宮武外骨自叙伝

                        

菊池眞一

『書物展望』第十七巻第一号と第二号に、外骨の自叙伝が掲載されている。途中までなのが残念。


詳しくは、『〔自家〕性的犠牲史』を御覧あれ。





   宮武外骨自叙伝(一)
(みやたけぐわいこつみのうへばなし)

                  とぼね

  まえがき
 自叙伝といえば、すぐ、ミル自叙伝、フランクリン自叙伝、ドイツ廃帝ウエルヘルム・カイゼル二世自叙伝、福翁自伝などを思ひ出す。これ等の人々は、それぞれの時代における代表的人物であるだけに、その自叙伝は、極めて興味深く、読者に教ゆるところも決して少くはない。
 が、しかし、予を以て見れば、自叙伝は畢竟するに自己推挙の書である。「自慢高慢馬鹿のうち」といふ諺もあるのだから、自叙伝の筆者は、あまり悧巧の口とはいへぬかも知れぬ。その自叙伝を自らものしようといふのだから、予もまたあまり悧巧でないことになる。たゞ、予の多くの知人が予の存在を以て特異とし、その伝をすゝめてやまぬ。予は敢へて自ら揣らざるにあらざるも友情もだしがたく、こゝに自ら筆をとつた次第である。既に数へて八十有四歳、あへて之を人にまかせざるは、自ら語るところ、少くとも訛伝にならずと信ずるがゆゑである。
 その世を益するや否やは、予の関はり知らざるところ、読者は自由奔放思ふがまゝに生き抜いきた予と、予の時代とに羨望を禁じ得ないであらうことだけは、確かであると信ずる。

 (一)生ひ立ちの巻
 予は、香川県綾歌郡羽床村大字小野(元小野村)の出身である。この土地は、もと高松藩松平家の領地で、維新の頃の藩主は松平頼聦と云ひ、元伯爵松平頼寿の父であつた。その頃の小野村は阿野郡であつたが、のちに鵜足郡と合して綾歌郡となつた。綾は阿野(あや)から、歌は鵜足からとつたのである。小野村は隣村羽床下村と合村して羽床村となり大字小野として残ることゝなつた。
 予の家は、この古い小野村の時代から代々庄屋即ち名主であつて、まづ近郷に知られた大地主であつた。祖父才助の時代までは、大凡三百石位の小作が挙がつたらしいが、父吉太郎の代には、それが五百石位になつていたとのことである。
 父吉太郎は、初め助之進と称したが、藩主に助の字のつく兄弟があるからとて、改名を申し付けられて吉太郎とした。母は佐野姓、名はマサノ、阿波讃岐の国境鵜足郡勝浦村(現綾歌郡美合村)の旧家の出であつた。予はその間の四男として生れ、幼名を亀四郎といつた。長姉はいしの、長兄喩、次兄南海、次々兄為徳、妹花子の七人兄弟である。
 生れてから五六歳までの間は、子供育ちで何等の記憶はなく、生年月日などは両親から聞くのみである。それによると慶応三年正月十八日生であると云ふが、村役場の戸籍には慶応元年正月となつて居る、どうして二年の相違があるかと云ふに、明治五年十二月徴兵令の公布があつて、国民皆兵の制が採用されたが、それには老幼に拘らず一家の戸主は常備兵現役の義務を免がれ得る規則があつたゆゑ、予は幼少ながら分家格の戸主になつたのであつた。しかるにその後の改正で慶応二年前に分家した者でなければ、常備兵役を免がれられないことになつたので、戸長たる父が右のよう戸籍を改竄して慶応元年生としたのである。こういふことは当時としては別に、たぐひ稀なことではなかつたようだ。
 そこで、実歳は慶応三年生である。予と同年生の人々を調べて見ると、有名な人々が百五十人ほどある。いま、その一部を列挙すると左の如くである。

