忠節を尽くし、民の為には増々撫育の哀憐を致させ給はば、神冥仏陀の擁護浅からず、冥衆善神の加護頻りにして、君の御政引き替へて直になるならば、逆臣忽ちに滅亡し、凶徒即ち退散して、四海波静かに八挺嵐治まらん事、掌を返さんよりも猶速やかなるべし。猥りがはしく法皇を傾け進らせましまさん事、然るべしとも覚え候はず。
 『父命を以て王命を辞せず、王命を以て父命を辞す。家事を以て王事を辞せず、王事を以て家事を辞す』とも侍り。又君と臣とを准らふるに、親疎をわかず君に仕へ奉るは、忠臣の法也。道理と僻事とを准らへんに、争でか▼P1294(四五ウ)道理に付かざらん。是に於いては、君の御道理にて候へば、重盛におきては御院参の御共をば仕るべしとも存じ候はず。叶はざらむまでも、院中を守護し奉らばやとこそ存じ候へ。重盛、初め六位に叙せしより、今三公の末に列なるまで、朝恩を蒙る事、身において頗る過分也。其の重き事を論ずれば、千顆万顆の玉にも越え、其の深き色を案ずるに、一入再入の紅にも過ぎたるらん。然れば重盛、君の御方へ参り候はば、命に替はり身に代はらんと、契り深き恥ある侍、二百余人は相ひ従へて候ふ。此の者共はよも捨て候はじ。
 遠く例をば求むるに及ばず、正しく御覧じ見候ひし事ぞかし。保元逆乱の時、関白殿は内裏に候はせましまし、弟の左大臣殿は新院の御方に候ひ給ふに、▼P1295(四六オ)陸奥判官為義は新院の御方へ参り、子息下野守義朝は内裏に候ひて合戦す。兵いくさ事終へて後、大炊殿は戦場の煙の底になりにしかば、左府は流れ矢に中りて命を失ひ、新院は讃州へ配流せられさせ給ひぬ。其の後大将軍為義は出家入道して、義朝を憑み顕れ、手を合はせて来たりしかば、勲功の賞を進らせ上げて、父が命を平に申ししかども、正しく君を射奉る罪遁れ難きに依つて、死罪に定まりしを、人手にかけじとて、義朝が朱雀の大路に引き出だして、頸を切り候ひしをこそ、同じ勅命の背き難さと申しながら、悪逆無道の至り、口惜しき事哉とこそ、昨日までも見聞き候ひしに、今日は重盛が身の上になりぬとこそ覚え候へ。『君打ち勝たせ給ひ候はば、彼の保元の▼P1296(四六ウ)例に任せて、重盛五逆罪の一分犯し候ひぬ』と覚え候ふこそ、兼ねて心憂く覚え候へ。
 悲しき哉、君の御為に忠を致さむとすれば、迷慮八万の頂猶下れる父の御恩を、忽ちに忘れなんとす。痛ましき哉、不孝の罪を遁れんとすれば、蒼海万里の底猶浅き君の御為に、不忠の逆臣となりぬべし。是と申し、彼と云ひ、思ふに無益の事にて候ふ。只末代に生を受けてかかる憂き目を見る、重盛が果報の程こそ口惜しく候へ。されば、申し請くる所猶御承引なくして、御院参有るべきにて候はば、先づ重盛が首を召され候ふべし。所詮院中をも守護すべからず。又御共をも仕るべからず。申し請くる所は、只首を召さるべきにあり。
 今思し召し合はせさせ御はしまし候へ。御運は一定末になりて候ふと覚え候ふ。人の運の末に臨む時、かやうの謀は思ひ▼P1297(四七オ)立つ事にて候ふなるぞ。老子の書きおかれて候ふ詞こそ、思ひ合はせられ候へ。『功名称ひ遂げて、身を退き位を避れずは、即ち害に遇ふ』と云へり。彼の勲蕭荷は大功を立つる事、傍輩に越えたるに依つて、官大相国に至り、剣を帯し沓をはきながら、殿上に昇る事をゆるされたりき。然而叡慮に背く事有りしかば、高祖重く誡めて、廷尉におろされて罪せらる。論語と申す文には、『郊に道無き時は、富み且つ貴きは恥なり』と云ふ文あり。かやうの先蹤を思ひ合はせ候ふにも、御福貴と云ひ、御栄花と云ひ、朝恩と云ひ、重職と云ひ、一方ならず極めましまして、年久しくなりぬれば、御運の尽きんとてもかたかるべきに非ず。『富貴の家、禄位重畳するは、猶し再実の木のごとし。其の根必ず傷む』とも云へり。心細くこそ覚え候へ。いつまでか命生きて、乱れぬ▼P1298(四七ウ)世をも見候ふべき。只とくとく首を刎ねられ候ふべし。侍一人に仰せて、只今御壺に引き出ださせ給ひて、首を刎ねられむ事、よに安き事にてこそ候はんずれば、是は殿原いかが思ひ給ふ」とて、
直衣の懐よりたたう紙取り出だして、鼻打ちかみ、さめざめと泣く泣く宣ふ。一門の人々より始めて、侍共に致るまで、皆鎧の袖をぞぬらされける。
 「いかに御用ゐなくとも、叶はざらんまでも、各かやうの事をば申さるべきにてこそ候ふに、諌め申さるるまでこそ候はずとも、先づ与しがましく御物具かためられ候ふ事、且は軽々異体の物狂はしき有様、御振舞共哉。かくては世を持ち、子々孫々繁昌して家門の栄花、末憑み無くこそ覚え候へ」と宣ひければ、弟の右大将、赤面してすくみ返りて、汗水になられけり。▼P1299(四八オ)事の外にわろくぞ見えられける。入道もさすが石木ならねば、道理につまりて返事もし給はず。体のはづかしさに、障子の奥へすべり入りておはしけるが、内府の既に立ち給ひけるを見て、しらけぬ体に、「哀れ、ききたる殿の口かな。わ殿も説法し給ふ。暫くおはせよかし。人道も説法して聞かせ申さむ」とぞ宣ひける。内大臣は中門の廊に立ち出でて、さも然るべき侍共にあひて宣ひけるは、「重盛が申しつる事は各きかずや。されば院参の御共に於いては、重盛が頸の切られんを見て後、仕るべしと覚ゆるはいかに。今朝より是に候ひて、叶はざらんまでも諌め申さばやと存じつれども、是等が体余りにひたあはてに見えつる時に、帰りたりつる也。今は憚る所有るべからず。『首を▼P1300(四八ウ)召さるべし』と申しつれば
、其の旨をこそ存ぜめ。但し未ださも仰せられぬは、いかなるべきやらん。さらば人参れ」とて、小松殿へぞ帰られける。
十九 〔重盛軍兵集めらるる事 付けたり周の幽王の事〕
 内大臣帰りはてられければ、盛国を使にて、「重盛、別して天下の大事を聞き出だしたる事あり。我を我と思はん者共は、怱ぎ物具して参るべし。此にて重盛に志の有無は見るべし」と催されければ、是を聞きて、「少の事にはさはぎ給はぬ人の、かかる仰せの有るは」とて、侍共、入道には「かく」とだにも申さで、我先にとぞ馳せ参りける。夜あけにければ、洛中の外、白川・西京・鳥羽・羽束志・醍醐・小栗巣・勧修寺・小原・志津原・瀬料の郷にあぶれ居たりける侍、郎等、古入道までも次第に聞き伝へ聞き伝へして、或いは馬に乗るも▼P1301(四九オ)あり乗らぬもあり、或は鎧きて未だ甲をきぬ者もあり。或は弓持ちて矢負はぬ者もあり、或は矢を負ひて弓をとらぬ者もあり。かやうに我劣らじと馳せ集まりにければ、西八条には、青女房、古尼公、自ら筆取りなんどぞ少々残りたりける。弓馬に携る程の者は一人もなかりけり。入道宣ひけるは、「内府はなにと思ひて是等をば呼び取るやらん」とて、よに心得ずげにて、腹巻ぬぎ置きて、素絹の衣に袈裟打ち懸けて〓行道して、心も発らぬ念誦してうそ打ち吹きて、「内府に中達ひてもよき大事や」とぞ思はれける。
 小松殿には、盛国が奉りにて侍の着到付けけり。侍三千余人、郎等・乗替ともなく、凡その勢二万七千八百余騎とぞ注しける。内大臣は着到披見の後、侍共に対▼P1302(四九ウ)面して宣ひけるは、「日来の契約違へず、かやうに馳せ参り合ひたるこそ、返す返す神妙なれ。重盛不思議の事を聞き出だしたりつる程に、俄にかくは催したりつるなり。されども其の事聞きなほしつ。僻事にて有りけり。とくとく罷り帰られよ。自今以後も、是より催さんには参るべし。返す返す本意なり」とて、皆返されけるが、又宣ひけるは、「是に事なければとて、後に遅参有るべからず。異国にもさるためし有りけり。
 昔、唐国に周の幽王と云ふ帝おはしけり。后をば褒氏とぞ申しける。此の后、生を受け給ひてより以来、咲み給はず。帝此の后を寵愛し給ひける余りに、いかにしてゑませ奉らんと、種々の態をし給ひけれども、つひに▼P1303(五〇オ)ゑみ給はず。或る時、天下に事出でて、烽火を上げ、時を作りて、甲冑をよろへる武者、宮城に充満せり。是を見給ひて、后初めてゑみ給へり。
 烽火とは、大国の習ひ、都に騒ぐ事出で来ぬれば、諸国へ兵を召さむとては、烽火燈炉と名づけて火輪を飛ばす術をして、王城の四方の高き嶺峯にとぼして、諸国の兵を召す也。又は統天輪とも名づけたり。此の烽火出できぬれば、『都に事出できたむなり』とて、国々の兵、城へ馳せ参る。是を飛火とも名づけたるにや。
 其の後、常に后をゑませ奉らむとて、烽火を上げ、時の声を作りしかば、諸国の官軍馳せ参りたりけれども、かかる謀なりければ、各本国へ帰りにけり。東山へ行く官軍は千里の道に小馬をはやめ、西国へ趣くせむだ羅は、八重の塩路を陵ぎけり。南北の国々も此くの如し。
 ▼P1304(五〇ウ)或る時、戎の軍よせて、幽王を滅ぼさんとしけるに、先々の如く烽火を上げ、時の声を合はせしかども、諸国の官兵等、『例の后ゑませ奉らん料にてぞ有るらん』とて、一人もまゐらざりければ、幽王忽ちに滅び給ひてけり。褒氏をば戎の軍取りて帰りぬ。
 其より美人をば傾城とぞ名づけたる。『城を傾く』と云ふ読みあり。此の読みをば、当初は誡められけれども、当世、都には猶傾城とぞよばれける。彼の后、後には尾三つある狐になりて、古き塚へ逃げ去りにけり。狐の、女にばけて人の心をたぶらかすと云ふ事は、本説ある事にや。思ひ合はすべし」とぞ宣ひける。
 内大臣、実にはさせる事も聞き出だされざりけれども、父の入道を諌め申されつる詞に随ひて、我が身に勢の付くか付ぬかの程をもしり、且は又、▼P1305(五一オ)父と軍をせむとには非ず、父の謀叛の心をや思ひ宥め給はむとの謀なるべし。内大臣の存知の旨、文宣公の宣ひけるに違はず、君の為には忠あり、父の為には孝あり。哀れ、ゆゆしかりける人かな。
 法皇此の事を聞こし召して、「今に始めぬ事なれども、重盛が心の中こそ恥ずかしけれ。『讎をば恩を以て報ぜよ』と云ふ文あり。丸ははや讎をば恩にて報ぜられにけり」と仰せありけるとぞ聞こえし。
廿 〔西光頸切らるる事〕
 左衛門入道西光をば、其の夜、松浦太郎重俊に仰せて、朱雀の大路に引き出だして首を刎ねらる。郎等三人、同じく切られにけり。西光は、三位中将知盛の乳母人、紀伊二郎兵衛為範が舅なりければ、知盛、二位殿に付き奉りてたりふし申されけり。為範も、「人手に懸け候はんよりも、▼P1306(五一ウ)申し預かり候ひて誡め候はん」と再三申しけれども、終に叶はず切られにければ、三位中将も為範も世を恨みて、さばかりの騒動なりけれども指しも出で給はざりけり。
廿一〔成親卿流罪の事 付けたり鳥羽殿にて御遊の事 成親備前国へ着く事〕
 二日、成親卿をば、夜漸くあくる程に、公卿の座に出だし奉りて、物まゐらせたりけれども、胸もせき、喉もふさがりて、聊かもめされず。やがて追立の官人参りて車指し寄せ、「とくとく」と申しければ、心ならず乗り給ひぬ。御車の簾を逆まに懸けて、後ろざまに乗せ奉りて、門外へ追出す。先づ火丁一人つとよりて、車より引き落とし奉りて、祝のしもとを三度あて奉る。次に看督長一人よりて、殺害の刀とて二刀突くまねをし奉る。次に山城判官季助、宣命を含め奉る。かかる▼P1307(五二オ)事は人の上にても未だ御覧じ給はじ。増して御身の上にはいつかは習ひ給ふべきと、御心の内、押しはかられて哀れ也。門外よりは軍兵数百騎、車の前後に打かこみて、我が方さまの者は一人もなし。いかなる所へ行くやらんも、知らする人もなし。「内大臣に今一度遇ひ申さで」とおぼしけれども、其も叶はず。身にそへる物は、尽きせぬ涙計りなり。朱雀を南へ行きければ、大内山を顧みてもおぼし出づる事多かりける中にも、かくぞ思ひつづけられける。
  極楽と思ふ雲井を振りすててならくの底へいらん悲しさ
 鳥羽殿を過ぎ給へば、年来仕へ奉りし舎人・牛飼共、なみゐつつ涙を流すめり。「余所の者だにもかくこそあるに、増して都に残り留まる者▼P1308(五二ウ)共、何計悲しかるらん。我世に有りし時従ひ付きたりし者、一二千人も有りけんに、一人だにも身にそふ者もなくて、今日を限りて都を出づるこそ悲しけれ。重き罪を蒙りて遠き国へ行く者も、人一人具せぬ事やは有る」なんど、さまざまに独り言を宣ひて、声も惜しまず泣き給へば、車の尻先に近き兵は鎧の袖をぞぬらしける。鳥羽殿を過ぎ給へば、「此の御所へ御幸の成りしには一度もはづれざりし物を」なんど覚して、我が内の前を通り給へば、よそも見入らですぎ給ふも哀れ也。
 南門を出でぬれば、河鰭にて 「御船の装束、とく」といそがす。「こはいづくへやらむ。失はるべくは只此の程にてもあれかし」とおぼすも、責めての悲しさの余りにや。近く打ちたる武士を、「是はたそ」と問ひ給へば、「経遠」と名乗りけり。▼P1309(五三オ)難波二郎と云ふ者なりけり。「若此の程に我ゆかりの者やあると尋ねてむや。船にのらぬさきに云ひ置くべき事の有るぞ」と宣ひければ、「其の辺近き当りを打ち廻りて尋ねけれども、答ふる者なし」と申しければ、「世に恐れをなしたるにこそ。なじかはゆかりの者なかるべき。命にも代はらむと云ひ契りし者、一二百人も有りけむ物を。余所にても我が有様をみむと思ふ者のなきこそ口惜しけれ」とて涙を流し給へば、武き物の武なれども哀れとぞ思ひける。
 大納言御船に乗り給ひて、鳥羽殿を見渡して、守護の武士に語り給ひけるは、「去んぬる永万の比、法皇あの鳥羽殿へ御幸ありて、終日に御遊有りき。四条太政大臣師長、御琵琶の役を勤めらる。源少将正賢、御笛の役に参ぜらる。葉室の中納言俊▼P1310(五三ウ)賢、篳篥の役に参り給ひ、楊梅三位顕親、笙笛を仕り、盛定・行実、打物を勤めらる。かかりしかば、宮中澄み渉り、群集の諸人感涙を催しき。調子盤渉調にて万秋楽の秘曲を奏せられしに、五六の帖になりしかば、天井の上に琵琶の音、風に聞こゆ。絃々掩抑として声々の思ひあり。閑関たる鴬語は花の下になめらかに、幽咽たる泉流は氷の下になづめり。〓々たる大絃は村雨とぞ覚えし。窃々たる小絃は秘語に似たりしかば、着座の人人は各色を失ふ。君は少しも騒がせ給はず、成親其の時四位少将にて末座に祗候したりしを召されて、『何なる人ぞ』と尋ね申すべき由、仰せ下されしかば、成親畏まりて天井に向かひて、『君は何なる人にて▼P1311(五四オ)渡らせ給ふぞ』と、院宣の趣きを申したりしかば「我は住吉の辺に候ふ拯也」と答へて、やがて琵琶の音もせず、答ふる人も失せたりき。住吉大明神の御影嚮有りけるにや。諸人身の毛竪ちける
ほどに、池の汀に、赤鬼、青き褓をかきて、扇を三本結び立てたり。御遊の楽にめで給ひて、住吉の大明神のかけらせ給ひけるにこそ。其よりしてぞ、すはま殿をば住吉殿とも申しける。
 彼の師長公の琵琶は、神慮にも相応の勝事多かりける中に、或る年、天下旱魃の間、諸寺諸山の浄行持律の僧等に仰せて雨の御祈り有りけれども、露だにもおかずして人々不覚し給ひたりけるに、此の太政大臣日吉の社に参籠せられて祈精あり。種々の秘曲を弾き給ひたりければ、▼P1312(五四ウ)忽ちに空かきくもり、国土に雨くだりて、天下豊饒なりき。
 又、源少将正賢の吹きける笛は、紅葉と云ふ名物也。彼の笛は、昔住吉の大明神、紅葉の比、大井河に御幸して御遊有りけるに、紅葉面白くありけるに交りて、空より降りけるを取らせおはしまして、還御の後、御身を放たれずして御秘蔵有りてもたせ給ひたりけるほどに、内裏守護して還御なるとて落とさせ給ひたりけるを、彼の正賢の先祖に一条の左大臣正親公と申す人、求めてけり。或る時、正親公夢にしめして云はく、「此の笛は、我しかじかして設けたりしを、内裏にて落としたりき。秘蔵の物也。我に返せ」と仰せられければ、正親公申すやう、「求め得て後は、此に過ぎたる宝▼P1313(五五オ)なしと存じ候ふ時に、進らすまじく候ふ。それに奇怪に思し召され候はば、命をめせ」と申したりければ、「さらば、其の笛のかはりに汝が所持の唐本の法花経を進らすべし」と仰せられければ、又申すやう、「笛は今生一旦の翫び、物経は当来世々の資縁にて候へば、笛をこそ進らせ候はめ」と申しけるを、明神あはれと思し食して、経をも笛をもめされざりき。さて身を放たず、弥よ宝物と思ひて持ちたりけるほどに、内裏焼亡の時、いかがしたりけむ、落として失ひてけり。只事にあらず、若は明神の召し返されけ
るにや。其の後設けられたりける笛の、少しもたがはざりければ、是をも紅葉と名付く。今の笛は後の紅葉にてぞ有りける。かやうに有り難き人々御坐しければ、明神の御影嚮も理にこそ▼P1314(五五ウ)覚えしか。かかりし時も、人こそ多かりしかども、成親こそ召しぬかれて君の御使をばしたりしか。
 簫・笛・琴・箜篌・琵琶・鐃・銅〓、其の名区なれども、中道の方便なりければ、皆是本有の妙理也。惣て生きとし生ける者、いづれか音を離れたる。離鴻去雁の囀り、龍吟魚躍の鳴までも、或いは絃の源、或いは管の起り也。声ととのほりぬれば、君の道直也。されば天子も楽を用ゐ給ひて、雅楽の寮を置かれて朝庭の議式に備へらる。淳素に返る御世なれば、安楽の音ぞ目出たき。余たの調の中にも、風香調こそすぐれたれ。今の盤渉調をば、琵琶には風香調と云ふ。されば妙音大士も三昧の琵琶を取り、四徳の形を備へて、左の御手の印像に深き故有りとかや。
 ▼P1315(五六オ)抑も万秋楽は希代の秘曲、楽家の妙調なる故に、神明もここに降臨し、仏陀も是に納受す。故に則ち其の道を重んじて、輙く是を顕さず。次第相承を訪へば、日蔵上人渡唐の時、唱歌を以て、本朝に帰りてぞ、管絃には移されし。弥陀四十八願の荘厳にも、菩薩是を翫び、〓利三十三天の快楽にも、釈提是を舞ひかなづ。実に希代の楽也。
 さても今、朝敵に非ずして配所へ向かふこそ悲しけれ。住吉の大明神、助けさせ給へ」とて、声も惜しまず泣き給へば、経遠を始めとして、多くの武士共、鎧の袖をぞぬらしける。
 熊野詣・天王寺詣なむどには、二瓦の三棟に造りたる船に、次の船二三十艘付きてこそ有りしに、是はけしかるかきすゑ屋形の船に大幕引きまはして、我が方ざまの▼P1316(五六ウ)者は一人もなくて、見もしらぬ兵に乗り具して、いづちともしらずおはしけむ心の内、さこそは悲しかりけめ。今夜は大物と云ふ所に着き給へり。
 新大納言死罪を宥められて流罪に定まりにけりと聞こえければ、さも然るべき人々悦びあはれけり。是は内府の、入道に強ちに申されたりける故とぞ聞こえし。「国に諌臣有れば其国必ず安し。家に諌子有れば其家必ず正し」と云へり。誠なるかなや。此の大納言、宰相か中将かの程にて異国より来りたりける相人に遇ひ給ひたりければ、「官は正二位、大納言に昇り給ふべし。但し獄に入る相のおはするこそ糸惜しけれ」と相したりけるとかや。今思ひ合はせられて不思議也。
 又中納言にておはしける時、尾張国を知り給ひけるに、去んじ▼P1317(五七オ)嘉応元年の冬の比、目代右衛門尉政朝、尾張国へ下るとて杭瀬河に留まりたりけるに、山門の領、美乃国平野庄住人と事出だす事ありけり。平野庄の住人葛を売りけるに、彼の政朝が宿にて直の高下を論じけるに、後には葛に墨を付けたりけるをとがめける程に、互に云ひあがりて神人を刃傷したりける故とぞ聞へし。これに依りて平野庄神人、山門に訴へければ、同年十二月廿四日、大衆起こりて日吉の神輿を陣頭へ捧げて参ず。ふせかせられけれども叶はず。近衛の門より入て建礼門の前に神輿を比べすゑ奉りて、「成親卿を流罪せられ、目代政朝を禁獄せらるべき」由訴へ申しければ、「成親卿備中国へ流され、目代政朝を獄舎へ入れらる▼P1318(五七ウ)べき」由を宣下せらる。大納言既に西の朱雀なる所まで出だされたりける程に、同廿八日、召し返さると聞こえしかば、大衆成親卿をおびたたしく呪咀すと聞こえしかども、同廿九日、本位に復して、やがて中納言に成り返り給ふ。同二年正月五日、右衛門督を兼じて検非違使別当にならる。
 其後も目出く時めき栄え給ひて、去んじ承安二年七月廿一日、従二位し給ひし時も、資賢・兼雅を越え給ひて、資賢は吉き人おとなにておはしき、兼雅は清礼の人なりしに、越えられ給ふも不便なりし事也。是は三条殿造進の賞なり。御移徙の日なりけり。同三年四月十三日、又正二位し給ふ。今度は中御門中納言宗家卿越えられ給ふ。去々年承安▼P1319(五八オ)元年十一月廿八日、第二の中納言を越えて、左衛門督検非違使別当権大納言に上り給ふ。かやうに栄えられければ、人嘲りて、「山門の大衆にはのろはるべかりける物を」とぞ申しける。されども其の積りにや、今かかる目を見給ふぞ怖しき。神明の罰も人の呪咀も、疾きもあり遅きもあり、不同の事なり。
 三日未だ晩れざるに、「京より御使あり」とてひしめくめり。「既に失へとにや」と聞き給へば、「備前国へ」と云ひて、船を出ださるべき由、〓る。内の大臣の許より御文あり。「『都近き山里なむどに置き奉らん』と再三申しつれども、叶はぬ事こそ、世に有る甲斐も候はね。是に付けても世の中あぢきなく候へば、『親に先立ちて後生を助け給へ』とこそ、天道には祈り申し候へ。心に叶ふ命ならば、御身に▼P1320(五八ウ)も替へまほしく思ひ候へども、叶はず。御命計りは申し請けて候ふ。御心長く思し召し候へ。程経ば、入道聞きなほさるる事もやとこそ、思ひ給ひ候へ」とて旅の御用意細々と調へて奉り給へり。難波二郎が許へも御文あり。「あなかしこ、おろかに当たり奉るな。宮仕へ、よくよくすべし。おろかに当
たり申して我うらむな」とぞ仰せられたりける。
 「さばかり不便に思し召されたりつる君をも離れ奉り給て、少き者共を振り捨てて、いづちとて行くらん。今一度都へ帰りて妻子を見ん事有りがたし。一年山の大衆の訴へにて、日吉七社の御輿を振り奉りて、已に朝家の御大事になりておびたたしかりしだにも、西七条に五ヶ日こそ有りしか、其れもやがて御ゆるされありき。是は君の御誡めにもあらず、大衆の▼P1321(五九オ)訴へにてもなし。こはいかにしつる事ぞや」と、天に仰ぎ地に臥して、をめき叫び給へども甲斐なし。
 夜も明けければ、船を指し出だす。道すがらも只涙にのみ咽び給ひて、はかばかしく湯水をだにも喉へ入れ給はねば、ながらふべしとも思ひ給はねども、さすが露の命もきえはて給はず。日数経るままには都のみ恋しく、跡の事のみぞおぼつかなく思ひ給ひける程に、備前小嶋と云ふ所に落着き給へり。民の家のあやしげなる柴の編戸の内へぞ入り給ひにける。後には山、前は礒なれば、松に答ふる嵐の音、岩に摧くる波の声、浦に友呼ぶ浜千鳥、塩路をさ渡るかもめ鳥、適指し入る物とては、都にて詠めし月の光計りぞ、皃がはりもせず澄み渡りける。
 新大納言父子にも限らず、誡めらるる▼P1322(五九ウ)人余ありき。
廿二 〔謀叛の人々召し禁ぜらるる事〕
 近江入道蓮浄をば、土肥二郎実平預かりて常陸国へ遣はす。新平判官資行をば、源大夫判官季定預かりて佐土国へ遣はす。山城守基兼をば、進二郎宗政預かりて淀の宿所に誡め置く。平判官康頼、法勝寺執行俊寛僧都をば、備中国住人妹尾太郎兼康預かりて福原に召し置かる。丹波少将成経をば舅の平宰相に預けらる。
廿三 〔師高尾張国にて誅せらるる事〕
 西光が嫡子、前加賀守師高・同弟左衛門尉師親・其弟右衛門尉師平等、追討すべき由、大政入道下知し給ひければ、武士尾張国の配所井土田へ下りて、河狩を初めて遊君を召し集めて、▼P1323(六〇オ)酒盛りして師高ををびき出だして首を刎ぬべき由を支度したりける程に、五日、師高が母の許より使を下して申しけるは、「『入道殿、八条殿より召し取られ給ひぬ。さりとも院の御所より尋ね御沙汰あらんずらむと待ち給ひし程に、やがて其の晩に打たれ給ひぬ。尾張の公達とても助け給ふべからず。怱ぎ下りて夢見せ奉れ』と宣ひつる」と云ひければ、師高、井戸田をば逃げ出でて、当国鹿野と云ふ所に忍びて居たりけるを、小熊郡司惟長、聞き付けてよせて搦めむとしけるに、師高なかりければ、兵共返らんとしける所に、檀紙にて髪の垢をのごひて捨てたる有りけり。是を見付けてあやしみて、猶能能穴ぐり求めける程に、民の家には、づしと云ふ所あり、其に隠れて師高が居たりけるを、求め出だして搦めむとしければ▼P1324(六〇ウ)自害してけり。郎等に近平四郎なにがしとかや申しける者、一人付きたりけるも同じく自害してけり。師高が首をば小熊郡司取りて六波羅へ献る。其の骸をば、師高が思ひけ
る鳴海宿の君、手づから自ら焼きはぶつて取り納めけるぞ無慚なる。
 西光父子、切れ者にて世を世とも思はず、人を人ともせざりし余りにや、指もやむ事なくおはする人のあやまち給はぬをさへ、さまざま讒奏し奉りければ、山王大師の神罰冥罰立所に蒙て、時尅を廻さずかかる目にあへり。「さみつる事よ。さみつる事よ」とぞ人々申しあへりし。大方は女と下臈とは、さかざかしき様なれども思慮なき者也。西光も下臈の終なりしが、さばかりの君に召し仕はれまゐらせて果報や▼P1325(六一オ)尽きたりけむ。天下の大事引き出して我身もかく成りぬ。あさましかりける事共也。
廿四 〔丹波少将福原へ召し下さるる事〕
 廿日、福原より太政入道平宰相の許へ、「丹波少将是へ渡し給へ。相計らひていづちへも遣はすべし。都の内にては猶あしかるべし」と宣ひたりければ、宰相あきれて、「こはいかなる事にか。人をば一度にこそ殺せ。二度に殺す事やはある。日数も隔たればさりともとこそ思ひつれ。さらば中々有りし時、ともかくも成りたらば再び物は思はざらまし。惜しむとも叶ふまじ」と思はれければ、「とくとく」と宣ひて少将諸共に出で給ふ。「今日までもかく有りつるこそ不思議なれ」と少将宣ひければ、北方も乳母の六条も思ひ儲けたる事なれども、今更に▼P1326(六一ウ)又もだえこがる。「猶も宰相の申し給へかし」とぞ思ひあへる。「存ずる所は委しく申してき。其の上加様に宣はむは力及ばず。今は世を捨つるより外はなにとか申すべき」とぞ宰相は宣ひける。「さりとも御命の失はるる程の事は、よもとぞ覚ゆる。いづくの浦におはすとも訪ね奉らむずる事なれば、たのもしく思ひ給へ」と宣ひけるも哀れ也。
 少将は今年四歳(三歳イ)に成り給ふ男子を持ち給へり。若き人にて、日来は公達のゆくへなむど細かに宣ふ事もなかりけれども、そも恩愛の道の悲しさは、今はの期に成りぬれば、さすが心にやかかられけむ、「少き者今一度みむ」とて呼び寄せられたり。若君少将を見給ひて、いとうれしげにて取り付きたれば、少将かみをかきなでて、「七歳にならば男になして、御所へ進ら▼P1327(六二オ)せむとこそ思ひしかども、今は其の事云ふ甲斐なし。頭かたく生ひたちたらば、法師になりて我が後世を訪へよ」と、おとなに物を云ふやうに、涙もかきあへず宣へば、若君なにと聞きわき給はざるらめども、父の御皃を見上げ給ひて打ちうなづき給ふぞ糸惜しき。是を見て北方も六条も臥しまろびて声も惜しまずをめき叫びければ、若君あさましげにぞおぼしける。今夜は鳥羽までとて怱ぎ給ふ。宰相は出で立ち給ひたりけれども、世の恨めしければとて、此度は伴ひ給はぬに付けても弥心細くぞ思はれける。
 廿二日、少将福原におはし付きたれば、妹尾太郎預かりて、やがて彼が宿所にすゑ奉る。我が方ざまの人は一人も付かざりけり。妹尾、宰相の返り聞き給はん事を思ひける▼P1328(六二ウ)にや、さまざまに労り、志ある様に振る舞ひけれども、なぐさむ方もなし。さるに付けても悲しみは尽きせず。仏の御名のみ唱へて、夜昼泣くより外の事なし。備中国妹尾と云ふ所へ流すべしと聞きければ、少将打ち案じて、「大納言殿は備前国へと聞こゆ。其のあたり近きにや。相見奉るべきにはなけれども、当りの風もなつかしかりなむ」と宣ひけるぞ哀れなる。「責めてはそなたとだに知らん」とて、妹尾太郎に、「我が流されて有らむずる妹尾とかやより、大納言のおはする備前国の児嶋へはいか程の道にて有らむ」と問はれければ、片道僅かに海上三里の道をかくして、「十三日」とぞ申しける。少将是を聞きて思はれけるは、「日本▼P1329(六三オ)秋津嶋は昔は三十三ヶ国にて有りけるを、後に半国づつに分けて六十六ヶ国とす。されば僅の小嶋ぞかし。中にも山陽道にさ程の大国有りとはきかぬ物を。宰府より〓の使の年々に参りしを聞きしも、廿日余りなむどこそ聞きしか。備前・備中両国の間、いかに遠くとも二
三日にはよもすぎじ。是は我が父のおはし所を近しと聞く物ならば、文なむどや通はんずらむとて、知らせじとて云ふよ」と心得給ひてければ、其の後はゆかしけれども問ひ給はず。哀れ也し事也。
廿五 〔迦留大臣の事〕
 昔迦留大臣と申す人おはしき。遣唐使にして異国に渡りて御しけるを、何なる事か有りけん、物いはぬ薬をくはせて▼P1330(六三ウ)五体に絵を書きて、額に燈がひを打ちて、燈台鬼と名づけて火をともす由聞こえければ、其御子に弼宰相と申す人、万里の波を凌ぎ他州の雲を尋ねて見給ひければ、燈鬼涙を流して手の指を食ひ切りてかくぞ書き給ひける。
 我は是日本花京の客  汝は即ち同姓一宅の人
 父と為り子と為る前世の契り  山を隔て海を隔て恋ふる情け辛なり
 年を経て涙を流す蓬蕎の宿  目を遂ひて思ひを馳す蘭菊の親び
 形は他州に破れて燈鬼と成れり  争でか旧里に帰りて斯の身を棄てむ
と書きたり。是を見給ひけむ宰相の心中、何計りなりけむ。遂に御門に申し請けて、帰朝して其の悦びに大和国迦留寺を建▼P1331(六四オ)立すと見えたり。彼は父を助けつれば、孝養の第一也。是は其の詮もなけれども、親子の中の哀れさは、只大納言の事をのみ悲しみて、あけくれ泣きあかし給ひけり。
廿六 〔式部大夫章綱事〕
 式部大夫章綱は、幡磨の明石へ流されたりけるが、増位寺と云ふ薬師の霊地に百日参籠して、都帰の事を肝胆を摧きて祈り申しける程に、百日に満じける夜の夢の内に、
  昨日まで岩間を閉ぢし山川のいつしかたたく谷のしたみづ
と御帳の内より詠ぜさせ給ふと見えて、打ち驚きて聞けば、御堂の妻戸をたたく音しけり。誰なるらんと聞く程に京にて召し仕ひし青侍なりけり。「何に」と問へば、「太政入道殿の御免しの文」とて、持て来れりけり。うれしな▼P1332(六四ウ)むどは云ふ計りなくて、やがて本尊に暇申して出でにけり。有り難かりける御利生也。
二十七 〔成親卿出家の事 付けたり彼北方備前へ使を遣はさるる事〕
 廿三日、大納言は「少し窕ぐ事もや有る」と覚しけれども、いとど重くのみなりて、少将も福原へ召し下さると聞こえければ、体をやつさでつれなく月日をすごさむも恐れあり。「何事を待つぞ。猶世に有らむと思ふか」と、人の思はんもはづかしければ、「出家の志有り」と、内大臣の許へ申し合はせられたりける返事に、「さもし給へかし」と宣ひたりければ、出家し給ひにけり。
 大納言の北の方の北山のすまひ、又押しはかるべし。住みなれぬ山里は、さらぬだに物うかるべし。いと忍びてすまひければ、過ぎ行く月日も晩しかね、明かし煩ふさまなり。女房、侍共も、其の数多かりしかども、身の捨てがたければ、▼P1333(六五オ)世を恐れ人目をつつむ程に、聞き問ふ者もなかりけり。
 源内左衛門信俊と云ふ侍有りけり。万づ情け有りける男にて、時々言問ひ奉る。或る晩方に尋ね参りたりければ、北の方すだれのきは近く召して宣ひけるは、「哀れ、殿は備前児嶋とかやへ流され給ひたりけるが、過ぎぬる比より有木別所と云ふ所におはしますと計りは聞きしかども、世のつつましければ、是より人一人をも下したる事もなし。生きてやおはすらん、死にてや御はすらむ、其の行へも知らず。未だ命生きておはせば、さすが此の当りの事をも何計りかは聞かまほしくおぼさるらん。信俊、何なる有様をもして尋ね参りなむや。文一つをも遣はして返事をも待ち見るならば、限りなき心の内、少しなぐさむ事もやと思ふは、いかがすべき」と宣ひければ、信俊涙を押さへて▼P1334(六五ウ)申しけるは、「誠に年比近く召し仕はれ奉りし身にて候ひしかば、限りの御共をも仕るべくこそ候ひしかども、御下りの御有様、人一人も付き進らせ候べき様なしと承り候ひしかば、力及ばず罷り留まり候ひて、明けても晩れても君の御事より外は何事をかは思ひ候ふべき。召され候ひし御声も耳に留まり、諌められ進らせし御詞も肝に銘じて忘られ候はず。今此の仰せを承る上は、身は何に成り候ふとても罷り下り候ふべし
。御文を給はりて尋ね参らむ」と申しければ、北の方大ひに悦び給ひて、文細かに書きて給ひてけり。若君姫君も面々に父の許への御事づてとて書きて給ひてけり。
 信俊是を取りて児嶋へ尋ね下りて、預かり守り奉る武士に合ひて、「大納言殿の御ゆくへのおぼつかなさに、今一度見奉らんとて、年来の青侍に信俊と申す者、はるばると尋ね▼P1335(六六オ)進らせて参りて候ふ」と申したりければ、武士ども哀れとや思ひけん、ゆるしてけり。参りて見奉れば、土を壁にぬりまはして、あやしげなる柴の庵の内なり。藁のつかなみと云ふ物の上に、僅かに莚一枚敷きてぞすゑ奉りたりける。御すまひの心うさもさる事にて、御体さへ替はりにけり。墨染の袖を見奉るに付きても目もくれ心も消えはてにけり。大納言も今更悲しみの色を増し給ふ。「多くの者共の中に、なにとして尋ね来たりけるぞ」と、宣ひもあへず、こぼるる涙も哀れ也。信俊泣く泣く北の方の仰せらるる次第、細かに申して、御文取り出だしてまゐらせけり。大納言入道、是を見給ひて涙にくれつつ、水くきの跡そこはかともみえわかねども、若君姫君の恋ひ悲しみ給ふ有様、我が御身も又月日を過ぐすべき様もなく、心細く▼P1336(六六ウ)幽かなる御有様を書きつづけ給へるを見給ひては、日来おぼつかなかりつるよりも、げにいとどもだえこがれ給ふ、げに理と覚えて哀れ也。
 信俊二三日は候ひけるが、泣く泣く申しけるは、「かくても付きはてまゐらせて、御有様をも見はて進らせ候はばやと存じ候へども、都も又、見ゆづり進らせ候ふ方も候はざりつる上、罪深く御返事を今一度御覧ぜばやと覚しめされて候ひつるに、空しく程を経候はば、跡もなく験もなくや思し召され候はむずらんと、心苦しく思ひ遣り進らせ候ふ。此の度は御返事を給はりて、持ち参り仕り候ひて、又こそはやがて罷り下り候はめ」と申しければ、大納言はよに余波惜しげには思ひ給ひながら、「誠にさるべし。とくとく帰り上れ。但し汝が今こむ度を待ち付くべき心地もせぬぞ。いかにもな▼P1337(六七オ)りぬと聞かば、後の世をこそ訪はめ」とて、返事細に書き給ひて、御ぐしの有りけるを引きつつみて、「且は是を形見とも御覧ぜよ。ながらへてしも、よも聞きはてられ奉らじ。こむ世をこそは」と心細く書き付け給ひて信俊に給ひてけり。
  行きやらむ事のなければ黒かみを信物にぞやるみてもなぐさめ
と書き止め給へり。若君姫君の御返事共もあり。信俊是を持ちて帰り上りけるが出でもやられず。大納言もさして宣ふべき事は皆尽きにけれども、したはしさの余りに度々是を召し返す。互の心の内、さこそは有りけめと押しはからる。さても有るべきならねば、信俊都へ上りにけり。
 北山へ参じて北の方に御返事奉りたりければ、北の方は 「あなめづらし。い▼P1338(六七ウ)かにいかに。さればいまだ御命は生きておはしましけるな」とて、怱ぎ御返事を引きひろげて見給ふに、御ぐしの黒々として有りけるを、只一目ぞ見給ひける。「此の人はさまかへられにけり」と計りにて、文物も宣はず。やがて引きかづきて臥し給ひぬ。御うつりがも未だ尽きざりければ、指し向かひ奉りたる様にはおぼされけれども、御主は只面影計り也。若君姫君も「いづら、父御前の御ぐしは」とて、面々に取り渡して泣き給ふも無慚也。
信物こそ今はあだなれ是なくはか計り物はおもはざらまし
とぞ詠じ給ひける。
 太政入道此の事を聞き給ひて宣ひけるは、「誰がゆるしにて信俊は下り、大納言は本鳥をば切りけるぞ。かやうの事▼P1339(六八オ)をこそ自由の事とはいへ。流し置きたらば、さてもあらで、不思議なり」とて、小松の大臣には隠し給ひて、経遠が許へ「大納言怱ぎ失ふべし」とぞ、内々宣ひたりける。
 丹波少将をば福原へ召し取りて、妹尾太郎が預かりて備中国へ遣はしけるを、法勝寺執行俊寛僧都・平判官康頼を薩摩国鬼海嶋へ遣はしけるに、此の少将を具して遣はしけり。
 康頼は元より出家の志ありける上、流罪の儀に成りければ、内々小松殿に付き奉りて、人して小松殿の許へ書をかき
て遣はしけり。
 其の状に云はく、「已に暁は配所に趣くべき由、承り候ふ。夫れ苦縁を厭ふは最も出離生死の終り、災難に遇ふことは歎きの中の悦びなるを乎。浄縁を傾く者は亦往生極楽▼P1340(六八ウ)の因、人身を受けたるは悦びの中の悦び也。抑も出家は昔より本望なり。況や左遷の今においてを哉。願はくは途中の海岸の松の下に侍りて、薩〓の遇教、頭の霜を払はんと欲す。
其奈かん。仍りて誠惶誠恐謹言。謹上小松内大臣殿御右下。平判官康頼状」とぞ書きたりける。
 小松殿の御返事には、
  墨ぞめの衣の色ときくからによそのたもともしぼりかねつつ
「やさしの御返事や」とて、康頼泣く泣く薩摩国へぞ趣きける。
摂津国狗林と云ふ所にて、髪を剃りてけり。戒の師には聖音房阿闍梨と申しける老僧也。領送使しきりに怱ぎける間、心静かに説戒なむども聴聞せず、形の如く三帰戒の名字計りを受けて、法▼P1341(六九オ)名聖照とぞ申しける。萌黄の裏つけたるうす香の直垂をぬぎおきて、こき墨ぞめの衣の色落つる涙にしぼりあへず。さて出でさまにかくぞ口ずさみける。
 遂にかくそむきはてぬる世の中をとくすてざりし事ぞくやしき
 此の判官入道の子息に、左衛門尉基康とて、殊に親を思ふ志深き者有りけり。忍びつつ只一人つきめぐりて、領送使に案内を経て、狗の林まで門送りしたりけり。泣く泣く父に向かひて申しけるは、「なかなか只遂の御別れとだに思ひ進らせば、一すぢに思ひ定むる方も候ひなむ。生きながらかく別れ進らする御行末のおぼつかなさ、一日片時も何にして思ひ忍ぶべしとも存じ候はず。定めてさこそおぼしめし候ふ▼P1342(六九ウ)らめ。嶋までこそ候はずとも、今一日も御共申すべく候ふに、世を恐れ候ふ程にかやうに罷り留まり候ふ也。憑み進らせたる父のかやうに成らせ給ひ候はん上は、必ずしも身を全くすべきにて候はねども、人の心を背き候ひてはなかなか御為あしく候ひぬと覚え候へば、暇申して罷り帰らむ」とて、かきもあへずさめざめとぞ泣きける。判官入道、基康が袖を引かへて、「人の身には愛子とて同じ子なれども、殊に志深き子あり。汝は入道が愛子にて、襁褓の時より成人の今に至るまで、恩愛の志未だ尽きず。一日も見ざる時は恋慕の情とこめづらし。十日廿日送りたりとても、帰らむ別れが悲しからざるべきか。人々の御覧ずるも恥づかし。余所目もみぐるし。うれしく此まで送りたり。▼P13
43(七○オ)早々帰り給へ」とて、各袖を絞りつつ、父は南に向ひて行けば、子は都の方へぞ行きける。思ひ切りては行けども、尚もなごりや惜しかりけむ、近き程は互ひにみかへりつつ、父は子の方をみ返り、子は父の方をかへりみける処に、父詞をば出ださず、手あげて子を招きけり。
 基康怱ぎ打ち返りたりければ、父涙を流し、良久しく有りて申しけるは、「心得さすべき事の有りつるを、余りの思の深さに申さざりつるなり。聖照が母儀の尼公の、八十有余に成り給ふが、蓮台野の東に紫野と云ふ所に、草の庵結びておはするぞかしな。念仏申して後世菩提の勤めより外は他念なくして、朝の露、暮の風をまたず、あさがほの日影を待たざる如くして、今日明日とも知り給はぬ人の、只一人馮み給へるが、▼P1344(七〇ウ)たけごろひとしき子の、いつかへるべしとも知らず、遠き嶋の人もかよはぬ所へ流されぬと聞き給ふ物ならば、又打ち憑む方もなき所に残り留り給ひて泣き悲しみ給はん事、恩愛の習ひ、さこそ思ひ給はむずらめ。されば山林に交はりてそぞろに泣きかなしみ給はむほどに、最後の十念にも及ばずして、日比の行業を空くなし給はん事の悲しさよ。さればかくとも申さず暇をも乞ひ奉り、今一度見もし見えもし奉りたかりつれども、見奉る程にては忍ぶとも叶ふまじ。思ふ心色にあらはれて、問ひ給はば、又何とかくしとぐべきならねば、何にもして知らせ奉らじと思ひて出づる事の、心に係かりて覚ゆるぞ。汝も何にもして隠し遂げぬべくは、知らせ奉▼P1345(七一オ)るなよ。
汝帰りなば、紫野に参りて申すべき事はよな、『人に讒言せられて太政入道殿より御不審を蒙りて候ふ間、しばらく双林寺に籠居し候ふ也。折を伺ひて申し披き候はんずれば、大事はよも候はじ。御心苦しく思し召すべからず。さても御往生の安心は先々申しおきて候ひしかば、夢幻と思し食して、只ねてもさめても無為の浄土に心を懸けましまし、来迎の台にあなうらを踏み給ふべし。決定往生すべき人には、臨終には必ず境界愛と申す魔縁来たりて、或いは親と変じ、夫婦鐘愛の形とも変じ、或いは七珍万宝とも変じて裟婆に心を留むる事の候ふ也。されば親を見ばや、子を見ばやと思ふ心をば、魔縁の所為と思し食して、只一向に西▼P1346(七一ウ)方に心を懸けさせ給ふべし。若し尚しも康頼を恋しと思し食されむ時は、一年書き注して進らせ候ひし往生の私記を御覧候ふべく候ふ』と、能々心得て申すべし」とて袖もしぼる計り也。
 此の紫野と申すは、蓮台野の東に蒼々たる小松原あり。昔念仏の行者侍りき。常に紫の雲の聳えけるによりて、紫野と名付けたり。今も求願往生の人、多く庵を結びて住みけり。康頼入道が母、若くして夫には後れにけり。偏へに往生を求むる志深くして、蓮台野の辺、紫野の松の木隠に庵を結びて功徳池の流れに心をすましてぞ侍りける。少くしては二親におくれ、成人しては夫に後れにき。又三人の子あり。二人は女子にて花やかにうつくしかりし▼P1347(七二オ)かども、無常の風にさそはれて北亡の露と消えにけり。老少不定の堺なれば、始めて驚くべきにはあらねども、恩愛別離の歎きには凡聖同じく袖をしぼる習ひにて、此の尼上、懐旧の涙かはくまもなし。
  むらさきの草のいほりにむすぶ露のかはくまもなき袖の上かな
と読みて、憑む所は康頼計りこそ有りつるに、これかくなりて再び会ふ期を知らず。遠流の身と聞きなば、朝暮の行も打ち捨てられて、往生の障りとならむ事こそ悲しけれ。相構へかくし奉るべし。汝入道を哀れと思はば、雪の中に笋を求むる志をはげまして、紫野へ常に詣り、入道が没後を訪ふと思ひなして、紫野にて常随▼P1348(七二ウ)給仕をも申すべし。此の事より外には大事と思ふ歎きなし」とて、手を合はせてぞ泣きける。
 基康申しけるは、「御信物とて、只一人残り留らせ給ふ祖母の御事なれば、仰せを蒙り侍らずとも、争でか疎略侯ふべき。尤も此の御遺言、肝に銘じて忘れ難く候ふ。罷り帰り候ひなば、やがて常随給仕申すべし」とて、各行きわかれにけり。
 基康、道すがら落つる涙に目もくれて、月日の光もなきがごとし。「有為無常の堺は、父にもおくれ母にも後れて、送りをさめて帰る事は常の習ひなれども、何なる宿報にて、基康は生きたる父を送りすてて帰るらむ」と、独りごとにくどきつつ、流るる涙、道しばのつゆ、払ひもあへず、「道にて若失はれ給はば、屍▼P1349(七三オ)をも誰か隠すべき。生きながら嶋にすてられ給はば、家も無くして何かがすべき。飢ゑてや死に給はむずらん、こごへてや失せ給はむずらん。霜雪ふらば何がせむ。霰ふる夜の岩はざま、塩風はげしき露命のきえむ事、四大は日々におとろへて、今日や明日やと待ち給はん事の心うさ、只一度にわかれなましかば、これほどにちくさに歎きはよもあらじ」と思ひつづけて、馬にまかせて帰り上りけり。
二十八 〔成経康頼俊寛等油黄嶋へ流さるる事〕
 さても、成経以下の人々、世の常の流罪だにも悲しむべし、増して此の嶋の有様、伝え聞きては、各もだえこがれけるこそ無慚なれ。道すがらの旅の空、さこそは哀れを催しけめと、おしはかられて無慚なり。▼P1350(七三ウ)前途に眼を先立つれば、とく行かむ事を悲しみ、旧里に心を通はすれば、早く帰らん事をのみ思ひき。或いは、海辺水駅の幽かなる砌には、蒼波眇々として、恨みの心綿々たり。或いは、山館渓谷の暗き道には、巌路峨々として、悲しみの涙態々たり。さらぬだに旅のうきねは悲しきに、深夜の月の朗らかなるに、夕告鳥幽かに音信れて、遊子残月に行きけむ函谷の有様、思ひ出でられて悲しからずと云ふ事なし。漸く日数経にければ、薩摩国にも着きにけり。是より彼の鬼海嶋へは、日なみを待ちて渡らむとす。
 鬼界嶋は異名也。惣名をば流黄嶋とぞ申しける。端五嶋、奥七嶋とて、嶋の数十二あむなる内、端五嶋は昔より日本に▼P1351(七四オ)随ふ嶋なり。奥七嶋と申すは、未だ此の土の人の渡りたる事なし。端五嶋の中に流黄の出づる嶋々をば、油黄の嶋と名付けたり。さて順風有りければ、彼の嶋へ押し付きて、端五嶋が内、少将をば三の迫の北の油黄嶋、康頼をばあこしきの嶋、俊寛をば白石の嶋にぞ捨て置きける。彼の嶋には、白路多くして石白し。水の流れに至るまで、浪白くして潔し。かかりければにや、白石の嶋と名付けたり。責めて一嶋に捨て置きたらば、なぐさむ方も有るべきに、はるかなる離れ嶋共に捨て置きければ、悲しみなむどは愚か也。されども後には、俊寛も康頼も、とかくして少将の有りける油黄嶋へたどり付きて、互ひに血の涙を流しけり。
 彼の嶋は、嶋のまはり西国廿里の▼P1352(七四ウ)嶋也。其の地乾地にして、田畠もなければ米穀もなし。自ら渚に打ちよせられたる荒和布なむどを取りて、僅かに命を続ぐ計り也。嶋の中に高き山あり。嶺には火もえ、麓には雨降りて、雷鳴る事隙なければ、神をけすより外の事なし。冥途につづきたむなれば、日月星宿の下なりと云へども、寒暑理にも過ぎたり。薩摩潟より遥々と海を渡りて行く道なれば、おぼろけにては人の通ふ事もなし。自ら有る者も、此世の人には似ず。色黒くして牛の如し。身には毛長く生ひたり。絹布の類なければ、着たる物もなし。男と覚しき者は、木の皮をはぎて、はねかづらと云物をし、褒にかき、腰に巻きたれば、男女の形もみ▼P1353(七五オ)えわかず。髪は空さまへ生ひ上りて、天婆夜叉に異ならず。云ふ詞をも、さだかに聞こえず。偏に鬼の如し。何事に付けても、一日片時、命生くべき様もなかりければ、心憂く悲しき事限りなし。
 かかる所へ流し遣はされたれば、少将は只「中々頸を切られたらば、いかがはせむ。生きながら憂目をみる事の心憂き。此の世一つの事にあらじ」とぞ思されける。かやうに心憂き所へ放たれたる各が身の悲しさはさる事にて、旧里に残り留まる父母妻子、此の有様を伝へ聞きて、もだえこがるらむ心の内、思ひやられて無慚也。人の思ひの積るこそ怖しけれ。
 「彼の海漫々として、風皓々たる、雲の浪、煙の濤に咽びたる、蓬莱、方丈、瀛州の三の神山には不死の薬もあむなれば、末も憑みある▼P1354(七五ウ)べし。此の薩摩方、白石あこしき油黄嶋には、何事にかはなぐさむべき」と思ひ遣られて哀れなり。眼に遮る物とては、山の峯に燃え上る焔、耳に満つる物とては、百千万の雷の音、生きながら地獄へ堕ちたる心地して、聞きても只身の毛計りぞ竪ちける。
 少将判官入道は、思ひにも沈みはてず、常には浦々嶋々を見廻りて、都の方をも詠めやる。僧都は余りに悲しみに疲れて、岩の迫に沈み居たり。なぐさむ事とては、常に一所に指しつどひて、尽きせぬ昔物語をのみぞしける。さればとて、一月にもさすが消えうせぬ身なれば、木の葉をかきあつめ、もくづを拾ひて、形の様なる庵を結びてぞ明かし晩らしける。さ▼P1355(七六オ)れども、少将の舅平宰相の領、肥前国加世庄と云ふ所あり。彼こより、折節に付けて形の如くの衣食を訪はれければ、康頼も俊寛も、それにかかりてぞ日を送りける。此の人々、露の命消えやらぬを惜しむべしとにはなけれども、朝な夕なを訪ふべき人一人も従ひ付かぬ身共なれば、いつならはねども、薪を拾はむとて山路に迷ふ時もあり、水を結ばむとて沢辺に疲るるをりもあり。さこそ便りなく悲しかりけめ。押しはかられて無慚也。
 康頼入道は、日にそへて都の恋しさもなのめならず。中にも母の事を思ひ遣るに、いとど為方無く、「流されし時も、かくと知らせまほしかりしかども、聞きては老のなみに▼P1356(七六ウ)歎かん事の労しさに、思ひながら告げざりしかば、今一度みもしみえざりしに、我が有様伝へ聞きては、今までながらへて有らん事も有りがたし」なむど、来し方向後の事まで
も、つくづくと思ひつづけられて、只泣くより外の事ぞなかりける。
〔二十九〕 〔康頼油黄嶋に熊野を祝ひ奉る事〕
 判官入道は、そのかみ熊野権現を信じ奉り、卅三度参詣の志し有りけるが、今十五度をはたさずして此の嶋へ流されたり。宿願をはたさぬ事を口惜しく思はれけり。身は能く朝庭の月にあそむで、心は偏に仏教の玉をみがく。叡山天台の法嶺に登りては、十界互具の花を翫び、高野密教の道場に臨みては、三密喩伽の燈を挑ぐ。況や外典▼P1357(七七オ)においては、九経三史の光にくもりなく、五百余巻の読書の花、亭樹の枝に開きたり。詩歌管絃に心をすまして、風月文道明々たり。かかる名人智徳の人たりと云へども、人間の八苦未だ免れず。過去の宿因恥かしく、今生の歎き遣るせをしらず。「抑も人身を受くる事は、五戒の中の修因也。五戒に何なる誤り有りてか、此程の人苦難にあへるらむ」と不審殊に少なからず。現報とやせむ、宿報とやせむ。不覚の涙つきかねたり。
 丹波少将宣ひけるは、「誠に宿善いみじくおはしければこそ、雲上の月に隣をしめ、鳳闕の花を翫び、松門の風にたはぶれて、法水の流をも汲み給ひけめ。其の上、熊野参詣だにも▼P1358(七七ウ)十余度と承りき。御利生こそなからめ、かかる歎きの塵とならせ給ひぬる事、仏神の御加護、疑ひ実に多し」。康頼入道、「実に仰せの如く熊野山に頭をかたぶけ奉る志し深くして、卅三度参るべき宿願をみてず。三度の御幸に三度ながら望み申して供奉仕りし事も、内心は只宿願の度数と存じ候ひき。私の参詣十五度也。合はせて十八度、今十五度参り候らはで此の難にあへる事、今生の妄念、神明の御利生空しきに似たり」とて、遺恨の涙かきあへず。
 法勝寺の執行此を聞きて、「少将殿も御参詣候ひけるやらむ」と問へば、少将「成経は、未だ一度も参り候はず」と宣へば、僧都▼P1359(七八オ)「俊寛も未だ参り候はず。されば神の名だてにては候へども、度々の参詣空しくして、一度も参らざる輩に同罪同所の身とならせ給ふ事、何のしるしか候ふべき。御恨み、尤も理なり」と宣へば、康頼入道申しけるは「しかも卅三度の宿願は後生菩提とは存ぜず候ふ。只併ら今生の栄花、息災延命と存じ候ひき。身は貧道の身にて、心は大慳慢の心也。然る間、仏法を聞くと申すも、只名聞のため、外典を学ると申すも、若し人の御師徳にもや召され、才人の聞こえあらば、官位加階や進むとのみ思ひ侍りし故也。然りと雖へども、師徳にも召されず、官爵にも進まず。奉公の忠を抽んづと云へども、不次の賞にもあづか▼P1360(七八ウ)らず。事にふれ折に随ひては恨みのみ多くして、心に快き事一つもなし。之に依りて、一向に神明を憑み奉りて栄花を開き候はむとて、卅三度の大願をも発し、十八度の参詣をも遂げで候ひき。何に権現のにくしと思し食しけん。後悔さきにたたず」とて、暫く案じて申しけるは、「太原の白居易、文集七十巻を二部書て、一部をば鉢塔院の宝蔵に納め、一部をば南禅院の千仏堂に送り奉りて、其の後、件の文集の箱より光明を現ずる事度々也。両院の寺僧怪しみを成して、文集の箱を開けて見る所に、第六十の巻に発願の文あり。其の一々の文字より現るる所の光明也。其の文と申すは、▼P1361(七九オ)朗詠の仏事の詩に、「願はくは今生世俗文字の業、狂言綺語の誤りを以て、翻して当来世々讃仏乗の因、転法輪の縁と為む」とは此也。此の発願の心は、今生世俗の業、狂言綺語の誤りなれども、翻して当来には仏を讃嘆し、法輪を転じて衆生済度の身たらんと改悔懺悔したる発願也。所以に懺悔は吉く滅罪の法なれば、生死の長夜に迷ふべからずと云ふ表示に、発願の文より光明かくやくたり。されば、聖照も今日より昔の安心を翻して、一向に後生菩提の行業に廻向し侍るべし」とぞ申しける。
 さて、此の人々の住所より南の方に五十余町を去りて一の離山▼P1362(七九ウ)あり。蛮岳とぞ申しける。鬼界嶋の住人等 「あの蛮が岳にはえびす三郎殿と申す神を祝ひて岩殿と名付けたり。此の嶋に猛火俄にもえ出でて、住人更に堪へ難き時、種々の供物を捧げて祭り候へば、猛火も定まり大風ものどかに吹きて嶋の住人自ら安堵仕る」とぞ申しける。少将、此を聞きて 「かかるされば、猛火の中、鬼の住所にも神と申す事の侍るらむよ」と宣へば、康頼入道 「申すにや及び候ふ。炎魔王界と申すは鬼の栖、猛火の中にて侍るぞかし。其だにも十王とも申し十神とも名付けて、十体の神、床を並べてすみ給へり。まして此の嶋と申すは、扶桑神国の類嶋なれば、▼P1363(八〇オ)えびす三郎殿も栖み給ふべし。さてもさても、聖照、熊野参詣の宿願、安心こそ不浄に候ひしかども、十八度は参りて侍りき。残る十五度を後生善所の為に岩殿にてはたし候はばやと存じ候ふ。大神も小神も倔請の砌に影嚮し給ふ事にて候へば、権現定めて御納受候ふべし。各は何が思し食す」と申せば、少将は取りあへず「成経もやがて先達にし進らせて参詣仕るべし」と宣ふ。
 俊寛は能々をかしげに思ひて遥かに返事もせず。やや久しくありて申しけるは、「日本は神国と申して、守屋の大臣、神名帳を注したりけるに、『上一万三千』と云へり。其の神名帳の中に、『鬼海の嶋の岩殿』と申す神、未だ見えず。其の上、えびす▼P1364(八〇ウ)三郎殿と申すは、巫女に付きたる有りさま、云ふ甲斐なき者とこそみえて候へ。やはや尋常はかばかしき利生も候はんずる。熊野権現だにも十八度の参詣空しくて、かかる災難に当たり給ひて侍るぞかし。且は古郷に聞き候はむ事、恥づかしく候ふ。『法勝寺の執行程の者のせめての事かな。夷三郎を尊重して、こりをかき、歩みを運びけん事よ』と親疎に申されん事、いとけぎたなく覚え候ふ。次に、後生菩提をば必ずしも神明に申さずとても、念仏読経せば何の不足か候ふべき。『神を神と信ずれば邪道の報ひを受けて永く▼P1365(八一オ)出離の期を知らず』と申したり。『ただ本地阿弥陀如来を念ずれば十悪五逆の窓の前にも来迎し給ふ』とこそ、観経には説きて候ふめれ。抑も、浄土宗の事は俊寛未だ心得ず侍り。ただ鈍根無智の者の為に皆心を一境におく事也。されば方便にして実儀にはあらず。それ仏法の大綱は、顕教も密教も凡聖不二と
談じて、自心の外に仏法もなく神祇もなし。三界唯一心と悟れば、欲界も色界も外にはなく、地獄も傍生も我心より生ず。人中も天上も我心なり。声聞も縁覚も菩提薩〓と申すも、心を離れて外にはなし。凡そ一切衆生、真俗二諦、森羅の方法、我性一心の法に非ずと云ふ事なし。随縁真如の前には迷ひの心を神と名づけ、悟る心を仏とす。迷悟本より外になし。邪正一如の妙理なるをや。さては禅の法門▼P1366(八一ウ)こそ、教外の別伝と申して、言語道断の妙理にて候へ。一代聖教に超過して、八宗九宗の禅頂たり。当時、法勝寺に卿律師本空とて、入唐の禅僧あり。入唐せざりし昔は真言・天台の学匠にて、四種三昧の行者、入壇灌頂の聖にて候ひしが、禅の法門に移り候ひて、無行第一の僧に成りて候ふ也。神をも敬はず、仏をも敬はず、乞者非人なればとて賎しむ事なし。真言・天台・浄土宗の法門をば瓜の皮法門と云ひて大に咲ひ候ふ也。恵能禅師の頒とて常に口ずさみ侍る言には、
  菩提、樹に無く、明鏡、台に非ず。元より一物無し、何ぞ塵垢有らむ。
▼P1367(八二オ)と詠じて、ずず・けさもかけず、仏に花・香をも供せず、念仏も申さず、経をもよまず。『何に坐禅をばし給はぬぞ』と申せば、大に咲ひて、『何事ぞ、坐禅と申す事は、諸教の中に初心の行者の修行する法也。天台宗には止観の坐禅、真言教には阿字観の坐禅、浄土宗には日想観の坐禅等也。禅宗と申す行法有るべからず。沙金能く淤泥に埋むとも金也、錦の袋に裹みたるも金也。禅の法門を一向に証せず。初心の行者、日夜旦暮に座禅すと云へども、全く禅頂の位に登る事なし』。達磨の頒に云はく、
 ▼P1368(八二ウ)座禅して仏を得ば、誰か閑床を卜せざらむ。
とて、達磨は座禅する事なかりき。白浪何幾か浄き、床禅主に帰依す。
  六の根に六の花さくおほぞらをはるばるみれば我が身なりけり
此こそ大座禅の聖よ』とて、五辛酒肉、檀に服し、懈怠無慚の高枕打ちして、臥しぬおきぬし侍る也。げに恵能禅師の頒の文は、俊寛も領解して覚え候ふ。『菩提、樹に無ければ、仏になると云ふ事もなし。明鏡、台に非ざれば、浄土と云ふ事も有るべからず。元より一物なき法なれば、万法皆虚空也。何ぞ塵垢有らむ』と観ずれば、見思塵沙の罪業も夢幻に似たり。まさに知るべし、熊野権現と申すも夷三郎殿と申すも、妄心虚妄の幻化、亀毛兎角の縄蛇」と云ひて、同心同道もせず、俊寛▼P1369(八三オ)はひとり留まりたり。
 俊寛一人岩のはざま松の木陰に留まり居て、諸法の相を観ぜし処に、風俄かに吹きて地震忽ちにきびしくして、一山皆動揺しければ、石岸崩れて大海に入る。其の時、禅門に古き歌あり。思ひ出して詠ず。
  岸崩れて魚を殺す、其の岸未だ苦を受けず。風発りて花を供す、其の風豈仏と成らんや
と申して居たり。
 康頼入道云はく、「御法門の趣は、花厳宗の法界唯一心かと覚え候ふ。されば不変真如の妙理、真妄同空の所談也。ことあたらしく中々申すに及ばず。次に、禅の法門は、仏遂に口音に陳べ給はず。唯、迦葉一人の所証と承る。因果を撥撫するが故に仏教には非ず、仏教にあらざるが故に外道の法門也。▼P1370(八三ウ)底下の凡夫、全く以て信用にたらず。『仏をも敬はず、神をも信ぜず、善根をも修せず、悪業をも憚らず』と談ぜば、一代聖教を皆破滅する大外道と聞こえたり。努々顕露に御披露有るべからず。一切衆生を皆地獄に落さん事、末世の提婆達多、是なるべし。悲しき哉、釈迦善逝の遺弟に非ずは、誰か善神護法の加護をかぶらむや。聖照は鈍根無智の者にて候ふ間、真言教には加持の即身成仏、浄土宗には他力の往生、此を信じて候ふ也。之に依りて十方の浄土も外にあり、八大地獄も外にあり、三世諸仏も外にまします、三所権現も外にましますと信じて候へば、いざさせ給へ、少将殿」とて、二人つれて▼P1371(八四オ)岩殿へぞ参りける。
 彼の岩殿の地形を見るに、谷々峯々を遥かに分け入りて、人跡絶えて鳥の声だにもせぬ処に、河流れ出でたり。音無川に相似たり。其の水上を尋ぬれば、少し打ち晴れたる所あり。大なる岩屋あり。其の上に椙一叢生ひたり。是をば本宮と名づけて、草打ち払ひ、しめ引きまはしたり。又、山を越えて、渚近き椙叢あり。是を新宮と号す。其より奥へ猶尋ね入りてみれば、碧巌高く峙ちて、白浪嶺より流れ下りたり。滝の音、松の風、神さびたる景気、南山飛滝権現の渡らせ給ふ那智の御山に似たりければ、又、苔を打ち払ひ、しめ引きまはして、此の岩かどをば米持金▼P1372(八四ウ)剛・五体王子と名付け奉り、彼の木の本をば一万十万・禅子・聖・児・子守なむど名付けつつ帰りにけり。
 僧都に又「熊野詣の事はいかに」と云ひけれども、僧都猶伴はざりければ、「さらば二人詣でむ」とて、裁ち替ふべき浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひて、けがらはしき体なれども、沢辺の水をこりにかきて、精進潔済してぞ詣でける。藤のわらうづをだにもはかざれば、ひたすらのはだしにて人もかよはぬ海岸、鳥だにもをとせぬ深山を泣々つれておはしけむ心の内ぞ哀れなる。
 手にたらひ、身にこたへたる事とては、入江のしほ沢辺の水に、かく▼P1373(八五オ)こり計り也。朝夕は「南無慚愧懺悔六根罪障」と懺悔し、心に心を警めて、僅かに半日に行き帰る路なれど、同じ所を行き帰り行き帰り、白浪さざなみ凌ぎつつ、漫々たる蒼海にただよひ、塩風波間のこりの水、何度と云ふ数を知らず。浦路浜路を行く時は、鹿の瀬・藤代・かぶら坂・十条・高原・滝の尻とも観念し、石岸いはほ高くして、青苔あつくむし、万木枝をまじへて、旧草道をふさげる谷川もあり。東岸西岸を渡る時は、岩田川を思ひ出だして煩悩のあかをすすぎ、近つひ・湯の河・三の河、思ひ遣られて哀れ也。冷しき木陰を行く時は、九品の鳥居を只今とほると思ひなし、大なる木の本に立ち寄りては、上品上生の心地発心門とも観▼P1374(八五ウ)念す。此の山路海岸の間に波間にみゆる石もあり。青黄赤白の石もあり。男女僧形の石もあり。岩のはざま苔の莚、椙の村立、常葉木、目にかかり、心の及ぶ所をば摂津窪津の王子より始めて、八十余所の王子王子とぞ伏し拝み給ひける。
 奉幣御神楽なむどの事こそ叶はずとも、王子王子の御前にて、なれこ舞計りは心の及ぶ程に仕るべしとて、少将は天性無骨の仁にて、形の如くのかひなざし、康頼入道は洛中無双の上手なり。魍魎鬼神もとらけて、慈悲納受を垂らむとぞ舞ひける。少将も毎度にはらはらとぞ泣き給ひける。
                                 おはしま
 此くの如くして、彼の本宮証誠殿の御前に詣でつつ、「本地あみだ如来▼P1375(八六オ)にて御坐す、十悪五逆をも捨て給はぬ御誓ひあむなれば、遠近にはよるまじ、心の至誠なるをこそ、権現金剛童子も哀れとは思し食さむずらめ」と思ひて、「南無日本第一大霊験熊野三所権現、和光の恵みを施して、今一度都へ帰させ給へ」と肝胆を摧きてぞ申されける。康頼は子息左衛門尉基康が示し知らせける夢想の事なむど思ひ出して、大江の匡房が無常の筆をぞ思ひつづけける。「生死の嶮路定め難し、老少何れの時をか期すべき。亡魂徒に避りて、野外の崇廟幽々として、彼の感陽宮の煙り〓々たり。雲と作りて何れの方へ去りしぞや。思へば皆夢の如きなり」と観じて、二人本宮を出でて、新▼P1376(八六ウ)宮へ伝ひて那智山へ詣でけり。
 遥かに浜路を詠むれば、前路眇々として、眼渇仰の虚に窮り、海上茫茫として、涙悲願の月に浮かぶ。一心称名の音声を風浪の韻響に揚げて、多所饒益の本誓を水月の感応に仰ぐ。心中に心澄み、信心誠に起り、波上の思ひ静かにして、哀傷暗に催す。兼ねて彼の景気を思へば、涙連々として留まらず。遮りて其の慈悲を計れば、心念々に勇み有り。幼稚若少の昔より盛年長大の今に至るまで、丹誠を権現の宝前に抽きんでて、懇志を垂跡の霊窟に凝らす。星霜多く重なれり。機感何ぞ疑はむ。
 三の山の奉幣遂げにければ、悦びの道に成りつつ、切目の王子のなぎの▼P1377(八七オ)葉を稲荷の椙に取り替へて、今はくろめに着きぬと思ひて下向し給ひけり。
 かく詣づる事、其年の八月より怠らざる程に、次の年の九月中旬にも成りにけり。
 〔三十〕 〔康頼本宮にて祭文読む事〕
 或る日、二人伴ひて彼の本宮に詣でて、法施をつくづくとたむけ奉りて、「和光利益本誓たがはず、我等が勤念の信の実を照見し給ひて、清盛入道の無道の悪心を和らげて、必ず都へ帰し入れ、再び妻子を相見せ給へ。已に参詣十五度に満じぬ」と、肝胆をくだいて一心に丹誠を抽きんでたり。殊更に神の御なごりをしく、御前にて常葉木の枝を三つ折り立てて、三所権現の御影向とぞ敬ひ給ひける。其の御▼P1378(八七ウ)前にて、「卅三度の結願なれば、身の能を仕り候ふべし。聖照が第一の能には、今様こそ候ひしか」とて、神祇の巻の今様の内に、一つは、
  仏の方便なりければ、神祇の威光たのもしや
  叩けば必ずひびきあり、あふげばさだめて花ぞさく
と歌ひて、「此は本宮証誠殿に進らせ候ふ。今一つは両所権現に廻向し進らせ候ふべし」とて、
  白露は月の光に、黄を沾す化へあり
  権現舟に棹さして、むかへのきしによする白波
とぞ歌ひたりける。「権現舟に棹さして、むかへの岸によする白浪」と、未だうたひもはてぬ時、よもの山には吹かざるに、すずしき▼P1379(八八オ)風俄かに吹き出でて、三所権現の常葉木の枝、〓々(ひつひつ)として動揺する事やや久し。聖照感涙をおさへて、
一首の歌をぞ読みたりける。
  神風や祈る誠のきよければ心の雲をふきやはらはむ
少将も泣く泣く、
  ながれよるいわうの嶋のもしほ草いつかくまのにめぐみ出づべき
其の時又、不思議の瑞相出で来たる。比は秋の末つかたの事なれば、たのむの雁のまれなるべきにはなけれども、東の方より雁三つ飛び来りて、一つは俄に谷の底へ飛び入りて、又もみえず。今二つは、此の人々の上より取り返して、東の方へぞ飛び帰りける。康頼入道此をみて、
  ▼P1380(八八ウ)白波やたつたの山をけふこへて花の都にかへるかりがね
と読みて、各立ちて帰雁を七度づつ礼拝したりけり。其の上、少将は、判官入道をも七度礼し給ひたりければ、入道
「此は何に」と問ひ奉るに、少将、「入道殿の御計らひにて、十五度の参詣も遂げぬ。神の御利生にて、再び都に帰らむ事、併ら入道殿の御恩なるべし」とて泣き給へば、入道も「あな哀れや」とて泣く。
 さて、入道、浦のはまゆふ御幣にはさみ、山すげと云草をしでにたれて、清き砂を金の散供とし、御前にすすみ出で、左の膝をたて、右の足を片敷きて、思ふ意趣をつづけつつ、之を読む。其の詞に云く、
  ▼P1381(八九オ)謹話再拝々々。維当たれる年次は治承二年歳次戊戌、月の并びは十月二月、日の数は三百五十余ヶ日、八月廿八日己未、吉日良辰を撰び定めて、掛けまくも忝く坐す、日本第一大霊験、熊野三所権現並びに王子眷属等の宇津の広前に、信心の大施主、羽林藤原成経並びに沙弥聖照等、各定恵の掌を合はせ、信心の礼黙を捧げ、竭仰の頭を傾け、観念清謹の沙金を献ず。其の懇志の至り、発願の趣き、故何んとなれば、夫れ、神明は本地を顕し奉る時、威光いよいよ増進す。感応の光、厳重也。之に依りて、今忝く三所権現の本地本誓を讃嘆し奉らんと欲するのみ。
 竊かに惟れば、本宮証誠殿は、昔珊提嵐国の主、無上念王と申しし時、▼P1382(八九ウ)菩提心を発し給ひしより以後、五劫思惟の大願已に成就し坐して、今安養浄土の教主、来迎引摂の妙体也。所以に、摂取不捨の光明は、能く一念称名の行者を照し、済度群萌の船筏は、必ず九品蓮台の宝池に寄す。剰へ、広大慈悲の水は雨のごとく灑き、風のごとく戦す。将又、垂跡応化の榊葉に、和光利物の影を宿し給へり。風香、証誠殿と名づけ奉ることは、本地清涼の風冷しくして、三尊来迎の雲聳き、極重最下の水渇きぬれば、九品正覚の花新た也。不取正覚の秋の夕には、十劫成道の菓を結び、諸仏証誠の暁の月は、一切迷凡の疑ひを謝す。此則ち、釈尊の金言也。権現此の勝利を示さんが為に、忝く御名を証誠大権現と号すのみ。名詮自性也。何れの衆生か、権現の本誓を疑ひ奉らんや。願はくは、権現の本誓重▼P1383(九〇オ)願不虚、聖照等が臨終寿焉の時、必ず応に引摂の蓮を開かせ給ふべきのみ。
 次に新宮は、是れ本地東方の教主、浄瑠璃浄土の主也。十二大願成就の如来、衆病悉除の願、世に越え給へり。憑しきかな、伊王善逝。人間八苦の中には、病苦尤も勝れたり。何れの衆生か、病患を受けざる。誰が家にか、渇仰の頭を傾けざらむや。悲しきかな、聖照等、当時の心中の体、更に身上の病患にも過ぎたり。願はくは和光同塵の光、速やかに左遷流罪の闇を照らし坐して、将に古郷恋慕の胸の病を助け給ふべし。
 次に那智飛瀧権現は、千手千眼の霊地、弥陀左脇の補属、大悲闡提の尊容也。仰ぎ願はくは、聖照等、拙くも衆生有苦の嶋に放たれ、憑み奉る所は三称我名の権現也。早く不往救者の▼P1384(九〇ウ)船に棹さして、将に不取正覚の都に引導し給ふべし。抑も三五夜中の新月、色は能く二千里の外を照らすと雖も、未だ深泥濁河の水には宿らず。設ひ草葉の露、野守の鏡為りと雖も、清く澄める時は、必ず明月影を宿さずと云ふ事無し。
 之に依りて、今忝く権現の本誓を推察し奉るに、熊野三所の光は、純、日本紀州の霊地、無漏の郡音無里に社壇の甍を列ね、纓の玉垣、錦を曝すと雖も、聖照等が崛請の水、潔し。和光同塵の影、何ぞ此に浮かばざらんや。庶幾くは、三所権現、若一王子、一万の眷属十万金剛童子、四所明神、五体王子、満山の護法天等、禅師・聖・児・子守、勧請十五所、飛行夜叉、八大金剛童子、新宮飛鳥・神倉等の部類眷属、急難の中に能く施無畏の方便を廻らし、入道大相▼P1385(九一オ)国の為に、免除慈悲の心を発さしめ給へと也。若し聖照等が今度の所願、円満成就せざれば、敢へて神明の威光を以て、誰か之を仰ぎ奉らむ。一度参詣の功徳すら、尚ほ以て悪趣を離る。何に況や、卅三度の参詣に於いてをや。返々も現世安穏の利益、後生菩提の発願、成就円満々々々々再拝々々
とぞ読みたりける。
〔三十一〕 〔康頼が歌都へ伝はる事〕
 祭文読み畢はりにければ、いつよりも信心肝に銘じ、五体に汗いよだちて、権現金剛童子の御影嚮、忽ちにある心地して、山風すごく吹きおろし、木々の梢もさだかならず。木葉かつちりけるに、ならの葉の二つ、康頼入道が膝に散りかかりたりけるが、虫のくひたる姿にてあやしかりければ、入道是を取りて、打ち返し打ち返しよくよく▼P1386(九一ウ)みるに、文字のすがたにぞ見ないたる。一つには「帰雁二」と虫食ひたり。「あらふしぎの事や」と思ひて、少将にみせ奉りけるに、「げに不思議の事哉」とて居たるに、今一つを取りてみるに、是も又文字の体とみ成して、「是御覧候へ」とて少将に奉るに、一首の歌にてぞ有りける。
  ちはやぶる神に祈りのしげければなどか都へ帰らざるべき
康頼入道、「是御覧候へ」とて、少将に奉りたれば、少将取りて見て 「あら不思議や。今は権現の御利生に預りて、都へ帰らむ事は一定なり」とて、弥祈念せられけるに、康頼入道申しけるは、「入道が家は、蜘蛛だにも▼P1387(九二オ)さがり候ひぬ
れば、昔より必ず悦びを仕り候ふが、今朝の道にくもの落ちかかりて候ひつる間、権現の御利生にて、少将殿の召し帰されさせ給はん次に、入道も都へ帰り候はんずるにやと思ひて候ひつるなり。但し『帰雁二』とよまれて候ふこそあやしく候へ。いかさまにも残り留まる人の候はんずると覚え候ふ」とて、涙を流しければ、少将も「誠に」とて、涙を流してぞ下向せられける。
 康頼は、あやしげなる草堂のまねかたを造りて、浦人嶋人の集りたる時は、念仏を勧めて、同音に申させて、念仏を拍子にて乱拍子を舞ひけり。阿弥陀の三字のいみじき事をば知らねども、此の舞の面白さに是をはやすとて、心▼P1388(九二ウ)ならず念仏をぞ申しける。彼の草堂は嶋人共がよりあひ所にて、今に有りとかや。狂言綺語の誤りを以て、西方六字の名を唱へ、翻して当来世々讃仏乗の因、転法輪の縁とするこそ哀れなれ。
  思ひ遣れしばしと思ふ旅だにもなほ旧里は恋しき物を
  薩摩方をきの小嶋に我有と親にはつげよ八重のしほ風
此の二首の歌の下に、平判官康頼法師、「心あらむ人は、是を御覧じては、康頼が旧里へ送り給へ」とぞ、卒都婆ごとに書きたりける。書き終はりて後に、天に仰ぎ誓ひけるは、「願はくは、上は梵天・帝釈、四大天王、下は閻羅王界、堅牢地神、別しては▼P1389(九三オ)日本第一大霊験熊野証誠一所両所権現、一万十万金剛童子、日吉山王、巌嶋大明神、哀れみを垂れ思し食して、我が書き捨つる言の葉、必ず日本の地へ付けさせ給へ」と祈念して、西風の吹く度には、此の卒都婆を八重の塩にぞ投げ入れける。其の祈念や答へけむ、其の思ひや波風と成りけむ、漫々たる海上なれども、同じ流れの末なれば、浪に引かれ、風にさそはれて、遥かの日数を経て、卒都婆一本、熊野新宮の湊へ寄りたりけり。浦人取りて、熊野別当の許へ持ちて行きたりけれども、見とがむる人もなくてやみにけり。
 又、卒都婆一本、安芸国巌嶋の大明神の御前にぞよりたりける。哀れなりける▼P1390(九三ウ)事は、康頼がゆかりなりける僧の、康頼西海の波に流されぬと聞きければ、余りの無慚さに、なにとなく都をあくがれ出でて西国の方へ修行しける程に、「便りの風もあらば、彼の嶋へも渡りて死生をも聞かばや」と思ひけれども、おぼろけにては舟も人も通ふ事なし、自ら商人なむどの渡るも、「遥かに順風を待ちてこそ渡れ」なむど申しければ、輙く尋ね渡るべき心地もせず。「さなくは何にもして其の音信をだにも聞かばや。死生も穴倉し。いかがはすべき」なむど思ひ煩ひて、安芸国までは下りけり。便宜なりければ、巌嶋社へぞ詣でにける。
 明神の渡らせまします所は、昼は塩干て嶋となり、夜は塩満ちて海となる。▼P1391(九四オ)「夫和光同塵の利生さまざまなりと云へども、何なりける因縁にてか、此の明神は、海畔の 鱗に縁を結び給ふらむ」と思ふも哀れにて、其の日は此の社に候ひけり。「抑も此の御神をば、平家の入道大臣、殊に崇敬し奉り給ふぞかし。されば、平家の憤り深き人をかやうに思へば、神もいかが思し食すらむ」と、神慮も怖しくて、ぬさも取り敢へぬ程なれば、終日に法施をぞ奉りける。「嶋へ渡らむ事こそかたからめ、康頼がゆくへ聞かせ給へ」なむど祈り申しける程に、日も晩方になりにければ、月出でて塩の満ちけるに、そこはかともなきもくづ共の流れよりける中に、小さきそとばの様なる物の見えければ、「あやしや、なにやらむ」とて、取りて見れば、彼の二首の▼P1392(九四ウ)歌をぞ書きたりける。
 是を見て、哀れの事やと思ひて、悦びの法施を奉り、をいの肩に指して、都へ持ちて登りて、康頼が母の、一条より上、紫野と云ふ所に有りけるに、とらせたりければ、妻子集りて、各あちとりこちとり是を見て、悲しみの涙を流しける程に、新宮の湊によりたりける卒都婆も、熊野より出でける山臥に付きて、同日都へ伝はりたりけるこそ不思議なれ。縦ひ一丈二丈の木なりとも、油黄嶋にて漫々たる海に入れたらむが、新羅・高麗・百済・鶏旦へもゆられゆかで、安芸国、又新宮までよるべしやは。まして渚に打ち寄せられたるもくづの中に交はりたるこけらと云ふ物を▼P1393(九五オ)拾ひ集めて、千本まで造りたりけるそとばなれば、いかに大なりとも、一尺二尺にはよもすぎじ。文字はえり入れきざみ付けたりければ、波にもあらはれず、あざあざとして油黄嶋より都まで伝はりけるこそ不思議なれ。余りに思ふ事は、かく程なく叶ひけるも哀れ也。
 「康頼、三年の命きえやらで、都へ文を伝へたり」とて、此の二首の歌を都に披露しければ、彼の卒都婆を召し出だして叡覧あり。「誠に康頼法師が文なりけり。少しもまがふべくもなし。露命消えやらで、未だ彼の嶋に有りける事の無慚さよ」とて、法皇龍顔より御涙を流させ給ひけるぞ、かたじけなき。昔、大江定基が出家の後、彼の大唐国にして、仏生国の阿▼P1394(九五ウ)育大王の造り給へる八万四千基の石の塔の内、日本江州の石塔寺に一基留まる事を、彼の振旦国にして書き顕はしたりける事の、幡磨国増位寺とかやへ流れよりたりけるためしにも、此の有がたさは劣らざりける物をやと哀れ也。
三十二 〔漢王の使に蘇武を胡国へ遣はさるる事〕
 昔、唐国に漢武帝と申す帝ましましけり。王城守護の為に数万の栴陀羅を召されたりけるに、其の期すぎけるに、胡国の狄申しけるは、「我等胡国の狄と申しながら、〓田の畝に生を禀けて、朝夕聞こゆる物とては、旅雁哀猿の夜の声、憂きながらすごき庵の軒ばになるる物とては、黄蘆苦竹の風の音。適賢王の聖主に会ひ奉りて、▼P1395(九六オ)帰国の思ひ出なにかせむ。願はくは、君三千の后を持ち給へり。一人を給はりて胡城に帰らむ」と申しければ、武帝是を聞き給ひて、「いかがすべき」と歎き給ふ。「所詮、三千の后の其の形を絵に書きて、顔よきを留めて、あしきをたばむ」と定まりぬ。
 王照君と申すは、朝夕寵愛甚だしく、容顔美麗の人なりき。鏡の影を憑みて黄金を送らざる故に、あらぬ形にうつされて、九重の都を立ち離れ、万里の越地に趣きし、別れのいまだ悲しき。玄城長くとざせり、しばしば胡門の暮の堤に驚く。胡国いづくむか有る、早く両京の暁の夢を破る。羅雲忽ちに絶えて、旅の思ひつながれず。漢月漸く傾きて、愁眉も開かざりけ▼P1396(九六ウ)れば、習はぬ旅の奥までも、絞りかねたる袖の上に、尽きせぬ涙計りこそ、袂をしたひけるかな。遠山の緑の黛も、胡国の雪に埋もれ、蘭じゃの昔の匂ひも、左斎の風に跡を消す。帝京を離れて謫居して、徒らに胡城に臥せる夜は、昔の事を夢に見る。夢になける涙は、欄干として色探し。楓葉荻花の風の音、索々として身にしみ、遠波曲江の月の影、茫々として心澄む。五陵の時より翫び、手なれし琵琶にたづさひて、泣くより外の事なし。家留ては空しく漢の荒門となり、身は化して徒らに胡の朽骨とならむ事を、朝夕歎き給ひき。
 ▼P1397(九七オ)見る度に鏡のかげのつらきかなかからざりせばかからましやは
 武帝此の事をやすからず思ひ給ひて、李陵と云ふ兵を大将軍として、胡国を責めにつかはす。其の勢僅かにして千騎にすぎざりけり。李陵胡国に行きて、微力を励まして責め戦ふと云へども、魚驪鶴翼の陣、官軍利することを得ず。星旄電戟の威ひ、逆類勝に乗るに似たり。而る間官軍滅びて、終に狄の為に李陵取られて、胡国の王単宇に仕はる。
 武帝是を聞き給ひて、「年来はかくは思はざりしかばこそ、大将軍に撰び遣はしつるに、さては二心ありける物を。やすからず」とて、李陵が母を責め殺し、父が墓を掘りて、其の死骸を打つ。是のみならず、▼P1398(九七ウ)親類兄弟、皆武帝の為に罪せらる。李陵是を伝へ聞きて、悲しみをのべて云はく、「我思ひき。胡国追討の使に撰ばれし時は、彼の国を亡ぼして君の為に忠を致さむとこそ思ひしか。されども軍敗れて、胡王が為にとらはれて仕はると云へども、朝夕隙を何ひて、胡王を滅ぼして、日来の怨を報ぜむとこそ思ひしに、今かかる身になりぬる上は」とて、胡王を憑みて年月を送る。武帝是を聞き給ひて、李陵を呼び給へども来ず。
 さても漢王軍に負け給ひぬる事を安からず思し食して、漢の天漢元年に、又李将軍と云ふ者と、蘇子荊と云ふ兵とを差し遣はす。蘇子荊と申すは、今の蘇武是也。蘇武が十六歳に成りけるを、右大▼P1399(九八オ)臣に成して、二人を大将軍として、又胡国を責めに遣はしけるに、蘇武を近く召し寄せて、軍の旗を賜はるとて武帝宣ひけるは、「此の旗をば、汝が命と共に持つべし。汝若戦場にして死せば、相構へて此の旗をば我が許へ返すべし」と、宣命を含められけり。
 さて蘇武胡国へ行きて狄を責めけれども、胡城に戦ふ師さ、狄の勢強くして、官軍又落とされぬ。大将軍を始めとして、宗との者卅余人、生け取られぬ。蘇武其の内なりければ、皆片足をぞ折られける。即ち死する者もあり。又二三日、
四五日に死する者もあり。或いは、甲斐なき命生きて年月を送る者もあり。
