乃木希典の都々逸
菊 池 真 一
ここに記述することは新発見ではなく、事実の確認と説明補足である。
乃木希典は若い頃放蕩三昧で、柳橋・新橋・両国の料亭で豪遊したという。(注)都々逸は飽きるほど聞いたことだろうが、自作の都々逸が若干伝えられている。
一 渡邊白水
渡邊白水著『乃木大将学生訓』(大正四年。銀座書房)の「乃木将軍詩歌全集」内「三狂歌及俗謡」の末尾に次のようにある。
三十八年十一月十一日法庫門陣中、将軍の誕辰祝せられし日戯れに作られたる三首
強い自慢の髯むちやなれど死んだお方がいたはしい
戦さにや強いが色気にや弱いそこでやつぱり唯の人
自慢話ももう聞き飽きた少しはお茶でも召し上れ
二 中村播五郎
これの詳しい事情が「都新聞」大正元年九月二十五日七面に「乃木大将箱入娘(思出に残る真筆の都々一)」という記事に述べられている。
俳優中村吉右衛門の秘蔵弟子に中村播五郎といふ役者あり日露戦役の当時現役の軍人として第三軍に従ひ故乃木将軍の従卒となり居たるが這般将軍の殉死を聞いて深く悲しみ曾て将軍に乞ふて秘蔵せる図の如き真筆の都々一を神前に供へ神酒を上げ当時の思ひ出でに泪ぐみながら礼拝し目下新富座へ出演中も肌身を離さず大切に扱ひ居る美談あり将軍と都々一と既に奇抜なるがこの逸話といふは実に満州法庫門に於ける将軍の
▼誕生祝ひの日に始まれるなり時の司令部附各将校は旅順を陥れて更に奉天の大会戦に参加すべく法庫門まで司令部を進めて茲に機の熟するを待つべく月余の給与養在中廿七年十二月七日(日付ママ)は将軍の誕生日なればこれを祝はんとて支那家屋の大修理を行ひ特に将軍の居室として十畳敷程の部屋を造り土人常用の敷物たるアンペラへ日本の畳なりに幾筋かの縁を造りて四囲の壁にも紙を張りて障子になぞらへ福引やら手踊りやら園遊会式の模擬店もありて材料は遠く後方のダルニー辺より支那馬車の鞭を鳴らさして仕入れ茲に全く忙中の閑宴を開く準備とゝのひたれば将軍に乞ふて出席を求めたる(ママ)ば将軍は大ひに悦び諾されしより其当日に急造の日本間へ案内して上座に請じ兵卒等の仮装せる女中が配膳の段になるとその時の膳も木皿も総て招魂祭に用ひし木標を兵卒中の大工や建具屋が其形に造り箸は高梁を用ゐるなど陣中趣味溢るゝばかりなりければ将軍は案を拍つて喜ばれ支那製の大白を挙げて満を引き陶然として酔に入るや珍趣向の福引あり将軍が得たる籤は
▼旅順の箱入娘といふ題にて籤手となれる司令部附の一下士が大声に呼び上げるや徐々として将軍の前に配られしは六尺もあらんと思はるゝ缶詰箱にて製せる白木の白鳩が羽叩高く舞出でしと思ふ間もなく支那服を巧に利用して京人形に紛せる一兵卒が左手高く猪口を捧げて現はれ出で楚々たる裾捌優しく将軍に一盞を献じたり、と見たる将軍は破顔一番大出来大出来と興じ盃の飛ぶに従つて戦闘中の武勇譚は四方に起りたるが将軍は突如
▼都々逸を即吟したりと云ふより早く有合ふ唐紙を延べて酔余の霊筆を呵し「強い自慢の髯むちやなれど死んだお方が痛はしい」と認めてハハハヽヽ誰か希望者は謡つて見ちや何うぢやなとの言下に某将校は直に胴魔声を振り絞つて怒鳴り謡へば更に将軍は「戦さにや強いが色気にや弱い其処でやつぱり唯の人」と即吟しこれも待ち兼て咽喉仏を動かし居たる一将校の口より謡ひ出されたれば将軍は愈興を深うし「自慢話も最う聞飽きた少しはお茶でも召し上れ」と書して又これも満州の天に響けと謡はれたれば気の利きたる者はソレ閣下がお茶を召すぞと圧搾茶を削りて湯に投じ将軍に進めるなど宴は夜の八時に開かれて縞烏啼き交ふ暁の四時に及び将軍は酔余の白髯を凍て固るばかりの風に吹かせて寝室に入られたり、此時播五郎は従卒として将軍のお世話を申上げ居れば怖づ怖づ乞ふて茲に掲ぐる都々逸の書を頂戴し尚自分外に講談師の若円の二人へ余興の為め骨を折りし兵卒へ分配せよと百金を恵まれしとぞ、播五郎は当時を偲びて涙ながらに物語りたり