 尾崎紅葉  石橋思案  斎藤緑雨  正岡子規
 芳賀矢一  上田万年  三木竹二  野口寧斎
 幸田露伴  谷本 富  藤島武二  夏目漱石
 高橋作衛  稲田周之助 沼田頼輔  関野 貞
 五島清太郎 湯川玄洋  石井亮一  丸山晩霞
 南方熊楠  服部宇之吉 高根義人  本田日生
 岸 清一  池口慶三  田島錦治  忽滑谷快天
 長与稲吉  松波仁一郎 平沼騏一郎 山下亀三郎
 池田成彬  郷誠之助  一木喜徳郎 串田万蔵
 豊田佐吉  岡村金太郎 赤松日雄  吉田磯吉
 山本粂太郎 飯野吉三郎 志村源太郎 鈴木三郎助
 高橋光成  田中王堂  鈴木貫太郎 鈴木喜三郎
 伊東忠太  三島弥太郎 土屋大夢  鈴木天眼
 西村天囚

 実に文学、実業、官吏、政治の各界にわたつて多士済々、一代をリードした人々が少くない。これは、まことに珍らしいことで、予の知れる限りの、その前後、同年生れでかくも多数の著名人が出来たことがない。ときどきこれを明治文学研究の柳田泉君などに話したのである。このような現象は、そもそも星運の恵みによるのであるか、或はまた、各人がつとめはげみたるの結果、天は自ら助くるものを助くの理にかなつたものであるか、予は自ら二者相まちたるの致すところと観じ、少しく愉快に感じているのである。

 予は明治五年正月、満五歳に達した。この前後からのことは、薄々ながら記憶に存してゐる。その第一に浮び上つてくるのは、この前年九月百姓暴動で、我が家が焼かれたことである。明治四年七外骨廃藩置県のことがあり、明治二年六月、版籍奉還後も、なお高松藩知事であつた旧藩主松平頼聦は、その職を退き九月には東京に帰らねばならぬことになつた。讃岐松平家は水戸藩祖徳川頼房の長子頼重がこの地に封ぜられてから二百七十年、支配を続けて来たのであるが、それが政府の命令で本居を東京へ移さねばならぬことになつた。そこで頼聦は、その由を直接藩内庶民に告げる布令を出したので、一部の住民がその反対運動を起し、知事の東京移住中止の請願を試みたのであるが、それが許されなかつたのを、何か当時の庄屋の責任の如く誤解して、一部のものが徒党を組んで、阿野郡坂出村以南の大小庄屋の邸宅に放火してまわつた。そこで予の邸も焼かれるに違いないといふので、或夜乳母に起され、着換えをなし、一家一族、近くの親類の家に避難した。子供のことゝて、すぐ寝て仕舞つたらしいが、夜中起されて、今、うちが焼かれているのだと、母に指さゝれた方向を見ると、赤々と火焔が天をこがしているのが望まれた。いまだに、そのときの緊迫した気持ちが忘れられない。このときの暴動は、予の家を焼いたのを最後に、官憲の鎮圧によつて退散したため、羽床下村以東には及ばなかつた。
 邸が焼打されたほどでは、予の父は相当の因業な地主のように思はれるかも知れないが、羽床村誌の編者であり、予が羽床小学校時代の初代校長であつた、柏亭秦市郎は父吉太郎について、次の如く叙してゐる。

「氏は、小野村長百姓宮武才助の嗣子にして、性淡泊能く産を起し、小百姓共に耕作の範を示し、一時自作地拾町歩に及び、男女奉公人幾十人の多きに至たる、之が指揮は自ら之を為す、明治初年、小野村里正の栄職に就き、村治の改善を計り、小民を恤み、能く村民の憂患を建白し、村よく治まり、四方に名誉を流す、麟児の訓育も自ら村民模範となる。
  庭訓能成是礼園  嘉賓車馬日充門
  金言動上克憐下  治蹟今謳小野村」