 古京の妻子の恋しき事、日夜旦暮にわすれず。▼P1400(九八ウ)瓢箪屡ば空し、草顔淵が巷に滋し。藜〓深く鎖せり、雨原憲が枢を湿しけむも、是には過ぎじとぞ覚えし。彼は僅かにはにふの小屋もありければこそ、雨も枢を湿し、草も巷に滋かりけめ。此は草葉を引き結ぶ、あやしの柴のやどりもなければ、只野沢田中にはい行きて、春はくわいを堀り、秋は落穂を拾ひてぞ、あけくれはすぐしける。禽獣鳥類のみ朋となれりければ、常には羊の乳を飲みて、明かし晩しけり。秋のたのむの雁も他国に飛び行けども、春は越地に帰る習ひあり。是はいつを期するとしなければ、只泣くより外の事なし。
  ▼P1401(九九オ)帰る雁隔つる雲の余波まで同じ跡をぞ思ひつらねし
 さても生死無常の悲しさは、刹利をもきらはぬ山風に、日の色薄くなりはてて、思はぬ外の浮雲に、武帝隠れ給ひぬ。龍楼、竹〓、後宮、卿相、侍臣、雲客、誰も思ひは深草の露より滋き涙にて、同じ煙の内にもと、もゆる思ひは切なれど、照帝位を受け給ひて、蘇武を尋ねに遣はす。「早失せにき」と偽り答へける間、「未だ有りと計りだに、古里人に聞かればや」とは思へども、〓田の畝に住む身なれば、甲斐なく是にも会はざりけり。牡羊に乳を期して、歳化空しく重なりて、僅かにいけるに似たれども、漢の節を失はず。
  ▼P1402(九九ウ)言の下には暗に骨を滑す火を生し、咲みの中には偸に人を刺す刀を鋭ぐいかにもして胡王単于を滅ぼして古京へ帰らむと思へども、力及ばず過ごしけり。
 朝暮に見馴れし雁の、春の空を迎へて、都の方へ飛び行きけるに、蘇武、右の指をくひ切りて、其の血を以て柏葉に一詞を書きて、雁の足に結び付けて云ひけるは、「一樹の影に宿り、一河の流れを渡る、皆是先世の契りなり。何に況んや己は肩を並べて年久し。争か此の愁ひを訪はざらむ」とて、雁に是をことづけぬ。
 折節御門上林薗に御幸して、霞める四方を打ち詠め、千草の花を見給ふに、雁一行飛び来たりて、遥かの雲の上にはつねの聞こゆるかと覚ゆるに、一の雁▼P1403(一〇〇オ)程無く飛び下る。あやしと叡覧を経るに、結び付けたる書をくひほどきて落としたりけるを、官人是を取りて、照帝に献る。帝自ら叡覧を経給ふに、其の詞に云く、
 「昔は巌穴の洞に籠められて、徒らに三春の愁歎を送り、今は〓田の畝に放たれて、空しく胡狄の一足を聞く。設ひ
 身は留まりて胡地に朽つとも、魂は還りて再び漢君に仕へむ」
とぞ書きたりける。
 是を御覧じけるに、帝限り無く哀れと思し食して、歎きの御涙おさへがたし。「蘇武未だ生きて有りける物を」とて、永律と云ふ賢き兵を大将軍として、百万騎の勇士を卒して胡国を責め給ふに、今度は胡国敗られて、単于も既に失せにけり。永律、▼P1404(一〇〇ウ)照君を取り返し、蘇子荊を尋ね得たり。
 蘇武は片足は折れたれども、十九年の星霜を経て、古郷へ帰り上りしに、李陵余波を惜しみて云はく、「我が身年来君の御為に二心なし。就中、胡国追討の大将軍に撰ばれ奉りし事、面目の一つ也。然れども、宿運のしからしむる事にや、御方の軍敗れて胡国の王にとらはれぬ。されども如何にもして胡王を滅ぼして、漢帝の御為に忠を致さむとこそ思ひしに、今母を罪せられ奉り、父が死骸を掘りおこして、打ちせため給ひけむ。亡魂いかが思ひけむ。悲しとも愚か也。又親類兄弟に至るまで、一人も残らず皆罪せらるる事、歎きの中の歎き也。故郷を▼P1405(一〇一オ)隔てて、只異類をのみ見る事の悲しき」とて、李陵、蘇武が許へ五言の詩を送れり。其の詞に云はく、「手を携へて河梁に上る。遊子暮に何くにか之く。二〓倶に北に飛び、一〓独り南に翔る。余は自ら斯の館に留まり、子は今故郷に帰る」。是れ五言の詩の始め也。
此の心をよめるにや、
  同じ江にむれゐる鴨の哀れにも返る波路を飛びおくれぬる
 蘇武十九年の間、胡国北海の辺に栖みしかば、万里遼海の波の音を聞きては、遺愛寺の暁の鐘になぞらへ、四五朶山の冬の梢を見ては、香炉峯の雪かと誤たる。飛花落葉の転変を見ては、春秋の遷り替はる事を知ると云へども、博士陰陽の仁にも近付かざれば、日月の行途を知らず。▼P1406(一〇一ウ)故郷に帰り旧宅に行きたれば、蘇武去りし年より帰京の今の年まで、旧妻愁ひの余りにや、毎年一の衾を調へて、棹に並べて懸けおけり。細かに是を算ふれば、十九にてぞ有りける。
是よりしてぞ、蘇武去りて十九年とは知りにける。
 急ぎ御門に参りて、李陵が詩を奉る。帝是を御覧じて、哀れとおぼしけれど甲斐もなし。先帝の御時給はりし旗を懐より取り出して、御方の軍敗れて、胡王単于にとらはれて〓田の畝に放たれて、年月悲しかりつる事、又李陵が愁歎せし事、かきくどき細かに語り申せば、御門悲涙せ▼P1407(一〇二オ)きあへ給はず。蘇武生年十六歳にして胡国へ越き、三十四にして旧都へ帰りたりしに、白髪の老翁にてぞ有りける。後には典属国と云ふ官を給はつて君に仕へ奉り、遂に神爵元年に、年八十余まで有りて死にけり。
 さればにや、是よりして文をば雁書とも云ひ、雁札とも名付けたり。使をば雁使ともいへるとかや。又雁の足に結び付けたりけるが、玉の様に円かりければ、玉づさとも申す也。
  へだてこし昔の秋にあはましやこしぢの雁のしるべならずは
と、源の光行が詠ぜしも理とぞ覚ゆる。
 蘇武は胡国に入りて、賓雁に書を繋げて再び林〓の花を翫び、康頼は小嶋に栖みて蒼▼P1408(一〇二ウ)波に歌を流して遂に故郷の月を見る。彼は漢明の胡国、是は我が国の油黄、彼は唐国の風儀にて思ひを述ぶる詩をあやつり、是は本朝の源流にて心を養ふ歌を詠ず。彼は雁の翅の一筆の跡、是は卒都婆の銘の二首の歌。彼は雲路を通ひ、是は浪の上を伝ふ。彼は十九年の春秋を送り迎へ、是は三ヶ年の夢路の眠り覚めたり。李陵は胡国に留まり、俊寛は小嶋に朽ちぬ。上古末代はかはり、境ひ遼かに遠くは隔たれども、思ふ心は一にして、哀れは同じ哀れ也。
三十三 〔基康が清水寺に籠る事 付けたり康頼が夢の事〕
 康頼が嫡子、平左衛門尉基康は、摂津小馬林まで、父が共して見送りたりけるが、康頼出家してけれ▼P1409(一〇三オ)ば、基康泣く泣く小馬林より都へ還り上りて、やがて精進潔済して、百ヶ日清水寺へ参詣す。法花経の廿八品の其の中に、信解品を毎日に読み奉りて、百日が間、隔夜する折りもあり、夙夜する時もあり。「願はくは、大慈大悲の千手千眼、『枯れたる木草も花さき菓なるべし』と御誓ひあむなり。されば此の身を替へずして、二度父に合はせさせ給へ」と、三千三百三十三度の礼拝をまゐらせけり。既に八十余日も積もりけるに、油黄嶋に流されたる判官入道の或る夜の夢に、海上を遥かに詠めやれば、白き帆懸けたる船の奥の方より漕ぎ来るとみる程に、次第に近く漕ぎ寄るをみれば、我が子の▼P1410(一○三ウ)左衛門尉基康、其の船に乗りたりけり。其の白帆に文字あり。「妙法蓮花経信解品」とぞ書きたりける。猶次第に近くよるをよくよくみれば、船にはあらずして、白馬にぞ基康は乗りたりけると見て、打ち驚き、なにと有る妄想やらむと怪しくて、汗おしのごひて、人にも語らざりけり。康頼都帰りの後にこそ、子息基康に初めて語りける。観音の御変化は白馬に現ぜさせ給ふとかや。
偏へに是、基康が祈念感応して、観音の御利生にて都へは帰り上りにけり。又、小嶋に崇め奉りし権現の御本地も、観音の本師▼P1411(一○四オ)弥陀如来也。師弟哀れを施して、今都へ上りぬと、父子共に感涙をぞ流しける。
三十四 〔成親卿失はれ給ふ事〕
 大納言入道は、少将も油黄嶋へ流され、其の弟共の少く御するも、安堵せず、ここ彼こに逃げ隠れ給ふなむど聞き給ひて、いとど心憂く悲しくて、日に随ひては思ひ沈みて、身も既によはりてみえ給ひける上、怱ぎ失ひ奉るべき由、承りにければ、或る時、経遠が許に大納言入道の呵嘖に付きたりける智明と申しける僧、大納言に申しけるは、「是は海中の嶋にて候ふ間、何事に付けてもすみうく候ふに、此より北に経遠が所領近く候ふ所に、吉備中山、細谷川なむど▼P1412(一〇四ウ)申して、名ある所候ふ。彼の所に、有木別所と云ふ、いたひけしたる山寺の候ふこそ、山水木立優なる所にて候へ。其へ渡らせ給ひ候へかし。渡し進らせ候はん」と申しければ、大納言入道げにもとおぼして、「ともかくも計らひにこそ随はめ」と宣ひければ、彼の山寺に難波太郎俊定が作り置きたりける僧房の有りけるを借りて、渡しすゑ奉りてけり。初めはとかく労り奉る由にて、同七月十九日に、坊の後に穴を深く堀らせて、穴の底にひしを植ゑて、上に仮橋を渡して、其の上に土をはねかけて、年来ふみ付けたる道の様にこしらへて置きたりけるを、▼P1413(一〇五オ)大納言入道、知り給はで、通りさまに其の上を歩み給ふと
て、落ち入り給ひたりけるを、用意したりける事なれば、やがて土を上にはねかけて埋み奉りにけり。隠しけれども、世に披露しけり。
三十五 〔成親卿の北方君達等出家の事〕
 北の方、此の由を聞き給ひけむ心の内こそ悲しけれ。「『黄泉何なる所ぞ、一たび往きて還らず。其の台何れの方ぞ、再び会ふに期無し。書を懸けて訪はむと欲すれば、則ち存没路隔てて、飛雁通ぜず。衣を擣ちて寄せむと欲すれば、生死界異にして、意馬徒らに疲れぬ』と云へり。替らぬ体を今一度みゆることもやとてこそ、憂き身ながら髪も付けて有りつれども、今は云ふに甲斐なし」とて、自ら▼P1414(一○五ウ)御ぐしを切り給ひてけり。雲林院と申して寺の有りけるに、忍びて参り給ひてぞ、戒をも持ち給ひける。又其の寺にてぞ、形の如くの追善なむども営みて、彼の菩提を訪ひ奉り給ひける。若君闘伽の水を結び給ける日は、姫君は樒をつみ、姫君水を取り給ふ日は、若君花をたをりなむどして、父の後世を訪ひ給ふも哀れ也。時移り事定まりて、楽しみ尽き、悲しみ来る。只天人の五衰とぞみえし。されども、大納言の妹、内大臣の北の方より、折りに触れてさまざまの贈りものありけり。是を見る人、涙を流さぬはなし。なき跡までも内大臣の御志の深さこそやさしけれ。
 成親卿は、若きより▼P1415(一〇六オ)次第の昇進かかはらず、家に未だなかりし大納言に至り、栄花先祖にこえ給へり。目出たかりし人の、いかなる宿業にて、かかるうき目を見給ひて、再び故郷へも帰り給はず、終に配所にて失せ給ひにけむ。
 其の最後の有様も、都にはさまざまに聞こえけり。歎きの日数積もりて、やせ衰へて思ひ死にに死に給ひたりとも聞こゆ。又、酒に毒を入れてすすめ奉りたりとも沙汰し、又、おきに漕ぎ出でて海へ入れ奉りたりとも申しけり。とかく云ひささやきける程に、不思議なりける事は、経遠が最愛の娘二人あり。七月下旬の比より一度に病付きて、はてには▼P1416(一〇六ウ)物に狂ひて、竹の中へ走り入りて、竹の切りくひにたふれ懸かりて、つらぬかれて、二人ながら一度に死にけり。忽ちに報いにけるこそおそろしけれ。
三十六 〔讃岐院の御事〕
 廿九日、讃岐院御追号あり崇徳院と申す。此の院と申すは、去んぬる保元元年に、悪左府頼長公の勧めに依りて世を乱りましましし御事也。其の合戦の庭を逃げ出でさせ御しまして、仁和寺の寛遍法務の御坊へ御幸なりたりけるが、讃岐国へ移されまします由を聞きて、其の比西行と聞こえし者、かくぞ思ひつづけし。
  ことのはの情絶えぬる折節に有り合ふ身こそ悲しかりけれ
  ▼P1417(一〇七オ) しき嶋や絶えぬる道になくなくも君とのみこそ跡をしのばめ
 新院、讃岐へ御下向あり。当国国司参行朝臣の沙汰として、鳥羽の草津より御船に召し、四方打ちつけたる御屋形の内に、月卿雲客の御身近く随ひ奉る一人もなし。只女房二三人ぞ、泣き悲しみながら仕へ奉りける。御屋形は開く事もなければ、月日の光もへだたりぬ。
 道すがら、浦々嶋々、由ある所々をも御覧ぜず、空しく過ぎさせましませば、御心のなぐさむ方もなし。取磨の浦と聞こし食しては、行平中納言、もしほたれつつ歎きけむ心の中を思し食しやられ、淡路嶋と聞こし召しては、昔大炊の▼P1418(一〇七ウ)廃帝の、彼の嶋に遷されつつ、思ひにたへず失せ給ひけむも、今は我が身の御上と思し食す。日数の経るままには都の遠ざかり行くも心細く、況や一宮の御事、思し食し出づるに付けては、いとど消え入る御心地なり。「なにしに今までながらへて、かかる思ひに咽ぶらむ。只水の沫ともきえ、底のみくづともたぐひなばや」とぞ思し食す。
 昔、河辺の逍遥のありしには、龍頭鷁首の御船を浮かべて錦の纜を解き、王公卿相前後に囲遶して、詩歌管絃の興を
催しき。今は海尾船の苫屋形の下にうづもれつつ、南海の外へ趣かせまします、生死苦海の有様こそ、返す返す▼P1419(一〇八オ)も哀れなれ。遠く異朝を検れば、正邑王賀は故国へ帰り、玄宗皇帝は蜀山に遷されき。近く吾が朝を尋ぬれば、安孝天皇は継子に殺され、崇峻天皇は逆臣に犯され給ひき。十善の君、万乗の主、先世の宿業は力及ばぬ事ぞかしと、思し食しなぞらへけるこそ、責めての事とは覚えしか。
 されども、つながぬ月日なれば、泣々讃岐へつき給ひぬ。当国志度郡直嶋に御所を立てて、すゑ奉る。彼の嶋は、国の地にはあらずして、海の面を渡る事、二時計りを隔てたり。田畠もなし、住民もなし。実にあさましき御すまゐとぞ見えし。長き一宇の屋を立てて、方一丁の築垣あり。▼P1420(一〇八ウ)南に門を一つ立てて、外より鎖を指したりけり。国司を始めとして、あやしの民に至るまで、恐れを成して言問ひ参る人もなし。浦路を渡るさよ千鳥、松を払ふ風の音、磯辺によする波の音、叢にすだく虫の音、何れも哀れを催し、涙を流さずと云ふ事なし。紫蓋峯の嵐疎かなり、雲七百里の外に収まり、曝泉浪を布きて冷しく、月四十尺の余りに澄めり。幽思窮まらず、深巷に人無きの処、愁腸断へなむと欲す、閑窓に月有るの時とかや。
 是より又、当国の在庁一の庁官、野大夫高遠が堂に移り給ひたりけるが、後には鼓の岡に御所立ててぞ渡らせ給ひける。
 かくて年▼P1421(一○九オ)月をすごさせましますに、御身には何事も先世の事と思し食すとも、女房達は何の顧みにも及ばず、都を恋ふる心なのめならず、落つる涙は紅に変じ、押さふる袖は朽ちぬ計り也。是れを御覧ずるに付けては、何事も御心弱くなりて、相構へて申し宥めらるべき由、御人わろく関白殿へ度々仰せ事有りけれども、返事にもおよばず。責めての御事に思し召されけるは、「我、天照大神の苗裔を受けて天子の位を沓み、忝く太上天皇の尊号を蒙りて、紛陽の居を卜めき。春は春の遊びに随ひ、秋は秋の興を催し、韶陽の花を翫び、長秋の月を詠じ、久しく▼P1422(一〇九ウ)仙洞の楽しみに誇りて、又思ひ出無きに非ず。如何なる罪の報ひにて、遥かの嶋に放たれて、かかる悲しみを含むらむ。境ひ南北に有らざれば、旅雁縁書の便りを得難し。政陰陽を別かざれば、烏頭馬角の変有り難し。懐土の思ひ最深し。望郷の鬼とこそならむずらめ。天竺・振旦より日本吾が朝に至るまで、位を争ひ国を論じて、叔父甥合戦を致し、兄弟闘諍を起せども、果報の勝劣に随ひて、叔父も負け、兄もまく。然りと雖も、時移り事去つて、罪を謝し讎を飜すは王道の恵み無偏の情也。されば奈良の先帝、内侍督
の勧めに依つて世を▼P1423(一一○オ)乱り給ひしかども、出家せられしかば流罪には及ばざりき。況んや是れは責めらるべきの由聞きしかば、其の難を遁るる方もやと防きし計りなり。さしも罪深かるべしとも覚えず。是程の有様にては、帰り上りてもなにかせむ。今は生きても何の益かあらむ」とて、御ぐしもめさず、御爪をも切らせ給はず、柿の頭巾・柿の御衣を召しつつ、御指より血をあやし、五部の大乗経をあそばして、御室へ申させ給ひけるは、「形の如く墨付に、五部の大乗経を三ヶ年間書き奉りて候ふを、貝鐘の声も聞えぬ国に棄て置き奉らむ事、うたてく候。此の御▼P1424(一一○ウ)経ばかり、都近き八幡・鳥羽の辺にも置きてたばせ給へ」と申させ給ひければ、御室より関白殿へ申させ給ふ。関白殿より内裏へ申させ給ひければ、少納言入道信西、「争でかさる事は候ふべき」と大きに諌め申しければ、御経をだにもゆるし奉る事なかりけり。
 これに依つて、新院、深く思食されけるは、「我勅の責め遁れ難くして、既に断罪の法に伏す。今に於いては恩謝を蒙るべきの由、強ちに望み申すと雖も、許容無きの上は不慮の行業になして、彼の讎を報ひむ」と思食して、御経を御前に積み置きて、御舌のさきをくひきらせ給ひて、其の血を以て軸の本毎に御▼P1425(一一一オ)誓状をあそばしける。「吾れ此の五部の大乗経を三悪道に投げ籠めて、此の大善根の力を以て日本国を滅ぼす大魔縁とならむ。天衆地類必ず力を合はせ給へ」と誓はせ給ひて、海底に入れさせ給ひにけり。怖しくこそ聞こえし。
 かくて九年を経て、御歳四十六と申しし長寛二年八月廿六日、志度の道場と申す山寺にして終に崩御なりにけり。やがて白峯と申す所にて焼き上げ奉る。其の煙は都へやなびきけむ。御骨をば高野山へ送れとの御遺言有りけれども、いかが有りけむ、そも知らず。御墓所をば、やがて白峯にぞ構へ奉りける。此の君、当国▼P1426(一一一ウ)にて崩御なりにしかば、讃岐院と号し奉りけり。
 新院の御子重仁親王は御出家ありて後は、花山院法印元性と申しき。新院崩御の事、都へ聞えて、御服奉らむとしける時、入道法親王より、「いつより召され候ぞ」と問ひ申させ給ひたりければ、宮、御涙をおさへつつ、かくぞ御返事にはありける。
  憂きながら其の松山の信物には今夜ぞ藤の衣をばきる
一宮とて寵きかしづき奉りしに、思はぬ外の御有様にならせ給ひにしこそ悲しけれ。我が御身ながらも、さこそ心憂く思し食されけめと哀れ也。
▼P1427(一一二オ)三十七 〔西行、讃岐院の墓所に詣づる事〕
 仁安三年の冬比、西行法師、後には大法房円位上人と申しけるが、諸国修行しけるが、此の君崩御の事を聞きて四国へ渡り、さぬきの松山と云ふ所にて、「是は新院の渡らせ給ひし所ぞかし」と思ひ出で奉りて、参りたりけれども其の御跡もみえず。松葉に雪ふりつつ道を埋みて、人通りたるあともなし。直嶋より支度と云ふ所に遷らせ給ひて三年久しくなりにければ 理なり。
  吉しさらば道をば埋め積もる雪さなくは人の通ふべきかは
  松山の波に流れてこし船のやがて空しくなりにける哉
と打ち詠じて、白峯の御墓へ尋ね参りたりけるに、▼P1428(一一二ウ)あやしの国人の墓なむどの様にて草深くしげれり。是を見奉るに涙も更に押へがたし。昔は一天四海の君として南殿に政を納め給ひしに、八元八〓の賢臣、左に候し右に随ひ奉りき。王公卿相雲の如く霞の如くして、万邦の随ひ奉る事、草の風に靡くが如くなりき。されば二六金殿の間には朝夕玉楼を瑩き、長生仙洞の中には綾羅錦繍にのみまつはされてこそ明かし晩し給ひしに、今は八重のむぐらの下に臥し給ひけむ事、悲しとも愚か也。一旦の災忽ちに起りつつ、九重の花洛を出でて千里の外に移されて、終を遠境に告げ給へり。先世の御▼P1429(一一三オ)宿業と云ひながら、哀れなりし事ぞかし。御墓堂とおぼしくて、方間の構へ有れども修理修造もなければ、ゆがみ傾きて樢葛はいかかり、況んや法花三昧勤むる禅侶もなければ、貝鐘の音もせず。事問ひ参る人もなければ、道ふみつけたる方もなし。昔は十善万乗の主、錦帳を九重の月に耀かし、今は懐土望郷の魂、玉体を白峯の苔に混ず。朝露に跡を尋ね、秋の草泣きて涙を添へ、嵐に向かひて君を問へば、老檜悲しみて心を傷ましむ。仙儀も見えず、只朝の雲も夕べの月をのみ見、法音も
聞えず、又松の響き鳥の語るをのみ聞く。軒傾きて暁の風猶危く、甍破れて暮の雨▼P1430(一一三ウ)防き難し。宮も藁屋もはてしなければ、かくても有りぬべき。世の中などつくづく昔今の御有様、とかく思ひつづくるに、不覚の涙ぞ押へがたき。かくぞ思ひつづけける。
よしやきみ昔の玉の床とてもかからむ後はなににかはせむ
 さて松の枝にて庵結びて、七日不断念仏申して罷り出でけるが、庵の前なる松にかくぞ書き付けける。
  ひさにへて我が後の世を問へよ松跡忍ぶべき人しなければ
三十八 〔宇治の悪左府贈官等の事〕
 八月三日、宇治の左大臣、又贈官贈位の事あり。勅使少納言惟基、彼の御墓所へ詣りて、宣命を捧げて太政大臣正一位を贈らるる由読み上げらる。御墓▼P1431(一一四オ)は大和国添上郡河上村般若野の五三昧也。昔保元の合戦の時、流れ矢に当たりて失せ給ひぬと風聞しけれども、正しく実否を聞食さざりければ、滝口師光・資行・能盛三人を遣はして実検せらる。其の墓を掘りをこしたれば、七月のさしも熱き折節に十余日にはなりぬ、何とてかは其の形とも見へ給ふべき。余りにかはゆき様なりければ、各々面をそばめてのきにけり。
 昔、宮中を出入し給ひしには、紅顔粧ひ濃かにして春の花の色を恥ぢ、異香かをりなつかしくして妓廬の煙薫を譲り、妙なる勢ひなりしかば、御目にまみへ御詞に▼P1432(一一四ウ)懸からむとこそ思ひしに、只今の御有様こそ口惜しけれ。色相ひ変異して〓脹爛壊し給へり。支節分散して膿血溢れ流れたり。悪香充満して不浄出現せり。余りかはゆく目もあてられざりければ、重ねて見るに及ばず。此の人々は帰りにけり。御不審の残る所はさる事なれども、墳墓を掘りうがち、死骸を実検せらるる事は、少納言入道信西が計らひに諸事随はせ給ふと云ひながら、情なくこそ聞えしか。此の報ひにや、信西、平治の最後の有様少しもたがはざりき。怖しかりし事共也。
 昔堀りをこして棄てられ給ひにし▼P1433(一一五オ)後は、死骸路の頭の土となりて、年々に春の草のみしげれり。今、朝の使尋ね行きて勅命を伝へてむ。亡魂いかがおぼしけむ、穴倉なし。思ひの外なる事共ありて、世間も静かならず。「是直事に非ず。偏へに怨霊の致す所なり」と人々申されければ、加様に行はれけり。冷泉院の御物狂はしくましまし、花山の法皇の御位をさらせ給ひ、三条院の御目のくらくおはしまししも、元方民部卿の怨霊の崇りとこそ承れ。
三十九 〔三条院の御事〕
 抑三条院の御目も御覧ぜられざりけるこそ心うかりけれ。只人の見まゐらせけるには、御眼なむど▼P1434(一一五ウ)もいときよらかに、聊かも替らせ給ひたる事渡らせ給はざりければ、虚事の様にぞ見へさせ給ひける。伊勢の斎宮の立たせ給ふに別れのくし刺させ給ひては、互ひに御らむじかへる事はいむ事にてあむなるに、此の院は指し向かはせ給ひたりけるを見まひらせてこそ渡らせ給ひけれ。此れを人みまゐらせてこそ、「さればこそ」と申しける。
 昔も今も怨霊は怖しき事なれば、光仁天皇の第二の御子、甲良の廃太子は崇道天皇と号し、聖武天皇妾〓井上の親王は皇后の職位に補し給ふ。是れ皆怨霊を▼P1435(一一六オ)宥められし謀なり。
四十 〔彗星東方に出る事〕
 同じき十二月廿四日、彗星東方に出づ。「又いかなる事の有らむずるやらむ」と、人怖ぢあへり。「彗星は、五行の気、五星の変。内に大兵有り、外に大乱有り」と云へり。

 平家物語第一末
 ▼(一一六オ)         (花押)
 ▼P1436(一二一オ)一一六ウ  裏表紙見返
   シヨにち
    暑日
    夏の日の異名なり。







平家物語 三(第二本)
▼P1437(一オ)
一  院の御所に拝礼被行事
二  法皇御灌頂事
三  天王寺地形目出事
四  山門に騒動出来事
五  建礼門院御懐任事 〈付成経等赦免事〉
六  山門の学生と堂衆と合戦事 〈付山門滅亡事〉
七  信乃善光寺炎上事 〈付彼如来事〉
八  中宮御産有事 〈付諸僧加持事〉
九  御産之時参る人数事 〈付不参人数事〉
十  諸僧に被行勧賞事
十一 皇子親王の宣旨蒙給ふ事
十二 白河院三井寺頼豪に皇子を被祈事
十三 丹波少将故大納言の墓に詣事
十四 宗盛大納言と大将とを被辞事
十五 成経鳥羽に付事
十六 少将判官入道入洛事
十七 判官入道紫野の母の許へ行事
十八 有王丸油黄嶋へ尋行事
十九 辻風荒吹事
廿  小松殿死給ふ事
▼P1438(一ウ)
廿一 小松殿熊野詣事
廿二 小松殿熊野詣の由来事
廿三 小松殿大国にて善を修し給ふ事
廿四 大地震事
廿五 太政入道朝家を可奉恨之由事
廿六 院より入道の許へ静憲法印被遣事
廿七 入道卿相雲客四十余人解官事
廿八 師長尾張国へ被流給ふ事 〈付師長熱田に参給ふ事〉
廿九 左少弁行隆事
卅  法皇を鳥羽に押籠奉る事
卅一 静憲法印法皇の御許に詣事
卅二 内裏より鳥羽殿へ御書有事
卅三 明雲僧正天台座主に還補事
卅四 法皇の御棲幽なる事
▼P1439(二オ)
平家物語第二本
〔一〕 〔院の御所に拝礼行はるる事〕
 治承二年正月一日、院の御所には拝礼行はる。四日、朝覲の行幸有りて、例に替はりたる事はなけれども、去年成親卿以下近習の人々多く失はれし事、法皇御鬱り未だ休まらず、世の御政も倦くぞ思し食されける。入道も、多田蔵人行綱告げ知らせて後は、君をもうしろめたなき御事に思ひ進らせて、世の中打ちとけたる事もなし。上には事なき様なれども、下には心用心して、只にが咲ひてぞ有りける。
 七日の暁、彗星東方にみゆ。十八日に光をます。〓尤旗とも申す。又赤気とも申す。何事の有るべきやらむと、人怖れをなす。
二 〔法皇御灌頂の事〕
 法皇は、三井寺の公顕僧正を御師範として、真言の秘法を受けさせおはしましけるが、今年の春、三部の秘経を受けさせ給ひて、二月五日には、▼P1440(二ウ)園城寺にて御灌頂有るべきよし、思し召し立つと聞こえし程に、天台大衆嗔り申す。
 「昔よりして今に至るまで、御灌頂・御受戒は、皆我が山にて遂げさせおはします事、既に是先規也。就中、山王の化道は受戒灌頂の御為也。三井寺にて遂させ給はむ事、然るべからず」と申しければ、さまざまに誘らへ仰せられけれども、例の山の大衆、一切に院宣をも用ゐず。「三井寺にて御灌頂あるべきならば、延暦寺の大衆発向して、園城寺を焼き払ふべし」と僉議すと聞こえければ、重ねて宥め仰せられければ、留まりにけれ。
 「園城寺、向後延暦寺の戒を受くべきの由、請文を出だすべき」由、仰せ下されければ、北院・中院は公顕僧正の門徒多かりければ、勅定に従ふべき由申しけるを、南院、「今更我が寺に瑕瑾を貽すべからず」とて、異議をなして▼P1441(三オ)従はざりけり。南院より「当寺の僧、天台座主に補せらるる時、寺務を遂行すべし。又、法城寺の探題、当寺、同じく勤仕せしむべし。此の両条裁許有らば、勅命に従ひて延暦寺の戒を受くべき」由、申しけり。彼此の議、いづれも成し難かりければ、御加行結願して、御灌頂は思し食し止まりにけり。
 抑も三部経と申すは、其の数あまたあり。一は法花三部、二は大日三部、三は鎮護国家三部、四は弥勒慈尊三部、五は浄土真宗他力往生三部なり。今法皇の受けさせまします三部は、大日三部、真言教の依経なり。其三部とは、一は大日経、二は金剛頂経、三は蘇悉地経、是なり。今此の経の大意を尋ぬれば、「若有人此経、受持読誦者、即身成仏故、放大光明円」と説く。「若し人ありて、此の妙典を受持読誦すれば、父母所生の依▼P1442(三ウ)身、忽ちに大日如来と成りて、胸の間の大光明を放ちて、三界六道の闇をてらす」と説かれたる妙典なり。
 後白河法皇、忝くも観行五品の位に心を懸けましまして、法花修行の道場、五種法師の燈を挑げて、七万八千余部の転読なり。上古にも未だ承り及ばず、何に況や末代においてをや。十善玉体の御衣の色三密護摩の壇にすすけて、即身菩提の聖の御門とぞみえさせ給ひける。
 彼の公顕僧正と申すは、法皇の御外戚、顕密両門の御師徳なり。止観玄文の窓の前には一乗円融の玉をみがき、三密瑜伽の宝瓶には東寺山門の花開け給へり。此くの如く、内につけ外につけて御帰依の御志深きによりて、妙典をも公顕僧正に受け、御灌頂をも三井寺にてと思し食し立ちけるが、山門騒動して打ち止め奉る事、何計りか心憂く思し食されけむ。
 ▼P1443(四オ)法皇、「我が朝は、此れ辺地粟散の国なり。何事も争か大国にひとしかるべきなれども、中にも雲泥及びなかりけるは、律の法文、僧の振舞にてぞ有らむ。僧衆の法は、帰僧息諍論、同入和合の海といへり。和合海にこそ入らざらめ、諍論を専らにして、指したる咎もなき三井寺を焼失せむとする条、無道心の者共かな。破和合僧のおもむき、是又五逆罪の随一に非ずや。形計りは出家にして、心は偏に在俗に同ず。愚鈍の闇深くして、〓慢の幢高し。比丘の形となりながら、値ひ難き如来の教法をも修行せず、大日覚王の智水の流れに身をもすすがず。丸がたまたま入壇灌頂せむとするをさへ、障礙する事の無慙さよ。縦ひ丸理を枉げたる非法をも宣下し、若しは山門の所領を別院に寄すと云ふとも、王位王位たらば、誰か此を背くべき。何に況や、受職灌頂と▼P1444(四ウ)は、上求菩提の春の花、下化衆生の秋の月なり。智徳明匠此を讃嘆し、貴賎男女此を随喜す。縦ひ随喜讃嘆の褒美せしむるまでこそなからめ、無上福田の衣の上に邪見放逸の冑を着し、定恵二手の掌の内に仏法破滅の続松をささげて、三井寺を焼き失はむと僉議するらむ条、少しもたがはぬ昔の提婆達多が伴類なり。さこそ末代と
いはむからに、是程王位をかろしむべき様やある。口惜事かな」とて、宸襟しづかならず、逆鱗屡忝し。
 「抑も王位は仏法をあがめ、仏法は王位を護りてこそ、相互に助けて効験も目出たく、明徳もいみじけれ。若し王位を王位とせずは、何れの仏法か、我が朝に興隆すべきや。今度山僧等、園城寺を焼失せむにおいては、天台の座主を流罪▼P1445(五オ)し、山門の大衆をも禁籠せむ」とぞ思し食す。又かへして思し食しけるは、「山門大衆、内心こそ愚痴の闇深うして、邪雲忽ちに仏日の影を犯すといへども、形は既に比丘の形なり。一々に禁籠せむ事、罪業又なむぞ消滅すべきや。且は五帖法衣を身にまとへり。帰依の志、全く賢哲師子にをとるべからず。且は大師聖霊の御計らひをも待ち奉るべし。且は伊王山王も争か捨てはてさせ給ふべきや」とて、御涙にぞむせばせ給ひける。
 此の法皇は百王七十七代の御門鳥羽院第三の御子雅仁天王とぞ申しける。治天僅かに三年なり。いそぎ御位をすべらせおはしましける御志は「無官有智の僧に近付きて、甚深の仏法をも聴聞し、壇所行法の花香をも手づから自ら営まむ」と思し食さるる故なり。
 抑も百王と申すは、天神七代地神▼P1446(五ウ)五代の後、神武天皇より始めて、御衣濯河の流すずしく、龍楼鳳闕閲の月くもりなかりしかども、第廿九代の御門宣化天皇の御時までは、仏法未だ我が朝に伝はらず、名字をすら聞く事なかりき。されば其の時までは、罪業を恐るる人もなく、善根を修行する人もなかりき。親に孝養をもせず、心に仏道をももとめず、持律持戒の作法もなく、念仏読経のいとなみもなし。
 而るに、第卅代の御門欽明天皇の御宇十三年壬申歳十月十日、百済国の聖明王より金銅の釈迦如来、并びに経論少々、幢幡、蓋、宝瓶等の仏具なむど送られたりき。但し仏像来臨し聖教伝来すと云へども、談義転読する僧宝未だなかりしかば、三宝をも供養し、聖教をも随喜せず、只▼P1447(六オ)闇の夜の錦にてぞ侍りける。第卅二代の御門、用明天皇と申し、御諱豊日天皇とも申しき。此の御門の御時より、三宝あまねく流布して大小乗の法文光り天下にかかやく。
 其より以来、仏法修行の貴賎其数多しと云へども、此の法皇程の薫修練行の御門を未だ承らず。子に臥し寅に起きさせ給ふ御行法なれば、打ち解けて更に御寝もならず。金烏東にかかやけば、六部転読の法水、三身仏性の玉をみがき、夕日西に傾けば、九品上生の蓮台に三尊来迎の心をはこび給へり。
 或る時、一両句の御願文をあそばして、常の御座の御障子の色紙にかかせ給ひたりける明句に云はく、
  身は暫く東土八苦の蕀の下に居ると雖も、心は常に西方九品の蓮の上に遊ばしむ。
▼P1448(六ウ)とぞあそばされたる。又常の御詠吟に云はく、
  智者は秋の鹿、鳴きて山に入る。愚人は夏の虫、飛びて火に焼く。
とぞ、常にはながめさせ給ひける。此は止観の行者、四種三昧の大意を釈したる絶句とかや。昔より常に此の事ながめさせ御座す御事なれども、今度山門の大衆に御灌頂の事を打ちさまされ給ひし時より、何なる深き山にも閉ぢ籠り、苔深き洞の中にも隠れ居せばやとや思し食しけん、御心をすまして 「智者は秋の鹿」とのみ御詠ありけるとかや。后宮も此をあさましく思し食し、雲客月卿も肝神を失ひ給ひき。已に時は青陽五春の比にもなりにけり。三月桃花の宴とて、桃花の盛に開きたり。西母が跡の桃とて、唐土の桃を南庭の桜に殖ゑ▼P1449(七オ)交ぜて色々さまざまにぞ御覧じける。桜のさきにさく時もあり、桃花さきにさく時もあり。桃桜一度に開きて匂う時もあり。今年は桜は遅くつぼみて、桃花は前に開きたり。されども、「智者は秋の鹿」 とのみ詠めさせ給ひて、桃花を御覧ずる事もなかりけり。
 これによりて、雲上人、更に一人も花を詠ずる人おはせざりけるに、三月三日夕晩に、
  春来りては遍く是桃花水なれば、仙源を弁へず何れの処にか尋ねむ
と、高らかに詠ずる人あり。法皇誰ぞやと聞こし食さるるほどに、やがて清涼殿に参りて、笛吹きならしつつ、調子黄鐘調に音とりすましたり。やがて御厨子の上なる千金と云ふ御琵琶をいだきおろし奉りて、赤白桃李花と申す楽を三反計りぞ引きたりける。「只人とは覚へず▼P1450(七ウ)奇代の不思議かな」とぞ、法皇聞こし食されける。赤白桃李花を三反引きて後、琵琶をもひかず、詩歌をも詠ぜず、笛などをも吹く事なくして、良久しく有りければ、「此の者は帰りぬるやらむ」と思し食して、法皇、「やや赤白桃李花は何者ぞ」と仰せ有りければ、「御宿直の番衆」とぞ申したりける。「番衆と申すは誰ぞや」と問はせ給へば、「開発の源平大夫住吉」とぞ名乗り給ひたりける。「さては住吉の大明神にておはしけるにや」と思し食して、怱ぎ御対面あり。夢にもあらず、現にもあらず、奇代の不思議かなとぞ思し食しける。
 さて、種々の御物語ありける中に、大明神仰せられけるは、「今夜の当番衆は松尾大明神にて候へども、いそぎ申すべき事ありて、引きかへて参りて候ふ。昨日の暁、山王七社伝教大▼P1451(八オ)師、翁が宿所に来臨して、日本国の吉凶を評定し候ひしに、今度山門の大衆、邪風ことに甚しく、宸襟を悩ましまゐらせ候ひし条、存外の次第にて候ふ。但しむつごころにては候はざりつるなり。日本の天魔あつまりて、山の大衆に入りかはりて、公の御灌頂を打ち留めまゐらせ候ふ処なり。されば、大衆の禍をば御免有るべき事にて候ふなり」。
 時に法皇、「抑も天魔は、人類か、畜類か、修羅道衆類か。何なる業因の物にて仏法を破滅し侍るぞや」。大明神答へて宣はく、「聊か通力を得たる人類也。此について三つあり。一には天魔、二は破旬、三は魔縁也。第一に天魔と云ふは、もろもろの智者学生の無道心にして驕慢甚し。其の無道心の智者の死ぬれば、必ず天魔と申す鬼になり候ふ也。其の形、頭は狗、身は人にて、左右の手に羽生ひたり。前後百才の事を悟る▼P1452(八ウ)通力あり。虚空を飛ぶ事、隼のごとし。仏法者なるが故に地獄にはおちず、無道心なるが故に往生をもせず。驕慢と申すは、人にまさらばやと思ふ心也。無道心と申すは、愚痴の闇に迷ひたる者に智恵の燈をさづけばやとも思はず、あまつさへ、念仏申す者を妨げて嘲りなむどする者、必ず死ぬれば天狗道に堕つと云へり。当に知るべし、末世の僧は皆無道心にして驕慢有るが故に、十人に九人は必ず天魔となつて仏法を破滅すべしとみえたり。八宗の智者にて天魔となるが故に、是をば天狗と申すなり。浄土門の学者も、名利の為にほだされて、虚仮の法門を囀り、無道心にしてずずをくり、慢心にして数反をすれば、天魔の来迎に預かりて、鬼魔天と申す所に年久しと云へり。
 当に知るべし、魔王は一切衆生の形に似たり。第六▼P1453(九オ)意識反りて魔王となるが故に、魔王の形も又一切衆生の形に似たり。されば、尼・法師の驕慢は、天狗になりたる形も尼天狗・法師天狗にて侍る也。つらは狗に似たれども、頭は尼・法師也。左右の手に羽はをいたれども、身には衣に似たる物をきて、肩には袈裟に似たる物を懸けたり。男、驕慢天狗と成りぬれば、つらこそ狗に似たれども、頭には烏帽子、冠をきたり。二の手には羽をひたれども、身には水干・袴・直垂・狩衣などに似たる物をきたり。女の驕慢天狗と成りぬれば、狗の頭にかづらかけて、べに白物のやふなる物をつらには付けたり。大眉つくりてかねぐろなる天狗もあり。紅の袴にうすぎぬかづけて大空を飛ぶ天狗もあり。
    はじゆん                にんじん        も
 第二に破旬と申すは、天狗の業すでに尽きはてて後、人身を受けむとする時、若しは深山の峯、若しは深谷の洞、人跡たえて千▼P1454(九ウ)里ある処に入定したる時を、破旬と名づけたり。一万才の後、人身を受くといへり。
 第三、魔縁とは、驕慢無道心の者、死ぬれば必ず天狗になれりといへども、未だ其の人死せざる時に、人にまさらばやと思ふ心のあるを縁として、諸の天狗あつまるが故に、此をなづけて魔縁とす。されば驕慢なき人の仏事には、魔縁なきが故に、天魔来てさはりをなすことなし。天魔は世間に多しといへども、障礙をなすべき縁なき人の許へはかけり集る事更になし。されば、法皇の御驕慢の御心、忽ちに魔王の来るべき縁とならせ給ひて、六十余州の天狗共、山門の大衆に入りかはりて、さしも目出たき前加行をも打さましまゐらせて候ふ也。御驕慢のおこるも誠に御道理にてこそ候へ。
 『両▼P1455(一〇オ)界の万だらを一夜二時に懈怠なく行はせ給へる事、〓余代の御門の中にましまさざりき。僧の中にもまれにこそ有らめ』と思し食さるる御心、即ち魔縁となれり。『廿五壇の別尊法、諸寺諸山の僧衆も丸には争かまさるべき』と思し食すは又魔縁也。『三密瑜伽の行法、護摩八千の薫修、上古の御門にましまさず。まして末代にはよもおはせじ。仏法修行の智者達にもまさらばや』と思し食すは是魔縁也。『光明真言、尊勝だらに、慈救呪、宝篋印、火界真言、千手経、護身結界十八道、仁王般若五壇法、丸に過たる真言師もまれにこそあるらめ』と、思し召したるは魔縁也。『況や入壇灌頂して金剛不壊の光を放ちて大日遍照の位にのぼらむ事、明徳の中にもまれなるべし。天子帝王の中にも我ぞ勝れた▼P1456(一〇ウ)るらむ』と、大驕慢をなさせ給ふが故に、大天狗共多くあつまりて、御灌頂の空しくなり候ひぬる事こそ、あさましく覚え候へ」とぞ申させ給ひける。
 其の時法皇、「日本国中に天狗になりたる智者、幾人計りか侍るや」。大明神の宣はく、「よき法師は皆天狗になり候ふあひだ、其の数を申すに及ばず。大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗、一向無智の僧の中にも随分の慢心あり。それらは皆畜生道に堕ちて打ちはられ候ふ、もろもろの馬牛共、是也。中比、我朝に柿本木僧正と申しし高名の智者、有験の聖侍りき。大驕慢の心の故に忽に日本第一の大天狗となりて候ひき。此をあたごの山の太郎房とは申し候ふ也。すべて驕慢の人多きが故に、随分の天狗となりて、▼P1457(一一オ)六十余州の山の峯に、或は十人計り、或は百人計り、かけり集まらざる峯は一つも候はず」。
 其の時法皇、「誠に仰せの如く、丸が行法は、王位の中にも仏法者の中にも、いとまれにこそあるらめと思ひて候ひつる也。先づ両界を空に覚えて毎夜二時に供養法し給ふ御門、上古には未だきかずと思ひ侍りき。別尊法、鈴杵を廿五壇に立てたる帝王も、未だ聞かずと思ひ侍りき。子に臥し寅に起くる行法、帝王の中には未だ聞かずと思ひ侍りき。毎日に法花経六部を信読によみ奉る国王も、我が朝には未だ聞かずと思ひ侍りき。況や三部経の持者、秘密灌頂の聖となりて、本寺本山の智者達にもまさりたりとほめられむと思ふ慢心を発す事、たびたびなりき。さては、今こそ既に罪業の雲はれては覚え候へ。全く山門の大衆の狼籍にては侍らざ▼P1458(一一ウ)りけり。我が身の驕慢、則ち天魔の縁となりて、六十余州の天狗共、数日精勤の加行を打ちやぶりけるこそ、道理にては侍りけれ。今は慙愧懺悔の風冷し。魔縁魔境の雲、争かはれざらむや。さては忍びやかに宿願をはたし候はばやと存じ候ふ。御計らひ候へ」と仰せ有りければ、大明神の宣はく、「伝教大師申せと候ひつるは、『延暦寺と申すは愚老が建立、園城寺と申すは智証大師の草創也。効験何れも軽くして、御帰依の分にあたはず。日本国の霊地には、二
々天王寺勝れたりと覚え候ふ。其の故は、聖徳太子の御建立、仏法最初の砌也。其の聖徳太子は救世観音の応現、大悲闡提の菩薩也。此によりて信心空に催して、勝利何ぞ少からむや。折りしも彼の寺に入唐の聖の帰朝して、恵果▼P1459(一二オ)八仙の流水、五智五瓶にいさぎよし。灌頂の大阿闍梨、其の器に尤も足りぬべし。密かに御幸ならせおはしまして御入壇候へ』」とて、明神忽ちに失せ給ひぬ。
 法皇思し食されけるは、「慢心をいかにおこさじと思へども、事により折に随ひておこるべき物にて有りけり。さしも大明神のをしへ給ひつる慢心の、今又おこりたるぞや。其の故は、大唐国に一百余家の大師先徳、其の数多しといへども、韋多天に対面して物語し給ひける明徳は、終南山の道宣律師(大師ィ)許り也。吾が朝には人王始まりて朕に至るまで、七十余代の御門、其の数多しといへども、住吉の大明神に直に対面して種々物語したる御門は丸計りこそ有るらめと、驕慢のおこりたるぞや。南無阿弥だぶ南無阿弥だぶ、此罪障消滅して助けさせおはしませ」とぞ御祈念有りける。
 法皇▼P1460(一二ウ)すでに天王寺へ御幸なりけるとき、御手を合はせつつ、いかなる御祈念かおはしけむ、
  すみよしの松吹風に雲はれてかめゐの水にやどる月かげ
とあそばして御幸なりつつ、天王寺の五智光院にして亀井の水を結び上げて五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂の素懐を遂げさせ御坐しける。無上菩提の御願すでに成就して、有待の御身も今は金剛仏子の法皇とならせおはしましたる。天魔はいささかなやましまゐらせたりけれども、住吉大明神にをしへられましまして、即身成仏の玉体とならせおはしましたる。誠に目出たく侍り。所以に、六大無礙の春の花は、▼P1461(一三オ)金剛界の智水より開き、四種万陀の秋の月は、台蔵界の理門より出づ。三密瑜伽の鏡面は、五智円満の聖体に浮かび、八葉肉団の胸の間には、三十七尊の光円耀けり。
 同五月廿日、天台の衆徒所司を以て参陣せしめて訴へ申しけるは、「今度最勝講に延暦寺の僧を召されず。此の条都て先規無し。何に依りてか、忽ちに棄捐せらるべき哉」とぞ申したりける。蔵人右少弁光雅、参院して奏聞しければ、「更に御棄て置きの儀に非ず。天台の衆徒、自由の張行を以て御願を妨げ奉る条、頗る奇怪なるに依りて、其の事つみしらせむが為なり」とぞ仰せ下されける。此の趣をぞ、所司には仰せ含めける。又、延暦寺より専使を差し遺して園城寺に申し送りけるは、「最勝講は鎮護国家の御願なり。而るに今度、天台宗を棄てらるる処に、▼P1462(一三ウ)園城寺の僧参勤せらるべき由、風聞あり。何れの宗を以てか、参勤せらるべき哉。当寺は天台か、花厳か、三論か、法相か。委細に承りて存知仕るべし」とぞ申したりける。爰に、園城寺の衆徒、三院会合して僉議すといへども、何れの篇も返答すべしと云ふ義も定まらざりければ、只「追つて申すべし」とばかりぞ、返答したりける。
 抑も道宣律師の相ひ給ひて物語し給ひし韋荼天と申すは、毘沙門天王の太子なり。道宣律師、終南山にして晴夜にして高楼を立てて彼に登りて御しけるが、誤りて高楼より落ち給ふ時、中途にしてみしと懐きたてまつる者あり。「何者ぞ」と問はれければ、「韋荼天」と答えけり。道宣の宣はく、「何にしてこれへは来るぞや」。天の云く、「吾れ毘沙門天王の御使▼P1463(一四オ)者として彼の命に随ひて日来より参りて常に守護し奉る也」と云々。道宣重ねて宣はく、「其の議ならば、顕れて常に物語をもし給へかし」と云はれければ、「仰せに随ひて」とて、其の後は庭前の柳に登りて、光明をはなちて、諸の世界国土の物語を申しけり。
 彼の道宣と韋荼天との物語を注せる一巻の伝記、是あり。感通伝と名づけたり。道宣云はく、「毘沙門天王は、当時はいづくに御しますぞ」。天答へて云はく、「当時はびさ門天王は、玄弉三蔵の大般若訳し給へる処に、彼の三蔵を守護の為に御します」とぞ申しける。道宣の云はく、「玄弉は破戒の僧なり。我は持戒の者也。我をこそ守護し給ふべきに、我をば韋荼天に預けて、玄弉三蔵を守護せらるらむ事は、存外の事也」とぞ自称し給ひける。
 げにも道宣の云ふが如くに、道宣律師は二百五十の▼P1464(一四ウ)律儀を守りて一事も戒を犯さず。八万の細行を正しくして、身口の表を鮮かにせり。玄弉三蔵は乱僧也。徳行遥かに下れり。然るに、道宣をすて、玄弉を守り給ふらむ事、疑ひ実に多し。倩ら事の次第を案ずるに、高僧伝を開き見るに、一切の僧の徳行を釈せむとして十の科を立てたり。「第一には翻訳の僧、其の功殊に貴し。第二は義解の僧、仏法流伝の謀、誠に目出たし」。此くの如く、次第に科門を立て、釈し畢りて、「第十には仏蔵経論等を修復修造の僧也」と連ねたり。彼を以て之を案ずるに、玄弉三蔵と云ふは、其の身破戒にして、防・生・光・基の四人の子をまうくといへども、高僧伝に立つる所の十科の中に第一の翻訳の三蔵として、般若大乗教を流転する事数百軸、此の徳を▼P1465(一五オ)鑑みて、毘沙門天王の自身往きて守護し給へるかとぞおぼえし。
 かくて、道宣大慈恩寺の長老に任ぜられたりけるに、住寺の僧侶一千余人、衣鉢を帯して止住す。堂舎の構梁は三百三十三間なり。金銀をちりばめて鮮潔也。其の後、韋荼天惣じて来る事なし。遥かに程隔てて来れりければ、道宣韋荼天に宣はく、「天、何故ぞ久しく来らざる哉」。天答へて云はく、「終南山におはせしときは、身は律儀の為に貴く、心は求法の為に苦也き。内外共に清浄なりしかば、御心けがるることなかりき。而るに当寺に任し給ひてより後は、御心汚穢にして世路の思ひこまやかに、御身不浄にして名聞の志し深し。之に依りて、毘沙門天王惣じて参ずべからざる由、
禁め仰せらるる間、参らざりつれども、▼P1466(一五ウ)日来の御好みを忘れ奉らずして、毘沙門天王の命を背きて、暫時の暇を申して私に参りたり」とぞ申しける。而るに彼の韋荼天の宣ひける、慈恩寺にして身心の不浄におはしけむ事はいかにと思へば、昔し終南山におはせし時は、一向下化衆生の心を先として、世俗馳走の思ひもなかりしかば、内外共に清浄なりき。今此の慈恩寺と申すは、徳宗皇帝の建立として、堂舎塔廟広博也。されば止住の僧侶も多くして、行法の床も数しげし。彼の大伽藍の長老となり給ひしかば、住寺の僧を助けむとて、自ら度世の計らひをも心にや懸け給ひけむ。若し爾らば、心汚穢になり給ひたりとて、守護を加へ給はざりけるも理なりとぞ覚えし。
三 〔天王寺の地形目出たき事〕
 ▼P1467(一六オ)抑も四天王寺と申すは、天下第一之奥区、人間無双の浄刹なり。聖徳太子草創の霊場、救世菩薩利生の勝地也。寺は殊勝の名区に隣れる、即ち極楽東門の中心、堺は霊験の奇地に摂す、是れ往生西刹の古跡也。西に向かへば則ち激海漫々として、八功徳池の眺望、眼の前に有り。東に顧れば又清水滔々として、三界水沫の無常心中に浮ぶ。村南村北に遐邇の輩ら、会ふ日を契りて以て烏合し、東より西より都鄙の類ひ道場に詣でて、以て鳩集す。加之、天枝帝葉の輿輦を廻す、本尊に帰して叡慮を傾け、山玄水蒼の舟車を動かす、道場に臨みて満願を成す。来る者は他人の催しに非ず、只善根の宿因に催されて来る所也。莅む者は自身の発すに非ず、偏に往生の▼P1468(一六ウ)当縁に発るに依りて莅む所也。天下に首を傾くる者、皆是れ観音弘誓の慈悲に応ず。人中に心を属くる者、孰か又極楽霊稼の人民に非ざらんや。堺は王地に在りて王地に〓ぜず、常住の三宝を以て主と為す。処は国郡に摂して国郡に随はず、護世四王を以て吏と為す。戒律を定むる庭なれば、放逸の者は跡を削り、浄土に望む砌なれば、不信の者は来ること無し。観音応迹の処なれば、住む人皆慈悲有り。往生極楽の地なれば、
詣づる人悉く念仏を行ず。之に依りて、現世には三毒七難の不祥を滅して、二求両願の悉地を満足し、当来には三輩九品の浄刹に生じて、常楽我浄の妙果を証得せむ。遠く月氏の仏跡を尋ね、遥かに震旦の霊場を訪へば、如来説法の祇園精舎、徊録の災に依りて、咸陽宮の煙り片々たり。賢聖集会の▼P1469(一七オ)鶏頭磨寺、梁棟傾危して、古蘇台の露壌々たり。漢の明帝の白馬寺、法音を断ちて煙嵐を残し、高祖帝の慈恩寺、法侶去りて虎狼を住ます。
 又、本朝の諸寺諸山、炎上の例是れ多し。而るに当寺に於ては、濁世に臨みて王臣の帰依弥よ新に、劫末に入りて本尊の利益実に盛なり。上宮の威光、日々に耀き、寺塔の興隆歳々に増す。護世四王寺を護れば、四魔三障の難も来らず。恒居の青龍法を戴けば、仏法の水の流れも乾かず。
 かかる霊地なれば、四明、三井にもまさりて思し召されければ、事故なく遂げさせ給ひにけり。是、当寺の面目に非
ずや。
四 〔山門に騒動出で来たる事〕
 山門の騒動を鎮めむが為に、園城寺の御灌頂は止まりたりけれども、山上には学生と堂衆と不和の事有りて閑かならずと聞こゆ。山門に事出でぬれば、世も▼P1470(一七ウ)必ず乱ると云へり。又何なる事のあらむずるやらむと恐ろし。
 此の事は、去年の春の比、義竟四郎叡俊、越中国へ下向して、釈迦堂の衆、来乗房義慶が立て置く神人を押し取りて、知行して跡を押領す。義慶、怒りをなして敦賀の津に下りあひて、義竟四郎を散々に打ち散らして、物具を剥ぎ取り恥に及べり。叡俊、山に逃げ登て、夜に入りて匍ふ匍ふ登山して衆徒に訴へければ、大衆大いに憤りて忽ちに騒動す。来乗房、又堂衆を語らふ間、堂衆同心して来乗房を助けむとす。
五 〔建礼門院御懐任の事付けたり成経等赦免の事〕
 建礼門院、其の比は中宮と申ししが、春の暮程より常に御乱り心地にて、供御もはかばかしくまゐらず。御寝も打ち解けてならざりしかば、何の沙汰にも及ばず。惣じては天下の騒ぎ、別しては平家の歎きとぞ見えし。太政入道、二▼P1471(一八オ)位殿、肝心を迷はし給ふ、理なり。されば諸寺諸山に御読経はじまり、諸宮諸社に奉幣使を立てらる。陰陽術を尽くし、医家薬を運ぶ。大法秘法、残す所無く修せられき。かくて一両月を経る程に、御悩ただにも非ず、御懐妊と聞こえしかば、平家の人々、日比は歎かれけるが、引き替へて今は面々に悦び合われけり。
 御懐孕の事定まりにければ、貴僧高僧に仰せて御産平安を祈り、日月星宿に付けて皇子誕生を願ふ。主上今年十八にならせ給ふに、皇子も未だ渡らせおはしまさず。中宮は廿三にぞならせ給ひける。皇子御誕生なむどの有る様に、あらまし事をぞ悦ばれける。「平家の繁昌、時を得たり。然れば皇子誕生疑ひなし」と申す人もありけり。
 かかりし程に、六月廿八日、中宮御着帯とぞ聞こえし。月日の重なるに随ひて、御乱れ猶煩はしき様に渡らせ▼P1472(一八ウ)給ひければ、常には夜の大殿にのみぞ入らせ給ひける。少し面やせて、またゆげに見えさせ給ふぞ心苦しき。さるに付けても、いとどらうたくぞ見えさせ給ひける。彼の漢の李夫人の昭陽殿の病の床に臥したりけむもかくや有らむ。桃李の雨を帯び、芙蓉の露に萎れたるよりも心苦しき御有様なり。
 かかりし御悩の折節に合はせて、執念き物気、度々取り付き奉る。有験の僧共あまた召されて、護身加持隙もなし。よりまし明王の縛にかけて、様々の物気顕はれたり。惣じては讃岐院の御怨霊、別しては悪左府の御臆念、成親卿・西光法師が怨霊、丹波少将成経・判官入道康頼・法勝寺執行俊寛なむどが生霊なむども占ひ申しけり。
 之に依りて、入道相国、生霊死霊共に軽からず、おどろおどろしく聞こえ給ひければ、▼P1473(一九オ)「宥めらるべき由の御政有るべし」と、計らひ申さる。
 門脇宰相は、「いかなる次もがな、丹波少将が事申し宥めむ」と思はれけるが、此の折りを得て、怱ぎ小松内大臣の許へおはして、「御産の御祈りにさまざまの攘災行はるべき由聞こゆ。いかなる事と申すとも、非常の大赦に過ぎたる事、有るべからず。就中、成経召し返されたらむ程の功徳善根は、争か有るべき。大納言が怨霊を宥めむと思し食さむに付けても、生きたる成経をこそ召し返され候はめ。此の事、執り申さじとは思ひ候へども、娘にて候ふ者の余りに思ひ沈みて、命もあやふく見え候ふ時に、常に立ちよりて『あながちかくな思ひそ。教盛さてあれば、さりとも少将をば申し預からむずるぞ』と慰め申し候らへば、顔をもて上げて教盛を打ち見て、涙を流して引きかづきて候ふ。教盛、御一門の片端にてあり。『親を持つとも、此の時は▼P1474(一九ウ)宰相ほどの親をこそもつべけれ。などか少将一人申し預らざるべきぞ』と内々恨み申し候ふなるが、げにもと覚えて、いたく無慙に覚え候ふ。成経が事、然るべき様に執り申させ給ひて、赦免に申し行はせ給へ」と、泣々くどき申されければ、小松大臣涙を流して、「子の悲しさは重盛も身につみて候へば、さこそ思し食され候ふらめ。やがて申し候ふべし」
とて、八条へ渡り給ひて、入道の気色いたく悪しからざりければ、「宰相の成経が事を強ちに歎き申され候ふこそ不便に覚え候へ。尤も御計らひ有るべしと覚え候。中宮御産の御祈りに、定めて非常の大赦行はれ候はむずらむ。其の内に入れさせ給ふべく候。宰相の申され候ふ様に、誠に類なき御祈りにて有らむずらむと覚え候ふ。大方は人の願を満たさせ給ひ候はば、御願成就、疑ひ▼P1475(二〇オ)有るべからず。御願成就せば、皇王御誕生ありて家門の栄花弥盛りなるべし」と細々に申し給へば、入道、今度は事の外に和ぎて、げにもと思はれたりげにて、「さて俊寛・康頼が事はいかに」。「それらも免されて候はば、然るべくこそ候はめ。一人も留まらむ事は中々罪業たるべしと覚え候ふ」なむど申されけれども、「康頼が事はさる事にて、俊寛は且は知られたる様に、随分入道が口入にて法勝寺の寺務にも申しなしなむどして人となれる物ぞかし。其に人知れず鹿谷に城を構へ、事にふれて安からぬ事をのみ云ひける由を聞くが、殊に奇怪に覚ゆるなり」とぞ宣ひける。
 「中宮御産の御祈りによりて、大赦行はるべし」と、太政入道申し行はれければ、即ち職事奉書を下さる。其の状に云はく、
  ▼P1476(二〇ウ)中宮御産御祈りの為に、非常の大赦行はるるに依りて、薩摩国流黄嶋の流人、丹波小将成経、并びに平判官入道
  康頼法師、二人帰参すべきの状、仰せに依りて執達件の如し。
    治承二年七月 日
とぞ仰せ下されける。宰相是を聞き給ひて、うれしなむどはなのめならず。少将の北方は猶うつつとも覚えず、臥し沈みてぞおはしける。
 七月十三日御使下されければ、平宰相はあまりにうれしくて、私の使を差し副へて、「夜を日に継ぎて下れ」とてぞ遣はされける。其も輙く行くべき舟路ならねば、波風あらくて船の中にて日送りける程に、九月半ばすぎてぞ彼の嶋には渡り付きたりける
 折りしも其日は日もうららかにて、少将も康頼も礒に出でて▼P1477(二一オ)遥々と塩瀬の方を詠むれば、漫々たる海上になにとやらむはたらく物あり。怪しくて、「やや入道殿、あのおきに眼に遮る物の有るはなにやらむ」と少将宣へば、康頼入道是を見て、「にをのうきすの波に漂ふにこそ」と申しけり。次第に近くなるをみれば、舟の体に見なしたり。「是は端嶋の浦人共が流黄ほりに時々渡る事のあれば、さにこそ」と思ふ程に、礒近く漕ぎ寄る舟の内に云ひ通はす詞共、さしも恋しき都人の音に聞きなしつ。少将思はれけるは、「我等が様に罪をかぶりて此の嶋へ放たるる流人なむどにこそ」と思ひ給ひて、「とく漕ぎ寄せよかし、都の事共尋ねむ」と思はれけれども、まめやかに近付けば、見苦しさの有様を見えむ事のはづかしくて、礒を立ちのきて浜松がえの木本、岩のかげにやすらひて、みえがくれにぞ待たれける。
 さる程に、舟▼P1478(二一ウ)漕ぎつけて怱ぎおりて我等が方へ近付く。俊寛僧都は余りにくたびれて、只あしたゆふべの悲しさにのみ思ひ沈みて、神明仏陀の御名も唱へ奉らず、あらましの熊野詣をもせず、常は岩のはざま苔の下にのみうづもれ居られたりけるが、いかにして只今の有様を見給ひけるやらむ、此の人共のおはする前に来れり。六はらの使申しけるは、「太政入道殿の御教書并びに平宰相殿の私の御使、相副へられて、都へ御帰り有るべき由の御文持ちて下りて候ふ。丹波少将殿はいづくに渡らせ給ひ候ふやらむ。此の御教書を進らせ候はばや」と申しければ、是を聞き給ひけむ三人の人々の心中、いかばかりなりけむ。余りに思ふ事なれば、猶夢やらむとぞ思はれける。三人一所になみ居られたり。
 少将の許へは宰相さまざまに送り給へり。康頼が▼P1479(二二オ)方へは妻が方より事づてあり。俊寛僧都が許へはひとくだりの文もなかりければ、其の時ぞ、「都に我がゆかりの者一人も跡を留めずなりにけるよ」と心得られにける。心うくかなしき事限りなし。さて、俊寛奉書を開きてみ給へば、「中宮御産の御祈りの為、非常の大赦行はるるに依りて、成経・康頼、帰参すべし」とは有りけれども、俊寛は漏れにけり。僧都是を見てあきれ迷ひてつやつや物もおぼへず。若し僻よみかとて又見れども、「俊寛」と云ふ文字はなし。又みれども、「二人」とこそはかかれたれ、「三人」とはかかれず。夢にこそかかる事はみゆれ、夢かと思ひなさむとすればうつつなり。うつつと思へば又夢の如し。此の文をひろげつ巻きつ、千度百度おきつ取りつして、臥しまろびてをめき叫びて、悲しみの涙をぞ流しける。「三人同じ罪にて一所へ放たれぬ。▼P1480(二二ウ)今赦免の時、二人はゆるされて俊寛一人漏るべしとは思はぬ物をや」とて、天に仰ぎ地に臥して、又をめきさけぶ。此の嶋へ流されし時の歎きを今の思ひにくらぶれば、事の数ならざりけり。留めらるる事を思ふに、いかにすべしともおぼえず。泣く泣く奉
書を取りて、「是は執筆の誤りなり。さらでは、俊寛を此の嶋へ流し給へる事を、平家の思し食しわすれたるか」とて、又初めの如くもだえこがれけるこそ無慙なれ。二人の悦び、一人の歎き、悦びも歎きも事の究めとぞ見えし。
 少将・判官入道は、塩・風の沙汰にも及ばず、今一時もとく漕ぎ出でなむとて、流黄津と云ふ所へ移りにけり。僧都余りの悲しさに船津まで来て、二人の人にすこしも目を放たず、少将の袖に取り付きても涙を流し、判官入道の袂を引へても叫びけり。「年来日来は各さておはしつれば、昔物語▼P1481(二三オ)をもして都の恋しさをも嶋の心うさをも申しなぐさみてこそ有りつるに、打ち棄てられ奉りては、一日片時も堪え忍ぶべき心地もせず。ゆるされなければ、みやこへは中々思ひもよらず。ただ此の船に乗せて出でさせ給へ。底のみくづともなりてまぎれ失せなむ。中々新ら高麗とかやの方へも渡り行かば、思ひ絶えても有るべきに、俊寛一人残り留まりて、嶋の巣守とならむ事こそ悲しけれ」とて、又をめきさけびければ、少将泣く泣く宣ひけるは、「誠にさこそ思し食され候ふらめ。成経が上るうれしさはさる事なれども、御有様を見置き奉るに、更に行くべき空も覚えず。御心の中、皆押しはかりて候へども、都の御使も叶ふまじき由を申す上、三人船津を出でにけりと聞こえむ事もあしかりぬべし。なにとしても甲斐なき命こそ大切の事にて▼P1482(二三ウ)候へば、且は成経が身上にても思し召し知られ
候へ。罷り下り候ひし即ちは、ともかくもして命を失はばやとこそ存ぜしかども、甲斐なき命の候へばこそ、かやうにうれしき音信をも待ち得候ひぬれば、此の度留まらせ給ひて候ふとも、又自ら召し帰されさせ給ひ候ふ御事も、などか候はざるべき。成経罷り上り候ひなば、身につみて思ひ知り進らせて候へば、宰相にも且は吉き様に申し候ふべし。いかさまにも御身を投げても由なき御事なり。只いかにもして今一度都の音信をも聞かむとこそ思し食され候はめ。其の程は、日来おはせしやうに思ひて待たせ給へ」と、且はなぐさめ且はこしらえられければ、僧都返事に及ばず、少将に目を見合はせて、「俊寛をば捨て置き給ひなむずるな。ただ俊寛をも具して上り給へ。具して上りたる御とがめ有らば、又も流さ▼P1483(二四オ)れ候へかし」なむど、さまざまにくどかれけれども、「是程に罪深くて残し留めらるる程の人を、ゆるされもなきに具し上りなば、まさるとがにもこそあたれ」と思はれければ、「誠にさこそ思し食さるらめ」と計りにて、少将は「形見にも御覧ぜよ」とて、夜の衾をおかれけり。判官入道のわすれ形見には、本尊持経をぞ留めける。「誠に花の春さくらがりして志賀の山を越え、吉野の奥へ尋ね
入る人も、皆風にさそはるる習ひあれば、散りぬる後は木本を惜しみて岩の枕に夜をあかす事もなく家路へ怱ぎ、月の秋、明月を尋ねてすま明石へ浦伝ひする人も又、山のはに傾くためしあれば入りぬる後をしたひて海人の苫屋に宿りもやらず、すぎこしあとを尋ねけり。恋路にまよふ人だにも、我が身にまさる物やある」と互ひに云ひ通はしつつ、少将も入道も怱ぐ心ぞ情けな▼P1484(二四ウ)き。路行く人の一村雨の木本、同じ流れを渡る友だにも、過ぎ別るるなごりは猶惜しくこそ覚ゆるに、まして僧都の心中、思ひ遣られて無慙なり。
 さる程に順風よかりければ、僧都のもだへこがれけるひまに、やわら共縄をときて漕ぎ出でむとするに、僧都思ひに絶えずして、御使に向かひて手をすり、「具しておはせよや、具しておはせよや」とをめかれければ、人の身に我身をばかへぬ事にて、「力及ばず」と情けなく答へければ、僧都余りの悲しさに船の舳へに走りまはり、乗りてはおり、下りては乗り、あらましをせられける有様、目もあてられずぞ覚えける。次第に船を押し出だせば、僧都共縄に取り付きて、たけの立つ所までは引かれて行く。そこしも遠浅にて、一二丁計り行きたりけれども、みちくる塩立ちかへりて口へ入りければ、共綱にわき打ち懸けて、「さて俊寛をばすて置き給ひぬるな」とて、又▼P1485(二五オ)声もおしまず呼ばひ給ひけれども、少将もいかにすべしともおぼえず、諸共にぞ泣かれける。僧都猶も心の有りけるやらむ、とかくして波にも溺れず、いそに帰り上りて、なぎさにひれふして、少き者の乳母や母にすてられて道をしたふ様に浜に足をすりて、「少将殿、判官入道殿や」とをめき叫びけるは、「父よ母よ」と呼ぶに似たりけり。をめき叫ぶ声の遥かに波を別きて聞こえければ、誠にさこそ思ふらめと、少将も康頼も共に涙を
流して、つやつや行く空もなかりけり。漕ぎ行く船の跡の白波、さこそうらやましくおぼされけめ。
 未だこぎかくれぬ船なれども、涙にくれてこぎきえぬとみえければ、岩の上に登りて船を招きけるは、松浦さよひめが唐船をしたひつつ、ひれふり(袖振り)けるにことならず。よしなき少将の情の詞を憑みて、其の瀬に身をも投げられ▼P1486(二五ウ)ざりけるこそ、責めての罪の報いとは見えしか。日すでに暮れにけれども、あやしの臥床へも立ち帰るべき空も覚えず、又渚に倒れ臥して、奥の方をまぼらへつつ、露にしほぬれ波に足打ちあらはせて、頭をたたき胸を打ちて、血の涙を流して、終夜泣きあかされければ、袖は涙にしほれ、すそは波にぞぬれにける。「少将、情も深く物の哀れをも知りたる人なれば、『かかる無慙なる事こそありしか』なむど申されば、若しくつろぐ事もや」とたのみをかけて、眇々たる礒を廻りて命を助け、漫々たる海を守りて心をなぐさめてあかしくらし給ひければ、昔、早離即離が南海の絶嶋に放れたりけむも是にはすぎじとぞ覚えし。其は兄弟二人ありければ、なぐさむ方も有りけむ、此の僧都の悲しみはわきまへ遣るべき方もなし。
 少将は九月半すぎて嶋を▼P1487(二六オ)漕ぎ出でて、風をしのぎ波をわけ、浦伝ひ嶋伝ひして、廿三日と云ふには九国の地へ付きにけり。やがて都へ上らむと怱がれけれども、冬にもなりにければ、船の行きかふ事もなかりける上、平宰相の許より重ねて使下りて申しけるは、「去年より彼の嶋におはして、定めて身もつかれ損じ、病も付き給ひぬらむ。寒き空に遥々と上り給はば、上りも付き給はで、道にてあやまちも出できなむず。肥前国加世庄と云ふ所は、味木庄とも名づけたり。彼の所は、教盛が所領なり。此の冬は彼庄におはして、御身をも労りて、明春、風和らかになりて、のどかに上り給へ」と云ひ遣はしたりければ、其の冬は彼の庄にて湯あみなむどして、便の風をぞ待たれける。さるほどに、年もすでに暮れにけり。
六 〔山門の学生と堂衆と合戦の事 付けたり山門滅亡の事〕
 八月六日、学生、義竟四郎を大将軍として、堂衆が坊舎十▼P1488(二六ウ)三宇切り払ひて、そこばくの資財雑物を追捕して、学生、大納言が岡に城廓を構へて立て籠もる。八日、堂衆登山して東陽坊に城廓を構へて、大納言の岡の城に立て籠もる所の学生と合戦す。堂衆八人しころを傾けて城の木戸口へ責め寄せたりけるを、学生、義竟四郎を初めとして六人打ち出でて、一時計り打ち戦ひける程に、八人の堂衆引き退きけるを、義竟四郎打ちしかりて長追ひをしける程に、返し合はせて又打ち組む所に、義竟四郎擲刀の柄を蛭巻の許より打ちをられにけり。腰刀を抜きてはねてかかりけるが、いかがしたりけむ、頸を打ち落とされぬ。大将軍と憑みたる四郎打たれにける上は、学生やがて落ちにけり。
 十日、堂衆、東陽坊を引きて、近江国三ヶ庄に下向して、国中の悪党を語らひ、数▼P1489(二七オ)多の勢を引卒して学生を滅ぼさむとす。堂衆に語らはるる所の悪党と申すは、古盗人・古強盗・山賊・海賊等なり。年来貯へ持ちたる米穀布絹の類を施し与へければ、当国にも限らず、他国よりも聞き伝へて、摂津・河内・大和・山城の武勇の輩、雲霞の如くに集りけりと聞こえしほどに、九月廿日、堂衆数多の勢を相具して登山して、早尾坂に城廓を構へて立て籠もる。学生、不日に押し寄せたりけれども、散々と打ち落とされぬ。安からぬ事に思ひてあがりをがりけれども、甲斐なし。
 大衆公家に奏聞し武家に触れ訴へけるは 「堂衆等、師主の命を背きて悪行を企つる間、衆徒誡めを加ふる処に、諸国の悪徒を相語らひて、山門に発向して、合戦既に度々に及ぶ。学侶多く討たれて仏法忽ちに失せなむとす。早く官兵を差し副へられて追討せらるべし」と申しければ、院より大政入道に▼P1490(二七ウ)仰せらる。入道の家人紀伊国住人湯浅権守宗重を大将軍として、大衆三千人、官兵二千余騎、都合五千余騎の軍兵を差し遣はす。筑紫人、并びに和泉・紀伊国・伊賀・伊勢・摂津・河内の駈武者なり。然るべき者は無かりけり。
 十月四日、学生、官兵を賜はりて、早尾坂の城へ寄す。今度はさりともと思ひけるに、衆徒は官兵をすすめむとす。官兵は衆徒を先立てむと思ひけり。此の如き間、心々にしてはかばかしく責め寄する者もなし。堂衆は執心深く面もふらず戦ひける上に、語らふ所の悪党等、欲心熾盛にして死生不知なる奴原の、各我一人と戦ひければ、官兵も学生も散々に打ち落とされて、戦場にて死者二千余人、手負は数を知らずとぞ聞こえし。
 五日、学生一人も残らず下洛して、あしこここに寄宿しつつ、▼P1491(二八オ)いきつぎ居たり。かかりける間、山上には谷々の講演も悉く断絶し、堂々の行法も皆退転しぬ。修学の窓を閉ぢて、坐禅の床も空しくせり。義竟四郎、神人一庄を押留して知行すとも、強ちに何計りの所得か有らむずるに、敦賀の中山にて恥を見るのみにあらず、取り替えなき命を失ひ、山門の滅亡朝家の御大事に及びぬる事こそあさましけれ。人は能々思慮有るべき物哉とぞ覚ゆる。食欲は必ず身をはむといへり。深く慎むべし。
 十一月五日、学生、上座寛賢威儀師斉明等を大将軍として、堂衆が立籠所の早尾坂の城へ押し寄せて責め戦ふ。しかれども学生夜に入りて追ひ返されて、四方に逃げ失せぬ。学生の方に討たるる者百余人、あさましかりし事共なり。
 其の後は、山門弥よ荒れはてて、西塔の禅衆の外は止住の僧侶希なり▼P1492(二八ウ)けり。当山草創より以来、未だ此くの如き事なし。世の末は、悪は強く善は弱くなれば、行人は強くして、智者の謀も賢かりしは皆ちりぢりに行き別れて、人なき山になりにけり。中堂衆、皆失せにけり。三百余歳の法燈、挑ぐる人もなし。六時不断の香煙も絶えやしぬらむ。堂舎高く聳えて、三重の構を青渓の雲にさしはさみ、棟梁遥かに秀でて、四面の垂木を白露の間に懸けたりき。されども今は供仏を嶺の嵐に任せ、金容を空しき瀝にうるほす。夜の月、燈をかかげて軒の間より漏り、暁の露、玉をつらぬいて蓮座の粧を添ふ。哀れなる哉、学徒、昔は伊王慈悲の室に住み、修学を営むと雖も、今は庸夫蒭蕘の宅に居て、偏へに愁涙に溺る。衰邁の師範は、鳩杖に耐へずして疲れに臨み、幼稚の垂▼P1493(二九オ)髪は、螢雪を翫ばずして闇に迷ふ。現世の仏法、既に滅す。将来の恵命、何かが継がむ。かかりければ、仏前に詣づる僧侶もなし。社壇に拝する社司もなし。
 夫、末代の俗に至りては、三国の仏法も次第に以て衰微せり。遠く天竺の仏跡を訪へば、昔仏の法説き給ひける鷲の御山も竹林精舎も給孤独園も、中古よりは虎狼野干の栖となりはてぬ。祇園精舎の四十九院、名をのみ残して礎あり。白路池には水絶えて、草のみ深く生ひしげり、退凡下乗の卒都婆の銘も霧に朽ちて傾きぬ。振旦の仏法も同じく滅びにき。天台山、五台山、双林寺、玉泉寺も、此の比は住侶なきさまに成りはてて、大小乗の法文は箱の底にぞ朽ちにける。吾が朝の仏法も又同じ。南都の七大寺も皆あれはてて、八宗九宗も跡絶えぬ。瑜伽唯識の両▼P1494(二九ウ)部の外は残れる法文もなく、東大・興福両寺の外は、残れる今は堂舎もなし。愛宕護・高雄の山も昔は堂舎軒をきしりたりしかども、一夜の中に荒れにしかば、今は天狗の棲となりたり。昔、玄弉三蔵、貞元三年の比、仏法を弘めむとして、流沙葱嶺を凌ぎて仏生国へ渡り給ひしに、春秋寒暑一十七年、耳目見聞一百三十八ヶ国、或は三百六十余の国々を見巡り給ひしに、大乗流布の国、僅かに十五ヶ国ぞ有りける。さしも広き月氏の境にだにも、仏法流布の所は有りがたかりけるぞかし。其も今は虎狼のふしどと成りはてぬ。さればやらむ、止事無
かりつる天台の仏法も、治承の今に当たりて滅びはてぬるにやと、心有るきはの人、悲しまずと云ふ事なし。離山しける僧の、中堂の柱に書き付けけるとかや。
  ▼P1495(三〇オ)祈りこし我が立つそまの引きかへて人なき峯となりやはてなむ
伝教大師当山草創の昔、「阿耨たら三藐三菩提の仏達」と祈り申させ給ひける事を思ひ出だし、読みたりけるにやと、いと艶しくこそ聞こえしか。宮の御弟子、法性寺殿の御子、天台座主慈円大僧正、其の時法印にておはしけるが、人しれず此の事を悲しみて、雪の降りたりける朝、尊円阿闍梨が許へ遣はされける。
  いとどしく昔の跡や絶えなむと思ふも悲しけさの白雪
尊円阿闍梨が返事、
  君が名ぞなほあらはれむふる雪の昔の跡は絶えはてぬとも
 堂衆と申すは、学生の所従にて、足駄・尻切なむどとる童部の法師に成りたる、▼P1496(三〇ウ)中間法師共なり。借上・出挙しつつ、切物・寄物の沙汰して得付き、けさ衣きよげに成りて、行人とて、はてには公号を付けて、学生をも物ともせず、大湯屋にも、申の時は堂衆とこそ定められたりけるに、午の時より下りて、学生の後に居て指をさして咲ひければ、「かくやは有るべき」とて、学生共是をとがめければ、堂衆、「我等がなからむ山は山にても有るまじ。学生とて、ともすれば聞きも知らぬ論議と云ふはなむぞ、あなをかし」なむどぞ云ひける。近比、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山の時より、三塔に結番して、夏衆とて、仏に花を献りし輩なり。
〔七〕 〔信乃善光寺炎上の事 付けたり彼の如来の事〕
 又、去んぬる三月廿四日、信乃善光寺炎上の由、其の聞こえあり。此の如来と申すは、苦し中天竺毘沙舎離国に五種の悪病発りて、人庶多く亡ぜしに、▼P1497(三一オ)月蓋長者が祈請によりて龍宮城より閻浮檀金を得て、釈尊・阿難長者心を一にして模し顕し給へりし、一〓手半の弥陀の三尊、閻浮第一の霊像也。仏滅度の後、天竺に留りまします事五百歳、仏法東漸の理にて百済国へ渡りましまして、一千歳の後、欽明天皇の御宇に本朝に渡りましましき。其の後、推古天皇の御宇に及びて、信乃国水内の郡、稚麻続真人本太善光、是を安置し奉りてより以降、五百八十余歳、炎上の例、是ぞ初めと聞こえし。王法傾かむとては仏法先づ滅ぶと云へり。さればにや、かやうにさしも止事なき霊寺霊山の多く滅びぬるは、王法の末に臨める瑞相にやとぞ歎きあへる。
〔八〕 〔中宮御産有る事 付けたり諸僧加持の事〕
 十一月十二日、寅の時計りより、中宮御産の気渡らせおはしますとて、▼P1498(三一ウ)天下罵るめる。去月廿七八日の比より、時々其の気渡らせおはしましけれども、取り立てたる御事は無かりけるほどに、此の暁よりは隙なく取りしきらせ給へり。平家の一門は申すに及ばず、関白殿を始め奉りて、公卿・殿上人馳せ参らる。法皇は西面の小門より御幸なる。御験者には房覚・昌雲両僧正、俊尭法印、豪禅・実全両僧都、此の上、法皇も祈り申させ給ひけるにや。
 内大臣は善悪に付けていとさわがぬ人にて、少し日たけて公達あまた引き具して参り給へり。とどろかにぞ見え給ひける。権亮少将惟盛・左少将清経・越前少将資盛なむど遣りつづけさせて、御馬十二疋、御剣七腰、御衣十二両広蓋に入れて相具して参り給へり。きらきらしくぞみえ給ひける。
 女院后宮の御祈りに、時に臨みて▼P1499(三二オ)大赦行はるる事、先例也。且は大治二年九月十一日、待賢門院の御産〈法皇御誕生の時なり〉、大赦行はれき。其の例とて、重科の者十三人寛宥せらるる。
 内裏よりは御使隙なし。右中将通親朝臣・左中将泰通朝臣・左少将隆房朝臣・右衛門権佐経仲朝臣・蔵人所衆滝口等、二三度づつ馳せ参り給ふ。承暦元年には寮の御馬を給ひて是に乗る。今度は其の儀なし。殿上人各車にて参る。所衆なむどぞ騎馬にてはありける。八幡・賀茂・日吉・春日・北野・平野・大原野なむどへ行啓有るべき由、御願を立てらる。啓白は五壇法の降三世壇の大阿闍梨全玄法印とぞ聞こえし。又神社には石清水・賀茂を始め奉りて、北野・平野・稲荷・祇園・今西の宮・東光寺に至るまで四十一ヶ所、仏寺には東大寺・興福寺・延暦・▼P1500(三二ウ)薗城・広隆・円宗寺に至るまで七十四ヶ所の御読経有り。神馬を引かるる事、大神宮・石清水を初め奉りて厳嶋に至るまで、廿三社也。
 内大臣の御馬を進らせらるる事は然るべし。后宮の御せうとにておはします上、父子の御契りなれば。且は寛弘に上東門院御産の時、御堂の関白神馬を奉らる。其の例に相ひ応へり。又、五条大納言邦綱卿、神馬を二疋進らせらる。「然るべからず」と、人々傾きあへり。「志の至りか、徳の余りか」とぞ申しける。
 仁和寺守覚法親王は孔雀経の御修法、山の座主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円恵法親王は金剛童子法、此の外、五大虚空蔵・六観音・一字金輪・五檀法、六字河臨・八字文殊・普賢延命・大熾盛光に至るまで、残る所も無かりき。▼P1501(三三オ)仏師の法印召されて、御等身の七仏薬師并に五大尊の像を造り初めらる。御読経の御剣御衣諸寺諸社へ献らせ給ふ。御使宮の侍の中に有官の輩是を勤む。ひやう文の狩衣に帯剣したる者共の、東の対より南庭に渡りて、西の中門を持ちつづきて出づ。ゆゆしき見物にてぞ有りける。
 相国二位殿はつやつや物も覚え給はず。余りの事にや、物申しければ「ともかくも」とて、あきれてぞおはしける。「さりとも軍の陣ならば、かくしもは臆せじ物を」とぞ、後には入道宣ひける。
 新大納言・西光法師体の御物気、さまざまに申す旨共有りて、御産とみになりやらず。遥かに時剋移りければ、御験者達面々各々に僧伽の句共を上げて、本寺本山の三宝年来所持の本尊責め伏せ奉る。各黒煙を立てて声々にもみ伏せらるる▼P1502(三三ウ)気色、心の内共おしはかられて 「何れも何れも誠にさこそは」と覚えて貴き中に、法皇の御声の出でたりけるこそ、今一きは事代はりて、皆人身の毛竪ちて涙を流しける。躍り狂ふよりましの縛共も、少し打ちしめりたり。其の時、法皇御帳近く居よらせおはしまして仰せの有りけるは、「何なる悪霊なりとも、此の老法師かくて候はむには、争か近付き奉るべき。何に況や、顕るる所の怨霊共、皆丸が朝恩によりて人となりし輩には非ずや。縦ひ報謝の心をこそ存ぜざらめ、豈に障碍を成さむや。其の事然るべからず。速かに罷り退き候へ」とて、「女人生まれ難からん産の時に臨みて、邪魔遮障苦忍び難からんにも、心を至して大悲呪を称誦せば、鬼神退散して安楽に生まれむ」とて、御念珠をさらさらとおしもませおはしましければ、御産やすやすとなりにけり。
 頭の中将重衡朝臣は中宮亮にて▼P1503(三四オ)おはしけるが、御簾の中よりつと出でて、「御産平安、王子御誕生」と高らかに申されたりければ、入道・二位殿は余りのうれしさに声を上げて手を合はせてぞ泣かれける。中々いまいましくぞ覚えし。関白殿下・太政大臣・左大臣以下、公卿・殿上人、諸の御修法の大阿ざり、助修数輩の御験者、陰陽の頭、典薬の頭より始めて、道々の者共堂上堂下の人々、一同にあと悦びける声、どよみにてぞ有りける。しばしはしづまりやらざりけり。内大臣は「天を以て父と為よ、地を以て母と為よ」と祝ひ奉りて、金銭の九十九文御枕におきて、やがて、おとど、御ほぞのをを切り奉り給ふ。故建春門院の御妹あの御方いだき奉らせ給ひ、左衛門督時忠卿の北方洞院殿、御乳母に付き進せ給ひにけり。囲碁手の銭出だされたり。弁靭負佐がかけ物にて是を▼P1504(三四ウ)うつ。是又例有る事にや。
 法皇は新熊野御参詣可有にて怱ぎ出でさせ給て、御車を門外に立てらる。女御・后の御産は常の事なれども、太上法皇の御験者は希代の例か。前代も聞かず、後代にも有りがたかるべし。是は当帝の后にて渡らせ給へば、法皇の御志も浅からぬ上に、猶も太政入道を重く思し食さるる故也。「但し此の事軽々しきに似たり。然るべからず」と申す人々も有りき。「凡そは軽々しき御振舞をば、故女院うけぬ御事に申させおはしましければ、法皇も憚り思し食しけり。今も女院だにも渡らせ給はましかば、申し止め進らせ給ひなまし」と、事のまぎれに古き女房達ささやきあひ給へり。其の上、沙金一千両・富士綿千両を御験者の禄に法皇に進らせられたりけるこそ、弥よ奇異の珍事にてありけれ。▼P1505(三五オ)此の送文を法皇御覧じて、「入道、験者してもすぎつべきよな」とぞ仰せられける。
