曾我物語 国民文庫本
凡例
底本:国民文庫「曾我物語」 明治44年
章段名の後にS+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。
岩波大系のP26〜35の諸本対照表の章段の通し番号をN+(3桁)で表記しました。
参考としまして岩波大系本のページ数を表示しました。改行なし。P+ページ数(3桁)。
語句を他本を参照して改めた箇所があります。
仮名を漢字に改め、漢字の表記を変えた箇所が有ります。
漢字を仮名に改めたものも有ります。
曾我物語
P049曾我物語巻第一(だいいち)
〔神代(かみよ)の始(はじ)まりの事(こと)〕S0101N001
夫(そ)れ、日域(じちゐき)秋津島(あきつしま)は、是(これ)、国常立尊(くにとこたちのみこと)より事(こと)起(お)こり、■土■(うひぢに)・沙土■(すひぢに)、男神(なんしん)・女神(によしん)を始(はじ)めとして、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)まで、以上天神七代にて渡(わた)らせ給(たま)ひき。又(また)、天照大神(あまてるおほんかみ)より、彦波瀲武■■草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせずのみこと)まで、以上地神五代にて、多(おほ)くの星霜(せいさう)を送(おく)り給(たま)ふ。然(しか)るに、神武(じんむ)天皇(てんわう)と申(まう)し奉(たてまつ)るは、葺不合(ふきあわせず)の御子(みこ)にて、一天(いつてん)の主(あるじ)、百皇(はくわう)にも始(はじ)めとして、天下(てんが)を治(をさ)め給(たま)ひしより此(こ)の方(かた)、国土(こくど)を傾(かたぶ)け、万民(ばんみん)の恐(おそ)るる謀(はかりこと)、文武(ぶんぶ)の二道(にだう)にしくは無(な)し。好文(かうぶん)の族(やから)を寵愛(ちようあい)せられずは、誰(たれ)か万機(ばんき)の政(まつりごと)を助(たす)けむ。又は、勇敢(ようかん)の輩(ともがら)を抽賞(ちうしやう)せられずは、如何(いか)でか四海(しかい)の乱(みだ)れを鎮(しづ)めん。かるが故(ゆゑ)に、唐(たう)の大宗文(たいそうぶん)皇帝(くわうてい)は、瘡(きず)をすひて、戦士(せんし)を賞(しやう)し、漢(かん)の高祖(かうそ)は、三尺(さんじやく)の剣(けん)を帯(たい)して、諸侯(しよこう)を制(せい)し給(たま)ひき。然(しか)る間(あひだ)、本朝(ほんてう)にも、中頃(なかごろ)より、源平(げんぺい)両氏(りやうじ)を定(さだ)め置(お)かれしより此(こ)の方(かた)、武略(ぶりやく)を振(ふ)るひ、朝家(てうか)を守護(しゆご)し、互(たが)ひに名将(めいしやう)P050の名(な)を現(あらは)し、諸国(しよこく)の狼藉(らうぜき)を鎮(しづ)め、既(すで)に四百余回(よくわい)の年月(としつき)を送(おく)り畢(をは)んぬ。是(これ)清和(せいわ)の後胤(こうゐん)、又(また)桓武(くわんむ)の累代(るいたい)なり。然(しか)りと雖(いへど)も、皇氏(わうじ)を出(い)でて、人臣(じんしん)に連(つら)なり、鏃(やじり)をかみ、鋒先(ほこさき)を争(あらそ)ふ志(こころざし)、とりどり也(なり)。
〔惟喬(これたか)・惟仁(これひと)の位(くらゐ)争(あらそ)ひの事(こと)〕S0102N002
抑(そもそも)、源氏(げんじ)と言(い)つぱ、桓武天皇(くわんむてんわう)より四代の皇子(わうじ)を田村(たむら)の御門(みかど)と申(まう)しけり。皇子(わうじ)二人御座(おは)します。第一(だいいち)、惟喬(これたか)の親王(しんわう)と申(まう)す。帝(みかど)殊(こと)に御志(おんこころざし)思(おぼ)し召(め)して、東宮(とうぐう)にも立(た)て、御位(くらゐ)を譲(ゆづ)り奉(たてまつ)らばやと思(おぼ)し召(め)されける。第二(だいに)の御子(みこ)をば、惟仁(これひと)の親王(しんわう)と申(まう)しき。未(いま)だ幼(いとけな)く御座(おは)します。御母(はは)は染殿(そめどの)の関白(くわんばく)忠仁公(ちゆうじんこう)の御娘(むすめ)也(なり)ければ、一門(いちもん)の公卿(くぎやう)、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)共(ども)まで愛(あい)し奉(たてまつ)る。是(これ)も又(また)、黙(もだ)し難(がた)くぞ思(おぼ)し召(め)されける。彼(かれ)は継体(けいてい)あひふんの器量(きりやう)也(なり)。是(これ)は、万機(ばんき)ふいの臣相(しんさう)なり。是(これ)を背(そむ)きて、宝祚(ほうそ)を授(さづ)くる物(もの)ならば、用捨(ようしや)私(わたくし)有(あ)りて、臣下(しんか)唇(くちびる)を翻(ひるがへ)すに依(よ)りて、御位(くらゐ)を譲(ゆづ)り奉(たてまつ)るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子(みこ)達(たち)を引(ひ)き具(ぐ)し奉(たてまつ)り、右近の馬場(ばば)へ行幸(ぎやうがう)成(な)る。月卿(げつけい)雲客(うんかく)、花の袂(たもと)を重(かさ)ね、玉(たま)の裙(もすそ)を連(つら)ね、右近(うこん)の馬場(ばば)、供奉(ぐぶ)せらる。此(こ)の事(こと)、希代(きたい)の勝事(しようし)、天下(てんが)の不思議(ふしぎ)とぞ見(み)えし。御子(みこ)達(たち)P051も、東宮(とうぐう)の浮沈(ふちん)、是(これ)に有(あ)りと見(み)えし。然(さ)れば、様々(さまざま)の御(おん)祈(いの)り共(ども)有(あ)りける。惟喬(これたか)の御(おん)祈(いの)りの師(し)には、柿本(かきのもと)の紀(き)僧正(そうじやう)真済(しんぜい)とて、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、弘法(こうぼふ)大師(だいし)の御弟子(でし)なり。惟仁(これひと)の親王(しんわう)の御(おん)祈(いの)りの師(し)には、我(わ)が山の住侶(ぢゆうりよ)に、恵亮(ゑりやう)和尚(くわしやう)とて、慈覚(じかく)大師(だいし)の御弟子(でし)にて、めでたき上人(しやうにん)にてぞ渡(わた)らせ給(たま)ひける。西塔(さいたふ)の平等坊(びやうどうばう)にて、大威徳(だいゐとく)の法(ほふ)をぞ行(おこな)ひける。既(すで)に競馬(けいば)は、十番(ばん)の際(きは)に定(さだ)められしに、惟喬(これたか)の御方(かた)に、続(つづ)けて四番(ばん)勝(か)ち給(たま)ひけり。惟仁(これひと)の御方(かた)へ心(こころ)を寄(よ)せ奉(たてまつ)る人々(ひとびと)は、汗(あせ)を握(にぎ)り、心(こころ)を砕(くだ)きて、祈念(きねん)せられける。惟仁(これひと)の御方(かた)へは、右近(うこん)の馬場(ばば)より、天台山(てんだいさん)平等坊(びやうどうばう)の壇(だん)上へ、御(おん)使(つか)ひ馳(は)せ重(かさ)なる事(こと)、只(ただ)櫛(くし)の歯(は)を引(ひ)くが如(ごと)し。「既(すで)に御方(みかた)こそ、四番続(つづ)けて負(ま)けぬれ」と申(まう)しければ、恵亮(ゑりやう)、心(こころ)憂(う)く思(おも)はれて、絵像(ゑざう)の大威徳(だいゐとく)を逆様(さかさま)に掛(か)け奉(たてまつ)り、三尺(さんじやく)の土牛(とぎう)を取(と)りて、北(きた)向(む)きに立(た)て、行(おこな)はれけるに、土牛(とぎう)躍(をど)りて、西(にし)向(む)きになれば、南(みなみ)に取(と)りて押(お)し向(む)け、東向(む)きになれば、西(にし)に取(と)りて押(お)し直(なほ)し、肝胆(かんたん)を砕(くだ)きて揉(も)まれしが、猶(なほ)居(ゐ)兼(か)ねて、独鈷(とつこ)を以て、自(みづか)ら脳(なづき)をつき砕(くだ)きて、脳(なう)を取(と)り、罌粟(けし)に混(ま)ぜ、炉(ろ)に打(う)ちくべ、黒煙(くろけぶり)を立(た)て、一揉(も)み揉(も)み給(たま)ひければ、土牛(とぎう)たけりて、声(こゑ)を上(あ)げ、絵像(ゑざう)の大威徳(だいゐとく)、利剣(りけん)を捧(ささ)げて、振(ふ)り給(たま)ひければ、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)してげりと、御心(おんこころ)述(の)べ給(たま)ふ所(ところ)に、「御方(かた)こそ、六番(ろくばん)続(つづ)けて勝(か)ち給(たま)ひ候(さうら)へ」と、御(おん)使(つか)ひ走(はし)り付(つ)きければ、喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き、急(いそ)ぎ壇(だん)をぞ下(お)りられける。有(あ)り難(がた)しP052瑞相(ずいさう)なり。然(さ)れば、惟人(これひと)の親王(しんわう)、御位(おんくらゐ)に定(さだ)まり、東宮(とうぐう)に立(た)たせ給(たま)ひけり。然(しか)るに、延暦寺(えんりやくじ)の大衆(だいしゆ)の僉議(せんぎ)にも、「恵亮(ゑりやう)脳(なづき)を砕(くだ)きしかば、次弟(じてい)位(くらゐ)に即(つ)き、そんゑ剣(けん)を振(ふ)り給(たま)へば、菅丞(かんしやう)霊(れい)をたれ給(たま)ふ」とぞ申(まう)しける。是(これ)に依(よ)りて、惟喬(これたか)の御持僧(ぢそう)真済(しんぜい)僧正(そうじやう)は、思(おも)ひ死(じ)ににぞ失(う)せ給(たま)ひたる。御子(こ)も、都(みやこ)へ御(おん)帰(かへ)り無(な)くして、比叡山(ひえいさん)の麓(ふもと)小野(をの)と言(い)ふ所(ところ)に閉(と)ぢ籠(こも)らせ給(たま)ひける。頃(ころ)は神無月(かんなづき)末(すゑ)つ方(かた)、雪(ゆき)げの空(そら)の嵐(あらし)にさえ、しぐるる雲(くも)の絶間(たえま)無(な)く、都(みやこ)に行(ゆ)き交(か)ふ人も稀(まれ)なりけり。況(いはん)や小野(をの)の御(おん)住(す)まひ、思(おも)ひ遣(や)られて哀(あは)れ也(なり)。此処(ここ)に、在五(ざいご)中将(ちゆうじやう)在原(ありはら)の業平(なりひら)、昔(むかし)の御(おん)契(ちぎ)り浅(あさ)からざりし人也(なり)ければ、紛々(ふんぷん)たる雪(ゆき)を踏(ふ)み分(わ)け、泣(な)く泣(な)く御跡(あと)を尋(たづ)ね参(まゐ)りて、見(み)参(まゐ)らすれば、孟冬(まうとう)移(うつ)り来(き)たりて、紅葉(こうえふ)嵐(あらし)に絶(た)え、りういんけんかとうしやくしやくたり。折(をり)に任(まか)せ、人目(ひとめ)も草(くさ)も枯(か)れぬれば、山里(ざと)いとど寂(さび)しきに、皆(みな)白妙(しろたえ)の庭(には)の面(おも)、跡(あと)踏(ふ)み付(つ)くる人も無(な)し。御子(こ)は、端(はし)近(ちか)く出(い)でさせ給(たま)ひて、南殿(なんでん)の御格子(かうし)三間(げん)ばかり上(あ)げて、四方(よも)の山(やま)を御覧(ごらん)じ、珍(めづら)しげにや、「春(はる)は青(あを)く、夏(なつ)は茂(しげ)り、秋は染(そ)め、冬は落(お)つる」と言(い)ふ、昭明太子(せうめいたいし)の、思(おぼ)し召(め)し連(つら)ね、「香爐峰(かうろほう)の雪(ゆき)をば、簾(すだれ)を掲(かか)げて見(み)るらん」と、御口(くち)ずさみ給(たま)ひけり。中将(ちゆうじやう)、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)奉(たてまつ)るに、只(ただ)夢(ゆめ)の心地(ここち)せられける。近(ちか)く参(まゐ)りて、昔(むかし)今(いま)の事(こと)共(ども)申(まう)し承(うけたまは)るに付(つ)けても、御衣(ぎよい)の御袂(たもと)、絞(しぼ)りも敢(あ)へさせ給(たま)はず、鳥飼(とりかひ)の院(ゐん)の御遊幸(いうがう)、交野(かたの)の雪(ゆき)の御鷹狩(たかがり)まで、思(おぼ)し召(め)し出(い)でP053られて、中将(ちゆうじやう)かくぞ申(まう)されける。忘(わす)れては夢(ゆめ)かとぞ思(おも)ふ思(おも)ひきや雪(ゆき)踏(ふ)み分(わ)けて君(きみ)を見(み)んとは W001御子(こ)も取(と)り敢(あ)へさせ給(たま)はで、返(かへ)り、夢(ゆめ)かとも何(なに)か思(おも)はん世(よ)の中を背(そむ)かざりけん事(こと)ぞ悔(くや)しき W002かくて、貞観(ぢやうぐわん)四年(しねん)に、御出家(しゆつけ)渡(わた)らせ給(たま)ひしかば、小野宮(をののみや)とも申(まう)しけり。又は、四品(しほん)宮内卿宮(くないきやうのみや)とも申(まう)しけり。文徳(もんどく)天皇(てんわう)、御年(とし)三十にて、崩御(ほうぎよ)なりしかば、第二(だいに)の皇子(わうじ)、御年(とし)九歳(さい)にて、御(おん)譲(ゆづ)りを受(う)け給(たま)ふ。清和(せいわ)天皇(てんわう)の御事(おんこと)、是(これ)なる。後(のち)には、丹波(たんば)の国(くに)水尾(みづのを)の里(さと)に閉(と)ぢ籠(こも)らせ給(たま)ひければ、水尾帝(みづのをのてい)とぞ申(まう)しける。皇子(わうじ)数多(あまた)御座(おは)します。第一(だいいち)を陽成院(やうぜいゐん)、第二(だいに)を貞固(ていこ)親王(しんわう)、第三をていけい親王(しんわう)、第四を貞保(ていほう)親王(しんわう)、此(こ)の皇子(わうじ)は、御琵琶(びは)の上手(じやうず)にて御座(おは)します。桂(かつら)の新王(しんわう)とも申(まう)しけり。鏨(こころ)を懸(か)けらる女(をんな)は、月の光(ひかり)を待(ま)ち兼(か)ね、蛍(ほたる)を袂(たもと)に包(つつ)む、此(こ)の御子(こ)の御事(おんこと)なり。今(いま)のしけのこの先祖(せんぞ)なり。第五(だいご)を貞平(ていへい)親王(しんわう)、第六を貞純(ていじゆん)親王(しんわう)とぞ申(まう)しける。六孫王(ろくそんわう)、是(これ)なり。然(さ)れば、彼(か)の親王(しんわう)の嫡子(ちやくし)、多田(ただ)の新発意(しんぼつ)満仲(まんぢゆう)、其(そ)の子摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)、次男(じなん)大和守(やまとのかみ)頼親(らいしん)、三男(さんなん)多田(ただ)の法眼(ほふげん)とて、山法師(やまぼふし)にて、三塔(さんたふ)第一(だいいち)の悪僧(あくそう)なり。四郎(しらう)河内守(かはちのかみ)頼信(よりのぶ)、其(そ)の子伊予(いよ)入道頼義(らいぎ)、其(そ)の嫡子(ちやくし)八幡(はちまん)太郎(たらう)義家(よしいへ)、其(そ)の子但馬守(たぢまのかみ)義親(よしちか)、次男(じなん)河内(かはち)の判官(はんぐわん)義忠(よしただ)、三男(さんなん)式部(しきぶ)の太夫義国(よしくに)、四男(なん)六条(ろくでう)の判官(はんぐわん)為義(ためよし)、其(そ)の子(こ)左馬(さま)の頭義朝(よしとも)、其(そ)の嫡子(ちやくし)鎌倉(かまくら)の悪源太(あくげんだ)義平(よしひら)、次男(じなん)中宮(ちゆうぐう)の大夫進(だいぶのしん)朝長(ともなが)、三男(さんなん)右近衛(うこんゑ)の大将(たいしやう)頼朝(よりとも)P054の上(うへ)越(こ)す源氏(げんじ)ぞ無(な)かりける。此(こ)の六孫王(ろくそんわう)より此(こ)の方(かた)、皇氏(わうじ)を出(い)でて、始(はじ)めて源(みなもと)の姓(しやう)を賜(たま)はり、正体(しやうたい)をさりて、長(なが)く人臣(じんしん)に連(つら)なり給(たま)ひて後(のち)、多田(ただ)の満仲(まんぢゆう)より、下野守(しもつけのかみ)義朝(よしとも)に至(いた)るまで七代は、皆(みな)諸国(しよこく)の竹符(ちくふ)に名(な)を掛(か)け、芸(げい)を将軍(しやうぐん)の弓馬(きゆうば)に施(ほどこ)し、家(いへ)にあらずして、四海(しかい)を守(まも)りしに、白波(はくは)猶(なほ)越(こ)えたり。然(さ)れば、各々(おのおの)剣(けん)を争(あらそ)ふ故(ゆゑ)に、互(たが)ひに朝敵(てうてき)に成(な)りて、源氏(げんじ)世(よ)を乱(みだ)せば、平氏(へいじ)勅宣(ちよくせん)を以(もつ)て、是(これ)を制(せい)して朝恩(てうおん)に誇(ほこ)り、平将(へいしやう)国(くに)を傾(かたぶ)くれば、源氏(げんじ)しよめいに任(まか)せて、是(これ)を罰(ばつ)して、勲功(くんこう)を極(きは)む。然(しか)れば、近頃(ちかごろ)、平氏(へいじ)長(なが)く退散(たいさん)して、源氏(げんじ)自(おの)づから世(よ)に誇(ほこ)り、四海(しかい)の波瀾(はらん)を治(をさ)め、一天(いつてん)のはうきよ定(さだ)めしより此(こ)の方(かた)、りらくりんゑたかいいて、吹(ふ)く風(かぜ)の声(こゑ)穏(おだ)やか也(なり)。然(しか)れば、叡慮(えいりよ)を背(そむ)くせいらうは、色(いろ)を雄剣(おうけん)の秋の霜(しも)にをかされ、てこそをみたすはしは、音(おと)を上弦(しやうげん)の月に澄(す)ます。是(これ)、偏(ひとへ)に羽林(うりん)の威風(いふう)、先代(だい)にも越(こ)えて、うんてうの故(ゆゑ)也(なり)。然(しか)るに、せいしをひそめて、せいとの乱(みだ)れを制(せい)し。私曲(しきよく)の争(あらそ)ひを止(や)めて、帰伏(きぶく)せらるるは無(な)かりけり。
〔伊東(いとう)を調伏(てうぶく)する事(こと)〕S0103N006P055
此処(ここ)に、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、伊東(いとう)の二郎(じらう)祐親(すけちか)が孫(まご)、曾我(そが)の十郎(じふらう)祐成(すけなり)、同(おな)じく五郎(ごらう)時致(ときむね)と言(い)ふ者(もの)有(あ)りて、将軍(しやうぐん)の陣内(ぢんない)も憚(はばか)らず、親(おや)の敵(かたき)を打(う)ち取(と)り、芸(げい)を戦場(せんぢやう)に施(ほどこ)し、名(な)を後代(こうたい)に止(とど)めけり。由来(ゆらい)を詳(くは)しく尋(たづ)ぬれば、即(すなは)ち一家(か)の輩(ともがら)、工藤(くどう)左衛門(さゑもん)祐経(すけつね)なり。例(たと)へば、伊豆(いづ)の国(くに)伊東(いとう)・河津(かはづ)・宇佐美(うさみ)、此(こ)の三ケ所(しよ)をふさねて、■美庄(くすみのしやう)と号(かう)するの本主(ほんじゆ)は、■美(くすみ)の入道(にふだう)寂心(じやくしん)にてぞ有(あ)りける。在国(ざいこく)の時(とき)は、工藤(くどう)大夫(たいふ)祐隆(すけたか)と言(い)ひけり。男子(なんし)数多(あまた)持(も)ちたりしが、皆(みな)早世(さうせい)して、遺跡(ゆいせき)既(すで)に絶(た)えんとす。然(しか)る間(あひだ)、継女(ままむすめ)の子(こ)を取(と)り出(い)だし、嫡子(ちやくし)に立(た)てて、伊東(いとう)を譲(ゆづ)り、武者所(むしやどころ)に参(まゐ)らせ、工藤(くどう)武者(むしや)祐継(すけつぐ)と号(かう)す。又(また)、嫡孫(ちやくそん)有(あ)り、次男(じなん)に立(た)てて、河津(かはづ)を譲(ゆづ)り、河津(かはづ)二郎(じらう)と名乗(なの)らせ、然(しか)る間(あひだ)、寂心(じやくしん)他界(たかい)の後(のち)、祐親(すけちか)思(おも)ひけるは、我(われ)こそ、嫡々(ちやくちやく)なれば、嫡子(ちやくし)に、異姓(いしやう)他人(たにん)の継女(ままむすめ)の子、此(こ)の家(いへ)に入(い)りて、相続(さうぞく)するこそ、安(やす)からねと思(おも)ふ心(こころ)付(つ)きにけり。是(これ)、誠(まこと)に神慮(しんりよ)にも背(そむ)き、子孫(しそん)も絶(た)えぬべき悪事(あくじ)なるをや。仮令(たとひ)他人(たにん)なりと言(い)ふとも、親(おや)養(やう)じて譲(ゆづ)る上(うえ)は、違乱(いらん)の義(ぎ)有(あ)るべからず。まして、是(これ)は、寂心(じやくしん)、内々(ないない)継女(ままむすめ)のもとに通(かよ)ひて、設(まう)けたる子(こ)也(なり)。誠(まこと)には兄(あに)なり。譲(ゆづ)りたる上(うへ)、争(あらそ)ふ事(こと)、無益(むやく)の由(よし)、余所(よそ)余所(よそ)にも申(まう)し合(あ)ひけり。然(さ)れども、祐親(すけちか)止(とど)まらで、対決(たいけつ)度々に及(およ)ぶと雖(いへど)も、譲状(ゆづりぢやう)を捧(ささ)ぐる間(あひだ)、伊東(いとう)が所領(しよりやう)に成(な)りて、河津(かはづ)は負(ま)けてぞ下(くだ)りける。其(そ)の後(のち)、上(うへ)に親(した)しみながら、内々(ないない)安からぬ事(こと)にぞ思(おも)ひける。然(さ)れども、P056我(わ)が力(ちから)には適(かな)はで、年月(としつき)を送(おく)り、或(あ)る時(とき)、祐親(すけちか)、箱根(はこね)の別当(べつたう)を秘(ひそ)かに呼(よ)び下(くだ)し奉(たてまつ)り、種々(しゆじゆ)にもてなし、酒宴(しゆえん)過(す)ぎしかば、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、畏(かしこ)まりて申(まう)しけるは、「予(かね)てより知(し)ろし召(め)されて候(さうら)ふ如(ごと)く、伊東(いとう)をば、嫡々(ちやくちやく)にて、祐親(すけちか)が相(あひ)継(つ)ぎ候(さうら)ふべきを、思(おも)はずの継女(ままむすめ)の子来(き)たりて、父(ちち)の墓所(はかどころ)、先祖(せんぞ)の重代(ぢゆうだい)の所領(しよりやう)を横領(わうりやう)仕(つかまつ)る事(こと)、余所(よそ)にて見(み)え候(さうら)ふが、余(あま)りに口惜(くちを)しく候(さうら)ふ間(あひだ)、御心(おんこころ)をも憚(はばか)らず、申(まう)し出(い)だし候(さうら)ふ。然(しか)るべくは、伊東(いとう)武者(むしや)が二(ふた)つ無(な)き命(いのち)を、立所(たちどころ)に失(うしな)ひ候(さうら)ふ様(やう)に、調伏(てうぶく)有(あ)りて見(み)せ給(たま)へ」と申(まう)しければ、別当(べつたう)聞(き)き給(たま)ひて、暫(しばら)く物(もの)も宣(のたま)はず、やや有(あ)りて、「此(こ)の事(こと)、よくよく聞(き)き給(たま)へ。一腹(いつぷく)一生(いつしやう)にてこそ坐(ま)しまさね、兄弟(きやうだい)なる事(こと)は眼前(がんぜん)也(なり)。公方(くばう)までも聞(き)こし召(め)し開(ひら)かれ、既(すで)に御下知(げぢ)をなさるる上は、隔(へだ)ての御(おん)恨(うら)みは、然(さ)る事(こと)にて候(さうら)へども、忽(たちま)ちに害心(がいしん)を起(お)こし、親(おや)の掟(おきて)を背(そむ)き給(たま)はん事(こと)、然(しか)るべからず。神明(しんめい)は、正直(しやうじき)の頭(かうべ)に宿(やど)り給(たま)ふ事(こと)なれば、定(さだ)めて天の加護(かご)も有(あ)るべからず、冥(みやう)の照覧(せうらん)も恐(おそ)ろし。其(そ)の上(うへ)、愚僧(ぐそう)は、幼少(えうせう)より、父母(ちちはは)の塵欲(ぢんよく)を離(はな)れ、師匠(ししやう)のかんしんに入(い)りて、所説(しよせつ)の教法(けうぼふ)を学(がく)し、円頓(ゑんどん)止観(しくわん)の門(もん)をのぞみ、一ねんまいに、稼穡(かしよく)の艱難(かんなん)を思(おも)ひ、一度(ひとたび)切(き)る時(とき)、紡績(ばうせき)の辛苦(しんく)を忍(しの)ぶ。三衣(ゑ)を墨(すみ)に染(そ)め、鬢髪(びんぱつ)をまろめ、仏(ほとけ)の遺願(ゆいぐわん)に任(まか)せ、五戒(ごかい)を保(たも)ちしより此(こ)の方(かた)、物(もの)の命(いのち)を殺(ころ)す事(こと)、仏(ほとけ)殊(こと)に戒(いまし)め給(たま)ふ。然(さ)れば、衆生(しゆじやう)の身(み)の中には、三身(さんじん)仏性(ぶつしやう)とて、P057三体(さんたい)の仏(ほとけ)の坐(ま)します。然(しか)るに、人の命(いのち)を奪(うば)はん事(こと)、三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)を失(うしな)ひ奉(たてまつ)るに同(おな)じ。諸々(もろもろ)以(もつ)て、思(おも)ひ寄(よ)らざる事(こと)なり」とて、箱根(はこね)に上(のぼ)り給(たま)ひけり。河津(かはづ)は、なまじひなる事(こと)申(まう)し出(い)だして、別当(べつたう)、承引(しよういん)無(な)かりければ、其(そ)の後(のち)、消息(せうそく)を以(もつ)て、重(かさ)ね重(がさ)ね申(まう)しけれども、猶(なほ)用(もち)ひ給(たま)はず。如何(いかが)せんとて、秘(ひそ)かに箱根(はこね)に上(のぼ)り、別当(べつたう)に見参(げんざん)して、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)りて、ささやきけるは、「物(もの)其(そ)の身(み)にては候(さうら)はねども、昔(むかし)より師檀(しだん)の契約(けいやく)浅(あさ)からで、頼(たの)み頼(たの)まれ奉(たてまつ)りぬ。祐親(すけちか)が身(み)におきて、一生(いつしやう)の大事(だいじ)、子々(しし)孫々(そんそん)までも、是(これ)にしくべからず候(さうら)ふ。再往(さいわう)に、申(まう)し入(い)れ候(さうら)ふ条(でう)、誠(まこと)に其(そ)の恐(おそ)れ少(すく)なからず候(さうら)へども、彼(か)の方(かた)へ返(かへ)り聞(き)こえなば、重(かさ)ねたる難儀(なんぎ)、出(い)で来(き)たり候(さうら)ふべし。然(さ)ればにや、浮沈(ふちん)に及(およ)び候(さうら)ふ」と、くれぐれ申(まう)しければ、始(はじ)めは、別当(べつたう)、大(おほ)きに辞退(じたい)有(あ)りけるが、誠(まこと)に檀那(だんな)の情(なさけ)もさり難(がた)くして、おろおろ領状(りやうじやう)有(あ)りければ、河津(かはづ)、里(さと)へぞ下(くだ)りける。別当(べつたう)、そき無(な)き事(こと)ながら、檀那(だんな)の頼(たの)むと申(まう)しければ、壇(だん)を立(た)て、荘厳(しやうごん)して、伊東(いとう)を調伏(てうぶく)せられけるこそ、恐(おそ)ろしけれ。始(はじ)め三日の本尊(ほんぞん)には、来迎(らいかう)の阿弥陀(あみだ)の三尊(ぞん)、六道能化(のうけ)の地蔵(ぢざう)菩薩(ぼさつ)、檀那(だんな)河津(かはづ)次郎(じらう)が所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)の為(ため)、伊東(いとう)武者(むしや)が二(ふた)つ無(な)き命を取(と)り、来世(らいせ)にては、観音(くわんおん)・勢至(せいし)、蓮台(れんだい)を傾(かたぶ)け、安養(あんやう)の浄刹(じやうせつ)に引接(いんぜう)し給(たま)へ、片時(へんし)も、地獄(ぢごく)に落(お)とし給(たま)ふなと、他念(たねん)無(な)く祈(いの)られけり。後(のち)七日の本尊(ほんぞん)には、烏蒭沙摩金剛(うすさまこんがう)とかう童子(どうじ)、五大明王(みやうわう)の威験(いげん)殊勝(しゆせう)なるを、P058四方(しはう)に掛(か)けて、紫(むらさき)の袈裟(けさ)を帯(たい)し、種々(しゆじゆ)に壇(だん)を飾(かざ)り、肝胆(かんたん)を砕(くだ)き、汗(あせ)をものごはず、面(おもて)をもふらず、余念(よねん)無(な)くこそ祈(いの)られけれ。昔(むかし)より今(いま)に至(いた)るまで、仏法(ぶつぽふ)護持(ごぢ)の御力(ちから)、今(いま)に始(はじ)めざる事(こと)なれば、七日に満(まん)ずる寅(とら)の半(なか)ばに、伊藤(いとう)武者(むしや)がさかんなる首(くび)を、明王(みやうわう)の剣(けん)の先(さき)に貫(つらぬ)き、壇上(だんじやう)に落(お)つると見(み)/て、さては威験(いげん)現(あらは)れたりとて、別当(べつたう)、壇(だん)を下(お)り給(たま)ふ、恐(おそ)ろしかりし事(こと)共(ども)也(なり)。
〔同(おな)じく伊東(いとう)が死(し)する事(こと)〕S0104N007
伊東(いとう)武者(むしや)、是(これ)をば夢(ゆめ)にも知(し)らで、時(とき)ならぬ奥野(おくの)の狩(かり)して遊(あそ)ばんとて、射手(いて)を揃(そろ)へ、勢子(せこ)を催(もよほ)し、若党(わかたう)数(かず)相(あひ)具(ぐ)して、伊豆(いづ)の奥野(おくの)へぞ入(い)りにける。頃(ころ)しも、夏(なつ)の末(すゑ)つ方(かた)、峰(みね)に重(かさ)なる木(こ)の間(ま)より、村々(むらむら)に靡(なび)くは、さぞと見(み)えしより、思(おも)はざる風(かぜ)にをかされて、心地(ここち)例(れい)ならずわづらひ、志(こころざ)す狩場(かりば)をも見(み)ずして、近(ちか)き野辺(のベ)より帰(かへ)りけり。日数(ひかず)重(かさ)なる程(ほど)に、いよいよ重(おも)くぞなりにける。其(そ)の時(とき)、九つになりけるかないしを呼(よ)び寄(よ)せて、自(みづか)ら手(て)を取(と)り、申(まう)しけるは、「如何(いか)に己(おのれ)、十歳(さい)にだにもならざるを、見(み)捨(す)てて死(し)なん事(こと)こそ、悲(かな)しけれ。生死(しやうじ)限(かぎ)り有(あ)り、逃(のが)るべからず。汝(なんぢ)を、誰(たれ)哀(あは)れみ、誰(たれ)育(はごく)みて育(そだ)てん」と、さめざめと泣(な)きP059けり。かないしは幼(をさな)ければ、只(ただ)泣(な)くより外(ほか)の事(こと)は無(な)し。女房(にようばう)、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、涙(なみだ)を抑(おさ)へて言(い)ひけるは、「適(かな)はぬ浮(う)き世(よ)の習(なら)ひなれども、せめて、かないし十五にならんを待(ま)ち給(たま)へかし。然(さ)ればとて、数多(あまた)有(あ)る子(こ)にもあらず、又(また)、かけこ有(あ)る中の身(み)にても無(な)し。如何(いかが)はせん」と、歎(なげ)きけるこそ、理(ことわり)なれ。此処(ここ)に、弟(おとと)の河津(かはづ)の次郎(じらう)祐親(すけちか)が、訪(とぶら)ひ来(き)たりけるが、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)/て、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、申(まう)しけるは、「今(いま)を限(かぎ)りとこそ、見(み)えさせ給(たま)ひて候(さうら)へ。今生(こんじやう)の執心(しうしん)を御(おん)止(とど)め候(さうら)ひて、一筋(ひとすぢ)に後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を願(ねが)ひ給(たま)へ。かないし殿(どの)においては、祐親(すけちか)かくて候(さうら)へば、後見(こうけん)し奉(たてまつ)るべし。努々(ゆめゆめ)疎略(そりやく)の義(ぎ)有(あ)るべからず。心(こころ)安(やす)く思(おも)ひ給(たま)へ。然(さ)ればにや、史記(しき)の言葉(ことば)にも、「昆弟(こんてい)の子(こ)は、なほし己(おのれ)が子(こ)の如(ごと)し」と見(み)えたり。如何(いか)でか愚(おろ)かなるべき」と申(まう)しければ、祐継(すけつぎ)、是(これ)を聞(き)き、内(うち)に害心(がいしん)有(あ)るをば知(し)らで、大(おほ)きに喜(よろこ)び、かき起(お)こされ、人の肩(かた)にかかり、手(て)を合(あ)はせ、祐親(すけちか)を拝(をが)み、やや有(あ)りて、苦(くる)しげなる息(いき)を付(つ)き、「如何(いか)に候(さうら)ふ。只今(ただいま)の仰(おほ)せこそ、生前(しやうぜん)に嬉(うれ)しく覚(おぼ)え候(さうら)へ。此(こ)の頃(ごろ)、何(なに)と無(な)く下説(げせつ)について、心(こころ)よからざる事(こと)にて坐(ま)しまさんと存(ぞん)ずる所(ところ)に、斯様(かやう)に宣(のたま)ふこそ、返(かへ)す返(がへ)すも本意(ほんい)なれ。然(さ)らば、かないしをば、偏(ひとへ)にわ殿(との)に預(あづ)け奉(たてまつ)る。甥(をひ)なりとも、実子(じつし)と思(おも)ひ、娘(むすめ)数多(あまた)持(も)ち給(たま)ふ中(なか)にも、万刧(まんこう)御前(ごぜん)に合(あ)はせて、十五にならば、男(をとこ)に成(な)し、当庄(たうしやう)のほんけん小松(こまつ)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れ、わ殿(との)の娘(むすめ)P060とかないしに、此(こ)の所(ところ)をさまたげ無(な)く知行(ちぎやう)せさせよ」とて、伊東(いとう)の地券(ぢけん)文書(もんじよ)取(と)り出(い)だし、かないしに見(み)せ、「汝(なんぢ)にぢきに取(と)らすべけれども、未(いま)だ幼稚(ようち)なり。いづれも親(おや)なれば、愚(おろ)か有(あ)るべからず。母(はは)に預(あづ)くるぞ。十五にならば、取(と)らすべし。よくよく見(み)置(お)け。今(いま)より後(のち)は、河津殿(かわづどの)を、叔父(をぢ)なりとも、誠(まこと)の親(おや)と頼(たの)むべし。心(こころ)おきて、にくまれ奉(たてまつ)るな。祐継(すけつぎ)も、草(くさ)の陰(かげ)にて、立(た)ち添(そ)ひ守(まも)るべし」とて、文書(もんじよ)母(はは)が方(かた)へ渡(わた)し、今(いま)は心(こころ)安(やす)しとて、打(う)ち伏(ふ)しぬ。かくて、日数(ひかず)の積(つ)もり行(ゆ)けば、いよいよ弱(よわ)りはてて、七月十三日の寅(とら)の刻(こく)に、四十三にて失(う)せにけり。哀(あは)れなりし例(ためし)なり。弟(おとと)の河津(かはづ)の次郎(じらう)は、上(うへ)には歎(なげ)く由(よし)なりしかども、下(した)には喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き、箱根(はこね)の別当(べつたう)の方(かた)をぞ拝(をが)みける。一旦(いつたん)猛悪(まうあく)は、勝利(せうり)有(あ)りと雖(いへど)も、遂(つひ)には子孫(しそん)にむくふ習(なら)ひにて、末(すゑ)如何(いかが)とぞ覚(おぼ)えける。やがて、河津(かはづ)が、我(わ)が家(いへ)を出(い)で、伊東(いとう)の館(たち)に入(い)り代(か)はり、内々(ないない)存(ぞん)ずる旨(むね)有(あ)りければ、兄(あに)の為(ため)、忠(ちゆう)有(あ)る由(よし)にて、後家(ごけ)にも子(こ)にも劣(おと)らず、孝養(けうやう)を致(いた)す。七日(なぬか)七日(なぬか)の外(ほか)、百ケ日、一周忌(いつしゆき)、第(だい)三年(さんねん)に至(いた)るまで、諸善(しよぜん)の忠節(ちゆうせつ)をつくす。人是(これ)を聞(き)き、「神をまつる時(とき)は、神のます如(ごと)くにせよ。使(つか)ふる時(とき)は、生(しやう)に使(つか)ふる如(ごと)くなれ」とは、論語(ろんご)の言葉(ことば)なるをやと感(かん)じけるぞ、愚(おろ)かなる。さて、かないしには、心(こころ)安(やす)き乳母(めのと)を付(つ)けてぞ、養(やう)じける。遺言(ゆいごん)違(たが)へず、十五にて元服(げんぶく)させ、うすみの工藤(くどう)祐経(すけつね)と号(かう)す。やがて、娘(むすめ)万刧(まんこう)に合(あ)はせ、P061其(そ)の秋、相(あひ)具(ぐ)して、上洛(しやうらく)し、即(すなは)ち、小松(こまつ)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れ、祐経(すけつね)をば、京都(きやうと)に止(とど)めおき、我(わ)が身(み)は、国(くに)へぞ下(くだ)りける。其(そ)の後(のち)、かひがひしき侍(さぶらひ)の一人も付(つ)けず、おとなしき物(もの)も無(な)し。所帯(しよたい)におきては、祐親(すけちか)一人して横領(わうりやう)し、祐経(すけつね)には、屋敷(やしき)の一所(いつしよ)をも配分(はいぶん)せざりけり。誠(まこと)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「徳(とく)をつみ、行(かう)をけぬる事(こと)、其(そ)の善(ぜん)を知(し)らず、然(さ)れども時(とき)に用(もち)ひる事(こと)有(あ)り、義(ぎ)を捨(す)て、理(り)を背(そむ)く事(こと)、其(そ)の悪(あく)を知(し)らざれども、時(とき)に滅(ほろ)ぶる事(こと)有(あ)り。身(み)の危(あや)ふきは、勢(いきほひ)の過(す)ぐる所(ところ)と成(な)り、禍(わざわい)の積(つ)もるは、寵(てう)のさかんなるを越(こ)えてなり」。然(さ)れども、祐経(すけつね)は、たれをしゆるとも無(な)きに、公所(くしよ)を離(はな)れず、奉行所(ぶぎやうしよ)におきて、身(み)を打(う)たせ、沙汰(さた)になれける程(ほど)に、善悪(ぜんあく)を分別(ふんべつ)して、理非(りひ)を迷(まよ)はず、諸事(しよじ)に心(こころ)を渡(わた)し、手跡(しゆせき)普通(ふつう)に過(す)ぎ、和歌(わか)の道(みち)を心(こころ)に懸(か)け、酣暢(かんちやう)の筵(むしろ)に推参(すいさん)して、其(そ)の衆(しゆう)に連(つら)なりしかば、伊東(いとう)の優男(やさをとこ)とぞ召(め)されける。十五歳(さい)より、武者所(むしやどころ)に侍(はんべ)つて、礼儀(れいぎ)正(ただ)しくして、男(をとこ)がら尋常(じんじやう)なりければ、田舎(ゐなか)侍(さぶらひ)とも無(な)く、心(こころ)にくしとて、二十一歳(さい)にして、武者(むしや)の一郎をへて、工藤(くどう)一郎とぞ召(め)されける。
〔伊東(いとう)の二郎(じらう)と祐経(すけつね)が争論(さうろん)の事(こと)〕S0105N008P062
かくて、二十五まで、給仕(きうじ)怠(おこた)らざりき。此処(ここ)に、思(おも)はずに、田舎(ゐなか)の母(はは)、一期(いちご)つきて、形見(かたみ)に、父(ちち)が預(あづ)け置(お)きし譲状(ゆづりじやう)を取(と)り添(そ)へて、祐経(すけつね)がもとへぞ上(のぼ)せたりける。祐経(すけつね)、是(これ)を披見(ひけん)して、「こは如何(いか)に、伊豆(いづ)の伊藤(いとう)と言(い)ふ所(ところ)をば、祖父(おほぢ)入道(にふだう)寂心(じやくしん)より、父(ちち)伊東(いとう)武者(むしや)祐継(すけつぎ)まで、三代(だい)相伝(さうでん)の所領(しよりやう)なるを、何(なに)に依(よ)つて、叔父(をぢ)河津(かはづ)の二郎(じらう)、相続(さうぞく)して、此(こ)の八か年(ねん)が間(あひだ)、知行(ちぎやう)しける。いざや冠者(くわんじや)原(ばら)、四季(しき)の衣(ころも)がへさせん」とて、暇(いとま)を申(まう)しけれども、御気色(ごきしよく)最中(さいちゆう)なりければ、左右(さう)無(な)く暇(いとま)を賜(たま)はらざりけり。然(さ)らばとて、代官(だいくわん)を下(くだ)して、催促(さいそく)を致(いた)す。伊東(いとう)、是(これ)を聞(き)き、「祐親(すけちか)より外(ほか)に、またく他(た)の地頭(ぢとう)無(な)し」とて、冠者(くわんじや)原(ばら)を放逸(はういつ)に追放(ついはう)す。京(きやう)より下(くだ)る者(もの)は、田舎(ゐなか)の子細(しさい)をば知(し)らで、急(いそ)ぎ逃(に)げ上(のぼ)り、一臈(いちらふ)に此(こ)の由(よし)を訴(うつた)ふ。「其(そ)の儀(ぎ)ならば、祐経(すけつね)下(くだ)らん」とて、出(い)で立(た)ちけるが、案者(あんじや)第一(だいいち)の者(もの)にて、心(こころ)をかへて思(おも)ひけるは、人の僻事(ひがこと)すると言(い)ふを聞(き)きながら、我(われ)又(また)下(くだ)りて、劣(おと)らじ、負(ま)けじとせん程(ほど)に、勝(まさ)る狼藉(らうぜき)引(ひ)き出(い)だし、両方(りやうばう)得替(とくたい)の身(み)となりぬべし、其(そ)の上、道理(だうり)を持(も)ちながら、親方(おやかた)に向(む)かひ、意趣(いしゆ)を込(こ)めん事(こと)、詮(せん)無(な)し、祐経(すけつね)程(ほど)の者(もの)が、理運(りうん)の沙汰(さた)にまくべきにあらず、田舎(ゐなか)より彼(か)の仁(じん)を召(め)し上(のぼ)せて、上裁(じやうさい)をこそ仰(あふ)がめと思(おも)ひ、あたる所(ところ)の道理(だうり)、差(さ)し詰(つ)め差(さ)し詰(つ)め、院宣(ゐんぜん)を申(まう)し下(くだ)し、小松(こまつ)殿(どの)の御状(じやう)を添(そ)へ、検非違使(けんびいし)を以(もつ)て、伊東(いとう)を京都(きやうと)に召(め)し上(のぼ)せ、事(こと)のちきやうなる時(とき)こそ、田舎(ゐなか)にて、横紙(よこがみ)をも破(やぶ)り、ちやうちやく共(ども)P063言(い)ひけれ、院宣(ゐんぜん)を成(な)し、重(かさ)ねてからく召(め)されければ、一門(いちもん)馳(は)せ集(あつ)まり、案者(あんじや)・口(くち)聞(き)き寄(よ)り合(あ)ひ、伴(ともな)ひ談(だん)すると雖(いへど)も道理(だうり)は一(ひと)つも無(な)かりけり。祐継(すけつぎ)存生(ぞんじやう)の時(とき)より、執心(しうしん)深(ふか)くして、如何(いか)にも此(こ)の所(ところ)を、祐親(すけちか)が拝領(はいりやう)にせんと、多年(たねん)心(こころ)に懸(か)け、既(すで)に十余年(よねん)知行(ちぎやう)の所(ところ)なり。一期(いちご)の大事(だいじ)と、金銀(きんぎん)を調(ととの)へ、秘(ひそ)かに奉行所(ぶぎやうしよ)へぞ上(のぼ)せける。誠(まこと)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「青蝿(せいよう)も、すひしやうを汚(けが)さず、邪論(じやろん)も、くの聖(ひじり)を惑(まど)はず」とは申(まう)せども、奉行(ぶぎやう)のめづるも、理(ことわり)也(なり)。漢書(かんじよ)を見(み)るに、「水(みづ)いたつて清(きよ)ければ、底(そこ)に魚(うを)住(す)まず。人いたつてせんなれば、内(うち)に徒(と)も無(な)し」と見(み)えたり。然(さ)ればにや、奉行(ぶぎやう)、誠(まこと)に宝(たから)重(おも)くして、祐経(すけつね)が申状(まうしじやう)、立(た)たざる事(こと)こそ、無念(むねん)なれ。月は明(あき)らかならんとすれども、浮雲(ふうん)是(これ)をおほひ、水(みづ)はすまんとすれども、泥沙(でいしや)是(これ)を汚(けが)す。君(きみ)賢(けん)なりと雖(いへど)も、臣(しん)是(これ)を汚(けが)す理(ことわり)に依(よ)つて、本券(ほんけん)、箱(はこ)の底(そこ)にくちて、空(むな)しく年月(としつき)を送(おく)る間(あひだ)、祐経(すけつね)、鬱憤(うつぷん)に住(ぢゆう)して、重(かさ)ねて申状(まうしじやう)を奉行所(ぶぎやうしよ)に捧(ささ)ぐ。其(そ)の状(じやう)に曰(いは)く、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊東(いとう)工藤(くどう)一郎平(たひら)の祐経(すけつね)、重(かさ)ねて言上(ごんじやう)、 早(はや)く、御裁許(さいきよ)を蒙(かうぶ)らんと欲(ほつ)する子細(しさい)の事。右(みぎ)件(くだん)の条(でう)、祖父(おほぢ)■美(くすみ)の入道(にふだう)寂心(じやくしん)他界(たかい)の後(のち)、親父(しんぷ)伊東(いとう)武者(むしや)祐継(すけつぎ)、舎弟(しやてい)祐親(すけちか)、兄弟(きやうだい)の中、不和(ふわ)なるに依(よ)つて、対決(たいけつ)度々(どど)に及(およ)ぶと雖(いへど)も、祐継(すけつぎ)、当腹(たうぶく)寵愛(ちようあい)たるに依(よ)つて、安堵(あんど)の御(おん)下(くだ)し文(ぶみ)を賜(たま)はつて、P064既(すで)に数(す)ケ年をへ畢(をは)んぬ。此処(ここ)に、祐継(すけつぎ)、一期(いちご)限(かぎ)りの病(やまひ)の床(ゆか)にのぞむきざみ、河津(かはづ)の二郎(じらう)、日頃(ひごろ)の意趣(いしゆ)を忘(わす)れ、忽(たちま)ちに訪(とぶら)ひ来(き)たる。其(そ)の時(とき)、祐経(すけつね)は、生年(しやうねん)九歳(きうさい)也(なり)き。叔父(をぢ)河津(かはづ)の二郎(じらう)に、地券(ぢけん)文書(もんじよ)、母(はは)共(とも)に預(あづ)け置(お)きて、八か年(ねん)の春(はる)秋を送(おく)る。親方(おやかた)にあらずは、しこうのしんと申(まう)すべきや。所詮(しよせん)、世(よ)のけいに任(まか)せ、伊東(いとう)の二郎(じらう)に賜(たま)はるべきか、又(また)祐経(すけつね)に賜(たま)はるべきか、相伝(さうでん)の道理(だうり)について、憲法(けんばう)の上裁(じやうさい)を仰(あふ)がんと欲(ほつ)す。よつて、誠惶(せいくわう)誠恐(せいきよう)、言上(ごんじやう)件(くだん)の如(ごと)く。仁安二年三月日平(たひら)の祐経(すけつね)と書(か)きてさうさう。ししよに、此(こ)の状(じやう)を披見(ひけん)有(あ)りて、差(さ)しあたる道理(だうり)にわづらひけるよと、人々(ひとびと)寄(よ)り合(あ)ひ、内談(ないだん)す。誠(まこと)に、祐経(すけつね)が申状(まうしじやう)、一(ひと)つとして僻事(ひがこと)無(な)し。是(これ)は裁許(さいきよ)せずは、憲法(けんばう)にそねまれなん。又(また)、伊東(いとう)宝(たから)を上(のぼ)せて、万事(ばんじ)奉行(ぶぎやう)を頼(たの)むと言(い)ふ。然(しか)れども、祐経(すけつね)は、左右(さう)無(な)く理運(りうん)たる間(あひだ)、奉行所(ぶぎやうしよ)のはからひとして、よの安堵(あんど)の状(じやう)二書(か)きて、大宮(おほみや)の令旨(りやうじ)を添(そ)へ、りやうへ下(くだ)さる。伊東(いとう)は、半分(はんぶん)也(なり)とも賜(たま)はる所(ところ)、奉行(ぶぎやう)の御恩(ごおん)と喜(よろこ)びて、本国(ほんごく)へぞ下(くだ)りける。書(しよ)は言葉(ことば)をつくさず、言葉(ことば)は心(こころ)をつくさずと雖(いへど)も、一郎は、言葉(ことば)を失(うしな)ひ、十五より、本所(ほんじよ)に参(まゐ)り、日夜(にちや)朝暮(てうぼ)、給仕(きうじ)を致(いた)し、今年(ことし)八年か九年(ねん)かと覚(おぼ)ゆるに、重(かさ)ねて御恩(ごおん)こそ蒙(かうぶ)らざらめ、先祖(せんぞ)所領(しよりやう)を半分(はんぶん)召(め)さるる事(こと)そも何事(なにごと)ぞ、「源(みなもと)濁(にご)れる時(とき)は、清(きよ)からんをのぞみ、P065形(かたち)ゆがめる時(とき)は、影(かげ)のどかならんを思(おも)ふ」と、かたに見(み)えたり、父(ちち)祐継(すけつぎ)が世(よ)には、斯様(かやう)によも分(わ)けじ、今(いま)なんぞ半分(はんぶん)の主(ぬし)たるべきや、是(これ)偏(ひとへ)に親方(おやかた)ながら、伊東(いとう)が致(いた)す所(ところ)なり、我(わ)が身(み)こそ、京都(きやうと)にすむとも、せんこは皆(みな)、弓矢(ゆみや)取(と)りの遺恨(いこん)なり、如何(いか)でか、此(こ)の事(こと)恨(うら)みざるべきとて、秘(ひそ)かに都(みやこ)を出(い)でて、駿河(するが)の国(くに)高橋(たかはし)と言(い)ふ所(ところ)に下(くだ)り、きつかひ・船越(ふなこし)・おきの・蒲原(かんばら)・入江(いりえ)の人々(ひとびと)、外戚(げしやく)につきて、親(した)しかりければ、二百四人寄(よ)り合(あ)ひて、祐親(すけちか)打(う)ちて、領所(りやうしよ)を一人して進退(しんだい)せんと思(おも)ふ心、付(つ)きにけり。此(こ)の儀(ぎ)、神慮(しんりよ)も量(はか)り難(がた)し。例(たと)へば、差(さ)しあたる道理(だうり)は、顕然(けんぜん)たりと雖(いへど)も、昔(むかし)の恩(おん)を忘(わす)れ、忽(たちま)ちに悪行(あくぎやう)をたくむ事(こと)、いとう昔(むかし)をも思(おも)ひ、てんしゆか古(いにしへ)も尋(たづ)ぬべき。第一(だいいち)に叔父(をぢ)なり、第二(だいに)に養父(やうぶ)也(なり)、第三に舅(しうと)なり、第四に烏帽子親(えぼしおや)なり、第五(だいご)に一族(いちぞく)中(ちゆう)の老者(らうしや)なり、方々(かたがた)以(もつ)て、愚(おろ)かならず。斯様(かやう)に思(おも)ひ立(た)つぞ、恐(おそ)ろしき。如何(いか)にも思慮(しりよ)有(あ)る人に候(さうら)ふや。剰(あまつさ)へ地領(りやう)を奪(うば)はん事(こと)、不可思議(ふかしぎ)なり。祐親(すけちか)、是(これ)を返(かへ)り聞(き)きて、嫡子(ちやくし)河津(かはづ)三郎(さぶらう)祐重(すけしげ)、次男(じなん)伊藤(いとう)九郎祐清(すけきよ)、其(そ)の外(ほか)一門(いちもん)老少(らうせう)呼(よ)び集(あつ)め、用心(ようじん)厳(きび)しくしければ、力(ちから)に及(およ)ばす。是(これ)や、富貴(ふき)にして、善(ぜん)を成(な)し安(やす)く、貧賎(ひんせん)にして、工(こう)を成(な)し難(がた)しと、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られたり。其(そ)の後(のち)、伊東(いとう)の二郎(じらう)、此(こ)の事(こと)有(あ)りの儘(まま)に京都(きやうと)へ訴(うつた)へ申(まう)して、長(なが)く祐経(すけつね)を本所(ほんじよ)へ入(い)れ立(た)てずして、年貢(ねんぐ)所当(しよたう)におきては、芥子(けし)程(ほど)も残(のこ)らず、横領(わうりやう)する間(あひだ)、祐経(すけつね)、身(み)の置(お)き所(どころ)無(な)くP066して、又(また)、京都(きやうと)に帰(かへ)り上(のぼ)り、秘(ひそ)かに住(ぢゆう)す。伊東(いとう)に、祐経(すけつね)は悩(なや)まされ、本意(ほんい)を忘(わす)れ、祐経(すけつね)が妻女(さいぢよ)取(と)り返(かへ)し、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)土肥(とひ)の二郎(じらう)実平(さねひら)が嫡子(ちやくし)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)に合(あ)はせけり。国(くに)には又(また)、並(なら)ぶ者(もの)無(な)くぞ見(み)えたり。然(さ)れども、「功賞(こうしやう)無(な)き不義(ふぎ)の富(とみ)は、禍(わざわひ)の媒(なかだち)」と、左伝(さでん)に見(み)えたり。然(さ)れば、行(ゆ)く末(すゑ)如何(いかが)とぞ覚(おぼ)えし。工藤(くどう)一郎は、なまじひの事(こと)を言(い)ひ出(い)だして、叔父(をぢ)に中(なか)を違(たが)はれ、夫妻(ふさい)の別(わか)れ、所帯(しよたい)は奪(うば)はれ、身(み)を置(お)き兼(か)ねて、胆(きも)をやきける間(あひだ)、給仕(きうじ)も疎略(そらく)になりにけり。然(さ)ればにや、御気色(ごきしよく)も悪(あ)しく、傍輩(はうばい)も、側目(そばめ)に懸(か)けければ、積鬱(せきうつ)たゑすかと思(おも)ひ焦(こ)がれて、秘(ひそ)かに本国(ほんごく)に下(くだ)り、大見庄(おほみのしやう)に住(ぢゆう)して、年頃(としごろ)の郎等(らうどう)に、大見(おほみ)の小藤太(ことうだ)、八幡(やはた)の三郎(さぶらう)を招(まね)き寄(よ)せて、泣(な)く泣(な)くささやきけるは、「各々(おのおの)、つぶさに聞(き)け。相伝(さうでん)の所領(しよりやう)を横領(わうりやう)せらるるだにも、安からざるに、結句(けつく)、女房(にようばう)まで取(と)り返(かへ)されて、土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)に合(あ)はせらるる条(でう)、口惜(くちを)しきとも、余(あま)り有(あ)り。今(いま)は命(いのち)を捨(す)てて、矢(や)一(ひと)つ射(い)ばやと思(おも)ふなり。現(あらは)れては、せん事(こと)適(かな)ふまじ。我(われ)又(また)、便宜(びんぎ)を窺(うかが)はば、人に見(み)知(し)られて、本意(ほんい)を遂(と)げ難(がた)し。然(さ)ればとて、止(とど)まるべきにもあらず。如何(いかが)せん、各々(おのおの)さりげなくして、狩(かり)すなどりの所(ところ)にても、便(びん)を窺(うかが)ひ、矢(や)一(ひと)つ射(い)んにや、もし宿意(しゆくい)を遂(と)げんにおきては、重恩(ぢゆうおん)、生々(しやうじやう)世々(せせ)にも、報(ほう)じて余(あま)り有(あ)り。如何(いかが)せん」とぞくどきけり。二人の郎等(らうどう)聞(き)き、一同(いちどう)に申(まう)しけるは、「是(これ)までも、仰(おほ)せらるべからず。弓矢(ゆみや)を取(と)り、P067世(よ)を渡(わた)ると申(まう)せども、万死(ばんし)一生(いつしやう)は、一期(いちご)一度(いちど)とこそ承(うけたまは)れ。然(さ)れば、古(ふる)き言葉(ことば)にも、「功(こう)は成(な)し難(がた)くして、しかも破(やぶ)れ安(やす)き、時(とき)はあひ難(がた)くして、しかも失(うしな)ひ安し」。此(こ)の仰(おほ)せこそ、面目(めんぼく)にて候(さうら)へ。是非(ぜひ)命(いのち)におきては、君(きみ)に参(まゐ)らする」とて、各々(おのおの)座敷(ざしき)を立(た)ちければ、頼(たの)もしくぞ思(おも)ひける。伊東(いとう)は、いささか此(こ)の儀(ぎ)を知(し)らざるこそ、悲(かな)しけれ。
〔佐(すけ)殿(どの)、伊東(いとう)の館(たち)に坐(ま)します事(こと)〕S0106N010
かくて、隙(ひま)を窺(うかが)ふ程(ほど)に、其(そ)の頃(ころ)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、伊東(いとう)の館(たち)に坐(ま)しましけるに、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)大庭(おほば)の平太(へいだ)景信(かげのぶ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。一門(いちもん)寄(よ)り合(あ)ひ、酒(さか)もりしけるが、申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)は、昔(むかし)は、源氏(げんじ)の郎等(らうどう)也(なり)しかども、今(いま)は、平家(へいけ)の御恩(ごおん)を以(もつ)て、妻子(さいし)を育(はごく)むと雖(いへど)も、古(いにしへ)のこう、忘(わす)るべきにあらず。いざや、佐(すけ)殿(どの)の、いつしか流人(るにん)として、徒然(とぜん)に坐(ま)しますらん。一夜(いちや)、宿直(とのゐ)申(まう)して、慰(なぐさ)め奉(たてまつ)り、後日(ごにち)の奉公(ほうこう)に申(まう)さん」「もつとも然(しか)るべし」とて、一門(いちもん)五十余人(よにん)、出(い)で立(た)ちたり。人別(べつ)筒(つつ)一あてぞ持(も)ちにける。是(これ)を聞(き)き、三浦(みうら)、鎌倉(かまくら)、土肥(とひ)の二郎(じらう)、岡崎(をかざき)、本間(ほんま)、渋谷(しぶや)、糟屋(かすや)、松田(まつだ)、土屋(つちや)、曾我(そが)の人々(ひとびと)、思(おも)ひ思(おも)ひに出(い)で立(た)ちにけり。然(さ)る程(ほど)に、近国(きんごく)の侍(さぶらひ)、聞(き)き伝(つた)へ、「我(われ)も如何(いか)でかP068逃(のが)るべき。いざや参(まゐ)らん」とて、相模(さがみ)の国(くに)には、大庭(おほば)が舎弟(しやてい)三郎(さぶらう)、俣野(またの)の五郎(ごらう)、さこしの十郎(じふらう)、山内(やまうち)滝口(たきぐち)の太郎、同(おな)じく三郎(さぶらう)、海老名(えびな)の源八(げんぱち)、荻野(おぎの)五郎(ごらう)、駿河(するが)の国(くに)には、竹下(たけのした)の孫八(まごはち)、合沢(あひざは)の弥五郎(やごらう)、吉川(きつかは)、船越(ふなこし)、入江(いりえ)の人々(ひとびと)、伊豆(いづ)の国(くに)には、北条(ほうでう)の四郎(しらう)、同(おな)じく三郎(さぶらう)、天野(あまの)の藤内(とうない)、狩野(かの)の工藤五(くとうご)を始(はじ)めとして、むねとの人々(ひとびと)五百人、伊豆(いづ)の伊東(いとう)へぞ移(うつ)りける。伊東(いとう)、大(おほ)きに喜(よろこ)びて、内外(ないげ)の侍(さぶらひ)、一面(めん)に取(と)り払(はら)ひ、猶(なほ)狭(せば)かりなんとて、壼(つぼ)に仮屋(かりや)を打(う)ち出(い)だし、大幕(おほまく)引(ひ)き、上下二千四五百人の客人(きやくじん)を、一日(いちにち)一夜(いちや)ぞもてなしける。土肥(とひ)の二郎(じらう)、是(これ)を見(み)/て、「雑掌(ざつしやう)は、百人二百人までは安し。既(すで)に二三千人の客人(きやくじん)を一人に預(あづ)くる事(こと)、無骨(ぶこつ)なり」と言(い)ふ。伊東(いとう)、是(これ)を聞(き)き、「河津(かはづ)と申(まう)す小郷(せうがう)を知行(ちぎやう)せし時(とき)にも、いづれの誰(たれ)に、我(わ)が劣(おと)りて振舞(ふるま)ひし。ましてや、■美庄(くすみのしやう)をふさねて持(も)ち候(さうら)ふ間(あひだ)、予(かね)て承(うけたまは)る物(もの)ならば、などや面々(めんめん)に引出物(ひきでもの)申(まう)さで有(あ)るべき。是(これ)程(ほど)の事(こと)、何(なに)かは苦(くる)しかるべき」とて、山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)にて、三日三夜(や)ぞもてなしける。又(また)、海老名(えびな)の源八(げんぱち)の申(まう)しけるは、「斯(か)かる寄(よ)り合(あ)ひに参(まゐ)るべしと存(ぞん)じて候(さうら)はば、国(くに)より勢子(せこ)の用意(ようい)して、音(おと)に聞(き)こゆる奧野(おくの)に入(い)り、物頭(ものがしら)に馬(むま)相(あひ)付(つ)け、鏑(かぶら)のとほなりさせざるが、無念(むねん)なり」と言(い)ひければ、伊東(いとう)、是(これ)を聞(き)き、「祐親(すけちか)を人と思(おも)ひてこそ、両三日国(がこく)の人々(ひとびと)打(う)ち寄(よ)りて、遊(あそ)び給(たま)ふらめ。左右(さう)無(な)く、座敷(ざしき)にて、勢子(せこ)の願(ねが)ひやうこそ、心(こころ)狭(せば)けれ。それそれ河津(かはづ)の三郎(さぶらう)、勢子(せこ)催(もよほ)して、鹿(しし)P069射(い)させ申(まう)せ」と言(い)ひけるぞ、伊東(いとう)の運(うん)の極(きは)めなる。河津(かはづ)は、もとより穩便(おんびん)の者(もの)にて、心(こころ)の内(うち)には、殺生(せつしやう)を禁(きん)ずる人なりければ、如何(いか)にもして、此(こ)の度(たび)の狩(かり)を申(まう)し止(とど)めなば、よからましと思(おも)へども、多(おほ)き侍(さぶらひ)の中(なか)にて、親(おや)の申(まう)す事(こと)なれば、力(ちから)及(およ)ばで、座敷(ざしき)を立(た)ち、我(われ)と勢子(せこ)をぞ催(もよほ)しける。「幼(をさな)き者(もの)は、馬(むま)に乗(の)りて出(い)でよ。大人(おとな)は、弓矢(ゆみや)をもて」とふれければ、■美庄(くすみのしやう)ひろくして、老若(らうにやく)に三千四五百人ぞ出(い)でたりける。彼(かれ)等(ら)を先(さき)として、三が国(こく)の人々(ひとびと)、我(われ)も我(われ)もと打(う)ち出(い)でたり。伊東(いとう)・河津(かはづ)が妻女(さいぢよ)、数(かず)の女房(にようばう)引(ひ)きつれて、南(みなみ)の中門(ちゆうもん)に立(た)ち出(い)でて、打(う)ち出(い)でける人々(ひとびと)を見(み)送(おく)りける。中(なか)にも、河津(かはづ)三郎(さぶらう)は、余(よ)の人にもまがはず、器量(きりやう)骨柄(こつがら)すぐれたり。「此(こ)の内(うち)のたいしんと言(い)ひたりとも、悪(あ)しからじ。子(こ)ながらも、優(いう)に見(み)ゆる物(もの)かな。頼(たの)もし」と宣(のたま)ひければ、河津(かはづ)が女房(にようばう)、是(これ)を聞(き)き、「弓矢(ゆみや)取(と)りの物(もの)いでの姿(すがた)、女(をんな)見(み)送(おく)る事(こと)、詮(せん)無(な)し。内(うち)に入(い)らせ給(たま)へ」と言(い)ひければ、実(げ)にもとて、各々(おのおの)内(うち)にぞ入(い)りにける。神無月(かんなづき)十日余(あま)りに、伊豆(いづ)の奥野(おくの)へ入(い)りにけり。
〔大見(おほみ)・八幡(やはた)が伊東(いとう)狙(ねら)ひし事(こと)〕S0107N011
此処(ここ)に、祐経(すけつね)が二人の郎等(らうどう)大見(おほみ)・八幡(やはた)は、是(これ)を聞(き)き、斯様(かやう)の所(ところ)こそ、よき便宜(びんぎ)P070なれ、いざや、我(われ)等(ら)、便(たよ)りを狙(ねら)はんと、各々(おのおの)、柿(かき)の直垂(ひたたれ)に、鹿矢(ししや)さけたる竹箙(たけえびら)取(と)りて付(つ)け、白木(しらき)の弓(ゆみ)のいよげなるを打(う)ちかたげ、勢子(せこ)にかきまぎれ、狙(ねら)ふ所々(ところどころ)は、一日は柏峠(かしはがたうげ)、熊倉(くまくら)、二日は荻窪(おぎがくぼ)、椎沢(しいがさは)、三日は長倉(ながくら)が渡(わた)り、朽木沢(くちきがさは)、赤沢峰(あかざはがみね)を始(はじ)めとして、七日が間(あひだ)、つきめぐりてぞ狙(ねら)ひける。然(しか)れども、伊藤(いとう)、国(くに)一番(いちばん)の大名(だいみやう)にて、家(いへ)の子(こ)郎等(らうどう)多(おほ)かりければ、たやすく討(う)つべき様(やう)ぞ、無(な)かりける。
〔杵臼(しよきう)・程嬰(ていえい)が事(こと)〕S0108N012
此(こ)の者(もの)共(ども)が、心(こころ)をつくしける有様(ありさま)にて、昔(むかし)を思(おも)ふに、大国(たいこく)に、かうめひ王(わう)と言(い)ふ国王(こくわう)有(あ)り、国(くに)を争(あらそ)ひて、並(なら)びの国(くに)の王(わう)と軍(いくさ)し給(たま)ふ事(こと)、度々(たびたび)なり。然(しか)るに、かうめい王(わう)、戦(たたか)ひ負(ま)けて、自害(じがい)に及(およ)ばんとす。時(とき)に、杵臼(しよきう)・程嬰(ていえい)とて、二人の臣下(しんか)有(あ)り。彼(かれ)等(ら)を近付(ちかづ)けて、「汝(なんぢ)等(ら)は、定(さだ)めて、我(われ)と共(とも)に自害(じがい)せんとぞ思(おも)ふらん。是(これ)、誠(まこと)にしゆんろ、逃(のが)るる所(ところ)無(な)し。さりながら、我(われ)、一人の太子(たいし)に、屠岸賈(とがんか)と言(い)ひて十一歳(さい)に成(な)るを、故郷(ふるさと)に止(とど)め置(お)きぬ。我(われ)自害(じがい)の後(のち)、雑兵(ざふひやう)の手(て)にかかりて、命を空(むな)しくせん事(こと)、口惜(くちを)しければ、汝(なんぢ)等(ら)、如何(いか)にもして逃(のが)れ出(い)でて、此(こ)の子(こ)を育(はごく)み育(そだ)てて、敵(かたき)を滅(ほろ)ぼし、無念(むねん)の散(さん)ぜよ」と宣(のたま)ひけれP071ば、二人の臣下(しんか)、異議(いぎ)に及(およ)ばずして、城(しろ)の内(うち)を忍(しの)び出(い)でにけり。国王(こくわう)、心(こころ)安(やす)くして、自害(じがい)し給(たま)ひけり。さて、二人の臣下(しんか)、都(みやこ)に帰(かへ)り、太子(たいし)をいざあひ出(い)だして、養(やう)じけるぞ、無慙(むざん)なる。敵(かたき)の大王(だいわう)、是(これ)を聞(き)き伝(つた)へ、「末(すゑ)の世(よ)には、我(わ)が敵(かたき)なり。彼(か)の太子(たいし)、同(おな)じく二人の臣下(しんか)、共(とも)に、首(くび)を取(と)りて来(き)たらん者(もの)には、勲功(くんこう)は所望(しよまう)によるべし」と、国々(くにぐに)に宣旨(せんじ)を下(くだ)されけり。此(こ)の宣旨(せんじ)に従(したが)つて、彼(か)の人々(ひとびと)に心(こころ)を懸(か)け、如何(いか)にもとあやしみ思(おも)はぬ者(もの)は無(な)し。然(しか)れども、一所(いつしよ)の住(す)まひ適(かな)はで、或(ある)いは、遠(とほ)き里(さと)に交(まじ)はり、深(ふか)き山に籠(こも)りて、身(み)を隠(かく)すと雖(いへど)も、所(ところ)無(な)くして、二人寄(よ)り合(あ)ひ、如何(いかが)せんとぞ歎(なげ)きける。程嬰(ていえい)申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)が、君(きみ)を養(やう)じ奉(たてまつ)るに、敵(かたき)こはくして、国中(こくちゆう)に隠(かく)れ難(がた)し。然(さ)れば、我(われ)等(ら)二人が内(うち)に、一人、敵(かたき)の王(わう)に出(い)で仕(つか)へん。然(さ)る物(もの)とて、使(つか)ふとも、心(こころ)を許(ゆる)す事(こと)あらじ。我(われ)、きくわくと言(い)ひて、十一歳(さい)に成(な)る子(こ)を、一人持(も)ちたり。幸(さいは)ひ、是(これ)も、若君(わかぎみ)と同年(どうねん)也(なり)。是(これ)を大子(たいし)と号(かう)して、二人が中、一人は山に籠(こも)り、一人は討手(うつて)に来(き)たり、主従(しゆうじゆう)二人を打(う)ち、首(くび)を取(と)り、敵(かたき)の王(わう)に捧(ささ)げなば、如何(いか)でか心(こころ)許(ゆる)さざるべき。其(そ)の時(とき)、敵(かたき)をやすやすと打(う)ち取(と)るべし」と言(い)ひければ、杵臼(しよきう)申(まう)しけるは、「命(いのち)ながらへて後(のち)に、事(こと)をなすべきこらへのせいは、遠(とほ)くしてかたし。今(いま)、太子(たいし)と同(おな)じく死(し)せんは、近(ちか)くして安し。然(しか)れば、杵臼(しよきう)は、こらへのせい、少(すく)なき者(もの)なり。安(やす)きP072に付(つ)き、我(われ)先(ま)づ死(し)ぬべし。程嬰(ていえい)は、敵方(てきはう)に出(い)でん事(こと)を急(いそ)ぎ給(たま)へ」とぞ申(まう)しける。其(そ)の後(のち)、程嬰(ていえい)、我(わ)が子(こ)のきくわくを近付(ちかづ)けて、「如何(いか)にや、汝(なんぢ)、詳(くは)しく聞(き)け。我(われ)等(ら)は、主君(しゆくん)の大子(たいし)を隠(かく)し奉(たてまつ)る。既(すで)に我々(われわれ)、汝(なんぢ)等(ら)までも、敵(かたき)にとらはれて、犬死(いぬじに)をせん事(こと)、疑(うたが)ひ無(な)し。然(しか)れば、汝(なんぢ)を太子(たいし)と偽(いつは)り奉(たてまつ)りて、首(くび)を取(と)るべし。恨(うら)むる事(こと)無(な)くして、御命(おんいのち)に代(か)はり奉(たてまつ)りて、君(きみ)をも安全(あんぜん)ならしめよ。親(おや)なればとて、添(そ)ひはつべきにもあらず。来世(らいせ)にて生(う)まれあふべし」と申(まう)しければ、きくわく、聞(き)きも敢(あ)へず、涙(なみだ)を流(なが)して、しばしは返事(へんじ)せざりけり。父(ちち)、此(こ)の色(いろ)を見(み)/て、「未練(みれん)なり。汝(なんぢ)、はや十歳(さい)に余(あま)るぞかし。弓矢(ゆみや)取(と)る者(もの)の子(こ)は、胎(はら)の内(うち)よりも、物(もの)の心(こころ)は知(し)るぞかし」といさめければ、きくわく、此(こ)の言葉(ことば)に恥(は)ぢて、言(い)ひけるは、言葉(ことば)こそ無慙(むざん)なる、「辞退(じたい)申(まう)すべきにあらず。誠(まこと)に、某(それがし)は、命(いのち)一(ひと)つにて、君(きみ)と父(ちち)との孝行(かうかう)に捧(ささ)げ申(まう)さん事(こと)、惜(を)しからざる物(もの)をや、歎(なげ)きの中(なか)の喜(よろこ)び也(なり)」と言(い)ひも敢(あ)へず、涙(なみだ)にむせびける。父(ちち)、是(これ)を聞(き)き、子(こ)ながらも、優(いう)に使(つか)ひたる言葉(ことば)かな、未(いま)だ幼(をさな)き者(もの)ぞかし、誠(まこと)に我(わ)が子(こ)なり、成人(せいじん)の後(のち)、惜(を)しと言(い)ふも余(あま)り有(あ)り、弱(よわ)き心(こころ)の見(み)えなば、もし未練(みれん)にもやと思(おも)ひければ、流(なが)るる涙(なみだ)を押(お)し止(とど)め、「弓矢(ゆみや)の家(いへ)に生(う)まれて、君(きみ)の為(ため)に命(いのち)を捨(す)つる事(こと)、汝(なんぢ)一人にも限(かぎ)らず、最後(さいご)未練(みれん)にては、君(きみ)の御(おん)為(ため)、P073父(ちち)が為(ため)、中々(なかなか)見(み)苦(ぐる)しとて、一命(めい)を損(そん)にすべき也(なり)」と言(い)ひければ、きくわく、涙(なみだ)を抑(おさ)へて、「か程(ほど)には、深(ふか)く思(おも)ひ定(さだ)めて候(さうら)へば、如何(いか)で愚(おろ)かなるべき。さりながら、差(さ)しあたる父母(ちちはは)の御(おん)別(わか)れ、如何(いか)でか惜(を)しからでそろべき。心(こころ)安(やす)く思(おぼ)し召(め)せ。最後(さいご)におきては、思(おも)ひ定(さだ)めて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、父(ちち)も、心(こころ)安(やす)くぞ思(おも)ひける。さて又(また)、二人寄(よ)り合(あ)ひ、内談(ないだん)する様(やう)、「先(ま)づ今(いま)、君(きみ)の御(おん)為(ため)に、打(う)たるべき命(いのち)は安(やす)く、残(のこ)り止(とど)まりて、敵(かたき)を打(う)ち、太子(たいし)世(よ)に立(た)て申(まう)さん事(こと)、重(おも)きが上(うへ)の大事(だいじ)なり。如何(いかが)はせん。ながらへ、功(こう)をなす事(こと)、堪忍(かんにん)し難(がた)し。我(われ)、先(ま)づしなん」とて、杵臼(しよきう)は、十一歳(さい)のきくわくをつれて、山に籠(こも)り、討手(うつて)を待(ま)ちける心(こころ)の内(うち)、無慙(むざん)と言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。其(そ)の後(のち)、程嬰(ていえい)、敵(かたき)の王(わう)のあたりに行(ゆ)き、「召(め)し使(つか)はれむ」と申(まう)す。敵王(てきわう)聞(き)き、此(こ)の者(もの)、身(み)を捨(す)て、面(おもて)をよごし、我(われ)に使(つか)ふべき臣下(しんか)にあらず、さりながら、世変(か)はり、時(とき)移(うつ)れば、さもやと思(おも)ひ、かたはらに許(ゆる)し置(お)くとは雖(いへど)も、猶(なほ)害心(がいしん)に恐(おそ)れて、許(ゆる)す心(こころ)無(な)かりけり。言(い)ひ合(あ)はせたる事(こと)なれば、「我(われ)、今(いま)、君王(くんわう)に仕(つか)へて、二心(ふたごころ)無(な)し。疑(うたが)ひ事(こと)わりなれども、世界(せかい)を狭(せば)められ、恥辱(ちじよく)にかへて、助(たす)かるなり。なほし、用(もち)ひ給(たま)はずは、主君(しゆくん)の太子(たいし)、臣下(しんか)の杵臼(しよきう)諸(もろ)共(とも)に、隠(かく)れ居(ゐ)たる所(ところ)を、詳(くは)しく知(し)れり。討手(うつて)を賜(たま)はつて向(む)かひ、彼(かれ)等(ら)を打(う)ち、首(くび)を取(と)りて見(み)せ参(まゐ)らせん」と言(い)ふ。其(そ)の時(とき)、国王(こくわう)、和睦(くわぼく)の心(こころ)を成(な)し、数千人(すせんにん)P074の兵(つはもの)を差(さ)し添(そ)へ、彼(かれ)等(ら)隠(かく)れ居(ゐ)たる山へ押(お)し寄(よ)せ、四方(しはう)をかこみ、閧(とき)の声(こゑ)をぞ上(あ)げたりける。杵臼(しよきう)は、思(おも)ひ設(まう)けたる事(こと)なれば、鎮(しづ)まり返(かへ)りて、音(おと)もせず。程嬰(ていえい)、すすみ出(い)で申(まう)しけるは、「是(これ)は、かうめい王(わう)の太子(たいし)屠岸賈(とがんか)や坐(ま)します。程嬰(ていえい)、討手(うつて)に参(まゐ)りたり。雑兵(ざふひやう)の手(て)にかかり給(たま)はんより、急(いそ)ぎ自害(じがい)し給(たま)へ。逃(のが)れ給(たま)ふべきにあらず」と申(まう)しければ、杵臼(しよきう)立(た)ち出(い)で、「若君(わかぎみ)の坐(ま)します事(こと)、隠(かく)し申(まう)すべきにあらず。待(ま)ち給(たま)へ。御自害(じがい)有(あ)るべし。さりながら、今日(けふ)の大将軍(たいしやうぐん)の程嬰(ていえい)は、昨日(きのふ)までは、まさしき相伝(さうでん)の臣下(しんか)ぞかし。一旦(いつたん)の依怙(ゑこ)に住(ぢゆう)すとも、遂(つひ)には、天罰(てんばつ)降(ふ)り来(き)たり、遠(とほ)からざるに、失(う)せなん果(はて)を見(み)ばや」とぞ申(まう)しける。程嬰(ていえい)、是(これ)を聞(き)き、「時世(ときよ)に従(したが)ふ習(なら)ひ、昔(むかし)は、さもこそ有(あ)りつらめ、今(いま)又(また)、変(か)はる折節(をりふし)なり。然(さ)ればにや、君(きみ)も、御運(ごうん)もつきはて、命(めい)もつづまり給(たま)ふぞかし。徒(いたづ)らごとにかかはりて、命(いのち)失(うしな)ひ給(たま)はんより、兜(かぶと)を脱(ぬ)ぎ、弓(ゆみ)の弦(つる)をはづし、降参(かうさん)し給(たま)へ。古(いにしへ)の情(なさけ)を以(もつ)て、助(たす)くべし」とぞ言(い)ひける。十一歳(さい)のきくわく、討手(うつて)は父(ちち)よと知(し)りながら、予(かね)て定(さだ)めし事(こと)なれば、父(ちち)重代(ぢゆうだい)の剣(けん)をよこたへて、高(たか)き所(ところ)に走(はし)り上(あ)がり、「如何(いか)に、人々(ひとびと)、聞(き)き給(たま)へ。かうめい王(わう)の太子(たいし)として、臣下(しんか)の手(て)に掛(か)かるべき事(こと)にもあらず。又(また)、臣下(しんか)心(こころ)がはりも、恨(うら)むべきにもあらず。只(ただ)前業(ぜんごふ)つたなけれ。さりながら、其(そ)の家(いへ)久(ひさ)しき郎等(らうどう)ぞかし。程嬰(ていえい)、出(い)で給(たま)へ。日頃(ひごろ)のよしみに、今(いま)一度(いちど)見参(げんざん)せん」と言(い)ひけれP075ば、程嬰(ていえい)、我(わ)が子(こ)の振舞(ふるま)ひを見(み)/て、心(こころ)安(やす)く思(おも)へども、忍(しの)びの涙(なみだ)ぞすすみける。兵(つはもの)あやしくや見(み)るらんと、落(お)つる涙(なみだ)を押(お)し止(とど)め、「人々(ひとびと)、是(これ)を聞(き)き給(たま)へ。国王(こくわう)の太子(たいし)とて、優(いう)に使(つか)ひたる言葉(ことば)かな。かうこそ」と言(い)ひけるが、さすが恩愛(おんあい)の別(わか)れ、包(つつ)み兼(か)ねたる涙(なみだ)の袖(そで)、絞(しぼ)りも敢(あ)へず、余所(よそ)の哀(あは)れを催(もよほ)しつつ、相(あひ)従(したが)ふ兵(つはもの)、差(さ)しあたりたる道理(だうり)なれば、共(とも)に感(かん)ぜぬは無(な)かりけり。其(そ)の後(のち)、太子(たいし)、高声(かうしやう)に曰(いは)く、「我(われ)は是(これ)、かうめい王(わう)の子、生年(しやうねん)十一歳(さい)。父(ちち)一所(いつしよ)に向(む)かへ給(たま)へ」と言(い)ひもはてず、剣(けん)を抜(ぬ)き、貫(つらぬ)かれてぞ、伏(ふ)しぬ。杵臼(しよきう)、同(おな)じく立(た)ち寄(よ)りて、「御(おん)けなげにも、御自害(じがい)候(さうら)ふ物(もの)かな。某(それがし)も、追(お)ひ付(つ)き奉(たてまつ)らん」とて、腹(はら)十文字(じふもんじ)にかき破(やぶ)り、太子(たいし)の死骸(しがい)にまろびかかりて、伏(ふ)しける有様(ありさま)、みるに言葉(ことば)も及(およ)ばれず、無慙(むざん)なりし例(ためし)なり。さて、二人が首(くび)を取(と)り、帝王(ていわう)に捧(ささ)ぐ。叡覧(えいらん)有(あ)りて、喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開(ひら)き給(たま)ふ。今(いま)は、疑(うたが)ふ所(ところ)無(な)く、程嬰(ていえい)に心(こころ)を許(ゆる)し、一(いち)の大臣(だいじん)にいはひたも(ま)ふ、御運(ごうん)の極(きは)めとぞ覚(おぼ)えべし。さて、隙(ひま)を窺(うかが)ひ、敵(てき)王(わう)を討(う)つ事(こと)、いと安(やす)し。すみやかに、主君(しゆくん)の屠岸賈(とがんか)を取(と)り立(た)て、二度(ふたたび)国(くに)を開(ひら)く事(こと)、案(あん)の内(うち)なり。然(さ)ればにや、もとの如(ごと)く、程嬰(ていえい)をさう臣(しん)に立(た)てらるに依(よ)つて、杵臼(しよきう)、きくわくの為(ため)に、追善(ついぜん)其(そ)の数(かず)を知(し)らず。かくて、三年(みとせ)に、国(くに)ことごとく鎮(しづ)まりをはりて後(のち)、程嬰(ていえい)、君(きみ)に暇(いとま)をこひて曰(いは)く、「我(われ)、杵臼(しよきう)に契約(けいやく)して、命(いのち)を君(きみ)に捨(す)つる事(こと)、P076遅速(ちそく)を争(あらそ)ひしなり。御位(おんくらゐ)、是(これ)までなり。今(いま)は、思(おも)ひ置(お)く事(こと)無(な)ければ、杵臼(しよきう)が草(くさ)の陰(かげ)にての心(こころ)も恥(は)づかし。自害(じがい)仕(つかまつ)らん」と申(まう)す。帝王(ていわう)、大(おほ)きに歎(なげ)きて、是(これ)を許(ゆる)す事(こと)無(な)し。然(さ)れども、隙(ひま)をはからひ、忍(しの)び出(い)でて、杵臼(しよきう)が塚(つか)の前(まへ)に行(ゆ)き、「君(きみ)の御位(おんくらゐ)、思(おも)ふ儘(まま)なり。如何(いか)にも嬉(うれ)しく思(おも)ひ給(たま)ふらん。我(われ)又(また)、かくの如(ごと)し。古(いにしへ)の契約(けいやく)忘(わす)れず」と言(い)ひて、腹(はら)かき切(き)り、失(う)せにけり。哀(あは)れなりし例(ためし)なり。大見(おほみ)・八幡(やはた)が、主(しゆう)の為(ため)に、命(いのち)をかろんじて、伊東(いとう)を狙(ねら)ひし志(こころざし)、是(これ)には過(す)ぎじとぞ覚(おぼ)えたり。
〔奥野(おくの)の狩(かり)の事(こと)〕S0109N013
