平家物語 百二十句本(京都本)

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平家巻第一  目録
第一句 殿上の闇討 てんじやうのやみうち
序 
忠盛昇殿 
忠盛・季仲・家成五節の舞 
忠度の母の事 
第二句 三台上禄 さんだいじやうろく
忠盛死去 
清盛官途 
清盛五十一出家 
かぶろの沙汰 
第三句 二代后 にだいきさき
宮中御艶書の事 
二化の御宇の沙汰 
きさき御入内 
きさき障子の御歌の事 
第四句 額打論 がくうちろん
二条の院皇子親王宣旨の事 
二条の院崩御廿三 
きさき御出家の事 
清水炎上 
第五句 義王 ぎわう
妹の義女が事 
母のとぢの事 
仏御前の事 
白拍子の因縁 
第六句 義王出家 ぎわうしゆつけ
義女出家 
とぢ出家 
仏出家 
四人後白河法皇の過去帳にある事 
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第七句 殿下乗合 てんがのりあひ
後白河院御法体の事 
左衛門入道西光、近習騒口の事 
主上高倉の院御即位、 
資盛伊勢の国へ追っくださるる事 
第八句 成親大将謀叛 なりちかだいしやうむほん
主上高倉の院御元服 
新大納言祈請 
師経狼藉 
白山みこし東坂本へ入御 
第九句 北の政所誓願 きたのまんどころせいぐはん
仲胤法師後二条の関白殿呪咀 
関白殿御病の事 
関白殿平癒の事 
関白殿御薨御の事 
第十句 神輿振り みこしふり
渡辺の長七唱頼政の御使する事 
平大納言時忠山門勅使の事 
師高・師経御裁断 
内裏そのほか京中焼失の事 
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平家 巻第一
第一句 殿上の闇討 てんじやうのやみうち
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響有り。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる者も久しからず、唯春の夜の夢の如し。たけき者も遂には亡びぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊【*朱■】、唐の禄山、これらは皆旧主先王の政にもしたがはず、楽しみをきはめ、諫をも思ひいれず、天下の乱れん事をもさとらずして、民間のうれふる所を知らざりしかば、久しからずして亡びし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平冶の信頼、これらは皆おごれる事も、たけき心も、皆とりどりにこそ有りしが、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申せし人の有様、伝へ聞くこそ心も詞も及ばれね。
その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原の親王、九代の後胤讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛の朝臣の嫡男なり。かの親王の御子高見の王、無官無位にしてうせ給ひぬ。その御子高望
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の王のとき、始て平の姓を賜はりて、上総介になり給ひしよりこのかた、たちまちに王氏を出でて人臣につらなる。その子鎮守府の将軍良望、後には常陸大掾国香とあらたむ。国香より正盛まで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。
然るに忠盛、いまだ備前守たりしとき、鳥羽の院の御願得長寿院を造進し、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据ゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国を賜はるべきよし仰せ下されける。折節播磨の国のあきたりけるを賜はりける。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始て昇殿す。
雲の上人これをそみねいきどほり、同じき年の十一月二十三日、五節の豊明の節会の夜、忠盛を闇討にせんとぞ擬せられける。忠盛このよしを伝へ聞きて、「われ右筆の身に有らず、武勇の家にむまれて、いま不慮の難に合はん事、身の為、家の為、心憂かるべし。詮ずる所「身を全うして君につかへよ」といふ本文有り」とて、かねて用意をいたす。
参内の始より、大きなる鞘巻を束帯の下にさし、灯のほのぐらきかたに向かひてこの刀をぬき出だし、鬢にひきあてけるが、よそよりは氷などのやうに見えたり。諸人目をぞすましける。其上忠盛の郎等、もとは一門たりし平の木工助貞光
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が孫、進の三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞といふ者有り。木賊色の狩衣の下に、萠黄威の腹巻を着て、弦袋つけたる太刀わきばさみ、殿上の小庭にかしこまつてぞ侍ひける。貫首以下あやしみをなし、「うつほ柱よりうち、鈴のつなの辺に、布衣の者の侍ふは何者ぞ。まかり出でよ。狼藉なり」と、六位をもつて言はせられたりければ、家貞かしこまつて、「相伝の主備前守殿の今夜闇討にせられ給ふべきよし、伝へ承つて、そのならんやうを見んとて、かくて侍ふ。えこそまかり出づまじう候へ」とて、かしこまつて侍ひければ、これらをよしなしとや思はれけん、その夜の闇討はなかりけり。
忠盛又御前の召によて舞はれけるを、人々拍子をかへて、
伊勢へいじはすがめなりける
とぞはやされける。かけまくもかたじけなくも、この人は柏原の天皇の御すゑとは申しながら、中ごろは都のすまひもうとうとしく、地下にのみ振舞ひなつて、伊勢の国に住国ふかかりければ、その国のうつはものにことよせて、「伊勢へいじ」とぞはやされける。其上忠盛の、目のすがまれたりければ、かやうにははやされけるなり。
忠盛いかにすべきやうなくて、御前をまかり出でられけるが、紫宸殿のうしろにして、かたへの殿上人の見給ふ前にて、主殿司を召して、よこたへさされたりける刀を、あづけおきてぞ出でられける。家貞待ちうけて、「さていかが候ひけるやらん」と申しければ、忠盛、かくとも言はまほしくは思はれけれども、言ひいづるものなら
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ば、殿上までも斬りのぼらんずるもののつらたましひにて有る間、「べちの事なし」とぞ答へられける。五節には、
白うすやう こぜんじの紙 〔まきあげの筆〕 巴かきたる筆の軸
なんど、さまざまおもしろき事をのみうたひ舞はれしに、中比太宰権帥季仲卿といふ人有り。あまりに色のくろかりければ、見る人「くろ師」とぞ申しける。この人いまだ蔵人頭たりしとき、これも五節に舞はれけるに、人々拍子をかへて、
あな、くろ、くろ くろき頭かな いかなる人のうるし塗りけん
とぞはやされける。
又、花山の院のさきの太政大臣忠雅公、いまだ十歳と申せしとき、父中納言忠家【*忠宗】の卿におくれ給ひて、みなしごにておはせしを、故中の御門藤中納言家成の卿、其時はいまだ播磨守たりしとき、婿にとりてはなやかにもてなし給ひければ、これも拍子をかへて、
播磨米は 木賊か、むくの葉か 人の綺羅をみがくは
とぞはやされける。「上古にはかやうの事共有りしかども、事いでこず。末代いかが有らんずらん、おぼつかなし」とぞ人々申し合はれける。
案にたがはず、五節はてにしかば、殿上人、一同に訴へ申されけるは、「夫雄剣を帯して公宴に列し、兵仗を賜はりて宮中を出入するは、皆格式の礼をまぼる綸命よし有る先規なり。然るに忠盛、或は相伝の郎従と号して、布衣のつはものを殿上の小庭に召しおき、その身は腰の刀をよこたへさして、節会の座につらなる。両条希代いまだ
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きかざる狼藉也。事既に重畳せり、罪科尤のがれがたし。早く御札をけづりて、闕官、停任におこなはるべき」よし一同に訴へ申されけり。
上皇大きにおどろかせ給ひて、忠盛を召して御尋ね有り。陳じ申されけるは、「まづ郎従小庭に祗候の事、まつたく覚悟つかまらず。但、近日あひたくまるるよし、年来の家人伝へ承るによつて、その恥をたすけんが為に、忠盛に知らせずしてひそかに参候の条、力及ばぬ次第なり。つぎに刀の事は、主殿司にあづけ置きをはぬ。召し出だされて、刀の実否によて咎の左右有るべきか」と申す。「然るべき」とて、刀を召し出だし、法皇叡覧有るに、うへは鞘巻の黒く塗りたりけるに、中は木刀に銀薄をぞ押したりける。「当座の恥辱をのがれんが為に、刀を帯するよしあらはすといへども、後日の訴訟を存知して、木刀を帯しける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭に携らん者のはかりごとは、尤かうこそ有らまほしけれ。かねて又、郎従小庭に司候の条、かつうは武士の郎従のならひなり。忠盛がとがに有らず。」とて、かへりて叡感にあづかりしうへは、あへて罪科の沙汰もなかりけり。
その子どもは諸衛の佐になりて昇殿しけるに、殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
そのころ忠盛、備前の国よりのぼりたりけるに、鳥羽の院「明石の浦はいかに」と仰せければ、忠盛、
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有明の月もあかしの浦風に波ばかりこそよると見えしか
と申したりければ、御感有りて、やがてこの歌をば金葉集にぞ入れられける。
又そのころ、忠盛、仙洞に最愛の女房有り。かよはけれけるが、あるとき、かの女房の局に、つまに月いだしたりける扇をとり忘れてぞ出でられける。かたへの女房たち「いづくよりの月影ぞや、出で所おぼつかなし」なんど、笑ひ合はれければ、かの女房
雲井より唯漏りきたる月なれば、おぼろけにてはいはじとぞおもふ
と詠みたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。薩摩守忠度の母これなり。似たるを友とかやの風情にて忠盛も歌に好いたりければ、この女房も優なりけり。
第二句 三台上禄 さんだいじやうろく
忠盛、刑部卿にいたつて、仁平三年正月十五日歳五十八にてうせ給ひぬ。清盛嫡男たるによて、そのあとを継ぐ。
保元元年七月に宇治の左大臣殿世を乱り給ひしに、安芸守とて御方にて勲功有りしかば、播磨守にうつりて、同じき三年に太宰大弐になり、つぎに平治元年十二月信頼の卿の謀叛のとき、又御方にて先を駆けたりければ、「勲功ひとつに有らず、恩賞
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これおもかるべき」とて、つぎの年正三位に叙せられ、うちつづき、宰相、衛府督、検非違使の別当、中納言、大納言に経あがりて、左右を経ずして内大臣より太政大臣従一位にあがる。大将に有らねども、兵仗を賜はりて随身を召し具して、牛車、輦車に乗りながら宮中を出で入りぬ。偏に執政の臣の如し。
「太政大臣これ一人の師範として四海に儀形せり。国ををさめ、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人に有らずんば則ち闕けよ」といへり。されば、「則闕の官」とも名づけられたり。その人ならでは、けがすべき官ならねども、一天四海をたなごころににぎり給ふうへは、子細に及ばず。
そもそも、平家かやうに繁昌せられける事を、いかにといふに、熊野権現の御利生にてぞ有りける。その故は、清盛いまだ安芸守にておはせしとき、伊勢の国安濃の津より船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船に踊入りたりけるを、先達申しけるは、「昔、周の武王の船にこそ白魚は踊入りて候へしか。これをば参るべし」と申されければ、さしもの精進潔斎の道なれども、みづから調味して、わが身食ひ、家の子、朗等にも食はせられける故にや、子孫〔の〕官途も龍の雲にのぼるよりもなほすみやか也。九代のおんしう【*先蹤】超え給ふこそめでたけれ。かくて清盛、仁安三年十一月十一日歳五十一にて病に冒され、たちまちに出家入道す。法名を「浄海」とこそ名のら
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れけれ。そのしるしにや、宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。人のしたがひつく事、吹く風の草木をなびかすが如し。世のあまねくあふげる事も、降る雨の国土をうるほすに同じ。「六波羅殿の御一家の公達」とだに言ひてんしかば、肩をならべ、おもてを向かふる者もなし。入道相国の小舅平大納言時忠卿宣ひけるは、「この一門に有らざらん者は人非人たるべし。」とぞ宣ひける。されば、「いかにもしてこの一門にむすぼふれん」とぞしける。衣文のかきやうより始て、烏帽子のためやうにいたるまで、「六波羅様」とだに言ひてんしかば、一天四海の人皆これをまなぶ。いかなる賢王賢主の御政、摂政関白の御成敗をも、世にあまされたるいたづら者などの、かたはらにてそしりかたぶけ申す事は、常のならひなれども、この禅門の世ざかりのほどは、いささかいるがせにも申す者なし。その故は、入道相国はかりごとに、十四五六ばかりの童部を三百人揃へて、髪を禿にきりまはし、赤き直垂を着せて、召し使はれけるが、京中にみちみちて往反しけり。おのづから、平家の御事をあしきさまに申す者有れば、一人聞き出ださるるほどこそ有れ、三百人に触れまはして、その家に乱れ入り、資材雑具を追捕して、その奴をからめて六波羅へ率てまゐる。されば、目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。「六波羅殿の禿」とだに言ひてければ、道をすぐる馬、車も、皆よけてぞとほしける。「禁門を出入
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すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師の長吏これが為に目をそばむ」と見えたり。わが身栄華をきはめ給ふのみならず、一門皆繁昌して、嫡子重盛、内大臣左大将。次男宗盛、中納言右大将。三男知盛、三位の中将。四男重衡、蔵人頭。嫡孫維盛、四位の少将。すべて一門の公卿十六人。殿上人四十余人。そのほか諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世には又人なきとぞ見えたりける。
昔、奈良の帝の御時、神亀五年近衛大将を始おかれてよりこのかた、兄弟左右にあひ並ぶ事、わづかに三四箇度なり。文徳天皇の御時、左に良房、右大臣の左大将。右に良相、大納言右大将。これは閑院の左大将冬嗣公の御子なり。朱雀院の御宇に、左に実頼小野の宮殿。右に師輔九条殿。貞信公の御子なり。後冷泉院の御時、左に教通大二条殿。右に頼宗堀河殿。御堂の関白の御子なり。二条院の御時、左に基房松殿。右に兼実月の輪殿。これは皆摂禄の臣の御子息なり。凡人にとりてはその例なし。殿上のまじはりをだにきらはれし人の子孫にて、禁色雑袍をゆるされ、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣の大将になって、兄弟左右にあひ並ぶ事、末代といひながら不思議なりし事共なり。
そのほか入道相国の御娘八人おはしき。皆とりどり
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にさいはひし給ふ。一人は始は桜町の中納言成範卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の年、平治の乱れ以後ひきちがへられ、後には花山の院左大臣殿の御台所にならせ給ひて、公達数多ましましけり。
そもそもこの成範卿を「桜町の中納言」と申しける事は、すぐれて心すき給へる人にて、つねは吉野の山を恋ひつつ、町に桜をうゑ並べ、そのうちに家を建てて住み給ひければ、見る人「桜町」とぞ申しける。桜は咲きて七か日に散るを、名残を惜しみ、天照御神に祈り申されければにや、三七日まで名残有り。君も賢王にてましましければ、神も神徳をかがやかし、花も心有りければ、二十日のよはひをたもちけり。
一人はきさきに立たせ給ふ。皇子御誕生有りて皇太子に立ち、位につかせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、「建礼門院」とぞ申しける。
一人は六条の摂政殿の北の政所にならせ給ふ。
一人は普賢寺殿の北の方にならせ給ふ。
一人は後白河の法皇に参り給ひて、女御のやうにてまします。これは安芸の厳島の内侍が腹の姫君なり。
一人は冷泉の大納言隆房の卿の北の方にならせ給ふ。
一人は七条の修理大夫信隆の卿にあひ具し給ふ。
そのほか九条の院の雑仕常盤が腹にも一人。これは花山の院殿に参らせ給ひて、上臈女房にて「臈の御方」とぞ申しける。
日本秋津島はわづかに六十六箇国。平家知行の国三十
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余箇国、すでに半国にこえたり。そのほか荘園田畠いくらといふ数を知らず。綺羅みちみちて堂上花の如し。軒騎群集して、門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝一として闕たる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬のもてあそび、おそらくは帝闕、仙洞も是には過ぎじとぞ見えし。
昔よりいまにいたるまで、源平両氏朝家に召し使はれて、王化にしたがはず朝憲をかろんずる者には、たがひにいましめをくはへしかば、世の乱れもなかりしに、保元に為義斬られ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども或は流され、或はうしなはれて、いまは平家の一類のみ繁昌して、かしらをさし出だす者なし。さればいかならん末の世までもなにごとか有らんとぞ見えし。
第三句 二代后 にだいきさき
鳥羽の院の御晏駕の後、兵革うちつづきて、死罪、流刑、解官、停任おこなはれて、海内もしづかならず。世間もいまだ落居せず。なかんづく永暦、応保のころより、院の近習者をば内より御いましめ有り、内の近習をば院よりいましめらるる間、上下おそれをののいて、やすき心もなし。唯深淵にのぞんで薄氷をふむが如し。
主上、上皇、父子
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の御間になにごとの御へだてか有るべきなれども、思ひのほかの事共有りけり。主上、院の仰せをつねは申しかへさせましましける中にも、人耳目をおどろかし、世もつて大きにかたぶけ申す事有りけり。
そのころ故近衛の院の后、太皇太后宮と申せしは、大炊の御門の右大臣公能の御娘なり。先帝におくれ奉らせ給ひて後は、近衛河原の御所にぞうつり住ませ給ひける。長寛のころは御年二十二三にもやならせましましけん。御さかりも過ぎさせ給ひたり。
されども天下第一の美人の聞こえましましければ、主上色に染みたる御心して、ひそかに高力士にみことのりして、この大宮へひきもとめしむるに及んで、御艶書有り。大宮あへて聞こしめしもいれざりけり。されどもこの事ほにあらはれて、后御入内有るべきよし、右大臣家に宣旨を下さる。この事天下においてことなる勝事なれば、公卿僉議あって、おのおの意見を申さる。
まづ、異朝の先蹤を尋ぬるに、則天皇后は唐の太宗の后、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後皇后尼になりて、盛興寺といふ寺にこもり給へり。高宗「ねがはくは宮室にかへり、政をたすけ給へ」とて、御使かさねて五たび来たるといへども、あへてしたがはず。帝、盛興寺に臨幸なつて、「朕まつたくわたくしの心ざしをとげんとには有らず。先帝太宗の世をながからしめ給へとなり」。皇后宣はく「われ太宗の菩提をとぶらは
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んが為に、すでに釈門に入りぬ。ふたたび塵屋にかへるべからず」とて、かく然としてひるがへさず。ここに高宗の近臣たち、よこしまにとり奉る如くにして、皇后を内裏へ入れ奉る。その後皇后と高宗と二人、政をめでたうし給ひしかば、「二化の御宇」とぞ申しける。かくて帝世ををさめ給ふ事三十三年。国富み、民ゆたかなり 高宗崩御の後、皇后女帝として世をうけとり、位をつぎ給へり 皇后世をあらためて、年号を神功元年と号す。この人は周王の孫なる故に大周則天太上皇帝とぞ聞こえし。その後中宗皇帝に世をゆづり給ふ。中宗世をあらためて年号を神龍元年と号す 在位七年 これはわが朝の文武天皇にあたり給へり。
「されどもそれは異国の先規たるうへ、別段の事なり。本朝には神武天皇よりこのかた、人皇七十余代にいたるまで、いまだ二代の后に立ち給ふ事、その例を開かず」と諸卿一同に申させ給へども、主上仰せなりけるは、「天子に父母なし。われ十善の戒功によて万乗の宝位をたもつ。などかこれほどの事叡慮にまかせざるべき」とて、すでに御入内の日宣下せられけるうへは、力及ばせ給はず。
大宮かくと聞こしめされけるより、御涙にむせばせおはします。先帝におくれまゐらせにし久寿の秋の始、同じ草葉の露とも消え、出家をもし、世をものがれたりせば、いまかかる憂き事は聞かざらまし」とぞ、御なげき有りける。父の大臣こしらへ申させ給ひけるは、
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「『世にしたがはざるをもつて狂人とす』と見えたり。すでに詔命を下さるるうへは、子細を申すに所なし。唯すみやかに御入内し給へ もし皇子御誕生有らば、君も国母と言はれ、愚老も外祖とあふがるべき瑞相にてもや候ふらん。偏に愚老をたすけさせおはします、御孝行のいたりなるべし」とこしらへ申させ給へども、なほ御返事もなかりけり。大宮そのころなにとなき御手ならひのついでに、
うきしに沈みもやらで河竹の 世にためしなき名をやながさん
世にはなにとして漏れたりけん、やさしき御事にぞ申しける。すでに御入内の日にもなりしかば、父の大臣、供奉の上達部、出車の儀式なんど、心の如く仕立てまゐらせ給ひける。大宮もの憂き御出でたちなれば、とくも出で給はず、はるかに夜ふけ、小夜もなかばになつて後、御車にたすけ乗せられさせ給ひけり。ことに色ある御衣をば召されず、しろき御衣をぞ召されける。御入内の後は麗景殿にぞましましける。ひたそらあさまつりごとをすすめ申させ給ふ御さまなり。
彼紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹・第伍倫・虞世南、太公望・角里先生・李勣・思摩。手長、足長、馬形の障子。鬼の間、尾張守小野の道風が「七廻賢聖の障子」と書きたりしも理とぞ見えし。かの清涼殿の絵図の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山のありあけの月も有りとかや。故院のいまだ幼少にてましまし
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けるそのかみ、なにとなき御手ならひに、ありあけの月の出でたるを書きくもらかさせ給ひたりしが、有りしながらにすこしもたがはぬを御覧じ、先帝の昔もや御恋ひしくおぼしめされけん、
思ひきやうき身ながらにめぐりきて おなじ雲井の月を見んとは
世には又哀なる御事にぞ申しける。その間の御仲ゐ、言ひ知らず哀にやさしき事共なり。
第四句 額打論 がくうちろん
さるほどに、永万元年の春の始より主上御不予のよし聞こえさせ給ひしが、夏の始になりしかば、ことのほかにおもらせ給ふ。これによて、大蔵大輔壱岐の兼盛が娘の腹に、今上一の宮の二歳にならせ給ふを、「太子に立てまつらせ給ふべし」と聞こえしほどに、同じき六月二十五日、にはかに親王の宣旨を下され給ふ。やがてその夜受禅有りしかば、天下なにとなうあわてたるやうなり。其時有識の人々申し合はれけるは、「本朝童帝の例を尋ぬるに清和天皇九歳にして文徳天皇の御ゆづりをうけさせ給ふ。これはかの周公旦の、成王にかはりて、南面にして一日万機の政ををさめ給ひしに准へて、外祖忠仁公幼主を扶持し給ふ。これぞ摂政の始なる。鳥羽の院五歳。近衛の院三歳。これをこそ『いつしかなり』
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と申せしに、これは二歳にならせ給ふ。先例なき。ものいそがはしともおろかなり。」
七月二十七日、上皇遂に崩御なりぬ。御年二十三、つぼめる花の散るが如し。玉のすだれ、錦の帳のうち、御涙にむせばせおはします。御位を去らせ給うて、はつかに三十余日ぞ有りける。やがてその夜、香隆寺のうしとら、蓮台野の奥、船岡山にをさめ奉る。少納言入道の子息澄憲、御葬送を見奉り給ひて、泣く泣くかうぞ申されける。
つねに見し君がみゆきをけふとへば かへらぬたびと聞くぞ悲しき
大宮、このたびもさまでの御さいはひもわたらせ給はず。この君にさへおくれ奉り給ひしかば、やがて御出家有りて、近衛河原の御所へうつしまゐらせ給ひける。
御葬送の夜、延暦寺、興福寺の大衆ども額打論といふ事をしいだして、たがひに狼藉に及ぶ。一天の君崩御なりて後、御墓所へわたし奉るときの作法、南北二京の大衆ことごとく供奉して、御墓所のまはりにわが寺々の額を打つ事有り。まづ聖武天皇の御願所、あらそふべき寺なければとて、「東大寺」の額を打つ。つぎに淡海公の御願とて、「興福寺」の額を打つ。北京には興福寺とむかひて「延暦寺」の額を打つ。つぎに天武天皇の御願、あらそふべきやうなし、智証大師の草創とて、「園城寺」の額を打つ。そのほか末寺末寺の額ども打ちならぶる。然るを、山門の大衆いかが
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思ひけん、先例をそむきて東大寺のつぎ、興福寺の上に、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、「とやせまし、かくやせまし」と僉議する所に、興福寺の西金堂の衆、観音房、勢至房とて大悪僧二人有り。観音房は黒糸威の腹巻に白柄の大長刀のさやはづし、勢至房は萠黄威の腹巻に、黒漆の大太刀もつて、二人づんと走り出て、延暦寺の額を切って落し、散々に打ち破り、
うれしや、鳴るは滝の水 日は照れどもたえず、とうたへや
とはやしつつ、南都の衆都の中へぞ入りにける。帝かくれさせ給ひて後は、心なき草木にいたるまでうれへたる色にてこそ有るべきに、この騒動のあさましさに、たかきもいやしきも、肝魂をうしなつて四方へ皆退散す。山門の大衆、狼藉をいたさば手むかひすべき所に、心ふかうねらふかたもや有りけん、一詞も出ださざりけり。
同じき二十九日の午剋ばかり、「山門の大衆おびたたしく下洛す」と聞こえしかば、武士、検非違使西坂本に行きむかつて防ぎけれども、事ともせず、押し破り乱入す。又、何者の申し出だしけるやらん、「一院、山門の大衆に仰せ、平家を追討せらるべき」と聞こえしかば、「軍兵、内裏に参じて、四方の陣頭警固すべし」とて、一類、皆六波羅へ馳集る。小松殿、そのころは中納言右大将にてましましけるが、「当時、なにごとによてさる事有るべき」としづめられけれども、
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上下ののじりさわぐ事おびたたし。法皇もいそぎ六波羅へ御幸なる。山門の大衆、六波羅へは寄せずして、そぞろなる清水寺へ押し寄せて、仏閣、僧房、一宇ものこさず皆焼きはらふ。これは去んぬる御葬送の夜の会稽の恥をきよめんが為とぞ聞こえける。清水寺は興福寺の末寺たるによてなり。
清水寺焼けたりけるあした、落書有り。「観音火坑変成池はいかに」と札を書きて、大門の前に立てたりければ、次の日又、「歴劫不思議力及ばず」とかへしの札をぞ立てたりける。
衆徒帰りのぼりければ、一院も六波羅より還御なる。重盛の卿ばかりこそ御おくりに参られけれ。父の卿は参られず。なほも用心の為とぞ聞こえし。重盛の卿御おくりより帰られたりければ、父の卿宣ひけるは、「さても一院の御幸こそ大きにおそれおぼゆれ。かけてもおぼしめしより仰せらるるむねの有ればこそ、かうは聞こゆらめ。それにもうちとけ給ふべからず。」と宣へば、小松殿「此事ゆめゆめ御詞にも出させ給ふべからず。なかなか人に心づけ顔に、あしき御事なり。それにつけても、叡慮にそむかせ給はで、いよいよ人に御なさけをほどこさせ給はば、神明三宝の加護有るべし。さあらんにとりては、御身のおそれ候ふまじ」とて起たれければ、「あはれ、重盛はゆゆしうもおほやうなる者かな」と、父の卿も宣ひける、
一院還御の後、御前にうとからぬ近習たち数多侍はれけるに、仰せられけるは、「さても不思議
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の事を申し出だしたるものかな。おぼしめしよらぬものを」と宣ひければ、院中のきり者に西光法師といふ者有り。「『天に口なし。人をもつて言はせよ』と申す事候。平家もつてのほかに過分に候へば、天の御告げにてもや候ふらん」とぞ申しける。人々、「この事よしなし。『壁に耳有り』おそろし、おそろし」とぞ申し合はれける。
さるほどにその年も天下諒闇なりければ、御禊大嘗会もおこなはれず。建春門院そのころはいまだ「東の御方」と申しける、その御腹に一院の宮おはしけり。同じき十二月二十四日、にはかに親王の宣旨をかうぶらせ給ふ。
あくれば、改元有りて仁安と号す。「ことしは大嘗会有るべき」とて、そのいとなみ有り。
同じく十月八日、去年親王の宣旨をかうぶり給ひし皇子、東三条にて春宮に立たせ給ふ。春宮は御叔父、六歳。主上は御甥、三歳。昭穆にあひかなはず。但寛和二年に、一条の院五歳、三条の院十一歳にて春宮に立たせ給ふ。先例なきに有らず。
主上わづかに二歳にて御ゆづりをうけさせ給ひて、五歳と申せし二月十九日、春宮践祚有りしかば、位をすべりて「新院」とぞ申しける。いまだ御元服もなくして「太上天皇」の尊号有り。漢家本朝これや始なるらん。
同じき二十日、新帝大極殿にして御即位有り。この君の位につかせ給ふは、いよいよ平家の栄華とぞ見えし。国母建春門院と申すも平家の一門にておはしけるうへ、とりわき入道相国の北の方八条
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の二位殿は、女院の御姉なり。平大納言時忠卿と申すも、女院の御弟【*御兄】にておはしければ、内外につけて執権の臣とぞ見えし。玄宗皇帝に楊貴妃がさいはひせしとき、楊国忠がさかえしが如し。世のおぼえ、時の聞こえ、めでたかりき。入道相国、天下の大小事を宣ひ合はせられければ、時の人、「平関白」とぞ申しける。
第五句 義王 ぎわう
入道相国かやうに天下をたなごころににぎり給ふ間、世のそしりをもはばかり給はず、不思議の事をのみし給へり。たとへば、そのころ京中に白拍子の上手、義王、義女とておととい有り。これはとぢといふ白拍子の娘なり。姉の義王を入道最愛せられければ、妹の義女をも世の人もてなす事かぎりなし。母とぢにもよき家つくりてとらせ、毎月百石百貫をぞおくられける。家のうち富貴にして楽しき事かぎりなし。
そもそもわが朝に白拍子のはじまりける事は、昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳、若の前、これら二人が舞ひいだしけるなり。始は水干に立烏帽子、白鞘巻をさして舞ひければ、「男舞」とぞ申しける。然るを中ごろより烏帽子、刀をばのけられて、水干ばかりを用ひたり。さてこそ「白拍子」とは名づけけれ。
義王がさいはひのめでたき
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事を、京中の白拍子ども伝へ聞きて、うらやむ者も有り。「あなめでたの義王がさいはひや。同じ遊びの者とならば、たれもあのやうにこそ有りたけれ。あはれ、これは『義』といふ文字をついて、かやうにめでたきやらん。いざ、われらもついてみん」とて、或は「義一」とつき、或は「義二」とつき、「義福」「義徳」といふも有り。ねたむ者は、「なにとて文字にはよるべき。さいはひは先の世のむまれつきにこそ有るなれ」とて、つかぬ者もおほかりけり。
かくて三年と申すに、京中に又白拍子の上手一人出できたり。これは加賀の国の者なり。名を仏とぞ申しける。年十六とぞ聞こえし。「昔よりおほくの白拍子の有りしかども、かかる舞はいまだ見ず」とて、京中の上下もてなす事なのめならず。
あるとき仏御前申しけるは、「われ天下に聞こえたれけども、当時さしもめでたうさかえさせ給ふ太政入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ。遊び者のならひ、なにかはくるしかるべき。推参して見ん」とて、あるとき西八条へぞ参じける。
人参りて、「当時都に聞こえ候ふ仏御前こそ参りて候へ」と申しければ、「なんでう、さやうの遊び者は人の召しにしたがひてこそ参れ、左右なう推参するやう有る。其上義王が有らん所へは、神といもいへ、仏ともいへ、かなふまじきぞ、とくとくまかり出でよ」とぞ宣ひける。
仏御前すげなう言はれ奉りて、すでに出でんとしけるを、義王、入道殿に申しけるは、「遊び者の推参はつねのならひにてこそさぶらへ。其上
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年もいまだをさなうさぶらふなるに、たまたま思ひたちて参りてさぶらふを、すげなう仰せられて返させ給はん事こそ不便なれ。いかばかりはづかしく、かたはらいたくさぶらふらん。わがたてし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覧じ、歌をこそ聞こしめさずとも、御対面ばかりはさぶらひて、返させ給はんは、ありがたき御なさけにてさぶらふべし」と申しければ、入道、「いでいで、さあらば、我御前があまりに言ふ事なれば、見参してかへさん」とて、御使をたてられたり。
仏御前すげなう言はれ奉りて、すでに車に乗りて出でけるが、召されて帰り参りたり。入道出であひ対面して、「けふの見参有るまじかりつるを、義王あまりに申しすすむる間、かやうに見ざんしつ。見参するほどにては、いかでか声をも聞かでは有るべき。今様一つうたへかし」。仏御前「承りさぶらふ」とて、今様一つぞうたうたる。
君を始て見るときは 千代も経ぬべしひめ小松 おまへの池なる亀岡に 鶴こそむれゐてあそぶめれ
と、おし返しおし返し、三返うたひすましたりければ、一門の人々耳目をおどろかし、入道相国もおもしろげに思ひ給ひて、「我御前は今様は上手なり。この定にては舞もさだめてよかるらん。一番見ばや。つづみうち召せ」とて召されけり。仏御前、つづみうたせて一番舞うたりけり。仏御前は髪すがたより始て、みめかたち世にすぐれ、声よく、節も上手なりければ、なじかは舞も損ずべき。心
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も及ばず舞ひすましたり。
君が代をももいろといふうぐひすの 声の響ぞ春めきにける
とうたひて踏みめぐりければ、入道相国、舞にめで給ひて、仏に心をうつされけり。
仏御前申しけるは、「こはさればなにごとさぶらふぞや。もとよりわらはは推参の者にて、出だされまゐらせさぶらひつるを、義王御前の申状にてこそ召し返されてさぶらふに、かやうに召しおかれさぶらひなば、義王御前の思ひ給はんずる心のうちこそはづかしうさぶらふへ。はやはやいとまを賜はりて出ださせ給へ」と申しけれども、入道「なんでう、その儀有るべし【*べき】。但義王が有るをはばかるか。その儀ならば義王をこそ出ださめ」と宣ふ。仏御前申しけるは、「それ又いかでかさる事さぶらふべき。もろともに召しおかれんだにもかたはらいたうさぶらふに、義王御前を出だされまゐらせて、わらは一人召し置かれ参らせなば、いとど心憂くさぶらふべし。おのづから後までもわすれぬ御事ならば、召されて又は参るとも、けふのいとまを賜はらん」とぞ申しける。入道「すべてその儀有るまじ。唯義王とくとくまかり出でよ」と御使かさねて三度までこそたてられけれ。
義王、もとより、思ひまうけたる道なれども、さすがきのふけふとは思ひよらざりしに、いそぎ出づべきよし、しきりに宣ひける間、掃き、のごひ、塵ひろはせ、出づべきにこそさだまりけれ。一樹のかげにやどりあひ、同じ流れをむすぶだに、わかれの道は悲しきならひなるに、いはんやこれは、この三年がほど住みなれし所なれば、名残
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も惜しく悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてしも有るべき事ならねば、「いまはかう」とて出でけるが、「なからんあとの形見にもや」と思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書きつけける。
もえいずるも枯るるもおなじ野べの草 いづれか秋に合はではつべき
さて、車に乗りて宿所に帰り、障子のうちにたふれ臥し、唯泣くよりほかの事ぞなき。母や妹これを見て、「いかにや、いかにや」と問ひけれども、とかうの返事にも及ばず。具したる女に尋ねてぞ、去事有りとも知りてけり。
さるほどに、毎月おくられける百石百貫も、はやとどめられて、いまは仏御前のゆかりの者ぞ始て楽しみさかえける。京中の上下、「義王こそ入道殿のいとま賜はりて出でたるなれ。いざや、見参してあそばん」とて、或は文をやり、或は使をたつる者も有り。義王さればとて、今更人に見参してあそびたはぶれべきに有らず」とて、文をとり入るる事もなし。まして使にあひしらふまでもなかりけり。これにつけても悲しくて、涙にのみぞ沈みける。かくてことしも暮れぬ。あくる春のころ、入道相国義王がもとへ使者をたてて、「いかに義王。その後なにごとか有る。さては仏御前のあまりにつれづれげに見ゆるに、なにかくるしかるべき、参りて今様をもうたひ、舞なんどをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞ宣ひける。義王かへりごとに及ばず、涙をおさへて臥しにけり。入道かさねて使をたて、「義王、など
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返事をばせぬぞ。参るまじきか。参るまじくはそのやうを申せ。浄海がはからふむね有り」とぞ宣ひける。母のとぢ、これを聞きて、「いかにや、義王御前。ともかうも御返事を申せかし。かやうにしかられまゐらせんよりは」と言へば、義王涙をおさへて申しけるは、「参らんと思ふ道ならばこそ、やがて『参らん』とも申さめ。参らざらんもの故に、なにと御返事を申すべしともおぼえず。このたび『召さんに参らずは、はからふむね有り』と仰せらるるは、都のほかへ出ださるるか、さらずは命を召さるるか、この二つにはよも過ぎじ。たとひ命を召さるるとも、惜しかるべきわが身かは。又都のほかへ出ださるるとも、なげくべきに有らず。ひとたび憂きものに思はれまゐらせ、ふたたびむかふべきに有らず」とて、なほ御返事を申さず。
母とぢかさねて教訓しけるは、「あめが下に住まん者は、ともかうも入道殿の仰せをばそむくまじき事に有るぞ。をとこをんなの縁、宿世、いまに始ぬ事ぞかし。千年、万年とちぎれども、やがてはなるる事も有り。あからさまとは思へども、ながらへはつる仲も有り。世にさだめなきは男女のならひなり。それに、我御前は、三年まで思はれまゐらせたれば、ありがたき事にこそ有れ。このたび召さんに参らねばとて、命を召さるるまではよも有らじ。都のほかへぞ出だされんずらん。たとへ都を出ださるるとも、我御前たちは年若ければ、いかならん岩木のはざまにても、すごさん事やすかるべし。但、わが身年老い、よはひおとろへて、都のほかへ出だされなば、ならはぬひなのすまひこそかねて思ふに悲しけれ。唯われを都のうちにて住みはてさせよ。それぞ今生、後生の孝養にて有ら
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んずる」と言へば、義王、憂しと思ひし道なれど、親の命をそむかじと、泣く泣く出でたちける心のうちこそ無慚なれ。涙のひまよりも、
露の身のわかれし秋にきえはてで 又ことの葉にかかるつらさよ
「ひとり参らんはあまりにもの憂し」とて、妹の義女をもあひ具しける。そのほか白拍子二人、総じて四人、ひとつ車に乗り具して、西八条へぞ参りける。日ごろ召されける所へは入れられずして、はるかにさがりたる所に、座敷をしつらうて置かれたり。義王「こはさればなにごとぞや。わが身にあやまる事はなけれども、捨てられ奉るだに有りし、いまさら座敷をさへさげらるる事のくちをしさよ。いかにせん」と思ふに、知らせじとする袖のしたよりも、あまりて涙ぞこぼれける。仏御前哀に思ひ、入道殿に申しけるは、「さきに召されぬ所にてもさぶらはず、これへ召されさぶらへかし。さらずは、わらはにいとま賜はりて、出でて見参せん」と申しけれども、入道「すべてその儀有るまじ」と宣ふ間、力及ばで出でざりけり。
入道出であひ対面し給ひて、「いかに義王、なにごとか有る。さては、仏御前があまりにつれづれげに見ゆるに、なにかくるしかるべき、今様一つうたへかし」義王「参るほどではともかくも仰せをばそむくまじきものを」と思ひければ、落つる涙をおさへて、今様一つうたひける。
月もかたぶき夜もふけて、心のおくを尋ぬれば、仏も昔は凡夫なり、われらも
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遂には仏なり、いづれも仏性具せる身を、へだつるのみこそ、悲しけれ
と、泣く泣く二三返うたひたりければ、その座に並みゐ給へる一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍にいたるまで、皆感涙をぞ流されける。入道もおもしろげにて、「時にとりては神妙に申したり。この後は、召さずともつねに参りて、今様をもうたひ、舞などをも舞うて、仏をなぐさめよ」とぞ宣ひける。義王かへりごとに及ばず、涙をおさへて出でにけり。「親の命をそむかじと、つらき道におもむき、ふたたび憂き目を見つるくちをしさよ」
第六句 義王出家 ぎわうしゆつけ
「生きてこの世に有るならば、又憂き目をも見んずらん。いまは唯身を投げんと思ふなり」と言ひければ、妹の義女も、「姉の身を投げば、われもともに投げん」と言ふ。母とぢこれを聞き悲しみて、いかなるべしともおぼえず、泣く泣く又教訓しけるは、「誠に我御前がうらむるも理なり。かやうの事有るべしとも知らずして、教訓して参らせつる事のくちをしさよ。但二人の娘共におくれなば、年老い、よはひおとろひたる母、とどまりてもなにかせん。われもともに身を投げんなり。いまだ死期もきたらぬ親に身を投げさせん事、五逆罪にや有らんずらん。この世はわづかに仮の宿りなり。恥ぢてもなにならず。今生でこそ有らめ、後生でだにも悪道へおもむか
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ん事の悲しさよ」と袖を顔に押しあてて、さめざめとかきくどきければ、義王涙をおさへて、「一旦恥を見つる事のくちをしさにこそ申すなれ。誠にさやうにさぶらはば、五逆罪はうたがひなし。さらば自害は思ひとどまりぬ。かくて都に有るならば、又憂き目をも見んずらん。いまは都のうちを出でん」とて、義王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴のいほりをひきむすび、念仏してぞゐたりける。
妹の義女も、「姉の身を投げば、ともに投げんとだにちぎりしに、まして世をいとはんには、たれかはおとるべき」とて、十九にて様をかへ、姉と一所にこもりゐて、後世をねがふぞ哀なる。母とぢこれを見て、「若き娘共だにも様をかゆる世の中に、年老い、よはひおとろへて、白髪つけてもなにかせん」とて、四十五にて髪を剃り、二人の娘もろともに一向専修に念仏して、偏に後世をねがふぞ哀なる。
かくて春過ぎ夏たけて、秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつつ、天の戸わたるかぢの葉に思ふ事書くころなれや。夕日のかげの西の山の端にかくるるを見ては、「日の入り給ふ所は西方浄土にて有るなり。いつかわれらもかしこにむまれて、ものを思はですごさんずらん」と、かかるにつけても、唯つきせぬものは涙なり。
たそがれ時も過ぎければ、竹の網戸をとぢふさぎ、灯かすかにかきたてて、親子三人念仏してゐたる所に、竹の網戸をほとほとと打ちたたく者出できたり。其時尼ども肝をけし、「あはれ、これはいふかひなきわれらが、念仏してゐたる
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をさまたげんとて、魔縁きたりてぞ有るらん。昼だにも人も訪ひこぬ山里の、柴のいほりのうちなれば、夜ふけてたれか尋ぬべき。わづかの竹の網戸なれば、あけずとも押し破らん事やすかるべし。なかなか唯あけて入れんと思ふなり。それになさけをかけずして、命をうしなふものならば、年ごろたのみ奉る弥陀の名号をとなへ奉るべし。声を尋ねてむかへ給ふなる聖衆の来迎にてましませば、などかは引摂なかるべき。あひかまへて念仏おこたり給ふな」と、たがひに心をいましめて、竹の網戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり、仏御前ぞ出できたる。
義王「あれはいかに、仏御前と見奉るは、夢かや、うつつかや」と言ひければ、仏御前、涙をおさへて、「かやうの事申すは、なかなか事あたらしき事にてさぶらへども、申さずは又思ひ知らぬ身となりぬべければ、始よりして申すなり。もとよりわらはは推参の者にて、出だされまゐらせさぶらひしを、義王御前の申状によりてこそ召し返されてさぶらひしに、をんなのかひなさは、わが身を心にまかせずして、おしとどめられまゐらせし事、心うくこそさぶらひしか。我御前の出だされ給ひしを見るにつけても、『いつかわが身の上とならん』と思ひしかば、うれしとはさらに思はず。障子に又『いづれか秋にあはではつべき』と書きおき給ひし筆のあと、『げにも』と思ひ知られてさぶらふぞや。いつぞや又召されまゐらせて、今様うたひ給ひしにも、思ひ知られてこそさぶらひしか。このほど御ゆくへをいづくにとも知らざりつるに、かやうに様を
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かへて一所にと承りて後は、あまりにうらやましくて、つねはいとまを申せしかども、入道殿さらに御もちひましまさず。つくづく物を案ずるに、娑婆の栄華は夢のうちの夢、楽しみさかえてもなにかせん。人身は受けがたく、仏教にはあひがたし。比度泥犁に沈みなば、多生曠劫を経るとも、浮かび難し。年の若きをたのむべきにも有らず。老少不定のさかひなり。出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ、いなづまよりもなほはかなし。一旦の楽しみにほこりて、後生を知らざらん事の悲しさに、今朝まぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれ」とて、かづきたる衣をうちのけたるを見れば、尼になりて出できたる。
「かやうに様をかへて参りたれば、日ごろのとがをゆるし給へ。『ゆるさん』と仰せられば、もろともに念仏して、ひとつ蓮の身とならん。それもなほ心ゆかずは、これよりいづちへも迷ひゆき、いかならん苔のむしろ、松が根にもたふれ臥し、命の有らんかぎりは念仏して、往生の素懐をとげん」と言ひて、袖を顔に押しあてて、さめざめとかきくどきければ、義王、涙をおさへて申しけるは、「誠に、それほどに我御前の思ひ給ひけるとは夢にも知らず、憂き世の中のさがなれば、身を憂しとこそ思ふべきに、ともすれば我御前をうらみて、往生をとげん事もかなふべしともおぼえず。今生も、後生も、なまじひにし損じたる心地して有りつるに、かやうに様をかへておはしたれば、日ごろのとがは露塵ほどものこらず。いまは往生うたがひ
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なし。このたび素懐をとげんこそ、なによりもつてうれしけれ。われらが尼になりしをこそ、世にありがたきやうに、人も言ひ、わが身も思ひしが、それは世をうらみ、身をうらみてなりしかば、様をかゆるも理なり。我御前の出家にくらぶれば、事の数にも有らざりけり。我御前はなげきもなし、うらみもなし。今年はわづかに十七にこそなる人の、かやうに穢土をいとひ、浄土をねがはんと思ひ入り給ふこそ、誠の大道心とはおぼえたれ。うれしかりける善知識かな。いざ、もろともにねがはん」とて、四人一所にこもりゐて、朝夕仏の前に花香をそなへ、余念もなくねがひければ、遅速こそ有りけめども、四人の尼ども皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。
されば、後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、「義王、義女、仏、とぢが尊霊」と四人一所に入れられけり。哀なりし事共なり。
第七句 殿下乗合 てんがのりあひ
さるほどに、嘉応元年七月十六日、一院御出家有り。御出家の後も万機の政を聞こしめされければ、院、内分くかたなし。院に召し使はるる公卿、殿上人、上下の北面にいたるまで、官位俸禄身にあまるばかりなり。されども人の心のならひにて、なほあきたらず」「あはれ、その人が失せたらばその国はあきなんず」「その
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人が亡びたらばその官にはなりなん」などと、うとからぬどちは寄りあひ寄りあひささやきあへり。一院も内々仰せなりけるは、「昔より朝敵をたひらぐる者おほしといへども、いまだかやうの事なし。貞盛、秀郷が将門を討ち、頼義が貞任、宗任を亡ぼし、義家が武衡、家衡を攻めたりしも、勧賞おこなはるる事、わづかに受領には過ぎざりき。清盛がかく心のままに振舞ふこそ然るべからね。これも世の末になりて、王法の尽きぬる故なり」とおぼしめせども、ついでなければ御いましめもなし。
又平家もあながちに朝家をうらみ奉る事もなかりしに、世の乱れそめぬる根本は、去んぬる嘉応二年十月十六日、小松殿の次男新三位の中将資盛、其時はいまだ越前守とて、十三になられけるが、雪ははだれに降りたり、枯野のけしきも誠におもしろかりければ、若侍ども二三十騎ばかり召し具して、蓮台野や紫野、右近の馬場にうち出でて、鷹ども数多据ゑさせて、鶉、雲雀追つたて追つたて、ひめむすに狩りくらし、薄暮に及び六波羅へこそかへられけれ。
其時の御摂禄は松殿にてぞましましける。中の御門の東の洞院の御所より御参内有り。郁芳門より入御有るべきにて、中の御門東の洞院の大路を南へ、大炊の御門を西へ御出なる。資盛の朝臣大炊の御門猪熊にて、殿下の御出に鼻突に参りあふ。殿下の御供の人々、
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「何者ぞ、狼藉なり。御出の有るに、おり候へ」と言ひてけれども、あまりに勇み誇りて、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍ども、皆二十よりうちの若き者どもにて、礼儀骨法をわきまへたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の礼儀にも及ばず、駆け破りて通らんとする間、暗さはくらし、殿下の御供の人々、つやつや太政入道の孫とも知らず少々は又知りたりけれどもそら知らずして、資盛朝臣を始として、侍ども馬より取つて引き落し、頗る恥辱に及びけり。資盛朝臣はふはふ六波羅へおはして、祖父相国禅門へこのよし訴へ申されたり。入道、最愛の孫にてはおはします、おほきに怒つて、「たとえ殿下なりとも、浄海があたりをば一度はなどかはばかり給はざるべき。をさなき者に左右なう恥辱をあたへらるるこそ遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。この事思ひ知らせ奉らでは、えこそ有るまじけれ。殿下をうらみ奉らばやと思ふはいかに」と宣へば、小松殿申されけるは、「これはすこしもくるしく候ふまじ。頼政、時光なんどと申す源氏どもにあざむかれ候はんは、誠に一門の恥辱にても候ふべし。重盛が子どもにて候はんずる者が、殿下の御出に参りあひ奉り、乗物よりおり候はぬこそ尾籠に候へ」とて、其時行きむかひたる侍ども皆召し出だし、「自今以後もなんぢらよく心得べし。あやまつて、重盛はこれより殿下へ、無礼のおそれを
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こそ申さんと思へ」と宣へば、その後は入道相国、小松殿にはかくとも宣ひも合はせられず、かた田舎の侍どもの、「入道の仰せよりほかはおそろしき事なし」と思ふ、難波、瀬尾を始として都合六十余人召し寄せ、「来る二十一日、主上御元服の御さだめに殿下参内有らんとき、いづくにても待ちうけ奉りて、前駆、随身どもがもとどり切つて、資盛が恥をそそげ」とぞ宣ひける。兵どもかしこまり承りてまかり出づ。
殿下これをば夢にも知ろしめされず、主上明日【*明年】御元服、御加冠、拝官御さだめの為に、御直盧にしばらく御座有るべきにて、つねの御出よりひきつくろはせ給ひて、今度は待賢門より入御有るべきにて、中の御門を西へ御出なる。六波羅の兵ども、猪熊堀川の辺に、ひた兜三百騎ばかりにて待ちうけ奉り、殿下をうちにとりこめ、前後より鬨をどつとぞつくりける。前駆や随身どもが今日を晴れと装束したるを、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、馬よりとつて引き落し、散々に陵轢して、いちいちに皆もとどりを切る。随身十人がうち、右の府生武基がもとどりも切られてんげり。その中に藤蔵人大夫高範がもとどりを切るとて、「これはまつたくなんぢがもとどりと思ふべからず。主のもとどりと思ふべし」と言ひふくめてぞ切りてける。その後は御車のうちへも弓の筈つき入れなんどして、簾かなぐり落し、御牛のしりがい・むながい
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切りはなち、散々にしちらして、よろこびの鬨をつくり、六波羅へこそ参りけれ。入道「神妙なり」とぞ宣ひける。御車副には鳥羽の先使国久丸といふをのこ、下臈なれども心有る者にて、様々にしつらひ、御車つかまつりて、中の御門の御所へ還御なし奉り、束帯の御袖にて涙をおさへつつ、還御の儀式のあさましさ申すもなかなかおろかなり。大織冠、淡海公の御事はなかなか申すに及ばず、忠仁公、昭宣公よりこのかた、摂政関白のかかる御目に合はせ給ふ事、いまだ承り及ばず。これぞ平家の悪行の始なる。
小松殿これを聞き、大きにおどろき、其時行きむかひたる侍ども、皆勘当せらる。「およそは資盛奇怪なり。『栴檀は二葉より香ばし』とこそ見えたれ。すでに十二三にならんずる者は、礼儀、骨法を存知してこそ振舞ふべきに、かく尾籠を現じて、入道の悪名をたて、不孝のいたり、なんぢひとりに有り」とてしばらく伊勢の国へ追ひ下さる。さればこの大将を、君も臣も御感有りけるとぞ聞こえし。
これによりて、主上御元服の御さだめ、その日は延べさせ給ひて、同じき二十五日、院の殿上にてぞ御元服の御さだめは有りける。摂政殿さてもわたらせ給ふべきならねば、同じき十一月九日、兼宣旨をかうぶらせ給ひて、十四日、太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同じく十七日、慶申し有りしかども、世の中なほもにがにがしうぞ見えし。さるほどに、今年も暮れ、嘉応も三年になりにけり。
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第八句 成親大将謀叛 なりちかだいしやうむほん
同じき三年正日五日、主上御元服有りて、同じき十三日、朝覲の行幸有りけり。法皇、女院待ちうけさせ給ひて、初冠の御よそほひいかばかりらうたくおぼしめされけん。主上御年十三歳、入道相国の御娘、女御に参らせ給ふ。法皇御猶子の儀なり。
そのころ、妙音院の太政大臣、内大臣の左大将にておはしけるが、大将を辞し申させ給ひけるときに、徳大寺の大納言実定の卿も所望有り。そのほか、故中の御門の藤中納言家成の卿の三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。これは院の御気色よかりければ、さまざまの祈りを始らる。八幡に百人の僧を籠めて真読の大般若を七日読ませられける間に、高良の大明神の御前なる橘の木に、男山のかたより山鳩二つ飛びきたりて、くひあうてぞ死ににける。「鳩は、これ八幡の第一の使者なり。宮寺にかかる不思議なし」とて、時の検校慶清法印このよし内裏へ奏聞せられたりければ、神祇官にして御占かた有り。「重き御つつしみ、但君の御つつしみには有らず。臣下のつつしみ」とぞうらなひ申しける。
新大納言それにおそれをもいたさず、昼は人目しげければ、夜な夜な歩行にて、中の御門烏丸の宿所より賀茂の上の杜へ七夜つづけて参ら
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れけり。七夜に満ずる夜、宿所に下向して、苦しさにちとまどろみたる夢に、加賀の上の社へ参りたるとおぼしくて、御宝殿の御戸を押し開き、ゆゆしうけだかき御声にて、
さくら花賀茂の川風うらむなよ 散るをばえこそとどめざりけれ
新大納言、なほもそれにおそれをもいたさず、賀茂の上の社の御宝殿のうしろなる大杉のほらに壇をたてて、ある聖を籠めて、百日拏吉尼の法をおこなはせられけるに、いかづちおびたたしく鳴りて、かの杉に落ちかかり、雷火もえあがつて宮中もすでにあやふく見えしかば、神人はしり集まりて、これをうち消しつ。さて、かの外法をおこなひける聖を追ひ出ださんとしけるに、「われ百日参籠の大願有り。今日七十五日にあたる。まつたく出でまじ」とてはたらかず。社家よりこのよし内裏へ奏聞したりければ、「唯法にまかせよ」と仰せらるる間、其時、神人白杖をもつて、かの聖のうしろをしらげて、一条大路より南へ追ひ出だしてんげり。「神は非礼をうけ給はず」と申すに、この大納言非分の大将を祈り申されければにや、かかる不思議も出できたる。
そのころ叙位、除目と申すは、院、内の御はからひにも有らず、摂政、関白の御成敗にも及ばず。唯一向平家のままにて有りければ、徳大寺、花山の院もなり給はず。入道相国の嫡男小松殿、大納言の右大将にてましましけるが、左にうつりて、次男宗盛、中納言にておはしける
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が、数輩の上臈を超越して、右に加はられけるこそ申すばかりもなかりしか。
中にも徳大寺殿は一の大納言にて、華族英雄、才学優長におはしけるが、越えられ給ひぬるこそ遺恨の次第なれ。「さだめて御出家なんどや有らずらん」と、人々ささやき合はれけれども、「しばらく世のならむやうを見ん」とて、籠居とぞ聞こえし。
新大納言宣ひけるは、「徳大寺、花山の院に越えられたらんはいかがせん、平家の次男宗盛の卿に超えられぬるこそ遺恨の次第なれ。これもよろづ思ふさまなるがいたす所なり。いかにもして平家を亡ぼし、本望をとげん」と宣ひけるこそおそろしけれ。平治にも越後の中将とて、信頼の卿に同心の間、すでに誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して、頸をつぎ奉る。然るにその恩をわすれ、かかる心のつかれける、偏に天魔の所為とぞ見えし。外人なき所に兵具をととのへ、軍兵をかたらひおき、そのいとなみのほかは他事なし。
東山のふもと鹿の谷といふ所は、うしろは三井寺につづきて、ゆゆしき城郭にてぞ有りける。これに俊寛僧都の山荘有り。つねはその所に寄りあひ寄りあひ、平家を亡ぼすべきはかりごとをぞめぐらしける。あるとき法皇も御幸なる。故少納言入道信西の子息静憲法印も御供申す。その夜の酒宴に、静憲法印にこの事仰せ合はせられたりければ、法印「あなおそろし。人の数多承り候ひぬ。唯今漏れ聞こえ
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て、天下の御大事に及び候はん」とあわてさわがれければ、大納言気色かはつて、御前をざつと起たれけるが、御前に候ひける瓶子を狩衣の袖にかけてひき倒されたりければ、法皇「あれはいかに」と仰せければ、大納言たちかへりて、「へいじすでに倒れ候ひぬ」と申されければ、法皇、ゑつぼにいらせおはしまして、「者ども、参りて猿楽つかまつれ」と仰せければ、平判官康頼つと出でて、「あまりにへいじのおほく候ふに、もち酔ひて候」と申す。俊寛僧都「それをばいかがつかまつり候ふべき」と申せば、西光法師「首をとるにはしかじ」とて、瓶子の首をとりてぞ入りにける。かへすがへすもおそろしかりし事共なり。静憲法印はあまりのあさましさに、つやつや物も申されず。
与力のともがらは誰々ぞ。近江の中将入道俗名成雅、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔章綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津の国の源氏多田の蔵人行綱を始とし、北面のともがら多く与力したりけり。
あるとき新大納言、多田の蔵人行綱を呼びて、「御辺をば一方の大将軍にたのむなり。この事しおほせつるほどならば、国をも、荘をも、所望は請ふによるべし。まづ弓袋の料に」とて、白布五十反おくられけり。
そもそもこの法勝寺の執行俊寛僧都と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅の子なり。祖父大納言はさせる弓矢
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をとる家には有らねども、あまりに腹あしき人にて、三条坊門京極の家の前をば人をもやすく通さず、つねは中門にたたずみて、歯をくひしばり、いかつてのみぞおはしける。かかる人の孫なればにや、俊寛も憎なれども、心もたけく、よしなき謀叛にもくみしてけり。
安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に転じ給へるかはりに、小松殿、大納言定房の卿を越えて、内大臣にあがり給ふ。やがて大饗おこなはる。大臣の大将めでたかりき。尊者には、大炊の御門の右大臣経宗公とぞ聞こえし。一の上こそ先途なれども、父宇治の悪左府の御例そのはばかり有り。
上古には北面なかりき。白河の院の御時始て置かれてよりこのかた、衛府ども数多侍ひけり。為俊、盛重、童より今犬丸、千寿丸とて、これらは左右なききり者にてぞ有りける。鳥羽院の御時も、季範、季頼、父子ともに召し使はれて、つねは伝奏するをりも有りなんど聞こえしかども、皆身のほどを振舞ひてこそ有りしに、今の北面のともがらは、もつてのほかに過分にて、下北面より上北面にあがり、上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者もおほかりけり。かくおこなはるる間おごれる心どももつきて、よしなき謀叛にもくみしてんげり。
故少納言入道信西の、もと召し使ひける師光、成景といふ者有り。師光は阿波の国の在庁、成景は京の者、熟根いやしき下臈なり。小舎人童、
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もしは格勤者なんどにて召し使はれけるが、さかさかしきによりて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉、二人一度に靭負尉になりぬ。信西事にあひしとき、二人ともに出家して、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とて、これらは出家の後も院の御蔵ゐ[*この一字不要]預かりでぞ有りける。
かの西光が子に師高といふ者有り。これも左右なききり者にて検非違使五位の尉にまで経あがつて、安元元年十二月二十九日、追儺の除目に加賀守にぞなされける。国務をおこなふ間、非法非礼を張行し、神社、仏寺、権門勢家の荘園を没倒して、散々の事共にぞ有りける。たとへ召公のあとをつぐといふとも、穏便の政をおこなふべかりしが、かく心のままに振舞ふ間、同じき二年夏のころ、国司師高が弟、近藤判官師経、目代にて加賀の国へ下着の始、国府の辺に鵜川といふ山寺有り、折節寺僧ども湯をわかして浴びけるを、乱入して追ひあげ、わが身浴び、雑人ども馬の湯あらひなんどをしける。寺僧いかりをなして、「昔よりこの所に国方の者入部する事なし。先例にまかせてすみやかに入部、押妨をとどめよ」とぞ申しける。「先々の目代は不覚でこそいやしまれたれ。当目代はすべてその儀有るまじ」とて、国方のついでをもつて乱入せんとす。寺僧どもは追ひ出ださんとす。たがひに打ちあひ、張りあひしけるほどに、目代師経が秘蔵
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しける馬の足をぞうち切りける。その後は、弓箭兵仗を帯して打ちあひ、切りあひ、数刻たたかふ。目代かなはじとや思ひけん、引きしりぞきて、当国の在庁官人、数千人もよほし、鵜川に押し寄せて坊舎一宇ものこさず焼きはらふ。
鵜川と申すは白山の末寺なり。「この事訴へよ」とてすすむ老僧誰々ぞ。智釈、学明、法台坊、性智、学音、土佐の阿闍梨ぞすすみける。白山の三社八院の大衆ことごとくおこりあひ、都合その勢二千余人、同じき七月九日、目代師経がもと近うぞ押し寄せたる。「今日は日暮れぬ。明日のいくさ」とさだめて、その夜は寄せでゆられたり。露ふきむすぶ秋風は射向の袖をひるがへし、雲井を照らすいなづまは兜の星をかがやかす。あくる卯の刻に押し寄せて、鬨をどつとぞつくりける。城のうちには音もせず。人を入れて見せければ、「皆落ちたり」と申す。大衆力及ばで引きしりぞく。
「さらば山門へ訴へん」とて、白山の神輿をかざり奉りて、比叡山へ振りあげ奉る。
同じき八月十二日、午の刻ばかりに、「白山の神輿すでに比叡山東坂本につかせ給ふ」といふほどこそ有りけれ、北国のかたより雷おびたたしく鳴つて、都をさして鳴りのぼるに、白雪降りて地をうづみ、山上、洛中おしなべて、常盤の山のこずゑまで皆白妙になりにけり。
神輿を客人の宮へ入れ奉る。客人と申すは白山妙理権現にておはし[*この3字不要]おはします。
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思へば、父子の御仲なり。まづ沙汰の成否は知らず、生前の御よろこび、唯この事に有り。浦島が七世の孫にあひたりしにも過ぎ、胎内の者の霊山の父を見しにもこえたり。三千の大衆踵を継ぎ、七社の神人袖をつらね、時々刻々に法施祈念の声たえず。言語道断の事共なり。
山門の上綱等、奏状をささげて、「国司師高流罪に処せられ、目代師経を禁獄せらるべき」よし奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、さも然るべき公卿殿上人は、「あはれ、これはとくとく御裁許有るべきものを。山門の訴訟は他にことなり。大蔵卿為房、太宰権師季仲の卿と申せしは、さしも朝家の重臣なりしかども、山門の訴訟によて流罪せられにき。いはんや師高なんどは事の数にや有るべき」と申し合はれけれども、「大臣は禄を重んじて諫めず、小臣は罪をおそれて申さず」といふ事なれば、おのおの口を閉ぢ給へり。
「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなはぬ」と、白河の院も仰せなりけるとかや。鳥羽の院の御時、越前の平泉寺を山門につけられけるには、「当山の御帰依あさからざるによて、非をもつて理とす」と宣下せられてこそ、院宣を下されしか、されば、江の師の申されしやうに、「そもそも神輿を陣頭に振り奉りて、訴訟いたさんときには、君はいかが御はからひ候ふべき」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし」
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とぞ仰せける。
第九句 北の政所誓願 きたのまんどころせいぐはん
去んぬる嘉保二年三月二日、美濃守源の義綱の朝臣、当国新立の荘を賜ふ間、山の久住者円応を殺害す。これによて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十余人、申文をささげて陣頭へ参じける。関白殿、大和源氏中務丞頼治に仰せて、これをふせがせらる。頼治が郎等のはなつ矢に、矢庭に射殺さるる者八人、傷をかうぶる者十余人なり。社司、諸司四方へ散りぬ。これによて山門の衆徒子細を奏聞の為に下洛すと聞こえしかば、武士、検非違使、西坂本に行きむかつて追つかへす。
山門には大衆、七社の神輿を根本中堂に振りあげ奉りて、その御前にして真読の大般若を七日読うで、関白殿を呪咀して奉る。結願の導師には中胤法印、高座にのぼり、鉦打ち鳴らし啓白の詞にいはく、「われらが芥子の二葉よりおほし奉る神たち、後二条の関白殿に鏑矢一つはなちあて給へ。大八王子権現」と高らかに祈誓したりけれ。やがてその夜不思議の事有りけり。八王子の御殿より鏑矢の声いでて、王城をさして鳴り行くとぞ人の耳には聞こえける。
その朝関白
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殿の御所の御格子をあげらるるに、唯今山より取つてきたるやうに、露にぬれたる樒一枝御簾にたちけるこそ不思議なれ。その夜よりやがて関白殿、山王の御とがめとて重き御やまひをうけさせ給ひたりしかば、母上、大殿の北の政所大きに御なげきあつて、いやしき下臈のまねをして、日吉の社に七日七夜が間御参籠あつて、祈り申させおはします。まづあらはれての御祈りには、百番の芝田楽、百番のひとつもの、競馬、流鏑、相撲、おのおの百番、百座の仁王経、百座の薬師講、一ちやく手半の薬師百体、等身の薬師一体、ならびに釈迦、阿弥陀の像をおのおの造立し供養せられけり。又御心のうちに三つの御立願有り。御心のうちの事なりければ、人いかでこれを知り奉るべきに、それに不思議なる事には、八王子の御前にいくらも有りける参人の中に、陸奥の国よりはるばるとのぼりたる童巫女の、夜半ばかりに、にはかに絶え入りぬ。はるかにかき出だして祈りければ、やがて立ちて舞ひかなづ。人奇特の思ひをなしてこれを見るに、半時ばかりて舞うて後、山王おりゐさせ給ひて、御託宣こそおそろしけれ。「衆生ら、たしかに承れ。大殿の北の政所は、今日七日、わが御前にこもらせ給ふ。御立願三つ有り。まづ一つには、『今度殿下の寿命をたすけてたばせ給へ。さもさぶらはば、この下殿に侍ふもろもろのかたは人にまじはりて、一千日が間宮仕ひ申さん』となり。大殿の
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北の政所にて、世を世ともおぼしめさですごさせ給ふ御心に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事もわすれて、あさましげなるかたは人にまじはりて、『一千日が間朝夕宮仕へ申さん』と仰せらるるこそ、誠に哀におぼしめせ。二つには、『大宮の橋殿より八王子の御社まで、廻廊造りて参らせん』となり。三千の大衆降るにも照るにも、社参のとき、あまりにいたはしければ、廻廊造られたらんは、いかにめでたからん。三つには、『八王子の前にて、毎日退転なく法華問答講おこなはすべし』となり。この御願はいづれもおろかならねども、かみ二つはさなくとも有りなん。法華問答講こそ誠に有らましほしくおぼしめせ。但、今度の訴訟はやすかりぬべき事にて有りつるを、神人、宮仕、射殺され、切り殺されて、衆徒おほく傷をかうぶりて、泣く泣く参りて訴へ申すがあまりに心憂くて、いかならん世までもわするべしともおぼしめさず。其上、かれらがはなつ矢は、しかしながら和光垂迹の御はだへにたちたるなり。誠そらごとはこれを見よ」とて、肩ぬいだるを見れば、左のわきのしたに、大きなるかはらけの口ほど、うげのいてぞ見えたりける。「これがあまりに心憂くて、いかに申すとも、始終の事はかなふまじ。法華問答講一定有るべくは、三年が命を延べてたてまつらん。それに不足におぼしめさば、力及ばず」とて、山王はあがらせおはします。
母上御心のうちの御立願なれば、人に語らせ給はず。「誰漏らし
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ぬらん」とすこしもうたがふ方もましまさず。御心のうちの事共をありのままに御託宣有りければ、いよいよ心肝に染みて、ことに貴くおぼしめして、泣く泣く申させ給ひけるは、「たとひ一日片時にもさぶらふとも、然るべうこそさぶらふに、まして三年が命を延べて賜はらん事こそ、誠にありがたうさぶらへ」とて、泣く泣く御下向有りけり。やがて都へかへらせ給ひて、殿下の御領、紀伊の国に田中の荘といふ所を、八王子の御社へ永代寄進せられけり。されば今の世にいたるまで、法華問答講毎日退転なしとぞ承る。
かかりしほどに、後二条の関白殿御やまひかろませ給ひて、もとの如くならせ給ふ。上下よろこび合はれしほどに、三年すぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。
六月二十一日、又後二条の関白殿、御髪のきはにあしき御瘡出できさせ給ひて、うち臥し給ひしが、同じき二十七日、御年三十八にて遂にかくれさせ給ふ。御心のたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき人にておはしけれども、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜しませ給ひけるなり。誠に惜しかるべし。四十にだにも満たせ給はで、大殿に先立参らせ給ふこそ悲しけれ。必父を先立べしといふ事はなけれども、生死のおきてにしたがふならひ、万徳円満の世尊、十地究竟の大士たちも、力及ばぬ事共なり。慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御とがめなかるべしともおぼえず。さるほどに、山門の大衆「国司師高流罪に処せ
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られ、目代師経を禁獄せらるべき」よし奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、十禅師の[*この一字不要]、客人、八王子三社の神輿をかざり奉りけるとぞ聞こえし。
第十句 神輿振り みこしふり
同じき四月十三日、日吉の祭礼をうちとどめて、陣頭へ振り奉る。下り松、柳原、賀茂河原、河合、梅忠、東北院の辺に、白大衆、神人、宮仕、専当みちみちて、いくらといふ数を知らず。神輿は一条を西へ入らせ給ふに、御神宝は天にかがやき、「日月地に落ち給ふか」とおどろかる。これによて源平両家の大将軍に、「四方の陣頭をかためて、大衆をふせぐべき」由仰せ下さる。平家には、小松の内大臣左大将重盛公、三千余騎にて大宮面の陽明・待賢・郁芳三の門をかため給ふ。舎弟宗盛・知盛・重衡、伯父頼盛・教盛・経盛なんどは、西、南の門をかため給ふ。
源氏には大内守護の源三位頼政さきとして、その勢わづかに三百余騎、北の縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし、勢はすくなし、まばらにこそ見えたりけれ。
山門の大衆、無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より神輿を入れ奉らんとす。頼政はさる人にて、いそぎ馬
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よりおり、兜をぬぎて、手水うがひをして、神輿を拝し奉る。兵どもも皆かくの如し。頼政、大衆の中に言ひ遣はす旨有り。その使には渡辺の長七唱とぞ聞こえし。唱、其日の装束には、麹麈の直垂、小桜を黄にかへしたる鎧着て、赤銅づくりの太刀をはき、二十四さしたる白羽の矢負ひ、滋籐の弓わきにはさみ、兜をぬぎて高紐にかけ、神輿の御前にかしこまり、「しばらくしづまられ候へ。大衆の御中へ源三位入道殿の申せと候。『今度山門の御訴訟、御理運の条、勿論に候。但御成敗遅々こそ、よそにても遺恨におぼえ候へ。されば神輿をこの門より入れ奉るべきにて候ふが、しかもひらきて通し奉る門より入らせ給ひて候ふものならば、山門の大衆は目だり顔しけりなんど、京童部の申さん事、後日の難にや候はんずらむ。又あけて入れ奉れば、宣旨をそむくに似たり。ふせぎ奉れば、医王山王に頭をかたぶけ奉る身が、ながく弓矢の道にわかれなんず。かれといひ、これといひ、かたがたもつて難治にこそ候へ。東の陣頭は小松殿大勢かため給ふ。それより入らせ給ふべうもや候ふらん』と申したりければ、唱がかく言ふにふせがれて、神人、宮仕しばらくここにひかへたり。若大衆、悪僧どもは、「なんでふその儀有るべき。唯この陣より入れ奉れ」と言ふやからもおほかりけれども、老僧どもの中に三塔一の僉議者と聞こえし摂津律師【*竪者】豪運、進み出でて、「尤
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この儀言はれたり。われら神輿を先だてまゐらせて訴訟を致さば、大勢の中を駆け破りてこそ後代の聞こえも有らんずれ。其上この頼政は源氏嫡々の正統、弓矢をとりてはいまだその不覚を聞かず。およそ武芸にもかぎらず、歌道にも又すぐれたり。近衛の院の御時、当座の御会有りしに、『深山の花』といふ題を出だされたりしに、人々皆詠みわづらひたりしに、この頼政、
深山木のそのこずゑとも見えざりし さくらは花にあらはれにけり
といふ名歌をつかまつり、御感にあづかるほどのやさ男に、いかが当座にのぞんで恥辱をあたふべき。この神輿をかきかへし奉れや」と僉議したりければ、数千人の大衆、先陣より後陣にいたるまで皆、「尤々」とぞ同じけり。
さて神輿をかきかへし奉り、東の陣頭、待賢門より入れ奉らんとするに、狼藉たちまちに出できたりて、武士ども散々に射奉り、十禅師の神輿にも、矢ども数多射たてたり。神人、宮仕射殺され、切り殺され、衆徒おほく傷をかうぶりて、をめきさけぶ声、上は梵天までも聞こえ、下は堅牢地神もおどろきさわがせ給ふらんとぞおぼえける。神輿をば陣頭に振り捨て奉りて、泣く泣く本山へこそ帰りのぼりけれ。
同じき二十五日、院の殿上にて公卿僉議有り。「去んぬる保延【*保安】四年四月【*七月】十三日、神輿入洛のとき、座主に仰せて赤山の社へ入れ奉る。又保安【*保延】四年七月【*四月】に、神輿
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入洛のときは、祇園の別当に仰せて祇園の社へ入れ奉り、今度は保安【*保延】の例たるべし」とて、祇園の別当に権大僧都澄憲に仰せて、祇園の社へ入れ奉る。山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振り奉る事、永久よりこのかた、治承までは六箇度なり。されども毎度武士を召してこそふせがせらるるに、かやうに神輿射奉る事は、これ始とぞ承る。「『霊神いかりをなせば、災害ちまたに満つ』といへり。おそろし、おそろし」とぞ、人々申し合はれける。
山門の大衆おびたたしく下落すと聞こえしかば、主上腰輿に召して、夜の間に院の御所法住寺殿へ行幸なる。中宮は御車に召して行啓有り。小松の大臣、直衣に矢負うて供奉らせる。嫡子権亮少将維盛、束帯にえびら【*平】やなぐひ負うて参られけり。京中の貴賎、禁中の上下さわぎののじる事おびたたし。されども山門には、神輿に矢たち、神人、宮仕射殺され、切り殺され、衆徒おほく傷をかうぶりしかば、「大宮、二の宮、講堂、中堂、一宇ものこさず焼きはらつて、山林にまじはるべき」よし、三千一同に僉議す。これによて、「大衆申す所御ばからひ有るべし」と聞こえしほどに、平大納言時忠卿、其時はいまだ左衛門督たりしが、上卿にたつ。大講堂の庭に三塔会合して、上卿をひき張らんとす。「しや冠うち落し、その身をからめとつて湖に沈めよ」なんど
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ぞ申しける。時忠卿さる人にて。いそぎふところより小硯、たたう紙を取り出でて、思ふ事一筆書きて、大衆の中へ遣はす。これをあけて見るに、「衆徒の濫悪を致すは魔縁の所行也。明王の制止を加ふるは、善逝の加護なり」とこそ書かれたれ。大衆これを見て、「尤、尤」と同じ、谷々へくだり、坊々へぞ入りにける。一紙一句をもつて、三塔三千のいきどほりをやすめ、公私の恥をのがれ給ひける時忠卿こそゆゆしけれ。
同じき二十日、花山の院の中納言兼雅の卿、上卿にて、国司師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を獄定せらる。又去んぬる十三日、神輿射奉りし武士六人禁獄せらる。これらは皆小松殿の侍なり。
同じき四月二十八日、樋口富の小路より火出できたりて、京中おほく焼けにけり。折節辰巳の風はげしく吹きければ、大きなる車輪の如くなる炎が、三町、五町をへだてて、飛びこえ、飛びこえ、焼けゆけば、おそろしなんどもおろかなり。或は具平親王の千種殿、或は北野の天神の紅梅殿、橘の逸成の蠅松殿、鬼殿・高松殿・鴨居殿・東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀河殿、昔、いまの名所三十四箇所、公卿の家だに十六箇所まで焼けにけり。殿上人、諸大夫の家々は記すに及ばず。遂には内裏に吹きつけ、朱雀門より始て、応天門、会昌門、大極殿、
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豊楽門【*豊楽院】、諸司八省、朝所にいたるまで、一時が内に灰燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍万宝さながら麈灰とぞなりぬ。その間の費えいかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人、牛馬のたぐひ数を知らず。これただごとに有らず、「山王の御とがめ」とて、比叡山より大きなる猿ども二三千おり下りて、手々に松に火をともして、京中を焼くとぞ人の夢には見えたりける。
大極殿は貞観十八年に始て焼けたりければ、同じき十九年正月三日、陽成院の御即位は豊楽院にてぞ有りける。元慶元年四月九日、事始め有りて、同じき二年十月八日にぞ造り出だされける。天喜五年二月二十六日に、又焼けにけり。治承【*治暦】四年四月十五日に事始め有りしかども、いまだ造り出だされざるに、後冷泉院崩御なりぬ。後三条の院の御字、延久四年四月十五日に造り出だされて、遷幸なし奉り、文人詩を奉り、伶人楽を奏しけり。いまは世の末になつて国の力もおとろへたれば、その後は遂に造られず。P058


平家物語 百二十句本(京都本)巻第二

平家巻第二目録
第十一句明雲座主流罪
覚快法親王新座主の事
明雲俗名大納言の大夫藤井の松技
根本中堂に至つて西光呪咀の事
澄憲法印伝法
第十二句明雲帰山
大衆先座主奪ひ取るべき僉議
十禅師権現御託宣
一行阿闍梨の沙汰
九曜の曼陀羅
第十三句多田の蔵人返り忠
六波羅つはもの揃ひ
新大納言成親拷問
西光法師死去
師高師経誅戮
第十四句小教訓
小松殿成親を乞ひ請くる事
北野の天神の事
宇治の悪衛門実検の事
難波瀬尾折檻の事
第十五句平宰相成経を乞ひ請くる事
少将北の方烏丸宿所出でらるる事
少将西八条屈請の事
少将院の御所に御暇乞ひの事
少将乞ひ請け安堵の事
第十六句大教訓
太政入道法皇を恨み奉る事
小松殿西八条入御の事
小松殿つはもの揃ひ
褒似蜂火の事
第十七句成親流罪・少将流罪
新大納言配所に赴かるる事
丹波の少将遠流の事
有木の別所
阿古屋の松の沙汰
第十八句三人鬼界が島に卒都婆流し
康頼出家
熊野勧請
祝詞
蘇武
第十九句成親死去
成親出家
源左衛門の尉信俊有木の別所へ使
吉備津の中山において毒害の事
新大納言北の方出家
彗星の沙汰
第二十句徳大寺殿厳島参詣
藤の蔵人大夫意見の事
大将の祈誓
厳島の内侍実定の卿を送り奉る事
実定の卿大将成就の事

平家 巻第二
第十一句 明雲座主流罪
治承元年五月五日、天台座主明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)、公請を停止せられけるうへ、蔵人をつかはして、如意輪の御本尊を召しかへし、護持僧を改易せらる。そのうへ、庁使をつけて、今度神輿を内裏へ振り奉(たてまつ)る衆徒の張本を召されける。「加賀の国に座主の御坊領あり。師高是(これ)を停廃のあひだ、門徒の大衆寄りて、訴訟をいたす。すでに朝家の御大事におよぶ」よし西光法師父子が無実の讒訴によつて、「ことに重科に処せらるべき」よし聞(き)こえけり。明雲(めいうん)は法皇(ほふわう)の御気色あしかりければ、印鑰(いんやく)をかへし奉(たてまつ)りて、座主を辞し申さる。同じき十一日、鳥羽の院の七の宮、覚快法親王を天台座主になし奉(たてまつ)らせ給ふ。是(これ)は青蓮院の大僧正行玄の御弟子なり。同じき十二日、前の座主所職をとどめらる。検非違使二人に仰せて、火を消し、水にふたをして、水火の責におよぶ。是(これ)によつて、大衆参洛すと聞(き)こえしかば、京中またさわぎあへり。同じき十三日、太政大臣以下の公卿十三人参内して、陣の座につき、前の座主罪科の事議定あり。八条の中納言長方(ながかた)の卿(きやう)、そのときはいまだ左大弁の宰相にて、末座に侍はれけるが、「法家の勘状にまかせて、死罪一等を減じて、遠流せらるべきよし見えて候へども、先座主明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)は、顕密兼学して、浄戒持律(じやうかいぢりつ)のうへ、大乗妙経(だいじようめうきやう)を公家(くげ)にさづけ奉(たてまつ)り、菩薩浄戒(ぼさつじやうかい)を法皇(ほふわう)に保たせ奉(たてまつ)る。かつうは御経の師なり、かつうは御戒の師なり。かたがたもつて重科におこなはれんこと、冥の照覧はかりがたし。されば、還俗遠流をなだめらるべきか」と申されたりければ、当座の公卿みな「長方(ながかた)の卿(きやう)の儀に同ず」と申しあはれけれども、法皇(ほふわう)御いきどほりふかかりければ、なほ遠流にさだめらる。太政入道も、「このこと申しなだめん」とて、院参せられたりけれども、法皇(ほふわう)をりふし御風の気とて、御前にも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪するならひとて、度縁を召しかへして還俗せさせ奉(たてまつ)り、「大納言の大夫藤井の松枝」といふ俗名をこそつけられけれ。この明雲(めいうん)と申すは、村上の天皇第七の皇子、〔具〕平親王より六代の御末、久我の大納言顕通の卿(きやう)の御子なり。まことに無双の碩徳、天下第一の高僧にておはしければ、君も臣もたつとみ給ひて、天王寺、六勝寺の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安倍の泰親が申しけるは、「さばかりの智者の『明雲(めいうん)』と名のり給ふこそ心得ね。上に日月の光をならべて、下に雲あり」とぞ難じける。仁安元年二月二十日、天台座主にならせた[* 「た」衍字]給ふ。同じき三月十五日、御拝堂ありけり。中堂の宝殿を開かれけるに、方一尺の箱あり。白き布にてつつまれたり。一生不犯の座主、かの箱をあけて見給ふに、中に黄なる紙に書ける文一巻あり、伝教大師、未来の座主の御名をかねて記しおかれたり。わが名のある所(ところ)まで見て、それより奥をば見給はず、もとのごとくに巻きかへしておかるるならひなり。さればこの僧正もさこそ〔は〕おはしけめ。かかるたつとき人なれども、先世の宿業をばまぬかれ給はず。あはれなりし事どもなり。同じき二十二日、『配所伊豆の国』と定めらる。人々様々に申されけれども、西光法師父子が讒奏(ざんそう)によ(ッ)て、か様にはおこなはれけるなり。「やがて今日都を出ださるべし」とて、追立の官人、白河の御坊へ行きむかひて追立てまつる。僧正泣く泣く御坊を出でさせ給ひて、粟田口のほとり、一切経の別所へ入らせおはします。山門には大衆起りて、僉議(せんぎ)しけるは、「所詮われらが敵は西光法師にすぎたる者なし」とて、かれらが親子の名字を書いて、根本中堂におはします十二神将のうち、金毘羅大将の左の御足の下に踏ませ奉(たてまつ)りて、「十二神将、七千の夜叉(やしや)、時刻をめぐらさず西光父子が命を召しとり給へや」と、をめき叫びて呪詛しけるこそ聞くもおそろしけれ。同じき二十三日、一切経の別所より配所へおもむき給ひける。さばかんの法務の大僧正ほどの人を、追立武士がまへに蹴たてさせて、今日をかぎりに都を出でて関の東へおもむかれけん心のうち、おしはかられてあはれなり。大津の打出の浜にもなりければ、文殊楼の軒端のしろしろと〔して〕見えけるを、二目とも見給はず、袖を顔におしあてて、涙にむせび給ひけり。祇園の別当澄憲法印、そのときはいまだ権大僧都にておはしけるが、あまりに名残を惜しみ奉(たてまつ)りて、泣く泣く粟津まで送りまゐらせて、それよりいとま申してかへられけり。明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、心ざしの切なることを感じて、としごろ心中に秘せられける天台円宗の法門、一心三観の血脈相承の輪を、澄憲にさづけられけるとかや。〔この法は〕釈尊の付属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の龍樹(りゆうじゆ)菩薩(ぼさつ)より、次第に相伝し来たれるを、今日のなさけにさづけらる。わが朝は粟散辺地(そくさんへんぢ)の境、蜀世末代といひながら、澄憲に付属して、法衣のたもとをしぼりつつのぼられし心のうちこそたつとけれ。
〔第十二句 明雲(めいうん)帰山〕[* この句名なし]
山門には、大衆、大講堂の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも伝教、慈覚、智証大師、義信和尚よりこのかた、天台座主はじまりて、五十五代にいたるまで、いまだ流罪の例を聞かず。つらつら事の心を案ずるに、延暦十三年十月に、皇帝は帝都をたて、大師は当山によぢのぼり、四名の教法をひろめ給ひしよりこのかた、五障(ごしやう)の女人(によにん)跡(あと)絶えて、三千の浄侶居を占めたり。峰には、一乗読誦(いちじようどくじゆ)年(とし)ふりて、麓(ふもと)には七社(しちしや)の霊験(れいげん)日(ひ)新(あらた)なり。かの月氏の霊山(りやうぜん)は、王城(わうじやう)の東北(とうぼく)、大聖(だいしやう)の幽窟なり。是(これ)日域の叡岳も、帝都の鬼門にそばだつて、護国の霊地なり。されば代々の賢王(けんわう)智臣(ぢじん)も、この所(ところ)にして壇場を占む。いはんや末代といふとも、いかでかわが山にきずをつくべき。心憂し」と申すほどこそあれ、満山の大衆のこりとどまる者なく、東坂本へおりくだり、十禅師(じふぜんじ)の御前(おんまへ)にて僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも、粟津のほとりに行きむかつて、貫首をうばひとどむべきなり。ただし、われら、山王大師の御力のほかまた頼むかたなし。まことに別の子細なくうばひとどめ奉(たてまつ)るべくは、われら、山王大師の御力のほかまた頼むかたなし。まことに別の子細なくうばひとどめ奉(たてまつ)るべくは、われらに一つの瑞相を見せしめ給へ」と、おのおの肝胆をくだき祈念しけり。ここに、無動寺の法師の中に、乗円律師が童に、鶴丸とて十八歳になりしが、身心くるしみ、五体に汗を流(なが)して、にはかに狂ひ出でたり。「われに十禅師権現乗りゐさせ給へり。末代といふとも、いかでかわが山の貫首を他国へは移さるべき。生々世々に心憂し。さらんにとつては、われこの麓(ふもと)に跡をとどめてもなにかせん」とて、双眼より涙をはらはらと流(なが)す。大衆大きにあやしみて、「まことに十禅師の御託宣にてましまさば、われらにしるしを見せ給ひて、もとの主へかへし給へ」とて、しかるべき老僧ども数百人、面々に持ちたる念珠(ねんじゆ)を、十禅師(じふぜんじ)の大床(おほゆか)のうへへぞ投げあげける。かの物狂(ものぐる)ひ走りまはり、ひろめあつめて、すこしもたがはずいちいちにもとの主にぞくばりける。大衆、神明霊験のあらたなることのたつとさに、みな随喜の涙をぞ流(なが)しける。「その儀ならば、行きむかつて貫首をうばひ奉(たてまつ)れや」と言ふほどこそあれ、雲霞(うんか)の如(ごと)く発向(はつかう)す。或(あるい)は志賀(しが)、辛崎(からさき)の浜路に歩(あゆ)みつづきける大衆もあり、或(あるい)は山田、矢橋の湖上に船おし出だす衆徒(しゆと)もあり。おもひおもひ、心々にむかひければ、きびしかりつる領送使、座主をば国分寺に捨ておき奉(たてまつ)り、われ先にと逃げ去りぬ。大衆国分寺へ参りむかふ。〔先〕座主大きにおどろき給ひて、「『勅勘の者は月日の光だにもあたらず』とこそ承れ。いかにいはんや、『時刻をめぐらさず、いそぎ追ひ出だすべし』と、院宣のむねなるうへ、暫時もなずらふべからず。衆徒とくとくかへりのぼり給へ」とて、端近う出でてのたまひけるは、「三台槐門(さんだいくわいもん)の家(いへ)を出(い)でて、四明幽渓(しめいいうけい)の窓(まど)に入(い)りしよりこのかた、ひろく円宗の教法を学し、顕密(けんみつ)の両宗(りやうしゆう)をつたへて、わが山の興隆〔を〕のみ思へり。また国家を祈り奉(たてまつ)ることもおろかならず。衆徒をはごくむ心ざしふかかりき。両所三聖、山王七社、さだめて照覧(せうらん)し給(たま)ふらん。身(み)にあやまることなし。無実の罪によ(ッ)て遠流の重科をかうぶる、先世の宿業なれば、世をも、人をも、神をも、仏をも恨み奉(たてまつ)ることなし。是(これ)までとぶらひきたり給ふ衆徒の芳志(はうじ)こそ、申しつくしがたけれ」とて、香染の袖をぞしぼられける。大衆もみな袖〔を〕ぞぬらしける。さて御輿をさし寄せて、「とくとく」と申せば、「昔こそ三千貫首たりしが、いまはかかる流人の身となりて、いかでかやんごとなき修学者たちにかきささげられてはのぼるべき。たとへのぼるべきにてありとも、藁沓(わらんず)なんどいふものを履いて、同じやうに歩(あゆ)みつづきてこそのぼらめ」とて乗り給はず。ここに西塔の法師、戒浄坊(かいじやうばう)〔の〕阿闍梨(あじやり)祐慶(いうけい)といふ悪僧(あくそう)あり。長七尺ばかりありけるが、黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)の大荒目(おほあらめ)なるを草摺り長に着なし、兜をばぬぎて、白柄の長刀わきばさみ、「ひらかれ候へ」とて大衆の中をおしわけおしわけ、先座主(せんざす)の御前にづんと参り、大の眼にてしばしにらまへて申しけるは、「あつぱれ、不覚の仰せどもかな。その御心にてこそ、かかる御目にもあはせ給へ。とくとく召され候へ」と申しければ、先座主(せんざす)あまりのおそろしさにや、いそぎ乗り給ふ。大衆取り得奉(たてまつ)るうれしさに、いやしき法師、童にあらねども、修学者たち、をめき叫んでかきささげのぼりけるに、人はかはれども祐慶はかはらず、前輿かいて、輿の轅も、長刀の柄も、くだけよと取るままに、さしもさがしき東坂本を、平地を歩ぶがごとくなり。大講堂の庭に輿かきすゑて、大衆僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも、勅勘をかうぶりて流罪せられ給ふ人を取りかへし奉(たてまつ)り、わが山の貫首にもちひ申さんこと、いかがあるべし」と言ひければ、戒浄坊の阿闍梨(あじやり)さきのごとくにすすみ出でて、「夫(それ)当山(たうざん)は日本(につぽん)無双(ぶさう)の霊地(れいち)、鎮護国家(ちんごこくか)の道場(だうぢやう)なり。山王の御威光さかんにして、仏法、王法牛角なり。されば衆徒の意趣にいたるまでならびなし。いやしき法師ばらまでも、世もつてかろんぜず。いはんや知恵高貴にして、三千の貫首たり。徳行おもくして一山の和尚たり。罪なくして罪をかうぶること、是(これ)山上(さんじやう)、洛中(らくちゆう)のいきどほり、興福(こうぶく)・園城(をんじやう)の嘲(あざけり)にあらずや。このとき顕密のあるじを失つて、修学の学侶(がくりよ)、蛍雪(けいせつ)のつとめおこたらんこと心憂かるべし。今度祐慶張本に称ぜられ、いかなる禁獄、流罪にもせられ、首をはねられんこと、今生の面目、冥途のおもひでたるべし」とて、双眼(さうがん)より涙(なみだ)をはらはらと流(なが)す。大衆みな、「もつとも、もつとも」とぞ同じける。それよりしてこそ祐慶をば「いかめ坊」とは言はれけれ。先座主は、東塔の南谷妙光坊へおき奉(たてまつ)りけり。
[* ここに「一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)之(の)沙汰(さた) 底本 一ぎやうあじやりのさた」の句名有り]
時の横災は権下の人ものがれ給はざりけるにや。昔(むかし)大唐の一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)は、玄宗皇帝の護持僧にてましましけるが、大国も、小国も、人の口のさがなさは、后楊貴妃に名をたて給ふ。あとかたなきことなれども、そのうたがひによ(ッ)て、果羅国へ流(なが)され給ふ。くだんの国には三つの道あり。「臨地道」とて御幸の道、「遊地道」とて雑人のかよふ道、「闇穴道」とて重科の者をつかはす道なり。この闇穴道と申すは、七日七夜、月日の光を見ずして行く所(ところ)なり。しかれば、一行(いちぎやう)は重科の人とて、くだんの闇穴道へつかはさる。冥々として人もなく、行歩に前途まよひ、森々として、山深し、只(ただ)澗谷(かんこく)に鳥(とり)の一声(ひとこゑ)ばかりにて、苔(こけ)のぬれ衣(ぎぬ)ほしあへず。無実の罪によつて遠流の重科をかうぶることを、天道あはれみ給ひて、九曜のかたちを現じつつ、一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)をまぼり給ふ。ときに一行(いちぎやう)右の指をくひ切りて、左の袖に九曜のかたちをうつされけり。和漢両朝に真言の本尊たる「九曜の曼荼羅」是(これ)なり。
第十三句 多田の蔵人返り忠
先座主を大衆取りとどめ奉(たてまつ)るよし、法皇(ほふわう)聞(き)こしめして、やすからずぞおぼしめされける。西光法師申しけるは。「昔(むかし)より山門の大衆みだりがはしき訴へをつかまつることは、いまにはじめずと申せども、是(これ)ほどのことは承りおよばず。もつてのほかに過分に候(さうらふ)。是(これ)を御いましめなくは、世は世にては候ふまじ。よくよく御いましめ候へ」とぞ申しける。わが身のただいま亡びんずることをもかへりみず、山王大師の神慮にもはばからず、「讒臣(ざんしん)国(くに)を乱す」とは、か様のことをや申すらん。大衆「王地に孕まれて、さのみ詔命(ぜうめい)を対かんせんもおそれなり」とて、内々院宣にしたがひ奉(たてまつ)る衆徒もありと聞(き)こえしかば、先座主妙光坊にましましけるが、「つひにいかなる目にやあはんずらん」と、心ぼそうぞおぼしめしける。されども流罪はなだめられ給ひけるとかや。新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)は、山門の騒動により、わたくし宿意をばおさへられけり。日ごろの内議支度はさまざまなりしかども、議勢ばかりにて、させる事しいだすべしともおぼえざりければ、むねとたのまれける多田の蔵人行綱、「このこと無益なり」と思ふ心ぞつきにける。成親(なりちか)の卿(きやう)のかたより「弓袋の料に」とておくられたる白布ども、家の子郎等が直垂、小袴に裁ち着せてゐたりけるが、「つらつら平家の繁昌を見るに、たやすくかたぶけがたし。よしなきことに与してんげり。もしこのこと漏れぬるものならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より漏れぬさきに、返り忠して、命生きん」と思ふ心ぞつきにける。五月二十五日の夜ふけ人しづまつて、入道(にふだう)相国(しやうこく)の宿所西八条へ、多田の蔵人行きむかつて、「行綱こそ申し入るべきこと候うて参りて候へ」と申し入れたりければ、「なにごとぞ。聞け」とて、主馬の半官盛国を出だされたり。行綱「まつたく人してかなふまじきにこそ」と申すあひだ、入道(にふだう)中門の廊に出であひ対面あり。「こよひははるかにふけぬらんに、ただ今なにごとに参りたるぞ」とのたまへば、「さん候(ざうらふ)。昼は人目しげう候ふほどに、夜にまぎれて参り候(さうらふ)。新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)、そのほか院中の人々このほど兵具をととのへ、軍兵をあつめられしこと、聞(き)こしめされ候ふや」。入道(にふだう)「いさ、それは山門の衆徒攻めらるべしとこそ聞け」と、こともなげにのたまへば、行綱近うゐよりて、「さは候はず。御一家を滅ぼし奉(たてまつ)らんずる結構とこそ承り候へ」と申せば、「さて、それは法皇(ほふわう)も知ろしめされたるか」。「子細にやおよび候ふ。大納言の軍兵をもよほされしことも、『院宣』とてこそもよほされ候ひしか」、「俊寛が、と申して」、「西光が、かう申して」〔と〕、ありのままにさし過ぎさし過ぎ、いちいちに申せば、入道(にふだう)大音をもつて侍ども呼びののじり給ふ。聞くもまことにおびたたし。行綱「よしなきこと申し出だして、ただ今証人にやひき出だされんずらん」と思ひければ、大野に火をはなちたる心地して、いそぎ門外へぞ逃げ出づる。入道(にふだう)、筑後守貞能を召して、「やや、貞能。京中に謀叛の者みちみちたり。一向当家の身のうへにてあんなるぞ。一門の人々呼びあつめよ。侍ども召せ」とのたまへば、馳せまはつて披露す。馳せあつまる人々には、右大将宗盛、三位の中将(ちゆうじやう)知盛、左馬頭行盛以下の人々、甲冑弓矢をたいして馳せあつまる。夜中に西八条には兵六七千騎もやあらんとぞ見えし。あくれば六月一日、いまだ暗かりけるに、入道(にふだう)、検非違使阿倍の資成を召して、「やや、資成。御所へ参りて、大膳大夫信業呼び出だして申さんずる様は、『このごろ、近う召しつかひ候ふ人々、あまりに朝恩にほこり、あまつさへ世をみださんとの結構どもにて候ふなるを、たづね沙汰つかまつり候はんことをば、君も知ろしめされまじう候(さうらふ)』と申せ」とのたまひければ、資成御所へ参りて、大膳大夫を呼び出だして、この様を申しけり。信業色をうしなひ、御前へ参りてこのよし奏しければ、法皇(ほふわう)ははや御心得あつて、「あつぱれ、是(これ)が内々はかりしことの漏れけるよ」とぞおぼしめされける。「こはなにごとぞ」とばかり仰せられて、分明の御返事もなかりけり。資成やや久しう待ちまゐらせけれども、そののちはさして仰せ出ださるるむねもなかりければ、資成走りかへりて、「かうかう」と申(まう)せば、入道(にふだう)相国(しやうこく)「さればこそ、君も知ろしめされたり。行綱このこと告げ知らせずは、入道(にふだう)安穏(あんをん)にあるべしや」とて、筑後守貞能、飛騨守景家を召して、からめとるべき者を下知せられければ、二百騎、三百騎、押し寄せ、押し寄せ、からめとる。まづ雑色をもつて中の御門の新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)のもとへ、「きつと申しあはすべきことあり。立ち入り給へ」と言ひつかはしたりければ、大納言「あつぱれ、是(これ)は山門の衆徒攻めらるべきこと、申しゆるさんためにこそ。法皇(ほふわう)いきどほり深ければ、いかにもかなふまじきものを」とて、わが身の上とはつゆほども知らず、うちきよげなる布衣をたをやかに着なして、八葉の車のあざやかなるに乗り、侍四五人召し具し、雑色、舎人、牛飼ひにいたるまで、つねの出仕よりもひきつくろひてぞ出でられける。そもそも最後とは、のちにて思ひあはせける。西八条近うなつて、兵どもあまた町々にみちみちたり。「あなおびたたし。こはなにごとやらん」と、車よりおり、門をさし入り見給へば、内に兵どもひしと並みゐたり。中門の外に、おそろしげなる者どもが二人たちむかひ、大納言の左右の手をひつぱり、たぶさとつてひき臥せ奉(たてまつ)る。「いましむべうや候ふらん」と申しければ、入道(にふだう)「あるべうもなし」とのたまふ。とつてひき起こし奉(たてまつ)り、一間なる所(ところ)におし籠めて、兵是(これ)を守護したり。大納言夢の心地して、つやつやものもおぼえ給はず。供にありつる侍ども、散々になり、雑色、牛飼ひも、牛、車をすてて逃げうせぬ。さる程(ほど)に、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)、平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)、捕へて出できたる。西光法師もこのことを聞いて、院の御所法住寺殿へ鞭をあげて馳せ参る。平家の侍ども道にて行きあひ、「西八条殿へきつと参らるべし。たづね聞(き)こしめすべきことあるぞ」と言ひければ、「是(これ)も法住寺殿へ奏すべきことありて参るなり」とて、通らんとしけるを、「にくい奴かな。さな言はせそ」とて、馬よりとつて引き落とし、宙にくくつて西八条に参り、坪のうちにひきすゑたり。入道(にふだう)いかつて、「しや、ここへひき寄せよ」とて縁のきはへひき寄せさせ、「天性おのれが様なる下臈(げらふ)のはてを、君の召しつかはせ給ひて、なさるまじき官職をなし、父子ともに過分のふるまひして、あやまたぬ天台座主を流罪に申しおこなふ。あま(ッ)さへ入道(にふだう)をかたぶけんとす。奴ばらがなれる姿よ。ありのままに申せ」とぞのたまひける。西光もとより剛の者なれば、ちとも色も変せず、わろびれたる気色もなく、居なほりて申しけるは、「さもさうずとよ。院中に召しつかはるる身なれば、執事別当新(しん)大納言(だいなごん)の『院宣』とてもよほされしことに、『与せず』とは申すまじ。それは与したり。ただし耳にとまることのたまふものかな。他人のことをば知らず、西光がまへにて過分のことをばえこそ言はれまじけれ。見ざりしことかとよ。御辺は刑部卿(きやう)の嫡子にてありしかども、十四五までは出仕もせず、故中の御門の家成の卿(きやう)の辺にたちよりしを、京童が『高平太』とこそ笑ひしか。そののち保延のころかとよ。忠盛の朝臣備前より上洛のとき、海賊の張本三十余人からめ参らせられし勲功の賞に、御辺は十八か九かにて、四位して兵衛佐と申せしをだに、過分とこそ時の人申しあはせられしか。殿上のまじはりをだにきらはれし人の子孫の、太政大臣までなりあがりたるや過分なるらん。侍ほどの者の、受領、検非違使になること、先例、傍例なきにあらず。などあながちに過分なるべき」と、はばかる所(ところ)なく申しければ、入道(にふだう)あまりにいかつて、そののちは物ものたまはず。「しやつが首、左右なう切るべからず。よくよくいましめよ」とぞのたまひける。足手をはさみさまざまにいましめ問ふ。西光もとより陳じ申(まう)さぬうへ、糾問(きうもん)はきびしし、残りなうこそ申しけれ。白状四五枚に記させ、やがて口をぞ裂かれける。つひに五条西の朱雀にてぞ切られける。その子(こ)師高、尾張の井戸田へ流(なが)されたりけるを、討手をつかはして誅(ちゆう)せらる。弟近藤(こんどう)判官(はんぐわん)師経(もろつね)、獄定せられたりしを召し出だされ、首を刎ねられ、その弟(おとと)師平(もろひら)ともに切られ、郎等(らうどう)二人(ににん)、同(おなじ)く首(くび)を刎ねられけり。天台座主流罪に申しおこなひ、十日のうちに山王大師の神罰、冥罰をたちまちにかうぶつて、あとかたもなく滅びけるこそあさましけれ。新(しん)大納言(だいなごん)、一間なる所(ところ)におし籠められ、「是(これ)は日ごろのあらましごとの漏れ聞(き)こえたるにこそ。たれ漏らしけん。さだめて北面のうちに、あるらん」と、思はんことなう案じつづけておはしける所(ところ)に、内のかたより、足おとたからかに踏みならしつつ、大納言のうしろの障子をさつとあけられたり。入道(にふだう)相国(しやうこく)、もつてのほかにいかれる気色にて、素絹の衣のみじかやかなるに、白き大口踏みくくみ、聖柄の刀まへだれにさしはらし、しばらくにらまへて立たれたり。ややありて、「さても御辺をば、平治の乱れのとき、すでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、内府が様々に申して、御辺の首をば継ぎ奉(たてまつ)り候ひしぞかし。それになにの遺恨あれば、この一門ほろぼすべき御結構は候ひけるぞ。されども、当家の運尽きぬによりて、是(これ)まで迎へ奉(たてまつ)る。日ごろの結構の次第、ただ今直にうけたまはり候はん」とのたまへば、大納言「まつたくさること候はず。人の讒言にてぞ候ふらん。よくよく御たづねあるべう候(さうらふ)」とぞ申されける。入道(にふだう)、言はせもはてず、「人やある」と召されけり。筑後守参りたり。「西光が白状持つて参れ」とのたまへば、やがて持ちて参る。おし返し、おし返し、二三返読み聞かせて、「あらにくや。このうへは、されば、なにと陳ずるぞ」とて、大納言の顔にさつとなげかけ、障子をはたとたててぞ出でられける。入道(にふだう)なほも腹をすゑかね給ひて、「経遠。兼康」と召されければ、難波の次郎、瀬尾の太郎参りたり。「あの男、とつて庭へひきおろせ」とぞのたまひける。二人の者どもかしこまつて候ひけるが、「小松殿の御気色いかがあるべう候ひなん」と申しければ、「よしよし。さればなんぢらは内府が命をおもくして、入道(にふだう)が仰せをかろんずるござんなれ」とのたまへば、「あしかりなん」とや思ひけん、大納言のもとどりをとつて、庭へひきおろし奉(たてまつ)る。とつておさへて、「いかやうにも懲(こら)す[* 「ころす」と有るのを他本により訂正]べうや候ふ」と申せば、「ただ、をめかせよ」とぞのたまひける。二人の者ども、耳に口をあて、「いかやうにも御声を出だすべう候(さうらふ)」とささやきて、もとどりをとつておし臥せ奉(たてまつ)る。二声三声ぞをめかれける。或(あるい)は業の秤にかけ、或(あるい)は浄頗梨(じやうはり)の鏡にひきむけ、娑婆世界の罪人を、罪の軽重によ(ッ)て、阿防、羅刹どもが呵責すらんもかくやとぞおぼえたる。たとへば、「蕭樊(せうはん)とらはれ、韓彭(かんはう)すしびしほにせらる。兆錯(てうそ)戮(りく)をうく。周魏(しうぎ)つみせらる。蕭何(せうか)・樊噌(はんくわい)・韓信(かんしん)・彭越(はうゑつ)、是等(これら)はみな漢の高祖の忠臣なりしかども、小人の讒言によ(ッ)て過敗(くわはい)の恥(はぢ)をうく」と言へり。大納言「わが身のかくなるにつけても、子息丹波の少将以下いかなる目にかあはん」と、くやまれけるぞいとほしき。さしもあつき六月に、装束をだにもくつろげず、胸せきあぐる心地して、一間なる所(ところ)におし籠められ、汗もなみだもあらそひ流れつつましましけり。
第十四句 小教訓
さるほどに、小松殿善悪にさわぎ給はぬ人にて、はるかにあつて車に乗り、嫡子権亮少将、車のしり輪に乗せ奉(たてまつ)り、衛府四五人、随身三人召し具して、兵一人も具し給はず、まことにおほやうげにてぞおはしける。車よりおり給ふ所(ところ)に、筑後守貞能つつと参り、「など、是(これ)ほどの御大事に、軍兵をば召し具せられ候はずや[* 「候はんや」と有るのを他本により訂正]」と申しければ、小松殿「『大事』とは天下の大事をこそ言へ、わたくしを『大事』と言ふ様やある」とのたまへば、兵仗帯したる者ども、みなそぞろ退きてぞ見えける。「大納言をばいづくに置かれたるやらん」とて、かしこここの障子をひきあけ、ひきあけ見給へば、ある障子のうへに、蜘手(くもで)結(ゆ)うたる所(ところ)あり。「ここやらん」とて、あけられたれば、大納言おはしけり。うつぶして目も見あげ給はず。大臣「いかにや」とのたまへば、そのとき目を見あげて、うれしげに思はれたりし気色、「地獄にて罪人が地蔵菩薩を見奉(たてまつ)るらんも、かくや」とおぼえてあはれなり。大納言「いかなることにて候ふやらん。憂き目にこそ遇ひ候へ。さてわたらせ給へば、『さりとも』と頼みまゐらせ候(さうらふ)。平治にもすでに失すべう候ひしを、御恩をもつて首をつぎ、位正二位、官大納言にいたつて、すでに四十にあまり候(さうらふ)。御恩こそ生々世々にも報じつくしがたう存じ候へ。おなじくは今度もかひなき命をたすけさせおはしませ。命だに生きて候はば、出家入道して、高野、粉河にとぢこもり、一すぢに後世菩提のつとめをいとなみ候はん」とのたまへば、小松殿「人の讒言にてぞ候ふらん。失ひ奉(たてまつ)るまでのことは候ふまじ。たとひさも候へ、重盛かくて候へば、御命には代り奉(たてまつ)るべし」とて出でられけり。大臣、入道(にふだう)相国(しやうこく)の御前に参りて申されけるは、「あの大納言左右なう失はれ候はんことは、よくよく御ぱからひいるべう候(さうらふ)。先祖(せんぞ)修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)、白河(しらかは)の院(ゐん)に召しつかはれしよりこのかた、家にその例なき正二位の大納言にいたつて、当時(たうじ)君(きみ)の無双(ぶさう)の御(おん)いとほしみなり。左右なう首を刎ねられんことは、いかがあるべう候はんや。都のほかへ出だされたらんは、こと足り候ひなん。かくはまた聞(き)こしめすとも、もしそらごとにても候はば、いよいよ不便のことに候(さうらふ)」「北野の天神は、時平の大臣の讒奏(ざんそう)により憂き名を西海の波に流(なが)し、西の宮の大臣(おとど)は、多田の満仲が讒言によ(ッ)てその身を山陽の雲に寄す。是(これ)みな無実なりしかども、流罪せられ候ひき。延喜の聖代、安和の帝の御ひが事ぞ承る。上古なほかくのごとし。いはんや末代においてをや。賢王なほ御あやまりあり、いはんや凡人においてをや。すでに召し置かれ候ふうへは、いそぎ失はれずとも、なにのくるしきことの候ふべき。『罪のうたがひをば軽くせよ。功のうたがひをば重んぜよ』とこそ見えて候へ。重盛かの大納言が妹にあひ連れて候(さうらふ)。維盛また大納言が聟(むこ)なり。『か様にしたしければ申す』とやおぼしめされん、まつたくその儀にて候はず。ただ世のため人のためを存じてかやうに申し候ふなり」「一年保元に故小納言入道(にふだう)信西が執権のときにあひ当つて、嵯峨の天皇の御宇、右兵衛尉藤原の仲成(なかなり)が誅(ちゆう)せられてよりこのかた、『死罪ほど心憂きことなし』とて、君二十五代のあひだ絶えておこなはれざる死罪を、信西はじめておこなひ、宇治の悪左府のしかばねを掘りおこし実検せしことどもをば、あまりなるまつりごととこそおぼえ候しか。されば、いにしへの人にも『死罪をおこなはるれば海内に謀叛のともがら絶えず』とこそ申しつたへて候へ。そのことばにつきて、なか二年ありて、平治に事いできて、信西が生きながら埋もれしを掘り出だし、首を刎ねられ、大路をわたされて、『保元に申しおこなひしことの、いく程もなうて身のうへに報ひ候ひにき』と思へば、おそろしうこそ候ひしか。是(これ)はさせる朝敵にもあらず。かたがたおほそれあるべし。御栄華残る所(ところ)なければ、おぼしめすことあるまじけれども、子々孫々の繁昌をこそあらまほしう候へ。『父祖の善悪は、必(かなら)ず子孫に報ふ』と見えて候(さうらふ)。『積善(しやくぜん)の家(いへ)には余慶(よけい)あり、積悪(しやくあく)の門(かど)には余殃(よあう)とどまる』とこそ承り候へ。かの大納言、今夜失はれ候はんこと、しかるべうも候はず」と申されたりければ、入道(にふだう)「げにも」とや思はれけん、死罪をば思ひとどまり給ひけり。大臣中門の廊におはして、侍どもにむかつて仰せけるとて、「なんぢら、あの大納言左右なう切ることあるべからず。入道(にふだう)腹の立ちのまま、ひが事しいだして、必(かなら)ず悔み給ふべし。ものさわがしきことしいだして、重盛うらむな」とのたまへば、武士ども舌を振りて、をののきあへり。「さても、今朝、経遠、兼康が大納言に情なうあたりけること、かへすがへすも奇怪なり。重盛がかへり聞かん所(ところ)を、などかはばからざらん。片田舎の者どもは、いつもかくあるぞ」とのたまへば、難波の次郎、瀬尾の太郎もふかく恐れ入りたりけり。大臣は、かく下知して小松殿へぞかへられける。
第十五句 平宰相、少将乞ひ請くる事
大納言の侍ども、中の御門烏丸の宿所へ走りかへり、このよしいちいちに申せば、北の方以下の女房たちも、をめきさけび給ひけり。「『少将殿をはじめまゐらせて、公達もとられさせ給ふべし』とこそ承り候へ。上をば『夕さり失ひまゐらすべし』と候(さうらふ)。是(これ)へも追捕(ついぶ)[* 「ついぶく」と有るのを他本により訂正]の武士どもが参りむかひ候ふなるに、いづちへもしのばせ給はでは」と申せば、「われ残りとどまる身として、安穏にてはなにかはせん。ただ同じ一夜の露とも消えむこそ本意なれ。さても今朝をかぎりと思はざりけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。すでに追捕(ついぶ)[* 「ついぶく」と有るのを他本により訂正]の武士どもの近づくよしを申しければ、「さればとて、ここにてまた恥がましき目をみんもさすがなり」とて、十になり給ふ姫君、八つになり給ふ若君、車にとり乗り給ひて、いづくともなくやり出だす。中の御門を西へ、大宮をのぼりに北山のほとり雲林院へぞ入れまゐらせける。そのほとりなる僧坊におろし置き奉(たてまつ)り、御供の者どもも、身の捨てがたさに、たれに申しつけおき奉(たてまつ)るともなく、いとま申してちりぢりになりにけり。いまは幼き人々ばかり残りとどまつて、またこととふ人もなくてぞおはしける。北の方の心のうち、おしはかられてあはれなり。暮れゆくかげを見給ふにつけても、「大納言の露の命、この暮れをかぎり」と思ひやるにも消えぬべし。いくらもありつる女房、侍ども、世におそれ、かちはだしにてまどひ出づ。門をだにもおしたてず。馬どもは厩(むまや)にたて並びたれども、草飼ふ者も見えず。夜あくれば、馬、車、門にたて並べ、賓客座につらなり、あそびたはぶれ、舞ひをどり、世を世とも思ひ給はずこそ昨日まではありしに、夜(よ)の間(ま)にかはるありさまは、「生者必滅」のことわりは目の前にこそあらはれけれ。「楽しみ尽きて、悲しみ来る」と江相公の筆のあと、思ひ知られてあはれなり。丹波の少将は、院の御所法住寺殿に上臥して、いまだ出でられざりけるに、大納言の侍ども、いそぎ法住寺殿へ参りて、少将を呼び出だし奉(たてまつ)り、「上は西八条に今朝すでにおし籠められさせ給ひぬ。公達もみなとらはれさせ給ふべしとこそ承り候へ」と申せば、少将「など、さらば、それほどのことをば宰相のもとよりは告げざるやらん」とのたまひもはてぬに、つかひあり。「なにごとにて候ふやらん、西八条より『きつと具し奉(たてまつ)れ』と候(さうらふ)。いそぎ出でさせ給へ」と申しければ、少将やがて心得て、院の近習の女房たち呼び出だし奉(たてまつ)り、「などやらん、世の中ゆふべよりものさわがしく候ひしを、『いつもの山法師のくだるか』なんどよそに思ひて候へば、はや成経(なりつね)が身(み)のうへにて候(さうら)ふなり。大納言(だいなごん)夕さり失はれ候(さうら)はんなれば、成経(なりつね)も同罪にてこそ候はんずらめ。八歳のときより御所へ参りはじめ、十二より朝夕龍顔(りゆうがん)に近づきまゐらせ、朝恩にのみあきみちてこそ候ひつるに、今いかなるめにあふべく候ふやらん。今、御所へも参り、君をも見まゐらせたう候へども、かかる身に罷(まか)りなりて候へば、はばかりを存ずるなり」とぞ申されける。女房たち、いそぎ御前へ参り、このよしを奏せらる。「さればこそ、今朝入道(にふだう)がつかひにはや心得つ。是等(これら)が内々はかりしことのあらはれぬるにこそ。さるにても、成経是(これ)へ」と御気色ありければ、世はおそろしけれども、参られたり。法皇(ほふわう)御覧じて、御涙にむせばせおはします。上より仰せ出でらるるむねもなし。少将涙にかきくれて、御前をまかり出づ。法皇(ほふわう)、うしろをはるかに御覧じおくらせ給ひて、「ただ末の世こそ心憂けれ」と、「是(これ)がかぎりにて、御覧ぜられぬこともやあらんずらむ」とて、御涙を流(なが)させ給ふぞかたじけなき。少将、御所をまかり出でられけるに、院中の人々、少将のたもとをひかへ、袖をひき、涙を流(なが)さぬはなかりけり。少将は舅の宰相のもとへ出でられたれば、北の方、近う産すべき人にておはしけるが、今朝よりこのなげきうちそへて、すでに命も消え入る心地ぞせられける。少将御所をまかり出でられけるより、ながるる涙つきせぬに、この北の方のありさまを見給ひては、いとどせんかたなげにぞ見えられける。少将の乳母に、六条といふ女房あり。少将の袖をとり、「御産屋のうちより参りはじめ、君をそだてまゐらせて、わが身の年ゆくをも知らず、去年より今年は大人しくならせ給ふことをのみ、うれしと思ひまゐらせて、すでに二十一年なり。あからさまにもはなれまゐらせず。院内へ参らせ給ひて、おそく出でさせ給ふだにも、心もとなふ思ひまゐらせつるに」とて泣きければ、少将「いたうな嘆きそ。宰相殿のさてもおはしければ、命ばかりはなどか申しうけられざらん」と、こしらへなぐさめ給へども、六条、人目も知らず泣きもだえけり。さるほどに、西八条より「少将おそし」といふ使しきなみのごとし。宰相「ともかくも行きむかうてこそ」とて出でられけり。少将をも同じ車に乗せてぞ出で給ふ。宿所には女房たち、亡き人なんどをとり出だす心地して、みな泣きふし給ひけり。保元、平治よりこのかた、たのしみさかえはありしかども、憂きなげきはなかりしに、この宰相ばかりこそ、よしなき聟(むこ)ゆゑに、かかるなげきはせられけれ。西八条近うなりければ、宰相車をとどめて、まづ案内を申し入れられければ、入道(にふだう)「少将はこの内へはかなふまじ」とのたまふあひだ、そのへん近き侍の宿所におろし奉(たてまつ)り、兵ども守護しけり。宰相には離れ給ひぬ、少将の心のうちこそかなしけれ。宰相(さいしやう)中門(ちゆうもん)にましまして、入道(にふだう)相国(しやうこく)に見参に入らんとし給へども、入道(にふだう)相国(しやうこく)出でもあはれず。源(げん)大夫(だいふ)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)をもつて申されけるは、「よしなき者にしたしうなり候ひて、かへすがへすも悔しく候へども、今はかひも候はず。そのうへあひ具して候ふ者、近う産すべきとやらん受け給ひしが、このほどまた悩むこと候ふなるに、このなげきを今朝よりうちそへて、身々ともならぬさきに、命も絶え候ひなんず。しかるべく候はば、成経を教盛にしばらくあづけさせおはしませ。なじかはひが事をばさせ候ふべき」と申されければ、季貞(すゑさだ)この様を、参りて申す。入道(にふだう)「あつぱれ、この例の宰相がものに心得ぬよ」とて、しばしは返事もなかりけり。宰相、中門にて「いかに、いかに」と待たれけり。ややありて、入道(にふだう)のたまひけるは、「行綱このこと告げ知らせずは、入道(にふだう)、安穏にえやはあるべき。当家また失せなんには、御辺とてもつつがなうはおはせじ。この少将といふは、新(しん)大納言(だいなごん)が嫡子なり。ものをなだむるも様にこそよれ。えこそはゆるすまじけれ」とのたまへば、季貞(すゑさだ)かへり参りて申せば、宰相世にも本意なげにて「仰せのむねおしかへし申すことは、そのおほそれすくなからず候へども、保元、平治よりこのかた、大小事に身をすてて、御命にもかはり奉(たてまつ)り、あらき風をもまづ防ぎまゐらせんとこそ存じ候ひしか。こののちもいかなる御大事も候へ、教盛こそ年老いて候ふとも、子どもあまた候へば、一方の御方にはなどかならでは候ふべき。それに、『成経しばらくあづからん』と申すを御ゆるされなきは、一向教盛を『二心ある者』とおぼしめさるるにこそ。このうへは、ただ身のいとまを賜はつて、出家入道をもし、片山里にこもりゐて、一すぢに後世菩提のつとめをいとなみ候はん。よしなき憂き世のまじはりなり。世にあればこそ望みもあれ。望みかなはねばこそ恨みもあれ。しかじ憂き世をいとひ、まことの道に入りなんには」とぞのたまひける。季貞(すゑさだ)「にがにがしきことかな」と思ひて、この様をまた参りて申す。「門脇殿はおぼしめしきりたるげに候ふものを」と申せば、入道(にふだう)おほきにおどろき給ひて、「出家入道こそけしからずおぼえ候へ。さらば成経をば御辺の宿所へしばらく置かれ候へ」と、しぶしぶにぞのたまひける。季貞(すゑさだ)この様をまた参りて申す。宰相よにもうれしげに、「あはれ、子をば人の持つまじきものかな。わが子の縁にむすぼふれずんば、是(これ)ほど教盛心をば砕かじ」とてぞ出でられける。少将待ちうけて、「さて、なにと候ふやらん」と申されければ、宰相「されば、入道(にふだう)かなふまじきよしのたまひつるを、出家入道まで申したれば、『しばらく宿所に置き奉(たてまつ)れ』とこそのたまひつれ、されども、始終はよかるべしともおぼえず」とのたまひければ、少将「されば、御恩をもつてしばしの命は延び候ひぬるにこそ。さても大納言のことはいかにと聞(き)こしめされ候ふやらん。もし夕さり失はれ候はんにおいては、成経も命生きてなにかせん。同じ御恩にて候はば、ただ一所にて、いかにもならん様を申させ給ふべき」と申されければ、そのとき宰相よにも心くるしげにて、「それも小松の内府の、とかう申されければ、しばらく延び給ふ様にこそ承り候へ。御心やすくおぼしめせ」とのたまへば、少将手をあはせてぞよろこばれける。「子ならざらん者は、誰かただ今わが身のうへをばさしおいて、是(これ)ほどによろこぶべき。まことの契りは親子の中にぞありける。されば、子をば人の持つべかりけるものかな」と、やがて思ひかへされける。今朝の様にまた同車してこそかへられけれ。宿所には女房たち、死したる人のただ今生きかへりたる心地して、みなよろこびの涙をぞ流(なが)しあはれける。この門脇の宰相と申すは、入道(にふだう)の宿所ちかく、門脇といふ所(ところ)にましましければ、「門脇殿」とぞ申しける。
第十六句 大教訓
入道(にふだう)相国(しやうこく)、か様に人々あまたいましめおかれても、なほもやすからずや思はれけん、「仙洞をうらみ奉(たてまつ)らばや」とぞ申されける。すでに赤地の錦の直垂に、白金物うちたる黒糸威(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)、胸板せめて着給ふ。先年安芸守たりしとき、厳島の大明神より、霊夢をかうぶりて、うつつに賜はられたる秘蔵の手鉾の、銀にて蛭巻したる小長刀、つねに枕をはなたず立てられたるを脇にはさみ、中門の廊にこそ出でられけれ。その気色まことにあたりをはらつて、ゆゆしうぞ見えける。筑後守貞能を召す。貞能、木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、御前にかしこまつてぞ候ひける。「やや、貞能。このこといかが思ふ。一年、保元に平右馬助忠正をはじめて、一門なかばすぎて新院の御方へ参りにき。中にも一の宮の御ことは、故刑部卿(きやう)の養君にてわたらせ給ひしかば、かたがた身放ちまゐらせがたかりしかども、故院の御遺誡にまかせ奉(たてまつ)りて、御方にて先を駆けたりき。是(これ)一つの奉公なり。つぎに平治の乱れのとき、信頼、義朝、内裏にたてこもり、天下くらやみとなりしを、命をすて、追ひ落し、経宗、惟方を召しいましめしよりこのかた、君の御ために身を惜しまざること、すでに度々におよぶ。たとひ人いかに申すとも、この一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに、成親(なりちか)といふ無用のいたづら者(もの)、西光(さいくわう)と云(い)ふ下賎(げせん)の不当人(ふたうじん)が申(まう)す事(こと)につかせ給ひて、この一門滅ぼすべき由(よし)、法皇(ほふわう)御結構(ごけつこう)こそ遺恨(ゐこん)の次第(しだい)なれ。此(この)後(のち)も讒奏(ざんそう)する者(もの)あらば、当家(たうけ)追罰の院宣下されんとおぼゆるぞ。朝敵となりなんのちはいかに悔ゆるとも益あるまじ。さらば、世をしづめんほど、法皇(ほふわう)を是(これ)へ御幸をなしまゐらするか、しからずは、鳥羽の北殿へ遷し奉(たてまつ)らんと思ふはいかに。その儀ならば、北面の者どもの中に、さだめて矢をも一つ射んずらん。侍どもに『その用意せよ』と触るるべし。大方は入道(にふだう)、院方の奉公においては、はや思ひ切つたり。馬に鞍おけ。着背長とり出だせ」とぞのたまひける。主馬の判官盛国、小松殿へ馳せ参じ、涙を流(なが)せば、大臣「いかにや。大納言斬られぬるか」とのたまへば、「さは候はず。『御院参あるべし』とて、上すでに着背長を召されて候(さうらふ)。侍共(さぶらひども)皆(みな)うち立つて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へとて、ただ今(いま)寄せられ候(さうらふ)。法皇(ほふわう)をも鳥羽の北殿へ御幸とは聞(き)こえ候へども、内々は『鎮西のかたへ移し奉(たてまつ)るべし』とこそ承り候へ」と申せば、小松殿「いかでかさる事あるべき」とは思はれけれども、「今朝の入道(にふだう)の気色は、さも物狂はしきこともやましますらん」とて、いそぎ車に乗り、西八条へぞおはしける。門のうちへさし入りて見給へば、入道(にふだう)すでに腹巻を着給へる上(うへ)、一門(いちもん)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)数十人(すじふにん)、おもひおもひの直垂、色々の鎧着て、中門の廊に、二行に着座せられたり。そのほか諸国の受領、衛府、諸司は縁に居こぼれ、庭にもひしと並み居たり。旗竿をひきそばめひきそばめ、馬の腹帯をかため、兜の緒をしめて、ただ今すでにみなうちたたれんずる気色どもなるに、小松殿は烏帽子直衣に大文の指貫のそばをとり、しづかに入り給ふ。ことのほかにぞ見えられける。太政入道は遠くより見給ひて、「例の、内府(だいふ)が世を表(へう)する[* 「ひうする」と有るのを他本により訂正]様にふるまふものかな。陳ぜばや」とは思はれけれども、子ながらも、内にはすでに五戒をたもち、慈悲をさきとし、外には五常を乱らず、礼儀をただしうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻を着てむかはんこと、さすがおもはゆく恥かしうや思はれけん、障子をすこし引きたてて、素絹の衣を腹巻の上に着給ひたりけるが、胸板の金物すこしはづれて見えけるを、かくさんと、しきりに衣の胸を引きちがへ、引きちがへぞし給ひける。小松殿は弟の右大将宗盛の座上につき給ふ。相国ものたまふこともなく、大臣も申し出ださるる旨もなし。ややあつて、入道(にふだう)のたまひけるは、「やや、成親(なりちか)の謀叛は、事の数にもあらざりけり。是(これ)はただ一向法皇(ほふわう)の御結構にて候ひけるぞ。されば世をしづめんほど、法皇(ほふわう)を鳥羽の北殿へ御幸なして奉(たてまつ)らばや。しからずは御幸を是(これ)へなりともなしまゐらせんと思ふはいかに」とのたまへば、小松殿聞きもあへ給はず、はらはらとぞ泣かれける。入道(にふだう)、「いかに、いかに」とあきれ給ふ。ややありて、大臣涙をおしのごひて申されけるは、「この仰せを承り候ふに、御運ははや末になりぬとおぼえ候(さうらふ)。人の運命のかたぶかんとては、必(かなら)ず悪事を思ひたち候ふなり。かたがた御ありさまを見奉(たてまつ)るに、さらに現ともおぼえ候はず。さすが、わが朝は、粟散(そくさん)辺地(へんぢ)とは申しながら、天照大神の御子孫、国の主として、天つ児屋根の命の御末、朝の政をつかさどり給ひてよりこのかた、太政大臣の官にいたるほどの人(ひと)の甲冑(かつちう)をよろひましまさんこと、礼儀をそむくにあらずや。就中(なかんづく)出家(しゆつけ)の御身(おんみ)也(なり)。夫(それ)三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)、解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ)を脱ぎすてて、たちまちに甲冑(かつちう)を着給はんこと、内には破戒無慚の罪をまねき、外にはまた仁義礼智信の法にもそむき候ひなんず。かたがたおそれある申しごとにて候へども、世にまづ四恩候(ざうらふ)。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩是(これ)なり。是(これ)を知れるをもつて人倫とす。されどもその中にもつとも重きは朝恩なり。『普天の下、王土にあらずといふことなし』。されば、潁川(えいせん)の水(みづ)に耳(みみ)をあらひ、首陽山(しゆやうざん)に蕨を折りし賢人も、勅命をばそむかず、礼儀をば存ぢすとこそ承れ。いはんや先祖にもいまだ聞かざりし、太政大臣をきはめ給ふ。いはゆる重盛が無才愚暗(むさいぐあん)の身(み)をもつて、蓮府槐門(れんぷくわいもん)の位(くらゐ)に至(いた)る。しかのみならず、国郡(こくぐん)半(なかば)一門の所領となり、田園ことごとく一家の進止たり。是(これ)希代の朝恩にあらずや。今是等(これら)の莫大の御恩をおぼしめしわすれ給ひて、みだれがはしく君をかたぶけまゐらせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にもそむきなんず」「日本は是(これ)神国なり。神は非礼をうけ給はず。しかれば君のおぼしめし立つ所(ところ)、道理なかばなきにあらずや。中にもこの一門は、代々朝敵をたひらげて、四海の逆浪をしづむることは、無双の忠なれども、その賞にほこること、傍若無人とも申しつべし。されば聖徳太子の十七か条の御憲法にも、『人みな心あり。心おのおのおもむきあり。彼を是とし、我を非とし、我を是とし、彼を非とす。是非(ぜひ)の理(ことわり)誰(たれ)かよく定(さだ)むべき。相共(あひとも)に賢愚(けんぐ)なり。環(たまき)の端なきがごとし。是(これ)をもつて、たとひ人怒(いか)るといふとも、かへりて我とがをおそれよ』とこそ見えて候へ。しかれども、御運いまだ尽きせざるによ(ッ)て、この事すでにあらはれ候ひぬ。そのうへ大納言を召しおかれ候ふうへは、たとひ君いかなることをおぼしめしたつとも、なにのおそれか候ふべき。所当の罪科をおこなはれ候ふうへ[* 「その上しよたうのさいくわをおこなはれ候うへは」と有るのを斯道本により訂正]、今は退いて事のよしを申させ給はば、君の御ためにはいよいよ奉公の忠勤をつくし、民のためにはますます撫育の哀憐をいたさしめ給はば、神明の加護にもあづかり、仏陀の冥慮にそむくべからず。神明仏陀感応あらば、君もおぼしめしなほすことなどか候はざるべき。君と臣とをくらぶるに、君につき奉(たてまつ)るは忠臣の法なり。道理とひが事をならぶるに、いかでか道理につかざるべき。是(これ)は君の御理(ことわり)にて候へば、かなはざらんまでも、重盛は院中に参りて守護し奉(たてまつ)らばやとこそ存じ候へ。そのゆゑは重盛叙爵より、今大臣の大将にいたるまで、しかしながら朝恩にあらずといふことなし。その恩のおもきことを思へば、千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉(たま)にもこえ、その徳のふかき色を案ずれば、一入再入の紅にもすぎたるらんとこそおぼえ候へ。しかれば院中へ参じて、法皇(ほふわう)を守護し奉(たてまつ)らんと存じ候(さうらふ)。命にかはらんとちぎりて候ふ侍ども、一二千人も候ふらん。かれらをあひ具して、防ぎ奉(たてまつ)らんには、もつてのほかの大事にてこそ候はんずらめ。かなしいかな、君(きみ)の御(おん)ために奉公(ほうこう)の忠(ちゆう)をいたさんとすれば、迷盧(めいろ)八万(はちまん)の頂(いただき)よりもなほ高き親の恩、たちまちに忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪をのがれんとすれば、君の御ためにすでに不忠の逆臣ともなりぬべし。進退ここにきはまれり。是非いかにもわきまへがたし」「ここに老子の御詞こそ思ひ知られて候へ。『功なり名とげて、身しりぞけ位をさげざるときんば、その害にあふ』と言へり。かの蕭何(せうが)は大功(たいこう)かたいにこえたるによ(ッ)て、官大相国にいたり、剣を帯し沓をはきながら殿上へのぼることをゆるされしかども、叡慮にそむき、高祖ことにおもくいましめ給へり。か様の先蹤(せんじよう)を思ふにも、富貴といひ、栄華といひ、朝恩といひ、重職といひ、御身にとつてはことごとくきはめ給ひぬれば、御運の尽きさせ給はんこと、いまは難かるべからず。『富貴(ふつき)の家(いへ)に禄位(ろくゐ)重畳(ぢゆうでふ)せり。ふたたび実(み)なる木(き)は其(その)根(ね)必(かなら)ずいたむ』と見えて、心細うこそ候へ。いつまでか命生きて乱らん世をも見候ふべき。ただ末の世に生をうけて、かかる憂き目にあひ候ふ重盛が果報のほどこそつたなう候へ。ただ今も侍一人に仰せつけて、御坪のうちへ召し出だされ、重盛が首を刎ねられんことは、やすき御ことにてこそ候はめ。そののちはともかくもおぼしめすままなるべし」とて、涙を流(なが)し給へば、直衣の袖もしぼるばかりなり。是(これ)を見て、その座に並みゐたる一門の卿相雲客よりはじめてみな袖をぞぬらされける。入道(にふだう)、「いやいや是(これ)までは思ひもよらず。『悪党どもが申すことにつかせ給ひて、ひが事なんどもや出で来んずらん』と思ふばかりにてこそ候へ」とのたまへば、大臣、「たとひひが事候ふとも、君をばなにとかしまゐらせ給ふべき」とて、つい起つて中門にぞ出でられける。侍どもにのたまひけるは、「今申しつることをば、なんぢら承らずや。今朝より是(これ)に候ひて、か様のことども申ししづめんと思ひつれども、ひたさわぎに見えつれば、かへりつるなり。院参の御供においては、重盛が首を召されんを見てつかまつるべし。さらば人参れ」とて、小松殿へぞかへられける。そののち主馬の判官盛国を召して、「『重盛こそ天下の大事を、別して聞き出だしたれ。われをわれと思はん者どもは、いそぎ物具して参るべし』このよし披露せよ」とのたまへば、主馬の判官承り、馳せ参りて披露す。「おぼろけにてはさわぎ給はぬ人の、かかる触れのあるは、別子細あるにこそ」とて、物具して、「われも」「われも」と馳せ参る。淀、羽束瀬(はつかせ)[* 「はづかし」と有るのを他本により訂正]、宇治(うぢ)・岡(をか)の屋(や)、日野(ひの)・勧修寺(くわんじうじ)・醍醐(だいご)、小栗栖(おぐるす)、梅津(むめず)・桂(かつら)・大原(おほはら)、志津原、芹生の里にあふれゐたる兵ども、或(あるい)は鎧きて兜を着ぬもあり、或(あるい)は矢負うて弓を持たぬ者もあり、片鐙ふむやふまずに、あわてさわいで小松殿へ馳せ参る。西八条に数千騎ありつる兵ども、「小松殿にさわぎ事あり」と聞(き)こえければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)にかうとも申さず、ざざめきつれて、小松殿へぞ参りける。西八条には、青女房、筆取りなんどぞ侍ひける。弓矢にたづさはるほどの者、一人も漏るるはなかりけり。入道(にふだう)相国(しやうこく)、大きにおどろき給ひて、筑後守貞能を召して、「内府がなにと思うて是等(これら)を皆呼びとるやらん。是(これ)にて言ひつる様に、浄海がもとへ討手なんどもや向けんずらん」とのたまへば、「人も人にこそより候へ。いかでかさること候ふべき。のたまひつることも、いまはさだめて御後悔ぞ候ふらん」と申せば、入道(にふだう)「いやいや、内府に仲違うてはかなふまじ」とて、腹巻を脱ぎおき、素絹の衣に袈裟うちかけ、法皇(ほふわう)に向かひまゐらせんずることも、はや思ひとどまり、狂ひさめたる気色にて、いと心もおこらぬそら念誦してこそおはしけれ。小松殿には、主馬の判官承りて、着到つけけり。馳せ参りたる勢一万余騎とぞ注しける。着到披見ののち、侍どもに対面して、「このころなんぢらが、重盛に申しおきしことばの末ちがはずして、か様に参りたるこそ神妙なれ。異国にさることあり。周の幽王は、褒■[女+以](ほうじ)といふ最愛の后を持ち給へり。ただし幽王の心にかなはぬこととては、『褒■[女+以](ほうじ)笑みをふくまず』とて、幼少よりわらふことなかりき。幽王本意ないことにしておはしけるに、その国のならひに、天下に事出で来るとき、烽火とて、都よりはじめて、所々に火をあげ、太鼓をうちて、兵を召すはかりごとあり。そのころ兵革おこつて、天下に烽火をあぐ。后、是(これ)を見給ひて、『あな不思議や。されば火もあれほど高くあがりけるよ』と、そのときはじめて笑み給ふ。一たび笑めば、百の媚あり。幽王うれしきことにして、『この后烽火を愛し給へり』とて、そのこととなく、つねに烽火をあげ給ふ。諸侯来たるに、敵もなければ、すなはち去りぬ。か様にすること度々におよびければ、兵はや馳せ参らざるほどに、隣国より凶徒起つて、幽王を討たんとするに、烽火あげ給へども、例の后の火にならひて、参る者もなかりけり。そのとき、都かたぶいて、幽王敵にとらはれぬ。か様のことがあるぞとよ。是(これ)より召さんには、自今以後、ただ今のごとく参るべし。不思議の事を聞き出だしつるあひだ召したるなり。されども聞きなほしつれば、かへれ」とて、みなかへされけり。まことはさせることも聞き出だされざりけれども、いささか父をいさめ申されつることばにしたがひて、わが身に勢のつくかつかぬかをも知り給ひぬべきためなり。いかでか父といくさをし給ふべきにはあらねども、入道(にふだう)の心をも、やはらげ奉(たてまつ)らんとのはかりごととぞおぼえたる。大臣の存知のむね、君のためには忠あり、父のためには孝あり、文宣王のたまひけるにたがはず。法皇(ほふわう)も是(これ)を聞(き)こしめして、「今にはじめぬことなれども、内府が心のうちこそはづかしけれ。怨をば恩をもつて報ぜられたり」とぞ仰せける。果報めでたうて、大臣の大将にこそ至(いた)らめ、容儀体佩(ようぎたいはい)人(ひと)に勝(すぐ)れ、才智(さいち)才覚(さいかく)さへ世(よ)に越えたる」とぞ、時の人感ぜられける。「国(くに)に諫(いさ)むる[* 「いさめる」と有るのを他本により訂正]臣(しん)あれば、その国必(かなら)ずやすし、家に諫(いさ)むる[* 「いさめる」と有るのを他本により訂正]子あれば、その家、必(かなら)ず正し」とも、か様のことをや申すべき。
第十七句 成親流罪・少将流罪
同じき六月二日、大納言をば公卿の座へ出だしたてまつて、御物したてて参らせたれども、御覧じもいれず。見まはし給へば、前後に兵みちみちたり。我が方様の者は一人も見えず。やがて車を寄せて、「とくとく」と申せば、大納言、心ならず乗り給ふ。ただ身にそふものとては、つきせぬ涙ばかりなり。朱雀を南へ行けば、大内山をも今はよそにぞ見給ひける。年ごろ見なれし者どもも、今このありさまを見て、涙を流(なが)し袖をしぼらぬはなし。まして都に残りとどまり給ふ北の方、公達の心のうち、おしはかられてあはれなり。「たとひ重科をかうぶつて、遠国へ行く者も、ひと一両人はそへぬ様やある」と、車のうちにてかきくどき、泣き給へば、近う侍ふ武士ども、みな鎧の袖をぞぬらしける。鳥羽殿を過ぎ給へば、「北の御所へ御幸なりし御供には一度もはづれざしりものを」とて、わが山荘(さんざう)の洲浜殿(すはまどの)とてありしも、よそに見てこそ通られけれ。南の門にもなりしかば、「舟おそし」とぞいそぎける。大納言「是(これ)はいづちやらん。同じくは、失はれば、都近きこの辺にてもあれかし」とのたまひけるぞいとほしき。「近う侍ふ武士(ぶし)は誰そ」と問ひ給へば、「難波の次郎経遠」と申す。「この辺に我が方様の者やある。舟に乗らぬさきに、あとに言ひおくべきことあり」とのたまへば、経遠走りまはりて「この方の人や候ふ」とたづねけれども、「われこそ」と名のる者もなし。「われ世にありし時(とき)は、したがひつく者一二千人もありけんものを、今はよそにてだにも、見送らぬことのかなしさよ」とのたまへば、武士どもみな鎧の袖をぞぬらしける。熊野詣、天王寺詣のありしには、二つ瓦の三つ棟づくりの舟に乗り、次の舟二三十艘漕ぎつづけさせ、さこそめでたうおはせしに、今はけしかるかきすゑ屋形の舟に、大幕ひきまはさせ、見も慣れぬ兵どもに乗り具して、今日をかぎりに都のうちを出で給ふ、心のうちこそかなしけれ。その日は摂津の国大物の浦にぞ着き給ふ。この人すでに死罪におこなはるべかりしを、流罪になだめられ給ふことは、小松殿のたりふし[* 「おりふし」と有るのを斯道本により訂正]申されけるによ(ッ)てなり。この大納言、いまだ中納言たりしとき、美濃の国を知行し給ふに、山門の領平野の荘の神人と、目代右衛門尉正朝と事ひき出だして、すでに狼藉におよぶ。神人二三人、矢庭に射殺さる。是(これ)によつて、嘉応元年十一月三日、山門の大衆、蜂起して、「国司成親(なりちか)流罪に処せられ、目代正朝禁獄せらるべき」よし奏聞す。君おほきにおどろかせ給ひて、成親(なりちか)を「備中の国へ流(なが)さるべし」とて、同じき十日、すでに西の七条まで出だされたりけるを、君いかがおぼしめされけるやらん、同じき十六日、西七条より召しかへさる。山門の大衆このことを承り、おびたたしく呪咀(じゆそ)すと聞(き)こえしかども、同じき二年正月五日、成親(なりちか)、右衛門督を兼ねて検非違使別当になり給ふ。承安二年七月二十一日、従二位に叙せらる。そのとき資賢(すけかた)[* 「すけとも」と有るのを他本により訂正]、兼雅の卿(きやう)越えられ給ふ。資賢(すけかた)[* 「すけとも」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)はふるき人、おとなにておはしき。兼雅の卿(きやう)は栄華の人なり、家嫡にて越えられ給ふぞ遺恨なる。同じき三年四月十三日、正二位に叙せらる。今度は中の御門中納言宗家[* 「かねいゑ」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)越えられ給ふ。安元元年十月二十七日、検非違使別当より権大納言[* 「こん日大なこん」と有るのを他本により訂正]にあがり給ふ。か様に時めき給ひしかば、人あざけつて、「山門の大衆には呪はるべかりしものを」とぞ申しける。およそ神の罰、人の呪ひ、疾き[* 「とをき」と有るのを他本により訂正]もあり、〔遅きもあり、〕同じからざることどもなり。同じく三日、大物の浦に「京より御使あり」とてひしめきけり。大納言、「ここにて失へとや」と聞き給へば、さはなくして、「備前の児島へ流(なが)さるべし」となり。小松殿よりも御文あり。「『都ちかき片山里にも置き奉(たてまつ)らばや』と申しつれども、かなはぬことこそ、世にあるかひも候はね。されども御命ばかりは申しうけて候(さうらふ)」とて、難波がもとへも「あひかまへてよくよく宮仕ひ申せ。御心にばし違ひ奉(たてまつ)るな」と仰せられ、旅の粧(よそほひ)までもこまごまと沙汰しおくられけり。大納言、さしもかたじけなうおぼしめされ〔し〕君にも離れまゐらせ、つかの間も離れがたう思はれし妻子にも別れつ。「いづちへとも行くらん。ふたたび故郷へかへりて、あひ見んこともありがたし。一年山門の訴訟によ(ッ)て、備中へ流(なが)さるべきにて、すでに西七条まで出でたりしかども、なか五日にしてやがて召しかへされぬ。是(これ)はさせる君の御いましめにてもなし。こはいかにしつることぞや」と、天に仰ぎ地(ち)に附して、かなしみ給ふぞあはれなる。すでに舟おし出だして下り給ふに、道すがら、ただ涙にのみしづみて、「ながらふべし」とはおぼえねども、さすがに露の命消えやらで、跡の白波へだたれば、都は次第に遠ざかり、日数やうやうかさなれば、遠国も近づきぬ。あさましげなる柴のいほりに入れ奉(たてまつ)る。島のならひにて、うしろは山、まへは海なれば、岸うつ波、松ふく風、いづれもあはれはつきもせず。大納言ひとりにもかぎらず、か様にいましめらるる輩おほかりけり。近江の中将(ちゆうじやう)入道(にふだう)、筑前の国。山城守基兼、出雲の国。式部大輔章綱、隠岐の国。宗判官信房、土佐の国。新平判官資行、美作の国。次第に配所をさだめらる。入道(にふだう)相国(しやうこく)福原の別業におはしけるが、都にまします弟の宰相のもとへ使者をたて、「少将いそぎ是(これ)へ下され候へ。存ずるむねあり」とのたまへば、宰相「さらば、ただ、ありし時、ともかくもなりたりせば、ふたたびものをば思はじ」とぞのたまひける。「さらば、とくとく出でたち下り給へ」とありければ、泣く泣く出でたたれけり。女房たち「あはれ、宰相のなほもよき様に申されよかし」とぞなげかれける。宰相「存ずるほどのことをば申しつ。今は世を捨つるよりほかは、なにごとをか申し候ふべき。たとひいづくの浦にもおはせよ、わが命のあらんかぎりは、いかにもとぶらひ申すべし」とぞのたまひける。少将、今年二歳になり給ふ若君ましましけり。このころは若き人にて君達などのことをもこまやかにのたまはざりけるが、いまはのときになりしかば、さすが心にやかかりけん、「幼き者を一目見候はばや」とのたまひければ、乳母の女房抱き奉(たてまつ)りて参りたり。少将、若君を膝のうへにおき、髪かきなでて、「無慚や、なんぢが七歳にならば男になし、内へ参らせんとこそ思ひつるに、今はかかる身になりぬれば、言ふにかひなし。もしなんぢ命生きて、ことゆゑなく生ひたちたらば、法師になり、我が後世をとぶらへよ」とのたまひもあへず泣き給へば、見る人、袖をぞしぼりける。福原の使ひは摂津の左衛門盛澄といふ者にてぞありける。「今夜やがて鳥羽まで出でさせ給ひて、あかつき舟に召さるべう候(さうらふ)」と申せば、少将「いく程ものびざらん[* 「のばざらん」と有るのを他本により訂正]命に、こよひばかりは都のうちにて明かさばや」とのたまへども、御使しきりにかなふまじきよし申しければ、少将、その夜鳥羽まで出で給ふ。六月二十二日、福原へ下りつき給ひければ、入道(にふだう)、瀬尾の太郎兼康に仰せて、少将は備中の瀬尾へ下されけり。兼康、宰相のかへり聞き給はん所(ところ)をおそれて、道の程様々いたはりなぐさめ奉(たてまつ)る。されども少将は一向仏の御名をとなへて、父のことをぞ祈られける。すでに備中の瀬尾に着き給ふ。さるほどに、大納言をば備前の児島に置き奉(たてまつ)りけるを、「是(これ)は舟着き近き所(ところ)にてあしかりなん」とて、難波がはからひにて地へわたし奉(たてまつ)り、備前と備中とのさかひに、庭瀬郷有木の別所といふ所(ところ)に置き奉(たてまつ)る。それより少将のおはする備中の瀬尾はわづかに一里あまりの道なり。少将、その方の風もなつかしうや思はれけん、瀬尾を近う召して、「やや、兼盛。当時是(これ)より大納言のおはす有木の別所とかやは、いかほどの道やらん」と問ひ給へば、瀬尾、「知らせまゐらせてはあしかりなん」とや思ひけん、「是(これ)より十二三日の道にて候(さうらふ)」とぞ申しける。少将、「是(これ)こそ大きに心得ね。日本国は昔(むかし)三十三箇国にてありけるを、六十六箇国には割られたんなり。東に聞(き)こふる出羽、陸奥両国、〔昔(むかし)は一国〕なりけるを、文武天皇の御時十二郡を分けて、出羽の国を〔出だされ〕立てられたり。一条の院の御宇、実方の中将(ちゆうじやう)奥州へ流(なが)されたりしに、当国の名所阿古屋の松といふ所(ところ)を見んとて、国のうちをたづねまゐるが、逢はで帰りけるに、道にて老翁一人ゆき逢うたり。中将(ちゆうじやう)、『やや、御辺はふるい人とこそ見ゆれ。当国の名所阿古屋の松といふ所(ところ)や知りたる。』と問ふに、『まつたく当国には候はず。出羽の国にてや候ふらん』と申しければ、中将(ちゆうじやう)、『さては御辺は知らざりけり。世の末になれば名所もはや呼びうしなひたるにこそ』とて過ぎけるに、老翁、中将(ちゆうじやう)の袖をひかへて、『君はよな、みちのくのあこやの松に木がくれていづべき月のいでもやらぬかといふ歌の心をもつて、当国の名所とは候ふか。それは六十六箇郡[* 「六十六かこく」と有るのを他本により訂正]、両国が一国なりしとき、よめる歌なり。十二郡を割き分けてのちは、出羽の国にや候ふらん』と申しければ、そのとき、中将(ちゆうじやう)、『さもあるらん。やさしうも答へたるものかな』とて、出羽の国へ越えてこそ、阿古屋の松をば見たりけり。備前、備中、備後も昔(むかし)は一国なりけるを、今こそ三箇国には分けられけれ。筑紫の大宰府より、都へ■[魚+宣](はらか)の使ののぼるこそ、歩路十五日とは定められたれ。すでに十二三日と申すは、ほとんど鎮西へ下向ござんなれ。備前、備中の境、遠しといふとも両三日にはよもすぎじ。近きを遠く言ひなすは、大納言殿のおはする所(ところ)を、成経に知らせじと申すにこそ」と思はれければ、そののちは恋しけれども問ひ給はず。
第十八句 三人鬼界が島へ流(なが)さるる事
さるほどに、法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛平判官康頼(やすより)、備中の瀬尾におはする少将あひ具して三人薩摩方鬼界が島へぞ流(なが)されける。この島は、都を出でてはるばると海を渡りてゆく島なり。おぼろけにては舟も人もかよふことなし。島にも人まれなり。おのづからある者は此(この)地(ぢ)の人(ひと)にも似(に)ず。色(いろ)黒(くろ)うして牛(うし)なんどのごとし。身にはしきりに毛生ひ、言ふことばも聞き知らず。男は烏帽子も着ず、女は髪をもさげず。衣装なければ人にも似ず、食する物なければ、ただ殺生をのみ先とす。しづが山田をたがやさねば、米穀のたぐひもなし。園の桑をとらざれば、絹綿のたぐひもなかりけり。島のうちには高山あり。山のいただきには火燃えて、いかづち常に鳴りあがり、鳴りくだり、麓(ふもと)にはまた雨しげし。一日片時も人の命あるべしとも見えざりけり。硫黄といふものみちみてり。かるがゆゑに「硫黄が島」とぞ申しける。されども丹波の少将の舅、平宰相の所領、肥前の国鹿瀬(かせ)の荘(しやう)より衣食をつねに送られければ、俊寛も康頼(やすより)も命生きてすごしけり。康頼(やすより)は流(なが)されけるとき、周防の室富といふ所(ところ)にて出家してんげれば、法名「性照」とぞ名のりける。出家はもとよりのぞみなりければ、康頼(やすより)泣く泣くかうぞ申しける。つひにかくそむきはてける世の中をとく捨てざりしことぞくやしきと書きて、都へ上せたりければ、とどめ置きし妻子ども、いかばかりのことをか思ひけん。されば、少将、判官入道(にふだう)は、もとより熊野信仰の人にて、「あはれ、いかにもして、この島のうちに熊野三所権現を勧請し奉(たてまつ)り、帰洛のことを祈らばや」といふに、俊寛是(これ)を用ひず。二人は同心にして、「もし熊野に似たる所(ところ)やある」と、島のうちをたづねまはるに、或(あるい)は林塘の妙なるもあり、紅錦繍の粧(よそほひ)品々に、或(あるい)は雲嶺のさがしきあり、碧羅綾(へきらりよう)の色(いろ)一(ひとつ)にあらず。山のけしき木のこだち、よそよりもなほすぐれたり。南をのぞめば、海漫々として、雲の波煙の波いとふかく、北をかへり見れば、また山岳の峨峨たるより、百尺の滝みなぎり落ちたり。滝のおとことにすさまじく、松風神さびたる住ひ、飛滝権現のおはします那智の御山にさも似たり。さてこそやがてそこをば、「那智の御山」とは名づけけれ。「この峰は本宮」、「かの峰は新宮」、「ここはこの王子」、「かしこはかの王子」なんどと、王子、王子の名を申して、康頼(やすより)入道(にふだう)先達にて、少将あひ具し、毎日熊野詣のまねをして、帰洛のことをぞ祈られける。「南無権現金剛童子、ねがはくはあはれみをたれさせおはしまし、われらをふたたび都へかへし入れて、恋しき者どもを今ひとたび見せ給へ」とぞ祈りける。あるとき、少将、判官入道(にふだう)二人、権現の御前に参り、通夜したりけるに、夢ともなく現ともなきに、沖より小船一艘よせたり。例の海人小舟、釣舟かと見るほどに、磯によりて、赤きはかま着、懸帯などしたる女房の五六人、御前に参りて、世にもおもしろき声にて、よろづの仏の願よりも千手の誓ぞたのもしき枯れたる木にもたちまちに花咲き実なるとは聞けと二三返歌ひすまして、かき消すやうに失せにけり。そのとき二人の人々、「うつつなりけり」と奇異の思ひをなす。「この権現の本地、千手観音にておはします。千手の二十八部衆のうちに、海龍神、その一つなり。されば龍女の化限にてもやあらん」とたのもしかりしことどもなり。されば、日数つもりて、裁ち替ふべき[* 「たちかへべき」と有るのを他本により訂正]浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、けがらはしき心あれば、沢辺の水を垢離にかき、岩田川の清き流れと思ひやり、高き所(ところ)にのぼりては、発心門とぞ観じける。御幣の紙にもなければ、花を手折りて捧げつつ、康頼(やすより)入道(にふだう)つねは、祝言ぞ申しける。維(これ)[* 「いひ」と有るのを祭文の例により訂正]、あたれる歳次、治承元年丁酉、月のならびは十月二月、日の数は三百五十余箇日、そのうちに吉日良辰をえらび、かけまくもかたじけなく、日本第一大霊験、熊野三所大権現、ならびに飛滝(ひりよう)大薩■(だいさつた)教令、宇津の広前にして、信心の大施主、羽林藤原の成経、沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の心ざしを抽(ぬきん)で、つつしみ敬白す。夫れ、証誠大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚王なり。両所権現、或は東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来なり。或は南方補陀落の能化の主、入重玄門の大士なり。若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士なり。頂上に仏面を現じて、衆生の所願を満て給へり。是(これ)によ(ッ)て、上一人より下万民にいたるまで、或は現世安穏のため、或は後生善所のために、朝には浄水をむすび、煩悩の垢をすすぎ、夕には深山にむかひ、宝号をとなふ。感応おこたる事なし。峨峨たる嶺のたかきをば、神徳のたかきにたとふ。嶮々(けんけん)たる谷(たに)のふかきをば、弘誓のふかきにたとふ。雲をうがちてのぼり、露をしのぎてくだり、ここに利益の地をたのまずは、いかでか歩(あゆ)みを嶮難(けんなん)の路(みち)にはこばん。権現の徳をあふがずは、いかが幽遠の境にましまさんや。よ(ッ)て証誠大権現、飛滝大薩■(だいさつた)、相ともに青蓮慈悲(しやうれんじひ)の眸(まなじり)をならべ、早鹿の御耳(おんみみ)をふりたて、我等(われら)無二(むに)の丹誠(たんぜい)を知見(ちけん)し、一々(いちいち)の懇志(こんし)を納受(なふじゆ)せしめ給へ。然ればすなはち成経、性照、遠島配流の苦しみをしのぎ、旧城花洛の故郷につけせしめ給へ。まさに有無妄執をあらため、無為の真理をきよむべし。しかるときは、結、早玉の両所は随機し、或は有縁の衆生をみちびき、またみだりに無縁(むえん)の群類(ぐんるい)をすくはんがため、七宝荘厳のすみかを捨てて、八万四千(はちまんしせん)の光(ひかり)を和(やは)らげ、六道三有(ろくだうさんう)の塵(ちり)に同じうし給へり。かるがゆゑに定業もまたよく転じ[* 「うたた」と有るのを他本により訂正]、長寿を得る事をもとむ。礼拝して袖をつらね、幣帛を捧ぐる事ひまなし。忍辱(にんにく)の衣(ころも)を重(かさ)ね、覚道の花を捧げ、神殿の床を動かし、信心水を澄ましめ、利生(りしやう)の池(いけ)に湛(たと)ふ。神明納受し給はば、所願いかが成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所権現(じふにしよごんげん)、利生(りしやう)の翅(つばさ)を並(なら)べて、遥(はるか)の苦海(くかい)の空(そら)にかけり、左遷(させん)の愁(うれ)ひをやすめて、はやく帰洛の本懐をとげしめ給へ。再拝、再拝。とぞ申しける。あるとき、沖より吹きくる風の、少将、康頼(やすより)二人が袖に木の葉一つづつ吹きかけたり。是(これ)を取りて見れば、たのみをかくる御熊野の南木の葉にてぞありける。虫くひあり、是(これ)を一首の歌にぞよみなしたる。ちはやぶる神に祈りのしげければなどか都へかへさざるべきかへすがへすも、めでたかりける事どもなり。判官入道(にふだう)、あまりに都の恋しきままに、せめてのはかりごとに、千本の卒都婆(そとば)を作り、阿字の梵字を書きて、年号、月日、仮名、実名、さて二首の歌を〔ぞ〕書きたりける。さつまがたおきの小島にわれありと親にはつげよ八重のしほ風思ひやれしばしとおもふ旅だにもなほふるさとは恋しきものを是(これ)を浦に持ちて出で、「南無帰命頂礼、梵天、帝釈、堅牢地神、王城の鎮守諸大明神、ことには熊野の権現、金剛童子、厳島大明神、願はくは、この卒都婆(そとば)を一本なりとも、都のうちへ伝へてたばせ給へ」とて、奥津白波の寄せてはかへるたびごとに、卒都婆(そとば)を海にぞ浮かべける。日数かさなれば、卒都婆(そとば)の数も積もりけり。その思ふ心やたよりの風ともなりたりけん、また神明仏陀もや送らせ給ひけん、千本の卒都婆(そとば)のうち一本は、安芸の厳島の大明神の御前のなぎさに、うちあげたり。この明神と申すは沙竭羅竜王(しやかつらりゆうわう)の第三(だいさん)の姫宮(ひめみや)、胎蔵界(たいざうかい)の垂跡(すいじやく)にてまします。崇神天皇(しゆじんてんわう)の御宇にこの島に御影向ありしよりこのかた、済度利生今にいたるまで甚深奇特の事どもなり。さればにや、八社の御殿甍をならべ、百八十間の廻廊あり。社は海をうけたれば、潮のみちて月ぞすむ。汐みちくれば、大鳥居のうちの廻廊、緋の玉垣、瑠璃のごとし。汐ひきぬれば、夏の夜なれども御前のなぎさに霜やおく。判官入道(にふだう)がゆかりありける僧の、西国修業してまよひありきけるが、厳島へぞ参りたる。この島は潮のみつときは海になり、潮のひくときは島となる所(ところ)なり。「それ和光同塵の利生、さまざまなりと申せども、この島の明神は、いかなる因縁をもつてか、海漫々の鱗(うろくづ)に縁をむすばせ給ふらん」と、本誓のたつとさに、ひめもす、法施まゐらせてゐたる所(ところ)に、沖よりみちくる汐にさそはれて、それかともなく打ちあげたる藻くづの中に、卒都婆(そとば)のかたちの見えければ、なにとなう是(これ)をとりて見(み)るに、「おきの小島にわれあり」と書きなしたる言の葉にてぞありける。文字を彫りいれ、きざみつけたれば、波にもあらはれず、あざやかにこそ見えたりけれ。「あな無慚や。是(これ)は康頼(やすより)入道(にふだう)がしわざ」と見なし、泣く泣く笈の肩にさし、都(みやこ)に上(のぼ)り、判官入道(にふだう)が老母(らうぼ)の尼公(にこう)、妻子(さいし)なんどが、一条(いちでう)の辺(へん)、紫野(むらさきの)に忍(しの)びつつ住みけるに、たづねて、此(この)卒都婆(そとば)を取らせければ、老母(らうぼ)の尼公(にこう)も、妻子(さいし)も是(これ)を見て、「されば、此(この)卒都婆(そとば)の唐土のかたへもゆられゆかずして、なにしに是(これ)まで伝へきて、ふたたび物を思はすらん」とぞかなしみける。はるかにあつて叡聞におよびて、法皇(ほふわう)、卒都婆(そとば)を叡覧あつて、「あな無慚や、是(これ)は鬼界が島とかやに、いまだながらへてありける」とあはれにおぼしめして、そののち小松の内府のもとへ、この卒都婆(そとば)を送らせ給ひけり。内府、この卒都婆(そとば)を入道(にふだう)に見せ奉(たてまつ)り給ひければ、相国も岩木ならねば、あはれげにぞのたまひける。柿本の人丸は、「島がくれゆく舟」を思ひ、山辺の赤人は、「あしべの鶴」をながめ給ふ。住吉の明神は、「かたそぎの思ひ」をなし、三輪の明神は、「杉たてる門」をとざす。素盞烏尊(そさのをのみこと)は、三十一字(さんじふいちじ)をはじめおき給ひしよりこのかた、もろもろの神明、仏陀も、この詠吟をもつて、百千万端の思ひを述べ給ふ。されば、たかきもいやしきも、「鬼界が島の流人の歌」とて、是(これ)を口ずさみぬはなかりけり。千本におよび作りたる卒都婆(そとば)なれば、さこそ小さうもありけめ、薩摩がたよりはるばると伝はりけるこそ不思議なれ。あまりに思ふ心のふかきしるしなりけるにや。昔(むかし)漢王、胡国を攻め給ふに、三十万騎(さんじふまんぎ)の勢をもつてすといへども、胡国の軍こはくして、漢王の軍追つかへさる。そののち五十万騎(ごじふまんぎ)の勢をもつて攻めらる。なほも胡国の軍こはうして、李陵といふ大将軍をはじめとして千余人捕つて、胡国にとどめらる。その中に蘇武(そぶ)といふ将軍をはじめて、宗との者六十人すぐり出だして、巌窟におつ籠め、三年を経てとり出だし、片足を切つて追放つ。すなはち死する者もあり、程へて死する者もあり。蘇武(そぶ)は片足を切られながら死なざりけり。山に入りては木の実を拾ひ、里に出でては沢のね芹を摘み、田の面にゆきては落穂を拾ひなんどしてぞ過しける。田にいくらもありける雁(かり)どもが、蘇武(そぶ)にはや見なれて、おどろくけしきもなかりけり。蘇武(そぶ)は、故郷の恋しき様を一筆書いて、泣く泣く雁(かり)の翅(つばさ)にぞむすびつけける。かひがひしくも田の面の雁(かり)、秋は必(かなら)ず都へ帰りきたるものなれば、漢の昭帝、上林苑に御遊ありけるに、夕ざれの空うす曇り、なにとなくものあはれなるをりふし、一行の雁(かり)飛びきたりけるが、その中に一つ飛びさがり、わが翅(つばさ)にむすびつけたる玉づさをくひきつてぞ落しける。官人是(これ)をとつて、帝へ奏聞す。叡覧ありければ、「昔(むかし)は巌窟の洞(ほら)に籠められ、むなしく三秋(さんしゆう)の愁歎(しうたん)をおくる。今は荒田の畝に捨てられて、胡敵(こてき)に一足(いつそく)の身となる。骸骨はたとひ胡国に散らすとも、魂はかへつてふたたび君辺につかへん」とぞ書いたりける。帝、御涙を流(なが)させ給ひて、「あな無慚や、いにしへ是(これ)は胡国へつかはしける蘇武(そぶ)がしわざなり。命尽きぬあひだに」とて、このたびは、李広といふ将軍をはじめとして、百万騎の勢をおこして、胡国を攻めらる。「今度は胡国の軍破れて、御方の戦ひ勝ちぬ」と聞(き)こえしかば、蘇武(そぶ)、十九年の星霜をおくり、片足は切られながら、ふたたび故郷へ帰りけり。それよりしてこそ、文をば「雁書」ともいひ、使をば「雁使」とも名づけけれ。漢家(かんか)の蘇武(そぶ)は書(しよ)を雁(かり)につけて旧里におくり、本朝の康頼(やすより)は、波のたよりに札を故郷へつたふ。かれは雁(かり)の翅(つばさ)の一筆、是(これ)は、卒都婆(そとば)の面の二首の歌。かれは漢朝、是(これ)は本朝。かれは上代、是(これ)は末代。さかひをへだて、世々はかはれども、風情は同じ風情にて、ありがたかりしためしなり。
第十九句 成親死去
新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)は「すこしくつろぐ心もや」と思はれける所(ところ)に、「子息丹波の少将以下、鬼界が島に流(なが)されぬる」と聞きて、小松殿に申して、つひに出家し給ひけり。北の方は雲林院にましましけるが、さらぬだに住みなれぬ山里はもの憂きに、いとどしのばれければ、過ぎゆく月日もあかしかね、暮らしわづらふ様なりけり。女房、侍おほかりけれども、世におそれ、人目をつつむほどに、問ひとぶらふ人もなし。その中に、大納言の幼少より不便にして召しつかはれける源(げん)左衛門尉(ざゑもんのじよう)信俊(のぶとし)といふ侍あり。なさけある男にて、つねはとぶらひ奉(たてまつ)る。あるとき、信俊参りたりければ、北の方、涙をおさへて、「いかにや、是(これ)には備前の児島にましますとこそ聞(き)こえしか、当時は有木の別所とかやにおはすなり。いかにもして、いま一度、文をも奉(たてまつ)り、返事をも見んと思ふはいかに」とのたまへば、信俊涙をおしのごひて申しけるは、「さん候(ざうらふ)。幼少より御情をかうぶりて、一日も離れまゐらすること候はず。御下りのときも、さしも御供つかまつるべきよし、申し候ひしかども、入道殿御ゆるされも候はざりしかば、参ることも候はず。召され候ひし御声も、耳にとどまり、諌められまゐらせ候ひし御ことばも、肝に銘じていつ忘れまゐらせんともおぼえず候(さうらふ)。たとひいかなる目にもあひ候へ、御文賜はり候はん」と申せば、北の方、やがて御文書きてぞ賜はりける。信俊、是(これ)を賜はつて、備前の国、有木の別所にたづね下る。守護の武士にまづこのよし申しければ、武士ども、たづね参りたる心ざしのほどをあはれみて、やがて大納言入道(にふだう)のおはす所(ところ)にぞ入れたりける。大納言は、ただ今も都のことをのたまひ出だして、よにも恋しげに、嘆きしづみてまします所(ところ)に、「都より信俊が参りて候(さうらふ)」と申し入れたりければ、入道(にふだう)、聞きもあへ給はず起きあがりて、「是(これ)へ是(これ)へ」とぞ召されける。信俊(のぶとし)参りて見(み)奉(たてまつ)れば、御住まひの心憂さもさることにて候へども、墨染の袂にひきかへ給ふを見て、目もくれ心も消えてぞおぼえける。北の方の仰せをかうぶりしありさま、こまごまと申しつづけて、御文とり出だして奉(たてまつ)る。大納言入道殿、この文を見給へば、水茎の跡は涙にかきくれて、そこはかとも[* 「そこはかるとも」と有るのを他本により訂正]見えねども、「つきせぬもの思ひにたへかね、しのぶべしともおぼえず。幼き人々も、なのめならず恋しがり奉(たてまつ)る」ありさま、こまごまと書かれたりければ、大納言、是(これ)を見給ひて、「日ごろの思ひなげきは、事の数ならず」とぞ泣かれける。かくて四五日過ぎぬ。信俊、入道(にふだう)の御前に参りて申しけるは、「是(これ)に候ひて、いかにもならせましまさん御ありさまを見はてまゐらせべう候へども、北の方、『あひかまへて、今度の御返りごとを御覧ぜん』と候ひしに、跡もなく、しるしもなくおぼしめさんことが、罪ふかくおぼえ候(さうらふ)。今度はまかり上つて、またこそ参り候はめ」と申せば、大納言、「まことにさるべし。ただし、なんぢがまた来んことを待ちつけべしとはおぼえねども、さらばとくとく上れ。『われいかにもなりたり』と聞かば、あひかまへて、よくよく後世とぶらへよ」とぞ泣かれける。信俊、御返事賜はつて上りけるに、入道(にふだう)、のたまふべきことはかねてみな尽きぬれども、せめての慕はしさのままに、たびたび呼びぞかへされける。さてもあるべきならねば、信俊、いとま申して上りけり。都へ上りて、北の方へ参り、御返事を参らせたりければ、「あなめづらし。命の今までながらへておはしけるよ」とて、この文を見給へば、文の中に御髪の一ふさ、くろぐろとして見えければ、二目とも見給はず、「はや、この人様をかへ給ひけり。形見こそ、なかなか今はあたなれ」とて、是(これ)を顔におしあてて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。をさなき人々も泣きかなしみ給ひけり。さるほどに大納言入道(にふだう)をば、同じく八月十七日、備前、備中の境、吉備(きびつ)の中山といふ所(ところ)にて、つひに失ひ奉(たてまつ)る。酒に毒を入れてすすめ奉(たてまつ)りけれども、なほもかなはざりければ、岸の二丈ばかりある下に、菱を植ゑ、それにつき落し、貫かれてぞ失せ給ひける。北の方は、はるかに是(これ)をつたへ聞き給ひて、「『かはりぬるすがたを、今ひとたび見奉(たてまつ)らばや』とこそ思ひつるに、今はなにとかせん」とて、雲林院近き菩提院といふ所(ところ)にて、様をかへ、かたのごとくの仏事をいとなみ、かの後世をぞとぶらひ給ひける。かの北の方と申すは、山城守敦賢のむすめなり。みめすがた、心ざままで優なる人なりしかば、たがひに心ざしあさからざりし仲なり。若君、姫君も、花を折り、閼伽の水をむすびて、父の後世をとぶらひ給ふぞあはれなる。時うつり、事去りて、世のかはりゆくありさま、ただ天人の五衰とぞ見えし。同じく十二月二十四日、彗星(けいせい)、東方に出づ。「蚩尤旗(しいうき)」とも申す。また「彗星(けいせい)」とも申す。「天下乱れて、大兵乱国に起らん」と言へり。さるほどに年暮れて、治承も二年になりにけり。
第二十句 徳大寺殿厳島参詣
そのころ徳大寺の大納言実定(さねさだ)の卿(きやう)、平家の次男宗盛に大将を越えられて、大納言をも辞し申して、籠居(ろうきよ)せられたりけるが、「つらつらこの世の中のありさまを見るに、入道(にふだう)相国(しやうこく)の子ども、一門の人々に官加階を越えらるるなり。知盛、重衡(しげひら)なんどとて、次第にしつづかんずるに、われらいつか大将にあたりつくべしともおぼえず。つねのならひなれば、出家せん」とぞ思ひたたれける。諸大夫、侍ども寄りあひ、「いかにせん」となげきあへり。その中に、藤蔵人大夫重藤といふ者あり。なにごとも存知したる者なりけり。実定(さねさだ)の卿(きやう)、よろづもの憂く思はれけるをりふし、心をすまし、ただひとり月にうそぶきておはしける所(ところ)に参りたり。「いかに重藤か。なにごとに参りたるぞ。「今夜は月くまなう候ひて、徒然に候ふほどに、参りて候(さうらふ)」と申せば、「神妙なり。そこに侍へ。物語せん」とぞのたまひける。かしこまつて侍ひけるに、実定(さねさだ)の卿(きやう)「当時、世の中のありさまを見るに、入道(にふだう)相国(しやうこく)の子ども、そのほか一門の人人に、官加階を越えらるるなり。今は大将にならんこともありがたし。つねのことなれば、世を捨てんにはしかじ。出家せんと思ふなり」とのたまへば、「この御諚(ごぢやう)こそ、あまり心細うおぼえ候へ。げにも御出家なんども候はば、奉公の輩のかなしみをば、いかがせさせ給ひ候ふべき。重藤不思議の事をこそ案じ出でて候へ。安芸の厳島の大明神は、入道(にふだう)相国(しやうこく)のなのめならず崇敬(そうぎやう)し、給ふ神なり。なにごとも様にこそより候へ。君、厳島へ御参り候ひて、一七日も御参籠あり、大将のことを御祈念候はば、かの社には、内侍とて優なる妓女ども、入道(にふだう)置かれて候ふなり、さだめて参りもてなし申し候はんずらん。さて御上洛のとき、御目にかかりぬ内侍ども召し具して上らせましまさんに、御供に参り候ふほどでは、うたがひなく西八条へ参り候はんず。入道(にふだう)相国(しやうこく)『なにごとに上りたるぞや』とたづねられば、ありのままにぞ申し候はんずらん。『さては徳大寺殿は、浄海が頼み奉(たてまつ)る神へ参られける[* 「まいられけるこそ」と有るのを他本により訂正]ござんなれ』とて、きはめて物めでたがりし給ふ人にて、よきやうにはからひもや候はんずらん」と申したりければ、実定(さねさだ)の卿(きやう)「まことにめでたきはかりごとなり。か様のこといかでか思ひよるべき」とて、やがて精進はじめて、厳島へぞ参られける。西国八重の潮路へおもむき、おほくの浦々、島々をしのぎつつ、厳島へ参られけり。社頭のありさま、つたへ聞く蓬莱、方丈、■州(えいじう)も、是(これ)にはすぎじとぞ見えし。七日参籠ありけるに、内侍ども、舞楽も三か度おこなひて、もてなし奉(たてまつ)る。実定(さねさだ)の卿(きやう)、今様歌ひ、朗詠して、神明に法楽あり。郢曲(えいきよく)ども、ねんごろに内侍に教へさせ給ひけり。「平家の公達こそつねには御参りさぶらふに、めづらしき御参りなり。なにごとの御祈りやらん」と申しければ、「大将を人々に越えられて、大納言を辞し申して、この五六年籠居(ろうきよ)したりけるが、もしやと思ひて、その祈誓のために参りたる」とぞのたまひける。参籠満ちて、都に上り給ふに、宗との若き内侍ども二十余人名残を惜しみて、舟を仕立て送りしに、いとま申してかへらんとしければ、「あまりに名残の惜しきに、いま二日路送れ」、「いま三日路」などとのたまふに、都までこそ参りけれ。徳大寺の御第へ入らせ給ひて、さまざまもてなし、引手物賜はつて、出だされけり。「是(これ)まで上りたるほどでは、いかでわが主の入道殿へ参らざるべき」とて、西八条へぞ参りたる。入道(にふだう)相国(しやうこく)、やがて出であひ、対面して、「いかにも内侍ども、なにごとの列参ぞ」。「徳大寺殿、厳島へ御参りあつて十七日籠らせ給ひつるが、『一日路おくりまゐらせよ。二日おくりまゐらせよ』とて、是(これ)まで召し具せられてさぶらふ」。「徳大寺は、なにごとの祈誓に参られたりけるやあらん」。「大将の祈りとこそさぶらひしか」と申せば、そのとき、うちうなづいて、「あないとほしや。徳大寺は、浄海が頼み奉(たてまつ)る厳島へ参りて、大将の祈り申されけるござんなれ。是(これ)をばいかでよきやうにはからはではあるべき」とて、嫡子小松殿、内大臣左大将にておはしけるを、辞し奉(たてまつ)りて、次男宗盛の卿(きやう)の右大将にてましましけるを越えさせて、徳大寺を左大将にぞなされける。やさしかりしはかりごとなり。新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)に、かしこきはかりごとおはし給はで、よしなき謀叛をおこして、配所の月に心をみがき、つひに赦免(しやめん)なくして失せ給ひけるこそくちをしけれ。