 陰陽頭泰親以下多く参り集られたりければ、御占さまざま有りけるに、或は 「亥子時」なむど占ひ申すもあり、或は「王女」と申すも有りけるに、泰親朝臣計りぞ、「御産只今也。皇子にて渡らせ給ふべし」と占ひ申したりける。其の詞未だをはらざるに御産なりにけり。さすのみこと申しけるも理りなり。今度の御産にさまざまの事共有りける中に、目出たかりける事は太上法皇の御加持、有りがたかりける御事也。昔染殿の后と申ししは、清和の国母にて一天下をなびかし給へりし程に、紺青鬼と云ふ御物のけに取り籠められて、世の中の人にもさがなくいはれさせ給ふ事侍りけり。智証大師の御時にておはしましければ、様々に加持せられけれども、叶はずしてやみ給ひにけるに、今の▼P1506(三五ウ)法皇の御験者に御物の気の譏嫌の事、返々目出たくぞ覚えし。又、三条院の宇治殿頼通を御聟に取らむとせさせおはしましけるに、御病付きて大事になり給ひて、験者には心誉僧都・明尊阿闍梨、陰陽師には賀茂の光栄・安部の古平なむどをめして、音をあげて罵りけれども、只よはりによはらせましまして引き入らせ給けるを、御堂関白道長公のおはしまして、「日本国に法花経の是程にひろまらせ給ふは我が力也。
このたび我が子の命生けさせ給へ」とて、なみだを流して寿量品を一枚計り読み給ひければ、御しうとの具平親王、物のけにあらはれ給ひて、「子の悲しさは誰も同じ事にてこそあれ。我が子に物を思はせむことの悲しければ、付き奉りたれども、法花経にかたさり奉りて帰り侍りぬ」と宣ひて、御病止みにけり。▼P1507(三六オ)かかる事を思ふには、法皇に御物気の恐れ奉りけるもことはり也。
 又、思はずなりける事は、太政入道のあきれて物も知り給はざりける事。優にやさしかりける事は、小松の大臣の御振舞。本意なかりける事は、右大将の籠居。出仕し給はましかば、いかに目出たからまし。あやしかりつる事は、甑形を姫宮の御誕生のときの様に北の御壺の中へまろばかして、又とりあげて南へ落したりつる事。をかしかりける事は、前の陰陽頭安倍時晴が千度の御祓勤めけるが、或る所の面道にて冠をつきおとして有りけるが、余りにあはてて、其をもしらで、束帯ただしくしたる者が放本鳥にて、さばかり正しき御前へねり出たりけるけしき。かばかりの大事の中に、公卿、殿上人、北面の輩、見物の諸▼P1508(三六ウ)衆、皆悉く腹を切り給へり。たへずして閑所へ逃げ入る人もありけり。
〔九〕 〔御産の時参る人数の事 付けたり不参の人数の事〕
御産の間に参り給ふ人々、先は関白松殿、太政大臣妙音院師長、左大臣大炊御門殿経宗、右大臣月輪殿兼実、内大臣小松殿重盛、左大将実定、源大納言定房、三条大納言実房、土御門大納言郡綱、中御門中納言宗家、按察使資賢、花山院中納言兼雅、左衛門督時忠、中納言資長、別当忠親、左兵衛督成範、右兵衛督頼盛、源中納言雅頼、権中納言実綱、皇太后宮大夫朝房、平宰相教盛、左宰相中将実家、六角宰相中将実守、右大弁長方、左大弁俊経、左京大夫修範、大宰大弐親信、菩提院三位中▼P1509(三七オ)将公衡、新三位中将実清、已上三十三人。右大弁長方の外は直衣也。
 不参の人々、前太政大臣忠雅〈花山院近年出仕無し〉、前大納言実長〈近年出仕せず、布衣を着し、入道宿所に向かはる〉、大宮大納言隆季〈第一娘三位中将兼房卿室、産、去ぬる七日より事有り、仍て不吉の例と存ぜらるる故か〉、右大将宗盛〈去七月、室家逝去の後、出仕せられず、彼の所労の時、大納言并びに大将を辞せらる〉、前治部卿光隆、左三位中将兼房、右二位中将基通、宮内卿永範、七条修理大夫信隆〈所労〉、東宮権大夫朝盛〈所労〉、新三位隆輔、左三位中将隆忠、已上十三人、故障に依りて不参とぞ聞えし。
〔十〕 〔諸僧に勧賞行はるる事〕
 御修法結願して、勧賞行はる。仁和寺法親王は、公家御沙汰にて東寺修造せらるべし。後七日御修法、大元法、并びに灌頂興行せらるべき由、宣下せられける上、御弟子法印覚盛を以て権大僧都に任ぜらる。座▼P1510(三七ウ)主宮は二品并びに牛車の宣旨を申させおはしましけるを、仁和寺法親王支へ申させ給ひけるに依りて、且く御弟子法眼円良を以て法印に叙せらる。此の両事、蔵人頭皇大后宮権大夫光能朝臣奉て是を仰す。醍醐の聖宝僧正の余流、権少僧都実継は、准胝法牛王加持を勤めて大僧都に任ず。此の外の勧賞共、毛挙に遑あらず。
 右大将宗盛の北方、御帯を進らせられたりしかば、御乳母にておはしますべかりしかども、去んぬる七月に失せ給ひにしかば、左衛門督時忠卿北方洞院殿、御めのとに定まりぬ。此の北方と申すは、故中山中納言顕時卿の御娘なり。元は建春門院に候はれき。皇子受禅の後は内侍典侍成り給ひて、輔典侍殿とぞ申しける。中宮は日数経にければ内へ参り給ひぬ。
〔十一〕 〔皇子親王の宣旨蒙り給ふ事〕
 ▼P1511(三八オ)十二月八日、皇子親王の宣旨を下さる。十五日、皇子皇太子に立たせ給ふ。
 十四日、親傅には小松内大臣、大夫には右大将宗盛卿、権大夫には時忠卿ぞなられける。いみじかりし事共也。
 建礼門院、后に立たせ給ひしかば、何にもして皇子誕生ありて位に即け奉り、外祖父にて弥よ世を手に挙らむと思はれければ、入道・二位殿、日吉社に百日の日詣をして祈り申されけれども、其もしるし無かりけるほどに、「さりとも、などか我が祈り申さむに叶はざるべき」とて、殊に憑み進せられたる安芸国の一宮厳嶋社へ月詣を初て祈り申されけるに、三ヶ月が内に中宮ただならず成らせ給ひて、例の厳重の事共有りけるとかや。
 誠に代々の后宮余た渡らせおはしましけれども、皇子誕生の例、希なる事也。后腹の皇子は尤もあらまほしき御事なるべし。
十二 〔白河院三井寺の頼豪に皇子を祈らるる事〕
 ▼P1512(三八ウ)白河院御在位の時、六条右大臣顕房の御娘を、京極大殿猶子にしまゐらせさせ給ひて入内有りしをば、皇后宮賢子の中宮と申しき。其の腹に皇子御誕生あらまほしく思し食されて、三井寺実蔵房阿闍梨頼豪と聞こえし有験の僧を召して、皇子誕生を祈り申させ給ふ。「御願成就せば、勧賞は乞ふによるべし」と仰せ下されたりければ、頼豪「畏りて承りぬ」とて、肝胆を摧きて祈念申しける程に、かひがひしく中宮御懐妊ありて、承保元年十二月十六日、思し食すさまに王子御誕生ありしかば、主上殊に叡感ありて、頼豪を召して「王子誕生の勧賞には何事を申し請はむぞ」と仰せの有りければ、頼豪「別の所望候はず。三井寺に戒壇を建て、年来の本意を遂げ候はむ」と申しければ、主上仰せの有りけ▼P1513(三九オ)るは、「こは何に。かかる勧賞とや思し食されし。我が身に一階僧正をも申すべきかなむどこそ思し食されつるに、是は非分の所望なり。凡そは王子誕生ありて祚を継がしめむ事も、海内無為を思ふ故也。今汝が所望を達せば、山門憤りて世上静かなるべからず。両門の合戦出で来て、天台の仏法忽に滅びてむず」とて、御ゆるされなかりければ、頼豪悪心に住したる気色にて申しける
は、「此の事を申さむとてこそ、老いの波の朝暮、肝胆をば摧き候ひつれ。叶ひ候ふまじからむには、今は思ひ死にこそ候ふなれ」とて、水精の様なる涙をはらはらと流して、泣々三井寺へ罷り帰りつつ、やがて持仏堂に立て龍もりて飲食を断ず。主上是を聞こし食して震襟安からず。朝政を怠らせ給ふに及べり。
 御歎きの余りに、江中納言匡房卿、其の時美作守と申しけるを召して、「頼豪が皇子誕生の勧賞に薗城寺に▼P1514(三九ウ)戒壇建立の事を望み申すを、御ゆるされなしとて悪心を発したる由聞こし食す。汝は師壇の契り深かむ也。罷り向かひて誘へ宥めてむや」と仰せければ、やがて内裏より、装束を改めず、束帯正しくして頼豪が宿坊に罷り向かひてみれば、持仏堂の明障子、護摩の煙にふすぼりて、なにとなく身の毛いよだちておぼえけれども、宣旨の趣を仰せ含めむとて、「かく」と云ひ入れたりけれども、対面もせず、持仏堂に立て籠もりて念珠打ちして有りけるが、良久しく有りて、以ての外にふすぼりかへりたる幕の中よりはい出て、持仏堂の障子をあららかにあけて指し出でたるを見れば、齢九十有余なる僧の白髪長く生ひて、目くぼくぼと落ち入りて、顔の正体もみえわかず、誠におそろしげなる気色にてしはがれたる音にて、「何事をか仰せらるべき。『天子に戯論なし。綸言▼P1515(四〇オ)汗の如し』とこそ承はれ。是程の所望叶ひ候ふまじからむにをいては、祈り出だし奉りて候ふ王子にをきては具し奉りて、只今魔道へ罷り候ひなむず」と計り申して障子を引き立てて入りにければ、匡房卿力
及ばずして帰られにけり。
 頼豪は、七日と申しけるに、持仏堂にて終にひ死にに死にけり。「さしもやは」と思し食しける程に、皇子常は悩ませ給ければ、一乗寺・御室なむど云ふ智証の門人、貴き僧共を召して加持ありけれども叶はず。承暦元年八月六日、皇子四歳にて遂に失せさせ給ひにけり。敦文親王、是也。
 主上殊に歎き思し食して、西京の座主良真大僧都、其の時円融房の大僧都と申して、山門には止事なき人なりけるを召して、此の事を歎き仰せられければ、「いつも我が山の御力にてこそ、加様の御願は成就する事にて候へ。九条右丞相、慈恵僧正に契り申されしにより▼P1516(四〇ウ)てこそ、冷泉院の御誕生も有りしか。なじかは御願成就しましまさざるべき」とて、本山へ返り上りて、両所三聖医王善逝に他念なく祈精申されければ、同三年七月九日、御産平安、皇子誕生有りき。堀川院の御事、是也。是より座主は二間の夜居に候はれけり。思し食すさまに、応徳三年十一月廿六日春宮に立たせ給ひにけり。御歳八歳。同十二月廿九日、御即位。寛治三年正月廿日、御歳十一歳にて御冠服有き。されどもおそろしき事共有りて、御在位廿六年、嘉承二年七月十九日、御歳廿九にて、法皇に先立ちまゐらせて崩御なりにき。是も頼豪が怨霊の至す所とぞ聞こえし。
 さて、頼豪、「山の支へにてこそ、我が宿願は遂げざりしか」とて、大なるねずみとなりて山の聖教を食ひ損じける間、「此のね▼P1517(四一オ)ずみを神と祝ふべし」と僉議ありければ、社を造りて神に祝ひて後、彼のねずみ静まりにけり。東坂本にねずみのほくらと申すは即ち是也。今も山には大なるねずみをば頼豪ねずみとぞ申すなる。頼豪よしなき妄執に牽かれて、多年の行業を捨て、畜趣の報を感じけるこそ悲しけれ。よく慎むべし、よく慎むべし。かくて其の年もくれぬ。
十三 〔丹波少将故大納言の墓に詣づる事〕
 治承三年正月、元三の儀式いつよりも花やかに目出たかりき。誠にさこそ有りけめ。
 丹波少将は、正月廿日比に賀世庄を立ちて京へ上り給ふ。「都にまつ人も、いかに心もとなく思ふらむ」とて怱がれけれども、余寒なほはげしくて海上いたくあれければ、浦伝ひ嶋伝ひして、二月十日比に備前国児嶋へ漕ぎ寄せて、怱ぎ船より下りて、故大納言入道のおはしける所へ尋ね入りて▼P1518(四一ウ)問ひ給ひければ、国人申しけるは、「初めは是の嶋に渡らせ給ひ候ひしが、是は猶悪しかりなむとて、是より北、備前備中両国の境、吉備中山と申す所に有木別所と申す山寺の候ふに、難波太郎俊定と申す者の古屋に渡らせ給ふと承り候ひしが、早昔物語にならせ給ひにき」と申しければ、少将さぞかしと弥よ悲しくおぼして、先づ父大納言のおはしける所を立ち入りて見給へば、柴の庵、竹の編戸を引き立てたりける、あさましき山辺也。岩間を伝ふ水の音、かそかに峯吹きすさむ嵐はげしきを聞き給ふに付けても、いかばかりかは思ひにたへず悲しくおはしけむと、袖もしぼりあへ給はず。
 それより又船にのりて、彼の有木別所へ尋ね入りて見給へば、是又うたてげなるしづの屋也。「かかる所にしばしもおはしける事よ」と、彼までもいたはしくて、内に入りて見廻り給へば、▼P1519(四二オ)古き障子に手習ひしたる所、破れ残りたり。
「哀れ是は故大納言のかかれたるよ」と打ち見給ふに、涙さとうきければ、少将顔に袖を押し当て立ちのきて、「やや、入道殿。共に書きたる物御覧ぜよ」とすすめ給へば、判官入道近く寄りてみれば、「前には海水〓々として、月真如の光りを浮かべ、後ろには巌松森々として、風常楽の響きを奏す。三尊来迎の儀、便り有り。九品往生の望み、足りぬべし。荊鞭蒲朽ちて、螢空しく去りぬ。諌鼓苔深くして、鳥も驚かず。
  かたみとはなに思ひけむ中々にそでこそぬるれ水ぐきのあと
六月廿三日出家。同廿七日信俊下向」とぞ書かれたりける。「故入道殿の御手跡とこそ見進らせ候へ。早御覧候へ」と入道申されければ、▼P1520(四二ウ)少将又立ち寄りて細かに見給ふに、誠に違はず。さてこそ源左衛門尉が下りたりけるよと知り給ひにけれ。信俊が都より下りたりける事を、余りのうれしさにや、常に居られたりける所の西の障子に、其の日並を忘れじとにや、書かれ給ひけると覚えて哀れ也。是をみ給ひけるにこそ、欣求浄土の心もおはしけるにやと、限りなき思ひの中にもいささか心安くはおぼしけれ。父の存生の筆の跡、子として後に見給ひけむ事、跡は千年も有りぬべしとは是やらむと悲しくて、「さて御墓はいづくぞ」と問ひ給へば、「此の屋の後の一村松の本」と申しければ、少将涙を押さへて草葉を別けて尋ね給へば、露も涙も争ひて、ぬれぬ所もなかりけり。其のしるしと見る事もなし。実に誰かは立つべきなれば、卒都婆の形もみえず。只土の少し高くて、八重の葎の引きふたぎ、苔深く▼P1521(四三オ)しげりたる計りぞ、其の跡とも覚えける。少将其の前につひ居給ふより、袖を顔におしあてて涙にむせび給ふ。判官入道も是を見るに、余りに悲しくて、墨染の袖も絞りあへず。
 少将良久しく有りて涙を拭ひて、「さても備中国へ流さるべしと承り候ひしかば、渡らせ給ふ国近きやらむとうれしくて、相見奉るべきにては候はざりしかども、何にとなく憑もしく、うれしく候ひしに、引き違へて薩摩方へ流され候ひて後、彼の嶋にてこそはかなくならせ給ぬと計り、鳥なむどの音信れて通ふる様に、かすかに承り候ひしか。心の内の悲しさはただおしはからせ給ふべし。万里の波濤を凌ぎて鬼界の嶋へ流されにし後は、一日片時、堪へて有るべしとも覚え候はざりしかども、遠き守りと成らせ給ひたりけるやらむ、露命きえやらで、三年を待ちくらして、再び都へ帰り、妻子を見む事はうれしかるべけれども、ながらへて渡らせ▼P1522(四三ウ)給はむを見奉ればこそ、甲斐なき命の有るしるしも候はめ。是まではいそがれつれども、是より後は行く空も有るべしとも覚えず」と、生きたる人に物を云ふ様に、墓の前にて夜終泣き給ひて、しげき涙のひまより、
  まれに来てみるも悲しき松風を苔の下にやたえず聞くらむ
と詠めてくどき給へども、春風にそよぐ松の響き計りにて、亡魂なれば、答ふる人も更になし。歳去り年来れども、撫育の昔の恩を忘れ難し。夢の如く、幻の如くして、恋慕の今の涙を尽くし難し。容を求むとも見えず、只苔底の朽骨を想像らる。声を尋ぬとも答ふるもの無し、又徒らに墳墓の松風をのみ聞くこそ悲しけれ。
 「成経参りたりと聞き給はむには、いかなる火の中、水の底におはすとも、などか一言の御返事なかるべき。縦ひ御不審を蒙りたりとも、生きておはしまさむには、其の憑みも有りぬべし。▼P1523(四四オ)生を隔つる習ひこそ悲しけれ」と宣ひて、泣々旧苔を打ち払ひ、墓をつき、父の御為にとて、道すがら造り持たせられたりける卒都婆取り寄せて、「聖霊決定生極楽」と云ふ文の下に、「孝子成経」と自筆に書き給ふ。其の卒都婆の本に、判官入道一首あり。
 朽ちはてぬ其の名ばかりは有木にて昔がたりに成近のさと
さて、墓に立てて釘貫しまはして、「又参らむと思へども、参らぬ事もこそあれ」とて、墓の前に仮屋造りて、七日七夜不断念仏申して、「過去聖霊、成等正覚、頓証菩提」と祈り給ふ。草の影にても、いかに哀れと思ひ給ふらむとて、さても有るべきならねば、泣々尊霊に暇申して、備前国をも漕ぎ出で給ひにけり。苔の下にもいかばかり余波は惜しくおぼされけむ。都の漸く近付くに▼P1524(四四ウ)付けても哀れはつきせずぞ覚えし。
十四 〔宗盛大納言と大将とを辞さるる事〕
 二月廿六日、宗盛卿大納言大将を辞し申さる。上表に云はく、
  臣宗盛申す。去年十月三日、臣に授くるに内大臣を以てす。臣に賜ふに随身兵杖を以てす。改めて表す。たく倍々あふれ、蜘蛛弥よ重し。臣聞く、大臣は四海の舟楫なり、明徹を撰びて任ずべし。闇愚の居るべきにあらず。爰を以て、いむけい、しとに登る。こかうを敷き、はせいを調ふ。夏の禹しようを司どる、すいどを平げ、愁吟を分かつ。爰に即ち、芸才ある者は委するに佻人を以てすべからず。聡智ある者は責むるに大節を以てすべからず。せうれうの備勤也、争か水鳥の翅を学ばむ。どたいのかぜうなり、半漢の蹄を追ひがたし。縦ひ、やうせきりむのじゆむを受くるとも、寧ろ、きよせむの要たらむ哉。縦ひ、じよなむゑむもむが▼P1525(四五オ)塵を伝ふとも、誰か大廈の師と云はむ。伏して願はくは、陛下、此の度陽の職を閉ぢて、彼の聖智の人を用ゐよ。右衛府を本府に還し、じやうきの忠勤をいたさしめよ。平栄の心堪えず。謹みて以て拝表違分す。臣宗盛、誠惶誠恐頓首謹言。
とぞ書かれたりける。今年卅三に成り給ふ。重厄の慎の為とぞ聞こえし。
 然れども、十二月二日、宗盛卿、大納言・大将両官辞状を返し給はる。去んぬる二月に両官を辞し申したりしかども、君も御憚りをなさせましまして、臣下にも授けさせ給はず、臣も其の畏れをなして望み申されず。三条大納言実房・花山院中納言兼雅も、哀れとは思ひ給ひけれども、詞をも出だし給はざりけるに、宗盛卿、右大将并びに大納言に成り返り給ひたりければ、人々さればこそと思し食したりけり。
▼P1526(四五ウ)十五 〔成経鳥羽に付く事〕
 三月十六日、少将未だあかく鳥羽に着き給へり。今夜六波羅の宿所へ怱ぎ行かばやと思ひけれども、三年が間余りにやせ衰へたりつる有様を人々にみえん事もさすがにはづかしくて、宰相の許へ文にて、「是まではとかくして付きてこそ候へ。ひるは見苦しく候ふに、ふくる程に牛車賜るべし」と申されたりければ、宰相の許には「少将上り給ふべき比も今は近く成りたるに、いかに遅きやらむ」と、心本なさに、室・兵庫に人を置きてぞ待たれける。少将殿御文とて鳥羽へ着き給へるよし、青侍来たりて申したりければ、宰相を初め奉りて、高きも卑しきも悦び給へり。福原へ召し下され給ひし時の御歎きの涙よりも、只今上り給ふ由聞き給ひけるうれしさの御涙は、遥かにまさりたり。局々の女房・女童部までも、少将の御文を聞きては、「ひるはいかなぞや。必ずしもふけて入らせ給ふべきや」とて、▼P1527(四六オ)三年の間もさてこそおはせしに、暮るる空も心本なく立ちさわぎ、「猶夢の心地こそすれや」とて、心本なげにぞ申し相ひける。新大納言の宿所は、都の内にも限らず、片田舎にも余た有りける中に、鳥羽の田中の山庄、眺望余りにすぐれて林形水色興を増し、哀れを催す所也ければ、大納言秘蔵して洲浜
殿と名づけて住吉の住の江を写して造られたり。去んぬる応保二年十一月廿一日、事始め有りて、同三年に造畢ありて、廿一日と申ししに、法皇の御幸なる。大納言面目極まり無しと思はれければ、さまざまにもてなしまゐらせて、法皇の御引出物に八葉の御車を壱岐太とて秘蔵せられたる御牛にかけて参らせらる。其の外、公卿・殿上人、上北面・下北面、御力者・舎人・牛飼に至るまで、色々さまざまの引出物、いくらと云ふかずをしらず▼P1528(四六ウ)せられたりければ、諸人悉く耳目を驚かしけり。
 そもくれにければ、終夜の御酒宴ありけるに、夜深け人定まりて後、一つの不思議あり。法皇南庭を御覧じいだして渡らせ給ひけるに、御〓の端に齢ひ八十有余なる老翁、白髪をいただいて、立烏帽子しりひきにきなして、すそは〓の袴に下緒を、上は絹文叉の狩衣の以ての外にすすけたる、たをやかにきて、跪きて爪笏とりて畏りて居たり。余の人はかかる人ありとも見知りたる気色もなし。法皇、御目を懸けさせおはしまして、「あれは何なる者ぞ」と御尋ね有りければ、しわがれたる老音にて、「これは住吉の辺りに候ふ小允にて候ふが、君に訴へ申すべき事候ひて、恐れをかへりみず推参仕りて候ふなり。我が年比秘蔵して朝夕愛し候ふ住吉に、▼P1529(四七オ)住江と申すところを、此の亭に移され候ひし間、住の江無下にあさまに成りて、無がしろになりはて候ひなむと存じ候ひて、其の子細を歎き申し候はむとて、よひより参りて候ひつれども、見参に入るる人も候はぬあひだ、夜将に曙けんとし候ふほどに、直奏仕り候ふ事は恐れ入りて候ふ。詮ずる所、此の由を能く能く仰せ含めらるべくや候ふらむ。かやうに申し入れ候はんを、若し御用ゐ候はずは、常に参りかよひ候はむずれば、其の上は御ぱからひ」とて
、南をさして飛び去りぬ。
 法皇不思議かなと思し食されけれども、御披露におよばず。其の上、御酔乱の程なりければ、後には思し食し忘れさせ給ひけるにや。大納言常に宿して山水木立面白き所なればとて、上皇ときどき御幸ならせ給ひて、さまざまの御遊宴有りければ、住吉の霊幣なるにや、次年の夏の比をひ、住吉▼P1530(四七ウ)大明神の御とがめとて、上皇常に御なやみ渡らせ御坐しければ、御存命のために御出家ありけりとぞ聞こえし。されば、成親卿も彼の明神の御たたりにて、幾程無くして備前国の配所へ下られける。其の後は彼の所もあれはてて、今は野干の棲とぞみえし。住吉の大明神の領ぜさせおはしましけるとおぼしくて、殊更怖ろしくぞ覚えし。
 されば、丹波少将も三年の間配所におはせしかば、今すこしもいそぎ都へ上りて、恋しき人々を見もし又みえばやとは思はれけれども、彼の田中の山庄をば父大納言随分秘蔵して、私には洲浜殿と名づけて造り置かれたりし亭也とて、少将彼の洲浜殿に指し入りて見給へば、築地は有れどもおほひなく、門は有れども扉もなし。屋数は所々残りたれども、しとみ遣戸もなし。▼P1531(四八オ)羅門乱れて地に落ちて、唐垣破れてつたしげれり。庭には見るとも覚えぬ千草のみしげりて、「いとど深草のとやなりなむ」と詠ぜし事を思ひて、「野とならばうづらとなりて鳴きをらむ」と誰か云ひけむと哀也。比はやよひの中の六日の事なれば、春も既にくれなむとす。百囀の宮の鴬の声も既に老いたり。楊梅桃李の色々もをりしりがをにさきたれども、詠ぜし人も今はなし。射山仙洞の水湊を詠むれば、白浪折りかけて紫鴛白鴎避遥す。興ぜし人の恋しさに、いとど哀ぞ増さりける。南楼の木村には嵐のみをとづれて夢をさます友となり、木の間漏る月の袖に宿るも余波を惜しむかと覚えたり。梢の花の落ちのこりたりけるも、猶なごり有りとみゆるに、などや父の余波のなかるらむ。
 さて、少将亡屋へ立ち入りて見給へば、「ここは妻戸なりしかば、と▼P1532(四八ウ)こそ出で給ひしか。彼は遣戸なりしかば、かうこそ入り給ひしか」と、日終に泣きくらして、寝殿の軒近く、大納言の秘蔵して手づからうゑられたりし梅の本に立ち依りて、古詩を思ひ出でてぞ詠じ給ひける。
  桃李言はず、春幾か暮れぬ。煙霞跡無し、昔誰か栖みし。
  人はいさ心もしらずふるさとの花ぞ昔にかはらざりける
十六 〔少将判官入道入洛の事〕
 さる程に、「宰相の許より御迎へに牛車参りたり」と申しければ、少将判官入道怱ぎ同車して、轅を北へぞ向けられける。さても漕ぎ出でにし油黄嶋の堪へがたく悲しかりける事、僧都残し捨てられて歎き悲しむらむ有様、我等があらましの熊野詣のしるしにや、再び都へ帰り上りぬる事のありがたさなむど、互に宣ひ通はして、各袖をぞ絞られける。
 判官入道申しけ▼P1533(四九オ)るは、「昔し召し仕ひし下人、東山双林寺と申す処に候ひき。未だながらへて候はば、其に草庵結びて、今は一向後生菩提のいとなみより外は他事候ふまじ。若し真如堂・雲居寺なむどへ御参詣の次には、必ず御尋ね候へ。性照も世しづまり候ひなば、常には六波羅殿へも参り候ふべし。此の三年の間、うかりし嶋の中にて、朝夕一所にてなれまゐらせて候ひし御遺りこそ、いかならむ世までもわすれまゐらせ候ふべしとも覚え候はね」なむど申して、七条東の朱雀より下りて、東山へとてぞ行きにける。判官入道は其より東山へ行きけるが、取つてかへし、北山紫野の母の宿所へぞまかりける。一乗所感の身なりしかば、前世の機縁も浅からずこそ、互ひに思ひしられけれ。
 丹波少将は六波羅へおはしつきたれば、先づ宰相を始め奉りて、悦び給ふ事なのめならず。▼P1534(四九ウ)我がすみ給ひし方へおはして見給へば、かけならべたりし御簾も、立てならべたりし屏風までもはたらかず、昔のままなり。乳母の六条が黒かりし髪も白みて見ゆ。「ことわりや。物おもへば一夜の内に白くなるなれば、今年三年が間、我が事をひまなく歎きけるに、みどりなりしかみの白くなりたるも理なり」とぞ思はれける。「足柄の明神の他国へわたらせ給ひて、返り入らせ給ひて、妻の明神を御らむじ給へば、白くきよらかに肥えて渡らせ給ひければ、我が御事をば思ひ給はざりけむと思し食して、『恋せずもありぬべし、恋せばやせもしぬべし』とうたがはせ給ひて、かきけつやうにうせさせ給ひにけり」と伝へ聞き給ふに、今少将北方を見奉るに、物思ひ給ひたりとおぼしくて、事の外にやせおとろへて見え給ふ。「我が事思ひわすれ給はざ▼P1535(五〇オ)りけり」と思ひ遣られて、「彼の足柄の明神の妻の神には事の外に相違し給へる物哉」と、いとど哀れにぞおもはれける。又、源氏の大将の、すま明石の浦伝して都帰りの有りし後、よもぎのもとにわけ入りて、
  たづねても我こそとはめみちもなく深きよもぎのもとの心を
と、よみ給ひけむ事までも、少将我身の上に思ひ知られて哀れなり。
 流されし時、四つにて別れにし若君、をとなしくなりて、髪おひのび、肩のまはり打ち過ぎて、ゆふほどになりたり。朝夕歎き沙汰する事なれば、なじかはわすれ給ふべきなれば、父の入り給ふと聞き給ふ上、見わすれ給はざりけるにや、いつしかなつかしげにおぼして、少将の御ひざ近く居より給へり。又三つばかりなる少き人の、北方の御そばにより居給へり。少将「あの人はたそ」と問ひ給ひければ、北方「これこそは」とのたま▼P1536(五〇ウ)ひけるより外は、又ものもえ宣はず、打ち臥して泣かれければ、其の時少将、「我が油黄嶋へ流されし時、心苦しく見え置きしが、生まれて人となりにけるよ」とぞ心得られける。此を見、彼を見るに付けても、悲しさのみいとど深くなりて、なぐさむ方もなかりけり。少将は、「油黄嶋にて、北方の歎き給ふらむ事、乳母の六条が悲しむらむ事、少き人々のこざかしくなりたるらむと思ひをこせて心のひまのなかりし」と語りて泣き給へば、北方は「未だみぬ油黄嶋とかやも、いかがして尋ね行かむずると、かなはぬ物ゆゑあさゆふ思ひ遣り奉りし心の中、只おぼしめしやらせ給へ」とて、其の夜は互ひに泣きぞあかされける。
 昔もろこしに、漢の明帝の時劉晨阮肇と云ひし二人の者、永平十五年に、薬を取らむが為に、二人ながら天台山へ登りけるが、帰らむとするに▼P1537(五一オ)路を失ひて山の中に迷ひしに、谷河より盃の流れ出でしを見付けて、人の栖の近き事を心得て、其の水上をたづねつつ行く事、幾程を経ずして一つの仙家に入れり。楼閣重畳として、草木皆春の景気なり。然して後に帰らむ事を望みしかば、仙人出でて返るべき道を教ふ。各の怱ぎ山を出でて、己が里を顧みれば、人も栖も悉くありしにもあらずなりにけり。あさましく悲しく覚えて、委しく行へを尋ぬれば、「我は昔山に入りて失せにし人の其の余波、七世の孫也」とぞ答へける。少将今度宿所の荒れにける有様、此の少き人共の人となり給へるをみられけるこそ、彼の仙家より帰りけむ人の心地して、夢の様にぞ思われける。
 少将いつしか御所へ参りて、君をも見奉らばやと思はれけれども、恐れをなして左右無くも参り給はず。法皇も御覧ぜばやと思し食されけれども、世に御憚り有りて召さるる▼P1538(五一ウ)事なかりけり。されども終には召し仕へて、宰相の中将までなられけるとぞ聞こえし。
十七 〔判官入道紫野の母の許へ行く事〕
 判官入道は七条河原より暇申して、北山紫野母の宿所へ行きて、有りしすみかをみれば、やどはあれはてて人もなし。余のいぶせさに、隣の小屋に立ち依りて、下種女に此の事を問ひければ、内より立ち出でて答へけるは、「さる人はこれにおはせしが、御身遠流の後は其の事のみ歎き給ひしほどに、去年の七月の末つかた、赦免と聞きしかば、なのめならず喜びて、いまやいまやと待ち給ひしほどに、去年も空しく過ぎぬ、今年もすでに三月に成るまで見え給はねば、「嶋にて思ひに消え給ひけるか、道にて又いかなる事にもあひてうせにけるやらむ」と、そぞろに御なげきありしが、此月の始めつかた、賀茂に七日の御参籠ありき。御下向の後は此の御思ひの積りにや、常になやみ給ひしが、次第に病も大事に▼P1539(五二オ)成りて、昔語りと成り給ひて、今日五日に成る」とぞ申しける。康頼此の事を聞きて、「中々なにしに都へ上りける。よもの神仏にも今一度母をみむとこそ祈りしに、空しき御事の悲しさよ」とて、そぞろに袖をぞ絞りける。そこをば泣々出でて、東山双林寺の旧跡に行きて、つくづくと詠めをりて、さよふくるままにいとど心もすみければ、
ふるさとの軒のいたまに苔むして思ひしよりももらぬ月かな
十八 〔有王丸油黄島へ尋ね行く事〕
 俊寛僧都は此の人々にも捨てられ、嶋の栖守となりはてて、事問ふ人も無かりければ、油黄嶋に只独り迷ひ行きけり。僧都の世におはせし時、兄弟三人少きより召し仕ふ者、粟田口の辺に有りけり。大兄は法師にて法勝寺の一預にて有りけり。次郎は亀王、三郎は有王丸とて、二人ながら大童子にてぞ有りける。亀王丸、僧都の流され給ひし時、淀におはしける所へ尋ね行きて、「最後の▼P1540(五二ウ)御共、是が限りにて候へば、いづくまでも参り候ふべし」と泣々申したりければ、「誠に主従の芳契、昔も今も浅からず、多の者共ありしかども、世中に恐れて問ひ来る者一人もなけれども、恨みと思ふべきにあらず。余の中に尋ね来て、かく云ふ志の程こそ返す返す哀れなれ。但し我一人にも限らず、丹波少将・判官入道なむども、人一人も随はずなむどこそきけ。皆薩摩国油黄嶋とかやへ流さるべしと聞けば、命の有らむ事もかたし。道の程にてもやはかなくならむずらむ。我身の事はさてをきつ。都に残り留まる女房少者共の心苦さ、思ふはかりなし。彼の者共に付きて、朝夕の杖柱ともなれ。我に付きたらむに露をとるまじ。とくとく帰れ」と宣ひける程に、宣旨の御使・六はらの使、「何事を申す童ぞ」と怪しみ尋
ねければ、恐ろしさの余りに亀王泣く泣く都へ帰り上りにけり。
 同じき▼P1541(五三オ)弟有王丸と申す童は、僧都に別れ奉りて後は又宮仕ふる方もなくて、或は大原・しづ原・嵯峨・法輪の方へ迷ひ行きて、嶺の花をつみ、谷の水を結びて、山々寺々の仏に奉りて、「我が主に今一度合はせ給へ」と泣く泣く祈り申しけるが、「少将・判官入道、都帰り有り」と聞きて、「我が主のゆくへ何になり給ひぬらむ」と思ふも悲しくて、少将の辺に尋ねければ、「御上りまで、流黄嶋に僧都御房渡らせ給ひけるとこそ承れ」と人申しければ、「されば未だ死に給はずおはするにこそ。誰はぐくみ、誰哀み奉るらむ」と悲しく覚えて、父母にも知られず、親しき者共にもかくともいはず、只一人都を出でて、遥々とまだしらぬ薩摩方へぞ下りける。淀川尻の程より、「油黄嶋へはいづちへ罷るぞ」と問ひ、足に任せてぞ下りける。道すがら、あやしの者のあひたるにも、「我が主もかくこそおはすら▼P1542(五三ウ)め」と思ひ、或る時は海上に便りを求め、或る時は山川にも迷ふ時もあり。日数やうやう積りければ、百余日計りに彼の嶋へたどり付きにけり。
 いそぎ船より下りてみれば、日来都にて聞きしには過ぎて、おそろし悲し。田も無く畠もなし。村もなく郷もなし。山の嶺に焼へ登る煙り、野沢に落ちさかる電の音、何事に付けても絶へて有るべき様もなし。されども、主の行への悲しさに、奥さまに尋ね行く程に、嶋人と覚しくて適ま相へる者は、此の土の人にもにず、木の皮を額に巻たる者、赤はだかにて〓鼻ばかりかきたるが、長六七尺もやあるらむと覚ゆる者、二三人相ひたりければ、生きながら冥途にたづね行きたる心地して、生きて故郷へ帰るべしとも覚えず。さりながらも、「此の嶋に一年せ法勝寺執行僧都御房と申す人の流されておはしまししは、▼P1543(五四オ)未だおはするか」と問ひたりければ、理や、法勝寺の執行僧都とも、争かしるべきなれば、答ふるに及ばず、頭をふりて自ら云ふ事も聞き別かず。「しらずしらず」とのみ云ひ捨てぞ通りける。さるにてもと思ひて、又相へる者に、「流人とてありし人は」と尋ねけるに、其の度は少し心得たりけるやらむ、「いさとよ、さる人みえしが、二人は過ぎにし比都へとて帰り上りき。今一人はいづくともなく迷ひ行きしが、行へをしらず」とぞ答ける。是を聞くに、いとど心憂しとも愚かなり。
 若しやとて、遥かに山へぞ尋ね入りにける。山を越え過ぎたれば、眇々とある野に至る。野中に松一本ありけるに、日も既にくれにければ、今夜はここに明かさむとて、松の本へぞ立ち寄りける。松高くしては、風旅人の夢を破ると覚えたり。鶏楼の山も明け行けば、洞戸に鳥は返るとも、眼に遮る物もなし。一樹の影にやどるといふは理すぎ▼P1544(五四ウ)たり。我は都の者也、松は薩摩方野中にあり。こよひ此にあかしつるこそ一樹の影の契りなれ。今はなれなむ後、いつか又返り来むなれども、かくて有るべきならねば、云へども答へぬ松にいとまを乞ひて、又足に任せて尋ね行く程に、浪よせかくるみぎはへぞ出でにける。
 此の間は打ちつづき空かきくらしはげしかりけるが、今日は日もうららかに波風も和かなり。塩干方をいづくをさすともなく遥かにたづね行きけれども、船も人も通へるけしきもみえぬ荒いそなりければ、砂頭に印をきざむかもめ、奥の白すにすだく浜千鳥の外は、跡ふみ付けたる形もなし。猶遥かに礒の方を見渡せば、人か人に非ざるか、かげろふの如くなる者、あゆむやうにはしけれども、一所にのみ見へけるを、「あやしや何やらむ」と覚え、おそろしながら、さすがにゆかしかりければ、且は物語にも▼P1545(五五オ)せむと思ひて、近くよりてみれば、かみは空さまに立ちあがりて、さまざまの塵もくづ取り付きたれども、打ち払へる気色もなかりければ、をどろをいただけるが如し。衣装は絹・布とも見え別かぬを、腰のまはりに結ひ集めて、あらめと云ふ物をはさみ、左右の手にはなましき魚の少きを二つ三つにぎりて、はげうであゆむ様にはしけれども、余りに力なげにて、よろよろとして、砂に只一所にゆるぎ立ちたる者一人あり。
 童思ひけるは、「かはゆの者の有様や。非人乞凶の中にも、未だかかるさましたる者こそみざりつれ。此の嶋の非人にてこそ有らめ。さても我が主の御行へを尋ぬれば、罪深き御事にて、生きながら餓鬼道にばし落ち給ひたるやらむ。餓鬼城の果報こそ、かかるさまはしたるなれ」なむど、さまざまに思ふに、いとど悲しくて、且は哀れみ、且は懺悔す。さるにても若しや知りたると思ひて、「此の嶋へ▼P1546(五五ウ)三人流され給ひし人、二人はゆりて上り給ひにき。今一人、法勝寺の執行御房と云ふ僧のおはするは、いづくにおはするぞ」と、かきくどき問ひたりければ、僧都是をみ給ふに、「我が身能く衰へはてにけり。されども、目もくれ心もかはらねば、我が召し仕ひし童なり」。童は主を見忘れたり、主は童は見忘れねば、「我こそそなれ」と云ひたけれども、果報こそつたなく、かかる身にならめ、心さへかはりにけりと、童が思はむもはづかし。中にも生しき魚をにぎり、腰にあらめを付けたる事も、あまりにはづかしく悲しくて、「只しらぬ様にて過ぎ行きなばや」と千度百度思へども、「此の嶋にて、只の都人の行き逢ひたらむそら、うれしさは限りなかるべし。まして是は、年来朝暮に召し仕ひし童なり
。なじかははづかしかるべき」と思ひ返して、手ににぎりたる魚をいそぎ投げすてて、「あれは有王丸か、いかにしてこれまで尋ね▼P1547(五六オ)来るぞや。我こそ然なれ」と泣く泣く宣ひて、たふれふし、足ずりをしてをめきさけび給ふに、童つやつや見知らざりけれども、「有王丸か」とよび給ふに「さては我が主なりけり」と思ふより、同じくたふれ臥して、音を合はせて共に泣く。二人ながら時をうつして、涙に咽びて、互ひに物もいはず。
 良久しくありて、僧都おきあがりて、「さればよ、なにとして尋ね来れるぞ。此の事こそ、少しもうつつともおぼえね。あけてもくれても都の事をのみ思ひゐたれば、恋しき者共は面かげに立つ時もあり、幻にみゆる時もあり。身もかくよはりにし後は、夢もうつつもさだかに思ひわかれず。されば汝が来れるをも、只夢かとのみこそ思へ。若し又天魔波旬の我が心をたぶらかさむとて汝が形に変じて来れるかとまで覚ゆるぞ。若し此の事夢ならば、さめての後はいかがせむ」とて又泣かれければ、有王丸、「うつつにて候ふぞ。御心安く▼P1548(五六ウ)思し食され候へ」と申しければ、僧都少し心落ち居て、童が手を取り組みて又宣ひけるは、「此の嶋は多くの海山隔てて雲居のよそなれば、おぼろけにては人の通ふ事もなし。されば、都の事づても有がたし。少将・判官入道ありし程は、昔物語をもして互ひになぐさみき。少将も入道も召し返されて、我が身一人残り留まる上は、一日片時も堪へて有るべしとは思はざりしが、甲斐なき命のながらへてありけるは、今一度汝をも見、汝にもみゆべかりける故にこそありけれ。是程の身の有様なれば、何事もおぼゆまじけれども、故郷に残り留まる者共の事、常に思ひ出でら
れて、忘るる時の隙もなければ、我に人一人従ひ付きたらば問はまほしくこそ覚ゆれ。心強くもこの三年は問はざりつる物哉」と恨み給へば、童涙を押へて申しけるは、「父母にも▼P1549(五七オ)申さず、親しき者共にもしらせ候はで、只独り都を罷り出でて、遥かの海山をわけすぎ、かかるあさましき配所へ尋ね参りぬるも、昔の御体を今一度や見奉るとて、はるばると尋ね参りたれども、今の御体を見まゐらせ候ふに、日比都にてゆくへを思ひ遣りまゐらせ候ひつるは、事のかずならざりけり。まのあたり御有様を見まゐらせ候ふに、命生きて御宮仕へ申すべしとも覚え候はず。されば何かなる御罪のむくひにて渡らせ給ひけるぞや。さても都の御有様、ことも愚かなる御事と思し食され候ふかや。君の西八条へ召籠られさせ給し後は、御あたりの人々と申す者をば、とらへからめ、ほだしを打ち、楼囚獄にこめられ、家烟を追捕し、屋骨をこぼち取られて、謀叛の事を責め問はれ候ひしかば、跡形も候はず、皆諸国七道へ落ち失せ候ひぬ。女房も鞍馬の▼P1550(五七ウ)奥に少き人々具しまゐらせて忍びて渡らせ給ひ候しが、あけてもくれても御歎き浅からずみえさせ給ひし程に、御歎きの積りにや、なにとなくなや
ませ給ひて、こぞの冬、終に失せさせ給ひ候ひにき。若君は、『父のわたらせ給ふ所はいづくやらむ、いかなる所と知らする人だにあらば、尋ね参りて見まゐらせむ』と、つねには仰せの候ひしを、母御前、『あなかしこしらすな、知らせたらば、少き心にいづちともなく走り出でたらむほどに、嶋へも尋ね行かず、是へも帰らず、道にて失せむ事の悲しきに」と、仰せの候ひしかば、知らせまゐらする人も候はざりしほどに、人のし相ひ候ひしもがさと申す事をわづらわせ給ひて、すぎにし五月に失せさせ給ひにき。姫君ばかりこそ、いまだ渡らせ給へ。母御前に後れまゐらせさせ給ひて、後には都の御すまひも叶ひ候はず、奈良のをば御前の御許に渡らせ給ひ▼P1551(五八オ)候ふ。是へまかりくだりさまに、奈良へ参りて、「君の御ゆくへの悲しく思ひまゐらせ候ふ時に、嶋へ尋ね参り候ふ。御事付けや候ふ」と申し入れて候ひしかば、昔は争か只御声をも承り候ふべきなれども、はし近く居出でさせ給ひて、『あはれ、女の身程心うかりける物はあらじ。父の恋しさは譬へむ方はなけれども、男子の身ならねば、かなはぬ事こそ口惜しけれ。多くの人の中に、をのれ一人しも尋ねまゐらむことのうれしさよ。今日より後、仏
神に詣でては、我が身の祈りをば申すまじ。構へて平らかに参り付けと、汝が祈りをせむずるぞ。自ら平かに参り付きたらば、是まゐらせよ。世の代はりたる哀れさに、筆の立て所もおぼえ候はず。余りに涙がこぼれて、泣く泣く書きて候へば、文字の形にても候はじなれば、あそばしにくくこそ渡らせ給はむずらめとまうせ』とこそ仰せ候ひしか。『薩摩の地にて、あやしき文や持ちたるとさがす』と、人のおど▼P1552(五八ウ)し候ひしおそろしさに、恐れながら本ゆいの中へしこめて参りて候ふ』とて、取り出でて奉りたりければ、僧都、姫君の文を取りて、涙を押しのごひて見給ふに、文字もあざやかに、詞もおとなしく書きたり。
 其の詞に云はく、「其の後、便り少くなりはてて、御行へをもしりまゐらせ候はず。如何なる罪のむくひにて三人流されさせ給たる人の二人はゆるされて召し返され給ふに、御身ひとり残り留まらせ給ふ事の悲しさよ。御ゆかりの人をばとらへからむると申ししかば、おぢおそれて今は都には一人も候はず。されば草のゆかりもかれはててあれば、糸惜しと申す者も候はず。公達も召しとらるべしと聞こえ候ひしかば、母御前は鞍馬の奥とかやに忍びて渡らせ給ひしほどに、御事をのみ朝ゆふ歎き申させ給ひしが、積りて病にならせ給ひたりしかば、せうとと二人、とかくなぐさめ申しし▼P1553(五九オ)かども、日にそへて重くのみなりて、遂にはかなくならせ給ひ候ひぬ。母御前にをくれまひらせ候ふは我一人の事ならず、そひはてぬ世のうらめしさ、人ごとの習ひと思ひなされ候へば、自らなぐさむ方も候ふ。父に生きながら別れまゐらせて、国々をへだて、波をわけ、薩摩潟まではるばると思ひ遣りまゐらせ候ふ心の中の悲しさ、只おしはからせ給ふべし。生きての別れ、死しての悲しさ、せうとと二人、ひるは終日に泣きくらし、夜は夜終ら泣きあかし候ひしほどに、せうとも人のしあひて候ひしもがさと云ふ物をして
、此の春失せ候ひにき。歎きの程、只おしはからせ給ひ候へ。故母御前の、「我死なば、いかにしてながらへてあらむずらむと思ふこそ悲しけれ。自らの便りには、奈良の里にをばと云ふ者のあるぞ。いかにもして尋ね行け」と、最後の時に仰せ候ひしかば、当時はならのをばの御許に▼P1554(五九ウ)候ふ也。などや、この三年は有りとも無しとも問はせ給はぬぞ。是に付けても女の身こそ今更に口惜しけれ。をのこごの身なりせば、などか鬼海・高麗とかやにおはすとも、尋ねまゐらざるべき。童をば誰に預け、いかになれと思し食すぞや。こひしとも恋し、ゆかしともゆかし。とくとくしていかにもして上らせ給へ。あなかしこ、あなかしこ」と、うらがきはしがきまで、うすくこくさまざまに書き給へり。
 僧都此の文をむねに当て顔にあてて、悲しみ給ふ事限りなし。「此の嶋に放たれて、今年三年にこそなれ。姫君も今年は十二になるとこそ覚ゆるに、今はおとなしくこそ有るべきに、猶をさなかりける物かな。此の心ばへにては、争か人にもみえ、宮仕へをもして、身をも助くべき。『とくして上れ』とは何事ぞ。打ち任せたる田舎下りとこそ覚えたれ。心に任せたる道ならば、などか今▼P1555(六〇オ)まで上らざるべき。はかなの者の書き様や」とて、恩愛の習ひの悲しさは、我が身の上を閣きて、娘の事を云ひつづけて今更又泣かれけるこそ無慙なれ。童是を見て、「遥かに思ひ遣り奉りけるは事の数ならざりけり。中々よしなく下りにける物かな。かばかり無慚の事こそなけれ」とぞ思ひける。
 僧都又宣けるは、「此嶋に残し捨てられにし後は、片時たへて有べしとも思はざりしに、露の命消えやらで今日までながらへて有つる事こそ不思議なれ。汝一人を見たるを以て、都の人を皆見たる心地す。我はかかる罪人なれば、云ふに及ばず。今はとくとく帰り上りね。『一人も付かざりしに、京より人渡りて扱ひ侍るなり』と聞こえなば、まさる咎にもぞ当たる」と宣へば、童爪弾きをはたはたとして、「穴うたての御心や。其程の御身の有様にても、猶世の▼P1556(六〇ウ)恐ろしく思し食され候ふか。又御命の惜しく渡らせ給ひ候ふか。はたらかせ給へばとて、麗しき人の御形と思し食され候ふか。只なましき骸骨のはたらかせ給ふにてこそ渡らせ給ふめれ」と申しければ、僧都是を聞き給ひて、「志の切なる汝さへ、此の嶋にて朽ちはてむ事の悲しさの余りにこそ、かくも言へ」と宣へば、童涙を押のごひて、「父母親類にも知らせず、命を君に奉り、身をば大海に沈めむと思ひ切りて参り候ひし上は、都にて一度すて候ひぬる命を、嶋にて二度思ひ返すにも及び候はず」と申せば、僧都、「いざさらば我が棲みせむ」とて、童を具しておはしたり。
 松の四五本岩にたふれかかりたるを便りにて、自ら打ち寄せられたる竹のはし、葦荻体の物を拾ひ渡して、よろづの藻屑・木葉を取り掛けたれば、雨風溜まるべしとも見えず。京童部の、犬の▼P1557(六一オ)家とて造りたるよりも、猶目もあてられず。僧都一人内へ入り給へば、腰より下もは外にありければ、童内へ入るに及ばず。「穴うたてや、古き歌物語にこそ、はにふの小屋と云ふ事はあれ。はに土を以てしまはしたる家をば慎粉の小屋と申す。又は『半に臥す』と書ては『はにふのこや』と詠まるなり。半に臥すが埴生の小屋ならば、是や、はにふの小屋なるらむ」。傍なる木にかくぞ書き付けられたる。
  みせばやなあはれとおもふ人やあると只ひとりすむあしのとまやを
と、牡蠣の殻なむどにて書き付けられたるにやと覚しくて、さすがに漂ひたるやうにぞ書きたりける。
 昔は大伽藍の寺務職として、八十余ヶ所の庄務掌どり給へりしかば、京極御坊、白河御坊、鹿谷の山庄まで、塵も付けじと作り磨かれて、棟門・平門の中に、二三百人の所従眷属▼P1558(六一ウ)に囲遶せられてこそ過ぎ給ひしか。されば、かかる御住まひにても此三年はおはしけるかやと今更悲しくぞ思ひける。業にさまざまあり、巡現・巡生・巡後・巡不定業といへり。僧都、一期の間、身に用ゐる所は、大伽藍の寺物仏物にあらずと云ふ事なし。然れば、彼の信施無慚の罪においては今生に感得せられけるかと覚えたり。
 かかる思ひの中なれども、僧都の料にとて菓子体の物、塵ばかりづつ持たりけるを取り出だして勧めければ、今日食ひて明日食うべき物にてもなし。明日食ひて又次の日食ふべきにてもなければ、怱ぎて食はざりけり。童が持ちて渡る志の切なればとて、食ひけれども、食ひ忘れて久しくなれば、気味の程も覚えざりけり。童、「いかにして、比程の御有様にては今まで長らへて渡らせ給ひけるぞ▼P1559(六二オ)や」と申せば、「一年流されし人の内、丹波少将の許へ舅の門脇の宰相の許より、一年に二度船を渡されしなり。春渡すは秋冬の衣食のため、秋渡すは帰る年の春夏の衣食のためと渡ししを、少将心映へ吉き人にて、一人の衣装を新しきをば我着、古きをば二人の者に着せ、一人が相節を以ては三人の相節に当てなむどして育みし程は、さすが人の形にて有りつるが、少将・判官入道帰り上りて後は、自ら事のはの次にも「哀れ糸惜し」と事問ふ人もなければ、甲斐なき命の惜しきままに、身の力のありし程は、此の山の峯に上りて、硫黄と云ふ物を取りて、九国の地へ通ふ商人の船の着きたるにとらせて、日を送りき。身の力弱り衰へて後は、山へ上るべくもなければ、野沢に出でては根芹を摘み、嬾き蕨ををりて
、寂しさを慰む。浜に出でては、波に打ち寄▼P1560(六二ウ)せられたる荒和布を拾ひ、釣りする海士に膝を屈め、手を合はせて魚を乞ひて食事にして、今日までは命を継ぎつるなり。此の嶋の有様は、おろおろ見もしつらむ。生きて甲斐なき様なれども、かかる所にも住めば住まるる習ひにて有りけるぞ。月の缺け、月の盈つるをもて、一二月と覚えたり。花の散り、葉の落つるを以て、春秋を知る也。其の移り変わる有様を算ふれば、年の三年せを送りにけり。我はかく弱り疲れたれば、今いくばくをか限るべき。己さへ此の嶋にて消えなむ事こそ、いと罪深けれ」と宣ひければ、「此まで尋ね参る程にては、いく年せを過ごし候ふとも、其の恨み候ふまじ。いかにも成りはてさせ給はむずる、最後の御有様を見果て進らせ候ふべし」とて、僧都の前後に有りければ、僧都に教えられて、山の峯に上りて硫黄を取りて商人の舟の寄りたるに、是を商▼P1561(六三オ)ひ、とかく育みて明かし暮らしける程に、「今いくかをか限らむ」と宣ひけれども、日来の疲れ立ち直らず、明くる年の正月十日比より病付き給ひにけり。童は片時も立ち離れず、様々に看病して、夏も過ぎ秋にも成りて、八月十日比にもなりにければ、今
は限りにぞ見えられける。童申しけるは、「『都へ帰り上り給はぬ事、本意なし』なむど思し食すべからず。今生の穢土の終はりと思し食して、御心強く一筋に浄土を願ひ給へ」と善知識して、念仏勧め奉りなむどしける程に、同十三日寅剋に、終に失せられにけり。
 童只一人営みて、松の枯枝、葦の枯葉を切り覆ひ、寄り来る藻屑につみこめて、たくもの煙とたぐへてけり。荼毘事終へにければ、墓なむど形の如くして、白骨を頸にかけて、泣く泣く都へ上りけり。苔の下にも都へと余波や惜しく思はるらむ。
 備▼P1562(六三ウ)前国下津井と云ふ所より下り、或る山寺にしばらく逗留して、頭をおろし、墨染の袖になりて、奈良の姫君の許へ行き、「嶋に硯も紙も候はざりしかば、御返事には及び候はず」とて、僧都の遺言なむど細かに語りければ、姫君、天に仰ぎ地に臥して、をめき叫ばれける有様、さこそは悲しかりけめ。「御舎利をも拝ませ進らせ候べく候へども、同じ事にて候へば、是より高野山に上りて、奥院に納め奉り候ふべし」と申して、やがて高野へ上り、御廟の御前に納めてけり。其の後、寺々修行して、主の後世をぞ訪ひける。主従の芳契、誠に昔も今も其の好みあさからぬ事なれども、有王丸が志は例し少なくぞ覚えし。見目皃、心様までも、吉き童にてぞ有りける。
 姫君は、父の臨終の有様聞き給ひて、伯母の許を忍び出でて、高野へも尋ねお▼P1563(六四オ)はして、父の骨納めたる所をも拝みたく思し召しけれども、女人の上らぬ所なればとて、高野の麓、天野別所と云ふ所にて、様変へられにけり。後には真言の行者と成りて、父の後生菩提を祈り給ひけるこそ哀なれ。童は修行しありきけるが、主の骨も恋しくて、高野山へ立ち帰り、南院に蓮阿みだ仏と申されて、仏に花香を奉り、主の後世をぞ訪らひける。山門の大衆、猶鎮まらずして、弥よ騒動すと聞こえければ、堂衆等を罪科に行はるべき由、諸卿計らひ申されければ、宣旨を下さる。其の状に云はく、
 治承三年六月廿五日 宣旨。左大臣左少弁。
  叡山堂衆等、勅制に憚からず、座主の制止に拘はらず、猥りがはしく▼P1564(六四ウ)狼戻を成して、一山を滅亡せむと欲す。仍りて、先づ官軍を差し遣はして、三ヶ庄及び寄住の所々を追却せしむべし。但し、横河・無動寺等に籠り住む輩に於いては、同じく彼の輩に仰せて、坂本往反の路を守護して責め落とすべし。兼ねては又、洛陽に逃げ隠るる輩は、宜しく検非違使をして、搦め進らすべし。諸国に逃げ移らんに至りては、宰吏に仰せて其身を召し進じ。此の次は失せ了はんぬ。
十九 〔辻風荒く吹く事〕
▼P1565(六五オ)六月十四日、辻風おびたたしく吹きて、人屋多く顛倒す。風は中御門京極辺より発りて、坤の方へ吹きもて行くに、棟門・平門なむどを吹き抜けて、四五町、十丁もて行きて、投げ捨てなむどしける。上は、桁・梁・長押・棟木なむど虚空に散在して、あしこここに落ちけるに、人馬鹿畜多く打ち殺されにけり。只舎屋の破れ損ずるのみにあらず、命を失ふ者多し。其の外、資財雑具、七珍万宝の散り失せし事、数を知らず。
 此の事、直事に非ずぞ見えし。即ち御占あり。「百日の内に大葬、白衣の怪異、天子大臣の御慎み也。就中、禄を重んずる大臣の慎み、別しては天下大きなる怖乱、仏法・王法共に滅び、兵革相続きて、飢饉疫癘の兆す所なり」と、神祇官・陰陽寮、共に占ひ申しけり。
二十 〔小松殿死に給ふ事〕
 八月一日、小松内大臣重盛公、薨じ給ひぬ。御年四十三にぞなられける。▼P1566(六五ウ)五十にだにも満ち給はず、世は盛りと見え給ひつるに、口惜しかりける事也。「此の大臣失せられぬる事は、偏に平家の運命尽ぬる故也。其の上、世の為人の為、必ずあしかるべし。入道のさしも横紙を破らるる事をも、此の大臣のなをし宥られつればこそ、世も穏しくて過ぎつるに、こはあさましき事かな」とぞ歎きあへる。前右大将方さまの者共は、「世は大将殿に伝はりなむず」とて、悦びあへる輩もあり。
二十一 〔小松殿熊野に詣づる事〕
 内大臣、今年夏熊野参詣の事有りき。本宮証誠殿の御前にて啓白せられけるは、「父相国禅門、悪逆無道にして、動もすれば君をもなやませ奉る。重盛長子として頻に諌めを加ふといへども、身不逍にして、彼以て服膺せず。其の振舞を見るに、一期の栄花▼P1567(六六オ)猶危し。枝葉連続して親を顕し、名を揚げむ事かたし。此の時に当たりて、重盛苟くも思へり、憖に諛ひて世と浮沈せむ事、敢へて良臣孝子の法にあらず。如かじ、只名を遁れ身を退きて、今生の名望を抛てて来世の菩提を求むには。但し、凡夫の薄地、是非に迷へる故に、猶志を恣にせず。願はくは権現金剛童子、子孫の繁栄絶えずして君に仕へて朝庭に交はるべくは、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。若し栄耀一期を限りて後昆の恥に及ぶべくは、重盛が今生の運命を縮めて、来世の苦輪を助け給へ。両ヶの愚願、偏へに冥助を仰ぐ」と肝胆を摧きて祈念せられける時、内大臣の御頸の程より大きなる燈爐の光の様なる物が、はと立あがつてはきえ、たびたびしけり。御共人数々にはみず。或る侍一人是を見て、「是は何なる御先相ぞや。吉き御事やらむ、悪しき御事やら▼P1568(六六ウ)む」と思ひけれども、恐れをなして人
には語らざりけり。大臣の失せ給ひて後にこそ、「さる事有りき」とも申しけれ。
 今度の熊野参詣に、御子息二人、共せられたり。嫡子惟盛・次男資盛、下向にかかり給ふ。岩田川にて、二人の御子息達の浄衣の色、重服にかへりて河浪にぞうつりたる。孔子の一筆を白楽天の釈し給ひけるは、「孝妣恵み有れば、子孫大なる慶び有り。子孫孝妃有れば、天地門を開く」と云ふ。内大臣の「世を厭ひ、今生を打ち棄てて、後世を扶けさせ給へ」と申されけるをば、仏神悦び給ひて、兼ねて示し給ひけると覚えたり。源大夫判官季貞此を見とがめて、「君達召され候ふ御浄衣、いかにとやらむ、いまはしく見えさせ給ひ候ふ。召し替へられ候ふべし」と申しければ、内大臣是を見たまひて打ち涙ぐみて「重盛が所願、既に▼P1569(六七オ)成就しにけるこそあむなれ。敢へて其の浄衣着替ふべからず」とて、別して悦びの奉幣ありて、やがて其の浄衣にてくろめまで着き給ひけり。さなきだに岩田川は渡るに哀れを催すに、波に涙を諍ひて、重盛袖をぞ絞り給ふ。人々あやしとは思へども、其の心を得ざりけり。而るに程無く此の公達、実の墨染の袂に移り給ひけるを見奉りけるにこそ、さればよと思ひ知られて、いと哀れにぞ思ひあへる。
 さて、下向の後、六月十三日、御方違の御幸あり。小松内大臣の嫡子権亮少将惟盛御縄助の殿上人にて供奉せらるべきにて出立し給ひたり。内大臣是を見給ひて「我子ながらも人に勝れてみゆる物哉。されども生死界の習ひなれば、かかる子にも副ひはてで、近く離れなむ事こそ悲しけれ。権現の示し給ひし事、只今に臨めり。是が最後の終にてこそあらむず▼P1570(六七ウ)らめ。能々みむ」とて、「暫く是へ入らせ給へ。申すべき事あり」と仰せられければ、少将入り給ふ。女房に盃酌せさせて酒を勧め給ふ。貞能を招き寄せてささやき給ひければ、貞能御内に入りて、赤地の錦の袋に裏みたる太刀一振取り出だす。少将の前に指し置きて、「御肴に進らせ候ふ。今一度」と勧め給へば、少将うれしげにおぼして三度して袋を開けて見給へば、大臣の死し給ひて葬送する時、其の嫡子にておはする人のはきて最後の共し給ふなる、無文の太刀と云ふ物也。少将いまはしげに覚して、貞能が方を恨めしげに見給ふ。内大臣「あれは貞能が取り違へたるには候はず。重盛が志し進らせて候ふ也。其の故は、今日出仕の供奉の人々多く候ふらめども、御辺程の人少くこそ侯ふらめ。片腹痛き申し事にて候へども、我が子にておはしま
せば▼P1571(六八オ)にやらむ、人に勝れていみじくみえ給ふ。それに取りて老少不定にしてさだめなき憂世の習ひ、祈るとも叶ふまじ。さればいみじと思ひ奉る御辺にも、副ひ終てぬ事も有りぬべし。同じく別るれば重盛前立ちて此の大刀を帯き孝養をし給へかしと思ふ間、何の引出物よりも目出たき太刀にて候ふぞ。親を先立つる人の子、孝養を致さむと思ふ志探し。神明仏陀も御加護あり。親残り留まりて子を前立つるは、子の為不孝の罪深し。されば、老いたる若き定めなくて、御辺前立ち給はば、重盛が残り留まりて思はむ事の悲しければ、我身前立ちて御辺に孝養せられ奉り、仏神三宝の御加護に預り、弥よ孝養の志し深く御しませと思ふ間、御引出物に進らせ候ふ也」とて、打ゑみ給ひければ、少将は今の様に覚えて涙うかび給ひけれども、此の上は子細を申すに及ばず、浅増ながら取り給ひにけり。▼P1572(六八ウ)其の後はさしもやと思ひ給けるに、内大臣に後れ給ひて、葬送の時、此の大刀を取り出でてはき給ひ、最後の御共し給ひけるにこそ、有りし時仰せられし事共思ひ連けて、涙に暮れて覚えけれ。御方違の行幸は六月十三日なり。
 同七月廿五日に、内大臣の御頸に悪瘡出でにければ、「是れ思ひ儲たりつる事なり」とて、療治も祈精もし給はず。一向後生菩提の勤めより外は他事なかりけり。太政入道・二位殿はをりふし福原におはしけるが、此の事を聞き給ひて、大いに驚きて、取る物も取りあへず、京へ上り給ひて、「なべての医師なむどの療治すまじき事と内府は思ふらむ」とて、肥後守貞能を使にて内府の許へ云ひ遣はされたりけるは、「御所労の由承る。一定ならば返す返す歎きに存ず。いかにさ様の腫物をば怱ぎ療治もせられず候ふなるぞ。親に先立つ子をば▼P1573(六九オ)不孝に同じとこそ申せ。入道既に六十有余也。此の有様をば争か御覧じはてざるべき。老いたる父母を残し置き給ひて物を思はせさせ給はむ事は、且は罪深かるべし。但し、折節御冥加と覚ゆる事は、宋朝より勝れたる名医、本朝へ渡りて忍びて京へ上るなるが、摂津国今津に付きて候ふよしを承れば、怱ぎ召し遣し候ひぬ。彼の医師と申すは、医療の道に携はりて、遥に神農化他の旧跡を続ぎ、治方の業を伝へて、遠く祇婆〓鵲の先縦を追ふ。故に三代の家に長じて、早く十全の深術を究め、常に一天の君に仕へて、専ら四海の名誉を恣にする者也。速に対面して殊に
医療を加へしめ給へ」と云ひ遣はされたりければ、内府病床に臥し給ひたりけるが、入道の御使と聞き給ひて恐れられけるにや、怱ぎおきあがりて、烏帽子直衣ただしくして、貞能に▼P1574(六九ウ)向かひ給ひて返事に申されけるは、「医療の事、承り候ひぬ。但し今度の所労は、旁存ずる旨候ふの間、医療を加へず候ふ。仍りて今更対面仕るに及ばず。其の故は、昔漢高祖、維南の懸布を攻めし時、流失高祖に当たる。既に命限りになり給ひければ、呂大后と云ふ后、良医を迎へて見せしむるに、医師の云はく、「療治しつべし。但し五百斤の金を賜るべし」と申す。高祖宣はく、「朕三尺の剣を提げて天下を取る。是天命なり。命は即ち天にあり。我項羽と合戦を致す事、八ヶ年の間に七十余ヶ度也。されども天命の有る程は、一度も疵を被らず。今天命地に堕ちて、既に疵を被れり。然れば名医として疵をば癒すとも、命を療すべからず。篇昔と云ふとも何の益かあらむ。全く金を惜しみて云ふにあらず」とて、即ち五百斤の金をば医師に給はりながら、疵をば▼P1575(七○オ)治さずして、終に失せ給ひにけり。先言耳にあり、今以て肝心とす。
 近く本朝に於いては、三条院の御時、典薬頭雅忠と云ふ医師ありき。癒し難き病をいやし、生き難き命を生きしかば、時の人、「薬師如来の化身か、はたまた耆婆が再誕か」と疑ふ。身は本朝に居ながら、名を唐朝に施しにけり。其の比、異国の后、悪瘡を煩ふ事歳久し。時に異国の名医等、医術を究め療治を致すと雖も効験なかりしかば、雅忠を渡さるべきの由、異国の牒状あり。本朝希代の勝事たるに依りて、公卿僉議度々に及ぶ。『凡そ大国の請に預る事、本朝の珍事、雅忠が面目也。然りと雖も、渡唐は全く然るべからず。夫医療に効験無くば、本朝の恥辱也。医療に得験有らば、大国の医道此の時に永く絶えぬべし。就中、他国の后死なむ事、本朝の為め何の苦しみか▼P1576(七〇ウ)有るべき』と、帥民部卿経信卿の意見に定め申されければ、「尤も」とて渡さるまじきに成りにけり。其の時、江中納言匡房卿、大宰権帥にて宰府に止住の間、僉議有るに依りて、上覧に及ばずして、私に返答有るべきの由仰せ下されければ、匡房、牒詩に云く
  双魚未だ鳳池の波を達せず、〓鵲豈に鶴林の雲に入らんや
とかきて渡されにけり。凡そ此の条、和漢両朝の感歎ありけるとかや。但し、昔し仁徳天皇の第四御子、反正天皇崩御の後、允恭天皇未だ皇子にて御坐し時、久しく篤き疵をなやみ給ひけるを、群臣強ちに勧め申すに依りて、御即位有りけり。本朝の医師、術尽きにければ、其の後、御使を新羅国へ遣はして、彼の国の医師を迎へて御悩を治せさせ御▼P1577(七一オ)坐しけるに、程無くいえにければ、殊に是を賞ぜさせましまして返し送られにけり。是則ち、本朝第一の不覚、異朝無並の嘲〓也。彼の例を聞き及びて、異国よりも典薬頭雅忠をも渡さるべきの由、強ちに申し送られけると聞こえしかども、江中納言の計らひ申さるる旨、左右無かりければ、渡されずして止みにけり。
 而るに今、重盛、苟しくも九卿に列し、三台に昇れり。其の運命をはかるに、以て天心にあり。何ぞ天心を察せずして、愚かに医療を労はしくせんや。況や所労若し定業たらば、療治を加ふとも益なからむ。所労若し非業ならば、治療を加へずとも助かる事を得べし。彼の耆婆が医術及ばずして、釈尊涅槃を唱へ給ひき。是則ち、定業の病を癒やさざる事を示さむが為也。治するは仏体也、療するは耆婆也。定業尚ほ医療にたらざる旨、既に明らけし。然れば▼P1578(七一ウ)重盛が身、仏体にあらず、名医又耆婆に及ぶべからず。設ひ四部書を鑑て百療に長ずと云へども、争か有待の依身を救療せむや。設ひ五経の説を詳かにして衆病を癒やすとも、豈に先世の業病を治せむや。若し又彼の治術に依りて存命せば、本朝の医道なきに似たり。若し又効験なくは面謁に所詮なかるべし。就中、重盛三台の崇班に居して専ら万代の政を助け、魚水の契約を結びて将に朝恩の波を練く。本朝鼎臣の外相を以て病床に臥しながら、異朝浮遊の来客にまみえむ事、且つは国の恥辱也、且つは道の陵遅也。設ひ命を亡ずるに及ぶとも、争か国の恥をば顧みざるべき。其の事努々有るべからず候ふ」と宣ひける上は、入道力及び給はず。
 此の大臣、保元・平治両度の合戦には、命を捨てて防ぎ戦ひ給ひ▼P1579(七二オ)しかども、天命のおはする程は、矢にも中らず、剣にもかかり給はず。されども、運命限り有る事なれば、八月一日寅時に、臨終正念にして失せ給ひぬるこそ哀れなれ。
 中にも北の方の御歎き、つきせずぞ覚えし。此の北の方と申すは、鎌足大臣の孫、参議正三位房前の大将よりは十一代の末葉、参議修理大夫家保の卿の嫡男、右衛門督家成卿の御娘、故中ノ御門の新大納言成親卿の御妹なり。相栖み給ひて後、年久し。君達あまたおはします。いづれもありつき給ひたれば、心安き御事にて過ごし給ひけるに、此の歎き、いつわするべしとも覚えず。山野の蹄、江海の鱗は、皆流転の間の父母、悉く生死の程の親族也。されども、天地の間には夫婦の情昵まじく、宇宙の中には男女の志し深し。同襟の契りは情け多生に亘り、一枕の語らひは昵び曩劫に在り。然るに、▼P1580(七二ウ)玉顔眼を閇ぢて、口に再び言ふこと無し。神魂身を去りて、家に更に返ること無し。千年の松蘿は一旦のすさみに色を変じ、万歳の交談は九泉の流れに袖を朽す。燕二つ羽を並ぶるを見るに付けても、弥よ亡夫の悲しみを増し、雁の雌雄林を翔けるを相見ても、常に寡婦の涙を流す。合裘の昔は千春顔を並べて南苑の花を翫び、別離の今は九野に骸を埋めて北芒の霞に迷ふ。徒然の余りに墳墓に行れば、松風扇て音一声、古人の声は鳴もせず。悲しみ悲しむで旧屋に返れば、領袖滴つて涙だ千行、幽霊の形は見え
ず。織女は猶し七夕の夜を待てば、恃むべし、勇むべし。去雁は又三陽の春を期すれば、見つべし、翫びつべし。但し人界の生は、一たび別れて後、再び会はず。大〓嶺の梅、霞に萎み、金谷薗の桜の▼P1581(七三オ)風に散り、をばすて山のあけぼの、あかしの浦の波の上だにも、余波は惜しき物ぞかし。まして年来すみなれ給ひし御なごり、押しはかられて哀れなり。
 〔二十二〕 〔小松殿熊野詣の由来の事〕
 抑も、此の大臣の熊野参詣の由来を尋ぬれば、夢故とぞ聞こえし。去んぬる三月三日夜の夢に、大臣、三嶋と思はしき霊験所へ詣で給へば、詣づれば右、下向すれば左手に、法師の頸を切りて、鉄のくさりを以て四方へつなぎたり。大臣、夢心に、「不思議の事哉。加様の精進の処に、かかる殺生なむどは有るまじきかなむど思ひたれば」と思し食して、社の方へ詣で給へば、衣冠正しき人々多く並居給へるに詣でて、「抑も此は何なる人の頸に候ふぞ」と問ひ奉り給ひければ、「此は、源頼朝が此の御前にて千日が間歎き申しし事が余りに不便なれば、汝が父大政入道浄海が頸を切りてつなぎたるぞ」と仰せらるると思し食せば、打ち驚きて夢さめぬ。
 爰に源大夫判官季▼P1582(七三ウ)貞御前近く参りて申しけるは、「何事にて候ふやらむ、兼康が上に申し入るべき子細の候ふとて、参りて候ふ」と申しければ、大臣聞き給ひて、「哀れ妹尾は此の夢をみたるごさむなれ」と思し食して、「何事にて有るやらむ」とて、大口計りにてつと出で給へば、妹尾御耳にささやきて、「今かかる夢をみて候ふ」と、内府の御覧じたる夢に一字も違はず申したりければ、さればこそと思し食して、「こは不思議かな。されば平家の世は早末に臨めるにこそ。さても命ながらへて猥しき世をみむ事も口惜しかるべし。今は後世菩提の営みの外は他事やは有るべき」とて、熊野参詣の為に同じき四月廿八日より精進始めて、第五日と申す日、御はげの下に夢にみられし様なる法師の生かうべあり。〓子を立てたれば、大食ひて置くべき様なし。空より鳥の食ひて落すべき方もな▼P1583(七四オ)し。是則ち霊異也とて、今二日の精進をまたずして、同じき五月二日進発して、熊野山御参詣はありしなり。
 〔二十三〕 〔小松殿大国にて善を修し給ふ事〕
 惣じて此の大臣は、吾が朝の神明仏陀に財を投じ給ふのみに非ず、異朝の仏法にも帰し奉られけり。去んぬる治承二年の春の比、筑前守貞能を召して云ひ合はせられけるは、「重盛存生の時、吾が朝に思ひ出ある程の堂塔をも立てて大善をも修し置かばやと思ふが、入道の栄花、一期の程とみえたり。然れば、一門の栄耀尽きて当家滅びなむ後は、忽ちに山野の塵とならむ事の、兼ねて思ひ遣られて悲しければ、大国にて一善をも修し置きたらば、重盛他界の後までも退転あらじと覚ゆる也。貞能入唐して計らひ沙汰仕れ」と宣ひける。折節、博多の妙典と申しける船頭の上りたりけるを召して、内大臣の知り給ひける奥州気仙ノ郡より年▼P1584(七四ウ)貢に上りたる金を二千三百両、妙典に賜りて宣ひけるは、「此の金、百両をば汝に与ふ。二千二百両をば大唐に渡して、二百両をば生身の御舎利のおはします伊王山の僧徒に与へて、長老禅師の請取を取り進らすべし。残り二千両をば大王に献りて、彼の寺へ供田を寄せて給はるべしと奏せよ」とて、状を書きて妙典に給はりけり。妙典金を給はりて、怱ぎ入唐して、此の由を大王に奏して、送り文を奉る。大王彼の状を叡覧あり。其の状に云はく、
   施入し奉る、年来帰依の霊像一鋪、
   自筆の一部十巻の法花妙典を彫写し、
   墨色に模せんが為の懇志の黄金千裹
 夫以るに、弟子則ち分段易往の仙座に日域衰世の軍勇を稟く。▼P1585(七五オ)爰に家門走倨の台に親昵し、歳齢既に旧り、生涯過ぐるを歎く。年に歩りて家に須へ、万障〓の変を抛つ。当朝の試ゐるところ、闘戦年を畳ねて双臣を襲へども、法悦を障げて、恚り目を畳ねて滋茂す。予て憖に夢中の夢、常悟の思ひ頻りに催す。茲に因りて、或は迷色秦衢の資糧に中て、或は声志の丹誠を伝へんが為に、渇仰して所持するところの仏経を伊王山上に施入し、狭量一裹の千金を異朝の座下に投じ奉る。如何せん、武民の嶮愚、当家貧にして、莫大の恣贈乏しきに似たるを。乞ふらくは、予て愁棘之儀を察し、〓送之疎を夭すること勿れとのみ。此の微望によりて、名を永代に刻み、胸短の慮の者、未だ貌の明らかならざる者に於てす。弟子啓する所、件の如し。
  治承三年四月日  日本国大将軍平朝臣重盛
とぞ書きたりける。大王随喜に堪へず、「日本の臣下として我が国に志の深き事▼P1586(七五ウ)へし」とて、彼の寺の過去帳に書き入れ、今に至るまで「大日本国武州天守平重盛神座」と、毎日によまれ給ふなるこそゆゆしけれ。実の賢臣にておはしつる人の、末代に相応せで、とく失せ給ひぬる事こそ悲しけれ。
 さても入道の歎き、申すも愚也。誠にさこそはおぼしけめ。親の子を思ふ習ひ愚かなるだにも悲し。況や当家の棟梁、当世の賢人にておはせしかば、恩愛の別れと云ひ、家の衰微と云ひ、悲しみても余りあり。されば入道は、「内府が失せぬるは、偏へに運命の末になりぬるにこそ」とて、万づあぢきなく、争も有りなむとぞ思ひなられにけり。
 およそ此の大臣、文章うるはしくして、心に忠を存じ、才芸正しくして、詞に徳を兼ねたり。されば、世には良臣失せぬる事を愁へ、家には武略のすたれぬる事を歎く。心あらむ人、誰か嗟歎せざらむ。「彼の唐の▼P1587(七六オ)太宗文皇帝は異朝の賢王也。徳五帝にこえ、明三皇に同じ。されば、唐尭、虞舜、夏の禹、殷の湯、周の文武、漢の文景也と云へども、皆逮ばざるところなり」と、ほめ申す。御宇廿三年、徳の政ごと千万端。君臣父子の道、此の時天下盛也。四海八〓の外までも徳化に帰せずと云ふ事なし。御才五十三と申す貞観廿三年五月廿六日、合風殿にして崩じ給ふ。かかる賢君にておはしませど、天命の限りある事をさとり給はずして、御命を惜しみ給ひけるにや、天竺の梵僧にあはせ給ひて、頻りに療養を加へ給ふ。霊草秘石、神薬として服し給ふといへども、仁山遂に崩れき。未薬に伝はる所、太宗の一失とぞ申す。傍ら異朝上古の明王の叡念を承るにも、本朝末代の良臣の賢さは遥かに猶勝れたり。
 〔二十四〕 〔大地震の事〕
 ▼P1588(七六ウ)十一月七日の申剋には、南風にわかにふきいで、碧天忽にくもれり。万人皆怪しみをなす処に、将軍塚鳴動する事、一時の内に三反也。五畿七道ことごとく肝をつぶし、耳を驚さずと云ふ事なし。後に聞こえけるは、初度の鳴動は、洛中九万余家に皆聞こゆ。第二の鳴動は、大和山城和泉河内摂津難波浦まで聞こえけり。第三の鳴動は、六十六ヶ国に皆聞こえざる所更になし。昔しより度々の鳴動其数多しといへども、一時に三度の鳴動、此ぞ始めなりける。「東は奥州のはて、西は鎮西・九国まで鳴動しける事も先例希也」とぞ、時の人申しける。おびたたしなども申せば中々おろかなり。
 同日の戌時には、辰巳の方より地震して、戌亥の方へ指して行く。此も始めには事もなのめ▼P1589(七七オ)なりけるが、次第につよくゆりければ、山は崩れて谷をうめ、岸は破れて水を湛へたり。堂舎・坊舎・山水・木立・築地・はたいた、皇居まで安穏なるは一もなし。山野のきぎす、八声の鳥、貴賎上下の男女皆、「上を下に打ち返さむずるやらん」と、心うし。山河おつるたきつせに、棹さしわづらふ筏しの乗りもさだめぬ心地して、良久しくぞゆられける。
 八日早旦に、陰陽頭泰親院、御所へ馳せ参りて申しけるは、「去んぬる夜の戌時の大地震、占文なのめならず。重く見え候ふ。二議の家を出でて専ら一天の君に仕へ奉り、楓葉の文に携はりて更に吉凶の道を占ひしより以来、此程の勝事候はず」と奏しければ、法皇仰せの有りけるは、「天変地夭、常の事なり。然れども今度の地震強ちに泰親が騒ぎ申すは、殊なる勘文のあるか」と御尋ね有りければ、泰親重ねて奏し▼P1590(七七ウ)申して云はく、「当道三貴経の其の一、金貴経の説を案じ候ふに、「年を得て年を出でず、月を得て月を出でず、日を得て日を出でず、時を得て時を出でず」と申し候ふに、是は「日を得て日を出でず」と見えたる占文にて候ふ。仏法・王法、共に傾き、世は只今に失せ候ひなむず。こはいかが仕り候はむずる。以ての外に火急に見え候ふぞや」と申して、やがてはらはらと泣きければ、伝奏の人もあさましく思ひけり。君も叡慮を驚かしおはします。公家にも院中にも御祈り共始め行はれけり。されども、君も臣も、「さしもやは」と思し食しけり。若殿上人なむどは、「けしからぬ陰陽頭が泣き様かな。さしも何事かは有るべき」なむど、申しあはれけるほどに、
 〔二十五〕 〔太政入道朝家を恨み奉るべきの由の事〕
 十四日、大相国禅門、数千の軍兵を相具して、福原より上り給ふとて、京中なにと聞き別きたる事はなけれども、何なる事の有らむずるやらむとて、高きも▼P1591(七八オ)賎しきもさわぎける程に、入道、朝家を恨み奉るべきの由、披露をなす。上下万人、こはいかにとあきれ迷へり。関白殿も内々聞し食さるる事や有りけむ、御参内ありて、「入道相国入洛の事は、偏に基房を滅ぼすべき結構と承り候ふ。いかなる目をか見候はむずらむ」とて、よに御心細げに奏せさせ給へば、主上も以ての外に叡慮を驚かさせおはします。「大臣のいかなる目をも見られむは、偏に丸が身上にてこそあらめ」とて、御涙ぐませ給ふぞかたじけなき。誠に天下の政は主上摂禄の御計らひにてこそ有るべきに、たとひ其の儀こそなからめ、いかにしつる事共ぞや。天照大神・春日大明神の神慮も測りがたし。
二十六 〔院より入道の許へ静憲法印遣はさるる事〕
 十五日、入道朝家を恨み奉るべき由、必定と聞こえければ、法皇、静憲法印を以て御使として、入道の許へ仰せ遺されけるは、「凡そ近年朝庭しづ▼P1592(七八ウ)かならずして、人の心調ほらず。世間落居せぬ有様になり行く事、惣別に付けて歎き思し召さるといへども、さてそこにおはすれば、万事憑み思し食されてこそ有るに、天下を鎮むるまでこそなからめ、事にふれて嗷々なる体にて、剰へ又丸を怨むべしと聞こゆるはいかに。こは何事ぞ。人の中言か。此の条、太だ穏便ならず。何様なる子細にてさやうには思ふなるぞ」と仰せ遣さる。法印、院宣を奉りて渡されけり。
 入道出で合はれざりければ、入道の侍、源大夫判官季貞を以て院宣の趣を云ひ入れて、御返事を相待たれけれども、暮に及ぶまで無音なりければ、さればこそと無益に覚えて、季貞を以て罷り返りぬる由を云ひ入れられたりければ、子息左兵衛督知盛を以て、「院宣畏まりて承り候ひぬ。自今以後は、入道においては、院中の宮仕へは思ひ止まり候ひ▼P1593(七九オ)ぬ」とばかりいはれけるが、さすが入道いかが思はれけむ、法印の帰られけるを見給ひて、「やや、法印御房、申すべき事あり」 と宣ひて、中門の廊に出で合ひて宣ひけるは、「先づ故内府が身まかり候ひぬる事、只恩愛の別れの悲しきのみにあらず、当家の運命を量るに、入道随分に悲涙を押さへて罷り過ぎ候ふ。今日とも明日ともしらぬ老の波にのぞみて、かかる歎きにあひ候ふ心の中をば、いかばかりとかは思し食され候ふ。されども、法皇聊も思し食し知りたる御気色にて候はぬ由、漏れ承り候ふ。且は御辺の御心にも御推察候へ。保元以後は乱逆打ち連きて、君安き御心もおはしまし候はざりしに、入道は只大方を執り行ふ計りにてこそ候ひしか、内府こそ正しく手を下し、身を砕きたる者にては候へ。されば、万死に入りて一生を得たる事も度々な
りき。其の外、臨時の御大事、朝▼P1594(七九ウ)夕の政務に至るまで、君の御為に忠を致す事、内府程の功臣は有り難くこそ候ふらめ。
 爰を以て昔を思ひ合はせ候ふに、彼の唐の太宗は、魏徴におくれて悲しみの余りに、「昔の殷宗は良弼を夢中に得、今の朕は賢臣を覚めての後に失ふ」と云ふ碑の文を手づから書きて、廟に立ててこそ悲しみ給ひけれ。鬢を切りて薬に灸り、疵を〓りて血を喰ふは、君臣の徳也。目近くは正しく見候ひし事ぞかし。顕頼の民部卿逝去したりしをば、故院殊に御歎きありて、八幡御幸延引し、御遊を止められき。忠定宰相闕国の時、是も故に御歎き深かりしかば、忠定伝へ承りて老の涙を催しき。都て臣下の卒する事をば、代々の君、皆御歎きある事にて候ふぞかし。さればこそ、『父よりもなつかしながら怖しく、母よりも昵じくして怖しきは、君と▼P1595(八○オ)臣との中』とは申し候へ。
 其に内府が中陰に、八幡へ御幸有り、御遊ありし上、鳥羽殿にて御会有りき。御歎きの色、一事も是を見ず。且は人目こそ恥かしく候ひしか。縦ひ入道が歎きを哀れませ御しまさずと云ふとも、などか内府が忠を思し召しわするべき。又内府が忠を思し召しわするる御事なりとも、などか入道が歎きをば哀れませおはしまさざるべき。父子共に叡慮に叶はざりけむ事、今に於ては面目を失ふ。是一つ。次に、中納言の闕の候ひしに、二位中将殿の御所望候ひしを入道再三執り申し候ひしに御承引なくて、摂政殿の御子三位の中将をなし奉られ候ひし事はいかに。縦ひ入道非拠を申し行ひ候ふとも、一度はなどか聞こし食し入れられ候はざるべき。申さむや、家嫡と云ひ、位階と云ひ、方々理運左右に及び候はざりしを引き替へられまゐらせ候ひし事は、▼P1596(八○ウ)随分本意無き御計らひかなとこそ存じ候ひしか。是二つ。次に、越前国を重盛に給ひ候ひし時は、子々孫々までとこそ御約束候ひしに、死にはつれば召し返され候ふ事、何の過怠に候ふぞ。是三つ。次に、近習の人々皆以て此の一門を滅すべき由を計らひ候ひけり。是私の計らひにあらず、御許容有りけるに依りてなり。事新しき申し事には候へども、縦ひいか