 もとより過褒の点もあらうが、予等の眼にうつつてゐる父の姿は大体に描かれてゐる。こゝに、二三の記憶を記して、その一面を伝へたい。
 予の村から一、二里離れたところに垂水村といふのがあつた。そこの某家に多少纒つた金を田地抵当に貸したのであるが、それが抵当流れとなつた。父はこれを同村の人に小作させたところ、何しろ、当時は諸方に百姓暴動などあり、「今年一割、来年二割、あとは小作のつくりとり」との俗謡が唄はれたくらひゆゑ、右の小作人等は、一里も二里も小作米を運ぶこともあるまい、つくりどりにして了へといふ調子であつた。これを聞いた父は、「よし、小作料はいらぬ、その代り来年からは土地を返して貰ふ。わしの方では親しい新平民に住居を立てゝやつて、垂水村に住はせ、小作さすことにする」と言明した。ところが、垂水村には、従来、穢多非人がゐなかつたので、そんな人々に入り込まれては一大事とばかり、平あやまりに謝つて、小作米を納めて耕作をつゞけたといふことであつた。これは、別に、嫌がらせをしたわけでもなんでもなかつたのである。元来、父は穢多や非人をいわれもなく差別待遇することを好まなかつたのだ。だから小野村在の耕地にしても、普通農家に対すると同率で、それらの人々に耕作させていた、宮武本家の蔵米には賤民作りの米があるから安くなければと仲介人などがいふのを聞いては、「何お前さん達に買つて貰はなくつても」と、丸亀や高松へどんどん出してしまつた。この話を、予は一後輩に話したところ、彼れ曰く「どこか先生に似たところがありますね」と。
 予の家では毎年の末、村内の穢多や非人に施米をする習慣であつたが、なかには二度どりをしやうといふ悪達者なものがあつたので、受けとらないものは、東の門に集まつて邸内に入り、貰つたものは西の門から出るといふようにして二重どりを防いだ。量は、老幼男女にかゝわらず一人三升で、これに家族数を乗じた量が一家の受ける総量であつた。
 明治四年秋に焼かれた屋敷跡へは、明治九年まで、かゝつて立派な普請が出来た。何しろ、梁から柱など一切自家の所有林から伐採し、それを乾燥して使用するのであり、なかには周回一丈に余るのも多いのだから、こういふ風に四年も五年もかゝつたわけである。その邸は、今なお存してゐる筈で、予は先年、古新聞探索で、この地に至つたときも、昔のまゝに存在してゐた。この邸の西南に二町歩に余る竹林があつたが、その藪の垣は、毎年村の穢多非人が奉仕的に結んでくれたので、その代償として、そこに出来る毎年の竹皮は彼等に無料で採取させた。彼等は拾ひ集めた竹皮は撰別の上、悪い皮は竹皮草履の材料にしたが、よい皮は琴平に持参して金比羅土産の糠飴の包み皮となつたのである。ついでながら、予の小野村は高松藩ではあつたが、その西部に位置し、丸亀藩(京極家)領に近かつたのである。
 右の新屋敷の上棟式のときに、土地の習慣で餅撒きをしたが、このときも、東門では一般人に、西門では穢多非人にといふ風にして平等にやつたのが、父の配慮であつた。今から云えば、場所を差別するなどけしからぬと、いふことになるかも知れぬが、当時としては、これでも、非常に平民的であつたのである。
 予は、父のかうした行ひのお陰で、九歳や十歳の小輩ながら彼等から、川向ひの小ボンボンと敬愛され、途で行きあふ場合でも彼等は、避けて立どまり、頭をたれて「小ボンさんごきげんよろしう」と丁寧に挨拶され、予は「ハアハア」と挨拶をかへしながら、鷹揚に通りすぎたものである。これも、明治八・九年の地方社会の一つの姿であつたのだ。予の家が、土地で川向いといわれたのは、邸の西側に綾川といふがあり、その向ふ岸の人が予の家を川向きいといつていたからである。
 父は、貨殖の道にもたけていたが、決して吝嗇といふでなく、何事にも惜し気なく出金した。在所で芝居や角力などの興行がある場合には、いつも「宮武本家御席」といふが設けられ、特別待遇を受けたが、ことに角力の場合、それが終つてから力士の広い逞ましい背に負はれ、うつらうつらと眠りながらつれ帰られた心地よさは、一寸類のないものであつた。
 家の自慢のようで、書きづらいが、以上のような次第で、秦氏の亡父観は、決して虚言ではないのである。