平家物語 百二十句本(京都本)巻第三
P117
平家巻第三 目録
第二十一句 伝法灌頂
 朝覲の行幸
 法皇三井寺において伝法
 同じく天王寺において灌頂
 山門の学生と堂衆と不快
第二十二句 大赦
 中宮御懐妊
 覚快法印変成男子の法行はるる事
 赦免状
 少将肥前の鹿瀬の荘に着く事
第二十三句 御産の巻
 寺社大願析誓の事
 皇子誕生の事
法皇の御祈りの事
 御産の時万づ物怪の事
第二十四句 大塔修理
 弘法大師の通化
 血書きの蔓陀羅
 厳島の御託宣
 頼豪阿闍梨の沙汰
第二十五句 少将帰洛
 少将有木の別所の弔の事
 成経康頼七条河原にて行別るる事
 康頼東山双林寺へ着く事
 康頼宝物集新作
第二十六句 有王島下
P118
 亀王死去の事
 俊寛の死去
 俊寛の姫出家
 有王高野奥の院籠居
第二十七句 金渡医師問答
 辻風
 重盛熊野参詣
 重盛四十三死去
 重盛大唐育王山寄進
第二十八句 小督
第二十九句 法印問答
 大地震
 浄憲法印福原へ使の事
 太政入道意趣述べらるる事
 法印返答の事
第三十句 関白流罪
 法皇鳥羽殿へ御移りの事
 浄憲法皇の御前に参らるる事
 主上臨時の御神事
 明雲座主還着
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平家 巻第三
第二十一句 伝法灌頂
治承(ぢしよう)二年正月一日、院の御所には拝礼おこなはれて、四日、朝覲(てうぎん)の行幸ありけり。例にかはりたることはなけれども、こぞの夏、大納言成親の卿以下、近習の人々おほく失はれしことを、法皇御いきどほりいまだやまず、世のまつりごとも、もの憂くおぼしめされければ、御心よからぬことにてぞありける。太政入道も、多田の蔵人行綱が告げ知らせてのちは、君をも一向うしろめたきことに思ひたてまつりて、上には事なきやうなれども、下には用心して、にが笑うてぞおはしける。同じく正月七日、「彗星東方に出づる」とも申す。また「赤気」とも申す。十八日、光を増す。そのころ、法皇、三井寺(みゐでら)の公顕僧正御師範にて、真言の秘法を伝授せられおはしけるが、大日経、蘇悉地経、金剛頂経、この三部の秘経をさづけさせましまして、「三井寺(みゐでら)にて御灌頂あるべし」と聞こえしほどに、山門の大衆、これをいきどほり申す。「むかしより御灌頂、御受戒は当山にてとげさせましますこと先規なり。なかにも、山王化導は受戒灌頂のためなり。しかるを園城寺にてとげさせ給ふならば、寺を焼きはらふべし」とぞ申しける。「これ無益なり」とて、加行を結願して、おぼしめしとどまりぬ。法皇なほ、御本位なりけれ
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ば、公顕僧正召し具して、天王寺へ御幸なつて、五智光院を建てて、亀井の水をもつて五瓶の智水として、仏法最初の霊地にて、伝法灌頂とげさせおはします。山門の騒動をしづめられんがために、法皇、三井寺(みゐでら)にて御灌頂はなけれども、山には、堂衆、学生不快のこと出できて、合戦度々におよぶ。毎度学侶うちおとされて、山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。山門に「堂衆」と申すは、学生の所従なり。童部の法師になりたるなり。もとは仲間の法師ばらにてありけるが、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山のときより、三塔に結番して「夏衆」と号し、仏に花を奉る者どもなり。近年は「行人」とて、大衆をもことともせざりしが、かく度々軍に勝ちにけり。「党衆と師衆の命をそむきて合戦をくはだつ。すみやかに誅伐せらるべき」よし、大衆、公家に奏聞し、武家に触れうつたへけり。これによ(ッ)て、太政入道、院宣をうけたまはりて、紀伊の国の住人湯浅権守宗重、大将として、畿内の兵二千余人、大衆にさしそへ、党衆を攻めらる。党衆、日ごろは東陽坊にありけるが、近江の国三箇の庄に下向して、国中の悪党をかたらひ、あまたの勢を卒して早尾坂の城にたてこもる。大衆、官軍、五千人、早尾坂の城に押し寄せ、散々にたたかふ。大衆は官軍を先に立てんとし、官軍は大衆を先に立てんとするあひだ、心々にして、はかばかしう
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もたたかはず。党衆にかたらはるる悪党と申すは、窃盗、強盗、山賊、海賊等なり。欲心熾盛(しじやう)にして、死生不知のやつばらなり。「われ一人」と思ひきりてたたかふに、大衆、官軍、数をつくしてうち殺さる。学生、また負けにけり。そののち、山門いよいよ荒れはてて、十二禅衆のほかは、止住の僧侶まれなり。谷々の講演も魔滅して、党々の行法も退転す。修学の窓をとぢ、座禅の床もむなしくせり。四教五時の春の花もにほはず、三諦即是の秋の月もかくれり。三百余歳の法燈をかかぐる人もなく、六時不断の香煙も絶えやしにけん。党舎は高くそびえて、三重のかまへを青漢のうちにさしはさみ、棟梁はるかにひいでて、四面(しめん)の椽(たん)を白霧(はくぶ)の間(あひだ)にかけたりき。されども、いまは、「供仏を峰の嵐にまかせ、〔金容を洪瀝(こうれき)にうるほす。〕夜の月、ともし火をかかげて軒のひまよりもれ、あかつきの露、玉をたれ、蓮座(れんざ)のよそほひをそふ」とかや。それ、末代の俗にいたつては、三国の仏法も次第に衰微せり。とほく天竺に仏跡をとぶらへば、むかし仏の法を説き給ひし、祇園精舎、竹林精舎、給狐独園も、このごろは虎狼のすみかと荒れはてて、いしずゑのみや残りけん。白鷺地には水絶えて、草のみ高くしげれり。退凡、下乗の卒都婆も、苔のみむしてかたぶきぬ。震旦にも、天台山、五台山、白馬寺、玉泉寺も、いまは住侶なきやうに荒れはてて、大小乗の法文も、箱の底にや朽ちぬらん。わが朝にも、南都の七大寺
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荒れはてて、東大、興福両寺のほかは、のこる党舎もなし。愛宕、高雄も、むかしは党塔軒を並べたりしかども、荒れにしかば、〔今は〕天狗のすみかとなりにけり。さればにや、さしもやんごとなかりつる天台の仏法さへ、治承(ぢしよう)の今におよんで滅びはてぬるにや。心ある人は、かなしまずといふことなし。離山しける僧坊の柱に、いかなる者のしはざやらん、一首の歌をぞ書きたりける。
いのり来しわが立つ杣(そま)のひきかへて人なきみねとなりやはてなん
伝教大師(でんげうだいし)、当山(たうざん)草創(さうさう)の昔(むかし)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏(ほとけ)たちに祈り申させたまひけんこと、思ひ出だし詠みたりけるにや、いとやさしうぞ聞こえける。八日は薬師の日なれども、「南無」ととなふる声もせず。四月の垂迹の月なれども、幣帛をささぐる人もなし。朱の玉垣神さびて、標縄のみや残りけん。
第二十二句 大赦
そのころ、太政入道第二の御むすめ、建礼門院、いまだ中宮と聞こえさせ給ひしが、御悩とて、雲のうへ、天がしたの嘆きにてぞありける。諸寺に御読経はじまり、諸社に官幣をたてらる。陰陽術をきはめ、医家くすりをつくし、大法、秘法一(ひとつ)として残(のこ)る処(ところ)なうぞ修(しゆ)せられける。され共(ども)、御悩(ごなう)ただごとにもわたらせ給はず、「御懐妊」とぞ聞こえし。主上は、今年十八、中宮二十二に
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ならせ給へども、いまだ皇子、姫宮もいでき給はず、「もし皇子にてわたらせ給はば、いかにめでたからん」と、平家の人々、ただいま皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)なりたる様に、いさみよろこび合はれけり。他家の人々も、「平氏の繁昌、をりを得たり。皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)うたがひなし」とぞ申し合はれける。高僧、貴僧に仰せて、大法、秘法を修し、星宿、仏菩薩につけても、「皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)」とぞ祈誓せられける。六月一日、中宮御着帯ありけり。仁和寺(にんわじ)の御室守覚法親王、いそぎ御参内ありて、孔雀経の法をもつて御加持あり。天台座主覚快法親王、おなじう参らせ給ひて、変成男子の法を修せらる。かかりしほどに、中宮は月のかさなるにしたがつて、御身くるしうせさせおはします。ひとたび笑めば百の媚ありけん漢の李夫人、昭陽殿のやまひの床に臥しけるも、かくやとおぼえ、唐の楊貴妃、梨花一枝雨をおび、芙蓉の風にしほれ、女朗花の露おもげなるよりも、なほいたはしき御さまなり。かかる御悩のをりふしにあはせて、こはき御物怪どもあまたとり入りたてまつる。よりまし、明王の縛にかけて、霊あらはれたり。ことに、「讃岐の院の御霊」「宇治の悪左府の御憶念」「新大納言成親の卿の死霊」「西光法師が悪霊」「鬼界が島の流人どもの生霊」なんどぞ申しける。これによりて、入道相国、「生霊をも、死霊をも、なだめらるべし」とて、そのころ讃岐の院の御遺号あつて、「崇徳天皇」と号し、宇治の悪左府、
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贈官贈位おこなはれて、太政大臣正一位をおくらる。勅使は少内記惟基とぞ聞こえし。くだんの墓所は、大和の国添上の郡川上の村、般若野の五三昧なり。保元の秋、掘りおこして捨てられしのちは、死骸路のほとりの土となつて、年年にただ春の草のみしげれり。いま勅使たづね来たつて宣命を読みけるに、亡魂いかに「うれし」とおぼしけん。怨霊は、むかしもかくおそろしきことなり。されば、早良の廃太子をば「崇道天皇」と号し、井上の内親王をば皇后の職位に復す。これみな怨霊をなだめられしはかりごととぞ聞こえし。冷泉院の、御もの狂はしくましまし、花山の法皇の、十善万乗の帝位をすべらせたまひしは、元方の民部卿の霊なり。三条の院の、御目も御覧ぜられざりしは、寛算供奉が霊とかや。門脇の帝相、か様のことをつたへ聞いて、小松殿におはして申されけるは、「今度、中宮御悩の御いのり、さまざまに聞こえ候。なにと申すとも、非常の大赦にすぎたるほどのこと、あるべしともおぼえ候はず。中にも、鬼界が島の流人ども召し返されたらんほどの功徳、善根、なにごとか候ふべき」と申されければ、小松殿、父の相国の御前におはして申されけるは、「あの丹波の少将がことを、宰相なげき申し候ふが、不便に候。今度、中宮の御悩の御こと、承りおよぶごとくんば、成親の卿の死霊なんどの聞こえ候ふ。大納言が死霊をなだめられんとおぼしめさんにつけても、いそぎ、生きて候ふ少将を召しこそ返さ
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れ候はめ。人の思ひをやめさせ給はば、おぼしめすこともかなひ、人の願ひをかなへさせましまさば、御願ひもすなはち成就して、中宮御産平安に、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あつて、家門の栄華はいよいよさかんに候ふべし」なんどぞ申されける。入道、日ごろにも似給はず、ことのほかにやはらいで、「さてさて、俊寛僧都、康頼法師がことはいかに」「それも、おなじくは召しこそ返され候はめ。もし一人もとどめられたらんは、なかなか罪業たるべう候」と申されたりければ、入道、「康頼法師がこともさることなれども、俊寛は浄海が口入をもつて人となりたる者ぞかし。それに、所こそ多けれ、わが山荘鹿の谷に寄りあひて、事にふれ、奇怪のふるまひどもがありけんなれば、俊寛においては、思ひもよらず」とぞのたまひける。小松殿帰つて、叔父の宰相よびたてまつりて、「少将はすでに赦免候はんずるぞ。御心やすくおぼしめされ候へ」と申されければ、宰相、あまりのうれしさに、泣く泣く手をあはせてぞよろこび給ひける。「下り候ひしときも、『などか申しうけざらん』と思ひたるげにて、教盛を見候ふたびごとに涙をながし候ひしが、不便に候」と申されければ、小松殿、「まことに、さこそおぼしめし候ふらめ。子は、たれとてもかなしう候へば、よくよく申してみ候はん」とて入りたまふ。さるほどに入道相国、「鬼界が島の流人ども、召し返さるべき」とさだめられて、赦文を書きてぞ下されける。御使、すでに都をたつ。宰相、あまりのうれしさに、御使にわたくしの使をそへてぞ下されける。「夜を日
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にして、いそぎ下れ」とありしかども、心にまかせぬ海路なれば、おほくの波風をしのぎ行くほどに、都をば七月下旬に出でたれども、九月二十日ごろにぞ鬼界が島には着きにける。御使は丹波の左衛門尉基康[* 「ともやす」と有るのを他本により訂正]と申す者なり。いそぎ船よりあがり、「これに、都より流され給ひたる法勝寺の執行俊寛僧都、丹波の少将成経、康頼入道殿やおはす」と声々にぞたづねける。二人は、例の熊野詣してなかりけり。俊寛一人ありけるが、このよしを聞いて、「あまりに思へば夢やらん。また、天魔波旬が来たつて、わが心をたぶらかさんとて言ふやらん。さらにうつつともおぼえぬものかな」とてあわて騒ぎ、走るともなく、たはるるともなく、いそぎ御使の前にゆきむかつて、「なにごとぞ。これこそ都より流されたりし俊寛よ」と名のり給へば、雑色がくびにかけたる文袋より、入道相国の赦文とり出だして奉る。これをいそぎあげて見給ふに、「重科は遠流に免かれ、はやく帰洛の思ひをなすべし。中宮御悩の御祈りによて、非常の大赦おこなはる。しかるあひだ、鬼界が島の流人ども、少将成経、康頼入道赦免」とばかり書かれて、「俊寛」といふ文字はなし。「礼紙にぞあるらん」とて、礼紙を見るにも見えず。奥よりはしへ読み、はしより奥へ読みけれども、「二人」とばかり書かれて、「三人」とは書かれざりけり。さるほどに、少将、康頼入道も出で来たり。少将取つて見るにも、康頼入道読みけるにも、「二人」とばかり書かれて、「三人」とは
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書かれざりけり。夢にこそかかることはあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつ、うつつかと思へば夢のごとし。そのうへ、二人の人々のもとへは都よりことづてたる文どもありけれども、俊寛僧都のもとへは、こととふ文一つもなし。「されば、わがゆかりの者ども、都のうちに跡をとどめずなりにけり」と思ひやるにもたへがたし。「そもそも、われら三人は、罪もおなじ罪、配所もおなじ所なり。いかなれば、赦免のとき、二人召し返され、一人ここに残るべき。平家のおもひわすれか、執筆のあやまりか。こはいかにしつる事どもぞや」と、天にあふぎ、地に伏して泣きかなしめどもかひぞなき。少将の袂にすがりつき、「俊寛がかくなるといふも、御辺の父故大納言殿のよしなき謀叛のゆゑなり。されば、よそのことに思ひ給ふべからず。ゆるされなければ、都までこそかなはずとも、船に乗せて、九国の地まで着けてたべ。おのおのこれにおはしつるほどこそ、春はつばくらめ、秋はたのむの雁のおとづるる様に、京のことをも聞きつれ。いまよりのちは、いかにしてかは都のことを聞くべき」とて、もだえこがれ給ひける。少将、「まことにさこそおぼしめされ候ふらめ。われらが召し返さるるうれしさは、さることにて候へども、御ありさまを見たてまつるに、行くべき空もおぼえず。うち乗せたてまつりて上りたうは候へども、都の御使もかなふまじきよしを申し候。そのうへ、『ゆるされなきに、三人ながら島を出でたる』なんどと聞こえ候はんは、なかなかあしう候ひなんず。まづ成経まかり上りて、入道相国の気色をもうかがひ、むかへ
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に人を奉らん。そのほどは、日ごろおはしつる様に思ひなして、待ち給へ。なにとしても命は大切のことにて候へば、このたびこそ漏れさせ給ふとも、つひにはなどか赦免なうては候ふべき」と、こしらへなぐさめ給へども、こらふべしとも見えざりけり。さるほどに、「船出だすべし」とて、ひしめきければ、僧都、船に乗りてはおり、おりては乗り、あらましごとをぞせられける。少将の形見には夜のふすま、康頼の形見には一部の法華経をぞとどめける。ともづな解いて船押し出だせば、僧都、網にとりつきて、腰になり、脇になり、たけの立つまでは引かれて出で、たけのおよばずなりければ、僧都、船にとりつきて、「さて、いかに、おのおの。俊寛をばつひに捨てはて給ふものかな。都までこそかなはずとも、この船に乗せて、九国の地まで」とくどかれけれども、都の御使、「いかにもかなひ候ふまじ」とて、とりつき給ふ手をひきはなして、船をばつひに漕ぎ出だす。僧都、せんかたなさに、なぎさにあがり、たふれ伏し、をさなき者の、乳母や母なんどをしたふやうに、足ずりをして、「これ具してゆけ、われ乗せてゆけ」とをめきさけべども、漕ぎゆく船のならひとて、あとは白波ばかりなり。いまだ遠からぬ船なれども、涙にくれて見えざりければ、高きところに走りあがりて、沖のかたをぞまねかれける。かの松浦小夜姫が、もろこし船をしたひつつ領布(ひれ)ふしけんも、これにはすぎじとぞ見えし。船ども漕ぎかくれ、日も暮るれども、僧都はあやしのふしどへも帰らず、波に足うち洗はせ、露にしほれて、その夜はそこにてぞ明かされける。「さりとも、少将
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はなさけふかき人にて、よき様に申すこともや」とたのみをかけて、その瀬に身をだに投げざりし心のうちこそはかなけれ。むかし早離、速離が海巌山にはなたれたりけんありさまも、これにはすぎじとぞ見えし。二人の人々、鬼界が島を出でて、肥前の国鹿瀬(かせ)の荘(しやう)に着き給ふ。宰相、京より人を下して、「年のうちは波風もはげしう、道のあひだもおぼつかなう候へば、春になりて上られ候へ」とありければ、少将、鹿瀬(かせ)の荘(しやう)にて年をぞ暮らされける。
第二十三句 御産の巻
同じき十二月十二日の寅の刻より、中宮、御産の気ましますとて、京中、六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅の池殿にてありければ、法皇も御幸なる。関白殿をはじめたてまつりて、太政大臣以下の公卿、すべて世に人とかずへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり。「大冶二年九月十一日、待賢門院御産のときも、大赦おこなはるることあり。今度もその例なるべし」とて、重科のともがらおほく許されけるなかに、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。「御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あるならば、八幡、平野、大原野なんどへ行啓なるべし」と御立願あり。全玄法印、これを承りて、敬白す。神社は太神宮をはじめたてまつり
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て二十(にじふ)余箇所(よかしよ)、仏所(ぶつしよ)は、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)以下(いげ)十六箇所(じふろくかしよ)へ御誦経(みじゆぎやう)あり。御誦経(みじゆぎやう)の御使は、宮の侍のなかに、有官のともがらこれをつとむ。平文の狩衣に帯剣したる者どもが、いろいろの御誦経物(みじゆぎやうもつ)、御剣、御衣を持ちつづいて、東の台より南庭をわたり、西の中門に出づ。めづらしかりし見物なり。小松の大臣は善悪にさわがぬ人にて、そののちはるかに程経て、嫡子権亮少将以下、公達の車ども遣りつづけさせ、色々の御衣四十領、銀剣七、広蓋に置かせ、御馬十二匹ひかせ、参らるる。寛弘に上東門院御産のとき、御堂の関白殿の御馬参らせられける、その例とぞ聞こえし。この大臣は中宮の御舎兄にてましましけるうへ、父子の御ちぎりなれば、御馬参らせ給ひしはことわりなり。五条の大納言邦綱の卿も御馬二匹参らせらるる。「心ざしのいたりか。徳のあまりか」とぞ人申しける。なほ伊勢よりはじめて、安芸の厳島にいたるまで、七十余箇所に神馬を立てらる。内裏には、寮の御馬に幣つけて、数十匹立てたり。仁和寺の御室は孔雀経の法、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円恵法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵、六観音、一時金輪、五壇の法、六時河臨、八時文殊、普賢延命にいたるまで、のこるところなうぞ修せられける。護摩のけぶりは御所中にみち、鈴のこゑは雲
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をひびかし、修法の声、身の毛もよだち、いかなる御物怪なりとも、おもてをむかふべしとも見えざりけり。なほ仏所の法印に仰せて、御身等身の七仏薬師、ならびに五大尊の像をつくりはじめらる。かかりしかども、中宮はひまなくしぎらせ給ふばかりにて、御産もいまだならざりけり。入道相国、二位殿の胸に手を置いて、「こはいかにせん。こはいかにせん」とぞあきれ給ふ。人の参りて、もの申しけれども、ただ、「よき様に」「よき様に」とぞのたまひける。御験者は、房覚、昌雲両僧正、俊堯(しゆんげう)法印(ほふいん)、豪禅(がうぜん)、実全両僧都、おのおの僧伽(そうが)の句共(くども)あげ、本寺本山の三宝、年来所持の本尊たち、責めふせ、責めふせ、揉まれけり。まことに身の毛もよだつて、たつとかりけり。〔なかにも、〕をりふし法皇は、新熊野へ御幸なるべきにて御精進のついでなりければ、錦帳ちかう御座あつて、千手経をうちあげ、うちあげ、あそばしけるにぞ、いまひときはこと変つて、さしもをどりくるひける御よりましが縛も、しばらくうちしづめける。法皇仰せなりけるは、「たとひいかなる御物怪なりとも、この老法師がかくて侍はんに、いかで近づきたてまつるべき。なかんづく、ただ今あらはるるところの怨霊は、みなわが朝恩をもつて人となりたる者ぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜずとも、いかで豈(あに)障碍(しやうげ)をなすべけんや。すみやかにまかりしりぞき候へ」と、「女人生産しがたからんときにのぞんで、邪魔遮障し、くるしみたへがたからんにも、心をいたして大悲呪を読誦(どくじゆ)せば、鬼神退散して、安楽に生ぜん」と
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あそばし、皆水精に御数珠をおしもませ給へば、御産平安のみならず、皇子にてぞましましける。重衡(しげひら)の卿、そのときは中宮亮にておはしけるが、御簾のうちよりづんと出で、「御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)候」とぞ、たからかに申されたりければ、法皇を始(はじ)めたてまつり、太政大臣以下の卿相、すべて堂上、堂下おのおの、助修、数輩の御験者たち、陰陽頭、典薬頭、一同に「あつ」といさみよろこぶ声、しばらくはしづまりやらざりけり。入道相国、うれしさのあまりに、声をあげてぞ泣かれける。よろこび泣きとはこれをいふべきにや。小松の大臣、いそぎ中宮のかたへ参り給ひて、金銭九十九文、皇子の御まくらに置き、「天をもつては父とし、地をもつては母とさだめ、御命は方士、東方朔がよはひをたもち、御心には天照大神(てんせうだいじん)入りかはらせ給へ」とて、桑の弓、蓬の矢をもつて、天地四方を射させらる。御乳には、前の右大将宗盛の卿の北の方とさだめられたりしかども、去んぬる七月に、難産にて失せ給ひしかば、平大納言時忠の卿の北の方、御乳に参らせ給ふ。のちには「帥(そつ)の典侍殿(すけどの)」とぞ申しける。法皇、やがて還御の御車を門前に立てられたり。入道相国、うれしさのあまりに、砂金一千両、富士綿二千両、法皇へ進上せらる。人々、「しかるべからず」とぞ内々申されける。今度の御産に、勝事なることあまたあり。まづ法皇の御験者。次に、后御産のときにのぞんで、御殿の棟より甑をころばかすことあり。
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皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)には南へ落し、皇女御誕生には北へ落すを、これは、いかがしたりけん、北へ落す。人々、「いかに」とさわがれて、取りあげ、落し直されたりけれども、なほあしきことにぞ人申しける。をかしかりしは、入道相国のあきれざま。めでたかりしは、小松殿のふるまひ。本意なかりしは、右大将宗盛の卿の最愛の北の方におくれ給ひて、大納言、大将両職を辞して籠居(ろうきよ)せられしこと。兄弟ともに出仕あらば、いかにめでたかるらんに。七人の陰陽師参りて、千度の御祓(おはら)ひつかまつる。そのうちに、掃部頭時晴といふ老者あり。所従なんども乏少なり。あまりに人参りつどひて、たかんなをこみ、稲麻竹葦のごとし。「役人ぞ、あけられよ」とて、おしわけ、おしわけ参るほどに、いかがしたりけん、右の沓をふみぬがれ、そこにてちと立ちやすらふが、冠をさへつき落されて、さばかりのみぎりに、束帯ただしき老者が、もとどり放つてねり入りたりければ、若き〔公〕卿、殿上人はこらへずして、一同に笑ひあへり。陰陽師なんどいふ者は、「反陪」とて、足をもあだに踏まずとこそ承れ。それにかかる不思議のありけるを、そのときはなにとも思はざりけれども、のちこそ思ひあはせつることども多かりけれ。御産に六波羅へ参り給ふ人々、関白(くわんばく)松殿(まつどの)、太政大臣妙音院の、左大臣大炊の御門の、右大臣(うだいじん)月の輪殿、内大臣小松殿、左大将実定、権大納言定房、三条大納言兼房、五条大納言邦綱、藤大納言資国、
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按察使(あぜち)の資賢、中の御門の中納言宗家、花山の院の中納言実綱、藤中納言資長、池の中納言頼盛、左衛門督時忠、別当忠親、左の宰相の中将実宗、右の宰相の中将実家、新宰相の中将通親、平宰相教盛、六角の宰相家通、堀川の宰相頼定、左大弁の宰相長方、右大弁の三位俊経、左平衛督光能、右兵衛督成範(しげのり)、左京大夫脩範(ながのり)、皇太后宮大夫朝方、大宰大弐親教、新三位実清、以上三十三人。右大弁のほかは直垂なり。不参の人々には、花山の院の前の太政大臣忠雅公、大宮の大納言隆季卿(たかすゑのきやう)以下(いげ)十四人。後日に布衣着して、入道相国の西八条の第へむかはれけるとぞ聞こえし。御修法の結願に、勧賞共(くわんじやうども)おこなはれける。仁和寺(にんわじ)の御室の守覚法親王は、「東寺修造せらるべし。ならびに後七日御修法、大元帥の法、灌頂興行せらるべき」よし、仰せくださる。御弟子覚成僧都、法印にきよせらる。座主の宮は、「二品ならびに御車の宣旨」を申させ給ふ。仁和寺(にんわじ)の御室ささへ給ふによて、御弟子法眼円良、法印になさる。そのほかの勧賞共(くわんじやうども)、毛挙にいとまあきあらずとぞ聞こえし。日数経にければ、中宮、六波羅より内裏へ入らせ給ふ。この御むすめ、位につかせ給ひしかば、入道相国、「あはれ、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あれかし。位につけたてまつり
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て、外祖父、外祖母とあふがれん」とぞ願はれける。「われあがめたてまつる神に申さん」とて、厳島に月詣し給ひて祈られければ、中宮やがて御懐妊ありて、御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)にてましましけるこそめでたけれ。
第二十四句 大塔修理
そもそも、平家の厳島を信じはじめられけることは、何といふに、鳥羽の院の時、太政入道、いまだ安芸守(あきのかみ)にておはしけるが、安芸の国をもつて、高野(かうや)の大塔(だいたふ)を修理(しゆり)せよ」とて、渡辺(わたなべ)の遠藤(ゑんどう)六郎(ろくらう)頼方(よりかた)を雑掌(ざつしやう)に付(つけ)て、七年(しちねん)に修理(しゆり)をはんぬ。修理(しゆり)をはりて後(のち)、清盛(きよもり)、高野へ参り、大塔ををがみ、奥の院へ参られたりければ、いづくともなき老僧の、まゆには霜をたれ、ひたひに波をたたみ、鹿杖にすがりて出で来給へり。ややひさしう御ものがたりせさせおはします。「むかしよりわが山は、密宗をひかへて、いまにいたるまで退転なし。天下にまたも候はず。越前の気比の社と安芸の厳島は両界の垂迹にて候ふが、気比の社はさかえたれども、厳島はなきがごとくに荒れはてて候。大塔すでに修理をはんぬ。同じくは、このついでに奏聞して、修理せさせ給へ。さだにも候はば、御辺は官加階肩を並ぶる者もあるまじきぞ」とて立ち給ふ。この老僧(らうそう)の居(ゐ)給(たま)へる所(ところ)に、異香薫じたり。人をつけて見給へば、三町ばかりは見え給ひて、そののちは、かき消すごとくに
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失せ給ひぬ。「これただ人にてあらず。大師にてましましける」と、いよいよたつとくおぼえて、「娑婆世界の思ひ出に」とて、高野の金堂に曼荼羅を描かれけるが、西曼荼羅をば、常明法印といふ絵師に描かせらる。東曼荼羅をば、「清盛描かん」とて、自筆に描かれけるが、いかが思はれけん、八葉の中尊の宝冠をば、わがかうべの血を出だして描かれけるとぞ聞こえし。そののち、清盛都へのぼり、院参して、このよしをぞ奏聞せられたりければ、君なのめならずに御感ありて、なほ程をのべず、厳島を修理せらる。鳥居たてかへ、社をつくりかへ、百八十間の廻廊をぞつくられける。修理をはりてのち、清盛、厳島へ参り、通夜せられける夜の夢に、御宝殿のうちより、びんづら結うたる天童の出でて、「これは大明神の御使なり。なんぢ、この剣をもちて、一天四海をしづめて、朝家の御まぼりたるべし」とて、銀の蛭巻したる小長刀を賜はると、夢を見て、さめてのち見給へば、うつつに枕上にぞ立ちたりける。さて、大明神御託宣ありて、「なんぢ知れりや。忘れりや。弘法をもつて言はせしこと。ただし悪行あらば、子孫まではかなふまじきぞ」とて、大明神はあがらせおはします。めでたかりしことどもなり。
白河の院の御時、京極の大臣の御むすめ、后に立たせ給ひて、賢子中宮とて、御最愛ありけり。主上、この腹に皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あらまほしうおぼしめして、そのころ有験の僧と聞こえし三井寺(みゐでら)の頼豪阿闍梨(あじやり)を召して、「なんぢ、この腹に
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皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)の御祈り申せ。御願成就せば、勧賞(くわんじやう)はのぞみによつて」とぞ、仰せける。頼豪、「やすき御こと候」とて、三井寺(みゐでら)にかへりて、肝胆をくだいて、祈り申されければ、中宮やがて御懐妊ありて、承保元年十一月十六日、御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ありけり。主上なのめならず御感(ぎよかん)ありて、「汝(なんぢ)、所望(しよまう)の事(こと)はいかに」と仰(おほ)せられば、三井寺(みゐでら)に戒壇(かいだん)建立(こんりふ)の事(こと)を奏(そう)す。主上(しゆしやう)、「これは存知のほかなる所望なり。およそは、一階僧正なんどをも申すべきかとこそおぼしめしつれ。およそ皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あつて、位を継がしめんことも、海内無為をおぼしめしつるためなり。いま、汝(なんぢ)が所望を達せば、山門いきどほり、世上しづかなるべからず。両門ともに合戦せば、天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされもなかりけり。頼豪、これを口惜しきことにして、三井寺(みゐでら)にかへりて、持仏堂にたてこもりて、干死せんとす。主上、なのめならずに御おどろきあつて、江の帥(そつ)匡房[* 「としふさ」と有るのを他本により訂正]の卿、そのときはいまだ美作守と聞こえしを召して、「なんぢは頼豪と師檀(しだん)の契(ちぎり)あんなれば、行いてこしらへてみよ」と仰せければ、美作守かしこまり承つて、頼豪(らいがう)が宿坊(しゆくばう)に行(ゆき)向ひ、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)を申さんとするに、頼豪つひに対面もせざりけり。もつてのほかにふすぼつたる持仏堂にたてこもり、おそろしげなる声して、「天子にたはぶれのことばなし、綸言汗のごとしとこそ承れ。これほどの所望かなはざらんにおいては、わが祈り出だしたてまつる皇子
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にてましませば、取りたてまつりて、魔道へこそ行かん」とて、つひに対面もせずして、干死にこそしてんげれ。美作守、かへり参りてこのよしを奏聞しければ、主上なのめならず御おどろきありけり。さるほどに、皇子御悩つかせ給ひて、さまざまの御祈りありしかども、かなふべしとも見えざりけり。白髪なる老僧の、錫杖(しやくぢやう)持ちて皇子の御枕にたたずみて、人々の夢にも見え、まぼろしにもたちけり。おそろしなんどもおろかなり。さるほどに、承暦元年八月六日、皇子(わうじ)御年(おんとし)二歳(にさい)にて、つひにかくれさせ給ふ。敦文の親王これなり。主上なのめならず御なげきあ(ッ)て、またそのころ山門に、有験の僧と聞こえし、西京の座主良真大僧正、そのころいまだ円融坊の僧都と聞こえしを、内裏へ召して、「いかがせんずる」と仰せければ、「か様の御願は、いつもわが山の力にてこそ成就することにて候へ。されば、九条の右丞相、慈恵大僧正に申させ給ひしによてこそ、冷泉院の御願、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)候へ。やすきほどの御ことなり」とて、比叡山にかへりのぼりて、山王大師に百日肝胆をくだいて祈り申されければ、百日のうちに、中宮やがて御懐妊あつて、承暦三年七月九日、御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ありけり。堀河の天皇これなり。怨霊はみなかくおそろしきことなり。今度さしもめでたき御産に、大赦おこなはれたりといへども、俊寛僧都一人赦免なかりけるこそうたてけれ。同じく、十二月二十四日、皇子、東宮に立たせ給ふ。傅(すけ)には小松の大臣、
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大夫には池の中納言頼盛の卿とぞ聞こえし。
第二十五句 少将帰洛
さるほどに、ことしも暮れて、治承(ぢしよう)も三年になりにけり。正月下旬に、丹波の少将成経、肥前の国鹿瀬庄(かせ)の荘(しやう)をたつて、都へといそがれけれども、余寒なほはげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたへ、島づたへして、きさらぎ十日ごろにぞ備前の児島に着き給ふ。それより父大納言の住み給ひける所をたづね入りて見給ふに、竹の柱、古りたる障子なんどに書き置き給へる筆のすさみを見給ひてこそ、「あはれ、人の形見には手跡にすぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでか手を見るべき」とて、康頼入道と二人、読みては泣き、泣きては読み、「安元三年七月二十日に出家。同じく二十六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ、源左衛門尉信俊が参りたるとも知られけれ。そばなる壁には、「三尊来迎のたよりあり、九品往生うたがひなし」とも書かれたり。この形見を見給ひてこそ、「さすが、この人は欣求浄土ののぞみもおはしけり」と、かぎりなき嘆きのうちにも、いささかたのもしげにはのたまひけれ。その墓をたづね入りて見給ふに、松の一群あるなかに、かひがひしう壇を築きたることもなく、土のすこし高きところに、少将袖かきあはせて、生きたる人にものを申す様に、かきくどき申されけるは、「遠き御まぼりとならせおはしたることをば、島にてもかすかにつたへ
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承(うけたまは)りて候へしかども、心にまかせぬ憂き身なれば、いそぎ参ることも候はず。成経、おほくの波路をしのぎてかの島へ流され、のちのたよりなさ。一日片時のいのちもながらへがたうこそ候へしに、さすが露のいのち消えやらで、三年をおくりて、召し返さるるうれしさはさることにて候へども、この世にわたらせ給ふを見まゐらせ候はばこそ、いのちのながきかひも候はめ。これまではいそぎつれども、今よりのちはいそぐべきともおぼえず」とて、かきくどきてぞ泣かれける。まことに存生のときならば、大納言入道殿こそ、いかにものたまふべきに、生をへだてたるならひほどうらめしかりけることはなし。苔の下には、誰かはこととふべき。ただ嵐にさわぐ松のひびきばかりなり。その夜は、康頼入道と二人、墓のまはりを行道し、念仏申す。明けければ、あたらしう壇を築き、釘貫せさせて、前に仮屋をつくりて、七日七夜念仏申し、経書いて、結願には大きなる卒塔婆をたて、「過去聖霊、出離生死、頓証菩提」と書いて、年号月日の下に、「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子にすぎたる宝なし」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり。年去り年来たれども、わすれがたきは撫育のむかしの思ひ。夢のごとく、まぼろしのごとし、尽きがたきは恋慕のいまの涙なり。三世(さんぜ)十方(じつぱう)の仏陀(ぶつだ)の聖衆(しやうじゆ)もあはれみ給ひ、亡魂尊霊もいかにうれしとおぼしけん。「いましばらく念仏の功をも積むべう候へども、都に待つ人どもも心もとなう候ふらん。またこそ参り候はめ」とて、
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亡者にいとま申しつつ、泣く泣くそこをぞたたれける。草のかげにても、なごり惜しくもや思はれけん。同じき三月十六日、少将、鳥羽へぞ着き給ふ。故大納言の山荘、洲浜殿(すはまどの)とて鳥羽にあり。住み荒らして年経にければ、築地はあれどもおほひもなし、門はあれどもとびらもなし。庭にさし入り見給へば、人跡絶えて苔ふかし。池のほとりを見わたせば、秋の山の春風に、白波しきりにうちかけて、紫鴛(しゑん)白鴎(はくおう)逍遥(せうえう)す。詠ぜし人の恋しさに、尽きせぬものは涙なり。家はあれども格子もなし。蔀、遣戸もたえてなし。「ここには大納言殿の、とこそ住み給ひしか」「この妻戸をば、かうこそ出で入りし給ひしか」「あの木はみづからこそ植ゑ給ひしか」なんど言ひて、言の葉につけても、ただ父のことを恋しげにこそのたまひけれ。やよひの中の六日なれば、花はいまだなごりあり。楊梅(やうばい)桃李(たうり)の梢(こずゑ)こそ、をり知りがほにいろいろなれ。むかしのあるじはなけれども、春をわすれぬ花なれや。少将、花のもとに立ち寄りて、桃李(たうり)もの言はず、春いくばくか暮れぬ煙霞跡(あと)なし、昔誰が住まひぞ
ふるさとの花のものいふ世なりせばいかにむかしのことを問はまし
この古き詩歌をくちずさみ給へば、康頼入道もそぞろにあはれにおぼえて、墨染の袖をぞ濡らされける。暮るるほど〔と〕は待たれけれども、あまりになごりを惜しみて、夜ふくるまでこそおはしけれ。ふけゆくままに、荒れたる宿のならひとて、古き軒の板間より、漏る月影ぞくまもなき。鶏籠(けいろう)の山(やま)明(あ)けなんとすれども、家路はさらに急が
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れず。さてしもあるべきことならねば、都より乗物どもむかひにつかはしたれば、これに乗りて京へ入り給ひける人々の心のうち、さこそはうれしうも、またあはれにもありけめ。康頼入道がむかひにも乗物ありけれども、「いまさらなごり惜しきに」とて、それには乗らずして、少将の車に乗つて、七条河原までは行き、それより行き別れけるが、なほも行きやらざりけり。花のもとの半日の客、月の前(まへ)の一夜(いちや)の友(とも)、旅びとが一むらさめのすぎゆくに、一樹のかげに立ち寄つて別るるだにも、なごりは惜しきものぞかし。いはんや、これは憂かりし島の住まひ、船中の波のうへ、一業所感の身なれば前世(ぜんぜ)の芳縁(はうえん)も浅(あさ)からずや思(おも)ひ知られけん。少将の母上は霊山におはしけるが、昨日より宰相の宿所へおはして待たれける。少将のたち入り給ふ姿を一目見たて〔まつりて〕、「命あれば」とばかりぞのたまひける。やがて引きかづいてぞ伏し給ふ。宰相のうちの女房、侍どもさし群がつて、よろこびの涙をながしけり。乳母の六条は、尽きせぬもの思ひに、黒かりし髪もみな白くなり、北の方は、さしもはなやかにうつくしうおはせしかども、痩せおとろへて、その人とも見え給はず。流され給ひしとき三歳にて別れし幼き人、おとなしうなつて、髪ゆふほどになり、そのそばに三つばかりなる幼き者のありけるを、少将、「あれはいかに」とのたまへば、乳母の六条、「これこそ」とばかり申して、涙をながしけるにぞ、「下りしとき、よにも苦しげなるありさまを見置きしは、ことゆゑなう育ちけるよ」と思ひ
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出でてもあはれなり。少将はもとのごとく院に召しつかはれて、宰相の中将にあがり給ふ。
康頼入道は、東山双林寺にわが山荘のありければ、それにおちついて、見れば、三年があひだにあまりに荒れはてたるを見て、泣く泣くかうぞ申しける。
ふるさとの軒の板間の苔むして思ひしほどはもらぬ月かな
やがてそこに籠居(ろうきよ)して、憂かりし昔を思ひつづけて、「宝物集」といふ物語を書きけるとぞ聞こえし。
第二十六句 有王島下り
さるほどに、鬼界が島へ三人流されたりしが、二人は召し返されて都へのぼりぬ。いまは俊寛一人のこりとまつて、憂かりし島の島守りとなりにけるこそあはれなれ。俊寛僧都の、をさなうより不便にして召し使はれける童、有王、亀王とて二人あり。二人ながら、あけてもくれても主のことをのみ嘆きけるが、その思ひのつもりにや、亀王はほどなく死ににけり。有王いまだありけるが、「鬼界が島の流人ども、今日すでに都へ入る」と聞こえしかば、鳥羽まで行きむかひて見れども、わが主は見え給はず。「いかに」と問ふに、「俊寛の御坊はなほ罪ふかしとて島にのこされぬ」と聞いて、有王涙にぞしづみける。泣く泣く都へたちかへり、その夜
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は六波羅の辺にたたずみて、うかがひ聞きけれども、聞き出だしたることもなし。泣く泣くわがかたに帰りて、つくづく嘆きくらせども、思ひ晴れたるかたもなし。「かくて思へば、身も苦し。鬼界が島とかやにたづね下つて、僧都の御坊のゆくへを、いま一度見たてまつらばや」とぞ思ひける。姫御前のおはしけるところへ参りて、申しけるは、「君はこの瀬にも漏れさせ給ひて、御のぼりも候はず。いかにもして、わたらせ給ふ島におりて、御ゆくへをたづねまゐらせばやとこそ思ひたちて候へ。御文を賜はりて参り候はん」と申しければ、姫御前、なのめならずによろこび給ひて、やがて書いてぞ賜びにける。「いとまを乞ふとも、よもゆるさじ」とて、父にも、母にも知らせず、泣く泣くたづねぞ下りける。唐船のともづなは、四月、五月に解くなれば、夏衣たつをおそくや思ひけん、三月の末に都を出でて、おほくの波路をしのぎつつ、薩摩潟(さつまがた)へぞ下(くだ)りける。薩摩(さつま)よりかの島へわたる舟津にて、人あやしみ、着たるものをはぎ取りなんどしけれども、すこしも後悔せざりけり。姫御前の御文ばかりぞ、人に見せじと、元結のうちにかくしたりける。さて、商人の船のたよりに、くだんの島にわたりて見るに、都にてかすかに伝へ聞きしはことの数ならず。田もなし、畑もなし、村もなし、里もなし。おのづから人はあれども、言ふことばも聞き知らず。「これに都より流され給ひし、法勝寺の執行の御坊の御ゆくへや知つたる」と問ふに、「法勝寺」とも、「執行」とも、知つたらばこそ返事もせめ、頭をふつて、「知らず」と言ふ。そのなかにある者が心得て、「いさとよ、
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さ様の人は、三人これにありしが、二人は召し返されてのぼりぬ。いま一人のこされて、あそこ、ここにまよひありけども、ゆくへは知らず」とぞ言ひける。山のかたのおぼつかなさに、はるかにわけ入り、峰によぢのぼり、谷にくだれども、白雲跡を埋づみで、ゆききの道もさだかならず。青嵐ゆめをやぶりて、その面影も見えざりけり。山にてはたづねあはずして、海のほとりについてたづぬれば、沙頭(さとう)に印(いん)を刻(きざ)む鴎(かもめ)、沖(おき)の白洲(しらす)にすだく浜千鳥のほかは、こととふものもなかりけり。ある朝、磯の方より、かげろふなんどの様に痩せ衰へたる者、よろぼひよろぼひ出で来たり。「もとは法師にてありける」とおぼしくて、髪はそらざまに生えあがり、よろづの藻屑とりついて、もどろをいただきたるがごとし。つぎめあらはれて皮ゆるみ、身に着たるものは、絹布の分けも見えずして、片手には海藻をひろひて持ち、片手には網人に魚をもらひて持ち、歩む様にはしけれども、はかちもゆかず、よろよろとして出で来たる。有王、「不思議やな。われ都(みやこ)にて多(おほ)くの乞丐人(こつがいにん)を見しかども、か様の者はいまだ見ず。諸阿修羅等、居在大海辺とて、修羅、三悪、四趣は深山大海の辺にあると、仏説き給へることなれば、知らず、餓鬼道にたづね来たるか」と思ふほどに、かれも、これも、次第に歩み近づく。「もし、か様の者なりとも、わが主のゆくへもや知りまゐらせたることもや」と、「もの申す」と言へば、「なにごと」と答ふ。「これに都より流され給ひたる、法勝寺の執行の御坊の御ゆくへや知つたる」と問ふに、童は見わすれたれども、
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僧都はいかでかわすれ給ふべきなれば、「これこそよ」とのたまひもあへず、手に持ちたるものを投げ捨(す)てて、砂の上に倒れ伏す。さてこそ、わが主の御ゆくへとも知りてけれ。僧都、やがて消え入り給ふに、有王、ひざの上にかき乗せたてまつりて、「有王参りて候。おほくの波路をしのぎて、これまではるばるとたづね参りたるかひもなく、いかでか、やがて憂き目(め)を見せさせ給ふぞ」と、泣く泣く申しければ、ややあつて、僧都、すこし人ごころ出で来て、たすけおこされ、のたまひけるは、「さればとよ。去年少将、康頼入道がむかひのときも、その瀬に身をも投ぐべかりしを、よしなき、少将の『いかにもして都のおとづれをも待てかし』なんどなぐさめおきしを、おろかに、もしやとたのみつつ、ながらへんとはせしかども、この島には人の食ひ物なき所にて、身に力のありしほどは、山にのぼりて硫黄といふものを取り、九国よりわたる商人にあひ、食ひ物にかへなんどせしかども、日にそへて弱りゆけば、そのわざもせられず。か様に日ののどかなるときは、磯に出でて網人に魚をもらひ、潮干のときは貝をひろひ、あらめを取り、磯の苔につゆの命をかけてこそ、今日まではながらへたれ。さらでは憂き世のよすがをば、いかにしつらんとか思ふらん。ここにて何事をも言ふべけれども、いざ、わが家に」とのたまへば、有王、「あの御ありさまにても、家を持ち給ふことの不思議さよ」と思ひて行くほどに、松の一群あるなかに、より竹を柱にし、葦を結ひて桁梁にわたして、上にも下にも松の葉をひしととりかけたれば、雨風のたまるべうも見えざりけり。「むかしは法勝寺
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の寺務職(じむしき)にて、八十余箇所の荘務をもつかさどられしかば、棟門、平門のなかに、四五百人(しごひやくにん)の所従(しよじゆう)眷属(けんぞく)に囲饒(ゐねう)せられてこそおはせしに、まのあたりにかかる憂きめを見給ひけるこそ不思議なれ。業にさまざまあり、順現、順生、順後業といへり。僧都、一期のあひだ、身に用ゆるところは、みな大伽藍の寺物、仏物にあらずといふことなし。されば、かの信施無慚の罪により、はや、今生にて感ぜられにけり」とぞ見えたりける。僧都、うつつにてありけりと思ひさだめて、「少将、康頼入道がむかひのときも、これが文といふこともなし。ただ今なんぢがたよりにも、おとづれのなきは、かくとも言はざりけるか」とのたまへば、有王、涙にむせび、うつ伏して、しばしは御返事にもおよばず、ややあつて、涙をおさへて申しけるは、「君の西八条へ御出で候ひしとき、追捕の官人参りて、御内の人々からめとり、御謀叛の次第をたづねて、みな失ひはてられ候ひぬ。北の方は、をさなき人を、隠しかねまゐらせ給ひて、鞍馬の奥にしのびてわたらせ給ひ候ひしに、この童ばかりこそ、時々参り、宮仕ひつかまつり候へしが。をさなき人は、あまりに恋しがらせ給ひて、参り候ふたびごとに、『わが父のわたらせ給ふ鬼界が島とかやへ具して行け』とて、むづがらせ給ひしが、過ぎにし二月に、もがさといふものに、失せさせおはしまし候ひぬ。北の方は、その御思ひと申し、またこれの御ことと申し、ひとかたならぬ思ひに、同じく三月二日に、はかなくならせおはしまし候ひぬ。いまは姫御前ばかりこそ、奈良のをば御前のもとにしのびてわたらせ給ひ候ふが、その御文は賜はり
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て参りて候」とて、取り出だして奉る。僧都いそぎこれをあけて見給ふに、「などや、三人流され給ふ人の、二人は召し返され候(さぶら)ふに、いままで御のぼりも候(さぶら)はぬぞ。あまりに御恋しう思ひまゐらせ候(さぶら)ふに、この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」とぞ書かれたる。
たなばたの海士のつりぶねわれに貸せ八重の潮路の父をむかへん
「これを見よ、有王よ。この子が文の書き様のはかなさよ。おのれを供にのぼれとは、心にまかせたる俊寛が身ならば、いままでなにとてこの島にて三年の春秋をばおくるべき。ことし十二になるとこそおぼゆれ、これほどはかなくては、いかで人にも見え、宮仕ひをもして、身をもたすくべきか」とて泣かれけるにぞ、「人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふ」とも、思ひ知られてあはれなり。「さて、俊寛がこの島へ流されてのちは、暦なければ月日のたつをも知らず。おのづから花の咲き、葉の落つるをもつて、三年の春秋をわきまへ、蝉のこゑ麦秋を送るを聞いて夏と知り、雪のつもるを見て冬と知る。白月、黒月のかはりゆくをもつて、三十日をわきまへ、指を折りてかずふれば、ことし六つになると思ふをさなき者も、はや先立ちけるござんあれ。西八条へ出でしとき、この子が、『我(われ)もゆかん』と慕ひしを、『やがて帰(かへ)らんずるぞ』といさめ置きしが、今の様におぼゆるぞや。限りとだに思はましかば、いましばしもなどか見ざらん。親となり、子となり、夫婦の縁をむすぶも、この世一つに限らぬちぎりぞかし。などか、されば、それらがさ様に先立ちけるを、夢まぼろしにも知らざりけるよ。人目
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をも恥ぢず、命を生きうと思ふも、これらをいま一度見ばやと思ふためなり。今は生きてもなにかせん。姫がことこそ心苦しけれども、それも生き身なれば、嘆きながらもすごさんずらん。さのみながらへて、おのれに憂き目を見せんも、わが身ながらつれなかるべし」とて、おのづから食をとどめて、ひとへに弥陀の名号をとなへて、臨終正念をぞ祈られける。有王島へわたりて三十三日と申すに、つひにその庵のうちにてをはり給ひぬ。年三十七とぞ聞こえし。有王、むなしきかばねにとりつき、心のゆくほど泣きこがれ、「やがて後世の御供つかまつるべう候へども、この世には姫御前ばかりこそわたらせ給ひ候へ。後世(ごせ)訪(とぶら)ひ参らすべき人(ひと)も候(さうら)はず。しばし永らへて後世(ごせ)訪(とぶら)ひ参らせん」とて、臥所をあらためず、庵をきりかけ、松の枯れ枝、葦の枯れ葉をとりおほひ、藻塩のけぶりになしたてまつる。白骨をひろひ、くびにかけ、また商人の船のたよりに、九国の地へぞ着きにける。泣く泣く都へたちかへり、親のもとへは行かずして、僧都の姫御前の御もとへ直ぐに参り、ありし様をはじめよりこまごまと語りたてまつる。「なかなかに、御文を御覧じてこそ、御思ひはいとどまさらせ給ひ候(さうら)ひしか。すずり、紙もなければ、御返事にもおよばず、おぼしめすこと、さながらむなしうやみにき。今は生々世々(しやうじやうせせ)を送(おく)り、多生曠劫(たしやうくわうごふ)経るとも、いかにとしてか、御声をも聞き、御すがたをも見まゐらせ給ふべき」と申しければ、姫御前、声も惜しまずをめきさけび給ひけり。十二(じふに)の歳、やがて尼になり、奈良の法華寺におこなひすまして、父母の後世を
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とぶらひ給ふぞあはれなる。有王は俊寛僧都の遺骨をくびにかけ、高野へのぼり、奥の院にをさめ、蓮華谷にて法師になり、諸国七道修業して、主の後世をぞとぶらひける。か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。
第二十七句 金渡し 医師問答
さるほどに、同じく五月十二日の午の刻ばかり、京中は辻風おびたたしう吹いて行くに、棟門、平門を吹き倒し、四五町、十町吹きもつて行き、桁、長押、柱なんどは虚空に散在す。檜皮(ひはだ)葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。おびたたしう鳴り、動揺すること、かの地獄の業風なりともこれには過ぎじとぞ見えし。舎屋破損す〔る〕のみならず、命失ふ者もおほかりけり。牛馬のたぐひ、数をつくしてうち殺さる。「これただ事にあらず。御占形あるべし」とて、神祇官(じんぎくわん)にして御占形あり。「いま百日のうちに、禄を重んずる大臣のつつしみ。別して天下の御大事。ならびに仏法、王法ともにかたぶきて、兵革相続すべき」とぞ神祇官(じんぎくわん)、陰陽頭どもは占ひ申しける。小松の大臣は、か様の事どもを伝へ聞き給ひて、よろづ心細うや思はれけん、そのころ熊野参詣のことあり、本宮証誠殿の御前に参らせ給ひて、よもすがら敬白せられけるは、親父入道相国
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のふるまひを見るに、ややもすれば、悪行無道にして、君をなやましたてまつり、重盛、嫡子として、しきりに諫(いさ)めをいたすといへども、身不肖のあひだ、彼をもつて服膺せず。そのふるまひを見るに、一期の栄華なほあやふし。枝葉連続して親をあらはし、名をあげんことかたし。このときにあたつて、重盛いやしくも思へり。なまじひに世につらなつて浮沈せんこと、あへて良臣(りやうしん)孝子(かうし)の法(ほふ)にあらず。名をのがれ、身をしりぞいて、今生の名利をなげうつて、来世の菩提をもとめんにはしかじ。ただし、凡夫薄地、是非に迷へるがゆゑに、心ざしをほしいままにせず。南無権現金剛童子、ねがはくは子孫繁栄に絶えずして、朝廷に仕へてまじはるべくは、入道の悪心をやはらげて、天下の安全を得せしめ給へ。栄耀また一期をかぎつて、後昆の恥におよばば、重盛が運命をつづめて、来世の苦患(くげん)を助(たす)け給(たま)へ。両箇の求願、ひとへに冥助をあふぐ。と、肝胆をくだいて祈り申されければ、大臣の御身より燈籠(とうろ)の火(ひ)の光の様なるものの出でて、ばつと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見たてまつりけれども、恐れてこれを申さず。大臣下向のとき、岩田川を渡らせ給ひけるに、嫡子権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)以下(いげ)の公達(きんだち)、浄衣(じやうえ)のしたに薄色の衣を着給ひたりけるが、夏のことなりければ、なにとなう河の水にたはぶれ給ふほどに、淨衣のぬれて、衣にうつりたるが、ひとへに色のごとく見えければ、筑後守定能、これを見とがめたてまつりて、「あの淨衣、よに
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忌はしげに見えさせ給ひ候。召し替へられべうや候ふらん」と申しければ、大臣、「さては、わが所願、すでに成就しにけり。あへてその淨衣あらたむべからず」とて、岩田川より、別してよろこびの奉幣を熊野へぞたてられける。人「あやし」と思へども、その心を得ず。しかるにこの公達、程なく、まことの色を着給ひけるこそ不思議なれ。
大臣下向ののち、いくばくの日数を経ずして、病ひづき給ひしかば、「権現すでに御納受あるにこそ」とて、療治をもし給はず、また祈祷をもいたされず。そのころ、宋朝よりすぐれたる名医わたりて、本朝にやすらふことありける。入道相国、折節福原の別業におはしけるが、越中の前司盛俊を使者にて、小松殿へのたまひつかはしけるは、「所労のこと、いよいよ大事なるよし、その聞こえあり。かねては、また宋朝よりすぐれたる名医わたれり。をりふしよろこびとす。よて彼を召し請じて、療治をくはへしめ給へ」とぞのたまひたる。小松殿、さしもに苦しげにおはしけるが、たすけ起されて、人をはるかにのけて対面あつて、「まづ医療のこと、『かしこまつて承(うけたまは)り候ひぬ』と申すべし。ただし、なんぢも承れ。延喜の帝は、さばかんの賢王にてわたらせ給ひしかども、異国の相人を都のうちへ入れられたりしをば、末代までも『賢王の御あやまり、本朝の恥』とこそ見えたれ。いはんや重盛ほどの凡人が異国の医師を都のうちへ入れんこと、国の恥にあらずや。漢の高祖は三尺の剣をひつさげて天下ををさめしかども、淮南(わいなん)の黥布(げいふ)を討(う)ちし時(とき)、流矢(ながれや)にあたつ
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て傷をかうぶる。后呂太后、良医を召して見せしむるに、医の曰く、『われこの傷を治すべし。ただし五十斤の金をあたへば治せん』と言ふ。高祖のたまはく、『われまぼりの強かりしほどは、多くのたたかひにあうて傷をかうぶりしかども、その痛みなし。運すでに尽きぬ、命はすなはち天にあり、扁鵲といふとも何の益かあらん、しかれば金を惜しむに似たり』とて、五十斤の金を医師にあたへながら、つひに治せざりき。先言耳にあり、いまもつて甘心とす。重盛、いやしくも公卿に列し三台にのぼり、その運命をはかるに、みなもつて天心にあり。何ぞ天命を察せずして、おろかに医療を疲らかさんや。所労もし定業たらば、医療を加ふるとも益なからんか。また非業たらば、医療を加へずとも助かることを得べし。かの耆婆(ぎば)が医術(いじゆつ)及(およ)ばずして、大覚世尊(だいかくせそん)、滅度(めつど)を拔提(ばつだい)の辺(ほとり)に唱(とな)ふ。これすなはち定業のやまひ癒えざることを示さんがためなり。治するは仏体、療ずるは耆婆(ぎば)なり。定業(ぢやうごふ)、医療(いれう)にかかはるべくんば、豈(あに)釈尊(しやくそん)入滅(にふめつ)あらんや。定業(ぢやうごふ)治(ぢ)するに堪(た)へざる旨(むね)明らけし。しかれば、重盛が身仏体にあらず、名医また耆婆(ぎば)におよぶべからず。たとひ四部の書をかんがへて、百療(はくれう)に長(ちやう)ずといふとも、有待(うだい)の依身(えしん)をすくひ療ぜん。たとひ五経の説をつまびらかにして衆病を癒すといふとも、いかでか前世の業病を治せんや。もしかの術によて存命せば、本朝の医道なきに似たり。医術効験なくんば、面謁所詮
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なし。就中(なかんづく)、本朝(ほんてう)鼎臣(ていしん)の外相(ぐわいさう)をもつて、異朝(いてう)浮遊の来客に見えんこと、かつうは国の恥、かつうは道(みち)の陵遅(りようち)なり。たとひ重盛命ほろぶといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらんや。このよしを申せ」とこそのたまひけれ。盛俊泣く泣く福原へ馳せ下り、このよし申したりければ、入道大きにさわいで、「是(これ)程(ほど)国(くに)の恥(はぢ)を思ふ大臣、上古いまだなし。末代にあるべしともおぼえず。日本不相応の大臣なれば、いかさまにも今度失せなんず」とて、泣く泣くいそぎ都へ上られけり。同じく七月二十八日、小松殿出家し給ふ。法名をば「照空」とぞつき給ひける。やがて八月一日。臨終正念に住して、つひに失せ給ひぬ。御年四十三。世はさかりとこそ見えつるに、あはれなりしことどもなり。「さしも入道の、横紙を破られつるをも、この人の直しなだめられつればこそ、世もおだやかなりつれ、こののち天下にいかばかりの事か出で来んずらん」とて、上下なげきあへり。前の右大将宗盛の卿の方様の人々は、「世はすでに大将殿へ参りなんず」とて、いさみよろこびあへり。人の親の子を思ふならひは、愚かなるが先立つだにもかなしきぞかし。いはんやこれは当家の棟梁、当世の賢人にておはしければ、恩愛のわかれ、家の衰微、かなしんでもなほあまりあり。されば世には良臣をうしなへることをなげき、家には武略のすたれぬることをかなしみ、およそこの大臣は文章うるはしくして、心に忠を存じ、才芸すぐれて、ことばに徳を兼ね給へり。この大臣は不思議第一の人
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にておはしければ、去んぬる四月七日の夜の夢に見給ひける事こそ不思議なれ。たとへば、ある浜路をいづくともなくはるばるとあゆみ行き給ふほどに、大きなる鳥居のありけるを、大臣見給ひて、「あれはいかなる御鳥居ぞ」と見給へば、「春日の大明神の御鳥居なり」とぞ申しける。人おほく群集したり。そのなかに大きなる法師の頭を太刀のさきにつらぬき、高くさしあげたるを、大臣見給ひて、「あれは何者ぞ」とのたまへば、「これは平家太政入道殿の、悪行超過し給ふによて、当社大名神の召し取らせ給ひて候」と申すとおぼえて、夢さめぬ。大臣、「当家は保元、平治よりこのかた、度々朝敵をたひらげ、勧賞(けんじやう)身にあまり、太政大臣にいたり、一族の昇進六十余人。二十余年のこのかたは楽しみさかえて、肩をならぶる者なかりつるに、入道の悪行によて、一門の運命末になりぬることよ」と案じつづけて、御涙にむせば給ふ。をりふし妻戸をほとほとと打ちたたく。大臣、「あれ聞け」とのたまへば、「瀬尾の太郎兼康が参りて候。今夜不思議のことを見候ひて、申し上げんがために、夜の明くるが遅うおぼえ候ひて、参りて候。御前の人をのけられ候へ」と申しければ、大臣人をはるかにのけて対面あり。大臣の見給ひたりける夢を、はじめよりいちいち次第に語り申したりければ、「さては瀬尾の太郎兼康は、神にも通じたる者にてありける」とぞ大臣も感じ給ひける。そのあした、嫡子権亮少将、院へ参らんと出でたたれけるに、大臣呼び給ひて、「御辺は人の子にはすぐれて見え給ふ。貞能はなきか。少将に酒すすめよ
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かし」とのたまへば、筑後守貞能うけたまはつて、御酌に参る。大臣、「この盃をまづ少将にこそ取らせたけれども、親よりさきにはよも飲み給はじ」とて、三度うけて、そののち」少将にぞさされける。少将も三度うけ給ふとき、「いかに貞能、少将に引出物せよ」とのたまへば、貞能うけたまはつて、錦の袋に入れたる御太刀を一振取り出す。少将、「当家に伝はれる小烏といふ太刀やらん」と思ひて、よにうれしげに見給ふところに、さはなくして、大臣葬のとき用ひる無文といふ太刀にてぞありける。少将、もつてのほかに気色あしげに見えられければ、大臣涙をはらはらと流いて、「いかに少将、それは貞能がひが事にはあらず。そのゆゑは、大臣葬のとき用ひる無文の太刀といふなり。この日ごろ、入道のいかにもなり給はば、重盛帯(は)いて供せんと思ひつれども、いまは重盛、入道殿に先立たん。されば御辺に賜(た)ぶなり」とのたまへば、少将これをうけたまはつて、涙にむせび、うつ伏して、その日は出仕もし給はず。そののち、大臣熊野へ参り、下向して、いくばくの日数を経ずして、病ひついて失せ給ひけるにこそ、「げにも」と思ひ知られけれ。大臣は天性滅罪生善の心ざし深うおはしければ、未来のことをなげいて、「わが朝にはいかなる大善根をしおきたりとも、子孫あひつづきてとぶらはんこともありがたし。他国にいかなる善根をもして、後世とぶらはればや」とて、安元のころほひ、鎮西より妙典といふ船頭を召して、人をはるかにのけて対面あつて、金を三千五百両
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召し寄せて、「なんぢは大正直の者であるなれば、五百両をなんぢに賜(た)ぶ。三千両をば宋朝へわたして、一千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、わが後世をとぶらはせよ」とぞのたまひける。妙典これを賜はりて、万里の波濤(はたう)をしのぎつつ、大宋国へぞわたりける。育王山の方丈、仏照禅師徳光に会ひたてまつりて、このよしを申したりければ、随喜感嘆して、一千両をば僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、小松殿の申されける様に、つぶさに奏聞せられたりければ、帝大きに感じおぼしめして、五百町の田代を育王山へぞ寄せられける。されば「日本の大臣、平の朝臣重盛公の後生善所」と、今にあるとぞうけたまはる。入道相国、小松殿にはおくれ給ひぬ、よろづ心細うや思はれけん、福原へ馳せ下り、閉門してこそおはしけれ。
( 第二十八句 小督 )
  第二十九句 法印問答
同じく十一月七日の夜、戌の刻ばかり、大地おびたたしう動いて、やや久し。陰陽頭安部の泰親、いそぎ内裏へ馳せ参りて、奏聞しけるは、「今度の地震、天文のさすところ、そのつつしみ軽からず。当道三経のうち、坤儀経(こんぎきやう)の説を見候ふに、年を得ては年を出でず、月を得ては月を出でず、日を得ては日を出でず、
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もつてのほかに火急に候」とて、はらはらと泣きければ、伝奏の人も色を失ひ、君も叡慮をおどろかせおはします。若き公卿、殿上人は、「けしからずの泰親が泣き様や。なんでうことのあるべき」とて笑ひあはれけり。されどもこの泰親は晴明(せいめい)五代(ごだい)の苗裔(べうえい)をうけて、天文は淵源をきはめ、推条たなごころをさすがごとし。一事(いちじ)もたがはずありければ、「さすの神子」とぞ申しける。いかづちの落ちかかりたりしにも、雷火とともに狩衣の袖は焼けながら、その身はつつがもなかりけり。上代にも末代にもありがたかりし泰親なり。同じき十四日、入道相国、この日ごろ福原へおはしけるが、なにとか思ひ給ひけん、数千騎の軍兵を率して都へ入り給ふよし聞こえしかば、京中の上下、なにと聞きわけたることはなけれども、騒ぎあふことなのめならず。また何者の申し出だしたりけるやらん、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべし」といふ披露をなす。関白殿聞こしめすむねやありけん、急(いそ)ぎ御参内(ごさんだい)あつて、「今度入道相国入洛のことは、ひとへに基房をかたぶくべき結構にて候ふなり。つひにいかなる目にあひ候ふべきやらん」と奏せさせ給へば、主上聞こしめして、大きにおどろき給ひて、「そこにいかなる目にもあはれんは、ただわがあふにこそあらんずれ」とて、龍顔より御涙をながさせ給(たま)ふぞ忝(かたじけな)き。誠(まこと)に天下(てんが)の御政(おんまつりごと)は、主上(しゆしやう)、摂録(せふろく)の御(おん)はからひにてこそありつるに、こはいかにしつることどもぞや。天照大神(てんせうだいじん)、春日(かすが)大明神(だいみやうじん)の神慮(しんりよ)の程(ほど)もはかりがたし。同じき十五日、「入道相国、
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朝家をうらみたてまつり給ふべきこと必定」と聞こえしかば、法皇大きにおどろかせ給ひて、故小納言入道信西の子息、静憲法印(じやうけんほふいん)御使ひにて、入道相国の西八条の第へ仰せつかはされける。「近年、朝廷しづかならずして、人の心もととのほらず、世間もいまだ落居せぬさまになりゆくことを、惣別(そうべつ)につけてなげきおぼしめせども、さてそこにあれば、万事はたのみおぼしめしてこそあるに、天下をしづむるまでこそなからめ、あまつさへ嗷々(がうがう)なる体にて、朝家をうらむべしなんど聞こしめすは、なにごとぞ」と仰せつかはされける。静憲法印(じやうけんほふいん)、入道相国の西八条の第へむかふ。入道、対面もし給はず、あしたより夕べまで待たれけれども、無音なりければ、さればこそ無益におぼえて、源(げん)大夫判官(だいふのはうぐわん)季貞(すゑさだ)をもつて院宣のおもむきを言ひ入れたりければ、そのとき、入道相国、「法印呼べ」とて出でられたり。呼び返し、「やや、法印の御坊、淨海が申すところはひが事か、御辺の心にも推察し給へ。まづ内府がみまかりぬること、当家の運命をはかるにも、入道、随分悲涙をおさへてまかり過ぎ候ひしか。保元以後は乱逆うちつづいて、君やすき御心もわたらせ給ひ候はざりしに、入道はただおほかたをとりおこなふばかりにてこそ候へ、内府こそ手をおろし、身をくだいて、度々の逆鱗をやすめまゐらせ候ひしか。そのほか臨時の御大事、朝夕の政務、内府ほどの功臣はありがたうこそ候へ。いにしへを思ふに、唐の太宗は魏徴におくれて、かなしみのあまりに、『昔(むかし)の殷宗(いんそう)は
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夢のうちに良弼を得、今の朕はさめての後に賢臣を失ふ』と碑の文をみづから書いて廟(べう)に立(た)ててこそかなしみ給ひけれ。かるがゆゑに、『父よりもむつまじく子よりも親しきは君臣の道なり』とこそ申すことにて候ふに、重盛が中陰のうちに八幡へ御幸のあつて御遊ある、人目こそ恥ぢ入り候ひしか。これ一つ。内府随分君のために忠功他に異なるものなり。されば保元、平治の合戦にも、命を君のために軽んじて、かばねを戦場に捨てんとふるまひ候ひしこと、久しからざることなれば、君いかでかおぼしめし忘るべき。これ二つ。そののち、大小度々御大事に、院宣といひ、勅命と申し、軍忠をぬきんづること度々におよべり。しかれば、越前の国を重盛に賜はりし時は、子々孫々(ししそんぞん)まで下され候ひしが、重盛が中陰のあひだに召し離さるる条、罪科なにごとぞや。これ三つ。次に、中納言闕(か)げ候ふとき、二位の中将殿のぞみ申され候ひしかば、入道随分執し申し候ひしを、関白殿の御子息三位の中将殿、非分なし給ひしこと。入道たとひ一度は非拠を申しおこなふとも、いかでか聞こしめし入れざるべき。いはんや、家嫡といひ、位階といひ、かたがた理運左右におよばぬことなりしを、ひき違ひたてまつらるること、入道面目を失うて候ひしか。これ四つ。次に、昨日や今日、みなもつて、この一門を滅ぼすべき由(よし)結構あり。これまた私の計略にあらず候ふよし、伝へうけたまはるあひだ、先々の忠勤、今においてはいたづらごとになりぬ。向後さらに以前の軍忠ほどの苦衷
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あるべきとも存ぜざるあひだ、公家奉公のたのみなし。これ五つ。度々の忠勤をわすれずんば、いかでか入道をば七代まで捨てらるべき。それに、入道すでに七旬におよび、余命いくばくならず。一期のあひだにも、ややもんずれば滅ぼすべき御はかりごとあり。申さんや、子孫あひ継いで、一日片時も朝家に召しつかはれんことかたし。これ六つ。およそ『老いて子を失ふは、枯木の枝なきがごとし』と承り候。内府におくれ、運命の末にのぞめること、思ひ知り候ひぬ。天気のおもむきあらはれたり。たとひいかなる奉公いたすといふとも、叡慮に応ずることあるべからず。これ七つ。このうへは、不定の世の中に、七十におよんで、なにほどの楽しみ栄えを期して、心苦しく無益の奉公をいたしても詮あるべからず。『とてもかくても候ひなん』と存じ候。親の子を思ふならひ、『不孝の子なほ別れの涙いましめがたし』と承り候。いはんや重盛においては、奉公といひ、至孝といひ、礼法と申し、勇敢と申し、子ながらならびなき仁なり。一度わかれてのち、再会期しがたし。老父がなげきをば、いかがとか、一度の御あはれみをかけられざらん。これ八つ。鳥羽の院の御時、顕頼民部卿(あきよりみんぶきやう)、させる重臣ではなかりしかども、昇遐(しようか)ののち、御立願の八幡御参詣延引す。なさけある御ことは、かやうにこそ候へ。一度の御芳言にもあづからず。たとひ入道が忠をおぼしめし忘るるといふとも、いかでか内府が労功を捨てらるべき。また重盛が奉公を捨てらるといふとも、浄海が数度の勲功をおぼしめし知らざらん。これ九つ。このほか
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うらみなげき、毛挙にいとまあきあらず」。はばかるところもなくくどきたてて、かつうは腹立し、かつうは落涙し給へば、法印は、「この条々案のうちのことなり。ことごとく院の御ひが事、禅門が道理」と聞きなして、あはれにも、またおそろしうもおぼえて、汗水にぞなられける。このときは、いかなる人も、一言の返事にもおよびがたきぞかし。そのうへ、「わが身も近習の人なり、鹿の谷に会合したりしことは、まさしう見聞かれしかば、その人数とていまも召しや籠められずらん」と思ふに、龍の鬚を撫で、虎の尾を踏む心地はせられけれども、法印もさるおそろしき人にて、ちとも騒がず申されけるは、「まことに、度々の御奉公あさからず。一旦申させおはすところ、そのいはれあり。ただし、官位といひ、俸禄といひ、御身にとつてはことごとく満足す。しかれば功の莫大なるところを、君御感あつてこそ候はめ。しかるに讒臣事をみだるを、君御許容ありといふは、謀臣の凶害にてぞ候ふらん。耳を信じて目をうたがふは、俗のつねの弊なり。小人の浮言を重んじて、朝恩の他に異なるに、君をかたぶけ給はんこと、冥顕につけてもその恐れすくなからず候。およそ天心は蒼々としてはかりがたし。叡慮さだめてその儀にてぞ候ふらん。よくよく御思惟候へ。下として上に逆ふること、あに人臣の礼たらんや。詮ずるところ、このおもむきをこそ披露つかまつり候はめ」とて立たれければ、その座にいくらも並みゐ給へる人々、「あなおそろし。入道のあれほど怒り給ふに、ちとも騒がず、返事うちして立たるるよ」とて、
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法印をほめぬ人とぞなかりけれ。法印、御所へかへり参りて、このよしを奏せられければ 法皇も道理至極(だうりしごく)して、仰せ出だされたることもなし。
第三十句 関白流罪
 さるほどに、同じき十六日、入道相国この日ごろ思ひたち給へることなれば、摂政をはじめたてまつり、四十三人が官職をとどめてみな追籠めたてまつる。なかにも摂政殿をば大宰帥(だざいのそつ)にうつして、鎮西へ流したてまつる。「かくあらん世には、とてもかくてもありなん」とて、鳥羽の辺、古川といふ所にて御出家あり。御年三十五。「礼儀よく知ろしめし、くもりなき鏡にてわたらせ給ひつるものをとて、世の惜しみたてまつることなのめならず。遠流の人の、道にて出家しつるを、約束の国へはつかはさぬことにてあるあひだ、はじめは日向の国と定められたりしかども、備前の国府の辺に、湯迫といふ所にぞしばしやすらひ給ひける。大臣流罪の例は、左大臣蘇我の赤兄[* 「あかき」と有るのを他本により訂正]、右大臣豊成、左大臣魚名、菅原の右大臣、いまの北野の天神の御ことなり。右大臣高明公(かうめいこう)、内大臣藤原の伊周公(いしうこう)まで、その例すでに六人なり。されども、摂政関白流罪の例、これ初めとぞ承る。故中納言殿の御子、二位の中将基通(もとみち)は入道の聟(むこ)にておはしければ、大臣関白にあがり給ふ。〔去んぬる〕円融院(ゑんゆうゐん)の御宇(ぎよう)、天禄(てんろく)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)一日(ひとひのひ)、〔一〕条(いちでう)の
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摂政(せつしやう)謙徳公(けんとくこう)、失せ給ひしかば、御弟堀川の関白忠義公(ただよしこう)、そのときはいまだ従二位(じゆにゐ)中納言にておはしき。御弟法興院(ほふきようゐん)の大納言入道殿兼家公(かねいへこう)は、大納言の右大将にてましまししかば、忠義公は御弟に越えられ給ひたりしかども、いままた越えかへして、内大臣正二位にあがりて、内覧の宣旨をかうぶらせ給ひたりしをこそ、時の人「耳目をおどろかしたる御昇進」とは申せしに、これはそれになほ超過せり。非参議二位の中将より、大納言を経ずして大臣関白になり給ふこと、承りおよばず。普賢寺殿(ふげんじどの)の御ことなり。されば上卿(じやうきやう)、宰相(さいしやう)、大外記(だいげき)の大夫史(たいふさくわん)にいたるまで、みなあきれたるさまにぞ見えたりける。太政大臣師長(もろなが)は、官をやめて、あづまのかたへ流され給ふ。去んぬる保元に、父悪左府大臣殿(あくさふおほいどの)縁座によて、兄弟四人流罪せられ給ひしに、御兄右大将兼長(かねなが)、御弟左の中将隆長、範長禅師(はんちやうぜんじ)、三人は、帰洛を待たずして配所にて失せ給ひぬ。これは土佐の畑にて、九かへりの春秋を送りむかへ、長寛(ちやうくわん)二年八月に召し返されて、本位に復し、次の年正二位して、仁安元年十月に、前の中納言より権大納言にあがり給ふ。をりふし大納言あかざりければ、員の外に加はられけり。大納言六人になること、これ初めなり。また前の中納言より大納言にあがり給ふことも、後山階(ごやましな)の大納言三守公(みもりこう)、宇治の大納言隆国のほかは、これ初めとぞ承る。管絃(くわんげん)の道に達し、才芸(ざいげい)すぐれ
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ておはしければ、次第の昇進とどこほらず、太政大臣まできはめさせ給ひて、いかなる罪のむくいにて、かさねて流され給ふらん。保元のむかしは南海の土佐へうつされ、治承(ぢしよう)の今は東関(とうくわん)尾張国(をはりのくに)とかや。もとより「罪なくして配所の月を見む」といふことは、心ある人のねがふことなれば、大臣、あへて事ともし給はず。かの唐の太子の賓客(ひんかく)白楽天(はくらくてん)は、潯陽(じんやう)の江(え)の辺(ほとり)にやすらひ給ひけん、そのいにしへを思ふに、鳴海潟、潮路はるかに遠見し、つねは朗月をのぞみて浦風にうそぶき、琵琶(びは)を弾じ、和歌を詠じて、なほざりに月日をおくり給ひけり。あるとき、当国第三の宮熱田の明神へ参詣あり。その夜、神明法楽のために、琵琶(びは)ひき、朗詠し給ふところに、もとより無智のさかひなれば、なさけを知れる者もなし。邑老、村女、漁人、野叟(やそう)、首(かうべ)をうなだれ、耳をそばだつといへども、さらに清濁をわけて、呂律を知れることもなし。されども瓠巴琴(こはこと)を弾ぜしかば、魚鱗をどりほとばしる。虞公歌をよみしかば、梁塵(りやうぢん)うごきうごく。ものの妙をきはむるときには、自然に感をもよほすことわりなれば、諸人身の毛よだつて、満座奇異の思ひをなす。やうやく深更におよんで、
  風香調(ふかうでう)のうちには、花馥(くわふく)いみじくして気をふくみ
  流泉曲(りうせんきよく)のあひだには、月清明のひかりをあらそふ
  願はくは今生世俗(せぞく)の文字の業をもつて
  狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の誤(あやまり)をひるがへす
といふ朗詠の秘曲をひき給へば、神明感応にたへずして、宝殿大き
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に震動す。「平家の悪行なかりせば、いかでかこの瑞相をあがむべき」とて、大臣感涙をぞ流されける。
 接察の大納言資賢の卿、子息右馬頭(うまのかみ)を兼ねて讃岐守源の資時、二つの官をとどめらる。参議皇太后宮権大夫(くわうたいごうぐうのごんのだいぶ)を兼ねて右兵衛督(うひやうゑのかみ)藤原の光能(みつよし)、大蔵卿(おほくらのきやう)〔右京(うきやう)〕の大夫(だいぶ)を兼ねて伊予守高階(たかしな)の泰経(やすつね)、蔵人の左少弁を兼ねて中宮(ちゆうぐうの)権大進(ごんのだいしん)藤原の基親、三官ともにとどめらる。接察の大納言資賢の卿の子息右馬頭、孫の右少将雅賢(まさかた)、「これ三人は、配所を定めず、やがて都のうちを追ひ出ださるべし」とて、三条の大納言実房(さねふさ)、博士判官(はかせのはうぐわん)中原(なかはら)の康定(やすさだ)に仰せて、追ひ出だしたてまつる。大納言のたまひけるは、「三界ひろしといへども、五尺の身おき所なし。一生程なしといへども、一日暮らしがたし」とて、夜中に九重のうちをまぎれ出で、八重立つ雲のほかへぞおもむかれける。かの大江山、生野の道にかかりつらん、丹波の村雲といふ所にぞしばしやすらひ給ひける。それよりつひにたづね出だされて、信濃の国とぞ聞こえし。
 また、前の関白松殿の侍に江の大夫の判官遠業(とほなり)といふ者あり。これも平家にこころよからざりければ、六波羅よりからめとるべきよし聞こえしかば、子息江の左衛門尉(さゑもんのじよう)家業(いへなり)[* 「いゑなが」と有るのを他本により訂正]うち具して、いづちともなく落ちゆきけるが、稲荷山(いなりやま)にうちあがり、馬よりおりて、親子言ひあはせけるは、「これより東国のかたへ落ちゆき、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)をたのま
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ばやとは思へども、それも当時は勅勘(ちよくかん)の人の身にて、身ひとつだにもかなひがたうおはすなり。日本国に平家の荘園(しやうゑん)ならぬところやある。また年来住みなれたるところを人に見せんも恥ぢがましかるべし。六波羅よりも召しつかひあらば、腹かき切つて死なんにはしかじ」とて、瓦坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)へとつて返す。
 さるほどに、源大夫判官(げんだいふはうぐわん)季貞(すゑさだ)、摂津(つ)の判官(はうぐわん)盛澄(もりずみ)、ひた兜三百騎ばかり、瓦坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)に押し寄せて、時(とき)をどつとぞつくりける。江の大夫の判官遠業、縁に立ち出でて、「これを見給へ、殿ばら。六波羅にてこの様を申させ給へ」とて、腹かき切つて、父子ともに焔(ほのほ)のなかにて焼け死にぬ。
 そもそも、か様に上下多くほろび損ずることを、いかにといふに、「当時関白にならせ給ひたる二位の中将殿と、前の殿の御子三位の中将殿と、中納言御相論ゆゑ」とぞ聞こえし。さらば関白殿御ひとりこそ、いかなる御目にもあはせ給ふべきに、のこり四十余人の人人の、事にあふべしや。去年、讃岐の院の御追号あつて崇徳天皇(しゆとくてんわう)と号し、宇治の悪左府贈官贈位ありしかども、世間なほしづかならず。「およそこれにもかぎるまじきなり、入道相国の心に天魔入りかはつて、腹をすゑかね給へり」と聞こえしかば、「天下またいかなることか出で来んずらん」とて、上下おそれおののく。
 そのころ、前の左少弁(させうべん)行隆(ゆきたか)と申せしは、故中山の中納言顕時の卿の嫡子なり。二条の院の御宇には、弁官に加はられてゆゆしかりしかども、この十余年は夏冬の衣がへにもおよばず、朝夕
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のかしぎも心にまかせず、あるかなきかの体にておはしけるを、入道相国、使者をたてて、「申し合はすべきことあり。きつと立ち寄り給へ」とのたまひつかはされたりければ、行隆、「この十余年は、なにごとにも交はらずありしものを、人の讒言(ざんげん)したるにこそ」とて、大きにおそれさわがれけれども、六波羅より、使しきなみのごとし。北の方、君達も「いかなる目にやあはんずらん」とて、なげきかなしみ給ふ。されども力およばず、人に車を借つて、西八条へぞ出でられたる。思うたには似ず、入道やがて出で向うて対面あり。「御辺の父の卿は、随分さばかりのこと申し合はせし人なり。そのなごりにておはすれば、御辺をもおろかに思ひたてまつらず。年来籠居のことも、いとほしう思ひたてまつれども、法皇御政務のうへは力およばず。いまは出仕し給へ。さらば、とう帰られよ」とて入り給ひぬ。帰られたれば、宿所には女房達、死したる人の生き返りたる心地して、うれし泣きどもせられけり。知行し給ふべき荘園状(しやうゑんじやう)ども、あまたなし下し、出仕の料とて、直垂、小袖、雑色、牛飼、牛、車にいたるまで、きよげに沙汰し送られけり。「まづさこそあるらん」とて、百疋、百両に、米を積みてぞ送られける。行隆、手の舞ひ、足の踏みどもおぼえ給はず、「こは夢かや。こは夢かや」とぞよろこばれける。
 同じき十七日、五位の侍中に補せられて、前の左少弁に、しかへり給ふ。今年五十一。いまさら若やぎ給ひけり。ただ片時の栄華とぞ見えし。
 同じき二十日、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へは、軍兵(ぐんぴやう)四面をうちかこむ。
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「平治に信頼が三条殿をしたてまつりし様に、火をかけて人をばみな焼き殺すべし」と聞こえしかば、女房、女童部、物だにもうちかづかず、あわてさわぎ走り出づ。法皇も大きにおどろかせおはします。前の右大将宗盛の卿、御車を寄せて、「とうとう」と奏せられければ、法皇、「こはされば、なにごとぞや。御とがあるべしともおぼしめさず。成親、俊寛が様に、遠国はるかの島へも移しやられんずるにこそ。主上さればわたらせ給へば、政務に口入するばかりなり。それもさるまじくは、自今以後さらでこそあらん」と仰せければ、宗盛の卿、涙をはらはらと流いて、「その儀では候はず。『しばらく世をしづめんほど、鳥羽の北殿へ御幸なしまゐらせよ』と、父の禅門申し候」「さらば宗盛、やがて御供に侍へ」と仰せけれども、父の禅門の気色におそれをなして参らず。「あはれ、これにつけても、兄の内府にはことのほかに劣りたるものかな。ひととせも、かかる目にあふべかりしを、内府が身にかへて制しとどめてこそ、今日まで御心やすうもありつれ。『今はいさむる者もなし』とて、か様にこそあんなれ。行末とてもたのもしからず」とて、御涙せきあへさせ給はず。
 さて御車に召されけり。公卿、殿上人、一人も供奉せられず、北面の下臈(げらふ)、金行(こんぎやう)と申す力者ばかりぞ参りける。車のしりに尼御前一人参られたり。この尼御前と申すは、法皇の御乳の人、紀伊の二位の御ことなり。七条を西へ、朱雀(しゆじやく)を南へ御幸なる。あやしのしづの男、しづの女にいたるまで、「あはや、法皇の
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流されさせおはしますぞや」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり。「去んぬる十一月七日の夜の大地震も、かくあるべかりける先表にて、十六洛叉の底までもこたへ、堅牢地神(けんらうぢじん)もおどろきさわぎ給ひけんもことわりかな」とぞ人申しける。
 さて鳥羽殿へ入らせ給ひたりければ、大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)信業(のぶなり)が、なにとしてまぎれ参りたりけん、をりふし御前近う候ひけるを召して、「やや、信業。いかさまにも今夜失はれなんず。御行水(おんぎやうずい)を召さばや」と仰せられければ、さらぬだに信業、今朝より肝たましひも身にそはず、あきれたるさまにてありけるが、この仰せを承り、かたじけなさに、狩衣に玉だすきあげ、小柴垣(こしばがき)壊(こぼ)し、大床の束柱破りなんどして、形のごとくの御湯わかしまゐらせけり。
 故少納言入道信西(しんぜい)の子息静憲法印(じやうけんほふいん)、入道相国の西八条へ行き、「法皇の、鳥羽殿へ御幸ならせ給ひて候ふなるに、御前に人一人も候はぬよしうけたまはり候ふが、あまりにあさましく候。なにかくるしう候ふべき。御ゆるされをかうぶりて、参り候はん」と申されたりければ、入道、「御坊は、事あやまりあるまじき人なり。とうとう」とのたまへば、法印なのめならずよろこびて、いそぎ鳥羽殿に参り、門前にて車よりおり、門の中にさし入り見給ふに、をりふし法皇、御経うちあげ、うちあげ、あそばされける御声の、ことにすごうぞ聞こえさせましましける。法印、づんと参られたりければ、あそばされける御経に御涙のはらはらとかからせ給ふを、見まゐらせて、法印あまりのかなしさに、旧代(きうたい)の袖を顔におし当てて、
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泣く泣く御前へぞ参られける。御前には尼御前ばかりぞ侍はれける。「やや、法印の御坊。君は、昨日法住寺殿にて供御きこしめされてのちは、夕べもきこしめしも入れず、ながき夜すがら御寝もならず、御命もすでにあやふくぞ見えさせましましさぶらへ」と申させ給へば、法印涙をおさへて、「なにごとも限りある御ことにて候へば、平家たのしみ栄えて二十(にじふ)余年(よねん)、されども悪行法にすぎて、すでに滅び候ひなんず。天照大神(てんせうだいじん)、正八幡宮も君をこそ守りまゐらせ給ふらめ。なかにも、君の御たのみある日吉山王(ひよしさんわう)七社(しちしや)、一乗(いちじよう)守護(しゆご)の御ちかひあらためずんば、かの法華八軸にたち翔つて、君をこそ守りまゐらせ給ふらめ。しからば政務は君の御代となり、凶徒は水のあわと消え失せ候ふべし」と申されたりければ、法皇、この言葉に、すこしなぐさませおはします。
 主上は、関白の流され、臣下の多く滅び失せぬることをこそ御歎(おんなげき)ありつるに、あまつさへ 「法皇鳥羽殿へ押しこめられさせ給ひぬ」と聞こしめしてのちは、供御もきこしめしも入れず、御悩とて、つねは夜の御殿にのみぞ入らせ給ふ。御前に候はせ給ふ女房たち、いかなるべしともおぼえ給はず。内裏には「臨時(りんじ)の御神事(ごじんじ)」とて、主上夜ごとに清涼殿(せいりやうでん)の石灰の壇にして、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)をぞ御拝ありける。これはただ法皇の御祈念のためなり。二条の院はさばかんの賢王にてわたらせ給ひしかども、「天子に父母なし」とて、つねは法皇の仰せをも申し返させましましければにや、継体の君にてもましまさず、御年二十三にてかくれさせ給ひぬ。御ゆづりを受け
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させ給ひたりし六条の院も、安元二年七月十四日、御年十三にて崩御なりぬ。あさましかりしことどもなり。「百行(はくかう)のなかには孝行をもつてさきとす」「明王は孝をもつて天下を治む」と見えたり。されば、「唐堯(たうげう)はおとろへたる母をたつとみ、虞舜はかたくななる父をうやまふ」と見えたり。かの賢王聖主の先規を追はせましましける叡慮のほどこそめでたけれ。
 そのころ、ひそかに内裏より鳥羽殿へ御書あり。「かくあらん世には、雲井にあとをとどめてもなにかせんなれば、寛平(くわんぺい)のむかしをもとぶらひ、花山のいにしへをもたづねて、山林流浪(さんりんるらう)の行者(ぎやうじや)ともなりぬべうこそ候へ」とあそばされたりければ、法皇の御返事には、「さなおぼしめされ候ひそ。さてわたらせ給へばこそ、一つのたのみにても候へ。あとなくおぼしめしならせ給はんのちは、〔何の〕たのみか候ふべきか。ただ愚老がともかうもならん様を御覧じはてさせ給ふべし」とあそばされたりければ、主上、この御返事を龍顔(りようがん)におし当てて、御涙せきあへさせ給はず。「君は舟、臣は水、水よく舟をうかべ、水また舟をくつがへす。臣よく君をたもち、臣また君をくつがへす」。保元、平治のころは入道相国君をたもちたてまつるといへども、安元、治承(ぢしよう)の今はまた君をなやましたてまつる。史書の文にたがはず。大宮の大相国、三条の内大臣、葉室の大納言、中山の中納言も失せられぬ。いま古き人とては、成頼、親範ばかりなり。この人々も、「かくあらん世には、朝につかへ身を立て、大納言を経てもなにかはせん」とて、いまださかんなりし人々の、出家
P173
をし、世をのがれ、民部卿入道親範は大原の奥の霜にともなひ、宰相入道成頼は高野の霧にまじはつて、「一向、後世菩提(ごぜぼだい)のほかは他事なし」とぞ承る。むかしも商山(しやうざん)の雲にかくれ、潁川(えいせん)の月に心をすます人もありければ、これ、あに清潔にして世をのがれたるにあらずや。なかにも、高野におはしける宰相入道成頼、か様のことどもつたへ聞いて、「〔あはれ〕心強うも世をのがれたるものかな。かくて聞くもおなじことなれども、まのあたりにたちまじはつて見ましかば、いかばかり心憂かるべし。雲をわけてものぼり、山をへだてても入らなばや」とぞのたまひける。げにや、心あらんほどの人の、跡をとどむべき世とも見えざりけり。同じき二十三日、天台座主覚快法親王しきりに御辞退ありければ、前の座主明雲大僧正、還着(げんぢやく)し給ふ。入道相国、かく散々にしちらされたりけれども、中宮と申すも御むすめにてまします、関白殿も聟(むこ)なり、よろづ心やすうや思はれけん、「政務は一向主上の御ぱからひとあるべし」とて、福原へこそ下られけれ。前の右大将宗盛の卿、いそぎ参内あつて、このよしを奏せられたりけれども、主上は、「法皇の譲りましましたる世ならばこそ。ただ、とうとう執柄に言ひあはせて、宗盛ともかうもはからへ」とて、聞こしめしも入れざりけり。
 さるほどに、法皇は城南の離宮にして、冬もなかばすごさせ給ヘば、射山の嵐の音のみはげしくて、閑亭の月ぞさやけき。庭には雪のみ降りつもれども、跡
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ふみつくる人もなし。池には氷閉ぢかさねて、群れゐし鳥も見えざりけり。大寺の鐘のこゑ、入相(いりあひ)の耳をおどろかし、西山の雪の色、香炉峰(かうろほう)ののぞみをもよほす。夜の霜にひややかなる砧のひびき、かすかに御枕につたひ、あかつき氷をきしる車の音、はるかに門前によこたはれり。ちまたをすぐる行人征馬のいそがはしげなる気色、憂き世をわたるありさまも、おぼしめし知られてあはれなり。「宮門を守る蛮夷の、夜も昼も警固をつとむるも、前世のいかなるちぎりにて、いま縁をむすぶらん」と仰せなるこそかたじけなき。およそ物にふれ、事にしたがつて、御心をいたましめざるといふことなし。さるままには、かのをりをりの御遊覧、所所の御参詣、御賀のめでたかりしことどもおぼしめしつづけて、懐旧の御涙おさへがたし。年去り年来つて、治承(ぢしよう)も四年になりにけり。