なる誤り候ふとも、争か七代までは思し食しすてられ候ふべき。其に入道既に七旬に及びて、余命幾くならぬ一期の中にだにも、動もすれば失はれ奉るべき御謀で候ふ。申し候はむや、子孫相継ぎて、一日片時召し仕はれむ事難し。凡そは老いて子を失ふは、枯木の枝なきにてこそ候へ。内府におくるるを以て、運命の末に臨める事、思ひ知られ候ひぬ。天気の趣きあらはなり。縦ひいかやうなる奉公を致すとも、叡慮に応ぜむ▼P1597(八一オ)事よも候はじ。此の上は、幾くならぬ老いの身の心を費して何とはし候ふべきなれば、とてもかくても候ひなむと思ひ成りて候ふなり」なむど、且は腹立し、且は落涙して、かきくどき語られければ、法印、哀れにもおそろしくも覚えて、汗水になられにけり。
 「其の時は、誰人なりとも三日の返事にも及びがたかりし事ぞかし。其の上、我が身も近習の身也。成親卿已下はかりし事共は、正しく見聞きし事なれば、我が身も其の人数とや思ひけがさるらむなれば、只今も召し籠めらるる事もや有らむずらむ」と、心中にはとかく案じつづけられけるに、龍の鬚をなで、虎の尾をふむ心地せられけれども、法印もさる人にて、さわがぬ体にて答へられけるは、「誠に度々の御奉公浅からず。一旦恨み申させおはします、其の謂はれ候ふ。但し官位と云ひ俸禄と云ひ、御身に取りては悉く満足す。是既に勲功の▼P1598(八一ウ)莫大なる事を感じ思し食す故とこそ見えて候へ。而るを近臣事をはかり、君御許容ありなむど云ふ事は、偏へに謀臣の凶害と覚え候ふ。耳を信じて目を疑ふは俗の蔽なり。小人の浮言を信じて、朝恩他に異なる君を怨み奉りましまさむ事、冥顕に付けて其の憚り少からず。凡そ天心は蒼々としてはかりがたし。叡慮定めて其の由候ふらむ歟。下として上に逆ふらむ事は、豈に人臣の礼たらむや。能々御思惟候ふべし。不肖の身にて御返報に及び候ふ条、其の恐れ少なからず候へども、此は上に御あやまりなき事を、あしざまに申す人の候ひけるを陳じ開きて、御鬱念
を謝し候ふべく候ふ。貞観政要の裏書に申して候ふぞかし。『仙源澄めりと雖も烏浴流れを濁す』とて、仙宮より出でたる河、仙薬なるが故に、下流を汲む者、命必ず長命也。但し其の河の中間に隠るる山鳥、▼P1599(八二オ)其の流れを沐ぶる時、水忽ちに変じて毒となれり。其の様に、法皇の明徳は仙水たりといへども、執り申す者下流を濁して、あしざまに入道殿に申して候ふと覚え候ふ。ゆめゆめ御恨みあるまじき御事にて候ふ也。其の八幡宮の御幸は哀れなる御事にてこそ候ひしか。其の故は、『あへなくも重盛に後れぬる事、丸一人が歎きのみにあらず。臣下卿相、誰か歎きとせざらむや。金烏西に転じて一天に雲くらく、邪風頻りに戦ひて四海しづかならず』と御定め候ひて、日々夜々の御歎き、今に未だ浅からず。『臨終いかが有りけむ』と御尋ね候ひしかば、或る人、『其の病患は、世の常の所労にては候はざりき。熊野権現に申し請けて給はる悪瘡にて候ひける間、瘡のならひ、臨終正念みだれず二羽合掌の花うるはしくして、十念称名の声たへず、三尊来迎の雲聳きて、九品蓮台に往生すとこそみえて▼P1600(八二ウ)候ひしか』と申して候ひしかば、龍顔に御涙をながさせ給ふのみならず、宮中皆袖
をしぼられ候ひき。当時までも、折に随ひ事に触れては、御歎きの色ところせくこそみえさせ給ひ候へ。さて、院の仰せには、『それこそ何事よりも歎きの中の悦びよ。心肝に銘じてうらやましき物は、只往生極楽の素懐也。丸も熊野に参詣して祈り申したけれども、道の程遥か也。同じ西方の弥陀にておはしませば、八幡宮に参詣して申さばやと思し食す也。且は内府のため、毎日に祈念する念仏読経の廻向も、清浄の霊地にしてこそ金をもならさめ』とて、七日の御参籠候ひき。此則ち内府幽儀の得脱、大相国の御面目、何事か此にすぎ候ふべき。されば御中陰はて候ひなば、怱ぎ御院参候ひて畏りをこそ申させ給はざらめ、御遺恨にや及ぶべき。▼P1601(八三オ)仙桃の水清けれども烏浴流れをにごすと申すたとへ、少しも違ひ候はず」と申されければ、入道、立腹の人の習ひ、心まことに浅くして、袖かき合はせてさめざめとぞ泣き給ひける。
 「次に臨時の祭の御事は、此又龍楼鳳闕の御祈祷にては候はざりき。其の故は、過ぎ候ひし比、八幡宮に怪異頻りに示し候ひけるを、別当大に惶れて護法を下しまゐらせて候ひけるに、御詫宣の候ひけるは、
 『春風に花の都はちりぬべしさかきのえだのかざしなくては
畿内近国闇となりて九民百黎山野に迷ふべし』と仰せ候ひけるを、法皇大いに驚き思し食されて、諸の臣下卿相、息災延命、洛中上下、五畿七道、国土安穏、天下泰平のために、三日三ヶ夜の御祈祷也。此又貴殿の御祈祷に非ずや。故内府は、大国まで聞こえおはしましし賢臣▼P1602(八三ウ)也。されば、常には『国土安穏、人民快楽』と祈らせ給ひし事なれば、草の影にても、小松殿さこそ悦びましましけめ。此の上、猶々御不審候はば、八幡の別当に御尋ね候ふべし。次に越前国を召され候ひけむ事は、未だ承り及び候はず。公も未だ知ろし食さざるにや。怱ぎ奏聞仕りて、若し子細候はば、追つて申し候ふべし。次に二位中将殿の御所望の事は、入道殿の御子孫にても渡らせ給はず。其の上関白殿の御計らひをば、誰か歎き申すべき。縦ひ又一度は公の御あやまり渡らせ給ふとも、臣以て臣たらずと申す本文も候ふぞかし。詮じ候ふ所、只こざかしき申し状にては候へども、追つて御奏聞有るべく候ふ今は暇申して」とて、立ち給ひにけり。
 入道高らかに、「院宣の御使也。各々皆礼儀仕るべし」と宣ひければ、八十余人候ひける人々、一同に皆庭に下りて門送す。法印いとさ▼P1603(八四オ)わがぬ体にて、弓杖三杖ばかり歩み出でて立ち帰り、深く敬崛す。良久しく立ち向かひておはしけるあひだ、「さのみは恐れ候ふ」とて、八十余人、皆縁のきはに立ち帰る時、法印あゆみ出でられにけり。美々しくぞ見えたりける。或る本文に云はく、「君王国を治め、忠臣君を扶く。船能く棹を載せ、棹能く船を遣る」と云へり。此の言思ひ合はせられて哀れ也。「静憲法印、忠臣として能く君を扶け奉り給ひぬる事にこそ。神妙なれ」とて、口々に皆感じあへり。肥後守貞能是を見て、「穴怖しや。入道殿のあれ程に怒り給ひて宣はむには、我等ならば院の御所に有る事無き事、ことよし事申し散らして出でなまし。少もさわがぬ景気にて、返事打ちして立たるる事よ」と、季貞已下の者共是を聞きて、「さればこそ、院中に人々其の数多しと云へども、其の中に僧なれどもえらばれて御使ひにも立つらめ」▼P1604(八四ウ)とぞ、各申しける。
 比は十一月十五夜の事也。法印は西八条の南門より出で給へば、明月の光は東山の嶺、松の木の間よりぞ出で相ひ給ける。法印の胸の中なる仏性の月は、三寸の舌のはしにあらはれて、入道殿の心中の闇をてらし、仲冬三五の夜はの月は、光明々として法印の帰車の前後をかかやかす。心の月もくまもなく、深け行く空の皓月の光も明らか也。法印車に乗りてければ、牛飼怱ぎ車をやらむとす。法印宣ひけるは、「草しばらくおさへよ。夜陰のありきは路次狼籍也。迎への者共を待つべし」とて、下簾かかげたり。明月の光は物見よりぞ差し入りける。法印の皃、愛々としてきよげなり。今宵の月のくまなきに、旧詩を思ひ出でて、
  酔はずは黔中に争か去り得ん、摩囲山の月正に蒼々たり。
  ▼P1605(八五オ)誰人か隴外に久く征戎し、何れの処の庭所に新たに別離せん。
と詠じはてざる処に、迎への者共出で来たり。「たれたれ参りたるぞ」と尋ぬれば、金剛左衛門俊行・力士兵衛俊宗、烏黒なる馬に白覆輪の鞍置きて、御綾の直垂の下に糸火威の腹巻、月の光に映じて合浦の玉をみがけるが如し。一夜叉・龍夜叉とて、大の童のみめよきが、重目結の直垂に菊閉して下腹巻に征矢負ひたり。上下のはずにつの入れたる、しげどうの弓をぞ持ちたりける。法師原には金力・上一・上慢・金幢・他聞・角一・夜叉門法師、下僧七人参りたり。此等も皆、黒革威の腹巻に手鉾・なぎなた・太刀なむどさげたり。此の静憲法印は、内典外典の学生、是非分明の才人也。院内の御気色は諸臣肩並ぶる人なし。万人の仰崇する事は、緇素の中には▼P1606(八五ウ)類なし。綺羅誠に神妙にして、従類多く人にすぐれたり。召し仕ふほどの者は、みな十二三才の小童部、法師原に至るまでも、能も賢く、力もつよかりけり。中にも金剛左衛門・力士兵衛尉は、世に聞こえたる大力とぞ聞こえし。
 さても法印帰参して、太政入道の御返事の様、委しく奏せられければ、誠に入道の恨み申す所一事として僻事なく、道理至極して思し食されければ、法皇更に仰せられ遣りたる御事もなくして、「こはいかがせむずる。猶々も法印誘へてみよ」とぞ、仰せ事ありける。
二十七 〔入道卿相雲客四十余人解官する事〕
 十六日、入道朝家を恨み奉るべき由聞こえけれども、さしもの事やは有るべきと思し食されけるほどに、関白殿御子息、中納言師家を始め奉りて、大政大臣師長公、按察大納言資賢已下の卿相雲客、上下北▼P1607(八六オ)面の輩に至るまで、都合四十二人、官を止めて追ひ籠めらる。其の内、参議皇后宮権大夫蔵人頭兼右近衛督藤原光能卿、大蔵卿右京大夫伊与守高階泰経朝臣、蔵人左少弁兼権大進藤原基親朝臣、已上三官三職共に止めらる。按察大納言資賢卿、中納言中将師家卿、右近衛権少将兼讃岐権守資時朝臣、皇大后宮権少進兼備中守藤原光憲朝臣、已上二官を止めらる。其の中に、関白殿をば大宰帥に遷して筑紫へ流し奉られけるこそあさましけれ。「かかるうきよにはとてもかくても有りなむ」と思し食しける上、御命さへあやふく聞こえければ、鳥羽の古河と云ふ所にて、大原の本覚上人を召して御ぐしおろさせ給ひにけり。御年三十五、世の中盛りとこそ思し食されけれ。「礼義よく知ろし食して、▼P1608(八六ウ)くもりなき鏡にて渡らせ給ひける物を」と、世の惜しみ奉る事なのめならず。出家の上は一等をだにも減ぜらるる事なれば、始めは日向国と聞こえしかども、出家人は本定まりたる国へは
趣かぬ事なれば、備前国ゆばさまと云ふ所にぞ留め奉りける。
 大臣流罪の例を尋ぬるに、蘇我左大臣赤兄公、右大臣豊成公、左大臣兼名公、菅原右大臣〈今の北野天神御事也〉、左大臣高明公、内大臣伊周公に至るまで、其の例既に六人なりと云へども、忠仁公・昭宣公より以来、摂政関白の流罪せられ給ふ事、是ぞ始めなりける。故中殿基実公の御子、二位中将殿基通公と申すは、今の近衛入道殿下の御事也。其の時、大政入道の御聟にておはしけるを、一度に内大臣関白になし奉ると聞こゆ。円融院の御宇、天禄三年十一月一▼P1609(八七オ)日、一条摂政伊尹公謙徳公、御年四十九にて俄に失せさせ給ひたりしかば、御弟の堀川関白兼通忠義公、従二位中納言にて渡らせ給ひけるが、大納言を経ずして、御弟の法興院の入道殿大納言大将にて渡らせ給ひけるが、先に越えられさせ給ひけるを、越え返し奉りて、内大臣正二位にあがらせ給ひて、内覧の宣旨を蒙せおはしましたりしをこそ、時の人目を驚かしたる御昇進と申ししに、是は其にも猶超過せり。非参議にて二位中将より宰相大納言大将を経ずして大臣関白に成り給へる例、是や始めなるらむ。されば、大外記、大夫史、執筆の宰相に至るまで、皆あきれたる体也。大方高きも卑しきも、是非に迷はぬは一人もなかりけり。去々
年の夏、成親卿父子、俊寛僧都、北面の下臈共が事に逢ひしをこそ、あさましと君も思し食し、人も思ひしに、▼P1610(八七ウ)是は今一きはの事なり。
 されば、「是はなに事故ぞ。穴倉なし。此の関白にならせ給へる二位中将殿の、中納言に成り給ふべきにてありけるを、前の関白殿の御子、三位中将師家とて、八才に成給へりしが、そばより押ちがへて成り給へる故」とぞ申しけれども、「さしもやは有るべき。さらば、関白殿ばかりこそ、かやうの咎にもあたり給はめ。四十余人までの人の事に逢ふべしや。いかさまにも様あるべし」とぞ申しあへりける。天魔外道の、入道の身に入り替はりにけるよとぞみえける。
 人の夢にみけるは、讃岐院御幸ありけるに、御共には宇治の左のおとど、為義入道など候ふなり。院の御所へ入御有らむとて、先づ為義を入れられてみせられければ、いそぎ罷り出でて、「此の御所には御行ひまなく候ふ也。其の上、只今も御行法のほどにて候ふ」と申しければ、「さては▼P1611(八八オ)叶はじ」とて還御あるに、為義申しけるは、「さ候はば、清盛が許へ入らせ給へ」と申しければ、それへ御幸なりけるとみたりけるとかや。さればにや、君をもあしく思ひまゐらせ、臣をもなやまし給ふらむ。まことにこの夢思ひ合はせらるる入道の心中也。但し、御共に宇治の左のおとどの候ひ給はむには、太政大臣、憂き御目を御覧ぜさせ給ふべしや。心に入りかはり給はんにも、此の御事計りをば、よきやうにこそ入道も計らはれむずれ。これ計りぞ心得がたき。
 人は高きも賎しきも、信は有るべき事なり。法皇は常に御精進にて、御行ひまなきによりて、悪魔も恐れ奉りけり。入道は、若くしては信もありて、保元の合戦の時も 「朝日に向かひてはいくさせじ」とたてられたりけるが、其の後は余りに朝恩にほこりて、信も闕け給へり。富みておごらざる者なしと云ふ事は、此の入道の有さまにてぞ有るべ▼P1612(八八ウ)きと、今こそ思ひ合はせけれ。凡そは人の至りて栄えて心のままなるも、其の孫絶えはてぬべき瑞相なりと心得て、能々慎むべき事なり。
 按察大納言資賢卿、同じき子息左少将資時、同孫少将雅賢、已上三人をば、京中を追ひ出ださるべき由、藤大納言実国卿を上卿として、博士判官中原章貞を召して宣下せらる。いづくを定むともなく、都の外へ追はれけるこそ悲しけれ。中有の旅とぞ覚えける。官人来たりて追ひければ、怖しさの余りに物をだにも宣ひおかず、孫子引き具して怱ぎ出で給ふ。北方より始めて、女房侍、をめきさけぶ事おびたたし。三人涙にくれ給ひて、行く先もみえねども、其の夜中に九重の中をまぎれ出でて、八重立つ雲の外へぞ思ひ立たれける。西朱雀より西を指して、大江山生野の道を経つつ、丹波国▼P1613(八九オ)村雲と云ふ所に暫くやすらひ給ひけるが、後には信濃国に落ち留まり給ふとぞ聞こえし。此の卿は、今様朗詠の上手にて、院の近習、当時の寵臣にておはせしかば、法皇も諸事内外無く仰せ合はれける間、入道殊にあたまれけるにや。
二十八 〔師長尾張国へ流され給ふ事 付けたり師長勢田に参り給ふ事〕
 太政大臣は、同十七日、都を出で給ひて、尾張国へ流され給ふとぞ聞こえし。此の大臣は、去んぬる保元々年七月、父宇治悪左府の事に逢ひ給ひし時、中納言中将と申して、御歳十九歳にて、同八月、土佐国へ流され給ひたりしが、御兄の右大将隆長朝臣は、帰京をまたず配所にて失せ給ひにき。是は九年を経て、長寛二年六月廿七日、召し返され給ひて、同十月十三日、本位に補して、永万元年八月十七日、正二位に叙せらる。仁安元年十一月五日、前中納言より権大納言に移り給ふ。折節大納言あかざりければ、数の外にぞ▼P1614(八九ウ)加はり給ひける。大納言の六人になる事、是より始まれり。又、前中納言より大納言に移る事、後山科大臣三守公、宇治大納言隆国の外は先例希也とぞ聞こえし。管絃の道に達して、才芸人に勝れて、君も臣も重くし奉り給ひしかば、次第の昇進滞らず、程無く太政大臣にあがらせ給へりしに、「いかなる先世の御宿業にて、又かかるうき目に遇ひ給ふらむ」とぞ申しける。保元の昔は西海土佐国に遷り、治承の今は東関尾張国へ趣き給ふ。本より罪なくして配所の月を見むと云ふ事は、心有るきはの人の願ふ事なれば、大臣敢へて事ともし給はず。
 十六日の暁方、山階まで出だし奉る。同十七日の朝、暁ふかく出で給へば、合坂山に積る雪、よもの梢も白くして、有あけの月ほのかなり。哀猿空にをとづ▼P1615(九〇オ)れて、遊子残月に行きけむ寒谷の関、思ひ出でらる。昔延喜第四の宮蝉丸の、琵琶を弾じ和歌を詠じて、嵐の風を凌ぎつつ住み給ひけむ藁屋の、心細く打ち過ぎて、打出浜、粟津原、未だ夜なればみえわかず。抑も天智天皇の御宇、大和国明日香の岡本の宮より当国しがの郡に移りて、大津の宮を作られたりけりと聞くにも、此の程は皇居の跡ぞかしと哀れ也。あけぼのの空になり行けば、せたの唐橋渡る程に、水海遥かに顕はれて、彼の満誓沙弥がひらの山に居て、「漕ぎ行く船」と詠めけむ、あとの白波哀れなり。
 野路の宿にもかかりぬれば、かれ野の草に置ける露、日影に解けて旅衣かはくまもなくしほれつつ、篠原東西へ見渡せば、遥かに長き堤みあり。北には郷人栖をしめ、南に池水遠く澄めり。遥かにむかへの岸の水陸には、みどり▼P1616(九〇ウ)深き十八公、白波の色に移りつつ、南山の影をひたさねども、青くして滉瀁たり。洲前にさわぐをしがもの、あしでを書ける心地して、都を出づる旅人の、此の宿にのみ留まりしが、打ち過ぐるのみ多くして、家居も希になり行けり。是を見るに付けても、「かはりゆく世の習ひ、あすかの河の淵瀬にもかぎらざりき」と哀れなり。
 鏡の宿にもつきぬれば、「昔翁の給ひ合ひて、『老いやしぬる』と詠めしも、此の山の事なりや」と、借りたくは思へども、むさ寺にとどまりぬ。まばらなる床の冬の嵐、夜ふくるままに身にしみて、都には引き替はりたる心地して、枕に近き鐘の音、暁の空に音信れて、彼の遺愛寺の草の庵りのねざめもかくやと思ひしられ、がまうのの原打ちすぐれば、おいその森の杉村に、四方もかすかにかかる雪、朝立つ袖にはらひあへず。おとにきこえしさめがゐの、▼P1617(九一オ)闇き岩根に出づる水、水辺氷あつくして、実に身にしむ計りなり。九夏三伏の夏の日も、斑〓婦が団雪の扇ぎ、巌泉に代る名所なれば、玄冬素雪の冬の空、月氏雪山の辺なる無熱池を見る心地する。
 柏原をもすぎぬれば、美乃国関山にかかりぬ。谷川雪の底に音むせび、嶺嵐松の梢にしぐれて、日影も見へぬ打ち下り道、心細くも超えすぎぬ。不和の関屋の板びさし、年経にけりと見置きつつ、杭瀬川に留まり給ふ。夜ふけ人定まれば、霜月廿日に及ぶころなれど、皆白たへの晴の空、清き河瀬にうつろひて、照る月浪も澄み渡り、二千里の外の故人の心も思ひやり、旅の空いとど哀れに思ひなし、尾張国井戸田の里に着き給ひぬ。彼の唐の太子賓客白楽天、元和十五年の秋、九江郡の司馬に▼P1618(九一ウ)左遷せられて、尋陽の江の口りに馳騁し給ひける、古きよしみを思ひ遣りて、塩干方、塩路遥かに遠見して、常は浪月を臨み、浦風に嘯きつつ、琵琶を弾じ詩歌を詠じて、等閑に日を送り給へり。
 或る夜、当国第三の宮、熱田の社に参詣あり。歳経たる森の木の間より、もりくる月の指し入りて、〓の玉垣色をそへ、和光利物の庭に引く、示索の風に乱れ、何事に付けても神さびたる景気なり。有る人云はく、「此の宮と申すは、素盞烏尊是なり。始めは出雲国に宮造りありき。八重立つと云ふ卅一字の詠、此の御時より始まれり。景行天皇御宇、此の砌に跡を垂れ給へり」と云へり。師長、神明法楽の為に琵琶を弾じ給ひけるに、所元より無智の俗なれば、情をしれる人希也。邑老、▼P1619(九二オ)村女、漁人、野叟、頭をうなだれ、耳を峙つと云へども、更に清濁を分かち、呂律をしれる事なし。されども、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗をどりほとはしり、虞公歌を発せしかば梁塵動きうごく。物の妙なるを極むる、自然に感を催す理にて、満座涙を押さふ。其の声〓々竊々として、又錚々たり。大絃小絃の金桂のあやつり、大珠小珠の玉盤におつるに相似たり。調弾する数曲を尽くし、夜漏深更に及びて、「願はくは今生世俗文字の業」と云ふ朗詠と、「風香調の中に花芳複の薫りを含み、流泉の曲の間に月清明の光明らかなり」と云ふ朗詠とを両三返せられけるに、神明感応に堪へず、宝殿大いに震動す。衆人身の毛竪
ちて、奇異の思ひをなす。大臣は、「平家のかかる悪▼P1620(九二ウ)行を至さざらましかば、今此の瑞相ををがまましやは」と、且は感じ、且は悦び給ひけり。
 或る時又、徒然の余りに宮路山に分け入らせ給ふ。比は神無月廿日余りの事なれば、梢まばらにして、落葉路を埋み、白霧山を隔てて、鳥の一声幽か也。山又山を重ぬれば、里を返り見し、とぼそもへだたりぬ。後は松山峨々として、白石の滝水漲り落つ。則ち石上に流泉の便りを得たる勝地なり。苔石面に生ひて、上絃の曲を調べつべし。岩上に唐皮の打敷、紫藤のこうの御琵琶一面、御随身有りけるを、滝に向けて御膝の上にかきすゑ、撥を取り、絃を打ち鳴らし給ふ。四絃弾の中には宮商弾を宗とし、五絃弾の中には玉商弾を先とす。軽く〓へ、慢く撚り抹ひて復挑す。初めは霓▼P1621(九三オ)裳を為し、後には大絃〓々として急雨の如し。小絃竊々として秘語に似たり。第一第二の絃は索々たり。春の鴬間関として、花の底に滑らかなり。第三第四の絃の声は竊々たり。寒泉幽咽して氷の下に難まし。大珠小珠の玉盤に落つる音、金桂のあやつり、鳳凰・鴛鴦の和鳴の声を副ずと云へども、事の体、山神感を垂れ給ふらむと覚えたり。さびしき梢なれども、葱花啄木は暗に玲瓏の響きを送る。其の時、水の底より青黒色の鬼神出現して、膝拍子を打ちて、御琵琶につけてうつくしげなる声にて笙歌せり。何者のし態なる
らむと穴倉なし。曲終はれり。弾を払ひ撥を納め給ふ時、鬼神申して云はく、「吾は此の水の底に多く年月をすごすと云へども、未だかかる目出たき御事をば承らず。此の御悦びには、▼P1622(九三ウ)今三日の内に御帰洛のあらむずるなり」と申しもはてねば、かきけつやふに失せにけり。水神の所行とは一じるし。此の程の事を思し食しつづくるに、「悪縁は則ち善縁とは是なりけり」と思し食し知られけり。其の後、第五日と申ししに、帰洛の奉書を下されき。管絃の音曲を極め、当代までも妙音院大相国と申すは、即ち此の御事也。「妙音菩薩の化し給へるにや」とぞ申しける。
 村上聖主、天暦の末の比、神無月の半ば、月影さえて風の音しづかに、夜深け人定まりて、清涼殿に御坐して、水牛の角の撥にて、還城楽の破を調べさせ給ひつつ、御心を澄まさせ給ひけるに、天より影の如くにして飛び来たりて、暫く庭上に休む客あり。聖主是を御覧じて、「何者ぞ」と問ひ給ふ。「吾は是、大唐の琵琶の博士、簾▼P1623(九四オ)承武と申す者なり。天人の果報を得て、虚空に飛行する身にて候ふが、只今ここを罷り過ぎ候ふが、御琵琶の撥音につきまゐらせて参りて候ふなり。いかむとなれば、ていびむに琵琶の三曲を授けし時、一の秘曲をのこせり。三曲とは、大常博士楊真操・流泉・啄木、是なり。流泉に又二曲あり。一には石上流泉、二には上原流泉是なり。恐らくは君に授け奉らむ」と申しければ、聖主殊に感じ給ひて、御坐を退けて御琵琶を指し置き給へば、簾承武是を給はりて、流泉・啄木・養秦蔵の秘曲をぞ尽くしける。主上本の座敷になほり給ひ、彼の曲を引き給ふに、撥音猶勝れたり。秘曲伝へ奉りて後、虚空に飛び上り、雲を分けて上りにけり。帝王是を遥かに叡覧ありて、御衣の袖を御顔に押し当てて感涙をぞ流されける。
 此の大臣、帰京の後、御▼P1624(九四ウ)参内ありて琵琶を調べ給ひしかば、月卿雲客耳をうなだれ、堂上堂下目をすまして、何なる秘曲をか弾き給はむずらむと思ひ居たるに、世の常の様なる賀王恩・還城楽を弾かれたりけるに、諸人思はずに成りにけり。而るに、「賀王恩・還城楽」とは「王恩を悦びて、都へ帰り楽しむ」とよめり。昨日は東関の外に遷されて物うきすまひなりけれども、今日は北闕の内に仕へて楽しみ栄へ給へば、此の曲を奏し給ふも理とぞおぼゆる。
 此の殿を平家殊に悪み奉りける事は、大唐より難字の文を作りて、公家へ 献りたりけり。是を読む人なかりけるに、此の殿の読まれたりけり。平家の為に悪しかりける故也。先度に文字三つあり。一には 「国」の作り「口」。此をば、「王なき国」とよまれけり。二には国の作の中に分と云ふ字を三つ書きたり。「〓」。此をば、「国乱れて喧」と読まれたり。三は▼P1625(九五オ)身体の身文字を二つ並べて書きたり。「身身」。此をば「したためにやらむぞ」と読まれたり。後の度には、「家中家柱中柱、空中七日有否、海中七日有否」。此の文をも此の殿み給ひて、唇をのべて咲ひて皆読まれたりけれども、承りける人々細かに覚えざりけり。「是は平家の悪行の異国まで聞こえて、国の主を恥しめ奉る文なるべし」とぞ、後には人申しける。
 左衛門佐業房は伊豆国へ流さる。備中守光憲は本鳥切られにけり。江大夫判官遠業、「科せらるべき四十二人が内に入りたり」と聞きて、「今はいかにも遁るべきにあらず。誠や、流人前右兵衛佐頼朝こそ、平治の乱逆に父下野守誅課せられ、したしき者共みなみな失はれて、只一人きり残されて、伊豆国蛭嶋に流されておはすなれ。彼の人は未だたのもしき人なり。打ち憑みて下りたらば、若し此の難を遁るる事も▼P1626(九五ウ)や」と思ひて、瓦坂の家を打ち出でて、父子二人稲荷山に籠もりたりけるが、「能々思へば、兵衛佐、当時世にある人にてもなし。されば左右なく入道勘当の我等を請け取る事も有がたし。又、合坂・不破関を超え過ぎむ事もをだしかるべしとも覚えず。其の上、平家の家人国々に充満せり。路頭にして云ふ甲斐なく搦め取られて、生きながら恥をさらさむ事も心うかるべし」と思ひ返して、瓦坂の宿所へ打ち返りて、家に火を指して、焔の中へ走り入りて、父子共に焼け死にけり。時に取りてはゆゆしかりける事共なり。此の外の人々も、逃げ迷ひ、周章て騒ぎあへり。あさましとも云ふはかりなし。
 去々年七月、讃岐法皇御追号、宇治の悪左府贈官の事有りしかども、怨霊も猶鎮まり給はぬやらむ。此の世の有様、偏へに天魔の所行と▼P1627(九六オ)ぞ見えし。「凡そ是に限るまじ。猶入道腹すゑかね給へり」とて、残れる人々をぢあひけるほどに、
二十九 〔左少弁行隆の事〕
 其の比、左少弁行隆と申す人は、閑院の右大臣冬嗣よりは十二代、故中山中納言顕時卿の長男にておはせしが、二条院の御代に近く召し仕はれて弁に成り給ひし時も、右少弁長方朝臣を越えて左に加はられにけり。五位の正四位し給へりしに、頭要の人を越えなむどしてゆゆしかりしが、二条の院におくれ奉りて時を失へりしかば、仁安元年四月六日、官止められて籠居し給ひしより、永く先途を失ひて、十五年の春秋を送りつつ、夏秋の更衣にも及ばず、朝暮の食も心にかなはずして、悲しみの涙を流し、春の苑には硯を鳴らして花を以て雪と称し、秋の籬には毫を染めて菊を仮りて星と号す。▼P1628(九六ウ)伊賀入道寂念が霊山に籠もり居て、
  春きてもとはれざりけり山里を花さきなばとなに思ひけむ
と詠じてながめ居たりし心地して、あかしくらし給ひける程に、十六日さよふくるほどに、太政入道殿よりとて使ひあり。行降さわぎ給へり。「人々あわつめり。我もいかなるべきにか。此の十四五年の間は、何事にも相交はらねば」とはおぼしけれども、「さるに付けても、謀叛なむどに与力するよし、人の讒言やらむ」と、思はぬ事なく覚しけり。「昔村上の御宇、橘ノ直幹が、『後進の勧花を望めば、眼雲路に疲れ、傍人の栄貴に対べば、顔をもて泥砂に低る』と奏しけむは、責めて猶朝庭に仕へ奉り、昇進の遅き事をこそ歎きしに、是は直幹が思ひを離れて三五の星霜を送り、今▼P1629(九七オ)入道に怨まれ奉るべしとは思はねども、当世のありさま、咎無くして罪を蒙れば、いかにとあるべき事やらむ」と、なげきながら、「怱ぎ参るべし」と宣ひたりけれども、牛、車もなし、装束もなし。おぼし煩ひて、弟の前左衛門佐時光と申しける、おはしけり、「かかる事こそあれ」と仰せ送られたりければ、牛車・雑色の装束なむど怱ぎ献り給へりければ、西八条へをののくをののくおはしたれば、入道見参し給ひて宣ひけるは、「故中納言殿したしくおはしましし上、殊に憑み奉りて大小事申し合はせ奉り候ひき。其の御
なごりにておはしませば、おろかに思ひ奉る事なし。御籠居年久しくなりぬる事、歎き存じ候へども、法皇の御計らひなれば、力及ばず候ひき。今は御出仕あるべく候ふ」と宣ひければ、行隆申されけるは、「此の十四五年が間は迷ひ者になりはて候ひて、出仕の法、見苦しげなる▼P1630(九七ウ)者にて、何にすべしとも存ぜず候へども、此の仰せの上は、ともども御計らひに随ひ奉り候ふべし」とて手を合はせ、「今の仰せ、偏へに春日大明神の御計らひと仰ぎ奉り候ふ」とて、出でられぬ。御共の者共、別事なしと思ひて怱ぎ帰る。弟の左衛門佐の許へ人を遣はして、「別事なく、只今なむ帰りて候ふ」と告げられたり。行隆、入道の云ひつる様を語り給ひければ北の方より始めて、皆泣き咲ひして悦びけり。後朝に、源大夫判官季貞が小八葉の車に入道の牛懸けて、牛童装束相具して、百疋・百貫・百石を送られたりける上、「今日、弁になし返し奉るべし」と有りければ、悦びなむどは云ふはかりなし。家中上下、手の舞ひ足の置き所を知らず。余りの事にや、「夢かや」とぞ思ひける。
 さて、十七日、右少弁親宗朝臣、追ひ籠められしかば、其の所を右少弁に成し返して、同十八日、五位蔵人になさるるに、▼P1631(九八オ)今年は五十一になり給へば、今更又わかやぎ給ふも哀れなり。
  遂にかく花さく秋になりにけり世々にしほれし庭のあさがほ
 かくて年月をふるほどに、此の人の御子、東大寺長官中納言宗行卿と申しし人は、此の後四十三年の春秋を経て、承久三年治乱の時、京方為りし間、其の扶に依りて関東へ召し下され、駿河国浮嶋が原にして、断頭罪科の由を聞きて、旅宿の枕の柱に、かくぞ書き付けける。
  今日すぐる身をうきしまが原にてぞ遂の道をば聞き定めつる
「昔は南陽県の菊水、下流を汲みて齢を延べ、今は東海道の黄河、西岸に宿りて命を失ふ」と書き給へり。遂に関にして失はれ給ひぬ。今の世までも哀れなる事には申し伝へたり。
▼P1632(九八ウ)三十 〔法皇を鳥羽に押し籠め奉る事〕
 廿日、院御所七条殿に、軍兵雲霞の如く四面に打ちかこみたり。二三万騎もや有らむとみゆ。こは何事ぞと、御所中に候ひ合ひたる公卿・殿上人、上下北面の輩、局々の女房までも、さこそあさましくおぼしけめ。心中ただおしはかるべし。「昔、悪右衛門督が三条殿をしたりける様に、火を懸けて人を皆焼き殺さむとする」と云ふ者もありければ、局の女房、上童なむどはをめき叫びて、かちはだしにて物をだにも打ちかづかず、迷ひ出でて倒れふためき、さわぎあへる事、云ふはかりなし。日来の世の有様に、今日軍兵のかこみ様、さにこそとは思し食しけれども、さすがに、忽ちに是程の事あるべしとも思し食しよらざりけるやらむ、法皇もあきれさせ給ひたりけるに、前右大将宗盛公参られたりければ、「こは何事ぞ。▼P1633(九九オ)いかなるべきにてあるぞ。遠き国、眇かの嶋へ放たむとするか。さほど罪深かるべしとは覚えぬ物を。主上かくておはしませば、世の政に口入する計りにてこそあれ。其の事さるべからずは、是より後には天下の事にいろはでこそあらめ。汝さてあれば、思ひ放たじと恃みてあるに、いかにかく心うき目をば見するぞ」と仰せられければ、右大将申されけるは、「さしもの御事は争か候
ふべき。世を鎮め候はむ程、暫く鳥羽殿へ渡しまゐらすべき由を、入道申し候ひつる」と申せば、「ともかくも」と仰せられければ、御車指し寄す。
 大将やがて御車寄に候ふ。左衛門佐と申しし女房、出家の後には尼ぜと召されし尼女房一人ぞ、御車の尻に参りける。御物具には、御経箱計りぞ御車には入れられける。法皇は、「さては宗盛もまゐれかし」と思し食したる御気色のあらはに見えさせ▼P1634(九九ウ)給ひければ、「心苦しき御共して、見置きまゐらせばや」とは思はれけれども、入道のけしきに恐れて参られず。其に付けても、法皇は、「兄の内府には事の外に劣りたる者かな」とぞ思し食されける。「理なり。丸は一年かかる目をみるべかりしを、故内府が命に代へて云ひ留めたりしによりてこそ、今までは安穏なりつれ。内府失せぬる上は、諌むる人もなしとて、其の所を得て、憚る所もなく加様にするにこそ。行末こそ更に恃もしからね」とぞ思し食しける。公卿・殿上人の一人も供奉するもなし。北面の下臈二三人と、御力者金行法師計りぞ、「君はいづくへ渡らせ給ふやらむ」と思ひける心うさに、御車の尻に、下臈なれば、かいまぎれてぞまゐりける。其の外の人々は、七条殿より皆ちりぢりに失せにけり。御車の前後左右には、▼P1635(一〇〇オ)三万余騎の軍兵打ち団んで、七条を西へ、朱雀を下りに渡らせ給へば、京中の貴賎上下、し
づのをしづのめに至るまでも、「院の流されさせ給ふ」とののしりて見奉り、武き物のふも涙を流さぬはなかりけり。
鳥羽の北殿へ入らせ給ひにければ、肥前守泰綱と申ける平家の侍、守護し奉る。法皇の御すまひ、只おしはかりまゐらすべし。さるべき人、一人も候はず。尼ぜばかりぞ、ゆるされてまゐりける。只夢の御心地して、長日の御行法、毎日の御勤め、御心ならず退転す。供御まゐらせたりけれども、御覧じも入れず。先立つ物は只御涙ばかりなり。門の内外には武士充満せり。国々より駈り集められたる夷なれば、見馴れたる者もなし。つべたましげなる顔けしき、うとましげなる眼やう、怖しともおろかなり。
 大膳▼P1636(一〇〇ウ)大夫業忠が子息、十六歳にて左兵衛尉と申けるが、いかにしてまぎれ参りたりけるやらむ、候ひけるを召して、「今夜、丸は一定失はれぬると覚ゆるなり。いかがせむずる。御湯をめさばやと思し食すはいかに。叶はじや」と仰せ有りければ、今朝より肝魂も身に随はず、をむばく計りにて有りけるに、此の仰せを承れば、いとど消え入る様に覚えて、物もおぼえず悲しかりけれども、狩衣にたまだすき上げて、水を汲み入れて、こしばがきをこぼち、大床のつか柱をわりなむどして、とかくして御湯しいだしたりければ、御行水まゐりて、泣々御行ひぞ有りける。最後の御勤めと思し食されけるこそ悲しけれ。されども別事なく夜はあけにけり。
 去んぬる七日の大地震は、かかるあさましき事の有るべかりける前表なり。十六洛叉の底までもこたへて、堅牢▼P1637(一〇一オ)地神も驚動し給ひけるとぞ覚えし。陰陽頭泰親朝臣、馳せ参りて泣々奏聞しけるも理なりけり。彼の泰親朝臣は、晴明五代の跡を稟けて、天文の淵源を究む。上代にもなく、当世にも並ぶ者なし。推条掌を指すが如し。一事も違わず。「さすのみこ」とぞ人申しける。雷落ち懸かりたりけれども、雷火の為に狩衣の袖計りはやけき、身は少しもつつがなかりけり。
三十一 〔静憲法印法皇の御許に詣る事〕¥¥
 廿一日、静憲法印は、此度は御使の儀にてはなくて、私に思ひ切りたる気色にて、太政入道の許へ行き向かひて申しけるは、「法皇鳥羽殿に渡らせ給ふが、人一人も付きまゐらせぬよし承り候ふが、心苦しく覚え候ふ。然るべくは御免されを蒙らむ」と泣々申されければ、法印、うるはしき人の事あやまつまじきにて有りければ、ゆるされてけり。手を合はせ悦びて、怱ぎ鳥羽殿へ参られたりければ、御経打ち▼P1638(一〇一ウ)貴くあそばして、御前に人一人も候はざりけり。静憲法印参られたりけるを御覧じて、うれしげに思し食して、「あれはいかに」と仰せ有りもはてず、御経に御涙のはらはらと落ちかかりけるを見まゐらせて、法印も余りに悲しく覚えければ、「何に」ともえ申さで、御前にうつ臥して声も惜しまず泣き給へり。尼ぜも思ひ入りて臥し沈みたりけるが、法印の参られたりけるを見ておきあがりつつ、「昨日の朝、七条殿にて供御まゐりたりし外は、夜部も今朝も御湯をだにも御覧じ入れず。長き夜すがら御寝ならず、御歎きのみ苦しげに渡らせおはしませば、ながらへさせ給はむ事もいかがと覚ゆる心うさよ」とて、さめざめと泣き給ひければ、「いかに供御はまゐらぬにか。此の事更に歎きと思し食
すべからず。平家世を我がままにして、既に▼P1639(一〇二オ)廿余年になりぬ。何事も限りある事なれば、栄耀極まりて宿運つきなむとする上、天魔彼の身に入り代はりて、かやうに悪行を企つと云へども、君誤らせ給ふ事、一つなし。かくて渡らせ給ふとも、天照大神・正八幡宮、君の取り分きて恃みまゐらせ給ふ日吉山王七社、一乗守護の御誓ひ違ふ事なくして、彼の法花八軸に立ちかけりてこそ、護りまゐらせおはしまし候ふらめ。臣下人民の為には倍々仁を行ひ恵みを施し、政務に御私なからじと思し召さば、天下は君の御代になりかへり、悪徒は水の泡と消え失せむ事、只今也」と申されて、供御すすめまゐらせらる。御湯漬少しまゐりたりければ、尼前も少し力付きて、君も聊かなぐさむ御心おはしましけり。
 此の左衛門佐と申す女房は、若くより法皇の御母儀待賢門院に候はれけ▼P1640(一〇二ウ)るが、品いみじき人にてはなかりけれども、心さかざかしうして、一生不犯の女房にておはしければ、浄き者なりとて、法皇の御幼稚の御時より近く召し仕はせ給ひけり。臣下も君の御気色によりて 「尼御前」とかしづきよばれけるを、法皇のうやまふ字を略して、御かたことに「尼ぜ」と仰せの有りけるとかや。かかりければ、鳥羽殿へも只一人付きまゐらせられたりけり。
 主上高倉院は、臣家の多く滅び失せ、関白殿の事にあはせ給ひたるをだにも、なのめならず歎き思し食しけるに、まして法皇のかやうにおしこめられさせおはしますと聞こし食されしかば、何事も思し食し入らぬさまなり。日を経つつ思し食し沈みて、供御もはかばかしくまゐらず、御寝も打ち解けてならず。常は「御心地なやまし」とて、夜のおとどに入らせおはしませば、后宮を始め奉り、▼P1641(一〇三オ)近く候ふ女房達も、「いかなるべき御事やらむ」と、心苦しくぞ思ひ奉りける。内裏には、法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給ひし日より、御神事にて、毎夜に清涼殿の石灰の壇にて大神宮を拝しまゐらせ給ひけり。此の御事を祈り申させおはしましけるにこそ。同じき親子の御間と申しながら、御志の深かりけるこそ哀れに止む事なけれ。「百行中には孝行を以て先とす。明王は孝を以て天下を治む」といへり。されば、「唐尭は老い衰へたる母を尊す。虞舜は愚頑なる父を敬ふ」といへり。漢の高祖帝位に即き給ひて後、父大公を教へ給ひしかば、「天に二つの日なし、地に二つの主なし」とて、弥よ恐れ給ひしに、太上天皇の位を授け給ひき。是皆漢家の明王の行ひ給ふ事なり。彼の賢王聖主の先規を追はせお
はしましけむ、天子の御政こそ目出たけれ。
 二条院も▼P1642(一〇三ウ)賢王にて渡らせ給ひけるが、御位に即かせ給ひて後は、「天子に父母なし」と常には仰せられて、法皇の仰せをも用ゐまゐらせ給はざりしかば、本意なき事に思し食したりし故にや、世をもしろしめす事も程なかりき。されば、継体の君にても渡らせ給はず、正しく御譲りを受けさせおはしましたりける御子の六条の院も、御在位纔かに三年、五歳にて御位退かせ給ひて、太上天皇の尊号有りしかども、未だ御元服もなくて、御年十三才にて安元三年七月廿七日に失せさせ給ひにき。只事ならざりし御事なり。
三十二 〔内裏より鳥羽殿へ御書有る事〕
 内裏より鳥羽殿へ、忍びて御書有り。「世も閑かならず、君もさやうに渡らせ給はむには、かくて雲居に跡を留めても何にかはすべき。彼の寛平の昔の跡を尋ね、花山の古きよしみを訪ねて、位を去り家を出でて、山林流浪の▼P1643(一〇四オ)行者とも成り候はばや」と申させおはしましたりければ、御返事には「我身には君のさて渡らせ給ふをこそ、たのみにては候へ。さやうに思し食し立ちなむ後、何の憑みか候ふべき。ともかくも、此の身の成りはてむ様を御覧じはてむとこそ思し食され候はめ。努々々有るべからざる御事也。いたく震襟を悩まし給はむ事、還りて心苦しかるべし。さな思し食され候ひそ」なむど、こまごまなぐさめ申させおはしましければ、主上御報書を龍顔にあてて御涙に咽び給ふぞかなしき。院内さへかやうに御物思ひに結ぼほれさせおはしますぞあさましき。貞観政要に云はく、「君は船なり、臣は水。浪を治すれば船よく浮かぶ。水浪を湛ゆれば、船又覆へさる」と云へり。「臣よく君を持つ。臣又君を覆へす」。保元・平治両度の合戦には入道相国君を持ち奉るといへども、安元・治承の今は又、君を覆し▼P1644(一〇四ウ)奉らる。其の事、本文に相応せり。
三十三 〔明雲僧正天台座主に還補の事〕
 廿六日、明雲大僧正、天台座主に還補し給ふ。七宮御辞退ありけるに依りてなり。
 入道は、かやうにしちらして、「中宮、内裏に渡らせ給ふ。関白殿、我が聟也。方々心安かるべし」とやおぼされけむ、「天下の御政、一すぢに内裏の御計らひたるべし」と申し捨てて、福原へ帰り下られにけり。宗盛公参内して、此の由を奏聞せられけれども、主上は、「院の譲り給ひたる世ならばこそ、世政をも知るべき。只とく執柄に申し合はせて、宗盛計らふべし」と仰せ下されて、敢へて聞し食し入れられず。明けても晩れても法皇の御事をのみ、心苦しくいたはしき御事に思し食しける。
三十四 〔法皇の御棲幽かなる事〕
 鳥羽殿には月日の重なるにつけても御歎きはおこたらず。法皇は▼P1645(一〇五オ)城南の離宮に閉ぢられて、冬も半ばすぎぬれば、射山の嵐声いとどはげしく、閑亭の月の影、殊にさびしき御すまひなり。庭には雪降り積もれども、跡ふみつくる人もなし。池には氷のみ閉ぢ重なりて、群居る鳥だにも希也けり。大寺の鐘の声、遺愛寺の聞きを驚かし、四山の雪の色、香呂峯の望みを催す。しづが下す鵜船の篝火は御目の前を過ぎ、旅客の行き通ふ轡の音、御耳に答へて眠りを覚まし奉る。暁の水を切る車の音、遥かに門前に横たはり、夜の霜に寒けき檮の音、幽かに枕に通ひけり。ちまたを過ぎ行く諸人の怱がはしげなる事、憂世を渡る有様思ひ遣られて哀れ也。「宮門を蛮夷の夜昼警衛を勤むるも、先の世に如何なる契りにて今縁を結ぶらむ」と、思し食しつづくるも忝し。凡そ物に触れ▼P1646(一〇五ウ)事に随ひて御心を動かし、御涙を催さずと云ふ事なし。さるままには、折々の御遊覧、所々の御参詣、御賀の儀式の目出たく、今様合はせの興ありし事共、思し食し出でられて、懐旧の御心押へ難し。かくて今年も晩れにけり。
 平家物〔語〕 第二本
  (花押)







平家物語 四(第二中)
▼P1647(一オ)
一  法皇鳥羽殿にて送月日坐事
二  春宮御譲を受御す事
三  京中に旋風吹事
四  新院厳嶋へ可有御参事
五  入道厳嶋を崇奉由来事
六  新院厳嶋へ御参詣之事
七  新帝御即位之事
八  頼政入道宮に謀叛申勧事 〈付令旨事〉
九  鳥羽殿にイたチ走廻事
十  平家の使宮の御所に押寄事
十一 高倉宮都を落坐事
十二 高倉宮三井寺に入らせ給ふ事
十三 源三位入道三井寺へ参事 〈付競事〉
十四 三井寺より山門南都へ牒状送事
十五 三井寺より六波羅へ寄とする事
十六 大政入道山門を語事 〈付落書事〉
十七 宮蝉折を弥勒に進せ給ふ事
十八 宮南都へ落給ふ事 〈付宇治にて合戦事〉
十九 源三位入道自害事
廿  貞任が歌読し事
▼P1648(一ウ)
廿一 宮被誅給ふ事
廿二 南都大衆摂政殿の御使追帰事
廿三 大将の子息三位に叙る事
廿四 高倉宮の御子達事
廿五 前中書王事 〈付元慎之事
廿六 後三条院の宮事
廿七 法皇の御子之事
廿八 頼政ぬへ射る事 〈付三位に叙せし事〉
廿九 源三位入道謀叛之由来事
卅  都遷事
卅一 実定卿待宵の小侍従に合事
卅二 入道登蓮を扶持給ふ事
卅三 入道に頭共現ジて見る事
卅四 雅頼卿の侍夢見る事
卅五 右兵衛佐謀叛発す事
卅六 燕丹之亡し事
卅七 大政入道院の御所に参給ふ事
卅八 兵衛佐伊豆山に籠る事
▼P1649(二オ)
平家物語第二中
一 〔法皇鳥羽殿にて月日を送り坐す事〕
 治承四年正月にも成りぬ。鳥羽殿には元三の間年去り年来たれども、相国も許さず、法皇も怖れさせましましければ、事問ひ参る人もなし。閉ぢ籠められさせ給ひたるぞ悲しき。藤中納言成範卿左京大夫修範兄弟二人ぞ免されて参らせられける。古く物など仰せ合はせられし大宮大相国、三条内大臣、按察大納言、中山中納言など申しし人々も失せられにき。古き人とては、宰相成頼、民部卿親範、左大弁宰相俊経ばかりこそおはせしかども、「此の世の中の成り行く有様を見るに、とてもかうても有りなむ。朝庭に仕へて▼P1650(二ウ)身を扶け、三公九卿に昇りてもなにかはせむ」とて、適余殃を免れ給ひし人々も忽ちに家を出、世を遁れて、或は高野の雲に交はり、大原の別所に居を卜め、或は醍醐の霞に隠れ、仁和寺の閑居に閉ぢ籠りて、一向後生菩提の営みより外は二心無く、行ひすましてぞおはしける。昔商山四皓、竹林の七賢、是豈博覧清徹にして世を遁れたるに非ずや。
 中にも成頼卿、此の事共を聞き伝へては、「哀れ、心とうも世を遁れにける者哉。かくて聞くも同じ事なれども、世に立ち交はりて親り見聞かましかば、何計りか心憂からまし。保元平治の乱をこそあさましと思ひしに、世の末になれば、ますますにのみ成り行くめり。此の後、又▼P1651(三オ)いかばかりの事か有らんずらん。雲を別け、土を掘りても入りぬべくこそ覚ゆれ」とぞ宣ひける。世末なれども、ゆゆしかりし人々也。
 廿八日に春宮の御袴着御まな(めしぞめなり)きこしめすべしなど、花やかなる事共、世間には〓りけれども、法皇は御耳のよそに聞こし召すぞ哀れなる。
二 〔春宮御譲を受け御す事〕
 二月十九日に春宮御譲りを受けさせ給ふ。今年纔に三歳にぞならせ給ふ。いつしかと人思へり。先帝も殊なる御つつがもおはしまさぬに、おしおろし奉らる。是は太政入道、万事思ふさまなるが致す所也。老子経に云はく、「飄風朝をおへず、驟雨は日をおへず」と云へり。飄風とは疾き風也。驟雨とは□□□雨也。言は、▼P1652(三ウ)「疾するものは長ずる事あたはず、頓にするものは久しき事能はず」と云へり。「此の君疾く位に即かせ給ひて、疾く位をや退かせ給はむずらむ」と、人ささやきあへり。即位元服の事、吾が朝に二歳三歳の例なし。仍りて江中納言に漢家の例を問はる。中納言消息を以て申さる。其の状に云はく、「冢宰荷つて以て政を聴く、周の成王是也。大后抱いて以て朝に臨む、晋の穆帝是也。成王三歳にして位に即き、穆帝二歳にして位に即く也」と云々。爰に俊憲勘文を以て鳥羽院に申して云はく、「成王三歳にして即位元服の由、江中納言の申す条、極めたる僻事也。一切所見無し。十二▼P1653(四オ)歳にして元服なり」と云々。大和進士友業、内々此の事を聞き、申しけるは、「俊憲一切さる事なしと申し切る条、尊き万巻の渡書、併ら見尽くしてけりと覚悟せらる。但し、江中納言
の申さるる事、様こそ有らめと閣くべきか」と云々。上詩披緑と云ふ文は、江中納言の一品の書なり。余家に之無し。件の書に、成王三歳にして即位の由、之在り。俊憲、知らざるなりと申さるる、尤も然るべし。史記に「成王幼くして繦〓の中」と云々。是等を見て申さるるか。成王は三歳にして即位、穆帝は二歳にして即位元服也。冢宰は周公旦なり。
 或る人、太政入道の小舅、平大納言時忠卿の許へ▼P1654(四ウ)行き向かひて、「京都にこざかしき仁共の集まりて、内々申し候ふなるは、『此の君の御位、余りに早し。いかがわたらせ給はむずらむ』と謗り沙汰仕り候ふなるは」と申しければ、時忠卿腹立して申されけるは、「なにしかは、此の御位をいつしかなりと人思ふべき。竊に先規を伺ひ、遥かに傍例を尋ぬるに、異国には周の成王三歳、晋の穆帝二歳、各繦〓の中につつまれて衣冠を正しくせざりしかども、或いは摂政負ひて位に即き、或は母后抱いて朝に莅むと云へり。就中、後漢の孝煬皇帝は、生まれて百余目の後に践詐ありき。吾が朝には又近衛院二歳、六条院二歳、皆天子の▼P1655(五オ)位を践ぎ、万乗の君と仰がれ給ふ。先蹤、和漢此くの如し。人以て強ちに傾け申すべき様やは有る」とて、平大納言大にしかられければ、其の時の有職の人々は、「あなおそろし、ものいはじ。されば夫はよき例にやは有る」とぞ、つぶやきあはれける。
 春宮御譲りを受けさせ給ひにければ、外祖父・外祖母とて、入道夫妻共に三后に准ふる宣旨を被りて、年官年爵を賜りて、上日の者を召し仕はれければ、絵書き花付けたる侍出入して、偏に院宮の如くにぞ有りける。出家入道の後も栄耀は尽きせざりけりと見えたり。出家の人の准三后の宣旨を被る事は、法興院の大入道殿の▼P1656(五ウ)御例也。「其れも一の人の御例准へがたくや」とぞ人申しける。加様に花やかに目出たき事は有りけれども、世中はおだしからず。
三 〔京中に旋風吹く事〕
廿九日申の剋計りに、京に旋風大いに吹きて、一条大宮より初めて東へ十二町、冨小路より初めて南へ六町、中御門より東へ一丁、京極を下りに十二町、四条を西へ八丁、西洞院わたりにて止みぬ。其の間に、殿舎の門々、雑人の家々、築垣、筒井を吹き倒し、吹き散らすありさま、木葉の如し。馬・人・牛・車などを吹き上げて、落ち着く所にて死ぬる者多し。昔も今もためしなき程の物怪とぞ、人々申しあひける。
四 〔新院厳嶋へ御参有るべき事〕
 ▼P1657(六オ)三月十七日、新院、安芸の一宮厳嶋社へ御幸なるべきにて有りけるが、東大寺・興福寺・山門・三井の大衆京へ打ち入るべき由聞きて、京中騒ぎければ、御幸俄かに思し召し止まらせ給ひにけり。「帝王、位をさらせおはしまして後、諸社の御幸初めには、八幡・賀茂・春日・平野などへ御幸有りてこそ、何れの社へも御幸あれ、いかにして西のはての嶋国にわたらせ給ふ社へ御幸なるやらむ」と、人あやしみ申しければ、又人申しけるは、「白河院は位をさらせ給ひて後、先づ熊野へ御幸有りき。法皇は日吉へ参らせ給ふ。先例此くの如し。既に知りぬ、叡慮に在りと云ふ事を。其の上、御▼P1658(六ウ)心中に深き御願あり。又、夢想の告げも有りなむどぞ仰せ有りける。
 此の厳嶋社をば、入道相国頻りに崇め奉られけり。彼の社に内侍とて有りける巫女までも、もてなし愛せられけり。
五 〔入道厳嶋を崇め奉る由来の事〕
 入道殊に厳嶋を崇め給ひける由来は、鳥羽院御宇、安芸守たりし時、「彼の国を以て高野の大塔を造進すべし」と院より仰せ下されたりければ、渡部党に遠藤六頼賢と云ひける侍に仰せて、六ヶ年に事終はりて、供養を遂げ畢(を)はんぬ。爾時、首には雪に似たるしらがをいただき、額には四海の波をたたみ、眉には八字の霜を▼P1659(七オ)たれ、腰には梓の弓をはりて鳩杖にすがれる八十有余の老僧あり。平左衛門尉家貞を呼び出だして宣ひけるは、「やや、左衛門殿。御辺の主の安芸守殿は哀れゆゆしき人哉。此の僧見参に入らせ給へ」と宣ひければ、家貞、安芸守に此の由申す。清盛、直人に非ずとや思はれけむ、莚畳をしかせ、装束ただしくして出で逢ひて見参したまふ。此の老僧宣ひけるは、「やや、安芸守殿。此の山の大塔造進の事こそ限り無くうれしけれ。見給ふが如く、日本広しと云へども、密宗を引かへて長日の勤め懈らぬ事は、此の山に過ぐる所無きぞ。但し又、様の有らんずるは▼P1660(七ウ)いかに。越前国気比社は金剛界の神也。北陸道は畜生国にして、荒血の中山が畜生道の口にて有るぞ。されば、気比大菩薩、是を愍み給ひて、敦賀津に跡を垂れて、和光同塵の力をそへ、『我に値遇せ
む者を導く』と云ふ願を立てておはします。其の願既に成就して、気比社は盛りに御坐す。御辺の国務の所、安芸国厳嶋大明神は、胎蔵界の神也。されば、気比厳嶋社は両界の神にておはします。厳嶋の社既に破壊し畢はんぬ。御辺任を申し延べて造進し給へ。造進しつる者ならば、官位一門の繁昌、肩を並ぶる人有るまじきぞ」と宣へば、清盛▼P1661(八オ)「畏りて」と御返事申す。老僧大に悦びて、衣の袖を顔に押し当て、感涙を流して立ち給ひぬ。
 安芸守、直人にいまさずと見奉りて、家貞を招き寄せて、「此の老僧の入り給はむ所、見置き奉りて帰れ。僧には見え奉るべからず」と宣ひければ、家貞、老僧の御後ろに付きてかくれかくれ行く程に、三町ばかり行きて後、老僧立ち帰りて宣ひけるは、「やや、平左衛門殿。なかくれそ。我は和殿の見送り給ふをば知りたるぞ。近くよれ。云ふべき事あり」と宣へば、平左衛門力及ばずして、参りて畏りて候ふ処に、老僧宣ひけるは、「御辺の主の安芸殿は、哀れいみじき人哉。厳嶋社造進しつる者ならば、▼P1662(八ウ)官位一門の繁昌、肩を並ぶる人有るまじ。そも一期ぞよ」とて、かきけつ様に失せ給ひぬ。
 家貞、此の由を安芸守に申せば、清盛、「さては一期ごさむなれ。子孫相継ぐまじかむなるこそ心うけれ。当山にて後生菩提の祈りの為、善根を修せばや」とて、やがて西曼だら・東万だらとて、二の万だらを書き奉る。東万だらをば、法皇の召し仕はせ給ひける静妙、是を書き奉る。西万だらをば、清盛自筆に書き奉るとて、八葉の九尊をば、我が脳の血を出だして書き奉り、万だら堂を造りて納め進らせけり。
 其の後京へ帰り登りて、大師の老僧に現じて仰せらるる旨、具さに奏聞しければ、「厳嶋社▼P1663(九オ)造進すべし」とて、任を延べられて、長任の国務として社を造進し給ふ。三ヶ年の中に百廿間の廻廊、并びに小神小神の鳥居鳥居を立て並べ、御遷宮有りけるに、大明神、内侍に移りて御託宣有りけるは、「汝知れりや否や。一年高野の弘法を以て告げしめき。我が社破壊する間、造進すべき由、仰せ含めき。甲斐々々しく造進したる事、返す返す神妙也。此の悦びに、夕去り剣を与へむずるぞ。朝の御守りと成る者は、節度と云ふ剣を給はる。我与へたらむ剣を持つならば、王の御守りとして司位一門の繁昌、肩を並ぶる人有るまじ。そも一期ぞよ」とて、権現上がらせ給ひにけり。清盛は、▼P1664(九ウ)只大方の物付の詞ぞと思ひて強ち信を致さざりけるに、其の夜の夜半計りに、厳嶋大明神より銀の蛭巻したる小長刀を賜はりて枕に立つると夢に見て、打ち驚き、枕を捜り給へば、覚に銀の蛭巻したる小長刀、枕の壁に有りけり。さてこそ、安芸守、大明神の験変の新なる事を仰せて、信を取り給ひ、敬ひ奉る事怠らず。子息兄弟に至るまで、大臣大将に上り、朝恩に飽き満ち給へり。
 かかりければ、上には御同心の由にて、下には明神の御計らひにて、入道謀叛の心も和ぎやすると思し召して、御折請の為に八幡賀茂よりも先に厳嶋へ▼P1665(一〇オ)参らせ給ふとも云へり。是は法皇のいつとなく打ち龍められて渡らせ給ふ御事を歎き思し召しける余りにや。さる程に、山門・南都の大衆も静まりにければ、厳嶋御幸、遂げさせおはしますべしと聞こえけり。
六 〔新院厳嶋へ御参詣の事〕
 十八日、兼ねて思し食し儲くる事なれども、日来は御詞にも出ださせ給はざりけるが、俄かに思し食し出づる様にて、其の宵に成りて、前右大将を召して、「明日、便宜にてもあれば、鳥羽殿へ参らばやと思し食すはいかに。相国には知らせずしては悪しかりなむや」と仰せもあへず、御涙の浮かびければ、大将も哀れに思ひ奉りて、「なにかは苦しく候ふべき」▼P1666(一〇ウ)と申されければ、よに悦ばしげにおぼしめして、「さらば、鳥羽殿へ其の気色申せ」と仰せ有りければ、大将怱ぎ申されたり。法皇斜めならず悦び思し食して、余りに思ひつる事なれば、夢に見るやらむとまで思し食されけるぞ悲しき。
 十九日、太政入道の西八条の宿所より、未だ夜深く出でさせ給ひ、弥生の十日余りの事なれば、霞にくもる有明の月の光も朧に、雲路を指して帰雁の遠ざかり行く声々も、折から殊に哀れ也。御共の公卿には、五条大納言邦綱、藤大納言実国〈公教息〉、前右大将宗盛、土御門宰相中将通親、四条大納言隆▼P1667(一一オ)房〈隆季息〉、右中弁兼光〈資長息〉、宮内少輔棟範〈範家息〉とぞ聞こえし。御船二十艘と聞こゆ。
 鳥羽殿にては門より下りて入らせ給ふ。春景既に晩れなむとして、夏木立にも成りにけり。残花色衰へて、宮鴬音老いたり。故宮の物さびしき気色なれば、門を指し入らせ給ふより、御涙ぞ進みける。去年の正月四日、朝覲の為に七条殿へ御幸なりし事、思し召し出でて、世の中は只皆夢の如くなりけり。諸衛陣を引き、諸卿列に立ち、楽屋に乱声を奏し、院司の公卿参向して幔門を開き、掃部寮莚道を敷き、正しかりし儀式、一つもなし。
 成範▼P1668(一一ウ)中納言参り向かひ進らせて、気色申されければ、上皇入らせ給ひにけり。法皇も上皇も、御目を御覧じ合はせて、物をば仰する事無し。只御涙にのみ咽ばせ給ふ。少し指しのきて尼前一人候ひけるも、両所の御有様を見奉りて、うつぶして涙を流す。良暫く有りて、法皇御涙を押し拭はせ給ひて、「さるにても、是はいかなる御宿願有りて、遥々と思し食し立つにか」と申させ給ひければ、上皇、「深く思ひきざす旨候ふ」と計り申させ給ひて、初めの如く御涙の浮かびければ、「哀れ、さればこそ。我が事を祈り申させ給はむとてよ」と御得心有りけるに、いとど悲しく思し召して、▼P1669(一二オ)法皇も御涙に咽ばせ給ふ。御衣の袖も御浄衣の袖も絞る計りにぞみえさせ給ひける。昔今の御事共、互ひに申し通はせ給ふほどに、日を重ね夜を明かすとも尽くすべからず。万づ御余波惜しく思し召して、とみにも立たせ給はず。上皇は御対面の御事を能々悦び申させ給ふ。今年は廿に満たせ給ふ。御物思ひの月日重なりて、少し面やせてわたらせ給ふに付けても、御冠際より始めてあてに美しく、御面影さやかならぬ月影にはえて、いと清げなる御鬢茎、ほこらかに愛敬づきて、御浄衣の袖さへ朝
露にしほれにけるもいとど▼P1670(一二ウ)良たく、故女院に似まゐらせさせ給たれば、昔の御面影思し召し出だされて、哀れにぞ思し食されける。
 「今一度見まゐらせずして、いかなる事もやと、心憂く候ひつるに」とて、上皇立たせ給へば、法皇は御余波尽きせず思し召しけれども、日景も高くなれば、「しばし」とも申させ給はず。何となき様にもてなさせ給へども、御涙の双眼にうかばせ給ひて、御袖もしほれければ、しるくぞ見えさせ給ひける。人々も皆袂をかへし、涙を拭はる。上皇は、法皇の離宮の故事、幽閑の寂莫たる御すまゐを、御心苦しく見置きまゐらせ給へば、法皇は▼P1671(一三オ)又、上皇の旅泊の行宮、船の中、浪の上の御有様を、労しく、誠に宗廟の八幡、賀茂を閣き奉りて、都を立ち離れ、八重の塩路を凌ぎつつ、遥々と安芸国まで思し食し立ちけむ御志の深さをば、「争か神明の御納受も無からむ。御願成就疑ひ無し」とぞ覚えし。法皇は閑かに立たせ給ひて、中門連子より、御後の隠れさせ給ふまでのぞき進らせおはします。成範・修範、二人の卿、門まで参り給ひて、御輿の左右に候はれければ、上皇密かに、「人こそ多くあれ、かやうに近く仕り給ふこそ本意なれ。御祈りは申すべし」と仰せ有りければ、各畏りて狩▼P1672(一三ウ)衣の袖を絞りて帰参せられにけり。
 南門に御船儲けたりければ、程無く移らせ給ひにけり。御送りの人々は、是より帰り給ひぬ。安芸国まで参る公卿・殿上人は、各浄衣にて参り儲けたり。前右大将の随兵、殊に浄げに出だし立てて、数百騎に及べり。
 廿六日に厳嶋に御参着、一日逗留有りて、法花会行はれ、舞楽など有りき。勧賞行はれて、神主佐伯景弘、安芸国司藤原有経、当社別当尊叡、皆官共成りにけり。神慮にも相応し、入道の心も和ぎぬとぞ見えし。さて還幸成りにけり。四月七日、新院厳▼P1673(一四オ)嶋の還御の次に太政入道の福原へ入らせ給ふ。八日、勧賞行はれて、入道の孫右中将資盛従四位上、養子丹波守清邦上五位下に叙す。今日やがて福原を出でさせおはします。寺江に御留まり有りて、九日京へ入らせおはします。御迎への人々は、鳥羽の草津へぞ参られける。公卿には、右大臣公能公御息、右宰相中将実盛一人也。神主始めて大内へ遷幸ありければ、公卿皆それへ参り給ふとて、只一人とぞ聞こえし。其の外、殿上の侍臣五人ぞ参りたりける。厳嶋へ参りつる人々は、船津に留まりて、さがりて京へ入り給ひにけり。
七 〔新帝御即位の事〕
 ▼P1674(一四ウ)廿二日、新帝御即位あり。御即位は大極殿にて行はるる事なれども、去々年焼けにしかば、後三条院の御即位、治暦四年の例に任せて、官庁にて行はるべきにて有りけるを、右大臣計らひ申させ給ひけるは、「官庁は、凡人に取らば公文所也。大極殿無からむ上は、紫宸殿にて御即位あり」。「康保四年十一月十一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にて有りし事は、御邪気に依りて大極殿へ御幸叶はざりし故也。其の例いかが有るべかるらむ。只目近く後三条院の佳例に任せて、太政官庁にて有るべき者を」と申さるる人々おはしけれども、右大臣計らひ申さるる▼P1675(一五オ)旨、左右無かりければ、子細に及ばず。中宮、弘徽殿より仁寿殿へ移らせ給ひて、高御倉へ進らせ給ひける御ありさま、謂ふ方無く目出たし。されども、ひそか事にさまざまのさとしども有りけるとかや。
 平家の人々は、宗盛卿は御幸供奉せられぬ。小松大臣の君達は、重盛失せ給ひにしかば、惟盛、資盛、清経など、皆重服にて籠居し給へり。本意無かりし事也。右兵衛督知盛卿、蔵人頭重衡朝臣計りぞ出仕せられたりける。後朝に、蔵人右衛門権佐定長、昨日の御即位の事に違乱無く目出たかりし由、細々と四五枚に書きつづ▼P1676(一五ウ)けて、二位殿へ進らせられたりければ、相国二位殿は咲を含みてぞおはしける。
八 〔頼政入道宮に謀反を申し勧むる事 付けたり令旨の事〕
 一院第二の御子、以仁王と申すは、御母は加賀大納言季成卿の御娘とかや。三条高倉の御所に渡らせ給ひければ、高倉の宮とぞ申しける。去んぬる永万元年十二月六日、御年十五と申ししに、皇太后宮の近衛河原の御所にて、忍びて御元服有りしが、御年卅にならせ給ひぬれども、未だ親王の宣旨をだにも蒙らせ給はず。御手跡などうつくしくあそばして、和漢の才秀で給へる仁にておはせしかば、「位にも即かせ▼P1677(一六オ)ましましたらば、末代の賢王とも申すべし」など申す人々有りけれども、此の世には継子にて打ち籠められさせ給ひて、花の下の春の遊には、宸筆下して手づから御製を書き、月の前の秋の宴には、玉笛を吹きて自から雅音を操り、詩歌管絃に御心をなぐさめてぞ過ごさせ給ひける。
 四月十四日、夜深け人定まりて、源三位入道頼政、密かに参りて申しけるは、「君は天照太神四十八代の御苗裔、太上法皇第二の皇子也。太子にも立ち、帝位にも即かせ給ふべきに、親王の宣旨をだにも免され給はで、既に三十にならせ給ひぬ。心憂しとは思し食さぬか。▼P1678(一六ウ)平家、栄花既に身に余り、悪行年久しく成りて、只今滅びなむとす。倩ら事の心を案ずるに、物盛りにして衰ふ、月盈ちて〓く。此れ天の道なり、人事に非ず。爰に清盛入道、偏へに武勇の威を振るひて、忽ちに君臣の礼を忘る。万乗尊高の君をも恐れず、三台重任の臣にも憚らず。只愛憎の心に任せて、猥りがはしく断割の刑を取る。悪む所は三族を亡ぼし、好する所は五宗を光らす。思ひを一身の心腑に逞しうす。毀りを万人の脣吻に懸く。天の譴め已に至り、人望早く背く。時を量りて制を立つるは、文の道也。間に乗じて敵を討つは、兵の術也。頼政其の器に非ざるに依りて、其の術に迷へりと雖も、武略家に稟け、兵法身に伝ふ。倩ら六戦の義を顧みて、今必勝の法を案ずるに、己に加へて止むことを得ず、之を応兵と謂ふ。争ひ恨みて▼P1679(一七オ)小なるが故に、勝たずして憤怒とす、之を忿兵と謂ふ。土地を利して
貨宝を求む、之を貪兵と謂ふ。国家の太なるを恃んで民の衆を矜る、之を驕兵と謂ふ。此の類、皆義を背き、礼を背く。必ず敗れ、必ず亡ぶ。乱を救ひ、暴を誅す、之を義兵と謂ふ。此の類、已に道に叶ひ、法に叶ふ。百たび戦ひて、百たび勝つ。上は天意に応じ、下は地利を得。義兵を挙げて逆臣を討ちて、法皇の叡慮を慰め奉り、群臣の怨望を択ばれん事、専ら此の時に在り。日を経べからず。怱ぎ令旨を下されて、早く源氏等を召すべし。就中、相剋相生を考へたるに、平党滅亡すべき機嫌純熟、時を得たり。其の故は、年号治承の二字、共に三水也。中にも承の字を見るに、三水と書けり。方の様にも、宮の御共申して逆徒を退けんずる入▼P1680(一七ウ)道、又水性也。入道静海、右大将宗盛、父子共に火性也。七水を以て、などか両火を消さざるべき」と申しければ、「此の事、身の上の至極、天下の珍事也。偏へに浮言を信じて思慮無きに似たれども、今宣説する所、已に兵法を得て、能く人理を弁へり。文武事異なれども、通達の旨同じ。欺つて益無し。昔、微子殷を去りて周に入り、項伯楚に叛いて漢に帰す。周勃代王を迎へて少帝を黜け、雲光孝宣を尊びて昌邑を廃す。是皆、存亡の符を観て、廃興の事を見る
。いかがせむ」と思し食されけるに、入道重ねて申しけるは、「此の時いかにも御計らひ無くば、いつをか期せさせ給ふべき。とくとく思し食し立つべし。つつみ過ご▼P1681(一八オ)させ給ふとも、遂に安穏にてはてさせ給はむ事、有りがたし。若し左様にも思し召し立たば、入道も七十に余り候ふとも、などかは御共仕らざるべき。悦びを成して参らむずる者こそ多く候へ」とて、申しつづく。
 「京都には、出羽判官光信が子、伊賀守光基、出羽蔵人光重、源判官光長、出羽冠者光義。能小野には、為義が子、十郎蔵人義盛。摂津国には、多田蔵人行綱、多田次郎知実、同三郎高頼。大和国には、宇野七郎親治が子、宇野大郎有治、同二郎清治、同三郎義治、同四郎業治。近江国には、山本、柏木、錦古利、佐々木一▼P1682(一八ウ)党。美乃・尾張の両国には、山田二郎重弘、河辺太郎重直、同三郎重房、泉太郎重満、浦野四郎重遠、葦敷二郎重頼、其の子太郎重助、同三郎重隆、木田三郎重長、開田判官代重国、八嶋先生斉時、同八嶋時清。甲斐国には、辺見冠者義清、同太郎清光、武田太郎信義、加々見次郎遠光、安田次郎義定、一条次郎忠頼、板垣次郎兼信、武田兵衛有義、同五郎信頼、小笠原次郎長清。信乃国には、岡田冠者親義が子、岡田太郎重義、平賀冠者盛義、同太郎義延、▼P1683(一九オ)帯刀先生義賢が子、木曽冠者義仲。伊豆国には、兵衛佐頼朝。常陸国には、為義が子、義朝が養子、三郎先生義憲、左竹冠者昌義、同太郎義季。陸奥国には義朝が末子、九郎冠者義経。是等は皆六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤也。大衆をも防き、凶徒をも退け、朝賞に預り、宿望をも遂げし事は、源平両
氏勝劣無かりしかども、当時は雲泥交はりを隔て、主従の礼よりも甚し。纔かに甲斐無き命を生きたれども、国々の民百姓と成りて、所々に隠れ居たり。国には目代に随ひ、庄には預所に仕へ、公事雑役に駈り立てられて、▼P1684(一九ウ)夜も昼も安き事無し。何計りかは心憂く候ふらむ。君思し召し立ちて、令旨をだに下され候はば、皆夜を日に継ぎて打ち上り、平家を滅さむ事、日剋を廻らすべからず。平家を滅ぼして、法皇の打ち籠められて御坐す御心をもやすめ奉らせ給ひなば、孝の至りにてこそ候はめ。神明も必ず恵みを垂れ給ふべし」など、細々と申しければ、
 此の事いかが有るべかるらむと、返す返す思し召されけれども、少納言伊長と申しける人は、あこ丸の大納言宗通卿の孫、備後前司季通の子也。目出たき相人にておはしければ、時の人、相少納言とぞ申しける。其の人の、此の宮をば、「位に即き給ふべき相おは▼P1685(二〇オ)します。天下の事、思し召し放つべからず」と申ししかば、「然るべき事にてこそ有らめ」と思し食して、令旨を諸国へ思し召し立ち給ひにけり。彼の令旨に云はく、
 下す。東山・東海・北陸・三道諸国の軍兵等の所
  早く清盛法師并びに従類叛逆の輩を追討せらるべき事
 右、前伊豆守正五位下行源朝臣仲綱、最勝親王の勅宣を奉るに〓はく、清盛法師并びに宗盛等、威勢を以て帝王を滅ぼし、凶徒を起して国家を亡ぼす。百官万民を悩乱して、五畿七道を掠領す。皇院を閉籠し、臣公を流罪す。奸しく官職を奪ひて、恣に超昇を盗む。▼P1686(二〇ウ)之に依りて、巫女は宮室に留まらず、忠臣は仙洞に仕へず。或いは修学の僧徒を誡め、獄舎に囚禁し、或いは叡山の絹米を以て、謀叛の粮に宛つ。時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁ふ。仍りて一院第二の皇子、且は法皇の幽居を休め奉らんが為、且は万民の安堵を思し食すに依りて、昔上宮太子、守屋の逆臣を破滅せしが如く、叛逆の一類を誅して、无何の四海を治むる也。然れば則ち源家の輩、兼ねては三道諸国の武勇の族、宜しく与力を厳命に加へて、誅罰を清盛に致すべし。若し殊功有らんに於いては、御即位の後、宛て行はるべき也。者れば宣に依りて之を行ふ。
  治承四年四月 日    伊豆守正五位下源朝臣
▼P1687(二一オ)謹上 前右兵衛佐殿
とぞ下されける。
 新宮の十郎を召して、「令旨を持ちて頼朝が許へ下るべし」と仰せ下されければ、「勅勘の身にて候へば叶ひ候ふまじ」と申せば、其の謂はれ有りとて、新宮十郎を蔵人になされて、義盛と名乗りけるを改名して行家と名乗らせけり。仍りて新宮十郎蔵人行家、高倉宮の令旨を給はりて、治承四年四月廿八日に潜かに都を出でにけり。同五月八日、伊豆の北条へ下り着きて、兵衛佐に宮の令旨を献る。
 兵衛佐、此の令旨を給はりて、国々の源氏等に施行せらる。其の状に云はく、
  最勝親王の勅命を被るに〓はく、東山・東海・北陸道、▼P1688(二一ウ)武勇に堪へん輩を召し具して、令旨を守りて用意を洛陽に致すべし。者れば近国の源氏等、定めて参加し奉らむか。北陸道の勇士等は、勢多の辺に参向せしめて、上洛を相待ちて洛中に供奉せらるべき也。親王の御気色に依りて、執達件の如し。
   治承四年五月 日    前右兵衛権佐源朝臣
九  〔鳥羽殿にイタチ走り廻る事〕
一院は、「成親・成経が如く、遠国、遥かの嶋にも放ち遷されんずるやらむ」と思し食しける程に、城南の離宮に閉ぢられて春も過ぎ、夏も半ばに闌けにけり。五月十一.目、法皇、常よりも御心澄み渡りて、いつもの御勤めながら御経をあそばしければ、八巻普賢▼P1689(二二オ)品にかからせ給ひける時、いづくより来けるやらむ、いたち御前に二三返ばかり走り廻りて、ききめき啼きて法皇を守らへ進らせて失せにけり。是を御覧ぜらるるに、弥御心細くて、「禽獣鳥類の中に、善悪先表を示す物多し。彼は悪に象れる先相を示す獣也。此の上に、我が身何なるうき目を見んずらむ。実に遠国遼海へもや放たれむずらむ。願はくは普賢大士、十羅刹女、今生後生助けさせ給へ」と、御涙を浮かべて御祈念有りける程に、とのもんの守光遠、其の時に源蔵人中兼と申しけるが、余りに穴倉く思ひ進らせて、忍びて鳥羽殿へ参り▼P1690(二二ウ)たりければ、御前には人一人も候はず。中兼を召して、「只今かかる事有りつ。何様なる事やらむと、泰親に有のままに 巫仕りて奏すべし」と御定有りて、其の占形を賜はりたりければ、中兼やがて仰せ承りて、都へ馳せ返りて、陰陽頭泰親に是を怱ぎ語りければ、泰親、晴明
相伝の種々の秘書を開きて卜巫して、打ちえみたる気色して申しけるは、「今三ヶ日の中に御悦び」と、奏聞し給ふべき由を申しけり。
 中兼、文鳥羽殿へ参りて此の由を奏聞しければ、「一道の者は〓慢無きこそうるはしけれ。何事の吉事か有るべき。我が心をなぐさめむとて、かやうに申すやらむ」と、法皇思し召されける程に、同十五日▼P1691(二三オ)に、鳥羽殿より例の軍兵多く前後左右に打ち囲みて、八条烏丸の御所へ御幸なし奉る。此は右大将宗盛頻りに歎き申されければにやらむ、入道漸く思ひ直りて、かやうに返し入れ奉りけるなり。「理や、此の泰親は晴明五代の跡を受けてしかば、卜巫露も違ふべからず」とぞ思し食されける。去んじ十二日に此の事有りて、幾程も無く両三日の間に還御。申しても申してもいみじかりける卜巫哉。
十 〔平家の使、宮の御所に押し寄せる事〕
 同日に、高倉宮の御謀叛の事、顕はれ御す。去んじ四月廿八日に、十郎蔵人行家、高倉宮の令旨を潜かに給はりて、伊豆国へ下りて兵衛佐に奉り、案を書きて義経に見せむとて、其より奥州▼P1692(二三ウ)へ趣きけり。
 行家は平治より以来、熊野に居住しければ、新宮に与力する者多かりければ、何と無く其の用意をぞしける。此の事、世に披露有りければ、那智執行権寺主正寺主覚悟法橋(眼ィ)、羅〓羅法橋、鳥居法橋、高房の法橋等申しけるは、「新宮十郎義盛こそ、高倉宮に語らはれ奉りて、平家を討たむとて、源氏共を催さむが為に東国へ下向しける由聞ゆれ。さ様の悪党を熊野に籠めたりけりと平家に聞こえ奉らむ事、甚だ恐れあり。当時、義盛こそ無けれども、新宮を一矢射ばや」とて、那智の衆徒を始めとして、熊野上綱等悉く出で立ちけり。是を聞きて、新宮の▼P1693(二四オ)衆徒等、一味同心して城廓を構へて相待ちけり。本宮の衆徒は思ひ思ひに付きにけり。田辺法橋を大将軍として、那智の衆徒并びに諸上綱等会合して、二千余騎の軍兵を卒して、五月十日、新宮の湊に押し寄せて、平家の方には覚悟を前として責め戦ふ。源氏の方には覚悟を切れとて、梓の真弓の弦たりも無く、三目の鏑の鳴らぬ間も無く、一日一夜ぞ戦ひける。那智衆徒等多く誅たれて、疵を被る者、其の数を知らず。悉くかけちらされて、自らうたれぬ者は只山へのみぞ逃げ入りける。是を見て、新宮の衆徒等申しけるは、「源氏と平家との国諍
ひの軍始めに、神▼P1694(二四ウ)軍に平家は負けて源氏は勝ちぬ」とぞ、一同に悦びあへりける。
 其のころ、熊野別当覚応法眼と云ける者をばおほえの法眼とぞ申しける。此は六条判官為義が娘の腹にて有りければ、母方源氏なりけれども、世に随ふ事なれば、平家の祈師と成りたりける故にや、覚応法眼、六波羅へ使者を立てて申しけるは、「新宮十郎義盛こそ、高倉宮に語らはれ進らせて、謀叛起さむとて、源氏催さむが為に東国に下りて候ふなれ。然る間、かの余党等を責めんとして、君に知られぬ宮仕と御方人仕りて、新宮に押し寄せて合戦数剋仕り候ひぬ。而るに寄手多く討たれて、軍に負けて、上綱并びに▼P1695(二五オ)那智衆徒等、山林に交はるべきにて、安堵し難く候ふ。其の由、怱ぎ御尋ね候へ。新宮の衆徒等、義盛に同意の条勿論の上は、余勢を給はりて新宮を責むべき」 由をぞ申しける。
 入道相国、是を聞きて大きに驚きて、一門の人々、各周章騒ぎてはせ集まる。池中納言頼盛、中宮亮知盛、蔵人頭重衡、権亮少将維盛、舎弟左少将資盛、右少将清経、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍には飛騨守景家、同大夫判官景綱、摂津判官盛澄、上総太郎判官忠綱、越中前司盛俊、関より東の侍には畠山庄司重能、小山田別当有重、宇津宮弥三郎朝綱、▼P1696(二五ウ)党の者には那須御房左衛門、是等を始めとして、平家の家人従類等、其の数を知らずはせ集まりけり。入道相国、此の人々に向かひて宣ひけるは、「哀れ新宮の十郎めを平治に失ふべかりしを、入道が青道心をして捨て置きたれば、今かかる事を聞くよ。頼朝が事は、池尼御前いかに申し給ふとも、入道宥さずは、争か命を生くべき。安からぬ事哉」とて、怒り給ひけり。後悔先に立たずとは、かやうの事を云ふにや。上総守忠清、入道の御前に進み出でて申しけるは、「源氏の方人は誰にて候ふやらむ」。「高倉宮ぞかし」。「さ候はば、勢の付かぬ先に宮を生け取り進らせて、何れの国へも流罪し奉り候はばや」。「尤も▼P1697(二六オ)然るべし」とぞ宣ひける。
 高倉宮御謀叛の御企て有りとて、相構へて生け取り進らせて、土佐の畑へ遷し奉るべき由、議定あり。上卿は三条大納言実房卿、職事は蔵人右少弁行隆とぞ聞こえし。別当平大納言時忠卿、仰せを奉りて検非違使源大夫判官兼綱、出羽判官光長を大将軍として、彼の宮の御所へぞ指し向かはれける。
 法皇は、鳥羽殿にて御耳のよそに聞こし食さるれば、「いかがはせむ。是、人の上の事ならず。今更此の御事を親り見奉る事こそ初めて悲しけれ」と、御歎きの色一きは深くぞ思し食されける。
 ▼P1698(二六ウ)十七日の朝、太政入道の門の前に、札を書きて立てたりけり。「山門の大衆、高倉宮の御語らひを得て、平家の一門を追討の為に京へ打ち入らむとす」と云ふ事也。平家の一門、大きにさわぎて、武士を三条京極の辺へはせ向かはせたりけれども、法師原一人も見ず。跡形無き虚事也。かかりければ、「宮をさて置き奉ればこそ、かやうに虚事をも云ひ出だし、我等も肝をもつぶす事なれ。宮を生け取り奉りて、流罪し奉りぬるものならば、その恐れ有るべからず。怱ぎ以仁宮を土佐国へ配流し奉るべき」由、両将に仰せ含めらる。さても、源大▼P1699(二七オ)夫判官兼綱、出羽判官光長等、三千余騎の軍兵を引率して、三条高倉へ参りて、彼の御所を打ち巻きて、「宮御謀叛の由を奉りて、御迎へに光長、兼綱、参りて候ふ。怱ぎ六波羅へ御幸なるべきにて候ふ」と申し入る。然りと雖も、先立ちて此の由聞こし召されければ、兼ねて失せさせ給ひにけり。
 爰に、前左兵衛尉長谷部信連とて、天下第一の甲の者、そばひらみずの猪武者あり。年比、御主居打ちして、朝夕に候ひければ、参るべかりけるが、怱ぎ出でさせおはしましぬれば、御所に見苦しき事なども有らむとて、下り進らせて見廻らむと▼P1700(二七ウ)思ひて、留まりたりけるが、薄青のひとへ狩衣の戸前あげたる着つつ、三尺五寸の太刀脇にはさみて指し出でつつ、さはがぬ体にて光長に向かひて申しけるは、「此の程は、是は御所にては候はぬぞ。とく帰りて、其の由を申さるべし」と云ひけるは、兼綱が申しけるは、「御所は何くにて候ふやらむ。参りて宣下の趣を申すべし」と云ひければ、光長が申しけるは、「子細にや及ぶ。御所を打ち巻きて、求め進らせよ」と下知しければ、信連が云はく、「君はわたらせ給はぬと云ふ上を、かく狼籍なる様やはある。物も覚えぬ田舎検非違使哉」と云ふ程こそあれ、狩衣の▼P1701(二八オ)帯紐引き切りつつ脱ぎ捨てて、下腹巻を著たりけるが、はかまのそば高くはさみ、大太刀をさと抜くとぞみる程に、光長が前へ飛びてかかりければ、金武と云ひける究竟の方べむの有りけるが、打刀を抜き合ひて中にへだたりければ、其をば打ち捨てて御所へ乱れ登りたり
ける郎等十余人が中へ走り入りて、散々に戦ひければ、木葉の風に吹かれて散るが如く、さと庭へおりぬ。電 の如くに程なしと思ひけれど、七八人計りは疵を被りぬ。庭に追ひ散らして、御秘蔵の御笛の御寝所の御枕上に置かれたりけるを取りつつ、腰に▼P1702(二八ウ)指して、小門より走り出でて、「此の向かひへ、宮の入らせ給ひぬるぞ。
