曾我物語 国民文庫本
凡例
底本:国民文庫「曾我物語」 明治44年

章段名の後にS+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。
岩波大系のP26〜35の諸本対照表の章段の通し番号をN+(3桁)で表記しました。
参考としまして岩波大系本のページ数を表示しました。改行なし。P+ページ数(3桁)。
語句を他本を参照して改めた箇所があります。
仮名を漢字に改め、漢字の表記を変えた箇所が有ります。
漢字を仮名に改めたものも有ります。

曾我物語
P049曾我物語巻第一
 〔神代の始まりの事〕S0101N001
 夫れ、日域秋津島は、是、国常立尊より事起こり、■土■・沙土■、男神・女神を始めとして、伊弉諾・伊弉冉尊まで、以上天神七代にて渡らせ給ひき。又、天照大神より、彦波瀲武■■草葺不合尊まで、以上地神五代にて、多くの星霜を送り給ふ。然るに、神武天皇と申し奉るは、葺不合の御子にて、一天の主、百皇にも始めとして、天下を治め給ひしより此の方、国土を傾け、万民の恐るる謀、文武の二道にしくは無し。好文の族を寵愛せられずは、誰か万機の政を助けむ。又は、勇敢の輩を抽賞せられずは、如何でか四海の乱れを鎮めん。かるが故に、唐の大宗文皇帝は、瘡をすひて、戦士を賞し、漢の高祖は、三尺の剣を帯して、諸侯を制し給ひき。然る間、本朝にも、中頃より、源平両氏を定め置かれしより此の方、武略を振るひ、朝家を守護し、互ひに名将P050の名を現し、諸国の狼藉を鎮め、既に四百余回の年月を送り畢んぬ。是清和の後胤、又桓武の累代なり。然りと雖も、皇氏を出でて、人臣に連なり、鏃をかみ、鋒先を争ふ志、とりどり也。
 〔惟喬・惟仁の位争ひの事〕S0102N002
 抑、源氏と言つぱ、桓武天皇より四代の皇子を田村の御門と申しけり。皇子二人御座します。第一、惟喬の親王と申す。帝殊に御志思し召して、東宮にも立て、御位を譲り奉らばやと思し召されける。第二の御子をば、惟仁の親王と申しき。未だ幼く御座します。御母は染殿の関白忠仁公の御娘也ければ、一門の公卿、卿相雲客共まで愛し奉る。是も又、黙し難くぞ思し召されける。彼は継体あひふんの器量也。是は、万機ふいの臣相なり。是を背きて、宝祚を授くる物ならば、用捨私有りて、臣下唇を翻すに依りて、御位を譲り奉るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子達を引き具し奉り、右近の馬場へ行幸成る。月卿雲客、花の袂を重ね、玉の裙を連ね、右近の馬場、供奉せらる。此の事、希代の勝事、天下の不思議とぞ見えし。御子達P051も、東宮の浮沈、是に有りと見えし。然れば、様々の御祈り共有りける。惟喬の御祈りの師には、柿本の紀僧正真済とて、東寺の長者、弘法大師の御弟子なり。惟仁の親王の御祈りの師には、我が山の住侶に、恵亮和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、めでたき上人にてぞ渡らせ給ひける。西塔の平等坊にて、大威徳の法をぞ行ひける。既に競馬は、十番の際に定められしに、惟喬の御方に、続けて四番勝ち給ひけり。惟仁の御方へ心を寄せ奉る人々は、汗を握り、心を砕きて、祈念せられける。惟仁の御方へは、右近の馬場より、天台山平等坊の壇上へ、御使ひ馳せ重なる事、只櫛の歯を引くが如し。「既に御方こそ、四番続けて負けぬれ」と申しければ、恵亮、心憂く思はれて、絵像の大威徳を逆様に掛け奉り、三尺の土牛を取りて、北向きに立て、行はれけるに、土牛躍りて、西向きになれば、南に取りて押し向け、東向きになれば、西に取りて押し直し、肝胆を砕きて揉まれしが、猶居兼ねて、独鈷を以て、自ら脳をつき砕きて、脳を取り、罌粟に混ぜ、炉に打ちくべ、黒煙を立て、一揉み揉み給ひければ、土牛たけりて、声を上げ、絵像の大威徳、利剣を捧げて、振り給ひければ、所願成就してげりと、御心述べ給ふ所に、「御方こそ、六番続けて勝ち給ひ候へ」と、御使ひ走り付きければ、喜悦の眉を開き、急ぎ壇をぞ下りられける。有り難しP052瑞相なり。然れば、惟人の親王、御位に定まり、東宮に立たせ給ひけり。然るに、延暦寺の大衆の僉議にも、「恵亮脳を砕きしかば、次弟位に即き、そんゑ剣を振り給へば、菅丞霊をたれ給ふ」とぞ申しける。是に依りて、惟喬の御持僧真済僧正は、思ひ死ににぞ失せ給ひたる。御子も、都へ御帰り無くして、比叡山の麓小野と言ふ所に閉ぢ籠らせ給ひける。頃は神無月末つ方、雪げの空の嵐にさえ、しぐるる雲の絶間無く、都に行き交ふ人も稀なりけり。況や小野の御住まひ、思ひ遣られて哀れ也。此処に、在五中将在原の業平、昔の御契り浅からざりし人也ければ、紛々たる雪を踏み分け、泣く泣く御跡を尋ね参りて、見参らすれば、孟冬移り来たりて、紅葉嵐に絶え、りういんけんかとうしやくしやくたり。折に任せ、人目も草も枯れぬれば、山里いとど寂しきに、皆白妙の庭の面、跡踏み付くる人も無し。御子は、端近く出でさせ給ひて、南殿の御格子三間ばかり上げて、四方の山を御覧じ、珍しげにや、「春は青く、夏は茂り、秋は染め、冬は落つる」と言ふ、昭明太子の、思し召し連ね、「香爐峰の雪をば、簾を掲げて見るらん」と、御口ずさみ給ひけり。中将、此の有様を見奉るに、只夢の心地せられける。近く参りて、昔今の事共申し承るに付けても、御衣の御袂、絞りも敢へさせ給はず、鳥飼の院の御遊幸、交野の雪の御鷹狩まで、思し召し出でP053られて、中将かくぞ申されける。忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見んとは W001御子も取り敢へさせ給はで、返り、夢かとも何か思はん世の中を背かざりけん事ぞ悔しき W002かくて、貞観四年に、御出家渡らせ給ひしかば、小野宮とも申しけり。又は、四品宮内卿宮とも申しけり。文徳天皇、御年三十にて、崩御なりしかば、第二の皇子、御年九歳にて、御譲りを受け給ふ。清和天皇の御事、是なる。後には、丹波の国水尾の里に閉ぢ籠らせ給ひければ、水尾帝とぞ申しける。皇子数多御座します。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三をていけい親王、第四を貞保親王、此の皇子は、御琵琶の上手にて御座します。桂の新王とも申しけり。鏨を懸けらる女は、月の光を待ち兼ね、蛍を袂に包む、此の御子の御事なり。今のしけのこの先祖なり。第五を貞平親王、第六を貞純親王とぞ申しける。六孫王、是なり。然れば、彼の親王の嫡子、多田の新発意満仲、其の子摂津守頼光、次男大和守頼親、三男多田の法眼とて、山法師にて、三塔第一の悪僧なり。四郎河内守頼信、其の子伊予入道頼義、其の嫡子八幡太郎義家、其の子但馬守義親、次男河内の判官義忠、三男式部の太夫義国、四男六条の判官為義、其の子左馬の頭義朝、其の嫡子鎌倉の悪源太義平、次男中宮の大夫進朝長、三男右近衛の大将頼朝P054の上越す源氏ぞ無かりける。此の六孫王より此の方、皇氏を出でて、始めて源の姓を賜はり、正体をさりて、長く人臣に連なり給ひて後、多田の満仲より、下野守義朝に至るまで七代は、皆諸国の竹符に名を掛け、芸を将軍の弓馬に施し、家にあらずして、四海を守りしに、白波猶越えたり。然れば、各々剣を争ふ故に、互ひに朝敵に成りて、源氏世を乱せば、平氏勅宣を以て、是を制して朝恩に誇り、平将国を傾くれば、源氏しよめいに任せて、是を罰して、勲功を極む。然れば、近頃、平氏長く退散して、源氏自づから世に誇り、四海の波瀾を治め、一天のはうきよ定めしより此の方、りらくりんゑたかいいて、吹く風の声穏やか也。然れば、叡慮を背くせいらうは、色を雄剣の秋の霜にをかされ、てこそをみたすはしは、音を上弦の月に澄ます。是、偏に羽林の威風、先代にも越えて、うんてうの故也。然るに、せいしをひそめて、せいとの乱れを制し。私曲の争ひを止めて、帰伏せらるるは無かりけり。
 〔伊東を調伏する事〕S0103N006P055
 此処に、伊豆の国の住人、伊東の二郎祐親が孫、曾我の十郎祐成、同じく五郎時致と言ふ者有りて、将軍の陣内も憚らず、親の敵を打ち取り、芸を戦場に施し、名を後代に止めけり。由来を詳しく尋ぬれば、即ち一家の輩、工藤左衛門祐経なり。例へば、伊豆の国伊東・河津・宇佐美、此の三ケ所をふさねて、■美庄と号するの本主は、■美の入道寂心にてぞ有りける。在国の時は、工藤大夫祐隆と言ひけり。男子数多持ちたりしが、皆早世して、遺跡既に絶えんとす。然る間、継女の子を取り出だし、嫡子に立てて、伊東を譲り、武者所に参らせ、工藤武者祐継と号す。又、嫡孫有り、次男に立てて、河津を譲り、河津二郎と名乗らせ、然る間、寂心他界の後、祐親思ひけるは、我こそ、嫡々なれば、嫡子に、異姓他人の継女の子、此の家に入りて、相続するこそ、安からねと思ふ心付きにけり。是、誠に神慮にも背き、子孫も絶えぬべき悪事なるをや。仮令他人なりと言ふとも、親養じて譲る上は、違乱の義有るべからず。まして、是は、寂心、内々継女のもとに通ひて、設けたる子也。誠には兄なり。譲りたる上、争ふ事、無益の由、余所余所にも申し合ひけり。然れども、祐親止まらで、対決度々に及ぶと雖も、譲状を捧ぐる間、伊東が所領に成りて、河津は負けてぞ下りける。其の後、上に親しみながら、内々安からぬ事にぞ思ひける。然れども、P056我が力には適はで、年月を送り、或る時、祐親、箱根の別当を秘かに呼び下し奉り、種々にもてなし、酒宴過ぎしかば、近く居寄り、畏まりて申しけるは、「予てより知ろし召されて候ふ如く、伊東をば、嫡々にて、祐親が相継ぎ候ふべきを、思はずの継女の子来たりて、父の墓所、先祖の重代の所領を横領仕る事、余所にて見え候ふが、余りに口惜しく候ふ間、御心をも憚らず、申し出だし候ふ。然るべくは、伊東武者が二つ無き命を、立所に失ひ候ふ様に、調伏有りて見せ給へ」と申しければ、別当聞き給ひて、暫く物も宣はず、やや有りて、「此の事、よくよく聞き給へ。一腹一生にてこそ坐しまさね、兄弟なる事は眼前也。公方までも聞こし召し開かれ、既に御下知をなさるる上は、隔ての御恨みは、然る事にて候へども、忽ちに害心を起こし、親の掟を背き給はん事、然るべからず。神明は、正直の頭に宿り給ふ事なれば、定めて天の加護も有るべからず、冥の照覧も恐ろし。其の上、愚僧は、幼少より、父母の塵欲を離れ、師匠のかんしんに入りて、所説の教法を学し、円頓止観の門をのぞみ、一ねんまいに、稼穡の艱難を思ひ、一度切る時、紡績の辛苦を忍ぶ。三衣を墨に染め、鬢髪をまろめ、仏の遺願に任せ、五戒を保ちしより此の方、物の命を殺す事、仏殊に戒め給ふ。然れば、衆生の身の中には、三身仏性とて、P057三体の仏の坐します。然るに、人の命を奪はん事、三世の諸仏を失ひ奉るに同じ。諸々以て、思ひ寄らざる事なり」とて、箱根に上り給ひけり。河津は、なまじひなる事申し出だして、別当、承引無かりければ、其の後、消息を以て、重ね重ね申しけれども、猶用ひ給はず。如何せんとて、秘かに箱根に上り、別当に見参して、近く居寄りて、ささやきけるは、「物其の身にては候はねども、昔より師檀の契約浅からで、頼み頼まれ奉りぬ。祐親が身におきて、一生の大事、子々孫々までも、是にしくべからず候ふ。再往に、申し入れ候ふ条、誠に其の恐れ少なからず候へども、彼の方へ返り聞こえなば、重ねたる難儀、出で来たり候ふべし。然ればにや、浮沈に及び候ふ」と、くれぐれ申しければ、始めは、別当、大きに辞退有りけるが、誠に檀那の情もさり難くして、おろおろ領状有りければ、河津、里へぞ下りける。別当、そき無き事ながら、檀那の頼むと申しければ、壇を立て、荘厳して、伊東を調伏せられけるこそ、恐ろしけれ。始め三日の本尊には、来迎の阿弥陀の三尊、六道能化の地蔵菩薩、檀那河津次郎が所願成就の為、伊東武者が二つ無き命を取り、来世にては、観音・勢至、蓮台を傾け、安養の浄刹に引接し給へ、片時も、地獄に落とし給ふなと、他念無く祈られけり。後七日の本尊には、烏蒭沙摩金剛とかう童子、五大明王の威験殊勝なるを、P058四方に掛けて、紫の袈裟を帯し、種々に壇を飾り、肝胆を砕き、汗をものごはず、面をもふらず、余念無くこそ祈られけれ。昔より今に至るまで、仏法護持の御力、今に始めざる事なれば、七日に満ずる寅の半ばに、伊藤武者がさかんなる首を、明王の剣の先に貫き、壇上に落つると見/て、さては威験現れたりとて、別当、壇を下り給ふ、恐ろしかりし事共也。
 〔同じく伊東が死する事〕S0104N007
 伊東武者、是をば夢にも知らで、時ならぬ奥野の狩して遊ばんとて、射手を揃へ、勢子を催し、若党数相具して、伊豆の奥野へぞ入りにける。頃しも、夏の末つ方、峰に重なる木の間より、村々に靡くは、さぞと見えしより、思はざる風にをかされて、心地例ならずわづらひ、志す狩場をも見ずして、近き野辺より帰りけり。日数重なる程に、いよいよ重くぞなりにける。其の時、九つになりけるかないしを呼び寄せて、自ら手を取り、申しけるは、「如何に己、十歳にだにもならざるを、見捨てて死なん事こそ、悲しけれ。生死限り有り、逃るべからず。汝を、誰哀れみ、誰育みて育てん」と、さめざめと泣きP059けり。かないしは幼ければ、只泣くより外の事は無し。女房、近く居寄り、涙を抑へて言ひけるは、「適はぬ浮き世の習ひなれども、せめて、かないし十五にならんを待ち給へかし。然ればとて、数多有る子にもあらず、又、かけこ有る中の身にても無し。如何はせん」と、歎きけるこそ、理なれ。此処に、弟の河津の次郎祐親が、訪ひ来たりけるが、此の有様を見/て、近く居寄り、申しけるは、「今を限りとこそ、見えさせ給ひて候へ。今生の執心を御止め候ひて、一筋に後生菩提を願ひ給へ。かないし殿においては、祐親かくて候へば、後見し奉るべし。努々疎略の義有るべからず。心安く思ひ給へ。然ればにや、史記の言葉にも、「昆弟の子は、なほし己が子の如し」と見えたり。如何でか愚かなるべき」と申しければ、祐継、是を聞き、内に害心有るをば知らで、大きに喜び、かき起こされ、人の肩にかかり、手を合はせ、祐親を拝み、やや有りて、苦しげなる息を付き、「如何に候ふ。只今の仰せこそ、生前に嬉しく覚え候へ。此の頃、何と無く下説について、心よからざる事にて坐しまさんと存ずる所に、斯様に宣ふこそ、返す返すも本意なれ。然らば、かないしをば、偏にわ殿に預け奉る。甥なりとも、実子と思ひ、娘数多持ち給ふ中にも、万刧御前に合はせて、十五にならば、男に成し、当庄のほんけん小松殿の見参に入れ、わ殿の娘P060とかないしに、此の所をさまたげ無く知行せさせよ」とて、伊東の地券文書取り出だし、かないしに見せ、「汝にぢきに取らすべけれども、未だ幼稚なり。いづれも親なれば、愚か有るべからず。母に預くるぞ。十五にならば、取らすべし。よくよく見置け。今より後は、河津殿を、叔父なりとも、誠の親と頼むべし。心おきて、にくまれ奉るな。祐継も、草の陰にて、立ち添ひ守るべし」とて、文書母が方へ渡し、今は心安しとて、打ち伏しぬ。かくて、日数の積もり行けば、いよいよ弱りはてて、七月十三日の寅の刻に、四十三にて失せにけり。哀れなりし例なり。弟の河津の次郎は、上には歎く由なりしかども、下には喜悦の眉を開き、箱根の別当の方をぞ拝みける。一旦猛悪は、勝利有りと雖も、遂には子孫にむくふ習ひにて、末如何とぞ覚えける。やがて、河津が、我が家を出で、伊東の館に入り代はり、内々存ずる旨有りければ、兄の為、忠有る由にて、後家にも子にも劣らず、孝養を致す。七日七日の外、百ケ日、一周忌、第三年に至るまで、諸善の忠節をつくす。人是を聞き、「神をまつる時は、神のます如くにせよ。使ふる時は、生に使ふる如くなれ」とは、論語の言葉なるをやと感じけるぞ、愚かなる。さて、かないしには、心安き乳母を付けてぞ、養じける。遺言違へず、十五にて元服させ、うすみの工藤祐経と号す。やがて、娘万刧に合はせ、P061其の秋、相具して、上洛し、即ち、小松殿の見参に入れ、祐経をば、京都に止めおき、我が身は、国へぞ下りける。其の後、かひがひしき侍の一人も付けず、おとなしき物も無し。所帯におきては、祐親一人して横領し、祐経には、屋敷の一所をも配分せざりけり。誠や、文選の言葉に、「徳をつみ、行をけぬる事、其の善を知らず、然れども時に用ひる事有り、義を捨て、理を背く事、其の悪を知らざれども、時に滅ぶる事有り。身の危ふきは、勢の過ぐる所と成り、禍の積もるは、寵のさかんなるを越えてなり」。然れども、祐経は、たれをしゆるとも無きに、公所を離れず、奉行所におきて、身を打たせ、沙汰になれける程に、善悪を分別して、理非を迷はず、諸事に心を渡し、手跡普通に過ぎ、和歌の道を心に懸け、酣暢の筵に推参して、其の衆に連なりしかば、伊東の優男とぞ召されける。十五歳より、武者所に侍つて、礼儀正しくして、男がら尋常なりければ、田舎侍とも無く、心にくしとて、二十一歳にして、武者の一郎をへて、工藤一郎とぞ召されける。
 〔伊東の二郎と祐経が争論の事〕S0105N008P062
 かくて、二十五まで、給仕怠らざりき。此処に、思はずに、田舎の母、一期つきて、形見に、父が預け置きし譲状を取り添へて、祐経がもとへぞ上せたりける。祐経、是を披見して、「こは如何に、伊豆の伊藤と言ふ所をば、祖父入道寂心より、父伊東武者祐継まで、三代相伝の所領なるを、何に依つて、叔父河津の二郎、相続して、此の八か年が間、知行しける。いざや冠者原、四季の衣がへさせん」とて、暇を申しけれども、御気色最中なりければ、左右無く暇を賜はらざりけり。然らばとて、代官を下して、催促を致す。伊東、是を聞き、「祐親より外に、またく他の地頭無し」とて、冠者原を放逸に追放す。京より下る者は、田舎の子細をば知らで、急ぎ逃げ上り、一臈に此の由を訴ふ。「其の儀ならば、祐経下らん」とて、出で立ちけるが、案者第一の者にて、心をかへて思ひけるは、人の僻事すると言ふを聞きながら、我又下りて、劣らじ、負けじとせん程に、勝る狼藉引き出だし、両方得替の身となりぬべし、其の上、道理を持ちながら、親方に向かひ、意趣を込めん事、詮無し、祐経程の者が、理運の沙汰にまくべきにあらず、田舎より彼の仁を召し上せて、上裁をこそ仰がめと思ひ、あたる所の道理、差し詰め差し詰め、院宣を申し下し、小松殿の御状を添へ、検非違使を以て、伊東を京都に召し上せ、事のちきやうなる時こそ、田舎にて、横紙をも破り、ちやうちやく共P063言ひけれ、院宣を成し、重ねてからく召されければ、一門馳せ集まり、案者・口聞き寄り合ひ、伴ひ談すると雖も道理は一つも無かりけり。祐継存生の時より、執心深くして、如何にも此の所を、祐親が拝領にせんと、多年心に懸け、既に十余年知行の所なり。一期の大事と、金銀を調へ、秘かに奉行所へぞ上せける。誠や、文選の言葉に、「青蝿も、すひしやうを汚さず、邪論も、くの聖を惑はず」とは申せども、奉行のめづるも、理也。漢書を見るに、「水いたつて清ければ、底に魚住まず。人いたつてせんなれば、内に徒も無し」と見えたり。然ればにや、奉行、誠に宝重くして、祐経が申状、立たざる事こそ、無念なれ。月は明らかならんとすれども、浮雲是をおほひ、水はすまんとすれども、泥沙是を汚す。君賢なりと雖も、臣是を汚す理に依つて、本券、箱の底にくちて、空しく年月を送る間、祐経、鬱憤に住して、重ねて申状を奉行所に捧ぐ。其の状に曰く、伊豆の国の住人伊東工藤一郎平の祐経、重ねて言上、 早く、御裁許を蒙らんと欲する子細の事。右件の条、祖父■美の入道寂心他界の後、親父伊東武者祐継、舎弟祐親、兄弟の中、不和なるに依つて、対決度々に及ぶと雖も、祐継、当腹寵愛たるに依つて、安堵の御下し文を賜はつて、P064既に数ケ年をへ畢んぬ。此処に、祐継、一期限りの病の床にのぞむきざみ、河津の二郎、日頃の意趣を忘れ、忽ちに訪ひ来たる。其の時、祐経は、生年九歳也き。叔父河津の二郎に、地券文書、母共に預け置きて、八か年の春秋を送る。親方にあらずは、しこうのしんと申すべきや。所詮、世のけいに任せ、伊東の二郎に賜はるべきか、又祐経に賜はるべきか、相伝の道理について、憲法の上裁を仰がんと欲す。よつて、誠惶誠恐、言上件の如く。仁安二年三月日平の祐経と書きてさうさう。ししよに、此の状を披見有りて、差しあたる道理にわづらひけるよと、人々寄り合ひ、内談す。誠に、祐経が申状、一つとして僻事無し。是は裁許せずは、憲法にそねまれなん。又、伊東宝を上せて、万事奉行を頼むと言ふ。然れども、祐経は、左右無く理運たる間、奉行所のはからひとして、よの安堵の状二書きて、大宮の令旨を添へ、りやうへ下さる。伊東は、半分也とも賜はる所、奉行の御恩と喜びて、本国へぞ下りける。書は言葉をつくさず、言葉は心をつくさずと雖も、一郎は、言葉を失ひ、十五より、本所に参り、日夜朝暮、給仕を致し、今年八年か九年かと覚ゆるに、重ねて御恩こそ蒙らざらめ、先祖所領を半分召さるる事そも何事ぞ、「源濁れる時は、清からんをのぞみ、P065形ゆがめる時は、影のどかならんを思ふ」と、かたに見えたり、父祐継が世には、斯様によも分けじ、今なんぞ半分の主たるべきや、是偏に親方ながら、伊東が致す所なり、我が身こそ、京都にすむとも、せんこは皆、弓矢取りの遺恨なり、如何でか、此の事恨みざるべきとて、秘かに都を出でて、駿河の国高橋と言ふ所に下り、きつかひ・船越・おきの・蒲原・入江の人々、外戚につきて、親しかりければ、二百四人寄り合ひて、祐親打ちて、領所を一人して進退せんと思ふ心、付きにけり。此の儀、神慮も量り難し。例へば、差しあたる道理は、顕然たりと雖も、昔の恩を忘れ、忽ちに悪行をたくむ事、いとう昔をも思ひ、てんしゆか古も尋ぬべき。第一に叔父なり、第二に養父也、第三に舅なり、第四に烏帽子親なり、第五に一族中の老者なり、方々以て、愚かならず。斯様に思ひ立つぞ、恐ろしき。如何にも思慮有る人に候ふや。剰へ地領を奪はん事、不可思議なり。祐親、是を返り聞きて、嫡子河津三郎祐重、次男伊藤九郎祐清、其の外一門老少呼び集め、用心厳しくしければ、力に及ばす。是や、富貴にして、善を成し安く、貧賎にして、工を成し難しと、今こそ思ひ知られたり。其の後、伊東の二郎、此の事有りの儘に京都へ訴へ申して、長く祐経を本所へ入れ立てずして、年貢所当におきては、芥子程も残らず、横領する間、祐経、身の置き所無くP066して、又、京都に帰り上り、秘かに住す。伊東に、祐経は悩まされ、本意を忘れ、祐経が妻女取り返し、相模の国の住人土肥の二郎実平が嫡子弥太郎遠平に合はせけり。国には又、並ぶ者無くぞ見えたり。然れども、「功賞無き不義の富は、禍の媒」と、左伝に見えたり。然れば、行く末如何とぞ覚えし。工藤一郎は、なまじひの事を言ひ出だして、叔父に中を違はれ、夫妻の別れ、所帯は奪はれ、身を置き兼ねて、胆をやきける間、給仕も疎略になりにけり。然ればにや、御気色も悪しく、傍輩も、側目に懸けければ、積鬱たゑすかと思ひ焦がれて、秘かに本国に下り、大見庄に住して、年頃の郎等に、大見の小藤太、八幡の三郎を招き寄せて、泣く泣くささやきけるは、「各々、つぶさに聞け。相伝の所領を横領せらるるだにも、安からざるに、結句、女房まで取り返されて、土肥の弥太郎に合はせらるる条、口惜しきとも、余り有り。今は命を捨てて、矢一つ射ばやと思ふなり。現れては、せん事適ふまじ。我又、便宜を窺はば、人に見知られて、本意を遂げ難し。然ればとて、止まるべきにもあらず。如何せん、各々さりげなくして、狩すなどりの所にても、便を窺ひ、矢一つ射んにや、もし宿意を遂げんにおきては、重恩、生々世々にも、報じて余り有り。如何せん」とぞくどきけり。二人の郎等聞き、一同に申しけるは、「是までも、仰せらるべからず。弓矢を取り、P067世を渡ると申せども、万死一生は、一期一度とこそ承れ。然れば、古き言葉にも、「功は成し難くして、しかも破れ安き、時はあひ難くして、しかも失ひ安し」。此の仰せこそ、面目にて候へ。是非命におきては、君に参らする」とて、各々座敷を立ちければ、頼もしくぞ思ひける。伊東は、いささか此の儀を知らざるこそ、悲しけれ。
 〔佐殿、伊東の館に坐します事〕S0106N010
 かくて、隙を窺ふ程に、其の頃、兵衛佐殿、伊東の館に坐しましけるに、相模の国の住人大庭の平太景信と言ふ者有り。一門寄り合ひ、酒もりしけるが、申しけるは、「我等は、昔は、源氏の郎等也しかども、今は、平家の御恩を以て、妻子を育むと雖も、古のこう、忘るべきにあらず。いざや、佐殿の、いつしか流人として、徒然に坐しますらん。一夜、宿直申して、慰め奉り、後日の奉公に申さん」「もつとも然るべし」とて、一門五十余人、出で立ちたり。人別筒一あてぞ持ちにける。是を聞き、三浦、鎌倉、土肥の二郎、岡崎、本間、渋谷、糟屋、松田、土屋、曾我の人々、思ひ思ひに出で立ちにけり。然る程に、近国の侍、聞き伝へ、「我も如何でかP068逃るべき。いざや参らん」とて、相模の国には、大庭が舎弟三郎、俣野の五郎、さこしの十郎、山内滝口の太郎、同じく三郎、海老名の源八、荻野五郎、駿河の国には、竹下の孫八、合沢の弥五郎、吉川、船越、入江の人々、伊豆の国には、北条の四郎、同じく三郎、天野の藤内、狩野の工藤五を始めとして、むねとの人々五百人、伊豆の伊東へぞ移りける。伊東、大きに喜びて、内外の侍、一面に取り払ひ、猶狭かりなんとて、壼に仮屋を打ち出だし、大幕引き、上下二千四五百人の客人を、一日一夜ぞもてなしける。土肥の二郎、是を見/て、「雑掌は、百人二百人までは安し。既に二三千人の客人を一人に預くる事、無骨なり」と言ふ。伊東、是を聞き、「河津と申す小郷を知行せし時にも、いづれの誰に、我が劣りて振舞ひし。ましてや、■美庄をふさねて持ち候ふ間、予て承る物ならば、などや面々に引出物申さで有るべき。是程の事、何かは苦しかるべき」とて、山海の珍物にて、三日三夜ぞもてなしける。又、海老名の源八の申しけるは、「斯かる寄り合ひに参るべしと存じて候はば、国より勢子の用意して、音に聞こゆる奧野に入り、物頭に馬相付け、鏑のとほなりさせざるが、無念なり」と言ひければ、伊東、是を聞き、「祐親を人と思ひてこそ、両三日国の人々打ち寄りて、遊び給ふらめ。左右無く、座敷にて、勢子の願ひやうこそ、心狭けれ。それそれ河津の三郎、勢子催して、鹿P069射させ申せ」と言ひけるぞ、伊東の運の極めなる。河津は、もとより穩便の者にて、心の内には、殺生を禁ずる人なりければ、如何にもして、此の度の狩を申し止めなば、よからましと思へども、多き侍の中にて、親の申す事なれば、力及ばで、座敷を立ち、我と勢子をぞ催しける。「幼き者は、馬に乗りて出でよ。大人は、弓矢をもて」とふれければ、■美庄ひろくして、老若に三千四五百人ぞ出でたりける。彼等を先として、三が国の人々、我も我もと打ち出でたり。伊東・河津が妻女、数の女房引きつれて、南の中門に立ち出でて、打ち出でける人々を見送りける。中にも、河津三郎は、余の人にもまがはず、器量骨柄すぐれたり。「此の内のたいしんと言ひたりとも、悪しからじ。子ながらも、優に見ゆる物かな。頼もし」と宣ひければ、河津が女房、是を聞き、「弓矢取りの物いでの姿、女見送る事、詮無し。内に入らせ給へ」と言ひければ、実にもとて、各々内にぞ入りにける。神無月十日余りに、伊豆の奥野へ入りにけり。
 〔大見・八幡が伊東狙ひし事〕S0107N011
 此処に、祐経が二人の郎等大見・八幡は、是を聞き、斯様の所こそ、よき便宜P070なれ、いざや、我等、便りを狙はんと、各々、柿の直垂に、鹿矢さけたる竹箙取りて付け、白木の弓のいよげなるを打ちかたげ、勢子にかきまぎれ、狙ふ所々は、一日は柏峠、熊倉、二日は荻窪、椎沢、三日は長倉が渡り、朽木沢、赤沢峰を始めとして、七日が間、つきめぐりてぞ狙ひける。然れども、伊藤、国一番の大名にて、家の子郎等多かりければ、たやすく討つべき様ぞ、無かりける。
 〔杵臼・程嬰が事〕S0108N012
 此の者共が、心をつくしける有様にて、昔を思ふに、大国に、かうめひ王と言ふ国王有り、国を争ひて、並びの国の王と軍し給ふ事、度々なり。然るに、かうめい王、戦ひ負けて、自害に及ばんとす。時に、杵臼・程嬰とて、二人の臣下有り。彼等を近付けて、「汝等は、定めて、我と共に自害せんとぞ思ふらん。是、誠にしゆんろ、逃るる所無し。さりながら、我、一人の太子に、屠岸賈と言ひて十一歳に成るを、故郷に止め置きぬ。我自害の後、雑兵の手にかかりて、命を空しくせん事、口惜しければ、汝等、如何にもして逃れ出でて、此の子を育み育てて、敵を滅ぼし、無念の散ぜよ」と宣ひけれP071ば、二人の臣下、異議に及ばずして、城の内を忍び出でにけり。国王、心安くして、自害し給ひけり。さて、二人の臣下、都に帰り、太子をいざあひ出だして、養じけるぞ、無慙なる。敵の大王、是を聞き伝へ、「末の世には、我が敵なり。彼の太子、同じく二人の臣下、共に、首を取りて来たらん者には、勲功は所望によるべし」と、国々に宣旨を下されけり。此の宣旨に従つて、彼の人々に心を懸け、如何にもとあやしみ思はぬ者は無し。然れども、一所の住まひ適はで、或いは、遠き里に交はり、深き山に籠りて、身を隠すと雖も、所無くして、二人寄り合ひ、如何せんとぞ歎きける。程嬰申しけるは、「我等が、君を養じ奉るに、敵こはくして、国中に隠れ難し。然れば、我等二人が内に、一人、敵の王に出で仕へん。然る物とて、使ふとも、心を許す事あらじ。我、きくわくと言ひて、十一歳に成る子を、一人持ちたり。幸ひ、是も、若君と同年也。是を大子と号して、二人が中、一人は山に籠り、一人は討手に来たり、主従二人を打ち、首を取り、敵の王に捧げなば、如何でか心許さざるべき。其の時、敵をやすやすと打ち取るべし」と言ひければ、杵臼申しけるは、「命ながらへて後に、事をなすべきこらへのせいは、遠くしてかたし。今、太子と同じく死せんは、近くして安し。然れば、杵臼は、こらへのせい、少なき者なり。安きP072に付き、我先づ死ぬべし。程嬰は、敵方に出でん事を急ぎ給へ」とぞ申しける。其の後、程嬰、我が子のきくわくを近付けて、「如何にや、汝、詳しく聞け。我等は、主君の大子を隠し奉る。既に我々、汝等までも、敵にとらはれて、犬死をせん事、疑ひ無し。然れば、汝を太子と偽り奉りて、首を取るべし。恨むる事無くして、御命に代はり奉りて、君をも安全ならしめよ。親なればとて、添ひはつべきにもあらず。来世にて生まれあふべし」と申しければ、きくわく、聞きも敢へず、涙を流して、しばしは返事せざりけり。父、此の色を見/て、「未練なり。汝、はや十歳に余るぞかし。弓矢取る者の子は、胎の内よりも、物の心は知るぞかし」といさめければ、きくわく、此の言葉に恥ぢて、言ひけるは、言葉こそ無慙なる、「辞退申すべきにあらず。誠に、某は、命一つにて、君と父との孝行に捧げ申さん事、惜しからざる物をや、歎きの中の喜び也」と言ひも敢へず、涙にむせびける。父、是を聞き、子ながらも、優に使ひたる言葉かな、未だ幼き者ぞかし、誠に我が子なり、成人の後、惜しと言ふも余り有り、弱き心の見えなば、もし未練にもやと思ひければ、流るる涙を押し止め、「弓矢の家に生まれて、君の為に命を捨つる事、汝一人にも限らず、最後未練にては、君の御為、P073父が為、中々見苦しとて、一命を損にすべき也」と言ひければ、きくわく、涙を抑へて、「か程には、深く思ひ定めて候へば、如何で愚かなるべき。さりながら、差しあたる父母の御別れ、如何でか惜しからでそろべき。心安く思し召せ。最後におきては、思ひ定めて候ふ」と申しければ、父も、心安くぞ思ひける。さて又、二人寄り合ひ、内談する様、「先づ今、君の御為に、打たるべき命は安く、残り止まりて、敵を打ち、太子世に立て申さん事、重きが上の大事なり。如何はせん。ながらへ、功をなす事、堪忍し難し。我、先づしなん」とて、杵臼は、十一歳のきくわくをつれて、山に籠り、討手を待ちける心の内、無慙と言ふも余り有り。其の後、程嬰、敵の王のあたりに行き、「召し使はれむ」と申す。敵王聞き、此の者、身を捨て、面をよごし、我に使ふべき臣下にあらず、さりながら、世変はり、時移れば、さもやと思ひ、かたはらに許し置くとは雖も、猶害心に恐れて、許す心無かりけり。言ひ合はせたる事なれば、「我、今、君王に仕へて、二心無し。疑ひ事わりなれども、世界を狭められ、恥辱にかへて、助かるなり。なほし、用ひ給はずは、主君の太子、臣下の杵臼諸共に、隠れ居たる所を、詳しく知れり。討手を賜はつて向かひ、彼等を打ち、首を取りて見せ参らせん」と言ふ。其の時、国王、和睦の心を成し、数千人P074の兵を差し添へ、彼等隠れ居たる山へ押し寄せ、四方をかこみ、閧の声をぞ上げたりける。杵臼は、思ひ設けたる事なれば、鎮まり返りて、音もせず。程嬰、すすみ出で申しけるは、「是は、かうめい王の太子屠岸賈や坐します。程嬰、討手に参りたり。雑兵の手にかかり給はんより、急ぎ自害し給へ。逃れ給ふべきにあらず」と申しければ、杵臼立ち出で、「若君の坐します事、隠し申すべきにあらず。待ち給へ。御自害有るべし。さりながら、今日の大将軍の程嬰は、昨日までは、まさしき相伝の臣下ぞかし。一旦の依怙に住すとも、遂には、天罰降り来たり、遠からざるに、失せなん果を見ばや」とぞ申しける。程嬰、是を聞き、「時世に従ふ習ひ、昔は、さもこそ有りつらめ、今又、変はる折節なり。然ればにや、君も、御運もつきはて、命もつづまり給ふぞかし。徒らごとにかかはりて、命失ひ給はんより、兜を脱ぎ、弓の弦をはづし、降参し給へ。古の情を以て、助くべし」とぞ言ひける。十一歳のきくわく、討手は父よと知りながら、予て定めし事なれば、父重代の剣をよこたへて、高き所に走り上がり、「如何に、人々、聞き給へ。かうめい王の太子として、臣下の手に掛かるべき事にもあらず。又、臣下心がはりも、恨むべきにもあらず。只前業つたなけれ。さりながら、其の家久しき郎等ぞかし。程嬰、出で給へ。日頃のよしみに、今一度見参せん」と言ひけれP075ば、程嬰、我が子の振舞ひを見/て、心安く思へども、忍びの涙ぞすすみける。兵あやしくや見るらんと、落つる涙を押し止め、「人々、是を聞き給へ。国王の太子とて、優に使ひたる言葉かな。かうこそ」と言ひけるが、さすが恩愛の別れ、包み兼ねたる涙の袖、絞りも敢へず、余所の哀れを催しつつ、相従ふ兵、差しあたりたる道理なれば、共に感ぜぬは無かりけり。其の後、太子、高声に曰く、「我は是、かうめい王の子、生年十一歳。父一所に向かへ給へ」と言ひもはてず、剣を抜き、貫かれてぞ、伏しぬ。杵臼、同じく立ち寄りて、「御けなげにも、御自害候ふ物かな。某も、追ひ付き奉らん」とて、腹十文字にかき破り、太子の死骸にまろびかかりて、伏しける有様、みるに言葉も及ばれず、無慙なりし例なり。さて、二人が首を取り、帝王に捧ぐ。叡覧有りて、喜悦の眉を開き給ふ。今は、疑ふ所無く、程嬰に心を許し、一の大臣にいはひたもふ、御運の極めとぞ覚えべし。さて、隙を窺ひ、敵王を討つ事、いと安し。すみやかに、主君の屠岸賈を取り立て、二度国を開く事、案の内なり。然ればにや、もとの如く、程嬰をさう臣に立てらるに依つて、杵臼、きくわくの為に、追善其の数を知らず。かくて、三年に、国ことごとく鎮まりをはりて後、程嬰、君に暇をこひて曰く、「我、杵臼に契約して、命を君に捨つる事、P076遅速を争ひしなり。御位、是までなり。今は、思ひ置く事無ければ、杵臼が草の陰にての心も恥づかし。自害仕らん」と申す。帝王、大きに歎きて、是を許す事無し。然れども、隙をはからひ、忍び出でて、杵臼が塚の前に行き、「君の御位、思ふ儘なり。如何にも嬉しく思ひ給ふらん。我又、かくの如し。古の契約忘れず」と言ひて、腹かき切り、失せにけり。哀れなりし例なり。大見・八幡が、主の為に、命をかろんじて、伊東を狙ひし志、是には過ぎじとぞ覚えたり。
 〔奥野の狩の事〕S0109N013
 さても、両三が国の人々は、各々奥野に入り、方々より勢子を入れて、野干をかりける程に、七日が内に、猪六百、鹿千頭、熊三十七、■鼠三百、其の外、雉、山鳥、猿、兎、貉、狐、狸、豺、大かめの類に至るまで、以上其の数二千七百余りぞ、止められける。今は、さのみ野干を滅ぼして、何にかせんとて、各々柏峠にぞ打ち上がり、此の程の雑掌は、伊東一人して、暇無かりければ、「持た/せたる酒、人々の見参に入れざるこそ、本意無けれ。いざや、山陣取りて、頼朝に、今P077一獻すすめ奉らん」「然るべし」とて、むねとの人々五百余人、峠に下り居て、用意す。N014土肥の二郎が申す、「今日の御酒もりは、予て座敷の御定め有るべし。若き方々の御違乱もや候ふべき」。大庭の平太、「是、芝居の座敷、誰を上下と定むべき。年寄の盃は、海老名殿より始め、若殿原は、滝口殿より始めよ。此の人は、いづかたにぞ」と申しければ、弟の三郎聞き、「兄にて候ふ者は、熊倉の北の脇に、鹿の候ひつるを、目に懸け、深入りして、未だ見えず候ふ。家俊こそ参りて候へ」。土屋が申しけるは、「三郎殿こそ、滝口殿よ。兄弟中に、誰をかわきて隔つべき。其の盃、三郎殿より始めよ」と言ふ。大庭聞き、「滝口殿は、年こそ若けれども、然る人ぞかし。今来たると言ふを、少しの間、待たぬか。左右無く肴あらすな」とて、奥野の山口方へ向かひ遣り、滝口遅しとまつ所に、滝口は、熊倉の北の脇を過ぐるに、埒の外に、熊の大王を見付けて、元山ヘ入れじと、平野に追ひ下す所に、滝口、大きなる伏木に馬を乗り掛け、真逆様に馳せ倒す。倒るる馬を顧みず、弓のもとを、左右の鐙に乗りかかり、草葉隠れに、矢ごろ少しのびたりけるを、三人ばりに、十三束の大の鏑矢つがひ、拳上に引き掛け、ひやうどはなつ。ひやうどとほなりして、右の折骨二つ三つ、はらりと射ければ、鏑はわれて、さつとちりければ、P078鏃は、岩にがしとあたる。熊は、手をおひ、滝口にたけりて掛かる。勢子の者共、是を見/て、四方へばつとぞ逃げたりける。滝口、此の矢をつがひ、絞り返して、月の輪をはすしろに、射を懸けて射ければ、熊は、少しも動かず、矢二つにて、止まりける。其の後、勢子の者共呼び寄せ、熊をかかせて、人々の下り居たる峠に打ち上り、急ぎ馬より下り、「御肴尋ね候ふとて、深入り仕り、遅参申すなり。御免候へ」と言ひ、笠をも脱がず、靫をもとかず、行縢ながら、弓杖付きて立ちたり。吉川の四郎、俣野にいくみて有りけるが、是を見/て、「滝口殿は、聞きしより、見まして覚ゆる物かな。哀れ、男かな」とほめければ、座敷に居わづらひたり。誠に気色顔にて、何事がな、力業して、猶ほめられんと思へ共、芝居の事なれば、適はで有りけるを、弟の滝口三郎と船越十郎が居たりける間に、あをめなる石の、高さ三尺ばかりなるをよりて、持た/せばやと思ひければ、するすると歩みけるを見/て、弟の家俊、立たんとす。膝を抑へて、はつたとにらみて、「弓矢の座敷をかたさるとは、我が居たる家を出でて、他所に居渡り、其の家に人をおくをこそ、座敷かたさるとはいへ。是、此処なる石の、二人が間に有りて、つまりやうのにくさにこそ」と言ひ、右の手を差し延べて、後ろ様へおしければ、大石がおされて、谷へどうど落ち行く。海老名の源八、是を見/て、東八か国の中に、男子持ちP079たらん人は、滝口殿を呼びて、ものあやかりにせよ、器量と言ひ、弓矢取りては、樊噌・張良なり。哀れ、侍や」とほめられ、いよいよ気色をまし、老の末座敷よりすすみ出で、申しけるは、「只今の盃も、然る事にて候へども、余りにもどかしく覚え候ふ。大きなる盃をもつて、一つづつ御まはし候へかし」と申しければ、「滝口殿の仰せこそ、面白けれ」とて、伊東の二郎貝と言ふ貝を取り出だし、此の貝は、日本一二番の貝とて、院へ参らせたりしを、公家には、貝を御用ひ無き事なれば、武家に下さる、太郎貝をば、秩父に下さる、提子五つぞ入りける、二郎貝をば、三郎に下さる、新介賜はりて、土肥の二郎に取らする、殿上を許されたる器物とて、秘蔵して持ちけるを、折節、河津の三郎、土肥の聟に成りて来たりしを、引出物にしたりけり。内は己なりに、外は梨子地にまきて、いそなりにめおさしたり、提子三つぞ入りける、是を取り出だし、滝口がもとより始めて、三度づつぞまはしける。五百余人の持ちたる酒なれば、酒の不足は無かりけり。後には、乱舞して、躍りはねてぞ、遊びける。海老名の源八、盃ひかへて、申しけるは、「是は、めでたき世の中を、夢現とも定め難く、昔がたりにならん事こそ、悲しけれ。老少不定と言ひながら、若きは、頼み有る者を、若殿原の様に、舞ひうたはんと思へども、膝振るひ、声も立たず、りうせきが、塚より出でて、はんらうが、茫然とせしP080様に、酒もれや、殿原。哀れ、きみかく有りし時は、是程の盃二三十のみしかども、座敷に伏す程の事はあらねども、老の極めやらん、腰膝の立たざるこそ、悲しけれ。白居易が昔、思ひ出でられたり。
 〔同じく相撲の事〕S0110N015
 秀貞がわかざかり、鷹狩、川狩の帰り足には、力業、相撲がけこそ、面白けれ。若き人々、相撲取り給へ。見/て遊ばん。見物には、上や有るべき」と言ひければ、伊豆の国の住人、三島の入道将監、ゐだけだかに成りて、「石ころばかしの滝口殿と合沢の弥五郎殿、出でて取り給へ。是こそ、あひごろの力と聞け。さもあらば、入道出でて、行司に立たん」と言ふ。滝口聞きて、「坂東八か国に、強き者は無きか。か程の小男に、相手に差さるるは、馬の上、かちだちなりとも、脇にはさみたたむに、働かさじ」と言ひければ、弥五郎聞きて、「伊豆、駿河、武藏、相模に、強き者は無きか。滝口がせいと力をうらやむは。下臈の所にこそ、器量に依りて、荷をばもて、侍は、せいちひさく、力は弱けれども、鎧一領にしかるる者無し。弓押しはり、矢かきおひ、よき馬に打ち乗りて、戦場に掛け出でて、思ふP081敵にひつ組みて、両馬が間に落ち重なり、胆勝りて、腰の刀を抜き、下に伏しながら、大の男をひつ掛け、草摺をたたみ上げ、急所を隙無く差して、はね返し、抑へて、首を取る時は、大の男も、物ならず」と、あざ笑ひてぞ申しける。滝口、たまらぬ男にて、「首を取るか、取らるるか、力は、外にもあらばこそ。いざや、老の御肴に、力くらべの腕相撲一番」と言ふ儘に、座敷を立ち、直垂を脱ぎ、「何程の事の候ふべき。しや肋骨二三枚、つかみ破りて、捨つべき物を」とて、つつと出でけり。弥五郎も、「心得たり。物々し。力拳のこらへん程は、命こそ限りよ」と言ひ、座敷を立つ。一座の人々、是を見/て、あはや、事こそ出で来ぬと見る程に、近くに有りける合沢、申す様、「余りはやし、滝口殿。相撲は、小童、冠者原に、先づとらせて、取り上げたるこそ、面白けれ。おとなげ無し、滝口殿。止まり給へ」と引き据ゑたり。吉川、是を見/て、「弥五郎殿も、先づ抑へよ。合沢が弟の弥七殿に、出でよ」と言ふ。少し辞退に及びしを、船越引き立てて、たづな取りかへ、出だしけり。年におきては、十五なり。姿を物にたとふれば、まだ声若き鴬の、谷より出づるもかくやらん。「誰をか相手にさすべき」と、座敷を見まはしければ、「滝口が弟の三郎、出でよ」と言ふ、言葉の下より、出でにけり。年におきて、十八なり。いづれも、相撲は上手なれば、各々差し寄りて、つまどりしP082たる有様は、春待ち兼ねてさく梅の、雪をふくめる如くなり。我人、力は知らねども、雲ふき立つる山風の、松と桜に音立てて、鳥も驚く梢かと、諸人、目をこそさましけれ。弥七は、力劣りなれども、手合はましてぞ見えにける。三郎は、力勝りけれ共、くまんとのみにて、差し詰め結べば、捨ててぬけ、なぐれば、掛けてまはりしは、桃華の節会の鶏の、心を砕き、羽をつがひ、勝負を争ふ鶏合はせも、是には過ぎじとぞ見えける。老若、座敷にこらへ兼ね、「哀れ、浮き世の見ごとや」と、上下暫くののめきて、東西更に鎮まらず。然れども、弥七は、地下がりへ押し掛けられ、とどろ走りて、そ首をつかれ、遂に弥七ぞ、負けたりける。兄の弥六、つつと出で、三郎をはたとけて、あふのき様に打ちにける。滝口、無念に思ひて、弟の三郎が、未だおきざる先に、躍り出で、大力なりければ、弥六は、手にもたまらず、負けにけり。兄の弥五郎、弟二人をまかして、安からずに思ひ、袴の腰、とくを遅しと引き切り、たづな二筋えり合はせ、強くをさめ、走り出で、近々と差し合ひて、力引きて見れば、大の男が、ふんばりて、少しも動かざれば、一定、我も負けぬべし、誠や、相撲は、力によらず、手だに勝れば、みぎわ勝りの相手を討つ物をと思ひ出だして、合沢、右の拳を握り固め、滝口、鬢のはづれ、きれてのけと、打ちければ、滝口、打たれP083て、左右の拳を打ち返す。其の後、負けじ、劣らじと、手をはなちて、はり合ひける。今は、相撲は取らで、偏に当座の口論とぞ見えける。両方、さへむとする所に、弥五郎、隙無く、つつと入り、滝口が小股をかいて、はなじろに押し据ゑたり。いきほひし滝口、敢へ無く負けしかば、暫く相撲ぞ無かりける。弥五郎は、広言しつる滝口に勝ちて、百千番の負けも物ならず、是に勝つこそ嬉しけれ、何者なりともと思ふ所に、葛山の又七出でて、手にもたまらず負けて後、究竟の相撲五番まで勝ちて、立ちたる有様は、勢余りてぞ見えける。此処に、相模の国の住人、柳下の小六郎出でて、合沢の弥五郎を始めとして、よき相撲六番勝つ。駿河の国の住人、竹下の孫八出でて、小六を始めとして、よき相撲九番打つて、入らんとする所に、大庭が舎弟の俣野の五郎出でて、孫八を始めとして、よき相撲十番打ちければ、「出でて取らん」と言ふ者無し。駿河の国高橋の忠六、「いざや取らん」と言ふ。側に有りける海老名の秀貞、「是こそ、俣野の五郎よ。道理にて、打ちけるぞや」。景久聞き候ひて、「相撲が、絶えて無からんにこそ」と言ひければ、土屋の平太、是を聞き、「俣野も、手一つ、我も、手一つ、臆してばし、負けけるか。彼体の相撲をば、十人ばかり一つかみにて、物を脱ぎおき、たづなかきまうけ、まくれば、乗り越え、移れば、入れかへ、息をもつがせず、隙をもあらせず、攻め倒せ」「此の儀面白し」とて、P084十人ばかり並び居て、まくれば、つつと出で、移れば、はね越え、攻めけれども、究竟の上手の大力なれば、続けて、二十一番勝ちけり。其の時、土肥の二郎実平、座敷を立ち、つま紅に、日出だしたる扇を開きて、俣野をしばし仰ぎて、「よき御相撲かな。哀れ、実平が年十四五も若くは、出でて取らばや」と言ふ。俣野聞きて、「何かは苦しかるべき。出で給へ。一番取らん。相撲は、年に依り候はず」と言ひければ、土肥は、なまじひに、言葉を掛けて、各々と言はれて、取るより外に、言葉も無し。伊東は、三浦に親しく、河津は、土肥が聟なり、土肥が今日の恥辱は、此の一門に離れじと思へば、伊東の二郎が嫡子河津の三郎祐重をば、父伊東より人重く思ひければ、無二無三の遊びなれども、「出でて取れ」と言ふ人無し、老の末座に有りけるが、座敷を立ちて、舅の土肥の二郎にささやきけるは、「今日の御酒もりには、老若の嫌ひ無く候ふに、などや祐重一番とも承り候はず。空しく帰り候はば、若き者のおひすけしたるににて候ふ。御はからひ候へ。一番取り候はん」と言ひければ、実平聞きて、俣野が言葉、にがにがしさにぞ、取らんと言ふらん、さりながら、聟をまかしては、面目無しとや思ひけん、返事にも及ばで、赤面してぞ居たりける。父伊東、是を聞き、子ながらも、力は強き者を、とらせ見ばやと思ひけれども、ためらふ折節、此の言葉を聞き、「神妙に申したり。P085出でて取れ」と言ひければ、直垂脱ぎおき、白きたづな二筋寄り合はせ、かたくをさめて、出でんとす。伊東方の者出でて、「御相撲に参らん。俣野殿」と言ふ。景久きいて、腹を立て、「相撲は是に候ふぞ。出で合はせ候へと言ふは、常の事。総じて、相撲の座敷にて、左右無く相手の名字呼ぶ事無し。氏と言ひ器量と言ひ、河津にやまくべき。小腕押しをり捨つべき物を」と、笑ひて出づるを見れば、菩薩なりにして、色あさぐろく、丈は六尺二分、年は三十一にぞなりにける。俣野が姿は、さし肩にして、かを骨あれて、首太く、頭少し、裾ふくらに、後ろの折骨、臍の下へ差しこみ、力士なりにして、丈は五尺八分、年は三十二なり。差し寄り、つまどり、ひしひしとして、押し離れ、河津思ひけるは、俣野は聞きつるに似ず、さしたる力にては無かりけり、今日、人々の多く負けけるは、酒に酔ひけるか、臆しける故なり、今度は、手にもたつまじき物をと思ひけるが、心をかへて思ふ様、さすが俣野は、相撲の大番勤めに、都へ上り、三年の間、京にて相撲になれ、一度不覚を取らぬ者なり。其の故、院・内の御目にかかり、日本一番の名をえたる相撲なり。今ここもとにて、物手無くまかさん事は、返りて言ふ甲斐無しと思へば、二度目には差し寄り、左右の腕をつかむで、左手・右手に御座します、雑人の上に掛け、膝をつかせて、入りにけり。俣野は、只も入らずして、「此処なる木の根にけつまづきて、不覚P086の負けをぞしたりける。いざや、今一番取らん」と言ふ。大庭、是を聞き、走り寄り、「げにげに、是に木の根有り。まん中にて、勝負し給へ」と言ひければ、伊東申しけるは、「河津が膝、少し流れて見え候ふ。ねきりの相撲ならばこそ、意趣もあらめ。只一座の一興に負け申して、面白し。出で合ひ申せ」と言ひければ、河津は、やがてぞ出でにける。俣野も、出でんとしけるを、一族共、「如何に取るとも、勝つまじきぞ。只此の儘にて、入り給へ。論の相撲は、勝負無し。勝ちたるには、勝るぞかし。此の度負けなば、二度の負けなるべし」と言ひければ、俣野が言ふ様は、「河津は、力は強く覚ゆれども、相撲の故実は候はず、御覧ぜよ」と言ひ捨てて、猶も出でんとする所を、しばし止めて言ひけるは、「河津が手合をよく見れば、御分にみぎわ勝りの力なり。彼体の相撲をば、左右の手を上げ、爪先を立てて、上手に掛けて待ち給へ。敵も上手に目を懸けて、のさのさとよる所を、小臂を打ち上げ、違ひ様によついを取り、足を抜きてはねまはれ。大力も、はねられて、足の立てどのうく所を、捨てて足を取りて見よ。組みては適ふまじきぞ。もし又、くまで適はずは、うちがらみに、しはと掛けて、髻をおちをはかせ、一はねはねて、しとと打て。なんでふ七はなれ八はなれは、見苦しきぞ。侍相撲と申すは、よるかとすれば、勝負有り。余りにはやきも、見分けられず。又、斯様のP087ひね物をば、わづらひ無くのし寄りて、小首ぜめに攻めて、背をこごめて、まはる所を、大さか手に入れて、かいひねつて、け捨てて見よ。真逆様に負けぬべし」と、こまごまと教へければ、「心得たり」とて出で合ひけり。教への如く、爪先を立てて、腕を上げ、隙あらばと狙ひけり。河津は、前後相撲は、是が始めなれば、やうも無く、するすると歩み寄り、俣野が、ぬけんと相しらふ所を、右の腕をつつと延べ、又野が前ほろをつかんで差しのけ、あらくも働かば、たづなも腰もきれぬべし。暫く有て、むずと引き寄せ、目より高く差し上げ、半時ばかり有りて、横様に片手をはなちて、しとと打つ。又野は、やがておきなほり、「相撲にまくるは、常の習ひ、なんぞ御分が片手業」。河津言ひけるは、「以前も、勝ちたる相撲を、御論候ふ間、今度は、まつ中にて、片手を以て打ち申したり。未だ御不審や候ふべき。御覧じつるか、人々」と言ふ。大庭、是を見/て、童に持た/せたる太刀追つ取り、するりと抜きて、とんで掛かる。座敷、俄に騒ぎ、ばつと立つ。伊東方による者も有り、大庭が方による者も有り。両方さへんと下りふさがり、銚子・盃踏みわり、酒肴をこぼす。雑兵三千余人までも、軍せんとてひしめきけり。兵衛佐殿、此の由御覧じ、「如何に頼朝が情捨てて、仇を結び給ふか。大庭の人々」と仰せられければ、大庭の平太承り、「田舎住まひの物共、出仕なれP088候はで、斯かる狼藉を仕り候ふ。相撲は負けても、恥ならず、我が方人は言ふべからず、一々に記し申すべきぞ。後日に争ふな」と怒りければ、大庭の鎮め給ふ上はとて、鎮まりけり。伊東は、もとより意趣無しとて、やがて面々にこそ鎮まりけれ。是や、瓊瑶は少なきを以て奇也とし、磧礫は多きを以て賎しとす。人多しと雖も、景信が言葉一つにてぞ、鎮まりける。斯かる所に、祐経が郎等共、彼等に交はり、伺ひけるが、哀れ、事のあれかし、間近に攻め寄りて、打たんとする由にて、伊東殿をおつ様に射落とさむとて、ささやきける。七日が間、夜昼つきて伺へども、然るべき隙無くして、狩座既に過ぎければ、各々、空しく帰らんとす。小藤太、申しけるは、「さても、一郎殿の御心をつくして、今や今やと待ち給ふらん。徒らに帰らん事こそ、口惜しけれ。いざや、思ひ切り、とにもかくにもならん」と言ひければ、「八幡三郎申しけるは、「暫く功をつみて見給へ。如何でか空しからん。
 〔費長房が事〕S0111N016
 古きを思ふに、昔、大国に、費長房と言ふ者有り。仙術を習ひ得て、暗き所P089も無かりしが、天に上がる術を習はずして、未だ空しく凡夫に交はり歩きけり。或る時、所用の事有つて、長安の市に出でて、商人に伴ひしに、或る老人、腰に壺を付けて、此の者、市に交はりける。知音は、知る理にて、此の者、只人ならずと、目をはなさで見るに、此の老人、傍に行き、腰なる壺を下ろし、其の壺に出で入りにけり。然ればこそ、仙人なれとて、其の人の家につきて行きぬ。費長房、彼の仙人に仕へんとて、三年までぞ仕へける。或る時、老人言ひて曰く、「汝、如何なる志有りて、三年まで、一言葉も違へず、我等に仕へけるぞや」。費長房聞きて、「我、仙術を習ふと雖も、天に上がる事を知らず。老人の壺に出で入り給ふ事を教へ給へ」と言ひければ、「安き事なり。我が袖に取り付け」と言ふ。即ち、取り付きければ、二人共に、彼の壺の内へ飛び入りぬ。此の壺の内に、めでたき世界有り、月日の光は、空にやはらぎ、四方に四季の色を現し、百二十丈の宮殿楼閣有り、天にて聖衆舞ひ遊ぶ。鳧・雁・鴛鴦の声やはらかにして、池には弘誓の船を浮かべり。よくよく見めぐりて、「今は出でん」と言ふ。老人、竹の杖を与へて、「是を付きて出でよ」と言ふ。即ち、つくと思へば、時の間に、をしみつと言ふ所に至りぬ。此の杖を捨てければ、即ち竜と成りて、天に上がりぬ。費長房は、鶴に乗りて、天に上りけり。是も、功を積もる故なり。P090三年までこそ無くとも、待ちて見よ」とぞ申しける。
 〔河津が打たれし事〕S0112N017
 「然らば此の帰り足を狙ひて見ん」「然るべし」とて、道をかへて、先に立ち、奥野の口、赤沢山の麓、八幡山の境に有る切所を尋ねて、椎の木三本、小楯に取り、一の射翳には大見の小藤太、二の射翳には八幡の三郎、手だれなれば、余さじ物をとて、立ちたりけり。各々待ち掛けける所に、一番に通るは、波多野の右馬允、二番に通るは、大庭の三郎、三番に通るは、海老名の源八、四番は、土肥の二郎、後陣遙かに引き下がりて、流人兵衛佐殿ぞ通られける。敵ならねば、皆遣り過ごし、此の次に、伊東が嫡子河津の三郎ぞきたりける。面白くこそ出で立ちたれ。秋野のすりつくしたる間々に、引き柿したる直垂に、斑の行縢裾たぶやかにはき成し、鶴の本白にてはぎたる白こしらへの鹿矢、筈高に追ひ成し、千段籐の弓まん中取り、萌黄裏付けたる竹笠、木枯にふきそらせ、宿月毛の馬の五臓大きなるが、尾髪あくまでちぢみたるに、梨子地にまきたる白覆輪の鞍に、連著鞦の山吹色なるを掛け、銜轡、紺の手綱を入れてぞ乗りたりける。馬も聞こゆる名馬なり、主も究竟の馬乗りにて、P091伏木・悪所を嫌はず、差しくれてこそ歩ませけれ。折節、乗りがへ一騎もつかざれば、一の射翳の前を遣り過ごす。二の射翳の八幡三郎、もとより騒がぬ男なれば、「天の与へを取らざるは、返りて咎をうる」と言ふ、古き言葉を思ひ出で、すはい損ずべき。射翳の前を三段ばかり、左手の方へ遣り過ごして、大のとがり矢差しつがひ、よつぴき、しばし固めて、ひやうどはなす。思ひもよらで通りける河津、乗りたる鞍の後ろの山形をいけづり、行縢の着際を前へつつとぞ射通しける。河津もよかりけり。弓取り直し、矢取つてつがひ、馬の鼻をひつ返し、四方を見まはす。「知者は惑はず、仁者は愁へず、勇者は恐れず」と申せども、大事のいた手なれば、心は猛く思へ共、性根次第に乱れ、馬より真逆様に落ちにけり。後陣に有りける父伊東の二郎は、是をば夢にも知らずぞ下りける。頃は神無月十日余りの事なれば、山めぐりけるむら時雨、降りみふらずみ定め無く、たつより雲のたえだえに、ぬれじと駒を早めて、手綱かいくる所に、一の射翳に有りける大見の小藤太、待ち受けて居たりけれども、験無し。左の手の内の指二つ、前の■の根に射立てたり。伊東は、然るふる兵にて、敵に二つの矢を射させじと、大事の手にもてなし、右手の鐙に下り下がり、馬を小楯に取り、「山賊有りや。先陣は返せ、後陣はすすめ」と呼ばはりければ、先陣・後陣、我劣らじとすすめども、P092所しも悪所なれば、馬のさくりをたどる程に、二人の敵は逃げのびぬ。隈も無く待ちけれども、案内者にて、思はぬしげみ、道をかへ、大見庄にぞ入りにける。危ふかりし命也。伊東は、河津の三郎が伏したる所に立ち寄りて、「手は大事なるか」と問ひけれども、音もせず。押し動かして、矢をあらく抜きければ、いよいよ前後も知らざりけり。河津が首を、父伊東が膝にかき乗せ、涙を抑へて申しけるは、「こは何と成り行く事ぞや。同じあたる矢ならば、など祐親には立たざりけるぞ。齢傾き、今日明日をも知らざる憂き身なれども、わ殿を持ちてこそ、公方私心安く、後の世掛けても、頼もしく思ひつるに、敢へ無く先立つ事の悲しさよ。今より後、誰を頼みて有るべきぞ。汝を止めおき、祐親先立つ物ならば、思ひ置く事よもあらじ。老少不定の別れこそ悲しけれ」とて、河津が手を取り、懐に引き入れ、くどきけるは、「如何に定業なり共、矢一つにて、物も言はで、死ぬる者や有る」と言ひて、押し動かしければ、其の時、祐重、苦しげなる声にて、「かくは度々仰せらるれども、誰とも知り奉らず候ふ」と言ふ。土肥の二郎申しけるは、「御分の枕にし給ふは、父伊東の膝よ。かく宣ふも、伊東殿。今又斯様に申すは、土肥の二郎実平なり。敵や覚え給ふ」と問ひければ、やや有つて、目を見開き、「祐親を見参らせんとすれ共、今、其れも適はず。誰々も、近く御入りP093候ふか。御名残こそ惜しく候へ」とて、父が手に取り付きにけり。伊藤、涙を抑へて申しけるは、「未練也。汝、敵は覚えずや」と言ふ。「工藤一郎こそ、意趣有る者にて候へ。其れに、只今、大見と八幡こそ見え候ひつれ。あやしく覚え候ふ。従ひ候ひては、祐経在京して、公方の御意さかりに候ふなる。然れば、殿の御行方如何と、黄泉の障り共なりぬべし。面々頼み奉る。幼い者までも」と言ひも敢へず、奥野の露と消えにけり。無慙なりける有様かな、申す量りぞ無かりける。伊東は、余りの悲しさに、しばしば、膝を下ろさずして、顔に顔を差し当て、くどきけるこそ哀れなれ。「や、殿、聞け、河津。頼む方無き祐親を捨てて、何処へ行き給ふぞ。祐親をもつれて行き候へ。母や子供をば、誰に預けて行き給ふ。情なの有様や」と歎きければ、土肥の二郎も、河津が手を取り、「実平も、子とては遠平ばかりなり。御身を持ちてこそ、月日の如く頼もしかりつるに、斯様に成り行き給ふ事よ」と、泣き悲しむ事限り無し。国々の人々も同じく一所に集まり居て、袖をぞ濡らしけり。さて有るべきにあらざれば、空しきかたちをかかせて、家に帰りければ、女房を始めとして、あやしのしづの男、しづの女に至るまで、歎きの声、せんかたも無し。さても、彼の河津の三郎祐重に、男子二人有り。兄は、一万とて、五つなり、弟は、箱王とて、三つにぞなりにける。母、思ひP094の余りに、二人の子供を左右の膝にすゑ置きて、髪かきなで、泣く泣く申しけるは、「胎の内の子だにも、母の言ふ事をば聞き知る者を、まして汝等、五つや三つに成るぞかし。十五、十三にならば、親の敵を打ち、童に見せよ」と泣きければ、弟は、聞き知らず、手ずさみして、遊び居たるばかりなり。兄は、死したる父が顔をつくづくと守りて、わつと泣きしが、涙を抑へて、「いつかおとなしく成りて、父の敵の首切りて、人々に見せ参らせん」と、泣きしかば、知るも知らぬも押しなべて、袖を絞らぬ人は無し。猶も、名残をしたひ兼ね、三日までぞおきたりける。黄泉幽冥の道は、一度さりて、二度と帰らぬ習ひなれば、力及ばず、泣く泣く送り出だし、夕の煙と成しにけり。女房、一つ煙とならんと、悲しみけり。伊東の二郎申しけるは、「恩愛の別れ、夫妻の歎き、いづれか劣るべきにはあらねども、浮き世の習ひ、力及ばず候ふ。親におくれ、夫妻に別るる度ごとに、命を失ふ物ならば、生老病死も有るべからず。別れは人ごとの事なれども、思ひ過ぐれば、自づから、忘るる心の有るぞとよ。憂きに付けても、身をまたくして、後生菩提を弔ひ給へ」と、様々に慰めければ、「誠に理なれども、差しあたりたる悲しさなれば」とて、悶え焦がれけり。「夫の別れは、昔も今も、重き所なり。別れの涙、袂に止まりて、かはく間も無し。後先をも知らぬ、P095幼き者共に打ち添へて、身さへ只ならず。様をかへんと思へ共、尼の身にて、産所の体も、見苦し。又、淵川へ沈まんと思ふにも、此の身にて死しては、罪深かるべしと聞けば、とにもかくにも、女の身程、心憂き者は無し」とくどき立てて、おきふしに、泣くより外の事ぞ無き。一日片時も、只忍ぶべき身にて無かりしが、明けぬ暮れぬとする程に、五七日にもなりにけり。N018父伊東の二郎、逆様事なれども、彼の菩提を弔はんが為に、出家して、六道にあてて、三十六本の率塔婆を造立供養し奉る日、聴聞の貴賎男女、数をつくして、来会する所に、五つに成りける一万が、父の蟇目に鞭を取り添へて、「是は父の物」とて、ひつさげければ、母呼び寄せて、「なき人の物をば、持た/ぬ事ぞ。皆々捨てよ。行く末遙かの者ぞかし。汝が父は、仏になり給ひて、極楽浄土に坐しますぞ。童も、遂には参るべし」と言ひければ、一万喜びて、「仏とは、何ぞ。極楽とは、何処に有るぞや。急ぎ坐しませ。我も行かん」と攻めければ、母は、言ひ遣る方無くして、率塔婆の方に指を差し、「彼こそ、其れよ」と言ひければ、一万、弟の箱王が手を引き、「いざや、父のもとに参らん」と、急ぎけれども、箱王は、三つになりければ、歩むにはかも行かず、急ぐ心に、弟を捨て、率塔婆の中を走りめぐり、空しく帰りて、母の膝の上に倒れ伏して、「仏の中P096にも、我が父は坐しまさず」とて泣きければ、乳母も、共に泣き居たり。其の日の説法のみぎりより、一万が振舞ひにこそ、貴賎袂を濡らしけれ。四十九日には、八塔を供養す。
 〔御房が生まるる事〕S0113N019
 其の次の日、女房、産をぞしたりける。此の程の歎きに、産は如何と思ひしに、つつが無く男子にてぞ有りける。母申しけるは、「己は、果報少なき者かな。今少しとく生まれて、などや父をも見ざりける。蜉蝣と言ふ虫こそ、朝に生まれ、夕に死するなれ。汝が命、かくの如し。童も、尼に成り、山々=寺々の麓に閉ぢ籠り、花をつみ水をくみ、仏にそなへ奉り、汝が父の孝養にせんと思へば、身には添へざるぞ。努々恨むべからず」とて、やがて捨てむとせし所に、河津の三郎が弟、伊東九郎祐清と言ふ者有り。一人も子を持た/ざりければ、此の事を聞き、女房急ぎ来たりて、「誠や、今の幼い人を捨てんと仰せらるる、如何でか然る事有るべきぞ。なき人の形見にも、罪深かるべし。又、善悪の事も、其れを節と思へば、折々に思ひ出だすに成る物を。しかも、男子にて坐しませば、P097童にたび給へ。養ひ立てて、一家の形見にもせん」と言ひければ、「此の身の有様にて、身に添ふる事、思ひもよらず候ふ。然様に思し召さば」とて、とらせけり。やがて、心安き乳母を付けて、養育す。名をば、御房とぞ言ひける。
 〔女房、曾我へ移る事〕S0114N020
 然る程に、忌は八十日、産は三十日にも成りにけり。百か日にあたらん時、必ず尼になりぬべしとて、袈裟衣を用意しけるを、伊東入道伝へ聞きて、人して申しけるは、「誠や、姿をかへんとし給ふなり。子供をば、誰に育めとて、然様には思ひ給ふぞ。おい衰へたる祖父・祖母を頼み給ふかや。其れ、更に適ふべからず。三郎無ければとて、幼き者共数多あれば、露程も愚かならず、偏に祐重が形見とこそ思ひ奉れ。如何なる有様にても、身をやつさずして、幼き者共を。然れば、今更に、うとき方へ坐しまさば、我も人も、見奉る事も適ふまじ。相模の国曾我の太郎と申すは、入道にも所縁有る者にて候ふ。折節、此の程、年頃の妻女におくれて、歎き未だはれ遣らず候ふと承り候ふ。其れへ遣り奉るべし。自ら、心をも慰み給へ。入道があたりP098なれば、隔ての心はあらず」と、こまごまに言ひて、やがて、人を付け、厳しく守りければ、尼に成るべき隙も無し。即ち、入道、曾我の太郎がもとへ、此の由を詳しく文に書きて、遣はしければ、祐信、文を披見して、大きに喜び、やがて、使ひと打ちつれ、伊東へこして、子供諸共に向かへ取りて、帰りけり。いつしか、斯かる振舞ひは、返す返すも口惜しけれども、心ならざる事なれば、恨みながらも、月日をぞ送りける。是を以て、昔を思ふに、せいぢよは、夫の為に、禁獄にとめられ、はくゑいは、夫におくれ、夷の住み処になれしも、心ならざる恨めしさ、今更、思ひ知られたり。P099



