『後開榛名の梅が香』追補・訂正


                   

菊池眞一


 岩波書店『円朝全集』第二巻収録『後開榛名の梅が香』関連資料を見つけたので報告し、併せて注解の訂正をしたい。

『榛名の梅が香』のマクラ

『吾嬬布里』第三号(明治二十四年二月)に「釣瓶の舎」なる人物が「圓朝子の綺語」という一文を寄せ、ある日のマクラを紹介している。

三遊亭圓朝子は当世落語家の泰斗を以て人も許し又自らも任ずるところなり実に夫丈ありて奇驚の語を吐て人を驚かすこと度々なり此頃人形町の末広亭に於て榛名の梅が香といふ人情話しの冒頭に曰くもの皆利害の添ふは当然の事にて毀誉褒貶も亦並び至るなり例へば活発だと褒めらるゝ人時としては粗暴なと謗られ温厚なと称へらるゝもの或は柔弱だと誹られ利口な者は狡猾といはるゝ事あり手堅者は意気地なしといはるゝ事あり礼を厚くすれば諛らふといはれ礼を薄くすれば慢といはれ義の堅きは頑固といはれ親切もコケと嗤はるゝ事あり此の如く並べたてなば殆ど涯りを知らず偖も澆季なるかな只今の議員諸君なども百方注目の焼点にあたり一言一行実にお骨折の義と存ずるなり併し圓朝熟々思ふに万口一致決して一の難癖を付る事の出来ぬ物は独り唯親孝行のみならんか云々寔に味ひある言といふべし

『榛名の梅が香』の珍解釈

『別世界』第三号(明治二十六年九月)には、立川猿馬が「好劇家の半可通」という文章で『榛名の梅が香』について珍妙な説明をしている。

モシ兄達も老練の好劇家では有やせんか此度歌舞伎の一番目の榛名の梅の筋が解せぬとは実に困りやすね僕は近頃は歌舞伎座の外は本郷の歯向座ナニ本郷は春木座だと是は困りやした歯向座の名称御存なしかねソレ座頭の堺屋が歯を向出すから歯向座サ其歯向座も見物しずに只真の大劇場のみ見物しやすが大歌舞伎の面白味は又格別なもので先づその春狂言の仕組が其年一年の興行毎に筋の通る様に伏線仕て有るのが感服です今度の狂言なども只一回だれ見物仕ては筋が充分に解る物じやア有りやせんが原此の狂言は噺しの続き物で乾坤坊良斎が作つて初代の志ん生が得意で有たを今の圓朝が小円太の時分に聞込で置て后年増補仕て自作とした代物ゆゑ余程入組だ趣向で前興行の演劇を見た人でなけりやア今度の筋は解りやせん又今度の狂言の解せぬ所は来廿七年の七月興行を見てからト言ふ訳でつまり客を引寄る苦肉の謀事サ、ナニ左様じやアないと君等は夫だから困る、じやア僕がもう一層話しの奥を明け君等の様な素人にもナール程と分る様に話して聞せやせう先今度の世界に附て一般の好劇家の評に松助の白蔵と菊五郎の草三が牢破りは余り突然過るト言ふがアノ草三ト言ふ者は前興行の狂言で髪結の新三サ其新三が深川閻魔堂橋
で殺されたのが蘇生して常陸の土浦辺へ潜伏した后悪事を仕て召捕に成た時旧悪を隠して安中草三と変名し白蔵と共謀して破牢仕たのサアノ白蔵と云ふ者は深川無宿で強欲な家主長兵衛が十三の時勘当仕た忰で九太夫に於る定九郎ト云ふ様な悪者サ又新三を殺した弥太五郎源七は江戸を高飛して上州榛名の梅吉をたよりて渋川の宿に落着八咫烏の九平と名を改たのサ夫だから前興行の世界が白木屋で外題が梅雨小袖昔八丈、今度は植木屋の人情話しで榛名梅香団扇画サ狂言作者の苦心と言ふ物は言ふに言れぬ物で中幕じやアないが大案事でゲステ

榛名梅香団扇画とは、明治二十六年七月、東京歌舞伎座で興行された歌舞伎狂言である。安中草三が髪結新三の生まれ変わりとは眉唾物だが、『榛名の梅が香』の原作者が乾坤坊良斎というのはどうであろうか。

注解・後記 訂正

岩波書店『円朝全集』第二巻所収『後開榛名の梅が香』の注解・後記に誤りがあったので、訂正する。


一八四頁下段、八行目の
疲(つかれ)て
を、
痩(つかれ)て
と訂正する。


五七六頁下段「傍聴筆記法」の注を、
明治十五年九月十六日、田鎖綱紀が『時事新報』に「日本傍聴記録法」を発表。
としたが、日付を
九月十九日
と訂正する。


五八一頁下段「梅は四徳を具すと云……」の注の末尾の一文、
「『闇夜の梅』は、円朝が……発表したものという。」を削除する。
※弟子の口演もあるが、十二巻収録に円朝口演もあるので、事実誤認。


五八四頁上段13行目「捨子兇状は軽からず」の注で、
『公事方御定書』(寛政二年〈一七四二〉完成)
としたが、
『公事方御定書』(寛保二年〈一七四二〉完成)
と訂正する。


五九四頁下段5行目「芳町」の注で、
(現・東京都中央区人形町)
としたが、
(現・東京都中央区日本橋人形町)
と訂正する。


六一七頁後から2行目に、
戦災
とあるのを、
震災(関東大震災)
と訂正する。


五八九頁下段一行目に
三三五 三越 紀伊国牟婁郡三越村(現・和歌山県田辺市)、または同郡の三越峠をさすか。
とあるのを、
三三五 三越 越前、越中、越後。
と訂正する。(延広真治先生に御教示を賜った)



更に

『円朝考文集』第四(昭和47年6月)編集後記に、安中草三に関する記述があった。
以下、引用。

次に挙げたのは、安中市文化財調査委員中澤多計治氏からおゝくり頂いた『安中草三郎』所載の-草三郎関係の地証-です。
一、下野尻の観音堂  現存。
一、重兵衛水車  下野尻より秋向村へ通ずる道路、城下橋の手前、右側に旧址があり、今も此所の用水堰を重兵衛堰という。
一、東光院(熊野神社東)長徳寺(谷津町坂右側)  現存するも両寺とも焼失したることありてお歌の墓石見当らず。
一、熊野神社(旧屋敷)妙光院(谷津町)  現存。
一、正観寺  廃寺となる。小俣観音堂の西にあつた。
一、安中の杉並木  昭和八年天然記念物に指定さる。
一、尾崎直右衛門屋敷  旧屋敷の小林晋介氏の屋敷なりと。
一、角田駒四郎住居地址  文化の頃は伝馬町稲葉燃料店の屋敷に遊女屋を業とし、後ち其の向側へ引移る。現在の大野屋(石井寿郎氏宅)は角田の家を建て直したるものなり。
一、山田屋文治郎住居址  伝馬町鶴田理髪舗の向側空地にて、旅籠屋を業とし、当時中仙道で有名なる旅人宿なりし。
一、丸太屋清五郎  上野尻に其の子孫依然菓子屋を営み居れり。
一、普門寺、厄除観音堂、石仏六体、現存。磯部町字下磯部、安中よりバスの便あり。



2016年1月9日公開

2016年5月10日追補

2016年6月13日追補

菊池眞一


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