さても、両三が国(こく)の人々(ひとびと)は、各々(おのおの)奥野(おくの)に入(い)り、方々(はうばう)より勢子(せこ)を入(い)れて、野干(やかん)をかりける程(ほど)に、七日が内(うち)に、猪(ゐのしし)六百、鹿(かのしし)千頭(せんかしら)、熊(くま)三十七、■鼠(むささび)三百、其(そ)の外(ほか)、雉(きじ)、山鳥(やまどり)、猿(さる)、兎(うさぎ)、貉(むじな)、狐(きつね)、狸(たぬき)、豺(さい)、大かめの類(たぐひ)に至(いた)るまで、以上其(そ)の数(かず)二千七百余(あま)りぞ、止(とど)められける。今(いま)は、さのみ野干(やかん)を滅(ほろ)ぼして、何(なに)にかせんとて、各々(おのおの)柏峠(かしはがたうげ)にぞ打(う)ち上(あ)がり、此(こ)の程(ほど)の雑掌(ざつしやう)は、伊東(いとう)一人して、暇(ひま)無(な)かりければ、「持(も)た/せたる酒(さけ)、人々(ひとびと)の見参(げんざん)に入(い)れざるこそ、本意(ほんい)無(な)けれ。いざや、山陣(ぢん)取(と)りて、頼朝(よりとも)に、今(いま)P077一獻(こん)すすめ奉(たてまつ)らん」「然(しか)るべし」とて、むねとの人々(ひとびと)五百余人(よにん)、峠(たうげ)に下(お)り居(ゐ)て、用意(ようい)す。N014土肥(とひ)の二郎(じらう)が申(まう)す、「今日(けふ)の御酒(さか)もりは、予(かね)て座敷(ざしき)の御(おん)定(さだ)め有(あ)るべし。若(わか)き方々(かたがた)の御違乱(いらん)もや候(さうら)ふべき」。大庭(おほば)の平太(へいだ)、「是(これ)、芝居(しばい)の座敷(ざしき)、誰(たれ)を上下と定(さだ)むべき。年寄(としより)の盃(さかづき)は、海老名殿(えびなどの)より始(はじ)め、若殿(わかとの)原(ばら)は、滝口殿(たきぐちどの)より始(はじ)めよ。此(こ)の人は、いづかたにぞ」と申(まう)しければ、弟(おとと)の三郎(さぶらう)聞(き)き、「兄(あに)にて候(さうら)ふ者(もの)は、熊倉(くまくら)の北(きた)の脇(わき)に、鹿(しし)の候(さうら)ひつるを、目(め)に懸(か)け、深(ふか)入(い)りして、未(いま)だ見(み)えず候(さうら)ふ。家俊(いへとし)こそ参(まゐ)りて候(さうら)へ」。土屋(つちや)が申(まう)しけるは、「三郎(さぶらう)殿(どの)こそ、滝口殿(たきぐちどの)よ。兄弟(きやうだい)中(ぢゆう)に、誰(たれ)をかわきて隔(へだ)つべき。其(そ)の盃(さかづき)、三郎(さぶらう)殿(どの)より始(はじ)めよ」と言(い)ふ。大庭(おほば)聞(き)き、「滝口殿(たきぐちどの)は、年(とし)こそ若(わか)けれども、然(さ)る人ぞかし。今(いま)来(き)たると言(い)ふを、少(すこ)しの間(あひだ)、待(ま)たぬか。左右(さう)無(な)く肴(さかな)あらすな」とて、奥野(おくの)の山口(やまぐち)方(がた)へ向(む)かひ遣(や)り、滝口(たきぐち)遅(おそ)しとまつ所(ところ)に、滝口(たきぐち)は、熊倉(くまくら)の北(きた)の脇(わき)を過(す)ぐるに、埒(らち)の外(そと)に、熊(くま)の大王(だいわう)を見(み)付(つ)けて、元山(もとやま)ヘ入(い)れじと、平野(ひらの)に追(お)ひ下(くだ)す所(ところ)に、滝口(たきぐち)、大(おほ)きなる伏木(ふしき)に馬(むま)を乗(の)り掛(か)け、真逆様(まつさかさま)に馳(は)せ倒(たふ)す。倒(たふ)るる馬(むま)を顧(かへり)みず、弓(ゆみ)のもとを、左右(さう)の鐙(あぶみ)に乗(の)りかかり、草葉(くさば)隠(かく)れに、矢(や)ごろ少(すこ)しのびたりけるを、三人ばりに、十三束(ぞく)の大(だい)の鏑矢(かぶらや)つがひ、拳上(こぶしうへ)に引(ひ)き掛(か)け、ひやうどはなつ。ひやうどとほなりして、右(みぎ)の折骨(をりぼね)二(ふた)つ三(み)つ、はらりと射(い)ければ、鏑(かぶら)はわれて、さつとちりければ、P078鏃(やじり)は、岩(いは)にがしとあたる。熊(くま)は、手(て)をおひ、滝口(たきぐち)にたけりて掛(か)かる。勢子(せこ)の者(もの)共(ども)、是(これ)を見(み)/て、四方(しはう)へばつとぞ逃(に)げたりける。滝口(たきぐち)、此(こ)の矢(や)をつがひ、絞(しぼ)り返(かへ)して、月の輪(わ)をはすしろに、射(い)を懸(か)けて射(い)ければ、熊(くま)は、少(すこ)しも動(うご)かず、矢(や)二(ふた)つにて、止(とど)まりける。其(そ)の後(のち)、勢子(せこ)の者(もの)共(ども)呼(よ)び寄(よ)せ、熊(くま)をかかせて、人々(ひとびと)の下(お)り居(ゐ)たる峠(たうげ)に打(う)ち上(のぼ)り、急(いそ)ぎ馬(むま)より下(お)り、「御肴(おんさかな)尋(たづ)ね候(さうら)ふとて、深(ふか)入(い)り仕(つかまつ)り、遅参(ちさん)申(まう)すなり。御免(ごめん)候(さうら)へ」と言(い)ひ、笠(かさ)をも脱(ぬ)がず、靫(うつぼ)をもとかず、行縢(むかばき)ながら、弓杖(ゆんづゑ)付(つ)きて立(た)ちたり。吉川(きつかは)の四郎(しらう)、俣野(またの)にいくみて有(あ)りけるが、是(これ)を見(み)/て、「滝口(たきぐち)殿(どの)は、聞(き)きしより、見(み)まして覚(おぼ)ゆる物(もの)かな。哀(あは)れ、男(をとこ)かな」とほめければ、座敷(ざしき)に居(ゐ)わづらひたり。誠(まこと)に気色顔(きしよくがほ)にて、何事(なにごと)がな、力業(ちからわざ)して、猶(なほ)ほめられんと思(おも)へ共(ども)、芝居(しばい)の事(こと)なれば、適(かな)はで有(あ)りけるを、弟(おとと)の滝口(たきぐち)三郎(さぶらう)と船越(ふなこし)十郎(じふらう)が居(ゐ)たりける間(あひだ)に、あをめなる石(いし)の、高(たか)さ三尺(さんじやく)ばかりなるをよりて、持(も)た/せばやと思(おも)ひければ、するすると歩(あゆ)みけるを見(み)/て、弟(おとと)の家俊(いへとし)、立(た)たんとす。膝(ひざ)を抑(おさ)へて、はつたとにらみて、「弓矢(ゆみや)の座敷(ざしき)をかたさるとは、我(わ)が居(ゐ)たる家(いへ)を出(い)でて、他所(たしよ)に居(ゐ)渡(わた)り、其(そ)の家(いへ)に人をおくをこそ、座敷(ざしき)かたさるとはいへ。是(これ)、此処(ここ)なる石(いし)の、二人が間(あひだ)に有(あ)りて、つまりやうのにくさにこそ」と言(い)ひ、右(みぎ)の手(て)を差(さ)し延(の)べて、後(うし)ろ様(ざま)へおしければ、大石(せき)がおされて、谷(たに)へどうど落(お)ち行(ゆ)く。海老名(えびな)の源八(げんぱち)、是(これ)を見(み)/て、東(とう)八か国(こく)の中(なか)に、男子(をのこご)持(も)ちP079たらん人は、滝口殿(たきぐちどの)を呼(よ)びて、ものあやかりにせよ、器量(きりやう)と言(い)ひ、弓矢(ゆみや)取(と)りては、樊噌(はんくわい)・張良(ちやうりやう)なり。哀(あは)れ、侍(さむらひ)や」とほめられ、いよいよ気色(きしよく)をまし、老(おい)の末座敷(ばつざしき)よりすすみ出(い)で、申(まう)しけるは、「只今(ただいま)の盃(さかづき)も、然(さ)る事(こと)にて候(さうら)へども、余(あま)りにもどかしく覚(おぼ)え候(さうら)ふ。大(おほ)きなる盃(さかづき)をもつて、一(ひと)つづつ御(おん)まはし候(さうら)へかし」と申(まう)しければ、「滝口殿(たきぐちどの)の仰(おほ)せこそ、面白(おもしろ)けれ」とて、伊東(いとう)の二郎(じらう)貝(かひ)と言(い)ふ貝(かひ)を取(と)り出(い)だし、此(こ)の貝(かひ)は、日本(につぽん)一二番(ばん)の貝(かひ)とて、院(ゐん)へ参(まゐ)らせたりしを、公家(くげ)には、貝(かひ)を御(おん)用(もち)ひ無(な)き事(こと)なれば、武家(ぶけ)に下(くだ)さる、太郎(たらう)貝(かひ)をば、秩父(ちちぶ)に下(くだ)さる、提子(ひさげ)五つぞ入(い)りける、二郎貝(じらうがひ)をば、三郎に下(くだ)さる、新介(しんすけ)賜(たま)はりて、土肥(とひ)の二郎(じらう)に取(と)らする、殿上(てんじやう)を許(ゆる)されたる器物(うつはもの)とて、秘蔵(ひさう)して持(も)ちけるを、折節(をりふし)、河津(かはづ)の三郎(さぶらう)、土肥(とひ)の聟(むこ)に成(な)りて来(き)たりしを、引出物(ひきでもの)にしたりけり。内(うち)は己(おのれ)なりに、外(そと)は梨子地(なしぢ)にまきて、いそなりにめおさしたり、提子(ひさげ)三(み)つぞ入(い)りける、是(これ)を取(と)り出(い)だし、滝口(たきぐち)がもとより始(はじ)めて、三度(さんど)づつぞまはしける。五百余人(よにん)の持(も)ちたる酒(さけ)なれば、酒(さけ)の不足(ふそく)は無(な)かりけり。後(のち)には、乱舞(らんぶ)して、躍(をど)りはねてぞ、遊(あそ)びける。海老名(えびな)の源八(げんぱち)、盃(さかづき)ひかへて、申(まう)しけるは、「是(これ)は、めでたき世(よ)の中(なか)を、夢現(ゆめうつつ)とも定(さだ)め難(がた)く、昔(むかし)がたりにならん事(こと)こそ、悲(かな)しけれ。老少(らうせう)不定(ふぢやう)と言(い)ひながら、若(わか)きは、頼(たの)み有(あ)る者(もの)を、若殿(わかとの)原(ばら)の様(やう)に、舞(ま)ひうたはんと思(おも)へども、膝(ひざ)振(ふ)るひ、声(こゑ)も立(た)たず、りうせきが、塚(つか)より出(い)でて、はんらうが、茫然(ばうぜん)とせしP080様(やう)に、酒(さけ)もれや、殿(との)原(ばら)。哀(あは)れ、きみかく有(あ)りし時(とき)は、是(これ)程(ほど)の盃(さかづき)二三十のみしかども、座敷(ざしき)に伏(ふ)す程(ほど)の事(こと)はあらねども、老(おい)の極(きは)めやらん、腰膝(こしひざ)の立(た)たざるこそ、悲(かな)しけれ。白居易(はつきよい)が昔(むかし)、思(おも)ひ出(い)でられたり。
〔同(おな)じく相撲(すまふ)の事(こと)〕S0110N015
秀貞(ひでさだ)がわかざかり、鷹狩(たかがり)、川狩(かはがり)の帰(かへ)り足(あし)には、力業(ちからわざ)、相撲(すまふ)がけこそ、面白(おもしろ)けれ。若(わか)き人々(ひとびと)、相撲(すまふ)取(と)り給(たま)へ。見(み)/て遊(あそ)ばん。見物(けんぶつ)には、上や有(あ)るべき」と言(い)ひければ、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、三島(みしま)の入道(にふだう)将監(しやうげん)、ゐだけだかに成(な)りて、「石(いし)ころばかしの滝口殿(たきぐちどの)と合沢(あひざは)の弥五郎(やごらう)殿(どの)、出(い)でて取(と)り給(たま)へ。是(これ)こそ、あひごろの力(ちから)と聞(き)け。さもあらば、入道(にふだう)出(い)でて、行司(ぎやうじ)に立(た)たん」と言(い)ふ。滝口(たきぐち)聞(き)きて、「坂東(ばんどう)八か国(こく)に、強(つよ)き者(もの)は無(な)きか。か程(ほど)の小男(こをとこ)に、相手(あひて)に差(さ)さるるは、馬(むま)の上(うへ)、かちだちなりとも、脇(わき)にはさみたたむに、働(はたら)かさじ」と言(い)ひければ、弥五郎(やごらう)聞(き)きて、「伊豆(いづ)、駿河(するが)、武藏(むさし)、相模(さがみ)に、強(つよ)き者(もの)は無(な)きか。滝口(たきぐち)がせいと力(ちから)をうらやむは。下臈(げらふ)の所(ところ)にこそ、器量(きりやう)に依(よ)りて、荷(に)をばもて、侍(さむらひ)は、せいちひさく、力は弱(よわ)けれども、鎧(よろひ)一領(りやう)にしかるる者(もの)無(な)し。弓(ゆみ)押(お)しはり、矢(や)かきおひ、よき馬(むま)に打(う)ち乗(の)りて、戦場(せんぢやう)に掛(か)け出(い)でて、思(おも)ふP081敵(かたき)にひつ組(く)みて、両馬(りやうば)が間(あひだ)に落(お)ち重(かさ)なり、胆(きも)勝(まさ)りて、腰(こし)の刀(かたな)を抜(ぬ)き、下(した)に伏(ふ)しながら、大(だい)の男(をとこ)をひつ掛(か)け、草摺(くさずり)をたたみ上(あ)げ、急所(きうしよ)を隙(ひま)無(な)く差(さ)して、はね返(かへ)し、抑(おさ)へて、首(くび)を取(と)る時(とき)は、大(だい)の男(をとこ)も、物(もの)ならず」と、あざ笑(わら)ひてぞ申(まう)しける。滝口(たきぐち)、たまらぬ男(をとこ)にて、「首(くび)を取(と)るか、取(と)らるるか、力(ちから)は、外(ほか)にもあらばこそ。いざや、老(おい)の御肴(おんさかな)に、力(ちから)くらべの腕相撲(うでずまふ)一番(いちばん)」と言(い)ふ儘(まま)に、座敷(ざしき)を立(た)ち、直垂(ひたたれ)を脱(ぬ)ぎ、「何程(なにほど)の事(こと)の候(さうら)ふべき。しや肋骨(あばらぼね)二三枚(まい)、つかみ破(やぶ)りて、捨(す)つべき物(もの)を」とて、つつと出(い)でけり。弥五郎(やごらう)も、「心(こころ)得(え)たり。物々し。力拳(ちからこぶし)のこらへん程(ほど)は、命(いのち)こそ限(かぎ)りよ」と言(い)ひ、座敷(ざしき)を立(た)つ。一座(ざ)の人々(ひとびと)、是(これ)を見(み)/て、あはや、事(こと)こそ出(い)で来(き)ぬと見(み)る程(ほど)に、近(ちか)くに有(あ)りける合沢(あひざは)、申(まう)す様(やう)、「余(あま)りはやし、滝口(たきぐち)殿(どの)。相撲(すまふ)は、小童(こわらんべ)、冠者(くわんじや)原(ばら)に、先(ま)づとらせて、取(と)り上(あ)げたるこそ、面白(おもしろ)けれ。おとなげ無(な)し、滝口殿(たきぐちどの)。止(とど)まり給(たま)へ」と引(ひ)き据(す)ゑたり。吉川(きつかは)、是(これ)を見(み)/て、「弥五郎(やごらう)殿(どの)も、先(ま)づ抑(おさ)へよ。合沢(あひざは)が弟(おとと)の弥七(やしち)殿(どの)に、出(い)でよ」と言(い)ふ。少(すこ)し辞退(じたい)に及(およ)びしを、船越(ふなこし)引(ひ)き立(た)てて、たづな取(と)りかへ、出(い)だしけり。年(とし)におきては、十五なり。姿(すがた)を物(もの)にたとふれば、まだ声(こゑ)若(わか)き鴬(うぐひす)の、谷(たに)より出(い)づるもかくやらん。「誰(たれ)をか相手(あひて)にさすべき」と、座敷(ざしき)を見(み)まはしければ、「滝口(たきぐち)が弟(おとと)の三郎(さぶらう)、出(い)でよ」と言(い)ふ、言葉(ことば)の下(した)より、出(い)でにけり。年(とし)におきて、十八なり。いづれも、相撲(すまふ)は上手(じやうず)なれば、各々(おのおの)差(さ)し寄(よ)りて、つまどりしP082たる有様(ありさま)は、春(はる)待(ま)ち兼(か)ねてさく梅(むめ)の、雪(ゆき)をふくめる如(ごと)くなり。我(われ)人、力(ちから)は知(し)らねども、雲(くも)ふき立(た)つる山風(かぜ)の、松(まつ)と桜(さくら)に音(おと)立(た)てて、鳥(とり)も驚(おどろ)く梢(こずゑ)かと、諸人(しよじん)、目(め)をこそさましけれ。弥七(やしち)は、力(ちから)劣(おと)りなれども、手合(てあひ)はましてぞ見(み)えにける。三郎は、力(ちから)勝(まさ)りけれ共(ども)、くまんとのみにて、差(さ)し詰(つ)め結(むす)べば、捨(す)ててぬけ、なぐれば、掛(か)けてまはりしは、桃華(たうくわ)の節会(せちゑ)の鶏(にはとり)の、心(こころ)を砕(くだ)き、羽(は)をつがひ、勝負(しようぶ)を争(あらそ)ふ鶏(とり)合(あ)はせも、是(これ)には過(す)ぎじとぞ見(み)えける。老若(らうにやく)、座敷(ざしき)にこらへ兼(か)ね、「哀(あは)れ、浮(う)き世(よ)の見ごとや」と、上下暫(しばら)くののめきて、東西(とうざい)更(さら)に鎮(しづ)まらず。然(さ)れども、弥七(やしち)は、地下(さ)がりへ押(お)し掛(か)けられ、とどろ走(はし)りて、そ首(くび)をつかれ、遂(つひ)に弥七(やしち)ぞ、負(ま)けたりける。兄(あに)の弥六(やろく)、つつと出(い)で、三郎(さぶらう)をはたとけて、あふのき様(ざま)に打(う)ちにける。滝口(たきぐち)、無念(むねん)に思(おも)ひて、弟の三郎(さぶらう)が、未(いま)だおきざる先(さき)に、躍(をど)り出(い)で、大力(だいぢから)なりければ、弥六(やろく)は、手(て)にもたまらず、負(ま)けにけり。兄(あに)の弥五郎(やごらう)、弟(おとと)二人をまかして、安(やす)からずに思(おも)ひ、袴(はかま)の腰(こし)、とくを遅(おそ)しと引(ひ)き切(き)り、たづな二筋(ふたすぢ)えり合(あ)はせ、強(つよ)くをさめ、走(はし)り出(い)で、近々(ちかぢか)と差(さ)し合(あ)ひて、力(ちから)引(ひ)きて見(み)れば、大(だい)の男(をとこ)が、ふんばりて、少(すこ)しも動(うご)かざれば、一定(いちぢやう)、我(われ)も負(ま)けぬべし、誠(まこと)や、相撲(すまふ)は、力(ちから)によらず、手(て)だに勝(まさ)れば、みぎわ勝(まさ)りの相手(あひて)を討(う)つ物(もの)をと思(おも)ひ出(い)だして、合沢(あひざは)、右(みぎ)の拳(こぶし)を握(にぎ)り固(かた)め、滝口(たきぐち)、鬢(びん)のはづれ、きれてのけと、打(う)ちければ、滝口(たきぐち)、打(う)たれP083て、左右(さう)の拳(こぶし)を打(う)ち返(かへ)す。其(そ)の後(のち)、負(ま)けじ、劣(おと)らじと、手(て)をはなちて、はり合(あ)ひける。今(いま)は、相撲(すまふ)は取(と)らで、偏(ひとへ)に当座(たうざ)の口論(こうろん)とぞ見(み)えける。両方(りやうばう)、さへむとする所(ところ)に、弥五郎(やごらう)、隙(ひま)無(な)く、つつと入(い)り、滝口(たきぐち)が小股(こまた)をかいて、はなじろに押(お)し据(す)ゑたり。いきほひし滝口(たきぐち)、敢(あ)へ無(な)く負(ま)けしかば、暫(しばら)く相撲(すまふ)ぞ無(な)かりける。弥五郎(やごらう)は、広言(くわうげん)しつる滝口(たきぐち)に勝(か)ちて、百千番(ばん)の負(ま)けも物(もの)ならず、是(これ)に勝(か)つこそ嬉(うれ)しけれ、何者(なにもの)なりともと思(おも)ふ所(ところ)に、葛山(かつらやま)の又七出(い)でて、手(て)にもたまらず負(ま)けて後(のち)、究竟(くつきやう)の相撲(すまふ)五番まで勝(か)ちて、立(た)ちたる有様(ありさま)は、勢(いきほひ)余(あま)りてぞ見(み)えける。此処(ここ)に、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、柳下(やぎした)の小六郎(ころくらう)出(い)でて、合沢(あひざは)の弥五郎(やごらう)を始(はじ)めとして、よき相撲(すまふ)六番(ろくばん)勝(か)つ。駿河(するが)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、竹下(たけのした)の孫八(まごはち)出(い)でて、小六(ころく)を始(はじ)めとして、よき相撲(すまふ)九番(ばん)打(う)つて、入(い)らんとする所(ところ)に、大庭(おほば)が舎弟(しやてい)の俣野(またの)の五郎(ごらう)出(い)でて、孫八(まごはち)を始(はじ)めとして、よき相撲(すまふ)十番打(う)ちければ、「出(い)でて取(と)らん」と言(い)ふ者(もの)無(な)し。駿河(するが)の国(くに)高橋(たかはし)の忠六(ちゆうろく)、「いざや取(と)らん」と言(い)ふ。側(そば)に有(あ)りける海老名(ゑびな)の秀貞(ひでさだ)、「是(これ)こそ、俣野(またの)の五郎(ごらう)よ。道理(だうり)にて、打(う)ちけるぞや」。景久(かげひさ)聞(き)き候(さうら)ひて、「相撲(すまふ)が、絶(た)えて無(な)からんにこそ」と言(い)ひければ、土屋(つちや)の平太(へいだ)、是(これ)を聞(き)き、「俣野(またの)も、手(て)一(ひと)つ、我(われ)も、手(て)一(ひと)つ、臆(おく)してばし、負(ま)けけるか。彼(かれ)体(てい)の相撲(すまふ)をば、十人ばかり一(ひと)つかみにて、物(もの)を脱(ぬ)ぎおき、たづなかきまうけ、まくれば、乗(の)り越(こ)え、移(うつ)れば、入(い)れかへ、息(いき)をもつがせず、隙(すき)をもあらせず、攻(せ)め倒(たふ)せ」「此(こ)の儀(ぎ)面白(おもしろ)し」とて、P084十人ばかり並(なら)び居(ゐ)て、まくれば、つつと出(い)で、移(うつ)れば、はね越(こ)え、攻(せ)めけれども、究竟(くつきやう)の上手(じやうず)の大力(だいぢから)なれば、続(つづ)けて、二十一番(いちばん)勝(か)ちけり。其(そ)の時(とき)、土肥(とひ)の二郎(じらう)実平(さねひら)、座敷(ざしき)を立(た)ち、つま紅(ぐれなゐ)に、日出(い)だしたる扇(あふぎ)を開(ひら)きて、俣野(またの)をしばし仰(あふ)ぎて、「よき御相撲(すまふ)かな。哀(あは)れ、実平(さねひら)が年十四五も若(わか)くは、出(い)でて取(と)らばや」と言(い)ふ。俣野(またの)聞(き)きて、「何(なに)かは苦(くる)しかるべき。出(い)で給(たま)へ。一番(いちばん)取(と)らん。相撲(すまふ)は、年(とし)に依(よ)り候(さうら)はず」と言(い)ひければ、土肥(とひ)は、なまじひに、言葉(ことば)を掛(か)けて、各々(おのおの)と言(い)はれて、取(と)るより外(ほか)に、言葉(ことば)も無(な)し。伊東(いとう)は、三浦(みうら)に親(した)しく、河津(かはづ)は、土肥(とひ)が聟(むこ)なり、土肥(とひ)が今日(こんにち)の恥辱(ちじよく)は、此(こ)の一門(いちもん)に離(はな)れじと思(おも)へば、伊東(いとう)の二郎(じらう)が嫡子(ちやくし)河津(かはづ)の三郎(さぶらう)祐重(すけしげ)をば、父(ちち)伊東(いとう)より人重(おも)く思(おも)ひければ、無二(むに)無三(むさん)の遊(あそ)びなれども、「出(い)でて取(と)れ」と言(い)ふ人無(な)し、老(おい)の末座(ばつざ)に有(あ)りけるが、座敷(ざしき)を立(た)ちて、舅(しうと)の土肥(とひ)の二郎(じらう)にささやきけるは、「今日(こんにち)の御酒(さか)もりには、老若(らうにやく)の嫌(きら)ひ無(な)く候(さうら)ふに、などや祐重(すけしげ)一番(いちばん)とも承(うけたまは)り候(さうら)はず。空(むな)しく帰(かへ)り候(さうら)はば、若(わか)き者(もの)のおひすけしたるににて候(さうら)ふ。御(おん)はからひ候(さうら)へ。一番(いちばん)取(と)り候(さうら)はん」と言(い)ひければ、実平(さねひら)聞(き)きて、俣野(またの)が言葉(ことば)、にがにがしさにぞ、取(と)らんと言(い)ふらん、さりながら、聟(むこ)をまかしては、面目(めんぼく)無(な)しとや思(おも)ひけん、返事(へんじ)にも及(およ)ばで、赤面(せきめん)してぞ居(ゐ)たりける。父(ちち)伊東(いとう)、是(これ)を聞(き)き、子(こ)ながらも、力(ちから)は強(つよ)き者(もの)を、とらせ見(み)ばやと思(おも)ひけれども、ためらふ折節(をりふし)、此(こ)の言葉(ことば)を聞(き)き、「神妙(しんべう)に申(まう)したり。P085出(い)でて取(と)れ」と言(い)ひければ、直垂(ひたたれ)脱(ぬ)ぎおき、白(しろ)きたづな二筋(ふたすぢ)寄(よ)り合(あ)はせ、かたくをさめて、出(い)でんとす。伊東(いとう)方(がた)の者(もの)出(い)でて、「御相撲(すまふ)に参(まゐ)らん。俣野(またの)殿(どの)」と言(い)ふ。景久(かげひさ)きいて、腹(はら)を立(た)て、「相撲(すまふ)は是(これ)に候(さうら)ふぞ。出(い)で合(あ)はせ候(さうら)へと言(い)ふは、常(つね)の事(こと)。総(そう)じて、相撲(すまふ)の座敷(ざしき)にて、左右(さう)無(な)く相手(あひて)の名字(みやうじ)呼(よ)ぶ事(こと)無(な)し。氏(うぢ)と言(い)ひ器量(きりやう)と言(い)ひ、河津(かはづ)にやまくべき。小腕(こがひな)押(お)しをり捨(す)つべき物(もの)を」と、笑(わら)ひて出(い)づるを見(み)れば、菩薩(ぼさつ)なりにして、色(いろ)あさぐろく、丈(たけ)は六尺(ろくしやく)二分(にぶん)、年(とし)は三十一にぞなりにける。俣野(またの)が姿(すがた)は、さし肩(かた)にして、かを骨(ほね)あれて、首(くび)太(ふと)く、頭(かしら)少(すこ)し、裾(すそ)ふくらに、後(うし)ろの折骨(をりほね)、臍(ほぞ)の下(した)へ差(さ)しこみ、力士(りきじ)なりにして、丈(たけ)は五尺(しやく)八分(ぶん)、年(とし)は三十二なり。差(さ)し寄(よ)り、つまどり、ひしひしとして、押(お)し離(はな)れ、河津(かはづ)思(おも)ひけるは、俣野(またの)は聞(き)きつるに似(に)ず、さしたる力(ちから)にては無(な)かりけり、今日(けふ)、人々(ひとびと)の多(おほ)く負(ま)けけるは、酒(さけ)に酔(ゑ)ひけるか、臆(おく)しける故(ゆゑ)なり、今度(こんど)は、手(て)にもたつまじき物(もの)をと思(おも)ひけるが、心(こころ)をかへて思(おも)ふ様(やう)、さすが俣野(またの)は、相撲(すまふ)の大番(おほばん)勤(つと)めに、都(みやこ)へ上(のぼ)り、三年の間(あひだ)、京(きやう)にて相撲(すまふ)になれ、一度(いちど)不覚(ふかく)を取(と)らぬ者(もの)なり。其(そ)の故(ゆゑ)、院(ゐん)・内(うち)の御目(め)にかかり、日本(につぽん)一番(いちばん)の名(な)をえたる相撲(すまふ)なり。今(いま)ここもとにて、物手(て)無(な)くまかさん事(こと)は、返(かへ)りて言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)しと思(おも)へば、二度目(どめ)には差(さ)し寄(よ)り、左右(さう)の腕(かひな)をつかむで、左手(ゆんで)・右手(めて)に御座(おは)します、雑人(ざふにん)の上(うへ)に掛(か)け、膝(ひざ)をつかせて、入(い)りにけり。俣野(またの)は、只(ただ)も入(い)らずして、「此処(ここ)なる木(き)の根(ね)にけつまづきて、不覚(ふかく)P086の負(ま)けをぞしたりける。いざや、今(いま)一番(いちばん)取(と)らん」と言(い)ふ。大庭(おほば)、是(これ)を聞(き)き、走(はし)り寄(よ)り、「げにげに、是(これ)に木(き)の根(ね)有(あ)り。まん中(なか)にて、勝負(しようぶ)し給(たま)へ」と言(い)ひければ、伊東(いとう)申(まう)しけるは、「河津(かはづ)が膝(ひざ)、少(すこ)し流(なが)れて見(み)え候(さうら)ふ。ねきりの相撲(すまふ)ならばこそ、意趣(いしゆ)もあらめ。只(ただ)一座(ざ)の一興(いつきよう)に負(ま)け申(まう)して、面白(おもしろ)し。出(い)で合(あ)ひ申(まう)せ」と言(い)ひければ、河津(かはづ)は、やがてぞ出(い)でにける。俣野(またの)も、出(い)でんとしけるを、一族(いちぞく)共(ども)、「如何(いか)に取(と)るとも、勝(か)つまじきぞ。只(ただ)此(こ)の儘(まま)にて、入(い)り給(たま)へ。論(ろん)の相撲(すまふ)は、勝負(しようぶ)無(な)し。勝(か)ちたるには、勝(まさ)るぞかし。此(こ)の度(たび)負(ま)けなば、二度(にど)の負(ま)けなるべし」と言(い)ひければ、俣野(またの)が言(い)ふ様(やう)は、「河津(かはづ)は、力(ちから)は強(つよ)く覚(おぼ)ゆれども、相撲(すまふ)の故実(こじつ)は候(さうら)はず、御覧(ごらん)ぜよ」と言(い)ひ捨(す)てて、猶(なほ)も出(い)でんとする所(ところ)を、しばし止(とど)めて言(い)ひけるは、「河津(かはづ)が手合(てあひ)をよく見(み)れば、御分(ごぶん)にみぎわ勝(まさ)りの力(ちから)なり。彼(かれ)体(てい)の相撲(すまふ)をば、左右(さう)の手(て)を上(あ)げ、爪先(つまさき)を立(た)てて、上手(うはて)に掛(か)けて待(ま)ち給(たま)へ。敵(てき)も上手(うはて)に目(め)を懸(か)けて、のさのさとよる所(ところ)を、小臂(こひぢ)を打(う)ち上(あ)げ、違(ちが)ひ様(さま)によついを取(と)り、足(あし)を抜(ぬ)きてはねまはれ。大力(だいぢから)も、はねられて、足(あし)の立(た)てどのうく所(ところ)を、捨(す)てて足(あし)を取(と)りて見(み)よ。組(く)みては適(かな)ふまじきぞ。もし又(また)、くまで適(かな)はずは、うちがらみに、しはと掛(か)けて、髻(もとどり)をおちをはかせ、一(ひと)はねはねて、しとと打(う)て。なんでふ七はなれ八はなれは、見(み)苦(ぐる)しきぞ。侍相撲(さぶらひすまふ)と申(まう)すは、よるかとすれば、勝負(かちまけ)有(あ)り。余(あま)りにはやきも、見(み)分(わ)けられず。又(また)、斯様(かやう)のP087ひね物(もの)をば、わづらひ無(な)くのし寄(よ)りて、小首(こくび)ぜめに攻(せ)めて、背(せ)をこごめて、まはる所(ところ)を、大さか手(て)に入(い)れて、かいひねつて、け捨(す)てて見(み)よ。真逆様(まつさかさま)に負(ま)けぬべし」と、こまごまと教(をし)へければ、「心(こころ)得(え)たり」とて出(い)で合(あ)ひけり。教(をし)への如(ごと)く、爪先(つまさき)を立(た)てて、腕(かひな)を上(あ)げ、隙(すき)あらばと狙(ねら)ひけり。河津(かはづ)は、前後(ぜんご)相撲(すまふ)は、是(これ)が始(はじ)めなれば、やうも無(な)く、するすると歩(あゆ)み寄(よ)り、俣野(またの)が、ぬけんと相(あひ)しらふ所(ところ)を、右(みぎ)の腕(かひな)をつつと延(の)べ、又野(またの)が前(まへ)ほろをつかんで差(さ)しのけ、あらくも働(はたら)かば、たづなも腰(こし)もきれぬべし。暫(しばら)く有(あつ)て、むずと引(ひ)き寄(よ)せ、目(め)より高(たか)く差(さ)し上(あ)げ、半時(はんとき)ばかり有(あ)りて、横(よこ)様(さま)に片手(かたて)をはなちて、しとと打(う)つ。又野(またの)は、やがておきなほり、「相撲(すまふ)にまくるは、常(つね)の習(なら)ひ、なんぞ御分(ごぶん)が片手業(かたてわざ)」。河津(かはづ)言(い)ひけるは、「以前(ぜん)も、勝(か)ちたる相撲(すまふ)を、御論(ごろん)候(さうら)ふ間(あひだ)、今度(こんど)は、まつ中にて、片手(かたて)を以(もつ)て打(う)ち申(まう)したり。未(いま)だ御不審(ふしん)や候(さうら)ふべき。御覧(ごらん)じつるか、人々(ひとびと)」と言(い)ふ。大庭(おほば)、是(これ)を見(み)/て、童(わらは)に持(も)た/せたる太刀(たち)追(お)つ取(と)り、するりと抜(ぬ)きて、とんで掛(か)かる。座敷(ざしき)、俄(にはか)に騒(さわ)ぎ、ばつと立(た)つ。伊東(いとう)方(がた)による者(もの)も有(あ)り、大庭(おほば)が方(かた)による者(もの)も有(あ)り。両方(りやうばう)さへんと下(お)りふさがり、銚子(てうし)・盃(さかづき)踏(ふ)みわり、酒肴(さけさかな)をこぼす。雑兵(ざふひやう)三千(さんぜん)余人(よにん)までも、軍(いくさ)せんとてひしめきけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、此(こ)の由(よし)御覧(ごらん)じ、「如何(いか)に頼朝(よりとも)が情(なさけ)捨(す)てて、仇(あた)を結(むす)び給(たま)ふか。大庭(おほば)の人々」と仰(おほ)せられければ、大庭(おほば)の平太(へいだ)承(うけたまは)り、「田舎(ゐなか)住(す)まひの物(もの)共(ども)、出仕(しゆつし)なれP088候(さうら)はで、斯(か)かる狼藉(らうぜき)を仕(つかまつ)り候(さうら)ふ。相撲(すまふ)は負(ま)けても、恥(はぢ)ならず、我(われ)が方人(かたうど)は言(い)ふべからず、一々(いちいち)に記(しる)し申(まう)すべきぞ。後日(ごにち)に争(あらそ)ふな」と怒(いか)りければ、大庭(おほば)の鎮(しづ)め給(たま)ふ上(うへ)はとて、鎮(しづ)まりけり。伊東(いとう)は、もとより意趣(いしゆ)無(な)しとて、やがて面々(めんめん)にこそ鎮(しづ)まりけれ。是(これ)や、瓊瑶(けいよう)は少(すく)なきを以(もつ)て奇(き)也(なり)とし、磧礫(せきれき)は多(おほ)きを以(もつ)て賎(いや)しとす。人多(おほ)しと雖(いへど)も、景信(かげのぶ)が言葉(ことば)一(ひと)つにてぞ、鎮(しづ)まりける。斯(か)かる所(ところ)に、祐経(すけつね)が郎等(らうどう)共(ども)、彼(かれ)等(ら)に交(まじ)はり、伺(うかが)ひけるが、哀(あは)れ、事(こと)のあれかし、間近(まぢか)に攻(せ)め寄(よ)りて、打(う)たんとする由(よし)にて、伊東(いとう)殿(どの)をおつ様(さま)に射(い)落(お)とさむとて、ささやきける。七日が間(あひだ)、夜昼(よるひる)つきて伺(うかが)へども、然(しか)るべき隙(ひま)無(な)くして、狩座(かりくら)既(すで)に過(す)ぎければ、各々(おのおの)、空(むな)しく帰(かへ)らんとす。小藤太(ことうだ)、申(まう)しけるは、「さても、一郎殿の御心(おんこころ)をつくして、今(いま)や今(いま)やと待(ま)ち給(たま)ふらん。徒(いたづ)らに帰(かへ)らん事(こと)こそ、口惜(くちを)しけれ。いざや、思(おも)ひ切(き)り、とにもかくにもならん」と言(い)ひければ、「八幡(やはた)三郎(さぶらう)申(まう)しけるは、「暫(しばら)く功(こう)をつみて見(み)給(たま)へ。如何(いか)でか空(むな)しからん。
〔費長房(ひちやうばう)が事(こと)〕S0111N016
古(ふる)きを思(おも)ふに、昔(むかし)、大国(たいこく)に、費長房(ひちやうばう)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。仙術(せんじゆつ)を習(なら)ひ得(え)て、暗(くら)き所(ところ)P089も無(な)かりしが、天(てん)に上(あ)がる術(じゆつ)を習(なら)はずして、未(いま)だ空(むな)しく凡夫(ぼんふ)に交(まじ)はり歩(あり)きけり。或(あ)る時(とき)、所用(しよよう)の事(こと)有(あ)つて、長安(ちやうあん)の市(いち)に出(い)でて、商人(あきびと)に伴(ともな)ひしに、或(あ)る老人(らうじん)、腰(こし)に壺(つぼ)を付(つ)けて、此(こ)の者(もの)、市(いち)に交(まじ)はりける。知音(ちいん)は、知(し)る理(ことわり)にて、此(こ)の者(もの)、只人(ただひと)ならずと、目(め)をはなさで見(み)るに、此(こ)の老人(らうじん)、傍(かたはら)に行(ゆ)き、腰(こし)なる壺(つぼ)を下(お)ろし、其(そ)の壺(つぼ)に出(い)で入(い)りにけり。然(さ)ればこそ、仙人(せんにん)なれとて、其(そ)の人の家(いへ)につきて行(ゆ)きぬ。費長房(ひちやうばう)、彼(か)の仙人(せんにん)に仕(つか)へんとて、三年までぞ仕(つか)へける。或(あ)る時(とき)、老人(らうじん)言(い)ひて曰(いは)く、「汝(なんぢ)、如何(いか)なる志(こころざし)有(あ)りて、三年(さんねん)まで、一(ひと)言葉(ことば)も違(たが)へず、我(われ)等(ら)に仕(つか)へけるぞや」。費長房(ひちやうばう)聞(き)きて、「我(われ)、仙術(せんじゆつ)を習(なら)ふと雖(いへど)も、天(てん)に上(あ)がる事(こと)を知(し)らず。老人(らうじん)の壺(つぼ)に出(い)で入(い)り給(たま)ふ事(こと)を教(をし)へ給(たま)へ」と言(い)ひければ、「安(やす)き事(こと)なり。我(わ)が袖(そで)に取(と)り付(つ)け」と言(い)ふ。即(すなは)ち、取(と)り付(つ)きければ、二人共(とも)に、彼(か)の壺(つぼ)の内(うち)へ飛(と)び入(い)りぬ。此(こ)の壺(つぼ)の内(うち)に、めでたき世界(せかい)有(あ)り、月日(つきひ)の光(ひかり)は、空(そら)にやはらぎ、四方(よも)に四季(しき)の色(いろ)を現(あらは)し、百二十丈(ぢやう)の宮殿(くうでん)楼閣(ろうかく)有(あ)り、天(てん)にて聖衆(しやうじゆ)舞(ま)ひ遊(あそ)ぶ。鳧(かも)・雁(がん)・鴛鴦(をし)の声(こゑ)やはらかにして、池(いけ)には弘誓(ぐぜい)の船(ふね)を浮(う)かべり。よくよく見(み)めぐりて、「今(いま)は出(い)でん」と言(い)ふ。老人(らうじん)、竹(たけ)の杖(つゑ)を与(あた)へて、「是(これ)を付(つ)きて出(い)でよ」と言(い)ふ。即(すなは)ち、つくと思(おも)へば、時(とき)の間(ま)に、をしみつと言(い)ふ所(ところ)に至(いた)りぬ。此(こ)の杖(つゑ)を捨(す)てければ、即(すなは)ち竜(りゆう)と成(な)りて、天(てん)に上(あ)がりぬ。費長房(ひちやうばう)は、鶴(つる)に乗(の)りて、天(てん)に上(のぼ)りけり。是(これ)も、功(こう)を積(つ)もる故(ゆゑ)なり。P090三年(さんねん)までこそ無(な)くとも、待(ま)ちて見(み)よ」とぞ申(まう)しける。
〔河津(かはづ)が打(う)たれし事(こと)〕S0112N017
「然(さ)らば此(こ)の帰(かへ)り足(あし)を狙(ねら)ひて見(み)ん」「然(しか)るべし」とて、道(みち)をかへて、先(さき)に立(た)ち、奥野(おくの)の口(くち)、赤沢山(あかざはやま)の麓(ふもと)、八幡山(やはたやま)の境(さかひ)に有(あ)る切所(せつしよ)を尋(たづ)ねて、椎(しい)の木(き)三本(ぼん)、小楯(こだて)に取(と)り、一(いち)の射翳(まぶし)には大見(おほみ)の小藤太(ことうだ)、二の射翳(まぶし)には八幡(やはた)の三郎(さぶらう)、手だれなれば、余(あま)さじ物(もの)をとて、立(た)ちたりけり。各々(おのおの)待(ま)ち掛(か)けける所(ところ)に、一番(いちばん)に通(とほ)るは、波多野(はだの)の右馬允(むまのじよう)、二番に通(とほ)るは、大庭(おほば)の三郎(さぶらう)、三番に通(とほ)るは、海老名(えびな)の源八(げんぱち)、四番(ばん)は、土肥(とひ)の二郎(じらう)、後陣(ごぢん)遙(はる)かに引(ひ)き下(さ)がりて、流人(るにん)兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)ぞ通(とほ)られける。敵(かたき)ならねば、皆(みな)遣(や)り過(す)ごし、此(こ)の次(つぎ)に、伊東(いとう)が嫡子(ちやくし)河津(かはづ)の三郎(さぶらう)ぞきたりける。面白(おもしろ)くこそ出(い)で立(た)ちたれ。秋野(あきの)のすりつくしたる間々(あひあひ)に、引(ひ)き柿(がき)したる直垂(ひたたれ)に、斑(まだら)の行縢(むかばき)裾(すそ)たぶやかにはき成(な)し、鶴(つる)の本白(もとじろ)にてはぎたる白(しら)こしらへの鹿矢(ししや)、筈高(はずだか)に追(お)ひ成(な)し、千段籐(せんだんどう)の弓(ゆみ)まん中(なか)取(と)り、萌黄裏(もよぎうら)付(つ)けたる竹笠(たけがさ)、木枯(こがらし)にふきそらせ、宿月毛(さびつきげ)の馬(むま)の五臓(ざう)大(おほ)きなるが、尾髪(をかみ)あくまでちぢみたるに、梨子地(なしぢ)にまきたる白覆輪(しろぶくりん)の鞍(くら)に、連著鞦(れんじやくしりがひ)の山吹色(やまぶきいろ)なるを掛(か)け、銜轡(ふくみぐつわ)、紺(こん)の手綱(たづな)を入(い)れてぞ乗(の)りたりける。馬(むま)も聞(き)こゆる名馬(めいば)なり、主(ぬし)も究竟(くつきやう)の馬(むま)乗(の)りにて、P091伏木(ふしき)・悪所(あくしよ)を嫌(きら)はず、差(さ)しくれてこそ歩(あゆ)ませけれ。折節(をりふし)、乗(の)りがへ一騎(き)もつかざれば、一(いち)の射翳(まぶし)の前(まへ)を遣(や)り過(す)ごす。二の射翳(まぶし)の八幡(やはた)三郎(さぶらう)、もとより騒(さわ)がぬ男(をのこ)なれば、「天(てん)の与(あた)へを取(と)らざるは、返(かへ)りて咎(とが)をうる」と言(い)ふ、古(ふる)き言葉(ことば)を思(おも)ひ出(い)で、すはい損(そん)ずべき。射翳(まぶし)の前(まへ)を三段(たん)ばかり、左手(ゆんで)の方(かた)へ遣(や)り過(す)ごして、大(だい)のとがり矢(や)差(さ)しつがひ、よつぴき、しばし固(かた)めて、ひやうどはなす。思(おも)ひもよらで通(とほ)りける河津(かはづ)、乗(の)りたる鞍(くら)の後(うし)ろの山形(がた)をいけづり、行縢(むかばき)の着際(きぎは)を前(まへ)へつつとぞ射(い)通(とほ)しける。河津(かはづ)もよかりけり。弓(ゆみ)取(と)り直(なほ)し、矢(や)取(と)つてつがひ、馬(むま)の鼻(はな)をひつ返(かへ)し、四方(しはう)を見(み)まはす。「知者(ちしや)は惑(まど)はず、仁者(じんしや)は愁(うれ)へず、勇者(ようしや)は恐(おそ)れず」と申(まう)せども、大事(だいじ)のいた手(で)なれば、心(こころ)は猛(たけ)く思(おも)へ共(ども)、性根(しやうね)次第(しだい)に乱(みだ)れ、馬(むま)より真逆様(まつさかさま)に落(お)ちにけり。後陣(ごぢん)に有(あ)りける父(ちち)伊東(いとう)の二郎(じらう)は、是(これ)をば夢(ゆめ)にも知(し)らずぞ下(くだ)りける。頃(ころ)は神無月(かんなづき)十日余(あま)りの事(こと)なれば、山(やま)めぐりけるむら時雨(しぐれ)、降(ふ)りみふらずみ定(さだ)め無(な)く、たつより雲(くも)のたえだえに、ぬれじと駒(こま)を早(はや)めて、手綱(たづな)かいくる所(ところ)に、一(いち)の射翳(まぶし)に有(あ)りける大見(おほみ)の小藤太(ことうだ)、待(ま)ち受(う)けて居(ゐ)たりけれども、験(しるし)無(な)し。左(ひだり)の手(て)の内(うち)の指(ゆび)二(ふた)つ、前(まへ)の■(しほで)の根(ね)に射(い)立(た)てたり。伊東(いとう)は、然(さ)るふる兵(つはもの)にて、敵(てき)に二(ふた)つの矢(や)を射(い)させじと、大事(だいじ)の手(て)にもてなし、右手(めて)の鐙(あぶみ)に下(お)り下(さ)がり、馬(むま)を小楯(こだて)に取(と)り、「山賊(やまだち)有(あ)りや。先陣(せんぢん)は返(かへ)せ、後陣(ごぢん)はすすめ」と呼(よ)ばはりければ、先陣(せんぢん)・後陣(ごぢん)、我(われ)劣(おと)らじとすすめども、P092所(ところ)しも悪所(あくしよ)なれば、馬(むま)のさくりをたどる程(ほど)に、二人の敵(かたき)は逃(に)げのびぬ。隈(くま)も無(な)く待(ま)ちけれども、案内者(あんないしや)にて、思(おも)はぬしげみ、道(みち)をかへ、大見庄(おほみのしやう)にぞ入(い)りにける。危(あや)ふかりし命(いのち)也(なり)。伊東(いとう)は、河津(かはず)の三郎(さぶらう)が伏(ふ)したる所(ところ)に立(た)ち寄(よ)りて、「手(て)は大事(だいじ)なるか」と問(と)ひけれども、音(おと)もせず。押(お)し動(うご)かして、矢(や)をあらく抜(ぬ)きければ、いよいよ前後(ぜんご)も知(し)らざりけり。河津(かはづ)が首(かうべ)を、父(ちち)伊東(いとう)が膝(ひざ)にかき乗(の)せ、涙(なみだ)を抑(おさ)へて申(まう)しけるは、「こは何(なに)と成(な)り行(ゆ)く事(こと)ぞや。同(おな)じあたる矢(や)ならば、など祐親(すけちか)には立(た)たざりけるぞ。齢(よはひ)傾(かたぶ)き、今日(けふ)明日(あす)をも知(し)らざる憂(う)き身(み)なれども、わ殿(との)を持(も)ちてこそ、公方私(くばうわたくし)心(こころ)安(やす)く、後(のち)の世掛(か)けても、頼(たの)もしく思(おも)ひつるに、敢(あ)へ無(な)く先(さき)立(だ)つ事(こと)の悲(かな)しさよ。今(いま)より後(のち)、誰(たれ)を頼(たの)みて有(あ)るべきぞ。汝(なんぢ)を止(とど)めおき、祐親(すけちか)先(さき)立(だ)つ物(もの)ならば、思(おも)ひ置(お)く事(こと)よもあらじ。老少(らうせう)不定(ふぢやう)の別(わか)れこそ悲(かな)しけれ」とて、河津(かはづ)が手(て)を取(と)り、懐(ふところ)に引(ひ)き入(い)れ、くどきけるは、「如何(いか)に定業(ぢやうごふ)なり共(とも)、矢(や)一(ひと)つにて、物(もの)も言(い)はで、死(し)ぬる者(もの)や有(あ)る」と言(い)ひて、押(お)し動(うご)かしければ、其(そ)の時(とき)、祐重(すけしげ)、苦(くる)しげなる声(こゑ)にて、「かくは度々(たびたび)仰(おほ)せらるれども、誰(たれ)とも知(し)り奉(たてまつ)らず候(さうら)ふ」と言(い)ふ。土肥(とひ)の二郎(じらう)申(まう)しけるは、「御分(ごぶん)の枕(まくら)にし給(たま)ふは、父(ちち)伊東(いとう)の膝(ひざ)よ。かく宣(のたま)ふも、伊東(いとう)殿(どの)。今(いま)又(また)斯様(かやう)に申(まう)すは、土肥(とひ)の二郎(じらう)実平(さねひら)なり。敵(てき)や覚(おぼ)え給(たま)ふ」と問(と)ひければ、やや有(あ)つて、目(め)を見(み)開(ひら)き、「祐親(すけちか)を見(み)参(まゐ)らせんとすれ共(ども)、今(いま)、其(そ)れも適(かな)はず。誰々(たれたれ)も、近(ちか)く御(おん)入(い)りP093候(さうら)ふか。御名残(おんなごり)こそ惜(を)しく候(さうら)へ」とて、父(ちち)が手(て)に取(と)り付(つ)きにけり。伊藤(いとう)、涙(なみだ)を抑(おさ)へて申(まう)しけるは、「未練(みれん)也(なり)。汝(なんぢ)、敵(かたき)は覚(おぼ)えずや」と言(い)ふ。「工藤(くどう)一郎こそ、意趣(いしゆ)有(あ)る者(もの)にて候(さうら)へ。其(そ)れに、只今(ただいま)、大見(おほみ)と八幡(やはた)こそ見(み)え候(さうら)ひつれ。あやしく覚(おぼ)え候(さうら)ふ。従(したが)ひ候(さうら)ひては、祐経(すけつね)在京(ざいきやう)して、公方(くばう)の御意(ぎよい)さかりに候(さうら)ふなる。然(しか)れば、殿(との)の御(おん)行方(ゆくへ)如何(いかが)と、黄泉(よみぢ)の障(さは)り共(とも)なりぬべし。面々(めんめん)頼(たの)み奉(たてまつ)る。幼(をさな)い者(もの)までも」と言(い)ひも敢(あ)へず、奥野(おくの)の露(つゆ)と消(き)えにけり。無慙(むざん)なりける有様(ありさま)かな、申(まう)す量(はか)りぞ無(な)かりける。伊東(いとう)は、余(あま)りの悲(かな)しさに、しばしば、膝(ひざ)を下(お)ろさずして、顔(かほ)に顔(かほ)を差(さ)し当(あ)て、くどきけるこそ哀(あは)れなれ。「や、殿(との)、聞(き)け、河津(かはづ)。頼(たの)む方(かた)無(な)き祐親(すけちか)を捨(す)てて、何処(いづく)へ行(ゆ)き給(たま)ふぞ。祐親(すけちか)をもつれて行(ゆ)き候(さうら)へ。母(はは)や子供(こども)をば、誰(たれ)に預(あづ)けて行(ゆ)き給(たま)ふ。情(なさけ)なの有様(ありさま)や」と歎(なげ)きければ、土肥(とひ)の二郎(じらう)も、河津(かはづ)が手(て)を取(と)り、「実平(さねひら)も、子(こ)とては遠平(とほひら)ばかりなり。御身(おんみ)を持(も)ちてこそ、月日(つきひ)の如(ごと)く頼(たの)もしかりつるに、斯様(かやう)に成(な)り行(ゆ)き給(たま)ふ事(こと)よ」と、泣(な)き悲(かな)しむ事(こと)限(かぎ)り無(な)し。国々(くにぐに)の人々(ひとびと)も同(おな)じく一所(ひとつところ)に集(あつ)まり居(ゐ)て、袖(そで)をぞ濡(ぬ)らしけり。さて有(あ)るべきにあらざれば、空(むな)しきかたちをかかせて、家(いへ)に帰(かへ)りければ、女房(にようばう)を始(はじ)めとして、あやしのしづの男(を)、しづの女(め)に至(いた)るまで、歎(なげ)きの声(こゑ)、せんかたも無(な)し。さても、彼(か)の河津(かはづ)の三郎(さぶらう)祐重(すけしげ)に、男子(なんし)二人有(あ)り。兄(あに)は、一万(いちまん)とて、五(いつ)つなり、弟(おとと)は、箱王(はこわう)とて、三(み)つにぞなりにける。母(はは)、思(おも)ひP094の余(あま)りに、二人の子(こ)供(ども)を左右(さう)の膝(ひざ)にすゑ置(お)きて、髪(かみ)かきなで、泣(な)く泣(な)く申(まう)しけるは、「胎(はら)の内(うち)の子(こ)だにも、母(はは)の言(い)ふ事(こと)をば聞(き)き知(し)る者(もの)を、まして汝(なんぢ)等(ら)、五(いつ)つや三(み)つに成(な)るぞかし。十五、十三にならば、親(おや)の敵(かたき)を打(う)ち、童(わらは)に見(み)せよ」と泣(な)きければ、弟(おとと)は、聞(き)き知(し)らず、手(て)ずさみして、遊(あそ)び居(ゐ)たるばかりなり。兄(あに)は、死(し)したる父(ちち)が顔(かほ)をつくづくと守(まぼ)りて、わつと泣(な)きしが、涙(なみだ)を抑(おさ)へて、「いつかおとなしく成(な)りて、父(ちち)の敵(かたき)の首(くび)切(き)りて、人々(ひとびと)に見(み)せ参(まゐ)らせん」と、泣(な)きしかば、知(し)るも知(し)らぬも押(お)しなべて、袖(そで)を絞(しぼ)らぬ人は無(な)し。猶(なほ)も、名残(なごり)をしたひ兼(か)ね、三日までぞおきたりける。黄泉(くわうせん)幽冥(いうめい)の道(みち)は、一度(ひとたび)さりて、二度(ふたたび)と帰(かへ)らぬ習(なら)ひなれば、力(ちから)及(およ)ばず、泣(な)く泣(な)く送(おく)り出(い)だし、夕(ゆふべ)の煙(けぶり)と成(な)しにけり。女房(にようばう)、一(ひと)つ煙(けぶり)とならんと、悲(かな)しみけり。伊東(いとう)の二郎(じらう)申(まう)しけるは、「恩愛(おんあい)の別(わか)れ、夫妻(ふさい)の歎(なげ)き、いづれか劣(おと)るべきにはあらねども、浮(う)き世(よ)の習(なら)ひ、力(ちから)及(およ)ばず候(さうら)ふ。親(おや)におくれ、夫妻(ふさい)に別(わか)るる度(たび)ごとに、命(いのち)を失(うしな)ふ物(もの)ならば、生老病死(しやうらうびやうし)も有(あ)るべからず。別(わか)れは人ごとの事(こと)なれども、思(おも)ひ過(す)ぐれば、自(おの)づから、忘(わす)るる心(こころ)の有(あ)るぞとよ。憂(う)きに付(つ)けても、身(み)をまたくして、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を弔(とぶら)ひ給(たま)へ」と、様々(さまざま)に慰(なぐさ)めければ、「誠(まこと)に理(ことわり)なれども、差(さ)しあたりたる悲(かな)しさなれば」とて、悶(もだ)え焦(こ)がれけり。「夫(おつと)の別(わか)れは、昔(むかし)も今(いま)も、重(おも)き所(ところ)なり。別(わか)れの涙(なみだ)、袂(たもと)に止(とど)まりて、かはく間(ま)も無(な)し。後先(あとさき)をも知(し)らぬ、P095幼(をさな)き者(もの)共(ども)に打(う)ち添(そ)へて、身(み)さへ只(ただ)ならず。様(さま)をかへんと思(おも)へ共(ども)、尼(あま)の身(み)にて、産所(さんところ)の体(てい)も、見(み)苦(ぐる)し。又(また)、淵川(ふちかは)へ沈(しづ)まんと思(おも)ふにも、此(こ)の身(み)にて死(し)しては、罪(つみ)深(ふか)かるべしと聞(き)けば、とにもかくにも、女(をんな)の身程(ほど)、心(こころ)憂(う)き者(もの)は無(な)し」とくどき立(た)てて、おきふしに、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。一日(いちにち)片時(へんし)も、只(ただ)忍(しの)ぶべき身(み)にて無(な)かりしが、明(あ)けぬ暮(く)れぬとする程(ほど)に、五七日にもなりにけり。N018父(ちち)伊東(いとう)の二郎(じらう)、逆様事(さかさまごと)なれども、彼(か)の菩提(ぼだい)を弔(とぶら)はんが為(ため)に、出家(しゆつけ)して、六道(だう)にあてて、三十六本(ぽん)の率塔婆(そとば)を造立(ざうりふ)供養(くやう)し奉(たてまつ)る日、聴聞(ちやうもん)の貴賎(きせん)男女(なんによ)、数(かづ)をつくして、来会(らいくわい)する所(ところ)に、五つに成(な)りける一万(いちまん)が、父(ちち)の蟇目(ひきめ)に鞭(むち)を取(と)り添(そ)へて、「是(これ)は父(ちち)の物」とて、ひつさげければ、母(はは)呼(よ)び寄(よ)せて、「なき人の物(もの)をば、持(も)た/ぬ事(こと)ぞ。皆々(みなみな)捨(す)てよ。行(ゆ)く末(すゑ)遙(はる)かの者(もの)ぞかし。汝(なんぢ)が父(ちち)は、仏(ほとけ)になり給(たま)ひて、極楽浄土(ごくらくじやうど)に坐(ま)しますぞ。童(わらは)も、遂(つひ)には参(まゐ)るべし」と言(い)ひければ、一万(いちまん)喜(よろこ)びて、「仏(ほとけ)とは、何(なん)ぞ。極楽(ごくらく)とは、何処(いづく)に有(あ)るぞや。急(いそ)ぎ坐(ま)しませ。我(われ)も行(ゆ)かん」と攻(せ)めければ、母(はは)は、言(い)ひ遣(や)る方(かた)無(な)くして、率塔婆(そとば)の方(かた)に指(ゆび)を差(さ)し、「彼(かれ)こそ、其(そ)れよ」と言(い)ひければ、一万(いちまん)、弟(おとと)の箱王(はこわう)が手(て)を引(ひ)き、「いざや、父(ちち)のもとに参(まゐ)らん」と、急(いそ)ぎけれども、箱王(はこわう)は、三(み)つになりければ、歩(あゆ)むにはかも行(ゆ)かず、急(いそ)ぐ心(こころ)に、弟(おとと)を捨(す)て、率塔婆(そとば)の中(なか)を走(はし)りめぐり、空(むな)しく帰(かへ)りて、母(はは)の膝(ひざ)の上(うへ)に倒(たふ)れ伏(ふ)して、「仏(ほとけ)の中(なか)P096にも、我(わ)が父(ちち)は坐(ま)しまさず」とて泣(な)きければ、乳母(めのと)も、共(とも)に泣(な)き居(ゐ)たり。其(そ)の日の説法(せつぽふ)のみぎりより、一万(いちまん)が振舞(ふるま)ひにこそ、貴賎(きせん)袂(たもと)を濡(ぬ)らしけれ。四十九日には、八塔(たふ)を供養(くやう)す。
〔御房(ばう)が生(う)まるる事(こと)〕S0113N019
其(そ)の次(つぎ)の日、女房(にようばう)、産(さん)をぞしたりける。此(こ)の程(ほど)の歎(なげ)きに、産(さん)は如何(いかが)と思(おも)ひしに、つつが無(な)く男子(なんし)にてぞ有(あ)りける。母(はは)申(まう)しけるは、「己(おのれ)は、果報(くわほう)少(すく)なき者(もの)かな。今(いま)少(すこ)しとく生(う)まれて、などや父(ちち)をも見(み)ざりける。蜉蝣(ふゆう)と言(い)ふ虫(むし)こそ、朝(あした)に生(う)まれ、夕(ゆふべ)に死(し)するなれ。汝(なんぢ)が命(いのち)、かくの如(ごと)し。童(わらは)も、尼(あま)に成(な)り、山々(やまやま)=寺々(てらでら)の麓(ふもと)に閉(と)ぢ籠(こも)り、花(はな)をつみ水(みづ)をくみ、仏(ほとけ)にそなへ奉(たてまつ)り、汝(なんぢ)が父(ちち)の孝養(けうやう)にせんと思(おも)へば、身(み)には添(そ)へざるぞ。努々(ゆめゆめ)恨(うら)むべからず」とて、やがて捨(す)てむとせし所(ところ)に、河津(かはづ)の三郎(さぶらう)が弟(おとと)、伊東(いとう)九郎祐清(すけきよ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。一人も子(こ)を持(も)た/ざりければ、此(こ)の事(こと)を聞(き)き、女房(にようばう)急(いそ)ぎ来(き)たりて、「誠(まこと)や、今(いま)の幼(をさな)い人を捨(す)てんと仰(おほ)せらるる、如何(いか)でか然(さ)る事(こと)有(あ)るべきぞ。なき人の形見(かたみ)にも、罪(つみ)深(ふか)かるべし。又(また)、善悪(ぜんあく)の事(こと)も、其(そ)れを節(ふし)と思(おも)へば、折々(をりをり)に思(おも)ひ出(い)だすに成(な)る物(もの)を。しかも、男子(なんし)にて坐(ま)しませば、P097童(わらは)にたび給(たま)へ。養(やしな)ひ立(た)てて、一家(か)の形見(かたみ)にもせん」と言(い)ひければ、「此(こ)の身(み)の有様(ありさま)にて、身(み)に添(そ)ふる事(こと)、思(おも)ひもよらず候(さうら)ふ。然様(さやう)に思(おぼ)し召(め)さば」とて、とらせけり。やがて、心(こころ)安(やす)き乳母(めのと)を付(つ)けて、養育(やういく)す。名(な)をば、御房(ぼう)とぞ言(い)ひける。
〔女房(にようばう)、曾我(そが)へ移(うつ)る事(こと)〕S0114N020
然(さ)る程(ほど)に、忌(いみ)は八十日、産(さん)は三十日にも成(な)りにけり。百か日にあたらん時(とき)、必(かなら)ず尼(あま)になりぬべしとて、袈裟衣(けさころも)を用意(ようい)しけるを、伊東(いとう)入道(にふだう)伝(つた)へ聞(き)きて、人して申(まう)しけるは、「誠(まこと)や、姿(すがた)をかへんとし給(たま)ふなり。子(こ)供(ども)をば、誰(たれ)に育(はごく)めとて、然様(さやう)には思(おも)ひ給(たま)ふぞ。おい衰(おとろ)へたる祖父(おほぢ)・祖母(うば)を頼(たの)み給(たま)ふかや。其(そ)れ、更(さら)に適(かな)ふべからず。三郎(さぶらう)無(な)ければとて、幼(をさな)き者(もの)共(ども)数多(あまた)あれば、露(つゆ)程(ほど)も愚(おろ)かならず、偏(ひとへ)に祐重(すけしげ)が形見(かたみ)とこそ思(おも)ひ奉(たてまつ)れ。如何(いか)なる有様(ありさま)にても、身(み)をやつさずして、幼(をさな)き者(もの)共(ども)を。然(さ)れば、今更(いまさら)に、うとき方(かた)へ坐(ま)しまさば、我(われ)も人も、見(み)奉(たてまつ)る事(こと)も適(かな)ふまじ。相模(さがみ)の国(くに)曾我(そが)の太郎と申(まう)すは、入道(にふだう)にも所縁(しよえん)有(あ)る者(もの)にて候(さうら)ふ。折節(をりふし)、此(こ)の程(ほど)、年頃(としごろ)の妻女(さいぢよ)におくれて、歎(なげ)き未(いま)だはれ遣(や)らず候(さうら)ふと承(うけたまは)り候(さうら)ふ。其(そ)れへ遣(や)り奉(たてまつ)るべし。自(みづか)ら、心(こころ)をも慰(なぐさ)み給(たま)へ。入道(にふだう)があたりP098なれば、隔(へだ)ての心(こころ)はあらず」と、こまごまに言(い)ひて、やがて、人を付(つ)け、厳(きび)しく守(まぼ)りければ、尼(あま)に成(な)るべき隙(ひま)も無(な)し。即(すなは)ち、入道(にふだう)、曾我(そが)の太郎(たらう)がもとへ、此(こ)の由(よし)を詳(くは)しく文(ふみ)に書(か)きて、遣(つか)はしければ、祐信(すけのぶ)、文(ふみ)を披見(ひけん)して、大(おほ)きに喜(よろこ)び、やがて、使(つか)ひと打(う)ちつれ、伊東(いとう)へこして、子供(こども)諸(もろ)共(とも)に向(む)かへ取(と)りて、帰(かへ)りけり。いつしか、斯(か)かる振舞(ふるま)ひは、返(かへ)す返(がへ)すも口惜(くちを)しけれども、心(こころ)ならざる事(こと)なれば、恨(うら)みながらも、月日(つきひ)をぞ送(おく)りける。是(これ)を以(もつ)て、昔(むかし)を思(おも)ふに、せいぢよは、夫(おつと)の為(ため)に、禁獄(きんごく)にとめられ、はくゑいは、夫(おつと)におくれ、夷(えびす)の住(す)み処(か)になれしも、心(こころ)ならざる恨(うら)めしさ、今更(いまさら)、思(おも)ひ知(し)られたり。P099
曾我物語 国民文庫本 巻第二
曾我之物語巻第二(だいに)
@〔大見(おほみ)・八幡(やはた)を討(う)つ事(こと)〕S0201N021
三千(さんぜん)世界(せかい)は、眼(まなこ)の前(まへ)に付(つ)き、十二(じふに)因縁(いんえん)は、心(こころ)の裏(うち)に空(むな)し。浮(う)き世(よ)にすむも、捨(す)つるも、安(やす)からぬ命(いのち)、いつまでながらへて、あらましのみにくらさまし。伊東(いとう)入道(にふだう)は、何(なに)に付(つ)けても、身(み)の行方(ゆくへ)、あぢき無(な)くして、子息(しそく)の九郎祐清(すけきよ)を呼(よ)び寄(よ)せ、「入道(にふだう)がいきての孝養(けうやう)と思(おも)ひ、大見(おほみ)・八幡(やはた)が首(くび)を取(と)りて見(み)せよ」と言(い)ひければ、「承(うけたまは)りぬ。此(こ)の間(あひだ)も、内々(ないない)案内者(あんないしや)を以(もつ)て、見(み)せ候(さうら)へば、他行(たぎやう)の由(よし)、申(まう)し候(さうら)ふ。もし帰(かへ)り候(さうら)はば、告(つ)げ知(し)らすべき由(よし)、申(まう)す者(もの)の候(さうら)ふに依(よ)つて、待(ま)ち候(さうら)ふ。余(あま)し候(さうら)ふまじ」とて、座敷(ざしき)を立(た)ちぬ。幾程(いくほど)無(な)くして、「来(き)たりぬ」と告(つ)げければ、家(いへ)の子(こ)郎等(らうどう)八十余人(よにん)、直兜(ひたかぶと)にて、狩野(かの)と言(い)ふ所(ところ)へ押(お)し寄(よ)せたり。八幡(やはた)の三郎(さぶらう)、然(さ)る者(もの)にて、「思(おも)ひ設(まう)けたり。何処(いづく)へか引(ひ)くべき」とて、親(した)しき者(もの)共(ども)十余人(よにん)、込(こ)め置(お)きたりしが、矢(や)共(ども)打(う)ち散(ち)らし、差(さ)し詰(つ)め引(ひ)き詰(つ)め、とりどり散々(さんざん)に射(い)ける。やにはに、敵(かたき)数多(あまた)射(い)落(お)とし、P100矢種(やだね)つきしかば、差(さ)し集(あつ)まりて、主(しゆう)の為(ため)に命(いのち)捨(す)つる事(こと)、露(つゆ)程(ほど)も惜(を)しからず。所詮(しよせん)、のぞみたりぬ」と言(い)ひて、差(さ)し違(ちが)へ差(さ)し違(ちが)へ、残(のこ)らず死(し)にけり。八幡(やはた)は、腹(はら)を十文字(じふもんじ)にかき破(やぶ)り、三十七にて失(う)せにけり。即(すなは)ち、大見(おほみ)の小藤太(ことうだ)がもとへ押(お)し寄(よ)せたり。此(こ)の者(もの)は、もとより、心(こころ)下(さ)がりたる者(もの)にて、八幡(やはた)が打(う)たるるを聞(き)きて、取(と)るもの取(と)り敢(あ)へず、落(お)ちたりしを、狩野境(かのざかひ)に追(お)ひ詰(つ)めて、搦(から)め取(と)りて、川(かわ)の端(はた)にて、首(くび)をはねたり。九郎は、二人が首(くび)を取(と)りて、父(ちち)入道(にふだう)に見(み)せければ、ゆゆしくも振舞(ふるま)ひたりとぞ感(かん)じける。曾我(そが)に有(あ)りける河津(かはづ)が妻女(さいぢよ)も、喜(よろこ)ぶ事(こと)限(かぎ)り無(な)し。祐清(すけきよ)は、入道(にふだう)が憤(いきどほ)りを止(や)め、兄(あに)が敵(かたき)を打(う)ちし孝行(かうかう)、一方(ひとかた)ならぬ忠(ちゆう)とぞ見(み)えける。さても、八幡(やはた)の三郎(さぶらう)が母(はは)は、■美(くすみ)の入道(にふだう)寂心(じやくしん)が乳母子(めのとご)なり。八旬(しゆん)に余(あま)りけるが、残(のこ)り止(とど)まりて、思(おも)ひの余(あま)りにくどきけるは、「御主(しゆう)の為(ため)に、命(いのち)を捨(す)つる事(こと)は、本望(ほんまう)なれ共(ども)、此(こ)の乱(らん)のおこりを尋(たづ)ぬるに、過(す)ぎにし親(おや)の譲(ゆづ)りを背(そむ)き給(たま)ひしに依(よ)つて也(なり)。然(しか)るに、寂心(じやくしん)、世(よ)に坐(ま)しませし時(とき)、公達(きんだち)数多(あまた)なみ据(す)ゑて、酒宴(しゆえん)半(なか)ばの折節(をりふし)、持(も)ち給(たま)ひつる盃(さかづき)の中へ、空(そら)より大(おほ)きなる鼬(いたち)一(ひと)つ入(い)りて、御膝(ひざ)の上(うへ)に飛(と)び下(お)りぬと見(み)えしが、何処(いづく)とも無(な)く失(う)せぬ。希代(きたい)の不思議(ふしぎ)なりとて、やがて考(かんが)へさするに、「大(おほ)きなる表事(へうじ)、つつしみ給(たま)へ」と申(まう)したりしを、さしたる祈祷(きたう)も無(な)くて、過(す)ぎ給(たま)ひぬ。幾程(いくほど)無(な)くして、寂心(じやくしん)は、隠(かく)れさせ給(たま)ひけり。然(さ)ればにや、白河(しらかは)の法王(ほふわう)P101も、鳥羽(とば)の離宮(りきゆう)に渡(わた)らせ給(たま)ひし時(とき)、大(おほ)きなる鼬(いたち)参(まゐ)りて、泣(な)き騒(さわ)ぎけり。博士(はかせ)に御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、「三日の内(うち)に御(おん)喜(よろこ)び、又は御(おん)歎(なげ)き」とぞ申(まう)しける。其(そ)れに合(あ)はせて申(まう)す如(ごと)く、次(つぎ)の日、御子高倉宮(たかくらのみや)、御謀叛(ごむほん)現(あらは)れ、奈良路(ならぢ)にて打(う)たれさせ給(たま)ひぬ」。
@〔泰山府君(たいさんぶくん)の事(こと)〕S0202N022
斯様(かやう)の事を以(もつ)て、昔(むかし)を思(おも)ふに、大国(たいこく)に大王(だいわう)有(あ)り。楼閣(ろうかく)をすき給(たま)ひて、明(あ)け暮(く)れ、宮殿(くうでん)を作(つく)り給(たま)ふ。中にも、上かう殿(でん)と号(かう)して、梁(うつばり)は、金銀(きんぎん)なり。軒(のき)に、珠玉(しゆぎよく)・瓔珞(ようらく)をさげ、壁(かべ)には、しやうれの華鬘(けまん)を付(つ)け、内(うち)には、瑠璃(るり)の天蓋(てんがひ)をさげ、四方(しはう)に、瑪瑙(めなう)の幡(はた)をつり、庭(にわ)には、■瑚(さんご)・琥珀(くはく)をしきみて、吹(ふ)く風(かぜ)、ふる雨(あめ)の便(たよ)りに、沈麝(ちんじや)のにほひにたたゑゑり。山をつきては、亭(ちん)を構(かま)へ、池(いけ)をほりては、船(ふね)を浮(う)かべ、水(みづ)に遊(あそ)べる鴛鴦(ゑんわう)の声(こゑ)、偏(ひとへ)に浄土(じやうど)の荘厳(しやうごん)に同(おな)じ。人民(にんみん)こぞりて囲繞(いねう)す。仏菩薩(ぶつぼさつ)の影向(ようがう)も、是(これ)にはしかじとぞ見(み)えし。然(さ)れば、大王(だいわう)、玉楼(ぎよくろう)金殿(きんでん)に至(いた)り、常(つね)に遊覧(いうらん)す。或(あ)る時(とき)、大講堂(かうだう)の柱(はしら)に、鼬(いたち)二(ふた)つ来(き)たりて、泣(な)き騒(さわ)ぐ事(こと)、七日なり。大王(だいわう)、あやしみ給(たま)ひて、博士(はかせ)を召(め)して、うらなはしむるに、考(かんが)へて、奏聞(そうもん)す。「此(こ)の柱(はしら)の内(うち)に、P102七尺(しやく)の人形(ぎやう)有(あ)り。大王(だいわう)の形(かたち)をことごとく作(つく)り移(うつ)して、調伏(てうぶく)の壇(だん)を立(た)て、幣帛(へいはく)・供具(ぐぐ)をそなへたり。わりて見(み)給(たま)へば、とうい七百人有(あ)り。滅(ほろ)ぼすべし」と言(い)ふ。即(すなは)ち、大王(だいわう)上人(しやうにん)に申(まう)して、めでたき聖(ひじり)を請(しやう)じ奉(たてまつ)り、彼(か)の柱(はしら)、わりて見(み)給(たま)ふに、違(たが)はず、すさまじきと言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。やがて、壇(だん)を破(やぶ)り、勘文(かんもん)に任(まか)せて、色々(いろいろ)のしよ人を集(あつ)め、其(そ)の中に、あやしきを召(め)し取(と)り、拷問(がうもん)しければ、ことごと白状(はくじやう)す。よつて、七百人の敵(てき)をことごとく召(め)し取(と)り、三百人の首(くび)を切(き)り給(たま)ひぬ。残(のこ)り四百人切(き)らんとする時(とき)、天下(てんが)暗闇(くらやみ)に成(な)りて、夜昼(よるひる)の境(さかひ)も無(な)くして、色(いろ)を失(うしな)ふ。人民(にんみん)、道路(だうろ)に倒(たふ)れ伏(ふ)す。大王(だいわう)、驚(おどろ)きて曰(いは)く、「我(われ)、露(つゆ)程(ほど)の私(わたくし)有(あ)りて、彼(かれ)等(ら)の首(くび)を切(き)る事(こと)無(な)し。下(しも)として上(かみ)をあざける下国上(じやう)戒(いまし)め、後(のち)の世(よ)を思(おも)ふ故(ゆゑ)なり。もし又(また)、我(われ)に私(わたくし)あらば、天是(これ)を戒(いまし)むべし。是(これ)をはからん」とて、三七日、飲食(おんじき)を止(とど)めて、高床(たかゆか)に上(のぼ)り、足(あし)の指(ゆび)を爪(つま)立(だ)てて、「一命(めい)、此処(ここ)にて消(き)えなん。もし誤(あやま)り無(な)くは、諸天(しよてん)哀(あは)れみ給(たま)へ」と祈誓(きせい)して、仁王経(にんわうぎやう)をかかせられけり。三七日に満(まん)ずる時(とき)、七星(しちしやう)、眼前(げんぜん)とあま下(くだ)り見(み)え給(たま)ふ。やや有(あ)りて、日月星宿(しやうしゆく)、光(ひかり)をやはらげ給(たま)ふ。然(さ)ればこそ、まつる事(こと)に、横儀(わうぎ)は無(な)かりけれとて、残(のこ)る四百人をも切(き)り給(たま)ひぬ。此処(ここ)に、博士(はかせ)、又(また)参内(さんだい)して奏(そう)す。「大敵(たいてき)滅(ほろ)びはて、御位(くらゐ)長久(ちやうきう)なるべき事(こと)、余儀(よぎ)無(な)し。然(さ)れども、調伏(てうぶく)の大行(ぎやう)、其(そ)の効(こう)残(のこ)りて、恐(おそ)ろし。所詮(しよせん)に、P103あま下(くだ)り給(たま)ふ七星(しちしやう)をまつり、しやうかう殿(でん)に宝(たから)をつみ、一時(とき)にやき捨(す)てて、災難(さいなん)の疑(うたが)ひを止(とど)むべし」と申(まう)しければ、左右(さう)に及(およ)ばずとて、忽(たちま)ちに上件(くだん)のようしやくをくり、諸天(しよてん)を請(しやう)じ奉(たてまつ)りて、彼(か)の殿(でん)共(ども)をやき捨(す)てられにけり。さてこそ、今(いま)の世(よ)までも、鼬(いたち)泣(な)き騒(さわ)げば、つつしみて水(みづ)をそそくまじなひ、此(こ)の時(とき)に依(よ)りてなり。然(さ)れば、七百人の敵(てき)滅(ほろ)び、七星(しちしやう)眼前(がんぜん)に下(くだ)り、光(ひかり)をやはらげ給(たま)ふ事(こと)、七難(しちなん)即滅(そくめつ)、七福(しちふく)即生(そくしやう)の明文(めいもん)に適(かな)ひぬるをや、今(いま)の泰山府君(たいさんぶくん)のまつり是(これ)なり。大王(だいわう)、彼(か)の殿(でん)をやき、まつる事(こと)をし給(たま)ひて、御位(くらゐ)長生殿(ちやうせいでん)にさかえ、春(はる)秋を忘(わす)れて、不老門(ふらうもん)に、日月の影(かげ)、静(しづ)かにめぐり、吹(ふ)く風(かぜ)、枝(えだ)をならさず、ふる雨(あめ)、塊(つちくれ)を動(うご)かさで、永久(えいきう)の御代(よ)にさかえ給(たま)ひけるとかや。めでたかりし例(ためし)なり。
@〔頼朝(よりとも)、伊藤(いとう)に御座(おは)せし事(こと)〕S0203N023
抑(そもそも)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、御代(よ)を取(と)り給(たま)ひては、伊東(いとう)・北条(ほうでう)とて、左右(さう)の翼(つばさ)にて、いづれ勝劣(しようれつ)有(あ)るべきに、北条(ほうでう)の末(すゑ)はさかえ、伊東(いとう)の末(すゑ)は絶(た)えける、由来(ゆらい)を詳(くは)しく尋(たづ)ぬるに、頼朝(よりとも)十三の歳(とし)、伊豆(いづ)の国(くに)に流(なが)されて御座(おは)しけるに、彼(か)の両人(りやうにん)を打(う)ち頼(たの)み、年月(としつき)を送(おく)り給(たま)ひけり。然(しか)るに、伊東(いとう)の二郎(じらう)に、娘(むすめ)四人有(あ)り。一(いち)は、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)P104三浦介(みうらのすけ)が妻(め)なり。二には、工藤(くどう)一郎祐経(すけつね)に相(あひ)具(ぐ)したりしを取(と)り返(かへ)し、土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)に合(あ)はせけり。三四は、未(いま)だ伊東(いとう)がもとにぞ有(あ)りける。中にも、三は、美人(びじん)の聞(き)こえ有(あ)り。佐(すけ)殿(どの)聞(き)こし召(め)して、潮(しほ)のひる間(ま)の徒然(つれづれ)と、忍(しの)びて褄(つま)を重(かさ)ね給(たま)ふ。頼朝(よりとも)、御志(こころざし)浅(あさ)からで、年(ねん)月を送(おく)り給(たま)ふ程(ほど)に、若君(わかぎみ)一人出(い)で来(き)給(たま)ふ。
@〔若君(わかぎみ)の御事(こと)〕S0204N024
佐(すけ)殿(どの)、喜(よろこ)び思(おぼ)し召(め)して、御名(な)をば、千鶴(せんづる)御前(ごぜん)とぞ付(つ)け給(たま)ひける。つらつら往事(わうじ)思(おも)ふに、旧主(きうしゆ)が住(す)まひし、古風(こふう)のかうばしき国(くに)なれ共(ども)、勅勘(ちよくかん)をかうむりて、習(なら)はぬ鄙(ひな)の住(す)まひの心地(ここち)ぞ有(あ)りつるに、此(こ)の物出(い)で来(き)たる嬉(うれ)しさよ、十五にならば、秩父(ちちぶ)・足利(あしかが)の人々(ひとびと)、三浦(みうら)・鎌倉(かまくら)・小山(をやま)・宇都宮(うつのみや)相(あひ)語(かた)らひ、平家(へいけ)に掛(か)け合(あ)はせ、頼朝(よりとも)が果報(くわほう)の程(ほど)をためさんと、もてなし思(おも)ひかしづき給(たま)ふ。かくて、年月(としつき)をふる程(ほど)に、若君(わかぎみ)三歳(さい)になり給(たま)ふ春(はる)の頃(ころ)、伊東(いとう)、京(きやう)より下(くだ)りしが、しばし知(し)らざりけり。或(あ)る夕暮(ゆふぐれ)に、花園(はなぞの)山を見(み)て入(い)りければ、折節(をりふし)、若君(わかぎみ)、乳母(めのと)にいだかれ、前栽(せんざい)に遊(あそ)び給(たま)ふ。祐親(すけちか)、是(これ)を見(み)て、「彼(かれ)は誰(た)そ」と問(と)ひけれども、返事(へんじ)にも及(およ)ばず、逃(に)げにけり。あやしく思(おも)ひて、即(すなは)ち、内(うち)に入(い)り、妻女(さいぢよ)にあひ、「三(み)つばかりの子(こ)のものゆゆしきP105をいだき、前栽(せんざい)にて遊(あそ)びつるを、「誰(た)そ」と問(と)へば、返事(かへりごと)もせで逃(に)げつるは、誰(たれ)にや」と問(と)ふ。継母(ままはは)の事(こと)なりければ、折(をり)をえて、「其(そ)れこそ、御分(ごぶん)の在京(ざいきやう)の後(あと)に、いつきかしづき給(たま)ふ姫君(ひめぎみ)の、童(わらは)が制(せい)するを聞(き)かで、いつくしき殿(との)して設(まう)け給(たま)へる公達(きんだち)よ。御(おん)為(ため)には、めでたき孫(まご)御前(ごぜん)よ」と、をこがましく言(い)ひ成(な)しけるこそ、誠(まこと)に末(すゑ)も絶(た)え、所領(しよりやう)にもはなるべき例(ためし)なり。然(さ)れば、「讒臣(ざんしん)は国(くに)を乱(みだ)し、妬婦(とふ)は家(いへ)を破(やぶ)る」と言(い)ふ言葉(ことば)、思(おも)ひ知(し)られて、あさましかりける。祐親(すけちか)、是(これ)を聞(き)き、大(おほ)きに腹(はら)を立(た)て、「親(おや)の知(し)らざる聟(むこ)や有(あ)る。誰人(たれびと)ぞ。今(いま)まで知(し)らぬ不思議(ふしぎ)さよ」と怒(いか)りければ、継母(ままはは)は、訴(うつた)へすましぬるよと嬉(うれ)しくて、「其(そ)れこそ、世(よ)に有(あ)りて、誠(まこと)に頼(たよ)り坐(ま)します流人(るにん)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の若君(わかぎみ)よ」とて、嘲弄(てうろう)しければ、いよいよ腹(はら)を立(た)て、「娘(むすめ)持(も)ち余(あま)りて、置(お)き所(どころ)無(な)くは、乞食(こつじき)非人(ひにん)などには取(と)らするとも、今時(いまどき)、源氏(げんじ)の流人(るにん)聟(むこ)に取(と)り、平家(へいけ)に咎(とが)められては、如何(いかが)有(あ)るべき。「毒(どく)の虫(むし)をば、頭(かしら)をひしぎて、脳(なう)を取(と)り、敵(かたき)の末(すゑ)をば、胸(むね)をさきて、胆(きも)を取(と)れ」とこそ言(い)ひ伝(つた)へたれ。詮(せん)無(な)し」とて、郎等(らうどう)呼(よ)び寄(よ)せて、若君(わかぎみ)いざなひ出(い)だし、伊豆(いづ)の国(くに)松川(まつかわ)の奥(おく)を尋(たづ)ね、とときの淵(ふち)に柴(ふし)づけにし奉(たてまつ)りけり。情(なさけ)無(な)かりし例(ためし)也(なり)。是(これ)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「しやうにみちては、瑞(ずい)を豊年(ほうねん)に現(あらは)し、丈(ぢやう)に有(あ)りては、禍(くわ)をはんとくに現(あらは)す」。誠(まこと)に余(あま)れる振舞(ふるま)ひは、行(ゆ)く末(すゑ)如何(いかが)とぞ覚(おぼ)えける。剰(あまつさ)へ、北(きた)の御方(かた)P106をも取(と)り返(かへ)し、同(おな)じき国(くに)の住人(ぢゆうにん)江間(えま)の小四郎(こしらう)に合(あ)はせけり。名残(なごり)惜(を)しかりつる衾(ふすま)の下(した)を出(い)で給(たま)ひて、思(おも)はぬ新枕(にいまくら)、かたしく袖(そで)に移(うつ)り変(か)はりし御涙(おんなみだ)、さこそと思(おも)ひ遣(や)られたり。是(これ)も、祐親(すけちか)が、平家(へいけ)へ恐(おそ)れ奉(たてまつ)ると思(おも)へども、わうきう・董賢(とうけん)ふん、三百たるにも、楊雄(やうゆう)・仲舒(ちうじよ)ふんか、其(そ)の門(かど)につまびらかにせんにはしかずと見(み)えたり。
@〔王昭君(わうぜうくん)が事(こと)〕S0205N025
昔(むかし)、漢(かん)の王昭君(わうぜうくん)と申(まう)せし后(きさき)を、胡国(ここく)の夷(えびす)に取(と)られ、胡国(ここく)へ越(こ)え給(たま)ひしに、名残(なごり)の袖(そで)はき難(がた)くして、歎(なげ)き悲(かな)しみけるに、王昭君(わうぜうくん)が、歎(なげ)き余(あま)りに、「自(みづか)らがしきし褥(しとね)に、我(わ)が姿(すがた)を移(うつ)し止(とど)めて、しき給(たま)へ。我(われ)、夢(ゆめ)に来(き)たりて、あふべし」と契(ちぎ)りける。漢王(かんわう)悲(かな)しみて、彼(か)の褥(しとね)を枕(まくら)にして、泣(な)き伏(ふ)し給(たま)ひしかば、夢(ゆめ)とも無(な)く、又(また)現(うつつ)とも無(な)く、来(き)たりて、折々(をりをり)あひにけり。彼(か)の昭君(せうくん)が、胡国(ここく)への道(みち)すがら、涙(なみだ)にくるる四方(よも)の山共(とも)、里(さと)とも分(わ)け兼(か)ねて、袖(そで)のひる間(ま)も無(な)かりけり。思(おも)ひの余(あま)りに、旧栖(きうせい)を顧(かへり)みて、「蒼波(さうは)路(みち)遠(とほ)くして、はかう山(さん)深(ふか)し」と詠(えい)じつつ、漢宮(かんきゆう)万里(ばんり)の旅(たび)の空(そら)、今(いま)の思(おも)ひに知(し)られたり。佐(すけ)殿(どの)も、若君(わかぎみ)失(うしな)はれさせ給(たま)ひしP107御心(おんこころ)、くわらくの子(こ)を失(うしな)ひ、かなわぬ別(わか)れの袖(そで)の涙(なみだ)、紅閨(こうけい)に連(つら)なりし限(かぎ)りなり。
@〔玄宗皇帝(げんそうくわうてい)の事(こと)〕S0206N026
然(さ)れば、あかぬ北(きた)の御方(かた)の御名残(おんなごり)は、玄宗皇帝(げんそうくわうてい)、楊貴妃(やうきひ)と申(まう)せし后(きさき)、安禄山(あんろくざん)軍(いくさ)の為(ため)に、夷(えびす)に下(くだ)し給(たま)ふ。御思(おも)ひの余(あま)りに、蜀(しよく)の方士(はうじ)を遣(つか)はし給(たま)ふ。方士(はうじ)神通(じんつう)にて、一天(いつてん)三千(さんぜん)世界(せかい)を尋(たづ)ねまはり、太真(しん)ゑんに至(いた)る。蓬莱宮(ほうらいきゆう)是(これ)也(なり)。此処(ここ)にきたつて、玉妃(ぎよくひ)にあひぬ。此(こ)の所(ところ)に至(いた)りて見(み)れば、浮雲(ふうん)かさ也(なり)、人跡(じんせき)の通(かよ)ふべき所(ところ)ならねば、簪(かんざし)を抜(ぬ)きて、扉(とぼそ)を叩(たた)く。双鬟(さうくわん)童女(どうによ)二人出(い)でて、「暫(しばら)く是(これ)に待(ま)ち給(たま)へ。玉妃(ぎよくひ)は、おとのごもれり。但(ただ)し、何処(いづく)より、如何(いか)なる人(ひと)ぞ」と問(と)ふ。「唐(とう)の太子(たいし)の使(つか)ひ、蜀(しよく)の方士(はうじ)」と答(こた)へければ、内(うち)に入(い)りぬ。時(とき)に、雲海(うんかい)沈々(ちんちん)として、洞天(とうてん)に日(ひ)暮(く)れなんとす。悄然(せうぜん)として、まつ所(ところ)に、玉妃(ぎよくひ)出(い)で給(たま)ふ。是(これ)、即(すなは)ち楊貴妃(やうきひ)なり。右左(みぎひだり)の女(をんな)七八人。方士(はうじ)揖(いつ)して、皇帝(くわうてい)安寧(あんねい)を問(と)ふ。方士(はうじ)、こまかに答(こた)ふ。言(い)ひをはりて、玉妃(ぎよくひ)、証(しるし)とや、簪(かんざし)をわきて、方士(はうじ)にたぶ。其(そ)の時(とき)、方士(はうじ)、「是(これ)は、世(よ)の常(つね)に有(あ)る物(もの)也(なり)。支証(ししよう)に立(た)たず。叡覧(えいらん)にそなへ奉(たてまつ)らんに、如何(いか)なる密契(みつけい)か有(あ)りし」。玉妃(ぎよくひ)、P108暫(しばら)く案(あん)じて、「天宝(ぽう)十四年の秋七月七日の夜(よ)、天に有(あ)りて、願(ねが)はくは比翼(ひよく)の鳥(とり)、地(ち)に有(あ)りて、願(ねが)はくは連理(れんり)の枝(えだ)、天長(てんちやう)地久(ちきう)にして、作(つく)る事(こと)無(な)からんと、知(し)らず、奏(そう)せんに、御(おん)疑(うたが)ひ有(あ)るべからず」と言(い)ひて、玉妃(ぎよくひ)さりぬ。方士(はうじ)帰(かへ)り参(まゐ)りて、皇帝(くわうてい)に奏聞(そうもん)す。「然(さ)る事(こと)有(あ)り、方士(はうじ)誤(あやま)り無(な)し」とて、飛車(ひしや)に乗(の)り、我(わ)が朝(てう)尾張(をはり)の国(くに)にあま下(くだ)り、八剣(やつるぎ)の明神(みやうじん)と現(あらは)れ給(たま)ふ。楊貴妃(やうきひ)は、熱田(あつた)の明神(みやうじん)にてぞ渡(わた)らせ給(たま)ひける。蓬莱宮(ほうらいきゆう)、即(すなは)ち此(こ)の所(ところ)とぞ申(まう)す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)は、若君(わかぎみ)、北(きた)の御方(かた)御(おん)行方(ゆくへ)、知(し)らせ奉(たてまつ)る者(もの)無(な)かりしかば、慰(なぐさ)み給(たま)ふ事(こと)も無(な)かりけり。
@〔頼朝(よりとも)、伊東(いとう)を出(い)で給(たま)ふ事(こと)〕S0207N027
剰(あまつさ)へ、佐(すけ)殿(どの)をも、夜討(ようち)にし奉(たてまつ)らんとて、郎等(らうどう)を催(もよほ)しける。此処(ここ)に、祐親(すけちか)が次男(じなん)伊東(いとう)の九郎祐清(すけきよ)と言(い)ふもの有(あ)り。秘(ひそ)かに佐(すけ)殿(どの)へ参(まゐ)り、申(まう)しけるは、「親(おや)にて候(さうら)ふ祐親(すけちか)こそ、物(もの)に狂(くる)ひ候(さうら)ひて、君(きみ)を打(う)ち奉(たてまつ)らんと仕(つかまつ)り候(さうら)へ。何処(いづく)へも御(おん)忍(しの)び候(さうら)へ」と申(まう)しければ、頼朝(よりとも)聞(き)こし召(め)し、ちやうさい王(わう)が、害(がい)にあひしも、偽(いつは)る事(こと)は知(し)らでなり、ゑみの内(うち)に刀(かたな)をぬくは、習(なら)ひなり、人の心(こころ)知(し)り難(がた)ければ、君臣(くんしん)父子(ふし)、いを以(もつ)ておそるべし、況(いはん)や、打(う)たんとするは、親(おや)なり、P109告(つ)げ知(し)らするは、子(こ)なり、方々(かたがた)、不審(ふしん)に覚(おぼ)えたり、いかさま、我(われ)をたばかるにこそとて、打(う)ちとけ給(たま)ふ事(こと)も無(な)し。「誠(まこと)に思(おも)ひ掛(か)けられなば、何処(いづく)へ行(ゆ)きても逃(のが)るべきか。然(さ)れども、左右(さう)無(な)く自害(じがい)するに及(およ)ばず、人手(ひとで)にかからんよりは、汝(なんぢ)、早(はや)く頼朝(よりとも)が首(くび)を取(と)りて、父(ちち)入道(にふだう)に見(み)せよ」と仰(おほ)せられければ、祐清(すけきよ)承(うけたまは)りて、「仰(おほ)せの如(ごと)く、語(かた)らひ難(がた)き人の心(こころ)にて候(さうら)ふ。蜂(はち)を取(と)りて、衣(ころも)の首(くび)に返(かへ)して、親子(しんし)の心(こころ)に違(たが)ひしも、偽(いつは)るたくみなり。君(きみ)思(おぼ)し召(め)すも、御理(ことわり)、誠(まこと)の御志(おんこころざし)とは思(おぼ)し召(め)さずして、いしやうのはう、もつとも御(おん)疑(うたが)ひ、理(ことわり)なり。忝(かたじけな)くも、不忠(ふちゆう)申(まう)し候(さうら)はば、当国(たうごく)二所(にしよ)大明神(だいみやうじん)の御罰(ばち)を蒙(かうぶ)り、弓矢(ゆみや)の冥加(みやうが)長(なが)く付(つ)き、祐清(すけきよ)が命(いのち)、御前(ごぜん)にてはて候(さうら)ひなん」と申(まう)しければ、佐(すけ)殿(どの)聞(き)こし召(め)し、大(おほ)きに御(おん)喜(よろこ)び有(あ)りて、「斯様(かやう)に告(つ)げ知(し)らする志(こころざし)ならば、如何(いか)にもよき様(やう)に相(あひ)はからひ候(さうら)へ」と仰(おほ)せければ、祐清(すけきよ)承(うけたまは)りて、「藤(とう)九郎盛長(もりなが)、弥三郎(やさぶらう)成綱(なりつな)をば、君(きみ)御座(ざ)の様(やう)にて、暫(しばら)く是(これ)に置(お)かれ候(さうら)ふべし。君(きみ)は、大鹿毛(かげ)に召(め)されて、鬼武(おにたけ)ばかり召(め)し具(ぐ)し、北条(ほうでう)へ御(おん)忍(しの)び候(さうら)へ」と申(まう)し置(お)きて、「御討手(うつて)もや参(まゐ)り候(さうら)はん、事(こと)をのばし候(さうら)はん」とて、急(いそ)ぎ御前(ごぜん)を立(た)ちにけり。P110
@〔頼朝(よりとも)、北条(ほうでう)へ出(い)で給(たま)ふ事(こと)〕S0208N028
佐(すけ)殿(どの)も、秘(ひそ)かにまぎれ出(い)でさせ給(たま)ふ。頃(ころ)は、八月下旬(げじゆん)の事(こと)なるに、露(つゆ)ふき結(むす)ぶ風(かぜ)の音(おと)、我(わ)が身(み)一(ひと)つにもの寂(さび)しく、野辺(のべ)にすだく虫(むし)の声(こゑ)、折(をり)から殊(こと)に哀(あは)れなり。有明(ありあけ)の月だに未(いま)だ出(い)でざるに、何処(いづく)を其処(そこ)とも知(し)らねども、道(みち)をかへて、田面(たのも)を伝(つた)ひ、草(くさ)を分(わ)けつつ、道(みち)すがらの御祈誓(きせい)には、「南無(なむ)正(しやう)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の御記文(きもん)に、我(われ)末世(まつせ)に、源氏(げんじ)の身(み)と成(な)りて、東国(とうごく)に住(ぢゆう)して、夷(えびす)をたひらげんとこそ誓(ちか)ひ坐(ま)しませ。然(しか)るに、人すたれ、氏(うぢ)滅(ほろ)びて、正統(しやうとう)の残(のこ)り、只(ただ)頼朝(よりとも)ばかりなり。今度(こんど)、栄華(えいぐわ)を開(ひら)かずは、誰(たれ)有(あつ)て、家(いへ)を起(お)こさんや。世既(すで)に澆季(げうき)にのぞみ、人後胤(こういん)なし。早(はや)く頼朝(よりとも)が運(うん)を開(ひら)かせて、東夷(とうい)を従(したが)へしめ給(たま)へ。しからずは、当国(たうごく)の匹夫(ひつぷ)となし、長(なが)く本望(ほんまう)を遂(と)げしめ給(たま)へ」と、御祈誓(きせい)、夜(よ)もすがらなり。感応(かんおう)にや、幾程(いくほど)無(な)くして、御代(よ)につき給(たま)ひにけり。さても、北条(ほうでう)の四郎(しらう)時政(ときまさ)がもとに御座(おは)せし也(なり)。一向(いつかう)彼(かれ)を打(う)ち頼(たの)み、年月(としつき)を送(おく)り給(たま)ふ。