平家物語 百二十句本(京都本)巻第四
P175
平家巻第四     目  録
第三十一句 厳島御幸
      安徳天皇御践祚
      新院鳥羽殿へ入御の事
      同じく福原別業入御の事
      安徳天皇御即位
第三十二句 高倉の宮謀叛
      源氏揃ひ
      相少納言占形
      新宮十郎蔵人改名令旨
      鳥羽殿鼬怪事の事
第三十三句 信連合戦
      宮の都落
      信連小枝持参
      信連許さるる事
      信連鎌倉殿より召出ださるる事
第三十四句 競
      木の下鹿毛金焼の事
      還城楽の物語の事
      頼政の都出で
      南鐐金焼の事
第三十五句 牒  状
      三井寺の大衆宮同心の事
      山門に対するの状
      南都に対するの状
      興福寺の返牒
第三十六句 三井寺大衆揃ひ
      頼政夜討の下知
      一如房が長僉議の事
      浄御原の天皇の物語
P176
      函谷関の沙汰
第三十七句 橋合戦
      小枝・蝉折れの沙汰
      矢切の但馬のふるまひ
      筒井の浄妙のふるまひ
      一来法師の討死
第三十八句 頼政最後
      足利又太郎宇治川下知
      頼政辞世
      長七唱頼政首かくす事
      嫡子仲綱・次男兼綱・三男仲家その子仲光討死の事
第三十九句 高倉の宮最後
      六条の大夫宗信未練
      南都の大衆七千余騎御迎ひに参る事
      首実検
      若宮出家
第四十句  鵺(ぬえ)
      頼政昇殿の歌並びに三位歌
      堀河の院の時怪事
      頼長の左府を以て獅子王賜はる事
      三井寺炎上
P177
平家 巻第四
第三十一句 厳島御幸
 治承四年正月一日、鳥羽殿には、入道相国(しやうごく)もゆるされず、法皇もおそれさせましましければ、元日、元三のあひだ参入する人もなし。故少納言入道の子息、藤原の中納言成範(しげのり)[* 「なりのり」と有るのを他本により訂正]、その弟(おとと)左京大夫(さきやうのだいぶ)脩範(ながのり)、これ二人ばかりぞゆるされて参られける。 同じく二十日、東宮御袴着(おんはかまぎ)、ならびに御魚味初(おんまなはじ)めきこしめすとて、めでたきことどもありしかども、法皇は御耳のよそにぞ聞こしめす 二月二十一日、主上ことなる御つつがもわたらせ給はぬを、おしおろしたてまつる。東宮践祚あり。これは、入道相国、よろづ思ふままなるがいたすところなり。「時よくなりぬ」とてひしめきあへり。 内侍所、神璽、宝剣、わたしたてまつる。上達部、陣に集まつてふるごとども先例にまかせておこなひしに、弁の内侍、御剣取て歩み出づ。清涼殿の西面にて、泰通の中将受け取る。備中の内侍、しるしの御箱取り出だす。隆房の少将受け取る。内侍所、しるしの御箱、「こよひばかりや手をもかけけん」と思ひあへり。内侍の心のうちども、「さこそ」とおぼえて、あはれぞ多かりける。なかにも、しるしの御箱をば少納言の内侍取り出づべかりしを、こよひこれに手をもかけては、長くあたらしき内侍にはなるまじきよし、人の申しけるを聞い
P178
て、その期に辞して取り出ださざりけり。「年すでにたけたり。ふたたびさかりを期すべきにもあらず」とて人々憎みあへりしに、備中の内侍は生年十六歳、いまだいとけなき身ながら、その期に、わざとのぞみて取り出だしける、優なりけるありさまなり。 つたはれる御ものども、品々、つかさづかさ、受け取りてける。新帝の皇居、五条の内裏へわたしたてまつる。閑院殿には火の影もかすかに、鶏人の声もとどまり、滝口の問籍も絶えにければ、ふるき人々、めでたき祝ひのなかにも涙をながし、心をいたましむ。左大臣、陣に出で、御位ゆづりのことども仰せしを聞いて、心ある人々は涙をながし、袖をうるほす。われと御位を儲の君にゆづりたてまつれば、「まこやの山のなかにも静かに」などおぼしめす。もともとだにもあはれは多きならひぞかし。いはんや、これは心ならずおしおろされさせ給ひけんあはれさ、申すもなかなかおろかなり。 新帝、今年三歳。「あはれ、いつしかなる位ゆづりかな」と人々申しあはれけり。平大納言時忠の卿は、うちの御乳母帥の典侍の夫たるによつて、「『今度の譲位いつしかなり』と、たれかかたぶけ申すべき。異国には、周の成王三歳、普の穆帝二歳。わが朝には、近衛の院三歳、六条の院二歳、みな襁褓(きやうほう)のうちにつつまれて、衣帯正しうせざつしかども、『あるいは摂政負うて位につけ、あるいは母君抱いて朝にのぞむ』と見えたり。後漢の孝殤皇帝は、生れて百日といふに践祚ありて天子の位をふむ。先蹤、和漢かくのごとし」
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と申されけれど、そのときの有職の人々、「あなおそろし。ものな申されそや。さればそれはよき例どもか」とぞつぶやきあはれける。 東宮、位につかせ給ひしかば、太政入道、夫婦ともに准三后の宣旨をかうむり、年官年爵を賜はつて、上日の者を召し使ひ、絵かき、花つけたる侍ども出で入りければ、院、宮のごとくにてぞありける。出家入道ののちも、栄耀なほ尽きせぬとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨をかうむることは、法興院の大入道兼家の卿の例とぞ承る。 同じく三月に、「新院、安芸の厳島へ御幸なるべし」とぞ聞こえさせ給ひける。皇帝位去らせ給ひて、諸社の御幸のはじめには、八幡、賀茂、春日なんどへこそ御幸なるべきに、はるばるの西のはて、島国へわたらせ給ふ神へしも御幸なることは、人、「いかに」と申しあへり。ある人申しけるは、「白河の院は熊野へ御幸なる。〔後白河の〕法皇は日吉の社へ御幸なる。すでに知んぬ、叡慮にありといふことを。そのうへ、御心中にふかき御願あり、『御夢想の告げあり』とぞ仰せける。厳島は太政入道あがめたてまつり給へば、上には平家と御同心、下には、法皇のいつとなく鳥羽殿へおしこめられてわたらせ給へば、『入道の心をやはらげ給へ』との御祈念のため」とぞ聞こえし。 山門の大衆、憤り申しけるは、「賀茂、八幡、春日なんどへ御幸ならずは、わが山の山王へこそ御幸なるべけれ。安芸の厳島までは、いつのならひぞや。その儀ならば神輿を振り下したてまつりて、御幸をとどめたてまつれ」とぞ申しける。これによ(ッ)て、
P180
しばらく御延引あり。入道相国、様々になだめ給へば、山門の大衆しづまりぬ。 同じく三月十七日、上皇、厳島の御門出でとて、入道相国の西八条の第へ入らせ給ふ。その夜、やがて厳島の御神事はじめらる。殿下より、唐の御車、うつしの馬など参らせらる。その日の暮れほどに、前の右大将宗盛の卿を召して、「明日、厳島御幸の御ついでに、鳥羽殿へ参りて、法皇の御見参に入らばやとおぼしめすはいかに。相国禅門に知らせずしてはあしかりなんや」と仰せければ、宗盛の卿、涙をはらはらとながして、「なんでう事の候ふべき」と申されたりければ、「さらば、宗盛参りて、その様を申せかし」と仰せければ、宗盛の卿、いそぎ鳥羽殿へ馳せ参りて、このよし申されたりければ、法皇は、あまりにおぼしめす御ことにて、「こは夢やらん」とぞ仰せける。 あくる十九日、大宮の大納言隆季の卿、いまだ夜ふかう参りて、御幸をもよほされけり。この日ごろ聞こえさせ給ひし厳島の御幸をば、西八条の第よりとげさせおはします。ころは弥生なかば過ぎぬるに、かすみにくもる有明の月の光もおぼろにて、越路をさしてかへる雁、雲居におとづれてゆくも、をりふしあはれに聞こしめし、夜のほのぼのと明けけるに、上皇、鳥羽殿へ入らせ給ふ。 門のうちへさし入らせ給へば、人まれにして木暗く、ものさびしげなる御すまひ、まづあはれにぞおぼしめす。春すでに暮れなんとす、夏木立にもなりにけり。こずゑの花の色おとろへて、谷のうぐひす声老いんだり。去年の正月六日、法住寺殿
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へ朝覲のために行幸なりたるには、諸衛陣をひき、諸卿列に立ち、楽屋に乱声を奏し、院司、公卿参りむかつて、幔門をひらき、掃部頭筵道を敷き、ただしかりし儀式、一つもなし。今日はただ夢とのみこそおぼしめせ。藤中納言成範(しげのり)[* 「なりのり」と有るのを他本により訂正]参りて、御気色をうかがひ申されければ、法皇は寝殿の階隠の間に御座ありて、上皇を待ちまゐらせさせ給ひけり。上皇は、今年二十にならせおはします。明けがたの月の光に映えさせ給ひて、かがやくほどにいつくしうぞ見え給ふ。故建春門院にゆゆしく似まゐらせましましければ、法皇、まづ故女院の御ことをおぼしめしいだして、御涙せきあへ給はず。御前には、尼御前ばかりぞ侍はれける。両院の御座、近くしつらはれたり。御問答の御ことは、人承りおよばず。 はるかに日たけて、上皇、鳥羽殿を出御なる。上皇は、法皇の離宮の故亭、幽閑寂〓の御座のすまひ、御心ぐるしく御覧じおかせ給へば、法皇はまた、上皇の旅泊行宮の、波の上、船の中の御ありさま、おぼつかなうぞおぼしめす。供奉の人々は、前の右大将宗盛、三条の大納言実房、藤大納言実国、五条の大納言邦綱、土御門の宰相中将通親、殿上人には、高倉の中将泰通、左少将隆房、宮内少輔棟範とぞ聞こえし。前の右大将宗盛は随兵三十騎召し具し、げうげうしうぞ見えける。まことに、宗廟、八幡、賀茂をさしおいて、厳島までの御幸をば、神明もなどか御納受
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なかるべき。御願成就うたがひなしとぞ見えたる。 同じき二十六日、〔厳島へ〕御参着あつて、太政入道の最愛の内侍が宿所、御所になる。なか一日御逗留ありて、経会、舞楽おこなはる。導師には、三井寺の公顕僧正とぞ聞こえし。高座にのぼり、鉦うち鳴らし、表白の詞にいはく、「まことに九重の内を出でさせ給ひて、八重の潮路をわけて参らせ給ふ御心ざしのかたじけなさよ」と高らかに申されたりければ、君も臣も感涙をぞもよほされける。〔大宮、〕客人をはじめまゐらせて、社々、所々へみな御幸なる。大宮より五町ばかり山をまはつて、滝の宮へ参らせ給ふ。公顕僧正、一首の歌をよみて、拝殿の柱に書きつけられけり。
雲居よりおちくる滝のしら糸にちぎりをむすぶことぞうれしき
 国司藤原の在綱、品にのぼせられて、加階、従下の四品、院の殿上をゆるさる。神主佐伯の景弘加階、従上の五位。座主尊永、法印になさる。神慮もうごき、太政入道の心もやはらぎぬらんとぞ見えし。 同じき二十九日、上皇、御船かざりて還御なる。風はげしかりければ、御船漕ぎもどし、厳島のうち、有の浦にとどまり給ふ。上皇、「大明神の御なごり惜しみに、歌つかまつれ」と仰せければ、隆房の少将、
たちかへるなごりも有の浦なれば神もめぐみをかくるしらなみ
 夜半ばかりに、波もをさまり、風もしづかになりければ、御船漕ぎ出だし、その日は備後の国
P183
敷名の泊に着かせ給ふ。このところは、去んぬる応保のころ、一院御幸のとき、国司藤原の為成つくりたる御所のありけるを、入道相国、御まうけにしつらはれたりしかども、上皇それへはあがらせ給はず。「今日は卯月一日。衣がへといふことのあるぞかし」とて、おのおの都の方思ひやり、遊び給ふに、岸に、色ふかき藤の、松に咲きかかりたりけるを、上皇叡覧ありて、隆季の大納言を召して、「あの花、折りにつかはせ」と仰せければ、左史生中原の康定、はし舟に乗りて御前を漕ぎとほるを召して、折りにつかはす。藤の花を手折り、松の枝につけながら持ちて参りたり。「心ばせあり」など仰せられて御感ありけり。「この花にて歌つかまつれ」と仰せければ、隆季の大納言、
千年まで君がよはひに藤波の松の枝にもかかりぬるかな
 その〔の〕ち、御前に人々あまた侍はせ給ひて、御たはぶれごとのありしに、上皇、「白き衣着たる内侍が、邦綱の卿に心をかけたるな」とて笑はせおはしましければ、大納言、大きにあらがひ申さるるところに、文持ちたる女が参りて、「五条の大納言殿へ」とてさしあげたり。「さればこそ」とて、満座、興あることに申しあはれけり。大納言、これを取りて見給へば、
しら波のころもの袖をしぼりつつ君ゆゑにこそたちもわすれね
上皇、「ゆゆしうこそおぼしめせ。この返事はあるべきぞ」とて、やがて御すずりを下させ給ふ。
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大納言、返事には、
思ひやれ君がおもかげたつ波の寄せくるたびにぬるる袖かな
 それより備後の国児島の泊に着かせ給ふ。 五日の日は、天晴れ、風しづかに、海上ものどけかりければ、御所の御船をはじめまゐらせて、人々の船どもみな出だしつつ、雲の波、けぶりの波をわけしのがせ給ひて、その日の酉の刻に、播磨の国山田の浦に着かせ給ふ。それより御輿にめして、福原へ入らせおはします。供奉の人々は、「いま一日も都へとく」と急がれけれども、なか一日新院御逗留あつて、福原のところどころを歴覧ありけり。隆季の大納言、勅定をうけたまはつて、入道相国の家の賞おこなはる。〔入道〕養子丹波守清邦、正五位の下に叙す。同じく入道の孫越前の少将資盛、四位の従上とぞ聞こえし。 七日、福原を出でさせ給ひ、その日、寺井に着かせ給ふ。御むかへの公卿、殿上人、鳥羽の深草へぞ参られける。還御のときは鳥羽殿へは御幸もならず。入道相国の西八条の第へ入らせ給ふ。 同じく四月二十二日、新帝御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、ひととせ炎上ののちは、いまだ造り出だされず。「太政官の庁にておこなはるべし」とさだめられたりけるを、そのときの九条殿申させ給ひけるは、「太政官の庁は、およそ人の家にとらば、公文所体の所なり。大極殿なからんには、紫宸殿にて御即位あるべし」と申させ給ひければ、紫宸殿にて御即位あり。
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「去んぬる康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にておこなはしことは、主上御邪気によ(ッ)て、大極殿へ行幸かなはざりしゆゑなり。その例いかがあるべからん。ただ延久の佳例にまかせて、太政官の庁にておこなはるべきものを」と人々申しあはれけれども、九条殿の御ぱからひのうへは力およばず。 中宮、弘徽殿を出でさせ給ひて仁寿殿へうつり、高御座へ参らせ給ふありさま、めでたかりけり。平家の人々みな出仕せられたりけれども、小松殿の君達ばかりは、父の大臣去年失せ給ひしあひだ、いまだ色にて籠居せられたり。 蔵人左衛門権佐定長、今度の御即位、違乱なくめでたき様こまごまと記いて、入道相国の北の方、八条の二位殿へ奉り給ひたりければ、入道も二位殿も、これを見給ひて、笑をふくみてぞよろこび給ひける。か様にめでたき事どもは有つしかども、世間はなほしづかならず。
第三十二句 高倉の宮謀叛
一院第二の皇子以仁の親王と申すは、御母は加賀の大納言季成の卿の御むすめ。三条高倉にましましければ、「高倉の宮」とぞ申しける。御歳十五と申せし永万元年十二月十五日の夜、近衛河原の大宮の御所にて、しのびつつ御元服あり。御手跡いつくしうあそばし、御才学すぐれてわたらせ給ひしかども、御継母
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建春門院の御そねみにて、親王の宣旨をだにもかうぶらせ給はず。花のもとの春のあそびには、紫毫をふるつて手づから御製を書き、月のまへの秋の宴には、玉笛を吹いてみづから雅音をあやつらせ給ひけり。かくて明かし暮らし給ふほどに、治承四年には三十二にぞならせましましける。 治承四年卯月九日の夜、近衛河原に候ひける源三位入道、この御所へ参りて申しけることこそおそろしけれ。「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十七代の御宮にてわたらせ給ふ。いまは天子にも立たせ給ふべきに、いまだ親王の宣旨をだにもかうぶらせ給はず、宮にてわたらせ給ふことをば、心憂しとはおぼしめさずや。この世の中のありさまを見候ふに、上には従ひたる様に候へども、下には平家をそねまぬ者や候ふ。されば、君、御謀叛を起させ給ひて、世をしづめ、位につかせ給へかし。また、法皇のいつとなく鳥羽殿に押し籠められてわたらせ給ふをも、やすめまゐらせ給へかし。これ御孝行の御いたりにてこそ候はんずれ。神明三宝もなどか御納受なかるべき。君、まことにおぼしめし立つて、令旨を諸国へくださせ給ふものならば、よろこびをなして馳せ参らんずる源氏どもこそ国々に多く候へ」とて申しつづく。 「京都には、まづ出羽の前司光信が子ども、伊賀守光基[* 「みつとも」と有るのを他本により訂正]、出羽の蔵人光長、出羽の判官光重、出羽の冠者光義。熊野には、故六条の判官為義が末の子、十郎義盛とてかくれて候。津の国には、多田の蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親の卿の謀叛のとき、
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同心しながら返り忠したる不当人で候へば、申すにおよばず。さりながらも、その弟に、多田の次郎朝実、手島の冠者高頼、太田の太郎頼基。河内の国には、武蔵権守入道義基、子息石川判官代義兼。大和の国には、宇野の七郎親治が子ども、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治。近江の国には、山本、柏木、錦織。美濃、尾張には、山田の次郎重弘、河辺の太郎重直、泉の太郎重満、浦野の四郎重遠、葦敷の次郎重頼、その子太郎重資、同じく三郎重澄、木田の三郎重長、開田の判官代重国、八島の先生重高、その子太郎重行。甲斐の国には、逸見[* 「たんみ」と有るのを他本により訂正]の冠者義清、その子太郎清光、武田の太郎信義、加賀見の次郎遠光、同じく小次郎長清、一条の次郎忠頼、板垣の三郎兼信、逸見の兵衛有義、武田の五郎信光、安田の三郎義定。信濃の国には、大内の太郎維義、岡田の冠者親義、平賀の冠者盛義、その子四郎義信。帯刀先生義賢が次男、木曾の冠者義仲。伊豆の国には、流人前の兵衛佐頼朝。常陸の国には、〔為義が三男、〕信太の三郎先生義教。佐竹の冠者昌義、その子太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎隆義、五郎義季。陸奥の国には、故左馬頭義朝の末の子、九郎冠者義経。これみな六孫王の苗裔、多田の満仲が後胤なり。朝敵をもたひらげ、
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宿望とげしことは、源平いづれも劣りまさりはなかりしかども、いまは雲泥のまじはりをへだてて、主従の礼にもなほ劣れり。国には国司に従ひ、荘には領家につかはれ、公事雑事にかり立てられて、安き心も候はず、いかばかりか心憂く候ふらん。君、もしおぼしめし立たせ給ひて、令旨を賜はりつるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさんこと時日をめぐらすべからず。入道こそ年寄つて候へども、子どもひき具して参り候ふべし」とぞ申しける。 宮は、「このこといかがあらん」とて、しばしは御承引もなかりしかども、阿古丸の大納言宗通の卿の孫、備後の前司季通が子、少納言伊長と申せしは、すぐれたる相人なりければ、時の人、「人相少納言」とぞ申しける。その人、この宮を見まゐらせて、「位につかせ給ふべき相まします。天下のこと、おぼしめし放させ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道もか様に申されければ、「しかるべき天照大神の御告げやらん」とて、ひしひしとおぼしめし立たせ給ひけり。 熊野に候ふ十郎義盛を召して、蔵人になされ、「行家」と改名して、令旨の御使に東国へぞ下されける。同じき四月二十八日、都をたつて、近江よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに次第に触れて行くほどに、五月十日には伊豆の北条に下り着きて、前の兵衛佐殿に対面して、令旨〔を〕奉る。「信太の三郎先生義教にとらせん」とて、常陸の国信太浮島へ下る。「木曾の冠者義仲は甥なれば賜ばん」とて、東山道へぞおもむきける。 そのころ、熊野の別当湛増
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は平家に心ざし深かりけるが、なにとしてか漏れ聞こえたりけん、「新宮の十郎行盛こそ、高倉の宮の令旨賜はつて、美濃、尾張の源氏ども触れもよほし、すでに謀叛おこすなれば、那智、新宮の者どもは源氏の方人をぞせんずらん。湛増〔は〕、平家の御恩天山とかうぶりたれば、いかでか背きたてまつるべし。那智、新宮の者どもに矢一つ射かけて、平家へ仔細を申さん」とて、ひた兜一千人、新宮の湊へ発向す。新宮には、鳥居の法眼、高坊の法眼。侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲。那智に、執行法印以下、都合その勢二千余人なり。鬨つくり、矢あはせして、源氏のかたには、とこそ射られ、平家のかたには、かくこそ射られて、矢叫びの声の退転もなく、鏑の鳴りやむひまもなく、三日がほどこそ戦うたれ。熊野の別当湛増、家の子郎等おほく討たれ、わが身手負ひ、からき命を生きつつ、本宮へこそ逃げのぼりけれ。
 さるほどに、法皇は、「成親、俊寛が様に、とほき国、はるかの島へも流しやせんずらん」とおぼしめしけれども、城南の離宮にうつされて、今年は二年にならせ給ふ。 同じき五月十二日、午の刻ばかり、御所中に鼬おびたたしう走りさわぐ。法皇大きにおどろきおぼしめして、御占形をあそばいて、近江守仲兼、そのころはいまだ蔵人にて侍はれけるを召して、「この占形持ちて、泰親がもとへ行き、きつと勘へさせて、勘状を取つて参れ」とぞ仰せられける。仲兼これを賜はつて、
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陰陽頭泰親がもとへ行く。をりふし宿所にはなかりけり。「白河なるところへ」と言ひければ、それへたづねゆき、勅定のおもむきをしるしければ、泰親、やがて勘状を参らせける。仲兼、鳥羽殿へ帰り参りて、門より参らんとすれば、守護の武士ども許さず。案内は知りたり、築地を越え、大床の下を経て切板より泰親が勘状をこそ参らせたれ。〔法皇〕ひらいて御覧ずるに、「いま三日のうちの御よろこび、ならびに御嘆き」とぞ申しける。法皇、「御よろこびはしかるべし。これほどの御身となりて、またいかなる御嘆きのあらんずらん」とぞ仰せける。 さるほどに、前の右大将宗盛の卿、法皇の御ことを、たへふし申されければ、入道相国、やうやうに思ひ直いて、同じき十三日、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸、美福門院へ御幸なしたてまつる。「いま三日がうちの御よろこび」とは、泰親がこれをぞ申しける。〔第三十三句 信連合戦〕 かかりけるところに、熊野の別当湛増、飛脚をもつて、高倉の宮御謀叛のよし、都へ申したりければ、前の右大将宗盛、大きにさわいで、入道相国をりふし福原におはしけるに、このよし申されたりければ、聞きもあへず、やがて都へ馳せのぼり、「是非におよぶべからず。高倉の宮からめ取つて、土佐の畑へ流せ」とこそのたまひけれ。上卿には、三条の大納言実房、職事は頭の中将光雅とぞ聞こえし。追立の官人には、源大夫判官兼房、出羽の判官光長うけたまはつて、宮の御所へぞむかひける。源大夫判官と申すは、三位入道の養子
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なり。しかるを、この人数に入れられけることは、高倉の宮の御謀叛を三位入道すすめ申されたりと、平家いまだ知らざりけるによ(ッ)てなり。 三位入道これを聞き、いそぎ宮へ消息をこそ参らせけれ。
第三十三句 信連合戦
宮は五月十五夜の雲間の月を詠ぜさせ給ふところに、「三位入道の使」とて、いそがしげにて消息持ちて参りたり。宮の御乳人、六条の佐大夫宗信、これを取りて御前に参り、わなわなと読みあげたり。「君の御謀叛、すでにあらはれさせ給ひて、官人ども、ただいま御迎へに参り候ふなり。いそぎ御所を出でさせ給ひて、園城寺へ入らせ給へ。入道も子どもひき具し、やがて参り候はん」とぞ書いたりける。 宮は、「こはいかがすべき」とて騒がせおはします。長兵衛尉信連といふ侍申しけるは、「別の様や候ふべき。女房の装束を借らせ給ひて、出でさせましますべう候」と申しければ、「げにも」とて、かさねたる御衣に市女笠をぞ召されける。佐大夫宗信、直垂に玉襷あげて、からかさを持ちて御供つかまつる。鶴丸といふ童、袋にもの入れていただきたり。青侍の、女を迎へて行く様にもてなしたてまつる。 高倉の西の小門より出でさせ給ひて、高倉をのぼりに落ちさせ給ふ。溝のありけるを、宮のいともの軽く、ざつと越えさせ給ひければ、道ゆき人が立ちとどまつて、「あな、
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はしたなの女房の溝の越え様や」とて、あやしげに見たてまつりければ、いとどそこを足早に過ぎさせおはします。 長兵衛は御所の御留守に候ひけるが、「ただいま官人どもが参りて見んずるに、見苦しきものども取りをさめん」とて見るほどに、宮のさしも御秘蔵ありける「小枝」と聞こえし笛を、ただ今しも、常の御枕にとりわすれさせ給ひけるぞ、ひしと心にかかりける、長兵衛これを見て、「あなあさましや。さしも御秘蔵ありし御笛を」と申し、高倉面の小門を走り出で、五町がうちにて追つつきまゐらせて、奉りければ、宮はなのめならず御よろこびあり。「われ死なば、この笛をあひかまへて御棺に入れよ」とぞ仰せける。「やがて御供つかまつれ」と仰せられければ、長兵衛、「もつとも御供こそつかまつりたく候へども、ただいま官人どもが御迎ひに参り候ふなるに、御所中にひと言葉あひしらふ者候はでは、あまりうたてしくおぼえ候。そのものにては候はねども、『あの御所には長兵衛信連が〔侍ふ〕と、見る人知りて〕候ふに、こよひ候はずんば、『それもその夜逃げたり』なんど申されんこと、弓矢取る身のならひは、かりにも名こそ惜しう候へ。ひと言葉あひしらひて、やがて参らん」とて、いとま申して走りかへる。 三条面の総門をも、高倉面の小門をも、ともに開いてただ一人待つところに、夜半ばかりに、出羽の判官、源大夫判官、都合三百騎ばかりにて押し寄せたり。源大夫判官、存ずるむねありとおぼえて、門前にしばらくひかへたり。出羽の判官、馬に乗りながら庭にうち入れて、申しけるは、「君の御謀叛すでにあらはれ
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させ給ひて、官人#NAME?とにて候ふやらん。当時はこの御所にては候はず」と申せば、出羽の判官、「なんでう、これならでは、いづちへわたらせ給ふべきか。その儀ならば、下部ども、参りて、御所中をさがしたてまつれ」とぞ申しける。〔長兵衛、〕「ものも知らぬやつばらが申し様かな。馬に乗りながら庭上に参るだにも奇怪なるに、『下部ども参りてさがしたてまつれ』とは、なんぢらいかでか申すべき。日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。左兵衛尉長谷部の信連といふ者ぞや。近う寄りてあやまちすな」とぞ申しける。 源大夫これを聞き、をめいて駆け入る。下部のなかに金武といふ大力の剛の者あり。大長刀の鞘をはづし、信連に目をかけて斬つてあがれば、同類ども十四五人ぞ続いたる。信連は狩衣の下に腹巻を着て、衛府の太刀をぞ帯いたりける。下部ども斬つてのぼるを見て、信連、狩衣の帯、紐をひつ切つて投げすて、衛府の太刀を抜いで斬つてまはるに、おもてを合はする者ぞなき。信連一人に斬りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭にざつとぞおりたりける。 さみだれのころなれば、ひとむらさめの絶え間の月の出でけるに、敵は不知案内なり、わが身は案内者なれば、ここの面廊に追つかけては、はたと斬り、かしこの詰に追つこめては、ちやうど斬り、斬つてまはれば、「宣旨の御使をば、いかでかかうはするぞ」と申せば、「宣旨とは何ぞ」とて、太刀ゆがめばをどり退いて、踏みなほし、押しなほし、立ちどころに屈強の者十五人ぞ斬りふせたる。 太刀の切つ先
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五寸ばかり打ち折りて捨ててげり。「いまは自害せん」とて腰をさぐれば、鞘巻は落ちてなかりけり。高倉面の小門に、人もなき間に走り出でんとするところに、信濃の国の住人に手塚の八郎といふ者、長刀持ちて寄せ合うたり。「乗らん」と飛んでかかりけるに、乗り損じて股をぬひざまにつらぬかれて、信連、心はたけく思へども、生捕にこそせられけれ。そののち御所中をさがしたてまつれども、宮はわたらせ給はず。 信連生捕られて、六波羅へ具して参り、坪にひつすゑたり。前の右大将、大床に立つて、「いかに、なんぢらは『宣旨とは何ぞ』とて斬りたりけるぞ。なんぢが宣旨の御使悪口し、庁の下部刃傷殺害、奇怪なり。仔細を召し問ひて、そののち河原へひき出だし、首をはね候へ、人々」とぞのたまひける。 信連、あざわらひて申しけるは、「さん候。あの御所を、夜な夜な物が襲ひ候ふほどに、門をひらいて待つところに、夜半ばかりに鎧うたる者が二三百騎、庭に群れ入り、ひかへて候ふあひだ、『何者ぞ』と問ひつれば、『宣旨の御使』と申し候ひつるあひだ、強盗などと申し候ふやつばらは、あるいは『君達の入らせ給ふ』あるいは『宣旨の御使ぞ』なんどと申し候ふと、内々うけたまはりおよび候ふほどに、『宣旨とは何ぞ』とて斬つて候。天性、日本国をすでに敵にうけさせ給はんずる宮の御侍として、庁の下部刃傷殺害は、こともおろかに候ふや。鉄よき太刀をだに持ちて候ひしかば、官人どもを安穏にはよも一人も返し候はじ。宮の御在所いづくとも知りたてまつらず。たとひ知りたてまつり候ふとも、侍
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ほどの者が『申さじ』と思ひきりぬることを、糺問によつて申すべき様や候はん。信連、宮の御ゆゑにかうべをはねられんことは、今生の面目、冥途の思ひ出に候」と申して、そののちはものも言はず。 平家の郎従、並みゐたりけるが、「あはれ、剛の者の手本なり。あたら男の、切られんずらん、無慚や」とて惜しみあへり。そのうちにある者が申しけるは、「先年、御所の衆につらなつてありし時、大番衆が止めかねたりし強盗六人を、ただ一人して追つかかり、四人は矢庭に斬りふせ、二人生捕にして、そのときなされたる左兵衛尉ぞかし。あれこそ一人当千とも申さんずらん」などと口々に申せば、右大将、「さらば、しばしな切りそ」とて、その日は切られず。入道も惜しうや思はれけん、「思ひなほりたらば、のちには当家に奉公もいたせかし」とて、伯耆の日野へぞ流されける。 そののち源氏の世となりて、鎌倉殿より土肥の次郎実平に仰せてたづね出だし、鎌倉へ参りて、事の様、はじめより次第に語り申せば、鎌倉殿、心ざしのほどをあはれみて、能登の国に御恩ありけるとぞ聞こえし。
第三十四句 競
 宮は、高倉をのぼりに、近衛河原を東へ、川を渡らせ給ひて、如意山へかからせまします。いつならはせ給ふべきなれば、御足かけ損じて腫れたり。血あえて、いたはしうぞ見えさせ給ひける。知らぬ山路をよもすがら分け過ぎさせ給へば、夏山の茂みが
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もとの露けさも、さこそ所せばくおぼしめされけん。とかうして、あかつきがたに園城寺へこそ入らせ給ひけれ。「かひなき命の惜しさに、衆徒をたのみ来たれり」と仰せられければ、大衆うけたまはつて、法輪院に御所しつらひて、入れまゐらせけり。 あくれば十六日、「高倉の宮の、御謀叛おこして失せさせ給ひぬ」と申すほどこそありけれ、都の騒動おびたたし。法皇、「『三日のうちの御よろこび、ならびに御嘆き』と、泰親が勘へ申したりしは、これを申しけるにこそ」と、御涙にむせびおはします。 年ごろ日ごろもあればこそあれ、源三位入道、今年はいかなる心にて、か様に謀叛をば起したりけるぞといふに、前の右大将宗盛、不思議の事し給へり。されば、人の世にあればとて、すまじきことをし、言ふまじきことを言ふは、よくよく思慮あるべきことなり。 たとへば、そのころ、源三位入道の嫡子、伊豆守仲綱がもとに、九重に聞こえたる名馬あり。鹿毛なる馬のならびなき逸物なり。名をば「木の下」とぞいひける。前の右大将、使者を立て給ひて、「聞こえ候ふ木の下を見候はばや」とのたまひつかはされたりけれども、「乗り損じ候ふあひだ、このほどいたはらんがために、田舎へつかはして候。やがて召しこそのぼせ候はん」と返事せられたりければ、右大将、「さらば力およばず」とておはしけるところに、平家の侍並みゐたりけるが、ある者が、「あはれ、その馬は一昨日まではありつるものを」と申す。またある者が、「昨日も候ひしものを」、「今朝も庭乗り候ひつる」なんどと口々に申せば、右大将、「憎し。さては惜しむごさんなれ。その儀ならば、その馬、責め乞ひに乞へや」とて、侍
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してはしらせ、文などして、おし返し、おし返し、五六度までこそ乞はれけれ。 三位入道これを聞きて、伊豆守を呼びて、「たとひ黄金をまろめたる馬なりとも、それほどに人の乞はんに、惜しむ様やあるべき。その馬、すみやかに六波羅へ遣はせ」とありければ、伊豆守、「馬を惜しむにては候はず。権威について責めらるると思へば、本意なう候ふほどにこそ遣はし候はね」とて、やがて木の下を六波羅へ遣はすとて、歌をぞ一首そへられける。恋しくば来ても見よかし身にそへるかげをばいかにはなちやるべき 右大将、歌の返しをばし給はで、この馬を引き廻し、引き廻し、見るべきほど見て、「憎し。さしもにこれをば主が惜しみたる馬ぞかし。やがて主が名乗を金焼にし候へ」とて、「仲綱」といふ焼印をしてぞ置かれける。客人来たりて、「聞こえ候ふ木の下を見候はばや」と申せば、右大将、「仲綱めがことに候ふや〔らん〕。仲綱め、引き出だせ」「仲綱め、打て」「はれ」なんどぞのたまひける。 伊豆守これを聞き、「馬をば、いつかは『打つ』とはいへども『はる』といふことを聞くことなし。命にも代へて惜しかりつる馬を、権威について取られつるだにやすからぬに、馬ゆゑ仲綱が、けふあす日本国の笑はれぐさとならんことこそ本意なけれ。『恥を見んよりは死をせよ』と申すことの候ふものを」とのたまへば、父入道これを聞き、「げにも、それほどに人に言はれて、命生きて詮あるまじ。所詮は便宜をうかがふ身にてこそあらめ」とてありしほどに、さすがに私には、え思ひ立たずして、宮をすすめまゐらせたりけるとかや。 これにつけても、天下の人、小松殿のことをぞ申されける。あるとき、小松殿、
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参内のついでに、中宮の御方へ参り給ひけるに、四五尺あるくちなは、大臣の指貫の左の輪をはひまはりけるを見給ひて、「重盛さわがば、女房たちもさわぎ、また中宮もおどろき給ひなんず」と思ひ給ひて、右の手にてくちなはの頭をおさへ、左の手にて尾をおさへ、殿衣の袖のうちにひき入れて、御前をつい立つて、あゆみ出でられけり。「六位や候ふ、六位や候ふ」と召されけれども、をりふし人もなかりけり。伊豆守、そのとき衛府の蔵人にて侍はれけるが、「仲綱侍ふ」と名のりて参られたりければ、このくちなはを賜ぶ。弓場殿を経て、殿上の小庭に出で、御倉の小舎人を召して、「これを賜はれ」とありければ、頭をふつて逃げ去りぬ。渡辺の競滝口を召して、これを賜ぶ。競賜はつて捨ててけり。そのあした、小松殿、よき馬に鞍おいて、太刀一振そへて、仲綱のもとへつかはさるるとて、「昨日のふるまひこそ、ゆゆしく見えられ候ひしが、これは乗一の馬にて候。夜陰におよび、傾城のもとへ通はれんとき用ひらるべし」とて、仲綱へ遣はさる。御返事には、六位の使なれば、「御馬かしこまつて賜はり候ひぬ。また昨日のふるまひは、一向、還城楽にこそ似て候ひしが」とぞ申されける。 いかなれば、兄の小松殿はか様にこそおはするに、弟の宗盛は、人の馬を責め取つて、天下の大事におよびぬるこそあさましけれ。 同じき十六日夜に入りて、源三位入道、家の子郎等引き具して、都合その勢三百騎、屋形に火をかけて三井寺に馳せ参る。 渡辺の滝口が宿所は、六波羅の裏
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の檜垣のうちにてぞありける。競が馳せおくれてとどまつて候ふよしを、右大将聞き給ひて、あくる十七日の早朝に使者を立て、召されければ、競、召しによつて参りたり。右大将出であひ対面し給ひて、「いかに、なんぢは相伝の主三位入道の供をせずとどまりたる。存ずるむねあるか」とのたまへば、競、かしこまつて申しけるは、「日ごろはなにごと候はば、まつ先駆けて討死せんとこそ存じ候ひつるに、今度はなにと思はれ候ひけるやらん、つひにかうと知らせられず候。このうへは、あとをたづねて行くべきにても候はねば、かくて候」とぞ申しける。「年ごろなんぢがこの辺を出で入りするを、『召し使はばや』と常に思ひしに、さらば当家に奉公いたせかし。三位入道の恩にはすこしも劣るまじ」とのたまへば、競、かしこまつて申しけるは、「たとひ三位入道年来のよしみ候ふとも、朝敵となられたる人に、いかでか同心をばつかまつり候ふべき。今日よりは、当家に奉公つかまつらむ」と申せば、右大将、よにもうれしげにて入り給ひぬ。 その日は、「競があるか」「侍ふ」、「あるか」「侍ふ」とて、朝より夕べまで伺候す。すでに日もやうやう暮れければ、競申しけるは、「宮ならびに三位入道、すでに三井寺にと承り候。さだめて今は討手を向けられ候はんずらん。三井寺法師、渡辺には、そんぢやうそれなんどぞ候ふらめ。競は、撰り討ちなんどつかまつるべう候。乗りて事にあふべき馬の候ひつるを、したしき奴ばらに盗まれて候。御馬一匹、下しあづからばや」と申しければ、右大将、「いかにもして、ありつけばや」と思はれければ、白葦毛なる馬の太くたくましきが、「南鐐」とつけて秘蔵せられ
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たるに、白覆輪の鞍置いて競に賜ぶ。この馬を賜はつて宿所にかへり、「はやはや、とくして日の暮れよかし。三井寺へ馳せ参りて、三位入道殿のまつ先駆けて討死せん」とぞ思ひける。 次第に日も暮れければ、妻子どもしのばせ、わが身は、水に千鳥押したる狂文の狩衣に、菊綴大きにきらやかにしたるを着、重代の着背長、緋縅の鎧着て、いかもの作りの太刀を帯き、大中黒の矢かしら高に負ひなし、塗籠籐の弓のまつ中取り、滝口の骨法わすれずして、的矢一手ぞさしそへたる。賜はりたりける南鐐にうち乗りて、乗りがへ一匹具し、舎人の男にも太刀わきばさませて、屋形に火をかけ、三井寺に馳せ参る。「競が屋形より火出できたれり」と申すほどこそありけれ、六波羅中騒動す。右大将、「競はあるか」とたづねられければ、「候はず」とぞ申しける。「すは、きやつに出しぬかれけるよ。やすからぬものかな」と後悔し給へども、かひぞなき。 三井寺には、をりふし競が沙汰あつて、「あはれ、競を召し具せらるべきものを、すでに、捨ておかせ給ひて、いかなる目にあひ候ひなんず」と口々に申せば、入道、心をや知り給ひけん、「その者、無体に捕へからめられなんどはよもせじ。いま見よ、参らんずるぞ」とのたまひもはてねば、参りたり。入道、「さればこそ」とてよろこばれけり。競、かしこまつて申しけるは、「伊豆守の木の下が代りに、右大将殿の南鐐をこそ取つて参りて候へ」と申せば、伊豆守大きによろこびて、この馬を乞ひて、やがて「宗盛」といふ金焼をさして、そのあした六波羅へつかはし、門のうち
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へぞ追ひ入れたる。侍ども、この馬を取つて参りたり。右大将、この馬を見給へば、「宗盛」といふ金焼を見給ひて、大きに怒られけり。「今度三井寺に寄せたらんずるに、余は知らず、あひかまへて、まづ競を生捕にせよ。のこぎりにて首を切らん」とぞのたまひける。第三十五句 牒状 三井寺には、貝鉦をならし、大衆おこつて僉議しけるは、「そもそも、近日世上の体を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、今度にあたれり。いま清盛入道が暴悪をいましめずんば、いづれの日をか期すべき。ここに、宮入御のことは、正八幡大菩薩、新羅大明神の冥助にあらずや。天神地類も影向し、仏慮神慮も降伏をくはへましまさんこと、なじかはなかるべき。そもそも、北嶺は円宗一味の学地なり。南都はまた夏臈得度の戒場なり。牒奏のところになどか与せざるべき」と、一味同心に僉議して、山へも奈良へも牒状をつかはす。 まづ山門への牒状にいはく、園城寺牒す、延暦寺の衙殊に合力をいたし、当寺の仏法破滅を助けられんと欲するの状。右、入道浄海、ほしいままに仏法を失ひ、王法をほろぼさんと欲す。愁嘆きはまりなきのあひだ、去んぬる十五日の
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夜、一院第二の皇子、不慮の難をのがれんがために、ひそかに入寺せしむ。ここに院宣と号し、官軍をはなちつかはすべきのむね、その聞こえありといへども、あへて出だしたてまつるにあたはず。当寺の破滅、まさにこの時にあたれり。延暦、園城両寺は、門跡二つにあひ分かるといへども、学ぶところはこれ円宗一味の教門なり。たとへば鳥の左右のつばさのごとく、または車の両輪に似たり。一方欠くるにおいては、いかでかその嘆きなからんや。ていれば、殊に合力をいたし、当寺の仏法破滅をたすけられば、はやく年来の遺恨をわすれ、かさねて住山のむかしに復せん。衆議かくのごとし。よつて牒件のごとし。治承四年五月 日
とぞ書かれたる。
 山門には、これを披見して、「こはいかに。当山の末寺として、『鳥の左右のつばさのごとく、車の両輪に似たり』と押して書く条、狼藉なり」とて、返牒を送らずと聞こえし。そのうへ、平家、近江米一万石、北国の織延絹三千匹、山の往来に寄せらる。これを谷々峰々にひかれけるに、にはかのことではあり、一人してあまた取る大衆もあり、また手をむなしくして一つも取らぬ衆徒もあり。何者のしわざにやありけん、落書をぞしたりける。
山法師織延絹のうすくして恥をばえこそかくさざりけれ
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 また、配分にもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、
織延の一きれも得ぬわれらさへうすはぢをかく数に入るかな
 座主同心して、「園城寺一味はしかるべからざる」よし、こしらへ給へば、宮の方へは参らざりける。 南都の牒状にいはく、
園城寺牒す、興福寺の衙殊に合力を豪つて、当寺仏法破滅を助けられんと請ふの状。右、仏法殊勝なることは、王法をまぼらんがためなり。王法また長久なることは、すなはち仏法によるなり。ここに去年よりこのかた、入道前の太政大臣平の清盛、ほしいままに王法をうしなひ、朝政を乱る。内外につけ、うらみをなし嘆きをなすのあひだ、去んぬる十五〔日〕の夜、一院第二の皇子、不慮の難をのがれんがために、にはかに入寺せしめ給ふ。ここに「院宣」と号し、官軍をはなちつかはすべきのむね、その責めありといへども、衆徒、一向これを惜しみたてまつる。よつて、かの禅門、武士を当寺に入れんと欲す。仏法といひ、王法といひ、一時にまさに破滅せんとす。諸衆なんぞ愁嘆せざらんや。むかし唐の会昌天子、軍兵をもつて仏法を滅せんとせしむるのとき、清涼山の衆徒、合戦してこれを防ぐ。なんぞいはんや、謀叛八逆のともがらにおいてをや。なかんづく南京は、無例無罪、長者を配流せらる。今度にあらずんばいづれの日にか会稽をとげんや。
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願はくは、衆徒、内には仏法の破滅を助け、外には悪逆のたぐひを退け、ていれば、同心の至り、本懐に足んぬべし。よつて牒件のごとし。治承四年五月 日
とぞ書かれたる。
 南都には、東大、興福両寺の大衆僉議して、やがて返牒をぞ送られける。興福寺の牒、園城寺の衙来牒一紙に載せられたり。入道浄海がために貴寺の仏法をほろぼさんとするのよしのことを牒す。玉泉、玉花両家の宗義を立つるといへども、金章、金句おなじく一代の教文より出づ。南京、北京ともに〔もつて〕如来の弟子たり。自寺、他寺たがひに調達魔障を伏すべし。そもそも、清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父正盛、蔵人五位に仕じ、諸国受領の鞭をとる。大蔵卿為房、加州の刺史〔の〕いにしへ、検非違使に補せらるるのところに、修理大夫顕季、播磨の太守として、むかし、厩の別当職に任ず。しかるに、親父忠盛昇殿をゆるされしとき、都鄙の老少みな蓬壷の瑕瑾をそねむ。内外の英豪、おのおの馬台の〓文に泣く。忠盛、青雲のつばさをかいつくろふといへども、世の民なほ白屋の種をかろんず。名を惜しむ青侍は、その家にのぞむことなし。しかるに、平治元年十二月、信頼、義朝追討せ
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しとき、太上天皇、一戦の功を感じて、不次の賞を授け給ひしよりこのかた、高く相国にのぼり、かねて兵仗を賜はる。男子、あるいは台階をかうむり、羽林につらなる。女子、あるいは中宮職にそなはり、あるいは准三后の宣旨をかうぶる。群弟庶子みな棘路をあゆむ。その孫、その甥、ことごとく竹符を裂く。しかのみならず、九州を統領し、百司を進退す。みな奴婢僕従となり、一毛も心にたがへば、皇侯といへどもこれをとらへ、片言も耳にさかへば、公卿といへどもこれをからむ。ここをもつて、あるいは一旦の身命をのべんがため、あるいは片時の凌辱をのがれんがため、万乗の聖主、なほ面〓の媚をなす。重代の家君、かへつて七行の礼をいたす。代々相伝の家領をうばふといへども、上宰もおそれて舌を巻き、官々相承の荘園を取るといへども、権威にはばかりてものいふことなし。勝つに乗るのあまりに、去年の冬十一月、太上皇帝のすまひを追捕し、博陸公の身をおし流したてまつる。叛逆のはなはだしきこと、〔まことに〕古今に絶えたり。そのときわれら、すべからく賊衆にゆきむかつて、その科を問ふべしといへども、あるいは神慮にはばかり、あるいは皇憲を称するによつて、鬱胸をおさへて、光陰をおくるのあひだ、かさねて軍兵をおこし、一院第二の宮の朱閣を押し囲みたてまつる。八幡三所、春日大
明神、ひそかに影向をたれ、仙蹕を捧げ
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たてまつり、貴寺におくりつけ、新羅の扉にあづけたてまつる。王法尽くべからざるのよし明らけし。したがつて、貴寺身命を捨て守護したてまつるの条、含識のたぐひ、たれか随喜せざらん。われら遠域にあつて、その情を感ずるのところに、清盛入道、なほ凶器をおこして貴寺に入らんとするのよし、ほのかに〔もつて〕承りおよぶ。かねて用意をいたし、十八日辰の一点に大衆をおこして、十九日諸寺牒送、末寺に下知して群衆を得て、のちに案内をのべんと欲するのところに、青鳥飛び来たつて芳翰を通ず。数日の鬱念、一時に解散す。かの唐家の清涼一山の〓〓、なほ武宗の官兵をかへす。いはんや和国南北両門の衆徒、なんぞ謀臣の邪類を払はざらん。よく梁園左右の陣をかためて、よろしくわれら進発の告を待つべし。状を察し、疑殆をなすことなかれ。もつて牒件のごとし。治承四年五月 日
とぞ書きたりける。
第三十六句 三井寺大衆揃ひ
 同じき二十三日の夜に入りて、源三位入道、宮の御前に参り、申しけるは、「山門はかたらひあはれず、南都はいまだ参らず。事のびてはかなふまじ。こよひ六波羅へ押し寄せ、夜討にせんと存ずるなり。その儀ならば、老少千余人はあらんずらん。老僧どもは、
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如意が峰よりからめ手にまはるべし。若き者ども一二百人は、先立つて白河の在家に火をかけて、下りへ焼きゆかば、京、六波羅のはやりをの者ども、『あはや、事いでくる』とて、馳せ向かはんずらん。そのとき、岩坂、桜本に引つ懸け、引つ懸け、しばしささへて防がんあひだに、若大衆ども、大手より伊豆守大将として六波羅へ押し寄せ、風上より火をかけ、ひと揉み揉うで攻めんずるに、なじかは太政入道、焼き出だして討たざるべき」とぞ申されける。 さるほどに、やがて大衆おこつて僉議しけり。そのうちに、平家の祈りしける一如坊阿闍梨心海といへる老僧あり。僉議の庭にすすみ出でて申しけるは、「かう申せばとて、平家の方人するとはおぼしめされ候ふまじ。たとひさも候へ、いかでかわが寺の恥をも思ひ、門徒の名をば惜しまでは候ふべき。むかしは源平左右にあらそひて、いづれ勝劣なかりしかども、平家世を取つて二十余年、〔天下に〕なびかぬ草木も候はず。内々の館のありさまも、小勢にてたやすう落しがたし。よくよく〔ほかには〕はかりごとをめぐらし、勢をあつめて寄せ給ふべうや候ふらん」と、時刻をうつさんがために、長々とぞ僉議しける。 乗円坊の阿闍梨慶秀、節縄目の腹巻を着、頭つつんで、僉議の庭にすすみ出でて申しけるは、「証拠をほかに引くべからず。われらが本願浄御原の天皇、大友の王子におそれさせ給ひて、大和の国吉野山を出でて、当国宇陀の郡を過ぎさせ給ひけるに、その勢わづかに十七騎。されども、伊賀、伊勢に越え、美濃、尾張の勢をもつて、つひに大友の王子をほろぼし、位につき給ひ
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けり。『窮鳥ふところに入れば、人倫これをあはれむ』といふ本文あり。余は知らず、慶秀が門徒においては、こよひ六波羅へ押し寄せて討死せよ」とぞ申しける。円満院の大輔源覚が申しけるは、「僉議端多し。夜のふくるに、いそげや、すすめや」とぞ申しける。 如意が峰よりからめ手にむかふ老僧どもの大将軍には源三位入道。乗円坊の阿闍梨慶秀、律静坊の阿闍梨日胤、帥の法印禅智、禅智が弟子に義宝、禅永を先として、ひた兜六百余人ぞ向かひける。大手より向かふ若大衆には、円満院の鬼土佐、律静坊の伊賀の公、これ三人は、打ち物取つては鬼にも神にもあふべきといふ一人当千の者どもなり。平等院には、因幡の竪者荒大夫、成喜院の荒土佐、角の六郎坊、島の阿闍梨。筒井の法師に卿の阿闍梨、悪少納言。北の院には、金光院の六天狗、大輔、式部、能登、加賀、佐渡、備後等なり。五智院但馬、水尾の定連、〔四郎坊、〕松井の肥後、大矢の俊長。乗円坊の阿闍梨慶秀が坊の人六十人がうち、加賀の光乗、刑部俊秀、法師ばらには一来法師すぐれたる。堂衆には、筒井の浄妙明秀、小蔵の尊月、尊永、慈慶、楽住、かなこぶしこんけんの玄永坊。武士には、伊豆守仲綱、源大夫判官兼綱、六条の蔵人仲家、子息蔵人太郎仲光、下河辺の藤三郎清親、渡辺の省播磨の二郎、授薩摩の兵衛尉、
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長七唱、適の源太、与馬の三郎、競滝口、清、勧を先として、ひた兜一千余人、三井寺をこそうち立ちけれ。 三井寺には、宮入らせ給ふのちは、大関、小関掘り切つて、逆茂木をひいたりければ、堀に橋を渡し、逆茂木をのけんとしけるほどに、時刻おしうつりて、関路の鶏鳴きあへり。円満院大輔源覚が申しけるは、「しばし。むかし秦の昭王のとき、孟嘗君が君のいましめをかうむりて召し籠められたりけるが、はかりごとをもつて逃げのがれけるときに、函谷関にいたりぬ。鶏の鳴かぬかぎりは、この関の戸をひらくことなし。孟嘗君が三千の客のうちに、田客といふ兵あり。鶏の鳴くまねをありがたうしければ、鶏鳴きつづくとぞ言ひける。かれが高きところに登つて、鶏の鳴くまねをしたりければ、関路の鶏鳴きつたへて、みな鳴きぬ。鳥のそら音にばかされて、関の戸あけて通しけり。これも敵のはかりごとにてもやあらんずらん。ただ寄せよ」と申しけれども、五月の短か夜なれば、はやほのぼのとぞ明けにける。 伊豆守のたまひけるは、「ただいまここにて鶏鳴いては、六波羅へは白昼にこそ寄せんずれ。夜討こそさりともと思ひつれ、昼軍にはいかにもかなふまじ」とて、搦手は如意が峰より呼び返す。大手は松坂よりとつて返す。 若大衆どもが申しけるは、「これは所詮、一如坊が長僉議にこそ夜は明けたれ。その坊切れや」とて押し寄せて、散々に打ち破る。防ぎ戦ふ弟子、同宿、数十人討たれぬ。一如坊は、はふはふ六波羅へ参り、
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このよしをいちいちに訴へ申されけれども、六波羅へ軍兵馳せあつまつて、騒ぐこともなかりけり。
第三十七句 橋合戦
 宮は、山門、南都をもつてこそ、「さりとも」とおぼしめされつれども、「三井寺ばかりにてはいかにもかなふまじ」とて、同じき二十三日のあかつきに、南都へおもむき給ひけり。 宮は、「蝉折」「小枝」と聞こえし漢竹の御笛二つ持たせ給ひけり。蝉折は、鳥羽院の御時、黄金を千両、宋朝の帝へ奉らせ給ひたりければ、その御返報とおぼしくて、生身の蝉のごとくに節ついたる漢竹の笛竹、一節わたさせ給ふ。「いかが、これほどの重宝をば左右なく彫るべき」とて、大納言僧正覚宗に仰せて、壇の上にて、七日加持して彫らせ給へる御笛なり。おぼろげの御遊びには取りも出だされざりけるを、あるときの御遊びに、高松の中納言実行の卿、御笛を賜はつて吹かれけるが、ただ世のつねの笛の様に思はれて、膝より下に置かれたりければ、笛やとがめたりけん、そのとき蝉折れにけり。それ〔より〕してぞ「蝉折」とはつけられける。この宮の伝はらせ給ひたりしを、いま〔は御〕心細うやおぼしめされけん、泣く〔泣く〕金堂の弥勒に奉らせ給ひけり。「龍花の御あかつき、値遇の御ためか」とおぼえて、あはれなりし御ことなり。 乗円坊の阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがり、宮の御前にP211参りて申しけるは、「この身はすでに齢八旬にたけて、行歩かなひがたく候へば、いとま申してまかり留まりて候。弟子にて候ふ刑部卿俊秀を参らせ候。かの俊秀と申すは、相模の国の住人、山内の須藤刑部丞義通が子なり。父須藤刑部は、平治の合戦のとき、故左馬頭義朝について、六条河原にて討死つかまつり候ひぬ。いささかゆかり候ふによつて、幼少より跡懐にて生ほしたてて、心の底までも知りて候。これをば、いづくまでも召し具せらるべう候」と申しもあへず、涙にむせびければ、「いつのよしみに、さればかくは申すらん」とて、宮も御涙にむせびおはします。しかるべき老僧どもをば留めさせ給へり。三位入道の一類、三井寺法師、都合その勢一千余人、醍醐寺にかかつて南都へおもむき給へり。 さるほどに、宮は宇治と寺とのあひだにて、六度まで御落馬あり。これは、去んぬる夜、御寝もならざりつるゆゑなりとて、宇治の橋二間ひきはづし、平等院に入らせ給ふ。しばし御休息ありけり。宇治川に馬ども引きつけ、引きつけ、冷やし、鞍、具足をこしらへなんどしけるほどに、六波羅にはこれを聞きて、「宮は、はや南都へおもむき給ふなり」とて、平家の大勢追つかけたてまつる。 大将軍には入道の三男左兵衛督知盛、中宮亮通盛、薩摩守忠度。侍大将には上総守忠清、太郎判官忠綱、飛騨守景家、飛騨の太郎判官景高、越中の前司盛俊、武蔵の三郎左衛門有国、伊藤、斎藤のしかるべき者
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ども、「われも」「われも」と進みけり。都合その勢二万余騎、木幡山をうち越えて、宇治の橋詰に押し寄す。「敵、平等院にあり」と見てければ、橋よりこなたにて二万余騎、天もひびき、地も動くほどに、鬨をつくること三箇度なり。先陣の「橋を引いたぞ。あやまちすな」と言ひけれども、後陣はこれを聞きつけず、「われ先に」とかかるほどに、先陣二百余騎押し落されて、水におぼれて流されけり。 宮の御方には、大矢の俊長、渡辺の競が射ける矢ぞ、ものにも強く通りける。橋の両方の詰にうち立つて矢合せしけり。五智院の但馬は、長刀の鞘をはづし、兜の錣をかたぶけて、橋は引いたり、敵には寄りあひたし、錣をかたぶけて立ちたるところに、平家これを見て、差しつめ、引きつめ、散々に射る。但馬は、越ゆる矢をばついくぐり、さがる矢をば躍り越え、むかうて来る矢をば長刀にて切つて落す。敵も味方も、「あれを見よ」とて見物す。それよりしてぞ、「矢切の但馬」とは申しける。 堂衆に筒井の浄妙明秀は、褐の直垂に、黒革縅の鎧着て、黒漆の太刀をはき、大中黒の矢負ひ、塗籠藤の弓のまつ中取つて、好む白柄の長刀と取りそへて、橋のうへにぞすすみける。大音あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。園城寺にはそのかくれなし。堂衆に筒井の浄妙坊明秀とて、一人当千の兵ぞや。平家の方にわれと思はん人々は、駆け出で給へ。見参せん」と言ふままに、二十五差したる矢を、差しつめ、引きつめ、散々に射
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けるに、十二人矢庭に射殺し、十二人に手負ほせて、一つは残りて箙にあり。弓をうしろへからと投げ捨て、箙も解いて川へ投げ入れ、敵「いかに」と見るところに、貫脱いではだしになり、長刀の鞘をはづいて、橋の行桁をさらさらと走り渡る。人は恐れて渡らねども、浄妙坊が心には、一条、二条の大路とこそふるまひけれ。長刀にて、むかふ敵五人なぎふせ、六人にあたるところに、〔長刀の〕柄うち折つて捨ててけり。そののち、太刀を抜いて斬りけるが、三人斬りふせ、四人にあたる度に、あまりに兜の鉢に強う打ち当て、目貫のもとよりちやうど折れ、川へざぶと入る。いまは頼むところなし。腰の刀にて、ひとへに「死なむ」とくるひけり。 乗円坊の阿闍梨の召し使ひける下部のうちに、一来法師とて、生年十七歳になる法師あり。浄妙に力をつけんとて、続いて戦ひけるが、橋の行桁はせばし、通るべき様はなし、浄妙が兜の手先に手を置いて、「あしう候、浄妙坊」とて、肩をゆらりと越えてぞ戦ひける。一来法師はやがて討死してけり。 浄妙は、はふはふかへりて、平等院の門前なる芝の上に鎧ぬぎ置いて、矢目を数へければ六十三ところ、裏かく矢目五ところ、されども痛手ならねば、頭をつつみ、弓切り折つて杖について、南都のかたへぞ落ち行きける。〔第三十八句 頼政最後〕源三位入道は、長絹の直垂に、科革縅の鎧着て、「いまを最後」と思はれければ、わざと兜は着給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅
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の鎧着て、「弓をつよく引かん」とて、これも兜は着ざりけり。 橋の行桁を浄妙が渡るを手本にして、三井寺の悪僧、渡辺の兵ども、走り渡り、走り渡り、戦ひけり。ひつ組んで川へ入るもあり。討死する者もあり。橋の上のいくさ、火の出づるほどこそ見えにけれ。
第三十八句 頼政最後
 先陣は上総守忠清、大将に申されけるは、「橋の上のいくさ、火の出づるほどになりて候。かなふべしともおぼえ候はず。今は川を渡すべきにて候ふが、をりふし五月雨のころにて、水量はるかにまさりて候。渡すほどにては、馬、人、押し流され、失せなんず。淀、一口へや向かひ候ふべき、河内路をやまはり候ふべき」と申せば、下野の国の住人、足利の又太郎すすみ出でて申しけるは、「おおそれある申しごとにて候へども、悪しうも申させ給ふ上総殿かな。目にかくる敵をただいま討ちたてまつらで、南都へ入らせ候ひなば、吉野、十津川とかやの者ども参りて、ただいまも大勢にならせ給はんず。それはなほ御大事にて候ふべし。いくさ延びてよきことは候はぬものを。淀、一口、河内路をば天竺、震旦の武士が参りて向かふべきか。それも、われわれどもこそ向かはんずらめ。武蔵と下野とのさかひに、『坂東太郎』と聞こえし利根川といふ大河あり。故我杉、長井の渡とて、ともに大事の渡なり。秩父と足利と仲をたがひて、
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つねに合戦をつかまつり候。上野の国の住人、新田の入道かたらはれて、搦手にむかひ候ふ。秩父が方よりみな舟を破られて、新田入道、『人にたのまれながら、舟がなければとて只今ここを渡さずは、われらが長き疵なるべし、水におぼれて死なば死ね。いざ渡らん』とて、馬筏をつくりて、杉の渡をも渡せばこそ渡しけめ。坂東武者のならひとして、川をへだてつる敵を攻むるに、淵、瀬をばきらふ様やある。この川深さ、浅さも、利根川にいかほどの、劣り、まさりはよもあらじ。いざ渡さん」とて、手綱かい繰り、まつ先にこそうち入れけれ。 同じく轡を並ぶる兵ども、小野寺の禅師太郎、兵庫の七郎太郎、佐貫の四郎太郎広綱、〔大胡、〕小室、深須、山上、那波の太郎。郎等に〔金子の〕丹の二郎、弥の六郎、大岡の安五郎、切生の六郎、小深の次郎、田中の宗太を先として、三百余騎ぞうち入れたる。 足利、大音声をあげて下知しけるは、「強き馬をば上手に立てよ。弱き馬をば下手になせ。馬の足のおよばんほどは、手綱をくれてあゆませよ。はづまば手綱かい繰つて泳がせよ。さがらん者をば弓筈にとりつかせよ。肩をならべて渡すべし。馬のかしら沈まば引きあげよ。いたう引いて、引きかづくな。馬には弱く、水には強くあたるべし。敵射るとも、あひ引きすな。つねに錣をかたぶけよ。あまりにかたぶけて、天辺射さすな。かねに渡して、あやまちすな。水にしなひて、渡せや、渡せ」と下知をして、三百余騎を一騎も流さず、むかひの岸にざつと渡す。 足利は、褐の直垂に、赤革の鎧着
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て、白月毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗つたりけり。鎧ふんばり、つつ立ちあがつて、鎧の水うちはらひ、まづ名のりけるは、「朝敵将門をほろぼして、勧賞にあづかる俵藤太秀郷が十代、足利の太郎俊綱が嫡男、又太郎。生年十八歳。か様に無官無位なる者の、宮に向かひたてまつりて弓を引くことは、冥加のほど、そのおそれすくなからず候へども、弓も、矢も、冥加のほども、今日みな平家の太政入道殿の御身のうへにこそ候はんずれ。宮の御方にわれと思はん人々は駆け出で給へや。見参せん」と言ひ、平等院の門のまへに押し寄せ、をめいて戦ひけり。 これを見て、二万余騎うち入れて渡す。馬、人にせかれて、さすがに早き宇治川の水は、上へぞたたへたる。おのづから、はづるる水は、いづれもたまらず流れけり。いかがしたりけん、伊賀、伊勢両国の軍兵六百余騎、馬筏を押し切られ、水におぼれて流れけり。萌黄、緋縅、色々の鎧の、浮きぬ、沈みぬ、流れければ、神南備山のもみぢ葉の、峰のあらしにさそはれて、龍田川の秋の暮、堰にかかつて流れもやらぬにことならず。いかがしたりけん、緋縅の鎧着たる武者が三人、宇治の網代にかかつて揺られけるを、いかなる人や詠みたりけん、
伊勢武者はみな緋縅の鎧着て宇治の網代にかかりぬるかな
 これは、伊勢の国の住人に、黒田の後平四郎、日野の十郎、鳥羽の源六といふ者なり。黒田が弓筈を岩のはざまにねぢ立て、かきあがりつつ、二人をも引きあげ、助けたり
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けるとかや。 そののち、大勢川を渡して、平等院の門のうちへ、攻め入り、攻め入り、戦ひけり。 宮を南都へ先立てまゐらせて、三位入道以下残りとどまつて、ふせぎ矢射けり。三位入道、八十になりていくさして、右の膝口射させて、「今はかなはじ」とや思はれけん、「自害せん」とて、平等院の門のうちへ引きしりぞく。敵追つかくれば、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、緋縅の鎧着て、白葦毛なる馬に沃懸地の鞍置いて乗りたりけるが、中にへだたり、返しあはせ、返しあはせ、戦ひけり。上総守、七百余騎にてとり籠めて戦ひけるに、源大夫判官十七騎にて、をめいて戦ふ。上総守が放つ矢に、内兜を射させてひるむところに、上総守が童、三郎丸といふ者、押し並べてむずと組んで落つ。判官手負ひたれども、三郎丸を取つて押さへ、首かき切つて立ちあがらんとするところに、平氏の兵ども、「われも」「われも」と落ちかさなつて、判官をつひにそこにて討ちてげり。 三位入道は、釣殿にて長七唱を召して、「わが首取れ」とのたまへば、唱、涙をながし、「御首、ただいま賜はるべしともおぼえず候。御自害だに召され候はば」と申しければ、入道、「げにも」とて、鎧脱ぎ置き、高声に念仏し給ひて、最後の言こそあはれなれ。
むもれ木の花さくこともなかりしにみのなるはてぞかなしかりける
と、これを最後のことばにて、太刀のきつ先を腹に突き立て、たふれかかり、つらぬかれ
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てぞ失せ給ふ。このとき、歌詠むべうはなかつしかども、「若きよりあながちにもてあそびたる道なれば、最後までもわすれ給はざりけり」とあはれなり。首をば、唱泣く泣く掻き落し、直垂の袖に包み、敵陣をのがれつつ、「人にも見せじ」と思ひければ、石にくくりあはせて、宇治川の深きところに沈めてけり。 伊豆守仲綱は、散々に戦ひ、痛手負うて、「今はかう」とや思はれけん、自害してこそ伏しにけれ。その首をば、下河辺の藤三郎清親が取つて、本堂の大床の下に投げ入れけり。 三男六条の蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光も一所にて腹かつ切つてぞ伏しにける。この六条の蔵人と申すは、六条の判官為義が次男帯刀先生義賢が子なり。父義賢は、久寿二年、武蔵の国大倉にて、鎌倉の悪源太義平がために討たれぬ。そののちみなし子にてありしを、源三位入道、子にして、蔵人になしたりしほどに、日ごろのちぎりを変ぜず、今はか様に討死しけるとぞ、弓矢取りのならひとはいひながら、あはれなりし事どもなり。 競滝口をば、平家の兵、「いかにもして生捕にせん」とて、面々に心をかけたりけれども、競も心得て、散々に戦ひ、自害してこそ失せにけれ。 円満院の大輔は、矢種のあるほど射〔つくし〕て、「今は、宮ははるかに延びさせ給ひぬらん」と思ひければ、大太刀帯き長刀持ちて、敵の陣をうち破り、宇治川へ飛び入り、物の具一つも捨てずして、むかひの岸に泳ぎ着く。高き所にのぼりて、「平家の人々、これまでは御大事かな」と呼ばはつ
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て、長刀にてむかひの方を招きつつ、三井寺にむかつてぞ帰りける。
第三十九句 高倉の宮最後
 飛騨守景家は古き兵にて、「宮をば南都へ先立てまゐらせたるらん」と、いくさをばせで、五百余騎にて南都をさして追ひたてまつる。案のごとく、宮は二十四騎にて落ちさせ給ふに、光明山の鳥居のまへにて、〔飛騨守、〕宮に追つつきたてまつり、雨の降る様に射たてまつる。いづれが矢とは知らねども、宮の御側腹に矢一つ射立てまゐらする。御馬にもたまらせ給はず落ちさせ給ふを、兵ども落ちあひまゐらせて、やがて御首をぞ賜はりける。鬼土佐、荒土佐、〔荒〕大夫なんどといふ者ども、そこにてみな討死してんげり。御供つかまつるほどの悪僧の、そこにて一人も漏るるはなかりけり。 宮の御乳母子に六条の佐大夫宗信[* 「むねはる」と有るのを他本により訂正]は、ならびなき臆病者なりけるが、馬は弱し、敵はつづく、せんかたなさに、馬より飛びおり、新羅が池に飛び入りて、目ばかりわづかにさし出だしてふるひゐたれば、しばらくありて、敵、みな首ども取つて帰る。その中に、浄衣着たる人の首もなきを、蔀に乗せて舁いて通るを、「たれやらん」と思ひて、恐ろしながらのぞいて見れば、わが主の宮にてぞましましける。「われ死なば、御棺に入れよ」と仰せられし小枝ときこえし笛も、いまだ御腰にぞさされたる。「走り出でて、とりつきまゐらせばや」とは思へども、恐ろしければかなはず。ただ水の底にて
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ぞ泣きゐたる。敵みな過ぎてのち、池よりあがつて、濡れたるものども絞り着て、泣く泣く京へむかひてぞのぼりける。 南都の大衆、先陣は木津川にすすみ、後陣はいまだ興福寺の南の大門にぞゆらへたる。老少七千余騎、御むかへに参りけるが、「宮ははや光明山の鳥居のまへにて討たれ給ひぬ」と聞こえしかば、大衆ども涙を流してひき返す。いま五十町ばかりを待ちつけさせ給はで討たれさせ給へる宮の御運のほどこそうたてけれ。 平家は、宮ならびに三位入道の一類、三井寺法師、都合其の勢五百余人が首を取つて、夕べにおよんで京へ入る。兵ども、ののじり騒ぐことおびたたし。三位入道の首をば、長七唱が石にくくりあはせて、宇治川の深きところに沈めければ、人見ざりけり。子どもの首は、みなたづね出だされけり。 宮の御首は、宮の御方へつねに参りかよふ人もなければ、見知りまゐらせたる者もなし。典薬頭〔定成〕が、ひととせ御療治のために召されたりしかば、「それぞ、見知りまゐらせん」とて、召されけれども、所労とて参らず。宮の年ごろ召されける女房一人召し出だされて、たづねられければ、御子を生みまゐらせける女房なれば、なじかは見損じたてまつるべき。御首を見まゐらせて、やがて涙にむせびけるにこそ、宮の御首には定まりけれ。宮の御額に疵のわたらせ給ひけり。これは、ひととせあしき瘡の出で来させ給ひたりしを、典薬頭めでたう療治しまゐらせて、そのときはのがれさせおはせしが、今はあへなく失せさせ給ふぞあさましき。 宮は、腹々に御子あまたわたらせ給ふ。八条の
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女院に、伊予守盛章がむすめ、三位の局とて候ひける女房の腹にも若君わたらせ給ひけり。この宮たちをば、女院、わが子のごとくにおぼしめされて、御ふところにて育てまゐらせ給ひけり。高倉の宮の御謀叛おこさせ給ひて失せ給ふと聞こえしかば、女院、「たとひいかなる御大事におよぶとも、この宮たちをば、出だしたてまつるべしともおぼえず」とて、惜しみまゐらせ給ひけり。六波羅より、太政入道、他の中納言頼盛をもつて、「この御所に、高倉の宮の若君、姫君わたらせ給ふなる。姫君をば申すにおよばず、若君をば出だしまゐらせ給へ」と申せば、女院の御乳母宰相と申す女房に、中納言あひ具して、つねに参られければ、日ごろはなつかしうこそおぼしめされしに、今かく申して参られたれば、あらぬ人の様にうとましくこそおぼしめせ。女院御返事には「さればこそ。かかる聞こえありしあかつき、御乳母なんど、心をさなうも具したてまつりて出でにけるやらん、この御所にはわたらせ給はず」と御返事ありければ、中納言、「さては力におよばず」とてましましけるに、太政入道、重ねてのたまひけるは、「なんでう、その御所ならではいづくにわたらせ給ふべき。その儀ならば、御所中をさがしたてまつれ」とて、使しきなみにありければ、中納言は、すでにはしたなき事がらになり、門に兵を置きなんどして、「御所中をさがしたてまつるべし」と聞こえしかば、「こはいかがすべし」とて、御所中の女房たち、あきれ、騒がしく見えたり。 若君、生年七歳にならせ給ひけるが、これを聞こしめし、女院の御前に参りて申させ給ひけるは、「今はこれほど
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の御大事に候へば、力におよばず候。ただとくとく出ださせ給へ」と申させ給へば、女院、「人の七つなんどは、いまだ何事も思はぬほどぞかし。われゆゑ大事出で来たらんことを、かたはらいたさに、かくのたまふいとほしさよ。よしなかりける人を、この六七年手慣れしことよ」とて、御衣の袖をぞしぼらせまします。御母三位の局は申すにおよばず、女官ども、局々の女、童部にいたるまでも、涙をながし、袖をしぼらぬはなし。御母三位の局、泣く泣く御衣を召させたてまつり、出だしまゐらせ給ふも、ただ「最後の御いでたち」とぞおぼしめされける。中納言も、同じく袂をしぼりつつ、御車のしり輪にまゐり、六波羅へわたしたてまつる。 前の右大将宗盛、この宮を一目見たてまつり、父の入道に申されけるは、「前の世にいかなるちぎりが候ひけん。一目見たてまつりしより、あまりに御いとほしう思ひたてまつり候。この宮の御命には、宗盛かはり候はん」と申されければ、入道、「ものも知らぬ宗盛かな」と、しばしは聞きも入れ給はざりけるが、重ねて再三申されければ、「さらば、とくとく出家せさせたてまつりて、御室へ入れたてまつれ」とぞのたまひける。右大将大きによろこびて、女院へこのよし申されければ、女院、御手を合はせてよろこばせまします。御母三位の局の御心のうち、いかばかりうれしうおぼしめしけん。やがて御出家ありて、釈氏に定まらせ給ふ。「安井の宮道尊」と申せしは、この宮の御ことなり。 また、奈良にも一所ましましけり。御乳人讃岐の重秀が出家せさせたてまつり、北陸道越中の国へ落ちくだりたりしを、木曾、「主に
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したてまつらん」とて、越中の国に御所造りて、もてなしたてまつりけるが、木曾上洛のとき、同じくこの宮も御のぼりありて、還俗ありしかば、「還俗の宮」とも申しけり。また「木曾の宮」とも申す。のちには、嵯峨の野入にわたらせ給ひしかば、「野入の宮」とぞ申しける。 むかし、登乗といふ相人あり。宇治殿、二条殿をば、「ともに関白の相まします。御歳八十」と申したりしもたがはず。帥の内大臣をば「流罪の相まします」と申したりしもたがはず。聖徳太子、崇峻天皇を「横死の相まします」と申させ給ひたりしも、馬子の大臣に殺され給ひにき。かならず相人ともなけれども、しかるべき人々はかうこそめでたくおはしますに、そもそも相少納言は「めでたき相人」とこそ申せしに、この宮を見損じまゐらせて、失ひたてまつるこそあさましけれ。 兼明親王、具平親王、「前の中書、後の中書の王」とて、賢王の聖主皇子にてわたらせ給ひしかども、つひに御位にもつかせ給はざれども、いつかは御謀叛おこさせ給ひし。また、後三条院の第三の皇子輔仁の親王をば、「東宮の御位ののちは、かならずこの宮をば太子に立てまゐらせ給へ」と仰せおかせられたりしに、東宮御かくれありしかども、白河の院、いかがおぼしめしけん、つひに太子にも立てまゐらせ給はず。あまつさへ、この親王の御子を御前にて源氏の姓をさづけたてまつりて、無位より一度に三位に叙して、やがて中将になしたてまつり給ひけり。これ花園の左大臣殿の御ことなり。一年源氏、無位より三位になることは、嵯峨の天皇の御子、陽成院の大納言定郷
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のほかは承りおよばず。 また、高倉の宮討ちたてまつらんとて、調伏の法修せられける高僧たち、勧賞おこなはる。 前の右大将宗盛の子息、侍従清宗、三位して「三位の侍従」とぞ申しける。今年十二歳。「父の卿もこのよはひにては、わづかに兵衛佐にてこそおはせしに、おそろし、おそろし」とぞ人申しける。これは、「源の以仁[* 「これひと」と有るのを他本により訂正]ならびに頼政法師追討の賞」とぞ聞書にはありける。「源の以仁[* 「これひと」と有るのを他本により訂正]」とは、高倉の宮を申しけり。まさしく太上法皇の御子を討ちたてまつるのみならず、凡人にさへなしたてまつるぞあさましき。第四十句 鵺(ぬえ) そもそも、〔この〕頼政と申すは摂津守頼光が五代の後胤、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子なり。保元に御方にてまつ先駆けたりしかども、させる賞にもあづからず。平治にまた、親類を捨て、参りたりしかども、恩賞これ疎かなり。重代の職なれば、大内の守護うけたまはりて年久しかりしかども、昇殿をば〔いまだ〕ゆるされざりけり。年たけ、よはひかたぶいてのち、述懐の和歌一首つかまつりてこそ昇殿をばゆるされたりけれ。
人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月を見るかな
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とつかまつり、昇殿したりけるとぞ聞こえし。 四位にてしばらく候ひけるが、つねに三位に心をかけつつ、
のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐをひろひて世をわたるかな
とつかまつりて三位したりけるとぞ聞こえし。すなはち出家し給ひて、今年は七十七にぞなられける。 この頼政、一期の高名とおぼえしは、近衛の院の時、夜な夜なおびえさせ給ふことあり。大法、秘法を修せられけれども、しるしなし。人申しけるは、「東三条のもとより黒雲ひとむらたち来たり、御殿に覆へば、そのときかならずおびえさせ給ふ」と申す。「こはいかにすべき」とて、公卿僉議あり。「所詮、源平の兵のうちに、しかるべき者を召して警固させらるべし」とさだめらる。 寛治のころ、堀河の天皇、かくのごとくおびえさせ給ふ御ことありけるに、そのときの将軍、前の陸奥守源の義家を召さる。〔義家は、〕香色の狩衣に、塗籠藤の弓持ちて、山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、南殿の大床に伺候す。御悩のときにのぞんで、弦がけすること三度、そののち御前のかたをにらまへて、「前の陸奥守、源の義家」と高声に名のりければ、聞く人みな身の毛もよだつて、御悩もおこたらせ給ひけり。 しかれば、「すなはち先例にまかせ、警固あるべし」とて、頼政をえらび申さる。そのころ兵庫頭と申しけるが、召されて参られけり。「わが身、武勇の家に生れて、なみに抜け、召さるることは家の面目なれども、朝家に武士を置かるる事、逆叛
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の者をしりぞけ、違勅の者をほろぼさんがためなり。されども、目に見えぬ変化のものをつかまつれとの勅定こそ、しかるべしともおぼえね」とつぶやいてぞ出でにける。 頼政は、浅葱の狩衣に、滋藤の弓持ちて、これも山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、頼みきりたる郎等、遠江の国の住人、猪の早太といふ者に黒母衣の矢負はせ、ただ一人ぞ具したりける。 夜ふけ、人しづまつて、さまざまに世間をうかがひ見るほどに、日ごろ人の言ふにたがはず、東三条の森のかたより、例のひとむら雲出で来たりて、御殿の上に五丈ばかりぞたなびきたる。雲のうちにあやしき、ものの姿あり。頼政、「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無帰命頂礼、八幡大菩薩」と心の底に祈念して、鏑矢を取つてつがひ、しばしかためて、ひやうど射る。手ごたへして、ふつつと立つ。やがて矢立ちながら南の小庭にどうど落つ。早太、つつと寄り、とつて押さへ、五刀こそ刺したりけれ。そのとき、上下の人々、手々に火を出だし、これを御覧じけるに、かしらは猿、むくろは狸、尾は蛇、足、手は虎のすがたなり。鳴く声は、鵺(ぬえ)にぞ似たりける。「五海女」といふものなり。 主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御剣を頼政に下し賜はる。頼長の左府これを賜はり次いで、頼政に賜はるとて、ころは卯月のはじめのことなりければ、雲居にほととぎす、二声、三声おとづれて過ぎけるに、頼長の左府、
ほととぎす雲居に名をやあぐるらん
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と仰せかけられたりければ、頼政、右の膝をつき、左の袖をひろげて、月をそば目にうけ、弓わきばさみて、
弓張り月のいるにまかせて
とつかまつりて、御剣を賜はつてぞ出でにける。「弓矢の道に長ぜるのみならず、歌道もすぐれたりける」と、君も臣も感ぜらる。さてこの変化のものをば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。 頼政は、伊豆の国を賜はつて、子息仲綱受領し、わが身は丹波の五箇の庄、若狭の東宮川知行して、さてあるべき人の、よしなき事を思ひくはだて、わが身も子孫もほろびぬるこそあさましけれ。頼政はゆゆしうこそ申したれども、遠国は知らず、近国の源氏だにも馳せ参らず、山門さへかたらひあはれざりしうへは、とかう申すにおよばず。 また、去んぬる応保のころ、二条の院御在位のときに、鵺(ぬえ)といふ化鳥禁中に鳴いて、しばしば宸襟を悩ますことありき。先例をまかせ、頼政を召されけり。ころは五月二十日あまりのまだ宵のことなるに、鵺(ぬえ)ただ一声おとづれて、二声とも鳴かず。めざせども知らぬ闇ではあり、すがたかたちも見えざれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。頼政、はかりごとに、まづ大鏑をとつてつがひ、鵺(ぬえ)の声しつるところ、内裏のうへにぞ射あげたる。鏑の音におどろいて、虚空にしばしはひめいたり。二の矢を小鏑とつてつがひ、ふつと射切つて、鵺(ぬえ)と鏑とならべてまへにぞ落したる。禁中ざざめいて、御感ななめなら
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ず、御衣をかづけさせ給ひけるに、そのときは大炊の御門の右大臣公能公、これを賜はり次いで、頼政にかづけさせ給ふとて、「むかしの養由は、雲のほかの雁を射にき。いまの頼政は、雨のうちに鵺(ぬえ)を射たり」とぞ感ぜられける。
五月闇名をあらはせるこよひかな
とおほせられたりければ、頼政、
たそがれどきも過ぎぬと思ふに
とつかまつり、御衣を肩にかけて退出す。そののち伊豆の国を賜はり、子息仲綱受領になし、わが身三位しき。
 日ごろは山門の大衆こそ乱れがはしきことども申せしに、今度は穏便を存じて音もせず。南都、三井寺は事を乱し、あるいは宮を扶持したてまつり、あるいは御むかへに参る。「これ、もつぱら朝敵なり」とて、「奈良をも、三井寺をも攻めらるべし」とぞ聞こえける。「まづ寺を攻めらるべし」とて、同じく二十六日、蔵人頭重衡、中宮〔亮〕通盛、その勢三千余騎、園城寺へ発向す。寺も思ひきりしかば、逆茂木ひき、戦ひけり。大衆以下法師ばら三百人ぞほろびける。 その官軍、寺中に攻め入りて火をかけければ、焼くるところは、本覚院、常喜院、真如院、花園院、大宝院、青龍院、鶏足院、普賢堂、八間四面の大講堂、教待和尚の本坊ならびに本尊等、護法善神の社壇、二階
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楼門、経蔵、灌頂堂。すべて堂舎、塔廟六百三十七宇、大津の在家千五百余地、焼きはらふ。わづかに金堂ばかりぞ残りける。大師の渡し給へる一切経七千余巻、仏像二千余体も灰燼となるこそかなしけれ。法文聖教の焼けけぶりは、大梵天王のまなこもたちまちにくれ、諸天微妙のたのしみもながくほろび、龍神三熱の苦しみも、炎にむせんでいよいよまさるらんとぞおぼえたる。 それ三井寺は、「近江の擬大領がわたくしの寺たりしを、天智天皇に寄せたてまつりて、御願所となす。もとの仏もかの帝の御本尊。しかるを生身の弥勤と聞こえ給ひし教待和尚、百六十年おこなひて、大師に付嘱し給ひき。覩史多天王、摩尼宝殿よりあまくだつて、はるかに龍花下生のあかつきを待たせ給ふ」と聞こえつるに、こはいかにしつることぞや。天智、天武、持統、これ三代の皇帝の御宇、産湯の水を召されたりしによつてこそ、「三井寺」とは名づけけれ。かかる聖跡なれども、いまはなにならず。顕密、須臾にほろびて、伽藍さらに跡なし。三密の道場もなければ、鈴のこゑも聞こえず。一夏の仏膳もなければ、閼伽の音もせざりけり。宿老、碩徳の明師はおこなひにおこたり、受法相承の弟子は、また経教にわかれたり。 寺の長吏八条の宮、天王寺の別当をとどめられさせ給ふ。僧綱十余人、解官せらる。悪僧には、筒井の浄妙坊明秀にいたるまで三十余人ぞ流されける。
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平家物語 百二十句本(京都本)巻第五
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平家巻第五     目  録
第四十一句 都遷し
     法皇籠の御所にまします事
     落書
     都遷しの先蹤三十余度
     平安城の沙汰
第四十二句 月見
     新都の事始め
     近衛河原の沙汰
     待宵の小侍従の沙汰
     物かはの蔵人
第四十三句 物怪の巻
     蟇目射させらるる事
     髑髏の多き事
     馬の尾に鼠の巣食ふ事
     源中納言雅頼のもとの青侍が悪夢
第四十四句 頼朝謀叛
     大庭の三郎景親早馬
     紀伊の国名草の郡高尾の村の蜘蛛の事
     朝敵揃ひ二十余人の事
     五位鷺
第四十五句 咸陽宮
     燕丹帰国
     亀浮び来つて燕丹渡す事
     田光先生自害
     花陽夫人の琴
第四十六句 文  覚
     荒行
     勧進帳
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     流罪
     院宣申し
第四十七句 平家東国下向
     維盛大将軍になる事
     忠度副将軍となる事
     宮腹の女房の沙汰
     大将軍三つの存知の沙汰
第四十八句 富士川
     源氏浮島が原勢揃ひ二十万綺
     平家鳥の羽音に驚く事
     主馬の判官忠清を加担の事
     将門追罰の時の勧賞の事
第四十九句 五節の沙汰
     福原の京に主上御遷幸
     新帝大嘗会の事
     都帰りの事
     平家近江の国へ発向
第五十句 奈良炎上
     南都の大衆忠成・親雅の両使悪口
     同じく平相国の首毯丁の玉と号する事
     同じく瀬尾の勢、討取らるる事
     重衡南都発向
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平家 巻第五
第四十一句 都遷し
 治承四年六月三日、「福原へ行幸あるべし」とぞひしめきあへり。この日ごろ「都遷しあるべし」とは内々沙汰ありしかども、「今明のほどとは思はざりつるものを、こはいかに」とて、上下さわぎあへり。 三日にさだめられしが、あまつさへ今一日ひきあげて、二日になりにけり。 二日の卯の刻に行幸の御輿を寄せたりければ、主上は今年三歳、いまだ幼うましましければ、何心なう召されけり。主上のいとけなき御ときは、母后こそ同じ輿には召さるるに、今度はその儀なし。御乳母平大納言時忠の卿の北の方、帥の典侍殿ぞひとつ御輿には参られける。中宮、院、上皇も御幸なる。摂政殿をはじめたてまつり、太政大臣以下、公卿、殿上人、「われも、われも」と供奉せらる。 三日、福原へ着かせ給ふ。池の大納言頼盛の卿の宿所、皇居になる。頼盛の家の賞とて正二位になり給ふ。九条殿の御子、右大将良通の卿に越えられ給ひけり。摂禄の臣の公達、凡人の次男に加階越えられ給ふこと、これはじめとぞ聞こえし。 さるほどに、法皇をば入道相国やうやう思ひなほりて、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸の美福門院の御所へ御幸なしたてまつりしかども、また高倉の宮
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の御謀叛によりて、大きにいきどほり、福原へ御幸なしたてまつり、四面に端板して、口一つあけたるところに、三間の板屋をつくりて、おし籠めたてまつる。守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ひける。たやすく人の参りかよふこともなければ、童部、これを「籠の御所」とぞ申しける。聞くもいまいましく、あさましかりし事どもなり。「今は、万機のまつりごとを聞こしめさばやとは、つゆほどもおぼしめしよらず。あはれ、山々寺々修行して、御心のままになぐさまばや」とぞ仰せられける。「平家の悪行においては、きはまりぬ。去んぬる安元よりこのかた、おほくの卿相、雲客、あるいは流し、あるいは失ひ、関白を流したてまつり、わが婿を関白になし、法皇を城南の離宮にうつしたてまつり、第二の皇子高倉の宮を誅したてまつり、いま残るところ都遷しなれば、か様にし給ふにや」とぞ人申しける。 あはれ、旧都はめでたくありつる都ぞかし。王城守護の鎮守は四方に光を和らげ、霊験殊勝の寺々は上下に甍をならべ給ふ。百姓万民わづらひなく、五畿七道もたよりあり。されども今は、辻々を掘り切つては逆茂木をひきたりければ、車なんどのたやすう行き通ふこともなし。まれに行く人も小車に乗り、道を経てこそ通りけれ。軒をあらそひし人のすまひも、日を経つつ荒れぞゆく。家々は賀茂川、桂川にこぼち入れ、いかだに組み浮かべ、資財雑具は舟に積み、福原へとて運びくだす。ただなりに、花の都、田舎となるこそかなしけれ。
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 いかなる者のしわざにやありけん。旧都の内裏の柱に、二首の歌をぞ書きたりける。
百年を四かへりまでに過ぎにしを愛宕の里のあれやはてなん W
咲きいづる花の都をふり捨てて風ふく原のすゑぞあやふき W
 都遷りはこれ先蹤なきにはあらず。神武天皇と申すは地神五代の帝、彦波瀲武■■羽葺不合尊(ひこなぎさたけうのはふきあはせずのみこと)の第四の皇子。御母は玉依姫、海神の姫なり。天神七代、地神五代、神の代十二代のあとをうけ、人皇百代の帝祖なり。 辛酉の年、日向の国宮崎の郡にして皇王の宝祚をついで、五十九年といひし己未の年十月東征して、豊葦原の中津国にとどまり、このごろは大和と名づけたり畝傍の山を点げて、帝都を建てて、橿原の地をきり払ひて、宮づくりし給ふ。これを「橿原の宮」とは申すなり。 しかつしよりこのかた、代々の帝王、都を他国他所へ遷さるること三十度にあまり、四十度におよべり。 神武天皇より景行天皇まで十二代は、大和の国、郡々に都を建てて、他国へはつひに遷されず。 しかるを、成務天皇元年に、大和より近江の国に遷し、志賀の郡に都を建つ。 仲哀天皇二年に、近江の国より長門の国に遷して、豊浦の郡に都を建つ。かの都にて帝かくれさせ給ひしかば、后神功皇后御代を受け取らせ給ふ。女帝として、新羅、百済、
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高麗、契丹までも攻めしたがへさせ給ひけり。異国のいくさをしづめさせ給ひてのち、筑前の国御笠郡にして〔皇子〕御誕生、所を「宇美の宮」とぞ申しける。かけまくもかたじけなくも八幡大菩薩の御ことなり。位に即き給ひては、応神天皇これなり。 そののち神功皇后は、大和の国に帰りて、磐余稚桜の宮に住ませ給ふ。 応神天皇、同じき国軽島や明の宮に住み給ふ。 仁徳天皇元年に、摂津の国難波の浦に遷りて、高津の宮に住ませ給ふ。 履中天皇二年に、大和の国に遷りて、十市の郡に都を建て、 反正天皇元年に、河内の国に遷りて、柴籬の宮に住ませ給ふ。 允恭天皇四十二年に、なほ大和の国に遷りて、遠つ飛鳥の宮に住ませ給ふ。 雄略天皇二十一年に、同じく泊瀬朝倉に都を建つ。 継体天皇五年に山城の国綴喜に遷りて、十二年、そののち乙訓[* 「をとひこ」と有るのを他本により訂正]に住み給ふ。 宣化天皇元年、また大和の国に帰つて、檜隈や入野の宮に宮居し給ふ。それより、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極天皇まで大和に住み給ふ。 孝徳天皇大化元年、摂津の国長柄に遷りて、豊崎の宮にまします。 斉明天皇二年に、なほ大和の国に帰つて、岡本の宮に住ませ給ふ。 天智天皇六年に、近江の国に遷りて、大津の宮を造り給ふ。 天武天皇元年に、なほ大和に帰つて、岡本南の宮に住ませ給ふ。これを「浄御原の帝」と申しき。 持統、文武二代の聖朝は、同じき国藤原の宮に住ませ給ふ。
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 元明天皇より光仁天皇まで七代は、奈良の都におはします。 しかるを桓武天皇、延暦三年十一月三日奈良の京春日の里より、山城の国長岡に遷りて、十年といひし正月、大納言藤原の小黒丸、参議左大弁紀の古佐美、大僧都賢■(げんけい)つかはして、当国葛野郡宇多の村を見せらるるに、両人ともに奏していはく、「この地の体、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武。四神相応の地。もつとも帝都を定むるに足れり」と申す。よつて、愛宕の郡にまします賀茂大明神に告げて申させ給ひて、同じく延暦十三年十月二十一日に、長岡の京よりこの京へ遷りてのちは、帝王は三十二代、星霜は三百八十余歳、春秋を送り迎ふ。「昔より代々の帝王、国々、所々、おほくの都を建てられしかども、かくのごとく勝れたる地はなし」とて、桓武天皇ことに執しおぼしめす。大臣、公卿、諸道の才人に仰せて、「長久なるべき様に」とて、土にて八尺の人形を作り、鉄の鎧、兜を着せ、同じく鉄の弓矢を持たせて、東山の峰に西向きに立ててうづめられけり。「末代この京を他国へ遷すことあらじ。守護神となるべし」とぞ御約束ありける。されば天下に大事出で来んとては、この塚かならず鳴り動ず。「将軍塚」とて今にあり。 桓武天皇と申すは、平家の曩祖にておはします。なかにもこの京をば、平安城と名づけて、「平らかに安き城」と書けり。もつとも平家のあがむべき都ぞかし。先祖の帝さしもに
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執しおぼしめされける都を、させるゆゑなきに、他国、他所へ遷されけるこそあさましけれ。 平城天皇、尚侍のすすめによつて、すでにこの京を他国へ遷さんとせさせ給ひしを、大臣、公卿、諸国の人民嘆き申せしかば、つひに遷されずして止みにき。一天の君、万乗の主だにも遷しえ給はぬ都を、入道相国人臣の身として遷されけるぞおそろしき。「これは、国の夷賊攻めのぼつて、平家都にあとをためず、山林にまじはるべき先表か」とぞ人申しける。
〔第四十二句 月見〕同じく六月八日、福原には、「新都の事始めあるべし」とて、上卿に徳大寺殿左大将実定の卿、土御門の宰相中将通親の卿、奉行には頭の弁光雅、蔵人左少弁行隆、官人どもあひ具して、和田の松原の西の野を点げて、九条の地を割られけるに、一条より下五条まではその所ありて、五条より下はなかりけり。行事、官人ども参りて、このよしを奏問しければ、「さらば播磨の印南野か、また摂津の国の昆陽野か」なんどと、公卿僉議ありしかども、事ゆくべしとも見えざりけり。旧都をばすでに浮かれぬ。新都はいまだ事ゆかず。ありとしある人みな浮雲の思ひをなす。もとこの所に住む者は、地をうしなひてうれへ、今遷る人々は土木のわづらひを嘆きあへり。総じて夢の様なる事どもなり。土御門の宰相の中将通親の卿申されけるは、「異国には『三条の広路を開いて、十二の通門を立つる』と見えたり。いはんや
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五条の都に、などか内裏建てざるべき。かつ里内裏を造らるべし」とて、五条の大納言邦綱の卿、臨時に周防の国を腸はつて、造進せらるべきよし、入道相国はからひ申されけり。この邦綱の卿は、ならびなき大福長者にておはしければ、造り出ださんことは左右におよばねども、いかでか国の費え、民のわづらひなかるべき。さしあたる大事の大嘗会なんどを行はるべきをさしおいて、かかる世の乱れに都を遷し、内裏を造らんことすこしも相応せず。いにしへ、賢き御代には、すなはち内裏に茅を葺き、軒をだにも切られず。煙のともしきを見給ふときには、かぎりある貢物をゆるしき。これすなはち民をめぐみ、国をただしうし給ふによつてなり。楚は章華の台を建てて、黎民をあらし、秦は阿房殿を建てて、天下乱るといへり。茅茨きらず、采椽けづらず、舟車かざらず、衣服文なかりし世もありけんものを、人、「おそろし、おそろし」とぞ申しける。「唐の太宗は驪山宮を造りて、民の費えをはばからせ給ひけん、つひに臨幸なうして、瓦に松おひ、垣に蔦しげりてやめられけるに相違かな」とぞ人申しける。
第四十二句 新都の事始め
六月七日、新都の事始めありて、八月十日棟上げ、十月七日御遷幸と定めらる。旧都は荒れゆく。今の都は繁昌す。あさましかりし夏も過ぎ、秋にもすでになり
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にけり。福原におはする人々の、秋もなかばになりぬれば、名所の月を見んとて、あるいは源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。あるいは白浦、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂の尾上の月のあけぼのを、ながめて帰る人もあり。旧都にのこる人々は、伏見、広沢の月を見る。そのうちに、徳大寺の左大将実定の卿は、旧都の月をしたひて、入道相国の方へ案内をえて、八月十日あまりに、福原より都の方へのぼられけり。なにごとも昔にかはりはてて、残る家は、門前草深く庭上露しげし。浅茅生が原、蓬が杣、鳥の臥所と荒れはてて、虫の声々うらみつつ、黄菊紫蘭の野べとぞなりにける。故京の名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞおはしける。実定の卿、その御所へ参り、まづ随身をもつて惣門をたたかせぬれば、うちより女の声にて、「誰そや、この蓬生の露うち払ふ人もなきところに」ととがめければ、「福原より大将殿御参り」とぞ申しける。「惣門は錠のさしてさぶらふぞや。東面の小門より入らせ給へ」とありしかば、大将殿うちめぐりてぞ参られける。をりふし大宮は、昔もや御慕はしうおぼしめされけん、南殿の格子をあげさせ、御琵琶あそばしけるをりふし、大将つつと参られたり。「これは夢かや、うつつかや、これへ、これへ」とぞ召されける。源氏宇治の巻には、優婆塞の宮の御姫、秋の名残を惜しみつつ、琵琶を調べて夜もすがら心
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をすまし給ひしに、有明の月の出でけるを、なほ堪へずやおぼしけん、撥にて招き給ひしも、今こそおぼしめし知られけれ。小夜もやうやうふけゆけば、大宮は旧都の荒れゆくことどもを語らせおはしませば、大将は今の都の住みよきことをぞ申されける。待宵の小侍従と申す女房も、この御所にぞ候はれける。そもそもこの女房を「待宵」と召されけることは、あるとき、大宮の御前にて「待つ宵と帰る朝とは、いづれかあはれはまされるぞ」と御たづねありければ、いくらも侍はれける女房たちのうちに、かの女房、待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけばあかぬ別れの鳥は物かはと申したりけるゆゑにこそ「待宵の侍従」とは召されけれ。背のちひさきによつてこそ「小侍従」とも召されけれ。大将この女房を呼び出だし、いにしへ今の物語どもし給ひけるが、あかつき方にもなりしかば、横笛の音取り、朗詠して、旧都の荒れゆくことどもを今様にこそうたはれけれ。
古き都をきてみれば浅茅が原とぞあれにける
月の光は隈なくて秋風のみぞ身にはしむ I
と、おし返し、おし返し、二三返歌ひすまされたりければ、大宮をはじめまゐらせて、御所中の女房たち、みな感涙をぞながしける。夜も明けければ、大将いとま申して出でられけるが、御供に侍ふ蔵人泰実を召して、「侍従があまりに名残惜しげに見えつるに、なんぢ行きてなにとも言ひて来よ」と仰せければ、蔵人走り帰りて、侍従が前
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にかしこまつて、「これは大将殿より申せと候」とて、
物かはと君がいひけん鳥の音のけさしもなどか悲しかるらん W
侍従涙を押さへて、
待たばこそふけゆく鐘もつらからめあかぬ別れの鳥の音ぞうき W
蔵人走り帰つて、このよし申したりければ、大将「さればこそ、なんぢをばつかはしつれ」とて、大きに感ぜられけり。それよりしてぞ、「物かはの蔵人」とは召されける。
第四十三句 物怪の巻
そのころ福原には、人々夢見ども悪しう、常は心さわぎのみして、変化の物おほかりけり。あるとき入道の臥し給へるところに、一間にはばかるほどの物出で来つて、入道をのぞいて見たてまつる。入道少しもさわぎ給はず。はたとにらまへてましましければ、ただ消えに消え失せぬ。また岡の御所と申すは、新造なれば、しかるべき大木もなかりけるに、ある夜大木の倒るる音して、二三十人が声にてどつと笑ふことあり。これは天狗の所為といふ沙汰にて、蟇目の番を、夜百人、昼百人そろへて射させらるるに、天狗のある方へ向かひて射たるときは音もせず、なき方へ向かひて射たるときは、どつと笑ひなんどしけり。 ある朝、入道相国帳台より出で、妻戸押し開き、坪のうちを見給へば、曝れたる首どもいくらといふ数を知らず、みちみちて、
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上になり下になり、ころびあひ、ころびのき、中なるは端へころび出で、端なるは中へころび入り、おびたたしうからめきあひければ、入道相国、「人やある、人やある」と召されけれども、をりふし人も参らず。「こはいかに」と見給へば、多くの髑髏どもが一つにかたまりあひて、「高さ四五丈もやありけん」とおぼしくて、一つの大頭に千万の眼あらはれて、入道をにらまへて、まだたきもせず。入道少しもさわがず、にらまへてしばらく立たれたり。あまりに強うにらまれて、露霜なんどの日にあたりて消ゆる様に、跡かたもなくなりにけり。また入道相国の宿所ちかく、五葉の松の栄えたりけるが、夜の間に枯れたりけるぞ不思議なる。また、舎人あまたつけて、ひまなく撫で飼はれける馬の尾に、一夜がうちに鼠巣をくひ、子をぞ産みたりける。「これただごとにあらず」とて、七人の陰陽師に占はせられければ、「重き御つつしみ」と申す。この馬は、相模の国の住人大庭の三郎景親が、「東八箇国一の馬」とて、入道相国に参らせたり。黒き馬の額白かりければ、名を望月とぞつけられける。やがて陰陽頭泰親にぞ賜はりける。昔、天智天皇の御時、「寮の御馬の尾に鼠巣をくひ、子を産みたるには、異国の凶賊蜂起したりける」とぞ日本紀には記されたる。また、源中納言雅頼の卿のもとに侍ひつる青侍が見たりし夢もおそろしかりけり。たとへば、内裏の神祇官とおぼしき所に、束帯ただしき上臈たちのあまた並みゐて、議定の様なることのありけるに、末座なる人の、平家の方人するか
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とおぼしきを、その中より追つたてらる。かの青侍、夢のうちなれば、「いかなる上臈にてましますやらん」と、ある老翁に問ひたてまつれば、「厳島の大明神」と答へ給ふ。そののち、座上にけだかげなる老翁のおはしけるが、「この日ごろ平家にあづけつる節刀をば、今は伊豆の国の流人頼朝に賜ぶ」と仰せければ、また、かたはらに宿老のましましけるが、「そののちはわが孫にも賜び候へ」と仰せらるるといふ夢を見て、次第に問ひたてまつるに、「『節刀を頼朝に賜ぶ』と仰せられつるは八幡大菩薩、『そののちわが孫にも』と仰せられしは、春日大明神、かう申すは武内大明神」と答へらる。この夢を人に語るほどに、入道聞きつけ給ひて、摂津の判官盛澄をもつて雅頼の卿のもとへ、「夢見の青侍いそぎこれへ」とありければ、かの青侍、やがて逐電してげり。雅頼の卿いそぎ入道相国のところへ行きむかひ、さまざまになだめ申されければ、なにとなくうち紛れて、そののちは沙汰もなかりけり。日ごろは、平家天下の将軍にて、朝敵をしづめしかども、今は勅命にそむけばにや、節刀をも召し返されぬ。心細うぞ聞こえける。なかにも高野におはしける宰相入道成頼、この事どもを伝へ聞いて、「すはや、平家の世は末になるごさんなれ。厳島の大明神の、平家の方人をし給ひけるは、そのいはれあり。ただし沙竭羅龍王の第三の姫宮なれば、女神とこそうけたまはれ、俗体にて見え給ふこそ心得ね」とのたまひければ、ある僧の申しけるは、「それ和光垂迹の
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方便まちまちなれば、三明六通の明神にて、あるときは俗体とも現じ給はんこと、かたかるべきにあらず」とぞ申されける。憂き世をいとひ、まことの道に入りぬれば、往生極楽のいとなみのほか他事やはあるべきなれども、善政を聞きては感じ、悪事を聞きては嘆く、これみな人間のならひなり。
第四十四句 頼朝謀叛
同じき九月二日、相模の国の住人大庭の三郎景親、福原へ早馬をもつて申しけるは、「去んぬる八月十七日、伊豆の国の流人、前の右兵衛佐頼朝、舅北条の四郎をつかはして、伊豆の目代、和泉の判官兼隆を山木が館にて夜討にす。そののち土肥、土屋、岡崎をはじめとして、伊豆、相模の兵三百余騎、頼朝にかたらはれて、相模の国石橋山にたて籠つて候ふところに、景親、御方に心ざしを存ずる者ども三千余騎引率して、押し寄せ、攻め候ふほどに、兵衛佐七八騎に討ちなされ、大わらはに戦ひなつて、土肥の杉山へ逃げこもり候ひぬ。畠山庄司次郎五百騎にて御方をつかまつる。三浦の大介義明が子ども三百余騎、源氏方をして、田井、小坪の浦にて戦ふ。畠山いくさに負けて武蔵の国へ引きしりぞく。そののち畠山の一族、河越、稲毛、小山田、江戸、葛西、そのほか七党の兵ども三千余騎、三浦の衣笠の城に押し寄せて、一日一夜攻め
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候ふほどに、大介討たれ候ひぬ。子ども久里浜の浦より船に乗り、安房、上総に渡りぬ」とこそ申したれ。
平家の人々これを聞きて、都遷りもはや興さめぬ。若き公卿殿上人は、「さらば、とくして事の出でこよかし、討手に向かはん」なんどと言ふぞおろかなる。また、畠山の次郎、三浦のいくさしたりけることは、父の庄司重能、叔父小山田の別当が、をりふし在京したりけるをたすけんためとぞ後日には聞こえし。畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門尉朝綱、是等(これら)三人は大番役にて、をりふし在京したりけるを、太政入道怒つて、三人を召し寄せ、「源氏に同心せじといふ起請文を書きて参らせよ」とのたまへば、かしこまつてぞしたためまゐらせける。畠山庄司申しけるは、「ひが事にてぞ候ふらん。親しう候へば、北条なんどは、もし、さもや候ふ。そのほかはよも朝敵に同心はつかまつり候はじ。今聞こしめしなほさんずるものを」と申しけれども、「いやいや、大事におよびぬ」とささやぐ者もおほかりけり。入道相国怒られける様ななめならず。「頼朝をば死罪におこなふべかつしを、池殿のしひて嘆き給ひしあひだ、慈悲のあまりに流罪になだめしを、その恩を忘れて当家に向かつて弓を引く〔に〕こそあんなれ。神明三宝もいかでか許し給ふべき。た〔だ〕いま天の責めをかうぶらんずる兵衛佐なり」とぞのたまひける。それわが朝に朝敵のはじめをたづぬるに、日本磐余彦の御宇四年紀伊の国名草の郡
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高尾の村に、一つの蜘蛛あり。身短く、足長うして、力人にすぐれたり。人民おほく害ひしかば、官軍発向して宣旨を読みかけ、葛の網を結んで、つひにこれを覆ひ殺す。それよりこのかた、野心をさしはさんで朝威をほろぼさんとする者、大石の山丸、大山の王子、大津の真鳥、守屋の大臣、山田の石河、蘇我の入鹿、文屋の宮田[* 「くない」と有るのを他本により訂正]、橘の逸勢、氷上川継、伊予の親王、大宰少弐広嗣、恵美の押勝、早良の太子、井上の皇后、藤原の仲成、平の将門、藤原の純友、左大臣長屋、右大臣豊成、安倍の貞任、宗任、対馬守源の義親、悪左府、悪衛門督にいたるまで、すべて二十余人なり。されども一人として素懐をとぐる者なし。みな屍を山野にさらし、首を獄門にかけらる。今の世こそ王位もむげに軽けれ、昔は宣旨を向かひて読みければ、枯れたる草木も花咲き実なり、空飛ぶ鳥までもしたがひ来たる。中ごろのことぞかし。延喜の帝神泉苑へ御幸なつて、池のみぎはに鷺のゐたりけるを、六位を召して、「あの鷺取つて参れ」と仰せければ、「いかでかこれを取るべきや」とは思ひけれども、綸言なれば歩みむかふ。鷺は羽つくろひして立たんとす。「宣旨ぞ、まかり立つな」と言ひければ、鷺ひらみて飛びさらず。これをいだいて参りたり。帝叡覧あつて、「なんぢが宣旨にしたがひて参りたるこそ神妙なれ」とて、やがて五位にぞなされける。「今日よりのち、鷺の中
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の王たるべし」と板をあそばして、頸にかけてぞ放たせおはします。これまつたく鷺の御用にはあらず。ただ王威のほどを知ろしめされんがためなり。
第四十五句 咸陽宮
異国に昔の先蹤をたづぬれば、燕の太子丹、秦の始皇に囚はれて、いましめをかうぶること十二年、燕丹涙をながして、「われ本国に老母あり。暫時のいとまを賜びてましかば、かれを見ん」とぞ申しける。始皇あざわらひて、「なんぢにいとま賜ばんことは、馬に角生ひ、烏の頭白うならん時を待つべし」とぞのたまひける。燕丹天に仰ぎ地に伏して、「願はくは孝行の心ざしをあはれみ給ひて、馬に角生ひ、烏の頭白うなつて、いま一度故郷にとどめおきし老母を見ん」とぞ祈りける。かの妙音菩薩は霊山浄土に詣でて、不孝のともがらをいましめ給ふ。老子、顔回は震旦に出でて、忠孝の道をはじめ給ふ。冥顕三宝孝行の心ざしをやあはれみおぼしめしけん、馬に角生ひ、宮中に来たり。烏の頭白うなつて庭前の木に至る。烏の頭、馬の角の変ずるにおどろいて、始皇帝綸言返〔ら〕ざることを信じて、燕丹をなだめて本国へこそ帰されけれ。始皇帝なほにくみ給ひて、秦と燕とのさかひに楚国といふてあり。大きなる川流る。かの川に渡せる橋をば、すなはち楚国橋といふ。帝
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官軍をつかはして、燕丹が渡らんとき、橋を踏まば落つる様にしつらうて、太子丹を渡されけり。なじかはよかるべき。川中にして落ち入りぬ。されども水にもおぼれず、平地を行くがごとくにして、向かひの岸にぞ着きにける。「こはいかに」とうしろを顧みければ、亀どもいくらといふ数を知らず、水の上に浮きて、甲を並べてぞ歩ませける。これは孝行の心ざしを冥顕あはれみ給ふによつてなり。されば、燕丹うらみをふくみて始皇帝にしたがはず。帝怒つて官軍をつかはして討たんとし給ふほどに、燕丹恐れをののきて、荊軻といふ兵をかたらふ。荊軻また大臣に田光先生といふ兵をかたらふ。かの田光が申しけるは、「君はこの身の若うさかんなつしときを知ろしめしてたのみおぼしめし候ふか。『麒麟も老いぬれば駑馬にもおとれり』今はいかにもかなふまじ。兵をかたらうて奉らん」とて出でけるに、荊軻、田光が袖をひかへて、「あなかしこ、この事人に披露すな」と言ひければ、「人に疑はれぬるに過ぎたる恥はよにあらじ。もしこの事漏れぬるものならば、われ疑はれなんもはづかしし」とて、荊軻がまへにて自害してこそ失せにけれ。また樊於期といふ兵あり。これは秦の国の者なりけるが、始皇帝のために親、伯父、兄弟をほろぼされて、燕の国に逃げこもりたり。始皇帝四海に宣旨をくだして、「燕の指図、ならびに樊於期が首をはねて参りたらん者には、五百斤の金を報ぜん」と披露せらる。荊軻、樊於期がもとに行きて、「われ聞く、なんぢ
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が首すでに五百斤に報ぜられたんなり。なんぢが首、われに貸せ。始皇帝に奉らん。よろこびて見給はんとき、剣を抜いで胸刺さんことやすかりなん」と言ふ。樊於期をどりあがり、大息ついて申しけるは、「われ始皇のために親、伯父、兄弟をほろぼされて、夜昼これを思ふに、骨髄に徹してしのびがたし。なんぢまことに始皇帝をほろぼすべくんば、首を与へんこと塵芥よりもなほ軽し」とて、みづから首を切つてぞ死にける。また秦舞陽といふ兵あり。これも秦の国の者なりけるが、十三の年かたきを討つて、燕の国に逃げこもりたり。ならびなき兵なり。笑つて向かふときは、嬰児までもいだかれ、怒つて向かふときは、大の男も絶え入りぬ。これを秦の都の案内者にかたらひて行く。ある片山のほとりに宿したりけるが、そのほとりに管絃するを聞いて、調子をもつて本意のことを占ふに、かたきの方は水なり、わが方は火なり。さるほどに天も明けぬ。蒼天ゆるし給はねば、白虹日を貫いて通らず。「われ本意をとげんことありがたし」とぞ申しける。「さりながら、これより帰るべきにもあらず」とて、始皇帝の咸陽宮にいたりぬ。樊於期が首、ならびに燕の指図を持ちて参りたるよしを奏聞す。臣下をして受け取らんとし給へば、「人づてには参らせまじ。直にこそ奉らめ」と申せば、「さらば」とて節会の儀をととのへて、燕の使を召されけり。咸陽宮と申すは、都のまはり一万里。内裏は地の上三里。高う築きあげて、長生殿あり、不老門あり。金をもつて
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日をつくり、銀をもつて月をつくれり。真珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を敷きみてり。四方には高さ四十丈に鉄の築地を築き、殿上にも同じく鉄の網をぞ張りたりける。これは冥途の使を入れじとなり。秋は田の面の雁、〔春は〕越路へ帰るにも、飛行自在のさはりあれば、築地には雁門と名づけて鉄の門をあけてぞ通しける。そのうちに、阿房殿とて始皇つねに行幸なつて、政道をおこなはせ給ふ殿なり。高さは三十六丈。東西へ九町、南北へ五町。大床の下には五丈の幢を立てたるが、なほおよばぬほどなり。上は瑠璃の瓦をもつて葺き、下は金、銀にてみがけり。秦舞陽は樊於期が首を持ち、荊軻は燕の指図を入れたる箱を持つて、二人つれて玉の階を登りあがる。あまりに内裏のおびたたしきを見て、秦舞陽わなわなとふるひたりければ、臣下あやしんで、「舞陽は謀叛の心あり。刑人をば君のかたはらに置かず、君子は刑人に近づかず。近づくときんば、死[* 「しゆ」と有るのを他本により訂正]を軽んずる道」と言へり。荊軻たち帰りて、「舞陽まつたく謀叛の心なし。ただ田舎のいやしきにのみならひて、皇居にいまだ慣れざるゆゑに心迷惑す」と言へり。そのとき、臣下みなしづまりぬ。すでに帝に近づきたてまつりて、樊於期が首、燕の指図を奉る。これを披見あるところに、指図を入れたる箱の底に秘首といふ剣を納めて持ちたりけるが、氷なんどの様にして見えけるほどに、始皇帝これ
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を見て、やがて逃げんとし給ふに、荊軻袖をむずとひかへて、剣を胸にさしあてたり。数万の軍兵、庭上に袖をつらぬといへども、救はんとするに力なく、ただ、この君逆臣に犯され給はんことをのみぞかなしみあへる。始皇帝、「願はくは、われに暫時のいとまを得させよ。最愛の后の琴の音をいま一度聞かん」とのたまへば、荊軻片時のいとまを奉る。始皇帝は三千人の后あり。その中に花陽夫人とてすぐれたる琴の上手ましましき。およそこの后の琴を聞いては、もののふの猛く怒れるも、すなはちやはらぎ、草木もゆるぎ、飛ぶ鳥も落つるほどなり。いはんや、「今をかぎりの叡聞にそなへむ」とて、后泣く泣くひき給ひけり、さこそはおもしろかりけめ。荊軻も首をうなだれ、耳をそばだて、ほとんど謀臣の思ひはや忘れはてぬ。后かさねて一曲を奏せらる。七尺の屏風は高くとも躍らばなんぞ越えざらん羅綾のたもとは引かばなどか絶えざらんとひき給ふ。荊軻はこれを聞き知らず。帝これを聞き知りて、御袖をひき切り、七尺の屏風を躍り越えて、銅の柱のかげにぞ逃げかくれ給ひける。荊軻怒つて剣を投げかけたてまつる。をりふし番の医師の御前に候ひけるが、薬袋を剣にむずと投げかけあはせたり。剣は薬の袋をかけられながら、口六尺の銅の柱をなかばまでこそ切りたりけれ。荊軻、剣を二つと持たねば、続いても投げず。帝たち帰り、わが剣を召し寄せて、荊軻をば八つ裂きにこそせられけれ。秦舞陽も切られぬ。やがて官軍
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をつかはして燕丹も滅ぼさる。秦の始皇は逃れて、燕丹つひに滅びにけり。「されば今の頼朝もさこそあらんずらめ」と色代する人もおほかりけれ。
第四十六句 文覚
そもそも兵衛佐頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父左馬頭義朝の謀叛によつて、生年十四歳と申せし永暦元年三月二十日、伊豆の国蛭が小島へ流されて、二十余年の春秋を送り、年ごろ日ごろもこそありけれ、今年いかなる心にて謀叛をおこされけるといふに、高雄の文覚上人の申しすすめられたりけるとかや。かの文覚と申すは、渡辺の遠藤左近将監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆なり。十九の年道心をおこし、出家して、修行に出でんとしけるが、「修行といふはいかほどの大事やらん、ためしてみん」とて、六月の日の、草もうごかず照つたるに、片山の薮の中に這ひ入りて、あふのきに伏し、虻ぞ、蚊ぞ、蜂、蟻なんどいふ毒虫どもが身にひしと取りつきて、刺し、食ひなんどしけれども、ちとも身をばうごかさず。七日までは起きもあがらず、八日といふに起きあがりて、「修行といふはこれほどの大事か」と人に問へば、「それほどならんには、いかでか命も生くべき」と言ふあひだ、「さてはやすきことごさんなれ」とて、修行にぞ出でにける。熊野へ参り、那智籠りせんとしけるが、まづ行のこころみに、聞こゆる滝
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にしばらく打たれてみんとて、滝のもとへ参りければ、ころは十二月十日あまりのことなるに、雪降りつもり、つらら凍て、谷の小川も音もせず。峰の嵐吹き凍り、滝の白糸垂氷となりて、みな白妙におしなべて、四方の梢も見もわかず。しかるに文覚滝つぼへおりひたり、頸までつかりて、慈救の呪を満てけるが、二三日こそありけれ、四五日にもなりければ、こらへずして文覚浮きあがりにけり。数千丈みなぎり落つる滝なれば、なじかはたまるべき。ざつとおし落されて、刃のごとくにさしもきびしき岩つぼの中を、浮きぬ沈みぬ五六町こそ流れたれ、ときにいつくしげなる童子一人来たりて、文覚が左右の手を取つて引きあげ給ふに、人奇特の思ひをなし、火をたき、あぶりなんどしければ、定業ならぬ命ではあり、ほどなく生き出でにけり。文覚すこし心つきて、大の眼を見いからかし、「われ、この滝に三七日打たれ、三洛叉を誦せんと思ふ大願あり。今日わづかに五日になる。七日にだにも過ぎざるに、何者がここへは取つて来たるぞ」と言ひければ、人、身の毛よだつてもの言はず。また滝つぼにたち返りて打たれけり。二七日といふに、八人の童子来たりて、文覚が左右の手をとらへて、引きあげんとし給へば、散々に組みあひてあがらず。三日といふに文覚つひにはかなくなりにけり。「滝つぼを穢さじ」とや、びんづら結うたる童子二人、滝の上よりくだつて、文覚が頂上より手足のつまさき、手のうらにいたるまで、よにあたたかに香しき御手をもつて撫でくだし給ふとおぼえければ、夢の心地して生き
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出で、「そもそも、いかなる人にてましませば、これほどにいつくしみ給ふらん」と問ひたてまつるに、「われはこれ大聖不動明王の御使に、矜羯羅、制■迦(せいたか)といふ二童子なり。『文覚無上の願をおこして勇猛の行をくはだつに、力をあはすべし』との明王の勅によつて来たるなり」と答へ給ふ。文覚声をいからかして、「明王はいづくにぞ」「兜率天に」と答へて、雲井はるかにのぼり給ひぬ。たなごころを合はせてこれを拝したてまつる。「さればわが行をば大聖不動明王までも知ろしめされたるにこそ」とたのもしうおぼえて、なほ滝つぼにたち返りて打たれけり。まことにめでたき瑞相どもあまたあり。吹き来る風も身に沁まず、落ち来る水も湯のごとし。かくて三七日の大願つひにとげければ、那智に千日籠り、大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峯山、白山、立山、富士の岳、伊豆、箱根、信濃の戸隠、出羽の羽黒、総じて日本国残る所もなく行きまはり、さすがなほ旧里や恋しかりけん、都へのぼりたりければ、飛ぶ鳥も祈りおとす、「やいばの験者」とぞ聞こえし。のちには、高雄といふ山の奥に行ひすましてゐたりけり。かの高雄に神護寺といふ山寺あり。昔称徳天皇の御宇、和気の清麻呂が建てたりし伽藍なり。久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこもり、また秋は霧にまじはり、扉は風に倒れて、落葉の下に朽ち、甍は雨露にをかされて、仏壇さらにあらはなり。住持の僧もなければ、まれにさし入るものとては、月日の光ばかりなり。
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文覚「これをいかにも修造せん」といふ大願をおこして、勧進帳をささげて、十方檀那を勧めありきけるほどに、あるとき、院の御所法住寺殿へぞ参りける。「御奉加あるべき」よし奏聞しけれども、御遊びのをりふしにて聞こしめし入れず。文覚は天性不敵第一の荒聖なり。御前の骨ない様をも知らず、「ただ、人が申し入れぬぞ」と心得て、是非なく御坪のうちへみだれ入り、大音声をあげて、「大慈大悲の君にてまします、かほどのことなどか聞こしめし入れざるべき」とて、勧進帳を取り出だし、高らかにこそ読うだりけれ。
沙弥文覚敬白。殊に貴賤道俗の助成を蒙つて、高雄山の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤行せん事を請ふ勧進の状。
夫れおもんみれば、真如広大なり。生仏の仮名を立つるといへども、法性随妄の雲あつく覆つて、十二因縁の峰にそびえしよりこのかた、本有心蓮の月の光幽かにして、いまだ三毒四慢の大虚にあらはれず。悲しいかなや、仏日はやく没して、生死流転のちまた冥々たり。いたづらに人をそしり、法をほしる。これあに閻魔獄卒の責めをまぬかれんや。ここに文覚たまたま俗塵うち払ひて、法衣を飾るといへども、悪業なほ心にたくましうして、日夜善苗を作るに、また耳に逆うて朝暮にすたる。いたましきかなや、ふたたび三途
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の火坑に帰り、ながく四生の苦輪をめぐらんことを。このゆゑに牟尼の教法、千万の軸々、仏種の因縁を明かして、至誠の法、一つとして菩提の彼岸に属せずといふことなし。かるがゆゑに、無常の観門に涙を落し、上下の真俗をもよほし、上品蓮台に縁を結び、等妙覚王の霊場を建てんとなり。それ高雄山は、山高うしてしかも鷲峰の梢をあらはし、谷深うして商山の洞の苔を敷けり。岩泉むせんで布を引き、嶺猿さけんで枝に遊ぶ。人里遠くして囂塵なし。咫尺よしみなうして信心あり。地形もつとも勝れたり、仏殿を崇むべし。奉加少しなりとも、たれか助成せざらん。ほのかに聞く、『沙を聚めて仏塔とす、つひに成仏の果を感ず』いはんや一基与信の寄附においてをや。願はくは建立成就して、金闕の鳳力御願円満、乃至都鄙遠近の吏民親疎、堯舜無為の化をうたひ、椿葉再改の咲みを披かんことを。ことにまた聖霊幽儀、前後大小、一仏真門のうてなにいたらん。かならず三身万徳の月をもてあそばん。よつて勧進修行の趣、蓋しもつてかくのごとし。治承三年三月 日 僧 文覚
とこそ読みたりけれ。をりふし御前には、太政大臣妙音院、琵琶かき鳴らし、朗詠めでたくせさせ給ふ。按察の大納言資賢の卿、拍子を取つて、風俗、
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催馬楽をうたはれけり。右馬頭資時、侍従盛定、和琴かき鳴らし、今様とりどりにうたひ、玉簾、錦帳ざざめいて、まことにおもしろかりければ、法皇も付けてうたはせおはしますところに、文覚が大音声に調子も違ひ、拍子もみな乱れにけり。「何者ぞや。しやつ、首突け」と仰せくださるるほどこそあれ、はやり男の者ども、われもわれもと進みける中に、資行の判官といふ者走り出で、「なんでうことを申すぞ。まかり出でよ」と言ひければ、「高雄の神護寺に荘を寄せられざらんほどは、まつたく文覚出でまじ」とてうごかず。よりて、そ首突かんとしければ、資行判官が烏帽子をはたと打つて打ち落し、こぶしをにぎり、しや胸を突いて、あふのけに突き倒す。資行判官おめおめともとどり放つて、大床の上に逃げのぼる。そののち文覚、ふところより馬の尾にて柄巻きたる刀の、氷の様なるを抜き出だして、寄り来ん者をば突かんとこそ待ちかけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀を抜いて走りまはるあひだ、思ひまうけぬにはか事にてはあり、左右の手に刀を持ちたる様にぞ見えたる。公卿、殿上人も、「この者いかに、いかに」とて、さわぎあはれければ、御遊びもはや荒れにけり。院の騒動ななめならず。安藤武者在宗、そのころ当職の武者所にてありけるが、「何事ぞ」とて、太刀を抜いて走り出でたり。文覚よろこんでかかるところに、「切りてはあしかりなん」とや思ひけん、太刀のみねを取りなほし、文覚が刀持ちたる小がひなをしたたかに〔打つ。〕打た
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れてちとひるむところに、太刀を捨て、「えいや、おう」と組みたりけり。組まれながら文覚、安藤武者が肘を突く。突かれながらしめたりけり。たがひに劣らぬ大力にてありければ、上になり下になり、ころびあふところに、かしこ顔に上下寄りて、文覚がはたらくところを、打ち、張りしてんげり。されどもこれを事ともせず、いよいよ悪口放言す。門の外へ引き出だして、庁の下部に賜ぶ。ひつ張られて、立ちながら御所の方をにらまへて、「奉加をこそ賜はらざらめ、これほど文覚にからい目を見せ給ひつれば、思ひ知らせ申さんずるものを。三界は火宅なり。王宮といふとも、その難のがるべからず。十善の帝位に誇らせ給ふとも、黄泉の旅に出でなんのちは、牛頭、馬頭の責めをばまぬかれ給はじ」と、をどりあがり、をどりあがりぞ申しける。「この法師奇怪なり」とて、やがて獄定せられけり。資行判官は烏帽子うち落されて恥ぢがましさに、しばらくは出仕もせず。安藤武者は、文覚組みたる勧賞に、当座一臈を経ずして、右馬允にぞなされける。さるほどにそのころ美福門院かくれさせ給ひて、大赦ありしかば、文覚ほどなくゆるされけり。しばらくは高雄のほとりに行ひてあるべかりしを、さはなくして、また勧進帳をささげ、勧めけるが、さらばただもなうして、「あはれこの世の中はただ今乱れて、君も臣もみなほろび失せんずるものを」なんどと申しありくあひだ、「この法師都においてはかなふまじ。遠流せよ」とて、伊豆の国へぞ流されける。源三位入道の嫡子仲綱、そのころ伊豆守
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にておはしければ、その沙汰として、「東海道より船にて下すべし」とて、伊勢の国へ送り
て行きけるが、放免両三人をぞつけられたる。是等(これら)申しけるは、「庁の下部のならひ、か様の事についてこそ依怙も候へ。いかに聖の御房、これほどの事にあひて遠国へ流され給ふに、知る人は持たせ給はぬか。土産、粮料のごとくの物を乞ひ給へかし」と言ひければ、「文覚はさ様の用の事言ふべき得意も持たず。東山の辺にこそ得意はあるが、さらば文をつかはさん」と言ふ。けしきある紙をたづねて得させたり。「か様の紙に物書く様なし」とて、投げかへす。さらばとて厚紙をたづねて得させたり。文覚怒つて、「法師は物をえ書かぬぞ。おのれら書け」とて書かする。「『文覚こそ高雄の神護寺供養の心ざしありて勧め候ひつるが、この君の世にしもあひて、所願をこそ成就せざらめ、禁獄せられて、あまつさへ伊豆の国へ流罪せらる。遠路のあひだにて候ふに、土産、粮料のごときの物ども大切に候。この使に賜はるべし』と書け」と言ひければ、言ふままに書いて、「さて、たれ殿へと書き候はんぞや」、「清水の観音房へと書け」、「これは庁の下部をあざけるにこそ」と申せば、「文覚は観音をこそ深くたのみたてまつつたれ。さらばたれにか用の事や言ふべきぞ」とのたまひける。伊勢の国安濃の津より船に乗せ、下りけるが、遠江天龍の灘にて、大風吹き、大波立ちて、すでにこの船うち返さんとす。水手、梶取いかにもして助からんとしけれども、波風いよいよ荒らければ、あるいは観音の名号をとなへ、あるいは
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最後の十念におよぶ。されども文覚これを事ともせず、高いびきかいて寝たりけるが、「すでにかう」とおぼえけるとき、かつぱと起き、船の舳板に立つて沖の方をにらまへて、大音声をあげ、「龍王やある、龍王やある」とぞ呼びたりける。「いかにこれほどに大願おこしたる聖が乗つたる船をば、あやまたうどはするぞ。ただ今天の責めをかうぶらんずる龍王どもかな」とぞ申しける。そのゆゑにや、波風ほどなくしづまりて、伊豆の国へぞ着きにける。文覚京を出でし日より祈誓することあり。「われ都に帰つて、高雄の神護寺造立供養すべくんば、死すべからず。その願、暗くなるべくんば、道にて死すべし」とて、京より伊豆へ着きにけり。をりふし順風なければ、浦づたひ、島づたひして、三十一日が間は、一向断食にてぞありける。されども気力すこしも劣らず、行ひうちしてゐたりけり。「まことにただ人にてはなかりけり」とおぼゆることどものみおほかりけり。近藤四郎国高といふ者にあづけられて、伊豆の国奈古屋の奥にぞ住まひける。さるほどに、兵衛佐へ常には参りて、昔今の物語ども申してなぐさむほどに、兵衛佐にあるとき文覚申しけるは、「平家には小松の大臣こそ心も剛に、はかりごともすぐれておはせしか、平家の運命すゑになりぬるやらん、去年の八月甍ぜられぬ。源平の中に、わどのほど将軍の相持ちたる人はなし。はやく謀叛起いて日本国をしたがへ給へ。頼朝、「この聖の御坊は思ひもよらぬことをのたまふものかな。われは故池の尼にかひなき命を助けられて候へ
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ば、その後世をとぶらはんために、毎日法華経一部読誦するよりほかは他事なし」とぞのたまひけれ。「『天の与ふるを取らざれば、かへつてそのわざはひを受く。時至つておこなはざれば、かへつてその咎を受く』といふ本文あり。かう申せば、『心を見んとて申すらん』と思ひ給はんか。御辺に心ざしの深かりしを見給ふべし」とて、白い布にてつつみたる髑髏を一つ取り出だす。兵衛佐「あれはいかに」とのたまへば、「これこそわどのの父左馬頭殿の頭よ。平治の合戦ののちは獄舎の苔のしたにうづもれて、後世とぶらふ人もなかりしを、文覚存ずる旨ありて、獄守に請ひて、この十余年頸にかけて、山々寺々拝みめぐり、とぶらひたてまつれば、いまは一劫も助かり給ひぬらん。されば文覚は故頭殿の御ためにも、奉公の者にてこそ候へ」と申しければ、兵衛佐、一定それとはおぼえねども、父の頭と聞くがなつかしさに、まづ涙をぞ流されける。そののちはうちとけて物語をぞし給ふ。「そもそも頼朝勅勘をゆるされずしては、いかでか謀叛をおこすべき」とのたまへば、「それやすきことなり。やがてまかりのぼり、申しひらいてまゐらせん」と言ひければ、「さ申す御坊も勅勘の身にて、人を『申しゆるさん』とのたまふあてがひこそ大きにまことしからね」。文覚、「『わが身の勅勘をゆるさう』と申さばこそひが事ならめ、わどののこと申さんはなにか苦しからん。いまの都福原へのぼらんは三日に過ぐまじ。院宣うかがはんに、一日の逗留ぞあらんずらん。都合七日、八日には過ぐまじ」とて、つと出でぬ。奈古屋に帰つて、弟子
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どもには、「伊豆のお山に、しのんで七日参籠の心ざしあり」とて、出でぬ。げにも三日といふに福原の新都へのぼり着く。前の兵衛督光能の卿のもとに、いささかゆかりありければ、そこに行きて、「伊豆の国の流人前の兵衛佐頼朝こそ、『勅勘をゆるされて院宣をだに賜はらば、八箇国の家人どももよほし集め、平家をほろぼして天下をしづめん』と申し候へ」。光能の卿、「いざとよ、当時わが身も三官ともにとどめられて、心ぐるしきをりふしなり。法皇もおし籠められてわたらせ給へば、いかがあらん。さりながら、うかがひてこそみめ」とて、ひそかに奏聞せられければ、法皇やがて院宣をこそ下されけれ。文覚これを頸にかけ、また三日といふに伊豆の国へくだり着く。右兵衛佐、「あはれ、この聖の御坊になまじひによしなきことを申し出だして、頼朝またいかなる目にかあはんずらん」と思はぬこともなく案じつづけておはしますところに、八日といふ午の刻ばかりに下り着きて、「こは院宣よ」とて奉る。兵衛佐これを見て、天にあふぎ、地に伏し、大きによろこびて、いそぎ手水うがひし、あたらしき浄衣を着、三度拝してひらかれたり。
何々下す状にいはく。右、頃年よりこのかた、平氏皇家を蔑如し、政道にはばかる事なく、仏法を破滅し、朝威をほろぼさんとす。それわが朝は神国なり。宗廟あひ並んで神徳これあらたなり。かるが故に朝廷開基の後、数千余歳の間、帝位を傾け〔んと欲し〕、国家を危うせんとする
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者、皆もつて敗北せずといふ事なし。しかる時んば、かつは神道の冥助にまかせ、かつは勅宣の旨趣をかうぶる。はやく平氏の一類をほろぼし、朝家の怨敵をしりぞけ、譜代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤をぬきんで、身を立て家を興すべし。者、院宣かくのごとし。よつて執達件のごとし。治承四年七月 日 光能 奉前兵衛佐殿へとぞ書かれたる。石橋山の合戦のときも、この院宣を錦の袋に入れて、旗の上につけられけるとぞ聞こえし。
第四十七句 平家東国下向
さるほどに、福原には、「頼朝に勢のつかぬさきに、いそぎ討手を下すべし」とて、公卿僉議ありて、大将軍には、入道の孫小松の権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、都合その勢三万余騎、九月十八日福原の新都をたつ。十九日に旧都に着き、やがて二十日東国へぞうちたたれける。大将軍小松の権亮少将は、生年二十三、容儀帯佩絵にかくとも筆もおよびがたし。重代の鎧「唐皮」といふ着背長を、唐櫃に入れて舁かせらる。赤地の錦の直垂に、萌黄緘の鎧着て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗り給へり。副将軍薩摩守忠度は、紺地の
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錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、黒き馬のふとくたくましきに、沃懸地の鞍置いて乗り給へり。馬、鞍、鎧、太刀、刀にいたるまで、てりかがやくほど、いでたたれたりしかば、めでたき見物なり。忠度は、年ごろ宮腹の女房のもとへ通はれけるが、ある夜おはしたりけるに、その女房のもとへやんごとなき女房、客に来たり、ややひさしう物語りし給ふ。小夜もはるかにふけぬれども、客帰り給はず。忠度軒ばにしばしはただよひて、扇をしたひ使ひければ、宮腹の女房、「野もせにすだく虫の音」と優にやさしう口ずさみ給へば、薩摩守やがて扇を使ひやめて帰られけり。そののちおはしたりけるに、「さても一日は、なにとて扇をば使ひやめられしぞや」と問はれければ、「いさ、『かしまし』などと聞こえ候ひしかば、さてこそ使ひやめて候へ」と申されけり。かの女房のもとより、忠度のもとへ小袖を一かさねつかはすとて、千里のなごりのかなしさに、一首の歌をぞおくられける。
東路の草葉をわけん袖よりもたたぬたもとに露ぞこぼるる W
薩摩守の返事に、
わかれ路をなにか嘆かん越えてゆく関もむかしのあとと思へば W
「関もむかしのあと」と詠みぬることは、この人の先祖平将軍貞盛、将門追討のために、あづまへ下向せしことを、思ひいでて詠まれたりけるにや。いとやさしうぞ聞こえける。昔は、朝敵をたひらげに外土へ向かふ大将軍は、まづ参内して節刀
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を賜はる。宸儀南殿に出御なつて、近衛階下に陣をひかへ、内外の公卿参列して、中儀の節会をおこなはる。大将軍、副将軍、おのおの礼儀を正しうして節刀を賜はる。承平、天慶の蹤跡ありといへども、年久しうしてなぞらへがたし。今度は讃岐守平の正盛が、前の対馬守源の義親を追討のために出雲の国へ下向せし例とて、鈴ばかり賜はつて、皮の袋に入れて、雑色が首にかけさせてぞ下られける。宣旨を賜はつて戦場へ向かふ大将軍は、三つの存知あるべし。「まづ、参内して勅命をかうぶるとき、家を忘る。家を出づるとき、妻子を忘る。戦場にして敵に戦ふとき、身を忘る」されば、今の平氏の大将軍維盛、忠度も、さだめてか様のことをば存知せられたりけん、あはれなりし事どもなり。
九月二十二日、新院また厳島へ御幸なる。御供には前の右大将宗盛、五条の大納言邦綱、藤大納言実国、六角右兵衛督家通、殿上人には頭の中将重衡、宮内少輔棟範、安芸守在綱とぞ聞こえし。去んぬる三月にも御幸あつて、そのゆゑにや、半年ばかりは静かにして、法皇も鳥羽殿より還御なんどありしが、去んぬる五月、高倉の宮の御謀叛により、うちつづきしづまりやらず、逆乱の先表しきりにしげし。地妖つねにあつて、朝静かならざつしかば、ことに天下静謐の御祈念、別しては聖体不予の御祈祷のためなり。
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今度は色紙に墨字の法華経を書写し供養せらる。御願文の御自筆の草案あり。摂政殿清書ありけるとぞ承る。その願文にいはく、
蓋し聞く、法性の空には、十四、十五の月高く晴る。権化の地には、一陰、一陽の気深く扇ぐ。それ、かの厳島社は、称名普聞の庭、効験無双の砌なり。遙嶺社壇をめぐり、おのづから大慈の高くそばだてるをあらはし、巨海祠叢に返つて、暗に弘誓の深広なる事を表す。伏して惟みれば、不昧の身をもつて、かたじけなくも皇王の位を践み、今謙遊を■郷(れいきやう)の訓にもてあそぶ。閑放を射山の居にたのしむ。瑞籬のもとには明恩を仰ぎ、宝宮の中には霊託を垂る。その告げ胆に銘ずるあり。もつぱら当年夏の初め、秋の候、【*季夏初秋の候にあたる。】しかも病痾たちまたず侵して、いよいよ神感の空ならざる事を思ひ、祈祷を求むるといへども、霧露散じがたし。萍桂しきりに転ずるを、医術の験を施す事なく、心府の心ざしにしかず。かさねて斗藪の行をくはだたんとす。漠々たる寒嵐の底には、ちまたに臥して夢をやぶる。凄々たる微陽の前には、遠路にのぞんで眼をきはむ。つひに枌楡の砌について、清浄のむしろにことぶきす。色紙に書写したてまつる墨字の妙法蓮華経一部、開結の二経、阿弥陀経、般若心経等
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の明経、手づからみづから金泥の提婆品一巻を書写したてまつるの時、蒼松蒼柏の景、ともに善利をそへ、潮去り、潮来るひびき、暗に梵唄の声に和し、弟子北闕の雲を辞するの日、涼燠の多廻なしといへども、四海の波をしのぎ、二たび渡る。深く機縁の浅からざる事を知る。そもそも朝に祈る客一人にあらず。暮にかへりまうづる者かつ千計なり。ただし尊貴の帰敬多しといへども、院、宮の往詣いまだ聞かず。禅定法皇はじめてその儀を残さる。弟子眇身深くその心ざしをめぐらす。かの嵩高山の月の前には、漢武いまだ和光のかげを拝せず。蓬莱洞の雲の底には、天仙むなしく幽迹の塵をへだつ。当社のごときはかつて比類なし。仰ぎ願はくは、大明神、伏して乞ふ、一乗経、あらたに丹祈を照らし、たちまち玄応を垂れ給へ。敬白治承四年九月二十九日
 太上天皇
とぞあそばされたる。
第四十八句 富士川
さるほどに、平家の人々は、九重の都をたちて、千里の東海におもむき給ふ。たひらかに帰りのぼらんこともあやふきありさまどもにて、あるいは野原の露に宿をかり、あるいは
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高嶺の苔に旅寝して、山を越え、川をかさね、日数を経れば、十月十六日には、平家駿河の国清見が関にぞ着き給ふ。都を三万余騎にて出でしかども、路次の兵ども召し具して、七万余騎とぞ聞こえし。先陣はすでに蒲原、富士川にすすめども、後陣はいまだ手越、宇津の谷にささへたり。なかにも皇后宮亮経正は、詩歌管絃に長じ給へる人なれば、かかる乱れのなかにも心をすまし、湖の水際にうち出でて、漫々たる沖に小島の見えけるを、藤兵衛尉有範を召して、「あれはいかなる島ぞ」と、問ひ給へば、「あれこそ聞こえ候ふ竹生島」と申す。経正「げに、さることあり。いざや、さらば参らむ」とて、安左衛門守教、藤兵衛尉有範なんど申す侍ども四五人召し具して、小船に乗り、竹生島へぞ参られける。ころは卯月中の八日のことなれば、緑に見ゆる木末には、春のなさけを残すかとおぼえたり。谷々の舌声老いて、初音ゆかしきほととぎす、折知り顔に告げわたる。松に藤波咲き乱れ、まことにおもしろかりしことどもなり。経正、船よりあがり、この島のありさまを見給ふに、心もことばもおよばれず。ある経のうちに、「南閻浮提に湖あり。海中に島あり。金輪際より生ひ出でたる水精輪の山あり。つねに天女住む所」と言へり。すなはちこの島のことなり。かの秦皇、漢武、童男、丱女、あるいは方士をもつて不死の薬をたづね給ひしに、「蓬莱見ずは、いざや帰らじ」と言うて、いたづらに船中にて老い、天水茫々と
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して見ゆることを得ざりけん、蓬莱洞のありさまも、これには過ぎじとぞ見えし。経正、明神の前に、ついひざまづいて、「それ大弁功徳天は、往古の如来、法身の大士なり。弁才、妙音名は各別なりといへども、本地一体にして衆生を済度し給ふ。参詣の輩は所願成就円満すとうけたまはる。頼もしうこそ候へ」とて、法施参らせて、片時のほどと思はれけれども、日もはや暮れにけり。居待の月さし出でて、湖の上も照りわたり、社壇もいよいよかがやいて、まことに貴かりけり。小夜もふけゆけば、常住の僧ども、琵琶をたづねてさし置いたり。経正これを弾じ給ふに、かの上原石上の秘曲には宮もすみわたり、明神、感応にたへずして、経正の袖の上に白龍と現じて見え給ふ。経正これを見てうれしさのあまりに、しばらく撥をさしおき目をふさぎ、
ちはやぶる神に祈りのかなへばやしろくも色にあらはれにけり W
されば「怨敵をまなこのまへに退け、凶徒をただいま落さんこと、疑ひなし」と、よろこんで、また船に乗り、竹生島を出でられたり。
大将小松の権亮小将、侍大将上総守忠清を召して、「維盛が存知には、足柄をうち越えて、坂東にていくさをせん」と言はれけれ〔ば〕、上総守申しけるは、「福原をたたせ給ひしとき、入道殿の御諚には、『いくさをば忠清にまかせさせ給へ』と候ひしぞかし。八箇国の兵どもみな兵衛佐殿にしたがひ
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ついて候ふなれば、何十万騎か候はん。御方の御勢は七万余騎とは申せども、国々のかり武者どもなり。馬も人もみなつかれふして候。伊豆、駿河の勢参るべきだにもいまだ見えず候。ただ富士川をまへにあて、御方の御勢を待たせ給ふべうや候ふらん」と申しければ、力及ばずひかへたり。かかつしほどに、兵衛佐、足柄山をうち越えて、駿河の国木瀬川にこそ着き給へ。信濃の源氏ども馳せ来りて一つになる。浮島が原にて勢ぞろひあり。二十万騎とぞ注されたる。常陸源氏佐竹の太郎が雑色、主の使に文持ちて京へのぼるを、先陣上総守忠清、これをとどめて、持ちたる文をうばひ取り、ひらいてみれば、女房のもとへの文なり。「くるしかるまじ」と取らせてげり。「そもそも、兵衛佐殿の勢いかほどとか聞く」と問へば、「およそ、八日、九日の道には、はたと続いて、野も、山も、海も、川も武者で候。下臈は四五百千までこそ物の数を知りて候へ、それより上は知らず候。木瀬川にて一昨日人の申しつるは、『源氏の御勢二十万騎』とこそ申しつれ」。上総守これを聞き、「あはれ、大将軍の御心ののびさせ給ひたるほどの口惜しきことは候はず。今一日もさきに討手を下させ給ひたらば、足柄山をうち越えて八箇国に御出で候はば、畠山の一族、大庭が兄弟、などか参らで候ふべき。是等(これら)だにも参りなば、坂東にはなびかぬ草木も候まじ」と、後悔すれどもかひぞなき。大将軍小松の権亮少将、東国の案内者とて、長井の斎藤別当を召し、「やや、実盛。なんぢほどの強弓
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精兵、坂東にはいかほどあるぞ」とのたまへば、実盛あざ笑ひて申しけるは、「さては、それがしを大矢とおぼしめし候ふか。わづかに十三束こそつかまつり候へ。実盛ほど射候ふ者は、坂東にはいくらも候。大矢と申す定の者、十五束に劣つて引くは候はず。弓の強さも、したたかなる者五六人して張り候。かかる精兵どもが射候へば、鎧二三領もかさねて、やすう射とほし候ふなり。大名一人には、勢の少なき定、五百騎には劣り候はず。馬に乗りつれば、落つる道を知らず。悪所を馳すれども、馬を倒さず。いくさはまた、親も討たれよ、子も討たれよ。死すれば、乗りこえ、乗りこえ戦ひ候。西国のいくさと申すは、親討たれぬれば、孝養し、忌はれて寄せ、子討たれぬれば、その思ひ嘆きに寄せず候。兵糧米尽きぬれば、その田をつくり、刈り収めて寄せ、夏は暑しといとひ、冬は寒しときらひ候。東国にはすべてその儀候はず。甲斐、信濃の源氏ども案内は知つて候、富士の腰より搦手にやまゐり候ふらん。かう申せばとて、君を臆〔せ〕させまゐらせんとて申すにはあらず。いくさは勢にはよらず、はかりごとによるとこそ申しつたへて候へ。実盛、今度のいくさに、命生きてふたたび都へ参るべしともおぼえ候はず」と申しければ、兵どもこれを聞いて、みなふるひわななきあへり。さるほどに十月二十三日にもなりぬ。明日源平富士川にて矢合せとぞ定めける。夜に入つて平家方より源氏の陣を見わたせば、伊豆、駿河の人民どもが、いくさにおそれて、あるいは野に入り、あるいは山にかくれ、あるいは船に乗り、海川に浮かび、
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いとなみの火の見えけるを、平家の兵ども、「あな、おびたたしの源氏の陣のかがり火や。げに、野も、山も、海も、川も敵にてありけり。いかにせん」とぞさわぎける。その夜の夜半ばかりに、富士の沼にいくらも群れゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、ただ一度にばつと立ちたる羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえけるを、「すはや、源氏の大勢、実盛が申しつるにたがはず、さだめて搦手にもやまはるらん。とりこめられてはかなふまじ。ここをば引いて、尾張の須俣をふせげや」とて、取る物も取りあへず、「われさきに」とぞ落ちゆきける。あまりにあわてさわぎ、弓取る者は矢を知らず、人の馬にはわれ乗り、わが馬をば人に乗られ、あるいはつなぎたる馬に乗りて馳すれども、くひぜをめぐることかぎりなし。宿々より迎へとりて遊びける遊君、遊女ども、あるいは頭をふみ割られ、あるいは腰をふみ折られて、さけびをめく者もあり。二十四日の卯の刻に、源氏の大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天もひびき大地もうごくほど、鬨を三度つくりけれども、平家の方には音もせず。人を入れて見せければ、「みな落ちて候」と申す。あるいは敵の忘れたる鎧取りて参る者もあり、あるいは大幕取つて参る者もあり。「敵の陣には蠅だにもかけり候はず」と申す。兵衛佐殿馬よりおり、兜をぬぎ、手水うがひして、王城の方をふし拝み、「これはまつたく頼朝が高名にあらず。ひとへに八幡大菩薩の御ぱからひなり」とぞのたまひける。「やがてうち取りなれば」とて、駿河の国をば、一条の四郎【*次郎】忠頼、遠江の国をば安田の
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三郎義定にあづけらる。平家をばつづいて攻むべけれども、「さすが、うしろもおぼつかなし」とて、浮島が原より鎌倉へこそ帰られけれ。海道、宿々の遊君、遊女ども、「あら、いまいまし。討手の大将軍の、矢の一つだにも射ずして、逃げのぼり給ふうたてさよ。いくさには見逃げといふことをだに心憂きことにこそありけるに、これは聞き逃げし給ひたり」と笑ひあへり。落書どもおほかりけり。都の大将軍をば「宗盛」といふ、討手の大将をば「権亮」といふあひだ、「平家」をば「ひらや」と詠みなして、
ひらやなるむねもりいかにさわぐらん柱とたのむすけをおとして W
富士川の瀬々の岩こす水よりもはやくもおつる伊勢平氏かな W
上総守、富士川に鎧すてたりけるを詠めり。
富士川に鎧は捨てつ墨染の衣ただきよ後の世のため W
忠清はにげの馬にや乗りにける上総しりがひかけてかひなし W
さるほどに、同じき十一月八日、大将軍小松の権亮少将は、福原へ帰りのぼらるる。入道大きに怒つて、「維盛をば鬼界が島へ流すべし。侍大将上総守忠清をば死罪におこなへ」とぞのたまひける。平家の侍、老少参会して、「忠清が死罪のこといかがあるべし」と評定す。そのなかに、主馬の判官すすみ出でて申されけるは、「忠清は昔より不覚人とはうけたまはり及び候はず。あの主十八の年とおぼえ候。鳥羽殿の宝蔵に、五畿内一の悪党二人逃げこもり
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て候ひしを、『寄せてからめん』と申す者一人も候はざつしに、この忠清白昼にただ一人、築地をはねこえ、入りて、一人をば討ちとり、一人をば生捕つて、後代に名をあげたりし者に候。今度の不覚は、ただごとともおぼえ候はず。それにつけてもよくよく兵乱の御つつしみ候ふべし」とぞ申しける。同じき十日、除目おこなはれて、大将軍小松の権亮少将維盛、右近衛中将になり給ふ。「討手の大将軍と聞こえしかども、させるしいだしたることもましまさず。これはされば何事の勧賞にや」と、人々ささやぎあへり。昔、将門追罰のために、大将軍には平将軍貞盛、副将軍には俵藤太秀郷の卿うけたまはつて、坂東へ発向したりしかども、将門たやすう滅びがたかりしかば、「かさねて討手を下すべし」と、公卿僉議あつて、大将軍には宇治の民部卿忠文、清原の滋藤軍監といふ官を賜はつて、下られけり。駿河の国清見が関に宿したりし夜、かの滋藤、漫々たる海上を遠見して、漁舟の火の影寒うして波を焼く駅路の鈴の声夜山を過ぐるといふ漢詩を、高らかに詠み給へる。忠文ゆゆしくおぼえて、感涙をぞ流されける。さるほどに、将門をば貞盛、秀郷つひに討ちとつてげり。その首を持たせてのぼるほどに、駿河の国清見が関にて行きあうたり。それより前後の大将軍あひつれて上洛す。貞盛、秀郷勧賞おこなはれけるとき、「忠文、滋藤にも勧賞あるべきか」と、公卿僉議あり。九条の
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右丞相師輔公申させ給ひけるは、「坂東へ討手に向かうたりといへども、将門たやすく滅びがたきところに、この人どもみことのりをかうぶつて関の東へおもむくときに、朝敵すでに滅びたり。さてはなどか勧賞なかるべし」と申させ給へども、その時の執柄、小野の宮殿、「『疑はしきをなすことなかれ』と、礼記の文に候へば」とて、つひにおこなはせ給はず。忠文これを口惜しきことにして、「小野の宮殿の御末をば僕に見なさん。九条殿の御末をば、いつの世までも守護神とならん」と誓ひつつ、飢死にぞ死し給ひけれ。されば九条殿の御末はめでたく栄えさせ給へども、小野の宮殿の御末はしかるべき人もましまさず、今は絶え給ひけるにこそ。
第四十九句 五節の沙汰
同じく、福原に、十一月十三日、内裏造り出だして、御遷幸あり。この京は北は山そびえて高く、南は海近うして低ければ、波の音つねにかまびすしく、潮風はげしき所なり。ただし内裏は山の中なれば、「かの木の丸殿もかくやらん」とおぼえて、なかなか優なる方もありけり。人々の家々は、野の中、田の中なりければ、麻の衣はうたねども、「十市の里」とも言ひつべし。都には、「大嘗会おこなはるべし」とて、御禊の行幸なる。大嘗会と申すは、十月の末、東川に行幸なつて御禊
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あり。内裏の北野に斎場所をつくりて、神服、神具をととのふ。大極殿のまへ、龍尾道の壇の下に、廻立殿を立てて、御湯を召す。同じき壇のならびに、大嘗宮をつくりて神膳をそなへ、神宴あり。御遊あり。大極殿にて大礼あり。清暑堂にして御神楽あり。豊楽院にて宴会あり。しかるを福原には、大極殿もなければ、大礼おこなはるべき所もなし。豊楽院もなければ、宴会もおこなはれず。清暑堂もなければ、御神楽奏すべきやうもなし。「今年は新嘗会、五節会ばかりにてあるべき」よし、公卿僉議あり。されども新嘗会の祭は、旧都の神祇官にてあり。五節会はこれ浄御原の天皇、大友の王子におそはれさせ給ひて、吉野の宮にてましまししとき、月白く嵐はげしかりし夜、御心をすましつつ、琴を弾じ給ひしに、神女天降り、五度袖をひるがへす。これぞ五節〔会〕のはじめなる。今度の都遷りは、君も臣も御嘆きあり。山門、南都をはじめて、諸寺、諸山にいたるまで、しかるべからざるよし一同にうつたへ申す。さしも横紙をやぶられし太政入道も、「げにも」とや思はれけん、同じき十二月二日、にはかに都がへりありけり。いそぎ福原を出でさせ給ふ。両院六波羅に入り給ふ。中宮も行啓なる。摂政殿をはじめたてまつり、太政大臣以下公卿殿上人、「われも、われも」と供奉せらる。入道相国をはじめとして、平家の一門公卿殿上人、「われさきに」とぞのぼられける。たれか
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心憂かりつる新都に片時ものこるべき。去んぬる六月より、家どもこぼちくだし、資財、雑具を運び寄せ、形のごとく取り建てたりつるに、またもの狂はしき都がへりありければ、なにの沙汰にもおよばず、うち捨て、うち捨て、のぼられけり。おのおのすみかもなくて、八幡、賀茂、春日、嵯峨、太秦、西山、東山のかたほとりについて、御堂の廻廊、社の拝殿なんどにたち留まつてぞ、しかるべき人々もおはしける。そもそも今度の都遷りの本意をいかにといふに、「旧都は、北、東、嶺近くして、いささか事にも、春日の神木、日吉の神輿なんどいふもみだれがはし。福原は山かさなり、江へだたり、程もさすが遠ければ、さ様のことたやすからじ」とて、入道相国のはからひ出だされたりけるとかや。同じき二十三日、近江源氏のそむきしを攻めんとて、大将軍には入道の三男左兵衛督知盛、副将軍には薩摩守忠度、その勢二万余騎、近江の国へ発向す。山本、柏木、錦織なんどいふ源氏ども、一々にみな攻め落し、やがて美濃、尾張へ越え給ひけり。
第五十句 奈良炎上
都には、「高倉の宮、園城寺へ入御のとき、南都の大衆同心して、あまつさへ御迎へに参る条、これもつて朝敵なり。さらば奈良をも攻むべし」といふほどこそあれ、南都の大衆おびたたしく蜂起す。摂政殿より、「存知の旨あら
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ば、いくたびも奏聞にこそおよばめ」と仰せけれども、ひたすら用ゐたてまつらず。有官の別当忠成を御
使にして下されければ、「しや乗物より取つてひき落せ。もとどり切れ」と騒動するあひだ、忠成色をうしなひて逃げのぼる。つぎに右衛門佐親雅を下さる。これも、「もとどり切れ」と大衆ひしめきければ、取る物も取りあへず。そのときは勧学院の雑色二人がもとどり切られにけり。また南都には、大きなる毬打の玉をつくりて、これは平相国の頭と名づけて、「打て」「踏め」なんどぞ申しける。「言のもれやすきは、禍を招くなかだちなり。事つつしまざるは、敗れをとる道なり」といへり。この入道相国と申すは、かけまくもかたじけなくも、当今の外祖にてまします。しかるをか様に申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えたりける。太政入道か様の事どもを伝へ聞きて、いかでかよしと思はるべき。「かつうは南都の狼藉をしづめん」とて、備中の国の住人、瀬尾の太郎兼康を大和の国の検非違使に補せられ、兼康五百余騎にて大和の国へ発向したりしを、大衆起つて、兼康がその勢散々に打ち散らし、家の子、郎等二十余人が首を取つて、猿沢の池のはたにぞ懸けならべたる。入道相国大きに怒つて、「さらば南都を攻めよ」とて、やがて討手をさし向けらる。大将軍には入道の四男、頭の中将重衡、副将軍には中宮亮通盛、その勢四万余騎にて南都へ発向す。南都の大衆も、老少きらはず、七千余人、兜の緒をしめ、奈良坂本、
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般若寺二箇所の城郭、二つの道を切りふさぎ、在々所々に逆茂木をひき、掻楯かいて待ちかけたり。平家は四万余騎を二手にわけて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭に押し寄せて、鬨をどつとぞつくりける。大衆はみな徒歩立ちになつて、打物にてたたかふ。官軍は馬にて駆けむかひ、駆けむかひ、あそこ、ここに、追つかけ、追つかけ、さしつめ、ひきつめ、散々に射れば、おほくの者ども討たれにけり。卯の刻に矢合せして、一日戦ひ暮らしぬ。夜に入りて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭ともに破れぬ。落ちゆく大衆のなかに、坂の四郎栄覚といふ悪僧あり。打物取つても、弓矢を取つても、力の強さも、七大寺、十五大寺にすぐれたり。萌黄縅の腹巻に、黒糸縅の鎧をかさねてぞ着たりける。帽子に五枚兜の緒をしめ、左右の手には、茅萱の葉の様に反つたる白柄の大長刀、黒漆の太刀を持つままに、同宿十余人前後に立て、転害の門よりうち出でたり。これぞしばらく支へたる。おほくの軍兵、馬の足薙がれて討たれにけり。されども官軍大勢にて、入れかへ、入れかへ攻めければ、栄覚が前後左右にふせぐところの同宿みな討たれぬ。栄覚ひとり猛けれども、うしろまばらになりければ、力およばずひき退く。夜いくさになりて、暗さはくらし、大将軍頭の中将、般若寺の門の外にうち立ちて、「同士討ちしてはあしかりなん。火を出だせ」と下知せられけるほどこそあれ、平家の勢のなかに、播磨の国の住人、福井の庄司二郎大夫
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友方といふ者、楯をわり、たい松にして、在家に火をぞつけたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風ははげしし、火元は一つなりけれども、吹きまよふ風におほくの伽藍に吹きつけたり。恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂、般若寺にて討たれにけり。行歩にかなへる者は、吉野、十津川の方へ落ちゆく。歩みもえぬ老僧や、尋常なる修学者、児ども、女童部は、大仏殿、山階寺のうちへ「われさきに」とぞ逃げゆきける。大仏殿の二階の上には、千余人逃げのぼる。「敵のつづくをのぼせじ」と階をば引いてげり。猛火はまさしくおしかけたり。をめきさけぶ声、「焦熱、大焦熱、無間、阿鼻の焔の底の罪人も、これには過ぎじ」とぞおぼえたる。興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然湧出の観世音、瑠璃をならべし四面の廊、朱丹をまじへし二階の廊、九輪空にかがやきし二基の塔も、たちまちに煙となるこそかなしけれ。東大寺は、常住不滅、実報寂光の生身の御仏とおぼしめしなぞらひて、聖武皇帝、手づから身づからみがきたて給ひし金銅十六丈の盧遮那仏、烏瑟高くあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫あらたに拝せられ給ひし満月の尊容も、御くしは焼け落ちて大地にあり、御身は湧きあうて山のごとく、八万四千の相好は、秋の月、はやく五重の雲におぼろなり。四十一の瓔珞は、夜
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の星、むなしく十悪の風にただよへり。煙は半天にみちみちて、焔は虚空にひまもなし。まのあたりに見たてまつる者は、さらにまなこをあてず。はるかに伝へて聞く人は、肝魂をうしなへり。法相、三論の法門聖教すべて一巻ものこらず。わが朝はいふにおよばず、天竺、震旦にもこれほどの法滅はあるべしともおぼえず。優填大王の紫磨金色をみがき、毘首羯磨が赤栴檀も、わづかに等身の霊像なり。いはんやこれは、南閻浮提の中には、唯一無双の御仏、ながく朽損の期あるべしともおぼえざりしに、いま毒煙の塵にまじはつて、久しくかなしみをのこし給へり。梵釈四王、龍神八部の冥衆もおどろきさわぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、いかなることをかおぼしめされけん、神慮のほどもはかりがたし。春日野の露も色かはり、三笠山の嵐の音まで、うらむるさまにぞ聞こえける。焔の中にて焼け死ぬる人々、数を注したりければ、「大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人」、ある御堂には「五百余人」、ある御堂には「三百余人」、つぶさに注したりければ、三千五百余人なり。戦場にて討たるる大衆千余人。少々は般若寺の門の前に切りかけ、少々は首を持たせて都にのぼり給ふ。二十九日、頭の中将南都をほろぼして北京へ帰る。入道相国ばかりぞ憤りはれてよろこばれける。中宮、一院、上皇、摂政殿以下の人々は、「悪僧をこそほろぼすとも、伽藍破滅すべし
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や」とぞ御嘆きある。衆徒の首ども、もとは、「大路をわたして、獄門の木にかけらるべし」と聞こえしかども、東大寺、興福寺滅するあさましさに、沙汰にもおよばず、あそこ、ここの溝や堀にぞ捨ておきける。聖武天皇宸筆の御記文にも、「朕が寺衰微せば、天下の衰微なり。朕が寺興複せば、天下も興複すべし」とあそばされたり。されば天下衰微せんこと、うたがひなしとぞ見えたりける。あさましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり。