 予は、数へ年六歳の明治五年には、滝宮の学校へ行くことになつた。
 滝宮といふのは現在の綾歌郡滝宮村大字滝宮で、この地、讃岐の中央に位置し、古来交通の要衝に当り、仁和二年から四年まで菅原道真が国守として在任したときも、官舎を此処におき全讃を治めたのである。滝宮の地名は菅公が在任中の一夏、ここで雨乞ひの祈りをしたところ、大雨が降り農民を湿ほしたところから起つたといひ、また毎年七月二十五日に滝宮天満の境内で「ナツボイドウヤ、ユタケキ御代ヨ」と歌いながら踊る滝宮踊(滝宮念仏踊)も、この雨乞に由来するといふ。予は今に至るまで「ナツボイドウヤ」の句意を解することは出来ないが、古来、讃岐に国守となつた人も多いうちに、彼の名のみ里人に膾炙し、いろいろの伝説が遺つているに徴して、彼が如何に百姓に親しまれた良国守であつたかを証するものと信ずる。
 かく由緒の地であつたので、まづ、こゝに新しい小学校が出来たのであつた。予等は、はじめ「本朝三字経」と題する漢文を素読した。「我日本一称倭地膏膄生嘉禾」と云ふのであり、これを往復十丁内外のところ、口拍子を取つて、「我が日本一ツに、ヤマトと称す、地は膏膄にして嘉禾を生ず」と暗唱したのであつた。滝宮小学校をやめて上羽床小学校に転じ、後、また新設の小野小学校に移り、明治九年六月頃卒業で八級より四級までの学習を卒えた。明治十年は、兄二人と共に、自宅で家庭教師に就き、四書中の「大学」の素読を教はつた。
 この頃、予は毎年夏になるごとに、母から二円を貰つて網を買ひ、前記の綾川で鮎とりを楽しんだのであつたが、網のスソがうまく河底に達せず、川石などの上にのると、そのスキから鮎が逃げるので、何時でも、近くにいる穢多に手伝はせて、獲物を逃がさぬようにした。そして獲つた鮎を河原で塩焼にして、一升金十銭也の酒を買つてこさせて、一所にのんだこともあつた。ところが、これが忽ち大評判、川向の小ボンが、穢多と一所に酒を飲んでゐたと人々から騒がれた。予は面白いのでますますやつた。母は、末の男の子のことゝて、予を可愛がつたが、さすがに、これには閉口して、「どんなことをしてもよいが、穢多とサカモリすることだけは、やめなさい」と叱られたのであつた。予の無軌道ぶりはソロソロ芽を出しかけていたらしい。
 明治十一年になつて、予は、五里の道程たる高松の栄義塾三野弥平先生方に寄宿して四書五経を読むこと二年余り、その処を止めて自家に帰つたのが、明治十三年である。
 予は、この栄義塾で、「団々珍聞」「驥尾団子」などを愛読した。予の雑誌への愛着心は、この頃から培はれたのであるが、ことに「団々珍聞」や「驥尾団子」の滑稽のうちに強い諷刺を含めた絵や文章には頗る興趣が湧いた。予の滑稽雑誌への志は、この頃に源を発するのである。
(『書物展望』第十七巻第一号。昭和25年5月5日)




   宮武外骨自叙伝(二)
(みやたけぐわいこつみのうへばなし)

