力士の都々逸
菊池眞一
明治三十七年一月二十四日の「東京日日新聞」第三面に次の記事がある。
▲若島と常陸山 大阪の横綱若島昨日常陸山に手紙を送り常(=常陸山)の荒(=荒岩)に敗られたるを吊(=弔)したる由なるが其末に左の都々逸を書加へありたり
君はあら岩私しや大木戸に
喰るゝ苦手のあたり年
記者は「都々逸」と書いているが、「相撲甚句」も七七七五形式だ。若島が都々逸のつもりだったのか、甚句のつもりだったのかは判らない。
一月二十一日の「東京日日新聞」第五面には次の記事がある。
▲常陸山に荒岩は当場所屈指の顔触なれば看客喝采を以て迎へたり両力士は立上り荒左を指して充分に喰下りければ常上手を取らんとせしが荒腰を落して取らせず常未だ腰に回復せざる処ありて充分に踏みさく能はず斯くては心許なしと見てあれば常の強引にして起し立てんとする処を右足へ内掛に行き常の引く隙に附け入り押して荒の勝は未だ平素の常陸にあらず
同日の「大阪毎日新聞」第五面には次の記事がある。
▲若嶋に大木戸
云ふ迄もなく当場所随一の好取組、位置の高下こそあれ東西幕内を通じて横綱若嶋をたぢろつかさしむるもの大木戸の外になく殊に木戸が当場所の元気無双にして響矢と分けを取りし外連戦連勝にて東方の副将扇海さへ朽木を倒すごとく脆く突き倒したるほどなれば好角家は此相撲一番に連日の溜飲を下ぐるものと宵触の時より待ち楽みしこととて両力士の登場するや若と呼び木戸と呼ぶ声四隅より起り満場どよめき渡り満目一斉土俵に集り両力士が勇ましき相撲振を見んと片唾を呑で待構ゆる中化粧立三回、木戸の声で立上り直右差となり若の小手投利ず体の浮く所を木戸諸差となり奮迅の勢にて呼吸をも呉れず行事溜の方に寄り出せば左しもの横綱若嶋もたまらず土俵を割る是れぞ当場所の番狂相撲にして見物の喝采小屋も揺ぐばかり好角家の予想空しからで木戸の元気感嘆に余りあり木戸の名誉は永く相撲界に伝ふるならむ本社の懸賞蒲団は臨時賞として名誉の勝利を博したる大木戸に贈りたり、
同日に東西の横綱が敗れたのだ。都々逸から若嶋は大木戸を苦手にしていたことがわかるが、常陸山はどうか。荒岩に負けたのは初顔の時とこの時だけのようだ。
明治37年春場所星取表
http://gans01.fc2web.com/M2/M37-1.html
によると、この場所、常陸山の黒星は荒岩戦のみ。7勝1敗の成績だ。
この頃の相撲には「引き分け」や「預かり」というのがある。どういう仕組みだったのだろうか。
菊池眞一(2014/11/17 公開)(2014/12/24 改稿)