『円朝全集』未掲載円朝俳句(その五)

菊池眞一



 松の家露八の「身の上ばなし」が、『季刊 江戸っ子』に掲載されている。三回に分け、第四十七号(昭和六十年七月)、第五十号(昭和六十一年四月)、第五十六号(昭和六十二年十月)に載っている。
 末尾に「資料発掘・編=喜撰堂主人」とあるが、何という新聞・雑誌・書物にあったものか明かされておらず、調べても出典がわからない。
 談話時「六十八歳」と説明がある。露八は明治三十六年七十一歳没だから、これは明治三十三年の談話だ。
 その中に、明治十九年十二月二十四日、金策に困って仮名垣魯文に借金を申し込みに行くと、魯文は奉加帳を作って序文を書き、「これを持っていって寄付を募れ」と言う。寄付者の名前は次のとおり。
 松本楓湖・岡本黄石・巌谷一六その他・山岡鉄舟・柴田是真・北庭筑波・谷斎坊・五明楼玉輔・三遊亭円朝・談洲楼燕枝・先代桃川如燕・島本青宜・落合芳幾
 三遊亭円朝は、

かうなるも恋のはてなり寒念仏

と書き付けたという。
 この句は、『円朝全集』(岩波書店)には掲載されていない。
 この奉加帳が現存するのかどうかも分からない上、「身の上ばなし」の初出すら不明なので、他の資料とは性質を異にする。