                  とぼね

 (二)修学の巻
 予は、明治十四年に東京へ出た。これは田舎で勉強しても大して知識はすゝまない。寝ころんでゐても東京だと云はれた当時の世相に刺激された結果であつた。同行は同村の竹内宇八氏(長庚と号した)であつた。竹内氏は予の村里における漢学の第一人者竹内全吾の甥であつて、予より八歳の長であり、漢学の方も進んでゐた。氏は漢学修業のための上京であつた。
 予等は、高松から大阪に出で、そこから、海路横浜に至り汽車で東京の新橋についた。云ふまでもなく、その頃の東海道線は、神戸―大津間、横浜―新橋間が開通せるのみであつたから、陸行とすれば、子供足の十五日や二十日を要したかも知れぬが、文明の利器のお蔭で、郷里出発後四日間たらずで東京にくることが出来た。このことは、少年の予にとつては、先づ、一の驚異であつたが、当時としては、これが阪神―京浜間の進歩的交通路であつた。
 予は、文明開化の中心地に入り、銀座の煉瓦街に瞠目し、織るが如き人馬の往来に、少年の胸をふくらましたのであつたが、さて、当時の感想は、いま、思い出すすべもない。しかし、出京の一事について、淡い誇りを感じたことは、二年の後、当時、讃岐高松で発行されていた『屋山旭影』といふ詩文雑誌の第二十号に、讃小野、宮武昭の名を以て「汽車自横浜赴東京」と題して、「汽笛高吹三両声 煙車輾転響轟々 山迎水送行如矢 一瞬時間八里程」の一句を投じてゐることからも追懐される。蓋し瀬戸内海に面した讃岐では、多くの人にとつて、汽船は必ずしも珍らしくはなかつたが、汽車はまだ想像の外にあつたのである。
 さて、予は、折角東京に出たのであるから大に新知識を吸収せねばならぬと考え、まづ、英学を修めようとしたが、先達格の竹内氏が、「英学などやつてどうするのだ、一応の勉強を終れば、国へ帰つて地主さまでおさまり、詩でも作つて悠々と暮らせばよい身分ではないか。それには漢学の方がよい」と、漢学修業を唱道して止まぬ。いまでも、惜しいことをしたと思ふのであるが、予は、何分、十五やそこらの少年であり、ほかに相談するほどの人もなく、竹内氏は、前述のやうに予の先輩でもあつたので、つひうかうかとその勧告に従つて了つたのである。竹内氏が、地主云々と云つてゐるのは、その当時、予は、五十石の小作を得られる田地を貰ふことになつてゐたことを指すのである。
 予は、かゝる次第で漢学修業に決し、そのころ、本郷元町にあつた進文学舎内の橘香塾に入ることゝなつた。この進文学舎といふは、前に述べた高松の栄義塾の三野弥平、片山沖堂と共に、高松藩の三大儒者と云はれた橘機郎の経営するところであり、漢学と洋学の二部門に分たれ、漢学の方が橘香塾で機郎先生自ら指導するところ゛あつた。予はこの橘香塾に寄宿しつゝ、機郎先生から、論語、孟子、大学、中庸、唐詩選などの講義をきいた。高田早苗博士の『半峰昔ばなし』によると、進文学舎は、もと専ら独逸語を教え、今の東京大学医学部の前身大学東校へ入学志望のものに準備教育を行ひ諸学界の先輩を送り出したが、後ち事情あつて一旦休校、予の入学したころは進文学舎で、洋学の方は英語で、高田早苗や橘先生の二男橘槐二郎や、井原師義が講師となり、大学予備門志望の学生を指導してゐた。進文学舎から大学へ進み、後に名をなした人には、故法学博士原嘉道、文学博士三上参次、元陸軍大将靖国神社宮司鈴木孝雄、実業家池田斉彬、新聞記者として有名な朝比奈知泉などが或る取るこれも『半峰昔ばなし』に記するところである。予の入学したときは、高田早苗は二十一歳、東京大学文学部(当時の呼称)政治理財学科第四学年生であつたが、若き日彼の白足袋姿は、未だに忘れることは出来ない。高田はなかなかの美男子であつたので、塾近くの煙草屋の娘―これも一寸した娘であつた―など相当騒いだものである。高田とともに坪内雄蔵も同学舎へ講師として通つてゐたのである。
 予の進文学舎在学は凡そ一年半で、その間、予は父より月々五円の学資を送付され、別に不自由もなく、平々凡々の月日を送つたが、新聞や雑誌には特別の興味を覚え、これをむさぼり読んだ。またそのころ流行の政談演説をきゝにも行つた。井生村楼で、馬場辰猪の演説をきゝ、何よりもその風采に感心したのもその頃であつたと思ふ。本郷の牛肉屋江知勝などへも度々足を運んだ。当時は十八銭もあれば十分で、牛肉二人前十銭、御飯と酒一本で五銭、女中への祝儀三銭、これで、上等のお客さまとしてチヤホヤされたものであつた。予は、今でも肉食党であるが、その頃、いよいよ牛肉がたべたくなり、折悪く銭のないといふ場合には、洋傘を質屋へ持参した。質屋では二十五銭を貸して呉れたので、それで悠々予の胃袋に満足を与え得たばかりでなく、なほ七銭の小遣を残し得たのである。かように一時凌ぎをして、後日国から送金があると、それを受け出したのであつた。
 予は、この橘香塾時代には、まだ吉原などへ足を入れなかつた。それでも、前述のやうな次第で、相当小遣を費つたので、月極の学費のほか、追加送金を乞ふこと一再ならずで、ソンナに金が要るの―ならと、遂に郷里に帰ることゝとなつた。明治十五年の末か、明治十六年の初頃と思ふ。

 予は、郷里において別に何をしなければならぬと云ふわけでもなかつたので、すきな新聞や雑誌への投書を表面のたのしみとしてゐた。いま、その頃の投書の二三を、左に披露する。