曾我物語 国民文庫本 巻第二

曾我之物語巻第二
 @〔大見・八幡を討つ事〕S0201N021
 三千世界は、眼の前に付き、十二因縁は、心の裏に空し。浮き世にすむも、捨つるも、安からぬ命、いつまでながらへて、あらましのみにくらさまし。伊東入道は、何に付けても、身の行方、あぢき無くして、子息の九郎祐清を呼び寄せ、「入道がいきての孝養と思ひ、大見・八幡が首を取りて見せよ」と言ひければ、「承りぬ。此の間も、内々案内者を以て、見せ候へば、他行の由、申し候ふ。もし帰り候はば、告げ知らすべき由、申す者の候ふに依つて、待ち候ふ。余し候ふまじ」とて、座敷を立ちぬ。幾程無くして、「来たりぬ」と告げければ、家の子郎等八十余人、直兜にて、狩野と言ふ所へ押し寄せたり。八幡の三郎、然る者にて、「思ひ設けたり。何処へか引くべき」とて、親しき者共十余人、込め置きたりしが、矢共打ち散らし、差し詰め引き詰め、とりどり散々に射ける。やにはに、敵数多射落とし、P100矢種つきしかば、差し集まりて、主の為に命捨つる事、露程も惜しからず。所詮、のぞみたりぬ」と言ひて、差し違へ差し違へ、残らず死にけり。八幡は、腹を十文字にかき破り、三十七にて失せにけり。即ち、大見の小藤太がもとへ押し寄せたり。此の者は、もとより、心下がりたる者にて、八幡が打たるるを聞きて、取るもの取り敢へず、落ちたりしを、狩野境に追ひ詰めて、搦め取りて、川の端にて、首をはねたり。九郎は、二人が首を取りて、父入道に見せければ、ゆゆしくも振舞ひたりとぞ感じける。曾我に有りける河津が妻女も、喜ぶ事限り無し。祐清は、入道が憤りを止め、兄が敵を打ちし孝行、一方ならぬ忠とぞ見えける。さても、八幡の三郎が母は、■美の入道寂心が乳母子なり。八旬に余りけるが、残り止まりて、思ひの余りにくどきけるは、「御主の為に、命を捨つる事は、本望なれ共、此の乱のおこりを尋ぬるに、過ぎにし親の譲りを背き給ひしに依つて也。然るに、寂心、世に坐しませし時、公達数多なみ据ゑて、酒宴半ばの折節、持ち給ひつる盃の中へ、空より大きなる鼬一つ入りて、御膝の上に飛び下りぬと見えしが、何処とも無く失せぬ。希代の不思議なりとて、やがて考へさするに、「大きなる表事、つつしみ給へ」と申したりしを、さしたる祈祷も無くて、過ぎ給ひぬ。幾程無くして、寂心は、隠れさせ給ひけり。然ればにや、白河の法王P101も、鳥羽の離宮に渡らせ給ひし時、大きなる鼬参りて、泣き騒ぎけり。博士に御尋ね有りければ、「三日の内に御喜び、又は御歎き」とぞ申しける。其れに合はせて申す如く、次の日、御子高倉宮、御謀叛現れ、奈良路にて打たれさせ給ひぬ」。
 @〔泰山府君の事〕S0202N022
 斯様の事を以て、昔を思ふに、大国に大王有り。楼閣をすき給ひて、明け暮れ、宮殿を作り給ふ。中にも、上かう殿と号して、梁は、金銀なり。軒に、珠玉・瓔珞をさげ、壁には、しやうれの華鬘を付け、内には、瑠璃の天蓋をさげ、四方に、瑪瑙の幡をつり、庭には、■瑚・琥珀をしきみて、吹く風、ふる雨の便りに、沈麝のにほひにたたゑゑり。山をつきては、亭を構へ、池をほりては、船を浮かべ、水に遊べる鴛鴦の声、偏に浄土の荘厳に同じ。人民こぞりて囲繞す。仏菩薩の影向も、是にはしかじとぞ見えし。然れば、大王、玉楼金殿に至り、常に遊覧す。或る時、大講堂の柱に、鼬二つ来たりて、泣き騒ぐ事、七日なり。大王、あやしみ給ひて、博士を召して、うらなはしむるに、考へて、奏聞す。「此の柱の内に、P102七尺の人形有り。大王の形をことごとく作り移して、調伏の壇を立て、幣帛・供具をそなへたり。わりて見給へば、とうい七百人有り。滅ぼすべし」と言ふ。即ち、大王上人に申して、めでたき聖を請じ奉り、彼の柱、わりて見給ふに、違はず、すさまじきと言ふも余り有り。やがて、壇を破り、勘文に任せて、色々のしよ人を集め、其の中に、あやしきを召し取り、拷問しければ、ことごと白状す。よつて、七百人の敵をことごとく召し取り、三百人の首を切り給ひぬ。残り四百人切らんとする時、天下暗闇に成りて、夜昼の境も無くして、色を失ふ。人民、道路に倒れ伏す。大王、驚きて曰く、「我、露程の私有りて、彼等の首を切る事無し。下として上をあざける下国上戒め、後の世を思ふ故なり。もし又、我に私あらば、天是を戒むべし。是をはからん」とて、三七日、飲食を止めて、高床に上り、足の指を爪立てて、「一命、此処にて消えなん。もし誤り無くは、諸天哀れみ給へ」と祈誓して、仁王経をかかせられけり。三七日に満ずる時、七星、眼前とあま下り見え給ふ。やや有りて、日月星宿、光をやはらげ給ふ。然ればこそ、まつる事に、横儀は無かりけれとて、残る四百人をも切り給ひぬ。此処に、博士、又参内して奏す。「大敵滅びはて、御位長久なるべき事、余儀無し。然れども、調伏の大行、其の効残りて、恐ろし。所詮に、P103あま下り給ふ七星をまつり、しやうかう殿に宝をつみ、一時にやき捨てて、災難の疑ひを止むべし」と申しければ、左右に及ばずとて、忽ちに上件のようしやくをくり、諸天を請じ奉りて、彼の殿共をやき捨てられにけり。さてこそ、今の世までも、鼬泣き騒げば、つつしみて水をそそくまじなひ、此の時に依りてなり。然れば、七百人の敵滅び、七星眼前に下り、光をやはらげ給ふ事、七難即滅、七福即生の明文に適ひぬるをや、今の泰山府君のまつり是なり。大王、彼の殿をやき、まつる事をし給ひて、御位長生殿にさかえ、春秋を忘れて、不老門に、日月の影、静かにめぐり、吹く風、枝をならさず、ふる雨、塊を動かさで、永久の御代にさかえ給ひけるとかや。めでたかりし例なり。
 @〔頼朝、伊藤に御座せし事〕S0203N023
 抑、兵衛佐殿、御代を取り給ひては、伊東・北条とて、左右の翼にて、いづれ勝劣有るべきに、北条の末はさかえ、伊東の末は絶えける、由来を詳しく尋ぬるに、頼朝十三の歳、伊豆の国に流されて御座しけるに、彼の両人を打ち頼み、年月を送り給ひけり。然るに、伊東の二郎に、娘四人有り。一は、相模の国の住人P104三浦介が妻なり。二には、工藤一郎祐経に相具したりしを取り返し、土肥の弥太郎に合はせけり。三四は、未だ伊東がもとにぞ有りける。中にも、三は、美人の聞こえ有り。佐殿聞こし召して、潮のひる間の徒然と、忍びて褄を重ね給ふ。頼朝、御志浅からで、年月を送り給ふ程に、若君一人出で来給ふ。
 @〔若君の御事〕S0204N024
 佐殿、喜び思し召して、御名をば、千鶴御前とぞ付け給ひける。つらつら往事思ふに、旧主が住まひし、古風のかうばしき国なれ共、勅勘をかうむりて、習はぬ鄙の住まひの心地ぞ有りつるに、此の物出で来たる嬉しさよ、十五にならば、秩父・足利の人々、三浦・鎌倉・小山・宇都宮相語らひ、平家に掛け合はせ、頼朝が果報の程をためさんと、もてなし思ひかしづき給ふ。かくて、年月をふる程に、若君三歳になり給ふ春の頃、伊東、京より下りしが、しばし知らざりけり。或る夕暮に、花園山を見て入りければ、折節、若君、乳母にいだかれ、前栽に遊び給ふ。祐親、是を見て、「彼は誰そ」と問ひけれども、返事にも及ばず、逃げにけり。あやしく思ひて、即ち、内に入り、妻女にあひ、「三つばかりの子のものゆゆしきP105をいだき、前栽にて遊びつるを、「誰そ」と問へば、返事もせで逃げつるは、誰にや」と問ふ。継母の事なりければ、折をえて、「其れこそ、御分の在京の後に、いつきかしづき給ふ姫君の、童が制するを聞かで、いつくしき殿して設け給へる公達よ。御為には、めでたき孫御前よ」と、をこがましく言ひ成しけるこそ、誠に末も絶え、所領にもはなるべき例なり。然れば、「讒臣は国を乱し、妬婦は家を破る」と言ふ言葉、思ひ知られて、あさましかりける。祐親、是を聞き、大きに腹を立て、「親の知らざる聟や有る。誰人ぞ。今まで知らぬ不思議さよ」と怒りければ、継母は、訴へすましぬるよと嬉しくて、「其れこそ、世に有りて、誠に頼り坐します流人、兵衛佐殿の若君よ」とて、嘲弄しければ、いよいよ腹を立て、「娘持ち余りて、置き所無くは、乞食非人などには取らするとも、今時、源氏の流人聟に取り、平家に咎められては、如何有るべき。「毒の虫をば、頭をひしぎて、脳を取り、敵の末をば、胸をさきて、胆を取れ」とこそ言ひ伝へたれ。詮無し」とて、郎等呼び寄せて、若君いざなひ出だし、伊豆の国松川の奥を尋ね、とときの淵に柴づけにし奉りけり。情無かりし例也。是や、文選の言葉に、「しやうにみちては、瑞を豊年に現し、丈に有りては、禍をはんとくに現す」。誠に余れる振舞ひは、行く末如何とぞ覚えける。剰へ、北の御方P106をも取り返し、同じき国の住人江間の小四郎に合はせけり。名残惜しかりつる衾の下を出で給ひて、思はぬ新枕、かたしく袖に移り変はりし御涙、さこそと思ひ遣られたり。是も、祐親が、平家へ恐れ奉ると思へども、わうきう・董賢ふん、三百たるにも、楊雄・仲舒ふんか、其の門につまびらかにせんにはしかずと見えたり。
 @〔王昭君が事〕S0205N025
 昔、漢の王昭君と申せし后を、胡国の夷に取られ、胡国へ越え給ひしに、名残の袖はき難くして、歎き悲しみけるに、王昭君が、歎き余りに、「自らがしきし褥に、我が姿を移し止めて、しき給へ。我、夢に来たりて、あふべし」と契りける。漢王悲しみて、彼の褥を枕にして、泣き伏し給ひしかば、夢とも無く、又現とも無く、来たりて、折々あひにけり。彼の昭君が、胡国への道すがら、涙にくるる四方の山共、里とも分け兼ねて、袖のひる間も無かりけり。思ひの余りに、旧栖を顧みて、「蒼波路遠くして、はかう山深し」と詠じつつ、漢宮万里の旅の空、今の思ひに知られたり。佐殿も、若君失はれさせ給ひしP107御心、くわらくの子を失ひ、かなわぬ別れの袖の涙、紅閨に連なりし限りなり。
 @〔玄宗皇帝の事〕S0206N026
 然れば、あかぬ北の御方の御名残は、玄宗皇帝、楊貴妃と申せし后、安禄山軍の為に、夷に下し給ふ。御思ひの余りに、蜀の方士を遣はし給ふ。方士神通にて、一天三千世界を尋ねまはり、太真ゑんに至る。蓬莱宮是也。此処にきたつて、玉妃にあひぬ。此の所に至りて見れば、浮雲かさ也、人跡の通ふべき所ならねば、簪を抜きて、扉を叩く。双鬟童女二人出でて、「暫く是に待ち給へ。玉妃は、おとのごもれり。但し、何処より、如何なる人ぞ」と問ふ。「唐の太子の使ひ、蜀の方士」と答へければ、内に入りぬ。時に、雲海沈々として、洞天に日暮れなんとす。悄然として、まつ所に、玉妃出で給ふ。是、即ち楊貴妃なり。右左の女七八人。方士揖して、皇帝安寧を問ふ。方士、こまかに答ふ。言ひをはりて、玉妃、証とや、簪をわきて、方士にたぶ。其の時、方士、「是は、世の常に有る物也。支証に立たず。叡覧にそなへ奉らんに、如何なる密契か有りし」。玉妃、P108暫く案じて、「天宝十四年の秋七月七日の夜、天に有りて、願はくは比翼の鳥、地に有りて、願はくは連理の枝、天長地久にして、作る事無からんと、知らず、奏せんに、御疑ひ有るべからず」と言ひて、玉妃さりぬ。方士帰り参りて、皇帝に奏聞す。「然る事有り、方士誤り無し」とて、飛車に乗り、我が朝尾張の国にあま下り、八剣の明神と現れ給ふ。楊貴妃は、熱田の明神にてぞ渡らせ給ひける。蓬莱宮、即ち此の所とぞ申す。兵衛佐殿は、若君、北の御方御行方、知らせ奉る者無かりしかば、慰み給ふ事も無かりけり。
 @〔頼朝、伊東を出で給ふ事〕S0207N027
 剰へ、佐殿をも、夜討にし奉らんとて、郎等を催しける。此処に、祐親が次男伊東の九郎祐清と言ふもの有り。秘かに佐殿へ参り、申しけるは、「親にて候ふ祐親こそ、物に狂ひ候ひて、君を打ち奉らんと仕り候へ。何処へも御忍び候へ」と申しければ、頼朝聞こし召し、ちやうさい王が、害にあひしも、偽る事は知らでなり、ゑみの内に刀をぬくは、習ひなり、人の心知り難ければ、君臣父子、いを以ておそるべし、況や、打たんとするは、親なり、P109告げ知らするは、子なり、方々、不審に覚えたり、いかさま、我をたばかるにこそとて、打ちとけ給ふ事も無し。「誠に思ひ掛けられなば、何処へ行きても逃るべきか。然れども、左右無く自害するに及ばず、人手にかからんよりは、汝、早く頼朝が首を取りて、父入道に見せよ」と仰せられければ、祐清承りて、「仰せの如く、語らひ難き人の心にて候ふ。蜂を取りて、衣の首に返して、親子の心に違ひしも、偽るたくみなり。君思し召すも、御理、誠の御志とは思し召さずして、いしやうのはう、もつとも御疑ひ、理なり。忝くも、不忠申し候はば、当国二所大明神の御罰を蒙り、弓矢の冥加長く付き、祐清が命、御前にてはて候ひなん」と申しければ、佐殿聞こし召し、大きに御喜び有りて、「斯様に告げ知らする志ならば、如何にもよき様に相はからひ候へ」と仰せければ、祐清承りて、「藤九郎盛長、弥三郎成綱をば、君御座の様にて、暫く是に置かれ候ふべし。君は、大鹿毛に召されて、鬼武ばかり召し具し、北条へ御忍び候へ」と申し置きて、「御討手もや参り候はん、事をのばし候はん」とて、急ぎ御前を立ちにけり。P110
 @〔頼朝、北条へ出で給ふ事〕S0208N028
 佐殿も、秘かにまぎれ出でさせ給ふ。頃は、八月下旬の事なるに、露ふき結ぶ風の音、我が身一つにもの寂しく、野辺にすだく虫の声、折から殊に哀れなり。有明の月だに未だ出でざるに、何処を其処とも知らねども、道をかへて、田面を伝ひ、草を分けつつ、道すがらの御祈誓には、「南無正八幡大菩薩の御記文に、我末世に、源氏の身と成りて、東国に住して、夷をたひらげんとこそ誓ひ坐しませ。然るに、人すたれ、氏滅びて、正統の残り、只頼朝ばかりなり。今度、栄華を開かずは、誰有て、家を起こさんや。世既に澆季にのぞみ、人後胤なし。早く頼朝が運を開かせて、東夷を従へしめ給へ。しからずは、当国の匹夫となし、長く本望を遂げしめ給へ」と、御祈誓、夜もすがらなり。感応にや、幾程無くして、御代につき給ひにけり。さても、北条の四郎時政がもとに御座せし也。一向彼を打ち頼み、年月を送り給ふ。
 @〔時政が娘の事〕S0209N029P111
 又、彼の時政に、娘三人有り。一人は、先腹にて、二十一なり。二三は、当腹にて、十九・十七にぞなりにける。中にも、先腹二十一は、美人の聞こえ有り。殊に父、不便に思ひければ、妹二人よりは、すぐれてぞ思ひけり。然る程に、其の頃、十九の君、不思議の夢をぞ見たりける。例へば、何処とも無く、高き峰に上り、月日を左右の袂にをさめ、橘の三つなりたる枝をかざすと見て、思ひけるは、男子の身なりとも、自らが、月日を取らん事有るまじ、ましてや、女の身として、思ひもよらず、誠に不思議の夢なり、姉御は知らせ給ふべし、問ひ奉らんとぞ、急ぎ朝日御前の方に移り、こまごまと語り給ふ。姉二十一の君、詳しく聞きて、「誠にめでたき夢なり。我等が先祖は、今に観音を崇め奉る故、月日を左右の袂にをさめたり。又、橘をかざす事は、本説めでたき由来有り」とて、景行天皇の御事をぞ思ひ出だしける。
 @〔橘の事〕S0210N030
 抑、橘と言ふ木実の始まりは、「仁王十一代の御門垂仁天皇の御時よりぞ出で来ける」と、日本紀は見え、然るに、此の橘は、常世の国より、三参らせたり。P112折節、后懐妊し、彼の橘を用ひ給ひて、懐胎の悩み絶えて、御心すずしかりけり。然れば、斯様の物も有りけるよと、朝夕願ひ給へ共、我が国に無き木実也ければ、力無し。此処に、間守と言ふ大臣有り、此の願ひを聞き、「安き事なり。異国に渡り、取りて参らせん」と言ひて、立ちければ、君、喜び思し召して、「さては、いつの頃に、帰朝すべき」と、宣旨有りければ、「五月には、必ず参るべし」と申して、渡りぬ。其の月をまてども、見えずして、六月になりて、「我は止まりて、人して橘を十参らせ、猶尋ねて参るべし」とて、止まりけれども、橘の参る事を、后、大きに喜び給ひ、用ひ給ふ。其の徳に依りて、皇子御誕生有り。御位を保ち給ふ事、百二十年なり。景行天皇の御事、是なり。其の大臣の袖の香に、橘の移り来たりけるを、猿丸大夫が歌に、五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする W003と詠みたりけり。我が朝に、たち花うゑ染めける事、此の時よりぞ始まりける。又、橘に、盧橘と言ふ名有り。去年の橘におほひしておけば、今年の夏まで有るなり。其の色、少しくろきなり。「盧」の字を「くろし」とよめばなり。さても、此の二十一の君、女性ながら、才覚人にすぐれしかば、斯様の事を思ひ出だしけるにや。実にも、景行帝、橘を願ひ、誕生有りし事、幾程無くて、若君出で来たり、頼朝P113の御後を継ぎ、四海を治め奉る。然れば、此の夢を言ひおどして、かひ取らばやと思ひければ、「此の夢、返す返す恐ろしき夢なり。よき夢を見ては、三年は語らず。悪しき夢を見ては、七日の内に語りぬれば、大きなるつつしみ有り。如何すべき」とぞおどしける。十九の君は、偽りとは思ひもよらで、「さては、如何せん。よきにはからひてたびてんや」と、大きに恐れけり。「然れば、斯様に、悪しき夢をば転じかへて、難を逃るるとこそ聞きて候へ」「転ずるとは、何とする事ぞや。自ら心得難し。はからひ給へ」と有りければ、「然らば、うりかふと言へば、逃るるなり。うり給へ」と言ふ。かふ者の有りてこそ、うられ候へ、目にも見えず、手にも取られぬ夢の跡、現に誰かかふべしと、思ひわづらふ色見えぬ。「然らば、此の夢をば、童かひ取りて、御身の難をのぞき奉らん」と言ふ。「自らがもとより主、悪しくとても、恨み無し。御為悪しくは、如何」と言ひければ、「然ればこそ、うりかふと言へば、転ずるにて、主も自らも、苦しかるまじ」と、誠しやかにこしらへければ、「然らば」と喜びて、うり渡しけるぞ、後に、悔しくは覚えける。此の言葉につきて、二十一の君、「何にてかかひ奉らん。もとより所望の物なれば」とて、北条の家に伝はる唐の鏡を取り出だし、唐綾の小袖一重ね添へ渡されけり。P114十九の君、なのめならずに喜びて、我が方に帰り、「日頃の所望適ひぬ。此の鏡の主になりぬ」と喜びけるぞ、愚かなる。此の二十一の君をば、父殊に不便に思ひければ、此の鏡を譲りけるとかや。然る程に、佐殿、時政に娘数多有る由聞こし召し、伊東にてもこり給はず、上の空なるもの思ひを、風の便りにおとづればやと思し召し、内々人に問ひ給へば、「当腹二人は、殊の外悪女なり。先腹二十一の方へ、御文ならば、賜はりて参らせん」と申しける。伊東にて物思ひしも、継母故なり。如何にわろくとも、当腹をと思し召し定められて、十九の方へ、御文をぞ遊ばしける。藤九郎盛長は、是を賜はりて、つくづく思ひけるは、当腹共は、事の外悪女の聞こえ有り、君思し召し遂げん事有るべからず、北条にさへ、御仲違はせ給ひては、いづかたに御入り有るべき、果報こそ、劣り奉るとも、手跡は、如何でか劣り奉るべきとて、御文を二十一の方へとぞかきかへける。さて、少将の局して、参らせたりけり。姫君御覧じて、思し召し合はする事有り、此の暁、白き鳩一つ飛び来たりて、口より金の箱に文を入れてふき出だし、童が膝の上におき、虚空に飛びさりぬ、開きて見れば、佐殿の御文なり、急ぎ箱にをさむると思へば、夢なり、今現に文見る事、不思議さよと思し召して、打ち置きぬ。其の後、文の数重なりければ、夜な夜なP115忍びて、褄をぞ重ね給ひける。かくて、年月送り給ふ程に、北条の四郎時政、京より下りけるが、道にて此の事を聞き、ゆゆしき大事出で来たり、平家へ聞こえては如何ならんと、大きに騒ぎ思ひけり。さりながら、静かに物を案ずるに、時政が先祖上総守なほたかは、伊予殿の関東下向の時、聟に取り奉りて、八幡殿以下の子孫出で来たり、今に繁昌、年久し。
 @〔兼隆聟に取る事〕S0211N031
 斯様の昔を案ずるに、悪し様にはあらじと思ひけれども、平家の侍に、山木の判官兼隆と言ふ者を同道して下しけり。道にて、何と無き事のついでに、「御分を時政が聟に取らん」と言ひたりし言葉の違ひなば、「源氏の流人、聟に取りたり」と訴へられては、罪科逃れ難し、如何せんと思ひければ、伊豆の国府に着き、彼の目代兼隆に言ひ合はせ、知らず顔にて、娘取り返し、山木の判官にとらせけり。然れども、佐殿に契りや深かりけん、一夜をもあかさで、其の夜の内に、逃げ出でて、近く召し使ひける女房一人具して、深き叢を分け、足に任せて、あしびきの山路を越え、夜もすがら、伊豆の御山に分け入り給ひぬ。ちぎりくずちは、P116出雲路の神の誓ひは、妹背の中は変はらじとこそ、守り給ふなれ。頼む恵みのくちせずは、末の世掛けて、諸共に住みはつべしと、祈り給ひけるとかや。 抑、出雲路の神と申すは、昔、けいしやうと言ふ国に、男を伯陽、女を遊子とて、夫婦の物有りけるが、月に共なひて、夜もすがら、ぬる事無くして、道に立ち、夕には、東山の峰に心を澄まし、月の遅く出づる事を恨み、暁は、晴天の雲にうそぶき、くもり無き夜を喜び、雨雲の空を悲しみて、年月を送りしに、伯陽九十九の年、死門にのぞまむとせし時、遊子に向かひ申す様、「我、月に共なひて、めづる事、世の人に越えたり。一人なりとも、月を見る事、怠らざれ」と言ひければ、遊子、涙を流して、「汝、まさに死なば、我一人月を見る事有るべからず。諸共に死なん」と悲しめば、伯陽重ねて申す様、「偕老同穴の契り、百年にあたれり。月を形見に見よ」とて、遂にはかなくなりにけり。契りし如く、遊子は内に入る事も無くして、月に伴ひ歩きしが、是も限り有りければ、遂にはかなくなりにけり。然れども、夫婦諸共に月に心をとめし故に、天上の果を受け、二つの星なるとかや、牽牛織女是なり。又、さいの神とも申すなり。道祖神とも現れ、夫婦の中を守り給ふ御誓ひ、頼もしくぞ覚えける。P117又、伝へ聞く、漢の高祖、はうやう山と言ふ山に籠り給ひしに、こうろ大子諸共に、紫雲を知るべしとて、深き山路に分け入りし志、是には過ぎじとぞ見えし。さて、佐殿へ秘かに人を参らせ、かくと申させ給ひしかば、鞭を上げてぞ、上り給ひける。目代は尋ねけれども、猶山深く入り給ひければ、力及ばず、北条は、知らず顔にて、年月をぞ送りける。伊東が振舞ひには代はりたるにや、果報の致す所なり。
 @〔盛長が夢見の事〕S0212N033
 此処に、懐島の平権守景信と言ふ者有り。此の程、兵衛佐殿、伊豆の御山に忍びて坐します由伝へ聞き、「斯様の時こそ、奉公をば致さめ」とて、一夜宿直に参りけり。藤九郎盛長も、同じく宿直仕る。夜半ばかりに、打ち驚きて、申しけるは、「今夜、盛長こそ、君の御為に、めでたき御示現を蒙りて候へ。御耳をそばたて、御心を鎮め、確かに聞こし召せ。君は、矢倉岳に御腰を掛けられしに、一品房は、金の大瓶をいだき、実近は、御畳をしき、也つなは、銀の折敷に、金の御盃をすゑ、盛長は、銀の銚子に、御盃参らせつるに、君、三度聞こし召さP118れて後は、箱根御参詣有りしに、左の御足にては、外浜を踏み、右の御足にては、鬼界島を踏み給ふ。左右の御袂には、月日を宿し奉り、小松三本頭に頂き、南向きに歩ませ給ふと見奉りぬ」と申しければ、佐殿、聞こし召して、大きに喜び給ひて、「頼朝、此の暁、不思議の霊夢をかうむりつるぞや。虚空より山鳩三来たりて、頼朝が髻に巣をくひ、子をうむと見つるなり。是、しかしながら、八幡大菩薩の守らせ給ふと、頼もしく覚ゆる」と仰せられければ、
 @〔景信が夢合はせ事〕S0213N034
 景信申しけるは、「盛長が示現においては、景信合はせ候はん。先づ、君、矢倉岳に坐しましけるは、御先祖八満殿の御子孫、東八か国を御屋敷所にさせ給ふべきなり。御酒聞こし召しけるとみつるは、理なり。当時、君の御有様は、無明の酒によはせ給ふなり。然れば、酔ひは遂にさむる物にて、「三木」の三文字をかたどり、近くは三月、遠くは三年に、御酔ひさむべし。P119
 @〔酒の事〕S0214N035
 又、酒は、忘憂の徳有り。然るに依り、数の異名候ふ。中にも、「三木」と申す事は、昔、漢の明帝の時、三年旱魃しければ、水にうゑて、人民多く死す。御門、大きに歎き給ひて、天に祈り給へども、験無し。如何せんと悲しみ給ひける。其の国の傍に、せきそと言ふ賎しき民有り。彼が家の園に、桑の木三本有りけるに、水鳥、常に下り居て遊ぶ。主あやしみて、行きて見れば、彼の木のうろに、竹の葉おほへる物有り。取りのけて見るに、水なり。なめて見れば、美酒也。即ち、是を取りて、国王に捧ぐ。然れば、一度口につくれば、七日餓を忘るる徳有り。御門、感じ思し召して、水鳥の落とし置きたる羽を取りて、餓死の口にそそき給へば、死人ことごとくよみがへり、うゑたる物は、力をえ、めでたし共、言ふ計り無し。即ち、せきそを召して、一国の守に任ず。桑の木三本より出で来たればとて、「三木」と申すなり。さても、此の酒は、如何にして出で来るぞと尋ぬれば、せきそが子に、くわうりというもの有り。継母、殊にすぐれて、是をにくみ、毒を入れてくはせける。然れども、くわうり、継母の習ひと思ひなずらへて、更に恨むる心無くして、此の木のうろに入れおき、竹の葉おほひておきたりけるP120が、始め入れたる飯は、麹と成り、後に入れける飯は、天より下る雨露の恵みを受けて、くちて、美酒とぞなりける。「毒薬変じて、薬と成る」とは、此の時よりの言葉なり。又、酒をのみて、風の然る事三寸なれば、「三寸」とも書けり。是は、家隆卿の言ひけるなり。馬の寸を「き」と言へば、其の故有るにや。又、「風妨」とも言へり。風のさまたるく義なり。又、或る者の家に、杉三本有り。其の木のしただり、岩の上に落ちたまり、酒と成ると言ふ説有り。其の時は、「三木」とかくべきか。又、しん心ほうに曰く、「新酒百薬長たり」とも書けり。漢書には、「せきそ、みきをえて、天命を助く」と書けり。又、慈童と言ひし者は、七百歳をえて、彭祖と名を返し仙人、菊水とてもて遊びけるも、此の酒なり。是は、法華経普門品の二句の偈を聞きし故に、菊の下行く水、不死の薬と也けるを、此の仙人は用ひけるとかや。大やけにも、是を移して、重陽の宴とて、酒に菊を入れて用ひ給ふ。上より下る雨露の恵み、下に差し来る月日の光、あまねく、君の御恵みに漏れたる品は無きにこそ、高きも、賎しきも、酒はいはひにすぐれ、神も納受、仏も憐愍有るとかや。君も聞こし召されつる三きの如くに、過ぎにし憂きを忘れさせ給ふ。日本国を従へさせ給ひし。左右の御足にて、外浜と鬼界島を踏み給ひけるは、秋津洲残り無く、従へさせ給ふべきにや。左右の御袂に、月日を宿しP121給ひけるは、主上・上皇の御後見においては、疑ひ有るべからず候ふ。小松三本頭に頂き給へるは、八幡三所の擁護あらたにして、千秋万歳を保ち給ふべき御相なり。又、南向きに歩ませ給ひけるは、主上御在位の、大極殿の南面にして、天子の位を踏み給ふとこそ承り候へ。御運を開き給はむ事、是に同じ」と申しければ、佐殿喜び給ひて、「景信があはする如く、頼朝、世に出づる事あらば、夢合はせのへんとう有るべし」とぞ仰せられける。
 @〔頼朝謀叛の事〕S0215N036
 然る程に、誠に謀叛の事有り。例へば、さんぬる平治元年、右衛門督藤原の信頼卿、左馬頭源の義朝を語らひて、梟悪をくはたつ。然れば、清盛、是を追罰し、件の族を配流せしより此の方、源氏退散して、平家繁昌す。然れば、朝恩に誇りて、叡慮を悩まし奉る事、古今にたぐひ無し。剰へ、其の身、一人師範にあらずして、忝くも、太政大臣の位を汚す。かくの如く、近衛の大将、左右に兄弟相並ぶ事、凡人において、先例に無しと雖も、始めて此の義を破る。又、仏餉の田苑を止め、神明の国郡をくつ返し、我が朝六十余州P122の内、三十余国は、彼の一族領す。又、三公九卿の位、月卿雲客の官職、大略此の一門ふさぐ。斯様のおごりの余りにや、さしたる科も無きに、臣下卿相、多く罪科に行ひ、剰へ、法皇を鳥羽殿に押し込め奉り、天下を我が儘にする。つらつら、旧記を思へば、楊国忠が叡慮に背き、安禄山が朝章を乱りし悪行も、かくの如くの事は無し。人臣皇事を奪はざる外は、これ体の悪行、異国にも未だ先例を聞かず。況や、我が朝においてをや。かかりければ、後白河院の第二の皇子高倉宮を、源三位入道頼政、謀叛をすすめ奉る。治承四年四月二十四日の暁、諸国の源氏に院宣を下さる。御使ひは、十郎蔵人行家なり。同じき五月八日に、行家、伊豆の国に着き、兵衛佐殿に院宣を告げ奉る。院宣の案を書き、やがて常陸の国に下り、志太の三郎先生義憲に此の由をふれ、信濃の国に下り、木曾義仲にも見せけり。
 @〔兼隆が打たるる事〕S0216N037
 是に依つて、国々の源氏、謀叛をくはたて、思ひ思ひに案をめぐらす所に、頼朝早く、平家の侍に、和泉の判官兼隆、当国山木が館に有りけるを、同じく八月十七日P123の夜、時政父子を始めとして、佐々木の四郎高綱、伊勢の加藤次景廉、景信以下の郎従等を差し遣はして、打ち取り畢んぬ。是ぞ、合戦の始めなりける。此処に、相模の国の住人大庭の三郎景親、平家の重恩を報ぜん為に、当国石橋山に追ひ掛け、散々に戦ふ。是のみならず、武蔵・上野の兵共、我劣らじと馳せ向かひて、防ぎ戦ふ。其の中に、畠山の重忠は、父重能・叔父有重、折節、平家の勘当にて、京都に召し置かるる最中なれば、其の科をもはらし、国土の狼藉をも鎮めんと向かひけるが、三浦党、頼朝の謀叛に与力せんとて、馳せ向かひけるが、鎌倉の由比と言ふ所にて行き合ひ、散々に戦ひけるが、重忠打ち落とされて、希有の命いきて、武州に帰りけり。其の後、江戸・葛西を始めとして、武蔵の国の者共、一千余騎、三浦へ押し寄せ、身命を捨てて戦ひければ、三浦打ち負けて、今は、大介一人になりにけり。年九十余になりけるが、子孫に向かひて申しけるは、「兵衛佐殿の浮沈、今に有り。己等一人も、死に残りたらば、見つぎ奉れ」と申しおいて、腹切り畢んぬ。さても、伊東の入道は、もとより佐殿に意趣深き者なりければ、一合戦と馳せ向かひけるが、頼みし畠山打ち落とされぬと聞きて、伊豆の御山より帰りにけり。佐殿、無勢たるに依つて、心は猛く思はれけれ共、此の合戦適ふべしとは見えP124ざりける。然れども、土肥の二郎、岡崎の悪四郎、佐々木の四郎、命を惜しまず、戦ひける其の隙に、佐殿逃れ給ひて、杉山に入り給ひぬ。北条の三郎宗時、佐那田の与一も打たれけり。佐殿、七騎に打ちなされ、大童に成りて、大木の中に隠れ、其の暁、山を忍び出で、安房の国りうさきへ渡り給ふとて、海上にて、三浦の人々、和田の小太郎義盛に行き合ひて、船共を漕ぎ寄せ、互ひに合戦の次第を語る。義盛は、衣笠の軍に、大介打たれし事共語りければ、土肥・岡崎は又、石橋山の合戦に、与一が打たれし事共を語り、互ひに鎧の袖をぞ濡らしける。さて、安房の国に渡り、其れより上総に越え、千葉介を相具して、次第に攻め上り給ひて、相模の国鎌倉の館にぞつき給ひける。是よりして、武士共、関東に帰伏せざるは無かりけり。然れば、平家驚き騒ぎ、度々討手を向かはすと雖も、或いは鳥の羽音を聞きて、退く者も有り、又は、戦場にこらへずして、鞭にて打ち落とさるるも有り。是、普通の儀にあらず、只天命の致す所也。昔、周の文王、いしんちうを打たんとせしに、東天に雲さえて、雪のふる事、一丈余也。五車馬に乗る人、門外に来たりて、其の事を示ししかば、文王、勝つ事をえたり。かるが故に、逆臣、程無くはいしやうして、天下、即ち穏やかなり。P125
 @〔伊東が切らるる事〕S0217N039
 さても、不忠を振舞ひし伊東の入道は、生捕られて、聟の三浦介義澄に預けられけるを、前日の罪科逃れ難くして、召し出だし、よろいすると言ふ所にて、首をはねられける。最後の十念にも及ばず、西方浄土をも願はず、先祖相伝の所領、伊東・河津の方を見遣りて、執心深げに思ひ遣るこそ、無慙なれ。
 @〔奈良の勤操僧正の事〕S0218N040
 是や、延暦年中に、奈良の勤操僧正、大旱魃に、雨の祈りの為、大和の国布留社にて、薬草喩品を一七日講ぜられける。何処共無く、童一人来たりて、毎日、御経を聴聞しける。七日に満ずる時、「何物にや」と、御尋ね有りければ、「我は、此の山の小竜なり。七日の聴聞に依つて、安楽世界に生まれ候ひなん嬉しさよ」とて、随喜の涙を流しけり。其の時、僧正曰く、「竜は、雨を心に任する物なれば、雨をふらし候へ」と宣へば、「大龍の許し無くして、我がはからひにて、成り難く候へども、さりながら、後生菩提を御助け給ひ候はば、身は失せ候ふとも、P126雨をふらし候はん」と申す。「左右にや及ぶ。追善有るべし」と、御領状有りしかば、即ち雷と成りて、天に上がり、雨のふる事、二時ばかりなり。され共、此の竜、其の身砕けて、五所へぞ落ちにけり。僧正哀れみ給ひて、彼の竜の落ちける所にして、一日経を書写せられけり。其の後、彼の僧正の夢に、御訪ひに依り、即ち蛇身を転じて、仏道を成ずと見えたり。さて、彼の五所に、五つの寺をたてて、今に絶えせず、勤行とこしなへ也。彼の五所の寺号をば、竜門寺、竜せん寺、竜しよく寺、竜ほう寺、竜そん寺、是なり。紀伊の国・大和両国に有り。斯様の畜類だにも、後生をば願ふぞかし。伊東の入道は、最後の時にも、後生菩提を願はぬぞ、愚かなる。是を以て、過ぎにし事を案ずるに、親の譲りを背くのみならず、現在の兄を調伏し、もつまじき所領を横領せし故、天是を戒めけるとぞ覚えたり。然れば、悪は一旦の事なり、小利有りと雖も、遂には正に帰して、道理道を行くとかや。総じて、頼朝に敵したる者こそ多き中に、まのあたりに誅せられける、因果逃れざる理を思へば、昔、天竺に大王有り、尊き上人を帰依せんとて、国々を尋ねけるに、或る時、いみじき上人有りとて、向かひを遣はし給ふに、此の王、朝夕、碁を好み給ひて、人を集めて打ち給ふ。「上人参り給ひぬ」と申しければ、碁にきりて然るべき所有りけるを、「きれ」と宣ひけるに、此の上人P127の首をきれとの宣旨と聞き成して、即ち聖の首を打ち切りぬ。大王、夢にも知り給はで、碁打ちはてて、「其の上人、此方へと宣ふ。「宣旨に任せて、切りたり」と申す。大王、大きに悲しみ仏に歎き給ふ時、仏宣はく、「昔、国王は、蛙にて、土中に有りし也。上人、もとは、田を作る農人なり。然る間、田を返すとて、心ならず、唐鋤にて、蛙の首をすき切りぬ。其の因果逃れずして、切られけり。因果は、斯様なる物をや」と宣へば、国王、未来の因果を悲しみて、多くの志をつくして、彼の苦をまぬかれ給ひけるとかや。人は、只むくいを知るべきなり。
 @〔祐清、京へ上る事〕S0219N041
 伊東の九郎においては、奉公の者にて、死罪をなだめられ、召し使はるべき由、仰せ下されしを、「不忠の者の子、面目無し。其の上、石橋山の合戦に、まさしく君を打ち奉らんと向かひし身、命いきて候ふとも、人にひとしく頼まれ奉るべしとも存ぜず。さあらんにおいては、首を召されん事こそ、深き御恩たるべし」と、のぞみ申しけるも、やさしくぞ覚えける。此の心なればや、君をも落としP128奉りけると、今更思ひ知られたり。君聞こし召され、「申し上ぐる所の辞儀、余儀無し。然れども、忠の者を切りなば、天の照覧も如何」とて、切らるまじきにぞ定まりける。九郎、重ねて申しけるは、「御免候はば、忽ち平家へ参り、君の御敵と成り参らせ、後矢仕るべし」と、再三申しけれ共、御用ひ無く、「仮令敵と成ると言ふとも、頼朝が手にては、如何でか切るべき」と仰せ下されければ、力及ばず、京都に上り、平家に奉公致しける。北陸道の合戦の時、加賀の国篠原にて、斎藤別当一所に討死して、名を後代に止む。よき侍の振舞ひ、弓矢の義理、是にしかじと、惜しまぬ者は無かりけり。
 @〔鎌倉の家の事〕S0220N042
 さて、佐殿、北の御方取り奉りし江間の小四郎も打たれけり。跡を北条の四郎時政に賜はり、さてこそ、江間の小四郎とも申しけれ。此の外、打たるる侍共、相模の国には、波多野の右馬允、大庭の三郎、海老名の源八、荻野の五郎、上総の国には、上総介、みちの国には、秀衡が子供を始めとして、国々の侍五十余人ぞ打たれける。又、平家には、八島の大臣殿、右衛門督清宗、本三位の中将重衡を先とし、或いは、きらP129れ、自害する族、しるすに及ばず。源氏には、御舍弟三川守範頼、九郎判官義経、木曾義仲、甲斐の国には、一条の二郎忠頼、小田の入道、常陸の国には、志太の三郎先生を始めとして、以上二十八人、彼是打たるる者、百八十余人なり。「此の内に、冤貶の者は、わづか三人なり。一条の二郎、三川守、上総介なり。此の外は、皆自業自得果なり」とぞ宣ひける。さて、鎌倉に居所をしめて、郎従以下軒を並べ、貴賎袖を連ねけり。是や、政要の言葉に、「漢の文王は、千里の馬を辞し、晋の武王は、雉頭の裘をやく」とは、今の御代に知られたり。民の竃は、朝夕の煙豊かなり。賢王世にいづれば、鳳凰翼を延べ、賢臣国に来たれば、麒鱗蹄をとぐと言ふ事も、此の君の時に知られたり。めでたかりし御事なり。
 @〔八幡大菩薩の事〕S0221N043
 抑、八幡大菩薩を、忝くも、鶴岡に崇め奉る。是を若宮と号す。蘋■の礼、社壇にしげく、奉幣、にんわうのせきしやうなり。其の垂迹三所に、仲哀・神功・応神三皇の玉体也。本地を思へば、弥陀三尊の聖容、行教和尚の三衣の袂を現し給へり。百皇鎮護の誓ひを起こして、一天静謐の恵みP130坐します。誠に是、本朝の宗廟として、源氏を守り給ふとかや。現世安穏の方便は、観音・勢至、神力を受け給ふ。後生善処の利益は、無量寿仏の誓ひを施し給ふ。仰ぎても信ずべきは、もつとも此の御神なり。父左馬頭の為に、勝長寿院を建立し給ふ。今の大御堂、是なり。其の外、堂舎・塔婆を造立し給ふ。仏像経巻を敬崇す。征罰の志、逸早にして、善根も又、莫大なり。寿永二年九月四日に、居ながら征夷将軍の院宣を蒙り、建久元年十一月七日に、上洛して、大納言に補し、同じき十二月五日に、右大将に任ず。然れば、籌策を帷帳の内にめぐらし、勝つ事を千里の外にえたり。実にや、遙かに伊豆の国に流罪せられ給ひし時、掛かるべしとは誰か思ひけん、一天四海を従へ、靡かぬ草木も無かりけり。誠や、史記の言葉に、「天下安寧なる時は、刑錯を用ひず」とは、今こそ思ひ知られたり。平家繁昌の折節、誰かは此の一門を滅ぼすべきとは思ひける。さても、伊豆の御山にて夢物語、同じく合はせ奉りし者、勧賞に預かり、藤九郎盛長、上野の総追捕使になさる。景信は、若宮の別当、神人総官を賜はる上に、大庭の御廚は、先祖には、代々数多にわかたれし、今度は、一円賜はりける。此の外、荘園五六ケ所給ひて、朝恩に誇りける。さても、先年、河津の三郎を打ちたりし工藤一郎祐経は、左衛門の尉に成りて、伊東を賜はる。其の外、所領数多P131拝領して、随分切り者にて、昼夜、君の御側さらで祗候す。され共、傷をかうむる鳥は、天に上がりて、翼を叩くと雖も、又、地に落つる思ひ有り。鉤をふくむ魚は、深き淵に入りて、尾をふると雖も、遂には陸に上がる愁へ有り。祐経も、斯様に果報いみじくて、公方・私、おどろを逆様に引くと雖も、敵有る身は、行く末逃れ難くして、遂に打たれにけるこそ、無慙なれ。