にがし進らすな」とて、片織戸の有りけるをふみあけて、尻へついとほりつつ、中垣を飛びこえて、六角面へ出でて、
東を指して行きけれど、打ち留むる者無かりけり。
 惣じて此の信連は、弓矢を取りて命を惜しまず、度々高名したりし者也。中にも、二条高倉にて強盗入りて散々に狼籍をす。番衆留めかねてあます所を、三条坊門高倉にて此の信連が六人に行き合ひて、四人やにはに切り臥せ、二人生け取りにして、其の時の勧賞に、今の左兵衛尉に成されし者也。
 さても、兼綱・光長▼P1703(二九オ)は、よもすがら御所の内并びに近辺の家々を穴ぐり求め進らせけれども、渡らせ給はず。兼綱が父入道が許へ夢見せたりけるとかや。
十一 〔高倉宮、都を落ち坐します事〕
 源三位入道の申し勧めとも平家は知らずして、源大夫判官をしも指し副へられける、不思議也。宮は少しも思し食しよらず、五月雨の晴間の月を御覧じて、御心を澄ましつつおはしましけるに、「『源三位入道の許より御文あり』とて、使、周章たる気色にて走りたり」と申しければ、何事やらむとて急ぎ御覧じければ、「君、世を乱せ給ふべき御企て有りとて、▼P1704(二九ウ)取り進らせに検非違使あまた参りて候ふなるぞ。兼綱も其の内也。一まどなりとも、とくとく立ち忍ばせ給へ。入道も参るべく候ふ。京中はいづくも悪しく候ふなむ。いかにもして、三井寺までだに事故無く渡らせ給ひなば、さりとも」と申したり。是を御覧じて、あさましとも云ふ量り無し。佐大夫宗信と云ふ人を召して、「こはいかがせむずる」と仰せ有りけれども、其もあわてわななくより外、憑もし気なし。信連を召して仰せ有りければ、御本鳥を乱して女房の薄ぎぬをきせまゐらせつつ、一目笠と云ふ物を奉らせて、走り出でさせ給ぬ。御所中の人々も▼P1705(三〇オ)知りまゐらせず。黒丸と云ふ中間、佐大夫宗信計りぞ参りける。宗信、けしかる直垂・小袴きて、唐傘持ちたり。黒丸に袋一つ持たせて、青侍体の者の、女迎へて
行くと見えたり。五月雨の比なれば、雲晴れて月くまなし。溝の広かりけるをしやくと越えさせ給ひたりければ、相ひ奉りたりける人の女房と思へば、「はしたなくもこゆる者哉」と思ひげにて、立ち留まりて怪しげに見まゐらせけるこそ、佐大夫はいとど膝ふるひて歩まれざりけれ。昔、景行天皇の第二御子、小雄皇子、異国を平らげに下り給ひけるにこそ、をとめの形をかりて、賊▼P1706(三〇ウ)の三河上の武智をば滅ぼし給ひたりけれ。などや是は、昔今こそ異ならめ、我が御身を滅ぼし給ひけむ。先世の御宿業を察し奉るこそ哀れなれ。
 宮は七・八丁ばかり延びさせ給ひぬらむと覚ゆる程にぞ、検非違使参りたりける。小枝と云ふ秘蔵の御笛有りけり。夜も昼も御身を放ち給はざりけるを忘れさせ給ひたりけるを、口惜しき事に思し食して、立ちも帰らせ給ひぬべく思し召しけれども、云ふに甲斐なし。其に信連が追ひ付き進らせて、近衛東の河原の程にて、「御笛取りてこそ参りたれ」と申しければ、「実かや」 とて、斜めならず悦ばしげに思し召したりければ、腰より抜き出だして進らせたりけり。佐大夫宗信、▼P1707(三一オ)六条宰相家保の御孫、右衛門佐宗保が子也。
 「高倉の宮、失せさせ給ひぬ」と云ひけるより、六波羅も京中も走り騒ぎける上に、山の大衆、既に三条京極辺りに下る由、聞えければ、平家の人々、大将已下の軍兵はせこみて騒ぎあはるる事、斜めならず。されども僻事にてぞ有りける。天狗の能く荒れにけるとぞ覚えし。高倉の宮と申すも、法皇の御子にておはしませば、余処の御事に非ず。いつしか軈てかかるあさましき事出でたれば、「只鳥羽殿に閑かにておはしまさで、由無く都へ出でにける哉」とぞ思し召す。「太政入道の嫡子、小松内大臣重盛、去年八月に失せ給ひにしかば、次男▼P1708(三一ウ)前右大将宗盛に、わく方なく世間の事譲りて、入道、福原へ下り給ひたりし手合はせに、大将不覚して宮を逃がしまゐらせたる事、口惜し」とぞ人申しける。
十二 〔高倉宮三井寺に入らせ給ふ事〕
 十九日、高倉宮、三井寺に逃げ籠らせ給ふ由、聞えけり。御馬にだにも奉らざりけり。人一両人ぞ御共に候ひける。東山に入らせ給ひて通夜如意山を越えさせ給ひけり。いつ歩ませ(習はせ歟)給ひたる御歩みならねば、夏草のしげみが下の露けさ、さこそ所せく、御足皆損じて、疲れよわらせ給ひつつ、深山の中を心あてにたどり渡らせ給ひければ、白くうつくしき御足は荊の為に▼1709(三二オ)赤くなり、黒く翆りなる御頭は、ささがにの糸に纏はれぬ折しも、時鳥の一声、幽かに聞えければ、御心の中にかくぞ思し食しつづけさせ給ひける。
 ほととぎすしらぬ山路に迷ふにはなくぞ我が身のしるべなりける
 昔、天武天皇、大伴の王子におそはれて、吉野山へ入らせ給ひけむも、今更思し食し出されて、哀れにぞ思し食されける。
 御伴の人々、御手を引かへ、肩に懸け進らせて三井寺へかかぐり着かせ給ひて、「我、平家に責められて遁れ難かりつる間、甲斐無き命の惜しさに衆徒を憑みて来れり。助けてむや」と泣々仰せられければ、▼1710(三二ウ)衆徒蜂起して甲斐甲斐しく御所しつらひ入れ進らせ、様々いたはり奉る。
十三 〔源三位入道三井寺へ参る事 付けたり競の事〕
 廿日、源三位入道、同じく子息伊豆守仲綱、源大夫判官兼綱、六条蔵人仲頼、其子蔵人太郎仲光、渡辺党等を相ひ具して、夜に入りて近衛河原の宿所に火を懸けて、三井寺へは参りにけり。源大夫判官兼綱は、入道の甥を養ひて次男に立てたり。之に依りて謀叛の議は兼綱には知らせず、此の時にこそ、兼綱は 「他人はせざりけり。父入道のしわざよ」と思ひけれ。
 渡部党の中に競の瀧口は入道の共には漏れにけり。同僚共が申しけるは、「競に▼1711(三三オ)此の事を知らせ候はで、いかさま我等は恨みられ候ひぬ」と申す。伊豆守、宣ひけるは、「吉々苦しかるまじ。宗盛の宿所近ければ、此の事聞きなば悪しかりなむ。知らせずとも、競、さる者なれば参らむずらむ」と宣ふ。競は此の事聞きて、「うたてくも此の事をば知らせ給はぬ者哉。只今参らむと思へども、右大将宗盛の向ひ也。馬よ鞍よとせむ程に、聞こえなば悪しかりなむ」とて、やすらふ。宗盛は下人を呼び給ひて、「向ひの宿所に競は有る歟。見て帰れ」と宣ひければ、程無く帰りて、「其のけもなくて候ふ也」と答ふ。「いかに、猶見よ」とて遺す。又、走り帰りて「同様にて候ふ」と申す。「競召せ」とて召されけり。瀧口、参り▼1712(三三ウ)たりければ、「いかに、三位入道殿は三井寺へと聞くに、己れはゆかぬか」。「さ候ふ。日来は随分人にも超えてこそ候ひつれども、今はかく残し留められぬる上は、追ひて参るに及ばず」と申す。「さらば我に仕へよかし」。競、「さ承りぬ」と申す。宗盛、兼ねてより哀れと思はれける便宜に、折を悦びて 「競に酒飲ませよ」とて、酒取り出だして種々の引出
物したり。中にも黒革威の鎧に、弓箭・大刀共引かれたり。其の上、猶、「遠山」とて秘蔵したる馬に鞍置きて引かれたり。競、かくて有らばやとは思へども、「賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に見えず」と云ふ事▼1713(三四オ)なれば、日比の重恩を忘るるに及ばず。宗盛、「競は有るか」。「候ふ」と度々申しながら、夜深け、人鎮まりければ、得たりける鎧着、甲の緒をしめ、馬に打ち乗りて鞭を揚げて三井寺へ馳せ参る。
 同僚共に会ひて、「いかに殿原は捨て置きて知らせ給はざりつるぞ」と恨みければ、同じき詞に申しけるは、「知らせむと申しつれども、守殿の『宗盛の宿所の近ければ悪しかりなむ。競、さる者なれば、知らずとも参らむずらむ』と仰せられつれば、力及ばず」と申しければ、競、「さては上にも未だ思し食めし放たせ給はざりけり」と悦び、入道殿・伊豆守の前に参りて、「競こそ以の外の僻事▼1714(三四ウ)して候へ。大将殿の鎧・甲・馬共に取りて参りたり」とて、事の子細語り申して、「人のたばぬ物を取りたらばこそ僻事ならめ」と申しければ、入道・伊豆守を始めとして、上下諸人、一度に「は」と咲ひけり。
十四 〔三井寺より山門・南都へ牒状を送る事〕
 さる程に衆徒僉議して山門并びに南都へ牒状を送る。其の状に云はく、
  薗城寺牒す 延暦寺の衙
    殊に合力を致して当寺の仏法破滅を助けられんと欲ふ状
  右、入道静海、恣に皇法を失ひ、又、仏法を滅ぼす。愁歎極まり無き▼1715(三五オ)間、去十五日夜、一院第二皇子、不慮の外に(難を遁れんが為にィ)入寺せしめ給ふ所也。爰に院宣と号して出し奉るべき責め有りと雖も、固辞せしむるの処に、官軍を遣さるべきの旨、其の聞こえ有り。当寺の破滅、将に此の時に当たる。延暦・薗城の両寺は門跡二つに相分かると雖も、学ぶ所は、是、円頓一味の教文に同じき也。縦ふるに鳥の左右の翅の如し。又、車の二輪に似たり。一方闕けむに於ては、争か其の歎き無からんや。てへれば、特に合力を致し、仏法の破滅を助けらるれば、早く年来の遺恨を忘れて、住山の昔に複せん。衆徒の僉議此の如し。仍て牒送件の如し。
▼1716(三五ウ)治承四年五月十七日                       小寺主法師成賀
   都維那大法師定算
   寺主大法師永慶
   上座法橋上人忠成
薗城寺牒す 興福寺の衙
  殊に合力を蒙りて当寺の仏法破滅を助けられんと請ふ状
右、仏法の殊勝なる事は皇法を守らんが為、皇法又長久なること▼1717(三六オ)は則ち仏法に依る也。然るを頃年より以降、入道前の太政大臣平清盛、恣に国威を楡かにして、朝制を乱り、内に付け外に付け、恨みを成し、歎きを成す間、今月十五日の夜、一院第二の皇子、忽ちに不慮の難を免れんが為に、俄に入寺せしめ給ふ。然るに院宣と号して、当寺を出だし奉るべきの由、責め有りと雖も、出だし奉るにあたはず。衆徒一向に之を惜しみ奉る。彼の禅門、武士を当寺に入れんと欲す。皇法と云ひ、仏法と云ひ、一時に正に破滅せんと欲す。諸衆、盍ぞ愁歎せざらん。昔、唐の恵性天子、軍兵を以て仏法を滅ぼさしめし時、青霊山の衆、合戦を於て之を防ぐ。皇憲、猶ほ斯くの如し。何に況んや謀叛八逆▼1718(三六ウ)の輩に於てをや。誰人か協猜すべきや。就中、南京は例無くて罪無き長者を配流せらる。定めて位田の内、動むらむ。今度に非ずは何れの日か会稽を遂げむ。願はくは衆徒、内に仏法の破滅を助け、外には悪逆の伴類を退けば、同心の至り、本懐に足りぬべし。衆徒の僉議、斯くの如し。仍て牒状件の如し。
 治承四年五月十七日
南都よりの返牒に云はく、
 興福寺牒す、園城寺の衙
  ▼1719(三七オ)来牒一紙に載せらるる、清盛入道静海が為に、貴寺の仏法滅せむと欲る由の事
 牒す、今月廿日の牒状、同廿一日到来す。披閲の処、悲喜相交なり。如何とならば、互ひに調達の魔障を伏すべし。
 抑も、清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥也。祖父正盛、蔵人五位の家に仕へて諸国受領の鞭を執る。大蔵卿為房、賀州刺吏の古へ、検非違所に補し、修理大夫顕季幡磨大守為りし昔、厩別当職に任ず。而るに、親父忠盛朝臣に〓びて、▼1720(三七ウ)昇殿を聴されし時、都鄙の老少、皆蓬壷の瑕瑾を惜しみ、内外の英豪、各馬台の籤文に泣く。忠盛青雲の翅を刷ふと雖も、世民猶白屋の種を軽くす。名を惜しむ青侍、其の家に臨むこと無し。
 而るに、去んじ平治元年、太上天皇、一戦の功を感じて不次の賞を授けたまひしより以降、高く相国に昇り、兼ねて兵仗を賜る。男子、或いは台階を忝くし、或いは羽林に列なる。女子、或いは中宮職に備はり、或いは准后の宣を蒙る。群弟庶子、皆辣路に歩み、其の孫、彼の甥、悉く竹符を割く。加之、九州を統領し、百司を進退して、皆奴婢僕従と為。一毛心に違へば、則ち王▼1721(三八オ)侯と云ふと錐も之を擒へ、片言耳に逆ふれば、亦公卿と云ふと雖も之を搦む。是を以て、若(或)は一旦の身命を延べむが為に、若(或)は片時の陵辱を遁れむと欲ひて、万乗の聖主、尚面展の嬌びを成し、重代の家君、還りて膝行の礼を致す。代々相伝の家領を奪ふと雖も、上宰も恐れて舌を巻き、宮々相承の庄園を取ると雖も、権威に憚りて言ふこと無し。勝つに乗る余り、去年の冬十一月、太上皇の陬を追捕し、博陸侯の身を押し流す。叛逆の甚しきこと、誠に古今に絶えたり。
 其の時、我等須く賊衆に行き向かふて、其の罪を問ふべき也。然而、或いは神慮を相量り、或いは王言と称するに依りて、欝陶を抑へて光陰を送る間、▼1722(三八ウ)重ねて軍兵を発して、一院第二親王の宮を打ち囲む処に、八幡三所、春日権現、速かに影向を垂れて、仙蹕を〓げ、貴寺に送り附けて新羅の扉に預け奉る。王法尽くべからざる由、明らけし。随ひて又、貴寺身命を捨てて守護し奉る条、含識の類、誰か随喜せざらむ。我等遠域に在りて其の情けを感ずる処に、清盛入道猶凶器を起して貴寺に入らんと欲る由、側に承り及ぶを以て、兼ねて用意を致す。十七日辰刻に大衆を発し、十八日、諸寺に牒送し末寺に下知して、軍士を得て後、案内を達せむと欲る処に、青鳥飛び来り芳緘を投げたり。数日の欝念、一時に解散す。彼の▼1723(三九オ)唐家清涼一山の〓蒭、猶武宗の官兵を返す。況や和国南北両門の衆徒、盍ぞ謀臣の邪類を擺はざらん。能く梁園左右の陣を固めて、宜しく我等が進発の告げを待つべし。者れば、衆議此くの如し。仍りて牒送件の如し。状を察して疑殆を成すこと勿れ。以て牒す。
 治承四年五月廿一日
とぞ書きたりける。
其の上、南都には七大寺に牒状を送る。先づ、東大寺へ牒状を送る。其の状に云はく、
  興福寺の大衆牒す、東大寺の衙
 ▼1724(三九ウ)早く末寺末社を駈りて供奉せられ、今明の中に洛陽に発向して、園城寺の将に滅せんとするを救はむと欲る状
  牒す。諸宗異なりと雖も、皆一代の聖教より出で、諸寺区なりと雖も、同じく三世の仏像を安んず。なかんづく、園城寺は弥勒如来常住の霊崛也。我等阿僧の流れを受け、慈氏の教文に慣る。貴寺は八宗の教法相並びて之を学す。豈彼の寺を憶はざらんや。而るに、花洛の下、一臣の揖り有り。平治元年以降、四海八〓を押領し、百司六宮を奴婢とす。一毛心に違へば則ち王侯と云ふと雖も以て之を擒へ、片▼1725(四〇オ)言思ひに乖けば則ち上卿たりと雖も以て之を醢にす。是を以て、相伝の家君、還りて膝行の礼を成し、万乗尊重の国王、殆と面展の嬌を致す。遂に超
 高指鹿の謀を廻らして、弥よ王法を滅す。剰へ、弗沙飛象の跡を追ひ、将に仏家を失はんとす。即ち今明の間、園城寺を残害せんと欲と云々。未だ発せざる以前に相救はずは、我等独り全うして何の詮有らむや。然れば則ち、不日に兵を調へて京花に向はむと欲。仏法の興廃、只此の締に在り。且は仏神に祈請し、魔軍を降伏すべし。且は末寺庄薗を駈りて供奉せられよ。者れば、宜しく天地の神慮に叶ひ、南北の仏法を保つべきのみ。仍りて粗ら▼1726(四〇ウ)由緒を勒して、牒送件の如し。乞ふや、状を察して遅引せしむること勿かれ。故に牒す。
   治承四年五月 日   興福寺大衆等
薬師寺等の牒状、大底東大寺牒状の如し。
 治承四年五月十七日に、殿下、大宰帥隆季、前大納言邦綱、別当時忠、新宰相中将通親、新院に参られ、高倉宮の事、議定あり。右中弁兼光朝臣、殿下の仰せを奉りて、御教書を興福寺別当権僧正玄縁、権別当権少僧都蔵俊が許へ遣はされけり。「薗城寺の衆徒、猥しく勅命を背き、▼1727(四一オ)延暦寺、又同心して送牒の由、風聞す。更に同意すべからざる」趣也。
 今夕、又、薗城寺の僧綱十人を召さる。前大僧正覚讃、僧正房覚、権僧正覚智、前権僧正公顕、法印実慶、権大僧都行乗、権少僧都真円、法眼覚恵とぞ聞こえし。覚讃、実慶は参らざりけり。各本寺に罷り向かひて、高倉宮を出だし奉るべき由、衆徒に仰せ含むべき由をぞ仰せ下されける。
 又、座主明雲僧正を召されて、山門同心すべからざる由を、仰せ下されけり。其の状に云はく、
   ▼1728(四一ウ)延暦薗城両寺の凶徒、日来計らふ義有る由、風聞せしむと雖も、更に信用無き処、三井の僧侶、既に勅勘の人を招き寄せて寺中に入居し了ぬ。結構の至り、忽ち以て露顕す。争か一寺の奸濫に牽かれ、同じく八虐の罪科を蒙るべけんや。且は実否を尋ね、且は禁遏を加ふべし者れば、院宣に依りて、言上件の如し。
     五月十六  日 左少弁行隆
   進上天台座主御房
 山門には、薗城寺より牒状送りたりけるには同心奉るべき▼1729(四二オ)由、領掌したりける間、宮力付きて思し食されけるに、山門の衆徒心替りするかなど、内々披露しければ、なにとなりなむずるやらむと、御心苦しく思し食されけり。重ねて又山門へ院宣を成し下さる。其の状に云はく、
  薗城寺の悪徒謀逆の事
 右、日来宥め仰せらるると雖も、尚し勅命を背く。今に於いては、追討使を遣はさるべきなり。一寺の滅亡、歎き思し食すと雖も、万民の煩ひ、黙止すべからざるか。誠に是魔縁の結構、盍ぞ仏境の冥▼1730(四二ウ)助を仰がざらんや。満山の衆徒、一口同音に祈り申さしむべし。兼ねては又逃がれ去るの輩、定めて叡山に向はんか。殊に用心を存じて警衛せしむべき由、三山に告げ廻さしめ給ふべし者れば、新院の御気色に依りて、上達件の如し。
   五月廿二  日左少弁行隆
とぞ仰せ下されける。
 爰に、山門の衆徒の中に、出羽阿闍梨慶快とて、三塔に聞こえたる学生悪僧ありけるが申しけるは、「抑も薗城寺は智証の建立也。我が山は伝教の草創也。所▼1731(四三オ)学一つにして、宗義同じなりと云へども、本末岐異にして、雲泥交はりを隔つ。而るに、三井の衆徒等恣に飛鳥の両翼に譬へ、推して牛車の二輪に類する条、所行の企て、甚だ以て奇怪なり。恐惶の思ひを以て恭敬の詞を致さば、同心せしむべし。然らざれば、与力すべからざる」由、申しけるとぞ聞こえし。
十五 〔三井寺より六波羅へ寄せんとする事〕
 三井寺には、「六波羅に押し寄せて、太政入道を夜討ちにせむ」とぞ僉議しける。「物の用にもあはざらむ老僧達に松明持たせて如意山へ差し登せ、足軽二百余人そろへて白河辺へ指し向けて、家々に火をかけさせ、残らむ者共は岩坂・桜本へ馳せ▼1732(四三ウ)向かひて待たむ程に、白河に火懸けなば、焼亡とて、平家の軍兵共、多くは火の許へこそ馳せむずれ。六波羅に残り留まる者は希なるべし。其の間に押し寄せて、太政入道夜討ちにせむ事、いと安し」とぞ計らひける。
 爰に一能房阿闍梨心海と云ふ者あり。年来平家の祈師にて有りけるが、大衆の中に進み出でて申しけるは、「かく申せば平家の方人をすると思し食さるらめども、一つはそれにても候ふべけれども、又争か我が寺の名をも惜しみ、衆徒の威をも思はで侍るべき。当時平家の繁昌するを見るに、吹く風の草を靡かし、降る雨の壌を砕く▼1733(四四オ)に似たり。東夷・南蛮・西戎・北狄、靡き随はざる者やある。蟷螂の斧を以て立車を返し、嬰児の蠡を以て巨海を尽くすと申す事は有れども、軍兵其の数籠り居て候ふ。六波羅を夜討ちにせむ事、いかが有るべかるらむ。云ふ甲斐なき事引き出だしたらば、南都北嶺の嘲り、能々御計らひあるべき也」と、夜を深かさむとや思ひけむ、長僉議をぞしたりける。
 乗因房阿闍梨慶宗は、衣の上に打刀前だりにさしなし、かせ杖にかかり、指し顕れて申しけるは、「例証を外に求むべからず。我が寺の本願天武天皇、大伴の皇▼1734(四四ウ)子に襲はれて吉野山へ籠らせ給ひけるに、大和国宇多郡を過ぎさせ給ひけるには、上下わづかに七騎の御勢にて通らせ給ひけれども、終には和泉・紀伊国の勢を召し具して、伊賀・伊勢を経て美乃と尾張の勢とを催して、美乃との近江との境に境河と云ふ所にて、河をへだてて大伴の皇子と戦はせ給ひしに、河、黒血にて流れたり。是よりして彼の河を黒血河と申す。終に大伴皇子を亡ぼし、二度位に即き給ふ。『人倫哀れみをなせば、宮鳥懐ろに入る』と云へり。争か御力を合はせ奉らざらむ。余をば知るべからず、慶宗が門▼1735(四五オ)徒共、漏るべからず。太政入道夜討ちにして進らせよ」と云ひもはてねば、時を作る。
 山の手へ向かふ老僧には、一能房阿闍梨心海、乗因房阿闍梨慶宗、乗南房阿闍梨覚勢、経修房阿闍梨、武士には源三位入道頼政を初めとして、物の用に叶ひげもなき老僧五百余人、手々に松明持ちて如意が峯へ登る。足軽二百余人そろへて、白河の側へ遣す。其の外の悪僧には、嶋阿闍梨大輔公、法蓮房伊賀公、角六郎房、六天宮には式部、大夫、能登、加賀、備後、越中、荒土佐、鬼佐渡、日尾定雲、四郎房、五▼1736(四五ウ)重院但馬、円満院大輔、堂衆には筒井浄妙明俊、一来法師、武士には伊豆守仲綱、源大夫判官兼綱、六条蔵人仲頼、其の子蔵人太郎長光、渡部党を先として、七百五十余人、時を作りて出で立つ。
 園城寺に宮入れ進らせて後は、堀ほり逆木引きたれば、堀に橋を渡し、さかも木のけさせなどせしほどに、五月の短夜なれば、八音の鳥も鳴き渡り、しののめ次第に明けぞゆく。伊豆守宣ひけるは、「今は叶はじ。引けや」とぞ云はれける。円満院の大輔進み出でて申しけるは、「昔唐国に孟嘗君と云ふ者ありき。孤白の裘と云ふ物を▼1737(四六オ)秘蔵して持てり。
秦の照王、此の事を聞き給ひて、『汝が所持の孤白裘、我に得させよ』と云ひければ、我が身には第一の宝と思ひけれども、是を惜しみては我滅びなむずと思ひて、此の裘を照王に与へ奉る。則ち官庫に納めてけり。此の裘をきつれば、一天四海を眼前に見、七珍万宝を求め出だす宝なり。されば、孟嘗君、三千人の所従に金の沓をはかせて朝夕召し仕ひしも、此の裘の故也。孟嘗君此の事を安からず思ひて、日別の食事を止めて彼の裘の惜しき事を歎き居たりけるに、孟嘗君、心広く賢き者にて様々能ある者を召し仕ひけり。或いは牛馬の吠ゆるまねをし、犬の吠ゆるまねをし、▼1738(四六ウ)或いは鶏の鳴くまねをし、盗みに長ぜる者もあり。其の中に、李不提と云ふ、盗み能くする者あり。『孤白裘を盗み出だして献らむ』と云ひければ、孟嘗君大きに悦びて、李不提を遣す。不提、照王の許に行きて、宝蔵を開きて彼の裘を盗み出だして、孟嘗君に奉る。孟嘗君、此の裘を得て、『照王聞き給ひなば、我を誡めに寄せ給はむずらむ。さらば、未だ天の明けざる先に』とて、子剋計りに秦国を逃げ出だしけるに、彼の函谷関と申すは、鶏の鳴かざる前には関戸を開く事なし。いかがはせむと歎きけるに、三千人の客の中に鶏鳴
と云ふ者、高木の末に登りて、鶏の虚音をしたりければ、其の声▼1739(四七オ)に催されて関路の鶏鳴きければ、『夜曙にけり』とて、関守り戸を開けければ、孟嘗君悦びて事故無く通りにけり。是も敵の謀の能き故也。今も我等が心をはからむとて、鳥のそら音にてもや有るらむ。只寄せよや」とぞ申しける。
 伊豆守、「いやいや叶ふまじ。引けや」と宣ひければ、力及ばず引き退く。「是は心海めが長僉議にこそ夜は深けたれ」とて、帰りざまに心海が坊を切り払ふ。心海が同宿共、命を捨てて散々に防き戦ふ。寄手もあまた討たれにけり。心海が同宿八人討たれけり。心海、虎口を遁れて六波羅に馳せ参りて此の由を申す。されども、軍兵その▼1740(四七ウ)数籠りたりければ、少しも騒ぐ事なし。
十六 〔大政入道山門を語らふ事 付けたり落書の事〕
 太政入道、忠清を召して宣ひけるは、「南都、延暦寺、三井寺、一つに成りなば、よき大事にてこそ有らんずらめ。いかがせむずる」。忠清申しけるは、「山法師をすかして御覧候へかし」。「然るべし」とて、山の往来に近江米三千石よす。解文の打敷(うちしき)に織延絹三千疋差し副へて、明雲僧正を語らひ奉りて、山門の御坊へ投げ入る。一疋づつの絹にばかされて、日来蜂起の衆徒、変改(へんがい)して、宮の御事を捨て奉りけるこそ悲しけれ。山門の不覚、只此の時にあり。
 奈良法師是を聞きて、実語教に作りてぞ咲(わら)ひけ▼1741(四八オ)る。其の詞に云はく、
  山高きが故に貴からず、僧有るを以て貴しとす。人肥えたるが故に貴からず、恥有るを以て貴しとす。織延は一旦の財、身滅せざれども即ち破る。恥は是万代の疵、身終はるまで更に失せず。玉瑩き立つれば疵無し、疵無きを頼政とす。貪欲の者は恥無し、恥無きを山僧とす。倉の内の財は朽つること有れども、身の中の欲は朽つること無し。千両の金を積むと雖も、一日の恥には如かず。四大日々に衰へ、三塔夜々に暗し。敢へて書を読むに輩無し。学文の方には跡を削る。眠りを除きて夜討を好み、飢ゑを忍びずして財を損ず。師に遇ふと雖も恐れず、豈(あ)に弟子に向かふとも恥ぢんや。▼1742(四八ウ)四等の船に乗らざれども、海賊の道に理を得。八正の道有りと雖も、十悪なるが故に学せず。無為の都有りと雖も、放逸の為に仕へず。唯畜生に全同なり。即ち木石に異ならず。父母には常に向背し、主君には更に忠無し。園城宮を敬へば、諸人三井を敬ふ。山僧約を変ずれは、国土普く之を悪む。天下叡山を謗り、万人四明を傾くれば、山門悉く滅失すること、宛も霜下花の如し。身を織り延べに代へて、妻子の相節とす。常に安きは罪業也。将来の恥を洗ふべし。故に万代の山僧、先づ此の書を習ふべし。是れ学
文の始め也。身を終ふるまで忘失すること勿(なか)れ。▼1743(四九オ)実語教一巻、是則ち山僧経也。仍りて陀羅尼品に云はく、〓(おん)山法師、はらぐろはらぐろ、よくふかよくふか、はぢなやそはか
 とぞ書きたりける。
同じく奈良法師の読みける。
  山法師織延絹の薄くして恥をばえこそかくさざりけれ
同じく小法師原の読みける。
  山法師味曽かひしほか唐醤かへいじの尻に付きてまはるは
源三位入道かくぞ読みける。
  薪こるしづがねりそのみじかきがいふ言の葉の末のあはぬは
山僧の中に、絹にもあたらぬ小僧、此の哥共を聞きて、かくぞ読みける。
  ▼1744(四九ウ)織延を一きれもえぬ我さへにうす恥をかく数に入る哉
十七 〔宮蝉折(せみをれ)を弥勒に進(まゐ)らせ給ふ事〕
 高倉宮の御前に参りて、大衆申しけるは、「山門の衆徒も心替りし候ひぬ。南都よりも御迎へに参ると、今日よ明日よと申せども、未だ見え候はず。寺ばかりにては叶ふまじ。何方へも延びさせおはしますべし」と申す。宮、御心細げにおはします。されども金堂に御入堂あり。此の宮、小枝・蝉折(せみをれ)と云ふ秘蔵の御笛二つあり。蝉折(せみをれ)を弥勒に奉らせ給ふ。
 此の御笛は、鳥羽院の御時、奥州より砂金千両奉りたり。鳥羽院、「是は我が朝の重宝のみにあらず、大国の宝にてもある物を」とて、▼1745(五〇オ)時の主上へ進(まゐ)らせ給ひたり。唐土国王、大きに悦ばせ給ひて、御返報とおぼしくて、幹竹(かんちく)(カンちく)を一本献る。其の竹の中に、笛にえらせ給ふべきよを一よ切らせまします。口の穴と節と覚しき所に、生身の蝉の様なる物有りけり。聖主、希代の宝物と思(おぼ)し食(め)されて、三井寺の覚祐僧正に仰せて、護摩壇の上、一七ヶ日加持せさせ給ひて後、笛に雋られたりけり。天下第一の宝物なりける間、おぼろけの御遊には取り出だされず。御賀の有りけるに、高松中納言実平卿、給はりて吹かんとす。御遊の期、未だ遅かりければ、普通の笛の如く思ひなして、膝の下に押しかくし▼1746(五〇ウ)て、其の期に取り出だして吹かんとすれば、笛とがめ思ひて、取りはづして蝉を打ち折りたり。其よりしてこそ、此の御笛をば蝉折(せみをれ)とは名付けしか。
 鳥羽院の御物なりけれども、其の御孫の御身として伝へ持たせ給ひたりけるが、いかならむ世までも御身を放たじと思(おぼ)し食(め)されけれども、三井寺を落ちさせ給ふとて、「今生にては拙くして失せなむず。当来には必ず助け給へ」とて、金堂に御座す生身弥勅菩薩に手向け奉りて、奈良へ落ちさせ給ふべきに定まりぬ。小枝と申しし御笛を、最後まで御身を放たれず。哀れなりし御事也。
 其の後、或る雲客、日吉社へ詣でて、夜陰に及びて▼1747(五一オ)下向しけるに、三井寺に笛の音のしけるを、暫くやすらひて立ち聞きければ、故高倉の宮の蝉折(せみをれ)と云ひし御笛の音に聞きなして、子細を尋ねければ、金堂執行慶俊阿闍梨、其の比寵愛しける小児の笛吹を持ちたりけるに、時々取り出だして此の笛を吹かせけり。ゆゆしくも聞き知りたる人哉。大衆、此の由を聞きて、「此の笛をいるかせにする事、然るべからず」とて、其の時より始めて一の和尚の箱に納められて、園城寺の宝物の其の一にて今にあり。
十八 〔宮南都へ落ち給ふ事 付けたり宇治にて合戦の事〕
 廿三日、高倉宮は、大衆同心せばかくてもおはしますべきに、山門心替りの上は園城寺ばかりにては弱ければ、源三位入道頼政、▼1748(五一ウ)伊豆守仲綱、大夫判官兼綱、渡部党には競、継、与、丁七唱、寺法師には円満院大輔、大加賀、矢切但馬、筒井浄妙明俊等を始めとして、三百余騎にて落ちさせ給ふ。宇治と寺との間にて、六度まで落馬せさせ給ふ。此の程、御寝ならざりける故也。宇治橋三間引きてかいだてにかき、其の間、宮をば平等院に入れ進(まゐ)らせて御寝なし奉る。
 平家、此の事を聞きて、軍兵を差し遣して追ひ奉る。大将軍には、左兵衛督知盛、蔵人頭重衡朝臣、権亮少将惟盛朝臣、小松新少将資盛朝臣、中宮亮通盛朝臣、左少将清経朝臣、▼1749(五二オ)左馬頭行盛朝臣 三河守知盛 薩摩守忠度、侍には上総守忠清、同大夫尉忠綱、飛騨守景家、同判官景高、河内守康綱、摂津判官盛経以下、二万余騎とぞ聞こえし。
 宇治路より南都へ向ふ宮の御方、三百余騎也。宇治橋引きて平等院に御休み有りけるに、「敵已(すで)に向かひたり」と云ふ程こそあれ、河の向かひに雲霞の勢、地を動もせり。平等院に敵有りと目懸けてければ、河に打ち臨みて時を作る。三位入道も声を合はせたり。平家の方よりは我先にと進みけり。
 宮の御方より、筒井の浄妙明俊、褐の鎧直垂に火▼1750(五二ウ)威の鎧着て、五枚甲居頸(ゐくび)に着なして、重藤の弓に廿四指したる高うすべをの矢を後高に負ひなして、三尺五寸のまろまきの太刀をかもめ尻にはきなして、好む薙刀杖につき、橋の上に立ち上がりて申しけるは、「もの其の者に候はねども、宮の御方に筒井の浄妙明俊とて、園遠寺には其の隠れなし。平家の御方に吾と思(おぼ)し召(め)さむ人、進めや見参せむ」とぞ申しける。平家方より、「明俊は能き敵。吾組まん、吾組まん」とて、橋の上へさと上がる。明俊は、つよ弓勢兵、矢つぎ早の手聞(てきき)にて有けり。廿四差たる矢を以て、廿三騎射臥せて、一つは残りて▼1751(五三オ)胡〓にあり。好む薙刀にて十九騎切り臥せて、廿騎に当たる度、甲にからりと打ち当てて折れにければ、河へ投げ捨つるままに、太刀を抜きて、九騎切り臥せて、十騎に当たる度、打(ちやう)と打ち折れ、河に捨つ。憑(たの)む所は腰刀、ひとへに死なむとのみぞ狂ひける。
 「浄妙房うたせじ」とて後中院の但馬、金剛院の六天狗、鬼佐渡、備中、能登、加賀、小蔵尊月、尊養、慈行、楽住、金拳の玄永房等、命を惜しまずたたかひけり。橋桁はせばし、そばより通るに及ばず。明俊が後に立ちたりける一来房、「今は暫くやすみ給へ、浄妙房。一来進むで合戦▼1752(五三ウ)せむ」と云ひければ、明俊「尤も然るべし」とて、行桁の上にちとひらみたる所を、「無礼に候ふ」とて、一来法師、兎ばねにぞ越えたりける。是をみて敵も御方も「はねたりはねたり、能(よ)くこえたり」とぞほめたりける。此の一来法師は、普通の人よりは長(た)けひきく、勢少し。肝神の太き事、万人にすぐれたり。さればこそ、甲冑をよろひ、弓箭兵杖を帯しながら、身をかへりみず、あれほどせばき行桁の上にて、大の法師をかけもかけず、兎ばねにはこえたりけれ。太刀の影、天にも有り、地にもあり、雷などのひらめくが如し。切りおとし、切りふせ▼1753(五四オ)らるる者、其の数を知らず。上下万人、目をすましてぞ侍りける。明俊・一来、二人にうたるる者、八十三人也。実に一人当千の兵なり。
 「あたら者共うたすな、荒手の軍兵打ち寄せよや、打ち寄せよや」と、源三位入道下知しければ、渡部党には省、連、至、覚、授、与、競、唱、烈、配、早、清、遥などを始めとして、我も我もと声々に一文字名ども名乗りて、卅余騎、馬より飛び下り、橋桁をわたして戦ひけり。明俊は是等を後ろに従へて、弥(いよい)よ力付きて、忠清が三百余騎の勢に向かひて、死生不知にぞ戦ひける。三百余騎とはみえしかど、明俊、一来、▼1754(五四ウ)渡部党、卅余騎の兵共に二百余騎は打たれて、百余騎ばかりは引き退く。其の間に、明俊は平等院の門内へ引きて休む。立つ所の箭は七十余、大事の手は五所也。処々に灸治して、頭からげ浄衣着て、棒杖つき、高念仏申して、南都の方へぞ罷りにける。
 円満院の大輔慶秀、矢切の但馬明禅と云ふ者あり。此又武勇の道、人に免されたる者也。慶秀は、白き帷の脇かきたるに、黄なる大口を着、萌黄の腹巻に袖つけたり。明禅は、褐の帷に白き大口を着(キ)、洗ひ革の腹巻に射向の袖をぞ付けたりける。各薙刀をとり、し▼1755(五五オ)ころを傾けて、又ゆき桁をわたしけるを、寄武者共、矢ぶすまを作りて射ければ、射すくめられてわたり得ざりけるに、明禅長刀をふりあげ、水車をまはしければ、矢、長刀にたたかれて四方にちる。春の野に東方の飛びちりたるに異ならず。御方も興に入りてぞほめののしりける。
 橋を引きてければ、敵数千騎有りと云へどもわたり得ず。明禅等にふせかれて、合戦、時をぞ移しける。矢切の但馬、円満院の大輔、一来法師、此等三人して、橋桁わたる武者共を残り少く切り落としければ、後々には我渡らむとする兵なし。平等院の前、西▼1756(五五ウ)岸の上、橋の爪に打ち立ちたる宮の御方の軍兵共、「我も我も」と扇をあげて、「わたせや、わたせや」とまねきて、どつと咲(わら)ひけり。「それほど臆病なるものの、大将軍する事やはある。太政入道殿、心おとりし給ひたり。あれほど不覚なる者共を合戦の庭に指し遣す事、うたてありや、うたてありや」と云ひて、舞ひかなづる者もあり、おどりはぬる者もあり。かく咲(わら)ひ、恥ぢしむれども、橋渡らむとする者一人もなし。
 円満院の大輔は、進み出でて散々に戦ひけるが、敵あまた打ち取りて、叶はじとや思ひけむ、河のはたを下りにしづしづと落ち行きけるを、敵追ひ懸かりて、「いかにいかに、▼1757(五六オ)かへしあはせよや、かへしあはせよや。きたなくも後をばみする者哉」と申しけれども、聞き入れず落ちて行く。敵間近く責めつけたりければ、絶えずして河の中へ飛び入りにけり。水の底をくぐりて、向かひの岸にあがりて、「いかに、よき冑もぬれて重く成りて、落つべしとも覚えぬぞ。寄せて打てや、殿原」とまねきけれども、大将にもあらねば、よせて討つにも及ばず、目にもかけず。大輔は、「さらば、暇申してよ。寺の方にて見参せむ」と申して、しづしづと三井寺の方へぞ落ち行きける。
 平家は橋の中三間引きたるをも知らずして、敵計りに目を懸けて、我先にと渡りければ、▼1758(五六ウ)どしをしに押されて、先陣五百余騎、河に押し入れられて流れけり。火威の鎧のうきぬしづみぬ流れけるは、彼の神名備山の紅葉の、峯の嵐にさそはれて、龍田川の秋のくれなゐ、ゐせきにかかりて流れもやらぬに異ならず。三位入道是を見て、「世を宇治川の橋の下さへ、落ち入りぬれば堪えがたし。況や冥途の三途の河の事こそ思ひ遣らるれ」とて、
  思ひやれくらきやみ路の三瀬河瀬々の白浪はらひあへじを
一来法師、にはかに弥陀願力の船に心をかけて
 字治河にしづむをみれば弥陀仏ちかひの船ぞいとど恋しき
▼1759(五七オ)河に落ち入りて武者共の流るるを見て、三位入道
  伊勢武者は皆火威の冑きて宇治の網代にかかるなりけり
 宮の御方に、法輪院の荒土佐鏡〓と云ふ者あり。異名には雷房とぞ申しける。雷は卅六町をひびかす声あり。此の土佐も、卅六町の外にあるものを呼び驚かす大音声あり。「大勢なれば、さだかにはよもきこえじ。木に上りて呼ばはれ」と云ひければ、岸の上の松の木に上りて、一期の大音声、今日を限りとぞ呼ばひたりける。「一切衆生、法界円輪、皆是身命、為第一実とて、生ある者は皆命を惜しむ習ひ▼1760(五七ウ)なれども、奉公忠勤を至す輩は、更に以て身命を惜しむ事有るべからず。況や合戦の庭に敵を目にかけながら、くつばみを押へて馬に鞭うたざる条、大臆病の至す所なり。平家の大将軍、心おとりしたりや、心おとりしたりや。源家の一門ならましかば、今は此の河をわたしてまし。平家は徒に栄花を一天に開きて、臆病を宇治河の畔に現す。禁物好食自在にして、四百四病は無けれども、一人当千の兵にあひぬれば、臆病計りは身にあまりたりけり。やや、平家の公達、聞き給へ。此には源三位入道殿、矢筈を▼1761(五八オ)取りて待ち給ふぞ。源平両家の中に撰ばれて、〓射給ひたりし大将軍ぞや。臆する所尤も道理なり。所以に一来法師太刀をふれば、二万余騎こそ引かへたれ。尾籠(をこ)な
り、見苦し見苦し。思ひ切りて、はふはふも渡すべし」とぞ呼ばはりたる。
 左兵衛督知盛、此の事を聞き、「安からぬ事哉。加様に咲はれぬる事こそ後代の恥辱なれ。橋桁を渡ればこそ、無勢なる間、射落とさるれ。大勢を河に打ちひたし、一味同心にして渡せや者共」とそ下知せられける。上総守忠清申しけるは、「此の河の有様を見るに、輙く渡すべしとも覚えず。其の上、此の▼1762(五八ウ)程は五月雨しげくして、河の水かさまさりたり。此の勢を二手に分けて、一手は淀、蹲枝洗ひ、河内路を廻りて、敵の先を切りて、中に取り籠めばや」と申しければ、東国下野国の住人、足利の太郎俊綱が子に、足利又太郎忠綱と云ふ者あり。赤地錦直垂に、火威の鎧に三枚甲居頸(ゐくび)に着なし、滋藤の弓に廿四指したる切符の矢に、足白の太刀に、白葦毛の馬に黄伏輪の鞍置きて乗りたりけるが、多くの武者の中に進み出でて申しけるは、「淀、いも洗ひ、河内路をば、唐土天竺の武士が給はりて寄せんずるか。其も我等こそ責めんずらめ。今▼1763(五九オ)無からむが、其の時出で来べきにも非ず。昔、秩父と足利と中違ひて、父足利、上野国新田入道を語らひて搦め手を廻ししに、新田の入道、敵秩父に船を破られて、『船無ければとて、此に引かへたらむは、弓箭取る甲斐あるまじ。水
に溺れてこそ死ぬとも死なめ』とて、とね河を五百余騎にてさと渡したる事も有るぞかし。されば、此の河、とね河には勝りもせじ、劣りもせじ。渡す人無くは忠綱渡さむ」とて打ち入る。
 続く者共は誰々ぞ。家子には、小野寺の禅師太郎、讃岐広綱四郎大夫、へやこの七郎太郎、郎等には大岡安五郎、あねこの▼1764(五九ウ)弥五郎、とねの小次郎、おう方二郎、あきろの四郎、きりうの六郎、田中の惣太を初めとして、三百五十騎には過ぎざりけり。忠綱申しけるは、「加様の大河を渡すには、つよき馬を面に立て、よはき馬を下に立てて、肩を並べ、手を取りくみて渡すべし。其の中に、馬も弱くて流れむをば、弓のはずを指し出だして取り付かせよ。余たが力を一に合はすべし。馬の足のとづかむ程は、手縄をくれて歩ませよ。馬の足浮かば、手縄をすくふて游がせよ。我等渡すと見るならば、敵矢ぶすまを作りて射んずらむ。射るとも手向ひなせそ。射向の袖をかたきに当てて、▼1765(六〇オ)向かひ矢を防かせよ。向かひのはたみむとて、内甲(うちかぶと)のすき間射らるな。さればとてうつぶきすごして、手辺の穴射らるな。馬の頭さがらば、弓のうらはずを投げ懸けて引き上げよ。つよく引きて引きかづくな。馬より落ちんとせば、童すがりに取り付きて、さうづにしとど乗りさがれ。かねにな渡しそ。押し流さるな。すぢかへざまに水の尾に付きて、渡せや渡せや」とて、一騎も流れず、向
かひのはたに、ま一文字にさと着く。
 向かひのはたに打ち上がりて、忠綱は、弓杖をつき、左右の鐙踏み張り、鎧づきせさせ、物具の水ぞ下しける。門外近く押し寄せて申しけるは、「遠くは音にも聞け、▼1766(六〇ウ)今はまぢかし、目にも見よ。東国下野国住人、足利の太郎俊綱が子に、足利又太郎忠綱、生年十七歳。童名王法師丸とは、源平知ろし食(め)したる事ぞかし。無官無位の者の、宮に向かひ奉りて弓を引き候ふは、恐れにては候へども、信も冥加も太政入道の御上にて候へば」とて、ざざめかいてぞ係けたりける。
 源三位入道頼政は、長絹の直垂に黒革威の鎧を着て、甲をば着ざりけり。馬もわざと黒き馬にぞ乗りたりける。仲綱・兼綱を左右に立て、渡辺党を前後に立てて、今を限りと散々にぞ戦ひける。宮は其の間に延びさせ給ひけり。若干の大勢▼1767(六一オ)せめ重なりける上、頼政入道、矢射尽くし、手負ひて後は、今は叶はじとや思ひけむ、南都の方へぞ落ちにける。伊豆守仲綱も討たれぬ。
 源大夫判官兼綱は、父を延ばさむとて、引き返し引き返し戦ひけり。手負ひたりければ、鞭を揚げて落ちられけり。黄なる生衣の直垂に、赤威の鎧きて、白葦毛の馬にぞ乗りたりける。上総太郎判官忠綱、「あれは源大夫判官殿とこそ見奉りつれ。うたてくも後をばみせ給ふ者哉。返させ給へ」とて追ひ懸けたりければ、「宮の御共に参る」とぞ答へける。無下に近く責め寄せたりけれな、今は叶はじとや▼1768(六一ウ)思はれけむ、馬の鼻を引き返して、我身あひともに十一騎、敵の中へをめいて懸けけるに、一人も組む者なし。さとあけてぞ通しける。十文字にかけわりたるを、忠綱が射る矢、兼綱が内甲(うちかぶと)に中(あ)たりぬ。忠綱が小舎人童、二郎丸とて勝れたる大力なりけるが、むずと組みて落ちたりけり。兼綱は下になり、二郎丸は上に成りけるを、兼綱が郎等落ち合ひて、二郎丸が鎧の草摺を引き上げて、上げざまに指してけり。さて、兼綱は山の中へ引き籠もりて、鎧ぬぎすて、腹かい切りて死ににけり。飛騨判官景高が郎等追ひつづいて、▼1769(六二オ)頸をば取りて返りにけり。
十九 〔源三位入道自害の事〕
 源三位入道は、源八嗣をまねきて申しけるは、「身は六代の賢君に仕へて、齢八旬の衰老に及ぶ。官位已(すで)に烈祖に越へ、武略等倫に恥ぢず。道の為、家の為、慶びは有れども恨みは無し。偏(ひと)へに天下の為に、今義兵を挙ぐ。命を此の時に亡ぼすと雖も、名を後世に留むべし。是勇士の庶ふ所、武将の幸ひに非ずや。各ふせき矢射て、しづかに自害せさせよ」とぞ申しける。三位入道は右の膝節を射させたりけるが、木津河のはたにて高き岸の有りける隠れにて、鎧ぬぎすて、馬より下りつつ、息づき居たりけるが、▼1770(六二ウ)念仏百返計り唱へて、和哥をぞ一首読まれける。
  埋木の花さく事も無かりしにみのなるはてぞ哀れなりける
 此の時、哥など読むべしとこそ覚えねども、心に好みし事なれば、加様の折もせられけるこそ哀れなれ。
 渡部党に長七唱と云ふ者に、「頸うて」と云はれけれども、生頸を取らむ事、さすがにや覚えけむ、「自害をせさせ給へかし」と申しければ、太刀を腹にさし当てて、うつ臥しに伏したりけり。其の後、頸かい切りて、穴を深く掘りて埋みたりけるを、平家の軍兵追ひ懸りて、ここかしこ穴ぐり求めけるほどに、木津河▼1771(六三オ)のはたにして求め出だして取り畢(を)はんぬ。
 宮は御寝もならせ給はず、御喉渇かせ給ひければ、水まゐりたく思(おぼ)し食(め)されけれども、敵軍多く後より参り重なりければ、御ひま無くて過ぎさせ給ひけり。御共に参りける信連、黒丸等に、「ここをばいづくと云ふぞ」と御尋ねわたらせましましければ、「是は井出の里と申す所にて候ふ也。又此の河の事にて候ふ、山城の水なし河と申し候ふぞ」と申しければ、宮、うちうなづかせましまして、かくぞ思(おぼ)し食(め)しつづけさせ給ひける。
  山城のゐでのわたりに時雨して水無河に波や立つらん
▼1772(六三ウ)と、うちすさませましまして、にえ野の池を打ち過ぎて、梨間の宿をも通らせ給ひければ、漸く奈良の京も近付きて、光明山へぞかからせ給ひける。
廿 〔貞任が哥読みし事〕
 昔も合戦の庭にて加様の哥の名を上ぐる事は多けれども、まのあたり哀傷を催す事は無し。源頼義朝臣、安倍の貞任・宗任を責められし時、奥州信夫の乱れに年を経て、明けぬ晩れぬと諍ひて、十二年までせめ給ふ。
 或年の冬の朝に、鎮守府を立ちて秋田城へ移り給ふ。雪は深くふり敷き、道すがらかつふるままの空なれば、射向の袖、矢並つくろふ小▼1773(六四オ)手の上までも、皆白妙に見えわたる。白符の鷹を手に居えたれば、飛羽風に吹きむすばるる雪、都にて見なれし花の宴の舞人、清涼殿の青海波の袂にも劣らずこそみえられけれ。楯を載せて甲とし、楯を浮べて筏として、岸高く峙ちたる衣河城をば、頭をたれ、歯をくひしばりて責め落とし給ひしに、貞任、城の後ろよりくづれおちて逃げけるに、一男八幡太郎義家朝臣、衣河に追ひ下りて責め付けつつ、「やや、きたなくも逃げ出づるもの哉。暫く引へよ」とて、
  衣のたちはほころびにけり
▼1774(六四ウ)と云ひ係けたりければ、貞任、少しくつばみを引へ、しころを振り向くる形にて、
  年をへしいとの乱れのくるしさに
と申したりければ、義家はげたる矢を指しはづして、帰られにけり。優なる事にぞ、其の比は申しける。
廿一 〔宮誅され給ふ事〕
 さても園城寺の衆徒、源三位入道頼政等、皆散々に成りて、一むれにても宮の御共にも参らず、左兵衛尉信連・黒丸ばかりぞ付き参りたりける。信連は浅黄の直垂、小袴に洗革の大荒目の腹巻に膝の口たたかせ、左右の▼1775(六五オ)小手指しつつ、三枚甲居頸(ゐくび)に着なして、滋藤の弓に高うすべ尾の矢負ひ、三尺五寸の太刀はきたり。源三位入道の秘蔵の馬油鹿毛に乗りて、「宮の御共せよ」とて帰りたりけるにぞ乗りたりける。宮を先にたてまゐらせて落ちけるが、敵をめいて責めかかりければ、返し合はせ返し合はせ戦ひけり。光明山の鳥居の前にて、流れ矢の御そば腹に立ちぬ。馬より逆(さかさま)にぞおちさせたまふ。こはいかがせむずると思ひあへず、信連馬より飛び下りて物へ進(まゐ)らせたれども、云ふ甲斐なし。御目も御覧じあけず、物も仰せられず消え入らせ▼1776(六五ウ)給ひにけり。黒丸と二人して御馬にかきのせ進せむとすれども叶はず。さる程に、敵已(すで)に責め係りにけり。
 飛騨判官景高、此の御ありさまを見進せて、鞭をさして、「あれあれ」と云へば、郎等落ち合ひて、宮の御頸をかかむとす。信連、弓をすて太刀を抜きて踊り上りて、景高が郎等の甲の鉢をむずと打つ。打たれてうつぶしに伏せぬ。信連申しけるは、「飛騨判官とみるはひが目か。争(いかで)か君のわたらせ給ふと申す。信連かくて居たり。馬に乗りながら事をばおきつるぞ。日本第一の尾籠(をこの)人哉」と▼1777(六六オ)云ひければ、「さないはせそ」とて、郎等七八人、ざとおりあふ。信連少しもさわがず、中へ入りて八方ちと打ちまはる。十余人の者共皆打ちしらまされぬ。ちかづく者無かりけり。「きたなし。寄りてくめ。景高おそろしき歟、景高」とて切り廻るに、はせ組む者こそ無かりけれ。只遠矢にのみ射ける程に、膝の節をかせぎに射貫かれて、片膝を地につけて腰刀を抜きつつ腹巻の引合押切つて、つか口まで腹につきたて、宮の御とのごもりたる御跡に参りて伏し、腸(はらわた)をくり出して死ににけり。宮の御頸は、景高ま▼1778(六六ウ)ゐり、かきまゐらす。此のまぎれに黒丸は走り失せにけり。
 治承四年五月廿三日、宇治の河瀬に水咽びて、浅茅が原に露きえぬ。木津河いかなる流れぞや。頼政が党類、皆みぢか夜の夢に同じ。光明山はうらめしき所哉。藩籬の貴種、良き闇に趣かせ給ふ。宿習のかぎりある事を思ひ遣ると云へども、運命の程無き色を歎き悲しぶ。
 南都の大衆、末寺を催し庄園を駈りて、其の勢都合三万余人にて宮の御迎へに参りけるが、已(すで)に先陣は泉の木津に着きて、後陣▼1779(六七オ)は興福寺の南大門に未だ有りなど聞こえければ、宮は憑(たの)もしく思(おぼ)し食(め)され、いかにもして奈良の大衆に落ち加はらむとて、駒を早めて打たせましましけるに、今四、五十町をへだてましまして、終に討たれさせ給ひぬるこそ悲しけれ。南都の大衆遅参して、空しく道より帰りける事を山法師聞きて、興福寺の南大門の前に札を立てたりけるとぞ聞こえし。
  なら法師くりこ山とてしぶり来ていか物の具をむきとられけり
 此れは、山法師、宮に御契約を申して後、変改(へんがい)し▼1780(六七ウ)して平家に語らはれける事を、奈良法師、実語教を作り哥を読みて咲(わら)ひけるを安からず思ひて、加様に咲(わら)ひ返してけるとぞ聞こえし。
 抑(そもそ)も以仁の王と申すは、正しき太政法皇の御子ぞかし。位に即き世を知食(め)すとても難かるべきに非ず。其れまでこそましましざらめ。「かかる御事あるべしやは。何なりける先世の御宿業のうたてさぞ」と思ひ奉るも甲斐無かりし事共也。三井寺の悪僧弄びに頼政入道の家の子郎等、泉の木津のわたりにて皆討たれにけり。
 佐大夫は、馬よわくて宮の御共にも▼1781(六八オ)参り着かず、後に敵馳せ係りければ、力及ばずして馬を捨て、にえ野の池の南のはたの水の中に入りて、草にて面をかくして、わななき伏せりければ、軍兵共のけ甲にて我先にとはせ行くおそろしさ、なのめならず。「宮は、さりとも今は木津河をば渡りて、奈良坂へもかからせ給ひぬらむと思ひける程に、浄衣きたる死人の頸もなきを舁(か)(カ)きて通りけるをみれば、宮の御むくろ也。御笛、御腰に指されたり。はや討たれさせ給ひにけりと見進せけるに、はひ出でて懐(いだ)(イダ)き付きまゐらせばやと思へども、さすがに走りも出でら▼1782(六八ウ)れず、命は能(よ)く惜しき者哉とぞ覚えける。御笛は御秘蔵の小枝也。『此の笛をば、我死にたらむ時は、必ず棺に入れよ』とまで仰せられける」とぞ、佐大夫は後に人に語りける。佐大夫は夜に入りて池の中よりはひ出でて、はふはふ京へ帰り上りにけり。為方も無かりけるが、正治元年に改名して、伊賀守に成りて、邦輔とぞ名乗りける。
 宮より始め奉りて頼政父子三人、上下十余人が首を捧げて、軍兵等都へ帰り入りにけり。ゆゆしくぞみえし。此の宮には人のつねに参り仕ふる人も無かりければ、分明に見知り奉る人無かりけり。「誰か▼1783(六九オ)見知り奉るべし」と尋ねられけるに、「典薬の頭定成朝臣こそ、去年御悩の時、御療治の為に召されて有りしか」と申す人ありければ、「さては」とて、彼の人を召さるべきの由評定あり。此を聞きて、典薬頭、大きに痛み申しける処に、能々見知り奉る女房を尋ね出だされにけり。女房、御首を見奉りてより、ともかうもものはいはで、袖を顔におしあてて臥しまろび泣きをめきければ、一定の御首とぞ人々知られける。此の女房は、年来なれちかづき奉りて、御子などましましければ、疎かならず思(おぼ)し食(め)されける人也。女房も、いかにもして今一目見奉らむと思▼1784(六九ウ)はれける志の深さのあまりに、参りて見奉りたり。中々よしなかりける事哉とぞ覚えし。
 御首に疵のましまして、まがふべくも無かりけり。先年、悪瘡の出でさせ給ひて、御命危ふく已(すで)にかぎりに御はしましけるを、定成朝臣勝れたる名医にて有りければ、忠節を至し、めでたくつくろひ奉りて御命の恙ましまさざりき。中々其の時崩御あらば、世の常の習ひにてこそあらむずるに、由無く長らへさせましまして、今かかる災ひに合はせ給ふ事、然るべき先世の御宿業とぞ覚えし。さても彼の典薬頭は生き難き御命を▼1785(七〇オ)生き奉る事、時に取りては耆婆扁昔が如くに人思へり。
廿二 〔南都の大衆、摂政殿の御使を追ひ帰す事〕
 廿五日、摂政殿〈基通〉より有官別当忠成を南都へ遣しけり。大衆の蜂起を制せられけるに、衆徒散々に陵礫して、着物をはぎ取りて追ひ下す。勧学院の雑色二人、本鳥を切らる。
 又、右衛門権助親雅を御使に遣す処に、木津河辺に大衆来向かひければ、色を失ひて逃げ上られにけり。衆徒の狼藉、斜めならずとぞ聞こえし。
 伊豆国の流人、前の兵衛佐頼朝謀叛のために、諸寺諸山の僧徒に祈りを付けられけるには、寺には律浄房を以て祈の師と馮みけり。即ち▼1786(七〇ウ)憑(たの)まれて、八幡に千日籠りて、無言の大般若を読み奉りけるに、七百日に満ずる夜、御宝殿より金の甲を給ひて、「兵衛佐に奉れ」と示現を蒙りて、伊豆国へ使者を下して、此の由を申しける折節、寺に騒動有りと聞こえければ、寺に下りて、此の事に組して、討ち死にしけり。兵衛佐、聞き給ひて、いかに哀れと思ひ給ひけむ、「されば律浄房の為に」とて、伊賀国に山田郷と云ふ所を、園城寺へぞ寄せられける。
 大政入道は、忠綱を召して、「宇治河渡したる勧賞には、庄薗・牧か、靭負尉か、検非違使、受領か。乞ふによるべし」と仰せられけ▼1787(七一オ)れば、忠綱申しけるは、「靭負尉、検非違使、受領にも成りたくも候はず。父足利太郎俊綱が、上野国十条郡の大介と、新田庄を屋敷所に申ししが、叶ひ候はで止み候ひにき。同じくは、其れを賜ふべし」とぞ申しける。「安き事也」とて、御教書かきて、給ひにけり。足利が一門の者共、十六人連判を以て申しけるは、「宇治河を渡して候ふ勧賞を、忠綱一人に行はれ候ふ事、歎き入り候ふ。彼の勧賞を、一門の者共十六人に配分せられ候ふべし。然らざれば、君の御大事候はむ時は、忠綱一人は参り候ふとも、自余の者共は、自今以後参り候ふまじ」と▼1788(七一ウ)一日に三度申したりければ、巳の剋に成りたる御教書を、申の剋に召し返されにけり。
 晦日、調伏の法行なひ奉る僧共、勧賞蒙りて、官共成られにけり。権少僧都良弘は大僧都に転じ、法眼実海は少僧都に上る。阿闍梨勝遍は律師に任ずとぞ聞こえし。
廿三 〔大将の子息、三位に叙する事〕
 大将の子息侍従清宗、今年十二に成り給へるが、三位して三位中将と申す。二階の賞に預かり給ふ間、叔父蔵人頭に居給へる重衡卿より初めて、若干の人々越えられ給ひにけり。「宗盛卿は、此の人の程にては兵衛佐にてこそおはせ▼1789(七二オ)しに、是は上達部に至り給ふこそ、世を執り給へる人の御子と云ひながら、一早くおそろしけれ。一の人の嫡子などこそ、かやうの昇進はし給へ」と、時の人傾きあへり。「父前右大将の、源以光〈高倉宮〉并びに頼政法師已下追討の賞」とぞ、聞書には有りける。皇子にはおはしまさずと云ひなして、源以光と号し奉る。正しき法皇の御子ぞかし。凡人にさへ成し奉るこそ心憂けれ。頼政はゆゆしく申ししかども、遠国までは云ふに及ばず、近国の者も急ぎ打ち上るもなし。語らひつる山門の大衆さへ、心替りしてしかば、云ふ甲斐なし。
 「登乗と申す相人あり。『帥の▼1790(七二ウ)内大臣〈通隆御子伊周公〉は流罪の相おはします。宇治殿・二条殿、二所ながら、御命は八十、共に三代の関白』と相し奉りたりしは、たがはざりける者を。此の少納言も目出たき相人とこそ聞えしに、悪く相し奉りたりける」とぞ、人申しける。聖徳太子の、崇峻天皇を、「横死の相おはします」と申させ給ひけるも、馬子の大臣に殺され給ふ。栗田の関白、例ならずおはしけるに、小野宮右大臣実資おはしたりければ、御簾(ミス)ごしに見参し給ひて、久しく世を納め給ふべき由、粟田殿仰せられけるに、風の御簾を吹き上げたりけるに、見たてまつり給ひければ、只今失せ給ふべき人▼1791(七三オ)と見給ひけるに、程なく隠れ給ひにけり。御堂の右馬頭顕信を、「斎院の民部卿、聟に取り給へ」と人々申しければ、「只今出家をしてむずる人をばいかが」と申されける程に、即ち出家し給ひにけり。六条の右大臣、白河院を、「御命はかなく渡らせ給ふべし。頓死の相おはします」と申されたりけり。又、「あさましき事哉。中宮の無下に近くみえさせ給ふ」と北方に歎き申させ給ひけるも、違はざりけり。さも然るべき人は、必ず相人に非ざれども、皆かくこそお
はすれ。
廿四 〔高倉宮の御子達の事〕
 此の宮は、御子も腹々にあまたおはしましけり。散々に隠れ迷はせ▼1792(七三ウ)給ひき。世を恐れさせ給ひて、ここかしこにて皆法師に成らせ給ふとぞ聞こえし。伊与守顕章の娘の、八条院に三位殿と申して候ひ給ひけるに、此の宮忍びつつ通はせ給ひける。其の御腹に、若宮・姫宮おはしましけり。三位殿をば、女院殊に召し仕はせ給ひつつ、隔てなき御事にて有りければ、去り難く思(おぼ)し食(め)しけり。此の宮達をも、女院、只御子の如くにて、御衾の下よりおほしたてまつらせ給へり。糸惜しく、悲しき御事にぞ思(おぼ)し食(め)されける。
 高倉の宮謀叛の聞えおはしまして、失せさせひ給ぬと聞こし召しけるより、此の宮達までもいかにと思(おぼ)し食(め)しけるより、御心迷ひて、供▼1793(七四オ)御(くご)もまゐらず、只御涙のみせきあへず。御母の三位殿は、肝心もおはしまさず、あきれておはしましける程に、池の中納言頼盛は、女院の御辺にうとからぬ人にておはしけるを御使にて、「高倉宮の若宮のおはしまし候ふなる、出だし奉らるべき」由、前大将、女院へ申し入れられたりければ、思(おぼ)し食(め)し儲けたる御事なれども、いかが仰せらるべしとも思(おぼ)し食(め)しわかず。日比朝夕仕へ奉る中納言もかく申されて参られたる間、怖ろしく思(おぼ)し食(め)して、あらぬ人の様にけうとく思(おぼ)し食(め)されけるこそ、責めての御事と覚えしか。いかなる大事に及ぶとも、出だし奉るべしとも思し食(め)され▼1794(七四ウ)ねば、宮をば御寝所の中に隠し置き奉りて、池中納言に仰せられけるは、「かかる世の周章の聞えしより、此の御所にはおはしまさず。御乳の人などが心少く見進(まゐ)らせて、失せにけるにこそ。いづくともゆくへもしらず」と仰せられけれども、入道憤り深き事なれば、大将も等
閑ならず申されければ、中納言、情かけ奉りがたくて、軍兵共門々に居ゑなどして、はしたなき事がらに成りければ、院中の上下、色を失ひつつ、いとどさはぎあへり。世の世にてあらばこそ、法皇へも申させ給はんずれ。去年の冬よりは打ち籠められおはしまして、心うき御▼1795(七五オ)ありさまなれば、いとどいかにすべしとも思(おぼ)し食(め)さず。
 事の有様、叶ふまじとや、少き御心にも思(おぼ)し食(め)されけむ、「是程の御大事に及び候はむ上は、只出ださせ給へ。まかり候はむ」と、宮申させ給ひければ、御母の三位殿は理也、女院を始め奉りて、女房達、老いたるも若きも、声を調へて泣きあひ給へり。女官共、局々の女童部に至るまで、此を聞きて袖を絞らぬは無かりけり。今年は八つに成らせ給へるに、おとなしやかに申させ給けるこそ、有難く哀れなれ。中納言も石木ならねば、打ちしめりて候はれけるに、大将の御許より使頻りにはせ参りて、「いかにいかに」▼1796(七五ウ)と申されければ、それに随ひて中納言もしきりに責め奉る。「少しさもやと聞こし食(め)し出だす事あり、御尋ね有り」とて、年の程同じ様なる少き者を迎へ寄せつつ、「尋ね出だし奉りたり」とて、宮をつひに渡し奉らる。三位殿も女院も、「後れ奉らじ」と歎き悲しみ給ふ事、斜めならず。泣く泣く御頭かき撫で、御顔かいつくろひ、御直衣奉らせなど、出だし奉らせ給ふも、只夢の様にぞ思(おぼ)し食(め)されける。いかに成り給ひなむずらむと思(おぼ)し食(め)されけるぞ悲しき。池中納言、見奉りては、狩衣の袖も絞る計りにて、御車の尻に参りて六波羅へ
渡し奉られにけり。
 宮出でさせ給ひける後は、女院も▼1797(七六オ)御母の三位殿も、同じ枕に臥し沈みて、湯水をだにも御喉へも入れられず。「由無かりける人を、此の七八年手ならし奉りて、かかるものを思ふこそ、返す返すも悔しけれ。七八など云へば、さすがに未だ何事も思ひ分くべき程にもわたらせ給はぬに、我が故大事の出で来る事も片腹痛く思(おぼ)し食(め)して、出でさせ給ひぬる有難さの悲しさ」とて、返す返すくどかせ給ふ。大将も見奉り給ひては、涙を押し拭ひ給へば、宮もなにと思(おぼ)し食(め)しけるやらむ、打ち涙ぐませ給ひけるぞ、らうたき。
 女院の御懐より養ひ奉りて、歎き思(おぼ)し食(め)さるる心苦しさなど、中納言かきくどき細々と▼1798(七六ウ)申されければ、大将も入道に斜めならず申されける間、後白河院の御子、仁和寺守覚法親王へ渡し奉りて、御出家あり。御名をば道尊と申す。後は東大寺の長者に成らせ給ひけるとかや。
 院の御子達、皆御出家ありしに、比の宮の心とく御出家だにもありせば能かりなまし。由無き御元服の有りけるこそ、返す返すも心うけれ。
 猶御子はおはしますと聞ゆ。一人は高倉宮の御乳母の夫讃岐前司重季具し奉りて北国へ落ち下り給へりしをば、木曽もてなし奉りて、越中国宮崎と云ふ所に御所を立て、居ゑ奉りつつ御元服ありければ、木曽の▼1799(七七オ)宮とぞ申しける。又は還俗の宮とも申しけり。
廿五 〔前の中書王の事 付けたり元慎の事〕
 昔、延喜の帝の第十六の御子兼明親王、村上帝第八御子具平親王とて、二人おはせしをば、前中書王・後中書王とて、賢王聖主の御子にて、才智才芸目出たくわたらせ給ひしかども、王位に即かせ給ふ事は別の御事なれば、さてこそ止み給ひしか。されども、謀叛をや起こし給ひし。
 中にも、前中書王と申すは、漢才妙に御坐(おはしま)ししかば、政務の道にも明らかに御坐(おはしま)しければ、源姓を賜はりて、従二位右大臣に成し奉りて、万機の政を助け奉り給ひし程に、冷泉院の▼1800(七七ウ)御宇、此の君のいみじく御坐(おはしま)す事を妬ましくや思ひ給ひけむ、時の関白に謹言せられ給ひて、官位取り返され給ひて、只本の宮原にて御坐(おはしま)しけれども、更に恨みとも思ひ給はず。只岩のかけ路とのみ急がれて、深心閃かならむ事をのみ求め給ふ。遂に亀山の頭に居を卜めて隠居し給ひ、兎裘賦を作りて朝夕詠じ給ひけり。さしも執し思(おぼ)し食(め)し、名を得たる所の景気なれば、御河を尋ぬる流れ、白くして茫々たり。詞海を汲みて心をなぐさめ、万歳を喚ばふ山、青くして蔟々たり。仙宮に入りて老を休む、岩根を通る瀧の音、▼1801(七八オ)嶺にはげしき嵐のみぞ、事問ふ棲と成りにける。碧樹に鶯の鳴く春の朝には、羅幕を撥げて吟じ、候山に猿叫ぶ秋の夜は、玉枕を歌てて閃かに詠ず。歳去り歳来れども、目の光月の光、過ぎ易き事を愁へ、昨日もくれ今日も暮れて、心の闇晴れがたき事をぞ悲しみ給ひける。
 或る夕暮に、山風あらあらと吹き下して、雲のけしき常よりも眼留まる空の景気なり。世の憂き時の、かくやは物悲しき事も、痛く覚え給はず。御心の澄むままに琴をかきならし給ひければ、折節山おろしにたぐふ物の音、例よりも澄みのぼりて、▼1802(七八ウ)我から哀れも押さへがたき御袖の上也。調子大食調なりければ、秦王破陣楽と云ふ楽を弾き給ひける程に、いと怖ろしくあさましげなる鬼独り、御前に跪きて聞き居たり。こはいかにと驚き思ひ給ひけれども、さらぬ様に御心を抑へて、御琴を弾き給ふ。良久しくありて、等閑げなる御声にて、「あれは何者ぞ」と問ひ給ひければ、鬼答へて申す様、「我は是、大唐の文士元慎と申しし者にて侍り。詞の花にふけり、思ひの露にぬれて、春を迎へ、秋を送りて侍りし程に、此の世はかなく成り侍りにしかば、狂言綺語の心を留めたりし▼1803(七九オ)罪の報ひにや、今かかるあさましき形を得たり。我が作り置き侍りし詩賦共、唐国にも日本にも多く口ずさみあひて侍り。其の中に、菊の詩に
  是は花の中に偏(ひと)へに菊を愛するにはあらず、此の花開け尽くして更に花無ければなり
と作りて侍りしを、人皆、『此の花開けて後』と詠じ侍り。此の世を去りぬる身なれども、思ひそみにし事なれば、猶本意なく侍る也。其の道を得む人に示したくは思へども、さすがにかくと告ぐるまでの人、世に少く侍れば、思ひわびて過ごし侍りつるに、只今かけり侍るが、御琴の音に驚きて、暫くさすらひ侍り。君は▼1804(七九ウ)いみじく目出たき才人にて御坐(おはしま)せば、相構へ相構へ此の本意遂げさせ給へ。菅家、此の詩を序として侍るには、『開け尽くして』と侍り。されば、其はうれしく侍る也」と申せば、親王聞こし食(め)して、「いと安き事にこそ侍るめれ」とて、日比なにとなく御不審に思(おぼ)し食(め)されける事共、問はせ給ひければ、細々に答へ申して、誠にうれしげにて、涙を流し、手を合はせて、かきけつ様に失せにけり。
さてこそ元慎が文章にそめる色も、親王の詩賦に秀で給へる程も、共に顕れて、世人聞き伝へて感涙をぞ流しける。
 昔も今もためし有るべしとも覚えぬ事共、あまた有りけり。其の中に、▼1805(八〇オ)殊に不思議なりける事は、亀山にすませ給へども、水の無かりけるを本意無き事に思(おぼ)し召(め)して、此の親王、祭り出ださせ給へり。其の祭文は文粋に見ゆ。之に依りて神の感応ありければ、即ち飛泉涌き出でたり。今の大井河と申すは、彼の水の流なるべし。嵯峨の隠君と申すは、此の宮の御事也。御年三十七にして世を背き給ふべき事を夢に御覧じて、其の年に成りしかば、自ら一乗円頓の真文を書写し、閑かに生死無常の哀傷を観じ給ひて、只仏をのみぞ念じ奉り給ひける。「来りて留まらず、薤隴に晨を払ふ露有り。去りて槿籬に返らず、▼1806(八〇ウ)暮べに投ぐる花無し」と願文をあそばして、遂にかくれさせ給ひぬ。前代にもいと聞かず、未来にも又有り難く哀れなりし御事なり。
廿六 〔後三条院の宮の事〕
 後三条院第三皇子、輔仁親王とて御坐(おはしま)しき。目出たき賢人にて坐しければ、春宮御位の後には必ず御弟輔仁の親王を太子に立てまゐらせ給ふべしと、後三条院、白河法皇に申させ給ひければ、慥に御事請有りけり。宮も、当春宮御即位の後は、我が御身御譲りを受けさせ御坐(おはしま)すべき由、思(おぼ)し食(め)されける程に、春宮実仁、永保元年八月十五日、御歳十一と▼1807(八一オ)申ししに、小野宮亭より照陽舎に移らせ給ひて御元服ありし程に、応保二年二月八日、御歳十五にして敢へなく失せ給ひにしかば、後三条院申し置かせ給ひしが如く、三宮太子に立ち給ふべかりしを、其の沙汰無かりけり。承保元年十一月十二日、白河院一宮敦文親王御誕生、今生后腹の第一の皇子にて御坐(おはしま)ししかば、左右無く太子に立ち給へりし間、其の沙汰無くてわたらせ給ひしかども、敦文親王、承暦元年八月六日、御年四歳にして失せ給へり。
 同三年七月九日、六条右大臣顕房公御娘の御腹に、堀河院御誕生、▼1808(八一ウ)同年十一月三日、親王の宣旨を下されたりけれども、太子には立ち給はず。此等は三宮の御事、後三条院の御遺言を畏れさせ給ふ故とぞ、古き人は申し侍りし。然りと雖も、応徳三年十一月廿八日御年八歳にして譲りを得させ給ひ、やがて同日、春宮とす。善仁王是也。太子にも立ち給はず、親王にてぞ御位に即かせ給ひける。寛治元年六月二日、陽明門院にて御元服は有りしかども、太子の沙汰にも及ばず。
 康和五年正月十六日に鳥羽院御誕生ありしかば、いつしか其の年の八月十七日に太子に立たせ給ひにしか▼1809(八二オ)ば、三宮は思(おぼ)し召(め)し切りて、仁和寺の花薗と云ふ所に籠居せさせ給ひたりけるに、法皇より、「いかに、いつとなくさ様にてはましますにか。時々は京などへも出でさせ給へかし」など、細々と仰せられて、国・庄薗などあまた奉らせ給ひたりける御返事には、「花有り獣有り、心中の友。愁ひ無し歓び無し、世上の情」と申させ給ひたりけり。惣じて詩歌管絃の道に勝れてましましければ、人申しけるは、中々世にも無く官もおはせぬ人は、院内の御事よりも珍しく思ひ奉りて、参り通ふ輩多かりければ、時の人は「三宮の百大夫」とぞ申しける。かかり▼1810(八二ウ)けれども、御即位相違してければ、三宮いかばかり本意なく思(おぼ)し食(め)されけめども、世の乱れやは出で来し。
 此の宮の御子、花薗左大臣を白河院の御前にて御元服せさせ進(まゐ)らせて、源氏の姓を賜らせ給ひて、無位より一度に三位しつつ、軈て中将に成し奉られたりけるは、輔仁の親王の御愁ひを休め、且は後三条院の御遺言を恐れさせ給ひける故とかや。一世の源氏、無位より三位し給ひし事は、嵯峨天皇の御子陽院大納言定卿の外は承り及ばず。
 冷泉院御位の時、うつつ御心も無く、物狂はしくのみ御坐(おはしま)しければ、▼1811(八三オ)長らへて天下を知ろし食(め)す事いかがと思へりけるに、御弟の染殿の式部卿の宮、西宮の左大臣の御聟にて御坐(おはしま)しけり。よき人にて渡らせ給ふと人思へり。中務少輔橘敏延、僧連茂、千晴などが、「式部卿宮を取り奉りて、東国へ趣きて軍兵を語らひつつ、位に即け奉らむ」と、右近馬場にて夜な夜な議しけるを、多田満仲、此の由を奏聞したりければ、西宮殿は流され給ひにけり。西宮殿は知り給はざりけるを、敏延は「播磨国給はらむ」、連茂は「一度に僧正に成らん」など思ひて、かかる事を思ひ立ちにけり。満仲も語らはれたりけるが、▼1812(八三ウ)つくづく案ずるに、由なしと思ひける上に、西宮にて敏延と満仲と相撲をとりたりけるに、敏延、勝れたりける大力にて有りければ、満仲格子に投げつけられたりけるに、格子やぶれて、満仲が顔破れにけり。満仲いかりて、腰刀を抜きて敏延をつかむとす。敏延、高欄のほこ木を引きはなちて、踊りのきて、「汝我にちかどかば、汝が頭は先に打ち破りてむ」と云ひければ、満仲近づかずして止みにけり。此の意趣ありて、敏延を失はむが為に申
したりとも云へり。
 此の事をば、小一条の左大臣師尹の殊に申し沙汰して、西宮左大臣▼1813(八四オ)流して、其のかはりに大臣には小一条の成り給ひたりけるが、幾程もあらで、程なく声の失する病をして、一月あまり有りて失せ給ひにけり。連茂をば、検非違使拷器に寄せて責め問ひければ、連茂涙を流しつつ、「両界の諸尊助け給へ」と申しければ、拷器も笞杖も一時にくだけ破れにけり。
 白河院の御子の金子の内親王をば、二条の大宮とぞ申しける。鳥羽院の位に即かせ給ひけるに、御母代にて、皇后宮とて内裏に渡らせ給ひける御方に、永久元年十月の比、落書有りけり。「醍醐の勝覚僧都の童に千寿丸と申す▼1814(八四ウ)が、人の語らひによりて君を犯しまゐらせむとて、常に内裏にたたずみありく」と申しけり。皇后宮の御方より、此の落書を白河院へ進(まゐ)らせさせ給ひたりければ、法皇大きに驚かせ給ひつつ、検非違使盛重に仰せて、此の千寿丸を搦めて問はれければ、「醍醐の仁寛阿闍梨が語らひ也」と申す。彼の仁寛は、是三宮の御持僧なりけり。或いは上童の体にもてなし、或いは内侍の亮をふるまひて、年々よなよな便宜を伺ひけれども、掛けばくも忝なし。なじかは本意も遂ぐべき。いまいましとも云ふばかりなし。
 盛重を以て仁寛を尋ねらる。仁寛承伏▼1815(八五オ)申しける上は、法家に仰せ付けて罪名を勘ふる。法家勘状を以て公卿僉議あり。罪斬刑にあたれりけれども、死罪一等を減じて遠流に定めらる。仁寛をば伊豆国へ遣す。千寿丸をば佐渡国へ遣してけり。さしもの重過の者を宥められける事こそ、皇化と覚えてやさしかりける御事なれ。大蔵卿為房、参議して僉議の座に候はれけるが、父母兄弟は死罪に及ぶべからずと申されければ、諸卿、尤も然るべき由一同に申されて、縁座に及ばざりけり。彼の為房卿は、君の為に忠あり、人の為に仁おはしけり。されば、今子▼1816(八五ウ)孫の繁昌し給ふも理なり。此をば非職の輩おほけなき事を思ひ企てたりけり。今の三位入道の思ひ立たれけむは、是には似るべき事ならねども、遂に前途を達せずして、宮を失ひ奉り、我身も滅びぬる事こそ、返す返すもあさましけれ。
廿七 〔法皇の御子の事〕
 六条殿と申す女房の御腹に、法皇の御子の御座しけるをば、兵部大夫時行御娘、故建春門院の御子に養ひまゐらせて、七才にて、去んじ安元々年七月五日、座主宮の御坊へ入れ奉りて、釈子に定まらせ給ひたれども、▼1817(八六オ)未だ御出家無かりしが、高倉宮かく成らせ給ひて、御公達まで穴ぐり求められければ、「あな恐ろし」とて、日次の善悪にも及ばず、あはてて御ぐし剃りおろし奉りにけり。今年は十二才にぞ成らせ給ふ。かかる世の乱れなれば、御受戒の沙汰にも及ばず、沙弥にてぞわたらせ給ひける。風吹けは木安からぬ心地して、余所までも苦しかりけり。身の為人の為、由無き事引き出だしたりける頼政哉。
廿八 〔頼政、鵺射る事 付けたり三位に叙せし事禍虫〕
 抑(そもそ)も源三位頼政と申すは、摂津守頼光に五代、三河守頼綱の孫、兵庫守仲政が子なり。保元の合▼1818(八六ウ)戦に、御方にて先を懸けたりしかども、させる賞にも預らず。又平治の逆乱にも、親類を捨てて参じたりしかども、恩賞是疎か也。大内守護にて年久しく有りしかども、昇殿をも許されず。年闌け齢傾きて後、述懐の和哥一首読みてこそ、昇殿をば許されけれ。
  人しれず大内山の山守りは木がくれてのみ月をみる哉
此の哥に依りて昇殿し、上下の四位にて暫く有りしが、三位を心にかけつつ、
  のぼるべきたより無ければ木の本にしゐをひろひて世をわたる哉
▼1819(八七オ)さてこそ三位をばしたりけれ。やがて出家して、源三位入道頼政とて、今年は七十五にぞ成られける。
 此の人の一期の高名とおぼしき事には、仁平の比ほひ近衛院御在位の時、主上夜な夜なおびえたまぎらせ給ふ事ありけり。然るべき有験の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修せられけれども、そのしるし無し。御悩は丑の剋ばかりにて有りけるに、東三条の森の方より黒雲一むら立ち来りて、御殿の上に覆へば、主上必ずおびえさせ給ひけり。之に依りて、公卿僉議あり。「去んぬる寛治の比ほひ、堀河の天▼1820(八七ウ)皇御在位の時、然の如く主上おびえさせ給ふ事あり。其の時の将軍義家の朝臣、南殿の大床に候はれけるが、めいげんする事三度の後、高声に『前の陸奥の守源の義家』と高らかに名乗られたりければ、御悩怠らせ給ひけり。然れば先例に任せて、武士に仰せて警固あるべし」とて、源平両家の中を撰ばせられけるに、此の頼政ぞえらび出だされたる。其の時は兵庫頭とぞ申しける。
 頼政申されけるは、「昔より朝家に武士を置かるる事、逆叛の者を退け違勅の者を亡さんが為也。目にもみえぬ▼1821(八八オ)変化の者仕れと仰せ下さるる事、未だ承り及ばず」とは申されながら、勅宣なれば、召しに応じて参内す。憑(たの)み切りたる郎等、遠江の国の住人井の早太に、母衣の風切り作いだる矢負はせて、只一人ぞ具したりける。我が身は二重の狩衣に、山鳥の尾を以て作いだりけるとがり矢二、重藤の弓に取り具して、南殿の大床に祗候す。頼政矢を二筋手ばさみける事は、雅頼の卿、その時は未だ左少弁にておはしけるが、「変化の者仕らんずる仁は、頼政ぞ候ふらむ」と申されたる間、一の矢に変化の者を射損じつるもの▼1822(八八ウ)ならば、二の矢には雅頼の弁のしや頸の骨を射んとなり。日来人の申すにたがはず。
 御悩は丑の剋計りにて有りけるに、東三条の森の方よりくろ雲一むら立ち来りて、御殿の上にたなびきたり。頼政きつと見上げたれば、雲の中に奇しき物のすがたあり。是を射損ずるものならば、世に有るべしとは思はざりけり。さりながら、矢取りてつがひ、「南無八幡大菩薩」と心中に祈念して、能(よ)く引きてひやうと放つ。手ごたへしてはたと中(あ)たる。「得たりをう」と矢叫びをこそしたりけれ。落つる所を、井の早太つと▼1823(八九オ)より、取りて押へて、つづけさまに九刀ぞ刺したりける。其の後、上下手々に火を燃してみ給へば、頭は猿、むくろは狸、尾はくちなは、手足は虎、なく声ぬえにぞ似たりける。おそろしなどはおろかなり。
 主上、御感のあまりに師子王と云ふ御剣を下させ給ふ。宇治の左大臣殿、是を賜はり次ぎて、頼政に賜はんとて、御前のきざはしを半らばかり下りさせ給ふところに、比は卯月十日あまりの事なれば、雲井に郭公二声三声音信れてとほりければ、左大臣殿、
 ▼1824(八九ウ)郭公名をも雲井にあぐる哉
と仰せられかけたりければ、頼政右のひざをつき、左の袖をひろげて、月をすこしそば目にかけつつ、
  弓はり月のいるにまかせて
と仕り、御剣を賜はりてまかり出づ。凡(およ)そ此の頼政は、武芸にもかぎらず、哥道にも勝れたりとぞ、人々感ぜられける。さて、その変化のものをば、うつほ船に入れて流されけるとぞ聞えし。
 又、応保の比をひ二条院御在位の時、鵺と云化鳥禁中に鳴きて、しばしば震襟をなやま▼1825(九〇オ)したてまつる。然れば、先例に任せて頼政をぞ召されける。比は五月廿日あまり、まだ宵の事なるに、ぬえただ一声音信れて、二声とも鳴かざりけり。目さすともしらぬ闇にてはあり、姿形もみえ分かねば、矢つぼを何くとも定めがたし。頼政はかりことに、先づ大鏑らを取りてつがひ、鵺の声しつる内裏の上へぞ射上げたる。鵺、鏑の声に驚きて、虚空にしばしぞひひめいたる。二の矢に小かぶら取りてつがひ、ひふつと射切りて、鵺と鏑と並べて前にぞ落としたる。禁中ざざめきあへり。
 今度は御衣を下さ▼1826(九〇ウ)せ給ふ。大炊の御門の右大臣殿公良公(頼長公異本)、是を賜はり次ぎて頼政にかづけさせ給ふとて、「昔の養由は雲の外の雁を射き。今の頼政は雨中の鵺を射たり」とぞ感ぜられける。
 五月やみ名をあらはせる今夜哉
と仰せられかけたりければ、
 たそかれ時も過ぎぬとおもふに
と仕り、御衣をかたにかけて退出せらる。其の時、伊豆国賜はりて、子息仲綱受領になし、我が身三位し、丹波の五箇庄、若狭のとう宮川知行して、さておはすべ▼1827(九一オ)かりし人の、由なき謀叛起こして、宮をも失ひ奉り、我が身も亡び、子息所従に至るまで亡びぬるこそうたてけれ。
 さても、件のばけもの、あまた獣の形有りけん、返す返す不思議なり。昔、漢朝に国王ましましき。此の王、あまりに楽しみ誇りて、「わざはひと云ふ物、いかなる物ならむ。哀れ、みばや」と宣ひけり。大臣・公卿、勅宣を奉りて、わざはひと云ふ物を尋ねけるに、大方なし。或る時、天より童子来たりて、其の時の大臣に宣はく、「是ぞわさはひと云ふ物なる。そだててみ給へ」とて、帰りぬ。取りてみれば、小さき虫にてぞ有りける。此の由を帝▼1828(九一ウ)王に奏するに、大きに悦び給ひて、是を自愛せらる。