平家物語 百二十句本(京都本)巻第六
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平家巻第六     目  録
第五十一句 高倉の院崩御
     南都の僧綱解官の事
     初音の僧正の沙汰
     上皇御悩
     澄憲法印の歌
第五十二句 紅葉の巻
     紅葉の山の沙汰
     紅葉をもつて酒あたたむる事
     女房の装束奪ひ取らるる事
     新しき装束賜はる事
第五十三句 葵の女御
     葵の前龍顔咫尺の事
     葵の女御死去
     小督殿の事
     入道内侍腹の姫宮法皇に奉らるる事
第五十四句 義仲謀叛
     義仲幼少の事
     城の太郎受領
     石川城落去
     宇佐の大宮司飛脚
第五十五句 入道死去
     入道病ひの事
     二位殿悪夢の事
     酒狂の人からめ捕らるる事
     兵庫の築島
第五十六句 祇園の女御
     忠盛忍び御幸供奉の事
     忠盛祇園の女御下さるる事
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     紀伊の国糸我山歌の事
     若君子息に定まる事
     慈心坊閻魔の庁■[*口+屈]請
     流沙葱嶺の事
第五十七句 邦綱死去
     邦綱四条の内裏焼亡の時輿舁かるる事
     邦綱人長の装束とり出ださるる事
     如無僧都烏帽子とり出ださるる事
     邦綱蒼梧の詩申さるる事
第五十八句 須俣川
     法皇還御
     大仏殿事始め
     美濃の国目代都へ注進の事
     源氏合戦に利を失ふ事
第五十九句 城の太郎頓死
     大赦
     平家所願不成就の事
     中宮建礼門院の院号
     太白星の沙汰
第六十句 城の四郎官途
     城の四郎信濃の国発向
     井上の九郎武略の事
     城の四郎戦に利を失ふ事
     京中の平家油断の事
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平家物語 巻第六
第五十一句 高倉の院崩御
 治承五年正月一日、内裏には、東国の兵革、南都の火災によつて主上出御もなし。物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず。藤氏の公卿一人も参られず。氏寺焼失によつてなり。二日、殿上の淵酔もなし。吉野の国栖も参らず。男女うちむせびて、禁中いまいましくぞ見えける。仏法、王法ともに尽きぬることぞあさましき。法皇仰せなりけるは、「四代の帝王、思へば子なり、孫なり。いかなれば政務をとどめられて、年月をおくるらん」とぞ御嘆きありける。
五日、南都の僧綱等解官せられ、公請停止し、所職を没収せらる。衆徒は、老いたるも、若きも、あるいは射殺され、あるいは切り殺され、焔のうちを出でず、煙にむせび、おほく滅びしかば、わづかに残るともがらは、山林にまじはつて、跡をとどむるは一人もなし。興福寺の別当花林院の僧正永縁は、仏像、経巻のけぶりとのぼるを見給ひて、「あな、あさまし」と心をくだかれけるより、病ひついて、うち臥し給ひしかば、いくほどなくして、つひに、はかなくなり給ひぬ。この僧正は、優にやさしき人にておはしけり。あるとき、ほととぎすの鳴くを聞いて、
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聞くたびにめづらしければほととぎすいつも初音のここちこそすれ
といふ歌を詠み給ひて、「初音の僧正」とぞ言はれ給ひける。ただし、「かたのごとくも御斎会あるべき」とて、僧名の沙汰ありしに「南都の僧綱は解官せられぬ。北京の僧綱をもつておこなはるべきか」と公卿僉議ありしかども、さればとて、南都を捨てはてさせ給ふべきならねば、三論宗の学生、成宝已講とて勧修寺にしのびつつ、かくれゐたりけるを召し出だされて、御斎会かたのごとくとりおこなはる。上皇は、去々年法皇の鳥羽殿におし籠められさせ給ひし御こと、高倉の宮の討たれさせ給ひし御ありさま、都遷しとてあさましかりし天下の乱れ、か様の御ことども心ぐるしうおぼしめしけるより、御悩つかせ給ひて、つねは御わづらはしく聞こえさせ給ひしが、東大寺、興福寺の滅びぬるよし聞こしめしてよりは、御悩いよいよおもらせ給ふ。法皇なのめならず御嘆き給ひしほどに、同じき正月十四日、六波羅の池殿にて、新院つひに崩御なりぬ。御宇十二年、徳政千万端、詩書仁義のすたれぬる道をおこし、理世安楽の絶えたる跡を継ぎ給ふ。三明六通の羅漢もまぬかれ給はず、幻術変化の権者ものがれぬ道なれば、有為無常のならひなれば、ことわり過ぎてぞおぼえける。やがてその夜、東山の清閑寺へうつしたてまつり、夕べの煙とたぐへて、春の霞とのぼらせ給ふ。澄憲法印、「御葬送に参りあはん」とて、いそぎ山より下られけるが、はや、むなしき煙とならせ給ふ
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を見たてまつりて、
つねに見し君が御幸を今日とへばかへらぬ旅と聞くぞかなしき
またある女房、「君かくれさせ給ひぬ」と聞きて、かうぞ思ひつづけける。
雲の上に行くすゑとほく見し月のひかり消えぬと聞くぞかなしき
御年二十一、内には十戒をたもち、外には五常を乱らず、礼儀を正しうせさせ給ひけり。末代の賢王にてましましければ、世の惜しみたてまつること、月日の光を失へるがごとし。か様に、人の願ひもかなはず、民の果報もつたなき、人間のさかひこそかなしけれ。
第五十二句 紅葉の巻
「優にやさしう、人の思ひつきたてまつること、おそらくは延喜、天暦の帝と申すとも、いかでかまさらせ給ふべき」とぞ申しける。〔第五十二句 紅葉の巻〕おほかたは、賢王の名をあげ、仁徳をなほ施させましますことも、君御成人ののち、清濁を分たせ給ひての上のことにこそあるに、この君、無下に幼主の御時より、性を柔和にたもたせまします。
去んぬる承安[* 「じうわ」と有るのを他本により訂正]のころほひ、御在位の初めつかた、御年未だ十歳ばかりにもやならせましましけん、あまりに紅葉を愛せさせ給ひて、北の陣に小山を築かせ、櫨や楓、色いつくしく紅葉したるを植ゑさせて、「紅葉の山」と名づけて終日に叡覧
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あるに、なほあきたらせ給はず。しかるを、ある夜の嵐はげしう吹いて、紅葉みな吹き散らし、落葉すこぶる狼藉なり。殿守のとものみやづこ「朝ぎよめす」とて、これをことごとく掃き捨てけり。のこる枝、散れる木の葉をかき集めて、風すさまじかりける朝なれば、縫殿の陣にして酒あたためてたべける薪にこそはしてんげれ。奉行の蔵人行幸より先にいそぎ行きて見るに跡かたなし。「いかに」と問ふに、「しかじか」と答ふ。「あな、あさまし。さして君の執しおぼしめされつる紅葉を、か様にしけることの心憂さよ。知らず、なんぢら、禁獄、流罪にもおよび、わが身もいかなる逆鱗にかあづからんずらん」など申しけるところに、主上いとどしく夜の御殿を出でさせ給ひもあへず、かしこに行幸なつて紅葉を叡覧あるに、なかりければ、「いかに」と御たづねありき。業忠なにと奏すべきむねもなうして、ありのままに奏聞す。天気ことに御心よげにうち笑ませ給ひて、「『林間に酒をあたためて、紅葉を焼く』といふ詩の心をば、さればそれらには誰が教へけるぞや。やさしうもつかまつりけるものかな」とて、かへつて叡感にあづかるうへは、あへて勅勘なかりけり。また去んぬる安元のころほひ、御方違の行幸のありしとき、さらでだに鶏人あかつきをとなふる声、明王のねぶりをおどろかすほどにもなりしかば、いつも御ねざめがちにて、つやつや御寝もならざりけり。いはんや冬の夜の雪降り冴えたるには、延喜の聖代、「国土の民どもが、いかに寒かるらん」と、夜の御殿にして、御衣をぬがせ給ひける
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御ことまでも、おぼしめし出でて、わが帝徳のいたらぬことをぞ御嘆きありけり。やや深更におよんで、ほどとほく人のさけぶ声しけり。供奉の人々は聞きもつけられざりけれども、主上は聞こしめして、「いまさけぶは何者ぞ。見てまゐれ」と仰せければ、上臥したる殿上人、上日の者に仰するに、その辺を走りめぐりてたづねぬれば、ある辻に、あやしの女童部の長持のふたさげて泣くにてぞある。「いかに」と問ふに、「主の女房の、院の御所にさぶらはせ給ふが、このほどやうやうにして仕立てられたる御装束をもちて参るほどに、ただ今男二三人まうで来て、奪ひ取りてまかりぬるぞや。いまは装束がさぶらはばこそ、御所にもさぶらはせ給はめ。また、はかばかしうたちやどらせ給ふべき親しい御方もさぶらはねば、これを案じつづくるに泣くなり」とぞ申しける。女童を具して参りつつ、この様を奏聞す。主上は聞こしめし、「あな無慚や。何者のしわざにてかあらん」とて、龍顔より御涙をながさせ給ふぞかたじけなき。「尭の民は尭〔の〕心のすなほなるをもつて心とせり。かるがゆゑにみなすなほなり。今の世の民は、朕が心をもつて心とするがゆゑに、かだましき者朝にあつて罪を犯す。これわが恥にあらずや」とぞ御嘆きありける。「さて、取られつる衣は何色ぞ」と御尋ねありければ、「しかじか」と申す。建礼門院そのころ中宮にてましましけるとき、その御方へ、「さ様の色したる御衣や候ふ」と御尋ねありければ、さきのより、はるかにいつくしきが参りたりけるを、くだんの女童にぞ賜ばせける。「いまだ
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夜深し。またもさるめにもやあはん」とて、上日の者につけて、主の女房の局まで送らせ給ふぞかたじけなき。されば、あやしの賤の男、賤の女にいたるまで、ただこの君、千秋万歳の宝算を祈りたてまつるに、わづかに二十一にて崩御なるこそ悲しけれ。
第五十三句 葵の女御
なかにもあはれなりし御ことは、中宮の御方に侍はれける女房の召し使はれける女童、思ひのほかに龍顔に咫尺することあり。ただ世のつねにあからさまなる御ことにてもなく、夜な夜なこれをぞ召されける。まめやかなりし御心ざしふかかりければ、主の女房も召し使はず、かへりて主のごとくにぞかしづきける。そのかみ謡詠にいへることあり。「女を生みても悲酸することなかれ。男を生みても喜歓することなかれ。男は候にだにも封ぜられず。女は美たるゆゑに后を立てる」といへり。この人、女御、后、国母、仙院ともあふがれなんず。めでたかりけるさいはひかな。その名を葵の前といひければ、人内々は「葵の女御」なんどぞ申しける。主上はこのよしを聞こしめして、そののちは召されざりけり。御心ざしの尽きたるにはあらねども、世のそしりをはばからせ給ふによつてなり。主上つねは御ながめがちにて、夜の御殿にのみぞ入らせ給ふ。そのときの摂禄松殿、「されば心ぐるしきことにこそあらんなれ。
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御なぐさめたてまつらん」とて、いそぎ御参内あつて、「さ様に叡慮にかけさせましまさん御ことを、なんでう子細か候ふべき。くだんの女房とくとく召さるべしとおぼえ候。俗姓をたづぬるにおよばず。基房やがて猶子にし候はん」と奏せさせ給へば、主上聞こしめして、「いさとよ、そこに申すことはさることなれども、位を退いてのちは、ままさるためしもあんなり。まさしう在位のとき、さ様のことは後代のそしりなるべし」とて、聞こしめしも入れざりけり。松殿力および給はず、御涙を押さへて、御退出あり。そののち主上なにとなく御手習のついでにおぼしめし出だされけるあひだ、緑の薄様の匂ひことにふかかりけるに、ふるき歌なれども、おぼしめし出だしてあそばしけり。
しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人のとふまで
この手習を、冷泉の少将隆房御心知りの人にて、これを取つて、くだんの葵の前に賜はらせければ、顔うちあかめ、「例ならぬ心地出できたり」とて里へ帰り、うち臥すこと五六日にして、つひにはかなくなりにけり。「君が一日の恩のために、妾が百年の身を滅ぼす」とも、か様のことをや申すべき。昔唐の太宗、鄭仁基がむすめを元和殿に入れんとし給ひしを、魏徴、「かのむすめはすでに陸氏に約せり」といさめ申せしかば、殿に入れらるることをやめらるるには、すこしもたがはせ給はず。主上恋慕の御思ひにしづませ給ふを、中宮の御方より、なぐさめまゐらせんとて、「小督殿」
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と申す女房を参らせらる。桜町の中納言成範の卿の御むすめ、冷泉の大納言隆房の卿のいまだ少将なりしとき、見そめたりし女房なり。少将はじめは歌を詠み、文をつくし、おほくの年月を恋ひかなしみたまひしかども、なびく気色もなかりしが、さすがになさけによわる心にや、つひには、なびき給ひけり。少将わりなく思はれけるが、いくほどなかりしに、今はまた君に召されまゐらせて、せんかたなくかなしくて、あかぬ別れの涙には、袖しほたれてほしあへず。「よそながらも、小督殿をいま一度見たてまつることもや」と、そのこととなう、つねに参内せられけり。あるとき、おはしける局の辺、御簾のあたりをたたずみありき給へども、小督殿、「われ君へ召されしうへは、少将いかに言ふとも、ことばをかはし、文をも見るべきならず」とて、つらつらなさけをだにかけ給はず。少将せめての思ひのあまりに一首の歌を書きて、この女房のおはしける御簾のうちへぞ投げ入れたり。
思ひかね心はそらにみちのくのちかのしほがまちかきかひなし
女房も「歌の返りことせばや」とは思はれけるが、それも君の御ため、御うしろめたうや思はれけん、手にだに取つて見給はず。上童に取らせて、坪のうちへぞ投げ出だす。少将なさけなくうらめしう思はれけれども、「人もこそ見れ」とそらおそろしさに、いそぎ取つてふところに入れ、涙をおさへて出でられけるが、なほ立ち返り、
たまづさをいまは手にだにとらじとやさこそ心に思ひすつらん
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今はこの世にてあひ見んこともかたければ、「生きてひまなくものを思はんより、ただ死なん」とのみぞ願はれける。逢うてあはざる恨みもあり、逢はで思ひふかき恋もあり、逢はで思ふ恋よりも、逢うてあはざる恨みこそ、せんかたなうは思はれけれ。太政入道このよしを伝へ聞き給ひて、御姫は中宮にて、内裏へわたらせ給ふ、冷泉の少将の北の方も同じく御むすめなり。この小督殿ひとかたならずか様にありしあひだ、太政入道、「いやいや、この小督があらんほどは、この世の中あしかりなんず。小督を、禁中を召し出ださばや」とぞのたまひける。小督殿、このよしを聞き給ひて、「わが身のことはいかにもありなん。君の御ため心ぐるしかるべき」と、内裏をひそかに逃げ出でて、いづくともなく失せ給ひぬ。主上御嘆きなのめならず、昼は夜の御殿にのみ入らせおはしまして、御涙にむせびおはします。夜は南殿に出御なつて、月を御覧じてぞなぐさませましましける。入道相国、このよしを伝へ聞き、「君は小督がゆゑに思ひしづませ給ひたんなり。さらんにとつては」とて、御介錯の女房たちをもつけたてまつらず。参内し給ふ臣下をもそねみ給へば、入道の権威にはばかつて、参りかよふ人もなし。禁中いまいましうぞなりにける。さるほどに八月十日あまりにもなりにけり。主上、さしもくまなき空なれど、御涙にくもりつつ月の光もさやかならず、夜ふけ、人しづまりて、主上南殿へ出御なつて、「人やある。人やある」と仰せられけれども、御いらへ申す人もなし。ややあつて、弾正大弼、そのころ蔵人にて候ひけるが、
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その夜しも御宿直して、はるかにとほく侍ふが、「仲国」といらへ申したりければ、「ちかう参れ。仰せあはすべきことあり」。「なにごとやらん」と思ひて御前ちかう参りたれば、「なんぢはもし小督がゆくへや知りたる」と仰せければ、仲国、「いかでか知りまゐらせ候ふべき」と申せば、主上、「まことやらん、『小督は嵯峨のほとり、片折戸〔と〕かやしたんなるうちにあり』と申す者のあるぞとよ。主が名をば知らずとも、たづねて参らせてんや」と仰せければ、仲国、「主が名を知り候はでは、いかでかたづねまゐらせ候ふべき」と申しければ、主上、「げにも」とて、龍顔より御涙をながさせ給ふ。仲国つくづくものを案ずるに、「まことや、小督殿は琴ひき給ふ人ぞかし。この月の明さに、君の御こと思ひ出でまゐらせ給ひて、琴ひき給はぬことはよもあらじ。内裏にて琴ひき給ひしときは、仲国笛の役に召されしかば、その琴の音は、いづくなりとも聞き知らんずものを。嵯峨の在家いくほどかあるべき。うちまはつてたづねんに、などか聞き出ださざるべき」と思ひければ、「もしやとたづねまゐらせて見候はん。ただし、たづね逢ひまゐらせて候ふとも、御書なんどを賜はらでは、うはの空とやおぼしめされ候はんずらん。御書を賜はつて参り候はん」と申しければ、「げにも」とて、御書をあそばして賜びにけり。「やがて寮の御馬に乗りて行け」とぞ仰せける。仲国、寮の御馬腸はつて、明月に鞭をあげ、そことも知らずぞあこがれ行く。「小鹿なくこの山里」と詠じけん、嵯峨のあたりの秋のころ、さこそはあはれにも思ひけめ。片折戸したる家を見つけては、「このうちにもやおはすらん」と、ひかへ、ひかへ、聞きけれ
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ども、琴ひく所もなかりけり。「御堂なんどへ参り給へることもや」と、釈迦堂をはじめて、堂々を見まはれども、小督殿に似たる女房だにもなかりけり。「内裏をばたのもしげに申して出でぬ、この女房にはいまだたづねもあはず、むなしう帰り参りたらば、なかなか参らざらんよりもあしかるべし。これよりいづちへも行かばや」とは思へども、「いづくか王地ならざらん、身をかくすべき宿もなし、いかにせんずる」と思ひけるが、「まことや、法輪寺はほど近き所なれば、もし月の光にさそはれて、参り給へることもや」と、そなたへ向いてぞ歩ませゆく。亀山のあたり近く、松の一むらあるかたに、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か、松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに、片折戸したるうちに、琴をぞひきすさまれける。しばしひかへて聞きければ、まがふべうもなき小督殿の爪音なり。「楽はなにぞ」と聞きければ、「夫を思ひて恋ふ」とよむ「想夫恋」といふ楽なり。「いとほしや、楽こそおほきなかに、君の御ことを思ひ出でまゐらせ給ひて、この楽をひき給ふことよ」と思ひて、馬より飛んで降り、門をほとほととたたきければ、琴ははやひきやみ、高声に、「これは内裏より仲国が御つかひに参りて候」とて、たたけども、とがむる人もなかりけり。ややあつて、内より人の出づる音しけり。「あはや」とうれしう思ひて待つほどに、錠をはづし、門を細めにあけ、いたいけしたる小女房の、顔ばかりさし出だし、「これは、さ様に内裏より御つかひなんど賜はるべき所にてもさぶらはず。門たがひにて
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ぞさぶらはん」と言ひければ、仲国、「なかなか返事をせば、門たてられ、錠さされては、かなはじ」と思ひて、是非なく押し開けてぞ入りにける。妻戸のきはの縁にかしこまつて、「いかに、か様の所には御わたり候ふやらん。君は御ゆゑにおぼしめししづませ給ひて、御命もすでにあやふくこそ見えさせおはしまし候へ。か様に申すは、ただうはの空とやおぼしめされ候ふらん。御書を賜はりて参りて候」とて、取り出だし奉る。小女房取り次いで、小督殿にこそ参らせけれ。これをあけて見給ふに、まことに君の御書なりけるあひだ、やがて御返事書いて、ひき結び、女房の装束一かさねそへて出だされたり。仲国、女房の装束をば肩にうちかけ、申しけるは、「余の御使なんどにて候はんには、御返事のうへはとかう申すべき様候はねども、内裏にて御琴あそばされ候ひしとき、つねは笛の役に召されまゐらせし奉公、いかでか忘れさせ給ふべき。直の御返りごとうけたまはらずして、帰り参らんこと、口惜しう候」と申しければ、小督殿、「げにも」とや思はれけん、みづから返りごとし給ひけり。「そこにも聞かせ給ひつらん。入道あまりにおそろしきことをのみ申すと聞きしかば、あさましさに、ある暮れほどに、内裏をばひそかにまぎれ出でて、このほどは、か様の所に住みさぶらへば、琴なんどひくこともなかりつるに、さてしもあるべきことならねば、明日よりは大原の奥に思ひたつことのさぶらへば、主の女房、こよひばかりの名残を惜しみて、『いまは夜もふけぬ、立ち聞く人もあらじ』なんど、しきりにすすむるあひだ、さぞな、昔の名残もさすがゆかしくて、手なれし琴をひくほどに、
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やすく聞き出だされけりな」とて、涙せきあへ給はねば、仲国も袖をぞしぼりける。ややありて、仲国、涙をおさへ申しけるは、「『明日よりは大原の奥におぼしめし立つこと』と候ふは、御様なんど変へらるべきにこそ。ゆめゆめあるべうも候はず。君の御嘆きをば、されば何とかしまゐらせ給ふべき。こればし出だしまゐらすな」とて、供に具したりける馬部、吉上なんどいふ者を留め置き、その夜は守護させ、わが身は寮の御馬にうち乗り、内裏へ帰り参りたりければ、夜はほのぼのと明けにけり。仲国、寮の御馬つながせ、女房の装束を、馬形の障〔子〕にかけ、「今は御寝もなりぬらん、たれしてか申し入るべき」と思ひて、南殿の方へ参るほどに、主上はいまだゆふべの御座にぞましましける。南に翔り北に向かひ、寒温はなほ秋の雁につけがたし。東に出で西に流る、瞻望をただ暁の月に寄せあたふ。と、心ぼそげにうちながめさせ給ふところに、仲国づんと参り、小督殿の御返事とり出だして奉る。君なのめならず御感あつて、「なんぢら、さら〔ば〕、夕さりやがて具して参れ」とぞ仰せける。入道相国のかへり聞き給はんことはおそろしけれども、これまた綸言なれば、力およばず、雑色、牛飼、牛、車をきよげに沙汰し、嵯峨へ行き向かひ、「御迎ひに参りて候」と申しければ、小督、参るまじきよししきりにのたまへども、とかくこしらへて、車にとり乗せたてまつり、内裏へ帰り参りたりければ、かすかなる所にしのばせて、夜な夜な召されけるほどに、姫宮一人出できさせ給ひぬ。坊門の女院
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の御ことなり。入道相国、いかがしたりけん、このよしを伝へ聞き給ひて、「君、小督を失ひ給ひたりといふことは、跡かたもなきそらごとにてありけり。その儀ならば」とつねはのたまひけるが、小督殿をたばかり出だして、尼にぞなされける。出家は日ごろより思ひまうけたる道なれども、心ならず尼になされて、年二十三にて、濃き墨染にやつれつつ、嵯峨の辺にぞ住まれける。主上は、か様の事どもを御心ぐるしうおぼしめされけるより、御悩つかせ給ひて、つひに崩御なりぬ。法皇、御嘆きのみうちつづき、御悲しみぞひまなかりける。去んぬる永万には、第一の御子二条の院崩御なり、また安元二年七月には、御孫六条の院かくれさせたまひぬ。同じく八月七日、「天にすまば比翼の鳥、地にすまば連理の枝とならん」と、銀河の星をさして、御契りあさからざりし建春門院も、秋の霜にをかされて、朝の露と消えさせ給ひぬ。年月はかさなれども、昨日、今日の御別れの様におぼしめして、御涙いまだ尽きせぬに、治承四年の五月には、第二の御子高倉の宮討たれさせ給ひぬ。現世、後世たのみおぼしめしつるこの君さへ、先立たせ給ひぬれば、ただとにかくに尽きせぬは御涙なり。「悲しみの至つてかなしきは、老いて子におくれたるより悲しみはなし。恨みのことにうらめしきは、若うして親に先立ちしよりうらみなるはなし。老少不定を知るといへども、なほ前後のあひちがふに迷ふ」と、かの朝綱の相公の、子息澄明におくれて書きたりし筆の跡、いまこそおぼしめし知られて
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あはれなれ。さるままに、かの一乗妙典の御読誦もおこたり給はず、三密の行法の御薫修もつもらせ給ひけり。天下暗闇になりしかば、雲の上人、花の袂もやつれにけり。太政入道、日ごろいたう情なうふるまひおきし事ども、さすがおそろしくや思はれけん、「法皇をなぐさめまゐらせん」とて、安芸の厳島の内侍が腹の御むすめ、生年十八歳になり給ふ、優にはなやかにましましけるを、法皇へ参らせらる。上臈女房たち、あまたえらばれ、公卿、殿上人おほく供奉して、ひとへに后御入内の儀式にてぞありける。「上皇かくれさせ給ひてのち、わづか三七日だにも過ぎざるに、いつしかかくある例、しかるべからず」とぞ人々はささやきあはれける。
第五十四句 義仲謀叛
そのころ信濃の国に、木曽の冠者義仲といふ源氏ありと聞こえけり。これは故六条判官為義が次男、帯刀先生義賢が子なり。義賢は久寿二年八月十六日、武蔵の国大倉にして、甥の鎌倉悪源太義平がために誅せられたり。そのとき義仲二歳になりけるを、母泣く泣くいだいて、信濃の国に越えて、木曽の中三兼遠がもとへ行き、「いかにもしてこれを育て、人になして見せ給へ」と言ひければ、兼遠請とつて、かひがひしう二十四年養育す。やうやう人となるままに、
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力も世にすぐれて強く、心も並ぶ者なし。つねには「いかにもして平家を滅ぼして、世を取らばや」なんどぞ申しける。兼遠おほきによろこんで、「その料にこそ、君をばこの二十四年養育申し候へ。かく仰せられ候ふこそ、八幡殿の御末とはおぼえさせ給へ」と申しければ、木曽、心いとどたけくなつて、根の井の大弥太滋野の幸親をはじめとして、国中の兵をかたらふに、一人もそむくはなかりけり。上野の国には、故帯刀先生義賢のよしみによつて、那波の広澄をはじめとして、多胡の郡の者ども、みなしたがひつく。平家末になるをりを得て、源氏年来の素懐をとげん」と欲す。木曽といふ所は、信濃にとつても南の端、美濃の国の境なり。都も無下にほど近ければ、平家の人々漏れ聞きて、「こはいかに」とぞさわがれける。入道相国のたまひけるは、「それ心にくからず。思へば、信濃一国の兵こそしたがひつくといふとも、越後の国には、余五将軍の末葉、城の太郎資長、同じく四郎資茂、是等(これら)は兄弟ともに多勢の者なり。仰せ下したらんずるに、などか討ちてまゐらせざるべき」とのたまへば、「いかがあらんずらん」と、内々はささやく者もおほかりけり。同じく二月一日、越後の国の住人城の太郎資長、越後守に任ず。これは木曽を追罰すべきはかりごととぞ聞こえし。同じく七日、都には、大臣以下家々にして、尊勝陀羅尼、不動明王を書供養せらる。これは兵乱の祈りのためなり。同じく九日、河内の国石川の郡に候ひける、武蔵権守入道義基
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が子息石川の判官代義兼、兵衛佐頼朝に同心のよし聞こえしかば、入道相国やがて討手をさし遣はす。討手の大将には源太夫判官季貞、摂津の判官盛澄、三千余騎にて、河内の国へ発向す。城のうちにもその勢百騎には過ぎざりけり。鬨つくり、矢合せして、入れかへ、入れかへ、数刻たたかふ。城内の兵ども、手負ひ、戦ひ、討死する者おほかりけり。武蔵権守入道義基討死す。子息石川の判官代義兼、痛手負ひて、生捕にせらる。同じく十日、義基法師が首、大路をわたさる。諒闇に賊首をわたさるることは、堀河の天皇崩御のとき、前の対馬守源の義親が首をわたされし例とぞ聞こえし。同じく十二日、鎮西より飛脚来たりけり。宇佐の大宮司公通が申しけるは、「九州の者ども、緒方の三郎をはじめとして、臼杵、戸次、菊池、原田、松浦党にいたるまで、ひたすら源氏に心を通じて、太宰府の下知にもしたがはず」とぞ申しける。東国、北国すでにそむき、南海道には、熊野の別当湛増以下みな平家をそむいて、源氏に同心しけり。「四夷たちまちに乱れぬ。世はただ今失せなんず」と心ある人かなしまずといふことなし。前の右大将宗盛申されけるは、「討手は去年もつかはして候へども、しいだしたることもなし。今度は宗盛東国へまかり向かひ候はん」と申されければ、上下色代して、「もつともしかるべう候。さ様にも候はば、たれも尻足をば踏み候はじ」「武官に
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そなはり、弓矢にたづさはらん人々は、みな右大将殿を大将として、東国へ発向すべき」よしをこそ宣下せられけれ。
第五十五句 入道死去
同じき二十七日、「前の右大将宗盛、源氏追罰のために、東国への門出」と聞こえしかば、「入道相国、例ならざること出でき給へり」とて、右大将、その日の門出とどまりぬ。同じき二十八日より、「重き病うけ給へり」とて、京中、六波羅、大地うちかへしたるごとくにさわぎあへり。たかきも、いやしきも、これを聞いて、「あは、しつるは」とぞ申しける。入道、病ひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入れ給はず。身のうちのあつきこと、火をたくがごとし。臥したまへる所、四五間がうちへ入る者は、あつさ堪へがたし。ただのたまふこととては、「あつや、あつや」とばかりなり。比叡山より、千手院の水を汲み、石の舟にたたへ、それにおりて冷したまへば、水おびたたしく沸きあがり、ほどなく湯にぞなりにける。もしや助かり給ふと、筧の水をまかせたれば、石や、くろがねなどの焼けたる様に、水ほどばしつて、寄りつかず。みづからあたる水は、ほのほとなつて燃えければ、黒煙殿中にみちみちて、うづまいて上がりけり。これや昔、法蔵僧都といふ人、閻魔の請におもむきて、母の生まれ所をたづねしに、閻王あはれみ給ひて、獄卒をあひそへ、焦熱地獄へつかはさる。くろがねの門のうちへさし入れば、流星なんどのごとくに、ほのほ
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空に立ち上がり、多百由旬におよびけんも、今こそ思ひ知られけれ。入道相国の北の方、二位殿の夢に見給ひけるこそおそろしけれ。福原の岡の御所とおぼしくてある所に、猛火おびたたしく燃えたる車を、門のうちへやり入れたり。車の前後に立ちたるものは、あるいは牛の面の様なるものもあり、あるいは馬の面の様なるものもあり。車のまへには、「無」といふ文字ばかりぞ見えたる鉄の札を立てたりけり。二位殿夢の心に、「あれはいかに」と御たづねあり。「閻魔より、平家太政入道殿の御迎へに参りて候」と申す。「さて、その札はいかなる札ぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提、金銅十六丈の盧遮那仏を、焼き滅ぼし給へる罪によつて、無間の底に落ち給ふべきよし、閻魔の庁に御さだめ候ふが、『無間』の『無』をば書かれ、『間』の字をば書かれず候ふなり」とぞ申しける。二位殿夢さめてのち、汗水になり、これを人に語り給へば、聞く者、身の毛もよだちけり。霊仏、霊社に金銀七宝をなげうち、馬、鞍、鎧、兜、弓矢、太刀、刀にいたるまで、取り出だし運び出だし、祈られけれども、しるしもなし。男女、公達さし集まつて、「いかにせん」と泣き悲しみたまへども、かなふべしとも見えざりけり。同じき閏二月〔二日〕、二位殿あつさ堪へがたけれども、枕がみにたち寄り、泣く泣くのたまひけるは、「御ありさま、日にそへてたのみすくなうこそ見えさせ給へ。おぼしめすことあらば、ものおぼえさせ給ひしとき、仰せおかれよ」とぞのたまひける。入道相国、さしも日ごろはゆゆしくましませしかども、
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よに苦しげにてのたまひけるは、「われ、保元、平治よりこのかた、度々の朝敵をたひらげ、かたじけなくも帝祖、太政大臣にいたつて、栄華子孫におよぶ。ただし伊豆の国の流人、前の兵衛佐頼朝が首をつひに見ざりつるこそやすからね。われいかにもなりなんのちは、堂塔を建て、孝養をもなすべからず。やがて討手をつかはし、頼朝が首をはねて、わが塚のまへにかけべし。それぞ孝養にてあらんずる」とのたまひけるぞ罪ふかき。同じき四日、病に責められ、せめてのことには、板に水をそそぎ、それに臥しまろび給へども、助かる心地もし給はず。悶絶■地して、つひにあつけ死にぞ、死に給ひける。馬、車の馳せちがふ音、天もひびき、大地もうごくほどなり。「一天の君、万乗の主、いかなることおはすとも、これには過ぎじ」とぞ見えし。今年六十四にぞなり給ふ。老死といふべきにはあらねども、宿運たちまちに尽き給へば、大法、秘法のしるしもなく、神明三宝の威光も消え、諸天も擁護し給はず。いはんや凡慮においてをや。身にかはらんと、忠を存ぜし数万の軍旅、堂上、堂下に並みゐたれども、これは、目にも見えず、力にもかかはらぬ無常の殺鬼をば、暫時も防ぎかへさず。帰り来たらぬ死出の山、三途の川、黄泉中有の旅、ただ一人こそおもむき給ひけめ。日ごろ作りおかれし罪業なれば、あはれなりし事どもなり。さてもあるべきならねば、同じき七日、愛宕にてけぶりとなしたてまつり、都の空に立ち上がる。骨をば円実法眼頸にかけ、摂津の国へくだり、経の島
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にぞをさめてげる。されば、日本一州に名をあげ、威をふるひし人なれども、片時のけぶりとなり、屍は浜のいさごにうづんで、むなしき土とぞなり給ふ。葬送の夜、不思議の事どもあまたありき。玉をみがき、金銀をちりばめ造られし西八条殿、その夜、にはかに焼けにけり。人の家の焼くるは、つねのならひなれども、いかなる者のしわざにやありけん、「放火」とぞ聞こえし。またその夜、六波羅の北にあたつて、人ならば二三十人が声にて、うれしや、滝の水鳴るは滝の水日は照るともたえずと拍子をいだし、舞ひ、をどり、どつと笑ふ声しけり。去んぬる正月、上皇かくれさせ給ひて、天下暗闇となりぬ。わづかに一両月をへだてて、入道相国薨ぜられぬ。あやしの賤の男、賤の女にいたるまで、いかでかうれひざるべき。「これは、いかさまにも天狗の所為」といふ沙汰あり。平家の侍どものなかに、はやりをの若者ども百余人、笑ふ声についてたづね行きて見ければ、院の御所法住寺殿に、この二三年は院わたらせ給はず、御所預りの備前前司基宗といふ者あり、基宗あひ知(ッ)たる者ども、二三十人、夜にまぎれて来たり集まり、はじめは、「かかるをりふしに音なしそ」とて酒を飲みけるが、しだいに飲み酔ひて、さまざま舞ひをどりけるとかや。押し寄せ、酒に酔ひける者ども、一人ももらさず三十人ばかりからめ捕つて、六波羅へ参り、前の右大将宗盛の卿のおはしけるまへの坪の内にぞひつすゑたる。事の様をよくよくたづね聞き給ひて、「げにもさ様に酔ひたらん者は、切るべきにもあらず」とて、
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みなゆるされけり。人の失せぬるあとには、いかなるあやしの者も、朝夕に磬うち鳴らし、例時、懺法読むことは、つねのならひなるに、入道相国は死せられてのちとても、供仏、施僧のいとなみといふこともなし。ただ明けても暮れても、いくさ合戦のはかりごとのほかは他事なし。およそは、最後の所労のありさまこそうたてけれども、まことにはただ人ともおぼえぬ事どもぞおほかりける。日吉の社へ参り給ひしときも、当家、他家の公卿おほく供奉して、「禄臣の、春日の御参籠、宇治入なんどといふとも、いかでかこれにはまさるべき」とぞ人申しける。また、何事よりも、福原の経の島築いて、今の世にいたるまで上下行き来の船にわづらひなきこそめでたけれ。かの島は、去んぬる応保[* 「おうにん」と有るのを他本により訂正]元年二月上旬、築きはじめられたりけるが、同じき八月ににはかに大風吹き、大波たちて、揺り失ひてき。同じく三年三月下旬に阿波の民部成能を奉行にて、築かせられけるが、「人柱たつべし」なんど、公卿僉議ありしかども、「それは罪業なり」とて、石の面に一切経を書きて築かれたりけるゆゑにこそ、「経の島」とは名づけられけれ。
第五十六句 祇園の女御
ふるき人の申されけるは、「清盛は、忠盛が子にはあらず。まことには白河の院の御子なり。」そのゆゑは、去んぬる永久のころ、「祇園の女御」と聞こえて、さいはひの人
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おはしき。くだんの女房の住み給ひける所は、東山のふもと、祇園の辺にてぞありける。白河の院、つねは御幸ありけり。あるとき殿上人一両人、北面少々召し具して、しのびの御幸のありしに、ころは五月二十日あまりの夕空のことなりければ、目ざせども知らぬ闇にてあり、五月雨さへかきくもり、まことに申すばかりなく暗かりけるに、この女房の宿所ちかく御堂あり。この御堂のそばに、大きなる光りもの出で来たる。頭には銀の針をみがきたてたるやうにきらめき、左右の手とおぼしきをさし上げたるが、片手には槌の様なるものを持ち、片手には光るものをぞ持ちたりける。君も、臣も、「あな、おそろしや。まことの鬼とおぼゆるなり。持ちたるものは、聞こゆる打出の小槌なるべし。こはいかにせん」とさわがせましますところに、忠盛[* 「ただのり」と有るのを他本により訂正]そのころ北面の下臈にて供奉したりけるを、召して、「このうちになんぢぞあらん。あの光りもの、行きむかひて、射も殺し、切りも殺しなんや」と仰せければ、かしこまつて承り、行きむかふ。内々思ひけるは、「このもの、さしもたけきものとは見えず。狐、狸なんどにてぞあらん。これを射もとどめ、切りもとどめたらんは、世に念なかるべし。生捕にせん」と思ひて、歩み寄る。とばかりあつてはさつとは光り、とばかりあつてはさつと〔は〕光り、二三度したるを、忠盛走り寄りて、むずと組む。組まれてこのもの、「いかに」とさわぐ。変化のものにてはなかりけり、はや、人にてぞありける。そのとき上下手々に火をとぼし、御覧あるに、齢六十ばかりの法師なり。たとへば御堂の承仕法師にてありけるが、「御あかし参らせ
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ん」とて、手瓶といふものに油を入れて持ち、片手には土器に火を入れてぞ持ちたりける。「雨は降る、濡れじ」と、頭には小麦のわらをひき結びかづきたり。土器の火に、小麦わらがかがやきて銀の針の様には見えけるなり。事の体いちいちにあらはれぬ。君の御感なのめならず、「これを射も殺し、切りも殺したらんには、いかに念なからんに、忠盛がふるまひこそ思慮ふかけれ。弓矢とる身は、かへすがへすもやさしかりけり」とて、その勧賞に、さしも御最愛と聞こえし祇園の女御を、忠盛にこそ賜はりけれ。されば、この女房、院の御子をはらみたてまつりしかば、「生めらん子、女子ならば朕が子にせん、もし男子ならば忠盛が子にして、弓矢とる身にしたてよ」と仰せけるに、すなはち男子を生めり。忠盛言にあらはしては披露せられざりけれども、内々はもてなしけり。このこと奏聞せんと、うかがへども、しかるべき便宜もなかりけるが、あるときこの白河の院、熊野へ御幸ありけるに、紀伊の国糸我山といふ所に御輿かきすゑさせて、しばらく御休息ありけるに、藪に、ぬかごのいくらもありけるを、忠盛、袖にもり入れて、御前に参り、
いもが子ははふほどにこそなりにけれ
と申されたりければ、法皇やがて御心得ありて、
ただもりとりてやしなひにせよ
とぞ仰せ下されける。それよりしてこそわが子とはもてなしけれ。この若君あまりに夜泣き
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をし給ひければ、院聞こしめして、一首の歌をぞあそばいて下されけり。
夜泣きすとただもりたてよ末の代にきよくさかふることもあるべし
さればこそ「清盛」とは名のらせけれ。十二の年兵衛佐になる。十八歳にて四位にして、「四位の兵衛佐」と申せしを、子細存知せぬ人は、「華族の人こそかくは」と申せば、鳥羽の院も知ろしめされ、「清盛が華族は、人にはおとらじ」とぞ仰せける。むかしも天智天皇を生み給へる女御を、大織冠に賜はるとて、「この女御の生めらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」と仰せけるに、すなはち男子を生み給へり。多武峰の本願定恵和尚これなり。「上代にもかかるためしありければ、末代にも、平大相国、まことに白河の院の御子にてましましければにや、さばかんの天下の大事の都遷りなんども、たやすう思ひたたれけるにこそ。ことわりなり」とぞ人申しける。
この入道相国と申すは、「慈恵大僧正の化身なり」といへり。そのゆゑは、摂津の国に清澄寺といふ山寺あり。この寺の住僧に慈心坊尊恵とて天下に聞こえたる持経者あり。もとは山門の住侶たりしが、道心をおこし、離山して、この山に住しけるが、多年法華経をたもつ者なり。去んぬる嘉応二年二月二十二日の夜の夜半ばかりに、慈心坊が夢に見る様は、浄衣着たる俗二人、童子三人、一通の状をささげて出で来たり。慈心坊「これはいづくよりにて候ふぞ」と問へば、「閻魔大王宮
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より」と申す。そのとき、慈心坊この状を取り、ひらきて見れば、来る二十六日早旦より、閻魔大王宮の〔大〕極殿にて、十万部の法華経を読み、供養せらる。しかるあひだ、十万国より十万人の僧を請ぜらる。その経衆一分に入り給へり。同じく来集せらるべし。宣旨によつて■請くだんのごとし。とぞ書かれたる。慈心坊は夢のうちに御請けを申しをはん〔ぬ〕。夢さめ、夜あけて、慈心坊、この寺の院主光養坊に、このよしを語り申せば、「さては名残惜しきことごさんなれ。閻魔の庁に参る人のふたたび帰ることありがたし。こはいかにせん」とて、院主をはじめとして、寺僧ども、一同に名残を惜しみてかなしみあへり。やうやう二十六日の早旦におよぶ。その日になりしかば、慈心坊いよいよ精進潔斎して、この寺の仏前に参り、念仏、読経してある〔ところ〕に、睡眠しきりなりけるあひだ、「ちとまどろむ」と思ひたりけるに、さきのごとくに浄衣着たる俗二人、童子三人、迎ひにとて出で来たれり。慈心坊かれらに具せられて、須臾に閻魔王宮の大極殿へぞ参りける。十万人の僧ども参り集まり、歴々として、おのおの読経す。法会の儀式まことに心もことばもおよばず。法会をはりしかば、諸僧ども、いとま賜はつて帰るもあり、とどめらるる僧もあり。そのうちに慈心坊は、閻魔法王の御まへに召されて参り、まづ庭上にかしこまつて侍ひければ、閻魔法王、「法華経は五十展転の功徳あり。いかが持経者を庭上
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にはおくべし。これへ召せ」とて、御座ちかく召され、慈心坊、「後生の在所いかなる所にて候はんずるやらん」と申せば、閻魔王、「〔往生、〕不往生は、ただ、人の信、不信による」とぞのたまひける。閻魔王かさねてのたまはく、「わ僧が本国、大日本国に、平大相国といふ人あり。今日わが十万僧会のごとくに、摂津の国和田の岬に、四面十余町の屋をたて、千人の持経者をあつめて、七日があひだ、念仏、読経、丁寧に勤行せんはいかに」と問ひ給へば、「さること候」と申す。閻魔王、「その人は悪人と見えたり。されどもその人は慈恵大僧正の化身なるによつて、われはその人を日々に三度拝する文あり」とて、
敬礼慈恵大僧正 天台仏法擁護者
示現最勝将軍身 悪業衆生同利益
とのたまふと思うて、尊恵は夢さめにけん。慈心坊いくほどならぬ夢のうちとこそ思ひけれども、七日があひだにてぞありける。慈心坊、都へのぼり、西八条へ参り、このよしを語り申せば、入道相国いそぎ出であひ、対面したまひて帰されけるとぞ聞こえし。
寛治二年正月十五日、臣下卿相、仙洞にて御遊宴のみぎり、種種の僉議どもありけるなかに、ある人、「そもそも、当時天竺に如来出世し給ひて、説法利生し給ふと聞きおよばんには、参りて聴聞すべしや」と一言出できたりける
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に、大臣、公卿みな「参るべき」とぞ申されける。その中に江の帥匡房、いまだ右大弁の三位にて末座に候はれけるが、申されけるは、「人々は御参り候ふとも、匡房においては参るべしともおぼえ候はず」と申されければ、月卿雲客疑ひの心をなし、「人々『参らん』と仰せらるるなかに、御辺一人『参らじ』と申さるる子細、いか様なることぞや」。匡房かさねて申されけるは、「さん候。本朝、大宋のあひだは世のつねの渡海なれば、やすきかたも候ひなん。天竺、震旦のさかひは、流沙、葱嶺の嶮難越えがたき道なり。まづ『葱嶺』と申す山は、西北は雪山につづき、東南は海隅に聳えたり。この山をさかふ西をば『天竺』といひ、東をば『震旦』といふ。道の遠さ三万余里、草木も生ひず、水もなし。銀漢に臨んで日を暮らし、白雲を踏んで天にのぼる。かくのごとくの多く嶮難あるなかに、ことに高く聳えたる峰あり。『刹波羅最難』と名づけたり。雲の表衣をぬぎさけて、苔の衣も着ぬ山の巌のかどをかかへつつ、十日にこそ越え給はめ。この峰にのぼりぬれば、三千世界の広さ、狭さは、まなこのまへにあきらかに、一閻浮提の遠近は、足の下にあつめたり。また『流沙』といふ川あり。この川を渡るに、水を渡つては川原を行き、川原を行きては水を渡ること、八か日があひだに六百三十七度なり。昼は風吹きたて、砂を飛ばすること雨のごとし。夜は化け物走り散つて、火をともすこと星に似たり。白波漲り来つて、岩石をうがつ。青淵水まいて、木の葉をうづむ。たとへ深淵を渡る
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とも、妖鬼の害難のがれがたし。たとひ鬼魅の怖畏をまぬがるといふとも、水波の漂難さけがたし。さればかの玄奘三蔵も、六度までこのさかひにて命を失ひ給ふ。しかれどもまた、次の受生のときこそ法をばわたし給ひけれ。しかるを、天竺にあらず、震旦にあらず、本朝高野山に生身の大師入定してまします。この霊地をいまだ踏まずして、いたづらに月日をおくる身の、たちまちに十万余里の山海をしのぎ、嶮路をすぎて、霊鷲山まで参るべきともおぼえず。天竺の釈迦如来、わが朝の弘法大師、ともに即身成仏の現証これあらたなり」とぞ申されける。「むかし嵯峨の皇帝の御時、大師、勅命によつて、清涼殿にして四箇の大乗宗をあつめ、顕密法門の論読をいたし給ふことあり。法相宗には源仁、三論宗には道昌、華厳宗には道雄、天台宗には円澄、おのおのわが宗のめでたき様を立て申す。まづ法相宗の源仁、『わが宗には、三時教を立て、一代の聖教を判ず。いはゆる有、空、中これなり』。三論宗には道昌、『わが宗には、三蔵を立つ。三蔵といつぱ、声聞蔵、縁覚蔵、菩薩蔵これなり』。華厳宗の道雄、『わが宗には、五教を立て、一代の聖教を教ふ。五教といつぱ、〔小乗教、〕始教、終教、頓教、円教これなり』。天台宗の円澄、『わが宗には、四教、五味を立て、一切の聖教を教ふ。四教とは蔵、通、別、円これなり。五味とは乳、酪、生、熟、醍醐これなり』。
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そのとき真言宗の弘法、『わが宗には、しばらく事相、教相を教ふといへども、ただし即身成仏の義をたて、一代聖教ひろしといへども、いづれかこれに及ぶべきや』。ときに四人の碩徳、疑心をなし、真言の即身成仏の義をうたがひ申されたり。まづ法相宗の源仁僧都、弘法を難じたてまつることばにいはく、『およそ一代三時の教文を見るに、みな三劫成仏の文のみあつて、即身成仏の文なし。いづれの聖教の文証によつて、即身成仏の義を立てらるるぞや。まことにその文あらば、つぶさにその文を出だされて、衆会の疑網をはらさるべし』と言へり。弘法答へてのたまはく、『なんぢが聖教のなかには、みな三劫成仏の文のみあつて、即身成仏の文なし』とて、文証を出だしてのたまはく、『修此三昧者、現証仏菩提』『父母所生身、即証大覚位』これをはじめて文証をひき給ふこと繁多なり。源仁かさねていはく、『文証はすなはち出だされたり。この文のごとくに即身成仏のむねを得たるその人証、たれ人ぞや』。弘法答へてのたまはく、『その人証は、遠くたづぬれ〔ば〕、大日、金剛薩■。近くたづぬればわが身すなはちこれなり』とて、かたじけなくも龍顔にむかひたてまつり、口に密言を誦し、手に密印をむすび、心に観念をこらし、身に儀軌をそなふ。生身の肉身、たちまちに現じて、紫磨黄金のはだへとなり給ふ。かうべに五仏の宝冠を現じて、光明蒼天を照らし、日輪の光を
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うばひ、朝廷は頗梨にかがやいて、浄土の荘厳をあらはす。そのとき皇帝、御座を去つて礼をなし給ふ。臣下身をつづめておどろき、地に伏す。百官かうべをかたぶけ、諸衆合掌す。まことに南都の六宗、地にひざまづき、北嶺四明の客、庭に伏す。源仁、円澄も舌をまき、道雄、道昌と口をとづ。つひに四宗帰伏して、門葉にまじはる。はじめて一朝信仰して、その道流を受く。三密、五智の水、四海に満ちて塵垢をそそぎ、六大無碍の月、一天の長夜を照らす。されば御一期ののちも、生身不変にして慈尊の出世をまち、六情不退にして祈念の法音を聞こしめす。このゆゑに、現世の利生もたのみあり。後生の引導もうたがひなし」とぞ申されける。上皇聞こしめし、「まことにめでたきことなり。これを今までおぼしめし知らざりけるこそ、かへすがへすもおろかなれ。か様のことは延引しぬれば、自然にさはりあることもありや」とて、「明日の御幸」と仰せければ、匡房かさねて申されけるは、「明朝の御幸はあまりに卒爾におぼえ候。むかし釈尊霊山の説法の庭に、十六大国の諸王たちの御幸したまひし儀式は、金銀をのべて宝輿をつくり、珠玉をつかねて冠蓋を飾り給ひけり。これみな希有の思ひ〔を〕なし、随喜渇仰の心ざしをつくし給ふ作法なり。君の御幸、それに劣らせ給ふべからず。高野山をば霊鷲山とおぼしめし、生身の大師を釈迦如来と観ぜさせ給ひて、日数を延べて、御幸の儀式をひきつくろは
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せ給ふべうや候ふらん」と申されければ、「げにも」とて、この日を延べて、綾羅錦繍をあつめて衣装をととのへ、金銀七宝をちりばめて、馬、鞍をよそほひ給ひけり。これ高野御幸のはじめなり。白河の院、か様に高野を執しおぼしめされたりしかば、その御子にて清盛も、高野の大塔を修理せられけるにや。不思議なりし事どもなり。
第五十七句 邦綱死去
同じく閏二月二十日、五条の大納言邦綱の卿も失せ給ひぬ。平大相国とさしもちぎり深く、心ざし浅からざりし人なり。せめてのちぎりの深きにや、同じ日に病ひづきて、同月にぞ失せられける。この大納言と申すは、中納言兼輔[* 「あきすけ」と有るのを他本により訂正]の卿の八代の末葉、前の右馬助盛邦の子なり。進士の雑色にて候はれしが、近衛の院御在位の時は、公家に伺候せられけり。仁平のころ、四条の内裏にはかに焼亡出できたり。南殿に出御なりしかども、近衛司一人も参らず、あきれさせ給ふところに、かの邦綱手輿を舁いて参りたり。「か様のときは、かかる御輿にこそ召され候へ」と奏しければ、主上これに召して出御なる。「何者ぞ」と御たづねありければ、「進士の雑色、藤原の邦綱」と名のり申す。主上御感あつて、「かかるさかさかしき者こそあれ」とて召し出だされ、そのときの殿下、法住寺殿
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に仰せければ、御領あまた賜びなんどして、召し使はれけるほどに、同じ帝の御時、八幡へ行幸ありけるに、人長の、酒に酔ひて水にたふれ入り、装束を濡らし、御神楽遅々したりけるに、この邦綱、殿下の御供に候はれけるが、「邦綱こそ人長の装束は持たせて候」とて、一具取り出だされければ、これを着て御神楽ととのへ奏したり。ほどこそすこしおし移りたりけれども、歌の声もすみのぼり、拍子にあうて、おもしろかりけり。身にしみておもしろきことは、神も人も同じ心なり。むかし天の岩戸おしひらきける神代のことわざまでも、いまこそ思ひ知られけれ。やがて、この邦綱の先祖、山蔭の中納言のその子に、如無僧都とて智恵才覚身にあまり、浄行持律の僧おはしき。昌泰のころ、寛平の法皇、大井川へ御幸ありしに、勧修寺の内大臣高藤公の子息、泉の大将定国、小倉山のあらしに烏帽子を川へ吹き入れられ、袖にてたぶさをおさへ、せんかたなく立たれたるところに、如無僧都、三衣箱のうちより、烏帽子を一つ取り出だされ、大将に奉る。この僧都は、父山蔭の中納言、太宰大弐にして鎮西へ下されけるとき、二歳なりしを、継母憎んで、あからさまに抱く様にして水におとし入れ、殺さんとしけるを、亀ども浮かれきて、甲にのせてぞ助けける。これはまことの母、存日に、桂の鵜飼が、亀をとりて鵜の餌にせんとしけるを、小袖をぬぎて、亀にかへ、放たれし、その恩を報ぜられしとかや。それは上代のことなれば、いかがありけん、末代にこの邦綱の卿の高名、ありがたき
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ことどもなり。法性寺殿の御代に、中納言にぞなられける。法性寺殿かくれさせ給ひてのち、入道相国、「存ずるむねあり」とて、この人はかたらひ、寄りあひ給へり。大福長者でおはしければ、何にてもかならず毎日一種、入道のもとへおくられけり。「現世の得意、この人に過ぐべからず」とて、子息一人養子にして、清邦と名のらせ、侍従になす。入道の四男、頭の中将重衡はかの大納言の婿になす。治承四年の五節は、福原にておこなはれけるに、中宮の御方へ、殿上人あまた推参ありし中に、ある人、雲は鼓瑟のあとをこらし竹は湘浦の岸にまだらなりといふ朗詠をせられたりければ、かの大納言立ち聞きし給ひて、「あなあさましや。これは禁忌とこそ承れ。か様のことは聞くとも聞かじ」とて、いそぎまかり出でられぬ。この詩の心は、むかし尭の帝、二人の姫宮ましましき。姉をば蛾皇といひ、妹をば女英といふ。ともに舜王の后なり。舜かくれさせ給ひしかば、蒼梧といふ野にをさめたてまつる。后、帝の別れをかなしみ給ひて、湘浦の岸にいたり、泣き給ひける。涙の竹にかかりて、まだらにぞ染みたりける。そののち、つねにかの所におはして、琴をひいてなぐさみ給ふ。いまかの所を見れば、岸の竹はまだらにて立てり。琴をしらべし跡は、雲そびえて、ものあはれなる心を、橘の相公いまの詩に作らるなり。かの大納言は、させる文才、ことば、詩歌、うるはしくはましまさざりけれども、さかさかしき人にて、か様のことも聞きとがめられけるにこそ。この大納言、されば
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思ひもよらざりしを、母上賀茂の大明神に心ざしをいたし、歩みをはこび、「こひねがはくは、わが子邦綱、一日にてもさぶらへ、蔵人の頭を経させ給へ」と、百日肝胆をくだきて祈り申されければ、ある夜の夢に、「檳榔の車を持ちきたりて、わが家の車寄せにたつる」と夢を見て、人に語り給へば、「それは公卿の北の方にこそならせ給はんずらめ」とあはせたりけるを、「われ、年すでにたけたり。いまさらさ様のふるまひあるべしともおぼえず」とのたまひけるが、御子邦綱、蔵人の頭は事もよろし、正二位大納言にあがられけるこそめでたけれ。
第五十八句 須俣川
同じく二十二〔日〕、法皇、院の御所法住寺殿へ御幸なる。この御所は、去んぬる応保三年四月十五日に造出されて、新比叡、新熊野を左右に勧請したてまつり、山水の木立にいたるまで、おぼしめす様〔な〕りしかば、この二三年は平家の悪行によつて御幸もならず、「御所の破壊したるを修理して御幸をなしたてまつるべき」よし、右大将宗盛の卿奏せられけれども、法皇、「なにの沙汰にもおよぶべからず。ただとくとく」とて御幸なる。まづ故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の柳、みぎはの松、「年経にけり」とおぼえて、木だかくなれるについても、御涙ぞすすみける。同じく三月一日、南都の僧綱等本位に復して、「末寺、荘園、もとのごとく
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知行すべき」よし仰せ下さる。
同じく三日、大仏殿つくりはじめらる。事はじめの奉行には、蔵人左少弁行隆参られける。この行隆、先年八幡へ参り、通夜せられたりける夢に、御宝殿のうちより、びんづら結うたる天童の出でて、「これは大菩薩の御使なり。東大寺の奉行のときは、これを持すべし」とて、笏をくだし給ふと夢に見て、さめてのち見給へば、うつつにありけり。「あな不思議、当時なにごとによつてか、行隆、大仏殿の奉行には参るべき」とて、懐中して宿所に帰りて、深うをさめておかれたりけるが、平家の悪行によつて、南都炎上のあひだ、行隆、弁のうちにえらばれて、事はじめの奉行に参られける宿縁のほどこそめでたけれ。同じく三月十日、美濃の国の目代、都へ早馬をもつて申しけるは、「東国の源氏ども、すでに尾張の国まで乱入して、道をふさぎ、人を通さざる」よし申したりければ、やがて討手をつかはす。討手の大将軍には左兵衛督知盛[* 「のりもり」と有るのを他本により訂正]、左少将清経、同じく少将有盛、その勢三万余騎にて、尾張の国へ発向す。入道相国失せ給ひて、わづかに五旬だにも過ぎざるに、乱れたる世とはいひながら、あさましかりし事どもなり。源氏の方には、十郎蔵人行家大将軍にて、兵衛佐の舎弟卿の公円成[* 「のぶきよ」と有るのを他本により訂正]、都合その勢六千余騎、尾張の国須俣川の東に陣をとる。平家は三万余騎、川より西に陣したり。同じき十六日の夜に入り
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て、源氏六千余騎、川を渡して、平家三万余騎が中へをめいて駆け入り、あくれば十七日の寅の刻に矢合せして、夜の明くるまで戦ふに、平家はちともさわがず、「敵は川を渡したれば、馬、物の具みな濡れたるぞ。それをしるしに討てや」とて、大勢の中にとりこめて、「あますな、もらすな」とて攻めければ、源氏の勢のこりすくなう討ちなされ、大将軍十郎蔵人行家からき命を生きて、川より東へ引きしりぞく。卿の公円成[* 「のぶきよ」と有るのを他本により訂正]深入りして討たれにけり。平家やがて川を渡いて、勝にのり、追つかくる。かしこ、ここに、返しあはせ、返しあはせ、防ぎ戦へども、無勢なり。平家は多勢なりければ、かなふべしとも見えざりけり。「こんどは源氏のはかりごと、はかなくなり」とぞ人申しける。大将軍十郎蔵人行家、三河の国八橋川の橋を引き、防がんと待ちかけたり。平家やがて押し寄せ攻めければ、こらへずしてそこを攻めおとされぬ。平家つづいて攻められば、三河、遠江の勢つくべかつしに、大将軍左兵衛督知盛、所労とて、三河の国より帰りのぼらる。こんどもわづかに一陣ばかり破るるといへども、残党を攻めねば、しいだしたることもなきがごとし。平家は、去々年小松殿薨ぜられぬ。今年また入道相国失せ給ふ。運命の末になることあらはなりしかば、年来恩顧のともがらのほかは、したがひつく者なかりけり。「東国には、草も木もみな源氏になびく」とぞ聞こえし。
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第五十九句 城の太郎頓死
さるほどに、越後の国の住人、城の太郎資長、当国の守に任ずる重恩のかたじけなさに、木曾追討のために、その勢三万余騎、六月十五日門出して、あくる十六日の卯の刻にうちたたんとしける夜半ばかりに、にはかに大風吹き、大雨降り、なるかみおびたたしく鳴つて、空はれてのち、雲居に大きなる声のしはがれたるをもつて、「南閻浮提第一の金銅十六丈の盧遮那仏、焼きほろぼしたてまつる平家の方人する城の太郎、これにあり。召し取れや」と三声さけびてぞとほりける。資長をさきとして、これを聞く者みな身の毛もよだちけり。郎等ども、「これほどおそろしき天の告げ候ふには、ただ、ことわりをまげ、とどまらせ給へ」と申しけれども、「弓矢取る者、それによるべからず」とて、あくる卯の刻に城を出でて、十余町を行きたりけるに、「黒雲一むら立ち来つて、資長がうへにおほふ」と見えければ、うち臥すこと三時ばかりして、つひに死ににけり。このよし飛脚をたてて都へ申しければ、平家の人々大きにさわがれけり。同じく七月十四日改元ありて、「養和」と号す。築後守貞能、築前、肥後両国を賜はつて、鎮西の謀叛たひらげんために、西国へ発向す。その日また非常の大赦おこなはる。去んぬる治承三年に流され給ひし人々、みな召し返さる。松殿の入道殿下、備前の国よりのぼらせ給ふ。太政大臣妙音院、
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尾張の国より帰洛とぞ聞こえし。按察の大納言資賢、信濃の国より御上洛。同じく二十八日、妙音院御院参。去んぬる長寛のむかしの帰洛には、御前の簀子にして、賀王恩、還城落をひかせさせ給ひしに、養和のいまの帰洛には、仙洞にして、秋風楽をぞあそばしける。いづれもその風情折を得て、おぼしめしより給ひけん御心のうちこそめでたけれ。按察の大納言資賢の卿もその日院参せらる。法皇、「いかにや。夢の様にこそおぼしめせ。ならはぬ鄙のすまひして、郢曲なんどもいまは跡かたもあらじとおぼしめせども、今様一つあらばや」と仰せければ、大納言拍子をとつて、信濃にあんなる木曾路川といふ今様を、これはわが見給ひたりしあひだ、信濃なる木曾路川とうたはれけるぞ、ときにとつて高名なる。同じく八月七日、官の庁にして、大仁王会おこなはる。これは「将門追罰の例」とぞ聞こえし。同じく九月一日、「純友追罰の例」とて、くろがねの鎧、兜を大神宮へ参らせらる。勅使は祭主神祇権大副大中臣の定隆、都をたつて伊勢へ参りけるが、近江の国甲賀の駅にして所労ついて、伊勢の離宮にして死にけり。また謀叛のともがら調伏のために、山門にて五壇の法を三七日おこなはれけるに、初五日にあたつて、降三世の壇の大阿闍梨覚算法印、大行事の彼岸所にて寝死にこそ死にけれ。神明、三宝も御納受なしといふこといちじろし。また大元帥の法うけたまはつて修せられける
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安祥寺の実厳阿闍梨が御巻数を参らせたるを、披見せられければ、「平氏調伏」のよしを記したりけるぞおそろしき。「この法師、死罪にやおこなふべき、また流罪にか」と沙汰ありしかども、大小事の怱劇にうちまぎれて、沙汰もなかりけり。世しづまつてのち、鎌倉殿、「神妙なり」と感じおぼしめし、その賞に大僧正になされしとぞ聞こえし。同じく十二月二十四日、中宮、院号かうむらせ給ひて、「建礼門院」とぞ申しける。「いまだ幼少の御とき、母后の院号これはじめなり」とぞ申しける。さるほどに養和も二年になりにけり。
同じきその年二月二十三日、太白昴星を犯す。天文要録には、「太白昴星を犯すときに、将軍、都のほかに出づ」と言へり。また、「将軍勅命をかうむつて、国のさかひを出でて、たちまち四夷起る」とも見えたり。同じく三月十日、除目おこなはれて、平家の人々大略官加階し給ふ。四月十四日、前の権少僧都顕真、日吉の社にして法華経一万部転読することあり。御結縁のために、法皇も御幸なる。いかなる者の申し出だしたりけるやらん、「一院、山門の大衆に仰せて、平家を追罰せらるべし」と聞こえしほどに、軍兵内裏へ参りて、四方の陣頭を警固す。平家の一類みな六波羅へ馳せあつまる。本三位の中将重衡の卿、その勢三千余騎にて、法皇の御迎へに、日吉の社へ参りむかはる。山門に聞こえけるは、「平家、山を攻めんとて、数万騎の軍兵を率して登山する」と聞〔こ〕え
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しかば、大衆みな東坂本へ下りて、「こはいかに」と僉議す。山上、洛中の騒動なのめならず。供奉の公卿、殿上人も色をうしなふ。北面のともがらのなかには、あまりにさわいで、黄水を吐く者おほかりけり。本三位の中将重衡、穴太の辺にて法皇を迎ひとりまゐらせ、還御なしたてまつる。「かくあらんには、御物詣でも、御心にまかすまじきやらん」とぞ仰せける。まことには山門の大衆、「平家を追罰せん」といふこともなし。平家、また「山を攻めん」といふこともなかりけり。これ跡かたもなきことどもなり、「ひとへに天魔の狂はし」とぞ申しける。
第六十句 城の四郎官途
五月二十四日、改元あつて、「寿永」と号す。その日越後の国の住人、城の四郎資茂、越後守に任ず。「兄資長逝去のあひだ、不吉なり」とて、しきりに辞し申しけれども、勅命なれば、力におよばずして、「資茂」を「長茂」と改名す。同じく九月二日、城の四郎長茂、越後、出羽、会津四郡の兵ども引率して、都合その勢四万余騎、木曾追罰のために、信濃の国へ発向す。九月十一日、横田川原に陣をとる。木曾はこれを聞き、三千余騎にて、依田の城を出でて馳せ向かふ。信濃源氏に井上の九郎光盛がはかりごとにて、にはかに赤旗を七ながれつくり、三千余騎を七手につくり、かしこの峰、ここの洞より、案内者なりければ、
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赤旗どもを手々にさしあげ、さしあげ、寄りければ、城の四郎これを見て、「何者か、この国にも平家の方人する人がありけるが、着きぬよ」とて、いさみののじるところに、次第に近うなりければ、合図をさだめて七手が一つになる。三千余騎一所に、鬨をどつとぞつくりける。用意したる白旗ざつとさしあげたり。越後勢ども、「敵は何十万騎といふことかあらん。いかにもかなふまじ」とて、色をうしなふ。にはかにふためき、あるいは川に追ひ入れ、あるいは悪所に追ひ落され、たすかる者はすくなう、討たるる者ぞおほかりける。城の四郎、頼みきつたる越後の山野の太郎、会津の乗湛房なんどいひける兵ども、そこにてみな討たれぬ。わが身もからき命生きて、川をつたつて越後の国へ引きしりぞく。
同じく十六日、都にはこれを事ともし給はず。前の右大将宗盛の卿、大納言に還着して、十月十三日、内大臣になり給ふ。同じく七日に、祝ひ申しけり。当家、他家の公卿十二人扈従せらる。蔵人頭以下、殿上人十六人前駆す。東国、北国に源氏ども、蜂のごとくに起こりあひ、ただいま都へ攻めのぼらんとするところに、波のたつやらん、風の吹くやらん、知らざる体にて、か様に花やかなりし事ども、なかなか言ふがひなくぞ見えたる。さるほどに寿永も二年になりにけり。


平家物語 百二十句本(京都本)巻第七

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平家巻第七     目  録
第六十一句 平家北国下向
     鳥羽の院朝覲の行幸
     頼朝義仲和融の事
     木曾と城の四郎と合戦の事
     経正行く道の狼藉
第六十二句 火打合戦
     平泉寺の長吏心がはり
     火打が城落去
     平家砥波志保坂の陣
     平家と木曾と合戦
第六十三句 木曾の願書
     義仲埴生の陣
     覚明素生の事
     鳩の沙汰
     平家砥波志保坂落去
第六十四句 実盛
     平家篠原落ち
     武蔵三郎左衛門有国討死
     首実検
     実盛錦の袴の事
第六十五句 玄■の沙汰
     飛騨守景家思ひ死の事
     伊勢行幸
     大宰少弐広嗣観世音寺供養
     兵乱の祈祷の事
第六十六句 義仲牒状
     木曾越後の国府にて合戦の評議
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     覚明願書の事
     山門衆徒の僉議
     返牒の事
第六十七句 平家一門願書
     平家山門の衆徒計策の事
     願書したためつかはす事
     平家平生神慮を背く事
     衆徒平家を許容せざる事
第六十八句 法皇鞍馬落ち
     平家宇治瀬田の手退散の事
     春日大明神童子姿と現じ給ふ事
     薩摩守・俊成の卿対面の事
     千載集の沙汰
第六十九句 維盛都落ち
     〔経正御室へ参らるる事〕
     〔維盛〕北の方哀別の事
     若君姫君哀別の事
     斎藤五・斎藤六哀別の事
第七十句 平家一門都落ち
     平家一門家々放火の事
     池の大納言心かはりの事
     肥後守貞能振舞の事
     福原旧都一宿の事
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平家巻第七
第六十一句 平家北国下向
寿永二年二月二十二日、主上は朝覲のために、法住寺殿へ行幸なる。鳥羽の院六歳にて、朝覲の行幸あり、その例とぞ聞こえし。同じく二十三日、宗盛従一位し給ふ。同じく二十七日、内大臣を辞し申さる。これは兵乱のためなり。南都、北京の大衆、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮にいたるまで、一向平家をそむき、源氏に心を通じけり。四方へ宣旨をなしくだし、諸国へ院宣をつかはすも、みな平家の下知とのみ心得て、したがひつく者なかりけり。そのころ、木曾と兵衛佐と不快のこと出で来たる。兵衛佐、「木曾を討たん」とて、六万余騎をあひ具して、信濃の国へ発向す。木曾これを聞き、乳人〔子〕の今井の四郎兼平をもつて、「なにによつてか義仲を討たんとは候ふやらん。ただし、十郎蔵人殿こそ、それを恨むることあつて、これにおはしたるを、義仲さへ情なくもてなし申さんこといかんぞや。されば当時はうち連れてこそ候へ。このほか意趣あるべしともおぼえず。なにゆゑ、今日、明日仲違はれたてまつり、合戦し、平家に笑はれんとは存ずべく候ふ」と言ひやりければ、兵衛佐、「今こそかくはのたまへども、頼朝討たるべきよし『たしかにはかりごとをめぐらされける』とこそ承れ。それによるまじ」とて、討手の一陣をさし向けられければ、木曾、
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「真実に意趣なき」よしをあらはさんがために、嫡子清水の冠者義基とて、生年十一歳になる小冠者に、海野、望月、諏訪、藤沢以下の兵ども、そのほかあまたつけて、兵衛佐のもとへつかはす。兵衛佐、「このうえは意趣なし」とて、清水の冠者あひ具して、鎌倉へこそ帰られけれ。木曾はやがて越後〔の国〕へうち越えて、城の四郎と合戦す。いかにもして討ち取らんとしけれども、長茂主従五騎に討ちなされ、行きがた知らずぞ落ちにける。越後の国をはじめて、北陸道の兵みな木曾にしたがひつく。木曾は東山・北陸、両道をうちしたがへて、「ただいま都へ攻め入るべし」とぞ聞こえける。平家は、「今年よりも、明年は、馬の草飼ひにつけて合戦すべき」と披露せられたりければ、南海、西海、山陰、山陽の兵ども、雲霞のごとくに馳せのぼる。東海道にも、遠江の国より東こそ参らざれ、相模の国の住人俣野の五郎景久、伊豆の国の住人伊東九郎祐澄、武蔵の国の住人長井の斎藤別当実盛は、平家の方にぞ候ひける。東山道にも、近江、美濃、飛騨の者参りたり。
平家、まづ北国へ討手をつかはすべき評定あり。すでに討手をつかはす。大将軍には、小松の三位の中将維盛、副将軍には、越前の三位通盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、左馬頭行盛、皇后宮亮経正、薩摩守忠度、能登守教経、三河守知度。侍大将
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には、上総太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国、高橋の判官長綱、越中の前司盛俊、同じく三郎兵衛盛嗣、武蔵の三郎左衛門有国、俣野の五郎景久、伊東九郎祐澄、長井の斎藤別当実盛、悪七兵衛景清を先として、都合その勢十万余騎、寿永二年四月十七日の午の刻に都をたつて、北国へぞおもむきける。平家は片道を賜はつてければ、逢坂の関よりはじめて、道にもちあふ権門勢家の正税、官物ともいはず、いちいちに奪ひ取る。まして志賀、唐崎、真野、高津、塩津、海津の辺を、いちいちに追捕して通りければ、人民多く逃散す。〔先陣はすすめども、後陣はいまだ近江の国、海津の辺にひかへたり。〕
第六十二句 火打合戦
木曾義仲は、わが身は信濃にありながら、越前の国火打が城をぞかまへける。大将軍には平泉寺の長吏斎明威儀師、稲津の新介、斎藤太、林の六郎光明、富樫の入道仏誓、入善、宮崎、石黒を先として、七千余騎ぞ籠りける。さるほどに、平家の先陣は越前の国木辺山をうち越えて、火打が城へぞ寄せられける。この城のありさまを見るに、磐石そばたちて四方の峰をつらねたり。山をうしろに、山をまへに当つ。城のまへには、能見川、
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新道川とて二つの川流れたり。二つの川の落ちあひに大木を立てて、しがらみをかき、せきあげたれば、水、東西の山の根にさし満ちて、ひとへに大海に臨むがごとし。影南山をひたして、青うして滉瀁たり。波西日を沈めて、紅にして〓淪たり。昆明池のありさまも、これにはいかでかまさるべき。平家は、むかへの山に宿し、むなしく日数をおくる。城のうちの大将軍、平泉寺の長吏斎明威儀師、心がはりして、消息を書きて、蟇目の中に籠めて、しのびやかに山の根をつたへて、平家の陣へぞ射入れたる。「この蟇目の鳴らぬこそあやしけれ」とて、取つてこれを見るに、中に文あり。ひらきて見れば、かの川は往古の淵にあらず。一旦しがらみをかきあげたる水なり。いそぎ雑人どもつかはして、しがらみを切り破らせ給へ。山川なれば、水はほどなく落ちんずらん。馬の足立よく候へば、いそぎ渡させ給へ。うしろ矢は射てまゐらせん。平泉寺の長吏斎明威儀師が申状とぞ書いたりける。大将軍、副将軍、大きによろこんで、やがて雑人どもをつかはし、しがらみを切り破らせらる。案のごとく、山川なれば、水はほどなく落ちにけり。そのとき、平家の大勢ざつと渡す。斎明威儀師は、やがて平家と一つになつて忠をいたす。稲津の新介、斎藤太、入善、宮崎、是等(これら)は、みなしばし戦ひ、城を落ちて、加賀の国へぞ引きしりぞく。平家やがて加賀の国へうち越えて、林、富樫が二箇所の城郭を追ひ落す。さらに面を向くべしとも見えざりけり。都
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にはこれを聞き、よろこぶことかぎりなし。同じく五月八日、平家は加賀の国篠原にて勢揃ひして、それより軍兵を二手に分けて、大将軍には小松の三位の中将維盛。副将軍には越前の三位通盛。先陣は越中の前司盛俊。都合その勢七万余騎。加賀と越中とのさかひなる砥波山へぞ向かはれける。搦手の大将軍には左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にて、能登と越中とのさかひなる志保坂へこそ駆けられけれ。さるほどに木曾の冠者義仲、越後の国府より五万余騎にて馳せ向かふ。先に十郎蔵人行家を大将軍にて、一万余騎を引き分けて、志保坂の手へさし向けらる。残るところの四万余騎を手々に分かつ。総じて七手に分かたれたり。〔木曾、わが身は一万余騎にて、小屋部の渡りをして、砥波山の北の埴生に陣をぞ取つたりける。〕木曾のたまひけるは、「平家は大勢にて下るなり、山うち越えて、黒坂の裾の松坂の柳原、ぐみの木林の広みへ出づるものならば、走り合ひの合戦にてこそあらんずれば、馳せ合ひの合戦は、いかにも勢の多く少なきによることなり、大勢かさにかけられてはかなふまじ。搦手をまはせや」とて、楯の六郎親忠、七千余騎にて北黒坂へまはる。仁科、高梨、山田の次郎、七千余騎にて、南黒坂へ向かふ。わが身は大手より一万余騎。また一万余騎をば、松坂の柳原に引き隠し、今井の四郎兼平六千余騎にて鷲の島をうち渡り、日宮林に陣をとる。木曾のたまひけるは、「この勢黒坂に向かはんことは、はるかのことぞ。さあらんほどに、平家の大勢、山よりこなたへ越えなんず。勢は向かはず
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とも、旗を先に立つるものならば、『源氏の先陣向かうたり』とて、山よりあなたへひかんずらん。旗を先に立てよ」とて、勢は向かはねども、黒坂の上に、白旗三十流ばかりうち立てたり。案のごとく、平家これを見て、「あはや、源氏の先陣すでに向かひてんげり。ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たやすくはよもまはらじ。馬の草かひ、水かひ、ともによげなり。馬休めん」とて、大勢みな、山の中にぞおりゐたる。
第六十三句 木曾の願書
木曾は八幡の社領、埴生の荘に陣とつて、きつと四方を見まはせば、夏山の峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、かたそぎづくりの社壇あり。木曾これを見給ひて、案内者を召して、「これはなにの社ぞ、いかなる神を崇めたてまつりたるぞ」とたづねられければ、「これは、八幡を遷しまゐらせて、当国には『新八幡』とこそ申し候へ」。木曾おほきによろこんで、手書に具せられたる、木曾の大夫覚明を呼びて、「義仲こそ、さいはひに八幡の御宝前に近づきたてまつりて合戦をとげんずるなれば、それについて、『かつうは後代のため、かつうは当時の祈祷のため、願書を一筆、書いて参らせばや』と思ふはいかに」。「もつともしかるべく候」とて、馬より飛び下り、書かんとす。覚明、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、
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斑母衣の矢負ひ、塗籠籐の弓持ちて、黒き馬にぞ乗りたりける。箙より小硯、畳紙を取り出だし、木曾殿の御前にひざまづいてぞ書いたりける。数千の兵これを見て、「文武の達者かな」とぞほめたりける。この覚明と申すは、勧学院に蔵人道弘とて候ひけるが、出家して最乗坊信救とぞ名のりける。しばしは南都にありしが、高倉の宮、三井寺にわたらせたまひしとき、南都へ牒状を送られたり。その返牒をこの信救ぞ書いたりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたりしこと、太政入道おほきに怒つて、「信救法師が首をはねよ」とのたまふあひだ、南都をひそかにのがれ出で、北国へ落ちくだり、木曾にぞつきたりける。かかる才人なれば、なじかは書きも損ずべき。書きあげてぞ読うだりける。
帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖たり。宝祚を守らんがため、蒼生を利せんがため、三身の金容をあらはして、三所の権扉をおしひらく。ここに向年よりこのかた、平相国といふ者あり。四海を管領し、万民を悩乱せしむ。これはすでに仏法の怨、王法の敵なり。義仲いやしくも弓馬の家に生まれ、わづかに箕裘の芸を継ぐ。彼の暴悪を見るに、思慮を顧みるにあたはず。運を天道にまかせ、身を国家になげうち、試みに義兵を起し、凶器を退けんと欲す。
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闘戦両家の陣を合はすといへども、士卒いまだ一塵の勇を得ざるのあひだ、まちまち心おそれをなすところに、いま一陣において旗を戦場に挙げて、たちまち三所和光の社壇を拝し、機感純熟、すでにあきらかなり。凶徒誅戮うたがひなし。歓喜の涙をおとし、渇仰胆に染む。なかんづく曾祖父、前の陸奥守源の義家の朝臣、身を宗廟の氏族に帰付し、名を「八幡太郎」と号してよりこのかた、その門葉として帰敬せざるといふ事なし。義仲、その後胤として、首を傾くること年久し。いまこの大功を起して、たとへば、嬰児蠡をもつて巨海を測り、螳螂が斧をとつて、隆車に向かふがごとし。しかれども国のため、君のためにこれを起し、家のため、身のためにこれを起さざる。心ざしの至り、神鑒暗からんや。たのもしいかな、よろこばしいかな。伏して願はくは、冥顕威を加へ、霊神力を合はせ、勝つことを一時に決し、怨を四方に退け給へ。しかればすなはち、丹祈冥慮にかなひ、幽玄加護をなすべくは、まづ一つの瑞相を見せしめたまへ。寿永二年五月十一日 源の義仲敬白
と読みあげて、十三の上矢をそへて、御宝殿にぞ納めける。たのもしいかな、八幡大菩薩、真実の心ざしの二つなきをや、はるかに照覧し給ひけん、雲のうちより山鳩二つ飛び来たつて、源氏の白旗のうへに翩翻す。平家もこれを見て、みな身の毛
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もよだちたり。昔、神功皇后、新羅を攻め給ひしに、霊鳩明天にあらはれ、軍に勝つことを得給へり。しかるに、この人々の先祖八幡太郎義家、奥州の貞任を追罰せしとき、厨川の館にて、王城の方にむかひ、はるかに八幡を拝したてまつりて、「これは私の火にあらず、すなはち神火なり」とて火をはなつ。霊鳩、炎のうちにあらはれ、旗の上に飛びめぐる。か様の先蹤を思ひつづけて、木曾殿兜を脱ぎ、霊鳩を拝し給ひけん、心のうちこそたのもしけれ。源平陣を合はせて、たがひに盾を突き、向かうたり。そのあはひ三町にはすぎじとぞ見えし。されども源氏もすすまず、平家もすすまず。ややあつて、源氏なにとや思ひけん、精兵をすぐり、十五騎を出だして十五の鏑を平家の陣へぞ射入れたる。平家も十五騎出だして十五の鏑を射返す。源氏、また三十騎出だして、三十の鏑を射さすれば、三十の鏑を射返しけり。五十騎出だせば、五十騎を出だしあはせ、百騎を出だせば百騎を出だし、両方盾の面にすすんだる。たがひに勝負を決せんとすすめども、源氏の方には、総じて制して勝負をせず。源氏は、かくあひしらひて日を暮らし、「夜に入りて、うしろの谷へ追ひ落し、滅ぼさん」とするをば知らず。平家も、ともにあひしらひて、日を暮らすことこそはかなけれ。次第に、暗うなりしかば、搦手の勢一万余騎、平家の陣のうしろなる倶利伽羅の堂の辺にて参りあひ、倶利伽羅の堂のまへにて一万余騎、箙の方立を打ちたたき、天も響き、大地もうごくほどに、鬨をどつとつくる。
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木曾これを聞き、大手より一万余騎にて鬨をどつと合はす。松長の柳原にひき隠したるが、一万余騎にて戦ふ。今井の四郎兼平、六千余騎にて、日宮林より一度にをめいて寄せ向かふ。前後四万騎が鬨の声、「山も川もただ一度に崩るるか」とぞおぼえける。平家は、「ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たやすくよもまはらじ」とて、うちとけたるところに、思ひもかけぬ鬨〔の声〕におどろきて、あわてさわぎ、「もしやたすかる」と、そばの谷へぞ落しける。「きたなしや。返せ。返せ」と言ふやからも多かりけれども、大勢のかたぶきたちぬれば、取つて返すことなし。されば、「われ先に」とぞ落しける。親の落せば、子も落す。主の落せば、郎等もつづく。兄が落せば、弟も落す。馬には人、人には馬、落ち重なつて、さしも深き谷一つ、平家の勢七万余騎にてぞ埋みける。巌泉血をながし、死骸丘をなす。大将軍維盛ばかり、からき命生きて、加賀の国へ引きしりぞく。上総の太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国みなこの谷にてぞ死にける。その谷の辺には「矢の穴、刀のあと、今にある」とぞうけたまはる。生捕にせられたる者おほかりけり。まづ火打が城にて心がはりしたりける平泉寺の長吏斎明威儀師、平家の侍に聞こふる兵、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康、生捕にせられにけり。「斎明威儀師、生捕にせられたり」と聞こえしかば、木曾殿、これを召し寄せ、まへに引き据ゑ、やがて首を刎ねられ
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けり。夜明けてのち、しかるべき者ども、三十余人首を切りかけて、木曾殿のたまひけるは、「そもそも、十郎蔵人が志保の手こそおぼつかなけれ。いざ行きて見ん」とて四万騎が中より、馬、人、強きをすぐつて二万騎、志保の手に馳せ向かふ。越中の国、氷見の湊といふ所を渡さんとするをりふし、潮さし満ちて、深さ、浅さを知らず。鞍置馬を追ひ入れて泳がす。鞍爪ひたるほどにて、むかひの岸のはたへ渡り着く。「こはいかに。浅かりけるを」とて、大勢うち入れて渡す。志保坂へ押し寄せ見給へば、案のごとく、十郎蔵人は散々に射しらまされて引きしりぞき、駒の足を休めゐけるところに、木曾、「さればこそ」とて、二万騎入りかはつて、鬨をつくり、をめいて駆く。平家、しばらくこそ支へけれ、志保の手も追ひ落されて、加賀の国篠原へこそ引きしりぞきけれ。
第六十四句 実盛
同じく二十三日、卯の刻に源氏篠原へ押し寄せて、午の刻まで戦ひけり。暫時の合戦に、源氏の兵一千余騎討たれぬ。平家方には高橋の判官長綱をはじめとして、二千余騎ぞ滅びける。平家篠原を攻め落されて落ち行きけり。その中に武蔵の三郎左衛門有国、長井の斎藤別当実盛は、大勢に離れて、二騎つれて引き返し戦ひけり。三郎左衛門有国は敵に馬の腹
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を射させて、しきりに跳ねければ、弓杖をついて下り立つたり。敵のなかに取りこめられて散々に射る。矢種みな射尽くし、打物抜いで戦ひけるが、矢七つ八つ射立てられて、立死にこそ死にけれ。三郎左衛門討たれてのち、長井の斎藤別当実盛、存ずるむねありければ、ただ一騎残つてぞ戦ひける。信濃の国の住人手塚の太郎馳せ寄つて、「味方はみな落ち行くに、ただ一騎残つていくさするこそ心にくけれ。誰そや、おぼつかなし。名のれ、聞かん」と言ひければ、「かう言ふわ殿は誰そ。まづ名のれ」と言はれて、「かく言ふは、信濃の国の住人手塚の太郎光盛ぞかし」と名のる。斎藤別当、「さる人ありとは聞きおきたり。ただし、わ殿を敵に嫌ふにはあらず、存ずるむねあれば、今は名のるまじ。寄れ。組まん。手塚」とて押しならべて組まんとするところに、手塚が郎等、中にへだたつて、むずと組む。実盛は手塚が郎等を取つて、鞍の前輪に押しつけて、刀を抜き、首をかかんとす。手塚は、郎等が鞍の前輪に押しつけらるるを見て、弓手よりむずと寄せあはせて、実盛が草摺たたみあげて、二刀刺すところを、えい声をあげて組んで落つ。実盛、心は猛けれども、老武者なり、手は負うつ、二人の敵をあひしらふとせしほどに、手塚が下になつて、つひに首を取らる。手塚は、遅ればせに馳せ来たる郎等に、斎藤別当が物具はがせ、首持たせ、木曾殿のまへに馳せ参り、申しけるは、「光盛こそ今日奇異のくせ者に組みて討ち取つて候へ。なにと『名のれ』とせめ候ひつれども、つひに名のり
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候はず。『侍か』と見れば、錦の直垂を着て候。また、『大将軍か』と思へば、つづく勢も候はず。声は坂東声にて候ひつる」と申せば、「あはれ、これは斎藤別当実盛にてやあらん。ただし、それならば、義仲ひととせ幼な目に見しかば、すでに白髪糠生なりしぞ。いまはさだめて白髪にこそあらんずるに、鬢、鬚の黒きは、あらぬ者やらん。年来の得意なれば見知りたるらんものを。樋口召せ」とて、召されたり。樋口の次郎参り、実盛が首をひと目見て、やがて涙にぞむせびける。「いかに、いかに」とたづねられければ、「あな無慚や。実盛にて候ひけり」と申す。「鬢、鬚の黒きはいかに」とのたまへば、樋口の次郎涙を押しのごひて申しけるは、「さ候へばこそ、その様を申さんとすれば、不覚の涙が先立つて、申し得ず候。弓矢取る身は、あからさまの座席とは思ふとも、思ひ出でになることを申しおくべきにて候ひけるぞや。つねは兼光に会うて物語り申せしは、『実盛、六十にあまつて軍の場に向かはんには、鬢、鬚を墨に染めて若やがんと思ふなり。そのゆゑは、若殿ばらにあらそひて先を駆けんも大人げなし。また、老武者とてあなどられんも口惜しかるべし』なんど、つねは申し候ひしが、今度を最後と存じて、まことに染めて候ひける無慚さよ。洗はせて御覧候へ」と申しもあへず、また涙にぞむせびける。「さもあらん」とて洗はせて見給へば、白髪にこそ洗ひなせ。実盛、錦の直垂を今度着たりけることは、都を出でしとき、大臣殿に参り、申しけるは、「一年、東国のいくさにまかり下り候ひて、駿河の蒲原より矢一つも射
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ずして逃げのぼりて候ひしこと、老後の恥辱ただこのことに候ふなり。今度、北国へ向かふならば、年こそ寄りて候ふとも、真先駆けて討死つかまつらんずるにて候。それにとつては、実盛、もとは越前の者にて候ふが、近年所領につきて武蔵の長井に居住せしめ候ひき。事のたとへの候ひしぞかし。『故郷へは錦を着て帰る』と申すことの候。しかるべくは、実盛に錦の直垂を御ゆるされ候へかし」と申しければ、大臣殿、「まことにさるべし」とて、錦の直垂を許されけるとぞ聞こえし。昔の朱買臣は錦の袂を会稽山にひるがへし、今の実盛はその名を北国のちまたにあぐ。
第六十五句 玄〓の沙汰
平家は、去んぬる四月北国に下りしときは、十万余騎と聞こえしが、今五月〔下旬に〕帰り上るには、わづかにその勢三万余騎。さしも花やかにいでたちて都をたちし人々の、いたづらに名をのみ残し、越路の末の塵となるこそかなしけれ。入道の末の子三河守知度も討たれ給ひぬ。忠綱、景高もかへらず、季国、長綱も討たれぬ。「『流を尽くしてすなどるときは、多くの魚ありといへども、明年には魚なし。林を焼いて狩するときは、多くの獣ありといへども、明年には獣なし』と、のちを存じて少々は残されべきものを」と申す人もおほかりけり。
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飛騨守景家は、「最愛の嫡子景高討たれぬ」と聞こえしかば、臥ししづみて嘆きけるが、しきりにいとま申すあひだ、大臣殿ゆるされけり。やがて出家して、うち臥すこと十余日ありて、つひに思ひ死にこそ死にけれ。これをはじめとして、親は子を討たせ、子は親を討たせ、妻は夫におくれて、家々には、をめきさけぶ声おびたたし。北国のいくさにうち負けて、都へ帰り上りにけり。
六月一日、蔵人の左衛門権佐定長、仰せをうけたまはつて、祭主神祇権少副大中臣の親俊を殿上のおり口へ召され、「兵革をしづめんがために、大神宮へ行幸なるべき」よし仰せ下さる。大臣宮と申すは、高天の原より天降らせ給ひて、大和の国笠縫の里にましましけるを、十一代の帝垂仁天皇二十五年丙辰三月に、伊勢の国五十鈴の川上、下津石根に大宮柱を広う敷き立てて、祝ひそめたてまつりしよりこのかた、日本六十余州、三千七百五十余社の神祇冥道のうちには無双なり。されども代々の帝の臨幸はいまだなかりけり。奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛の少将兼大宰少弐広嗣といふ人あり。天平十五年十月に、肥前の国松浦の郡にして、十万の凶賊をかたらひて、国家をあやぶめんとす。これによつて大野の東人、広嗣が討手に向かふ。その祈りのために、帝はじめて伊勢へ行幸なるとかや。広嗣討たれてのち、その亡霊荒れて、
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おそろしき事ども多かりけり。同じき天平十八年六月に筑前の国観世音寺供養せらる。導師には玄〓僧正請ぜらる。すでに高座にのぼり、表白の鉦打ち鳴らして候ふとき、にはかに鳴神おびたたしく鳴つて、玄〓のうへに落ちかかつて、その頭を取り、雲中へぞ入りにける。おそろしなんどもおろかなり。これは玄〓僧正、広嗣を調伏したりけるによつてなり。これによつてかの霊をうやまひ、「松浦の鏡の宮」と号す。この僧正は吉備の大臣入唐のとき、法相宗をわたされし人なり。唐人、「玄〓」といふ名を難じて、「玄〓とは『還つて亡ぶ』といふ声あり。いかさまにも帰朝ののち、事にあふべき人なり」と申したりとかや。そののち、なか一年あつて、曝れたる頭に「玄〓」といふ銘を書いて、興福寺に空より落し、どつと笑ふ声ありけり。おそろしかりし事どもなり。嵯峨の天皇の御時、平城の先帝、尚侍のすすめによつて、世を乱り給ひしその御祈りには、帝第三の姫宮を賀茂の斎院に立てまゐらせ給ひけり。朱雀院の御時、将門、純友、兵乱の御祈りに、八幡の臨時の祭礼はじめらる。か様の事どもを例として、さまざまの御祈りどもはじめられけり。
第六十六句 義仲〔山門〕牒状
木曾は越前の国府に着いて合戦の評定あり。井上九郎、高梨の冠者、
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山田の次郎、仁科の次郎、長瀬の判官代、吾妻の判官代、樋口の次郎、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太以下、しかるべき者ども百人ばかり前に並みゐたりけるに向かつて、木曾のたまひけるは、「そもそも、われら都にのぼらんずるに、近江の国を経てこそのぼらんずるに、例の山法師のにくさは、また防ぐこともやあらんずらん。蹴破つて通らんことはやすけれども、平家こそ、当時は仏法をほろぼし、僧をも失へ。それを、守護のために上洛せんずる者が大衆にむかつて合戦をせんずること、すこしもちがはざる二の舞なるべし。これこそ安大事のことなれ。いかにせん」とぞのたまひける。木曾の大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「さん候。衆徒は三千人にて候。必定、一味同心なることは候はじ。みな思ひ思ひにてこそ候はんずれ。まづ牒状を送りて御覧候へ。事の様は返牒に見え候はんずらん」。「さらば書け」とて、覚明に牒状を書かせて、山門へこそ送られけれ。
義仲つらつら平家の悪行を見るに、保元・平治よりこのかた、長く人臣の礼を失ふ。しかりといへども、貴賤手をつかね、緇素足をいただく。ほしいままに帝位を進退し、あくまで国郡を虜掠す。道理、非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪、無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。その資財を奪ひ取り、ことごとく郎従に与へ、彼の荘園を没取し、みだれがはしく子孫に省く。なかんづく、去んぬる治承三年十一月、法皇を城南
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の離宮にうつしたてまつり、博陸を絶域に流したてまつる。しかのみならず、同じき四年五月に、二の宮の朱閣を囲みたてまつり、九重の紅塵を驚かしむ。ここに帝子非分の害をのがれんがために、園城寺に入御の時、義仲、先日に令旨を賜はるによつて、鞭をあげんと欲するところに、怨敵巷に満ち、予参道を失ふ。近境の源氏なほ参候せず、いはんや遠境においてをや。しかるに、園城寺は分限なきによつて、南城におもむかしめ給ふのあひだ、宇治橋において合戦す。大将三位入道の父子、命を軽んじ、義を重んじ、一戦の功をはげますといへども、多勢の攻をまぬがれず、かばねを龍門原上にうづみ、名を鳳凰城にほどこす。令旨の趣肝に銘じ、同類の悲しみ魂を消す。これによつて、東国、北国の源氏等おのおの参洛をくはだて、平家を滅ぼさんと欲す。その宿意を達せんがために、去年の秋、旗をあげ、剣をとつて、信濃を出でし時、越後の国の住人城の四郎長茂、数万の軍兵を召し具し発向せしむるのあひだ、当国横田川において合戦す。義仲わづかに三千余騎をもつて、彼の二万の兵を破りをはんぬ。風聞[* 「ほうぶん」と有るのを他本により訂正]広きに及んで、平氏の大将十万の軍衆を北陸に発向す。越州、加州の砥波、黒坂、志保坂、篠原以下の城郭において数箇度の合戦、はかりごとを帷幕のうちにめぐらし、
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勝つことを咫尺のもとに得たり。しかれば、討てば必ず伏し、攻むれば必ず降す。たとへば秋の風の芭蕉を破るに異ならず、冬の霜の薫蕕を枯らすにあひ同じ。これひとへに、神明、仏陀のたすけなり。さらに義仲が武略にあらず。平氏敗北のうへは参洛をくはだたんとなり。今は叡岳の麓を過ぎ、洛陽のちまたに入るべし。この時にあたつて、ひそかに疑殆あり。天台の衆徒は平家に同心せんか。源氏に与力せんか。もし彼の悪徒を助けば、衆徒に向かつて合戦すべし。もし合戦をいたさば、叡岳の滅亡くびすをめぐらすべからず。悲しきかなや、平氏宸襟を悩まし、仏法を滅ぼすのあひだ、彼の悪行をしづめんがために義兵を起すところに、忽ちに三千の衆徒に向かつて不慮の合戦いたさんこと。いたましきかなや、医王、山王に憚りたてまつて、行程に逗留せしめば、朝廷緩怠の臣となつて、武略の瑕瑾のそしりを残さん。みだれがはしく進退に迷ひて案内を啓するところなり。乞ひ願はくは三千の衆徒おのおの思慮をめぐらし、神のため、仏のため、国のため、君のため、源氏に同心し、凶徒を誅し、洪化に浴せば、懇丹の至りに堪へず。義仲恐惶敬白。寿永二年六月 日進上恵光律師御房
とぞ書いたりける。山門には、これを披見し僉議まちまちなり。あるいは「平家に同心
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せん」と言ふ衆徒もあり、あるいは「源氏につかん」と言ふ大衆もあり。思ひ思ひの異議さまざまなり。老僧どもの申しけるは、「われらもつぱら金輪聖王、天長地久を祈りたてまつる。当代の、平家は御外戚にてまします。されば、いまに至るまで、かの繁昌を祈誓す。されども、悪行、法に過ぎ、万人これをそむけり。討手を国々へつかはすといへども、かへつて異賊のために滅ぼさる。源氏は、近年より度々合戦にうち勝つて、運命ひらけなんとす。なんぞ、宿運尽きぬる平家に同心して、運命をひらく源氏をそむかんや。平家値遇の儀をひるがへして、源氏合力の心に服すべき」のよし、一味同心に僉議して、やがて牒状を送る。そのことばに曰く、
六月十日の牒状、同じき十六日到来。披閲のところに数日の鬱念一時に解散す。およそ平家の悪行累年に及んで、朝廷の騒動止む時なし。事人口にあり、委悉するにあたはず。それ叡岳に至つて、帝都東北の仁祠として国家静謐の祈誓をいたす。しかるを一天ひさしく彼の夭〓にをかされて、四海とこしなへにその安全を得ず。顕密の法輪なきがごとし。擁護の神威しばしばすたる。貴家たまたま累代武備の家に生まれて、幸ひに当時精選の仁たり。あらかじめ規模をめぐらし、たちまちに義兵を起す。万死の命を忘れて一戦の功を樹つ。その労いまだ両年を過ぎざるに、その名
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すでに七道にほどこす。わが山の衆徒かつがつ以て承悦す。国家のため、累家のため、武功を感じ、武略を感ず。かくのごとくなるときんば、山上精祈空しからざることをよろこび、海内衛護のおこたりなきことを知らん。自寺、他寺、常住の仏法、本社、末社、祭奠の神明、さだめて〔教法の再び栄えんことをよろこび、崇敬の旧に〕復せんことを随喜し給はん。衆徒等心中、ただ賢察をたれ給へ。しかればすなはち冥に、十二神将、かたじけなくも、医王善逝の使者として、凶賊追罰の勇士にあひ加はり、顕には、三千の衆徒、しばらく修学鑽仰の勤節を止めて、悪侶治罰の官軍をたすけしむ。止観十乗の梵風は奸侶を和朝の外にはらひ、瑜伽三密の法雨は時俗を旧年の昔にかへす。衆議かくのごとし。つらつらこれを察せよ。寿永二年六月 日 〔大衆等〕
とぞ書いたりける。
第六十七句 平家一門願書
平家これを知らずして、「興福寺、園城寺は、いきどほり深きをりふしなり、かたらふとも、よもなびかじ。山門は当家のために不忠を存ぜず。当家もまた山門のために怨をむすばず。山王大師に祈誓して三千の衆徒かたらひとらん」とて、一門の公卿、同心の願書を書いて山門に送る。願書に曰く、
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敬白延暦寺をもつて、帰依して氏寺と准じ、日吉の社をもつて、尊敬して氏社のごとくにす。一向天台の仏法を仰ぐべき事。右、当家一族の輩まことに祈誓あり。旨趣如何となれば、それ叡山は桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝ののち円頓の教法をこの所にひろむ。遮那の大戒をそのうちに伝へしよりこのかた、もつぱら仏法繁昌の霊窟たり。久しく鎮護国家の道場にそなはり。まさにいま、伊豆の国の流人前の兵衛佐源の頼朝、身の咎を悔いせず、かへつて朝憲を嘲り、しかるに奸謀に与し、同心いたす源氏等、行家、義仲、以下党を結んで数あり。隣境、遠境数国を抄領し、土宜、土貢、万物押領す。これによつて、かつうは累代勲功の跡を追ひ、かつうは当時弓馬の芸にまかせ、すみやかに賊徒を追罰し、凶徒を降伏すべきのよし、かたじけなくも勅命をふくみ、しきりに征罰をくはだつ。ここに魚鱗鶴翼の陣の、官軍利を得ず。星旄電戟の勢、逆類勝に乗るに似たり。もし神明仏陀の加被にあらずんば、いかでか反逆の凶乱をしづめん。ここをもつて一向天台の仏法に帰し、不退に日吉の神慮を頼むらくのみ。いかにいはんや、かたじけなくも、臣等の曩祖を思へば本願の余裔と言つつべし。いよいよ崇重すべし、いよいよ恭敬すべし。自今以後、山門に悦び
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あらば、一門の悦びとせん。社家に慎みあらば、一家の慎みとせん。善につき、悪につき、悦びとなし、憂ひとなさん。おのおの子孫に伝へて長く失堕せじ。藤氏は春日の社をもつて氏社とし、興福寺をもつて氏寺と号す。久しく法相大乗の宗に帰す。平氏は日吉の社、延暦寺をもつて、氏寺、氏社とせん。円実頓悟の教に値遇せんや。かれは昔の遺跡なり、家のために栄幸を思ふ。これは今の精祈なり、民のために追罰を請ふ。仰ぎ願はくは、山王大師、東西満山の護法の聖衆、十二大願、日光、月光、医王善逝、十二神将、無二の丹誠を照らし、唯一玄応を垂れ給へ。しかればすなはち邪謀逆心の賊、〔手〕を軍門につかね、暴逆残害の輩、首を京都につたへん。我等が苦請の仏神、あになんぞ捨てんや。当家の公卿等、異口同音に礼をなし、祈誓くだんのごとし。寿永二年七月 日
従三位行兼越前守平朝臣通盛
従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛
正三位行右近衛中将兼伊予守平朝臣維盛
正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重衡
参議正三位皇太后宮権大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣
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経盛
従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣
知盛
従二位権中納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
従一位内大臣平朝臣宗盛
敬白
とぞ書かれたる。貫首、これを憐み給ひ、やがても披露せられず。十禅師の御殿に籠めて、三日加持してのち披露せらる。はじめはありとも見えざりつる一首の歌、願書の上巻に出で来たり。
平かに花さくやども年経れば西へかたぶく月とこそなれ
「山王大師、憐みを垂れ給へ。三千の大衆、力をあはせよ」となり。されども、年ごろ、日ごろのふるまひ、神慮をそむき、人ののぞみにも違ひければ、祈れどもかなはず、かたらへどもなびかず。大衆これを見て、「まことにさこそ」とは憐みけれども、すでに源氏に同心の返牒を送るうへは、「その儀あらたむる〔に〕及ばず」。許容する大衆もなかりけり。
第六十八句 法皇鞍馬落ち
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同じき二十日、肥後守貞能、鎮西の謀叛たひらげ、菊池、原田、松浦党を先として、三千余騎をあひ具し、都へ参りけり。西国ばかりは、わづかにたひらげたれども、東国、北国の源氏いかにもしづまらず。同じき二十二日、夜半ばかりに、六波羅の辺、大地をうちかへしたるごとくに騒ぎあへり。馬に鞍おき、腹帯しめ、物の具東西に運び隠しあふ。明けてのち聞こえしは、美濃の源氏に佐渡の右衛門尉重貞といふ者あり。これは一年保元の合戦に、八郎為朝がいくさに負けて落ちゆきけるを搦めまゐらせたりし勲功に、衛門尉になりたり。八郎搦め取るとて、源氏どもに憎まれて、近年平家をへつらひけるが、夜半ばかりに馳せ参つて、「木曾すでに近江の国に乱れ入り、その勢五万余騎、東坂本にみちみちて、人をも通さず。郎等に楯の六郎親忠、木曾の大夫覚明、六千余騎天台山に攻めのぼり、総持院を城郭とす。大衆みな同心して、ただいま都に攻め入る」と申したりけるゆゑとかや。平家これを防がんがために、瀬田へは新中納言知盛、三位の中将重衡、三千余騎にて向かはれけり。宇治へは越前の三位通盛、能登守教経、三千余騎くだられけり。さるほどに、「十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治より入る」といふ。「足利矢田の判官代、五千余騎にて、丹波の国大江山を経て京へ入る」といふ。「摂津の国、河内の源氏は、同じく力をあはせて淀川尻より攻め入るべし」とぞののじりける。平家これを聞きて、「こはいかがすべき。ただ一所にていか
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にもならん」とて、宇治・瀬田の手をもみな呼びぞ返されける。「帝都名利の地、鶏鳴いて、安き心なし。をさまれる世だにもかくのごとし。いはんや乱るる世においてをや。吉野山の奥へも入らなばや」とは思へども、諸国七道ことごとく乱れぬ。いづれの浦かおだやかなるべし。「三界無安猶如火宅」と、如来の金言、一乗の妙文なれば、なじかは少しもちがふべき。
同じき二十四日、小夜ふくるほどに、前の内大臣宗盛、建礼門院の六波羅の池殿にわたらせ給ひけるに参りて、申されけるは、「この世の中のありさまを見たてまつるに、『世はすでにかう』とこそおぼえて候へ。されば、『院をも、内をも、取りまゐらせて、西国の方へ行幸をも、御幸をもなしまゐらせて見ばや』とこそ思ひなして候へ」と申させ給へば、女院、「ともかくもただ大臣殿のはかりごとにこそ」とぞ仰せける。大臣殿も直衣の袖しぼるばかりにて、泣く泣く申されければ、女院も御衣の袂にあまる御涙、ところ狭いでぞ見えさせ給ひける。法皇は、「平家の取りまゐらせて、西国の方へ落ち行くべし」といふことを内々聞こしめしてやありけん。右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひて、鞍馬のかたへ御幸なる。人これを知らざりけり。平家の侍に橘内左衛門季康といふ男あり。さかさかしき者にて、院にも召し使はれけるが、その夜しも法住寺殿へ御宿直して候ふが、つねに、御所の方、よにさわがしく、ささめきあひて、女房たちしのび声に泣きなんどし給へば、「こはなにごとやらん」と思ひ
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て聞くほどに、「法皇のわたらせたまはぬは、いづかたへ御幸なりたるやらん」と申しあはるる声に聞きなして、「あな、あさましや」と思ひ、いそぎ六波羅へ馳せ参りて、このよしを申せば、大臣殿「いで、ひが事にてぞあるらん」とのたまひながら、やがて法住寺殿へ馳せ参り、見給へば、げにもわたらせ給はず。二位殿丹波殿以下御所に候はせ給ふ女房たち、みなはたらき給はず。「いかにや、いかにや」と申されけれども、「われこそ御ゆくへ知りまゐらせたり」といふ女房一人もおはせず。明くれば七月二十五日なり。「御所にもわたらせ給はず」と申すほどこそありけれ、京中の騒動なのめならず。いはんや平家の人々のあわて騒がれけるありさま「家々に敵討ち入りたらんも、かぎりあれば、これには過ぎじ」とぞ見えし。日ごろは、「院をも、内をも取りまゐらせ、御幸をも、行幸をもなしたてまつらん」と計らはれたりけれども、か様に法皇の捨てさせましまししかば、たのむ木のもとに雨のたまらぬ心地をぞせられける。「さては行幸ばかりなりともなしたてまつれ」と、二十五日の卯の刻ばかりに、御輿寄せまゐらせたりければ、主上、六歳にならせ給ふ、なに心もわたらせ給はず、やがて御輿に召されけり。国母建礼門院も同じ御輿にぞ召されける。内侍所、神璽、宝剣、わたしたてまつる。そのほか「印鑰、時の札、玄上、鈴鹿までも、取り具したてまつれ」と平大納言下知せられけれども、あまりにあわてて取り落す物ども多かりけり。摂政殿も供奉せさせ給ひたりけるが、東寺の門のほとりにびんづら結うたる童子の御車のまへを馳せ過ぎて御歌あり。
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いかにせん藤のうら葉の枯れゆくをただ春の日にまかせてやみん
御車のうちを見入れたるを、御覧ずれば、左の肩に「春日」といふ文字ぞ見えさせ給ひける。「これは法相擁護の春日の権現、淡海公の御末を守らせ給ふか」と、めでたかりし事どもなり。摂政殿、「大明神の御告げなり」とおぼしめされければ、御供に候ふ進藤右衛門信高を召して、なにとか仰せられたりけん、御牛飼にきつと目を見合はせられければ、御車を遣り返したてまつる。大宮をのぼりに、北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。これも人知りまゐらせず。平大納言時忠、内蔵頭信基、これ二人ばかりぞ衣冠にて供奉せられたる。そのほか近衛司も甲冑をよろひ、弓矢を帯して供奉す。七条を西へ、朱雀を南へ行幸なる。漢天すでにひらけて、雲東西にそびえ、あかつき月さびしくして、鶏鳴またいそがはし。「一年、都遷りとて、にはかにあわただしかりしは、かかるべかりける先表」とも、今こそ思ひあはれけれ。
薩摩守忠度は、いづくよりか引き返されたりけん、侍五騎具して、五条の三位俊成の卿の宿所にうち寄りて見給へば、門戸を閉ぢて開かず。うちを聞けば、「落人帰り上りたり」とて、おびたたしく騒動す。門をたたけども、あけぬあひだ、「これは薩摩守忠度と申す者にて候ふが、いま一度見参に入り、申すべきこと候うて、道より帰り上りて候ふなり。たとひ門をあけずとも、この際まで立ち寄らせ給へ」と
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のたまへば、三位これを聞き、「その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門を開き、対面ある。忠度紺地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧を着給へり。薩摩守のたまひけるは、「年来、申し承つてのち、いささかもおろかに思ひたてまつることは候はねども、この三四年は、京都のさわぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上にて候へば、この事どもにつきて、疎略を存ぜずといへども、つねに参り寄ることも候はず。されども、撰集のあるべきよし、承り候ひしかば、『生涯の面目に、一首の御恩をかうむり候はばや』と存じ候ふところに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰もなく候ひしことども、一身のなげきと存じ候。君すでに都を出でさせ給ひぬ。屍を山野にさらさんほかは、期するかたなく候。世しづまりなば、さだめて勅撰の沙汰候はんずらん。そのうちに一首御恩をかうむり、草のかげまでも、『うれし』と存じ候はばや。また遠き御守りともなりまゐらせべし」とて鎧の引合より巻物一つ取り出だして、俊成の卿に奉る。三位この巻物ちとひらいて見給ひて、「かかるわすれがたみを賜はりおくなれば、ゆめゆめ疎略を存ずまじく候。勅撰のことは、人は知らず、愚身が承らんにおいては、御疑ひあるべからず」とのたまへば、忠度、「今生の見参こそ、ただ今をかぎりと申すとも、来世にてはかならず一つ仏土に参りあはん」とてぞ出でられける。薩摩守、兜の緒をしめ、馬の腹帯をかため、うち乗つて、西をさして歩ませ行く。三位はるばると見送りて立たれたるところに、薩摩守
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の声とおぼしくて、前途ほど遠し、思ひを雁山の夕の雲にはつすと、たからかにうち詠じ給へば、三位これを聞いて、涙をおさへて入り給ふ。げにも、世しづまつて、勅撰あり。「千載集」これなり。その中に忠度の歌一首入れられたり。「心ざし切なりしかば、あまたも入ればや」と思はれけれども、勅勘の人なれば、名字はあらはさず、「読人知らず」とぞ入れられける。「故郷の花」といふ題にて詠まれたる歌なり。
さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
その身すでに朝敵となりしうへは、子細に及ばずとはいひながら、口惜しかりしことどもなり。
〔第六十九句 維盛都落ち〕修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正は、幼少にては、仁和寺の御室の御所に候ひしかば、かくある怱劇のなかにも、御名残をきつと思ひ出だして、侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門前にて馬よりおり、申し入れられけるは、「一門、運尽きて、今日すでに帝都をまかり出で候。うき世に思ひのこすこととては、ただ君の御名残ばかりなり。八歳のとき、参りはじめ候うて、十三にて元服つかまつり候ひしまでは、あひいたはることの候ひしよりほかは、御前をたち去ることも候はざりしに、今日よりのち、いづれの日、いづれの時、帰り参るべしとも覚えざることこそ、口惜しう候へ。いま一度、御前に参りて、君をも見まゐらせたう候へども、甲冑を
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よろひ、弓矢を帯して、あらぬさまの装ひにまかりなりて候へば、はばかり存じ候」とぞ申されける。御室あはれにおぼしめし、「ただ、その体をあらためずして参れ」とこそ仰せけれ。経正その日は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、長覆輪の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓をわきばさみ、兜を脱いで高紐にかけ、御坪の白洲にかしこまる。御室やがて御出であつて、御簾高く巻かせ、「これへ、これへ」と召されければ、大床へこそ参られたれ。御琵琶持ちて参りたり。経正これを取り次ぎ、御前にさし置き、申されけるは、「先年下しあづかりて候ふ青山、持ちて参りて候。あまりに名残は惜しう候へども、さしも我が朝の名物を、田舎の塵になさんこと口惜しう候。もし不思議に運命開いて、また都へたち帰ること候はば、その時こそ、なほ下しあづかり候はめ」と泣く泣く申しければ、御室、あはれにおぼしめし、一首の御詠歌をあそばいて、下されけり。
あかずしてわかるる君が名残をばのちのかたみにつつみてぞおく
経正御硯下されて、
呉竹のかけひの水はかはるともなほすみあかぬ宮のうちかな
さて、いとま申して出でられけるに、数輩の童形、出世者、坊官、寺僧にいたるまで、経正の袂にすがり、袖をひかへ、名残を惜しみ、涙を流さぬはなかりけり。幼少のとき、小師にましませし大納言の法印行尊と申すは、葉室
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の大納言光頼の卿の御子なり。あまりに名残を惜しみて、桂川のはたまでうち送り、さてあるべきならねば、それよりいとま乞うて泣く泣く別れ給ふに、法印かうぞ思ひつらねける。
あはれなり老木若木も山桜おくれ先だち花はのこらじ
経正返歌に、
旅衣よなよな袖をかた敷きて思へばわれは遠くゆきなん
さて、巻いて持たせられける赤旗ざつとさし上げたりければ、かしこ、ここに、控へ待ちたてまつる侍ども、「あはや」と馳せ集まり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ、駒をはやめて、ほどなう行幸に追ひつきたてまつらせ給ひけり。経正十七の年、宇佐の勅使を承つて下られけるに、そのとき青山賜はりて、宇佐へ参り、御殿に向かひたてまつり、秘曲を弾じ給ひしかば、いつのとき聞き知りなれたることはなけれども、かたはらの宮人、おしなべて緑の袖を濡らしける。知らぬ奴までも、村雨とはまぎれで聞きけり。めでたかりしことどもなり。この「青山」と申す御琵琶は、昔仁明天皇の御宇に、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏、渡唐のとき、大唐の琵琶の博士廉承武に会うて、かの三曲を伝へて帰朝せしに、そのとき、玄上、獅子丸、青山、三面の琵琶を相伝してわたされけり。龍神や惜しみ給ひけん、波風はげしかりければ、獅子丸をば海底に沈む。いま二面の琵琶をわたして、わが
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朝の帝の御宝とす。村上の聖代、応和のころ、三五夜中の新月すさまじく、涼風颯々たりし夜半に、帝、清涼殿にて玄上をあそばされけるときに、影のごとくなるもの、御前に参りて、興に乗じ高声に唱歌めでたくつかまつる。帝、御琵琶をしばらくさし置かせ給ひて、「そもそも、なんぢはいかなる者ぞ。いづくより来たれるぞ」と御たづねあれば、「これは昔の貞敏に三曲を伝へさせ候ひし、大唐の琵琶の博士廉承武と申す者にて候ふが、三曲のうち秘曲を一曲残せる罪によつて、魔道に沈淪つかまつりて候。いま御琵琶の撥音、妙に聞こえはんべるあひだ、参入つかまつるところなり。願はくは、この曲を君に授けたてまつり、仏果菩提を証すべき」よし申して、御前に立てられたる青山を取つて、転手をひねりて、この曲を授けたてまつる。三曲のうちに、上原石上これなり。そののちは、君も臣もおそれさせ給ひて、この琵琶をあそばしはんべることもなかりけり。御室へ参らせられたりけるを、仁和寺の守覚法親王、経正の幼少のとき、御最愛の童形たるによつて、下しあづけられたりけるとかや。夏山の峰の緑の木の間より、有明の月の出でたるを、撥面に描かれたりけるゆゑにこそ「青山」とはつけられけれ。玄上にあひ劣らぬ希代の名物なり。
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第六十九句 維盛都落ち
そのなかに、小松の三位の中将維盛は、日ごろより思ひまうけたりしことなれども、さしあたつて悲しかりけり。この北の方と申すは、故中の御門新大納言成親の卿の御むすめなり。この腹に六代御前とて十歳にならせ給ふ若君まします。〔夜叉御前とて八つにならせ給ふ姫君まします。〕この人々「おくれじ」と面々に出でたち給へば、三位の中将、北の方にのたまひけるは、「日ごろ申せし様に、維盛は一門の人々につらなつて、西国へ落ち行き候ふなり。『具したてまつらん』と思へども、道にも源氏どもあひ待つなれば、平らかに通らんことも難かるべし。もし、いづくの浦にも心安く落ちつきたらんとき、いそぎ迎ひに人を奉らん。またいかならん人にもまみえ給へかし。情をかけたてまつらん人、都のうちになどかなかるべき」とのたまへば、北の方はとかくの返事もし給はず、やがてひきかづきてぞ伏し給ふ。三位の中将、鎧着て、馬引き寄せ、出でんとし給へば、北の方泣く泣く起きあがり、袖にとりつきて、「都には、父も、母もなし。捨てられまゐらせてのち、また誰にかは、まみゆべき。『いかなる人にもまみえよかし』なんどとのたまふことの恨めしさよ。日ごろは御心ざし浅からずおはせしかば、人知れずこそ、深く、たのもしく思ひしに、いつの間に変りける心ぞや。『同じ野原の露とも消え、同じ底の水屑ともならばや』なんどとこそ契りしに、今は寝覚めの睦言も、みないつはりになりにけり。せめてわが身ひとつならば、捨て
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られたてまつる身のほどを思ひ知りてもとどまりなん。幼き者どもを、誰にゆづり、いかにせよと思ひ給ふ。うらめしうも、とどめ給ふものかな」とて、かつうは慕ひ、かつうは恨みて、泣き給ふにぞ、三位の中将せんかたなうぞ思はれける。「まことに、人は十三、維盛十五と申せしより、たがひに見初め、見え初めて、今年はすでに十二年。『火の中、水の底までも、共に入り、共に沈み、限りある別れ路にも、おくれ、先立たじ』とこそ契りしかども、心憂きいくさの場におもむきければ、知らぬ旅の空にて憂き目を見せたてまつらんも心苦しかるべし。そのうへ、今度は用意も候はねば、迎へを待ち給へ」とこしらへおかんとし給へば、若君、姫君、御簾の外へ走り出でて、鎧の袖、草摺に取りつきて、「されば、こはいづくへとてわたらせ給ふぞや。われも行かん」「われも参らん」と慕ひつつ泣き給ふにぞ、三位の中将、「憂き世のきづな」とは今こそ思ひ知られけれ。さるほどに、舎弟新三位の中将、左中将、小松の少将、丹後の侍従、備中守、兄弟五人門の内へうち入り、「行幸ははるかに延びさせ給ひて候ふものを、いかにや、今まで」と面々に申しあはれ、すすめられければ、すでに馬にうち乗り、出で給ひけるが、また大床のきはにうち寄せ、弓の筈にて御簾をざつとかき上げて、「これ御覧ぜよ。幼き者どもがあまりに慕ひ申し候ふを、今朝より、とかうこしらへおかんとつかまつるほどに、存じのほかに遅参つかまつりぬ」と、のたまひもあへず泣き給へば、五人の人々も、みな鎧の袖をぞ濡らされける。斎藤五、斎藤六とて兄弟あり。兄は
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十九、弟は十七になる侍あり。これは、去んぬる五月、篠原にて討たれし、長井の斎藤別当実盛が子どもなり。是等(これら)は三位の中将の馬のみづつきに取りつきて、「いづくまでも御供つかまつるべき」よしを申す。三位の中将、是等(これら)にいたく慕はれて、のたまひけるは、「多くの者どものなかに、なんぢらをとどむるは、思ふ様がありてとどむるぞ。『末までも六代が頼りとは、なんぢらこそなるべき者よ』とてとどむるなり。とどまりたらんは、具したらんよりも、われはなほうれしく思はんずるぞ」なんど、こまごまとのたまへば、力およばず涙をおさへてとどまらんとす。北の方、「日ごろは、これほどに情なかるべき人とは思はざりしが」とて、伏しまろびてぞ泣き給ふ。若君も大床にころび出で、声をはかりにをめき叫び給ふ。その声、門の外まで聞こえければ、三位の中将、馬をもすすめやり給はず、ひかへ、ひかへぞ泣かれける。まことに人は「今日別れては、いづれの日、いづれの時は、かならずめぐりあふべき」と契るだにも、その期を待つは久しきに、これは今日を限りの別れなれば、その期を知らぬこそ悲しけれ。この声声の耳の底にとどまつて、西海の旅の空までも、吹く風の声、立つ波の声についても、ただ今聞く様にこそ思はれけれ。
第七十句 平家一門都落ち
平家都を落ちゆくに、六波羅、池殿、小松殿、西八条に火をかけたれば、黒煙
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天に満ちて、日の光も見えざりけり。あるいは聖主臨幸の地なり、鳳闕空しくいしずゑをのこし、鑾輿ただあとをとどむ。〔あるいは〕后妃遊宴のみぎりなり、椒房の嵐の音かなしむ、掖庭の露の色うれふ。藻〓黼帳の基なり、弋林釣渚の館、塊棘の座、〓鸞のすまひ、多日の経営を辞して、片時の灰燼となれり。いはんや郎従の蓬〓においてをや。いはんや雑人の屋舎においてをや。余炎のおよぶところ、在々所々数十町なり。「強呉たちまちに滅びて、姑蘇台の露荊棘に移れり。暴秦衰ひて虎狼なし、咸陽宮の煙、睥睨を隠しけんも、かくや」とおぼえてあはれなる。日ごろは函谷、二〓のけはしきをかたうせしかども、北狄のためにこれを破られ、洪河、〓渭の深きをたのみしかども、東夷のためにこれを渡らる。あにはからんや、たちまちに礼儀の都を攻め出だされ、泣く泣く無知のさかひに身をよせ、昨日は雲上に雨を降らす飛龍たりといへども、今日は轍中に水を失ふ〓魚のごとし。昔は保元の春の花と栄え、今は寿永の秋の紅葉と落ちはてぬ。
池の大納言頼盛は、池殿に火をかけ、落ちられけるが、なにとか思はれけん、手勢三百余騎引きあうて、赤旗みな切り捨て、鳥羽の北の門より都へ引きぞ返されける。越中の前司盛俊これを見て、大臣殿に申しけるは、「池殿のとどまら
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せ給ふに、侍どもあまたつきたてまつてとどまり候。大納言殿まではおそれに候。侍どもに矢一つ射かけ候はばや」と申せば、大臣殿、「そのこと、さなくともありなん。年来の重恩を忘れて、このありさまを見果てぬ奴ばら、とかう言ふに及ばず」とぞのたまひける。「さて三位の中将はいかに」と、問ひ給へば、「小松殿の君達はいまだ一所も見えさせ給はず」と申す。「さこそあらめ」とて、いよいよ心細げに思はれけり。新中納言のたまひけるは、「都を出でていまだ一日だにも経ぬに、はや人の心も変りはてぬ。まして、行く末こそおしはからるれ」。「ただ都のうちにていかにもなるべかりつるものを」とて、大臣殿の方を見やりて、よにもうらめしげに思はれたり。まことに、ことわりとおぼえてあはれなり。池の大納言は、八条の女院の仁和寺の常盤殿にわたらせ給ひけるにぞ、参り籠らせ給ひける。およそ、兵衛佐、「大納言殿をば、故池の尼御前のわたらせ給ふとこそ思ひまゐらせ候へ。頼朝においては、意趣思ひたてまつらず。八幡大菩薩も御照覧候へ」と度々誓言をもつて申されけり。討手の使のぼるにも、「あひかまへて池殿の侍どもに弓を引きなんどすな」とのたまひけり。か様のことどもを頼みて、とどまり給ひけるとかや。なまじひに一門には離れぬ、波にも磯にも着かぬ心地ぞせられける。畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝綱、これ三人は去んぬる治承三年より、召し籠められてありしを、大臣殿ばかり「是等(これら)が首を刎ねらるべし」とのたまひけるを、平大納言と、新中納言
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と申されけるは、「是等(これら)百人千人を切らせ給ひて候ふとも、御運尽きさせ給はんのちは世を取らせ給はんことかたかるべし。国に候ふなるかれらが妻子ども、さこそ嘆き候ふらめ。『今や、今や』と待ち候ふらんところに、『斬られたり』と聞こえしかば、いかばかり嘆き候はんずらん。是等(これら)をば東国へ返しつかはさるべしとおぼえ候」とひらに申されければ、大臣殿「げにも」とて、是等(これら)三人を召し寄せてのたまひけるは、「いとまを賜ぶ。急ぎ下れ」とのたまへば、三人の者ども、かしこまつて申しけるは、「いづくまでも、行幸の御供つかまつるべき」よしを申す。大臣殿、「なんぢらが色代はさることなれども、魂はみな東国にこそあらんに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべき様なし。とくとく下るべし」と、仰せ再三におよびければ、力およばず、涙をおさへて下らんとす。是等(これら)も、さすが二十余年の主なれば、別れの涙おさへがたし。小松殿の君達たちは、兄弟その勢六七百騎ばかりにて、淀の辺にて行幸に追つつきたてまつり給ひけり。大臣殿、この人々を見つけ給ひて、ちと力つき、よにもうれしげにて、「いかにや、今まで」とのたまへば、三位の中将、「さ候へばこそ、幼き者どもが今朝よりあまりに慕ひ候ひつるを、とかうこしらへおかんとつかまつり候ひつるほどに、遅参つかまつりぬ」と申されければ、大臣殿、「などや具したてまつり給はぬぞ、いかに心苦しくおはすらん」とのたまへば、三位の中将、「行く末とても頼もしうも候はず」とて、問ふにつらさの涙を流されけるぞ、あはれなり。
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落ちゆく平家は誰々ぞ。前の内大臣宗盛、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位の中将重衡、小松の三位の中将維盛、越前三位通盛、新三位の中将資盛。殿上人には内蔵頭信基、讃岐の中将時実、左中将清経、左馬頭行盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、皇后宮亮経正、薩摩守忠度、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛。僧には法勝寺の執行能円、二位の僧都全真、中納言の律師忠快、経受坊の阿闍梨祐円。侍には、受領、検非違使、衛府、諸司、むねとの者ども百六十余人。都合その勢七千余騎。これは、東国、北国、この三四年所々の合戦に討ち漏らされて、残るところなり。山崎の関戸の院に玉の御輿をかきすゑて、男山を伏し拝み、平大納言時忠、「南無帰命頂礼、正八幡大菩薩、しかるべくんば君をはじめまゐらせて、われらをいま一度都へ返し入れさせ給へ」と泣く泣く申されけるこそ悲しけれ。肥後守貞能は、「川尻に源氏どもがむかうたり」と聞いて、「蹴散らさん」とて、五百余騎発向したりけるが、ひが事なれば帰り上るほどに、道にて行幸に参りあひたてまつり、大臣殿の御前にて、馬よりおり、弓わきばさみ、
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かしこまつて申しけるは、「これは、いづくへとて御わたり候ふやらん。西国へ落ちさせ給ひたらば、助からせおはすべきか。落人とて、かしこ、ここにて討ちとめられさせ給はんことこそ、口惜しくおぼえ候へ。ただ都にてともかくもならせ給はで」と申せば、大臣殿、「貞能はいまだ知らぬか。『源氏すでに天台山に攻め登つて、総持院を城郭とし、山法師みな与力して、今都に入る』といふに、せめて、おのおの身ばかりならばいかにもせん。女院、二位殿に憂き目を見せたてまつらんも、心苦しければ、『ひとまどもや』と思ふぞかし」とのたまへば、肥後守、「さらば、貞能、いとま賜び候へ」とて、手勢三百余騎、引き分かつて、都へ帰り入り、西八条の焼けあとに大きくひかせ、一夜宿したりけれども、返し入り給ふ平家一人もましまさざりければ、さすが心細くや思ひけん。「源氏の馬のひづめにかけじ」とて、小松殿の墓掘りおこし、あたりの土賀茂川に流させ、骨をば高野へ送り、「世の中たのもしからず」と思ひければ、思ひきりて、勢をば小松の三位の中将殿の御方へ奉り、われは乗替一騎具して、宇都宮左衛門朝綱にうち連れて、平家と後あはせに東国へこそ落ち行きけれ。
平家は小松の三位中将維盛のほかは、大臣殿以下みな妻子を具し、そのほか、行くも、止まるも、たがひに袖をしぼりけり。夜がれをだにも嘆きしに、後会その期を知らず、妻子を捨ててぞ落ち行きける。相伝譜代のよしみ、年ごろの重恩、いかでか忘るべきなれば、若きも、老いたるも、ただうしろをのみかへり見て、さらに先へはすすま
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ざりけり。おのおのうしろをかへり見て、都の方はかすめる空の心地して、煙のみ心細くぞ立ちのぼる。そのなかに修理大夫経盛、都をかへり見給ひて、泣く泣くかうぞのたまひける。
ふるさとを焼け野の原とかへり見て末もけぶりの波路をぞゆく
薩摩守忠度、
はかなしや主は雲井にわかるればあとはけぶりと立ちのぼるかな
まことに、故郷をば一片の煙塵にへだて、前途万里の雲路におもむき給ひけん、人々の心のうちこそ悲しけれ。ならはぬ磯辺の波枕、八重の潮路に日を暮らし、入江こぎゆく櫂のしづく、落つる涙にあらそひて、袂もさらに乾しあへず。駒に鞭うつ人もあり、あるいは船に棹さす者もあり、思ひ思ひ、心々に落ちぞ行く。福原の旧都に着いて、大臣殿、しかるべき侍ども三百余人召し集めてのたまひけるは、「積善の余慶、家に尽き、積悪の余殃、身に及ぶ。かるがゆゑに、宿報尽きて、神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上に浮かぶ落人となれり。すでに旅泊に漂ふうへは、行く末とても楽しみあるべうもなけれども、一樹のかげに宿るも前世の契り浅からず。一河の流れを汲むも他生の縁なほ深し。いはんや、なんぢらは一旦したがひつく門客にあらず。累祖相伝の家人なり。あるいは追臣のよしみ他に異なることもあり、
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あるいは重代の芳恩これ深きもあり。家門繁昌のいにしへは、恩波によつて私を顧み、たのしみ尽き、かなしみ来る。なんぞ思慮をめぐらし、重恩をむくひんや。十善帝王、かたじけなくも、三種の神器を帯しわたらせ給へば、いかならん野の末、山の奥までも、行幸の御供つかまつらんとは思はずや」とのたまへば、老少涙をながし、「あやしの鳥、獣も、恩を報じ徳をむくふ心みな候ふとこそ承れ。中にも、弓箭、馬上にたづさはる習ひ、二心あるをもつて恥とす。この二十余年があひだ、妻子をはごくみ、所従をたくはゆること、しかしながら君の御恩にあらずといふことなし。しかれば、すなはち、日本の外、鬼界、高麗、天竺、震旦までも、行幸の御供つかまつるべき」よし一味同音に申しければ、人々すこし色をなほし、たのもしくこそ思はれけれ。平家、福原の旧里に一夜をぞ明かされける。をりふし秋の月は下の弓張なり。深更の空夜静かにして、旅寝の床の草枕、涙も露もあらそひて、ただもののみぞ悲しき。いつ帰るべきともおぼえねば、故入道相国の造りおき給ひし、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、雪の御所、萱の御所とて見られけり。馬場殿、二階の桟敷殿、人々の家々、五条の大納言邦綱の卿の造りまゐらせられし里内裏、いつしか三年に荒れはてて、旧苔道をふさぎ、秋草門を閉ぢ、瓦に松生ひ、蔦しげり、台かたぶいて苔むせり。松風のみや通ふらん。簾
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絶えて、閨あらはなり。月かげばかりやさし入りけん。明くれば、主上をはじめまゐらせて、人々御船に召されけり。都を立ちしばかりはなけれども、これも名残は惜しかりけり。海士のたく藻の夕煙、尾上の鹿のあかつきの声、渚々に寄る波の音、袖に宿借る月の影、千草にすだくきりぎりす、すべて目に見え、耳にふるること、一つとして、あはれをもよほし、心をいたましめずといふことなし。昨日は東山の関のふもとに轡を並べ、今日は西海の波の上に纜をとく。雲海沈々として青天まさに暮れなんとす。孤島に霧へだたつて、月海上に浮かぶ。極浦の波を分けて、潮に引かれて行く船は、なか空の雲にさかのぼる。修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正、行幸に供奉すとて、泣く泣くかうぞのたまひける。
行幸する末も都とおもへどもなほなぐさまぬ波のうへかな
平家は、日数を経れば、山川ほどを隔てて、雲井のよそにぞなりにける。「はるばる来ぬる」と思ふにも、ただ尽きせぬものは涙なり。波の上に白き鳥の群れゐるを見ては、「かの在原のなにがしが、隅田川にて言問ひし、名もむつまじき都鳥かな」とあはれなり。寿永二年七月二十五日、平家都を落ちはてぬ。