P132曾我之物語巻第三

 @〔九月名月に出でて、一万・箱王、父の事歎く事〕S0301N045
 抑、伊豆の国赤沢山の麓にて、工藤左衛門の尉祐経に打たれし、河津の三郎が子二人有り。兄をば、一万と言ひて、五つに成り、弟は、箱王と言ひて、三つにぞ成りにける。父におくれて後、いづれも母に付き、継父曾我の太郎がもとに育ちける。やうやう成人する程に、父が事を忘れずして、歎きけるこそ、無慙なれ。人の語れば、兄も知り、弟も知り、恋しさのみに明け暮れて、積もるは涙ばかりなり。心のつくに従ひて、いよいよ忘るる暇も無し。我等二十に成り、父を打ちけん左衛門の尉とやらんを打ち取りて、母の御心をも慰め、父の孝養にも報ぜんと、忙はしきは月日なり。数ならぬ身にも、日数の積もれば、はや憂き事共にながらへて、九つ・七つにぞなりにける。折節、九月十三夜の、誠に名有る月ながら、隈無き影に、兄弟、庭に出でて遊びけるが、五つつれたる雁がねの、西に飛びけるを、一万が見P133て、「あれ御覧ぜよ、箱王殿。雲居の雁の、何処を差してか飛び行くらん。一つらも離れぬ中の羨ましさよ」。弟聞きて、「何かはさ程うらやむべき。我等が伴ふ物共も、遊べば、共に打ちつれ、帰れば、つれて帰るなり」。兄聞きて、「さにはあらず。いづれも同じ鳥ならば、鴨をも鷺をもつれよかし。空とべども、己がともばかりなる事ぞとよ。五つ有るは、一つは父、一つは母、三つは子供にてぞ有るらん。わ殿は弟、我は兄、母は誠の母なれども、曾我殿、誠の父ならで、恋しと思ふ其の人の、行方も敵のわざぞかし。哀れや」「親の敵とやらんが首の骨は、石よりもかたき物かや」と問へば、兄が聞きて、袖にて弟が口を抑へ、「かしかまし、人や聞くらん、声高し、隠す事ぞ」と言へば、箱王聞きて、「射殺すとも、首を切るとも、かくして適ふべきか」「さは無きぞとよ、其れまでも忍ぶ習ひ、心にのみ思ひて、上は物を習へとよ。能は稽古によるなるぞ。我等が父は、弓の上手にて、鹿をも鳥をも射給ひけるなるぞ。哀れ、父だに坐しまさば、馬をも鞍をも用意してたびなまし。さあらば、を犬・笠懸をも射習ひなん。我等より幼き者も、世にあれば、馬に乗り、もの射る、見るも羨まし」とくどきければ、箱王聞きてぞ、「父だに坐しまさば、自らが弓の弦くひ切りたる鼠の首は、射させ参らすべき物を、はらだちや」と言へば、兄、「其れP134よりもにくき物こそあれ」「誰なるらん、ままが子、自らが乗りつる竹馬打ち候ひつる事か」「其の事にては無きぞ、父を打ちける者のにくさに、月日の遅き」と言へば、「習はずとても、弓矢取る身が、弓射ぬ事や候ふべき」。兄が聞きて、打ち笑ひ、「わ殿、然様に言ふ共、てなれずしては、如何候ふべき。見よ」とて、竹の小弓に、篦は薄なる笹矧の矢差しつがひ、兄、障子を彼方此方に射通し、「いつかは、我等十五・十三に成り、父の敵に行き合ひ、斯様に心の儘に射通さん」。箱王聞きて、「然る事にては候へ共、大事の敵、弓にては、遠く覚えたるに、斯様に首を切らん」とて、障子の紙を引き切り、たかだかと差し上げ、側なる木太刀を取り直し、二つ三つに打ち切りて、捨てて立ちたる眼ざし、人に代はりてぞ見えたりける。
 @〔兄弟を母の制せし事〕S0302N046
 乳母、是を忍び見て、恐ろしき人々のくはたてかな、後は如何にと思ひければ、急ぎ母上にぞ語りける。母上、大きに驚き、彼等を一間所に呼びければ、箱王、居なほらざるに、障子の破れたるをしかり給ふべきと心得て、「障子P135をば損じ候はず、余所の童が破りて候ふを、乳母がことことしく申して」と言ひければ、母、涙を流し、「障子の事にては無きぞとよ。汝等、確かに聞け、わ殿原が祖父伊東と言ひし人は、君の若君を殺し奉るのみならず、無叛の同意たりしに依つて、切られ奉りし上は、汝等も、其の孫なればとて、首をも足をももがれて奉るべし。平家の公達をば、胎の内なるをだにも、求め失はるるぞかし。今より後、努々思ひもより、言ひも出だすべからず。あさましき事也。未だ上も知ろし召されぬに、御許し有りて、知らず顔にて、御尋ねも無きと覚ゆるなり。構へて、遊ぶとも、門より外へ出づべからず。汝等打ちつれ遊ぶを、物の隙より忍び見るに、いさみおごる時は、自らが心も共にいさましく、打ちしをるる物を。親にも添はぬみなし子の、育つ行方の無慙さよ。後ろに立ち添ひ見るぞとよ。乳母は、かくとも知らせぬぞ。近くより候へ」とて、二人が袖を取り、引き寄せ、小声に言ふ様、「誠や、さしも恐ろしき世の中に、悪事思ひ立つとな。然様の事、人々聞かれなば、よかるべきか。上様の御耳に入りなば、召し取られ、禁獄、死罪にも行はれなん、恐ろしさよ」とぞ制しける。一万は、顔打ちあかめ、打ち傾きて居たり。箱王は、打ち笑ひ、「乳母が申し成しと覚えたり。更に後先も知らぬ事なり」と申しければ、母聞きて、「今よりP136後、思ひもよらざれ。構へて構へて」と言ひて立ちぬ。其の後は、余所目を忍びて、おとといは語りけれども、人には更に知らせざりけり。或る日の徒然に、友の童も無く、軒の松風、耳に止まり、暮れ遣らぬ日は、一万門に出でて、人目を忍び、さめざめと泣きけり。箱王も同じく出でけるが、兄が顔をつくづくと見て、「何を思ひ給へば、兄子は、向かひの山を見て、さのみ泣かせ給ふぞや」と言ふ。兄が聞きて、「然ればこそとよ、何とやらん、殊の外に、父の面影思ひ出でられて、恋しく覚ゆるぞ」と言ひければ、「愚かに渡らせ給ふ物かな、思ひ給ふとも、父の帰り給ふまじ。帰り給へ。童共の、又参り候ふに、囃子物して遊び候はん」とて、打ちつれて帰る時も有り。又、或る夕暮に、夜に近き、軒端の雨のもの哀れなる折節に、箱王、門に立ち出でて、涙にむせぶ時は、一万、袖をひかへつつ、「何を思ひ給へば、四方の梢に目を懸けて、さのみ泣かせ給ふぞや」「覚えぬ父ごとやらんの恋しきは、斯様に心のすごきやらん。兄ごは、何とか御座する」とて、さめざめとこそ泣き居たれ。一万、弟が手を取りて、「覚えず、知らぬ父を恋しと言はんより、いとほしとのみ仰せらるる母に、いざや参らん」とて、袖を引きてぞ入りにける。是も、人目を忍ばんとて、互ひにいさめいさめられて、心ばかりと思へども、さすが幼き心にて、忍ぶ余所目P137の隙々の、もるるを見聞く人ごとに、舌を振り、哀れを催さぬは無かりけり。良竹は、おひいづればすぐなり、栴檀は、二葉よりかうばしとは、斯様の事に知られたり。然れば、遂に敵を思ふ儘に打ち、名を万天の雲居に上げ、威勢一天に余れり。哀れにも、いみじきにも、申し伝へたるは、此の人々の事なり。
 @〔源太、兄弟召しの御使ひに行きし事〕S0303N048
 かくて、三年の春秋の過ぐる程も無かりけり。早くも、一万十一、箱王九にぞなりにける。其の頃、彼等が身の上に、思はぬ不思議ぞ出で来たる。故を如何にと尋ぬるに、鎌倉殿、侍共に仰せられけるは、「保元の合戦に、為義、義朝に切られ、平治の乱れに、義朝、長田に打たれしより此の方、おごりし平家をことごとく滅ぼし、天下を心の儘にする事、我等が先祖におきては、頼朝に勝る果報者あらじ」と仰せ下されければ、御前祗候の侍共、一同に、「さん候」と申し上げければ、伊豆の国の住人工藤左衛門祐経、畏まつて申しけるは、「仰せの如く、四海鎮まり、きうたう狼煙立たざる所に、間近き御膝の下に置きて、幼く候へ共、末の御敵と成るべき者こそ、一二人候へ」と申しければ、御前に有りける侍共、P138知るも知らざるも、誰が身の上やらんと、目を合はせ、拳を握らざるは無かりけり。君聞こし召されて、御気色変はり、「頼朝こそ知らね、何物ぞ」と、御尋ね有りければ、祐経承りて、「先年切られ参らせ候ひし伊東の入道が孫、五つや三つにて、父河津におくれ、継父曾我の太郎がもとに養じ置きぬ。成人の後、御敵とやなり候ふべき。身にも又、野心有る者にて候ふ」と申し上げたりければ、君聞こし召し、「不思議なり。祐信は、随分心安き物に思ひつるに、末の敵を養ひ置くらん不思議さよ。急ぎ梶原召せ」とて召さるる。源太景季、御前に畏まりければ、「急ぎ曾我に下り、伊東の入道が孫共を隠し置く由聞こゆ。急ぎ具足して参るべし。もし異議に及ばば、其れにて首をはねよ」とぞ仰せ下されける。景季承り、御前を罷り立ち、急ぎ曾我へぞ下りける。祐信が屋形近くなりしかば、使者をたてて、「曾我殿や坐します。君の御使ひに、景季参りたり」と言はせければ、祐信、何事なるらんと、「思ひ寄らざる御入り珍し」と言ひければ、景季も、暫く辞退して、「さん候、上よりの御使ひ」とばかり言ひて、面目無き事なれば、左右無く言ひも出ださず。やや有りて「御為ゆゆしき事ならぬ仰せを蒙りて候ふ。其の故は、故伊東殿の孫養育の由、君聞こし召して、「頼朝が末の敵なり。急ぎ具して参るべし」との御使ひを蒙り、参りP139て候ふ」と申しければ、祐信、とかくの返事にも及ばず、やや有りて、「世間に歎き深き者を尋ぬるに、祐信にすぐべからず。幼き者二人候ひし、五つ・三つにて失ひ候ふ。其の思ひ未だはれざるに、彼等が母におくれ候ひぬ。一方ならぬ思ひの浅からざりしに、彼等が母も、夫におくれ、子を持ちたる由聞き候らひ、しかも、親しく候ふ上、失ひし子供、同じ年にて候ふ。然れば、人の歎きをも、我等が思ひをも、語り慰まんと思ひ、抑へ取り、今年は、此の者共、十一・九に罷り成り候ふ。殊の外けなげに候ふ間、実子の如く養じたてて、此の頃、斯様の仰せを蒙り候ふべしとこそ存じ候はね。子に縁無き者は、人の子をも養ずまじき事にて候ひける」とて、袖を顔に押し当てけり。景季も、誠に理とぞ思ひける。
 @〔母歎きし事〕S0304N049
 やや有りて、「つれて参るべし。さりながら」とて内に入り、彼等が母に申しけるは、「故伊東殿、君に御敵とて失せ給ひし、其の孫とて、二人の幼き者共を参らせよとの御使ひに、梶原殿の来たれり」と言ひければ、母は聞きも敢へず、P140「心憂や、是は何と成り行く世の中ぞや、夢とも現とも覚えず。実に夢ならば、さむる現も有りなまし。憂き身の上の悲しきも、彼等二人を持ちてこそ、万うさも慰みつれ。身の衰ふるをば知らで、いつか成人して、おとなしくもなりなんと、月日の如く頼もしく、後の世掛けて思ひしに、切られ参らせて、其の後、憂き身は何とながらへん。只諸共に具足して、とにもかくにもなし給へ」と泣き悲しむ、其の声は、門の辺まで聞こえける。実にや園生にうゑし紅の、焦がるる色の現れて、余所に見えしぞ、哀れなる。たへぬ思ひの余りにや、母は、二人の子供を左右の膝にすゑおき、髪かきなでてくどきけるは、「祖父伊東殿、君に情無くあたり奉りし故に、其の孫とて、汝等を召さるるぞや。如何なる罪のむくいにて、人こそ多けれ、御敵となりぬらん心憂さよ。さりながら、汝等が先祖、東国において、誰にかは劣るべき、知らぬ人有るべからず。君の御前なりとも、恐るる事無く。最期の所にて、言ふ甲斐無くして適ふまじ。さしもいさみし親祖父の、世に有りし故にこそ、御敵ともなり給ひしか。幼くとも、思ひ切りて、臆する色有るべからず、けなげに」と申せども、涙にこそむせびけれ。「実にや適はぬ事なれども、汝等を止めおき、其の代はりに、童出でて、如何にもなりなば、心安かりなん」と泣きP141ければ、二人の子供は、聞き分けたる事は無けれども、只泣くより外の事ぞ無き。賎しき賎に至るまで、泣き悲しむ事、叫喚・大叫喚の悲しみも、是には過ぎじとぞ覚えし。時移りければ、景季、使ひを以て、母の方へ申しけるは、「御名残、理と存じ候へ共、御思ひはつくべきにあらず、とくとく」と攻めければ、祐信、「承り候ふ」とて、嬉しからざる出立を急ぎける。母も、今を限りの事なれば、介錯するぞ、哀れなる。一万が装束には、精好の大口、顕紋紗の直垂をぞ着たりける。箱王には、紅葉に鹿書きたる紅梅の小袖に、大口ばかり着せたりける。斯様に介錯せん事も、今を限りにてもやと、後ろにめぐり、前に立ち、つくづくと是を見るに、一万が着たる小袖の紋、心得ぬ物かな。さても、あだなる朝顔の花の上露、時の間も、残る例は無き物を。さて、箱王が小袖の色、ぬれてや、鹿のひとり鳴くらんも、憂き身の上の心地して、いよいよ袖こそぬれまされ。古は何とも見ざりし衣裳の紋、今は目に立ちて、思ひ残せる事も無し。やがて帰るべき道だにも、差しあたりたる別れは悲しきに、帰らん事は不定なり。見みえん事も、今ばかりぞと覚えば、肝魂も身に添はず。一万おとなしやかに、「余り御歎き候ひそ。御思ひを見奉れば、道安かるべしとも覚えず。もし切られ参らせば、前世の事と思し召せ」と言ひければ、箱王、「兄の仰せP142らるる如く、御歎きを御止め候へ。同じ御歎きながら、敵を致したる事も候はず。其の上、未だ幼く候へば、御許しも候ふべし。仏にも御申し候へ」。誠にげにげにしく申すに付けても、いよいよ名残ぞ惜しかりける。さりともとは思へども、まさしき御敵なり。帰らん事は、不定也。止まり居て、物思はん事も、悲しければ、一所にて、如何にもならんと、出で立ちけるぞ、哀れなる。祐信、是を見、大きに制しける。「さりとも、切らるるまでは有るまじ。誰々も、よき様に申し成し給はば、いかさま、遠き国に流し置かれぬと覚えたり。然様なりとも、命だにあらば」と慰め置きて、二人の子共をいざなひ出でける、心の中こそ哀れなれ。母は、梶原が見るをも憚らず。事のなのめの時こそ、恥も人目も包まるれ、誠の別れになりぬれば、かちはだしにて、乳母諸共に、庭上に迷ひ出でて、「暫く、や、殿、一万。止まれや、箱王。我が身は何と成るべき」と、声を惜しまず泣き悲しみければ、上下男女諸共に、「今暫く」と泣き悲しむ有様、たとふべき方も無し。或いは、馬の口に取り付き、或いは、直垂の袖をひかへければ、景季も、猛き武士とは申せ共、涙にせき敢へず、「由無き御使ひ承りて、斯かる哀れを見る悲しさよ」とて、直衣の袖を顔に押し当てて泣きけり。母は、猶も止まり兼ねて、門の外まで惑ひ出でP143て、彼等が後姿を見送り、泣くより外の事ぞ無き。子供も、後ろのみ見返りしかば、駒をも急がず、後に心は止まりけり。互ひの思ひ、さこそと推し量られて、哀れなり。母は、子供の後ろも見えず、とほざかり行きければ、即ち倒れ伏しにけり。女房達、急ぎ引きたて、やうやう介錯して、泣く泣く内にぞ入りにける。持仏堂に参り、くどきけるは、「大慈大悲の誓願、枯れたる草木にも、花さき実成るとこそ聞け。などや、彼等が命をも助け給はざらん。是、幼少の古より、深く頼みを懸け奉る。毎日に三巻普門品怠らざる証に、彼等が命を助け給へ」と、悶え焦がれけるぞ、無慙なる。せめての事にや、仏に向かひてくどきけるは、「実にや、彼等が父の打たれし時、如何なる淵瀬にも入りなんと、思ひ焦がれしに、彼等を世にたてんと思ひて、つれなく命ながらへ、あかぬ住まひの心憂かりつるも、偏に子供の為ぞかし。切られ参らせての後、一日片時の程も、身は、誰が為に惜しかるべき。願はくは、我等が命も取り給ひて、彼等一所に向かへ取り給へ」と、声も惜しまず泣き居たり。誠や、身に思ひの有る時は、科も坐しまさぬ神仏を恨み奉り、泣きてはくどき、恨みては泣き、伏し沈みけるこそ、せめての事とは覚えける。P144
 @〔祐信、兄弟つれて、鎌倉へ行きし事〕S0305N050
 さて、祐信は、梶原諸共に打ちつれて、駒を早むるとは無けれども、夜に入りて、鎌倉へこそつきにけれ。今夜は、遙かにふけぬらんとて、景季が屋形に止め置きたり。祐信は、二人の子供近く居て、こよひばかりと思ふにも、残り多くぞ思はれける。名残の夜はも明け安き、隈無き軒をもる月も、思ひの涙にかきくもり、鶏と同じく泣きあかす、心の内こそ無慙なれ。早天に、源太左衛門、御所へ参りければ、祐信、遙かに門送りして、「彼等が事は、一向に頼み奉る。如何にもよき様に申しなされ、郎等二人有りと思し召し候へ」と、誠に思ひ入りたる有様、哀れにて、源太も、不便に覚えて、「実にや、子ならずは、何事にか、是程宣ふべき。人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、実に理と覚えて、景季も、子供数多持ちたる身、さらさら人の上共存じ候はず」とて、忍びの涙を流しけり。「心の及ぶ所は、等閑有るべからず候ふ。心安く思ひ給へ」とて出でければ、頼もしくぞ思ひける。 其の後、景季、御前に畏まりければ、君御覧じて、「咋日は、参らざりけるP145ぞ。祐信は、異議にや及びける」「如何でか、惜しみ申すべき。ゆふべ、景季がもとまで具足して、候ひつるを、夜ふけ候ふ間、明くるを待ち申して候ふ。従ひ候ひては、母や曾我の太郎が歎き、申すに及ばず。かはゆき有様を見てこそ候へ。同じ仰せにて、戦場にして、一命を捨て候はん事は、物の数とも存じ候ふまじ。斯様に難儀の事こそ候はざりしか」と申しければ、君聞こし召されて、「さぞ母も惜しみつらん。同じ科とは言ひながら、未だ幼き者共なり。歎きつるか」と仰せられければ、此の御言葉に取り付き、畏まつて申しけるは、「斯様に申す事、恐れ多く候へども、母が思ひ、余りに不便なる次第に候ふ。未だ幼き者共に候へば、成人の程、景季に預けさせ給ひ候へかし」と申しければ、君聞こし召されて、「汝が申す所、理と思へ共、伊東の入道に、情無くあたられし事を、聞きも及びぬらん。三歳の若を失はれ、剰へ女房さへ取り返されて、歎きの上に、恥を見、其の上、由比の小坪にて、頼朝を打たんとせし恨み、条々、例へて遣る方無し。せめて、伊豆の国一国の主にもならばやと、明け暮れ思ひ祈りしは、只伊東にあたり返さんと願ひしぞかし。然れば、彼の者の末と言はんをば、乞食非人なりとも、掛けて見んとは思はざりき。況や、彼等は現在の孫なり。しかも、嫡孫なり。急ぎ誅して、若が孝養に報ずべし。頼朝恨むべからず」と仰せ下さP146れければ、重ねて申すに及ばで、御前を罷り立ちにけり。「時を移さず、由比の浜にて害せよ」と承りて、宿所に帰り、祐信、遅しと待ち受けて、「彼等が命如何に」と問ふ。「然ればこそとよ、再三申しつれども、故伊東殿の不忠、始めよりをはりに至るまで、御物語有りて、若君の草の陰にて思し召す所も有り、此の人々を切りて、御追善に報ぜんと、御意の上、力及ばず」と言ひければ、祐信、頼みし力つきはてて、「今は、適ふまじきにや」とて、二人の子供を近付けて、装束引きつくろひ、鬢の麈打ち払ひ、「汝、如何なるむくいにて、乳の内にして、父におくれ、重代の所領に離れ、命だにも、十五・十三にもならず、切らるるのみにあらず、母にも又、思ひを授くる事の不思議さよ。祐信も、汝等におくれて後、千年をふるべきか。髻切り、後世懇ろに問ひて取らすべし。今生こそ、宿縁うすくとも、来世には、必ず一蓮に生まれあふべし」と、涙にむせびけり。子供聞き、「祖父子の御事に依り、我等幼けれ共、許されず、切られん事、力に及ばず。さりながら、殿の御恩こそ、有り難く思ひ奉り候へ。御遁世、努々有るまじき事なり。母御の御思ひ、いよいよ重かるべし。其れを慰めて賜はり候へ。其れならでは」とばかりにて、泣くより外の事ぞ無き。景季が妻女も、女房達引きつれ、中門に出で、ものごしに彼等がP147言葉を立ち聞きて、「実にや、然る者の子供とは聞こえたり。優におとなしやかに言ひつる言葉かな。余所にて聞くだにも、哀れに無慙なるに、如何に今まで取り育てぬる母や乳母の思ふらん。かたはなる子をさへ、親は悲しむ習ひぞかし。弓取りの子の七つにて、親の敵を打ちけると申し伝へたる事も、彼等がおとなしやかなるにて思ひ知られたり。弓取りの子なり」とて、涙にむせびければ、及ぶも及ばざるも、皆袂をぞ絞りける。
 @〔由比のみぎはへ引き出だされし事〕S0306N052
 やや有りて、景季来たり、「時こそ移り候へ」と言ひければ、祐信、彼等を出で立たせ、由比の浜へぞ出でける。今に始めぬ鎌倉中のことことしさは、彼等が切らるる見んとて、門前市をなす。源太が屋形も、浜のおもて程遠からで、行く程に、羊の歩み猶近く、命も際になりにけり。既に敷皮打ちしきて、二人の者共なほりにけり。今朝までは、さり共、源太や申し助けんと、頼みし心もつきはて、彼等に向かひ申しけるは、「母が方に、思ひ置く事や有る」と問ふ。「只何事も、御心得候ひて、仰せられ候へ。但し、最期は、御教へ候ひし如く、思ひ切りP148て、未練にも候はざりしとばかり、御語り候へ」「箱王は如何に」と問へば、「同じ御心なり。今一度見奉て」と言ひも敢へず、涙にむせび、深く歎く色見えけり。一万是を見て、「仰せられしをや。祖父の孫ぞと思ひ出だして、思ひ切るべし。構へて、母や乳母が事、思ひ出だすべからず。然様なれば、未練の心出で来るぞ。「只一筋に思ひきれ」と教へ給ひし事、忘れ給ふかや。人もこそ見れ」といさめければ、箱王、此の言葉にや恥ぢけん、顔押しのごひ、あざ笑ひ、涙を人に見せざりけり。貴賎、惜しまぬ者は無かりけり。曾我の太郎も、此の色を見て、今は心安くて、敷皮に居かかり、鬢の麈打ち払ひ、心しずかに介錯し、「如何に汝等、よくよく聞け。始めたる事にあらね共、弓矢の家に生まるる者は、命よりも名をば惜しむ者ぞとよ。「竜門原上の骨をばうづめども、名をば雲井に残せ」と言ふ言葉、予て聞き置きぬらん。最期見苦しくは見えねども、心を乱さで、目をふさぎ、掌を合はせ、「弥陀如来、我等を助け給へ」と祈念せよ」。一万聞きて、「如何に祈り候ふとも、助かる命にても候はぬ物を」と言ひければ、「其の助けにては無し。別の助けぞとよ。御分の父、一所に向かへ取り給ふべき誓願の助けぞとよ。頼み候へ」と言ひければ、「申すにや及ぶ。故郷を出でしより、思ひ定むる事なれば、何に心を残すべき。P149父にあひ奉らん頼みこそ、嬉しく候へ」とて、西に向かひ、各々ちひさき手を捧げて、「南無」とたからかに聞こえければ、堀の弥太郎、太刀抜き、引きそばめ、二人が後ろに近付きて、兄を先づ切らんは、順次なり、然れども、弟見て、驚きなんも、無慙なり、弟を切るは、逆なりと、思ひわづらひ、立ちたりしを、祐信、思ひに絶え兼ねて、走り寄り、取り付き、「然るべくは、打物を某に預けられ候へ。我等が手に掛けて、後生を弔はむ」と申しければ、「御はからひ」とて、太刀をとらせけり。祐信取りて、先づ一万を切らむとて、太刀差し上げ見れば、折節、朝日かかやきて、白く清げなる首の骨に、太刀影の移りて見えければ、左右無く切るべき所も見えざりけり。祐信、猛き武士と申せども、打物を捨てて、くどきけるは、「中々思ひ切りて、曾我に止まるべかりし物を、是まで来たりて、憂きめを見る事の口惜しさよ。然るべくは、先づ某を切りて後に、彼等を害し給へ」と歎きければ、見物の貴賎、「理かな。幼少より育てて、哀れみ給へば、さぞ不便なるらん」と、訪はぬ者は無かりけり。P150
 @〔人々、君へ参りて、こひ申さるる事〕S0307N054
 此処に梶原平三景時、近くよりて、祐信に申しけるは、「御歎きを見奉るに、推し量られて覚ゆるなり。暫く待ち給へ。一はし申して見ん」と言ひければ、弥太郎、大きに喜びて、暫く時を移しける。誠に景時、差し切りて申されんには、適ひつべしと、人々頼もしくぞ思ひける。景時、御前に畏まりければ、君御覧ぜられて、「梶原こそ、例ならず訴訟顔なれ」「さん候。曾我の太郎が養子の子供、只今、浜にて誅せられ候ふ。哀れ、某に、御預けもや候へかし。景時が申状、聞こし召し入れらるべきと、あまねく思ひ候ふ物をや」と、申しければ、君聞こし召て、「今朝より、源太申しつれ共、預けず。汝、恨むべからず」と仰せ下されければ、力及ばず、御前を罷り立ちけり。次に、和田の左衛門義盛、御前に畏まり、「景時が親子、申して適はざる所を、義盛、重ねて申し上ぐる条、かつうは、其のおほそれ少なからず候へども、人を助くる習ひ、さのみこそ候へ。義盛、御大事に罷り立ちて、度々なりと雖も、わきては、衣笠城にて、御命に代はり奉り、御世に出でさせ給ひ候ひぬ。其の忠節に申しかへて、曾我の子供を預かりおき候はば、生前の御恩と存じ候ふべし」と申さP151れければ、君聞こし召されて、「彼の者共の事は、切らで適ふべからず」と仰せ下されければ、義盛、重ねて申されける、「もとより、罪軽くして、追罰せらるべきを、申し預かりては、御恩と申し難し。重罪の者を賜はりてこそ、掟を背く御恩にては候へ。義盛が一期の大事、何事か是にしかん」と、差し切りて申されたりしかば、君も、誠に難儀に思し召しけるが、しばし、御思案に及び、「御分の所望、何をか背き奉るべき。然れども、此の事においては、頼朝に差しおき給へ。伊東が情無かりし振舞ひ、只今報ぜん」と仰せられければ、義盛、力に及ばずして、御前を罷り立たれけり。其の次に、宇都宮の弥三郎朝綱、思ひけるは、面々申し適へられずして、罷り立たれぬ、さりながら、数多の力、もしもやと存じ、御前に祗候す。君御覧ぜられて、「今日の訴訟人は、適ふべからず、別に、思ふ子細有り」とて、御気色悪しかりければ、申し出だすに及ばず、退出せられにけり。又、千葉介常胤、座敷に居代はりて、畏まつて、「人々の申されて適はざる所を申し上ぐる条、誠てうたうのあとを尋ね、れいきのををひにて候へ共、竜の鬚をなで、虎の尾を踏むも、事による事にて候へば、今日の人々の訴訟御聞き入れ候はば、畏まり存ずべき由、方々申すげに候ふ」と申し上げければ、君聞こし召し、「御分の事、身にかへても余り有り。其れを如何にP152と言ふに、頼朝、石橋山の合戦に打ち負けて、只七騎に成りて、杉山を出でて、ゆきの浦に着き、既に自害に及びし時、数千騎にて、合力せられ奉り、今は世を取る事、偏に御分の恩ぞかし。其の故、忘るべきにあらず。然れども、伊豆の伊東が恨めしさは、知り給ひぬらん」と仰せ有りて、其の後は、御返事も無し。常胤、重ねて申されけるは、「恐れ存じ候ふ事なれども、某に限らず、今日の訴訟人、時に取りての御大事、誰か身命を惜しみ、不忠を思ひ奉る者の候ふべき。其の御心ざしに、御免渡らせ御座しまして、彼等を御助け候ふべし」「さても、彼等が祖父は、不忠の者にはあらざるをや」「さてこそ、御慈悲にて、御助け候へとは申せ」「奈落に沈む極重の罪人をば、慈悲の仏だにも、すくひ給はずとこそ聞け」。常胤承りて、「地蔵薩■の第一の誓願には、無仏世界の衆生をすくはんとこそ、誓ひの深く坐しますなれ」。君聞こし召し、「然れば、地蔵は、未だ正覚なり給はずとこそ聞け」「斯様の悪人をすくひつくして、正覚有るべしと承る。其れは、慈悲にて坐しまさずや」。君聞こし召し、「誠に其れは、仏の御法の言葉、如来にあひて、問ひ給へ。彼等は、世上の政道也。切らでは適ふべからず」とて、御気色悪しく見えければ、其の後は、物をも申さず。御前に祗候の人々も、力を落とし、如何せんとぞ思はれける。P153
 @〔畠山の重忠こひ許さるる事〕S0308N055
 此処に、武蔵の国の住人、畠山の庄司二郎重忠、在鎌倉して、筋違橋に有りけるが、此の事を聞き、取る物も取り敢へず、急ぎ御前に参られける。君御覧ぜられて、「重忠珍し」と仰せ下されければ、「さん候」とて、深く畏まり、やや有りて、申されけるは、「伊東が孫共を、浜にて切られ候ふなる。未だ幼く候へば、成人の程、重忠に御預け候へかし」。君聞こし召し、「存知の如く、伊東が振舞ひ、条々の旨、忘るべきにあらず。彼等が子孫におきては、如何に賎しき者なりとも、助け置かんとは覚えず。是等はまさしき孫ながら、嫡孫ぞかし。頼朝が末の敵と成るべし。然れば、誅してもたらざる物を。頼朝恨み給ふべからず」と仰せられければ、「適はじとの御諚、重ねて申し上ぐる条、恐れにて候へども、成人の後、如何なる振舞ひ候ふとも、重忠かかり申すべし。其の上、一期に一度の大事をこそと存じ候ひて、つねには訴訟を申さず候へ。是ばかりをば、御免渡らせ給へ」と申されければ、君の仰せには、「彼等が先祖の不忠、皆々存知の事、何とてか程に宣ふ。此の事適へぬ怠りに、武蔵の国二十四郡P154を奉らん」と仰せ下されしぞ、誠に忝くは覚えける。重忠承り、「御諚の趣、畏まり存ずれども、国を賜はり、彼等を誅せられては、世の聞こえ、重忠が恥辱にて候ふべし。某がもと参りて候ふ所領を参らせ上げ、彼等を助け候ひてこそ、人の思はくも候へ」と申されければ、君御返り事にも及ばざりけり。重忠、ゐだけだかに成りて、「恐れ多き申事にて候へ共、平治の乱に、義朝打たれ給ひき。其の御子として、清盛に取り込められ、既に御命あやしく渡らせ給ひしに、池殿申されしに依つて、助かり坐しましぬ。其の御喜びを思し召し寄り、彼等を御助け候へかし」。君御顔色変はり、事悪しく見えければ、暫く物も申されず。悪し様也、申し過ごしぬると存じて、只つつしんで有りける。やや暫く有りて、君如何思し召しけん、御扇をさつと開き、「げにげに重忠宣ふ如く、平家の一門、頼朝に情を懸け、助け置きて、頼朝に退治をせられぬ。其の如く、彼等を助け置きて、末代に頼朝滅ぼされぬと覚ゆる。然れば、彼等をば、一々に切りて、由比の浜にかくべし」と、あららかにこそ仰せけれ。重忠も、申しかかりたる事なれば、言葉も違はず、のび上がり、「さん候。滅びし平家の悪行、如何ばかりとか思し召す。仏法に恐れず、王法にも従はず、官を止め、職を奪ひ、子孫に伝はるP155と雖も、よこしまなる沙汰、天是を許さざるに依つて、自滅す。政道順義にして、政専ならば、末代までも、如何でか絶え候ふべき。只神慮に背かで、よこ様なる事さへ候はずは、位は転輪聖王とひとしかるべし」と申されければ、御寮聞こし召して、「忠を高く感じ、科を深く戒むる事、よこしまなるべきにや」「其の儀にては候はず、只御慈悲渡らせ給へとこそ候へ。御敵の末、不忠の至り、陳じ申すには及ばず。さりながら、幼く候へば、成人の程、御預け候へかし。忝くも、君の御恩に誇り、栄華にそなふる事、世の人にすぐれたり。然れば、重忠が訴訟、何事も適ふべしと、人々存ずる所に、御許され無くは、命いきても、無益也。御前にて、首を召され候へ。其れ適はずは、浅間菩薩も、御照覧候へ。重忠自害仕り候ふべし。もの其の身にては候はずとも、某御前にて失せぬと聞き候はば、自害とは申し候はじ。一門馳せ集まり、御不審の歎きを申し上げ候ふべし。しからば、今日の訴訟人、定めて同意有りぬべし。さあらんに取りては、諸国のわづらひとこそ存じ候へ」。君聞こし召し、「然様の儀に至りては、頼朝騒ぐべきにあらず、只天の照覧に身を任せ候ふべし」とて、御返事も無かりけり。P156
 @〔臣下ちやうしが事〕S0309N056
 重忠畏まつて、「恐れ存ずる次第にて候へども、昔、大国に太王有り、武勇の臣下を集めて、千人愛し、玉の冠、金の沓を与へて、召し使ふ。其の中の臣下に、ちやうしと言ふ賢人有り。大王是を召し、「此の仰せを保つて、七珍万宝、一つとして不足なる事無し。然るに、並びの国の市に、宝の数をうるなり。汝、彼の市に行きて、我が倉の内に、無からん宝をかひて来たるべし」とて、多くの宝を与へぬ。ちやうし、是を受け取り、彼の市に行きて見るに、王宮の宝に、一つとして漏れたる物無し。然れども、王宮、善根長く絶えて無かりけり。是をかひ取らんと思ひて、保つ所の財宝を、彼の国のひ人共を集めて、ことごとく施し、手を空しくして帰りぬ。大王問ひて曰く、「かひ取る所の珍宝如何に、見ん」と宣ふ。其の時、ちやうし答へて曰く、「王宮の宝蔵を見るに、金銀珠玉を始めとして、不足なる事無し。然れども、善根の無かりしかば、かひ取りぬ」と答ふ。大王、歓喜して、「其の善根見む」と宣ふ。ちやうしが曰く、「彼の国の貧者を集め、もつ所の宝をとらせぬ」と答ふ。大王、P157不思議に思ひしかども、賢人のはからふ事なりしかば、さてのみ過ごし給ふ。其の頃、国の兵起こりて、大王を傾く。合戦に打ち負けて、並びの国に移りぬ。其の時、千人の臣下、さしも愛せし恩を捨てて、一度に逃げ失せにけり。王一人に成りて、既に自害に及びける時、ちやうしが、暫く抑へて曰く、「待ち給へ。此の国の市にてかひ置きし善根、尋ねて見ん」とて行く。其の宝をえたりし貧人の中に、しはうと言ふ武勇の達者也。深き志を感じ、多くの兵を語らひ、此の王の為に、城郭をこしらへ、暫く引き籠りぬ。時有つて、運を開き、二度国に帰り給ふ。これ偏に、ちやうしがかひ置きし善根の故と、国王感じ給ふ。一人当千と言ふ事、此の時より始まりける。其の時、もと逃げ失せし千人の臣下、又出でて、「仕へん」と言ふ。大王聞き給ひて、「又事あらば、逃げぬべし。あたらしき臣下を召し使ふべし」と宣ふ。ちやうしいさめて、「始めたる臣下を、心知り難し。只もと逃げ失せし臣下を、召し使ひ給へ。人心有りて、二度の恩を忘れんや」と言ふ。大王、理を案じて、逃げ失せし臣下を、ことごとく尋ね出だして、召し使ふ。時に又、国大きに起こりて、王の都を傾く。帰り来たる所の臣下、二度の忘恩を恥ぢて、身を捨て、命を惜しまず、防ぎ戦ふ。然れば、勝つ事を千里の外にえ、位を永久に保ち給ふと申し伝へP158て候ふ。彼等も、然る者の子にて候へば、御恩を忘れ奉るべきにあらず。遂には、御用にこそたち申し候はんずれ」。君聞こし召し、「其れも、臣下尊きにあらず。ちやうしが賢に依つて也」「然らば、某をちやうしと思し召し、彼等を臣下になずらへて、御助け候はば、後の御せんどにもや、たち候ひなん。君君たる時は、臣礼を以てし、臣臣たる時は、君哀れみを残すとこそ、見えて候へ」。頼朝、「彼等、何の礼か有りし」。重忠承つて、「御助け候はば、如何でか、其の礼無かるべき。君御許し無くは、我々までも、果におごるべきにあらず。さあらんに取りては、あはざる訴訟なりとも、一度は、などや御免無からん」「理を破る法はあれども、法を破る理は無し。罪科と言ひ、法と言ひ、如何でか、彼等逃るべき」。重忠も、申しかかりたる事なれば、身をも命をも惜しまず、高声に成りて、申しけるは、「国を滅ぼすてんけんも、さんせは聞かずとこそ、承りて候へ。釈迦如来の昔、善恵仙人と申せし時、道を作り給ふ中間に、燃燈仏を通り給ふ。道悪しくして、わづらひ給ふ時に、仙人、泥の上に伏し給ひて、御髪をしき、仏を通し奉る。さつたい王子は、うゑたる虎に、身を与へ、尸毘大王は、鳩の量りに、身をかくる。是等皆、末代の衆生を思し召す、御慈悲の故ぞかし。就中、諸国を治め給ふ事、理非を正し、情を旨とし、哀れみP159を本とし給ふべきに、是程面々の申す、彼等を御助け無くては、人頼み少なく思ひ奉るべし。重忠が一期の大事と思し召し、助け置かれ候へかし」と、誠思ひ切りたる気色で、仏法世法、唐土天竺の事まで、引き掛け引き掛け、申されければ、君御思案有りて、「誠此の人は、内には五戒を守り、外には仁義を本とす、賢人ぞかし。此の重忠を失ひなば、神の恵みに背き、天下も穏やかなるまじ」と思し召しければ、「然らば、此の者共助け候へ。但し、御分一人には預けぬぞ。今日の訴訟人共に、ことごとく許す」と仰せ下されけり。御前祗候の侍共、思はずに、あつとぞ感じける。実にや、重忠、身にかへて申さるる一人には、御許しも無くて、「今日の訴訟人共に」と、仰せ下さるる有り難さよ。然れば、天下の主ともなり給ふと、重忠、感じ申されけるとかや。
 @〔曾我へつれて帰り、喜びし事〕S0310N057
 其の後、畠山の重忠、成清を呼び、「幼き人々の事、やうやうに申し預かり候ひぬ。はやはや御帰り候へ。曾我に、心許無く思ひ給ふべし。見参に入れたく候へ共、御前に候ふ間」と言ひ送りければ、曾我の太郎、是非をわきまへ兼ねて、只、P160「畏まり存ずる」とばかりぞ申しける。さて、二人の子供の馬を先にたて、曾我へ帰りける心の内、例へんかた無し。母が宿所には、是をば知らで、只泣くばかりなる所へ、人々、「帰り給ふ」と告げければ、母を始めて、喜ぶ事限り無し。一万が乳母、月さへと言ふ女房、庭上に走り向かひ、馬の口を取り、「君達の御帰り」と言はんとて、余りにあわてて、「馬達の帰り給ふぞや」と呼ばはりけり。兄弟の人々、「馬より下り、母が方に行きければ、一門馳せ集まり、喜びの見参、隙も無し。然れば、頼朝御憤り深く、御哀れみのあまねき事は、「めいてんの君は、時に蔽壅の累をなし、しゆんゑんの臣は、しばしばしんしの悲しみをいだく」とは、文選の言葉なるをや、今更思ひ知られたり。



P161曾我物語巻第四

 @〔十郎元服の事〕S0401N058
 光陰惜しむべし、時人を待たざる理、隙行く駒、つながぬ月日重なりて、一万は十三歳になりにける。身の不祥なるに、又、公方を憚る事なれば、秘かに元服して、継父の名を取り、曾我の十郎祐成と名乗りける。
 @〔箱王、箱根へ上る事〕S0402N059
 母、弟の箱王を呼び寄せて宣ひけるは、「わ殿は、箱根の別当のもとへ行き、法師に成り、学問して、親の後世弔へ。努々、男羨ましく思ふべからず。世を逃るる身なれば、綾羅錦繍の袖も、衣に同じ。十善帝王も、身を捨て、人に対するに、所無し。憂きもつらきも、世の中は、夢ぞと思ひ定むべし。伝へ聞くP162大目連せしは、母の教へ給ひし御言葉を、耳の底に保ち給ひてこそ、五百大阿羅漢には越え給ひし。構へて法師と成りて、父の跡をも、童が後生をも助け給へ」と申されければ、箱王、身に思ふ事有ると思ひけれども、「承り候ふ」とぞ言ひける。母喜びて、生年十一歳より、箱根に上せ、年月を送りける程に、箱王、十三にぞ成りにける。十二月下旬の頃、彼の坊の稚児・同宿、二十余人有りける者共の末まで、親・親しき方より、面々に音信共有りけるに、「下れ」と書きたる文も有り、或いは元三の装束に、師の御坊への贈り物添へたる文も有り、或いは父の文、母の文、伯父・伯母の文などとて、二つ三つよむ稚児も有り、五つ六つよむ稚児も有りける中に、箱王は、只母の文ばかりに、からがら装束添へて送りける。万羨ましくて、文袂に入れ、傍に行き、泣きしをれて、或る稚児にあひて言ひけるは、「人は皆、父母の文、親しき方の御文とて、読み給ふに、我は只、母の御文ばかりにて、父とやらんの御文は知らず。何とかかれたる物ぞや。見せ給へ。十郎殿と二宮殿は、何とやらん、此の程は、かき絶え問ひ給はず。曾我殿は坐しませども、一度のことづてにも預からず、一月に一度也とも、父の御文とて、「学問よくせよ、不用するな」なんどと言はれ奉らば、如何ばかりか、嬉しく恐ろしくも有りなまし。いつよりも恨めしきは、年の暮れ、P163恋しく見たき物は、父の御文なり」とて、さめざめとぞ泣きける、心無き稚児も、理とや思ひけん、共に涙を流しけり。然れば、箱王は、あらたま年の祝言をも忘れ、あたらしき春の朝拝をも、物ならず思ひ焦がれて、昼夜は、権現に参り、「南無帰命頂礼、願はくは、父の敵を打たしめ給へ」と、歩みを運びけるぞ、無慙なる。
 @〔鎌倉殿、箱根御参詣の事〕S0403N060
 御感応にや、同じき正月十五日に、鎌倉殿、二所御参詣とぞ聞こえける。箱王、是を聞き、年来の祈りの功積もり、神慮の御哀れみにしかじとぞ、喜びける。実にや、「九層の台は、累土より起こり、千里の行は、一歩より始まる」と言ふ老子の教へも、功は積もりて、遂に事をなす物をと、頼もしくぞ思ひける。工藤祐経は、切り者にて有るなれば、定めて御供には参り候はんを、見知らん事よと喜び、其の日を待ちし心の内、只千年を送るばかりなり。伝へ聞く、北洲の命も、千年の限りを保つなり。其れも限りあればにや、つながぬ日数重なりて、其の折節にもなりにけり。御供の人々には、和田、畠山、川越、高坂、江戸、P164豊島玉井、小山、宇都宮、山名、里見の人々を始めとして、以下三百五十余騎、花ををり、紅葉を重ね、装束共、綺羅天をかかやかし、陣頭に雲をおほひ、水干、浄衣、白直垂、布衣、権勢あたりを払ひ、行粧目を驚かす。凡そ、中間・雑色に至るまで、気色に色をつくす。後陣の警固の武士、甲冑をよろひ、弓箭を帯する隨兵、上下につがひ、左右の帯刀、二行に並び、御調度懸の人、左手、右手に相並ぶ。御向かへの伶人は、伎楽を調へ、羅綾の袂を翻す。御前の舞人は、■婁を打つて、舞行の踵をそばだつ。君の召さるる御船は、大船数多組み合はせ、幔幕を引き、沈のにほひ、四方にみつ。是や、諸仏の弘誓の船も、かくやと思ひ知られたり。侍共の乗りける船数、百艘に及べり。いづれも、屋形を打ちたりける。無双の武具を立て並べ、鎮まり返り、漕ぎつれたり。上代は知らず、末代斯かる見物あらじと、貴賎群集をぞなしける。大衆、稚児達を引きつれ、船付きまで、御向かひに参る。船より社頭までは、四方輿にぞ召されける。神前には、禰宜・神主、幣帛を大床に捧げ、別当・社僧は、経の紐を玉の甍にとき、神楽男は、銅拍子を合はせて、拝殿に祗候す。しかのみならず、臨時の陪従、当座の神楽、朝倉がへしのうたひものは、拍子の甲乙をしらべて、れいはんしよさいの儀を返りまうす。神感の起こるを厳重にして、掲焉も莫大なり。耳目の及ぶ所、こくちんP165にいとまあらず。高察仰ぐのみにぞ覚えける。
 @〔箱王、祐経にあひし事〕S0404N061
 箱王は、御奉幣の時までも、人一人もつれず、介錯の僧一人相具し、御座所の後ろに隠れ居て、御供の人々を、「彼は誰そ、是は如何に」と、詳しく問ひければ、此の僧、鎌倉の案内者にて、大名・小名のこさい知りたれば、教へけり。され共、未だ祐経をばあかさず。哀れ、問はばやと思へども、あやしく思はれじとて、残りの人を問ひまはす。「君の左の一座は誰そ」「彼こそ、秩父の重忠よ」「右の一座は如何に」「是ぞ、三浦の義盛よ」「さて、其の次は誰人ぞ」「里見の源太と言ふ人よ」「さて、其の次は」「豊島の冠者と言ふ人なれ」「只今、もの仰せらるるは、誰やらん」「是こそ、当時聞こゆる梶原平三景時とて、侍共の、鬼うらめに思ふ者よ」「又、右手の方に、少し引きのきて、半装束の数珠持ちて、香の直垂きたるは、如何なる人にて有るやらん」「彼こそ、御分達の一門、今伊東の主、工藤左衛門祐経よ。御分の父河津殿とは、従兄弟也。御前然らぬ切り者」とぞ教へける。さては、其れにて有りけるよ。此の事思ひ寄りて、言ふやらん、知りぬれP166ども、何事かあらんと、思ひこなして、言ふやらんと、いつしか胸打ち騒ぎ、思ひ寄らざる様にて、「此の者は、よき男にて有りけるや。三十二三にぞ成るらん。自らが父にや似たる」と問ふ。「少しもに給はず。まさしき兄弟さへ、似たるは少なし。まして、従兄弟に似たる者は無し。年こそ、河津殿の打たれ給ひし程なれ、其の坐しまさば、四十余りの人なるべし。是より遙かに丈高く、骨太くして、前より見れば、胸そり、後ろより見れば、うつぶき、側より見れば、四角なる大男にて坐しませしが、馬の上、かちだち、並ぶ人無し。殊に鹿の上手にて、力の強き事、四五か国には、並ぶ人無き大力なり。然れば、相模の国の住人大庭の三郎が弟、又野の五郎景久とて、相撲に負けざる大力を、伊豆の奥野の狩場にて、片手をはなちて、相撲に三番勝ちてこそ、いとど名を上げ給ひしか。其れを最後にて、帰り様に、敢へ無く打たれ給ひき。大力と申せ共、死の道には、力及ばず」とぞ語りける。箱王は、父が昔をつくづくと聞きて、今更なる心地して、忍びの涙にむせびけり。やや有りて、我、此の間祈りし願ひの、適ふにこそ有るべし。窺ひ寄りて、便宜よくは、一刀差し、如何にもならんと思ひ定めて、「御坊は、是に坐しませ。法師こそよらね、童は近くよりても、苦しからず。山寺にすめばとて、人を見知らぬはむげ也。近くよりて、見知らん」とて、赤地のP167錦にて、柄鞘まきたる守り刀を、脇に差し隠し、大衆の中をぬけ出でて、祐経が後ろ近くぞ、狙ひ寄りける。祐経も、しばしの冥加や有りけん、梶原三郎兵衛を隔てて、箱王を見付けて、是なる童の眼ざし、河津の三郎に似たる者かな、誠や、此の御山に、伊東が孫の有りと聞けば、もし是にてもや有るらんと、目をはなさず、守りければ、左右無くよらざりけり。祐経、猶よくよく見れば、眼の見返し、顔魂、少しも違ふ所無し。祐経は、念誦はてて後、大衆の中へ立ち入りて、「伊東の入道が孫、此の御山に候ふと聞く。何処の坊に候ふぞや。名をば何と申すぞ」と問ひければ、或る僧申す様、「御名をば、箱王殿と申して、別当の坊に坐しまし候ふ」「此の頃は、里に候ふか、是に候ふか」と問ひければ、「是にこそ」とて、東西を見めぐらし、「長絹の直垂に、松に藤をぬひて、萌黄の糸にて、菊綴して、此方向きにたち給ふこそ」と教へければ、然ればこそと思ひ、本座に帰り、箱王を招きければ、願ふ所と喜びて、祐経が膝近く添ひ寄りける。左の手にて、箱王が肩を抑へ、右の手にては、髪をかきなでて、「あつぱれ、父にに給ふ物かな。今まで見奉らざる事の本意無さよ。わ殿は河津殿の子息と聞くは、誠か。兄は男になり給ふか。曾我の太郎は、いとほしくあたり奉るか。知らざる者の、なれなれしく、斯様に申すとばし思ひ給ふな。御分の父河津殿とは、従兄弟子なり。P168殿原にも、親しき者とては、祐経ばかり也。見奉れば、昔の思ひ出でられて、今更哀れに存ずるぞ。急ぎ法師に成り、別当に継ぎ給へ。弟子多しと言ふとも、祐経程の方人持ちたる人あらじ。便宜を以て、上様へも、よき様に申し、寺門の訴訟あらば、申し達すべし。今より後は、如何なる大事なり共、心を置かず、仰せられよ。適へ奉るべし。わ殿の兄にも、斯様に申すと伝へ給へ。父にも添はで、如何に頼り無く坐しますらん。行縢、乗馬などの用の時は、承るべし。身貧にして、他人に交はらんより、親しければ、つねに問ひ給へ。誠や、古き言葉に、「尊きは賎しきがそねみ、智者をば愚人がにくむ。さいちよは千歳に絶えず、むくわひは千劫絶えず」と申し伝へたり。さても、見参の始めに、折節、引出物こそ無けれ、又空しからんも、無念なり。是を」とて、懐より赤木の柄に胴金入れたる刀一腰取り出だし、箱王にこそとらせけれ。何と無く受け取れ共、箱王は、涙にむせびけり。便宜よくは、一刀差さんと思へども、目をはなさず、其の上、大の男、つねに刀に手を置きければ、なましひなる事をし出だし、小腕取られて、人に笑はれじと、思ひ止まりぬ。只言ふ事とては、「さん候」とばかり也。「卒爾の見参こそ、所存の外なれ。さりながら、喜び入りて存じ候ふ。里下りのついでには、わ殿の兄十郎殿と打ちつれて、来たり候へ、P169返す返す」と言ひて、立ちにけり。箱王、力に及ばず、止まりぬ。日暮れければ、もしやと便宜を窺ひけれども、宵の程は、御前に祗候しをれば、夜ふけて、罷り出づる所を伺ひけれども、庭上に、兵いらかをなす。火は天の眼の様なれば、返りて、我が身を隠さんと立ち忍ぶ声、人までの事は、思ひもよらず。左衛門の尉が宿坊と御前との間なる石橋の辺に、徘徊し待ちけれども、鰭板の陰に、郎等共立ちかこみ、前後左右に有りければ、其れも適はで、暁に及ぶまで、心をつくし狙へども、少しの隙無ければ、徒らに夜をあかす、心の内ぞ、無慙なる。次の日は、君の御下向の船に召され、滄海を渡り給ふ。箱王は、船出まで、人目がくれに交はりて、敵の後ろを見送れば、侍共、思ひ思ひの屋形船にて、御共申す。箱王は、左衛門が船の内のみ見送りて、泣くより外の事ぞ無き。彼の松浦佐用姫が、雲井の船を見送りて、石となりけん昔、思ひ遣られて、空しく坊に帰りけり。其の後、いよいよ此の事のみ心にかかりて、一字も忘れじと思ふ経文をも打ち捨てて、昼夜権現に参り、「今度こそ、空しく候ふとも、遂には、我が手に掛け給へ」と、祈り申すぞ、哀れなる。P170
 @〔眉間尺が事〕S0405N062
 此の心にて、古きを思へば、昔、大国に、楚しやう大王有り。后数多持ち給ふ中に、とうやう夫人と申す后、御身つねづね劣りければ、鉄の柱にむつれつつ、御身をひやしけるが、程無く、懐妊し給ひける。大王聞き給へて、位をゆずるべき王子も無かりつるに、誕生成り給はん事よと、喜び給ひけれども、三年まで、生まれ給はず。大王、不思議に思し召し、博士を召し、御尋ね有りければ、「誠に、君の御宝をうみ給ふべし。さりながら、人にては有るべからず」と申す。「何物なるべき」と、覚束無くて待ち給ふ所に、博士の申す如く、人にてはあらで、鉄のまるかせをうみ給ひけり。大王是を取り、莫邪を召し、剣に作らせ給ひければ、光世に越え、験あらたなる名剣にて有りける。大王賞玩し、昼夜身をはなし給ふ事無し。然るに、此の剣、つねに汗をぞかきける。不思議なりとて、又博士を召し、うらなはせ給ふ。勘文にて、申し上げけるは、「過ぎにし金は、雌剣・雄剣とて、剣二つ作り、是夫婦なり。雄剣ばかり参らせて、雌剣を隠す故に、妻をこひて、汗をかき候ふ。是を召し、添へて置かるべし」と奏聞申しければ、即ち、其の鍛冶を召されける。鍛冶、家を出づるとて、妻女にあひて申しけるP171は、「我隠し置きたる剣、尋ね給ふべきにぞ、召さるらん。取り出だすまじければ、定めて攻め殺されなんず。彼の剣は、南山の其処許にうづみ置きたる。我が三歳の男、成人の後、ほり出だしてとらせよ」と言ひ置きて、王宮へ参りぬ。陳じ申しければ、拷問の後、遂に攻め殺されにけり。さて、鍛冶が子、二十一歳にして、母の教へに従ひ、彼の剣ほり出だして持ちけり。然れども、王威を恐れて、里へは出でず、山に隠れ居たりける。或る時、君王の夢に、眉の間一尺有る者来たり、我を殺すべし、其の名を眉間尺と言ふと見えたり。王、此の夢に恐れて、「斯様の者あらば、搦めても参らせよ」と、国々に宣旨を下さる。「勲功は、こふによるべし」とぞ聞こえし。此処に、伯仲と言ふ者、眉間尺がもとに行き、「汝が首、多くの功に仰せられたり。然るに、汝が為に、君王は、まさしき親の敵ぞかし。さぞ、打ちたくぞ思ふらん。我が為にも、又重き敵なり。己が首を切りて、我にかせ。件の剣、共に持ちて行き、大王に近付き、打たん事安かるべし。然れば、御分が首をかりて、本意をとぐるにおきては、我とても、遅速の命、王の為に失ひなん」と言ひければ、眉間尺聞きて、「父の敵、打たんにおきては、我が命、何か惜しかるべき。構へて」と言ひて、自ら首をかき落として、出だしけり。然れども、件の剣の先をくひ切りて、口にふくみP172て、持ちたりけり。伯仲は、剣に取り添へ、王宮に捧ぐ。大臣に見せられければ、夢に違はず、眉の間一尺有る首。又、剣も、我が持ちたる剣に、露も違はず」とて、君王喜び給ふ事限り無し。然れども、此の首の勢、未だつきず、眼を見開きたり。大王、いよいよ恐れ給ひて、「然らば、釜に湯を沸かしてによ」とて、大きなる釜に此の首を入れて、三七日ぞ、にたりける。然れ共、猶眼をふさがず、あざ笑ひて有りければ、其の時、伯仲申す様、「是は大王の御敵なれば、王を見奉らんとの執情に依り、勢残り覚え候ふ。何かは苦しく候ふべき。一目見えさせ給ひて、彼が念をもはらさせ給へかし」と申したりければ、君王聞こし召し、「然らば」とて、端近く出でさせ給ひて、釜の辺に近付き給ふ。其の時、眉間尺が首を見せ申す時に、彼の首、口にふくみ置きし剣の先を、王にふき掛けければ、即ち、大王に飛び付き、首を打ち落とす。伯仲走り寄り、大王の首を取り、眉間尺がにらるる釜の中へ打ち入れたり。王の首も、勢劣らで、眉間尺が首とくひ合ひけり。其の時、伯仲、山にて約束せし事なれば、「我も、大王に野心深し。此の為ぞかし」と言ひもはてず、我が首をかき切り、釜の中へ投げ入れたり。此の三つの首、釜の中にて、一日一夜ぞ、くひ合ひける。遂には、王の首、負けにけり。其の後、二つの首も、威勢衰へにけり。執心の程ぞ、恐ろしき。さて、P173此の三つの首を、三つの塚につき込めて、三王塚とて、今に有りとぞ伝へける。今の箱王も、未だ幼き者なれども、親の敵に心を染め、昼夜忘れぬ志、是にも劣らじとぞ見えける。是や、文選の言葉に、「流れ長じては、即ちつき難く、願ひ深くしては、即ちくち難し」と見えたり。然れば、此の人々の成長の末、おにとほめざるは無かりけり。
 @〔箱王、曾我へ下りし事〕S0406N063
 然る程に、年月過ぎ行きければ、十七にぞなりける。或る時、別当、箱王を近付けて、「御分は、はや十七になり給へば、上洛し、受戒をし給ふべしなれば、垂髪にて上り給はば、ものくきよらで適ふまじ。其れ又、大事なり。是にて、髪を下ろして、上るべし」と宣ひければ、身に思ひの有る物をと思ひながら、「御はからひ」とぞ申されける。「然らば」とて、大衆にふれ、出家の用意有り。母の方へも、言ひ下しけり。既に明旦とぞ定まりける。箱王、つくづくと思ひけるは、我法師になりたりとも、折節に付けて、此の事思ひ思はば、罪深かるべし、一向に思ひ切り、男に成りて、本意をとぐべし、其のみぎりに成りては、後悔すとも、P174適ふまじ、此の事を、十郎殿と言ひ合はせて、とにもかくにも定めんと案じ、人にも知らせずして、只一人夜にまぎれて、曾我の里へぞ下りける。「山月東に、前途を差して、しかも思ひを労ず、辺雲秋すずしくして、こうくわを同じくして、しかも魂をけす」と言ふ、藤原の篤茂が餞別の詩、今更思ひ出でられて、曾我の里にぞつきにける。十郎が乳母の家に立ち入りて、十郎を呼び出だし、対面しければ、「如何にして坐しますぞや。明日は、一定出家の由、聞きつる間、上りて見奉らんと存ずる所に、下り給ふ嬉しさよ」と言ひければ、箱王聞きて、「のびのびの御心なるべしと思ひつるに、少しも違はず。斯様の事、きはきはと、予てより御定め候へかし。既に明けなば、事定まるべし。打ちのびて、道行くべきにあらず。よくぞ参り候ひける。御左右を待ち参らせなば、空しく髪をそられなん。其れにつきては、一年、鎌倉殿箱根参詣の時、祐経御供せしを見そめしより、少しも忘るる隙無し。仮令法師に成りて候ふとも、此の悪念は、はれ候ふまじ。一念無量劫と成る事、今に始めざる事にて候へば、思ひわづらひて、罷り下りて候ふ。定めて、御上り候はんと存じ候ひしかども、其の儀も候はず。申し合はせてこそ、とにもかくにもなり候はめ。もし又思し召し捨てさせ給はば、りのついでに上洛して、我が山にて髪そり落とし、膚を墨に染め隠し、足に任せP175て、頭陀乞食して、一期の程、親の後世、懇ろに弔ひ奉るべし。又、男に成り、御あらましの御事、適はぬまでも、仕るべきか。はやはや是非の御返事を承り切るべし。身の浮沈、今に候ふなり。なまじひに罷り下りて、帰山も見苦し。あとに如何ばかり、騒ぎ候はん。夜もふけ行き候ふ」と攻めければ、やや有りて、「祐成が心を見んとて、斯様に宣ふか。烏帽子をきせん事こそ、本意なれ。思案に及ばず」と言ふ。箱王聞きて、「さ程思し召し定むる事、などや、予てより承り候はぬや。某、罷り下り候はずは、御左右有るまじきにや」と言ひければ、十郎聞きて、「此の事は、内々別当も知り給はぬ事あらじ。夜明けて上らむと存じ候ひしに、嬉しくも下り給ひける」と言ひければ、箱王申しけるは、「母や師匠の御心に違はん事、如何すべきなれ共、いづかたの御事も、一旦の事と覚えたり」と言ひければ、十郎聞きて、「其の科をば、祐成に任せよ。如何にも申し許すべし」。夜も明けければ、「いざや」とて、馬に打ち乗り、只二騎、曾我を出でて、北条へこそ行きにけれ。
 @〔箱王が元服の事〕S0407N064P176
 さきざきもつねに越えて、遊ぶ所なりければ、時政見参して、「如何に、珍しや」と、色代しければ、十郎、笏取り直し、申しけるは、「弟にて候ふ童を、母が箱根へ上せて、法師になさんと仕り候へば、世に不用にて、学問の名字をも聞かず、剰へ、鹿・鳥くはで適はじと申し候ふ間、堅固の徒ら者、教へに従はざらん弟子をば、早く父母に返すべきと言ふ言葉に付き、里へ追ひ下さるる折をえて、男にならんと仕り候ふを、母にて候ふ者、曾我の太郎など、しきりに制し候ふ間、親しき三浦の人々、伊東の方様にてと存じ、相具して参りて候ふ。仮令道の辺にて、頭を切りて候ふとも、御前にてと申し候はば、其の身の勘当は候ふまじ」と申しければ、「誠に、面々の御事、見はなし申すべきにあらず。然れば、余所にても、さあらば、無念なるべし。もつ共本望也。時政が子と申さん」とて、髪を切り、烏帽子をきせて、曾我の五郎時致と名乗らせける。鹿毛なる馬の、五臓太くたくましきに、白覆輪の鞍置かせ、黒糸の腹巻一領添へて、引かれけり。「つねに越えて、遊び給へ。定めて、母の心には違ひ給ふべし」と、色代して、帰りけり。P177
 @〔母の勘当蒙る事〕S0408N065
 箱根の別当、是をば知らで、箱王を尋ねけるに、閨の枕も衾も変はらで、主は見えざりければ、急ぎ曾我へ人を下し尋ねけれども、「是にも無し」と答へければ、別当、大きに騒ぎ、方々を尋ね給ふぞ、愚か也。其の後、十郎は五郎と打ちつれて、曾我へ帰りぬ。内の者共見て、「箱王殿を男になし、十郎殿のつれ参らせて坐しましたり」と言ひければ、母聞きて、「別当の物騒がしく尋ね給ひけるぞや。十郎、昨日より見えざると言ひつるが弟が、法師に成るを見んとて、箱根へ上りけるかや。稚児にてよりもわろきやらん」。「男になりたる」と言ふを、「法師になりたる」と聞きまがひ、いつもの所に出で、「是へ」と宣へ共、身の科に依り、五郎、左右無く内へも入らざりけり。母待ち兼ねて、急ぎ見んとて、障子をあけければ、男に成りてぞ居たりける。母思ひの外にて、二目共見ず、障子を引きたて、「是は夢かや、現かや、心憂や、今より後、子とも母共思ふべからず。仮初にも見えず、音にも聞かざらん方へ惑ひ行け。何のいさましさに、男にはなりたるぞや。十郎が有様を、羨ましく思ふか。一匹持ちたる馬をだにも、けならかにかはず、一人具したる下人にだにも、四季折節に扶持をもせP178ず、明け暮れ見苦しげにて、目もあてられず。世に有る人々の子供を見る時は、誰かは劣るべきと思ふにも、涙の隙は無きぞとよ。思ひ知らずして、物に狂ふか、恨めしや。法師になりぬれば、上臈も下臈も、乞食頭陀をしても苦しからず。又、下臈なれども、智恵才覚あれば、法師にそしり無し。十郎だにも、男になせし事の悔しくて、入道せよかしと思うたる所に、口惜しの有様や。「善を見ては喜び、悪を見ては驚け」とこそいへ。哀れ、河津殿程、罪深き人は無し。後世弔ふべき人々は、御敵とて滅びはてぬ。たまたま持ちたる子供さへ、孝養すべき物一人も無し。誠に末の絶えなば、まのあたりの本領を余所に見んも悲しくて、もしやと思ふ頼みに、兄は男になしたれども、親の跡をこそつがざらめ、名をさへかへて、曾我の十郎なんどといはるるも、口惜しし。一人の子は、父死して後、生まれしかば、捨てんとせしを、叔父伊東の九郎が養育せしが、其れも平家へ参り給ひて後は思ひ掛けざる武蔵守義信、取りて養育して、今は、越後の国の国上と言ふ山寺に有りと聞けども、父をも見ず、母にも親しまねば、思ひ出だして、一返の念仏を申す事もあらじ。其れは只他人の如し。彼の子をこそ法師になして、父の孝養をもさせんと思ひしに、斯様に成り行く事の悲しさよ。しかも、忘るる事は無けれども、心ならずに、忍びてこそ過ごせ、今は、誰にか、P179後の世をも問はるべき。哀れ、斯かる憂き身の生をかゆるならば、昔よりなどや無かるらん。夫れ、「良薬は口ににがくして、しかも病に利有り。忠言は耳にさかひて、しかも行を利せり」と申す言葉の有るなるぞ。よくよく案じても見給へ」と、泣く泣くくどきければ、五郎物ごしに聞きて、泣き居たりけるが、兄の方に帰りて、申しけるは、「只今の母の仰せられし事共、一々其のいはれ有りて覚え候ふ。死し給へる父を悲しみて、孝養を致さんとすれば、いきて坐します母の不孝を蒙る事、これ誠にひたうの故なり。身の罪の程こそ、知られて候へ。あまねく人の知らざる先に、髪切り候はん」と申しければ、十郎言ひけるは、「母の御勘当は、予てより思ひ設けし事なり。然ればとて、昨日男に成りて、今日又入道するに及ばず。人こそ数多知らず共、先づ北条殿の思はれん事も、かろがろしし。かつうは、物苦はしきにも似たり。ししやうの事にてはあらじ。いざや、いづかたへも行きて、慰み候はん」とて、打ちつれてぞ、出でにける。遊ぶ所は、三浦介義澄は、伯母聟なり、土肥の二郎が嫡子弥太郎も、伯母聟也、平六兵衛は、従姉妹聟、北条殿は、烏帽子親、二宮の太郎は、姉聟なれば、彼等がもとに通ひつつ、二三日、四五日づつぞ遊びける。たまたま曾我に帰りて、五郎は不孝の身なれば、十郎がもとに隠れ居て、母の恋しき折々は、物の隙より見奉れども、我が身はP180見えじと隠れける。「然れば、人界に生まるるとは雖も、白駒の隙を過ぐるに似たり。老少不定の習ひなれば、彼も我等も、おくれ先立つ習ひ、空しかるべきこそ、無念なれ。時致も、法師に成るべき身の、男に成りて、母の勘当を蒙るも、只此の故なり。如何にも、とく急ぎ給へ」と申しければ、祐成も、「さぞ思ひ候へ。さりながら、いま一人も人をからふべし」。
 @〔小二郎語らひ得ざる事〕S0409N066
 「誰にや」と問ふ。「京の小二郎とて、河津殿在京の時、人に相なれて、設け給ふ子なり。彼を呼び寄せて、語らはん」と言ひければ、五郎聞きて、「よくよく御ためらひ候へ。一腹一生の兄ならば、如何に臆病に候ふ共、罪科逃れ難くて、同意すべし。彼は、別の事。如何で左右無く、大事を仰せ出だされん。をさまり難く覚え候ふ。御契約には過ぐべからず候へ共、もし聞き入れずは、わろき事や出で来なん。橘は、淮北に生じて、枳殻と成り、水土の事なればなり。隔てのあれば、兄弟なりとも、心をおくべき物をや」と言ひければ、十郎聞きて、「さりとも、其の儀はあらじ。男と言はるる程の者が、異姓他人なり共、打ち頼まんに、聞かざるP181事やあらん。まして、一腹の兄弟にて、如何でか同心せざるべき」とて、小二郎を呼びて言ふ様、「かねても、大方知り給ひぬらん。此の事を思ひ立ちて候ふ。然れば、一期の大事なれば、只二人して遂げ難し。三人寄り合ふ物ならば、安かるべし」と言ひければ、小二郎聞きて、大きに騒ぎ、「此の事、如何思ひ給ふ。当代然様に成りては、親の敵、其の数有りと雖も、勝負を決する事無し。只、上意を重くして、肩を並べ、膝をくむ次弟なれば、是を恥とも言はずして、所領をもつ折節なり。当時、然様の事する者は、剛の者とは言はで、しれ者とこそ申せ。誠に、敵をまのあたりにおきて、見給ふ事のめざましくは、京都に上り、如何にもして、本所の末座に連なりて、院内の御見参にも入り、冥加あらば、御気色を窺ひ、院宣・令旨を申し下し、鎌倉殿に付け奉り、敵を本所に召し上せ、記録所にて問答し、敵人をまかし、所領を心に任すべし。君敵と成りては適ふべからず。古人の言葉にも、「徳を以て人に勝つ者はさかえ、力を以て人に勝つ者は、遂に滅ぶ」と見えたり。其の上、さばかり果報めでたき左衛門の尉を、各々の分限にて、打たん事は適ふまじ。とまり給へ」と言ひ捨てて、立ちにけり。兄弟の人々は、大事をば言ひ聞かせ、言葉にも掛けず、座敷をけたてられぬ。あきれはてて居たりける。やや有りて、五郎申しけるは、「然ればこそ、P182今はよき事あらじ、日本一の不覚悟人にて有りける物。所知荘園の敵ならばこそ、訴訟をも致さめ。不思議の事を言ひつる物かな。金を試みるは火なり。人を試みるは酒なり。彼の者は、酒をだにのみぬれば、何事がな言はんと思ふ者なり。夫れ、大海の辺の猩々は、酒に著して、血を絞られ、滄海の底の犀は、酒を好みて、角を切らるる也。斯様の理を知りながら、言ひつる事こそ悔しけれ。一定、二宮の太郎に言ひつること覚えたり。其れ、曾我殿に語りなん。さあらば、母も知り給ふべし。彼是以て、祐経に知られ、返りて狙はれん事、疑ひ無し。斯かる大事こそ候はね。第一、上へ聞こし召されては、死罪・流罪にも行はれ、身を徒らにせん事の無念さよ。いざや、此の事漏れぬ先に、小二郎が細首打ち落とし、九万九千の軍神の血まつりにせん。我等がしたるとは、誰か知るべき」と怒りければ、十郎聞きて、「然ればとて、か程の大事、如何でかもらすべき。罪の疑ひをばかろくし、功の疑ひをば重くせよ。喜ぶ時は、みだりに無功を賞し、怒る時は、みだりに無罪を殺す。是は、大きなる誤り也。仏も深く戒め給ふ。心得べし」と言ひければ、五郎聞き、「是は無罪を殺すにては候はず。斯かる不覚人、有罪とも、無罪とも、言葉に立たざる奴めをば、急ぎ暇をくれ候ふべきにて候ふ」と申しければ、「如何で、他人に、P183かくとは言ふべき。是も、只、我等を世にあれと思ひてこそ、言ひつらめ。然らば、口を固めよ」とて、追ひ付きて、「只今申しつる事は、たはぶれごとなり。誠し顔に、人に語り給ふな。もし聞こゆる物ならば、偏に御辺の所為と存じ、長く恨み奉るべし。返す返す」と言ひければ、「さ承る」とて、さりぬ。此の約束有りながら、小二郎思ひけるは、余所へもらさばこそ悪しからめ、母に見参して、此の事を詳しく語る。母、聞きも敢へず、十郎を呼びければ、五郎、先に心得て、「此の事と覚えたり。時致も、身を隠し、御供して聞き候はん」とて、十郎とつれて、母の有り所へ来たり、ものごしに聞けば、母、女房達を遠くのけて、泣く泣く宣ひけるは、「誠か、殿原は、さばかり恐ろしき世の中に、謀叛を起こさんと宣ふなるか。童や二宮の姉をば、何となれと思ひて、斯かる悪事をば、思ひ立ち給ふぞ、死したる親のみにて、いきたる我は親ならずや。箱王が男に成るにて、一定悪事せんと聞く。わ殿がすかしてこそ、男にはなしつらめ。わ殿、無用の事くはたてつる物かな。恥は家の病にて、末代失せずと申ども、事にこそよれ。世にあらんと思はば、恥を忍びて、益を蒙れとこそ申せ。実にや、河津殿の打たれし時、童思ひに絶え兼ねて、言ひし事を聞き持ち給ふか。一旦はさこそ思ひしか。狩場へ打ち出で給ふに、四五百騎P184の中に、すぐれて見えしが、帰り様に、引きかへたりし悲しさ、火にも水にも沈まんと思ひしに、五つや三つになりしを、左右の膝にすゑ、「二十にならざる先に、親の敵を打ちて見せよ」と、童言ひし時、箱王は聞きも知らず、わ殿は言ひつる、「おとなしく成りて、父の敵の首を切らん」と言ひしこそ、多くの人をば泣かせしか。其れを忘れずして、母が言ひし事なればとて、斯様に思ひ立ち給ふかや。うたてさよ。返す返すもとまり給へ。此の頃は、昔の世にも似ず、平家の世には、伊豆・駿河にて、敵打ちたる人も、武蔵・相模・安房・上総へも越えぬれば、日数積もり、年隔たりぬれば、さてのみこそあれ。当代には、いささかも悪事をする者は、蝦夷が千島へ至りても、其の科逃れず、又親しき者までも、其の科逃れ難し。女とて、所にも置かれず。幼ければとて、助かる事無し。斯様に、さしも厳しき世の中に、如何で悪事を思ひ立ち給ふぞ。汝等十一・九になりし時、祖父伊東の御敵とて、召し出だし、既に切らるべかりしを、畠山殿、「自然の事あらば、かかり申すべし」とて、預かり申し、命共を助けられしぞかし。数ならぬ童が事は、さて置きぬ。重忠の大事をば、如何し給ふべき。童がいきたらん程は、目をふさぎ、恥をも余所にして坐しませ。心憂き目を見せ給ふな。殿原、今まで有り付けざるこそ、心にかかり候へども、何事も思ふ様にP185あらねばぞとよ。童が身にては、憚りあれども、男は、思はしき物にだにあへば、然様に詮無き心はうするぞや。哀れ、父だに坐しまさば、童に、心はつくさせじ。如何なる人の聟にも成り、思ひ止まりて、念仏をも申し、父にも回向、童をも助けよ。論語に曰く、「極めて衰ふる時は、必ず又さかんなる事有り」と申すに、などや、方々のさのみ申す事の適はざらん、悲しさよ。箱王、如何に男にならんと言ふとも、御分として止めんに、左右無く男に成るべからず。哀れ、実に適はぬ事なれ共、童死して、父だにいきて坐しまさば、如何なる不思議を思ひ立つとも、父の命をば背かじ。二宮の娘、如何なる有様を思ひ立つとも、童が打ちくどき言はんに、などか聞かで候ふべき。男子の為に、母親は何にも立たず」とて、さめざめと泣き給ふぞ、哀れなれ。十郎、流るる涙を直垂の袖にて押し止め、つしんでぞ居たりける。やや有りて、母宣ひけるは、「此の事を小二郎大きに驚き、制させんとて、聞かせたるぞ。然ればとて、小二郎恨み給ふな。人に知らすなとて、自らが口を固めつるぞ。「其れ程の大事を左右無く語り申すは、此の殿原返り聞きては、悪し様に思ひ候はんずれども、人々の祖父こそあらめ、さのみ末々まで絶えせん事、不便なりと思し召され、君より御尋ね有りて、先祖の所領を安堵するか、しからずは、別の御恩を蒙りP186候はば、各々までも、面目にて候ふべし」と申して立ちつる。其れも、殿原を思ひてこそ、言ひつらめ。努々憤り給ふべからず。理をまげて、思ひとまり給へ」と宣ひければ、十郎、「承りぬ。但し、此の事は、何と無きたはぶれに申しつるを、誠し顔に申されつらん不覚さよ。かつうは、御推量も候へ。当時、我等が姿にて、思ひもよらぬ事」とて立ちければ、五郎も足抜きして立ちけるが、十郎に申しけるは、「然ればこそ申しつれ、小二郎を失ふべかりつる物を、助け置きて、斯かる大事をもらされぬる事こそ、安からね。心にかからん事をば、ためらひ候はず、逸早にすへべき物を。哀れみ胸をやくとは、斯かる事をや申すべき。今は適はじ。我等が所為と思さめ」とて、息継ぎ居たる。「さても、此の事思ひ止まるべき様に、妻子持ちて、安堵せよと仰せられつるこそ、耳に止まりて、哀れにこそ候へ。寒(さむ)き者は、尺玉をもむさぶらで、たんかを思ひ、うゑたる者は、千金をも顧みずして、一食を美す。身に思ひのあれば、顧みずして、所領所帯も、のぞみ無し。只思ふ事こそ、忙はしくは存ずれ。男の心止まる物は、妻子に過ぎずと雖も、我等討死の後、残り止まりて、山野に交はらんも不便なり。又、男女の習ひ、若き子一人も出で来たらば、我法師に成るべき身なれ共、此の為に斯様になりぬれば、定めたる妻もつべからP187ず。遊びなんどは、夫の僻事掛かるまではあらじ。然れば、手越・黄瀬川の辺にて、さりぬべき遊君あらば、相なれて通ひ給へ。しかも、道の辺なり。敵を窺ふべき便りも、然るべし」と申しければ、「執心、後生の為、然るべからず。一日も命あらん限りは、心静かに念仏申して、後生を願ふべし。我等が命、今あれば有るが、只今も便宜よくは、打ち出でなん。阿弥陀仏」と申して、過ぎ行ける心の内こそ、無慙なれ。
 @〔大磯の虎思ひ染むる事〕S0410N068
 然れば、しうれんのせいつきずして、大磯の長者の娘虎と言ひて、十七歳になりける傾城を、祐成の、年頃思ひ染めて、秘かに三年ぞ通ひける。是や、古き言葉に、「移し得たりや楊妃らうの靨を、成し現せりにんみんあをきたる唇を」なんど思ひ出だして、折々情を残しける。五郎も、影の如く、寸も離れずして、諸共に通りけり。是も只、敵の便宜を狙はん為とぞ見えし。哀れなる有様、志の程、無慙と言ふも余り有り。或る時、敵左衛門の尉、伊豆より鎌倉へ参りける折節、曾我兄弟、大磯に有りけるが、五郎見付けて、十郎に告げたりP188ければ、「斯様の便宜を狙はん為にこそ、年来是へも通ひつれ。砥上原こそ、よき原なれ。いざや、追ひ付き、矢一つ射ん」とて、弓押しはり、矢かきおひ、馬に打ち乗り、追ひ付き見れば、江間の小四郎打ちつれて、五十騎ばかりにて、打ちかこみ歩ませければ、「左右無く二騎掛け入りて、打たん事も適ふまじ。一期の大事にて有りければ、し損じ、はられんより、只何と無く通らんと思ふは、如何に」と言ふ。時致も、「かうこそ」とて、打ちつれて、通りけり。「是より帰らば、人もあやしと思ふべし。ついでに三浦へ通り候ヘ」とて、遙かに引き下がりて、歩ませ行く程に、彼は鎌倉へ行きぬ。兄弟は、三浦へこそ行きにけれ。
 @〔平六兵衛が喧嘩の事〕S0411N069
 此処に、十郎が身にあてて、思はざる不思議こそ出で来けれ。故を如何にと尋ぬるに、三浦平六兵衛が妻女は、合沢の土肥の弥太郎が娘なり。此の人々とは従姉妹なり。幼少より、叔母に養ぜられて、伊藤に有りける程に、十郎と一所に育ちけり。やうやう成人する程に、十郎、彼に忍びて、情を懸けたりける。互ひの志深ければ、家にも取りすゑ、誠の妻にも定むべかりしを、敵を打たんと思ひけるP189間、家を忘れて、只女のもとへぞ通ひける。かくて、日数をふる程に、父、是をば知らずして、平六兵衛にあはすべしとてこひけり。忍ぶ事なりければ、知らで、成人の娘、一人おくべきにあらずとて、三浦へ遣りにけり。女又、「斯かる事有り」と言ふべきにあらねば、十郎が方へ、忍びて文を遣り、詳しく問ふ。然れども、けはけはしく、誠の妻とも頼まざりければ、恨みの袖しをるるのみにて、親にはからはれて、力及ばずして、義村が方へ行きにけり。然れども、志の深ければ、或る時、義村が在京の隙に、忍びて十郎がもとへ文を遣はしけり。従姉妹の文也ければ、祐成見て、苦しからずと思ひけれども、留守の間は、然るべからずとて、返事もせざりけり。人の口のはかなさは、義村に知らせたりけり。不思議に思ひ、内々尋ね聞かばやと思ふ程に、京都の御用過ぎて、鎌倉へ参りけるに、曾我の人々は、三浦より帰り様に、腰越にて行き合ひけり。兄弟の人々は、三浦の殿原とは知らで、馬鞍見苦しと思ひければ、傍へ駒打ち寄せ、人々を通さんとす。平六兵衛は、曾我の十郎と見て、日頃の便宜を喜び、郎等二三騎有りけるを、遙かの後に残しおき、むねとの者六七騎相具して、此の人々の隠れ居たる船の陰に押し寄せ、「誠や、御分は、義村が在京の間に聞く事有り」と、にがにがしく言ひ掛けたり。然れども、十郎事ともせず、あざ笑ひ、P190「いかさま、人の讒言と覚え候ふ。よくよく尋ね聞こし召し候へ。斯様の次第、見参に入り、ぢきに承り候ふ所、所縁の証と存ずる也。仮令身に誤り有り共、一度は御免にや蒙るべき」とぞ言ひける。五郎は、義村が大きに怒りたる気色を見て、靫より大の雁股抜き出だし、矢先を義村にあて、只一矢と思ふ顔魂、差し現れたり。義村、五郎が勢を見て、誠に大剛のをこの者也、命勝負しては、損なり、後日をこそと思ひ鎮めて、何と無き辞儀に言ひ成して、鎮まりぬ。此の人々、事弱くも見えなば、即ち内も違へべき体なりしかども、五郎も、思ひ切りたる色見えければ、其の儘通りにけり。身をかろくして、名を重くすれば、十分に死ぬべき害を逃るるとは、斯様の事を言ふべきにや、不思議なりし事共なり。
 @〔三浦の片貝が事〕S0412N070
 又、此の人々の伯母聟に、三浦の別当と言ふ者有り。片貝と言ひて、優なる美女を召し使ひけり。別当、折々情を懸けたりしを、女房聞き、安からずに思ひ、淵川にも身を沈めんと言ひければ、「如何でか、彼等体の者に思ひかへ奉るべき。P191月まつ程の夕まぐれ、風の便りの徒然を慰むにこそ。今より後は、思ひ捨てぬべし。心安く」と言ひけれ共、猶も思ひ止まらで、うづみ火の下に焦がるるたきもののにほひは、余所に現れて、心を此の儘にて、事を限らんと思ひつつ、十郎に言ひ合はせんとて、急ぎ人を遣はし、十郎を呼び寄せけり。いつと無く、行きむつぶる事なれば、伯母は十郎を傍に招き寄せ、「是に、片貝とて、召し使ふ女有り。かたち・心様・品、世に越えたり。一人あれば、如何なる事もこそと覚束無く覚ゆれば、風の便りのおとづれに、まつには音する習ひなり。何かは苦しかるべき。曾我へ具足し給へかし」と語りければ、親方の言ふ事なり、かねても斯様の事とは夢にも知らで、「さ承りぬ」と言ふ。女房、やがて片貝を呼び出だして、しかしかと語る。十郎は、曾我にさして用の事有りければ、其の夜をまつまでも無く、暮れ程に帰りけり。此の事、別当が郎等共、ほの聞きて、片貝を曾我へ取りて行くぞと心得て、伊沢の平蔵、深瀬の源八、難波の太郎を先として、むねとの者七八人寄り合ひて、「不思議を振舞ひ給ふ祐成かな。是程の事、別当に申すまでも有るべからず。いざや行きて、彼の女奪ひ返さん」「然るべし」とて、馬引き寄せ引き寄せ打ち乗りて、三浦を打ち出でつ、ふ川のはたにて、追ひ付きたり。彼等、片手矢をはめて、矢筈を取り、余すまじとて、思ひ掛けP192たり。十郎、何事とは知らねども、子細有りと心得て、馬より下り立ち、弓取り直し、「何事にや」と問ふ。此の者共、掛け見れば、片貝は無し。然れども、言ひかかりたる事なれば、振舞ひ然るべからず、尋ねて参らん為なりとて、既に事実に見えけり。始めをはりをも知らず、敵は又、伯母の若党なり。打ち違へても、詮無し。如何にもして、逃ればやと思ひければ、自ら弓を投げ出だし、「陳ずるには似たれども、身におきて、事を覚えず。さもあれ、僻事有りとも、斯様には有るまじ。鎮まり給へ。別に思ふ子細有りて、降をこひ申すなり。自然の時、思ひ知るべし」と言ひければ、伊沢の平三、「仰せの如く、人の讒言にてもや有るらん。まさしく片貝を具足して、御こしとこそ聞きつる。さもあらねば、あらたむるに及ばず。其の上、御陳法の上は、重ねて申すべからず」とて、皆三浦に帰りけり。十郎は、ちぢに腹を切り、打ち違へても、あかず思ひけれども、父の為にそなへて置きたる命、思はざる事に、はつべきかと思ひ、自害を逃れけるこそ、無慙なれ。漢朝の呉王夫差は、越王勾踐の為に、みふんみつのみて、命を継ぎ、会稽山に、二度恥を清めるも、今の十郎が心に同じ。無慙と言ふも、言葉に余り、哀れと言ふも、涙に立たざりけり。別当、是を尋ね聞き、涙を流し、宣ひけるは、「思ひ忘るるかと案じつるに、未だ心に懸けらるるP193や。十郎呼べ」とて、呼ばせけり。過たず帰り来たりぬ。三浦の別当、対面して、「さても、是なる者共の、聞き分けたる事も無くて、不思議の振舞ひしつるらん。まつたく、某は知らず候ふ。もし偽り申さば、二所大権現も、御覧候へ、弓矢の冥加、立所に絶えなんずるに、思ひだによらざる事なり。仮令面々の誤り、十分に有りと言ふとも、如何でか、斯様の沙汰をば致すべき。其れ程の事に、迷ふべき身ならず。予ても知り給ひぬらん。腹い給へ」とて、片貝を呼び出だし、十郎にとらせけり。つつしんで申しけるは、「仰せまでも候はず。御意とは存ぜず。其の上、身に誤り候はねば、無念と申すべきにもあらず。然るに取りては、苦しく候はぬ」とて、片貝をば、別当のもとに捨ておき、曾我の里へぞ帰りにける。彼の郎等共、深く勘当しけるとかや。此の事を詳しく問ひければ、女のわざにてぞ有りける。然れば、嫉妬の女は、前後をわきまへずして、家を失ふ仮令、今に始めずと雖も、か程の大事出で来なんとは知らで、言ひ合はせけるぞ、誠の嫉妬にて有りける。別当は、しかしながら、向顔せざるまでとて、女と離別しける、理とぞ聞こえし。さても、十郎が此処へ逃れけるにて、左伝の言葉を思ふに、「身に思ひのあらん時は、万恥を捨てて、害を逃れよ」となり。相あふ心なるとかや。P194
 @〔虎を具して、曾我へ行きし事〕S0413N071
 かくて、月日を送りけるが、定むる妻もつべからずとて、只虎が情ばかりに引かれて、折々通ひなれける。互ひの志の深さは、たたふつくんにも劣らず、千代万世とぞ契りける。抑、此の虎と申すは、母は、大磯の長者、父は、一年東に流されし、伏見の大納言実基卿にてぞ坐しましける。男女の習ひ、旅宿の徒然、一夜の忘れがたみなり。然れば、虎が心様、尋常にして、和歌の道に心を寄せ、人丸・赤人の跡を尋ね、業平・源氏の物語に情を携へ、春は、花の梢にちりまがふ霞がくれの天つ雁、雲居の上に心を残し、秋は、月の前にくもらぬ時雨の夜嵐に、明け行く雲のうき枕、鹿の音近き虫の声、哀れを催す小田守の、庵寂しさまでも、心を遣らぬ方は無し。住みも定めぬ世の中の、移り変はるも恨めしく、こひの暮れとや偽りを、頼み顔なるうら情、向かひて言ふもさすがなり。さてまたいつと夕つ方、五月始めの事なるに、南面の御簾近く立ち出でて、来し方行く末の事共、つくづく思ひつらぬるに、誠に男の心程、頼み少なき物は無し、実に浅からず契りしも、空しかりける妹背の中、頼みP195し末もいつしかに、変はりはてぬる言の葉かな。さて又、いつの同じ世に、あひて恨みを語るべき。実にや、昔を思ふに、「物は遠きを珍しと、しはまれなるを尊しとす」と雖も、何とてさのみうときやらんと、涙にむせぶ夕暮に、五月雨の風よりはるる雲の絶間、其れとしも無き時鳥、只一声に聞き絶えぬ、憂き身の上もかくやらんと、古歌を思ひ出でて、夏山に鳴く時鳥心あらばもの思ふ身に声な聞かせそ W004と打ちながめて、立ちたる所に、十郎、三浦より帰りけるが、たたずみたる縁の際に、駒打ち寄せ、広縁に下り立ち、「如何にや、程遙かに、見参に入らざる、心許無きよ」とて、鞭にて簾打ち上げ、立ち入りければ、虎は返事もせずして、内に入りぬ。祐成、心得ず思ひ、「情は人の為ならず、無骨の所へ参りたり。又こそ参らめ」とて、駒引き寄せ、乗らんとす。虎、急ぎ立ち出でて、「然様には思ひ奉らず。此の程、かき絶え給へる恨めしと言ひ、万世の中のあぢきなくて、涙のこぼるる顔ばせの恥づかしくて」と、打ち笑ひて、袖差しかざし、「申すべき事の候ふ。しばしや」とて、直垂の袖に取り付きたる。心弱くも、祐成は、引かるる袖に立ち返り、「さぞ思すらん。此の程は、立つ名の余所にやもるると、粗略は無きを、何と無く打ち守られける、本意無さよ」と、こまごまと語りP196て、「今宵は、此処に止まりつつ、枕の上の睦言を、夢にもさぞと思へ共、さして所望の子細有り。いざさせ給へ」とていざなひ、乗りたる馬に打ち乗せ、曾我の里へぞ帰りける。日頃、世に無し物の君を思ふとて、内々母の制し給ふ由、ほの聞きければ、幾程有るまじき身の、心苦しく思はれ奉らじとて、母がもとより北に作りたる家有り、此処に隠し置きぬ。祐成、此の程、遙かに母を見奉らず、参りて見参らせんとて、沓・行縢、未だ脱がざるに、母の方へぞ出でける。祐成を見給ひて、「如何にや、遙かにこそ覚ゆれ。中々、御房、斯様にあらば、見んとも思ひ寄らじ。いきて、童が孝養に、つねに見え給へ。わ殿の父、打たれ給ひて後は、偏に形見と思ひ、いとほしくも、頼もしくも思ふぞとよ。箱王と申せし悪者は、不孝にして、行方も知らず。わ殿は何を不審して、此の程遙かに見え給はぬぞ」とくどき給ひけり。後に思ひ合はすれば、添ひはつまじきにて、斯様也と哀れ也。十郎承りて、無慙の子やと御覧ぜんも、今幾程と哀れにて、「何と無く、親しき方に遊び候ふ」とて、扇を取り直し、忍ぶ涙は、隙も無し。母又仰せられけるは、「是程にことことしく、親に思はれて何にかはせん。せめて五日に、一度は見え給へ」と有りければ、十郎涙を抑へ、「承りぬ」とて、罷り立ちにけり。虎をば、其の夜止め置きけり。