  閑居   讃小野  宮武昭
柴門寂々少逢迎  碧水青山景趣清
尽日繙書何所楽  咿晤声和老松声
(『尾山旭影』第二十二号。明治十五年十一月)

これ、予が閑居の一場面である。

  狂詩 書生歎  讃岐 凹凸亭飄々
出京以来為放蕩  衣書売尽意怏々
只今唯有六尺褌  曽翻芳原紅楼上
(『百事問答』第五号。明治十五年十一月発行)

  懲役     讃岐 凹凸亭飄々
鉄鎖繫合各二人  為何事甚窮屈身
八的行厠垂長糞  熊立戸外欠伸頻
(同右第七号明治十六年一月)

  刑法書    同
殺傷盗賊又猥褻  各分罪条懲無泄
唯一借問立法官  殺屁罰則何不設
(同右)

  狂歌     讃岐 宮武凹凸亭
何故か女にもある 名なりけり
  助平と又、土左衛門とは

  狂句     右同
鶺鴒の師匠は何と馬鹿が問ひ
足本の暗いうちにと盗人逃げ

  都々一    讃綾 凸凹亭瓢々
言ひたいことさえ言はれぬ妾(わたし) 何故に嘘をば吐くものか
(右同第五号)

 『屋山旭影』については、予は前に一言した。同誌は明治十四年九月創刊、同十六年一月第二十四号で廃刊した。達、片山沖堂の指導であつた。『百事問答』の方は、明治十五年七月創刊、同十六年四月、第十号終刊、発行所は、京橋区加賀町十二番地由己社編輯長兼印刷人は村上孝四郎である。由己社はこのほか、『智恵の庫』、『金のなる木』、『子育草紙』、『東京政論』(以上雑誌)、『商法融通論』、『葛西保険論』、『夫婦寝物語』、『女房の不経済』、『危世者色与酒』、『男女交合得失問答』、『東京娘風俗』、『北里花魁列伝』、『西洋天一坊』、『烈女の疑獄』等、硬軟取混ぜ種々の書を出版した。
 さて、宮武昭は、予が亀四郎を外骨と改名前、自ら愛用した通称であり、凹凸亭瓢箪々は、滑稽投書家として好んで用ゐた戯号である。『百事問答』には「野馬台の詩は何人の手に成りしや、又其略解を教示されんことを乞ふ」に答へた一文がある。それは、予の考証癖の芽を示すものとも云える。即ち次の一文である。

「野馬台の詩は梁の禅僧朱宝誌の作なり、宝誌行道の日、化女忽然来り語る、恰も旧識の如し、一女帰り去れば一女来り、斯の如くすること千八人、皆国事を談ず、他から誌恠で千八人ノ女を以て字を作る、倭の字となる、因て来りし女は倭国の神なることを知り、女の語りし言を十二韻の詩に作り、将来に貽す、これ日本の讖なり
而して日本の国名を一に倭(やまと)と称す、故に野馬台の詩と称すと、又一説に蜻蛉を野馬と呼ぶ、予案ずるに、今、児童の語に蜻蛉をヤンマと呼ぶは此転訛ならんか、台は国の義なりと云ふ。蓋し日本を蜻蛉洲と称するが故に此説あるならんか
以上皆牽強付会の説にして、固より信ずるに足らずと雖も古書に載する所を抄出して問者に答へ併せて博識家の確説を待つ(第四号(明治十五年十月発行)及第五号)」

