旦那ハイケナイわたしは手疵
                                               菊池眞一(2015.10.17アップ)


 明治期の名文句に「旦那ハイケナイわたしは手疵」がある。字余りだが、都々逸の上の句だ。宮武外骨が『明治文化』第七巻第七号に「旦那ハイケナイ妾は手疵」と題する一文を寄せている。以下、引用。


   旦那ハイケナイ妾は手疵
                    外骨
 熊本鎮台司令官陸軍少将種田政明は、東京日本橋大工町の芸妓小勝を落籍して妾とし、任地熊本へ連行き、鎮台内の宿舎で同棲して居た。明治九年十月二十四日の夜、不平士族の神風連に襲撃され、他の将校等と共に傷死、同衾せし妾小勝は負傷したのみで逃れ得たが、東京の親元へ電報で「旦那はイケナイ、わたしは手疵」と通知した事が東京の諸新聞に出たので、都鄙に喧伝して「旦那はイケナイ、私は手疵」が小唄の如く伝唱され、児童走卒までも此句を知らない者なしであつた。同年十一月八日の『朝野新聞』には左の如き投書が載つて居る。

妙ナ種ダカラ朝野新聞サンヘ上ゲマス、熊本ニテ死ナレタ御方ノ権妻ヨリ其親ヘ送リシ電文ノ文句
「旦那はいけないわたしは手疵」
      そして情郎(おまへ)はドウしたか
いけないノ文字絶妙ナリ、僕モ感服ノ余リ下ノ句ヲ附ケテ都々一ニ致シマシタ、此電信ノ文句ハ団子坂ノ藪蕎麦デ聞キマシタヨ
        上野黒門町  岡屋喜助

 此小勝の情夫は東京に無かつたらしい。翌年熊本籠城の際までも居残つて軍隊病傷兵のセワをしたと云ひ、又アテにはならぬが『かなよみ』新聞では小勝を明治の烈女と褒め、貞操節義に厚い女であつたと賞揚して居る。
 前の「そしておまへはどうしたか」といふ附句の外に
   旦那はいけない、わたしは手疵
        代りたかつた国のため
   旦那はいけない、わたしは手疵
        金のありかは何処である
といふのもあつた。此甲は小勝の性格を美化したもの、乙は小勝を悪く観た附句である。いづれにしても、当時右の電報が世間の評判になつた事が知れるであらう。
(『明治文化』第七巻第七号五頁。昭和九年七月十一日)


電報だから、「旦那はいけないわたしは手疵」と書くわけはない。実際は、

ダンナハイケナイワタシハテキヅ

だったろう。


大槻順教は『小はなし研究』第五号(昭和10年2月27日)に
仮名書《ママ》魯文
という文章を寄せている。前半のみ引用する。

 明治の初期から中期にかけての戯作者に、仮名書魯文と云ふ人があります。御年配の方は御承知です。鏑木清方画伯の御親父採菊散人条野伝平などと鳴らした人です。チヤキチヤキの江戸ツ子で、為永春水と同じく、本屋の小僧だつたと云ふ事です。やゝ名をなして魯文と云ふ号をつけましたら、或る人が、流石に「五雑爼」を見てつけたなと云はれました。所が、魯文は「仮名がき」から思ひついた丈けで「五雑爼」なんて本の名前も知らないので、急に其れを買求めて読んで、恰も自分が知つてた様な顔をして居たと云ふ、稚気愛すべき人でした。
熊本の神風連の騒ぎで、種田少将はやられ、其愛妾のおかつは手傷を負ひ、東京の実家へ電報を打ちました。
  ダンナハイケナイワタシハテキズ
丁度来合はせたは、猫遊軒伯知と魯文でした。魯文は見るが否や
  カハリタイゾヤキミガタメ
と後をつけたと云ふ話は有名で、余程前に、二丁目の市村座で、川上音次郎が此芝居をやりました。(以下省略)




菊池眞一
(2015.10.17アップ)
(2016.3.26追補