P197曾我物語巻第五
 〔浅間の御狩の事〕S0501N072
 刑鞭蒲くちて、蛍空しくさり、諌鼓苔深うして、鳥驚かせぬ御世、静かなるに依り、頼朝は、昼夜の遊覧に、月日の行くを忘れさせ給ひけり。或る時梶原を召して、「さしたる事も無きに、国々の侍を召すに及ばず、近国の方々、有り合はんに従ひて、用意有るべし。信濃の国浅間野をからせて見ん」と仰せ下されけり。景時承りて、此の由相ふれけり。面々の支度、分々の大事とぞ見えし。曾我の五郎聞きて、兄に申しけるは、「信濃の浅間をからるべきにて、近国の侍にふれられ候ふ。哀れ、御供申して、便宜を窺ひ候はばや。斯様の所こそ、よき間も有りぬべく候へ。思し召し立ち候へ」と申しければ、「如何せん、信濃まで御供仕り候はば、我等が中に、馬の四五匹も有りてこそ、思ひ立ため」と言ふ。「斯様に思し召し候はば、此の事、一期の間、適ふべからず。恐れ入りて候へP198ども、悪しき御心えと存じ候ふ。君に仕へ、御恩かうむり、いみじき身にても候はば、馬をも引かせ、乗りがへをも具して、美々しく候ふべし。斯様の事思ひ立つ身は、恥をも思ふべからず、栄華名聞は、世に有りての事にて候ふ。只、蓑笠・粮料持ちたる者、四五人召し具し、姿をかへて、わら沓しばりはき、弓矢はことことし、太刀ばかりにて、雑人に交はり、宿々にて、便宜を窺ふにはしくべからず。曾我には、三浦・北条にて、いつもの如く遊ぶらんと思し召し候ひなん」と申しければ、「然るべし」とて、出でにけり。其の日ばかりは、馬にぞ乗りたり。誠に思ひ入りたる姿、哀れにぞ見えし。鎌倉殿は、武蔵の国関戸の宿につかせ給ふ。「旅宿の習ひ、盗人に馬取らるるな。あやしき者あらば、かたく咎むべし」など、用心厳しかりければ、寸の間も無かりけり。兄弟の人々は、夜もすがら微睡む程の枕にも打ちねずして、此処や彼処に徘徊して、明かしけるこそ、無慙なれ。明けければ、入間の久米にて、追鳥狩ぞ有りける。此の人々も、勢子の者共に交はり、かり杖振りたてて、心も起こらぬ鳥をたて、落葉に目をば懸けずして、もしも尋ぬる人もやと、岡の遠見立ち交はり、此処や彼処に狙へども、敵は馬にて馳せめぐり、彼等はかちなる上、弓矢持た/ざれば、空しく余所目ばかりにて、其の日も暮れてはてにけり。入間川の宿に、其の夜は、つかせ給ふ。国々の人々参りP199て、辻がため厳しかりければ、此の人々は、夜まはりの者にかきまぎれ、「御用心候へ。他国より、盗賊数多こして候ふなる。宿々の番の人々、打ちとけ給ふべからず」と、太刀引きそばめ、屋形屋形を言ひめぐる。見知りたる人無ければ、哀れよきかと打ちうなづき、祐経が屋形へぞ忍び入る。不運の極めにや、折節、新田の三郎客人にて、若党数多立ち隔て、馬見/て、庭に立ちたりしが、笠の内、あやしと見入れ、立ちのけば、また便宜悪しくて、「是は、御前へ参り候ふ雑色なり。帰りて参らん」と陳じて、足早にこそ出でにけれ。畠山の重忠、御前より帰られけるに、行き合ひたり。あはやと思ひ、松明のかげへぞ忍びける。雑色、燈火を振りたてて、「何者ぞ」と咎めにけり。重忠聞きて、「咎めず共の者ぞ」と宣へば、物をも言はで、過ぎにけり。姿ばかりにて、見知り給ひつると、後には思ひ知られける。重忠、此の人々の屋形へ消息有り。「御志共、哀れに覚え候ふ。わざと詳しくは申さず候ふ。後楯にはなり申すべし。御用意こそ候ふらめ」とて、粮物少し送られけり。此の人々は、返事言ひ難くして、「只畏まり存じ候ふ」とばかり言ひて、返しける。かくるるとはすれども、然るべき人は知りけり。万、余所目を忍ぶ事なれば、其の夜も、空しく明けにけり。次の日は、大倉・児玉の宿々にて、便宜を窺ひけれども、七党の人々、用心厳しくしければ、其の日P200も打たで、暮れにけり。其の夜は、上野の国松井田の宿につき給ふ。其の夜、其れにて狙へども、山名・里見の人々、宿直に参り、用心隙無くて、打つべき様は無かりけり。明くれば、信濃と上野との境なる碓氷の南の坂の下につき給ふ。其の夜も、両国の御家人集まりて、辻々を固め、知らざる者を咎むれば、よりて打つべき様も無し。次の日は、碓氷峠に打ち上がりて、矢立の明神に上矢を参らせ、御狩始め渡らせ給ひけり。朝倉山に影深く、露ふき結ぶ風の音、まつばかりとやたはぶらん。又立ち残るうす雲の、峰よりはるる朝ぼらけ、梢まばらの遠里は、小野の里にや続くらん。所々の高草の、下に声有る谷の水、岩間岩間に伝ひ来て、勢子声、かり杖、音しげく、折から心すごくぞ、からせ給ひける。野守も、驚くばかりなり。然る程に、はれたる空、俄にかきくもり、なる神おびたたしくして、雨かき暮れてふりければ、鎌倉殿を始めとして、皆々とどこほり、興を失ひ、花やかなりし姿共、思ひの外に引きかへて、茅草の蓑、菅の小笠、変はりはてたる村雨に、袂はしをれ、裾はぬれ、上下共に露けき色、無興と言ふも余り有り。其の日は、碓氷に帰り給ひぬ。旅宿の盗人有るべしとて、国々の侍、参り集まり、辻々をぞ固めける。P201
 〔五郎と源太と喧嘩の事〕S0502N073
 曾我の人々は、雑人にやまぎるると、古き蓑に、編笠深く引きこみて、太刀脇はさみ、通る所に、折節、源太左衛門景季、三浦の屋形より返るに、十文字に行き合ひぬ。此の人々は、源太と見成し、笠を深く傾け、眦に掛けてぞ通りける。源太、是をひかへつつ、「是なる者共のあやしさよ、止まれ」とぞ咎めける。十郎立ち返り、笠の下より、「和田殿の雑色也」と言ふ。「其れは何とて忍ぶぞや。名をば何と言ふぞ」「藤源次と申す者なり。和田殿、御所へ参られ候ひつる暇を量り、御屋形の次第を見物仕り候ふ。義盛帰る時になり候ふ間、急ぎ帰り候ふ」と言ふ所に、梶原が雑色すすみ出でて、「藤源次は、某見知りて候ふ。是は、あらぬ者にて候ふ」と言ひければ、「然ればこそ、あやしかりつれ。先づ打ち止めよ」とて、ひしめきけり。五郎、こらへぬ男にて、太刀取り直し、「ことことし、雑人に目はかくまじ。源太が駒の向かう脛なぎ落とさんに、よもこらへじ。落ちん所を差し殺し、腹切るまで」とつぶやきて、兄を押しのけ、かかりけり。十郎、「しばし」と止むる時、折節、義盛は、御前より帰り給ひしが、源太が声の高ければ、何事にやとて、立ち寄りたり。「是は、和田殿の御内の者」と言ふ声、十郎祐成とP202聞き成し、よく見れば、案にも違はず、兄弟の人々、思はぬ姿に身をやつし、思ひ入れたる志、見るに涙ぞこぼれける。「あの冠者原は、義盛が内の者にて候ふ。奇怪なり。罷りしされ」と怒られければ、此の人々、死にたき所にてあらざれば、傍にこそ忍びけれ。源太は、其の後、駒打ち寄せ、大方に色代して、互ひに屋形へぞ帰りにける。「さても、源太が勢は如何に」。五郎聞きて、「鬼神なりとも、御首は、危ふくこそ覚えしか」。十郎聞きて、「身に思ひだに無くは、言ふに及ばず。心の物にかかりては、如何でか然様の事有るべき。源太打たん事は、いと安し。我等が命もいき難し。さては、梶原を打たんとて、心をつくしけるか。向後は、心得給ひて、身をたばひ、命をまつたくして、心を遂げ給ふべし。返す返す」と言ひながら、夜ふくるまでぞ、居たりける。 夜半ばかりに、数十人の声して、「まさしく此の辺なり。此方にめぐれ。彼処を尋ねよ。声な高くせそ」とて、物の具音しきりなり。五郎聞きて、「昼の梶原が遺恨にて、徒らなる者共、討手に起こせりと覚えたり」。十郎聞きて、「鎮まり候へ。楚忽の沙汰有るべからず。内の体も見苦し。先づ燈火をけせ」とて下知し、今やと待ち掛けたり。五郎は、太刀追つ取つて、既に屋形を出でんとす。十郎、袖をひかへて、「鎮まり給へ。昼こそあらめ、夜なれば、一方打ち破りP203て、忍ばん事いと安し。仮令何十人来たると言ふとも、先づ一番を切りふせよ。二番続きて、よも入らじ。まして三番しらむべし。仮令乗り越え切り入る共、裾をなぎふせよ。構へて、御分はなるるな。隔てられては適ふまじ。急ぎて、外へは出づべからず。隙間を守りて、諸共に出で、逃れば逃るべし。もし又、逃れがたなくは、差し違へては死ぬる事も、雑兵の手にばし掛かるな」と言ひつつ、脇に立ち寄りて、「今や入る」と待ち掛けたり。来たる者共、思はずに、鎮まり返りて、音もせず。不思議なりとて、聞く所に、秘かに門を叩きけり。人を出だして、「誰そ」と問ふ。「和田殿よりの御使ひなり。昼の喧嘩、危ふくこそ見えしか、御志に、思はず袖をこそ絞り候ひつれ。わざと此方へは申さず候ふ。御用意こそとは存ずれども、国より持た/せ候ふ」とて、樽二三、粮米添へて」と言ふ声聞けば、義盛の郎等に、志戸呂の源七が声と聞き、急ぎ十郎立ち出でて、返事にも及ばず、「畏まり入り候ふ。罷り返り候はば、参り申すべし」とて返しけり。さて、酒共取り散らし、つれたる者共にものませ、夜も明けがたになりぬれば、雑人に交はらんとて、蓑笠・藁沓しばりはき、夜と共に出でし志、草の陰なる父聖霊も、哀れとや思ひ給ふらん、心細さは限り無し。P204
 〔三原野の御狩の事〕S0503N075
 其の日は、同じ国の三原野をからるべきにてぞ有りし。各々花ををり、出で立ちけるは理也。日本国に名を知らるる程の侍、参りつどひければ、天下におきてのはれ、何かは是に勝るべき。既に君御出有りければ、御供の人々は申すに及ばず、見物の貴賎、野山もゆるぐばかりなり。梶原源太、馬掛けまはし、「誰も愚かは有るまじけれども、今日の御狩、御前におきて、高名の人々は、勲功有るべし。忠節をはげませとの御諚」とて、馳せめぐる、或る、あたりを払ひてぞ見えし。近年からざる野なりければ、鹿数をつくす。老若家を忘れて、我も我もと、君の御見参に参る。其の日午の刻に、また空俄にくもり、神なりて、雨やうやうこぼれ、笠をうるほす。大将殿、景季を召して、「昨日、浅間野の雨は、さて置きぬ。又、三原野の雨こそ、無念なれ。歌一首」と仰せ下されければ、源太承つて、取り敢へず、昨日こそあさまはふらめ今日は只みはら泣き給へ夕立の神 W005と申しければ、鎌倉殿、御感の余りに、碓氷の麓五百余町の所をぞ賜はりける。なる神も、此の歌にやめでたりけん、即ち雨はれ、風やみければ、いよいよ源太がP205面目、是にはしかじとぞ、人々申し合はれけり。君も、誠に、御心よげに渡らせ給ひければ、御前祗候の侍共、御眦にかからんと思はぬ者は無かりけり。然れども、曾我兄弟の人々は、君の御前をも知らず、野干に心をも入れず、其の人ばかりをぞ尋ねける。雑人に交はり、馬にも乗らざれば、一日に一度、余所ながら見る日も有り、只空しくのみぞ、日を送りける。さても、御狩の人々は、日のくるるをも、時の移るをも知らずして、かりけるに、馬の刻ばかりに、狐鳴きて、北を差して飛びさりけり。人々是を止めむとて、矢筈を取りて追つ掛けたり。君御覧ぜられ、彼等を召し返し、「秋野の狐とこそいへ、夏の野に狐鳴く事、不思議也。たれか候ふ、歌詠み候へ」と仰せ下されければ、祐経承りて、「誠に源太が歌には、なる神めでて、雨はれ候ひぬ。是にも歌あらば、苦しかるまじ。誰々も」と申されければ、大名・小名、我も我もと案じ、詠じけれども、よむ人無かりけり。此処に、武蔵の国の住人愛甲の三郎、ゐだけだかに成り、浮かべる色見えければ、源太左衛門、「いかさま、愛甲が仕りぬと見えて候ふ。はやはや」と申しければ、やがて、夜るならばこうこうとこそ泣くべきにあさまに走る昼狐かな W006と申したりければ、君聞こし召して、「神妙に申したり。誠に狐に仰せて、けつけうP206有るべからず」とて、上野の国松井田三百余町をぞ賜はりける。さて、木賊原より伏屋に至るまで、静かにかりくらし給ひ、誠に聞こゆる名所なり、実にや所の名にしおふ、木賊原の夕月は、嵐やみがき出でぬらん。伏屋に近き軒の山、有りとは見えて見えざるは、もし又雲や掛かるらん。空すみ渡る折からや、くるるも惜しくぞ思し召しける。抑、夏野に狐の鳴きたる例にて、昔を思ふに、在中将業平、姿よからん女を求めんと思ひしに、伏見の山荘より都へ行きけるに、木幡山の辺にて、由有る女に行き合ひぬ。とかく言ひ寄りて、語らひ具していににけり。かくて、しばし日頃へて、打ち失せぬ。如何なる事にかとしたへ共、適はずして、思ひの余りに、彼の女の常に住みける所を見れば、出でていなば心かろしと言ひやせん身の有様を人の知らねば W007と、此の歌を書き置きぬ。如何なる事やらんと思ひて、過ぎ行きける夕暮に、ふるされ色着たる女一人来たりて、文を前に置きぬ。取りて見れば、有りし女の文なり。今はとて忘れやすらん玉かづら面影にのみいとど見えつつ W008と書ける。男、やがて返しに、思ふ甲斐無き世なりけり年月をあだに契りて我や住まひし W009斯様に書きて遣りけるが、猶あやしくて、使ひの帰るにつきて、自ら行きP207て見れば、女の着たりつるふるされ色、次第にうすく成りて、木幡山の奥に入りぬ。いよいよあやしくて、続き分け入り見れば、古き墓の中に、塚の有りけるに、おいたる狐、若き狐、集まり居たるが、此の文の返事を見/て、泣き居たり。やや有りて、人影のしければ、多かりつる狐共、即ち女になりにけり。塚と見えつる所は、いみじき家に成り、内より若き女出でて、「是へ」と言ひけり。不思議に思ひながら、入りぬ。女出で合ひ、様々にもてなし、「今宵は是に」と言へば、止まりぬ。女の振舞ひ、有様、露程も昔に違はず。夜明けぬれば、女、「我も故郷に帰りなん」と言ふ。「故郷とは何処ぞ」と問へば、「和歌浦より、玉津島明神の御使ひなり。御有様知らんとて、来たれり。今より後も、忍びて来たるべし」とて、かきけつ様に失せにけり。別れをば誰か哀れと言はざらむ神も宮居は思ひ知れかし W010其の後も、通りけれども、人には知られざりとなん。伊勢物語の秘事を言ふなるをや。
 〔那須野の御狩の事〕S0504N076P208
 さて、君、宇都宮の弥三郎を召して、「信濃の御狩とは雖も、下野の那須野に勝る狩場無し。ついでに、彼の野をからせて御覧ぜん」と仰せられければ、朝綱承りて、御設けの為に、暇申して、宇都宮へぞ返りける。烏帽子子の権守がもとをこしらへて、君を入れ奉る。板鼻の宿より宇都宮へ入らせ御座します。彼の那須野ひろければ、無勢にては適ふべからずとて、「面々に参らせよ」とふれられければ、仰せに従ひて、和田の左衛門、千人参らす。畠山も千人、川越・小山も千人あて、武田・小笠原五百人、渋谷・糟屋も五百人、土肥・岡崎も五百人、松田・河村三百人、分々に従ひて、東八ケ国の侍共、思ひ思ひに参らせければ、既に十万人に及びけり。那須野ひろしと申せども、何処に所有りとは見えざりけり。曾我の人々は、勢子の者共にかきまぎれ、人目がくれにまはりけり。然れども、余所目しげみの草の原、わきて知らるる夕風の、誰ともさだかにわきまへず、青竹下ろしの狩場にて、左衛門の尉祐経は、つれたる牝鹿に目を懸けて、下り様に落とせしを、一目見たりしばかりにて、其の日も空しく暮れにけり。無念と言ふも余り有り。P209
 〔朝妻狩座の事〕S0505N077
 御寮は、青竹下ろしの屋形に入り給ひぬ。更たけ、世人鎮まりけれども、御酒宴有りけり。朝綱、御気色に参らんとて、とりどりの曲共申し御徒然慰め奉りけり。君、御盃をひかへさせ給ひける時、鹿の音かすかに聞こゆる。「何処ぞ」と、御尋ね有りければ、「板鼻の辺」と申す。君聞こし召し、「古の歌人も、「鹿の音近き秋の山ごえ」とこそ詠みし。夏野に、鹿の鳴くこそ不思議なれ」と仰せ下されければ、朝綱、畏まつて申しけるは、「然る事の候ふ。昔、保昌と言ひし人、丹後の国に下り給ふ。彼の国に、朝妻とて、日本一の狩座有り。其の山の鹿は、夕よりも夜に入れば、山には住まで、渚に下りて、数をつくして並び伏す。其の隙に、山へ勢子を入れて、夜中に引きまはし、海には船を浮かべ、暁に及び、ひろき浜に追ひ出だし、思ひ思ひに射取る。海に入るをば、櫓=櫂にて打ち取らんとす。保昌、是を聞き、朝妻に陣を取り、射手を三百人添へ、勢子を山に入れ、明くるを遅しと待ちける所に、夜半ばかりに及び、鹿の声聞こえけり。折節、和泉式部を召し具したりければ、鹿の音を聞きて、理や如何でか鹿の鳴かざらむ今宵ばかりの命と思へば W011P210と詠みたりければ、保昌、歌の理にめで、其の日の狩を止め給ふ。心無き鹿の思ひを哀れみ、道心を起こし給ふ。三百人の郎等まで、道心を起こし候ふとなり。是にも、猶あきたらで、過ぎにし鹿の為に、六万本の率塔婆をかき供養し、六万人の僧を請じて、彼の菩提を弔ひ給ひけるとかや。其れよりして、「朝妻の狩座を末代止むべし」との御判を申し下され、諸共に判形を添へて置かれければ、今に至るまで、狩場にはならずと申し伝へたり。然れば、此の野の鹿も、明日の命をや悲しみて、泣き候ふらん」と申しければ、頼朝聞こし召し、「其れは、平氏の一類にて、斯様の善事をなしけるにや。我、源氏の正統也。如何でか、是を知らざらむ」とて、其の日の御狩を止め給ふのみならず、「末代までも、此の野に狩を止むべし」と、朝綱方へ御判を下されけり。是、偏に保昌の例を引かるるにこそと、感じ申さぬは無かりけり。是も、殺生を禁じ給ふにや。
 〔帝釈・修羅王戦ひの事〕S0506N078
 昔を思ふに、天帝釈、阿修羅王が軍に攻め負け給ひて、須弥山を差して逃げ上り給ふ。此の山けはしとは申せ共、帝釈の眷属、恒沙の如く上らんとす。此処に、P211金翅鳥の卵多くして、此の戦ひの為に、踏み殺されぬべし。然れば、我が命は奪はるるとも、如何でか殺生ををかさんとて、帝釈、須弥を出でて、鉄囲山と言ふ山にかかり給ふに、阿修羅王、かへつておふぞと心得て、逃げにけり。其の軍に負けにけり。是も、殺生禁じ給ふ徳に依りて、軍に勝ち給ひけるとかや。此の君も、鹿の命を哀れみ、狩座を止め給ふ。如何でか、其の徳無かるべきとぞ申しける。
 〔三浦の与一を頼みし事〕S0507N079
 明けぬれば、君、鎌倉へ入り給ふ。兄弟の人々も、泣く泣く曾我にぞ帰りける。実にや日本国名将軍の貴辺にして、此処に忍び、彼処にまはり、命を捨て、身を惜しまで、敵を思ふ心中、やさしと言ふも余り有り。無慙なりしたしなみなり。又、鎌倉殿、梶原を召されて、仰せ下されけるは、「侍共に、暇取らすべからず。狩場多しと雖も、富士野に勝る所無し。ついでにからん」と仰せられければ、景季、此の旨披露す。曾我の五郎、此の事を聞き、兄に申しけるは、「我等が最後こそ、近付き候へ。知ろし召され候はずや。国々の侍共返さずして、富士野をP212御狩有るべきにて候ふなる。ながらへて思ふも苦しし。思し召し定め候へ」と言ひければ、祐成聞きて、「嬉しき物かな。今度は、程近ければ、馬一匹づつだにあらば、差し現れて、御供申すべし」。時致言ふ様、「つらつら事を案ずるに、隙を求めて、便宜を窺ひ候へばこそ、今まで本意をば遂げざれ。今度においては、一筋に思ひ切り、便宜よくは、御前をもおそるべからず、御屋形をも憚るべからず、夜とも言はず、昼とも嫌はず、遠くは射落とし、近くは組みて、勝負せん。身を有る物にせばこそ、隙をも窺ひ、所をも嫌はめ。もしし損ずる物ならば、悪霊・死霊と成りて、命を奪ふべし。なまじひなる命いきて、明け暮れ思ふも悲し。今度出でなん後、二度帰るべからず、思ひ切りて候ふは、如何思し召し候ふ」。祐成聞き、「子細にや及ぶ。某も、かくこそ思ひ定めて候へ」とて、各々出で立ちけるぞ、哀れなる。既に、鎌倉殿、御出で坐しましければ、此の人々は、三浦の伯母のもとへぞ行きける。此処に、三浦の与一と言ふ者有り。平六兵衛が一腹の兄なり。父は、伊東工藤四郎なり。与一が母は、伯母也。いづかたも親しかりければ、むつびけるも理也。十郎、弟に言ひけるは、「彼の与一、頼みて見ん。さりとも、いなとは言はじ」。五郎聞き、「小二郎にも、御こり候はで」とは言ひながら、もしやと思ひけれ共、与一がもとに行き、此の程、久しく対面せざる由言ひしかば、「珍し」P213とて、酒取り出だしすすめけり。盃二三返過ぎければ、十郎、近く居寄り、「是へ参ずる事、別の子細にはあらず、大事を申し合はせん為なり」と言ふ。与一聞き、「何事なるらん。仮令如何なる大事なりとも、打ち頼み仰せられんに、如何でか背き奉るべき。有りの儘に」と言ひければ、十郎、小声に成りて、「かねても聞こし召さるらん。我等が身に、思ひ有りとは、見る人知りて候ふ。然るに、敵は、大勢にて候ふに、貧なる童二人して、狙へ共適はず。御分頼まれ給へ。我等三人、寄り合ふ物ならば、如何で本意を遂げざるべき。親の敵を近くおきて思ふが、せんかた無さに、申し合はせんとて、参りたり。頼まれ給へ」と言ひければ、与一、暫く案じて、「此の事こそ、ふつつと適ふまじけれ。思ひ止まり給へ。当世は、昔にも似ず、然様の悪事する者は、片時も立ち忍ぶ事無し。然れば、親の敵、子の敵、宿世の敵と申せ共、打ち取る事無し。ましてや言はん、御供仕りたる者を、狩場にても、旅宿にても、誤りては、ひとまども落つべき物か。今度は思ひとまりて、私歩きを狙ひ給へ。其の上、祐経は、君の御切り者にて、先祖の伊東を安堵するのみならず、荘園を知行する事、数を知らず。敵有りと存じ、用心厳しかるべし。なまじひなる事仕り出だし、面々のみならず、母や曾我の太郎、惑ひ者になし給ふな。まげて思ひ止まり、如何にもP214して、御不審許され奉り、奉公を致し、先祖の伊東に安堵し給へ。面々の有様にて、当御代に、敵討沙汰、止め給へ」と、大きに驚き申しければ、十郎聞きて、「いとほしの人や。試みんとて言ひつるを、誠し顔に制するぞや。今時、我等が身にては、思ひもよらず。馬持た/ざれば、狩場も見たからず。努々披露有るべからず」と、口を固め、立たむとす。五郎は、たまらぬ男にて、「殊に始めの言葉には似ず。思へば、恐ろしさに、辞退し給ふか。史記の言葉をば聞き給はずや。蛇は、わだかまれども、生気の方に向き、鷺は、太歳の方を背きて巣を開き、燕は、戊己に巣をくひ始め、比目魚は、湊に向かひ方違ひす。鹿は、玉所に向かひて伏し候ふなる。斯様の獣だにも、分に従ふ心は有るぞとよ。面ばかりは人ににて、魂は畜生にて有る物かな」と言ひ捨てて、立ちにけり。与一は、五郎に悪口せられて、如何にもならばやと思ひしが、我は一人、彼等は二人也、其の上、五郎は、聞こゆる大力なり、小腕取られて、適ふべからず、所詮、此の事、鎌倉殿に申し上げて、彼等を滅ぼさん事、力もいらでと思ひ鎮まりぬ。さて、彼等、遙かに行きつらんと思ふ時、急ぎ馬に鞍置かせ打ち乗り、鎌倉へこそ参りけれ。此の事、兄弟は、夢にも知らでぞ居たりける。此処に、和田の義盛は、鎌倉より帰りけるに、てこし川にて行き合ひたり。与一を見れば、顔の気色P215変はり、駒の足なみはやかりければ、義盛、暫く駒をひかへ、「何処へぞ」と言ふ。与一、物をも言はで、駒を早めけるが、やや有りて、「鎌倉ヘ」とばかり答ふ。「さても、鎌倉には、何事の起こり、三浦には、如何なる大事の出で来候へば、其れ程にあわて給ふぞや。いづかたの事なりとも、義盛、はなるべからず。御分又、隠すべからず」とて、与一が馬の手綱を取り、隙無く問ひければ、与一申す条、「別の子細にては候はず。曾我の者共が来たり候ひて、親の敵打たんとて、義直を頼み候ふ間、「適ふまじき」と申して候へば、五郎と申すをこの者が、散々に悪口仕り候ふ。当座に、如何にも成るべかりしを、彼等は二人、某は只一人候ひし間、適はで、斯様の子細、上へ申しいれて、彼等を失はん為、鎌倉へ急ぎ候ふ」と言ひければ、和田、是を聞き、暫く物をも言はず。やや有りて、「や、殿、与一殿、弓矢を取るも、取らざるも、男と首をきざまるる程の者が、いざや、死にに行かんと打ち頼まんに、辞退する程の族をば、人とは言はで、犬野干とこそ申せ。就中、弓矢の法には、命をば塵芥よりもかろくして、名をば千鈞よりも重くせよとこそ言ふに、侍の命は、今日あれば、明日までも頼むべきか。聞くべしとてこそ、か程の大事を言ひ聞かせつらめ。しかも、親しき中ぞかし。あたる道理を言ひ聞かせて言はば、領状して、適はじと思はば、後に辞退するまでぞ。左右無くP216鼻を付き、剰へ、上へ申さんとな。其れ程の大事、心にかくる上は、穏便の者にてこそ、当座も、わ殿が命をば助け置け。上様へ申し上ぐると聞きては、一遣りも遣らじ。命惜しくは、止まり給へ。命有りてこそ、京へも、鎌倉へも申し給はめ。義盛がわかざかりならば、其の座敷にても打つべきぞ。よくよく申し上げて、失ひ給へ。君も、一旦は、然りと思し召すとも、親しき者の事、悪し様に申さんを、神妙なりとて、頼もしくは思し召さじ。其の上、彼等を失ひ給ふとも、親類多ければ、御身如何でか安穏なるべき。孔子の言葉にも、「善人に交はれば、蘭麝の窓に入るが如し、其のかほばせ残り、悪人に交はれば、かきよの肆に入るが如し、くさき事の残れる」と見えたり。御身におきては、同じ道をも行くべからず。心を返して見給ふべし。朝恩に誇る敵を目の前におきて、見るもめざましくてこそ、言ひつめら。此の事、訴訟申して、いか程の勲功にか預かるべき。武蔵・相模には、此の殿原の一門ならぬ者や候ふ。かく申す義盛も、結ぼるるは、知り給はずや。昔の御代とだに思はば、などや矢一訪はざるべき。当御代なればこそ、恐れをなし、敵をば、すぐにおきたれ。彼等が心中を推し量られて、哀れ也」とて、双眼に涙をうかめければ、義直、つくづく聞きて、悪しかりなんとや思ひけん、「是も、一旦の事にてこそ候へ。此の上は、とかくの子細にP217及ばず」とて、駒の手綱を引き返す。其の後は、四方山の物語して、三浦へ打ちつれて帰りけり。此の事、年頃、仏神に祈り申せし感応にや。しからずは、如何でか、此の事逃るべき。不思議なりし振舞ひ也。然れば、只人は信を宗とし、神明をもつぱらにすべきをや。今に始めぬ事なれ共、有り難かりし恵みなり。
 〔五郎、女に情懸けし事〕S0508N080
 さても、此の人々は、三浦より帰り様に、「大磯に打ち寄りて、虎に見参せん」と言ひければ、「然るべく候ふ。此の度出でて、長き別れにてもや候ふべからん。思ひ出だして、一返の訪ひも、計り難き事にて候ふぞかし。誠に思ひ切られぬ道にて候ふ。時致も、化粧坂の下に、知りたる者の候ふ。五日・十日をへて、行く道にても候はず。此の度出でなん後は、又相見ん事かたし。明日、参り合ひ申さん」とて、打ち別れにけり。さて、五郎は、一夜を明かし、払暁に鎌倉を出でて、腰越より片瀬の宿へぞ通りける。折節、梶原源太左衛門、十四五騎にて、彼の宿に下り居たりしが、五郎が通るを見/て、「申すべき子細候ふ、しばし止まり給へ」とて、足軽P218を走らしむ。五郎、予て聞く事有りければ、「さしたる急事の候ふ。後日に、見参に入るべし」とて、通りにけり。定めて、五郎は止まるらんと、片瀬川を掛け渡し、向かひの岡に駒打ち上げて見ければ、遙かに打ちのびぬ。「此の者は、何と心得て、斯様には振舞ふらん」とて、駒を鎮めて、打つて行く。時致は、馬の息やすめんと平塚の宿に下り居て、暫く有りける所へ、景季、打つて来たる。「是にひかへたるは、曾我の五郎が乗りたる馬ごさんめれ」とて、縁の際に、駒打ち寄せける気色、怒り余りければ、乗りがへ五六騎、馬より下り、広縁に上がる。五郎、是を聞きて、悪しかりなんとや思ひけん、急ぎ内にぞ入りにける。源太、此の上は、尋ぬるに及ばずとて、手綱かいくり、通りけり。五郎、物ごしに聞き、世におごり、又人も無げなる奴かな、走り出でて、一太刀切り、如何にもならばやと思ひけれども、此の二十余年、惜しかりつる命は、景季が為にはあらず、祐経にこそと思ひて、止まりけり。是や、論語に曰く、「事を遂げんには、いさまずして、万事を咎めざれ」とは、今の五郎が心なるをや。見聞く輩は、「五郎が不覚なり」と言ひけれども、敵の祐経を打ち、引き据ゑられし時、君の御返事をば申さで、先づ源太に向かひ、「わ君は、年頃、時致に意趣有り。今は、時致が身に、思ふ事無し。本意を遂げよ本意を¥遂げよ」と言ひければ、景季、御前を罷り立ち、五郎有りP219ける程は、参らざりけり。時致は、和田・畠山、左右に座して有りける方を見遣りて、ゑみをふくみける、理過ぎてぞ覚えける。是や、松柏は、霜の後に現れ、忠臣が、世の危ふきに知らるるとは、今こそ思ひ知られたれ。暫くも無かりけり、「時致、平塚の宿にては、さこそ思ひつらめ、大事有りて、小事無し、身に思ひあれば、万事を捨て、平塚の宿まで逃げたりし、会稽の恥を、只今すすぐ」と申しあへり。「思ふ事だに無かりせば、源太命危ふし」とぞ沙汰しける。抑、此の意趣を尋ぬれば、化粧坂の下に、遊君有り、時致、情を懸け、浅からず思ひしに、引く手数多の事なれば、梶原が、浜出して帰り様に、此の女のもとに打ち寄りて、夜と共に遊びけり。暁、帰るとて、如何しけん、腰の刀を忘れ出でけるを、女の美女をして送るとて、急ぐとてさすが刀を忘るるはおこしものとや人の見るらん W012景季、馬に乗りながら、左手の鐙を未だ踏みもなほさず、返事をぞしける、形見とておきて来し物其の儘に返すのみこそさすがなりけれ W013其の頃、源太左衛門は、歌道には、定家・家隆なりともと思ひしなり。さても、此の歌の面白さよと思ひ染めて、景季みみなれけり。余所のことわざなど、たはぶれければ、女引き籠り、五郎一人にも限らず、出仕を止めけり。是をばしらP220で、五郎或る時、彼のもとに行き、尋ねけれども、あはざりけり。何によりけるやと危ふく、友の遊君に問ひければ、「梶原源太殿の取りて置かれ、余の方へは思ひもよらず」と言ひければ、五郎聞きて、流れをたつる遊び者、頼むべきにはあらね共、世に有る身ならば、源太には思ひかへられじと、身一つの様に思ひけり。「貧は諸道のさまたげ」とは、面白かりける言葉かな、人をも、世をも恨むべからずとて、此の歌を詠み置きて、出でぬ。あふと見る夢路にとまる宿もがなつらき言葉にまたも帰らん W014と書きて、引き結びて置きたりけり。五郎帰りて後、此の女、立ち出でて見れば、結びたる文有り。取り上げて見れば、日頃なれにし五郎が手跡なり。歌をつくづく見て、文顔に押し当て、さめざめと泣きつつ、友の遊君に、「御覧ぜよや、人々。恥とも知らで、恥づかしや。日本我が朝は、みづのおの里として、神明光をやはらげ、天の岩戸に取り籠らせ給ひし時、「あら面白」と言ひそめ給ふ、此の三十一字の故ぞかし。
 〔巣父・許由が事〕S0509N081P221
 昔、然る例有り。大国に、潁川と言ふ川有り。巣父と言ふ者、黄なる牛を引きて来たる所に、許由と言ふ賢人、此の川の端にて、左の耳をあらひ居たり。巣父、是を見て、「汝、何に依りて、左の耳計をあらふにや」と問ひければ、許由答へて曰く、「我は、此の国に隠れ無き賢人なり。我が父、九十余にして、老耄きは無し。我未だ幼少なり。然れば、神拝・政みだりにして、有る甲斐無き身なれば、都を出でぬ。此の程、聞きつる事、皆左の耳なれば、よごれたるなり。其れをあらふにや」と言ひけり。巣父聞きて、「さては、此の川、七日濁るべし。よごれたる水かひて、益無し」とて、牛を引きて帰りしが、又立ち帰り、「さては、汝は、何処の国に行き、如何なる賢王をか頼むべき」と問ふ。「賢臣二君に仕へず、貞女両夫にまみえず」と也。然れば、首陽山に蕨ををりて過ぎけるとぞ申し伝へたる。
 〔貞女が事〕SS0510N082
 又、貞女両夫にまみえざるとは、大国に、しそうと言ふ王有り。かんはくと言ふ臣下を召し使ひ、或る時、かんはく、結びたる文を落としたり。王御覧じて、「如何なる文ぞ」と、御尋ね有りければ、「我、宮仕暇無くて、日数を送り、家に帰らP222ず候ふ。心許無しとて、妻のもとよりくれたる文」と申す。猶あやしみ、「叡覧あらん」と、宣旨有り。隠すべき事ならねば、叡慮に捧ぐ。「此の文の主、呼びて見せよ」と仰せ下されければ、宣旨背き難くて、此の女を呼びて見せ奉る。王御覧じて、押し止めおき給ふ。かんはく、安からずに思ひけれども、適はず。女も、王宮の住まひ、もの憂くて、只男の事のみ、思ひ歎きければ、王、驚き思し召す。時の関白りやうはくと言ふ者を召し、「此の事如何せん」と問ひ給ふ。「然らば、彼が男のかんはくを、かたはになして見せ給へ。思ひはさめぬべし」と申したりければ、「然るべし」とて、耳鼻をそぎ、口をさきて見せ給ふ。女、我故、斯かる憂き目にあふよと歎き、いよいよ伏し鎮み悲しみければ、又臣下に問ひ給ふ。「然らば、かんはくを殺して見せ給へ」と申しければ、やがて、深き淵に沈められけり。女聞きて、思ひ少しなほざりにし、「彼の淵見ん」と言ひけり。大王、はや思ひ捨てけりと喜びて、大臣・公卿諸共に、彼の淵にのぞみ、管絃遊宴して遊び給ふ時に、此の女、みぎはに出で、やすらふとぞ見えし、淵に飛び入りて、死にけり。大王を始めとして、敢へ無さ限り無くて、空しく帰り給ひけり。P223
 〔鴛鴦の剣羽の事〕S0511N083
 幾程無くして、此の淵の中に、あかき石二出で来たり、いだき合はせてぞ有りける。「是、不思議なり。かんはく夫婦の姿なるをや」と、人申しければ、大王聞こし召し、猶も有りし面影の忘れ難くて、又官人諸共に、彼の淵の辺に行幸成り、叡覧有りければ、申すに違はず、誠に石二有り。不思議に思し召す所に、彼の石の上に、鴛鴦鳥一つがひ上がりて、鴛鴦の衾の下なつかしげにたはぶれけり。是も、彼等が精にてもやと御覧じけるに、此の鴛鴦飛び上がり、思羽にて、王の首をかき落とし、淵に飛び入り失せにけり。其れよりして、思羽をば剣羽とも申すなり。
 〔五郎が情懸けし女出家の事〕S0512N084
 貞女両夫にまみえずとは、此の女の事なり。如何なる貞女か、二人の夫に見えし、如何なる身にてか、引く手数多に生まれつらん。然らぬだに、我等風情の者は、欲心に住まひすると、言ひ習はせり。「士は己を知る者の為に、容をつくろふ」と、文選の言葉なるをや。我又、かひがひしく無ければ、景季が誠の妻女に成るP224べき身にても無し、来世こそ遂の住み処なれ。其の上、歌には、神も仏も納受し、慈悲をたれ給ふ。然れば、花に鳴く鴬、水にすむ蛙だにも、歌をばよむぞかし。況や、人として、如何でか是を恥ぢざるべき」とて、此の歌を詠みて、数ならぬ心の山の高ければ奥の深きを尋ねこそ入れ W015捨つる身に猶思ひ出でと成る物は問ふに問はれぬ情なりけり W016誠や、「天人の婬せざる所は、禍有りて、しかも禍無し」と、東方朔が言葉、思ひ知られて、然るべき善知識を尋ね、生年十六歳と申すに出家して、諸国を修行して、後には、大磯の虎が住み処を尋ね、道心に行して、いづれも八十余にして、往生の素懐を遂げにけり。有り難かりし志とぞ聞きし。源太左衛門景季は、此の事を聞きて、もとより此の女の心様、尋常にして、歌の道にもやさし。今は、曾我の五郎こそ敵なれ。行き合はん所にて、本意を達せんと思ひければ、さてこそ、平塚の宿まではおひたりけれ。其の時、景季勢、又並ぶ人や有るべきなりしか共、富士野裾野にては、誠に男がましくも見えざりしぞかし。然れば、「人は世に有りとも、よくよく思慮有るべき物を」とて、皆人申し合はれけり。五郎も、此の事を伝へ聞きて、やさしくも、又心許無くもぞ思ひける。是に依りて、いよいよ身を身とも、世を世共知らで、思ふ事のみ急ぎけるは、理過ぎてぞ、哀れなる。P225
 〔呉越の戦ひの事〕S0513N085
 抑、五郎が富士野にて、会稽の恥を清むと言ひける由来を詳しく尋ぬるに、昔、異朝に、呉国・越国とて、並びの国有り。呉国王をば、闔閭の子にて、呉王夫差と言ひ、越国の王をば、大帝の子にて、越王勾踐とぞ言ひける。然るに、彼の両王、国を争ひ、戦ひをなす事絶えず。或る時は、呉王を滅ぼし、或る時は、越王を退治し、或る時は、親の敵と成り、或る時は、子の仇と成り、義勢はなはだしく、累年に及ぶ。此処に、越王の臣下に、范蠡と言ふ武勇の達者有り、彼を招き寄せて曰く、「今の呉王は、まさしき親の敵也。是を打たずして、徒らに年を送りて、あざけりを天下に残す事、父祖の恥を九泉苔の下に恥づかしむる事、恨みつくし難し。然れば、越国の兵催し、呉国へ打ち越え、呉王を打ち滅ぼし、父祖の恨みを報ぜんと思ふなり。汝は、しばし国に止まりて、社稷を守るべし」と宣ひければ、范蠡申しけるは、「暫く愚意を以て事をはかるに、今越の力にて、呉王を滅ぼさん事、すこぶるかたかるべし。其の故は、先づ両国の兵をかぞふるに、呉国には、二十万騎有り、はつか十万騎也、小を以て、P226大きに敵せざれとなり。其の上、呉王の臣下に、伍子胥とて、智深うして才高き、人を付くる勇士有り。彼があらん程は、呉王を滅ぼさん事、適ふべからず。騏■は、角に肉有りて、猛き形を現さず、潛竜、三冬にうづくまつて、一陽来復の天をまつ。暫く兵を伏して、武を隠し、時を待ち給へ」といさめければ、越王、是を用ひず、大きにいかつて、「軍の勝負は、勢の多少によらず、只時の運に依り、又は大将の謀によるなり。然れば、呉と越との戦ひ、度々に及び、雌雄を決する事、汝ことごとく知れり。次に、伍子胥があらん程は、適はじと言はば、我遂に父祖の敵を打たずして、恨みを謝せん事有るべからず。徒らに伍子胥が死ぬるを待たば、生死限り有り、老少定まらず、伍子胥と我と、いづれをか先と知らん。是、しかしながら、汝が愚心なり。我又、兵を催す事、定めて呉国へ聞こゆらん。事のびば、かへつて呉王に滅ぼされなん時に、くゆとも、益有るまじ」とて、越王十一年二月上旬の頃、十万騎の兵を率して、呉国へぞ寄せたりける。呉王、是を聞き、「小敵あざむくべきにあらず」とて、自ら二十万騎の勢を率して、呉と越との境、夫椒県と言ふ所に馳せ向かうて、後ろには会稽山をあて、前にはこせんと言ふ大川を隔てて、陣を取り、敵をはからんが為に、三万騎を出だして、残る十万騎をば、後ろの山に隠し置きけり。越王、夫椒県P227にのぞみて、敵を見るに、はつか二三万騎には過ぎざりけり。思はず小勢なりとて、十万騎の兵を同心に掛け出ださせ、筏を組みて、馬打ち渡す。呉の兵、予てより敵を難所にをびき入れて、残さず打たむと定めし事なれば、わざと一戦にも及ばずして、夫椒県の陣を引き、会稽山に引き籠る。越の兵、勝つに乗り、逃ぐるをおふ事、三十余里。ついの陣を一陣に合はせて、馬の息切るる程ぞ、おうたりけり。次に、呉の兵、思ふ程、敵を難所にをびき入れて、二十万騎の兵、四方の山より打つていづ。越王勾踐を中に取り込め、一人ももらさじと攻め戦ふ。越の兵は、今朝の戦ひにとほがけをし、馬人共に疲れたる上、小勢なりければ、呉国の大勢にかこまれて、一所に打ち寄り、ひかへたり。すすみてかからんとすれば、敵嶮岨にささへて、矢じりを揃へて、待ち掛けたり。退いて払はんとすれば、鉾先にはまれり。され共、越王践は、敵を破り、敵を砕く事、大勢に越えたる人なりければ、事ともせず、彼の大勢の中に掛け入りて、十文字に掛け破り、追ひまはして、一所に合はせて、三所に別る、四方を払ひ、八方にあたり、百度千度の戦ひに、勝劣無し。然りとは雖も、多勢に無勢なれば、遂に越王打ち負けて、三万騎に打ちなされけり。然れば、越王こらへずして、会稽山に打ち上りて、打ち残されたる勢を見るに、わづかに三万騎に成りにけり。馬に離れ、矢種P228ことごとくつき、鉾をれければ、一戦にも及び難し。隣国の諸侯は、勝つ事を両方に窺ひて、いづかたとも見えず、ひかへたりしが、呉王の軍に利有りと見/て、ことごとく呉王の勢にぞくははりける。今は三十万騎に成りて、彼の山をかこむ事、稲麻竹葦の如く、越王適はじとや思ひけん、油幕の内に入り、兵を集めて曰く、「我、運命既につきて、今此のかこみにて、腹を切るべし。是、まつたく軍の科にあらず、天、我を滅ぼせり。恨むべきにあらず。只范蠡がいさめこそ恥づかしけれ。従ひて、臣が御志を報ぜざるこそ、無念なれ。さりながら、重恩、生々世々に報じ難し。とても、是程の志なれば、明けなば、諸共にかこみを出でて、呉王の陣に掛け入りて、屍を軍門にさらし、再生に報ずべし」とて、鎧の袖を濡らし給へば、兵も、一途に思ひ定まる勢を見/て、「今までの旧好、余儀無し」とぞ同じける。さて、王■与とて、八歳に成る最愛の太子有りけり。呼び出だして、「汝、未だ幼稚なり。敵に生捕られて、憂き目を見ん事、口惜し。汝を先立てて、心安く討死して、九泉の苔の下、三途の露の底までも、父子の恩愛、捨てじと思ふなり。急ぎ殺すべし」と言ひければ、太子、何心も無くてぞ有りにける。又、随身の重器をつみ重ねて、ことごとくやき失はんとす。時に、越王の左将軍に、大夫種と言ふ臣下有り、すすみ出でて申しけるは、「生をまつたくしP229て、命をまつ事、遠くしてかたし。死をかろくして、節をのぞむ事は、近くして安し。暫く重器をやき、太子を殺さん事を止め給へ。我、無骨なりと雖も、呉王をあざむきて、君王の死をすくひ、本国に帰り、二度、大軍を起こし、此の恥をすすがんと存ずるなり。然るに、今、此の山をかこみ、一陣をはる左将軍は、太宰■と言ふ臣下なり。彼は、我が古の朋友なり。誠に血気の勇士と言ひながら、心に欲有り。又、呉王も、智浅くして、謀短し。色に婬して、道に暗し。然れば、君臣共に、あざむくに安き所なり。今、此の戦ひにまくる事も、范蠡がいさめを用ひ給はぬに依りて也。願はくは、君王、暫く臣下に謀を許して、敗軍数万の死をすくひ給へ」と、涙を流して、申しければ、越王、差しあたる理に下りて、「今より後、大夫種が言葉に従ふ」とて、重器をもやかず、太子をも殺さざりけり。大夫種喜びて、兜を脱ぎ、旗をまき、会稽山より下り、「越王の勢、既につきて、呉の軍門に下る」と呼ばはりければ、呉の兵三十万騎、勝鬨を作りて、万歳の喜びをぞ唱へける。大夫種は、即ち、此のゑ門に入りて、「つつしんで、呉上将軍のけしゆつことに属す」と言ひて、膝行頓首して、太宰■が前にひざまづく。太宰■哀れに思ひ、顔色とけて、「越王の命をば申しなだむべし」とて、大夫種をつれて、呉王の陣に渡り、此の由かくと言ふ。P230呉王、彼等を見/て、大きに怒りて曰く、「呉と越との戦ひ、今に限らずと雖も、時にいたりて、勾踐とらはれ、僻事となれり。是、天の我に与へたるにあらずや。汝、知りながら、彼を助けよと言ふ。敢へて忠烈の臣にはあらず」とて、更に用ひ給はず。太宰■、重ねて申しけるは、「臣、不肖なりと雖も、忝くも、将軍の号を許されて、此の戦ひにも一陣たり。然れば、謀をめぐらし、大敵を破り、命をかろんじて、勝つ事を決せり。是、偏に臣が大臣の功とも言ひつべし。君王の為に、天下の太平をはかるに、あに一日も忠をつくす心を現さざらんや」。時に、呉王、「つらつら、せいをはかるに、越王、戦ひ負けて、力つきぬとは雖も、残る兵、未だ三万騎有り。これ皆、こへいてつきの勇士なり。御方は、多しと雖も、昨日の軍に疲れて、前後を失ひ、敵は、小勢也と雖も、志を一つにして、しかも、逃れぬ所を知れり。是や、窮鼠返りて猫をくらひ、闘雀人を恐れずと言ふべきにや。もし重ねて戦はば、御方には、あやしみ多かるべし」と宣へば、太宰■が、「只越王を助けて、一天の地を与へ、此の下臣となすべし。しからば、呉越両国のみならず、斉・楚・趙の三が国、ことごとく朝せずと言ふこと有るべからず。是ぞ、根は深うして、葉をかたくする道也」と、理をつくしければ、呉王聞きをはりP231て、欲にふける心をたくましくして、「然らば、会稽山のかこみをとき、越王を助くべし」とぞ定めける。太宰■、急ぎ大夫種に語る。大きに喜びて、越王に告げければ、士卒色を直し、「万事を出で、一生にあふ事、偏に大夫種が智謀によれり」とぞ喜びける。然る程に、兵共、皆国に帰る。太子の王■与には、大夫種を付けて、本国へ返し、我は、素車に乗りて、越の国の璽綬を首に掛け、いやしくも呉王の下臣と称して、軍門に下り給ひにけり。あさましかりし次第なり。然れども、なほし呉王心許しや無かりけん。「君子、刑人に近付かず」とて、敢へて勾踐に面をまみえ給はず。剰へ、典獄の官に下されて、きやうこうゑききうして、枯蘇城へ入り給ふ。其の姿見る人、袖を濡らさぬは無かりけり。実にや、昨日までは、越国の大王として、何か心を携へし。弓矢を帯する身とて、今日は、斯かる目にあふべしとは、誰か知るべきとて、涙を流さぬは無かりけり。越王、彼の所に入りぬれば、手械足枷を入れ、首に綱を差し、土の籠にぞ込められける。夜明、日暮れども、日月の光をも見ず、冥暗の内に、年月を送り向かへし涙の露、さこそは袖に積もるらめ、思ひ遣られて哀れ也。然る程に、国に止め置きし范蠡、此の事を聞き、恨み骨髄に通りて、忍び難し。哀れ、如何にもして、我が君を本国に返し奉りて、諸共に謀をめぐらし、会稽の恥を清めP232ばやと、肺肝を砕きてぞ、悲しみける。或る時、范蠡、謀を以て、身をやつし、籠に魚を入れて、自ら是をになひ、商人のまねをして、呉国をぞめぐりける。城の辺にて、勾踐の御所を秘かに問ひければ、人是を詳しく教へけり。范蠡嬉しくて、彼の獄近く行きけれ共、警固隙も無かりければ、魚あきなふ由にて、近付き寄りて、一行の書を魚の腹の中に入れて、獄中に入れたり。勾踐、あやしみ思ひて、魚の腹を開きて見れば、書有り。言葉に曰く、「西伯とらはれ■里。てうてうしははしかしよに。皆王覇たる。敵に死を許す事無かれ」とぞ書きたりけれ。筆勢、文章の体、まがはぬ范蠡がわざなり。然ればにや、未だ浮き世にながらへて、我が為に肺肝しけりと、志の程、哀れにも、又頼もしくもぞ思ひける。一日片時のながらへも、恨めしかりつるに、范蠡がいさめを受けて、今更、命をも惜しく思はれけり。斯かる所に、敵の呉王、俄に石淋と言ふ病を受けて、心身とこしなへに悩乱す。巫覡祈れ共、験無く、医師治すれども、いえずして、露命既に危ふかりけり、此処に、他国より名医来たりて、「此の病、誠に重(おも)しと雖も、医術及び難きにあらず。もし此の石淋をなめて、五味の様を知る人あらば、其の心を受けて療治せんに、即ちいゆべし」と申しければ、「誰か、此の石淋をなめて、あぢはひの様を知るべきか」と問ふに、左右の近臣、皆相顧みP233て、なむる者無し。勾踐、是を聞き給ひ、「我、会稽山にかこまれ、既に誅せらるべかりしを、今まで助け置かれて、天下の赦をまつ事、偏に君王の厚恩なり。今、我、是を以て報ぜずは、いつの日をか期せん」とて、秘かに石淋の取りてなめ、其のあぢはひを医師に告げければ、医師即ちあぢはひを聞きて、療治をくはふるに、呉王の病、忽ちに平癒す。呉王、大きに喜びて、「人、心有り、死を助けずは、如何でか今謝心あらん」とて、越王を土の籠より出だし、剰へ越の国を与へ、「本国に返し給ふべし」と宣下せられけり。此処に、呉王の臣下に、伍子胥と言ふ者有り、呉王の前にて申しけるは、「天の与へを取らざるは、かへつて、其の咎をうると見えたり。此の時、越の国を取らずして、勾踐を返し給はん事、千里の野辺に、虎をはなつが如し」といさめける。呉王用ひずして、勾踐を本国に帰されけるぞ、運の極めと覚えける。越王喜びて、車の轅をめぐらし、急ぎ国にぞ帰りける。道の辺に、蛙多く集まりて、路頭をふさぐ。勾踐、是を見/て、「勇士をえて、素懐を達すべき瑞相、めでたし」とて、車より下りて、是を拝みて通られけるが、果たして言ふ如く、本意を遂げ給ひにけり。不思議なる奇瑞也。さて、越王、国に帰り、故郷を見るに、いつしか三年にあれはてて、鳥、松桂の枝にすくひ、狐、蘭菊の草むらにかくる。払ふ人無き閑庭には、P234落葉みちて、蕭々たり。越王帰り給ひぬと聞きければ、隠れ居たる范蠡、太子の王■与を宮中に入れ奉る。又、越王の后西施と言ふ美人有り。是ぞ、呉国に聞こゆるなんこく・南威・とうい・西施とて、四人の美人有りける中にも、西施は、頸色世にすぐれ、嬋娟たる頸ばせ、たぐひ無かりしかば、越王、殊に寵愛して、しばしも傍をはなし給はざりき。越王、呉王にとらはれし程は、此の難を逃れんが為に、身をそばめ、隠れ居給ひしが、越王帰り給ふと聞き、喜びて故宮に参り給ふ。此の三年を待ちわびし思ひに、雪の膚、しはしは衰へたる御容、いとどわり無く覚えたり。余所の袂までも、しをるる計なり。越王、此の頸ばせに、いよいよ心を添へ給ひけり。理とぞ見えける。此処に、呉王より使ひ有り。越王驚きて、范蠡を出だして聞くに、「我が君、婬の好み、色を重くして、美人を尋ぬる事、天下にあまねし。然れども、西施が如くの顔色をえず。越王の古、会稽山を出でし時、一言の約束有り、忘れ給ふべきにあらず。はやはや西施を呉のこきゆうへ冊入し奉り、貴妃の位にそなへん」との使ひなり。越王聞き、「我、呉王にとらはれ、恥を忘れ、石淋をなめて、命を助かりし事も、只彼の西施に偕老の契りを結びし故なり。然れば、西施を他国へ遣はさん事、適ふべからず」と言ふ。范蠡申しけるは、「誠に君王の展したる思ひをはるるに、臣か心成し増さるにはあらね共、もし西施を惜しみ給はば、P235呉越のへいき、二度破れて、此の国を取らるるのみならず。西施をも奪はれ、社稷をも傾けらるべし。つらつら、是をはかるに、呉王、婬の好み、色に迷ふ事、疑ひ無し。国つひえ、民背かん時に及びて、兵を起こし、呉を攻められんに、勝つ事、立所なるべし。然らば、夫人の御契、長久ならん」と、涙を流してくどきければ、越王、「我、前に范蠡がいさめを用ひずして、呉王にかこまれ、命つきなんとす。今又、彼のいさめ聞かずは、定めて天の照覧にも背きなん」とて、西施を呉国へぞ送られける。互ひの別れの袖、愁歎に残ると言ふも余り有り。され共、范蠡がいさめを違へず、一人の太子をも振り捨て出で給ふ御心も、只末の世を思ひ給ふ故なり。さりながら、一方ならぬ別れの悲しさ、例へん方も無し。さて、彼の西施は、一度ゑめば、百の媚有り、一度宮中に入りぬれば、呉王、心を惑はす。呉王は、思ひよりも心あくがれて、婬楽を好みて、夜とも知らず、遊宴をもつぱらとして、国の危ふきをも顧みず、誠に范蠡がいさめ違はずと見えける。此処に、呉王の臣下伍子胥、是を歎き、呉王をいさめて曰く、「君見ずや、殷の紂王は、妲己に迷ひて、世を乱し、周の幽王は、褒■を愛して、国を傾けられし事、遠きにあらず」と、度々いさめけれ共、敢へて、是を聞かず。或る時、呉王、西施に宴せんとて、群臣を集め、枯蘇台にして、花に酔をすすめP236けるが、さしも玉をしき、金を大うする瑶階を上るとて、裙を高く掲げて、深き水を渡る時の如くにせり。人是をあやしみ、其の故を問へば、「此の枯蘇台、今越王に滅ぼされ、草深く、露繁き地とならん事遠からず。我、もし其れまで命あらば、昔の跡見んに、袖より余る荊棘の露深かるべき行末の秋、思へば、斯様にして渡らん」とぞ申しける。君王を始めて、聞く者、奇異の思ひをなせり。果たして思ひ合はせられけり。又、或る時、伍子胥、青蛇の如くなる剣を抜きて、呉王の前に置きて、言ふ様、「此の剣をとぐ事、邪を退け、敵を払はん為なり。つらつら、国の傾くべき基を尋ぬるに、皆西施より起これり。然れば、是に過ぎたる大敵無し。願はくは、西施が首をはねて、社稷の危ふきを助けん」と言ひて、歯がみをしてぞ、立つたりける。実にや、忠言は、耳にさかふ習ひなれば、呉王、大きに怒り、眼の前に置きて、国傾くと言ふとも、かろく我をや背かん。まして、今邪路に入る事、其の数ならず。是、偏に怨敵の語らひを受けたりと覚えたり。さあらんにおいては、是非ををかさざる先に、伍子胥を誅せらるべきにぞ定めける。伍子胥、敢へて是をいたまず、「我、君臣の朝恩を捨つべきにあらず。国乱れば、一番に出でて、呉王の為に、屍をさらすべき身也。越王の兵の手にかからんより、君王の手にかかり、死なん事、恨むべきにあらず。但し、君、臣がいさめを聞かP237ずして、怒りをひろくして、我に死を与ふる事、天既に君を捨つる始めなり。君、越王に滅ぼされて、刑戮の罪にふせられん事、三ケ年を過ぐべからず。願はくは、我が両眼をうがちて、此の東門に掛けて、其の後、首をはね給へ。一双眼枯れずして、待ち申すべし。君、勾踐に滅ぼされんを見/て、笑はん」と申しければ、呉王、いよいよ怒りをなして、遂に伍子胥を切られけり。無慙なりし有様也。然れ共、呉王、後悔先に立たざる理、思ひ合はせられけり、伍子胥願ひし如く、二つの眼を抜きて、東門に掛け置きたり。しかうして後、悪事いよいよ積もれ共、伍子胥が果を見/て、敢へていさむる臣下も無し。あさましかりし有様なり。越国の范蠡、是を聞き、時既にいたりぬと喜びて、自ら二十万騎の兵を率して向かひけり。折節、呉王は、晋の国背くと聞きて、兵を率し、彼の国へ向かはれたる隙なりしかば、防ぐ兵、一人も無し。范蠡、先づ王宮へ乱れ入り、西施を取り返し、越の王宮へ返し入れ奉り、即ち、枯蘇城をやき払ふ。斉・楚の両国も、越王に志を通ずる子細有りければ、三十万騎の兵を出だし、范蠡が勢に力をぞ合はせける。呉王、是を聞き、大きに驚き、晋の国の戦ひを差し置きて、此の国に引き返し、越王に戦ひをなす。然れども、越・斉・楚の兵雲霞の如く、前よりきほへば、後ろよりは、晋の国の強敵、勝つに乗りて、追つ掛けたり。呉王、大敵に前後を包まれて、逃るP238べき方無かりければ、死をかろうして戦ふ事、三日三夜也。即ち、范蠡、あら手を入れかへて、息をもつがせず、攻めける程に、呉王の兵、三万余人打たれしかば、はつかに百余人になりにけり。呉王、自ら相戦ふ事、三十二ケ度也。夜半に及びて、百余人の兵、六十騎に成り、枯蘇山に上りて、越王の方へ使ひを立てて、「君王、昔、会稽山に苦しめおき、越王勾踐が命を助けし事、忘れべきにあらず。自らが臣下と成り、今、此の乱の起こす事、偏に助けし重恩にあらずや。我も、今より後、越王の如く、又君王の玉趾を頂かん。君、もし会稽の恩を忘れずは、今日の死を助け給へ」と、言葉をつくしけり。越王、是を聞きて、古の我が思ひ、今の人の悲しみこそ思ひ知られて、呉王を殺すに及ばず、其の死をすくはん事を思ひわづらひ給へり。范蠡、是を聞き、大きに怒り、越王の前に来たり、面ををかして申しけるは、古は、天、越を呉に与へたり。然るに、今は、又呉を越に施す。過ぎにし方の与へを、呉王取らずして、此の害にあひ、越又、かくの如く害に哀れむ事。君臣共に肝を砕きて、呉王をうる事、二十ケ年の春秋、あに思ひ知らざんや。君非を行ふ時、従はざるは忠臣なり」と言ひ捨てて、呉王の使ひ未だ帰らざるに、范蠡、自ら攻め鼓を打ちて、兵をすすめ、遂に呉王を生捕りにして、軍門の前に引き出だす。范蠡が年月ののぞみ、憤り、P239さこそと思ひ遣られたれ。呉王は、既に面縛せられて、呉の東門を通り給ひけるに、呉王の忠臣伍子胥がいさめ適はずして、首をはねられし時の両眼、幢に掛けたりしが、呉王の果を見んとして、三年まで枯れずして、見開きて有りしが、呉王面縛せられ、彼の一双の眼の前を渡りけるを見/て、自ら動き働きて、笑ふ気色見えけり。執情の程ぞ恐ろしき。呉王、彼に面を合はせん事、さすが恥づかしくや思ひけん、袖を顔に押し当て、首を傾けて、通り給ふぞ、いたはしき。数万の兵、是を見/て、唇を返さぬは無かりけり。さて、彼の伍子胥が眼、呉王の果を見送りて、霜の日影にとくるが如く、時の間に消えて失せにけるぞ、無慙なる。即ち、呉王夫差をば、典獄の官に下されて、会稽山の麓にて、遂に首をはね奉る。哀れなりし例とぞ申し伝へける。然れば、古より今に至るまで、俗の諺に、「会稽の恥を清む」とは、此の事を言ふなるべし。さて、越王は、呉国を取るのみならず、隣国まで従へ、いしやのちしゆとなりしかば、其の功を賞じて、范蠡をば、万戸の首領になさんとし給ひしか共、范蠡、かつて禄を受けず、「大名の下には、久居すべからず。功なり名遂げて、身退くは、天の道也」とて、遂に、名をかへ、陶朱公と言はれて、五湖と言ふ所に身を隠し、世を逃れて、釣して、白頭の翁と成りて、後には、行方知らずとぞ申し伝へける。或る人の曰く、P240「越王は、会稽の恥をすすぎ、運の開き、世にさかふ也。今の時宗は、恥をすすぐと雖も、一命を失ふ也。例へにも成るべからず」とぞ申しける。又、或る者の曰く、「此の人々、弓矢を取つての勢、打物を取つての振舞ひ、呉越の戦ひには勝れる物かな」と感ずる人も多かりけり。聞く人、「理」とぞ申しける。
 〔鴬・蛙の歌の事〕S0514N086
 扨も、「花に鳴く鴬、水にすむ蛙だにも、歌をばよむ物を」と言ひけるは、仁王八代御門孝元天皇の御時、大和の国の葛城山、高間寺と言ふ所に、一人の僧有りけるが、又も無き弟子を先立てて、深く歎き居たり。次の年の春、彼の寺の軒端の梅の梢に鳴く鴬の声を聞けば、「初陽毎朝来、不相還本栖」と鳴きける。文字に移せば、歌なり。初春の朝ごとには来たれどもあはでぞ帰るもとの住み処に W017と、鴬のまさしく詠みたる歌ぞかし。又、蛙の歌詠みけるとは、良定、住吉に忘草を尋ね行きにし、彼の女房にはあはずして、あくがれ立ちたりし時、蛙、其の前をはひ通る跡を見れば、歌有り。P241住吉の浜のみるめも忘れねば仮初人にまた問はれけり W018是又、蛙のまさしく詠みし歌なり。