 右の如き作品を読む人は、外骨は昔から、巫山戯たことばかり書いてゐたと思はれるかも知れぬが、予は当時真面目であつたつもりである。その証拠をご覧に入れる。

   世ノ青年輩ニ告ク     讃綾 宮武昭
余ハ未ダ何党ニモ加入セザル一書生ナレド常ニ漸進主義ヲ賛成シ措ガザルナリ故ニ新聞ニ雑誌ニ我持論ヲ投書シ我ガ思想ヲ主張シ反対党ヲ攻撃スルヲ以テ快トスルモノナリ蓋シ明治七八年ノ頃ヨリシテ我ガ国民ノ政治思想ガ発達シ新聞演説ノ日ニ月ニ盛大ニ赴キ今ヤ全国至ル所政党ノ団結アラザル地無シ然シテ政党ニ数派アリ漸進トイヒ保守トイヒ自由トイヒ改進トイヒ改進党ハ曰ク我党ニ非ラズンバ社会ノ改良ヲ企図ス可ラズト自由党ハ曰ク我党ハ公平正大ノ主義ヲ執ルモノナリト保守漸進党ニアル者ハ此ノ主義ニアラズンバ以テ一国ノ秩序ヲ維持ス可ラズ実ニ完全無瑕ノ党与ナリトイヒ各党互ニ他党ノ短所ヲ指摘シ相誹謗スル故局外ヨリ平心ニテ観察スルニアラザレバ看正ノ是非ヲ弁別スル能ハザルナリ抑モ政論ニ主義アルハ仏法ニ宗門アルガ如キナリ仏法ハ得道成仏ノ目的ヲ達スルニ聖道門ヨリスルヲ以テ宗トスルアリ浄土門ヨリスルヲ以テ宗トスルアル如ク政治家ニ於テモ亦然リ社会ノ改良ヲ企図セントスルニ漸々循々歩ヲ進ムルヲ以テ主義トスルモノアリ又激烈ノ急進ヲ以テ目的トスルモノアリ其ノ思想ノ同シカラザル固ヨリ怪ムるに足ラザルナリ世ノ青年輩ヨ主義目的ヲ定メ政論ニ従事シ磊々落々日月ト光ヲ争ハンコトヲ望ムナラバ過激粗暴不平論者ノ邪党ニ瞞着セラルヽ無ク暫ク身ヲ局外ニ置キ公平ノ観察ヲ下セシ後ニ至テ政党ニ加入ス可シ決シテ軽忽ニス可カラザルナリ(『南海日報』第二百八十四号明治十六年二月三日)

 この一文は曽て予が明治新聞雑誌文庫主任のとき発行した『公私月報』第五十号(昭和九年十月)に一度掲載、『此不文を恥づるが、思想は単純な官権党派であり、後の『頓智協会雑誌』にも政府や官吏を攻撃した記事は一つもない、それが激化したのは前科者の腹癒せ』と、十七歳当時の予は温和な思想の持主であつたことを発表した。
 『南海日報』は、高松で、明治十五年一月二十五日に創刊、同十七年二月第四百二十八号で廃刊した御用党新聞、予の投書時代は、後年、大毎記者として名をなした永江為政の主筆時代、一日おきに大新聞と小新聞とを交互に発行した大小硬軟を兼ねた新聞で、この意味では、日本新聞史上珍らしい存在であつた。
 予は、かく新聞や雑誌の購読、投書で満足せず、自ら「何求新誌」を発行しようとした。この誌名は、何をか求めん何でも載せるといふ意味であつた。そして、当時、我が国では殆んど誰れも乗つてゐなかつた最新輸入品たる自転車を、神戸のダラム商会(英人)から購入、それを大得意で乗り廻したのであつた。これは予が、東京・横浜で探したが無く、漸く神戸で発見購求、その時の価、米貨百九十弗、銀相場に換算して三百円を要した。車は前が小輪二、後が大輪一で、後輪の前に椅子式の腰掛があり、小輪にあるベタルを踏んで走る仕掛、まさに日本一の先端男であつた。

 すでに記したところからも想像されるやうに、生来、予は早熟児であつたらしい。それで、この頃すでに近郷の淫奔娘や売女に関係したことも少くなかつたが、今日考えて転々懐旧の情に堪えぬのは、西村房子といふ高松藩士族の娘との関係である。この事については、予の旧著(昭和六年四月)自家性的犠牲史―予の蓄妾伝―本名『権妻物語』の一節「こすのと嬢」の条に詳述してあるから、こゝには、その概要を記するに止める。
 時は、明治十七年十二月末頃、予は滝宮の茶屋で遊んで居ると、そこへ苧坂松造といふ猟師が来て、一二献酬の後、「お帰りに私宅にお立ち寄り下さい」と云つて去つた。予は何事ぞと苧坂の宅へ立寄ると、彼は「滝宮などでつまらぬ女を相手になさるよりは、上等の女をお抱えになつては如何です。幸ひ私の懇意な者が出入して居る高松磨屋町の西村といふ高松藩の士族に、別嬪の娘がありまして今年十七歳、父親は先年亡くなり、母親と兄の三人暮しですが、何処かにお世話して下さるお方があれば内々お妾になつてもよいと云ふのであります、私も一度其お娘子に逢つて見ましたが、実に上品なおとなしい綺量よしで三味線も上手、生花の心得もある無類のお娘子であります。毎月の手当はお心まかせでよいと云ふのです。思召はございませんか」と水を向けるのであつた。予は大に心動き、兎に角、一見した上でと、その翌日、五里の道を人力車で高松の彼女の家を訪れた。娘は紅白粉の化粧で待ち、酒肴も出て雑談半に、娘の一曲をお耳に入れたいと、三味線片手に聞かされたのが、左の一曲、