 「何をか食物とする」とて、一切の物を与ふるに、大方食はず。或る時、余りに奇しとて、様々の石金などの類を与へける。其の中に鉄を食しけり。日に随ひて大きに成る事おびたたし。次第に大きに成りて、犬程になり、後には師子などの様に成りても、鉄より外に食ふ物無かりけり。鉄も食ひ尽くして、後には内裏を始めとして、人の家の釘共を吸ひ抜きて食ひける後に、皇居人屋、一つとして全きは無かりけり。誠に天下のわざはひとぞみえける。是の物、日に随ひて大きに成る事、其の期有りげも▼1829(九二オ)なし。「当時だにもあり、後はいかがせむ」とて、国々の夷共を召して是を射させらるる。凡(およ)そ其の身鉄なりければ、箭たつ事なし。剣を以て切りけれども、きれず。己れが好む物なれば、剣をも食ひける間、はてには薪の中に積み籠めて火をさしつつ焼くに、七日七夜燃えたり。今は失せぬと思ひけるに、火の中より鉄を焼きたるが出でたりけるほどに、是がよる所は皆焼け失せにけり。山野に交はるところ煙になりて、所々の火燃え、おびたたしなどは云ふ量りなし。
 而る間、此の国に人住みがたかりければ、何ともすべき謀尽きはてて▼1830(九二ウ)ければ、有験の僧を召し集めて、三七日天童の法を行はせられけるに、一七ヶ日に当たりける日、国の境を出でて、すべて其の後は見えず。国王人民、悦びあへる事斜めならず。天童、彼の獣を降伏し給ひけるにや。他国に出でて、山中にて死ににけり。
 死にて後、磁石と云ふ石に成りにけり。生きて好みける物なれば、死にて石と成りたれども、尚鉄を取る物と成りたりけるこそおそろしけれ。今の磁石山、是也。
 而るに、彼の獣こそ、畜類七つの姿を持ちたりけると承はれ。鼻は象、額と腹とは龍、頸は師子、背(せなカ)はさちほこ、皮は▼1831(九三オ)豹、尾は牛、足は猫にて有りけるとかや。今の代までも獏と申して、絵にかきて人の守りにするは、即ち此の獣なり。今、頼政卿射る所のばけ物も、彼の獏ほどこそ無けれども、不思議なりし異禽なり。
廿九 〔源三位入道頼政謀叛の由来の事〕
 抑(そもそ)も今度の謀叛を尋ぬれば、馬故とぞ聞こえし。三位入道の嫡子伊豆守仲綱、年来秘蔵したる名馬あり。鹿毛なる馬の、尾髪あくまでたくましきが、名をば木下とぞ申しける。前右大将宗盛、しきりに所望せらる。伊豆守命にかへて是を惜しく思はれければ、「余りに損じて候ふ時に、▼1832(九三ウ)労らむが為に、此の程田舎へ遣して候ふ。取り寄せて進(まゐ)らすべく候ふ」とて、一首の哥をぞ送りける。
 ゆかしくは来てもみよかし木の下のかげをはいかが引きはなつべき世には追従したがる者有りて、「其の馬は、昨日も河原にて水けさせて候ひつる物を。今日も庭乗しつるものを」など申しければ、宗盛猶、「其の馬を賜りて留めんとには候はず。只一目みて、やがて返し奉るべし」と宣ふ。伊豆守父の入道に此の由を申す。入道、「いかに奉らぬ。金を丸めたる馬なりとも、人の所望せられむに惜しむべきか。とくとく」と宣へば、力及ばず、彼の▼1833(九四オ)馬を宗盛の許へ遣す。此の馬の名をば、木下と申しければ、文にも 「木下進(まゐ)らせ候ふ」とこそ書かれけれ。
 然りと雖も、初めの度惜しみたるをにくしとや思はれけむ、人の来れば主の名を呼び付けて、「仲綱め取りてつなげ」、「仲綱めに轡はげよ」、「散々にのれ、打て」など宣ふ。伊豆守此の事を聞きて、安からぬ事に思ひて父の入道に申しけるは、「心うき事にこそ候へ。さしも惜しく思ひ候ひし馬を、宗盛が許へ遣して候へば、一門他門酒宴し候ひける座敷にて、『其の仲綱丸に轡はげて引き出だして、打て、張れ』なむど申して、散々に悪口仕り候ふなる。人にかく▼1834(九四ウ)いはれても、世にながらへ、人に向かひて面を並ぶべきか。自害をせばや」と申す。誠に志尽くしがたし。入道、たのみ切りたる嫡子を失ひて、長らへてなににかはせむなれば、此の意趣を思ひて、宮をも勧め奉り、謀叛をも発したりけり。誠に憤りを含むも理也。
 されば、競の瀧口に宗盛の引かれたりし遠山をば、園城寺にて尾髪を切りて、「宗盛」と云ふ札をつけ、京の方へ追ひ放つ。極めていさめる馬なれば、京中をはせ行く。人是を見て、「あなあさまし。去んぬる比、大臣殿の許に仲綱と云ふ馬のありしをこそ、あさましと思ひ▼1835(九五オ)しに、今は又、宗盛と云ふ馬の迷ひありくこそ不思議なれ。世の末には、かく見にくき事も有りける」とぞ申しける。人は世にあればとて、云ふまじき事をば慎むべきにや。
 是に付けても、小松殿の御事を慕び申さぬ人は無かりけり。或る時、小松内府、内裏へ参り給ひたりけり。夜陰に、面道にて、年来知り給ひたりける女を引かへて物語し給ひけるに、何くより来るとも覚えぬに、大きなる蛇、内府の肩に匍ひ係りたりけるに、少しも驚き給はず。女房怖ぢなむずと思ひ給ひて、御身はたからかし給はでおはしけるほどに、蛇、指貫の股立(ももだち)へ▼1836(九五ウ)はひ入りにけり。其の後、「人や候ふ」と宣ひけれど、人参らず。時の大臣にておはする間、「六位や候ふ」と召されければ、伊豆守仲綱、六位にて候ひけるが参りたりけるに、内府股立(ももだち)を引きあけて、「是は見えらるるか」とて見せられけるに、「見え候ふ」と申されければ、「さらば取られよ」と仰せられければ、伊豆守、蛇の頭を取りて、狩衣の下に引き入れて、女に見せずして出で給ひて、「人や候ふ」と宣ひければ、御坪の召次の参りたりけるに、「是取りて捨てよ」とて差し出だし給ひたりければ、召次色を失ひて逃げ出でにけり。其の後、伊豆守の郎等、渡部党に省の次郎と▼1837(九六オ)云ふ者参りたりけるが、取りて捨てけり。翌日に、小松殿の御許より自筆に御文あそばして、伊豆守の許
へ遣はされけるに、「抑(そもそ)も昨日の御振舞、偏(ひと)へに還城楽とこそ見奉り候ひしか。是へ申してこそ進(まゐ)らすべく候へども」とて、黒き馬の太くたくましきに白覆輪の鞍置きて、敦総革かけて、長伏輪の太刀を錦の袋に入れて送られけり。伊豆守の御返事には、「畏りて御馬給はり候ひぬ。誠に参りて給はるべく候ふ処、送り給ひ候ふ事、殊に以て恐れ入り候ふ。仰せ蒙り候ひし時、仰せの如く還城楽の心地仕りてこそ存じ候ひしか」とぞ申されたりける。誠に▼1838(九六ウ)有り難かりける小松殿の御心ばへ哉。「哀れ、御命の長らへて、世の政を助けましまさんには、いかに世間も穏やかに、国土も静かならまし」と、万人惜しみ奉ると云へども甲斐なし。
 日来は山門衆徒こそ騒ぎおどろおどろしく聞こえしに、今度は、山には別事無くして、南都の大衆、以外に騒動しければ、入道相国余りに安からぬ事に思はれければ、三井寺・南都の衆徒の張本を召し禁ぜらるべき由、其の沙汰有りけり。南都には深く憤りて、殿下の御使散々に陵礫して、弥(いよい)よ悪行をぞ致しける。
卅 〔都遷りの事〕
 ▼1839(九七オ)廿九日には都遷り有るべしと、日来ささやきあへりけれども、さしもやはと思ひける程に、「来月三日、先づ福原へ行幸あるべし」と仰せ下されたりければ、上下あきれさはぎあへり。「こはいかなる事ぞ」とて、是非に迷へり。更にうつつとも覚えず。
 六月二日、俄に太政入道の年来通ひ給ひつる福原へ行幸あり。都移りとぞ聞こえし。中宮、一院、新院、摂政殿下、公卿、殿上人、皆参り給へり。三日と兼ねては聞こえしが、俄に引き上げらるる間、供奉の上下いとど周章て騒ぎて、取る物も取り敢へず。帝王の少くおはしますには、后こそ同輿には奉るに、是は御乳母の▼1840(九七ウ)平大納言の北方、帥佐(そちのすけ)殿ぞ、参り給ひける。「是は未だ先例無き事也」とぞ、人々あさみ給ひける。
 三日、池大納言頼盛の家を皇居と定め奉りて、主上を渡し奉る。四日、頼盛は家の賞を蒙りて、正二位し給ひて、右の大臣の御子、右大将良通越えられ給へり。
一院は、四面ははた板まはしたる所の、口一つ開けたるに御坐(おはしま)して、守護の武士きびしくて、輙く人も参らざりけり。鳥羽殿を出でさせましまししかば、少しくつろぐやらむと思(おぼ)し食(め)ししかども、高倉宮の御車出で来て、又いかにしたるやらむ、かくのみあれば、心憂しとぞ思はれける。「今は只、世の▼1841(九八オ)事も思(おぼ)し食(め)し捨てて、山々寺々をも修行して、彼の花山院のせさせ御坐(おはしま)しけむ様に、御心に任せて御坐(おはしま)さばや」とぞ思(おぼ)し食(め)されける。
 抑(そもそ)も代々の御門、遷都の事、先蹤を尋ぬるに、神武天皇と申し奉るは、地神五代の帝、彦波〓武〓〓草葺不合尊の第四の皇子、御母玉依姫、海神大女也。神代十二代後〈辛酉〉歳日向国宮崎の郡にて人王百王の宝祚を継ぎ給ひて、五十九年〈己未〉十月に東征して、豊葦原の中津国に移りつつ、畝火の山を点じて帝都を建て、▼1842(九八ウ)橿原の地斫ひ払て宮室を造り給へり。即ち是を橿原の宮と申す。此の御時、祭主を定め、万の神を祭り奉り、此の国を秋津嶋と名づけしより以来、代々の帝王の御時、都を他所へ遷さるる事、三十度に余り、四十度に及べり。
 綏靖天王は、大和国葛城の高岡の宮に坐す。安寧天王は、片塩浮穴の宮に坐す。懿徳天王は、軽の曲峡の宮に坐す。孝昭天王、葛木の上の郡腋の上池心の宮に坐す。孝安天王は、室秋津嶋の宮に坐す。孝霊天皇の黒田廬戸の宮に坐す。孝元天皇は、▼1843(九九オ)軽の境原の宮に坐す。開化天王は、添の郡春日率川の宮に坐す。崇神天王は、磯城の瑞籬の宮に坐す。此の御時、君のみつぎ物を備へ奉り、諸国に池を堀り、船を作り始めけり。垂仁天王は、巻向珠城の宮に坐す。此の御時、始めて菓子の類を植ゑらる。橘等是也。景行天王は、纏向日代の宮に坐す。此の御時、始めて武内の宿禰を大臣に成し奉る。又、国々の民の姓を定めらる。已上、十一代、七百余年は、皆是大和国を卜めて、他国へ都を遷されず。
 成務天王元年に、大和国より▼1844(九九ウ)近江国に遷りて、志賀郡に都を立て、六十余年は高穴穂宮に坐す。仲哀天王二年九月に、近江国より長門国に移りて、九年は穴戸豊浦の宮に坐す。天王彼の宮にして崩御なりしかば、后神宮(功歟)皇后代を継がせ給ひて、異国の帥を鎮め給ひて後、筑前国三笠郡にて皇子御誕生あり。掛けまくも忝く、八幡大菩薩と申すは此の御事也。応神天王と申し奉る。神功皇后は猶大和国に帰りて、十市郡磐余稚桜の宮に六十九年坐す。応神天皇は、同国高市郡軽▼1845(一〇〇オ)嶋豊明の宮に四十三年坐す。此の御時、百済国より絹ぬふ女、色々の物の師、博士などを渡す。
又、経典、吉(よ)き馬などを奉る。吉野の国栖も此の時参り始まれり。
 仁徳天皇元年に、摂津国難波に遷つて高津宮に坐す。今の天王寺是也。此の御時、氷室始まれり。又、鷹をつかひ、狩なども始まれり。八十七年。履中天皇二年に、又大和国に帰りて、十市郡磐余稚桜の宮に坐して、六年、反正天皇元年に、大和国より河内に遷りて、丹比の郡柴籬宮に坐す。六年。允恭天王四十二年に、河内国より大▼1846(一〇〇ウ)和国に帰りて、遠明日香の宮に坐す。是をなむ名づけて、飛鳥の明日香の里とぞ申しける。三年。安康天皇三年に、大和の国より又近江国に帰りて後、穴穂の宮に坐す。雄略天皇廿一年、近江国より大和国へ帰りて、泊瀬朝倉の宮に坐す。清寧、顕宗、仁賢、武烈四代の帝、同国磐余甕栗、近明日八釣宮、石上広高、泊瀬列城の四つの宮に坐しき。継体天皇五年、山背筒城郡に遷りて十二年、其の後、乙訓郡に栖み給ひて、磐余玉穂の宮に坐す。▼1847(一〇一オ)安閑天皇は同じき国勾金橋の宮に坐す。
 宣化天皇元年に、猶大和国に還りて、桧隈廬入野宮に坐す。欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極、已上七代の帝は、磯城嶋、磐余語田、池辺列槻、倉橋、額田部小墾田の宮、田村高市織物宮、明日香河原宮に坐して、已上八代、宣化天皇より以来は、当国に坐して、都を他所へ遷されずして一百十年、孝徳天皇天化元年に、摂津国長柄京に遷りて豊崎宮に坐す。此の御時始めて年号▼1848(一〇一ウ)あり。天化・白矩等也。八省百官を定め、国々の境を改む。唐より、文書、宝物、多く渡せり。此の帝、仏経を敬ひ奉り、霊神を軽くし給ふ。丈六のぬゐ仏を供養し、二千余人の僧尼を以て一切経を転読す。其の夜、二千余の燈を宮中に燃す。其の御宇に、鼠多く群れつつ、難波より大和国へ渡る事あり。「是、都遷の先表なり」と申しし程に、その験にや有りけむ、八ヶ年後、斉明天皇二年に大和国へ還りて、岡本の宮に坐す。九年。天▼1849(一〇二オ)智天皇六年に、又近江国に帰りて、志賀郡に都を立て、大津宮に坐す。此の御時、諸国の百姓を定め、民の烟を注し置く。春宮にて御坐(おはしま)しし時、漏剋を作り給へり。内大臣鎌足、始めて藤原の姓を給はる。今の藤氏、此の御末也。五年。天武天皇元
年に、又大和国へ還りて、明日香の岡本の南の宮に坐す。是を清水原の宮と号す。故に、此の天皇を清見原御帝と申しけり。十五年。持統・文武二代の聖朝は、同国藤原の宮に坐す。元明天皇は、和銅二▼1850(一〇二ウ)年に同国平城の宮に選り、元正天皇は、養老元年に氷高平城の宮に遷り、聖武、孝謙、淡路の廃帝、称徳、光仁、五代の帝は、同国奈良の京平城宮に住み給ふ。
 而るを、桓武天皇御宇、延暦三年甲子、奈良京春日の里より山城国筒城長岡の京に遷りて、十年坐す。同延暦十二年癸酉正月に、大納言小黒丸、参議左大弁古佐美、大僧都賢〓等を遣す。当国葛野郡宇太村を見せらるるに、三人共に申して云はく、「此の地の為体、左青龍、右▼1851(一〇三オ)白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の地也。尤も帝都を定め給はんに、旁た便りあり」と奏しけるに、愛宕郡に御坐(おはしま)す賀茂大明神に告げ申されて、同十三年甲戌十月廿一日辛酉、長岡京より此の平安城へ選り給ひしより以来、都を他所へ遷されずして、帝王三十二代、星霜三百八十八年の春秋を経たり。
 昔より国々所々に都を立てしかども、此くの如きの勝地は無し。東方は吉田宮、祇薗天王、巽方は稲荷明神、南方は八幡大菩薩、坤方は松尾明神、西▼1852(一〇三ウ)方は小原野、乾方は北野天神、平野明神、北方は賀茂明神、艮方は忠須宮、日吉山王御坐(おはしま)す。此方をば、鬼鎖門方と名づけて、是を慎む。されば、天竺王舎城の艮の方には霊鷺山あり、震旦には天台山あり、日本王城の艮には比叡山あり。各仏法僧のすみかとして、鎮護国家の契りにて、仏法は王法を守り、王法は仏法を崇め奉り、天王殊に執し思(おぼ)し食(め)されて、「いかにしてか、末代まで此の京を他所へ遷されざる事有るべき」とて、大臣、公卿、諸道博士、才人を召し集めて僉議ありけるに、帝都長▼1853(一〇四オ)久なるべき様とて、土にて八尺の人形を作りて、鉄の甲冑をきせ、同じき弓箭を持ちて、帝自ら御約束ありけるは、「末代に此の京を他所へ遷し、又世を乱らん者あらば、必ず罰を加へ、崇りをなして、長く此の京の守護神と成るべし」とて、東山の嶺に西向きに立てて埋められけり。将軍が塚とて、今にあり。御誓ひ限り有れば、天下に事出で来り、兵革起こらんとては、必ず告げ示して、此の塚鳴動すと云
へり。
 「桓武天皇と申すは、即ち平家の嚢祖にて御坐(おはしま)す。既に先祖の聖主の基を開き、代々の御門、此の地を出でさせ御坐(おはしま)す事なし。▼1854(一〇四ウ)然るを、其の御末にて、指したる謂はれ無く、都を他所へ遷さるる事、凡慮に測り難し。偏(ひと)へに神慮穴倉し。就中、此の京をば、平に安き城と名づけて、『平ら安し』と書けり。而るを、左右無く平京を捨てらるる事、直事に非ず。又、主上も上皇も、皆彼の外孫にて御坐(おはしま)す。君も争(いかで)か捨てさせ給ふべき。是、偏(ひと)へに平家の運尽きはてて、夷狄責め上りて、平家都に跡を留めず、山野に交はるべき瑞相なり。只今世は失せなむず」と、歎きあへり。「帝王を押し下し奉りて我が孫を位に即け奉り、王子を討ち奉りて首を斬り、関白を流して我が聟をなし奉り、大臣、公卿、雲客、侍▼1855(一〇五オ)臣、北面の下臈に至るまで、或いは流し、或いは殺し、悪行数を尽くして、残る所は只都遷計り也。さればかやうに狂ふにこそ」とささやきあへり。嵯峨天王の御時、大同五年、都を他所へ遷さむとせさせ給ひしかども、大臣公卿騒ぎ背き申されしかば、遷されずして止みにき。一天の君、万乗の主だにも移し得
給はぬ都を、入道、凡人の身として思ひ企てられけるこそ畏しけれ。「民労すれば、則ち怨み起る。下〓[木+憂]ますれば即政卒」、文。「是則ち、異賊起こりて、朝家の大事出で来たりて、諸人閑かならざるべきやらむ」とぞ歎きける。新都供奉の人の中に、古京の家の柱に書き付けける。
 ▼1856(一〇五ウ) 百年を四かへりまでに過き来にしおたぎの里のあれやはてなむ
何なる者かしたりけむ、平家の一門の事を札に書きて、入道の門に立てける。
  盛が党平の京を迷ひ出ぬ氏絶えはつるこれは初めか
  さき出づる花の都をふり捨てて風福原の末ぞあやふき
「誠に目出たき都ぞかし。王城鎮護の社、四方に光を和らげ、霊験殊勝の寺、上下に居を卜め給へり。百姓万民煩ひ無く、五畿七道も便り有り。然るを、是を捨てらるる事、守護の仏神非礼を享け給はじ。四海の藜民憤りを成すべし。恐ろし恐ろし」とぞ▼1857(一〇六オ)申し合ひける。論語と云ふ文に云はく、「人を犯さば乱亡の患へ有り、神を犯さば疾天の禍ひ有り」と云々。
 就中、本京より此の京は西方の分也。大将軍酉に在り、方角既に塞がりぬ。されば、勘状共を召されける中に、陰陽博士安部季弘が勘状に云はく、「本条の差す所、大将軍、王相、遠近を嫌はず、同じく忌避すべし。延暦十三年十月廿一日に、長岡京より葛野京に遷都す。今年北の分と為て、王相の方に当たる。之を避けられず。是旧きに寄るに依りて、方忌を論ぜず。次に大将軍の禁忌、猶王相に及ばず。延暦の佳例に就きて遷都せらる、大将軍の方為りと雖も、何か其の憚り有るべけむや」と云へり。是を聞きて、或る▼1858(一〇六ウ)人申しけるは、「延暦の遷都には、御方違へ有りと云へり。永く旧都を捨てられむに於いては、方角の禁忌有るべし。何様にも御方違へは有るべかりける物を。季弘が慶雲寿星とのみ奏する、心得られず」と、人唇を反しけり。
 九日は新都事始めして、上卿は左大将実定、宰相右中弁通親、奉行は頭左中弁経房朝臣、蔵人左少弁行降とぞ聞こえし。十五日に新都地点の事、輪田の松原の西の野に宮城の地を定められけるに、「彼の所は高塩来らん時、事の煩ひ有るべし。其の上、五条より下無かるべし」と申しければ、土御門宰相中将通親卿申され▼1859(一〇七オ)けるは、「三重の広路を開きて十二の棟門を立つ。況や、我が朝には、五条まで有らむ、何の不足か有らむ」と申されけれども、行事官共力及ばで帰りにけり。「さらば児屋野にて有るべきか」、「播磨の猪名野にて有るべきか」と、公卿僉議有りて、同十六日、大夫史隆職、実験の為に史生を遣す。午剋ばかりに、俄に又留められにけり。此は安芸一宮、ある女に付きて託宣し給ひける故とぞ聞こえし。地点の事、日々に改定、直事に非ず。明神納受し給はずと云ふ事、掲焉し。
 去んぬる十一日の夜、帥大納言隆季卿、福原にして夢を見られけるは、大なる屋の透りたるあり。其の内に隆季坐せり。▼1860(一〇七ウ)庇の房に女房あり。築垣の外にはらはらと哭く声頻り也。我之を問ふに、女房答へて曰く、「此こそは都遷よ。大神宮の受け給はざる事にて候ふぞ」と云へり。即ち驚きて、又寝たり。同様に又見られけり。恐怖して禅門に申されたりけれども、此を信ぜられざりけり。
 同廿二日、法勝寺の他の蓮、一茎に二つの花開きたり。辰の剋に見付けて、彼の寺より奏聞す。本朝には舒明以後、此の事無し。其の徴空しからず。
 先づ里内裏を造らるべき由、議定有りて、五条大納言邦綱卿、造進せらるべき由、入道計らひ申されければ、六月廿三日〈甲辰〉始めて、八月十日棟上とぞ定められける。論語に云はく、「楚章花の台に起こりて、藜民▼1861(一〇八オ)散ず。秦阿房の殿に興して、天下乱る」とも-文。又、帝範に云はく、「茅茨剪らず、採〓削らず、舟車餝らず、衣服に文無」かりけむ世も有りけむ物を。唐太宗は驪山宮を造りて、民の費を労はりて、終に臨幸無くして、墻に苔むし、瓦に松生ひて止みけむは、相違哉とぞみえし。
 さても、故京には、辻毎に堀ほり、逆向木など引き、車も輙く通るべくも無ければ、希に小車などの通るも、道をへちてぞ行きける。程無く田舎に成りにけるこそ、夢の心地してあさましけれ。人々の家々は、鴨河桂河より筏に組みて福原へ下しつつ、空しき跡には浅茅が原、蓬が杣、鳥のふしどと成りて、虫の音のみぞ恨みける。▼1862(一〇八ウ) 適ま残る家々は、門前草深くして、荊蕀道を埋め、庭上に露流れて蓬蒿林を為す。雉兎禽獣の栖、黄菊芝蘭の野辺とぞ成りにける。僅かに残り留まり給へる人とては、皇太后宮の大宮計りぞ御坐(おはしま)しける。
 八月十日余りにも成りにければ、新都へ供奉の人々は、聞こゆる名所の月みむとて、思ひ思ひに出でられにけり。或いは光源氏の跡を追ひ、諏磨より明石へ浦伝ひ、或いは淡路の廃帝の住み給ひし絵嶋を尋ぬる人もあり、或いは白浦、吹上、和歌浦、玉津嶋へ行く者もあり。或いは住の江、難波潟、思ひ思ひに趣かれけり。左馬頭行盛は難波の月を詠めて、か▼1863(一〇九オ)くぞ詠じ給ひける。
  なにはがた蘆ふく風に月すめば心をくだくおきつしらなみ
卅一 〔実定卿待宵の小侍従に合ふ事〕
 後徳大寺の左大将実定卿は、古京の月を詠まんとて、旧都へ上り給ひけり。御妹の皇太后宮の八条の御所へ参り給ひて、月冴え人定まりて門を開けて入り給ひたれば、旧苔道滑らかにして秋草門を閉ぢて、瓦に松生ひ墻につた(衣)滋り、分け入る袖も露けく、あるかなきかの苔の路、指し入る月影計りぞ面替りもせざりける。八月十五夜のくまなきに大宮御琵琶を弾かせ給ひけり。彼の源氏の宇治の巻に、優婆塞の宮の御娘、秋の余波を▼1864(一〇九ウ)惜しみて琵琶を弾じ給ひしに、在明の月の山のはを出でけるを、猶堪へずや覚しけむ、撥してまねき給ひけむもかくや有りけむと、其の夜を思ひ知られけり。
  つらきをもうらみぬ我に習ふなようき身をしらぬ人もこそあれと読みたりし待宵小侍従を尋ね出だして、昔今の物語をし給ふ。かの侍従をば、本は阿波局とぞ申しける。高倉院の御位の時、御悩有りて供御もつや<まゐらざりけるに、「哥だにも読みたらば供御はまゐりなむ」と御あやにくありければ、とりあへず、
 ▼1865(一一〇オ)君か代は二万の里人数そひて今もそなふるみつぎもの哉
と読みて、其の時の勧賞に侍従には成されたりけるとかや。
 さてもさよふけ、月も西山に傾けば、嵐の音ものすごうして、草葉の露も所せき。露も涙もあらそひて、すずろに哀れに思ひ給ひければ、実定卿、御心を澄まして腰より「あまの上丸」と云ふ横笛を取り出だし、平調にねとり、古京の有様を今様に作り、歌ひ給ひけり。
  古き都を来てみればあさぢがはらとぞなりにける
  月の光もさびしくて秋風のみぞ身にはしむ
▼1866(一一〇ウ)と二三反うたひ給ひたりければ、大宮を始め奉り、女房達、心あるも心なきも、各袖をぞぬらしける。
 其の夜は終夜、侍従に物語をして、千夜を一夜にと口ずさみ給ふに、未だ別緒依々の恨みを叙べざるに、五更の天に成りぬれば、涼風颯々の声に驚きて、おき別れ給ひぬ。侍従余波を惜しむとおぼしくて、御簾のきはに立ちやすらひ、御車の後ろを見送り奉りければ、大将御車の尻に乗られたりける蔵人を下して、「侍従が名残惜しげにありつる。なにとも云ひ捨てて帰れ」と有りければ、蔵人取りあへぬ事なれば、何なるべ〔し〕とも覚えぬに、折節寺々の鐘の声、八声の鳥の音を聞き、▼1867(一一一オ)「実や、此の女は白河院の御宇、『待宵と帰る朝と』と云ふ題を給はりて、
  待宵のふけ行くかねの声きけばあかぬ別れの鳥はものかは
と読みて、『まつよひ』の二字を賜はりて、待宵小侍従とはよばれしぞかし」と、きと思ひ出されて、
  物かはときみがいひけむ鳥の音のけさしもいかに(などか)かなしかるらむ
侍従返事に
  またばこそふけゆくかねもつらからめあかぬ別れの鳥のねぞうき
と云ひかはして帰り参る。「いかに」と大将問ひ給ひければ、「かく仕りて候ふ」と申しければ、「いしうも仕りたり。さればこそ汝をば遣しつれ」とて、▼1868(一一一ウ)勧賞に所領を賜びてけり。此の事、其の比はやさしき事にぞ申しける。
三十二 〔入道登蓮を扶持し給ふ事〕
 太政入道浄海は、福原の岡の御所にて中門の月を詠じておはしければ、其の比のすき(て)者登蓮法師、折節うらなしをはきて中門の前の月を詠じて通りければ、入道、
  月の脚をもふみみつる哉
と云ひ懸け給ひたりければ、取もあへず登蓮畏りて、
 大空は手かくばかりは無けれども
とぞ申したりける。
 抑(そもそ)も此の登蓮を不便にして入道の御内に▼1869(一一二オ)おかれける由来を尋ぬれば、連歌故とぞ聞えし。先年入道熊野参詣の有りけるに、比は二月廿日余りの事なれば、遠山に霞たなびきて、越路に帰る雁金雲居遥かに音信れ、細谷河の水の色藍よりも猶緑にして、まばらなる板屋に苔むして、かうさびたる里あり。なにとなく心すみければ、入道貞能を召して、「此の所はいづくぞ」と尋ね給ひければ、「秋津の里」と申す。入道取りもあへず、
  秋津の里に春ぞ来にける
と詠じ給ひければ、嫡子重盛、次男宗盛、侍には越中前司盛俊、▼1870(一一二ウ)上総守など並び居て、付けんとしけれども、時剋はるかに押し移りて、入道、「いかに、おそしおそし」と宣ひけれども、付け申す人無かりけり。爰に熊野方より三十余とみえける修行者の下向しけるが、「此の道の習ひ、上下乞食非人をきらはず候ふ」と申して、
  見わたせば切目の山に霞して
と付けたりければ、入道感じ給ひて、「いづくの者ぞ」と尋ね給へば、「元は筑紫安楽寺の者にて候ひしが、近年は近江の阿弥陀寺に住み侍り。登蓮と申す」と云ひければ、入道其より扶持して、所領あまたとらせて不便にし給ひけり。
 取り分き大事の者に思はれけ▼1871(一一三オ)る事は、去んぬる保元元年七月、宇治左大臣頼長公、世を乱り給ひし時、安芸守とて御方に勲功ありしかば、幡磨守に移されて彼の国へ下向せらる。即ち当国鎮守あにの宮御神拝有りけるに、在庁人等供奉す。爰に神主申しけるは、「抑(そもそ)も当社明神の感応新たにして、叢伺の露霑ふこと、水の方円の器に随ふが如し。松〓[土+需]の風に請ふこと、月の巨海の流れに浮かぶに似たり。和光同塵の利物は、紫金の晴沙に在るが如し。下種結縁の済生は、万草の時雨を仰ぐに似たり。朝に空しく参りて、夕に熟りて帰る。惣じて国司を始め奉り、貴賎上下の諸人、参詣日夜に懈る事無し。爰に▼1872(一一三ウ)不思議の事あり。上古より未だ付け得ざる連哥の下句あり。国司神拝の始めに先づ御拝見あるは先規也」と申せば、入道折節登蓮をば具し給はず、我が身既に不覚しなむずと思はれければ、「俄かに大事の用を出だして国務に及ばず。京都の重事有る由聞きて早馬到来の事あり。今度は拝に及ばず、やがて下向し侍らむずれば其の時」とて、国府へ帰り、「さるにてもいかなる連歌にや」と尋ね給ひければ、有る社司の申しけるは、
  この神の名かあにの宮とは
と申したりければ、急ぎ是を大事と思はれけるにや、▼1873(一一四オ)上洛せられけり。やさしかりし事也。六はらに付きて急ぎ登蓮を召して仰せられけるは、「今度具足し奉らずして不覚に及べり」とて、件の連哥を語られければ、登蓮、打ち吟きて
  つくしなるうみの社にとはばやな
と申したり。重ねて急ぎ下向し給へり。社参して、彼の社壇を開き拝見して、入道件の句を付け給へり。神官、国の人々に至るまで感ぜずと云ふ事なし。其の詞未だ終はらざるに、御殿三度振動して、即ち巫女に付きて詫し給▼1874(一一四ウ)へり。「神妙に仕りたり。是あやしの者の句に非ず。我が国の風俗を思ふに、つれづれの余り社参の諸人の心をなぐさめ、我が憂へをも忘れやするとて、自ら云ひ出したりし。上古より未だ付けたる人無し。此の悦びには官位は思ひのままなるべしよ」とて、上り給ひぬ。さればにや、同三年に大宰大弐に成り、平治元年十二月廿七日、右衛門督信頼卿謀叛の時、又御方にて賊徒を討ち平げ、同二年正三位して、打ちつづき宰相、衛府督、検非違使別当、中納言に成る上、丞相の位に至り、内大臣より左右を経ずして太政大臣の極位に▼1875(一一五オ)昇る。是則ち登蓮法師が故とぞ覚えし。
三十三 〔入道に頭共現じて見る事〕
 抑(そもそ)も入道殿、更闌け人定まりて、月の光も澄みのぼり、名を得たる夜半の事なれば、心の内も潔く、彼の漢高祖の三尺の剣、坐ながら天下を鎮め、張良が一巻の書、立ちどころに師傅に登る事、我が身の栄花に限りあらばまさらじと覚えて、月の光くまなければ、終夜詠めて居給へるに、坪の内に目一つ付きたる物の、長(た)け一丈二尺ばかりなるもの現れたり。又、傍に、目鼻も無きものの是に二尺ばかり増さりたる物あり。又目三あるものの三尺計り勝りたるあり。かかる物共五六十人並び立てり。▼1876(一一五ウ)入道是を見給ひて、「不思議の事哉。何者なるらむ」と思ひ給へども、少しもさわがぬ体にて、「己れ等は何物ぞ。あたご平野の天狗め等ごさんめれ。なにと浄海をたぶらかすぞ。罷り退き候へ」と有りければ、彼の物共声々に申しけるは、「畏し畏し。一天の君、万乗の主だにもはたらかし給はぬ都を福原へ移すとて、年来住みなれし宿所を皆破られて、朝夕歎き悲む事、劫を経とも忘るべからず。此の本意なさの恨みをば、争(いかで)か見せざるべき」とて、東を指して飛び行きぬ。是と申すは、今度福原下向の事一定たりしかば、然るべき御堂あまた壊ち▼1877(一一六オ)集め、新
都へ移すべき巧み有りけれども、内裏御所などだにもはかばかしく造営無き上は、皆江堀に朽ち失せぬ。之に依りて、適ま残る堂塔も四壁は皆こぼたれぬ。荒神達の所行にや、あさましかりし事共也。
 入道猶月を詠めておはすれば、中門の居給へる上に以外に大なる物の踊る音しけり。暫く有りて、坪の内へ飛び下りたり。見給へば、只今切りたる頭の血付きたるが、普通の頭十計り合はせたる程なるが、是のみならず、曝れたる頭共あなたこなたより集まりて、四五十が程並び居たり。面々に〓りけるは、「夫諸行無常は▼1878(一一六ウ)如来の金言と云ながら、六道四生に沈淪して、日夜朝暮の悪念を起こす事、併らあの入道が故也。成親卿が備中の中山の苔に朽ち、俊寛が油黄が嶋の波に流れし事、先業の所感とは知りながら心憂かりし事共なり」と、面々に云ひければ、生頭申しけるは、「夫はされども人を恨み給ふべきに非ず。少し巧み給ふ事共の有りけるごさんめれ。行忠は朝敵にも非ず、旧都を執して新都へ遅く下りたりと云ふ咎に依りて、当国深夜の松西野と云ふ所へ責め下され、故無く頸を刎ねらるる事、哀れと思(おぼ)し食(め)されずや。▼1879(一一七オ)哀れ、げにいつまであの入道をうらめしと、草の陰にて見んずらむ」と云ひければ、入道のろのろしくおどろおどろしく思ひながら答へ給ひけるは、「汝等、官位と云ひ俸禄と云ひ、随分入道が口入にて人となりし者共に非ずや。故無く君を
勧め奉り、入道が一門を失はむとする科、諸天善神の擁護を背くに非ずや。自科を顧みず入道をうらみん事、すべて道理に非ず。速かに罷り出でよ」とて、はたと睨へておはしければ、霜雪などの様に消え失せにけり。月も西山にちかづき、鳥も東林に鳴きければ、入道中門の一間なる所を誘へ給へる所に立ち入りて、休み▼1880(一一七ウ)給はむとし給へば、一間にはばかる程の首、目六つ有りけるが、入道を睨まへて居たりけり。入道腹を立て、「何に己等は、一度ならず二度ならず、浄海をばためみるぞ。一度も汝等にはなぶらるまじき物を」とて、さげ給へりける太刀を半ら計りぬきかけ給へば、次第に消えて失せにけり。恐ろしかりし事共也。
 異国にかかる先蹤あり。秦始皇の御代に漢(感歟)陽宮を立て、御宇卅九年九月十三夜の月のくまなかりけるに、主上を始め奉りて、槐門・丞相・亜将・黄門より宮中の月を翫び給ひしに、阿房殿の上にはばかる程の大首の、目は十六ぞ有りける。官▼1881(一一八オ)軍を以て射させければ、南庭に下りて、鳥の卵の様にて消え失せぬ。是は燕丹・秦武陽・荊軻大臣等の頸と云へり。此の後幾程無くて、六十一日と申すに、始皇失せ給ひぬ。此の例を思ふには、入道殿の運、命今幾程あらじとぞささやきける。
 太政入道は福原におはしけるが、月日は過ぎ行けども世間は未だ静まらず。胸に手置ける心地して、常に心さわぎ打ちしてぞ有りける。二位殿を始め奉り、さまざまの夢見悪しく、怪異ありければ、神社仏寺に祈りぞ頻りなる。誠に上荒下困、勢ひ久しからず。「宗社の危きこと、綴流の如し」とも云へり。此の世の有様、なにと成りはてむずらむとぞ歎きける。
▼1882(一一八ウ)卅四 〔雅頼卿の侍夢見る事〕
 源中納言雅頼卿の家なりける侍、夢に見けるは、「いづくとも其の所は慥かには覚えず、大内裏の内、神祇官などにて有りけるやらむ。衣冠正しくしたる人々並居給ひたりけるが、末座に御坐(おはしま)しける人を呼び奉りて、一座に御坐(おはしま)しける人のゆゆしく気高げなるが宣ひけるは、『日来清盛入道の預かりたりつる御剣をば召し返されむずるにや、速かに召し返さるべし。彼の御剣は、鎌倉の右兵衛佐源頼朝に預けらるべき也』と仰せらる。是は八幡大菩薩也と申す。又座の中の程にて、其も以外に気高く宿老なりける人の宣ひけるは、『其の後は我が孫の其の御剣をば給はらん▼1883(一一九オ)ずる也』と宣ひけるを、是をば『誰そ』と問ひければ、『春日大明神にて御坐(おはしま)す』と申す。先に末座に御坐(おはしま)しける人を、『是は誰人ぞ』と尋ぬれば、『太政入道の方人、安芸厳嶋明神なり』とぞ申しける。思ふ量りも無く、かかる怖しき夢こそみたれ」と云ひたりければ、次第に人々聞き伝へて披露しけり。
 太政入道、此の事を聞き給ひて、憤り深くして、蔵人左少弁行隆に仰せて尋ねられければ、雅頼卿は、「さる事承らず」とぞ申されける。彼の夢みたる者は失せにけり。朝敵を討ちに遣す大将軍には、節刀と云ふ御剣を賜る也。太政入道、日来は大将軍として朝敵を退け▼1884(一一九ウ)しかども、今は勅定を背くに依りて、節刀をも召し返されけるにや。
 此の夢を、高野宰相入道成頼伝へ聞きて宣ひけるは、「厳嶋の明神は女体とこそ聞け、僻事にや。又春日大明神、『我が孫太刀をば預らむ』と仰せられけるも心得ず。但し、世の末に源平共に子孫尽きて、藤原氏の大将軍に出づべきにや。一の人の御子などの、大将軍として天下を静め給ふべきか」とぞ宣ひける。深き山に籠りにし後には、往生極楽の営みの外は他念をばすまじかりしかども、能き務を聞きては悦び、悪事を聞きては歎き給ひけり。世の成り行かむ有様を兼ねて宣ひけるは、少しもたがはざりけり。
卅五 〔右兵衛佐謀叛発す事〕
 ▼1885(一二〇オ) 九月二日、東国より早馬着きて申しけるは、「伊豆国流人、前兵衛佐源頼朝、一院の院宣并びに高倉宮令旨ありとて、忽ちに謀叛を企て、去んぬる八月十七日夜、同国住人和泉判官兼隆が屋牧の館へ押し寄せて、兼隆を討ち、館に火を懸けて焼き払ふ。伊豆国住人北条四郎時政・土肥次郎実平を先とし、一類伊豆相模両国の住人等、同心与力して三百余騎の兵を率して、石橋と云ふ所に立て籠る。之に依りて、相模国住人大庭三郎景親を大将軍として、大山田三郎重成、糟尾権守盛久、渋谷庄司重国、足利太郎景行、山内三郎▼1886(一二〇ウ)経俊、海老名源八季宗等、惣て平家に志ある者三千余人、同廿三日、石橋と云ふ所にて数剋合戦して、頼朝散々に打ち落とされて、纔かに六七騎に成りて、兵衛佐は大童に成りて杉山へ入りぬ。三浦介義澄、和田小太郎義盛等、三百余騎にて頼朝の方へ参りけるが、兵衛佐落ちぬと聞きて、丸子河と云ふ所より引き退きけるを畠山次郎重忠五百余騎にて追ひ懸くる程に、同廿四日、相模国鎌倉湯井の小壺と云ふ所にて合戦して、重忠散々に打ち落とされぬ」と申しけり。
 後日に聞えけるは、同廿六日、河越太郎重頼、中▼1887(一二一オ)山次郎重実、江戸太郎重長等、数千騎を率して三浦へ寄せたりけり。上総権守広常は兵衛佐に与して、舎弟金田小大夫頼常を先立てたりけるが、渡海に遅々して石橋には行きあはず、義澄等籠りたる三浦衣笠の柵に加はりけり。重頼等押し寄せ、矢合せ計りはしたりけれども、義澄等つよく合戦をせずして落ちにけり」と申しければ、平家の人々は是を聞き給ひて、若き人は興に入りて、「頼朝が出で来よかし。哀れ討手に向はばや」など云へども、少しも物の心を弁へたる人々は、「あは大事出で来ぬ」とてさわぎあへり。畠山庄司重能、大山田別▼1888(一二一ウ)当有重、折節在京したりけるが申しけるは、「何事かは候ふべき。相親しく候へば、北条四郎が一類計りこそ候ふらめ、其の外は誰か付きて輙く朝敵と成り候ふべき」と申しければ、「げにも」と云ふ人もあり、「いさとよ、何があらむずらむ。大事に及びぬ」と云ふ人もあり。寄り合ひ寄り合ひささやきけり。
 大政入道宣ひけるは、「昔義朝は信頼に語らはれて朝敵と成りしかば、其の子共一人もいけらるまじかりしを、頼朝が事は、故池尼御前の去り難く歎き申されしに付きて、死罪を申し宥めて遠流に成しにき。重恩を忘れて国家を乱り、我が子孫に向かひて弓を引かんずるは、▼1889(一二二オ)仏神も御ゆるされや有るべき。只今天の責を蒙むずる頼朝なり。あやしの鳥獣も恩を報じ、徳を酬ふとこそ聞け。昔の楊宝は雀を飼ひて環を得、毛宝は亀を放ちて命を助かると云へり。我が子孫に向かひては、頼朝、争(いかで)か七代まで弓を引くべき」とぞ宣ひける。
 夫吾が朝の朝敵の始めは、日本磐余彦御宇五十九年〈己未〉歳十月、紀伊国名草郡貴志庄鷹尾村に、一の異禽あり。世の上蜘と云ふ者あり。身短く手足長くして、力人倫に超えたり。人民を損じ、皇化に随はざりしかば、官軍仰せを承りて彼こに行き向ひて、葛の網を結びて▼1890(一二二ウ)終に覆殺す。其より以来、野心を挟みて背朝家を背く者多し。所謂、大山皇子、大山、大伴真鳥(天武天皇討ち給ふ)、守屋大臣、蘇我入鹿(天智天皇討ち給ふ)、山田石川(同)、右大臣豊成(同)、左大臣長守 (聖武天皇討ち給ふ)、太宰小貳広嗣、恵美大臣押勝(高野天皇討ち給ふ)、井上皇后、氷上河継、早良太子、伊与親王 (天城天皇討ち給ふ)、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田、武蔵権守平将門 (平将軍貞盛に討たる)、伊与掾藤原純友(周防伊与両国の官軍に討たる)、安倍頼良(頼義に討たる)、同子息鳥海三郎貞任(同人に討たる)、同舎弟致任(同人に討たる)、対馬守義親、悪左府、悪右衛門督に▼1891(一二三オ)至るまで、都合三十余人也。されども一人として素懐を遂げたる者なし。皆首を獄門に懸けられ、骸を山野にさらす。東夷・南蛮・西戎・北狄、新羅・高麗・百済・鶏旦に至るまで、我が朝
を背く者なし。
 当時こそ王威も無下に軽くましませ、宣旨と云ひければ、枯れたる草木も〓花さき、天をかける鳥、地を走る獣も皆随ひ奉りき。彼の晨旦の則天皇后は武明高宗の后也。上林苑の花見の御幸なるべきにて有りしに、林苑の花開かずして其の期を見るに遥かなりければ、皇后、臣下を遣して「花須く連夜に発すべし。暖▼1892(一二三ウ)風の吹くを待つこと莫れ」と、宣旨を下し給ひしかば、花一夜の中に開きて、御幸を遂げぬと見えたり。吾が朝にも近来の事ぞかし。延喜帝の御時、池汀に鵲の居たりけるを帝御覧じて、蔵人を召して、「あの鵲取りて参れ」と仰せ有りければ、蔵人、鵲の居たる所へ歩み寄りければ、鵲羽づくろひして既に立たんとしけるを、「宣旨ぞ。鵲罷り立つな」と云ひたりければ、鵲立たずして取られにけり。やがて御前へ懐(いだ)きて参りたりければ、急ぎ放たれにけり。全く鵲の御用には非ず、王威の程を知食(め)さんがためなり。
▼1893(一二四オ)卅六 〔燕丹の亡びし事〕
 我が朝にも限らず、恩を知らざる者の滅びたる例を尋ぬるに、昔唐国に楚の競望が子に燕の太子丹と云ふ者あり。秦始皇と戦ひけるに、太子軍に負けて始皇に囚はれぬ。既に六ヶ年にも成りにけり。燕丹八十に余る老母を見むと思ふ志深かりければ、始皇に暇を乞ふ。始皇嘲きて曰く、「烏頭白く成り、馬に角生ひたらん時、汝帰らむ期と知れ」と曰ひければ、此の詞を聞きて、「さては心憂き事ごさむなれ。我恋しと思ふ母を見ずして是にて徒らに死せむ事」、今更悲しく覚えければ、夜は終夜、昼は終日に、天に仰ぎ地に臥して念じける験に、▼1894(一二四ウ)頭白き烏飛び来たれり。太子是をみて、今は定めて免されんずらむと思ひけるに、「『馬に角生ひたらむ時に免すべし』とこそ云ひしか」とて、猶免さざりけり。燕丹何にすべしとも覚えず、悲しみける詞に云はく、「妙音大士は月氏霊山に詣でて不孝の輩を誡め、孔子・老子は大唐震旦に顕れて忠孝の道を立つ。上梵天帝尺、下堅牢地神までも、孝養の者をば愍み給ふなる物を。冥顕の三宝、憐みを垂れて、馬に角生ひたる異瑞を始皇に見せ給へ」と、明暮懈らず、血の涙を流して祈誓しける験にや、角生ひたる馬、始皇の南庭に出▼1895(一二五オ)現せり
。綸言汗の如くなれば、烏頭馬角の変に驚きて、「燕丹は天道の加護ある者なり」とて、即ち本国へ返し遣す。
 始皇猶安からず思ひて、太子本国へ帰る道に先づ官使を遣して、楚橋と云ふ橋にて燕丹を河に落し入るる様に構へてけり。燕丹はかかる支度ありとも知らずして、故郷に帰るうれしさに何心も無く渡りけるに、即ち河に落ち入りぬ。されども、天道加護し給ひけるにや、平地を歩むが如くにてあがりにけり。不思議の事哉と思ひて、水を顧れば、亀共多く集りて、甲を並べて燕丹をぞとほしける。
 さて、本国へ帰り▼1896(一二五ウ)たりければ、父母親類皆来集て悦びあへり。燕丹、始皇に囚はれて悲しかりつる事を語りて、互ひに涙を流しけり。「始皇いきどほり深くして、如何にも免されがたかりしを、しかじかの事共有りて免されたり」と語りければ、母悦びて、「さては不思議なる事ごさむなれ。何にしてか、頭白き烏を憐むべき」と思ひければ、せめての事にや、黒烏共に物を報ずるに、後には頭白き烏度々来りけるとかや。是は父母の子を思ふ志の深く切なるが故也。
 燕丹、数ヶ年之間始皇に誡め置かれたりし事を安からず思ひて、何にもして始皇帝を滅ぼさん▼1897(一二六オ)とぞ謀りける。此の事いかがして聞こえけむ、始皇怒りて、又燕丹を滅ぼさむとす。即ち燕国へ兵を向くべき由聞こえければ、燕国の人恐ぢ怖れて、悲しみ歎く事限り無し。太子此の事を歎きて、夜昼謀を廻す。
 其の比、焚於期と云ひける者は、秦王の為に罪せられて、燕国に逃げ籠もりて居たりけるを、太子愍みて宮近く置きたり。鞠武と云ひける者、是を聞きて太子を諌めて云はく、「吾が国は元より秦国と敵と成る国也。況や焚於期を夷の国へ遣して、西は晋国と一つに成り、南は斉楚の国にも相親しみて、勢を儲けて後、思ひ立ち給へ」と申しければ、▼1898(一二六ウ)太子答へて云はく、「焚於期、秦王の難に逢ひて、身を吾に任せたり。頼もしげ無く追ひ捨てむ事、情け無し。さらぬ事をはからへ」と云ひければ、鞠武又申して云はく、「楚国に田光先生と云ひて、謀賢く武く勇める兵あり。仰せ合はせて聞き給へ」と云ひければ、太子田光を招く。
 先生、太子の許へ行きけるに、太子庭に下り向かひ、田光を内に入れて、密かに始皇を滅ぼすべき由を議するに、田光申して云はく、「麒麟と云ふ馬は、若く盛りなる時は一日に千里をかけれども、年老い衰へぬれば駑馬も是より先に立つ。君は我が盛りなりし時を聞き給ひて、かくは宣ふなり。荊軻と▼1899(一二七オ)いみじく賢き兵なれ。彼を召して宣ひ合はせよ」と云ひければ、太子、「さらば、彼の荊軻を語らひて得させよ」と有りければ、即ち領掌して田光座を起ちけるに、太子門まで送りて、「此の事国の大事也。努々もらす事なかれ」と云ふ。田光是を聞きて、即ち荊軻が許に行き、太子の詞を云ひ伝へければ、荊輌、いかにも太子の命に随ふべき由を答ふ。其の時田光が云はく、「我聞く、賢人の世に仕ふる習ひ、人に疑はるるに過ぎたる恥は無し。而るに、太子我を疑ひて『漏らす事勿(なか)れ』と宣ひつ。此の事世に披露する物ならば、我れ疑はれなむず」とて、門なる李の木に頭をつき▼1900(一二七ウ)摧きて失せにけり。
 さて、荊軻、太子の許へ行き向かふ。太子席を去りて、跪きて荊軻に語りて云はく、「今汝が来る事、天我を憐むなり。秦王食欲の心深くして、天下の地を皆我が地にせむとし、海内の諸侯王を悉く随へむと思へり。隣国、さならぬ国をも、皆打ち随へぬ。又此国を責めむ事、只今也。秦国の大将軍、当時外国へ向かへる折節也。かかる隙を謀りて始皇を襲はむ事難からじ。願はくは計るべし」と云ひければ、荊軻、太子の敬ふ姿に蕩て云ひけるは、「今度太子の免され給へる事、全く始皇の恩免に非ず。是、併ら神明の御助け也。されば、秦国を敗りて始▼1901(一二八オ)皇を滅ぼさむ事、敢て安し」と答ふ。太子、弥荊軻を貴みて、燕国の大臣に成して、日々にもてなしかしづく。車馬・財宝・美女に至るまで、荊軻が心に任せたり。
 さる程に、秦国の将軍、諸の国を敗りて燕国の境まで近付きにければ、太子恐れ惶きて、荊軻を勧めて云はく、「秦の兵、易水を渡りなば、汝を馮みても詮有るまじ。何がすべき」と有りければ、荊軻答へて云はく、「我聞く、『焚於期が首を得させたらむ者には、一万家の里・千斤の金を与ふべし』と、秦皇四海に宣旨を降し給へり。焚於期が首と燕国の差図とをだにも始皇に献る物ならば、始皇悦びて、必ず吾に▼1902(一二八ウ)打ち解けなむず。其の時謀りなん」と云ひければ、又太子云はく、「焚於期、秦国を逃れて身を我に任せたり。誅たむ事情け無し。さならぬ謀を廻らせ」と有りければ、荊軻、太子のかはゆく思へる気色を見て、即ち密かに焚於期に逢ひて云はく、「秦王汝を罪し給へる事、何の世にか忘るべき。父母親類、皆秦王の為に殺されたり。汝か首を、一万家の里・千斤の金に募り給へり。何がすべき」と云ひければ、焚於期天に仰ぎ大息をつき、涙を流して、「我常に此の事を思ふに、骨髄に融つて堪へ難けれども、云ひ合はすべき方無し」と答へければ、荊軻又云はく、「只一言にて燕国の愁へをも慰め、汝が欺きをも▼1903(一二九オ)酬ひん事、何に」とためらひければ、焚於期大きに悦ぶ
事限り無し。其の時、荊軻又云はく、「願はくは汝が首を借せ。秦王に献らん時、皇帝定めて悦びて我に打ち解け給はむ時、左手にては袖を引かへ、右手にて秦王の胸をささむ事、最安し。然れば君が讎をもむくひ、又燕国の愁ひをも止むべし」と云ひければ、焚於期を肱をかがめて、「是こそ日来の願の満ちたるなれ。誠に秦王だにも討ち奉るべきならば、雪の頭を奉らむ事、微塵より猶軽かるべし。かく宣ふ志の程こそ、生々世々にも報じ尽くし難けれ」とて、やがて自ら剣を抜きて、頸を切りて荊軻に与ふ。太子是を聞きて馳せ来たりて▼1904(一二九ウ)泣き悲しみけれども、力及ばず。
 此の上は即時に思ひ立つべしとて、始皇を討つべき謀を廻らす。焚於期が頭を箱に入れて封じ籠めたり。太子を免したる悦びに、燕国の差図、国々の券契を相具して、始皇帝に奉る解文、其の上、葱嶺の像を金にて鋳て差図の箱に入れ具して、函の底には〓首の剣とて、一尺八寸なる剣の、千両の金にて造りたるを隠し入れて、荊軻を出だし立つ。又、燕国に秦武陽と云ふ武き兵あり。是も元は秦国の兵にて有りしが、十三にて多くの人を殺して、燕国に籠もりたりけり。怒れる時は七尺の▼1905(一三〇オ)男も殺死し、咲みて向かへば三歳の嬰児も抱かれけり。是を荊軻に相副へて遣はされけり。
 荊軻既に秦国に趣くに、太子并びに賓客の心を知る者、衣冠正しくして送りけり。易水と云ふ所にて、余波を惜しみ、酒を飲みけるに、高漸離と云ふ者、筑を撃つ。荊軻歌を作りて云はく、「風蕭々として易水寒、壮士一たび去りて復還らず」と歌ふ。是不吉の詞也。宮商角徴羽の五音の中には、徴の音をぞ調べたりける。其の時、人皆涙を流して哭しあへり。又、羽の音に遷る時、人皆目を怒らかし、頭の髪、空さまへ挙がりにけり。
 ▼1906(一三〇ウ)さて、荊軻車に乗りて、余波を惜しみて別れ去りぬ。遂に後ろを顧みず。されども、蒼天免し給はねば、なじかは本意を達すべき。此の時、白虹天に立ち渡りて、日輪の中を貫きはてざりけり。太子是を見て、「我が本意遂げ難し」とぞ思はれける。荊軻是を勘ふるに、「始皇は火姓、太子は金性也。夏は、金は相して火に王せり。日輪は火也、白虹は金なれば、火剋金と相剋せる象なり。始皇は一天の主なれば、日輪なるべし。太子は小国の王なれば、白虹なるべし。随ひて、又日輪の中を貫きはてぬこそ怪しけれ。如何有るべかるらむ」と▼1907(一三一オ)思ひけれども、さればとて空しく帰るべき道ならねば、荊軻、秦国に至りぬ。
 千両の金、色々の財を以て、秦皇の寵臣蒙嘉と云ふ者に賂いて、秦皇に申して云はく、「燕国、誠に大王の威に怖れて、敢へて君を背き奉る事無し。『願はくは、諸侯王の列に入りて、みつぎ物を備へ、王命を背くべからず』とて、焚於期が首を切りて、燕国の券契を献じ給へり。願はくは、大王、叡覧を経給へ」と申したりければ、秦皇大きに悦びて、節会の儀式を、始皇の内裏感陽宮に調へて、燕の使に見え給ふ。秦国の官軍等、四方の陣を固めたり。皇居のあり▼1908(一三一ウ)さま、心も詞も及ばれず。都の周り、一万八千三百八十里につもれり。内裏をば、地より三里たかくつき上げて、其の上に立てたり。長生殿、不老門あり。金を以て日を作り、銀を以て月を造れり。真珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を敷き満てり。四方には、高さ四十里に鉄の築地をつき、殿の上にも同じく鉄の網をぞ張りたりける。是は、冥途の使を入れじとなり。秋はたのむの雁の春は越路に帰るも、飛行自在の障り有りとて、築地には雁門とて鉄の門を開けてぞ通しける。其の中▼1909(一三二オ)に、阿房殿とて、始皇のつねは行幸成りて政道行はせ給ふ殿あり。高さは三十六丈、東西は九丁、南北へ九丁、大床の下は、五丈の幢を立て
たるが、猶及ばぬ程なり。上は瑠璃の瓦を以て葺き、下は金銀を瑩けり。荊軻は燕のさし図を持ち、秦武陽は焚於期が首を持ちて、玉のきざはしをのぼりけるに、余りに内裏のおびたたしきを見て、秦武陽わなわなと振るひければ、臣家是を怪しみて、「武陽、謀叛の心あり。刑人をば君の側らに置かず。君子は刑人に近づかず。▼1910(一三二ウ)刑人に近づくは、則ち死を軽んずる道也」と云へり。荊軻帰りて、「武陽全く謀叛の心無し。其の磧礫を翫びて玉淵を窺はざる者は、曷ぞ驪龍の蟠れる所を知らん。其の弊邑に習ひて上邦を視ざる者は、未だ英雄の宿れる所を知らず」と云ひければ、官軍皆静まりにけり。
 さて、堂上に到りて、焚於期が頭を献ぜむとするに、官使出で向かひて請け取りて、叡覧有るべき由仰せければ、荊軻申しけるは、「日来宸襟安からず思(おぼ)し召(め)さるる程の朝敵の首を切りて参りたらむに、争(いかで)か人伝に献るべき。燕国小国なりと云へども、荊軻・武陽共に彼の国第一の臣下なり。直に献らむ事、何の恐れか有るべき」と奏したりければ、「実に日来の▼1911(一三三オ)宿意深かりつる朝敵なり。荊軻が申す所、其の謂はれあり」と思(おぼ)し召(め)して、始皇自ら請け取り給ふべき礼儀にて、荊軻に近づき給ふ。兼ねて焚於期、「死して会稽の恥を雪めむ」と謀りし詞は少しも違はず。
 さて、荊軻、頭を地に着けて焚於期が首を奉る。始皇是を見給ひて、深く感じ給ひけり。其の後、又差図・券契入りたる函を開くに、秋の霜、冬の氷の如くなる剣の光り、函の底にかかやきて見えければ、始皇大きに驚きて、早く飛び去らんとし給ふ処に、左手にて御衣の袖を引かへ、右手にて彼の剣を取りて、始皇の御首に指しあてて、「実には、燕太子、此五六年の間、誡め置かれ▼1912(一三三ウ)たりつる恨み探し。其の宿意を顕さんが為に、かくは謀りつる也」とて、既に剣を振らんとしければ、始皇涙を流して宣はく、「我一天の主として、武王の中の大武王なり。昔も今も、朕に肩を並ぶる帝王無し。されども運命限りあれば力及ばず。但し、臨終の障りになる妄念あり。我、九重の中に千人の夫人をもてり。其の中に琴をいみじく弾く夫人あり。花陽夫人と名づく。今一度、其の曲調を聞きて死せむと思ふ。其の間許してむや」と宣ひければ、荊軻思ひけるは、「我小国の臣下として、大王の宣命を直に蒙る事、有難し。かくとらへ奉り▼1913(一三四オ)ぬる上は、何事かは有るべき」と思ひて、少しさしゆるし奉りつる。始皇悦び給ひて、南殿に七尺の屏風を立て、其の内に夫人臨幸有りて、琴を調べ給ふ
。大方、此の后のひき給へる琴の音には、空飛ぶ鳥も地に堕ち、武き武士も怒れる心平ぎけり。況や、今を限りの叡聞に備へ給ふ事なれば、泣く泣く様々の秘曲を奏し給ひけむ、さこそは面白かりけめ。荊軻耳をそばだて、頭を低れて、殆ど日来の害心もたゆみつつ、緩々として聞き居たりければ、后、此の気色をひそかに見給ひてければ、曲調を替へて、「七尺の屏風は踊らば超ゆべし。羅穀の▼1914(一三四ウ)袖は引かば断へぬべし」と云ふ曲を度々引き給ひけり。荊軻・武陽諸共に管絃の道うとかりければ、露此の曲を聞き知らず。秦皇は五音に通じ給へりければ、是を聞き知り給ひて、「恥づかし恥づかし、夫人の身なれども武き心あり。我大王の身にして、敵に引かへられて遁れぬ事こそ心憂けれ」と思ひ給ひて、強盛の心忽ちに起こりて、七尺の屏風を後さまに飛び越え給ふ。荊軻は、始皇の逃げ給ふに驚きて、剣を投げ懸けたりければ、皇帝、銅の柱の三人して懐く程なる、その影へ逃げ給ふ。帝にはあたらずして、銅の柱、半ら計り切れにけ▼1915(一三五オ)り。秦国の習ひ、兵具帯したる者の殿上に昇らぬ法なれば、数万の官軍庭上に有りけれども、救はむとするに甲斐無し。只君の逆臣に犯され給はむ事
をぞ悲しみける。其の時、夏無思と云ふ医師の、侍医と云ふ官にて折節御前に有りけるが、薬袋を玉体投げ懸けたり。皇帝立ち帰りて、我が王冠にさし給へる宝剣を抜きて、荊軻・武陽二人が口を八ざきにさきて、庭上に引き下して課せられけり。やがて燕国へ官軍を差し遣して、燕丹を討ち、国を亡ぼしてけり。又、高漸離は、荊軻と昔親友たりし事▼1916(一三五ウ)をはばかりて、姿をやつし姓名をかへて有りけれども、しならひたる事の捨てがたくて、筑をうちけり。筑とは琴の様なる楽器也。撥にて其の上をうつなり。始皇、「筑をよくうつ者あり」と聞き給ひて、召されて、つねに筑をうたせてきき給ふに、高漸離を見知りたる人有りて、「高漸離也」と申したりければ、能のいみじさに殺すに及ばず。目をつぶして、猶筑をうたせて近づけ給ひければ、漸離、安からず思ひて、剣を以つて、始皇のおはする所をはからひて、うちたりけり。始▼1917(一三六オ)皇、なじかはうたれ給ふべき。還つて漸離を殺されにき。此の
事、『史記』に見えたり。『論語』と申す文に、「始皇のひざを打ちたり。其の所かさに成りて、始皇、死し給へり」と云へり。昔の恩を忘れて、朝威を軽んずる者、忽ちに天の責を蒙りぬ。されば頼朝、旧恩を忘れて、宿望を達せむ事、神明ゆるし給はじと、旧例を考へて、敢へて驚く事無かりけり。
〔卅七〕 四日戊時ばかり、太政入道、輿に乗りて、院御所へ参りて申されけるは、「源為義、義朝は、法皇の御敵にて▼1918(一三六ウ)候ひしを、入道が謀にて、彼等二人より始めて多くの伴類を皆入道が手に懸けて首を刎ね候ひき。頼朝と申し候ふ奴は、江州より尋ね出だして候ひしを、入道が継母池尼と申し候ひし者、彼の頼朝を見候ひて、余りに無漸がり候ひて、『此の冠者、我に預けよ。敵を生けて見よとこそ申せ』と、たりふし申し候ひしかば、『実に源氏の胤を、さのみ断つべきにも非ず。其の上入道、私の敵にも非ず。只君の仰せを重くする故にこそあれ』と存じ候ひて、流罪に申し宥めて、伊豆国へ流し遣はし候ひぬ。其の時十三と▼1919(一三七オ)承り候き。かね付けたる小冠者の、生の直垂、小袴着て候ひしに、入道、事の子細尋ね候ひしかば、『いかが候ひけむ。其の事の起こり、つやつや知らず』と、申し候ふ間、『実にも拙き者にて候へば、よも知り候はじ』と、青道心を成し候ひて、今は『哀れは胸を焼く』と申す譬への様に、定めて聞こし召されても候ふらむ。彼の頼朝が伊豆国にて、はかりなき悪事共を、此の八月に仕りて候ふ之由、承り候ふ。追討の院宣を下さるべき」由を申されけれ
ば、「何事かは有るべき。法皇にこそ申さめ」と、仰せありければ、入道又申されけるは、「主上は未だ少く渡らせ御す。▼1920(一三七ウ)正しき御親に渡らせ給ふに指し越え奉りて、法皇にはなにと申す事候ふべき。惣じて源氏を引き思(おぼ)し食(め)されて、入道を悪ませ給ふと覚え候ふ」と、くねり申されければ、新院、少し咲はせ御坐(おはしま)して、「事新しく誰を馮みて有るにか。宣下の条安し。速に大将軍を注し申せ。誰に仰せ付くべきぞ」と、御定ありければ、「惟盛・忠度・知盛等に仰せ付けらるべし」とぞ申しける。
卅八 〔兵衛佐伊豆山に籠る事〕
 前兵衛佐頼朝は、去んぬる永暦元年、義朝が縁坐に依りて、伊豆国へ流罪せられたりけるが、武蔵・相撲・伊▼1921(一三八オ)豆・駿河の武士共、多くは頼朝が父祖重恩の輩也。其の好み忽ちに忘るべきならねば、当時平家の恩顧の者の外、頼朝に心をかよはして、軍を発さば命を棄つべき由しめす者、其の数有りければ、頼朝も又、心に深く思ひきざす事有りて、世のありさまを伺ひてぞ、年月を送りける。
 伊豆国住人伊東入道助親法師は、重代の家人なりけれども、平家重恩の者にて、当国には其の勢ひ人に勝れたり。娘四人あり。一人は相撲国の住人三浦介義明が男、義連に相ひ具したり。一人は同国住人土肥次郎実平が男、▼1922(一三八ウ)遠平に相ひ具せり。第三の女、未だ男も無かりければ、兵衛佐、忍びつつ通ひける程に、男子一人出で来にけり。兵衛佐、殊に悦びて最愛す。名をば千鶴とぞ申しける。三歳と申しける年の春、少き者共数た引き具して、乳母に抱かれて前栽の花を折りて遊びけるを、助親法師、大番はてて国に下りける折節、此を見付けて、「此の少き者は誰人ぞ」と、尋ねけれども、乳母、答ふる事無くして逃げ去りにけり。軈て内へ入りて、妻女に問ひければ、答へけるは、「京上りし給ひたる隙に、いつきむすめの、止む事無き殿して、儲け給ひたる少き人なり」▼1923(一三九オ)と云ひければ、助親法師怒りて、「誰人ぞ」と、責め問ひければ、かくしはつべき事にも非ざりければ、「兵衛佐なり」とぞ申しける。助親、申しけるは、「商人・修行者などを男にしたらむは、中々いかがはすべき。源氏の流人、聟に取りたりと聞こえて、平家の御咎めあらむ時は、いかがはすべき」とて、雑
色三人、郎等二人に仰せ付けて、「彼の少き子を呼び出だして、伊豆の松河の奥、しら瀧の底に、ふしづけにせよ」と云ければ、少き心にも事がらけうとくや覚えけむ、泣きもだえて逃げ去らんとしけるを取り留めて、郎等に与へけるこそうたてけれ。みめ事がら▼1924(一三九ウ)清らかにて、さすがなめての者にまがふべくもみえざりければ、雑色、郎等共、いかにとして殺すべしとも覚えず。悲しかりけれども、つよくいなまば、思ふ所有るかとて、中々悪しかりなむずれば、泣く泣く抱き取りて、彼の所にてふしづけにしけるこそ悲しけれ。女をば呼び取りて、当国の住人えまの小次郎をぞ聟に取りける。
 兵衛佐、此事共を聞きつつ、いかれる心も武く、歎く心も深くして、助親法師を討たむと思ふ心、千度百度有りけれども、大事を心にかけながら、其の事を遂げずして、「今私の怨を報はむとて、身を亡し、命▼1925(一四〇オ)を失はむ事、愚か也。大きなる怨み有らば、小さき怨みを忘れよ」と、思ひなだめて過ぐしけるに、伊東の九郎助兼、ひそかに兵衛佐に申しけるは、「父の入道、老狂の余り、尾籠(をこ)の事をのみ振る舞ひ侍る上、悪行を企てむと仕る。心の及ぶ所、制止仕れども、思ひの外の事もこそ出で来侍れ。立ち忍ばせ給へ」と、申しければ、兵衛佐は、「うれしくも申したり。是年来の芳志なり。入道に思ひ懸けられては、いづくへかは遁るべき。身にあやまつ事無ければ、又自害をすべきにも非ず。只命に任せてこそはあらめ」とぞ答へられける。野三刑部成綱・足立藤九郎盛長など▼1926(一四〇ウ)に仰せ合はせけるは、「頼朝一人遁れ出でむと思ふ也。ここにて助親法師に故無く命を失はむ事、云ひ甲斐無かるべし。汝等かくてあらば、頼朝な〔し〕と人知るべからず」とて、大鹿毛と云ふ馬に乗り、鬼武と云ふ舎人ばかりを具して、夜半ばかりにぞ出でられける。道すがらも、「南无帰命頂
礼八幡大菩薩、義家朝臣が由緒を捨てられずは、征夷の将軍に至りて、朝家を護り、神祇を崇め奉るべし。其の運至らずは、坂東八ヶ国の押領使と成るべし。其れ猶叶ふべからずは、伊豆一国が主として、助親法師を召し取りて、其の怨を報ひ侍らむ。何れも▼1927(一四一オ)宿運拙くして、神恩に預かるべからずは、本地弥陀にて坐す、速かに命をめして、後世を助け給へ」とぞ折請申されける。盛綱・盛長は、兵衛佐のがれ出で給ひて後は、一筋に敵の打ち入らむずるを相ひ待ちて、名を留むる程の戦ひ、此の時に有りと思ひける程に、夜もやうやう明けにければ、各も出で去りにけり。
 其の後、北条四郎時政を相ひ馮みて過ぐし給ひけるに、又彼が娘の有りけるにひそかに通はれけり。時政、京より下りけるが、道にて此の事を聞きて、大きに驚きて、同道したりける、検非違使兼隆をぞ聟に取るべき由、契約してける。国に下り着きければ、▼1928(一四一ウ)知らぬ体にもてなして、彼の娘を取りて、兼隆が許へぞ遣はしける。件の娘、兵衛佐に殊に志深かりければ、兼隆が許に行きたりけるが、白地に立ち出づる様にて、足に任せて、いつくを差すともなく逃げ出でて、終夜伊豆の山へ尋ね行きて、兵衛佐の許へ「かくと」告げたりければ、やがて兵衛佐、伊豆の山へぞ籠りにける。此の事を、時政・兼隆、聞きにければ、各憤りけれども、彼の山は大衆多き所にて、武威にも恐れざりければ、左右無く打ち入りて、奪ひ取るにも及ばずしてぞ過ぎ行きける。
 相撲国住人懐嶋の平権守景能、此の事を聞きて、▼P1929(一四二オ)兵衛佐の許に馳せ行きて、給仕しけり。或る夜の夢に、藤九郎盛長、みけるは、兵衛佐、足柄の矢倉の館に尻を懸けて、左の足にては外の浜をふみ、右足にては鬼海が嶋をふみ、左右の脇より日月出でて、光を並ぶ。伊法々師、金の瓶子をいだきて進み出づ。盛綱、銀の折敷に金の盃を居ゑて進み寄る。盛長、銚子を取りて酒をうけて勧めれば、兵衛佐、三度飲むと見て夢覚めにけり。盛長、此の夢の次第を、兵衛佐に語りけるに、景能申しけるは、「最上吉夢也。征夷将軍として、天下を治め給ふべし。日は主上、月は▼P1930(一四二ウ)上皇とこそ伝へ承はれ。今左右の御脇より光を並べ給ふは、是、国主尚将軍の勢につつまれ給ふべし。東はそとの浜、西は鬼海嶋まで帰伏し奉るべし。酒は是、一旦の酔ひを勧めて、終つひに醒めて本心に成る。近くは三月、遠くは三年間に、酔ひの御心さめて、此の夢の告げ、一つとして相ひ違ふ事有るべからず」とぞ申しける。
 北条四郎時政は、上には世間に恐れて兼隆を聟に取りたりけれども、兵衛佐の心の勢ひを見てければ、心の中には深く馮みてけり。兵衛佐も又、時政を賢き者にて、謀ある者と見てければ、大事を▼P1931(一四三オ)成さんずる事、時政ならでは其の人なしと、思ひければ、上には恨むる様にもてなしけれども、実に相ひ背く心は無かりけり。

  平家物語第二中
▼P1933(一四三ウ)
    応永廿七年庚子五月十三日  多聞丸
    写本、事の外往復の言、文字の謬り之多し。然りと雖も添削に及ばず、大概之を写し了はんぬ。
 七十三丁              (花押)







平家物語 五 〔第二末〕
▼P2001
 当巻の内歌十六首之在り。
▼P2003(一オ)
一  兵衛佐頼朝謀叛を発す由来の事
二  文学が道念の由緒の事
三  異朝東婦の節女の事
四  文学院の御所にて事に合ふ事
五  文学伊豆国へ配流せらるる事
六  文学熊野那智の滝に打たるる事
七  文学兵衛佐に相奉る事
八  文学京上して院宣を申し賜はる事
九  佐々木の者共佐殿の許へ参る事
十  屋牧の判官兼隆を夜討にする事
十一 兵衛佐に勢の付く事
十二 兵衛佐国々へ廻文を遣はさるる事
十三 石橋山の合戦の事
十四 小壷坂の合戦の事
十五 衣笠の城の合戦の事
十六 兵衛佐安房国へ落ち給ふ事
十七 土屋三郎と小二郎と行き合ふ事
十八 三浦の人々兵衛佐に尋ね合ひ奉る事
十九 上総介弘経佐殿の許へ参る事
廿  畠山兵衛佐殿へ参る事
▼P2004(一ウ)
廿一 頼朝を追討すべき由官符を下さるる事
廿二 昔将門を追討せらるる事
廿三 惟盛以下東国へ向ふ事
廿四 新院厳嶋へ御幸の事 〈付けたり願文遊ばす事〉
廿五 大政入道院に起請文書かせ奉る事
廿六 法皇夢殿へ渡らせ給ふ事
廿七 平家の人々駿河国より逃げ上る事
廿八 平家の人々京へ上り付く事
廿九 京中に落書する事
卅  平家三井寺を焼き払ふ事
卅一 円恵法親王天王寺の寺務止めらるる事
卅二 園城寺の衆徒僧綱等解官せらるる事
卅三 園城寺の悪僧等を水火の責めに及ぶ事
卅四 邦綱卿内裏を造りて主上を渡し奉る事
卅五 大嘗会延引事 〈付けたり五節の由来の事〉
卅六 山門衆徒都帰の為に奏状を捧ぐる事 〈付けたり都帰り有る事〉
卅七 厳嶋へ奉幣使を立てらるる事
卅八 福田の冠者希義を誅せらるる事
卅九 平家近江国山下柏木等を責め落す事
四十 南都を焼き払ふ事 〈付けたり左少弁行隆の事〉
▼P2005(二オ)
平家物語第二末
一〔兵衛佐頼朝、謀叛を発す由来の事〕  兵衛佐源頼朝は、清和天皇十代の後胤、六条の判官為義が孫、前の下野守義朝が三男也。弓箭累代の家にて、武勇三略の誉れを施す。然るに、去んじ平治元年十二月九日、悪右衛門督信頼卿、謀叛を起こしし刻み、義朝、彼の語らひに与せしによりて、子息頼朝、永暦元年三月に伊豆国北条郡に配流せられて、徒に廿一年の春秋を送り、空しく卅三の年齢を積みて、日来年来も、さてこそ過ごしつるに、「今年、いかにしてかかる謀叛を思ひ企てけるぞ」と、人、怪しみを成す。後日に聞こえけるは、四、五月の程は、高倉の宮の宣旨を賜はりて、持て成されたりける▼P2006(二ウ)ほどに、宮失せさせ給ひて後、一院の院宣を下さるる事有りけり。
 其の故は、年来の宿意もさる事にて、高雄の文学が勧めとぞ聞こえし。彼の文学は、在俗の時は、遠藤右近の将監茂遠が子に、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆なりけるが、十八の年、道心を発して、本鳥を切りて、文学房とて高野・粉河の、山々寺々迷ひ歩きけるが、兵衛佐に相ひ奉りて、勧め奉りたりけるとぞ聞こえし。
二 〔文学が道念の由緒の事〕
 抑も、文学が道念の由緒を尋ぬれば、女故とぞ聞こえし。在俗の時は、渡辺の遠藤武者盛遠とて、上西門院の武者所にて、久しく龍顔に仕へて飲羽の三威を施し、専ら鳳闕に侍して射〓[周+鳥]の名誉を振るひ▼P2007(三オ)き。
 然るを、此の内を罷り出でて後、渡辺の橋供養の時、希代の勝事なりければ、江口・神崎・桂本・向・住吉・天王寺・明石・福原・室・高砂・淀や・河尻・難波方・金屋・片野・石清水・うどの・山崎・鳥羽の里、各歩みを運びつつ、「霞の裏に珠をかけ、長柄の橋の如くにて、朽ちせざれ」とぞ祈りける。
 説法、半時に及びて、二つがわらの船、一艘ぞ下りける。下人・冠者原に至るまで、さわさわとしてぞ見えける中に、あじろ輿、二張あり。橋より上一段ばかりの西の岸に属く。やがて、輿に乗りて座敷へ入る。輿の金物・大刀・具足、力者法師に至るまで、つきづきしく有りける間、「何れの座敷へ入るやらむ」と見るほどに、やがて並びの壺へ入る。盛遠、具足に▼P2008(三ウ)ばかされて、「主はいかなる人やらむ」と、ひたすらのぞき居たるに、折節、河風零しくして、難波わたりの葦すだれ、しづまりやらずぞ、あがりける。是より見れば、実に優なる十六、七の女にてぞ有りける。青き黛、緑にして咲める皃ばせ、花に似たり。漢の李夫人、衣通姫、かぎりあらば、是にはすぎじとぞ見えし。盛遠、思ひけるは、「うきみの程も白波の、住めば住まるる事なれど、男とならば是程の、女に枕をならべばや。哀れ、いづくにすきかはと、立つる間もなき人やらむ」としづ心なく悶えつつ、相ひ構へて、「返り入らむ所へ、いづくなりとも見おかむ」と思ひける程に、聴聞の最中に、俄に焼亡と罵る。きとみれば、黒煙数十丁に吹きつづいて、上下の諸人、さわぎあへり。いづくなるらむと立ち出でて、鞭を▼P2009(四オ)打ちて馳せけるに、見聞の者多かりければ、事故なくもみけちぬ。此の間に、法会も又畢はんぬ。盛遠、又思ひ出だして、「有りつる人は何になりつらむ」と、あさましく急(いそ)ぎかへりみれば、屋形ばかりにて人もなし。「なにしに我が身の出でつらむ」と、千度百度歎けども、悔ゆるにかひぞなかりける。其の夜は猶もゆかしさに、座敷に居てぞ、明かしける。
 あけはなれぬれば、「さても此の上人は京都あまた見給へる人也。もし知り給ひたる事もや」と、急(いそ)ぎ庵室へ渡りて、物語のついでに、「抑、昨日、御説法の最中に、いかいかの船に、しかしかの輿に乗りて、某が座敷の並びへ入り候ひしは、何なる人やらむ。きよげに候ひし物哉」と申しければ、聖、「彼の人は、故三条のさへきの頭の娘。当時は鳥羽の刑部左衛門が女房也。父の朝に仕へし間は、彼の刑部▼P2010(四ウ)なんどをば、目ざましくこそ思はむずれども、なにもののし態にか、刑部とつれさせたれども、母の尼公の有るも、未だ心よからず」とこそ申せ。其の時、盛遠、思ふ様、「さすが、刑部左衛門が是程の女具足せるこそ心にくけれ。今は彼の仁にしたがひて、本意をこそ遂げずとも、音をも聞き、適形を見たりとも、なぐさみなむ」と思ひけるが、「まてまて、しばし、我が身ゆゆしからねども、上西門院に仕へ奉りて、年久し。其の上、一門の者共の、目ざましく思ふも理也。彼の女房の母に仕へむ」とて、宿所へもかへらず、やがて、三条をさしてぞ上りける。
 西東院を上りに、三条よりは南、西東院よりは西に、住みあらして、年久しくなり、築地破れて、軒まばらなる桧皮屋あり。「是なるらむ」と思ひて、立ち入れば、空しく四壁の中を見れば、旧苔封じて▼P2011(五オ)塵を交へ、漸く小さき住ひの辺りを望めば、新草閉ぢて露を帯びたり。折節、門に女あり。まねきよせて、「是は故さへきの頭の殿の御家か。聊か子細あつて申すぞ。此の内に、我、宮仕へを申さばや。吉き様に見参に入れ」と云ひければ、女、「此の由を、申してこそ見候はめ」とて、立ち入りぬ。暫く有りて、「立ち入り給へ。承らむ」と云ふ。盛遠、先づうれしくて、急(いそ)ぎすすめば、中門の妻戸を開く人あり。五十有余なる尼公也。「是へ」と云へど、男、畏まる。「いかにいかに」と度び重ぬれば、盛遠、内へぞ入りける。
 家主の云はく、「実に、これに居むと仰せの有るが、思ひもよらぬ事哉。御けしきを見奉るに、尼がはぐくみ奉るべき人ともみえ給はぬ。御心中の程こそ、返す返すも穴倉けれ。何れの辺につくべしともおぼえず。故亡父が存生の間は、身かひがひしからずと云へども、公に▼P2012(五ウ)仕へ奉りしかば、さ様の事も侍りき。今は老尼の旧屋に、おき奉りても、なにかせむ。但し、仰せある事を、いなと云はば、定めて御所存に違ふらむ。それも又ほゐなし。ともども、それの御計らひ」とぞ、宣ひける。
 盛遠申しけるは、「我が身幼少より上西門院の武者所へて候ひしが、思はざる外に彼の御所を罷り出でて後、古里なれば田舎に住み侍れども、何事も物うくて、都の事のみ心にかかり、『六原辺に居ばや』と申せども、『上西門院に召し仕はれて年久し。武者所ふるほどの者を仕はじ』と申して、ゆるされず。又、元よりの事なれば、公家をこそ、伺ふべけれども、『さも』と申す仁は、我が心に叶はず。思ひ煩ひて候ふが、此の御事を、あらあらつたへ承りて、御目にもかからばやと、参りて候ふ也」といへば、尼公、からからと▼P2013(六オ)咲ひて申しけるは、「人々の畏れ奉りておき奉らぬ人を、此の朽尼が顧み奉らむ事こそ、返す返すをかしけれ。よしよし、それも苦しからじ。今より、尼を親と憑み給へ。おそれながら、子と仰ぎ奉らむ。故さへきの頭と、朝夕はぐくみいたはりし女子一人あり。父存生の間は、いかならむ高ふるまひをせさせばやとこそ営みしに、彼の父うせて後、思ひの外に、鳥羽の刑部左衛門とかや申す者、相ひつれて候へば、是に付けても、亡夫の事のみ思はれて、万づ目ざましければ、つやつや申しかよはさで罷り過ぎしほどに、いつぞや亡夫が為に形の如く仏事を営みしに、上導の御詞に、『春の花、梢を辞して有為無常の涙を拭ひ、秋の葉、林に飛びて生者必滅の観を催す。三界は幻の如し。誰か常住の思ひを為さむ。六道は夢に似たり。蓋ぞ覚悟の月を尋ねざらむ。▼P2014(六ウ)鸞鳳の鏡の上に双べる影も、芭蕉の形破れざる程、鴛鴦の衾の内に遊び戯るるも、草の露の命消えざる間』と候ひしを聴聞して、身にしみ、理に覚え候ひし間、やがて発心修行をもして、亡夫が後生を助け、又、我が臨終をも祈らばやとこそ思ひしか、それも、さてやみぬ。月日のかさなるに随ひて、此の女子の事、思ひ出でられ、又、幾程つれはつまじき事を思ふにも、なにの心もよわりて、不孝ゆるして候へば、此の程は悦びて通ふ也。凡そは、幾程ならぬ夢の世に、心をたてたりともなにかせむ。さしも契り深くて、朝夕は万歳千秋とこそ祈りしに、さへきの頭にも後れぬ。年月は隔つれども、思ひは更にやすまらず。『翡翠の簾の前には、花の枝、古へを恋ふる色を添へ、冊胡の床の下には、鏡の箱、涙を染むる塵を遺す。坐しても憂へ、臥しても▼P2015(七オ)憂ふ。空しく古人の去る日を思ふ。何の朝、何の夕にか、再び亡夫の帰らむ時に逢はむ。悲み坐すれば、天も暮れ難し。歎き臥すれば、夜も明けず。悲み見れば、倍す悲し。春の山を隔つる霜の影、歎き聞けば、弥よ歎かし。暁の窓に囀る鳥の音、一旦世を背きし憂へ、已に心地の月に闇く、百年諧老の契り、夢路の花に異ならず』。かかる思ひをするみにてあれば、此の女子をも一所におき、つれづれならむ時は、みばや、みえばやとこそ思へども、彼も世間の習ひにて、今は鳥羽に有りつきたる分なれば、不足なし。よしよし、尼五十に余りて、孝子を生みたるにてこそ有らむずれ。此の家なんど申すも、尼、一期の後は、あづけ奉らむ。さても、おはせよかし」と云ふ。
 男、此の後は万づ深く取り入りて、明けぬ晩れぬとすぐしつつ、ひたすら女の事のみ深く心にかかりて、さりとも、みではは▼P2016(七ウ)てじと、心深く思へども、適きたる時は、車にて妻戸深く遣り入れば、行くも返りも、忍びて形をだにもみせず。此に付けても愁ふるに、今即ち打ち臥しぬ。明晩歎き悲しめば、家主も是を見て、「何なる事ぞ」とさわぎつつ、医家術道を尽しつつ、神明仏陀に祈る。然れども、つゆもしるしぞ無かりける。
 昔、張文成と云ひし人、忍びて則天皇后に相ひ奉りたりけるが、又、思ひよるべき様なかりければ、夜日此を歎きけり。理りや、此の人は、潘安仁には母方のめい、雀季珪には妹にておはしければ、みめ形もよかりけり。夜深け、人定まりて、琴を弾き給ふを聞きて、息絶えなむと思ふほどに有りけるに、心ならず近付けられ奉りて、後、又まみえ奉る事もなければ、心中には、生きたるか死にたるか、夢か覚ともなければ、人しれぬ恋にし▼P2017(八オ)づみて、いもねられぬに、適まどろめば、又孀烏の目をさますも情けなく、実に忍ぶ中は、人目のみしげければ、苦しき世を思ひ煩ひて、まれの玉づさばかりだに、水くきのかへるあと、まれなれば、涙にしづむもの悲しさに、思はじとすれど、思ひわするる時なくて、常にはかくぞ詠じける。「あな憎の病鴉や、半夜に人を驚す。薄媚狂鶏ぞや、三更に暁を唱ふ」。されば、此の心を光行は、
  独りぬるやもめがらすはあなにくやまだ夜ぶかきにめをさましつる 
彼の張文成は忍びても后にも相ひ奉り、人目をこそ歎きしに、此の武者所は、責めて見ばやと思へども、叶はぬ事をぞ歎きける。かくてつながぬ月日なれば、既に三年になりにけり。
 或る時、此の尼公病所に来たりて云はく、「さても御辺の御いたはり、年月あまたかさなれど、其のしるしもなし。▼P2018(八ウ)且は見給ふ様に、明くれはその営みより外は他事なけれども、今は甲斐なく日にそへてのみよわり給へば、ほいなき事はかぎりなし。但し、いかさまにも、ただならぬ心のおはするとおぼゆるはいかに。若き時の習ひなれば、いかなる院宮の宮原の人に心をかけ、歎き給ふとこそ覚ゆれ。今は親子のよしみおろかならず。鳥羽のむすめにもおとらずこそ思ひ奉れ。隔て心なく宣へ」と云へば、盛遠此を聞きて、年比は恋ふる心にせめられて、物をだにもはかばかしく云はざりしが、此の事をさとられて、かべに向かひてぞ咲ひける。尼公「さればこそ」と宣ひて、枕近く立ち寄りて云ひけるは、「さても不覚におはする物哉。云ふ甲斐なくぞおぼしめされ候ふとも、我が身、昔は諸宮諸院を経廻して、好色▼P2019(九オ)遊宴の方々、さりとも多くこそ見知り給ふらめ。此程の事を歎きて、今までしらせず煩ひ給ひける事、さばかりの武者所とも覚えず。大方六波羅の辺なりとも、などか其の心たすけ奉らで有るべき。実にやすかるべき事也」。盛遠是を聞きつつ、「あはれたよりや」と思へども、せめてはよその事ならば、歎きてこそは見えけれども、実に鳥羽の女房の事なれば、とにもかくにも思ひ煩ひてつやつや返事ぞせざりける。重ねて「いかにいかに」とせめければ、延ぶべき方なくて、云はばやと思へども、「よしよし、よその事ならば、恥をもすて、歎くべけれども、いかがはもらさむ」と思ひければ返事もなくて、いきつぎゐたり。重ねて尼公の云はく、「我が身今はすたれものなれども、昔申し承はりし人のみこそおは▼P2020(九ウ)すれ。遠国までは叶はずとも、洛中にてはいづれの御方なりとも、又六はらの人共の姫共なりとも、『かかる歎きする者あり。助け給へ』と申さむに、なじかは叶はで有るべき。我親子の約束申して既に三ヶ年に成りぬ。志の程をも今は見え奉りつらむ。鳥羽の女子にも劣らず心苦しくこそ思ひ奉れ。此程心おかれ奉りて、同宿無益也。尼、人ならねば、其を大事と思ひ奉れとにはあらず。ともどもそれの御計らひ」とぞ宣ける。