P242曾我物語巻第六
 @〔大磯の盃論の事〕S0601N087
 さても、十郎祐成は、三浦より曾我へ帰りけるが、定め無き浮き世の習ひ、つくづくと案ずるに、明日富士野に打ち出でて、帰らん事は不定なり、此の三四年情を懸けて浅からぬ虎に暇こはんとて、宿河原・松井田と申す所より、大磯にこそ行きにけれ。折節、鎌倉殿召しに従ひて、近国の大名小名、打ちつれて通りけり。十郎、虎が宿所に立ち寄りて有りけるが、心をかへて思ひけるは、国々の待多く通る折節、流れをたつる遊び者、我ならぬ情もやと、心にふしが思はれて、暫く駒をひかへつつ、内の体をぞ聞き居たり。折節、虎が帳台には、友の遊君数多なみ居て、物語しける中に、虎が声して、「只今上る人々は、何処の国の誰ぞ」と言ふ。「聞き給はずや、先陣は、波多野の右馬助。後陣は、横山の藤馬允」とぞ申しけれ。虎聞きて、「誠や、孔子の言葉かや、「耳の楽しみ所に、つつしむP243べからず、心起こる所に、ほしい儘に習はざれ」とは申せども、哀れ、実に、此の殿原の馬・鞍・鎧・腹巻を童にくれよかし」。女房立ち聞きて、「あはぬ御願ひ、何の御用とも知らざるにや」と。「祐成に参らせ、思ふ事を」とばかり言ひて、涙を浮かべけり。友の遊君聞きて、不思議やな、思ふ事は何なるらんとあやしみながら、問ふべきにあらず、敵打ちて後こそ、此の事よとは思ひ合はせられけり。然れば、此の人も、予てより知りけるよとは申し合ひけり。祐成、物ごしに聞きて、如何でか是程情深き者に、たちぎきしたりと思はれては、後の恨み残るべし、其れ程に思ひなば、こぬこそと思ひつつ、知らざる体にもてなし、駒の口をしばしひかへ、何と無く広縁に下り、行縢脱ぎて、鞭にて簾を打ち上げて、内に入りぬ。虎も、やがて出でて、いつより睦ましく語り寄り、あかぬ世の中の夢か現かと思ひ居たりける所に、思ひの外なる事こそ出で来たりける。 由来を尋ぬるに、和田の義盛、一門百八十騎打ちつれ、下野へ通りけるが、子供にあひて言ふ様、「都の事はそ限り有り、田舎辺には、黄瀬川に亀鶴、手越に少将、大磯に虎とて、海道一の遊君ぞかし。一獻すすめて、通らばや」「然るべく候ふ」とて、長の方へ使ひをたてて、かくぞ言はせける。なのめならずに喜びて、遠侍の塵とらせ、「義盛、是へ」と、請じけり。虎に劣らぬ女三十余人出で立たせ、P244座敷へこそは出だしけれ。朝比奈の三郎義秀、古郡左衛門、種氏を先として、八十余人居流れ、既に酒宴ぞ始まりける。され共、虎は、座敷へ出でざりける。義盛、心得ず思ひて、「此の君達も、然る事なれども、虎御前の見参の為なり。などや見え給はぬ。義盛悪しくや参りて候ふ」と言ひければ、母聞きて、「此の程、心わづらはしくて」と言ひながら、座敷を立ち、虎が方へ行きて、「などや遅く出で給ふ。とくとく」と言ひ置きて、母は、座敷に出で、「只今、虎は参り候ふ」と言ひけり。義盛、盃抑へて、今やとまてども、見えざりけり。中々始めより、「心地例ならで」と言ひなば、よかるべき物を、「只今」と言ふに依りて、義盛、気を損じ、「御心に背く事あらば、罷り立ちて、後日に参るべし」と言ふ。母聞き兼ねて、又座敷を立ち、「何とて出で給はぬぞや。時世に従ふ習ひ、思はぬ人になるるも、さのみこそ候へ。恨めしの御振舞ひや」とてたたずむ。虎は又、十郎が心をかねて、衣引きかづき、打ち伏しぬ。母は、此の心を見兼ねて、「如何にやは君、昔のふん女が事をば知り給はずや。然様の事だにも有りしぞかし。猶も出でまじくは、六字の名号も御覧ぜよ、生々世々まで不孝ぞ」と言ひ捨てて、座敷へ出でにけり。P245
 @〔弁才天の御事〕S0602N092
 抑、ふん女と例へに引きける由来を尋ぬれば、昔、大国流沙の水上に、ふん女といへる女有り。天下に聞こゆる長者也。金銀珠玉のみにあらず、七珍万宝、四方の蔵に余りける。然れども、如何なる前業にや、一人の子無し。悲しみて、祈れども、適はず。或る時、思はざる懐妊す。喜びの内、苦悩言ふ計り無し。され共、出で来たるべき嬉しさに、物の数とも思はざりけり。日数積もる程に、産の紐をとく。見れば、人にはあらで、かひ子を五百うみたり。「是は如何に、一つなりとも、不思議の事ぞかし。五百人まで生まるる事、只事にあらず。縁無き子をしひて祈るに依りて、天のにくみを蒙ると覚えたり。帰りなば、如何なる物にて、親をも損じ、人をも害すべきやらん。其の上、胎卵湿化の内、卵生罪深しととかれたり。おくべからず」とて、箱に入れて、流沙の波に流し捨てけり。不思議なる例也。遙かの川の末に、れうかんと言ふ所に、きよはくと言ふ貧道無縁の老人有り。明け暮れ、此の川の鱗をすなどり、身命を助かる者有り。折節、釣する所へ、此の箱流れ寄りたり。取り上げ、開きて見れば、卵なり。何者の子やらんと思ひ、家に取りて返り、妻にかくと言ふ。女、是を見て、「恐ろしや、如何なるP246者にか帰りなん。主も様有りてこそ捨てつらん。急ぎ元の川に入れよ」と言ふ。「只おき候へ。斯様なる物には、不思議もこそあれ。仮令僻事有りとも、我等は、齢幾程有るべきならねば、様を見よ」とて、物に包み、あたたかにして置きたりければ、程も無く、いつくしき男子に返りぬ。我、古より、一人も子の無き事を歎きに思ふに、然るべき哀れみにやと喜びて、又見れば、帰り帰りて、五百人にぞ帰りそろひける。一つを捨てて、一つを養はん事、恨み有り。黙し難くて、取り集め、養ひけるに、一つもつつがなく、成長しけるぞ、不思議なる。夫婦二人の時だにも、渡世適ひ難し。此の者共を育てける程に、朝夕の世路にわびければ、此処や彼処に徘徊し、命を助からんとする程に、心ならず猛悪に成り、思はずも、欲心に住す。瞋恚を旨として、驕慢に余りければ、外道にも近付きけり。或る時、彼等言ひけるは、「我等一人ならず、餓死に及べり。然ればとて、徒らに身を捨つべきにあらず、此の川上に、ふん女とて、長者有り。財宝を蔵に置き余る。いざや行きて、打ち破らん。宝は取りあきぬべし」と言ひければ、一人が言ふ様、「然る事なれども、其れ程いみじき果報者を、我等賎しき貧力にて、宝を奪はん事、思ひもよらず、かへつて身の仇となりぬべし、案じ給へ」と言ふ。今一人が言ふ様、「然らば、外道共を語らひ、彼等P247が神通の力をかりて、破りて見ん」「然るべし」とて、非天外道と言ふ者のもとへ遣りたりければ、もとより闘諍修羅を好む者なりければ、同類を催し、打ち立ちける。装束には、流転生死の鎧直垂に、悪業煩悩の籠手を差し、とくの脇楯に、因果撥無の脛当し、愚痴暗蔽の綱貫はき、極大邪見の鎧に、誹謗三宝の裾金物をぞ打ちたりける。三界無安の白星の兜に、六趣輪廻の頬当し、貪欲心いの刀を差し、邪見放逸の太刀をはき、殺生偸盗の大弓に、破戒無慙の弦を掛けて、苦患無明の箙には、諸法愛著の矢数を差し、四顛倒の馬の太くたくましきに、四苦八苦の鞍を置きてぞ乗りたりける。其の外、異類異形のちた外道共、思ひ思ひの装束に色々の旗差させ、数を知らずぞ集まりける。城中には、鎮まりかへりて、音もせず。され共、用心厳しくて、たやすく入るべき様は無かりけり。時を移して、ゆらへたる。彼のふん女は、同じく福者と言ひながら、三宝を崇め、仁義を乱らで、言ふ計り無き賢人なり。如何でか験無かるべき。諸天、是を哀れみて、ふん女を渇仰し給ひける。かくては、如何有るべきとて、死生不知の外道共、をめきさけびて、乱れ入る時に、悪魔降伏の四天・十二天、影向成りて、四角四方を守り給ふ。四天は、もとより甲冑をよろひ、弓箭をはなさぬ勇士なれば、面もふらで、ささへ給ふ。火天、猛火をはなし、風天、風を深せ、各々城を守り給ふ。中にも、P248水天は、弓矢を守らんと誓ひ給ふなれば、数の眷属を引きつれ、妙観みつちの旗差させ、殊にすすみて見え給ふ。其の日の御装束には、九ほん正覚の鎧直垂、相好荘厳の籠手を差し、上求菩提の膝鎧、下化衆生の脛当し、二求両願の綱貫はき、大悲だいじゆ等の頬当し、無数方便の赤糸の鎧に、紫磨黄金の裾金物を打ちける、万徳円満の月、まかうに打ちたる、畢竟空しくの四方白の兜を猪首にき、五劫思惟の厳物づくりの太刀はき、首楞厳定の刀差し、くわしや三昧の月弓に、実相般若の弦を掛け、智徳無量の矢数を、随類化現の筥に差して、はたかに追ひ成し給ふ。もとより手なれたる大蛇、後ろよりはひかかり、左右の肩に手をおき、兜の上に頭をもたし、両眼の光明らかにして、時々雷四方にちり、紫の舌の色あざやかにして、折々火焔をふき出だす勢、天に余る。今の代に、兜の竜頭を打つ事、此の時よりも始まりける。床几に腰を掛け、宣ひけるは、「大阿修羅王が戦ひのこはきも、仏力には適はず。ましてや言はん。彼等がいさみ、蟻のたけりと覚えたり。城中鎮まれ」とぞ下知しける。此処に、城の内より武者一人すすみ出でて申しけるは、「只今寄せ来たる兵は、何処の国の何者ぞ。又、如何なる宿意有るぞ。詳しく名乗れ」と言ひける。五百人の兵聞きて、「彼等には、親も無し。氏も無し。生まるる所を知らざれば、なにじやう誰と名乗るべき。朝夕思ふ事とては、宝のほしきばかりなり。P249急ぎ蔵を開き、財宝を与へよ。我等、思ふ程取りて帰らん」と言ひける。「心得ぬ言葉かな。人に依り、分に従ひ、氏も、名字も有る物を、猛悪の身が不思議なり。申せ」と言ひければ、「問ひては何にし給ふべき。さりながら、此の上より流れ来たる五百人の流人なり。言はれん物も無ければ、人知らず。急ぎ宝を施して、返すべし」と申しけり。流れ来たる兵と言ふを、ふん女、つくづく聞きて、あやしく思ひ、櫓の下に歩み出でて、「五百人の殿原、近くより給へ。尋ぬべき事有り」と言ひければ、一人、塀の際によりたり。「抑、「流れ来たる」と仰せられつる言葉について申すぞとよ。姿は何にて流れけるぞ」「宝をば出ださで、むつかし」とは言ひながら、「我等が昔、如何なる者かうみけん。五百の卵にて、水上より流れけるを、人取り上げて、育てける」と言ふ。然ればこそと思ひ、「其の卵は、何に入りけるぞや」「玉の手箱に入り、上には銘を書きし也」「銘をば何と書きたるぞ」「はうしやうろうの箱と書けり」「さては、疑ふ所無し。是は、そなたの支証なり。此方よりの証據には、「もし此の卵つつがなく成長あらば、尋ねこよ。ふん女」と書きて、判をおし、箱の底に入れたりしが、刹那も膚をはなさじと、首に掛けて持ちたり」とて、懐よりも取り出だす。「さては、疑ふ所無し。汝等は、自らが子供なり」と、戸を開きて、出でければ、P250尾花の如くささへたる鉾剣をも捨てにけり。母も子供のなつかしさに、剣の刃を忘れ、彼等が中に立ち入りて、見まはしければ、兵も、兜を脱ぎ、弓矢をよこたへ、各々大地にひざまづく。いつしか母はなつかしく、思ひの涙うかびければ、なみ居たりける兵の中を、彼方此方に行きめぐり、彼もか、是もかと言ふ露の袖のにほひもかうばしく、哀れみ哀れむ装ひは、見る目もすすむ涙なり。実にや、恩愛の中程、悲しき事あらじ。夜叉羅刹をだにも従へて、猛くいさめる武士も、母一人の言葉に、皆々靡くぞ哀れなる。かくて、城中にいざなひ、親子のむつび、懇ろなり。 後には、ふん女、大弁才天と現れ給ふとかや。五百人の人々は、五百童児と成り、其の一つは、印鎰預かり、神と現れ給ふ。はうしやうろうの箱をも、其の中にもたし給ふ。一切衆生の願ひをことごとく見て、安楽世界に向かへむと誓ひ給ふ。「斯様に猛き弓取りも、母には従ふ習ひぞかし。 何とて、虎は、母に従はざるや」とぞ言ひける。虎は、猶も涙にむせび、「流れをたつる身程、悲しき事は無し。夫の心を思ひ知れば、母の命に背く。又、母に従へば、時の綺羅にめづるに似たり。とにもかくにも、我が思ひ、乱れ染めける黒髪の、あかぬ情の悲しさよ。如何なる罪のむくいにて、女の身とP251は生まれけん。然ればにや、五障三従ととき給ひけるぞや」とて、さめざめと泣き居たり。十郎、此の有様を見て、「何かは苦しかるべき。一獻の程の隙、出だし給へかし。母の命背きなば、冥の照覧も恐ろし」と申しければ、虎は、是にも従はで、只泣くより外の事は無し。義盛、是をば知らずして、「何とて、虎は遅きやらん」とて、一さいに興を失ひけり。母も又、待ち兼ねけるにや、「曾我の十郎殿坐しますが、さてや、出で兼ね候ふらん」。和田は、是を聞きて、「心得ぬ振舞ひかな。我こそ出でて、対面せざらめ、流れの遊君をふさぐべきか。誠に僻事なり。四郎左衛門、朝比奈は無きか。御向かひに参れ」と言ふ。四百余人の殿原も、はや事出で来ぬと、色めきける。祐成が有り所近ければ、義盛が言葉、手に取る様にぞ聞こえける。「不思議やな。思はぬ最後の出で来たるぞや。身に思ひのあれば、千金万玉よりも惜しき命也。され共、逃れぬ所は、力無し。徒らなる死にして、五郎に恨みられん事こそ、思ひ遣られて悲しけれ。さりながら、斯様の所は、神も仏も許し給へ」と観じて、烏帽子押し直し、直垂の露結びて、肩に掛け、伊東重代の赤銅づくりの太刀を二三寸抜き掛け、片膝押したて、一方の戸を開き、「ことことし、三浦の者共、何十人もあれ、一番にいらん朝比奈が諸膝なぎふせ、続かん奴原、物の数にや有るべき、伊東の手なみ見せP252ん。遅し」とこそは待ち掛けたり。虎も、此の有様を見て、実にや、冥途より来たるなる獄卒の追つ立つる道だにも、主君・師匠の命には変はるぞかし。ましてや、夫婦恩愛の契り浅からずとは、古今までも伝へ聞くなる物を、後の世までも離れじと思ひ切りて、守り刀、衣の褄に取りくくみ、三浦の人々、如何にいさみ乱れ入るとも、何と無く立ちまはり、よき隙に、義盛を一刀差し、如何にもならんと、只一筋に思ひ定め、祐成近く居寄り、今やとまつぞ、哀れなる。時移りにければ、和田、いよいよ腹をたて、「如何に、朝比奈は無きか。御向かひに参れ。無骨の訴訟も苦しかるまじ」とぞ怒りける。義秀聞き兼ね、座敷を立ち、虎が向かひに行きけるが、つくづく案ずる様、十郎と言ふも、伊東の嫡々たり、心も又、立て切りたり、始めより出ださで、斯様に成りては、よも出ださじ、我又、あらく怒りて出ださんも、恥辱也、所詮、難無き様に打ち向かひて、すかさばやと思ひければ、静かに歩み入りけるが、此の殿原、兄弟は、身こそ貧なりとも、心は貧にあらばこそ、楚忽に入りて、細首打ち落とされ、悪しかりなんと思ひ、扇、笏に取り直し、畏まりて、「是に、曾我の十郎殿の御入りの由、父にて候ふ者承り、御向かひの為に、義秀を参らせられて候ふ。何かは苦しく候ふべき。御出有りて、親にて候ふ者に、御対面や候ふべき。其れに又、某一期に一度の所望の候ふ。P253御前の事、ゆかしき事に、義盛思ひ候ふが、御座を存知して、義秀申し止めて候ふ。然るべくは、諸共に御出で有りて、父が所望をも養ひ、義秀も、面目有る様に御はからひ候へ、一向頼み奉り候ふ。さりながら、御心に違ひ候はば、罷り帰り候ふべし」と、障子ごしに言ひければ、十郎聞きて、「頼む」と言ふに、やはらぎて、「左右にや及ぶ、朝比奈殿、如何でか異議に及ぶべき。たち給へや、御前。祐成も出でん」とて、烏帽子の筒押したて、直垂の衣紋引きつくろひ、虎を先にたてて、各々三人出でたり。さてこそ、なみ居たりける人々も、いきたる心地はしたりけれ。誠に、義秀の振舞ひ、優なる物かな、座敷に事も起こらず、虎も出でて、十郎も心を破らで、事過ぎにける。是や、せようろんに、「国の誠興貴する事は、諌臣に有り、家のまさにさかんにたつとうする事は、諌子によつてなり」と、斯様の事をや申すべき。朝比奈無かりせば、由無き事出で来、十郎も打たれ、和田にも、人多く滅びなん。深淵にのぞんで、薄氷を踏むが如く、危ふかりし事なり。 義盛、ゑみをふくみ、「十郎殿の坐しましけるや。余所の人の様に、隔心候ふ物かな。御入りを知り奉らば、最前より申すべかりつる物を。是へ是へ」と請じける。十郎、笏取り直し、「さん候。もつとも御目にかかり候ふべきを、御存知の如く、P254異体の無骨に、斟酌を致し候ひぬ」。本意にあらざる由、色代して、左手の畳になほりける。虎も、座敷に定まりければ、盃前にぞ置きたりける。義盛、虎をつくづく見て、「ききしは物の数ならず、斯かる者も有りけるよ。十郎が心をかねて出でざるさへ、やさしく覚ゆるにや、其れ其れ」と言ふ。何と無く盃取り上げ、其の盃、和田のみて、祐成にさす。其の盃、義秀のみて、面々に下し、思ひざし、思ひどり、其の後は乱舞に成る。此処に、又始めたる土器、虎が前にぞ置きける。取り上げけるを、今一度としひられて、受けて持ちける。義盛、是を見て、「如何に御前、其の盃、いづかたへも思し召さん方へ、思ひざしし給へ。是ぞ、誠の心ならん」と有りければ、七分に受けたる盃に、心をちぢに使ひけり。和田に差し奉らん事、時の賞玩のいかんなし、然れども、祐成の心恥づかしさよ、流れをたつる身なればとて、人を内に置きながら、座敷に出づるは、本意ならず、ましてや、此の盃、義盛に差しなば、綺羅にめでたりと思ひ給はんも口惜し、祐成にさすならば、座敷に事起こりなん、かく有るべしと知るならば、始めより出でもせで、内にて如何にも成るべきを、二度思ふ悲しさよ、よしよし、是も前世の事、もし思はずの事あらば、和田の前下がりに差し給ふ刀こそ、童が物よ、さゆる体にもてなし、奪ひ取り、一刀差し、とにもかくにもと思ひ定めて、P255義盛一目、祐成一目、心を使ひ、案じけり。和田は、我にならではと思ふ所に、さは無くて、「許させ給へ、さりとては、思ひの方を」と打ち笑ひ、十郎にこそ差されけれ。一座の人々、目を見合はせ、「是は如何に」と見る所に、祐成、盃取り上げて、「身の賜はらん事、狼籍に似たる。是をば御前に」と言ふ。義盛きいて、「志の横どり、無骨なり。如何でか然るべき。はやはや」と色代也。さのみ辞すべきにあらず、十郎、盃取り上げ、三度ほす。義盛、ゐだけだかに成り、「年程、物憂き事は無し。義盛が齢、二十だにも若くは、御前には背かれじ。仮令一旦嫌はるる共、斯様の思ひざし、余所へは渡さじ。南無阿弥陀仏」と、高声也ければ、殊の外にて、にがにがしく見えければ、九十三騎の人々も、義秀の方を見遣りて、事や出で来なんと色めきたる体、差し現れける。十郎、もとより騒がぬ男にて、何程の事か有るべき、事出で来なば、何十人もあれ、義盛と引き組みて、勝負をせんずるまでと思ひ切り、あざ笑ひてぞ居たりける。 此処に、五郎時致、曾我に居たりけるが、父の為に法華経読みて、本尊に向かひ、念誦しけるが、しきりに胸騒ぎしけり。心得ぬ今の胸騒ぎや、いかさま、祐成の大磯へこし給ひぬるが、東国の武士、富士野へ打ち出づる折節なり。流れの遊君故、事し出だし給ふにやと、心許無く思ひければ、帳台に走り入り、緋威のP256腹巻取つて引き掛け、伊藤重代の四尺六寸の赤銅づくりの太刀、十文字に結びさげ、鞍おくべき暇無ければ、膚背馬に打ち乗りて、二十余町の其の程、只一馬場に掛け通し、門外を見渡せば、長者の門の辺、鞍おき、馬一二百匹ひつたてたり。侍所には、物の具の音しきりにして、只今、事出で来ぬとぞ見えける。入るべき所無くして、門の外をめぐり、日頃、祐成に行きつれて通りしかん小路にめぐり、竹垣をくぐり、虎が居所にこそつきにけれ。「十郎殿は、如何に」と問へば、「和田殿と盃を論じて、只今事出で来ぬ」と申す。然ればこそと思ひ、透垣をはね越え、兄の居たりける後ろの障子を隔て立ちけり。時致、是に有りと知られん為に、■にて、障子ごしに、袴の着際を差しければ、十郎「誰そ」と問ふ。五郎、小声に成りて、「時致、是に有り」と言ふ。十郎聞きて、万騎の兵を後ろに持ちたるより頼もしくぞ思ひける。義盛の声して、「上も無く振舞ふ物かな」と聞こえける。祐成の御事ぞと心得て、何事もあらば、障子一重踏み破りて、飛び出でて、一の太刀にて義盛、二の太刀にて朝比奈、其の外の奴原、何十人もあれかし、物の数にてあらばこそと思ひ切り、四尺六寸の太刀、杖につきて立つ。忍び兼ねたる有様は、刀八毘沙門の悪魔を降伏し給ふかとぞ覚えける。夕日脚の事なれば、太刀影の障子にすきて見えければ、朝比奈、是を見て推量し、誠や、彼等兄弟は、兄が座敷P257に有る時は、弟が後ろに立ち添ひ、弟が座敷に有る時は、兄が後ろに有る物を。いかさま、五郎は、後ろに有りと覚えたり。さしたる事も無きに、大事引き出だして、何の詮かあらん。又、いつしやう他人にもあらざるなり。何と無き体にもてなし、座敷を立たばやと思ひければ、紅に月出だしたる扇開き、「何とやらん、御座敷鎮まりたり。うたへや、殿原、はやせや、舞はん」とて、既に座敷を立ちければ、面々にこそはやしけれ。義秀、拍子を打ちたてさせ、「君が代は千代に八千代をさざれ石の」としをり上げて、「巖と成りて苔のむすまで W019」と、踏みしかくまうてまはりしに、 五郎が立ちたる前の障子を引きあけ見れば、案に違はず、時致は、四天王を作り損じたる様にて、踏みしかりてぞ立ちたりけれ。朝比奈、過たず、狂言に取り成して、「是にも、客人坐しますぞや。此方へ入らせ給へ」とて、草摺一二間、むずと取りて引きけれども、少しも働かず。磐石なり共、義秀が手を掛けなば、動かぬ事有るべきかと思ひ、力に任せ、ゑいやゑいやと引きけれ共、五郎物とも思はねば、引くとも無く、引かるる共無く、あざ笑ひてぞ立ちたり。大力に引かれて、横縫草摺こらへず、一度にきれて、朝比奈は、後ろへ、どうど倒れければ、五郎は、少しも働かで、二王だちにぞ立ちたり。さて、五郎時致は、みぎは勝りの大力と、余所の人まで知りける。誠や、此の者父河津の三郎は、東八ケ国に聞こゆる又野の五郎P258に、片手をはなちて、相撲に三番勝ちてこそ、大力の覚えは取りたりしが、其の子なるをや、力くらべは適ふまじ、すかさん物をと打ち笑ひ、「是へ是へ」と請ずれば、「余りの辞退はいこく人、異体は御免候へ」と言ふ言ふ、座敷に出でけるが、持ちたる太力と草摺にて、末座なる人々の首まはり、側顔を打ちなぐり、差し越え差し越え行き過ぎて、朝比奈が下なる畳になほりける、座敷に余りて見えたり。朝比奈、急ぎ座敷を立ちて、義盛の前に有りける盃を五郎が前にぞ置きたりける。時致、盃取り上げて、酌に立ちたる朝比奈に色代して、「御盃の前後は、遅参の無礼、御免あれ。御盃は賜はり候ふ」とて、三度までこそほしたりけれ。其の盃、朝比奈取り、「遙かに久しう候ふ御盃、思ひどり申さん」とて、元の座敷になほりけり。五郎も、酌に手を掛け、「近くも参らぬ御酌に、時致立たん」とゆるぎ立つ。四郎左衛門、座を立つて、「某、是に候ふ」とて、銚子に取り付けば、五郎もしばし色代す。義盛、是を見て、「客人の御酌、然るべからず。其れ其れ」と有りければ、つねうぢ、酌にぞ立ちける。朝比奈、盃取り上げ、三度ほし、其の盃を虎のみて、義盛にさす。其の時、五郎、扇、笏に取り直し、「今暫くも候ふべけれども、曾我にさしたる急ぐ事の候ふ。後日に恐れ申さん」とて、兄諸共に立ちければ、虎も、同じく立ちにけり。一座も、無興至極にして、和田は、鎌倉へ通りければ、此の人々は打ちつれP259て、曾我へとてこそ返りけれ。
 @〔曾我にて虎が名残惜しみし事〕S0603N098
 是や、名翼は、昊天に遊べ共、小沢に移り、九そうの愁へにあひ、■■は、深淵の底を保て共、浅渚に出でて、ほこうの愁へにあそふと見えたり。十郎も、身に思ひの有る物ぞかし、由無き女のもとにて、思はずの難にあはんとしけるぞ、口惜しき。人ごとに心得べき事也。祐成は、虎を具して、曾我に帰り、つねに住みける所に隠しおき、いつよりもこまごまと物語しけり。「此の度、御狩の御供申し、思はずの峰ごしの矢にもあたり、くち木、むもれ木共成るならば、身こそ貧に生まれめ、鬢なる塵の見苦しさよと、人の言はんも口惜し。髪けづりてたび候へ」と言ひければ、虎は、何としも思はで、数の櫛を取り散らし、暫く髪をぞけづりける。十郎は、女の膝に伏しながら、虎が顔をつくづく見て、祐成を睦ましと見んも、是ぞ限りなるべきと思へば、流るる涙を見て、「例ならぬ御涙、心許無さよ。何なるらん」と問ひければ、「今に始めぬ事とは言ひながら、憂き世の中の定め無さよ。此の程の万あぢきなく、何事も心細く覚ゆれば、あだに契り、同じP260世の、名の立つ程も、如何にやと思へば、心に涙のこぼるるぞ。実にや、頼まぬ身の習ひ、かこつ命も、露の間も、いまはしくこそ思はるれ」「実にも、さ様に思ひ給はば、此の度の御狩、思し召し止まり給へかし。君に知らるる宮づかひの隙無きわざにも候はず。止まり給へ」と言ひければ、「思ひ立つ御供なり。何事かは」と言ひながら、か程深く思ふ中、思ひ知らせず出でなば、情の色も絶えぬべし。せめて夢程、此の事を知らせばやと思へども、女は、甲斐無き者なれば、あかぬ別れの悲しさに、止めん為に、母にもや語りひろめん。此の度は、思ひ定めたるもの故に、適はぬ事を母聞きて、思ひの種ともなりぬべし。又は、五郎も恨みなん。思ひ切りたる一大事、女にさぞと言はん事、悪しかるべしと思ひ切り、何としも無くたはぶれけり。忍ぶとすれど、其の色のあやしく思ひ奉り、「覚束無し」と問ひければ、深き思ひの切なるに、束の間も、思ひ合はする事無くて、はてぬる物ならば、後の恨みも深かるべし。由、思ひ出に、一はしを言ひてや、心をやすむると、「身の有様を思ふには、憂きが住まひの詮無くて、世には住まじの其の故を、如何にと言ひて知らすべき。然ればにや、祖父人道の謀叛に依りて、切られ参らせし孫なれば、君にも召し使はれ、御恩蒙る事も無し。まして、先祖の本領は、年月余所にみなす上、馬の一匹もなだらかにかはず、又、父の為とて、P261経巻の一部もかかず、有りとしも無き憂き身の仕儀、人にみゆるも恥づかしく、面並ぶる便りも無し。然れば、此の度、御狩よりも帰りなば、出家を遂げ、墨の衣に染めかへて、頭陀乞食して、霊仏霊社に参り、父の後世をも弔ひ、我が身をも助からんと思ひ候ふ也。世に有りとも、夢幻の如く、はう心を残すべきにあらず。花山法皇だにも、万乗の位をさりて、山林に交はり給ふぞかし。ましてや、貧道無縁の祐成が、何に命も惜しかるべき。今度の御供を最後に、二度返らじと思へば、あかぬ別れの道捨て難くて」と申しければ、虎聞きも敢へず、十郎が膝に泣きかかり、しばしは物も言はざりけり。やや有りて、「恨めしや、問はずは知らせじと思し召すかや。誠、童は大磯の君、あさましき者の子なれば、誠の道をも思し召さじなれ共、女の身のはかなさ、身にかへてもとこそ思ひ奉れ。見えそめしより、などやらん、思ひの色の深草や、忍ぶの袖にすり衣、忘れ奉る便り無し。御志は知らねども、御かねことの違ふをば、偽りに又成るらんと、心をつくし待たれしに、然様に思ひ立ち給はば、我らはも、同じく髪を下ろし、墨染の衣に身をやつし、一つ庵にあらばこそ、別に庵室引き結び、衣をすすぎて参らせん。香をそなへ給はば、花をつみ、薪をひろひ給はば、水を結び、一蓮の縁をも願はん。其のむつびをも、いなと宣はば、山寺に修行して、余所ながら見奉らP262ん。其れも、憚り思し召さば、聞き給へ、身をなげ、一日片時も別れ奉る事あらじ」とて、涙にむせびけり。十郎が膝の上も、虎が涙にうくばかりなり。袖も所狭くぞ覚えし。十郎、つくづくと案ずるに、是程思ひ入りたる志、露程も知らせずして、心強く隠し遂げぬる物ならば、長き恨みとなりぬべし。もし立ち帰らぬ習ひあらば、思ひ出だして、念仏をも申すべし。然ればとて、人にもらすなと言はん事を、あだにやすべき。其の上、日数無ければ、知らせばやと思ひ、「此の事、母にだにも知らせ奉らで、今まで過ぎしかど、御身の志切にして、知らせ奉るぞ。もらし給ふべからず。誠の道心にもあらず、出家遁世にても無し。年頃、祐成が身に思ひ有りとは知り給ひぬらん。其の本意を遂げんと思へば、此の度出でて後、二度返るまじければ、相見ん事も、今宵計也。さてしも、何と無く申し契りて、時の間と思へ共、三年に成りぬ。思ひ出も無くて、はてん事こそ、無念なれ。御志の程こそ、有り難く思ひ奉れ。面々如きの人は、祐成風情の貧者、頼む所無し。何に依りてか、露の情も有るべきに、三年の間の顔ばせの、変はらぬ色は常磐山、己泣きてや、憂きを知る。情に引かれて、身の程を、恥ぢず忘れし中なれば、前世の事と言ふ計りにて、過ぎにし事の恥づかしさよ。奉公の身ならねば、御恩の時とも言はず、廻船の身ならねば、利のあらん折とも言はず、P263思ひ出無き事を思ひ出だし給はん事よ」とて、さめざめと泣きけり。虎も、此の言葉を聞きて、又打ち伏して、泣くより外の事ぞ無き。やや有りて、おきなほり、「そも、是は、何と成り行く事共ぞや。是程の大事、はかなき女の身なり共、如何でか人にもらすべき。一人坐します母にだにも聞かせ奉らず、振り捨てて、心強く思ひ立ち給はん事、数ならぬ童申すとも、止まり給ふべきか。何に付けても、あかぬ別れの道こそ、悲しみても余りあれ。斯様の大事、心置かず、しらさせ給ふこそ、返す返すも嬉しけれ。さても、此の年月の御なじみ、いつの世にかは忘るべき。思ふに適はぬ事なれ共、御物の具の見苦しきを見参らする折節は、人々しき身なりせば、などや頼りにもなり奉らざらんと、しづ心をつくし、明かしくらしつるに、世を捨てて、何処とも無くならんと仰せらるるをこそ、身の置き所無かりしに、思ひもよらぬ長き別れ路とならん悲しさよ」とて、声も惜しまず泣き居たり。十郎も、せん方無くして、「余りな歎き給ひそ。人々聞き候ふべし。名残は誰も同じ心ぞ」と慰めつつ、「是を形見に」とて、「祐成に添ふと思し召せ」とて、鬢の髪を切りてとらせぬ。虎は、涙諸共に受け取り、膚の守りに深くおさめ、物をも言はで伏し鎮みぬ。十郎も、同じ枕に打ち傾き、涙にむせぶ計也。日も既に暮れければ、今宵ばかりの名残ぞと、思ひ遣るこそ悲しけれ。P264千代を一夜に重ねても、明けざれかしと思はるる。頃さへ、五月の短夜の有明なれば、宵の間の、待たるる程も無ければや、出づると見れば、其の儘に、傾く空も恨めし、八声と言ふも、鶏の、夜や知りふると明け安く、夢見る程も微睡まで、東にたなびく横雲の、東雲しらむうき枕、又睦言のつきなくに、きぬぎぬに成る曉の、涙に床もうきぬべし。互ひの名残、心の中、さこそと思ひ知られたれ。猶しも、虎は打ち伏して、消え入る様に見えしかば、十郎、彼をいさめんとて、「暇申して、祐成は、後生にて参り合はん」とて驚かせば、おきなほりたるばかりにて、もの言ふまでは無かりけり。今を限りの別れなり。後の世までの形見とて、十郎来たりける目結の小袖に、虎が紅梅の小袖にきかへて、「心のあらば、移り香よ、しばし残りて、憂き別れ、慰む程も、面影の、きかへし衣にとまれかし。互ひの名残尽きせず」と、又諸共に打ち伏しぬ。「幾万代を重ねても、名残つくべきにあらず。祐成も、途まで送り奉るべし。日こそたけ候へ」とて、葦毛なる馬に貝鞍置かせ、道三郎、門の辺にひかへたり。「此の馬鞍、返し給ふべからず。此の三年通ひしに、馬は変はれど、鞍変はらず。鞍は変はれども、馬変はらず。今日を最後の別れなれば、止め置きて、長き形見とも思ひ給ふべし。但し、馬は生有る物にて、変はる事有り、鞍をば失はで持ち給へ」と言ふ言ふ、P265馬にぞ乗せたりける。
 @〔山彦山にての事〕S0604N099
 「祐成も送るべし」とて、馬に鞍置かせ、打ち乗りて、「中村どほりに行くべし。大道は、馬鞍見苦し。君を祐成が思ふとは、皆人知られたり。供の者共も、かひがひしからず」とて、打ちつれてこそ送りけれ。曾我と中村の境なる山彦山の峠まで送り来て、十郎、此処に駒をひかへ、今少しも送りたくは候へ共、必ず今朝より出でんと定めしかば、定めて五郎も来たらん。名残はつくべきにあらず、此の世にて相見ん事も、今計ぞと思へば、遣る方無くして、涙にむせぶばかりなり。をちこちのたつき知らぬ山中の、道もさやかに見えわかず。彼の松浦佐用姫がひれ伏し姿は、石になりける、其れは昔の事ぞかし。今の別れの悲しさよ。駒近々と打ち寄せ、手に手を取り組み、涙にむせぶばかりなり。やや有りて、「祐成が心の中、推し量り給へ。是にて、年を送るべきにもあらず。只一筋に浄土の縁を結ばん。来世を深く頼むぞ」と、心強くも思ひ切り、ひかふる袖を引き分けて、泣く泣く立ち別れけり。実にや、かんかんの床の上には、遙かに契りを千年の鶴にP266結び、沈麝の筵の上には、遠く齢を万劫の亀に期して、契りしかども、逃れぬ別れの道は、力に及ばず。互ひに心を顧み、坂中にやすらひひかへたり。かすかに見えし姿も見えずなりければ、そなたの空のみ帰り見る。あしびきの山のあなたの恋しさは、何れも同じ心にて、現とも無き涙の袖、夢の如くに打ち別れにけり。思ひの余りに、虎が馬の口ひかへたる道三郎に、泣く泣く言ひけるは、「祐成を見奉らんも、今ばかりの名残なり。何事も、こまごまと言ひたかりつるを、涙にくれて言ひもせず、取り分け暇こひ給へるに、返事せざりし心許無ければ、今一度呼び奉りてたび候へ。物一言申さん」と言ひければ、道三郎、「只世の常の出家遁世にても無し」とて、さしても騒がざりけるが、なのめならざる互ひの歎きを見て、哀れに思ひ、急ぎ走り帰り、遙かに行きたりける十郎呼び帰し、もとの峠に打ち上がり、駒をひかへ、「何事ぞ」と問ひければ、虎は、涙に目もくれて、思ひ設けし言の葉の、いつしか今は失せはてて、鞍の前輪に打ちかかり、消え入る様に見えしかば、十郎も、わきたる事は無くて、泣く計にてぞ有りける。やや有りて、虎、息の下に言ひける、「いつと無く、さぞと契らぬ夕暮も、駒の足なみ、轡の音のする時は、もしやと思ふ折々の、其の人と無く過ぎ行けば、其の夜は、空しく床に伏し、鳥の音にたたへつつ、我が涙落つる枕の上より、明くる思ひP267をさへられ、夕の鐘の声には、くるる便りを待ちなれて、ほされぬ袖の其の儘に、はかなかりける契りかな。三年の夢の程も無く、別るる現になりにけり。さて、いつの世にめぐり合ひ、斯かる思ひの又もや」と、声も惜しまず泣き居たり。「祐成、身の上をつくづく思ふに、罪の深きぞ知られたる。幼くして、父におくれ、本領だにあたりつかず、母一人のはぐくみにて、身命を過ぐすと雖も、有る甲斐も無し。此の三年、御身にだにも相なれて、あかぬ別れの悲しさ、歎きの中の歎きなれ。五欲の無常は、春の花、娑婆は、かりの宿りなり。秋の紅葉の影ちりて、草葉にすがる露の身の、後生弔ひてたび給へ」とて、東西へ打ち別れけるにて、
 @〔比叡山の始まりの事〕S0605N100
 昔を思ふに、天地既にわかち、国未だ定まらざる時は、人寿二万歳を保ちける。迦葉尊者は、西天に出世し給ふ。大聖釈尊は、其の教義をえて、都率天に住し給ふ。「我、八相成道の後、遺教流布の地、何れの所にか有るべき」と、此の南閻浮洲をあまねく飛行して御覧じけるに、遠々たる大海の上に、「一切衆生、悉有仏生、如来常住、無有変易」。立つ波の声有り。此の波の止まらん所、一つの国と成りて、P268我、仏性をひろめ通ずべき霊地たるべし」とて、遙かの十万里の滄海をしのぎて行くに、葦の葉一つうかみたる所に、此の波流れ止まりぬ、今の比叡山の麓、大宮権現の坐します波止土濃是なり。然ればにや、「波止まり、土こまやかなり」と書けり。かく御覧じ置きて、釈尊、天に上がり給ふ。然れば、葦原の中国と申し習はせるは、此の一葉の葦の故とかや。日本我が朝は、葦の葉を表するとぞ申し習はせる。其の後、人寿百歳の時、悉達太子と生じて、八十年の春の頃、頭北面西右きうくわ、跋提の波と消え給ふ。され共、仏は、常住にして、むゑん法界の妙体なれば、昔、葦の葉の島となりし中国を御覧じける時、鵜■草葺不合尊の御世なれば、仏法の名字を人知らず。此処に、さざなみや志賀の浦の辺に、釣をする老翁有り。釈尊、彼に向かひて、「翁、もし此の所の主たらば、此の地を我にえさせよ。仏法結界の地となすべし」と宣へば、翁、答へて申さく、「我、人寿六万歳の始めより、此の所の主として、此の湖の七度まで、葦原に変ぜしをも、まさに見たりし翁也。然れば、此の地結界と成るならば、釣する所失せぬべし」と、深く惜しみ申せば、釈尊、力無くして、今は、寂光土に帰らんとし給ふ時に、東方より、浄瑠璃世界の薬師、忽然と出で給ひて、「よきかな、はや仏法をひろめ給へ。我、人寿八万歳の始めより、此の所の主たれど、老翁、未だ我を知らず。何ぞ此の山を惜しみ申すべき。はやしP269給へ。我も、此の山の王と成りて、共に後五百歳まで仏法をひろむべし」とて、二仏東西にさり給ふ。其の時の老翁は、今の白髭の明神にて坐しましける。東方よりの如来は、中堂の薬師にてぞ坐しましける。釈迦、薬師の東西に帰り給ひき。今の十郎と虎が行き別るるには、違ひぬる心なるをや、「蝸牛の角の上に、何事をか争ふ。石火の光の内、此の身を寄せつらん。名残の道つくべからず、後世には、参り合はん」と、「道三郎が心も恥づかし」とて、思ひ切りてぞ別れける。虎は、峠にひかへて、祐成の後姿、かくるるまで見送りける。さてしもあらねば、泣く泣く大磯にぞ帰りける。母のもとに入りしかば、友の遊君共、広縁に出でて、「思ひ掛けざる今の御入かな。いつと無き山路の寂しさ、推し量りて」などとたはぶれけれ共、虎は、馬よりおるると同じく、衣引きかづき、打ち伏しぬ。君共集まりて、「何とて、是程御歎き候ふやらん。十郎殿に捨てられ御座しますか」と、様々慰めけれども、かくと言ふべき事ならねば、只打ち伏し泣き居たり。人々打たれて後にこそ、かくとは申し聞かせけれ。道三郎申しけるは、「殿も、今朝は物へ御出有るべきにて候ふ。急ぎ御暇を申さん」と言ふ。虎は、彼を近く呼び寄せて、「三年が程、なれにし汝にさへ、別れなん事の悲しさよ」とて、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、道三郎、返事にも及ばず、涙を流しける。「昔が今に至るまで、主従の縁浅からP270ぬ事ぞ。構へて思ひ忘るな。二世までも縁はくちせぬ物ぞ」と言へば、道三郎、暇こひて出でにけり。志は、二世までも尽きせじと覚えけり。
 @〔仏性国の雨の事〕S0606N101
 然れば、縁に依りて、仏果をうる事を思へば、昔、仏性国に、血の雨ふりて、国土紅なり。御門、大きに驚かせ給ひて、博士を召して、御尋ね有りければ、占形を引き、申しけるは、「今宵、不思議の子をうむ者有り。尋ね出だして、遠き島に捨てらるべし」と申しければ、舎衛城の中に、其の夜、産したる者、千余人也。其の中より選び出だして、口より焔出づるをうみたる者有り。則、是を人蟒とぞ名付けける。是、不思議の者とて、官人に仰せ付けて、遠嶋に捨てけり。然るに此の人蟒、漸成人する程に、猛き鬼の姿に成りけり。此の嶋に来たる者をば、もらさずくらふ。又、国に罪有る者を此の島に流せば、是をも取りてくらふ。七万二千人までぞくらひける。其の罪尽くし難し。仏、是を哀れみ給ひて、阿難尊者を遣はし奉りて、善知識達、引導し給ひけるとかや。人蟒、阿難を七度見奉りし結縁に、七度天上に生じて、仏果をえたり。斯様の縁を思ふには、彼等が後世も、などや一蓮に乗らざらん。頼もしくぞ覚えし。扨、十郎が心の猛き事、P271四方にも越えしか共、差しあたりたる恩愛の道、迷ふ習ひ也。夏の虫、とんで火に入り、秋の鹿の、笛に心を乱し、身を徒らになす事、高きも、賎しきも、力及ばぬは、此の道なり。八苦の中にも、愛別離苦ととかれたり。内典・外典にも、深く戒めたる。
 @〔嵯峨の釈迦作り奉りし事〕S0607N102
 五郎、待遠なる折節、十郎来たりて、「此の者送りしとて、今まで時を移しぬ。如何に不思議に思ひ給ひけん」と申しければ、「何かは苦しく候ふべき。昔も、然る事の候ふ。釈尊、母の報恩の為に、■利天に上り給ふ。帝釈聞き給ひて、■首羯磨と言ふ天人を下し給ふ。う天王喜びて、赤栴檀にて、如来を作り奉り、何れを移したる姿共見えずぞ作りける。う天王、喜びの余りに、■首羯磨を留められければ、「我は是、善法の大工也。止まるべからず」とて、遂に天に上りぬ。其の像を玄弉三蔵盗み取りて、此の国に渡し、多くの衆生を済度し給ふ。今の嵯峨の釈迦、是也。ましてや、人間として、如何でか恩愛思はざるべき」。十郎聞きて、「大きに違ふ心かな。う天王は、利益方便の恋也。薄地凡夫、輪廻の執着也。一つにあらじ」と笑ひて、各富士野の出立をぞ急ぎける。