@〔時政(ときまさ)が娘(むすめ)の事(こと)〕S0209N029P111
又(また)、彼(か)の時政(ときまさ)に、娘(むすめ)三人有(あ)り。一人(ひとり)は、先腹(せんばら)にて、二十一なり。二三は、当腹(たうはら)にて、十九・十七にぞなりにける。中(なか)にも、先腹(せんばら)二十一は、美人(びじん)の聞(き)こえ有(あ)り。殊(こと)に父(ちち)、不便(ふびん)に思(おも)ひければ、妹(いもうと)二人よりは、すぐれてぞ思(おも)ひけり。然(さ)る程(ほど)に、其(そ)の頃(ころ)、十九の君(きみ)、不思議(ふしぎ)の夢(ゆめ)をぞ見(み)たりける。例(たと)へば、何処(いづく)とも無(な)く、高(たか)き峰(みね)に上(のぼ)り、月日(つきひ)を左右(さう)の袂(たもと)にをさめ、橘(たちばな)の三(み)つなりたる枝(えだ)をかざすと見(み)て、思(おも)ひけるは、男子(をのこご)の身(み)なりとも、自(みづか)らが、月日(つきひ)を取(と)らん事(こと)有(あ)るまじ、ましてや、女(をんな)の身(み)として、思(おも)ひもよらず、誠(まこと)に不思議(ふしぎ)の夢(ゆめ)なり、姉御(あねご)は知(し)らせ給(たま)ふべし、問(と)ひ奉(たてまつ)らんとぞ、急(いそ)ぎ朝日(あさひ)御前(ごぜん)の方(かた)に移(うつ)り、こまごまと語(かた)り給(たま)ふ。姉(あね)二十一の君(きみ)、詳(くは)しく聞(き)きて、「誠(まこと)にめでたき夢(ゆめ)なり。我(われ)等(ら)が先祖(せんぞ)は、今(いま)に観音(くわんおん)を崇(あが)め奉(たてまつ)る故(ゆゑ)、月日(つきひ)を左右(さう)の袂(たもと)にをさめたり。又(また)、橘(たちばな)をかざす事(こと)は、本説(ほんせつ)めでたき由来(ゆらい)有(あ)り」とて、景行天皇(けいかうてんわう)の御事(おんこと)をぞ思(おも)ひ出(い)だしける。
@〔橘(たちばな)の事(こと)〕S0210N030
抑(そもそも)、橘(たちばな)と言(い)ふ木実(このみ)の始(はじ)まりは、「仁王十一代(だい)の御門(みかど)垂仁天皇(すいにんてんわう)の御時(とき)よりぞ出(い)で来(き)ける」と、日本紀(につぽんぎ)は見(み)え、然(しか)るに、此(こ)の橘(たちばな)は、常世(とこよ)の国(くに)より、三参(まゐ)らせたり。P112折節(をりふし)、后(きさき)懐妊(くわいにん)し、彼(か)の橘(たちばな)を用(もち)ひ給(たま)ひて、懐胎(くわいたい)の悩(なや)み絶(た)えて、御心(おんこころ)すずしかりけり。然(さ)れば、斯様(かやう)の物(もの)も有(あ)りけるよと、朝夕(てうせき)願(ねが)ひ給(たま)へ共(ども)、我(わ)が国(くに)に無(な)き木実(このみ)也(なり)ければ、力(ちから)無(な)し。此処(ここ)に、間守(けんしゆ)と言(い)ふ大臣(だいじん)有(あ)り、此(こ)の願(ねが)ひを聞(き)き、「安(やす)き事(こと)なり。異国(いこく)に渡(わた)り、取(と)りて参(まゐ)らせん」と言(い)ひて、立(た)ちければ、君(きみ)、喜(よろこ)び思(おぼ)し召(め)して、「さては、いつの頃(ころ)に、帰朝(きてう)すべき」と、宣旨(せんじ)有(あ)りければ、「五月には、必(かなら)ず参(まゐ)るべし」と申(まう)して、渡(わた)りぬ。其(そ)の月をまてども、見(み)えずして、六月になりて、「我(われ)は止(とど)まりて、人して橘(たちばな)を十参(まゐ)らせ、猶(なほ)尋(たづ)ねて参(まゐ)るべし」とて、止(とど)まりけれども、橘(たちばな)の参(まゐ)る事(こと)を、后(きさき)、大(おほ)きに喜(よろこ)び給(たま)ひ、用(もち)ひ給(たま)ふ。其(そ)の徳(とく)に依(よ)りて、皇子(わうじ)御誕生(たんじやう)有(あ)り。御位(くらゐ)を保(たも)ち給(たま)ふ事(こと)、百二十年なり。景行天皇(けいかうてんわう)の御事(こと)、是(これ)なり。其(そ)の大臣(だいじん)の袖(そで)の香(か)に、橘(たちばな)の移(うつ)り来(き)たりけるを、猿丸(さるまる)大夫(たいふ)が歌(うた)に、五月(さつき)まつ花橘(たちばな)の香(か)をかげば昔(むかし)の人の袖(そで)の香(か)ぞする W003と詠(よ)みたりけり。我(わ)が朝(てう)に、たち花うゑ染(そ)めける事(こと)、此(こ)の時(とき)よりぞ始(はじ)まりける。又(また)、橘(たちばな)に、盧橘(ろきつ)と言(い)ふ名(な)有(あ)り。去年(こぞ)の橘(たちばな)におほひしておけば、今年(ことし)の夏(なつ)まで有(あ)るなり。其(そ)の色(いろ)、少(すこ)しくろきなり。「盧(ろ)」の字(じ)を「くろし」とよめばなり。さても、此(こ)の二十一の君(きみ)、女性(しやう)ながら、才覚(さいかく)人にすぐれしかば、斯様(かやう)の事(こと)を思(おも)ひ出(い)だしけるにや。実(げ)にも、景行帝(けいかうのみかど)、橘(たちばな)を願(ねが)ひ、誕生(たんじやう)有(あ)りし事(こと)、幾程(いくほど)無(な)くて、若君(わかぎみ)出(い)で来(き)たり、頼朝(よりとも)P113の御後(あと)を継(つ)ぎ、四海(しかい)を治(をさ)め奉(たてまつ)る。然(さ)れば、此(こ)の夢(ゆめ)を言(い)ひおどして、かひ取(と)らばやと思(おも)ひければ、「此(こ)の夢(ゆめ)、返(かへ)す返(がへ)す恐(おそ)ろしき夢(ゆめ)なり。よき夢(ゆめ)を見(み)ては、三年(みとせ)は語(かた)らず。悪(あ)しき夢(ゆめ)を見(み)ては、七日の内(うち)に語(かた)りぬれば、大(おほ)きなるつつしみ有(あ)り。如何(いかが)すべき」とぞおどしける。十九の君(きみ)は、偽(いつは)りとは思(おも)ひもよらで、「さては、如何(いかが)せん。よきにはからひてたびてんや」と、大(おほ)きに恐(おそ)れけり。「然(さ)れば、斯様(かやう)に、悪(あ)しき夢(ゆめ)をば転(てん)じかへて、難(なん)を逃(のが)るるとこそ聞(き)きて候(さぶら)へ」「転(てん)ずるとは、何(なに)とする事(こと)ぞや。自(みづか)ら心(こころ)得(え)難(がた)し。はからひ給(たま)へ」と有(あ)りければ、「然(さ)らば、うりかふと言(い)へば、逃(のが)るるなり。うり給(たま)へ」と言(い)ふ。かふ者(もの)の有(あ)りてこそ、うられ候(さうら)へ、目(め)にも見(み)えず、手(て)にも取(と)られぬ夢(ゆめ)の跡(あと)、現(うつつ)に誰(たれ)かかふべしと、思(おも)ひわづらふ色(いろ)見(み)えぬ。「然(さ)らば、此(こ)の夢(ゆめ)をば、童(わらは)かひ取(と)りて、御身(おんみ)の難(なん)をのぞき奉(たてまつ)らん」と言(い)ふ。「自(みづか)らがもとより主(ぬし)、悪(あ)しくとても、恨(うら)み無(な)し。御(おん)為(ため)悪(あ)しくは、如何(いかが)」と言(い)ひければ、「然(さ)ればこそ、うりかふと言(い)へば、転(てん)ずるにて、主(ぬし)も自(みづか)らも、苦(くる)しかるまじ」と、誠(まこと)しやかにこしらへければ、「然(さ)らば」と喜(よろこ)びて、うり渡(わた)しけるぞ、後(のち)に、悔(くや)しくは覚(おぼ)えける。此(こ)の言葉(ことば)につきて、二十一の君(きみ)、「何(なに)にてかかひ奉(たてまつ)らん。もとより所望(しよまう)の物(もの)なれば」とて、北条(ほうでう)の家(いへ)に伝(つた)はる唐(から)の鏡(かがみ)を取(と)り出(い)だし、唐綾(からあや)の小袖(こそで)一重(かさ)ね添(そ)へ渡(わた)されけり。P114十九の君(きみ)、なのめならずに喜(よろこ)びて、我(わ)が方(かた)に帰(かへ)り、「日頃(ひごろ)の所望(しよまう)適(かな)ひぬ。此(こ)の鏡(かがみ)の主(ぬし)になりぬ」と喜(よろこ)びけるぞ、愚(おろ)かなる。此(こ)の二十一の君(きみ)をば、父殊(こと)に不便(ふびん)に思(おも)ひければ、此(こ)の鏡(かがみ)を譲(ゆづ)りけるとかや。然(さ)る程(ほど)に、佐(すけ)殿(どの)、時政(ときまさ)に娘(むすめ)数多(あまた)有(あ)る由(よし)聞(き)こし召(め)し、伊東(いとう)にてもこり給(たま)はず、上(うは)の空(そら)なるもの思(おも)ひを、風(かぜ)の便(たよ)りにおとづればやと思(おぼ)し召(め)し、内々(ないない)人に問(と)ひ給(たま)へば、「当腹(たうはら)二人は、殊(こと)の外(ほか)悪女(あくぢよ)なり。先腹(せんばら)二十一の方(かた)へ、御文(ふみ)ならば、賜(たま)はりて参(まゐ)らせん」と申(まう)しける。伊東(いとう)にて物思(おも)ひしも、継母(ままはは)故(ゆゑ)なり。如何(いか)にわろくとも、当腹(たうはら)をと思(おぼ)し召(め)し定(さだ)められて、十九の方(かた)へ、御文(ふみ)をぞ遊(あそ)ばしける。藤(とう)九郎盛長(もりなが)は、是(これ)を賜(たま)はりて、つくづく思(おも)ひけるは、当腹(たうはら)共(ども)は、事(こと)の外(ほか)悪女(あくぢよ)の聞(き)こえ有(あ)り、君(きみ)思(おぼ)し召(め)し遂(と)げん事(こと)有(あ)るべからず、北条(ほうでう)にさへ、御仲(なか)違(たが)はせ給(たま)ひては、いづかたに御(おん)入(い)り有(あ)るべき、果報(くわほう)こそ、劣(おと)り奉(たてまつ)るとも、手跡(しゆせき)は、如何(いか)でか劣(おと)り奉(たてまつ)るべきとて、御文(ふみ)を二十一の方(かた)へとぞかきかへける。さて、少将(せうしやう)の局(つぼね)して、参(まゐ)らせたりけり。姫君(ひめぎみ)御覧(ごらん)じて、思(おぼ)し召(め)し合(あ)はする事(こと)有(あ)り、此(こ)の暁(あかつき)、白(しろ)き鳩(はと)一(ひと)つ飛(と)び来(き)たりて、口(くち)より金(こがね)の箱(はこ)に文(ふみ)を入(い)れてふき出(い)だし、童(わらは)が膝(ひざ)の上(うへ)におき、虚空(こくう)に飛(と)びさりぬ、開(ひら)きて見(み)れば、佐(すけ)殿(どの)の御文(ふみ)なり、急(いそ)ぎ箱(はこ)にをさむると思(おも)へば、夢(ゆめ)なり、今(いま)現(うつつ)に文(ふみ)見(み)る事(こと)、不思議(ふしぎ)さよと思(おぼ)し召(め)して、打(う)ち置(お)きぬ。其(そ)の後(のち)、文(ふみ)の数(かず)重(かさ)なりければ、夜(よ)な夜(よ)なP115忍(しの)びて、褄(つま)をぞ重(かさ)ね給(たま)ひける。かくて、年月(としつき)送(おく)り給(たま)ふ程(ほど)に、北条(ほうでう)の四郎(しらう)時政(ときまさ)、京(きやう)より下(くだ)りけるが、道(みち)にて此(こ)の事(こと)を聞(き)き、ゆゆしき大事(だいじ)出(い)で来(き)たり、平家(へいけ)へ聞(き)こえては如何(いか)ならんと、大(おほ)きに騒(さわ)ぎ思(おも)ひけり。さりながら、静(しづ)かに物(もの)を案(あん)ずるに、時政(ときまさ)が先祖上総守(かづさのかみ)なほたかは、伊予殿(いよどの)の関東(くわんとう)下向(げかう)の時(とき)、聟(むこ)に取(と)り奉(たてまつ)りて、八幡(はちまん)殿(どの)以下(いげ)の子孫(しそん)出(い)で来(き)たり、今(いま)に繁昌(はんじやう)、年(とし)久(ひさ)し。
@〔兼隆(かねたか)聟(むこ)に取(と)る事(こと)〕S0211N031
斯様(かやう)の昔(むかし)を案(あん)ずるに、悪(あ)し様(ざま)にはあらじと思(おも)ひけれども、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)に、山木(やまき)の判官(はんぐわん)兼隆(かねたか)と言(い)ふ者(もの)を同道(どうだう)して下(くだ)しけり。道(みち)にて、何(なに)と無(な)き事(こと)のついでに、「御分(ごぶん)を時政(ときまさ)が聟(むこ)に取(と)らん」と言(い)ひたりし言葉(ことば)の違(ちが)ひなば、「源氏(げんぢ)の流人(るにん)、聟(むこ)に取(と)りたり」と訴(うつた)へられては、罪科(ざいくわ)逃(のが)れ難(がた)し、如何(いかが)せんと思(おも)ひければ、伊豆(いづ)の国府(こう)に着(つ)き、彼(か)の目代(もくだい)兼隆(かねたか)に言(い)ひ合(あ)はせ、知(し)らず顔(がほ)にて、娘(むすめ)取(と)り返(かへ)し、山木(やまき)の判官(はんぐわん)にとらせけり。然(さ)れども、佐(すけ)殿(どの)に契(ちぎ)りや深(ふか)かりけん、一夜(よ)をもあかさで、其(そ)の夜(よ)の内(うち)に、逃(に)げ出(い)でて、近(ちか)く召(め)し使(つか)ひける女房(にようばう)一人具(ぐ)して、深(ふか)き叢(くさむら)を分(わ)け、足(あし)に任(まか)せて、あしびきの山路(やまぢ)を越(こ)え、夜(よ)もすがら、伊豆(いづ)の御山に分(わ)け入(い)り給(たま)ひぬ。ちぎりくずちは、P116出雲路(いづもぢ)の神(かみ)の誓(ちか)ひは、妹背(いもせ)の中(なか)は変(か)はらじとこそ、守(まぼ)り給(たま)ふなれ。頼(たの)む恵(めぐ)みのくちせずは、末(すゑ)の世掛(か)けて、諸(もろ)共(とも)に住(す)みはつべしと、祈(いの)り給(たま)ひけるとかや。 抑(そもそも)、出雲路(いづもぢ)の神(かみ)と申(まう)すは、昔(むかし)、けいしやうと言(い)ふ国(くに)に、男(をとこ)を伯陽(はくやう)、女(をんな)を遊子(いうし)とて、夫婦(ふうふ)の物有(あ)りけるが、月に共(とも)なひて、夜(よ)もすがら、ぬる事(こと)無(な)くして、道(みち)に立(た)ち、夕(ゆふべ)には、東山(とうざん)の峰(みね)に心(こころ)を澄(す)まし、月(つき)の遅(おそ)く出(い)づる事(こと)を恨(うら)み、暁(あかつき)は、晴天(せいてん)の雲(くも)にうそぶき、くもり無(な)き夜(よ)を喜(よろこ)び、雨雲(あまぐも)の空(そら)を悲(かな)しみて、年月(としつき)を送(おく)りしに、伯陽(はくやう)九十九の年(とし)、死門(しもん)にのぞまむとせし時(とき)、遊子(いうし)に向(む)かひ申(まう)す様(やう)、「我(われ)、月に共(とも)なひて、めづる事(こと)、世(よ)の人に越(こ)えたり。一人(ひとり)なりとも、月を見(み)る事(こと)、怠(おこた)らざれ」と言(い)ひければ、遊子(いうし)、涙(なみだ)を流(なが)して、「汝(なんぢ)、まさに死(し)なば、我(われ)一人(ひとり)月を見(み)る事(こと)有(あ)るべからず。諸(もろ)共(とも)に死(し)なん」と悲(かな)しめば、伯陽(はくやう)重(かさ)ねて申(まう)す様(やう)、「偕老(かいらう)同穴(とうけつ)の契(ちぎ)り、百年(ひやくねん)にあたれり。月を形見(かたみ)に見(み)よ」とて、遂(つひ)にはかなくなりにけり。契(ちぎ)りし如(ごと)く、遊子(いうし)は内(うち)に入(い)る事(こと)も無(な)くして、月(つき)に伴(ともな)ひ歩(あり)きしが、是(これ)も限(かぎ)り有(あ)りければ、遂(つひ)にはかなくなりにけり。然(さ)れども、夫婦(ふうふ)諸(もろ)共(とも)に月に心(こころ)をとめし故(ゆゑ)に、天上(てんじやう)の果(くわ)を受(う)け、二(ふた)つの星(ほし)なるとかや、牽牛(けんぎう)織女(しよくぢよ)是(これ)なり。又(また)、さいの神(かみ)とも申(まう)すなり。道祖神(だうそぢん)とも現(あらは)れ、夫婦(ふうふ)の中を守(まぼ)り給(たま)ふ御(おん)誓(ちか)ひ、頼(たの)もしくぞ覚(おぼ)えける。P117又(また)、伝(つた)へ聞(き)く、漢(かん)の高祖(かうそ)、はうやう山(さん)と言(い)ふ山(やま)に籠(こも)り給(たま)ひしに、こうろ大子(たいし)諸(もろ)共(とも)に、紫雲(しうん)を知(し)るべしとて、深(ふか)き山路(やまぢ)に分(わ)け入(い)りし志(こころざし)、是(これ)には過(す)ぎじとぞ見(み)えし。さて、佐(すけ)殿(どの)へ秘(ひそ)かに人を参(まゐ)らせ、かくと申(まう)させ給(たま)ひしかば、鞭(むち)を上(あ)げてぞ、上(のぼ)り給(たま)ひける。目代(もくだい)は尋(たづ)ねけれども、猶(なほ)山(やま)深(ふか)く入(い)り給(たま)ひければ、力(ちから)及(およ)ばず、北条(ほうでう)は、知(し)らず顔(がほ)にて、年月(としつき)をぞ送(おく)りける。伊東(いとう)が振舞(ふるま)ひには代(か)はりたるにや、果報(くわほう)の致(いた)す所(ところ)なり。
@〔盛長(もりなが)が夢見(ゆめみ)の事(こと)〕S0212N033
此処(ここ)に、懐島(ふところじま)の平(へい)権守(ごんのかみ)景信(かげのぶ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。此(こ)の程(ほど)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、伊豆(いづ)の御山に忍(しの)びて坐(ま)します由(よし)伝(つた)へ聞(き)き、「斯様(かやう)の時(とき)こそ、奉公(ほうこう)をば致(いた)さめ」とて、一夜(いちや)宿直(とのゐ)に参(まゐ)りけり。藤九郎盛長(もりなが)も、同(おな)じく宿直(とのゐ)仕(つかまつ)る。夜半(やはん)ばかりに、打(う)ち驚(おどろ)きて、申(まう)しけるは、「今夜(こんや)、盛長(もりなが)こそ、君(きみ)の御(おん)為(ため)に、めでたき御示現(じげん)を蒙(かうぶ)りて候(さうら)へ。御耳(おんみみ)をそばたて、御心(おんこころ)を鎮(しづ)め、確(たし)かに聞(き)こし召(め)せ。君(きみ)は、矢倉岳(やぐらがだけ)に御腰(こし)を掛(か)けられしに、一品房(ぽんばう)は、金(こがね)の大瓶(たいへい)をいだき、実近(さねちか)は、御畳(たたみ)をしき、也(なり)つなは、銀(しろかね)の折敷(おしき)に、金(こがね)の御盃(さかずき)をすゑ、盛長(もりなが)は、銀(しろかね)の銚子(てうし)に、御盃(さかづき)参(まゐ)らせつるに、君(きみ)、三度(さんど)聞(き)こし召(め)さP118れて後(のち)は、箱根(はこね)御参詣(さんけい)有(あ)りしに、左(ひだり)の御足(あし)にては、外浜(そとのはま)を踏(ふ)み、右(みぎ)の御足(あし)にては、鬼界島(きかいがしま)を踏(ふ)み給(たま)ふ。左右(さう)の御袂(たもと)には、月日(つきひ)を宿(やど)し奉(たてまつ)り、小松(こまつ)三本(ぼん)頭(かしら)に頂(いただ)き、南(みなみ)向(む)きに歩(あゆ)ませ給(たま)ふと見(み)奉(たてまつ)りぬ」と申(まう)しければ、佐(すけ)殿(どの)、聞(き)こし召(め)して、大(おほ)きに喜(よろこ)び給(たま)ひて、「頼朝(よりとも)、此(こ)の暁(あかつき)、不思議(ふしぎ)の霊夢(れいむ)をかうむりつるぞや。虚空(こくう)より山鳩(ばと)三来(き)たりて、頼朝(よりとも)が髻(たぶさ)に巣(す)をくひ、子(こ)をうむと見つるなり。是(これ)、しかしながら、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の守(まぼ)らせ給(たま)ふと、頼(たの)もしく覚(おぼ)ゆる」と仰(おほ)せられければ、
@〔景信(かげのぶ)が夢(ゆめ)合(あ)はせ事(こと)〕S0213N034
景信(かげのぶ)申(まう)しけるは、「盛長(もりなが)が示現(じげん)においては、景信(かげのぶ)合(あ)はせ候(さうら)はん。先(ま)づ、君(きみ)、矢倉岳(やぐらがだけ)に坐(ま)しましけるは、御先祖(せんぞ)八満殿(どの)の御子孫(しそん)、東(とう)八か国を御屋敷所(やしきどころ)にさせ給(たま)ふべきなり。御酒(さけ)聞(き)こし召(め)しけるとみつるは、理(ことわり)なり。当時(たうじ)、君(きみ)の御有様(おんありさま)は、無明(むみやう)の酒(さけ)によはせ給(たま)ふなり。然(しか)れば、酔(ゑ)ひは遂(つひ)にさむる物(もの)にて、「三木(みき)」の三文字(もんじ)をかたどり、近(ちか)くは三月、遠(とほ)くは三年(さんねん)に、御(おん)酔(ゑ)ひさむべし。P119
@〔酒(さけ)の事(こと)〕S0214N035
又(また)、酒(さけ)は、忘憂(ばうゆう)の徳(とく)有(あ)り。然(さ)るに依(よ)り、数(かず)の異名(いみやう)候(さうら)ふ。中(なか)にも、「三木(みき)」と申(まう)す事(こと)は、昔(むかし)、漢(かん)の明帝(めいてい)の時(とき)、三年旱魃(かんばつ)しければ、水(みづ)にうゑて、人民(みん)多(おほ)く死(し)す。御門(みかど)、大(おほ)きに歎(なげ)き給(たま)ひて、天に祈(いの)り給(たま)へども、験(しるし)無(な)し。如何(いかが)せんと悲(かな)しみ給(たま)ひける。其(そ)の国(くに)の傍(かたはら)に、せきそと言(い)ふ賎(いや)しき民(たみ)有(あ)り。彼(かれ)が家(いへ)の園(その)に、桑(くわ)の木(き)三本(ぼん)有(あ)りけるに、水鳥(みづとり)、常(つね)に下(お)り居(ゐ)て遊(あそ)ぶ。主(ぬし)あやしみて、行(ゆ)きて見(み)れば、彼(か)の木(き)のうろに、竹(たけ)の葉(は)おほへる物(もの)有(あ)り。取(と)りのけて見(み)るに、水(みづ)なり。なめて見(み)れば、美酒(びしゆ)也(なり)。即(すなは)ち、是(これ)を取(と)りて、国王(こくわう)に捧(ささ)ぐ。然(しか)れば、一度(いちど)口(くち)につくれば、七日餓(うゑ)を忘(わす)るる徳(とく)有(あ)り。御門(みかど)、感(かん)じ思(おぼ)し召(め)して、水鳥(みづとり)の落(お)とし置(お)きたる羽(は)を取(と)りて、餓死(うゑじに)の口(くち)にそそき給(たま)へば、死人(しにん)ことごとくよみがへり、うゑたる物(もの)は、力(ちから)をえ、めでたし共(とも)、言(い)ふ計(はか)り無(な)し。即(すなは)ち、せきそを召(め)して、一国の守(かみ)に任(にん)ず。桑(くわ)の木(き)三本(ぼん)より出(い)で来(き)たればとて、「三木(みき)」と申(まう)すなり。さても、此(こ)の酒(さけ)は、如何(いか)にして出(い)で来(く)るぞと尋(たづ)ぬれば、せきそが子(こ)に、くわうりというもの有(あ)り。継母(ままはは)、殊(こと)にすぐれて、是(これ)をにくみ、毒(どく)を入(い)れてくはせける。然(さ)れども、くわうり、継母(ままはは)の習(なら)ひと思(おも)ひなずらへて、更(さら)に恨(うら)むる心(こころ)無(な)くして、此(こ)の木(き)のうろに入(い)れおき、竹(たけ)の葉(は)おほひておきたりけるP120が、始(はじ)め入(い)れたる飯(いい)は、麹(こうじ)と成(な)り、後(のち)に入(い)れける飯(いひ)は、天(てん)より下(くだ)る雨露(うろ)の恵(めぐ)みを受(う)けて、くちて、美酒(びしゆ)とぞなりける。「毒薬(どくやく)変(へん)じて、薬(くすり)と成(な)る」とは、此(こ)の時(とき)よりの言葉(ことば)なり。又(また)、酒(さけ)をのみて、風(かぜ)の然(さ)る事(こと)三寸なれば、「三寸(みき)」とも書(か)けり。是(これ)は、家隆卿(かりうのきやう)の言(い)ひけるなり。馬(むま)の寸(す)を「き」と言(い)へば、其(そ)の故(ゆゑ)有(あ)るにや。又(また)、「風妨(ふうばう)」とも言(い)へり。風(かぜ)のさまたるく義(ぎ)なり。又(また)、或(あ)る者(もの)の家(いへ)に、杉(すぎ)三本(ぼん)有(あ)り。其(そ)の木(き)のしただり、岩(いは)の上(うへ)に落(お)ちたまり、酒(さけ)と成(な)ると言(い)ふ説(せつ)有(あ)り。其(そ)の時(とき)は、「三木(みき)」とかくべきか。又(また)、しん心ほうに曰(いは)く、「新酒(しんしゆ)百薬長(やくちやう)たり」とも書(か)けり。漢書(かんじよ)には、「せきそ、みきをえて、天命(てんめい)を助(たす)く」と書(か)けり。又(また)、慈童(じどう)と言(い)ひし者(もの)は、七百歳(さい)をえて、彭祖(はうそ)と名(な)を返(かへ)し仙人(せんにん)、菊水(きくすい)とてもて遊(あそ)びけるも、此(こ)の酒(さけ)なり。是(これ)は、法華経(ほけきやう)普門品(ふもんぼん)の二句(く)の偈(げ)を聞(き)きし故(ゆゑ)に、菊(きく)の下行(ゆ)く水(みづ)、不死(ふし)の薬(くすり)と也(なり)けるを、此(こ)の仙人(せんにん)は用(もち)ひけるとかや。大(おほ)やけにも、是(これ)を移(うつ)して、重陽(てうやう)の宴(えん)とて、酒(さけ)に菊(きく)を入(い)れて用(もち)ひ給(たま)ふ。上(うへ)より下(くだ)る雨露(うろ)の恵(めぐ)み、下(した)に差(さ)し来(く)る月日(つきひ)の光(ひかり)、あまねく、君(きみ)の御(おん)恵(めぐ)みに漏(も)れたる品(しな)は無(な)きにこそ、高(たか)きも、賎(いや)しきも、酒(さけ)はいはひにすぐれ、神も納受(なふじゆ)、仏(ほとけ)も憐愍(れんみん)有(あ)るとかや。君(きみ)も聞(き)こし召(め)されつる三きの如(ごと)くに、過(す)ぎにし憂(う)きを忘(わす)れさせ給(たま)ふ。日本国(につぽんごく)を従(したが)へさせ給(たま)ひし。左右(さう)の御足(あし)にて、外浜(そとのはま)と鬼界島(きかいがしま)を踏(ふ)み給(たま)ひけるは、秋津洲(あきつしま)残(のこ)り無(な)く、従(したが)へさせ給(たま)ふべきにや。左右(さう)の御袂(たもと)に、月日(つきひ)を宿(やど)しP121給(たま)ひけるは、主上(しゆしやう)・上皇(しやうくわう)の御後見(こうけん)においては、疑(うたが)ひ有(あ)るべからず候(さうら)ふ。小松(こまつ)三本頭(ぼんかしら)に頂(いただ)き給(たま)へるは、八幡(はちまん)三所(さんじよ)の擁護(おうご)あらたにして、千秋(せんしう)万歳(ばんぜい)を保(たも)ち給(たま)ふべき御相(さう)なり。又(また)、南(みなみ)向(む)きに歩(あゆ)ませ給(たま)ひけるは、主上(しゆしやう)御在位(ざいゐ)の、大極殿(だいこくでん)の南面(なんめん)にして、天子(てんし)の位(くらゐ)を踏(ふ)み給(たま)ふとこそ承(うけたまは)り候(さうら)へ。御運(ごうん)を開(ひら)き給(たま)はむ事(こと)、是(これ)に同(おな)じ」と申(まう)しければ、佐(すけ)殿(どの)喜(よろこ)び給(たま)ひて、「景信(かげのぶ)があはする如(ごと)く、頼朝(よりとも)、世(よ)に出(い)づる事(こと)あらば、夢(ゆめ)合(あ)はせのへんとう有(あ)るべし」とぞ仰(おほ)せられける。
@〔頼朝(よりとも)謀叛(むほん)の事(こと)〕S0215N036
然(さ)る程(ほど)に、誠(まこと)に謀叛(むほん)の事(こと)有(あ)り。例(たと)へば、さんぬる平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)、右衛門督(ゑもんのかみ)藤原(ふぢはら)の信頼卿(のぶよりのきやう)、左馬頭(さまのかみ)源(みなもと)の義朝(よしとも)を語(かた)らひて、梟悪(けうあく)をくはたつ。然(しか)れば、清盛(きよもり)、是(これ)を追罰(ついばつ)し、件(くだん)の族(やから)を配流(はいる)せしより此(こ)の方(かた)、源氏(げんじ)退散(たいさん)して、平家(へいけ)繁昌(はんじやう)す。然(さ)れば、朝恩(てうおん)に誇(ほこ)りて、叡慮(えいりよ)を悩(なや)まし奉(たてまつ)る事(こと)、古今(ここん)にたぐひ無(な)し。剰(あまつさ)へ、其(そ)の身(み)、一人師範(しはん)にあらずして、忝(かたじけな)くも、太政(だいじやう)大臣(だいじん)の位(くらゐ)を汚(けが)す。かくの如(ごと)く、近衛(こんゑ)の大将(たいしやう)、左右(さう)に兄弟(きやうだい)相(あひ)並(なら)ぶ事(こと)、凡人(ぼんにん)において、先例(せんれい)に無(な)しと雖(いへど)も、始(はじ)めて此(こ)の義(ぎ)を破(やぶ)る。又(また)、仏餉(ぶつしやう)の田苑(でんおん)を止(とど)め、神明(しんめい)の国郡(こくぐん)をくつ返し、我(わ)が朝(てう)六十余州(よしう)P122の内(うち)、三十余(よ)国は、彼(か)の一族(いちぞく)領(りやう)す。又(また)、三公(さんこう)九卿(きうけい)の位(くらゐ)、月卿(げつけい)雲客(うんかく)の官職(くわんしよく)、大略(たいりやく)此(こ)の一門(いちもん)ふさぐ。斯様(かやう)のおごりの余(あま)りにや、さしたる科(とが)も無(な)きに、臣下(しんか)卿相(けいしやう)、多(おほ)く罪科(ざいくわ)に行(おこな)ひ、剰(あまつさ)へ、法皇(ほふわう)を鳥羽殿(とばどの)に押(お)し込(こ)め奉(たてまつ)り、天下(てんが)を我(わ)が儘(まま)にする。つらつら、旧記(きうき)を思(おも)へば、楊国忠(やうこくちゆう)が叡慮(えいりよ)に背(そむ)き、安禄山(あんろくざん)が朝章(てうしやう)を乱(みだ)りし悪行(あくぎやう)も、かくの如(ごと)くの事(こと)は無(な)し。人臣(じんしん)皇事(わうじ)を奪(うば)はざる外(ほか)は、これ体(てい)の悪行(あくぎやう)、異国(いこく)にも未(いま)だ先例(せんれい)を聞(き)かず。況(いはん)や、我(わ)が朝(てう)においてをや。かかりければ、後白河院(ごしらかはのゐん)の第二(だいに)の皇子(わうじ)高倉宮(たかくらのみや)を、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)、謀叛(むほん)をすすめ奉(たてまつ)る。治承(ぢせう)四年(しねん)四月二十四日の暁(あかつき)、諸国(しよこく)の源氏(げんじ)に院宣(ゐんぜん)を下(くだ)さる。御(おん)使(つか)ひは、十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)なり。同(おな)じき五月八日に、行家(ゆきいへ)、伊豆(いづ)の国(くに)に着(つ)き、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)に院宣(ゐんぜん)を告(つ)げ奉(たてまつ)る。院宣(ゐんぜん)の案(あん)を書(か)き、やがて常陸(ひたち)の国(くに)に下(くだ)り、志太(しだ)の三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義憲(よしのり)に此(こ)の由(よし)をふれ、信濃(しなの)の国(くに)に下(くだ)り、木曾(きそ)義仲(よしなか)にも見(み)せけり。
@〔兼隆(かねたか)が打(う)たるる事(こと)〕S0216N037
是(これ)に依(よ)つて、国々(くにぐに)の源氏(げんじ)、謀叛(むほん)をくはたて、思(おも)ひ思(おも)ひに案(あん)をめぐらす所(ところ)に、頼朝(よりとも)早(はや)く、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)に、和泉(いづみ)の判官(はんぐわん)兼隆(かねたか)、当国(たうごく)山木(やまき)が館(たち)に有(あ)りけるを、同(おな)じく八月十七日P123の夜(よ)、時政(ときまさ)父子(ふし)を始(はじ)めとして、佐々木(ささき)の四郎(しらう)高綱(たかつな)、伊勢(いせ)の加藤次(かとうじ)景廉(かげかど)、景信(かげのぶ)以下(いげ)の郎従(らうじゆう)等(ら)を差(さ)し遣(つか)はして、打(う)ち取(と)り畢(をは)んぬ。是(これ)ぞ、合戦(かつせん)の始(はじ)めなりける。此処(ここ)に、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)大庭(おほば)の三郎(さぶらう)景親(かげちか)、平家(へいけ)の重恩(ぢゆうおん)を報(ほう)ぜん為(ため)に、当国(たうごく)石橋山(いしばしやま)に追(お)ひ掛(か)け、散々(さんざん)に戦(たたか)ふ。是(これ)のみならず、武蔵(むさし)・上野(かうづけ)の兵(つはもの)共(ども)、我(われ)劣(おと)らじと馳(は)せ向(む)かひて、防(ふせ)ぎ戦(たたか)ふ。其(そ)の中に、畠山(はたけやま)の重忠(しげただ)は、父(ちち)重能(しげよし)・叔父(をぢ)有重(ありしげ)、折節(をりふし)、平家(へいけ)の勘当(かんだう)にて、京都(きやうと)に召(め)し置(お)かるる最中(さいちゆう)なれば、其(そ)の科(とが)をもはらし、国土(こくど)の狼藉(らうぜき)をも鎮(しづ)めんと向(む)かひけるが、三浦党(みうらたう)、頼朝(よりとも)の謀叛(むほん)に与力(よりき)せんとて、馳(は)せ向(む)かひけるが、鎌倉(かまくら)の由比(ゆひ)と言(い)ふ所(ところ)にて行(ゆ)き合(あ)ひ、散々(さんざん)に戦(たたか)ひけるが、重忠(しげただ)打(う)ち落(お)とされて、希有(けふ)の命(いのち)いきて、武州(ぶしう)に帰(かへ)りけり。其(そ)の後(のち)、江戸(えど)・葛西(かつさい)を始(はじ)めとして、武蔵(むさし)の国(くに)の者(もの)共(ども)、一千余騎(よき)、三浦(みうら)へ押(お)し寄(よ)せ、身命(しんみやう)を捨(す)てて戦(たたか)ひければ、三浦(みうら)打(う)ち負(ま)けて、今(いま)は、大介(おおすけ)一人になりにけり。年(とし)九十余(よ)になりけるが、子孫(しそん)に向(む)かひて申(まう)しけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の浮沈(ふちん)、今(いま)に有(あ)り。己(おのれ)等(ら)一人も、死(し)に残(のこ)りたらば、見(み)つぎ奉(たてまつ)れ」と申(まう)しおいて、腹(はら)切(き)り畢(をは)んぬ。さても、伊東(いとう)の入道(にふだう)は、もとより佐(すけ)殿(どの)に意趣(いしゆ)深(ふか)き者(もの)なりければ、一合戦(かつせん)と馳(は)せ向(む)かひけるが、頼(たの)みし畠山(はたけやま)打(う)ち落(お)とされぬと聞(き)きて、伊豆(いづ)の御山(やま)より帰(かへ)りにけり。佐(すけ)殿(どの)、無勢(ぶせい)たるに依(よ)つて、心(こころ)は猛(たけ)く思(おも)はれけれ共(ども)、此(こ)の合戦(かつせん)適(かな)ふべしとは見(み)えP124ざりける。然(さ)れども、土肥(とひ)の二郎(じらう)、岡崎(をかざき)の悪四郎(あくしらう)、佐々木(ささき)の四郎(しらう)、命(いのち)を惜(を)しまず、戦(たたか)ひける其(そ)の隙(ひま)に、佐(すけ)殿(どの)逃(のが)れ給(たま)ひて、杉山(すぎやま)に入(い)り給(たま)ひぬ。北条(ほうでう)の三郎(さぶらう)宗時(むねとき)、佐那田(さなだ)の与一(よいち)も打(う)たれけり。佐(すけ)殿(どの)、七騎(き)に打(う)ちなされ、大童(わらは)に成(な)りて、大木の中(なか)に隠(かく)れ、其(そ)の暁(あかつき)、山(やま)を忍(しの)び出(い)で、安房(あは)の国(くに)りうさきへ渡(わた)り給(たま)ふとて、海上(かいしやう)にて、三浦(みうら)の人々(ひとびと)、和田(わだ)の小太郎(こたらう)義盛(よしもり)に行(ゆ)き合(あ)ひて、船(ふね)共(ども)を漕(こ)ぎ寄(よ)せ、互(たが)ひに合戦(かつせん)の次第(しだい)を語(かた)る。義盛(よしもり)は、衣笠(きぬかさ)の軍(いくさ)に、大介(おおすけ)打(う)たれし事(こと)共(ども)語(かた)りければ、土肥(とひ)・岡崎(をかざき)は又(また)、石橋山(いしばしやま)の合戦(かつせん)に、与一(よいち)が打(う)たれし事(こと)共(ども)を語(かた)り、互(たが)ひに鎧(よろひ)の袖をぞ濡(ぬ)らしける。さて、安房(あは)の国(くに)に渡(わた)り、其(そ)れより上総(かづさ)に越(こ)え、千葉介(ちばのすけ)を相(あひ)具(ぐ)して、次第(しだい)に攻(せ)め上(のぼ)り給(たま)ひて、相模(さがみ)の国(くに)鎌倉(かまくら)の館(たち)にぞつき給(たま)ひける。是(これ)よりして、武士(ぶし)共(ども)、関東(くわんとう)に帰伏(きぶく)せざるは無(な)かりけり。然(さ)れば、平家(へいけ)驚(おどろ)き騒(さわ)ぎ、度々(たびたび)討手(うつて)を向(む)かはすと雖(いへど)も、或(ある)いは鳥(とり)の羽音(はおと)を聞(き)きて、退(しりぞ)く者(もの)も有(あ)り、又は、戦場(せんぢやう)にこらへずして、鞭(むち)にて打(う)ち落(お)とさるるも有(あ)り。是(これ)、普通(ふつう)の儀(ぎ)にあらず、只(ただ)天命(てんめい)の致(いた)す所(ところ)也(なり)。昔(むかし)、周(しゆう)の文王(ぶんわう)、いしんちうを打(う)たんとせしに、東天(とうてん)に雲(くも)さえて、雪(ゆき)のふる事(こと)、一丈(いちぢやう)余(よ)也(なり)。五車馬(しやめ)に乗(の)る人、門外(もんぐわい)に来(き)たりて、其(そ)の事(こと)を示(しめ)ししかば、文王(ぶんわう)、勝(か)つ事(こと)をえたり。かるが故(ゆゑ)に、逆臣(げきしん)、程(ほど)無(な)くはいしやうして、天下(てんが)、即(すなは)ち穏(おだ)やかなり。P125
@〔伊東(いとう)が切(き)らるる事(こと)〕S0217N039
さても、不忠(ふちゆう)を振舞(ふるま)ひし伊東(いとう)の入道(にふだう)は、生捕(いけど)られて、聟(むこ)の三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)に預(あづ)けられけるを、前日(ぜんじつ)の罪科(ざいくわ)逃(のが)れ難(がた)くして、召(め)し出(い)だし、よろいすると言(い)ふ所(ところ)にて、首(かうべ)をはねられける。最後(さいご)の十念(ねん)にも及(およ)ばず、西方(さいはう)浄土(じやうど)をも願(ねが)はず、先祖(せんぞ)相伝(さうでん)の所領(しよりやう)、伊東(いとう)・河津(かはづ)の方(かた)を見(み)遣(や)りて、執心(しうしん)深(ふか)げに思(おも)ひ遣(や)るこそ、無慙(むざん)なれ。
@〔奈良(なら)の勤操(ごんざう)僧正(そうじやう)の事(こと)〕S0218N040
是(これ)や、延暦(えんりやく)年(ねん)中(ぢゆう)に、奈良(なら)の勤操(ごんざう)僧正(そうじやう)、大旱魃(だいかんばつ)に、雨(あめ)の祈(いの)りの為(ため)、大和(やまと)の国(くに)布留社(ふるのやしろ)にて、薬草喩品(やくさうゆぼん)を一七日講(かう)ぜられける。何処(いづく)共(とも)無(な)く、童(わらは)一人来(き)たりて、毎日(まいにち)、御経(きやう)を聴聞(ちやうもん)しける。七日に満(まん)ずる時(とき)、「何物(なにもの)にや」と、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、「我(われ)は、此(こ)の山の小竜(せうりゆう)なり。七日の聴聞(ちやうもん)に依(よ)つて、安楽(あんらく)世界(せかい)に生(う)まれ候(さうら)ひなん嬉(うれ)しさよ」とて、随喜(ずいき)の涙(なみだ)を流(なが)しけり。其(そ)の時(とき)、僧正(そうじやう)曰(いは)く、「竜(りゆう)は、雨(あめ)を心(こころ)に任(まか)する物(もの)なれば、雨(あめ)をふらし候(さうら)へ」と宣(のたま)へば、「大龍(りゆう)の許(ゆる)し無(な)くして、我(わ)がはからひにて、成(な)り難(がた)く候(さうら)へども、さりながら、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を御(おん)助(たす)け給(たま)ひ候(さうら)はば、身(み)は失(う)せ候(さうら)ふとも、P126雨(あめ)をふらし候(さうら)はん」と申(まう)す。「左右(さう)にや及(およ)ぶ。追善(ついぜん)有(あ)るべし」と、御領状(りやうじやう)有(あ)りしかば、即(すなは)ち雷(いかづち)と成(な)りて、天に上(あ)がり、雨(あめ)のふる事(こと)、二時(とき)ばかりなり。され共(ども)、此(こ)の竜(りゆう)、其(そ)の身砕(くだ)けて、五所(ところ)へぞ落(お)ちにけり。僧正(そうじやう)哀(あは)れみ給(たま)ひて、彼(か)の竜(りゆう)の落(お)ちける所(ところ)にして、一日経(きやう)を書写(しよしや)せられけり。其(そ)の後(のち)、彼(か)の僧正(そうじやう)の夢(ゆめ)に、御(おん)訪(とぶら)ひに依(よ)り、即(すなは)ち蛇身(じやしん)を転(てん)じて、仏道(ぶつだう)を成(じやう)ずと見(み)えたり。さて、彼(か)の五所(ところ)に、五つの寺(てら)をたてて、今(いま)に絶(た)えせず、勤行(ごんぎやう)とこしなへ也(なり)。彼(か)の五所(ところ)の寺号(じがう)をば、竜門寺(りゆうもんじ)、竜(りゆう)せん寺(じ)、竜(りゆう)しよく寺(じ)、竜(りゆう)ほう寺(じ)、竜(りゆう)そん寺(じ)、是(これ)なり。紀伊(きの)の国(くに)・大和(やまと)両国(りやうごく)に有(あ)り。斯様(かやう)の畜類(ちくるい)だにも、後生(ごしやう)をば願(ねが)ふぞかし。伊東(いとう)の入道(にふだう)は、最後(さいご)の時(とき)にも、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を願(ねが)はぬぞ、愚(おろ)かなる。是(これ)を以(もつ)て、過(す)ぎにし事(こと)を案(あん)ずるに、親(おや)の譲(ゆづ)りを背(そむ)くのみならず、現在(げんざい)の兄(あに)を調伏(てうぶく)し、もつまじき所領(しよりやう)を横領(わうりやう)せし故(ゆゑ)、天(てん)是(これ)を戒(いまし)めけるとぞ覚(おぼ)えたり。然(さ)れば、悪(あく)は一旦(いつたん)の事(こと)なり、小利(せうり)有(あ)りと雖(いへど)も、遂(つひ)には正(しやう)に帰(き)して、道理(だうり)道(みち)を行(ゆ)くとかや。総(そう)じて、頼朝(よりとも)に敵(てき)したる者(もの)こそ多(おほ)き中(なか)に、まのあたりに誅(ちゆう)せられける、因果(いんぐわ)逃(のが)れざる理(ことわり)を思(おも)へば、昔(むかし)、天竺(てんぢく)に大王(だいわう)有(あ)り、尊(たつと)き上人(しやうにん)を帰依(きえ)せんとて、国々を尋(たづ)ねけるに、或(あ)る時(とき)、いみじき上人(しやうにん)有(あ)りとて、向(む)かひを遣(つか)はし給(たま)ふに、此(こ)の王(わう)、朝夕(あさゆふ)、碁(ご)を好(この)み給(たま)ひて、人を集(あつ)めて打(う)ち給(たま)ふ。「上人(しやうにん)参(まゐ)り給(たま)ひぬ」と申(まう)しければ、碁(ご)にきりて然(しか)るべき所(ところ)有(あ)りけるを、「きれ」と宣(のたま)ひけるに、此(こ)の上人(しやうにん)P127の首(くび)をきれとの宣旨(せんじ)と聞(き)き成(な)して、即(すなは)ち聖(ひじり)の首(くび)を打(う)ち切(き)りぬ。大王(だいわう)、夢(ゆめ)にも知(し)り給(たま)はで、碁(ご)打(う)ちはてて、「其(そ)の上人(しやうにん)、此方(こなた)へと宣(のたま)ふ。「宣旨(せんじ)に任(まか)せて、切(き)りたり」と申(まう)す。大王(だいわう)、大(おほ)きに悲(かな)しみ仏(ほとけ)に歎(なげ)き給(たま)ふ時(とき)、仏(ほとけ)宣(のたま)はく、「昔(むかし)、国王(こくわう)は、蛙(かいる)にて、土中(どちゆう)に有(あ)りし也(なり)。上人(しやうにん)、もとは、田(た)を作(つく)る農(のふ)人なり。然(しか)る間(あひだ)、田(た)を返(かへ)すとて、心(こころ)ならず、唐鋤(からすき)にて、蛙(かいる)の首(くび)をすき切(き)りぬ。其(そ)の因果(いんぐわ)逃(のが)れずして、切(き)られけり。因果(いんぐわ)は、斯様(かやう)なる物(もの)をや」と宣(のたま)へば、国王(こくわう)、未来(みらい)の因果(いんぐわ)を悲(かな)しみて、多(おほ)くの志(こころざし)をつくして、彼(か)の苦(く)をまぬかれ給(たま)ひけるとかや。人(ひと)は、只(ただ)むくいを知(し)るべきなり。
@〔祐清(すけきよ)、京(きやう)へ上(のぼ)る事(こと)〕S0219N041
伊東(いとう)の九郎においては、奉公(ほうこう)の者(もの)にて、死罪(しざい)をなだめられ、召(め)し使(つか)はるべき由(よし)、仰(おほ)せ下(くだ)されしを、「不忠(ふちゆう)の者(もの)の子、面目(めんぼく)無(な)し。其(そ)の上(うへ)、石橋山(いしばしやま)の合戦(かつせん)に、まさしく君(きみ)を打(う)ち奉(たてまつ)らんと向(む)かひし身(み)、命(いのち)いきて候(さうら)ふとも、人にひとしく頼(たの)まれ奉(たてまつ)るべしとも存(ぞん)ぜず。さあらんにおいては、首(くび)を召(め)されん事(こと)こそ、深(ふか)き御恩(ごおん)たるべし」と、のぞみ申(まう)しけるも、やさしくぞ覚(おぼ)えける。此(こ)の心(こころ)なればや、君(きみ)をも落(お)としP128奉(たてまつ)りけると、今更(いまさら)思(おも)ひ知(し)られたり。君(きみ)聞(き)こし召(め)され、「申(まう)し上(あ)ぐる所(ところ)の辞儀(じんぎ)、余儀(よぎ)無(な)し。然(しか)れども、忠(ちゆう)の者(もの)を切(き)りなば、天の照覧(せうらん)も如何(いかが)」とて、切(き)らるまじきにぞ定(さだ)まりける。九郎、重(かさ)ねて申(まう)しけるは、「御免(ごめん)候(さうら)はば、忽(たちま)ち平家(へいけ)へ参(まゐ)り、君(きみ)の御敵(かたき)と成(な)り参(まゐ)らせ、後矢(うしろや)仕(つかまつ)るべし」と、再三(さいさん)申(まう)しけれ共(ども)、御(おん)用(もち)ひ無(な)く、「仮令(たとひ)敵(かたき)と成(な)ると言(い)ふとも、頼朝(よりとも)が手(て)にては、如何(いか)でか切(き)るべき」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、力(ちから)及(およ)ばず、京都(きやうと)に上(のぼ)り、平家(へいけ)に奉公(ほうこう)致(いた)しける。北陸道(ほくろくだう)の合戦(かつせん)の時(とき)、加賀(かが)の国(くに)篠原(しのはら)にて、斎藤(さいとう)別当(べつたう)一所(いつしよ)に討死(うちじに)して、名(な)を後代(こうたい)に止(とど)む。よき侍(さぶらひ)の振舞(ふるま)ひ、弓矢(ゆみや)の義理(ぎり)、是(これ)にしかじと、惜(を)しまぬ者(もの)は無(な)かりけり。
@〔鎌倉(かまくら)の家(いへ)の事(こと)〕S0220N042
さて、佐(すけ)殿(どの)、北(きた)の御方(かた)取(と)り奉(たてまつ)りし江間(えま)の小四郎(こしらう)も打(う)たれけり。跡(あと)を北条(ほうでう)の四郎(しらう)時政(ときまさ)に賜(たま)はり、さてこそ、江間(えま)の小四郎(こしらう)とも申(まう)しけれ。此(こ)の外(ほか)、打(う)たるる侍(さぶらひ)共(ども)、相模(さがみ)の国(くに)には、波多野(はだの)の右馬允(むまのじよう)、大庭(おほば)の三郎(さぶらう)、海老名(えびな)の源八(げんぱち)、荻野(おぎの)の五郎(ごらう)、上総(かづさ)の国(くに)には、上総介(かづさのすけ)、みちの国(くに)には、秀衡(ひでひら)が子供(こども)を始(はじ)めとして、国々(くにぐに)の侍(さぶらひ)五十余人(よにん)ぞ打(う)たれける。又(また)、平家(へいけ)には、八島(やしま)の大臣殿(おほいどの)、右衛門督(ゑもんのかみ)清宗(きよむね)、本(ほん)三位(ざんみ)の中将(ちゆうじやう)重衡(しげひら)を先(さき)とし、或(ある)いは、きらP129れ、自害(じがい)する族(やから)、しるすに及(およ)ばず。源氏(げんじ)には、御舍弟(しやてい)三川守(みかはのかみ)範頼(のりより)、九郎判官(はんぐわん)義経(よしつね)、木曾(きそ)義仲(よしなか)、甲斐(かひ)の国(くに)には、一条(いちでう)の二郎(じらう)忠頼(ただより)、小田(をだ)の入道(にふだう)、常陸(ひたち)の国(くに)には、志太(しだ)の三郎(さぶらう)先生(せんじやう)を始(はじ)めとして、以上二十八人、彼(かれ)是(これ)打(う)たるる者(もの)、百八十余人(よにん)なり。「此(こ)の内(うち)に、冤貶(ゑんへん)の者(もの)は、わづか三人なり。一条(いちでう)の二郎(じらう)、三川守(みかはのかみ)、上総介(かづさのすけ)なり。此(こ)の外(ほか)は、皆(みな)自業(じごふ)自得果(じとくくわ)なり」とぞ宣(のたま)ひける。さて、鎌倉(かまくら)に居所(きよしよ)をしめて、郎従(らうじゆう)以下(いげ)軒(のき)を並(なら)べ、貴賎(きせん)袖(そで)を連(つら)ねけり。是(これ)や、政要(せいよう)の言葉(ことば)に、「漢(かん)の文王(ぶんわう)は、千里(せんり)の馬(むま)を辞(じ)し、晋(しん)の武王(ぶわう)は、雉頭(ちとう)の裘(かはごろも)をやく」とは、今(いま)の御代(よ)に知(し)られたり。民(たみ)の竃(かまど)は、朝夕(ちやうせき)の煙(けぶり)豊(ゆた)かなり。賢王(けんわう)世(よ)にいづれば、鳳凰(ほうわう)翼(つばさ)を延(の)べ、賢臣(けんしん)国(くに)に来(き)たれば、麒鱗(きりん)蹄(ひづめ)をとぐと言(い)ふ事(こと)も、此(こ)の君(きみ)の時(とき)に知(し)られたり。めでたかりし御事(おんこと)なり。
@〔八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の事(こと)〕S0221N043
抑(そもそも)、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)を、忝(かたじけな)くも、鶴岡(つるがをか)に崇(あが)め奉(たてまつ)る。是(これ)を若宮(わかみや)と号(かう)す。蘋■(ひんぱむ)の礼(れい)、社壇(しやだん)にしげく、奉幣(ほうへい)、にんわうのせきしやうなり。其(そ)の垂迹(すいじやく)三所(さんじよ)に、仲哀(ちゆうあい)・神功(じんぐう)・応神(おうじん)三皇(くわう)の玉体(ぎよくたい)也(なり)。本地(ほんぢ)を思(おも)へば、弥陀(みだ)三尊(ぞん)の聖容(しやうよう)、行教(ぎやうけう)和尚(くわしやう)の三衣(ゑ)の袂(たもと)を現(あらは)し給(たま)へり。百皇(くわう)鎮護(ちんご)の誓(ちか)ひを起(お)こして、一天(いつてん)静謐(せいひつ)の恵(めぐ)みP130坐(ま)します。誠(まこと)に是(これ)、本朝(ほんてう)の宗廟(そうべう)として、源氏(げんじ)を守(まも)り給(たま)ふとかや。現世(げんぜ)安穏(あんをん)の方便(はうべん)は、観音(くわんおん)・勢至(せいし)、神力(じんりき)を受(う)け給(たま)ふ。後生(ごしやう)善処(ぜんしよ)の利益(りやく)は、無量寿仏(むりやうじゆぶつ)の誓(ちか)ひを施(ほどこ)し給(たま)ふ。仰(あふ)ぎても信(しん)ずべきは、もつとも此(こ)の御神(かみ)なり。父(ちち)左馬頭(さまのかみ)の為(ため)に、勝長寿院(せうちやうじゆゐん)を建立(こんりう)し給(たま)ふ。今(いま)の大御堂(みだう)、是(これ)なり。其(そ)の外(ほか)、堂舎(だうじや)・塔婆(たふば)を造立(ざうりふ)し給(たま)ふ。仏像(ぶつざう)経巻(きようぐわん)を敬崇(きやうそう)す。征罰(せいばつ)の志(こころざし)、逸早(いつさう)にして、善根(ぜんごん)も又(また)、莫大(ばくだい)なり。寿永(じゆゑい)二年(ねん)九月四日に、居(ゐ)ながら征夷(せいい)将軍(しやうぐん)の院宣(ゐんぜん)を蒙(かうぶ)り、建久(けんきう)元年(ぐわんねん)十一月七日に、上洛(しやうらく)して、大納言(だいなごん)に補(ふ)し、同(おな)じき十二月五日に、右大将(うだいしやう)に任(にん)ず。然(さ)れば、籌策(ちうさく)を帷帳(いちやう)の内(うち)にめぐらし、勝(か)つ事(こと)を千里(り)の外(ほか)にえたり。実(げ)にや、遙(はる)かに伊豆(いづ)の国(くに)に流罪(るざい)せられ給(たま)ひし時(とき)、掛(か)かるべしとは誰(たれ)か思(おも)ひけん、一天(いつてん)四海(しかい)を従(したが)へ、靡(なび)かぬ草木(くさき)も無(な)かりけり。誠(まこと)や、史記(しき)の言葉(ことば)に、「天下(てんが)安寧(あんねい)なる時(とき)は、刑錯(けいしやく)を用(もち)ひず」とは、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られたり。平家(へいけ)繁昌(はんじやう)の折節(をりふし)、誰(たれ)かは此(こ)の一門(いちもん)を滅(ほろ)ぼすべきとは思(おも)ひける。さても、伊豆(いづ)の御山(みやま)にて夢物語(ゆめものがたり)、同(おな)じく合(あ)はせ奉(たてまつ)りし者(もの)、勧賞(けんじやう)に預(あづ)かり、藤九郎盛長(もりなが)、上野(かうづけ)の総追捕使(そうついぶし)になさる。景信(かげのぶ)は、若宮(わかみや)の別当(べつたう)、神人(じんにん)総官(そうくわん)を賜(たま)はる上(うへ)に、大庭(おほば)の御廚(みくりや)は、先祖(せんぞ)には、代々(だいだい)数多(あまた)にわかたれし、今度(こんど)は、一円(ゑん)賜(たま)はりける。此(こ)の外(ほか)、荘園(しやうゑん)五六ケ所給(たま)ひて、朝恩(てうおん)に誇(ほこ)りける。さても、先年(せんねん)、河津(かはづ)の三郎(さぶらう)を打(う)ちたりし工藤(くどう)一郎祐経(すけつね)は、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)に成(な)りて、伊東(いとう)を賜(たま)はる。其(そ)の外(ほか)、所領(しよりやう)数多(あまた)P131拝領(はいりやう)して、随分(ずいぶん)切(き)り者(もの)にて、昼夜(ちうや)、君(きみ)の御側(そば)さらで祗候(しこう)す。され共(ども)、傷(きず)をかうむる鳥(とり)は、天(てん)に上(あ)がりて、翼(つばさ)を叩(たた)くと雖(いへど)も、又(また)、地に落(お)つる思(おも)ひ有(あ)り。鉤(つりばり)をふくむ魚(うを)は、深(ふか)き淵(ふち)に入(い)りて、尾(を)をふると雖(いへど)も、遂(つひ)には陸(くが)に上(あ)がる愁(うれ)へ有(あ)り。祐経(すけつね)も、斯様(かやう)に果報(くわほう)いみじくて、公方(くぼう)・私(わたくし)、おどろを逆様(さかさま)に引(ひ)くと雖(いへど)も、敵(かたき)有(あ)る身(み)は、行(ゆ)く末(すゑ)逃(のが)れ難(がた)くして、遂(つひ)に打(う)たれにけるこそ、無慙(むざん)なれ。
P132曾我之物語巻第三
@〔九月名月(めいげつ)に出(い)でて、一万(いちまん)・箱王(はこわう)、父(ちち)の事(こと)歎(なげ)く事(こと)〕S0301N045
抑(そもそも)、伊豆(いづ)の国(くに)赤沢山(あかざはやま)の麓(ふもと)にて、工藤(くどう)左衛門(さゑもん)の尉(じよう)祐経(すけつね)に打(う)たれし、河津(かはづ)の三郎(さぶらう)が子二人有(あ)り。兄(あに)をば、一万(いちまん)と言(い)ひて、五つに成(な)り、弟(おとと)は、箱王(はこわう)と言(い)ひて、三(み)つにぞ成(な)りにける。父(ちち)におくれて後(のち)、いづれも母(はは)に付(つ)き、継父(ままちち)曾我(そが)の太郎がもとに育(そだ)ちける。やうやう成人(せいじん)する程(ほど)に、父(ちち)が事(こと)を忘(わす)れずして、歎(なげ)きけるこそ、無慙(むざん)なれ。人の語(かた)れば、兄(あに)も知(し)り、弟(おとと)も知(し)り、恋(こひ)しさのみに明(あ)け暮(く)れて、積(つ)もるは涙(なみだ)ばかりなり。心(こころ)のつくに従(したが)ひて、いよいよ忘(わす)るる暇(ひま)も無(な)し。我(われ)等(ら)二十に成(な)り、父(ちち)を打(う)ちけん左衛門(さゑもん)の尉(じよう)とやらんを打(う)ち取(と)りて、母(はは)の御心(おんこころ)をも慰(なぐさ)め、父(ちち)の孝養(けうやう)にも報(ほう)ぜんと、忙(いそが)はしきは月日(つきひ)なり。数(かず)ならぬ身(み)にも、日数(ひかず)の積(つ)もれば、はや憂(う)き事(こと)共(ども)にながらへて、九(ここの)つ・七(なな)つにぞなりにける。折節(をりふし)、九月十三夜(や)の、誠(まこと)に名(な)有(あ)る月ながら、隈(くま)無(な)き影(かげ)に、兄弟(きやうだい)、庭(には)に出(い)でて遊(あそ)びけるが、五つつれたる雁(かり)がねの、西(にし)に飛(と)びけるを、一万(いちまん)が見P133て、「あれ御覧(ごらん)ぜよ、箱王(はこわう)殿(どの)。雲居(くもゐ)の雁(かり)の、何処(いづく)を差(さ)してか飛(と)び行(ゆ)くらん。一(ひと)つらも離(はな)れぬ中(なか)の羨(うらや)ましさよ」。弟(おとと)聞(き)きて、「何(なに)かはさ程(ほど)うらやむべき。我(われ)等(ら)が伴(ともな)ふ物(もの)共(ども)も、遊(あそ)べば、共(とも)に打(う)ちつれ、帰(かへ)れば、つれて帰(かへ)るなり」。兄(あに)聞(き)きて、「さにはあらず。いづれも同(おな)じ鳥(とり)ならば、鴨(かも)をも鷺(さぎ)をもつれよかし。空(そら)とべども、己(おのれ)がともばかりなる事(こと)ぞとよ。五つ有(あ)るは、一(ひと)つは父(ちち)、一(ひと)つは母(はは)、三(み)つは子供(こども)にてぞ有(あ)るらん。わ殿(との)は弟(おとと)、我(われ)は兄(あに)、母(はは)は誠(まこと)の母(はは)なれども、曾我殿(そがどの)、誠(まこと)の父(ちち)ならで、恋(こひ)しと思(おも)ふ其(そ)の人の、行方(ゆくへ)も敵(かたき)のわざぞかし。哀(あは)れや」「親(おや)の敵(かたき)とやらんが首(くび)の骨(ほね)は、石(いし)よりもかたき物(もの)かや」と問(と)へば、兄(あに)が聞(き)きて、袖(そで)にて弟(おとと)が口(くち)を抑(おさ)へ、「かしかまし、人や聞(き)くらん、声(こゑ)高(たか)し、隠(かく)す事(こと)ぞ」と言(い)へば、箱王(はこわう)聞(き)きて、「射(い)殺(ころ)すとも、首(くび)を切(き)るとも、かくして適(かな)ふべきか」「さは無(な)きぞとよ、其(そ)れまでも忍(しの)ぶ習(なら)ひ、心(こころ)にのみ思(おも)ひて、上(うへ)は物(もの)を習(なら)へとよ。能(のう)は稽古(けいこ)によるなるぞ。我(われ)等(ら)が父(ちち)は、弓(ゆみ)の上手(じやうず)にて、鹿(しし)をも鳥(とり)をも射(い)給(たま)ひけるなるぞ。哀(あは)れ、父(ちち)だに坐(ま)しまさば、馬(むま)をも鞍(くら)をも用意(ようい)してたびなまし。さあらば、を犬(いぬ)・笠懸(かさかけ)をも射(い)習(なら)ひなん。我(われ)等(ら)より幼(をさな)き者(もの)も、世(よ)にあれば、馬(むま)に乗(の)り、もの射(い)る、見(み)るも羨(うらや)まし」とくどきければ、箱王(はこわう)聞(き)きてぞ、「父(ちち)だに坐(ま)しまさば、自(みづか)らが弓(ゆみ)の弦(つる)くひ切(き)りたる鼠(ねずみ)の首(くび)は、射(い)させ参(まゐ)らすべき物(もの)を、はらだちや」と言(い)へば、兄(あに)、「其(そ)れP134よりもにくき物(もの)こそあれ」「誰(たれ)なるらん、ままが子(こ)、自(みづか)らが乗(の)りつる竹馬(たけむま)打(う)ち候(さうら)ひつる事(こと)か」「其(そ)の事(こと)にては無(な)きぞ、父(ちち)を打(う)ちける者(もの)のにくさに、月日(つきひ)の遅(おそ)き」と言(い)へば、「習(なら)はずとても、弓矢(ゆみや)取(と)る身(み)が、弓(ゆみ)射(い)ぬ事(こと)や候(さうら)ふべき」。兄(あに)が聞(き)きて、打(う)ち笑(わら)ひ、「わ殿(どの)、然様(さやう)に言(い)ふ共(とも)、てなれずしては、如何(いかが)候(さうら)ふべき。見(み)よ」とて、竹(たけ)の小弓(こゆみ)に、篦(の)は薄(すすき)なる笹矧(ささはぎ)の矢(や)差(さ)しつがひ、兄(あに)、障子(しやうじ)を彼方(かなた)此方(こなた)に射(い)通(とほ)し、「いつかは、我(われ)等(ら)十五・十三に成(な)り、父(ちち)の敵(かたき)に行(ゆ)き合(あ)ひ、斯様(かやう)に心(こころ)の儘(まま)に射(い)通(とほ)さん」。箱王(はこわう)聞(き)きて、「然(さ)る事(こと)にては候(さうら)へ共(ども)、大事(だいじ)の敵(てき)、弓(ゆみ)にては、遠(とほ)く覚(おぼ)えたるに、斯様(かやう)に首(くび)を切(き)らん」とて、障子(しやうじ)の紙(かみ)を引(ひ)き切(き)り、たかだかと差(さ)し上(あ)げ、側(そば)なる木太刀(きだち)を取(と)り直(なほ)し、二(ふた)つ三(み)つに打(う)ち切(き)りて、捨(す)てて立(た)ちたる眼(まなこ)ざし、人に代(か)はりてぞ見(み)えたりける。
@〔兄弟(きやうだい)を母(はは)の制(せひ)せし事(こと)〕S0302N046
乳母(めのと)、是(これ)を忍(しの)び見(み)て、恐(おそ)ろしき人々(ひとびと)のくはたてかな、後(のち)は如何(いか)にと思(おも)ひければ、急(いそ)ぎ母上(ははうへ)にぞ語(かた)りける。母上(ははうへ)、大(おほ)きに驚(おどろ)き、彼(かれ)等(ら)を一間所(まどころ)に呼(よ)びければ、箱王(はこわう)、居(ゐ)なほらざるに、障子(しやうじ)の破(やぶ)れたるをしかり給(たま)ふべきと心(こころ)得(え)て、「障子(しやうじ)P135をば損じ候(さうら)はず、余所(よそ)の童(わらんべ)が破(やぶ)りて候(さうら)ふを、乳母(めのと)がことことしく申(まう)して」と言(い)ひければ、母(はは)、涙(なみだ)を流(なが)し、「障子(しやうじ)の事(こと)にては無(な)きぞとよ。汝(なんぢ)等(ら)、確(たし)かに聞(き)け、わ殿(との)原(ばら)が祖父(おほぢ)伊東(いとう)と言(い)ひし人は、君(きみ)の若君(わかぎみ)を殺(ころ)し奉(たてまつ)るのみならず、無叛(むほん)の同意(どうい)たりしに依(よ)つて、切(き)られ奉(たてまつ)りし上は、汝(なんぢ)等(ら)も、其(そ)の孫(まご)なればとて、首(くび)をも足(あし)をももがれて奉(たてまつ)るべし。平家(へいけ)の公達(きんだち)をば、胎(はら)の内(うち)なるをだにも、求(もと)め失(うしな)はるるぞかし。今(いま)より後(のち)、努々(ゆめゆめ)思(おも)ひもより、言(い)ひも出(い)だすべからず。あさましき事(こと)也(なり)。未(いま)だ上(かみ)も知(し)ろし召(め)されぬに、御(おん)許(ゆる)し有(あ)りて、知(し)らず顔(がほ)にて、御(おん)尋(たづ)ねも無(な)きと覚(おぼ)ゆるなり。構(かま)へて、遊(あそ)ぶとも、門(かど)より外(ほか)へ出(い)づべからず。汝(なんぢ)等(ら)打(う)ちつれ遊(あそ)ぶを、物(もの)の隙(ひま)より忍(しの)び見(み)るに、いさみおごる時(とき)は、自(みづか)らが心(こころ)も共(とも)にいさましく、打(う)ちしをるる物(もの)を。親(おや)にも添(そ)はぬみなし子(ご)の、育(そだ)つ行方(ゆくへ)の無慙(むざん)さよ。後(うし)ろに立(た)ち添(そ)ひ見(み)るぞとよ。乳母(めのと)は、かくとも知(し)らせぬぞ。近(ちか)くより候(さうら)へ」とて、二人が袖(そで)を取(と)り、引(ひ)き寄(よ)せ、小声(こごゑ)に言(い)ふ様(やう)、「誠(まこと)や、さしも恐(おそ)ろしき世(よ)の中(なか)に、悪事(あくじ)思(おも)ひ立(た)つとな。然様(さやう)の事(こと)、人々(ひとびと)聞(き)かれなば、よかるべきか。上様(うへさま)の御耳(おんみみ)に入(い)りなば、召(め)し取(と)られ、禁獄(きんごく)、死罪(しざい)にも行(おこな)はれなん、恐(おそ)ろしさよ」とぞ制(せい)しける。一万(いちまん)は、顔(かほ)打(う)ちあかめ、打(う)ち傾(かたぶ)きて居(ゐ)たり。箱王(はこわう)は、打(う)ち笑(わら)ひ、「乳母(めのと)が申(まう)し成(な)しと覚(おぼ)えたり。更(さら)に後先(あとさき)も知(し)らぬ事(こと)なり」と申(まう)しければ、母(はは)聞(き)きて、「今(いま)よりP136後(のち)、思(おも)ひもよらざれ。構(かま)へて構(かま)へて」と言(い)ひて立(た)ちぬ。其(そ)の後(のち)は、余所目(よそめ)を忍(しの)びて、おとといは語(かた)りけれども、人には更(さら)に知(し)らせざりけり。或(あ)る日の徒然(つれづれ)に、友(とも)の童(わらんべ)も無(な)く、軒(のき)の松風(まつかぜ)、耳(みみ)に止(とど)まり、暮(く)れ遣(や)らぬ日は、一万(いちまん)門(かど)に出(い)でて、人目(ひとめ)を忍(しの)び、さめざめと泣(な)きけり。箱王(はこわう)も同(おな)じく出(い)でけるが、兄(あに)が顔(かほ)をつくづくと見(み)て、「何(なに)を思(おも)ひ給(たま)へば、兄子(あにご)は、向(む)かひの山(やま)を見(み)て、さのみ泣(な)かせ給(たま)ふぞや」と言(い)ふ。兄(あに)が聞(き)きて、「然(さ)ればこそとよ、何(なに)とやらん、殊(こと)の外(ほか)に、父(ちち)の面影(おもかげ)思(おも)ひ出(い)でられて、恋(こひ)しく覚(おぼ)ゆるぞ」と言(い)ひければ、「愚(おろ)かに渡(わた)らせ給(たま)ふ物(もの)かな、思(おも)ひ給(たま)ふとも、父(ちち)の帰(かへ)り給(たま)ふまじ。帰(かへ)り給(たま)へ。童(わらんべ)共(ども)の、又(また)参(まゐ)り候(さうら)ふに、囃子物(はやしもの)して遊(あそ)び候(さうら)はん」とて、打(う)ちつれて帰(かへ)る時(とき)も有(あ)り。又(また)、或(あ)る夕暮(ゆふぐれ)に、夜(よ)に近(ちか)き、軒端(のきば)の雨(あめ)のもの哀(あは)れなる折節(をりふし)に、箱王(はこわう)、門(かど)に立(た)ち出(い)でて、涙(なみだ)にむせぶ時(とき)は、一万(いちまん)、袖(そで)をひかへつつ、「何(なに)を思(おも)ひ給(たま)へば、四方(よも)の梢(こずゑ)に目(め)を懸(か)けて、さのみ泣(な)かせ給(たま)ふぞや」「覚(おぼ)えぬ父(ちち)ごとやらんの恋(こひ)しきは、斯様(かやう)に心(こころ)のすごきやらん。兄(あに)ごは、何(なに)とか御座(おは)する」とて、さめざめとこそ泣(な)き居(ゐ)たれ。一万(いちまん)、弟(おとと)が手(て)を取(と)りて、「覚(おぼ)えず、知(し)らぬ父(ちち)を恋(こひ)しと言(い)はんより、いとほしとのみ仰(おほ)せらるる母(はは)に、いざや参(まゐ)らん」とて、袖(そで)を引(ひ)きてぞ入(い)りにける。是(これ)も、人目(ひとめ)を忍(しの)ばんとて、互(たが)ひにいさめいさめられて、心(こころ)ばかりと思(おも)へども、さすが幼(をさな)き心(こころ)にて、忍(しの)ぶ余所目(よそめ)P137の隙々(ひまびま)の、もるるを見(み)聞(き)く人ごとに、舌(した)を振(ふ)り、哀(あは)れを催(もよほ)さぬは無(な)かりけり。良竹(れうちく)は、おひいづればすぐなり、栴檀(せんだん)は、二葉(ふたば)よりかうばしとは、斯様(かやう)の事(こと)に知(し)られたり。然(さ)れば、遂(つひ)に敵(かたき)を思(おも)ふ儘(まま)に打(う)ち、名(な)を万天(ばんてん)の雲居(くもゐ)に上(あ)げ、威勢(いせい)一天(いつてん)に余(あま)れり。哀(あは)れにも、いみじきにも、申(まう)し伝(つた)へたるは、此(こ)の人々(ひとびと)の事(こと)なり。
@〔源太(げんだ)、兄弟(きやうだい)召(め)しの御(おん)使(つか)ひに行(ゆ)きし事(こと)〕S0303N048
かくて、三年(みとせ)の春(はる)秋の過(す)ぐる程(ほど)も無(な)かりけり。早(はや)くも、一万(いちまん)十一、箱王(はこわう)九にぞなりにける。其(そ)の頃(ころ)、彼(かれ)等(ら)が身(み)の上(うへ)に、思(おも)はぬ不思議(ふしぎ)ぞ出(い)で来(き)たる。故(ゆゑ)を如何(いか)にと尋(たづ)ぬるに、鎌倉(かまくら)殿(どの)、侍(さぶらひ)共(ども)に仰(おほ)せられけるは、「保元(ほうげん)の合戦(かつせん)に、為義(ためよし)、義朝(よしとも)に切(き)られ、平治(へいじ)の乱(みだ)れに、義朝(よしとも)、長田(おさだ)に打(う)たれしより此(こ)の方(かた)、おごりし平家(へいけ)をことごとく滅(ほろ)ぼし、天下(てんが)を心(こころ)の儘(まま)にする事(こと)、我(われ)等(ら)が先祖(せんぞ)におきては、頼朝(よりとも)に勝(まさ)る果報者(くわほうしや)あらじ」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、御前(ごぜん)祗候(しこう)の侍(さぶらひ)共(ども)、一同(いちどう)に、「さん候(ざうらふ)」と申(まう)し上(あ)げければ、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)工藤(くどう)左衛門(さゑもん)祐経(すけつね)、畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「仰(おほ)せの如(ごと)く、四海(しかい)鎮(しづ)まり、きうたう狼煙(らうゑん)立(た)たざる所(ところ)に、間近(まぢか)き御膝(ひざ)の下(した)に置(お)きて、幼(をさな)く候(さうら)へ共(ども)、末(すゑ)の御敵(おんてき)と成(な)るべき者(もの)こそ、一二人候(さうら)へ」と申(まう)しければ、御前(おんまへ)に有(あ)りける侍(さぶらひ)共(ども)、P138知(し)るも知(し)らざるも、誰(た)が身(み)の上(うへ)やらんと、目(め)を合(あ)はせ、拳(こぶし)を握(にぎ)らざるは無(な)かりけり。君(きみ)聞(き)こし召(め)されて、御気色(ごきしよく)変(か)はり、「頼朝(よりとも)こそ知(し)らね、何物(なにもの)ぞ」と、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、祐経(すけつね)承(うけたまは)りて、「先年(せんねん)切(き)られ参(まゐ)らせ候(さうら)ひし伊東(いとう)の入道(にふだう)が孫(まご)、五つや三(み)つにて、父(ちち)河津(かはづ)におくれ、継父(ままちち)曾我(そが)の太郎がもとに養(やう)じ置(お)きぬ。成人(せいじん)の後(のち)、御敵(おんてき)とやなり候(さうら)ふべき。身(み)にも又(また)、野心(やしん)有(あ)る者(もの)にて候(さうら)ふ」と申(まう)し上(あ)げたりければ、君(きみ)聞(き)こし召(め)し、「不思議(ふしぎ)なり。祐信(すけのぶ)は、随分(ずいぶん)心(こころ)安(やす)き物(もの)に思(おも)ひつるに、末(すゑ)の敵(てき)を養(やしな)ひ置(お)くらん不思議(ふしぎ)さよ。急(いそ)ぎ梶原(かぢはら)召(め)せ」とて召(め)さるる。源太(げんだ)景季(かげすゑ)、御前(おんまへ)に畏(かしこ)まりければ、「急(いそ)ぎ曾我(そが)に下(くだ)り、伊東(いとう)の入道(にふだう)が孫(まご)共(ども)を隠(かく)し置(お)く由(よし)聞(き)こゆ。急(いそ)ぎ具足(ぐそく)して参(まゐ)るべし。もし異議(いぎ)に及(およ)ばば、其(そ)れにて首(かうべ)をはねよ」とぞ仰(おほ)せ下(くだ)されける。景季(かげすゑ)承(うけたまは)り、御前(おんまへ)を罷(まか)り立(た)ち、急(いそ)ぎ曾我(そが)へぞ下(くだ)りける。祐信(すけのぶ)が屋形(やかた)近(ちか)くなりしかば、使者(ししや)をたてて、「曾我殿(そがどの)や坐(ま)します。君(きみ)の御(おん)使(つか)ひに、景季(かげすゑ)参(まゐ)りたり」と言(い)はせければ、祐信(すけのぶ)、何事(なにごと)なるらんと、「思(おも)ひ寄(よ)らざる御(おん)入(い)り珍(めづら)し」と言(い)ひければ、景季(かげすゑ)も、暫(しばら)く辞退(じたい)して、「さん候(ざうらふ)、上(うへ)よりの御(おん)使(つか)ひ」とばかり言(い)ひて、面目(めんぼく)無(な)き事(こと)なれば、左右(さう)無(な)く言(い)ひも出(い)ださず。やや有(あ)りて「御(おん)為(ため)ゆゆしき事(こと)ならぬ仰(おほ)せを蒙(かうぶ)りて候(さうら)ふ。其(そ)の故(ゆゑ)は、故(こ)伊東(いとう)殿(どの)の孫(まご)養育(やういく)の由(よし)、君(きみ)聞(き)こし召(め)して、「頼朝(よりとも)が末(すゑ)の敵(てき)なり。急(いそ)ぎ具(ぐ)して参(まゐ)るべし」との御(おん)使(つか)ひを蒙(かうぶ)り、参(まゐ)りP139て候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、祐信(すけのぶ)、とかくの返事(へんじ)にも及(およ)ばず、やや有(あ)りて、「世間(せけん)に歎(なげ)き深(ふか)き者(もの)を尋(たづ)ぬるに、祐信(すけのぶ)にすぐべからず。幼(をさな)き者(もの)二人候(さうら)ひし、五つ・三(み)つにて失(うしな)ひ候(さうら)ふ。其(そ)の思(おも)ひ未(いま)だはれざるに、彼(かれ)等(ら)が母(はは)におくれ候(さうら)ひぬ。一方(ひとかた)ならぬ思(おも)ひの浅(あさ)からざりしに、彼(かれ)等(ら)が母(はは)も、夫(おつと)におくれ、子(こ)を持(も)ちたる由(よし)聞(き)き候(さう)らひ、しかも、親(した)しく候(さうら)ふ上(うへ)、失(うしな)ひし子供(こども)、同(おな)じ年(とし)にて候(さうら)ふ。然(さ)れば、人の歎(なげ)きをも、我(われ)等(ら)が思(おも)ひをも、語(かた)り慰(なぐさ)まんと思(おも)ひ、抑(おさ)へ取(と)り、今年(ことし)は、此(こ)の者(もの)共(ども)、十一・九に罷(まか)り成(な)り候(さうら)ふ。殊(こと)の外(ほか)けなげに候(さうら)ふ間(あひだ)、実子(じつし)の如(ごと)く養(やう)じたてて、此(こ)の頃(ごろ)、斯様(かやう)の仰(おほ)せを蒙(かうぶ)り候(さうら)ふべしとこそ存(ぞん)じ候(さうら)はね。子(こ)に縁(えん)無(な)き者(もの)は、人の子(こ)をも養(やう)ずまじき事(こと)にて候(さうら)ひける」とて、袖(そで)を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てけり。景季(かげすゑ)も、誠(まこと)に理(ことわり)とぞ思(おも)ひける。
@〔母(はは)歎(なげ)きし事(こと)〕S0304N049
やや有(あ)りて、「つれて参(まゐ)るべし。さりながら」とて内(うち)に入(い)り、彼(かれ)等(ら)が母(はは)に申(まう)しけるは、「故(こ)伊東(いとう)殿(どの)、君(きみ)に御敵(おんてき)とて失(う)せ給(たま)ひし、其(そ)の孫(まご)とて、二人の幼(をさな)き者(もの)共(ども)を参(まゐ)らせよとの御(おん)使(つか)ひに、梶原(かじはら)殿(どの)の来(き)たれり」と言(い)ひければ、母(はは)は聞(き)きも敢(あ)へず、P140「心(こころ)憂(う)や、是(これ)は何(なに)と成(な)り行(ゆ)く世(よ)の中ぞや、夢(ゆめ)とも現(うつつ)とも覚(おぼ)えず。実(げ)に夢(ゆめ)ならば、さむる現(うつつ)も有(あ)りなまし。憂(う)き身(み)の上(うへ)の悲(かな)しきも、彼(かれ)等(ら)二人を持(も)ちてこそ、万(よろづ)うさも慰(なぐさ)みつれ。身(み)の衰(おとろ)ふるをば知(し)らで、いつか成人(せいじん)して、おとなしくもなりなんと、月日(つきひ)の如(ごと)く頼(たの)もしく、後(のち)の世(よ)掛(か)けて思(おも)ひしに、切(き)られ参(まゐ)らせて、其(そ)の後(のち)、憂(う)き身(み)は何(なに)とながらへん。只(ただ)諸(もろ)共(とも)に具足(ぐそく)して、とにもかくにもなし給(たま)へ」と泣(な)き悲(かな)しむ、其(そ)の声(こゑ)は、門(かど)の辺(ほとり)まで聞(き)こえける。実(げ)にや園生(そのふ)にうゑし紅(くれなゐ)の、焦(こ)がるる色(いろ)の現(あらは)れて、余所(よそ)に見(み)えしぞ、哀(あは)れなる。たへぬ思(おも)ひの余(あま)りにや、母(はは)は、二人の子供(こども)を左右(さう)の膝(ひざ)にすゑおき、髪(かみ)かきなでてくどきけるは、「祖父(おほぢ)伊東(いとう)殿(どの)、君(きみ)に情(なさけ)無(な)くあたり奉(たてまつ)りし故(ゆゑ)に、其(そ)の孫(まご)とて、汝(なんぢ)等(ら)を召(め)さるるぞや。如何(いか)なる罪(つみ)のむくいにて、人こそ多(おほ)けれ、御敵(おんてき)となりぬらん心(こころ)憂(う)さよ。さりながら、汝(なんぢ)等(ら)が先祖(せんぞ)、東国(とうごく)において、誰(たれ)にかは劣(おと)るべき、知(し)らぬ人有(あ)るべからず。君(きみ)の御前(おんまへ)なりとも、恐(おそ)るる事(こと)無(な)く。最期(さいご)の所(ところ)にて、言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)くして適(かな)ふまじ。さしもいさみし親祖父(おやおほぢ)の、世(よ)に有(あ)りし故(ゆゑ)にこそ、御敵(おんてき)ともなり給(たま)ひしか。幼(いとけな)くとも、思(おも)ひ切(き)りて、臆(おく)する色(いろ)有(あ)るべからず、けなげに」と申(まう)せども、涙(なみだ)にこそむせびけれ。「実(げ)にや適(かな)はぬ事(こと)なれども、汝(なんぢ)等(ら)を止(とど)めおき、其(そ)の代(か)はりに、童(わらは)出(い)でて、如何(いか)にもなりなば、心(こころ)安(やす)かりなん」と泣(な)きP141ければ、二人の子供(こども)は、聞(き)き分(わ)けたる事(こと)は無(な)けれども、只(ただ)泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。賎(いや)しき賎(しづ)に至(いた)るまで、泣(な)き悲(かな)しむ事(こと)、叫喚(けうくわん)・大叫喚(けうくわん)の悲(かな)しみも、是(これ)には過(す)ぎじとぞ覚(おぼ)えし。時(とき)移(うつ)りければ、景季(かげすゑ)、使(つか)ひを以(もつ)て、母(はは)の方(かた)へ申(まう)しけるは、「御名残(おんなごり)、理(ことわり)と存(ぞん)じ候(さうら)へ共(ども)、御思(おも)ひはつくべきにあらず、とくとく」と攻(せ)めければ、祐信(すけのぶ)、「承(うけたまは)り候(さうら)ふ」とて、嬉(うれ)しからざる出立(いでたち)を急(いそ)ぎける。母(はは)も、今(いま)を限(かぎ)りの事(こと)なれば、介錯(かいしやく)するぞ、哀(あは)れなる。一万(いちまん)が装束(しやうぞく)には、精好(せいがう)の大口(おほくち)、顕紋紗(けんもんしや)の直垂(ひたたれ)をぞ着(き)たりける。箱王(はこわう)には、紅葉(もみぢ)に鹿(しか)書(か)きたる紅梅(かうばい)の小袖(こそで)に、大口(おほくち)ばかり着(き)せたりける。斯様(かやう)に介錯(かいしやく)せん事(こと)も、今(いま)を限(かぎ)りにてもやと、後(うし)ろにめぐり、前(まへ)に立(た)ち、つくづくと是(これ)を見(み)るに、一万(いちまん)が着(き)たる小袖(こそで)の紋(もん)、心(こころ)得(え)ぬ物(もの)かな。さても、あだなる朝顔(あさがほ)の花の上露(うはつゆ)、時(とき)の間(ま)も、残(のこ)る例(ためし)は無(な)き物(もの)を。さて、箱王(はこわう)が小袖(こそで)の色(いろ)、ぬれてや、鹿(しか)のひとり鳴(な)くらんも、憂(う)き身(み)の上(うへ)の心地(ここち)して、いよいよ袖(そで)こそぬれまされ。古(いにしへ)は何(なに)とも見(み)ざりし衣裳(いしやう)の紋(もん)、今(いま)は目(め)に立(た)ちて、思(おも)ひ残(のこ)せる事(こと)も無(な)し。やがて帰(かへ)るべき道(みち)だにも、差(さ)しあたりたる別(わか)れは悲(かな)しきに、帰(かへ)らん事(こと)は不定(ふぢやう)なり。見(み)みえん事(こと)も、今(いま)ばかりぞと覚(おぼ)えば、肝(きも)魂(たましひ)も身(み)に添(そ)はず。一万(いちまん)おとなしやかに、「余(あま)り御(おん)歎(なげ)き候(さうら)ひそ。御(おん)思(おも)ひを見(み)奉(たてまつ)れば、道(みち)安(やす)かるべしとも覚(おぼ)えず。もし切(き)られ参(まゐ)らせば、前世(ぜんぜ)の事(こと)と思(おぼ)し召(め)せ」と言(い)ひければ、箱王(はこわう)、「兄(あに)の仰(おほ)せP142らるる如(ごと)く、御(おん)歎(なげ)きを御(おん)止(とど)め候(さうら)へ。同(おな)じ御(おん)歎(なげ)きながら、敵(てき)を致(いた)したる事(こと)も候(さうら)はず。其(そ)の上(うへ)、未(いま)だ幼(をさな)く候(さうら)へば、御(おん)許(ゆる)しも候(さうら)ふべし。仏(ほとけ)にも御申(まう)し候(さうら)へ」。誠(まこと)にげにげにしく申(まう)すに付(つ)けても、いよいよ名残(なごり)ぞ惜(を)しかりける。さりともとは思(おも)へども、まさしき御敵(おんてき)なり。帰(かへ)らん事(こと)は、不定(ふぢやう)也(なり)。止(とど)まり居(ゐ)て、物思(おも)はん事(こと)も、悲(かな)しければ、一所(ひとところ)にて、如何(いか)にもならんと、出(い)で立(た)ちけるぞ、哀(あは)れなる。祐信(すけのぶ)、是(これ)を見(み)、大(おほ)きに制(せい)しける。「さりとも、切(き)らるるまでは有(あ)るまじ。誰々(たれたれ)も、よき様(やう)に申(まう)し成(な)し給(たま)はば、いかさま、遠(とほ)き国(くに)に流(なが)し置(お)かれぬと覚(おぼ)えたり。然様(さやう)なりとも、命(いのち)だにあらば」と慰(なぐさ)め置(お)きて、二人の子(こ)共(ども)をいざなひ出(い)でける、心(こころ)の中(うち)こそ哀(あは)れなれ。母(はは)は、梶原(かじはら)が見(み)るをも憚(はばか)らず。事(こと)のなのめの時(とき)こそ、恥(はぢ)も人目(ひとめ)も包(つつ)まるれ、誠(まこと)の別(わか)れになりぬれば、かちはだしにて、乳母(めのと)諸(もろ)共(とも)に、庭上(ていしやう)に迷(まよ)ひ出(い)でて、「暫(しばら)く、や、殿(との)、一万(いちまん)。止(とど)まれや、箱王(はこわう)。我(わ)が身(み)は何(なに)と成(な)るべき」と、声(こゑ)を惜(を)しまず泣(な)き悲(かな)しみければ、上下男女(なんによ)諸(もろ)共(とも)に、「今(いま)暫(しばら)く」と泣(な)き悲(かな)しむ有様(ありさま)、たとふべき方(かた)も無(な)し。或(ある)いは、馬(むま)の口(くち)に取(と)り付(つ)き、或(ある)いは、直垂(ひたたれ)の袖(そで)をひかへければ、景季(かげすゑ)も、猛(たけ)き武士(もののふ)とは申(まう)せ共(ども)、涙(なみだ)にせき敢(あ)へず、「由(よし)無(な)き御(おん)使(つか)ひ承(うけたまは)りて、斯(か)かる哀(あは)れを見(み)る悲(かな)しさよ」とて、直衣(なほし)の袖(そで)を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて泣(な)きけり。母(はは)は、猶(なほ)も止(とど)まり兼(か)ねて、門(かど)の外(ほか)まで惑(まど)ひ出(い)でP143て、彼(かれ)等(ら)が後姿(うしろすがた)を見(み)送(おく)り、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。子供(こども)も、後(うし)ろのみ見(み)返(かへ)りしかば、駒(こま)をも急(いそ)がず、後(あと)に心(こころ)は止(とど)まりけり。互(たが)ひの思(おも)ひ、さこそと推(お)し量(はか)られて、哀(あは)れなり。母(はは)は、子(こ)供(ども)の後(うし)ろも見(み)えず、とほざかり行(ゆ)きければ、即(すなは)ち倒(たふ)れ伏(ふ)しにけり。女房(にようばう)達(たち)、急(いそ)ぎ引(ひ)きたて、やうやう介錯(かいしやく)して、泣(な)く泣(な)く内(うち)にぞ入(い)りにける。持仏堂(ぢぶつだう)に参(まゐ)り、くどきけるは、「大慈(だいじ)大悲(だいひ)の誓願(せいぐわん)、枯(か)れたる草木(くさき)にも、花さき実(み)成(な)るとこそ聞(き)け。などや、彼(かれ)等(ら)が命(いのち)をも助(たす)け給(たま)はざらん。是(これ)、幼少(えうせう)の古(いにしへ)より、深(ふか)く頼(たの)みを懸(か)け奉(たてまつ)る。毎日(まいにち)に三巻(さんぐわん)普門品(ふもんぼん)怠(おこた)らざる証(しるし)に、彼(かれ)等(ら)が命(いのち)を助(たす)け給(たま)へ」と、悶(もだ)え焦(こ)がれけるぞ、無慙(むざん)なる。せめての事(こと)にや、仏(ほとけ)に向(む)かひてくどきけるは、「実(げ)にや、彼(かれ)等(ら)が父(ちち)の打(う)たれし時(とき)、如何(いか)なる淵瀬(ふちせ)にも入(い)りなんと、思(おも)ひ焦(こ)がれしに、彼(かれ)等(ら)を世(よ)にたてんと思(おも)ひて、つれなく命(いのち)ながらへ、あかぬ住(す)まひの心(こころ)憂(う)かりつるも、偏(ひとへ)に子供(こども)の為(ため)ぞかし。切(き)られ参(まゐ)らせての後(のち)、一日(いちにち)片時(へんし)の程(ほど)も、身(み)は、誰(た)が為(ため)に惜(を)しかるべき。願(ねが)はくは、我(われ)等(ら)が命(いのち)も取(と)り給(たま)ひて、彼(かれ)等(ら)一所(いつしよ)に向(む)かへ取(と)り給(たま)へ」と、声(こゑ)も惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。誠(まこと)や、身(み)に思(おも)ひの有(あ)る時(とき)は、科(とが)も坐(ま)しまさぬ神仏(かみほとけ)を恨(うら)み奉(たてまつ)り、泣(な)きてはくどき、恨(うら)みては泣(な)き、伏(ふ)し沈(しづ)みけるこそ、せめての事(こと)とは覚(おぼ)えける。P144