乃木希典は都々逸を作りはしたものの、節をつけて唄うことは他に任せたようだ。この都新聞記事の日付「廿七年十二月七日」は誤りと思われる。『乃木大将学生訓』の「三十八年十一月十一日」か正しいものであろう。この記事に添えられた乃木将軍都々逸の写真は、『乃木大将学生訓』口絵に掲げられた「乃木将軍真蹟」の狂歌と書体が酷似する。
この『乃木大将学生訓』口絵の「乃木将軍真蹟」狂歌については、「都新聞」大正元年十月十八日三面に「乃木将軍の狂歌(世田谷の松蔭祭)」という記事がある。
昨日は府下世田ケ谷村にある松蔭神社に例祭があつた早朝から陸軍経理学校、済美学校などの生徒を始め三百名ほども詰めかける朝十時といふのに斎藤社司以下本殿に神饌を捧げて祝詞を奏すると学生達は松蔭の詩歌を口々に唱へてこれに合せる、松蔭の甥吉田庫三、妹児玉よし故野村子、梅地中将、玉木少佐など順次に玉串を捧げて式を終ると社後の林で墓前祭を続け式全く終つた時に佐々木照山氏なども後れ馳せに参会する控堂には松蔭の遺物が陳列してある、その中に乃木将軍の狂歌といふものかあつた、七月二十日に作つたのださうで「さみだれに物皆くされはてやせん、ひなもみやこもかびの世の中」と半紙に書いて末に「黴、華美、国音相近し」と註が入つて居た、
この狂歌について、『乃木大将学生訓』は「乃木将軍詩歌全集」の「三狂歌及俗謡」には入れず、本文「七節倹と質素」末尾の「かびの世の中」で次のように説明している。
出でて公事に関はる時と、退いて私家にある時とを問はず、衷心倹素を愛して喜んでこれを守つて行かれた将軍は、滔々として世の日に奢侈に流れ華美を競ふのを見て常に苦々しく思つて居られた。随つて、学生等に対しては素より、上に対しても下に対しても、人毎にこの美徳を守るべきことを勧説し訓諭せられたのであつた。
これもその一つ、時は明治四十五年六月、折からの淫雨日を経て晴れやらぬ一日のことであつた。将軍は教員食堂に於て一の紙片を示された。拝受して見ると、それには
さみだれに物皆腐れはてやせん
ひなも都もかびの世の中
といふ一首の国風が記され、「黴華美音相近し」と註さへ加へられてあつた、黴と華美を両方に兼けて時弊を諷せられたのである。淫雨湿潤、何物にか黴の生じて居たのを見出されての偶成であらうが、将軍がいかに世の軽佻にして華美に趣くのを歎き、造次にも顛沛にもこれを拯はんと志して居られたかはこれでも明かである。この歌稿、今は福井教授の家宝となつて居る。写真として巻頭に掲げたのがそれである。
福井教授とは、該書に序文を寄せた福井久蔵である。
三 三島通陽
三島通陽著『回想の乃木希典』(昭和四十一年。雪華社)には「乃木さんの都々逸」「乃木さんの誕生祝」という章があるが、「都新聞」大正元年九月二十五日の記事に比べると正確さに欠ける感がある。文献によったものでなく、聞いた話だからであろう。
ここには先ず乃木さんの都々逸を紹介してみようと思う。都々逸と云えば、乃木さんは若い頃――結婚前は、なかなかに遊んだらしく、そのほうの話は乃木さんがすっかり軍神にまつり上げられてしまって、誰もがこのほうの話はしないので、世の中にはちっとも知らされていない。私も知らなかったが、先日「旅順包囲戦」《菊池注:『旅順攻囲軍』の誤記であろう》の著者、木村毅氏におめにかかった時、この話をちょっと伺って、乃木さんの人間らしさに私はかえってなつかしくさえ思ったことであった。成程そう云われると、乃木さんはなかなかすみにおけない所があって、都々逸などつくるのもかえって漢詩より上手のようだ。
その乃木さん作の都々逸の中から、日清戦争の頃の作を一つ紹介してみよう。
乃木さんと旅順とは妙な因縁で、日清戦争の時も乃木さんは旅団長で、乃木旅団はこの旅順を攻めたが、その時は一両日でこれを占領して、敵味方をアッと云わせた。その時、この戦いも終わって先ずホッとして、次の戦いを法庫門で待機している時のことだが、乃木さんの誕生日が来た。それでその旅団では、旅団長の誕生日の祝賀会をやりたいと申し出た。すると乃木さんは、自分の誕生日なんか祝ってくれては困るとウンと云わぬ。そこで幕僚が考えて、それでは誕生日祝いということはやめにして、たまにはこんなホッとした時、兵隊を無礼講で楽しませて下さいと云うと、それならよいということでお許しが出た。そこで、兵隊は大喜びで陣中宴を張った。そして最後に「福引き」をやって、乃木さんが引いたものがふるっている。それは「旅順の箱入娘」という題で、大きな箱に入った人形を兵隊が二人でかついで来た。ふたをあけると、中から平和の鳩がパッと飛び出して、その中に一人の兵が京人形に扮装して入ったのが出て来て、乃木さんに盃をもってきておしゃくに来たので、兵隊達はわっと喜んだ れ