平家物語 百二十句本(京都本)巻第八

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平家巻第八     目  録
第七十一句 四の宮即位
     鞍馬より山門へ御幸の事
     同じく還御の事
     義仲行家官途の事
     平家大宰府へ下着
第七十二句 宇佐詣で
     名虎相撲の事
     惟喬惟仁位争ひ
     祈祷の事同じく競馬の事
     時忠の卿還俗国王の沙汰
第七十三句 緒環
     頼経脚力の事
     緒方の三郎追立て使の事
     筑後の国竹野城合戦
     大宰府落ち
第七十四句 柳の浦
     柳の浦内裏の事
     四国わたりの事
     屋島やかたの事
     海上仮屋の事
第七十五句 頼朝院宣申
     鶴が岡八幡参詣
     神前盃進物の事
     頼朝、使盛定対面
     引出物の事
第七十六句 木曾猫間の対面
     猫間の中将殿入御
     食をすすむる事
     返礼として出仕の事
     車のうち振舞の事
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第七十七句 水島合戦
     足利矢田の判官山陽道下向
     水島陣
     能登殿船軍下知
     矢田判官船乗り沈むる事
第七十八句 瀬尾最後
     倉光寝刺しの事
     笹の畷城攻めの事
     同じく板倉の城の事
     室山合戦
第七十九句 法住寺合戦
     鼓判官の沙汰
     明雲僧正討死
     首実検
     信濃の次郎討死
第八十句 義経熱田の陣
     公朝・秋成熱田下向
     同じく鎌倉へ参着
     鼓判官鎌倉参上
     義仲大赦行はるる事
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平家巻第八
第七十一句 四の宮即位
寿永二年七月二十四日の夜半ばかりに、法皇は按察の大納言資朝の卿の子息右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひ、鞍馬寺へ入らせ給ひけるが、「ここもなほ都近くてあしかりなん」とて、笹の峰、解脱が谷、寂場房、御所になる。大衆起つて、「東塔へこそ御幸なるべけん」とていきどほり申すあひだ、「さらば」とて、東塔の南谷、円融房、御所になる。かかるあひだ、武士も衆徒も円融房御所ちかく候ひて、君を守護したてまつる。院は天台山に、主上は平家にとられて西海へ、摂政は知足院に、女院の宮は八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、かたほとりについて逃げ隠れさせ給へり。平家は落ちぬれども、源氏はいまだ入りかはらず。すでにこの京は主なき里とぞなりにける。開闢よりこのかた、かかることあるべしともおぼえず。聖徳太子の未来記にも、今日のことこそゆかしけれ。法皇は天台山へわたらせ給ふと聞こえしかば、馳せ参り給ふ人々、「入道殿」とは前の関白松殿。「当殿」とは近衛殿。太政大臣、大納言、中納言、宰相。三位、四位、五位の殿上人。官加階にのぞみをかけ、所帯、所職を帯する人の、一人も漏るるはなかりけり。あまりに人参り
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つづいて、堂上、堂下、門外、門内、ひますきもなく満ち満ちたり。山門の繁昌、門跡の面目とぞ見えし。同じき二十八日、法皇は都へ還御なる。木曾の冠者義仲、五万余騎にて守護したてまつる。近江源氏山本の冠者義高、白旗ささせて先陣つかまつる。この二十余年見ざりつる白旗の今日はじめて都へ入る。めづらしかりし事どもなり。十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治橋より京へ入る。陸奥の新判官義康が子矢田の判官代五千余騎にて丹波の国大江山を経て京へ入る。京中には源氏の勢みちみちたり。法皇、法住寺殿へ入らせ給ふ。検非違使別当左衛門督実家、勘解由小路の中納言経房、三人、院の殿上の簀子に候ひて、行家、義仲を召して、「前の内大臣宗盛以下の平家の一類追罰すべき」むね、仰せ下さる。両人かしこまつて承る。「おのおの宿所なき」よし申せば、十郎蔵人行家は、法住寺殿の南殿と申す萱の御所を賜はりけり。木曾は、大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院を賜はる。主上は外戚の平家にとられて、西海の波のうへにただよはせ給ふ御ことを、法皇御嘆きあつて、「主上ともに三種の神器、ことゆゑなく都へ返し入れたてまつれ」と仰せ下されけれども、平家もちひたてまつらねば、大臣殿以下参入して、「そもいづれの宮を位につけたてまつるべき」と僉議ありけるとかや。高倉の院の皇子、先帝のほか三ところわたらせ給ひけり。二の宮をば平家の「儲
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の君にしたてまつらん」とて、具しまゐらせて西国へ下向す。三、四はいまだ都にましましけるを、八月五日、法皇この宮たちを迎ひ寄せまゐらせ給ひて、まづ三の宮、五歳にならせ給ふを、法皇、「これへ、これへ」と仰せられければ、法皇を見まゐらせ給ひて大きにむつがらせ給ふあひだ、「とうとう」とて、暇を出だしまゐらせさせ給ひぬ。そののち四の宮、四歳にならせ給ふを、法皇、「これへ、これへ」と仰せければ、すこしもはばからせ給はず、やがて御膝へ参らせ給ひて、よにもなつかしげにてぞましましける。法皇御涙をながさせ給ひて、「げにも、そぞろならん者は、か様の老法師を見ては、などか慣れ気には思ふべき。これぞまことのわが孫にはありける。故院の幼いにすこしも違はぬものかな。かかる忘れ形見のましましけるを、今まで見たてまつらざることよ」とて、御涙にむせびおはします。浄土寺の二位殿、そのころ「丹後殿」とて御所に候はれけるが、「さて、御譲りはこの宮にてわたらせ給はんや」と申されければ、法皇、「子細にや」とぞ仰せける。内々御占のありけるにも、「四の宮位につかせ給ひなば、天下おだやかなるべし」とぞ申しける。御母儀は七条修理大夫信隆の卿のむすめなり。中宮の御方に参りて宮仕ひしほどに、主上、夜な夜なこれを召されけり。うちつづき宮あまたいできさせ給ひけり。信隆の卿の御むすめあまたおはしけるなかに、「いかにもして一人后に立てばや」と思ふ心ざしおはしけり。この人、「白き鶏を千そろへて飼へば、かならずその家に后いできたるといふことあり」とて、
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白き鶏を千そろへて飼ひ給ひけるゆゑにや、御むすめ、皇子を生みたてまつり給ひけん。信隆の卿、内々はうれしう思はれけれども、中宮にも恐れをなしまゐらせ、平家にもはばかつて、もてなしたてまつることもましまさざりしを、太政入道の北の方、「くるしかるまじ。この宮たちをば育てまゐらせ、儲の君にもしたてまつれよ」とて、御乳母どもにつけてぞ育てまゐらせける。なかにも四の宮は、二位殿の舅法勝寺の執行能円ぞ養ひたてまつりける。能円、平家に連れて西国へ落ちしとき、あまりにあわてて、宮をも女房をも捨ておきたてまつり、西国へ落ちられたりけるが、能円途より人をのぼせて「女房、宮を具したてまつり、いそぎ下り給へ」とありければ、この女房、宮を具したてまつり、西京なる所まで出でられたりけるを、この女房の舅紀伊守範光これを聞き、いそぎ走り向かひて、「物について狂ひ給ふか。この宮の御運は、いま開かせ給はんずるものを」とて、とり留めまゐらせけり。次の日、法皇より御迎ひの御車は参りたりけり。何事もしかるべきこととはいひながら、紀伊守範光、四の宮の御ためには、奉公の人とぞ見えたりける。同じく十日、除目おこなはれて、木曾の冠者義仲、左馬頭になつて越後の国を賜はる。十郎蔵人は備後の国を賜はる。おのおの国をきらひ申す。木曾は越後の国をきらへば、伊予守になる。十郎蔵人は備後をきらへば、備前守になる。そのほか源氏十人受領す。検非違使、靱負尉、兵衛尉ども〔に〕なされけり。同じく十四日、前
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の内大臣宗盛以下の平家の一類百六十三人が官職を罷めて、殿上の御簡をけづられけり。見る人涙をながさずといふことなし。そのなかに平大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐の中将時実、この三人はけづられず。これは「三種の神器ことゆゑなく返し入れたてまつれ」と、かの大納言のもとへ仰せ下さるるによつてなり。平家は、同じく十七日、筑前の国三笠の郡大宰府へこそ着き給へ。菊池の次郎隆直は都より付きたてまつり下りけるが、「大津山の関あけてまゐらせん」とて、いとま申す。肥後の国へ馳せ下り、わが城にひき籠り、召せども、召せども参らず。九国、二島の兵ども召されけれども、領状申しながらいまだ参らず。岩戸の少卿大蔵の種直ばかりぞ候ひける。平家は安楽寺へ参り、歌をよみ、連歌をして、手向けたてまつり給ひけり。そのなかに、本三位の中将重衡、
住みなれしふるき都の恋しさは神もむかしをわすれ給はじ W
と泣く泣く申されければ、みな人袖をぞ濡らされける。
第七十二句 宇佐詣で
八月十四日、都には四の宮、法皇の宣命にて、閑院殿にて即位し給ふ。「神璽、宝剣、内侍所なくして践祚の例、これはじめ」とぞうけたまはる。摂政近衛殿は、平家の聟にてましましけれども、西国へも御同心に下らせ給はぬ
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によつてなり。「天に二つの日なく、地に二人の王なし」と申せども、平家の悪行によつて、都鄙に二人の帝ましましけり。三の宮の御乳母は、泣きかなしみて、後悔すれどもかひぞなき。帝王、位につかせ給ふこと凡夫のとかく思ひよらざるに、ただ天照大神、正八幡宮の御ぱからひとぞおぼえける。
〔第七十二句 宇佐詣で〕むかし文徳天皇は、天安二年八月二十三日にかくれさせ給ふ。御子の宮たちあまた位に望みをかけておはしけるが、さまざまの御祈りどもありけり。一の宮惟喬の親王をば「大原の王子」とも申しき。王者の才量をも心にかけさせ給ふ。四海の安危はたなごころのうちに照らし、百王の理乱は心のうちにかけ給へり。されば、賢王、聖主の名をとらせおはすべき君なりと見えさせ給へり。二の宮惟仁の親王は、そのころ執柄忠仁公の御むすめ染殿の后の御腹なり。一門の公卿列してもてなしたてまつり給ひしかば、これもまたさしおきがたき御ことなり。かれは守文継体の器量たり。これは万機輔佐の臣相あり。かれもこれもいたはしくて、おぼしわづらはれけり。一の宮惟喬の親王の御祈りは、柿本の紀僧正真済とて、東寺の一の長吏、弘法大師の御弟子なり。惟仁の親王の御祈りの師には、外祖忠仁公の御持僧、比叡山の恵亮和尚ぞうけたまはられける。いづれもおとらぬ高僧たちなり。真済東寺に壇を立て、恵亮は大内の真言院に壇を立ててぞおこなはれける。「恵亮和尚、
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失せたり」と披露をなす。真済僧正、ここにたゆむ心やありけん。恵亮、「失せたり」といふ披露をなし、肝胆をくだいて祈られけり。帝かくれさせ給ひければ、公卿僉議のありさま、「臣等がおもんばかりをもつて選んで位につけたてまつらんこと、用捨私あるに似たり。万人唇をかへすことを知らず。競馬、相撲の折をもつて運を知り、雌雄によつて宝祚を授けたてまつるべし」と議定をはんぬ。「この儀、もつともしかるべし」とて、同じ年の九月二日、二人の宮たち右近の馬場へ行啓あり。日ごろ心を寄せたてまつりし卿相雲客、たがひに引き分け、手を握り、心をくだき給へり。御祈りの高僧たちいづれか疎略あらん。ここに王候卿相、玉の轡を並べ、花の袂をよそほひ、雲のごとくに重なり、星のごとくにつらなり給ひしかば、このこと希代の勝事、天下さかんなる見物なり。すでに「十番の競馬あるべし」とて、競べ馬十番ありけるに、はじめ四番は惟喬の親王勝たせ給ふ。のちの六番は惟仁の親王勝たせ給ふ。「すなはち相撲の節」と聞こえしかば、上下市をなし見物す。大原の皇子惟喬の御方よりは、「名虎の衛門督」とて、六十人が力あらはしたるといふ大力をぞ出だされける。惟仁の親王の御方よりは、「善男の少将」とて、勢ちひさう、妙にして、片手にもあふべしとも見えぬ人、「御夢想の告げあり」とて、申しうけてぞ出だされける。名虎寄せあはせて、ひしひしと取つてあふのけり。善男取つてさし上げ、二丈ばかりぞ投げたりける。されども、
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善男立ち直りて倒れず。善男つと寄り、えい声をあげて、名虎を伏せんとす。名虎もともに声を出だして、善男とつて伏せんとす。上下目をすます。されども名虎はかさにまはる。善男内手に入りて見えければ、惟仁の御母儀染殿の后より、「いかに」「いかに」と御使、櫛の歯をひくがごとくに走りつづけて申しければ、恵亮和尚は大威徳の法を修せられけるが、「こは心憂きことかな」とて、独鈷をもつて頭を突き割つて、脳を砕いて芥子にまぜ、護摩にたき、黒煙をたてて一もみもまれたりければ、善男相撲に勝ちにけり。親王、位につかせ給ふ。「清和の帝」これなり。のちには「水の尾の天皇」とぞ申しける。さてこそ山門には、いささかのことにも、恵亮脳を砕きしかば、二帝位につき給ふ尊意智剣を振りしかば、菅相霊ををさめ給ふとも伝へたり。これ法力といひながら、「天照大神、正八幡宮の御ばからひ」とぞおぼえたる。平家は西国にてこれを聞き、「やすからず。三の宮をも取りたてまつりて下りまゐらすべきものを」と後悔せられければ、平大納言時忠の卿のたまひけるは、「さあらんには、木曾が主にしたてまつりたる高倉の宮の御子、これは御乳人讃岐守重季が御出家せさせたてまつり、具しまゐらせ北国へ落ち下りたりしこそ、位にもつかせ給はんずらめ」とありければ、ある人申しけるは、「それは、出家の宮をばいかが位につけたてまつるべき」。時忠の卿のたまひけるは、「さも候はず。還俗の国王、異朝にも先蹤あらん。わが朝には、まづ天武天皇、いまだ東宮
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の御時、大友の王子にはばからせ給ひて、鬢髪を剃り、吉野の奥に忍ばせ給ひたりしかども、大友の王子を滅ぼして、つひに位につかせ給ひぬ。また、孝謙天皇も大菩提心をおこして御飾りをおろさせ給ひぬ。御名を『法基尼』と申せしかども、ふたたび位につき給ひて、『称徳天皇』と申せしぞかし。まして木曾が主にしたてまつりたる還俗の宮、子細あるまじ」とぞのたまひける。
同じく九月二日、法皇より伊勢へ公卿の勅使を立てらる。勅使は参議脩範とぞ聞こえし。太上天皇の伊勢へ公卿の勅使を立てらるることは、朱雀、白河、鳥羽三代蹤跡ありといへども、みな御出家以前なり。以後の例、はじめとぞうけたまはる。
平家は筑前の国三笠の郡大宰府に都をたてて、「内裏つくらるべき」と公卿僉議ありしかども、いまだ都もさだまらず、主上、当時は岩戸の少卿大蔵の種直が宿所にぞましましける。人々の家々は、野中、田中なりければ、麻のころもは打たねども、「十市の里」とも言ひつべし。内裏は山の中なれば、「かの木の丸殿もかくやありけん」と、なかなか優なるかたもありけり。まづ宇佐の宮へ行幸なる。大宮司公通が宿所、皇居になる。社頭は月卿雲客の居所になる。廻廊は五位、六位の官人、庭上には四国鎮西の兵ども、甲冑、弓箭を帯して雲霞のごとくに並みゐたり。古りにし朱の玉垣も、ふたたび
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飾るとぞ見えし。七日御参籠のあかつき、大臣殿御夢想の告げぞありける。御宝殿の御戸押し開き、ゆゆしうけだかげなる御声にて、
世の中のうさには神もなきものをなに祈るらん心づくしに W
大臣殿夢さめてのち、胸うちさわぎ、あさましさに、
さりともと思ふ心も虫の音もよわりはてぬる秋の暮かな W
といふ古歌を心ぼそげに口ずさみ給ひて、さて大宰府へ還幸なる。〔第七十三句 緒環〕さるほどに、九月十日あまりにぞなりにける。荻の葉わけの夕あらし、片敷く袖もしをれつつ、ふけゆく秋のあはれさは、「いつも」とはいひながら、旅の空こそしのびがたけれ。九月十三夜は名をえたる月なれども、その夜は都を思ひいづる涙に、われから曇りてさやかならず。九重の雲のうへ、ひさかたの月に思ひをのべしたぐひも、今の様におぼえて、薩摩守忠度、
月を見しこぞの今宵の友のみや都にわれを思ひ出づらん W
修理大夫経盛、
恋しとよこぞの今宵の夜もすがらちぎりし人の思ひでられて W
皇后宮亮経正、
わけて来し野辺の露ともきえもせで思はぬ方の月を見るかな W
あはれなりしことどもなり。
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第七十三句 緒環
豊後の国は刑部卿頼輔の国なりければ、子息頼経を豊後の国の代官に下されけり。刑部卿、頼経のもとに脚力を下し給ひて、「平家は宿報尽きて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落人となれり。しかるを、鎮西の者ども受け取り、もてなすこそ奇怪なれ。当国においてはしたがふべからず。一味同心して、平家を追ひ出だすべし。これ頼輔が下知にあらず。一院の勅諚なり」とぞのたまひける。頼経の朝臣、この様を当国の住人緒方の三郎維義に下知せられけり。かの維義はおそろしき者の子なり。豊後の国の片山里に、ある者の一人娘の、いまだ夫もなかりけるところに、男、夜な夜なかよひけり。月日をおくるほどに、身もただならずなりにけり。母これをあやしんで、「なんぢがもとへかよふ男はいかなる者ぞ」と問ひければ、「来るをば知れども、帰るをば知らず」と申す。母教へていはく、「さらば、あひかまへて、朝帰らん時を知つて、しるしをつけて、行かん方をつないでみよ」とぞ教へける。女、母の教へに従ひ、あかつき起きて帰る男を見れば、水色の狩衣をぞ着たりける。狩衣の頸のうへに針を刺しつつ、しづの緒環をつけて、経てゆく方をつないでみれば、豊後の国と日向の国とのさかひ、祖母岳といふ岳の腰に、大きなる岩屋のうちにぞ入りにける。うちを聞けば、大きなる声にて叫ぶ声しけり。女、岩屋の口にゐて、「わらはこそ
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これまで参りてさぶらへ。出でさせ給へ。対面したてまつらん」と言ひければ、岩屋のうちより大きなる声にて答へけるは、「われはこれ凡夫にあらず。なんぢわが姿を見つるものならば、肝魂も身にもそふまじきなり。いそぎそれより帰るべし。なんぢが孕めるところの子は男子なるべし。弓矢を取つて、九国、二島に並ぶ者あるまじきぞ。われは今宵、なんぢがもとに行きて傷をかうむれり」と申せば、女かさねていはく、「さこそ深く契りまゐらせしぞかし。たとひいかなる姿にてもおはせよ、なじかはくるしかるべき。対面したてまつらん」と申せば、岩屋のうちより、五丈ばかりなる大蛇にてぞ出でける。「狩衣の頸のうへに刺す」と思ひつる針は、大蛇の喉笛にぞ刺したりける。女、まことに肝魂も身にそはず。召し具したる所従ども、をめいて逃げ去りぬ。件の大蛇と申すは、日向の国に崇敬せられける高知尾の大明神これなり。女帰りて、いくほどなくて産してけり。とりあげ見れば、まことに男子なり。これを七歳まで育てたれば、並びなき大力にてぞありける。いまだ幼稚の者の、普通の男よりも勢も大きに、丈も高かりけり。十一歳と申すに、母方の祖父、元服せさせて、名をば「大太」とぞつけたりける。夏も、冬も、足手に大きなるあかがり、ひますきもなく切れて、絶えざりければ、人みな「あかがり大太」とぞ申しける。かの緒方の三郎はあかがり大太が五代の孫なり。かかる不思議なる者の末なりければ、「九国、二島をも、われ一人して討ち取らばや」なんどと、常は申しける。かの緒方の三郎は、国司
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の仰せを「院宣」と号し、「院宣にしたがはんともがらは、維義を先として、平家を追ひ出だしたてまつれ」と、九国、二島をあひもよほしければ、九国、二島にさもしかるべき者ども、みな維義にしたがひつく。平家は「内裏つくるべき所やある」とたづねられけるところに、この事どもを聞きて、「いかがすべき」とてさわがれけり。平大納言のたまひけるは、「緒方の三郎は小松殿の御家人なりければ、小松殿の公達一人むかはせ給ひて、こしらへて御覧ぜよ」とのたまへば、小松の新三位の中将、五百余騎にて、豊後の国へうち越えて、「参るべき」よしこしらへ給へども、維義さらにしたがひたてまつらず。「君をもやがて取り籠めたてまつるべう候へども、何ほどのことかわたらせ給ふべきなれば、ただ帰らせ給ひて、一所にていかにもならせ給へ」とて、追つ返したてまつる。そののち、子息野尻二郎維村をもつて、緒方の三郎、大宰府へ申しけるは、「まことに年ごろの主にてわたらせ給へば、重恩をかうむりて候ひき。されば兜をぬぎ、弓をもはづいて降人に参るべう候へども、一院の勅諚にて候ふうへは力およばず候。すみやかに九国のうちを出でさせ給へ」とぞ申したる。平大納言時忠の卿、維村にいで向かひ、のたまひけるは、「わが君は天孫四十九世の正統、人皇八十一代の帝にてわたらせ給ふ。天照大神、正八幡宮もいかでか君をば捨てまゐらせ給ふべき。なかんづく、故大相国、保元、平治両度の朝敵をたひらげしよりこのかた、不次の賞を賜はり、天下をたなごころに握り給ひしときは、鎮西の者どもをば内ざまに
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こそ召されしか。それに、当国の者ども、頼朝、義仲にかたらはれて、『しおほせたらば、国を預けん』『庄をとらせん』なんどといふことを、まことと思ひて、その鼻豊後[* 「はなびんご」と有るのを他本により訂正]が、彼が下知にしたがはんこと、しかるべからず」とぞのたまひける。豊後の国司、刑部卿三位頼輔は、きはめて鼻の大きにおはしければ、かくのたまひけるなり。維村、豊後へ帰りて、父にこのよし申しければ、緒方の三郎、「こはいかに。昔は昔、今は今にてこそあれ。その儀ならば、すみやかに追ひ出だしたてまつらん」とて、大勢にて豊後をうちたつと聞こえしかば、平家の侍ども、「向後傍輩のために奇怪に候。召し取り候はん」とて、源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄三千余騎にて、筑後の国竹野城に行きむかつて、三日たたかふ。されども緒方は多勢なりければ、散々に討ち散らされて引きしりぞく。平家は、「緒方三郎維義が、三万余騎にて、すでに寄する」と聞こえしかば、取るものも取りあへず、大宰府をこそ落ち給へ。駕輿丁もなければ玉の御輿をうち捨てて、主上手輿に召されけり。国母をはじめまゐらせて、やごとなき女房たち、袴のそばを取り、大臣殿以下の公卿殿上人、指貫のそばをはさみ、水城の戸をたち出でて、住吉の社を伏し拝み、徒歩はだしにて、「われ先に」「われ先に」と筥崎の津へこそ落ちゆきけれ。をりふし、降る雨車軸のごとく、吹く風砂をあぐるとかや。落つる涙、降る雨、われていづれも見えざりけり。筥崎、香椎、宗像伏し拝み、主上、垂水山、鶉浜なんど
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といふ嶮難をしのがせ給ひて、眇々たる平地へぞおもむかれける。いつならはしの御ことなれば、御足より出づる血は、砂を染め、紅の袴は色を増し、白き袴は裾紅にぞなりにける。かの玄奘三蔵の流沙葱嶺をしのがれけんも、いかでかこれにはまさるべき。されどもそれは求法のためなれば、来世のたのみもありけん。これは怨敵のゆゑなれば、後世のくるしみ、かつ思ふこそかなしけれ。原田の大夫種直二千余騎にて、送りに馳せまゐる。山鹿の兵頭次秀遠数千騎の勢にて、平家の御迎ひに参るよし聞こえしかば、種直はもつてのほかに不和の事ありければ、「種直はあしかりなん」とて途よりひきかへす。芦屋の津といふ所をすぎ給ふにも、「いにしへ、われわれが都より福原へかよふとき見なれし里の名なれば」とて、いづれの里よりもなつかしう、あはれをぞもよほされける。「新羅、百済、高麗、契丹までも落ちゆかばや」とは思へども、波風むかうてかなはねば、兵頭次秀遠に具せられて、山鹿の城にぞ籠られける。山鹿へも敵寄すると聞こえしかば、海士の小舟にとり乗りて、夜もすがら豊前の国柳が浦へぞわたり給ふ。〔第七十四句 柳が浦落ち〕さるほどに、小松殿の三男左中将清経は、ある夜船の屋形にたち出でて、なにごとにも思ひ入り給へる人にて、心をすまし、横笛の音とり朗詠して、こしかたゆく末のことども、のたまひつづけて、「都をば源氏がために追ひ落され、鎮西をば維義がために攻め落され、網にかかれる魚のごとし。いづちへ行かばのがるべきかは。ながらへはつべき
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身にあらず」。しづかに経をよみ、念仏して、つぎに海にぞ入り給ふ。男女泣きかなしみけれどもかひぞなき。
第七十四句 柳の浦落ち
柳浦にも内裏つくるべき僉議ありしかども、分限なければつくられず。また長門より寄すると聞こえしかば、海士の小舟に乗り、海にぞ浮かび給ひける。長門の国は新中納言知盛の国なりけり。目代は紀伊の刑部大夫道資といふ者なり。「平家の、小船に乗り給へる」よしを聞いて、安芸、周防、長門三箇国の材木積みたる船ども百余艘、点じてたてまつる。これによりて、讃岐の屋島にうち渡り給ふ。阿波の民部成能が沙汰にて、四国のうちをもよほして、屋島の浦にかたのごとくの板屋の内裏や御所をぞ造られける。そのほどは、あやしの民の屋を皇居とし、船を御所とぞさだめける。大臣殿以下の人々、海士の苫屋に日を暮らし、しづがふしどに夜をかさね、龍頭鷁首を海中に浮かべ、波のうへの行宮はしづかなる時なし。月をひたせる潮のふかきうれひにしづみ、霜をおほへる葦の葉のもろき命をあやぶむ。洲崎にさわぐ千鳥の声は、あかつきのうれひを増し、そばひにかかる梶の音、夜半に心をいたましむ。白鷺のとほき浦に群れゐるを見ては、「源氏の旗をあぐるか」とうたがひ、夜の雁のはるかの空に鳴くを聞いては、「兵船
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を漕ぐか」とおどろく。晴嵐はだへををかし、翠黛紅顔の色やうやうにおとろへ、蒼波まなこをうがち、外土望郷の涙おさへがたし。翠帳紅閨〔に〕ことなる埴生の小屋のあらすだれ、薫炉のけぶりにかはれる葦火たく屋のいやしきにつけても、女房たち、つきせぬ物思ひに紅の涙せきあへ給はねば、翠黛みだれつつ、その人とも見えざりけり。
第七十五句 頼朝院宣申
鎌倉の兵衛佐頼朝は、「都に上らんこともたやすからじ」とて、ゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。御使には、左史生中原の康定とぞ聞こえし。康定は家の子二人、郎等十人具したりけり。寿永二年十月四日、康定鎌倉へ下着す。兵衛佐のたまひけるは、「頼朝は流人の身なりしかども、武勇の名誉長ぜるによつて、今はゐながら征夷将軍の宣旨をかうむる。いかでか私にては賜はるべき。鶴が岡の社にて賜はるべし」とて、若宮へこそ参られけれ。八幡は鶴が岡に立ち給へり。地形石清水にちがはず。廻廊あり、楼門あり。つくり道十余町見くだしたり。「そもそも院宣をば、誰してか賜はるべき」と評定あり。「三浦の介義澄して賜はるべし」と評定をはん〔ぬ〕。この義澄と申すは、三浦の平太郎為嗣が五代の孫、三浦の大介義明
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が子なり。父義明は君の御ために命をすてたる者なれば、これによつて義明が黄泉の冥闇を照らさんがためとぞおぼえたる。義澄も、家の子二人、郎等十人具したりけり。二人の家の子は、和田の三郎宗実、比企の藤四郎能員[* 「よしさだ」と有るのを他本により訂正]なり。郎等十人は大名十人して、にはかに一人づつしてしたてけり。十二人みなひた兜なり。義澄は褐の直垂に黒糸縅の鎧着て、いかものづくりの太刀はき、大中黒の矢負ひ、塗籠籐の弓わきばさみ、兜をぬぎ高紐にかけ、膝をかがめて院宣を受け取りたてまつる。「誰そ、名のれ」と康定申しければ、〔兵衛佐の「佐」の字にやおそれけん、〕「三浦の介」とは〔名のらで、本名を〕「三浦の荒次郎義澄」とこそ名のりけれ。兵衛佐、院宣を受け取りたてまつり、覧箱をひらき、院宣を拝したてまつる。箱に沙金百両入れてぞ返されける。やがて若宮の拝殿にて、康定に酒すすめらる。斎院の次官親能、勧盃す。そのとき、馬三匹ひかる。一匹は鞍置いたり。これは大宮侍たる工藤一郎祐経、これをひく。ふるき萱屋をこしらへて康定を入れられ、盃飯ゆたかにして美麗なり。厚綿の絹二領、小袖十かさね、長持に入れて置かれたり。そのほか紺の藍摺、白布千反をまへに積めり。次の日、康定、兵衛佐の館へ行きむかひ、見れば、内外に侍あり。ともに十六間なり。外侍には郎等ども肩をならべ、膝を組み、並みゐたり。内侍には一門の源氏どもをはじめとして、大名、小名
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どもゐながれたり。康定をこの上座に請ぜられ、ややあつて康定、兵衛佐の命にしたがひて、寝殿に向かひてけり。広廂に紫縁の畳を敷きて康定をゐせらる。わが身は高麗縁を敷き、御簾をなかばにあげて康定に対面あり。兵衛佐殿は顔大きに、勢ひきかりけり。容顔優にして、言語分明なり。兵衛佐のたまひけるは、「平家は、頼朝が威勢におそれて都を落つ。そのあとに木曾の冠者、十郎蔵人、わが高名がほに攻め入り、官をなし、加階をし、あまつさへ国をきらひ申し候ふこそ、かへすがへすも奇怪におぼえ候へ。されども当時までは、頼朝が書状には、『十郎蔵人』『木曾の冠者』と書いてこそ返事はして候へ。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹の四郎隆義[* 「かねよし」と有るのを他本により訂正]が常陸守になり候ひて、頼朝が命にしたがはず。これを追罰すべきむね、院宣を下されよ」とのたまへば、康定申しけるは、「これもやがて名簿をたてまつるべう候へども、今度は御使にて候へば、まかりのぼり候。弟にて候ふ史大夫も『かう申せ』とこそ申し候ひしか」と申しければ、兵衛佐おほきに笑ひて、「当時頼朝が身として、いかでかおのおのの名簿を賜ふべき。ただし、げにもさ様に候はば、向後はさこそ存ぜめ」とぞのたまひける。「やがて今日上洛つかまつるべき」よし申せば、「今日ばかりは逗留あるべし」とてとどめらる。次の日、また兵衛佐の館へむかひて出でられければ、白金物打つたる萌黄縅の腹巻、黄金づくりの太刀、滋籐の弓
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に、十二差いたる矢をそへてひかる。鞍置き馬十三匹、荷懸駄三十匹ぞひかれける。十二人の家の子、郎等に、馬、鞍、鎧、兜、弓、太刀、小袖、直垂、大口におよぶ。鎌倉出での宿より、近江の国鏡の宿に至るまで、宿々に十石づつの米を置く。「沢山なるによつて、施行をひかれける」とぞ聞こえし。都へのぼり、院の御所へ参りて奏しければ、人々もゑつぼに入り、君も御感なのめならず。
第七十六句 木曾猫間対面
兵衛佐は、かうこそめでたうゆゆしうおはしましけれ。〔第七十六句 木曾猫間の対面〕木曾は都の守護にてありけるが、みめよき男にては候ひしかども、たちゐ、ふるまひ、もの言うたる言葉のつづき、かたくななることかぎりなし。あるとき、猫間の中納言光隆の卿といふ人、のたまひあはすべきことありておはしたれば、郎等ども、「猫間殿と申す人の、『見参申すべきこと候』とて、入らせ給ひて候」と申せば、木曾これを聞き、「猫もされば人に見参することあるか、者ども」とのたまへば、「さは候はず。これは『猫間殿』と申す上臈にてましまし候。『猫間殿』とは、御所の名とおぼえて候」と申せば、そのとき、「さらば」とて入れたてまつ〔り〕て対面す。木曾、なほ「猫間殿」とはえ言はいで、「猫殿はまれにおはしたるに、ものよそへ」とぞのたまひける。中納言、「ただいまあるべうも候はず」とのたまへば、「いやいや、いかんが、飯時におはしたるに、ただやある
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べき」。なにもあたらしきは無塩といふと心得て、「ここに無塩の平茸やある。とくとく」といそがせけり。根の井の小弥太といふ者の急ぎて陪膳す。田舎合子の荒塗なるが底深きに、てたてしたる飯をたかくよそひなし、御菜三種して、平茸の汁にて参らせたり。木曾殿のまへにもすゑたりけり。木曾は箸をとり、これを召す。中納言も食されずしてはあしかりぬべければ、箸をたてて食するやうにし給ひけり。木曾は同じ体にてゐたりけるが、残り少なくせめなして、「猫殿は少食におはしけるや。召され給へ」とぞすすめける。中納言は、のたまひあはすべき事どもありておはしたりけれども、この事どもに、こまごまとも、のたまはず、やがていそぎ帰られぬ。中納言帰られてのち、木曾出仕せんとていでたちけり。木曾は、「官加階したる者の、なにとなく直垂にて出仕せんもしかるべからず」と、はじめて布衣に、とり装束す。されども車につかみ乗りぬ。鎧着て矢かき負ひ、馬につい乗つたるには似も似ずしてわろかりけり。牛、車も平家〔の〕牛、車。牛飼も大臣殿の召し使はれし弥次郎丸といふ者なり。牛の逸物なるが、門を出づるとき、一むち当てたれば、なじかはよかるべき。つと出でけるに、木曾、車のうちにてあふのけに倒れぬ。蝶の羽根をひろげたる様に左右の袖をひろげて、「起きん」「起きん」としけれども、なじかは起きらるべき。五六町こそ引かせたれ。今井の四郎、鞭鐙をあはせて追つついて、「いかでか御車をばかうはつかまつるぞ」と申しければ、「御牛の鼻のこはう候ひて」とぞのべたりける。牛飼
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「あしかりなん」とや思ひけん、「それに候ふ手形にとりつかせ給へ」と申せば、手形にむずととりつきて、「あつぱれ支度や。牛小舎人がはからひか。また殿様か」とぞ問うたりける。御所へ参り、車のうしろより降りんとすれば、京の者の雑色に使はれけるが、「車には、召され候ふときこそ、うしろよりは召され候へ、降りさせ給ふときはまへより降り候ふなり」と申しければ、「いやいや、車のうちならんからに、直通りをばすべきか」とて、うしろより降りたりけり。そのほかをかしき事どもありしかども、人おそれてこれを申さざりけり。
第七十七句 水島合戦
平家は讃岐の屋島にありながら、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国を討ち取れり。木曾左馬頭これを聞き、「やすからぬことなり」とて、やがて討手をつかはす。大将軍には足利の矢田判官代義清、侍大将には信濃の国の住人海野の弥平次郎幸広を先として、都合その勢七千余騎にて山陽道へ馳せくだる。平家は讃岐の屋島にましましければ、源氏は備中の国水島が磯に陣をとる。たがひに海を隔ててささへたり。閏十月一日、水島がわたりに、小船一艘出で来たり、「海士の釣舟か」と見るほどに、平家の方より牒の使の舟なりけり。これを見て、源氏の船五百余艘、少々水島が
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磯まで上りたるを、にはかにをめき叫んでおろしけり。平家は新中納言知盛、能登の前司教経、都合その勢一万余騎、千余艘の船に乗り、押し寄せたり。能登殿のたまひけるは、「いかに、殿ばら、いくさをばゆるくはしけるぞ。北国のやつばらに生捕にせられんを心憂しとは思はずや。味方の船をば組めや」とて、千余艘の船のともづなを組みあはせ、なかに、もやひを入れ、あゆみの板をひきなほし、ひきなほし、渡いたれば、船のうへは平々たり。源平両方鬨をつくり、矢合せして、船ども押しあはせて攻め戦ふ。遠きをば弓で射、近きをば太刀で斬り、熊手にかけて引くもあり、ひつ組んで海に入るもあり、刺しちがへて死する者もあり。首を掻くもあり、掻かるるもあり。思ひ思ひ、心々に勝負をしけり。源氏方の侍大将に海野の弥平四郎幸広討たれぬ。これを見て、大将軍足利の矢田判官代義清、「やすからぬことなり」とて、主従七人小船に乗り、平家の船の中へ攻め入り、をめき叫んで戦ひけるが、いかがしたりけん、船踏み沈めて、みな死にけり。平家は船に、鞍置き馬をたてければ、船さし寄せ、能登の前司を先として、馬どもひきおろし、ひきおろし、ひたひたとうち乗り、うち乗り、をめいて駆く。源氏の兵、大将軍は討たれぬ。「われ先に」と落ちゆき、散々にこそなりにけれ。〔第七十八句 瀬尾最後〕平家は備中の国水島の軍に勝つてこそ、会稽の恥をきよめけれ。
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第七十八句 瀬尾最後
木曾これを聞き、一万余騎にて馳せ下る。ここに平家の侍に聞こふる強者、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康といふ者あり。去んぬる五月に砥波山にて生捕にせられたりしを、「聞こふる剛の者なれば」とて、木曾惜しんで切られず。加賀の国の住人倉光三郎成澄にあづけられたりけるが、瀬尾、あづかりの倉光に申しけるは、「木曾殿、山陽道へ御下りとうけたまはり候。兼康が知行の所、備中の瀬尾と申す所は、馬の草飼よき所にて候。申して、御辺賜はらせ給へかし。去んぬる五月よりかひなき命を助けられたてまつり候へば、げに、いくさ候はば、まつさき駆けて命を奉らうずるにて候」と申せば、倉光の三郎この様を木曾左馬頭殿に申す。木曾殿これを聞き、「きやつは剛の者と聞くが、惜しければ、生けおきたるなり。具して下りて案内者させよ」とぞのたまひける。蘇武が胡国に捕はれ、李陵が漢国に帰らざるがごとし。遠く異国のことについては、昔の人もかなしめるところなり。をしかはのたまき、かもの幕、もつて風雨を防ぎ、なまぐさき肉、酪のつくり水、もつて飢渇にあつ。夜は夜もすがら寝ねず、昼はひめむすに仕へ、木を樵り、草を刈らんばかりにしたがひけるも、「木曾殿を滅ぼし、平家の方へいま一度参らん」と思ふがためなり。木曾、倉光を召して、「さらばこの瀬尾をまづ具して下りて、御馬の草をかまへさせよ」とのたまへば、倉光、瀬尾の太郎あひ具して備中の国へ下る。瀬尾が嫡子
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小太郎宗康とてあり。父が下るよしを聞いて、年ごろの郎等三十余人あひ具して、父が迎ひにのぼるほどに、播磨の国府にてぞ行き逢ひぬ。それより連れて下るほどに、備中の国三石の宿にぞ着きにける。夜もすがら酒盛りして、倉光三郎前後も知らず酔ひたりけるを、刺し殺して首をとり、家の子、郎等二十余人ありけるを、一人も漏らさず討ち取り、やがて、備前、備中に脚力をつかはし、「兼康こそ木曾殿のてゆるされて、これまで下りて候へ。平家に心ざし思ひたてまつらんずる殿ばらは、兼康を先として、木曾殿の下り給ふに、行き向かつて矢一つ射よ」とぞ触れたりける。山陽道の兵ども、五人持ちたる子は三人は平家に奉る。三人持ちたる子は二人を奉る。馬、鞍、弓、矢にいたるまで平家に奉る。されば、郎等もなく、物具もなかりけれども、兼康にもよほされて、かり武者なれども、備前、備中に二千余人、備前の国福龍寺畷、笹の迫を掘り切りて、城郭にかまへて待ちかけたり。備前の国は十郎蔵人の国なりければ、国府に押し寄せて代官を討つてけり。代官が下人ども逃げて都へ上る。播磨と備前とのさかひなる船坂山といふ所にて、木曾殿に行き逢ひたてまつる。木曾これを聞き、「やすからぬものかな。切るべかりけるものを」とのたまへば、今井申しけるは、「さ候へばこそ、まなこの様、骨がら、気の者と見候ひしあひだ、さしもに『切らせ給へ』と申せしことは」と申せば、木曾、「剛の者と聞くが惜しさにこそ、いままで切らでおきたりつれ。思ふに、なにほどのことかあるべきぞ。
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なんぢ追つかけて討て」とぞのたまひける。今井の四郎うけたまはつて、船坂山より三千余騎にて馳せ下る。笹の迫へ押し寄せたり。城のうちの者ども、おし肌ぬいで、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。馬多く射殺されて、おもてを向くる者なし。今井の四郎、「かくてはかなはじ」とて、むかしより馬の足およばぬといふ、そばなる深田へ多勢ざつとうち入れ、馬のくさわき、むながいづくし、太腹に立つところを事ともせず、すぢかへにぶらめかいて渡しければ、城のうちの者、矢種少々射つくして、「われ先に」と落ちて、備中の国板倉川のはたに城郭をかまへて待ちかけたり。今井の四郎やがて追つかけて、板倉が城へぞ寄せたりける。備前、備中のかり武者ども、あるいは竹箙に、五すぢ、六すぢの矢差したる者もあり、あるいは山うつぼに素雁股三つ四つ差したる者もあり。または切れ腹巻なんど着たる者どもが、あるいは山へ追ひ入れられ、あるいは河に追つつめられ、残り少なく討たれけり。瀬尾の太郎、つひに主従三騎に討ちなされ、馬をも射させ、徒歩だちになりて落ちゆく。嫡子の小太郎は齢二十ばかりなる大男の、あまりにふとりて、一町もはたらきえざる者なり。鎧ぬぎすて行きけれど、かなはざりければ、瀬尾、うち捨てて、郎等と二人、十余町こそ逃げのびけれ。瀬尾立ちどまり、郎等に言ひけるは、「兼康は千万の敵に向かつていくさしつれども、四方晴れておぼえつるが、小太郎を捨てて行くゆゑやらん、一向さき暗うして見えぬぞ」と申せば、郎等、「さればこそ『ただ一所にていかにもならせ給へ』
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と申しつるは、これにて候。返させ給へ」とぞ申しける。瀬尾、郎等とつれてまた走り帰る。下部の一人ありけるを、「なんぢはいかにもして屋島に参りて、この様を申すべし」とてつかはして、走り帰りて見れば、小太郎はおほきに足腫れて伏しゐたり。瀬尾申しけるは、「なんぢを捨てて行くゆゑにや、さきの暗うして見えぬあひだ、『一所にていかにもならん』と思ひ返したるぞ」と言ひければ、そのとき、小太郎、起きなほり、「この身こそ不器量の者にて候へ。されば自害つかまつらうずるにて候ふに、宗康がゆゑに御命を失ひたてまつらんことは五逆罪にて候へば、ただ一あゆみも延びさせ給はで」と申しければ、「思ひきりたるうへは」とて、しばしやすらうて待つところに、今井の四郎押し寄せたり。瀬尾、郎等と立ち並んで、射残したる矢ども、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。おもてに向かふ者なし。されども矢種尽きければ、弓をなげ捨て、打物の鞘をはづし、斬つてまはる。走り寄つて、嫡子の小太郎がまづ首を討ちおとし、わが身も痛手負うたりければ、自害してこそ亡せにけれ。郎等ともに自害しつ。今井の四郎、是等(これら)三人が首を取り、当国鷺の森にぞかけたりける。木曾殿これを見給ひて、「あはれげの者かな。いま一度助けで」とぞのたまひける。木曾は、備中の国万寿が荘といふ所にて勢揃へして、すでに屋島へ渡さんとするほどに、都の留守に置きたる樋口の次郎兼光、脚力をたてて申しけるは、「十郎蔵人殿ましまさぬあひだに、院ちかき人にて、おことをさまざまに讒奏せられ候ふなり。急ぎのぼらせ給へ」と申したりければ、木曾
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これを聞き、いくさをばせず、うち捨てて、夜を日にして馳せ上る。「木曾殿すでに都へ入る」と聞こえしかば、十郎蔵人、「かなはじ」とや思ひけん、二千余騎にて都をたち、丹波路にかかりて播磨の国へ馳せ下る。木曾は摂津の国を経て京へ入る。さるほどに、平家は新中納言知盛一万余〔騎、千余〕艘の船に乗り、播磨の国へおし渡つて、室山に陣をとる。十郎蔵人これを聞き、「平家といくさして木曾に仲なほりせん」とや思ひけん、二千余騎にて室山に押し寄せ、一日たたかひ暮らす。されども平家は多勢なり、身方は無勢なりければ、散々に討ち散らされて引きしりぞく。播磨をば平家におそれ、都をば木曾におそれ、船に乗り和泉の国へおし渡り、河内の国長野の城にぞ籠りける。平家は室山のいくさに勝つてこそ、いよいよ大勢つきにけれ。
第七十九句 法住寺合戦
都には、去んぬる七月より源氏の勢みちみちて、在々所々に入り取りおほし。賀茂、八幡の御領をもはばからず、青田を刈り馬草にし、はては人の倉をうち破りて取るのみならず、小路に白旗をうち立てて、持ち通る物をうばひとり、衣裳を剥ぎとる。平家のときは、「六波羅殿」と申ししかば、ただ大方おそろしかりしばかりなり。衣裳を剥ぐまではなかつしものを、「平家に源氏はおとりたり」とぞ、高きもいやしきも申しける。院の御所より、壱岐守知親が子壱岐の判官知康、「京中の狼藉しづめ
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てまゐらせよ」とて、木曾がもとへつかはさる。この知康はならびなき鼓の上手にてありければ、人「鼓判官」とぞ申しける。木曾殿、知康にいで向かひ、まづ勅諚にはおよばで、「わ殿を人の『鼓判官』と言ふなるは、よろづの人に打たれ給うてか、張られ給うてか」とぞ問うたりける。知康この言葉がにがにがしさに、やがて御所へ帰りて、「まことに木曾はをこの者にて候ふなり。いかさま、追罰せさせ給はではあしう候ひなん」と申せば、法皇も、天性内々、さおぼしめされけるあひだ、「さあらば」とぞのたまひける。しかるべき武士を召して仰せあはせられずして、山の座主、寺の長吏に仰せあはせ、山、三井寺の悪僧どもをぞ召されける。院の御気色あしうなるよし聞こえしかば、木曾にしたがひたる五畿内の兵ども、みな木曾をそむいて院方に参る。近江源氏をはじめて、美濃、尾張の源氏どもみな木曾をそむく。信濃源氏村上の三郎判官代基国[* 「よしくに」と有るのを他本により訂正]も木曾をそむけて、院方へこそ参りけれ。すでに院の御気色あしうなるよし聞こえしかば、今井の四郎兼平、木曾殿に申しけるは、「さればとて、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかでか弓をひかせ給ふべき。ただ兜をぬぎ、弓をはづし、降人に参らせ給へかし」と申せば、木曾殿のたまひけるは、「われ信濃の国横田川の軍よりはじめて、北国、砥波、黒坂、志保坂、篠原、西国にいたるまで、度々のいくさにあひつれども、いまだ一度も敵にうしろを見せず。『十善の帝王にてましませば』とて、義仲、降人にえこそは参るまじけれ。これは鼓判官
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が凶害とおぼゆるぞ。あひかまへて〔その〕鼓判官、補へて試し打ち申せ」とぞのたまひける。「関々は閉ぢられて、たえて上る物なければ、冠者ばらが『かひなき命生きん』とて、をりをり、かたほとりにつきて入り取りせんは、なにかひが事ならん。また王城の守護とてあらんずる者が、馬一匹づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある田を少々刈らせて、ときどき馬草にせんを、あながちに法皇のとがめ給ふべき様はなきものを。鎌倉の兵衛佐がかへり聞かんところもあり。いくさようせよ、者ども。今度は最後のいくさにてあらんずるぞ」と言はれけり。木曾はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わづかに三千余騎ぞありける。「木曾がいくさの吉例」とて、勢はいくらもあれ、まづ七手に分けて、三手にも、二手にもなるはかりごとをしけり。今度も三千余騎を七手に分かつ。樋口の次郎兼光五百余騎にて、新熊野の方へ搦手にまはる。「のこる六手は、おのおのがゐたらん条里小路より河原へ出でて、七条が末にて行き逢へ」とて、十一月十九日辰の刻に、院の御所法住寺殿へ押し寄せたり。院の御所には、山法師、寺法師、京中の向礫、印地、いひかひなき冠者ばらが様なる者どもを召し集めて、「一万余人」とぞ記されたる。御方の笠じるしには、松の葉をぞつけたりける。鼓判官知康は、いくさの行事をうけたまはる。いくさの行事知康は、赤地の錦の直垂に、鎧はわざと着ざりけり。兜ばかり着たりけるが、兜には四天王を書いてぞおしたりける。法住寺殿
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の西の築垣にあがりて、片手には金剛鈴を持ち、片手には鉾を持ち立つたりけるが、なにとか思ひけん、金剛鈴をうち振り、うち振り、ときどき舞ふをりもあり。公卿殿上人これを見て、「風情なし。知康に、はや天狗のついたり」とぞ笑はれける。知康、寄せ来る勢に向かひて、金剛鈴をうち振りて申しけるは、「むかしは、宣旨を、向かうて読みければ、枯れたる草木にも花さき、実なり、悪鬼、悪神までもしたがひたてまつりけるなり。末代ならんからにや、なんぢら夷の身として、十善の帝王に向かひまゐらせて、いかで弓を引くべき。なんぢが放さん矢は、かへつて身にあたるべし。抜かん太刀は、なんぢが身を斬るべし」なんどぞ申しける。木曾これを聞き、「さな言はせそ」とて押し寄せて、鬨をつくる。樋口の次郎兼光五百余騎にて、新熊野の方より鬨をあはせて馳せ向かふ。やがて御所に火をかけたり。院方の兵、鬨をあはするまでもなかりけり。おびたたしく騒動す。いくさの行事知康はなにとか思ひけん、人よりさきに落ちゆきけり。行事落つるうへは、なじかは一人も残るべき。「われ先に」と落ちゆくに、あまりにあわて騒いで、あるいは長刀さかさまにつきて、足を〔突き〕ぬく者もあり、あるいは弓の筈を物にかけ、はづさで逃ぐる者もあり。倒るる者は、起き上がるひまもなくて、落つる者に踏み殺さるる者もおほかりけり。八条が末を山法師がかためたりけるが、恥ある者は討死し、つれなき者は落ちぞゆく。七条が末をば摂津の国源氏がかためたりける。これも七条を西へ落ちゆく。
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いくさ以前に、京の在地の者どもに、「明日、落人あらんずるをば、みな打ち殺せ」と院宣を下されたりけるあひだ、在地の者ども、家のうへに楯をつき、おそひの石ども拾いあつめて、摂津の国源氏の落ちゆくを、「あはや、落人よ」とて、石を拾いかけてぞ打ちたりける。「これは御方ぞ、あやまちすな」と言ひけれども、院宣にてあるあひだ、ただ「打ち殺せ」「打ち殺せ」とて打つあひだ、鎧ぬぎすて落ちゆく者もあり、あるいは馬を捨てて逃ぐる者もあり。散々のことどもなり。伯耆守光長が子息検非違使光経も討たれにけり。近江の中将為清、越前守信行も討たれぬ。主水正近業は、木賊色の狩衣に萌黄縅の腹巻着て白葦毛なる馬に乗り、河原をのぼりに落ちゆく。今井四郎追つかけて、首の骨を射て落す。これは清原の大外記頼業が子なり。「明経道の博士、甲冑をよろふこと、しかるべからず」と申しける。按察の大納言資賢[* 「すけとも」と有るのを他本により訂正]の孫、播磨の中将雅賢[* 「まさとも」と有るのを他本により訂正]生捕にせられ給ふ。天台座主明雲僧正も御所に籠られたりけるが、火すでに燃えかかるあひだ、御馬に乗り給ひて、七条を西へ落ち給ふが、射落されて、御首取られ給ふ。寺の長吏八条の宮も籠らせ給ひけるが、いかがはしたりけん、射られさせ給ひて、御首取つてげり。法皇も御輿に召されて出御なる。兵ども御輿を散々に射たてまつりければ、御輿を捨てまゐらせて、ちりぢりに逃げてげり。豊後の少将宗長の御供に侍はれけるが、「これは院のわたらせ給ふぞ
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や。あやまちすな」と高らかにのたまひけるほどに、そのとき、兵みな馬より降りてかしこまる。豊後の少将、「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「信濃の国の住人、矢島の四郎行綱」と名のり申す。やがて御輿に手をかけまゐらせ、五条の内裏へおし籠めたてまつる。主上は、池なる御船に召されけり。御供には、七条の侍従信清、紀伊守範光ぞ候はれける。兵ども御船を射たてまつりければ、主上は四歳にならせおはします、なに心もわたらせ給はず、七条の侍従、船底にかき伏せまゐらせて、「これは内のわたらせ給ふぞや。あやまちすな」とのたまひければ、そのとき兵ども、取りまゐらせて、閑院殿へ行幸なしたてまつる。行幸の儀式のありさま、あさましなんどもおろかなり。源の蔵人仲兼、河内守仲信兄弟、その勢百騎ばかりにて散々に戦ひけるが、七八騎に討ちなされ、ひかへたるところに、近江源氏山本の冠者義高、法住寺殿に防がれけるが、これを見て、「いまはおのおの、誰をかこはんとていくさをばし給ふぞや。行幸も、御幸も、はや他所へなりぬるものを」と申しければ、「さらば」とて、南をさして落ちぞゆく。源の蔵人が郎等、河内の国の住人日下の加賀坊といふ法師武者ありけり。白葦毛なる馬、太くたくましきが、きはめて口のこはきにぞ乗りたりける。「この馬あまりにいばひにて、乗りたりべしともおぼえず候」と申せば、蔵人、「いで、さらば仲兼が馬に乗りかへん」とて、栗毛なる馬の下尾の白きに乗りかへて、瓦坂に誰とは知らず北国
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武者の大勢にてひかへたるところを、八騎にてざつと駆け破りて通る。八騎が五騎はそこにて討たれぬ。三騎になりて落ちゆく。五騎がうちに、馬乗りかへたる加賀坊討たれけり。蔵人の家の子に、信濃の次郎頼経といふ者あり。御所のたたかひより敵にかけへだてられて、蔵人の行方を知らざれば、加賀坊が馬に乗りかへたることをも知らざりけり。栗毛なる馬の下尾の白きが、主は討たれて河原に走りまはりけるを見て、信濃の次郎、下人を呼んで、「ここなる馬は、蔵人殿の馬と見るはいかに」と問へば、「さん候。蔵人殿の御馬にて候」と申す。「あな無慚や。日ごろは『一所にていかにもならん』と契りたてまつりたるに、はや先立ち給ひけるにこそ。なんぢは帰つて、妻子どもにこの様を語るべし。頼経は討死して、蔵人殿の供せんと思ふぞ」とて、ただ一騎瓦坂の大勢にうち向かひ、名のりけるは、「日ごろはその者にては候はねば、名をもよも知り給はじ。今をはじめて聞き給へ。源の蔵人が家の子に、信濃の次郎頼経。かうこそかかれ」と言ひて、大勢の中に駆け入りて、をめき叫んで戦ひけるが、つひに討死してんげり。河内守仲信、稲荷山にうちあげて、醍醐の方へ落ちにけり。蔵人は宇治をさして落ちゆくほどに、摂政殿の、都をいくさにおそれ給ひて宇治へ出御なりけるに、木幡山にて追つつきたてまつり、「誰そ。仲兼か。人もないに、ちかう侍へ」と仰せければ、「承り候」とて、宇治まで守護したてまつり、いとま申して、河内の方へ落ちゆきけり。豊後の国司刑部卿
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三位頼輔も御所に籠られたりけるが、敵はすでに攻め入る、侍一人もつきたてまつらず、ただ一人七条河原へ走り出で給ひたるところに、下部どもに衣裳を剥ぎとられて、立たれたるに、三位の小舅越前の法眼といふ者ありけり。その仲間法師が、「いくさ見ん」とて河原へ出でたりけるが、三位の立たれたるを見て、あまりのあさましさに、さらば小袖は脱ぎて着せたてまつらで、あわてで衣を脱ぎ、投げかけたてまつり、「法眼の宿所へ」と六条を西へましましけるに、大の男の、衣をうつほに着、頬かぶりて、白衣の法師を供に具しておはしける後姿こそをかしけれ。宰相脩範の卿は、「法皇の、五条の内裏へおし籠められ給ひたり」とうけたまはりて、いそぎ馳せ参られければ、兵ども入れたてまつらざれば、力およばず、走り帰りて、もとどりを切り、髪を剃りおろし、墨染の衣に袴着て参られければ、そのとき兵ども入れたてまつる。御前に参りて、この様を奏せられければ、法皇これを御覧じて、にはかに様をかへたる心ざしのほどの切なることをぞ、御感なる。今日のいくさの様を、次第次第に語り申す。さるほどに、「寺の長吏八条の宮も討たれさせ給ふ。また天台座主明雲大僧正の御坊も討たれさせ給ひぬ」と申されければ、法皇、「明雲は非業の死したるものかな。今度はただ、われいかにもなるべかりける命に、代りたるにこそ」とて、御涙にむせばせおはします。
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木曾はいくさに勝ち、あくる卯の刻に、三千余騎、六条河原にうち入りて、馬の鼻を東へ向けて、天もひびき、大地も動くほどに、鬨を「どつ」とつくる。京中またさわぎあへり。これは、「いくさに勝ちたるよろこびの鬨をつくる」とも申しけり。いまはとても兵衛佐といくさせんこと決定なれば、今日吉日にてあるあひだ、「東国へむかひ、鏑を射はじめんとての鬨」とも申しけり。昨日討たるるところの首ども、六条河原へかけ並べて記したりければ、六百三十余人なり。そのなかに、寺の長吏八条の宮の御首もかからせ給へり。天台座主明雲大僧正御坊の御首もかかり給へり。見る人、涙をながさずといふことなし。
〔第八十句 義経熱田の陣〕木曾左馬頭、郎等どもを召し集めて、「そもそも、義仲、十善の君に向かひたてまつり、いくさは勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし。主上にならんと思へば、童にならんも、しかるべからず。法皇にならんと思へば、法師にならんも、をかしかるべし。よしよし、関白にならん」とぞ言ひける。大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「関白には、大織冠の御末、執柄の君達こそならせ給ひ候ふなれ」と申しければ、「さては力およばず」とてならず。法皇を見たてまつりて、「院」と申せば、「法師」と心得、主上の幼くて御元服なかりけるを見まゐらせては、「童」と心得たりけるぞあさましき。院にもならず、関白にもならず、院の厩の別当におしなつて、丹波の国を知行しけり。前の関白松殿の姫君をとりたてまつり、
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聟になる。同じき二十三日、三条の中納言以下、卿相雲客四十九人が官職をとどめ、追つ籠めたてまつる。平家のときは三十余人が官職をこそとどめたりしか。これは四十九人なれば、平家の悪行にはなほ超過せり。
第八十句 義経熱田の陣
北面に候ひける宮内の判官公朝、藤内左衛門時成、尾張の国へ馳せ下る。これはいかにといふに、「鎌倉の兵衛佐舎弟、蒲の冠者範頼、九郎冠者義経、二人都へ上るが、尾張の国熱田の大宮司がもとにおはする」と聞きて、木曾が悪行のこと訴へんがための使節とぞ聞こえし。そもそも、当時この人々はなにごとに都へ上るぞといふに、平家都におはせしほどは、「道の狼藉もあらば」とて、東八箇国の年貢を君に奉ることもなし。平家都を落ちてのち、兵衛佐、「王地にはらまれて、さのみ年貢を対捍せんもおそれなれば」とて、両三年の年貢の未進を沙汰して、一千人の兵士をそへ、都へ参らせられけるほどに、道にて、「いくさあり」と聞き、「左右なく上り、いくさしてあしかりなん。ひき退いて、鎌倉殿へ子細を申さん」とて、大宮司のもとにぞおはしける。宮内判官、藤内左衛門馳せ下つて、木曾が悪行のこといちいちに申す。九郎義経のたまひけるは、「宮内判官、いそぎ鎌倉へ下るべしとおぼえ候。そのゆゑは子細
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も知らぬ使は、かへして問はれんとき、申しかねば不審ののこるに」とのたまへば、宮内判官、夜を日にして鎌倉へ下る。兵衛佐対面し給ひて、事の様をたづねらる。「寺の長吏八条の宮も討たれさせ給ひぬ、また天台座主明雲大僧正の御坊も討たれ給ひて候」と申せば、兵衛佐、「木曾が悪行あらば、頼朝にこそ仰せ下され追罰せらるべきに、いふかひなき鼓判官知康なんどが申すことにつかせ給ひて、御所をも焼かせ、高僧たちをも多く失はせ給へることこそ、かへすがへすもあさましく存じ候へ。こののち、知康召しつかはせ給ふべからず」と、脚力をたてて院に奏聞せられけり。知康このことを聞きて、「陳ぜん」と鎌倉へ下る。兵衛佐、「しやつに目な見せそ。会釈なせそ」とのたまへば、あひしらふ者もなかりけり。知康、面目失ひ、帰りのぼる。そののちいづくにかありけん、「行方も知らず」とぞ聞こえし。
そのころ「木曾追罰のために東国より討手上る」と聞こえしかば、木曾は西国へ早馬をたてて、「平家の人々、いそぎ都へ上り給へ。ひとつになつて東国を攻めん」とぞ申したる。平家の人々これを聞き、よろこびあはれけり。平大納言時忠、新中納言知盛申されけるは、「さればとて、いまさらに木曾にかたらはれ、都へ帰りのぼり給はんことしかるべしともおぼえず候。十善の帝王、かたじけなくも三種の神器を帯してわたらせ給へば、ただ兜をぬぎ、弓をもはづして降人に参り給へ」と申されければ、
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大臣殿、この様を都へのたまひのぼせたりけれども、それを木曾もちひたてまつらず。そのころ、松殿禅定殿、木曾を召して仰せられけるは、「清盛は悪行たりしかども、希代の善根をせしかば、世をもめでたく二十四年までも持ちたりしなり。悪行ばかりにて世を保つことはなきものを。追ひ籠められたる人々の官どもゆるされよかし」と仰せければ、ひたすらの荒夷の様なれども、したがひたてまつて、追ひ籠められたる人々の官ども、みな許したてまつる。松殿の御子師家の、中納言の中将にてましましけるを、内大臣の摂政になしたてまつる。をりふし大臣あかざりければ、徳大寺の内大臣にておはしけるを借りたてまつり、師家に殿の摂禄せさせたてまつる。いづれも人の口なれば、師家の殿を「かりの大臣」とこそ人申しけれ。同じき十二月五日、法皇は五条の内裏より大膳大夫業忠が宿所、六条の西洞院へ御幸なる。同じき十三日、歳末の御修法あり。やがて除目おこなはるる。木曾はかりごとにて、人々の官ども思ふ様になりにけり。前漢、後漢のあひだに王莽が世をとつて、十八年をさめたりしがごとし。平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都にて張行し、諸国七道みな〔乱れて、〕おほやけの貢物をも奉らず、わたくしの年貢ものぼらねば、京中の人々は、ただ魚の水に離れたるに異ならず。あやふきながらも、今年もすでに暮れ、寿永も三年になりにけり。