@〔祐信(すけのぶ)、兄弟(きやうだい)つれて、鎌倉(かまくら)へ行(ゆ)きし事(こと)〕S0305N050
さて、祐信(すけのぶ)は、梶原(かぢはら)諸(もろ)共(とも)に打(う)ちつれて、駒(こま)を早(はや)むるとは無(な)けれども、夜(よ)に入(い)りて、鎌倉(かまくら)へこそつきにけれ。今夜(こんや)は、遙(はる)かにふけぬらんとて、景季(かげすゑ)が屋形(やかた)に止(とど)め置(お)きたり。祐信(すけのぶ)は、二人の子供(こども)近(ちか)く居(ゐ)て、こよひばかりと思(おも)ふにも、残(のこ)り多(おほ)くぞ思(おも)はれける。名残(なごり)の夜(よ)はも明(あ)け安(やす)き、隈(くま)無(な)き軒(のき)をもる月も、思(おも)ひの涙(なみだ)にかきくもり、鶏(とり)と同(おな)じく泣(な)きあかす、心(こころ)の内(うち)こそ無慙(むざん)なれ。早天(さうてん)に、源太(げんだ)左衛門(さゑもん)、御所(ごしよ)へ参(まゐ)りければ、祐信(すけのぶ)、遙(はる)かに門(かど)送(おく)りして、「彼(かれ)等(ら)が事(こと)は、一向(いつかう)に頼(たの)み奉(たてまつ)る。如何(いか)にもよき様(やう)に申(まう)しなされ、郎等(らうどう)二人有(あ)りと思(おぼ)し召(め)し候(さうら)へ」と、誠(まこと)に思(おも)ひ入(い)りたる有様(ありさま)、哀(あは)れにて、源太(げんだ)も、不便(ふびん)に覚(おぼ)えて、「実(げ)にや、子(こ)ならずは、何事(なにごと)にか、是(これ)程(ほど)宣(のたま)ふべき。人の親(おや)の心(こころ)は闇(やみ)にあらねども、子(こ)を思(おも)ふ道(みち)に迷(まよ)ふとは、実(げ)に理(ことわり)と覚(おぼ)えて、景季(かげすゑ)も、子供(こども)数多(あまた)持(も)ちたる身(み)、さらさら人の上(うへ)共(とも)存(ぞん)じ候(さうら)はず」とて、忍(しの)びの涙(なみだ)を流(なが)しけり。「心(こころ)の及(およ)ぶ所(ところ)は、等閑(とうかん)有(あ)るべからず候(さうら)ふ。心(こころ)安(やす)く思(おも)ひ給(たま)へ」とて出(い)でければ、頼(たの)もしくぞ思(おも)ひける。 其(そ)の後(のち)、景季(かげすゑ)、御前(おんまへ)に畏(かしこ)まりければ、君(きみ)御覧(ごらん)じて、「咋日(きのふ)は、参(まゐ)らざりけるP145ぞ。祐信(すけのぶ)は、異議(いぎ)にや及(およ)びける」「如何(いか)でか、惜(を)しみ申(まう)すべき。ゆふべ、景季(かげすゑ)がもとまで具足(ぐそく)して、候(さうら)ひつるを、夜ふけ候(さうら)ふ間(あひだ)、明(あ)くるを待(ま)ち申(まう)して候(さうら)ふ。従(したが)ひ候(さうら)ひては、母(はは)や曾我(そが)の太郎(たらう)が歎(なげ)き、申(まう)すに及(およ)ばず。かはゆき有様(ありさま)を見(み)てこそ候(さうら)へ。同(おな)じ仰(おほ)せにて、戦場(せんぢやう)にして、一命(いちめい)を捨(す)て候(さうら)はん事(こと)は、物(もの)の数(かず)とも存(ぞん)じ候(さうら)ふまじ。斯様(かやう)に難儀(なんぎ)の事(こと)こそ候(さうら)はざりしか」と申(まう)しければ、君(きみ)聞(き)こし召(め)されて、「さぞ母(はは)も惜(を)しみつらん。同(おな)じ科(とが)とは言(い)ひながら、未(いま)だ幼(をさな)き者(もの)共(ども)なり。歎(なげ)きつるか」と仰(おほ)せられければ、此(こ)の御(おん)言葉(ことば)に取(と)り付(つ)き、畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「斯様(かやう)に申(まう)す事(こと)、恐(おそ)れ多(おほ)く候(さうら)へども、母(はは)が思(おも)ひ、余(あま)りに不便(ふびん)なる次第(しだい)に候(さうら)ふ。未(いま)だ幼(をさな)き者(もの)共(ども)に候(さうら)へば、成人(せいじん)の程(ほど)、景季(かげすゑ)に預(あづ)けさせ給(たま)ひ候(さうら)へかし」と申(まう)しければ、君(きみ)聞(き)こし召(め)されて、「汝(なんぢ)が申(まう)す所(ところ)、理(ことわり)と思(おも)へ共(ども)、伊東(いとう)の入道(にふだう)に、情(なさけ)無(な)くあたられし事(こと)を、聞(き)きも及(およ)びぬらん。三歳(ざい)の若(わか)を失(うしな)はれ、剰(あまつさ)へ女房(にようばう)さへ取(と)り返(かへ)されて、歎(なげ)きの上(うへ)に、恥(はぢ)を見(み)、其(そ)の上(うへ)、由比(ゆひ)の小坪(こつぼ)にて、頼朝(よりとも)を打(う)たんとせし恨(うら)み、条々(でうでう)、例(たと)へて遣(や)る方(かた)無(な)し。せめて、伊豆(いづ)の国(くに)一国の主(ぬし)にもならばやと、明(あ)け暮(く)れ思(おも)ひ祈(いの)りしは、只(ただ)伊東(いとう)にあたり返(かへ)さんと願(ねが)ひしぞかし。然(さ)れば、彼(か)の者(もの)の末(すゑ)と言(い)はんをば、乞食(こつじき)非人(ひにん)なりとも、掛(か)けて見(み)んとは思(おも)はざりき。況(いはん)や、彼(かれ)等(ら)は現在(げんざい)の孫(まご)なり。しかも、嫡孫(ちやくそん)なり。急(いそ)ぎ誅(ちゆう)して、若(わか)が孝養(けうやう)に報(ほう)ずべし。頼朝(よりとも)恨(うら)むべからず」と仰(おほ)せ下(くだ)さP146れければ、重(かさ)ねて申(まう)すに及(およ)ばで、御前(ごぜん)を罷(まか)り立(た)ちにけり。「時(とき)を移(うつ)さず、由比(ゆひ)の浜(はま)にて害(がい)せよ」と承(うけたまは)りて、宿所(しゆくしよ)に帰(かへ)り、祐信(すけのぶ)、遅(おそ)しと待(ま)ち受(う)けて、「彼(かれ)等(ら)が命(いのち)如何(いか)に」と問(と)ふ。「然(さ)ればこそとよ、再三(さいさん)申(まう)しつれども、故(こ)伊東(いとう)殿(どの)の不忠(ふちゆう)、始(はじ)めよりをはりに至(いた)るまで、御物語(ものがたり)有(あ)りて、若君(わかぎみ)の草(くさ)の陰(かげ)にて思(おぼ)し召(め)す所(ところ)も有(あ)り、此(こ)の人々(ひとびと)を切(き)りて、御追善(ついぜん)に報(ほう)ぜんと、御意(ぎよい)の上(うへ)、力(ちから)及(およ)ばず」と言(い)ひければ、祐信(すけのぶ)、頼(たの)みし力(ちから)つきはてて、「今(いま)は、適(かな)ふまじきにや」とて、二人の子(こ)供(ども)を近付(ちかづ)けて、装束(しやうぞく)引(ひ)きつくろひ、鬢(びん)の麈(ちり)打(う)ち払(はら)ひ、「汝(なんぢ)、如何(いか)なるむくいにて、乳(ち)の内(うち)にして、父(ちち)におくれ、重代(ぢゆうだい)の所領(しよりやう)に離(はな)れ、命(いのち)だにも、十五・十三にもならず、切(き)らるるのみにあらず、母(はは)にも又(また)、思(おも)ひを授(さづ)くる事(こと)の不思議(ふしぎ)さよ。祐信(すけのぶ)も、汝(なんぢ)等(ら)におくれて後(のち)、千年(ちとせ)をふるべきか。髻(もとどり)切(き)り、後世(ごせ)懇(ねんご)ろに問(と)ひて取(と)らすべし。今生(こんじやう)こそ、宿縁(しゆくえん)うすくとも、来世(らいせ)には、必(かなら)ず一蓮(ひとつはちす)に生(う)まれあふべし」と、涙(なみだ)にむせびけり。子供(こども)聞(き)き、「祖父子(おほぢご)の御事(おんこと)に依(よ)り、我(われ)等(ら)幼(をさな)けれ共(ども)、許(ゆる)されず、切(き)られん事(こと)、力(ちから)に及(およ)ばず。さりながら、殿(との)の御恩(ごおん)こそ、有(あ)り難(がた)く思(おも)ひ奉(たてまつ)り候(さうら)へ。御遁世(とんせい)、努々(ゆめゆめ)有(あ)るまじき事(こと)なり。母御(ははご)の御(おん)思(おも)ひ、いよいよ重(おも)かるべし。其(そ)れを慰(なぐさ)めて賜(たま)はり候へ。其(そ)れならでは」とばかりにて、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。景季(かげすゑ)が妻女(さいぢよ)も、女房(にようばう)達(たち)引(ひ)きつれ、中門(ちゆうもん)に出(い)で、ものごしに彼(かれ)等(ら)がP147言葉(ことば)を立(た)ち聞(き)きて、「実(げ)にや、然(さ)る者(もの)の子(こ)供(ども)とは聞(き)こえたり。優(いう)におとなしやかに言(い)ひつる言葉(ことば)かな。余所(よそ)にて聞(き)くだにも、哀(あは)れに無慙(むざん)なるに、如何(いか)に今(いま)まで取(と)り育(そだ)てぬる母(はは)や乳母(めのと)の思(おも)ふらん。かたはなる子(こ)をさへ、親(おや)は悲(かな)しむ習(なら)ひぞかし。弓(ゆみ)取(と)りの子(こ)の七つにて、親(おや)の敵(かたき)を打(う)ちけると申(まう)し伝(つた)へたる事(こと)も、彼(かれ)等(ら)がおとなしやかなるにて思(おも)ひ知(し)られたり。弓(ゆみ)取(と)りの子(こ)なり」とて、涙(なみだ)にむせびければ、及(およ)ぶも及(およ)ばざるも、皆(みな)袂(たもと)をぞ絞(しぼ)りける。
@〔由比(ゆひ)のみぎはへ引(ひ)き出(い)だされし事(こと)〕S0306N052
やや有(あ)りて、景季(かげすゑ)来(き)たり、「時(とき)こそ移(うつ)り候(さうら)へ」と言(い)ひければ、祐信(すけのぶ)、彼(かれ)等(ら)を出(い)で立(た)たせ、由比(ゆひ)の浜(はま)へぞ出(い)でける。今(いま)に始(はじ)めぬ鎌倉(かまくら)中(ぢゆう)のことことしさは、彼(かれ)等(ら)が切(き)らるる見(み)んとて、門前(もんぜん)市(いち)をなす。源太(げんだ)が屋形(やかた)も、浜(はま)のおもて程(ほど)遠(とほ)からで、行(ゆ)く程(ほど)に、羊(ひつじ)の歩(あゆ)み猶(なほ)近(ちか)く、命(いのち)も際(きは)になりにけり。既(すで)に敷皮(しきがは)打(う)ちしきて、二人の者(もの)共(ども)なほりにけり。今朝(けさ)までは、さり共(とも)、源太(げんだ)や申(まう)し助(たす)けんと、頼(たの)みし心(こころ)もつきはて、彼(かれ)等(ら)に向(む)かひ申(まう)しけるは、「母(はは)が方(かた)に、思(おも)ひ置(お)く事(こと)や有(あ)る」と問(と)ふ。「只(ただ)何事(なにごと)も、御(おん)心(こころ)得(え)候(さうら)ひて、仰(おほ)せられ候(さうら)へ。但(ただ)し、最期(さいご)は、御(おん)教(をし)へ候(さうら)ひし如(ごと)く、思(おも)ひ切(き)りP148て、未練(みれん)にも候(さうら)はざりしとばかり、御(おん)語(かた)り候(さうら)へ」「箱王(はこわう)は如何(いか)に」と問(と)へば、「同(おな)じ御心(おんこころ)なり。今(いま)一度(ひとたび)見(み)奉(たてまつ)て」と言(い)ひも敢(あ)へず、涙(なみだ)にむせび、深(ふか)く歎(なげ)く色(いろ)見(み)えけり。一万(いちまん)是(これ)を見(み)て、「仰(おほ)せられしをや。祖父(おほぢ)の孫(まご)ぞと思(おも)ひ出(い)だして、思(おも)ひ切(き)るべし。構(かま)へて、母(はは)や乳母(めのと)が事(こと)、思(おも)ひ出(い)だすべからず。然様(さやう)なれば、未練(みれん)の心(こころ)出(い)で来(く)るぞ。「只(ただ)一筋(ひとすぢ)に思(おも)ひきれ」と教(をし)へ給(たま)ひし事(こと)、忘(わす)れ給(たま)ふかや。人もこそ見(み)れ」といさめければ、箱王(はこわう)、此(こ)の言葉(ことば)にや恥(は)ぢけん、顔(かほ)押(お)しのごひ、あざ笑(わら)ひ、涙(なみだ)を人に見(み)せざりけり。貴賎(きせん)、惜(を)しまぬ者(もの)は無(な)かりけり。曾我(そが)の太郎も、此(こ)の色(いろ)を見(み)て、今(いま)は心(こころ)安(やす)くて、敷皮(しきがは)に居(ゐ)かかり、鬢(びん)の麈(ちり)打(う)ち払(はら)ひ、心(こころ)しずかに介錯(かいしやく)し、「如何(いか)に汝(なんぢ)等(ら)、よくよく聞(き)け。始(はじ)めたる事(こと)にあらね共(ども)、弓矢(ゆみや)の家に生(う)まるる者(もの)は、命(いのち)よりも名(な)をば惜(を)しむ者(もの)ぞとよ。「竜門原上(りゆうもんげんしやう)の骨(ほね)をばうづめども、名(な)をば雲井(くもゐ)に残(のこ)せ」と言(い)ふ言葉(ことば)、予(かね)て聞(き)き置(お)きぬらん。最期(さいご)見(み)苦(ぐる)しくは見(み)えねども、心(こころ)を乱(みだ)さで、目(め)をふさぎ、掌(たなごころ)を合(あ)はせ、「弥陀(みだ)如来(によらい)、我(われ)等(ら)を助(たす)け給(たま)へ」と祈念(きねん)せよ」。一万(いちまん)聞(き)きて、「如何(いか)に祈(いの)り候(さうら)ふとも、助(たす)かる命(いのち)にても候(さうら)はぬ物(もの)を」と言(い)ひければ、「其(そ)の助(たす)けにては無(な)し。別(べち)の助(たす)けぞとよ。御分(ごぶん)の父(ちち)、一所(いつしよ)に向(む)かへ取(と)り給(たま)ふべき誓願(せいぐわん)の助(たす)けぞとよ。頼(たの)み候(さうら)へ」と言(い)ひければ、「申(まう)すにや及(およ)ぶ。故郷(こきやう)を出(い)でしより、思(おも)ひ定(さだ)むる事(こと)なれば、何(なに)に心(こころ)を残(のこ)すべき。P149父(ちち)にあひ奉(たてまつ)らん頼(たの)みこそ、嬉(うれ)しく候(さうら)へ」とて、西(にし)に向(む)かひ、各々(おのおの)ちひさき手(て)を捧(ささ)げて、「南無(なむ)」とたからかに聞(き)こえければ、堀(ほり)の弥太郎(やたらう)、太刀(たち)抜(ぬ)き、引(ひ)きそばめ、二人が後(うし)ろに近付(ちかづ)きて、兄(あに)を先(ま)づ切(き)らんは、順次(じゆんし)なり、然(しか)れども、弟(おとと)見て、驚(おどろ)きなんも、無慙(むざん)なり、弟(おとと)を切(き)るは、逆(ぎやく)なりと、思(おも)ひわづらひ、立(た)ちたりしを、祐信(すけのぶ)、思(おも)ひに絶(た)え兼(か)ねて、走(はし)り寄(よ)り、取(と)り付(つ)き、「然(しか)るべくは、打物(うちもの)を某(それがし)に預(あづ)けられ候(さうら)へ。我(われ)等(ら)が手(て)に掛(か)けて、後生(ごしやう)を弔(とぶら)はむ」と申(まう)しければ、「御(おん)はからひ」とて、太刀(たち)をとらせけり。祐信(すけのぶ)取(と)りて、先(ま)づ一万(いちまん)を切(き)らむとて、太刀(たち)差(さ)し上(あ)げ見(み)れば、折節(をりふし)、朝日(あさひ)かかやきて、白(しろ)く清(きよ)げなる首(くび)の骨(ほね)に、太刀影(たちかげ)の移(うつ)りて見(み)えければ、左右(さう)無(な)く切(き)るべき所(ところ)も見(み)えざりけり。祐信(すけのぶ)、猛(たけ)き武士(もののふ)と申(まう)せども、打物(うちもの)を捨(す)てて、くどきけるは、「中々(なかなか)思(おも)ひ切(き)りて、曾我(そが)に止(とど)まるべかりし物(もの)を、是(これ)まで来(き)たりて、憂(う)きめを見(み)る事(こと)の口惜(くちを)しさよ。然(しか)るべくは、先(ま)づ某(それがし)を切(き)りて後(のち)に、彼(かれ)等(ら)を害(がい)し給(たま)へ」と歎(なげ)きければ、見物(けんぶつ)の貴賎(きせん)、「理(ことわり)かな。幼少(えうせう)より育(そだ)てて、哀(あは)れみ給(たま)へば、さぞ不便(ふびん)なるらん」と、訪(とぶら)はぬ者(もの)は無(な)かりけり。P150
@〔人々(ひとびと)、君(きみ)へ参(まゐ)りて、こひ申(まう)さるる事(こと)〕S0307N054
此処(ここ)に梶原(かじはら)平三(へいざう)景時(かげとき)、近(ちか)くよりて、祐信(すけのぶ)に申(まう)しけるは、「御(おん)歎(なげ)きを見(み)奉(たてまつ)るに、推(お)し量(はか)られて覚(おぼ)ゆるなり。暫(しばら)く待(ま)ち給(たま)へ。一(ひと)はし申(まう)して見(み)ん」と言(い)ひければ、弥太郎(いやたらう)、大(おほ)きに喜(よろこ)びて、暫(しばら)く時(とき)を移(うつ)しける。誠(まこと)に景時(かげとき)、差(さ)し切(き)りて申(まう)されんには、適(かな)ひつべしと、人々(ひとびと)頼(たの)もしくぞ思(おも)ひける。景時(かげとき)、御前(おんまへ)に畏(かしこ)まりければ、君(きみ)御覧(ごらん)ぜられて、「梶原(かじはら)こそ、例(れい)ならず訴訟顔(そしようがほ)なれ」「さん候(ざうらふ)。曾我(そが)の太郎が養子(やうし)の子(こ)供(ども)、只今(ただいま)、浜(はま)にて誅(ちゆう)せられ候(さうら)ふ。哀(あは)れ、某(それがし)に、御(おん)預(あづ)けもや候(さうら)へかし。景時(かげとき)が申状(まうしじやう)、聞(き)こし召(め)し入(い)れらるべきと、あまねく思(おも)ひ候(さうら)ふ物(もの)をや」と、申(まう)しければ、君(きみ)聞(き)こし召(め)て、「今朝(けさ)より、源太(げんだ)申(まう)しつれ共(ども)、預(あづ)けず。汝(なんぢ)、恨(うら)むべからず」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、力(ちから)及(およ)ばず、御前(ごぜん)を罷(まか)り立(た)ちけり。次(つぎ)に、和田(わだ)の左衛門(さゑもん)義盛(よしもり)、御前(おんまへ)に畏(かしこ)まり、「景時(かげとき)が親子(おやこ)、申(まう)して適(かな)はざる所(ところ)を、義盛(よしもり)、重(かさ)ねて申(まう)し上(あ)ぐる条(でう)、かつうは、其(そ)のおほそれ少(すく)なからず候(さうら)へども、人を助(たす)くる習(なら)ひ、さのみこそ候(さうら)へ。義盛(よしもり)、御大事(だいじ)に罷(まか)り立(た)ちて、度々なりと雖(いへど)も、わきては、衣笠城(きぬかさのじやう)にて、御命(おんいのち)に代(か)はり奉(たてまつ)り、御世(よ)に出(い)でさせ給(たま)ひ候(さうら)ひぬ。其(そ)の忠節(ちゆうせつ)に申(まう)しかへて、曾我(そが)の子供(こども)を預(あづ)かりおき候(さうら)はば、生前(しやうぜん)の御恩(ごおん)と存(ぞん)じ候(さうら)ふべし」と申(まう)さP151れければ、君(きみ)聞(き)こし召(め)されて、「彼(か)の者(もの)共(ども)の事(こと)は、切(き)らで適(かな)ふべからず」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、義盛(よしもり)、重(かさ)ねて申(まう)されける、「もとより、罪(つみ)軽(かる)くして、追罰(ついばつ)せらるべきを、申(まう)し預(あづ)かりては、御恩(ごおん)と申(まう)し難(がた)し。重罪(ぢゆうざい)の者(もの)を賜(たま)はりてこそ、掟(おきて)を背(そむ)く御恩(ごおん)にては候(さうら)へ。義盛(よしもり)が一期(いちご)の大事(だいじ)、何事(なにごと)か是(これ)にしかん」と、差(さ)し切(き)りて申(まう)されたりしかば、君(きみ)も、誠(まこと)に難儀(なんぎ)に思(おぼ)し召(め)しけるが、しばし、御思案(しあん)に及(およ)び、「御分(ごぶん)の所望(しよまう)、何(なに)をか背(そむ)き奉(たてまつ)るべき。然(しか)れども、此(こ)の事(こと)においては、頼朝(よりとも)に差(さ)しおき給(たま)へ。伊東(いとう)が情(なさけ)無(な)かりし振舞(ふるま)ひ、只今(ただいま)報(ほう)ぜん」と仰(おほ)せられければ、義盛(よしもり)、力(ちから)に及(およ)ばずして、御前(ごぜん)を罷(まか)り立(た)たれけり。其(そ)の次(つぎ)に、宇都宮(うつのみや)の弥三郎(いやさぶらう)朝綱(ともつな)、思(おも)ひけるは、面々(めんめん)申(まう)し適(かな)へられずして、罷(まか)り立(た)たれぬ、さりながら、数多(あまた)の力(ちから)、もしもやと存(ぞん)じ、御前(おんまへ)に祗候(しこう)す。君(きみ)御覧(ごらん)ぜられて、「今日(けふ)の訴訟人(そしようにん)は、適(かな)ふべからず、別(べち)に、思(おも)ふ子細(しさい)有(あ)り」とて、御気色(ごきしよく)悪(あ)しかりければ、申(まう)し出(い)だすに及(およ)ばず、退出(たいしゆつ)せられにけり。又(また)、千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)、座敷(ざしき)に居(ゐ)代(か)はりて、畏(かしこ)まつて、「人々(ひとびと)の申(まう)されて適(かな)はざる所(ところ)を申(まう)し上(あ)ぐる条(でう)、誠(まこと)てうたうのあとを尋(たづ)ね、れいきのををひにて候(さうら)へ共(ども)、竜(りゆう)の鬚(ひげ)をなで、虎(とら)の尾(を)を踏(ふ)むも、事(こと)による事(こと)にて候(さうら)へば、今日(けふ)の人々(ひとびと)の訴訟(そしよう)御(おん)聞(き)き入(い)れ候(さうら)はば、畏(かしこ)まり存(ぞん)ずべき由(よし)、方々(かたがた)申(まう)すげに候(さうら)ふ」と申(まう)し上(あ)げければ、君(きみ)聞(き)こし召(め)し、「御分(ごぶん)の事(こと)、身(み)にかへても余(あま)り有(あ)り。其(そ)れを如何(いか)にP152と言(い)ふに、頼朝(よりとも)、石橋山(いしばしやま)の合戦(かつせん)に打(う)ち負(ま)けて、只(ただ)七騎(き)に成(な)りて、杉山(すぎやま)を出(い)でて、ゆきの浦(うら)に着(つ)き、既(すで)に自害(じがい)に及(およ)びし時(とき)、数千騎(すせんぎ)にて、合力(かうりよく)せられ奉(たてまつ)り、今(いま)は世(よ)を取(と)る事(こと)、偏(ひとへ)に御分(ごぶん)の恩(おん)ぞかし。其(そ)の故(ゆゑ)、忘(わす)るべきにあらず。然(さ)れども、伊豆(いづ)の伊東(いとう)が恨(うら)めしさは、知(し)り給(たま)ひぬらん」と仰(おほ)せ有(あ)りて、其(そ)の後(のち)は、御返事(ごへんじ)も無(な)し。常胤(つねたね)、重(かさ)ねて申(まう)されけるは、「恐(おそ)れ存(ぞん)じ候(さうら)ふ事(こと)なれども、某(それがし)に限(かぎ)らず、今日(こんにち)の訴訟人(そしようにん)、時(とき)に取(と)りての御大事(だいじ)、誰(たれ)か身命(しんみやう)を惜(を)しみ、不忠(ふちゆう)を思(おも)ひ奉(たてまつ)る者(もの)の候(さうら)ふべき。其(そ)の御心(おんこころ)ざしに、御免(ごめん)渡(わた)らせ御座(おは)しまして、彼(かれ)等(ら)を御(おん)助(たす)け候(さうら)ふべし」「さても、彼(かれ)等(ら)が祖父(おほぢ)は、不忠(ふちゆう)の者(もの)にはあらざるをや」「さてこそ、御慈悲(じひ)にて、御(おん)助(たす)け候(さうら)へとは申(まう)せ」「奈落(ならく)に沈(しづ)む極重(ごくぢゆう)の罪人(ざいにん)をば、慈悲(じひ)の仏(ほとけ)だにも、すくひ給(たま)はずとこそ聞(き)け」。常胤(つねたね)承(うけたまは)りて、「地蔵(ぢざう)薩■(さつた)の第一(だいいち)の誓願(せいぐわん)には、無仏(むぶつ)世界(せかい)の衆生(しゆじやう)をすくはんとこそ、誓(ちか)ひの深(ふか)く坐(ま)しますなれ」。君(きみ)聞(き)こし召(め)し、「然(さ)れば、地蔵(ぢざう)は、未(いま)だ正覚(しやうがく)なり給(たま)はずとこそ聞(き)け」「斯様(かやう)の悪人(あくにん)をすくひつくして、正覚(しやうがく)有(あ)るべしと承(うけたまは)る。其(そ)れは、慈悲(じひ)にて坐(ま)しまさずや」。君(きみ)聞(き)こし召(め)し、「誠(まこと)に其(そ)れは、仏(ほとけ)の御法(のり)の言葉(ことば)、如来(によらい)にあひて、問(と)ひ給(たま)へ。彼(かれ)等(ら)は、世上(せじやう)の政道(せいたう)也(なり)。切(き)らでは適(かな)ふべからず」とて、御気色(ごきしよく)悪(あ)しく見(み)えければ、其(そ)の後(のち)は、物(もの)をも申(まう)さず。御前(おんまへ)に祗候(しこう)の人々(ひとびと)も、力(ちから)を落(お)とし、如何(いかが)せんとぞ思(おも)はれける。P153
@〔畠山(はたけやま)の重忠(しげただ)こひ許(ゆる)さるる事(こと)〕S0308N055
此処(ここ)に、武蔵(むさし)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)二郎(じらう)重忠(しげただ)、在鎌倉(ざいかまくら)して、筋違橋(すぢかひばし)に有(あ)りけるが、此(こ)の事(こと)を聞(き)き、取(と)る物(もの)も取(と)り敢(あ)へず、急(いそ)ぎ御前(おんまへ)に参(まゐ)られける。君(きみ)御覧(ごらん)ぜられて、「重忠(しげただ)珍(めづら)し」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、「さん候(ざうらふ)」とて、深(ふか)く畏(かしこ)まり、やや有(あ)りて、申(まう)されけるは、「伊東(いとう)が孫(まご)共(ども)を、浜にて切(き)られ候(さうら)ふなる。未(いま)だ幼(をさな)く候(さうら)へば、成人(せいじん)の程(ほど)、重忠(しげただ)に御(おん)預(あづ)け候(さうら)へかし」。君(きみ)聞(き)こし召(め)し、「存知(ぞんぢ)の如(ごと)く、伊東(いとう)が振舞(ふるま)ひ、条々(でうでう)の旨(むね)、忘(わす)るべきにあらず。彼(かれ)等(ら)が子孫(しそん)におきては、如何(いか)に賎(いや)しき者(もの)なりとも、助(たす)け置(お)かんとは覚(おぼ)えず。是(これ)等(ら)はまさしき孫(まご)ながら、嫡孫(ちやくそん)ぞかし。頼朝(よりとも)が末(すゑ)の敵(てき)と成(な)るべし。然(さ)れば、誅(ちゆう)してもたらざる物(もの)を。頼朝(よりとも)恨(うら)み給(たま)ふべからず」と仰(おほ)せられければ、「適(かな)はじとの御諚(ごぢやう)、重(かさ)ねて申(まう)し上(あ)ぐる条(でう)、恐(おそ)れにて候(さうら)へども、成人(せいじん)の後(のち)、如何(いか)なる振舞(ふるま)ひ候(さうら)ふとも、重忠(しげただ)かかり申(まう)すべし。其(そ)の上(うへ)、一期(いちご)に一度(いちど)の大事(だいじ)をこそと存(ぞん)じ候(さうら)ひて、つねには訴訟(そしよう)を申(まう)さず候(さうら)へ。是(これ)ばかりをば、御免(ごめん)渡(わた)らせ給(たま)へ」と申(まう)されければ、君(きみ)の仰(おほ)せには、「彼(かれ)等(ら)が先祖(せんぞ)の不忠(ふちゆう)、皆々(みなみな)存知(ぞんぢ)の事(こと)、何(なに)とてか程(ほど)に宣(のたま)ふ。此(こ)の事(こと)適(かな)へぬ怠(おこた)りに、武蔵(むさし)の国(くに)二十四郡(ぐん)P154を奉(たてまつ)らん」と仰(おほ)せ下(くだ)されしぞ、誠(まこと)に忝(かたじけな)くは覚(おぼ)えける。重忠(しげただ)承(うけたまは)り、「御諚(ごぢやう)の趣(おもむき)、畏(かしこ)まり存(ぞん)ずれども、国(くに)を賜(たま)はり、彼(かれ)等(ら)を誅(ちゆう)せられては、世(よ)の聞(き)こえ、重忠(しげただ)が恥辱(ちじよく)にて候(さうら)ふべし。某(それがし)がもと参(まゐ)りて候(さうら)ふ所領(しよりやう)を参(まゐ)らせ上(あ)げ、彼(かれ)等(ら)を助(たす)け候(さうら)ひてこそ、人の思(おも)はくも候(さうら)へ」と申(まう)されければ、君(きみ)御返(かへ)り事(ごと)にも及(およ)ばざりけり。重忠(しげただ)、ゐだけだかに成(な)りて、「恐(おそ)れ多(おほ)き申事(まうしごと)にて候(さうら)へ共(ども)、平治(へいぢ)の乱(らん)に、義朝(よしとも)打(う)たれ給(たま)ひき。其(そ)の御子(こ)として、清盛(きよもり)に取(と)り込(こ)められ、既(すで)に御命(おんいのち)あやしく渡(わた)らせ給(たま)ひしに、池殿(いけどの)申(まう)されしに依(よ)つて、助(たす)かり坐(ま)しましぬ。其(そ)の御(おん)喜(よろこ)びを思(おぼ)し召(め)し寄(よ)り、彼(かれ)等(ら)を御(おん)助(たす)け候(さうら)へかし」。君(きみ)御顔色(がんしよく)変(か)はり、事(こと)悪(あ)しく見(み)えければ、暫(しばら)く物(もの)も申(まう)されず。悪(あ)し様(ざま)也(なり)、申(まう)し過(す)ごしぬると存(ぞん)じて、只(ただ)つつしんで有(あ)りける。やや暫(しばら)く有(あ)りて、君(きみ)如何(いかが)思(おぼ)し召(め)しけん、御扇(あふぎ)をさつと開(ひら)き、「げにげに重忠(しげただ)宣(のたま)ふ如(ごと)く、平家(へいけ)の一門(いちもん)、頼朝(よりとも)に情(なさけ)を懸(か)け、助(たす)け置(お)きて、頼朝(よりとも)に退治(たいぢ)をせられぬ。其(そ)の如(ごと)く、彼(かれ)等(ら)を助(たす)け置(お)きて、末代(まつだい)に頼朝(よりとも)滅(ほろ)ぼされぬと覚(おぼ)ゆる。然(さ)れば、彼(かれ)等(ら)をば、一々(いちいち)に切(き)りて、由比(ゆひ)の浜(はま)にかくべし」と、あららかにこそ仰(おほ)せけれ。重忠(しげただ)も、申(まう)しかかりたる事(こと)なれば、言葉(ことば)も違(たが)はず、のび上(あ)がり、「さん候(ざうらふ)。滅(ほろ)びし平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)、如何(いか)ばかりとか思(おぼ)し召(め)す。仏法(ぶつぽふ)に恐(おそ)れず、王法(わうぼふ)にも従(したが)はず、官(くわん)を止(とど)め、職(しよく)を奪(うば)ひ、子孫(しそん)に伝(つた)はるP155と雖(いへど)も、よこしまなる沙汰(さた)、天(てん)是(これ)を許(ゆる)さざるに依(よ)つて、自滅(じめつ)す。政道(せいたう)順義(じゆんぎ)にして、政(まつりごと)専(せん)ならば、末代(まつだい)までも、如何(いか)でか絶(た)え候(さうら)ふべき。只(ただ)神慮(しんりよ)に背(そむ)かで、よこ様(さま)なる事(こと)さへ候(さうら)はずは、位(くらゐ)は転輪(てんりん)聖王(じやうわう)とひとしかるべし」と申(まう)されければ、御寮(れう)聞(き)こし召(め)して、「忠(ちゆう)を高(たか)く感(かん)じ、科(とが)を深(ふか)く戒(いまし)むる事(こと)、よこしまなるべきにや」「其(そ)の儀(ぎ)にては候(さうら)はず、只(ただ)御慈悲(じひ)渡(わた)らせ給(たま)へとこそ候(さうら)へ。御敵(おんてき)の末(すゑ)、不忠(ふちゆう)の至(いた)り、陳(ちん)じ申(まう)すには及(およ)ばず。さりながら、幼(いとけな)く候(さうら)へば、成人(せいじん)の程(ほど)、御(おん)預(あづ)け候(さうら)へかし。忝(かたじけな)くも、君(きみ)の御恩(ごおん)に誇(ほこ)り、栄華(えいぐわ)にそなふる事(こと)、世(よ)の人にすぐれたり。然(さ)れば、重忠(しげただ)が訴訟(そしよう)、何事(なにごと)も適(かな)ふべしと、人々(ひとびと)存(ぞん)ずる所(ところ)に、御(おん)許(ゆる)され無(な)くは、命(いのち)いきても、無益(むやく)也(なり)。御前(おんまへ)にて、首(くび)を召(め)され候(さうら)へ。其(そ)れ適(かな)はずは、浅間(せんげん)菩薩(ぼさつ)も、御照覧(せうらん)候(さうら)へ。重忠(しげただ)自害(じがい)仕(つかまつ)り候(さうら)ふべし。もの其(そ)の身(み)にては候(さうら)はずとも、某(それがし)御前(ごぜん)にて失(う)せぬと聞(き)き候(さうら)はば、自害(じがい)とは申(まう)し候(さうら)はじ。一門(いちもん)馳(は)せ集(あつ)まり、御不審(ふしん)の歎(なげ)きを申(まう)し上(あ)げ候(さうら)ふべし。しからば、今日(けふ)の訴訟人(そしようにん)、定(さだ)めて同意(どうい)有(あ)りぬべし。さあらんに取(と)りては、諸国(しよこく)のわづらひとこそ存(ぞん)じ候(さうら)へ」。君(きみ)聞(き)こし召(め)し、「然様(さやう)の儀(ぎ)に至(いた)りては、頼朝(よりとも)騒(さわ)ぐべきにあらず、只(ただ)天(てん)の照覧(せうらん)に身(み)を任(まか)せ候(さうら)ふべし」とて、御返事(ごへんじ)も無(な)かりけり。P156
@〔臣下(しんか)ちやうしが事(こと)〕S0309N056
重忠(しげただ)畏(かしこ)まつて、「恐(おそ)れ存(ぞん)ずる次第(しだい)にて候(さうら)へども、昔(むかし)、大国(たいこく)に太王(わう)有(あ)り、武勇(ぶゆう)の臣下(しんか)を集(あつ)めて、千人(せんにん)愛(あい)し、玉(たま)の冠(かぶり)、金(こがね)の沓(くつ)を与(あた)へて、召(め)し使(つか)ふ。其(そ)の中(なか)の臣下(しんか)に、ちやうしと言(い)ふ賢人(けんじん)有(あ)り。大王(だいわう)是(これ)を召(め)し、「此(こ)の仰(おほ)せを保(たも)つて、七珍(しつちん)万宝(まんぼう)、一(ひと)つとして不足(ふそく)なる事(こと)無(な)し。然(しか)るに、並(なら)びの国(くに)の市(いち)に、宝(たから)の数(かず)をうるなり。汝(なんぢ)、彼(か)の市(いち)に行(ゆ)きて、我(わ)が倉(くら)の内(うち)に、無(な)からん宝(たから)をかひて来(き)たるべし」とて、多(おほ)くの宝(たから)を与(あた)へぬ。ちやうし、是(これ)を受(う)け取(と)り、彼(か)の市(いち)に行(ゆ)きて見(み)るに、王宮(わうくう)の宝(たから)に、一(ひと)つとして漏(も)れたる物(もの)無(な)し。然(しか)れども、王宮(わうくう)、善根(ぜんこん)長(なが)く絶(た)えて無(な)かりけり。是(これ)をかひ取(と)らんと思(おも)ひて、保(たも)つ所(ところ)の財宝(ざいほう)を、彼(か)の国(くに)のひ人共(ども)を集(あつ)めて、ことごとく施(ほどこ)し、手(て)を空(むな)しくして帰(かへ)りぬ。大王(だいわう)問(と)ひて曰(いは)く、「かひ取(と)る所(ところ)の珍宝(ちんぽう)如何(いか)に、見(み)ん」と宣(のたま)ふ。其(そ)の時(とき)、ちやうし答(こた)へて曰(いは)く、「王宮(わうくう)の宝蔵(ほうざう)を見(み)るに、金銀(きんぎん)珠玉(しゆぎよく)を始(はじ)めとして、不足(ふそく)なる事(こと)無(な)し。然(さ)れども、善根(ぜんごん)の無(な)かりしかば、かひ取(と)りぬ」と答(こた)ふ。大王(だいわう)、歓喜(くわんぎ)して、「其(そ)の善根(ぜんごん)見(み)む」と宣(のたま)ふ。ちやうしが曰(いは)く、「彼(か)の国(くに)の貧者(ひんじや)を集(あつ)め、もつ所(ところ)の宝(たから)をとらせぬ」と答(こた)ふ。大王(だいわう)、P157不思議(ふしぎ)に思(おも)ひしかども、賢人(けんじん)のはからふ事(こと)なりしかば、さてのみ過(す)ごし給(たま)ふ。其(そ)の頃(ころ)、国(くに)の兵(つはもの)起(お)こりて、大王(だいわう)を傾(かたぶ)く。合戦(かつせん)に打(う)ち負(ま)けて、並(なら)びの国(くに)に移(うつ)りぬ。其(そ)の時(とき)、千人(せんにん)の臣下(しんか)、さしも愛(あい)せし恩(おん)を捨(す)てて、一度(いちど)に逃(に)げ失(う)せにけり。王一人(いちにん)に成(な)りて、既(すで)に自害(じがい)に及(およ)びける時(とき)、ちやうしが、暫(しばら)く抑(おさ)へて曰(いは)く、「待(ま)ち給(たま)へ。此(こ)の国(くに)の市(いち)にてかひ置(お)きし善根(ぜんごん)、尋(たづ)ねて見(み)ん」とて行(ゆ)く。其(そ)の宝(たから)をえたりし貧人(ひんにん)の中(なか)に、しはうと言(い)ふ武勇(ぶゆう)の達者(たつしや)也(なり)。深(ふか)き志(こころざし)を感(かん)じ、多(おほ)くの兵(つはもの)を語(かた)らひ、此(こ)の王(わう)の為(ため)に、城郭(じやうくわく)をこしらへ、暫(しばら)く引(ひ)き籠(こも)りぬ。時(とき)有(あ)つて、運(うん)を開(ひら)き、二度(ふたたび)国(くに)に帰(かへ)り給(たま)ふ。これ偏(ひとへ)に、ちやうしがかひ置(お)きし善根(ぜんごん)の故(ゆゑ)と、国王(こくわう)感(かん)じ給(たま)ふ。一人(いちにん)当千(たうぜん)と言(い)ふ事(こと)、此(こ)の時(とき)より始(はじ)まりける。其(そ)の時(とき)、もと逃(に)げ失(う)せし千人(せんにん)の臣下(しんか)、又(また)出(い)でて、「仕(つか)へん」と言(い)ふ。大王(だいわう)聞(き)き給(たま)ひて、「又(また)事(こと)あらば、逃(に)げぬべし。あたらしき臣下(しんか)を召(め)し使(つか)ふべし」と宣(のたま)ふ。ちやうしいさめて、「始(はじ)めたる臣下(しんか)を、心(こころ)知(し)り難(がた)し。只(ただ)もと逃(に)げ失(う)せし臣下(しんか)を、召(め)し使(つか)ひ給(たま)へ。人心(こころ)有(あ)りて、二度(にど)の恩(おん)を忘(わす)れんや」と言(い)ふ。大王(だいわう)、理(ことわり)を案(あん)じて、逃(に)げ失(う)せし臣下(しんか)を、ことごとく尋(たづ)ね出(い)だして、召(め)し使(つか)ふ。時(とき)に又(また)、国(くに)大(おほ)きに起(お)こりて、王(わう)の都(みやこ)を傾(かたぶ)く。帰(かへ)り来(き)たる所(ところ)の臣下(しんか)、二度(にど)の忘恩(ばうおん)を恥(は)ぢて、身(み)を捨(す)て、命(いのち)を惜(を)しまず、防(ふせ)ぎ戦(たたか)ふ。然(さ)れば、勝(か)つ事(こと)を千里(せんり)の外(ほか)にえ、位(くらひ)を永久(えいきう)に保(たも)ち給(たま)ふと申(まう)し伝(つた)へP158て候(さうら)ふ。彼(かれ)等(ら)も、然(さ)る者(もの)の子(こ)にて候(さうら)へば、御恩(ごおん)を忘(わす)れ奉(たてまつ)るべきにあらず。遂(つひ)には、御用(ごよう)にこそたち申(まう)し候(さうら)はんずれ」。君(きみ)聞(き)こし召(め)し、「其(そ)れも、臣下(しんか)尊(たつと)きにあらず。ちやうしが賢(けん)に依(よ)つて也(なり)」「然(さ)らば、某(それがし)をちやうしと思(おぼ)し召(め)し、彼(かれ)等(ら)を臣下(しんか)になずらへて、御(おん)助(たす)け候(さうら)はば、後(のち)の御(おん)せんどにもや、たち候(さうら)ひなん。君(きみ)君(きみ)たる時(とき)は、臣(しん)礼(れい)を以(もつ)てし、臣(しん)臣(しん)たる時(とき)は、君(きみ)哀(あは)れみを残(のこ)すとこそ、見(み)えて候(さうら)へ」。頼朝(よりとも)、「彼(かれ)等(ら)、何(なに)の礼(れい)か有(あ)りし」。重忠(しげただ)承(うけたまは)つて、「御(おん)助(たす)け候(さうら)はば、如何(いか)でか、其(そ)の礼(れい)無(な)かるべき。君(きみ)御(おん)許(ゆる)し無(な)くは、我々(われわれ)までも、果(くわ)におごるべきにあらず。さあらんに取(と)りては、あはざる訴訟(そしよう)なりとも、一度(いちど)は、などや御免(ごめん)無(な)からん」「理(り)を破(やぶ)る法(ほふ)はあれども、法(ほふ)を破(やぶ)る理(り)は無(な)し。罪科(ざいくわ)と言(い)ひ、法(ほふ)と言(い)ひ、如何(いか)でか、彼(かれ)等(ら)逃(のが)るべき」。重忠(しげただ)も、申(まう)しかかりたる事(こと)なれば、身(み)をも命(いのち)をも惜(を)しまず、高声(たかごゑ)に成(な)りて、申(まう)しけるは、「国(くに)を滅(ほろ)ぼすてんけんも、さんせは聞(き)かずとこそ、承(うけたまは)りて候(さうら)へ。釈迦如来(しやかによらい)の昔(むかし)、善恵(ぜんゑ)仙人(せんにん)と申(まう)せし時(とき)、道(みち)を作(つく)り給(たま)ふ中間(ちゆうげん)に、燃燈仏(ねんどうぶつ)を通(とほ)り給(たま)ふ。道(みち)悪(あ)しくして、わづらひ給(たま)ふ時(とき)に、仙人(せんにん)、泥(でい)の上(うへ)に伏(ふ)し給(たま)ひて、御髪(ぐし)をしき、仏(ほとけ)を通(とほ)し奉(たてまつ)る。さつたい王子(わうじ)は、うゑたる虎(とら)に、身(み)を与(あた)へ、尸毘(しび)大王(だいわう)は、鳩(はと)の量(はか)りに、身(み)をかくる。是(これ)等(ら)皆(みな)、末代(まつだい)の衆生(しゆうじやう)を思(おぼ)し召(め)す、御慈悲(じひ)の故(ゆゑ)ぞかし。就中(なかんづく)、諸国(しよこく)を治(をさ)め給(たま)ふ事(こと)、理非(りひ)を正(ただ)し、情(なさけ)を旨(むね)とし、哀(あは)れみP159を本(ほん)とし給(たま)ふべきに、是(これ)程(ほど)面々(めんめん)の申(まう)す、彼(かれ)等(ら)を御(おん)助(たす)け無(な)くては、人頼(たの)み少(すく)なく思(おも)ひ奉(たてまつ)るべし。重忠(しげただ)が一期(いちご)の大事(だいじ)と思(おぼ)し召(め)し、助(たす)け置(お)かれ候(さうら)へかし」と、誠(まこと)思(おも)ひ切(き)りたる気色(けしき)で、仏法(ぶつぽふ)世法(せほう)、唐土(たうど)天竺(てんぢく)の事(こと)まで、引(ひ)き掛(か)け引(ひ)き掛(か)け、申(まう)されければ、君御思案(しあん)有(あ)りて、「誠(まこと)此(こ)の人は、内(うち)には五戒(ごかい)を守(まも)り、外(ほか)には仁義(じんぎ)を本(ほん)とす、賢人(けんじん)ぞかし。此(こ)の重忠(しげただ)を失(うしな)ひなば、神の恵(めぐ)みに背(そむ)き、天下(てんが)も穏(おだ)やかなるまじ」と思(おぼ)し召(め)しければ、「然(さ)らば、此(こ)の者(もの)共(ども)助(たす)け候(さうら)へ。但(ただ)し、御分(ごぶん)一人には預(あづ)けぬぞ。今日(けふ)の訴訟人(そしようにん)共(ども)に、ことごとく許(ゆる)す」と仰(おほ)せ下(くだ)されけり。御前(ごぜん)祗候(しこう)の侍(さぶらひ)共(ども)、思(おも)はずに、あつとぞ感(かん)じける。実(げ)にや、重忠(しげただ)、身(み)にかへて申(まう)さるる一人には、御(おん)許(ゆる)しも無(な)くて、「今日(けふ)の訴訟人(そしようにん)共(ども)に」と、仰(おほ)せ下(くだ)さるる有(あ)り難(がた)さよ。然(さ)れば、天下(てんが)の主(ぬし)ともなり給(たま)ふと、重忠(しげただ)、感(かん)じ申(まう)されけるとかや。
@〔曾我(そが)へつれて帰(かへ)り、喜(よろこ)びし事(こと)〕S0310N057
其(そ)の後、畠山(はたけやま)の重忠(しげただ)、成清(なりきよ)を呼(よ)び、「幼(をさな)き人々(ひとびと)の事(こと)、やうやうに申(まう)し預(あづ)かり候(さうら)ひぬ。はやはや御(おん)帰(かへ)り候(さうら)へ。曾我(そが)に、心(こころ)許(もと)無(な)く思(おも)ひ給(たま)ふべし。見参(げんざん)に入(い)れたく候(さうら)へ共(ども)、御前(ごぜん)に候(さうら)ふ間(あひだ)」と言(い)ひ送(おく)りければ、曾我(そが)の太郎、是非(ぜひ)をわきまへ兼(か)ねて、只(ただ)、P160「畏(かしこ)まり存(ぞん)ずる」とばかりぞ申(まう)しける。さて、二人の子(こ)供(ども)の馬(うま)を先(さき)にたて、曾我(そが)へ帰(かへ)りける心(こころ)の内(うち)、例(たと)へんかた無(な)し。母(はは)が宿所には、是(これ)をば知(し)らで、只(ただ)泣(な)くばかりなる所(ところ)へ、人々(ひとびと)、「帰(かへ)り給(たま)ふ」と告(つ)げければ、母(はは)を始(はじ)めて、喜(よろこ)ぶ事(こと)限(かぎ)り無(な)し。一万(いちまん)が乳母(めのと)、月さへと言(い)ふ女房(にようばう)、庭上(ていしやう)に走(はし)り向(む)かひ、馬の口(くち)を取(と)り、「君(きみ)達(たち)の御(おん)帰(かへ)り」と言(い)はんとて、余(あま)りにあわてて、「馬(むま)達(たち)の帰(かへ)り給(たま)ふぞや」と呼(よ)ばはりけり。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)、「馬(むま)より下(お)り、母(はは)が方(かた)に行(ゆ)きければ、一門(いちもん)馳(は)せ集(あつ)まり、喜(よろこ)びの見参(げんざん)、隙(ひま)も無(な)し。然(さ)れば、頼朝(よりとも)御(おん)憤(いきどほ)り深(ふか)く、御(おん)哀(あは)れみのあまねき事(こと)は、「めいてんの君(きみ)は、時(とき)に蔽壅(へいよう)の累(るい)をなし、しゆんゑんの臣(しん)は、しばしばしんしの悲(かな)しみをいだく」とは、文選(もんぜん)の言葉(ことば)なるをや、今更(いまさら)思(おも)ひ知(し)られたり。
P161曾我物語巻第四
@〔十郎(じふらう)元服(げんぶく)の事(こと)〕S0401N058
光陰(くわういん)惜(を)しむべし、時(とき)人を待(ま)たざる理(ことわり)、隙(ひま)行(ゆ)く駒(こま)、つながぬ月日(つきひ)重(かさ)なりて、一万(いちまん)は十三歳(さい)になりにける。身(み)の不祥(ふせう)なるに、又(また)、公方(くばう)を憚(はばか)る事(こと)なれば、秘(ひそ)かに元服(げんぶく)して、継父(ままちち)の名(な)を取(と)り、曾我(そが)の十郎(じふらう)祐成(すけなり)と名乗(なの)りける。
@〔箱王(はこわう)、箱根(はこね)へ上(のぼ)る事(こと)〕S0402N059
母(はは)、弟(おとと)の箱王(はこわう)を呼(よ)び寄(よ)せて宣(のたま)ひけるは、「わ殿(との)は、箱根(はこね)の別当(べつたう)のもとへ行(ゆ)き、法師(ほふし)に成(な)り、学問(がくもん)して、親(おや)の後世(ごせ)弔(とぶら)へ。努々(ゆめゆめ)、男(をとこ)羨(うらや)ましく思(おも)ふべからず。世(よ)を逃(のが)るる身(み)なれば、綾羅(りようら)錦繍(きんしう)の袖(そで)も、衣(ころも)に同(おな)じ。十善(じふぜん)帝王(ていわう)も、身(み)を捨(す)て、人に対(たい)するに、所(ところ)無(な)し。憂(う)きもつらきも、世(よ)の中(なか)は、夢(ゆめ)ぞと思(おも)ひ定(さだ)むべし。伝(つた)へ聞(き)くP162大目連(もくれん)せしは、母(はは)の教(をし)へ給(たま)ひし御(おん)言葉(ことば)を、耳(みみ)の底(そこ)に保(たも)ち給(たま)ひてこそ、五百大阿羅漢(あらかん)には越(こ)え給(たま)ひし。構(かま)へて法師(ほふし)と成(な)りて、父(ちち)の跡(あと)をも、童(わらは)が後生(ごしやう)をも助(たす)け給(たま)へ」と申(まう)されければ、箱王(はこわう)、身(み)に思(おも)ふ事(こと)有(あ)ると思(おも)ひけれども、「承(うけたまは)り候(さうら)ふ」とぞ言(い)ひける。母(はは)喜(よろこ)びて、生年(しやうねん)十一歳(さい)より、箱根(はこね)に上(のぼ)せ、年月(としつき)を送(おく)りける程(ほど)に、箱王(はこわう)、十三にぞ成(な)りにける。十二月下旬(じゆん)の頃(ころ)、彼(か)の坊(ばう)の稚児(ちご)・同宿(だうじゆく)、二十余人(よにん)有(あ)りける者(もの)共(ども)の末(すゑ)まで、親(おや)・親(した)しき方(かた)より、面々(めんめん)に音信(いんしん)共(ども)有(あ)りけるに、「下(くだ)れ」と書(か)きたる文(ふみ)も有(あ)り、或(ある)いは元三(ぐわんざん)の装束(しやうぞく)に、師(し)の御坊(ばう)への贈(おく)り物(もの)添(そ)へたる文(ふみ)も有(あ)り、或(ある)いは父(ちち)の文(ふみ)、母(はは)の文(ふみ)、伯父(をぢ)・伯母(をば)の文(ふみ)などとて、二(ふた)つ三(み)つよむ稚児(ちご)も有(あ)り、五つ六つよむ稚児(ちご)も有(あ)りける中(なか)に、箱王(はこわう)は、只(ただ)母(はは)の文(ふみ)ばかりに、からがら装束(しやうぞく)添(そ)へて送(おく)りける。万(よろづ)羨(うらや)ましくて、文(ふみ)袂(たもと)に入(い)れ、傍(かたはら)に行(ゆ)き、泣(な)きしをれて、或(あ)る稚児(ちご)にあひて言(い)ひけるは、「人は皆(みな)、父母(ちちはは)の文(ふみ)、親(した)しき方(かた)の御文(ふみ)とて、読(よ)み給(たま)ふに、我(われ)は只(ただ)、母(はは)の御文(ふみ)ばかりにて、父(ちち)とやらんの御文(ふみ)は知(し)らず。何(なに)とかかれたる物(もの)ぞや。見(み)せ給(たま)へ。十郎(じふらう)殿(どの)と二宮(にのみや)殿(どの)は、何(なに)とやらん、此(こ)の程(ほど)は、かき絶(た)え問(と)ひ給(たま)はず。曾我殿(そがどの)は坐(ま)しませども、一度(いちど)のことづてにも預(あづ)からず、一月に一度(いちど)也(なり)とも、父(ちち)の御文(ふみ)とて、「学問(がくもん)よくせよ、不用(ふよう)するな」なんどと言(い)はれ奉(たてまつ)らば、如何(いか)ばかりか、嬉(うれ)しく恐(おそ)ろしくも有(あ)りなまし。いつよりも恨(うら)めしきは、年(とし)の暮(く)れ、P163恋(こひ)しく見(み)たき物(もの)は、父(ちち)の御文(ふみ)なり」とて、さめざめとぞ泣(な)きける、心(こころ)無(な)き稚児(ちご)も、理(ことわり)とや思(おも)ひけん、共(とも)に涙(なみだ)を流(なが)しけり。然(さ)れば、箱王(はこわう)は、あらたま年(とし)の祝言(しゆうげん)をも忘(わす)れ、あたらしき春(はる)の朝拝(てうはい)をも、物(もの)ならず思(おも)ひ焦(こ)がれて、昼夜(ちうや)は、権現(ごんげん)に参(まゐ)り、「南無(なむ)帰命(きみやう)頂礼(ちやうらい)、願(ねが)はくは、父(ちち)の敵(かたき)を打(う)たしめ給(たま)へ」と、歩(あゆ)みを運(はこ)びけるぞ、無慙(むざん)なる。
@〔鎌倉(かまくら)殿(どの)、箱根(はこね)御参詣(さんけい)の事(こと)〕S0403N060
御感応(かんおう)にや、同(おな)じき正月十五日に、鎌倉(かまくら)殿(どの)、二所(ふたところ)御参詣(さんけい)とぞ聞(き)こえける。箱王(はこわう)、是(これ)を聞(き)き、年来(ねんらい)の祈(いの)りの功(こう)積(つ)もり、神慮(しんりよ)の御(おん)哀(あは)れみにしかじとぞ、喜(よろこ)びける。実(げ)にや、「九層(きうそう)の台(うてな)は、累土(るいど)より起(お)こり、千里(せんり)の行(かう)は、一歩(ぽ)より始(はじ)まる」と言(い)ふ老子(らうし)の教(をし)へも、功(こう)は積(つ)もりて、遂(つひ)に事(こと)をなす物(もの)をと、頼(たの)もしくぞ思(おも)ひける。工藤(くどう)祐経(すけつね)は、切(き)り者(もの)にて有(あ)るなれば、定(さだ)めて御供(おんとも)には参(まゐ)り候(さうら)はんを、見(み)知(し)らん事(こと)よと喜(よろこ)び、其(そ)の日を待(ま)ちし心(こころ)の内(うち)、只(ただ)千年(せんねん)を送(おく)るばかりなり。伝(つた)へ聞(き)く、北洲(ほくしゆう)の命(めい)も、千年(ちとせ)の限(かぎ)りを保(たも)つなり。其(そ)れも限(かぎ)りあればにや、つながぬ日数(ひかず)重(かさ)なりて、其(そ)の折節(をりふし)にもなりにけり。御供(おんとも)の人々(ひとびと)には、和田(わだ)、畠山(はたけやま)、川越(かはごえ)、高坂(たかさか)、江戸(えど)、P164豊島(としま)玉井(たまのい)、小山(をやま)、宇都宮(うつのみや)、山名(やまな)、里見(さとみ)の人々(ひとびと)を始(はじ)めとして、以下三百五十余騎(よき)、花(はな)ををり、紅葉(もみぢ)を重(かさ)ね、装束(しやうぞく)共(ども)、綺羅(きら)天(てん)をかかやかし、陣頭(ぢんとう)に雲(くも)をおほひ、水干(すいかん)、浄衣(じやうゑ)、白直垂(しろひたたれ)、布衣(ほうい)、権勢(けんせい)あたりを払(はら)ひ、行粧(かうさう)目(め)を驚(おどろ)かす。凡(およ)そ、中間(ちゆうげん)・雑色(ざつしき)に至(いた)るまで、気色(けしき)に色(いろ)をつくす。後陣(ごぢん)の警固(けいご)の武士(ぶし)、甲冑(かつちう)をよろひ、弓箭(ゆみや)を帯(たい)する隨兵(ずいびやう)、上下につがひ、左右(さう)の帯刀(たちはき)、二行(ぎやう)に並(なら)び、御調度懸(おんでうづがけ)の人、左手(ゆんで)、右手(めて)に相(あひ)並(なら)ぶ。御(おん)向(む)かへの伶人(れいじん)は、伎楽(ぎがく)を調(ととの)へ、羅綾(らりよう)の袂(たもと)を翻(ひるがへ)す。御前(おんまへ)の舞人(まひびと)は、■婁(けいろう)を打(う)つて、舞行(ぶかう)の踵(くびす)をそばだつ。君(きみ)の召(め)さるる御船(ふね)は、大船(せん)数多(あまた)組(く)み合(あ)はせ、幔幕(まんまく)を引(ひ)き、沈(ぢん)のにほひ、四方(よも)にみつ。是(これ)や、諸仏(しよぶつ)の弘誓(ぐぜい)の船(ふね)も、かくやと思(おも)ひ知(し)られたり。侍(さぶらひ)共(ども)の乗(の)りける船数(ふなかず)、百艘(さう)に及(およ)べり。いづれも、屋形(やかた)を打(う)ちたりける。無双(ぶさう)の武具(ぶぐ)を立(た)て並(なら)べ、鎮(しづ)まり返(かへ)り、漕(こ)ぎつれたり。上代(じやうだい)は知(し)らず、末代(まつだい)斯(か)かる見物(けんぶつ)あらじと、貴賎(きせん)群集(くんじゆ)をぞなしける。大衆(だいしゆ)、稚児(ちご)達(たち)を引(ひ)きつれ、船(ふな)付(つ)きまで、御(おん)向(む)かひに参(まゐ)る。船(ふね)より社頭(しやとう)までは、四方輿(はうごし)にぞ召(め)されける。神前(しんぜん)には、禰宜(ねぎ)・神主(かんぬし)、幣帛(へいはく)を大床(ゆか)に捧(ささ)げ、別当(べつたう)・社僧(しやそう)は、経(きやう)の紐(ひぼ)を玉(たま)の甍(いらか)にとき、神楽男(かぐらをのこ)は、銅拍子(とびやうし)を合(あ)はせて、拝殿(はいでん)に祗候(しこう)す。しかのみならず、臨時(りんじ)の陪従(ばいじやう)、当座(たうざ)の神楽(かぐら)、朝倉(あさくら)がへしのうたひものは、拍子(ひやうし)の甲乙(かうおつ)をしらべて、れいはんしよさいの儀(ぎ)を返(かへ)りまうす。神感(しんかん)の起(お)こるを厳重(げんぢゆう)にして、掲焉(けちえん)も莫大(ばくだい)なり。耳目(じぼく)の及(およ)ぶ所(ところ)、こくちんP165にいとまあらず。高察(かうさつ)仰(あふ)ぐのみにぞ覚(おぼ)えける。
@〔箱王(はこわう)、祐経(すけつね)にあひし事(こと)〕S0404N061
箱王(はこわう)は、御奉幣(ほうへい)の時(とき)までも、人一人もつれず、介錯(かいしやく)の僧(そう)一人相(あひ)具(ぐ)し、御座所(ざどころ)の後(うし)ろに隠(かく)れ居(ゐ)て、御供(おんとも)の人々(ひとびと)を、「彼(かれ)は誰(た)そ、是(これ)は如何(いか)に」と、詳(くは)しく問(と)ひければ、此(こ)の僧(そう)、鎌倉(かまくら)の案内者(あんないしや)にて、大名(だいみやう)・小名(せうみやう)のこさい知(し)りたれば、教(をし)へけり。され共(ども)、未(いま)だ祐経(すけつね)をばあかさず。哀(あは)れ、問(と)はばやと思(おも)へども、あやしく思(おも)はれじとて、残(のこ)りの人を問(と)ひまはす。「君(きみ)の左(ひだり)の一座(ざ)は誰(た)そ」「彼(かれ)こそ、秩父(ちちぶ)の重忠(しげただ)よ」「右(みぎ)の一座(ざ)は如何(いか)に」「是(これ)ぞ、三浦(みうら)の義盛(よしもり)よ」「さて、其(そ)の次(つぎ)は誰人(たれびと)ぞ」「里見(さとみ)の源太(げんだ)と言(い)ふ人よ」「さて、其(そ)の次(つぎ)は」「豊島(としま)の冠者(くわんじや)と言(い)ふ人なれ」「只今(ただいま)、もの仰(おほ)せらるるは、誰(たれ)やらん」「是(これ)こそ、当時(たうじ)聞(き)こゆる梶原(かじはら)平三(へいざう)景時(かげとき)とて、侍(さぶらひ)共(ども)の、鬼(おに)うらめに思(おも)ふ者(もの)よ」「又(また)、右手(めて)の方(かた)に、少(すこ)し引(ひ)きのきて、半装束(はんしやうぞく)の数珠(じゆず)持(も)ちて、香(かう)の直垂(ひたたれ)きたるは、如何(いか)なる人にて有(あ)るやらん」「彼(かれ)こそ、御分(ごぶん)達(たち)の一門(いちもん)、今(いま)伊東(いとう)の主(ぬし)、工藤(くどう)左衛門(さゑもん)祐経(すけつね)よ。御分(ごぶん)の父(ちち)河津殿(かわづどの)とは、従兄弟(いとこ)也(なり)。御前(おんまへ)然(さ)らぬ切(き)り者(もの)」とぞ教(をし)へける。さては、其(そ)れにて有(あ)りけるよ。此(こ)の事(こと)思(おも)ひ寄(よ)りて、言(い)ふやらん、知(し)りぬれP166ども、何事(なにごと)かあらんと、思(おも)ひこなして、言(い)ふやらんと、いつしか胸(むね)打(う)ち騒(さわ)ぎ、思(おも)ひ寄(よ)らざる様(やう)にて、「此(こ)の者(もの)は、よき男(おのこ)にて有(あ)りけるや。三十二三にぞ成(な)るらん。自(みづか)らが父(ちち)にや似(に)たる」と問(と)ふ。「少(すこ)しもに給(たま)はず。まさしき兄弟(きやうだい)さへ、似(に)たるは少(すく)なし。まして、従兄弟(いとこ)に似(に)たる者(もの)は無(な)し。年(とし)こそ、河津(かはづ)殿(どの)の打(う)たれ給(たま)ひし程(ほど)なれ、其(そ)の坐(ま)しまさば、四十余(あま)りの人なるべし。是(これ)より遙(はる)かに丈(たけ)高(たか)く、骨(ほね)太(ふと)くして、前(まへ)より見(み)れば、胸(むね)そり、後(うし)ろより見(み)れば、うつぶき、側(そば)より見(み)れば、四角(かく)なる大男(をとこ)にて坐(ま)しませしが、馬(むま)の上(うへ)、かちだち、並(なら)ぶ人無(な)し。殊(こと)に鹿(しし)の上手(じやうず)にて、力(ちから)の強(つよ)き事(こと)、四五か国には、並(なら)ぶ人無(な)き大力(だいぢから)なり。然(さ)れば、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)大庭(おほば)の三郎(さぶらう)が弟(おとと)、又野(またの)の五郎(ごらう)景久(かげひさ)とて、相撲(すまふ)に負(ま)けざる大力(だいぢから)を、伊豆(いづ)の奥野(おくの)の狩場(かりば)にて、片手(かたて)をはなちて、相撲(すまふ)に三番(ばん)勝(か)ちてこそ、いとど名(な)を上(あ)げ給(たま)ひしか。其(そ)れを最後(さいご)にて、帰(かへ)り様(さま)に、敢(あ)へ無(な)く打(う)たれ給(たま)ひき。大力(だいぢから)と申(まう)せ共(ども)、死(し)の道(みち)には、力(ちから)及(およ)ばず」とぞ語(かた)りける。箱王(はこわう)は、父(ちち)が昔(むかし)をつくづくと聞(き)きて、今更(いまさら)なる心地(ここち)して、忍(しの)びの涙(なみだ)にむせびけり。やや有(あ)りて、我(われ)、此(こ)の間(あひだ)祈(いの)りし願(ねが)ひの、適(かな)ふにこそ有(あ)るべし。窺(うかが)ひ寄(よ)りて、便宜(びんぎ)よくは、一刀(かたな)差(さ)し、如何(いか)にもならんと思(おも)ひ定(さだ)めて、「御坊(ばう)は、是(これ)に坐(ま)しませ。法師(ほふし)こそよらね、童(わらんべ)は近(ちか)くよりても、苦(くる)しからず。山寺(やまでら)にすめばとて、人を見(み)知(し)らぬはむげ也(なり)。近(ちか)くよりて、見(み)知(し)らん」とて、赤地(あかぢ)のP167錦(にしき)にて、柄鞘(つかさや)まきたる守(まも)り刀(がたな)を、脇(わき)に差(さ)し隠(かく)し、大衆(だいしゆ)の中(なか)をぬけ出(い)でて、祐経(すけつね)が後(うし)ろ近(ちか)くぞ、狙(ねら)ひ寄(よ)りける。祐経(すけつね)も、しばしの冥加(みやうが)や有(あ)りけん、梶原(かぢはら)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)を隔(へだ)てて、箱王(はこわう)を見(み)付(つ)けて、是(これ)なる童(わらんべ)の眼(まなこ)ざし、河津(かはづ)の三郎(さぶらう)に似(に)たる者(もの)かな、誠(まこと)や、此(こ)の御山(やま)に、伊東(いとう)が孫(まご)の有(あ)りと聞(き)けば、もし是(これ)にてもや有(あ)るらんと、目(め)をはなさず、守(まも)りければ、左右(さう)無(な)くよらざりけり。祐経(すけつね)、猶(なほ)よくよく見(み)れば、眼(まなこ)の見(み)返(かへ)し、顔魂(かほたましひ)、少(すこ)しも違(たが)ふ所無(な)し。祐経(すけつね)は、念誦(ねんじゆ)はてて後(のち)、大衆(だいしゆ)の中(なか)へ立(た)ち入(い)りて、「伊東(いとう)の入道(にふだう)が孫(まご)、此(こ)の御山に候(さうら)ふと聞(き)く。何処(いづく)の坊(ばう)に候(さうら)ふぞや。名(な)をば何(なに)と申(まう)すぞ」と問(と)ひければ、或(あ)る僧(そう)申(まう)す様(やう)、「御名(な)をば、箱王殿(はこわうどの)と申(まう)して、別当(べつたう)の坊(ばう)に坐(ま)しまし候(さうら)ふ」「此(こ)の頃(ごろ)は、里(さと)に候(さうら)ふか、是(これ)に候(さうら)ふか」と問(と)ひければ、「是(これ)にこそ」とて、東西(とうざい)を見(み)めぐらし、「長絹(ちやうけん)の直垂(ひたたれ)に、松(まつ)に藤(ふぢ)をぬひて、萌黄(もえぎ)の糸(いと)にて、菊綴(きくとぢ)して、此方(こなた)向(む)きにたち給(たま)ふこそ」と教(をし)へければ、然(さ)ればこそと思(おも)ひ、本座(ほんざ)に帰(かへ)り、箱王(はこわう)を招(まね)きければ、願(ねが)ふ所(ところ)と喜(よろこ)びて、祐経(すけつね)が膝(ひざ)近(ちか)く添(そ)ひ寄(よ)りける。左(ひだり)の手(て)にて、箱王(はこわう)が肩(かた)を抑(おさ)へ、右(みぎ)の手(て)にては、髪(かみ)をかきなでて、「あつぱれ、父(ちち)にに給(たま)ふ物(もの)かな。今(いま)まで見(み)奉(たてまつ)らざる事(こと)の本意(ほい)無(な)さよ。わ殿は河津殿(かわづどの)の子息(しそく)と聞(き)くは、誠(まこと)か。兄(あに)は男(をとこ)になり給(たま)ふか。曾我(そが)の太郎は、いとほしくあたり奉(たてまつ)るか。知(し)らざる者(もの)の、なれなれしく、斯様(かやう)に申(まう)すとばし思(おも)ひ給(たま)ふな。御分(ごぶん)の父(ちち)河津殿(かわづどの)とは、従兄弟子(いとこ)なり。P168殿(との)原(ばら)にも、親(した)しき者(もの)とては、祐経(すけつね)ばかり也(なり)。見(み)奉(たてまつ)れば、昔(むかし)の思(おも)ひ出(い)でられて、今更(いまさら)哀(あは)れに存(ぞん)ずるぞ。急(いそ)ぎ法師(ほふし)に成(な)り、別当(べつたう)に継(つ)ぎ給(たま)へ。弟子(でし)多(おほ)しと言(い)ふとも、祐経(すけつね)程(ほど)の方人(かたうど)持(も)ちたる人あらじ。便宜(びんぎ)を以(もつ)て、上様(さま)へも、よき様(やう)に申(まう)し、寺門(じもん)の訴訟(そしよう)あらば、申(まう)し達(たつ)すべし。今(いま)より後(のち)は、如何(いか)なる大事(だいじ)なり共(とも)、心(こころ)を置(お)かず、仰(おほ)せられよ。適(かな)へ奉(たてまつ)るべし。わ殿(との)の兄(あに)にも、斯様(かやう)に申(まう)すと伝(つた)へ給(たま)へ。父(ちち)にも添(そ)はで、如何(いか)に頼(たよ)り無(な)く坐(ま)しますらん。行縢(むかばき)、乗馬(のりむま)などの用(よう)の時(とき)は、承(うけたまは)るべし。身貧(ひん)にして、他人(たにん)に交(まじ)はらんより、親(した)しければ、つねに問(と)ひ給(たま)へ。誠(まこと)や、古(ふる)き言葉(ことば)に、「尊(たつと)きは賎(いや)しきがそねみ、智者(ちしや)をば愚人(ぐにん)がにくむ。さいちよは千歳(せんざい)に絶(た)えず、むくわひは千劫(せんがう)絶(た)えず」と申(まう)し伝(つた)へたり。さても、見参(げんざん)の始(はじ)めに、折節(をりふし)、引出物(ひきでもの)こそ無(な)けれ、又(また)空(むな)しからんも、無念(むねん)なり。是(これ)を」とて、懐(ふところ)より赤木(あかぎ)の柄(つか)に胴金(どうがね)入(い)れたる刀(かたな)一腰(こし)取(と)り出(い)だし、箱王(はこわう)にこそとらせけれ。何(なに)と無(な)く受(う)け取(と)れ共(ども)、箱王(はこわう)は、涙(なみだ)にむせびけり。便宜(びんぎ)よくは、一刀(かたな)差(さ)さんと思(おも)へども、目(め)をはなさず、其(そ)の上(うへ)、大(だい)の男(をとこ)、つねに刀(かたな)に手(て)を置(お)きければ、なましひなる事(こと)をし出(い)だし、小腕(こがひな)取(と)られて、人に笑(わら)はれじと、思(おも)ひ止(とど)まりぬ。只(ただ)言(い)ふ事(こと)とては、「さん候(ざうらふ)」とばかり也(なり)。「卒爾(そつじ)の見参(げんざん)こそ、所存(しよぞん)の外(ほか)なれ。さりながら、喜(よろこ)び入(い)りて存(ぞん)じ候(さうら)ふ。里(さと)下(くだ)りのついでには、わ殿(との)の兄(あに)十郎(じふらう)殿(どの)と打(う)ちつれて、来(き)たり候(さうら)へ、P169返(かへ)す返(がへ)す」と言(い)ひて、立(た)ちにけり。箱王(はこわう)、力(ちから)に及(およ)ばず、止(とど)まりぬ。日暮(く)れければ、もしやと便宜(びんぎ)を窺(うかが)ひけれども、宵(よひ)の程(ほど)は、御前(おんまへ)に祗候(しこう)しをれば、夜ふけて、罷(まか)り出(い)づる所(ところ)を伺(うかが)ひけれども、庭上(ていしやう)に、兵(つはもの)いらかをなす。火(ひ)は天(てん)の眼(め)の様(やう)なれば、返(かへ)りて、我(わ)が身(み)を隠(かく)さんと立(た)ち忍(しの)ぶ声(こゑ)、人までの事(こと)は、思(おも)ひもよらず。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)が宿坊(しゆくばう)と御前(ごぜん)との間(あひだ)なる石橋(いしばし)の辺(ほとり)に、徘徊(はいくわい)し待(ま)ちけれども、鰭板(はたいた)の陰(かげ)に、郎等(らうどう)共(ども)立(た)ちかこみ、前後左右(ぜんごさう)に有(あ)りければ、其(そ)れも適(かな)はで、暁(あかつき)に及(およ)ぶまで、心(こころ)をつくし狙(ねら)へども、少(すこ)しの隙(ひま)無(な)ければ、徒(いたづ)らに夜(よ)をあかす、心(こころ)の内(うち)ぞ、無慙(むざん)なる。次(つぎ)の日は、君(きみ)の御下向(げかう)の船(ふね)に召(め)され、滄海(さうかい)を渡(わた)り給(たま)ふ。箱王(はこわう)は、船出(ふなで)まで、人目(ひとめ)がくれに交(まじ)はりて、敵(かたき)の後(うし)ろを見(み)送(おく)れば、侍(さぶらひ)共(ども)、思(おも)ひ思(おも)ひの屋形船(やかたぶね)にて、御共(とも)申(まう)す。箱王(はこわう)は、左衛門(さゑもん)が船(ふね)の内(うち)のみ見(み)送(おく)りて、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。彼(か)の松浦佐用姫(まつらさよひめ)が、雲井(くもゐ)の船(ふね)を見(み)送(おく)りて、石(いし)となりけん昔(むかし)、思(おも)ひ遣(や)られて、空(むな)しく坊(ばう)に帰(かへ)りけり。其(そ)の後(のち)、いよいよ此(こ)の事(こと)のみ心(こころ)にかかりて、一字(じ)も忘(わす)れじと思(おも)ふ経文(きやうもん)をも打(う)ち捨(す)てて、昼夜(ちうや)権現(ごんげん)に参(まゐ)り、「今度(こんど)こそ、空(むな)しく候(さうら)ふとも、遂(つひ)には、我(わ)が手(て)に掛(か)け給(たま)へ」と、祈(いの)り申(まう)すぞ、哀(あは)れなる。P170
@〔眉間尺(みけんじやく)が事(こと)〕S0405N062
此(こ)の心(こころ)にて、古(ふる)きを思(おも)へば、昔(むかし)、大国(たいこく)に、楚(そ)しやう大王(だいわう)有(あ)り。后(きさき)数多(あまた)持(も)ち給(たま)ふ中(なか)に、とうやう夫人(ぶにん)と申(まう)す后(きさき)、御身(おんみ)つねづね劣(おと)りければ、鉄(くろがね)の柱(はしら)にむつれつつ、御身(おんみ)をひやしけるが、程(ほど)無(な)く、懐妊(くわいにん)し給(たま)ひける。大王(だいわう)聞(き)き給(たま)へて、位(くらひ)をゆずるべき王子(わうじ)も無(な)かりつるに、誕生(たんじやう)成(な)り給(たま)はん事(こと)よと、喜(よろこ)び給(たま)ひけれども、三年(さんねん)まで、生(う)まれ給(たま)はず。大王(だいわう)、不思議(ふしぎ)に思(おぼ)し召(め)し、博士(はかせ)を召(め)し、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、「誠(まこと)に、君(きみ)の御宝(たから)をうみ給(たま)ふべし。さりながら、人にては有(あ)るべからず」と申(まう)す。「何物(なにもの)なるべき」と、覚束無(おぼつかな)くて待(ま)ち給(たま)ふ所(ところ)に、博士(はかせ)の申(まう)す如(ごと)く、人にてはあらで、鉄(くろがね)のまるかせをうみ給(たま)ひけり。大王(だいわう)是(これ)を取(と)り、莫邪(ばくや)を召(め)し、剣(つるぎ)に作(つく)らせ給(たま)ひければ、光(ひかり)世(よ)に越(こ)え、験(しるし)あらたなる名剣(めいけん)にて有(あ)りける。大王(だいわう)賞玩(しやうくはん)し、昼夜(ちうや)身(み)をはなし給(たま)ふ事(こと)無(な)し。然(しか)るに、此(こ)の剣(つるぎ)、つねに汗(あせ)をぞかきける。不思議(ふしぎ)なりとて、又(また)博士(はかせ)を召(め)し、うらなはせ給(たま)ふ。勘文(かもん)にて、申(まう)し上(あ)げけるは、「過(す)ぎにし金(かね)は、雌剣(しけん)・雄剣(おうけん)とて、剣(つるぎ)二(ふた)つ作(つく)り、是(これ)夫婦(ふうふ)なり。雄剣(おうけん)ばかり参(まゐ)らせて、雌剣(しけん)を隠(かく)す故(ゆゑ)に、妻(つま)をこひて、汗(あせ)をかき候(さうら)ふ。是(これ)を召(め)し、添(そ)へて置(お)かるべし」と奏聞(そうもん)申(まう)しければ、即(すなは)ち、其(そ)の鍛冶(かぢ)を召(め)されける。鍛冶(かぢ)、家(いへ)を出(い)づるとて、妻女(さいぢよ)にあひて申(まう)しけるP171は、「我(われ)隠(かく)し置(お)きたる剣(つるぎ)、尋(たづ)ね給(たま)ふべきにぞ、召(め)さるらん。取(と)り出(い)だすまじければ、定(さだ)めて攻(せ)め殺(ころ)されなんず。彼(か)の剣(つるぎ)は、南山(なんざん)の其処許(そこもと)にうづみ置(お)きたる。我(わ)が三歳(ざい)の男(なん)、成人(せいじん)の後(のち)、ほり出(い)だしてとらせよ」と言(い)ひ置(お)きて、王宮(わうくう)へ参(まゐ)りぬ。陳(ちん)じ申(まう)しければ、拷問(がうもん)の後(のち)、遂(つひ)に攻(せ)め殺(ころ)されにけり。さて、鍛冶(かぢ)が子、二十一歳(さい)にして、母(はは)の教(をし)へに従(したが)ひ、彼(か)の剣(つるぎ)ほり出(い)だして持(も)ちけり。然(さ)れども、王威(わうい)を恐(おそ)れて、里(さと)へは出(い)でず、山(やま)に隠(かく)れ居(ゐ)たりける。或(あ)る時(とき)、君王(くんわう)の夢(ゆめ)に、眉(まゆ)の間(あひ)一尺(しやく)有(あ)る者(もの)来(き)たり、我(われ)を殺(ころ)すべし、其(そ)の名(な)を眉間尺(みけんじやく)と言(い)ふと見(み)えたり。王、此(こ)の夢(ゆめ)に恐(おそ)れて、「斯様(かやう)の者(もの)あらば、搦(から)めても参(まゐ)らせよ」と、国々に宣旨(せんじ)を下(くだ)さる。「勲功(くんこう)は、こふによるべし」とぞ聞(き)こえし。此処(ここ)に、伯仲(はくちゆう)と言(い)ふ者(もの)、眉間尺(みけんじやく)がもとに行(ゆ)き、「汝(なんぢ)が首(くび)、多(おほ)くの功(こう)に仰(おほ)せられたり。然(しか)るに、汝(なんぢ)が為(ため)に、君王(くんわう)は、まさしき親(おや)の敵(かたき)ぞかし。さぞ、打(う)ちたくぞ思(おも)ふらん。我(わ)が為(ため)にも、又(また)重(おも)き敵(かたき)なり。己(おのれ)が首(くび)を切(き)りて、我(われ)にかせ。件(くだん)の剣(つるぎ)、共(とも)に持(も)ちて行(ゆ)き、大王(だいわう)に近付(ちかづ)き、打(う)たん事(こと)安(やす)かるべし。然(さ)れば、御分(ごぶん)が首(くび)をかりて、本意(ほんい)をとぐるにおきては、我(われ)とても、遅速(ちそく)の命(いのち)、王(わう)の為(ため)に失(うしな)ひなん」と言(い)ひければ、眉間尺(みけんじやく)聞(き)きて、「父(ちち)の敵(かたき)、打(う)たんにおきては、我(わ)が命(いのち)、何(なに)か惜(を)しかるべき。構(かま)へて」と言(い)ひて、自(みづか)ら首(くび)をかき落(お)として、出(い)だしけり。然(さ)れども、件(くだん)の剣(つるぎ)の先(さき)をくひ切(き)りて、口(くち)にふくみP172て、持(も)ちたりけり。伯仲(はくちゆう)は、剣(つるぎ)に取(と)り添(そ)へ、王宮(わうくう)に捧(ささ)ぐ。大臣(だいじん)に見(み)せられければ、夢(ゆめ)に違(たが)はず、眉(まゆ)の間(あひだ)一尺(しやく)有(あ)る首(くび)。又(また)、剣(つるぎ)も、我(わ)が持(も)ちたる剣(つるぎ)に、露(つゆ)も違(たが)はず」とて、君王(くんわう)喜(よろこ)び給(たま)ふ事(こと)限(かぎ)り無(な)し。然(さ)れども、此(こ)の首(くび)の勢(いきほひ)、未(いま)だつきず、眼(まなこ)を見(み)開(ひら)きたり。大王(だいわう)、いよいよ恐(おそ)れ給(たま)ひて、「然(さ)らば、釜(かま)に湯(ゆ)を沸(わ)かしてによ」とて、大(おほ)きなる釜(かま)に此(こ)の首(くび)を入(い)れて、三七日ぞ、にたりける。然(しか)れ共(ども)、猶(なほ)眼(め)をふさがず、あざ笑(わら)ひて有(あ)りければ、其(そ)の時(とき)、伯仲(はくちゆう)申(まう)す様(やう)、「是(これ)は大王(だいわう)の御敵(おんてき)なれば、王(わう)を見(み)奉(たてまつ)らんとの執情(しうじやう)に依(よ)り、勢(いきほひ)残(のこ)り覚(おぼ)え候(さうら)ふ。何(なに)かは苦(くる)しく候(さうら)ふべき。一目(ひとめ)見(み)えさせ給(たま)ひて、彼(かれ)が念(ねん)をもはらさせ給(たま)へかし」と申(まう)したりければ、君王(くんわう)聞(き)こし召(め)し、「然(さ)らば」とて、端(はし)近(ちか)く出(い)でさせ給(たま)ひて、釜(かま)の辺(ほとり)に近付(ちかづ)き給(たま)ふ。其(そ)の時(とき)、眉間尺(みけんじやく)が首(くび)を見(み)せ申(まう)す時(とき)に、彼(か)の首(くび)、口(くち)にふくみ置(お)きし剣(つるぎ)の先(さき)を、王(わう)にふき掛(か)けければ、即(すなは)ち、大王(だいわう)に飛(と)び付(つ)き、首(くび)を打(う)ち落(お)とす。伯仲(はくちゆう)走(はし)り寄(よ)り、大王(だいわう)の首(かうべ)を取(と)り、眉間尺(みけんじやく)がにらるる釜(かま)の中(なか)へ打(う)ち入(い)れたり。王(わう)の首(くび)も、勢(いきほひ)劣(おと)らで、眉間尺(みけんじやく)が首(くび)とくひ合(あ)ひけり。其(そ)の時(とき)、伯仲(はくちゆう)、山(やま)にて約束(やくそく)せし事(こと)なれば、「我(われ)も、大王(だいわう)に野心(やしん)深(ふか)し。此(こ)の為(ため)ぞかし」と言(い)ひもはてず、我(わ)が首(くび)をかき切(き)り、釜(かま)の中(なか)へ投(な)げ入(い)れたり。此(こ)の三(み)つの首(くび)、釜(かま)の中(なか)にて、一日(いちにち)一夜(いちや)ぞ、くひ合(あ)ひける。遂(つひ)には、王(わう)の首(くび)、負(ま)けにけり。其(そ)の後(のち)、二(ふた)つの首(くび)も、威勢(いせい)衰(おとろ)へにけり。執心(しうしん)の程(ほど)ぞ、恐(おそ)ろしき。さて、P173此(こ)の三(み)つの首(くび)を、三(み)つの塚(つか)につき込(こ)めて、三王塚(わうつか)とて、今(いま)に有(あ)りとぞ伝(つた)へける。今(いま)の箱王(はこわう)も、未(いま)だ幼(いとけな)き者(もの)なれども、親(おや)の敵(かたき)に心(こころ)を染(そ)め、昼夜(ちうや)忘(わす)れぬ志(こころざし)、是(これ)にも劣(おと)らじとぞ見(み)えける。是(これ)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「流(なが)れ長(ちやう)じては、即(すなは)ちつき難(がた)く、願(ねが)ひ深(ふか)くしては、即(すなは)ちくち難(がた)し」と見(み)えたり。然(さ)れば、此(こ)の人々(ひとびと)の成長(せいぢやう)の末(すゑ)、おにとほめざるは無(な)かりけり。
@〔箱王(はこわう)、曾我(そが)へ下(くだ)りし事(こと)〕S0406N063
然(さ)る程(ほど)に、年月(としつき)過(す)ぎ行(ゆ)きければ、十七にぞなりける。或(あ)る時(とき)、別当(べつたう)、箱王(はこわう)を近付(ちかづ)けて、「御分(ごぶん)は、はや十七になり給(たま)へば、上洛(しやうらく)し、受戒(じゆかい)をし給(たま)ふべしなれば、垂髪(すいはつ)にて上(のぼ)り給(たま)はば、ものくきよらで適(かな)ふまじ。其(そ)れ又(また)、大事(だいじ)なり。是(これ)にて、髪(かみ)を下(お)ろして、上(のぼ)るべし」と宣(のたま)ひければ、身(み)に思(おも)ひの有(あ)る物(もの)をと思(おも)ひながら、「御(おん)はからひ」とぞ申(まう)されける。「然(さ)らば」とて、大衆(だいしゆ)にふれ、出家(しゆつけ)の用意(ようい)有(あ)り。母(はは)の方(かた)へも、言(い)ひ下(くだ)しけり。既(すで)に明旦(みやうたん)とぞ定(さだ)まりける。箱王(はこわう)、つくづくと思(おも)ひけるは、我(われ)法師(ほふし)になりたりとも、折節(をりふし)に付(つ)けて、此(こ)の事(こと)思(おも)ひ思(おも)はば、罪(つみ)深(ふか)かるべし、一向(いつかう)に思(おも)ひ切(き)り、男(をとこ)に成(な)りて、本意(ほんい)をとぐべし、其(そ)のみぎりに成(な)りては、後悔(こうくわい)すとも、P174適(かな)ふまじ、此(こ)の事(こと)を、十郎(じふらう)殿(どの)と言(い)ひ合(あ)はせて、とにもかくにも定(さだ)めんと案(あん)じ、人にも知(し)らせずして、只(ただ)一人夜(よ)にまぎれて、曾我(そが)の里(さと)へぞ下(くだ)りける。「山月(さんげつ)東(ひがし)に、前途(せんど)を差(さ)して、しかも思(おも)ひを労(らう)ず、辺雲(へんうん)秋(あき)すずしくして、こうくわを同(おな)じくして、しかも魂(たましひ)をけす」と言(い)ふ、藤原(ふぢはら)の篤茂(とくぼ)が餞別(せんべつ)の詩(し)、今更(いまさら)思(おも)ひ出(い)でられて、曾我(そが)の里(さと)にぞつきにける。十郎(じふらう)が乳母(めのと)の家(いへ)に立(た)ち入(い)りて、十郎(じふらう)を呼(よ)び出(い)だし、対面(たいめん)しければ、「如何(いか)にして坐(ま)しますぞや。明日(みやうにち)は、一定(いちぢやう)出家(しゆつけ)の由(よし)、聞(き)きつる間(あひだ)、上(のぼ)りて見(み)奉(たてまつ)らんと存(ぞん)ずる所(ところ)に、下(くだ)り給(たま)ふ嬉(うれ)しさよ」と言(い)ひければ、箱王(はこわう)聞(き)きて、「のびのびの御心(おんこころ)なるべしと思(おも)ひつるに、少(すこ)しも違(たが)はず。斯様(かやう)の事(こと)、きはきはと、予(かね)てより御(おん)定(さだ)め候(さうら)へかし。既(すで)に明(あ)けなば、事(こと)定(さだ)まるべし。打(う)ちのびて、道行(ゆ)くべきにあらず。よくぞ参(まゐ)り候(さうら)ひける。御左右(さう)を待(ま)ち参(まゐ)らせなば、空(むな)しく髪(かみ)をそられなん。其(そ)れにつきては、一年(ひととせ)、鎌倉(かまくら)殿(どの)箱根(はこね)参詣(さんけい)の時(とき)、祐経(すけつね)御供(おんとも)せしを見(み)そめしより、少(すこ)しも忘(わす)るる隙(ひま)無(な)し。仮令(たとへ)法師(ほふし)に成(な)りて候(さうら)ふとも、此(こ)の悪念(あくねん)は、はれ候(さうら)ふまじ。一念(いちねん)無量劫(むりやうがう)と成(な)る事(こと)、今(いま)に始(はじ)めざる事(こと)にて候(さうら)へば、思(おも)ひわづらひて、罷(まか)り下(くだ)りて候(さうら)ふ。定(さだ)めて、御(おん)上(のぼ)り候(さうら)はんと存(ぞん)じ候(さうら)ひしかども、其(そ)の儀(ぎ)も候(さうら)はず。申(まう)し合(あ)はせてこそ、とにもかくにもなり候(さうら)はめ。もし又(また)思(おぼ)し召(め)し捨(す)てさせ給(たま)はば、りのついでに上洛(しやうらく)して、我(わ)が山にて髪(かみ)そり落(お)とし、膚(はだへ)を墨(すみ)に染(そ)め隠(かく)し、足(あし)に任(まか)せP175て、頭陀(づだ)乞食(こつじき)して、一期(いちご)の程(ほど)、親(おや)の後世(ごせ)、懇(ねんご)ろに弔(とぶら)ひ奉(たてまつ)るべし。又(また)、男(をとこ)に成(な)り、御(おん)あらましの御事(こと)、適(かな)はぬまでも、仕(つかまつ)るべきか。はやはや是非(ぜひ)の御返事(ごへんじ)を承(うけたまは)り切(き)るべし。身(み)の浮沈(ふちん)、今(いま)に候(さうら)ふなり。なまじひに罷(まか)り下(くだ)りて、帰山(きさん)も見(み)苦(ぐる)し。あとに如何(いか)ばかり、騒(さわ)ぎ候(さうら)はん。夜(よ)もふけ行(ゆ)き候(さうら)ふ」と攻(せ)めければ、やや有(あ)りて、「祐成(すけなり)が心(こころ)を見(み)んとて、斯様(かやう)に宣(のたま)ふか。烏帽子(えぼし)をきせん事(こと)こそ、本意(ほんい)なれ。思案(しあん)に及(およ)ばず」と言(い)ふ。箱王(はこわう)聞(き)きて、「さ程(ほど)思(おぼ)し召(め)し定(さだ)むる事(こと)、などや、予(かね)てより承(うけたまは)り候(さうら)はぬや。某(それがし)、罷(まか)り下(くだ)り候(さうら)はずは、御左右(さう)有(あ)るまじきにや」と言(い)ひければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「此(こ)の事(こと)は、内々(ないない)別当(べつたう)も知(し)り給(たま)はぬ事(こと)あらじ。夜(よ)明(あ)けて上(のぼ)らむと存(ぞん)じ候(さうら)ひしに、嬉(うれ)しくも下(くだ)り給(たま)ひける」と言(い)ひければ、箱王(はこわう)申(まう)しけるは、「母(はは)や師匠(ししやう)の御心(おんこころ)に違(ちが)はん事(こと)、如何(いかが)すべきなれ共(ども)、いづかたの御事(おんこと)も、一旦(いつたん)の事(こと)と覚(おぼ)えたり」と言(い)ひければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「其(そ)の科(とが)をば、祐成(すけなり)に任(まか)せよ。如何(いか)にも申(まう)し許(ゆる)すべし」。夜(よ)も明(あ)けければ、「いざや」とて、馬(むま)に打(う)ち乗(の)り、只(ただ)二騎(にき)、曾我(そが)を出(い)でて、北条(ほうでう)へこそ行(ゆ)きにけれ。