 盛遠心中に思ひけるは、是程の時、露ばかりも漏らさでは、いつを期すべしともなければ、面に火をば焼けども、し
ぶしぶにこそ申しけれ。「仰せ畏まりて承り候ひぬ。さても一年、渡辺の橋供養の時、説法半ばに及びて、二瓦の船にあじろ輿二張入りて、橋より上一段ばかり▼P2021(一〇オ)の西の岸につき給ひし人を承り候ひしかば、是へ御参と聞こえ候ひしが、其の時御ともなひ候ひし人の、不覚の心に打ちそひて、朝夕わするる事もなし。其のゆくへは誰人にておはしけるやらむと、穴倉なさの余りに尋ね参りて候ひしかども、今まで顕れずして、空しく罷り過ぎ候ひぬ」と、おめおめとぞ語りける。其の時尼公打ち咲ひて云はく、「其の橋供養の時は参りて候ひし也。さて其の女房が心にかかりておぼしめすか。それこそ鳥羽の娘にて候ひしか。いとやすし、いとやすし」とぞ云ひける。「且は面目にてこそあらめ。皆よのつねの習ひ也。若くさいとうなき間は、我身に思ふ事もあり、人に思はるる事もあり。故さへきの頭とつれしも、此の風情にてこそ有りしか。是程やすき事を、今まで心苦しく歎き給ひけむ事▼P2022(一〇オ)こそ、返す返すも不覚なれ。今は兄弟のあはひぞかし。適きたる時も見参し給ひて、恐れながら尼が使ひしても鳥羽の辺へもおはしたらば、上にこそ叶はずとも、さる人おはするとは、などか見奉り又見え奉らざるべき。なにかは若しかるべき。呼びてみせ奉らむ」とて、急(いそ)ぎ文を書きて鳥羽へ遣はす。「けさより違例の心地ゐできて世間もあぢきなし。老いたる若ききらはず、生死無常の習ひなれば、いかが有るべかるらむ。来給へ、見奉らむ」と云ひ遣はす。
 鳥羽の女房これを見て周章騒ぎて来たれり。常の居所に急(いそ)ぎ入りて見れば、尼公さきざきよりも心よげにて打ち咲ひて「是へ是へ」と宣へば、「夢か幻か、覚ならぬ気色かな」とみれども、先ず近くよりて居れば、「さこそさわぎ給ひ▼P2023(一一オ)つらめ。不思議にをかしき事の侍れば、語りて咲ひ奉らむとて申してなり」。何事なるらむと聞くほどに、「実に女の身となりては是程の面目いかが有るべき。上西門院の武者所、此の三ヶ年尼に仕はれておはしつるが、煩ひ給ふ事余りに大事におはせしが、尼も心苦しくて朝夕歎きしかども、つゆ其のしるしなし。ことわりにて有りけるぞとよ。余りの心本なさに今日病の様を責め問ふに、取り別け返事もなかりつる程に、事の有様細しく問へば、人を恋ふる病にて有りけるぞとよ。他人にてもなく、女房を心にかけたりけると覚ゆるぞ。何か苦しかるべき。兄弟のあはひにおはすれば、今まで見参し給はぬこそうたてけれ。体ばかりをみえ給へ。人を助くるは尋常の習ひ也」とくどき給へば、女房余りの事にて▼P2024(一一ウ)つゆ其の返事もなし。「いかにいかに」とせむれども、女郎花(をみなへし)のつゆ重げなるけしきにて、とかうの詞もなし。尼公又宣はく、「御気色こそ存外なれ。其にこそ今は鳥羽に思ひ付きて、是の朽尼の申す事は用もなけれども、親となり子となるも前世の契也。彼の人を此の破屋におき奉りても、すでに三年になる。只一人おはする女房にも劣らず糸惜と思ふ也。故殿におくれて後、さる女房は鳥羽にこそ常はおはすれ。これにていかにと、おきて給ふ事もなし。打ちすてられ奉りて、何事も便りなきさまにてこそありしか。而に彼の人、尼を憑み給ひて、九夏三伏の焔天にも扇を以て床をあふぎ、玄冬素雪の寒夜も衾を懐きて是を暖む。かやうに仕はれ給ひて志浅からず。尼には武者所にすぎ給へる子▼P2025(一二オ)なし。それに只今さながら後れ奉らむ事、生涯の恨み也。妻夫となれともいはばこそかたからめ、人の心を助くるは、世間の皆習ひなり。姿計りをもみえよかし。それ叶ふまじくは、今日より後は母有りとも思ひ給ふべからず。又それにおはするとも思ふまじ」と、かきくどきせめければ、「仰せは背き難けれども、此の程も刑部が申し候ふは、『三条には客人おはするなり。かろがろしくかよふべからず。尼御前も我をばさげしめ給ふ聟なれば、有りはてむ事もかたし』と、常に申し候ふ。其の上女の習ひ、一人を憑む外、他の心をもてる、今も昔も人の命を失ふわざ也。殊更に仰せのごとくは兄弟の間なり。とにもかうにも此の事なほも承はらじ」と云ふ。尼公又宣ひけるは、「仰せの如くおとといの間におはすれば、本意を遂げよとも申さばこそ、今まで▼P2026(一二ウ)見参し給はぬこそわろくおはすれ。互いにみえ奉りなば、なにか苦しかるべき。此の人鳥羽なんどへもこえ給はむ時は、兄弟の間なれば適の対面をもし給へかし。其をばよも左衛門もいさかはじ。あらぬ振舞をもし給へとも申さばこそ、まれの対面だにもあらば、此の家にさてこそおはせむずれ。縦ひ尼いかになりたりとも、おとといの有様にて時々かよひ給はんに、なにか苦しかるべき」と、さまざまに宣へば、「さらば見参せむ、よび給へ」としぶしぶに有りければ、急(いそ)ぎ使ひして、「申すべき事あり。これへ入り給へ」といはす。
 盛遠うれしさの余りに急(いそ)ぎはひおきて、大息つきてぞきたりける。三年の間の思ひにやせおとろへたれども、さすが其の久しさ、上西門院に有りしかば、なえやかなる直垂のこしつき、又へりぬりのえぼしのきはにいたるまで、なま▼P2027(一三オ)めきてぞ見えける。是を見て尼公はまぎれ出で給ひぬ。而るに此の女房、少しもはばからず盛遠をまぼりて、今や物いふとまてども、其の久しさ、おともせずうつぶき入りてぞ有りける。其の時女房、「さても此の三年の程、是に御渡りとは承り候へども、常には鳥羽に居て候へば、今まで見参し奉らぬ事、かへすがへす心の外に覚え候ふ。すべて心のそらくは候はず。自然の懈怠にてこそ候ふらめ。今はかやうに対面の上は、何事に付けても心安き辺にこそ思ひ奉り候へ。母にて候ふ老公も、ひたすらたのみ奉るよし申し候ふ。此の程も御労はりのよし申され候ひつれども、心中に歎き入りては候ひつれども、未だみえ奉ることもなくて、いかにと申さむことも、何とやらむ候ひつる間、空しく過ぎ候ひぬ」と、こまごまに云へども、返事もせず。
 重ねて云はく、「実にかたはらいたき事を、母の尼▼P2028(一三ウ)公の語り申しつるを、有るべからざるよし申し候ひぬ。女の身には是にすぎたる面目やは有るべき。伊勢のいつきの宮は、
  きみやこしわれや行きけむおぼつかなしのぶのみだれかぎりしられず K100
とながめ、二条の后は、
  むさしのはけふはなやきそ若草のつまもこもれり我もこもれり K101
なんど詠じ給ひしも、此の道の態なり。それもさてこそおはせしかど、今は世の末となりて、二心ある女にすぎたる難はなし。さなきだに刑部が、『めづらしき人もち奉りて』と、朝夕は申す。此の事いかがおぼしめす。いかさまにも御計らひなくては、後よかるべしともおぼえず。女の身にてかやうの事を申せば、時のほどにやがてうとまれ奉らむずれども、実に志おはせば、▼P2029(一四オ)刑部を急(いそ)ぎ討ち給へ。此も前世の契にてこそ有らめ。其の後は、いかにも仰せを背くべからず。母の尼公も、さしもなき者につれたりとて、不孝の者にて候ひしが、東山の上人の教化にこのほどはゆりたれども、底の御心は打ちとけ給はぬ風情也。此に付けても、一宇のすまひとならむはよく候ひなむ」と云ふ。
 盛遠おめおめとして居たりけるが、此の事をききて打ち咲ひて後、樊会が如く気色して、「仰せ悦びて承り候ひぬ。我が身いみじからずと云へども、武勇の家に生れて弓箭にたづさはる親しき者、三百余人あり。彼等を大将軍としては、日本の外なる新ら百済なりとも、などかせめでは候ふべき。此程の事は冠者原にしらするに及ばず。我が身計りしてなりともいとやすし」。女房又云はく、「さらば今三日と申さむ日、京より鳥羽へ客人▼P2030(一四ウ)来るべし。日のほど酒宴、夜に入らば管絃連歌有るべし。其の後かへるべし。形部定めて酔はむずらむ。其の夜、伺ひ給へ。刑部がねどころは、酒宴の家を一つ隔てて西にあたりたる屋也。常に東山に出づる月を見むと、東にむけてすめり。広縁の南のはしを指し入りて見給はば、妻戸の口に臥したらむを指し給へ。穴賢、見たがへて不覚すな。我は遥かのおくに臥すべし。相構えて本鳥をさぐり給へ。さらば暇申して。今夜も是に候ひて、何事も申したくは候へども、母の違礼とて遣はしたりつる文を、あしくおきて有りつる。定めて刑部み候ひなば、急(いそ)ぎこゆらむと覚ゆ。いかにも御ぱからひの後は、ともども仰せに随ふべし」とて返りぬ。
 遠藤是を聞きて思ふ様、「三年の間、空しき床に向ひて▼P2031(一五オ)独り臥したれば、秋の夜長し。夜長くして、眠る事なし。耿々とほのかなる残りの燈の壁に背くる影、嘯々と閑なる闇の雨の窓を打つ音のみ友となり、春の日遅し。日遅くして独り居れば天もくれぬ。宇(のき)の鴬の百囀を、愁ひあれば聞くことを厭ふ。梁のつばくらめの比び住みをば、ねたましくのみ思ひつつ、三年のほどもすぎしぞかし」。今三日と契りしも、待ちくるしくぞ思ひける。
 さても三日と云ふ日は、萌黄の腹巻に左右の小手・すねあて計りに、三尺五寸の大太刀に、ろうさふの小袖をかづきて、やぶれがさにかほをかくし、三条を西へ大宮を南へ行く。長七尺に余りたりければ、行くも返るもあやしがりて見送らぬ者はなかりけり。未だ日たかかりければ、御所の辺りにやすらひて彼こを伺ふに、云ひしにたがはず、京▼P2032(一五ウ)より客人入りぬ。日くれぬれば管絃連歌の後、此の人急(いそ)ぎ返りぬ。さても此の女房、今夜をかぎりの事なれば、三条の尼公の我に後れて歎き給はむ事、又死なばともにと契り深き刑部が事も悲しくて、只眼に遮ぎる物とては尽きせぬ涙計り也。「さればとて、かくてやむべきにもあらず。異国にも悲しき男にかはりて、後生を助けられし女も有りしぞかし」と思ひ切りて、酔ひたる男を懐て奥のつぼにふせて本鳥をみだり、我がたけなるかみを切りおろして女の姿にぞつくりける。其の後我がかみを取り上げて本鳥になす。さて刑部が烏帽子・大刀・刀を妻戸の口に取り渡して、東枕にふしにけり。
 今をかぎりと思ふにも忍びの涙せきあへず、漢の李夫人にあら▼P2033(一六オ)ざれば、体を移しても誰かみむ。唐の陽貴妃に異なれば、尋ね問ふべき人もあらじ。只うき目をみむものは三条の母の老尼計りと思ふほどに、向ひの屋の中門の程、「ぎいり」となりけるが、見れば、腹巻に大刀脇にはさみたる大童一人、広縁へつとのぼり、我がうへを飛び越えて奥のつぼへぞ通りける。「あな心憂や。いかになりぬる事やらむ。已にあやまたれぬるやらむ。おきても取りつかばや」とは思へども、暫く有様を見るに、女とやみなしてけむ、立ち返りうつぶくかと思ふほどに、女の頸は前の縁へぞ落ちにける。盛遠打ちおほせぬと悦びて、暇申して返り参らむとて急(いそ)ぎ頸取り三条へかへる。此の頸をば或る田の中に踏み入れて、三条の屋に帰りて高念仏して縁行道す。
 しばらく有りて、門戸を叩く。▼P2034(一六ウ)「誰そ」と問へば、「鳥羽より。女房を、只今夜打入りて、殺し奉りた」と申す。盛遠、思様、「下臈の不覚さ。何条さる事は有べきぞ」と思ひて、「何(いか)に物狂しき申し様ぞ。殿の御あやまちか」と云ふ。使者云はく、「さは候はず。一定、女房の御あやまちとこそ仰せ有りつれ」と詳らかならず。さればこそとて、尼公に此の由を告ぐ。「女房の御あやまちとて、鳥羽より使者は候へども、よもさる事は候はじ。殿のあやまちにてぞ候ふらむ」と云へば、尼公あわてさわぎ給ふ。又重ねて使ひあり。「何(いか)に」と問へば、「女房の御あやまち」。又、おしかさねて使者あり。来たるも、又来たるも、人は変はれども、詞は同じ詞也。されどもなほ盛遠用ひず。「下臈ほど不覚のものはあらじ。我がしらざる事ならば、いかに不審ならまし。周章たる者哉」と、心の内には返々もにくがり▼P2035(一七オ)き。
 尼公に伴ひて、盛遠も鳥羽へ行きぬ。みれば、此男、頸もなき体、抱きて、「夢かうつつか、此は何なりけるあへなさぞ。いづくへ我を捨て置きて、同じ道へとこそ契りしに。具して行け」とぞ嘆きける。尼公は、是を一目みてよりは、とかうの詞もなく、引きかづきて臥し給ひぬ。盛遠あさましく思ひて、急(いそ)ぎ家を走り出でて、捨てつる頸を尋ぬるに、八月廿日余りの月なれど、折節おぼろにかすみて、いづくとも覚えず。されども、田の中を余りに求めければ、有る深田にて求め得たり。水にてふりすすぎてみれば、此の女房の頸なりけり。急(いそ)ぎ鳥羽に持ちて行き、走り入りて、「御敵人ぐして参りて候ふ。御覧候へ」とて、懐より女房の首を取り出だして、其の身に指し合はせて、「此は盛遠が所行也。一日、此の女房の契り給ひしにばかされて、わ殿の頸を▼P2036(一七ウ)かくと思ひて候へば、かかる不覚をしつる事なれば、我が頸を千きだ百きだにもきざみ給へ。あな心うの有様や。いかなりける事ぞや。是にて切り給へ」とて、腰刀を抜き出だして、左衛門尉に与へて、頸をのべて指し出でたり。
 左衛門尉、此の盛遠をみるに、つらきにつけ、うらめしきに付けても、只一刀に指し殺さばやと思ひけるが、倩らくりかへし物を案ずるに、「滔沼々として長き河の水、水無くして暫し留まり、舟々として浮ける世の人、人無くして能く久し。貞松万春の栄え、甘菊千秋の匂ひ、終に朽つる時有り。いかに萎める時無からむ。かかる憂世にまじはればこそ、憂き目をもみれ」とて、其の刀をばなげかへして、「刀は此にも候ふ」とて、己が刀をぬきて、自ら髪を切りてけり。盛遠ふりあふぎみて申しけるは、「生きて物を思はむよりは、只はや切り給へ。自害せむとは思へども、同じくはわ殿の手にかけ▼P2037(一八オ)給へ。それは悦びたるべし」とて、頻りに頸をのべたり。左衛門尉申しけるは、「御辺、誠に城に立て龍もりて、相闘はむとする事ならば、尤も打ち入りてこそ切るべけれども、かくし給はむ上は、縦ひ女房生き帰るべしと申すとも、切り奉るべきにあらず。自害も詮無き事なるべし。其よりは、只なき人の後世を訪ひ、一仏浄土の往生こそ、あらまほしく覚ゆれ。今生後世空しからむ事、永劫沈輪不覚なるべし。倩ら案ずるに、此の女房は観音の垂迹として、吾等が道心を催し給ふと観ずべし」。その時、盛遠立ちて、左衛門入道を戒師とや思ひけむ、七度礼拝して、髪切りてけり。両方に尼・法師になる者、卅余人也。母も墨染の衣、涙の露にしをれつつ、いつかわくべしともみえず。
 彼の女、消息細々と書きて、手箱に入れて、形見にとて留め置きたるをみれば、「いとど女の身は罪ふかき▼P2038(一八ウ)事にこそ候ふなるに、うき身ゆゑに、多くの人のうせぬべく候へば、我身一つを失ひ候ひぬる也。殊更に罪深く覚え候ふ事は、母に先立ちまゐらせて、物を思はせまゐらせむきみこそ、心うく候へ。相構へて後世をよく訪ひ給ふべし。仏にだにもなり候ひなば、母をも左衛門殿をも、などか迎ひまゐらせ候はざるべき。万づ何事もこまかに申し置きたく候へども、落つる涙にみづくきのあともみえずして、委しからず。返々身のほどの心うさ、ただおしはからせ給ふべし」とて、
  露ふかきあさぢがはらにまよふ身のいとどやみぢに入るぞかなしき K102
 母これをみるに、いとど目もくれ心もきえて、もだえこがるる有様、ためし有るべしとも覚えず。冥途にも共に迷ひ、猛火にも共に焼けむ事ならば、いかがはせん。生きて甲斐なき露の身を、むぐらの宿にとどめおきて、恋慕の▼P2039(一九オ)なみだいつかかわかむ。せめての事に、「浄頗梨の鏡にや浮かびてみゆる」とて、歌の返事をよみて、泣く泣く其の歌の傍らにぞかきならべたりける。
  やみぢにもともにまよはでよもぎふにひとり露けき身をいかにせん K103
とよみて、其の後は天王寺に参りて、「只はや命をめして、浄土にみちびき給へ。我仏になりて、なき人の生所をも求めつつ、一仏蓮台の上に再び行きあはむ」と祈念することなのめならず。さる程に次の年の十月八日、生年五十五にして、終に往生の素懐を遂げにけり。
 形部左衛門尉は、年来の師匠請じて、髪うるはしくそり、三聚浄戒たもちて、法名をば渡あみだ仏とぞ申しける。在俗の時は「渡」と名乗りければ、出家の後も渡の字をぞ呼びける。志は、生死の苦海を渡りて、涅槃の彼岸に属かむ事を▼P2040(一九ウ)観じける心ばへ也。
 遠藤武者盛遠入道は、此も盛遠の盛の字を法名として、盛あみだ仏とぞ申ける。うせにし女の舎利を取りて、後苑に墓をして、第三年の内までは、行道念仏して後世を訪ふ事、人にすぐれたり。さればにや、墓の上に蓮花開くと夢にみて、歓喜の涙袖にふれり。
 其の後、盛あみだぶ道心おこして、高野にて戒を持ち、熊野にこもり、年を経けり。金剛八葉の峯よりはじめて、熊野・金峯、天王寺、止観・大乗・楞厳院、すべて扶桑一州においては、至らぬ霊地もなかりけり。十八才より出家して、一十三年の間は、持斎持律の行者也。春は霞に迷へども、峯に上りて薪をとり、夏は叢しげけれど、柴の枢に香を焼き、秋は紅葉に身をよせ▼P2041(二〇オ)て、野分の風に袖をひるがへし、冬は蕭索たる寒谷に、月をやどせる水を結びなんどして、山臥、修行者の勤め苦(ねんご)ろなり。振鈴の音は谷を響かし、焼香の煙は峯に消ゆ。彼の商山の翁にはあらねども、蕨を折りて命を支へ、原憲がとぼそにはあらねども、藤衣つづつてはだへをかくせり。三衣一鉢の外には、蓄へたる一財なく、座禅縄床の肩筥には、本尊持経より外に持ちたる物なし。寒地獄の苦しみを今生に見て、後世にのがれんとぞ誓ひける。知法有験の時までも、昔の女の事わすれずして、常には衣の袖をしぼりけるとかや。もしや心をなぐさむるとて、昔の女の形を絵にかきて、本尊と共に、くびにかけて身を放たざりける事こそ▼P2042(二〇ウ)哀れなれ。
 かくて在々所々を修行しければ、或る時は東の旅に迷ひて、業平が尋ねわびしあこやの松に宿をかり、或る時は西の海千尋の浪にただよひて、光る源氏の跡を追ひ、陬間(須磨異本)より明石に伝ふ時もあり。偏へに一所不住の行をなして、利益衆生の勤めを専らにす。先代にも少なく、後代も有りがたきほどの木聖にてぞ有りける。「彼の女の縁に遇はずは、争か今度生死の掟を覚るべき。有りがたかるべき善知識なり」とて、弥よ彼の後世をぞ訪ひける。盛あみだぶを改めて、文学とぞ呼ばれける。
三〔異朝東婦の節女の事〕 遠く異朝を尋ぬれば、先昔、唐国に夫を思へる女あり。東婦の節女と是を云ふ。長安の大昌里人の娘なり。階老同穴と契り浅からざりし夫に、▼P2043(二一オ)朝夕伺ふ怨敵あり。此の男も、李陵・張良が態をえて輙からざりければ、有る時、敵、此の節女をとらへて、「汝が夫を我に殺させよ。しからば君に伴ひて、春花明月の詠をもなし、山鳥白雪の興をもまさむ。それ叶ふまじくは、速やかに汝に殺すべし」と云ふ。節女、是を聞きて、「ただかりそめの夜がれをだにも歎くに、此の事夢か覚か。花の下の半日の客、芳志を夕風に残し、月の前の一夜の友、金波を暁雲に惜しむ習ひにてこそあれ、まして夫となり妻となる、此の世一つの事ならず。互ひにみえそめて後、多くの年月を送り、朝夕は千秋万歳とこそ契り深き男を失ひて、汝とすまむ事、いかが有るべからむと覚ゆ。しかれ、たださらば、汝が詞の如く我を失なへ」と云ふ。かたき是を聞きて、「さらば汝が▼P2044(二一ウ)親をも同じく殺すべし。わがみ又親を夫にかへむ事、能々はからへ」と云ふ。節女是を聞きて、親を思ふ悲しさに、「さらば我が謀にて、汝に男を打たせむ。我が夫、楼の上にねたらむを殺せ。夫は東に臥すべし。我は西に臥さむずるなり。東の枕を鉾を以てさせ。男は安く死なむ」とて、ゆるされぬ。さて女、今を限りと思ふにも、夫に別れむ悲しさに、忍の涙せきあへず。夫あやしみて委しく尋ぬれども、更にしらせず。「ただ世の中の有りはつまじきを思ふにも、いとど悲しく」とぞ云ひける。夫哀れと思ひて、もろ共にぞ泣きける。
 女今夜を限りの事なれば、雛の巣に復るが如し、何れを東とし何れを西とせむ。犢の乳を失へるに似たり、存るに非ず、已はるに非ず。心を西刹の暁の月に澄ますと雖も、深き恨みを楼上の夕べの雲に残す。更蘭人定まりて鶏人すでに唱へ、鳥鐘響きを送る程に成りて、夫を西になし、我が身▼P2045(二二オ)東枕にふして、敵を相待つ処に、男、節女がちぎりし詞にまかせて、東の枕をさす。女鉾を取りて我頸にあて、夫にかはつて失せぬ。敵、打ちおほせつとて見れば、此の女なり。目もくれ心もきえて、夫にかはつて命を失へる志の深きを思ふに、あやまちを侮る歎き、譬ふる方なし。悲しさの余りに、節女が夫に向かひて、「速かに我が身をいかにもなせ。汝を失はむとて、かかる憂目をみつる」とて、悲しめり。夫此を聞きて、「敵すでに来たるを殺して、いみじかるべきにあらず。只かかる憂世を背きて、女の菩提を祈らむ」とて、本鳥を切り、さまをかへてけり。
 日月は隔たれども愁傷の腹わた、猶新た也。時節は移れども、恋の涙、▼P2046(二二ウ)未だ乾かず。三泉何れの方ぞ、青鳥の翅も至ること能はず。中陰誰が家ぞ紫〓[示+鳥](しえん)の蹄も走るに由無し。豈に図りきや、朝に戯れ夕べに戯れし、芳契の情を翻へして、夜も歎き昼も歎く、秋哭の悲しみと成るとは。悲しみて見れば悲しみを増す、庭上の花の主を失へる色。恨みて聞けば恨みを増す、林中の鳥の君を忍ぶ音。分段の理を思はずは、争か悲しみに堪へんや。生死の習ひを知らずは、豈に此の恨みを忍ばんや。来たりて留まらざる〓[くさかんむり【草冠】+興]籠(きようろう)の露に似たる命、去りて帰らず、槿籬の花の如くなる身、歎きてもよしなしとて、各の彼の女の後生をぞ祈りける。
  草枕いかに結びし契りにて露の命におきかはるらむ K104▼P2047(二三オ)
四 〔文学院の御所にて事に合ふ事〕 かくて文学、冬の宵から漏らし遅うて愁腸寸々に断え易く、春の天日斜めにして胸火怱々に拭ひ難くして、諸国を流浪してありきけるが、都へ帰り、廻りて高雄の辺にすみけり。道心の後にも、心大きにくせみつつ、普通の人には似ざりけり。
 爰に高雄の神護寺と申すは、草創年旧りて、仏閣破壊の体をみるに、明月の外はさし入る人もなし。庭上草深くして、孤狼野干の栖にて、雉兎の遊びに興多し。扉は風に倒れて落葉の下に朽ちすたれ、軒ばは雨にをかされて仏壇更にあらはなり。悲しき哉、仏法僧と云ふ鳥だにも音信ずして、空しき跡のいしずゑはおどろの為にかくされ、痛しき哉、御山隠れのほそ▼P2048(二三ウ)路もつたしげく匍ひかかり、樵夫草女の袂までも露やおくらんと哀れ也。
 爰に文学思ひけるは、「宿因多幸にして、出家入道の形をえたり。前業所感にして、仏法値遇の身となれり。無縁の道儀を訪ふは、菩薩の所修の軌則也。破壊の堂舎を修複するは、仏法を再興する根本也。はげみても猶はげむべきは修複修造の善根、行じても猶行ずべきは利益結縁の資粮也」と思ひけるが、「但し自力造営の事は争でか叶ふべきなれば、知識奉加にて神護寺を造らむ」と云ふ大誓願を発しつつ、十方の旦那をすすめありきけるほどに、院の御所法住寺殿へ参りて、御奉加あるべきよし申しけるほどに、折節御遊の程▼P2049(二四オ)にて、奏者も御前へまゐらず、申し入るる人もなかりければ、「御前の無骨」とは思はで、「人のうたてきにてこそあれ」と思ひける故に、天性の不当の者の而も物狂はしきにて有りければ、常の御所の御壷の方へ進み入りて、大音声を放ちて、「大慈大悲の君にてまします。高雄の神護寺に御奉加候へよ」と申しける。大声に調子もはとぞ興さめにけり。
 やがて腰より勧進帳を取り出だし、高らかにぞ読みたりける。其の状に云はく、
 「勧進僧文学敬ひて白す
 殊に貴賤道俗の助成を蒙りて、高雄の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤修せしめんと請ふ子細の状
 ▼P2050(二四ウ)夫真如広大にして、生仏の仮名を施すと雖も、法性随縁の雲厚く覆ひて、十二因縁の峯に聳きしより以降、本有心蓮の月の光幽かにして、未だ三毒四慢の大虚に顕れず。悲しき哉、仏日早く没して、生死流転の衢冥々たり。色に耽り酒に耽る、誰か狂猩跳猿の迷ひを謝せん。徒に人を謗り法を謗る、豈に閻羅獄卒の責を免れんや。
 爰に文学、偶俗塵を払ひ法衣を飾ると雖も、悪業猶意に逞しく日夜に造り、善苗又耳に欺いて朝暮に廃る。痛ましき哉、再び三途の火坑に帰り、永く四生の苦輪に廻らんこと。所以に牟尼の憲法千万軸、軸々に仏種の因を明かし、随縁至誠の法、一つとして菩提の彼岸に届らずと云ふこと無し。故に文学、無常の観門に涙を落として、上下親族の結縁を催し、上品の蓮台に心を運びて、等妙覚王の霊場を立てんと也。
 抑も高雄は、山堆くして鷲峯山の梢を顕はし、▼P2051(二五オ)谷禅にして商山洞の苔を敷けり。巌泉に咽んで布を曳き、嶺猿叫びて枝に遊ぶ。人里遠くして囂塵無く、咫尺好しくして信心のみ有り。地形勝れたり、尤も仏天を崇むべし。
 奉加微しきなりとも、誰か助成せざらむや。風かに聞く、聚砂為仏塔の功徳、忽に仏因を感ず。何に況や一紙半銭の宝財に於てをや。願はくは建立成就して、禁闕鳳暦御願円満し、乃至、都鄙遠近親疎里民、尭舜無為の化を歌ひ、椿葉再会の咲みを開かん。況んや聖霊幽儀前後大小、速やかに一仏菩提の台に遊び、必ず三身満徳の月を翫ばむ。仍つて勧進修行者の趣、蓋し以て斯くの如し。
  治承三年三月 日文学敬白」とぞ読みたりける。
 其の時の管絃には、妙音院の太政大臣師長公、御琵琶の役也。此の人の御琵琶には、観界の天人も度々天下り給ひたりける上手也。按察大▼P2052(二五ウ)納言資賢卿は、紅葉と云ふ笛をぞ吹き給ひける。源少将雅賢は、鳳管の上手也。
 鳳管と申すは、笙の笛の事也。鳳凰の鳴く声を聞きて令公と云ひける人、笙の笛をば作り始めたり。『千字文』と申す文に「鳴鳳樹に在り、白駒場に喰む」とて、「明王の代には必ず鳳凰来りて、庭前の木に栖む」と云ふ本文あり。之に依つて、此の源少将雅賢、常に参りて仕へ奉る。今日は召されて早く参じたりけり。水精の管に黄金の覆輪おきたる笙の笛、黄鐘調にぞ調べたりける。黄鐘調と申すは、心の臓より出づる息の響き也。此の臓の音は、逆に乙の音より高く、甲の音に上る間、脾の臓の土の音に同ず。順に甲の音より乙の音に下る時は、肺の臓の金の音に同ず。故に土の色を黄と名づく。金の色を鐘と名づく。将に知るべし、土と金とは陰陽の義にて、男女相応の儀式也。故に法皇と女院との御前なれば、円満相応の御▼P2053(二六オ)祈りとて黄鐘調にしらべたり。又、黄鐘調は呂の音也。此を名づけて喜悦の音とす。又は、五行の中には火土也。五方の中には南方也。生住異滅の四相の中には住の位也。住の位とは、人の齢にあつる時は、卅已後四十已前の比也。されば、源少将も其の時はさかりすぎて四十一也。法皇の御歳は紅葉の比に移らせ給ひたりけれども、祝ひ奉りて、猶夏の景気に調べたり。
 花山中将公高は、時々和琴をかきならして風俗催馬楽をうたひすまし、太政大臣師長は、朗詠目出たくせさせ給ふ。資賢卿の子息資時朝臣、拍子を取る。四位侍従盛定朝臣、今様とりどりに謳ひなんどして、心肝に銘じて面白かりければ、聖衆も袂を飜し、天人も雲に乗り給ふらむとぞ身の毛竪ち▼P2054(二六ウ)て覚えける。されば、上下感涙をおさへて、玉簾錦張霊々たり。
 御感に堪へさせ給はずして、法皇も時々は唱歌せさせおはしまし、付歌なんどあそばして、興に入らせ給ひたりけるに、此の文学が勧進帳の音声に調子もそれ、拍子も違ひて、人々皆興さめにければ、法皇忽ちに逆鱗わたらせ給ひて、「こは何者ぞ、奇怪也。北面の輩はなきか、しやそくび突き候へ」と仰せ下されければ、「何事哉(がな)、事に逢ひて高名せむ」と思ひたる者共、其の数多かりければ、我も我もと走り懸かる。
 其の中に平判官資行、「左右なく頸を突かむ」とて走り懸かりたりけるを、文学、勧進帳を取り直して、烏帽子を打ち落として、しや胸つきて、のけさまに突きたふしてけり。資行、放本鳥▼P2055(二七オ)にておめおめと大床の上へ逃げ上る。北面の者共、我も我もと走り懸かりければ、文学、懐より、七寸計りなる刀の柄に馬の尾巻きたるが氷なんどの様なるをさらとぬきて、「よりこん者を突かむ」と待ちかけたり。長七尺計りなる大法師のすぐれたる大力の心猛きが、右手には刀を持ちて、左手には勧進帳を捧げて狂ひ廻りければ、左右手に刀を持ちたる様にぞみえける。思ひよらぬ俄事にてはあり、院中騒動す。公卿殿上人、「こはいかに、こはいかに」と立ち騒ぎ給ひければ、御遊の席もそれにけり。
 宮内判官公朝、「『搦めよ』と云ふ御気色にてあるぞ。速に罷り出でよ」と云ひけれども、少しもしひず。「只今罷り出でては、いづくにて誰に此の事を申さんぞ。さてあらんずるやうに命を御所の中にて失ふとも、神護寺に庄をよせられざらむには、一切に罷り▼P2056(二七ウ)出づまじきものを」とぞしかりける。
 安藤馬大夫右宗が当職の時、武者所に候ひけるが、大刀を取り、走り向かひたり。文学少しもひるまず、悦びてかかる所を、右の肩を頸かけて、大刀のみねにてつよく打ちたりけるに、打たれてちとひるむやうにしける所を、大刀をすてて組みて伏す。文学、いだかれながら右宗がこがひなを突く。つかれながらしめたりけり。其の後ぞ、者共、かしこがほにここかしこより走り出でて、手取り足取りはたらく所をば、かくかく打てどもはれども、少しもいたまず。猶散々の悪口を吐く。門外へ引き出だして、資行が下部にたびてけり。文学、引つぱられて立ちたるが、御所の方をにらみつめて、「奉加をこそし給はざらめ。文学にからき目をみせ給ひつる報答は、思ひ知らせ申さんずるぞ」と躍り上がり躍り上がり、▼P2057(二八オ)三声までぞ罵りける。資行は烏帽子打ち落とされて恥がましくて、暫くは出仕もせざりけり。右宗は御感に預りて、別の功に納まりにけり。当座に一臈を経ずして右馬督に召し仰せられけるこそ弓箭取る者の面目とみえけれ。
 文学は獄舎に入れられにけり。されども一切これを大事ともせず。其の比、上西門院の崩御にて、非常の大赦を行はれければ、やがて出だされにけり。しばしは引き籠もりて有るべけれども、猶もへらず元の如くに勧めありきけり。さらば、ただもなくて、「此の世の中は只今に乱れて、君も臣も皆滅びなむずるものを」などさまざまの荒言放ちて、いまいましき事をぞ云ひありきける。無常の讃と云ふ物を作りて、「三界は皆火宅也。王宮も其の難を遁るべからず。十善の王位に▼P2058(二八ウ)誇りたぶとも、黄泉の旅に出でなう後は、牛頭馬頭の杖〓にはさいなまれ給はうずらうは」とて、院の御所を左ざまにはにらみてとほり、右ざまにはにらみてとほりけるあひだ、「猶奇怪なり」と云ふ沙汰有りて、「召し取りて遠流せよ」とて、伊豆の国へぞ流し遣はされける。
五 〔文学、伊豆国へ配流せらる事〕源三位入道の未だ誅たれぬ時なりければ、子息伊豆守仲綱、院宣を奉りて、郎等渡部の省が具して下るべかりけるを、折節、国人近藤七国平が上洛したりけるに具して遣はす。「東海道を船にて下るべし」とて、伊勢国へ将いて下る。放免、両三人付けられたりけるが、申しけるは、「庁の下部の習、かやうの事に付けてこそ、自ら依▼P2059(二九オ)怙もあれ。さやうの事のあればこそ、又芳心も当たり奉る事にてあれ。いかに是程の事に相ひて下り給ふに、然るべき旦越などは持ち給はぬか。国の土産、道の糧料なんどをも乞ひ給へかし。かやうの時よりこそ、互の志もあらはるれ」なんど云ひければ、文学、「人は多く知りたれども、東山にこそ、吉き得意は持ちたれ。文遣はさむ」と申ければ、此等悦びて、紙を求めて得させたりければ、「かかる紙にて、文書きたる事覚えず」とて、投げ返してけり。椙原を尋ねてえさす。其の時、人を呼びて、文をかかす。「文学、高雄の神護寺を修造遂げむと云ふ大願を発して、勧め候ひつるほどに、聞し食しても候ふらむ、かかる悪王の世にしも生まれ相ひて、所願をこそ果たさざらめ、剰へ禁獄せられて、はてには遠流の罪を蒙りて、伊豆国へ流さる。遠路の間也。糧料、▼P2060(二九ウ)如法大切に候ふ。此の使に少々給はり候ふべし」と、云ふが如くに書きて、「立文の表書には、誰へと書くべきぞ」と云ひければ、文学大きに咲ひて、「清水寺の観音房へと書き給へ」とぞ申しける。其の時、下部共、「官人共をあざむくにこそあれ」とて、口々に腹立ちければ、文学、「清水の観音をこそ深くたのみたれ。さなくては誰にかは要事云ふべき」とぞ申しける。
 此にも限らず、文学猶此の者共謀りて咲はばやと思ひて、官人多く並み居たる中にて、昼寝をして虚寝言をぞしたりける。「此の程勧進したりつる用途共を人の許に預けたりつるは、文学伊豆へ下りたりとも、其の人の得にもなれかし。佐女牛の鳥居の下に埋め置きたりつる用途共の、徒に朽ち失せなむずる事よ」とて、寝覚めたる景気をぞしたりける。其の時、官人共うれしき事聞き出だし▼P2061(三〇オ)たりと思ひて、目を見合はせて閑所へ立ちのきて、「いざ、さらば掘り出だしてみむ」とて、行き向かひて、先づ左の鳥居の下を三尺計り掘りたりけれども、みえざりけり。「心深き者なれば、浅くはよも埋まじ」とて、一丈計り掘りたりけれども、惣じて何も無かりけり。「さらば、右の鳥居の下にてや有るらむ」 とて、又掘りたりけれども、其れもなにも無かりけり。其の後は、「此の聖に度々謀られにけり。安からず」とて、弥よ
深く誡めけれども、文学少しも痛まず、特に荒言をのみ吐きけり。
 さる程に、船押し出だして下りけるに、或る日遠海なるによりて、頓に大風出で来たりて、此の船漂倒せむとす。水手・梶取、しばしは櫓かいを取りて、船をはさみて助けむとしけれども、波風弥よあれまさりければ、櫓かいをすてて、船底に倒れ臥して、声を調へて叫びけり。或いは観音の▼P2062(三〇ウ)名号を唱へ、或いは最後の十念に及ぶ。されども、文学少しも騒ぎたる気色なし。既にかうと覚えける時、文学船の舳に立ち出でて、沖の方を守りて、「龍王やある、龍王やある」と三度呼びて、「いかに此程の大願発したる僧の乗りたる船をば、あやまたむとはするぞ。只今、天の責めを被らむずる龍神共かな。水火雷電はなきか、とくとく此の風しづめ候へ」と高声に罵りて入りぬ。「例の又あの入道が物狂はしさよ」と諸人をこがましく聞き居たる処に、其の験にや有りけむ、又自然に止むべき時にてや有りつらむ、即ち風定まりてけり。其の後は、官人等舌を振るひて、いたく情なく当たる事もせざりけり。いかさまにも様有りける者にこそ。
 領送使共文学に問ひて云はく、「抑も当時世間に鳴る、雷をこそ、龍王と知りて候ふに、其の外又大龍王の御坐侯ふ
様に仰せ候ひつるは、何なる事にて候ふぞや」。文学▼P2063(三一オ)答へて云はく、「此等に鳴り候ふ奴原は、大龍王のはき物をだにもえとらぬ小龍共也。其の八大龍王と申すは、法花経の同聞衆也。序品の中に其の名字を明かすに、『難陀龍王・跋難陀龍王・裟伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等、各若 干百千眷属と倶なり』と説かれたる、此也。此の龍王達は、各の百千眷属を具して、蒼溟三千の底、八万四千宮の主たり。此の空に鳴りてありき候ふ奴原は、八大龍王の眷属の又従者の又従者也。其の主の八大龍王は、文学を守護せむと申す誓ひあり。況んや小龍等が案内を知り侍らで、聊も煩ひをなす条、有るまじき事にて候ふ也」。
 領送使重ねて問ひて云はく、「されば、八大龍王は何なる志にて、文学御房をば守護しまゐらせむと云ふ誓ひは候ひけるやらむ」。文学答へて云はく、「昔仏在世の時、八大龍王参りて仏の御為に白して言はく、『仏徳尊高▼P2064(三一ウ)にして、万徳自在にまします御心に叶はぬ事やおはします』と申しし時、仏答へて言はく、『我能く万徳自在の身を得たりと云へども、心に叶はぬ事二種あり。一つには、我世に久住して、法を説き、常に衆生を利益せばやと思へども、分段生死の習ひなれば、百年が内に涅槃の雲に隠れむ事、命を心に任せぬ愁ひ也。二つには、入涅槃の後、若し善根の衆生有りと云ふとも、魔王の為に障碍せられて、所願成就の者有るべからず。其の善根の衆生を誰に誂ふべしとも思はず。此れ又大きなる歎き也』と宣ひき。時に、八大龍王、座を立ちて、仏を三匝して、正面に来りて、仏の尊顔を贍仰して、三種の大願を発して云はく、『一つには、我願はくは、仏入涅槃の後、孝養報恩の者を守護すべし。二つには、我願はくは、仏入涅槃の後、閑林出家の者を守護すべし。三つには、我願はくは、仏入涅槃の▼P2065(三二オ)後、仏法興隆の者を守護すべし』。
 此の願の心を案ずるに、併ら文学が身の上にあり。かやうに文学は心そうそうにして、物狂はしき様には侍れども、父にも母にも子(みなしご)にて候ひし間、親を思ふ志、今になほあさからず。妻に後れて出家入道はすれども、本意は只至孝報恩の道心也。されば、八大龍王の第一の願にこたへて守護せらるべき文学也。第二の願は、閑林出家と候へば、十八の歳出家して、今に猶山林流浪の行人也。などか守護し給はざらむや。況んや、第三の願とは、『仏法興隆の者を守護すべし』と誓ひたれば、当時の文学こそ、仏法興隆の志深くして、和殿原にもにくまれ奉れ、八大龍王は哀れみ給ふらむ物をや。かかる法文聖教を悟りたる故に、小龍等などをば、物の数とも存ぜず候ふ間、『龍王龍王』とも申し▼P2066(三二ウ)侍る也。
 さる和殿原也とも、親に孝養する志の深く、入道出家をもして、閑林に閉じ寵り、仏法興隆をもし給はむには、大龍王に守護せられ給ふべし。文学一人をと誓ひたる誓願にはあらず。構へて殿原、親の孝養して、仏法に志を運び給ふべし。今生後生の大きなる幸ひ也。申しても申しても、法皇の邪見こそ、さこそ小国の主と申しながら、けぎたなき人の欲心かな。大国の王はしからず。破戒なれども比丘を敬ひ、無実なれども勧進に入り給ふ事にて侍る也。和殿原もあひそへて、仏法疎略の人共とみるぞ。能々計らひ給へ。いかに道理を責むれども、文学が状を信用し給はぬ事のあさましさに、信をもとらせ奉り、法をも悟らせ給へかしとて、方便の為に小龍等を招きて、風波の難を現じて候ひつるぞ。▼P2067(三三オ)
 されば、各皆信伏し給ひて、事の外に切りてつぎたる礼儀共、誠に哀れに侍るめり。龍のさわぎだにもなのめならず、いかにいはんや無常の風もふき、獄卒のせめも来たらむ時には、いさいさ知らず。かやうに申す文学だにも叶ふまじ。日本の主も、よも叶ひ給はじ。無上世尊も入滅したまひき。まして其の外の因位の菩薩、底下の凡夫、和殿原までも叶ふべしともおぼえず。今度文学が悪事して、伊豆国へ遠流せらるる事は、仏の御方便と知り給ふべし。一向に文学が申さむ詞にしたがひて、今日より後は、仏道に心をかけて、来迎の引接を待ち給ふべし。一樹の影に宿るも、前世の契りなければ叶はず。同河の水を汲むことも、永劫の縁と伝へ▼P2068(三三ウ)たり。何に況んや此の如き逆縁也と云へども、数日同船の昵びをや。閑かに聞かるべし。抑も、仏道に心をかくると申すは、内心に常に仏を念ずれば、臨終寿焉の時に至りて、定めて来迎引接し給ふ也。所以に、観音・勢至・阿弥陀如来、無数の聖衆を引き具し給ひて、弘誓の舟に棹さして、廿五有の苦海をわたり、宝蓮台の上に往生して、菩提の彼岸に到り遊ばむ事、誰かは此れをのぞまざらむ。返す返すも憑むべし、能々念じ給ふべし」と、賢き父の愚かなる子を教ふるやうに、同じ船なれば片時も立ち離るる事はなし。臥しても教へ、起きても誘ふ。事に触れ、物に随ひてぞ、教訓しける。
 かやうにをりをりに随ひて出離せむ要路を教誡せられて、放▼P2069(三四オ)寃の中に、生年廿三になりける刑部丞懸の明澄と云ひける男、発心して本鳥を切りて、文学が弟子になりにけり。文学是れをみて、「誠に本意也」とて、やがて戒さづけて、在俗の名乗の一字を取り、我が名の片名を取りて、名をば文明とぞ付けたりける。其の外の者共は、文学が詞を聞く時計りは道念の心地に趣きけれども、出家遁世するまでの事はなかりけり。
 此の文学は、天狗の法を成就してければ、法師をば男になし、男をば法師になしけるとかや。文学船に乗りける処にて、天に仰ぎて誓ひけるは、「我三宝の知見にこたへて、再び都へ帰りて、本意の如く神護寺を造立供養すべくは、湯水を飲まずとも、下着まで命を全くすべし。▼P2070(三四ウ)我が願成就すまじきならば、今日より七日が内に命終はるべし」と誓ひて、飲食を断ず。くはせけれども口の辺へもよせず。卅一日と云ふに、伊豆国に下り着きにけり。其の間、湯水をだにも飲まず。まして五穀の類は云ふに及ばず。されども色香、少しも衰へず、行打ちして有りければ、文学は昔よりさるいかめしき者にて、身のほどあらはしたりし者ぞかし。当初(そのかみ)道心を発して、本鳥を切りて、高野・粉河、山々寺々修行しありきけるが、
六〔文学那智の瀧に打たるる事〕 或時はだしにて五穀を断ちて熊野へ詣り、三の山の参詣事故なく遂げて、那智の瀧に七日断食にて打たれむと云ふ不敵の願を発しけり。比は十二月の中旬の事なりければ、極寒の最中にて、谷の▼P2071(三五オ)つづらも打ち解けず、松吹く風も身にしみて、堪へ難く悲しき事、既に二三日もなりければ、一身凍(い)て凍(こほ)りて、ひげにはたるひと云ふ者さがりて、からからとなる程なりしかども、はだかにて有りければ、凍りつまりて、僅かに息計りかよへども、後には僅かに通ひつる息も止まりて、すでに此の世にもなき者になりて、那智の瀧壷へぞ倒れ入りける。
 瀧の面にて、文学をひたととらへて立てり。又童二人来て、左右の手とおぼしき所を捕らへて、文学が頭より足手の爪さきまで、しとしととなでくだしければ、凍(い)て凍(こほ)りたりつる身も皆とけて、文学人心地付きて生き出でにけり。文学息の下にて、「さても我をとらへてなで給ひつる人は誰にて渡らせ給ひつるぞ」と問ひければ、「未だ知らずや。我は大聖不動明王の御▼P2072(三五ウ)使に、金迦羅・制多伽と云ふ二人の童子の来たるぞ。怖るる心有るべからず。汝、此の瀧に打たれむと云ふ願を発したるが、其の願を果たさずして命終はるを、明王御歎きあつて、『此の瀧けがすな。あの法師よりて助けよ』と仰せられつる間、我等が来たるなり」とて帰り給へば、文学、「不思議の事ごさむなれ。さるにても、いかなる人ぞ世の末の物語にもせむ」と思ひて、立ち還りて見ければ、十四五計りなる、赤頭なる童子二人、雲をわけて上り給ひにけり。
 文学思ひけるは、「是れ程に明王の守り給はんには、此の次に今三七日打たれむ」と云ふ願を発して、即ち又打たれけり。其の後、文学が身には水一つもあたらず。まれにもれて当たる水は、温の如し。かかりければ、いくか幾月うたるとも、いたみと思ふべきにあらずとて、思ひの如く三七▼P2076(三六オ)日打たれにけり。遂に宿願を遂げたりし文学なれば、さも有りけむとぞ、聞く人皆怖れあひける。
〔七〕 かくて伊豆国に下り着きて歳月を経けるほどに、北条蛭が嶋の傍に那古耶が崎と云ふ処に那古耶寺とて観音の霊地御します。文学彼の所へ行きて、諸人を勧めて草堂を一宇造りて、毘沙門の像を安置して平家を呪詛しけり。「我ゆるされを蒙らざらむかぎりは、白地にも里へ出でじ」と誓ひて、行ひすましてぞ侍りける。行法薫修の功つもり、大悲誓願の望深し。昼は終日に千手経をよみ、夜は通夜三時の行法おこたらず。人此れを哀みて、折々衣装なんどを送れ▼P2074(三六ウ)ども、請け取る事はまれなり。なにとして時の料なんどもあるべしとは覚へねども、同宿などもあまたあり。
 所以に、をちこち人の旅人は炉壇の煙に心をすまし、礒部の海人の梶枕、燈炉の光に夢もむすばず。千鳥・白鴎・喚子鳥、懺法の声に伴ひて、仏法僧ともなりぬべし。海人漁翁のすなどりも随喜の袂に露をそそぎ、東岸西岸の鱗は振鈴の音にうかみぬべし。霊山浄土の聖衆も常には此に影現し、鷲峯鶏足の洞の内も思ひやられて哀れ也。
 かかりければ、伊豆国の目代をはじめ国中の上下諸人悉く、信仰の頭を傾けて随喜の趺を運び、帰依の思ひをなして財施の蓄を送る。然りと雖も、文学全く世間を訣ひ憂き▼P2075(三七オ)身を渡らむとする事なかりければ、僅に身命をつぎて飢ゑを除く計りの外は、留めずして返しけり。誠に夫文学が行法の功力に、報恩謝徳の為ならば、悪業煩悩もきえはてて、無始の罪障絶えぬべく、現世安穏の祈りならば、三災七難を遠く退けて、寿福を久しく心に任せつべし。祈精も仏意に相応し、所願も我身に成就すらむと、貴かりける形儀也。
 此くのごとく行ひすまして有りければ、彼の御堂に目代等が沙汰として、三十余町の免田を寄せたりけるが、今に有るこそいみじけれ。
 此の堂のそばに又温屋を立てて、一万人に浴す。或る時、折烏帽子に紺の小袖二つきて、白き小袴に足駄はきて、黒漆の野太刀脇にかいはさみて杖突きたる男一人来たりて、湯屋の左右を見▼P2076(三七ウ)廻す。文学は目も持てあげず、釜の火たきて居たり。又竹矢籠(たかしこ)かい付けて黒ぬりの弓持ちたる冠者一人来たる。先にきたりつる人の下人とおぼしくて、共にあり。小童部共、「兵衛佐殿こそおはしたれ」と云ひてささやくめり。其の時、「さては聞こゆる人にこそ」と思ひて、やはら顔をもて上げてみければ、彼の人湯にをりぬ。共にある男来たりて、「や、御房、湯の呪願とかやして、人にあむせまゐらせよ」といへば、「かやうの乞食法師、近く参らむも恐れあり。かひげに湯をくみてたべ。ここにて、ともかくも呪願のまねかたせむ」と云ひければ、云ふが如くにして湯を浴びらる。未だ余人はよらず。共の男は、文学がそばに居て火にあたる。
 文学忍びやかに、「是は流されておはしますなる兵衛佐殿か」と問ひければ、男にが咲ひて物▼P2077(三八オ)もいはず。文学、「これぞ、此の入道が相伝の主よ」と云ひける時、男申しけるは、「主ならば見知り奉り給ひたるらむに、事あたらしく問ひ給ふ物哉」と云ひければ、文学申しけるは、「そよ、此の殿少くおはしまししほどは宮仕へき。かやうに乞食法師になりて後は、国々迷ひありくほどに、参りよる事もなし。よにおとなしくなられたり。人は名乗りのよかるべきぞ。頼朝と云ふ名の吉きぞ。大将軍の相もおはすめり。君に申して、貴賎上下集る温屋なんどへは出で給ふらめ。人は憶持あるこそよけれ。法師とても、敵にてあらむは難かるべきか。人に頸ばし切られうとて、不覚の人哉」と云ひければ、此の男、「不思議の聖のひた心哉」と思へども、とかく云ふにも及ばずして、「あまり雑人多く候ふに、はや上らせ給へ」と、主を勧めて立つ所に、此の由を主に▼P2078(三八ウ)ささやきたりけるにや、此の男立ち返りて、「里に出でたらむ時には、必ず尋ねておはせよ」と、文学が耳にささやきければ、「そよや殿、下りはてば見参に入らばやと思ひしかども、さすが事しげく推参せむも骨無くて罷り過ぎつるに、今日の便宜に御目にかかりぬる事こそうれしけれ。隙には必ず参るべし。先に申しつるそぞろ事、口より外へもらし給ふな」とぞ云ひける。
 其の後兵衛佐ははづかしく覚しければ、彼の温へはおはせず。卅日計り過ぎて、文学里に出でたりつる次に、さらぬ様にて兵衛佐の許へ尋ね来たりて、佐法花経読みて居られたる所へ入れられたりければ、文学手をすりて 「尤も本意に候ふ。貴く候ふ」とて、さめざめと泣く。酒菓子体の物取り出だして勧められて後、「さて御房、今日は閑かに居て、世間の物語▼P2079(三九オ)して遊び給へ。つれづれなるに」と宣ひければ、文学兵衛佐の膝近く居よつて申しけるは、「花は一時、人は一時と申す譬へあり。平家は世の末になりたりとみゆ。大政入道の嫡子小松内大臣こそ、謀も賢く心も強にて、父の跡をも継ぐべき人にておはせしか。小国に相応せぬ人にて、父に先立ちて失せられぬ。其の弟共あまたあれども、右大将宗盛を始めとして有若亡の人共にて、一人として日本国の大将軍に成りぬべき人のみえぬぞや。殿はさすが末たのもしき人にておはする上、高運の相もおはす。大将に成り給ふべき相もあり。されば小松殿に次ぎて、わ殿ぞ、日本国の主と成り給ふべき人にておはしける。今は何事かは有るべきぞや。謀叛発して、日本国の大将軍に成り給へ。父祖の恥をも雪め、君の御鬱をも休▼P2080(三九ウ)め奉り給へ。且は『天の与へを取らざれば、還りて其の咎を受く。事至りて行はざれば、還りて其の殃を受く』と云ふ本文あり。文学はかく賎しげなれども、究竟の相人にて、左の眼は大聖不動明王の御眼也。右の眼は孔雀明王の御目也。人の果報しりて日本国を見通す事は、掌を指すが如し。今も末も少しも違はず。いかさまにも殿をば大果報の人と見申すぞ。とくとく思ひ立ち給へ。いつを期し給ふべきぞ」と、はばかる所もなく、細々と申しければ、佐思はれけるは、「此の聖は心深く怖しき者にて流さるる程の者なれば、かく語らひよりて、もろく相従はば、頼朝が頸を取りて平家に献りて己が罪を遁れむとてはかるやらむ」と思はれければ、佐宣ひけるは、「去る永暦元年の春の比より、池殿の尼御前▼P2081(四〇オ)に命を生けられ奉りて、当国に住して既に廿余年を送りぬ。池殿仰せらるる旨ありしかば、毎日法花経を二部読み奉りて、一部をば池尼御前の御菩提に廻向し奉り、一部をば父母の孝養に廻向する外は、又二つ営む事なし。勅勘の者は日月の光にだにもあたらずとこそ申し伝へたれ。争か此の身にてさ様の事をば思ひ立つべき」と、詞には宣ひけれども、心中には、「南無八幡大菩薩、伊豆筥根両所権現、願はくは神力を与へ給へ。多年の宿望を遂げて且は君臣の御鬱を休め奉り、且は亡夫が素懐を遂げむ」と志深ければ、「弘経・義明已下の兵に契りて隙を伺ふものを」と思はれけれども、文学には打ち解けざりけり。良久しく物語して、文学帰りぬ。
 又四五日ありて文学来たりければ、佐出で逢はれたり。「いかに」と宣へば、▼P2082(四〇ウ)文学、懐より、白き布袋の持ちならしたるが、中に物入れたるを取り出だしたりければ、佐「なにやらむ」と怪しく思はれけるに、文学申しけるは、「是こそは殿の父の故下野殿の頭よ。去んじ平治の乱の時、左の獄門のあふちの木にかけられたりしが、程経て後には目も見かけず、木の下に落ちて有りしを、是へ流さるべしと兼ねて聞きたりし時に、年来見奉りたりし本意もあり、又世はやうある物なれば、『自ら殿に参り合ふ事あらば献らむ』とて、獄預りの下部をすかして乞ひ取りて、持経と共に頸に懸けて、人目には吾が親の首を貯へたる様にて、京を流されて出でし時、何にもして世を取らむ人を旦越にして本意を遂げむと思ひし志の深さを、三宝に祈りて声を上ぐ。『我が願成就せよ』と、をめき叫びて物もくは▼P2083(四一オ)で有りしかば、見聞く人は皆、『文学には天狗の付きて物に狂ふか』など申しあひたりき。今は其の願満ちぬ。さればにや、殿世におはして、此の法師をもかへりみ給へ。此の料にこそ、年来貯へ持ちて侍りしか。念仏読経の声は魂魄に聞こえて、滅罪の道となられぬらむ」とて、さめざめと泣きければ、「人の心を引き見む料に何となく云ふかと思ひたれば、まめやかに志の有りける事の哀れさよ。定めて此の世一つの事にてはあらじ」と思はれければ、一定はしらねども、父の頭と聞くよりなつかしく覚えて、直垂の袖をひろげて泣く泣く請ひ取りて、経机の上に並べて、吾が身を打ち覆ひて、「哀れなりける契り哉」とて、涙をぞ浮かべられける。後にこそ謀とも知らせけれ、其の時は実と思はれければ、自ら其の後は打ち解けられにけり。「又」と契りて文学帰りぬ。さて、▼P2084(四一ウ)彼の首を箱に入れて仏前におきて、兵衛佐誓はれけるは、「誠に我が父の首にておはしまさば、頼朝に冥加を授け給へ。頼朝世にあらば、過ぎにし御恥をも雪め奉り、後生をも助け奉らむ」とて、仏経に次ぎては花を供し、香を焼きて供養ぜらる。
 其の後、文学又来たりければ、佐対面して、「さてもいかがして勅勘をゆり候ふべき。さなくは何事も思ひ立つべくもなし。いかさまにも道ある事こそ始終もよかるべけれ。さても藤九郎盛長を共にて、三嶋の社へ夜々一千日の日詣をせしに、一千日に満ぜし夜、通夜したりし夜の夢に、三嶋の東の社より猶東へ一町計りへだてて、第三の前に大きなる机木あり。其の王子の所を猶東へ一町計り行きて、又大きなる柞木あり。此の木二本が間▼P2085(四二オ)に鉄の縄を張りて、緋の糸をすがりにして、平家の人々の首をかけ並べたりしとみたれば、何なるべき事やらむ」なんど、まめやかに宣ひければ、「其の事安じたべ。京へ上りて院宣申して献らむ」。「其の身にて、やはか叶ふべき」。文学申しけるは、「院の近習者に前の右衛門督光能卿と云ふ人あり。彼の仁に内々ゆかりありて、年来申し承る事あり。彼の仁の許へ蜜かにまかりて、此の由を申すべし。『物狂はしく、いづちともなく失せたる物哉』とおぼすな。かやうの入道法師は振る舞ひ安き上、『三七日の定に入る事あり。其の間は人にも対面もすまじき由を披露せよ』とて、弟子に申し置きて怱ぎ上るべし」なんど、さまざまに契りて出でぬ。やがて京へ上る。
八〔文学京上シテ院宣申し賜る事〕 其の時院は福原の楼の御所に渡らせ給ひけるに、夜にまぎれて光能卿▼P2086(四二ウ)の許へ行きて、人にも知られず、ある女を以て蜜かに文を遣はしたりければ、光能卿見参し給ひて、「さてもさても夢の様にこそ覚ゆれ。いかにいかに」と問はれければ、文学近く差し寄りて、「薮に目、壁に耳ありと云ふ事、いと忍びて申し合はすべき事ありて、態と人にもしられず、夜にまぎれて参りて候ふ也」と云ひ、ささやきけるは、「伊豆国に候ふ兵衛佐頼朝こそ、院のかくて渡らせ給ふ事をば承り歎きて、『院宣だにも給はりたらば、東八ヶ国の家人相催して京へ打ち上りて、君の御敵平家をばやすく滅して逆鱗をも休め奉り、人々の歎きをもしづめてむ物を』と申し候へば、大名小名一人も随はぬ者なし。此の様を密かに法皇に申させ給へ」と云ひければ、光能卿、「誠に君もかく打ち龍められさせ給ひて、世の務をもしろし▼P2087(四三オ)めさず。我も参議・右兵衛督・皇大后宮の権大夫、三官をみなながら平家に止められて、心うしと思ひ歎き居たり」と思はれければ、「いかさまにも隙を伺ひて御気色を取るべし。かく宣ふも然るべき事にてこそ有らめ。今二三日のほどは是におはせよ」とて、其の夜もあけぬ。次の朝、光能卿院参せらる。夕べに帰りて 「彼の事、然るべき隙なくて、未だ奏せず也」とありけれども、文学猶かたすみにかがまり居たり。次の日参り給ひて、夜深けて出でられたり。御ゆるされや有りけむ、院宣を書きて賜はりたりけるを、文学賜はりて頸に懸けて、夜昼五ヶ日伊豆国へ走り下りて、兵衛佐に献りたりければ、手洗ひ口〓[口+頼](そそ)いで、紐さして院宣を見給ふに、其の状に云はく、
 ▼P2088(四三ウ)早く清盛入道并びに一類を追討すべき事
 右、彼の一類は朝家を忽緒にするのみに非ず、神威を失ひ仏法を亡ぼし、既に仏神の怨敵たり。且つは王法の朝敵たり。仍つて前の右兵衛佐源の頼朝に仰せて、宜しく彼の輩を追討して、早く逆鱗を息め奉るべき状、院宣に依つて執奉件の如し。
  治承四年七月六日 前の右兵衛督藤原光能が奉り
 前の右兵衛佐殿へ
とぞ書かれたりける。兵衛佐、此の院宣を見給ひて、泣く泣く都の方へ向かひて八幡大菩薩を拝み奉り、当国には伊豆、箱根二所に願を立てて、先づ北条四郎に宣ひ合はせて思ひ立ち給へり。石橋の合戦の時も、白旗の上に此の院宣を横さまに結び付けられたりけるとぞ聞こえし。▼P2089(四四オ)
 同じく院宣の異本に云はく、
 頃年より以来、平氏皇化を蔑如にして、政道に憚ること無く、仏法を破滅し、朝威を傾けむと欲す。夫吾が朝は神国也。宗廟相並びて、神徳是新た也。故に朝庭開基の後、数千余載の間、帝猷を傾け国家を危むる者、皆以て敗北せずと云ふこと莫し。然れば則ち、且つは神道の冥助に任せ、且つは勅宣の旨趣を守りて、平氏の一類を誅し、朝家の怨敵を退けて、普代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽きんでて、身を立て家を興すべし者(てへ)れば、
院宣此くのごとし。仍つて執達件の如し。
  治承四年七月   日 前の右兵衛督 奉判
 前の兵衛佐殿云々▼P2090(四四ウ)
九 〔佐々木の者共佐殿の許へ参る事〕 兵衛佐流され給ひて後、二十一年と申すに、此の院宣を給はりて、北条四郎時政を招き寄せて、「平家を追討すべき由の院宣を給はりたるが、当時勢のなきをばいかがはすべき」と宣へば、時政申しけるは、「東八ヶ国の内に、誰か君の御家人ならぬ者は候ふ。上総介八郎広経、平家の御勘当にて、其の子息山城権守能経、京に召し籠められ候ひつるが、此の程逃げ下りて用心して候ふと承る。上総介八郎広経、千葉助経胤、三浦介義明、此の三人を語らはせ給へ。此の三人だにも随ひ付きまゐらせ候ひなば、土肥、岡崎、懐嶋は、本より志思ひ奉る者共で候へば、参り候はんずらむ。若し君をつよく射まゐらせ候はむずるは、畠山庄司次郎重忠、同じく従父兄弟稲毛三郎重成、是等▼P2091(四五オ)が父畠山庄司重能、同じく舎弟小山田別当有重兄弟二人、平家に仕へて京に候へば、つよき敵にて候ふべし。相模国には鎌倉党大庭三郎景親、三代相伝の御家人にて候へども、当時平家の大御恩の者にて候ふ間、君を背き奉るべき者にて候ふ。広経、経胤、義明、是等三人だにも参り候ひなば、日本国は御手の下に思し召すべし。」と申しければ、其の言葉実あつて、其の弁舌有りければ、頼朝深く信じてけり。時政若し天を知る時か、将又兵を得る法か。其の詞、一事として違ふ事なかりけり。昔、晋の文、勃〓[革+是](ほくてい)の言を信じて、以て威を奮つて愕かし、斉の桓、管仲の計を用(もち)ゐて、以て天下を匡しうせりき。今頼朝、時政と合体を同心して、籌を氈帳の中に運らさば、烏合群謀の賊、手を軍門に束ね、勝つことを▼P2092(四五ウ)鳥(辺歟)塞の外に決し、狼戻反逆の徒、首を京都に伝へ、天下平定を遂げて、海内永く一統せり。誠なる哉、「其の人を得て則ち其の国以て興り、其の人を失ひて則ち其の国以て亡ぶ」と言へることは。
 兵衛佐宣ひけるは、「院宣を賜りぬる上は、日月を送るに及ばず。やがて今日明日にもといそぎたくは存ずれども、来たる八月十五日以前には、いかにも思ひ立たじと思ふなり。其はいかにといふに、今明謀叛を発して合戦をするならば、諸国に祝はれまします八幡大菩薩の御放生会の為に、定めて違乱となりなむず。然れば彼の放生会以後、しづかに思ひ立つべし」と宣ひければ、時政「尤も然るべし」とて、月日の過ぎ行くを待ち給ひけるほどに、
 八月九日、大庭三郎京より下りたりけるが、佐々木の三郎秀▼P2093(四六オ)義をよびて申しけるは、「長田入道、上総守が許へ、『伊豆の兵衛佐殿を、北条四郎・掃部丞引き立て奉りて、謀叛を発さんと支度仕るよし承る。急ぎ召し上げて、隠岐国へ流され候ふべし』と云ふ文を遣したりけるを、上総守取り出だして景親にみせ候ひしかば、『掃部丞はや死に候ひにき。北条四郎はさも候ふらむ』と申したりしかば、『いかさまにも、太政入道殿の福原より上らせ給ひたらむに、見せまゐらせむとて、銘書きて置き候ひき。此の度高倉宮の三井寺に引き龍もらせ給ひて後は、国々の源氏一人もあらすまじ』と候ひしかば、よもただには候はじ」とぞ語りける。秀義あさましと思ひて、急ぎ宿所に帰りて、「景親かかる事をこそ語り申しつれ」と、伊豆へ告げ申さむとしけるに、「三郎は勘当の者也。二郎は▼P2094(四六ウ)いまだ佐殿の見知り給はず。太郎行け」とて、下野の宇都宮に有りける太郎定綱を呼びて、「北条に参りて申すべき様は、『御文は落ち散る事もぞ候ふとて、態と定綱を参らせ候ふ。日ごろ内々御談義候ひし事を、景親もれ聞きたりげに候ふぞ。思し食したたばいそがるべし。さなくはとくして奥州へ越えさせ給へ。是までは藤九郎計りを具して渡らせ給へ。子共を付けて送り申すべし』」とて、遣しけり。
 十二日、定綱帰り来たりて、「此の事委しく申して候ひしかば、『頼朝も先立ちて聞きたるなり。召しに遣はさむと思ひつるに、誰して云ふベきとも思ひ煩ひて有りつるに、神妙に来たり。さらばやがて是に居るべし』と、留め給ひつれども、『急ぎ罷り帰りて、弟共をも具し、物具をも取りて参り候はむ』と申ししかば、『さらばよしきたらむ。人にもきかれなむず』と宣ひければ、さまざまの誓言▼P2095(四七オ)を立て候ひしかば、『さらばとく帰りて、十六日には必ず来たれ。汝等を待ち付けて、伊豆の物共を具して兼隆をば討たむずるなり。但し二郎は渋屋庄司が聟にて、子にも劣らず思ひたむなれば、よも与せじ。三郎計りを具せよ』と候ひし」と申しければ、二郎経高是を聞きて申しけるは、「三郎にも四郎にもな告げ給ひそ。それらはいかにも思ひきるまじき者也。兵衛佐殿、さ程の大事を思ひ立ち給ふに、人をば知るべからず、経高におきては善悪参るべし」と申しければ、「さらば」とて、やがて、相模の波多野に有りける三郎盛綱が許へ、使者を走らかす。四郎高綱は近年平家に奉公して有りけるが、兵衛佐謀叛の企て有るよし聞こえければ、浮雲に鞭をあげて東国へ馳せ下りて、太郎が許に隠れ居たりけるが許へも、同じく使▼P2096(四七ウ)者をぞ遣しける。つつむとすれども、景親是を伝へ聞きて、「いかがすべき」と、国中の人々に云ひ合はするよし聞こえけり。
 さる程に佐々木の者共兄弟四人馳せ集まりて、夜中に北条へ行きけるに、二郎経高が舅渋屋庄司、人を走らかして経高に申しけるは、「何に人を迷はさむとはするぞ。こと人共は行けども、経高一人は留まるべし」と云ひ遣したりければ、経高申しけるは、「殊人々こそ恩をも得たれば、大事とも思ふらめ。経高はさせる見えたる恩もなければ、更に大事とも思はず。かく云ふに留らずは、妻子をとつていかにもこそはなさむずらめ。思ひ切りて出づる事なれば、全く妻子の事心にかからず。さりとも佐殿世を執り給はば、経高が妻子をば誰かは取りはつべき」と、散々に返答して打ち通りぬ。
▼P2097(四八オ)十 〔屋牧判官兼隆を夜討にする事〕 さる程に十六日にもなりにけり。兵衛佐、北条四郎を召して宣ひけるは、「日来月日の立つをこそ待ちつれば、今夜、平家の家人当国の目代和泉判官兼隆が屋牧の館にあむなるを、よせて夜討ちにせむと思ふなり。もし打ち損じたらば、自害をすべし。討ちおほせたらば、やがて合戦を思ひ立つべし。是を以て頼朝が冥加の有無は、わ人共が運不運をば知るべし。但し、佐々木の者共がさしも約束したりしが、いまだ見えぬこそ本意なけれ」と宣ふ。時政申しけるは、「今夜は当国の鎮守三嶋の大明神の神事にて、当国の中に弓矢を取る事候はず。且は佐々木の者共をも待たせ給へ。吉日にても候ふ、明日にて候ふべし」とて出でにけり。
 さる程に、佐々木の兄弟十七日未の時計り、北条へ馳せ付きたりければ、兵衛佐殿は、▼P2098(四八ウ)合はせの小袖に藍摺の小袴き給ひて、烏帽子をして、姫君の二つ計りにやおはしけむ、そばにおきておはしけり。是等が来たる事見給ひて、よにうれしげに思して、「いかに経高は、渋屋が浅からず思ひたむなれば、よも参らじと思ひつるに、いかにして来たるぞ」と宣ひければ、「千人の庄司を、君一人に思ひ替へ参らせ候ふべきに候はず」と申しければ、「さほどに思はむ事は、とかく云ふに及ばず。頼朝が此の事を思ひ立たば、わ人共が世とはしらぬか」と宣ひければ、「只今世を世ならぬ事までは思ひ候はず。ただかほどの大事を思し食し立たむに、今日参り候はでは、いつを期し候ふべきと存ずる計りに候ふ」と申しければ、「頼朝は本は肥えたりしが、此の百余日計り、夜昼此の事を案ずるほどに、やせたるぞ。抑も今日十七日丁酉を吉日に取りて、此の暁、当国の目代▼P2099(四九オ)和泉判官平兼隆を誅せむと思ひつるに、口惜しくも各昨日みえぬによりて、今日はさてやみぬ。明日は精進の日也。十九日は日次あし。廿日まで延びば、還りて景親に襲はれぬと覚ゆるなり」と宣ひければ、定綱申しけるは、「十五日に参るべきにて候ひしほどに、三郎四郎をも待ち候ひし上、折節此のほどの大雨大水に、思はざるほかに一日逗留して候ふ」と申しければ、「あはれ遺恨の事かな。さらば各やすみ給へ」と宣ひければ、侍に出でてやすみけるほどに、日既に入りてくらくなりぬ。しばらくありて、「各物具してこれへ」と有りければ、やがて物具取り付けて参りたりければ、佐宣ひけるは、「是に有りける女を、兼隆が雑色男が妻にして有りけるが、只今是に来たるなり。此の気色をみて、主に語りなば、一定襲はれぬべければ、▼P2100(四九ウ)彼の男をば捕へて置きたるぞ。此の上はただとく今夜よりて打つべし」と宣ひければ、十七日の子の剋計り、北条四郎時政、子息三郎宗時、同じく小四郎義時、佐々木太郎定綱、同じく二郎経高、三郎盛綱、同じく四郎高綱已下、彼是馬の上歩人ともなく、三十余人、四十人計もや有りけむ、屋牧の館へぞ押し寄せける。
 門を打ち出でければ、当国の住人加藤次景簾は、下人に太刀計り持たせて、只一騎、御宿直にとて打ち通りけるが、是等が打ち出づるをみて、「いかに何事のあるぞ」とて、やがて打ち通りて内へ入りにけり。此の景廉は、元は伊勢国の住人加藤五景員が二男、加藤太元員が舎弟也。父景員敵に怖れて、伊勢国を逃げ出でて伊豆国に下りて、公藤介茂光が聟に成りて居たり▼P2101(五〇オ)けり。弓矢の道、兄弟いづれも劣らざりけれども、殊に景廉は、くらきりなき甲の者、そばひらみずの猪武者にて有りけるが、いかが思ひけむ、時々兵衛佐に奉公しけるが、其の夜、兵衛佐の許にひそめく事有りと聞きて、何事やらむとて行きたりけるなり。
 さて、北条・佐々木の者共は、ひた川原と云ふ所に打ち出でて、北条四郎申しけるは、「屋牧〔へ〕渡る堤の鼻に、和泉判官が一の郎等権守兼行と云ふ者あり。殿原は先づそれをよりて打ち給へ。時政は打ち通りて、奥の判官を攻むべし」とて、案内者を付く。定綱は彼の案内者を先として、後ろへ搦め手に廻る。経高ぞ前より打ち入るる。いまだ搦め手の廻らぬ先に打ち入りて見ければ、元より古兵にて待ちや受けたりけむ、さ知りたりとて散々に▼P2102(五〇ウ)射る。敵は未申に向かひ、経高は丑寅に向ふ。月もあかかりければ、互ひのしわざ隠るる事なし。寄せ合はせて戦ふほどに、経高薄手負ひぬ。さるほどに、高綱後ろより来加はりたりけるに、矢をばぬかせてけり。さて、兼行をば、定綱盛綱押し合はせて打ちおほせつ。判官が館と兼行が家と、間五町計り也。敵打ちおほせて後、やがて奥の屋牧の館へぞ馳せ通りける。兵衛佐は縁に立たれたりけるが、景廉が来たるを見給ひて、「折節神妙なり。景廉は頼朝がとぎに候ふべし」と置かれたり。遥かに夜深けて後、「今夜時政を以て、兼隆を誅ちに遣しつるが、『誅ちおほせたらば、館に火を懸けよ』と云ひつるが、遥かになれども火の見えぬは、誅ち損じたるやらむ」と、独言に宣ひければ、景廉聞きあへず、「さては日本第一の御大事を思し食し立ちける▼P2103(五一オ)に、今まで景廉にしらせさせ給はざりける事の心うさよ」と云ふままに、やがて甲の緒をしめて、つと出でけるを、兵衛佐景廉を召し返して、銀のひるまきしたる小長大刀を手づから取り出だし給ひて、「是にて兼隆が首を貫きて参れ」とて、景廉にたぶ。景廉是を給はりて、走せ向かふ。歩人一人具したりける。 兵衛佐より雑色一人付けられたりけるに、長大刀をば持たせて、判官が館近く走せて見れば、北条は家子郎等多く手負ひ、馬共射させて白みて立ちたる所に、景廉来加はりければ、北条云ひけるは、「敵手ごはくて、已に五六度まで引き退きたるぞ。佐々木の者共は兼行をば打ちて、此の館の後ろへ搦め手に向かひたるなり」と云へば、したたかならむ者に楯突かせて賜べ。一宛てあてて見む」と申しければ、北条が雑色男源藤▼P2104(五一ウ)次と云ひける者に楯つかせて、馬より下りて、弓矢は元より持たざりければ、一人の弓張の矢三筋かなぐり取りて、楯の影より進み出でて、矢面に立ちたる敵三人、三つの矢にて射殺しつ。さて弓をば抛てて、長大刀を茎短かに取り成して、甲の錣を傾けて、打ち払ひて内へつと入り、侍を見れば、高燈台に火白くかきたてたり。其の前に浄衣着たる男の、大長大刀の鞘はづして立ち向かひけるを、加藤次走り違ひて、小長大刀にて弓手の脇をさして、投げ臥せたり。やがて内へ責め入りてみれば、額突の前に火をおこしたり。又火白くかき立てたり。栩唐紙の障子立てたりけるを細目にあけて、大刀の帯取、五六寸計り引き残して、敵是に入りたりと思ひて見出だしたり。加藤次、二つの長大刀を以て障子を差し▼P2105(五二オ)開けてみれば、和泉判官をば住所に付きて八牧判官とぞ申しける、判官、片膝を立てて、太刀を額にあてて、「入らば切らむ」と思ひたりげにて待ち懸けたり。加藤次しころを傾けて入らむとする様にすれば、判官敵を入れじとむずときる所に、上の鴨居に切り付けて、太刀を抜かむとしけるを、貫かせもはてさせずして、しや頸を差し貫きて、投げ伏せて頸をかくを見て、判官が後見の法師、元は山法師に注記と云ふ者にて有りけるが、つとよる所を、二の刀に頸を打ち落としつ。さて主従二人が首を取りて、障子に火吹き付けて、心のすむとしはなけれども、
  法花経を一字もよまぬ加藤次が八巻のはてを今みつるかな K105
と打ち詠めてつと出でて、「兼隆をば景廉が討ちたるぞや」と罵りけり。▼P2106(五二ウ)判官が宿所の焼けけるを兵衛佐見給ひて、「兼隆をば一定景廉が討ちつると覚ゆるぞ。門出吉し」と悦び給ひけるほどに、北条使者を立てて、「兼隆を景廉が討ちて候ふなり」と申したりければ、兵衛佐「さればこそ」とぞ宣ひける。景廉は戦功を当時に挙ぐるのみにあらず、専ら名望を後世に残せり。
十一 〔兵衛佐に勢の付く事〕
 是を始めとして、伊豆国より兵衛佐に相従ふ輩は、北条四郎時政、子息三郎宗時、同じく小四郎義時、公藤介茂光、子息狩野五郎親光、宇佐美平太、同じく平次、同じく三郎資茂、加藤太光員、同じく舎弟加藤次景廉、藤九郎盛長、天野藤内遠景、同じく六郎、新田四郎忠経、義勝房成尋、掘ノ藤二親家、佐々木太郎定綱、▼P2107(五三オ)同じく二郎経高、同じく三郎盛綱、同じく四郎高綱、七郎武者宣親、中四郎惟重、中八惟平、橘次頼村、鮫嶋四郎宗房、近藤七国平、大見平次宗秀、新藤次俊長、小中太光家、城平太、沢六郎宗家、懐嶋平権守景能、同じく舎弟豊田次郎景俊、筑井次郎義行、同じく八郎義康、土肥次郎実平、同じく子息弥太郎遠平、新開荒次郎実重、土屋三郎宗遠、同じく小次郎義清、孫弥二郎忠光、岡崎四郎義実、佐奈多余一義忠、中村太郎、同じく次郎、飯田五郎、平左右太郎為重、▼P2108(五三ウ)大沼四郎、畠三郎義国、丸五郎信俊、安西三郎明益等を相具して、八月廿日、相摸国土肥へ越えて、時政、宗遠、実平、如きのおとな共を召して、「さて此の上はいかが有るべき」と評定あり。
十二 〔兵衛佐、国々へ廻文を遺はさるる事〕
 実平、「先づ国々の御家人の許へ、廻文の候ふべきなり」と申しければ、「尤もさるべし」とて、藤九郎盛長を使にて廻文を遣はさる。先づ相模国の住人、波多野馬允康景を召しけれども、参ぜず。上総介八郎広経、千葉介経胤が許へ、院宣の趣を仰せ遣はしたりければ、「生きて此の事を承る、身の幸にあらずや。忠をあらはし、名を止めむこと、此の時にあり」。昔、魯連、弁言して以て燕を退け、包胥、単辞して以て▼P2109(五四オ)楚を存せりき。盛長已に使節を戦術に全くして、三寸の舌を動かして、、深く二人の心を蕩れければ、経胤等、威勢を興衆に振るひて、八国の兵を屈して、遂に四夷の乱を治めけり。夫れ、「弁士は国の良薬なり。智者は朝の明鏡なり」といへり。此の事、誠なるかなや。しかのみならず、昔の晏嬰、勇を崔抒に発おこし、程嬰、義を趙武に顕せりき。今の経胤等、頼朝の為に忽ちに旧恩を報ふ。遂に新功を立て、誉れを四方に彰し、名を百代に奮へり。かやうに喜び存じければ、左右無く領状申したりければ、各怱ぎ馳せ向はむとしけれども、渡り余た有つて、船筏に煩ひ多かりければ、八月下旬の此ほひまで、力及ばず遅参す。
 山内首藤刑部丞俊通が孫、首藤瀧口俊綱が子共、瀧口三郎、同じく四郎を▼P2110(五四ウ)召されければ、良久しく返事もせず。盛長を内へだにも入るる事なくして、はるかに程をへだてて後に盛長に出で合ひて、御使の返事をばせずして、散々の悪口をぞしける。利宗、逆順の分を知らず、利害の用を弁へず、只強大の敵を恐れ、忽ちに真旧の主を背く。口に亡言を吐き、心に誠信なし。頗る勇士の法に非ず。偏へに狂人の体に似たり。四郎申しけるは、「我等が父、保元の乱に六条判官殿の御共を致して合戦し、次に平治の軍に身命をすてて防き戦ひしかば、親子二人終に敵の為に誅たる。而る上は、今、兵衛佐殿の御共して、命を失ふべくや侍るらむ」。三郎是を聞きて、盛長が聞きをも憚らず、舎弟の四郎に申しけるは、「和殿は物に狂ふな。人▼P2111(五五オ)は至りてわびしく成りぬれば、すまじき事をもし、思ひよるまじき事をも思ひよるとは、是体の事を云ふ也。其の故は、兵衛佐殿の当時の寸法にて、平家にたてあひ奉らむとて此の如くの事を引き出だし給ふ事よ。如法富士の山と長くらべ、ねこの額に付きたる物をねずみのねらふに似たり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と高声に申して御返事に及ばず。
 さて、三浦介義明が許へ御文持ち向かひたりければ、折節、風気にて臥したりけるが、兵衛佐殿の使ありと聞きて、急ぎおき上がりて、烏帽子おし入れて直垂打ちかけて、盛長に出で向かひて、廻文披見して申しけるは、「故左馬頭殿の御末は皆断えはて給ひぬるかと思ひつるに、義明が世に、其の御末出で来給はむ事、只一身の悦びなり。子孫皆参るべし」とて、召し集めけり。嫡子▼P2112(五五ウ)椙本太郎義宗は、長寛元年の秋の軍に、安房国長狭城を責むとて、大事の手負ひて、三浦に帰りて百日に満たざるに、卅九にて死にけり。二男三浦別当義澄、大多和三郎義尚、佐原十郎義連、孫共には、輪田小太郎義盛、同じく二郎義茂、同じく三郎宗実、多々良三郎、同じく四郎、佐野平太、郎等には、橘五、野藤太、三浦藤平、是等を前に呼びて申しけるは、「昔は卅三年を以て一昔としけり。今は廿一年を以て一昔とす。廿一年過ぎぬれば、淵は瀬となり、瀬は淵になる。平家既に廿余年の間、天下を治む。今は世の末に成りて、悪行日を経て倍増す。滅亡の期、来たるかと見えたり。其の後は、又源氏の繁昌疑ひなし。各早く一味同心にて佐殿の御許に参ずべし。若し、冥▼P2113(五六オ)加おはせずして打死をもし給はば、各又頭を一所に並ぶべし。山賊、海賊をもしたらばこそ瑕瑾ならめ。佐殿、若し果報おはして、世を執り〔給〕はば、己等が中に一人も生き残りたらむ者、世に逢ひて繁昌すべし」と申しければ、各皆「左右に及ばず」とぞ申しける。
十三 〔石橋山合戦の事〕 さる程に、北条・佐々木が一類を初めとして、伊豆・相模、両国の住人同意与力する輩、三百余騎には過ぎざりけり。八月廿三日の夕べに土肥の郷を出でて、早川尻と云ふ所に陣を取る。早川党が申しけるは、「是は戦場には悪しく候ふべし。湯本の方より敵山を超えて後ろを打ち囲み、中に取り籠められ候ひなば、一人も遁るべからず」と申しければ、土肥の方へ引き退きて、こめかみ石橋と云ふ所に陣を取りて、上の山の腰にはかい楯をかき、下の大道をば切り塞ぎて、立て▼P2114(五六ウ)龍もる。
 平家の方人、当国の住人大庭三郎景親、武蔵・相模、両国の勢を招きて、同じき廿三日の寅卯の時に襲ひ来たりて、相ひ従ふ輩には、大庭三郎景親・舎弟俣野五郎景尚・長尾新五・新六・八木下ノ五郎・香川五郎以下の鎌倉党、一人も漏れざりけり。此の外、海老名源八権守秀貞・子息荻野五郎・同じく彦太郎・海老名小太郎・川村三郎・原惣四郎・曽我太郎祐信・渋谷庄司重国・山内瀧口三郎・同じく四郎・稲毛三郎重成・久下権守直光・子息熊谷二郎直実・阿佐摩二郎・広瀬太郎・岡部六野太忠澄等を始めとして、棟との者三百余騎、家子郎等惣じて三千余騎にて、石橋城へ押し寄す。▼P2115(五七オ)道々、兵衛佐の方人の家々、一々に焼き払ひて、谷を一つ隔て、海を後ろにあてて陣を取る。
 さる程に酉の剋にも成りにけり。稲毛三郎が云ひけるは、「今日は日既にくれぬ。合戦は明日たるべきか」と。大庭三郎が申しけるは、「明日ならば、兵衛佐殿の方へ勢はつき重なるべし。後ろより又三浦の人々来たると聞こゆ。両方を防かむ事、道せばく足立ち悪し。只今佐殿を追ひ落として、明日は一向三浦の人々と勝負を決すべし」とて、三千余騎声を調へて時を作る。兵衛佐の方よりも時の声を合はせて、鏑矢を射ければ、山びここたへて、敵方の大勢にも劣らずぞ聞こえける。
 大庭三郎景親、鐙ふみはり弓杖つき、立ち上がりて申しけるは、「抑、近代日本国に光を放ち、肩を並ぶる人もなき、平家の御世を傾け奉り、をかし奉らむと結構▼P2116(五七ウ)するは誰人ぞや」。北条四郎時政、あゆませ出だして申して云はく、「汝は知らずや。我が君は、清和天皇の第六の皇子貞純親王の御子六孫王経基よりは七代の後胤、八幡太郎殿には御彦、兵衛佐殿の御坐す也。恭く太上天皇の院宣を賜りて、御頸にかけ給へり。東八ヶ国の輩、誰人か御家人に非ざるや。馬に乗りながら子細を申す条、甚だ奇怪也。速かに下りて申すべし。さて御共には、北条四郎時政を初めとして、子息三郎宗時、同じく四郎義時、佐々木が一党、土肥、土屋を初めとして、伊豆・相模両国の住人、悉く参りたり。景親又申しけるは、「昔、八幡殿の後三年の軍の御共して、出羽国金沢城を責められし時、十六才にて、先陣かけて右目をいさせて、答の矢を射て、▼P2117(五八オ)其の敵を取りて、名を後代に留めたりし、鎌倉権五郎景正が末葉、大庭三郎景親を大将軍として兄弟親類三千余騎也。御方の勢こそ無下にみえ候へ。争でか敵対せらるべき」。時政重ねて申しけるは、「抑も、景親は景正が末葉と名乗り申す歟。さては子細は知りたりけり。争か三代相伝の君に向かひ奉りて、弓をも引き、矢を放つべき。速かにひきてのき候へ」。景親又申して云はく、「されば主にあらずとは申さず。但し、昔は主、今は敵。弓矢を取るも取らぬも、恩こそ主よ。当時は平家の御恩、山よりも高く、海よりも探し。昔を存じて降人になるべきに非ず」とぞ申しける。