平家物語 百二十句本(京都本)巻第九

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平家巻第九  目録
第八十一句 宇治川
     今井の四郎瀬田を警固する事
     仁科・高梨宇治川を警固する事
     佐々木の四郎生〓賜はる事
     大串の重親歩立ちの先陣の事
第八十二句 義経院参
     義仲優女暇乞ひの事
     越後の中太家光自害の事
     義経禁廷言上
     義経内裏を守護申さるる事
第八十三句 兼平
     巴のいくさ
     兼平最後
     義仲最後
     茅野の太郎光弘討死
第八十四句 六箇度のいくさ
     備前の国下津井のいくさ
     淡路福良のいくさ
     安芸の国沼田の城のいくさ
     和泉の国吹飯の城のいくさ
第八十五句 三草山
     蒲の御曹司大手の大将の事
     義経搦手の大将の事
     鵯越に向かはるる事
     鷲の尾案内者の事
第八十六句 熊谷・平山一二の駆
     熊谷名のる事
     平山駆け入る事
     熊谷駆け入る事
     熊谷・平山同心合戦の事
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第八十七句 梶原二度の駆
     一の谷矢合せの事
     河原兄弟討死
     梶原平次景高が歌の沙汰
     景時・景季同心の事
第八十八句 鵯越
     大鹿二つ落つる事
     鞍置馬二匹落とさるる事
     義経落とし給ふ事
     能登守逃れ給ふ事
第八十九句 一の谷
     忠度・知章・師盛・清房・経俊・業盛・
     敦盛以下討死
     河越黒の沙汰
     熊谷発心
第九十句 小宰相身投ぐる事
     平家海上に浮かばるる事
     首実検の事
     御乳母の女房髪剃る事
     通盛夫婦の歌の沙汰
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平家巻第九
第八十一句 宇治川
寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院なりければ、御所の体しかるべからざる所にて、礼儀おこなふべきにてあらねば、拝礼もなし。院の拝礼なかりければ、殿下の拝礼もおこなはず。平家は讃岐の国屋島の磯に送り迎へて、年のはじめなれども、元日、元三の儀こそ事よろしからね。先帝ましませば、主上と仰ぎたてまつれども、四方の拝もなし。小朝拝もすたれぬ。氷のためしも奉らず。節会もおこなはれず。〓(はらか)も奏せず。吉野の国栖も参らず。「世の乱れたりとはいひしかども、さすが都にてはかくばかりはなかりしものを」と、あはれなり。青陽の春も来たり、浦吹く風もやはらかに、日影ものどかになりゆけば、平家はただいつとなく氷に閉ぢられたる心地して、寒苦鳥にことならず。東岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝の梅開落すでに異にして、花の朝、月の夕べ、詩歌、管絃、鞠、小弓、扇合、絵合、草尽、虫尽、さまざま興ありしことどもを思ひ〔出でて、語り〕出だし、永き日を暮らしかね給ふこそかなしけれ。正月十七日、院の御所より木曾左馬頭義仲を召して、「平家追罰のために、西国へ発向すべき」よし、仰せ下さる。木曾かしこまつて承り、まかりいづ。
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やがてその日、「西国への門出す」と聞こえしが、「東国よりすでに討手数万騎のぼる」と聞こえしかば、木曾西国へは向かはずして、宇治、瀬田両方へ兵どもを分けてつかはす。木曾、はじめは五万余騎と聞こえしが、みな北国へ落ち下りて、わづかにのこりたる兵ども、「叔父の十郎蔵人行家が河内の国長野の城に籠りたるを討たん」とて、樋口の次郎兼光、六百余騎にて今朝河内へ下りぬ。のこる勢、今井の四郎兼平、七百余騎にて瀬田へ向かふ。仁科、高梨、山田の次郎、五百余騎にて宇治橋へ向かふ。信太の三郎先生義教、三百余騎にて一口をぞふせぎける。東国より攻めのぼる大手の大将軍蒲の御曹司範頼、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、「都合その勢六万余騎」とぞ聞こえし。そのころ、鎌倉殿に「生〓(いけずき)」「摺墨」とて聞こえたる名馬あり。生〓(いけずき)を、蒲の御曹司以下の人々参りて所望申されけれどもかなはず。梶原平三景時参つて、「〔生〓(いけずき)賜はつて、〕今度源太冠者に宇治川渡させ候はばや」と申せば、鎌倉殿、「生〓(いけずき)は、自然の事のあらんずるとき、頼朝物具して乗るべき馬なり。摺墨を」とてぞ賜はりける。そののち、佐々木の四郎高綱参りて、「上洛つかまつるべき」よし申す。鎌倉殿いであひ対面し給ひて、「わ殿の父秀義は、故左馬頭殿に付きたてまつて、保元・平治両度の合戦に忠をいたす。なかにも平治の合戦のとき、六条河原にて命を惜しまずふるまひき。その奉公を思へば、
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わ殿までおろかに思はず。申す者どもありつれども賜はらぬぞ。これに乗りて、宇治川の先つかまつれ」とて、生〓(いけずき)を佐々木にぞ賜はりける。佐々木の四郎、この御馬賜はつて、御前をまかり立つとて、あまりのうれしさにうち涙ぐみて申しけるは、「『身は恩のために仕へ、命は義によつて軽し』と申すことの候。この御馬賜はりながら、宇治川の先を人にせられて候ふものならば、いくさにもあひ候ふまじ。ふたたび鎌倉へ向かうて参るまじく候。いくさには子細なくあひたりと聞こしめされ候はば、『宇治川の先においては、しつらんものを』とおぼしめされ候へ」と申して出でぬ。参りあはれたる大名、小名、これを聞いて、「荒涼の申し様かな」とささやぎあへり。おのおの鎌倉を立つて都へ上る。駿河の国浮島が原にて、梶原源太高き所にうちあがり、しばしひかへて多くの馬を見るほどに、幾千万といふ数を知らず。思ひ思ひの鞍置き、色々の鞦かけて、あるいは諸口に引かせ、あるいは乗口に引かせ、引き通し、引き通ししけるなかにも、「景季が〔賜はつたる〕摺墨にまさる馬こそなかりけれ」とうれしく思ひて静かに歩ませゆくところに、「生〓(いけずき)」とおぼしき馬こそ出で来たりたれ。黄覆輪の鞍置き、小総の鞦かけ、白泡噛ませて、さばかり広き浮島が原を狭しと躍らせ、引きてぞ出で来たる。「生〓(いけずき)やらん」と思ひてうち寄りて見ければ、まことに生〓(いけずき)にてあるあひだ、舎人に会うて、「それは誰が御馬ぞ」と問へば、「佐々木殿の御馬にて候ふ」と申す。「佐々木殿は、三郎殿か、四郎殿か」。「四郎殿」と申す。「四郎殿
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は通り給ひぬるか、さがつておはするか」。「さがらせ給ひて候」と答ふ。そのとき梶原、「口惜しくも鎌倉殿は、同じ様に召しつかはれし侍を、佐々木に景季をおぼしめしかへられけるものかな。日ごろは、『都へ上りて、木曾殿の御内に四天王と聞こゆる今井、樋口、楯、根の井に組んで死ぬるか、しからずは西国へ向かつて、一人当千と聞こゆる平家の侍といくさして死なん』と思ひつれども、それも詮なし。ここにて佐々木と組んで差しちがへ、よき侍二人死んで鎌倉殿に損とらせたてまつらんずるものを」と〔思ひきり、〕つぶやいて待つところに、佐々木の四郎、何心もなく歩ませて出で来たる。「押し並べてや組まん。向かうざまにや当て落さん」と思ひけるが、「まづことばをかけて組まん」と思ひ、「いかに、佐々木殿は生〓(いけずき)賜はらせ給ひてげり」と言ひければ、佐々木、「まことや、この人も所望つかまつりたるよし、内々聞きしものを」と、きつと思ひ出でて、ちともさわがず、「さ候へばこそ、この御大事にまかり上るが、宇治川渡すべき馬は持たず、『生〓(いけずき)を申さばや』と思ひつれども、『梶原殿の申されけるにも御許しなし』とうけたまはるあひだ、『まして高綱が申すとも、よも賜はらじ』と存じ、『後日の御勘当はあらばあれ』と思ひ、暁たつとての夜、舎人に心をあはせ、さしも御秘蔵候ふ生〓(いけずき)を盗みすまして上り候ふはいかに」と言ひければ、梶原このことばに腹がゐて、「ねつたう、さらば景季も盗むべかりけるものを」と、どつと笑つて退きにけり。〔佐々木の四郎が賜はつたる〕生〓(いけずき)は黒栗毛なる馬の〔きはめてたくましきが、〕馬をも人をもあたりをはらつて食ひければ、「生〓(いけずき)」と付け
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られたり。「八寸の馬」とぞ聞こえし。〔梶原に賜はつたる〕摺墨もおほきにたくましきが、〔まことに〕黒かりければ「摺墨」とぞ申しける。いづれも劣らぬ名馬なり。尾張の国より大手、搦手、軍兵二手に分かつ。搦手は伊勢の国へまはる。大手は美濃の国にかかる。大手の大将軍は蒲の御曹司範頼に、あひしたがふ人々、武田の太郎、加賀見の次郎、その子小次郎、一条(いちでう)の次郎、板垣の三郎、逸見の四郎、山名、里見の人々。侍大将には、土肥の次郎、稲毛の三郎、榛谷の四郎、小山田の小四郎、長沼の五郎、結城の七郎、岡部の六野太、猪俣の近平六、熊谷の次郎を先として、都合その勢三万余騎。近江の国野路篠原にぞ着きにける。搦手の大将軍九郎御曹司に、したがふ人々、安田の三郎、大内の太郎、田代の冠者、畠山の庄司次郎、同じく長野の三郎、梶原源太、佐々木の四郎、糟谷の藤太、渋谷の右馬允、平山の武者所季重を先として、都合その勢二万余騎。伊賀の国を経て田原路をうち越え、宇治川のはた、産霊の明神の御前をうち過ぎ、山吹が瀬へぞ向かひける。宇治も、瀬田も、ともに橋をひきたり。宇治川の向かうの岸には掻楯かき、水の底には乱杭打つて、大綱張り、逆茂木つないで流しかけ、ころは正月二十日あまりのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷とけあひて、水かさ、はるかにまさりたり。白波おびたたしく、瀬枕おほきに滝鳴つて、逆巻く水も早かりけり。夜はすでにほのぼのと明けゆけども、
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川霧深くたちこめて、馬の毛も、鎧の毛もさだかならず。〔ここに〕大将軍九郎御曹司、川ばたにうち出でて、水の面を見わたし、「人々の心を見ん」とや思はれけん、「いかがせん。淀、一口へやまはるべき。水の落ち足をや待つべき」とのたまへば、武蔵の国の住人畠山庄司次郎重忠、そのときはいまだ二十一になりけるが、すすみ出でて申しけるは、「この川の御沙汰は、鎌倉殿の御前にてよく候ひしぞかし。日ごろ知ろしめされぬ海川の、今にはかに出できても候はばこそ。この川は近江の湖のすゑなれば、待つとも、待つとも、水干まじ。また、橋をば誰かは渡してまゐらすべき。一年治承の合戦に、足利の又太郎忠綱は十八歳にて渡しけるは、鬼神にてはよもあらじ。重忠瀬ぶみつかまつらん」とて、「武蔵の殿ばら、続けや」とて、丹の党をはじめとして五百余騎、轡を並ぶるところに、平等院の艮、橘の小島より、武者こそ二騎、ひつかけ、ひつかけ、出で来たれ。梶原源太、佐々木の四郎なり。人目には何とも見えねども、内々先をあらそふともがらなりければ、まつ先に二騎つれて出でにけり。佐々木に梶原は一段ばかり馳せすすむ。佐々木「川の先をせられじ」と、「や、殿。梶原殿。この川は、上へも、下へも、早うして、馬の足ぎきすくなし。腹帯の延びて見ゆるは。締め給へ」と言はれて、梶原「げにも」とや思ひけん、つ立ちあがりて、左右の鎧を踏みすかし、手綱を馬の小髪に捨て、腹帯を解いて締むるあひだに、佐々木、つと馳せぬけて、川へざつとうち入れたり。梶原これを見て「たばから
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れまじきものを」とて、同じくうち入れたり。「水の底には大綱張りたるらんぞ。馬も乗りかけ、おし流されて不覚すな。佐々木殿」とて渡しけるが、川の中まではいづれ劣らざりけれども、いかがしたりけん、梶原が馬は篦撓形におし流さる。佐々木は川の案内者、そのうへ生〓(いけずき)といふ世一の馬には乗つたりけり、大綱どもの馬の足にかかりけるをば、帯いたる「面影」といふ太刀を抜き、ふつふつとうち切り、うち切り、宇治川早しといへども、一文字にざつと渡して、思ふ所にうちあぐる。鎧踏んばり、つ立ちあがり、「宇多の天皇に八代の後胤、佐々木の三郎秀義が四男、佐々木の四郎高綱。宇治川の先陣」と名のつて、をめいてかく。梶原は、はるかの下よりうちあぐる。畠山、五百余騎にてうち入れて渡す。向かひの岸より仁科、高梨、山田の次郎、さしつめ、ひきつめ、散々に射る。畠山、馬の額を篦深に射させて、馬は川中より流れぬ。弓杖ついており立つたり。岩波おびたたしく兜の手先におしかけけれども、事ともせず。向かひの岸に渡りついて、あがらんとするところに、うしろより物こそひかへたれ。ふりまはりて見ければ、鎧武者がとりついたり。畠山の烏帽子子に、大串の次郎なり。「誰そ」と問へば、「重親」と名のる。「かかることこそ候へ。馬は弱る、おし流されて候へば、力およばずとりつきまゐらせ候」と申せば、「いつも、わ殿ばらは、重忠にこそ助けられんずれ。あやまちすな」と言ふままに、さし越えてむずとつかみ、岸の上にぞ投げあげたる。投げられながら起き直り、「武蔵の国
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の住人、大串の次郎重親。宇治川徒歩わたりの先陣」とぞ名のりける。敵も味方もこれを聞き、一度にどつとぞ笑ひける。九郎御曹司をはじめたてまつり、二万五千余騎、うち入れ、うち入れ、渡しけり。馬、人にせかれて、さばかり早き宇治川も下は瀬切れて浅かりければ、雑人ども、馬の下手に、とりつき、とりつき、渡しけり。佐々木の三郎、梶原平次、渋谷の右馬允、これ三人は馬を捨てて芥々をはき、弓杖をつき、橋の行桁をこそ渡りけれ。そののち畠山、乗替に乗りてうちあぐる。魚綾の直垂に緋縅の鎧着て、連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗つたる敵の、まつ先にすすみ出でて、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱」とこそ名のりけれ。畠山、「まづ軍神の血祭りせん」とて、かけ並べ、むずと取つて引き落し、首ねぢ切りて、本田の次郎が鞍のしほでにつけさせけり。これをはじめとして、木曾殿の方より宇治橋固めたる勢ども、しばしささへてふせげども、東国の大勢がみな渡して攻めければ、散散に駆けなされ、木幡山、伏見をさしてぞ落ち行きける。瀬田をば稲毛の三郎重成がはかりごとにて、田上の供御の瀬をこそ渡しけれ。いくさ破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもつて合戦の次第を注進申されけるに、鎌倉殿、まづ御使に、「佐々木はいかに」と御たづねありければ、「宇治川のまつ先」と申す。日記をひらいて御覧ずれば、「宇治川の先陣、佐々木の四郎。二陣、梶原源太」とこそ書かれけれ。
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第八十二句 義経院参
さるほどに、木曾左馬頭義仲は、「宇治、瀬田敗れぬ」と聞きしかば、「最後のいとま申さん」とて、百騎ばかりにて院の御所六条殿へ馳せ参る。「あはや、木曾が参り候ふぞや。いかなる悪行かつかまつらんずらん」とて、君も、臣も、おそれわななき給ふところに、「東国の兵ども、七条河原までうち入りたる」よし告げたりければ、木曾門の前よりとつて返す。御所にはやがて門をさしけり。木曾は「最愛の女に名残を惜しまん」とて、六条万里の小路なる所にうち入りて、しばしは出でもやらざりけり。新参したりける越後の中太家光といふ者あり。これを見て、「あれほど敵の攻め近づいて候ふに、かくては犬死せさせ給ひなん。いそぎ出でさせ給はで」と申しけれども、なほも出でやらざりければ、越後の中太、「世は、かうごさんなれ。さ候はば、家光は死出の山にて待ちまゐらせん」とて刀を抜き、鎧の上帯切つておしのけ、腹掻き−切つてぞ死にける。木曾殿これを見給ひて、「これはわれをすすむる自害にこそ」とて、〔やがて〕うち出でられけれ。上野の国の住人、那波の太郎広澄を先として、百五十騎には過ぎざりけり。六条河原へうち出でて見れば、東国の武者とおぼえて、三十騎ばかり出で来る。その中に二騎進んだり。一騎は塩屋の五郎惟広、一騎は勅使河原の五三郎有直なり。塩屋が申しけるは、「後陣の勢をや待つべき」。勅使河原申す様、「一陣破れぬれば、残党まつたからず。ただ寄せよや」とて、をめいてかかる。「われ先
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に」と乱れ入る。あとより後陣続いたり。木曾殿これを見給ひて、いまを最後のことなれば、百四五十騎轡を並べて、大勢の中に駆け入る。東国の兵ども、「われ討ちとらん」と面々にはやりあへり。両方火出づるほどこそ戦ひけれ。九郎義経、兵どもに矢おもてふせがせ、「義経は院の御所のおぼつかなきに、守護したてまつらん」とて、まづわが身ともに、ひた兜五六騎、六条殿に馳せ参る。大膳大夫業忠、六条の東の築垣にのぼつて、わななく、わななく、世間をうかがひ見るところに、東の方より武者こそ五六騎、のけ兜に戦ひなつて、射向の袖を吹きなびかさせ、白旗ざつとさしあげ馳せ参る。「あはや、木曾が参り候ふぞや。このたびぞ世は失せはてん」と申しければ、法皇をはじめまゐらせて、公卿、殿上人もことに騒がせ給ふ。業忠よくよく見て申しけるは、「笠じるし変つて見え候。木曾にては候はず。今日うち入りたる東国の兵とおぼえ候」と申しもはてねば、九郎義経、門の前に馳せ寄つて、馬より飛んで下り、「『鎌倉前の右兵衛佐頼朝が舎弟、九郎義経、参りて候』と奏せさせ給へ」と申されければ、大膳大夫あまりのうれしさに、築垣よりいそぎ飛び下りけるほどに、落ちて腰をつき損じたりけれども、痛さはうれしさにまぎれておぼえず。はふはふ参りて奏し申せば、やがて門をひらき入れられけり。大将軍ともに武士は六人なり。九郎義経は赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧着て、黄金づくりの太刀を帯き、切斑の矢負ひ、塗籠籐の
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弓の鳥打を、紙の広さ一寸ばかりに切つて、左巻きにぞ巻いたりける。これぞ今日の大将軍のしるしとは見えたりける。のこる五人は、鎧は色々に見えたりけれども、つらたましひ、骨柄、いづれも劣らざりけり。法皇、中門の連子より叡覧あつて、「ゆゆしげなる者どもかな。みな名のり申せ」と仰せければ、まづ大将軍、「九郎義経」、次には、「畠山庄司次郎重能が子に、畠山庄司次郎平の重忠」、「同じ氏、河越の太郎重頼が子に、河越の小太郎重房」、「渋谷の三郎庄司重国が子に、渋谷の右馬允重助」、「佐々木の三郎秀義が四男、佐々木の四郎高綱」、「梶原平三景時が嫡子、梶原源太景季」とぞ申しける。みな庭上にかしこまつてぞ候ひける。大膳大夫業忠、大床に候ひて、合戦の次第をたづねらる。義経申されけるは、「木曾が悪行のこと、頼朝うけたまはりて大きにおどろき、範頼、義経二人の舎弟を参らせて候。兄にて候ふ範頼は瀬田より参り候ふが、いまだ見えず候。義経は宇治の手を追ひ落して、まづこの御所のおぼつかなさに、馳せ参りて候。木曾は河原を上りに落ちゆき候ふを、兵どもに追つかけさせ候ひつれば、いまはさだめて討ちとり候らん」と、いと事もなげにぞ申したる。君なのめならず御感ありて、「木曾が悪党なんど、なほ参りて狼藉つかまつり候ふべし。義経は候ひて、この御所よくよく守護したてまつれ」と仰せ下されければ、かしこまつて承り、門を固めて待つところに、ほどもなく一二千騎馳せ参り
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て、六条殿四面にうちかこみ、守護したてまつれば、人々も心静かに、君も御安堵の御心いできさせ給へり。
第八十三句 兼平
さるほどに、木曾は「もしもの事あらば、院をとりたてまつり、西国の方へ御幸なしたてまつり、平家とひとつにならん」とて、力者二十余人用意しておいたりけれども、「院の御所には、義経の参り給ひて守護したてまつる」と聞こえしかば、「力およばず」とて、数万の大勢の中へ駆け入り、討たれなんずること度々におよぶといへども、駆けやぶり、駆けやぶり、通りけり。「かくあるべしと知りたりせば、今井を瀬田へやらざらましものを。幼少より『死なば一所にて、いかにもならむ』とちぎりしに、所々にて死なんことこそ本意なけれ。今井が行くへを見ばや」とて、河原を上りに駆けけるに、大勢追つかくれば、とつて返し、とつて返し、六条河原と三条河原の間、無勢にて多勢を五六度まで追つかへす。賀茂川ざつとうち渡し、粟田口、松坂にもかかりけり。去年信濃を出でしときには、五万余騎と聞こえしかど、今日四の宮河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。まして中有の旅の空、思ひやるこそあはれなれ。木曾殿は、信濃より巴、款冬とて二人の美女を具せられたり。款冬は労ることありて、都にとどまりぬ。巴は七騎がなかまでも討たれざりけり。そのころ齢二十三なり。色白く髪長く、容顔まことに美麗なり。されども大力の強弓精兵、究竟
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の荒馬乗りの悪所おとし。いくさといへば札よき鎧着て、大太刀に強弓持ち、一方の大将にさし向けられけるに、度々の高名肩を並ぶる人ぞなき。「木曾は長坂を経て、丹波路へおもむく」と言ふ人もあり、また「龍華越にかかつて北国へ」とも聞こえけり。されども、今井が行方のおぼつかなさに、瀬田の方へぞ落ち行きける。今井も主の行くへのゆかしさに、旗をひん巻き、五十騎ばかりにて都へとつて返すほどに、大津の打出浜にて、木曾殿に逢ひたてまつる。一町ばかりより、たがひに「それ」と目をかけて、駒を早めて寄せ合はせたり。木曾殿、今井が馬にうち並べ、兼平が手を取りて、「いかに今井殿、義仲は、今日六条河原にていかにもなるべかりしかども、幼少より『一所にていかにもならん』とちぎりしことが思はれて、かひなき命のがれ、これまで来れるなり」とのたまへば、「〔さん候。〕兼平も、瀬田にていかにもなるべう候ひつるが、君の御行くへのおぼつかなさに、敵の中に取り籠められて候ひしを、うち破りてこれまで参りて候」と申す。木曾殿、「ちぎりはいまだ朽ちせざりけり。義仲が勢は敵におしへだてられ、山林に馳せ入りぬ。さだめてこの辺にもあるらん。旗さし上げみよ」とのたまへば、今井持たせたる旗をざつとさし上げたれば、案のごとく、これを見て、京より落つる勢ともなく、瀬田より落つる者ともなく、三百余騎ぞ馳せ集まる。木曾殿大きによろこんで、「この勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。この先にしぐらうで見ゆるは、誰が手とか聞く」。「甲斐の一条の次郎殿とこそうけたまはり候へ」。「勢はいかほどある
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やらん」。「六千余騎と聞こえて候」。「さらばよき敵ごさんなれ。同じくは、大勢の中にてこそ討死もせめ」とて、まつ先にこそ進まれけれ。木曾は赤地の錦の直垂に、「薄金」とて唐綾縅の鎧着て、いかものづくりの太刀を帯き、石打の矢のその日のいくさに射のこしたるを首高に負ひなし、滋籐の弓のまつ中取つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛に、沃懸地の鞍置いてぞ乗つたりける。大音あげて名のりけり。「昔は聞きけんものを、木曾の冠者。今は見るらん、左馬頭兼伊予の前司朝日将軍源の義仲ぞや。一条の次郎とこそ聞け。討ちとり、勧賞かうむれ。なんぢがためにはよき敵ぞ」とて、破って入る。一条の次郎、「ただいま名のるは大将軍ぞ。もらすな。討ちとれや」とて大勢の中にひと揉み揉うで戦ふ。木曾三百余騎にて、縦ざま、横ざま、蜘蛛手、十文字に駆けやぶり、六千余騎があなたへ〔ざつと〕駆け出でたれば、百騎ばかりになりにけり。土肥の次郎、一千余騎にてささへたり。そこを駆けやぶりて出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。稲毛、榛谷五百余騎。そこを過ぐれば、小山、細道、森、結城、小沢。ここかしこに二三百騎ひかへたるを、駆けやぶり、駆けやぶり行くほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎がうちまで、巴は討たれざりけり。木曾のたまひけるは、「義仲は、ただいま討死せんずるにてあるぞ。なんぢは女なれば、一所にて死なんことも悪しかりなん。『木曾殿こそ、最後のいくさに女をつれて討死せさせたり』なんど言はれんことも口惜しかるべし。これよりいづちへも落ちゆき、義仲
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が後世をとぶらひなんや」とのたまへども、落ちゆかず。あまりにいさめ給へば、「あつぱれ、よからむ敵もがな。最後のいくさして見せたてまつらん」と見まはすところに、武蔵の国の住人に恩田の八郎師重、聞こふる大力の剛の者、三十騎ばかりにて出で来たる。巴その中へ駆け入り、恩田に押し並べて、むずと取つて引き落し、鞍の前輪に押しつけて、首ねぢ切つて捨ててけり。そのまま物具脱ぎ捨てて、泣く泣くいとま申して、東国の方へぞ落ち行きける。手塚の別当自害しつ。手塚の太郎は討死す。今は、今井と主従二騎にぞなりにける。木曾のたまひけるは、「いかに今井。日ごろは何ともおぼえぬ鎧が、今日は重うおぼゆるぞや」。兼平申しけるは、「別の様や候ふ。それは君の無勢にならせましまして、臆させ給ふにこそ候へ。御馬疲れ候はず。御身弱らせ給はず。日ごろ召されし御鎧、何によつてただいま重くはならせ給ふべき。兼平一人候へば、余の者千騎とおぼしめされ候ふべし。箙に矢七つ八つ射のこして候へば、この矢のあらんかぎりは、ふせぎ矢つかまつらん。あれに見え候ふは『粟津の松原』と申し候。三町には過ぎ候ふまじ。あれにて御自害候へ」とて、二騎うち並べて行くほどに、また瀬田の方より新手の武者、百騎ばかり出で来たり。今井申しけるは、「さ候はば、君はあの松原にてしづかに御自害候へ。兼平はこの敵ふせぎ候はん」と申せば、木曾殿、「幼少より
『一所に』とちぎりしはここぞかし。死なば同じ枕にこそ」と、馬の鼻を並べ、駆けんとし給へば、今井馬より飛んでおり、御馬の鼻にむずと取りつき、「いか
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なる御言候ふ。弓矢取りは、日ごろ高名をし候へども、最後に不覚しつれば永き瑕に候ふものを。いふかひなき冠者ばらに組み落され、討たれ給はば、『日本国に聞こえ給ふ木曾殿をば、それがしが家の子、それがしが郎等こそ討ちとりたてまつれ』なんどと申さんこと、あまりに口惜しうおぼえ候。ただ松の中へ入らせ給ひて御自害候へ」と申せば、木曾殿力およばず、松原へぞ入り給ふ。今井の四郎ただ一騎、大勢に駆け向かひ、大音声をあげて、「日ごろは音にも聞き、今は目にも見よ。木曾殿の御乳人に今井の四郎兼平。三十三にぞまかりなる。鎌倉殿までも『さる者のあり』とは知ろしめされたるらん。討ちとり、勧賞かうむれ」とて、残りたる八すぢの矢を、さしつめ、引きつめ、散々に射る。死生は知らず、矢庭に敵八騎射おとし、矢種尽きければ、弓をかしこに投げすて、打物の鞘をはづし、斬つてまはるに、面を合はする者ぞなき。「ただ射とれや。射とれや」とぞ、中にとり籠め、遠だてながら雨の降る様に射けれども、鎧よければ裏かかず。隙間を射ねば手も負はず。木曾殿は松原へ入り給ふ。ころは正月二十日の暮れがたなりければ、薄氷張りたりけるに、「深田あり」とも知らずしてうち入れ給へば、聞こふる木曾の鬼葦毛も、一日馳せ合ひの合戦にやつかれけん、あふれども、あふれども、打てども、打てども、はたらかず。「今はかう」とや思はれけん、うしろへふり仰のき給ふところを、相模の国の住人石田の次郎為久、追つかけてよつ引いて射る。内兜をあなたへ通れと射通されて、痛手なれば兜の真向を馬のかしらに
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あてて、うつぶしにぞ伏し給ふ。石田が郎等二人落ちあひて、つひに木曾殿の首をば取つてけり。太刀の先に刺しつらぬき、高くさしあげ、今井が言ひつるに違はず、「日本国に聞こえ給ふ木曾殿を、相模の国の住人三浦石田の次郎為久、かうこそ討ちたてまつれ」とて高らかに名のりければ、今井の四郎これを聞き、「今は誰を囲はんとてかいくさをすべき。これ見よや、剛の者の自害する様。手本にせよや、東国の殿ばら」とて、太刀を抜き、口にくくみ、馬よりさかさまに落ちかかり、つらぬかれてぞ失せにける。今井討たれてそののちぞ、粟津のいくさは果てにける。今井が兄、樋口の次郎兼光は、「十郎蔵人を討たん」とて、河内の国長野の城へ越えけるが、そこにては討ちもらし、「紀伊の国名草にあり」と聞こえしかば、やがて追つかけ、越えたりけるが、「都にいくさあり」と聞きて馳せのぼるほどに、淀の大渡〔の橋〕にて今井が下人に行き逢うたり。「君は、はや討たれさせ給ひ候ひぬ。今井殿は御自害」と申せば、樋口涙をながし、「これ聞き給へ、殿ばら。世はすでにかうごさんなれ。命惜しからん人々は、いづちへも落ち給へ。君に心ざしを思ひたてまつらんともがらは、兼光を先として都へ入りて討死せよ」と申しければ、これを聞き、かしこにては「馬の腹帯かたむる」、ここにては「兜の緒をしむる」と言うて、二三十騎、四五十騎、ひかへ、ひかへ、落ち行くほどに、樋口が勢六百余騎が、いま二十騎ばかりにぞなりにける。「樋口の次郎、今日すでに都に入る」と聞こえしかば、党も高家も七条、朱雀、四塚へ「われ
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も」「われも」と馳せむかふ。信濃の国の住人に茅野の太郎光弘といふ者あり。これも樋口につれて河内へ下りけるが、同じく今日京へ入る。茅野の太郎、何とか思ひけん、鳥羽より樋口の次郎が先に立つて馬の足をはやめ、四塚にて大勢にうち向かひ、「この中に一条の次郎殿の手の人やおはする」と呼ばはりけり。敵一度にどつと笑つて、「一条の次郎殿の手にてばかり、いくさをばすることか」と言ひければ、茅野の太郎「もつとも、さ言はれたり、殿ばら。かの手をたづぬることは、光弘が弟茅野の七郎その手にあると聞く。信濃に光弘が子ども二人あり。彼らが『あつぱれ。わが父は、ようてや死したりけん、悪しうてや死したりけん』なんど思はんところが不便なれば、弟の七郎が見んまへにて討死して、彼らに語らせんと思ふぞかし。信濃の国諏訪の〔上の〕宮の住人、茅野の大夫光家が子に茅野の太郎光弘。敵はきらふまじ」とて、あれに駆けあはせ、これに駆けあはせ、戦ふ敵三人討ちとりて、四人にあたる敵にひつ組んで落ち、たがひに刺しちがへてぞ死ににける。これを見て、惜しまぬ人こそなかりけれ。樋口の次郎兼光は児玉党の聟なりけるが、かの党申しけるは、「弓取りの広き縁に入ることは、かやうのときのためぞかし。されば、樋口がわが党にむすぼほりけんも、さこそ思ひけめ。いざ、今度の勲功に、樋口を申して賜はらん」とて、樋口がもとへ飛脚をたて、この様申しつかはしたりければ、樋口、聞こふる兵なれども、命や惜しかりけん、児玉党がなかへ降人にこそなりにけれ。〔うち連れて都へのぼり、このよし申しければ、〕九郎御曹司、院に奏聞
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せられけり。「くるしかるまじ」とてなだめられけるを、御所女房たち、「去年、木曾法住寺殿に火をかけて攻めたてまつりしときは、今井、樋口、といふ者どもこそ、かしこにも、ここにも、満ち満ちたる様に聞こえしか。これをなだめられば口惜しかるべし」なんど訴へ申されければ、樋口の次郎、また死罪にさだまりぬ。同じく二十二日、新摂政殿、とどめられさせ給ひて、もとの摂政殿還着し給へり。わづかに六十日のうちにとどめられさせ給ふ。いまだ見はてぬ夢のごとし。昔、粟田の関白は拝賀ののち七か日だにおはせしか、これは六十日のうちなれども、除目おこなはれ、節会もあり。思ひ出なきにはあらず。同じき二十四日、木曾左馬頭の首、大路をわたさる。高梨の冠者、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太、長瀬判官、総じて与党五人が首、同じくわたされけり。樋口の次郎、「すでに斬らるべし」と聞こえしかば、「木曾殿の御首の御供せん」と所望申すあひだ、藍摺の水干の、葛の袴に、立烏帽子にてわたされけり。同じき二十五日、樋口の次郎、六条河原にてつひに斬られぬ。「『今井、樋口、楯、根の井とて、木曾が四天王のそのひとつなり。是等(これら)をなだめられば、虎をやしなふに似たり』と御沙汰あつて、つひに斬られける」とぞ聞こえし。伝へ聞く、虎狼国おとろへ、諸侯蜂のごとくにおこり、沛公さきに咸陽宮に入るといへども、項羽が来らんことを恐れて、最愛〔の美〕人を犯さず、金銀珠玉を掠めず。ただいたづらに函谷の関をまぼつて、漸々に敵をほろぼして天下ををさむることを得たり。されば
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義仲さきに都に入るといふとも、慎んで頼朝が下知を待ちしかば、沛公がはかりごとには劣らざらまし。
第八十四句 六箇度のいくさ
さるほどに、平家は正月中旬のころ、讃岐の屋島より摂津の国難波潟へぞ伝はり給ふ。東は生田の森を大手の木戸口とさだめ、西は一の谷を城郭とぞかまへける。そのうち、福原、兵庫、板宿、須磨にこもるる勢、ひた兜八万余騎。これは備中の国水島、播磨の国室山、二か度の合戦にうち勝つて、山陽道八か国、南海道六か国、都合十四か国をうちなびかせて、したがふところの軍兵なり。一の谷は、口は狭くて奥広く、北は山、南は〔海、〕岸高うして屏風を立てたるがごとし。北の山ぎはより南の磯にいたるまで、大石をかさね、上に大木を切つて逆茂木にひきたり。大船をそばだてて掻楯にかき、うしろには鞍置馬、十重二十重にひき立てたり。おもてには櫓をかき、櫓のうへには、兵ども兜の緒をしめ、つねに大鼓を打ちて乱声し、一張の弓のいきほひは半月胸のまへにかかり、三尺の剣のひかりは秋の霜の腰の間によこたふ。高き所に赤旗ども、その数を知らず立て並べたれば、春風に吹かれて天にひるがへれば、ひとへに火炎の焼けのぼるにことならず。まこと
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におびたたしかりけり。阿波、讃岐の在庁らども、源氏に心ざしありけるが、「昨日まで平家にしたがうたる者が、今日参りたらば、よも用ひられじ。平家に矢一つ射かけて、それを面にして参らん」と、小船百艘ばかりにとり乗つて、「門脇の〔平の中納言、〕平宰相教盛の子息、備前の国下津井におはしけるを、討ちたてまつらん」とて、下津井に押し寄せたり。能登の前司これを聞き、「昨日まではわれらが馬の草飼うたるやつばらが、今日ちぎりを変ずるこそあんなれ。その儀ならば、一人ものこさずうち殺せ」と、五百余騎にてをめきて駆け給へば、是等(これら)は、「人目ばかりに、矢ひとつ射かけ、引きしりぞかん」と思ひけるところに、能登殿に攻められて、「われ先に」と船に乗り、都のかたへ逃げのぼるが、淡路の福良に着きにけり。この国に、六条の判官為義が末の子、賀茂の冠者末秀、淡路の冠者為清とて源氏の大将二人あり。これを大将として城郭をかまへて待つところに、能登の前司、二千余騎にて淡路の福良に寄せて〔攻め給ふに、〕一日一夜戦ひ、賀茂の冠者討死す。淡路の冠者痛手負うて自害しつ。是等(これら)百余人が首をとり、福原へ参らせ給ひけり。門脇の平中納言、それより福原へのぼり給ふ。子息たちは、「伊予の河野が源氏に心ざしあり」と聞きて、「それを討たん」とて伊予の国へわたり給ふ。河野の四郎これを聞き、「かなはじ」とや思ひけん、「安芸の国の住人沼田の次郎、源氏に心ざしあり」と聞いて、「それとひとつにならん」とて、安芸の国へぞわたしける。能登の前司これを聞き、やがて追つかけ、安芸の国
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へぞわたり給ふ。その日蓑島に着く。次の日、安芸の国沼田の城へぞ寄せたりける。河野の四郎と沼田の次郎とひとつになつて、二千余騎にてたて籠る。能登の前司三千余騎にて攻め給ふに、一日戦ひ暮らし、次の日、沼田の次郎矢種みな射尽くし、「かなはじ」とや思ひけん、兜をぬぎ弓をはづして、降人にこそなりにけれ。河野の四郎も二百余騎にて越えたりしが、五十騎ばかりに討ちなされ、なほも降人にはならずして、「船に乗らん」と沼田畷にかかり、浜をさして落ち行くほどに、能登殿の郎等に平八為貞といふ者、二百余騎にて追つかくる。返しあはせて、しばし戦ふ。主従七騎に討ちなされ、「助け船に乗らん」と江のかたへ落ち行くほどに、為貞が家の子讃岐の七郎義範、究竟の弓の上手にて、追つかけて、七騎を矢庭に五騎射落す。河野の四郎、主従二騎になりにけり。讃岐の七郎、河野が身にかへて思ひける郎等にひつ組んで落ち、取つて押さへて首をかかんとせしところに、河野そのとき十八になりけるが、返しあはせて、郎等が上なる敵の首かき切つて、田の中へ投げ入れ、郎等をば取つて肩にひき−かけ、そこを逃げのび、四国の地にこそわたりけれ。能登の前司、河野を討ちもらしたれども、沼田の次郎が、降人たるをあひ具して福原へこそのぼられけれ。また、淡路の国の住人、阿万の六郎忠景といふ者あり。これも源氏に心ざしありけるが、郎従百余人、大船二艘にとり乗つて、都へ上る。能登の前司これを聞き、小船二十余艘にとり乗つて、攻め給ふほどに、西の宮の沖にて追つかけ
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たり。返しあはせ、しばし戦ふ。阿万の六郎「かなはじ」とや思ひけん、河尻へは入らずして、紀伊の地をさして落ち行くほどに、和泉の国吹飯の浦にぞ着きにける。紀伊の国の住人、園部の兵衛忠泰といふ者あり。これも源氏に心ざしありけるが、「阿万の六郎が平家に追はれて、和泉の国吹飯の浦にあり」と聞こえしかば、「それとひとつにならん」とて、六十騎にて馳せ越えて、阿万の六郎とひとつになる。能登の前司、二千騎にて和泉の国吹飯の浦に押し寄せ、攻め給ふほどに、一日戦ひ暮らし、夜に入りて、郎等どもにふせぎ矢射させて、阿万の六郎、園部の兵衛は都へ逃げのぼる。能登殿、ふせぐところの者ども五十余人が首をとつて、福原へこそ帰られけれ。〔また、〕「豊後の国の住人、臼杵の次郎維高、緒方の三郎維義、伊予の国の住人河野の四郎通信、三人ひとつになり、三千余騎、備前の国まで攻めのぼり、今来の城に籠りたる」より告げたりければ、能登の前司一万余騎馳せくだり、今来の城に押し寄せ、三日と申すに、城のうちの者ども矢種射尽くし、打物の鞘をはづし、城の木戸をひらいて、うち出で戦ふこと度々におよぶといへども、平家はいよいよ大勢馳せかさなる。城のうちには、次第に落ちゆくほどに、「かなはじ」とや思ひけん、緒方の三郎、河野の四郎、城を落ち、河野は伊予の国へ〔わたり、〕臼杵、緒方は豊後の国へぞわたりける。能登の前司「いまは攻むべき者なし」とて、福原へこそのぼられけれ。大臣殿以下平家の一門、
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能登の前司このほど所々の合戦に、度々の巧名をぞ感じあはれける。正月二十八日、都には、院の御所より、蒲の冠者範頼、九郎義経二人を召され、「わが朝には、神代よりつたはれる三つの宝あり。神璽、宝剣、内侍所これなり。ことゆゑなく都へ返し入れたてまつれ」と仰せくだされければ、両人かしこまつて承り、まかり出づ。同じく二月四日、福原には「故太政入道の忌日」とて、形のごとくの仏事おこなはれけり。朝夕のいくさに、過ぎゆく月日は知らねども、かぎりある去年は今年にうつりきて、憂かりし春にもなりにけり。世が世にてあらましかば、起立塔婆のくはだて、供仏、施僧のいとなみもあるべけれども、ただ男女の君達さしつどひて、泣くよりほかのことぞなき。このついでに、形のごとくの除目などおこなはれ、僧も俗も〔みな〕官なりにけり。「門脇の平中納言教盛は、正二位して、大納言になり給ふべき」よし、大臣殿より御使ありけり。中納言、大臣殿の御返事に、
今日までもあればあるかのわが身かはゆめのうちにもゆめを見るかな W
とのたまひて、つひに大納言にはなり給はず。大外記中原の師貞[* 「もろかず」と有るのを他本により訂正]が子、周防介師澄[* 「もろたか」と有るのを他本により訂正]大外記になる。兵部少輔尹明、五位の蔵人になりて、いつしか「蔵人の少輔」とぞ申しける。むかし、将門が東八か国をうちなびかし、下総の国相馬の郡に都をたて、わが身を「平親王」と称して百官をなしたりしには、暦の博士ぞなかりける。それには〔これは〕似るべからず。故郷をこそ出でさせ給へども、主上、
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三種の神器を帯して、万乗の位にそなはり給へり。されば除目おこなはれけるも、ひが事にはあらざりけり。「平氏すでに福原まで攻めのぼり、都へ入るべし」と聞こえしかば、平家の方さまの人々みなよろこび合はれけり。二位の僧都全真は、梶井の宮の年来の御同宿にてありけるが、西国より風のたよりには、文して申されけり。梶井の宮よりも御返事ありけるに、「旅のそら思ひやるこそ心ぐるしけれ。都もいまだしづかならず」なんどと、こまごまとあそばされ、奥に一首の歌ぞありける。
人しれずそなたをしのぶ心をばかたぶく月にたぐへてぞやる W
とあそばされければ、二位の僧都、これを顔に押しあてて、かなしみの涙せきあへず。
第八十五句 三草山
さるほどに、源氏は四日、一の谷へ寄すべかりしが、「故太政入道の忌日」と聞いて、仏事をおこなはせんがためにその日は寄せず。五日は西ふさがり。六日は道虚日。七日の卯の刻に摂津の国一の谷にて、源平矢合せとぞ定めける。七日の卯の刻に、大手、搦手の軍兵二手に分かつて、大手の大将軍、蒲の冠者範頼にあひしたがふ人々、佐竹の太郎信義、加賀見の次郎遠光、その子小次郎長清、板垣の三郎兼信、逸見の四郎有義、胆沢の五郎信光、山名の次郎兼義、〔同じく三郎義行。〕侍大将
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には、梶原平三景時、嫡子源太景季、次男平次景高、畠山の庄司次郎重忠、長野の三郎重清、稲毛の三郎重成、榛谷の四郎重朝、森の五郎行重、小山の四郎朝政、長沼の五郎宗政、結城の七郎朝光、小野寺の禅師太郎道綱、佐貫の四郎大夫広綱。児玉党には、庄の三郎忠家、同じく四郎高家、塩屋の五郎惟広、勅使河原の五三郎有直、中村の五郎時綱、椎名の次郎有胤、曾我の太郎祐信、河原の太郎高直、同じく次郎守直、久下の次郎重光、小代の八郎行平、藤田の三郎大夫行康、江戸の四郎、玉の井の四郎を先として、都合その勢五万余騎。四日の卯の刻に都をたつて、その日の申酉の刻には摂津の国昆陽野に陣をとる。搦手の大将軍、九郎義経にあひしたがふ人々、大内の太郎維義、安田の三郎義定、村上の判官代基国[* 「よしくに」と有るのを他本により訂正]、田代の冠者信綱。侍大将には、土肥の次郎実平、その子太郎遠平、和田の小太郎義盛、同じく五郎義茂、佐原の十郎義連、天野の次郎直経、河越の小太郎重房、師岡兵衛重綱、熊谷の次郎直実、その子小次郎直家、小川の二郎助義、大川戸の太郎弘行、岡部の六野太忠澄、猪俣[* 「ゐのたま」と有るのを他本により訂正]の近平六則綱[* 「のりつね」と有るのを他本により訂正]、金子の十郎家忠、同じく与市近範、渡柳弥五郎清忠、別府の小太郎清重、多々良の五郎義春、その子太郎光義、片岡の太郎親経、同じく八郎為治。
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御曹司の手〔の〕郎等には、鈴木の三郎重家、亀井の六郎重清、源八広綱、熊井の太郎、江田の源三、奥州の佐藤三郎嗣信、同じく四郎忠信、伊勢の三郎義盛、武蔵房弁慶を先として、都合その勢一万余騎。同日、同時、都をたつて、丹波路にかかつて、二日路を一日にうつて、その日播磨と丹波とのさかひなる三草山の東の山口、小野原にこそ着き給へ。御曹司、土肥の次郎を召して、「平家は、小松の新三位の中将、同じく少将、丹後の侍従、備中守。侍には、平内兵衛、江見の次郎。三千余騎にて、これより三里へだてて西の山口をかためたんなり。今夜寄すべきか、明日の合戦か」とのたまへば、田代の冠者すすみ出でて申されけるは、「平家は、さ様に三千余騎にて候ふなり。味方は一万余騎、はるかの利にて候ふものを。明日の合戦にのべられ候はんに、平家に勢つきなんず。夜討よからんとこそおぼえ候へ。これいかに、土肥殿」と申せば、土肥の次郎、「いしうも申させ給ひたる田代殿かな。実平も、かうこそ申したう候ひつれ」とぞ申したる。この田代の冠者と申すは、伊豆の国のさきの国司、中納言為綱の卿の子なり。母は狩野の工藤の介茂光が娘なり。これを思ひまうけたりしを、母方の祖父にあづけて、弓矢取りには、なされけり。先祖をたづぬるに、後三条の院の第三の皇子、輔仁[* 「たかひと」と有るのを他本により訂正]の親王五代の孫なり。俗姓もよかりけるうへ、弓矢取つてもならびなし。二日路を一日にうつて、馬、人みなつかれたれども、「さらば寄せよ」とて、みなうち立ち
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けり。兵ども、「暗さはくらし、知らぬ山路にかかつて、松明なうてはいかにすべき」と口々に申しければ、御曹司、土肥の次郎を召して、「いつもの大松明はいかに」とのたまへば、土肥の次郎「さること候」とて、小野原の在家に火をぞつけたりける。そのほか、野にも山にも、草にも木にも火をつけたれば、昼にはすこしもおとらず。平家は三千余騎にて、西の山口をかためらる。先陣はおのづから用心するもあり、後陣の者どもは、「〔さだめて〕明日の合戦にてぞあらん。いくさもねぶたいは、大事のものぞ。よく寝て、明日いくさせよ」とて、あるいは兜を枕にし、あるいは鎧の袖、箙なんどを枕にして、前後もしらずぞ寝たりける。思ひもかけぬ寅の刻ばかりに、源氏一万余騎、三里の山をうちこえて、西の山口へ押し寄せ、鬨をどつとぞつくりける。平家あわてさわぎ、「弓よ」「矢よ」「太刀よ」「刀よ」と言ふほどに、源氏、なかをざつと駆けやぶりて通る。「われ先に」と落ちゆくを、追つかけ、追つかけ、散々に射る。平家の勢、そこにて五百余人討たれけり。小松の〔新〕三位の中将、同じく少将、丹後の侍従、面目なうや思はれけん、播磨の高砂より船に乗つて、讃岐の屋島へ渡り給ふ。備中の前司は、平内兵衛、江見の四郎を召し−具して、これより一の谷へ参りて、合戦の次第を申せば、大臣殿おほきにおどろき給ひて、一門の人々のかたへ、「九郎義経が向かひて候ふ。三草の手、すでに敗れ候。人々向かはせ給へ」とありければ、「山の手は大事に候」とて、みな辞退せられけり。そののち能登殿のもとへ使者をたて給ひて、「三草の手すでに敗れて
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候。『人々向かはせ給へ』と申せども、『山の手は大事に候』とて、みな辞退せられ候ふなり。『盛俊向かへ』と申せば、『大将軍一人ましまさではかなふまじき』よし申す。度々のことにて候へども、御辺向かはせ給ひなんや」とありければ、能登殿の御返事に、「いくさと申すものは、人ごとに『われ一人が大事』と思ひきつてこそよく候へ。さ様に、狩、すなどりのやうに、『足だちのよからん方へは、われ向かはん。あしき方へは向かふまじき』なんど候はんには、いつもいくさに勝つことは候ふまじ。何が度にても、教経命のあらむかぎりは、いかに強う候ふとも、一方はうけたまはつて打ちやぶり候はん」とぞ申されける。大臣殿おほきによろこび給ひて、越中の前司盛俊を先として、能登殿に一万余騎をぞつけられける。〔兄の〕越前の三位通盛とうちつれて、鵯越のふもとに陣をぞとり給ふ。平家も四日に、大手、搦手二手に分けてつかはさる。大手の大将軍には、新中納言知盛、本三位の中将重衡、その勢四万余騎にて、大手生田の森にぞ向かはれける。搦手の大将軍は、左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にて〔一の谷の〕西の手へぞ向かはれける。五日の夜に入りて、生田の方より雀の松原、御影の松、昆陽野の方を見わたせば、源氏、手々に陣をとりて、かがりをたくこと、晴れたる空の星のごとし。平家も「向かひ火をたけや」とて、生田の森にもたいたりけり。ふけゆくままに見わたせば、沢辺のほたるにことならず。越前の三位通盛は、弟能登殿の屋形に女房を請じて臥し給へり。能登殿おほきに怒つて、「さらぬだに、この手をば大事の手
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とて、教経を向けられて候。まことに強かるべし。ただいまにても候へ、上の山より、敵ざつと落して候はんときは、弓は持ちたりとも、矢をはげずはかなひがたし。矢ははげたりとも、おそく引かばなほも悪しかりぬべきところなり。ましてさ様にうちとけさせ給ひては、何の詮にかたたせ給ふべき」といさめられて、三位やがて物具して、いそぎ女房を返されけるとかや。この女房と申すは、つひに同じ道におもむき給ひし女房なり。源氏は、「七日の卯の刻矢合せ」と定めければ、かしこに陣とり、馬やすめ、ここに陣とり、馬を飼ひなんどしていそがず。平家はこれを知らずして、「いまや寄す」「いまや寄す」とやすき心もなかりけり。六日のあけぼの、九郎義経一万余騎を二手に分けて、土肥の次郎を大将として、七千余騎をば一の谷の西の手へさし向けらる。わが身は三千余騎にて一の谷のうしろ、摂津の国と播磨のさかひなる鵯越、搦手にこそ向かはれけれ。兵ども、「これは聞こゆる悪所にてあり。敵に合うてこそ死にたけれ。悪所に落ちて死にたらんは無下のことかな」、「あつぱれ、案内知りたる者やある」と口々に申すところに、平山の武者所季重すすみ出でて申しけるは、「この山の案内は、季重こそ知つて候へ」と申す。御曹司、「さもあれ、坂東そだちの人の、いまはじめて見る西国の山の案内はしるべからず」とぞのたまひける。平山申しけるは、「御諚ともおぼえ候はぬものかな。吉野、初瀬の花のころは歌人これを知る。敵の籠りたる城のうしろの案内をば、剛の者が知り候」とぞ申しける。御曹司「これまた傍若無人なり」とぞ笑はれける。
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また、武蔵の国の住人別府の小太郎清重とて、生年十八歳になる小冠者、御前にすすみ出でて申しけるは、「親にて候ふ入道の教へ候ひしは、『敵にもとり籠められ、山越えの狩をもして深山にまよひたらんときは、老馬に手綱をむすんでうちかけ、さきに追つたてて行け。かならずこの馬は道に出でんぞ』と教へ候ひしか」と申しければ、御曹司、「やさしうも申したるものかな。『雪は野原をうづめども、老いたる馬ぞ道は知る』といふ心なり。さらば」とて、白葦毛なる馬に白覆輪の鞍おいて、手綱むすんでうちかけ、さきに追つたてて、一度も知らぬ深山へこそ入り給へ。ころはきさらぎはじめのことなりければ、峰の雪むら消えて、花かと見ゆるところもあり。谷のうぐひすおとづれて、霞にまよふところもあり。のぼれば白雲皓々として峰そびえ、くだれば青山峨々として岸高し。松の雪だに消えやらず、苔のほそ道かすかなり。嵐のさそふをりをりは、梅の花かともまたおぼえたり。山路に日暮れければ、「今日はいかにもかなふまじ」とて、兵どもみな馬よりおりて陣をとる。武蔵房弁慶、ある老翁を一人具して、御曹司の御前に参りたり。「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「この山のふるき猟師にて候」と申す。「さては案内知りたるらん。これより平家の城へ落さんと思ふはいかに」とのたまへば、「思ひもよらぬことに候。『三十丈の岩崎、十五丈の岸』なんどと申し候へば、人のとほるべき様も候はず。まして御馬は、いかでかかなひ候ふべき」と申せば、「鹿のかよふことはなきか」と問ひ給ふ。「鹿はおのづからかよひ
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候。世間だにあたたかになり候へば、草の深きに伏さんとて、丹波の鹿は播磨のいなみ野へかよひ候。ときどきこの谷をとほり候」と申す。「さて鹿のかよはん所を、馬のかよはん様やあるべき。なんぢやがてしるべせよ」とのたまへば、「この身は年老い、かなふまじき」よしを申す。「子はないか」。「候」とて、熊王丸と申して生年十六歳になるを奉る。やがて物具せさせ、馬に乗せて案内者に具せらる。父を鷲の尾の庄司武久と申しければ、これを元服せさせて、義経の「義」をや賜びけん、「鷲の尾の十郎義久」とぞ名のりける。御曹司、鎌倉殿と仲ちがうて奥州にて討たれ給ひしとき、「鷲の尾の十郎義久」とて討死しける者なり。
第八十六句 熊谷・平山一二の駆
熊谷の次郎直実は、そのときまでは搦手に候ひけるが、その夜の夜半ばかりに、嫡子の小次郎を呼うで申しけるは、「いかに小次郎。思へばこの手は、悪所を落さんずるとき、うちごみのいくさにて、すべて『誰さき』といふことあるまじきぞ。いざや、これより播磨路に出でて、一の谷の先を駆けん」と言ふ。小次郎、「よく候はん。向かはせ給へ」と申す。「まことや、平山もうちごみのいくさを好まぬぞ。見てまゐれ」とて郎等をやりたれば、案のごとく、平山は、はや、物具して、誰に会つて言ふともなく、「今度のいくさに、人は知らず、季重においては一足も引くまじきものを」と、ひとりごとをぞ言ひける。下人が馬
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を飼ふとて、「憎い馬の長食ひかな」とて打ちければ、平山、「さうなせそ。季重、明日は死なんぞ。その馬のなごりも今夜ばかり」とぞ言ひける。郎等走りかへりて、「かうかう」とぞ言ひける。熊谷「さればこそ」とて、うちたちけり。熊谷は、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着、紅の母衣かけて、「権田栗毛」といふ馬に乗り、嫡子の小次郎は、沢瀉をひと摺り摺つたる直垂に、伏繩目の鎧着て、黄瓦毛なる馬にぞ乗つたりける。旗差は、麹塵の直垂に、小桜を黄にかへたる鎧着て、「西楼」といふ白月毛なる馬にぞ乗つたりける。主従三騎うちつれて、一の谷をば弓手に見なし、馬手へあゆませ行くほどに、年来人もかよはぬ「田井の畑」といふ古みちをとほりて、播磨路の波うちぎはへぞうち出でたる。土肥の次郎実平は、「卯の刻の矢合せ」と定めたりければ、いまだ寄せず、七千余騎にて塩屋尻といふ所にひかへたり。熊谷は、土肥の次郎が大勢にうちまぎれて、そこをづんどうち通りて一の谷へぞ寄せたりける。いまだ寅卯の刻ばかりのことなりければ、敵の方にも音もせず。味方の勢一騎も見えず。静まりかへつてありしところに、熊谷言ひけるは、「剛の者はかならずわればかり、と思ふべからず。この辺にひかへて、夜の明くるをや待つ人もあらんぞ。いざや、人の名のらぬさきに名のらん。小次郎」とて、木戸のきはにあゆませ寄せて、大音声をあげて名のりけるは、「つたへても聞くらん、武蔵の国の住人熊谷の次郎直実、その子小次郎直家、一の谷の先陣ぞや」とぞ名のりける。敵
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の方にはこれを聞き、「音なせそ。ただ敵が馬の足を疲らかさせよ。矢種を尽くさせよ」とて、音する者もなかりけり。さるほどに、武者こそうしろにつづいたれ。「誰そ」と問へば、「季重」と名のる。「平山殿か。直実これにあり」。「いかに、熊谷殿か。いつより候」と問へば、「直実は、宵より」とぞこたへける。そのとき平山、うち寄せて申しけるは、「さればこそ、季重も、とう寄すべかりつるが、成田の五郎にたばかられて、いままで遅々して候ぞ。『死なば平山殿と一所にて死なん』とちぎるあひだ、うち連れたりつるが、成田がこよひ言ふ様は、『いたう、平山殿、先駆け早く、なし給ひそ。いくさの先を駆くるは、味方の大勢をうしろにおきて駆けたればこそ、高名、不覚のほどもあらはれておもしろけれ。味方の勢一騎も見えで、雲霞のごとくの大勢の中に駆け入つて討たれては、されば何の詮ぞ』と制するあひだ、『げにも』と思ひ、連れてうつほどに、小坂のある所を、つとうちのぼせ、馬をくだりがしらになして、味方の勢を待つところに、成田も同じくうちのぼせて、『ものを言ひ合はせんずるか』と思うたれば、季重をすげなげに見なして、そこをつとうち延びて、やがてただ延びに先へ行くあひだ、『あつぱれ。きやつは季重をたばかつて、先を駆けんとするよ』と心得て、五六段先だつたりつるを、ひと揉み揉んで追つついて、『季重ほどの者をば、どこをたばかるぞ、わ殿は』と言うて、うちすぎて寄せつれば、季重が馬はるかにまさりたり、その人には、うしろ影よも見えじ」とぞ申しける。夜はすでにほのぼのと明けゆけば、熊谷さきに名のりたれども、「平山
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が名のらぬさきに、名を名のらばや」と思うて、また木戸のきはにあゆませ寄せて、「武蔵の国の住人熊谷の次郎直実、嫡子小次郎直家、一の谷の先陣ぞや。平家の侍のなかに、われと思はん殿ばらは駆け出でよや。見参せん」とぞ申しける。平家の侍ども、これを聞き、「よもすがらののじる熊谷親子、ひつさげて来ん」とて、進む者ども誰々ぞ。越中の次郎兵衛盛嗣、上総の五郎兵衛忠光、上総の悪七兵衛景清を先として、究竟の者ども二十三騎、木戸をひらいて駆け出でたり。平山は熊谷がうしろにひかへたり。されば城のうちの者ども、熊谷よりほか、敵ありとも知らざりけるに、平山は敵の木戸をひらいて出づるを見て、重ね目結の直垂に、緋縅の鎧着て、白母衣かけて、上総介が許より得たりける「目糟毛」といふ馬にぞ乗つたりける。旗差は、洗革の鎧に兜をば猪首に着なして、銹月毛なる馬に乗る。鐙ふんばり、つつ立ちあがり、「保元、平治両度の合戦に名をあげたる、武蔵の国の住人平山の武者所季重」と名のつて、熊谷が先を馳せすぎて、二十三騎が中へをめいて駆け入る。城のうちの者ども、「熊谷ばかりと思うたれば、こはいかにしても討ちとらん」とののじりけり。熊谷これを見て、「平山を討たせじ」とつづいて駆く。平山駆くれば熊谷つづく。熊谷駆くれば平山つづく。二十三騎の者どもを中にとり籠めて、火の出づるほどぞ戦ひける。二十三騎の者どもは手痛う駆けられて、城のうちへざつと引き、敵
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を外ざまになしてぞ戦ひける。熊谷は馬の腹を射させて、しきりに跳ねければ、弓杖ついており立つたり。嫡子の小次郎は、掻楯のきはへ馬の鼻をつかするほど攻め寄つて、「熊谷の小次郎直家、生年十六歳」と名のつて戦ひけるが、弓手のかひなを射させて引きしりぞき、馬よりおり、父と並んでぞ立つたりける。熊谷これを見て、「なんぢは手負うたるか」「さん候。弓手のかひな射させて候。〔矢〕抜いてたべ」と申せば、熊谷、「しばし待て。ひまもないぞ。つねに鎧づきせよ。矢に裏かかすな。つねに錣をかたぶけよ。内兜射さすな」と教へてぞ戦ひける。熊谷、鎧に立つたる矢ども折りかけて、城のうちをにらまへてののじりけるは、「去年の冬のころ、鎌倉を出でしより、命は兵衛佐殿にたてまつる。かばねを戦場にさらさんと思ひきつたる直実ぞや。室山、水島二か度のいくさに高名したりと名のるなる、越中の次郎兵衛はないか。上総の五郎兵衛はないか。悪七兵衛景清はないか。能登殿はおはせぬか。高名も敵によつてこそすれ。人ごとに合うてはえせぬものを。直実に落ちあへや、落ちあへや」とぞののじりける。越中の次郎兵衛はこれを聞き、紺村濃の直垂に、緋縅の鎧着て、白川原毛なる馬に乗り、「熊谷に組まん」と、しづかにあゆませて向かひけるが、熊谷これを見て、「中を割られじ」と親子間もすかさず立ち並んで、肩を並べ、太刀をひたひにあて、うしろへは一引きも引かず、いよいよ先へぞ進みける。盛嗣これを見て、「かなはじ」とや
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思ひけん、とつて返す。熊谷、「越中の次郎兵衛とこそ見れ。敵にうしろを見せぬものを。直実に落ちあへや」とことばをかけけれども、「をこの者」と言うてひき返すを、悪七兵衛これを見て、「きたない殿ばらのふるまひかな」とて、すでに「落ちあうて組まん」と出でけるを、「君の御大事、これにかぎるまじ。あるべうもなし」とてとりとどめければ、力におよばず出でざりけり。そののち熊谷は、乗替に乗つて城のうちへ駆け入り、平山も熊谷親子が戦ふまぎれに、馬の息を休めて、これもやがてつづいて駆け入る。城のうちの者ども、馬に乗るはすくなし。みな歩だちになり、櫓の上より矢先をそろへ散々に射る。されども味方はおほし、敵はすくなし。矢にもあたらず駆けまはる。「ただ押し並べて組めや。組めや」と、櫓の上より下知しけれども、平家の馬は、乗ることは繁う、もの飼ふことはまれに、船にはひさしく立つたり、みな竦んでよりつきたる様なり。熊谷、平山が馬にひと当て当てては蹴倒さるべければ、押し並べても組まざりけり。平山は郎等を討たせて敵の中へ割つて入り、やがてその敵討つてぞ出でたりける。熊谷も分取あまたしたりけり。熊谷先に寄せたれども、木戸をひらかねば駆け入らず。平山のちに寄せたれども、木戸をひらきたれば駆け入りぬ。さてこそ「熊谷、平山一二の駆け」をあらそひけれ。さるほどに、成田五郎も出で来る。土肥の次郎七千余騎にて押し寄せ、鬨をどつとつくる。熊谷、平山は引きしりぞいて、駒の息をぞ休めける。
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第八十七句 梶原二度の駆
大手生田の森には蒲の冠者範頼、その勢五万余騎。「卯の刻の矢合せ」と定めければ、いまだ寄せず。その手に、武蔵の国の住人、河原の太郎、河原の次郎とて兄弟あり。河原太郎、弟の次郎を呼うで申しけるは、「いかに次郎殿。卯の刻の矢合せと定まつたれども、あまりに待つが心もとなうおぼゆるぞ。敵を目の前におきながら、いつを期すべきぞや。弓矢取る法は、かうはなきものを。高直、鎌倉殿の御前にて『討死つかまつらんずる』と申したることがあるぞ。されば城のうちを入りて見ばやと思ふなり。わ殿生きて、証人に立て」と言へば、次郎申しけるは、「口惜しきことをのたまふものかな。ただ兄弟あらんずるものが、『兄を討たせて証拠に立たん』と申さんずる、弓矢取る法に『よし』と言ひ候ひなんや。守直とても討死せんずるに、同じくは一所にこそいかにもならん」と言ふあひだ、力およばで、河原太郎「さらば」とて、下人ども呼び寄せ、故郷にとどめおく妻子のもとへこの様ども言ひつかはし、「馬ども、なんぢらに取らする。生あるものなれば、命あらんほどは形見とすべし」とて、馬にも乗らず、下人も具せずして、ただ二人芥芥をはき、逆茂木乗り越えて、城のうちにぞ入りたりける。いまだ暗かりければ、鎧の毛もさだかに見えわかず。河原太郎兄弟、立ち並うで名のりけるは、「武蔵の国の住人、私の党、私市の高直、同じく次郎守直。源氏大手の先陣ぞや」とぞ名のりける。平家の方にはこれを聞き、どつと笑う
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て申しけるは、「東国の者どもほど、すべて恐ろしかりけるものはなし。これほどの大勢の中に、ただ二人入りたらば、何ほどのことかあるべき。その者ども、しばし置いて愛せよ」とぞ申しける。河原兄弟、立ち並びて、さしつめ、引きつめ、散々に射る。究竟の手だれなりければ、矢ごろにまはる〔ほどの〕者は外るることなし。「この者、愛しにくし。今は射とれや、若党」とて、備中の国の住人、真鍋の四郎、真鍋の五郎とて、強弓の精兵兄弟あり。五郎は一の谷に置かれたり。四郎は生田の森に候ひしが、これを見て、よつ引いて射る。河原太郎が左のわきを右のわきへ、づんど射通されて、弓杖にすがつて立つところに、弟の次郎これを見て、「敵に首を取らせじ」とや思ひけん、つと寄つて兄を肩に引つかけ、逆茂木乗り越えけるを、真鍋の四郎、二の矢をつがうて放つ。河原の次郎が右の膝口射させて、兄と同じ枕に倒れけり。真鍋が郎等二人、打物の鞘をはづいて出で、河原兄弟が首を取つてぞ入りにける。河原が下人ども、「河原殿は、はや城のうちへ入りて、討たれさせ給ひて候」と呼ばはりければ、梶原平三これを聞き、「あな、無慚や。これは、私の党の殿ばらが不覚にてこそ、河原兄弟は討たせたれ。あたら者どもを」と言うて、城の木戸のわきに押し寄せ、足軽ども寄せて逆茂木引きのけさせ、五百騎轡を並べ、をめいて駆け入る。梶原が次男、平次景高、あまりに進んで駆けければ、大将軍、使者をたて給ひて、「後陣のつづかぬに先駆けしたらん者は、勲功あるまじき
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ぞ」とのたまへば、平次ひかへて、「御返事に、
もののふのとり伝へたる梓弓ひいては人のかへるものかは W
と申させ給へ」と言ひすてて、をめいて駆け入る。これを見て、「平次討たすな」とて、父の平三、兄の源太つづいて駆け入る。新中納言これを見給ひて、「梶原は東国に聞こえたる兵ぞ。漏らすな、討ちとれ」とて、大勢の中におつとり籠め、ひと揉み揉んで攻め給ふ。梶原も命も惜しまず、をめきさけんで戦ひけり。五百余騎が五十騎ばかりに駆け散らされて、ざつと引いてぞ出でたりける。その中に景季は見えず。梶原、「景季は」と問へば、郎等ども、「源太殿は敵の中にとり籠められて、はや討たれさせ給ひて候ふにこそ。見えさせ給はず」と申す。梶原、「世にあらんと思ふも、子どもを思ふがためなり。源太討たせ、景時[* 「かげすゑ」と有るのを他本により訂正]世にありても何かせん。さらば」と言ひて、とつて返す。鐙ふんばりつい立ちあがり、大音声をあげて、「昔、八幡殿の、三年の合戦に、出羽の国千福金沢の城を攻め給ひけるに、十六歳にてまつ先駆け、左のまなこを鉢付の板に射つけられながら、答の矢を射てその敵を射落し、名を後代にあげし鎌倉の権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵とは知らずや」とて、をめいて駆け入る。敵もこれを聞いて、中をざつとあけてぞ通しける。「源太いづくにあるらん」と駆けまはつてたづぬれば、源太は馬を射させてかちだちになり、兜をうち落され、大童になつて、二丈ばかり
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の岸をうしろにあて、郎等二人左右に立て、敵五人にとり籠められ、「ここを最後」と戦ひけり。「景季いまだ討たれざりけり」と、うれしさに、急ぎ馬より飛んでおり、「景時これにあり。死ぬとも敵にうしろばし見すな」と言ひて、つと寄り、五人の敵を三人討ちとり、二人に手負うせて、「弓矢取る身は、駆くるも引くもをりによるぞ。いざやれ。源太」とて、かい具してこそ出でたりけれ。これを「梶原が二度の駆け」とは申すなり。そののち、秩父、足利、三浦、鎌倉。党には児玉、猪俣、野与、山口、小沢、横山。あるいは五百騎、〔三百騎。〕あるいは百騎、二百騎。色々の旗さしあげて、名のりかへ、名のりかへ、戦ひけり。源平の兵乱れあひて、白旗、赤旗あひまじへ、両方をめきさけぶ声、山をひびかし、馬の馳せちがふ音は雷のごとし。敵とひつ組んで落ち、たがひに刺しちがへて死ぬるもあり。首を取るもあり、取らるるもあり。薄手負うて戦ふもあり、手負ひ武者をば肩にかけて、敵も味方もうしろへ引きのき、分取して出づるもあり。源平いづれも隙ありとも見えざりけり。
第八十八句 鵯越
源氏、大手ばかりにては勝負あるべしとも見えざりければ、七日の卯の刻に、九郎義経、三千余騎にて一の谷のうしろ、鵯越にうちあがつて、「ここを落さん」とし給ふに、この勢にや驚きたりけん、大鹿二つ、一の谷の城のうちへぞ落ちたりける。「こは
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いかに。里近からん鹿だにも、われらにおそれて山深くこそ入るべきに、ただいま鹿の落ち様こそあやしけれ」とて騒ぐところに、伊予の国の住人、高市の武者清教、「何にてもあれ、敵の方より出で来んものをあますべき様なし」とて、馬にうち乗り、弓手にあひつけて、先なる大鹿のまつ中射てぞとどめける。やがて二の矢を取つて、次なる鹿をも射とめたり。「思ひもよらぬ狩したり」とぞ申しける。越中の前司、「詮ない、殿ばらのただ今の鹿の射様かな。罪つくりに。矢だうないに。ただ今の矢一つにては、敵十人はふせがんずるものを」とぞ制しける。九郎義経、鞍置馬を二匹追ひ落されたりければ、一匹は足うち折りてころび落つ。一匹は相違なく平家の城のうしろへ落ちつき、越中の前司が屋形の前に、身ぶるひしてぞ立つたりける。鞍置馬二匹まで落ちたりければ、「あはや、敵の向かふは」とて騒動す。義経、「馬どもは、主々が乗つて心得て落さんずるには、損ずまじきぞ。義経は、すは、落すぞ」とて、まつ先にこそ落されけれ。白旗三十流ばかりさし上げて、三千騎ばかりつづいて落す。後陣に落す人々の鐙の鼻、先陣に落す人の鎧、兜に当るほどなり。えいえい声を忍び忍びに力をつけ、小石まじりの真砂なれば、流れ落しに二町ばかりざつと落ちて、壇なる所にひかへたり。それより下を見くだせば、大磐石苔むして、釣瓶だちに十四五丈ぞ見くだしたる。兵ども、「今はこれより引き返すべき様もなし。ここを最後」と言ふところ
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に、三浦の佐原の十郎義連[* 「よしつぐ」と有るのを他本により訂正]、「きたなしや、殿々。三浦の方にては、鳥ひとつ立てても、朝夕かかる所をこそ馳せありきけれ。思へばこれは、三浦の方の馬場よ」と言うて、まつ先にこそ落しけれ。これを見て、大勢やがてつづいて落す。あまりのいぶせさに、目をふさいでぞ落しける。おほかた人のしわざとはおぼえず。ただ鬼神の所為とぞ見えたりける。落しもあへず、鬨をどつとつくる。三千余騎が声なれども、山びこ答へて、数万騎とこそ聞こえけれ。落しもあへず、信濃源氏村上の三郎判官代基国[* 「よしくに」と有るのを他本により訂正]が手よりして、平家の屋形に火をかけたれば、をりふし風はげしく吹いて、黒けぶり押しかけたり。兵ども煙にむせて、射落し引き落さねども、馬より落ちふためき、あまりにあわてて、まへの海へ向いてぞ馳せ入れける。助け船多かりけれども、物具したる者どもが、船一艘に、四五百人、五六百人、「われ先に」とこみ乗らんに、なじかはよかるべき。なぎさより五六町押し出だすに、一人も助からず。大船三艘しづみにけり。そののちは、「しかるべき人々をば乗すとも、雑人どもをば乗すべからず」とて、さるべき人をば引き乗せ、雑人どもをば、〔太刀、〕長刀にて船を薙がせけり。かかることとは知りながら、敵に合うては死なずして、「乗せじ」とする船に取りつき、つかみつき、腕うち切られ、あるいは肘うち落されて、なぎさに倒れ伏してをめきさけぶ声おびたたし。能登守教経は一度も不覚せぬ人の、「今度はいかにもかなはじ」とや思はれけん、「薄墨」といふ馬に乗つて、播磨の明石へ落ち給ふ。兄越前の三位通盛
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は、近江の国の住人、佐々木の木村の源三成綱といふ者に、七騎が中にとり籠められて、つひに討たれ給ひけり。越中の前司盛俊は、木蘭地の直垂に、赤革縅の鎧着て、白月毛なる馬に乗り、落ちゆくが、「いづちへ行かば遁るべきか」と思ひければ、ひかへて敵を待つところに、猪俣の近平六則綱、「よき敵」と目をかけて、鞭をあげ、馳せ寄せ、おし並べて組んで落つ。越中の前司、平家の方には「七十人が力あらはしたり」といふ大力なり。猪俣、東八か国に聞こえたる強者なれども、越中の前司が下になる。あまりに強く押さへられて、もの言はんとすれども声も出でず、刀を抜かんと、柄に手をかくれどもはたらき得ず。「これほど則綱を手ごめにしつべき者こそおぼえね。あつぱれ、これは平家の方に聞こふる越中の前司やらん」と思ひければ、力はおとつたれども、剛の者にてあるあひだ、すこしもさわが[* 「さをが」と有るのを他本により訂正]ざる体にて、「そもそも御辺は、平家の方にてはさだめて名ある人にてぞおはすらん。敵を討つといふは、われも人も名のつて聞かせ、敵にも名のらせて討ちつればこそおもしろけれ」。越中の前司、やすらかに、思ひて「これは越中の前司盛俊なり。もとは平家の一門なりしが、今は侍になりたり。わ君は誰そ。名のれ。聞かん」と言ひければ、「武蔵の国の住人、猪俣の近平六則綱と申す者にて候。助けさせ給へ。平家すでに負軍とこそ見えさせ給ひて候へ。もし源氏の世となり候はば、御辺の一家、したしき人々何十人もましませ、則綱が勲功の賞に申しかへ
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て、助けたてまつらん」と申しければ、「憎い君が申し様や。盛俊、身こそ不肖なれども、さすがに平家の一門なり。いまさら源氏をたのまんとは思はぬものを」と言ひて、やがてとつて押さへ、首をかかんとするあひだ、猪俣「かなはじ」と思ひて、「まさなしや。降人の首切る様や候ふ」と言はれて、「さらば」とて引き起す。田の畔のある所に、腰うちかけてゐたり。うしろは山田の泥深かりけり。まへは干あがつて畑の様なる所に足さしおろし、二人物語りして息つぎゐたるところに、黒革縅の鎧着て、鹿毛なる馬に乗つたる武者一騎、歩ませて出で来たる。越中の前司これを見て、「あれは誰そ」と問へば、「くるしうも候ふまじ。則綱がしたしき者に、人見の四郎と申す者にて候。則綱をたづねて来り候ふらん」と言へども、そばなる猪俣をうち捨てて、今の敵をいぶせげに思ひて、目もはなさずまぼるところに、「あつぱれ。あれが近うなるほどならば、則綱いま一度組まんずるものを。組むほどならば、人見落ちあひて力合はせぬことはあらじ」と思ひて待つところに、人見が次第に近くなるあひだ、猪俣つつ立ちあがり、力足を踏んで、こぶしを握つて盛俊が胸板をちやうど突く。思ひもかけぬことなれば、うしろの水田へあふのけに突き入れられ、起きあがらんとするところに、猪俣うへにむずと乗りかかり、やがて敵が刀を抜いて、草摺引きあげ、「柄も、こぶしも、通れ。通れ」と、三刀刺して首をとる。人見の四郎落ちあうたり。「論ずるところもあらば」と思ひて、盛俊が首、太刀の先につらぬき、さし上げて、「日ごろは音にも聞き、今は目にも見よ。
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武蔵の国の住人、猪俣の近平六則綱、平家の方に聞こゆる越中の前司をば、かうこそ討て」と高らかに名のつて、その日の巧名の一の筆にぞつきにける。
第八十九句 一の谷
一の谷の西の手をば、左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にてふせがれけるが、「山の手敗れぬ」と聞こえしかば、いとさわがで落ち給ふ。猪俣党に岡部の六野太忠澄、薩摩の前司におし並べて組んで落つ。天性、忠度は大力のはやわざにてましましければ、岡部の六野太を、馬の上にて二刀、落ちつくところにて一刀、三刀までこそ刺し給へ。〔されども〕鎧よければ裏かかず。上になり、下になり、ころび合ふところに、岡部が郎等出で来たつて、薩摩守の右のかひなをうち落す。薩摩の前司「今はかう」とや思はれけん、「しばしのけ。十念となへて斬られん」とて、左の手にて六野太を弓杖ばかりつきのけて、西に向かひ、高声に念仏となへ給ひて、「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」とのたまひて、果てざるに、六野太うしろより首を討つ。六野太、首を取り〔たれども〕、誰とも知らず。「これは平家の一門にてぞおはすらん。名のらせて討つべかりつるものを」と思ひて見けるに、高紐にひとつの文をつけられたり。これを解いて見れば、「旅宿の花」といふ題にて、一首の歌をぞ書かれたる。
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行き暮れて木の下かげを宿とせば花やこよひのあるじならまし W
と書いて、「薩摩守忠度」と書かれたるにぞ知りてんげる。そのとき、「武蔵の国の住人、岡部の六野太。薩摩守忠度を、かうこそ討ちたてまつれ」と名のりければ、「いとほしや。平家の一門の中には、歌道にも武芸にも達者にてましましつるものを。さては、はや討たれ給ひけるにこそ」とて、敵も味方も涙をながし、袖をしぼらぬはなし。新中納言知盛は、生田の森を東に向かひてふせがれけり。「源平の勝負あるべし」とも見えざりけるに、一の谷より乱れ入りたる勢の中に、児玉党より、新中納言に使者を奉る。「一の谷の西の手も、山の手も、すでに敗れて候。うしろは御覧候はぬか」と申したりければ、うしろをかへりみ給ふに、黒煙おしかけたり。そのとき、四万余騎の大勢、あわて騒ぎて落ちぞ行く。ここに、中納言は、武蔵の国司にておはせしかば、そのよしみによつて、児玉党、かうは申したりけるとかや。本三位の中将〔重衡も〕、国々のかり武者なれども、一万余騎にておはしけるが、みな落ちて、主従二騎にぞなり給ふ。褐に白糸にて群千鳥ぬうたる直垂に、紫裾濃の鎧着て、大臣殿の秘蔵し給ひたる「童子鹿毛」といふ馬に乗り給へり。乳人の後藤兵衛盛長は、三つ目結の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将の秘蔵せられたる「夜目無月毛」にぞ乗つたりける。なぎさに船は浮かべたれども、うしろに敵つづいたり、乗るべきひまなければ、西をさしてぞ落ち給ふ。児玉党、庄の四郎高家、「よい敵」
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と目をかけて、鞭をあげ、追つかけたてまつる。三位の中将、究竟の馬には乗り給へり、湊川、苅藻川を馳せ渡り、駒の林を弓手にして、蓮の池をば馬手になし、うち過ぎ、うち過ぎ行くほどに、須磨の関屋も近づきぬ。庄の四郎、「長追ひして、追つつくべしともおぼえず。ただ、延ばしに延ばしたてまつるよ」と、思ひければ、馳せ引きによつ引いて、遠矢に「もしや」と、ひやうど射る。三位の中将の馬の、三頭に射つけたり。後藤兵衛、主の馬に矢の立つを見て、「わが馬を召されてん」とや思ひけん、鎧につけたる旗を引つかなぐつて捨つるままに、鞭をあげてぞ逃げたりける。三位の中将、これを見て、「いかに盛長、われを捨て、いづくへ行くぞ。さは契らぬものを。あな、うらめしの者や」とのたまへども、耳にも聞きいれず、ただ、逃げにぞ逃げたりける。三位の中将、馬はよわる、せんかたなさに、馬より飛んでおり、「自害せん」とや思はれけん、刀を抜き、鎧の上帯切つてのけ、高紐解いて脱ぎ捨て給ふところに、庄の四郎、馬より飛んでおり、つと寄りて、「君のわたらせ給ふと見まゐらせて候」と申して、むずと抱きたてまつり、刀をうばひ取り、わが馬にかき乗せたてまつり、手綱をときて鞍にしめつけ、わが身は乗替に乗つて、具したてまつりてぞ帰りける。三位の中将、生捕にせられ給ふぞいとほしき。後藤兵衛盛長は、究竟の馬には乗つたり、そこをつと馳せのびて、かひなき命はたすかりぬ。のちには、熊野法師の法橋といふ者の後家のもとに、後見して候ひける。この尼公、訴訟のために都へのぼりたりければ、盛長も供し
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たり。上下に見知られたりければ、「あな無慚や。三位の中将殿の、さしも不便にし給ひしに、一所にてはいかにもならずして、思ひもよらぬ尼公の供したるうたてさよ」と、憎まぬ者ぞなかりける。小松殿の末の子、備中守師盛とて、生年十七歳になり給ふが、小船に乗り、侍五六人召し具して、なぎさ近う漕ぎ寄せ、いくさのなりゆくはてを見給ふところに、新中納言の侍に、清右衛門といふ者、敵に追つかけられて、海へうち入れたりけるが、備中の前司の乗り給へる船をまねき、「御船に参り候はん」と申せば、「乗せよ」とて、船さし寄せ給へば、さらば静かにも乗らで、大男の大鎧着て、大太刀肩にうちかけ、鐙つよう踏んで、小船に、がばと飛び乗らんずるに、なじかはよかるべき。船踏みまはして、あわてふためくところに、畠山の郎等に、本田次郎馳せ来り、そこにて備中の前司をば討ちたてまつる。修理大夫経盛の嫡子、但馬守経正は、河越の小太郎重房が手にかかつて、討たれ給ひぬ。その弟、若狭守経俊、淡路守清房、尾張守清定、三騎つらなつて敵の中へ駆け入り、散々に戦ひ、敵あまた討ちとり、ともに討死せられけり。門脇の中納言教盛の末の子、蔵人の大夫業盛は、常陸の国の住人、土屋の五郎に組まれて、業盛は大力にておはすれば、土屋をとつて押さへ、首をかかんとし給ひしところに、兄の土屋の四郎落ちあうたり。業盛、心は猛く思はれけれども、二人の敵に、つひに討たれ給ひ
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けり。新中納言知盛は、嫡〔子〕武蔵の前司知章、侍に監物太郎頼方あひ具して、主従三騎にて落ち給ふ。児玉党とおぼえて、団扇の旗さしあげ、十騎ばかりをめいて追つかけたてまつる。監物太郎、返しあはせて、究竟の手だれなりければ、よつ引いて、まつ先にかかつたる旗差が首の骨射て落す。大将とおぼしき者、監物太郎には目をかけずして、中納言に目をかけて、「組みたてまつらん」とおし並ぶるところに、嫡子武蔵守、中にへだたり、ひつ組んで落ち、敵が首を掻いて、さしあげんとし給ふところに、敵が童落ちあひて、武蔵の前司の首を掻く。監物太郎落ちかさなつて、童が首をも取りてげり。頼方、右の膝口を射させて、立ちもあがらず、ゐながら討死してんげり。その間に、中納言は、「井上黒」といふ逸物には乗り給へり、海のおもて七八段ばかり泳がせ、大臣殿の船にぞ乗り給ふ。「馬の立つべき所があるか」と見給へども、船には人おほく混み乗つて、馬の立つべき様もなかりければ、手綱むすんでうちかけ、馬をばなぎさへ向けて、追つかへさる。阿波の民部、これを見て、「御馬、敵の物になり候ひなんず。射殺し候はん」とて、矢取つてつがひければ、中納言、「何物にもならばなれ。命をたすけたる馬なり。あるべうもなし」とのたまひければ、成能、矢さしはづいて射ざりけり。この馬、しばしは船をしたひつつ、離れもやらざりけれども、乗する者なければ、なぎさをさして泳ぎ帰り、なほも沖の方をなごり惜しげにまぼらへて、高いななきして、足掻き
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してぞ立つたりける。なぎさに走りまはりけるを、河越の小太郎取つて、九郎御曹司に奉る。それより院へ参らせられければ、「河越黒」とて、一の御廐に立てられたり。もとも「井上」とて、院の御秘蔵の御馬なりしを、宗盛の内大臣になりて、祝申のありしとき、院より御引出物に賜はられたりしを、中納言あまりに秘蔵して、「この馬の祈祷」とて、毎月に泰山府君をぞ祀られける。そのゆゑにや、馬もたすかり、御命もいまのび給ふこそ不思議なれ。この馬は、信濃の国井上だちにてありければ、「井上黒」とぞ申しける。中納言、大臣殿の御前に参りて、「武蔵守にも後れ候ひぬ。頼方も討たれ候。心細うこそなりて候へ。ただひとり持ちたる子が、われを助けんとて、敵と組むを見ながら、引き返さざりつるこそ『よく命は惜しきものを』と、われながらも肝づれなうこそ候へ。人のうへならば、いかばかりか知盛もどかしうも候ひなん」と、さめざめとぞ泣かれける。大臣殿、「まことは、さこそ思はれ候ふらめ。武蔵守は今年十六。手もきき、心も剛なり。よき大将にてありつるものを。惜しや、あたらもの。今年は、あれと同年ぞかし」とて、御子右衛門督清宗とて、生年十六になり給ふが、そばにましましけるを、つくづくと見給ひて泣き給へば、船のうちの人々、みな袖をぞ濡らされける。
熊谷の次郎直実は、「よからん敵がな、一人」と思ひて待つところに、練貫に鶴ぬうたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、連銭葦毛なる馬に乗つたる武者
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一騎、沖なる船に目をかけて、五段ばかり泳がせて出で来たる。熊谷これを見て、扇をあげ、「返せ。返せ」とまねきけり。とつて返し、なぎさへうちあぐるところを、熊谷、願ふところなれば、駒の頭を直しもあへず、おし並べて組んで落つ。左右の膝にて敵が鎧の袖をむずと押さへて、「首を掻かん」と兜を取つておしのけ見れば、いまだ十六七と見えたる人の、まことにうつくしげなるが、薄化粧して鉄〓つけたり。熊谷、「これは平家の公達にてぞましますらん。侍にてはよもあらじ。直実が小次郎を思ふ様にこそ、この人の父も思ひ給はめ。いとほしや。助けたてまつらん」と思ふ心ぞつきにける。刀をしばしひかへて、「いかなる人の公達にておはするぞ。名のらせ給へ。助けまゐらせん」と申せば、「なんぢはいかなる者ぞ」と問ひ給ふ。「その者にては候はねども、武蔵の国の住人、熊谷の次郎直実と申す者にて候」と申せば、「なんぢがためには、よい敵ごさんなれ。なんぢに合うては名のるまじきぞ。ただ今名のらねばとて、つひに隠れあるべきものかは。首実検のあらんとき、〔やすく〕知られんずるぞ。急ぎ首を取れ」とぞのたまひける。「あはれげの者や。ただ今この人討たねばとて、源氏勝つべきいくさに負くべからず。討ちたればとて、それによるまじ」と思ひければ、「助けたてまつらばや」と、うしろをかへりみるところに、味方の勢五十騎ばかり出で来たる。「直実が助けたりとも、つひにこの人のがれ給はじ。後の御孝養をこそつかまつらめ」と申して、御首掻いてんげり。のちに聞けば、「修理大夫経盛の末の子に、大夫敦盛」とて、〔生年〕十七歳
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にぞなられける。御首つつまんとて、鎧直垂をといて見れば、錦の袋に入れたる笛を、引合せに差されたり。これは、祖父忠盛笛の上手にて、鳥羽の院より賜はられたりけるを、経盛相伝せられたりけるを、名をば「小枝」とぞ申しける。熊谷これを見て、「いとほしや。今朝、城のうちに管絃し給ひしは、この君にてましましけるにこそ。当時、味方に、東国よりのぼりたる兵、幾千万かあるらめども、合戦の場に笛持ちたる人、よもあらじ。何としても、上臈は優にやさしかりけるものを」とて、これを九郎御曹司の見参に入れたりければ、見る人、聞く者、涙をながさぬはなかりけり。それよりしてぞ、熊谷が発心の思ひはすすみける。「狂言綺語のことわり」といひながら、つひに讃仏乗の因となるこそあはれなれ。さても熊谷は、夜もすがら敦盛のこと嘆きかなしみけるが、つくづく、ものを案ずるに、「いとほしや。この君と申すは、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿、葛原の親王に九代の後胤、讃岐守正盛の子、刑部卿忠盛の朝臣の嫡男清盛の御舎弟、修理大夫の末の子なり。いまだ無官の人にて、大夫敦盛、生年十七歳になり給ふ。討ちたてまつるときのありさま、いつの世にかは忘れたてまつるべき。直実が嫡子小次郎直家、武蔵よりはるばる連れのぼり、都にて、去んぬる正月二十日、木曾殿討たれ給ひしときの合戦に、味方あまた討たれしかども、相違なかりしに、小次郎生年十六歳になりつるを、今朝一の谷の大手
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にて、敵の矢先にかかりつる死骸をまたも見ぬ思ひ、修理大夫殿の御嘆き、直実がかなしみ、いづれかおとりまさるべき」。あまり思ひのかなしさに、「敦盛の御形見、沖なる御船にたてまつらばや」とて、最後のとき召されたる御衣裳、鎧以下の兵具ども、ひとつも残さず、御笛までもとりそへて、牒状を書きそへ、使ひに受け取らせて、小船一艘したてて、御船、修理大夫殿へ奉りけり。その牒状にいはく、
直実謹んで申す。不慮にこの君に参会したてまつり、呉王、勾践がたたかひを得、秦王、燕丹が怒りをさしはさみ、直に勝負を決せんと欲するきざみ、にはかに怨敵の思ひを忘れ、すみやかに武威の勇みをなげうち、かへつて守護を加へたてまつるのところに、雲霞の大勢襲ひ来り、落花狼藉をなす。この−時、たとひ直実、源氏をそむき、初めて平家に参ずといふとも、彼は多勢、これは無勢なり。樊〓かへつて養由が芸をつつしむ。ここに直実たまたま生を弓馬の家に受け、はかりごとを洛西にめぐらし、〔怨敵〕旗をなびかし、敵をしへたぐる事天下無双の名を得たりといへども、蚊虻むらがつて雷をなし、蟷螂あつまつて車をくつがへすがごとし。なまじひに弓をひき、矢を放ち、剣を抜き、楯をつき、命を同朋の軍士にうばはれ、名を西海の波に流すこと、自他、家の面目にあらず。なかんづく、この君の御素意を仰ぎたてまつる
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のところに、「ただ御命を直実にくだし賜はりて、御菩提を弔ひたてまつるべき」よし、しきりに仰せ下さるるのあひだ、はからず落涙をおさへながら、御首を賜はり候ひをはん。うらめしきかな、いたましきかな、この君と直実、怨縁を結びたてまつり、嘆かしきかな、悲しきかな、宿縁はなはだ深うして、怨敵の害をなしたてまつる。しかりといへども、これ逆縁にあらずや。なんぞたがひに生死のきづなを切り、ひとつ蓮の身とならざらんや。かへつて順縁に至らんや。しかるときんば、閑居の地を占め、よろしく彼の御菩提を弔ひたてまつるべきものなり。直実が申状、真否さだめて後聞にその隠れなからんや。この旨をもつて、しかるべき様に申し、御披露あるべく候。誠惶誠恐謹言。
寿永三年二月八日 丹治直実進上伊賀平内左衛門殿
返牒にいはく、
今月七日、摂州一の谷において討たるる敦盛が首、並びに遺物、たしかに送り賜はり候ひをはん。そもそも花洛の故郷を出で、西海の波の上にただよひしよりこのかた、運命尽くることを思ふに、はじめておどろくべきにあらず。また戦場に臨むうへ、なんぞふたたび帰らんことを思はんや。生者必滅は穢土のならひ、老少不定は人間のつねのことなり。しかりといへども、親となり、子となることは、前世の契り浅からず。釈尊すでに御子羅〓羅尊者をかなしみ
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給ふ。応身の権化、なほもつてかくのごとし。いはんや底下薄地の凡夫においてをや。しかるときんば、去んぬる七日、うち立ちし朝より、今日の夕べに至るまで、その面影いまだ身を離れず。燕来たつてさへづれども、その声を聞くことなし。雁飛んで帰れども、音信を通ぜず。必定討たるるよし、承るといへども、いまだ実否を聞かざるのあひだ、いかなる風の便りにも、その音信を聞くやと、天にあふぎ、地に伏し、仏神に祈りたてまつる。感応をあひ待つところに、七か日のうちにかの死骸を見ることを得たり。〔これ、〕しかしながら仏天の与ふるところなり。しかれば、内には信心いよいよ肝に銘じ、外には感涙ますます心をくだき袖をひたす。よつてふたたび帰り来たるがごとし。またこれ甦るにあひ同じ。そもそも貴辺の芳恩にあらずんば、いかでかこれを見ることを得んや。古今いまだそのためしを聞かず。貴恩の高きこと、須弥山すこぶる低し。芳志の深きこと、滄溟海かへつて浅し。進んでむくはんとすれば、過去遠々たり。退いて報ぜんとすれば、未来永永たり。万端多しといへども筆紙に尽くしがたし。しかしながらこれを察せよ。恐々、謹言。
寿永三年二月十四日 修理大夫経盛
熊谷の次郎殿 返報
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第九十句 小宰相身投ぐる事
平家はいくさ敗れければ、先帝をはじめたてまつり、人々船にとり乗つて、海にぞ浮かび給ひける。あるいは芦屋の沖に漕ぎ出でて、波にただよふ船もあり、あるいは淡路の瀬戸をおし渡り、島がくれゆく船もあり。いまだ一の谷の沖にただよふ船もあり。浦々、島々おほければ、たがひに生き死にを知りがたし。平家、国をなびかすことも十四か国、勢のしたがふことも十万余騎、都へ近づくことも、思へばわづかに一日の道なり。今度「さりとも」と思はれつる一の谷をも落されて、心細うぞなり給ふ。海に沈み死するは知らず、陸にかかりたる首の数、「二千余人」とぞ記されたる。一の谷の小笹原、緑の色もひきかへて、薄紅にぞなりにける。このたびの合戦に討たれ給ふ人々、越前の三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、以上十人のしるし、都に入る。越中の前司盛俊が首も都へ入る。本三位中将重衡は、生捕にせられて、わたされ給へり。母二位殿、これを聞き給ひて、「弓矢取りの討死することは、つねのならひなり。重衡は、今度生捕にせられて、いかばかりのこと思ふらん」とて泣き給へば、北の方大納言の典侍も「さまを変へん」とのたまひけるを、「内の御乳母にてまします、さればとて、
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いかでか君をば捨てまゐらせ給ふべき」とて、二位殿制し申し給ひければ、力におよばず、明かし暮らし給ふなり。越前の三位通盛の侍に、郡太滝口時員といふ者あり。北の方へ参りて、泣く泣く申しけるは、「殿は、はや、敵七騎が中にとりこめられて、つひに討死せさせましまし候ひぬ。敵は、近江の国の住人、木村の源三とこそうけたまはり候ひつれ。時員も、やがてそこにて御供に討死をもつかまつるべう候ひつるが、かねがね御ことをのみ仰せ候。『われはひまなくいくさの庭に向かふ。〔われ〕いかにもならん所にて、後世の御供つかまつらんと、〔あひかまへて〕思ふべからず。ただ命生きて、御行くへをも見つぎまゐらせよ』と、さしも仰せの候ひしあひだ、かひなく命生きて、これまで参りて候」と申しもあへず泣きにけり。北の方、聞こしめしもあへず、思ひ入り給へる気色にて、伏ししづみてぞ泣かれける。「一定、討たれさせ給ひぬ」とは聞きながら、「もしや生きて帰り給ふ。ひが事にてもや」と、二三日は、ただかりそめに出でたる人を待つ様に、待たれけるこそかなしけれ。むなしき日数も過ぎゆけば、「もしや」のたのみもかき絶えて、心細うぞ思ひ給ふ。乳母の女房ただ一人ありけるも、同じ枕に伏ししづみてぞかなしみける。二月十三日の夜もふけゆくほどに、北の方、乳母の女房にかきくどきのたまひけるは、「あはれや、明日うち出でんとての夜、さしもいくさの庭に、わらはを呼びて、『さても、通盛がはかなき情に、都のうちをさそはれ出でて、ならはぬ旅の空にただようて、すでに二とせ送られしに、いささかも思ひこめたる色の、つひにおはせざりつるこそ、いつの世にも
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忘れがたけれ。われはひまなくいくさの庭に向かへば、われいかにもなりてのち、いかなる有様にてかおはせんずらん。思へばそれも心苦し』なんどのたまひしがあはれさに、日ごろは隠して言はざりけれども、『心強う思はれじ』と、『〔われも、〕ただならずなりたる』ことを言ひ出だしければ、なのめならずに喜びて、『通盛すでに三十になるまで、子といふことのなかりつるに、うれしきものかな。憂き世のわすれ形見はあらんずるにこそ。ただしいつとなき波のうへ、船のうちの住まひなれば、身々とならんも心苦し』なんど言ひおきしも、はかなかりける兼言や。ありし六日のあかつきを限りとだに思はましかば、などか『後の世』と契らざりけん。ひらに思ひ過ぎたりとも、幼き者を育てて、うち見んをりをりには、昔の人のみ恋しくて、思ひの数はまさるとも、慰むことはよもあらじ。ながらへたらば、また思はぬふしもあらんぞかし。もしも思はぬふしあらば、草の陰にて見んもうたてかるべし。今はなかなか、見初め、見え初めし、その夜の契りさへ恨めしければ、『生きてゐて、ひまなく物を思はんよりは、ただ火の中へも、水の底へも入らなん』と思ひさだめてあるぞとよ。さても、さても、それにつけても、これまでくだり給へる心ざしこそありがたけれ。書きおきたる文どもは都へ奉り給へ。これは後の世のことを申しおきたり」なんど、来し方、行くすゑの事ども語りつづけて、〔さめざめと〕泣かれたりければ、乳母の女房、「日ごろはいかなる事あれども、泣き給ふばかりにて、はかばかしう物ものたまはざる人の、例ならずか様にのたまふことの怪しさよ。まことに千尋の底にも沈み給ふべきにか」とあさましくおぼえて、
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「今度討たれさせ給へる人々の北の方の、いづれかおろそかなる御ことのさぶらふ。かならず御身一人のことならず。身々とならせ給ひて、幼き人をも育てまゐらせて、亡き人の御形見にも見まゐらせさせ給へかし。それに御心のゆかざらんときこそ、御様をも変へさせ給うて、後の世をも弔ひまゐらさせ給はめ。『かならず同じ道』とはおぼしめすとも、六道四生のならひにてさぶらふなれば、どの道へかおもむかせ給はんずらん。されば『水の底に沈ませ給へば』とて、亡き人を見まゐらせ給はんこと難かるべし。げにもさ様にさぶらはば、わらはをもいづくまでも召しこそ具せられさぶらはめ」と申しければ、北の方、「思ひのあまりにこそ言ひつれ。いかに思ふとも、水の底に沈むべしともおぼえず。今宵ははるかにふけゆくらん。いざや寝なん」とて、より臥し給へば、乳母の女房、たのもしうおぼえて、ちとうち臥しつつ、すこし寝入りたりけるに、北の方起きて、ふなばたへこそ出で給へ。漫々たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端を、「その方やらん」と伏し拝み、しづかに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、友まよひするかとおぼゆるに、天の戸わたる梶の声、かすかに聞こゆるえいや声、いとどあはれやまさりけん、「南無、西方極楽世界の阿弥陀如来、あかで別れし妹背の仲、ふたたびかならず同じ蓮に迎へ給へ」とかきくどき、「南無」ととなふる声とともに、海にぞ沈み給ひける。屋島へ漕ぎわたる夜半のことなれば、人これを知らず。梶取が一人寝ざりけるが、これを見て、「あな、あさましや。女房の海へ入らせ給ひぬるぞや」と申しければ、その
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とき乳母の女房、この声におどろき、側をさぐれども、手にもさはらず、人もなし。あきれたる声にて、ふなばたに取りつき、とかく言ひやる方はなくして、「あれ、あれ」とのみぞ申しける。そのとき人あまた下りて、「取りあげたてまつらん」としけれども、春の夜のならひに、霞むものなれば、四方のむら雲うかれきて、潜けども、潜けども、月おぼろにて見えざりけり。ややありて潜きあげたれども、はやこの世になき人とならせ給ひぬ。白袴に練貫の二衣ひきまとひて入り給へり。髪も袴もしほたれて、取りあげたれどもかひぞなき。乳母の女房、御手にとりつきたてまつり、「うらめしや。老いたる親にも別れ、幼き嬰児をもふりすて、これまで付きまゐらせて下りたるかひもなく、いかに〔かく〕憂き目をば見せさせ給ふぞや」と泣きくどきけれども、はや、通ひつる息も絶えて、いまはこときれはて給ひぬ。「いづくをさして落ち行くべし」ともおぼえねば、いつまでかくては置きたてまつるべきと、三位の鎧の一領残りたるにひきまとひ、また海に沈めたてまつる。乳母の女房、「このたび後れたてまつるまじ」とて、つづいて海へ入らんとするを、とりとどめければ、船底に倒れふし、をめきさけぶことなのめならず。あまりのせん方なさに、手づから髪をはさみおろし、越前の三位の弟、中納言律師忠快、泣く泣く髪を剃りて、戒をぞさづけ給ひける。昔より夫に後るるたぐひ多しといへども、様を変ゆるはつねのならひなり。まのあたりに身を投ぐることは、ありがたかりける例なり。されば、「忠臣二君につかへず、貞女両夫にまみえず」とも思ひ知られてあはれなり。この北の方
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と申すは、故藤刑部卿憲方のむすめなり。上西門院に、小宰相殿とて、美人の聞こえありし女房なり。越前の三位、いまだ中宮亮にておはせしとき、この女房十六と申せしを、〔ただ〕一目見給ひて、歌を詠み、文をつくし給へども、取り入れ給ふこともなし。すでに三年に満ちけるに、今はかぎりの文を書きて、取りつたへける女房のもとへつかはさる。この女房、小宰相殿の、をりふしわが宿所より院へ参られけるに、道にて行き逢ひたてまつり、むなしく帰らんことが本意なさに、つと走りすぐる様にて、小宰相殿の乗り給へる車の簾のうちに、通盛の文をぞ投げ入れたる。供の者にたづぬれども、「知り給はず」と申す。あけて見給へば、日ごろ申されける通盛の文なるあひだ、大路に捨てんも、車に置かんもさすがにて、袴の腰にはさみつつ、御所へぞ参り給ひける。さて宮仕ひし給ひしほどに、思ひわすれて、文をぞ御前に落されける。女院、文をいそぎ御衣の袖にひき隠させおはしまして、女房たちを召し集めて、「めづらしき物もとめたり。この主は誰やらん」と御たづねありけれども、女房たち、よろづの神、仏にかけて「知らず」とのみぞ申し合はれける。そのなかに、小宰相殿、顔うちあかめて、しばしものも申させ給はず。「通盛の申す」とは、女院までもかねて知ろしめされたりければ、この文を御覧ずるに、匂ひ殊にありがたし。筆の立てども世のつねならず、いつくしう一首の歌ぞ書かれたる。
わが恋はほそ谷川の丸木橋ふみかへされて濡るる袖かな W
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とありければ、「これは、ただ逢はぬを恨みたる文にこそ。あまりに人の心づよきも、なかなかあたとなるものを。この世には、青き鬼となりて、身をいたづらになす者おほし。これみな、人の思ひのつもりとこそ聞け。なかごろ小野の小町とて、みめ姿いつくしう、なさけの道世にすぐれたり。されども心づよき名をや取りたりけん、つひには人の思ひのつもりとて、風をふせぐたよりもなく、雨をもらさぬはてもなし。宿にくもらぬ月星を涙にうかべ、沢の根芹、野辺の若菜を摘みてこそ、露の命をかかへけれ。この返事はあるべきものぞ」とて、女院、御硯を召し寄せ、かたじけなくも、御みづから御返事をぞあそばされける。
ただたのめほそ谷川の丸木橋ふみかへしては落ちざらめやは W
 通盛、女院よりこの女房を賜はつて、いと重んぜられけり。みめは幸ひの花なれば、浅からずちぎりて、憂かりし波の上、船のうちまでもひき具して、つひに同じ道におもむかれけるこそあはれなれ。 門脇の中納言教盛の卿は、嫡子越前の三位、末の子業盛にも後れ給ひぬ。今はたのむ人とては、能登守教経、僧には、中納言律師忠快ばかりなり。故三位の形見ともこの女房をこそ御覧ずべきに、これさへか様になり給へば、いとど心細くぞなられける。


平家物語 百二十句本(京都本)巻第十

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平家巻第十     目  録
第九十一句 平家一門首渡さるる事
     卿相の首大路を渡すや否やの事
     斎藤五・斎藤六首ども見奉る事
     三位の中将の文
第九十二句 屋島院宣
     重衡小路を渡す事
     三種の神器所望の事
     院宣
     平家院宣の御返事
第九十三句 重衡受戒
     重衡出家許されざる事
     硯松蔭法然上人に奉らるる事
     重衡大内女房玉づさ
     重衡と女房と参会の事
第九十四句 重衡東下り
     池田の宿熊野あるじ歌
     頼朝と重衡と対面
     千手の前湯殿へ参る事
     千手・重衡遊宴の事
第九十五句 横笛
     維盛屋島出でらるる事
     滝口発心
     横笛死去
     滝口高野の籠居
第九十六句 高野の巻
     維盛高野参詣
     滝口入道対談の事
     延喜の帝御衣を高野に送らるる事
     大師帝の御返事
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第九十七句 維盛出家
     重景石童丸出家
     維盛武里に遺言の事
     維盛湯浅に行逢はるる事
     大臣殿熊野参詣
第九十八句 維盛入水
     維盛熊野参詣
     那智籠りの僧維盛見知り奉る事
     維盛卒都婆の銘
     与三兵衛・石童丸入水
第九十九句 池の大納言関東下り
     弥平兵衛宗清述懐
     頼朝と池殿と参会
     武里都へ上る事
     新帝即位
第 百 句 藤戸
     源氏室山の陣
     平家児島の陣
     佐々木の三郎先陣の事
     都に大嘗会行はるる事
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平家巻第十
第九十一句 平家一門首渡さるる事
寿永三年二月十二日、去んぬる七日、一の谷にて討たれたる平家の首ども、京へ入る。平家に縁をむすぼふれたる人々、「わが方さまに何事をか聞かんずらん。いかなる目をか見んずらん」とて、嘆く人々おほかりけり。その中に大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の北の方は、「西国へ討手の向かふ」と聞くたびに、「今度のいくさに中将のいかなる目にかあひ給はんずらん」としづ心なく思はれけるところに、「平家は、一の谷にて残りずくなく滅び、三位の中将といふ公卿一人生捕られて、のぼり給へる」と聞きしかば、北の方、「この人に離れじものを」とぞ泣かれける。ある女房の来つて申しけるは、「三位の中将と申すは、本三位の中将の御ことにてわたらせ給ふ」と申しければ、「さては首どもの中にぞあらん」とて、なほ心やすくも思ひ給はず。同じく十三日、大夫判官仲頼[* 「なりより」と有るのを他本により訂正]以下の検非違使等、「平家の首ども受け取りて、大路をわたし、獄門に懸けべき」よし、奏しければ、法皇おぼしめしわづらはせ給ひて、太政大臣、〔左右大臣、〕内大臣、堀河の大納言忠親、以上公卿五人に仰せあはせらる。大納言申されけるは、「この人々は、先帝の御時、戚里の臣としてひさしく君に仕へる。なかにも卿相の首、大路をわたさるること先例なし。範頼、義経らが申状、あながちに御許容あるべから
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ず」と申されければ、さてはわたされまじきにてありけるを、「父義朝が首、大路をわたし、獄門に懸けられ候ひぬ。父の恥をきよめんがため、君の御いきどほりをやすめたてまつらんと存じ候ひしかば、忠を重んじ、命を軽んず。申し請ふところ、御ゆるされ候はずは、自今以後、何のいさみありてか朝敵を滅ぼすべく候ふぞや」と、義経ことにいきどほり申されければ、「さらば」とてつひにわたされ、獄門にぞ懸けられける。見る人、河原に市をなす。大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の若君六代御前につきたてまつりける斎藤五、斎藤六、無官なりけるうへ、いたう人にも見知られじ。この一二年は隠れゐたりけれども、あまりにおぼつかなさに、様をやつして見ければ、三位の中将殿の御首は見え給はねども、みな見知りたる首どもにてあるあひだ、目もあてられずおぼえて、涙もさらにせきあへず、よその人目もあやしげなり。そらおそろしくおぼえて、いそぎ大覚寺へたち帰る。北の方、まづ「いかにや」と問ひ給へば、「小松殿の公達の御なかには、備中守の御首ばかりこそわたされさせ給ひつれ。そのほか、その首、その首」と申せば、「いづれとても人のうへならず」とてぞ泣かれける。斎藤五、斎藤六かさねて申しけるは、「今日よく案内知りたりける者の候
ひしが申しつるは、『小松殿の公達は、播磨と丹波とのさかひなる三草をかためさせ給ひて候ひけるが、源氏どもに破られて、播磨の高砂より御船に召され、讃岐の屋島へ渡らせ給ひて候』と申す。『さて三位の中将殿はいかに』と問ひしかば、『その日のいくさ以前に、大事の御いたはりとて、
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屋島に渡らせ給ふあひだ、今度の御ことはいくさにはあひ給はず』とこそ申し候ひつれ」と申せば、北の方、「いとほしや、それもただ思ひ嘆きのつもりて、病となり給ひたるにこそ。いかなる御いたはりやらん。あな、おぼつかなや」とのたまへば、若君も、姫君も、「『何の御いたはりぞ』とは、問はざりしか」とぞのたまひける。斎藤五、「身ばかりだにもしのびかねて候ふものが、『何の御いたはりぞ』なんどまでは、問ひ候はんずる」と申せば、北の方「げにも」とてぞ泣かれける。三位の中将もかよふ心なれば、「都にさこそわれをおぼつかなう思ふらめ。首どもの中には見えざれども、『水の底にや沈みつらん』とて嘆きなんどもすらん。『いまだこの世にながらへたり』と知らせばや」とは思へども、「しのびたる住みかを人に見えんもさすがなれば」とて泣く泣く明かし給ひけり。夜にもなれば、与三兵衛重景、石童丸なんどいふ者どもそばに召し、「都にはただ今、わが事をこそ思ひ出でつらめ。いとけなき者どもは忘るるとも、人はよも忘るるひまあらじ。とかくただ一人いつとなく明かし暮らすは、なぐさむかたもなけれども、越前の三位のうへを見れば、かしこくこそ幼き者どもをとどめおきけるぞ」とて、泣く泣くよろこび給ひけり。北の方、商人の便りに文なんどのおのづから通ふにも、「なにとて今まで迎へとらせ給はぬぞや。とくして迎へ給へ。幼き者ども、なのめならず恋しがりたてまつる。われも尽きせぬ物思ひにながらへつべくもなし」と、こまごまと書きつけられたりければ、三位中将、この返事見給ひて、いまさらまた何事も思ひ入り給ひ、伏ししづみてぞ嘆かれける。
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大臣殿も二位殿も、これを聞き給ひて、「さらば、北の方、幼き人をも迎へとらせ給ひて、一所にていかにもなり給へ」とのたまへども、「わが身こそあらめ、人のためにはいかが」とて、泣く泣く月日を送り給ふにぞ、せめての心ざしの深きほどもあらはれける。さりてもあるべきならねば、近う召し使はれける侍一人したてて、都にのぼせ給ふに、三つの文をぞ書かれける。北の方への御文には、「一日片時の絶え間をだにも、わりなくこそ思ひしに、むなしき日数もへだたりぬ。都には敵満ち満ちて、わが身ひとつの置きどころだにもなき、いとけなき者ども引き具して、さこそ心苦しくおはすらん。『とくして迎へとりたてまつり、一所にていかにもならばや』なんどは思へども、御ために心苦しく候へば」なんど、こまごまと書きて、奥に一首の歌をぞ書かれける。
いづくともしらぬあふせのもしほ草かきおくあとを形見とも見よ W
いとけなき人の御文には、「つれづれをばいかにしてなぐさむらん。とくして迎へとらんぞ。さこそあらめ」なんど書いて、奥には「六代殿へ、維盛」「夜叉御前へ、維盛」と書いて日付けせられけり。「これは、われいかにもなりてのち、形見にも見よかし」とてぞ、中将書かれける。御使都へのぼりて、この文どもを奉る。北の方は見給ひて、思ひ入りてぞ嘆かれける。御使「急ぎくだるべき」よし申せば、「さるにても御返事あらんずるぞ」とて、泣く泣く起きあがり、こまごまと返事あそばされてぞ賜はりける。若君、姫君、筆を染めて、「さて、御返事はいかに書くべきやらん」と申し給へば、御前、「ただ、
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ともかくも、わ御前たちの思はんずる様に書け」とぞのたまひける。「何とて今までは迎へとらせ給はぬぞや。とくして迎へとらせ給へ。あな、御恋しや。御恋しや」と、言葉も変り給はず、二人ともに同じ言葉に書かれたり。御使屋島へくだり、この返事参らせたりければ、三位の中将、北の方の御文よりも、若君、姫君の「恋し。恋し」と書かれたるを見給ひてぞ、今ひときは、せんかたなうは思はれける。三位の中将、今は、いぶせかりつる故里のことも伝へ聞き給へども、妻子はもとより心をなやますものなれば、恋慕の思ひいやましなり。「今は穢土を厭ふにいとまあり。閻浮愛執のきづな強ければ、浄土を願ふに物憂し。今生にては妻子に心をくだき、当来にては修羅に落ちんこと、心憂かるべし。されば維盛都へのぼり、妻子を見てのち、妄念を離れて自害せんにはしかじ」とぞさだめ給ひける。
第九十二句 屋島院宣
同じく十四日、本三位の中将重衡、六条を東へわたされ給ふ。「入道にも、二位殿にも、おぼえの子にておはしければ、一門の人々にも、もてなされ、院内へ参り給へば、当家も、他家も、所をおきてうやまひしぞかし。これは、ただ奈良を滅ぼし給へる伽藍の罰にてこそ」とぞ人申しける。六条を東の河原までわたされてのち、故中の御門中納言家成の卿の造られたる堀川の御堂へ入れたてまつる。土肥の次郎実平
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は、木蘭地の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将同車したてまつる。兵ども六十余人具して守護しけり。院より御使あり。蔵人の右衛門権佐定長、赤衣に剣、笏を帯して向かふ。三位中将は紺村濃の直垂に、折烏帽子ひきたてられたり。昔は何とも思はざりし定長を、今は冥途にて冥官に向かへる心にて、おそろしげにぞ思はれける。定長申しける、「勅諚には、所詮、『三種の神器をだにも都へ入れたてまつらせ給はば、西国へつかはさるべき』と候。このおもむき申させ給へ」と申しければ、三位の中将、「今は、かかる身となりて候へば、一門面を合はすべしともおぼえず候。女性にて候へば、二位の尼なんどや、『いま一度見ん』とも思はんずらん。そのほかあはれをかくべき者、あるべしともおぼえず候。さはありながら、院宣だに下されば、申してこそ見候はめ」とのたまへば、定長この様を奏聞す。法皇、やがて院宣をぞ下されける。その院宣にいはく、
一人先帝、金闕、鳳暦の台を出でて、諸州に幸す。しかるあひだ三種の神器、南海にうづもれて数年を経。もつとも朝家の御嘆き、亡国の基なり。なかんづくかの重衡の卿は東大寺焼失の逆臣たるによつて、すべからく頼朝の朝臣の申し請くる旨にまかせて、死罪に行はるべきといへども、ひとり親族を離れて、生捕となる。籠鳥雲を恋ひて、思ひをはるかに千里の南海にうかぶ。帰雁友を失つて、心さだめて旧都の中途にかよは
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んや。しかるときんば、三種の神器ことゆゑなく都に返し入れたてまつらば、かの卿においては、〔すみやかに〕寛宥せらるべきものなり。院宣かくのごとし。よつて執達件のごとし。
寿永三年二月十四日 大膳大夫業忠奉。
とぞ書かれたる。院宣の御使には、御坪の召次花方を下されけり。三位の中将の使には、いにしへ召し使ひし平左衛門尉重国をつかはされけり。大臣殿、平大納言殿へ勅諚のおもむき、条々申し下さる。母の二位殿にもこまかなる御文どもにて、「いま一度御覧ぜんとおぼしめされ候はば、内侍所の御こと、よくよく申させ給へ」とぞ書かれたる。北の方大納言の典侍殿へも、「御文奉らばや」と思はれけれども、わたくしの文をばゆるされねば、「ことばにて、『いくさは常のことなれども、去んぬる七日をかぎりとも知らずして、別れたてまつりしこと、心憂くこそおぼえ候へ。『夫婦は二世の契り』とやらん申せば、後生にてかならず生まれ合ひたてまつらん』と申すべし」とぞのたまひける。御使、屋島へ下り、この院宣を奉る。二位殿は本三位の中将の文を見給ひて、この文おし巻き、大臣殿の御前に倒れ伏し、のたまひけるは、「何の様かあるべき。はや内侍所返し入れたてまつり、中将助けて見せ給へ。世にあらんと思ふも、子どものためなり。われを助けんと思ひ給はば、中将をいま一度見せ給へ」とぞ泣かれける。また人々の申しけるは、「帝王の御位をたもた
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せ給ふと申すは、ひとへに内侍所の御ゆゑなり。これを都へ返し入れたてまつらば、君は何の御たのみにて世にもわたり給ふべき。いかでか君を捨てまゐらせて、多くの一門をば滅ぼさんとはおぼしめし候ふやらん」と、面々にうらみ申されければ、二位殿も、力および給はず。平大納言時忠、院宣の御使花方を召し寄せて、「なんぢは花方か」。「さん候」。「なんぢ、おほくの波路をしのぎて、これまで御使したる一期があひだの思ひ出ひとつさせん」とて、花方が顔に、「波方」といふ焼きじるしをぞ差されける。帰り参りたりければ、法皇これを叡覧あつて、「よしよし。さらば『波方』とも召せかし」とぞ仰せられける。さるほどに平家の人々、院宣の御返事をぞ申さる。
今月十四日の院宣、同じき二十八日、讃岐の国屋島の磯に到来す。謹んで承るところ、件のごとし。ただしこれにつき、かれを案ずるに、通盛の卿以下、当家数輩、摂州一の谷において、討たれをはんぬ。なんぞ重衡一人が寛宥をよろこぶべきや。それわが君は高倉の院の御ゆづりを受けしめ給ひて、御在位すでに四か年、まつりごと、尭、舜の古法をとぶらふところに、東夷、北狄、党をむすび、群をなし、入洛するあひだ、かつうは幼帝、母后の御嘆きもつとも深く、かつうは外戚、近臣の憤り浅からず。しばらく九国に行幸す。還幸なきにおいては三種の神器いかでか玉体を離ちたてまつるべきや。それ、臣は君をもつて心とし、君は臣をもつて体とす。君やすければ臣
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やすし。臣やすければ国やすし。君、上に憂へあれば、臣下に楽しまず。心中に憂へあれば、体外によろこびなし。曩祖平将軍貞盛、相馬の小次郎将門を追討せしよりこのかた、東八か国を討ちしたがへ、代々世々に朝家の聖運をまぼりたてまつる。しかのみならず、故太政入道、保元、平治両度の合戦に、勅命をおもんじ、私命をかろんず。そもそも、かの頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父義朝が謀叛によつて死罪におこなふべきといへども、故大相国、慈悲のあまりに申し許さるるところなり。しかるに昔の高恩を忘れ、芳恩を存ぜず、たちまちに蛍類の身をもつて、蜂起の乱をなす。至愚のはなはだしきこと、述ぶるになほあまりあり。はやく神明の天罰をまねき、ひそかに廃跡の損滅を期するものか。それ、日月は一物のために明らかなることを晦うせず。〔明王、〕一人のためにその法を枉げず。一悪[* 「一らく」と有るのを他本により訂正]をもつてその善をすてず、小瑕をもつてその功をおほふことなかれ。しかるときんば、当家代々の奉公、亡父数度の忠節、おぼしめし忘れずんば、君かたじけなくも西国の御幸あるべきや。時に臣等、君をはじめたてまつり、ふたたび旧都に帰り、会稽の恥をきよめん。もし、しからずんば、新羅、百済、鬼界、高麗、契丹、天竺、震旦に至るべし。悲しきかな、人王八十一代におよんで、わが朝神代の霊宝を異国の宝となさんや。
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とぞ申されける。三位の中将これを聞き給ひて、「さこそあらんずれ。いかに一門の人々、重衡をにくう思はれけん」と後悔し給へどもかひぞなき。
第九十三句 重衡受戒
三位の中将、土肥の次郎を召して、「出家の心ざしあるをば、いかがすべき」とのたまへば、土肥の次郎この様を御曹司に申す。御曹司、院へ奏聞せられけり。「あるべうもなし。頼朝に見せてのちこそ法師にもなさめ」とて、御ゆるされもなかりければ、力および給はず。「わが在世のとき見参したる聖に、後生のことを申し合はせんと思ふはいかに」とのたまへば、土肥の次郎、「御聖はたれにて候ふやらん」。「黒谷の法然房」とぞのたまひける。「さらば」とて、法然上人を請じたてまつる。三位の中将出で向かひたてまつり、申されけるは、「さても、南都を滅ぼし候ふこと、世にはみな『重衡一人が所行』と申し候ふなれば、上人もさこそおぼしめされ候ふらん。まつたく重衡が下知たることなし。悪党おほく籠り候ひしかば、いかなる者のしわざにてか候ひけん、放火の時節、風はげしく吹いて、おほくの伽藍を滅ぼしたてまつる。『すゑの露、もとの雫となることにて候ふなれば、重衡一人が罪にて、無間の底にしづみ、出離の期あらじ』とこそ存知候ひつるに、みな人の『生身の如来』とあふぎたてまつる上人に、ふたたび見参に入り候へば、『今は無始の罪障も、ことごとく消滅し候ひぬ』とこそ存じ候へ。出家
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はゆるさねば、力およばず。髻つきながら授戒させ給ふべうや候ふらん」と申されければ、上人泣く泣く、いただきばかり剃り、戒をぞさづけ給ひける。その夜は上人とどまりましまして、夜もすがら、浄土の荘厳を観ずべき、さまざま法文どもをぞのたまひける。三位の中将、「心よかりける善知識かな」とよろこうで、年ごろつねにおはしまして遊び給ひし侍のもとに預けおかれたる御硯のありけるを、召し寄せて、「これは、故入道相国の、宋朝より渡して、秘蔵して候ひしを、重衡に賜びてげり。名をば『松蔭』と申して、名誉の硯にて候。これを御目のかよはんところに置かせ給ひて、御覧ぜんたびに、『重衡がゆかり』とおぼしめし出だして、後世とぶらひてたび給へ」とて、奉り給へば、上人これを受け取りて、ふところに入れ、涙をおさへ出で給ふ。この硯は、親父入道相国、砂金をおほく宋朝の帝へ奉り給ひたりければ、返報とおぼしくて、「日本和田の平大相国のもとへ」とて、贈られ給ひたりけるとかや。八条の女院に木工右馬允政時といふ侍あり。ある暮れがた、土肥の次郎がもとへ行きて申しけるは、「中将殿の、もと召し使はれ候ひし、木工の右馬允と申す者にて候ふが、八条の女院に兼任の身にて候ふなり。西国へも中将殿の御供つかまつるべう候ひつれども、弓のもとすゑをも知り候はねば、『ただ、なんぢはとまれ』と仰せられ、西国へは御供つかまつらず候。なじかは苦しかるべき。御ゆるされ候へかし。夕さり参りて、何となきことども申してなぐさめまゐらせん」と
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申せば、土肥の次郎、「刀をだにも帯し給はずは、苦しかるまじ」と申すあひだ、太刀、刀を預けてげり。政時参りたりければ、三位の中将これを見給ひて、「いかに政時か」。「さん候」とて、その夜は泊まり、夜もすがら、昔、今のことども語りつづけて、なぐさめたてまつる。夜もすでに明けければ、政時いとま申して帰らんとす。三位の中将、「さてもや、なんぢして物言ひし女房の行くへはいかに」と問ひ給へば、「いまだ御わたり候ふが、当時、内裏にわたらせ給ふとこそ承り候へ」と申せば、「さればこそ。かかる身になり、されども、そのことがつねは忘られぬをば、いかがすべき」とのたまへば、政時、「やすき御ことに候。御文賜はつて、参り候はん」と申せば、三位の中将、やがて文を書いてぞ賜はりける。守護の武士ども、「いかなる御文にて候ふやらん。出だしまゐらせじ」と申す。中将、「見せよ」とのたまへば、見せてげり。「苦しう候ふまじ」とて取らせけり。政時、内裏へ参りたりけれども、昼は人目もしげければ、その辺ちかき小屋にたち入りて日を待ち暮らし、たそがれ時にまぎれ入りて、局の下り口の辺にたたずみて聞きければ、この人の声とおぼしくて、「いくらもある人のなかに、三位の中将殿しも生捕にせられて、大路をわたされ給ふこと、人はみな『南都を焼きたる罪のむくい』と言ひあへり。中将もさぞ言はれし。『わが心よりおこしては焼かねども、悪党おほかりしかば、手々に火を放ちて、おほくの堂舎を焼きはらふ。すゑの露もとの雫となるなれば、重衡一人の罪業にこそならんずらめ』と言ひしが、げに、さとおぼゆる」とかきくどき、さめざめとぞ泣かれける。政時、「これにも、思ひ
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給ひけるものを」とあはれにおぼえて、「もの申さん」と言へば、「いづくより」と問ひ給ふ。「三位中将殿より御文の候」と申す。年ごろは恥ぢて見え給はぬ女房の、走り出で、手づから取つて見給へば、「西国より捕はれてありしありさま、今日、明日とも知らぬ身の行くへ」と、こまごまと書きつづけて、奥に一首の歌ぞありける。
なみだ川憂き名をながす身なれどもいま一たびの逢ふ瀬ともがな W
女房、文をふところにひき入れて、とかくのことものたまはず。ただ泣くよりほかのことぞなき。ややありて御返事を書き給ふ。心苦しくおぼつかなくて、二年を送りつる心のうちを書き給ひて、
君ゆゑにわれも憂き名をながすともそこの水屑とともになりなん W
政時持ちて参りたり。また守護の武士ども、「見まゐらせん」と申せば、見せてげり。「苦しうも候ふまじ」とて参らする。中将、文を見給ひて、いよいよ思ひや増さり給ひけん、土肥の次郎に向かひてのたまひけるは、「年頃あひ知りたる女房に対面して、申したき事のあるは、いかがすべき」とのたまへば、実平なさけある者にて、「まことに、女房なんどの御ことにてわたらせ給ひ候はんには、何か苦しう候ふべき」とて許したてまつる。中将、なのめならずよろこびて、人の車を借りて参らせ給へば、女房、取るものも取りあへず、いそぎ乗りてぞおはしたる。縁に車をさし寄せて、「かう」と申せば、中将車寄せに出で向かひ、「守護の武士どもの見たてまつるに、下りさせ給ふべからず」とて、車の簾をうち
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かづいて、手に手を取りくみ、顔を顔に押しあてて、しばしは物ものたまはず。ややありて、三位の中将のたまひけるは、「西国へ下り候ひしときも見まゐらせたう候へしかども、おほかたの騒がしさに、申すべきたよりもなくて、まかりくだり候ひぬ。そののちは、いかにもして、文をも参らせ、御返事をも承りたく候ひしかども、心にまかせぬ旅のならひ、朝夕のいくさにひまなくて、さながらむなしき年月を送り候ひき。今また、人知れぬありさまを見え候へば、ふたたび見たてまつるべきにて候ひけり」とて、袖を顔に押しあてける。たがひの心のうちおしはかられてあはれなり。かくて小夜もなかばになりければ、「このごろは大路の狼藉に候。とくとく」とて、出だしたてまつり給ひけり。車を遣り出だせば、中将、涙をおさへつつ、
逢ふことも露の命ももろともにこよひばかりやかぎりなるらん W
女房とりあへず、
かぎりとて立ちわかるれば露の身の君よりさきに消えぬべきかな W
さあつて、女房は内裏へ参り給ひぬ。そののちは守護の武士許したてまつらねば力およばず。時々御文ばかりぞかよひける。この女房と申すは、民部卿入道親範のむすめなり。みめかたちすぐれ、なさけ深き人なり。さありて「中将、南都へわたされて、斬られ給ひぬ」と聞こえしかば、やがて様を変へて、形のごとくの仏事をいとなみ、後世をぞとぶらひける。
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第九十四句 重衡東下り
鎌倉の前の右兵衛佐頼朝、しきりに申されければ、三位の中将重衡をば、〔同じき〕三月十三日、関東へこそ下されけれ。梶原平三景時、土肥の次郎が手より受けとつて、具したてまつりてぞ下りける。西国より生捕られて、故郷へ帰るだにかなしきに、なじか、また東路はるかにおもむき給ひけん、心のうちこそあはれなれ。粟田口をうち過ぎて、四の宮河原にもなりければ、ここはむかし延喜の第四の王子蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶を弾じ給ひしに、博雅の三位、夜もすがら、雨の降る夜も、降らぬ夜も、三年があひだ、琵琶の秘曲を伝へけん、藁屋の床の旧跡も、思ひやられてあはれなり。逢坂山をうち越えて、瀬田の長橋駒もとどろと踏みならし、雲雀のぼれる野路の里、志賀の浦波春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして、伊吹が岳も近づきぬ。心とまるとはなけれども、荒れてなかなかやさしきは、不破の関屋の板びさし。いかに鳴海の潮干潟、涙に袖はしをれつつ、かの在原のなにがしが「唐衣着つつなれにし」と詠じけん、三河の国八橋にもなりしかば、「蜘手にものを」とあはれなり。浜名の橋を過ぎければ、松の梢に風さえて、入江にさわぐ波の音。さらでも旅はものうきに、心をつくす夕まぐれ、池田の宿にぞ着き給ふ。かの宿の遊君、熊野がもとにぞ宿し
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給ふ。熊野は三位の中将を見たてまつりて、「いとほしや。いにしへは、この御さまにて東方へ下り給ふべしとは、夢にも思はざりしことを」と申して、一首の歌をぞ奉る。
旅のそら埴生の小屋のいぶせきにふる里いかにこひしかるらん W
三位の中将御返事に、
ふる里もこひしくもなし旅のそら都もつひのすみかならねば W
三位の中将、梶原を召して、「ただいまの歌の主はいかなる者ぞ。やさしうもつかまつりたるものかな」とのたまへば、景時かしこまつて、「君はいまだしろしめされ候はずや。あれこそ、屋島の大臣殿の当国の守にてわたらせ給ひしとき、召されまゐらせて御最愛候ひしに、『老母のいたはり』とてしきりに暇申しけれども、賜はらざりければ、ころは弥生のはじめにてもや候ひけん、
いかにせん都の春も惜しけれど慣れしあづまの花や散るらん W
とつかまつりて、御暇賜はりてまかりくだり候ひし、海道一の名人にて候」とぞ申しける。都を出でて日数経れば、弥生もなかば過ぎなんとす。遠山の花は「のこる雪か」と見えて、浦々、島々もかすみわたり、来し方、行く末を思ひつづけて、「いかなる宿業やらん」とかなしみ給へどかひぞなき。小夜の中山にかかり給ふにも、「また越ゆべし」ともおぼえねば、いやましあはれも数そひて、袂ぞいたく濡れまさる。宇津のや手越を過ぎ行けば、北に遠ざかりて雪のしろき山あり。「あれはいづくやらん」と問ひ給へば、「甲斐の白根」
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とぞ申しける。そのとき、中将、
惜しからぬ命なれども今日まではつれなきかひの白根をも見つ W
清見が関も過ぎ行けば、富士の裾野にもなりにけり。北には青山峨々として、松吹く風も索々たり。南は蒼海漫々として、岸うつ波も茫々たり。「恋ひせば痩せぬべし、恋ひせずもありけり」と、明神のうたひはじめ給ひけん足柄山もうち過ぎ、「急がぬ旅」とは思へども、日数やうやうかさなれば、鎌倉へこそ入り給へ。兵衛佐、三位中将に対面し給ひて、「会稽の恥をきよめ、君の御憤りをやすめたてまつらんと存じ候ひしかば、平家を滅ぼしたてまつらんこと案中に候ひき。さるほどに、まのあたりに、か様に見参に入るべしとは思ひよらざつしかども、さだめて今は屋島の大臣殿の見参にも入りつべしとこそおぼえ候へ。そもそも奈良を滅ぼし給ふこと、故太政入道の御ぱからひか、また臨時の御事に候ふか。はかりなき罪業にてこそ」とのたまへば、三位中将のたまひけるは、「南都炎上の事、入道の成敗にもあらず、重衡が発起にもあらず。衆徒の悪行をしづめんがためにまかり向かうて候ひしほどに、不慮に伽藍滅亡におよび候ひしこと、力およばず。昔は源平左右にあらそひて、朝家の御まぼりたりしかども、近来は源氏の運かたぶきたりしことは、事あたらしく申すべきにあらず、人みな存知のことなり。当家は保元、平治よりこのかた、度々の朝敵をたひらげ、かたじけなくも一天の君の御外戚
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として、一族の昇進六十余人。二十余年このかたは、楽しみ、栄え、申すはかりなし。しかるに、今運尽きぬれば、重衡捕はれてこれまで下り候ひき。それにつき、『帝王の御敵を討ちたる者、七代まで朝恩失はず』と申すことは、きはめたるひが事にて候ひけり。まのあたりに、入道は君の御ために命を失はんとすること、たびたびにおよぶといへども、わづかにその身一代のさいはひにて、子孫、か様にまかりなるべくや。されば一門運尽きて、都をすでに落ちしうへは、『かばねは山野にも晒し、江海にも沈めべし』とこそ存知候ひつれ、これまで下るべしとは思ひよらず。『殷の湯[* 「ちう」と有るのを他本により訂正]は夏台に捕はれ、文王は〓里に捕はる』。弓矢取る身の、敵の手に捕はれて滅ぼさるること、昔よりみなあることなり。重衡一人にかぎらねば恥ぢつべきにあらねども、前世の宿業こそ口惜しう候へ。ただ芳恩には、とくとく首を刎ねらるべく候」とのたまひて、そののちは物をも言ひ給はず。梶原これを承り、「あはれ、大将軍や」と、涙をぞながしける。その座にゐたりける侍ども、みな袖をぞ濡らしける。「南都を滅ぼしたる伽藍の敵なれば、大衆さだめて申す旨あらんずらん」とて、伊豆の国の住人、狩野介宗茂に預けらる。その体、「冥途にて、娑婆世界の罪人を、七日、七日に十王の手にわたすらんも、かくや」とおぼえてあはれなる。狩野介、なさけある男にて、さまざまにいたはりなぐさめたてまつる。湯殿をこしらへ、御湯ひかせたてまつりなんどしけり。あるとき、湯殿におり給ひけるところに、よはひ二十ばかりなる女房の、色
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白うきよげなるが、目結の帷子に、染付の湯巻着て、湯殿の戸をひらき参らむとす。三位の中将、「いかなる人ぞ」と問ひ給へば、「兵衛佐殿より、御湯殿のために参らせられてさぶらふ」とて、十四五ばかりなる女童の、半插盥に櫛入れ参りたり。二人に介錯せられて、髪洗ひ、湯浴びなんどしてあがり給ひぬ。この女房、帰らんとて、いとまごひして申しけるは、「『なにごとにても候へ、おぼしめさん御ことをば承つて、申せ』とこそ兵衛佐殿より承つてさぶらひつれ」と申す。中将笑ひて、「重衡ただ今なにごとをか申すべき。『ちかく斬らるるべきこともやあらん』と思へば、髪こそ剃りたけれ」とのたまへば、この女房帰り参りて、この様を申せば、「兵衛佐がわたくしの敵にあらず、すでに朝敵となれる人なり。出家のことあるべうも候はず」とぞのたまひける。三位の中将、守護の武士に向かひ、「さても、この傾城はいたいけしたる者かな。名をば何と言ふやらん」とのたまへば、狩野介かしこまつて申しけるは、「あれは手越の長者が娘にて候ふが、心ざまの優にやさしく候ふとて、兵衛佐殿、この三四年召し使はれ候ふが、名をば『千手の前』と申し候」。兵衛佐殿、三位の中将か様にのたまふよし伝へ聞き給ひて、この女房をはなやかに仕立たせて、三位の中将のもとへつかはさる。その夕べ、雨降り、世の中うちしづまりて、物すさまじかりけるをりふし、くだんの女房、琵琶、琴を持ちて参りたり。狩野介も、家の子、郎等十余人具して御前に参り、酒すすめたてまつらんとす。狩野介、かしこまつて申しけるは、
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「兵衛佐殿より、『よくよく宮仕ひ申せ。懈怠にて頼朝うらむな』と承つて候へば、宗茂は心のおよばんほどは宮仕ひ申さんずる」とて、御酒すすめたてまつる。千手の前、酌をとりて参りたりけれども、中将、いと興もなげにおはしければ、狩野介、「なにごとにても候へ、申させ給へかし」と申せば、千手、酌をさしおいて、羅綺の重衣たるは情なきことを機婦にねたまるといふ朗詠したりければ、中将これを聞き給ひて、「この朗詠せん人は、北野の天神『一日に三度翔り守らん』と誓願ましましけり。されども重衡、今生ははや捨てはてられたてまつりぬ。されば助音してもなにかせん。今はただ、罪障かろくなるべきことならば、なびきたてまつるべし」とぞのたまひける。千手また酌をさしおいて、十悪といへどもなほ引摂す極楽をねがふ人はみな弥陀の名号となふべしといふ今様を歌ひすましたりければ、中将そのとき、盃をかたぶけられて、千手の前に賜はる。千手飲みて、狩野介に差す。狩野介飲むとき、千手、琴をひきすます。中将、笑つて、「この楽は普通には『五常楽』とこそ申せども、重衡がためには『後生楽』とこそ観ずべけれ。されどもやがて『皇〓』の急をつがばや」とたはぶれ給ひて、琵琶を取り、転手を捻ぢて、皇〓の急をぞひかれける。狩野介が盃を、みな家の子、郎従、飲み下してげり。小夜もやうやうふけゆけば、世の中もうちしづまりて、いとど物あはれなりけるに、三位の中将、心をすましておはしけるをりふし、ともし火の消え
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たりけるを見給ひて、三位の中将、とぼし火くらうしては数行虞氏が涙夜ふけて四面楚歌の声といふ朗詠を、泣く泣くぞせられける。この詩の心は、昔漢の高祖と、楚の項羽と合戦すること七十余度、いくさごとに高祖は負け給ふ。されどもつひには項羽負けて落ち行くとき、虞氏といふ最愛の后に名残を惜しみ給ふをりふし、とぼし火さへ消えて、たがひに形をあひ見ることなくして、泣く泣く別れける、とぞ承る。三位の中将心をすまし給ひて、「や、御前。あまりにおもしろきに、何事にてもいま一度」とのたまひければ、千手心をすましつつ、一樹のかげにやどり一河の流れをくむもこれ先世の宿縁なりといふ白拍子を、返す返す、歌ひすましければ、三位の中将、よにもおもしろげにぞのたまひける。夜もすでに明けゆけば、千手はいとま申して帰りけり。そのあした、兵衛佐殿は、持仏堂に御経読誦してましましけるところに、千手参りたり。兵衛佐、千手を御覧じて、「頼朝は千手におもしろきなかだちをしたるものかな」とのたまへば、斎院の次官親能、彼方にもの書きて候ひしが、「なにごとにて候ふやらん」と申せば、「日ごろは平家の人々は、弓矢の勝負のほかは他事あらじとこそ思ひつるに、この三位の中将は琵琶の撥音、口ずさみの様、夜もすがら立ち聞きしたるに、これほど優なる人にておはしけるいとほしさよ」とぞのたまひける。親能、筆をさしおいて、「誰も、さだに承つて候ひしかば、立ち聞きつかま〔つ〕るべう候ふものを、いかに御諚候はぬやらん。平家は代々、文人、歌人たちにて候ふものを。
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一年平家の一門を花にたとへ候ひしとき、この人は『牡丹の花』にたとへ候ひしぞかし」と申しければ、兵衛佐殿、「まことに優なる人にてましましける」とて、後までもありがたくこそのたまひけれ。それよりしてこそ千手の前は、いとど思ひも深うはなりにけれ。されば、「中将、南都へわたされて、斬られぬる」と聞こえしかば、様を変へ、信濃の国善光寺に、行ひすまして、かの後世菩提をとぶらひ、わが身も往生の素懐をとげにけり。
第九十五句 横笛
さるほどに、小松の三位の中将維盛は、わが身は屋島にありながら、心は都へかよはれけり。故郷にのこしおき給ふ北の方、幼き人々のことを、明けても、暮れても、思はれければ、「あるにかひなきわが身かな」と、いとどもの憂くおぼえて、寿永三年三月十五日のあかつき、しのびつつ屋島の館をまぎれ出で給ふ。乳人の与三兵衛重景、石童丸といふ童、下郎には「舟もよく心得たる者なれば」とて、武里といふ舎人、是等(これら)三人ばかり召し具して、阿波の国、由岐の浦より海士小舟に乗り給ひ、鳴戸の沖を漕ぎ渡り、「ここは越前の三位の北の方、耐へざる思ひに身を投げし所なり」と思ひければ、念仏百返ばかり申しつつ、紀伊の路へおもむき給ひけり。和歌、吹上の浜、衣通姫の神とあらはれおはします玉津島の明神、日前権現
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の御前の沖を過ぎ、紀伊の国黒井の湊にこそ着き給へ。「これより浦づたひ、山づたひに都に行きて、恋しき者どもをいま一度見もし、見えばや」と思はれけれども、本三位の中将重衡の、生捕にせられて、京、鎌倉ひきしろはれて、恥をさらし給ふだにも心憂きに、この身さへ捕はれて、憂き名をながし、父のかばねに血をあやさんもさすがにて、千たび心はすすめども、心に心をからかひて、ひきかへ高野の御山へのぼり給ひけり。高野に年ごろ知られける聖あり。三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に「斎藤滝口時頼」といふ者なり。もとは小松殿の侍なりしが、十三のとき、本所へ参り、宮仕ひしたてまつる。建礼門院の雑仕に「横笛」といふ女を思ひて、最愛してかよひけり。かの女の由来を詳しくたづぬるに、もとは江口の長者が娘なり。故太政入道殿、福原下向のとき、長者が宿所へ入り給ふに、横笛十一歳と申すに、瓶子取りにぞ出でたりける。入道これを見給ふに、みめかたち優なりければ、中宮の雑仕に召さるる。かかるわりなき美人なれば、横笛十四、滝口十五と申す年より、浅からず思ひそめてぞかよひける。父茂頼これを聞き、「なんぢを世にあらん者の聟にもなして、よきありさまを見聞かんとこそ思ひしに、いつとなく出仕なども懈怠がちなるものかな」と、あながちにこれを制しけり。滝口申しけるは、「西王母と聞きし人、昔はありて、今はなし。東方朔が九千歳も、名をのみ聞きて、目には見ず。老少不定の
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世の中は、石火の光に異ならず。たとへば人の命、長しといへども、七八十をば過ぎず。そのうちに身のさかりなること、わづかに二十余年を限れり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をば片時も見ては何かせん。『思はしきものを見ん』とすれば、父の命を背くに似たり。『父の命を背かじ』とすれば、五百生まで深からん女の心をやぶるべし。とにかくに、父のため、女のため、これすなはち善知識のもとゐなり。憂き世を厭ひ、まことの道に入らんにはしかじ」とて、滝口十九にて菩提心をおこし、髻切りて、嵯峨の奥、「往生院」といふ所に、行ひすましてゐたりけるに、横笛、これをつたへ聞きて、「われをこそ捨てめ、様をさへ変へけんことの無慚さよ。たとひ世をこそ厭ふとも、なじかはかくと知らせざらん。人こそ心づよくとも、たづねて、いまは恨みん」と思ひつつ、人一人召し具して、ある夕かたに、内裏を出でて、嵯峨の奥へぞあこがれ行く。ころは如月十日あまりのことなれば、梅津の里の春風に、綴喜の里やにほふらん。大井川の月影も、霞にこもりておぼろなり。一方ならぬあはれさも、「誰ゆゑか」とこそ思ひけれ。「往生院」とは聞きたれども、さだかなる所を知らざりければ、ここにたたずみ、かしこにたたずみ、たづねかぬるぞ無慚なる。灯籠の光のほのかなるに目をかけて、はるばる分け入り、住み荒らしたる庵室にたち寄り、聞きければ、滝口とおぼしくて、内に念誦の声しけり。召し具したる女を入れて、「わらはこそ、これまで訪ねまゐりたれ」と柴の編戸をたたかせければ、滝口入道、
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胸うちさわぎ、障子のひまよりのぞきて見れば、寝ぐたれ髪のひまよりも、流るる涙ぞところ狭く、今宵も寝ねやらぬとおぼえて、面痩せたるありさま、たづねかねたる気色、まことにいたはしく見えければ、いかなる道心者も心弱くなりつべし。滝口、「いまは出で会ひ、見参せばや」と思ひしが、「かく、心かひなくしては、仏道なりや、ならざるや」と心に心を恥ぢしめて、いそぎ人を出だして、「まつたくこれにはさる人なし。門たがひにてぞ候ふらん」とて、心強くも滝口は、つひに会はでぞ返しける。横笛、「うらめしや。発心をさまたげたてまつらんとにはあらず。ともに閼伽の水をむすびあげて、ひとつ蓮の縁とならんとこそのぞみしに、夫の心は川の瀬の、刹那に変るならひかや。女の心は池の水の積りてものを思ふなるも、いまこそ思ひ知られけれ」。滝口入道、同宿の聖に向かひて申しけるは、「ここもあまりにしづかにて、念仏の障碍はなけれども、飽かで別れし女に、このすまひを見えて候へば、一度は心強くとも、またもしたふことあらば、心うごくこともや候ふべし。いとま申して」とて、嵯峨をば出で、高野へのぼり、清浄院に行ひすまして〔ゐたりけり。〕横笛も様を変へたるよし聞こえければ、滝口入道、高野より、ある便りに一首の歌をぞ送りける。
剃るまではうらみしかどもあづさ弓まことの道に入るぞうれしき W
横笛、返事に、
剃るとてもなにかうらみんあづさ弓ひきとどむべき心ならねば W
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その思ひの積りにや、横笛、奈良の法華寺にありけるが、ほどなく死してげり。滝口入道、このことをつたへ聞きて、いよいよ行ひすましてゐたりければ、父の不孝もゆるされたり。したしき者どもは、「高野の聖の御坊」とぞもてなしける。高野の人は、「梨の本の阿浄坊」と申す。由来を知りたる者は「滝口入道」とも申しけり。
第九十六句 高野の巻
さるほどに三位の中将維盛、高野へのぼり、ある庵室にたち寄り、滝口をたづね給ひければ、内より聖一人出でたり。すなはち滝口入道これなり。この聖は夢の心地して申しけるは、「このほどは屋島にわたらせ給ふとこそ承つて候ひつるに、なにとしてこれまでつたはり給ひて候ふやらん。さらにまぼろしとも、うつつともおぼえず」とて、涙をながす。中将、見給ふに、本所にありしときは、布衣に立烏帽子、衣文かいつくろひ、鬢をなでて、優なりし男の、出家ののちは、いまはじめて見給ふ。いまだ三十にだにたらぬ者の老僧すがたに痩せおとろへ、濃き墨染の衣に同じ袈裟、香のけぶりに染みかほり、さかしげに思ひ入りたる道心すがた、うらやましうや思はれけん。「漢の四晧が住みけん商山、晋の七賢がこもりし竹林のすまひもかくや」とおぼえてあはれなり。三位の中将、のたまひけるは、「人なみなみに都を出でて、西国へ落ち下りしかども、ただおほかたの恨めしさもさることにて、故郷にとどめ
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おきし幼き者どもがことをのみ、明けても暮れても思ひゐたれば、もの思ふ心のほかに著うや見えけん、大臣殿も二位殿も、『池の大納言の様に、この人も二心あらん』とて、うちとけ給はねば、いと心もとどまらず、屋島の館をまぎれ出でて、これまで迷ひ来れり。『これより山づたひに都へ行き、恋しき者どもを、見もし、見えばや』なんどと思へども、それも重衡がことの口惜しければ、はや思ひきりたるなり。同じくは『これにて髻を切り、火の中、水の底にも入らん』と思ふぞや。ただし『熊野へ参らん』と思ふ宿願あり」とのたまひもあへず、はらはらとぞ泣かれける。滝口入道、申しけるは、「夢まぼろしの世の中は、とてもかうても候ひなん。ただ長き世の闇こそ心憂く候へ」とて、やがて滝口入道先達にて、堂、塔、巡礼して、奥の院へぞ参り給ふ。大師の御廟を拝し給ふに、心も言葉もおよばれず。大塔と申すは、南天の鉄塔を表して、高さ十六丈の多宝なり。金堂と申すは、兜率の摩尼殿を表して、四十九院につくられたり。上には千体の阿弥陀如来、中尊は薬師の十二神、千手の二十八部衆、みなこれ大師の御作なり。そもそも延喜の帝の御時、御夢想の告あり。檜皮色の御衣を、かの御山へ送られけるに、勅使中納言資澄の卿、般若寺の僧正観賢あひ具して、奥の院へ参り給ひて、石室の御戸をひらき、御衣を着せたてまつらんとしけるところに、霧ふかくへだたりて、大師拝まれ給はず。そのとき僧正、悲涙をながして、「われ悲母の胎内を
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出で、師匠の室に入りしよりこのかた、禁戒を犯さず。さればなどか拝まれ給はざらん」と、五体を地に投げ、発露啼泣し給へば、漸々に霧はれて、山の端より月の出づるがごとくにして、大師拝まれ給ひけり。観賢随喜の涙をながし、御衣を召させたてまつる。御髪の長く生ひさせ給ひたりけるを、僧正剃りたてまつり給ひけり。石山の内供淳祐、そのときはいまだ童形にて供奉せられけるが、大師を見たてまつらず、嘆きしづみておはしけるところに、僧正、かの内供の手をとりて、大師の御膝のほどにおし当てられしかば、御身あたたかにして触らせ給ひけり。その手一期があひだ、香しかりけるとかや。「そのうつり香は石山の聖教にとどまりて、今にある」とぞ承る。大師、帝の御返事に、「われ、昔薩〓に会ひたてまつり、まのあたりことごとく印明をつたへ、無比の誓願をおこして、辺地異域に侍る。昼夜万民をあはれんで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を証じて、慈氏の下生を待つ」とぞ申させ給ひける。「かの摩訶迦葉の鶏足の洞にこもり、鷲頭の春の風を期し給ふらんもかくや」とぞおぼえたる。高野山と申すは、帝城を去つて二百里、郷里をはなれて無人声、晴嵐梢をならし、夕日の影のどかなり。八葉の峰、八つの谷、峨々としてそびえたり。渺々として限りもなし。峰の嵐はげしくして、振鈴のこゑにまがふ。花の色は林霧の底にほころび、鐘のこゑは尾
上の雲にひびきけり。瓦に松おひ、垣に苔むして、星霜
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ひさしくおぼえたり。説法衆会の庭もあり、坐禅入定の窓もあり、念仏三昧のうてなもあり。天竺より摩訶迦葉の渡されて、大師相伝し給ひし、七条の袈裟もあるとかや。御入定は承和二年三月二十一日、寅の刻のことなれば、過ぎにしかたも三百余歳、行くすゑもなほ五十六億七千万歳ののち、慈尊出世三会の暁を待たせ給ふらんひさしさよ。
第九十七句 維盛出家
「維盛が身は雪山の鳥の鳴くらん様に『今日よ、明日よ』と物を思ふことよ」とて涙にむせぶぞいとほしき。塩風に痩せくろみ給ひて、その人とは見えねども、なべての人にはまがふべくもなし。その夜は、滝口入道が庵室に帰りて、夜もすがら、昔、今のことをこそ語り給ひけれ。聖が行儀を見給へば、至極甚深の床のうへには、真理の玉をみがくらんと見え、後夜、晨朝の鐘のこゑは、生死のねぶりをさますらんとおぼえたり。世を遁るるべくんば、かくもあらまほしくぞ思はれける。夜もすでに明けければ、三位の中将、戒の師を請じたてまつらんと、東禅院の聖智覚上人を申し請けて、出家せんと出でたち給ひけるが、与三兵衛、石童丸を召して、「われこそ道せばく、のがれがたき身なれば、今はかくなるとも、なんぢらは都のかたへのぼり、いかならん人にも宮仕ひ、身をたすけ、妻子をはごくみ、また維盛
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が後の世をもとぶらひなんどもせよかし」とのたまへば、重景も石童丸も、はらはらと泣きて、しばしもものも申さず。ややあつて、与三兵衛、涙をおし拭うて申しけるは、「親にて候ひし与三左衛門景康は、平治の合戦のとき、小松殿の御供に候ひけるが、二条堀河の辺にて、悪源太に御馬を射させ、材木のうへにはね落され給ふ。義朝の乳人、鎌田兵衛政清よろこうで懸り候ひけるに、景康なかにへだたり、鎌田と組みしに、悪源太落ちあひて、景康討たれ候ひぬ。そのまぎれに、重盛、御乗替に召され、二条を東に馳せのび給ふ。重景、そのときは二歳とかやにて候ひし。七歳にして母におくれ、そののちはあはれむべき親しき者一人も候はざりしに、小松殿、『あれは、わが命にかはりたる者の子なれば』とて、ことに不便にましまして、九つの年、君の御元服候ひしに、『五代が男になるなれば、松王もうらやましからん』とて、同じく髻とりあげられまゐらせて、『盛の字は家の字なれば、五代に付くる。重の字を松王に賜ぶ』とて、『重景』とは名のらせましましけり。又童名を『松王』と申すことも、生まれて五十日と申すに、父が抱いて参り候ひければ、『この家を小松と言へば、なんぢが子をば祝ひて』とて、『松王』と賜はりけり。御元服ののちは、とりわき君の御方に候ひて、今年すでに十九年になるとこそおぼえて候へ。上下もなくあそびたはぶれまゐらせて、一日片時もたち離れたてまつらず。親のよくして死にけるも、わが身の冥加とこそ存じ候へ。されば重盛御臨終
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のとき、この世の中をばみなおぼしめし捨て、一言も仰せの候はざつしかども、重景を御前近う召して、『なんぢが父は、重盛が命にかはりたる者ぞかし。さればなんぢは、重盛を父の形見と思ひ、重盛は、なんぢを景康が形見とこそ思ひてすごしつれ。今度の除目に靫負の尉になして、おのれが父景康を呼びし様に召し使はばやと思ひしに、かくなる身こそ口惜しけれ。少将殿の御方に候ひて、あひかまへてあひかまへて心にちがはず宮仕ひ申し候へ』とこそ、最後の仰せまでも承り候ひしが、君も日ごろは『御命にもかはりまゐらすべき者』とふかくおぼしめしつるに、いまさら、『見捨てまゐらせよ』と仰せ候ふ御心のうちこそ恥づかしう候へ。そのうへ、『世にあらん人をたのめ』と仰せ候。当時は源氏の郎等どもこそ候ふなれ。君の、神にも、仏にもならせ給ひてのち、楽しみ、栄え、世にあるとも、千歳の齢を延ぶべきか。たとひ万年をたもつとも、つひに終りのなかるべきか。西王母が三千年昔語りに今はなし。東方朔が九千歳、名のみ残りてすがたなし。これぞ善知識のもとゐにて候」とて、手づから髻を切りて、滝口入道に剃らせ、やがて戒をぞたもちける。石童丸も滝口入道に髪剃らせ、同じく戒をぞたもちける。これも八歳のときより付きたてまつり、不便にし給ひしかば、重景にも劣らず思ひたてまつる。是等(これら)がか様に先だつありさまを見給ひて、中将いよいよ心ぼそうおぼしめして、御涙いとどせきあへ給はず。さてもあるべきことならねば、流転三界中 恩愛不能断
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棄恩入無為 真実報恩者と三返となへて、剃りくだし給ひけるにも、「故里にとどめおきし北の方、幼き人々に、いま一度かはらぬすがたを見えもし、見もしてかくならば、思ふことあらじ」と思はれけるぞ罪ふかき。三位の中将も、与三兵衛も、同年にて、今年は二十七とかや。石童丸は十八歳。不定のさかひはまことなれども、いまだ行くすゑははるかなり。そののち舎人武里を召して、「なんぢは、『われ終らんを見つるものならば、やがて都へのぼすべし』と思ひつれども、つひにかくれあるまじきことなれば、『しばらくは知らせじ』と思ふなり。そのゆゑは、都に行きて、『この世に亡き者』と申すならば、さだめて様をも変へ、かたちをもやつさんずるも不便なり。幼き者どもが嘆かんことも無慚なり。『迎へとりなどせん』とこしらへおきし言の葉も、みないつはりとなりぬべし。屋島にのこりゐる侍どもが、おぼつかなく思ふらんも心憂ければ、『ただ屋島へ渡さん』と思ふぞとよ。新三位の中将に、ありつるありさまを申すべし。『御覧じし様に、おほかた世の中ももの憂きさまにまかりなりぬ。頼みすくなきことも数そひて見え候ひしかば、おのおのにも知らせまゐらせず、うかれ出でてかくなり候ひぬ。西国にては左の中将失せ給ひぬ。一の谷にて備中守討たれ、維盛さへかくなり候へば、いかにおのおの頼りなうおぼしめされ候はんずらん。これのみ心苦しう候。そもそも、唐皮といふ鎧、小烏といふ太刀は、平将軍貞盛より当家嫡嫡に相伝して、維盛までは九代にあたるなり。その鎧と太刀は
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貞能にて平家の世にも立ち直らば、六代に賜べ』と申すべし」とぞのたまひける。滝口入道を善知識として召し具せられ、山伏、修行者の様にて、高野をたち、まづ粉河の観音に参り給ひ、一夜通夜して、「南無大慈大悲、願はくは、維盛が宿願成就」と祈りつつ、紀伊の国山東へこそ出でられけれ。山東の王子をはじめたてまつり、藤白の王子以下、王子、王子を伏し拝み、坂のぼりて、和歌、吹上、玉津島をかへり見、またいつ参るべしともおぼえねば、心に涙ぞすすみける。千里の浜地を指すほどに、岩代の王子の辺にて、狩装束したる武士七八騎がほどに逢うたりけり。そのとき「すでにから〔め〕捕られん」と思ひて、おのおの腰の刀に手をかけ、自害せんと思ひ給ふところに、是等(これら)は見知りまゐらせたりけるにや、あやしむべき気色もなくして、みな馬より下り、ふかくかしこまつてぞ通しける。「こはいかに。誰なるらん。見知りたる者にこそ」とおぼしめされければ、いとど足ばやにぞ通られける。敵にてはなかりけり。平家譜代の家人に、当国の住人、湯浅権守宗重が子に、七郎兵衛宗光と申す者にてぞ候ひける。七郎兵衛が郎等ども、「いかなる修行者たちにて御渡り候ふやらん」と問ひければ、宗光、うち涙ぐみて、「あな、事もかたじけなや。これこそ太政入道殿の御孫、小松の大臣の御嫡子、三位の中将殿よ。この人こそ、日本国のあるじ小松殿の御時は、父湯浅権守、
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侍の別当つかまつりしかば、諸大名に仰がれき。この君、世にまさば、われまたさこそあらんずるに、かくなりはて給ふいとほしさよ。『このほどは屋島におはします』とこそ承りつるに、これまではなにとしてつたはり給ひけるやらん。はや御様変へさせ給ひけり。見参に入りたくは思へども、はばからせましますとおぼえければ、思ひながらうち過ぎぬ。与三兵衛、石童丸も同じく様変へ、御供したるぞや。熊野路の方へおぼしめすとおぼえたり。夢の様なることどもかな」とて、涙にむせびければ、郎等ども、直垂の袖をぞ濡らしける。岩田川にも着きしかば、「この川を一たび渡る人、悪業煩悩、無始の罪障も消するなるものを」と、たのもしくぞ渡り給ふ。向かひの岸にあがり、たちかへり水の面をまばらへて、さめざめと泣き給ふ。滝口、「とにかくに尽きぬ御涙にて候。さりながら、ただ今は何事をおぼしめし出で候ふや」と申しければ、三位入道、「なんぢは知らずや。去んぬる治承三年五月のころ、大臣熊野参詣のとき、維盛をはじめとして、新三位の中将、越前の侍従、左中将、四位の少将、兄弟四人下向の道におよぶ。そのころ浅葱染のめづらしければ、浄衣の下に浅葱の帷子を着、この川にて水をたはぶれしに、われらが着たりし浄衣、みな色のすがたにて見えしを、貞能がとがめ申す様、『公達の御浄衣、いまいましく見えさせ給ふ。替へたてまつらん』と申せしを、大臣、御覧じて、『あるべからず。改むべからず』とて、これよりまた、よろこびの奉幣を奉る。同じく五月二十八日より、
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悪瘡わづらはせ給ひて、同じき八月一日かくれさせ給ひぬ。ただ今の様におぼえて、不覚の涙おさへがたし」とのたまへば、滝口をはじめて、御ことわりとぞ感じける。
第九十八句 維盛入水
維盛、まづ証誠殿の御前に参り、法施参らせて、御山の様を拝し給ふに、心も言葉もおよばれず。大悲擁護の霞は、熊野山にそびえき。霊験無双の神明は音無川に跡を垂れ、かの一乗修行の峰には、感応の月くまもなし。六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。いづれもいづれもあはれをもよほさずといふことなし。夜もすがら祈念申されけるなかにも、父大臣、治承のころ、この御前にて「命を召し、後世をたすけさせましませ」と、申させ給ひけんこと思ひ出でてあはれなり。「本地弥陀如来にておはしければ、摂取不捨の本願あやまたず、西方浄土へ迎へ給へ」とかきくどき申されける。なかにも「故郷にとどめおきし妻子安穏」と祈られけるこそかなしけれ。「憂き世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほ尽きず」とおぼえて、いよいよあはれはまさりけり。それより船に乗り、新宮へ参り、神倉を拝み給ふに、「巌松高くそびえて、嵐妄想の夢をやぶり、流水清く流れて、波煩悩の垢をそそぐらん」とおぼえたり。飛鳥の社を伏し拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御山へ参詣す。三重にみなぎり落つる
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滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像あらはれ、「補陀落山」とも申しつべし。霞の底には法華読誦の声聞こえ、「霊鷲山」とも言ひつべし。寛和の夏のころ、花山の法皇、十善の位をのがれさせ給ひて、九品の浄刹をおこなはれし御庵室の旧跡も、昔をしのぶばかりにて、老木の桜のみぞのこりける。那智籠りのうちに、三位の中将を都にてよく見知りたる僧のありけるが、「いとほしや、これなりつる修行者をいかなる人やらんと思ひたれば、小松の三位の中将殿にておはしけるぞや。あの殿のことぞかし。安元の御賀に、そのころ十八か九かにて、桜をかざいて青海波を舞はれしに、当家にも、他家にも、みめよき殿上人にえらばれて垣代にたち給へる、橋もとには関白以下の大臣、公卿、おほく着き給ひしなかにも、父の大将にて着せられたりしかば、人また並ぶべしとも見えざつしものを。嵐ににほふ花のすがた、風にひるがへる舞の袖、天を照らし地を輝かすほどなりき。『あはや。大臣の大将只今待ちかけ給ふ人よ』とて、われも、人も、申せしに、移れば変る世のならひこそかなしけれ」とて、涙にむせびければ、かたへの僧どもも、みな袖をぞしぼりける。三つの御山ことゆゑなく遂げ給へば、浜の宮の御前より、一葉の船をさし出だして、万里の波にぞ浮かび給ふ。沖の小島に松のありける所にあがりて、大きなる松の側をけづりて、泣く泣く名をぞ書かれける。祖父六波羅の入道、前の太政大臣平の朝臣清盛公、法名
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浄海親父小松の内大臣重盛公、法名浄蓮その子三位の中将維盛、法名浄円。二十七にて浜の宮の御前にて入水をはんと書きつけて、また船に乗り、海にぞ浮かび給ひける。歌に、
生まれてはつひに死にてふことのみぞさだめなき世のさだめあるかな W
ころは三月二十八日のことなりければ、春もすでに暮れなんとす。海路はるかに霞みわたりて、あはれをもよほすたぐひなり。沖の釣舟、浮きぬ、沈みぬ、波の底に入る様に見ゆるもあり。「みな、わが身のうへ」とや思はれけん。帰雁、雲居におとづれ行くを聞き給ふにも、故郷にことづてせまほしく、蘇武が胡国のうらみまで、思ひのこせるかたぞなき。三位の中将、西に向かひ、手をあはせ、高声に念仏をとなへ給ふが、念仏をとどめ、滝口入道にのたまひけるは、「あはれ、人の身に持つまじきものは妻子にてありけるぞ。ただ今もなほ思ひ出づるぞとよ。思ふこと心にとどむれば、罪深からんなれば、懺悔するなり」と、のたまひもあへず、はらはらとぞ泣かれける。滝口入道、申しけるは、「さん候。たつときも、いやしきも、恩愛の道は力におよばず。なかにも夫婦は、一夜の契りし給ふも、みな五百生の宿縁とこそ申し候へ。生者必滅、会者定離は憂き世のならひにて候へば、たとひ遅速こそ候ふとも、後れ、先だつ御別れは、なくてしもや候ふべき。しかれば第六天の魔王は、欲界をわがものと領じて、このうちの衆生の生死を離るることを惜しみ、もろもろの方便をめぐらし妨げ
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んとするを、三世の諸仏は、一切衆生を子のごとくおぼしめして、極楽浄土不退の地にすすめ入れんとし給ふに、妻子といふものが、生死のきづなとなるによつて、仏おほきにいましめ給ふ、これなり。源氏の先祖、伊予入道頼義は、貞任、宗任を滅ぼせしとき、十二年のあひだ人の首を斬ること一万六千人、そのほか山野のけだもの、江河のうろくづ、その命をたつこと幾千万といふことを知らず。されども、一度菩提心をおこすによつて、つひに往生することを得たりき。御先祖平将軍は、将門を滅ぼし、八か国を討ちしたがへ給ひしよりこのかた、代々朝家の御かためにて、九代にあたり給へば、君こそ日本国の将軍にてわたらせ給ふべけれども、御運尽きさせ給ひぬれば、力およばず。されども出家の功徳は莫大なれば、前世の罪業も滅し給ひぬらん。『百千歳、百羅漢を供養するといふとも、一日出家の功徳にはおよばじ』とこそ申し候へ。『たとひ、人ありて、七宝の塔婆を建てて三十三天にいたるといふとも、一日出家の功徳にはおよばじ』とこそ申し候へ。『一子出家すれば九族天に生ず』とこそ申しぬれ。罪深き頼義さへ、心たけきによつて往生の素懐を遂ぐる。いはんや、させる罪業ましまさず。なじかは、君、浄土へ向かはせ給はざらん。弥陀如来は『十悪五逆をも導かん』と悲願まします。かの悲願の力に乗ぜんには、うたがひやは候ふべき。二十五の菩薩は伎楽歌詠じて、法性の御戸をひらき、ただ今むかひ給ふべし。今こそ蒼海の底に
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沈みんとおぼしめし候ふとも、つひには紫雲の上にこそのぼらせ給はんずれ。成仏得道して、悟りをひらき給ひて、娑婆世界の故郷へかへりて、去りがたかりし人をも引導し、恋しき人をも迎へ給はんこと、程を経るべからず。ゆめゆめ、余念わたらせ給ふな」とて、しきりに鉦鼓打ち鳴らしつつ、念仏をすすめたてまつる。三位中将、たちまちに妄念をひるがへし、念仏数百返となへつつ、つひに海にぞ入り給ふ。与三兵衛、石童丸、二人の入道、共につづいて入りにけり。舎人武里もこれを見て、かなしみのあまりに耐へず、つづいて海に入らんとす。滝口入道これを見て、「いかに、なんぢは御遺言をばちがへたてまつるぞ。下臈こそ思へば口惜しけれ」とて、泣く泣くとりとどめければ、船底にたふれ伏し、泣きさけぶことなのめならず。ものによくよくたとふれば、「昔、悉達太子、檀特山に入らせ給ひしとき、車匿舎人、〓陟駒を賜はりて王宮へ帰りけんかなしさも、かくや」とおぼえてあはれなり。聖もあまりのかなしさに、墨染の袖をぞしぼりける。「もしや、浮きもあがり給ふ」と見けれども、日も入りあひになるまで、つひに浮きあがり給はず。海上も次第に暗うなれば、名残は惜しけれども、さてしもあるべきならねば、むなしき船を泣く泣くなぎさに漕ぎかへす。棹のしづく、落つる涙、いづれもわきて見えざりけり。武里、屋島へ参りて、新三位の中将以下の人々に、このよしを申せば、「大臣に後れまゐらせてののちは、高き山、深き海ともたのみたてまつりてこそありつるに、さ様になり給ひ
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けんことのかなしさよ」とて、泣きかなしみ給ひけり。大臣殿も、二位殿も、これを聞き給ひて、「『池の大納言の様に、二心ありて、都のかたへのぼり給ふか』と思ひたれば、さはなくてこそ」とて、涙をながしあはれけり。
第九十九句 池の大納言関東下り
同じく四月一日、鎌倉前の右兵衛佐頼朝、正四位下に叙す。もとは従五位下なりしが、五階を越え給ふこそめでたけれ。同じく三日、崇徳院を神にあがめたてまつる。むかし保元のとき合戦ありし、大炊の御門の末にこそ社を造り、宮遷りあり。賀茂の祭りの以前なれども、法皇の御ぱからひにて、内には知られず。そのころ池の大納言頼盛、関東より、「下られべき」よし申されければ、大納言関東へこそ下られけれ。その侍に弥平兵衛宗清といふ者あり。しきりに暇申して、とどまるあひだ、大納言、「なにとて、なんぢは、はるかの旅におもむくに見送らじとするぞ」とのたまへば、弥平兵衛申しけるは、「さん候。戦場へだにおもむき給はば、まつ先駆くべく候ふが、参らずとも苦しうも候ふまじ。君こそかうてわたらせ給へども、西国におはします公達の御事存知候へば、あまりにいとほしく思ひまゐらせ候。兵衛佐殿を宗清が預かり申して候ひしとき、随分つねはなさけありて、芳志をしたてまつりしこと、よも御忘れ候はじ。故池殿の、死罪を申しなだめさせ給ひて、
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伊豆の国へながされ給ひしとき、仰せにて、近江の篠原までうち送りたてまつりしこと、つねはのたまひ出だされ候ふなる。下り候はば、さだめて饗応し、引出物せられ候はんずらん。さりながらこの世はいくばくならず。西国にわたらせ給ふ公達、また侍どもが返り承らんこと、恥づかしうおぼえ候」と申せば、大納言、「何とて、さらば都にとどまりしとき、さは申さざるぞ」とのたまへば、「君のかうてわたらせ給ふを『悪しし』と申すにはあらず。兵衛佐もかひなき命生き給ひてこそ、かかる世にも逢はれ候へ」と、しきりに暇申してとどまるあひだ、大納言、力および給はで、四月二十日関東へこそ下られけれ。兵衛佐、大納言に対面し給ひて、「何とて宗清は来たり候はぬやらん」とのたまへば、「宗清は、今度はいたはること候ひて、下り候はず」とのたまへば、兵衛佐殿、よにも本意なげにて、「むかし彼がもとに預けられ候ひしとき、なさけある芳心の候ひしこと、いつ忘れつともおぼえず。『さだめて御供に下り候はんずらん』と恋しく心待ち候ひしに、あはれ、この者は意趣の候ふにこそ」とのたまひけり。「所知賜ばん」とて、下文どもあまたなしおかれ、大名、小名、「馬ども引かん」とて用意したりけれども、下らざりければ、人々、「賢人だて」とぞ思はれける。大納言、「もと知行し給ふ荘園、私領、一所もあひ違ひあるまじき」よし申されけるうへに、所領どもあまた賜はられ、六月六日、都へ帰り給ふ。大名、小名、「われ劣らじ」と面々にもてなしたてまつる。鞍置馬だにも五百匹におよべり。命生きて上り
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給へるのみならず、ゆゆしかりける事どもなり。さるほどに、大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の北の方は、風のたよりのことづても、絶えて久しくなりにけり。「月に一度はかならずおとづれしものを、今は火の中へも入り、水の底にも沈みて、この世に亡き人やらん」と思へる心ぞひまもなき。ある女房、大覚寺に来たりて申しけるは、「三位の中将殿こそ、当時は屋島にもゐさせ給ひさぶらはずなれ」と申せば、「さればこそ、世はあやしかりつるものを」とて、いそぎ人を下されたれども、やがてもたち帰らず。夏もたけ、六月の末にぞ帰りまゐりたる。北の方、まづ、「いかに」と問ひ給へば、「さ候へばこそ、過ぎにし三月十五日の暁、しのびつつ屋島の館を御出で候ひて、高野にて御出家あり。そののち熊野へ参らせ給ひて、三つの御山に参詣あつて、後世のことよくよく申させ給ひてのち、浜の宮の御前にて、御身を投げさせ給ひ候ふなり。武里は、『わがはてを見つるものならば、都へ上れと思へども、ただ屋島へ参れと思ふぞ。そのゆゑは、都にてこの世に亡き者と申すならば、やがて御様をも変へさせ給はんも御いたはしければ、屋島に参れと御遺言にて候ひけり』と申して、当時は屋島に候」と申しければ、聞きもあへ給はず、ひきかづきてぞ伏し給ふ。若君も、姫君も伏し倒れてぞ泣き給ふ。若君の乳母の女房、北の方に申しけるは、「ささぶらへども、本三位の中将の様に生捕られて、京、鎌倉、ひきしろはれて、憂き名を流させ給はんより、高野にて御出家あつて、熊野へ参らせ給ひて、後世のこと祈請申させ、御身を投げさせましますこと、これは御嘆きの中
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のよろこびなり。今はいかにおぼしめすとも、かなはせ給ふまじ。ただ御様を変へさせ給ひて、彼の後世をとぶらひまゐらせさせ給はめ」と申しければ、北の方、「げにも」とて、泣く泣く様を変へて、彼の後世をぞとぶらひ給ひける。兵衛佐これを伝へ聞いて、「頼朝を、故池の尼公申しなだめられし使をば、小松殿こそ、『わが身ひとつの大事』と思ひて、嘆き給ひしか。その奉公を思へば、子孫までもおろそかに思はず。維盛もへだてなし。頼朝を頼みておはしたりせば、命ばかりは助けんずるものを」とぞのたまひける。そのころ平家追罰のために、新手二万余騎、都へさしのぼせらる。そのうへ「鎮西より菊池、原田、松浦党、五百余艘の船に乗りて、屋島へ寄する」とも聞こえたり。これを聞き、かれを聞くにつけても、心を迷はし、魂を消すよりほかのことぞなき。さるほどに七月二十五日にもなりぬ。去年の今日は都を出でしぞかし。あさましう、あわただしかりし事ども、思ひ出だし、語り出だし、泣きぬ、笑ひぬせられけり。同じく二十八日、都には新帝御即位。大極殿にてあるべかりしを、後三条の院の延久の佳例にまかすべしとて、太政官の庁にておこなはれ、「神璽、宝剣、内侍所なくして御即位の例、神武天皇より八十二代、これはじめ」とぞ承る。同じく八月六日、蒲の冠者範頼、三河守になる。九郎義経、左衛門尉になる。すなはち宣旨をかうむつて、「九郎判官」とぞ申しける。そのころ改元あつて、「元暦」と号す。やうやう秋もなかばになりぬれば、月すさまじく、荻の上風身にしみ、
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萩の下露夜な夜なしげし。稲葉うちそよぎ、うらむる虫のこゑ、木の葉かつ散り、さらぬだに、ふけゆく秋の空はかなしきに、平家の人々の心のうち、おしはかられてあはれなり。昔は九重の内にして、春の花をもてあそび、今は屋島の磯にて、秋の月をかなしめり。「都に、今宵いかなるらん」と思ひやる心をすまし、涙をながしてぞつらねける。行盛、
君すめばここも雲居の月なればなほ恋しきは都なりけり W
第百句 藤戸
同じく九月十二日、三河守範頼、平家追罰のために山陽道へ発向す。あひしたがふ人々には、足利の蔵人義兼、北条の四郎時政、侍大将には、土肥の次郎実平、その子弥太郎遠平、和田の小太郎義盛、佐原[* 「さうら」と有るのを他本により訂正]の十郎義連、佐々木三郎盛綱、比企の藤四郎能員、大野の藤四郎遠景、一法房性賢、土佐房昌春[* 「しやうそん」と有るのを他本により訂正]を先として、都合その勢三万余騎、都をたつて播磨の国へ馳せくだり、室山に陣をとる。さるほどに、「〔平家の方の大将軍には、〕小松の〔新〕三位の中将資盛、同じき少将有盛、丹後の侍従〔忠房〕、侍大将には、飛騨の三郎左衛門景経、越中の次郎兵衛盛嗣、上総の五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、五百余艘の船に乗り、備前の国児島に着く」と聞こえしかば、源氏三万余騎、
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播磨の室山をたつて、備前の藤戸へぞ寄せたりける。源平両方、海のあはひ五町あまりをへだてたり。船なくしてはたやすく渡るべき様もなし。船はあれども、平家方に点じ置きたれば、「源氏方に船なし」と見て、平家方よりはやりをの者ども、小船に乗りておし浮かべ、扇をあげて、「源氏、ここを渡せ」とぞまねきける。されども、船なければ渡るにおよばず。むなしく日数をおくるほどに、同じき二十三夜の夜に入りて、佐々木の三郎盛綱、この浦の遠見するよしにて、浦人のおとなしき者を〔一人〕かたらひて、「や、殿。『ここを渡さん』と思ふはいかに。馬にて渡すべき所はなきか」と問へば、「案内知らせ給はでは、悪しう候ひなん」と申す。そのとき佐々木の三郎、小袖と刀を取らせて、「知らぬことはよもあらじ。教へよ」と言ひければ、「たとへば、川の瀬の様なる所こそ候へ。この瀬が不定にして、月がしらには東に候。月尻には西に候。馬の脚のおよばぬ所は、三段にはよも過ぎじ」と申す。「うれしきことを聞きつるものかな」と思ひて、家の子、郎等にも知らせず、人ひとりも具せず、裸になりて、この男を先にたて、渡りてみれば、げにも、いたう深うはなかりけり。腰、膝、脇にたつ所もあり、鬢のひたる所もあり。先は次第に浅くなりければ、「敵陣矢先をそろへて待つところに、裸にては、かなはせ給はじ。帰らせ給へ」と申せば、佐々木の三郎それより帰りぬ。行き別れけるが、佐々木の三郎、「きやつ、また人に案内もや教へんずらん」と思へば、「や、殿、言ふべきことあり」とて呼びかへし、もの言ふ様にて取つておさへ、首かき切つ
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て、捨ててげり。同じき二十四日辰の刻ばかりに、平家方より扇をあげ、「源氏ここを寄せ」とまねきたるに、佐々木の三郎、これを見て、滋目結の直垂に、かし黒摺りの鎧着て、白葦毛なる馬に乗り、家の子、郎等七騎、馬の鼻を並べてうち入れてぞ渡しける。大将軍三河守、これを見給ひて、「あの佐々木は、物について狂ふか。あれ制せよ。とどめよ」とのたまへば、土肥の次郎、馬にうち乗りて、「や、殿。佐々木殿。大将の御ゆるしもなきに。とどまれ」と言ひけれども、耳にも聞き入れず、ただ渡しに渡すあひだ、制しかねて、土肥の次郎もつづいて渡す。鞍爪に立つ所もあり、鞍爪越ゆる所もあり。深き所は泳がせて、浅き所にうちあぐる。三河守これを見て、「こはいかに。浅かりけるぞ。渡せ」とて、三万余騎うち入れてぞ渡しける。平家これを見て、「あはや。源氏の勢渡すは」とて、われ先に船に乗り、おし浮かべて、矢先をそろへて散々に射る。源氏は兜の錣をかたぶけて、平家の船に乗りうつり、乗りうつり、火の出づるほどにぞ戦ひける。源氏の兵に、和見の八郎行重と名のつて、平家の兵、讃岐の国の住人加部の源次〔光経〕とひつ組んで、上になり、下になり、ころびあふところに、加部の源次が郎等出で来り、和見の八郎を三刀さして首をとる。和見の八郎が従兄弟に小林の三郎重高と名のつて、加部と〔ひつ〕組み、やがて海へぞ入りにける。小林が郎等に黒田の源太といふ者あり。主を失うて、あなたこなた見まはすところに、水の泡だつ所あり。熊手を振り
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たてければ、物、むずと取りついたり。引きあげて見ければ敵なり。主は敵が腰にいだきつきてぞあがりたる。主を船にひき乗せて、息をつがせ、敵をばやがて磯に押しつけて首をかく。辰の刻に矢合せして、一日戦ひ暮らし、夜に入りて、平家「かなはじ」とや思ひけん、「われ先に」と船に乗り、おし浮かべ、四国の地に渡さんとす。源氏つづいて攻めけれども、船なければ力およばず、児島の地にうちあげて、馬の息をぞやすめける。昔より〔馬にて〕川を渡す戦はあれども、〔馬にて〕海を渡すことはこれがはじめとぞ承る。鎌倉殿、備前の児島を佐々木の三郎にぞ賜はりける。御教書には、「天竺、震旦は知らず、わが朝に、昔より〔馬にて〕川を渡す例はあれども、海を渡すことなし。希代のためしなり」とあそばしてぞ賜はりける。同じく二十五日、都には九郎判官、五位になる。「大夫の判官」とぞ申しける。さるほどに十月にもなりぬ。「大嘗会おこなはるべし」とぞ聞こえける。屋島には浦ふく風もはげしく、磯うつ波も高ければ、兵も攻め来らず、商人の歩行もまれなり。都のおとづれも聞かまほしく、いつしか空かきくもり、霰うち散る。平家の人々は、これにつけても、いとど消え入る心地ぞせられける。都には「大嘗会おこなはるべし」とて、御禊の行幸あり。節下には徳大寺の内大臣実定公、勤ぜらる。去々年、先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣つとめ給ひて、節下の幄屋につきて、前には幢の旗を立てておき給ひたりし気色、ゆゆしかりしことなり。三位の中将以下、御縄に候は
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れしに、「また、人並ぶべし」とも見えざつしものを。今日は九郎判官、先陣に供奉す。木曾なんどには似ず、ことのほか京慣れたりしかども、平家には似も似ず劣りたり。治承、養和よりこのかた、人民、百姓等、あるいは源氏に滅ぼされ、あるいは平家に悩まされ、家園を捨てて山林にまじはりしかば、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにおよばず。されば、いかがしてか様の大礼をおこなはるべきなれども、〔さてしも〕あるべきことならねば、形のごとくおこなはる。源氏、やがてつづいて攻めば、平家はその年みな滅ぶべかりしに、大将軍、室山、高砂辺にやすらうて、遊君、遊女ども呼び集め、遊びたはぶれのみにして、月日をおくり給ひけり。大名、小名おほかりしかども、大将の[* 「に」と有るのを他本により訂正]下知にしたがふことなれば、力におよばず。ただ国のつひえ、民のわづらひのみありて、今年も暮れなんとす。元暦も二年になりにけり。