@〔箱王(はこわう)が元服(げんぷく)の事(こと)〕S0407N064P176
さきざきもつねに越(こ)えて、遊(あそ)ぶ所(ところ)なりければ、時政(ときまさ)見参(げんざん)して、「如何(いか)に、珍(めづら)しや」と、色代(しきだい)しければ、十郎(じふらう)、笏(しやく)取(と)り直(なほ)し、申(まう)しけるは、「弟(おとと)にて候(さうら)ふ童(わらは)を、母(はは)が箱根(はこね)へ上(のぼ)せて、法師(ほふし)になさんと仕(つかまつ)り候(さうら)へば、世(よ)に不用(ふよう)にて、学問(がくもん)の名字(みやうじ)をも聞(き)かず、剰(あまつさ)へ、鹿(しし)・鳥(とり)くはで適(かな)はじと申(まう)し候(さうら)ふ間(あひだ)、堅固(けんご)の徒(いたづ)ら者(もの)、教(をし)へに従(したが)はざらん弟子(でし)をば、早(はや)く父母に返(かへ)すべきと言(い)ふ言葉(ことば)に付(つ)き、里(さと)へ追(お)ひ下(くだ)さるる折(をり)をえて、男(をとこ)にならんと仕(つかまつ)り候(さうら)ふを、母(はは)にて候(さうら)ふ者(もの)、曾我(そが)の太郎など、しきりに制(せい)し候(さうら)ふ間(あひだ)、親(した)しき三浦(みうら)の人々(ひとびと)、伊東(いとう)の方様(かたさま)にてと存(ぞん)じ、相(あひ)具(ぐ)して参(まゐ)りて候(さうら)ふ。仮令(たとひ)道(みち)の辺(ほとり)にて、頭(かしら)を切(き)りて候(さうら)ふとも、御前(おんまへ)にてと申(まう)し候(さうら)はば、其(そ)の身(み)の勘当(かんだう)は候(さうら)ふまじ」と申(まう)しければ、「誠(まこと)に、面々(めんめん)の御事(こと)、見(み)はなし申(まう)すべきにあらず。然(しか)れば、余所(よそ)にても、さあらば、無念(むねん)なるべし。もつ共(とも)本望(ほんまう)也(なり)。時政(ときまさ)が子(こ)と申(まう)さん」とて、髪(かみ)を切(き)り、烏帽子(えぼし)をきせて、曾我(そが)の五郎(ごらう)時致(ときむね)と名乗(なの)らせける。鹿毛(かげ)なる馬の、五臓(ざう)太(ふと)くたくましきに、白覆輪(しろぶくりん)の鞍(くら)置(お)かせ、黒糸(くろいと)の腹巻(はらまき)一領(りやう)添(そ)へて、引(ひ)かれけり。「つねに越(こ)えて、遊(あそ)び給(たま)へ。定(さだ)めて、母(はは)の心(こころ)には違(ちが)ひ給(たま)ふべし」と、色代(しきだい)して、帰(かへ)りけり。P177
@〔母(はは)の勘当(かんだう)蒙(かうぶ)る事(こと)〕S0408N065
箱根(はこね)の別当(べつたう)、是(これ)をば知(し)らで、箱王(はこわう)を尋(たづ)ねけるに、閨(ねや)の枕(まくら)も衾(ふすま)も変(か)はらで、主(ぬし)は見(み)えざりければ、急(いそ)ぎ曾我(そが)へ人を下(くだ)し尋(たづ)ねけれども、「是(これ)にも無(な)し」と答(こた)へければ、別当(べつたう)、大(おほ)きに騒(さわ)ぎ、方々(はうばう)を尋(たづ)ね給(たま)ふぞ、愚(おろ)か也(なり)。其(そ)の後(のち)、十郎(じふらう)は五郎(ごらう)と打(う)ちつれて、曾我(そが)へ帰(かへ)りぬ。内(うち)の者(もの)共(ども)見(み)て、「箱王殿(はこわうどの)を男(をとこ)になし、十郎(じふらう)殿(どの)のつれ参(まゐ)らせて坐(ま)しましたり」と言(い)ひければ、母(はは)聞(き)きて、「別当(べつたう)の物(もの)騒(さわ)がしく尋(たづ)ね給(たま)ひけるぞや。十郎(じふらう)、昨日(きのふ)より見(み)えざると言(い)ひつるが弟(おとと)が、法師(ほふし)に成(な)るを見(み)んとて、箱根(はこね)へ上(のぼ)りけるかや。稚児(ちご)にてよりもわろきやらん」。「男(をとこ)になりたる」と言(い)ふを、「法師(ほふし)になりたる」と聞(き)きまがひ、いつもの所(ところ)に出(い)で、「是(これ)へ」と宣(のたま)へ共(ども)、身(み)の科(とが)に依(よ)り、五郎(ごらう)、左右(さう)無(な)く内(うち)へも入(い)らざりけり。母(はは)待(ま)ち兼(か)ねて、急(いそ)ぎ見(み)んとて、障子(しやうじ)をあけければ、男(をとこ)に成(な)りてぞ居(ゐ)たりける。母(はは)思(おも)ひの外(ほか)にて、二目(ふため)共(とも)見ず、障子(しやうじ)を引(ひ)きたて、「是(これ)は夢(ゆめ)かや、現(うつつ)かや、心(こころ)憂(う)や、今(いま)より後(のち)、子(こ)とも母(はは)共(とも)思(おも)ふべからず。仮初(かりそめ)にも見(み)えず、音(おと)にも聞(き)かざらん方(かた)へ惑(まど)ひ行(ゆ)け。何(なに)のいさましさに、男(をとこ)にはなりたるぞや。十郎(じふらう)が有様(ありさま)を、羨(うらや)ましく思(おも)ふか。一匹(ぴき)持(も)ちたる馬をだにも、けならかにかはず、一人具(ぐ)したる下人にだにも、四季(しき)折節(をりふし)に扶持(ふち)をもせP178ず、明(あ)け暮(く)れ見(み)苦(ぐる)しげにて、目(め)もあてられず。世(よ)に有(あ)る人々(ひとびと)の子供(こども)を見(み)る時(とき)は、誰(たれ)かは劣(おと)るべきと思(おも)ふにも、涙(なみだ)の隙(ひま)は無(な)きぞとよ。思(おも)ひ知(し)らずして、物(もの)に狂(くる)ふか、恨(うら)めしや。法師(ほふし)になりぬれば、上臈(じやうらふ)も下臈(げらふ)も、乞食(こつじき)頭陀(づだ)をしても苦(くる)しからず。又(また)、下臈(げらふ)なれども、智恵(ちゑ)才覚(さいかく)あれば、法師(ほふし)にそしり無(な)し。十郎(じふらう)だにも、男(をとこ)になせし事(こと)の悔(くや)しくて、入道(にふだう)せよかしと思(おも)うたる所(ところ)に、口惜(くちを)しの有様(ありさま)や。「善(ぜん)を見(み)ては喜(よろこ)び、悪(あく)を見(み)ては驚(おどろ)け」とこそいへ。哀(あは)れ、河津殿(かわづどの)程(ほど)、罪(つみ)深(ふか)き人は無(な)し。後世(ごせ)弔(とぶら)ふべき人々(ひとびと)は、御敵(おんてき)とて滅(ほろ)びはてぬ。たまたま持(も)ちたる子供(こども)さへ、孝養(けうやう)すべき物一人も無(な)し。誠(まこと)に末(すゑ)の絶(た)えなば、まのあたりの本領(ほんりやう)を余所(よそ)に見(み)んも悲(かな)しくて、もしやと思(おも)ふ頼(たの)みに、兄(あに)は男(をとこ)になしたれども、親(おや)の跡(あと)をこそつがざらめ、名(な)をさへかへて、曾我(そが)の十郎(じふらう)なんどといはるるも、口惜(くちを)しし。一人の子(こ)は、父(ちち)死(し)して後(のち)、生(う)まれしかば、捨(す)てんとせしを、叔父(をぢ)伊東(いとう)の九郎が養育(やういく)せしが、其(そ)れも平家(へいけ)へ参(まゐ)り給(たま)ひて後(のち)は思(おも)ひ掛(か)けざる武蔵守(むさしのかみ)義信(よしのぶ)、取(と)りて養育(やういく)して、今(いま)は、越後(ゑちご)の国(くに)の国上(くがみ)と言(い)ふ山寺(やまでら)に有(あ)りと聞(き)けども、父(ちち)をも見(み)ず、母(はは)にも親(した)しまねば、思(おも)ひ出(い)だして、一返(ぺん)の念仏(ねんぶつ)を申(まう)す事(こと)もあらじ。其(そ)れは只(ただ)他人(たにん)の如(ごと)し。彼(か)の子(こ)をこそ法師(ほふし)になして、父(ちち)の孝養(けうやう)をもさせんと思(おも)ひしに、斯様(かやう)に成(な)り行(ゆ)く事(こと)の悲(かな)しさよ。しかも、忘(わす)るる事(こと)は無(な)けれども、心(こころ)ならずに、忍(しの)びてこそ過(す)ごせ、今(いま)は、誰(たれ)にか、P179後(のち)の世(よ)をも問(と)はるべき。哀(あは)れ、斯(か)かる憂(う)き身(み)の生(しやう)をかゆるならば、昔(むかし)よりなどや無(な)かるらん。夫(そ)れ、「良薬(らうやく)は口(くち)ににがくして、しかも病(やまひ)に利(り)有(あ)り。忠言(ちゆうげん)は耳(みみ)にさかひて、しかも行(かう)を利(り)せり」と申(まう)す言葉(ことば)の有(あ)るなるぞ。よくよく案(あん)じても見(み)給(たま)へ」と、泣(な)く泣(な)くくどきければ、五郎(ごらう)物ごしに聞(き)きて、泣(な)き居(ゐ)たりけるが、兄(あに)の方(かた)に帰(かへ)りて、申(まう)しけるは、「只今(ただいま)の母(はは)の仰(おほ)せられし事(こと)共(ども)、一々(いちいち)其(そ)のいはれ有(あ)りて覚(おぼ)え候(さうら)ふ。死(し)し給(たま)へる父(ちち)を悲(かな)しみて、孝養(けうやう)を致(いた)さんとすれば、いきて坐(ま)します母(はは)の不孝(ふけう)を蒙(かうぶ)る事(こと)、これ誠(まこと)にひたうの故(ゆゑ)なり。身(み)の罪(つみ)の程(ほど)こそ、知(し)られて候(さうら)へ。あまねく人の知(し)らざる先(さき)に、髪(かみ)切(き)り候(さうら)はん」と申(まう)しければ、十郎(じふらう)言(い)ひけるは、「母(はは)の御勘当(かんだう)は、予(かね)てより思(おも)ひ設(まう)けし事(こと)なり。然(さ)ればとて、昨日(きのふ)男(をとこ)に成(な)りて、今日(けふ)又(また)入道(にふだう)するに及(およ)ばず。人こそ数多(あまた)知(し)らず共(とも)、先(ま)づ北条(ほうでう)殿(どの)の思(おも)はれん事(こと)も、かろがろしし。かつうは、物苦(ぐる)はしきにも似(に)たり。ししやうの事(こと)にてはあらじ。いざや、いづかたへも行(ゆ)きて、慰(なぐさ)み候(さうら)はん」とて、打(う)ちつれてぞ、出(い)でにける。遊(あそ)ぶ所(ところ)は、三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)は、伯母聟(をばむこ)なり、土肥(とひ)の二郎(じらう)が嫡子(ちやくし)弥太郎(いやたらう)も、伯母聟(をばむこ)也(なり)、平六兵衛(へいろくびやうゑ)は、従姉妹聟(いとこむこ)、北条(ほうでう)殿(どの)は、烏帽子親(えぼしおや)、二宮(にのみや)の太郎は、姉聟(あねむこ)なれば、彼(かれ)等(ら)がもとに通(かよ)ひつつ、二三日、四五日づつぞ遊(あそ)びける。たまたま曾我(そが)に帰(かへ)りて、五郎(ごらう)は不孝(ふけう)の身(み)なれば、十郎(じふらう)がもとに隠(かく)れ居(ゐ)て、母(はは)の恋(こひ)しき折々(をりをり)は、物(もの)の隙(ひま)より見(み)奉(たてまつ)れども、我(わ)が身(み)はP180見(み)えじと隠(かく)れける。「然(さ)れば、人界(にんがい)に生(う)まるるとは雖(いへど)も、白駒(はつく)の隙(ひま)を過(す)ぐるに似(に)たり。老少(らうせう)不定(ふぢやう)の習(なら)ひなれば、彼(かれ)も我(われ)等(ら)も、おくれ先(さき)立(だ)つ習(なら)ひ、空(むな)しかるべきこそ、無念(むねん)なれ。時致(ときむね)も、法師(ほふし)に成(な)るべき身(み)の、男(をとこ)に成(な)りて、母(はは)の勘当(かんだう)を蒙(かうぶ)るも、只(ただ)此(こ)の故(ゆゑ)なり。如何(いか)にも、とく急(いそ)ぎ給(たま)へ」と申(まう)しければ、祐成(すけなり)も、「さぞ思(おも)ひ候(さうら)へ。さりながら、いま一人も人をからふべし」。
@〔小二郎(こじらう)語(かた)らひ得(え)ざる事(こと)〕S0409N066
「誰(たれ)にや」と問(と)ふ。「京(きやう)の小二郎(こじらう)とて、河津殿(かわづどの)在京(ざいきやう)の時(とき)、人に相(あひ)なれて、設(まう)け給(たま)ふ子(こ)なり。彼(かれ)を呼(よ)び寄(よ)せて、語(かた)らはん」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)聞(き)きて、「よくよく御(おん)ためらひ候(さうら)へ。一腹(いつぷく)一生(いつしやう)の兄(あに)ならば、如何(いか)に臆病(おくびやう)に候(さうら)ふ共(とも)、罪科(ざいくわ)逃(のが)れ難(がた)くて、同意(どうい)すべし。彼(かれ)は、別(べち)の事。如何(いか)で左右(さう)無(な)く、大事(だいじ)を仰(おほ)せ出(い)だされん。をさまり難(がた)く覚(おぼ)え候(さうら)ふ。御契約(けいやく)には過(す)ぐべからず候(さうら)へ共(ども)、もし聞(き)き入(い)れずは、わろき事(こと)や出(い)で来(き)なん。橘(たちばな)は、淮北(わいほく)に生(しやう)じて、枳殻(からたち)と成(な)り、水土(すいど)の事(こと)なればなり。隔(へだ)てのあれば、兄弟(きやうだい)なりとも、心(こころ)をおくべき物(もの)をや」と言(い)ひければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「さりとも、其(そ)の儀(ぎ)はあらじ。男(をとこ)と言(い)はるる程(ほど)の者(もの)が、異姓(いしやう)他人(たにん)なり共(とも)、打(う)ち頼(たの)まんに、聞(き)かざるP181事(こと)やあらん。まして、一腹(いつぷく)の兄弟(きやうだい)にて、如何(いか)でか同心(どうしん)せざるべき」とて、小二郎(こじらう)を呼(よ)びて言(い)ふ様(やう)、「かねても、大方(おほかた)知(し)り給(たま)ひぬらん。此(こ)の事(こと)を思(おも)ひ立(た)ちて候(さうら)ふ。然(さ)れば、一期(いちご)の大事(だいじ)なれば、只(ただ)二人して遂(と)げ難(がた)し。三人寄(よ)り合(あ)ふ物(もの)ならば、安(やす)かるべし」と言(い)ひければ、小二郎(こじらう)聞(き)きて、大(おほ)きに騒(さわ)ぎ、「此(こ)の事(こと)、如何(いかが)思(おも)ひ給(たま)ふ。当代(たうだい)然様(さやう)に成(な)りては、親(おや)の敵(かたき)、其(そ)の数(かず)有(あ)りと雖(いへど)も、勝負(しようぶ)を決(けつ)する事(こと)無(な)し。只(ただ)、上意(じやうい)を重(おも)くして、肩を並(なら)べ、膝(ひざ)をくむ次弟(しだい)なれば、是(これ)を恥(はぢ)とも言(い)はずして、所領(しよりやう)をもつ折節(をりふし)なり。当時(たうじ)、然様(さやう)の事(こと)する者(もの)は、剛(かう)の者(もの)とは言(い)はで、しれ者(もの)とこそ申(まう)せ。誠(まこと)に、敵(かたき)をまのあたりにおきて、見(み)給(たま)ふ事(こと)のめざましくは、京都(きやうと)に上(のぼ)り、如何(いか)にもして、本所(ほんじよ)の末座(すゑざ)に連(つら)なりて、院内(いんない)の御見参(ごげんざん)にも入(い)り、冥加(みやうが)あらば、御気色(ごきしよく)を窺(うかが)ひ、院宣(ゐんぜん)・令旨(りやうじ)を申(まう)し下(くだ)し、鎌倉(かまくら)殿(どの)に付(つ)け奉(たてまつ)り、敵(てき)を本所(ほんじよ)に召(め)し上(のぼ)せ、記録所(きろくしよ)にて問答(もんだふ)し、敵(てき)人をまかし、所領(しよりやう)を心(こころ)に任(まか)すべし。君敵(くんてき)と成(な)りては適(かな)ふべからず。古人(こじん)の言葉(ことば)にも、「徳(とく)を以(もつ)て人に勝(か)つ者(もの)はさかえ、力(ちから)を以(もつ)て人に勝(か)つ者(もの)は、遂(つひ)に滅(ほろ)ぶ」と見(み)えたり。其(そ)の上(うへ)、さばかり果報(くわほう)めでたき左衛門(さゑもん)の尉(じよう)を、各々(おのおの)の分限(ぶんげん)にて、打(う)たん事(こと)は適(かな)ふまじ。とまり給(たま)へ」と言(い)ひ捨(す)てて、立(た)ちにけり。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、大事(だいじ)をば言(い)ひ聞(き)かせ、言葉(ことば)にも掛(か)けず、座敷(ざしき)をけたてられぬ。あきれはてて居(ゐ)たりける。やや有(あ)りて、五郎(ごらう)申(まう)しけるは、「然(さ)ればこそ、P182今(いま)はよき事(こと)あらじ、日本(につぽん)一(いち)の不覚悟人(ふかくごじん)にて有(あ)りける物。所知(しよち)荘園(しやうゑん)の敵(てき)ならばこそ、訴訟(そしよう)をも致(いた)さめ。不思議(ふしぎ)の事(こと)を言(い)ひつる物(もの)かな。金(かね)を試(こころ)みるは火(ひ)なり。人を試(こころ)みるは酒(さけ)なり。彼(か)の者(もの)は、酒(さけ)をだにのみぬれば、何事(なにごと)がな言(い)はんと思(おも)ふ者(もの)なり。夫(そ)れ、大海(だいかい)の辺(ほとり)の猩々(しやうじやう)は、酒に著(ぢやく)して、血(ち)を絞(しぼ)られ、滄海(さうかい)の底(そこ)の犀(さい)は、酒(さけ)を好(この)みて、角(つの)を切(き)らるる也(なり)。斯様(かやう)の理(ことわり)を知(し)りながら、言(い)ひつる事(こと)こそ悔(くや)しけれ。一定(いちぢやう)、二宮(にのみや)の太郎に言(い)ひつること覚(おぼ)えたり。其(そ)れ、曾我殿(そがどの)に語(かた)りなん。さあらば、母(はは)も知(し)り給(たま)ふべし。彼(かれ)是(これ)以(もつ)て、祐経(すけつね)に知(し)られ、返(かへ)りて狙(ねら)はれん事(こと)、疑(うたが)ひ無(な)し。斯(か)かる大事(だいじ)こそ候(さうら)はね。第一(だいいち)、上へ聞(き)こし召(め)されては、死罪(しざい)・流罪(るざい)にも行(おこな)はれ、身(み)を徒(いたづ)らにせん事(こと)の無念(むねん)さよ。いざや、此(こ)の事(こと)漏(も)れぬ先(さき)に、小二郎(こじらう)が細首(ほそくび)打(う)ち落(お)とし、九万九千(くまんくせん)の軍神(ぐんしん)の血まつりにせん。我(われ)等(ら)がしたるとは、誰(たれ)か知(し)るべき」と怒(いか)りければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「然(さ)ればとて、か程(ほど)の大事(だいじ)、如何(いか)でかもらすべき。罪(つみ)の疑(うたが)ひをばかろくし、功(こう)の疑(うたが)ひをば重(おも)くせよ。喜(よろこ)ぶ時(とき)は、みだりに無功(ぶこう)を賞(しやう)し、怒(いか)る時(とき)は、みだりに無罪(むざい)を殺(ころ)す。是(これ)は、大(おほ)きなる誤(あやま)り也(なり)。仏(ほとけ)も深(ふか)く戒(いまし)め給(たま)ふ。心(こころ)得(え)べし」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)聞(き)き、「是(これ)は無罪(むざい)を殺(ころ)すにては候(さうら)はず。斯(か)かる不覚人(ふかくじん)、有罪(うざい)とも、無罪(むざい)とも、言葉(ことば)に立(た)たざる奴(やつ)めをば、急(いそ)ぎ暇(いとま)をくれ候(さうら)ふべきにて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「如何(いか)で、他人(たにん)に、P183かくとは言(い)ふべき。是(これ)も、只(ただ)、我(われ)等(ら)を世(よ)にあれと思(おも)ひてこそ、言(い)ひつらめ。然(さ)らば、口(くち)を固(かた)めよ」とて、追(お)ひ付(つ)きて、「只今(ただいま)申(まう)しつる事(こと)は、たはぶれごとなり。誠(まこと)し顔(がほ)に、人に語(かた)り給(たま)ふな。もし聞(き)こゆる物(もの)ならば、偏(ひとへ)に御辺(へん)の所為(しよい)と存(ぞん)じ、長(なが)く恨(うら)み奉(たてまつ)るべし。返(かへ)す返(がへ)す」と言(い)ひければ、「さ承(うけたまは)る」とて、さりぬ。此(こ)の約束(やくそく)有(あ)りながら、小二郎(こじらう)思(おも)ひけるは、余所(よそ)へもらさばこそ悪(あ)しからめ、母(はは)に見参(げんざん)して、此(こ)の事(こと)を詳(くは)しく語(かた)る。母(はは)、聞(き)きも敢(あ)へず、十郎(じふらう)を呼(よ)びければ、五郎(ごらう)、先(さき)に心(こころ)得(え)て、「此(こ)の事(こと)と覚(おぼ)えたり。時致(ときむね)も、身(み)を隠(かく)し、御供(おんとも)して聞(き)き候(さうら)はん」とて、十郎(じふらう)とつれて、母(はは)の有(あ)り所(どころ)へ来(き)たり、ものごしに聞(き)けば、母(はは)、女房(にようばう)達(たち)を遠(とほ)くのけて、泣(な)く泣(な)く宣(のたま)ひけるは、「誠(まこと)か、殿(との)原(ばら)は、さばかり恐(おそ)ろしき世(よ)の中(なか)に、謀叛(むほん)を起(お)こさんと宣(のたま)ふなるか。童(わらは)や二宮(にのみや)の姉(あね)をば、何(なに)となれと思(おも)ひて、斯(か)かる悪事(あくじ)をば、思(おも)ひ立(た)ち給(たま)ふぞ、死(し)したる親(おや)のみにて、いきたる我(われ)は親(おや)ならずや。箱王(はこわう)が男(をとこ)に成(な)るにて、一定(いちぢやう)悪事(あくじ)せんと聞(き)く。わ殿(との)がすかしてこそ、男(をとこ)にはなしつらめ。わ殿(との)、無用(むよう)の事(こと)くはたてつる物(もの)かな。恥(はぢ)は家(いへ)の病(やまひ)にて、末代(まつだい)失(う)せずと申(まうせ)ども、事(こと)にこそよれ。世(よ)にあらんと思(おも)はば、恥(はぢ)を忍(しの)びて、益(やく)を蒙(かうぶ)れとこそ申(まう)せ。実(げ)にや、河津殿(かわづどの)の打(う)たれし時(とき)、童(わらは)思(おも)ひに絶(た)え兼(か)ねて、言(い)ひし事(こと)を聞(き)き持(も)ち給(たま)ふか。一旦(いつたん)はさこそ思(おも)ひしか。狩場(かりば)へ打(う)ち出(い)で給(たま)ふに、四五百騎(き)P184の中(なか)に、すぐれて見(み)えしが、帰(かへ)り様(さま)に、引(ひ)きかへたりし悲(かな)しさ、火(ひ)にも水(みづ)にも沈(しづ)まんと思(おも)ひしに、五つや三(み)つになりしを、左右(さう)の膝(ひざ)にすゑ、「二十(はたち)にならざる先(さき)に、親(おや)の敵(かたき)を打(う)ちて見(み)せよ」と、童(わらは)言(い)ひし時(とき)、箱王(はこわう)は聞(き)きも知(し)らず、わ殿(との)は言(い)ひつる、「おとなしく成(な)りて、父(ちち)の敵(かたき)の首(くび)を切(き)らん」と言(い)ひしこそ、多(おほ)くの人をば泣(な)かせしか。其(そ)れを忘(わす)れずして、母(はは)が言(い)ひし事(こと)なればとて、斯様(かやう)に思(おも)ひ立(た)ち給(たま)ふかや。うたてさよ。返(かへ)す返(がへ)すもとまり給(たま)へ。此(こ)の頃(ごろ)は、昔(むかし)の世(よ)にも似(に)ず、平家(へいけ)の世(よ)には、伊豆(いづ)・駿河(するが)にて、敵(てき)打(う)ちたる人も、武蔵(むさし)・相模(さがみ)・安房(あは)・上総(かづさ)へも越(こ)えぬれば、日数(ひかず)積(つ)もり、年(とし)隔(へだ)たりぬれば、さてのみこそあれ。当代(たうだい)には、いささかも悪事(あくじ)をする者(もの)は、蝦夷(えぞ)が千島(ちしま)へ至(いた)りても、其(そ)の科(とが)逃(のが)れず、又(また)親(した)しき者(もの)までも、其(そ)の科(とが)逃(のが)れ難(がた)し。女(をんな)とて、所(ところ)にも置(お)かれず。幼(をさな)ければとて、助(たす)かる事(こと)無(な)し。斯様(かやう)に、さしも厳(きび)しき世(よ)の中に、如何(いか)で悪事(あくじ)を思(おも)ひ立(た)ち給(たま)ふぞ。汝(なんぢ)等(ら)十一・九になりし時(とき)、祖父(おほぢ)伊東(いとう)の御敵(おんてき)とて、召(め)し出(い)だし、既(すで)に切(き)らるべかりしを、畠山(はたけやま)殿(どの)、「自然(しぜん)の事(こと)あらば、かかり申(まう)すべし」とて、預(あづ)かり申(まう)し、命(いのち)共(ども)を助(たす)けられしぞかし。数(かず)ならぬ童(わらは)が事(こと)は、さて置(お)きぬ。重忠(しげただ)の大事(だいじ)をば、如何(いかが)し給(たま)ふべき。童(わらは)がいきたらん程(ほど)は、目(め)をふさぎ、恥(はぢ)をも余所(よそ)にして坐(ま)しませ。心(こころ)憂(う)き目(め)を見(み)せ給(たま)ふな。殿(との)原(ばら)、今(いま)まで有(あ)り付(つ)けざるこそ、心(こころ)にかかり候(さうら)へども、何事(なにごと)も思(おも)ふ様(やう)にP185あらねばぞとよ。童(わらは)が身(み)にては、憚(はばか)りあれども、男(をとこ)は、思(おも)はしき物(もの)にだにあへば、然様(さやう)に詮(せん)無(な)き心(こころ)はうするぞや。哀(あは)れ、父(ちち)だに坐(ま)しまさば、童(わらは)に、心(こころ)はつくさせじ。如何(いか)なる人の聟(むこ)にも成(な)り、思(おも)ひ止(とど)まりて、念仏(ねんぶつ)をも申(まう)し、父(ちち)にも回向(ゑかう)、童(わらは)をも助(たす)けよ。論語(ろんご)に曰(いは)く、「極(きは)めて衰(おとろ)ふる時(とき)は、必(かなら)ず又さかんなる事(こと)有(あ)り」と申(まう)すに、などや、方々(かたがた)のさのみ申(まう)す事(こと)の適(かな)はざらん、悲(かな)しさよ。箱王(はこわう)、如何(いか)に男(をとこ)にならんと言(い)ふとも、御分(ごぶん)として止(とど)めんに、左右(さう)無(な)く男に成(な)るべからず。哀(あは)れ、実(げ)に適(かな)はぬ事(こと)なれ共(ども)、童(わらは)死(し)して、父(ちち)だにいきて坐(ま)しまさば、如何(いか)なる不思議(ふしぎ)を思(おも)ひ立(た)つとも、父(ちち)の命(めい)をば背(そむ)かじ。二宮(にのみや)の娘(むすめ)、如何(いか)なる有様(ありさま)を思(おも)ひ立(た)つとも、童(わらは)が打(う)ちくどき言(い)はんに、などか聞(き)かで候(さうら)ふべき。男子(なんし)の為(ため)に、母親(ははおや)は何(なに)にも立(た)たず」とて、さめざめと泣(な)き給(たま)ふぞ、哀(あは)れなれ。十郎(じふらう)、流(なが)るる涙(なみだ)を直垂(ひたたれ)の袖(そで)にて押(お)し止(とど)め、つしんでぞ居(ゐ)たりける。やや有(あ)りて、母(はは)宣(のたま)ひけるは、「此(こ)の事(こと)を小二郎(こじらう)大(おほ)きに驚(おどろ)き、制(せい)させんとて、聞(き)かせたるぞ。然(さ)ればとて、小二郎(こじらう)恨(うら)み給(たま)ふな。人に知(し)らすなとて、自(みづか)らが口(くち)を固(かた)めつるぞ。「其(そ)れ程(ほど)の大事(だいじ)を左右(さう)無(な)く語(かた)り申(まう)すは、此(こ)の殿(との)原(ばら)返(かへ)り聞(き)きては、悪(あ)し様(ざま)に思(おも)ひ候(さうら)はんずれども、人々(ひとびと)の祖父(おほぢ)こそあらめ、さのみ末々(すゑずゑ)まで絶(た)えせん事(こと)、不便(ふびん)なりと思(おぼ)し召(め)され、君(きみ)より御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りて、先祖(せんぞ)の所領(しよりやう)を安堵(あんど)するか、しからずは、別(べつ)の御恩(ごおん)を蒙(かうぶ)りP186候(さうら)はば、各々(おのおの)までも、面目(めんぼく)にて候(さうら)ふべし」と申(まう)して立(た)ちつる。其(そ)れも、殿(との)原(ばら)を思(おも)ひてこそ、言(い)ひつらめ。努々(ゆめゆめ)憤(いきどほ)り給(たま)ふべからず。理(り)をまげて、思(おも)ひとまり給(たま)へ」と宣(のたま)ひければ、十郎(じふらう)、「承(うけたまは)りぬ。但(ただ)し、此(こ)の事(こと)は、何(なに)と無(な)きたはぶれに申(まう)しつるを、誠(まこと)し顔(がほ)に申(まう)されつらん不覚(ふかく)さよ。かつうは、御推量(すいりやう)も候(さうら)へ。当時(たうじ)、我(われ)等(ら)が姿(すがた)にて、思(おも)ひもよらぬ事(こと)」とて立(た)ちければ、五郎(ごらう)も足(あし)抜(ぬ)きして立(た)ちけるが、十郎(じふらう)に申(まう)しけるは、「然(さ)ればこそ申(まう)しつれ、小二郎(こじらう)を失(うしな)ふべかりつる物(もの)を、助(たす)け置(お)きて、斯(か)かる大事(だいじ)をもらされぬる事(こと)こそ、安(やす)からね。心(こころ)にかからん事(こと)をば、ためらひ候(さうら)はず、逸早(いつさう)にすへべき物(もの)を。哀(あは)れみ胸(むね)をやくとは、斯(か)かる事(こと)をや申(まう)すべき。今(いま)は適(かな)はじ。我(われ)等(ら)が所為(しよい)と思(おぼ)さめ」とて、息(いき)継(つ)ぎ居(ゐ)たる。「さても、此(こ)の事(こと)思(おも)ひ止(とど)まるべき様(やう)に、妻子(つまこ)持(も)ちて、安堵(あんど)せよと仰(おほ)せられつるこそ、耳(みみ)に止(とど)まりて、哀(あは)れにこそ候(さうら)へ。寒(さむ)き者(もの)は、尺玉(しやくぎよく)をもむさぶらで、たんかを思(おも)ひ、うゑたる者(もの)は、千金(せんきん)をも顧(かへり)みずして、一食(じき)を美(び)す。身(み)に思(おも)ひのあれば、顧(かへり)みずして、所領(しよりやう)所帯(しよたい)も、のぞみ無(な)し。只(ただ)思(おも)ふ事(こと)こそ、忙(いそが)はしくは存(ぞん)ずれ。男(をとこ)の心(こころ)止(とど)まる物(もの)は、妻子(つまこ)に過(す)ぎずと雖(いへど)も、我(われ)等(ら)討死(うちじに)の後(のち)、残(のこ)り止(とど)まりて、山野に交(まじ)はらんも不便(ふびん)なり。又(また)、男女(なんによ)の習(なら)ひ、若(わか)き子一人も出(い)で来(き)たらば、我(われ)法師(ほふし)に成(な)るべき身(み)なれ共(ども)、此(こ)の為(ため)に斯様(かやう)になりぬれば、定(さだ)めたる妻(つま)もつべからP187ず。遊(あそ)びなんどは、夫(おつと)の僻事(ひがこと)掛(か)かるまではあらじ。然(さ)れば、手越(てごし)・黄瀬川(きせがは)の辺(ほとり)にて、さりぬべき遊君(いうくん)あらば、相(あひ)なれて通(かよ)ひ給(たま)へ。しかも、道(みち)の辺(ほとり)なり。敵(てき)を窺(うかが)ふべき便(たよ)りも、然(しか)るべし」と申(まう)しければ、「執心(しうしん)、後生(ごしやう)の為(ため)、然(しか)るべからず。一日も命(いのち)あらん限(かぎ)りは、心(こころ)静(しづ)かに念仏(ねんぶつ)申(まう)して、後生(ごしやう)を願(ねが)ふべし。我(われ)等(ら)が命、今(いま)あれば有(あ)るが、只今(ただいま)も便宜(びんぎ)よくは、打(う)ち出(い)でなん。阿弥陀仏(あみだぶつ)」と申(まう)して、過(す)ぎ行(ゆ)ける心(こころ)の内(うち)こそ、無慙(むざん)なれ。
@〔大磯(おほいそ)の虎(とら)思(おも)ひ染(そ)むる事(こと)〕S0410N068
然(さ)れば、しうれんのせいつきずして、大磯(おほいそ)の長者(ちやうじや)の娘(むすめ)虎(とら)と言(い)ひて、十七歳(さい)になりける傾城(けいせい)を、祐成(すけなり)の、年頃(としごろ)思(おも)ひ染(そ)めて、秘(ひそ)かに三年(みとせ)ぞ通(かよ)ひける。是(これ)や、古(ふる)き言葉(ことば)に、「移(うつ)し得(え)たりや楊妃(やうひ)らうの靨(えくぼ)を、成(な)し現(あらは)せりにんみんあをきたる唇(くちびる)を」なんど思(おも)ひ出(い)だして、折々(をりをり)情(なさけ)を残(のこ)しける。五郎(ごらう)も、影(かげ)の如(ごと)く、寸(すん)も離(はな)れずして、諸(もろ)共(とも)に通(とほ)りけり。是(これ)も只(ただ)、敵(かたき)の便宜(びんぎ)を狙(ねら)はん為(ため)とぞ見(み)えし。哀(あは)れなる有様(ありさま)、志(こころざし)の程(ほど)、無慙(むざん)と言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。或(あ)る時(とき)、敵(かたき)左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、伊豆(いづ)より鎌倉(かまくら)へ参(まゐ)りける折節(をりふし)、曾我(そが)兄弟(きやうだい)、大磯(おほいそ)に有(あ)りけるが、五郎(ごらう)見(み)付(つ)けて、十郎(じふらう)に告(つ)げたりP188ければ、「斯様(かやう)の便宜(びんぎ)を狙(ねら)はん為(ため)にこそ、年来(ねんらい)是(これ)へも通(かよ)ひつれ。砥上原(とがみのはら)こそ、よき原(はら)なれ。いざや、追(お)ひ付(つ)き、矢(や)一(ひと)つ射(い)ん」とて、弓(ゆみ)押(お)しはり、矢(や)かきおひ、馬(むま)に打(う)ち乗(の)り、追(お)ひ付(つ)き見(み)れば、江間(えま)の小四郎(こしらう)打(う)ちつれて、五十騎(き)ばかりにて、打(う)ちかこみ歩(あゆ)ませければ、「左右(さう)無(な)く二騎(にき)掛(か)け入(い)りて、打(う)たん事(こと)も適(かな)ふまじ。一期(いちご)の大事(だいじ)にて有(あ)りければ、し損(そん)じ、はられんより、只(ただ)何(なに)と無(な)く通(とほ)らんと思(おも)ふは、如何(いか)に」と言(い)ふ。時致(ときむね)も、「かうこそ」とて、打(う)ちつれて、通(とほ)りけり。「是(これ)より帰(かへ)らば、人もあやしと思(おも)ふべし。ついでに三浦(みうら)へ通(とほ)り候ヘ」とて、遙(はる)かに引(ひ)き下(さ)がりて、歩(あゆ)ませ行(ゆ)く程(ほど)に、彼(かれ)は鎌倉(かまくら)へ行(ゆ)きぬ。兄弟(きやうだい)は、三浦(みうら)へこそ行(ゆ)きにけれ。
@〔平六兵衛(へいろくびやうゑ)が喧嘩(けんくわ)の事(こと)〕S0411N069
此処(ここ)に、十郎(じふらう)が身(み)にあてて、思(おも)はざる不思議(ふしぎ)こそ出(い)で来(き)けれ。故(ゆゑ)を如何(いか)にと尋(たづ)ぬるに、三浦(みうら)平六兵衛(へいろくびやうゑ)が妻女(さいぢよ)は、合沢(あひざは)の土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)が娘(むすめ)なり。此(こ)の人々(ひとびと)とは従姉妹(いとこ)なり。幼少(えうせう)より、叔母(おば)に養(やう)ぜられて、伊藤(いとう)に有(あ)りける程(ほど)に、十郎(じふらう)と一所に育(そだ)ちけり。やうやう成人(せいじん)する程(ほど)に、十郎(じふらう)、彼(かれ)に忍(しの)びて、情(なさけ)を懸(か)けたりける。互(たが)ひの志(こころざし)深(ふか)ければ、家(いへ)にも取(と)りすゑ、誠(まこと)の妻(つま)にも定(さだ)むべかりしを、敵(かたき)を打(う)たんと思(おも)ひけるP189間(あひだ)、家(いへ)を忘(わす)れて、只(ただ)女(をんな)のもとへぞ通(かよ)ひける。かくて、日数(ひかず)をふる程(ほど)に、父(ちち)、是(これ)をば知(し)らずして、平六兵衛(へいろくびやうゑ)にあはすべしとてこひけり。忍(しの)ぶ事(こと)なりければ、知(し)らで、成人(せいじん)の娘(むすめ)、一人(ひとり)おくべきにあらずとて、三浦(みうら)へ遣(や)りにけり。女(をんな)又(また)、「斯(か)かる事(こと)有(あ)り」と言(い)ふべきにあらねば、十郎(じふらう)が方(かた)へ、忍(しの)びて文(ふみ)を遣(や)り、詳(くは)しく問(と)ふ。然(さ)れども、けはけはしく、誠(まこと)の妻(つま)とも頼(たの)まざりければ、恨(うら)みの袖(そで)しをるるのみにて、親(おや)にはからはれて、力(ちから)及(およ)ばずして、義村(よしむら)が方(かた)へ行(ゆ)きにけり。然(さ)れども、志(こころざし)の深(ふか)ければ、或(あ)る時(とき)、義村(よしむら)が在京(ざいきやう)の隙(ひま)に、忍(しの)びて十郎(じふらう)がもとへ文(ふみ)を遣(つか)はしけり。従姉妹(いとこ)の文(ふみ)也(なり)ければ、祐成(すけなり)見(み)て、苦(くる)しからずと思(おも)ひけれども、留守(るす)の間(あひだ)は、然(しか)るべからずとて、返事(へんじ)もせざりけり。人の口(くち)のはかなさは、義村(よしむら)に知(し)らせたりけり。不思議(ふしぎ)に思(おも)ひ、内々(ないない)尋(たづ)ね聞(き)かばやと思(おも)ふ程(ほど)に、京都(きやうと)の御用(ごよう)過(す)ぎて、鎌倉(かまくら)へ参(まゐ)りけるに、曾我(そが)の人々(ひとびと)は、三浦(みうら)より帰(かへ)り様(さま)に、腰越(こしごえ)にて行(ゆ)き合(あ)ひけり。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、三浦(みうら)の殿(との)原(ばら)とは知(し)らで、馬鞍(むまくら)見(み)苦(ぐる)しと思(おも)ひければ、傍(かたはら)へ駒(こま)打(う)ち寄(よ)せ、人々(ひとびと)を通(とほ)さんとす。平六兵衛(へいろくびやうゑ)は、曾我(そが)の十郎(じふらう)と見(み)て、日頃(ひごろ)の便宜(びんぎ)を喜(よろこ)び、郎等(らうどう)二三騎(ぎ)有(あ)りけるを、遙(はる)かの後(あと)に残(のこ)しおき、むねとの者(もの)六七騎(き)相(あひ)具(ぐ)して、此(こ)の人々(ひとびと)の隠(かく)れ居(ゐ)たる船(ふね)の陰(かげ)に押(お)し寄(よ)せ、「誠(まこと)や、御分(ごぶん)は、義村(よしむら)が在京(ざいきやう)の間(あひだ)に聞(き)く事(こと)有(あ)り」と、にがにがしく言(い)ひ掛(か)けたり。然(さ)れども、十郎(じふらう)事(こと)ともせず、あざ笑(わら)ひ、P190「いかさま、人の讒言(ざんげん)と覚(おぼ)え候(さうら)ふ。よくよく尋(たづ)ね聞(き)こし召(め)し候(さうら)へ。斯様(かやう)の次第(しだい)、見参(げんざん)に入(い)り、ぢきに承(うけたまは)り候(さうら)ふ所(ところ)、所縁(しよえん)の証(しるし)と存(ぞん)ずる也(なり)。仮令(たとへ)身(み)に誤(あやま)り有(あ)り共(とも)、一度(いちど)は御免(ごめん)にや蒙(かうぶ)るべき」とぞ言(い)ひける。五郎(ごらう)は、義村(よしむら)が大(おほ)きに怒(いか)りたる気色(きしよく)を見(み)て、靫(うつぼ)より大(だい)の雁股(かりまた)抜(ぬ)き出(い)だし、矢先(やさき)を義村(よしむら)にあて、只(ただ)一矢(や)と思(おも)ふ顔魂(かほたましひ)、差(さ)し現(あらは)れたり。義村(よしむら)、五郎(ごらう)が勢(いきほひ)を見(み)て、誠(まこと)に大剛(だいかう)のをこの者(もの)也(なり)、命勝負(いのちしようぶ)しては、損(そん)なり、後日(ごにち)をこそと思(おも)ひ鎮(しづ)めて、何(なに)と無(な)き辞儀(じんぎ)に言(い)ひ成(な)して、鎮(しづ)まりぬ。此(こ)の人々(ひとびと)、事(こと)弱(よわ)くも見(み)えなば、即(すなは)ち内(うち)も違(ちが)へべき体(てい)なりしかども、五郎(ごらう)も、思(おも)ひ切(き)りたる色(いろ)見(み)えければ、其(そ)の儘(まま)通(とほ)りにけり。身(み)をかろくして、名(な)を重(おも)くすれば、十分(じふぶん)に死(し)ぬべき害(がい)を逃(のが)るるとは、斯様(かやう)の事(こと)を言(い)ふべきにや、不思議(ふしぎ)なりし事(こと)共(ども)なり。
@〔三浦(みうら)の片貝(かたかひ)が事(こと)〕S0412N070
又(また)、此(こ)の人々(ひとびと)の伯母聟(おばむこ)に、三浦(みうら)の別当(べつたう)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。片貝(かたかひ)と言(い)ひて、優(いう)なる美女(びぢよ)を召(め)し使(つか)ひけり。別当(べつたう)、折々(をりをり)情(なさけ)を懸(か)けたりしを、女房(にようばう)聞(き)き、安(やす)からずに思(おも)ひ、淵川(ふちかは)にも身(み)を沈(しづ)めんと言(い)ひければ、「如何(いか)でか、彼(かれ)等(ら)体(てい)の者(もの)に思(おも)ひかへ奉(たてまつ)るべき。P191月まつ程(ほど)の夕(ゆふ)まぐれ、風(かぜ)の便(たよ)りの徒然(つれづれ)を慰(なぐさ)むにこそ。今(いま)より後は、思(おも)ひ捨(す)てぬべし。心(こころ)安(やす)く」と言(い)ひけれ共(ども)、猶(なほ)も思(おも)ひ止(とど)まらで、うづみ火(び)の下(した)に焦(こ)がるるたきもののにほひは、余所(よそ)に現(あらは)れて、心(こころ)を此(こ)の儘(まま)にて、事(こと)を限(かぎ)らんと思(おも)ひつつ、十郎(じふらう)に言(い)ひ合(あ)はせんとて、急(いそ)ぎ人を遣(つか)はし、十郎(じふらう)を呼(よ)び寄(よ)せけり。いつと無(な)く、行(ゆ)きむつぶる事(こと)なれば、伯母(おば)は十郎(じふらう)を傍(かたはら)に招(まね)き寄(よ)せ、「是(これ)に、片貝(かたかひ)とて、召(め)し使(つか)ふ女(をんな)有(あ)り。かたち・心様(こころざま)・品(しな)、世(よ)に越(こ)えたり。一人(ひとり)あれば、如何(いか)なる事(こと)もこそと覚束無(おぼつかな)く覚(おぼ)ゆれば、風(かぜ)の便(たよ)りのおとづれに、まつには音(おと)する習(なら)ひなり。何(なに)かは苦(くる)しかるべき。曾我(そが)へ具足(ぐそく)し給(たま)へかし」と語(かた)りければ、親方(おやかた)の言(い)ふ事(こと)なり、かねても斯様(かやう)の事(こと)とは夢(ゆめ)にも知(し)らで、「さ承(うけたまは)りぬ」と言(い)ふ。女房(にようばう)、やがて片貝(かたかひ)を呼(よ)び出(い)だして、しかしかと語(かた)る。十郎(じふらう)は、曾我(そが)にさして用(よう)の事(こと)有(あ)りければ、其(そ)の夜(よ)をまつまでも無(な)く、暮(く)れ程(ほど)に帰(かへ)りけり。此(こ)の事(こと)、別当(べつたう)が郎等(らうどう)共(ども)、ほの聞(き)きて、片貝(かたかひ)を曾我(そが)へ取(と)りて行(ゆ)くぞと心(こころ)得(え)て、伊沢(いざわ)の平蔵(へいざう)、深瀬(ふかせ)の源八(げんぱち)、難波(なんば)の太郎を先(さき)として、むねとの者(もの)七八人寄(よ)り合(あ)ひて、「不思議(ふしぎ)を振舞(ふるま)ひ給(たま)ふ祐成(すけなり)かな。是(これ)程(ほど)の事(こと)、別当(べつたう)に申(まう)すまでも有(あ)るべからず。いざや行(ゆ)きて、彼(か)の女(をんな)奪(うば)ひ返(かへ)さん」「然(しか)るべし」とて、馬(うま)引(ひ)き寄(よ)せ引(ひ)き寄(よ)せ打(う)ち乗(の)りて、三浦(みうら)を打(う)ち出(い)でつ、ふ川(かわ)のはたにて、追(お)ひ付(つ)きたり。彼(かれ)等(ら)、片手矢(かたてや)をはめて、矢筈(やはず)を取(と)り、余(あま)すまじとて、思(おも)ひ掛(か)けP192たり。十郎(じふらう)、何事(なにごと)とは知(し)らねども、子細(しさい)有(あ)りと心(こころ)得(え)て、馬(むま)より下(お)り立(た)ち、弓(ゆみ)取(と)り直(なほ)し、「何事(なにごと)にや」と問(と)ふ。此(こ)の者(もの)共(ども)、掛(か)け見(み)れば、片貝(かたかひ)は無(な)し。然(さ)れども、言(い)ひかかりたる事(こと)なれば、振舞(ふるま)ひ然(しか)るべからず、尋(たづ)ねて参(まゐ)らん為(ため)なりとて、既(すで)に事実(ことじつ)に見(み)えけり。始(はじ)めをはりをも知(し)らず、敵(てき)は又(また)、伯母(をば)の若党(わかたう)なり。打(う)ち違(ちが)へても、詮(せん)無(な)し。如何(いか)にもして、逃(のが)ればやと思(おも)ひければ、自(みづか)ら弓(ゆみ)を投(な)げ出(い)だし、「陳(ちん)ずるには似(に)たれども、身(み)におきて、事(こと)を覚(おぼ)えず。さもあれ、僻事(ひがこと)有(あ)りとも、斯様(かやう)には有(あ)るまじ。鎮(しづ)まり給(たま)へ。別(べち)に思(おも)ふ子細(しさい)有(あ)りて、降(かう)をこひ申(まう)すなり。自然(しぜん)の時(とき)、思(おも)ひ知(し)るべし」と言(い)ひければ、伊沢(いざは)の平三(へいざう)、「仰(おほ)せの如(ごと)く、人の讒言(ざんげん)にてもや有(あ)るらん。まさしく片貝(かたかひ)を具足(ぐそく)して、御(おん)こしとこそ聞(き)きつる。さもあらねば、あらたむるに及(およ)ばず。其(そ)の上、御陳法(ちんぽふ)の上は、重(かさ)ねて申(まう)すべからず」とて、皆(みな)三浦(みうら)に帰(かへ)りけり。十郎(じふらう)は、ちぢに腹(はら)を切(き)り、打(う)ち違(ちが)へても、あかず思(おも)ひけれども、父(ちち)の為(ため)にそなへて置(お)きたる命(いのち)、思(おも)はざる事(こと)に、はつべきかと思(おも)ひ、自害(じがい)を逃(のが)れけるこそ、無慙(むざん)なれ。漢朝(かんてう)の呉王(ごわう)夫差(ふさ)は、越王(ゑつわう)勾踐(こうせん)の為(ため)に、みふんみつのみて、命を継(つ)ぎ、会稽山(くわいけいざん)に、二度(ふたたび)恥(はぢ)を清(きよ)めるも、今(いま)の十郎(じふらう)が心(こころ)に同(おな)じ。無慙(むざん)と言(い)ふも、言葉(ことば)に余(あま)り、哀(あは)れと言(い)ふも、涙(なみだ)に立(た)たざりけり。別当(べつたう)、是(これ)を尋(たづ)ね聞(き)き、涙(なみだ)を流(なが)し、宣(のたま)ひけるは、「思(おも)ひ忘(わす)るるかと案(あん)じつるに、未(いま)だ心(こころ)に懸(か)けらるるP193や。十郎(じふらう)呼(よ)べ」とて、呼(よ)ばせけり。過(あやま)たず帰(かへ)り来(き)たりぬ。三浦(みうら)の別当(べつたう)、対面(たいめん)して、「さても、是(これ)なる者(もの)共(ども)の、聞(き)き分(わ)けたる事(こと)も無(な)くて、不思議(ふしぎ)の振舞(ふるま)ひしつるらん。まつたく、某(それがし)は知(し)らず候(さうら)ふ。もし偽(いつは)り申(まう)さば、二所(にしよ)大権現(ごんげん)も、御覧(ごらん)候(さうら)へ、弓矢(ゆみや)の冥加(みやうが)、立所(たちどころ)に絶(た)えなんずるに、思(おも)ひだによらざる事(こと)なり。仮令(たとひ)面々(めんめん)の誤(あやま)り、十分(じふぶん)に有(あ)りと言(い)ふとも、如何(いか)でか、斯様(かやう)の沙汰(さた)をば致(いた)すべき。其(そ)れ程(ほど)の事(こと)に、迷(まよ)ふべき身(み)ならず。予(かね)ても知(し)り給(たま)ひぬらん。腹(はら)い給(たま)へ」とて、片貝(かたかひ)を呼(よ)び出(い)だし、十郎(じふらう)にとらせけり。つつしんで申(まう)しけるは、「仰(おほ)せまでも候(さうら)はず。御意(ぎよい)とは存(ぞん)ぜず。其(そ)の上、身(み)に誤(あやま)り候(さうら)はねば、無念(むねん)と申(まう)すべきにもあらず。然(さ)るに取(と)りては、苦(くる)しく候(さうら)はぬ」とて、片貝(かたかひ)をば、別当(べつたう)のもとに捨(す)ておき、曾我(そが)の里(さと)へぞ帰(かへ)りにける。彼(か)の郎等(らうどう)共(ども)、深(ふか)く勘当(かんだう)しけるとかや。此(こ)の事(こと)を詳(くは)しく問(と)ひければ、女(をんな)のわざにてぞ有(あ)りける。然(さ)れば、嫉妬(しつと)の女(をんな)は、前後(ぜんご)をわきまへずして、家(いへ)を失(うしな)ふ仮令(たとへ)、今(いま)に始(はじ)めずと雖(いへど)も、か程(ほど)の大事(だいじ)出(い)で来(き)なんとは知(し)らで、言(い)ひ合(あ)はせけるぞ、誠(まこと)の嫉妬(しつと)にて有(あ)りける。別当(べつたう)は、しかしながら、向顔(かうがん)せざるまでとて、女(をんな)と離別(りべつ)しける、理(ことわり)とぞ聞(き)こえし。さても、十郎(じふらう)が此処(ここ)へ逃(のが)れけるにて、左伝(さでん)の言葉(ことば)を思(おも)ふに、「身(み)に思(おも)ひのあらん時(とき)は、万(よろづ)恥(はぢ)を捨(す)てて、害(がい)を逃(のが)れよ」となり。相(あひ)あふ心(こころ)なるとかや。P194
@〔虎(とら)を具(ぐ)して、曾我(そが)へ行(ゆ)きし事(こと)〕S0413N071
かくて、月日(つきひ)を送(おく)りけるが、定(さだ)むる妻(つま)もつべからずとて、只(ただ)虎(とら)が情(なさけ)ばかりに引(ひ)かれて、折々(をりをり)通(かよ)ひなれける。互(たが)ひの志(こころざし)の深(ふか)さは、たたふつくんにも劣(おと)らず、千代(ちよ)万世(よろづよ)とぞ契(ちぎ)りける。抑(そもそも)、此(こ)の虎(とら)と申(まう)すは、母(はは)は、大磯(おほいそ)の長者(ちやうじや)、父(ちち)は、一年(ひととせ)東(あづま)に流(なが)されし、伏見(ふしみ)の大納言(だいなごん)実基卿(さねもとのきやう)にてぞ坐(ま)しましける。男女(なんによ)の習(なら)ひ、旅宿(りよしゆく)の徒然(つれづれ)、一夜(いちや)の忘(わす)れがたみなり。然(さ)れば、虎(とら)が心様(こころざま)、尋常(じんじやう)にして、和歌(わか)の道(みち)に心(こころ)を寄(よ)せ、人丸(ひとまる)・赤人(あかひと)の跡(あと)を尋(たづ)ね、業平(なりひら)・源氏(げんじ)の物語(ものがたり)に情(なさけ)を携(たづさ)へ、春(はる)は、花の梢(こずゑ)にちりまがふ霞(かすみ)がくれの天(あま)つ雁(かり)、雲居(くもゐ)の上(うへ)に心(こころ)を残(のこ)し、秋(あき)は、月の前(まへ)にくもらぬ時雨(しぐれ)の夜嵐(あらし)に、明(あ)け行(ゆ)く雲(くも)のうき枕(まくら)、鹿(しか)の音(ね)近(ちか)き虫(むし)の声(こゑ)、哀(あは)れを催(もよほ)す小田守(をだもり)の、庵(いほり)寂(さび)しさまでも、心(こころ)を遣(や)らぬ方(かた)は無(な)し。住(す)みも定(さだ)めぬ世(よ)の中(なか)の、移(うつ)り変(か)はるも恨(うら)めしく、こひの暮(く)れとや偽(いつは)りを、頼(たの)み顔(がほ)なるうら情(なさけ)、向(む)かひて言(い)ふもさすがなり。さてまたいつと夕(ゆふ)つ方(かた)、五月始(はじ)めの事(こと)なるに、南面(みなみおもて)の御簾(みす)近(ちか)く立(た)ち出(い)でて、来(こ)し方(かた)行(ゆ)く末(すゑ)の事(こと)共(ども)、つくづく思(おも)ひつらぬるに、誠(まこと)に男(をとこ)の心(こころ)程(ほど)、頼(たの)み少(すく)なき物(もの)は無(な)し、実(げ)に浅(あさ)からず契(ちぎ)りしも、空(むな)しかりける妹背(いもせ)の中(なか)、頼(たの)みP195し末(すゑ)もいつしかに、変(か)はりはてぬる言(こと)の葉(は)かな。さて又(また)、いつの同(おな)じ世(よ)に、あひて恨(うら)みを語(かた)るべき。実(げ)にや、昔(むかし)を思(おも)ふに、「物(もの)は遠(とほ)きを珍(めづら)しと、しはまれなるを尊(たつと)しとす」と雖(いへど)も、何(なに)とてさのみうときやらんと、涙(なみだ)にむせぶ夕暮(ゆふぐれ)に、五月雨(さみだれ)の風よりはるる雲(くも)の絶間(たえま)、其(そ)れとしも無(な)き時鳥(ほととぎす)、只(ただ)一声(ひとこゑ)に聞(き)き絶(た)えぬ、憂(う)き身(み)の上(うへ)もかくやらんと、古歌(こか)を思(おも)ひ出(い)でて、夏山(なつやま)に鳴(な)く時鳥(ほととぎす)心(こころ)あらばもの思(おも)ふ身(み)に声(こゑ)な聞(き)かせそ W004と打(う)ちながめて、立(た)ちたる所(ところ)に、十郎(じふらう)、三浦(みうら)より帰(かへ)りけるが、たたずみたる縁(えん)の際(きは)に、駒(こま)打(う)ち寄(よ)せ、広縁(ひろえん)に下(お)り立(た)ち、「如何(いか)にや、程(ほど)遙(はる)かに、見参(げんざん)に入(い)らざる、心(こころ)許(もと)無(な)きよ」とて、鞭(むち)にて簾(すだれ)打(う)ち上(あ)げ、立(た)ち入(い)りければ、虎(とら)は返事(へんじ)もせずして、内(うち)に入(い)りぬ。祐成(すけなり)、心(こころ)得(え)ず思(おも)ひ、「情(なさけ)は人の為(ため)ならず、無骨(ぶこつ)の所(ところ)へ参(まゐ)りたり。又こそ参(まゐ)らめ」とて、駒(こま)引(ひ)き寄(よ)せ、乗(の)らんとす。虎(とら)、急(いそ)ぎ立(た)ち出(い)でて、「然様(さやう)には思(おも)ひ奉(たてまつ)らず。此(こ)の程(ほど)、かき絶(た)え給(たま)へる恨(うら)めしと言(い)ひ、万(よろづ)世(よ)の中のあぢきなくて、涙(なみだ)のこぼるる顔(かを)ばせの恥(は)づかしくて」と、打(う)ち笑(わら)ひて、袖差(さ)しかざし、「申(まう)すべき事(こと)の候(さぶら)ふ。しばしや」とて、直垂(ひたたれ)の袖(そで)に取(と)り付(つ)きたる。心(こころ)弱(よわ)くも、祐成(すけなり)は、引(ひ)かるる袖(そで)に立(た)ち返(かへ)り、「さぞ思(おぼ)すらん。此(こ)の程(ほど)は、立(た)つ名(な)の余所(よそ)にやもるると、粗略(そりやく)は無(な)きを、何(なに)と無(な)く打(う)ち守(まぼ)られける、本意(ほい)無(な)さよ」と、こまごまと語(かた)りP196て、「今宵(こよひ)は、此処(ここ)に止(とど)まりつつ、枕(まくら)の上(うへ)の睦言(むつごと)を、夢(ゆめ)にもさぞと思(おも)へ共(ども)、さして所望(しよまう)の子細(しさい)有(あ)り。いざさせ給(たま)へ」とていざなひ、乗(の)りたる馬(うま)に打(う)ち乗(の)せ、曾我(そが)の里(さと)へぞ帰(かへ)りける。日頃(ひごろ)、世(よ)に無(な)し物(もの)の君(きみ)を思(おも)ふとて、内々(ないない)母(はは)の制(せい)し給(たま)ふ由(よし)、ほの聞(き)きければ、幾程(いくほど)有(あ)るまじき身(み)の、心(こころ)苦(ぐる)しく思(おも)はれ奉(たてまつ)らじとて、母(はは)がもとより北(きた)に作(つく)りたる家有(あ)り、此処(ここ)に隠(かく)し置(お)きぬ。祐成(すけなり)、此(こ)の程(ほど)、遙(はる)かに母(はは)を見(み)奉(たてまつ)らず、参(まゐ)りて見(み)参(まゐ)らせんとて、沓(くつ)・行縢(むかばき)、未(いま)だ脱(ぬ)がざるに、母(はは)の方(かた)へぞ出(い)でける。祐成(すけなり)を見(み)給(たま)ひて、「如何(いか)にや、遙(はる)かにこそ覚(おぼ)ゆれ。中々(なかなか)、御房(ばう)、斯様(かやう)にあらば、見(み)んとも思(おも)ひ寄(よ)らじ。いきて、童(わらは)が孝養(けうやう)に、つねに見(み)え給(たま)へ。わ殿の父(ちち)、打(う)たれ給(たま)ひて後(のち)は、偏(ひとへ)に形見(かたみ)と思(おも)ひ、いとほしくも、頼(たの)もしくも思(おも)ふぞとよ。箱王(はこわう)と申(まう)せし悪者(わるもの)は、不孝(ふかう)にして、行方(ゆくへ)も知(し)らず。わ殿(との)は何(なに)を不審(ふしん)して、此(こ)の程(ほど)遙(はる)かに見(み)え給(たま)はぬぞ」とくどき給(たま)ひけり。後(のち)に思(おも)ひ合(あ)はすれば、添(そ)ひはつまじきにて、斯様(かやう)也(なり)と哀(あは)れ也(なり)。十郎(じふらう)承(うけたまは)りて、無慙(むざん)の子(こ)やと御覧(ごらん)ぜんも、今(いま)幾程(いくほど)と哀(あは)れにて、「何(なに)と無(な)く、親(した)しき方に遊(あそ)び候(さうら)ふ」とて、扇(あふぎ)を取(と)り直(なほ)し、忍(しの)ぶ涙(なみだ)は、隙(ひま)も無(な)し。母(はは)又(また)仰(おほ)せられけるは、「是(これ)程(ほど)にことことしく、親(おや)に思(おも)はれて何(なに)にかはせん。せめて五日に、一度(いちど)は見(み)え給(たま)へ」と有(あ)りければ、十郎(じふらう)涙(なみだ)を抑(おさ)へ、「承(うけたまは)りぬ」とて、罷(まか)り立(た)ちにけり。虎(とら)をば、其(そ)の夜止(とど)め置(お)きけり。
P197曾我物語巻第五(だいご)
〔浅間(あさま)の御狩(みかり)の事(こと)〕S0501N072
刑鞭(けいべん)蒲(がま)くちて、蛍(ほたる)空(むな)しくさり、諌鼓(かんこ)苔(こけ)深(ふか)うして、鳥驚(おどろ)かせぬ御世、静(しづ)かなるに依(よ)り、頼朝(よりとも)は、昼夜(ちうや)の遊覧(いうらん)に、月日(つきひ)の行(ゆ)くを忘(わす)れさせ給(たま)ひけり。或(あ)る時(とき)梶原(かじはら)を召(め)して、「さしたる事(こと)も無(な)きに、国々の侍(さぶらひ)を召(め)すに及(およ)ばず、近国(きんごく)の方々(かたがた)、有(あ)り合(あ)はんに従(したが)ひて、用意(ようい)有(あ)るべし。信濃(しなの)の国(くに)浅間野(あさまの)をからせて見(み)ん」と仰(おほ)せ下(くだ)されけり。景時(かげとき)承(うけたまは)りて、此(こ)の由(よし)相(あひ)ふれけり。面々(めんめん)の支度(したく)、分々(ぶんぶん)の大事(だいじ)とぞ見(み)えし。曾我(そが)の五郎(ごらう)聞(き)きて、兄(あに)に申(まう)しけるは、「信濃(しなの)の浅間(あさま)をからるべきにて、近国(きんごく)の侍(さぶらひ)にふれられ候(さうら)ふ。哀(あは)れ、御供(おんとも)申(まう)して、便宜(びんぎ)を窺(うかが)ひ候(さうら)はばや。斯様(かやう)の所(ところ)こそ、よき間(ま)も有(あ)りぬべく候(さうら)へ。思(おぼ)し召(め)し立(た)ち候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「如何(いかが)せん、信濃(しなの)まで御供(おんとも)仕(つかまつ)り候(さうら)はば、我(われ)等(ら)が中(なか)に、馬(むま)の四五匹(ひき)も有(あ)りてこそ、思(おも)ひ立(た)ため」と言(い)ふ。「斯様(かやう)に思(おぼ)し召(め)し候(さうら)はば、此(こ)の事(こと)、一期(いちご)の間(あひだ)、適(かな)ふべからず。恐(おそ)れ入(い)りて候(さうら)へP198ども、悪(あ)しき御心(おんこころ)えと存(ぞん)じ候(さうら)ふ。君(きみ)に仕(つか)へ、御恩(ごおん)かうむり、いみじき身(み)にても候(さうら)はば、馬(むま)をも引(ひ)かせ、乗(の)りがへをも具(ぐ)して、美々(びび)しく候(さうら)ふべし。斯様(かやう)の事(こと)思(おも)ひ立(た)つ身(み)は、恥(はぢ)をも思(おも)ふべからず、栄華(えいぐわ)名聞(みやうもん)は、世(よ)に有(あ)りての事(こと)にて候(さうら)ふ。只(ただ)、蓑笠(みのかさ)・粮料(らうれう)持(も)ちたる者(もの)、四五人召(め)し具(ぐ)し、姿(すがた)をかへて、わら沓(ぐつ)しばりはき、弓矢(ゆみや)はことことし、太刀(たち)ばかりにて、雑人(ざふにん)に交(まじ)はり、宿々(やどやど)にて、便宜(びんぎ)を窺(うかが)ふにはしくべからず。曾我(そが)には、三浦(みうら)・北条(ほうでう)にて、いつもの如(ごと)く遊(あそ)ぶらんと思(おぼ)し召(め)し候(さうら)ひなん」と申(まう)しければ、「然(しか)るべし」とて、出(い)でにけり。其(そ)の日ばかりは、馬(うま)にぞ乗(の)りたり。誠(まこと)に思(おも)ひ入(い)りたる姿(すがた)、哀(あは)れにぞ見(み)えし。鎌倉(かまくら)殿(どの)は、武蔵(むさし)の国(くに)関戸(せきど)の宿(しゆく)につかせ給(たま)ふ。「旅宿(りよしゆく)の習(なら)ひ、盗人(ぬすびと)に馬(むま)取(と)らるるな。あやしき者(もの)あらば、かたく咎(とが)むべし」など、用心(ようじん)厳(きび)しかりければ、寸(すん)の間(ま)も無(な)かりけり。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、夜(よ)もすがら微睡(まどろ)む程(ほど)の枕(まくら)にも打(う)ちねずして、此処(ここ)や彼処(かしこ)に徘徊(はいくわい)して、明(あ)かしけるこそ、無慙(むざん)なれ。明(あ)けければ、入間(いるま)の久米(くめ)にて、追鳥狩(おひとりがり)ぞ有(あ)りける。此(こ)の人々(ひとびと)も、勢子(せこ)の者(もの)共(ども)に交(まじ)はり、かり杖(づゑ)振(ふ)りたてて、心(こころ)も起(お)こらぬ鳥(とり)をたて、落葉(おちば)に目(め)をば懸(か)けずして、もしも尋(たづ)ぬる人もやと、岡(をか)の遠見(とほみ)立(た)ち交(まじ)はり、此処(ここ)や彼処(かしこ)に狙(ねら)へども、敵(かたき)は馬(むま)にて馳(は)せめぐり、彼(かれ)等(ら)はかちなる上(うへ)、弓矢(ゆみや)持(も)た/ざれば、空(むな)しく余所目(よそめ)ばかりにて、其(そ)の日も暮(く)れてはてにけり。入間川(いるまがは)の宿(しゆく)に、其(そ)の夜(よ)は、つかせ給(たま)ふ。国々の人々(ひとびと)参(まゐ)りP199て、辻(つぢ)がため厳(きび)しかりければ、此(こ)の人々(ひとびと)は、夜まはりの者(もの)にかきまぎれ、「御用心(ごようじん)候(さうら)へ。他国(たこく)より、盗賊(たうぞく)数多(あまた)こして候(さうら)ふなる。宿々(しゆくしゆく)の番(ばん)の人々(ひとびと)、打(う)ちとけ給(たま)ふべからず」と、太刀(たち)引(ひ)きそばめ、屋形(やかた)屋形(やかた)を言(い)ひめぐる。見(み)知(し)りたる人無(な)ければ、哀(あは)れよきかと打(う)ちうなづき、祐経(すけつね)が屋形(やかた)へぞ忍(しの)び入(い)る。不運(ふうん)の極(きは)めにや、折節(をりふし)、新田(につた)の三郎(さぶらう)客人(きやくじん)にて、若党(わかたう)数多(あまた)立(た)ち隔(へだ)て、馬(むま)見(み)/て、庭(には)に立(た)ちたりしが、笠(かさ)の内(うち)、あやしと見(み)入(い)れ、立(た)ちのけば、また便宜(びんぎ)悪(あ)しくて、「是(これ)は、御前(ごぜん)へ参(まゐ)り候(さうら)ふ雑色(ざつしき)なり。帰(かへ)りて参(まゐ)らん」と陳(ちん)じて、足早(あしばや)にこそ出(い)でにけれ。畠山(はたけやま)の重忠(しげただ)、御前(ごぜん)より帰(かへ)られけるに、行(ゆ)き合(あ)ひたり。あはやと思(おも)ひ、松明(たいまつ)のかげへぞ忍(しの)びける。雑色(ざつしき)、燈火(ともしび)を振(ふ)りたてて、「何者(なにもの)ぞ」と咎(とが)めにけり。重忠(しげただ)聞(き)きて、「咎(とが)めず共(とも)の者(もの)ぞ」と宣(のたま)へば、物(もの)をも言(い)はで、過(す)ぎにけり。姿(すがた)ばかりにて、見(み)知(し)り給(たま)ひつると、後(のち)には思(おも)ひ知(し)られける。重忠(しげただ)、此(こ)の人々(ひとびと)の屋形(やかた)へ消息(せうそく)有(あ)り。「御志(おんこころざし)共(ども)、哀(あは)れに覚(おぼ)え候(さうら)ふ。わざと詳(くは)しくは申(まう)さず候(さうら)ふ。後楯(うしろだて)にはなり申(まう)すべし。御用意(ごようい)こそ候(さうら)ふらめ」とて、粮物(らうぶつ)少(すこ)し送(おく)られけり。此(こ)の人々(ひとびと)は、返事(へんじ)言(い)ひ難(がた)くして、「只(ただ)畏(かしこ)まり存(ぞん)じ候(さうら)ふ」とばかり言(い)ひて、返(かへ)しける。かくるるとはすれども、然(しか)るべき人は知(し)りけり。万(よろづ)、余所目(よそめ)を忍(しの)ぶ事(こと)なれば、其(そ)の夜(よ)も、空(むな)しく明(あ)けにけり。次(つぎ)の日は、大倉(おほくら)・児玉(こだま)の宿々(しゆくしゆく)にて、便宜(びんぎ)を窺(うかが)ひけれども、七党(ななたう)の人々(ひとびと)、用心(ようじん)厳(きび)しくしければ、其(そ)の日P200も打(う)たで、暮(く)れにけり。其(そ)の夜(よ)は、上野(かうづけ)の国(くに)松井田(まつゐだ)の宿(しゆく)につき給(たま)ふ。其(そ)の夜(よ)、其(そ)れにて狙(ねら)へども、山名(やまな)・里見(さとみ)の人々(ひとびと)、宿直(とのゐ)に参(まゐ)り、用心(ようじん)隙(ひま)無(な)くて、打(う)つべき様(やう)は無(な)かりけり。明(あ)くれば、信濃(しなの)と上野(かうづけ)との境(さかひ)なる碓氷(うすゐ)の南(みなみ)の坂(さか)の下につき給(たま)ふ。其(そ)の夜(よ)も、両国(りやうごく)の御家人(ごけにん)集(あつ)まりて、辻々(つじつじ)を固(かた)め、知(し)らざる者(もの)を咎(とが)むれば、よりて打(う)つべき様(やう)も無(な)し。次(つぎ)の日は、碓氷峠(うすいがたうげ)に打(う)ち上(あ)がりて、矢立(やたて)の明神(みやうじん)に上矢(うわや)を参(まゐ)らせ、御狩(みかり)始(はじ)め渡(わた)らせ給(たま)ひけり。朝倉山(あさくらやま)に影(かげ)深(ふか)く、露(つゆ)ふき結(むす)ぶ風(かぜ)の音(おと)、まつばかりとやたはぶらん。又(また)立(た)ち残(のこ)るうす雲(ぐも)の、峰(みね)よりはるる朝(あさ)ぼらけ、梢(こずゑ)まばらの遠里(とほざと)は、小野(をの)の里(さと)にや続(つづ)くらん。所々(ところどころ)の高草(たかくさ)の、下に声(こゑ)有(あ)る谷(たに)の水(みづ)、岩間(いはま)岩間(いはま)に伝(つた)ひ来(き)て、勢子声(せこごゑ)、かり杖(づゑ)、音(おと)しげく、折(をり)から心(こころ)すごくぞ、からせ給(たま)ひける。野守(のもり)も、驚(おどろ)くばかりなり。然(さ)る程(ほど)に、はれたる空(そら)、俄(にはか)にかきくもり、なる神(かみ)おびたたしくして、雨(あめ)かき暮(く)れてふりければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)を始(はじ)めとして、皆々(みなみな)とどこほり、興(きよう)を失(うしな)ひ、花やかなりし姿(すがた)共(ども)、思(おも)ひの外(ほか)に引(ひ)きかへて、茅草(ちくさ)の蓑(みの)、菅(すげ)の小笠(おがさ)、変(か)はりはてたる村雨(むらさめ)に、袂(たもと)はしをれ、裾(すそ)はぬれ、上下共(とも)に露(つゆ)けき色(いろ)、無興(ぶきよう)と言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。其(そ)の日は、碓氷(うすい)に帰(かへ)り給(たま)ひぬ。旅宿(りよしゆく)の盗人(たうじん)有(あ)るべしとて、国々(くにぐに)の侍(さぶらひ)、参(まゐ)り集(あつ)まり、辻々(つじつじ)をぞ固(かた)めける。P201
〔五郎(ごらう)と源太(げんだ)と喧嘩(けんくわ)の事(こと)〕S0502N073
曾我(そが)の人々(ひとびと)は、雑人(ざふにん)にやまぎるると、古(ふる)き蓑(みの)に、編笠(あみがさ)深(ふか)く引(ひ)きこみて、太刀(たち)脇(わき)はさみ、通(とほ)る所(ところ)に、折節(をりふし)、源太(げんだ)左衛門(さゑもん)景季(かげすゑ)、三浦(みうら)の屋形(やかた)より返(かへ)るに、十文字(じふもんじ)に行(ゆ)き合(あ)ひぬ。此(こ)の人々(ひとびと)は、源太(げんだ)と見(み)成(な)し、笠(かさ)を深(ふか)く傾(かたぶ)け、眦(まじり)に掛(か)けてぞ通(とほ)りける。源太(げんだ)、是(これ)をひかへつつ、「是(これ)なる者(もの)共(ども)のあやしさよ、止(とど)まれ」とぞ咎(とが)めける。十郎(じふらう)立(た)ち返(かへ)り、笠(かさ)の下より、「和田(わだ)殿(どの)の雑色(ざつしき)也(なり)」と言(い)ふ。「其(そ)れは何(なに)とて忍(しの)ぶぞや。名(な)をば何(なに)と言(い)ふぞ」「藤源次(とうげんじ)と申(まう)す者(もの)なり。和田(わだ)殿(どの)、御所(ごしよ)へ参(まゐ)られ候(さうら)ひつる暇(ひま)を量(はか)り、御屋形(やかた)の次第(しだい)を見物(けんぶつ)仕(つかまつ)り候(さうら)ふ。義盛(よしもり)帰(かへ)る時(とき)になり候(さうら)ふ間(あひだ)、急(いそ)ぎ帰(かへ)り候(さうら)ふ」と言(い)ふ所(ところ)に、梶原(かじはら)が雑色(ざつしき)すすみ出(い)でて、「藤源次(とうげんじ)は、某(それがし)見(み)知(し)りて候(さうら)ふ。是(これ)は、あらぬ者(もの)にて候(さうら)ふ」と言(い)ひければ、「然(さ)ればこそ、あやしかりつれ。先(ま)づ打(う)ち止(とど)めよ」とて、ひしめきけり。五郎(ごらう)、こらへぬ男(をのこ)にて、太刀(たち)取(と)り直(なほ)し、「ことことし、雑人(ざふにん)に目(め)はかくまじ。源太(げんだ)が駒(こま)の向(む)かう脛(づね)なぎ落(お)とさんに、よもこらへじ。落(お)ちん所(ところ)を差(さ)し殺(ころ)し、腹(はら)切(き)るまで」とつぶやきて、兄(あに)を押(お)しのけ、かかりけり。十郎(じふらう)、「しばし」と止(とど)むる時(とき)、折節(をりふし)、義盛(よしもり)は、御前(ごぜん)より帰(かへ)り給(たま)ひしが、源太(げんだ)が声(こゑ)の高(たか)ければ、何事(なにごと)にやとて、立(た)ち寄(よ)りたり。「是(これ)は、和田(わだ)殿(どの)の御内(みうち)の者(もの)」と言(い)ふ声(こゑ)、十郎(じふらう)祐成(すけなり)とP202聞(き)き成(な)し、よく見(み)れば、案(あん)にも違(たが)はず、兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)、思(おも)はぬ姿(すがた)に身(み)をやつし、思(おも)ひ入(い)れたる志(こころざし)、見(み)るに涙(なみだ)ぞこぼれける。「あの冠者(くわんじや)原(ばら)は、義盛(よしもり)が内(うち)の者(もの)にて候(さうら)ふ。奇怪(きくわい)なり。罷(まか)りしされ」と怒(いか)られければ、此(こ)の人々(ひとびと)、死(し)にたき所(ところ)にてあらざれば、傍(かたはら)にこそ忍(しの)びけれ。源太(げんだ)は、其(そ)の後(のち)、駒(こま)打(う)ち寄(よ)せ、大方(おほかた)に色代(しきだい)して、互(たが)ひに屋形(やかた)へぞ帰(かへ)りにける。「さても、源太(げんだ)が勢(いきほひ)は如何(いか)に」。五郎(ごらう)聞(き)きて、「鬼神(おにかみ)なりとも、御首(くび)は、危(あや)ふくこそ覚(おぼ)えしか」。十郎(じふらう)聞(き)きて、「身(み)に思(おも)ひだに無(な)くは、言(い)ふに及(およ)ばず。心(こころ)の物(もの)にかかりては、如何(いか)でか然様(さやう)の事(こと)有(あ)るべき。源太(げんだ)打(う)たん事(こと)は、いと安(やす)し。我(われ)等(ら)が命(いのち)もいき難(がた)し。さては、梶原(かぢはら)を打(う)たんとて、心(こころ)をつくしけるか。向後(きやうこう)は、心(こころ)得(え)給(たま)ひて、身(み)をたばひ、命(いのち)をまつたくして、心(こころ)を遂(と)げ給(たま)ふべし。返(かへ)す返(がへ)す」と言(い)ひながら、夜ふくるまでぞ、居(ゐ)たりける。 夜半(やはん)ばかりに、数十人(すじふにん)の声(こゑ)して、「まさしく此(こ)の辺(ほとり)なり。此方(こなた)にめぐれ。彼処(かしこ)を尋(たづ)ねよ。声(こゑ)な高(たか)くせそ」とて、物(もの)の具(ぐ)音(おと)しきりなり。五郎(ごらう)聞(き)きて、「昼の梶原(かぢはら)が遺恨(いこん)にて、徒(いたづ)らなる者(もの)共(ども)、討手(うつて)に起(お)こせりと覚(おぼ)えたり」。十郎(じふらう)聞(き)きて、「鎮(しづ)まり候(さうら)へ。楚忽(そこつ)の沙汰(さた)有(あ)るべからず。内(うち)の体(てい)も見(み)苦(ぐる)し。先(ま)づ燈火(ともしび)をけせ」とて下知(げぢ)し、今(いま)やと待(ま)ち掛(か)けたり。五郎(ごらう)は、太刀(たち)追(お)つ取(と)つて、既(すで)に屋形(やかた)を出(い)でんとす。十郎(じふらう)、袖をひかへて、「鎮(しづ)まり給(たま)へ。昼(ひる)こそあらめ、夜(よる)なれば、一方(いつぱう)打(う)ち破(やぶ)りP203て、忍(しの)ばん事(こと)いと安(やす)し。仮令(たとひ)何十人(なんじふにん)来(き)たると言(い)ふとも、先(ま)づ一番(いちばん)を切(き)りふせよ。二番(ばん)続(つづ)きて、よも入(い)らじ。まして三番(ばん)しらむべし。仮令(たとひ)乗(の)り越(こ)え切(き)り入(い)る共(とも)、裾(すそ)をなぎふせよ。構(かま)へて、御分(ごぶん)はなるるな。隔(へだ)てられては適(かな)ふまじ。急(いそ)ぎて、外(ほか)へは出(い)づべからず。隙間(すきま)を守(まも)りて、諸(もろ)共(とも)に出(い)で、逃(のが)れば逃(のが)るべし。もし又(また)、逃(のが)れがたなくは、差(さ)し違(ちが)へては死(し)ぬる事(こと)も、雑兵(ざふひやう)の手(て)にばし掛(か)かるな」と言(い)ひつつ、脇(わき)に立(た)ち寄(よ)りて、「今(いま)や入(い)る」と待(ま)ち掛(か)けたり。来(き)たる者(もの)共(ども)、思(おも)はずに、鎮(しづ)まり返(かへ)りて、音(おと)もせず。不思議(ふしぎ)なりとて、聞(き)く所(ところ)に、秘(ひそ)かに門(かど)を叩(たた)きけり。人を出(い)だして、「誰(た)そ」と問(と)ふ。「和田(わだ)殿(どの)よりの御(おん)使(つか)ひなり。昼(ひる)の喧嘩(けんくわ)、危(あや)ふくこそ見(み)えしか、御志(おんこころざし)に、思(おも)はず袖(そで)をこそ絞(しぼ)り候(さうら)ひつれ。わざと此方(こなた)へは申(まう)さず候(さうら)ふ。御用意(ごようい)こそとは存(ぞん)ずれども、国(くに)より持(も)た/せ候(さうら)ふ」とて、樽(たる)二三、粮米(らうまい)添(そ)へて」と言(い)ふ声(こゑ)聞(き)けば、義盛(よしもり)の郎等(らうどう)に、志戸呂(しどろ)の源七(げんしち)が声(こゑ)と聞(き)き、急(いそ)ぎ十郎(じふらう)立(た)ち出(い)でて、返事(へんじ)にも及(およ)ばず、「畏(かしこ)まり入(い)り候(さうら)ふ。罷(まか)り返(かへ)り候(さうら)はば、参(まゐ)り申(まう)すべし」とて返(かへ)しけり。さて、酒(さけ)共(ども)取(と)り散(ち)らし、つれたる者(もの)共(ども)にものませ、夜(よ)も明(あ)けがたになりぬれば、雑人(ざふにん)に交(まじ)はらんとて、蓑笠(みのかさ)・藁沓(わらぐつ)しばりはき、夜(よ)と共(とも)に出(い)でし志(こころざし)、草(くさ)の陰(かげ)なる父(ちち)聖霊(しやうりやう)も、哀(あは)れとや思(おも)ひ給(たま)ふらん、心(こころ)細(ぼそ)さは限(かぎ)り無(な)し。P204
〔三原野(みはらの)の御狩(みかり)の事(こと)〕S0503N075
其(そ)の日は、同(おな)じ国(くに)の三原野(みはらの)をからるべきにてぞ有(あ)りし。各々(おのおの)花ををり、出(い)で立(た)ちけるは理(ことわり)也(なり)。日本国(につぽんごく)に名(な)を知(し)らるる程(ほど)の侍(さぶらひ)、参(まゐ)りつどひければ、天下(てんが)におきてのはれ、何(なに)かは是(これ)に勝(まさ)るべき。既(すで)に君(きみ)御出(おいで)有(あ)りければ、御供(おんとも)の人々(ひとびと)は申(まう)すに及(およ)ばず、見物(けんぶつ)の貴賎(きせん)、野山(のやま)もゆるぐばかりなり。梶原(かじはら)源太(げんだ)、馬(うま)掛(か)けまはし、「誰(たれ)も愚(おろ)かは有(あ)るまじけれども、今日(こんにち)の御狩(みかり)、御前(ごぜん)におきて、高名(かうみやう)の人々(ひとびと)は、勲功(くんこう)有(あ)るべし。忠節(ちゆうせつ)をはげませとの御諚(ごぢやう)」とて、馳(は)せめぐる、或(あ)る、あたりを払(はら)ひてぞ見(み)えし。近年(きんねん)からざる野(の)なりければ、鹿(かせぎ)数(かず)をつくす。老若(らうにやく)家(いへ)を忘(わす)れて、我(われ)も我(われ)もと、君(きみ)の御見参(ごげんざん)に参(まゐ)る。其(そ)の日午(むま)の刻(こく)に、また空(そら)俄(にはか)にくもり、神(かみ)なりて、雨(あめ)やうやうこぼれ、笠(かさ)をうるほす。大将殿(たいしやうどの)、景季(かげすゑ)を召(め)して、「昨日(きのふ)、浅間野(あさまの)の雨(あめ)は、さて置(お)きぬ。又(また)、三原野(みはらの)の雨(あめ)こそ、無念(むねん)なれ。歌(うた)一首(しゆ)」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、源太(げんだ)承(うけたまは)つて、取(と)り敢(あ)へず、昨日(きのふ)こそあさまはふらめ今日(けふ)は只(ただ)みはら泣(な)き給(たま)へ夕立(ゆふだち)の神 W005と申(まう)しければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)、御感(ぎよかん)の余(あま)りに、碓氷(うすひ)の麓(ふもと)五百余町(よちやう)の所(ところ)をぞ賜(たま)はりける。なる神(かみ)も、此(こ)の歌(うた)にやめでたりけん、即(すなは)ち雨(あめ)はれ、風(かぜ)やみければ、いよいよ源太(げんだ)がP205面目(めんぼく)、是(これ)にはしかじとぞ、人々(ひとびと)申(まう)し合(あ)はれけり。君(きみ)も、誠(まこと)に、御(おん)心(こころ)よげに渡(わた)らせ給(たま)ひければ、御前(ごぜん)祗候(しこう)の侍(さぶらひ)共(ども)、御眦(まなじり)にかからんと思(おも)はぬ者(もの)は無(な)かりけり。然(さ)れども、曾我(そが)兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、君(きみ)の御前(ごぜん)をも知(し)らず、野干(やかん)に心(こころ)をも入(い)れず、其(そ)の人ばかりをぞ尋(たづ)ねける。雑人(ざふにん)に交(まじ)はり、馬(うま)にも乗(の)らざれば、一日に一度(いちど)、余所(よそ)ながら見(み)る日も有(あ)り、只(ただ)空(むな)しくのみぞ、日を送(おく)りける。さても、御狩(みかり)の人々(ひとびと)は、日のくるるをも、時(とき)の移(うつ)るをも知(し)らずして、かりけるに、馬の刻(こく)ばかりに、狐(きつね)鳴(な)きて、北(きた)を差(さ)して飛(と)びさりけり。人々(ひとびと)是(これ)を止(とど)めむとて、矢筈(やはづ)を取(と)りて追(お)つ掛(か)けたり。君御覧(ごらん)ぜられ、彼(かれ)等(ら)を召(め)し返(かへ)し、「秋野(あきの)の狐(きつね)とこそいへ、夏(なつ)の野(の)に狐(きつね)鳴(な)く事(こと)、不思議(ふしぎ)也(なり)。たれか候(さうら)ふ、歌(うた)詠(よ)み候(さうら)へ」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、祐経(すけつね)承(うけたまは)りて、「誠(まこと)に源太(げんだ)が歌(うた)には、なる神めでて、雨(あめ)はれ候(さうら)ひぬ。是(これ)にも歌(うた)あらば、苦(くる)しかるまじ。誰々(たれたれ)も」と申(まう)されければ、大名(だいみやう)・小名(せうみやう)、我(われ)も我(われ)もと案(あん)じ、詠(えい)じけれども、よむ人無(な)かりけり。此処(ここ)に、武蔵(むさし)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)愛甲(あいきやう)の三郎(さぶらう)、ゐだけだかに成(な)り、浮(う)かべる色(いろ)見(み)えければ、源太(げんだ)左衛門(さゑもん)、「いかさま、愛甲(あいきやう)が仕(つかまつ)りぬと見(み)えて候(さうら)ふ。はやはや」と申(まう)しければ、やがて、夜(よ)るならばこうこうとこそ泣(な)くべきにあさまに走(はし)る昼狐(ひるきつね)かな W006と申(まう)したりければ、君聞(き)こし召(め)して、「神妙(しんべう)に申(まう)したり。誠(まこと)に狐(きつね)に仰(おほ)せて、けつけうP206有(あ)るべからず」とて、上野(かうづけ)の国(くに)松井田(まつゐだ)三百余町(よちやう)をぞ賜(たま)はりける。さて、木賊原(とくさがはら)より伏屋(ふせや)に至(いた)るまで、静(しづ)かにかりくらし給(たま)ひ、誠(まこと)に聞(き)こゆる名所(めいしよ)なり、実(げ)にや所(ところ)の名にしおふ、木賊原(とくさがはら)の夕月(ゆふづき)は、嵐(あらし)やみがき出(い)でぬらん。伏屋(ふせや)に近(ちか)き軒(のき)の山、有(あ)りとは見(み)えて見(み)えざるは、もし又(また)雲(くも)や掛(か)かるらん。空(そら)すみ渡(わた)る折(をり)からや、くるるも惜(を)しくぞ思(おぼ)し召(め)しける。抑(そもそも)、夏野(なつの)に狐(きつね)の鳴(な)きたる例(ためし)にて、昔(むかし)を思(おも)ふに、在中将(ざいちゆうじやう)業平(なりひら)、姿(すがた)よからん女(をんな)を求(もと)めんと思(おも)ひしに、伏見(ふしみ)の山荘(さんざう)より都(みやこ)へ行(ゆ)きけるに、木幡山(こはたやま)の辺(ほとり)にて、由(よし)有(あ)る女(をんな)に行(ゆ)き合(あ)ひぬ。とかく言(い)ひ寄(よ)りて、語(かた)らひ具(ぐ)していににけり。かくて、しばし日頃(ひごろ)へて、打(う)ち失(う)せぬ。如何(いか)なる事(こと)にかとしたへ共(ども)、適(かな)はずして、思(おも)ひの余(あま)りに、彼(か)の女(をんな)の常(つね)に住(す)みける所(ところ)を見(み)れば、出(い)でていなば心(こころ)かろしと言(い)ひやせん身(み)の有様(ありさま)を人(ひと)の知(し)らねば W007と、此(こ)の歌(うた)を書(か)き置(お)きぬ。如何(いか)なる事(こと)やらんと思(おも)ひて、過(す)ぎ行(ゆ)きける夕暮(ゆふぐれ)に、ふるされ色(いろ)着(き)たる女(をんな)一人来(き)たりて、文(ふみ)を前(まへ)に置(お)きぬ。取(と)りて見(み)れば、有(あ)りし女(をんな)の文(ふみ)なり。今はとて忘(わす)れやすらん玉(たま)かづら面影(おもかげ)にのみいとど見(み)えつつ W008と書(か)ける。男(をとこ)、やがて返(かへ)しに、思(おも)ふ甲斐(かひ)無(な)き世(よ)なりけり年月(としつき)をあだに契(ちぎ)りて我(われ)や住(す)まひし W009斯様(かやう)に書(か)きて遣(や)りけるが、猶(なほ)あやしくて、使(つか)ひの帰(かへ)るにつきて、自(みづか)ら行(ゆ)きP207て見(み)れば、女(をんな)の着(き)たりつるふるされ色(いろ)、次第(しだい)にうすく成(な)りて、木幡山(こはたやま)の奥(おく)に入(い)りぬ。いよいよあやしくて、続(つづ)き分(わ)け入(い)り見(み)れば、古(ふる)き墓(はか)の中(なか)に、塚(つか)の有(あ)りけるに、おいたる狐(きつね)、若(わか)き狐(きつね)、集(あつ)まり居(ゐ)たるが、此(こ)の文(ふみ)の返事(かへりごと)を見(み)/て、泣(な)き居(ゐ)たり。やや有(あ)りて、人影(かげ)のしければ、多(おほ)かりつる狐(きつね)共(ども)、即(すなは)ち女(をんな)になりにけり。塚(つか)と見(み)えつる所(ところ)は、いみじき家に成(な)り、内(うち)より若(わか)き女(をんな)出(い)でて、「是(これ)へ」と言(い)ひけり。不思議(ふしぎ)に思(おも)ひながら、入(い)りぬ。女(をんな)出(い)で合(あ)ひ、様々(さまざま)にもてなし、「今宵(こよひ)は是(これ)に」と言(い)へば、止(とど)まりぬ。女(をんな)の振舞(ふるま)ひ、有様(ありさま)、露(つゆ)程(ほど)も昔(むかし)に違(たが)はず。夜明(あ)けぬれば、女(をんな)、「我(われ)も故郷(ふるさと)に帰(かへ)りなん」と言(い)ふ。「故郷(こきやう)とは何処(いづく)ぞ」と問(と)へば、「和歌浦(わかのうら)より、玉津島明神(たまつしまのみやうじん)の御(おん)使(つか)ひなり。御有様(おんありさま)知(し)らんとて、来(き)たれり。今(いま)より後(のち)も、忍(しの)びて来(き)たるべし」とて、かきけつ様(やう)に失(う)せにけり。別(わか)れをば誰(たれ)か哀(あは)れと言(い)はざらむ神(かみ)も宮居(みやゐ)は思(おも)ひ知(し)れかし W010其(そ)の後(のち)も、通(とほ)りけれども、人には知(し)られざりとなん。伊勢物語(いせものがたり)の秘事(ひじ)を言(い)ふなるをや。