P272曾我物語巻第七

 @〔千草の花見し事〕S0701N103
 「夫れ、迷ひの前の是非は、是非共に非なり。夢の内の有無は、有無共に無也。然れば、我等が身の有様、あれば有るが間也。夢の浮き世に、何をか現と定むべき。然れば、刹那の栄華にも、心をのぶる理を思へば、無為の快楽に同じ。いざや、最後のながめして、しばしの思ひを慰まん」とて、兄弟共に庭に下りて、うゑ置きし千草のさかえたるを見るにも、名残ぞ惜しかりける。「心のあらば、草も木も、如何で哀れを知らざるべき」と、彼方此方にやすらひけり。是によそへ、古き歌を見るに、
故郷の花のもの言ふ世なりせば如何に昔の事を問はまし W020
今更思ひ出でられて、情を残し、哀れを掛けずと言ふ事無し。五郎きいて、「草木も、心無しとは申すべからず。釈迦如来、涅槃に入らせ給ひし時は、心無き植木の枝葉P273に至るまでも、歎きの色を現しけり。我等が別れを惜しみ候ふやらん。如何でか知り候ふべき」とて、草を分けければ、卯の花のつぼみたる、一房落ちたりけり。十郎、是を取り上げて、「如何に、見給へ、五郎殿。老少不定の習ひ、今に始めぬ事なれ共、おいたる母は止まり、若き我等が先立ち申さん事、是にひとしき物を。開きたるは止まり、つぼみたるはちりたるとや。名にしおふ忘草ならば、名残を忘れてやちりつらん。其れは、昔、住吉に、諸神影向なりける事有り。御帰りを止め奉らんとて、此の花をうゑて、忘草と名づけ給ひけるなり。歌にも、
紅葉ぢては花さく色を忘草一つ秋ながら二まちの頃 W021
其の忘れ草は、紫苑とこそ聞きて候へ」とて、猶草むらに分け入りければ、ふかみ草のさかりさきたるを見て、「卯の花は、つぼみてだにもちるに、此の花の思ふ事無げにさかりなるや。如何にさくとも、二十日草、さかりも日数の有るなれば、花の命も限り有り。哀れ、身に知る心かな」と涙ぐみければ、五郎聞きて、「此の草の事は、花開き落ちて同じく、一城の人たぶらかすが如しと見えたり。是は、楽府の言葉なり。又、歌にも、
名ばかりはさかでも色のふかみ草花さくならば如何で見てまし W022
P274と口ずさみければ、十郎聞きて、「此の歌は、未ださかざる時も、色深き草とこそ詠みたれ。さかりの花にも、心や違ふべからん」とたはぶれけるにも、哀れ残さぬ言の葉は無かりけり。無慙なりし志共なり。「さても、我等が思ひ立つ事、母に露程も知らせ奉るべきか。はからひ候へ」と言ひければ、時致聞き、「思ひもよらぬ御事なり。是程思ひ定めざる前は知らず、今は如何でか変じ候ふべき。其の上、人の子が謀叛起こして出で候はんに、其の親聞きて、急ぎしにて、もの思はせよとて、喜ぶ母や候ふべき。某は、只御形見を賜はりて、最後まで身に添へ、此方よりも又参らせて、罷り出でんとこそ存じ候へ」。十郎聞きて、「誠に此の儀然るべし。然らば、其のついでに、御分が勘当をも申し許して見ん」とて、母の方へぞ出でたりける。 十郎、御前に畏まり、扇笏に取り、申しけるは、「奉公を致し、御恩蒙るべき身にては候はね共、末代の物語に、富士野御狩の御供に思ひ立ちて候ふ。恐れ入りたる申事にて候へ共、御小袖を一つかし賜はり候へ」と申しければ、母聞きて、「「君臣を使ふに、礼を以てし、臣君に使ふるに、忠を以てす」と、論語の内に候ふぞや。何の忠に依つてか、御感も有るべき。御恩無くは、無益なり。哀れ、此の度の御供は、思ひ止まり給へかし。如何にと言ふに、伊東殿父、奥野の狩場より、P275病づきて帰り、幾程無くて、死に給ひぬ。御分の父、河津殿、狩場にて打たれ給ひ、斯かる事共を思ひ続くるに、狩場程憂き所無し。しかも、謀叛の者の末、上にも御許し無きぞかし。又、馬鞍見苦しくて、物を見れば、帰りて人にみらるる物を。思ひ止まりて、親しき人々の方にて慰み給へ。斯様に申せば、小袖を惜しむに似たり。よくは無けれ共、紋柄面白ければ」とて、秋の野にすりつくしぬひたる練貫の小袖一つ取り出だしてたびにけり。畏まつて、障子の内にてきかへ、我が小袖をば打ち置きて出でぬ。なき後の形見にとぞ思ひ置きたりける。五郎は不孝の身にて、兄が方に、空しく泣き居たり。よくよく物を案ずるに、母の不幸を許されずして、死なん事こそ無念なれ。推参して見ばや。いきたる程こそ仰せらるるとも、死して後、くやみ給はん事、疑ひ無し。思ひ切り申して見んとて、母の方へは出でたれども、さすがに内へは入りえず、広縁に畏まり、障子を隔てて、「そも、誰が御子にて候はん、時致にも、召しかへの御小袖一つ賜はりて、狩場のはれにき候はん」。母聞きて、「誰そや、来たりて小袖一つと言ふべき子こそ持たね。十郎は、只今取りて出でぬ。京の小二郎は、奉公の者なり。二宮の女房、又斯様に言ふべからず。禅師法師とて、乳の内より捨てし子は、叔父養育して、越後に有り。又、箱王とて、わろ者の有りしは、勘当して、行く末知らず。P276是は只、武蔵・相模の若殿原の貧なる童を笑はんとて、かく宣ふと覚えたり。しかも、留守居の体見苦し。はや門の外へ出で候へ」と、殊の外にぞ言ひける。時致思ひ切りたる事なれば、「其の箱王が参りて候ふ」「其れは、誰が許し置きたるぞ。女親とて、賎しみ候ふか、然様には候ふまじ。とても、斯様にあなづらるる身、七代まで不孝するぞ。対面思ひもよらず」とぞ言ひける。五郎は、許さるる事は適はで、結句、後の世までと、深く勘当せられて、前後を失ひ、物思ひはててぞ居たりけり。やや有りて、小声に成りて申しけるは、「斯様の身に罷り成りて、重ねて申し入るべき事、上までも恐れにて候へば、女房達、心有る人あらば、聞こし召せ。人の親の習ひ、盗みする子はにくからで、縄作る者を恨むるは、常の親の習ひにて候ふぞや」。母聞きて、「然様ならん者を、わ殿が母にして、童が様なる者をば、親とな思ひそとよ。人の言葉を重くせず、言葉を返す、憂き子かとよ」「御言葉を重くして、御返事を申さじとてこそ、御前の人々には申し候へ」「然様に申せば、返事にては無きか。一念の瞋恚に、倶胝劫のせんこをやき、刹那の怨害には、無量の苦報を招く。聞けば、いよいよ腹ぞ立つ。其の座敷立ちて」と宣ふ。「恐れながら、普門品をば遊ばし候はずや」「如何なる観音の誓ひにも、背く者許し候へとはとき給はぬぞ」。P277 「聞こし召され候へ。昔、天竺に、しやうめつ婆羅門と言ふ人有り。物の命を千日千殺して、悪王に生まれんと言ふ願を起こし、はや九百九十日に、九百九十九の生物を殺し、千日に満ずる日、西山に上りて見れ共無し。玉江に下り、船に乗り、海中に出でて、比翼の亀を一つ取りて、害せんとす。母、是を悲しみて、渚に出でて見れば、波風高くして、雲の雷電おびたたしく、其の中に、婆羅門、亀を害せんとす。母是を見て、「其の亀はなせ。汝が父の命日ぞ」。婆羅門聞きて、「忌日ならば、沙門をこそ供養せめ」と言ひて、抑へて殺さんとす。亀涙を流して、我が八十年後、我不堕地獄、大慈大悲故、必生安楽国」とぞ鳴きける。母、是を聞き、「汝、亀の言葉聞き知れりや」「知らず」と答ふ。「亀は、罪深き物にて、万劫の罪障をへて、成仏すべきに、今剣に従はば、又劫をへ返すべき悲しさよと也。願はくは、其の亀をはなして、自らを殺し候へ」と言ふ。「誠に亀の命に代はり給ふべきにや」と言ひもはてず、亀を海上に投げ入れ、即ち剣を抜き、母に向かふ時、天神地神も、是を捨て給へば、大地さけわれて、奈落に沈む。母を殺さんとする子の命を悲しみて、心ならずに母走り向かひ、婆羅門が髻を取り給へば、即ち頭はぬけて、母の手に止まり、其の身は無間に沈みけり。され共、亀をはなせし力に依りて、仏果をえ、法華経の普門品を、婆羅門身P278ととかれたる。斯様の子をだにも、親は哀れむ習ひにて候ふ物を」。母聞きて、「や、殿、其れも、母が言ふ事を聞きて、亀をはなちてこそ、成仏はし給へ。汝、何と無く我らはが教へを聞かざるぞ」「わろき子を思ふこそ、誠の親の御慈悲にては候へ。又、母の哀れみの深きには、事長く候へ共、或る国の王、一人の太子の無き事を歎き、天に祈りし感応にや、后懐妊し給ふ。国王の喜びなのめならず。され共、三年まで生まれ給はず。公卿僉議有りて、博士を召して尋ね給ふ。勘文に曰く、「御位は転輪聖王たるべし。但し、御産はたひらかなるまじ」と申す。后聞き給ひて、「賢王の太子、如何で空しくすべき。自らが腹をさき破りて、王子をつつがなく取り出だすべし」と宣ふ。大王、大きに歎きて、許し給はず。后、「然らば、干死にせん」とて、食事を止め給ひしかば、力無く、大臣に仰せ付けて、御腹をさかれにけり。其の半ばに、后仰せられけるは、「太子の誕生は如何に」と問はせ給ふ。「御つつがなし」と申せば、喜び給ふ色見えて、打ちゑみたる儘、御年十九にて、はかなくなり給ひぬ。さて、此の太子、御位につき給ひしが、母の御志を悲しみ、御菩提の為、三年胎内にして苦しめ奉りし日数千日にあてて、千間に御堂をたて給ひけり。今の慈恩寺是也。日本には、西の寺なり。然ればにや、后即ち成仏し給ふ時に、こん蓮台P279を傾け、来迎し給ふ。其のしこんになぞらへて、藤を多くうゑられたり。さてこそ、藤の名所には入りたりけれ。母親の慈悲は、斯様にぞ候へ」。母聞きて、「おいたる自ら、あはぬ教へのむつかくして、腹をもさきて、死に失せよと。汝も、母と見ず、童も、子とも思はぬまで」とて、障子あららかにたて給ふ。只今はてずは、永劫をふる共、適ふまじければ、五郎打ちふてて、
 @〔斑足王が事〕S0702N106
 「仁王経の文をば御覧じ候はずや。昔、天羅国に、王一人坐します。太子有り、名をば斑足王と言ふ。外道羅陀の教訓に付きて、千人の王の首を取り、塚の神にまつり、其の位を奪ひ、大王にならんとて、数万の力士・鬼王を集めて、東西南北、遠国近国の王城に、押し寄せ押し寄せ搦め取り、既に九百九十九人の王を取り、今一人たらで、「如何せん」と言ふ。或る外道教へて曰く、「是より北へ一万里行きて、王有り、名を普明王と言ふ。是を取りて、一千人にたすべし」と言ふ。やがて、力士を差し遣はし、彼の王を取りぬ。今は、千人にみちぬれば、一度に首を切らんとす。此処に、普明王、合掌して曰く、「願はくは、我に一日の暇をえさせよ。古里P280帰り、三宝を頂戴し、沙門を供養して、闇路の頼りにせん」と言ふ。安き間の事とて、一日の暇を取らす。其の時、王宮に帰り、百人の僧を請じて、過去七仏の法より、般若波羅蜜を講読せしかば、其の第一の僧、普明王の為に偈をとく。「劫焼終訖、乾坤洞然、須弥巨海、都為灰煬」と述べ給ふ。普明王、此の文を聞きて、四諦十二因縁をえたり。ほんけむくうを悟る。然ればにや、斑足王、諸法皆空の道理を聴聞して、忽ちに悪心を翻して、取りこむる千人の王に曰く、「面々の科にはあらず。我外道にすすめられ、悪心をおこす。不思議の至りなり。今は、助け奉るべし。急ぎ本国に帰り、般若を修行して、仏道をなし給へ」とて、即ち、道心おこし、無生法忍をえたりと見えたり。是も、普明王を許してこそ、共に仏果をえ給ひしか」。母聞きて、「其の如く、仏果を証して、多くの人を助くべき。汝、などや法師に成りて、童をばすくはぬぞ。誠や、「重きに従つて、道遠ければ、やすむ事、地を選ばず。家貧にして、親おいたる時は、官を選ばずして、仕へよ」とこそ、古き言葉にも見えたれ。何とて、童が言ふ事を聞かざるぞ」。五郎も、思ひ切りたる事なれば、居なほり畏まつて、「只御許し候へ」とのみぞ申し居たりけれ。十郎は、我が所にて、五郎をまて共、見えざりけり。余りに遅くて、又母の方へ行きて見れば、五郎、内までは入り得ず、P281広縁に泣きしをれて居たり。余りに無慙に覚えて、障子を引きあけ、畏まつて、五郎が申す理、つくづくと聞き居たり。やや有りて、「某、兄弟数多候へ共、身の貧なるに依りて、所々の住まひ仕る。只、あの殿一人こそ、つれ添ひては候へ。祐成を不便に思し召され候はば、御慈悲を以て、御許し候へかし。御子とても、御身に添ふ者、我等二人ならでは候はぬぞかし」。母聞きて、「意にあふ時は、胡越もらんていたり。あはざる時は、骨肉もてきしやうたり。智者の敵とは成るとも、愚者の友とは成るべからず。位の高からぬを歎かざれ、知のひろからぬをば歎くべし」とは、漢書の言葉ならずや」。十郎承りて、「其れは、然る事にて候へ共、観経の文を見るに、「諸仏念衆生、衆生不念仏、父母常念子、子不念父母」ととかれて候ふ。此の文を釈すれば、「仏は衆生を思し召さるれども、衆生は、仏を思はず」とこそ見えて候へ。親として、子を思はぬは無き物をや」。母聞きて、「汝等は、親のよきを申しあつむるかや。出で又、自ら、子の孝行なる事を言ひて聞かせん。孟宗は、雪の内に筍をえ、王祥は、氷の上に魚をえ、くわけんは、眼を抜き、おんせうは、耳をやき、ちそくは、足を切る、せんめむは、舌を抜き、くわそくは、歯を施し、くはふめいは、身をあたへ、めうしき、子を殺す。これ皆、孝行の為ならずや。「扁鵲も、鍼薬をしやうぜざる病を治せず。けんしやう王P282も、善言の聞かざる君をば用ひず」とこそ申せ。人の言葉を聞かざる者、何の用にか立つべき。其の上、不孝の者をば、同じ道をも行くべからず。急ぎ出でよ」と言ひける。祐成、重ねて申しけるは、「一旦の御心を背き、法師にならざるは、不孝ににて候へ共、父母に志の深き事、法師によるべからず、僧俗の形にはよるべからず。時致、箱根に候ひし時、法華経を一部読み覚え、父の御為に、はや二百六十部読誦す、毎日、六万返の念仏怠らずし、父に回向申すと承り候へば、大地を頂き給ふ堅牢地神も、地の重き事は無し。不孝の者の踏む跡、骨髄に通りて、悲しみ給ふ也。一つは、彼の御跡を弔ひ、一つは、御慈悲を以て、祐成に御許し候へかし。父に幼少よりおくれ、親しき者は、身貧に候へば、目も懸けず、母ならずして、誰か哀れみ給ふべきに、斯様に御心強く坐しませば、立ち寄る陰も無き儘に、乞食とならん事、不便に覚え候ふぞや」。哀れ、実に今を限りと申すならば、如何安かるべきを、申す事ならねば、忍びの涙に目もくれて、暫くは物も言はざりけり。猶も、「許す」と宣はねば、十郎、怒りて見ばやと思ひて、持ちたる扇をさつと開き、大きに目を見出だし、「とてもかくても、いきがひ無き冠者、有りても何にかあふべき。御前に召し出だし、細首打ち落として、見参に入れん」と、大声を捧げ、座敷を立つ。女房達驚き、「いかP283にや」とて、取り付く袖に引かれて、板敷あらく踏みならし、怒りければ、母も驚き、すがり付き、「物に狂ふか、や、殿。身貧にして、思ふ事適はねばとて、現在の弟の首を切る事や有る。其れ程までは思はぬぞ。しばし、や、殿」とて、取り付き給ふ。事こそよけれと思ひければ、「助け候はん。御許し候へ」と言ふ。母、「然らば、許す。止まり候へ」と宣へば、其の時、十郎、怒りを止めて、声をやはらかにして、座敷になほり畏まり居たりけり。然れども、忍びの涙のすすみければ、とかく物をも言はざりけり。五郎も、恨みの涙の引きかへて、嬉しさの忍びの涙しきりにして、前後を更にわきまへず。
 @〔勘当許す事〕S0703N107
 やや有りて、十郎、座敷を立ち、「御許し有るぞ、時致。此方へ参り候へ」。五郎は、しをるる袖に忍び兼ね、しばしは出でこそかねたりけれ。暫く有りて、時致、袖打ち払ひ、顔押しのごひ、出でければ、十郎も嬉しく、哀れにて、打ち傾き居たり。兄弟共に、物をも言はで、さめざめと泣き居たり。母、此の有様を見て、「実にや、親子の中程、哀れなる事無し。年おい、身貧にして、人数ならぬ童P284が言葉一つを重くして、泣きしをるる無慙さよ。かたはなる子をだにも、親は悲しむ習ひぞかし。如何でにくかるべき。只よかれと思ふ故なり」と言ひもわかで、母も涙を流しけり。其の後、兄弟の者共、畏まり居たるを、母、つくづくと守り、いつしかの心地して、「汝、自らを愚かにや思ひけん。十郎が有り所をみするに、五郎有りと言ふ時は、心安し。無しと聞けば、心許無くて、童も立ちて見しぞとよ。此の三年が程、打ち添はで、恨めしく思はれ、つくづく見るに、直垂の衣紋、袴の着際、烏帽子の座敷に至るまで、父の思ひ出だされ、昔に袖ぞしをれける。さても、五郎は、箱根にても聞きつらん。十郎は、如何にして、経文をば知りけるぞや」。祐成承りて、「馬やせて、毛長く、いばゆるに力無し。人貧にして、智短く、言葉賎し。何に依りてか、たふとくも候ふべき」。女房達聞きて、「勧学院の雀とかや」と申しければ、打ちゑみて、「それそれ、酒をのませよ」と有りければ、種々の肴、盃取り添へて、二人の前にぞ置きたりける。母取り寄せ、のみ給ひて、其の盃、十郎のむ。其の盃を、五郎三度ほして置きければ、其の盃、母取り上げて、「此の三年、不孝の事、只今許したる証に、此の盃、思ひどりにせん。但し、親と師匠に盃さすは、必ず肴の添ふなるぞ。当時、鎌倉には、秩父の六郎が今様、梶原源太横笛と聞く。然れども、他人なれば、見もし、聞きもせらればこそ。P285わ殿は、箱根に有りし時、舞の上手と聞きしなり。忘れずは、舞ひ候へかし」。十郎、腰より横笛取り出だし、平調に音取り、「如何に如何に、遅し」と攻めければ、しばし辞退に及びけるを、十郎、はやしたてて待ちければ、五郎、扇を開き、かうこそうたひて、舞ひたりけれ。
君が代は千代に一度ゐる塵の白雲斯かる山と成るまで W023
と、押し返し押し返し、三返踏みてぞ舞ひたりける。其の儘、拍子を踏みかへて、
別れのことさら悲しきは
親の別れと子の歎き
ふうふの思ひ今兄弟
いづれを思ふべき
袖に余れる忍び音を
返して止むる関もがな W024
と、二返攻めにぞ踏みたりける。母は、昔を思ひいづれば、彼等は、さても憂き命近き限りの涙の露、思はぬ余所目に取り成して、袖の返しにまぎらかし、しばし舞ひてぞ入りたりける。かくて、酒も過ぎければ、十郎畏まつて、「今度、御狩に罷り出で、兄弟中に、如何なる高名をも仕り、思はず御恩にも預かり候はP286ば、率塔婆の一本をも心安くきざみ、父聖霊にそなへ奉らばやと存じ候ふ」。母聞き給ひて、「などやらん、此の度の道心、心許無く覚ゆるぞや。よき程にも候はば、思ひ止まり給へかし。さりながら、もしやののぞみも哀れなり。女房達」と宣へば、白き唐綾に鶴の丸所々にぬひたる小袖一つ取り出だし、「十郎にもとらせぬるぞ。失はで返し候へ。十郎は、つねに小袖をかりて返さず。是は、曾我殿の見たる小袖也。二度とも見えずは、又例の子供にとらせたりと思はれんも恥づかし。小袖をしたためておくべし。構へて構へて、とく帰り給へ」と有りければ、「承り候ふ」とて、練貫の損じたるに脱ぎかへ、「見苦しく候へども、人にたび候へ」とて、帰りにけり。小袖の用はあらねども、互ひの形見のかへ衣、袖なつかしく打ち置きける。さても、兄弟、座敷を立ちければ、母見送り、宣ひけるは、「過ぎにし頃、十郎、小袖をかり、二度とも見せず、如何なる遊び者にもとらせぬるよと思ひしに、さは無くして、弟の五郎にきせけるや。又近き頃、大口・直垂したててとらせしを、是も二度とも見せざりしが、道三郎にきせたりと思へば、是も弟にきせけるぞや。兄弟をば、野の末、山の奥にももつべかりけるぞや。父には、幼くしておくれ、一人の母には、不孝せられ、貧なれば、親しきにもうとく、有るか無きかに世に無し者、誰やの人か哀れむべき」とて、P287涙をはらはらと流し給ひければ、其の座に有りし女房達、袖をぞ濡らしける。さて、兄弟の人々は、我が方に帰り、此の小袖を中におき、「嬉しくも推参しつる物かな。只今許されずしては、多生をふる共適ふまじ。いきて二度帰る様に、小袖返せと仰せられつるこそ、愚かなれ。何しに返せとは言ひつらん、神ならぬ身の悲しさよと、後悔し給はん事、今の様に覚えたり」とて、打ち傾きて泣き居たり。「我等、世に有りて、心の儘に、親の孝養をも致さば、是程まで思はぬ事も有りなまし。此の三年こそ、不孝の身にては候へ。其れさへ恋しく思ひ奉る。或る時は、物ごしにも見奉りて慰みしに、只今御許しを蒙り、一日だにも無くて、出でん事こそ悲しけれ。死に給へる父を思ひて、孝養せんとすれば、いき給へる母に、物を思はせ奉る。然れば、我等程、親に縁無き物は無し。後の世まで尽きせぬ、手跡に過ぎたる形見無し。いざや、我等一筆づつ、忘れ形見残さん」とて、墨すり流し、かくばかり、
「今日出でてめぐり合はずは小車のこのわの内に無しと知れ君 W025
祐成年二十二、後の世の形見」とぞ書ける。
「ちちぶ山下ろす嵐のはげしさに枝ちりはてて葉は如何にせん W026
五郎時致、生年二十、親は一世と申せ共、必ず、浄土にて参りあふべし」とこそかきP288たりける。各々、箱に入れて、「我等打たれぬと聞き給はば、母、此の所にまろび入りて、伏し鎮み給ふべし。いざや、御まうけせん」とて、畳しき直し、めんらうの塵打ち払ひ、先づ見給ふ様にとて、さし入りの障子の際にぞ置きたりける。「空しき人をば、常の所よりは出ださず。我等、死人に同じ」とて、馬屋のあれ間より出でたりける。最後の文にこそ、斯様の事まで書きにける。かくて出でけるが、「いざや、今一度、母を見奉らん」とて、暇乞にぞ出でける。母宣ひけるは、「構へて、人といさかひし給ふな。世に有る人は、貧なる者をば、をこがましく思ひあなづるべし。然様なりとも、咎むべからず。三浦・土肥の人々は、然様にはあらじ。其の人々に交はり、歩き給へ。心のはやる儘に、人の相付けたる鹿、射給ふべからず。公方の御許しも無きに、弓矢持たずとも、出で給ふべし。謀叛の者の末とて、咎めらるる事もやあらん。如何にも、事過ごし給ふな。年頃、にくまれずして養ぜられたる曾我殿に、大事掛けて、恨み受け給ふな」と、こまごまとぞ教へける。五郎は、聞きても色に出ださず、十郎は、斯様の教へも、今を限りと思ひ、心の色の現れて、涙ぐみければ、急ぎ座敷を立ちにけり。五郎も、名残の涙抑へ兼ね、余所目にもてなしけるが、妻戸の閾につまづきて、うつぶしに倒れけれども、人目にもらさじとて、「色有る小鳥の、東より、P289西の梢に伝ひしを、目に懸け、思はずの不覚なり」とて、打ち笑ひける。母、是を見給ひて、「今日の道、思ひ止まり候へ。門出悪しし」と有りければ、五郎立ち帰り、「馬に乗る者は落ち、道行く者は倒る。皆人ごとの事也。是はとて、止まり候はんには、道行く者候はじ」と、打ちつれてこそ出でにけれ。五郎は、猶母の名残をしたひ兼ね、今一度とや思ひけん、「扇の見苦しく候ふ」とて、帰りにければ、母、是をば夢にも知らずして、「折節、扇こそ無けれ、わろけれ共」とて、たびにけり。時致、是も形見の数と思ひ、母の賜はるよと思へば、扇さへなつかしくて、開きて見れば、霞に雁がねをぞ書きたりける。折にふれなば、夏山の、しげる梢の松の風、五月雨雲の晴間より、遠里小野の里つづき、我等が道の行く末も、現るべきに、さはあらで、其の色違ふも、理なり。憂き身の故と案ずれば、
同じくは空に霞の関もりて雲路の雁をしばし止めん W027
是は、為世卿の詠みし歌ぞかし。我が限りの道を歎け共、誰一たん止むる者も無きに、扇心の有るやらん、「しばし」と言ふ言の葉の読まれたり。十郎が、供には道三郎、五郎が供には、鬼王、其の外四五人召し具して、打ち出でける有様、母は、乳母引きつれ、広縁に立ち出で、見送り、様々にぞ言ひける。「直垂のき様、行縢の引き合はせ、P290馬乗り姿、手綱の取り様、十郎は、父に似たれども、器量は、遙かの劣りなり。五郎は、烏帽子の座敷、矢のおひ様、弓の持ち様に至るまで、父には少し似たれども、是も、遙かの劣り也。山寺にて育ちたれども、色くろく、下種しくみゆる。十郎は、里に住みしかととも、色白く、尋常なり。我が子と思ふ故にや、いづれも清げなる者共かな。如何なる大将軍と言ふ共、恥づかしからじ物を。哀れ、世にあらば、誰にかは劣るべき。同じくは、彼等を父諸共に見るならば、如何に嬉しく有りなん」と、さめざめと泣きけり。女房達、是を見て、「物への御門出に、御涙いまはし」と申しければ、「誠に、彼等貧なる出で立ち、すずろなる事共思ひ連ねられて、袖のみ昔にぬれ侍ふぞや。げにげに千秋万歳とさかふべき子供の門出、嬉しくも言ひ出だし給ふ物かな。此の度、御狩より帰りなば、上の御免蒙り、本領ことごとく安堵して、思ひの儘なるかへるさをまつべき」とて、急ぎ内にぞ入りにける。後に思ひ合はすれば、是ぞ最後の別れなりけりと、思ひ出でられて哀れなり。
 @〔李将軍が事〕S0704N109P291
 さても、鎌倉殿は、合沢原に御座の由聞こえしかば、此の人々も、駒に鞭を添へて、急ぎける。道にて、十郎言ひけるは、「名残惜しかりつる古里も、一筋に思ひ切りぬれば、心の引きかへて、先へのみぞ急がれ候ふぞや」。時致聞きて、「さん候。思ふ程は現、すぐれば夢にて、心の儘に本意を遂げ、浮き世を夢に成しはてて、早く浄土に生まれつつ、恋しき父、名残惜しかりつる母、かく申す我等まで、一蓮の縁とならん」とて、ひつ掛けひつ掛け打ちて行く。やや有りて、十郎申しけるは、「我等が有様を、物にたとふれば、寒苦鳥に似たり。如何にと言ふに、大唐しくう山に、雪深うして、春秋をわかざる山なり。其の山に、頭は二つ、身は一つ有る鳥有り。彼の山には、青き草無ければ、くふべき物無し。然れば、其の頭右を取らんとし、右の頭は左を取らんとする。悲しみの涙を餌食として、命をのぶる鳥也。我等も、敵の手にやかからん、敵をや手に掛けんと思ふ、憂き身のながらへて、いつまで物を思はまし。此の度は、さり共」と申しければ、五郎聞きて、「弱き御例へ仰せ候ふ。何によりてか、空しく敵の手にかかり候ふべき。本意を遂げて後は、知り候はず、其れは、ともかくも候ひなん、事長く候へ共、昔、大国に、李将軍とて、猛くいさめる武勇の達者有り。一人の子の無き事、天に祈る、哀れみにや、妻女懐妊す。将軍喜ぶ所に、女房言ふ様、「いきたる虎の肝こそ願ひなれ」。将軍、安き事とて、P292多くの兵を引きつれ、野辺に出でて、虎をかりけるに、かへつて、将軍、虎にくはれて失せぬ。乗りたりける雲上龍、鞍の上空しくして帰りぬ。女房あやしみて、「将軍、虎にくはれけるや」と問へば、竜、涙を流し、膝ををり、なけ共適はず。我が胎内の子は、父を害する敵なり、生まれ落ちなば捨てんと、日数をまつ所に、月日に関守無ければ、程無く生まれぬ。見なれば男子なり。いつしか、捨つべき事を忘れ、取り上げ、名をかふりよくと付けて、もてなしけり。名将軍の子にて、胎内より、父虎にくはれけるを、安からずに思ひ、敵取るべき事をぞ思ひける。光陰矢の如し。かふりよく、はや七歳にぞなりにける。或る時、父重代の刀を差し、角の槻弓に、神通の鏑矢を取り添へ、馬屋に下り、父の乗りて死にける雲上龍に曰く、「汝、馬の中の将軍なり。然るに、父の敵に志深し、父の取られける野辺に、我を具足せよ」と言ふに、黄なる涙を流して、高声にいばえけり。かふりよく、大きに喜びて、彼の竜に乗り、馬に任せて、行く程に、千里の野辺に出でて、七日七夜ぞ尋ねける。八日の夜半に及びて、或る谷間に、獣多く集まりねたり。其の中に、臥長一丈余りなる虎の、両眼は日月を並べたる様にて、紅の舌を振り、伏しければ、肝魂を失ふべきに、然る将軍の子なりければ、是こそ父の敵よと、矢取つて差しつがひ、よ引きてはなつ。過たず、虎の左の眼に射たてたり。P293少し弱ると見えければ、かうりよく、馬よりとんで下り、腰の刀を抜き、虎を切らんと見ければ、虎にては無し。年へたる石の苔むしたるにてぞ有りけり。斯様の志にて、遂に敵を打つ。今の世に、石竹と言ふ草、かふりよくが射ける矢なりとぞ申し伝へたる。然れば、弓取りの子は、七歳になれば、親の敵を打つとは、此の心なり。志に依り、石にも矢のたち候ふぞや。此の心を歌にも詠みけるとぞ、
虎と見て射る矢の石に立つ物をなど我がこひの通らざるべき」 W028
十郎聞きて、「や、殿、歌は然様なりとも、祐成にあひての物語、「など我が敵打たで有るべき」と語れかし」「実にや、折による歌物語、悪しく申して覚ゆるなり。歌はともあれ、かくもあれ、此の度は、敵打たん事安かるべし。老少不定の習ひなれば、我等は、悪霊とも成りて、取るべきにや」とたはぶれて、鞭を打ちてぞ、急ぎける。
 @〔三井寺大師の事〕S0705N110
 十郎は、「足柄を越えて行かん」と言ふ。五郎は、「箱根を越えん」と言ふ。いはれ有り。此の三四年、別当の呼び給へ共、男になりける面目無さに、見参に入らず、ついでに打ち寄りて、御目に掛かるべし、最後の暇をも申さんとて参りたりと思し召さば、聖教P294の一巻、陀羅尼の一返なりとも、弔ひ給ふべき善知識なり。其の上、師の恩を重くすれば、法に預かる例有り。近き頃の事にや、園城寺に、智興太子とて、めでたき上人渡らせ給ひけり。顕密有験の高僧とは申せ共、未だ肉身を離れ給はざりける故に、重病にをかされて、苦痛なう覧わきまへ難し。即ち、晴明を呼びてうらなはせけるに、「定業限りにて、助かり給ふ事有るべからず。但し、多き御弟子の中に、法恩を重くし、命をかろくして、師の御命に変はるべき人坐しまさば、まつりかへん」と申す。上人は、苦痛の儘に、誰とは宣はね共、御目を上げて、御弟子を見まはし給ふ。並び居給ふ御弟子二百余人なれども、我変はらんと仰せらるる方一人も無し。目を見合はせ、赤面し給ふ色現れにけり。うたてかりし御事也。此処に、証空阿闍梨と申して、十八になり給ふが、末座よりすすみ出でて、「我、法恩の哀れみ、つくし難し。何にか報じ奉るべき。我等が命なりとも、代はり奉る身なりせば、喜びの上の喜び、何事か是にしかんや。はやはや」とて、墨染の御袖をかき合はせ給ひて、晴明が前にひざまづき給ふ。上人聞こし召し、悩める御眦に、御涙を浮かべさせ給ひて、御顔を振り上げ、本尊の御方を御覧じけるは、証空の命を御惜しみ有りて、御身は如何にもと思し召さるる御顔ばせの現れたり。是又、御慈悲の御心中とぞ見えける。証空、重ねて申されけるP295は、「深く思ひ定めて候ふ。変ずべきにも候はず。其の上、上人の苦悩見奉るに、刹那の隙も惜しくこそ候へ。御心に任すべきにあらず。急ぎ法会を行ひ、まつりを急がれ候へ。但し、八旬に余る母を持ちて候ふ。今一度、今生の姿見みえ候ひて、帰り参るべし。待ち給ふべし」とて、出で給ふ。証空を哀れと言はぬ者は無し。其の後、母のもとに行き、此の事くはしく語り給ふ。母聞きもはてず、証空の袖に取り付き、「思ひもよらず、師匠の御恩ばかりにて、母が哀れみをば捨て給ふべきか。御身を残し、自らさきだちてこそ、順次なるべけれ。思ひもよらぬ例」とて、証空の膝に倒れかかり、涙にむせぶばかりなり。証空は、母の心を取り鎮めて、「よくよく聞こし召せ、師匠の御恩徳に、何をか例へ候ふべき。はかなき仰せとぞ覚えて候へ」「はかなき母がうみ置きてこそ、たふとき師匠の恩徳をも蒙り給へ。母の恩、大海よりも深しとは、誰やの者かいひそめける」「親は一世、師は三世、浅き哀れみなり。知らせ給ふらん」「何とて、情は坐しまさぬぞ。今日の命を知らぬ身の、恥をば誰か隠すべき。適ふまじ」とて、取り付きたり。「聞き給はずや、浄飯大王の御子悉達太子は、一人御座します父大王を振り捨てて、阿羅邏仙人に給仕し給ひしぞかし」「其れは、いきての御別れ、是は、死すべき別れなり。例へにも成るべからず」「御言葉の重きとて、只今隠れ給ふ師匠をや殺し奉るP296べき」「誠に、自ら物ならずは、暇をこひても、何かせん。七生まで不孝ぞ」と言ふ言ふ、まろび給ひける。証空、進退此処にきはまり、師匠の恩徳を報じ奉らんとすれば、母の不孝、永却にもうかび難し。身の置き所無かりければ、母の御前にひざまづき、「不孝の仰せ、悲しみても余り有り。奈落の攻め、いつをか期せん。此の世は、かりの宿りなり。未来こそ、誠の住み処にて候へ。師匠の命に代はり奉らば、御向かひにも参るべし。さあらば、一蓮の縁にも、などかはならで候ふべき。思し召し切り候へ」とて、名残の袂を引きわくる。母は、猶もしたひ兼ね、「然らば、自らをもつれ、一蓮の縁になし給へや。捨てられて、老の身の、何と成るべき」と、悶え悲しみ給ふ。阿闍梨は、母をなだめ兼ね、斯様ならんと思ひなば、中々申し出だすまじかりつる物を、又は、母暇申さずとも、思ひ定むべかりつる事を、心弱くて、斯様に憂き目を見る事よ。惜しみ給ふも、理也。只一人有る子なり。月とも星とも、我をならでは、頼み給はぬ御事なり。一日片時も、見奉らぬだに、心許無くて、隙無き行法の間は、心ならず見奉る事無し。遅き時は、杖にすがり来たり給ひて、ひざまづき、後ろに立ち、夏は扇を使ひ、冬はあたたむる様にたため給ふ。「是、然るべからず」と申せば、「幾程無き自らが心に任せてくれよ」と仰せければ、上人も、P297哀れみ有りて、「心に任せよ」と、御慈悲有るに依つて、片時も離れ給ふ事無し。我又、御哀れみの黙し難さに、暇をはからひ、見奉らんと、通ひしぞかし。実にも、今別れ奉りなば、さこそ悲しく坐しまさめと思へば、涙もせき敢へず。誠に、自ら失せなば、やがても絶え入りしに給ふべき志なれば、立つも立たれず、ぬるもねられず、黯然として、泣くばかりなり。猶しも、母は、ひかへたる袂をはなさで、寄りかかり、泣き鎮み給ひければ、袖引き分け難くて、掌を合はせ、「自らが申す理、よくよく聞こし召し候へ。惜しみ思し召さるる御事、僻事とは存じ候はず。さりながら、かねても申しし如く、此の世は、夢幻と住み成し給へ。仏と申す事、外に無し。我がなす胸の内に明らかなる。月輪のくもらぬを悟りと申し、うづもるるを迷ひと申し候ふ。然れば、仏は、衆生善悪隔て無き由、とき置かせ御座します物を。さあらば、親と成り、子と成り、師と成り、弟子と成り、是皆一心の願に依り、山河大事、ことごとく阿字の一字にこそをさまりて候へ」と怒りければ、母、ひかへたる袖を少し許しける所に、棄恩入無為、真実報恩者の理をつぶさにときければ、母、涙を抑へて、「然らば」とて、許しけり。証空嬉しくて、急ぎ坊に帰りけり。孝行の程ぞ頼もしき。 晴明遅しと、待ちし事なれば、七尺に床をかき、五色の幣を立て並べ、金銭散供、P298数の菓子をもりたて、証空を中に据ゑて、晴明、礼拝恭敬して、数珠はらはらと押し揉み、上は梵天帝釈、四大天王、下は堅牢地神、八大龍王まで勧請して、既に祭文に及びければ、護法の渡ると見えて、色々の金銭幣帛、或いは空に舞ひ上がりて、舞ひ遊び、或いは壇上を躍りまはる。絵像の大聖不動明王は、利剣を振り給ひければ、其の時、晴明、座を立つて、数珠、証空の頭をなで、「平等大慧、一乗妙典」と言ひければ、即ち、上人の苦悩さめて、証空に移りけり。やがて、五体より汗を流し、五蘊を破り、骨髄を砕く事、言ふに及ばず。是を見る人、晴明が奇特のたふとき、証空の志の有り難さに、色々の袖絞るばかりなり。さて、証空の方よりは、煙立ちて、苦悩忍び難かりしかば、年頃頼み奉る絵像の不動明王をにらみ奉り、「我、二無き命を召し取りて、屍を壇上に止む。正念に住して、安養浄刹に向かへ取り給へ。知我心者、即身成仏、誤り給ふな」と、一心の願をなしければ、明王、哀れとや思しけん。絵像の御眼より、紅の御涙はらはらと流させ給ひて、「汝、たふとくも法恩を重くして、一人の親を振り捨て、命に変はる志、報じても余り有り。我又、如何でか汝が命に変はらざるべき。行者を助けん。かたいしゆくの誓ひは、地蔵薩■に限らず。うくる苦悩を見よ」と、あらたに霊験現れければ、明王の御頂P299より、猛火ふすぼり出で、五体をつつめ給ふ。たふとしとも、忝し共言ひ難し。即ち、証空が苦悩止まりけり。智興上人も助かり給ふ事、有り難かりし例なり。然れば、三井寺に泣不動とて、寺の重宝の其の一つ也。流させ給ひし御涙紅にして、御胸まで流れかかりて、今に有るとぞ承り伝へたる。師匠の御恩は、斯様にこそ重き事にて候へ。
 @〔鞠子川の事〕S0706N112
 「寺を忍び出で候ひし時、権現に御暇をも申さず、まして、師匠にかくとも申さざりし事、今に其の恐れ残りて覚え候ふ」と申したりければ、十郎も、「さこそ」とて、箱根路にぞかかりける。鞠子河渡りけるが、手網かいくり申しけるは、「わ殿三つ、祐成五つの年より、二十余の今まで、此の川を一月に四五度づつも渡りつらん。如何なる日なれば、今渡りはてん事の哀れさよ。などや覧、いつよりも、此の川の水濁りて候ふ。心許無し」と言ひければ、五郎申す様、「皆人の冥途におもむく時は、物の色変はり候ふ。我等が行くべき道、曾我を出づるは、娑婆を別るるにて候ふ。此の川は、三途川、湯坂峠は、死出の山、鎌倉殿は、閻魔王、御前祗候の侍共は、獄卒阿防羅刹、左衛門の尉は、P300善知識、箱根の別当は、六道能化地蔵菩薩と念じ奉る。此の川の水、色変はると見えてこそ候へ」とて、駒打ち入れけるが、やや有りて、十郎、
五月雨に浅瀬も知らぬ鞠子川波に争ふ我が涙かな W029
五郎聞きて、歌の体悪しくや思ひけん、行縢鼓打ちならし、かくぞ詠じける、
渡るより深くぞ頼む鞠子川親の敵に逢瀬と思へば W030
斯様に思ひ連ね、通る所は阿弥陀のいんしゆ、かさまてら、湯本の宿を打ち過ぎ、湯坂峠に駒をひかへ、弓杖つきて、申しけるは、「人生まれて、三ケ国にてはつるとは、理也。我生まるる所は伊豆の国、育つ所は、相模の国、最後所は駿河の国富士野裾野の露と消えなん不思議さよ」。五郎聞きて、「其の最後所が大事にて候ふぞ。心得給へ」といさむれば、古里の名残や惜しかりけん、我が方の空をはるばるとながむれば、只雲のみうすけぶり、何処を其処共知らねども、「煙少し見えたるは、もし曾我にてや候ふらん」。道三郎、是を顧みて、「煙は余所にて候ふ。其れよりも南のくろき森に、雲のかかりて候ふこそ、曾我にて候へ」と申しければ、古き事共の思ひ出られて、
曾我林霞なかけそ今朝ばかり今を限りの道と思へば W031
と打ちながめ、涙ぐみけり。五郎、此の有様を見て、此の心に同心しては、はかばかしきことあらじ、いさめばやと思ひければ、しかり声に成りて、「殿こそ、大磯・小磯P301や古里をもながめ給へ。時宗におきては、思ふ事こそ、忙はしく候へ」とて、駒引き寄せ、掛け出だし、二町計掛け通りぬ。十郎、興さめて思ひながら、駒掛け出だし、追ひ付きけり。五郎又、引き下がりくどきけるは、「人界に生をうくる者、誰かは後の名残惜しからで候ふべき。鬼王・道三郎が心をも、御兼ね候へかし。彼等をば、曾我へ返し候ふべし。此の事適ひて候はば、申すに及ばず。し損ずる物ならば、此の人々が、此処にて歌を詠み、彼処にては詩を詠じて、しもたてぬ事なんどあざけらんも、口惜し。如何ばかりとか思し召し候ふ」と申しければ、理に攻められて、其の後、歌をも読まず、横目をもせで、打ちける程に、大崩にこそ付きけれ。
 @〔二宮の太郎にあひし事〕S0707N113
 道の末を見渡しければ、馬乗り五六騎出で来たる。十郎見て、「二宮殿と覚えたり。いざや、此の事一はし語らん」と言ふ。五郎聞きて、余りの事なれば、返事もせず。やや有りて申しけるは、「如何で斯様の大事、聟には知らせ候ふべき。異姓他人にては候はずや。如何なる人か、世に無き我等が死にに行くと語らはんに、同意する者や候ふべき。対面計にて、御通り候へ」。十郎聞きて、「御分の心を見んとてこそ」と雑談して、間近くなりP302ければ、此の人々、馬より下り、弓取り直し、色代す。「人々、何処へ行き給ふぞや」「鎌倉殿、富士野御狩と承、狩座の体見参らせて、末代の物語にと思ひ立ちて、罷り出で候ふ」と申す。義実聞きて、「哀れ、人々、無用の見物かな。馬・鞍見苦しくての見物、然るべからず。是より帰り給へ。某をも、御供と申されつるを、見苦しさに、風気の由、梶原が方へ申して遣はし候ふぞ。面々も、只是より帰り給ひて、二宮に逗留し、笠懸など射て、遊び給へ」と申しければ、十郎、「もつ共畏まり存じ候へ共、斯様の事、有り難し、見物と存じ、既に思ひ立ち候ふ。馬は山をば引かせ候ふべし。帰りには参り、しばし逗留仕り候ふべし。まうけ肴御用意候へ」と申しければ、「此の上は、御帰りをこそ待ち申すべし」とて、馬引き寄せ打ち乗り、東西へ打ち別れけり。只世の常とは思へ共、是ぞ最後なりける。扨も、我等討ち死にの後、形見共送りなん。其の時、男子なりせば、一道にこそ成るべきに、女の身の悲しさは、其れこそ適はずとも、道より最後のことづてだにも無かりつるよと恨み給はん事、疑ひ無し。志の程こそ、無慙なれ。
 @〔矢立の杉の事〕S0708N114P303
 「とても捨つべき命、遅速同じ事也。さりぬべき便宜もこそあらめ、一時も急げや」とて、駒め早めて打つ程に、矢立の杉にぞつきにける。此の杉と申すは、もとは湯本の杉と言ひけるを、九州に阿蘇の平権守とて、虎狼臣有り。九国を打ち従へて、きちやうする事、四か年也。軍する事、五十余度也。其の時、生年七十二歳也。剰へ天下を悩まし奉らんとて、国を催す聞こえ有りければ、六孫王の御時、其の討手の為に、関東の兵を召されて上りしに、此の杉のもとに下り居て、祈りけるは、「九州に下り、権守を打ち従へ、難無く都に帰り上り、名を後代に上ぐべくは、一の矢受け取り給へ」とて、各射けるに、一人も射損ぜず。扨、筑紫に下り、合戦するに、難無く打ち勝つて、帰り上りぬ。其の時よりして、矢立の杉と申しけり。「門出めでたき杉とて、上下旅人、心有るも無きも、此の木に上矢を参らせぬは無し。況や、我等、思ふ事有りて行く者ぞかし。如何で、上矢を参らせざらんとて、十郎、一の枝に止む。五郎は、二の枝にぞ射たてたる。何と無く射留めけれ共、十郎は、宵に打たれ、五郎は、朝切られにけり。此の瑞相現れて、一二の枝の隔て、不思議也とて、思ひ合はせける。さて、駒を早めて打つ程に、箱根の御山にぞ付きにける。




P304曾我物語巻第八

 @〔箱根にて暇乞の事〕S0801N116
 抑、彼の箱根山と申すは、関東第一の霊山なり。後ろには、高山峨々と連なりて、真如の月影を宿す。前には、生死の海漫々として、波煩悩の垢をすすげば、無始の罪障も消滅すと覚えたり。本地文殊師利菩薩、衆生を化度し給へば、有為の都と名付けたり。然れば、一度縁を結ぶ者は、長く悪所に落とさじと誓ひ給ふ事、頼もしくぞ覚えける。此の人々は、御前に参り、「帰命頂礼、願はくは、浄土に向かへ取り給へ。時致十一より、此の御山に参り、今に至るまで、毎日に三巻づつ、普門品怠らず読み奉るも、只此の為なり。哀れみ給へ」と念誦して、別当の坊へぞ行きたりける。 行実、やがて出で合ひ給ひて、古今の物語し給ふ。「男になり給へばとて、昔に代はりて思ふべきにあらず、御身こそよそがましくし給へ、面々の心中、始めより詳しくP305知りて候ふぞ。哀れにのみこそ思ひ奉れ。如何でか恨み申すべき。人に頼まるる事は、在家出家によるべからず、愚僧も、年だに若く候はば、などかは頼りにならざるべき」とて、墨染の袖を顔に押し当て、さめざめと泣き給へば、十郎承り、「御意は、畏まり入り候へ共、更に野心の候はず。時宗も、其の後、やがて罷り上り、男に成りて候ふ怠りをも申すべきにて候ひしを、母には不孝せられ候ひぬ。又、恐れをなし奉る故、今におそなはり候ふ」。別当聞き給ひ、「祈祷は頼もしく思ひ給へ。千騎万騎の方人と思し召せとて、酒取り出だして、三三九度すすめ給ひつつ、 「何を以てか、方々の門出いははん」とて、鞘巻一腰取り出だし、十郎に引かれけり。「此の刀と申すは、木曾義仲の三代相伝とて、三つの宝有り。第一に、竜王作の長刀、第二に、雲落としと言ふ太刀、第三に、此の刀也。名をば微塵と言ふ。通らぬ物無ければなり。然れば、此の三つの宝を秘蔵して持たれたり。御子清水御曹司、鎌倉殿の聟になり給ひて、国の大将軍賜はりて、海道を攻め上り給ひ候ふ由聞こえければ、彼の宝を祈りの為とて、此の御山へ参らせらる。宝殿の事は、一向別当の計ひたるに依りて、是を御分に奉る。高名し給へ」とて、引かれけり。五郎には、兵庫鎖の太刀を一振り取り出だし、引かれけり。「此の太刀と申すは、昔頼光の御時、大国よりぶあく大夫と言ふ莫耶を召し、三ケ月に作らせ、一月にみがかせ二尺八寸に打ち出だす。P306秘蔵並ぶ物無くして持たれける。或る時、此の太刀を枕にたてられし時、俄に雨風ふきて、此の太刀をふき動かしければ、刃風に、側なりける草紙三帖が紙数七十枚きれたりけり。頼光、てうかと名付けて持たれたり。其れより、河内守頼信のもとへ譲られぬ。其れにての不思議に、此の太刀をぬかれければ、四方五段ぎりの虫も、翼もきれ落ちにければ、虫ばみとぞ付けられける。其れより、頼義のもとへ譲られたり。其れにての不思議には、折々御所中震動して、人死にうする事、度々なり。或る時、頼義、此の太刀を枕にたてられしに、例の如くに、雷電はげしくして、御所中騒がし。此の太刀、己とぬけ出でて、大地一丈が底に入り、斯かる悪事仕る大蛇の尾頭九尋有りけるを、四つにこそは切りたりける。其の後よりぞ、御所中の狼籍も止まりける。あやしみて、跡を尋ね尋ねて見給へば、斯かる不思議をしたりければ、毒蛇と名付けて、持たれたり。其れよりして、八幡殿へ譲られける。其れにての不思議には、其の頃、宇治の橋姫の、あれて人を取ると。或る夕暮に、八満殿、宇治へ参られけるに、人の申すに違はず、川の水波しきりにして、十八九計なる美女一人、橋の上に上がりて、八満殿を馬よりいだき下ろし、川の中へ入れんとす。彼の太刀、己とぬけ出でて、橋姫の弓手の腕を切り落とす。力及ばず、川へ飛び入りぬ、其れより、宇治の狼籍も止まりけり。然れば、此の太刀、姫切と名付けて、持たれたり。其れより、P307六条の判官為義のもとへ譲られたる。其れにての奇特には、此の太刀に六寸ばかり勝りたる太刀を立て添へて置かれたり。夜に入りぬれば、切り合ひける。判官、此の由聞き給ひて、予てより様有る物をとて、五夜までこそ立て添へて置かれけれ。五夜の間、隙無く戦ひて、六夜と申すに、我が寸に勝りたるを、安からずとや思ひけん、余る六寸を切り落とす。然れば、友切と名付けて、持たれたり。源氏重代にも伝ふべかりしを、保元の合戦に、為義切られ給ひ、嫡子左馬頭義朝の手へ渡りけるに、仏法守護の仏とて、鞍馬の毘沙門に込め給ふ。然れども、過ぎにし合戦に、父を切り給ひしかば、多聞も受けずや思し召しけん、合戦に打ち負け、東国差して落ち給ふ。尾張の国知多郡野間の内海と言ふ所にて、相伝の家人鎌田兵衛正清が舅、長田の四郎忠致に打たれ給ひて後、伝ふべき人無かりしに、義朝の末の子九郎判官殿、未だ牛若殿にて、鞍馬の東光坊のもとに、学問して御座しけるが、如何にして聞き給ひけん、折々、毘沙門に参り、「帰命頂礼、願はくは、父義朝の太刀、此の御山に込められて候ふ。父の形見に、一目見せしめ給へ」と、祈念申されければ、多聞、哀れとや思しけん、此の太刀を下し給ふと、夢想を蒙り、喜びの思ひをなし、急ぎ参りて見奉り給へば、現に御戸開き、此の太刀有り。盗み出だし、深く隠し置きて、十三になり給ひける年、相伝の郎等、奥州の秀衡を頼み、P308商人に伴ひて、下り給ひけるに、美濃の国垂井の宿にて、商人の宝を取らんとて、夜討の多く入りたりしか共、おきあふ者も無かりしに、牛若殿一人おき合ひ、究竟の兵十二人切り止め、八人に手を仰せて、多くの強盗追つ返す、高名したる太刀也とて、奥州まで秘蔵せられけるに、十九の年、兵衛佐殿謀叛を起こし給ふと聞こし召し、鎌倉に上り、見参に入り、幾程無くして、西国の大将軍にて、発向せられけるに、今度の合戦に打ちかたせ給へとて、此の御山へ参らせられ給ひて候ふ。自然に僻事し出だし候ひて、上より御尋ねあらば、法師が御辺に奉りて、狼籍なりと、御不審あらん時は、京に上り、四条町にてかひ取りたる由申さるべし。御分男になり給へば、今は見参には入りたくは無けれども、志を思ひ遣られて、哀れなるぞとよ。祈祷頼もしく思ひ給へ。此の法師が息の通はん程は、明王攻め奉らんに、何の疑ひか有るべき」と宣ひける。時致承りて、「仰せ忝けれ共、更に野心の儀は候はず。御不審の条、もつともにて候へども、恐れ奉りて参らぬなり。狩場よりの帰りには、参るべく候ふ。又は、思し召し合はする事も候ひなん」とて、罷り立ち、然らぬ体にはもてなせども、今を限りなれば、忍びの涙を流しける。別当も、縁まで立ち出で給ひて、はるばる見送りつつ、名残惜しくぞ思はれける。兄弟の人々は、駒に鞭を上げて、急がれける程に、三島P309近く成り、
 @〔三嶋にて笠懸いし事〕S0802N119
 十郎、道にて申しけるは、「只今の別当の御言葉、偏に御託宣と覚えたり。其の上、我等に権現より剣一つづつ賜はり候ふ上は、今度敵を打たん事、疑ひ有るべからず」と喜びて、三島の大明神の御前にこそつきにけれ。此の人々、畳紙をはさみ、七番づつの笠懸を射て、法楽し奉り、敵の事、心の儘にぞ祈られける。「誠、思ふ事適はずは、我等敵の手に掛けて、足柄を東へ二度返し給ふべからず、南無三嶋大明神」とぞ念じける。皆人、神や仏に参りては、或いは寿命長遠と祈り、諸病悉除とこそ祈るに、此の人々の明け暮れは、「父の為、命を召せ」とのみ申しけるこそ、無斬なる。斯様の事共をも、最後の文に詳しく書きて、富士より曾我へぞ返しける。母見給ひて、五つや三つより思ひ寄りけるとも知られける。 さても、御寮は、浮島が原に御座の由承り、曾我兄弟も、急ぎ追つ付き奉りぬ。其の夜、其れにて、便宜を狙へ共、用心隙も無かりければ、力無し。其の夜も、其処にて窺へども、北条殿の警固にて、隙も無し。P310
 @〔富士野の狩場への事〕S0803N121
 御寮は、合沢の御所に坐しましける。梶原源太左衛門を召して、仰せ下されけるは、「昨日の狩場より、富士野はひろければ、勢子少なくては適ふまじ。其の由、相ふれよ」。承りて、人々にふれ、射手を揃へけり。先づ武蔵の国には、畠山の庄司次郎重忠、三浦和田の左衛門義盛、三浦介義澄、下総国の国には、千葉介、古郡左衛門兼忠、武田の太郎信義、下野の国には、宇都宮の弥三郎朝綱、横山の藤馬允、相模の国に、松田、川村の人々を先として、以上、三百余人なり。若侍には、畠山の二郎重保、梶原源太左衛門景季、朝比奈の三郎義秀、同じく彦太郎、御所の太郎、毛利の五郎、林の四郎、小山の三郎、葛西の六郎、板垣の弥三郎、本間の彦七、渋谷の小五郎、愛甲の三郎を始めとして、四百五十余人なり。総じて、弓持ち、馬に乗る侍、三百万騎も有るらんと見えし。其の後、勢子を山へ入れけるに、東は足柄の峰をさかひ、北は富士野裾野を限り、西は富士川を際として、引きまはされけり。勢子は、雲霞の如し。峰に上り、谷に下り、野干を平野に追ひ下し、思ひ思ひに射止めけり。御寮の其の日の御装束には、羅綺の重衣の富士松の、風折したる立烏帽子、御狩衣は柳色、大紋のP311指貫に、熊の皮の行縢、芝打長に召し、連銭葦毛なる馬の五尺に余りたるに、白鞍置かせ、厚総の鞦掛けてぞ召されたる。御剣の役、江戸の太郎、御笠の役は、豊島の新五郎、沓の役は、小山の五郎、御敷皮、金子の十郎なり。其の外、一人当千の兵六七百人、御馬まはりと見えたりし。其の中に、殊にすぐれて見えたりしは、五郎丸なり。萌黄威の胴丸に、一尺八寸の大刀差し、四尺八寸の太刀をはき、鉄の棒の、三人して持ちけるを、本かろげにつきて、御馬の先にぞ立ちたりける。御陣の左右には、和田・畠山、何も鷹をぞ据ゑさせける。馬うち静かにして、又並ぶ人無くぞ見えし。其の外、数千騎の出立、花ををり、月を招く装ひ、ひろき富士野も、所無く見えし。かくて、山より鹿共多く追ひ下ろし、思ひ思ひに止めて、御寮の御見参にぞ入れにける。畠山の六郎重保、左手右手に相付けて、鹿二頭止む。宇都宮は、五頭、一条・板垣、五頭、武田・小山の人々も、五頭こそ止めけれ。其の狩場の物数は、此の人々とぞ聞こえし。此処に、葛西の六郎清重、日の暮れ方に至るまで、鹿一頭も止めずして、勢子にもるる鹿もやと、しげみしげみに、目を懸けてまはりける折節、左手のしげみより、鹿一頭出で来たる。願ふ所と見渡せば、矢ごろに少しのびたり。鐙に鞭を打ち添へて、下り様にぞ落としける。既に二三段ぎり違へて、弓打ち上げて、引かんとする所に、思はぬ岩石に馬を乗り掛けて、四足一つに立て兼ねて、わななきP312てこそ立ちたりけり。下ろすべき様も無く、又上すべき所も無く、進退此処にきはまれり。上下万民、是を見て、只、「それそれを」とぞ申しける。今は、馬人諸共に、微塵に成るとぞ見えたりける。清重、手綱を静かに取り、とねりなしを結びおき、かがみの鞭を打ち添へて、二つ一つの捨て手綱はちて、後ろに下り立つたり。馬は、手綱を捨てられて、まなごと共に落ちて行く。主は、つきたる弓の本、岩角にゑりたてて、しばしこらへて、立ちなほる。諸人、目をこそ澄ましけれ。「乗りたり、下りたり、すへたりや、こらへたり」と、しばしなりも鎮まらず。君の、御感の余りにや、常陸の国小栗庄三千七百町下されけり。時の面目、日の高名、何事か是にしかんと、感ぜぬ人こそ無かりけれ。 斯かる所に、上のしげみより、鹿一頭出で来たり、梶原源太ひかへたる左手を取つてぞ下りける。景季、幸ひにやと喜びて、鹿矢を打ちつがひ、よつぴいてはなつ。おつさま、筋違ひに首を掛けずつつとぞ射抜きたる。され共、鹿は物ともせず、思ふしげみに飛び下り、二の矢を取つてつがひ、鞭打ち下す所に、伏木に馬を乗り掛けて、足並乱るる所に、下り立ちて馬ひつ立つ。其の隙に、畠山の六郎重保、馳せ並べて、よつぴいてはなつ。源太には、したたかにいられぬ。鹿は、少しも働かず、二つの矢にてぞ止まりける。重保、馬打ち寄せ見る所に、源太が馬も掛け寄せP313て、「其の鹿は、景季が止めて候ふぞ」。重保聞きて、「心得ぬ事を宣ふ物かな。鹿は、重保が矢一つにて止めたる鹿を、誰人か主有るべき」。源太、弓取り直し、あざ笑ひて申す様、「狩場の法定まれり。一の矢、二の矢の次第有り。矢目は二つもあらばこそ、一二の論も有るべけれ」。景季も、まさしく射つる物をとて見れば、実にも矢目は一つならでは無かりけり。さりながら、抑へて取らるる物ならば、時の恥辱に思ひければ、源太、大きに怒りをなし、「勢子の奴原は無きか。よりて此の鹿取れ」。重保も、駒打ち寄せ、「雑人は無きか。重保が止めたる鹿の皮たて」。源太も、然る者なりければ、少しもひるむ気色は無し。「臆したる奴原かな。景季が止めたる鹿の皮たて、書きて取れ」。重保、然らぬ体にて、駒掛けまはし、「雑色共は、など鹿をば取らぬぞ」と、はや事実なる詰論なり。源太、手綱かいくり、駒打ち寄せ、小声に成りて言ふ様、「恋路に迷ふ隠し文、遣る者こそ主候ふよ」。重保聞きて、「やさしく宣ふ例へかな。思ひの色の数、読まで空しく返すには、返し得たるぞ、主と成る」。源太打ち笑ひ、「吉野・立田の花紅葉、誘(さそ)ふ嵐は主ならずや」。重保聞きて、「言はれずや、誘(さそ)ふ嵐も其の儘に、遂につれて行かばこそと宣ふ。立田の川波に、ちりて雲は花の雪、紅葉の錦渡りなば、中や絶えなん、さりながら、流れてとまる所こそ、誠の主と思はるれ」「実に故有りて聞こえたる。波にもつれて行かP314ばこそ。斯かる堰も、主なるべき」「堰も、止めはてばこそ。流れてとまる水門こそ、誠の主とは覚えたれ」。源太、此の言葉を打ち捨てて、「ふけ行く月の傾くをも、ながらむる者こそ主となれ」。重保聞きて、たからかに打ち笑ひ、「世界をてらす日月を、主と宣ふ、過分也」「過分は、人による物を、御分一人に帰すかと」。重保、たまらぬ男にて、「一人に帰すか、帰せざるか、手並の程を見せん」とて、既に矢をこそ抜き出だす。源太も、しらまぬ者なれば、「案の内よ」と言ふ儘に、既に中差抜き出だす。梶原が郎等は言ふに及ばず、時の綺羅並ぶ物無かりしかば、知るも知らぬも押しなべて、梶原方へぞ馳せ寄りける。三浦の人々も、是を見て、源太に意趣有る上は、秩父方へは所縁なり、みはなすまじとて、馳せ寄りける。いけの人、児玉の人々は、梶原方へぞ寄り来ける。みま・本間の人々は、秩父方へぞ与力する。駿河の国の人々は、梶原方へぞよりにける。伊豆の国の人々は、北条殿を先として、秩父方へぞ馳せ寄りける。安房と上総の侍は、二つにわれてよりにける。常陸・下総国の人々は、秩父方へぞ集まりける。東八ケ国のみにあらず、日本国中に知らるる程の侍、魚鱗に重なり、鶴翼に連なりて、ひたひしめきにひしめきける。畠山殿は、始めより知り給ひしが、如何思はれけん、知らぬ由にてぞ坐しましける。頼朝、是を御覧じて、「あれあれ、義盛、鎮め候へ」と仰せ下されければ、和田殿、両陣のP315間へ馬掛け入れ、「上意にて候ふぞ。鹿論の事、互ひに其の理有り。所詮、鹿をば上へ召され候ふ。両人御前へ参られよとの御諚にて候ふ」と、大音声にて言ひ、其の後、勢子を召し、彼の鹿をかかせ、六郎と源太と引きつれ、御前差して参られけり。扨こそ、両陣は破れにけり。危ふかりし事也。然ればにや、君の御恵みあまねく、御哀れみの深くして、事鎮まりぬ。 曾我の人々は、哀れ、事の出で来たれかし、方人する風情にて、狙ひ寄りて、一刀差さんとて思ひける。かくて、日も暮れ方になりしかば、今日を限りと、傾く日影を惜しみける。 此処に、伊豆の国の住人新田の四郎忠綱、未だ鹿にあはずして、落ち来る鹿を相待所に、幾年ふる共知らざる猪が、ふし草かか十六つきたるが、主をば知らぬ鹿矢共、四五立つたりしが、大きにたけつて掛けまはる。例へば、養由が術弓、李廣しんへんも、及ぶべしとは見えざりけり。近付く者をたければ、落ちあふ者も無くして、徒らに中をあけてぞ通しける。忠綱、是を幸ひと掛け寄せけり。御前ちかうなりければ、「よしや、新田、よしや、忠綱」とぞ仰せ下されけり。人もこそ多き中に、斯様の御諚かうむる事、生前の面目、何事か是にしかんと存ずる間、鉄銅をまろめたる猪なりとも、余さじ物をと思ひければ、大の鹿矢を抜き出だし、P316只一矢に問ひ来てはなつ所に、矢よりも先に飛び来たり、乗りたる馬を主共に中にすくうて投げ上げ、落ちば掛けんとする所に、適はじとや思ひけん、弓も手綱も打ち捨てて、向かう様にぞ乗り移る。され共、逆様にこそ乗りたりけれ。鹿は乗られて、腹をたて、馬を彼処へ掛け倒し、雲霞に分け入りて、虚空をとんでまはりしは、周の穆王、釈尊の教法を聞かんと、八匹の駒に鞭を上げ、万里の道、刹那に飛び付きしも、是には如何で勝るべき、新田は、習ひし綱の様、腰もきれよとはさみ付け、尾筒を手綱に取り、楽天の伝へし三頭、王良が秘せし手綱、是なりけりと、こらへけれ共、詮方無くぞ見えたりけり。鹿は、いよいよたけりをかき、木の下、草の下、岩、岩石を嫌はずして、宙に取つてまはりしかば、烏帽子・竹笠・沓・行縢、一度にきれて落ちにけり。大童に成りて、只落ちじとばかりぞこらへける。大きに猛き猪も、数多手はおひぬ。新田が威にやおされけん、御前近き枯株に、つまづき弱る所に、過たず腰の刀なを抜き、胴中につきたて、肋骨二三枚かき切りければ、鹿は、四足を四五寸土に踏み入れて、立ちずくみにこそなりにけれ。新田は、急ぎ飛び下りて、数の止めをさす。上下の狩人、是を見て、「前代未聞の振舞ひかな。面白くも止めたり。乗りも乗りたり、こらへたり」と、感ぜぬ者こそ無かりけれ。君も、此の由御覧じて、「狩場の内の高名は、是にしかじ」と、御感有り。富士のP317下方にて、五百余町を賜はりにけり。勢余りてぞ見えし。然れども、此の鹿は、富士の裾、かくれいの里と申す所の、山の神にてぞ坐しましける。凡夫の身の悲しさは、夢にも是を知らずして、止めにけり、御咎めにや、やがて、其の夜、曾我の十郎に打ち合ひ、数多手負ひ、危ふかりし命、幾程無くて、田村の判官が謀叛同意の由、讒言せられて、打たるべかりしを、重保に付き申し開き、御目にかからんとて、参じける折節、召しの御馬離れたりしが、御庭狭しと馳せまはる。日本一の荒馬なれば、追ひまはす人々、是を見て、「よしや、新田、取れや、忠綱、縄を掛けよ、過ちすな」と、声々に呼ばはりて、庭上騒動す。新田が郎等、門外に集まりて、「我等が主、只今搦め取らるるぞや。主の打たるるを捨てて、何処まで逃るべき」とて、思ひ切りたる兵二三十人抜きつれて、御前差してきつて入る。新田が運の極め也。御所方の人々、是を見て、「新田が謀叛誠也。余すな、方々」とて、日番・当番の人々出で合ひて、火出づる程こそ戦ひけれ。御所方の人々、数多打たれしかば、新田が陳法逃れずして、二十七にて打たれけり。不便なりし事共なり。是も、しかしながら、富士の裾野の猪の咎めなりと、舌をまかぬは無かりけり。 梶原源太左衛門景季は、未だ鹿にあはずして、落ち来る鹿を待ち掛けつつ、掛け並べ、よつぴきてはなつ。され共、上を遙かに射こして通しけり。景季、取り敢へP318ずかくこそ申しけれ。夏草のしげみが下を行く鹿のそての横矢は射にくかりける W032君聞こし召して、神妙なりとて、是も富士の裾野百余町をぞ賜はりけり。人々、是を見聞きて、「鹿射はづし、歌詠みてだに、恩賞に預かる。まして、よく止めたらん輩は如何に」とぞ申しける。御寮は、左衛門の尉祐経を召して、「不審なる事有り、用心せよ」と仰せ下されければ、畏まり存じ候ふ由を申しける。此処に、梶原源太景季、侍の所司にて、総奉行なる上、わざん第一の者にて、上の御諚を承り、曾我の人々を近付けて申しけるは、「神妙に御供申されて候ふ。奉公は、いづれも同じ事、御宿に、大事の御物の具有り。留守の御宿直申されよ。いか様、今度鎌倉へ入らせ坐しまして、御免蒙り給ふべし。奉公心に入れられよ。」と申しければ、祐成、是非に及ばずして、「畏まり入り候ふ。よき様に御申候へ。頼み奉る」とぞ、返事しける。源太、重ねて申す様、「御給仕に依りて、本領子細あらじと存じ候ふ」と言ひてこそ、帰りにけれ。時致、是を聞きて、「哀れ、源太、我々をすかさんと思ひたる気色の差し現れたる奴かな。蛇は一寸を出だして、其の大小を知り、人は一言を以て、其の賢愚を知る。狐の子は、子狐より、父が孫を継ぎて、此の冠者が面の白さよ。いつの奉公に依りてか、御気色もよかるべき。定めて、P319御寮の仰せには、其の冠者原は、誰が許して、狩場へは出でけるぞ。よくよくすかし置きて、首をきれとの御諚か、流罪せよとの仰せにてぞ有るらん。実にや、古き言葉を案ずるに、国の賢を以て興し、へつらひを以て衰ふ。君は忠もて安じ、偽りを以て危ふし。人は、たくみにして偽らむよりも、つたなうして誠有るにはしかず。此の者の振舞ひ・言葉、世のわづらひともなりぬべし。其の上、奉公申すべき為ならず。哀れ、身に思ひだに無かりせば、此の冠者が面、一太刀きつて慰まんずる物を」とぞ申しける。さて、兄弟は、見えがくれにつれつ離れつ、心をつくし狙ひけるこそ、無慙なれ。十郎が其の日の装束には、萌黄にほひの裏打ちたる竹笠、村千鳥の直垂に、夏毛の行縢脇深く引きこうで、鷹うすべうの鹿矢、筈高に取つて付け、重籐の弓のまん中取り、葦毛なる馬に、貝鞍置きてぞ乗りたりけり。五郎が其の日の装束には、薄紅にて裏打つたる平紋の竹笠、まぶかにきて、唐貲布に、蝶を三つ二つ所々に付けたる直垂に、紺小袴、秋毛の行縢、たぶやかにはき下し、鶴の本白の征矢、筈高に追ひ成し、二所籐の弓のまん中取り、鹿毛なる馬に、蒔絵の鞍を聞きて乗りたり。遙かに遠く敵を見付けて、十郎に告げ、互ひに、心を通はしけり。人は皆、鹿に心を入れ、如何にもして、上の見参に入らんと、峰に上り、谷に下り、野を分け、里を尋ねけれ共、余所目如何と思ひしP320に、勢子を破りて、鹿こそ三頭出で来たりけれ。是は如何にと見る所に、彼の祐経こそ、おつすがひては落としけれ。其の日の装束、花やかなり。浮線綾の直垂に、大斑の行縢に切斑の矢おひ、吹寄籐の弓のまん中取り、金紗にて裏打ちたる浮紋の竹笠、嵐にふき靡かせ、くろき馬の太くたくましきに、白覆輪の鞍置きてぞ乗りたりける。馬も聞こふる名馬なり、主も究竟の乗り手なり。三つ有る鹿に隔たりぬ。馬の掛け場もよかりける。十郎、是を見て、「此の鹿は、埒の外に、勢子を破りて落ち来たるにや、追つ返して奉らん」とて、十三束の大の中差取りてつがひ、矢所多しと雖も、奥野の狩の帰り様に、父の射られけん鞍の山形の端、行縢の引き合はせ、むくいの知らする恨みの矢、余の所をば言ふべからず。如何なる金山鉄壁とも、志のなどか通らざらんと、左手になしてぞ下りける。五郎も、同じく中差取りてつがひ、左衛門の尉が首の骨に目を懸け、大磐石を重ねたりと言ふとも、などかきつて捨てざらんと、鞭に鐙をも見添へて、右手に相付け馳せ並べ、三つ有る鹿と左衛門をまん中に取り込め、矢先を左衛門に差し当てて、引かんとする所に、祐経がしばしの運や残りけん、祐成が乗りたる馬を、思はぬ伏木に乗り掛けて、真逆様にころびけり。過たず弓の本をこして、馬の頭に下り立つたり。五郎は、是を知らずして、矢筈を取り立ち上がりける。兄の有様一目見て、目もくれ、心も消えP321にけり。此の隙に、敵は、遙かに馳せのびぬ。鹿をも、人に射られけり。五郎、空しく引き返し、急ぎ馬より下り立つて、兄を介錯しける心の内こそ悲しけれ。「哀れ、実に我等程、敵に縁無き者あらじ。只今は、さりともとこそ思ひしに、馬強かりせば、斯様には成り行かじ。是も、只貧より起こる事なり。人を恨むべきにもあらず。適はぬ命ながらへて、物を思はんよりも、自害して、悪霊死霊にも成りて、本意を遂げん」とぞ悲しみける。十郎、是を聞きて、「暫く待ち給へ。夫れ泰山の霤は、石をうがつ。うんてくの■は、幹を立つ。水は、石鑽にあらず。索は、木の鋸にあらず。せんひのしからしむる所なり。只心を述べて、功をつみ給へ。今宵は命を待ち給へ」とて、馬引き寄せ打ち乗りけり。 其の後は、人々如何に見るらんとて、十郎かくれば、五郎ひかへ、五郎行けば、十郎止まり、余所目をも包みけりは、時移り、事のび行きければ、其の日も、既に暮れなんとす。畠山殿は、程近く坐しませば、兄弟の有様をつくづくと御覧じて、今まで本意を遂げぬぞや、哀れ、平家の御代と思はば、などか矢一つ訪はざらん。当君の御代には、斯様の事も適はず、重忠も、若き子供を持ちぬれば、人の上とも思はずして、誠無慙に覚えたり。梶原触状には、明日、鎌倉へ入らせ給ふべきなれば、今宵、打たでは適ふまじ、此の由知らせんと思ひ給へども、P322人々数多有りければ、歌にてぞ弔ひ給ひける。まだしきに色づく山の紅葉かな此の夕暮を待ちて見よかし W033とながめ給ひて、涙ぐみ給ひけり。折節、梶原源太左衛門がちかうひかへたりしが、「何事にや、曾我の殿原に、「まだしきに色づく」と詠じ給ふは、心得ず」。重忠聞きて、「夏山に夕日影の残る、風情、初紅葉に似ずや。此の夕暮こそ、猶も移り行かば、誠秋にや成り行かん」。源太は、猶も言葉有り顔なりしを、君より急ぎ召されしかば、掛け通るとて、「重忠の御歌の不審残りて」と言ひながら、馳せ付きければ、人々聞きて、「今に始めぬ梶原が和讒とは言ひながら、殊にかかりて見えぬるをや」と申し合ひける。重忠仰せけるは、「「命を養ふ者は、病の先に薬を求め、代ををさむる者は、乱れの先に賢を習ふ」と、さんふろんに見えたり。其れまでこそ無くとも、斯様のえせ者を近く召し使ひて、末の世如何」とぞ仰せける。其の後、曾我の人々を近付けて、「今夜、重忠が所へ坐しませ。歌の物語申さん」と宣へば、畏まり存ずる由、返事して、十郎、弟に言ひけるは、「畠山殿は、情を以て、はや、此の事を知り給ひけるぞや。「耳を信じて、目を疑ふ者は、耳の常の弊なり。尊みて、近付くを賎しむる者は、人の常の情」と、抱朴子に見えたり。然れば、歌の心は如何に」と問へば、「知らず」と言ふ。十郎は、P323万に情深くして、歌の心をえたり。「「思ふ事あらば、今宵限り」と告げ給ふぞや。君は明日、伊豆の国府、明後日、鎌倉へ入らせ坐します由、其の聞こえ有り。思ひ定め給ふべき」と言ふ。「珍しくも思ひ定め候ふべきか」「申すにや及ぶ」とぞ申しける。元来剛なる時宗が、重忠にいさめられ、いよいよ今宵を限りとぞ定めける。予てより思ひ定めし事なれ共、差しあたりての心細さ、思ひ遣られて無慙なる。日暮、君、井出の屋形へ入り給ひしかば、国々の大名・小名、御供してぞ帰りける。曾我の兄弟も、人なみなみに、柴の庵へぞ帰りける。
 @〔屋形まはりの事〕S0804N128
 道にて、十郎が申す様は、「御所は、屋形へ帰り給ふべし。二人つれては、人もあやしく思ひなん。祐成計行きて、屋形の案内見て帰らん」とて、太刀ばかり持たせ、屋形屋形をめぐりけり。思ひ思ひの幕の紋、心々 の屋形の次第、中々言葉も及ばれず。此処に、二つ木瓜の幕打ちたる屋形有り。誰が幕やらん、是は、我等が家の紋也、近き頃は、伊東の一門、御敵と成り滅びぬ、伊東と名乗る者無ければ、此の幕打つべき者無し、誰なるらんと、不思議にて立ち寄り、幕のほころびより見入れP324て見れば、敵左衛門が屋形なり。是は如何に、一木瓜の幕をこそ打つべきに、心得ぬ物かな、誠や、人々にあらず、知るを以て人とし、家家にあらず、何処を以てか家とす、つぐべきをばつがで、すずろなる曾我のなにがしと呼ばれぬる上は、家の紋入るべからず、祐経は、誠とやらん、我々が先祖の知行せし所領を知るに依りて、斯様に成り行く物をや、哀れ昔、斯様には無かりし物をと、見入れて通りけるに、 祐経が嫡子犬房見付けて、「只今、此の前を十郎殿通り候ふ」。左衛門聞きて、「玉井の十郎か、横山の十郎か」と問ふ。「曾我の十郎殿」と言ふ。「是は、祐経が屋形にて候ふ。立ち寄り給へ」と言はせければ、祐成、少しも憚らず、屋形の内へ入り見れば、手越の少将は、左衛門の尉が君と見えたり。黄瀬川の亀鶴は、備前の国吉備津宮の王藤内が君と見えたり。嫡子犬房に酌とらせ、酒盛しける折節也。幾程の栄華なるべき、今宵の夜半に引きかへん事の無慙さよと思ひながら、座敷にぞなほりける。祐経、敷皮をさりて、「是へ」と言ふ。十郎、「かくて候はん」とて、押しのけ居たり。祐経が初対面の言葉ぞこはかりける。「誠や、殿原は、祐経を敵と宣ふなる。努々用ひ給ふべからず。人の讒言なりと覚えたり。差しあたる道理に任せて、人の申すも理なり。伊東は、嫡々なる間、祐経こそもつべき所を、面々祖父伊東殿横領し、P325一所をも分けられざりしかば、一旦は恨むべかりしを、第一養父なり、第二に叔父なり、第三に烏帽子親也、第四に舅なり、第五に一族の中の老者なり、一方ならざるに依りて、こらへて過ぎしに、是は只、「高きにのぞみ上らざれ、賎しきをそしり笑はざれ」と言ふ本文を捨てて、我等を員外に思ひ給ふ故なり。面々の父河津殿、奥野の狩場帰りに打たれ給ひぬ。猟師多き山なれば、峰ごしの矢にやあたり給ひけん。又は、伊豆・駿河の人々、多く打ち寄り、相撲取りて、遊び給ひけるに、股野の五郎と勝負を争ひ、当座にて喧嘩に及びしを、御寮の御成敗に依り鎮まりぬ。然様の宿意にてもや、打たれ給ひけんを、在京したる祐経に掛けて、申されけるなれども、更に知らず。剰へ、祐経が郎等共、数多失ひぬ。其の時分、やがて対決を遂げたりせば、逃るべかりしを、幾程無くして、当御代と成りて、面々親しき人々、皆御敵とてそんし給ひぬ。只祐経一人に成りて、遂に此の事さんだんせずしてやみぬ。然れば、只祐経がしたるに成りて、年月をへ候ふ。是、不祥と言ふも余り有り。よく聞き給へ、十郎殿」。祐成聞きて、とかく言ふに及ばず、只つしんで居たり。「是なる客人をば知り給ふにや」「今日始めて、見参に入り候へば、如何でか見知り奉るべき」「あれこそ、備前の国吉備津宮の王藤内とて、然る人なるが、今年七年、君の御不審を蒙り、所領召されて有りつるP326を、此の三が年、祐経取り継ぎ申しつる間、御免を蒙り、所領に安堵して、蒲原まで下り給ひぬるが、祐経に名残惜しまんとて、帰り給ふ。斯様に、他人にだにも、申し承れば、親しく成るぞかし。まして、殿原と祐経は、従兄弟甥と言ふ者なれば、今は親とも思ふべし。便宜然るべく候はば、上様へ申し入れ候ひて、奉公をも申し、一所賜はりて、馬の草かひ所をもし給へ。殿原は、祐経が思ひ奉る様には思ひ給はじ。北条は、つねに越えて遊び給へ共、何を恨みてか、更に伊豆へは見え給はず。しもたてぬ賢人せんよりも、我等にむつびて、若き者共に背かれずして坐しませ。面々の馬の様を見るに、やせ弱り候ふ。伊東に駒共数多候へば、乗り付けて乗り給へ。なましひに人の言ふ事について、祐経打たんと思ひ給はん事、今生にては適ふまじ。曾我殿原」とぞ広言しける。如何思ひけん、言葉をかへて言ひけるは、「酔狂の余り、言失仕ると覚えたり。今より始めて、互ひの遺恨をたやして、親子の契たるべし」とて、盃取り寄せ、客人なればとて、王藤内に始めさせ、其の盃、珍しさとて、十郎にさす。其の盃、少将にさす。其の盃、祐経にさす。其の盃、亀鶴にさす。其の盃を十郎にさす。酒を八分に受けて、思ひけるは、にくき敵の広言かな、身不肖なり、何事か有るべきと、思ひこなし、初対面に散々に言ひつるこそ、奇怪なれ、此のP327君共が耳こそ、東八か国の侍の聞く所、日頃は親の敵、只今は日の敵、襖に衣を重ねても、逃すべきにあらず、哀れ、受けたる盃、敵の面にいつ掛けて、一刀差し、如何にもならばやと、千度百度すすめども、心をかへて思ふ様、まてしばし、兄弟と言ひながら、祐成・時致は、父の敵に志深くして、一所にてとにもかくにもと契りしに、心はやりの儘に、祐成如何にもなるならば、五郎空しく搦められ、恨みん事こそ不便なれ、此処はこらふる所と思ひ鎮めて、止まりしは、情深くぞ覚えける。左衛門の尉、神ならぬ身の悲しさは、我を心にかくるとは、夢にも知らずして、「十郎殿、盃如何にほし給はぬ。御前達、数多坐しませば、肴待ち給ふと覚えたり。今様うたひ給へ」と言ひければ、二人の君、扇拍子を打ちながら、蓬莱山には千年ふる千秋万歳重なれり松の枝には鶴住み巖の上には亀遊ぶ W034と言ふ一声を返し、二辺までこそうたひけれ。其の時、盃取り上げて、三度までこそほしたりけれ。其の土器祐経こうて、「方々は何とか思ひ給ふらん、知らねども、P328今日よりして、親子の契約有るべし。あの童めを弟と思し召され、汝も兄と思ひ奉れ。他人の悪しからんは、恨みにあらず。親しき中のうときをば、神明もにくみ給ふ事なれば、今より後、互ひに憚り有るべからず。其の御盃賜はりて、いはひ候はん。但し、所望候ふぞや。十郎殿は、乱拍子の上手と聞けども、未だ見ず。一つ舞ひ給へ。一つは客人の為、一つは祐経がいはひのあやにく、如何有るべき。御前達、面白く候ふ、はやはや」と攻めければ、犬房、はやしぞたてたりける。祐成、子細に及ばずして、持ちたる扇さつと開きて、「君がすむ亀のふか山の滝つ瀬は」と言ふ一声を上げて、しばし舞ひけるが、父に心を通はして、とやせん、かくやせんと、思ひ乱るる舞の手に、夜ふけば入り候ふべき道、つがひはづさん、長舞に、此処より入り、彼処にめぐらん、彼処はつまり、此処は通ひ路、忍びて入らば、音は立たじ、入る共知らじ、さす腕、袖の返しに目を使ひ、半時ばかりぞ舞ひたりける。座敷に連なる人々は、見知る証の無き儘に、興を催す計也。君共を始めとして、はやすも覚えぬ風情なり。かくて、十郎舞ひ入りければ、祐経、盃思ひ返しとて、十時に差したりければ、十郎取り上げ、三度ほして、扇取り直し、畏まつて申しけるは、「今宵は、是に御宿直申したく候へども、北条殿に申し合はする子細候ふ。いかさま、明日参りて、つねづね宿直申すべし」P329と、暇こうて出でにけり。祐成、案者第一の男なり、敵何とか言ふらんと思ひ、小柴垣に立ち隠れ聞く事は知らず、王藤内、「此の殿原の父をば、誠打ち給ひけるか」と問ふ。左衛門の尉聞きて、「今は、彼が聞かばこそ。以前、つぶさに申しつる様に、我等嫡孫にてもつべき所領を、彼等が祖父に横領せられぬ。某在京ながら、田舎の郎等共に申し付けて、彼等が父河津の三郎と言ひし者打たせしなり。人もやさぞ知りて候ふらん。此の者共の子孫、皆謀叛の者、君に失はれ奉り、今祐経一人に罷りなる。然れども、君不便の者に思し召され、先祖の所領拝領の上は、祐経に狭められ、思ひながらぞ候ふらん。彼が此の頃分限にて、祐経に思ひかからんは、蟷螂が斧を取りて、隆車に向かひ、蜘蛛が網をはりて、鳳凰をまつ風情也。哀れなる」とぞ申しける。王藤内聞きて、「其れこそ僻事よ。世に有る人は、所領財宝に心がとまり、思ふ事はとどこほるなり。然れば、寸の金を切る事無し。貧なる侍と鉄とは、あなづらぬ物をや。何とやらん、悪様に仰せつる時に、しきりに目を懸け奉り、刀の柄に手を掛け、片膝押したてつる時、事出で来ぬと見えしが、され共、色には少しも出ださず。よき兵かな」とぞほめたりける。左衛門の尉、是を聞き、「何程の事か仕るべき。竜ねぶりて、本体を現す。人酔ひて、本心を現す。思ふ事こそ言はれ候へ。南無阿弥陀仏」とぞ申しける。後に思ひ合はすれば、P330是や最後の念仏と、哀れにぞ覚えし。十郎、かく言ふを立ち聞きて、即ち、屋形への内に走り入り、如何にもならばやと思ひしか共、五郎に憂き身の惜しまれて、只空しくて帰りける、心の内こそ、無慙なれ。抑、只今の言葉共、よくよく思へば、只王藤内が言はする言葉也。今夜は、落ちば落とさんと思ひつれども、今の言葉の奇怪なれば、一の太刀には左衛門、二の太刀には王藤内と思ひ定めて、屋形よりこそ帰りけれ。 五郎、兄を待ち兼ねて、心許無くして、たたずみける所へ、十郎来たりて、「如何に待ちどほなるらん」。五郎聞きて、「然らぬだに、人を待は悲しきに、愚かにや思し召す」「祐成も、さ存ずるを、敵左衛門が屋形へ呼び入れられ、酒をこそのみたりつれ」「さて、如何に候ひける。便宜悪しく候ひけるか」「言ふにや及ぶ。乱舞の折節、哀れと思ひしかども、御分一所にこそと存じて、こらへつる志、推し量り給へ」。五郎も聞きて、「御ふちは然る事にて候へども、是程よりつかずして、心をつくす。便宜よく候はば、御うち候ふべき物を。さりながら、一太刀づつともどもに切りたく候ふぞかし。其の屋形の次第、道すがらの様、御覧じ候ひけるにや」「其の為、案内は、よく見おき候ひぬ。但し、屋形の数多くして、見知りたる人は、所々にこそ候ひつれ」。扇開きてこそはかぞへけれ。「先づ、君の御屋形に並べて打ちたりP331しは、北条の四郎時政、御一門に、一条・板垣・逸見・武田・小笠原・南部・下山・山名・里見の人々、石山・やまかた・梶原、屋形並べて候ふなり。東には、和田・畠山・黒戸・姉崎・本田・榛沢・池辺・児玉・小沢・山口・丹・横山・紀清の両党・岡部・はんさう・金子・村山・むらおり・なかさや・おかはら・比企・中条・三田・むろの人々、屋形を並べて候ふなり。常陸の国には、佐竹・山内・志太・同地・鹿島・行方・こくは・宍戸・森山・ちちわの殿原、下総国の国には、千葉介常胤・相馬の二郎師胤・武石の三郎胤盛・国分の五郎胤通・東の六郎胤兼・葛西の三郎清重・あふ・猿島・大原・小原、屋形を並べ候ふなり。上野の国には、伊北・伊南・庁北・庁南・印東・金岡・小寺・深栖・山上・大こし・大室、上総の国には、桐生・黒川・多胡・片山・新田・園田・玉村、安房の国には、安西・神余・東条、信濃の国には、内藤・片桐・くろた・すわう・さいたう・村上・井上・高梨・海野・望月、屋形を並べて候ふ也。下野の国には、小山・宇都宮・結城・長沼・氏家・塩谷・木村・皆河・あしから・まのたの人々、屋形を並べ候ひぬ。相模の国には、座間・本間・土屋・愛甲・土肥の二郎父子・糟屋藤五・渋谷・さとう・波多野の右馬丞・岡崎・三浦の人々、伊豆の国には、入江・藁科・吉川・船越・大森・葛山、遠江の国には、いしあま・しとつ、三川の国には、設楽・中条、尾張の国には、大宮司・宮の四郎・関の太郎、美濃の国には、高嶋・まつ井、P332近江の国には、山本・柏木・たつい・錦織・佐々木党、屋形を並べ候ふ也。当番の人々には、結城の七郎・河越・高坂・大胡・おしむろ・難波の太郎・上総介父子、屋形を並べし也。坂東八か国、海道七か国のみにあらず、三年の大番、訴訟人と言ふ程の者の屋形、雲霞の如くなり。さて、君の御座所をばまん中に、四角四面に瑠璃を延べ、五十九間に飾られたり。面々思ひ思ひの屋形づくり、色々の幕の紋、金銀をちりばみてこそ飾られけれ。凡そ屋形の数、二万五千三百八十余間也。総じて上下の屋形の数、十万八千間、軒を並べて小路を遣り、甍を並べて打ちたりけり。東にそうたるは、梶原平三景時、西のはづれは、左衛門の尉祐経が屋形なり。幾程とこそ思ひけん」。五郎聞きて、「さて、客人は、何処の国、如何なる人にて候ひける」「備前の国の住人吉備津宮の王藤内、手越の少将、黄瀬川の亀鶴を並べ置きて、酒盛半ばなりしに呼び入れ、祐成も、舞を舞ふ程の事なりつるに、面にあてて、広言共しつる無念さよ。一刀差し、如何にもと思ひつるを、わ殿に命が惜しまれて、手に握りたる敵を逃しつるこそ、無念なれ」。五郎聞きて、「是や、宝の山に入りて、手を空しくする風情なり。嬉しくも、御こらへ候ふ物かな。余し候ふべきにも候はず、南無阿弥陀仏」とぞ申しける。