『浮草は思案の外の誘ふ水、恋が浮世か、浮世が恋か、ちよつと聞きたい松の風、問へど答へも山ほとゝぎす……』

 これは、上方唄で「こすのと」といふ端唄であるが其音吐菜嫋々艶冶、迦陵頻迦の声もこれに若かじと、すつかり魅了せられ、その後は三日とあげず、高松通ひ、何ぼ何でも昼間では両親の手前も憚らねばならぬので、日没頃よりフラリと家を出て滝宮から韋駄天のやうに車夫を飛ばせ、一時間半で高松に着き、翌朝未明頃に帰り、何食はぬ様子で布団にモグルことしばし、起き出でゝ両親と共に朝食の膳につくといふやふにしてゐたが、隠すより顕はるゝで間もなく母の知るところとなつた。
 子に甘いは親の常、「お前がそれ程気に入つた女ならば嫁に貰つては如何か」と、母の慈愛至情の有難い言葉、それと云ふも、そうすれば、予が東京再遊の望を捨てるであろうとの考も交つての計らひ、予は母の言に従ひ、房子を娶ることに決し、予の分に先てゝいた貸家の借主を俄かに他に移らせそこに新世帯を持つことゝなり、高松の西村家へは五百円の支度金を贈つて、房子を迎えた。十八歳と十七歳の若夫婦、五百金の支度は当時としては正に大金、高価の寝子買として嫉む同胞もあつた。
 ところが、予の妹シカノが「あんな金で買つた寝子を姉様とは呼ばない、一生交際もしない」と親族一同へ触れ回つたのが気に食はず、新妻にも済まないので、二人で東京へ駈落ちする内談をきめ、表面は予一人が東京へ上り、房子は実家へ帰らすと云ふ事にした。母は心配して妹と予との間を調停に努めたが、強情の妹は初言を取消さず、予も亦我儘を通したので、愈々上京と決し、房子は高松へ帰らせた、かくて故郷における新家庭生活は、僅か一ヶ月で破れた。しかし予の母は、予が房子を同道することを感じ、「それでは二人で生活に困るから、予一人で上京させねばならぬ」と、予が高松より神戸行の船に乗ることを許さず、態々西方の多度津より出発せよと、母の弟をして多度津乗船を見届けさせた。ところが、予の利用したのは、高松寄港神戸行きの船便、神戸までの二等切符を無効にして高松で下り、むかねての牒し合せに従つて房子をつれ出し、次の船を利用して翌朝神戸に出で、更に海路二日、首尾よく東都に着きにけりであつた。後日、これを知つた叔父は大分口惜しがつたとか。
 さて、予等二人は、取りあえず、当時、京橋宗十郎町に居を構えてゐた兄南海の許に身を寄せた。兄は予より一年程前に上京していた。後年、兄は、赤坂青山に於て百万に近い富豪に成つたが、このときは、郷里で、無頼の者に誘はれて賭博に耽り、負けて払へない分は普通の借用証文にかゝされ、それが五六千円の金額に達したので、終に逃走ときめ、東京へ高飛びしたのである。それで、予は父の命令で其借金の跡仕末に当り、全部円満に解決したのであつた。
 さて、予は西村房子を連れて上京したが、別にたよる所もなかつたので、右の宗十郎町に居た兄の家に住み込み、通信教授(簿記、傍聴筆記学即ち速記術)の記帳係と郵便受取所(現在の三等郵便局)の事務取扱ひを担当したのであつた。大体明治十八年三月頃のことである。
(『書物展望』第十七巻第二号。昭和25年8月3日)






2016年3月21日公開

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