〔那須野(なすの)の御狩(みかり)の事(こと)〕S0504N076P208
さて、君(きみ)、宇都宮(うつのみや)の弥三郎(いやさぶらう)を召(め)して、「信濃(しなの)の御狩(みかり)とは雖(いへど)も、下野(しもつけ)の那須野(なすの)に勝(まさ)る狩場(かりば)無(な)し。ついでに、彼(か)の野(の)をからせて御覧(ごらん)ぜん」と仰(おほ)せられければ、朝綱(ともつな)承(うけたまは)りて、御(おん)設(まう)けの為(ため)に、暇(いとま)申(まう)して、宇都宮(うつのみや)へぞ返(かへ)りける。烏帽子子(えぼしご)の権守(ごんのかみ)がもとをこしらへて、君(きみ)を入(い)れ奉(たてまつ)る。板鼻(いたはな)の宿(しゆく)より宇都宮(うつのみや)へ入(い)らせ御座(おは)します。彼(か)の那須野(なすの)ひろければ、無勢(ぶせい)にては適(かな)ふべからずとて、「面々(めんめん)に参(まゐ)らせよ」とふれられければ、仰(おほ)せに従(したが)ひて、和田(わだ)の左衛門(さゑもん)、千人(せんにん)参(まゐ)らす。畠山(はたけやま)も千人(せんにん)、川越(かはごえ)・小山(をやま)も千人(せんにん)あて、武田(たけだ)・小笠原(おがさはら)五百人、渋谷(しぶや)・糟屋(かすや)も五百人、土肥(とひ)・岡崎(をかざき)も五百人、松田(まつだ)・河村(かはむら)三百人、分々(ぶんぶん)に従(したが)ひて、東(とう)八ケ国(はつかこく)の侍(さぶらひ)共(ども)、思(おも)ひ思(おも)ひに参(まゐ)らせければ、既(すで)に十万人(じふまんにん)に及(およ)びけり。那須野(なすの)ひろしと申(まう)せども、何処(いづく)に所(ところ)有(あ)りとは見(み)えざりけり。曾我(そが)の人々(ひとびと)は、勢子(せこ)の者(もの)共(ども)にかきまぎれ、人目(ひとめ)がくれにまはりけり。然(さ)れども、余所目(よそめ)しげみの草(くさ)の原(はら)、わきて知(し)らるる夕風(ゆふかぜ)の、誰(たれ)ともさだかにわきまへず、青竹(あをたけ)下(お)ろしの狩場(かりば)にて、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)祐経(すけつね)は、つれたる牝鹿(めが)に目(め)を懸(か)けて、下(くだ)り様(さま)に落(お)とせしを、一目(ひとめ)見(み)たりしばかりにて、其(そ)の日も空(むな)しく暮(く)れにけり。無念(むねん)と言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。P209
〔朝妻(あさづま)狩座(かりくら)の事(こと)〕S0505N077
御寮(れう)は、青竹(あをたけ)下(お)ろしの屋形(やかた)に入(い)り給(たま)ひぬ。更(かう)たけ、世人(よひと)鎮(しづ)まりけれども、御酒宴(しゆえん)有(あ)りけり。朝綱(ともつな)、御気色(ごきしよく)に参(まゐ)らんとて、とりどりの曲(きよく)共(ども)申(まう)し御(おん)徒然(つれづれ)慰(なぐさ)め奉(たてまつ)りけり。君(きみ)、御盃(さかづき)をひかへさせ給(たま)ひける時(とき)、鹿(しか)の音(ね)かすかに聞(き)こゆる。「何処(いづく)ぞ」と、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、「板鼻(いたはな)の辺(ほとり)」と申(まう)す。君聞(き)こし召(め)し、「古(いにしへ)の歌人(かじん)も、「鹿(しか)の音(ね)近(ちか)き秋の山ごえ」とこそ詠(よ)みし。夏野(なつの)に、鹿(しか)の鳴(な)くこそ不思議(ふしぎ)なれ」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、朝綱(ともつな)、畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「然(さ)る事(こと)の候(さうら)ふ。昔(むかし)、保昌(ほうしやう)と言(い)ひし人、丹後(たんご)の国(くに)に下(くだ)り給(たま)ふ。彼(か)の国(くに)に、朝妻(あさづま)とて、日本(につぽん)一(いち)の狩座(かりくら)有(あ)り。其(そ)の山(やま)の鹿(しか)は、夕(ゆふべ)よりも夜(よ)に入(い)れば、山(やま)には住(す)まで、渚(なぎさ)に下(くだ)りて、数(かず)をつくして並(なら)び伏(ふ)す。其(そ)の隙(ひま)に、山へ勢子(せこ)を入(い)れて、夜中(やちゆう)に引(ひ)きまはし、海(うみ)には船(ふね)を浮(う)かべ、暁(あかつき)に及(およ)び、ひろき浜(はま)に追(お)ひ出(い)だし、思(おも)ひ思(おも)ひに射(い)取(と)る。海(うみ)に入(い)るをば、櫓(ろ)=櫂(かい)にて打(う)ち取(と)らんとす。保昌(ほうしやう)、是(これ)を聞(き)き、朝妻(あさづま)に陣(ぢん)を取(と)り、射手(いて)を三百人添(そ)へ、勢子(せこ)を山(やま)に入(い)れ、明(あ)くるを遅(おそ)しと待(ま)ちける所(ところ)に、夜半(やはん)ばかりに及(およ)び、鹿(しか)の声(こゑ)聞(き)こえけり。折節(をりふし)、和泉(いづみ)式部(しきぶ)を召(め)し具(ぐ)したりければ、鹿(しか)の音(ね)を聞(き)きて、理(ことわり)や如何(いか)でか鹿(しか)の鳴(な)かざらむ今宵(こよひ)ばかりの命(いのち)と思(おも)へば W011P210と詠(よ)みたりければ、保昌(ほうしやう)、歌(うた)の理(ことわり)にめで、其(そ)の日の狩(かり)を止(とど)め給(たま)ふ。心(こころ)無(な)き鹿(しか)の思(おも)ひを哀(あは)れみ、道心を起(お)こし給(たま)ふ。三百人の郎等(らうどう)まで、道心(だうしん)を起(お)こし候(さうら)ふとなり。是(これ)にも、猶(なほ)あきたらで、過(す)ぎにし鹿(しか)の為(ため)に、六万本(ろくまんぼん)の率塔婆(そとば)をかき供養(くやう)し、六万人(ろくまんにん)の僧(そう)を請(しやう)じて、彼(か)の菩提(ぼだい)を弔(とぶら)ひ給(たま)ひけるとかや。其(そ)れよりして、「朝妻(あさづま)の狩座(かりくら)を末代(まつだい)止(とど)むべし」との御判(はん)を申(まう)し下(くだ)され、諸(もろ)共(とも)に判形(はんぎやう)を添(そ)へて置(お)かれければ、今(いま)に至(いた)るまで、狩場(かりば)にはならずと申(まう)し伝(つた)へたり。然(さ)れば、此(こ)の野(の)の鹿(しか)も、明日(あす)の命(いのち)をや悲(かな)しみて、泣(な)き候(さうら)ふらん」と申(まう)しければ、頼朝(よりとも)聞(き)こし召(め)し、「其(そ)れは、平氏(へいじ)の一類(るい)にて、斯様(かやう)の善事(ぜんじ)をなしけるにや。我、源氏(げんじ)の正統(しやうとう)也(なり)。如何(いか)でか、是(これ)を知(し)らざらむ」とて、其(そ)の日の御狩(みかり)を止(とど)め給(たま)ふのみならず、「末代(まつだい)までも、此(こ)の野(の)に狩(かり)を止(とど)むべし」と、朝綱方(ともつなかた)へ御判(はん)を下(くだ)されけり。是(これ)、偏(ひとへ)に保昌(ほうしやう)の例(れい)を引(ひ)かるるにこそと、感(かん)じ申(まう)さぬは無(な)かりけり。是(これ)も、殺生(せつしやう)を禁(きん)じ給(たま)ふにや。
〔帝釈(たいしやく)・修羅王(しゆらわう)戦(たたか)ひの事(こと)〕S0506N078
昔(むかし)を思(おも)ふに、天帝釈(たいのしやく)、阿修羅王(あしゆらわう)が軍(いくさ)に攻(せ)め負(ま)け給(たま)ひて、須弥山(しゆみせん)を差(さ)して逃(に)げ上(のぼ)り給(たま)ふ。此(こ)の山(やま)けはしとは申(まう)せ共(ども)、帝釈(たいしやく)の眷属(けんぞく)、恒沙(ごうじや)の如(ごと)く上(のぼ)らんとす。此処(ここ)に、P211金翅(こんじ)鳥の卵(かひご)多(おほ)くして、此(こ)の戦(たたか)ひの為(ため)に、踏(ふ)み殺(ころ)されぬべし。然(さ)れば、我(わ)が命は奪(うば)はるるとも、如何(いか)でか殺生(せつしやう)ををかさんとて、帝釈(たいしやく)、須弥(しゆみ)を出(い)でて、鉄囲山(てつちせん)と言(い)ふ山にかかり給(たま)ふに、阿修羅王(あしゆらわう)、かへつておふぞと心(こころ)得(え)て、逃(に)げにけり。其(そ)の軍(いくさ)に負(ま)けにけり。是(これ)も、殺生(せつしやう)禁(きん)じ給(たま)ふ徳(とく)に依(よ)りて、軍(いくさ)に勝(か)ち給(たま)ひけるとかや。此(こ)の君(きみ)も、鹿(しか)の命(いのち)を哀(あは)れみ、狩座(かりくら)を止(とど)め給(たま)ふ。如何(いか)でか、其(そ)の徳(とく)無(な)かるべきとぞ申(まう)しける。
〔三浦(みうら)の与一(よいち)を頼(たの)みし事(こと)〕S0507N079
明(あ)けぬれば、君(きみ)、鎌倉(かまくら)へ入(い)り給(たま)ふ。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)も、泣(な)く泣(な)く曾我(そが)にぞ帰(かへ)りける。実(げ)にや日本国(につぽんごく)名将軍(めいしやうぐん)の貴辺(きへん)にして、此処(ここ)に忍(しの)び、彼処(かしこ)にまはり、命(いのち)を捨(す)て、身(み)を惜(を)しまで、敵(かたき)を思(おも)ふ心中(しんちゆう)、やさしと言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。無慙(むざん)なりしたしなみなり。又(また)、鎌倉(かまくら)殿(どの)、梶原(かじはら)を召(め)されて、仰(おほ)せ下(くだ)されけるは、「侍(さぶらひ)共(ども)に、暇(いとま)取(と)らすべからず。狩場(かりば)多(おほ)しと雖(いへど)も、富士野(ふじの)に勝(まさ)る所無(な)し。ついでにからん」と仰(おほ)せられければ、景季(かげすゑ)、此(こ)の旨(むね)披露(ひろう)す。曾我(そが)の五郎(ごらう)、此(こ)の事(こと)を聞(き)き、兄(あに)に申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)が最後(さいご)こそ、近付(ちかづ)き候(さうら)へ。知(し)ろし召(め)され候(さうら)はずや。国々の侍(さぶらひ)共(ども)返(かへ)さずして、富士野(ふじの)をP212御狩(みかり)有(あ)るべきにて候(さうら)ふなる。ながらへて思(おも)ふも苦(くる)しし。思(おぼ)し召(め)し定(さだ)め候(さうら)へ」と言(い)ひければ、祐成(すけなり)聞(き)きて、「嬉(うれ)しき物(もの)かな。今度(こんど)は、程(ほど)近(ちか)ければ、馬(むま)一匹(ぴき)づつだにあらば、差(さ)し現(あらは)れて、御供(おんとも)申(まう)すべし」。時致(ときむね)言(い)ふ様(やう)、「つらつら事(こと)を案(あん)ずるに、隙(ひま)を求(もと)めて、便宜(びんぎ)を窺(うかが)ひ候(さうら)へばこそ、今(いま)まで本意(ほんい)をば遂(と)げざれ。今度(こんど)においては、一筋(ひとすじ)に思(おも)ひ切(き)り、便宜(びんぎ)よくは、御前(ごぜん)をもおそるべからず、御屋形(やかた)をも憚(はばか)るべからず、夜(よる)とも言(い)はず、昼(ひる)とも嫌(きら)はず、遠(とほ)くは射(い)落(お)とし、近(ちか)くは組(く)みて、勝負(しようぶ)せん。身(み)を有(あ)る物(もの)にせばこそ、隙(ひま)をも窺(うかが)ひ、所(ところ)をも嫌(きら)はめ。もしし損(そん)ずる物(もの)ならば、悪霊(あくりやう)・死霊(しりやう)と成(な)りて、命(いのち)を奪(うば)ふべし。なまじひなる命いきて、明(あ)け暮(く)れ思(おも)ふも悲(かな)し。今度(こんど)出(い)でなん後(のち)、二度(ふたたび)帰(かへ)るべからず、思(おも)ひ切(き)りて候(さうら)ふは、如何(いかが)思(おぼ)し召(め)し候(さうら)ふ」。祐成(すけなり)聞(き)き、「子細(しさい)にや及(およ)ぶ。某(それがし)も、かくこそ思(おも)ひ定(さだ)めて候(さうら)へ」とて、各々(おのおの)出(い)で立(た)ちけるぞ、哀(あは)れなる。既(すで)に、鎌倉(かまくら)殿(どの)、御(おん)出(い)で坐(ま)しましければ、此(こ)の人々(ひとびと)は、三浦(みうら)の伯母(おば)のもとへぞ行(ゆ)きける。此処(ここ)に、三浦(みうら)の与一(よいち)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。平六兵衛(へいろくびやうゑ)が一腹(いつぷく)の兄(あに)なり。父(ちち)は、伊東(いとう)工藤(くどう)四郎(しらう)なり。与一(よいち)が母(はは)は、伯母(をば)也(なり)。いづかたも親(した)しかりければ、むつびけるも理(ことわり)也(なり)。十郎(じふらう)、弟(おとと)に言(い)ひけるは、「彼(か)の与一(よいち)、頼(たの)みて見(み)ん。さりとも、いなとは言(い)はじ」。五郎(ごらう)聞(き)き、「小二郎(こじらう)にも、御(おん)こり候(さうら)はで」とは言(い)ひながら、もしやと思(おも)ひけれ共(ども)、与一(よいち)がもとに行(ゆ)き、此(こ)の程(ほど)、久しく対面(たいめん)せざる由(よし)言(い)ひしかば、「珍(めづら)し」P213とて、酒(さけ)取(と)り出(い)だしすすめけり。盃(さかづき)二三返(べん)過(す)ぎければ、十郎(じふらう)、近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、「是(これ)へ参(さん)ずる事(こと)、別(べつ)の子細(しさい)にはあらず、大事(だいじ)を申(まう)し合(あ)はせん為(ため)なり」と言(い)ふ。与一(よいち)聞(き)き、「何事(なにごと)なるらん。仮令(たとひ)如何(いか)なる大事(だいじ)なりとも、打(う)ち頼(たの)み仰(おほ)せられんに、如何(いか)でか背(そむ)き奉(たてまつ)るべき。有(あ)りの儘(まま)に」と言(い)ひければ、十郎(じふらう)、小声(こごゑ)に成(な)りて、「かねても聞(き)こし召(め)さるらん。我(われ)等(ら)が身(み)に、思(おも)ひ有(あ)りとは、見(み)る人知(し)りて候(さうら)ふ。然(しか)るに、敵(かたき)は、大勢(おほぜい)にて候(さうら)ふに、貧(ひん)なる童(わらは)二人して、狙(ねら)へ共(ども)適(かな)はず。御分(ごぶん)頼(たの)まれ給(たま)へ。我(われ)等(ら)三人、寄(よ)り合(あ)ふ物(もの)ならば、如何(いか)で本意(ほんい)を遂(と)げざるべき。親(おや)の敵(かたき)を近(ちか)くおきて思(おも)ふが、せんかた無(な)さに、申(まう)し合(あ)はせんとて、参(まゐ)りたり。頼(たの)まれ給(たま)へ」と言(い)ひければ、与一(よいち)、暫(しばら)く案(あん)じて、「此(こ)の事(こと)こそ、ふつつと適(かな)ふまじけれ。思(おも)ひ止(とど)まり給(たま)へ。当世(たうせい)は、昔(むかし)にも似(に)ず、然様(さやう)の悪事する者(もの)は、片時(へんし)も立(た)ち忍(しの)ぶ事(こと)無(な)し。然(さ)れば、親(おや)の敵(かたき)、子(こ)の敵(かたき)、宿世(しゆくせ)の敵(かたき)と申(まう)せ共(ども)、打(う)ち取(と)る事(こと)無(な)し。ましてや言(い)はん、御供(おんとも)仕(つかまつ)りたる者(もの)を、狩場(かりば)にても、旅宿(りよしゆく)にても、誤(あやま)りては、ひとまども落(お)つべき物(もの)か。今度(こんど)は思(おも)ひとまりて、私(わたくし)歩(あり)きを狙(ねら)ひ給(たま)へ。其(そ)の上(うへ)、祐経(すねつけ)は、君(きみ)の御(おん)切(き)り者(もの)にて、先祖(せんぞ)の伊東(いとう)を安堵(あんど)するのみならず、荘園(しやうゑん)を知行(ちぎやう)する事(こと)、数(かず)を知(し)らず。敵(かたき)有(あ)りと存(ぞん)じ、用心(ようじん)厳(きび)しかるべし。なまじひなる事(こと)仕(つかまつ)り出(い)だし、面々(めんめん)のみならず、母(はは)や曾我(そが)の太郎、惑(まど)ひ者(もの)になし給(たま)ふな。まげて思(おも)ひ止(とど)まり、如何(いか)にもP214して、御不審(ふしん)許(ゆる)され奉(たてまつ)り、奉公(ほうこう)を致(いた)し、先祖(せんぞ)の伊東(いとう)に安堵(あんど)し給(たま)へ。面々(めんめん)の有様(ありさま)にて、当(たう)御代に、敵討沙汰(かたきうちざた)、止(とど)め給(たま)へ」と、大(おほ)きに驚(おどろ)き申(まう)しければ、十郎聞(き)きて、「いとほしの人や。試(こころ)みんとて言(い)ひつるを、誠(まこと)し顔(がほ)に制(せい)するぞや。今時(いまどき)、我(われ)等(ら)が身(み)にては、思(おも)ひもよらず。馬(むま)持(も)た/ざれば、狩場(かりば)も見(み)たからず。努々(ゆめゆめ)披露(ひろう)有(あ)るべからず」と、口(くち)を固(かた)め、立(た)たむとす。五郎(ごらう)は、たまらぬ男(をのこ)にて、「殊(こと)に始(はじ)めの言葉(ことば)には似(に)ず。思(おも)へば、恐(おそ)ろしさに、辞退(じたい)し給(たま)ふか。史記(しき)の言葉(ことば)をば聞(き)き給(たま)はずや。蛇(じや)は、わだかまれども、生気(しやうげ)の方(かた)に向(む)き、鷺(さぎ)は、太歳(たいさい)の方(かた)を背(そむ)きて巣(す)を開(ひら)き、燕(つばめ)は、戊己(つちのへつちのと)に巣をくひ始(はじ)め、比目魚(かれい)は、湊(みなと)に向(む)かひ方(かた)違(たが)ひす。鹿(しか)は、玉所(ぎよくしよ)に向(む)かひて伏(ふ)し候(さうら)ふなる。斯様(かやう)の獣(けだもの)だにも、分(ぶん)に従(したが)ふ心(こころ)は有(あ)るぞとよ。面(おもて)ばかりは人ににて、魂(たましひ)は畜生(ちくしやう)にて有(あ)る物(もの)かな」と言(い)ひ捨(す)てて、立(た)ちにけり。与一(よいち)は、五郎(ごらう)に悪口(あつこう)せられて、如何(いか)にもならばやと思(おも)ひしが、我(われ)は一人、彼(かれ)等(ら)は二人也(なり)、其(そ)の上(うへ)、五郎(ごらう)は、聞(き)こゆる大力(だいぢから)なり、小腕(こがひな)取(と)られて、適(かな)ふべからず、所詮(しよせん)、此(こ)の事(こと)、鎌倉(かまくら)殿(どの)に申(まう)し上(あ)げて、彼(かれ)等(ら)を滅(ほろ)ぼさん事(こと)、力(ちから)もいらでと思(おも)ひ鎮(しづ)まりぬ。さて、彼(かれ)等(ら)、遙(はる)かに行(ゆ)きつらんと思(おも)ふ時(とき)、急(いそ)ぎ馬に鞍(くら)置(お)かせ打(う)ち乗(の)り、鎌倉(かまくら)へこそ参(まゐ)りけれ。此(こ)の事(こと)、兄弟(きやうだい)は、夢(ゆめ)にも知(し)らでぞ居(ゐ)たりける。此処(ここ)に、和田(わだ)の義盛(よしもり)は、鎌倉(かまくら)より帰(かへ)りけるに、てこし川にて行(ゆ)き合(あ)ひたり。与一(よいち)を見(み)れば、顔(かほ)の気色(けしき)P215変(か)はり、駒(こま)の足(あし)なみはやかりければ、義盛(よしもり)、暫(しばら)く駒(こま)をひかへ、「何処(いづく)へぞ」と言(い)ふ。与一(よいち)、物(もの)をも言(い)はで、駒(こま)を早(はや)めけるが、やや有(あ)りて、「鎌倉(かまくら)ヘ」とばかり答(こた)ふ。「さても、鎌倉(かまくら)には、何事(なにごと)の起(お)こり、三浦(みうら)には、如何(いか)なる大事(だいじ)の出(い)で来(き)候(さうら)へば、其(そ)れ程(ほど)にあわて給(たま)ふぞや。いづかたの事(こと)なりとも、義盛(よしもり)、はなるべからず。御分(ごぶん)又(また)、隠(かく)すべからず」とて、与一(よいち)が馬の手綱(たづな)を取(と)り、隙(ひま)無(な)く問(と)ひければ、与一(よいち)申(まう)す条(でう)、「別(べち)の子細(しさい)にては候(さうら)はず。曾我(そが)の者(もの)共(ども)が来(き)たり候(さうら)ひて、親(おや)の敵(かたき)打(う)たんとて、義直(よしなほ)を頼(たの)み候(さうら)ふ間(あひだ)、「適(かな)ふまじき」と申(まう)して候(さうら)へば、五郎(ごらう)と申(まう)すをこの者(もの)が、散々(さんざん)に悪口(あつかう)仕(つかまつ)り候(さうら)ふ。当座(たうざ)に、如何(いか)にも成(な)るべかりしを、彼(かれ)等(ら)は二人、某(それがし)は只(ただ)一人候(さうら)ひし間(あひだ)、適(かな)はで、斯様(かやう)の子細(しさい)、上(うへ)へ申(まう)しいれて、彼(かれ)等(ら)を失(うしな)はん為(ため)、鎌倉(かまくら)へ急(いそ)ぎ候(さうら)ふ」と言(い)ひければ、和田(わだ)、是(これ)を聞(き)き、暫(しばら)く物(もの)をも言(い)はず。やや有(あ)りて、「や、殿(との)、与一(よいち)殿(どの)、弓矢(ゆみや)を取(と)るも、取(と)らざるも、男(をとこ)と首(くび)をきざまるる程(ほど)の者(もの)が、いざや、死(し)にに行(ゆ)かんと打(う)ち頼(たの)まんに、辞退(じたい)する程(ほど)の族(やから)をば、人とは言(い)はで、犬野干(いぬやかん)とこそ申(まう)せ。就中(なかんづく)、弓矢(ゆみや)の法(ほふ)には、命(いのち)をば塵芥(ちんがい)よりもかろくして、名(な)をば千鈞(せんきん)よりも重(おも)くせよとこそ言(い)ふに、侍(さぶらひ)の命(いのち)は、今日(けふ)あれば、明日(あす)までも頼(たの)むべきか。聞(き)くべしとてこそ、か程(ほど)の大事(だいじ)を言(い)ひ聞(き)かせつらめ。しかも、親(した)しき中ぞかし。あたる道理(だうり)を言(い)ひ聞(き)かせて言(い)はば、領状(りやうじやう)して、適(かな)はじと思(おも)はば、後(のち)に辞退(じたい)するまでぞ。左右(さう)無(な)くP216鼻(はな)を付(つ)き、剰(あまつさ)へ、上へ申(まう)さんとな。其(そ)れ程(ほど)の大事(だいじ)、心(こころ)にかくる上(うへ)は、穏便(おんびん)の者(もの)にてこそ、当座(たうざ)も、わ殿(との)が命をば助(たす)け置(お)け。上様(さま)へ申(まう)し上(あ)ぐると聞(き)きては、一遣(や)りも遣(や)らじ。命(いのち)惜(を)しくは、止(とど)まり給(たま)へ。命(いのち)有(あ)りてこそ、京(きやう)へも、鎌倉(かまくら)へも申(まう)し給(たま)はめ。義盛(よしもり)がわかざかりならば、其(そ)の座敷(ざしき)にても打(う)つべきぞ。よくよく申(まう)し上(あ)げて、失(うしな)ひ給(たま)へ。君(きみ)も、一旦(いつたん)は、然(しか)りと思(おぼ)し召(め)すとも、親(した)しき者(もの)の事(こと)、悪(あ)し様(ざま)に申(まう)さんを、神妙(しんべう)なりとて、頼(たの)もしくは思(おぼ)し召(め)さじ。其(そ)の上(うへ)、彼(かれ)等(ら)を失(うしな)ひ給(たま)ふとも、親類(しんるい)多(おほ)ければ、御身(おんみ)如何(いか)でか安穏(あんをん)なるべき。孔子(こうし)の言葉(ことば)にも、「善人(ぜんにん)に交(まじ)はれば、蘭麝(らんじや)の窓(まど)に入(い)るが如(ごと)し、其(そ)のかほばせ残(のこ)り、悪人(あくにん)に交(まじ)はれば、かきよの肆(いちぐら)に入(い)るが如(ごと)し、くさき事(こと)の残(のこ)れる」と見(み)えたり。御身(おんみ)におきては、同(おな)じ道(みち)をも行(ゆ)くべからず。心(こころ)を返(かへ)して見(み)給(たま)ふべし。朝恩(てうおん)に誇(ほこ)る敵(かたき)を目(め)の前(まへ)におきて、見(み)るもめざましくてこそ、言(い)ひつめら。此(こ)の事(こと)、訴訟(そしよう)申(まう)して、いか程(ほど)の勲功(くんこう)にか預(あづ)かるべき。武蔵(むさし)・相模(さがみ)には、此(こ)の殿(との)原(ばら)の一門(いちもん)ならぬ者(もの)や候(さうら)ふ。かく申(まう)す義盛(よしもり)も、結(むす)ぼるるは、知(し)り給(たま)はずや。昔(むかし)の御代とだに思(おも)はば、などや矢(や)一訪(とぶら)はざるべき。当(たう)御代なればこそ、恐(おそ)れをなし、敵(かたき)をば、すぐにおきたれ。彼(かれ)等(ら)が心中(しんちゆう)を推(お)し量(はか)られて、哀(あは)れ也(なり)」とて、双眼(さうがん)に涙(なみだ)をうかめければ、義直(よしなほ)、つくづく聞(き)きて、悪(あ)しかりなんとや思(おも)ひけん、「是(これ)も、一旦(いつたん)の事(こと)にてこそ候(さうら)へ。此(こ)の上(うへ)は、とかくの子細(しさい)にP217及(およ)ばず」とて、駒(こま)の手綱(たづな)を引(ひ)き返(かへ)す。其(そ)の後(のち)は、四方(よも)山の物語(ものがたり)して、三浦(みうら)へ打(う)ちつれて帰(かへ)りけり。此(こ)の事(こと)、年頃(としごろ)、仏神(ぶつじん)に祈(いの)り申(まう)せし感応(かんおう)にや。しからずは、如何(いか)でか、此(こ)の事(こと)逃(のが)るべき。不思議(ふしぎ)なりし振舞(ふるま)ひ也(なり)。然(さ)れば、只(ただ)人は信(しん)を宗(むね)とし、神明(しんめい)をもつぱらにすべきをや。今(いま)に始(はじ)めぬ事(こと)なれ共(ども)、有(あ)り難(がた)かりし恵(めぐ)みなり。
〔五郎(ごらう)、女(をんな)に情(なさけ)懸(か)けし事(こと)〕S0508N080
さても、此(こ)の人々(ひとびと)は、三浦(みうら)より帰(かへ)り様(さま)に、「大磯(おほいそ)に打(う)ち寄(よ)りて、虎(とら)に見参(げんざん)せん」と言(い)ひければ、「然(しか)るべく候(さうら)ふ。此(こ)の度(たび)出(い)でて、長(なが)き別(わか)れにてもや候(さうら)ふべからん。思(おも)ひ出(い)だして、一返(ぺん)の訪(とぶら)ひも、計(はか)り難(がた)き事(こと)にて候(さうら)ふぞかし。誠(まこと)に思(おも)ひ切(き)られぬ道(みち)にて候(さうら)ふ。時致(ときむね)も、化粧坂(けはいざか)の下(した)に、知(し)りたる者(もの)の候(さうら)ふ。五日・十日をへて、行(ゆ)く道(みち)にても候(さうら)はず。此(こ)の度(たび)出(い)でなん後(のち)は、又(また)相(あひ)見(み)ん事(こと)かたし。明日(みやうにち)、参(まゐ)り合(あ)ひ申(まう)さん」とて、打(う)ち別(わか)れにけり。さて、五郎(ごらう)は、一夜(よ)を明(あ)かし、払暁(ふけう)に鎌倉(かまくら)を出(い)でて、腰越(こしごえ)より片瀬(かたせ)の宿(しゆく)へぞ通(とほ)りける。折節(をりふし)、梶原(かぢはら)源太(げんだ)左衛門(さゑもん)、十四五騎(き)にて、彼(か)の宿(しゆく)に下(お)り居(ゐ)たりしが、五郎(ごらう)が通(とほ)るを見(み)/て、「申(まう)すべき子細(しさい)候(さうら)ふ、しばし止(とど)まり給(たま)へ」とて、足軽(あしがる)P218を走(はし)らしむ。五郎(ごらう)、予(かね)て聞(き)く事(こと)有(あ)りければ、「さしたる急事(きうじ)の候(さうら)ふ。後日(ごにち)に、見参(げんざん)に入(い)るべし」とて、通(とほ)りにけり。定(さだ)めて、五郎(ごらう)は止(とど)まるらんと、片瀬川(かたせがは)を掛(か)け渡(わた)し、向(む)かひの岡(をか)に駒(こま)打(う)ち上(あ)げて見(み)ければ、遙(はる)かに打(う)ちのびぬ。「此(こ)の者(もの)は、何(なに)と心(こころ)得(え)て、斯様(かやう)には振舞(ふるま)ふらん」とて、駒(こま)を鎮(しづ)めて、打(う)つて行(ゆ)く。時致(ときむね)は、馬(むま)の息(いき)やすめんと平塚(ひらつか)の宿(しゆく)に下(お)り居(ゐ)て、暫(しばら)く有(あ)りける所(ところ)へ、景季(かげすゑ)、打(う)つて来(き)たる。「是(これ)にひかへたるは、曾我(そが)の五郎(ごらう)が乗(の)りたる馬(むま)ごさんめれ」とて、縁(えん)の際(きは)に、駒(こま)打(う)ち寄(よ)せける気色(けしき)、怒(いか)り余(あま)りければ、乗(の)りがへ五六騎(ごろつき)、馬(むま)より下(お)り、広縁(ひろえん)に上(あ)がる。五郎(ごらう)、是(これ)を聞(き)きて、悪(あ)しかりなんとや思(おも)ひけん、急(いそ)ぎ内(うち)にぞ入(い)りにける。源太(げんだ)、此(こ)の上(うへ)は、尋(たづ)ぬるに及(およ)ばずとて、手綱(たづな)かいくり、通(とほ)りけり。五郎(ごらう)、物(もの)ごしに聞(き)き、世(よ)におごり、又(また)人も無(な)げなる奴(やつ)かな、走(はし)り出(い)でて、一太刀(ひとたち)切(き)り、如何(いか)にもならばやと思(おも)ひけれども、此(こ)の二十余年(よねん)、惜(を)しかりつる命(いのち)は、景季(かげすゑ)が為にはあらず、祐経(すけつね)にこそと思(おも)ひて、止(とど)まりけり。是(これ)や、論語(ろんご)に曰(いは)く、「事(こと)を遂(と)げんには、いさまずして、万(よろず)事(こと)を咎(とが)めざれ」とは、今(いま)の五郎(ごらう)が心(こころ)なるをや。見(み)聞(き)く輩(ともがら)は、「五郎(ごらう)が不覚(ふかく)なり」と言(い)ひけれども、敵(かたき)の祐経(すけつね)を打(う)ち、引(ひ)き据(す)ゑられし時(とき)、君(きみ)の御返事(ごへんじ)をば申(まう)さで、先(ま)づ源太(げんだ)に向(む)かひ、「わ君(ぎみ)は、年頃(としごろ)、時致(ときむね)に意趣(いしゆ)有(あ)り。今(いま)は、時致(ときむね)が身(み)に、思(おも)ふ事(こと)無(な)し。本意(ほんい)を遂(と)げよ本意(ほんい)を¥遂(と)げよ」と言(い)ひければ、景季(かげすゑ)、御前(ごぜん)を罷(まか)り立(た)ち、五郎(ごらう)有(あ)りP219ける程(ほど)は、参(まゐ)らざりけり。時致(ときむね)は、和田(わだ)・畠山(はたけやま)、左右(さう)に座(ざ)して有(あ)りける方(かた)を見(み)遣(や)りて、ゑみをふくみける、理(ことわり)過(す)ぎてぞ覚(おぼ)えける。是(これ)や、松柏(せうはく)は、霜(しも)の後(のち)に現(あらは)れ、忠臣(ちゆうしん)が、世(よ)の危(あや)ふきに知(し)らるるとは、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られたれ。暫(しばら)くも無(な)かりけり、「時致(ときむね)、平塚(ひらつか)の宿(しゆく)にては、さこそ思(おも)ひつらめ、大事(だいじ)有(あ)りて、小事(せうじ)無(な)し、身(み)に思(おも)ひあれば、万事(ばんじ)を捨(す)て、平塚(ひらつか)の宿まで逃(に)げたりし、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を、只今(ただいま)すすぐ」と申(まう)しあへり。「思(おも)ふ事(こと)だに無(な)かりせば、源太(げんだ)命(いのち)危(あや)ふし」とぞ沙汰(さた)しける。抑(そもそも)、此(こ)の意趣(いしゆ)を尋(たづ)ぬれば、化粧坂(けわひざか)の下に、遊君(いうくん)有(あ)り、時致(ときむね)、情(なさけ)を懸(か)け、浅(あさ)からず思(おも)ひしに、引(ひ)く手(て)数多(あまた)の事(こと)なれば、梶原(かぢはら)が、浜出(はまいで)して帰(かへ)り様(さま)に、此(こ)の女(をんな)のもとに打(う)ち寄(よ)りて、夜(よ)と共(とも)に遊(あそ)びけり。暁(あかつき)、帰(かへ)るとて、如何(いかが)しけん、腰(こし)の刀(かたな)を忘(わす)れ出(い)でけるを、女(をんな)の美女(びじよ)をして送(おく)るとて、急(いそ)ぐとてさすが刀(かたな)を忘(わす)るるはおこしものとや人の見(み)るらん W012景季(かげすゑ)、馬(うま)に乗(の)りながら、左手(ゆんで)の鐙(あぶみ)を未(いま)だ踏(ふ)みもなほさず、返事(へんじ)をぞしける、形見(かたみ)とておきて来(こ)し物其(そ)の儘(まま)に返(かへ)すのみこそさすがなりけれ W013其(そ)の頃(ころ)、源太(げんだ)左衛門(さゑもん)は、歌道(かだう)には、定家(ていか)・家隆(かりう)なりともと思(おも)ひしなり。さても、此(こ)の歌(うた)の面白(おもしろ)さよと思(おも)ひ染(そ)めて、景季(かげすゑ)みみなれけり。余所(よそ)のことわざなど、たはぶれければ、女(をんな)引(ひ)き籠(こも)り、五郎(ごらう)一人にも限(かぎ)らず、出仕(しゆつし)を止(とど)めけり。是(これ)をばしらP220で、五郎(ごらう)或(あ)る時(とき)、彼(か)のもとに行(ゆ)き、尋(たづ)ねけれども、あはざりけり。何(なに)によりけるやと危(あや)ふく、友(とも)の遊君(いうくん)に問(と)ひければ、「梶原(かぢはら)源太(げんだ)殿の取(と)りて置(お)かれ、余(よ)の方(かた)へは思(おも)ひもよらず」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)聞(き)きて、流(なが)れをたつる遊(あそ)び者(もの)、頼(たの)むべきにはあらね共(ども)、世(よ)に有(あ)る身(み)ならば、源太(げんだ)には思(おも)ひかへられじと、身一(ひと)つの様(やう)に思(おも)ひけり。「貧(ひん)は諸道(しよだう)のさまたげ」とは、面白(おもしろ)かりける言葉(ことば)かな、人をも、世(よ)をも恨(うら)むべからずとて、此(こ)の歌(うた)を詠(よ)み置(お)きて、出(い)でぬ。あふと見(み)る夢路(ゆめぢ)にとまる宿(やど)もがなつらき言葉(ことば)にまたも帰(かへ)らん W014と書(か)きて、引(ひ)き結(むす)びて置(お)きたりけり。五郎(ごらう)帰(かへ)りて後、此(こ)の女(をんな)、立(た)ち出(い)でて見(み)れば、結(むす)びたる文(ふみ)有(あ)り。取(と)り上(あ)げて見(み)れば、日頃(ひごろ)なれにし五郎(ごらう)が手跡(しゆせき)なり。歌(うた)をつくづく見て、文(ふみ)顔(かほ)に押(お)し当(あ)て、さめざめと泣(な)きつつ、友(とも)の遊君(いうくん)に、「御覧(ごらん)ぜよや、人々(ひとびと)。恥(はぢ)とも知(し)らで、恥(は)づかしや。日本(につぽん)我(わ)が朝(てう)は、みづのおの里(さと)として、神明(しんめい)光(ひかり)をやはらげ、天(あま)の岩戸(いはと)に取(と)り籠(こも)らせ給(たま)ひし時(とき)、「あら面白(おもしろ)」と言(い)ひそめ給(たま)ふ、此(こ)の三十一字(さんじふいちじ)の故(ゆゑ)ぞかし。
〔巣父(さうふ)・許由(きよゆう)が事(こと)〕S0509N081P221
昔(むかし)、然(さ)る例(ためし)有(あ)り。大国(たいこく)に、潁川(えいせん)と言(い)ふ川(かわ)有(あ)り。巣父(さうふ)と言(い)ふ者(もの)、黄(き)なる牛(うし)を引(ひ)きて来(き)たる所(ところ)に、許由(きよゆう)と言(い)ふ賢人(けんじん)、此(こ)の川の端(はた)にて、左(ひだり)の耳(みみ)をあらひ居(ゐ)たり。巣父(さうふ)、是(これ)を見て、「汝(なんぢ)、何に依(よ)りて、左(ひだり)の耳(みみ)計(ばかり)をあらふにや」と問(と)ひければ、許由(きよゆう)答(こた)へて曰(いは)く、「我(われ)は、此(こ)の国(くに)に隠(かく)れ無(な)き賢人(けんじん)なり。我(わ)が父(ちち)、九十余にして、老耄(らうもう)きは無(な)し。我(われ)未(いま)だ幼少(えうせう)なり。然(さ)れば、神拝(じんばい)・政(まつりごと)みだりにして、有(あ)る甲斐(かひ)無(な)き身(み)なれば、都(みやこ)を出(い)でぬ。此(こ)の程(ほど)、聞(き)きつる事(こと)、皆(みな)左(ひだり)の耳(みみ)なれば、よごれたるなり。其(そ)れをあらふにや」と言(い)ひけり。巣父(さうふ)聞(き)きて、「さては、此(こ)の川、七日濁(にご)るべし。よごれたる水(みづ)かひて、益(えき)無(な)し」とて、牛(うし)を引(ひ)きて帰(かへ)りしが、又(また)立(た)ち帰(かへ)り、「さては、汝(なんぢ)は、何処(いづく)の国(くに)に行(ゆ)き、如何(いか)なる賢王(けんわう)をか頼(たの)むべき」と問(と)ふ。「賢臣(けんしん)二君(じくん)に仕(つか)へず、貞女(ていぢよ)両夫(りやうふ)にまみえず」と也(なり)。然(さ)れば、首陽(しゆやう)山に蕨(わらび)ををりて過(す)ぎけるとぞ申(まう)し伝(つた)へたる。
〔貞女(ていぢよ)が事(こと)〕SS0510N082
又(また)、貞女(ていぢよ)両夫(りやうふ)にまみえざるとは、大国(たいこく)に、しそうと言(い)ふ王有(あ)り。かんはくと言(い)ふ臣下(しんか)を召(め)し使(つか)ひ、或(あ)る時(とき)、かんはく、結(むす)びたる文(ふみ)を落(お)としたり。王(わう)御覧(ごらん)じて、「如何(いか)なる文(ふみ)ぞ」と、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、「我(われ)、宮仕(きゆうじ)暇(ひま)無(な)くて、日数(ひかず)を送(おく)り、家(いへ)に帰(かへ)らP222ず候(さうら)ふ。心(こころ)許(もと)無(な)しとて、妻(さい)のもとよりくれたる文(ふみ)」と申(まう)す。猶(なほ)あやしみ、「叡覧(えいらん)あらん」と、宣旨(せんじ)有(あ)り。隠(かく)すべき事(こと)ならねば、叡慮(えいりよ)に捧(ささ)ぐ。「此(こ)の文(ふみ)の主(ぬし)、呼(よ)びて見(み)せよ」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、宣旨(せんじ)背(そむ)き難(がた)くて、此(こ)の女(をんな)を呼(よ)びて見(み)せ奉(たてまつ)る。王(わう)御覧(ごらん)じて、押(お)し止(とど)めおき給(たま)ふ。かんはく、安(やす)からずに思(おも)ひけれども、適(かな)はず。女(をんな)も、王宮(わうくう)の住(す)まひ、もの憂(う)くて、只(ただ)男(をとこ)の事(こと)のみ、思(おも)ひ歎(なげ)きければ、王(わう)、驚(おどろ)き思(おぼ)し召(め)す。時(とき)の関白(くわんばく)りやうはくと言(い)ふ者(もの)を召(め)し、「此(こ)の事(こと)如何(いかが)せん」と問(と)ひ給(たま)ふ。「然(さ)らば、彼(かれ)が男(をとこ)のかんはくを、かたはになして見(み)せ給(たま)へ。思(おも)ひはさめぬべし」と申(まう)したりければ、「然(しか)るべし」とて、耳(みみ)鼻(はな)をそぎ、口(くち)をさきて見(み)せ給(たま)ふ。女(をんな)、我(われ)故(ゆゑ)、斯(か)かる憂(う)き目(め)にあふよと歎(なげ)き、いよいよ伏(ふ)し鎮(しづ)み悲(かな)しみければ、又(また)臣下(しんか)に問(と)ひ給(たま)ふ。「然(さ)らば、かんはくを殺(ころ)して見(み)せ給(たま)へ」と申(まう)しければ、やがて、深(ふか)き淵(ふち)に沈(しづ)められけり。女聞(き)きて、思(おも)ひ少(すこ)しなほざりにし、「彼(か)の淵(ふち)見(み)ん」と言(い)ひけり。大王(だいわう)、はや思(おも)ひ捨(す)てけりと喜(よろこ)びて、大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)諸(もろ)共(とも)に、彼(か)の淵(ふち)にのぞみ、管絃(くわんげん)遊宴(いうえん)して遊(あそ)び給(たま)ふ時(とき)に、此(こ)の女(をんな)、みぎはに出(い)で、やすらふとぞ見(み)えし、淵(ふち)に飛(と)び入(い)りて、死(し)にけり。大王(だいわう)を始(はじ)めとして、敢(あ)へ無(な)さ限(かぎ)り無(な)くて、空(むな)しく帰(かへ)り給(たま)ひけり。P223
〔鴛鴦(おし)の剣羽(つるぎば)の事(こと)〕S0511N083
幾程(いくほど)無(な)くして、此(こ)の淵(ふち)の中に、あかき石(いし)二出(い)で来(き)たり、いだき合(あ)はせてぞ有(あ)りける。「是(これ)、不思議(ふしぎ)なり。かんはく夫婦(ふうふ)の姿(すがた)なるをや」と、人申(まう)しければ、大王(だいわう)聞(き)こし召(め)し、猶(なほ)も有(あ)りし面影(おもかげ)の忘(わす)れ難(がた)くて、又(また)官人(くわんにん)諸(もろ)共(とも)に、彼(か)の淵(ふち)の辺(ほとり)に行幸(ぎやうがう)成(な)り、叡覧(えいらん)有(あ)りければ、申(まう)すに違(たが)はず、誠(まこと)に石(いし)二有(あ)り。不思議(ふしぎ)に思(おぼ)し召(め)す所(ところ)に、彼(か)の石(いし)の上(うへ)に、鴛鴦(おし)鳥一(ひと)つがひ上(あ)がりて、鴛鴦(ゑんわう)の衾(ふすま)の下なつかしげにたはぶれけり。是(これ)も、彼(かれ)等(ら)が精(せい)にてもやと御覧(ごらん)じけるに、此(こ)の鴛鴦(おし)飛(と)び上(あ)がり、思羽(おもひば)にて、王(わう)の首(くび)をかき落(お)とし、淵(ふち)に飛(と)び入(い)り失(う)せにけり。其(そ)れよりして、思羽(おもひば)をば剣羽(つるぎば)とも申(まう)すなり。
〔五郎(ごらう)が情(なさけ)懸(か)けし女(をんな)出家(しゆつけ)の事(こと)〕S0512N084
貞女(ていぢよ)両夫(りやうふ)にまみえずとは、此(こ)の女(をんな)の事(こと)なり。如何(いか)なる貞女(ていぢよ)か、二人(ふたり)の夫(おつと)に見(み)えし、如何(いか)なる身(み)にてか、引(ひ)く手(て)数多(あまた)に生(う)まれつらん。然(さ)らぬだに、我(われ)等(ら)風情(ふぜい)の者(もの)は、欲心(よくしん)に住(す)まひすると、言(い)ひ習(なら)はせり。「士(し)は己(おのれ)を知(し)る者(もの)の為(ため)に、容(かたち)をつくろふ」と、文選(もんぜん)の言葉(ことば)なるをや。我(われ)又(また)、かひがひしく無(な)ければ、景季(かげすゑ)が誠(まこと)の妻女(さいぢよ)に成(な)るP224べき身(み)にても無(な)し、来世(らいせ)こそ遂(つひ)の住(す)み処(か)なれ。其(そ)の上(うへ)、歌(うた)には、神も仏(ほとけ)も納受(なふじゆ)し、慈悲(じひ)をたれ給(たま)ふ。然(さ)れば、花に鳴(な)く鴬(うぐいす)、水(みづ)にすむ蛙(かはづ)だにも、歌(うた)をばよむぞかし。況(いはん)や、人として、如何(いか)でか是(これ)を恥(は)ぢざるべき」とて、此(こ)の歌(うた)を詠(よ)みて、数(かず)ならぬ心(こころ)の山の高(たか)ければ奥(おく)の深(ふか)きを尋(たづ)ねこそ入(い)れ W015捨(す)つる身(み)に猶(なほ)思(おも)ひ出(い)でと成(な)る物(もの)は問(と)ふに問(と)はれぬ情(なさけ)なりけり W016誠(まこと)や、「天人の婬(いん)せざる所(ところ)は、禍(わざわひ)有(あ)りて、しかも禍(わざわひ)無(な)し」と、東方朔(とうばうさく)が言葉(ことば)、思(おも)ひ知(し)られて、然(しか)るべき善知識(ぜんぢしき)を尋(たづ)ね、生年(しやうねん)十六歳(さい)と申(まう)すに出家(しゆつけ)して、諸国(しよこく)を修行(しゆぎやう)して、後には、大磯(おほいそ)の虎(とら)が住(す)み処(か)を尋(たづ)ね、道心に行(ぎやう)して、いづれも八十余にして、往生(わうじやう)の素懐(そくわい)を遂(と)げにけり。有(あ)り難(がた)かりし志(こころざし)とぞ聞(き)きし。源太(げんだ)左衛門(さゑもん)景季(かげすゑ)は、此(こ)の事(こと)を聞(き)きて、もとより此(こ)の女(をんな)の心(こころ)様(ざま)、尋常(じんじやう)にして、歌(うた)の道(みち)にもやさし。今(いま)は、曾我(そが)の五郎(ごらう)こそ敵(かたき)なれ。行(ゆ)き合(あ)はん所(ところ)にて、本意(ほんい)を達(たつ)せんと思(おも)ひければ、さてこそ、平塚(ひらつか)の宿まではおひたりけれ。其(そ)の時(とき)、景季(かげすゑ)勢(いきほひ)、又(また)並(なら)ぶ人や有(あ)るべきなりしか共(ども)、富士野(ふじの)裾野(すその)にては、誠(まこと)に男(をとこ)がましくも見(み)えざりしぞかし。然(さ)れば、「人は世(よ)に有(あ)りとも、よくよく思慮(しりよ)有(あ)るべき物(もの)を」とて、皆人(みなひと)申(まう)し合(あ)はれけり。五郎(ごらう)も、此(こ)の事(こと)を伝(つた)へ聞(き)きて、やさしくも、又(また)心(こころ)許(もと)無(な)くもぞ思(おも)ひける。是(これ)に依(よ)りて、いよいよ身(み)を身(み)とも、世(よ)を世(よ)共(とも)知(し)らで、思(おも)ふ事(こと)のみ急(いそ)ぎけるは、理(ことわり)過(す)ぎてぞ、哀(あは)れなる。P225
〔呉(ご)越(ゑつ)の戦(たたか)ひの事(こと)〕S0513N085
抑(そもそも)、五郎(ごらう)が富士野(ふじの)にて、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を清(きよ)むと言(い)ひける由来(ゆらい)を詳(くは)しく尋(たづ)ぬるに、昔(むかし)、異朝(いてう)に、呉国(ごこく)・越国(ゑつこく)とて、並(なら)びの国有(あ)り。呉国王(ごこくわう)をば、闔閭(かうりよ)の子(こ)にて、呉王(ごわう)夫差(ふさ)と言(い)ひ、越国(ゑつこく)の王(わう)をば、大帝(たいてい)の子(こ)にて、越王(ゑつわう)勾踐(こうせん)とぞ言(い)ひける。然(しか)るに、彼(か)の両王、国(くに)を争(あらそ)ひ、戦(たたか)ひをなす事(こと)絶(た)えず。或(あ)る時は、呉王(ごわう)を滅(ほろ)ぼし、或(あ)る時は、越王(ゑつわう)を退治(たいぢ)し、或(あ)る時(とき)は、親(おや)の敵(かたき)と成(な)り、或(あ)る時(とき)は、子(こ)の仇(あた)と成(な)り、義勢(ぎせい)はなはだしく、累年(るいねん)に及(およ)ぶ。此処(ここ)に、越王(ゑつわう)の臣下(しんか)に、范蠡(はんれい)と言(い)ふ武勇(ぶよう)の達者(たつしや)有(あ)り、彼(かれ)を招(まね)き寄(よ)せて曰(いは)く、「今(いま)の呉王(ごわう)は、まさしき親(おや)の敵(かたき)也(なり)。是(これ)を打(う)たずして、徒(いたづ)らに年を送(おく)りて、あざけりを天下(てんが)に残(のこ)す事(こと)、父祖(ふそ)の恥(はぢ)を九泉苔(きうせんこけ)の下に恥(は)づかしむる事(こと)、恨(うら)みつくし難(がた)し。然(さ)れば、越国(ゑつこく)の兵(つはもの)催(もよほ)し、呉国(ごこく)へ打(う)ち越(こ)え、呉王(ごわう)を打(う)ち滅(ほろ)ぼし、父祖(ふそ)の恨(うら)みを報(ほう)ぜんと思(おも)ふなり。汝(なんぢ)は、しばし国(くに)に止(とど)まりて、社稷(しやしよく)を守(まも)るべし」と宣(のたま)ひければ、范蠡(はんれい)申(まう)しけるは、「暫(しばら)く愚意(ぐい)を以(もつ)て事(こと)をはかるに、今(いま)越(ゑつ)の力(ちから)にて、呉王(ごわう)を滅(ほろ)ぼさん事(こと)、すこぶるかたかるべし。其(そ)の故(ゆゑ)は、先(ま)づ両国(りやうごく)の兵(つはもの)をかぞふるに、呉国(ごこく)には、二十万騎(にじふまんぎ)有(あ)り、はつか十万騎(じふまんぎ)也(なり)、小(せう)を以(もつ)て、P226大(おほ)きに敵(てき)せざれとなり。其(そ)の上(うへ)、呉王(ごわう)の臣下(しんか)に、伍子胥(ごししよ)とて、智深(ふか)うして才(さい)高(たか)き、人を付(つ)くる勇士(ゆうし)有(あ)り。彼(かれ)があらん程(ほど)は、呉王(ごわう)を滅(ほろ)ぼさん事(こと)、適(かな)ふべからず。騏■(きりん)は、角(つの)に肉(しし)有(あ)りて、猛(たけ)き形(かたち)を現(あらは)さず、潛竜(せんりゆう)、三冬(とう)にうづくまつて、一陽(いちやう)来復(らいふく)の天(てん)をまつ。暫(しばら)く兵(つはもの)を伏(ふく)して、武(ぶ)を隠(かく)し、時(とき)を待(ま)ち給(たま)へ」といさめければ、越王(ゑつわう)、是(これ)を用(もち)ひず、大(おほ)きにいかつて、「軍(いくさ)の勝負(しようぶ)は、勢(せい)の多少によらず、只(ただ)時(とき)の運(うん)に依(よ)り、又は大将(たいしやう)の謀(はかりこと)によるなり。然(さ)れば、呉(ご)と越(ゑつ)との戦(たたか)ひ、度々(どど)に及(およ)び、雌雄(しゆう)を決(けつ)する事(こと)、汝(なんぢ)ことごとく知(し)れり。次(つぎ)に、伍子胥(ごししよ)があらん程(ほど)は、適(かな)はじと言(い)はば、我(われ)遂(つひ)に父祖(ふそ)の敵(かたき)を打(う)たずして、恨(うら)みを謝(しや)せん事(こと)有(あ)るべからず。徒(いたづ)らに伍子胥(ごししよ)が死(し)ぬるを待(ま)たば、生死(しやうじ)限(かぎ)り有(あ)り、老少(らうせう)定(さだ)まらず、伍子胥(ごししよ)と我(われ)と、いづれをか先(さき)と知(し)らん。是(これ)、しかしながら、汝(なんぢ)が愚心(ぐしん)なり。我(われ)又(また)、兵(つはもの)を催(もよほ)す事(こと)、定(さだ)めて呉国(ごこく)へ聞(き)こゆらん。事(こと)のびば、かへつて呉王(ごわう)に滅(ほろ)ぼされなん時(とき)に、くゆとも、益(えき)有(あ)るまじ」とて、越王(ゑつわう)十一年(ねん)二月上旬(じやうじゆん)の頃(ころ)、十万騎(じふまんぎ)の兵(つはもの)を率(そつ)して、呉国(ごこく)へぞ寄(よ)せたりける。呉王(ごわう)、是(これ)を聞(き)き、「小敵(せうてき)あざむくべきにあらず」とて、自(みづか)ら二十万騎(にじふまんぎ)の勢(せい)を率(そつ)して、呉(ご)と越(ゑつ)との境(さかひ)、夫椒県(ふせうけん)と言(い)ふ所(ところ)に馳(は)せ向(む)かうて、後(うし)ろには会稽山(くわいけいざん)をあて、前(まへ)にはこせんと言(い)ふ大川を隔(へだ)てて、陣(ぢん)を取(と)り、敵(てき)をはからんが為(ため)に、三万騎(さんまんぎ)を出(い)だして、残(のこ)る十万騎(じふまんぎ)をば、後(うし)ろの山に隠(かく)し置(お)きけり。越王(ゑつわう)、夫椒県(ふせうけん)P227にのぞみて、敵(かたき)を見(み)るに、はつか二三万騎(にさんまんぎ)には過(す)ぎざりけり。思(おも)はず小勢(こぜい)なりとて、十万騎(じふまんぎ)の兵(つはもの)を同心(どうしん)に掛(か)け出(い)ださせ、筏(いかだ)を組(く)みて、馬(むま)打(う)ち渡(わた)す。呉(ご)の兵(つはもの)、予(かね)てより敵(かたき)を難所(なんじよ)にをびき入(い)れて、残(のこ)さず打(う)たむと定(さだ)めし事(こと)なれば、わざと一戦(せん)にも及(およ)ばずして、夫椒県(ふせうけん)の陣(ぢん)を引(ひ)き、会稽山(くわいけいざん)に引(ひ)き籠(こも)る。越(ゑつ)の兵(つはもの)、勝(か)つに乗(の)り、逃(に)ぐるをおふ事(こと)、三十余里。ついの陣(ぢん)を一陣(いちぢん)に合(あ)はせて、馬の息(いき)切(き)るる程(ほど)ぞ、おうたりけり。次(つぎ)に、呉(ご)の兵(つはもの)、思(おも)ふ程(ほど)、敵(かたき)を難所(なんじよ)にをびき入(い)れて、二十万騎(にじふまんぎ)の兵(つはもの)、四方(しはう)の山より打(う)つていづ。越王(ゑつわう)勾踐(こうせん)を中に取(と)り込(こ)め、一人ももらさじと攻(せ)め戦(たたか)ふ。越(ゑつ)の兵(つはもの)は、今朝(けさ)の戦(たたか)ひにとほがけをし、馬(うま)人共(とも)に疲(つか)れたる上(うへ)、小勢(こぜい)なりければ、呉国(ごこく)の大勢(おほぜい)にかこまれて、一所に打(う)ち寄(よ)り、ひかへたり。すすみてかからんとすれば、敵(てき)嶮岨(けんそ)にささへて、矢じりを揃(そろ)へて、待(ま)ち掛(か)けたり。退(しりぞ)いて払(はら)はんとすれば、鉾先(ほこさき)にはまれり。され共(ども)、越王(ゑつわう)践(せん)は、敵(かたき)を破(やぶ)り、敵(かたき)を砕(くだ)く事(こと)、大勢(おほぜい)に越(こ)えたる人なりければ、事(こと)ともせず、彼(か)の大勢(おほぜい)の中に掛(か)け入(い)りて、十文字(じふもんじ)に掛(か)け破(やぶ)り、追(お)ひまはして、一所に合(あ)はせて、三所(さんじよ)に別(わか)る、四方(しはう)を払(はら)ひ、八方(はつぱう)にあたり、百度(たび)千度(たび)の戦(たたか)ひに、勝劣(しようれつ)無(な)し。然(しか)りとは雖(いへど)も、多勢(せい)に無勢(ぶせい)なれば、遂(つひ)に越王(ゑつわう)打(う)ち負(ま)けて、三万騎(さんまんぎ)に打(う)ちなされけり。然(さ)れば、越王(ゑつわう)こらへずして、会稽山(くわいけいざん)に打(う)ち上(のぼ)りて、打(う)ち残(のこ)されたる勢(せい)を見(み)るに、わづかに三万騎(さんまんぎ)に成(な)りにけり。馬(むま)に離(はな)れ、矢種(やだね)P228ことごとくつき、鉾(ほこ)をれければ、一戦(せん)にも及(およ)び難(がた)し。隣国(りんごく)の諸侯(しよこう)は、勝(か)つ事(こと)を両方(りやうばう)に窺(うかが)ひて、いづかたとも見(み)えず、ひかへたりしが、呉王(ごわう)の軍(いくさ)に利(り)有(あ)りと見(み)/て、ことごとく呉王(ごわう)の勢(せい)にぞくははりける。今(いま)は三十万騎(さんじふまんぎ)に成(な)りて、彼(か)の山をかこむ事(こと)、稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如(ごと)く、越王(ゑつわう)適(かな)はじとや思(おも)ひけん、油幕(ゆまく)の内(うち)に入(い)り、兵(つはもの)を集(あつ)めて曰(いは)く、「我(われ)、運命(うんめい)既(すで)につきて、今(いま)此(こ)のかこみにて、腹(はら)を切(き)るべし。是(これ)、まつたく軍(いくさ)の科(とが)にあらず、天(てん)、我(われ)を滅(ほろ)ぼせり。恨(うら)むべきにあらず。只(ただ)范蠡(はんれい)がいさめこそ恥(は)づかしけれ。従(したが)ひて、臣(しん)が御志(こころざし)を報(ほう)ぜざるこそ、無念(むねん)なれ。さりながら、重恩(ぢゆうおん)、生々(しやうじやう)世々(せせ)に報(ほう)じ難(がた)し。とても、是(これ)程(ほど)の志(こころざし)なれば、明(あ)けなば、諸(もろ)共(とも)にかこみを出(い)でて、呉王(ごわう)の陣(ぢん)に掛(か)け入(い)りて、屍(かばね)を軍門(ぐんもん)にさらし、再生(さいしやう)に報(ほう)ずべし」とて、鎧(よろひ)の袖を濡(ぬ)らし給(たま)へば、兵(つはもの)も、一途(づ)に思(おも)ひ定(さだ)まる勢(せい)を見(み)/て、「今までの旧好(きうかう)、余儀(よぎ)無(な)し」とぞ同(どう)じける。さて、王■与(わうせきよ)とて、八歳(さい)に成(な)る最愛(さいあひ)の太子(たいし)有(あ)りけり。呼(よ)び出(い)だして、「汝(なんぢ)、未(いま)だ幼稚(ようち)なり。敵(かたき)に生捕(いけど)られて、憂(う)き目(め)を見(み)ん事(こと)、口惜(くちを)し。汝(なんぢ)を先(さき)立(だ)てて、心(こころ)安(やす)く討死(うちじに)して、九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)、三途(さんづ)の露(つゆ)の底(そこ)までも、父子(ふし)の恩愛(おんあい)、捨(す)てじと思(おも)ふなり。急(いそ)ぎ殺(ころ)すべし」と言(い)ひければ、太子(たいし)、何心(なにごころ)も無(な)くてぞ有(あ)りにける。又(また)、随身(ずいしん)の重器(ちようき)をつみ重(かさ)ねて、ことごとくやき失(うしな)はんとす。時に、越王(ゑつわう)の左将軍(さしやうぐん)に、大夫種(たいふしゆ)と言(い)ふ臣下(しんか)有(あ)り、すすみ出(い)でて申(まう)しけるは、「生(しやう)をまつたくしP229て、命(めい)をまつ事(こと)、遠(とほ)くしてかたし。死(し)をかろくして、節(せつ)をのぞむ事(こと)は、近(ちか)くして安(やす)し。暫(しばら)く重器(ちようき)をやき、太子(たいし)を殺(ころ)さん事(こと)を止(とど)め給(たま)へ。我、無骨(ぶこつ)なりと雖(いへど)も、呉王(ごわう)をあざむきて、君王(くんわう)の死(し)をすくひ、本国(ほんごく)に帰(かへ)り、二度(ふたたび)、大軍(ぐん)を起(お)こし、此(こ)の恥(はぢ)をすすがんと存(ぞん)ずるなり。然(しか)るに、今、此(こ)の山(やま)をかこみ、一陣(いちぢん)をはる左将軍(さしやうぐん)は、太宰■(たいさいひ)と言(い)ふ臣下(しんか)なり。彼(かれ)は、我(わ)が古(いにしへ)の朋友(ほうゆう)なり。誠(まこと)に血気(けつき)の勇士(ゆうし)と言(い)ひながら、心(こころ)に欲(よく)有(あ)り。又(また)、呉王(ごわう)も、智(ち)浅(あさ)くして、謀(はかりこと)短(みじか)し。色(いろ)に婬(いん)して、道(みち)に暗(くら)し。然(さ)れば、君臣(くんしん)共(とも)に、あざむくに安(やす)き所(ところ)なり。今(いま)、此(こ)の戦(たたか)ひにまくる事(こと)も、范蠡(はんれい)がいさめを用(もち)ひ給(たま)はぬに依(よ)りて也(なり)。願(ねが)はくは、君王(くんわう)、暫(しばら)く臣下(しんか)に謀(はかりこと)を許(ゆる)して、敗軍(はいぐん)数万(すまん)の死(し)をすくひ給(たま)へ」と、涙(なみだ)を流(なが)して、申(まう)しければ、越王(ゑつわう)、差(さ)しあたる理(り)に下(お)りて、「今(いま)より後(のち)、大夫種(たいふしゆ)が言葉(ことば)に従(したが)ふ」とて、重器(ちようき)をもやかず、太子(たいし)をも殺(ころ)さざりけり。大夫種(たいふしゆ)喜(よろこ)びて、兜(かぶと)を脱(ぬ)ぎ、旗(はた)をまき、会稽山(くわいけいざん)より下(お)り、「越王(ゑつわう)の勢(せい)、既(すで)につきて、呉(ご)の軍門(ぐんもん)に下(くだ)る」と呼(よ)ばはりければ、呉(ご)の兵(つはもの)三十万騎(さんじふまんぎ)、勝鬨(かちどき)を作(つく)りて、万歳(ばんぜい)の喜(よろこ)びをぞ唱(とな)へける。大夫種(たいふしゆ)は、即(すなは)ち、此(こ)のゑ門(もん)に入(い)りて、「つつしんで、呉上(ごじやう)将軍(しやうぐん)のけしゆつことに属(ぞく)す」と言(い)ひて、膝行(しつかう)頓首(とんしゆ)して、太宰■(たいさいひ)が前(まへ)にひざまづく。太宰■(たいさいひ)哀(あは)れに思(おも)ひ、顔色(がんしよく)とけて、「越王(ゑつわう)の命(いのち)をば申(まう)しなだむべし」とて、大夫種(たいふしゆ)をつれて、呉王(ごわう)の陣(ぢん)に渡(わた)り、此(こ)の由(よし)かくと言(い)ふ。P230呉王(ごわう)、彼(かれ)等(ら)を見(み)/て、大(おほ)きに怒(いか)りて曰(いは)く、「呉(ご)と越(ゑつ)との戦(たたか)ひ、今(いま)に限(かぎ)らずと雖(いへど)も、時(とき)にいたりて、勾踐(こうせん)とらはれ、僻事(ひがこと)となれり。是(これ)、天(てん)の我(われ)に与(あた)へたるにあらずや。汝(なんぢ)、知(し)りながら、彼(かれ)を助(たす)けよと言(い)ふ。敢(あ)へて忠烈(ちゆうれつ)の臣(しん)にはあらず」とて、更(さら)に用(もち)ひ給(たま)はず。太宰■(たいさいひ)、重(かさ)ねて申(まう)しけるは、「臣(しん)、不肖(ふせう)なりと雖(いへど)も、忝(かたじけな)くも、将軍(しやうぐん)の号(かう)を許(ゆる)されて、此(こ)の戦(たたか)ひにも一陣(いちぢん)たり。然(しか)れば、謀(はかりこと)をめぐらし、大敵(てき)を破(やぶ)り、命(めい)をかろんじて、勝(か)つ事(こと)を決(けつ)せり。是(これ)、偏(ひとへ)に臣(しん)が大臣(しん)の功(こう)とも言(い)ひつべし。君王(くんわう)の為(ため)に、天下(てんが)の太平(たいへい)をはかるに、あに一日も忠(ちゆう)をつくす心(こころ)を現(あらは)さざらんや」。時(とき)に、呉王(ごわう)、「つらつら、せいをはかるに、越王(ゑつわう)、戦(たたか)ひ負(ま)けて、力(ちから)つきぬとは雖(いへど)も、残(のこ)る兵(つはもの)、未(いま)だ三万騎(さんまんぎ)有(あ)り。これ皆(みな)、こへいてつきの勇士(ゆうし)なり。御方(みかた)は、多(おほ)しと雖(いへど)も、昨日(きのふ)の軍(いくさ)に疲(つか)れて、前後を失(うしな)ひ、敵(かたき)は、小勢(こぜい)也(なり)と雖(いへど)も、志(こころざし)を一(ひと)つにして、しかも、逃(のが)れぬ所(ところ)を知(し)れり。是(これ)や、窮鼠(きうそ)返(かへ)りて猫(ねこ)をくらひ、闘雀(とうじやく)人(にん)を恐(おそ)れずと言(い)ふべきにや。もし重(かさ)ねて戦(たたか)はば、御方(みかた)には、あやしみ多(おほ)かるべし」と宣(のたま)へば、太宰■(たいさいひ)が、「只(ただ)越王(ゑつわう)を助(たす)けて、一天(てん)の地(ち)を与(あた)へ、此(こ)の下臣(かしん)となすべし。しからば、呉(ご)越(ゑつ)両国(りやうごく)のみならず、斉(せい)・楚(そ)・趙(てう)の三が国、ことごとく朝(てう)せずと言(い)ふこと有(あ)るべからず。是(これ)ぞ、根(ね)は深(ふか)うして、葉(は)をかたくする道(みち)也(なり)」と、理(ことわり)をつくしければ、呉王(ごわう)聞(き)きをはりP231て、欲(よく)にふける心(こころ)をたくましくして、「然(さ)らば、会稽山(くわいけいざん)のかこみをとき、越王(ゑつわう)を助(たす)くべし」とぞ定(さだ)めける。太宰■(たひさいひ)、急(いそ)ぎ大夫種(たいふしゆ)に語(かた)る。大(おほ)きに喜(よろこ)びて、越王(ゑつわう)に告(つ)げければ、士卒(しそつ)色を直(なほ)し、「万事(ばんじ)を出(い)で、一生(いつしやう)にあふ事(こと)、偏(ひとへ)に大夫種(たいふしゆ)が智謀(ちぼう)によれり」とぞ喜(よろこ)びける。然(さ)る程(ほど)に、兵(つはもの)共(ども)、皆(みな)国(くに)に帰(かへ)る。太子(たいし)の王■与(せきよ)には、大夫種(たいふしゆ)を付(つ)けて、本国(ほんごく)へ返(かへ)し、我(われ)は、素車(そしや)に乗(の)りて、越(ゑつ)の国(くに)の璽綬(じじう)を首(くび)に掛(か)け、いやしくも呉王(ごわう)の下臣(かしん)と称(しよう)して、軍門(ぐんもん)に下(くだ)り給(たま)ひにけり。あさましかりし次第(しだい)なり。然(さ)れども、なほし呉王(ごわう)心(こころ)許(ゆる)しや無(な)かりけん。「君子(くんし)、刑人(けいじん)に近付(ちかづ)かず」とて、敢(あ)へて勾踐(こうせん)に面(おもて)をまみえ給(たま)はず。剰(あまつさ)へ、典獄(てんごく)の官(くわん)に下(くだ)されて、きやうこうゑききうして、枯蘇城(こそじやう)へ入(い)り給(たま)ふ。其(そ)の姿(すがた)見(み)る人、袖(そで)を濡(ぬ)らさぬは無(な)かりけり。実(げ)にや、昨日(きのふ)までは、越国(ゑつこく)の大王(だいわう)として、何(なに)か心(こころ)を携(たづさ)へし。弓矢(ゆみや)を帯(たい)する身(み)とて、今日(けふ)は、斯(か)かる目(め)にあふべしとは、誰か知(し)るべきとて、涙(なみだ)を流(なが)さぬは無(な)かりけり。越王(ゑつわう)、彼(か)の所(ところ)に入(い)りぬれば、手械(てがせ)足枷(あしがせ)を入(い)れ、首(くび)に綱(つな)を差(さ)し、土(つち)の籠(ろう)にぞ込(こ)められける。夜明(あけ)、日暮(くる)れども、日月の光(ひかり)をも見(み)ず、冥暗(めいあん)の内(うち)に、年月(としつき)を送(おく)り向(む)かへし涙(なみだ)の露(つゆ)、さこそは袖(そで)に積(つ)もるらめ、思(おも)ひ遣(や)られて哀(あは)れ也(なり)。然(さ)る程(ほど)に、国(くに)に止(とど)め置(お)きし范蠡(はんれい)、此(こ)の事(こと)を聞(き)き、恨(うら)み骨髄(こつずい)に通(とほ)りて、忍(しの)び難(がた)し。哀(あは)れ、如何(いか)にもして、我(わ)が君(きみ)を本国(ほんごく)に返(かへ)し奉(たてまつ)りて、諸(もろ)共(とも)に謀(はかりこと)をめぐらし、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を清(きよ)めP232ばやと、肺肝(はいかん)を砕(くだ)きてぞ、悲(かな)しみける。或(あ)る時(とき)、范蠡(はんれい)、謀(はかりこと)を以(もつ)て、身(み)をやつし、籠(かご)に魚(うを)を入(い)れて、自(みづか)ら是(これ)をになひ、商人(あきびと)のまねをして、呉国(ごこく)をぞめぐりける。城(じやう)の辺(ほとり)にて、勾踐(こうせん)の御所(ごしよ)を秘(ひそ)かに問(と)ひければ、人是(これ)を詳(くは)しく教(をし)へけり。范蠡(はんれい)嬉(うれ)しくて、彼(か)の獄(ごく)近(ちか)く行(ゆ)きけれ共(ども)、警固(けいご)隙も無(な)かりければ、魚(うを)あきなふ由(よし)にて、近付(ちかづ)き寄(よ)りて、一行(かう)の書(しよ)を魚(うを)の腹(はら)の中に入(い)れて、獄(ごく)中に入(い)れたり。勾踐(こうせん)、あやしみ思(おも)ひて、魚(うを)の腹(はら)を開(ひら)きて見(み)れば、書有(あ)り。言葉(ことば)に曰(いは)く、「西伯(せいはく)とらはれ■里(ゆうり)。てうてうしははしかしよに。皆(みな)王(わう)覇(は)たる。敵(てき)に死(し)を許(ゆる)す事(こと)無(な)かれ」とぞ書(か)きたりけれ。筆勢(ひつせい)、文章(ぶんしやう)の体(てい)、まがはぬ范蠡(はんれい)がわざなり。然(さ)ればにや、未(いま)だ浮(う)き世(よ)にながらへて、我(わ)が為(ため)に肺肝(はいかん)しけりと、志(こころざし)の程(ほど)、哀(あは)れにも、又(また)頼(たの)もしくもぞ思(おも)ひける。一日(いちにち)片時(へんし)のながらへも、恨(うら)めしかりつるに、范蠡(はんれい)がいさめを受(う)けて、今更(いまさら)、命(いのち)をも惜(を)しく思(おも)はれけり。斯(か)かる所(ところ)に、敵(かたき)の呉王(ごわう)、俄(にはか)に石淋(せきりん)と言(い)ふ病(やまひ)を受(う)けて、心身(しんじん)とこしなへに悩乱(なうらん)す。巫覡(ふげき)祈(いの)れ共(ども)、験(しるし)無(な)く、医師(いし)治(ぢ)すれども、いえずして、露(ろ)命既(すで)に危(あや)ふかりけり、此処(ここ)に、他国(たこく)より名医(めいい)来(き)たりて、「此(こ)の病(やまひ)、誠(まこと)に重(おも)しと雖(いへど)も、医術(いじゆつ)及(およ)び難(がた)きにあらず。もし此(こ)の石淋(せきりん)をなめて、五味(み)の様(やう)を知(し)る人あらば、其(そ)の心(こころ)を受(う)けて療治(れうぢ)せんに、即(すなは)ちいゆべし」と申(まう)しければ、「誰か、此(こ)の石淋(せきりん)をなめて、あぢはひの様(やう)を知(し)るべきか」と問(と)ふに、左右(さう)の近臣(きんしん)、皆(みな)相(あひ)顧(かへり)みP233て、なむる者(もの)無(な)し。勾踐(こうせん)、是(これ)を聞(き)き給(たま)ひ、「我(われ)、会稽山(くわいけいざん)にかこまれ、既(すで)に誅(ちゆう)せらるべかりしを、今(いま)まで助(たす)け置(お)かれて、天下(てんが)の赦(しや)をまつ事(こと)、偏(ひとへ)に君王(くんわう)の厚恩(かうおん)なり。今(いま)、我(われ)、是(これ)を以(もつ)て報(ほう)ぜずは、いつの日をか期(ご)せん」とて、秘(ひそ)かに石淋(せきりん)の取(と)りてなめ、其(そ)のあぢはひを医師(いし)に告(つ)げければ、医師(いし)即(すなは)ちあぢはひを聞(き)きて、療治(りやうぢ)をくはふるに、呉王(ごわう)の病(やまひ)、忽(たちま)ちに平癒(へいゆう)す。呉王(ごわう)、大(おほ)きに喜(よろこ)びて、「人、心(こころ)有(あ)り、死(し)を助(たす)けずは、如何(いか)でか今(いま)謝心(しやしん)あらん」とて、越王(ゑつわう)を土(つち)の籠(ろう)より出(い)だし、剰(あまつさ)へ越(ゑつ)の国(くに)を与(あた)へ、「本国(ほんごく)に返(かへ)し給(たま)ふべし」と宣下(せんげ)せられけり。此処(ここ)に、呉王(ごわう)の臣下(しんか)に、伍子胥(ごししよ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り、呉王(ごわう)の前にて申(まう)しけるは、「天の与(あた)へを取(と)らざるは、かへつて、其(そ)の咎(とが)をうると見(み)えたり。此(こ)の時(とき)、越(ゑつ)の国(くに)を取(と)らずして、勾踐(こうせん)を返(かへ)し給(たま)はん事(こと)、千里の野辺(のべ)に、虎(とら)をはなつが如(ごと)し」といさめける。呉王(ごわう)用(もち)ひずして、勾踐(こうせん)を本国(ほんごく)に帰されけるぞ、運(うん)の極(きは)めと覚(おぼ)えける。越王(ゑつわう)喜(よろこ)びて、車(くるま)の轅(ながゑ)をめぐらし、急(いそ)ぎ国(くに)にぞ帰(かへ)りける。道の辺(ほとり)に、蛙(かはづ)多(おほ)く集(あつ)まりて、路頭(ろとう)をふさぐ。勾踐(こうせん)、是(これ)を見(み)/て、「勇士(ゆうし)をえて、素懐(そくわい)を達(たつ)すべき瑞相(ずいさう)、めでたし」とて、車(くるま)より下(お)りて、是(これ)を拝(をが)みて通(とほ)られけるが、果(は)たして言(い)ふ如(ごと)く、本意(ほんい)を遂(と)げ給(たま)ひにけり。不思議(ふしぎ)なる奇瑞(きずい)也(なり)。さて、越王(ゑつわう)、国(くに)に帰(かへ)り、故郷(こきやう)を見(み)るに、いつしか三年にあれはてて、鳥、松桂(せうけい)の枝(えだ)にすくひ、狐(きつね)、蘭菊(らんぎく)の草むらにかくる。払(はら)ふ人無(な)き閑庭(かんてい)には、P234落葉(らくえふ)みちて、蕭々(せうせう)たり。越王(ゑつわう)帰(かへ)り給(たま)ひぬと聞(き)きければ、隠(かく)れ居(ゐ)たる范蠡(はんれい)、太子(たいし)の王■与(せきよ)を宮中(きゆうちゆう)に入(い)れ奉(たてまつ)る。又(また)、越王(ゑつわう)の后(きさき)西施(せいし)と言(い)ふ美人(びじん)有(あ)り。是(これ)ぞ、呉国(ごこく)に聞(き)こゆるなんこく・南威(なんい)・とうい・西施(せいし)とて、四人の美人(びじん)有(あ)りける中にも、西施(せいし)は、頸色(がんしよく)世(よ)にすぐれ、嬋娟(せんげん)たる頸(かほ)ばせ、たぐひ無(な)かりしかば、越王(ゑつわう)、殊(こと)に寵愛(ちようあい)して、しばしも傍(かたはら)をはなし給(たま)はざりき。越王(ゑつわう)、呉王(ごわう)にとらはれし程(ほど)は、此(こ)の難(なん)を逃(のが)れんが為(ため)に、身(み)をそばめ、隠(かく)れ居(ゐ)給(たま)ひしが、越王(ゑつわう)帰(かへ)り給(たま)ふと聞(き)き、喜(よろこ)びて故宮(こきゆう)に参(まゐ)り給(たま)ふ。此(こ)の三年を待(ま)ちわびし思(おも)ひに、雪(ゆき)の膚(はだへ)、しはしは衰(おとろ)へたる御容(かたち)、いとどわり無(な)く覚(おぼ)えたり。余所(よそ)の袂(たもと)までも、しをるる計(ばかり)なり。越王(ゑつわう)、此(こ)の頸(かほ)ばせに、いよいよ心(こころ)を添(そ)へ給(たま)ひけり。理(ことわり)とぞ見(み)えける。此処(ここ)に、呉王(ごわう)より使(つか)ひ有(あ)り。越王(ゑつわう)驚(おどろ)きて、范蠡(はんれい)を出(い)だして聞(き)くに、「我(わ)が君(きみ)、婬(いん)の好(この)み、色を重(おも)くして、美人(びじん)を尋(たづ)ぬる事(こと)、天下(てんが)にあまねし。然(しか)れども、西施(せいし)が如(ごと)くの顔色(がんしよく)をえず。越王(ゑつわう)の古(いにしへ)、会稽山(くわいけいざん)を出(い)でし時(とき)、一言(げん)の約束(やくそく)有(あ)り、忘(わす)れ給(たま)ふべきにあらず。はやはや西施(せいし)を呉(ご)のこきゆうへ冊入(しやくじう)し奉(たてまつ)り、貴妃(きひ)の位(くらゐ)にそなへん」との使(つか)ひなり。越王(ゑつわう)聞(き)き、「我(われ)、呉王(ごわう)にとらはれ、恥(はぢ)を忘(わす)れ、石淋(せきりん)をなめて、命を助(たす)かりし事(こと)も、只(ただ)彼(か)の西施(せいし)に偕老(かいらう)の契りを結(むす)びし故(ゆゑ)なり。然(さ)れば、西施(せいし)を他国(たこく)へ遣(つか)はさん事(こと)、適(かな)ふべからず」と言(い)ふ。范蠡(はんれい)申(まう)しけるは、「誠(まこと)に君王(くんわう)の展(てん)したる思(おも)ひをはるるに、臣(しん)か心(こころ)成(な)し増(ま)さるにはあらね共(ども)、もし西施(せいし)を惜(を)しみ給(たま)はば、P235呉(ご)越(ゑつ)のへいき、二度破(やぶ)れて、此(こ)の国(くに)を取(と)らるるのみならず。西施(せいし)をも奪(うば)はれ、社稷(しやしよく)をも傾(かたぶ)けらるべし。つらつら、是(これ)をはかるに、呉王(ごわう)、婬(いん)の好(この)み、色に迷(まよ)ふ事(こと)、疑(うたが)ひ無(な)し。国(くに)つひえ、民(たみ)背(そむ)かん時(とき)に及(およ)びて、兵(つはもの)を起(お)こし、呉(ご)を攻(せ)められんに、勝(か)つ事(こと)、立所(たちどころ)なるべし。然(さ)らば、夫人(ふじん)の御契、長久(ちやうきう)ならん」と、涙(なみだ)を流(なが)してくどきければ、越王(ゑつわう)、「我、前(さき)に范蠡(はんれい)がいさめを用(もち)ひずして、呉王(ごわう)にかこまれ、命つきなんとす。今(いま)又(また)、彼(か)のいさめ聞(き)かずは、定(さだ)めて天の照覧(せうらん)にも背(そむ)きなん」とて、西施(せいし)を呉国(ごこく)へぞ送られける。互(たが)ひの別(わか)れの袖(そで)、愁歎(しうたん)に残(のこ)ると言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。され共(ども)、范蠡(はんれい)がいさめを違(たが)へず、一人の太子(たいし)をも振(ふ)り捨(す)て出(い)で給(たま)ふ御心(おんこころ)も、只(ただ)末(すゑ)の世(よ)を思(おも)ひ給(たま)ふ故(ゆゑ)なり。さりながら、一方(ひとかた)ならぬ別(わか)れの悲(かな)しさ、例(たと)へん方(かた)も無(な)し。さて、彼(か)の西施(せいし)は、一度(ひとたび)ゑめば、百(もも)の媚(こび)有(あ)り、一度(ひとたび)宮中(きゆうちゆう)に入(い)りぬれば、呉王(ごわう)、心(こころ)を惑(まど)はす。呉王(ごわう)は、思(おも)ひよりも心(こころ)あくがれて、婬楽(いんらく)を好(この)みて、夜(よ)とも知(し)らず、遊宴(いうえん)をもつぱらとして、国(くに)の危(あや)ふきをも顧(かへり)みず、誠(まこと)に范蠡(はんれい)がいさめ違(たが)はずと見(み)えける。此処(ここ)に、呉王(ごわう)の臣下(しんか)伍子胥(ごししよ)、是(これ)を歎(なげ)き、呉王(ごわう)をいさめて曰(いは)く、「君見(み)ずや、殷(いん)の紂王(ちうわう)は、妲己(だんき)に迷(まよ)ひて、世(よ)を乱(みだ)し、周(しゆう)の幽王(いうわう)は、褒■(ほうじ)を愛(あい)して、国(くに)を傾(かたぶ)けられし事(こと)、遠(とほ)きにあらず」と、度々いさめけれ共(ども)、敢(あ)へて、是(これ)を聞(き)かず。或(あ)る時(とき)、呉王(ごわう)、西施(せいし)に宴(えん)せんとて、群臣(くんしん)を集(あつ)め、枯蘇台(こそたい)にして、花に酔(ゑい)をすすめP236けるが、さしも玉(たま)をしき、金(こがね)を大(おほ)うする瑶階(ようかい)を上(のぼ)るとて、裙(もすそ)を高(たか)く掲(かか)げて、深(ふか)き水(みづ)を渡(わた)る時(とき)の如(ごと)くにせり。人是(これ)をあやしみ、其(そ)の故(ゆゑ)を問(と)へば、「此(こ)の枯蘇台(こそたい)、今(いま)越王(ゑつわう)に滅(ほろ)ぼされ、草(くさ)深(ふか)く、露(つゆ)繁(しげ)き地(ち)とならん事(こと)遠(とほ)からず。我(われ)、もし其(そ)れまで命(いのち)あらば、昔(むかし)の跡(あと)見(み)んに、袖より余(あま)る荊棘(けいきよく)の露深(ふか)かるべき行末(ゆくすゑ)の秋、思(おも)へば、斯様(かやう)にして渡(わた)らん」とぞ申(まう)しける。君王(くんわう)を始(はじ)めて、聞(き)く者(もの)、奇異(きい)の思(おも)ひをなせり。果(は)たして思(おも)ひ合(あ)はせられけり。又(また)、或(あ)る時(とき)、伍子胥(ごししよ)、青蛇(せいぢや)の如(ごと)くなる剣(つるぎ)を抜(ぬ)きて、呉王(ごわう)の前に置(お)きて、言(い)ふ様(やう)、「此(こ)の剣(つるぎ)をとぐ事(こと)、邪(じや)を退(しりぞ)け、敵(てき)を払(はら)はん為(ため)なり。つらつら、国(くに)の傾(かたぶ)くべき基(もとゐ)を尋(たづ)ぬるに、皆(みな)西施(せいし)より起(お)これり。然(さ)れば、是(これ)に過(す)ぎたる大敵(てき)無(な)し。願(ねが)はくは、西施(せいし)が首(かうべ)をはねて、社稷(しやしよく)の危(あや)ふきを助(たす)けん」と言(い)ひて、歯(は)がみをしてぞ、立(た)つたりける。実(げ)にや、忠言(ちゆうげん)は、耳(みみ)にさかふ習(なら)ひなれば、呉王(ごわう)、大(おほ)きに怒(いか)り、眼(め)の前(まへ)に置(お)きて、国傾(かたぶ)くと言(い)ふとも、かろく我(われ)をや背(そむ)かん。まして、今(いま)邪(じや)路に入(い)る事(こと)、其(そ)の数(かず)ならず。是(これ)、偏(ひとへ)に怨敵(おんでき)の語(かた)らひを受(う)けたりと覚(おぼ)えたり。さあらんにおいては、是非(ぜひ)ををかさざる先(さき)に、伍子胥(ごししよ)を誅(ちゆう)せらるべきにぞ定(さだ)めける。伍子胥(ごししよ)、敢(あ)へて是(これ)をいたまず、「我、君臣(くんしん)の朝恩(てうおん)を捨(す)つべきにあらず。国(くに)乱(みだ)れば、一番(いちばん)に出(い)でて、呉王(ごわう)の為(ため)に、屍(かばね)をさらすべき身(み)也(なり)。越王(ゑつわう)の兵(つはもの)の手(て)にかからんより、君王(くんわう)の手(て)にかかり、死(し)なん事(こと)、恨(うら)むべきにあらず。但(ただ)し、君(きみ)、臣(しん)がいさめを聞(き)かP237ずして、怒(いか)りをひろくして、我(われ)に死(し)を与(あた)ふる事(こと)、天既(すで)に君(きみ)を捨(す)つる始(はじ)めなり。君(きみ)、越王(ゑつわう)に滅(ほろ)ぼされて、刑戮(けいりく)の罪(つみ)にふせられん事(こと)、三ケ年を過(す)ぐべからず。願(ねが)はくは、我(わ)が両眼(りやうがん)をうがちて、此(こ)の東門(とうもん)に掛(か)けて、其(そ)の後、首(かうべ)をはね給(たま)へ。一双眼(さうまなこ)枯(か)れずして、待(ま)ち申(まう)すべし。君(きみ)、勾踐(こうせん)に滅(ほろ)ぼされんを見(み)/て、笑(わら)はん」と申(まう)しければ、呉王(ごわう)、いよいよ怒(いか)りをなして、遂(つひ)に伍子胥(ごししよ)を切(き)られけり。無慙(むざん)なりし有様(ありさま)也(なり)。然(しか)れ共(ども)、呉王(ごわう)、後悔(こうくわい)先(さき)に立(た)たざる理(ことわり)、思(おも)ひ合(あ)はせられけり、伍子胥(ごししよ)願(ねが)ひし如(ごと)く、二(ふた)つの眼(まなこ)を抜(ぬ)きて、東門に掛(か)け置(お)きたり。しかうして後、悪事(あくじ)いよいよ積(つ)もれ共(ども)、伍子胥(ごししよ)が果(はて)を見(み)/て、敢(あ)へていさむる臣下(しんか)も無(な)し。あさましかりし有様(ありさま)なり。越国(ゑつこく)の范蠡(はんれい)、是(これ)を聞(き)き、時既(すで)にいたりぬと喜(よろこ)びて、自(みづか)ら二十万騎(にじふまんぎ)の兵(つはもの)を率(そつ)して向(む)かひけり。折節(をりふし)、呉王(ごわう)は、晋(しん)の国(くに)背(そむ)くと聞(き)きて、兵(つはもの)を率(そつ)し、彼(か)の国(くに)へ向(む)かはれたる隙なりしかば、防(ふせ)ぐ兵(つはもの)、一人も無(な)し。范蠡(はんれい)、先(ま)づ王宮(わうくう)へ乱(みだ)れ入(い)り、西施(せいし)を取(と)り返(かへ)し、越(ゑつ)の王宮(わうくう)へ返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)り、即(すなは)ち、枯蘇城(こそじやう)をやき払(はら)ふ。斉(せい)・楚(そ)の両国(りやうごく)も、越王(ゑつわう)に志(こころざし)を通(つう)ずる子細(しさい)有(あ)りければ、三十万騎(さんじふまんぎ)の兵(つはもの)を出(い)だし、范蠡(はんれい)が勢(せい)に力(ちから)をぞ合(あ)はせける。呉王(ごわう)、是(これ)を聞(き)き、大(おほ)きに驚(おどろ)き、晋(しん)の国(くに)の戦(たたか)ひを差(さ)し置(お)きて、此(こ)の国(くに)に引(ひ)き返(かへ)し、越王(ゑつわう)に戦(たたか)ひをなす。然(さ)れども、越(ゑつ)・斉(せい)・楚(そ)の兵(つはもの)雲霞(うんか)の如(ごと)く、前よりきほへば、後(うし)ろよりは、晋(しん)の国(くに)の強敵(ごうてき)、勝(か)つに乗(の)りて、追(お)つ掛(か)けたり。呉王(ごわう)、大敵(てき)に前後を包(つつ)まれて、逃(のが)るP238べき方無(な)かりければ、死(し)をかろうして戦(たたか)ふ事(こと)、三日三夜也(なり)。即(すなは)ち、范蠡(はんれい)、あら手(て)を入(い)れかへて、息(いき)をもつがせず、攻(せ)めける程(ほど)に、呉王(ごわう)の兵(つはもの)、三万(さんまん)余人(よにん)打(う)たれしかば、はつかに百余人(よにん)になりにけり。呉王(ごわう)、自(みづか)ら相(あひ)戦(たたか)ふ事(こと)、三十二ケ度也(なり)。夜半(やはん)に及(およ)びて、百余人(よにん)の兵(つはもの)、六十騎に成(な)り、枯蘇(こそ)山に上(のぼ)りて、越王(ゑつわう)の方(かた)へ使(つか)ひを立(た)てて、「君王(くんわう)、昔(むかし)、会稽山(くわいけいざん)に苦(くる)しめおき、越王(ゑつわう)勾踐(こうせん)が命を助(たす)けし事(こと)、忘(わす)れべきにあらず。自(みづか)らが臣下(しんか)と成(な)り、今(いま)、此(こ)の乱(らん)の起(お)こす事(こと)、偏(ひとへ)に助(たす)けし重恩(ぢゆうおん)にあらずや。我(われ)も、今より後(のち)、越王(ゑつわう)の如(ごと)く、又(また)君王(くんわう)の玉趾(ぎよくし)を頂(いただ)かん。君(きみ)、もし会稽(くわいけい)の恩(おん)を忘(わす)れずは、今日(けふ)の死(し)を助(たす)け給(たま)へ」と、言葉(ことば)をつくしけり。越王(ゑつわう)、是(これ)を聞(き)きて、古(いにしへ)の我(わ)が思(おも)ひ、今の人の悲(かな)しみこそ思(おも)ひ知(し)られて、呉王(ごわう)を殺(ころ)すに及(およ)ばず、其(そ)の死(し)をすくはん事(こと)を思(おも)ひわづらひ給(たま)へり。范蠡(はんれい)、是(これ)を聞(き)き、大(おほ)きに怒(いか)り、越王(ゑつわう)の前に来(き)たり、面(おもて)ををかして申(まう)しけるは、古(いにしへ)は、天、越(ゑつ)を呉(ご)に与(あた)へたり。然(しか)るに、今は、又(また)呉(ご)を越(ゑつ)に施(ほどこ)す。過(す)ぎにし方の与(あた)へを、呉王(ごわう)取(と)らずして、此(こ)の害(がい)にあひ、越(ゑつ)又(また)、かくの如(ごと)く害(がい)に哀(あは)れむ事。君臣(くんしん)共(とも)に肝(きも)を砕(くだ)きて、呉王(ごわう)をうる事(こと)、二十ケ年の春秋、あに思(おも)ひ知(し)らざんや。君非(ひ)を行(おこな)ふ時(とき)、従(したが)はざるは忠臣(ちゆうしん)なり」と言(い)ひ捨(す)てて、呉王(ごわう)の使(つか)ひ未(いま)だ帰らざるに、范蠡(はんれい)、自(みづか)ら攻(せ)め鼓(つづみ)を打(う)ちて、兵をすすめ、遂(つひ)に呉王(ごわう)を生捕(いけど)りにして、軍門(ぐんもん)の前に引(ひ)き出(い)だす。范蠡(はんれい)が年月(としつき)ののぞみ、憤(いきどほ)り、P239さこそと思(おも)ひ遣(や)られたれ。呉王(ごわう)は、既(すで)に面縛(めんばく)せられて、呉(ご)の東門(とうもん)を通(とほ)り給(たま)ひけるに、呉王(ごわう)の忠臣(ちゆうしん)伍子胥(ごししよ)がいさめ適(かな)はずして、首(かうべ)をはねられし時(とき)の両眼(りやうがん)、幢(はたほこ)に掛(か)けたりしが、呉王(ごわう)の果(はて)を見(み)んとして、三年まで枯(か)れずして、見(み)開(ひら)きて有(あ)りしが、呉王(ごわう)面縛(めんばく)せられ、彼(か)の一双(さう)の眼(まなこ)の前(まへ)を渡(わた)りけるを見(み)/て、自(みづか)ら動(うご)き働(はたら)きて、笑(わら)ふ気色(けしき)見(み)えけり。執情(しうじやう)の程(ほど)ぞ恐(おそ)ろしき。呉王(ごわう)、彼(かれ)に面(おもて)を合(あ)はせん事(こと)、さすが恥(は)づかしくや思(おも)ひけん、袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)て、首(かうべ)を傾(かたぶ)けて、通(とほ)り給(たま)ふぞ、いたはしき。数万(すまん)の兵(つはもの)、是(これ)を見(み)/て、唇(くちびる)を返(かへ)さぬは無(な)かりけり。さて、彼(か)の伍子胥(ごししよ)が眼(まなこ)、呉王(ごわう)の果(はて)を見(み)送(おく)りて、霜の日影(ひかげ)にとくるが如(ごと)く、時の間(ま)に消(き)えて失(う)せにけるぞ、無慙(むざん)なる。即(すなは)ち、呉王(ごわう)夫差(ふさ)をば、典獄(てんごく)の官(くわん)に下(くだ)されて、会稽山(くわいけいざん)の麓(ふもと)にて、遂(つひ)に首(かうべ)をはね奉(たてまつ)る。哀(あは)れなりし例(ためし)とぞ申(まう)し伝(つた)へける。然(さ)れば、古(いにしへ)より今(いま)に至(いた)るまで、俗(ぞく)の諺(ことわざ)に、「会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を清(きよ)む」とは、此(こ)の事(こと)を言(い)ふなるべし。さて、越王(ゑつわう)は、呉国(ごこく)を取(と)るのみならず、隣国(りんごく)まで従(したが)へ、いしやのちしゆとなりしかば、其(そ)の功(こう)を賞(しやう)じて、范蠡(はんれい)をば、万戸(こ)の首領(しゆれう)になさんとし給(たま)ひしか共(ども)、范蠡(はんれい)、かつて禄(ろく)を受(う)けず、「大名(だいみやう)の下には、久居(きうきよ)すべからず。功(こう)なり名(な)遂(と)げて、身(み)退(しりぞ)くは、天の道也(なり)」とて、遂(つひ)に、名をかへ、陶朱公(とうしゆこう)と言(い)はれて、五湖(こ)と言(い)ふ所(ところ)に身(み)を隠(かく)し、世(よ)を逃(のが)れて、釣(つり)して、白頭(はくとう)の翁(おきな)と成(な)りて、後には、行方(ゆきがた)知(し)らずとぞ申(まう)し伝(つた)へける。或(あ)る人の曰(いは)く、P240「越王(ゑつわう)は、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)をすすぎ、運(うん)の開(ひら)き、世(よ)にさかふ也(なり)。今の時宗は、恥(はぢ)をすすぐと雖(いへど)も、一命を失(うしな)ふ也(なり)。例(たと)へにも成(な)るべからず」とぞ申(まう)しける。又(また)、或(あ)る者(もの)の曰(いは)く、「此(こ)の人々(ひとびと)、弓矢(ゆみや)を取(と)つての勢(いきほひ)、打物(うちもの)を取(と)つての振舞(ふるま)ひ、呉(ご)越(ゑつ)の戦(たたか)ひには勝(まさ)れる物(もの)かな」と感(かん)ずる人も多(おほ)かりけり。聞(き)く人、「理(ことわり)」とぞ申(まう)しける。