P333曾我之物語巻第九

 @〔和田の屋形へ行きし事〕S0901N131
 「来たつて暫くも止まらざるは、有為転変の里、さりて二度帰らざるは、冥途隔生の別れなり。哀傷恋慕の悲しみ、今に始めぬ事なれ共、日本国に我等程物思ふ者あらじと案ずるに、劣らず歎きをする者の有るべきこそ、不便なれ」。五郎聞き、「誰やの者か、我等に勝りて候ふべき」「然ればこそとよ、備前の王藤内が、七年御不審を蒙り、此の度、安堵の御下文を給はると言ふ使ひ、先に下り、かくと言はば、国に止まる親類集まり、喜び合はん所に、又人下りて、打たれぬと言ふならば、さこそ歎かんずらんと、深き言葉を案ずるに、人としてのふ有る物は、天の加護に依り、人としてさい有る者は、歎きによると見えたり。然れば、王藤内助けばやとは思へども、雑言余りに奇怪なれば、祐成におきては余すべからず。御分ももらすな」と申しければ、「承る」とぞ言ひける。「かくて、夜P334のふけん程待たんも、遙かなり。いざや、和田殿の屋形へ行き、最後の対面せん」「然るべし」とて、二人打ちつれ、義盛の屋形へぞ行きける。やがて、義盛出で合ひて、「如何に殿原達、遙かにこそ存ずれ。狩座の体、是が始めにてぞ坐しますらん。何とか思ひ給ひけん。見物には上や有るべき」。十郎、扇笏に取り直し、畏まつて、「さん候。斯様の事は、珍しき見事、末代の物語に、あの冠者に見せ候はん為、二三日の用意にて、罷り出で候ふが、余りの面白さに、斧の柄のくつるを忘れ、曾我へ人おこして候ふ、其の程と存じて、参りて候ふ」と言ひければ、和田聞きて、なんでふ其の儀有るべき、日頃の本意を遂げんとするが、一家の見はてに、義盛に今一度対面せんとてぞ来たりぬらんと、哀れに思ひければ、「さぞ思すらん、数多見て候ふだにも、面白く候ふ。まして、若き人々の始めて見給はんに、さぞ思し召すらん。嬉しくも来給ふ物かな。予てより知り奉りなば、始めより申すべかりつるを」とて、酒取り出だし、すすめられけり。盃二三度めぐりて後、和田宣ひけるは、「相かまひて、せばよくし給へ。し損じなば、一家の恥辱なるべし。後楯にはなり申すべし。頼もしく思ひ給へ」とて、盃差されけり。折節、梶原源太、屋形の前を通りけるが、かく言ふを聞き付けて、「何事ぞや、和田殿。曾我の人々に、「せばよくせよ」と仰せられつる、不審なり。御耳にや入れ候ふべき」と言ふ。和田殿聞きて、こP335は如何に、曲者通りけるよ、さりながら陳じて見んと思ひければ、「自然の物語、何と聞きて、御分、御耳に入れんとは宣ふぞ。此の面々、我に親しき事、上にも知ろし召されたり。其れに付き、「御狩と承り、必ず召しは無けれども、末代の見物に、忍びて御供仕り候ふ。若き者の習ひ、黄瀬川にて、女共と遊びて候ひしが、君合沢の御所に御入の由承り、急ぎ参り候ひし間、引出物をせず候ふ。帰りに何にても候へ、とらせん」と申し候ふ間、「道の者は恥づかしきぞ。引出物せばよくせよ、し損じなば一家の恥ぞ」と申しつるが、此の事ならでは、何申したりとも覚えず、急ぎ御申し有りて、義盛失ひ給へ」と、高声也ければ、景季も、「一興にこそ申し候へ。何とてか、和田殿は、某にあひ給へば、由無き事にも、角をたてて宣ふらん。是は苦しからぬ事なり」とて、そら笑ひして通りけり。猶も和讒の者にて、何とか言ふと思ひ、しばしたたずむ。是をば知らで、和田宣ひけるは、「水をよく泳ぐ者はむもれ、馬によく乗る物は落ち、日はちう中に移る、月はみつるに傾く、高天にせくぐまれ、厚地に抜き足せよと有るをや。此の者は、十分に過ぎて、如何ぞと覚ゆる」。五郎、是を聞きて、「御陳法を用ひず、通る者ならば、何程の事すべき。しや細首ねぢ切りて、捨て候ふべきを」と申しければ、梶原立ち聞きて、誠や、此の者は、朝比奈にみぎは勝りの大力、をこの者P336と聞きたり、此処にて、喧嘩し出だし、勝負せんよりも、上へ申し上げて、我が力もいらで失はん事、安かるべしと思ひ定めて、聞かざる由にて、帰りにけり。和田宣ひけるは、「今暫くも候ひて、こまかに物語申したけれ共、源太と申す曲者が、御前に参りつるが、いか様にか申し上げ候はんずらん。相構へてし損じ給ふな」と言ひ置きて、和田は、御前へぞ参られける。此の人々は、屋形に帰る。夜のふくるを待ちけるが、やや有りて、十郎申しけるは、「件の梶原が、御分が言ひつる事を立ち聞きけるが、いか様、大勢にて寄せぬと覚ゆる。屋形をかへん」と言ひければ、五郎聞きて、「源太程の奴、何十人も候へ、一々に切りふせなん」と申す。十郎聞きて、「身に大事だに無くは、言ふに及ばず。只某に任せ候へ」とて、
 @〔兄弟屋形をかゆる事〕S0902N132
 柴の庵を引き払ひ、思はぬ所へ寄り居つつ、時を待こそ哀れなる。是をば知らで、源太百余人の兵者引きつれて、人々の屋形へぞ押し寄せたる。然れども、人は無かりければ、「日本一の不覚人、斯様に有るべしと思ひしに違はず、人にては無かりけり」と、広言して帰りしは、をこがましくぞ見えし。是や、鼠深く穴P337をほりて、くんきん害を逃れ、鳥高くとんで、さうめい害をさけるとは、斯様の事なり。あやしかりし事なり。
 @〔曾我へ文書きし事〕S0903N133
 扨、兄弟の人々は、ふけ行く夜はを待ち兼ねて、十郎言ひける、「いざや、此の暇に、幼少よりの思ひし事を詳しく文に書きて、曾我へ参らせん」「然るべし」とて、各々文を書きける。「我等五つや三つよりして、父敵に打たれし事、忘るる隙無くて、七つ・九つと申せしに、月の夜に出でて、雲井の雁がねを見て、父をこひ、明くれば、小弓に小矢を取り添へて、障子を射通し、敵の命になずらへ、彼を打たん事を願ひ泣きしを、母の制し給ひし事、又、父の恋しき時は、一ま所にて、二人は語りて慰めども、人々には言はざりし也。祐成は、十三にて元服し、五郎は、十一より箱根に上り、学問せしに、十二月の末つ方、里々よりの衣裳音物取り添へ取り添へ送りしに、箱王が里よりは贈り物も無し。まして、父の文も無し。明け暮れ、只父を恋しく思ひ、権現へ参り、敵を見んと祈りしに、程無く、御前にて祐経を見そめし事、不思議なりとて、法師に成るべかりしが、此の事に依りて、只一人夜にまぎれ、P338曾我へ逃げ下りしなり。男に成りて、母の御勘当蒙りし事、出でし時、互ひの形見賜はり参らせ置きて出でし事、信濃のみ狩に、かちにて下り狙ひし事、虎に契りを込めし事、鞠子川、湯坂峠、箱根寺、大崩までの有様、矢立の杉にての事共、今の様に覚えたり。思ふ事共詳しく書き、命をば父に回向申し、読誦の経文をば母にたむけ奉る。親は一世の契りと申せども、是を形見にて、来世にて参り合はん」と、同じ心に書き止めければ、大きなる巻物一つづつぞ書きたりける。十郎は言葉の末、五郎に代はりたるは、大磯の虎の事也。五郎が言葉の、十郎に代はりたるは、箱根の別当の事なり。さては、いづれも同じ文章也。哀れにこそ覚えし。
 @〔鬼王・道三郎帰りし事〕S0904N134
 さて、鬼王・道三郎を呼びて、「汝、急ぎ曾我へ帰るべし。小袖をば、上へ参らせよ。馬鞍は、曾我殿に奉れ。自然の時は、御前に代はり参らせべき由、随分心に懸けしを、父の敵に志深くして、先立ち申す事、無念に存じ候へ共、恐れながら、二人の子供の形見に御覧候へ。五つ・三つよりして、左右のP339御膝にて、育てられ参らせし御恩、忘れ難くこそ存じ候へ。はだの守りと、鬢の髪をば、弟共の形見に御覧じ候へとて、二宮殿に参らせよ。弓と矢は、汝等に取らするぞ。なき後の形見に見候へ。鞭と弓懸をば、二人の乳母が方へ遣るべし。沓行縢は、もり育てし二人が守にとらせよ。夜もこそふくれば、是を持ちて落ち候へ」と有りければ、二人の者共、次第の形見を受け取りて、申しけるは、「我等、相模を出でしより、自然の事候はば、君より先に命を捨て、死出・三途の御供とこそ存じ候ふに、下郎をば命を惜しむ者と思し召し、斯様に承り候ふ、只具せられ候へ。ゆゆしき御用までこそたち申さずとも、志計の御供」と申しければ、十郎聞きて、「各々が思ひ寄る所、誠に神妙也。斯様なる者共を、世に無ければ、恩をもせで、離れん事こそ無念なれ。憂き世の中、何事も思ふ様ならば、如何で適はぬ事あらん。しくんは三世の縁有り。来世にて此の恩をば報ずべし。只此の形見共をことごとく曾我へとどけたらんには、最後の供に勝りなん。狩場に事出で来ぬと聞こえなば、物思ふ子供、待ち給へる母の、我が子供やらんと歎き給はんに、急ぎ参りて、此の由かくと申すべし。今少しもとく急げや」と有りければ、道三郎承りて、「帰り候ふまじ、聞こし召せ、君をば乳の内より、某こそ取り上げ奉りては候へ。然れば、九夏三伏のあつき日は、扇の風を招き、玄冬素雪の寒(さむ)き夜は、衣を重ねて、膚をあたためP340参らせ、胆心も尽くし育て、月とも、星共、明け暮れは見上げ、見下し、頼み奉り、御世にも出でさせ給ひ候はば、誰やの者にか劣るべき。頼もしくも、いとほしくも思ひ、奉り、今まで影形の如く、付き添ひ参らせたる験に、情無く落ちよと承る。仮令罷り帰りて候ふとも、千年万年を保ち候ふべきか。只御供に召し具せられ候へ」とて、幼き子の親の跡をしたふ如くに、声も惜しまず泣き居たり。兄弟の人々も、心弱くぞ見えける。如何にもして返すべき物をと、声を高くして、「如何に未練なり。君臣の礼黙し難けれども、心に従ふを以て、孝行とせり。其の上、遂に添ひはつまじき身なれば、名残の惜しき事、つくべきにあらず。急ぎ出で候へ」とて、あららかにこそ承る。鬼王居なほり、畏まつて申しけるは、「某も、母の胎内を出で、竹馬に鞭をあてしより、君につき添ひ申し、成人の今に至るまで、片時も離れて奉る事無し。其の験にや、落ちよとの仰せこそ、誠に御恨めしくは候へ。捨てられ参らせて後、何にかかりて、片時のながらへも有るべき。憂き身のはてか」とて、さめざめと泣き居たり。志の誠、なじみの久しさ、互ひに語り語れば、身の憂きに付けても、夜や明け、日や暮れむ。「既に明方近く成る物を、急げや、汝等、早くも行けと、重ね重ね攻めければ、二人の者共言ひ兼ねて、「御供申すべき命、何処も同じ遂の住み処、おくれ先立つP341道芝の、変はらぬ露のぬれ衣、払ひて、御供申さん」とて、二人が袖を引き違へ、既に刀をぬかんとす。時宗、早くも座敷を立ち、二人が間に押し入りて、涙と共に言ひけるは、「誠に汝等が志切也。然りとは雖も、我等、是程に、篇目をたてて、制するを聞かで、狼藉を致す物ならば、浅間大菩薩も御覧ぜよ、未来永劫不孝すべし。我等に命を捨つると言ふとも、故郷へ形見を付けずは、長く志にうくべからず。此の上は、制するに及ばず」と、あららかにこそ語りけれ。あかぬは君の仰せなり。次第の形見を賜はりて、曾我へとてこそ帰りけれ。互ひの心の内、さこそは悲しからめと、思ひ遣られて哀れなり。
 @〔悉達太子の事〕S0905N135
 是や、悉題太子の、十九にて、菩提の志を起こし、檀特山に入り給ひしに、車匿舎人、■陟駒を賜はり、王宮へ帰りし思ひ、今更に思ひ知られたり。鞍の上空しき駒の口を引き、古里へとは急げども、心は後にぞ止まりける。五月雨の雲間も知らぬ夕暮に、何処を其処とも知らねども、そなたばかりを顧みて、涙と共に歩みける、心の内ぞ、無慙なる。P342 さても、此の人々は、「郎等共はこしらへ返しぬ、今は、思ひ置く事も無し。いざや、最後の出立せん」「然るべし」とて、十郎が其の夜の衣裳に、白き帷子の腋深くかきたるに、村千鳥の直垂の袖を結びて、肩に掛け、一寸斑の烏帽子懸を強く掛け、黒鞘巻・赤銅づくりの太刀をぞ持ちたる。同じく五郎が衣裳には、袷の小袖の腋深くかきたるを、狩場の用にやしたるらん、唐貲布の直垂に、蝶を三つ二つ所々に書きたるに、紺地の袴のくくりゆるらかに寄せさせ、袖をば結びて、肩に掛け、平紋の烏帽子懸を強く掛け、赤木の柄の刀を差し、源氏重代の友切肩に打ち掛け、誠にすすめる姿、ふきうが昔とも言ひつべし。頼もしとも余り有り。十郎、松明振り上げて、「此方へ向き候へや、時致。あかぬ顔ばせ見参せん」と言ふ。五郎聞きて、敵にあひ、刹那の隙も有るまじければ、是こそ、最後の見参の為なるべし。誠に、祐成を兄と見奉らんも、今計かと思ひければ、兄が顔をつくづくと守りけり。十郎も又、弟を見んも、是を限りと思ひければ、松明差し上げ、つくづく見、涙ぐみけり。互ひの心の内、推し量られて哀れなり。「今は是まで候ふ。御急ぎ候へ」とて、五郎、「先にすすみけるを、十郎、袖をひかへて、「女共数多有るべきぞ。太刀の振りまはし心得候へ。罪作りに、手ばしかくるな。後日の沙汰も、憚り有り」と言ひければ、「左右にや及び給ふ」とて、足早P343にこそ急ぎける。
 @〔屋形屋形にて咎められし事〕S0906N137
 此処に、座間と本間と、屋形数十間、向かひ合ひてぞ打ちたりける。彼の両人が郎等、篝を数多所にたかせ、木戸をゆひ重ね、辻を固め、通るべき様こそ無かりけれ。如何せんとやすらふを見て、「何者ぞや。是程に夜ふけて通るは。殊に其の体事がましく出で立ちたり。あやしや。通すまじ」とぞ咎めける。「苦しからぬ者也。是も用心の形、人をこそ咎むべけれ」「いや、誰にても坐しませ。五つ以後の通ひ、適ふべからずとの御掟なり。通すまじき」とぞ支へける。十郎打ち向かひて、「御咎め有るまじき物なり。是は、土屋殿より愛甲殿への御使ひ也。通し給へ」と言ひければ、「然らば通せ」と許しけり。此処をば過ぎぬれど、未だ幾つの木戸、幾重の関、警固をか通るべき。事むつかしき折節かなと、足早に行きけるに、千葉介が屋形の前をぞ通りける。此処にも、木戸をきぶくたてて、半装束の警固の者数十人、是も、篝をたきてぞ固めける。「何物なれば、是程夜ふけて通るらん。遣るまじき」とぞ咎めける。五郎打ち寄りて、「御内方のP344者なり。苦しからず」とて打ち寄り、木戸を押し開く。「抑へて通るは、様有り。我等が知らぬ人有るまじ。御内方とは誰なるらん。名字を名乗れ」とぞ咎めける。「我等は、名字も無き者なり。通し給へ」と言ひければ、「御内方へとは、大様也。やはか通る」と広言して、木戸をあらくぞ押したてたる。五郎は、木戸をたてられて、大きにいかつて言ひけるは、「苦しからねば、通る也。苦しき者の振舞ひを見よ。是こそ、然る所へ強盗に入る者よ。止めんと思はん奴原は、組み止めよ。手には掛けまじき物を」と言ひければ、番の者共、是を聞き、「夜番の兵士は、何の用ぞや、斯様の狼藉鎮めん為也。打ち止めよ」と追ひ掛けたり。五郎も、「心得たりや、ことことし。かかりて見よ」と言ふ儘に、太刀取り直し、待ち掛けたり。十郎、少しも騒がず、しづしづと立ち帰り、「是は、更に苦しからぬ者にて候ふ。庁南殿より北条殿へ、大事の御物の具の候ふ、取りに参り候ふが、夜ぶかに候ふ間、人をつれて候へば、若き者にて、酒に酔ひ候ひて、雑言申し候ふ。只某に御免候へ」と、打ち笑ひてぞ言ひたりける。御免と言ふに、勝つに乗り、「然ればこそとよ、不審也。其の儀ならば、事安し。庁南殿へ尋ね申すべし。其の程待ち給へ」とぞ怒りける。十郎聞きて、斯かる勝事こそ無けれ、さりながら、陳じて見んと思ひければ、此の者共、怒りける其の中へ、ながながと立ち交はり、「御分達、我々P345をば見知り給はずや。庁南殿の御内に、弥源次・弥源太とて、兄弟の馬屋の者也。いつぞや、宇都宮殿、北山への御出の時、見参に入り候ひしをば、忘れ給ひ候ふや」と言ふ。其の中に、おとなしき雑色歩み出でて、十郎が顔をつくづくと守りけり。祐成、こはしと思へば、松明少し脇へまはし、眼を少しすがめて居たりけり。此の者共、よくよく守りて、「誠に思ひ出だしたり、片瀬よりせきとのへ御帰りに、寄り合ひたる様に覚ゆるぞや」。十郎、事こそよけれと思ひければ、「さぞかし、殿原、其の時の酒盛には、座敷の狂ひ人ぞかし。忘れ給ふか」と言ひければ、「実に、其の人にて坐しましけり。わ殿は、人をば宣へども、二王舞をばし給はぬか」。側なりける男が、「是程の知音にて坐しましけるや。御使ひなるに、急ぎ通し給へ」と言ふ。「哀れ、濁り酒一桶あらば、如何なる御使ひなりとも、得手の二王舞を所望申さぬか。一番見たし」と言ひければ、十郎聞きて、「同じ御心也。さりながら、後日に参り合はん」とて、余所目に懸けてぞ通りけり。此の者共打ち寄りて、「過ちしたりけん。通り給へや、人々」とて、木戸を開きて押し出だす。兄弟の人々は、鰐の口を逃れたる心地して、十郎言ひけるは、「斯様の所にては、如何にも、降をこふべきに、御分の雑言心得ず。孔子の言葉をば聞き給はずや。「事を見ては、いさむ事無かれ。大事の前に、少事無し」とこそ見え候へ。身ながらP346も、よくこそ陳じぬれ。是や、富楼那の弁舌にて、くわうの憤りを止めけるも、今に知られたり」とぞ申しける。
 @〔波斯匿王の事〕S0907N138
 抑、富楼那の弁舌にて、くわうの怒りを止めける来歴を尋ぬるに、昔、釈尊、霊山にて法をとき給ひしに、波斯匿王、聞法結縁の為に、参らせられたり。富楼那尊者と申すは、弁舌第一の仏弟子にて坐しましけり。然れども、彼のくわうの臣下の子也。教法に心を染めて、くわうの方をだに見遣り給はざりける。くわう、怒りをなして曰く、「扨も、尊者は、自ら仏前に有りつるを、遂に其れとだにも見られざりつる奇怪さよ。此の度、参らむ時は、其の色みすべし」とて、幸臣数相具し、怨敵をふくみて、参られける時、富楼那尊者は、路中にて行き合ひ給ひ、「如何に尊者、何処へ」と問ふ。尊者聞き給ひて、殊の外に恭敬して、「過ぎにし仏の御説法の時、君参り給ひしか共、法門歓喜のみぎり、身を忘れ、他を知らざりし事なれば、其の礼更に無かりしなり」。くわうは、未だ真俗残り、是非に携はり給ひき。其れ又、理無きにあらず。御憤り黙し難し。王宮よりの御たくみ、さぞとP347知られて、急ぎ参りたる。「誠に此の理わきまへ給ふにや。真如、禅定の時は、無二亦無三ととかれてこそ候へ。然るにおきて、自も無く他も無く、法界平等なり。何者か有りて、しやうとも又正とも隔てん。万法一如にして、阿字本不生の観をなし給へ」と示し給ひければ、くわう、猶しも邪に入りて、「自らが言葉徒らに成りて、無礼にひとしく候ふべきにや」。いよいよ怒りを高くして、尊者の理に受け候はず。これ偏に驕慢瞋恚の外道と、あさましくこそ覚えけれ。其の時、富楼那、「「にやくいしきたんが、ひおんしんしやうくが、斯様の人は、まさに邪道を行じて、如来を見る事適ふべからず」とこそとかれて候へ。色にふける、言葉に尋ねんは、無縄自縛かんかんと見えたるをや」。くわう、猶承つて、「其の縄は誰か致しける」「其の心に帰りて尋ね給へど、外には無し」と宣ひける所に、くわう、一理を受けて、恭敬礼拝して、仏果に成じ給ふ。即ち、尊者引き具し、霊山に参り給ふ。「実にや、本文に、「私の志を忘れ、誠の恭敬によつて、波斯匿王も、方便の教化によれる、返す返す私無し」とこそしめされてこそ候へ。但し、梶原と言ふ曲者の屋形の前、如何すべき。我等を見知りたる者なり。然れども、帰るべき道にもあらず。浮沈、此処にきはまれり。運に任せよ」とて通る。案の如く、辻がための兵数十人、長具足立て並べ、誠に厳しく見えたり。P348詮方無くして、南無二所権現、助け給へ」と祈念して、知らぬ様にて通りける。然れども、神慮の御助けにや、咎むる者も無かりけり。「すはや、よきぞ」とささやきて、足早にこそ通りけれ。只事ならずとぞ見えける。
 @〔祐経、屋形を返し事〕S0908N139
 既に祐経が屋形近く成りて、此処ぞと言へば、打ちうなづきて、既に屋形へ入らんとしける時、十郎、弟が袖をひかへて、「我々、敵に打ち合ひなば、刹那の隙も有るまじ。今こそ最後の際なれ。心静かに念仏せよ」と言ひければ、「然るべし」とて、兄弟、西に向かひ手を合はせ、「臨命終の仏達、親の為に回向する命、諸尊も知り給はん。安楽世界に向かへ給へ」と祈念して、屋形の内へぞ入りにける。然れども、王藤内が申す様に従ひ、祐経、思はざる所に屋形をかへたりければ、只空しく土器踏み散らして、人一人も無かりけり。是は如何にと、松明振り上げ見れば、屋形も同じ屋形、座敷も宵の所なり。人は多く伏したれども、狩に疲れ、酒に酔ひ伏したりければ、「誰そ」と咎むる者も無し。此の人々は、力無く屋形を立ち出でて、天に仰ぎ、地に伏し、悲しみけるぞ、理なり。「敵に縁P349無き者を尋ぬるに、我等には過ぎじ。今宵は、さりともと思ひしに、余しぬるこそ、口惜しけれ。斯様に有るべしと知るならば、曾我へ返すまじきに、さ無き物故に、世間に披露せられんこそ、悲しけれ。自害して失せなん」とて、立ちたりける。 然れども、御屋形の東のはづれは、秩父の屋形なりけり。折節、本田の二郎、小具足差し固め、夜まはりの番也しが、庭上に、「今宵も余しけるよ」と、小声に言ふ音しけり。いかさま、伊豆・駿河の盗賊の奴原にて有るらん、打ち止め、高名せんと思ひ、太刀の鍔元、二三寸すかし、足早に歩み寄りけるが、心をかへて思ふ様、一定、曾我の殿原の、日頃の本意遂げんとて、夜昼付けめぐりつる、然様の人にてもやと、障子の隙より、忍びて見れば、案にも違はず、兄弟は、敵のかへたる屋形を知らで、あきれてこそは居たりけれ。いたはしく思ひて、左衛門の尉が伏したる屋形の妻戸を、秘かに押し開き、何共物をば言はずして、扇を出だして招きたり。五郎、此の由きつと見て、本田が我等を招きつるは、様こそあれと思ひ、松明脇に引きそばめ、広縁にづんど上がり、「何事ぞや、本田殿」とささやきければ、本田、小声に成りて、「夜陰の名字は詮無し。波にゆらるる沖つ船、しるべの山は此方ぞ」と、言ひ捨ててこそ忍びけれ。「其処とも知らぬ夜の波、風を頼りの湊入り、心有るよ」とたはぶれて、屋形の内へぞ入りにける。兄弟共に立ち添ひて、松明振り上げ、P350よく見れば、本田が教へに違はず、敵は、此処にぞ伏したりける。二人が目と目を見合はせ、あたりを見れば、人も無し。左衛門の尉は、手越の少将と伏したり。王藤内は、畳少し引きのけて、亀鶴とこそ伏したりけれ。十郎、敵を見付けて、弟に言ひけるは、「わ殿は、王藤内を切り給へ。祐経をば、祐成に任せて見よ」とぞ言ひたりける。時宗聞きて、「愚かなる御言葉かな。我々幼少より、神仏に祈りし事は、王藤内を打たん為か。彼の者は、にがすべし。立て合はば、切るべし。祐経をこそ、千太刀も百太刀も、心の儘に切るべけれ。はや切り給へ。切らん」とて、すぞろきてこそ立ちたりけれ。果報めでたき祐経も、無明の酒に酔ひぬれば、敵の入るをも知らずして、前後も知らでぞ伏したりける。二人の君共をば、衣に押しまき、畳より押し下ろし、「己、声立つな」と言ひて、松明側に差しおき、十郎、枕にまはりければ、五郎は、後にぞめぐりける。二人の君共、始めより、知りたりけれども、余りの恐ろしさに、音もせず。兄弟の人々は、祐経を中に置きて、各々目と目を見合はせて、打ちうなづきて喜びけるぞ、哀れなる。「三千年に花さき実成る西王母の園の桃、優曇華よりも珍しや。優曇華をば、拝みてをると言ふなれば、其れにたとふる敵なれば、拝みてきれやきれや」とて、喜びける。さて、二人が太刀を左衛門の尉にあてては引き、引きてはあて、七八度こそあてにけれ。P351やや有りて、時致、此の年月の思ひ、只一太刀にと思ひつる気色現れたり。十郎、是を見て、「まてしばし、ね入りたる者を切るは、死人を切るに同じ。起こさん物を」とて、太刀のきつ先を、祐経が心もとに差し当て、「如何に左衛門殿、昼の見参に入りつる曾我の者共参りたり。我等程の敵を持ちながら、何とて打ちとけて伏し給ふぞ。おきよや、左衛門殿」と起こされて、祐経も、よかりけり、「心得たり。何程の事あふるべき」と言ひもはてず、おき様に、枕元にたてたる太刀を取らんとする所を、「やさしき敵の振舞ひかな。おこしはたてじ」と言ふ儘に、左手の肩より右手の脇の下、板敷までも通れとこそは、切り付けけれ。五郎も、「えたりや、おう」と罵りて、腰の上手を差し上げて、畳板敷切り通り、下もちまでぞ打ち入れたる。理なるかな、源氏重代友切、何物かたまるべき。あたるにあたる所、続く事無し。「我幼少より願ひしも、是ぞかし。妄念払へや、時致。忘れよや、五郎」とて、心の行く行く、三太刀づつこそ切りたりけれ。無慙なりし有様なり。 後に伏したる王藤内、ねおびれて、「詮無き殿原の夜ちうのたはぶれかな。過ちし給ふな。人違ひし給ふな。人々をば見知りたり。後日に争ふな」とは言ひけれども、刀をだにも取らずして、たかばひにしてぞ、逃げたりける。十郎追ひ掛けて、「昼の言葉にはにざる物かな。何処まで逃ぐるぞ。余すまじ」とて、P352左の肩より右の乳の下掛けて、二つに切りて、押しのけたり。五郎走り寄り、左右の高股二つに切りて、押しのけたり。四十余りの男なりしが、時の間に、四つに成りてぞ、失せにける。にがすべかりつる者、かい伏しては逃げずして、なましひなる事を言ひて、四つに成るこそ、無慙さよ。五郎、王藤内が果を見て、一首取り敢へず詠みたりける。馬はほえ牛はいななく逆様に四十の男四つになりけり W035「よくよく仕り候ふかな。一期詠じても、是程こそ詠み候はんずれ。詩歌においては、時宗、集にもめととなん。思ふ本意をば遂げぬ。今は憚る事無し」と、高声に言ひ散らし、どつと笑ひて、出でけるが、
 @〔祐経に止め差す事〕S0909N142
 十郎言ひけるは、「祐経に止めを差さざりけるか。止めは、敵を打つての法也。実検の時、止めの無きは、敵打ちたるにいらず」「然らば、止めをさし候はん」とて、五郎立ち帰り、刀を抜き取りて抑へ、「御辺の手より賜はりて候ふ刀な、確かに返し奉る。取らずと論じ給ふな」とて、柄も拳も通れ通れとさす程に、P353余りにしげく差しければ、口と耳と一つになりにけり。扨こそ、後に人の申しけるは、「宵に悪口せられし其のねたに、わざと口をさかるる」とぞ申しける。「幼少より、敵を見んと、箱根に祈誓申し、御前にて祐経を見染むるのみならず、一腰の刀をえたる、今止めを差したる刀、是也。権現の御恵みとて感じける。さすがに離れぬ一門の中、哀れとや思ひけん、「我、過去の宿業と言ひながら、一念の瞋恚に依り、敵御方とは隔たるなり。慚愧懺悔の力に依り、六根の罪障を消滅し、因果の輪廻を只今つくしはてて、一念の菩提心誤り給はで、一蓮の縁となし給へ。阿弥陀仏」と回向して、屋形をこそ出でたりけれ。十郎は、庭上に立ちて、五郎を待ち得て言ひけるは、「我名乗りて、人々に知られん」「もつとも」とて、大音声にて罵りける。「遠からん人は、音にも聞け。近からん者は、目にも見よ。伊豆の国の住人伊藤の二郎祐親が孫、曾我の十郎祐成、同じく五郎時致とて、兄弟の者共、君の屋形の前にて、親の敵、一家の工藤左衛門の尉祐経を打ち取り、罷り出づる。我と思はん人々は、打ち止め高名せよ」と雖も、昼の狩座につかれければ、音もせず。小柴垣のもとに躍り寄り、猶声を上げて、呼ばはりけれども、東西南北に音もせず。三浦の屋形には、予てより知りたれば、わざと出づる者も無し。次の屋形に聞き付けて、榛沢・あかさは・柏原を始めとして、むねとの者共、出でんとする所を、重忠聞き、P354「余りな騒ぎそ。一定、曾我の人々が、本意をとぐると覚えたり。如何に嬉しく思ふらん。心静かによくさせよ。然らぬだに、若き者は、心騒ぎて、し損ずる事有りぬべし。鎮まり候へ」と有りければ、出づる者こそ無かりけれ。兄弟の人々は、しばしやすらひ、敵をまて共、無かりければ、十郎言ひけるは、「いざや時宗、ひとまづ落ちて、今一度母にあひ奉り、思ふ事をも語り申し、猶事のびば、髻切り、如何ならん野の末、山の中にも閉籠し、父の孝養をもせん。其れ適はずは、心静かに念仏申し、自害するまで」と言ひければ、五郎聞き、余りのにくさに音もせず、やや有りて、「此の仰せこそ、条々然るべしとも覚えず候へ。弓矢取る者の習ひには、仮初にも一足も逃ぐると言ふ事、口惜しき事にて候ふ。命の惜しき者こそ、入道をもし、山林に閉籠し候はんずれ。幼少より思ひし事はとぐるなり。何事を思ひ残して、落ち候ふべき。母に対面の事、科を奉るべき為か。させる孝養報恩こそ贈らざらめ、科も無き母さへいたまれ、「子供の行き方知らぬ事あらじ」とぞ攻め問はれ、禁獄死罪にも行はれば、我等が出ださずして適ふまじ。なましひに逃げ隠れて、彼処此処より搦め出だされ、剰へ諸国の侍共に、「幾程の命惜しみて、曾我の物共が髻切り、乞食をす」と、沙太せられん事は恥づかし。其の上、一旦隠れ得たりと言ふとも、東は奥州外浜、西は鎮西鬼界島、南は紀伊路熊野山、P355北は越後の荒海までも、君の御息の及ばぬ所有るべからず。天に掛けり、地に入らざらん程は、一天四海の内に、鎌倉殿の御権威の及ばざる事無し。只羅網の鳥、つりをふくむ魚の如し。真実の仰せとも覚えず。時宗におきては、向かふ敵あらば、太刀の目釘のこらへん程は、命こそ限りなれ」と申しければ、十郎聞きて、「わ殿が試みんとてこそ言ひたれ、祐成が心も、予てより知りぬらん。一足も引き候ふまじき」と語らひ、よする敵を待ち掛けたり。
 @〔十番ぎりの事〕S0910N143
 然る程に、夜討の時、恐ろしさに声もたてざりし二人の君共が、「御所中に、狼藉人有りて、祐経も打たれたり。王藤内も打たれたる」と、声々にこそ呼ばはりけれ。鎧・兜・弓矢・太刀、馬よ、鞍よと、ひしめきあわつる程に、具足一領に、二三人取り付きて、引きあふ者も有り、つなぎ馬に乗りながら、打ちあふる者も有り。某、かれがしと罵る音は、只六種震動にも劣らず。やや有りて、武者一人出で来て、申しけるは、「何物なれば、我が君の御前にて、斯かる狼藉をば致すぞ。名乗れ」とぞ言ひける。十郎打ち向かひて、「以前名乗りぬれば、定めて聞きつらん。P356かく言ふ者は、如何なる者ぞ」「是は、武蔵の国の住人大楽の平右馬助」と名乗る。祐成聞きて、「薫蕕は、入物同じくせず、梟鸞は、翼をまじへず、我等にあひて、斯様の事は、過分なり。是こそ、曾我の物共よ。敵打ちて出づるぞ。止めよ」と言ひて、追ひ掛けたり。右馬助、言葉には似ず、かひふつて逃げけるが、押付のはづれに、胛掛けて打ちこまれ、太刀を杖にて、引き退く。二番に、是等が、姉聟横山党愛甲の三郎と名乗りて、押し寄せたり。五郎打ち向かひ、言ひけるは、「紫燕は、柳樹の枝にたはぶれ、白鷺は、蓼花の陰に遊ぶ。斯様の鳥類までも、己が友にこそ交はれ。御分達、相手には不足なれども、人を選ぶべきにあらず。時致が手並の程見よ」とて、紅にそまはりたる友切、まつこうに差しかざし、電の如くに、とんで掛かる。適はじとや思ひけん。少しひるむ所を、すすみかかりて打ちければ、五郎が太刀を受けはづし、左手の小腕を打ち落とされて、引き退く。三番に、駿河の国の住人岡部の弥三郎、十郎に走り向かひて、左の手の中指二つ打ち落とされて逃げけるが、御所の御番の内に走り入り、「敵は二人ならでは無く候ふ。いたくな御騒ぎ候ひそ」と申しければ、「神妙に申したり。いしくも見たり」とて、高名の御意にぞ預かりける。四番に、遠江の国の住人原の小次郎、切られて、引き退く。五番に、御所の黒弥五と名乗り押し寄せ、十郎に追つたてられ、小鬢切られて、引き退く。P357六番に、伊勢の国の住人加藤弥太郎攻め来て、五郎が太刀受けはずし、二の腕切り落とされて、引き退く。七番に、駿河の国の住人船越の八郎押し寄せ、十郎に高股切られて、引き退く。八番に、信濃の国の住人海野小太郎行氏と名乗りて、五郎に渡り合ひ、しばし戦ひけるが、膝をわられて、犬居に伏す。九番に、伊豆の国の住人宇田の小四郎押し寄せ、十郎に打ち合ひけるが、如何しけん、首打ち落とされて、二十七歳にて失せにけり。十番に、日向の国の住人臼杵の八郎押し寄せ、五郎に渡り合ひ、まつかうわられて、失せにけり。此の次に、安房の国の住人安西の弥七郎と名乗りて、「敵は何処に有るぞや」とて立ちける。十郎打ち向かひて、「人々、やさしく、下りてふかで、討死にしたるは見つらん。愚人は、銅を以て鏡とす。君子は、友を以て鏡とす。引くな」と言ひて、打ち合ひける。弥七も、然る者なり、「左右にや及ぶ」と言ひも敢へず、とんで掛かる。十郎、足を踏み違へ、側目に懸けて、ちやうど打つ。肩先より高紐のはづれへ、切先を打ちこまれ、引き退くとは見えしかど、其れも、其の夜に死ににけり。頃しも、五月二十八日の夜なりければ、暗さは暗し、ふる雨は、車軸の如くなり。敵は何処に有るぞや」とて、走りめぐる所を、小柴垣に立ち隠れて、出づるをちやうど切りては、陰に引き籠り、向かふ者をば、はたと切る。切られて引き退く者を後陣に受け取りて、御方打ちする所も有り。二人のP358物共、呼ばはりけるは、「武蔵・相模のはや物共は、如何に。是も重代、是も重代と思ふ太刀と刀の鉄の程をも見せよかし。敵は十人有る、二十人有ると、後日に沙太するな。我等兄弟計ぞ。火を出だせ。其のあかりにて名乗り合はん。むげなる物共かな」と呼ばはりければ、御厩の舎人とくたけと言ふ者、傘に火を付けて投げ出だす。是を見て屋形屋形より、我劣らじと、雑人の、蓑に火を付けて投げ出だす。二千間の屋形より松明出だしければ、万燈会の如し、白昼にも似たり。彼等二人は、素膚にて敵にあはんと走りまはる有様、小鷹の鳥にあふが如し。斯かる所に、武蔵の国の住人新開の荒四郎と名乗り掛けて、すすみ出でて申しける、「敵は何十人もあれ、某一人にやこゆべき。出であへや、対面せん」とぞ言ひける。十郎打ち向かひて、「やさしく聞こゆる物かな、「大匠に代はりて仕へる者は、必ず手を破る」とは、文選の言葉なるをや。引くな」と言ひて、とんで掛かる。言葉は、主の恥を知らず、「御免あれ」とて逃げけるを、十郎、しげく追ひ掛けたり。余りに逃げ所無くして、小柴垣を破りて、たかばひにして逃げにける。次に、甲斐の国の住人に、市河党に、別当の二郎、すすみ出でて申しけるは、「如何なるしれ者なれば、君の御前にて、斯かる狼藉をば致すぞ、名乗れ、聞かん」と言ふ。五郎申しけるは、「事あたらしき男の問ひ様かな。曾我の冠者原が、親の敵打ちて出づると、幾度言ふべきP359ぞ。臆して耳がつぶれたるか。親の敵は、陣の口を嫌はず。さて、斯様に申すは誰人ぞ。聞かん」と言ふ。「是は、甲斐の国の住人市河党の別当の大夫が次男、別当の次郎定光とぞ答へける。五郎聞きて、「わ殿は、盗人よ。御坂・かた山・都留・坂東に籠り居て、京鎌倉に奉る年貢御物の兵士少なきを、遠矢に射て追ひ落とし、片山里の下種人の立て合はざるを、夜打などにし、物取る様は知りたりとも、恥有る侍に寄り合ひ、はれの軍せん事は、如何でか知るべき。今、時致にあひて習へ。教へん」とて、躍りかかりて打つ太刀に、高股切られて、引き退く。是等を始めとして、兄弟二人が、手に掛けて、五十余人ぞ切られける。手負ふ者は、三百八十余人なり。数々出づる松明も、一度消えて、元の闇にぞなりにける。人は多く有りけれども、此の人々の気色を見て、此処や彼処にむら立ちて、よする者こそ無かりけれ。
 @〔十郎が討ち死にの事〕S0911N144
 やや暫く有りて、伊豆の国の住人、新田の四郎に、十郎打ち向かひ、「如何に曾我の十郎祐成か」「向かひ誰そ」「新田の四郎忠綱よ」「さては、御分と祐成は、正しき親類なり」「其の儀ならば、互ひに後ろばし見るな」「左右に及ばず。今夜、未だ尋常P360なる敵にあはず。ゆひかひ無き人の、郎等の手にかからんずらんと、心にかかりつるに、御辺にあふこそ嬉しけれ」「一家の験に、同じくは、忠綱が手に掛けて、後日に勧賞に行はれ給はば、御辺の奉公と思ひ給へ」と言ひて、打ち合ひける。十郎が太刀は、少し寸のびければ、一の太刀は、新田が小臂にあたり、次の太刀に、小鬢を切られけり。然れども、忠綱、究竟の兵なれば、面もふらず、大音声にて罵りけるは、「伊豆の国の住人、新田の四郎忠綱、生年二十七歳、国を出でしより、命をば君に奉り、名をば、後代に止め、屍をば富士の裾野にさらす。さりとも、後ろを見すまじきぞ。御分も引くな」と言ふ儘に、互ひに鎬をけづり合ひ、時を移して戦ひけるに、新田の四郎は、新手也。十郎は、宵の疲れ武者、多くの敵に打ち合ひて、腕下がり、力も弱る。太刀より伝ふ汗に血と、手の打ちしげくまはりければ、太刀をひらめてうくる所に、十郎が太刀、鍔本よりをれにけり。忠綱、かつのつて打つ程に、左の膝を切られて、犬居に成りて、腰の刀を抜き、自害に及ばんとする所に、太刀取り直し、右の臂のはづれを差して通す。忠綱、今はかうと思ひ、屋形を差して帰りけるを、十郎伏しながら、掛けたる言葉ぞ、無慙なる。「新田殿、帰るか、まさなし。同じくは首を取りて、上の見参に入れよ。親しき者の手にかからんは、本意ぞかし。返せ、や、殿、忠綱」と呼ばはられて、実にもとや思ひけん、即ちP361立ち帰り、乳の間切りてぞふせたる。祐成が最後の言葉ぞ、哀れなる。「五郎は、何処に有るぞや。祐成、既に新田が手にかかり、空しく成るぞ。時致は、未だ手負ひたる共聞こえず、如何にもして、君の御前に参り、幼少よりの事共、一々に申し開きて死に候へ。死出の山にて待ち申すべきぞ。追ひ付き給へ。南無阿弥陀仏」と言ひもはてず、生年二十二歳にして、建久四年五月二十八日の夜半計に、駿河の国富士の裾野の露と消えにけり。弓矢取る身の習ひ、今に始めぬ事なれども、親の為に命をかろくし、屍は路逕の岐に捨つれども、名をば、竜門の雲井に上ぐる、哀れと言ふも愚か也。五郎は、兄が最後の言葉を聞きて、死骸なりとも、今一目見んと思ひ、又、忠綱を打つとや思ひけん、太刀振りまはし、大勢の中を切り分けて、走り寄り、兄が死骸にまろびかかり、「恨めしや、時宗をば、誰に預けおき、いついつまでいきよとて、捨てて御座するぞや。ながらへはつべき憂き身にもあらず。つれて坐しませや」と打ちくどき、涙にむせびて、伏したりけり。実にや、同じ兄弟と言ひながら、互ひの志深ければ、別れの涙さぞ有るらんと、推し量られて哀れ也。此処に又、堀の藤次と名乗りて、武者一人出でて、「五郎は、何処へ行きたるぞや。兄の打たるるを見捨てて、落ちけるぞや。未練なり」とぞ尋ねける。五郎、此の言葉を聞きて、おき上がり、太刀取り直し、「や、殿、藤次殿、P362兄の打たるるを見捨てて、何処へ落つべき。祐成は、新田が手にかかりぬ。時致をば、わ殿が手に掛けて、首を取れ。惜しまぬ身ぞ」と言ひければ、藤次は、五郎が太刀影を見て、かひ伏して逃げにけり。五郎追ひ掛け、「己は、何処まで逃ぐるぞ」とて、追つ掛けければ、余所へ逃げては、適はじとや思ひけん、御前差して逃げにけり。五郎も、続きて入りければ、親家、幕つかんで投げ上げ、御侍所へ走り入り、五郎も、幕を投げ上げて、親家をつかまんつかまんと思ひける装ひは、只、てんまの雷の落ち掛かるかとぞ覚えける。
 @〔五郎召し取らるる事〕S0912N145
 此処に、五郎丸とて、御寮の召し使ふ童有り。もとは、京の者なりしが、叡山に住して、十六の年、師匠の敵を打ち、在京適はで、東国に下り、一条の二郎忠頼を頼みたりしに、忠頼、御敵とて打たれ給ひて後、此の君に参りたりしが、究竟の荒馬乗りの者、七十五人が力持ちけり。宵の程は、夜討と雖も、音もせず。御前近く祗候せしに、五郎が親家をおうて入るを見て、薄衣引きかづき、幕の際に立ちけり。五郎は、一目見たりけれども、屋形を出でし時、「女房に手ばしかくるな」と、兄がP363言ひし言葉有りければ、太刀の背にて、通り様に、一太刀あててぞ過ぎける。五郎丸と知るならば、只一太刀に失はんと、危ふくこそ覚えけれ。時致は、猶も親家を手どりにせんとおふ所を、五郎丸、我が前を遣り過ごし、続きて掛かる、腕をくはへて取り、「えたりや、おう」とぞいだきける。五郎は、大力にいだかれながら、物ともせず、「こは如何に、女にては無かりけり、物々しや」と言ひつつ、引きて中へぞ入りにける。五郎丸、適はじとや思ひけん、「敵をば、かうこそいだけ、斯様にこそいだけ」と、高声也ければ、彼等が傍輩、相模の国のせんし太郎丸走り寄り、「にがすな」とて取り付く。其の後、屋の小平次を始めとして、手がらの者共走り出でて、五四人取り付きけれども、五郎は、物ともせず、二三人をばけころばかし、大庭に躍り出でんと志けるが、板敷こらへずして、五郎は、足を踏み落とし、立たん立たんとする所に、小平次・弥平次おき上がり、左右の足に取り付きければ、其の外の雑色共、「余すな、もらすな」とて、かなぐり付く。是や、文選の言葉に、「百足は、死に至れども、たはふれすな」と也。心は猛く思へども、多勢に適はずして、空しく搦め取られけり。無慙なりし有様也。君も、此の由聞こし召して、糸毛の御腹巻に、御住代の鬚切抜き、出でさせ給ひける。相模の国の住人、大友の左近将監が嫡子、一法師丸とて、生年十三になりけるが、御前然らぬ物P364なるが、こざかしく、御寮の御袖をひかへ奉り、「日本国をだにも、君は居ながら従へ給ふべきに、是は、わづかなる事ぞかし。いか様、若き殿原の酔狂か、女又は盃論か、宿論か。いづれにて候はんに、御座ながら、尋ね聞こし召され候へ」と止め申しければ、実にもとや思し召し候ひけん、止まり給ひけり。さしも出でさせ給ひて、五郎に見え給ふ物ならば、危ふくぞ覚えけり。後に、御恩賞にぞ預かりける。古き言葉を見るに、大象兎径に遊ばず、君子文旨にかかはらずと言ふ事こそ思ひ知られたり。其の後、小平次、御前に参り、畏まつて申し上げけるは、「曾我の五郎をば搦め取りて候ふ。十郎は打たれて候ふ」と申したりければ、「神妙に申したり。五郎をば、汝に預くるぞ」と仰せ下されけり。哀れなりし次第なりけり。



P365曾我物語巻第十

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 扨も、仰せを承りて、小平次罷り出で、御馬屋の下部、総追国光、五郎を預かり、既に御馬屋の柱にしばり付けて、其の夜、守り明しければ、「大将殿より尋ね聞こし召さるべき事有り。曾我の五郎つれて参れ」との御使ひ有りければ、小平次、縄取りにて参りけるを、母方の伯父、伊豆の国の住人、小川の三郎祐定申しけるは、「如何に小平次、侍程の者に、縄付けず共、具して参れかし。山賊海賊の族にもあらざれば、逃げうすべきにもあらず。事に依り、人にこそよれ。むげに情無し」と言ひければ、五郎笑ひて、「誰一言の情をも残す者の無きに、御分の芳志嬉しさよ。さりながら、御分、時宗に親しき事は、皆人知れり。斯様の身に成りて、親類入るべからず。詮無き沙汰して人に聞かれ、方人したと言はれ給ふな。人の上をよく言ふ者は無きぞとよ。時致、盗み強盗せざれば、千筋の縄は付くとも恥ならず、是は、父の為に読み奉りし法花経の紐よ」とて、事とも思はざる気色して、御坪の内へぞ引き入れられける。「其の上、敵の為にとらはるる者、時致一人にも限らず、殷湯は、夏台にとらはれ、P366文王は、■里にとらはる。是、更に恥辱にあらず」とて、打ち笑ひてぞ居たりける。哀れとは言はぬ者ぞ無き。五郎、御前に参りければ、君御覧ぜられて、「是が曾我の五郎と言ふ者か」「某が事候ふよ」とて、立ち上がり、縄取りを宙に引きたてければ、警固の者共、狼籍也とて、引き据ゑたり。其の時、相模の国の住人あらうみ四郎真光、伊豆の国の住人狩野介宗茂、座敷を立ちて、「申し上ぐる事あらば、急ぎ申し候へ」と言ふ。時致聞きて、大の眼を見出だして、彼をはたとにらみて、「見苦しし、人々、御前遠くは、さも有りなん、近ければ、直に申すべし。さ様なれば、問はれて申す白状に似たり。問はるるに依りて、申すまじき事を申すべきにあらず。面々、骨折にのき候へ」とて、あざ笑つてぞ居たりける。君、聞こし召され、「神妙に申したり。各々のき候へ。頼朝、直に聞くべし」と仰せ下されけり。扨、五郎居なほり、顔振り上げて、たからかに申しけるは、「兄にて候ふ十郎が、最後に申し置きて候ふ。我等が父を祐経に打たせ候ひしより此の方、年月狙ひ候ひし心の内、如何ばかりとか思し召され候ふ。其れに付きては、一年君御上洛の時、酒匂の宿よりつき奉りて、祐経が御供して候ひしを、泊々にやすらひ、便宜を窺ひ候ひしかども、適はで京に上り、四条の町にて、鉄よき太刀をかひ取り、昨夜の夜半に、御前にて本意を遂げ候ひぬ。今は、何を思ひ残して、命も惜しく候ふべき。御恩には、今一時も、とく首をはねられP367候へ」とぞ申しける。京へは上らざりしかども、箱根の別当に契約せし故に、太刀の由来をも隠し、又は別当の罪科もやと思ひ、斯様にぞ申したりける。君聞こし召され、「此の太刀の出所、隠さん為にこそ申すらん。更に別当の科にあらず。先祖重代の太刀、箱根の御山に込めし由、予てより伝へ聞き、如何にもして取り出ださばやと思ひしを、神物に成る間、力及ばざりつるに、只今、頼朝が手に渡る事、偏に正八満大菩薩の御はからひと覚えたり。斯様の事無くは、如何にして二度主に成るべき」とて、自ら御頂戴有りて、錦の袋に入れ、深くをさめ給ふ、御重宝の其の一つなり。代々伝はりけるとかや。やや有りて、君仰せられけるは、「此の事、曾我の父母に知らせけるか」。五郎承りて、「日本の大将軍の仰せとも存じ候はぬ物かな。当代ならず、いづれの世にか、継子が悪事くはたてんとて、暇こひ候はんに、「神妙也、急ぎ僻事して、我惑ひ物になせ」とて、出だし立つる父や候ふべき、又、母の慈悲は、山野の獣、江河の鱗までも、子を思ふ志の深き事は、父には母はすぐれたりとこそ申し候へ。況や、人界に生を受けて、二十余りの子供が、命死なんとて、母に知らせ候はんに、急ぎしにて物思はせよと、喜ぶ母や候ふべき。御景迹」とぞ申しける。「さて、親しき者共には、如何に」「身貧にして、世に有る人々に、かくと申し候はんは、只手を捧げて、是をしばらせ、首を延べて、是をきれとP368こそ申し候はんずれ。誰かは頼まれ候ふべき。愚かなる御諚候ふかな」とぞ申しける。君、実にもとや思し召しけん、「父母類親に至るまでも、子細無し。又、祐経は、伊豆より鎌倉へ、しげく通ひしに、道にては、狙はざりつるか」「さん候、此の四五ケ年の間、足柄・箱根・湯本・国府津・酒匂・大磯・小磯・砥上原・もろこし・相模河・懐嶋・八的原・腰越・稲村・由比の浜・深沢辺にやすらひ、野路・山路・宿々・泊々にて狙ひしかども、敵のつるる時は、四五十騎、つれざる時も、二三十騎、我々は、つるる時は、兄弟二人、つれざる時は、只一人、思ひながらも、空しく今までのび候ひぬ」。又、「祐経は、敵なれば、限り有り。何とて、頼朝がそぞろなる侍共をば、多く切りけるぞ」「其れこそ、理にて候へ。御所中に参りて、斯かる狼藉を仕る程にては、千万騎にて候ふとも、余さじと存ずる所に、こざかしく、「敵は何処に有るぞ」と尋ね候ふ間、公には忠をつくし、忠には命を捨つる習ひ、神妙に存じて、「是に有り」と申す声に驚きて、足のたて所も知らず、逃げ候ひし間、罪作りと存じて、おひて切り殺すに及ばず、只かうばかりの側太刀、形の如くあてたるまでにて候ふ。面傷はよも候はじ。只今召し出だして御覧候へ」と申しければ、やがて、御使ひして、聞こし召されけるに、申す如く、面の傷は稀なり。面目無くぞ聞こえける。又、「王藤内を何とて打ちける」「恐れ入りて候へ共、年頃の傍輩のうたP369れ候ふを、見捨てて逃ぐる不覚人や候ふべき。誠にけなげに振舞ひ候ひつる物をや。「人と見て、古郷に帰らざるは、錦をきて、夜行くが如し」と言ふ古き言葉をや知りけん、所領安堵の証に、本国へ下りしが、祐経に暇こはんとて、道より帰りての討死、不便なり」とぞ申しける。此の言葉に依り、「神妙也。是も、頼朝が先途に立ちけるよ」とて、「本領、子孫において子細無し」と、御判重ねて下されける。是も、兄の十郎が屋形を出でし時、「王藤内が妻子、さこそ歎かんずらん、無慙なり」と、言ひし言葉の末にぞ申しける。偏に、時宗が情に依つて、所領安堵す、有り難しとぞ感じける。やや有りて、「頼朝を敵と思ひけるか」と御尋ね有りければ、五郎承りて、「さん候、身に思ひの候ひし時は、木も草も恐ろしく、命も惜しく存じ候ひしが、敵打つての後は、如何なる天魔疫神なり共と存じ候ふ。まして其の外は、いきたる者とも思ひ候はず。然れば、千万人の侍よりも、君一人をこそ思ひ掛け奉りしかども、御果報めでたき御事に渡らせ給へば、御運におされて、斯様に罷り成りて候ふ」と申したりければ、君聞こし召され、「敵打つての後、身をかろく思ふは理也。頼朝をば、何とて敵と思ひけるぞ」「自業自得果とは存じ候へ共、伊藤入道が謀叛に依り、我等長く奉公をたやすのみならず、子孫の敵にては渡らせ給はずや。又は、閻魔王の前にて、「日本の将軍鎌倉殿を手に掛け奉りぬ」と申さば、P370一の罪や許さるべきと、随分窺ひ申して候ひつれ共」と申す。「扨、五郎丸には、如何にしていだかれけるぞ」「其れは、彼の童を女と見成し、何事候はんと存じて、不慮に取られて候ふ。斯様なるべしと存ずる物ならば、只一太刀の勝負にて候はんずる物をと、後悔益無し。是、偏に宿運のつきぬる故也。実にや、「羅網の鳥は、高くとばざるを恨み、呑鉤の魚は、海を忍ばざるを歎く」とは、要覧の言葉なるをや、今こそ思ひ知られたる。君の御佩刀の鉄の程をも見奉り、時宗がくたり太刀の刃の程をもためし候はんずる物を」と、言葉をはなちてぞ申しける。君聞こし召されて、「猛将勇士も、運のつきぬるは」と仰せられ、双眼より御涙を流させ給ひて、「是聞き候へ。日来は、更に思はぬ事なれ共、今、頼朝に問はれて、当座の構への言葉なり。適はぬまでも、逃れんとこそ言ふべきに、露程も命を惜しまぬ者かな。世に有りなば、思ひ止まる事も有りぬべし。余の侍、千万人よりも、斯様の者をこそ、一人なりとも召し使ひたけれ。無慙の者の心やな。惜しき武士かな」とて、御袖を御顔に押し当てさせ給ひければ、御前祗候の侍共、心有るも無きも、涙を流さぬは無かりける。やや有りて、君御涙を抑へさせ給ひて、十郎が振舞ひを聞こし召すに、「何れを分けて言ひ難し。誠に打たれたるやらん」と仰せられければ、「新田に御尋ね候へ。黒鞘巻に赤胴作の太刀、村千鳥の直垂ならば、誠にP371候ふ」と申す。「然らば実検有るべし」とて、新田の四郎を召されければ、黒鞘巻に赤胴作の太刀、村千鳥の直垂に、首を包みて、童に持たせ、五郎が左手の方を間近く、首を見せてぞ通りける。五郎、今までは、思ふ事無く、広言して見えけるが、兄が首を一目見て、肝魂を失ひ、涙にむせぶ有様は、さかりなる朝顔の、日影にしをるる如くにて、無慙と言ふも余り有り。やや有りて申しける、「羨ましくも、先立ち給ふ物かな。同じ兄弟と申しながら、幼少より、親の敵に志深くして、一所とこそ契りしに、如何なれば、祐成は、昨夜夜半に打たれ給ふに、時宗が心ならず、今までながらふる事の無念さよ。誰か此の世にながらへはて候ふべき。死出の山にて待ち給へ。追つ付き奉り、三途の河を、手と手を取り組みて渡り、閻魔王宮へは諸共に」と、言ひもはてず、涙にむせびけり。袖にて顔をも抑へたけれ共、高手小手に戒められければ、左手の方へ傾き、右手の方へうつぶき、こぼるる涙をば、膝に顔を持たせ、只おめおめとこそ泣き居たり。和田・畠山を始めとして、皆袖をぞ濡らされける。斯かる所に、十郎がをり太刀を御侍に取り渡し、「よきぞ、悪しきぞ」と申し合ひけり。中にも、昨夜追つたてられて、柴垣破りて逃げたりし新海の荒四郎真光、すすみ出でて申しけるは、「曾我の者共は、敵をば打ちて、高名はしたれ共、太刀こそわるき太刀を持ちたれ。是程の太刀を持ちて、我が君の御前P372にて、斯かる大軍しける不思議さよ」と言ひければ、時宗聞きて、眼を見出だして、荒四郎をはたとにらみて、「何処を見て、其れをえせ太刀とは申すぞ。只今、御前にて申して、無用の事なれども、男のわろき太刀持ちたるは、恥辱にて候ふ間、申すなり。其れこそ、や、殿、よく聞け、平家に聞こえし新中納言の太刀よ。八嶋の合戦に、如何しけん、船中に取り忘れ給ひしを、曾我の太郎取りて、九郎判官へ参らせしを、義経、「神妙なり、さりながら、御分、高名して、取りたる太刀なれば、汝に取らする」とて、賜はりたる太刀也。奥州丸と言ふ太刀よ。祐成が元服せし時、曾我殿のたびたるぞとよ。其れに付きては、思ひの儘に、敵を打ち取りぬ。兄弟して切り止むる者、一二百人もこそ有るらん。是程こらへたる太刀を、如何でかえせ太刀なるべき」。真光、猶も止まらで、「既に太刀をれぬる上は」と言ひければ、五郎、からからと打ち笑ひ、「人の太刀わろしと言ふ人、定めてよき太刀は持ちぬらん。あのえせ太刀におはれて、小柴垣を破りて逃げしは如何に。御分のよき太刀も、心にくからず」と言ひければ、聞く人、皆汗を流さぬは無かりけり。真光は、なましひなる事を言ひ出だし、赤面してぞ立ちにける。是や、三思一言、思慮有るべきにや。P373
 @〔犬房が事〕S1002N147
 此処に、祐経が嫡子犬房とて、九つになりける童有り。御前然らぬ切り者にてぞ有りける。傍にて、父が事をよくよく聞き、さめざめと泣き居たりしが、思ひやかねけん、走りかかり、五郎が顔を二つ三つ扇にてぞ打ちたりける。時宗打ち笑ひ、「己は、祐経が嫡子犬房な。其の年の程にて、よくこそ思ひ寄りたれ。打てや打てや、打つべし打つべし、犬房よ。我々も、幼少にして、汝が親に、父を打たせぬ。年頃の思ひ、如何ばかりぞや。今更思ひ知られたり。古を思へば、打つ杖をいたまずして、弱る親の力を歎きし志、五郎が今に知られたり」。打たるる杖をばいたまずして、主が心を思ひ遣る五郎が心ぞ哀れなる。「珍しからぬ事なれども、果報程勝劣有る物は無し。我々、祐経を思ひ掛けて、此の二十余年の春秋を送りしに、汝は、いみじき生まれ性にて、昨夜打ちたる親の敵を、只今心の儘にする事の羨ましさよ。其れに付きても、前生の宿業こそつたなけれ。現在の果を以て、未来を知る事なれば、来世又如何ならん、阿弥陀仏」とぞ申しける。犬房は、猶も打たんとよりけるを、「まさなしや、のき給へ」と、縄取りの者共言ひけれども、聞かざりけり。御寮御覧ぜられて、「犬房のき候へ。猶物問はん」と仰せられけれP374ば、其の時のきにけり。是や、禽鳥百をかぞふると雖も、一鶴にしかず、数星相連なると雖も、一月にしかず、君の御言葉一つにてぞのきにける。
 @〔五郎が切らるる事〕S1003
 君仰せられけるは、「汝が申す所、一々に聞き開きぬ。然れば、死罪をなだめて、召し使ふべけれ共、傍輩是をそねみ、自今以後、狼藉たゆべからず。其の上、祐経が類親多ければ、其の意趣逃れ難し。然れば、向後の為に、汝を誅すべし。恨みを残すべからず。母が事をぞ思ひ置くらん、如何にも不便にあたるべし。心安く思へ」とて、御硯を召し寄せ、「曾我の別所二百余町を、彼等兄弟が追善の為に、頼朝一期、母一期」と自筆に御判を下され、五郎に頂かせ、母が方へぞ送られける。実にや、心のたけさ、情の深き事、人にすぐるるに依り、屍の上の御恩有り難と感じける。是や、文選の言葉に、「晋の文王は、其の仇を親しみて、諸侯を悟り、斉の桓公は、其の仇を用ひて、天下をただす」とは、今の御世に知られたり。五郎、詳しく承りて、「首を召されんにおいては、逃るる所有るべからず。暫くもなだめられ申さん事、深き愁へと存ずべし。母が事は、忝くP375仰せ下され候へ共、故郷を出でし日よりも、一筋に思ひ切り候ひぬ。御恩に、今一時もとく、首を召され候へ。兄が遅しと待ち候ふべし。急ぎ追ひ付き候はん」とすすみければ、力無く、御馬屋の小平次に仰せ付けられ、切らるべかりしを、犬房が、「親の敵にて候ふ」とて、ひらに申し受けければ、渡されにけり。口惜しかりし次第也。祐経が弟に、伊豆の二郎祐兼と言ふ者有り。五郎を受け取りて、出でにけり。時致、東西を見渡し、「某が姿を見ん人々は、如何にをこがましく思ふらん。さりながら、親の為に捨つる命、天衆地類も納受し給ふべし。付けたる縄は、孝行の善の綱ぞ。各々結縁にて掛け候へ」と申しければ、実にもと言はぬ人ぞ無き。其の後、五郎を浜すかにつれて、松崎と言ふ所の岩間に引きすゑ、切らんとす。時宗見帰り申しけるは、「構へてよく切り候へ。人もこそ見るに、悪しく切り給ひ候はば、悪霊と成りて、七代まで取るべし」と言ひければ、祐兼聞きて、誠に切り損じなば、如何なる悪霊にも成るべしと思ひしより、膝振るひ、太刀の打ち共覚えざりける所に、筑紫の仲太と申しけるは、御家人訴訟の事有りて、左衛門の尉につきけるが、訴訟適ふべき頃、祐経打たれければ、是等が所為とや思ひけん、わざと太刀にては切らで、苦痛をさせん為に、にぶき刀にて、かき首にこそしたりけれ。さしたる親類・知音にあらざる者も、別れを惜しみ、名残を悲しまずと言ふ事無し。然るに、P376勇士のいたつて猛きは、破り館落とし、軍の先をかくる故に、敵の為に取らるると雖も、芸を感じ、身を助け、情をかくるは、先規なり。伝へ聞く、紀信が軍車に乗りしも、武意を感じ、楚王、将になさんと言ひしかども、自ら死をのぞみ、沛公、軍を破り、片時もいきん事を悲しみて、戦場の石に、脳を砕きて失せにき。よつて、勇士、敵の為に、命を暫くも又失せざるは、古今の例なり。然れば、五郎も、宵にや失せんと思ひけん、覚束無し。
 @〔伊豆の二郎が流されし事〕S1004N149
 扨も、悪事千里を走る習ひにて、伊豆の二郎未練なりと、鎌倉中に披露有りければ、秩父の重忠、御前にて此の事を聞き、「曾我の五郎をば、重忠賜はりて、重代のかうひらにて、誅し候ふべきを、不覚第一の伊豆の二郎に下し賜はりて、かはゆき次第と承り、口惜しさよ」と申されければ、君聞こし召し、「斯様の不覚人にて有るべくは、誰にても仰せ付けらるべき物を」とて、伊豆の二郎は、御不審をかうふり、奥州外浜へ流されしが、幾程無くて、悪しき病を受けて、当年の九月に二十七歳にして失せにけり。これ偏に、五郎が憤りむくふ所にやと、口びるを返さぬは無かりP377けり。時致は、五月に切られければ、祐兼は、九月に失せにけり。不思議なる例、因果歴然とぞ見えける。
 @〔鬼王・道三郎が曾我へ帰りし事〕S1005N150
 此処に、此の人々の二人の郎等、鬼王・道三郎は、富士の裾野井出の屋形より、次第の形見を取り、曾我の里へぞ急ぎける。然れども、惜しみし名残なれば、心は後にぞ止まりける。実にや、幼少より取り育て奉り、世にも出で給はば、我々ならでは、誰か有るべきと、人も思ひ、我も又頼もしかりつるに、斯様に成り行き給ひしかば、したひあくがれしも適はで、泣く泣く曾我へぞ帰りける。思ひの余りに、道の辺にしばしやすらひ、富士野の空を顧みしかば、松明多く走り、只万燈会の如し。今こそ事出で来ぬると見えければ、我が君の御命、如何渡らせ給ふらんと、心許無さ限り無し。只二人坐しませば、大勢に取り込められ、如何に隙無く坐しますらん、今は御身も疲れ給ふらんと思へば、走り帰りて、御最後見奉らまほしきも、隔たりぬれば、適はず、只泣くより外の事ぞ無き。暫く有りて、たい松の数も、次第に少なく成り、火の光も、うすく成り行けP378ば、君の御命もかくやと、火の光も、名残惜しく思ひければ、道の辺に倒れ伏し、声も惜しまず泣き居たり。馬も、生有る者なれば、人々の別れをや惜しみけん、富士野の空を顧みて、二三度までぞいばへける。扨有るべきにあらざれば、をちこちのたづきも知らぬ山中に、覚束無きは、富士野なり。泣く泣く空しき駒の口を引き、古里へとは急げども、行きも遣られぬ山道の、末もさだかに見えわかず。此処に、人の使ひと思しくて、文持ちたる者、後より急ぎ来たる。道三郎、袖をひかへて、「出での御屋形には、今宵、何事の有りければ、松明の数の見え候ひつる」と問ひければ、「然ればこそとよ。知り給はずや。曾我の十郎・五郎殿と言ふ人、兄弟して、一族の工藤左衛門の尉殿を、親の敵とて打ち給ひぬ。剰へ、御所の内まで切り入りて、日本国の侍共の、切られぬ者は候はず、手負・死人二三百人も候ふらん。然れども、兄の十郎は、夜半に討死し給ひぬ。弟の五郎殿は、暁に及び、生捕られ給ひき。此の人々の振舞ひは、天魔・鬼神のあれたるにや、斯かるおびたたしき事こそ候はざりつれ。斯様の事を、大磯の虎御前の妹、黄瀬川の亀鶴御前より、大磯へ告げさせ給ふ御使ひなり」とて、走り通りけり。二人の物共聞きて、し損じ給ふべしとは思はねども、一期の大事なれば、心許無く思ひ奉りしに、何事無く本意を遂げ給ひぬるよと、歎きの中の喜びにて、次第の形見P379を面々に奉り、
 @〔同じく彼の者共遁世の事〕S1006N151
 我が家にも帰らず、高野山に尋ね上り、共に髻切り、墨染の衣の色に心をなし、一筋に此の人々の後生菩提を弔ひけるぞ有り難き。
 @〔曾我にて追善の事〕S1007N152
 さても、母、子供の返したる小袖を取り、各々顔に押し当てて、其の儘倒れ伏し、消え入りにけり。女房達、やうやう介錯し、薬など口にそそき、養生しければ、わづかに目計持ち上げ給ひけり。せめての事に、文を開きて読まんとすれ共、目もくれ、心も心ならねば、文字も更に見えわかず。「恨めしや、童を」とばかり言ひて、胸に引き当て、また打ち伏しぬ。やや有りて、息の下にてくどきけるは、「誠に凡夫の身ほどはかなき事は無し。此の小袖をこひ、長き世までの形見と思ひて、時折節こそ有るに、二人つれて来たりこひける者を知らずして、返せといひP380けむ悔しさよ。五郎も、限りと思ひてや、此の度、強く言ひけるぞや。幾程無き物故に、不孝して、年頃添はざりける、悲しさよ。猶も、心強く許さざりせば、一目も見ざらまし。久しく添はざりしに、珍しくも、頼もしくも覚えし物を、せめて三日とも打ち添はで、名残惜しさよ。なつかしかりつる面影を、何の世にかは相見ん」とて、声を惜しまず泣き居たり。如何なる賎の男、賎の女に至るまで、涙を流さぬは無かりけり。二宮の女房を始めとして、親しき人々馳せ集まりて、泣き悲しむ事、なのめならず。思ひの余りに、母は、十郎が居たりける所に倒れ入り、「此処に住みし物を」と計にて、うかり伏しぬ。傍に書きたる筆のすさみを見れば、「一切有為法、如夢幻泡影、如露亦如電、応作如是観」とぞ書きたりける。我が身を有りとも思はぬ口ずさみ、見るに涙も止まらず。此の押板には、古今・万葉を始めとして、源氏・伊勢物語に至るまで、数の草子をつみたれども、今より後の慰みには、誰かは是を見るべきと、見るに思ひぞ勝りける。文をば、二宮の女房ぞ、泣く泣く読み連ねける。聞くに付けても、心は心とも覚えず。「人の習ひ、神や仏に参りては、命を長く福幸をこそ祈るに、此の者共は、只明け暮れしに失せんとのみ申しければ、此の度逃れたりとも、遂に添ひはつまじきぞや。其れに付けても、箱王を年頃不孝して、添はざりし事の悔しさよ。其れP381は、草の陰にても聞け、誠には不孝せず。例へば、法師になさんとせし事の適はぬに、不孝と言ひしを、ついで無くして、何と無く、月日を重ねしばかりなり。小袖直垂をきせし事も、日頃に変はらざりしを、二宮の女房のきする様にてとらせしを、誠と思ひ、童をば、つらき者にや思ひけん。よし、中々に今は歎きの便り也。打ち添ひなるる身なりせば、いよいよ名残も惜しかるべし。かくても、我が身、何にかはながらへはてん、憂き命、有るもあられぬ例かな」と、悶え焦がれける。曾我の太郎も、幼き時より育てて、わり無き事なれば、実子にも劣らず、心様、又さかしかりしかば、梅兄竹弟の思ひをなし、朝夕愚かならざりしかども、所領ひろからざれば、一所をわくる事も無し。其の上、御勘当の人々の末なれば、清げならんも恐れ有り。きよくほく幸ひに、各々かるる事もこそと、思ひし事も夢ぞかし。今更後悔、益無しとぞ歎きける。母は、日の暮れ、夜の明くるに従ひて、いよいよ思ひぞ勝りける。「惜しからざりし憂き身なれども、彼等が行方、もしやと思ふ故にこそ、つらき命も惜しかりつれ。今は、浄土にて生まれ合ひ、今一度見ん」とて、湯水をたち、伏し鎮みければ、露命も危ふくぞ見えし。親しき人々集まりて、「浮き世の習ひ、御身一つの歎きにあらず。さしも、繁昌し給ひし平家の公達も、一度に十二十人、目の前にて海中P382に沈み、九泉に携はり給ひし憂き別れ共、日数積もり、年月隔たりぬれば、さてのみこそ過ぎ候ひしか。今の世にも、或いは父母におくれ、或いは夫妻に別れ、又は親子兄弟に離れ、歎く者のみこそ多く候へ共、忽ち命を捨つる者無し。誠に御子の為、御身を捨て給はん事、逆様なる罪の深さ、如何計と思し召す。泣く涙も、猛火と成りて、子に掛かるとこそ聞きけれ、まして、子の為に、正命を失ひ給はん事、罪業の程を知らず。如何にも身をまたくして、後生菩提を問ひ給へ」と、様々に申しければ、わづかに湯水ばかりぞ聞き入れ給ひける。さて有るべきならねば、僧達を遣り奉り、成等正覚、頓証菩提とぞ取りをさめける。母、猶訪はるべき身の、逆様なる事に歎き悲しみける。実にや、世の中の定め無き、涙の種とぞなりにける。箱根の別当も、此の事を聞き、急ぎ曾我に下り、諸共に歎き給ふ。「箱王が出でし時の面影、愚老が涙の袖に止まり、師弟親子の別れ、変はるべきにあらず」とて、さめざめと泣き給ふ。其の後、持仏堂に参り、彼の菩提を弔ひ給ひけり。七日七日、四十九日まで、怠らぬ追善有り。誠に弥陀の誓願は、十悪五逆の大罪をも、一念十念の力を以て、来迎引接し給ふべき他力の本願、頼もしかりけり。此の人々は、父の為に身を捨てける志無ければ、罪にして、しかも罪にあらず、其の上、在世の時も、仁義を乱さP383ざりしかば、後の世までも、悪道には堕罪せられじと、頼もしく覚えける。
 @〔禅師法師が自害の事〕S1008N153
 又、此の人々の弟に、御房とて、十八に成る法師有り。故河津三郎が忌の内に生まれたる子也。母、思ひの余りに、捨てんとせしを、叔父伊藤九郎養じて、越後の国国上と言ふ山寺に上せ、伊東の禅師とぞ言ひける。九郎、平家へ参りて後、親しきに依り、源の義信が子と号して、折節、武蔵の国に有りけるを、頼朝、聞こし召し、義信に仰せ付けて、召されければ、力無く、家の子郎等数十人下されし事、不便なりし次第也。大方、兄弟とは申しながら、乳の内より他人に養ぜられ、しかも、出家の身なり。是も、只普通の儀なりせば、彼等まで御尋ね有るまじきを、兄共の世に越え、名を万天に上げし故ぞかし。義信の使ひは、彼の本坊に来たりて、斯様の次第を言ふ。禅師聞きて、「心憂や、弓矢取りの子が、我が家を捨てて、他の親につく事は、努々有るまじき事也。斯様の罪過は、其の源をただされけるをや。同じ死する命、兄弟三人、一つ枕に討死せば、如何人目もうれからまし」。今更後悔すれども適はず、仏前に参り、御経開き読まんとすれども、文字も見えざりければ、まきをさめ、P384数珠をさらさらと押し揉み、「南無平等大慧、一乗妙典、願はくは、法華読誦の功力に依り、刹那の妄執を消滅し、安楽世界に向かへ取り給へ」と祈誓して、剣を抜き、左手の脇につきたて、右手へ引きまはさんとする所を、同宿早く見付けて、「是は如何に」と、取り付き抑へければ、「のき候へ。まさなしや。人手にかからんより、清き自害して見せ申さん。一つは、同朋達の思し召さるる所。空しく鎌倉へ取られん事は、寺中坊中の名をり、はなし給へ」と怒りけれ共、大勢なれば、いよいよ弱りはてにけり。人々は、数多有り、働かさず、自害を半にぞしたりける、無念と言ふも愚かなり。御使ひは、庭上に充満して攻めければ、力及ばず、上意黙し難くして、渡されにけり。口惜しかりし次第なり。御使ひ受け取り、輿に乗せて、鎌倉へこそ上りけれ。君聞こし召されて、御前へ召されければ、かかれて参りけり。君御覧ぜられて、「わ僧は、河津が子か」と、御尋ね有りければ、禅師は、前後も知らざりけるが、君の仰せを聞き、両の手をおして、おき上がらんと志しけれ共、適はで、頭を持ち上げ、「さん候、伊東が為には、孫候ふ」と申す。さて、「兄共が、敵打ちけるをば知らざりけるか」「おほそれながら、将軍の仰せとも存じ候はず。一腹一生の兄共が、親の敵打つとて知らせ候はんに、黒衣にて候ふとも、同意せぬ畜生や候ふべき。御推量も候へ」とぞ申し上げたりける。「汝が眼ざしP385を見るに、頼朝に意趣有りと見えたり。事を尋ねん為に召しつるに、楚忽の自害、所存の外也」「楚忽とは、如何でか承り候ふ。既に御使ひ賜はりて、召し取れとの御諚を承りて、其の用心仕らぬ事や候ふべき。哀れ、兄共が知らせて候はば、二人の者をば、祐経に押し向け、愚僧は、一人にて候ふとも、君を一太刀窺ひ奉りて、後生の訴へに仕るべきか」とて、御前をにらみ、言葉をはなちてぞ申しける。君聞こし召して、「頼朝には、何の宿意有りけるぞ」「我等先祖の敵、又は兄弟の敵にて候はぬか。果報の勝劣程、憂き物は候はず。只御威勢におされて、斯様に罷り成りて候ふ。おほそれながら、身が身にて候はば、源平両氏、何れ甲乙候ふべき」と申しければ、君、暫く物をも仰せられず、やや有りて、猶も心を見んと思し召しけん、「其の手にても、いきてんや。さも思はば、助くべき」由仰せ下されければ、禅師承りて、からからと打ち笑ひ、「よくよく人共思し召され候はざりける。御助け有る程ならば、如何で、是まで召さるべき。もしさもとや申す、聞こし召されん為か。まさなや、人に依りてこそ、然様の御言葉は候ふべけれ。口惜しき仰せかな」とぞ申しける。御寮聞こし召し、此の法師も、兄には劣らざりけり。助け置きなば又大事を起こすべき者也。よくぞ召し寄せたりけると思しける。禅師、重ねて申しけるは、「とても助かるまじき身、刹那のながらへも苦しく候ふ。急ぎ首を召さP386れ候へ」と、しきりに申しければ、生年十八にして、遂に切られにけり。無慙なりし次第なり。君、此の者の気色を御覧じて、「剛なる者の孫は、剛なり。哀れ、彼等に世の常の恩をあたへ、召し使はば、思ひ止まる事も有りなまし。弓矢取る者は、誰劣るべきにはあらねども、か程の勇士、天下にあらじ」と仰せも敢へず、御涙をこぼさせ給ひしかば、御前祗候の侍共、袖を濡らさぬ無かりけり。
 @〔京の小二郎が死事〕S1009N155
 又、此の人々に語らはれ、同意せざりし一腹の兄、京の小二郎も、同じ八月に、鎌倉殿の御一門、相模守の侍に、ゆらの三郎が謀叛起こして出でけるを、止めんとて、由比の浜にて、大事の傷を蒙り、曾我に帰り、五日をへて、死にけり。同じくは、さんぬる五月に、兄弟共と一所に死にたらんは、如何よかるべきとぞ申し合ひける。
 @〔三浦の与一が出家の事〕S1010N156
P387 三浦の与一も、与せざりしが、幾程無くして、御勘当を蒙り、出家してげり。人は只不孝の道をば、正しくすベき事や。