平家物語 百二十句本(京都本)巻第十一

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平家巻第十一  目録
第百一句 屋島
渡辺・福島船ぞろへ
逆櫓の論
勝浦の陣
嗣信最後
第百二句 扇の的
与市二の矢の功名
水尾谷のいくさ
弓流し
牟礼・高松の陣
第百三句 讒言梶原
伊勢の三郎義盛教能を生捕る事
田辺の湛増源氏に参る事
住吉鏑の奏聞の事
蒲の冠者と九郎判官と一つになる事
第百四句 壇の浦
遠矢の沙汰
源氏の船の中に白旗きたる事
阿波の民部心がはり
晴延陰陽師ことわざの事
第百五句 早鞆
先帝・二位殿御最後
大臣殿生捕らるる事
飛騨の三郎左衛門の事
能登殿最後
第百六句 平家一門大路渡し
生捕の衆都入り
牛飼三郎丸の事
頼朝二位に叙せらるる事
平大納言の婿義経の事
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第百七句 剣の巻上
天地開闢
素戔鳴大蛇を斬らるる事
草薙の起り
熱田の起り
第百八句 剣の巻下
渡辺の源四郎綱鬼切る事
安倍の貞任・宗任成敗の事
友切の起り
曾我夜討の事
第百九句 鏡の沙汰
天の岩戸の事
紀伊の国日前像の起り
内侍所炎上のがれ給ふ事
神璽の沙汰
第百十句 副将
大臣殿副将見参の事
大臣殿関東下向
副将斬らるる事
乳母の女房身投ぐる事
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平家 巻第十一
第百一句 屋島
元暦二年正月十日、九郎大夫の判官、院の御所へ参り、大蔵卿泰経の朝臣をもつて申されけるは、「平家は宿報つきて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落人となれり。しかるをこの二三箇年、攻め落さずして、おほくの国国をふさげつるこそ口惜しう候へ。今度義経においては、鬼界、高麗、天竺、震旦までも、平家のあらんかぎりは攻むべき」よしをぞ申されける。院の御所を出で、国々の兵に向かつて、「鎌倉殿の御代官として、勅宣をうけたまはつて、平家追討にまかり向かふ。陸は駒の足の通はんほど、海は櫓X擢のたたんかぎりは攻むべきなり。命を惜しみ、妻子をかなしまん人は、これより鎌倉へ下られべし」とぞのたまひける。屋島には、ひまゆく駒の足早め、正月もたち、二月にもなりぬ。春の草枯れては、秋の風におどろき、秋の風やんでは、春の草になれり。送り迎へて三年にもなりぬ。しかるを、「東国の兵ども攻め来たる」と聞こえしかば、男女の公達さし集まつて泣くよりほかのことぞなき。同じく二月十三日、都には二十二社の官幣あり。これは「三種の神器、事ゆゑなく都へ返し入れ給へ」との御祈念のためとぞおぼえたる。 同じく十四日、三河守(みかはのかみ)
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範頼(のりより)、平家(へいけ)追討(ついたう)の為に七百余艘の船に乗つて、摂津の国神崎より山陽道を発向す。九郎大夫判官、二百余艘の船に乗りて、同国渡辺より南海道へおもむく。同じく十六日卯の刻、渡辺、神崎にて日ごろそろへたる船のともづな今日ぞ解く。風枯木を折つて吹くあひだ、波蓬莱のごとく吹きたて、船を出だすにおよばず。あまつさへ大船どもたたき破られて、修理のためにその日はとどまる。渡辺に、大名、小名寄りあひて、「さて、船いくさの様は何とあるべき」と評定あり。梶原申しけるは、「船に逆櫓をたて候はばや」と申せば、判官、「逆櫓とはいかなるものにて候ふやらん」とのたまへば、梶原、「さん候。馬は、駆けんと思へば駆け、引かんと思へば弓手へも、馬手へも、まはしやすきものにて候。船は、きつと押しなほすことたやすからぬものにて候へば、X櫨にも、X舶にも、梶をたてて、左右に櫓をたて並べて、X櫨へも、X舶へも、押させばや」とぞ申しける。判官殿、「軍のならひは、一引きも引かじと約束したるだにも、あはひあしければ敵にうしろを見するならひあり。かねてより逃げ支度をしては、なじかはよかるべき。人の船には逆櫓もたてよ、かへさま櫓もたてよ。義経が船にはたてべからず」とぞのたまひける。梶原、「あまりに大将軍の、駆くべきところ、引くべきところを知らせ給はぬは、『猪のしし武者』と申して、わろきことにて候ふものを」と申せば、「よしよし義経は、猪のしし、鹿のししは知らず。敵をばただひた攻めに攻めて勝ちたぞ心地好うはおぼゆる」とのたまへば、梶原、「天性、この殿につきて軍
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せじ」とぞつぶやぎける。夜に入りて、判官、船ども少々あらため、「一酒ものせよや。若党」とて、いとなむ体にて、物具ども運ばせ、馬ども乗せて、「船出だせ」とのたまへば、梶取ども、「風はしづまりて候へども、沖はなほ強うぞ候ふらん。かなふまじき」よしを申す。判官怒つて、「勅宣を承り、鎌倉殿の御代官として、平家追討にまかり向かふ義経が下知をそむくおのれらこそ朝敵よ。野山の末、海川にて死するも、みな前業の所感なり。その儀ならば、奴ばらいちいちに射殺せ」とぞのたまひける。奥州の佐藤三郎兵衛、四郎兵衛、武蔵房弁慶なんど申す者ども、片手矢はげて、「御諚にてあるに、まことに船を出だすまじきか」とて向かひければ、「矢にあたつて死なん身も同じこと、風つよくは、はせ死に死ねや」とて、二百余艘の船のうちにただ五艘をぞ出だしける。五艘の船は、判官の船、田代の冠者信綱が船、後藤兵衛実基が船、奥州の佐藤三郎兵衛兄弟が船、淀の江内忠俊は船の奉行たり。のこりの船は、風に恐れて出でず。「この風には見えねども、夜のうちに四国の地に着かんとおぼゆるぞ。船どもかがりたきて、敵に船数見すな。義経が船を本船にしてかがりをまぼれ」とて、とり梶、おも梶にはせ並べてゆくほどに、あまりに強きときは大綱をおろして引かせけり。十六日の丑の刻に、渡辺、福島を出でて、押すには三日に渡るところを、ただ三時に、十七日の卯の刻に阿波の勝浦に着きにけり。夜のほのぼのと
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明けけるに、なぎさの方を見わたしければ、赤旗さしあげたり。判官のたまひけるは、「あはや、われらが設けはしてんげり。船ども平着けに着けて敵の的になして射さすな。なぎさ近うならば、馬ども海へ追ひ入れ、船ばたに引つつけ、引つつけ、泳がせて、馬の足たつほどにならば、うち乗り、駆けよ」とて、なぎさ三町ばかりになりければ、船ばた踏みかたぶけ「馬ども海へ追ひ入れ、引きつけ泳がせて、馬の足たつほどになりしかば、ひたひたとうち乗り、うち乗り、をめきさけびて駆く。敵も五十騎ばかりありけるが、これを見てざつと引くに、二町ばかりぞ逃げたりける。判官、しばしひかへて馬をやすめ、伊勢の三郎義盛を召して、「きやつばらは、けしかる者とこそ見れ。あのなかに、しかるべき者あらん。召してまゐれ」とのたまへば、義盛ただ一騎、五十騎ばかりひかへたる敵のなかに駆け入れて、なにとか会釈したりけん、齢四十ばかりの男の、黒革縅の鎧着、鹿毛なる馬に乗りたる武者一騎、兜をぬがせ、弓をはづさせて、乗つたる馬をば下人に引かせ、具して参る。判官、「これは何者ぞ」と問ひ給へば、「当国の住人、板西の近藤六親家と申す者にて候」。「何家にてもあれ、物具な脱がせそ。屋島の案内者に具してゆけ。目ばし離つな。逃げてゆかば射殺せ」とぞのたまひける。「この所は何といふぞ」とのたまへば、「これは『かつら』と申し候。『勝浦』と書いて候ふを、下臈(げらふ)どもが申しやすきままにこそ、『かつら』とは申し候へ」。判官、「これ聞き給へ、殿ばら。いくさしに来たる義経が、まづ勝浦に着くめでたさ
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よ。さていかに、屋島には勢はいかほどあるぞ」。「千騎ばかりは候ふらん」。「など少なきぞ」とのたまへば、「阿波の民部が嫡子田内左衛門教能、三千余騎にて河野を攻めに伊予の国へ渡つて候。それ、勢の向かはぬ浦々も候はず。五十騎、百騎づつさし向けられ候」。「さて、これに平家の方人しつべき者はなきか」。「さん候。成能[* 「のりよし」と有るのを他本により訂正]が弟桜間の能遠と申す者こそ候へ」。「さらば能遠討つて軍神にまつれや」とて、桜間が城へぞ押し寄せたりける。 桜間の介、しばし戦ひ、究竟の馬を持ちたりければ、そばの沼より落ちにけり。所の者ども二十余人が首を斬り、よろこびの鬨をつくり、軍神にぞまつられける。 判官、近藤六を召して、「これより屋島へはいかほどあるぞ」。「二日路候」。「さらば敵の知らぬさきに寄せよや」とて、駆け足になり、あゆませゆくほどに、その日は阿波の国板東、板西行き過ぎて、阿波と讃岐とのさかひなる大坂越といふ所にうち下つて、入野、白鳥、高松が里を、うち過ぎ、うち過ぎ寄せ給ふに、山中にて蓑笠背負うたる男一人ゆきつれたり。「どこの者ぞ」と問はせられければ、「京の者にて候」と申す。「どこへ行くぞ」。「屋島へ参り候」。「屋島へはどの御方へ参るぞ」。「女房の御つかひに都より大臣殿の御方へ参り候」。「これも阿波の御家人にてあるが、屋島へ召されて参るなり。この道は不知案内なるに、わ殿、案内者つかまつれ」。「これは案内は知りて候」と申す。「何事の御つかひぞ」と問へば、「下臈は御つかひつかまつるばかりにてこそ候へ。いかで
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か何事とは知り候ふべき」と申す。「げにも」とて、乾飯食はせなんどして、「さるにても何事の御つかひとか聞きし」。「別の子細や候ふべき。河尻に源氏どもおほく浮かんで候ふとかや申されしごさんなれ」。「さぞあらん。その文取れ」とて、うばひ取りて、「しやつ縛れ」とて、縛つて道のほとりなる木に結ひつけてぞ通られける。 判官、この文見給へば、まことにも女房の文とおぼしくて、「九郎は心すすどき男にて、大風大波たつともよもきらひ候はじ。勢を散らさでよくよく御用意候へ」とぞ書かれたる。「これは義経に天の与へ給へる文なり。鎌倉殿に見せたてまつらん」とて、深くをさめておき給ふ。 近藤六を召して、「さて屋島の城〔の様〕はいかに」とのたまへば、「さん候。知ろしめさねばこそ候へ、城は無下にあさまに候ふ。潮の干候ふときは馬の腹もつからず」と申す。 「さらば寄せよ」とて、源氏の勢、潮干の潟より寄せけるに、ころは二月十八日のことなれば、蹴上げたる潮のしぐらうたるうちより、うち群れて寄せければ、平家は運や尽きぬらん、大勢とこそ見てんげれ。 阿波の民部が嫡子田内左衛門、河野を攻めに伊予の国に越えたりけるが、河野は討ちもらし、家の子、郎等百余人が首を取り、わが身は伊予にありながら、さきだて、屋島へ奉りたりけるが、をりふし大臣殿の御宿所にて実検あり。兵ども、「こはいかに。焼亡」なんどと騒ぎけるが、よくよく見て、「さではなし。あはや。敵の寄せ候ふぞや」と申すほどこそあれ、白旗ざつとさし上げたり。 すでに、「源氏さだめて大勢にてぞ候ふらん。いそぎ御船に召さるべし」とて、なぎさに上げおきたる
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船ども、にはかに下ろしけり。御所の御船には、女院、北の政所、二位殿以下、女房たち召されけり。大臣殿父子は、一つ船にぞ乗り給ふ。平大納言、平中納言、修理大夫、新中納言以下の人々、みな船にとり乗つて、一町ばかりおし出だしたるところに、白じるしつけたる武者六騎、惣門のまへにあゆませて出で来る。 まつ先にすすんだるぞ大将とは見えたる。赤地の錦の直垂に、 紫裾濃の鎧着て、金作りの太刀帯き、切文の矢負ひ、塗籠籐の弓のまつ中取つて、黒の馬の太うたくましきに、金覆輪の鞍おいてぞ乗つたりける。鐙ふんばりつ立ちあがりて、「一院の御つかひ、大夫判官義経ぞや。われと思はん者は進み出でよ。見参せん」とぞ名のりける。「こはいかに。大将軍にてありけるぞ。射取れや、射取れ」とて、指矢に射る船もあり、遠矢に射るもあり。つづいて名のるは、田代の冠者信綱、金子の十郎家忠、同じき与市近範、伊勢の三郎義盛、後藤兵衛実基なり。 源氏は、五騎、三騎づつ、うち群れ、うち群れ、寄せけり。佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、渋谷の右馬允重助、これ三人はいくさをばせで、阿波の民部がこの三箇年があひだ、やうやうにして造りたる内裏や御所に火をかけて、片時の煙となしにけり。 大臣殿これを見給ひて、「源氏多くもなかりけるものを。内裏や御所を焼かせつるこそやすからね。能登殿はおはせぬか。一いくさし給へ」とありしかば、能登の前司、小船に乗つて寄せらる。兵二百余人、
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兜の緒をしめて、同じくなぎさにあがる。越中の次郎兵衛すすみ出でて申しけるは、「今日の源氏の大将軍はいかなる人ぞよ」。伊勢の三郎申しけるは、「事もかたじけなや。清和天皇十代の御末、九郎大夫判官ぞかし」。盛嗣あざわらつて、「それは金商人が所従ごさんなれ。平治に父義朝は討たれぬ。母常盤が腹にいだかれて、大和、山城に迷ひありきしを、故太政入道殿たづね出ださせ給ひしが、『をさなければ不便なり』とて、捨ておかれ給ひしほどに、鞍馬の稚児して十四五までありけるが、商人の供して奥に下りし者にてこそ」と申しければ、伊勢の三郎、「なんぢは砥波山のいくさに、からき命を生きて乞食の身となり、京へのぼりしはいかに」と申す。盛嗣、「なんぢも鈴鹿山の山がつよ」と申しけり。金子の十郎、「雑言たがひに益なし。申さばいづれか劣るべき。去年の春、一の谷にて武蔵、相模の若殿ばらの手なみよく見たるらん」と申しもはてねば、弟の与市、よつぴいて射る。盛嗣が胸板、裏かくほどに射させて、そののちは言葉だたかひせざりけり。 源平みだれあひ、しばし戦ふ。能登殿のたまひけるは、「船いくさは様あるぞ」とて、わざと直垂は着給はず。巻染の小袖に黒糸縅の鎧着、大中黒の矢、首高に負ひなし、滋籐の弓まつ中取り、小船の舳に立つて、源氏の大将軍を射落さんとぞうかがひける。能登の前司は聞こふる精兵の、「矢先にかけたてまつらじ」と兵ども、判官の矢面にふさがつてぞ戦ひける。能登殿、「矢面のやつばら、
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そこのき候へ」とて、さしつめ、ひきつめ、散々に射給ふに、鎧武者五騎射落さる。判官、あらはになり給ふところに、いつのまにかすすみけん、佐藤三郎兵衛嗣信、黒革縅の鎧着て、判官の矢面にむずとへだたるところを、胸板うしろへ射出だされて、馬よりさかさまに落ちぬ。 能登殿の童、菊王丸とて生年十八歳になるが、萌黄縅の腹巻、兜の緒をしめ、白柄の長刀の鞘をはづし、船より飛んでおり、嗣信が首を取らんと寄るところを、弟の忠信よつぴいて射る。菊王が腹巻の引合せを射られて、犬居に倒れぬ。「敵に首を取らせじ」と、能登の前司、船より飛んでおり、菊王をひつさげて船に乗り給ふ。首をば敵に取られねども、痛手なれば死ににけり。さしも不便にし給ひし菊王を射させ、そののちはいくさもし給はず。船をば沖へおし出ださる。 判官も、手負うたる嗣信を陣のうしろへ舁かせ、手を取つて、「いかに、いかに」とのたまへば、息の下に、「今はかう」とぞ申しける。判官涙をながし給ひて、「この世に思ひおくことあらば、義経に言ひおけ」とのたまへば、世にも苦しげに申しけるは、「などか思ひおくことのなくては候ふべき。まづ奥州に候ふ老母のこと、さては、君の御世を見たてまつらず、先に立ちまゐらするこそ、冥途の障りにて候へ」と、これを最後のことばにて、二十八と申す二月十八日の酉の刻、讃岐の屋島が磯にてつひに死ににけり。 判官かなしみ給ひて、「この辺に僧やある」とのたまへば、僧一人たづね出だしたり。判官、この
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僧に向かつて、「ただ今果つるもののふがために、経を書き、とぶらひて賜び候へ」とて、秘蔵の馬をぞ引かれける。黒き馬の太くたくましきに、金覆輪の鞍おいたり。 この馬と申すは、一の谷鵯越を落され、あまり秘蔵におぼしめして、五位の尉にならせ給ふとき、「五位をこの馬にゆづるなり」とて、「大夫黒」と名づけらる。かかる馬を引かれし心ざしの切なるを見て、「この君の御ために命を捨てんこと、たれか惜しみたてまつるべき」と、感涙身に余り、兵どもみな鎧の袖をぞ濡らしける。第百二句 扇の的 阿波、讃岐に、平家をそむき、源氏を待ちける者ども、かしこの洞、ここの谷より馳せ来たつて加はる。源氏の勢ほどなく三百余騎にぞなりにける。「今日は日暮れぬ。勝負は決せじ、明日のいくさ」とさだめて、源氏引きしりぞかんとするところに、沖の方より尋常にかざりたる小船一艘、なぎさに寄す。「いかに」と見るところに、赤き袴に柳の五衣着たる女の、まことに優なりけるが、船中より出でて、みな紅の扇の日出だしたるを、船ばたにはさみ立て、陸へ向かひてぞ招きける。 判官、後藤兵衛を召して、「あれはいかに」とのたまへば、「射よとこそ候ふらめ。ただしはかりごとごさんなれ。大将軍さだめてすすみ出でて、傾城を御覧ぜんずらん。そのとき手だれをもつて射落さんと候ふか。扇をばいそぎ射させられべうや候ふらん」と申しければ、
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「射つべき者はなきか」。「さん候。下野の国、那須の太郎助孝が子に、与市助宗こそ小兵なれども手はきいて候へ」。「証拠はあるか」。「さん候。翔け鳥を三よせに二よせはかならずつかまつる」と申す。「さらば召せ」とて、召されたり。 与市そのころ十八九なり。褐に、赤地の錦をもつてはた袖いろへたる直垂に、萌黄にほひの鎧着て、足白の太刀を帯き、中黒の矢の、その日のいくさに射残したるに、薄切斑に鷹の羽はぎまぜたるぬための鏑差し添へたり。二所籐の弓脇ばさみ、兜をぬいで高紐にかけ、御前にかしこまる。判官、「いかに与市、傾城のたてたる扇のまつ中射て、人にも見物させよ」とのたまへば、与市、「これを射候はんことは不定に候。射損じ候ふものならば、御方の長ききずにて候ふべし。自余の人にも仰せつけらるべうや候」と申せば、判官怒つて、「鎌倉を出でて西国へ向かはん殿ばらは、義経が命をそむくべからず。それに子細を申さん殿ばらは、いそぎ鎌倉へ帰りのぼらるべし。そのうへ多くの中より一人選び出ださるるは、後代の冥加なりとよろこばざる侍は、何の用にかたつべき」とぞのたまひける。与市、「かさねて申してあしかりなん」と、御前をついたつて、月毛駮なる馬に黒鞍おき、うち乗り、なぎさの方へあゆませゆれば、兵ども追つ様にこれを見て、ふりかかりしづまりて、「一定この若者はつかまつらんとおぼえ候」と口々に申せば、判官もよにたのもしく思はれけり。 なぎさよりうちのぞんで見れば遠かりけり。遠干なれば馬
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の太腹ひたるほどにうち入るれば、いま七八段ばかりと見えたり。をりふし風吹いて、船、ゆりすゑ、ゆりあげ、扇、座敷にもさだまらずひらめきけり。沖には平家、一面に船を並べて見物す。うしろを見れば、みぎはに味方の源氏ども、轡を並べひかへたり。いづれも晴ならずといふことなし。なほ風しづまらざれば、扇、座敷にもさだまらず。与市、いかがすべき様もなくて、しばらく天に仰ぎ祈念申しけるは、「南無帰命頂礼、御方を守らせおはします正八幡大菩薩、別してわが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇のまつ中射させて賜ばせ給へ。これを射損ずるほどならば、弓切り折り、海に沈み、大龍の眷属となつて長く武士の仇とならんずるなり。弓矢の名をあげ、いま一度本国へ迎へんとおぼしめされ候はば、扇のまつ中射させて賜はり候へ」と心のうちに祈念して、目をひらき見たりければ、風もすこししづまり、扇も射よげにぞなつたりける。小兵なれば十三束、鏑取つてつがひ、しばしたもちて放つ。弓はつよし、浦にひびくほどに鳴りわたりて、扇のかなめより上一寸ばかりおいて、ひやうふつと射切つたれば、扇こらへず三つに裂け、空へあがり、風に一もみもまれて、海へざつとぞ散りたりける。みな紅の扇の日出だしたるが、夕日にかがやいて、白波の上に、浮きぬ、沈みぬゆられければ、沖には平家船ばたをたたいて感じたり。陸には源氏箙をたたいてどよめきけり。 あまりおもしろさに、感にたへざるに
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や、船のうちより齢五十ばかりの男の、黒革縅の鎧着て、白柄の長刀持ちたる武者一人出で来つて、しばし舞うたりけり。伊勢の三郎、与市がうしろへあゆませ寄つて、「御諚にてあるぞ。にくい、奴ばらが今の舞ひ様かな。つかまつれ」と言ひければ、中差取つてつがひ、よつぴいて射る。しや首の骨、ひやうふつと射通され、舞ひ倒れに倒れけり。源氏方いよいよ勝に乗つてぞどよみける。 平家の方には音もせず。「本意なし」とや思ひけん、小船一艘なぎさへ寄す。長刀持ちたる者一人、楯つき一人、弓持ち一人、船のうちよりみぎはに上がりて、「源氏方にわれと思はん兵寄せよや」とぞののじりける。判官見給ひて、「にくいやつかな。馬つよからん者、向かつて蹴ちらせ」とのたまへば、承つてすすむ者たれたれぞ。武蔵の国の住人水尾谷の四郎、同じき十郎、上野の国の住人丹生の四郎、信濃の国の住人木曾の中太をはじめとして、五騎つれてぞ駆けたりける。 まつ先にすすんだる水尾谷が馬の鞅づくしを、平家の楯のかげより筈のかくるるほどに射こまれて、馬は屏風を返すがごとし。主は右手の足を越し、馬の頭にゆらと乗り、やがて太刀をぞ抜いたりける。楯のかげより大長刀うち振つて出でたりける。「あれは長刀、われは小太刀。かなはじ」とや思ひけん、かい伏して逃げてゆく。追うて薙ぐかと見れば、いかがはしたりけん。長刀脇にかいはさみ、兜の鉢をつかまんとす。「つかまれじ」と逃げけるが、取りはづし、取りはづし、四度目にむずとつかみ、しばしたもつて見え
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けり。水尾谷もつよかりけるやらん、鉢つけの板ふつとひき切つて、味方のなかへ逃げ入り、しばらく息をぞやすめける。敵やがても追うても来ず。ひき切つたる錣をさしあげ、「平家の侍に、上総の悪七兵衛景清」と名のり捨ててぞ帰りける。 判官これを見給ひて、「悪七兵衛ならば、もらすな。射取れや」とて、をめいて駆け給へば、三百余騎つづいて駆く。平家方にもこれを見て、「悪七兵衛討たすな」とて、小船百艘ばかりなぎさへ寄す。楯の端を牝鶏羽につきむかへて、「源氏寄せよ」と招きかく。源氏三百余騎、馬のひづめをたて並べ、をめいて駆く。乱れあひてしばし戦ふ。平家の兵みなかちだつたり、楯ども散々に駆けちらされて引きしりぞくところを、源氏は馬の足のおよぶほど攻め戦ふ。 判官あまりに深入りし給ふほどに、船のうちより熊手を出だして、判官の兜にうちかけて、えい声を出だして引き落さんとす。味方の兵馳せ寄せて、熊手をうち払ひ、うち払ひ、戦ひけり。判官弓をかけ落されて、鞍爪ひたるほどにうち入れて、鞭の先にてかき寄せ、「取らん。取らん」とし給へば、しきりに熊手をうちかけけり。陸の者ども、「ただ捨ててしりぞかせ給へ」と、面々に申しけれども、判官つひに取り給ふ。兵ども、「たとひ千金万金の御だらしなりといふとも、御命には代へさせ給ふべきか」と口々に申しければ、判官、「まつたく弓を惜しむにあらず。叔父八郎為朝が弓なんどなりせば、わざとも浮かべて見すべけれども、〓弱たる弓を、平家に取つて、『これこそ源氏の大将
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の弓。強いぞ。弱いぞ』と、あざけられんが口惜しければ、命に代へて取つた〔る〕ぞかし」とのたまへば、みなこのことばをぞ感じける。 「今日は暮れぬ。明日のいくさ」と定めて、源氏引きしりぞき、当国牟礼、高松に陣を取る。源氏は三日があひだ寝(ね)ざりけり。渡辺より三日に渡るところを、ただ三時に渡りたれば、その夜は大波にゆられて寝ねず。明くれば勝浦のいくさして、夜もすがら中山越えて、今日も一日たたかひ暮らし、みなつかれはてて、あるいは兜を枕とし、あるいは鎧の袖を片敷き、前後も知らずうち臥したり。 そのなかに、判官と伊勢の三郎は寝ねざりけり。判官は高き所にあがりて遠見し給へば、義盛はくぼみに隠れて、「敵寄せば」とて、片手矢はげてぞ待ちかけたる。 そののち平家方より、「寄せて夜討にせん」と、能登殿大将にて、ひた兜五百余騎向かひけるが、越中の次郎兵衛盛嗣と、美作の住人江見の次郎盛方と先をあらそふあひだに、その夜むなしく明けにけり。夜討にだにもしたりせば、源氏はその夜滅ぶべかりしを、平家の運のきはまるところなり。平家も引きしりぞき、当国志度の道場にぞ籠られける。第百三句 讒言梶原 同じく十九日、判官、伊勢の三郎義盛を召して、「阿波の民部成能が嫡子田内左衛門教能、河野を攻めに伊予の国へ越えたんなるが、これにいくさありと聞き
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て、今日はさだめて馳せ向かふらん。大勢入れたててはかなふまじ。なんぢ行き向かひ、よき様にこしらへて召して参れ」とのたまへば、伊勢の三郎、「さ候はば、御旗を賜はつて向かひ候はん」と申す。「もつともさるべし」とて、白旗をこそ賜はりけれ。 その勢十六騎にて向かふが、みな白装束なり。兵どもこれを見て、「三千余騎が大将を、白装束十六騎にて向かひ、生捕にせんことありがたし」とぞ笑ひける。 案のごとく、田内左衛門、「屋島にいくさあり」と聞きて馳せまゐる。道にて、義盛行き逢うたり。白旗ざつとさしあげければ、「あはや、源氏よ」とて、これも赤旗さしあげたり。伊勢の三郎、田内左衛門にあゆみ寄つて申しけるは、「かつうは聞き給ひつらん。鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿、西国の討手の大将に向かはせ給ひたり。一昨日御辺の叔父、桜間の介討たれまゐらせぬ。昨日屋島に寄せて、内裏や御所ども焼きはらひ、一日合戦の候ひしに、平家の人々数をつくして討たれ給ひぬ。そのなかに新中納言、能登殿ばかりぞようはおはせし。大臣殿の父子も生捕りぬ。そのほか生捕どもあまたあり。御辺の父民部の大夫も降人に参られたるを、義盛が預かり申して候。今宵夜もすがら嘆きて、『あはれ、この教能がこの世のありさまを知らずして、明日参り、合戦し、討たれまゐらせ候ひなんず。か様に預かり給ふも、前世の宿縁にてこそ候ふらめ。しかるべく候はば、御辺行き向かつて、教能にこのことを知らせて、いま一度見せ給へ』と嘆かれ候ふあひだ、参りたり」と言へば、田内左衛門、
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うちうなづいて、「かつ聞くことすこしも違はず」と言うて、やがて兜をぬぎ弓をはづし、降人にこそなりにけり。これを見て、三千余騎の兵ども、弓をはづして従ひけり。 義盛、白装束十六騎にて、三千余騎の軍兵を従へて具して参る。平家いくさには負けたれども、大臣殿父子も生捕にせられ給はず。また民部の大夫も降人にも参らず。判官、いくさに勝つて馬よりおり、坐つてやすみ給ふところに、おめおめと召されて参る。やがて鎧ぬがせて召しおかれ、人に預けらる。「さて、従ふところの軍兵どもはいかに」とのたまへば、「これは吹く風に草木のなびくがごとし。いづれにてもましませ、世の乱れをしづめ、国を知ろしめさん人を上とせん」とぞ申しける。「もつともさるべし」とて、みな勢にぞ具せられける。 熊野の別当湛増、この日ごろは平家に従ひたりけるが、源氏すでに強ると聞いて、五十余艘の船に乗り、紀伊の国田辺の浦よりおし出だし、四国の地に渡つて、源氏につきぬ。伊予の国の住人、河野の四郎通信、五百余騎にて馳せ来たり、これも一つになりにけり。 平家は、「田内左衛門、生捕にせられぬ」と聞こえしかば、讃岐の志度を出で給ひて、船にこみ乗り、風にまかせ、潮に引かれて、いづくともなくゆられ行くこそかなしけれ。 二十二日巳の刻に、渡辺にとまりたる二百余艘の船ども、梶原を先として、屋島の磯にぞ着きにける。人笑ひあへり。「六日の菖蒲、会にあはぬ花、〔祭〕ののちの葵か」なんどとぞ申しける。
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 そのころ、住吉の神主長盛の、院の御所へ参りて、「去んぬる十六日丑の刻に、当社第三の神殿より鏑の音出でて、西をさして行きぬ」と奏聞す。法皇御感のあまりに、色々の幣帛、種々の神宝を神主長盛に仰せて、大明神へ参らせ給ひけり。 昔神功皇后、新羅を攻めさせ給ひしに、伊勢大神宮、二神の荒御前をさしそへ給ひけり。船の艫舳に立つて、異国をたひらげまします。一神は信濃の国諏訪の郡にあがめられ給ふ大明神これなり。一神は摂津の国住吉の郡にとどまり給ふ住吉大明神これなり。「上古の征伐をおぼしめし忘れず、今また朝の怨敵を滅ぼし給ふべき」と、たのもしかりける事どもなり。 判官、周防の地におし渡つて、兄の三河守と一つになり、鎮西へ渡らんとす。「平家は長門の引島に着き給ふ。源氏は当国赤間が関に着く」とぞ聞こえける。源氏の船は三千余艘。平家の船は千余艘。平家の船のうちには唐船もありけるとかや。源氏の勢はかさなれども、平家の勢は落ちぞゆく。 三月二十四日卯の刻に、長門の国壇の浦、赤間の関にて、源平矢合せとぞ定めける。その日すでに判官と梶原といくさせんとすることあり。梶原、判官に申しけるは、「今日の先陣をば侍のうちに賜はり候へ」と申せば、判官、「義経がなからんにこそ」。「まさなや。君は大将軍にてまします」と申せば、「鎌倉殿こそ大将軍よ。義経は奉行を承つたれば、ただおのおのと同じことぞ」とのたまへば、梶原
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先陣を所望しかねて、「天性この殿は侍の主にはなりがたし」とぞつぶやきける。判官、「総じてなんぢは烏滸の者ぞ」とのたまへば、「こはいかに、鎌倉殿のほかは主持ちたてまつらぬものを」と申す。判官、「につくいやつかな」とて、太刀に手をかけ、立ちあがらんとし給へば、梶原も太刀に手をかけ、身づくろひするところに、三浦の介、土肥の次郎むずと中にへだたりたてまつる。三浦の介、判官に申しけるは、「大事を御目の前にあてさせ給ふ人の、か様に候はば、敵に力をそへさせ給ひなんず。なかんづく、鎌倉殿のかへり聞かせ給はんところも穏便ならず」と申せば、判官しづまり給ふうへは、梶原すすむにおよばず。これより梶原、判官をにくみはじめて、つひに讒言してうしなひけるとぞ聞こえける。第百四句 壇の浦 同じく二十四日の卯の刻に、源平鬨をつくる。上は梵天にも聞こえ、下は海龍神までもおどろきぬらんとぞおぼえたる。門司、赤間、壇の浦は、みなぎりて落つる潮なれば、源氏の船は潮に引かれて心ならず引き落さる。平家の船は潮に追うてぞ来たりける。沖は潮の早ければ、なぎさについて、梶原、敵の船の行きちがふ所を熊手うちかけて、乗りうつり、乗りうつり、散々に戦ふ。分捕あまたしたりければ、その日の功名の一にぞつきたりける。
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 新中納言知盛、船の舳に立つて、「いくさは今日をかぎりなる。おのおのすこしもしりぞく心あるべからず。天竺、震旦、わが朝にならびなき名将勇士といへども、運命尽きぬれば力およばず。さりながら東国のやつに弱気見すな。いつのために命をば惜しむべきか。これのみぞ知盛は思ふこと」とのたまへば、飛騨の三郎左衛門景経[* 「かねつね」と有るのを他本により訂正]、「仰せ承れや、侍ども」とぞ申しける。悪七兵衛景清が申しけるは、「中坂東のやつばらは、馬に乗りてこそ口はきき候ふとも、船のうちにはいつ調練し候ふべき。魚の木にのぼりたる様にこそ候はんずれ。されば、しやつばら、一々に取つて海につけ候はん」とぞ申しける。越中の次郎兵衛申しけるは、「九郎判官は色白き男の、たけ低く、向かふ歯二つさし出でて、ことにしるかんなる。心こそ猛くとも、何事のあるべき。目にかけて、ひつ組んで海に入れや、殿ばら」とぞ申しける。 新中納言、大臣殿の御前に参りて申されけるは、「今日は侍ども事よげに見え候。一定いくさこそつかまつらんとおぼえ候へ。そのなかに阿波の民部成能ばかりこそ、心変り候ふやらむ、気が変つて見え候へ。きやつが首を切り候はばや」と申されければ、大臣殿、「いかに、見えたることもなくて首をば切るべき。成能召せ」とて、召されけり。木蘭地の直垂に洗革の鎧着て、御前にかしこまる。「いかに、成能、日ごろの様に『侍ども、いくさようせよ』なんど掟をばせぬぞ。なんぢ心変りしたるか。臆したるか」とのたまへば、「ただいま何事にか臆し候ふべき」とて、事もなげに御前をまかり立つ。
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中納言、「あつぱれ、しやつが首を切らばや」と思はれけれども、大臣殿の許しなければ、切り給はず。 平家は千余艘の船を三手に分かつ。先陣は、山鹿の兵頭次秀遠五百余艘、二陣は、松浦党三百余艘にて参り給ふ。先陣にすすみたる山鹿の兵頭次秀遠がはかりごととおぼえて、精兵を五百人そろへて、五百艘の船の舳に立て、射させけるに、鎧も、楯も、射通さる。源氏の船射しらまされて漕ぎしりぞく。平家はこれを見、「御方すでに勝ちぬ」とて、攻め鼓を打つて、よろこびの鬨をつくる。 陸にも源氏の軍兵七千余騎ひかへて戦ひけり。そのうちに相模の国の住人、三浦の和田の小太郎義盛、船には乗らで、これも馬に乗り、ひかへて戦ひけるが、三町がうちの者は射はづさず。三町余里沖に浮かびたる〔新〕中納言の船を射越して、自箆の大矢を一つ波の上にぞ射浮かべたる。和田の小太郎、扇をあげて、「その矢こなたへかへし賜ばん」とぞ招きける。新中納言、この矢を召し寄せて見給へば、白箆に鵠の羽にて矧いだる矢の、十三束三伏ありけるが、沓巻のうへ一束おきて、「三浦の和田の小太郎義盛」と漆をもつて書きたりけり。伊予の国の住人、新居の紀の四郎親家を召して、「この矢射かへせ」とのたまへば、親家異議も申さず、わが弓に取つてつがひ、射たりけり。沖より三町あまりをつと射わたし、和田が左手の肩を箆打ちにうつて、つれてひかへたる武蔵の国の住人、石迫の太郎が小がひなに、沓巻までこそ射込うだれ。和田の小太郎、「われに過ぎたる大矢なしと思ひ、射かへさせたり」
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と、一家の兵どもに笑はれて、腹を立てて馬よりおり、小船に乗つておし出ださせ、平家の船の中をおしめぐり、おしめぐり、さしつめ、ひきつめ射けるに、面を向くる者なし。 平家の方より、また判官の船に大矢を一つ射たてて、「その矢こなたへ賜ばん」とぞ招きける。召し寄せて見給へば、白箆に鶴の本白にて矧いだる矢の、十四束ありけるに、ただいま書きたるとおぼえて、「伊予の国の住人新居の紀四郎親家」とぞ書いたりける。後藤兵衛実基を召して、「この矢射かへしつべき者はなきか」とのたまへば、「などかは候はざるべき。甲斐源氏のなかに、浅利の与市殿こそおはすらめ」。「さらば」とて、召されけり。与市小船に乗りて出で来る。「いかに浅利殿。この矢射かへせ」とのたまへば、この矢賜はり、つまよつて見て、「この矢は矢束が短う、箆も弱く候。義成が矢にてつかまつらん」とて、大中黒にて矧いだる矢の十五束ありけるをつがひ、しばしたもちてひやうど射る。遠矢射て、思ふことなく大船の艫に立つたる新居の紀四郎が内兜、あなたへづんど射出だされて、船底へぞ倒れける。 さるほどに、源平みだれあひ数刻たたかふ。白雲一むら、源氏の船の陣の上にたなびいて見ゆるが、雲にてはなかりけり。主なき旗一流れ舞ひくだつて、源氏の船の舳先、棹付の緒つくるほどに見えて、また空へぞのぼりける。兵どもこれを見て、いそぎ手水うがひどもして拝みたてまつる。今日源氏の負けいくさと見えしところに、この瑞相を見て、「これほどに八幡大菩薩の守護せさせ給はんずるに、いかでかいくさに勝たざるべき」とぞいさみあひ
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ける。 いるかといふ魚一二千、平家の船に向かうてはみければ、大臣殿、都より召し具したる晴延といふ陰陽師を召されて、「きつと勘へ申せ」と仰せければ、晴延勘へて、「このいるか、はみ通り候はば、御方のいくさ危う候ふべし。はみかへり候はば、源氏滅び候ふべし」と申しもはてねば、いるか平家の船の下をはうでぞ通りける。 阿波の民部成能は、三が年のあひだ、平家に忠を尽くしてありけれども、嫡子田内左衛門を源氏の方へ生捕られて、恩愛の道のかなしさは、「いま一度見ん」と思ひければ、たちまちに心変りして、赤じるし切り捨て、源氏の方へぞつきにける。平家は唐船には次さまの者を乗す。「源氏さだめて唐船を攻めんずらん」とてなり。兵船にしかるべき人々を乗せて、「源氏を中にとり籠めて討たん」と支度したりけるところに、成能返り忠して、「唐船にはよき人乗り給はぬぞ。兵船射よ」と教へければ、さしあはせて散々に射る。さてこそ支度相違してんげれ。 ただ今まで従ひついたりけん四国、西国の兵、君に向かうて弓を引き、主に向かうて太刀を抜き、かの岸へ着けんとすれば、波高うしてかなはず、この浦に寄らんとすれば、敵待ちかけて討たんとす。源平の国あらそひ、今日をかぎりと見えたりけり。水手、梶取ども、うち殺され、斬りふせられ、船底に倒れふためき、叫ぶ声こそかなしけれ。
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第百五句 早鞆
 新中納言知盛、御所の御船に参り給ひて、「女房たち、見苦しきものどもみな海に沈め給へ」とのたまへば、女房たち、「この世の中は、いかに、いかに」とのたまふ。新中納言いとさわが[* 「さをが」と有るのを他本により訂正]ぬ体にて、「いくさはすでにかう候ふよ。今日よりのちは、めづらしき東男こそ御覧ぜんずらめ」とうち笑ひ給へば、「なんでふ、ただ今のたはぶれぞや」とぞをめき叫び給ひける。 二位殿、先帝をいだきたてまつり、帯にて二ところ結ひつけたてまつり、宝剣を腰にさし、神璽を脇にはさみ、練袴のそばを高くはさみ、鈍色の二衣うちかづき、すでに船ばたに寄り給ひ、「わが身は君の御供に参るなり。女なりとも敵の手にはかかるまじきぞ。御恵みに従はんと思はん人は、いそぎ御供に参り給へ」とのたまへば、国母をはじめたてまつり、北の政所、臈の御方、帥の典侍、大納言の典侍以下の女房たちも、「おくれまゐらせじ」ともだえられけり。 先帝、今年は八歳。御年のほどよりもおとなしく、御髪ゆらゆらと御せな過ぎさせ給ひけり。あきれ給へる御様にて、「これはいづちへぞや」と仰せられければ、御ことばの末をはらざるに、二位殿、「これは西方浄土へ」とて、海にぞ沈み給ひける。 あはれなるかなや、無常の春の風、花の姿をさそひたてまつる。かなしきかなや、分段の荒波に龍顔を沈めたてまつる。殿を長生殿となぞらへ、
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門を不老門とことよせしに、十歳にだにも満たせ給はで、雲上の龍下つて海底の魚とならせ給ふ。 国母もつづいて入らせ給ひけるを、渡辺の右馬允番といふ者、熊手をおろして御髪にかけ、取りあげたてまつる。女房たち生捕にせられておはしけるが、「あさましや、あれは女院にてわたらせ給ふぞ」とのたまへば、そのとき、番、鎧唐櫃より、新しき小袖一かさね取り出だし、しほたれたる御衣に召しかへさせたてまつる。北の政所、臈の御方、帥の典侍以下の女房たち、みなとらはれ給ひけり。 本三位の中将の北の方大納言の典侍、内侍所の御櫃を取りて海へ入れんとし給ふが、袴のすそを船に射つけられて蹴つまづき給ふところを、兵取りとどめたてまつり、御唐櫃の錠をねぢ切つて、御蓋あけんとしければ、たちまち目くれ、鼻血垂る。平大納言時忠の卿生捕られておはしけるが、これを見て、「あな、あさましや。あれ内侍所と申す、神にてわたらせ給ふものを。凡夫は見たてまつらぬことを」とのたまへば、九郎判官、「さることあらんずるぞ。そこのけよ」とて、平大納言に申して、もとのごとく納めたてまつる。末の世なれども、か様に霊験あらたなるこそめでたけれ。 門脇の平中納言教盛、修理大夫経盛兄弟は、手を手に取りくみ、海にぞ沈み給ひける。小松の三位の中将資盛、同じく少将有盛、いとこ左馬頭行盛、入道の四男知盛、これも手を手に取りくみ沈み給ふ。 大臣殿は船ばたに立ち出でて、人々海に沈み
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給へども、その気色もなきを、侍どもあまりのにくさに、海へつき入れたてまつる。御子右衛門督、これを見てつづいて海へぞ入り給ふ。大臣殿は、「右衛門督沈まば、われも沈まん」と思はれけり。また右衛門督は、「大臣殿沈み給はば、ともに沈まん」と、二人の人々、ややひさしう波の上に浮かんでおはしけるを、伊勢の三郎、船を漕ぎよせ、熊手をおろして、右衛門督を取りあげたてまつる。大臣殿、いとど沈みもやり給はず、同じく生捕られ給ひけり。 大臣殿の御乳人、飛騨の三郎左衛門景経、「わが君取りあげたてまつるは何者ぞ」とて、太刀を抜ぎ、伊勢の三郎に打ちてかかる。義盛、あぶなく見ゆるところに、ならびの船に立ちたる堀の弥太郎、よつぴいて射る。飛騨の三郎左衛門が内兜射させてひるむところを、弓を捨てむずと組む。三郎左衛門手負うたれども、ちともおくれず、上になり下になりころびあふところに、堀が郎等、三郎左衛門が草摺ひきあげ、二刀刺す。内兜も痛手なり、景経つひに討たれにけり。大臣殿、「身にかはりても」と思はれける乳人子のなりゆくありさまを見給ひて、さこそかなしく思はれけん。 能登の前司教経は矢だね尽き、「今は最後」と思はれければ、赤地の錦の直垂に緋縅の鎧着て、源氏の船に乗りうつり、白柄の長刀茎短かに取つて薙ぎ給へば、兵おほく滅びにけり。新中納言見給ひて、使にて、「詮なきしわざかな。あまりに罪なつくり給ひそ。さればとてしかるべき者にてもなし」とのたまへば、「さては、このことば、『大将軍
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に組め』とごさんなれ」とて、そののちは、源氏の船に乗りうつり、乗りうつり、おし分け、おし分け、九郎判官をたづね給ふ。 思ひのままにたづね逢うて、よろこび、打つてかかる。判官、「かなはじ」とや思はれけん、長刀脇にかいはさみ、一丈ばかりゆらと跳び、味方の船にのび給ふ。能登殿心は猛けれども、早業や劣られけん、つづいても越え給はず。判官殿まぼらへて、「これほど運尽きなんうへは」とて、長刀海へ投げ入れ、兜もぬいで海へ入れ、鎧の袖をかなぐり捨て、大童にて立ち、「われと思はん者、教経生捕り、鎌倉へ具して下れ。兵衛佐にもの言はん。寄れや。寄れや」とのたまへども、寄る者なかりけり。 ここに土佐の国の住人、安芸の郡を知行しける安芸の大領が子に、大領太郎実光とて、三十人が力あり。弟安芸の次郎もおとらぬしたたか者。主におとらぬ郎等一人。兄の太郎、判官の御前にすすみ出でて申しけるは、「能登殿に寄りつく者なきが本意なう候へば、組みたてまつらんと存ずるなり。さ候へば、土佐に二歳になり候ふ幼き者不便にあづかるべし」と申せば、判官、「神妙に申したり。子孫においては疑ひあるまじき」とのたまへば、安芸の太郎主従三人、小船に乗り、能登殿の船にうつり、綴をかたぶけ、肩を並べてうち向かふ。能登の前司、先にすすみたる郎等を、「にくいやつかな」とて、海へざんぶと蹴入れらる。太郎をば左の脇へはさみ、次郎をば右の脇にはさみ、一しめ締めて、「いざうれ。さらば、おのれら死出の山の供せよ」とて、生年二十六にてつひに海へぞ入り給ふ。
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 新中納言これを見て、伊賀の平内左衛門家長を召して、「今は見るべきことは見はてつ。ありとてもなにかせん」とのたまへば、平内左衛門、「日ごろの約束ちがひたてまつるまじ」とて、寄つて、鎧二領着せたてまつりまゐらせ、わが身も二領着、手を取り組み、海にぞ入りにける。平生「一所に」とちぎりし侍ども二十余人、みな手を取り組み、海へぞ入りにける。 海上には赤旗、赤印、投げ捨て、かなぐり捨てたれば、龍田山のもみぢの嵐に散るがごとし。なぎさに寄する白波も薄紅にぞなりにける。むなしき船は風にまかせて、いづくともなくゆられ行く。 生捕の人々は、内大臣宗盛、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵頭信基、讃岐の中将時実、兵部少輔尹明、僧には法勝寺の執行能円、二位の僧都全真、中納言の律師忠快、経受坊の阿闍梨祐円、侍には源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、藤内左衛門信康、橘内左衛門季康以下三十八人、女房たちには、国母建礼門院、北の政所、臈の御方、帥の典侍、大納言の典侍、治部卿の御局以下およそ四十三人とぞ聞こえし。 元暦二年の春の暮れ、いかなる年月にて、一人海の底に沈み、百官波の上に浮かぶらん。国母、官女は、東夷、西戎の手に従ひ、臣下、卿相は数万の軍旅にとらはれて、旧里に帰り給ひしに、あるいは朱買臣が錦を着て故郷へ帰らざることを
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かなしみ、あるいは王昭君が胡国へ向かふ思ひもかくやとおぼえてあはれなり。
第百六句 平家一門大路渡し
 同じく四月三日、西国より早馬、院の御所へ参る。使は源八兵衛広綱とぞ聞こえし。「去んぬる三月二十四日の卯の刻、壇の浦、赤間関、田の浦、門司が関にて、平家つひに攻め落し、内侍所、神璽かへり入らせまします。大臣殿以下、生捕〔ど〕も数十人あひ具してまゐり候」と奏聞しければ、法皇御不審のあまりに、北面に候ふ藤判官信盛を召して西国へつかはす。 同じく十六日、判官、大臣殿以下の生捕あひ具して、明石の浦にぞ着き給ふ。その夜は、月おもしろくして秋の空にもおとらず。女房たち、尽きせぬ思ひのうちにも思ひ出あり。「昔は名のみ聞きし明石の月を、今見ることの不思議さよ」とて、歌を詠みなんどしてなぐさみあはれけり。そのなかに平大納言の北の方帥の典侍、古歌を思ひ出だし、
ながむれば濡るる袂にやどりけり月よ雲井のものがたりせよ W
と泣く泣く口ずさみ給へば、判官、東男なれども、優に艶なる心地してあはれにぞ思はれける。 同じく二十五日、内侍所、鳥羽殿に着かせ給ふ。御迎への公卿には、勘解由の小路の中納言経房、高倉の宰相泰通、殿上人には、権右中弁兼忠、榎並の中将公時、但馬の少将範能ぞ参ら
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れける。御供の武士には、石川判官代義兼、伊豆の蔵人の大夫頼兼、左衛門尉有綱とぞ聞こえし。 その夜、子の刻に、内侍所太政官の朝所へ入らせ給ふ。波の上に浮かびたる神璽は、片岡の太郎親経が取りあげて、判官に奉るとかや。神璽を「しるしの箱」とも申す。 宝剣は長く沈みて見え給はず。かつぎする海人に仰せて求めさせ、また水練長ぜる者を召して求めさせらるれども、見えざりけり。天神地祇幣帛をささげ、大法、秘法を修せられけれども験なし。龍宮に納めてんげるやらん、そののちはいまだ出で来ず。 二の宮、都へ入らせ給はず。都にだにもましませば、この宮こそ位にもつかせ給ふべきに、これも四の宮の御運のめでたくわたらせ給ふによつてなり。御心ならず平家にとられて、この三が年があひだ、西国の波の上にただよはせ給ひしかば、御母儀も、御乳人の持明院の宰相も、「いかなる御ありさまにか聞きなしまゐらせんずらん」とて、朝な、夕な、ただ泣くよりほかのことぞなき。されども、今別の御ことなく帰りのぼらせ給ひたれば、みなよろこびの涙をぞながしあはれける。法皇よりも迎ひに御車をぞ参らせらる。御迎ひには、七条の侍従信清、紀伊守範光とかや。七条の御母儀の御所へ入らせ給ひける。 同じく二十六日、平氏の生捕都へ入る。みな八葉の車に乗せたてまつる。前後の簾をあげ、左右の物見を開かれたり。大臣殿は浄衣を着給ふ。御子右衛門督白直垂着て、父の車の尻
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に乗り給ふ。平大納言時忠の車も同じくやり連れられたり。その子讃岐の中将時実、同車にてわたさるべかりしが、まことに所労にてわたされず。内蔵頭信基は傷をかうぶりたれば、間道よりぞ入りにける。兵前後にうちかこみたり。幾千万といふ数を知らず。 大臣殿は四方を見まはし、いたく思ひしづめる気色も見え給はず。右衛門督は直垂の袖を顔におしあて、目もあげ給はず。さしも優なりし人々の、三が年があひだ潮風にやせ黒み、「その人」とも見え給はぬぞいとほしき。「生捕の人見ん」とて、都のうちにもかぎらず、遠国、近国の貴賤、上下、山々、寺々より老少来り集まる。鳥羽の南の門より四塚まで満ちみちたり。人は顧みることをえず、車は轅をめぐらすことをえず。治承、養和の飢饉、東国、北国の合戦に、人種はみな滅びたりといへども、なほ残りて多かりけるとぞ見えし。 都を出で給ひても中一年、無下にま近きほどなれば、めでたかりしことどもを忘られず、親、祖父の代よりつたはりて召し使はれたる者ども、身の捨てがたさに、みな源氏につきたれども、昔のよしみを忘れねば、涙をながす人多かりけり。 その日、大臣殿の車をつかひける牛飼は、もと召し使はれし三郎丸といふ者なり。弥次郎丸、三郎丸とて兄弟ありつるが、平家都を落ちてのち、弥次郎は木曾に仕へぬるが、木曾討たれてのち出家してんげり。こればかり男にてありけるが、鳥羽にて判官の御前にすすみ出でて申しけるは、「舎人、
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牛飼と申すは下臈のはてにて、心あるべき身にては候はねども、年ごろのよしみ、いかでか忘れたてまつらん。しかるべくんば御許しをかうぶり、今日大臣殿の御車をつかまつらばや」と申せば、なさけ深き人にて、「さるべし」とぞ許されける。三郎丸はよろこび、泣く泣く御車をつかまつる。道すがら車のうちをのみ顧みて涙せきあへず。されば見る人袖をぞしぼりける。 大宮をのぼりに、六条を東にわたされ給ふ。法皇も、六条東の洞院に御車を立て、叡覧あり。公卿、殿上人の車も同じく立て並べられたり。人々これを見給ひて、「『あの人々に、目をも見かけられ、一ことばをも聞かばや』なんどとこそ思ひしに、かく見なすべしとは、はからざりしことを」とぞおのおののたまひあはれける。 ある人言はれけるは、「一年内大臣になりて、祝ひ申しのありしとき、公卿には花山の院の大納言、やがてこの平大納言もおはしき。殿上人、蔵人頭以下十六人前駆して、われおとらじと面々にきらめき給ひし儀式ありさま、優なりしことどもなり。参り給ふところごとに、御前に召されて、御引出物ども賜はられしこと、昔も今もためしすくなかりしに、今は月卿雲客一人もともなはず」。 西国にて同じ生捕にせられし源大夫判官季貞、摂津の判官盛澄、これ二人ぞ白直垂着、馬上にせめつけられてわたされけり。 六条を東へ、河原をわたされてのち、九郎判官の六条堀川の宿所に入れたてまつる。物まゐらせたれども、御覧じも入れられず、ひまなく涙をぞ
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ながさせ給ひける。夜になれども装束だにものけ給はず、袖を片敷き泣き臥し給へり。御子右衛門督そばに寝給ひたりしに、大臣殿、御衣の袖を着せ給へば、守護の武士これを見て、「恩愛とて何やらん。せめての心ざしのいたすところよ」とて、猛き兵もみな袖をぞ濡らしける。 同じく二十八日、前の兵衛佐頼朝、従二位に叙せらる。もとは正四位の下なりしが、越階とて三階【*二階】するぞありがたき朝恩なるに、これはすでに三階なり。三位こそし給ふべかりしが、平家のしたりしを忌まうてなり。それよりしてぞ「鎌倉源の二位殿」とは申しける。 その夜の子の刻に内侍所、温明殿へ入らせ給ふ。行幸なつて、三が夜、臨時の御神楽あり。長久元年九月、永暦元年四月の例とぞ聞こえし。 平大納言時忠の卿も、判官の宿所近くありけるが、なほ命やあしかり【*惜しかり】けん、子息讃岐の中将を呼うで、「散らすまじき文どもを義経に取られたるぞ。この文関東へ見えなば、人も損じなんず。わが身も生けらるまじ」とのたまへば、中将、「判官はなさけ探き男にて、女房なんどの訴へは、いかなる大事をもはなたずと承る。姫君数ましませば、なにか苦しかるべき。一人まみえさせ、親しくなりて、このよし仰せらるべうや候ふらん」と申されければ、「無慚や、われ世にありしときは、女御、后にもとこそ思ひつれ」とのたまへば、「今はそのことおぼしめし寄るべからず」とぞ申されける。当腹の十七になり給ふは、あまりに惜しみ給へば、さきの腹の姫君の二十三になり給ふをぞ
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判官に見せられける。優にやさしき人なれば、判官よろこび給ひて、もとの上、河越の小太郎重頼が娘もありしかども、別の御方に尋常にもてなされけり。あるとき、女房くだんの文のことをのたまひ出だされたりければ、「さること候」とて、あまつさへ封をも解かず、大納言へぞおくられける。時忠よろこびて、すなはち焼かれけるとかや。「いかなることかありつらん、おぼつかなし」とぞ人申しける。 建礼門院は、東山のふもと、吉田の辺にぞたち入り給ひける。中納言法印慶恵と申す奈良法師の坊なりけり。住み荒らして、庭には草ふかく、軒にはよもぎ茂り、簾絶え、閨あらはれて、雨風たまるべき様もなし。花は色々にほへども、主とたのむ人もなく、月は夜な夜なさし入れども、ながめて明かす友もなし。昔は、玉の台をみがき、錦の帳にまとはれて、明かし暮らさせ給ひしに、今は、ありとしありし人には別れはてて、あさましきすまひこそかなしけれ。女房たちもこれより散り散りになり、魚の陸にあがれるがごとく、鳥の巣をはなれたるさまなる。波の上いまさら恋しかりけり。 同じく五月一日、女院御髪おろさせ給ふ。御戒の師には、長楽寺の別当阿証房の上人印西なり。御布施には先帝の御直衣とかや。上人賜はりて、とかくのことばは出ださねども、墨染の袖をぞしぼられける。その期まで召されたれば、御香もいまだ尽きず。形見とてこれまで持たせ給ひしかども、「御菩提のためなれば」とて、泣く泣く取り出だし給ひけり。これを幡にぬひ、長楽寺の正面にかけられ
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けるとぞ承る。 女院、十五にて女御の宣旨を下され、十六にて后妃の位にそなはり、君王の側に候はせ給ひて、朝には朝政をすすめ、夜は夜をもつぱらにし給ふ。二十二にて皇子御誕生ありて、皇太子に立たせましまし、二十五にて院号かうぶらせ給ひて、「建礼門院」とぞ申しける。入道の御むすめなるうへ、天下の国母にてましませば、とかう申すにやおよぶ。今年二十九にぞならせ給ひける。桃李の粧ひ、なほ匂やかに、芙蓉の姿、いまだおとろへ給はねども、「翡翠のかんざしをつけても、今はなににかせん」と、泣く泣く御様を変へさせ給ふ。人々沈みしありさま、先帝の御面影、いつの世にか忘れ給ふべき。五月の短夜なれども、明かしかね給へば、昔を夢にも御覧ぜず。壁にそむきたる残んの燈火のかすかに、夜もすがら窓をうつ雨の音さびしかりけり。上陽人が上陽宮に閉ぢこめられけんかなしさも、これには過ぎじとぞ見えし。「昔をしのぶつまとなれ」とてやらん、もとの主が移し植ゑたるやらん、軒近く花橘のありけるが、風なつかしくかをりけるをりふし、山ほととぎすおとづれて過ぎければ、御硯の蓋に古歌をかうぞあそばしける。ほととぎす花たちばなの香をとめて鳴くは昔の人やこひしき女院、二位殿の様に水の底にも沈み給はず、武士どもに生捕られ、思ひもかけぬ岩のはざまにぞ明かし暮らさせ給ひける。すまひし宿は煙とあがり、むなしきあと
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のみ残りて茂みの野辺となりつつ、見なれし人の訪ひ来ることもなし。仙家より帰りて七世の孫にあひけんもかくやとおぼえてあはれなり。 本三位の中将重衡の北の方は、五条の大納言邦綱卿の御むすめ、先帝の御乳母、「大納言の典侍」とぞ申しける。「重衡生捕られ給ひぬ」と聞こえしかば、西海の旅の空まで嘆きかなしみ給ひしが、先帝におくれたてまつり、姉の大夫三位と同宿して、日野といふ所におはしけり。「中将、露の命いまだ消えやらぬ」と聞きしかば、「いま一度、見もし、見えばや」とたがひに思はれけれども、かなはねば、ただ泣くばかりにて明かし暮らし給ひけり。
第百七句 剣の巻 上
神代よりつたはれる二つの霊剣あり。「十握の剣」「叢雲の剣」これなり。十握の剣は、素戔烏尊大蛇を切り給ひてのち、「天〔の〕蝿切の剣」と名づけらる。大和の国石の上布留の社にこめられたり。叢雲の剣は、のちに「草薙の剣」と号す。内裏にあつて御守りたりしに、この度長く沈みて見えず。それ神代といつぱ、天神のはじめ、国常立尊は色はありて体なし。虚空にあること煙のごとし。ただ天地陰陽の儀なり。国狭立尊より体はありて面目なし。豊〓渟尊より面目はありて陰陽なし。第四より陰陽
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ありて和合なし。〓土〓尊、沙土〓尊、大戸之道尊、大戸間辺尊、面足尊、〓根尊等なり。第七代伊〓諾、伊〓〓より、天の浮橋のもとにしてはじめて和合のまじはりあり。下界なきことを思ひ、天の逆矛をもつて大海の底をさぐり給ふ。ひきあげまします矛のしただり島となる。「あは、地よ」とのたまへば、「淡路島」と申しけり。それより国々出で来り、山河草木生ひ長じ、また、「主なからんや」とて一女三男生み給ふ。日神、月神、蛭児、素戔烏これなり。日神はこれ天照大神、国を譲り給へり。月神は月読尊、山と岳を譲り給ふ。蛭児は五体不具なれば、天の浮船に乗せたてまつり、大海へ流されしが、摂津の国にかかつて、海を領ずる神となる。西の宮これなり。素戔烏は、「所分なし」とて遺恨あり。つひに出雲の国へ流され給ふ。その国霧が崎、簸の川上の山に、尾、頭八つの大蛇あり。背は苔むして眼は月日のごとし。年々に人を食す。親呑まれて子かなしみ、子呑まれて親嘆く。尊あはれみ〔見〕給へば、老人夫婦泣きゐたりけるがなかに、一人の美女あり。「いかに」と問ひ給ふに、「尉はこれ手摩乳、姥はこれ足摩乳、これなるが娘、『稲田姫』と申す。かの姫大蛇がために今宵餌食にあひあたりぬれば、泣きかなしめり」と申す。尊、あはれにおぼしめし、「姫を得させなば、大蛇を従へん」とのたまへば、「子細にやおよび候」。やがてはかりごとをぞなされける。八つの槽に酒を入れ、中に高く
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棚をかき、つよく八重垣をかまへ、火をとぼし、あかりに姫をよそほへば、八つの槽に影うつる。これを飲みしかば、大蛇、八岐ともに酔ひふしけり。このとき、十握の剣をもつて、段々に斬り給ふに、一つ斬れざる尾あり。あやしみ見給へば、中に一つの霊剣あり。大蛇の尾にありしときは、つねに八色の雲立ちければ、「天の叢雲」と号し、国を、「出雲」と申すなり。さてこそ尊の歌に、
八雲立つ出雲八重垣つまこめて八重垣つくるその八重垣を W
それよりしてこそ三十一字ははじまりけれ。大蛇は風水龍王天下りし、死してのち、近江と美濃とのさかひなる伊吹の明神これなり。姫をばやがて尊へ参らするに、かづらよそほひたる黄楊のつま櫛を、「かたみに」とて、うしろへ投げければ、夫婦これを取りてのち、ふたたびあはず。それより「別れの櫛」とは言ひつたへたり。尊は出雲の国へ宮居ましましき。今の大社これなり。
かの剣は、また天照大神に参らせられ、御仲なほらせ給ひけり。それより代々つたはりしを、第十代の帝、崇神天皇、「同じ殿にはおそれあり」とて、伊勢大神宮へうつしたてまつり給ひけり。十二代の帝、景行天皇四十年の六月、東夷そむけり。第二の皇子倭建尊、官軍を召し具して、同じき十月、都をたたせ給ひ、まづ伊勢大神宮へ参詣ある。御妹の斎の宮をもつて、「帝の御命に従つて東夷にまかり向かふ」よし申し給へば、「つつしんで、怖るることなかれ」とて、
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叢雲の剣を賜はりけり。これを帯いて下り給ふに、かの大蛇、なほいきどほりやまずして大路に伏しはびこる。「破りて通りがたし」とて、官軍みな帰りければ、「不破の関」とは申すなり。倭建尊、もとより剛にましませば、「君命そむきがたし」とて、一人踏み越え給ふ。御足ほとほりたへがたし。心に悲願をおこし、清水にひやし給へば、ほとほり醒めけり。「醒が井の水」これなり。駿河の国まで攻め下りましますに、その国の凶徒、「狩野の遊び」と申しこしらへ、浮島が原へ具足し申し、四方の野に火をつけ、「焼き殺したてまつらん」とせしとき、御剣にて三十余町の草を薙がれければ、すなはち燃え退きぬ。それよりしてぞ「草薙の剣」とは申したてまつる。かくて三年のうちに東を攻めしたがへ、同じき四十三年癸未に帰りのぼらせ給ふが、御下りのとき、尾張の国松が小島といふ所の源太夫が娘岩戸姫に一夜の契りあさからずして、また、たち寄らせ給ふ。御悩つかせましまして、生捕の夷どもを武彦の宮に仰せて、帝へ奉り、近江の国千本の松原といふ所に悩み臥し給ひしを、岩戸姫心もとなくおぼしてたづねゆかれければ、尊うれしさのあまりに、「あは、つま」とのたまへば、東を「あづま」と名づけられけり。尊はたち帰り、松が小島にてはて給へば、国を「尾張」と申すなり。白き鳥となりて、西をさして飛び去りぬ。「白鳥塚」これなり。剣を田作りの記太夫といふ者が田なかの杉原に暫時寄せかけ置かれたれば、剣の光燃えたちて、杉みな焼けにけり。今
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の熱田これなり。倭建尊は大明神と現じ給ふ。岩戸姫も、源太夫も、田作りの記太夫も同じく神とぞ斎はれける。幡納められし所をば、「幡屋」と号して今にあり。頼朝、源氏の大将となるべきゆゑにや、かの幡屋にてぞ生まれ給ひける。剣はそのまま熱田の宮にこめられしを、天智天皇七年に、新羅の帝より沙門道行を渡して、「この剣を盗まん」とせしを、住吉の明神蹴殺し給ふ。なほ望みをかけしゆゑ、生不動といふ聖に七つの剣を持たせ、日本へ渡さる。尾張の国へ着きしかば、熱田の明神蹴殺し給ふ。七つの剣、御剣にくはへて宝殿に斎はれけり。今の「八剣〔の〕大明神」これなり。天武天皇の御宇、朱鳥元年に内裏に納めたてまつり給ひ、「宝剣」と名づけらる。昔はかうこそありしに、今海底に沈みし末の世こそうたてけれ。つらつら事の心を案ずるに、大蛇の執着深かりければ、みな彼が化身にて、「剣をとらん」としてんげるにや。不破の関の大蛇も、沙門道行、生不動、みなこの化身なり。あまつさへ、わが朝の安天皇と生まれ、八歳の龍女の姿を示さんがために、八歳の帝王の体を現して、かの剣を取り返し、深く龍宮に納めけるとかや。
第百八句 剣の巻 下
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源家に二つの剣有り。「膝丸」「鬚切」と申(まう)しけり。人皇五十〔六〕代の帝、清和天皇第六の皇子、貞純の親王と申(まう)し奉(たてまつ)る。その御子経基六孫王、その嫡子(ちやくし)多田の満仲、上野介たりし時(とき)、源の姓を賜(たま)はつて、「天下の守護たるべき」よし、勅諚有りければ、まづよき剣をぞもとめられける。筑前の国御笠の郡出山といふ所(ところ)より鍛冶の上手を召されけり。彼もとより名作なる上(うへ)、宇佐の宮に参籠し、向後、剣の威徳(ゐとく)をぞ祈りける。南無八幡大菩薩、悲願あに詮なからんや。他の人よりもわが人なれば、氏子をまぼり給(たま)ふらめ、しからばかの太刀(たち)を剣となし、源氏(げんじ)の姓の弓矢(ゆみや)の冥加(みやうが)長くまぼり給へ」と深く丹心をぬきんで、御(おん)社を出でにけり。やがて都(みやこ)へのぼり、最上の鉄(くろがね)を六十日鍛ひ、剣二つ作りけり。いづれも二尺七寸なり。人を切るにおよんで、鬚一毛も残らず切れければ、「鬚切」と名づけらる。今(いま)一つは、もろ膝を薙ぎすましたりとて、「膝丸」と申すなり。満仲の嫡子(ちやくし)、摂津守頼光につたはりける。かの時(とき)人多(おほ)くかき消す様に失せにければ、恐ろしかりしことどもなり。これを詳しく尋(たづ)ぬるに、嵯峨の天皇の御宇、ある女、あまりにものを妬み、貴船の大明神に祈りけるは、「願はくは鬼(おに)となり、妬ましと思ふ者をとり殺さばや」とぞ申(まう)しける。神は正直なれば、示現(じげん)あらたなり。やがて都(みやこ)に帰り、丈(たけ)なる髪を五つに巻き、松脂をもつてかため、五つの角をつくり、面には朱をさし、身には丹
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をぬる。頭に鉄輪をいただき、三つの足に松明を結ひつけ、火を燃やし、夜にだになれば、大和大路を南へ行き、宇治の川瀬に三七日ひたりければ、逢ふ者肝(きも)を消し、やがて鬼(おに)とぞなりにける。「宇治の橋姫」とはこれなり。「にくし」と思ふ女の縁者どもを取るほどに、残りずくなく失せにけり。京中、申(さる)の刻(こく)よりのちは門を閉ぢて音もせず。そのころ、頼光(よりみつ)の郎等(らうどう)に「渡辺(わたなべ)の源四郎(げんしらう)綱(つな)」といふ者(もの)有り。武蔵(むさし)の国(くに)箕田(みた)[* 「ひしだ」と有るのを他本により訂正]といふ所(ところ)にて生(む)まれければ、箕田(みた)[* 「ひしだ」と有るのを他本により訂正]の源四(げんし)と申(まう)しけり。頼光(よりみつ)の使として、一条(いちでう)大宮(おほみや)につかはしけるが、夜陰(やいん)におよび、馬(むま)に乗(の)り、おそろしき世(よ)の中(なか)なればとて、鬚切をはかせらる。一条(いちでう)堀川(ほりかは)の戻橋(もどりばし)にて、齢(よはひ)二十あまりの女房(にようばう)の、まことにきよげなるが、紅梅(こうばい)の薄絹の袖ごめに法華経持ち、懸帯して、まぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱(つな)がうち過ぐるを見て、夜(よ)ふけおそろしきに、送り給(たま)ひなんやと、なつかしげに言ひければ、綱(つな)馬(むま)より飛んでおり、子細にやおよび候(さうら)ふべきとて、いだいて馬(むま)に乗(の)せ、わが身も後輪(しづわ)にむずと乗(の)り、堀川(ほりかは)の東(ひがし)を南(みなみ)へ行きけるに、女房(にようばう)申す様(やう)、わが住む所(ところ)は都(みやこ)のほか。おくり給はんや」。「さん候(ざうらふ)」とこたへければ、「わが行く所(ところ)は愛宕山ぞ」とて、綱(つな)が髻(もとどり)ひつ掴(つか)んで、乾(いぬゐ)をさして飛んで行く。綱(つな)はちともさわがず、鬚切を抜きあはせ、「鬼(おに)の手切る」と思(おも)へば、北野の社の回廊の上(うへ)にぞ落ちにける。髻(もとどり)につきたる手を取りてみれば、女房(にようばう)の姿(すがた)にては、雪の膚(はだへ)とおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮(こちぢ)みなり。これ
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を持参(ぢさん)しければ、頼光(よりみつ)おどろき給(たま)ひて、播磨(はりま)なる晴明(せいめい)を呼びて問はれければ、「綱(つな)は七日のいとま賜(たま)はつて、仁王経(にんわうぎやう)を購読(かうどく)すべし」とぞ申(まう)しける。第六日(だいむいか)になる夜(よ)、門(もん)をたたく者(もの)有り。「たれ」と問へば、「綱(つな)が養母、渡辺(わたなべ)よりのぼりたる」とこたふ。この養母と申(まう)すは、綱(つな)がためには伯母(をば)なり。「人してはあしかりなん」とて、綱(つな)たち寄りて言ひけるは、「七日の物忌(ものいみ)にて候(さうら)へば、いづくにも一夜(いちや)を宿(やど)を借り給(たま)ひて、明日(みやうにち)入らせ給(たま)ふべし」と言へば、母、さめざめと泣き、「生(む)まれしよりあらき風にもあてず、人だてし甲斐有りて、頼光(よりみつ)の御(おん)内に、『箕田(みた)[* 「ひしだ」と有るのを他本により訂正]源四(げんし)』とだに言ひつれば、肩を並ぶる者(もの)なし。うれしきにつけても、恋しとのみ思(おも)へば、このごろはひとしほ夢見心(こころ)もとなくて、のぼりたるに、門をさへひらかざりし。かかる不孝(ふけう)の咎なれば、神明(しんめい)もまぼり給はじ。七日の祈誓(きせい)よしなし。今(いま)よりは子ともたのむべからず。親と思ふなよ」とかきくどき言ひければ、綱(つな)は道理にせめられて、「たとひ身はいかになるとも」とて、門をひらきて入れてげり。来し方、行く末の物語りして、「さても物忌とは何事ぞ」と尋(たづ)ねければ、隠すべきことならねば、有りのままに語る。母、「聞きて、さほどのこととは知らずして恨みしことのくやしさよ。されども親はまぼりなれば、いよいよつつがなるべし。さてその鬼(おに)の手といふなるもの、世の物語(ものがたり)に見ばや」とぞ望みける。綱(つな)は「見せじ」とは思(おも)へども、さきの恨みが肝(きも)に染み、深く封じたる鬼(おに)の手を取り出だし、養母に見せければ、「これはわが手ぞや」とて、おそろしげなる鬼(おに)になり、破風蹴破り、出でにけり。それより渡辺党(わたなべたう)
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は家に破風をたてず。あづまやにつくるなり。鬚切、鬼(おに)を切りてより「鬼丸」と改名(かいみやう)しけり。また頼光(よりみつ)、そのころ瘧病(ぎやへい)わずらはる。なかばさめたるをりふしに、空より変化(へんげ)の者(もの)下(くだ)り、頼光(よりみつ)を綱(つな)にて巻かんとす。枕なる膝丸抜きあはせ、「切る」と思(おも)はれしかば、血こぼれて、北野の塚穴のうちへぞつなぎける。掘りてみれば、蜘蛛にて有り。鉄(くろがね)の串にさしてぞさらされける。それより膝丸を「蜘蛛切」とぞ申(まう)しける。頼光(よりみつ)よりのち、三河守(みかはのかみ)頼綱(よりつな)につたはる。天喜五年(ごねん)に頼光(よりみつ)の弟、河内守(かはちのかみ)頼信(よりのぶ)の嫡子(ちやくし)、伊予守(いよのかみ)頼義(よりよし)、奥州(あうしう)の住人(ぢゆうにん)、厨川(くりやがは)の次郎、安倍の貞任(さだたふ)兄弟(きやうだい)を攻めんとせし時(とき)、陸奥守に任ぜらる。宣旨(せんじ)にて鬼丸、蜘蛛切を頼綱(よりつな)が手より頼義(よりよし)に賜びにけり。かの太刀(たち)にて九年があひだに攻め従(したが)へ、貞任(さだたふ)を首を切り、宗任(むねたふ)をば生捕(いけどり)にし、上(のぼ)られけるが、丈(たけ)六尺四寸なり。殿上人うち群れて、「いざや、奥の夷(えびす)を見ん」とて行かれけるに、一人梅(むめ)の花を手折(たを)りて、「やや宗任(むねたふ)。これはなにとか見る」と問はれければ、とりあへず、
わが国(くに)の梅(むめ)の花とは見たれども大宮人(おほみやびと)はいかがいふらん
と申(まう)しければ、殿上人しらけてぞ帰(かへ)られける。そののち筑紫(つくし)へ流され、今(いま)の「松浦党(まつらたう)」とぞ承(うけたまは)る。かくて頼義(よりよし)より嫡子(ちやくし)八幡太郎義家(よしいへ)につたはる。また奥州(あうしう)を賜(たま)はつて下(くだ)りしほどに、出羽の国千福(せんぶく)金沢(かなざは)の城(じやう)に家衡(いへひら)武衡(たけひら)とぢ籠(こも)りて、国を乱す。義家(よしいへ)向かつて、三年に攻め従(したが)へ、あはせて十二年の合戦(かつせん)に、
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朝敵(てうてき)ほろびぬ〔る〕こと、二つの剣の威光(ゐくわう)なり。義家(よしいへ)の嫡子(ちやくし)対馬守(つしまのかみ)、「出雲[* 「てわ(出羽)」と有るのを他本により訂正]の国に謀叛(むほん)の者(もの)有り」とて、因幡(いなば)の正盛(まさもり)を下(くだ)され、かの国(くに)にて討たれしかば、四男六条(ろくでう)の判官(はうぐわん)為義(ためよし)につたはる。十四にて叔父(をぢ)を討ち、左近将監(さこんのしやうげん)に任ぜらる。十八歳にて、南都(なんと)の衆徒(しゆと)の謀叛(むほん)をたひらげ、栗子山の峠(たうげ)より追つ返し、あまさへ物具(もののぐ)はぎなんどしけるも、剣の威徳(ゐとく)とぞおぼえし。その時(とき)山法師聞きてかくぞ詠みける。
奈良法師栗子山までしぶり来ていが物具(もののぐ)をむきぞとらるる
奈良法師やすからざることに思(おも)ひける所(ところ)に、山法師、阿波の上座(じやうざ)といふ者(もの)にたばかられて禁獄(きんごく)せられたれば、これを栗子山の返答(へんたふ)にかくなん。
ひえ法師(ほふし)あはの上座(じやうざ)にはかられてきびしく牢につかれおるかな
為義(ためよし)勧賞(くわんしやう)に右衛門尉(ゑもんのじよう)になる。三十九にて検非違使になりて、陸奥守を望み申されければ、「頼義(よりよし)、義家(よしいへ)、数年(すねん)の戦(たたか)ひ有り。門出(かどで)あしければ他国(たこく)を賜(たま)はるべし」と仰せ下(くだ)さる。「先祖(せんぞ)の国(くに)賜(たま)はらずして、なにかせん」とて、つひに受領(じゆりやう)せざりけり。ある時(とき)、かの剣夜もすがら吠ゆる声(こゑ)有り。鬼丸は獅子の声(こゑ)なり。蜘蛛切は蛇の鳴く声(こゑ)なり。かかりければ鬼丸を「獅子の子」とあらため、蜘蛛切を「吠丸」とつけらる。為義(ためよし)、思(おも)ひ者(もの)あまた有りければ、男女(なんによ)四十六人の子なり。熊野(くまの)に有りけるは、「鶴原(たづはら)[* 「かつらはら」と有るのを他本により訂正]の女房」とぞ申(まう)しける。その腹に娘(むすめ)有り。白河(しらかは)の院(ゐん)熊野(くまの)〔へ〕参詣(さんけい)
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有りし時(とき)、「別当(べつたう)は」と御(おん)尋(たづ)ね有りければ、「もとより候はず」と申す。「いかにさることあるべし」と仰せ出だされければ、をりふし花そなへて籠(こも)りたる山伏を、「院宣(ゐんぜん)なれば」とて、らいぎ党、鈴木党がおさへてなしにけり。教真(けうしん)別当(べつたう)これなり。「別当(べつたう)は重代(ぢゆうだい)すべき者(もの)なれば、子なくてはかなふまじ」とて、最愛(さいあい)を尋(たづ)ねしに、「為義(ためよし)が鶴原(たづはら)[* 「かつらはら」と有るのを他本により訂正]の娘(むすめ)」とぞ聞こえし。為義(ためよし)つたへ聞きて、ゆくへも知らぬ修行者(しゆぎやうじや)をおさへて合はせられしこと、口惜しき」ことにして、不孝(ふけう)の子のごとし。かかりける所(ところ)に、「源平(げんぺい)国(くに)をあらそふべき」よし、遠国(をんごく)までも披露(ひろう)有り。教真(けうしん)、「この時(とき)与力(よりき)して、不孝(ふけう)をも許さればや」と思(おも)ひ、客僧、悪僧ら一万余騎にて、都(みやこ)にのぼりけり。為義(ためよし)聞きて、「氏、種、姓は知らねども、かひがひしく、ゆゆしし。さもあれ、おぼつかなし」とてねんごろに尋(たづ)ぬれば、実方(さねかた)中将(ちゆうじやう)の末葉(ばつえふ)、系図、目録あざやかなれば、対面(たいめん)におよんで、吠丸をこそ引きにけれ。教真(けうしん)別当(べつたう)これを賜(たま)はつて、「私宅に収むべきにあらず」とて、すなはち権現(ごんげん)に籠め奉(たてまつ)る。昔(むかし)より二つの剣なりしをひきはなち、心もとなくおぼえて、鍛冶の上手を召し、獅子の子を本にしてつくられければ、〔まさるほどにぞつくりける。目貫に烏をつくらせければ、〕「小烏(こがらす)」とぞ申(まう)しける。「すこしも違はず」といへども、獅子の子に二分ばかり長かりけり。ある時(とき)二つの剣を、柄、鞘を取り、障子(しやうじ)に寄せかけ、立てられけるが、からからと倒れあひ、同士討ちして、小烏(こがらす)が中子、さき二分ばかりうち切りて、同じ長さにぞなりにける。それより獅子の子を、「友切」とは呼ばれけり。為義(ためよし)、二つの剣を
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嫡子(ちやくし)下野守(しもつけのかみ)義朝(よしとも)にゆづられけり。さるほどに、保元(ほうげん)の乱れ出で来る。為義(ためよし)は、父子七人、院(ゐん)の御所へ参(まゐ)らる。義朝(よしとも)一人内裏(だいり)へ召さる。保元(ほうげん)元年(ぐわんねん)七月十一日寅の刻(こく)より辰の刻(こく)まで三時(みとき)のいくさに、新院(しんゐん)負け給(たま)ふあひだ、為義(ためよし)東国(とうごく)へは単己無頼なれば下(くだ)らず。天台山(てんだいさん)にて出家(しゆつけ)して、「義法房(ぎほふばう)」と申せしが、「されども子なれば見はなたじ」とて、嫡子(ちやくし)義朝(よしとも)を頼み行かれけり。朝敵(てうてき)なれば力(ちから)およはず、義朝(よしとも)承(うけたまは)つて斬られけるこそ口惜しけれ。同じく舎弟(しやてい)、為朝(ためとも)ばかり助かりて、五人は斬られぬ。腹々の子四人ともに殺さる。為朝(ためとも)は伊豆の国に流され、つひに討たれにけり。今度(こんど)の勧賞(くわんしやう)に、義朝(よしとも)左馬頭(さまのかみ)になされしが、やがて悪右衛門督(あくゑもんのかみ)信頼(のぶより)にかたらはれて朝敵(てうてき)となり、都(みやこ)を落ちし時(とき)、西近江(にしあふみ)比良(ひら)といふ所(ところ)にて、八幡大菩薩を恨み奉(たてまつ)り、「祖父(そぶ)義家(よしいへ)は、大菩薩の御烏帽子子(えぼしご)として、八幡太郎と号(かう)せしよりこのかた、『弓矢(ゆみや)の冥加(みやうが)においては疑(うたが)ひなし』と思(おも)ひしに、たのむ木のもとに雨もりて、やみやみと負けぬるこそ不思議(ふしぎ)なれ。ことに剣の威徳(ゐとく)まで劣りはてぬるくやしさよ。今(いま)は放たせ給(たま)ふにこそ」とて、少しまどろみけるに、あらたなる示現(じげん)有り。「われ放つにあらず。剣の威劣るにあらず。つねに名をあらためけることは、剣の威かろんずればなり。ことさら『友切』の名詮自性(みやうせんじしやう)は、味方滅ぶるにあひ似たり。なほも剣の名を昔(むかし)にかへさば、末(すゑ)はたのもしからん」とて、夢(ゆめ)ははてにけり。義朝(よしとも)うちおどろき、すなはち
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昔(むかし)の名にぞかへされける。「産衣(うぶぎぬ)」といふ鎧(よろひ)に「鬚切」そへて、頼朝(よりとも)にこそゆづられけれ。十二歳。いくさの場よりして、かの太刀(たち)、鎧(よろひ)を着(ちやく)せしは、末代(まつだい)の将軍(しやうぐん)と見なし給(たま)ふぞ奇特なる。塩津(しほづ)の庄司(しやうじ)がもとに一宿し、東近江(ひがしあふみ)へ道しるべせられ、「鈴鹿の関、不破の関はふさがりぬ。討手(うちて)下(くだ)る」と聞こえしかば、雪山(せつさん)に分け入りぬ。悪源太(あくげんだ)義平(よしひら)は、飛騨の国(くに)へ落ち行きぬ。頼朝(よりとも)はいとけなければ、大雪を分けかねて、山の口にとまる。義朝(よしとも)は朝長(ともなが)を召し具(ぐ)して、美濃の国(くに)青墓の長者(ちやうじや)が宿所へ行かれしが、朝長(ともなが)は痛手(いたで)なれば、自害(じがい)しつ。尾張(をはり)の国(くに)長田の庄司(しやうじ)忠致(ただむね)をたのまれしに、長田、甲斐なく討ち奉(たてまつ)り、御(おん)首に小烏(こがらす)あひそへて、平家の見参(げんざん)に入りしより、小烏(こがらす)は平家の剣となりにけり。頼朝(よりとも)は、雪山(せつさん)を出でて、東近江(ひがしあふみ)、草野の尉(じよう)にやしなはれ、御堂(みだう)の天井(てんじやう)に隠されしが、をさなけれどもかしこくて、「われはつひにはさがし出だされなん。剣を平家に取られじ」と思(おも)ひ、草野の尉(じよう)を深く頼み、母方の祖父(おほぢ)なればとて、熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)にあづけけり。清盛(きよもり)の舎弟(しやてい)三河守(みかはのかみ)頼盛(よりもり)、今度(こんど)の勧賞(くわんしやう)に尾張守(をはりのかみ)になり、弥平兵衛(やひやうびやうゑ)宗清(むねきよ)を下(くだ)さる。頼朝(よりとも)[* 「よしとも」と有るのを他本により訂正]をさがし取つてのぼりければ、やがて宗清(むねきよ)にあづけらる。頼盛(よりもり)の母の尼公(にこう)、死罪(しざい)を申(まう)しなだめ、伊豆の国北条(ほうでう)の蛭が小島へ流され、三十一と申す治承(ぢしよう)四年の夏、一院(いちゐん)の宣旨(せんじ)をかうぶりて、謀叛(むほん)をおこされし時(とき)、熱田(あつた)の宮より申(まう)し乞ひ、鬚切を帯(は)き、
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五畿(ごき)七道(しちだう)を従(したが)へ給(たま)ふ。牛若(うしわか)、その時(とき)当歳(たうざい)なり。九つの年より鞍馬(くらま)へのぼり、東光房(とうくわうばう)円忍(ゑんにん)の弟子(でし)、覚円房(かくゑんばう)に学問(がくもん)し、遮那王(しやなわう)と言ひけるが、十六と申す承安(じようあん)四年の春、五条(ごでう)の橋の辺なる末春(すゑはる)といふ商人(あきんど)と東(あづま)へ下(くだ)り、道にてみづから元服(げんぶく)して、源九郎義経(よしつね)と名のり、権太郎秀衡(ひでひら)を頼みしが、舎兄(しやきやう)の与力(よりき)としてのぼるほどに、合沢(あひざは)にて行き逢ひけり。木曾を誅戮(ちゆうりく)し、摂津(つ)の国(くに)一(いち)の谷(たに)へ向かはんとす。ここに熊野(くまの)の教真(けうしん)が子に、田辺(たなべ)の湛増(たんぞう)、「源氏は母方なれば」とて、為義(ためよし)の手より渡されし膝丸を引きて、見参(げんざん)にこそ入りにけれ。熊野(くまの)より春の山を出でたればとて、名をば「薄緑(うすみどり)」とあらためらる。山陽(さんやう)、山陰(さんいん)、南海、西海、源氏につくも、しかしながら剣の威徳(ゐとく)とぞおぼえし。義経(よしつね)、鎌倉(かまくら)へ下(くだ)らんとせし時(とき)、梶原(かぢはら)が讒言(ざんげん)によつて、かへり上(のぼ)られけるに、剣を箱根(はこね)に籠められけり。建久(けんきう)四年五月二十八日の夜、曾我(そが)兄弟(きやうだい)が夜討(ようち)の時(とき)、箱根(はこね)の別当(べつたう)行実(ぎやうじつ)が手より兵庫鎖(ひやうごぐさり)の太刀(たち)を五郎に得しは、この薄緑(うすみどり)なり。されば名を後代にあげしとかや。その時(とき)鎌倉(かまくら)に召され、鬚切、膝丸一具にして、つひにまはり逢ひければ、まことは源氏の重代と、奇特不思議の剣なり。
第百九句 鏡の沙汰(さた)
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神代より三つの鏡有り。内侍所(ないしどころ)と申し奉(たてまつ)るは、その一つなり。昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)、天(あま)の岩戸(いはと)を閉ぢて、天下(てんが)暗闇となさせましませし時(とき)、よろづの神(かみ)達(たち)集(あつま)りて、こはいかがすべきとはかりごとを思(おも)ひまうけ、榊(さかき)の御四手をささげ、御神楽(みかぐら)を奏し給(たま)ひしかば、天照大神(てんせうだいじん)、岩戸(いはと)を細目に開(ひら)かせ給(たま)ひて、御覧(ごらん)ぜられし時(とき)、世の中少し明(あけ)になりて、集(あつま)らせ給(たま)ひける神々の御顔(おんかほ)白々として見えければ、岩戸(いはと)のうちより面(おも)白しと宣(のたま)ひける。おもしろと言ふ言葉それよりしてぞ始まりける。天照大神(てんせうだいじん)岩戸(いはと)より御目を少し出ださせ給(たま)ふを、集(あつ)まられける神(かみ)達(たち)の、あな目出たやといさまれければ、それよりこそ悦(よろこ)びの言葉を、めでたしとは申すなれ。その時(とき)手力雄命(たぢからをのみこと)と言ふ大力(だいぢから)の神有りしが、えい声(ごゑ)をあげて、岩戸(いはと)をひき開(ひら)き、扉をひきちぎつて、虚空へ遠く投げられける程(ほど)に、信濃国(しなののくに)に落ち着きぬ。戸隠の明神(みやうじん)是(これ)なり。それよりこのかた、日月星宿(しやうしゆく)照り給へば、天照大神(てんせうだいじん)と申し奉(たてまつ)る。岩戸(いはと)をひき破られて、大神(だいじん)あらはれ給へば、千岩破(ちはやぶ)る神と申すなり。その後(のち)よしあれば、又色々の文字書き替ゆるなり。かくて天照大神(てんせうだいじん)岩戸(いはと)に住ませましませし時(とき)、わが子孫(しそん)我(われ)を見まほしく思(おも)はん時(とき)は、此の鏡を見よとて、神(かみ)達(たち)に仰せて、天(あま)の香具山よりあらがねを取り、鋳給(たま)ひけれども、曇りてあしかりければ、末(すゑ)の世にはいかがとて、捨て給(たま)ひぬ。今(いま)紀伊国(きいのくに)日前像と申す所(ところ)なり。次(つぎ)に鋳給へるは、床(しやう)を一つにして御かたちをありありと鋳うつされければ、内侍所(ないしどころ)と名づけて、御子の
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正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさやわれかつかつはやひあまのおしほにのみこと)に譲(ゆづ)り給(たま)ひけり。神といつぱ鏡なり。神はにごれるをきらふ故(ゆゑ)に、「が」の字を中略して、「かがみ」を「かみ」とは申し奉(たてまつ)るなり。御子の尊(みこと)、恋しくおぼしめされし時(とき)は、大神(だいじん)の御形よとて見給へば、亡きあとのしるしを今(いま)、「形見(かたみ)」とは申すなり。それより次第に伝はつて人皇(にんわう)の御代に及(およ)び、九代(くだい)の御門(みかど)、開化天皇(かいくわてんわう)の御宇までは、御門(みかど)も内侍所(ないしどころ)も一宇の殿にましましけるが、第十代(だいじふだい)の御門(みかど)、崇神天皇(すじんてんわう)の御時(おんとき)、霊威(れいゐ)に恐(おそ)れて、別殿(べちでん)に移し奉(たてまつ)らる。それよりしてこそ内侍所(ないしどころ)、温明殿(うんめいでん)へは移らせ給(たま)ひけれ。遷都(せんと)遷幸(せんがう)の後(のち)、百六十年(ひやくろくじふねん)有りて、村上天皇(むらかみのてんわう)の御時(おんとき)、天徳(てんとく)四年(しねん)九月(くぐわつ)廿二日(にじふににち)の子刻(ねのこく)、内裏(だいり)の中の辺より火出で来る。火元は左衛門(さゑもん)が陣(ぢん)にて、内侍所(ないしどころ)のおはします温明殿(うんめいでん)近かりけり。静(しづか)なる夜半(やはん)の事なりければ、内侍(ないし)も女官(によくわん)も参(まゐ)り合はずして、内侍所(ないしどころ)を出だし奉(たてまつ)るべき人も無し。小野宮殿(をののみやどの)、急ぎ参(まゐ)り見給(たま)ふに、内侍所(ないしどころ)の渡らせ給(たま)ふなる温明殿(うんめいでん)既(すで)に焼けさせ給(たま)ひぬ。今(いま)は世はかうこそとて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給へば、内侍所(ないしどころ)は温明殿(うんめいでん)の唐櫃(からびつ)より飛び出でさせましまして、南殿(なんでん)の桜(さくら)の木にかからせ給(たま)ひけり。光明(くわうみやう)赫奕(かくやく)として、朝日の山の端より出づるに異ならず。その時(とき)、小野宮殿(をののみやどの)、世は尽きざりけりとて、悦(よろこ)びの涙(なみだ)せきあへず、右の膝(ひざ)をつき、左の袖(そで)をひろげさせ給(たま)ひて、昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)百王を守(まぼ)り給はんとの御誓(おんちか)ひましますなり。その御
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誓(おんちか)ひいまだあらたまらずんば、神鏡(しんきやう)実頼(さねより)さねもりが袖(そで)に宿(やど)らせ給(たま)へと申(まう)させ給(たま)へば、その言葉の末(すゑ)いまだ果てざるに、内侍所(ないしどころ)は桜(さくら)の梢(こずゑ)より、御袖(おんそで)に飛び移らせ給(たま)ひけり。やがて御袖(おんそで)につつみ奉(たてまつ)り、主上(しゆしやう)のまします太政官(だいじやうくわん)の朝所(てうしよ)へ渡し奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。此の代(だい)にはうけ奉(たてまつ)るべき臣下(しんか)も誰(たれ)かおはすべき。内侍所(ないしどころ)も宿(やど)らせ給(たま)ふまじ。思(おも)へば上古(しやうこ)こそめでたけれ。さればにや長門の国壇の浦にて、夷(えびす)ども取り奉(たてまつ)らんと唐櫃(からうと)の錠(じやう)をねぢ切つて、御蓋(おんふた)開(ひら)かんとしければ、たちまち目くれ鼻血たる。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、あなあさまし。それは内侍所(ないしどころ)と申(まう)して、神にて渡らせ給(たま)ふ。凡夫(ぼんぶ)はかからはぬことをと宣(のたま)へば、皆(みな)恐(おそ)れてぞのきにける。同(おな)じく元暦(げんりやく)二年(にねん)三月(さんぐわつ)廿五日(にじふごにち)鳥羽殿(とばどの)に着かせ給(たま)ふ。その夜の子刻(ねのこく)に太政官(だいじやうくわん)の朝所(てうしよ)へ入らせ給(たま)ふ。同(おな)じく廿八日の子刻(ねのこく)に温明殿(うんめいでん)に入らせ給(たま)ふ。行幸(ぎやうがう)なつて、三箇夜臨時の御神楽(みかぐら)有り。長久(ちやうきう)元年(ぐわんねん)、永暦(えいりやく)元年(ぐわんねん)四月(しぐわつ)の例とぞ聞こえし。左近将監(さこんのしやうげん)多(おほ)の好方(よしかた)、別勅(べつちよく)を承(うけたまは)り、家に伝はりたる弓立(ゆだち)の宮人(みやびと)神楽(かぐら)の秘曲(ひきよく)をつかまつり、優(いう)に珍重(ちんちゆう)にぞ聞こえし。此の歌は好方(よしかた)が祖父(そぶ)、八条(はつでうの)判官(はうぐわん)資忠(すけただ)がほかは知れる者無し。資忠(すけただ)あまりに秘して、子息(しそく)近方(ちかかた)にも伝(つた)へずして、堀河(ほりかは)の天皇(てんわう)御在位(おんざいゐ)の時(とき)、授(さづ)け奉(たてまつ)りて死してげり。さてこそ内侍所(ないしどころ)の御神楽(みかぐら)の有りし時(とき)は、主上(しゆしやう)御簾(みす)のうちにましまして、拍子(ひやうし)を取らせ給(たま)ひつつ、近方(ちかかた)に教(をし)へ
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させ給(たま)ひけり。誠(まこと)に父(ちち)に習(なら)ひたらんは世のつねなり。いやしき身として、かかる面目をほどこしけるこそめでたけれ。道(みち)を絶やさじとおぼしめされたる君の御心ざしのかたじけなさに、皆人(みなひと)感涙(かんるい)をぞ流しける。今(いま)一つの鏡と申すは、素戔烏(そさのを)の尊(みこと)の稲田姫(いなたひめ)の所(ところ)より得て、村雲(むらくも)の剣(つるぎ)と一つに天照大神(てんせうだいじん)へ参(まゐ)らせ給(たま)ふ。今(いま)は紀伊国(きいのくに)二見(ふたみ)の浦(うら)にあるとかや。ことに岩(いは)の奥に石に添うて有りければ、満潮(みちしほ)には見え給はず。潮干(しほひ)の時(とき)はあらはれ給(たま)ふ。されば海上(かいしやう)おだやかなる時(とき)は、押し渡り、先達(せんだち)をまうけて拝し奉(たてまつ)るとぞ承(うけたまは)る。鏡をば岩(いは)の間(あひだ)に納めたればこそ、蓋身(ふたみ)の浦(うら)とは申しけれ。又神璽(しんし)と申すは、第六天(だいろくてん)の魔王(まわう)の押手(おして)の判(はん)なり。いかなる子細(しさい)にて、天皇K帝王の御宝(おんたから)とはなるぞと申すに、第六天(だいろくてん)とは他化自在天(たけじざいてん)なり。魔王(まわう)すなはち六欲天(ろくよくてん)の主(ぬし)なり。日本はじめて出で来しかば、わが欲界(よくかい)と定(さだ)めし所(ところ)を、天照大神(てんせうだいじん)領(りやう)じ給(たま)ふ。神と言ひ仏(ほとけ)と言ひ、一致の体用(たいよう)、遂(つひ)には仏法(ぶつぽふ)流布すべし。許すべからずとて、三十一万五歳まで、魔界(まかい)と同(おな)じ。しかるを天照大神(てんせうだいじん)方便(はうべん)をもつて宣(のたま)ひけるは、此の国を譲(ゆづ)り給はば、我(われ)と魔王(まわう)の眷属(けんぞく)なりとて、手印(てしるし)を出だし給(たま)ふに、三宝(さんぼう)を見べからずとぞ誓(ちか)ひある。さては疑(うたが)ひ無しとて、押手(おして)の判(はん)を奉(たてまつ)る。此の判(はん)あらんかぎりは、神前(しんぜん)において、魔縁(まえん)の障碍(しやうげ)あるまじと、かたく誓(ちか)ひ渡し奉(たてまつ)る。されば今(いま)にいたるまで、神明(しんめい)の加護(かご)つよければ、悪魔(あくま)も恐(おそ)れけるとかや。神は正直なれば、御約束を違
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ひ給はず、かれが鑑(かが)みる所(ところ)なればとて、殿前(でんぜん)に出家(しゆつけ)を辞退(じたい)し給へり。平家滅びて後(のち)、国々(くにぐに)もしづまりて、人の通(かよ)ひもわづらひ無し。されば九郎(くらう)判官(はうぐわん)程(ほど)の人こそなかりけれ。鎌倉(かまくら)源二位殿(げんにゐどの)は何事(なにごと)もし出だし給はず。高名(かうみやう)あるはただ判官(はうぐわん)の世にてあるべしと、内々(ないない)申すと聞こえしかば、鎌倉殿(かまくらどの)、是(これ)を聞き伝(つた)へ給(たま)ひて、こはいかに頼朝(よりとも)がゐながらはかりごとをめぐらせばこそ、平家は滅びぬれ。九郎(くらう)ばかりしてはいかでかよをおさむべき。人の言ふはおごりて、いつしか世をばわがままにしたるにこそ。さばかんの朝敵(てうてき)、平大納言(だいなごん)が婿(むこ)になる事しかるべからず。又世にもはばからず大納言(だいなごん)が婿(むこ)に取るも心得ず。定(さだ)めて今度(こんど)下(くだ)りては、九郎(くらう)は過分(くわぶん)の振舞(ふるまひ)をぞせんずらんと、心よからず思(おも)はれける。
第百十句 副将(ふくしやう)
そのころ九郎(くらう)判官(はうぐわん)大臣殿(おほいとの)の父子(ふし)を具(ぐ)して、関東(くわんとう)へ下(くだ)らるると聞こえしかば、大臣殿(おほいとの)、判官(はうぐわん)のもとへ宣(のたま)ひつかはされけるば、この程(ほど)誠(まこと)や東(あづま)へ下(くだ)るべしと承(うけたまは)る。さては生捕(いけどり)のうちに、八歳(はつさい)の童(わらは)と記したるはいまだ此の世に候ふやらん。関東(くわんとう)へ下らぬさきに一度(いちど)見候はばやと宣(のたま)へば、やすき御事に候とぞいはれける。二人の女房(にようばう)、若君(わかぎみ)を中に置き奉(たてまつ)り、いかなる御有様(おんありさま)にか見なし参(まゐ)らせんずらんとて、朝な夕(ゆふ)な泣くよりほかの事ぞ無き。判官(はうぐわん)河越(かはごえ)の小太郎(こたらう)がもとへ
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言ひやられければ、河越(かはごえ)人の牛車(うしくるま)を借つて、若君(わかぎみ)女房(にようばう)ともに乗せ奉(たてまつ)り、大臣殿(おほいとの)の御方(おんかた)へ入れ参(まゐ)らする。若君(わかぎみ)遥(はるか)に父(ちち)を見奉(たてまつ)り給はで、よにも心よげにおはしけり。大臣殿(おほいとの)、いかに副将(ふくしやう)。是(これ)へと宣(のたま)へば、やがて御そばに寄り給(たま)ふ。若君(わかぎみ)を膝(ひざ)にかきのせ、髪かきなで、守護(しゆご)の武士共(ぶしども)に向かつて宣(のたま)ひけるは、是(これ)見給へ、殿原(とのばら)、是(これ)が母(はは)は、是(これ)を産むとて、難産(なんざん)をして死にぬ。産はたひらかにしたりしかども、うち臥してなやみしかば、我(われ)は今度(こんど)はかなくなりぬとおぼゆるなり。いかなる人の腹に若君(わかぎみ)まうけ給(たま)ふとも、是(これ)を育てて童(わらは)が形見(かたみ)に御覧(ごらん)ぜよ。乳母(めのと)なんどのもとへさし放ちやり給(たま)ふべからずと、あまりに言ひしが無惨(むざん)さに、天下(てんが)に事出で来ん時(とき)は、あの清宗(きよむね)は大将軍(たいしやうぐん)にて、是(これ)は副将軍(ふくしやうぐん)をせさせんずればとて、是(これ)が名をばやがて副将(ふくしやう)と言はんと言ひしかば、なのめならず悦(よろこ)んで、名を呼びなんどして愛せしが、七日と言ふに遂(つひ)にはかなくなりしぞとよ。見るたびにその事が忘られでとて泣き給へば、守護(しゆご)の武士(ぶし)も涙(なみだ)を流す。右衛門督(ゑもんのかみ)も泣かれけり。二人の女房(にようばう)共(ども)も袖(そで)をぞしぼりける。既(すで)に日もやうやう暮れゆけば、大臣殿(おほいとの)、さらば副将(ふくしやう)嬉しく見つ、とくとく帰(かへ)れと宣(のたま)へば、大臣殿(おほいとの)にひしひしと取りついて、いざや帰(かへ)らじとぞ泣かれける。右衛門督(ゑもんのかみ)立ちて、今宵(こよひ)は是(これ)に見苦(みぐる)しき事のあらんずるぞ。とくとく帰(かへ)りて又明日(みやうにち)参(まゐ)るべしと宣(のたま)へ共、なほも立ち給はず。二人の女房(にようばう)共(ども)よりて、すすめいだき奉(たてまつ)り、車(くるま)にぞ乗せ参(まゐ)らする。大臣殿(おほいとの)、
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若君(わかぎみ)のうしろを遥(はるか)に見送り給(たま)ひて、日来(ひごろ)の思(おも)ひ嘆きは事の数ならずとぞ泣かれける。母御前(ははごぜん)の遺言(ゆいごん)のいとほしければとて、遂(つひ)にさし放ちて乳母(めのと)のもとへもつかはさず、わが御前(おんまへ)にて育て奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。三歳(さんざい)の年、冠(かぶり)賜はり、初冠(うひかぶり)して、名のりを能宗(よしむね)とぞ生ひたち給(たま)ふまま、見めかたちいつくしくして、心ざまさへ優におはせしかば、大臣殿(おほいとの)なのめならずいとほしき事にし給(たま)ひて、西海(さいかい)の旅の空(そら)まで、遂(つひ)に片時(かたとき)もはなれ給はぬ所(ところ)に、軍(いくさ)やぶれて後(のち)、四十余日になりぬるに、今日(けふ)ぞはじめて見給(たま)ひける。五月七日の卯の刻に、判官(はうぐわん)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)具(ぐ)し奉(たてまつ)り、既(すで)に関東(くわんとう)へぞ下(くだ)り給(たま)ふ。六日の夜、河越(かはごえ)の小太郎(こたらう)判官(はうぐわん)に参(まゐ)りて申しけるは、さてあの若君(わかぎみ)をば何とし奉(たてまつ)り候ふべき。判官(はうぐわん)、当時(たうじ)暑き中に幼(をさな)き者ひき具(ぐ)して、関東(くわんとう)まで下(くだ)るに及(およ)ばず、是(これ)にてよき様(やう)にはからへと宣(のたま)へば、さては失(うしな)ふべき人よと心得て、若君(わかぎみ)は乳母(めのと)の女房(にようばう)と寝(い)ね給へり。その夜、深更(しんかう)に及(およ)んで、河越(かはごえ)の小太郎(こたらう)、女房(にようばう)共(ども)に申しけるは、大臣殿(おほいとの)既(すで)に関東(くわんとう)へ御下(くだ)り候ふ。重房(しげふさ)も判官(はうぐわん)の御供(おんとも)に下(くだ)り候へば、若君(わかぎみ)を、緒方(をかたの)三郎がもとへ入れ参(まゐ)らすべきにて候ふ。御車(おんくるま)寄せて、とくとくと申せば、女房(にようばう)共(ども)、誠(まこと)ぞと心得て、寝入り給へる若君(わかぎみ)を驚(おどろ)かし奉(たてまつ)り、いざさせ給へ、御迎ひに車(くるま)の候ふと申せば、若君(わかぎみ)驚(おどろ)かされて、昨日(きのふ)の様(やう)に大臣殿(おほいとの)の御方(おんかた)へ又参(まゐ)らんずるかと悦(よろこ)び給(たま)ふぞいとほしき。若君(わかぎみ)乗せ奉(たてまつ)りて、六条(ろくでう)
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を東(ひがし)へやる。河原(かはら)に車(くるま)をやりとどめ、敷皮(しきがは)しきて、若君(わかぎみ)をおろし奉(たてまつ)る。二人の女房(にようばう)達(たち)、日来(ひごろ)より思(おも)ひまうけたる事なれども、さしあたつては悲(かな)しかりけり。人の聞くをもはばからず、声(こゑ)も惜しまずをめき叫びけり。若君(わかぎみ)はあきれ給(たま)へる様(やう)にて、二人の女房(にようばう)共(ども)の泣くを見て、大臣殿(おほいとの)はいづくに渡らせ給(たま)ふぞと宣(のたま)へば、武士(ぶし)共(ども)寄りて、只今(ただいま)是(これ)へいらせ給はんずるに、おりて待ち参(まゐ)らせ給へとて、敷皮(しきがは)の上(うへ)にいだきおろし奉(たてまつ)る。河越(かはごえ)が郎等(らうどう)太刀(たち)を抜き、寄りければ、太刀かげを見給(たま)ひて、泣くをおどすとや思(おも)はれけん、いなや泣かじとて、乳母(めのと)が懐(ふところ)へ顔(かほ)さし入れて泣かれけり。河越(かはごえ)遅しと目を見あはせければ、太刀(たち)にてかなはじとて、刀(かたな)を抜き、乳母(めのと)が懐(ふところ)に顔(かほ)さし入れ給へる若君(わかぎみ)を、ひきはなち奉(たてまつ)り、遂(つひ)に御首取つてげり。首をば判官(はうぐわん)に見せ奉(たてまつ)らんとて持ちてゆく。むくろはむなしく河原(かはら)へ捨てにけり。二人の女房(にようばう)共(ども)、かちはだしにて、判官(はうぐわん)の御前(おんまへ)に行きて、なにか苦しう候ふべき。あの若君(わかぎみ)の御首賜(たま)はつて、後世(ごせ)とぶらひ奉(たてまつ)らばやと申せば、判官(はうぐわん)、もつともさるべしとてぞ許されける。二人の女房(にようばう)達(たち)、若君(わかぎみ)の御首を得て、乳母(めのと)の女房(にようばう)の懐(ふところ)に入れ、二人連れて、泣々(なくなく)帰(かへ)るとぞ見えし。その後(のち)五六日有りて、女房(にようばう)二人、桂川(かつらがは)に身を投げたる事有り。一人の女房(にようばう)は幼(をさな)き者の首を懐(ふところ)に入れて、沈みたりしは、若君(わかぎみ)の乳母(めのと)なりけり。乳母(めのと)が投げしは理(ことわり)なり。介錯(かいしやく)の女房(にようばう)さへ身を投げけるこそ有りがたけれ。
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平家物語 百二十句本(京都本)巻第十二