〔鴬(うぐひす)・蛙(かはづ)の歌(うた)の事(こと)〕S0514N086
扨(さて)も、「花に鳴(な)く鴬(うぐひす)、水(みづ)にすむ蛙(かはづ)だにも、歌(うた)をばよむ物(もの)を」と言(い)ひけるは、仁王八代御門(みかど)孝元(かうげん)天皇(てんわう)の御時(とき)、大和(やまと)の国(くに)の葛城(かつらぎ)山、高間寺(かうげんじ)と言(い)ふ所(ところ)に、一人の僧(そう)有(あ)りけるが、又も無(な)き弟子(でし)を先(さき)立(だ)てて、深(ふか)く歎(なげ)き居(ゐ)たり。次(つぎ)の年の春、彼(か)の寺の軒端(のきば)の梅の梢(こずゑ)に鳴(な)く鴬(うぐひす)の声を聞(き)けば、「初陽毎朝来(しよやうまいてうらい)、不相還本栖(ふさうげんほんせい)」と鳴(な)きける。文字(もんじ)に移(うつ)せば、歌なり。初春(はつはる)の朝(あした)ごとには来(き)たれどもあはでぞ帰(かへ)るもとの住(す)み処(か)に W017と、鴬(うぐひす)のまさしく詠(よ)みたる歌ぞかし。又(また)、蛙(かはづ)の歌(うた)詠(よ)みけるとは、良定(よしさだ)、住吉(すみよし)に忘草を尋(たづ)ね行(ゆ)きにし、彼(か)の女房(にようばう)にはあはずして、あくがれ立(た)ちたりし時(とき)、蛙(かはづ)、其(そ)の前をはひ通(とほ)る跡(あと)を見(み)れば、歌(うた)有(あ)り。P241住吉(すみよし)の浜(はま)のみるめも忘(わす)れねば仮初(かりそめ)人にまた問(と)はれけり W018是(これ)又(また)、蛙(かはづ)のまさしく詠(よ)みし歌なり。
P242曾我物語巻第六
@〔大磯(おほいそ)の盃(さかづき)論(ろん)の事(こと)〕S0601N087
さても、十郎(じふらう)祐成(すけなり)は、三浦(みうら)より曾我(そが)へ帰(かへ)りけるが、定(さだ)め無(な)き浮(う)き世(よ)の習(なら)ひ、つくづくと案(あん)ずるに、明日(みやうにち)富士野(ふじの)に打(う)ち出(い)でて、帰(かへ)らん事(こと)は不定(ふぢやう)なり、此(こ)の三四年情(なさけ)を懸(か)けて浅(あさ)からぬ虎(とら)に暇(いとま)こはんとて、宿河原(しゆくがわら)・松井田(まつゐだ)と申(まう)す所(ところ)より、大磯(おほいそ)にこそ行(ゆ)きにけれ。折節(をりふし)、鎌倉(かまくら)殿(どの)召(め)しに従(したが)ひて、近国(きんごく)の大名(だいみやう)小名(せうみやう)、打(う)ちつれて通(とほ)りけり。十郎(じふらう)、虎(とら)が宿所に立(た)ち寄(よ)りて有(あ)りけるが、心(こころ)をかへて思(おも)ひけるは、国々の待(さぶらひ)多(おほ)く通(とほ)る折節(をりふし)、流(なが)れをたつる遊(あそ)び者(もの)、我(われ)ならぬ情(なさけ)もやと、心(こころ)にふしが思(おも)はれて、暫(しばら)く駒(こま)をひかへつつ、内(うち)の体(てい)をぞ聞(き)き居(ゐ)たり。折節(をりふし)、虎(とら)が帳台(ちやうだい)には、友(とも)の遊君(いうくん)数多(あまた)なみ居(ゐ)て、物語(ものがたり)しける中に、虎(とら)が声(こゑ)して、「只今(ただいま)上(のぼ)る人々(ひとびと)は、何処(いづく)の国(くに)の誰(たれ)ぞ」と言(い)ふ。「聞(き)き給(たま)はずや、先陣(せんぢん)は、波多野(はだの)の右馬助(むまのすけ)。後陣(ごぢん)は、横山(よこやま)の藤馬允(とうまのじよう)」とぞ申(まう)しけれ。虎(とら)聞(き)きて、「誠(まこと)や、孔子(くじ)の言葉(ことば)かや、「耳(みみ)の楽(たの)しみ所(ところ)に、つつしむP243べからず、心(こころ)起(お)こる所(ところ)に、ほしい儘(まま)に習(なら)はざれ」とは申(まう)せども、哀(あは)れ、実(げ)に、此(こ)の殿(との)原(ばら)の馬・鞍(くら)・鎧(よろひ)・腹巻(はらまき)を童(わらは)にくれよかし」。女房(にようばう)立(た)ち聞(き)きて、「あはぬ御(おん)願(ねが)ひ、何(なに)の御用(ごよう)とも知(し)らざるにや」と。「祐成(すけなり)に参(まゐ)らせ、思(おも)ふ事(こと)を」とばかり言(い)ひて、涙(なみだ)を浮(う)かべけり。友(とも)の遊君(いうくん)聞(き)きて、不思議(ふしぎ)やな、思(おも)ふ事(こと)は何(なに)なるらんとあやしみながら、問(と)ふべきにあらず、敵(かたき)打(う)ちて後(のち)こそ、此(こ)の事(こと)よとは思(おも)ひ合(あ)はせられけり。然(さ)れば、此(こ)の人も、予(かね)てより知(し)りけるよとは申(まう)し合(あ)ひけり。祐成(すけなり)、物(もの)ごしに聞(き)きて、如何(いか)でか是(これ)程(ほど)情(なさけ)深(ふか)き者(もの)に、たちぎきしたりと思(おも)はれては、後(のち)の恨(うら)み残(のこ)るべし、其(そ)れ程(ほど)に思(おも)ひなば、こぬこそと思(おも)ひつつ、知(し)らざる体(てい)にもてなし、駒(こま)の口(くち)をしばしひかへ、何(なに)と無(な)く広縁(ひろえん)に下(お)り、行縢(むかばき)脱(ぬ)ぎて、鞭(むち)にて簾(すだれ)を打(う)ち上(あ)げて、内(うち)に入(い)りぬ。虎(とら)も、やがて出(い)でて、いつより睦(むつ)ましく語(かた)り寄(よ)り、あかぬ世(よ)の中(なか)の夢(ゆめ)か現(うつつ)かと思(おも)ひ居(ゐ)たりける所(ところ)に、思(おも)ひの外(ほか)なる事(こと)こそ出(い)で来(き)たりける。 由来(ゆらい)を尋(たづ)ぬるに、和田(わだ)の義盛(よしもり)、一門(いちもん)百八十騎(き)打(う)ちつれ、下野へ通(とほ)りけるが、子供(こども)にあひて言(い)ふ様(やう)、「都(みやう)の事(こと)はそ限(かぎ)り有(あ)り、田舎(ゐなか)辺(へん)には、黄瀬川(きせがは)に亀鶴(かめづる)、手越(てごし)に少将(せうしやう)、大磯(おほいそ)に虎(とら)とて、海道(かいだう)一(いち)の遊君(いうくん)ぞかし。一獻(こん)すすめて、通(とほ)らばや」「然(しか)るべく候(さうら)ふ」とて、長(ちやう)の方(かた)へ使(つか)ひをたてて、かくぞ言(い)はせける。なのめならずに喜(よろこ)びて、遠侍(とほさぶらひ)の塵(ちり)とらせ、「義盛(よしもり)、是(これ)へ」と、請(しやう)じけり。虎(とら)に劣(おと)らぬ女三十余人(よにん)出(い)で立(た)たせ、P244座敷(ざしき)へこそは出(い)だしけれ。朝比奈(あさいな)の三郎(さぶらう)義秀(よしひで)、古郡(ふるこほり)左衛門(さゑもん)、種氏(たねうぢ)を先(さき)として、八十余人(よにん)居(ゐ)流(なが)れ、既(すで)に酒宴(しゆえん)ぞ始(はじ)まりける。され共(ども)、虎(とら)は、座敷(ざしき)へ出(い)でざりける。義盛(よしもり)、心(こころ)得(え)ず思(おも)ひて、「此(こ)の君(きみ)達(たち)も、然(さ)る事(こと)なれども、虎(とら)御前(ごぜん)の見参(げんざん)の為(ため)なり。などや見(み)え給(たま)はぬ。義盛(よしもり)悪(あ)しくや参(まゐ)りて候(さうら)ふ」と言(い)ひければ、母(はは)聞(き)きて、「此(こ)の程(ほど)、心(こころ)わづらはしくて」と言(い)ひながら、座敷(ざしき)を立(た)ち、虎(とら)が方(かた)へ行(ゆ)きて、「などや遅(おそ)く出(い)で給(たま)ふ。とくとく」と言(い)ひ置(お)きて、母(はは)は、座敷(ざしき)に出(い)で、「只今(ただいま)、虎(とら)は参(まゐ)り候(さうら)ふ」と言(い)ひけり。義盛(よしもり)、盃(さかづき)抑(おさ)へて、今(いま)やとまてども、見(み)えざりけり。中々(なかなか)始(はじ)めより、「心地(ここち)例(れい)ならで」と言(い)ひなば、よかるべき物(もの)を、「只今(ただいま)」と言(い)ふに依(よ)りて、義盛(よしもり)、気(き)を損(そん)じ、「御心(おんこころ)に背(そむ)く事(こと)あらば、罷(まか)り立(た)ちて、後日(ごにち)に参(まゐ)るべし」と言(い)ふ。母(はは)聞(き)き兼(か)ねて、又(また)座敷(ざしき)を立(た)ち、「何(なに)とて出(い)で給(たま)はぬぞや。時(とき)世(よ)に従(したが)ふ習(なら)ひ、思(おも)はぬ人になるるも、さのみこそ候(さうら)へ。恨(うら)めしの御(おん)振舞(ふるま)ひや」とてたたずむ。虎(とら)は又(また)、十郎(じふらう)が心(こころ)をかねて、衣(きぬ)引(ひ)きかづき、打(う)ち伏(ふ)しぬ。母(はは)は、此(こ)の心(こころ)を見(み)兼(か)ねて、「如何(いか)にやは君(きみ)、昔(むかし)のふん女(によ)が事(こと)をば知(し)り給(たま)はずや。然様(さやう)の事(こと)だにも有(あ)りしぞかし。猶(なほ)も出(い)でまじくは、六字(ろくじ)の名号(みやうがう)も御覧(ごらん)ぜよ、生々(しやうじやう)世々(せせ)まで不孝(ふけう)ぞ」と言(い)ひ捨(す)てて、座敷(ざしき)へ出(い)でにけり。P245
@〔弁才天(べんざいてん)の御事(こと)〕S0602N092
抑(そもそも)、ふん女(によ)と例(たと)へに引(ひ)きける由来(ゆらい)を尋(たづ)ぬれば、昔(むかし)、大国(たいこく)流沙(りうさ)の水上(みなかみ)に、ふん女(によ)といへる女(をんな)有(あ)り。天下(てんが)に聞(き)こゆる長者(ちやうじや)也(なり)。金銀(きんぎん)珠玉(しゆぎよく)のみにあらず、七珍(しつちん)万宝(まんぼう)、四方(しはう)の蔵(くら)に余(あま)りける。然(しか)れども、如何(いか)なる前業(ぜんごふ)にや、一人の子無(な)し。悲(かな)しみて、祈(いの)れども、適(かな)はず。或(あ)る時(とき)、思(おも)はざる懐妊(くわいにん)す。喜(よろこ)びの内(うち)、苦悩(くなう)言(い)ふ計(はか)り無(な)し。され共(ども)、出(い)で来(き)たるべき嬉(うれ)しさに、物(もの)の数(かず)とも思(おも)はざりけり。日数(ひかず)積(つ)もる程(ほど)に、産(さん)の紐(ひも)をとく。見(み)れば、人にはあらで、かひ子(ご)を五百うみたり。「是(これ)は如何(いか)に、一(ひと)つなりとも、不思議(ふしぎ)の事(こと)ぞかし。五百人まで生(う)まるる事(こと)、只事(ただこと)にあらず。縁(えん)無(な)き子(こ)をしひて祈(いの)るに依(よ)りて、天のにくみを蒙(かうぶ)ると覚(おぼ)えたり。帰(かへ)りなば、如何(いか)なる物(もの)にて、親(おや)をも損(そん)じ、人をも害(がい)すべきやらん。其(そ)の上(うへ)、胎卵(たいらん)湿化(しつけ)の内(うち)、卵生(らんせう)罪(つみ)深(ふか)しととかれたり。おくべからず」とて、箱(はこ)に入(い)れて、流沙(りうさ)の波に流(なが)し捨(す)てけり。不思議(ふしぎ)なる例(ためし)也(なり)。遙(はる)かの川の末(すゑ)に、れうかんと言(い)ふ所(ところ)に、きよはくと言(い)ふ貧道(ひんだう)無縁(むえん)の老人(らうじん)有(あ)り。明(あ)け暮(く)れ、此(こ)の川(かは)の鱗(うろくづ)をすなどり、身命(しんみやう)を助(たす)かる者(もの)有(あ)り。折節(をりふし)、釣(つり)する所(ところ)へ、此(こ)の箱(はこ)流(なが)れ寄(よ)りたり。取(と)り上(あ)げ、開(ひら)きて見(み)れば、卵(かひご)なり。何者(なにもの)の子(こ)やらんと思(おも)ひ、家に取(と)りて返(かへ)り、妻(つま)にかくと言(い)ふ。女(をんな)、是(これ)を見(み)て、「恐(おそ)ろしや、如何(いか)なるP246者(もの)にか帰(かへ)りなん。主(ぬし)も様(やう)有(あ)りてこそ捨(す)てつらん。急(いそ)ぎ元(もと)の川(かは)に入(い)れよ」と言(い)ふ。「只(ただ)おき候(さうら)へ。斯様(かやう)なる物(もの)には、不思議(ふしぎ)もこそあれ。仮令(たとひ)僻事(ひがこと)有(あ)りとも、我(われ)等(ら)は、齢(よはひ)幾程(いくほど)有(あ)るべきならねば、様(やう)を見(み)よ」とて、物(もの)に包(つつ)み、あたたかにして置(お)きたりければ、程(ほど)も無(な)く、いつくしき男子(なんし)に返(かへ)りぬ。我(われ)、古(いにしへ)より、一人も子(こ)の無(な)き事(こと)を歎(なげ)きに思(おも)ふに、然(しか)るべき哀(あは)れみにやと喜(よろこ)びて、又(また)見(み)れば、帰(かへ)り帰(かへ)りて、五百人にぞ帰(かへ)りそろひける。一(ひと)つを捨(す)てて、一(ひと)つを養(やしな)はん事(こと)、恨(うら)み有(あ)り。黙(もだ)し難(がた)くて、取(と)り集(あつ)め、養(やしな)ひけるに、一(ひと)つもつつがなく、成長(せいぢやう)しけるぞ、不思議(ふしぎ)なる。夫婦(ふうふ)二人の時(とき)だにも、渡世(とせい)適(かな)ひ難(がた)し。此(こ)の者(もの)共(ども)を育(そだ)てける程(ほど)に、朝夕(あさゆふ)の世路(せいろ)にわびければ、此処(ここ)や彼処(かしこ)に徘徊(はいくわい)し、命(いのち)を助(たす)からんとする程(ほど)に、心(こころ)ならず猛悪(まうあく)に成(な)り、思(おも)はずも、欲心(よくしん)に住(ぢゆう)す。瞋恚(しんい)を旨(むね)として、驕慢(けうまん)に余(あま)りければ、外道(げだう)にも近付(ちかづ)きけり。或(あ)る時(とき)、彼(かれ)等(ら)言(い)ひけるは、「我(われ)等(ら)一人ならず、餓死(がし)に及(およ)べり。然(さ)ればとて、徒(いたづ)らに身(み)を捨(す)つべきにあらず、此(こ)の川上(かはかみ)に、ふん女(によ)とて、長者(ちやうじや)有(あ)り。財宝(ざいほう)を蔵(くら)に置(お)き余(あま)る。いざや行(ゆ)きて、打(う)ち破(やぶ)らん。宝(たから)は取(と)りあきぬべし」と言(い)ひければ、一人が言(い)ふ様(やう)、「然(さ)る事(こと)なれども、其(そ)れ程(ほど)いみじき果報者(くわほうしや)を、我(われ)等(ら)賎(いや)しき貧力(ひんりき)にて、宝(たから)を奪(うば)はん事(こと)、思(おも)ひもよらず、かへつて身(み)の仇(あた)となりぬべし、案(あん)じ給(たま)へ」と言(い)ふ。今(いま)一人(いちにん)が言(い)ふ様(やう)、「然(さ)らば、外道(げだう)共(ども)を語(かた)らひ、彼(かれ)等(ら)P247が神通(づう)の力(ちから)をかりて、破(やぶ)りて見(み)ん」「然(しか)るべし」とて、非天(ひてん)外道(げだう)と言(い)ふ者(もの)のもとへ遣(や)りたりければ、もとより闘諍修羅(とうじやうしゆら)を好(この)む者(もの)なりければ、同類(どうるい)を催(もよほ)し、打(う)ち立(た)ちける。装束(しやうぞく)には、流転(るてん)生死(しやうじ)の鎧(よろひ)直垂(びたたれ)に、悪業(あくごふ)煩悩(ぼんなう)の籠手(こて)を差(さ)し、とくの脇楯(わいだて)に、因果(いんぐわ)撥無(はつぶ)の脛当(すねあて)し、愚痴暗蔽(ぐちあんへい)の綱貫(つなぬき)はき、極大邪見(ごくだひじやけん)の鎧(よろひ)に、誹謗(ひばう)三宝(さんぼう)の裾金物(すそかなもの)をぞ打(う)ちたりける。三界(さんがい)無安(むあん)の白星(しらほし)の兜(かぶと)に、六趣輪廻(しゆりんゑ)の頬当(ほうあて)し、貪欲(とんよく)心いの刀(かたな)を差(さ)し、邪見放逸(じやけんほういち)の太刀(たち)をはき、殺生偸盗(せつしやうちうたう)の大弓(ゆみ)に、破戒(はかい)無慙(むざん)の弦(つる)を掛(か)けて、苦患無明(くげんむみやう)の箙(えびら)には、諸法(しよほふ)愛著(あいぢやく)の矢数(やかず)を差(さ)し、四顛倒(てんたう)の馬の太(ふと)くたくましきに、四苦(く)八苦(く)の鞍(くら)を置(お)きてぞ乗(の)りたりける。其(そ)の外(ほか)、異類(いるい)異形(いぎやう)のちた外道(げだう)共(ども)、思(おも)ひ思(おも)ひの装束(しやうぞく)に色々(いろいろ)の旗(はた)差(さ)させ、数(かず)を知(し)らずぞ集(あつ)まりける。城中(じやうちゆう)には、鎮(しづ)まりかへりて、音(おと)もせず。され共(ども)、用心(ようじん)厳(きび)しくて、たやすく入(い)るべき様(やう)は無(な)かりけり。時(とき)を移(うつ)して、ゆらへたる。彼(か)のふん女(によ)は、同(おな)じく福者(ふくしや)と言(い)ひながら、三宝(さんぼう)を崇(あが)め、仁義(じんぎ)を乱(みだ)らで、言(い)ふ計(はか)り無(な)き賢人(けんじん)なり。如何(いか)でか験(しるし)無(な)かるべき。諸天(しよてん)、是(これ)を哀(あは)れみて、ふん女(によ)を渇仰(かつがう)し給(たま)ひける。かくては、如何(いかが)有(あ)るべきとて、死生(ししやう)不知(ふち)の外道(げだう)共(ども)、をめきさけびて、乱(みだ)れ入(い)る時(とき)に、悪魔(あくま)降伏(がうぶく)の四天(してん)・十二天(てん)、影向(やうがう)成(な)りて、四角(かく)四方(しはう)を守(まも)り給(たま)ふ。四天(してん)は、もとより甲冑(かつちう)をよろひ、弓箭(きゆうせん)をはなさぬ勇士(ゆうし)なれば、面(おもて)もふらで、ささへ給(たま)ふ。火天(くわてん)、猛火(みやうくわ)をはなし、風天(ふうてん)、風(かぜ)を深(ふか)せ、各々(おのおの)城(じやう)を守(まも)り給(たま)ふ。中にも、P248水天(すいてん)は、弓矢(ゆみや)を守(まも)らんと誓(ちか)ひ給(たま)ふなれば、数(かず)の眷属(けんぞく)を引(ひ)きつれ、妙観(めうくわん)みつちの旗(はた)差(さ)させ、殊(こと)にすすみて見(み)え給(たま)ふ。其(そ)の日の御装束(しやうぞく)には、九ほん正覚(しやうがく)の鎧(よろひ)直垂(びたたれ)、相好荘厳(さうがうしやうごん)の籠手(こて)を差(さ)し、上求(じやうぐ)菩提(ぼだい)の膝鎧(ひざよろひ)、下化(げげ)衆生(しゆじやう)の脛当(すねあて)し、二求両願(じぐりやうぐわん)の綱貫(つなぬき)はき、大悲(だいひ)だいじゆ等(ら)の頬当(ほうあて)し、無数方便(むしゆはうべん)の赤糸(あかいと)の鎧(よろひ)に、紫磨黄金(しまわうごん)の裾金物(すそかなもの)を打(う)ちける、万徳円満(まんどくゑんまん)の月、まかうに打(う)ちたる、畢竟空(ひつきやうくう)しくの四方白(しはうじろ)の兜(かぶと)を猪首(ゐくび)にき、五劫(ごこふ)思惟(しゆい)の厳物(いかもの)づくりの太刀(たち)はき、首楞厳定(しゆれうごんぢやう)の刀(かたな)差(さ)し、くわしや三昧(さんまい)の月弓(ゆみ)に、実相般若(じつさうはんにや)の弦(つる)を掛(か)け、智徳無量(ちとくむりやう)の矢数(やかず)を、随類化現(ずひるいけげん)の筥(はこ)に差(さ)して、はたかに追(お)ひ成(な)し給(たま)ふ。もとより手(て)なれたる大蛇(だいじや)、後(うし)ろよりはひかかり、左右(さう)の肩(かた)に手(て)をおき、兜(かぶと)の上に頭(かしら)をもたし、両眼(りやうがん)の光(ひかり)明(あき)らかにして、時々(ときどき)雷(いなづま)四方(しはう)にちり、紫(むらさき)の舌(した)の色(いろ)あざやかにして、折々(をりをり)火焔(くわゑん)をふき出(い)だす勢(いきほひ)、天(てん)に余(あま)る。今(いま)の代に、兜(かぶと)の竜頭(たつがしら)を打(う)つ事(こと)、此(こ)の時(とき)よりも始(はじ)まりける。床几(しやうぎ)に腰(こし)を掛(か)け、宣(のたま)ひけるは、「大阿修羅王(あしゆらわう)が戦(たたか)ひのこはきも、仏力(ぶつりき)には適(かな)はず。ましてや言(い)はん。彼(かれ)等(ら)がいさみ、蟻(あり)のたけりと覚(おぼ)えたり。城中(じやうちゆう)鎮(しづ)まれ」とぞ下知(げぢ)しける。此処(ここ)に、城(しろ)の内(うち)より武者(むしや)一人すすみ出(い)でて申(まう)しけるは、「只今(ただいま)寄(よ)せ来(き)たる兵(つはもの)は、何処(いづく)の国(くに)の何者(なにもの)ぞ。又(また)、如何(いか)なる宿意(しゆくい)有(あ)るぞ。詳(くは)しく名乗(なの)れ」と言(い)ひける。五百人の兵(つはもの)聞(き)きて、「彼(かれ)等(ら)には、親(おや)も無(な)し。氏(うぢ)も無(な)し。生(う)まるる所(ところ)を知(し)らざれば、なにじやう誰(たれ)と名乗(なの)るべき。朝夕(あさゆふ)思(おも)ふ事(こと)とては、宝(たから)のほしきばかりなり。P249急(いそ)ぎ蔵(くら)を開(ひら)き、財宝(ざいほう)を与(あた)へよ。我(われ)等(ら)、思(おも)ふ程(ほど)取(と)りて帰(かへ)らん」と言(い)ひける。「心(こころ)得(え)ぬ言葉(ことば)かな。人に依(よ)り、分(ぶん)に従(したが)ひ、氏(うじ)も、名字(みやうじ)も有(あ)る物(もの)を、猛悪(まうあく)の身(み)が不思議(ふしぎ)なり。申(まう)せ」と言(い)ひければ、「問(と)ひては何(なに)にし給(たま)ふべき。さりながら、此(こ)の上(かみ)より流(なが)れ来(き)たる五百人の流人(るにん)なり。言(い)はれん物(もの)も無(な)ければ、人知(し)らず。急(いそ)ぎ宝(たから)を施(ほどこ)して、返(かへ)すべし」と申(まう)しけり。流(なが)れ来(き)たる兵(つはもの)と言(い)ふを、ふん女(によ)、つくづく聞(き)きて、あやしく思(おも)ひ、櫓(やぐら)の下(した)に歩(あゆ)み出(い)でて、「五百人の殿(との)原(ばら)、近(ちか)くより給(たま)へ。尋(たづ)ぬべき事(こと)有(あ)り」と言(い)ひければ、一人、塀(へい)の際(きは)によりたり。「抑(そもそも)、「流(なが)れ来(き)たる」と仰(おほ)せられつる言葉(ことば)について申(まう)すぞとよ。姿(すがた)は何(なに)にて流(なが)れけるぞ」「宝(たから)をば出(い)ださで、むつかし」とは言(い)ひながら、「我(われ)等(ら)が昔(むかし)、如何(いか)なる者(もの)かうみけん。五百の卵(かひご)にて、水上(みなかみ)より流(なが)れけるを、人取(と)り上(あ)げて、育(そだ)てける」と言(い)ふ。然(さ)ればこそと思(おも)ひ、「其(そ)の卵(かひご)は、何(なに)に入(い)りけるぞや」「玉(たま)の手箱(てばこ)に入(い)り、上には銘(めい)を書(か)きし也(なり)」「銘(めい)をば何(なに)と書(か)きたるぞ」「はうしやうろうの箱(はこ)と書(か)けり」「さては、疑(うたが)ふ所(ところ)無(な)し。是(これ)は、そなたの支証(ししよう)なり。此方(こなた)よりの証據(しようこ)には、「もし此(こ)の卵(かひご)つつがなく成長(せいぢやう)あらば、尋(たづ)ねこよ。ふん女(によ)」と書(か)きて、判(はん)をおし、箱(はこ)の底(そこ)に入(い)れたりしが、刹那(せつな)も膚(はだへ)をはなさじと、首(くび)に掛(か)けて持(も)ちたり」とて、懐(ふところ)よりも取(と)り出(い)だす。「さては、疑(うたが)ふ所(ところ)無(な)し。汝(なんぢ)等(ら)は、自(みづか)らが子供(こども)なり」と、戸(と)を開(ひら)きて、出(い)でければ、P250尾花(おばな)の如(ごと)くささへたる鉾剣(ほこつるぎ)をも捨(す)てにけり。母(はは)も子供(こども)のなつかしさに、剣(つるぎ)の刃(やいば)を忘(わす)れ、彼(かれ)等(ら)が中に立(た)ち入(い)りて、見(み)まはしければ、兵(つはもの)も、兜(かぶと)を脱(ぬ)ぎ、弓矢(ゆみや)をよこたへ、各々(おのおの)大地(だいぢ)にひざまづく。いつしか母(はは)はなつかしく、思(おも)ひの涙(なみだ)うかびければ、なみ居(ゐ)たりける兵(つはもの)の中(なか)を、彼方(かなた)此方(こなた)に行(ゆ)きめぐり、彼(かれ)もか、是(これ)もかと言(い)ふ露(つゆ)の袖のにほひもかうばしく、哀(あは)れみ哀(あは)れむ装(よそほ)ひは、見(み)る目(め)もすすむ涙(なみだ)なり。実(げ)にや、恩愛(おんあい)の中(なか)程(ほど)、悲(かな)しき事(こと)あらじ。夜叉(やしや)羅刹(せつ)をだにも従(したが)へて、猛(たけ)くいさめる武士(もののふ)も、母(はは)一人の言葉(ことば)に、皆々(みなみな)靡(なび)くぞ哀(あは)れなる。かくて、城中(じやうちゆう)にいざなひ、親子(おやこ)のむつび、懇(ねんご)ろなり。 後(のち)には、ふん女(によ)、大弁才天(べんざいてん)と現(あらは)れ給(たま)ふとかや。五百人の人々(ひとびと)は、五百童児(どうじ)と成(な)り、其(そ)の一(ひと)つは、印鎰(いんやく)預(あづ)かり、神(かみ)と現(あらは)れ給(たま)ふ。はうしやうろうの箱(はこ)をも、其(そ)の中(なか)にもたし給(たま)ふ。一切(いつさい)衆生(しゆじやう)の願(ねが)ひをことごとく見(み)て、安楽(あんらく)世界(せかい)に向(む)かへむと誓(ちか)ひ給(たま)ふ。「斯様(かやう)に猛(たけ)き弓(ゆみ)取(と)りも、母(はは)には従(したが)ふ習(なら)ひぞかし。 何(なに)とて、虎(とら)は、母(はは)に従(したが)はざるや」とぞ言(い)ひける。虎(とら)は、猶(なほ)も涙(なみだ)にむせび、「流(なが)れをたつる身程(ほど)、悲(かな)しき事(こと)は無(な)し。夫(つま)の心(こころ)を思(おも)ひ知(し)れば、母(はは)の命(めい)に背(そむ)く。又(また)、母(はは)に従(したが)へば、時(とき)の綺羅(きら)にめづるに似(に)たり。とにもかくにも、我(わ)が思(おも)ひ、乱(みだ)れ染(そ)めける黒髪(くろかみ)の、あかぬ情(なさけ)の悲(かな)しさよ。如何(いか)なる罪(つみ)のむくいにて、女(をんな)の身(み)とP251は生(う)まれけん。然(さ)ればにや、五障(ごしやう)三従(さんじゆう)ととき給(たま)ひけるぞや」とて、さめざめと泣(な)き居(ゐ)たり。十郎(じふらう)、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)て、「何(なに)かは苦(くる)しかるべき。一獻(こん)の程(ほど)の隙(ひま)、出(い)だし給(たま)へかし。母(はは)の命(めい)背(そむ)きなば、冥(みやう)の照覧(せうらん)も恐(おそ)ろし」と申(まう)しければ、虎(とら)は、是(これ)にも従(したが)はで、只(ただ)泣(な)くより外(ほか)の事(こと)は無(な)し。義盛(よしもり)、是(これ)をば知(し)らずして、「何(なに)とて、虎(とら)は遅(おそ)きやらん」とて、一さいに興(きよう)を失(うしな)ひけり。母(はは)も又(また)、待(ま)ち兼(か)ねけるにや、「曾我(そが)の十郎(じふらう)殿(どの)坐(ま)しますが、さてや、出(い)で兼(か)ね候(さうら)ふらん」。和田(わだ)は、是(これ)を聞(き)きて、「心(こころ)得(え)ぬ振舞(ふるま)ひかな。我(われ)こそ出(い)でて、対面(たいめん)せざらめ、流(なが)れの遊君(いうくん)をふさぐべきか。誠(まこと)に僻事(ひがこと)なり。四郎左衛門(さゑもん)、朝比奈(あさいな)は無(な)きか。御(おん)向(む)かひに参(まゐ)れ」と言(い)ふ。四百余人(よにん)の殿(との)原(ばら)も、はや事(こと)出(い)で来(き)ぬと、色(いろ)めきける。祐成(すけなり)が有(あ)り所(どころ)近(ちか)ければ、義盛(よしもり)が言葉(ことば)、手(て)に取(と)る様(やう)にぞ聞(き)こえける。「不思議(ふしぎ)やな。思(おも)はぬ最後(さいご)の出(い)で来(き)たるぞや。身(み)に思(おも)ひのあれば、千金万玉(せんきんばんぎよく)よりも惜(を)しき命也(なり)。され共(ども)、逃(のが)れぬ所(ところ)は、力(ちから)無(な)し。徒(いたづ)らなる死(し)にして、五郎(ごらう)に恨(うら)みられん事(こと)こそ、思(おも)ひ遣(や)られて悲(かな)しけれ。さりながら、斯様(かやう)の所(ところ)は、神も仏(ほとけ)も許(ゆる)し給(たま)へ」と観(くわん)じて、烏帽子(えぼし)押(お)し直(なほ)し、直垂(ひたたれ)の露(つゆ)結(むす)びて、肩(かた)に掛(か)け、伊東(いとう)重代(ぢゆうだい)の赤銅(しやくどう)づくりの太刀(たち)を二三寸(ずん)抜(ぬ)き掛(か)け、片膝(かたひざ)押(お)したて、一方(いつぱう)の戸(と)を開(ひら)き、「ことことし、三浦(みうら)の者(もの)共(ども)、何十人(なんじふにん)もあれ、一番(いちばん)にいらん朝比奈(あさいな)が諸膝(もろひざ)なぎふせ、続(つづ)かん奴(やつ)原(ばら)、物(もの)の数(かず)にや有(あ)るべき、伊東(いとう)の手(て)なみ見(み)せP252ん。遅(おそ)し」とこそは待(ま)ち掛(か)けたり。虎(とら)も、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)て、実(げ)にや、冥途(めいど)より来(き)たるなる獄卒(ごくそつ)の追(お)つ立(た)つる道だにも、主君(しゆくん)・師匠(ししやう)の命(めい)には変(か)はるぞかし。ましてや、夫婦(ふうふ)恩愛(おんあい)の契(ちぎ)り浅(あさ)からずとは、古今(いにしへいま)までも伝(つた)へ聞(き)くなる物(もの)を、後(のち)の世(よ)までも離(はな)れじと思(おも)ひ切(き)りて、守(まぼ)り刀(がたな)、衣(きぬ)の褄(つま)に取(と)りくくみ、三浦(みうら)の人々(ひとびと)、如何(いか)にいさみ乱(みだ)れ入(い)るとも、何(なに)と無(な)く立(た)ちまはり、よき隙(ひま)に、義盛(よしもり)を一刀(かたな)差(さ)し、如何(いか)にもならんと、只(ただ)一筋(ひとすぢ)に思(おも)ひ定(さだ)め、祐成(すけなり)近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)り、今(いま)やとまつぞ、哀(あは)れなる。時(とき)移(うつ)りにければ、和田(わだ)、いよいよ腹(はら)をたて、「如何(いか)に、朝比奈(あさいな)は無(な)きか。御(おん)向(む)かひに参(まゐ)れ。無骨(ぶこつ)の訴訟(そしよう)も苦(くる)しかるまじ」とぞ怒(いか)りける。義秀(よしひで)聞(き)き兼(か)ね、座敷(ざしき)を立(た)ち、虎(とら)が向(む)かひに行(ゆ)きけるが、つくづく案(あん)ずる様(やう)、十郎(じふらう)と言(い)ふも、伊東(いとう)の嫡々(ちやくちやく)たり、心(こころ)も又(また)、立(た)て切(き)りたり、始(はじ)めより出(い)ださで、斯様(かやう)に成(な)りては、よも出(い)ださじ、我(われ)又(また)、あらく怒(いか)りて出(い)ださんも、恥辱(ちじよく)也(なり)、所詮(しよせん)、難(なん)無(な)き様(やう)に打(う)ち向(む)かひて、すかさばやと思(おも)ひければ、静(しづ)かに歩(あゆ)み入(い)りけるが、此(こ)の殿(との)原(ばら)、兄弟(きやうだい)は、身(み)こそ貧(ひん)なりとも、心(こころ)は貧(ひん)にあらばこそ、楚忽(そこつ)に入(い)りて、細首(ほそくび)打(う)ち落(お)とされ、悪(あ)しかりなんと思(おも)ひ、扇(あふぎ)、笏(しやく)に取(と)り直(なほ)し、畏(かしこ)まりて、「是(これ)に、曾我(そが)の十郎(じふらう)殿(どの)の御(おん)入(い)りの由(よし)、父(ちち)にて候(さうら)ふ者(もの)承(うけたまは)り、御(おん)向(む)かひの為(ため)に、義秀(よしひで)を参(まゐ)らせられて候(さうら)ふ。何(なに)かは苦(くる)しく候(さうら)ふべき。御出(おいで)有(あ)りて、親(おや)にて候(さうら)ふ者(もの)に、御対面(たいめん)や候(さうら)ふべき。其(そ)れに又(また)、某(それがし)一期(いちご)に一度(いちど)の所望(しよまう)の候(さうら)ふ。P253御前(ごぜん)の事(こと)、ゆかしき事(こと)に、義盛(よしもり)思(おも)ひ候(さうら)ふが、御座(ざ)を存知(ぞんぢ)して、義秀(よしひで)申(まう)し止(とど)めて候(さうら)ふ。然(しか)るべくは、諸(もろ)共(とも)に御(おん)出(い)で有(あ)りて、父(ちち)が所望(しよまう)をも養(やしな)ひ、義秀(よしひで)も、面目(めんぼく)有(あ)る様(やう)に御(おん)はからひ候(さうら)へ、一向(いつかう)頼(たの)み奉(たてまつ)り候(さうら)ふ。さりながら、御心(おんこころ)に違(ちが)ひ候(さうら)はば、罷(まか)り帰(かへ)り候(さうら)ふべし」と、障子(しやうじ)ごしに言(い)ひければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「頼(たの)む」と言(い)ふに、やはらぎて、「左右(さう)にや及(およ)ぶ、朝比奈殿(あさいなどの)、如何(いか)でか異議(いぎ)に及(およ)ぶべき。たち給(たま)へや、御前(ごぜん)。祐成(すけなり)も出(い)でん」とて、烏帽子(えぼし)の筒(つつ)押(お)したて、直垂(ひたたれ)の衣紋(えもん)引(ひ)きつくろひ、虎(とら)を先(さき)にたてて、各々(おのおの)三人出(い)でたり。さてこそ、なみ居(ゐ)たりける人々も、いきたる心地(ここち)はしたりけれ。誠(まこと)に、義秀(よしひで)の振舞(ふるま)ひ、優(いう)なる物(もの)かな、座敷(ざしき)に事(こと)も起(お)こらず、虎(とら)も出(い)でて、十郎(じふらう)も心(こころ)を破(やぶ)らで、事(こと)過(す)ぎにける。是(これ)や、せようろんに、「国の誠(まこと)興貴(こうき)する事(こと)は、諌臣(かんしん)に有(あ)り、家(いへ)のまさにさかんにたつとうする事(こと)は、諌子(かんし)によつてなり」と、斯様(かやう)の事(こと)をや申(まう)すべき。朝比奈(あさいな)無(な)かりせば、由(よし)無(な)き事(こと)出(い)で来(き)、十郎も打(う)たれ、和田(わだ)にも、人多(おほ)く滅(ほろ)びなん。深淵(しんゑん)にのぞんで、薄氷(はくひやう)を踏(ふ)むが如(ごと)く、危(あや)ふかりし事(こと)なり。 義盛(よしもり)、ゑみをふくみ、「十郎(じふらう)殿(どの)の坐(ま)しましけるや。余所(よそ)の人の様(やう)に、隔心(きやくしん)候(さうら)ふ物(もの)かな。御(おん)入(い)りを知(し)り奉(たてまつ)らば、最前(さいぜん)より申(まう)すべかりつる物(もの)を。是(これ)へ是(これ)へ」と請(しやう)じける。十郎(じふらう)、笏(しやく)取(と)り直(なほ)し、「さん候(ざうらふ)。もつとも御目(め)にかかり候(さうら)ふべきを、御存知(ぞんぢ)の如(ごと)く、P254異体(いてい)の無骨(ぶこつ)に、斟酌(しんしやく)を致(いた)し候(さうら)ひぬ」。本意(ほんい)にあらざる由(よし)、色代(しきだい)して、左手(ゆんで)の畳(たたみ)になほりける。虎(とら)も、座敷(ざしき)に定(さだ)まりければ、盃(さかづき)前(まへ)にぞ置(お)きたりける。義盛(よしもり)、虎(とら)をつくづく見(み)て、「ききしは物(もの)の数(かず)ならず、斯(か)かる者(もの)も有(あ)りけるよ。十郎(じふらう)が心(こころ)をかねて出(い)でざるさへ、やさしく覚(おぼ)ゆるにや、其(そ)れ其(そ)れ」と言(い)ふ。何(なに)と無(な)く盃(さかづき)取(と)り上(あ)げ、其(そ)の盃(さかづき)、和田(わだ)のみて、祐成(すけなり)にさす。其(そ)の盃(さかづき)、義秀(よしひで)のみて、面々(めんめん)に下(くだ)し、思(おも)ひざし、思(おも)ひどり、其(そ)の後(のち)は乱舞(らんぶ)に成(な)る。此処(ここ)に、又(また)始(はじ)めたる土器(かはらけ)、虎(とら)が前(まへ)にぞ置(お)きける。取(と)り上(あ)げけるを、今(いま)一度(いちど)としひられて、受(う)けて持(も)ちける。義盛(よしもり)、是(これ)を見(み)て、「如何(いか)に御前(ごぜん)、其(そ)の盃(さかづき)、いづかたへも思(おぼ)し召(め)さん方(かた)へ、思(おも)ひざしし給(たま)へ。是(これ)ぞ、誠(まこと)の心(こころ)ならん」と有(あ)りければ、七分(ぶん)に受(う)けたる盃(さかづき)に、心(こころ)をちぢに使(つか)ひけり。和田(わだ)に差(さ)し奉(たてまつ)らん事(こと)、時(とき)の賞玩(しやうくはん)のいかんなし、然(さ)れども、祐成(すけなり)の心(こころ)恥(は)づかしさよ、流(なが)れをたつる身(み)なればとて、人(ひと)を内(うち)に置(お)きながら、座敷(ざしき)に出(い)づるは、本意(ほんい)ならず、ましてや、此(こ)の盃(さかづき)、義盛(よしもり)に差(さ)しなば、綺羅(きら)にめでたりと思(おも)ひ給(たま)はんも口惜(くちを)し、祐成(すけなり)にさすならば、座敷(ざしき)に事(こと)起(お)こりなん、かく有(あ)るべしと知(し)るならば、始(はじ)めより出(い)でもせで、内(うち)にて如何(いか)にも成(な)るべきを、二度(ふたたび)思(おも)ふ悲(かな)しさよ、よしよし、是(これ)も前世(ぜんぜ)の事(こと)、もし思(おも)はずの事(こと)あらば、和田(わだ)の前(まへ)下(さ)がりに差(さ)し給(たま)ふ刀(かたな)こそ、童(わらは)が物(もの)よ、さゆる体(てい)にもてなし、奪(うば)ひ取(と)り、一刀(かたな)差(さ)し、とにもかくにもと思(おも)ひ定(さだ)めて、P255義盛(よしもり)一目(ひとめ)、祐成(すけなり)一目(ひとめ)、心(こころ)を使(つか)ひ、案(あん)じけり。和田(わだ)は、我(われ)にならではと思(おも)ふ所(ところ)に、さは無(な)くて、「許(ゆる)させ給(たま)へ、さりとては、思(おも)ひの方(かた)を」と打(う)ち笑(わら)ひ、十郎(じふらう)にこそ差(さ)されけれ。一座(ざ)の人々(ひとびと)、目(め)を見(み)合(あ)はせ、「是(これ)は如何(いか)に」と見(み)る所(ところ)に、祐成(すけなり)、盃(さかづき)取(と)り上(あ)げて、「身(み)の賜(たま)はらん事(こと)、狼籍(らうぜき)に似(に)たる。是(これ)をば御前(おんまへ)に」と言(い)ふ。義盛(よしもり)きいて、「志(こころざし)の横(よこ)どり、無骨(ぶこつ)なり。如何(いか)でか然(さ)るべき。はやはや」と色代(しきだい)也(なり)。さのみ辞(じ)すべきにあらず、十郎(じふらう)、盃(さかづき)取(と)り上(あ)げ、三度(さんど)ほす。義盛(よしもり)、ゐだけだかに成(な)り、「年(とし)程(ほど)、物(もの)憂(う)き事(こと)は無(な)し。義盛(よしもり)が齢(よはひ)、二十だにも若(わか)くは、御前(ごぜん)には背(そむ)かれじ。仮令(たとひ)一旦(いつたん)嫌(きら)はるる共(とも)、斯様(かやう)の思(おも)ひざし、余所(よそ)へは渡(わた)さじ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と、高声(かうしやう)也(なり)ければ、殊(こと)の外(ほか)にて、にがにがしく見(み)えければ、九十三騎(き)の人々(ひとびと)も、義秀(よしひで)の方(かた)を見(み)遣(や)りて、事(こと)や出(い)で来(き)なんと色(いろ)めきたる体(てい)、差(さ)し現(あらは)れける。十郎(じふらう)、もとより騒(さわ)がぬ男(をのこ)にて、何程(なにほど)の事(こと)か有(あ)るべき、事(こと)出(い)で来(き)なば、何十人(なんじふにん)もあれ、義盛(よしもり)と引(ひ)き組(く)みて、勝負(しようぶ)をせんずるまでと思(おも)ひ切(き)り、あざ笑(わら)ひてぞ居(ゐ)たりける。 此処(ここ)に、五郎(ごらう)時致(ときむね)、曾我(そが)に居(ゐ)たりけるが、父(ちち)の為(ため)に法華経(ほけきやう)読(よ)みて、本尊(ほんぞん)に向(む)かひ、念誦(ねんじゆ)しけるが、しきりに胸(むな)騒(さわ)ぎしけり。心(こころ)得(え)ぬ今(いま)の胸(むな)騒(さわ)ぎや、いかさま、祐成(すけなり)の大磯(おほいそ)へこし給(たま)ひぬるが、東国(とうごく)の武士(ぶし)、富士野(ふじの)へ打(う)ち出(い)づる折節(をりふし)なり。流(なが)れの遊君(いうくん)故(ゆゑ)、事(こと)し出(い)だし給(たま)ふにやと、心(こころ)許(もと)無(な)く思(おも)ひければ、帳台(ちやうだい)に走(はし)り入(い)り、緋威(ひをどし)のP256腹巻(はらまき)取(と)つて引(ひ)き掛(か)け、伊藤(いとう)重代(ぢゆうだい)の四尺(しやく)六寸(ろくすん)の赤銅(しやくどう)づくりの太刀、十文字(じふもんじ)に結(むす)びさげ、鞍(くら)おくべき暇(ひま)無(な)ければ、膚背(はだせ)馬(うま)に打(う)ち乗(の)りて、二十余町(ちやう)の其(そ)の程(ほど)、只(ただ)一馬場(ばば)に掛(か)け通(とほ)し、門外(もんぐわい)を見(み)渡(わた)せば、長者(ちやうじや)の門(もん)の辺(ほとり)、鞍(くら)おき、馬(うま)一二百匹(ぴき)ひつたてたり。侍所(さぶらひどころ)には、物(もの)の具(ぐ)の音(おと)しきりにして、只今(ただいま)、事(こと)出(い)で来(き)ぬとぞ見(み)えける。入(い)るべき所(ところ)無(な)くして、門(もん)の外(そと)をめぐり、日頃(ひごろ)、祐成(すけなり)に行(ゆ)きつれて通(とほ)りしかん小路にめぐり、竹垣(たけがき)をくぐり、虎(とら)が居所(ゐどころ)にこそつきにけれ。「十郎(じふらう)殿(どの)は、如何(いか)に」と問(と)へば、「和田(わだ)殿(どの)と盃(さかづき)を論(ろん)じて、只今(ただいま)事(こと)出(い)で来(き)ぬ」と申(まう)す。然(さ)ればこそと思(おも)ひ、透垣(すいがき)をはね越(こ)え、兄(あに)の居(ゐ)たりける後(うし)ろの障子(しやうじ)を隔(へだ)て立(た)ちけり。時致(ときむね)、是(これ)に有(あ)りと知(し)られん為(ため)に、■(かうがひ)にて、障子(しやうじ)ごしに、袴(はかま)の着際(きぎは)を差(さ)しければ、十郎「誰(た)そ」と問(と)ふ。五郎(ごらう)、小声(こごゑ)に成(な)りて、「時致(ときむね)、是(これ)に有(あ)り」と言(い)ふ。十郎(じふらう)聞(き)きて、万騎の兵(つはもの)を後(うし)ろに持(も)ちたるより頼(たの)もしくぞ思(おも)ひける。義盛(よしもり)の声(こゑ)して、「上も無(な)く振舞(ふるま)ふ物(もの)かな」と聞(き)こえける。祐成(すけなり)の御事(おんこと)ぞと心(こころ)得(え)て、何事(なにごと)もあらば、障子(しやうじ)一重(ひとへ)踏(ふ)み破(やぶ)りて、飛(と)び出(い)でて、一(いち)の太刀にて義盛(よしもり)、二の太刀(たち)にて朝比奈(あさいな)、其(そ)の外(ほか)の奴(やつ)原(ばら)、何十人(なんじふにん)もあれかし、物(もの)の数(かず)にてあらばこそと思(おも)ひ切(き)り、四尺(しやく)六寸(ろくすん)の太刀(たち)、杖(つゑ)につきて立(た)つ。忍(しの)び兼(か)ねたる有様(ありさま)は、刀八毘沙門(びしやもん)の悪魔(あくま)を降伏(がうぶく)し給(たま)ふかとぞ覚(おぼ)えける。夕日脚(あし)の事(こと)なれば、太刀影(たちかげ)の障子(しやうじ)にすきて見(み)えければ、朝比奈(あさいな)、是(これ)を見(み)て推量(すいりやう)し、誠(まこと)や、彼(かれ)等(ら)兄弟(きやうだい)は、兄(あに)が座敷(ざしき)P257に有(あ)る時(とき)は、弟(おとと)が後(うし)ろに立(た)ち添(そ)ひ、弟(おとと)が座敷(ざしき)に有(あ)る時は、兄(あに)が後(うし)ろに有(あ)る物(もの)を。いかさま、五郎(ごらう)は、後(うし)ろに有(あ)りと覚(おぼ)えたり。さしたる事(こと)も無(な)きに、大事(だいじ)引(ひ)き出(い)だして、何(なに)の詮(せん)かあらん。又(また)、いつしやう他人(たにん)にもあらざるなり。何(なに)と無(な)き体(てい)にもてなし、座敷(ざしき)を立(た)たばやと思(おも)ひければ、紅(くれなゐ)に月出(い)だしたる扇(あふぎ)開(ひら)き、「何(なに)とやらん、御座敷(ざしき)鎮(しづ)まりたり。うたへや、殿(との)原(ばら)、はやせや、舞(ま)はん」とて、既(すで)に座敷(ざしき)を立(た)ちければ、面々(めんめん)にこそはやしけれ。義秀(よしひで)、拍子(ひやうし)を打(う)ちたてさせ、「君(きみ)が代は千代(ちよ)に八千代(やちよ)をさざれ石(いし)の」としをり上(あ)げて、「巖(いはほ)と成(な)りて苔(こけ)のむすまで W019」と、踏(ふ)みしかくまうてまはりしに、 五郎(ごらう)が立(た)ちたる前の障子(しやうじ)を引(ひ)きあけ見(み)れば、案(あん)に違(たが)はず、時致(ときむね)は、四天王(してんわう)を作(つく)り損(そん)じたる様(さま)にて、踏(ふ)みしかりてぞ立(た)ちたりけれ。朝比奈(あさいな)、過(あやま)たず、狂言(きやうげん)に取(と)り成(な)して、「是(これ)にも、客人(きやくじん)坐(ま)しますぞや。此方(こなた)へ入(い)らせ給(たま)へ」とて、草摺(くさずり)一二間(げん)、むずと取(と)りて引(ひ)きけれども、少(すこ)しも働(はたら)かず。磐石(ばんじやく)なり共(とも)、義秀(よしひで)が手(て)を掛(か)けなば、動(うご)かぬ事(こと)有(あ)るべきかと思(おも)ひ、力(ちから)に任(まか)せ、ゑいやゑいやと引(ひ)きけれ共(ども)、五郎(ごらう)物(もの)とも思(おも)はねば、引(ひ)くとも無(な)く、引(ひ)かるる共(とも)無(な)く、あざ笑(わら)ひてぞ立(た)ちたり。大力(だいぢから)に引(ひ)かれて、横縫(よこぬひ)草摺(くさずり)こらへず、一度(いちど)にきれて、朝比奈(あさいな)は、後(うし)ろへ、どうど倒(たふ)れければ、五郎(ごらう)は、少(すこ)しも働(はたら)かで、二王だちにぞ立(た)ちたり。さて、五郎(ごらう)時致(ときむね)は、みぎは勝(まさ)りの大力(だいぢから)と、余所(よそ)の人まで知(し)りける。誠(まこと)や、此(こ)の者父河津(かはづ)の三郎(さぶらう)は、東八ケ国(はつかこく)に聞(き)こゆる又野(またの)の五郎(ごらう)P258に、片手(かたて)をはなちて、相撲(すまふ)に三番(ばん)勝(か)ちてこそ、大力(だいりき)の覚(おぼ)えは取(と)りたりしが、其(そ)の子(こ)なるをや、力(ちから)くらべは適(かな)ふまじ、すかさん物(もの)をと打(う)ち笑(わら)ひ、「是(これ)へ是(これ)へ」と請(しやう)ずれば、「余(あま)りの辞退(じたい)はいこく人(じん)、異体(いてい)は御免(ごめん)候(さうら)へ」と言(い)ふ言(い)ふ、座敷(ざしき)に出(い)でけるが、持(も)ちたる太力と草摺(くさずり)にて、末座(ばつざ)なる人々(ひとびと)の首(くび)まはり、側顔(そばかほ)を打(う)ちなぐり、差(さ)し越(こ)え差(さ)し越(こ)え行(ゆ)き過(す)ぎて、朝比奈(あさいな)が下なる畳(たたみ)になほりける、座敷(ざしき)に余(あま)りて見(み)えたり。朝比奈(あさいな)、急(いそ)ぎ座敷(ざしき)を立(た)ちて、義盛(よしもり)の前に有(あ)りける盃(さかづき)を五郎(ごらう)が前(まへ)にぞ置(お)きたりける。時致(ときむね)、盃(さかづき)取(と)り上(あ)げて、酌(しやく)に立(た)ちたる朝比奈(あさいな)に色代(しきだい)して、「御盃の前後は、遅参(ちさん)の無礼(ぶれい)、御免(ごめん)あれ。御盃(さかづき)は賜(たま)はり候(さうら)ふ」とて、三度(さんど)までこそほしたりけれ。其(そ)の盃(さかづき)、朝比奈(あさいな)取(と)り、「遙(はる)かに久(ひさ)しう候(さうら)ふ御盃(さかづき)、思(おも)ひどり申(まう)さん」とて、元(もと)の座敷(ざしき)になほりけり。五郎(ごらう)も、酌(しやく)に手(て)を掛(か)け、「近(ちか)くも参(まゐ)らぬ御酌(しやく)に、時致(ときむね)立(た)たん」とゆるぎ立(た)つ。四郎左衛門(さゑもん)、座(ざ)を立(た)つて、「某(それがし)、是(これ)に候(さうら)ふ」とて、銚子(てうし)に取(と)り付(つ)けば、五郎(ごらう)もしばし色代(しきだい)す。義盛(よしもり)、是(これ)を見(み)て、「客人(きやくじん)の御酌(しやく)、然(しか)るべからず。其(そ)れ其(そ)れ」と有(あ)りければ、つねうぢ、酌(しやく)にぞ立(た)ちける。朝比奈(あさいな)、盃(さかづき)取(と)り上(あ)げ、三度(さんど)ほし、其(そ)の盃(さかづき)を虎(とら)のみて、義盛(よしもり)にさす。其(そ)の時(とき)、五郎(ごらう)、扇(あふぎ)、笏(しやく)に取(と)り直(なほ)し、「今(いま)暫(しばら)くも候(さうら)ふべけれども、曾我(そが)にさしたる急(いそ)ぐ事(こと)の候(さうら)ふ。後日(ごにち)に恐(おそ)れ申(まう)さん」とて、兄(あに)諸(もろ)共(とも)に立(た)ちければ、虎(とら)も、同(おな)じく立(た)ちにけり。一座も、無興(ぶきよう)至極(しごく)にして、和田(わだ)は、鎌倉(かまくら)へ通(とほ)りければ、此(こ)の人々(ひとびと)は打(う)ちつれP259て、曾我(そが)へとてこそ返(かへ)りけれ。
@〔曾我(そが)にて虎(とら)が名残(なごり)惜(を)しみし事(こと)〕S0603N098
是(これ)や、名翼(めいよく)は、昊天(かうてん)に遊(あそ)べ共(ども)、小沢(せうたく)に移(うつ)り、九そうの愁(うれ)へにあひ、■■(げんだ)は、深淵(しんゑん)の底(そこ)を保(たも)て共(ども)、浅渚(せんしよ)に出(い)でて、ほこうの愁(うれ)へにあそふと見(み)えたり。十郎(じふらう)も、身(み)に思(おも)ひの有(あ)る物(もの)ぞかし、由(よし)無(な)き女(をんな)のもとにて、思(おも)はずの難(なん)にあはんとしけるぞ、口惜(くちを)しき。人ごとに心(こころ)得(え)べき事(こと)也(なり)。祐成(すけなり)は、虎(とら)を具(ぐ)して、曾我(そが)に帰(かへ)り、つねに住(す)みける所(ところ)に隠(かく)しおき、いつよりもこまごまと物語(ものがたり)しけり。「此(こ)の度、御狩(みかり)の御供(おんとも)申(まう)し、思(おも)はずの峰(お)ごしの矢(や)にもあたり、くち木、むもれ木(ぎ)共(とも)成(な)るならば、身(み)こそ貧(ひん)に生(う)まれめ、鬢(びん)なる塵(ちり)の見(み)苦(ぐる)しさよと、人(ひと)の言(い)はんも口惜(くちを)し。髪(かみ)けづりてたび候(さうら)へ」と言(い)ひければ、虎(とら)は、何(なに)としも思(おも)はで、数(かず)の櫛(くし)を取(と)り散(ち)らし、暫(しばら)く髪(かみ)をぞけづりける。十郎(じふらう)は、女(をんな)の膝(ひざ)に伏(ふ)しながら、虎(とら)が顔(かほ)をつくづく見(み)て、祐成(すけなり)を睦(むつ)ましと見(み)んも、是(これ)ぞ限(かぎ)りなるべきと思(おも)へば、流(なが)るる涙(なみだ)を見(み)て、「例(れい)ならぬ御涙(おんなみだ)、心(こころ)許(もと)無(な)さよ。何(なに)なるらん」と問(と)ひければ、「今に始(はじ)めぬ事(こと)とは言(い)ひながら、憂(う)き世(よ)の中の定(さだ)め無(な)さよ。此(こ)の程(ほど)の万あぢきなく、何事(なにごと)も心(こころ)細(ぼそ)く覚(おぼ)ゆれば、あだに契(ちぎ)り、同(おな)じP260世(よ)の、名の立(た)つ程(ほど)も、如何(いか)にやと思(おも)へば、心(こころ)に涙(なみだ)のこぼるるぞ。実(げ)にや、頼(たの)まぬ身(み)の習(なら)ひ、かこつ命も、露(つゆ)の間(ま)も、いまはしくこそ思(おも)はるれ」「実(げ)にも、さ様に思(おも)ひ給(たま)はば、此(こ)の度の御狩(みかり)、思(おぼ)し召(め)し止(とど)まり給(たま)へかし。君(きみ)に知(し)らるる宮(みや)づかひの隙無(な)きわざにも候(さうら)はず。止(とど)まり給(たま)へ」と言(い)ひければ、「思(おも)ひ立(た)つ御供(おんとも)なり。何事(なにごと)かは」と言(い)ひながら、か程(ほど)深(ふか)く思(おも)ふ中、思(おも)ひ知(し)らせず出(い)でなば、情(なさけ)の色も絶(た)えぬべし。せめて夢(ゆめ)程(ほど)、此(こ)の事(こと)を知(し)らせばやと思(おも)へども、女(をんな)は、甲斐(かひ)無(な)き者(もの)なれば、あかぬ別(わか)れの悲(かな)しさに、止(とど)めん為(ため)に、母(はは)にもや語(かた)りひろめん。此(こ)の度は、思(おも)ひ定(さだ)めたるもの故(ゆゑ)に、適(かな)はぬ事(こと)を母(はは)聞(き)きて、思(おも)ひの種(たね)ともなりぬべし。又は、五郎(ごらう)も恨(うら)みなん。思(おも)ひ切(き)りたる一大事(いちだいじ)、女(をんな)にさぞと言(い)はん事(こと)、悪(あ)しかるべしと思(おも)ひ切(き)り、何(なに)としも無(な)くたはぶれけり。忍(しの)ぶとすれど、其(そ)の色のあやしく思(おも)ひ奉(たてまつ)り、「覚束無(おぼつかな)し」と問(と)ひければ、深(ふか)き思(おも)ひの切(せつ)なるに、束(つか)の間(ま)も、思(おも)ひ合(あ)はする事(こと)無(な)くて、はてぬる物(もの)ならば、後の恨(うら)みも深(ふか)かるべし。由(よし)、思(おも)ひ出(で)に、一(ひと)はしを言(い)ひてや、心(こころ)をやすむると、「身(み)の有様(ありさま)を思(おも)ふには、憂(う)きが住(す)まひの詮(せん)無(な)くて、世(よ)には住(す)まじの其(そ)の故(ゆゑ)を、如何(いか)にと言(い)ひて知(し)らすべき。然(さ)ればにや、祖父(おほぢ)人道の謀叛(むほん)に依(よ)りて、切(き)られ参(まゐ)らせし孫(まご)なれば、君(きみ)にも召(め)し使(つか)はれ、御恩(ごおん)蒙(かうぶ)る事(こと)も無(な)し。まして、先祖(せんぞ)の本領(ほんりやう)は、年月(としつき)余所(よそ)にみなす上(うへ)、馬の一匹(ぴき)もなだらかにかはず、又(また)、父(ちち)の為(ため)とて、P261経巻(きやうまき)の一部(ぶ)もかかず、有(あ)りとしも無(な)き憂(う)き身(み)の仕儀(しぎ)、人にみゆるも恥(は)づかしく、面(おもて)並(なら)ぶる便(たよ)りも無(な)し。然(さ)れば、此(こ)の度、御狩(みかり)よりも帰(かへ)りなば、出家(しゆつけ)を遂(と)げ、墨(すみ)の衣(ころも)に染(そ)めかへて、頭陀(づだ)乞食(こつじき)して、霊仏(れいぶつ)霊社(れいしや)に参(まゐ)り、父(ちち)の後世(ごせ)をも弔(とぶら)ひ、我(わ)が身(み)をも助(たす)からんと思(おも)ひ候(さうら)ふ也(なり)。世(よ)に有(あ)りとも、夢(ゆめ)幻(まぼろし)の如(ごと)く、はう心を残(のこ)すべきにあらず。花山法皇(ほふわう)だにも、万乗(ばんじよう)の位(くらゐ)をさりて、山林(さんりん)に交(まじ)はり給(たま)ふぞかし。ましてや、貧道(ひんだう)無縁(むえん)の祐成(すけなり)が、何(なに)に命も惜(を)しかるべき。今度(こんど)の御供(おんとも)を最後(さいご)に、二度(ふたたび)返(かへ)らじと思(おも)へば、あかぬ別(わか)れの道(みち)捨(す)て難(がた)くて」と申(まう)しければ、虎(とら)聞(き)きも敢(あ)へず、十郎(じふらう)が膝(ひざ)に泣(な)きかかり、しばしは物(もの)も言(い)はざりけり。やや有(あ)りて、「恨(うら)めしや、問(と)はずは知(し)らせじと思(おぼ)し召(め)すかや。誠、童(わらは)は大磯(おほいそ)の君(きみ)、あさましき者(もの)の子(こ)なれば、誠(まこと)の道(みち)をも思(おぼ)し召(め)さじなれ共(ども)、女(をんな)の身(み)のはかなさ、身(み)にかへてもとこそ思(おも)ひ奉(たてまつ)れ。見(み)えそめしより、などやらん、思(おも)ひの色の深草(ふかくさ)や、忍ぶの袖にすり衣(ごろも)、忘(わす)れ奉(たてまつ)る便(たよ)り無(な)し。御志(こころざし)は知(し)らねども、御(おん)かねことの違(たが)ふをば、偽(いつは)りに又(また)成(な)るらんと、心(こころ)をつくし待(ま)たれしに、然様(さやう)に思(おも)ひ立(た)ち給(たま)はば、我(わ)らはも、同(おな)じく髪(かみ)を下(お)ろし、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)に身(み)をやつし、一(ひと)つ庵(いほり)にあらばこそ、別(べち)に庵室(あんじつ)引(ひ)き結(むす)び、衣(ころも)をすすぎて参(まゐ)らせん。香(かう)をそなへ給(たま)はば、花をつみ、薪(たきぎ)をひろひ給(たま)はば、水(みづ)を結(むす)び、一蓮(ひとつはちす)の縁(えん)をも願(ねが)はん。其(そ)のむつびをも、いなと宣(のたま)はば、山寺に修行(しゆぎやう)して、余所(よそ)ながら見(み)奉(たてまつ)らP262ん。其(そ)れも、憚(はばか)り思(おぼ)し召(め)さば、聞(き)き給(たま)へ、身(み)をなげ、一日(いちにち)片時(へんし)も別(わか)れ奉(たてまつ)る事(こと)あらじ」とて、涙(なみだ)にむせびけり。十郎(じふらう)が膝(ひざ)の上も、虎(とら)が涙(なみだ)にうくばかりなり。袖(そで)も所(ところ)狭(せば)くぞ覚(おぼ)えし。十郎(じふらう)、つくづくと案(あん)ずるに、是(これ)程(ほど)思(おも)ひ入(い)りたる志(こころざし)、露(つゆ)程(ほど)も知(し)らせずして、心(こころ)強(づよ)く隠(かく)し遂(と)げぬる物(もの)ならば、長(なが)き恨(うら)みとなりぬべし。もし立(た)ち帰(かへ)らぬ習(なら)ひあらば、思(おも)ひ出(い)だして、念仏(ねんぶつ)をも申(まう)すべし。然(さ)ればとて、人にもらすなと言(い)はん事(こと)を、あだにやすべき。其(そ)の上(うへ)、日数(ひかず)無(な)ければ、知(し)らせばやと思(おも)ひ、「此(こ)の事(こと)、母(はは)にだにも知(し)らせ奉(たてまつ)らで、今まで過(す)ぎしかど、御身(おんみ)の志(こころざし)切(せつ)にして、知(し)らせ奉(たてまつ)るぞ。もらし給(たま)ふべからず。誠の道心にもあらず、出家(しゆつけ)遁世(とんせい)にても無(な)し。年頃(としごろ)、祐成(すけなり)が身(み)に思(おも)ひ有(あ)りとは知(し)り給(たま)ひぬらん。其(そ)の本意(ほんい)を遂(と)げんと思(おも)へば、此(こ)の度出(い)でて後(のち)、二度(ふたたび)返(かへ)るまじければ、相(あひ)見(み)ん事(こと)も、今宵(こよひ)計(ばかり)也(なり)。さてしも、何(なに)と無(な)く申(まう)し契(ちぎ)りて、時の間と思(おも)へ共(ども)、三年(みとせ)に成(な)りぬ。思(おも)ひ出(で)も無(な)くて、はてん事(こと)こそ、無念(むねん)なれ。御志(おんこころざし)の程(ほど)こそ、有(あ)り難(がた)く思(おも)ひ奉(たてまつ)れ。面々(めんめん)如(ごと)きの人は、祐成(すけなり)風情(ふぜい)の貧者(ひんじや)、頼(たの)む所(ところ)無(な)し。何(なに)に依(よ)りてか、露の情(なさけ)も有(あ)るべきに、三年(みとせ)の間(あひだ)の顔(かほ)ばせの、変(か)はらぬ色(いろ)は常磐山(ときはやま)、己(おのれ)泣(な)きてや、憂(う)きを知(し)る。情(なさけ)に引(ひ)かれて、身(み)の程(ほど)を、恥(は)ぢず忘(わす)れし中なれば、前世(ぜんぜ)の事(こと)と言(い)ふ計(はか)りにて、過(す)ぎにし事(こと)の恥(は)づかしさよ。奉公(ほうこう)の身(み)ならねば、御恩(ごおん)の時とも言(い)はず、廻船(くわいせん)の身(み)ならねば、利(り)のあらん折(をり)とも言(い)はず、P263思(おも)ひ出(で)無(な)き事(こと)を思(おも)ひ出(い)だし給(たま)はん事(こと)よ」とて、さめざめと泣(な)きけり。虎(とら)も、此(こ)の言葉(ことば)を聞(き)きて、又(また)打(う)ち伏(ふ)して、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。やや有(あ)りて、おきなほり、「そも、是(これ)は、何(なに)と成(な)り行(ゆ)く事(こと)共(ども)ぞや。是(これ)程(ほど)の大事(だいじ)、はかなき女(をんな)の身(み)なり共(とも)、如何(いか)でか人にもらすべき。一人坐(ま)します母(はは)にだにも聞(き)かせ奉(たてまつ)らず、振(ふ)り捨(す)てて、心(こころ)強(づよ)く思(おも)ひ立(た)ち給(たま)はん事(こと)、数(かず)ならぬ童(わらは)申(まう)すとも、止(とど)まり給(たま)ふべきか。何(なに)に付(つ)けても、あかぬ別(わか)れの道こそ、悲(かな)しみても余(あま)りあれ。斯様(かやう)の大事(だいじ)、心(こころ)置(お)かず、しらさせ給(たま)ふこそ、返(かへ)す返(がへ)すも嬉(うれ)しけれ。さても、此(こ)の年月(としつき)の御(おん)なじみ、いつの世(よ)にかは忘(わす)るべき。思(おも)ふに適(かな)はぬ事(こと)なれ共(ども)、御物(もの)の具(ぐ)の見(み)苦(ぐる)しきを見(み)参(まゐ)らする折節(をりふし)は、人々(ひとびと)しき身(み)なりせば、などや頼(たよ)りにもなり奉(たてまつ)らざらんと、しづ心をつくし、明(あ)かしくらしつるに、世(よ)を捨(す)てて、何処(いづく)とも無(な)くならんと仰(おほ)せらるるをこそ、身(み)の置(お)き所(どころ)無(な)かりしに、思(おも)ひもよらぬ長(なが)き別(わか)れ路とならん悲(かな)しさよ」とて、声(こゑ)も惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。十郎(じふらう)も、せん方無(な)くして、「余(あま)りな歎(なげ)き給(たま)ひそ。人々(ひとびと)聞(き)き候(さうら)ふべし。名残(なごり)は誰(たれ)も同(おな)じ心(こころ)ぞ」と慰(なぐさ)めつつ、「是(これ)を形見(かたみ)に」とて、「祐成(すけなり)に添(そ)ふと思(おぼ)し召(め)せ」とて、鬢(びん)の髪(かみ)を切(き)りてとらせぬ。虎(とら)は、涙諸(もろ)共(とも)に受(う)け取(と)り、膚(はだ)の守(まも)りに深(ふか)くおさめ、物(もの)をも言(い)はで伏(ふ)し鎮(しづ)みぬ。十郎(じふらう)も、同(おな)じ枕に打(う)ち傾(かたぶ)き、涙(なみだ)にむせぶ計(ばかり)也(なり)。日も既(すで)に暮(く)れければ、今宵(こよひ)ばかりの名残(なごり)ぞと、思(おも)ひ遣(や)るこそ悲(かな)しけれ。P264千代(ちよ)を一夜(いちや)に重(かさ)ねても、明(あ)けざれかしと思(おも)はるる。頃(ころ)さへ、五月の短(みじか)夜(よ)の有明(ありあけ)なれば、宵(よひ)の間(ま)の、待(ま)たるる程(ほど)も無(な)ければや、出(い)づると見(み)れば、其(そ)の儘(まま)に、傾(かたぶ)く空(そら)も恨(うら)めし、八声(こゑ)と言(い)ふも、鶏(にはとり)の、夜(よ)や知(し)りふると明(あ)け安(やす)く、夢(ゆめ)見(み)る程(ほど)も微睡(まどろ)まで、東(ひがし)にたなびく横雲(よこぐも)の、東雲(しののめ)しらむうき枕(まくら)、又(また)睦言(むつごと)のつきなくに、きぬぎぬに成(な)る曉(あかつき)の、涙(なみだ)に床(とこ)もうきぬべし。互(たが)ひの名残(なごり)、心(こころ)の中(うち)、さこそと思(おも)ひ知(し)られたれ。猶(なほ)しも、虎(とら)は打(う)ち伏(ふ)して、消(き)え入(い)る様(やう)に見(み)えしかば、十郎(じふらう)、彼(かれ)をいさめんとて、「暇(いとま)申(まう)して、祐成(すけなり)は、後生(ごしやう)にて参(まゐ)り合(あ)はん」とて驚(おどろ)かせば、おきなほりたるばかりにて、もの言(い)ふまでは無(な)かりけり。今(いま)を限(かぎ)りの別(わか)れなり。後(のち)の世(よ)までの形見(かたみ)とて、十郎(じふらう)来(き)たりける目結(めゆひ)の小袖(こそで)に、虎(とら)が紅梅(こうばい)の小袖(こそで)にきかへて、「心(こころ)のあらば、移(うつ)り香(が)よ、しばし残(のこ)りて、憂(う)き別(わか)れ、慰(なぐさ)む程(ほど)も、面影(おもかげ)の、きかへし衣(ころも)にとまれかし。互(たが)ひの名残(なごり)尽(つ)きせず」と、又(また)諸(もろ)共(とも)に打(う)ち伏(ふ)しぬ。「幾万代(いくよろづよ)を重(かさ)ねても、名残(なごり)つくべきにあらず。祐成(すけなり)も、途(みち)まで送(おく)り奉(たてまつ)るべし。日こそたけ候(さうら)へ」とて、葦毛(あしげ)なる馬に貝鞍(かひくら)置(お)かせ、道三郎(だうざぶらう)、門(もん)の辺(ほとり)にひかへたり。「此(こ)の馬鞍(むまくら)、返(かへ)し給(たま)ふべからず。此(こ)の三年(みとせ)通(かよ)ひしに、馬(むま)は変(か)はれど、鞍(くら)変(か)はらず。鞍(くら)は変(か)はれども、馬(むま)変(か)はらず。今日(けふ)を最後(さいご)の別(わか)れなれば、止(とど)め置(お)きて、長(なが)き形見(かたみ)とも思(おも)ひ給(たま)ふべし。但(ただ)し、馬(むま)は生(しやう)有(あ)る物(もの)にて、変(か)はる事(こと)有(あ)り、鞍(くら)をば失(うしな)はで持(も)ち給(たま)へ」と言(い)ふ言(い)ふ、P265馬(むま)にぞ乗(の)せたりける。
@〔山彦山(やまひこやま)にての事(こと)〕S0604N099
「祐成(すけなり)も送(おく)るべし」とて、馬(むま)に鞍(くら)置(お)かせ、打(う)ち乗(の)りて、「中村(なかむら)どほりに行(ゆ)くべし。大道は、馬鞍(むまくら)見(み)苦(ぐる)し。君(きみ)を祐成(すけなり)が思(おも)ふとは、皆人(みなひと)知(し)られたり。供(とも)の者(もの)共(ども)も、かひがひしからず」とて、打(う)ちつれてこそ送(おく)りけれ。曾我(そが)と中村(なかむら)の境(さかひ)なる山彦山(やまひこやま)の峠(たうげ)まで送(おく)り来(き)て、十郎(じふらう)、此処(ここ)に駒(こま)をひかへ、今(いま)少(すこ)しも送(おく)りたくは候(さうら)へ共(ども)、必(かなら)ず今朝(けさ)より出(い)でんと定(さだ)めしかば、定(さだ)めて五郎(ごらう)も来(き)たらん。名残(なごり)はつくべきにあらず、此(こ)の世(よ)にて相(あひ)見(み)ん事(こと)も、今(いま)計(ばかり)ぞと思(おも)へば、遣(や)る方(かた)無(な)くして、涙(なみだ)にむせぶばかりなり。をちこちのたつき知(し)らぬ山中の、道(みち)もさやかに見(み)えわかず。彼(か)の松浦佐用姫(まつらさよひめ)がひれ伏(ふ)し姿(すがた)は、石(いし)になりける、其(そ)れは昔(むかし)の事(こと)ぞかし。今(いま)の別(わか)れの悲(かな)しさよ。駒(こま)近々(ちかぢか)と打(う)ち寄(よ)せ、手(て)に手(て)を取(と)り組(く)み、涙(なみだ)にむせぶばかりなり。やや有(あ)りて、「祐成(すけなり)が心(こころ)の中(うち)、推(お)し量(はか)り給(たま)へ。是(これ)にて、年(とし)を送(おく)るべきにもあらず。只(ただ)一筋(ひとすぢ)に浄土(じやうど)の縁(えん)を結(むす)ばん。来世(らいせ)を深(ふか)く頼(たの)むぞ」と、心(こころ)強(づよ)くも思(おも)ひ切(き)り、ひかふる袖(そで)を引(ひ)き分(わ)けて、泣(な)く泣(な)く立(た)ち別(わか)れけり。実(げ)にや、かんかんの床(ゆか)の上には、遙(はる)かに契(ちぎ)りを千年(ねん)の鶴(つる)にP266結(むす)び、沈麝(ぢんじや)の筵(むしろ)の上には、遠(とほ)く齢(よはひ)を万劫(まんごふ)の亀に期(き)して、契(ちぎ)りしかども、逃(のが)れぬ別(わか)れの道は、力(ちから)に及(およ)ばず。互(たが)ひに心(こころ)を顧(かへり)み、坂(さか)中(ぢゆう)にやすらひひかへたり。かすかに見(み)えし姿(すがた)も見(み)えずなりければ、そなたの空(そら)のみ帰(かへ)り見(み)る。あしびきの山のあなたの恋(こひ)しさは、何(いづ)れも同(おな)じ心(こころ)にて、現(うつつ)とも無(な)き涙(なみだ)の袖、夢(ゆめ)の如(ごと)くに打(う)ち別(わか)れにけり。思(おも)ひの余(あま)りに、虎(とら)が馬の口(くち)ひかへたる道三郎(だうざぶらう)に、泣(な)く泣(な)く言(い)ひけるは、「祐成(すけなり)を見(み)奉(たてまつ)らんも、今ばかりの名残(なごり)なり。何事(なにごと)も、こまごまと言(い)ひたかりつるを、涙(なみだ)にくれて言(い)ひもせず、取(と)り分(わ)け暇(いとま)こひ給(たま)へるに、返事(へんじ)せざりし心(こころ)許(もと)無(な)ければ、今(いま)一度呼(よ)び奉(たてまつ)りてたび候(さうら)へ。物一言(ひとこと)申(まう)さん」と言(い)ひければ、道三郎(だうざぶらう)、「只(ただ)世(よ)の常(つね)の出家(しゆつけ)遁世(とんせい)にても無(な)し」とて、さしても騒(さわ)がざりけるが、なのめならざる互(たが)ひの歎(なげ)きを見(み)て、哀(あは)れに思(おも)ひ、急(いそ)ぎ走(はし)り帰(かへ)り、遙(はる)かに行(ゆ)きたりける十郎(じふらう)呼(よ)び帰し、もとの峠(たうげ)に打(う)ち上(あ)がり、駒(こま)をひかへ、「何事(なにごと)ぞ」と問(と)ひければ、虎(とら)は、涙(なみだ)に目(め)もくれて、思(おも)ひ設(まう)けし言(こと)の葉(は)の、いつしか今は失(う)せはてて、鞍(くら)の前輪(まへわ)に打(う)ちかかり、消(き)え入(い)る様に見(み)えしかば、十郎(じふらう)も、わきたる事(こと)は無(な)くて、泣(な)く計(ばかり)にてぞ有(あ)りける。やや有(あ)りて、虎(とら)、息(いき)の下に言(い)ひける、「いつと無(な)く、さぞと契(ちぎ)らぬ夕暮(ゆふぐれ)も、駒(こま)の足(あし)なみ、轡(くつわ)の音(おと)のする時は、もしやと思(おも)ふ折々の、其(そ)の人と無(な)く過(す)ぎ行(ゆ)けば、其(そ)の夜(よ)は、空(むな)しく床(とこ)に伏(ふ)し、鳥の音(ね)にたたへつつ、我(わ)が涙落(お)つる枕の上(うへ)より、明(あ)くる思(おも)ひP267をさへられ、夕(ゆふべ)の鐘(かね)の声(こゑ)には、くるる便(たよ)りを待(ま)ちなれて、ほされぬ袖の其(そ)の儘(まま)に、はかなかりける契(ちぎ)りかな。三年(みとせ)の夢(ゆめ)の程(ほど)も無(な)く、別(わか)るる現(うつつ)になりにけり。さて、いつの世(よ)にめぐり合(あ)ひ、斯(か)かる思(おも)ひの又もや」と、声(こゑ)も惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。「祐成、身(み)の上をつくづく思(おも)ふに、罪(つみ)の深(ふか)きぞ知(し)られたる。幼(いとけな)くして、父(ちち)におくれ、本領(ほんりやう)だにあたりつかず、母(はは)一人のはぐくみにて、身命(しんみやう)を過(す)ぐすと雖(いへど)も、有(あ)る甲斐(かひ)も無(な)し。此(こ)の三年、御身(おんみ)にだにも相(あひ)なれて、あかぬ別(わか)れの悲(かな)しさ、歎(なげ)きの中の歎(なげ)きなれ。五欲(よく)の無常(むじやう)は、春(はる)の花、娑婆(しやば)は、かりの宿(やど)りなり。秋の紅葉(もみぢ)の影(かげ)ちりて、草葉(くさば)にすがる露の身(み)の、後生(ごしやう)弔(とぶら)ひてたび給(たま)へ」とて、東西(とうざい)へ打(う)ち別(わか)れけるにて、
@〔比叡山(ひえいさん)の始(はじ)まりの事(こと)〕S0605N100
昔(むかし)を思(おも)ふに、天地既(すで)にわかち、国未(いま)だ定(さだ)まらざる時は、人寿(にんじゆ)二万歳(ざい)を保(たも)ちける。迦葉(かせう)尊者(そんじや)は、西天(さいてん)に出世(しゆつせ)し給(たま)ふ。大聖(だいしやう)釈尊(しやくそん)は、其(そ)の教義(けうぎ)をえて、都率天(とそつてん)に住(ぢゆう)し給(たま)ふ。「我(われ)、八相成道(はつさうじやうだう)の後(のち)、遺教(ゆいけう)流布(るふ)の地、何(いづ)れの所(ところ)にか有(あ)るべき」と、此(こ)の南閻浮洲(なんえんぶしう)をあまねく飛行(ひぎやう)して御覧(ごらん)じけるに、遠々(ゑんゑん)たる大海(だいかい)の上に、「一切(いつさい)衆生(しゆじやう)、悉有仏生(しつうぶつしやう)、如来(によらい)常住(じやうぢゆう)、無有変易(むうへんい)」。立(た)つ波の声有(あ)り。此(こ)の波(なみ)の止(とど)まらん所(ところ)、一(ひと)つの国(くに)と成(な)りて、P268我(われ)、仏性(ぶつしやう)をひろめ通(つう)ずべき霊地(れいち)たるべし」とて、遙(はる)かの十万里の滄海(さうかい)をしのぎて行(ゆ)くに、葦(あし)の葉(は)一(ひと)つうかみたる所(ところ)に、此(こ)の波流(なが)れ止(とど)まりぬ、今の比叡山(ひえいさん)の麓(ふもと)、大宮(おほみや)権現(ごんげん)の坐(ま)します波止土濃(はしどの)是(これ)なり。然(さ)ればにや、「波(なみ)止(とど)まり、土(つち)こまやかなり」と書(か)けり。かく御覧(ごらん)じ置(お)きて、釈尊(しやくそん)、天(てん)に上(あ)がり給(たま)ふ。然(さ)れば、葦原(あしはら)の中国(なかつくに)と申(まう)し習(なら)はせるは、此(こ)の一葉(は)の葦(あし)の故(ゆゑ)とかや。日本(につぽん)我(わ)が朝(てう)は、葦(あし)の葉(は)を表(へう)するとぞ申(まう)し習(なら)はせる。其(そ)の後、人寿(にんじゆ)百歳(さい)の時(とき)、悉達(しつだ)太子(たいし)と生(しやう)じて、八十年の春(はる)の頃(ころ)、頭北面西右きうくわ、跋提(ばつだい)の波(なみ)と消(き)え給(たま)ふ。され共(ども)、仏は、常住(じやうぢゆう)にして、むゑん法界(ほふかい)の妙体(めうたい)なれば、昔(むかし)、葦(あし)の葉(は)の島(しま)となりし中国(なかつくに)を御覧(ごらん)じける時(とき)、鵜■草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)の御世(よ)なれば、仏法(ぶつぽふ)の名字(みやうじ)を人知(し)らず。此処(ここ)に、さざなみや志賀(しが)の浦(うら)の辺(ほとり)に、釣(つり)をする老翁(らうおう)有(あ)り。釈尊(しやくそん)、彼(かれ)に向(む)かひて、「翁(おきな)、もし此(こ)の所(ところ)の主(ぬし)たらば、此(こ)の地を我(われ)にえさせよ。仏法(ぶつぽふ)結界(けつかい)の地となすべし」と宣(のたま)へば、翁(おきな)、答(こた)へて申(まう)さく、「我(われ)、人寿(にんじゆ)六万歳(ろくまんざい)の始(はじ)めより、此(こ)の所(ところ)の主(ぬし)として、此(こ)の湖(みづうみ)の七度まで、葦原(あしはら)に変(へん)ぜしをも、まさに見(み)たりし翁(おきな)也(なり)。然(さ)れば、此(こ)の地(ち)結界(けつかい)と成(な)るならば、釣(つり)する所(ところ)失(う)せぬべし」と、深(ふか)く惜(を)しみ申(まう)せば、釈尊(しやくそん)、力(ちから)無(な)くして、今は、寂光土(じやつくわうど)に帰(かへ)らんとし給(たま)ふ時に、東方(とうばう)より、浄瑠璃(じやうるり)世界(せかい)の薬師(やくし)、忽然(こうぜん)と出(い)で給(たま)ひて、「よきかな、はや仏法(ぶつぽふ)をひろめ給(たま)へ。我(われ)、人寿(にんじゆ)八万歳(ざい)の始(はじ)めより、此(こ)の所(ところ)の主(ぬし)たれど、老翁(らうおう)、未(いま)だ我(われ)を知(し)らず。何(なん)ぞ此(こ)の山を惜(を)しみ申(まう)すべき。はやしP269給(たま)へ。我(われ)も、此(こ)の山の王(わう)と成(な)りて、共(とも)に後五百歳(さい)まで仏法(ぶつぽふ)をひろむべし」とて、二仏東西(とうざい)にさり給(たま)ふ。其(そ)の時(とき)の老翁(らうわう)は、今(いま)の白髭(しらひげ)の明神(みやうじん)にて坐(ま)しましける。東方(とうばう)よりの如来(によらい)は、中堂(ちゆうだう)の薬師(やくし)にてぞ坐(ま)しましける。釈迦(しやか)、薬師(やくし)の東西(とうざい)に帰り給(たま)ひき。今の十郎(じふらう)と虎(とら)が行(ゆ)き別(わか)るるには、違(たが)ひぬる心(こころ)なるをや、「蝸牛(くわぎう)の角(つの)の上(うへ)に、何事(なにごと)をか争(あらそ)ふ。石火(せきくわ)の光(ひかり)の内(うち)、此(こ)の身(み)を寄(よ)せつらん。名残(なごり)の道(みち)つくべからず、後世(ごせ)には、参(まゐ)り合(あ)はん」と、「道三郎(だうざぶらう)が心(こころ)も恥(は)づかし」とて、思(おも)ひ切(き)りてぞ別(わか)れける。虎(とら)は、峠(たうげ)にひかへて、祐成の後姿(うしろすがた)、かくるるまで見(み)送(おく)りける。さてしもあらねば、泣(な)く泣(な)く大磯(おほいそ)にぞ帰(かへ)りける。母(はは)のもとに入(い)りしかば、友(とも)の遊君(いうくん)共(ども)、広縁(ひろえん)に出(い)でて、「思(おも)ひ掛(か)けざる今の御入かな。いつと無(な)き山路(やまぢ)の寂(さび)しさ、推(お)し量(はか)りて」などとたはぶれけれ共(ども)、虎(とら)は、馬よりおるると同(おな)じく、衣(きぬ)引(ひ)きかづき、打(う)ち伏(ふ)しぬ。君(きみ)共(ども)集(あつ)まりて、「何(なに)とて、是(これ)程御(おん)歎(なげ)き候(さうら)ふやらん。十郎(じふらう)殿(どの)に捨(す)てられ御座(おは)しますか」と、様々(さまざま)慰(なぐさ)めけれども、かくと言(い)ふべき事(こと)ならねば、只(ただ)打(う)ち伏(ふ)し泣(な)き居(ゐ)たり。人々(ひとびと)打(う)たれて後にこそ、かくとは申(まう)し聞(き)かせけれ。道三郎(だうざぶらう)申(まう)しけるは、「殿も、今朝(けさ)は物(もの)へ御出(おいで)有(あ)るべきにて候(さうら)ふ。急(いそ)ぎ御暇(おんいとま)を申(まう)さん」と言(い)ふ。虎(とら)は、彼(かれ)を近(ちか)く呼(よ)び寄(よ)せて、「三年が程(ほど)、なれにし汝(なんぢ)にさへ、別(わか)れなん事(こと)の悲(かな)しさよ」とて、袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、さめざめと泣(な)きければ、道三郎(だうざぶらう)、返事(へんじ)にも及(およ)ばず、涙(なみだ)を流(なが)しける。「昔(むかし)が今に至(いた)るまで、主従(しゆうじゆう)の縁(えん)浅(あさ)からP270ぬ事(こと)ぞ。構(かま)へて思(おも)ひ忘(わす)るな。二世までも縁(えん)はくちせぬ物(もの)ぞ」と言(い)へば、道三郎(だうざぶらう)、暇(いとま)こひて出(い)でにけり。志(こころざし)は、二世までも尽(つ)きせじと覚(おぼ)えけり。