 兵衛佐宣ひけるは、「武蔵・相模に聞こゆる者共、皆あんなり。中にも、大庭の三郎と俣野五郎とは、高名の兵と聞き置きたり。誰人にてか組ます▼P2118(五八ウ)べき」。岡崎四郎進み出でて申しけるは、「敵一人に組まぬ者の候ふか。親の身にて申すべきには候はねども、義実が子息の白物冠者義忠めこそ候ふらめ」と申しければ、「さらば」とて、佐奈多与一義忠を召して、「今日の軍の一番仕れ」と宣ひければ、与一、「承りぬ」とて、立ちにけり。与一が郎等佐奈多文三家安を招き寄せて、「佐奈多へ行きて、母にも女房にも申せ。『義忠、今日の軍の先陣を懸くべきよし、兵衛佐殿仰せらるる間、先陣仕るべし。生きて二度帰るべからず。もし兵衛佐、世を打ち取り給はば、二人の子共、佐殿に参りて、岡崎と佐奈多とを継がせて、子共の後見して、義忠が後世を訪ひてたべ』と云ふべし」と申しければ、「殿を二歳の年より今年廿五に成り給ふまで、もり奉りて、只今死なむと宣ふ▼P2119(五九オ)を見すてて、帰るべきにあらず。是程の事をば三郎丸して宣ふべきか」とて、三郎丸を召して、家安、此の由を云ひ含めてぞ遣はしける。
 与一、十七騎の勢にて歩ませ出だして申しけるは、「三浦大介義明が舎弟、三浦悪四郎義実が嫡男、佐奈多の与一義忠、生年廿五、源氏の世を執り給ふべき軍の先陣也。我と思はむ輩は出でて組め」とて、懸け出だしたり。平家の軍兵是を聞きて、「佐奈多は吉き敵や。いざうれ俣野、組みて取らむ」とて進む者は、長尾新五・新六・八木下の五郎・荻野五郎・曽我の太郎・渋屋庄司・原四郎・瀧口三郎・稲毛三郎・久下の権守・加佐摩三郎・広瀬大郎・岡部六野太・熊谷次郎を始めとして、宗との者共七十三騎、「我劣らじ」▼P2120(五九ウ)とをめいてかく。弓手は海、妻手は山、暗さはくらし、雨はいにいつて降る、道はせばし。心は先にとはやれども、力及ばぬ道なれば、馬次第にぞ懸けたりける。
 佐奈多が郎等文三家安、歩ませ出だして申しけるは、「東八ヶ国の殿原、誰人か君の御家人ならぬや。明日は恥づかしからむずるに、矢一つも射ぬさきに、甲をぬぎて御方へ参れや」と申しければ、渋屋庄司重国、「かく申すは誰人の詞ぞや。家安が申すにや。あたら詞かな。主にはいはせで、人々しく又郎等の」と云ひければ、家安重ねて申しけるは、「人の郎等は人ならぬか。二人の主にあはず、他人の門へ足ふみ入れず。わ殿原こそ現の人よ。秩父の末葉とて口は聞き給へども、一方の大将軍をもせで、大庭三郎が尻舞して迷ひ行くめり。吉き人のきたなき振▼P2121(六〇オ)舞するをぞ人とはいはぬ。矢一筋奉らむ」とて、鶴の本白の黒塗の十三束を吉くひきて射たりければ、甲の手崎に立ちにけり。其の時、敵も御方も、一同にはとぞ咲ひける。
 さるほどに、廿三日のたそかれ時にも成りにければ、大庭三郎、舎弟俣野五郎に申しけるは、「俣野殿、構へて佐奈多に組み給へ。景親も落ち合はむずるぞ」。俣野、「余りに暗くて、敵も御方もみえわかばこそ組み候はめ」と云ひければ、大庭、「佐奈多は葦毛なる馬に乗りたりつるが、肩白の鎧にすそ金物打ちて、白きほろを懸けたるぞ。其れをしるしにてかまへて組め」とぞ申しける。「承りぬ」とて、俣野進み出でて申しけるは、「抑佐奈多の与一が爰に有りつるが、みえぬは。はや落ちにけるやらむ」と云へども、佐奈多おともせず。▼P2122(六〇ウ)敵を目近く歩ませよせ、在り所を慥かに聞きおほせて、まがたはらに答へたり。「佐奈多与一義忠ここにあり。かく申すは誰人ぞ」と云ふ声に付きて、「俣野五郎景久なり」と云ひはつれば、やがて押し並べて指しうつぶきて見れば、馬も葦毛なる上に、すそ金物きらめきて見えければ、やがて寄せ合はせて引き組みて、馬よりどうど落ちにけり。
 上になり下になり、山の岨(そは)を下りに、大道まで三段計りぞころびたる。今一返しも返したらば、海へ入りてまし。俣野は大力と聞こえたりけれども、いかがしたりけむ、下になる。うつぶしに下り頭に臥したりければ、枕もひきし、あとは高し、おきうおきうとしけれども、佐奈多上に乗り居たりければ、「叶はじ」とや思ひけむ、「大庭三郎が舎弟俣野五郎景久、佐奈多与一に組みたり。つづけ▼P2123(六一オ)やつづけや」と云ひけれども、家安を初めとして、郎等共皆押し隔てられて、連く者もなかりければ、俣野がいとこ長尾新五落ち合ひて、「上や敵、下や敵」と問ひければ、与一は敵の声と聞きなして、「上ぞ景尚。長尾殿か。あやまちすな」。俣野は下にて、「下ぞ景久。長尾殿か。あやまちすな」と云ふ。「上ぞ」「下ぞ」と云ふほどに、頭は一所にあり、暗さはくらし、声はひきし、何とも聞きわかず。「上ぞ景尚、下佐奈多」「上は佐奈多、下は景尚」と互に云ふ。俣野、「不覚の者哉。鎧の金物をさぐれかし」と云ひければ、二人の者共が冑の引合をさぐりけるを、佐奈多さぐられて、右の足をもつて長尾が胸をむずとふむ。新五、ふまれて下りさまに弓長計りぞととばしりて倒れにけり。
 其の間に、佐奈多、刀を抜きて、▼P2124(六一ウ)俣野が頸をかくに、きれず。指せども指せどもとほらず。刀をもちあげて雲すきに見れば、さやまきの栗形かけて、さやながらぬけたり。さや尻をくはへて抜かむとする所に、新五が弟新六落ち重なりて、与一が胡〓[竹+録](やなぐひ)のあはひにひたと乗り居て、甲のてへんの穴に手を指し入れて、むずと引きあふのけて、佐奈多が頸をかきければ、水もさはらず切れにけり。やがて俣野を引きおこして、「手や負ひたる」と問ひければ、「頸こそすこししひて覚ゆれ」と云ふを、さぐれば手のぬれければ、敵が刀を取るに、「見よ」とて右手を見れば、鞘尻一寸計りくだけたる刀をぞ持ちたりける。誠につよくさしたりとみえたりけり。其の手をいたみて、俣野は軍もせざりけり。「俣野五郎▼P2125(六二オ)景尚、佐奈多与一打ちたり」と罵りければ、源氏の方には歎きけり、平家の方には悦びけり。
 父の岡崎、兵衛佐に、「余一冠者こそ既に討たれ候ひにけれ」と申しければ、兵衛佐は、「あたら兵を討たせたるこそ口惜しけれ。もし頼朝世にあらば、義忠が孝養をば頼朝すべし」とて、あはれげに思はれたり。岡崎は、「十人の子にこそ後れ候はめ。君の世に渡らせ給はむ事こそ願はしく候へ」と申しながら、さすが恩愛の道なれば、鎧の袖をぞぬらしける。
 文三家安は、与一が打たれたる所より、尾を一つ隔てて戦ひけるを、稲毛三郎、「主は既に打たれぬ。今はわ君にげよかし」と云ひければ、家安申しけるは、「幼少よりかけ組む事は習ひたれども、逃ぐる事は未だしらず。『佐奈多殿打たれ給ひぬ』と聞きつるより、心こそ弥▼P2126(六二ウ)武く覚ゆれ」とて、分取八人して、打ち死に死にけり。軍は終夜に有りけり。
 暁方になりて、兵衛佐の勢、土肥を差して引き退く。佐も後陣にひかへて、「あな心うや。同じく引くとも思ふ矢一つ射て落ちよや。返せや返せや」と宣ひけれども、一騎も返さず、皆落ちぬ。堀口と云ふ所にて、加藤次景廉・佐々木四郎高綱・大多和三郎義尚、三騎落ち残りて、十七度まで返し合はせ、散々に戦ふ。敵は数千有りけれども、道もせばく足立悪しく、一度にも押し寄せず。纔に二三騎づつこそ懸けたりけれ。此の者共敵多く打ち取りて、矢種つきにければ、同じく一度に引き退く。
 さるほどに、夜もほのぼのとあけにければ、廿四日の辰の時に上の山へ引かれけるを、荻野五郎末重・同じく子息彦大郎秀光以下、兄弟▼P2127(六三オ)五人、兵衛佐の跡目に付きて追ひ懸かりて、「此の先に落ち給ふは大将軍とこそ見え申せ。いかに源氏の名折に鎧の後をば敵にみせ給ふぞ。きたなしや。返し合はせ給へ」とて、をめいてかく。佐「叶はじ」とや思はれけむ、只一人返し合はせて、矢一つ射られたり。荻野五郎が弓手の草摺に、縫ひさまにぞ立ちたりける。二の矢は鞍の前輪にたつ。次の矢は荻野が子息彦太郎が馬の、左のむながいづくしに立ちにけり。馬はねて乗りたまらず。足を越しておりたちぬ。伊豆国の住人大見平次、返し合はせて佐の前にふさげたり。又武者一騎馳せ来たりて、大見が前に引かへて、「昔物語にも大将軍の御戦ひはなき事にて候ふ。只ここを引かせ給へ」と申しければ、「防矢射る者なければこそ」と宣ひければ、「相模国の住人飯田三郎宗能候ふ」と▼P2128(六三ウ)申して、矢三筋射たりけり。其の間に兵衛佐は椙山へ入り給ひにけり。
 残りの人々も道嶮しくて、輙く山へ入るべき様もなかりければ、太刀計りにてぞ山へは入りにける。伊豆国の住人沢六郎宗家もここにて誅たれにけり。同国の住人九藤介茂光は、太り大きなる男にて山へも登らず、歩みもやらず。「延ぶべし」ともおぼえざりければ、子息狩野五郎親光を招き寄せて、「人手にかくな。我が頸打て」と云ひければ、親光、父の首を切らむ事の悲しさ、父を肩に引き懸けて山へ登りけるに、峨々たる山なれば、輙く登るべしともおぼえざりければ、とびにも延びやらず。敵は責め近づきて、既に生け取らるべかりければ、茂光、腹かい切りて死にけり。茂光が娘に、伊豆国の国司為綱が具して儲けたりける、田代冠者信綱、是を▼P2129(六四オ)見て、祖父公藤介が頸を切りて、子息狩野五郎にとらせて山へ入りにけり。北条が嫡子、三郎宗時も、伊東入道祐親法師に打たれにけり。
 さて、兵衛佐は山の峯に上りて、臥木の在りけるに尻打ち懸けて居られたりけるに、人々跡を尋ねて少々来たりたりければ、「大庭・曽我なんどは山の案内者なれば、定めて山ふませむずらむ。人多くては中々悪しかりなむ。各是より散々になるべし。我もし世にあらば、必ず尋ね来たるべし。我も又尋ぬべし」と宣ひければ、「我等既に日本国を敵にうけて、いづくの方へまかり候ふとも遁るべしとも覚え候はず。同じくは只一所にてこそは、塵灰にも成り候はめ」と申しければ、「頼朝思ふ様ありてこそかく云ふに、猶しひて落ちぬこそあやしけれ。各存ずる旨の有るか」と重ねて宣ひければ、「此の上は」 とて、思ひ思ひに落ち行きけり。北条四▼P2130(六四ウ)郎時政・同じく子息義時父子二人はそれより山伝ひに甲斐国へぞ趣きける。加藤二景廉と田代冠者信綱とは、伊豆三嶋の宝殿の内に籠りたりけるが、夜ほのぼのとあけければ、宝殿を出でて思ひ思ひにぞ落ち行きける。景廉は兄賀藤太光員に行き合ひて、甲斐国へぞ落ちにける。残る輩は、伊豆・駿河・武蔵・相模の山林へぞ逃げ籠りける。
 兵衛佐に付きて山に有りける人とては、土肥二郎・同じく子息弥太郎・甥の新開の荒二郎・土屋三郎・岡崎四郎、已上五人、下臈には土肥二郎が小舎人男七郎丸、兵衛佐具し奉りて、上下只七騎ぞ有りける。土肥が申しけるは、「天喜年中に、故伊与入道殿、貞任を責め給ひし時、纔かに七騎に落ち成りて、一旦は山に籠り▼P2131(六五オ)給ひしかども、遂にその御本意を遂げ給ひにけり。今日の御有様、少しも彼に違はず。尤も吉例とすべし」とぞ申しける。
十四 〔小壷坂合戦の事〕 三浦の人々は、相模河のはた、浜宮の前に陣を取りて、各申しけるは、「石橋の軍は此の夕べまではなかりけり。今は日もくれぬ。暁天の後より寄すべし」とて、ゆらへて有りけるほどに、兵衛佐の方に大沼四郎と云ふ者あり。敵の中をまぎれ出でたりけるが、三浦の人々の陣の前の河鰭に来たりて呼ばはりけるを、「誰そ」と問ひければ、「大沼の四郎也。石橋の軍既に初まり、散々の事共あり。其の次第、参りて申さむとすれば、馬にははなれぬ、夜はふけたり、河の淵瀬もみえわかず。馬をたべ、参りて申さむ」と云ひければ、急ぎ馬をぞ渡しける。大沼が参りて申しけるは、「酉の時に軍初まりて、只今まで火出づる▼P2132(六五ウ)程の合戦す。佐奈多与一既に誅たれぬ。兵衛佐も打たれ給ひたるとこそ、申しあひて候ひつれ。誠に遁れ給ふべき様もなかりつる上に、手を下して戦ひ給ひつれば、一定打たれ給ひつらむ」とぞ申しける。人々是を聞きて、「兵衛佐殿も誅たれ給ひにけり。『大将軍のたしかにまします』と聞かばこそ、百騎が一騎に成らむまでも戦はめ、前には大庭三郎・伊東入道、雲霞の勢にて待ち懸けたり。後には畠山二郎、武蔵の党の者共引き具して、五百余騎にて金江河の鰭に陣を取りてあんなり。中に取り籠められなば、一人も遁るまじ。設ひ一方を打ち破りて通りたりとも、朝敵と成りぬる上は、つひに安穏なるべからず。しかじ、人手に懸からむよりは、各自害をすべし」と云ひければ、義澄が申しけるは、しばし、殿原の自害、余りに▼P2133(六六オ)とよ。かやうの時は、僻事、虚事も多し。兵衛佐殿も一定誅たれてもやおはすらむ、又遁れてもやおはすらむ、其の骸を見申さず。土肥・岡崎は伊豆国の人也。先づ此の人々誅たれて後こそ、大将軍は誅たれ給はむずれ。海辺近ければ、舟に乗り給ひて、安房・上総の方へもや志し給ひぬらむ。又石橋は深山遥かにつづきたれば、それにも龍もりてやおはすらむ。いかさまにも、兵衛佐殿の御首をも見ざらむほどは、自害をせむ事あしかりなむ。さりとも、兵衛佐殿、荒量に誅たれ給はじ者を。設ひ死に給ふとも、敵に物をば思はせ給はむずらむ。いかさまにも、大庭にも畠山にも、一方に向かひてこそ、打ち死に、射死にをもせめ。畠山が勢五百余騎と此の勢三百余騎と押し向かひたらむに、などかはしばしは支へ▼P2134(六六ウ)ざるべき。ここをば懸け破り、三浦に引き籠もりたらむに、日本国の勢一度に寄せたりとも、火出づるほどの戦して、矢種つきば、其の時こそ義澄は自害をもせむずれ」とて、やがて甲の緒しめて、夜半計りに小磯が原を打ち過ぎて、波打際を下りに金江河の尻へ向けてぞ歩ませける。
 輪田小太郎義盛が舎弟二郎義茂は、高名のあら兵の大力にて大矢の勢兵なるが申しけるは、「此の道はいつの習ひの道ぞや。上の大道をばなど打ち給はぬぞ。只大道を打ち過ぎさまに、畠山が陣を懸け破りて、強き馬共少々奪ひ取りて行かばや」と云ひければ、兄の義盛、「何条そぞろ事宣ふ殿原かな」と云ひければ、義澄云ひけるは、「畠山、此の程馬飼ひ立てて休み居たり。強き馬取らむとて、還りて弱き馬ばしとられ。馬の足おとは波に▼P2135(六七オ)まぎれてきこゆまじ。くつばみをならべてとほれ若党」と云ひければ、或いはうつぶきて水つきをにぎり、或いはくつわをゆひからげなんどしてぞ通りける。
 案の如く、畠山二郎聞き付けて、乳人の半沢の六郎成清を呼びて云ひけるは、「只今三浦の人々の通ると覚ゆるぞ。重忠、此の人々に意趣なしといへども、彼等は一向佐殿の方人也。重忠は父庄司、平家に奉公して当時在京したり。是を一矢射ずして通したらば、大庭・伊東なんどに讒言せられて、一定平家の勘当蒙りぬと覚ゆる也。いざ追ひ懸かりて一矢射む」と云ひければ、成清、「尤も然るべし」とて、馬の腹帯つよくしめて追ひ懸くる。
 三浦の人々は、かくともしらで相模川を打ち渡り、腰越・稲村・湯居浜なんど打ち過ぎて、小坪坂を打ち上れば、夜も漸く▼P2136(六七ウ)あけにけり。小太郎義盛が云ひけるは、「是までは別事無く来たり。今は何事かは有るべき。設ひ敵人追ひ来たるとも、足立悪しき所なれば、などか一支へせざるべき。馬をも休め、破子なんどをも行ひ給へかし、殿原」とて、各馬より下り居て後の方を見返りたれば、稲村が崎に武者卅騎計り打ち出でたり。小太郎是をみて、「ここに来たる武者は敵か、又此の具足のさがりたるか」と云ひければ、三浦藤平真光、「此の具足には、さるべき人も候はず。二郎殿計りこそ、鎌倉を上りに打たせ給ひつれ、あれより来たり申すべき者おぼえず」と申しければ、小太郎、「さては敵にこそあんなれ」とて、叔父の別当忠澄に向かひて云ひけるは、「畠山既に追ひ懸かり来たる。殿ははや東路にかかりて、あぶずり究竟の小城なれば、▼P2137(六八オ)かいだてかかせて待ち給へ。義盛は是にて一支へして、若し叶はずはあぶずりに引き懸けて、諸共に戦ふべし」。義澄は「尤もさるべし」とて、あぶずりへ行きけるに、畠山二郎、四百余騎にて赤幡天をかかやかして、湯居浜・いなせ河のはたに陣をとる。
 畠山、郎等一人召して、「輪田小太郎の許へ行きて、『重忠こそ来たりて候へ。各に意趣を思ひ奉るべきにあらねども、父庄司・叔父小山田別当、平家の召しによつて、折節六波羅に祗候す。重忠が陣の前を無音に通し奉りなば、平家の勘当蒙らむ事疑ひなし。仍つて是まで参りたり。是へや出でさせ給ふべき、それへや参るべき』と申せ」とて、遣はしけり。使行きて此の由を云ひければ、郎等真光を呼びて、彼の使に相具して返答しけるは、「御使の申状、委しく承り候ふ。仰せ尤も其の謂はれあり。▼P2138(六八ウ)但し、庄司殿と申すは大介の孫聟ぞかし。されば、曽祖父に向かひて争か弓夫を取りて向かはるべき。尤も思惟有るべし」といはせたりければ、重忠重ねていはせけるは、「元より申しつる様に、介殿の御事と云ひ、各の事と申し、全く意趣を思ひ奉らず。只父と叔父との首を継がむが為に、是まで来るばかり也。さらば各三浦へ帰り給へ。重忠も帰らむ」とて、和与して帰る処に、斯様に問答和平するをも未だ聞き定めざる前に、義盛が下人一人、舎弟義茂が許へ馳せ来たりて、「湯居の浜に既に軍始まり候ふ」と云ひければ、義茂是を聞きて、「穴心憂や。太郎殿はいかに」と云ひて、甲の緒を締めて、犬懸坂を馳せ越えて、長江が下にて浜を見下ろしたれば、何とは知らず、直甲四百騎ばかり打つ立ちたり。義茂只八騎にて▼P2139(六九オ)をめいて駆く。畠山是を見て、「あれはいかに。和平の由は虚事にて有りけり。搦手を待たむとて云ひける者を。安からぬ事かな」とて、やがて駆けむとす。去る程に兄の義盛、小坪坂にて是を見て、「爰に下り様に七八騎計りにて馳するは二郎よな。和平の子細も聞き開かず、左右無く駆くると覚ゆるなり。勢も少なし、悪しくして打たれなむず。遠ければ、呼ぶとも聞ゆまじ。いざさらば只駆けむ」とて懸け出しけり。
 小太郎義盛、郎等真光に云ひけるは、「楯突く軍は度々したれども、馳せ組む軍はこれこそ初めなれ。何様にあふべきぞ」と云ひければ、真光申しけるは、「今年五十八に罷り成り候ふ。軍に相ふ事十九度、誠に軍の先達、真光に有るべし」とて、「軍にあふは、敵も弓手、我も弓手に逢は▼P2140(六九ウ)むとするなり。打ち解け弓を引くべからず。あきまを心にかけて、振り合はせ振り合はせして、内甲ををしみ、あだやをいじと、矢をはげなから矢をたばひ給ふべし。矢一つ放ちては、次の矢を急ぎ打ちくはせて、敵の内甲を御意にかけ給へ。昔様には馬を射る事はせざりけれども、中比よりは、先しや馬の太腹を射つれば、はね落されて徒立ちになり候ふ。近代は、様もなく押し並べて組みて、中に落ちぬれば、太刀、腰刀にて勝負は候ふ也」とぞ申しける。
 さるほどに、あぶずりに引き上げて、かいだてかいて待ちつる三浦の別当義澄、已に合戦初まると見て、小坪坂をおくれ馳せにして押し寄す。道せばくて僅かに二三騎づつ、おつすがひに馳せ来たりければ、遥かにつづきてぞ見えける。畠山の勢、此をみて、「三浦の勢計りに▼P2141(七〇オ)てはあらず。上総・下総の人共も一味になりにけり。大勢に取り籠められては叶ふまじ」とて、おろおろ戦ひて引き退く。
 三浦の人々 弥かつに乗りて、追ひさまに散々にいければ、浜の御霊の御前にて、輪田二郎義茂と相模国住人連太郎と、組みて落ちぬ。連は大の男の、人に勝れて長高く骨太也。輪田は勢は少し小さかりけれども、聞こゆる小相撲にて、敵を大亘にかけて、えい声を出だして、浪打際に枕をせさせて打ち臥せて、胸板の上をふまへて、腰刀をぬきて首をかく。是をみて、連が郎等落ち合ひたりけれども、輪田、太刀をぬきて内甲へ打ち入れたりければ、只一打ちに首を打ち落とす。二つの頸を前に並べて、石に尻打ち懸けて、波に足うちすすがせて息つぎゐたる処に、連が子息連二郎馳せ来たりて、輸▼P2142(七〇ウ)田二郎を射る。輪田二郎、射向の袖を振り合はせて、しころを傾けて云ひけるは、「父の敵をば手取りにこそとれ。わ君が弓勢にて、而も遠矢に射るには、義茂が鎧とほらじ物を。人々に打たれぬさきに落ち合へかし。おそろしきか、近くよらぬは。義茂は軍にしつかれたれば、手向かひはすまじ。首をば延べてきらせむずるぞ」とはげまされて、連二郎、太刀をぬきて落ち合ひたり。輪田二郎は甲の鉢をからとうたせて、立ちあがりて、いだきふせて、みしとおさへて腰刀を抽きて首をきる。三つの首を鞍の左右の取付に付けて、連が首をば片手に持ちて帰り来たる。其の日の高名、輪田二郎に極まりたりと、敵も御方も罵りけり。
 畠山が方には、律戸四郎・川二郎大夫・秋岡四郎等を初めとして、卅余人▼P2143(七一オ)打たれにけり。手負は数を知らず。三浦が方には、多々良の太郎、同じく二郎と、郎等二人ぞ打たれにける。其の時畠山、我が方の軍兵打たれて、引き退く気色を見て、云ひけるは、「弓矢取る道、爰にて返し合はせずは、各長く弓矢をば小坪坂」にて切り捨つべし」とて、片手矢をはげて、歩ませ出だして申しけるは、「音にも聞き、目にも見給へ。武蔵の国の秩父の余流、畠山ノ庄司重能が二男、庄司次郎重忠、童名氏王丸、生年十七歳。軍に合ふ事今日ぞ初め。我と思はむ人々は出で給へ」とて懸け出でたり。半沢の六郎馳せ来たりて、馬の轡に取り付きて申しけるは、「命を捨つるも様にこそより候へ。させる宿世の敵、親の敵にも非ず。加様の公事に付けたる事に、命を捨つる事候はず。若御意趣有らば後の軍にて▼P2144(七一ウ)有るべし」とて取り留めければ、力及ばず。相模の本馬の宿に引き退く。彼の宿に兵衛佐の方人多く居住したりければ、其の家々に火を懸けて、山下村まで焼き払ふ。三浦の人々は、此の軍の次第を委しく大介義明に語りければ、「各が振舞ひ尤も神妙也。就中義茂が高名、左右に及ばず」とて、大刀一振り取り出だして、孫義茂に取らす。
十五 〔衣笠城合戦の事〕 「敵只今に来たりなむず。急ぎ衣笠城に籠るべし」と云ひければ、義盛申しけるは、「衣笠は口あまたありて、無勢にては叶ひがたかるべし。奴田城こそ、廻りは皆石山にて一方は海なれば、吉き者百人計りだにも候はば、一二万騎寄せたりとも、くるしかるまじき所なれ」と申しければ、大介云ひけるは、「さかしき冠者の云事哉。今は日本国を敵にて打ち死にせむと思はむ▼P2145(七二オ)ずるに、同じくは名所の城にてこそ死にたけれ。先祖の聞ゆる館にて討死してけりとこそ、平家にも聞かれ、申したけれ」と云ひければ、「尤も然るべし」とて、衣笠城に籠りにけり。
 上総介弘経が舎弟、金田大夫頼経は、義明が聟なりければ、七十余騎にて馳せ来たりて、同じき城にぞ籠りにける。此の勢相具して四百余騎に及びければ、城中にも過分したり。大介云ひけるは、「若党より初めて、厩の冠者原に至るまで、つよ弓の輩は矢衾を作りて散々に射るべし。又討手に賢からむ者共は、手々になぎなたを持ちて、深田に追ひはめて打つべし。城の西浦の手をば義澄ふせくべし」とぞ下知しける。かく云ふ程に、廿六日辰剋に、武蔵国の住人、江戸大郎・河越太郎、党の者には金子・村山・俣野・〔野〕与・山口・児玉党▼P2146(七二ウ)を初めとして、凡その勢二千余騎にて押し寄せたり。先づ連五郎、父と兄とを小坪にて打たれたる事を安からず思ひける故に、ま先懸けて出で来たる。支度の如く、城中より矢前をそろへて是を射る。一方は石山、二方は深田なれば、寄武者打たれにけり。又、打者冠者原、鼻を並べて出で向かひて戦ひければ、面を向くる者なかりけり。
 かかりければ、連が党、少し引き退きけるを、金子の者共入れ替へて、金子十郎・同じく与一、城口へ責め寄せたり。城中より例の矢前をそろへて射けれども、金子少しも退かず、廿一まで立ちたる矢をば折り懸け折り懸けして戦ひけり。其の時、城中より是を感じて、酒肴を一具、家忠が許へ送りて云ひけるは、「殿原の軍の様、誠に面白くみえたり。此の酒めして、力▼P2147(七三オ)付けて、手のきは軍し給へ」と云ひ送りければ、金子返事に申しけるは、「さ承り候ひぬ。能々飲みて、城をば只今に追ひ落とし申すべし」とて、やがて甲の上に萌黄の糸威の腹巻を打ち懸けて、少しもしひず責め寄せければ、大介是をみて若者共に下知しけるは、「あはれ云ふ甲斐なき者共かな。あれを、二三十騎馬の鼻を並べて懸け出だして、武蔵国の者の案内もしらぬを深田に追ひはめて咲へかし」と罵りけれども、「幾程なき勢にて打ち出でむ事も中々悪しかりなむ」とて出でざりければ、大介老々として而も所労の折節なりけるが、白き直垂になえ烏帽子おし入れて、馬にかきのせられて、雑色二人を馬の左右に付けて膝をおさへさせて、太刀計りをはきて敵の中へ打ち出でむとしければ、いとこの左野平太、馳せ▼P2148(七三ウ)来たりて、「介殿には物の付き給ひたるか。打ち出で給ひては何の詮かは有るべき」とて引き留めければ、大介、「己等にこそ物の付きたるとはみれ。軍と云ふは、或る時は懸け出だして敵をも追ひ散らし、或る時は敵にもおはれて引き退きなんどするこそ、目をもさまして面白けれ。いつと云ふ事もなく、草鹿的(さうしかまと)なんど射るやうに軍する事、みもならはず」と云ふままに、鞭をあげて左野平太をぞ打ちたりける。さる程に日もくれぬ。
 軍各しつかれて、大介、事の外に心よわげに見えければ、子孫共を呼びて云ひけるは、「今は城中以ての外によわげにみゆ。さればとて各左右なく自害すべからず。兵衛佐殿は荒量に打たれ給ふまじき人ぞ。佐殿の死生を聞き定めむ程は、甲斐なき命を生きて、始終を見はて奉るべし。いかにも安房・上総の方へぞ▼P2149(七四オ)落ち給ひぬらむ。今夜ここを引きて、船に乗りて佐殿の行へを尋ね奉るべし。義明今年已に七十九歳[B 「八十四歳(はちじふしさい)」と傍書]に迫れり。其の上所労の身なり。『義明幾程の命を惜しみて、城の中をば落ちけるぞ』と、後日にいはれむ事も口惜しければ、我をばすてて落ちよ。全く恨み有るべからず。急ぎ佐殿に落ち加はり奉りて、本意を遂ぐべし」と云ひけれども、さればとて、すて置くべきにあらねば、子孫、手輿に大介をかきのせて落ちむとすれば、大介、大きにしかりて輿にも乗らず。されどもとかく誘へ、おしのせて城の中をば落ちにけり。宗との者共は、栗浜の御崎に有りける船共にはいのりはいのり、安房の方へぞ趣きける。大介が輿は、雑色共の舁きたりけるが、敵近く責めかかりければ、輿をもすてて逃げにけり。近く付き仕へける女一人ぞ付きたりける。▼P2150(七四ウ)敵が冠者原追ひかかりて、大介が衣装をはぎければ、「我は三浦の大介と云ふ者なり。かくなせそ」と云ひけれども叶はず。直垂もはがれにけり。さるほどに夜もあけにければ、大介、「あはれ、我はよく云ひつるものを。城中にてこそ死なむと思ひつるに、若き者の云ふに付きて犬死にしてむずる事こそ口惜しけれ。さらば同じくは畠山が手に懸かりて死なばや」と云ひけれども、江戸太郎馳せ来りて、大介が頸をば打ちてけり。「いかにもおとなの云ふ事は様有るべし。元より大介が云ひつる様に、城中にすておきたらば、かほどの恥には及ばざらまし」とぞ人申しける。
 兵衛佐は、土肥の鍛冶屋が入ると云ふ山に籠りておはしけるが、峯にて見遣りければ、伊東入道、土肥に押し寄せて、真平が家を追捕し、焼き払ひけり。真平、山の峯より遥かに▼P2151(七五オ)見下ろして、「土肥に三つの光あり。第一の光は、八幡大菩薩の君を守り奉り給ふ御光なり。次の光は、君御繁昌あつて、一天四海を輝かし給はむずる御光なり。次の小さき光は、真平が君の御恩に依つて放光せむずる光なり」とて、舞ひかなでければ、人皆咲ひけり。
十六〔兵衛佐安房国へ落ち給ふ事〕 さる程に、真平が妻なりける人の許より、使者を遣はして云ひけるは、「三浦の人々は、小坪坂の軍には勝ちて、畠山の人々多く誅たれたりけるが、衣笠城の軍に打ち落とされて、君を尋ね奉りて、安房国の方へ趣きにけり。急ぎ彼の人々に落ち加はり給ふべし」と、申したりければ、真平此の由を聞きて、「さてはうれしき事ごさむなれ」とて、「相ひ構へて今夜の中に海人船に召して、安房国へつかせ給ひて、重ねて弘経・胤経等をも召して、今一度御▼P2152(七五ウ)冥加の程をも御覧候へ」と申しければ、「尤も然るべし」とて、小浦と云ふ所へ出で給ひて、海人船一艘に乗りて、安房国へぞ趣き給ひける。兵衛佐已下の人々、七人ながら皆大童にて、烏帽子きたる人もなかりけり。其の浦に二郎大夫と云ふ者の有りけるに、「烏帽子やある。進らせよ」と宣ひければ、二郎大夫、さる古老の者なりければ、かひがひしく烏帽子十頭進らせたりければ、兵衛佐悦び給ひて、「此の勧賞には、国にても庄にても汝が乞ふに依るべし」とぞ宣ひける。二郎大夫宿所に帰りて、妻子に向かひて申しけるは、「烏帽子一つをだにももたぬ落人にて逃げ迷ふ人の、荒量にも預かりたりつる国庄かな」と申して咲ひけり。
 真平、「此の御船、とく出だせ」と云ひければ、子息遠平、「しばらく相ひ待つ事候ふ」と云ひければ、真平、「何▼P2153(七六オ)事を相ひ待つべきぞや。己がしうとの伊東の入道を待ち得て、君をも我をも打たせむとするな。岡崎殿、其の弥太郎めが頸打ち落としてたべ」と云ひければ、岡崎、「さるにても主と父との事を、舅の事に思ひ替へじな、弥太郎」とぞ云ひける。やがて船指し出だしたりければ、案の如くに、伊東入道卅余騎、ひた甲にて、片手矢はげて追ひ来たる。追ひさまにも数百騎にて責め来たる。「賢くぞ、とく御船を出だして」とぞ、人々云ひ合ひける。
十七 〔土屋三郎、小二郎と行き合ふ事〕
 さて、北条四郎時政は甲斐国へ趣き、一条・武田・小笠原・安田・板垣・曽禰禅師・那古蔵人、此の人々に告げけるをば、兵衛佐は知り給はで、「此の事を甲斐の人々に知らせばや」とて、「宗遠行け」とて、御文書きて遣はし▼P2154(七六ウ)けり。夜に入りて足柄山を越えけるに、関屋の前に火高く焼きたり。人あまた臥したり。土屋三郎あゆみよりて、足音高くし、しわぶきして罵りけれども、「たそ」ともいはず。土屋三郎思ひけるは、「ね入りたるよしをして、ここをとほして、先に人をおきて、中に取り籠めむとするやらむ」。さればとて、帰るべきにも非ずして、走り通りければ、誠にね入りたりける時にをともせず。
 さて人一人行き逢ひたり。あれもおそれてものもいはず。是もをぢておともせず。中一段計りを隔てて、互ひににらまへて、時をうつすほど立ちたりけり。土屋三郎はさる古兵にて有りければ、声を替へて問ひけり。「只今此の山を越え給ふはいかなる人ぞ」と云ひければ、「かく宣ふは又いかなる人ぞ」。「わ殿は誰そ」「わ殿は誰そ」と問ふ程に、互ひに知りたる声に聞きなしつ。「土屋殿のましまし侯ふか」。「宗▼P2155(七七オ)遠ぞかし。小二郎殿か」。「義治候ふ」。土屋は元より子なかりければ、兄岡崎四郎が子を取りて、甥ながら養子にして、平家に仕へて在京したりけるが、此の事を聞きて夜昼下りけるが、然るべき事にや、親に行き逢ひにけり。夜中の事なれば、互ひに顔はみず。声計りを聞きて、手に手を取り組みて、云ひ遣る方もなし。只「いかにいかに」とぞ云ひける。山中へ入りて、木の本に居て、土屋小二郎が申しけるは、「京にて此の事を承りて下り候ひつるが、今日五日は馬乗りたてて、歩行にて下り候ふ下人、一人も追ひ付かず。このひる木瀬川の宿にて承り候ひつれば、『石橋軍に兵衛佐殿も打たれ給ひぬ。土屋・岡崎も打たれたり』と申し候ひつれば、『憖ひに京をば罷り出で候ひぬ。波にも礒にも付かぬ心地して候ひつるが、さるにても土屋の方へまかり▼P2156(七七ウ)て、一定を承り定めむ』とて下り候ひつるが、関屋の程が思ひ遣られて、足占して候ひつるなり」と語りければ、土屋三郎思ひけるは、「弓矢取る者のにくさは、親を打ちては子は世にあり、子を殺しては親世にある習ひなれば、しかも実の親にてもなし。あれは只今まで平家に仕へたり、是は源氏をたのみてあり。首を取りて平家の見参にもや入らむと思ふらむ」と思ひければ、有りのままにも云はざりけり。「打たれたる人とては、わ殿が兄余一殿・北条三郎・沢六郎。公藤介は自害しつ。兵衛佐殿は甲斐へと聞く時に、尋ね奉りて趣く也。いざさらばわ殿も」とて、かい具してつれてゆく。甲斐国へ趣きて、一条二郎が許にてぞ、有りのままには語りける。▼P2157(七八オ)
十八 〔三浦の人々、兵衛佐に尋ね合ひ奉りし事〕三浦の人々は、主には別れぬ、親には後れぬ、あまの船流したる心地して、安房国の北の方、龍が礒にぞ着きにける。しばらくやすらふほどに、遥かのおきに、雲井にきえて、船こそ一艘みえたりけれ。此の人々申しけるは、「あれに見ゆる船こそあやしけれ。是程の大風に、海人船・釣船・あきなひ船なんどにてあらじ。あはれ、兵衛佐殿の御船にてや有るらむ。又敵の船にてや有るらむ」とて、弓絃しめして用心して有りけるに、船は次第に近くなる。誠の兵衛佐の御船なりければ、かさじるしを見付けて、三浦の船よりも笠じるしをぞ合はせける。猶用心して、兵衛佐殿は打板の下に隠し奉りて、それが上に殿原なみ居たり。三浦の人々はいつしか心もとなくて、船をぞ押し合はせける。船押し合はせて、輪田小大郎申しけるは、「いかに佐殿は渡らせ給ふ▼P2158(七八ウ)か」。岡崎申しけるは、「我等も知り進らせぬ時に、尋ね奉りてありくなり」とて、昨日一昨日の軍の物語をぞ初めける。三浦は「大介が云ひし事は」とて、語りて泣く。岡崎は「与一が打たれし事は」とて、語りて泣く。兵衛佐は打板の下にて是を聞き給ひて、「哀れ、世にありて、是等に恩をせばや」とぞ、さまざまに思はれける。
 いたく久しく隠れて、是等に恨みられじとて、「頼朝はここにあるは」とて、打板の下より出で給ひたりければ、三浦の人々是を見奉りて、各悦び泣き共しあひけり。和田小大郎が申しけるは、「父もしね、子孫も死なばしね、只今君を見奉りつれば、其に過ぎたる悦びなし。今は本意を遂げむ事疑ひ有るべからず。君、今は只侍共に国々を分かち給ふべし。義盛には侍の別当を給はるべし。上▼P2159(七九オ)総守忠清が、平家より八ヶ国の侍の別当を給はりて、もてなされしが、うらやましく候ひしに」と申しければ、兵衛佐は、「所あて余りに早しとよ」とて、咲ひ給ひけり。其の夜は、兵衛佐、安房国安戸(洲ィ)大明神に参詣して、千反の礼拝を奉りて、
  源は同じ流れぞ石清水せきあげ給へ雲の上まで K106
其の夜、御宝殿より気高き御声にて、
  千尋まで深くたのみて石清水只せき上げよ雲の上まで K107
 兵衛佐は、使者を上総介・千葉介が許へ遣はして、「各急ぎ来たるべし。既に是程の大事を引き出だしつ。此の上は、頼朝を世にあらせむ、世にあらせじは、両人が意也。弘経をば父とたのむ、胤経をば母と▼P2160(七九ウ)思ふべし」とぞ宣ひける。両人共に元より領状したりしかば、胤経三千余騎の軍兵を率して、結城の浦に参会して、即ち兵衛佐殿を相ひ具し奉りて、下総国府に入れ奉りて、もてなし奉りて、胤経申しけるは、「此の河の鰭に大幕百帖計り引き散らし、白旗六七十流れ打ち立て打ち立ておかれ候ふべし。是を見む輩、江戸・葛西の輩、皆参上し候はむずらむ」と申しければ、「尤もさるべし」とて、其の定にせられたりけるほどに、案の如く、是を見る輩、皆悉く参上す。さる程に、程無く六千余騎に成りにけり。
十九〔上総介弘経、佐殿の許へ参る事〕 上総介弘経は、此の次第を聞きて、「我遅参しぬ」と思ひて、当国の内、伊北・伊南・庁南・庁北・准西・准東・畔蒜・堀口・武射・山▼P2161(八〇オ)辺の者共、平家の方人して強る輩をば、押し寄せ押し寄せ是を討ち、随ふ輩をば、是を相ひ具して、一万余騎にて上総の国府へ参会して、此の子細を申しければ、兵衛佐聞き給ひて、真平を使ひにて宣ひけるは、「今まで遅参の条、存外なれども、沙汰の次第、尤も神妙也。速やかに後陣に候ふべき」よしをいはせらる。此の勢を相ひ具して、一万六千余騎に成りにけり。弘経屋形に帰りて、家子郎等に向かひて申しけるは、「此の兵衛佐は、一定の大将軍也。弘経此程の多勢を率して向かひたらむには、悦び感じて急ぎ出で合ひて、耳と口と指し合はせてささやき事、追従事なんどをこそ宣はむずらむと思ひつるに、真平を以て宣ひたりつる、一つにはおほけなく、一つには大くわいな心也。誰人にもよも荒量にはか▼P2162(八〇ウ)られ給はじ。一定本意は遂げ給はむずらむ。昔将門が、八ヶ国を打ち塞ぎて、やがて王城へ責め入らむとしけるに、平家の先祖貞盛朝臣、勅宣を承りて下向したりける時、俵藤太秀郷と云ふ兵、多勢にて将門が許へ行きたりけるに、将門余りに喜びて、けづりける髪をも取り上げずして、白衣なる大童にて、讃岐円座を二つ手に持ちて出でて、一つは俵藤太にしかせ、一つは己れしきて、種々の饗応の事共を云ひければ、秀郷さる賢者にて、『此の人の体、軽き相なり。我が身を平親王と称する程の人の、手づから敷物を以て出で、民にしかせつる条、逆なり。日本国の大将軍とえならじ』とて、やがてするぼひのきにけり。それまでこそ無くとも、せめては御前へ近くめさるべかりつる者を」とぞ云ひける。
 さて兵▼P2163(八一オ)衛佐は、武蔵国と下総国との境に、住田川と云ふ河の鰭に陣を取る。武蔵国の住人江戸太郎・葛西三郎等が一類、数を振るひて参上す。兵衛佐は、「彼等は衣笠城にて我を射たりし者には非ずや。大庭・畠山に同意して、凶心を挿みて参りたるか」といはせられたりければ、彼の輩再三陳じ申すによりて、いかにもなしたけれども、当時の勢のほしければ、大将筆が物具計りを召されて、「後陣に候へ」とて、召し具せらる。
 又、兵衛佐宣ひけるは、「平家の嫡孫小松少将惟盛を大将軍として、五万余騎にて、上総守忠清を先陣にて、斎藤別当
実盛を東国の案内者として、下るべきよし風聞す。同じくは甲斐・信乃両国、敵の方に成らぬ先に、此の河を渡り、足柄山を後ろにあて、富士川▼P2164(八一ウ)を前にあてて、陣を取らむと思ふなり」と有りければ、「此の義尤も然るべし」とぞ、各同じ申しける。「さらば、江戸太郎、此の程の案内者なり。浮き橋渡して進らすべし」と宣ひければ、江戸は兵衛佐の御気色に入らむと思ひければ、程無く浮き橋を渡して進らせたり。此の橋を打ち渡して、武蔵国豊嶋の上、瀧野川の板橋と云ふ所に陣を取る。其の勢既に十万騎に及べり。八ヶ国の大名、小名、別当、権守、庄司、大夫なんど云ふ様なる一党の者共、我劣らじと、或いは二三十騎、或いは四五十騎、百騎、面々に白旗を指してぞ馳せ集りける。兵衛佐は先当国六所の大明神に詣で給ひて、上矢を抜いて献らる。
二十 〔畠山、兵衛佐へ参る事〕 其の時畠山の二郎、乳母の半沢六郎成清を呼びて云ひけるは、▼P2165(八二オ)「当時の世間の有様、いかやうなるべしとも覚えず。父庄司・叔父小山田の別当、六波羅に祗候の上は、余所に思ふべきにあらねば、三浦の人々と一軍してき。且つは定の子細三浦の人々に云ひ置きぬ。今兵衛佐殿の放光繁昌、直事とも覚えず。平に推参せばやと思ふはいかに」と云ひければ、成清申しけるは、「其の事に候ふ。此の旨を只今申し合はせ奉らむと存じつる也。弓矢を取る習ひ、父子両方に分かるる事は常の事也。且つは又、平家は今の主、佐殿は四代相伝の君也。とかくの儀に及ぶまじ。とくとく御推参有るべし。遅々せば、一定追討使遣はされぬ」と申しければ、五百余騎にて白旗・白き弓袋を指して参りて、見参に入るべきの由をぞ申しける。
 兵衛佐宣ひけるは、「汝が父重能、▼P2166(八二ウ)叔父有重、当時平家に仕ふ。就中小坪にて我を射たりし上、頼朝が旗に只同じ様なる旗を指させたり。定めて存ずる旨の有るか」と宣ひければ、重忠申しけるは、「先づ小坪の軍の事は存知の旨、三浦の人々に再三申し置き候ひぬ。其の次第、定めて披露候ふ歟。全く私の意趣に候はず。君の御事を忽緒する事をも存ぜず。次に旗の事は、御前祖八幡殿、武衡・家衡を追討せさせ給ひ候ひし時、重忠が四代の祖父秩父十郎武綱初参して、此の旗を指して御共仕りて先陣をかけて、即ち彼の武衡を追討せられにき。近くは御舎兄悪源太殿、多胡先生殿を大倉の館にて攻められし時の軍に、重忠が父、此の旗を指して、即時に討ち落とし候ひにき。▼P2167(八三オ)源氏の御為、旁重代相伝の御悦び也。仍つて其の名を吉例と申し候ふ。君の今日本国を打ち取らせ御し候ふ御時、吉例の御旗指して参りて候ふ。此の上は御計らひ」とぞ陳じ申しける。
 兵衛佐、千葉・土肥なんどに「いかが有るべき」と問はれければ、「畠山、な御勘当候ひそ。畠山だにも打たせ給ひぬる物ならば、武蔵・相模の者共、ゆめゆめ御方へ参るまじ。彼等は畠山をこそ守り候ふらめ」と一同に申しければ、誠に埋りなりと思はれければ、畠山に宣ひけるは、「誠に陳じ申す所の条々、謂はれ無きにあらず。さらば我れ日本国を討ち平らげむほどは、一向先陣を勤むべし。但し頼朝が旗に只同じきがまがふ事の有るに、汝が旗には此の革をすべし」とて、藍革一文をぞ下されける。それより畠山が旗には小文の藍革を▼P2168(八三ウ)一文押したりけり。中々珍しくぞ見えける。
 是を聞きて、武蔵・相模の住人等、一人も漏らさず皆馳せ参る。
 大庭三郎此の次第を聞きて、叶はじと思ひて、平家の迎へに上りけるが、足柄を越えて藍沢の宿に付きたりけるが、前には甲斐源氏、二万余騎にて駿河国へ越えにけり。兵衛佐の勢、雲霞にて責め集まると聞こえければ、「中に取り龍められては叶はじ」とて、鎧の一の板切り落として、二所権現に献りて、相模国へ引き帰して、おくの山へ逃げ龍もりにけり。 平家は、かやうに内儀するをも知らず、「いかさまにも兵衛佐に勢の付かぬさきに撃手を下すべし」とて、大政入道の孫、小松の内大臣の嫡子惟盛と申しし少将、并びに入道の舎弟、薩摩守忠度とて、熊野より生し立ちて、心猛き仁と聞ゆるを、撰び▼P2169(八四オ)見せらる。又入道の末子にて三川守知度と申す、此の三人を大将軍として、侍には上総守忠清以下、伊藤、斎藤、官あるも官なきも数百人、其の勢三万余騎を向けらる。彼の惟盛は貞盛より九代、正盛よりは五代、入道相国の嫡孫、小松内大臣重盛の嫡男也。平家嫡々の正統也。今凶徒乱を成すによりて大将軍の撰びに当る、ゆゆしかりし事也。
廿一 〔頼朝、追討すべきの由、官符下さるる事〕 十一日、頼朝追討すべきよし、宣下せらる。其の官符の宣に云はく、
 「左弁官下す 東海東山道諸国、
   早く伊豆国の流人源頼朝并びに与力の輩を追討すべき事
  右、大納言兼左近衛大将藤原実定、〔 〕勅を奉りて宣す。伊豆国の流人▼P2170(八四ウ)源頼朝、忽ちに凶党を相語らひて、当国・隣国を虜掠せんと欲す。叛逆の至り、既に常図に絶ゆ。宜しく追討せしむべし。右近衛権少将惟盛、薩摩守同じく忠度、参河守同じく忠度、参河守同じく知度等、兼ねては又、東海東山両道の武勇に堪ふる者、同じく之を追討すべし。其の中に群抜に殊功有る輩は、不次の賞を加ふべし。諸国宜しく承知すべし。宣に依つて之を行ふ。
   治承四年九月十六日、左大史小槻宿祢
  蔵人頭左中弁藤原経房が奉り」と書かれたり。
 昔は、朝敵を討ち平げむとて外土へ向かふ大将軍は、先づ参内して節刀を賜はる。震儀、南殿に出御し、兵衛階下に陣を引き、内弁・外弁の公卿、参列して中儀の節会を行はる。大将軍・副将軍、各礼▼P2171(八五オ)儀をただしくして是を賜はる。されども、承平天慶の前蹤も、年久しくなりて准へがたし。今度は、堀川院の御時、嘉承二年十二月、因幡守正盛が前の対馬守源義親を追討の為に出雲国へ下向せし例とぞ国(聞こ)へし。鈴ばかりは賜はりて、革の袋に入れて、人の頸に懸けさせたりけるとかや。
〔廿二〕〔昔将門を追討せられし事〕 朱雀院の御時、承平年中に、平将門、下総国相馬郡に住して、八ヶ国を押領し、自ら平親王と称して都へ打ち上りけり。帝位を傾け奉らむとする謀反の聞こえ有りければ、花洛の騒ぎなのめならず。これに依つて、天台山には、其の時の貫首、法性房の大僧都尊意を始め奉りて、延暦寺の講堂にて、天慶二年二月に、将門降伏の為に不動を安じ、▼P2172(八五ウ)鎮護国家の法に修する。是のみならず、諸寺諸社の僧侶に仰せて、将門調伏の祈精有りけり。
 平家の先祖にて貞盛、其の時無官にて上平太と申ける時、兵の聞こえ有りて、将門追討の宣旨を奉る。例に任せて、節刀を賜はりて、鈴の奏をして、相撲節、之を行はるる時、方の左右、大将の礼儀振舞なる。弓場殿の南の小戸より罷り出でけるに、副大将軍宇治民部卿忠久、大将軍には平貞盛、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国幹、大監物平清基、散位源就国、散位源経基等東国へ発向す。下野国の押領使藤原秀郷、国にして相伴ひけり。
 貞盛已下、東路に打ち向ひて、遥々と下りける道すがら、猛くやさしき事共有りけり。中にも駿河国清見が関に宿りたり▼P2173(八六オ)けるに、清原滋藤と云ふ者、民部卿に伴ひて、軍監と云ふ官で下りけるが、「漁舟の火の影は寒くして浪を焼く、駅路の鈴の声は夜山を過ぐ」と云ふ唐韻を詠じたりけるが、折から優に聞こえて、民部卿涙を流してぞ行きける。
 天慶三年二月十三日に、貞盛以下の官軍、将門が館へ押し寄せたり。将門が余勢、未だ来たり集まらず。先づ四千余騎を率して、下総国幸嶋郡北山に陣をとつて相待つ処に、同じく十四日の未申両剋に合戦をとぐ。爰に将門、順風を得たり。貞盛、風下に立ちたり。暴風枝を鳴らし、地籟塊を運ぶ。将門が南面の楯、前を払ふ。貞盛が北の楯、面に吹き掩ひけれども、貞盛事とせず。両陣乱れ逢ひて、数剋合戦を致す。貞盛が中の陣の兵八十余騎、追ひ靡びかさる。将門が凶徒等、▼P2174(八六ウ)跡目に付きて襲ひ来たる。貞盛以下の官兵等、身命を捨てて禦き戦ふ時、将門甲冑を着し、駿馬に乗りて懸け出でて支へたり。馬は風飛を忘れたり、人は梨老の術を失へり。将門が凶徒等、防き戦ふ事、輙く責め落とし難かりけるに、調伏の祈精酬いて、将門天罰を蒙り、神の鏑暗に中りて、終に誅戮せられけり。
 同じく四月廿五日に、下総国より将門が首、都へ献る。大路を渡して、左の獄門の木に懸けらる。譬へば、馬の前の薗、野原に遣り、俎の上の魚、海浦に帰するが如し。将門名を失ひ身を滅ぼす事、武蔵権守興世、常陸介藤原玄茂等が謀悪を致す所なり。徳を貪り君を背く者、鉾を踏む虎の如しと云へり。
 将門が伴類等、或いは誅たれ、或いは戦場を逃げ出でて、国々に逃げ籠りたり。将門が舎弟将頼并▼P2175(八七オ)びに常陸介藤原玄茂は相模国にして誅たる。武蔵権守興世は上総国にして首を刎らる。坂上の遂高、藤原玄明は常陸国にして誅戮せらる。此の外の舎弟以下伴類等は、命の捨てがたさには、深山に逃げ籠る。妻子を捨てて、山野に迷ふ輩、数を知らず。鳥に非ねども、空しく四鳥の別れを致し、山に非ずして徒らに三荊の悲しみを懐く。雷電の響きは百里の内には聞こゆ。将門、下総豊田の郡の凶徒、謀叛の聞こえ千里の外に通ず。一生一業、大康の罪業を致し、終に黄泉の道に迷ふらむ。無慙とも愚か也。
 時に勧賞行はる。上平太たりし貞盛、忽ちに平将軍と仰せ下さる。其の時、陣座の作法、左大臣実頼小野宮殿、右大臣師輔九条殿、此の外公卿・殿上人座列し給ひたりけるに、九条殿申させ▼P2176(八七ウ)給ひけるは、「大将軍すすむで襲ひ来たりて朝敵を平ぐる事は左右に及ばねども、後陣に副将軍の後に襲ひ来たるを憑もしく思ふによつて、合戦の思ひも弥よ猛なり。而るに、貞盛一人に勧賞を行はるる事、忠久、本意無くや存じ候はむずらむ。大将軍の程の賞こそ候はずとも、少しにおうたる賞や、忠久に行はるべく候ふらむ」と度々申させ給ひけれども、小野宮殿「さのみ勧賞行はれ候はむ事、無下に念なく候ふ」なんど申させ給ひければ、民部卿忠久の賞は遂に行はれざりけり。忠久忽ちに怒りをなして、内裏を罷り出でられけるに、天も響き地もくづるばかりなる大音声を捧て、「小野宮殿の末葉、永く九条殿の御末の婢となし給へ」と罵りて、手をはたと打ちて、左右の手をにぎり給ひける。十の爪二三寸計に、目にみすみす▼P2177(八八オ)なりて、にぎり通したりければ、見るもおびたたし。紅を絞りたるが如し。やがて宿所に帰りて、思ひ死にに死にて、悪霊とぞ成りにける。さればにや、果たして小野宮殿の御末は、今は絶えはてて、自ら有る人も数ならず。九条殿の御末は、今まで摂政絶えさせ給はず。小野宮殿の御末は、皆九条殿の婢にぞ成り給ひにける。朝敵を平ぐる儀式は、上代はかくこそあんなるに、維盛の撃手の使の儀式、先蹤を守らぬに似たり。「なじかは事行ふべき」とぞ時の人申し合ひたりける。
廿三 〔惟盛以下、東国へ向かふ事〕 維盛以下の撃手の使、九月十七日、福原の新都を出でて、同じき十八日、古京に着く。是れより東国へ趣く。甲冑・弓・胡〓[竹+録]・馬の鞍、郎等に至るまで、かかやく計りぞ出で立ちたりければ、見る人幾千万と云ふ事をしらず。▼P2178(八八ウ)権亮少将惟盛は、赤地の錦の直垂に大頸はた袖は紺地の錦にて綺へたり。萌黄匂の糸威の鎧に、連銭葦毛の馬の太く逞しきに、鋳懸地の黄覆輪の鞍置きたり。年廿二、みめ皃勝れたりければ、画に書くとも筆も及ぶべくもみえず。 志浅からざりける女房、忠度の許へ云ひ遣はしける。
  東路の草葉をわけむ袖よりもたたぬたもとぞ露けかりける K108
と申したりければ、忠度、
  別れ路をなにかなげかむこえて行くせきを昔のあとと思へば K109
と返したりけり。此の人、貞盛が流れなれば、昔将門が討手の使の事をよめるにや。女房の本歌は、大方のなごりはさる事にて、返歌は▼P2179(八九オ)いまいましくぞ覚ゆる。
〔廿四〕〔新院厳嶋へ御幸事 付けたり願文あそばす事〕 同じき九月廿二日、新院又厳嶋へ御幸。去んぬる三月にも御幸ありて、其の験にや、一両月の程に天下鎮まりたる様にみえて、法皇も鳥羽殿より出御などありしに、去んぬる五月、高倉宮の御事より打ち連き、又しづまりもやらず。天変頻りに示し、地夭常にあつて、朝庭穏しからざりしかば、惣じては天下静謐の御祈念、別しては聖体不予の御祈祷の為也。誠に一年に二度の御幸は、神慮争か喜び給はざるべき。御願成就も疑ひなしとぞ覚えし。御共には入道相国右大将宗盛公以下、卿相雲客八人とぞ聞こえし。此の度は、素紙墨字の法花経を書供養せらる。其の外、御手づから金泥にて提婆品をあそばされたり▼P2180(八九ウ)けり。件の願文は、御真文とぞ聞こえし。其の御願文に云はく、
  蓋し聞く、法性の山静かにして、十四十五の月高く晴れ、権化の地深くして、一陰一陽の風旁らに扇ぐ。それ伊都岐嶋の社は、称名普聞の場なれば、効験無双の砌也。遙嶺の社壇を廻るなり。自ら大慈の高く峙てるを顕し、巨海の祠宇に及ぶなり。暗に弘誓の深湛を表す。
 伏して惟れば、初めは庸昧の身を以て、忝く皇王の位を踏む。今は〓[言+庶]遊を勵郷の訓へに翫ぶ。閑放を射山の居に楽しぶ。而るを、偸かに一心の精誠を抽きんでて、孤嶋の幽埃に詣す。瑞籬の下に冥恩を仰ぐ。懇念を凝らして汗を流しぬ。宝宮の裏に霊託を垂る。其の告げの意に銘ずる有り。就中、怖畏謹慎の期を指すに、専ら季夏初秋の候に当たる。而る間、病痾忽ちに侵し、弥よ神威(感ィ)の空しからざることを思ふ。萍桂頻りに転ず、猶医術の験を施すこと無し。▼P2181(九〇オ)祈祷を求むと雖も、霧露を散じ難し。如かじ、心府の志を抽きんでて、重ねて斗藪の行を企てむと欲す。
 漠々たる寒嵐の底に旅泊に臥して、夢を破り、凄々たる微陽の前に、遠路を望みて眼を極む。遂に枌楡の砌に就きて、敬ひて清浄の莚を展べて、書写し奉る、色紙墨字の妙法蓮花経一部、開結二経、般若心経、阿弥陀経各一巻、手づから自ら書写し奉る、金泥の提婆品一巻。時に蒼松蒼柏の蔭、共に善利の種を添へ、潮去り潮来たる響き、暗に梵唄の声に和す。弟子北闕の雲を辞して八日、涼燠の多く廻ること無しと雖も、西海の浪を凌ぐこと二度、深く機縁の浅からざることを知る。
 抑も、朝に祈る客、一つに匪ず。暮に賽申しする者千且なり。但し、尊貴の帰敬多しと雖も、院宮の往詣、未だ之を聞かず。禅定法皇、初めて其の儀を胎す。弟子、眇身深く其の志を運らす。彼の嵩高山の月の前に、漢武未だ和光の影を▼P2182(九〇ウ)拝せず。蓬莱嶋の雲の底に、天仙空しく垂跡の塵を隔つ。当社の如きは曽て比類〔無し〕。仰ぎ願はくは大明神、伏して乞ふ一乗経、新たに丹祈を照らして、忽ちに玄応を影し給へ。敬ひて白す。
治承四年九月廿八日 太上天皇 御諱 敬ひて白す
廿五 〔大政入道院に起請文書かせ奉る事〕 御奉幣の後、廻廊に御通夜あり。遥かに夜ふけて、御前に祗候の人々をば皆のけられて、入道并びに宗盛公参りて密かに申されけるは、「東国に兵乱起こりて候ふ。源氏に御同心あらじと御起請文あそばして、入道に給はり候へ。心安く存じて、弥よ宮仕へ申し候ふべし。若し聞こし召され候はずは、此の離島に棄て置き進らせて、罷り帰り候ふべし」と申されければ、上皇少しも騒がせ給はず、打ち咲はせ給ひて、「其の条いと安し。但し、年来何▼P2183(九一オ)事かは、入道はからひ申したる事を背きたる。今初めて二心ある身と思はるらむこそ本意なけれ」と仰せ有りければ、宗盛公、硯紙持ちて参りたり。「さていかにと書く事ぞ」と仰せあり。入道の申すままにあそばして給はる。入道是を拝見して、上皇を拝し奉りて、「今こそたのもしく候へ」とて、前の右大将に見す。「凡そ目出たく候」と申されければ、入道取りて懐に入れて退出す。「人々御前へ御参り候へ」と、常よりも心よげなる気色にて申されける時、邦綱卿参られたり。かたへの人はつやつや其の心をえず。余りにおぼつかなかりけるとかや。
 十月五日、還幸。今度は福原の新都より御幸なれば、斗藪の御煩ひなかりけり
廿六 〔法皇夢殿へ渡せ給事〕 十七日、夢殿と云ふ所にあたらしき御所を立てて、日来渡らせ給ひけるが、▼P2184(九一ウ)三条へ渡らせ給ふべきよし、入道相国申しければ、法皇渡らせ給ふ。御輿にてぞ有りける。御共には、左京大夫修範候はれけり。楼の御所とて、いまいましき名ある御所を出でさせ給ひき。世の常の御所へ入らせ給ふぞ目出たき。是も厳島の御幸の験にやとぞ思し召されける。入道、事の外に思ひ直らるるにこそと思し召さる。
廿七 〔平家の人々駿河国より逃上ぐる事〕 平家の討手の使、三万余騎の官軍を率して、国々宿々に日を経て宣旨を読み懸けけれども、兵衛佐の威勢に怖れて、従ひ付く者なかりけり。駿河国清見が関まで下りたりけれども、国々の輩一人も従はず。兵衛佐の勢は日に随ひて馳せ重ると聞こえければ、大将維盛・忠度等、斎藤別当実盛を召して、明日の合戦の事を談議▼P2185(九二オ)せられける次でに、「抑も、頼朝が勢の中に己ほどの弓勢の者何計りか有る」なんど問はれければ、「実盛をだにも弓勢の者と思し召され候ふか。奥さまには、矢づかは十二三束、十四五束を射る者のみこそ多く候へ。弓は二人張の弓をのみ持ちあひて候ふ。冑を二三両なんど重ねて、羽ぶさまで、射貫き候ふ者、実盛おぼえてだにも七八十人も候ふらむ。馬は早走りの進退逸物なる究竟の乗尻共、乗りおほせて、馬の鼻を並べてかけ候ふ。親もしね、主もしね、子も死ね、従者もしね。それを見あつかはむとする事、ゆめゆめ候はず。只死人の上をも乗りこえて、敵に取り付かむとするふて者にて候ふ。何なる又郎等も、一人してつよき馬四五疋づつ乗替に持たぬ者候はず。京武者、西国の者共は、一人手負ひ候ひぬれば、それをかき▼P2186(九二ウ)あつかはむとて七八人は引き退く。馬は、伯楽馬の乗り出で四五丁計りこそ頭持ち上げ候へ、下りつかれて候はむに、東国の荒手の武者に一あてあてられ候ひなば、争か面を向け候ふべき。坂東武者十人、京武者一二百人向られ候ふとも、答ふべしとも覚え候はず。就中に、源氏の勢は、二十万余騎と聞こえ候ふ。御方の勢は、纔かに三万余騎こそ候ふらめ。同じ程に候はむだにも、なほ四分が一にてこそ候へ。彼等は、国々の案内者共にて候ふ。各は国の案内も知り侯はず。追ひ立てられ候ひなば、ゆゆしき御大事にて候ふべし。京よりもさばかり申し候ひし物を。当時、源氏に与力したる人々の交名、粗承り候ふに、敵対すべしとも覚え候はず。『急ぎ御下りありて、武蔵・相模へ入らせ給ひて、両国の勢を具して、▼P2187(九三オ)長井の渡に陣を取りて敵を待たせ給へ』と、再三申し候ひしを、きかせ給はずして、兵衛佐に両国の勢を取られ候ひぬる上は、今度の軍は叶ひ難くぞ候はむずらむ。かく申し候へばとて、実盛落ちて軍をせじと存ずるにては候はず。恐れながら、実盛ばかりぞ軍は仕り候はむずる。されども、右大臣殿の御恩重き身にて候へば、きと暇を給はりて、今一度見参に入りて、怱ぎ帰り参りて討ち死に仕るべし」とて、千騎の勢を引き分けて、京へ帰り上りにけり。
 大将軍、聞き憶して、心弱くは思はれけれども、上には、「実盛がなき所にては軍はせぬか。いざさらば、やがて足柄山を打ち越えて、八ヶ国にて軍をせむ」と、大将達ははやられけるを、忠清申しけるは、「八ケ国の兵、皆兵衛佐に従ふよし聞こえ候ふ。伊豆・駿河の者共、▼P2188(九三ウ)参るべきだにも、未だ見え候はず。御勢は三万余騎とは申し候へども、事に合ひぬべき者、二三百人にはよも過ぎ候はじ。左右無く山を打ち越えては、中々あしく候ふべし。只富士川を前にあてて防かせ給ひ候はむに、叶はずは、都へ帰り上らせ給ひて、勢を召して、又こそ御下り候はめ」と申しければ、「大将軍の命を背く事やは有る」といはれけれど、「それも様による事にて候ふ上、福原をたたせ給ひし時、入道殿の仰せに、合戦の次第は忠清が計らひ申さむに随はせ給ふべきよし、正しく仰せ事候ひき。其の事きこしめされ候ひなむ者を」とて、すすまざりければ、一人懸け出づるにも及ばず、手綱をゆらへ、目を見合はせて、敵を相ひ待ちける程に、十月廿二日、兵衛佐八ヶ国の勢を振るひて、足柄を超えて、木瀬川に陣を取りて兵の数を注しけり。侍・郎等・▼P2189(九四オ)乗替相ひ具して、馬の上、十八万五千余騎とぞ注しける。其の上、甲斐源氏には、一条次郎忠〔頼〕を宗として、二万余騎にて兵衛佐に加はる。
 平家の勢は、富士の麓に引きあがり、平張打ちてやすみ居たりけるに、兵衛佐使を立てて申されけるは、「親の敵と優曇花とに合ふ事は、惣じて有り難き事にて候ふに、近く御下り候ふなるこそ、悦び存じ候へ。明日は急ぎ見参に入るべし」と、云ひ送られたり。使は雑色新先生と云ふ者也。当色きせたる者八人具して向かひて、平家の人々の陣にて次第に此の由を触れ廻りけるに、人々幔幕打ち上げて居られたりけれども、返事云ふ人もなし。「此の御返事は、いかがし給はむずらむ」と相ひ待つ処に、返事に及ばず、彼の使者を搦めて、一々に頸を切りてけり。兵衛佐是▼P2190(九四ウ)を聞きて、「昔も今も、牒の使の首を切る事、未だ聞き及ばず。平家已に運尽きにけり」と宣ひければ、軍兵弥よ兵衛佐に帰伏したりけり。
 さるほどに、兵衛佐には、九郎義経、奥州より来加はりければ、佐、弥よ力付きて、終夜昔今の事共を語りて、互に涙を流す。佐宣ひけるは、「此の廿余年が間、名をば聞きつれども、其の皃を見申さざりつれば、いかがして見参すべきと思ひ給へつるに、最前に馳せ来たり給へば、故頭殿の生き帰り給へるかと覚えて、たのもしく覚え候ふ。彼の項羽は、沛公を以て秦を滅ぼす事を得たりき。今、頼朝次将を得たり。何ぞ平家を誅伐して、亡父が本意を遂げざるべき」と宣ひて後、「抑も此の合戦の事を聞きて、秀衡はいかが申しし」と尋ねられければ、「ゆゆしく感じ申し候ふぞ。新大▼P2191(九五オ)納言已下の近臣を失ひ、三条宮、源三位入道を誅たれし折節、殊には『いかに、兵衛佐殿は聞給はぬやらむ』と、度々申し候ひき。去んぬる承安四年の春の比より、都を出でて奥州へ罷り下りて候ひしに、秀衡昔の好みを忘れず、事にふれて憐れみを至し候ひき。かく参り候ひつるにも、甲冑・弓箭・馬の鞍・郎従に至るまで、併ら出だし立てられて候ふ。しからずは、争か郎等一人をも相具し候ふべき。十余年が程、彼が許に候ひし程の志、いかにして報じ尽くすべしとも覚えず候ふ」とぞ、九郎義経申しける。
 廿四日、明日は両方矢合せと定めて、日も晩れにけり。平家の軍兵、源氏の方を見遣りたれば、篝火のみゆる事、野山と云ひ里村と云ひ、雲霞、はれたる空の星の如くなり。東・南・北三方は敵の方也。西一方計りぞ、我が方の勢なり▼P2192(九五ウ)ける。源氏の軍兵、弓の絃打ちし、鎧づきし、どどめき罵りける音に驚きて、富士の沼に群れ居る水鳥ども、羽打ちかはし、立居する声おびたたしかりけり。是を聞きて、敵既によせて時を作るかと思ひて、搦手廻らぬ先にと、取る物も取りあへず、平家の軍兵、我先にと迷ひ落ちにけり。鎧はきたれども、甲をばとらず。矢は負ひたれども、弓をとらず。或いは馬一疋に二三人づつ取り付きて、誰が馬と云ふ事もなく乗らむとす。或いはつなぎたる馬に乗りてあふりければ、くるくると廻る物も有りけり。かやうにあわてさわぎて、一人も残らず、夜中に皆落ちにけり。
 さて夜漸く暁方に成りて、源氏の方より廿万六千余騎、声を調へて時を作る事、三ヶ度也。凡そ東八ヶ国ひびかして、山のかせぎ、河の▼P2193(九六オ)鱗に至るまで、肝をけし、心を迷はさずと云ふ事なし。おびたたしなんど云ふも愚かなり。かかりけれども、平家の方には時の声をも合はせず、つやつやおともせざりければ、あやしみを成して、人を遣はして見せければ、屋形大幕をも取らず、鎧・腹巻・大刀・刀・弓箭・小具足まで、いくらと云ふ事もなく捨て置きて、人一人もみえざりけり。兵衛佐、是を聞きて、「此の事、頼朝が高名に非ず。併ら八幡大菩薩の御計らひ也」とて、王城を伏し拝み給ひて、表矢をぬいてぞ献り給ひける。彼の水鳥の中に、山鳩あまた有りけるなんどぞ聞こえし。其の比、海道の遊女共が口遊みに、
  富士川の瀬々の岩越す波よりも早くも落つる伊勢平氏哉 K110
廿八 〔平家の人々京へ上り付く事〕 十五日、東国へ下りし惟盛已下の官兵共、今日旧都へ入る。昼は▼P2194(九六ウ)人目に恥ぢて、夜陰れてぞ入りける。三万余騎を率して、下りし時は、「昔より是程の大勢、聞きもし見も及ばず。保元平治の兵革の時、源氏・平氏、我も我もと有りしかども、是が十分が一だにも及ばざりき。あな、おびたたし。誰か面を向くべき。只今打ち靡かしてむず」と見えし程に、矢一筋をも射ず、敵の皃をもみず、鳥の羽音に驚き、兵衛佐の勢多かるらむと聞き臆して逃げ上りたるぞ、無下にうたてき。折節、在京したりける関東の武士少々、惟盛に付きて下りたりけるが、小山四郎朝政以下、多く源氏の方へ付きにければ、弥勢かさなりにけり。旧都の人々、是を聞きて申しけるは、「昔より物の勝負には見逃げと云ふ事、云ひ伝へたりつれども、其だにもうたてきに、是は聞き逃げにこそあむなれ。手▼P2195(九七オ)合はせの討手の使、矢一つをも射ず、逃げ上る、あな、いまいまし。向後もはかばかしかるまじきごさんめれ。一陣破れぬれば、残党固からず」とて、聞く人、弾指をぞしける。
〔廿九 京中に落書する事〕 例の又何なるあどなし者のし態にや有りけむ、平家をば平屋と読み、討手の大将をば権亮と云ひ、都の大将軍は宗盛といへば、是等を取り合はせて歌によみたりけり。
  平屋なる宗盛いかに騒ぐらむ柱とたのむすけを落として K111
上総守忠清が富士川に鎧を忘れたりける事を
  富士川に鎧は捨てつ墨染の衣只きよ後の世のため K112
  忠景はにげの馬にや乗りつらむかけぬに落る上総しりがひ K113
▼P2196(九七ウ)忠清が本名をば、忠景と云ひければ、かくよみたりけるにや。げに鼠毛の馬にや乗りたりけむ。当時、奈良法師こそ平家に讎を結びたりしかば、其の所行にてや有りけむ。入道相国、余りに口惜しがりて、権亮少将をば鬼海の嶋へ流し、忠清をば頸を切らむとぞ宣ひける。忠清、誠に身の咎遁れ難し。いかに陳ずとも甲斐あらじ。いかがせましとためらひけるが、折節、主馬の判官盛国以下、人ずくなにて、かやうの沙汰共有りける所へ、忠清をづをづ伺ひよりて申しけるは、「忠清十八の歳と覚え候ふ。鳥羽殿に盗人の籠もりて候ひしを、寄する者一人も候はざりしに、築地より登り越えて、搦めて候ひしよりこのかた、保元平治の合戦を初めとして、大小の事に一度も君を離れ▼P2197(九八オ)参らせ候はず。又不覚を現はしたる事も候はず。今度東国へ初めて罷り下りて、かかる不覚を仕る事、ただ事とは覚え候はず。よくよく御祈り有るべしと覚え候ふ」と申しければ、入道相国げにもとや思し召されけむ、物も宣はず。忠清勘当に及ばざりけり。
三十 〔平家三井寺を焼き払ふ事〕 去んぬる五月、高倉宮を扶持し奉る事によりて、三井寺責めらるべしと沙汰有りければ、大衆発りて、大津の南北の浦にかいだてをかき、矢倉をかきて防くべき由、結構す。十一月十七日、頭の中将重衡朝臣を大将軍として、一千余騎の軍兵を率して、三井寺へ発向す。衆徒防き戦ふと云へども何事か有るべき、三百余人討たれにけり。残る所の大衆、こらへずして落ちにけり。或いは耆▼P2198(九八ウ)老を引きて高き峯に昇り、或いは是幼稚にして深き谷に入る。かかりければ、重衡朝臣、寺の中に打ち入りて、次第に是を焼き払ふ。南北中の三院の内、焼くる所の堂舎塔廟神社仏閣、本覚院・鶏足坊・常喜院・真如院・桂薗院・尊星王堂・普賢堂・青龍院・大宝院・今熊野の宝殿・同じく拝殿等・護法善神の社壇・教待和尚の本坊〈同じく御殿影像同じく本尊等〉・鐘楼七宇・二階大門〈金剛力士在り〉・八間四面大講堂・三重宝塔一基・阿弥陀堂・同じく宝蔵・山王宝殿・四足一宇・四面の廻廊・五輪院・十二間の大坊・三院各別、灌頂堂各一宇、但し金堂計りは焼けざりけり。其の外、僧房六百余宇、在家千五百余家、地を払ひ畢ぬ。仏像二千余体、▼P2199(九九オ)顕密両宗の章疏、大師の渡し給へる唐本一切経七千余巻、忽ちに灰燼となりぬ。又焼け死ぬる所の雑人、既に千人に及ぶとぞ聞えし。凡そ顕密須臾に滅びて、伽藍実に跡なし。三宝の道場もなければ振鈴の音も聞かず。一花の仏前もなければ闘伽の声も絶えたり。宿老有智の明匠も修学を怠りたり。受法相承の弟子も経教に別れたり。
 此の寺と申すは、元は近江のギ大領と申す者の私の寺たりしを、天武天皇に寄進し奉りてより以降、御願と号す。専ら南岳天台の古風を学び、深く青龍玄法の教跡を翫ぶ。数百歳の智水、此の時に永く渇き、大小乗之法輪、此の時に忽ちに止どまりぬ。仏法の経句、人法の最後なり。遠近皆傷嗟す、況や寺門の住侶に於てをや。▼P2200(九九ウ)老少挙りて憂悲す、況や有情の諸人に於てをや。本仏と申すは、彼の天皇の御本尊なりしを、生身の弥勒如来と聞こえ給ひし教待和尚の百六十二年の間、昼夜朝夕懈らず行ひて、智置大師に付属し給ひたりける弥勒とぞ聞こえし。「都吏多天上摩尼宝殿より天降り坐して、遥かに龍花下生の朝を待ち給ふ」と聞きつるに、「こはいかになりぬるやらむ、当寺の恵命も既に尽きはてぬるにや」とぞ見えし。天智・天武・持統三代の御門の御鵜の羽葺湯の水を汲みたりける故に三井寺と号したり。又は大師此の所を伝法灌頂の霊跡として井花水の水を汲む事、慈尊三会の朝を待つ故に三井寺とも申しけり。かくやむごとなき聖跡なれども、事とも云はず、弓▼P2201(一〇〇オ)箭を入れぬる事こそ悲しけれ。
卅一 〔円恵法親王天王寺の寺務止めらるる事〕 廿一日、薗城寺の円恵法親王、天王寺の別当止められ給ふ。彼の宮と申すは後白川院の御子也。院宣に云はく、「薗城寺の悪徒等、朝家を違背して忽ちに謀叛を企つ。仍に門徒の僧綱已下、皆悉く公請を停止して、見任并に〓徳(そうとく)を解却し、兼ねては又、末寺・庄園、及ひ彼の寺の僧等が私領、諸国の宰吏に仰せて、早く収公せしむ。但し寺用に限り有るに於ては、国司の沙汰と為て、寺家の所司に付けて、其の用途に任せて、恒例の仏事を退転せしむること莫れ。無品円恵法親王、宜く所帯の天王寺の検校職を停止せしむべし」とぞ書かれたりける。
卅二 〔薗城寺の衆徒僧綱等、解官せらるる事〕 悪僧には僧正房覚、権僧正覚智、法印権大僧都定恵、▼P2202(一〇〇ウ)能慶、実慶、行乗、権少僧都真円、豪禅、兼智、良智、顕舜、権律師道顕、慶智、覚増、勝成、行智、行舜、已上十七人、見任解却。次に法印公性、行暁、慶実、法眼真勝、道澄、経尊、道俊、弁宗、勝慶、乗智、実印、偏円、漂猷、観忠、法橋良俊、忠祐、良覚、前の大僧正覚讃、前の権僧正公顕、前の権少僧都道任、已上廿人、上に准ふ。次に二会の講師円全、章猷、澄兼、公胤、已上四人、公請を停止す。殊に僧綱十三人、公請を止めらる。官を召し、所領を没官して同じく、
卅三 〔薗城寺の悪僧等を水火の責めに及ぶ事〕 使庁の使を付けて、水火の責め〔に及び〕て、明俊已下の悪僧を召さる。一乗院の房覚少将僧正をば飛騨判官景高朝臣奉る。▼P2203(一〇一オ)桂薗院実慶常陸法印をば上総判官忠綱朝臣奉る。行乗中納言法印をば博士の判官章貞奉る。能慶真如院の法印をば和泉判官仲頼奉る。其円亮僧都をば源大夫判官奉る。覚智美乃僧都をば摂津判官盛澄奉る。勝慶蔵人法橋をば祇薗の博士基康奉る。公顕宰相僧正をば出羽判官光長奉る。覚讃大納言僧正をば斎藤判官友実奉る。乗智明王院の僧正をば新志明基奉る。実印右大臣法眼をば仁府生経広奉る。▼P2204(一〇一ウ)観忠中納言法眼をば能府生兼康奉る。行暁大蔵卿法印をも同兼康承るとぞ聞こえし。
卅四 〔邦綱卿、内裏造りて主上を渡し奉る事〕 十一月廿二日、五条大納言邦綱卿、内裏造り出だして、主上渡らせ給ふ。此の大納言は、大福長者なりける上に、世の大事する人にて、ほどなくきらきらしく造り出だして、めでたかりけり。但し、遷幸の儀式をば世の常ならずぞ聞こえし。内裏の前に札に書きて立てたりけり。
思ひきや花の都を発ちしより風吹く原も危うかりけり K114
卅五 〔大嘗会延引事 付けたり五節の由来の事〕 今年大嘗会行はるべきかと云ふ儀定有りけれども、其の沙汰なし。大嘗会は十月の末に東河に御幸して御禊あり。大▼P2205(一〇二オ)内の北の野に斎壇所を立てて、神服・神供を調ふ。大極殿の前の龍尾道の壇上に廻立殿を立てて御湯をめす。同じき壇に大嘗宮の神膳を備ふ。清暑堂にして神宴あり。御遊あり。大極殿にて大礼行はる。豊楽院にて宴会あり。而るに、此の里内裏の体、大極殿もなければ、大礼行ふべき所もなし。豊楽院もなければ、宴会も行ふべからず。礼儀行はるべき所、つやつやなかりければ、新嘗会にて五節計り行はる。新嘗会の祭をば、猶古京神祇官にて是を行はる。五節と申すは、昔、清見原の御門、吉野宮にて御心をすまして琴を弾かせ給ひしかば、神女天より天降りて、▼P2206(一〇二ウ)
  をとめごがをとめさびすも唐玉ををとめさびすも其の唐玉を K115
と五声を嫗ひ給ひて、五度袖を翻す。是を五節の初めとす。
 旧都は山門南都程近くて、ともすれば大衆日吉の神輿を振り奉りて下洛し、神人春日の神木を捧げ奉りて上洛す。加様の事もうるさし。新都は山重なり江重なりて、道遠く程隔たれば、輙からじとて、遷都と云ふ事は大政入道計らひ出だされたりけれども、諸寺諸山の訴へ、貴賎上下の歎きなりけるに依つて、
〔卅六〕〔山門の衆徒都帰りの為に奏状を捧ぐる事 付けたり都帰り有る事〕 山門の衆徒三ヶ度まで奏状を捧げて天聴を驚かし奉る。第三度の奏状に云はく、
 延暦寺の衆徒等、誠惶誠恐謹言 ▼P2207(一〇三オ)
  特に天恩を蒙りて遷都を停止せられむと請ふ子細の状
 右、謹みて案内を検(かんが)ふるに(ィ)、釈尊違教を以て国王を付属するは、仏法・王法互ひに護持の故也。就中延暦年中に、桓武天皇・伝教大師、深く契(約ィ)りを結び、聖主は則ち此の都を興して、親り一乗円宗を崇め、大師は又当山を開きて、遠く百王の御願を備ふ。其の後、歳四百廻に及ぶまで、仏日久しく四明の峯に輝き、世三十代を過ぎて、天朝各十善の徳を保ちたまふ。上代の宮城、此くの如くなるは無きものか(無し)。蓋し山路隣を占め、彼是相ひに助くるが故也。而るを今、朝議忽ちに変じて、俄かに遷幸有り。是、惣じては四海の愁へ、別しては一山の歎きなり。
 先づ山僧等、峯の嵐閑か也と雖も、花洛を恃んで以て日を送り、谷の雪烈しと雖も、王城を瞻(にな)つて以て夜を継ぐ。若し洛陽遠路を隔て、往還容易(たやす)からずは、豈故山の月を辞して辺鄙の雲に交じらはざらむや。是一つ。
 門▼P2208(一〇三ウ)徒の上綱等、各公諸に従ひ、遠く旧居を抛てて後、徳音通じ難く、恩言絶へ易き時、一門の小学等、寧ぞ山門に留まらむや。是二つ。
 住山の者の為体、遥かに故郷を去つる輩、帝京を語らひて撫育を蒙り、家王都に在るの類は、近隣を以て便宜と為す。麓若し荒野と変ぜば、峯に豈人跡を留めむや。悲しき哉、数百歳の法燈、今時に忽ちに消え、千万輩の禅侶、此の世に将に滅びなむとす。是三つ。
 但し、当寺は鎮護国家の道場、特に一天の固め為り。霊験殊勝の伽藍、又万山の中に秀でたり。所の魔滅、何ぞ必ずしも衆徒の愁歎のみならむ。法の滅亡(淪)、豈朝家の大事に非ず哉。是四つ(ィ)。
 況や七社権現の宝前は、是れ万人拝観の霊場也。若し王宮遠くして社壇近からずは、瑞籬の月の前に鳳輦臨み勿く、叢祠の露の▼P2209(一〇四オ)下に鳩集永く絶えむ。若し参詣是疎かに、礼奠例に違はば、只冥応無きのみに非ず、恐らくは又神の恨みを残したまはんか。是五つ(ィ)。
 凡そ当都をば是輙く棄つべからざる勝地也。昔聖徳太子の記文に云はく、「王気(ィ)有らむ所に必ず帝城を建てむ」と云々(ィ)。太聖遠く鑑みたまふ、誰か之を忽緒せむ。況んや青龍白虎悉く備へて、朱雀玄武忽に円(無闕)なり。天然として吉き処なり。執せざるべからず。是六つ(ィ)。
 彼の月氏の霊山は、王城の東北に則ち攀づ(是ィ)、大聖の遊崛なり。日域の叡岳には、又帝都の丑寅に峙つ、護国の勝地なり。既に天竺の勝境に同じくして、久しく鬼門の凶害を払ふ。地形の奇特、豈惜しまざらむや。是七つ(ィ)。
 賀茂・八幡・春日・平野・大原野・松尾・稲荷・祇薗・北野・鞍馬・清水・広隆・仁和寺、此くの如き神社仏寺大聖跡を垂れ、権者地を占め、護国護山(王ィ)▼P2210(一〇四ウ)の崇廟を建てて、勝敵勝軍の霊像を安ず。王城の八方を遶つて、洛中の万人を利す。貴賎帰敬の往来、市を為す。仏神利生の感応、此くの如し。何ぞ霊像の砌を避けて、忽ちに無仏の境に起かむ哉。設ひ新たに精舎を建てて、縦ひ更に神明を請ずとも、世、濁乱に及び、人、権化に非ず。大聖の感降必ずしも之有らじか。是八つ(ィ)。
 此等の霊場の中に、或いは多年奉仕して掲焉の利益を蒙り、日夕に歩みを運びて緇素愛惜の所有り。或いは諸家の氏寺の不退の勤行を修し、子胤相続して自ら仏法を興隆する所有り。而るに、憖ひに公務に従ひて、愁へながら捨てて去る。豈に人の善を抑へ、聖の応を止むるに非ずや。是九つ(ィ)。
 諸寺の衆徒、各公請に従ふ時、朝には蓬壷に参りて、暮には練若に帰す。宮城遠く移らば往還云何。若し本寺を捨てて、若し王命を背かば、左右怖れ有るに、▼P2211(一〇五オ)進退惟れ谷まれり。是十(ィ)。
 昔を憶ふに、国豊かに民厚くして、都を興する傷み無し。今は国乏しく民窮まつて、遷移に煩ひ有り。是を以て、或いは忽ちに親属を別れて旅宿を企つる者有り。或いは纔かに私宅を破れども、運載に堪へざる者有り。悲歎の声、已に天地を動かす。仁恩の至り、豈之を顧みざらむや。若し尚遷都有らば、政清浄の道に背して、天心に違はむ。是十一。
 七道諸国の調貢、万物運上の便宜、西に河あつて東に津あり。便に煩ひ無し。若し余所に移らば定めて後悔有らむか。
是十二。
 又、大将軍酉に在り。方角既に塞がる。何ぞ陰陽を背きて忽ちに東西を違(迷ィ)へむ。山門の禅徒等、専ら玉体の安穏を思ふ。愚意の及ぶ所、争か諌鼓を鳴らさざる。是十三。
 但し、俄かに遷都有る、何事に依るぞや。若し凶徒の乱逆に由つては、兵革既に静かなり。朝庭何ぞ動かむ。若し鬼物の怪異に因つては、三宝に帰して以て夭災を謝すべし。万民を撫して、以て ▼P2212(一〇五ウ)皇徳を資くべし。何ぞ本宮を動かして、態と仏神囲繞の砌を避り、剰へ遠行を企てて、還りて人民悩乱の咎を犯ぜむ。是十四。
 抑も、国の怨敵を退け、朝の夭厄を払ふこと、昔従り以来、偏へに山門の営み也。或いは大師祖師の百皇を誓護し、或いは伊王山王の一天を擁護す。或いは恵亮脳を摧き、或いは尊意剣を振るふ。凡そ身を捨てて君に仕る事、我が山に如くは無し。古今の勝験、載りて人口に在り。今何ぞ遷都有りて、此の処を滅ぼしたまはむと欲するや。是十五。
 況んや、尭雲舜日の一朝に耀き、天枝帝葉の万代に伝はる。即ち是、九条の右丞相の願力也。豈慈恵大僧正の加持に非ずや。度々の明詔に云はく、「朕は是、九条右丞相の末葉也。何ぞ慈覚大師の門跡に背くべからざる」と云々。今云はく何んぞ前蹤を忘れて本山の滅亡を顧みざらむや。山僧の訴詔、必ずしも理に当たらずと雖も、只所功の労を以て、久しく裁許を蒙り来れり。況んや▼P2213(一〇六オ)鬱望に於いては、独り衆徒の愁へのみに非ず。且は聖朝の奉為(おんため)に、兼ねては又兆民の為なるを哉。是十六。加之(しかのみならず)、今度の事に於いては殊に愚忠を抽きんづ。一門の薗城、(頻りにィ)相招くと雖も、仰ぎて勅宣に従ふ。万人の誹謗、閭巷に充つと雖も、伏して御願を祈り。何ぞ固く勤労を尽くして、還りて此の処を滅ぼさむと欲する。功を運び罰を蒙る、豈然るべけんや。者れば縦ひ別の天感無く、只此の裁許を蒙らむと欲するのみ。当山の存亡、只此の左右に在る故也。是十七。望み請ふらくは、天恩再び叡慮を廻らして、件の遷都を止められば、三千人の衆徒等、胸火忽ちに滅へ、百千万の衆徒、鬱水弥久しからむ。衆徒等悲歎の至りに耐へず。誠惶誠恐謹言。
  治承四年七(六ィ) 月 日大衆法師等
 之に依つて、廿一日に俄に都返り有るべしと聞こえければ、高きも卑しきも手をすり、▼P2214(一〇六ウ)額をつきて悦びあへり。山門の訴詔は、昔も今も大事も小事も空しからざる事に