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平家(へいけ)巻(くわん)第十二(だいじふに) 目  録
第百十一句 大臣殿最後
     大臣殿父子関東下向
     関東たたるる事
     上人の説法
     右衛門督最後
第百十二句 重衡の最後
     垂衡南都へ渡さるる事
     阿弥陀供養
     北の方参会
     同じく離別の[* 「め」と有るのを他本により訂正]事
第百十三句 大地震
     九重の塔たはるる事
     天文の博士占ふ事
     文徳の御時の地震
     朱雀の御時の地震
第百十四句 腰 越
     九郎判官伊予守になる事
     同源氏あまた受領の事
     梶原讒訴
     申  状
第百十五句 時忠能登下り
     頼朝文覚ちうじやう
     義朝菩提院建立の事
     平家生捕り流罪の事
     建礼門院大原寂光院隠居
第百十六句 堀川夜討
     土佐房上洛
     土佐房最後
     三河守範頼義経討手の事
     義経緒方頼まるる事
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第百十七句 義経都落ち
     義経御下し文申請けらるる事
     同じく吉野の奥に赴かるる事
     同じく奥州へ下らるる事
     三郎先生十郎蔵人討手の事
第百十八句 六  代
     北条六代生捕る事
     文覚六波羅へ参らるる事
     請受け六代
     六代御前大覚寺へ参らるる事
第百十九句 大原御幸
     法皇と女院と御参会の事
     六道問答
     龍宮城の夢見
     女院死去
第百二十句 断絶平家
     平氏の方人誅せらるる事
     頼朝死去
     文覚流罪
     六代誅戮
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平家(へいけ)巻(くわん)第十二(だいじふに)第百十一句 大臣殿(おほいとの)最期(さいご)元暦(げんりやく)二年(にねん)五月(ごぐわつ)七日の卯刻(うのこく)、九郎(くらう)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)具(ぐ)し奉(たてまつ)り、関東(くわんとう)へぞ下(くだ)られける。判官(はうぐわん)情(なさけ)深き人にて、道(みち)の程(ほど)様々(さまざま)にいたはり慰(なぐ)さめ奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。大臣殿(おほいとの)、哀(あはれ)宗盛(むねもり)親子(おやこ)が命(いのち)を申し宥(なだ)めさせ給へかしと宣(のたま)へば、判官(はうぐわん)、今度(こんど)義経(よしつね)が勲功(くんこう)の賞(しやう)には、ひたすら御二所(おんふたどころ)の御命(おんいのち)を申し宥(なだ)めばやとこそ存じ候(さうら)へ。よも失(うしな)ひ奉(たてまつ)るまでの事は候(さうら)はじ。いかさまにも奥の方へなんどぞ下(くだ)し参(まゐ)らせ候(さうら)はんずらんと申されければ、大臣殿(おほいとの)、「東(あづま)の奥、遠国(をんごく)の下(ほか)、夷(えびす)が住むなる蝦夷(えぞ)が千島(ちしま)なりとも、」と宣(のたま)ひけるぞいとほしき。昔(むかし)は名のみ聞きし海道(かいだう)の宿々(しゆくじゆく)、名所(めいしよ)名所(めいしよ)見給(たま)ひて、日数(ひかず)経(ふ)れば、駿河国(するがのくに)浮島(うきしま)が原(はら)にぞかかり給(たま)ふ。是(これ)は浮島(うきしま)が原(はら)と申しければ、大臣殿(おほいとの)、
塩路(しほぢ)よりたえぬ思(おも)ひを駿河(するが)なる名は浮島(うきしま)に身をば富士のね
右衛門督(ゑもんのかみ)、
我(われ)なれや思(おも)ひにもゆる富士のねのむなしき空(そら)の煙(けぶり)ばかりは
さる程(ほど)に人々鎌倉(かまくら)へ入り給(たま)ふ。判官(はうぐわん)、いかばかりか二位殿(にゐどの)合戦(かつせん)の様(やう)をも
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尋ね給はんずらんと思(おも)ひまうけて下(くだ)られたりけるに、源二位殿(げんにゐどの)当時(たうじ)いたはりける事有りとて、対面(たいめん)もし給はず。判官(はうぐわん)、さこそ恨(うら)めしく思(おも)はれけめ。梶原(かぢはら)平三(へいざう)景時(かげとき)に仰せて、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)をば源二位(げんにゐ)のおはしける所(ところ)より、庭(には)を一(ひと)つへだてて、対(たい)の屋に置き奉(たてまつ)り、比企(ひきの)藤四郎(とうしらう)能員(よしかず)をもつて申されけるは、まつたく頼朝(よりとも)平家に意趣(いしゆ)を思(おも)ひ奉(たてまつ)らず、池(いけ)の禅尼(ぜんに)いかに申され候(さうら)ふとも、故(こ)太政(だいじやう)入道(にふだう)殿(どの)御許し候(さうら)はずは、頼朝(よりとも)いかでか命(いのち)生きて、廿四年の春秋(はるあき)をば送り候(さうら)ふべき。されども悪行(あくぎやう)法(ほふ)に過ぎ、天(てん)の責(せめ)のがれがたうして、攻め奉(たてまつ)れとの詔命(ぜうめい)を蒙(かうぶ)る上(うへ)は、子細(しさい)申すに所(ところ)なし。か様(やう)に又見参(げんざん)つかまつるこそ、誠(まこと)に本位(ほんい)にては候(さうら)へと申すべしとてやられければ、藤四郎(とうしらう)能員(よしかず)参(まゐ)りて、此のよし申さんとすれば、大臣殿(おほいとの)居直(ゐなほ)りて、かしこまつて聞(き)かれけるこそ口惜(くちを)しけれ。国々(くにぐに)の大名(だいみやう)小名(せうみやう)並(な)みゐたり。その中に平家の重代(ぢゆうだい)相伝(さうでん)の家人(けにん)ども多(おほ)かりけるが、是(これ)を見て、あの心にてこそ西海(さいかい)の波(なみ)の底(そこ)にも沈(しづ)み給(たま)ふべき人の、命(いのち)生きて是(これ)まで下(くだ)り給へ。今(いま)居直(ゐなほ)り、かしこまつてましまさば、命(いのち)生き給(たま)ふべきかとてにくみあへり。又ある者が申しけるは、猛虎(まうこ)深山(しんざん)に有る時(とき)は、百獣(はくじう)恐(おそ)れ、恐(おそ)る、檻井(かんせい)に有るに及(およ)んでは、尾(を)を動(うご)かして食(しよく)を求(もと)むと言ふ本文(ほんもん)有り。さればいかに猛(たけ)き将軍(しやうぐん)なれども、か様(やう)になりぬれば、心かはる習(ならひ)有り。されば大臣殿(おほいとの)わるびれ給(たま)ふも理(ことわり)なりと申してこそ、恥(はぢ)をば少し助けけれ。同(おな)じく六月(ろくぐわつ)九日九郎(くらう)判官(はうぐわん)
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大臣殿(おほいとの)父子(ふし)を受け取り、都(みやこ)へ帰(かへ)り上(のぼ)られけり。大臣殿(おほいとの)は、是(これ)にて既(すで)にいかにもならんずるかと思(おも)うたれば、再び都(みやこ)へ立ち帰(かへ)る事の嬉(うれ)しさよとぞよろこばれける。右衛門督(ゑもんのかみ)、若(わか)うおはしけれども心得給(たま)ひて、何(なに)か嬉(うれ)しう候(さうら)ふべき。都にて斬りて渡さんずる料(れう)にて候(さうら)ふらんとて、帰(かへ)り上(のぼ)る事を恨(うら)めしげにぞ宣(のたま)ひける。国々(くにぐに)宿々(しゆくじゆく)を過ぎゆくに、ここにてもやここにてもやと思(おも)はれけれ共(ども)、尾張国(をはりのくに)野間(のま)と言ふ所にぞ着き給(たま)ふ。大臣殿(おほいとの)、是(これ)は故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が首(かうべ)を刎(は)ねたる所(ところ)なり。その墓(はか)の前(まへ)にてぞ一定(いちぢやう)斬られんずらむ、大臣殿(おほいとの)も右衛門督(ゑもんのかみ)も思(おも)はれける所(ところ)に、判官(はうぐわん)大臣殿(おほいとの)父子(ふし)を具(ぐ)し奉(たてまつ)て、父(ちち)の墓(はか)の前(まへ)にて三度(さんど)伏し拝み、草(くさ)の陰にても、亡魂(ばうこん)尊霊(そんりやう)必(かなら)ず是(これ)を見給ひて、御心をやすめ給へとぞ申されける。され共(ども)そこにても斬られず。大臣殿(おほいとの)、今(いま)はかひなき命(いのち)ばかりは助からんずるぞと宣(のたま)へば、右衛門督(ゑもんのかみ)、などか助かり候(さうら)ふべき。当時(たうじ)は暑きころなれば、首の損ぜん様(やう)をはかりて、都(みやこ)近くなりて斬り候(さうら)はんずらめとて、ひまなく念仏(ねんぶつ)をぞ申されける。大臣殿(おほいとの)をばすすめ奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。日数(ひかず)経(ふ)れば六月(ろくぐわつ)廿日(はつか)には、近江(あふみ)の国篠原(しのはら)の宿(しゆく)にぞ着き給(たま)ふ。あくる日廿一日の朝(あした)より、大臣殿(おほいとの)をも右衛門督(ゑもんのかみ)をも引(ひ)き分けて、所々(ところどころ)に置き奉(たてまつ)る。さてこそ親子(おやこ)の人、既(すで)に今日(けふ)を限りにて有りけるよと、互(たがひ)に思(おも)ひあはれけり。出家(しゆつけ)は許されねば力(ちから)に及(およ)ばず。判官(はうぐわん)三日路より人を先立(さきだ)てて、大原(おほはら)の本性房(ほんしやうばう)湛豪(たんがう)と言ふ聖(ひじり)
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を、大臣殿(おほいとの)の善知識(ぜんぢしき)とす。近江(あふみ)の篠原(しのはら)に請(しやう)じ下(くだ)し奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。既(すで)に斬り奉(たてまつ)らんとするに、大臣殿(おほいとの)、右衛門督(ゑもんのかみ)はいづくにあるやらん、十七年(じふしちねん)が間(あひだ)、一日(いちにち)片時(へんし)もたち離れず。水(みづ)の底(そこ)にも沈(しづ)まずして、憂き名を流すもただ彼が故(ゆゑ)なり。死なば一所(いつしよ)にてとこそ思(おも)ひしに、生きながら別(わか)れぬる事の悲(かな)しさよと泣かれければ、善知識(ぜんぢしき)の上人(しやうにん)、さなおぼしめされ給(たま)ひそ。最期(さいご)の御有様(おんありさま)は御覧(ごらん)ぜんについても、互(たがひ)に御心にかかるべし。此の世は生者(しやうじや)必滅(ひつめつ)の国なれば、生(む)まるる者は必(かなら)ず死す。会ふ者は定まつて離るる習(ならひ)有り。釈尊(しやくそん)いまだ栴檀(せんだん)の煙(けぶり)をまぬかれ給はず。いはんや凡夫(ぼんぶ)においてをや。生(しやう)を受けさせ給(たま)ひてよりこのかた、楽(たの)しみ栄えて昔(むかし)も今(いま)も類(たぐひ)なし。御門(みかど)の御外戚(おんげしやく)にて、丞相(しようじやう)の位(くらゐ)に至(いた)り、今生(こんじやう)の栄花(えいぐわ)残る所なし。今(いま)かかる御目に合はせ給(たま)ふも、ただ前世(ぜんぜ)の御宿業(ごしゆくごふ)なり。世をも人をも恨(うら)みおぼしめすべからず。楽(たの)しみ尽きて悲(かな)しみ来たる。天人猶(なほ)五衰(ごすい)の日にあへりとこそ申し候(さうら)へ。今年(こんねん)三十九にならせおはしませば、三十九年(さんじふくねん)を過ぎ給(たま)ひけるも、おぼしめしつづけて御覧(ごらん)候(さうら)へ。ただ一夜の夢(ゆめ)のごとし。この後(のち)七八十を過ごさせ給(たま)ふとも、思(おも)へば程(ほど)や候(さうら)ふべき。秦(しん)の始皇(しくわう)、奢(おごり)をきはめしも、遂(つひ)に驪山(りさん)の塚に埋(うづ)もれ、漢の武帝(ぶてい)の命(いのち)を惜しみ給(たま)ひしも、むなしく杜陵(とりよう)の苔(こけ)に朽ちにき。楽(たの)しみは必(かなら)ず悲(かな)しみのもとゐなれば、生(しやう)は又死の因なり。されば仏(ほとけ)は、我心自空(がしんじくう)、罪福無主(ざいふくむしゆ)、観心無心(くわんじんむしん)、法(ほふ)無
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住(むぢゆう)法(ほふ)と説かれたり。善も悪もただ空(くう)なりと観(くわん)じつるが、まさしく仏(ほとけ)の御心にはあひかなふ事にて候(さうら)ふなるぞ。いかなれば、弥陀如来(みだによらい)は五劫(ごこふ)が間思惟(しゆい)して、おこしがたき願(ぐわん)をおこしましまし、我等(われら)を引摂(いんぜふ)し給(たま)ふに、いかなる我等(われら)なれば、億々万(おくおくまん)劫(ごふ)が間、生死(しやうじ)に輪廻(りんゑ)して、宝(たから)の山に入りて手を空(むな)しくせむ事は、恨(うら)みの中の恨(うら)み、愚(ぐ)なるうちの口惜(くちを)しき事に候(さうら)はずや。ゆめゆめ余念(よねん)をおこさせ給(たま)ふなとて、戒(かい)を授(さづ)け奉(たてまつ)り、しきりに念仏(ねんぶつ)をすすめ申さる。大臣殿(おほいとの)たちまちに妄念(まうねん)をひるがへして、西方(さいはう)に向かい、高声(かうじやう)に、念仏(ねんぶつ)となへ給(たま)ふ所(ところ)に、橘(たちばなの)右馬允(うまのじよう)公長(きみなが)と言ふ者、太刀(たち)を抜きてうしろへまはるを見給(たま)ひて、念仏(ねんぶつ)をとどめて、右衛門督(ゑもんのかみ)も今(いま)は既(すで)にかうかと宣(のたま)ひも果てざるに、大臣殿(おほいとの)の御首は前(まへ)にぞ落ちにける。是(これ)を見て、善知識(ぜんぢしき)の上人(しやうにん)も、公長(きみなが)も、涙(なみだ)せきあへず。いはんや此の公長(きみなが)は、平家の重代(ぢゆうだい)相伝(さうでん)の家人(けにん)なり。なかにも新中納言(しんぢゆうなごん)知盛(とももり)の卿(きやう)のもとに、朝夕(あさゆふ)祗侯(しこう)の侍(さぶらひ)なりしが、世にあらんとて東国へ下(くだ)り、源氏(げんじ)につきて、一家の主(しゆう)の首を斬るこそ口惜(くちを)しけれ。その後(のち)善知識(ぜんぢしき)の上人(しやうにん)、右衛門督(ゑもんのかみ)殿へ参(まゐ)りて、先(さき)のごとく、戒(かい)を授(さづ)け奉(たてまつ)り、念仏(ねんぶつ)すすめ申さる。右衛門督(ゑもんのかみ)念仏(ねんぶつ)をとなへ給(たま)ふが、そもそも大臣殿(おほいとの)の最期(さいご)の御有様(おんありさま)はいかにおはしけるやらんと宣(のたま)へば、善知識(ぜんぢしき)の上人(しやうにん)、よに目出(めで)たくこそ渡らせ給(たま)ひつれと宣(のたま)へば、なのめならずよろこびて、さらばとく斬れとて、首をのべてぞ斬らせられける。首
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は判官(はうぐわん)持たせて都(みやこ)へ入る。むくろは善知識(ぜんぢしき)の聖(ひじり)の沙汰(さた)にて、皆(みな)孝養(けうやう)してんげり。同(おな)じく廿三日、検非違使(けんびゐし)ども、三条河原(さんでうかはら)に行き向かつて、大臣殿(おほいとの)の父子(ふし)の首を受け取り、三条(さんでう)を西へ、東(ひがし)の洞院(とうゐん)を北へ渡して、獄門(ごくもん)にぞかけられける。法皇(ほふわう)も東(ひがし)の洞院(とうゐん)に御車(おんくるま)を立て、叡覧(えいらん)ある。さしも御いとほしみ深かりし近臣(きんしん)にておはせしかば、法皇(ほふわう)もさすがに哀(あはれ)におぼしめして、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。三位(さんみ)以上の人の、首を獄門(ごくもん)にかけらるる事は、異国(いこく)にはその例(ためし)もやあるらん、本朝(ほんてう)にはいまだ先蹤(せんじよう)を聞(き)かず。されば悪右衛門督(あくゑもんのかみ)信頼(のぶより)は希代(きたい)の朝敵(てうてき)なりしかば、首(かうべ)を刎ねられたりけれども、遂(つひ)に獄門(ごくもん)にはかけられず。今(いま)平家にとつてぞかくは有りける。西国(さいこく)より帰(かへ)りては生きて六条(ろくでう)を東(ひがし)へ渡され、東国(とうごく)より上(のぼ)りては、死して三条(さんでう)を西へ渡され給(たま)ふ。生きての恥(はぢ)、死しての恥(はぢ)、いづれかさて劣るべき。
第百十二句 重衡(しげひら)最期(さいご)
本三位(ほんざんみ)の中将(ちゆうじやう)重衡(しげひら)は、狩野介(かののすけ)に預(あづ)けられて、去年(きよねん)より伊豆(いづ)の国におはしけるが、鎌倉殿(かまくらどの)、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、此の人をば定(さだ)めて見たかるらん。此の次(つぎ)に渡すべし。源三位(げんざんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)の孫(まご)、伊豆(いづ)の蔵人(くらんど)の大夫(たいふ)頼兼(よりかね)に仰せて、南都(なんと)へぞ渡されける。都(みやこ)へは入れられず。山科より醍醐路(だいごぢ)へぞ渡されける。三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)、
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守護(しゆご)の武士(ぶし)に向かつて宣(のたま)ひけるは、我(われ)一人の子なければ、此の世に思(おも)ひ置く事も無きが、年来(としごろ)あひ慣れたりし女房(にようばう)の、日野(ひの)と言ふ所(ところ)に有りと聞く。うち過ぐる様(やう)にて、立ち寄りて互(たがひ)に姿(すがた)を今(いま)一度(いちど)見もし見えもせばやと思ふはいかに、此の事が心にかかりて、冥途(めいど)もやすく行くべしとも覚えずと宣(のたま)へば、守護(しゆご)の武士(ぶし)、やすき御事にて候(さうら)ふとて、日野(ひの)にて、太夫の三位(さんみ)の宿所(しゆくしよ)を尋ねて、大納言(だいなごん)の典侍殿(すけどの)の御渡り候(さうら)ふやらん。本三位(ほんざんみ)の中将殿(ちゆうじやうどの)の只今(ただいま)奈良(なら)へ御通り候(さうら)ふが、此のつまにて立ちながら今(いま)一度(いちど)見参(まゐ)らせんと候(さうら)ふと言はせければ、北方(きたのかた)聞きもあへ給はず、いとほしやいとほしやとて、走り出で給(たま)ひたれば、藍摺(あゐずり)の直垂(ひたたれ)着たる男(をとこ)の、痩せくろみたるが、縁(えん)に寄りゐたるぞそれなりける。北方(きたのかた)、いかにや夢(ゆめ)かうつつか、是(これ)へ入らせ給へと宣(のたま)ひもあへず、御簾(みす)のうちに倒れ伏してぞ泣かれける。三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)、御簾(みす)うちかついで入り給(たま)ひたれ共(ども)、互(たがひ)に涙(なみだ)にむせて、しばしは宣(のたま)ひ出(い)だす事もなし。やや有りて、三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)涙(なみだ)押しのごひて、重衡(しげひら)去年(こぞ)一谷(いちのたに)にて何にもなるべかりし身の、せめての罪のむくひにや、生捕(いけどり)にせられて、京鎌倉(かまくら)引(ひ)きしろはれて、恥(はぢ)をさらし、遂(つひ)には奈良(なら)を滅(ほろ)ぼしたりし、伽藍(がらん)の敵(かたき)なりとて、既(すで)に渡され候(さうら)ふぞや。今(いま)一度(いちど)見奉(たてまつ)り候(さうら)はばやと思(おも)ふほかは、今生(こんじやう)に取り止(とど)むる事なし。か様(やう)に見奉(たてまつ)れば、死出(しで)の山をもやすく越えなんと思(おも)ふ事こそ嬉しけれ。人にすぐれて罪深うこそあらんずらめども、此の世には後世(ごせ)とぶらふべき者も覚えず、いかなる有様(ありさま)にておはすとも、忘(わす)れ給(たま)ふな
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よ。出家(しゆつけ)をもして、髪をも形見(かたみ)に奉(たてまつ)らばやとは思(おも)へども、それも許されぬぞとて泣き給へば、北方(きたのかた)、軍(いくさ)は常の事なれば、必(かなら)ず去年(こぞ)の二月(にぐわつ)七日を限りとも知らずして、別(わか)れ奉(たてまつ)りしかば、越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)の上(うへ)の様(やう)に、水(みづ)の底(そこ)にもと思(おも)ひしかども、先帝(せんてい)の御事が心苦(こころぐる)しかりし上(うへ)、まさしく此の世におはせぬとも聞(き)かざりしかば、今(いま)一度(いちど)見奉(たてまつ)る事もやと、今日(けふ)までは有りつるに、既(すで)に限りにておはすらん事の悲(かな)しさよ。もしやと思(おも)ふ頼(たの)みも有りつるものをとて、泣き給へば、三位(さんみ)の中将、昔(むかし)の姿(すがた)を変へずして、互(たがひ)に見奉(たてまつ)りし事こそ嬉しけれ。慰(なぐ)さむ事は、夜を重(かさ)ね、日を送(おく)るとも尽くすべからず。奈良(なら)へも遠く候(さうら)ふ。武士(ぶし)共(ども)の待つらんも心なし。暇(いとま)申さんとて出で給へば、北方(きたのかた)、泣々(なくなく)袖(そで)に取り付きて、しばらく申すべき事有りとて、袷(あはせ)の小袖(こそで)に新しき浄衣(じやうえ)を取り添へて、御姿(おんすがた)のいたくしをれて見えさせ給(たま)ふに、是(これ)を召せとて、着せ奉(たてまつ)り給へば、三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)、是(これ)を着かへて、もと着給(たま)ひたるは形見(かたみ)に御覧(ごらん)ぜよとて置かれけり。北方(きたのかた)、それもさる事にて候(さうら)へ共(ども)、はかなき筆(ふで)の跡(あと)こそ、朽ちぬ形見(かたみ)にては候(さうら)へと宣(のたま)へば、御硯(おんすずり)召し寄せて、一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞ書かれける。
せきあへぬ涙(なみだ)のかかる唐衣(からごろも)後(のち)の形見(かたみ)に脱ぎぞかへぬる
北方(きたのかた)の返歌(へんか)に、
脱ぎかふる衣(ころも)も今(いま)は何(なに)かせん今日(けふ)を限りの形見(かたみ)と思(おも)へば
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三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)、契(ちぎり)あらば、後(のち)の世にては生(む)まれあひ奉(たてまつ)らん、一(ひと)つ蓮(はちす)にと祈(いの)らせ給へと、涙(なみだ)おさへて出で給(たま)ふ。北方(きたのかた)、走りもついておはしぬべくはおぼしめされけれども、それもさすがなれば、御簾(みす)のうちに倒れ伏してぞ泣かれける。その声(こゑ)庭(には)まで聞こえければ、三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)、先(さき)へと急ぐよしにておはしけれども、馬(むま)をもすすめ給はず、泣かれけるこそ哀(あはれ)なれ。南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)を受け取りて、東大興福(こうぶく)両寺(りやうじ)の大垣(おほがき)引(ひ)きまはし僉議(せんぎ)しけるは、そもそも此の重衡(しげひら)の卿(きやう)は、重犯(ぢゆうぼん)の悪人たる上(うへ)、三千(さんぜん)五刑(ごけい)のうちにも漏れ、修因(しゆういん)感果(かんくわ)の道理の極(きは)まりをなせり。掘頸(ほりくび)にやすべき、鋸(のこぎり)にてや切るべきとぞ申しあへる。老僧(らうそう)共申しけるは、ただし伽藍(がらん)を破滅せし時(とき)、やがて生捕(いけどり)にもしたらば、もつともさこそすべけれ共(ども)、遥(はるか)に年月(としつき)を経(へ)、武士(ぶし)の手より渡したるを、さ様(やう)にせんには、僧徒(そうと)の法(ほふ)に穏便(をんびん)ならず。ただ守護(しゆご)の武士(ぶし)に返して、木津川(こつがは)の辺にて斬るべしとて、又武士(ぶし)の手へぞ渡しける。八条(はつでうの)女院(にようゐん)に、木工允(もくのじよう)政時(まさとき)と申すは、三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)のもと召し使はれし侍(さぶらひ)なり。是(これ)を聞き、最期(さいご)の有様(ありさま)今(いま)一度(いちど)見奉(たてまつ)らんとて、鞭(むち)をあげて馳せてゆく。只今(ただいま)すでに斬り奉(たてまつ)らむとする所(ところ)に、馳せ着いて、馬(むま)より飛んでおり、人の中を押しわけ押しわけ参(まゐ)りけり。三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)、是(これ)を見て、いかに政時(まさとき)か。さん候(ざうら)ふ。重衡(しげひら)只今(ただいま)最期(さいご)にてあるぞ。いかにしても今(いま)一度(いちど)仏(ほとけ)を拝し奉(たてまつ)り、斬らればやと思(おも)ふはいかがすべきと宣(のたま)へば、やすき御事にて候(さうら)ふとて、守護(しゆご)の
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武士(ぶし)に、しばらく候(さうら)へと申し述べて、走りまはり、仏(ほとけ)を尋ね奉(たてまつ)る。或る古堂(ふるだう)より仏(ほとけ)を一体迎ひ奉(たてまつ)り、出で来たる。さいはひに阿弥陀(あみだ)にてましましけり。河原(かはら)の砂(いさご)に据(す)ゑ奉(たてまつ)り、政時(まさとき)が狩衣(かりぎぬ)の左右(さう)の袖(そで)のくくりを解きて、仏(ほとけ)の御手にかけ奉(たてまつ)り、五色(ごしき)の糸と観(くわん)じて、三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)に控へさせ奉(たてまつ)る。三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)、仏(ほとけ)を拝し奉(たてまつ)り、申されけるは、我(われ)不慮(ふりよ)に伽藍(がらん)焼滅の余殃(よあう)にまとはる。ただし達多(だつた)が逆心(ぎやくしん)有りしも、天王(てんわう)如来(によらい)の記別(きべつ)に預(あづか)る。閻王(えんわう)が悪逆(あくぎやく)もすなはち善根(ぜんごん)の身を得る。願はくは悪業(あくごふ)をひるがへし、安養(あんやう)浄土(じやうど)へ引導(いんだう)し給へと、念仏(ねんぶつ)高声(かうじやう)にとなへて、首をのべてぞ斬られける。日来(ひごろ)の悪行(あくぎやう)のにくさはさる事なれども、今日(けふ)の此の有様(ありさま)を見て、守護(しゆご)の武士(ぶし)も、千万(せんまん)の大衆(だいしゆ)も、皆(みな)袖(そで)をぞ濡らしける。首をば般若寺(はんにやじ)の大卒都婆(おほそとば)の前(まへ)に釘付けにこそかけられけれ。治承(ぢしよう)の合戦(かつせん)の時(とき)、ここに打ち立つて、伽藍(がらん)を滅(ほろ)ぼしたりし故(ゆゑ)なり。北方(きたのかた)、大納言(だいなごん)の典侍殿(すけどの)は、哀(あはれ)や三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)の、たとひ首は斬られたりとも、むくろは捨ててこそ置かんずらめ。何(なに)とかして是(これ)を取りて孝養(けうやう)せばやとて、観音(くわんおん)冠者(くわんじや)、地蔵(ぢざう)冠者(くわんじや)と言ふ中間(ちゆうげん)、十力(じふりき)法師(ほふし)と言ふ力者(りきしや)を召して、輿を迎ひに遣はしたれば、げにもむなしう捨て置きたる。むくろを輿に舁き入れ奉(たてまつ)り、日野(ひの)へ帰(かへ)り参(まゐ)りたれば、北方(きたのかた)走り出でて、むなしき姿(すがた)を見給(たま)ひて、いかばかりの事か思(おも)はれけん、二目とも見給はず、やがて引(ひ)きかづい
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でぞ臥されける。首をば大仏(だいぶつ)の聖(ひじり)、俊乗(しゆんじよう)上人(しやうにん)、衆徒(しゆと)に乞うて日野(ひの)へやらる。首もむくろも煙(けぶり)になし、骨をば高野(かうや)へ送られけり。墓(はか)をば日野(ひの)にぞ建てられける。法界寺(ほふかいじ)と言ふ寺より僧を請(しやう)じて、様(さま)を変へ、三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)の後世(ごせ)をぞとぶらひ給(たま)ひける。
第百十三句 大地震(だいぢしん)
同(おな)じく七月九日の午刻(むまのこく)ばかり、大地(だいぢ)おびたたしう動(うご)いてややひさし。怖(おそ)ろしなんどもおろかなり。赤県(せきけん)のうち、白河(しらかは)のほとり、六勝寺(ろくしようじ)九重(くぢゆう)の塔(たふ)をはじめて、あるいは倒れ、あるいは破れ崩(くづ)る。在々所々(ざいざいしよしよ)、皇居(くわうきよ)民屋(みんをく)、全(まつた)きは一宇もなし。あがる塵(ちり)は煙(けぶり)のごとく、崩(くづ)るる塵(ちり)は鳴神(なるかみ)のごとし。天(てん)くらうして日の光(ひかり)も見えざりけり。老少(らうせう)ともに魂(たましひ)を消し、鳥獣(けだもの)ことごとく心をまよはす。遠国(ゑんごく)も近国(きんごく)も又かくのごとし。山崩(くづ)れて河(かは)を埋(うづ)み、海傾(かたぶ)いて浜をひたす。沖漕ぐ船(ふね)は波(なみ)にただよひ、陸(くが)行く駒(こま)は足(あし)の立てどころをまよはす。大地(だいぢ)裂けて水(みづ)湧き出で、岩(いは)割れて谷へころぶ。洪水(こうずい)みなぎり来たれば、岡(をか)に登(のぼ)りてもなどか助かるべき。猛火(まうくわ)燃え来れば、河(かは)をへだてても支(ささ)へがたし。鳥にあらざれば空(そら)をもかけがたく、龍(りゆう)にあらざれば雲にも入りがたし。ただ悲(かな)しかりけるは大地震(だいぢしん)なり。四大種(しだいしゆ)のなかに、水(すい)火(くわ)風(ふう)はつねに害をなせども、大地(だいぢ)は異(こと)なる変をなさ
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ざるに。法皇(ほふわう)は新熊野(いまぐまの)へ御幸(ごかう)なつて、御花参(まゐ)らせ給(たま)ひけるが、此の大地震(だいぢしん)出で来て、家(いへ)ども震(ふる)ひたふされ、人多(おほ)く打ち殺され、触穢(しよくゑ)出で来にければ、六条(ろくでう)殿(どの)へ還御(くわんぎよ)なる。天文博士(てんもんはかせ)馳せ参(まゐ)りてののしる事限りなし。法皇(ほふわう)は南庭(なんてい)に握屋(あくや)をたててぞましましける。主上(しゆしやう)輿に召して、池のみぎはに出御(しゆつぎよ)なる。夕(ゆふ)さりの子刻(ねのこく)には大地(だいぢ)必(かなら)ず打ち帰(かへ)るべしと御占(おんうらな)ひ有りければ、安堵(あんど)する者上下一人もなし。遣戸(やりど)障子(しやうじ)を立てて、天(てん)の鳴り地(ぢ)の動(うご)く度(たび)には、只今(ただいま)ぞ死ぬるとて、高く念仏(ねんぶつ)申しける声(こゑ)、所々(しよしよ)におびたたし。七八十、八九十の者(もの)共(ども)も、世の滅(めつ)すると言ふ事はさすがに昨日(きのふ)今日(けふ)とは思(おも)はざりつるに、こはいかにせんとて、喚(をめ)き叫ぶ。是(これ)を聞きて、幼(をさな)き者(もの)共(ども)も、泣き悲(かな)しむ。文徳天皇(もんどくてんわう)の御時(おんとき)、せいゑい三年(さんねん)三月(さんぐわつ)十三日(じふさんにち)の大地震(だいぢしん)は、東大寺(とうだいじ)の大仏(だいぶつ)の御(み)頭(ぐし)落ちたりけるとぞ承(うけたまは)る。朱雀院(しゆしやくゐん)の天慶(てんけい)二年(にねん)四月(しぐわつ)の大地震(だいぢしん)には、主上(しゆしやう)五丈(ごぢやう)の握屋(あくや)をたててぞましましけると見えたり。開闢(かいびやく)よりこのかた、かかる事あるべしとも覚えず。平家の怨霊(をんりやう)にて世の失せべきかとぞ申しける。建礼門院(けんれいもんゐん)は、たまたまたち宿(やど)らせ給(たま)ふ吉田(よしだ)の御房(ごばう)も、此の大地震(だいぢしん)に傾(かたぶ)き破れて、いと住ませ給(たま)ふべきたよりも見えず、何事(なにごと)も昔(むかし)には変(かは)り給(たま)ひたる憂き世なれば、情(なさけ)をかけ奉(たてまつ)り、是(これ)へと申さるる人もおはさず。みどりの衣(ころも)のしほじみ、宮門(きゆうもん)を守(まぼ)るだにもなし。心のままに荒れたる籬(まがき)は、しげ野のほとりよりも露けくて、折知顔(をりしりがほ)に、いつしか虫の声々(こゑごゑ)恨(うら)むらん
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も哀(あはれ)なり。夜もやうやう長くなりければ、いと御眠(おんねぶ)りもさめがちに、明(あ)かしかねさせ給(たま)ひけり。尽きぬ御物思(おんものおも)ひに、秋の哀(あはれ)さへうちそひて、しのぎがたくぞおぼしめす。
第百十四句 腰越(こしごえ)
同(おな)じく八月(はちぐわつ)九日、九郎(くらう)判官(はうぐわん)伊予守(いよのかみ)になる。そのほか源氏(げんじ)五人受領(じゆりやう)す。甲斐(かひ)源氏(げんじ)安田(やすだの)三郎(さぶらう)義貞(よしさだ)遠江守(とほたふみのかみ)、加賀美(かがみの)次郎(じらう)遠光(とほみつ)信濃守(しなののかみ)、一条(いちでうの)次郎(じらう)忠頼(ただより)駿河守(するがのかみ)、大内(おほうちの)太郎(たらう)維義(これよし)相模守(さがみのかみ)、信濃(しなの)源氏(げんじ)平賀の四郎(しらう)義信(よしのぶ)武蔵守(むさしのかみ)にぞなされける。そのころ九郎(くらう)判官(はうぐわん)鎌倉(かまくら)より討たるべきとぞ聞こえける。判官(はうぐわん)内々(ないない)宣(のたま)ひけるは、弓矢(ゆみや)取る身の親の敵(かたき)を討ちつる上(うへ)は、何事(なにごと)か是(これ)にすぎたる思(おも)ひ出あるべきなれども、関より東(ひがし)は源二位殿(げんにゐどの)のおはすれば申すに及(およ)ばず、西国(さいこく)は義経(よしつね)がままとこそ思(おも)ひつるに、是(これ)こそ思(おも)ひのほかの事なれ。わづかに伊予(いよ)の国、没官領(ぼつくわんれい)廿(にじふ)余箇所(よかしよ)賜(たま)はつて、侍(さぶらひ)十人付けられたりしも、鎌倉殿(かまくらどの)内々(ないない)宣(のたま)ふ事有りければ、皆(みな)鎌倉(かまくら)へ逃げ下(くだ)り、旗差(はたざし)の料(れう)にとて付けられたる、足立(あだちの)新三郎(しんざぶらう)ばかりぞ候(さうら)ひける。源二位(げんにゐ)と兄弟(きやうだい)なる上(うへ)、ことに父子(ふし)の契(ちぎり)をして、浅からず、去年(こぞ)の正月(しやうぐわつ)、木曾(きそ)左馬頭(さまのかみ)追討(ついたう)せしよりこのかた、度々(どど)の合戦(かつせん)をして、平家遂(つひ)に攻め落とし、四海をすましめ、一天(いつてん)をしづめて、勲功(くんこう)比類なき所(ところ)に、いかなる子細(しさい)有りて、鎌倉(かまくら)源二位(げんにゐ)か様(やう)に恨(うら)みは思ひ給(たま)ふ
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らんと、上(かみ)一人より、下(しも)万民(ばんみん)にいたるまで不審(ふしん)をなす。是(これ)は今年(こんねん)の春(はる)、渡辺(わたなべ)にて船揃(ふなぞろ)への有りし時(とき)、判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)と、逆櫓(さかろ)立てう立てじの論をし、大きに努られし事を、梶原(かぢはら)本意(ほい)なき事にして、讒言(ざんげん)して、遂(つひ)に失(うしな)ひけるとぞ聞こえし。世をしづめ給(たま)ひて、鎌倉殿(かまくらどの)、今(いま)は頼朝(よりとも)を思(おも)ひかくる者、奥(おく)の秀衡(ひでひら)ぞあらん。そのほか、覚えずと宣(のたま)へば、梶原(かぢはら)申しけるは、判官(はうぐわん)殿(どの)も、おそろしき人にて御渡らせ給(たま)ひ候(さうら)ふものを。うちとけ給(たま)ひては、かなふまじきよし申しければ、頼朝(よりとも)もさ思(おも)ふなりとぞ宣(のたま)ひける。さればにや、去(さ)んぬる夏のころ、平家の生捕(いけどり)共あひ具(ぐ)して、関東(くわんとう)へ下向(げかう)せられける時(とき)、腰越(こしごえ)に関(せき)を据(す)ゑて、鎌倉(かまくら)へは入れらるまじきにて有りしかば、判官(はうぐわん)本意(ほい)なき事に思(おも)ひて、少しもおろかに思(おも)ひ奉(たてまつ)らざるよし、起請文(きしやうもん)書きて参(まゐ)らせられけれ共(ども)、用(もち)ゐられざれば、判官(はうぐわん)力(ちから)に及(およ)ばず。その申状(まうしじやう)に曰(いは)く、
源(みなもとの)義経(よしつね)恐(おおそ)れながら申(まう)し上(あ)げ候(さうら)ふ。意趣(いしゆ)は、御代官(おんだいくわん)のその一(ひと)つに選(えら)ばれ、勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)として、朝敵(てうてき)を傾(かたぶ)け、累代の弓矢(ゆみや)の芸(げい)をあらはし、会稽(くわいけい)の恥辱(ちじよく)をきよむ。抽賞(ちうしやう)おこなはるべき所(ところ)に、思(おも)ひのほかに虎口(ここう)の讒言(ざんげん)によつて、莫大(ばくたい)の勲功(くんこう)を黙(もだ)せられ、義経(よしつね)犯(をか)す事なくして咎を蒙(かうぶ)る。功(こう)有りて誤(あやま)り無しといへども、御勘気(ごかんき)を蒙(かうぶ)るの間(あひだ)、むなしく紅涙(こうるい)を流す。つらつら事の心を案ずるに、良薬(りやうやく)口に苦し、金言(きんげん)
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耳にさかふるの先言(せんげん)なり。是(これ)によつて、讒者(ざんしや)の実否(じつぴ)を糾(ただ)されず、鎌倉中(かまくらぢゆう)に出入(しゆつにふ)をとどめらるるの間(あひだ)、素意(そい)を述(の)ぶるにあたはず。いたづらに数日(すじつ)を送り、此の時(とき)にあたつて、骨肉(こつにく)同胞(どうはう)の義を絶(ぜつ)す。既(すで)に宿運(しゆくうん)きはまる所(ところ)か。将又(はたまた)前世(ぜんぜ)の業因(ごふいん)か。悲(かな)しきかな、此の条(でう)父母(ぶも)尊霊(そんりやう)の再誕(さいたん)にあらずんば、誰(たれ)か愚意(ぐい)の悲歎(ひたん)を申し開(ひら)かんや。いづれの輩(ともがら)か哀憐(あいれん)の思(おも)ひを垂(た)れられんや。事(こと)新しき申状(まうしじやう)、述懐(じゆつくわい)にあひ似たりといへども、義経(よしつね)身体(しんたい)髪膚(はつぷ)を父母(ぶも)にうけ、いくばく時節(じせつ)を経(へ)ず、故(こ)守殿(かうのとの)御他界(ごたかい)の後(のち)、みなし子(ご)となつて、母の懐中(くわいちゆう)に抱(いだ)かれ、大和国(やまとのくに)宇多郡(うだのこほり)龍門(りゆうもん)の牧(まき)におもむきしよりこのかた、一日(いちにち)片時(へんし)も安堵(あんど)の思(おも)ひに住(ぢゆう)せず、かひなき命(いのち)ばかりながらへるといへども、京都(きやうと)の経廻(けいくわい)治(ぢ)しがたきの間(あひだ)、諸国(しよこく)に流行(るぎやう)せしめ、身を在々所々(ざいざいしよしよ)に隠し、辺土(へんど)遠国(をんごく)を棲(すみか)とし、土民(どみん)百姓(はくせい)等(ら)に服仕(ぶくし)せられ、しかれば幸慶(かうけい)たちまちに純熟(じゆんじゆく)して、平家の一族(いちぞく)追討(ついたう)せんがために、上洛(しやうらく)せしめ、手合(てあは)せに木曾(きそ)義仲(よしなか)を誅戮(ちゆうりく)せしよりこのかた、ある時(とき)は峨々(がが)たる巖石(がんぜき)に駿馬(しゆんめ)に鞭(むち)うち、敵(かたき)のために身を滅(ほろ)ぼさん事を顧(かへりみ)ず。ある時(とき)は漫々(まんまん)たる大海(だいかい)に孤舟(こしう)に棹(さを)さし、風波(ふうは)の難(なん)を恐(おそ)れず、屍(かばね)を鯨鯢(けいげい)の鰓(あぎと)にかけ、甲冑(かつちう)を枕(まくら)とし、弓矢(ゆみや)を業(げふ)とする本意(ほんい)、しかしながら亡魂(ばうこん)の憤(いきどほ)りをやすめ奉(たてまつ)り、年来(ねんらい)の宿望(しゆくばう)を遂げんとする事他事(たじ)なし。あまつさへ
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義経(よしつね)五位尉(ごゐのじよう)に補任(ぶにん)せらるるの条(でう)、当家(たうけ)の面目(めんぼく)、稀代(きたい)の重職(ちようじよく)、何事(なにごと)か是(これ)にしかんや。しかりといへども今(いま)悲(かな)しみ深うして嘆き切(せつ)なり。仏神(ぶつじん)の御助けにあらずんば、なんぞ愁訴(しうそ)を達(たつ)せんや。是(これ)によつて諸寺(しよじ)諸社(しよしや)の牛王(ごわう)宝印(ほういん)の裏をひるがへし、野心(やしん)を挿(さしはさ)まざる旨(むね)、日本国中(につぽんごくぢゆう)の大小(だいせう)の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)を驚(おどろ)かし奉(たてまつ)り、数通(すつう)の起請文(きしやうもん)を書き進(しん)ずといへども、猶(なほ)もつて宥免(いうめん)なし。わが朝(てう)は神国(しんこく)なり。神(しん)は非礼(ひれい)を受けず。頼(たの)む所(ところ)他(た)にあらず、ひとへに貴殿(きでん)広大(くわうだい)の慈悲(じひ)を仰(あふ)ぎ奉(たてまつ)り、便宜(びんぎ)をうかがひ、高聞(かうぶん)に達(たつ)せしめ、秘計(ひけい)をはこばしめ、誤(あやま)りなき旨(むね)、放免(はうめん)に預(あづか)らば、積善(しやくぜん)の余慶(よけい)家門(かもん)に及(およ)び、永く栄花(えいぐわ)を、子孫(しそん)に伝(つた)へ、年来(ねんらい)の愁眉(しうび)を開(ひら)き、一期(いちご)の安寧(あんねい)を得(え)、讒訴(ざんそ)を言はず。しかしながら省略(せいりやく)せしむ。諸事(しよじ)賢察(けんさつ)を垂れられんものをや。誠惶(せいくわう)誠恐(せいきよう)敬(うやまつて)白(まうす)。
元暦(げんりやく)二年(にねん)六月(ろくぐわつ)日
進上(しんじやう)大膳(だいぜんの)大夫殿(だいぶどの)
とぞ書かれたる。
第百十五句 時忠(ときただ)能登(のと)下(くだ)り
さる程(ほど)に改元(かいげん)有りて、文治(ぶんぢ)と号(かう)す。文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)八月(はちぐわつ)廿一日、鎌倉(かまくら)源二位(げんにゐ)頼朝(よりとも)
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の卿(きやう)、片瀬(かたせ)と言ふ所(ところ)に出でられけり。文覚(もんがく)上人(しやうにん)の迎へとぞ聞こえし。故(こ)左馬頭(さまのかみ)殿の首、年来(ねんらい)獄門(ごくもん)にかかり、後世(ごせ)とぶらふ人もなかりしを、義朝(よしとも)の召し使(つか)ひける紺掻(こうか)きの男(をとこ)、時の大理に会ひ、様々(さまざま)に申しうけ、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)流人(るにん)にてましましけれ共(ども)、末(すゑ)頼(たの)もしき人なれば、世に出で尋ねらるる事もこそあらんとて、東山(ひがしやま)円覚寺(ゑんがくじ)と言ふ所(ところ)に深く納めて置きたりけるを、文覚(もんがく)聞き出だし頸にかけ奉(たてまつ)り、同(おな)じく鎌田兵衛(かまだびやうゑ)が首(かうべ)をば、弟子(でし)が頸にかけさせ、紺掻(こうか)きの男(をとこ)も具(ぐ)して下(くだ)られけるとかや。頼朝(よりとも)は御色(おんいろ)召され、聖(ひじり)をば大床(おほゆか)に置き奉(たてまつ)り、わが身は庭上(ていしやう)に立ちて、首(かうべ)を受け取り給(たま)ふぞ哀(あはれ)なる。是(これ)を見る大名(だいみやう)小名(せうみやう)涙(なみだ)を流さずと言ふ事無し。岩間(いはあひ)に道場(だうぢやう)を建て、御為(おんため)と供養(くやう)有り。勝長寿院(しようぢやうじゆゐん)と名づけらる。公家(くげ)よりも哀(あはれ)におぼしめすにや、故(こ)左馬頭(さまのかみ)の塚(つか)に、内大臣(ないだいじん)正二位(じやうにゐ)を贈らる。勅使(ちよくし)は左大弁(さだいべん)兼忠(かねただ)なり。頼朝(よりとも)武勇(ぶゆう)のほまれによつて、亡父(ばうぶ)まで贈官(ぞうくわん)贈位(ぞうゐ)に及(およ)びけるこそ目出(めで)たけれ。同(おな)じく廿三日、平氏(へいじ)の生捕(いけどり)、少々(せうせう)都(みやこ)に残(のこ)りたるを、遠流(ゑんる)すべしとて、配所(はいしよ)を定(さだ)めらる。平大納言(だいなごん)時忠(ときただ)能登(のと)の国、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)佐渡の国へ、兵部少輔(ひやうぶのせう)尹明(まさあきら)隠岐国(おきのくに)へ、讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう)時実(ときざね)上総国(かづさのくに)へ、法勝寺(ほつしようじの)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん)備後(びご)の国へ、二位(にゐの)僧都(そうづ)全真(ぜんしん)安芸の国へ、中納言(ちゆうなごん)律師(りつし)忠快(ちゆうくわい)武蔵国(むさしのくに)へと定(さだ)めらる。平大納言(だいなごん)時忠(ときただ)既(すで)に近日(きんじつ)都(みやこ)を出づべしと聞こえしかば、預(あづか)りの
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武士(ぶし)に、暇(いとま)乞(こ)ひ給(たま)ひて、建礼門院(けんれいもんゐん)の渡らせ給(たま)ふ吉田(よしだ)の御房(ごばう)へ参(まゐ)りて申されけるは、同(おな)じ都(みやこ)の内(うち)に候(さうら)はば、つねに御行方(おんゆくへ)をも承(うけたまは)るべく候(さうら)ふに、責(せめ)重うして、既(すで)に配所(はいしよ)におもむき候(さうら)ふ。再び旧里(きうり)に帰(かへ)らん事今(いま)は有りがたくこそ候(さうら)へとて、涙(なみだ)にむせばれければ、女院(にようゐん)、誠(まこと)に昔(むかし)の名残(なごり)とては、そればかりこそおはしつるに、此の後(のち)は誰(たれ)かはとぶらふべきとて、御衣(ぎよい)の袖(そで)をしぼり給(たま)ふ。此の大納言(だいなごん)と申すは、出羽(ではの)前司(せんじ)具信(とものぶ)が孫(まご)、兵部(ひやうぶ)権(ごんの)大輔(たいふ)時信(ときのぶ)が子なり。建春門院(けんしゆんもんゐん)の御兄(おんせうと)にて、高倉(たかくら)の上皇(しやうくわう)の御外戚(おんげしやく)なり。楊貴妃(やうきひ)が幸(さいはひ)せし時(とき)、楊国忠(やうこくちゆう)が栄(さか)えたりしがごとし。八条(はつでうの)二位(にゐ)殿も姉にておはせしかば、太政(だいじやう)入道(にふだう)の小舅(こじうと)にて、兼官(けんぐわん)兼職(けんじよく)心のままに思(おも)ふがごとし。子息(しそく)時家(ときいへ)中将(ちゆうじやう)になり、我(われ)正二位(じやうにゐ)の大納言(だいなごん)に至(いた)り給(たま)ひぬ。今(いま)しばらくも平家の世にてあらましかば、大臣(おとど)は疑(うたが)ひなからまし。父(ちち)時信(ときのぶ)は、官途(くわんど)も無下(むげ)に浅かりしかども、逝去(せいきよ)の後(のち)こそ左大臣(さだいじん)を賜(たま)はられけれ。太政(だいじやう)入道(にふだう)、天下(てんが)の大小(だいせう)の事一向(いつかう)此の大納言(だいなごん)に宣(のたま)ひあはれければ、人平関白(くわんばく)とぞ申しける。検非違使(けんびゐし)別当(べつたう)にも三箇度(さんがど)までなり給(たま)ひぬ。此の人庁務(ちやうむ)の時(とき)は、窃盜(せつたう)強盗(がうだう)をば捕(とら)へて、右(みぎ)の肘(ひぢ)腕(うで)中より打ち落とし、追(おつ)放(ぱな)されければ、悪別当(あくべつたう)とぞ人申しける。西国(さいこく)におはせし時(とき)、三種(さんじゆの)神器(しんぎ)こと故(ゆゑ)なく都(みやこ)へ返し入れ奉(たてまつ)れと仰せ下(くだ)さる院宣(ゐんぜん)の御使(おんつかひ)花形(はながた)が面(おもて)に、波方(なみがた)と言ふ焼印(やきじるし)差されたりしも、此の大納言(だいなごん)のしわざ
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なり。法皇(ほふわう)もやすからずおぼしめされけれども、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)のゆかりなりければ力(ちから)に及(およ)ばず。九郎(くらう)判官(はうぐわん)親(した)しくなりしかば、心ばかりはいかにもして流罪(るざい)を申し宥(なだ)めばやと思(おも)はれけれども、鎌倉殿(かまくらどの)許されもなければ力(ちから)に及(およ)ばす。合戦(かつせん)をし、先(さき)を駆けねども、はかりごとを帷幄(ゐあく)の内(うち)にめぐらしける事、ひとへに此の大納言(だいなごん)のしわざなりければ、理(ことわり)とぞ見えし。年たけ齢(よはひ)傾(かたぶ)きて後(のち)、妻子(さいし)にも別(わか)れつつ、見送(みおく)る人もなくして、越路(こしぢ)の旅へおもむき給(たま)ひけん、心のうちこそ悲(かな)しけれ。志賀(しが)唐崎(からさき)、うち過ぎ堅田(かただ)の浦(うら)にもなりしかば、漫々(まんまん)たる湖上(こしやう)に、引(ひ)く網を見給(たま)ひて、大納言(だいなごん)泣々(なくなく)かうぞ宣(のたま)ひける、
帰(かへ)り来んことは堅田(かただ)に引(ひ)く網の目にもたまらぬわが涙(なみだ)かな
昔(むかし)は西海(さいかい)の波(なみ)の上(うへ)にただよひて、怨憎懐苦(をんぞうゑく)を船(ふね)のうちに積(つ)もり、今(いま)は北国(ほつこく)の雪(ゆき)のうちに埋(うづ)もれて、愛別離苦(あいべつりく)の悲(かな)しみを故郷(こきやう)の雲に重(かさ)ねたり。日数(ひかず)経(ふ)れば、能登(のと)の国にぞ着き給(たま)ふ。かの配所(はいしよ)は浦(うら)ちかき所なりければ、つねは浪路(なみぢ)遥(はるか)に遠見(ゑんけん)して、慰(なぐ)さみ給(たま)ひけるに、岩(いは)の上(うへ)に松の有りけるが、根(ね)あらはにして、波(なみ)に洗(あら)はれけるを見給(たま)ひて、大納言(だいなごん)かうぞ宣(のたま)ひける、
白波(しらなみ)のうち驚(おどろ)かす岩(いは)の上(うへ)に根(ね)入(い)らで松のいくよ経(へ)ぬらん
か様(やう)に詠(えい)じ、明(あ)かし暮らし給(たま)ひて、かの配所(はいしよ)にて、大納言(だいなごん)遂(つひ)にはかなくなり給(たま)ひけるこそ哀(あはれ)なれ。
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建礼門院(けんれいもんゐん)秋のころまでは吉田(よしだ)の御房(ごばう)に渡らせ給(たま)ひけるが、ここも猶(なほ)都(みやこ)近くして、たまぼこの道行き人の、人目(ひとめ)もしげし。露の御命(おんいのち)風を待たん程(ほど)は憂き事の聞こえざらん、いかならむ山の奥へも入りなばやとはおぼしめせども、さるべきたよりもなかりけり。ある女房(にようばう)、吉田(よしだ)の御房(ごばう)へ参(まゐ)りて申しけるは、大原(おはら)の奥、寂光院(じやくくわうゐん)と申す所(ところ)こそ、静(しづか)に目出(めで)たき所(ところ)にて候(さぶら)ふなれと申しければ、女院(にようゐん)、是(これ)はしかるべき仏(ほとけ)の御すすめにてぞあらん。山里(やまざと)はもののさびしき事こそあんなれども、世の憂きよりは住みよからんなる物をとて、泣々(なくなく)おぼしめし立(た)たせ給(たま)ひけり。冷泉(れいぜん)の大納言(だいなごん)隆房(たかふさ)の北方(きたのかた)、七条(しつでう)修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆(のぶたか)の女房(にようばう)のはかりごとにて、御乗物(おんのりもの)なんどをも沙汰(さた)し奉(たてまつ)りけり。文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)長月(ながつき)廿日(はつか)あまりの事なりければ、四方(よも)の梢(こずゑ)の色々(いろいろ)なるを御覧(ごらん)じて、遥(はるか)に分け入り給(たま)ひ、山かげなれば、日も早く暮れにけり。野寺(のでら)の鐘(かね)の入相(いりあひ)の声(こゑ)さびしく、いつしか空(そら)かきくもりうちしぐれつつ、嵐(あらし)はげしく木の葉ひとしく、鹿の音(ね)かすかにおとづれて、虫の声々(こゑごゑ)たえだえなり。寂光院(じやくくわうゐん)は、岩(いは)に苔(こけ)むしてさびたる所(ところ)なりければ、住ままほしくぞおぼしめす。翠黛(すいたい)の色、紅葉(もみぢ)の山、絵(ゑ)に書くとも筆(ふで)も及(およ)びがたし。庭(には)の萩原(はぎはら)霜(しも)ふりて、籬(まがき)の菊(きく)のかれがれにうつろふ色(いろ)を御覧(ごらん)じても、わが身の上(うへ)とやおぼしめしけん。寂光院(じやくくわうゐん)のかたはらに、方丈(はうぢやう)なる御庵室(ごあんじつ)を結(むす)ばせ給(たま)ひて、一間(ひとま)を仏所(ぶつしよ)にしつらひ、一間(ひとま)を御寝所(ぎよしんじよ)にこしらへて、昼夜(ちうや)朝夕(てうせき)の御つとめ、長時(ちやうじ)
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不断(ふだん)の御念仏(おんねんぶつ)おこたらず、天子(てんし)聖霊(しやうれい)、成等正覚(じやうどうしやうがく)、一門(いちもん)の亡魂(ばうこん)、頓証(とんしよう)菩提(ぼだい)と祈(いの)り給(たま)ふ。中にも先帝(せんてい)、二位殿(にゐどの)の御面影(おんおもかげ)、いかならん世にか、忘(わす)れ奉(たてまつ)るべきとおぼし〔めし月日(つきひ)〕送らせ給(たま)ひけり。清涼殿(せいりやうでん)の花を結(むす)びし朝(あした)風来たつて匂(にほひ)をさそひ、長秋宮(ちやうしうきゆう)に月を詠(えい)ぜし夕(ゆふべ)、雲おほうて光(ひかり)を隠す。昔(むかし)は玉楼(ぎよくろう)金殿(きんでん)の床(とこ)の上(うへ)に、錦(にしき)の衾(ふすま)を敷き、妙(たへ)なる御住(おんす)まひなりしかども、今(いま)は柴(しば)引(ひ)き結(むす)ぶ庵(いほり)のうち、よその袂(たもと)もしぼりける。軒に並(なら)ぶる植木(うゑき)を七重(しちぢゆう)宝樹(ほうじゆ)とかたどり、岩間(いはま)につもる水(みづ)をば八功徳水(はつくどくすい)とおぼしめす。かくて神無月(かみなづき)十日(とをかのひ)あまりのころに、庭(には)に散り敷きたる楢(なら)の葉(は)を鹿の踏みならし過ぎければ、女院(にようゐん)、あれ見よや、是(これ)程(ほど)に人目(ひとめ)まれなる所(ところ)に、いかなる人の来たるやらん。しのぶべきならばしのばんと仰せられければ、大納言(だいなごん)の局(つぼね)、御障子(みしやうじ)をあけて見給へば、人にてはなくして、鹿のうつくしげなるが、二つ連れて、楢(なら)の葉(は)を踏みならし過ぐるにてぞ有りける。その時(とき)大納言(だいなごん)の局(つぼね)、岩根(いはね)ふみ誰(たれ)かは問(と)はん楢(なら)の葉(は)のそよぐは鹿の渡るなりけり女院(にようゐん)哀(あはれ)におぼしめし、泣々(なくなく)御障子(みしやうじ)に書きすさみ給(たま)ひけり。
第百十六句 堀河(ほりかは)夜討(ようち)
鎌倉(かまくら)源二位殿(げんにゐどの)、土佐(とさ)昌俊(しやうしゆん)を召して、九郎(くらう)は定(さだ)めて謀叛(むほん)の心もあらんずらむ、勢(せい)
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どものつかぬ先(さき)に討たばやと思(おも)ふなり。大名(だいみやう)小名(せうみやう)どもを上(のぼ)せば、宇治(うぢ)勢田(せた)の橋(はし)を引(ひ)き、天下(てんが)の大事(だいじ)に及(およ)びなんず。わ僧小勢(こぜい)にて上(のぼ)り、夜討(ようち)にも日討(ひうち)にも、物詣(ぶつけい)する様(やう)にて、九郎(くらう)をたばかつて討ちて参(まゐ)らせよと宣(のたま)へば、かしこまつて承(うけたまは)り、やがてその日、五十騎(ごじつき)ばかりにて、都(みやこ)へ上(のぼ)る。元暦(げんりやく)二年(にねん)九月廿九日、土佐房(とさばう)都(みやこ)へ上(のぼ)りつきたれ共(ども)、判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)へは、その日も参(まゐ)らず、次(つぎ)の日も参(まゐ)らず。既(すで)に三日(みつかのひ)になりけるに、判官(はうぐわん)武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)をもつて、いかに上(のぼ)られて候(さうら)ふと聞くに、かうとも承(うけたまは)らざるやらん。又源二位殿(げんにゐどの)より仰せらるる旨(むね)は候(さうら)はぬかと尋ねられければ、昌俊(しやうしゆん)聞きもあへず、弁慶(べんけい)に対面(たいめん)して、連れて判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)へぞ参(まゐ)られける。判官(はうぐわん)出で会ひ見参(げんざん)し給(たま)ひて、いかに一昨日より上(のぼ)られ候(さうら)ふと承(うけたまは)るに、今(いま)まではかうとも申され候(さうら)はぬやらん、又鎌倉殿(かまくらどの)より御文(おんふみ)なんどは候(さうら)はぬかと尋ねられければ、昌俊(しやうしゆん)、さん候(ざうら)ふ。鎌倉殿(かまくらどの)よりは、さしたる事も候(さうら)はねば御状(おんじやう)は参(まゐ)らせられ候(さうら)はず。御ことばに申せと仰せの候(さうら)ひしは、当時(たうじ)京都(きやうと)に何事(なにごと)も候(さうら)はぬは、さて渡らせ給(たま)ふ故(ゆゑ)かとこそおぼしめされ候(さうら)へ、と仰せの候(さうら)ひしが、是(これ)は、世の中もおだやかになりて候(さうら)ふ間(あひだ)、七大所詣(しちだいしよまうで)つかまつらんとて、暇(いとま)申してまかり上(のぼ)り候(さうら)ふが、道(みち)よりいたはる事候(さうら)ひて、とかくして上(のぼ)り着いては候(さうら)へども、いまだ快気(くわいき)ならず候(さうら)ふ間(あひだ)、やがても参(まゐ)らず候(さうら)ふと申しければ、伊予守(いよのかみ)、さはよもあらじ。梶原(かぢはら)が讒言(ざんげん)について、鎌倉殿(かまくらどの)、つねは義経(よしつね)を討たんと宣(のたま)ふなると聞く。大勢(おほぜい)上(のぼ)せ
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ば、宇治(うぢ)勢田(せた)の橋(はし)をも引(ひ)き、天下の大事に及(およ)びなん。わ僧小勢(こぜい)にて上(のぼ)り、夜討(ようち)にも討ちて参(まゐ)らせよとて上(のぼ)せられたるにこそと宣(のたま)へば、土佐房(とさばう)顔色(がんしよく)かはつて、まつたくさる事候(さうら)はず。さ候(さうら)はば起請(きしやう)を書いて見参(げんざん)に入るべしと申す。書かうとも書かじとも御房(ごばう)が心よと宣(のたま)へば、やがて三枚の起請文(きしやうもん)を書いて、一枚をば焼いて呑みなんどして帰(かへ)りければ、武蔵房(むさしばう)申しけるは、此の法師(ほふし)は起請(きしやう)は書きて候(さうら)へども、何(なに)とやらんあやしう覚え候(さうら)ふ。追(お)つつきてしやつが首(かうべ)を刎ね候(さうら)はばやと申せば、伊予守(いよのかみ)、思(おも)ふに何程(なにほど)の事かあるべき。ただ帰(かへ)せとて帰(かへ)されけり。伊予守(いよのかみ)、そのころ磯禅師(いそのぜんじ)と言ふ白拍子(しらびやうし)が娘(むすめ)に、静(しづか)と申す女(をんな)を愛(あい)して置かれたりけるが、只今(ただいま)の法師(ほふし)は、起請(きしやう)は書きて候(さぶら)へ共(ども)、子細(しさい)有りと覚え候(さぶら)ふ。人をつけて見せさせ給はでと申せば、童(わらは)一人見せに遣はす。土佐房(とさばう)もおそろしき者にて、判官(はうぐわん)定(さだ)めて人をつけて見せ給(たま)ふらんと覚えて、是(これ)も門に人を立てて見する程(ほど)に、けしかる童(わらは)の一人たたずみける所を捕(とら)へて問ふに落ちねばやがて打ち殺す。既(すで)に暗(くら)うなるまで見えざりければ、又静(しづか)女(をんな)を〔一人〕見せに遣はす。女(をんな)程(ほど)なく走り帰(かへ)り、土佐房(とさばう)只今(ただいま)物詣(ぶつけい)とて打ち出で候(さぶら)ふ。此の使(つか)ひは斬られて見え候(さぶら)ふと申しもはてねば、その勢五十騎(ごじつき)ばかりにて、伊予守(いよのかみ)の六条(ろくでう)堀河(ほりかは)の宿所(しゆくしよ)へ押し寄せて、鬨(とき)をどつと作(つく)る。伊予(いよの)守(かみ)折節(をりふし)灸治(きうぢ)して、物具(もののぐ)すべき様(やう)もなくてましましけるが、鬨(とき)の声(こゑ)に驚(おどろ)いて、かつぱと起きて、鎧(よろひ)取つて着、矢(や)かき負ひ、弓取り、御馬(おんむま)参(まゐ)らせよ
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と宣(のたま)へば、馬(むま)に鞍置き、縁(えん)のきはに引つ立てたり。うち乗りて、天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)は知らず、義経(よしつね)を手ごめにしつべき者は覚えぬ物をと名のり叫(さけ)んで駆け給へば、つづく者には、鈴木(すずき)の三郎(さぶらう)重家(しげいへ)、亀井の六郎重常(しげつね)、佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)忠信(ただのぶ)、伊勢の三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、源八(げんぱち)兵衛(びやうゑ)広綱(ひろつな)、熊井(くまゐ)太郎(たらう)、江田(えだ)の源三(げんざう)以下(いげ)の兵(つはもの)廿余騎(よき)、喚(をめ)いて駆く。昌俊(しやうしゆん)が勢五十騎(ごじつき)、散々(さんざん)に駆けやぶられて、残(のこ)り少(すく)なく討たれけり。伊予守(いよのかみ)の方には、源八(げんぱち)兵衛(びやうゑ)膝の節(ふし)射られ、熊井(くまゐ)太郎(たらう)内兜(うちかぶと)射られて引(ひ)きしりぞく。ころは十月(じふぐわつ)廿日(はつか)の夜なりければ、暗(くら)さはくらし、雨は降る。昌俊(しやうしゆん)が頼(たの)む所(ところ)の兵(つはもの)、散々(さんざん)に討ち散(ち)らされ、昌俊(しやうしゆん)馬(むま)を射させ、徒立(かちだ)ちになつて、鎧(よろひ)脱ぎ捨て落ちけるが、いかにもして今夜北国(ほつこく)の方へと思(おも)ひけれ共(ども)、かなはずして、その夜鞍馬(くらま)の奥僧正(そうじやう)が谷(だに)にぞ逃げ籠(こも)る。伊予守(いよのかみ)の兵(つはもの)ども、後をつないで追つかくる。鞍馬寺の僧共(そうども)は是(これ)を聞き、判官(はうぐわん)はいにしへのよしみ他にことならず深かりければ、もろともに尋ねゆく。老僧(らうそう)の鎧(よろひ)直垂(ひたたれ)着たる法師(ほふし)一人、僧正(そうじやう)が谷(だに)よりからめ取り、おめおめと亀井の六郎に具せられて、次(つぎ)の日の未(ひつじ)の刻ばかりに、伊予守(いよのかみ)の六条(ろくでう)堀河(ほりかは)の宿所(しゆくしよ)にぞ出で来たる。坪のうちに引(ひ)き据(す)ゑたり。伊予守(いよのかみ)縁(えん)より、いかに御房(ごばう)、起請(きしやう)には落ちたるぞと宣(のたま)へば、昌俊(しやうしゆん)大きにうち笑(わら)つて、さん候(ざうら)ふ。有事(ありごと)に書いて候(さうら)ふ程(ほど)に落ちて候(さうら)ふよとぞ申しける。命(いのち)惜しくば助けんぞ。鎌倉(かまくら)に下(くだ)りて、源二位殿をも今(いま)一度(いちど)
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見奉(たてまつ)れと宣(のたま)へば、昌俊(しやうしゆん)、まさなや、殿程(ほど)の大将軍(たいしやうぐん)を討ち奉(たてまつ)らんと思(おも)ひかかつて上(のぼ)らんずる者が、殿を討ち奉(たてまつ)らずして、命(いのち)生きて再び鎌倉(かまくら)へ下(くだ)るべしとは覚えず。御恩には急ぎ首を召せとぞ申しける。心ざしの程(ほど)神妙(しんめう)なりとて、中務丞(なかつかさのじよう)知国(ともくに)と言ふ京侍(さぶらひ)に仰せて、法性寺(ほつしやうじ)の柳原(やなぎはら)にて斬られけり。雑色(ざつしき)足立(あだちの)三郎(さぶらう)清経(きよつね)を鎌倉殿(かまくらどの)旗差(はたざし)の料(れう)にとて付けられたりけるが、内々(ないない)は判官(はうぐわん)いかなるあらぬ振舞(ふるまひ)の時(とき)は、夜を日に継(つ)いで馳せ下(くだ)りて申すべしと御約束有りて、付けられたりければ、昌俊(しやうしゆん)がなりゆく有様(ありさま)を見て、ひそかに都(みやこ)を逃げ出で、鎌倉(かまくら)へ参(まゐ)り、此のよし一々(いちいち)に申せば、源二位殿(げんにゐどの)大きにさをがれけり。舎弟(しやてい)三河守(みかはのかみ)を呼びて、御辺(ごへん)九郎(くらう)が討手(うちて)の大将(たいしやう)に上(のぼ)り給へと有りければ、三河守(みかはのかみ)辞し申し給(たま)ひけり。鎌倉殿(かまくらどの)怒(いか)つて、さては御辺(ごへん)も九郎(くらう)と同心(どうしん)ごさんあれ。今日(けふ)よりして頼朝(よりとも)兄弟(きやうだい)の儀(ぎ)あるべからず、鎌倉(かまくら)中にもおはすべからずと宣(のたま)へば、三河守(みかはのかみ)大きに驚(おどろ)き給(たま)ひて、急ぎ上(のぼ)るべきよし申されけれども、許されず。まつたくおろかに思(おも)ひ奉(たてまつ)らずと百枚の起請(きしやう)を書いて捧げ給(たま)ひしか共(ども)、猶(なほ)も用(もち)ゐられず、遂(つひ)に伊豆(いづ)の北条(ほうでう)へ追(お)つ下(くだ)し、そこにて失(うしな)はれけるとぞ聞こえし。舅(しうと)北条(ほうでうの)四郎(しらう)時政(ときまさ)を大将軍(たいしやうぐん)にて、六万(ろくまん)余騎(よき)をさし上(のぼ)せらる。判官(はうぐわん)は鎮西(ちんぜい)の方へ落ちばやと思(おも)ひ立ち給(たま)ふ。ここに緒方(をがたの)三郎(さぶらう)維義(これよし)は威勢(ゐせい)の者なりける間(あひだ)、義経(よしつね)に頼(たの)まれよと宣(のたま)ふ。維義(これよし)
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申しけるは、さ候(さうら)はば御内(みうち)なる菊池(きくちの)次郎(じらう)高直(たかなほ)は年来(ねんらい)の敵(かたき)にて候(さうら)ふ。賜(たま)はつて首(かうべ)を刎ねんと申す。申すまで無くやがて賜(たま)はりてければ、六条河原(ろくでうかはら)にて斬られにけり。維義(これよし)かひがひしく頼(たの)まれけるとかや。
第百十七句 義経(よしつね)都落(みやこおち)
同(おな)じく十一月(じふいちぐわつ)一日(ひとひのひ)、伊予守(いよのかみ)院(ゐん)の御所(ごしよ)へ参(まゐ)り、大蔵卿(おほくらきやう)泰経(やすつねの)朝臣(あつそん)をもつて申されけるは、義経(よしつね)こそ、鎌倉(かまくら)より討たれべきにて候(さうら)へ。宇治(うぢ)勢田(せた)の橋(はし)をも引(ひ)きて、しばし支(ささ)へべく候(さうら)へども、君の御為(おんため)心苦(こころぐる)しく候(さうら)へば、西国(さいこく)の方へ落ち行かんと存知(ぞんぢ)候(さうら)ふ。度々(どど)朝敵(てうてき)を平(たひら)げ候(さうら)ひし忠功(ちゆうこう)、いかでか御忘(おんわす)れ候(さうら)ふべき。鎮西(ちんぜい)の者(もの)共(ども)に心を一つにして、合力(がふりよく)すべきよし、院庁(ゐんちやう)の御下文(みくだしぶみ)を賜(たま)はり候(さうら)はばやと申しければ、法皇(ほふわう)おぼしめしわづらはせ給(たま)ひて、大臣(だいじん)公卿(くぎやう)に此のよしを仰せ合(あは)せらる。人々申されけるは、洛中にて合戦(かつせん)つかまつらば、朝家(てうか)の御大事たるべし。逆臣(ぎやくしん)京中(きやうぢゆう)を出だしなば、おだやかしき事にこそ候(さうら)はんずれと、諸卿(しよきやう)一同(いちどう)に申されければ、法皇(ほふわう)さらばとて、やがて庁(ちやう)の御下文(みくだしぶみ)をなされけり。同(おな)じく三日(みつかのひ)卯刻(うのこく)に、伊予守(いよのかみ)、叔父(をぢ)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義明(よしあき)、十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)、鎮西(ちんぜい)の住人(ぢゆうにん)、緒方(をがたの)三郎(さぶらう)維義(これよし)相(あひ)具(ぐ)して、その勢三百(さんびやく)余騎(よき)、都(みやこ)に一(ひと)つのわづらひをなさず、西国(さいこく)へこそ落ち行きけれ。摂津国(つのくに)の源氏(げんじ)太田(おほたの)太郎(たらう)頼基(よりもと)、手島(てしま)の冠者(くわんじや)頼季(よりすゑ)、是(これ)を
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聞き、九郎(くらう)判官(はうぐわん)西国(さいこく)へ落ち行きけるを、矢一つをも射ずんば、鎌倉(かまくら)の聞こえあしかりなんとて、三百(さんびやく)余騎(よき)にて追つかけたり。伊予守(いよのかみ)宣(のたま)ひけるは、きたなし。殿原(とのばら)返し合(あは)せて一合戦(ひとかつせん)せよと有りければ、兵(つはもの)どもとつて返し、喚(をめ)いて駆く。太田(おほたの)太郎(たらう)、手島(てしま)の冠者(くわんじや)は人目(ひとめ)ばかりに矢一つ射懸けて引(ひ)きのかんとしける所(ところ)に、手痛う駆けられて引(ひ)き退く。伊予守(いよのかみ)、事の手合(てあは)せ、門出(かどで)好(よ)げなり。うてやうてやとて、その日摂津国(つのくに)大物(だいもつ)の浦(うら)にぞ着き給(たま)ふ。それより船(ふね)に乗り押し出(い)だす。平家の怨霊(をんりやう)や強(こは)かりけん、にはかに西風はげしく吹きて、頼(たの)みつる三郎(さぶらう)先生(せんじやう)、十郎(じふらう)蔵人(くらんど)、緒方(をがたの)三郎(さぶらう)が乗つたる船(ふね)どもは、いづくの浦(うら)にか吹き寄せけん、行き方知らずぞなりにける。判官(はうぐわん)の船(ふね)も、同国(どうこく)住吉(すみよし)の浦(うら)に吹き寄せらる。都(みやこ)より召し具せられたる女房(にようばう)ども、十余人(よにん)、住吉(すみよし)の浜(はま)に捨て置きて、静(しづか)ばかり召し具(ぐ)して、その勢廿余人(よにん)、大和国(やまとのくに)吉野(よしの)の奥(おく)へぞ落ちられける。捨て置かれたる女房(にようばう)共、あるいは松の下(した)、あるいは砂(いさご)の上(うへ)に、袴(はかま)ふみしだき、袖(そで)を片敷(かたし)き泣き伏しける。人是(これ)を哀(あはれ)み、京へ送(おく)りけり。吉野(よしの)法師(ぼふし)此の事を聞いて、九郎(くらう)判官(はうぐわん)の此の山に籠(こも)りたんなる。いざや討ち取り、鎌倉殿(かまくらどの)の見参(げんざん)に入らんとて、弓矢(ゆみや)兵杖(ひやうぢやう)を帯(たい)し、数百人(すひやくにん)攻め来たると聞こえしかば、伊予守(いよのかみ)、吉野山(よしのやま)にも跡とめず、ふせぎ矢(や)射させ、吉野山(よしのやま)をも落ち、その年は都(みやこ)ほとりに忍び給(たま)ひけるが、文治(ぶんぢ)二年(にねん)の春(はる)のころ、秀衡(ひでひら)を頼(たの)みて、奥州(あうしう)へ落ち行かれけり。同(おな)じく十一月(じふいちぐわつ)七日、北条(ほうでうの)四郎(しらう)時政(ときまさ)、
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六万(ろくまん)余騎(よき)にて都(みやこ)へ入る。やがてその日院参(ゐんざん)して、義経(よしつね)行家(ゆきいへ)義明(よしあき)等(ら)が謀叛(むほん)の由奏聞(そうもん)す。たちまち誅戮(ちゆうりく)すべきの旨(むね)、院宣(ゐんぜん)を下(くだ)さる。去(さ)んぬる一日(ひとひのひ)は、義経(よしつね)申すによつて、鎮西(ちんぜい)の将軍(しやうぐん)たるべき御下文(みくだしぶみ)をなされ、同(おな)じく七日には、頼朝(よりとも)申さるるによつて、義経(よしつね)追罰(ついばつ)すべき旨(むね)、院宣(ゐんぜん)を下(くだ)さる。朝(あした)に変(かは)り夕(ゆふべ)に変(へん)ずる世の中の不定(ふぢやう)こそ口惜(くちを)しけれ。又諸国(しよこく)に守護(しゆご)を置き、庄園(しやうゑん)に地頭(ぢとう)をなし、反別(たんべつ)兵粮米(ひやうらうまい)宛ておこなふべきよし奏聞(そうもん)す。法皇(ほふわう)おぼしめしわづらはせ給(たま)ひて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)以下(いげ)の公卿(くぎやう)に此のよしを仰せ合(あは)せらる。人々申されけるは、帝王(ていわう)の怨敵(をんでき)を滅(ほろ)ぼしつる者は半国(はんごく)を賜(たま)ふと言ふ事、無量義経(むりやうぎきやう)に見えたり。されどもいまだ我(わが)朝(てう)にその例(れい)無し。源二位殿(げんにゐどの)申状(まうしじやう)過分(くわぶん)なりと君も臣も仰せられけれども、源二位殿(げんにゐどの)重(かさ)ねて申されければ、文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)十一月(じふいちぐわつ)廿日(はつか)、頼朝(よりとも)の卿(きやう)日本国(につぽんごく)の大将(たいしやう)兼(けん)地頭(ぢとう)に補(ふ)せらる。いまだ先例(せんれい)無き恩賞(おんしやう)なり。吉田(よしだ)の大納言(だいなごん)経房卿(つねふさのきやう)をもつて、か様(やう)の事申されけり。此の大納言(だいなごん)は何事(なにごと)につけても、直(すぐ)き人と聞こえ給へり。平家に結(むす)ぼふれたつし人々も、源氏(げんじ)の強(つよ)りし後(のち)は、脚力(きやくりき)を下(くだ)し、文を遣はし、様々(さまざま)関東(くわんとう)をへつらひ給(たま)ひしかども、此の大納言(だいなごん)は一度(いちど)の事も悪(わる)びれ給はず。此の大納言(だいなごん)と申すは、権(ごんの)右中弁(うちゆうべん)光房(みつふさ)の子なり。十二にて父(ちち)に遅(おく)れ給(たま)ひておはせしかば、次第(しだい)の昇進(しようじん)とどこほらず、夕郎(せきらう)貫首(くわんじゆ)を経(へ)て、参議(さんぎ)大弁(だいべん)、中納言(ちゆうなごん)、太宰帥(ださいのそつ)、遂(つひ)に正二位(じやうにゐ)
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大納言(だいなごん)に至(いた)り給(たま)ふ。世の中の善悪(ぜんあく)は錐(きり)袋(ふくろ)を脱(だつ)するがごとし。
十郎(じふらう)蔵人(くらんど)は天王寺(てんわうじ)に有りと聞こえしかば、北条(ほうでう)討手(うちて)を下(くだ)す。信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん)、家原(いへはら)の九郎(くらう)、常陸国(ひたちのくに)の住人(ぢゆうにん)、石間(いしま)の〔五郎〕二人、百騎(ひやくき)ばかりにて天王寺(てんわうじ)に下(くだ)る。窪(くぼ)の雅楽頭(うたのかみ)兼春(かねはる)がもとに有りと聞こえしかば、そこを寄せてさがすになし。兼春(かねはる)娘(むすめ)二人有り。ともに行家(ゆきいへ)の思者(おもひもの)なり。いかでか知るべきなれ共(ども)、具(ぐ)して京へぞ上(のぼ)りける。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)は、郎等(らうどう)一人具(ぐ)して、徒立(かちだ)ちにて天王寺(てんわうじ)を立ち出でて、熊野(くまの)の方へと落ち行く程(ほど)に、一人(ひとり)下部(しもべ)がいたはる事有りて、行きもやらざりければ、和泉国(いづみのくに)八木郷(やぎのがう)と言ふ所(ところ)に逗留(とうりう)す。亭主(ていしゆ)の男(をとこ)は見知りて、急ぎ都(みやこ)へ上(のぼ)りて申しければ、北条(ほうでう)やがて討手(うちて)を下(くだ)さる。山僧(さんぞう)に西の北谷(きただに)の法師(ほふし)、常陸房(ひたちばう)正明(しやうめい)と言ふ悪僧(あくそう)を呼びて、あつぱれ御辺(ごへん)十郎(じふらう)蔵人(くらんど)殿の和泉国(いづみのくに)におはすなる、討ち奉(たてまつ)りて、鎌倉殿(かまくらどの)の見参(げんざん)に入り給へかしと言ひければ、常陸房(ひたちばう)、さ候(さうら)はば勢を賜(たま)はつて下(くだ)り候(さうら)はんと申す。忍びておはすなれば大勢(おほぜい)にてはかなふまじ。小勢(こぜい)にて下(くだ)るべし。雑色(ざつしき)大源次(だいげんじ)宗安(むねやす)と言ふ大男(おほをとこ)をはじめとして、下部(しもべ)十四五人ぞ付けられける。天王寺(てんわうじ)へ下(くだ)るには、摂津国(つのくに)を経(へ)て京へ入る。常陸房(ひたちばう)は河内路(かはちぢ)を経(へ)て馳せ下(くだ)る。和泉国(いづみのくに)八木郷(やぎのがう)に下(くだ)り着き、件(くだん)の家をさがすに無し。板敷(いたじき)放ち、天上(てんじやう)さがせ共(ども)なかりけり。正明(しやうめい)門に立ちけるに、百姓(ひやくしやう)の妻(つま)かとおぼしき女(をんな)の通りけるに問へども知らずと申す。知ら
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ぬ事はあるまじと、荒けなく問(と)ひければ、よに尋常(じんじやう)なる人のただ二人あれなる家にと教(をし)へける。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)は、小袖(こそで)に大口(おほぐち)ばかりにて、紺の直垂(ひたたれ)着たる男(をとこ)、酒(さけ)あはせんとする所(ところ)に、正明(しやうめい)黒革威(くろかはをどし)の腹巻(はらまき)に、四尺(ししやく)二寸の太刀(たち)を抜き飛(と)んで入る。男(をとこ)逃げゆくを、常陸房(ひたちばう)追つかくる。是(これ)は行家(ゆきいへ)の郎等(らうどう)也。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)是(これ)を見て、行家(ゆきいへ)は我(われ)なるぞ。返(かへ)せと宣(のたま)へば、常陸房(ひたちばう)とつて返(かへ)す。蔵人(くらんど)草摺(くさずり)のはづれを切られければ、かなはじとや思(おも)ひけん、太刀(たち)を捨ててむずと組む。互(たがひ)に大力(だいぢから)、勝負(しようぶ)なかりしに、大源次(だいげんじ)宗安(むねやす)、礫(つぶせ)にてちやうど打つ。下臈(げらふ)なればとてさる例(ためし)やあると宣(のたま)へば、足に縄(なは)をかくるとて、あまりにあわてて二人が四つの足をぞ結(ゆ)うたりける。かかりければ、下部(しもべ)共(ども)出で来たり、様々(さまざま)にして搦めてげり。十郎(じふらう)蔵人(くらんど)、御房(ごばう)は頼朝(よりとも)が使(つか)ひか、北条(ほうでう)が使(つか)ひかと問(と)はれけるこそ神妙(しんめう)なれ。急ぎ具(ぐ)して上(のぼ)る程(ほど)に、渡辺(わたなべ)にて北条(ほうでう)の子息(しそく)、時房(ときふさ)のおぼつかなさに下られけるに行き逢うたり。正明(しやうめい)安堵(あんど)して、その夜は江口(えぐち)の長者(ちやうじや)がもとにぞとどまりける。次(つぎ)の日北条(ほうでう)赤井河原(あかゐがはら)に行き向かつて首(かうべ)を刎ねてげり。兄の信太(しだの)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義明(よしあき)は、伊賀国(いがのくに)千戸(せんど)と言ふ山寺(やまでら)におはしけるが、当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん)、服部(はつとり)平六(へいろく)時定(ときさだ)と言ふ者に取りこめられ、自害(じがい)してんげり。服部(はつとり)やがて首を取り、鎌倉(かまくら)へ下(くだ)る。此の服部(はつとり)と申すは、平家祗侯(しこう)の者なりしが、本領(ほんりやう)伊賀(いが)の服部(はつとり)をぞ返し賜(た)びにける。常陸房(ひたちばう)は十郎(じふらう)
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蔵人(くらんど)の首持ち、鎌倉(かまくら)へ下(くだ)る。神妙(しんめう)なりとは宣(のたま)へ共(ども)、大将軍(たいしやうぐん)討ちつるその恐(おそ)れとて、武蔵国(むさしのくに)笠井(かさゐ)へ流されけり。されども咎なければ、次(つぎ)の年赦免(しやめん)有りて、但馬(たぢま)の国太田(おほた)の庄(しやう)、摂津国(つのくに)葉室(はむろ)の庄(しやう)、此の二箇所(にかしよ)を正明(しやうめい)にぞ賜(たま)はりけれ。
第百十八句 六代(ろくだい)
都(みやこ)の守護(しゆご)に上(のぼ)られける北条(ほうでう)がもとへ、源二位殿(げんにゐどの)言ひ上(のぼ)せられけるは、平家の子孫(しそん)定(さだ)めて多(おほ)かるらん、尋ね出だし、失(うしな)ひ給へと宣(のたま)ひければ、平家の子孫(しそん)尋ね出だしたらん人は、何事(なにごと)も望みのままたるべしと披露(ひろう)しければ、京の者案内(あんない)は知りたり、尋ねもとめけるこそうたてけれ。下臈(げらふ)の子なれども、色白く見めよきは、かの中将(ちゆうじやう)の若君(わかぎみ)、此の少将(せうしやう)の公達(きんだち)なんどと申す。父(ちち)母(はは)悲(かな)しめば、あれは介錯(かいしやく)が申す事なりとて、奪(うば)ひ取り、幼(をさな)きをば水(みづ)に入れ、土(つち)に埋(うづ)み、おとなしきをば首を斬る。その中に小松(こまつの)三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)の子息(しそく)、六代(ろくだい)御前(ごぜん)とて、年もおとなしくおはする上(うへ)、平家嫡々(ちやくちやく)の正統(しやうどう)なり。是(これ)を失(うしな)はれよと鎌倉(かまくら)より宣(のたま)ひ上(のぼ)せられければ、北条(ほうでう)尋ねかねて、既(すで)に下(くだ)らんとする所(ところ)に、ある女房(にようばう)、六波羅(ろくはら)へ来たりて申しけるは、是(これ)より西、遍照寺(へんぜうじ)の奥、小倉山(をぐらやま)の麓(ふもと)、大覚寺(だいかくじ)と申す所に、小松(こまつの)三位(さんみ)の中将殿(ちゆうじやうどの)の北方(きたのかた)、若君(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)相(あひ)具(ぐ)して、此の
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三年(みとせ)住み給(たま)ふぞと教(をし)へける程(ほど)に、北条(ほうでう)やがて人を遣はして見せられければ、使(つか)ひこの房中に入り、人を尋(たづ)ぬるよしにて、籬(まがき)のひまより見入れたれば、折節(をりふし)白き狗(ゑ)の子(こ)の走り出でたるを取らんと、いつくしげなる若君(わかぎみ)の走り出で給(たま)ひたるを、乳母(めのと)かとおぼしき女房(にようばう)のあわてて続いて出で、あなあさましや、人もこそ見候(さうら)ふらめとて、急ぎ引(ひ)き入れ奉(たてまつ)る。一定(いちぢやう)此の人なるべしと心得て、使(つか)ひ帰(かへ)りて申せば、北条(ほうでう)五百騎(ごひやくき)ばかり大覚寺(だいかくじ)へ押し寄せ打ちかこめ、是(これ)に小松(こまつの)三位(さんみ)の中将殿(ちゆうじやうどの)の若君(わかぎみ)のましますなる、北条(ほうでう)と申す者御迎へに参(まゐ)りて候(さうら)ふと人を入れて言はせければ、母(はは)御前(ごぜん)、ただ我(われ)を先(さき)に失(うしな)へとてぞ泣かれける。此の三年(みとせ)は高くだにも笑(わら)はざりし人々の、声(こゑ)をあげてぞ叫び給(たま)ひける。北条(ほうでう)げにもさこそおぼしめし給(たま)ふらめとて、強(し)ひて房(ばう)にも攻め入り給はず、出だし奉(たてまつ)らるるを待つ程(ほど)に、日もやうやう暮れゆけば、重(かさ)ねて使(つか)ひをいれて、別(べち)の御事候(さうら)ふまじ。出だし参(まゐ)らさせ給へと言はせければ、斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六、北方(きたのかた)の御前(おんまへ)に参(まゐ)り、敵(かたき)四方(しはう)をかこみ候(さうら)ふ。いづくより漏れ候(さうら)ふべきやと申せば、六代(ろくだい)御前(ごぜん)、遂(つひ)にのがれ候(さうら)ふまじ。武士(ぶし)共(ども)うち入りさがしなば、各々(おのおの)も憂(う)かるべし。とく出ださせ給へ。命(いのち)生きて六波羅(ろくはら)に候(さうら)はば、又参(まゐ)らんと宣(のたま)へば、髪かきなで結(ゆ)ひなんどして、御装束(おんしやうぞく)させ奉(たてまつ)り、母(はは)御前(ごぜん)黒木(くろき)の数珠(じゆず)のちひさきを取り出だし、や御前(ごぜん)是(これ)を持つて念仏(ねんぶつ)申し、父(ちち)御前(ごぜん)と一(ひと)つ所(ところ)に生(む)まれよと宣(のたま)へば、御前(ごぜん)には別(わか)れ参(まゐ)らするとも、父(ちち)御前(ごぜん)には必(かなら)ず同所(どうしよ)にこそ
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と、おとなしやかにぞ宣(のたま)ひける。今年(こんねん)は十二歳、見めかたちいつくしくたをやかに、涙(なみだ)のすすみけるを、弱(よわ)げを見せじとや、押(お)さゆる袖(そで)のひまよりも、あまりて涙(なみだ)ぞこぼれける。さてもあるべきならねば、輿に乗せてぞ出だし給(たま)ふ。斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六御供(おんとも)しけり。北条(ほうでう)乗替(のりがへ)に乗せんとしけれ共(ども)、最期(さいご)の御供(おんとも)苦しからずとて、六波羅(ろくはら)まで裸足(はだし)にてこそ参(まゐ)りけれ。母(はは)や乳母(めのと)はむなしきあとにとどまりて、いかにせんとぞもだえ給(たま)ふ。又こそと慰(なぐ)さめつることばのおとなしさを、いつ忘(わす)れつとも覚えず、年来(としごろ)長谷の観音(くわんおん)を頼(たの)み奉(たてまつ)りしに、定業(ぢやうごふ)は仏(ほとけ)もかなはせ給はぬにや、されば夕(ゆふ)さりや斬られん、暁(あかつき)や斬られんずらむなんどと、夜(よ)もすがら寝給はねば、夢(ゆめ)さへも見ざりけり。限りあれば、鶏人(けいじん)暁(あかつき)をとなへ、長(なが)き夜もはや明けぬ。六波羅(ろくはら)より斎藤(さいとう)五、若君(わかぎみ)の御文(おんふみ)持ちて参(まゐ)りたり。北方(きたのかた)、先(まづ)いかにやと問ひ給へば、別(べち)の御事候(さうら)はずと申す。此の文を見給へば、別(べち)の御事候(さうら)はず。御心苦(おんこころぐる)しくなおぼしめされそ。いつしかみなみな恋(こひ)しくこそと、おとなしく書かれたりければ、無惨(むざん)の者の心やと、文(ふみ)を顔(かほ)に押し当ててぞ泣き給(たま)ふ。斎藤(さいとう)五暫時(ざんじ)もおぼつかなく候(さうら)ふに、暇(いとま)申して帰(かへ)らんとしければ、御返事賜(たま)はりけり。六波羅(ろくはら)へたち帰(かへ)る。乳母(めのと)の女房(にようばう)は、そこともなくあこがれゆく。或る人いたはりける様(やう)は、高雄山(たかをさん)の文覚(もんがく)と言ふ人こそ、当時(たうじ)鎌倉殿(かまくらどの)の大切(たいせつ)におぼしめす人なれ。されば上臈(じやうらふ)の公達(きんだち)をも弟子(でし)にとほしがり給(たま)ふなると言ひければ、足にまかせて迷(まよ)ひ行く。高雄山(たかをさん)へ尋ね入り、
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尾崎(をざき)房(ばう)に行き、小松(こまつの)三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)殿の若君(わかぎみ)、今年(こんねん)は十二歳になり給(たま)ふ。よにいつくしくましませしを、昨日(きのふ)武士(ぶし)に取られてさぶらふぞ。あまりにいとほしく候(さぶら)へば、乞(こ)ひ取り御弟子(おんでし)にし給へかしと申しければ、文覚(もんがく)、さて一定(いちぢやう)此の山に置き給はんか。御命(おんいのち)だに助かり給はば、聖(ひじり)の御房(ごばう)の御ままとぞ申しける。武士(ぶし)は誰(たれ)なるらん。北条(ほうでう)と申せば、さては知らぬ人かとこそ思(おも)うたれ。行きて尋ねんとて出(い)づる。一定(いちぢやう)とは覚えね共(ども)、大覚寺(だいかくじ)へ帰(かへ)り、此のよし申せば、母(はは)御前(ごぜん)先(まづ)よろこび給(たま)ひけり。文覚(もんがく)六波羅(ろくはら)へ行きて、此のよし尋ねられければ、北条(ほうでう)、さ候(さうら)へばこそ。平家は一門(いちもん)広(ひろ)かりしかば、子孫(しそん)多(おほ)からん、尋ね取つて失(うしな)へと鎌倉(かまくら)より承(うけたまは)り候(さうら)ふ。その中に嫡々(ちやくちやく)の正統(しやうどう)、六代(ろくだい)御前(ごぜん)とて有り。必(かなら)ず尋ね出だし失(うしな)ひ奉(たてまつ)れと候(さうら)ひしかば、聞き出だし迎へ奉(たてまつ)り候(さうら)へども、あまりいたはしさに、いまだともかくもせずとぞ語(かた)られける。幼(をさな)き人はいづくに候(さうら)ふぞやと問(と)はれければ、御覧(ごらん)ぜよとて、若君(わかぎみ)のおはす前(まへ)にぞ入れられける。髪姿(かみすがた)よりはじめて、袴(はかま)の着際(きぎは)にいたるまで、すべていつくしかりけり。黒木(くろき)の数珠(じゆず)のちひさきをつまぐり給(たま)ふ。聖(ひじり)見給(たま)ひて、何(なに)とか思(おも)はれけん、涙(なみだ)ぐみ給へば、なかなか目もあてられず。たち返(かへ)る末(すゑ)の世、いかなる毒となるとも、いかでか助けざるべき。前世(ぜんぜ)の何(なに)の契(ちぎり)ぞや、あまりにいとほしくおぼゆるものかな。文覚(もんがく)鎌倉(かまくら)に下(くだ)りて申し請(こ)うて見候(さうら)はん、いかに北条(ほうでう)、文覚(もんがく)が鎌倉殿(かまくらどの)に忠(ちゆう)を尽(つ)くせし事は、御辺(ごへん)かねて見給(たま)ひしかば、今更(いまさら)申すに及(およ)ばねども、伊豆(いづ)の北条(ほうでう)
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に流されておはせし時(とき)、勅勘(ちよくかん)を申し宥(なだ)めんとて、千里(ちさと)の道(みち)を遠しとせず、粮料(らうれう)の支度(したく)にも及(およ)ばず、富士川(ふじがは)大井河(おほゐがは)に押し流され、宇津(うつ)の山(やま)高師山(たかしやま)にて、山賊(さんぞく)に衣裳(いしやう)をはぎ取られ、命(いのち)ばかり生きて、福原(ふくはら)の御所(ごしよ)へ参(まゐ)り、院宣(ゐんぜん)申し出だし奉(たてまつ)りし約束(やくそく)には、いかなる大事(だいじ)をも申せと宣(のたま)ひしぞかし。されども契(ちぎり)を重くして、命(いのち)を軽(かろ)んず。されば鎌倉殿(かまくらどの)に受領神(じゆりやうしん)託(たく)し給はずは、よも忘(わす)れ給はじ。廿日(はつか)の命(いのち)を助け給へとて出でられけり。斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六、聖(ひじり)をただ生身(しやうじん)の仏(ほとけ)の様(やう)に思(おも)ひて、三度(さんど)伏し拝み、よろこびの涙(なみだ)を流し、大覚寺(だいかくじ)へ参(まゐ)り、此のよしかうと申せば、嘆き沈(しづ)みておはせしが、急ぎ起きあがり、此の三年(みとせ)長谷(はせ)の観音(くわんおん)に祈(いの)る祈(いの)りはここぞかし。鎌倉(かまくら)の御許しは知らねども、暫時(ざんじ)の命(いのち)を延べんにこそとて、明(あ)かし暮らし給(たま)ふ程(ほど)に、廿日(はつか)を過ぐるは夢(ゆめ)なれや、聖(ひじり)はいまだ見えざりけり。さる程(ほど)に十二月十五日(じふごにち)にもなりにけり。北条(ほうでう)さのみ都にて年月(としつき)を送(おく)るべき様(やう)なし。明日(みやうにち)下(くだ)らんとぞひしめきける。斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六、大覚寺(だいかくじ)へ参(まゐ)り、北条(ほうでう)は既(すで)に明日(みやうにち)たち候(さうら)ふ。何(なに)とて聖(ひじり)はいまだ見えさせ給はぬやらんと申せば、北方(きたのかた)、さればとよ、よくば先(さき)に人をも上(のぼ)せてん、ただ悪(あ)しうしてぞ遅(おそ)かるらん。さて失(うしな)はんずる有様(ありさま)かと宣(のたま)へば、さん候(ざうら)ふ。いかさまにも暁(あかつき)程(ほど)にてや候(さうら)はん。その故(ゆゑ)は、近く召し使(つか)ひ候(さうら)ひし、家子(いへのこ)郎等(らうどう)共、若君(わかぎみ)を見参(まゐ)らせて、よにも御名残(おんなごり)惜しげにて、明日(みやうにち)こそ既(すで)にまかり下(くだ)り候(さうら)へとて、念仏(ねんぶつ)申すも候(さうら)ふ。そばに向(む)いて涙(なみだ)ぐむ者
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も候(さうら)ふと申せば、さて六代(ろくだい)はいかにあるぞと宣(のたま)へば、人の見参(まゐ)らせ候(さうら)ふ時(とき)は、御念誦(おんねんじゆ)つまぐらせ給(たま)ひて、さらぬ様(やう)にもてなし、さなき時(とき)は、御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)ふと申す。それはさぞあるらん。心なき者だにも、命(いのち)をば惜しむぞかし。さておのれらはいかにせんと宣(のたま)へば、いづくまでも御供(おんとも)つかまつり、何(なに)にもならせ給(たま)ひて候(さうら)はば、煙(けぶり)となし参(まゐ)らせ、御骨を取り、高野(かうや)に納め奉(たてまつ)り、兄弟(きやうだい)共に法師(ほふし)になり、後世(ごせ)とぶらひ参(まゐ)らせんとこそ申し合(あは)せて候(さうら)へとて、泣々(なくなく)暇(いとま)申して、六波羅(ろくはら)へたち帰(かへ)る。同(おな)じき十六日(じふろくにち)の卯刻(うのこく)に、北条(ほうでう)既(すで)に関東(くわんとう)へ下(くだ)る。若君(わかぎみ)輿に乗せ奉(たてまつ)り、六波羅(ろくはら)をぞうち出でける。有為(うゐ)無常(むじやう)のさかひ、今日(けふ)此の人越(こ)え給(たま)ひなんずとて、見る人袖(そで)をぞぬらされける。駒(こま)をはやむる武士(ぶし)あれば、我(われ)を殺すかと胸さわぐ。そばにささやく者あれば、今(いま)を限りと肝(きも)を消す。松坂(まつざか)四宮河原(しのみやがはら)かと思(おも)へば、関寺(せきでら)をもうち越(こ)えて、大津の浦(うら)にもなりにけり。粟津(あはづ)か野路(のぢ)かと思(おも)へども、その日も斬らでぞやみにける。斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六物をだにも履(は)かずして、足にまかせて行く。北条(ほうでう)駒(こま)の足を早めける程(ほど)に、駿河国(するがのくに)千本(せんぼん)の松原(まつばら)にもかかり給(たま)ふ。ここにて輿かき据(す)ゑ、敷皮(しきがは)しき、若君(わかぎみ)をおろし奉(たてまつ)る。北条(ほうでう)、斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六をそばに呼びて、今(いま)はとくとく帰(かへ)り給へ。今日(けふ)より後(のち)は何(なに)をかおぼつかなく思(おも)ひ給(たま)ふべきと宣(のたま)へば、斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六是(これ)を聞き、さてはここにて失(うしな)ひ奉(たてまつ)るよと思(おも)ふに、物も言はず。北条(ほうでう)、六代(ろくだい)御前(ごぜん)に申しけるは、何(なに)をか隠し参(まゐ)らせ候(さうら)ふべき。
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聖(ひじり)にや逢(あ)ひ候(さうら)ふと、是(これ)までは具(ぐ)し参(まゐ)らせつるなり。一業(いちごふ)所感(しよかん)の人にて渡らせ給へば、誰(たれ)申すともよも鎌倉殿(かまくらどの)御用(おんもち)ゐ候(さうら)はじ。足柄(あしがら)よりあなたまでも具(ぐ)し参(まゐ)らせんと存じ候(さうら)へども、鎌倉殿(かまくらどの)の聞こしめされん所(ところ)をも恐(おそ)れにて候(さうら)へば、近江(あふみ)の国にて失(うしな)ひ参(まゐ)らせたるよしをこそ披露(ひろう)つかまつり候(さうら)はめと申せば、六代(ろくだい)御前(ごぜん)、斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六を召し寄せて、汝等(なんぢら)わが果(はて)を見つる物ならば、あなかしこ大覚寺(だいかくじ)にて申すなよ。母(はは)御前(ごぜん)嘆き給はば、冥途(めいど)の障(さは)りともなるべし。関東(くわんとう)に送(おく)りつけて候(さうら)ふが、当時(たうじ)人に預(あづ)けられて有りと申すべしと宣(のたま)へば、斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六、君に後(おく)れ参(まゐ)らせて、安穏(あんをん)に都(みやこ)まで上(のぼ)りつくべし共(とも)覚えず候(さうら)ふとて、泣々(なくなく)西に向け参(まゐ)らせ、十念(じふねん)すすめ奉(たてまつ)る。太刀取(たちどり)北条(ほうでう)に目を合(あは)せ、いづくに太刀(たち)を打ち当て参(まゐ)らせんとも覚えず候(さうら)ふ。自余(じよ)の人にと辞退(じたい)申せば、さらばあれ斬れ、是(これ)斬れとて、斬手(きりて)を求(もと)むる所(ところ)に、文袋(ふみぶくろ)頸にかけたる僧の、葦毛(あしげ)の馬(むま)に乗りて馳せ来たる。是(これ)は高雄(たかを)の聖(ひじり)の弟子(でし)なりしが、あの松原(まつばら)にて、只今(ただいま)召人(めしうと)の斬られ給(たま)ふと人申せば、あまりの心もとなさに、笠(かさ)を上げてぞ招きける。北条(ほうでう)是(これ)を見て、子細(しさい)有り、しばしとて待たれけり。松原(まつばら)近くなりければ、此の僧馬(むま)より飛んでおり、若君(わかぎみ)許されさせ給(たま)ひて候(さうら)ふ。鎌倉殿(かまくらどの)の御教書(みげうしよ)是(これ)に候(さうら)ふとて、北条(ほうでう)に奉(たてまつ)る。ひらいて是(これ)を見れば、小松(こまつの)三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)の子息(しそく)尋ね出だして候(さうら)ふなるを、高雄(たかを)の聖(ひじり)のしきりに申さるるの条(でう)、預(あづ)け申すべし。北条(ほうでうの)四郎(しらう)殿(どの)へ、頼朝(よりとも)
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とぞ書かれたる。御自筆(おんじひつ)なり。御在判(おんざいはん)なり。神妙(しんめう)なり神妙(しんめう)なりとて巻き給へば、斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六、なかなかあきれて物言はず。北条(ほうでう)、家子(いへのこ)郎等(らうどう)ども、皆(みな)よろこびの涙(なみだ)をぞ流しける。さて文覚(もんがく)来(きた)られたり。六代(ろくだい)御前(ごぜん)乞(こ)ひ請(う)けたりとて、気色(きしよく)誠(まこと)にゆゆしげなり。父(ちち)三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)殿は数度(すど)の軍(いくさ)の大将(たいしやう)なれば、いかに申すともかなふまじきと、鎌倉殿(かまくらどの)の宣(のたま)ひしを、聖(ひじり)が奉公(ほうこう)のよしみを様々(さまざま)申しこしらゆる程(ほど)に、遅(おそ)かりつるよと宣(のたま)ひける。北条(ほうでう)、さ候(さうら)へばこそ廿日(はつか)と宣(のたま)ふ日数(ひかず)も既(すで)に延び候(さうら)ふに、思(おも)へばかしこうこそ今(いま)までのがし参(まゐ)らせて候(さうら)へとて、ともによろこびの色(いろ)をなし、御輿(おんこし)に乗せて奉(たてまつ)り、斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六をば乗替(のりがへ)に乗せて上(のぼ)す。此の程(ほど)何事(なにごと)につけても情(なさけ)深かりし事今更(いまさら)嬉しきにつけても尽(つ)きせぬ物は涙(なみだ)なり。若君(わかぎみ)物こそ宣(のたま)はね共(ども)、よにも名残(なごり)惜しげに思(おも)はれたり。一日路(ひとひぢ)なんども送(おく)り参(まゐ)らせべう候(さうら)へども、鎌倉(かまくら)に参(まゐ)りて申すべき大事(だいじ)あまた候(さうら)へばとてひき別(わか)る。聖(ひじり)は若君(わかぎみ)請け取り、夜を日にして上(のぼ)る程(ほど)に、尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)の辺(へん)にして年も暮れぬ。正月(しやうぐわつ)五日(いつかのひ)の夜に入りて、都(みやこ)へ上(のぼ)り着き、二条(にでう)猪熊(ゐのくま)の岩上(いはがみ)と申す所に、文覚(もんがく)の里房(さとばう)有り。そこに入れ奉(たてまつ)り、息(いき)をぞつかせける。夜中(やちゆう)に大覚寺(だいかくじ)へおはして見給へば、門を立てて人なかりければ、音(おと)もせず。築地(ついぢ)の崩(くづ)れより若君(わかぎみ)の飼(か)ひ給(たま)ひたる狗(ゑ)の子(こ)が走り出でて、尾(を)をふりて迎(むか)ひけるに、母上(ははうへ)はいづくにましますぞと問ひ給(たま)ひけるこそせめての事なれ。斎藤(さいとう)五築地(ついぢ)を越えて、門(かど)をあけ、
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入れ奉(たてまつ)るに、近(ちか)う人の住みたる所(ところ)とも見えざりけり。されば何(なに)となり給(たま)ひたる事どもぞや。いかにしてかひなき命(いのち)を生きたるぞやと倒れふし、泣かれけり。命(いのち)を継(つ)がんと思(おも)ふも、此の人々に今(いま)一度(いちど)見もし見えもし奉(たてまつ)らんと思(おも)ふが為なりとて、夜(よ)もすがら嘆き悲(かな)しみ給(たま)ふぞ誠(まこと)に理(ことわり)と覚えて哀(あはれ)なる。明けて後(のち)、近里(きんり)の人に問ひ給へば、年のうちは大仏(だいぶつ)詣(まうで)と聞こえさせ給(たま)ひしが、正月(しやうぐわつ)の程(ほど)は長楽寺(ちやうらくじ)に御籠(おんこも)りとこそ承(うけたまは)り候(さうら)へと申しければ、斎藤(さいとう)五急ぎかしこに尋ね下(くだ)りて、母上(ははうへ)に会(あ)ひ参(まゐ)らせて、此のよし申しければ、母上(ははうへ)、こはされば夢(ゆめ)かや夢(ゆめ)かやとよろこばれけり。急ぎ大覚寺(だいかくじ)に帰(かへ)り、若君(わかぎみ)を見参(まゐ)らせさせ給(たま)ひて、嬉しさにも先出(さきだ)つ物は涙(なみだ)なり。はやはや出家(しゆつけ)し給へと宣(のたま)へ共(ども)、聖(ひじり)惜しみ奉(たてまつ)りて出家(しゆつけ)をばせさせ奉(たてまつ)らず、高雄(たかを)に迎へ奉(たてまつ)りて、置き参(まゐ)らせらる。母上(ははうへ)のかすかなる御住(おんす)まひをも見つぎ給(たま)ひけるとぞ聞こえし。その後(のち)鎌倉殿(かまくらどの)、文覚(もんがく)のもとへ、便宜(びんぎ)の時(とき)は、いかに維盛(これもり)の子(こ)は、昔(むかし)頼朝(よりとも)を相(さう)し給(たま)ひし様(やう)に、朝敵(てうてき)をも滅(ほろ)ぼし、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)をきよむべき者(もの)にて候(さうら)ふやらんと宣(のたま)へば、文覚(もんがく)、すべて不覚人(ふかくじん)にて候(さうら)ふ。御心やすかるべしと申されけれ共(ども)、鎌倉殿(かまくらどの)、見る所(ところ)有りてぞ乞(こ)ひ請(う)け給(たま)ふらん。謀叛(むほん)おこさば定(さだ)めて方人(かたうど)せん聖(ひじり)なり。ただし頼朝(よりとも)が一期(いちご)の間(あひだ)はいかでか傾(かたぶ)くべき。子供(こども)の末(すゑ)は知らぬと宣(のたま)ひけるぞおそろしき。
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第百十九句 大原(おはら)御幸(ごかう)
文治(ぶんぢ)二年(にねん)の春(はる)のころ、法皇(ほふわう)は、女院(にようゐん)の大原(おはら)の閑居(かんきよ)の御住(おんす)まひ御覧(ごらん)ぜまほしくおぼしめされけれ共(ども)、二月(きさらぎ)弥生(やよひ)の程(ほど)は余寒(よかん)も猶(なほ)いまだはげしく、峰(みね)の白雪(しらゆき)消(き)えやらで、谷(たに)の氷(こほり)もうちとけず。かくて春(はる)過ぎ夏(なつ)にもなりぬ。賀茂(かも)の祭(まつ)りのころにもおぼしめし立(た)たせ給(たま)ひける。八葉(はちえふ)の御車(おんくるま)に召し、忍びの御幸(ごかう)なりけれ共(ども)、花山院(くわさんのゐん)、徳大寺(とくだいじ)、土御門(つちみかど)以下(いげ)、公卿(くぎやう)六人、殿上人(てんじやうびと)八人参(まゐ)られけり。大原(おはら)通(どほ)り日吉(ひよし)の御幸(ごかう)と御披露(ごひろう)有りて、清原(きよはらの)深養父(ふかやぶ)が作(つく)りし補陀落寺(ふだらくじ)、小野(をの)のたかむら大后宮(だいごぐう)の旧跡(きうせき)叡覧(えいらん)有りて、それより御車(おんくるま)をとどめて、御輿(おんこし)にぞ召(め)されける。遠山(とほやま)にかかる白雲(しらくも)は、散(ち)りにし花の形見(かたみ)なり。青葉(あをば)に見ゆる梢(こずゑ)には、春(はる)の名残(なごり)ぞ惜しまるる。はじめたる御幸(ごかう)なれば、御覧(ごらん)じなれたる方もなし。岩間(いはま)をつたふ水(みづ)の音(おと)もしづけくて、行き来の人も跡(あと)絶えたり。寂光院(じやくくわうゐん)は古(ふる)う造(つく)りなせる山水(せんずい)の、木立(こだち)、よしあるさまの御堂(みだう)なり。甍(いらか)破れては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)をたき、枢(とぼそ)落ちては月常住(じやうぢゆう)の灯(ともしび)をかかぐとも、か様(やう)の所(ところ)をや申すべき。岸(きし)の柳(やなぎ)露(つゆ)をふくみ、玉(たま)をつらぬくかと疑(うたが)ひ、池(いけ)の浮草(うきぐさ)波(なみ)にただようて、錦(にしき)をさらすかとあやまたる。松(まつ)にかかれる藤波(ふぢなみ)の、梢(こずゑ)の花の残(のこ)れるも、山郭公(やまほととぎす)の一声(ひとこゑ)も、今日(けふ)の御幸(みゆき)を待ちがほなり。深山(みやま)がくれの習(ならひ)なれば、青葉(あをば)
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にまじる遅桜(おそざくら)、初花(はつはな)よりもめづらしく、水(みづ)の面(おも)に散りしきて、よせ来る波(なみ)も白妙(しろたへ)なり。法皇(ほふわう)是(これ)を叡覧(えいらん)あつて、かくぞおぼしめしつづけらる。
池水(いけみづ)にみぎはの桜(さくら)散りしきて波(なみ)の花(はな)こそさかりなりけれ
庭(には)の青草(あをくさ)露(つゆ)重く、籬(まがき)にたふれかかりつつ、外面(そとも)小田(をだ)に水(みづ)越えて、鴫(しぎ)立つひまもなかりけり。女院(にようゐん)の御庵室(ごあんじつ)を御覧(ごらん)ずれば、垣(かき)には蔦(つた)はひかかり、忍草(しのぶ)まじりの忘草(わすれぐさ)、瓢箪(へうたん)しばしばむなしく、草(くさ)顔淵(がんゑん)が巷(ちまた)にしげしと覚え、庭(には)には蓬(よもぎ)生(お)ひしげり、藜〓(れいでう)深く鎖(とざ)して、雨(あめ)原憲(げんけん)が枢(とぼそ)をうるほす共(とも)言(い)つつべし。板(いた)の葺き間もまばらにて、時雨(しぐれ)も霜(しも)も置く露(つゆ)も、漏る月影(つきかげ)にあらそひて、たまるべしとも見えざりけり。うしろは山、前(まへ)は野辺(のべ)、いささ小笹(をざさ)に風さわぎ、世に立(た)たぬ身の習(ならひ)とて、憂きふししげき竹(たけ)の柱(はしら)、都(みやこ)の方(かた)のことづては、間遠(まどほ)に結へるませ垣(がき)や、わづかに言(こと)問ふ物とては、峰(みね)に木伝(こづた)ふ猿(さる)の声(こゑ)、賤(しづ)が爪木(つまぎ)の斧(をの)の音(おと)、これらならではさらになし。まさきの葛(かづら)、青(あを)つづら、来る人まれなる所なり。法皇(ほふわう)御庵室(ごあんじつ)に入らせ給(たま)ひて、人やある人やあると召されけれ共(ども)、御答(おんいらへ)申す人もなし。やや有りて奥(おく)の方(かた)より、老いたる尼公(にこう)一人参(まゐ)り候(さぶら)ふとぞ申しける。女院(にようゐん)はいづちへ行啓(ぎやうげい)なるぞと仰せければ、此のうしろの山に花(はな)摘みに入らせ給(たま)ひて候(さぶら)ふと申せば、いかに花(はな)摘みて参(まゐ)らすべき者も付き奉(たてまつ)らぬにや、さこそ世(よ)をのがれ給(たま)ふとも、今更(いまさら)習(ならひ)なき御わざはいたはしくこそと仰せければ、尼公(にこう)涙(なみだ)をおさへて、事新しき申し事にて
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は候(さぶら)へども、釈迦(しやか)如来(によらい)は、中天竺(ちゆうてんぢく)の主(あるじ)、浄飯大王(じやうぼんだいわう)の太子(たいし)、され共(ども)迦毘羅城(かびらじやう)を出でて、檀特山(だんどくせん)に入り、高き峰(みね)には爪木(つまぎ)を拾(ひろ)ひ、深き谷(たに)には水(みづ)を掬(むす)び、雪(ゆき)をはらひ、氷(こほり)を砕くのみならず、難行(なんぎやう)苦行(くぎやう)の功(こう)を積み、遂(つひ)に正覚(しやうがく)をなし給(たま)ふ。前世(ぜんぜ)の宿執(しゆくしふ)をも、後世(ごせ)の宿業(しゆくごふ)をもさとらせ給(たま)ひて、捨身(しやしん)の行(ぎやう)、修(しゆ)しましまさんには、何(なに)の御はばかりか候(さぶら)ふべきとぞ申しける。此の尼公(にこう)の気色(けしき)を御覧(ごらん)ずれば、身に着たる物は、絹布(けんぷ)とも見分けず、あさましげなる作法(さほふ)なり。此のさまにてか様(やう)の事申す不思議(ふしぎ)さよ。汝(なんぢ)はいかなる者ぞと御尋ね有りければ、尼公(にこう)涙(なみだ)にむせび、しばしは物も申さず。やや有りて涙(なみだ)を押し拭(のご)ひて、是(これ)は少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が娘(むすめ)、阿波(あは)の内侍(ないし)と申す者にて候(さぶら)ふ。母(はは)は紀伊(きいの)二位(にゐ)の娘(むすめ)也。紀伊(きいの)二位(にゐ)は、又法皇(ほふわう)の御乳母(おんめのと)なりしかば、さしも御近(おんちか)う召し使はれし御事に御覧(ごらん)じ忘(わす)れはて給(たま)ひて、今更(いまさら)夢(ゆめ)かと驚(おどろ)かせましまして、法皇(ほふわう)も御衣(ぎよい)の袖(そで)をしぼりあへさせ給はず。御障子(みしやうじ)を開(ひら)きて御覧(ごらん)ずれば、来迎(らいかう)の三尊(さんぞん)東(ひがし)向きにおはします。中尊(ちゆうぞん)の御手(みて)には、五色(ごしき)の糸(いと)をかけられたり。普賢(ふげん)の絵像(ゑざう)、善導和尚(ぜんだうくわしやう)ならびに先帝(せんてい)の御影(みえい)なんどもましましけり。御前(おんまへ)の机(つくえ)には、八軸(はちぢく)の妙文(めうもん)、九帖(くでう)の御袈裟(おんけさ)置かれたり。総(そう)じて諸卿(しよきやう)の要文(えうもん)共(ども)色紙(しきし)に書きて、所々(ところどころ)に置かれたり。蘭麝(らんじや)の匂(にほひ)にひきかへて、香(かう)の煙(けぶり)ぞ心細(こころぼそ)く立ち上(のぼ)る。昔(むかし)大江(おほえ)の貞基(さだもと)法師(ぼふし)、天台山(てんだいさん)の麓(ふもと)、清涼山(せいりやうざん)に住(ぢゆう)しける時(とき)、詠(えい)じ
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たりし、笙歌(せいが)遥(はるか)に聞こゆ孤雲(こうん)の上(うへ)、聖衆(しやうじゆ)来迎(らいかう)す落日(らくじつ)の前(まへ)と書かれたり。かの浄名居士(じやうみやうこじ)の方丈(はうぢやう)の室(しつ)の内(うち)に三万六千の榻(しぢ)を並べ、十方(じつぱう)の諸仏(しよぶつ)を請(しやう)じ奉(たてまつ)りけんも、かくやとぞ覚えたる。少しひきのけて、女院(にようゐん)の御製(ぎよせい)とおぼしくて、
思(おも)ひきや深山(みやま)の奥に住(す)まひして雲井(くもゐ)の月をよそに見んとは
一間(ひとま)なる障子(しやうじ)を、開(ひら)きて御覧(ごらん)ずれば、竹(たけ)の御棹(さを)に、麻(あさ)の御衣(ぎよい)、紙(かみ)の衾(ふすま)をかけられたり。さしも本朝(ほんてう)漢土(かんど)の妙(たへ)なる類(たぐひ)を尽くし、綾羅(りようら)錦繍(きんしう)の粧(よそほひ)も、さながら夢(ゆめ)になりにけり。供奉(ぐぶ)の殿上人(てんじやうびと)も、まのあたりに見参(まゐ)らせし事なれば、今(いま)の様(やう)に覚えて、皆(みな)袖(そで)を濡らしける。さる程(ほど)にうしろの山の細道(ほそみち)より、濃き墨染(すみぞめ)の衣(ころも)着たる尼(あま)二人、木の根(ね)をつたはり下(お)り下(くだ)る。先(さき)に立ちたるは、樒(しきみ)つつじ藤(ふぢ)の花入れたる花筐(はながたみ)を肘(ひぢ)にかけたり。今(いま)一人は爪木(つまぎ)に蕨(わらび)折(を)り具(ぐ)してぞいだきたる。花筐(はながたみ)肘(ひぢ)にかけ給へるは、かたじけなくも女院(にようゐん)にてぞましましける。爪木(つまぎ)に蕨(わらび)折り添(そ)へていだきたるは、大宮(おほみや)の太政(だいじやう)大臣(だいじん)尹通(まさみち)の孫(まご)、鵜飼(うかひ)の中納言(ちゆうなごん)伊実(これざね)の卿(きやう)の御娘(おんむすめ)、先帝(せんてい)の御乳母(おんめのと)、大納言(だいなごん)の典侍(すけ)の局(つぼね)なり。一念(いちねん)の窓(まど)の前(まへ)には摂取(せつしゆ)の光明(くわうみやう)を期(ご)し、十念(じふねん)の柴(しば)の枢(とぼそ)には、聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいかう)をこそ待ちつるに、思(おも)ひのほかに法皇(ほふわう)の御幸(ごかう)なりたる口惜(くちを)しさよ。さこそ世を捨(す)つる身となりたるとも、かかるさまにて見え参(まゐ)らせん事心憂く悲(かな)しく
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て、ただ消えも入らばやとぞおぼしめされける。宵々(よひよひ)ごとの閼伽(あか)の水(みづ)、掬(むす)ぶ袂(たもと)もしをるるに、暁(あかつき)起きの袖(そで)の上(うへ)、山路(やまぢ)の露もしげくして、しぼりかねさせ給(たま)ひけん。山へも立ち帰(かへ)らせ給はず、御庵室(ごあんじつ)にも入り給はず、やすらはせ給(たま)ふ所(ところ)に、内侍(ないし)の尼(あま)参(まゐ)りて、御花筐(おんはながたみ)を賜(たま)はりぬ。是(これ)程(ほど)に憂き世をいとひ菩提(ぼだい)の道(みち)に入らせ給はん上(うへ)は、今(いま)は何(なに)のはばかりか候(さぶら)ふべき。はやはや見参(げんざん)有り、還御(くわんぎよ)なし参(まゐ)らせ給へと申せば、げにもとやおぼしめしけん、泣々(なくなく)法皇(ほふわう)の御前(おんまへ)に参(まゐ)り給(たま)ふ。互(たがひ)に御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)ひて、しばしは仰せ出ださるる事もなし。やや有りて法皇(ほふわう)御涙(おんなみだ)をおさへ、此の御有様(おんありさま)とはゆめゆめ知り参(まゐ)らせ候(さうら)はず。誰(たれ)か言(こと)問ひ参(まゐ)らせ候(さうら)ふと仰せければ、女院(にようゐん)、冷泉(れいぜん)の大納言(だいなごん)、七条(しつでう)修理(しゆりの)大夫(だいぶ)、此の人々の内方(うちかた)よりこそ、時々(ときどき)問ひ候(さぶら)へ。その昔(むかし)はあの人々に訪(とぶら)はれべしとはつゆも思(おも)ひより候(さぶら)はざつし事をとて、御涙(おんなみだ)にむせび給へば、法皇(ほふわう)をはじめ参(まゐ)らせて、供奉(ぐぶ)の人々も御袖(そで)しぼりあへ給はず。女院(にようゐん)重(かさ)ねて申させ給(たま)ひけるは、人々にも後(おく)れしは、なかなか嘆きの中のよろこびなり。その故(ゆゑ)は、五障(ごしやう)三従(さんじゆう)の苦しみをのがれ、釈迦(しやか)の遺弟(ゆいてい)につらなり、比丘(びく)の聖名(しやうみやう)をけがし、三時(さんじ)に六根(ろつこん)を懺悔(さんげ)し、人々の後生(ごしやう)をとぶらひ候(さぶら)へば、生(しやう)をかへてこそ六道(ろくだう)を見るなるに、是(これ)は生きながら六道(ろくだう)を見てさぶらふと申させ給へば、法皇(ほふわう)、是(これ)こそ大きに心得候(さうら)はね。異国(いこく)の玄弉(げんじやう)三蔵(さんざう)は、悟(さとり)の中に六道(ろくだう)を見、本朝(ほんてう)の日蔵(にちざう)上人(しやうにん)は、蔵王(ざわう)権現(ごんげん)の力(ちから)にて、六道(ろくだう)
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を見たりと承(うけたまは)る。まさしく女人(によにん)の御身にて、即身(そくしん)に六道(ろくだう)を御覧(ごらん)ぜられん事いかが候(さうら)ふべき。女院(にようゐん)、げに理(ことわり)の仰せと覚え候(さぶら)へども、六道(ろくだう)を見候(さぶら)ふ様(やう)を、あらあらなぞらへ申すべし。此の身は平相国(しやうこく)の娘(むすめ)にて、女御(にようご)の宣旨(せんじ)を下(くだ)され、后(きさき)の位(くらゐ)にそなはつて、皇子(わうじ)を産(う)み奉(たてまつ)り、位(くらゐ)につけ給(たま)ひしが、天子(てんし)を子に持ち奉(たてまつ)る上(うへ)は、大内山(おほうちやま)の春(はる)の花、色々(いろいろ)の衣更(ころもがへ)、仏名(ぶつみやう)の年(とし)の暮(くれ)、摂禄(せつろく)以下(いげ)の大臣(だいじん)公卿(くぎやう)に賞(しやう)ぜられし有様(ありさま)は、四禅(しぜん)六欲(ろくよく)の雲(くも)の上(うへ)、八万(はちまん)の諸天(しよてん)に囲繞(ゐねう)せられてんも、かくやとこそ覚え候(さうら)ひしか。さても去(さ)んぬる寿永(じゆえい)の秋の初め、木曾(きそ)とかや言ふ者に、都(みやこ)を攻め出だされ、はるばるの波(なみ)の上(うへ)にただよひて、室山(むろやま)水島(みづしま)とかやの軍(いくさ)に勝ちて、人々少し色(いろ)を直(なほ)して有りしに、又一(いち)の谷(たに)とかやの軍(いくさ)に負けて、一門(いちもん)数十人(すじふにん)しかるべき侍(さぶらひ)三百(さんびやく)余人(よにん)滅びしかば、日来(ひごろ)の直垂(ひたたれ)束帯(そくたい)も、今(いま)は何(なに)ならず、鉄(くろがね)をのべて身にまとひ、もろもろの獣(けだもの)の皮(かは)を足(あし)手(て)に巻き、喚(をめ)き叫びし声(こゑ)の絶えざるは、帝釈(たいしやく)〓王(ごわう)の須弥(しゆみ)の半天(はんてん)にして、互(たがひ)に威勢(ゐせい)をあらそふらん、修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)も、かくやとこそ覚え候(さぶら)ひしか。山野(さんや)ひろしといへども、休(やす)まんとするに所(ところ)なし。貢物(みつぎもの)も絶えしかば、旅のつとめに及(およ)ばず。供御(ぐご)はたまたま供(そな)ゆけれども、水(みづ)をも奉(たてまつ)らず。大海(だいかい)に浮かぶといへども、それ潮(うしほ)なれば、飲むにも及(およ)ばず。衆流海(しゆりうかい)飲(の)まんとすれば、猛火(まうくわ)となりなん餓鬼道(がきだう)も、かくやとぞ覚えたる。さて年月(としつき)を送(おく)る
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程(ほど)に、過ぎにし春(はる)の暮(くれ)に、先帝(せんてい)をはじめ奉(たてまつ)り、一門(いちもん)ともに門司(もじ)赤間(あかま)の波(なみ)の底(そこ)に沈(しづ)みしかば、残(のこ)りとどまる人どもの喚(をめ)き叫ぶ声(こゑ)、叫喚(けうくわん)大叫喚(だいけうくわん)の地獄(ぢごく)の底(そこ)に落ちたらんも、是(これ)に過ぎじとぞ聞こえし。さても又武士(ぶし)共(ども)に捕(とら)はれて上(のぼ)り候(さぶら)ひし時(とき)、播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)とかやに着きたりし夜、夢(ゆめ)幻(まぼろし)とも分(わ)かたず、なぎさに出で西(にし)を、さし歩みゆけば、金銀(きんぎん)七宝(しつぽう)を散りばめて、瑠璃(るり)をのべたる宮(みや)の内(うち)へ参(まゐ)りたり。先帝(せんてい)をはじめ参(まゐ)らせ、一門(いちもん)の人々ども並(な)みゐて、同音(どうおん)に提婆品(だいばほん)を読誦(どくじゆ)し奉(たてまつ)る間(あひだ)、是(これ)はいづくぞと申ししかば、二位(にゐ)の尼(あま)、是(これ)は竜宮城(りゆうぐうじやう)と答(こた)へ申せし程(ほど)に、あな目出(めで)たや、是(これ)程(ほど)ゆゆしき所(ところ)に苦しみは候(さぶら)はじと申せば、二位(にゐ)の尼(あま)、此の様(やう)は、竜畜経(りゆうちくきやう)に見えて候(さぶら)ふぞ。それをよく見給(たま)ひて、後世(ごせ)とぶらひ給へと申すと思(おも)ひて、夢(ゆめ)はさめ候(さぶら)ひぬ。是(これ)をもつてこそ六道(ろくだう)を見たりと申し候(さぶら)へ。わが身(み)は命(いのち)惜しからねば、朝夕(あさゆふ)是(これ)を嘆く事もなし。いかならん世(よ)にも、忘(わす)れがたきは安徳天皇(あんとくてんわう)の御面影(おんおもかげ)、心(しん)の終(をは)り乱れぬ先(さき)にと悲(かな)しめば、ただ臨終(りんじゆう)の正念(しやうねん)ばかりなりと申させ給(たま)ひもあへず、又涙(なみだ)にむせばせ候(さうら)へば、法皇(ほふわう)をはじめ参(まゐ)らせて、供奉(ぐぶ)の人々、公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、御袂(おんたもと)しぼりもあへ給はず。猶(なほ)も名残(なごり)は惜(を)しけれ共(ども)、さてあるべき事ならねば、法皇(ほふわう)都(みやこ)へ還御(くわんぎよ)なる。夕陽(せきやう)西に傾(かたぶ)けば、寂光院(じやくくわうゐん)の鐘(かね)の声(こゑ)、今日(けふ)も暮れぬとうちしめる。女院(にようゐん)は法皇(ほふわう)の還御(くわんぎよ)を御覧(ごらん)じ送(おく)り参(まゐ)らせさせ給(たま)ひて、御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)ひ
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て、立(た)たせ給(たま)ひたる所(ところ)に、折節(をりふし)郭公(ほととぎす)のおとづれて過ぎければ、女院(にようゐん)、
いざさらば涙(なみだ)くらべん郭公(ほととぎす)我(われ)も憂き世に音(ね)をのみぞなく
徳大寺(とくだいじ)の左大臣(さだいじん)実定(さねさだ)、御庵室(ごあんじつ)の柱(はしら)に書きつけけるとかや。
いにしへは月にたとへし君(きみ)なれどその光(ひかり)なき深山辺(みやまべ)の里(さと)
その後(のち)法皇(ほふわう)も常(つね)に御訪(おんとぶら)ひ共有りけり。女院(にようゐん)遂(つひ)に建久(けんきう)のころ、竜女(りゆうによ)が正覚(しやうがく)のあとを追(お)ひ、往生(わうじやう)の素懐(そくわい)を遂げ給(たま)ふ。冷泉(れいぜいの)大納言(だいなごん)隆房(たかふさ)の卿(きやう)、七条(しつでう)修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆(のぶたか)の卿(きやう)の北方(きたのかた)ぞ、最期(さいご)までも御訪(おんとぶら)ひは申されけるとかや。
第百二十句 断絶(だんぜつ)平家
さる程(ほど)に六代(ろくだい)御前(ごぜん)は、十四五にもなり給へば、見めかたちいつくしく類(たぐひ)なく見え給へり。十六と申す、文治(ぶんぢ)五年(ごねん)三月(さんぐわつ)に、聖(ひじり)に暇(いとま)乞(こ)ひ給(たま)ひて、いつくしげなる御髪、肩(かた)のまはりより鋏みおろし、柿(かき)の衣(ころも)なんどをこしらへて出でられけり。斎藤(さいとう)五斎藤(さいとう)六、同(おな)じ様(やう)に出でたちて、御供(おんとも)しけり。先(まづ)高野(かうや)へ上(のぼ)りて、滝口(たきぐち)入道(にふだう)が庵室(あんじつ)を尋ねておはしつつ、維盛(これもり)が子にて候(さうら)ふ。父(ちち)の行方(ゆくへ)聞かまほしさに、是(これ)まで尋ねて上(のぼ)り候(さうら)ふと宣(のたま)へば、滝口(たきぐち)入道(にふだう)、急ぎ出で会(あ)ひ見奉(たてまつ)れば、少しも違はせ給はず。只今(ただいま)の様(やう)にこそ覚え候(さうら)へとて、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をぞしぼりける。
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やがて具(ぐ)し奉(たてまつ)り、熊野(くまの)へ参(まゐ)り、三(みつ)の御山へ参詣(さんけい)し、その後(のち)浜の宮の御前(おんまへ)のなぎさに立ちて、跡(あと)もなき、しるしもなかりき、遥(はるか)の海上(かいしやう)をまぼらへて、わが父(ちち)は此の沖(おき)にこそ沈(しづ)み給(たま)ひぬとて、沖(おき)より立ち来る波(なみ)に問(と)はまほしくぞ宣(のたま)ひける。それより都(みやこ)へ帰(かへ)り上(のぼ)り、高雄(たかを)に三位(さんみの)禅師(ぜんじ)とて、行(おこな)ひすましておはしける。平家の子孫(しそん)と言ふ事は、去(さ)んぬる元暦(げんりやく)二年(にねん)の冬(ふゆ)のころ、一つ二つの子をきらはず、腹の中をあけて見んと言ふばかりに尋ね出だして失(うしな)ひてんげり。今(いま)は一人も無しとこそ思(おも)ひしに、新中納言(しんぢゆうなごん)知盛(とももり)の末(すゑ)の子、伊賀(いがの)太夫知忠(ともただ)と言ふ人おはしけり。三歳(さんざい)と申しける時(とき)、都(みやこ)に捨て置き落ち下(くだ)りたりけるを、乳母(めのと)の紀伊(きいの)二郎兵衛(じらうびやうゑ)入道(にふだう)為成(ためなり)と言ふ者が養(やしな)ひ奉(たてまつ)り、伊賀国(いがのくに)にある山寺(やまでら)に置き奉(たてまつ)りたりける程(ほど)に、十四五になり給へば、地頭(ぢとう)守護(しゆご)あやしみける間(あひだ)、かくてはかなはじとて、建久(けんきう)七年(しちねん)三月(さんぐわつ)に具(ぐ)し奉(たてまつ)り都(みやこ)へ上(のぼ)る。法性寺(ほつしやうじ)の一橋(ひとつばし)なる所(ところ)に置き奉(たてまつ)る。そのころ都(みやこ)の守護(しゆご)は鎌倉(かまくら)の右大将(うだいしやう)頼朝(よりとも)の卿(きやう)の妹(いもうと)婿(むこ)、一条(いちでう)の二位(にゐの)入道(にふだう)能保(よしやす)のままなり。いにしへは大宮(おほみや)の二位(にゐ)とて、世(よ)にもおはさざりしが、今(いま)は関東(くわんとう)のたよりとて、人の怖(お)ぢ恐(おそ)るる事限りなし。その侍(さぶらひ)に、後藤左衛門(ごとうざゑもん)基清(もときよ)と言ふ者、いかがはしたりけん、此の事を聞きて、その勢三百(さんびやく)余騎(よき)にて、建久(けんきう)七年(しちねん)十月(じふぐわつ)七日の卯刻(うのこく)に、法性寺(ほつしやうじ)の一橋(ひとつばし)へぞ押し寄せたる。在京(ざいきやう)の武士(ぶし)共是(これ)を聞き、劣(おと)らじと馳せける程(ほど)に、数千騎(すせんぎ)に及(およ)べ
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り。件(くだん)の所は、四方(しはう)に大竹(おほたけ)植(う)ゑまはし、堀(ほり)を二重(ふたへ)に掘り、逆茂木(さかもぎ)引(ひ)きて、橋(はし)を引(ひ)きゐたり。平家の侍(さぶらひ)に聞こふる越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛嗣(もりつぐ)、上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)忠光(ただみつ)、悪(あく)七兵衛(しちびやうゑ)景清(かげきよ)、是(これ)三人壇浦(だんのうら)の合戦(かつせん)より討ちもらされ、山林(さんりん)にまじはり、源氏(げんじ)を伺(うかが)ひまはりけるが、いにしへのよしみを尋ねて、此の人にぞ付きたりける。是(これ)をはじめて、城(じやう)の内(うち)に究竟(くつきやう)の者(もの)共(ども)廿余人(よにん)たて籠(ごも)りて、命(いのち)も惜しまず戦(たたか)ふ所(ところ)に、面(おもて)を向(む)くる者なし。され共(ども)寄せ手の者(もの)ども堀(ほり)を埋(うづ)めて攻め入り攻め入り戦(たたか)ひけり。城(じやう)の内(うち)にも矢種(やだね)皆(みな)射尽くして、館(たち)に火(ひ)をかけ自害(じがい)してんげり。上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)忠光(ただみつ)は、その時(とき)そこにて討死(うちじに)しつ。越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)と悪(あく)七兵衛(しちびやうゑ)は、いかがはしたりけん、此の時(とき)も又落ちにけり。伊賀(いがの)太夫知忠(ともただ)は、生年(しやうねん)十六になり給(たま)ふが、腹かき切り、西に向きて、十念(じふねん)となへて果て給(たま)ひぬ。乳母(めのと)紀伊(きいの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)入道(にふだう)は養君(やうくん)の自害(じがい)し給(たま)ひたるを、膝(ひざ)にひきかけ、若君(わかぎみ)も、腹かき切りかさなつてぞ伏しにける。その子紀伊(きいの)新兵衛(しんびやうゑ)、同(おな)じく次郎、同(おな)じく三郎(さぶらう)共(とも)に討死(うちじに)してんげり。討たるる者十六人、自害(じがい)する者五人とぞ聞こえし。後藤左衛門(ごとうざゑもん)、此の首ども取り集めて、二位(にゐ)入道(にふだう)殿(どの)へ馳せ参(まゐ)る。二位(にゐ)入道(にふだう)車(くるま)に乗り、一条(いちでう)大路(おほぢ)へやり出ださせ、実検(じつけん)せられけり。紀伊(きいの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)入道(にふだう)が首をば見知りたる者(もの)共(ども)多(おほ)かりけり。伊賀(いがの)太夫の首をば、人いかでかしるべきなれば、見知りたる者なし。新中納言(しんぢゆうなごん)の北方(きたのかた)、治部卿局(ぢぶきやうのつぼね)とて、七条(しつでう)の女院(にようゐん)
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に候(さぶら)はれけるを、迎(むか)ひ寄せ奉(たてまつ)り、見せ参(まゐ)らせければ、治部卿局(ぢぶきやうのつぼね)、いさとよ、三歳(さんざい)と申す時(とき)、故(こ)中納言(ちゆうなごん)、都(みやこ)に捨て置きて落ち下(くだ)られて後(のち)は、生きたりとも、死したりとも、我(われ)その行方(ゆくへ)を聞(き)かず、ただし故(こ)中納言(ちゆうなごん)の思(おも)ひ出(い)だす所(ところ)のあるは、もしさやあらんとて、涙(なみだ)にむせび給(たま)ひけるにぞ、知忠(ともただ)の首にも定(さだ)めける。小松殿(こまつどの)の末(すゑ)の子、丹後(たんごの)侍従(じじゆう)忠房(ただふさ)は、屋島(やしま)の軍(いくさ)よりかけはなれて、紀伊(きいの)国の住人(ぢゆうにん)、湯浅(ゆあさの)七郎兵衛(しちらうびやうゑ)宗光(むねみつ)がもとにぞおはしける。いかがはしたりけん、此の事関東(くわんとう)に聞こえて、熊野(くまの)の別当(べつたう)湛増(たんぞう)に仰せて、湯浅(ゆあさ)を攻めらる。湛増(たんぞう)湯浅(ゆあさ)がもとへ寄せて、追つ返(かへ)さるる事数箇度(すかど)、され共(ども)いまだ攻め落(おと)さず、丹後(たんごの)侍従(じじゆう)宣(のたま)ひけるは、さればとて、忠房(ただふさ)が故(ゆゑ)に、各々(おのおの)の身をむなしくなし奉(たてまつ)らん事こそいたはしけれ。ただ我(われ)を都(みやこ)へ具(ぐ)して上(のぼ)れ。降人(かうにん)になりて、斬られんと宣(のたま)へば、いかでかさる事候(さうら)ふべしとて、しきりにかなふまじきよし申しけれども、あまりに宣(のたま)ふ間(あひだ)、力(ちから)及(およ)ばず。七郎兵衛(しちらうびやうゑ)具(ぐ)し奉(たてまつ)り、六波羅(ろくはら)へぞ出でたりける。此のよし関東(くわんとう)へ申しければ、別(べち)の子細(しさい)あるまじ。急ぎ斬るべしと宣(のたま)へば、六条河原(ろくでうかはら)にて遂(つひ)に斬り奉(たてまつ)る。さてこそ湯浅(ゆあさ)は安堵(あんど)しけれ。又小松殿(こまつどの)の御子に、土佐守(とさのかみ)宗実(むねざね)と言ふ人おはしけり。是(これ)は二歳(にさい)の時(とき)、大炊御門(おほいのみかど)の左大臣(さだいじん)経宗(つねむね)取りはなちて、廿(にじふ)余年(よねん)養育(やういく)せられき。されば平家都(みやこ)を落ちし時(とき)も、相(あひ)具せざりき。いかがはしたりけん、此の事関東(くわんとう)へ聞こえて、関東(くわんとう)より、攻(せ)むべきにて下(くだ)せ
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なんど聞こえし間(あひだ)、土佐守(とさのかみ)、急ぎ出家(しゆつけ)し給(たま)ひて、東大寺(とうだいじ)の俊乗(しゆんじよう)上人(しやうにん)のもとへおはして、是(これ)は小松(こまつの)内府(だいふ)が子にて候(さうら)ふが、三歳(さんざい)の時(とき)より、大炊御門(おほいのみかど)の左府(さふ)取りはなち、此の廿(にじふ)余年(よねん)養育(やういく)せられき。されば弓矢(ゆみや)の本末(もとうら)を知り候(さうら)はねども、猶(なほ)平家のゆかりとて、関東(くわんとう)より攻(せ)むべきなんど聞こえ候(さうら)ふ間(あひだ)、髻(もとどり)切りて、聖(ひじり)の御房(ごばう)頼(たの)み参(まゐ)らせんとて参(まゐ)りて候(さうら)ふ。助けさせ給へと宣(のたま)へば、上人(しやうにん)、かなふべしとは覚え候(さうら)はね共(ども)、申してこそ見候(さうら)はめ。その程(ほど)は是(これ)に忍(しの)ばせ給へとて、東大寺(とうだいじ)の油倉(あぶらぐら)と言ふ所(ところ)に置き奉(たてまつ)る。上人(しやうにん)関東(くわんとう)へ申されければ、鎌倉殿(かまくらどの)、対面(たいめん)をしてこそ。斬るべき人ならば斬り、助くべき人ならば助けんずれ。急ぎ先(まづ)是(これ)へ下(くだ)さるべしと宣(のたま)へば、上人(しやうにん)力(ちから)及(およ)ばねば、土佐(とさ)入道(にふだう)関東(くわんとう)へ下(くだ)し給(たま)ひけり。土佐(とさ)入道(にふだう)関東(くわんとう)へ下(くだ)るべしと聞こえし日より水(みづ)をだにものどに入れ給はず、十六日(じふろくにち)と申すに、足柄山(あしがらやま)にて遂(つひ)に干死(ひじに)し給(たま)ふ。年(とし)廿三、心のうちこそおそろしけれ。建久(けんきう)八年(はちねん)十一月(じふいちぐわつ)七日、但馬(たぢま)の国の住人(ぢゆうにん)、比気(ひき)の権守(ごんのかみ)、越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)が首持ちて鎌倉(かまくら)へ参(まゐ)りたり。是(これ)年来(としごろ)盛嗣(もりつぐ)とも知らずして、権守(ごんのかみ)を頼(たの)みて仕(つか)はれける程(ほど)に、躾(しつけ)骨柄(こつがら)、立居(たちゐ)振舞(ふるまひ)、ことにふれ抜群(ばつぐん)に見えける間(あひだ)、哀(あはれ)是(これ)は下臈(げらふ)と覚えぬもの哉と思(おも)ひ、是(これ)をあやしめ尋ね聞く程(ほど)に、盛嗣(もりつぐ)にて有りけるなれば、討ちたりけるとかや。悪(あく)七兵衛(しちびやうゑ)も、同(おな)じき年(とし)の冬(ふゆ)、鎌倉(かまくら)にて捕(とら)はれて宇都宮(うつのみや)に預(あづ)けらる。
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そのころの主上(しゆしやう)と申すは、後鳥羽院(ごとばのゐん)の御事なり。御遊びをのみ御心に入れさせ給(たま)ひて、天下(てんが)は一向(いつかう)卿(きやう)の二品(にほん)のままなりければ、世の憂(うれ)ひ嘆きも絶えざりけり。高雄(たかを)の文覚(もんがく)、是(これ)を見奉(たてまつ)り、世(よ)のあやふき事を悲(かな)しみて、二宮(にのみや)は御学問(ごがくもん)も怠り給はず、正理(しやうり)を先(さき)とせさせ給へば、いかがして二宮(にのみや)を位(くらゐ)につけ奉(たてまつ)らんとぞ謀りける。されども鎌倉(かまくら)の右大将(うだいしやう)おはしませし程(ほど)は、申しも出ださず。主上(しゆしやう)御位(おんくらゐ)を去(さ)らせ給(たま)ひて、第一(だいいち)の皇子(わうじ)に譲(ゆづ)り奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。正治(しやうぢ)元年(ぐわんねん)正月(しやうぐわつ)十三日(じふさんにち)に、鎌倉殿(かまくらどの)五十三と申すに失せ給(たま)ひて後(のち)、文覚(もんがく)此の事取り企(くはだ)てける程(ほど)に、たちまちに聞こえて、文覚(もんがく)召し出だされ、年(とし)八十にあまりて、隠岐国(おきのくに)へぞ流されける。上皇(しやうくわう)あまりに手毬(てまり)を好(この)ませましましければ、文覚(もんがく)、追立(おつたて)の庁使(ちやうし)、令送使(りやうそうし)に具せられて、都(みやこ)を出でし時(とき)も、様々(さまざま)の悪口(あつこう)ども申して下(くだ)りけり。毬杖(ぎちやう)冠者(くわんじや)においては、わが流さるる所(ところ)へ迎へ申さんずる物をと言ひてぞ流されける。隠岐国(おきのくに)へ下(くだ)り着きて、遂(つひ)に思(おも)ひ死(じに)にぞ死にける。その有様(ありさま)、おそろしなんどもおろかなり。しかるに承久(じようきう)三年(さんねん)の夏のころ、一院(いちゐん)右京(うきやうの)権(ごんの)太夫義時(よしとき)を討たんとし給(たま)ひし程(ほど)に、軍(いくさ)に負け給(たま)ひて、所(ところ)こそおほけれ、隠岐国(おきのくに)へしも遷(うつ)され給(たま)ひけるぞあさましき。
六代(ろくだい)御前(ごぜん)は三位(さんみの)禅師(ぜんじ)とて、行(おこな)ひすましておはせしを、文覚(もんがく)流されて後(のち)、さる人の弟子(でし)、さる人の子なり、孫(まご)なり。髪は剃りたりとも心はよも剃(そ)らじとて、宮人(みやびと)
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資兼(すけかね)に仰せて、鎌倉(かまくら)へ召し下(くだ)さる。此のたびは駿河国(するがのくに)の住人(ぢゆうにん)、岡辺(をかべの)三郎(さぶらう)大夫(たいふ)承(うけたまは)つて、鎌倉(かまくら)の六浦坂(むつうらざか)にて斬られけり。十二歳より三十二まで保(たも)ちけるは、長谷(はせ)の観音(くわんおん)の御利生(ごりしやう)とこそ覚えたれ。それよりしてぞ、平家の子孫(しそん)は絶えにける。
終(をはり)
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