 以下、『季刊江戸っ子』第五十六号(昭和六十二年十月)掲載の「身の上ばなし」から、当該箇所を抜き出す。

 そこで仕様はなからうかと考へて居る内に、其の年も早や暮になつて、十二月二十四日といふ事に切迫して終ひました。どうかマア知己へ便つて金策をしなければならないと、ブラリと出掛けて東京絵入新聞に仮名垣魯文翁が出勤して居りましたから、其の社へ行つて面会をして「どうも先生、誠に申し兼ねたるが甚く私は困難をして困るから、金を二三円貸して呉れないか」と頼むと「イヤ夫はお安い御用だけれども、僕も今宅から餅を搗くからといつて取りに来られて皆なやつて一文もない。併しマア待ちなさい。どうか工風をして上げやうが、何しろ飯を食つたかい」「イヤ飯どころではない、どうも腹が空つて叶はない」「そんなら飯を食うが宜い」と早速弁当を取つて呉れて、夫を食べて居る内に魯文翁が小使に帳面を買いにやつて、頻りに自分が何か帳面に書いて居りましたが、側に画工の落合芳幾先生が居られました。ソコで魯文さんが「落合先生、御面倒だが此の帳面へ鬼の念仏を書いて下さい」といふと芳幾さんがヲツと承知と忽ち筆を把つて鬼の念仏を書いて呉れました。
 魯文さんが右の帳面を出して「サア露八さん、お待遠だつたが、是が即ち金の代りだ」と云つて渡す。私には何が何だか分らないからボンヤリ眺めて「是を何うします」と尋ねると、先方では笑ひながら「マア是で何とか工夫したら宜からう」といふ。ソコで先づ其の帳面を繰つて見ると、其の巻首に魯文さんの序がございます。
目下ノルマントン号沈没の惨状を憫れみ、其の遺族に義捐の有志全国普く、此挙や共に同胞の愛情に出づるに他なし。日本の浮浪子荻江露八世渡の船目的を達せず、節季師走の今に至りて、波上の滄浪新年に越ゆるを得ず。既に年浪の暴きに漂ひ、船幽霊とならんとす。露八の浮浪も亦同胞の遭難と岩猿を得ず、然りと雖も露八いまだ生霊を保つ身にして、如此く勧進の帳簿を呈するや裸の関の泣き弁慶、悪く云はば此時節柄のろま鈍とも仰せらるべきを、曲て憫然の情に基き、幾干なりと喜捨あらんことを希ふ。
              玩仏居士魯叟述
 成ほど是を持廻ツたら何とか融通も付くだらう、イヤ是は有難いと右の奉加帳を戴いて懐中すると、傍から芳幾さんが「兎に角其の運動費がなくツちやア手も足も出ず、さぞお困りだらうから、私が一円寄附しやう」といふので芳幾さんが一円呉れて、夫で漸やく外へ出たが鉄面皮く是を持つて何処へ行かふといふ考へも附かず、といつて芸人や芸者の所へ持つて行くのも異なものだし、どうしたら宜からうかと、車にも乗らずブラブラ考へながら帳面を持つて浅草の方を差して帰つて参り、遂々浅草栄久町まで来て不図松本楓湖先生の前へ出ました。是は先生の所へ行かうといふので先生の所へ参り、帳面を出して見せると、是は面白い、幾らか私も寄附に附かふといふので、蓮の画をかいて金を三円呉れました。大きに有難う存じますと、先生に礼を述べて此処を出で、夫から岡本黄石先生の所へ参りました。此の人は桜田騒動の前に君公に諫めを入れて、どうか御辞職をなさるやうにいつた処がお許しがない。却つて怒りに触れたる処から、前日三月二日にお暇を頂戴して江戸を出立いたし、国を差して帰る途中万延元年三月三日の騒動、途中に於て此の凶変を聞いて直ちに京都へ行つて本領安堵を願ひました。其の当時岡本半助といつて、井伊の岡本か岡本の井伊かといふ位ゐのものでございました。其のお方も今は隠居して、巌谷一六先生、其の外のお方々が集まつて月に三四回づゝ詩会をお催ほしになりまする。丁度其の詩会の席へ参りましたので、巌谷さんを初め其の他のお方々にも種々の物を此の奉加帳の外に書いてお貰い申しました。それから山岡鉄舟先生の所へ参りました処が、丁度屏風一双お書きになつたのがございまして、是をやるから持つて行けといつて、また別に糸瓜の絵を書いてくれました。
 山岡さんが奉加帳へ糸瓜を書いて下されたのは、私が青年の時分に撃剣稽古中、大兵であるので、小廻りが利かず、恰で糸瓜を振廻して居るやうだといふので「お前のはヘチマ剣術だ、年中ブラブラして居る」といはれました。其の事を思ひ出して斯く帳面へ書いてくれられましたが、併し初め其の絵はサツパリ何だか分りませんから、伺つた所が、其の時に「モヂヤモヂヤのやうに見えてもヘチマかな」と書かれまして大笑ひをいたしました。また撃剣家の榊原先生も矢張り糸瓜の絵を書いてくれました。山岡がヘチマなれば俺もだといふので書いて下され、添へた狂歌やうなものに「世の中は何のへちまと思ふべしけふも一日ぶらぶらとする」。
 右の外に書画または句を認めて貰ひましたのは画伯柴田是真翁、写真師の北庭筑波、角彫師の谷斎坊、芸人では五明楼玉輔、三遊亭円朝、談洲楼燕枝、先代の桃川如燕などまだまだ沢山にございますが、是真翁は富士の画で、島本青宜翁傍らに書して曰く「魯叟の序文にもとづき、塵ほどの芸艶金もたちまちつもりて是真翁の画かれしこの富士の嶺ほどに至り、荻の秋声もさつきの松風に吹きかはりて浮浪の露八うかみ上りてヤラヤラ愛度やナアと、船唄にて年の波幕をやすやすとこゆるに至らむ。たゞ撫てしるや額のとしの波」。桃川如燕は書して曰く「是はまた同じ半助としの暮」。三遊亭円朝曰く「
かうなるも恋のはてなり寒念仏」。談洲楼は、諸君の御賛成を願ふとて「獅子舞のうしろで太鼓叩きけり」。画工芳幾さんはまた改めて弁慶を書き且つ書して曰く「関越しに兎角用立勧進帳昔法眼今は幇間」。


2021年02月21日公開
菊池眞一


菊池眞一

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