P388曾我物語巻第十一

 @〔虎が曾我へ来たる事〕S1101N157
 抑、建久四年長月上旬の頃、つながぬ月日も移り来て、昨日今日とは思へ共、憂き夏も過ぎ、秋も漸々立ちぬれば、賓鴈書を掛けて、上林の霜にとぶ、貞女何処んにか有る、くはんしよ衣を打ちて、良人未だ帰らざる所に、せんき尼一人、濃き墨染の衣に、同じ色の袈裟を掛けて、葦毛なる馬に、貝鞍おき、引かせて来けり。何者ぞと見れば、十郎が通ひし大磯の虎也。彼等が母のもとに行き、間近き所に立ち入り、使ひして言ひけるは、「此の人々の百ケ日の孝養、大磯にても、形の如く営むべけれ共、箱根の御山にて有るべしと承り候へば、此の仏事をも聴聞申し、我が身の営みをも、其の次にして、一しゆの諷誦をも捧げばやと思ひ、参り候ふ」と言ひければ、母聞きて、「嬉しくも思ひ寄り御座します物かな。十郎有りし方へ入らせ給へ。やがて見参に入るべし」と、あれたる住み処の扉をあけて、P389呼び入りにけり。虎は、十郎が住み所へ立ち入り見れば、いつしか庭の通ひ路に草茂り、跡踏み付くる人も無し。塵のみ積もる床の上、打ち払ひたる気色も見えず。今はの別れの暁まで、見なれし所なれば、変はる事は無けれども、主は無し。思ひしより、過ぎ方のゆかしく、我が身はもとの身なれども、心は有りし心ならず。月やあらぬ、春や昔のかこち草、古き名残の尽きせねば、泣くより外の事ぞ無き。まろび入りたる其の儘にて、しばしはおきも居ざりけり。枕も袖もうくばかり、立ち添ふ物は面影の、其れとばかりの情にて、涙も更に止まらず。やや暫く有りて、母出で合ひけり。虎を一目見しより、何と物をば言はで、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きけり。虎も、母を見付けて、有りし顔ばせの残り止まる心地して、打ち傾き、声も惜しまず泣き居たり。夫の歎き、子の別れ、さこそは悲しかりけめ、推し量られて、哀れ也。母、涙を抑へて言ひけるは、「かく有るべしと思ひなば、十郎が有りし時、恥づかしながら、見奉るべかりし物を、身の貧なるに依り、親しむべきにもうとし、語らふべきにも、さもあらで、万思ふ様にも候はで、打ち過ぎし事の悔しさよ。十郎、浅からず思ひ奉りし事なれば、只十郎に向かふ心地して、なつかしく思ふ」と、泣く泣く語りければ、虎も又、「身の数ならぬに依りて、御見参申さず」とて、是も涙を流しけり。「形見とてP390残し置かれし馬・鞍、見る度ごとに、目もくれ、仏の御名を唱ふる障りとなり候へば、なき人の御為も然るべからず。此の度の御仏事の御布施に思ひ定めて候ふ」と、言ひもはてず、打ち傾きけり。「仰せの如く、形見は由無き物にて、是等が狩場より返したる小袖を見る度に、殊に心乱れ候ふぞや。是も、此の度の御布施に思ひ向けて候ふ。御身は、十郎が事ばかりこそ歎き給へ。童ほど罪深き者は候はじ。河津殿におくれたりし時、一日片時の命もながらへ難かりしに、つれなき身のながらへ、百日の内に、数多の子におくれたり。如何ばかりとか思し召す。殊に彼等二人は、身をはなさで、左右の膝にすゑ育て、父の形見と思へば、憂き時も、彼等にこそは慰みしか。今より後は、誰を見、何に心の慰むべき。箱王は、法師にならざりしを、仮初に「不孝」と言ひし其の儘、「許せ」と言ふ人も無し。身の貧なるに、何と無く打ち過ぎ、月日を送り、年頃添はざりし、今更悔しく候ふぞとよ。打ち出でし時、兄がつれて来たり、限りと思ひてや、「許せ」と申せしに、「然らば」と言ひし言の葉を、嬉しげなりし顔ばせの、現れたりし無慙さよ。親ならず、子ならずは、おいたる童が言葉の末、誰か重く思ふべきと、頼もしく思ひて、つくづくと罷りしに、盃取り上げ、傾く程、涙うかみて候ひしを、不孝を許す嬉しさの涙と思ひて候へば、P391斯様に成るべきとて、限りの涙にて候ひけるを、凡夫の身の悲しさは、夢にも知らで、なつかしかりける顔ばせ、何しに年月不孝しけんと、過ぎにし方まで悔しきに、せめて三日打ち添はで、帰れとばかりのあらましを、如何に哀れに思ひけん。いつの世にか相見て、憂きを語りてまし」とて、又打ち伏して泣きけり。虎も、涙にむせびつつ、しばしは物をも言はざりけり。互ひの心の内、さこそと思ひ遣られたり。「是なる御経は、彼等が最後に富士野より送りたる文の裏にかき奉りて候ふ。此の文を読まんとすれば、文字も見えず。近く居寄りて読み給へ。聞き候はん」とて差し出だす。十郎が文と聞けば、なつかしくて、読まんとすれば、目もくれ、いつを其処とも見えわかず、只胸にあてて、泣くばかりにてぞ有りし。流れをたつる習ひ、か程の志有るべしとは思はざりしを、やさしくも見ゆる也けりと思ふに、涙ぞまさりける。「今宵は、是に止まりて、心静かに物語申すべきを、箱根への用意させ候ふべし。暁に出で候ふべし。聞き給ひぬるや、是等が孝養せよとて、君よりは所領賜はり候ふ。世には、敵打つ者こそ多く候ふなれども、心様人にすぐるるに依り、斯様の御恩に預かり候ふ。如何に言ふ甲斐無しとも、彼等が安穏ならんこそ、嬉しくも」とて、「是や昔、上東門院の御時、和泉式部が、娘小式部の内侍におくれて、悲しみけるに、君、哀れに思し召して、母が心を慰めんとP392思し召し、衣を下されしに、和泉式部、
諸共に苔の下にもくちずしてうづもれぬ名を聞くぞ悲しき W036
斯様に詠みたりし事まで思ひ知られて、忝く覚え候ふぞや。其れにつき候ひては、此の度仏事、心の及び、営むべきにて候ふ。此の辺には、さりぬべき導師も候はねば、別当を導師に定め参りて候ふ。五郎が事忘れず、御歎き候へば、一入懇ろなるべし。暁は、伴ひ奉るべし」とて、帰りにけり。虎は、母が後姿を見送り、十郎が装ひ思ひ出でられて、是も名残は惜しかりけり。然らぬだに、秋の夕は寂しきに、一人ふせ屋の軒の月、涙にくもる折からや、折知り顔の鹿の声、枕に弱る蟋蟀、軒端の荻を吹く風に、古里思ひ知られつつ、時しも長き夜もすがら、明かし兼ねたる思ひねの、あふ夢だにも無ければや、形しく閨の枕に置き添ふ露の重なれば、現の床もうくばかり、明け方の雁がねの友を語らひ泣く声も、羨ましくぞ思ひ遣る。余所の砧を聞くからに、身にしむ風のいとどしく、鐘聞く空に明けにけり。
 @〔母と虎、箱根へ上りし事〕S1102N160
P393 あれぬる宿とは思へ共、枕並べし睦言の、出でぬる別れ路は、今も打ち添ふ心地して、おきもせず、ねもせで、物を思ひ居たる所に、馬に鞍おきひつ立つる、使ひは来たり木幡山、君を思へば心から、上の空にや籠るらん。母も立ち出でて、急ぐと言へば、打ち出でぬ。自づから成る道の辺、我が方遠く成り行けば、其処とも知らぬ鞠子河、け上げて波や渡るらん。湯坂峠を上るにも、別れし人、此の道を、かくこそ通ひなれしと、思ひ遣らるる梓弓、矢立の杉を見上げつつ、其の人々の射ける矢も、此の木の枝に有るらんと、梢の風もなつかしく、山路はるばる行く程に、箱根の坊につきけり。やがて、別当出で合ひ給ひて、「さても、御歎きの日数の、哀れにて」と仰せられければ、此の人々にも、仏事の本意を申しけり。別当、虎を見給ひて、「何処よりの客人にや」と問ひければ、母、有りの儘に語り奉る。別当も、有り難き志とて、墨染の袖を濡らし給ふ。やや有りて、別当、涙を止めて、仰せられけるは、「法師が思ひとて、方々に劣り奉らず。さかりなる子を先に立つる親、わかうして夫におくるる妻、世の常多しと申し候へ共、師に先立つ弟子は、稀なり。其れも先規無きにあらず。遠く震旦を思へば、顔回は、貫首の弟子にて、才智並ぶ人無かりしかども、二十五歳にて、先立ち給ふ。我が朝の慈覚大師の御弟子、大師に先立ち奉る。西方院の座主院源僧正は、りやうゐんP394大徳におくれ給ふ。斯様の事を思ひ出だせば、愚僧一人が歎き也。げにげに曠劫をへても、相見ん事有るまじき別れの道、歎き給ふも、理なり。歎くべし歎くべし」とて、御涙をはらはらと流し給ふ。「思へば、誰も劣るべきにはあらね共、大磯の客人の御志こそ、誠有り難くこそ候へ。相構へて、深く歎き給ふべからず。是を誠の善知識として、他念無く菩提心を起こし給へ。一念の随喜だにも、莫大にて候ふぞかし。斯様に思ひ切り、誠の道に入り給ひ候はば、余念無く行じ給ひ候へよ。仏も六年、仙人に給仕きやうしてこそ、法花をば授かり給ひし。構へて、悪念を捨て給ふべし。人々を打ちける人を恨めしと思ひ給はば、瞋恚の妄執と成りて、輪廻の業つくべからず。あながち、手を下ろして殺し、行きて盗まざれども、思へば、其の科ををかすにて候ふぞ。構へて構へて、殺生を心にのぞき給ふべし。然れば、第一の戒にて候ふぞ。女は、殊に執情深きに依りて、三途の業つきず候ふぞや。聞き給へ。
 @〔鬼の子取らるる事〕S1103N161
 昔、天竺に、鬼子母という鬼有り。大阿修羅王が妻なり。五百人の子を持ち、是をP395養はんとて、物の命をたつ事、恒河沙の如し。殊に親の愛する子を好み、取りくふ罪つくし難し。仏、是を悲しみ思し召し、如何して此の殺生を止めんとて、智慧第一の迦葉尊者に告げ給ふ。迦葉、仏に申させ給ひけるは、「彼が五百人持ちて候ふ子の中に、殊に自愛を御隠し候ひて、御覧ぜられ候へ」と、御申し有りければ、「然るべし」とて、五百人の乙子取り、御鉢の下に隠し給ふ。父母の鬼、是を尋ねけり。神通自在の物なりければ、上は非想非非想天、六欲天の雲の上、下は九山、八海、竜宮、奈落の底までも、くもり無く尋ねけれども、無かりけり。鬼共、力を失ひ、大地に伏しまろび、泣き悲しみけるぞ、愚かなる。思ひの余りに、仏に参り申しけるは、「我、五百人の子を持ちて候ふ、其の中にも、乙子こそ、殊に不便に候ひしを、物に取られ失ひて候ふ。余りに悲しみ候ひて、至らぬ隈も無く、尋ねて候へども、我等が神通にては、尋ね出だすベしとも覚えず。然るべくは、御慈悲を以て、教へさせ給ひ候へ」とて、黄なる涙を流しけり。其の時、仏宣はく、「さて、子を失ひて尋ぬるは、悲しき物か」「申すにや及び候はず。是だにも出で来候はば、我等二人は、如何になり候ふとも、余りにかはゆく候ふ」と申しければ、「然様に、子は悲しく、無慙なる者ぞとよ。汝、五百人の子を養はんが為に、者の命を殺す事、いか程とか思ふ。其の殺さP396るる者の中に、親も有り、子も有り、兄弟親類、いか程の歎きとか思ふ。思ひ知れりや、汝今、只一人失ひてだにも、斯様に悲しむにや。まして、他人如何」と、示し給ひければ、鬼共、首をうなだれ、涕泣して、先非をくいけり。「如何に汝等、猶しも者の命をやたつべき。止まるならば、有り所知らせん」と仰せられければ、鬼、大きに喜び、「今より後は、更に殺生すまじくて候ふ。失ひし子の有り所教へ給へ」と、たひはう申しけり。「然らば、かたく約束有りて、殺生止めよ」と仰せられければ、鬼、重ねて申す様、「肉食をたやしては、我等身命助かり難し。御慈悲の方便に預からん」と申す。仏、御思案有りて、「然らば、一切衆生の用ひる飯の上を、少し生飯取り、汝等に与ふべし。其れにて命を継ぎ候へ」と、仏勅有りければ、鬼承り、「我等は、悪業煩悩にて、身をまろめたり。仮令仏説の如く、頂戴申すと言ふとも、肉食を止めては、命あらじ」と申しければ、「然らば、一口の飯に、人の肉をすりぬりて与ふべし」と、御約束有りけり。今に至りて、生飯とて、飯の上を少し取り、掌にあてておく事は、此のいはれにてぞ有りける。斯様に、かたく御誓約有りて、御鉢の下より、子鬼を取り出だし給ひけり。此の時、鬼申しけるは、「我等、神通を越えたりと思へ共、仏の方便に及び難し。まして、後世こそ恐ろしけれ」とて、即ち、御弟子と成り、P397仏果をえるとかや。剰へ、法華守護神と成り、法花経を擁護せんと誓ひ給ふ。抑此の鬼子母は、形世に越えければ、帝釈、是を奪ひ取り給ひぬ。阿修羅王、大きに怒り、瞋恚の猛火をはなち、既に須弥の半腹まで攻め上り、戦ふ事、恒河沙のをふるとも、作る事無し。其の時、帝釈は、善法堂に立て籠り、仁王経を講じ給ひつつ、四しゆ五わうの印を結び給ふ。時に、虚空より、磐石雨の如くに降り下り、修羅の大敵を粉灰に打ち砕き、然れども、業因つきざれば、又よみ帰り、大苦を受けたりと伝へたり。然れども、鬼子母は、仏弟子となりしかば、苦悩をはなるるのみならず、法花の守護神となり給ふ。斯様に鬼神だにも、随喜すれば、かくの如し。
 @〔箱根にて仏事の事〕S1104N162
 ましてや、人の身として願はんに、何の疑ひ候ふべき。既に斯様の法者と成り給へば、身の為、他の為、未来永々有り難き御事なり。法師とて、御導師に成るべき身にあらねども、有り合ひ、如何でか空しかるらん。其の上、五郎は、寵愛なじみにて、御思ひ、共に劣らねば、一入弔ひ奉るべし。誰か、P398僧達を請じ申せ。持仏堂の荘厳せよ。客殿の塵取れ」と、様々下知し給ひけり。虎は、別当の教化を聞き、身ながらも嬉しくぞ思ひける。其の後、数の僧達集まり給ふ。御経多しと雖も、殊にすぐれたる一乗妙典八巻、同音に読誦し給ふ。五十展転の功力だにも有り難し。受持読誦の結縁頼もしかりけり。御経やうやうはてしかば、別当高座に上り、彼等が追善の鐘打ちならし、施主の志を計り給へば、先づ、御涙にむせびつつ、説法の御声も出だし給はず。やや有りて、別当涙を抑へ、花房を捧げ、「其れ、生死の道は殊にして、をつれをいづれの方にか通ぜん。分段境を隔つ、はいきをいつの時にか期せん。二十三年の夢、暁の月と空に隠れぬ。千万端の愁へ、夕の嵐、一人吟じて、雲と成り、雨と成り、哀憐の涙、かわく事無し。朝を向かへ、夕を送りて、懐旧の腸絶えなんとす。所作未だやまざるに、百日の忌景、既にみてり。悲しみ至りて悲しきは、おいて子におくれ、恨みの殊に恨めしきは、さかんにして夫におくるる程の愁へ無し。老少不定を知ると雖も、猶、前後の相違に迷ふ事、歎けども適はず、惜しめ共験無し。然れば、仏も愛別離苦ととき給ふ。一生は夢の如し、誰か百年の齢を保たん。万事は皆空し、いづれか常住の思ひをなさん。命は、水の上の泡の如し。魂は、籠の内の鳥、開くを待ちて、然るに同じ。きゆるものP399は、二度見えず、然る者は、重ねて来たらず。恨めしきかなや、釈迦大士の慇懃の教化忘れ、悲しきかなや、閻魔法王の呵責の言葉を聞く。名利は、身を助くと雖も、未だ北■の屍を養はず。恩愛の心悩ませども、誰黄泉の攻めをまぬかれん。是に依つて馳走す、所得幾何の利ぞや。是が為に追求す、所作多罪也。暫く目をふさぎて、往事を思ふに、きゆふ皆空し。指ををりて、薨人をかぞふれば、親疎多く隠れぬ。時移り、事さりて、今何ぞ渺茫たらんや。人止めて、我行き、誰か又しやうしやせん、三界無安、猶如火宅と見れば、王宮も、これ夢なり。天子と言ふも、四苦の身なり。況や、下劣貧賎の輩、などか其の罪かろかるべき。死に苦しみをまし、業に悲しみを添ふべし。思ひ取らぬぞ、愚かなる。「まさに今こんかく塵深くして、竹簡幾何の千巻ぞ。苔■雲静かにして、松風只一声、てんちうくわせつ、相伝ふるに、主を失ふ。七月半ばの盂蘭盆、のぞむ所、誰にかあらん」と、泣く泣く当座にぞ書きける。誠理きはまりけり。然れば、親の子を思ふ志の深き事、父の恩を須弥に例へ、母の恩を大海に同じと言へり。もし我一劫の間とく共、父母の恩、作る事無しと見えたり。胎内に宿り、身を苦しめ、心をつくし、月を重ね、日を送り、生まるる時は、桑の弓・蓬の矢を以て、天地四方を射、身体髪膚を父母に受け、敢へてそこなひ破らP400ざるを、孝の始めとす、襁褓の嚢に包まれしより、今に至るまで、昼夜に安き事無し。人の親の習ひ、我が身の衰へをば知らずして、子の成人を願ひしぞかし。此の恩を捨て、未ださかりにもみちずして、母に先立ちぬ。然れば、孝経に曰く、「君は尊くして親しからず、母は親しくして尊からず、尊親共に是をかねたるは、父一人なり」と雖も、四の恩の中には、二親なれば、母の歎きも切なれども、あたる所を恥ぢ、父の敵に身を捨て、各々命を失ふ。人の親の子を思ふ闇に迷ふ道、愚かなる子もいとしほしく、かたはなるも悲しきに、此の人々は、弓馬の家に生まれ、武略共にかしこし。後代に止む事、遠きも近きも、知らぬ人無し。同じ兄弟と雖も、中の悪しきも有るぞかし。此の殿原は、幼少竹馬の昔より、なれむつぶる事、類無し。浄蔵・浄眼の古にも恥ぢず、早離・速離の昔にも似たり。遂に富士の裾野にして、同じ草葉の露と消え給へり。彼の一条摂政謙徳公の二人の御子、前少、後少将とて御座しける、朝夕に失せ給へり。斯かる例もあれば、生死無常の理、始めて驚くべきにあらず。今、開眼供養の御経、人々の手跡の裏也。斯様に書き置きしを、余所にて見るだにも悲しきに、まして御身にあて、御心中、さぞ思し召すらめ。是は、親子の別れの事、兄弟の契りのわり無きを、一言述べて候ふ。又、夫に別るる歎き、今一入色深きP401事なり。虚弓止まりて、閨に寄せ立つ、上弦の月、空に暮れぬ。三年のなじみ、忽ちつき、孤枕床に上りて、虞氏が古にあらねども、数行が涙、袂をうるほすらん。しやう蘭のにほひ、そらだき物とぞなりにける。宵暁の鐘の声、枕を並べし音には似ず、おきゐに見れば、なれ来し人はよも添はじ。山の端出づる月影を、心苦しく待ち得ても、見し面影にはことなれば、是ぞ、慰み給ふ事あらじ。誠、夫婦の別れ、忍び難けれども、昔今も、力に及ばざる道なれば、思ひ慰み給ふべし。彼の唐の玄宗の楊貴妃も、はつかに事を蓬莱宮の波に伝ふらん、穆公の弄玉をおもんぜしも、徒らに鳳凰台の月によす。彼を思ひ、是を思ふに付けても、昔を今になずらへて、一仏浄土の縁を結び、願はくは、九品往生ののぞみを遂げ、七世の父母、六親眷属成仏」と、回向の鐘をならし、別当高座を下り給ふとて、
定め無き浮き世といとど思ひしに問はるべき身の問ふに付けても W037
と詠じ給ひければ、聴聞の貴賎、哀れを催し、袖を絞らぬは無かりけり。供養もやうやう過ぎしかば、僧達も、皆々帰り給ひぬ。やや暫く有りて、「急ぎ下り度候へ共、たまたま上りて候へば、五郎が幼くて住み候ひし方を見候はん」と申されければ、別当宣ひけるは、「男に成りて後、其の形見と思へば、P402人をも置かず、わざと破れをも修理せず、昔に少しも違はず候ふ。いざさせ給へ。墓所をもつきて候へば、御覧ぜよ」とて、つれて行き、立ち寄り見給へば、墓の上に草おひけるを、別当見給ひて、「君見ずや、北■の暮の雨、でうでうたる青塚の色を。また見ずや、とうはうの秋の風、歴々たる白楊の声を」と、古き詩を思ひ出で給ふ。是は、もとの住み処と宣へば、軒の荵は、紅葉して、思ひの色を現せり。歎きは、いつも尽きせねば、しげる甲斐無き忘れ草、其の名計は、由ぞ無き。長月上旬の事なれば、よもの紅葉の色は、袖の涙を染むるかと見え、世に古里は苦しきに、安くも過ぐる初時雨、羨ましくぞ覚えけり。壁に書きたる筆のすさみを見れば、
出でていなば心かろしと言ひやせん身の有様を人の知らねば W038
と言ふ古歌の端を、「箱王丸」とぞ書きたりける。師匠に暇をもこはず、人にも行方を知らせず、只一人出づる事、思ひ寄りて語り、幼かりし面影、只今の心して、由無き所へ来たりけると、絶え焦がれければ、胸を焦がす焔は、咸陽宮の夕の煙にことならず。袂に落つる涙の、竜門原上の草葉を染むる、おもての涙とも言ひつべし。名残は尽きすまじ。さてしも有るべきにあらざれば、泣く泣く母は、曾我に下り、虎は、大磯に帰らんとす。別当も五郎に別るる心して、「扨も、此の度の御仏事、有り難くこそ候へ。過去幽霊、定めて正覚なり給ふべし。又、大磯の客人の御志P403こそ、世にすぐれては候へ。構へて構へて、怠らず弔ひ給へ」と仰せられければ、虎も、涙を抑へて、「仏事と承り候へば、誠に恥ぢ入る心し、あかぬ別れの道、いつかは怠り候はん」と申しければ、「数多の宝をつまんより、誠の志にはしかずと承る。
 @〔貧女が一燈の事〕S1105N165
 其の古を思ふに、天竺の阿闍世王は、常々仏を請じ奉り、数の宝を捧げ給ふ。或る時、仏の御帰り、夜に入りければ、王宮より、祇園精舎まで、十方国土の油を集めて、万燈をともし給ひけり。此処に、貧なる女有り、如何にもして、此の燈明の数に入らばやと思ひけれども、朝夕の営みだにも無き貧女なれば、一燈の力も無し。涙を流し、如何にもと方便すれども、適はで、東西に馳走し、自ら髪を切り、銭二文にぞうりたりけり。是にてもやと思ひければ、油を彼の銭にてかひ、わぶわぶ一燈ともして、くどきけるは、「我、前業如何なりければ、百千燈をだにともす人の有るに、一燈をだにともし兼ねたる、憂き身の程の恨めしさよ」とて、彼の燈明の下に泣き伏しけり。此の志を現さん為にや、折節、山風あらくふきて、数の燈明P404を一度にふき消しけり。然れば、貧女が一燈ばかりは消えず。目連、不思議に思し召し、袈裟にて仰がせ給ひけれども、消えざりけり。其の時、目連、仏に問ひ給ふ、「多くの燈明の消ゆる中に、如何なれば、一燈消えざる」と申させ給へば、仏宣はく、「阿闍世王が万燈の光、愚かにはあらね共、貧女が志の深き事を現さむが為に、万燈は消えて、一燈は残り」と示し給ふ。然ればにや、此の貧女成仏して、須弥燈光如来と申すは、此の貧女の事なり。「長者の万燈より、貧女が一燈」と申し伝へたるは、此の事也。御志をはげまし候へ。返す返す」と仰せられければ、虎も、母諸共に、深き追善し、諸仏哀れみ給ふらんと嬉しくて、各々暇申して、帰りにけり。母申しけるは、「今より後は、常々来たり、我はを御覧候へ。自らも又、十郎が名残に見奉りなん。暫く曾我に坐しまして、慰み給へ」などと語りて行きけるが、虎申しけるは、「嬉しくは承り候へ共、此の人々の御為に、毎日法花経六部あて六人して、第三年まで六部の志候ふ。我は無くては、無沙汰有るべし。詳しく申し付けて参るべし」と申しければ、母は、「誠の御志、有り難くこそ候へ。構へて構へて、絶えず問ひ問はれ参らすベし」とて、泣く泣く打ち別れにけり。実にや、有為転変の世の習ひ、花は根に帰り、鳥は、古巣に入り、日月天に傾き、松柏の青き色も、遂には五衰の時有り、蜉蝣のあだなる形、芭蕉風に破るる例、P405歎きても余り有り、悲しみてもたへず。只一筋に仏道を願ふ時は、草木国土悉皆成仏とぞ見えける。さても、大将殿御出に依り、富士の裾野の御屋形、甍を並べ、軒を知りて、数有りしかども、御狩過ぎしかば、一宇も残らず、元の野原になりにけり。然れども、残る者とては、兄弟の瞋恚執心、或る時は、「十郎祐成」と名乗り、或る時は、「五郎時致」と呼ばはり、昼夜戦ふ音絶えず。思はず通り合はする者、此の装ひを聞き、忽ちに死する者も有り、やうやういきたる者は、狂人と成りて、兄弟の言葉を移し、「苦悩離れ難し」と歎くのみなり。君聞こし召されて、不便なりとて、ようぎやう上人とて、めでたき法者を請じ、「如何せん」と仰せられければ、
 @〔菅丞相の事〕S1106N166
 上人聞こし召し、「昔も、然る例こそ多く候へ。忝くも、菅丞相の昔、讒言の瞋恚、くはういとなり給ひて、都を傾け給ひけるを、天台の座主、一字千金の力を以て、やうやうなだめ奉り、神といはひ奉る、威光あらたに坐します、天満大自在天神、此の御事なり。其の外、怒りをなして、神と崇められP406給ふ御事、承平の将門、弘二の仲成此の方、其の数多し。此の人々をも、神にいははれ候へ」と仰せられければ、
 @〔兄弟、神にいははるる事〕S1107N167
 「然るべし」とて、即ち勝名荒人宮と崇め奉り、やがて富士の裾野に、まつかぜと言ふ所を、長く御寄進有りけり。よつて、彼の上人を開山として、寺僧を定め、禰宜・神主をすゑ、五月二十八日には、殊に読経、神楽、色々の奉幣を捧ぐる事、今に絶えず。其れよりして、彼の所の戦ひ絶えて、仏果を証する由、神人の夢に見えけり。あらたに尊し共、言ふ計り無し。然れば、今に至るまでも、敵打たんと思ふ者は、此の神に参り、祈誓すれば、思ひの儘なりとて、遠国・近国の輩、歩みを運びけり。上下万民、仰がぬは無かりけり。




P407曾我物語巻第十二

 @〔虎、箱根にて暇乞して、行き別れし事〕S1201N169
 然る程に、大磯の虎は、十郎祐成討ち死にの由を聞きて、如何なる淵河にも入らばやと思ひけれども、なき人の菩提のつとにも成るまじければ、偏に浮き世を背きはてて、彼の人の後世弔はんと思ひ立ち、袈裟、衣など調へて、箱根山に上り、百ケ日の仏事のついでに、泣く泣く翡翠のかんざしをそり落とし、五戒を保ちけり。さしも、美しかりつる花の袂を引きかへて、墨の衣にやつしはてける、志の程こそ、類少なき情なれ。母、是を見て、「我も、同じ墨の袂に成りて、彼等が菩提をも弔ふべし、今、此のつくも髪を付けても、何にかはせん」とぞ歎き悲しまれける。別当、様々に教訓して、申し止められける。母御前力無く、五郎が遺跡なれば、名残惜しくは思へども、此処にて、日を送るべき事ならねば、別当に暇をこひ、帰るとて、虎御前に申されけるは、「曾我へいざさせ給へ、十郎が形見P408に見参らせ候はん」と言はれければ、虎、「もつとも御供申し候ひて、形見にも見え参らせたくは候へ共、是より善光寺への志候ふ。下向にこそ参り候はめ」とて、行き別れぬ。
 @〔井出の屋形の跡見し事〕S1202N170
 虎は、只一人、十郎の空しくなりし富士の裾、井出の屋形の跡を志して、箱根を後ろになして行く程に、其の日も、やうやう暮れぬれば、三嶋の拝殿に通夜申し、明くれば、三嶋を出でて、車返しに立ちやすらひ、千本の松原、心細く歩み過ぎ、浮島原にも出でぬ。南は、蒼海漫々として、田子の浦波滔々たり。北は、松山高々として、裾野の嵐颯々たり。未だ旅なれぬ事なれば、彼処を何処とも知らねども、志をしるべにて、やうやう歩み行く程に、井出の里に近付きぬ。虎は、里の翁にあひて、問ひけるは、「過ぎにし夏の頃、鎌倉殿の御狩の時、親の敵打ちて、同じく打たれし曾我の人々の跡や知らせ給ひ候ふ。教へさせ給へ」と言ひければ、此の翁、心有る者にて、虎が顔を、つくづくと見て、「もし御縁にて渡らせ給ひ候ふか。いたはしき御有様かな、人をもつれさせ給ひ候はず、只一人、是まで御尋ね候ふP409事、なほざりの御志とも覚えず。もし十郎殿、御志深く渡らせ給ひし、大磯の虎御前にて御座しまし候ふか。有りの儘に承り候はば、教へ参らせん」と言ひければ、虎は、是を聞き、別れの涙、未だかわかぬに、又打ち添へて、賎の男が情の言葉に、愁への色現れて、問ふにつらさの涙、忍びも敢へぬ気色を見て、翁、然ればこそと思ひて、共に袖をぞ絞りける。「然らば、いざさせ給へ」とて、北へ六七町、遙かに野を分け行けば、なき人のはてにける草葉の露かとなつかしく、「洲蘆の夜の雨、他郷の涙、岸柳の秋の風の、遠塞の情」とかやも思ひ出でられて、何処とも無く行く程に、日も夕暮の峰の嵐、心細くぞ聞こえける。翁、或る方を爪ざして、「あれこそ、出での屋形の跡にて候へ。あの辺こそ、工藤左衛門殿打たれさせ給ひ候ふ所にて候へ。又、彼処は、十郎殿の打たれさせ給ひ候ふ所、此処は、五郎殿御生害の所、扨又、あれに見え候ふ松の下こそ、二人の死骸を隠し参らせたる所候ふよ」と、懇ろに教へければ、虎、涙を抑へ、かつうは嬉しく、かつうは悲しくて、只泣くより外の事ぞ無き。彼の一むら松の下に立ち寄り見れば、実にも、うづもれて覚え候ふ土の、少し高く見えければ、過ぎにし五月の末の事なれば、花薄、蓬、葎おひ茂り、其の跡だにも見えざりけれども、なき人の縁と聞くからに、なつかしく覚えて、塚の辺に伏しまろび、我も同じP410苔の下にうづもれなば、今更斯かる思ひはせざらまし、黄泉、如何なる住み処なれば、行きて二度帰らざると、伏し鎮みける有様、例へん方こそ無かりけれ。翁も、心有る者なれば、共に涙をぞ流しける。諸共にかくては適はじとや思ひけん、「御歎き候ふとも、其の甲斐有るまじく候ふ。夜になれば、此の所には、狼と申す物、道行く人を悩まし候ふ。御止まり候ひて、適ふまじく候ふ。是より御帰り候ひて、今宵は、賎が伏屋なりとも、御止まり候ひて、一夜をあかさせ給ひ候へ。旅は、何か苦しく候ふべき」と申しければ、「嬉しくも宣ふ物かな。此の辺、懇ろに教へ給ふに、宿まで思ひ寄り給ふ事の嬉しさよ。然様に恐ろしき者の候ひて、身を捨てても、何にかはすベき」とて塚の辺にて念仏申し、「過去幽霊、成仏得脱」と回向すれば、十郎の魂霊も、如何計嬉しと思すらんと、思ひ遣られて、哀れ也。虎、涙の隙より、かくぞ連ねける。
露とのみ消えにし跡をきて見れば尾花が末に秋風ぞ吹く W039
浮き世ぞと思ひ染めにし墨衣今又露の何と置くらん W040
かくて、井出の辺を行き別れ、其の夜は、翁の所に止まり、明けぬれば、野原の露にしをれつつ、足に任せて行く程に、富士の煙を見ても、つらき思ひにたぐへつつ、其処とも知らぬ道の辺の、草むらごとの虫までも、鳴く音を添へて、哀れなり。P411実に、只だにも、秋の思ひは悲しきに、やつしはてぬる旅衣、いとどつらさを重ねつつ、たどり行く程に、手越の宿にぞつきにける。
 @〔手越の少将にあひし事〕S1203N171
 さて、或る小家に立ち寄りて、主のをうなをやとひて、少将御前を呼び出だして、「旅人の、是にて、申すべき事の候ふと申し給へ」と言ひければ、「安き御事」とて、呼び出だして来たる。少将は、虎が変はれる姿を見て、言ひ出づべき言の葉も無くて、只涙をぞ流しける。やや有りて、虎、泣く泣く申しけるは、「彼の祐成に相なれて、既に三年になり候ふ。宿縁深き故にや、又余の人を見んと思はざりつるなり。此の人失せ給ひぬると聞きし時は、同じ苔の下に、うづもればやと思ひしかども、つれなき命、ながらへて候ふぞや。然れば、世を渡る遊び者の習ひは、心に任せぬ事も侍るべしと思ひて、百ケ日の仏事のついでに、箱根にて、髪を下ろして、只一人迷ひ出で、富士野裾野の井手の辺にて、其の跡ばかりなりとも見え、憂かりし心をも慰みて、ついでに、此の辺近く御座しければ、見参に入り、物語をも申し、此の姿をも見え参らせむと思ひて、是まで来たりて候ふ」と語りければ、P412少将も、涙を抑へて、「げにげに、如何ばかり御歎き」と思ひ遣られて、泣くより外の事ぞ無き。少将言ひけるは、「過ぎにし夏の頃、工藤左衛門に呼ばれて、酒のみし時、十郎殿をも呼び入れ参らせしかば、始めて見参に入りしなり。工藤左衛門の悪口に、此の殿の思ひ切り給へる色現れ見えて、只今事出で来ぬべしと、座敷もすさまじく候ひしに、何と思はれけん、酒のみ、押し鎮めて立たれし事、只今の心地して、哀れに候ふぞや。立ち出で、かくと申したく候ひしかども、御身と親しき事、人に知られんも、憚り有りしかば、さてのみ過ぎしなり。其の夜、祐経の宿直の事、乳母の童にて、知らせ参らせ候ひし事、不思議に覚え候ふ。仮令一夜の妻なりとも、互ひに情を思ふべきに、如何なる事にや、如何にもして、打たせ参らせんと思ひし事、只偏に御身故ぞかし」と語りければ、虎は、此の事を始めて聞き、十郎殿最後の時、斯かる教へを如何ばかり嬉しく思ひ給ひけん、此の告げ無かりせば、如何でか本意を遂げさせ給ふべきと、いよいよ涙にむせびける。
 @〔少将出家の事〕S1204N172
 又、少将申しけるは、「生死無常のはかなき事、人の言はねども、現れ候ふぞや。P413然らぬだに、人は、五障三従の罪深しと申すに、同じ女人と言ひながら、我等は、罪深き身なり。其の故は、只一生、人をたぶらかさんと思ふ計なれば、心を行ききの人に掛け、身を上下の輩に任す、日も西山に傾けば、夢の内のかりなる姿を飾り、月東嶺に出でぬれば、誰とも知らぬ人をまつ。夜ごとに変はる移り香、身に止めて、心を悩まし、朝な朝なの手枕の露に、名残を惜しみつつ、胸をのみ焦がす事、返す返すも、口惜しき憂き身なり。此の世は、遂の住み処にあらず、草葉に結ぶ露よりも危ふく、水に宿れる月よりもはかなし。折節、此の人々の事を承り、御身の姿を見て、いよいよ浮き世に心も止まらず。咋日は、曾我の里に花やかなりし姿、今日は、富士野の露と消ゆ。「朝に紅顔有つて、世路に誇れ共、暮には白骨と成りて、郊原にくちぬ」とは、言ふも理也。然れば、万事無益なり。御身は、十郎善知識として、浮き世を背く。我は又、御身の姿を善知識として、衣を墨に染めんと思ひ候ふ」とて、やがて、翡翠のかんざしを切り、花の袂を脱ぎかへて、濃き墨染にあらためつつ、年二十七と申すに、駿河の国手越の宿を立ち出でにける。世を捨つる身と言ひながら、心強く、住みなれし故郷を立ち離れけん心の内、誠にやさしく哀れなり。P414
 @〔虎と少将、法然にあひし事〕S1205N173
 然る程に、二人打ちつれ、麻衣、紙の衾を肩に掛けて、諸国を修行し、信濃の国の善光寺に、一両年の程、他念をまじへず、念仏申し、過去聖霊、頓証菩提と祈り、又都に上り、法然上人にあひ奉り、念仏の法門を承り、
 @〔虎、大磯に取り籠りし事〕S1206N174
 其れより又、山々寺々拝みめぐりけるが、虎、さすがに古里や恋しかりけん、又、十郎の有りし辺やなつかしく思ひけん、大磯に帰り、高麗寺の山の奥に入り、柴の庵に閉ぢ籠り、一向専修の行を致して、九品往生ののぞみ怠らず、二人の尼、一庵に床を並べ、行ひすましてぞ候ひける。
 @〔二宮の姉、大磯へ尋ね行きし事〕S1207N175
 さて、曾我の母御前は、一日片時も、世にながらへべき心地は無けれ共、力及ばP415ぬ浮き世の習ひなれ、思はずに年月をぞ送りける。人の子の、同じ齢なるを見ても、二人が面影身に添ひて悲しく、人の病にて死するをも、彼等がせめてかくあらば、取り扱ひし物をとも言ふべきに、仮初に立ち出でて、二度帰らぬ別れこそ、神ならぬ身のつらさなれ。余りの恋しさの折々は、常に二宮の姉を呼び、憂き事共を語り合はせて、泣くより外の事ぞ無し。つながぬ月日なれば、第三年も送り、七年にあたる程に、五月二十八日、二宮の姉を呼び、言ひけるは、「今日は、此の者が七年忌にあたり候へば、追善を営み、弔ひ侍るなり。さても、十郎が契り深かりし大磯の虎、百ケ日の仏事のついでに、箱根にて尼に成り、御山より行き別れしが、善光寺に、一両年籠り、其の後、諸国を修行して、当時は、大磯に帰り、高麗寺の山の奥に、行ひすまして候ふ也。いざさせ給へ、虎が住所見ん」と言ひければ、「童も、さこそ思ひ候ふに、御供申さん」とて、二人、曾我の里を立ち出でて、中村を通り、山彦山を打ち越えて、高麗寺の奥に尋ね入り、夏草のしげみが末を分け行く程に、袖は涙、裾は露にしをれつつ、彼の辺なる里の翁に問ひけるは、「虎御前と申せし人の、尼に成りて住み給ふ所は、何処にて候ふやらん」と問ひければ、「あれに見え候ふ山の奥に、森の候ふ所こそ、彼の人の草庵にて候へ」と教へければ、嬉しく分け入り見れば、誠にかすかなる住まひにて、垣には蔦・朝顔はひかかり、軒にP416は荵まじりの忘れ草、露深く、物思ふ袖にことならず。庭には蓬おひ茂り、鹿のふしどかとぞ見えし。瓢箪しばしば空し、草顔淵が巷にしげし、藜■深くとざせり、雨原憲が枢をうるほすとも見えたり。誠に心細く、人の住み処とも見えず。
 @〔虎出で合ひ、呼び入れし事〕S1208N176
 やや久しく立ちめぐり、此方彼方を見ければ、内にかすかなる声にて、日中の礼讚もはてぬと思しくて、念仏忍び忍びに、心細く申しけるを聞き、尊く覚え、戸を叩き、「物申さん」と言へば、虎立ち出でて、「誰そ」と答ふるを見れば、未だ三十にもならざるが、殊の外にやせ衰へ、いつしかおいの姿に打ち見えて、濃き墨染の衣に、同じ色の袈娑を掛け、青なる数珠に、紫の蓮華取り具して、香の煙にしみ帰り、かしこくも思ひ入りたる其の姿、竹林の七賢、商山に入りし四皓も、是には如何で勝るべきと、羨ましくぞ覚えける。此の人々を只一目見て、夢の心地して、「あら珍しと、御渡り候ふや。更に現共覚えず候ふ。先づ内へ入らせ給へ」とて、二間なる道場を打ち払ひ、「是へ」と請じ入れつつ、なき人P417の母や姉ぞと見るよりも、流るる涙抑へ難し。母も姉も、泣く泣く庵室の体を見まはせば、三間に作りたるを、二間をば道場にこしらへ、阿弥陀の三尊を東向きに掛け奉り、浄土の三部経、往生要集、八軸の一乗妙典も、机の上に置かれたり。又、傍に、古今、万葉、伊勢物語、狂言綺語の草子共、取り散らされたり。仏の御前に、六時に花香あざやかにそなへ、二人の位牌の前にも、花香同じくそなへたり。二宮の姉言ひけるは、「あら有り難の御志の程や。是を忘るまじき事と思ひ給ひて、二人の位牌を安置し、弔ひ給ふ事よ。偕老の契り浅からずと申すも、今こそ思ひ知られて候へ。但し、是に十郎殿ばかりをこそ弔ひ給ふべきに、五郎殿まで弔ひ給ふ事の有り難さよ。童は、現在の兄弟にて候へども、是程までは思ひ寄らず、いずれも前世の宿執にて、善知識となり給ひぬ」と言ひもはてず、涙を流しければ、母も少将も、声立つる計にぞ悲しみける。やや有りて、母言ひけるは、「十郎が事、忘れる事も候はねば、常にも参り見奉りたく候ひしかども、心にも任せぬ女の身なれば、人の心をも憚るなどとせし程に、今まで斯かる御住まひをも見参らせず候ふ。彼の者共が七年の追善、曾我にて取り営み、又、御有様をも見参らせたく候ひて、是なる女房を誘(さそ)ひ、是まで来たりて候ふぞや。又、親子恩愛のいたつて切なる事、人の申し習はすをも、我が身の上P418かと思はれ候ふ。年月やうやう過ぐれども、忘るる事も候はず。然れば、様をかへんと思ふも、おさない者共捨て難くて、思ひも切らず候ふ。是と申すも、志のいたつて切ならざるかと、我が身ながらも、うたてく覚え候ふ。御身も、さして久しき契りにても坐しまさず。其の上、所領持ちて、頼り有る事ならねば、思ひ出がましき事も無し。只偏に前世の宿執に引かれて、互ひに善知識になり給ひぬと、余りに尊く、哀れに覚えて、我等までも、一蓮の縁を結ばばやと思ひ候ふ也。凡そ、人間の八苦、天上の五衰、今に始めぬ事にて候へ共、前業のつたなき身なれば、無常の理にも驚かず、つれなく浮き世にながらへ候ふ。我が身ながらも、あさましく候ふ。然るに、五障三従の身ながらも、幸ひに仏法流布の世に生まれて、出離生死の道を求むべく候へども、女人の愚かさは、其れも適はず候ふ。面々は、此の程思ひ取り給ふ事なれば、後生の助かるべき事をも知らせ給ひて候ふらん。哀れ、語らせ給へかし。適はぬまでも、心に懸けて見候はん」と言ひければ、虎、涙を止めて申しけるは、「誠に是まで御入り、夢の心地して、御志、有り難く思ひ参らせ候ふ。斯かる身と成りはてぬるも、しかしながら、十郎殿故と思ひ奉れば、時の間も、忘るる事も侍らず。此の世は不定の境、其れは愛別離苦の悲しみを翻して、菩提の彼岸に至る事もやと、聖教の要文共、P419少々尋ね求め、然るべき善知識にもあひ奉るかと、諸国を修行し、都に上り、法然上人にあひ奉り、念仏一行を受け、一筋に浄土を願ひ候ふなり。あの尼御前は、我が姉にて坐しまし候ふ。自らをうらやみて、同じともに様をかへ、一庵に閉ぢ籠り、行ひ候ふなり。今思ひ候へば、此の人は、発心の便りなりけりと、嬉しく覚え候ふ。其の上、我等、不思議に釈尊の遺弟に連なりて、比丘尼の名を汚す、忝くも、本願の勝妙を頼み、三時に六根を清め、一心に生死を離れん事を願ひ候ふ。本願如何でか誤り給ふべきと、疑ひの心も候はず。五郎殿も、同じ煙と消え給ひしかば、二人共に、成仏得脱と弔ひ奉らん為に、二人の位牌を安置して候ふなり。諸法従縁起とて、何事も縁に引かれ候ふなれば、二人共に、順縁逆縁に、得道の縁とならん事、疑ひ有るべからず。凡そ、分段輪廻の郷に生まれて、必ず死滅の恨みをえ、妄想如幻の家に来ては、遂に別離の悲しみ有り。出づる息の、入る息を待たぬ世の中に生まれ、剰へ、あひ難き仏教にあひながら、此の度、空しく過ぐる事、宝の山に入りて、手を空しくするなるべし。急ぐべし急ぐべし、頭燃払ふ如くと見えて候へば、相構へ相構へ、仏道に御心を懸け、浄土へ参らんと思し召すべきなり」と申しければ、母も、二宮の姉も、渇仰肝に銘じて、随喜の涙を流して、申しけるは、「世路に交はるP420習ひ、世の中の営みに心を懸け、二度三途の故郷に帰り、如何なる苦患をかうけ候はんずらんと、予て悲しく候ふ。然れば、尊きにもあひ奉り、女人の得道すべき法門、聞かまほしく候へ共、然るべき縁無ければ、とかく過ぎ行き候ふ所に、今の法門を承り候へば、尊く思ひ奉り候ふ。念仏申すとて、人なみなみに唱へ申せども、何と心を持ち、如何様なる趣にて、往生すべく候ふや、かつて思ひ分けたる事も候はず。同じくは、ついでに、詳しく承り候はば、如何ばかり嬉しく候ひなん」と言ひけれ。
 @〔少将法門の事〕S1209N177
 虎、少将の方を見遣り、少し打ち笑ひ、「あにこそ、念仏の法門共知らせ給ひて候へ。申して聞かせ参らせ給へ」と申しければ、「童も、詳しき事は知り参らせず候ふ。一年、都にて、法然上人仰せしは、「抑、生死の根源を尋ね候へば、只一念の妄執にかどはされて、由無く法性の都を迷ひ出でて、三界六道に生まれ、衆生とはなれり。然れば、地獄の八寒八熱の苦しみ、餓鬼の饑饉の愁へ、畜生残害の思ひ、其の外、天上の五衰、人間の八苦、一つとして受けずと言ふ事無く、上は有頂点P421を限り、下は阿鼻を際として、出づる期は無きが故に、流転の衆生とは申すなり。然りと雖も、宿善や催しけん、今人間に生まれぬ。内に、本有の仏性有り、外に、諸仏の悲願有り。人木石にあらず、発心せば、などか成仏得脱無からん。其れについて、修行まちまちなりと雖も、我等が如きの衆生は、諸教の徳に適ひ難し。先づ、法然房が如くは、七千余巻の経蔵に入りて、つらつら出離の要義を案ずるに、顕に付け密に付け、開悟安からず、事と言ひ理と言ひ、修行成就し難し。一実円融の窓の前には、即是の妙観に疲れ、三密同体の床の上には、又現世の証入現し難し。然る間、涯分を計りて、浄土を願ひ、他力を頼み、名号を唱ふ。誠に、浄土の経文は、直至道場の目足なり。有智無智、誰の人か帰せざらんや。既に正像早くくれて、戒定慧の三学は名のみ残りて、有教無人、有名無実なり。殊に女人は、五障三従とて、障り有る身なれば、即身成仏は、先づ置きぬ、聞法結縁の為に、霊仏霊社にまうづるさへ、踏まざる霊地有り、拝せざる仏像有り。天台山は、桓武の起願、伝教の建立なり。一乗の峰高うして、真如の月ほがらかなりと雖も、五障の闇をてらす事無し。高野山は、嵯峨天皇の御宇、弘法大師の地を示し、八葉の峰、八の谷、冷々として、水いさぎよしと雖も、三従の垢をばすすがず。其の外、金峰の雲の上、醍醐霞の底、深し、白山、書写のP422寺、斯様の所々には、女人近付く事も無し。然れば、或る経の文には、『三世の諸仏眼は、大地に落ちてくつとも、女人成仏する事無し』と言へり。又、或る経の文には、『女人は、地獄の使ひなり、よく仏の種をたつ。外の面は、菩薩に似たれども、内の心は、夜叉の如し』と言へり。然れば、内典・外典に嫌はれたる所に、弥陀如来、『極重悪人、無他方便』と誓ひ給ひて、別に又、女人成仏の願有り。か程に、懇ろに哀れみ給ふ事を、信ぜず行ぜずして、又三途に帰らん事、例へば、耆婆が万病をばいやす薬、諸々の薬、何両合はせたりと知らざれども、服すれば、即ちいゆ。病極めて重き者の、薬ばかりにてはと疑ひて、服せずは、耆婆が医術も、扁鵲が医方も、益有るべからず。其の如く、煩悩悪業は、極めて重(おも)し。此の名号にては如何と疑ひて、信ぜず行ぜざらんは、弥陀本願も、釈迦の説教も、空しかるべし。抑、薬をえて、服せずして死せんの事、崑崙山に行きて、玉を取らずして帰り、栴檀の林に入りて、梢を待たずしてはてなば、後悔するとも、由無し。其の上、五劫思惟、兆載永劫の万善万行、諸波羅蜜の功徳を三字にをさめ給へり。然れば、『阿字十方三世仏、弥字一切諸菩薩、陀字八万諸聖教』と言ふ時は、八万教法、諸仏菩薩も、名号たひないの功徳となれり。然れば、天台には、法報王の三身、空仮中の三諦なりと釈し坐しまし候ふ。森羅万象、山河大地、弥陀P423に漏れたる事無し。是に依りて、只もつぱら弥陀を以て、法門の主とすと釈し給へり。正依の経には、『いとくたり大りそくせんしやうくとく』ととき、傍依の経には、『一万三千仏を高さ十丈に金を以て十度作り、供養せんより、一返の名号はすぐれたり』と言へり。善知識の教へを深く信じて、『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と唱ふれば、三祇百大劫の修行をも越え、塵沙無明の惑をも断ぜず、致使凡夫念即生、不断煩悩得涅槃とて、終焉の時は、一さんいの心を変化して、観音・勢至、無数の聖衆、化仏菩薩、踊躍歓喜して、須臾の間に、無為の報土へ参りなば、無辺の菩薩を同学とし、上界の如来を師として、宝池に遊び、樹下に行きて、鸚鵡・舎利・迦陵頻伽の声を聞き、苦・空・無常・無我の四徳、波羅蜜の悟りを開き給ひなば、過去の恩、所生所生の父母、妻子眷属、有縁の衆生を導かん為に、洞然猛火の焔に交はり、紅蓮大紅蓮の氷に入り給ふ共、解脱の袂は安楽として、済度利生し給ふべし。但し、往生の定不定は、信心の有無によるべし。努々疑ふ事無かれ」と宣ふを、我々は聴聞申して候ふ」と申しければ、母、感涙を抑へて、言ひけるは、「今の法門、聴聞申し候へば、信心肝に銘じて、有り難く候ふ。今より後は、方々の御弟子にて候ふべし」とて、三度伏し拝み、P424
 @〔母、二宮行き別れし事〕S1210N178
 然る程に、日もやうやう傾きて、高麗寺の入相も聞こゆれば、名残尽きせず思へども、各々立ち出でて、二宮の里へとてこそ帰りけれ。虎、少将は門送りして、後ろのかくるる程見送り、涙と共に、庵室に帰り、初夜の礼讚始めて、念仏心細くぞ申しける。其の後、人々の行方を聞けば、各々宿所に帰り、聞きつる法門の如く、造次顛沛、一心不乱に念仏す。昔は、夫婦偕老の別れをしたひ、今は、兄弟のかく成り行く事の思ひや積もりけん、老病と言ひ、歎きと言ひ、六十の暮方に、念仏申して、遂に往生しけるとぞ聞こえける。扨、二人の尼御前、或る夜の夢に、十郎、五郎打ちつれ来たり、頭には、玉の冠をき、身には、瓔珞を飾り、光明赫奕として、各々を伏し拝み、申しけるは、「此の間、念仏申し、経読み、懇ろに弔ひ給ふ故に、兜率の内院にまうづ。是、しかしながら、夫婦偕老の契り深きに依りて、無為心じつの解脱の因と成る。其の恩徳、億々万劫にも報じ難し」とて、虚空へ飛びさりぬ。虎、夢さめて、只現の心地して、思ひけるは、「五重の闇はれ、三明の月ほがらかに坐します大聖釈尊さへ、耶輸陀羅女の別れを思し召す。況や我等、此の年月恋しと思ふ所に、まのあたり兄弟を夢に見て、昔恋しくなりP425ぬ。然れば、夜の猿は、傾く月にさけび、秋の虫は、枯れ行く草に悲しむとかや。鳥獣までも、愛別離苦を悲しむと見えたり。然れば、此の道は、迷はば、共に悪道の輪廻絶ち難し、悟らば、皆成等菩提因縁なりぬべし。偕老同穴の契り、誠あらば、九品蓮台の上にては、もとの契りを失はず、一蓮に座を並べ、解脱の袂を絞るべし」とて、少将も共に、涙をぞ流しける。扨、彼の二人の尼、志浅からず、虎、峰に上りて、花をつめば、少将、谷に下りて、水を結び、一人、花をそなふれば、一人は、香をたき、共に一仏浄土の縁を結ぶ。谷の水、峰の嵐、発心の媒と成り、花の色、鳥の声、自づから観念の頼りと成る。つくづく思へば、はつふつ転変の理、四相遷流の習ひ、三界より下界に至るまで、一つとして逃るべきやう無し。日月天にめぐりて、有為を旦暮に現し、寒暑時を違へずして、無常を昼夜につくす。然れば、漢の高祖の三尺の剣も、遂に他の宝と成り、秦の始皇のはりの都も、自づから荊棘の野辺と成る。彼を思ひ、是を見るにも、只偏に浮き世を逃れ、誠の道に入るべき物をや。かかりし程に、二人の尼、行業積もり、七旬の齢たけ、五月の末つ方、少病少悩にして、西に向かひ、肩を並べ、膝を組み、端座合掌して、念仏百返唱へて、一心不乱にして、音楽雲に聞こえ、異香薫じて、聖衆来迎し給ひて、ねむるが如く、往生の素懐を遂げにけり。P426高きも賎しきも、老少不定の世の習ひ、誰か無常を逃るべき。富宝も、遂に夢の内の楽しみなり。殊に女人は、罪深き事なれば、念仏に過ぎたる事有るべからず。斯様の物語を見聞かん人々は、狂言綺語の縁に依り、あらき心を翻し、誠の道に趣き、菩提を求むる頼りとなすべし。其の心も無からん人は、斯かる事を聞きても、何にかはせん。よくよく耳に止め、心に染めて、無き世の苦しみを逃れ、西方浄土に生まるべし。P427