すると乃木さんは、紙を取りよせて
「強い自慢の髯むしゃなれど 死んだお方が痛ましい」
と書いた。それをノド自慢の将校がいてうまくうたった。すると乃木さんは
「戦さは強いが色気にゃ弱い そこでやっぱり唯の人」
と書いた。また散った。皆はまたドッと喜ぶ。しかし、そのうち皆があんまり武勇談に花を咲かすので、乃木さんはそれがイヤになったらしく
「自慢ばなしももう聞きあきた 少しはお茶をめし上れ」
と都々逸にして、皆をいましめた。乃木さんは武勇談の自慢ばなしが嫌いだった所に、その心持の一端が出ている。
四 桃川若燕
先の「都新聞」大正元年九月二十五日「乃木大将箱入娘」の記事が虚構でなかろうことは、桃川若燕著『乃木大将陣中珍談』(大正元年十月十八日。三芳屋書店)の次の記述によって証明される。桃川若燕こと中島留五郎は歩兵上等兵として日露戦争に参加している。
引続まして凱旋当時の珍しい御話をいたしまする、法庫門招魂祭後は十一月の十一日乃木将軍の誕生日の祝が御座ひまして、其の式場は総て支那に珍しき日本の座敷を造りました、然し之れとても贅沢なものではない、劇場の舞台と等しき物で御座ひます、日本風の座敷を造り将軍を正座にして、自分等まで御取持ちをいたしました、其の時に集まつた方々が、閣下閣下と将軍を尊んで旅順の手柄を誉そやして居ります、将軍は御筆を執られて「今夜は皆帰さないから徹夜をして遊んでしまへ、余りお前方が俺を誉てくれるから、コンナ都々一が出来たぞ」
閣下閣下と嬉しひ話し
放しやせぬぞへ帰しやせぬ
「謡へるものがあらば唄つて見よ」
其他二三の都々一を即席にお作りになりました、自分も其の席に居つて将軍がお認めになつたを頂きました、是れは私しばかりでは御座ひません、当時中村吉右衛門君の弟子で中村播五郎君も其の時司令部に居りまして閣下の御認めに成つた都々一を貰つた筈で御座ひます。
福島成行著『乃木希典言行録』(大正二年十月十八日。内外出版協会)の次の記述は若燕自身の記述と違うので、信用できない。
講談師桃川若燕は、一等卒として従軍し部下に在り、希典或る日若燕に向ひ、汝は或る場所に遊びに行きしやと尋ねたるに、若燕之を聞きて参り候はずと答へければ、希典は笑ひながら傍の料紙を採り、
戦さにや強いが色気は薄い、それぢやお前も唯の人
と書し与へしと云ふ。
五 まとめ
以上を総合すると、確認できる乃木希典作都々逸は次の四首である。
強い自慢の髯むちやなれど死んだお方が痛はしい
戦さにや強いが色気にや弱い其処でやつぱり唯の人
自慢話も最う聞飽きた少しはお茶でも召し上れ
閣下閣下と嬉しひ話し放しやせぬぞへ帰しやせぬ
(注)
明治十年西南戦争の後から明治二十年の独逸留学まで。ウィキペディア・マピオン大百科など。書物では、池田諭『代表的明治人 乃木希典の虚像と実像』(昭和四十三年。徳間書店)など。
本稿は「甲南国文」第60号(平成25年3月18日発行)に掲載したものである。
追 加
その他、乃木希典作都々逸が一首あったので、ここに追記しておく。
渡部求著『日本精神と乃木大将』(昭和16年6月25日発行)23頁に次の記述がある。
然し又大将は日露戦役中、旅順開城の目出度き新年を迎へて、幕僚と共に形ばかりの祝宴の席上、却て其の脚足の綴の意味を利用されて
『乃木といふ字は露西亞語で足よ、
明日はウラルかアルタイか。』
などと、足を明日にかけての名諧謔、鮮かな一首の都々逸を謡つて居られる。
元資料を確認できていないが、これを加えれば、乃木作都々逸は五首となる。
《2015年6月19日追記》