@〔仏性国(ぶつしやうこく)の雨(あめ)の事(こと)〕S0606N101
然(さ)れば、縁(えん)に依(よ)りて、仏果(ぶつくわ)をうる事(こと)を思(おも)へば、昔(むかし)、仏性国(ぶつしやうこく)に、血(ち)の雨ふりて、国土(こくど)紅(くれなゐ)なり。御門(みかど)、大(おほ)きに驚(おどろ)かせ給(たま)ひて、博士(はかせ)を召(め)して、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、占形(うらがた)を引(ひ)き、申(まう)しけるは、「今宵(こよひ)、不思議(ふしぎ)の子(こ)をうむ者(もの)有(あ)り。尋(たづ)ね出(い)だして、遠(とほ)き島(しま)に捨(す)てらるべし」と申(まう)しければ、舎衛城(しやゑじやう)の中に、其(そ)の夜、産(さん)したる者(もの)、千余人(よにん)也(なり)。其(そ)の中より選(えら)び出(い)だして、口より焔(ほのほ)出(い)づるをうみたる者有(あ)り。則、是(これ)を人蟒(まふ)とぞ名付(なづ)けける。是(これ)、不思議(ふしぎ)の者(もの)とて、官人(くわんにん)に仰(おほ)せ付(つ)けて、遠嶋に捨(す)てけり。然(しか)るに此(こ)の人蟒(まふ)、漸(やうやう)成人(せいじん)する程(ほど)に、猛(たけ)き鬼の姿(すがた)に成(な)りけり。此(こ)の嶋に来(き)たる者(もの)をば、もらさずくらふ。又(また)、国(くに)に罪(つみ)有(あ)る者(もの)を此(こ)の島(しま)に流(なが)せば、是(これ)をも取(と)りてくらふ。七万二千人(せんにん)までぞくらひける。其(そ)の罪(つみ)尽(つ)くし難(がた)し。仏、是(これ)を哀(あは)れみ給(たま)ひて、阿難(あなん)尊者(そんじや)を遣(つか)はし奉(たてまつ)りて、善知識(ぜんちしき)達(たち)、引導(いんだう)し給(たま)ひけるとかや。人蟒(まふ)、阿難(あなん)を七度見(み)奉(たてまつ)りし結縁(けちえん)に、七度(ど)天上(てんじやう)に生じて、仏果(ぶつくわ)をえたり。斯様(かやう)の縁(えん)を思(おも)ふには、彼(かれ)等(ら)が後世(ごせ)も、などや一蓮(ひとつはちす)に乗(の)らざらん。頼(たの)もしくぞ覚(おぼ)えし。扨(さて)、十郎(じふらう)が心(こころ)の猛(たけ)き事(こと)、P271四方(しはう)にも越(こ)えしか共(ども)、差(さ)しあたりたる恩愛(おんあい)の道、迷(まよ)ふ習(なら)ひ也(なり)。夏の虫、とんで火(ひ)に入(い)り、秋の鹿(しか)の、笛(ふゑ)に心(こころ)を乱(みだ)し、身(み)を徒(いたづ)らになす事(こと)、高(たか)きも、賎(いや)しきも、力(ちから)及(およ)ばぬは、此(こ)の道なり。八苦(く)の中(なか)にも、愛別離苦(あいべつりく)ととかれたり。内典(ないでん)・外典(げでん)にも、深(ふか)く戒(いまし)めたる。
@〔嵯峨(さが)の釈迦(しやか)作(つく)り奉(たてまつ)りし事(こと)〕S0607N102
五郎(ごらう)、待遠なる折節(をりふし)、十郎(じふらう)来(き)たりて、「此(こ)の者(もの)送(おく)りしとて、今まで時を移(うつ)しぬ。如何(いか)に不思議(ふしぎ)に思(おも)ひ給(たま)ひけん」と申(まう)しければ、「何(なに)かは苦(くる)しく候(さうら)ふべき。昔も、然(さ)る事(こと)の候(さうら)ふ。釈尊(しやくそん)、母(はは)の報恩(ほうおん)の為(ため)に、■利天(たうりてん)に上り給(たま)ふ。帝釈(たいしやく)聞(き)き給(たま)ひて、■首羯磨(びしゆかつま)と言(い)ふ天人を下(くだ)し給(たま)ふ。う天王(てんわう)喜(よろこ)びて、赤栴檀(しやくせんだん)にて、如来(によらい)を作(つく)り奉(たてまつ)り、何(いづ)れを移(うつ)したる姿(すがた)共(とも)見(み)えずぞ作(つく)りける。う天王(てんわう)、喜(よろこ)びの余(あま)りに、■首羯磨(びしゆかつま)を留(と)められければ、「我(われ)は是(これ)、善法(ぜんぽう)の大工(く)也(なり)。止(とど)まるべからず」とて、遂(つひ)に天に上りぬ。其(そ)の像(ざう)を玄弉(げんじやう)三蔵(ざう)盗(ぬす)み取(と)りて、此(こ)の国(くに)に渡(わた)し、多(おほ)くの衆生(しゆじやう)を済度(さいど)し給(たま)ふ。今の嵯峨(さが)の釈迦(しやか)、是(これ)也(なり)。ましてや、人間として、如何(いか)でか恩愛(おんあい)思(おも)はざるべき」。十郎(じふらう)聞(き)きて、「大(おほ)きに違(たが)ふ心(こころ)かな。う天王(てんわう)は、利益(りやく)方便(はうべん)の恋也(なり)。薄地凡夫(はくぢぼんぶ)、輪廻(りんゑ)の執着(しうぢやく)也(なり)。一(ひと)つにあらじ」と笑(わら)ひて、各(おのおの)富士野(ふじの)の出立(いでたち)をぞ急(いそ)ぎける。
P272曾我物語巻第七
@〔千草(ちくさ)の花見(み)し事(こと)〕S0701N103
「夫(そ)れ、迷(まよ)ひの前(まへ)の是非(ぜひ)は、是非(ぜひ)共(とも)に非(ひ)なり。夢(ゆめ)の内(うち)の有無(うむ)は、有無(うむ)共(とも)に無(む)也(なり)。然(さ)れば、我(われ)等(ら)が身(み)の有様(ありさま)、あれば有(あ)るが間也(なり)。夢(ゆめ)の浮(う)き世(よ)に、何(なに)をか現(うつつ)と定(さだ)むべき。然(さ)れば、刹那(せつな)の栄華(えいぐわ)にも、心(こころ)をのぶる理(ことわり)を思(おも)へば、無為(むゐ)の快楽(けらく)に同(おな)じ。いざや、最後(さいご)のながめして、しばしの思(おも)ひを慰(なぐさ)まん」とて、兄弟(きやうだい)共(とも)に庭(には)に下(お)りて、うゑ置(お)きし千草(ちくさ)のさかえたるを見(み)るにも、名残(なごり)ぞ惜(を)しかりける。「心(こころ)のあらば、草(くさ)も木も、如何(いか)で哀(あは)れを知(し)らざるべき」と、彼方(かなた)此方(こなた)にやすらひけり。是(これ)によそへ、古(ふる)き歌(うた)を見(み)るに、
故郷(ふるさと)の花のもの言(い)ふ世(よ)なりせば如何(いか)に昔(むかし)の事(こと)を問(と)はまし W020
今更(いまさら)思(おも)ひ出(い)でられて、情(なさけ)を残(のこ)し、哀(あは)れを掛(か)けずと言(い)ふ事(こと)無(な)し。五郎(ごらう)きいて、「草木(そうもく)も、心(こころ)無(な)しとは申(まう)すべからず。釈迦如来(しやかによらい)、涅槃(ねはん)に入(い)らせ給(たま)ひし時(とき)は、心(こころ)無(な)き植木(うゑき)の枝葉(えだは)P273に至(いた)るまでも、歎(なげ)きの色(いろ)を現(あらは)しけり。我(われ)等(ら)が別(わか)れを惜(を)しみ候(さうら)ふやらん。如何(いか)でか知(し)り候(さうら)ふべき」とて、草(くさ)を分(わ)けければ、卯(う)の花(はな)のつぼみたる、一房(ふさ)落(お)ちたりけり。十郎(じふらう)、是(これ)を取(と)り上(あ)げて、「如何(いか)に、見(み)給(たま)へ、五郎(ごらう)殿(どの)。老少(らうせう)不定(ふぢやう)の習(なら)ひ、今(いま)に始(はじ)めぬ事(こと)なれ共(ども)、おいたる母(はは)は止(とど)まり、若(わか)き我(われ)等(ら)が先(さき)立(だ)ち申(まう)さん事(こと)、是(これ)にひとしき物(もの)を。開(ひら)きたるは止(とど)まり、つぼみたるはちりたるとや。名(な)にしおふ忘草(わすれぐさ)ならば、名残(なごり)を忘(わす)れてやちりつらん。其(そ)れは、昔(むかし)、住吉(すみよし)に、諸神(しよじん)影向(やうがう)なりける事(こと)有(あ)り。御(おん)帰(かへ)りを止(とど)め奉(たてまつ)らんとて、此(こ)の花をうゑて、忘草(わすれぐさ)と名(な)づけ給(たま)ひけるなり。歌(うた)にも、
紅葉(もみ)ぢては花さく色(いろ)を忘草(わすれぐさ)一(ひと)つ秋(あき)ながら二まちの頃(ころ) W021
其(そ)の忘(わす)れ草(ぐさ)は、紫苑(しおん)とこそ聞(き)きて候(さうら)へ」とて、猶(なほ)草(くさ)むらに分(わ)け入(い)りければ、ふかみ草(ぐさ)のさかりさきたるを見(み)て、「卯(う)の花は、つぼみてだにもちるに、此(こ)の花の思(おも)ふ事(こと)無(な)げにさかりなるや。如何(いか)にさくとも、二十日草(ぐさ)、さかりも日数(ひかず)の有(あ)るなれば、花の命も限(かぎ)り有(あ)り。哀(あは)れ、身(み)に知(し)る心(こころ)かな」と涙ぐみければ、五郎(ごらう)聞(き)きて、「此(こ)の草(くさ)の事(こと)は、花開(ひら)き落(お)ちて同(おな)じく、一城(じやう)の人たぶらかすが如(ごと)しと見(み)えたり。是(これ)は、楽府(がふ)の言葉(ことば)なり。又(また)、歌(うた)にも、
名(な)ばかりはさかでも色(いろ)のふかみ草(ぐさ)花(はな)さくならば如何(いか)で見(み)てまし W022
P274と口(くち)ずさみければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「此(こ)の歌(うた)は、未(いま)ださかざる時(とき)も、色(いろ)深(ふか)き草(くさ)とこそ詠(よ)みたれ。さかりの花にも、心(こころ)や違(たが)ふべからん」とたはぶれけるにも、哀(あは)れ残(のこ)さぬ言(こと)の葉(は)は無(な)かりけり。無慙(むざん)なりし志(こころざし)共(ども)なり。「さても、我(われ)等(ら)が思(おも)ひ立(た)つ事(こと)、母(はは)に露(つゆ)程(ほど)も知(し)らせ奉(たてまつ)るべきか。はからひ候(さうら)へ」と言(い)ひければ、時致(ときむね)聞(き)き、「思(おも)ひもよらぬ御事(おんこと)なり。是(これ)程(ほど)思(おも)ひ定(さだ)めざる前(さき)は知(し)らず、今(いま)は如何(いか)でか変(へん)じ候(さうら)ふべき。其(そ)の上(うへ)、人の子(こ)が謀叛(むほん)起(お)こして出(い)で候(さうら)はんに、其(そ)の親(おや)聞(き)きて、急(いそ)ぎしにて、もの思(おも)はせよとて、喜(よろこ)ぶ母(はは)や候(さうら)ふべき。某(それがし)は、只(ただ)御形見(かたみ)を賜(たま)はりて、最後(さいご)まで身(み)に添(そ)へ、此方(こなた)よりも又(また)参(まゐ)らせて、罷(まか)り出(い)でんとこそ存(ぞん)じ候(さうら)へ」。十郎(じふらう)聞(き)きて、「誠(まこと)に此(こ)の儀(ぎ)然(しか)るべし。然(さ)らば、其(そ)のついでに、御分(ごぶん)が勘当(かんだう)をも申(まう)し許(ゆる)して見(み)ん」とて、母(はは)の方(かた)へぞ出(い)でたりける。 十郎(じふらう)、御前(おんまへ)に畏(かしこ)まり、扇(あふぎ)笏(しやく)に取(と)り、申(まう)しけるは、「奉公(ほうこう)を致(いた)し、御恩(ごおん)蒙(かうぶ)るべき身(み)にては候(さうら)はね共(ども)、末代(まつだい)の物語(ものがたり)に、富士野(ふじの)御狩(みかり)の御供(おんとも)に思(おも)ひ立(た)ちて候(さうら)ふ。恐(おそ)れ入(い)りたる申事(まうしごと)にて候(さうら)へ共(ども)、御小袖(こそで)を一(ひと)つかし賜(たま)はり候(さうら)へ」と申(まう)しければ、母(はは)聞(き)きて、「「君(きみ)臣(しん)を使(つか)ふに、礼(れい)を以(もつ)てし、臣(しん)君(きみ)に使(つか)ふるに、忠(ちゆう)を以(もつ)てす」と、論語(ろんご)の内(うち)に候(さぶら)ふぞや。何(なに)の忠(ちゆう)に依(よ)つてか、御感(ぎよかん)も有(あ)るべき。御恩(ごおん)無(な)くは、無益(むやく)なり。哀(あは)れ、此(こ)の度(たび)の御供(おんとも)は、思(おも)ひ止(とど)まり給(たま)へかし。如何(いか)にと言(い)ふに、伊東(いとう)殿(どの)父(ちち)、奥野(おくの)の狩場(かりば)より、P275病(やまひ)づきて帰(かへ)り、幾程(いくほど)無(な)くて、死(し)に給(たま)ひぬ。御分(ごぶん)の父(ちち)、河津殿(かわづどの)、狩場(かりば)にて打(う)たれ給(たま)ひ、斯(か)かる事(こと)共(ども)を思(おも)ひ続(つづ)くるに、狩場(かりば)程(ほど)憂(う)き所無(な)し。しかも、謀叛(むほん)の者(もの)の末(すゑ)、上(うへ)にも御(おん)許(ゆる)し無(な)きぞかし。又(また)、馬鞍(むまくら)見(み)苦(ぐる)しくて、物(もの)を見(み)れば、帰(かへ)りて人にみらるる物(もの)を。思(おも)ひ止(とど)まりて、親(した)しき人々(ひとびと)の方(かた)にて慰(なぐさ)み給(たま)へ。斯様(かやう)に申(まう)せば、小袖(こそで)を惜(を)しむに似(に)たり。よくは無(な)けれ共(ども)、紋柄(もんがら)面白(おもしろ)ければ」とて、秋の野(の)にすりつくしぬひたる練貫(ねりぬき)の小袖(こそで)一(ひと)つ取(と)り出(い)だしてたびにけり。畏(かしこ)まつて、障子(しやうじ)の内(うち)にてきかへ、我(わ)が小袖(こそで)をば打(う)ち置(お)きて出(い)でぬ。なき後(あと)の形見(かたみ)にとぞ思(おも)ひ置(お)きたりける。五郎(ごらう)は不孝(ふけう)の身(み)にて、兄(あに)が方(かた)に、空(むな)しく泣(な)き居(ゐ)たり。よくよく物(もの)を案(あん)ずるに、母(はは)の不幸(ふけう)を許(ゆる)されずして、死(し)なん事(こと)こそ無念(むねん)なれ。推参(すいさん)して見(み)ばや。いきたる程(ほど)こそ仰(おほ)せらるるとも、死(し)して後(のち)、くやみ給(たま)はん事(こと)、疑(うたが)ひ無(な)し。思(おも)ひ切(き)り申(まう)して見(み)んとて、母(はは)の方へは出(い)でたれども、さすがに内(うち)へは入(い)りえず、広縁(ひろえん)に畏(かしこ)まり、障子(しやうじ)を隔(へだ)てて、「そも、誰(たれ)が御子(こ)にて候(さうら)はん、時致(ときむね)にも、召(め)しかへの御小袖(こそで)一(ひと)つ賜(たま)はりて、狩場(かりば)のはれにき候(さうら)はん」。母(はは)聞(き)きて、「誰(た)そや、来(き)たりて小袖(こそで)一(ひと)つと言(い)ふべき子(こ)こそ持(も)たね。十郎(じふらう)は、只今(ただいま)取(と)りて出(い)でぬ。京(きやう)の小二郎(こじらう)は、奉公(ほうこう)の者(もの)なり。二宮(にのみや)の女房(にようばう)、又(また)斯様(かやう)に言(い)ふべからず。禅師(ぜんじ)法師(ほつし)とて、乳(ち)の内(うち)より捨(す)てし子(こ)は、叔父(をぢ)養育(やういく)して、越後(ゑちご)に有(あ)り。又(また)、箱王(はこわう)とて、わろ者(もの)の有(あ)りしは、勘当(かんだう)して、行(ゆ)く末(すゑ)知(し)らず。P276是(これ)は只(ただ)、武蔵(むさし)・相模(さがみ)の若殿(わかとの)原(ばら)の貧(ひん)なる童(わらは)を笑(わら)はんとて、かく宣(のたま)ふと覚(おぼ)えたり。しかも、留守居(るすゐ)の体(てい)見(み)苦(ぐる)し。はや門(かど)の外(ほか)へ出(い)で候(さうら)へ」と、殊(こと)の外(ほか)にぞ言(い)ひける。時致(ときむね)思(おも)ひ切(き)りたる事(こと)なれば、「其(そ)の箱王(はこわう)が参(まゐ)りて候(さうら)ふ」「其(そ)れは、誰(た)が許(ゆる)し置(お)きたるぞ。女親(おんなおや)とて、賎(いや)しみ候(さぶら)ふか、然様(さやう)には候(さうら)ふまじ。とても、斯様(かやう)にあなづらるる身(み)、七代(だい)まで不孝(ふけう)するぞ。対面(たいめん)思(おも)ひもよらず」とぞ言(い)ひける。五郎(ごらう)は、許(ゆる)さるる事(こと)は適(かな)はで、結句(けつく)、後(のち)の世(よ)までと、深(ふか)く勘当(かんだう)せられて、前後(ぜんご)を失(うしな)ひ、物思(おも)ひはててぞ居(ゐ)たりけり。やや有(あ)りて、小声(こごゑ)に成(な)りて申(まう)しけるは、「斯様(かやう)の身(み)に罷(まか)り成(な)りて、重(かさ)ねて申(まう)し入(い)るべき事(こと)、上(かみ)までも恐(おそ)れにて候(さうら)へば、女房(にようばう)達(たち)、心(こころ)有(あ)る人あらば、聞(き)こし召(め)せ。人の親(おや)の習(なら)ひ、盗(ぬす)みする子(こ)はにくからで、縄(なは)作(つく)る者(もの)を恨(うら)むるは、常(つね)の親(おや)の習(なら)ひにて候(さうら)ふぞや」。母(はは)聞(き)きて、「然様(さやう)ならん者(もの)を、わ殿(との)が母(はは)にして、童(わらは)が様(やう)なる者(もの)をば、親(おや)とな思(おも)ひそとよ。人の言葉(ことば)を重(おも)くせず、言葉(ことば)を返(かへ)す、憂(う)き子(こ)かとよ」「御(おん)言葉(ことば)を重(おも)くして、御返事(ごへんじ)を申(まう)さじとてこそ、御前(ごぜん)の人々(ひとびと)には申(まう)し候(さうら)へ」「然様(さやう)に申(まう)せば、返事(かへりごと)にては無(な)きか。一念(いちねん)の瞋恚(しんい)に、倶胝劫(くていこう)のせんこをやき、刹那(せつな)の怨害(おんがい)には、無量(むりやう)の苦報(くほう)を招(まね)く。聞(き)けば、いよいよ腹(はら)ぞ立(た)つ。其(そ)の座敷(ざしき)立(た)ちて」と宣(のたま)ふ。「恐(おそ)れながら、普門品(ふもんぼん)をば遊(あそ)ばし候(さうら)はずや」「如何(いか)なる観音(くわんおん)の誓(ちか)ひにも、背(そむ)く者(もの)許(ゆる)し候(さうら)へとはとき給(たま)はぬぞ」。P277 「聞(き)こし召(め)され候(さうら)へ。昔(むかし)、天竺(てんぢく)に、しやうめつ婆羅門(ばらもん)と言(い)ふ人有(あ)り。物(もの)の命(いのち)を千日(せんにち)千殺(ころ)して、悪王(あくわう)に生(う)まれんと言(い)ふ願(ぐわん)を起(お)こし、はや九百九十日に、九百九十九の生物(いきもの)を殺(ころ)し、千日(せんにち)に満(まん)ずる日、西山(せいざん)に上(のぼ)りて見(み)れ共(ども)無(な)し。玉江(ぎよつかう)に下(くだ)り、船(ふね)に乗(の)り、海中(かいちゆう)に出(い)でて、比翼(ひよく)の亀(かめ)を一(ひと)つ取(と)りて、害(がい)せんとす。母(はは)、是(これ)を悲(かな)しみて、渚(なぎさ)に出(い)でて見(み)れば、波風(なみかぜ)高(たか)くして、雲(くも)の雷電(らいでん)おびたたしく、其(そ)の中(なか)に、婆羅門(ばらもん)、亀を害(がい)せんとす。母(はは)是(これ)を見(み)て、「其(そ)の亀(かめ)はなせ。汝(なんぢ)が父(ちち)の命日ぞ」。婆羅門(ばらもん)聞(き)きて、「忌日(きにち)ならば、沙門(しやもん)をこそ供養(くやう)せめ」と言(い)ひて、抑(おさ)へて殺(ころ)さんとす。亀(かめ)涙(なみだ)を流(なが)して、我(わ)が八十年後(ご)、我不堕地獄(がふだぢごく)、大慈(だいじ)大悲故(だいひこ)、必生安楽国(ひつしやうあんらくこく)」とぞ鳴(な)きける。母(はは)、是(これ)を聞(き)き、「汝(なんぢ)、亀(かめ)の言葉(ことば)聞(き)き知(し)れりや」「知(し)らず」と答(こた)ふ。「亀(かめ)は、罪(つみ)深(ふか)き物(もの)にて、万劫(まんごふ)の罪障(ざいしやう)をへて、成仏(じやうぶつ)すべきに、今(いま)剣(つるぎ)に従(したが)はば、又劫(こふ)をへ返(かへ)すべき悲(かな)しさよと也(なり)。願(ねが)はくは、其(そ)の亀(かめ)をはなして、自(みづか)らを殺(ころ)し候(さうら)へ」と言(い)ふ。「誠(まこと)に亀(かめ)の命に代(か)はり給(たま)ふべきにや」と言(い)ひもはてず、亀(かめ)を海上(かいしやう)に投(な)げ入(い)れ、即(すなは)ち剣(つるぎ)を抜(ぬ)き、母(はは)に向(む)かふ時(とき)、天神地神も、是(これ)を捨(す)て給(たま)へば、大地(だいぢ)さけわれて、奈落(ならく)に沈(しづ)む。母(はは)を殺(ころ)さんとする子(こ)の命(いのち)を悲(かな)しみて、心(こころ)ならずに母(はは)走(はし)り向(む)かひ、婆羅門(ばらもん)が髻(もとどり)を取(と)り給(たま)へば、即(すなは)ち頭(かしら)はぬけて、母(はは)の手(て)に止(とど)まり、其(そ)の身(み)は無間(むけん)に沈(しづ)みけり。され共(ども)、亀(かめ)をはなせし力(ちから)に依(よ)りて、仏果(ぶつくわ)をえ、法華経(ほけきやう)の普門品(ふもんぼん)を、婆羅門身(ばらもんしん)P278ととかれたる。斯様(かやう)の子(こ)をだにも、親(おや)は哀(あは)れむ習(なら)ひにて候(さうら)ふ物(もの)を」。母(はは)聞(き)きて、「や、殿(との)、其(そ)れも、母(はは)が言(い)ふ事(こと)を聞(き)きて、亀(かめ)をはなちてこそ、成仏(じやうぶつ)はし給(たま)へ。汝(なんぢ)、何(なに)と無(な)く我(わ)らはが教(をし)へを聞(き)かざるぞ」「わろき子(こ)を思(おも)ふこそ、誠(まこと)の親(おや)の御慈悲(じひ)にては候(さうら)へ。又(また)、母(はは)の哀(あは)れみの深(ふか)きには、事(こと)長(なが)く候(さうら)へ共(ども)、或(あ)る国(くに)の王(わう)、一人の太子(たいし)の無(な)き事(こと)を歎(なげ)き、天に祈(いの)りし感応(かんおう)にや、后(きさき)懐妊(くわいにん)し給(たま)ふ。国王(こくわう)の喜(よろこ)びなのめならず。され共(ども)、三年まで生(う)まれ給(たま)はず。公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有(あ)りて、博士(はかせ)を召(め)して尋(たづ)ね給(たま)ふ。勘文(かんもん)に曰(いは)く、「御位(くらゐ)は転輪(てんりん)聖王(じやうわう)たるべし。但(ただ)し、御産(おさん)はたひらかなるまじ」と申(まう)す。后(きさき)聞(き)き給(たま)ひて、「賢王(けんわう)の太子(たいし)、如何(いか)で空(むな)しくすべき。自(みづか)らが腹(はら)をさき破(やぶ)りて、王子(わうじ)をつつがなく取(と)り出(い)だすべし」と宣(のたま)ふ。大王(だいわう)、大(おほ)きに歎(なげ)きて、許(ゆる)し給(たま)はず。后(きさき)、「然(さ)らば、干死(ひじに)にせん」とて、食事(しよくじ)を止(とど)め給(たま)ひしかば、力(ちから)無(な)く、大臣(だいじん)に仰(おほ)せ付(つ)けて、御腹(はら)をさかれにけり。其(そ)の半(なか)ばに、后(きさき)仰(おほ)せられけるは、「太子(たいし)の誕生(たんじやう)は如何(いか)に」と問(と)はせ給(たま)ふ。「御(おん)つつがなし」と申(まう)せば、喜(よろこ)び給(たま)ふ色(いろ)見(み)えて、打(う)ちゑみたる儘(まま)、御年(とし)十九にて、はかなくなり給(たま)ひぬ。さて、此(こ)の太子、御位(くらゐ)につき給(たま)ひしが、母(はは)の御志(おんこころざし)を悲(かな)しみ、御菩提(ぼだい)の為(ため)、三年胎内(たいない)にして苦(くる)しめ奉(たてまつ)りし日数(ひかず)千日(せんにち)にあてて、千間(せんげん)に御堂(みだう)をたて給(たま)ひけり。今(いま)の慈恩寺(じおんじ)是(これ)也(なり)。日本(につぽん)には、西(にし)の寺(てら)なり。然(さ)ればにや、后(きさき)即(すなは)ち成仏(じやうぶつ)し給(たま)ふ時(とき)に、こん蓮台(れんだい)P279を傾(かたぶ)け、来迎(らいかう)し給(たま)ふ。其(そ)のしこんになぞらへて、藤(ふぢ)を多(おほ)くうゑられたり。さてこそ、藤(ふぢ)の名所(めいしよ)には入(い)りたりけれ。母親(ははおや)の慈悲(じひ)は、斯様(かやう)にぞ候(さうら)へ」。母(はは)聞(き)きて、「おいたる自(みづか)ら、あはぬ教(をし)へのむつかくして、腹(はら)をもさきて、死(し)に失(う)せよと。汝(なんぢ)も、母(はは)と見(み)ず、童(わらは)も、子(こ)とも思(おも)はぬまで」とて、障子(しやうじ)あららかにたて給(たま)ふ。只今(ただいま)はてずは、永劫(えいごふ)をふる共(とも)、適(かな)ふまじければ、五郎(ごらう)打(う)ちふてて、
@〔斑足王(はんぞくわう)が事(こと)〕S0702N106
「仁王経(にんわうぎやう)の文(もん)をば御覧(ごらん)じ候(さうら)はずや。昔(むかし)、天羅(てんら)国に、王(わう)一人坐(ま)します。太子(たいし)有(あ)り、名(な)をば斑足王(はんぞくわう)と言(い)ふ。外道羅陀(げだうらだ)の教訓(けうくん)に付(つ)きて、千人(せんにん)の王(わう)の首(くび)を取(と)り、塚(つか)の神(かみ)にまつり、其(そ)の位(くらゐ)を奪(うば)ひ、大王(だいわう)にならんとて、数万(すまん)の力士(りきじ)・鬼王(おにわう)を集(あつ)めて、東西(とうざい)南北(なんぼく)、遠国(をんごく)近国(きんごく)の王城(わうじやう)に、押(お)し寄(よ)せ押(お)し寄(よ)せ搦(から)め取(と)り、既(すで)に九百九十九人の王(わう)を取(と)り、今(いま)一人たらで、「如何(いかが)せん」と言(い)ふ。或(あ)る外道(げだう)教(をし)へて曰(いは)く、「是(これ)より北(きた)へ一万里行(ゆ)きて、王(わう)有(あ)り、名(な)を普明王(ふみやうわう)と言(い)ふ。是(これ)を取(と)りて、一千人(せんにん)にたすべし」と言(い)ふ。やがて、力士(りきじ)を差(さ)し遣(つか)はし、彼(か)の王(わう)を取(と)りぬ。今は、千人(せんにん)にみちぬれば、一度(いちど)に首(くび)を切(き)らんとす。此処(ここ)に、普明王(ふみやうわう)、合掌(がつしやう)して曰(いは)く、「願(ねが)はくは、我(われ)に一日の暇(いとま)をえさせよ。古里(ふるさと)P280帰(かへ)り、三宝(さんぼう)を頂戴(ちやうだい)し、沙門(しやもん)を供養(くやう)して、闇路(やみぢ)の頼(たよ)りにせん」と言(い)ふ。安(やす)き間の事(こと)とて、一日の暇(いとま)を取(と)らす。其(そ)の時(とき)、王宮(わうくう)に帰(かへ)り、百人の僧(そう)を請(しやう)じて、過去(くわこ)七仏の法(ほふ)より、般若波羅蜜(はんにやはらみつ)を講読(かうどく)せしかば、其(そ)の第一(だいいち)の僧(そう)、普明王(ふみやうわう)の為(ため)に偈(げ)をとく。「劫焼終訖(ごふせうしゆこつ)、乾坤洞然(けんこんとうねん)、須弥(しゆみ)巨海(こかい)、都為灰煬(といけやう)」と述(の)べ給(たま)ふ。普明王(ふみやうわう)、此(こ)の文(もん)を聞(き)きて、四諦(たひ)十二(じふに)因縁(いんえん)をえたり。ほんけむくうを悟(さと)る。然(さ)ればにや、斑足王(はんぞくわう)、諸法(しよほふ)皆空(みなくう)の道理(だうり)を聴聞(ちやうもん)して、忽(たちま)ちに悪心(あくしん)を翻(ひるがへ)して、取(と)りこむる千人(せんにん)の王(わう)に曰(いは)く、「面々(めんめん)の科(とが)にはあらず。我(われ)外道(げだう)にすすめられ、悪心(あくしん)をおこす。不思議(ふしぎ)の至(いた)りなり。今(いま)は、助(たす)け奉(たてまつ)るべし。急(いそ)ぎ本国(ほんごく)に帰(かへ)り、般若(はんにや)を修行(しゆぎやう)して、仏道(ぶつだう)をなし給(たま)へ」とて、即(すなは)ち、道心(だうしん)おこし、無生(むしやう)法忍(ほふにん)をえたりと見(み)えたり。是(これ)も、普明王(ふみやうわう)を許(ゆる)してこそ、共(とも)に仏果(ぶつくわ)をえ給(たま)ひしか」。母(はは)聞(き)きて、「其(そ)の如(ごと)く、仏果(ぶつくわ)を証(しよう)して、多(おほ)くの人を助(たす)くべき。汝(なんぢ)、などや法師(ほふし)に成(な)りて、童(わらは)をばすくはぬぞ。誠(まこと)や、「重(おも)きに従(したが)つて、道(みち)遠(とほ)ければ、やすむ事(こと)、地(ち)を選(えら)ばず。家貧(ひん)にして、親(おや)おいたる時は、官(くわん)を選(えら)ばずして、仕(つか)へよ」とこそ、古(ふる)き言葉(ことば)にも見(み)えたれ。何(なに)とて、童(わらは)が言(い)ふ事(こと)を聞(き)かざるぞ」。五郎(ごらう)も、思(おも)ひ切(き)りたる事(こと)なれば、居(ゐ)なほり畏(かしこ)まつて、「只(ただ)御(おん)許(ゆる)し候(さうら)へ」とのみぞ申(まう)し居(ゐ)たりけれ。十郎(じふらう)は、我(わ)が所(ところ)にて、五郎(ごらう)をまて共(ども)、見(み)えざりけり。余(あま)りに遅(おそ)くて、又(また)母(はは)の方(かた)へ行(ゆ)きて見(み)れば、五郎(ごらう)、内(うち)までは入(い)り得(え)ず、P281広縁(ひろえん)に泣(な)きしをれて居(ゐ)たり。余(あま)りに無慙(むざん)に覚(おぼ)えて、障子(しやうじ)を引(ひ)きあけ、畏(かしこ)まつて、五郎(ごらう)が申(まう)す理(ことわり)、つくづくと聞(き)き居(ゐ)たり。やや有(あ)りて、「某(それがし)、兄弟(きやうだい)数多(あまた)候(さうら)へ共(ども)、身(み)の貧(ひん)なるに依(よ)りて、所々(ところどころ)の住(す)まひ仕(つかまつ)る。只(ただ)、あの殿(との)一人こそ、つれ添(そ)ひては候(さうら)へ。祐成(すけなり)を不便(ふびん)に思(おぼ)し召(め)され候(さうら)はば、御慈悲(じひ)を以(もつ)て、御(おん)許(ゆる)し候(さうら)へかし。御子(こ)とても、御身(おんみ)に添(そ)ふ者(もの)、我(われ)等(ら)二人ならでは候(さうら)はぬぞかし」。母(はは)聞(き)きて、「意(こころ)にあふ時(とき)は、胡越(こゑつ)もらんていたり。あはざる時(とき)は、骨肉(こつにく)もてきしやうたり。智者(ちしや)の敵(てき)とは成(な)るとも、愚者(ぐしや)の友(とも)とは成(な)るべからず。位(くらゐ)の高(たか)からぬを歎(なげ)かざれ、知(ち)のひろからぬをば歎(なげ)くべし」とは、漢書(かんじよ)の言葉(ことば)ならずや」。十郎(じふらう)承(うけたまは)りて、「其(そ)れは、然(さ)る事(こと)にて候(さうら)へ共(ども)、観経(くわんぎやう)の文(もん)を見(み)るに、「諸仏(しよぶつ)念衆生(ねんしゆじやう)、衆生(しゆじやう)不念(ふねん)仏、父母常念子(ぶもじやうねんし)、子不念(しふねん)父母」ととかれて候(さうら)ふ。此(こ)の文(もん)を釈(しやく)すれば、「仏は衆生(しゆじやう)を思(おぼ)し召(め)さるれども、衆生(しゆじやう)は、仏(ほとけ)を思(おも)はず」とこそ見(み)えて候(さうら)へ。親(おや)として、子(こ)を思(おも)はぬは無(な)き物(もの)をや」。母(はは)聞(き)きて、「汝(なんぢ)等(ら)は、親(おや)のよきを申(まう)しあつむるかや。出(い)で又(また)、自(みづか)ら、子(こ)の孝行(かうかう)なる事(こと)を言(い)ひて聞(き)かせん。孟宗(まうそう)は、雪(ゆき)の内(うち)に筍(たかんな)をえ、王祥(しやう)は、氷(こほり)の上に魚(うを)をえ、くわけんは、眼(まなこ)を抜(ぬ)き、おんせうは、耳(みみ)をやき、ちそくは、足(あし)を切(き)る、せんめむは、舌(した)を抜(ぬ)き、くわそくは、歯(は)を施(ほどこ)し、くはふめいは、身(み)をあたへ、めうしき、子(こ)を殺(ころ)す。これ皆(みな)、孝行(かうかう)の為(ため)ならずや。「扁鵲(へんじやく)も、鍼薬(しんやく)をしやうぜざる病(やまひ)を治(ち)せず。けんしやう王(わう)P282も、善言(ぜんげん)の聞(き)かざる君(きみ)をば用(もち)ひず」とこそ申(まう)せ。人の言葉(ことば)を聞(き)かざる者(もの)、何(なに)の用(よう)にか立(た)つべき。其(そ)の上(うへ)、不孝(ふけう)の者(もの)をば、同(おな)じ道をも行(ゆ)くべからず。急(いそ)ぎ出(い)でよ」と言(い)ひける。祐成(すけなり)、重(かさ)ねて申(まう)しけるは、「一旦(いつたん)の御心(おんこころ)を背(そむ)き、法師(ほふし)にならざるは、不孝(ふけう)ににて候(さうら)へ共(ども)、父母に志(こころざし)の深(ふか)き事(こと)、法師(ほふし)によるべからず、僧俗(そうぞく)の形(かたち)にはよるべからず。時致(ときむね)、箱根(はこね)に候(さうら)ひし時(とき)、法華経(ほけきやう)を一部(ぶ)読(よ)み覚(おぼ)え、父(ちち)の御(おん)為(ため)に、はや二百六十部(ぶ)読誦(どくじゆ)す、毎日(まいにち)、六万返(ろくまんべん)の念仏(ねんぶつ)怠(おこた)らずし、父(ちち)に回向(ゑかう)申(まう)すと承(うけたまは)り候(さうら)へば、大地(だいぢ)を頂(いただ)き給(たま)ふ堅牢地神(けんろうぢじん)も、地(ち)の重(おも)き事(こと)は無(な)し。不孝(ふかう)の者(もの)の踏(ふ)む跡(あと)、骨髄(こつずい)に通(とほ)りて、悲(かな)しみ給(たま)ふ也(なり)。一(ひと)つは、彼(か)の御跡(あと)を弔(とぶら)ひ、一(ひと)つは、御慈悲(じひ)を以(もつ)て、祐成(すけなり)に御(おん)許(ゆる)し候(さうら)へかし。父(ちち)に幼少(えうせう)よりおくれ、親(した)しき者(もの)は、身貧(ひん)に候(さうら)へば、目(め)も懸(か)けず、母(はは)ならずして、誰(たれ)か哀(あは)れみ給(たま)ふべきに、斯様(かやう)に御心(おんこころ)強(つよ)く坐(ま)しませば、立(た)ち寄(よ)る陰(かげ)も無(な)き儘(まま)に、乞食(こつじき)とならん事(こと)、不便(ふびん)に覚(おぼ)え候(さうら)ふぞや」。哀(あは)れ、実(げ)に今(いま)を限(かぎ)りと申(まう)すならば、如何(いかが)安(やす)かるべきを、申(まう)す事(こと)ならねば、忍(しの)びの涙(なみだ)に目(め)もくれて、暫(しばら)くは物(もの)も言(い)はざりけり。猶(なほ)も、「許(ゆる)す」と宣(のたま)はねば、十郎(じふらう)、怒(いか)りて見(み)ばやと思(おも)ひて、持(も)ちたる扇(あふぎ)をさつと開(ひら)き、大(おほ)きに目(め)を見(み)出(い)だし、「とてもかくても、いきがひ無(な)き冠者(くわんじや)、有(あ)りても何(なに)にかあふべき。御前(ごぜん)に召(め)し出(い)だし、細首(ほそくび)打(う)ち落(お)として、見参(げんざん)に入(い)れん」と、大声(おほごゑ)を捧(ささ)げ、座敷(ざしき)を立(た)つ。女房(にようばう)達(たち)驚(おどろ)き、「いかP283にや」とて、取(と)り付(つ)く袖(そで)に引(ひ)かれて、板敷(いたじき)あらく踏(ふ)みならし、怒(いか)りければ、母(はは)も驚(おどろ)き、すがり付(つ)き、「物(もの)に狂(くる)ふか、や、殿(との)。身貧(ひん)にして、思(おも)ふ事(こと)適(かな)はねばとて、現在(げんざい)の弟(おとと)の首(くび)を切(き)る事(こと)や有(あ)る。其(そ)れ程(ほど)までは思(おも)はぬぞ。しばし、や、殿」とて、取(と)り付(つ)き給(たま)ふ。事(こと)こそよけれと思(おも)ひければ、「助(たす)け候(さうら)はん。御(おん)許(ゆる)し候(さうら)へ」と言(い)ふ。母(はは)、「然(さ)らば、許(ゆる)す。止(とど)まり候(さうら)へ」と宣(のたま)へば、其(そ)の時(とき)、十郎(じふらう)、怒(いか)りを止(とど)めて、声(こゑ)をやはらかにして、座敷(ざしき)になほり畏(かしこ)まり居(ゐ)たりけり。然(さ)れども、忍(しの)びの涙(なみだ)のすすみければ、とかく物(もの)をも言(い)はざりけり。五郎(ごらう)も、恨(うら)みの涙(なみだ)の引(ひ)きかへて、嬉(うれ)しさの忍(しの)びの涙しきりにして、前後を更(さら)にわきまへず。
@〔勘当(かんだう)許(ゆる)す事(こと)〕S0703N107
やや有(あ)りて、十郎(じふらう)、座敷(ざしき)を立(た)ち、「御(おん)許(ゆる)し有(あ)るぞ、時致(ときむね)。此方(こなた)へ参(まゐ)り候(さうら)へ」。五郎(ごらう)は、しをるる袖(そで)に忍(しの)び兼(か)ね、しばしは出(い)でこそかねたりけれ。暫(しばら)く有(あ)りて、時致(ときむね)、袖(そで)打(う)ち払(はら)ひ、顔(かほ)押(お)しのごひ、出(い)でければ、十郎(じふらう)も嬉(うれ)しく、哀(あは)れにて、打(う)ち傾(かたぶ)き居(ゐ)たり。兄弟(きやうだい)共(とも)に、物(もの)をも言(い)はで、さめざめと泣(な)き居(ゐ)たり。母(はは)、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)て、「実(げ)にや、親子(おやこ)の中(なか)程(ほど)、哀(あは)れなる事(こと)無(な)し。年(とし)おい、身貧(ひん)にして、人数(かず)ならぬ童(わらは)P284が言葉(ことば)一(ひと)つを重(おも)くして、泣(な)きしをるる無慙(むざん)さよ。かたはなる子(こ)をだにも、親(おや)は悲(かな)しむ習(なら)ひぞかし。如何(いか)でにくかるべき。只(ただ)よかれと思(おも)ふ故(ゆゑ)なり」と言(い)ひもわかで、母(はは)も涙(なみだ)を流(なが)しけり。其(そ)の後(のち)、兄弟(きやうだい)の者(もの)共(ども)、畏(かしこ)まり居(ゐ)たるを、母(はは)、つくづくと守(まも)り、いつしかの心地(ここち)して、「汝(なんぢ)、自(みづか)らを愚(おろ)かにや思(おも)ひけん。十郎が有(あ)り所(どころ)をみするに、五郎(ごらう)有(あ)りと言(い)ふ時は、心(こころ)安(やす)し。無(な)しと聞(き)けば、心(こころ)許(もと)無(な)くて、童(わらは)も立(た)ちて見(み)しぞとよ。此(こ)の三年が程(ほど)、打(う)ち添(そ)はで、恨(うら)めしく思(おも)はれ、つくづく見(み)るに、直垂(ひたたれ)の衣紋(えもん)、袴(はかま)の着際(きぎは)、烏帽子(えぼし)の座敷(ざしき)に至(いた)るまで、父(ちち)の思(おも)ひ出(い)だされ、昔(むかし)に袖ぞしをれける。さても、五郎(ごらう)は、箱根(はこね)にても聞(き)きつらん。十郎(じふらう)は、如何(いか)にして、経文(きやうもん)をば知(し)りけるぞや」。祐成(すけなり)承(うけたまは)りて、「馬(うま)やせて、毛(け)長(なが)く、いばゆるに力(ちから)無(な)し。人貧(ひん)にして、智(ち)短(みじか)く、言葉(ことば)賎(いや)し。何に依(よ)りてか、たふとくも候(さうら)ふべき」。女房(にようばう)達(たち)聞(き)きて、「勧学院(くわんがくゐん)の雀(すずめ)とかや」と申(まう)しければ、打(う)ちゑみて、「それそれ、酒(さけ)をのませよ」と有(あ)りければ、種々(しゆじゆ)の肴(さかな)、盃(さかづき)取(と)り添(そ)へて、二人の前にぞ置(お)きたりける。母(はは)取(と)り寄(よ)せ、のみ給(たま)ひて、其(そ)の盃(さかづき)、十郎(じふらう)のむ。其(そ)の盃(さかづき)を、五郎(ごらう)三度(さんど)ほして置(お)きければ、其(そ)の盃、母(はは)取(と)り上(あ)げて、「此(こ)の三年(さんねん)、不孝(ふけう)の事(こと)、只今(ただいま)許(ゆる)したる証(しるし)に、此(こ)の盃(さかづき)、思(おも)ひどりにせん。但(ただ)し、親(おや)と師匠(ししやう)に盃さすは、必(かなら)ず肴(さかな)の添(そ)ふなるぞ。当時(たうじ)、鎌倉(かまくら)には、秩父(ちちぶ)の六郎(ろくらう)が今様(いまやう)、梶原(かぢはら)源太(げんだ)横笛(よこぶえ)と聞(き)く。然(さ)れども、他人(たにん)なれば、見(み)もし、聞(き)きもせらればこそ。P285わ殿は、箱根(はこね)に有(あ)りし時(とき)、舞(まひ)の上手(じやうず)と聞(き)きしなり。忘(わす)れずは、舞(ま)ひ候(さうら)へかし」。十郎(じふらう)、腰(こし)より横笛(よこぶえ)取(と)り出(い)だし、平調(ひやうでう)に音(ね)取(と)り、「如何(いか)に如何(いか)に、遅(おそ)し」と攻(せ)めければ、しばし辞退(じたい)に及(およ)びけるを、十郎(じふらう)、はやしたてて待(ま)ちければ、五郎(ごらう)、扇(あふぎ)を開(ひら)き、かうこそうたひて、舞(ま)ひたりけれ。
君(きみ)が代は千代に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)斯(か)かる山と成(な)るまで W023
と、押(お)し返(かへ)し押(お)し返(かへ)し、三返(べん)踏(ふ)みてぞ舞(ま)ひたりける。其(そ)の儘(まま)、拍子(ひやうし)を踏(ふ)みかへて、
別(わか)れのことさら悲(かな)しきは
親(おや)の別(わか)れと子(こ)の歎(なげ)き
ふうふの思(おも)ひ今(いま)兄弟(きやうだい)
いづれを思(おも)ふべき
袖に余(あま)れる忍(しの)び音(ね)を
返(かへ)して止(とど)むる関(せき)もがな W024
と、二返(へん)攻(せ)めにぞ踏(ふ)みたりける。母(はは)は、昔(むかし)を思(おも)ひいづれば、彼(かれ)等(ら)は、さても憂(う)き命(いのち)近(ちか)き限(かぎ)りの涙(なみだ)の露、思(おも)はぬ余所目(よそめ)に取(と)り成(な)して、袖(そで)の返(かへ)しにまぎらかし、しばし舞(ま)ひてぞ入(い)りたりける。かくて、酒(さけ)も過(す)ぎければ、十郎(じふらう)畏(かしこ)まつて、「今度(こんど)、御狩(みかり)に罷(まか)り出(い)で、兄弟(きやうだい)中(ぢゆう)に、如何(いか)なる高名(かうみやう)をも仕(つかまつ)り、思(おも)はず御恩(ごおん)にも預(あづ)かり候(さうら)はP286ば、率塔婆(そとば)の一本(ぽん)をも心(こころ)安(やす)くきざみ、父聖霊(しやうりやう)にそなへ奉(たてまつ)らばやと存(ぞん)じ候(さうら)ふ」。母(はは)聞(き)き給(たま)ひて、「などやらん、此(こ)の度(たび)の道心(だうしん)、心(こころ)許(もと)無(な)く覚(おぼ)ゆるぞや。よき程(ほど)にも候(さぶら)はば、思(おも)ひ止(とど)まり給(たま)へかし。さりながら、もしやののぞみも哀(あは)れなり。女房(にようばう)達(たち)」と宣(のたま)へば、白(しろ)き唐綾(からあや)に鶴の丸(まる)所々(ところどころ)にぬひたる小袖(こそで)一(ひと)つ取(と)り出(い)だし、「十郎にもとらせぬるぞ。失(うしな)はで返(かへ)し候(さうら)へ。十郎(じふらう)は、つねに小袖(こそで)をかりて返(かへ)さず。是(これ)は、曾我(そが)殿(どの)の見(み)たる小袖(こそで)也(なり)。二度(にど)とも見(み)えずは、又(また)例(れい)の子供(こども)にとらせたりと思(おも)はれんも恥(は)づかし。小袖(こそで)をしたためておくべし。構(かま)へて構(かま)へて、とく帰(かへ)り給(たま)へ」と有(あ)りければ、「承(うけたまは)り候(さうら)ふ」とて、練貫(ねりぬき)の損(そん)じたるに脱(ぬ)ぎかへ、「見(み)苦(ぐる)しく候(さうら)へども、人にたび候(さうら)へ」とて、帰(かへ)りにけり。小袖(こそで)の用(よう)はあらねども、互(たが)ひの形見(かたみ)のかへ衣(ごろも)、袖(そで)なつかしく打(う)ち置(お)きける。さても、兄弟(きやうだい)、座敷(ざしき)を立(た)ちければ、母(はは)見(み)送(おく)り、宣(のたま)ひけるは、「過(す)ぎにし頃(ころ)、十郎(じふらう)、小袖(こそで)をかり、二度とも見(み)せず、如何(いか)なる遊(あそ)び者(もの)にもとらせぬるよと思(おも)ひしに、さは無(な)くして、弟(おとと)の五郎(ごらう)にきせけるや。又(また)近(ちか)き頃(ころ)、大口(おほくち)・直垂(ひたたれ)したててとらせしを、是(これ)も二度(にど)とも見(み)せざりしが、道三郎(だうざぶらう)にきせたりと思(おも)へば、是(これ)も弟(おとと)にきせけるぞや。兄弟(きやうだい)をば、野(の)の末(すゑ)、山の奥(おく)にももつべかりけるぞや。父(ちち)には、幼(いとけな)くしておくれ、一人の母(はは)には、不孝(ふけう)せられ、貧(ひん)なれば、親(した)しきにもうとく、有(あ)るか無(な)きかに世(よ)に無(な)し者(もの)、誰(たれ)やの人か哀(あは)れむべき」とて、P287涙(なみだ)をはらはらと流(なが)し給(たま)ひければ、其(そ)の座に有(あ)りし女房(にようばう)達(たち)、袖をぞ濡(ぬ)らしける。さて、兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、我(わ)が方に帰(かへ)り、此(こ)の小袖(こそで)を中(なか)におき、「嬉(うれ)しくも推参(すいさん)しつる物(もの)かな。只今(ただいま)許(ゆる)されずしては、多生(たしやう)をふる共(とも)適(かな)ふまじ。いきて二度帰(かへ)る様(やう)に、小袖(こそで)返(かへ)せと仰(おほ)せられつるこそ、愚(おろ)かなれ。何しに返(かへ)せとは言(い)ひつらん、神(かみ)ならぬ身(み)の悲(かな)しさよと、後悔(こうくわい)し給(たま)はん事(こと)、今の様(やう)に覚(おぼ)えたり」とて、打(う)ち傾(かたぶ)きて泣(な)き居(ゐ)たり。「我(われ)等(ら)、世(よ)に有(あ)りて、心(こころ)の儘(まま)に、親(おや)の孝養(けうやう)をも致(いた)さば、是(これ)程(ほど)まで思(おも)はぬ事(こと)も有(あ)りなまし。此(こ)の三年こそ、不孝(ふけう)の身(み)にては候(さうら)へ。其(そ)れさへ恋(こひ)しく思(おも)ひ奉(たてまつ)る。或(あ)る時は、物ごしにも見(み)奉(たてまつ)りて慰(なぐさ)みしに、只今(ただいま)御(おん)許(ゆる)しを蒙(かうぶ)り、一日だにも無(な)くて、出(い)でん事(こと)こそ悲(かな)しけれ。死(し)に給(たま)へる父(ちち)を思(おも)ひて、孝養(けうやう)せんとすれば、いき給(たま)へる母(はは)に、物(もの)を思(おも)はせ奉(たてまつ)る。然(さ)れば、我(われ)等(ら)程(ほど)、親(おや)に縁(えん)無(な)き物(もの)は無(な)し。後の世(よ)まで尽(つ)きせぬ、手跡(しゆせき)に過(す)ぎたる形見(かたみ)無(な)し。いざや、我(われ)等(ら)一筆づつ、忘(わす)れ形見(がたみ)残(のこ)さん」とて、墨(すみ)すり流(なが)し、かくばかり、
「今日(けふ)出(い)でてめぐり合(あ)はずは小車(おぐるま)のこのわの内(うち)に無(な)しと知(し)れ君 W025
祐成年二十二、後の世(よ)の形見(かたみ)」とぞ書(かき)ける。
「ちちぶ山(やま)下(お)ろす嵐(あらし)のはげしさに枝(えだ)ちりはてて葉(は)は如何(いか)にせん W026
五郎(ごらう)時致(ときむね)、生年(しやうねん)二十、親(おや)は一世と申(まう)せ共(ども)、必(かなら)ず、浄土(じやうど)にて参(まゐ)りあふべし」とこそかきP288たりける。各々(おのおの)、箱(はこ)に入(い)れて、「我(われ)等(ら)打(う)たれぬと聞(き)き給(たま)はば、母(はは)、此(こ)の所(ところ)にまろび入(い)りて、伏(ふ)し鎮(しづ)み給(たま)ふべし。いざや、御(おん)まうけせん」とて、畳(たたみ)しき直(なほ)し、めんらうの塵(ちり)打(う)ち払(はら)ひ、先(ま)づ見(み)給(たま)ふ様(やう)にとて、さし入(い)りの障子(しやうじ)の際(きは)にぞ置(お)きたりける。「空(むな)しき人をば、常(つね)の所(ところ)よりは出(い)ださず。我(われ)等(ら)、死人(しにん)に同(おな)じ」とて、馬屋(うまや)のあれ間(ま)より出(い)でたりける。最後(さいご)の文にこそ、斯様(かやう)の事(こと)まで書(か)きにける。かくて出(い)でけるが、「いざや、今(いま)一度、母(はは)を見(み)奉(たてまつ)らん」とて、暇乞(いとまごひ)にぞ出(い)でける。母(はは)宣(のたま)ひけるは、「構(かま)へて、人といさかひし給(たま)ふな。世(よ)に有(あ)る人は、貧(ひん)なる者(もの)をば、をこがましく思(おも)ひあなづるべし。然様(さやう)なりとも、咎(とが)むべからず。三浦(みうら)・土肥(とひ)の人々(ひとびと)は、然様(さやう)にはあらじ。其(そ)の人々(ひとびと)に交(まじ)はり、歩(あり)き給(たま)へ。心(こころ)のはやる儘(まま)に、人の相(あひ)付(つ)けたる鹿(しし)、射(い)給(たま)ふべからず。公方(くばう)の御(おん)許(ゆる)しも無(な)きに、弓矢(ゆみや)持(も)たずとも、出(い)で給(たま)ふべし。謀叛(むほん)の者(もの)の末(すゑ)とて、咎(とが)めらるる事(こと)もやあらん。如何(いか)にも、事(こと)過(す)ごし給(たま)ふな。年頃(としごろ)、にくまれずして養(やう)ぜられたる曾我(そが)殿(どの)に、大事(だいじ)掛(か)けて、恨(うら)み受(う)け給(たま)ふな」と、こまごまとぞ教(をし)へける。五郎(ごらう)は、聞(き)きても色に出(い)ださず、十郎(じふらう)は、斯様(かやう)の教(をし)へも、今(いま)を限(かぎ)りと思(おも)ひ、心(こころ)の色(いろ)の現(あらは)れて、涙(なみだ)ぐみければ、急(いそ)ぎ座敷(ざしき)を立(た)ちにけり。五郎(ごらう)も、名残(なごり)の涙抑(おさ)へ兼(か)ね、余所目(よそめ)にもてなしけるが、妻戸(つまど)の閾(とざい)につまづきて、うつぶしに倒(たふ)れけれども、人目(ひとめ)にもらさじとて、「色(いろ)有(あ)る小鳥(ことり)の、東より、P289西(にし)の梢(こずゑ)に伝(つた)ひしを、目(め)に懸(か)け、思(おも)はずの不覚(ふかく)なり」とて、打(う)ち笑(わら)ひける。母(はは)、是(これ)を見(み)給(たま)ひて、「今日(けふ)の道、思(おも)ひ止(とど)まり候(さうら)へ。門出(かどいで)悪(あ)しし」と有(あ)りければ、五郎(ごらう)立(た)ち帰(かへ)り、「馬(うま)に乗(の)る者(もの)は落(お)ち、道(みち)行(ゆ)く者(もの)は倒(たふ)る。皆(みな)人ごとの事(こと)也(なり)。是(これ)はとて、止(とど)まり候(さうら)はんには、道行(ゆ)く者(もの)候(さうら)はじ」と、打(う)ちつれてこそ出(い)でにけれ。五郎(ごらう)は、猶(なほ)母(はは)の名残(なごり)をしたひ兼(か)ね、今(いま)一度とや思(おも)ひけん、「扇(あふぎ)の見(み)苦(ぐる)しく候(さうら)ふ」とて、帰(かへ)りにければ、母(はは)、是(これ)をば夢(ゆめ)にも知(し)らずして、「折節(をりふし)、扇(あふぎ)こそ無(な)けれ、わろけれ共(ども)」とて、たびにけり。時致(ときむね)、是(これ)も形見(かたみ)の数(かず)と思(おも)ひ、母(はは)の賜(たま)はるよと思(おも)へば、扇(あふぎ)さへなつかしくて、開(ひら)きて見(み)れば、霞(かすみ)に雁(かり)がねをぞ書(か)きたりける。折(をり)にふれなば、夏山(なつやま)の、しげる梢(こずゑ)の松(まつ)の風、五月雨雲(さみだれぐも)の晴間(はれま)より、遠里(とほざと)小野(をの)の里(さと)つづき、我(われ)等(ら)が道(みち)の行(ゆ)く末(すゑ)も、現(あらは)るべきに、さはあらで、其(そ)の色(いろ)違(たが)ふも、理(ことわり)なり。憂(う)き身(み)の故(ゆゑ)と案(あん)ずれば、
同(おな)じくは空(そら)に霞(かすみ)の関(せき)もりて雲路(くもぢ)の雁(かり)をしばし止(とど)めん W027
是(これ)は、為世卿(ためよのきやう)の詠(よ)みし歌ぞかし。我(わ)が限(かぎ)りの道を歎(なげ)け共(ども)、誰一たん止(とど)むる者(もの)も無(な)きに、扇(あふぎ)心(こころ)の有(あ)るやらん、「しばし」と言(い)ふ言(こと)の葉(は)の読(よ)まれたり。十郎(じふらう)が、供(とも)には道三郎(だうざぶらう)、五郎(ごらう)が供(とも)には、鬼王(おにわう)、其(そ)の外(ほか)四五人召(め)し具(ぐ)して、打(う)ち出(い)でける有様(ありさま)、母(はは)は、乳母(めのと)引(ひ)きつれ、広縁(ひろえん)に立(た)ち出(い)で、見(み)送(おく)り、様々(さまざま)にぞ言(い)ひける。「直垂(ひたたれ)のき様(やう)、行縢(むかばき)の引(ひ)き合(あ)はせ、P290馬乗(の)り姿(すがた)、手綱(たづな)の取(と)り様(やう)、十郎(じふらう)は、父(ちち)に似(に)たれども、器量(きりやう)は、遙(はる)かの劣(おと)りなり。五郎(ごらう)は、烏帽子(えぼし)の座敷(ざしき)、矢のおひ様(やう)、弓の持(も)ち様(やう)に至(いた)るまで、父(ちち)には少(すこ)し似(に)たれども、是(これ)も、遙(はる)かの劣(おと)り也(なり)。山寺にて育(そだ)ちたれども、色(いろ)くろく、下種(げす)しくみゆる。十郎(じふらう)は、里(さと)に住(す)みしかととも、色(いろ)白(しろ)く、尋常(じんじやう)なり。我(わ)が子(こ)と思(おも)ふ故(ゆゑ)にや、いづれも清(きよ)げなる者(もの)共(ども)かな。如何(いか)なる大将軍(たいしやうぐん)と言(い)ふ共(とも)、恥(は)づかしからじ物(もの)を。哀(あは)れ、世(よ)にあらば、誰にかは劣(おと)るべき。同(おな)じくは、彼(かれ)等(ら)を父(ちち)諸(もろ)共(とも)に見(み)るならば、如何(いか)に嬉(うれ)しく有(あ)りなん」と、さめざめと泣(な)きけり。女房(にようばう)達(たち)、是(これ)を見(み)て、「物(もの)への御門出(かどいで)に、御涙いまはし」と申(まう)しければ、「誠(まこと)に、彼(かれ)等(ら)貧(ひん)なる出(い)で立(た)ち、すずろなる事(こと)共(ども)思(おも)ひ連(つら)ねられて、袖(そで)のみ昔(むかし)にぬれ侍ふぞや。げにげに千秋(せんしう)万歳(ばんぜい)とさかふべき子供(こども)の門出(かどいで)、嬉(うれ)しくも言(い)ひ出(い)だし給(たま)ふ物(もの)かな。此(こ)の度、御狩(みかり)より帰りなば、上の御免(ごめん)蒙(かうぶ)り、本領(ほんりやう)ことごとく安堵(あんど)して、思(おも)ひの儘(まま)なるかへるさをまつべき」とて、急(いそ)ぎ内(うち)にぞ入(い)りにける。後に思(おも)ひ合(あ)はすれば、是(これ)ぞ最後(さいご)の別(わか)れなりけりと、思(おも)ひ出(い)でられて哀(あは)れなり。
@〔李将軍(りしやうぐん)が事(こと)〕S0704N109P291
さても、鎌倉(かまくら)殿(どの)は、合沢原(あひざはがはら)に御座の由(よし)聞(き)こえしかば、此(こ)の人々(ひとびと)も、駒(こま)に鞭(むち)を添(そ)へて、急(いそ)ぎける。道にて、十郎(じふらう)言(い)ひけるは、「名残(なごり)惜(を)しかりつる古里(ふるさと)も、一筋(ひとすぢ)に思(おも)ひ切(き)りぬれば、心(こころ)の引(ひ)きかへて、先(さき)へのみぞ急(いそ)がれ候(さうら)ふぞや」。時致(ときむね)聞(き)きて、「さん候(ざうらふ)。思(おも)ふ程(ほど)は現(うつつ)、すぐれば夢(ゆめ)にて、心(こころ)の儘(まま)に本意(ほんい)を遂(と)げ、浮(う)き世(よ)を夢(ゆめ)に成(な)しはてて、早(はや)く浄土(じやうど)に生(う)まれつつ、恋(こひ)しき父(ちち)、名残(なごり)惜(を)しかりつる母(はは)、かく申(まう)す我(われ)等(ら)まで、一蓮(ひとつはちす)の縁(えん)とならん」とて、ひつ掛(か)けひつ掛(か)け打(う)ちて行(ゆ)く。やや有(あ)りて、十郎(じふらう)申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)が有様(ありさま)を、物(もの)にたとふれば、寒苦鳥(かんくてう)に似(に)たり。如何(いか)にと言(い)ふに、大唐(だいたう)しくう山(ざん)に、雪(ゆき)深(ふか)うして、春秋をわかざる山(やま)なり。其(そ)の山(やま)に、頭(かしら)は二(ふた)つ、身(み)は一(ひと)つ有(あ)る鳥有(あ)り。彼(か)の山(やま)には、青(あを)き草無(な)ければ、くふべき物無(な)し。然(さ)れば、其(そ)の頭(かしら)右(みぎ)を取(と)らんとし、右(みぎ)の頭(かしら)は左(ひだり)を取(と)らんとする。悲(かな)しみの涙(なみだ)を餌食(ゑじき)として、命をのぶる鳥(とり)也(なり)。我(われ)等(ら)も、敵(てき)の手(て)にやかからん、敵(てき)をや手(て)に掛(か)けんと思(おも)ふ、憂(う)き身(み)のながらへて、いつまで物(もの)を思(おも)はまし。此(こ)の度は、さり共(とも)」と申(まう)しければ、五郎(ごらう)聞(き)きて、「弱(よわ)き御(おん)例(たと)へ仰(おほ)せ候(さうら)ふ。何(なに)によりてか、空(むな)しく敵(てき)の手(て)にかかり候(さうら)ふべき。本意(ほんい)を遂(と)げて後(のち)は、知(し)り候(さうら)はず、其(そ)れは、ともかくも候(さうら)ひなん、事(こと)長(なが)く候(さうら)へ共(ども)、昔(むかし)、大国(たいこく)に、李将軍(りしやうぐん)とて、猛(たけ)くいさめる武勇(ぶよう)の達者(たつしや)有(あ)り。一人の子(こ)の無(な)き事(こと)、天に祈(いの)る、哀(あは)れみにや、妻女(さいぢよ)懐妊(くわいにん)す。将軍(しやうぐん)喜(よろこ)ぶ所(ところ)に、女房(にようばう)言(い)ふ様(やう)、「いきたる虎(とら)の肝(きも)こそ願(ねが)ひなれ」。将軍(しやうぐん)、安(やす)き事(こと)とて、P292多(おほ)くの兵(つはもの)を引(ひ)きつれ、野辺(のべ)に出(い)でて、虎(とら)をかりけるに、かへつて、将軍(しやうぐん)、虎(とら)にくはれて失(う)せぬ。乗(の)りたりける雲上龍(うんしやうりゆう)、鞍(くら)の上(うへ)空(むな)しくして帰(かへ)りぬ。女房(にようばう)あやしみて、「将軍(しやうぐん)、虎(とら)にくはれけるや」と問(と)へば、竜(りゆう)、涙(なみだ)を流(なが)し、膝(ひざ)ををり、なけ共(ども)適(かな)はず。我(わ)が胎内(たいない)の子(こ)は、父(ちち)を害(がい)する敵(てき)なり、生(う)まれ落(お)ちなば捨(す)てんと、日数(ひかず)をまつ所(ところ)に、月日(つきひ)に関守(せきもり)無(な)ければ、程(ほど)無(な)く生(う)まれぬ。見(み)なれば男子(なんし)なり。いつしか、捨(す)つべき事(こと)を忘(わす)れ、取(と)り上(あ)げ、名(な)をかふりよくと付(つ)けて、もてなしけり。名将軍(めいしやうぐん)の子(こ)にて、胎内(たいない)より、父(ちち)虎(とら)にくはれけるを、安(やす)からずに思(おも)ひ、敵(かたき)取(と)るべき事(こと)をぞ思(おも)ひける。光陰(くわういん)矢の如(ごと)し。かふりよく、はや七歳(さい)にぞなりにける。或(あ)る時(とき)、父(ちち)重代(ぢゆうだい)の刀を差(さ)し、角(つの)の槻弓(つきゆみ)に、神通(じんづう)の鏑矢(かぶらや)を取(と)り添(そ)へ、馬屋(うまや)に下(お)り、父(ちち)の乗(の)りて死(し)にける雲上龍(うんしやうりゆう)に曰(いは)く、「汝(なんぢ)、馬(むま)の中(なか)の将軍(しやうぐん)なり。然(しか)るに、父(ちち)の敵(かたき)に志(こころざし)深(ふか)し、父(ちち)の取(と)られける野辺(のべ)に、我(われ)を具足(ぐそく)せよ」と言(い)ふに、黄(き)なる涙(なみだ)を流(なが)して、高声(かうしやう)にいばえけり。かふりよく、大(おほ)きに喜(よろこ)びて、彼(か)の竜(りゆう)に乗(の)り、馬(むま)に任(まか)せて、行(ゆ)く程(ほど)に、千里の野辺(のべ)に出(い)でて、七日七夜ぞ尋(たづ)ねける。八日の夜半(やはん)に及(およ)びて、或(あ)る谷間(たにあひ)に、獣(けだもの)多(おほ)く集(あつ)まりねたり。其(そ)の中(なか)に、臥長(ふしたけ)一丈(いちぢやう)余(あま)りなる虎(とら)の、両眼(りやうがん)は日月を並(なら)べたる様(やう)にて、紅(くれなゐ)の舌(した)を振(ふ)り、伏(ふ)しければ、肝(きも)魂(たましひ)を失(うしな)ふべきに、然(さ)る将軍(しやうぐん)の子(こ)なりければ、是(これ)こそ父(ちち)の敵(てき)よと、矢(や)取(と)つて差(さ)しつがひ、よ引(ひ)きてはなつ。過(あやま)たず、虎(とら)の左(ひだり)の眼(まなこ)に射(い)たてたり。P293少(すこ)し弱(よわ)ると見(み)えければ、かうりよく、馬(むま)よりとんで下(お)り、腰(こし)の刀(かたな)を抜(ぬ)き、虎(とら)を切(き)らんと見(み)ければ、虎(とら)にては無(な)し。年(とし)へたる石(いし)の苔(こけ)むしたるにてぞ有(あ)りけり。斯様(かやう)の志(こころざし)にて、遂(つひ)に敵(かたき)を打(う)つ。今(いま)の世(よ)に、石竹(せきちく)と言(い)ふ草(くさ)、かふりよくが射(い)ける矢(や)なりとぞ申(まう)し伝(つた)へたる。然(さ)れば、弓(ゆみ)取(と)りの子(こ)は、七歳(さい)になれば、親(おや)の敵(かたき)を打(う)つとは、此(こ)の心(こころ)なり。志(こころざし)に依(よ)り、石(いし)にも矢(や)のたち候(さうら)ふぞや。此(こ)の心(こころ)を歌(うた)にも詠(よ)みけるとぞ、
虎(とら)と見(み)て射(い)る矢の石(いし)に立(た)つ物(もの)をなど我(わ)がこひの通(とほ)らざるべき」 W028
十郎(じふらう)聞(き)きて、「や、殿(との)、歌(うた)は然様(さやう)なりとも、祐成(すけなり)にあひての物語(ものがたり)、「など我(わ)が敵(かたき)打(う)たで有(あ)るべき」と語(かた)れかし」「実(げ)にや、折(をり)による歌(うた)物語(ものがたり)、悪(あ)しく申(まう)して覚(おぼ)ゆるなり。歌(うた)はともあれ、かくもあれ、此(こ)の度は、敵(てき)打(う)たん事(こと)安(やす)かるべし。老少(らうせう)不定(ふぢやう)の習(なら)ひなれば、我(われ)等(ら)は、悪霊(あくりやう)とも成(な)りて、取(と)るべきにや」とたはぶれて、鞭(むち)を打(う)ちてぞ、急(いそ)ぎける。
@〔三井寺(みゐでら)大師(だいし)の事(こと)〕S0705N110
十郎(じふらう)は、「足柄(あしがら)を越(こ)えて行(ゆ)かん」と言(い)ふ。五郎(ごらう)は、「箱根(はこね)を越(こ)えん」と言(い)ふ。いはれ有(あ)り。此(こ)の三四年、別当(べつたう)の呼(よ)び給(たま)へ共(ども)、男(をとこ)になりける面目(めんぼく)無(な)さに、見参(げんざん)に入(い)らず、ついでに打(う)ち寄(よ)りて、御目(め)に掛(か)かるべし、最後(さいご)の暇(いとま)をも申(まう)さんとて参(まゐ)りたりと思(おぼ)し召(め)さば、聖教(せうぎやう)P294の一巻(くわん)、陀羅尼(だらに)の一返(ぺん)なりとも、弔(とぶら)ひ給(たま)ふべき善知識(ぜんぢしき)なり。其(そ)の上、師(し)の恩(おん)を重(おも)くすれば、法(ほふ)に預(あづ)かる例(ためし)有(あ)り。近(ちか)き頃(ころ)の事(こと)にや、園城寺(をんじやうじ)に、智興(ちかう)太子(たいし)とて、めでたき上人(しやうにん)渡(わた)らせ給(たま)ひけり。顕密(けんみつ)有験(うげん)の高僧(かうそう)とは申(まう)せ共(ども)、未(いま)だ肉身(にくしん)を離(はな)れ給(たま)はざりける故(ゆゑ)に、重病(ちやうびやう)にをかされて、苦痛(くつう)なう覧わきまへ難し。即(すなは)ち、晴明(せいめい)を呼(よ)びてうらなはせけるに、「定業(ぢやうごふ)限(かぎ)りにて、助(たす)かり給(たま)ふ事(こと)有(あ)るべからず。但(ただ)し、多(おほ)き御弟子(でし)の中に、法恩(ほふおん)を重(おも)くし、命をかろくして、師(し)の御命(おんいのち)に変(か)はるべき人坐(ま)しまさば、まつりかへん」と申(まう)す。上人(しやうにん)は、苦痛(くつう)の儘(まま)に、誰とは宣(のたま)はね共(ども)、御目(め)を上(あ)げて、御弟子(でし)を見(み)まはし給(たま)ふ。並(なら)び居(ゐ)給(たま)ふ御弟子(でし)二百余人(よにん)なれども、我(われ)変(か)はらんと仰(おほ)せらるる方(かた)一人も無(な)し。目(め)を見(み)合(あ)はせ、赤面(せきめん)し給(たま)ふ色(いろ)現(あらは)れにけり。うたてかりし御事(おんこと)也(なり)。此処(ここ)に、証空(しようくう)阿闍梨(あじやり)と申(まう)して、十八になり給(たま)ふが、末座(ばつざ)よりすすみ出(い)でて、「我(われ)、法恩(ほふおん)の哀(あは)れみ、つくし難(がた)し。何(なに)にか報(ほう)じ奉(たてまつ)るべき。我(われ)等(ら)が命(いのち)なりとも、代(か)はり奉(たてまつ)る身(み)なりせば、喜(よろこ)びの上(うへ)の喜(よろこ)び、何事(なにごと)か是(これ)にしかんや。はやはや」とて、墨染(すみぞめ)の御袖(そで)をかき合(あ)はせ給(たま)ひて、晴明(せいめい)が前にひざまづき給(たま)ふ。上人(しやうにん)聞(き)こし召(め)し、悩(なや)める御眦(まなじり)に、御涙(なみだ)を浮(う)かべさせ給(たま)ひて、御顔(かほ)を振(ふ)り上(あ)げ、本尊(ほんぞん)の御方(かた)を御覧(ごらん)じけるは、証空(しようくう)の命を御(おん)惜(を)しみ有(あ)りて、御身(おんみ)は如何(いか)にもと思(おぼ)し召(め)さるる御顔(かほ)ばせの現(あらは)れたり。是(これ)又(また)、御慈悲(じひ)の御心中(しんちゆう)とぞ見(み)えける。証空(しようくう)、重(かさ)ねて申(まう)されけるP295は、「深(ふか)く思(おも)ひ定(さだ)めて候(さうら)ふ。変(へん)ずべきにも候(さうら)はず。其(そ)の上(うへ)、上人(しやうにん)の苦悩(くなう)見(み)奉(たてまつ)るに、刹那(せつな)の隙も惜(を)しくこそ候(さうら)へ。御心(おんこころ)に任(まか)すべきにあらず。急(いそ)ぎ法会(ほうゑ)を行(おこな)ひ、まつりを急(いそ)がれ候(さうら)へ。但(ただ)し、八旬(はつしゆん)に余(あま)る母(はは)を持(も)ちて候(さうら)ふ。今(いま)一度、今生(こんじやう)の姿(すがた)見みえ候(さうら)ひて、帰り参(まゐ)るべし。待(ま)ち給(たま)ふべし」とて、出(い)で給(たま)ふ。証空(しようくう)を哀(あは)れと言(い)はぬ者(もの)は無(な)し。其(そ)の後、母(はは)のもとに行(ゆ)き、此(こ)の事(こと)くはしく語(かた)り給(たま)ふ。母(はは)聞(き)きもはてず、証空(しようくう)の袖に取(と)り付(つ)き、「思(おも)ひもよらず、師匠(ししやう)の御恩(ごおん)ばかりにて、母(はは)が哀(あは)れみをば捨(す)て給(たま)ふべきか。御身(おんみ)を残(のこ)し、自(みづか)らさきだちてこそ、順次(じゆんし)なるべけれ。思(おも)ひもよらぬ例(ためし)」とて、証空(しようくう)の膝(ひざ)に倒(たふ)れかかり、涙(なみだ)にむせぶばかりなり。証空(しようくう)は、母(はは)の心(こころ)を取(と)り鎮(しづ)めて、「よくよく聞(き)こし召(め)せ、師匠(ししやう)の御恩徳(おんどく)に、何(なに)をか例(たと)へ候(さうら)ふべき。はかなき仰(おほ)せとぞ覚(おぼ)えて候(さうら)へ」「はかなき母(はは)がうみ置(お)きてこそ、たふとき師匠(ししやう)の恩徳(おんどく)をも蒙(かうぶ)り給(たま)へ。母(はは)の恩(おん)、大海(だいかい)よりも深(ふか)しとは、誰(たれ)やの者(もの)かいひそめける」「親(おや)は一世(せ)、師(し)は三世(ぜ)、浅(あさ)き哀(あは)れみなり。知(し)らせ給(たま)ふらん」「何(なに)とて、情(なさけ)は坐(ま)しまさぬぞ。今日(けふ)の命を知(し)らぬ身(み)の、恥(はぢ)をば誰(たれ)か隠(かく)すべき。適(かな)ふまじ」とて、取(と)り付(つ)きたり。「聞(き)き給(たま)はずや、浄飯(じやうぼん)大王(だいわう)の御子悉達太子(しつだたいし)は、一人御座(おは)します父(ちち)大王(だいわう)を振(ふ)り捨(す)てて、阿羅邏仙人(あららせんにん)に給仕(きうじ)し給(たま)ひしぞかし」「其(そ)れは、いきての御(おん)別(わか)れ、是(これ)は、死(し)すべき別(わか)れなり。例(たと)へにも成(な)るべからず」「御(おん)言葉(ことば)の重(おも)きとて、只今(ただいま)隠(かく)れ給(たま)ふ師匠(ししやう)をや殺(ころ)し奉(たてまつ)るP296べき」「誠(まこと)に、自(みづか)ら物(もの)ならずは、暇(いとま)をこひても、何(なに)かせん。七生(しやう)まで不孝(ふけう)ぞ」と言(い)ふ言(い)ふ、まろび給(たま)ひける。証空(しようくう)、進退(しんだい)此処(ここ)にきはまり、師匠(ししやう)の恩徳(おんどく)を報(ほう)じ奉(たてまつ)らんとすれば、母(はは)の不孝(ふけう)、永却(えいごふ)にもうかび難(がた)し。身(み)の置(お)き所(どころ)無(な)かりければ、母(はは)の御前(ごぜん)にひざまづき、「不孝(ふけう)の仰(おほ)せ、悲(かな)しみても余(あま)り有(あ)り。奈落(ならく)の攻(せ)め、いつをか期(ご)せん。此(こ)の世(よ)は、かりの宿(やど)りなり。未来(みらい)こそ、誠(まこと)の住(す)み処(か)にて候(さうら)へ。師匠(ししやう)の命に代(か)はり奉(たてまつ)らば、御(おん)向(む)かひにも参(まゐ)るべし。さあらば、一蓮(ひとつはちす)の縁(えん)にも、などかはならで候(さうら)ふべき。思(おぼ)し召(め)し切(き)り候(さうら)へ」とて、名残(なごり)の袂(たもと)を引(ひ)きわくる。母(はは)は、猶(なほ)もしたひ兼(か)ね、「然(さ)らば、自(みづか)らをもつれ、一蓮(ひとつはちす)の縁(えん)になし給(たま)へや。捨(す)てられて、老(おい)の身(み)の、何(なに)と成(な)るべき」と、悶(もだ)え悲(かな)しみ給(たま)ふ。阿闍梨(あじやり)は、母(はは)をなだめ兼(か)ね、斯様(かやう)ならんと思(おも)ひなば、中々(なかなか)申(まう)し出(い)だすまじかりつる物(もの)を、又は、母(はは)暇(いとま)申(まう)さずとも、思(おも)ひ定(さだ)むべかりつる事(こと)を、心(こころ)弱(よわ)くて、斯様(かやう)に憂(う)き目(め)を見(み)る事(こと)よ。惜(を)しみ給(たま)ふも、理(ことわり)也(なり)。只(ただ)一人有(あ)る子(こ)なり。月とも星(ほし)とも、我(われ)をならでは、頼(たの)み給(たま)はぬ御事(おんこと)なり。一日(いちにち)片時(へんし)も、見(み)奉(たてまつ)らぬだに、心(こころ)許(もと)無(な)くて、隙無(な)き行法(ぎやうぼふ)の間(あひだ)は、心(こころ)ならず見(み)奉(たてまつ)る事(こと)無(な)し。遅(おそ)き時(とき)は、杖(つゑ)にすがり来(き)たり給(たま)ひて、ひざまづき、後(うし)ろに立(た)ち、夏は扇(あふぎ)を使(つか)ひ、冬はあたたむる様(やう)にたため給(たま)ふ。「是(これ)、然(しか)るべからず」と申(まう)せば、「幾程(いくほど)無(な)き自(みづか)らが心(こころ)に任(まか)せてくれよ」と仰(おほ)せければ、上人(しやうにん)も、P297哀(あは)れみ有(あ)りて、「心(こころ)に任(まか)せよ」と、御慈悲(じひ)有(あ)るに依(よ)つて、片時(へんし)も離(はな)れ給(たま)ふ事無(な)し。我(われ)又(また)、御(おん)哀(あは)れみの黙(もだ)し難(がた)さに、暇(ひま)をはからひ、見(み)奉(たてまつ)らんと、通(かよ)ひしぞかし。実(げ)にも、今(いま)別(わか)れ奉(たてまつ)りなば、さこそ悲(かな)しく坐(ま)しまさめと思(おも)へば、涙(なみだ)もせき敢(あ)へず。誠(まこと)に、自(みづか)ら失(う)せなば、やがても絶(た)え入(い)りしに給(たま)ふべき志(こころざし)なれば、立(た)つも立(た)たれず、ぬるもねられず、黯然(あんぜん)として、泣(な)くばかりなり。猶(なほ)しも、母(はは)は、ひかへたる袂(たもと)をはなさで、寄(よ)りかかり、泣(な)き鎮(しづ)み給(たま)ひければ、袖(そで)引(ひ)き分(わ)け難(がた)くて、掌(たなごころ)を合(あ)はせ、「自(みづか)らが申(まう)す理(ことわり)、よくよく聞(き)こし召(め)し候(さうら)へ。惜(を)しみ思(おぼ)し召(め)さるる御事(こと)、僻事(ひがこと)とは存(ぞん)じ候(さうら)はず。さりながら、かねても申(まう)しし如(ごと)く、此(こ)の世(よ)は、夢(ゆめ)幻(まぼろし)と住(す)み成(な)し給(たま)へ。仏と申(まう)す事(こと)、外(ほか)に無(な)し。我(わ)がなす胸(むね)の内(うち)に明(あき)らかなる。月輪(ぐわちりん)のくもらぬを悟(さと)りと申(まう)し、うづもるるを迷(まよ)ひと申(まう)し候(さうら)ふ。然(さ)れば、仏(ほとけ)は、衆生(しゆじやう)善悪(ぜんあく)隔(へだ)て無(な)き由(よし)、とき置(お)かせ御座(おは)します物(もの)を。さあらば、親(おや)と成(な)り、子(こ)と成(な)り、師(し)と成(な)り、弟子(でし)と成(な)り、是(これ)皆(みな)一心(いつしん)の願(ぐわん)に依(よ)り、山河(さんが)大事(だいじ)、ことごとく阿字(あじ)の一字(じ)にこそをさまりて候(さうら)へ」と怒(いか)りければ、母(はは)、ひかへたる袖を少(すこ)し許(ゆる)しける所(ところ)に、棄恩入無為(きおんにふむゐ)、真実(しんじつ)報恩者(はうおんしや)の理(ことわり)をつぶさにときければ、母(はは)、涙(なみだ)を抑(おさ)へて、「然(さ)らば」とて、許(ゆる)しけり。証空(しようくう)嬉(うれ)しくて、急(いそ)ぎ坊(ばう)に帰(かへ)りけり。孝行(かうかう)の程(ほど)ぞ頼(たの)もしき。 晴明(せいめい)遅(おそ)しと、待(ま)ちし事(こと)なれば、七尺(しやく)に床(ゆか)をかき、五色の幣(へい)を立(た)て並(なら)べ、金銭散供(きんせんさんぐ)、P298数(かず)の菓子(くわし)をもりたて、証空(しようくう)を中(なか)に据(す)ゑて、晴明(せいめい)、礼拝(らいはい)恭敬(くぎやう)して、数珠(じゆず)はらはらと押(お)し揉(も)み、上は梵天(ぼんでん)帝釈(たいしやく)、四大天王(てんわう)、下は堅牢地神(けんらうぢじん)、八大龍王(はつだいりゆうわう)まで勧請(くわんじやう)して、既(すで)に祭文(さいもん)に及(およ)びければ、護法(ごほふ)の渡(わた)ると見(み)えて、色々(いろいろ)の金銭幣帛(きんせんへいはく)、或(ある)いは空(そら)に舞(ま)ひ上(あ)がりて、舞(ま)ひ遊(あそ)び、或(ある)いは壇上(だんじやう)を躍(をど)りまはる。絵像(ゑざう)の大聖(だいしやう)不動明王(ふどうみやうわう)は、利剣(りけん)を振(ふ)り給(たま)ひければ、其(そ)の時(とき)、晴明(せいめい)、座を立(た)つて、数珠(じゆず)、証空(しようくう)の頭(かうべ)をなで、「平等(びやうどう)大慧(ゑ)、一乗(いちじよう)妙典(めうでん)」と言(い)ひければ、即(すなは)ち、上人(しやうにん)の苦悩(くなう)さめて、証空(しようくう)に移(うつ)りけり。やがて、五体(ごたい)より汗(あせ)を流(なが)し、五蘊(ごうん)を破(やぶ)り、骨髄(こつずい)を砕(くだ)く事(こと)、言(い)ふに及(およ)ばず。是(これ)を見(み)る人(ひと)、晴明(せいめい)が奇特(きどく)のたふとき、証空(しようくう)の志(こころざし)の有(あ)り難(がた)さに、色々(いろいろ)の袖(そで)絞(しぼ)るばかりなり。さて、証空(しようくう)の方(かた)よりは、煙(けぶり)立(た)ちて、苦悩(くなう)忍(しの)び難(がた)かりしかば、年頃(としごろ)頼(たの)み奉(たてまつ)る絵像(ゑざう)の不動明王(ふどうみやうわう)をにらみ奉(たてまつ)り、「我(われ)、二無(な)き命(いのち)を召(め)し取(と)りて、屍(かばね)を壇上(だんじやう)に止(とど)む。正念(しやうねん)に住(ぢゆう)して、安養浄刹(あんやうじやうせつ)に向(む)かへ取(と)り給(たま)へ。知我心者(ちがしんしや)、即身(そくしん)成仏(じやうぶつ)、誤(あやま)り給(たま)ふな」と、一心(いつしん)の願(ぐわん)をなしければ、明王(みやうわう)、哀(あは)れとや思(おぼ)しけん。絵像(ゑざう)の御眼(まなこ)より、紅(くれなゐ)の御涙はらはらと流(なが)させ給(たま)ひて、「汝(なんぢ)、たふとくも法恩(ほふおん)を重(おも)くして、一人の親(おや)を振(ふ)り捨(す)て、命(めい)に変(か)はる志(こころざし)、報(ほう)じても余(あま)り有(あ)り。我(われ)又(また)、如何(いか)でか汝(なんぢ)が命(いのち)に変(か)はらざるべき。行者(ぎやうじや)を助(たす)けん。かたいしゆくの誓(ちか)ひは、地蔵(ぢざう)薩■(さつた)に限(かぎ)らず。うくる苦悩(くなう)を見(み)よ」と、あらたに霊験(れいげん)現(あらは)れければ、明王(みやうわう)の御頂(いただき)P299より、猛火(みやうくわ)ふすぼり出(い)で、五体(ごたい)をつつめ給(たま)ふ。たふとしとも、忝(かたじけな)し共(とも)言(い)ひ難(がた)し。即(すなは)ち、証空(しようくう)が苦悩(くなう)止(とど)まりけり。智興(ちこう)上人(しやうにん)も助(たす)かり給(たま)ふ事(こと)、有(あ)り難(がた)かりし例(ためし)なり。然(さ)れば、三井寺(みゐでら)に泣不動(なきふどう)とて、寺の重宝(ちようほう)の其(そ)の一(ひと)つ也(なり)。流(なが)させ給(たま)ひし御涙紅(くれなゐ)にして、御胸(むね)まで流(なが)れかかりて、今(いま)に有(あ)るとぞ承(うけたまは)り伝(つた)へたる。師匠(ししやう)の御恩(ごおん)は、斯様(かやう)にこそ重(おも)き事(こと)にて候(さうら)へ。
@〔鞠子川(まりこがわ)の事(こと)〕S0706N112
「寺(てら)を忍(しの)び出(い)で候(さうら)ひし時(とき)、権現(ごんげん)に御暇(おんいとま)をも申(まう)さず、まして、師匠(ししやう)にかくとも申(まう)さざりし事(こと)、今に其(そ)の恐(おそ)れ残(のこ)りて覚(おぼ)え候(さうら)ふ」と申(まう)したりければ、十郎(じふらう)も、「さこそ」とて、箱根路にぞかかりける。鞠子河(まりこがは)渡(わた)りけるが、手網(たづな)かいくり申(まう)しけるは、「わ殿(どの)三(み)つ、祐成五(いつ)つの年より、二十余の今まで、此(こ)の川(かわ)を一月に四五度づつも渡(わた)りつらん。如何(いか)なる日なれば、今(いま)渡(わた)りはてん事(こと)の哀(あは)れさよ。などや覧(らん)、いつよりも、此(こ)の川の水(みづ)濁(にご)りて候(さうら)ふ。心(こころ)許(もと)無(な)し」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)申(まう)す様(やう)、「皆人(みなひと)の冥途(めいど)におもむく時は、物(もの)の色変(か)はり候(さうら)ふ。我(われ)等(ら)が行(ゆ)くべき道、曾我(そが)を出(い)づるは、娑婆(しやば)を別るるにて候(さうら)ふ。此(こ)の川(かは)は、三途川(さんづかは)、湯坂峠(ゆざかのたうげ)は、死出(しで)の山、鎌倉(かまくら)殿(どの)は、閻魔王(えんまわう)、御前(ごぜん)祗候(しこう)の侍(さぶらひ)共は、獄卒阿防羅刹(ごくそつあはうらせつ)、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)は、P300善知識(ぜんぢしき)、箱根(はこね)の別当(べつたう)は、六道能化(のうけ)地蔵(ぢざう)菩薩(ぼさつ)と念(ねん)じ奉(たてまつ)る。此(こ)の川(かわ)の水(みづ)、色変(か)はると見(み)えてこそ候(さうら)へ」とて、駒(こま)打(う)ち入(い)れけるが、やや有(あ)りて、十郎(じふらう)、
五月雨(さみだれ)に浅瀬(あさせ)も知(し)らぬ鞠子川(まりこがわ)波(なみ)に争(あらそ)ふ我(わ)が涙(なみだ)かな W029
五郎(ごらう)聞(き)きて、歌(うた)の体(たい)悪(あ)しくや思(おも)ひけん、行縢(むかばき)鼓(つづみ)打(う)ちならし、かくぞ詠(えい)じける、
渡(わた)るより深(ふか)くぞ頼(たの)む鞠子川(まりこがわ)親(おや)の敵(かたき)に逢瀬(あふせ)と思(おも)へば W030
斯様(かやう)に思(おも)ひ連(つら)ね、通(とほ)る所(ところ)は阿弥陀のいんしゆ、かさまてら、湯本(ゆもと)の宿(しゆく)を打(う)ち過(す)ぎ、湯坂峠(ゆざかのたうげ)に駒(こま)をひかへ、弓杖(ゆんづゑ)つきて、申(まう)しけるは、「人生(う)まれて、三ケ国にてはつるとは、理(ことわり)也(なり)。我(われ)生(う)まるる所(ところ)は伊豆(いづ)の国(くに)、育(そだ)つ所(ところ)は、相模(さがみ)の国(くに)、最後所は駿河(するが)の国(くに)富士野裾野(すその)の露と消(き)えなん不思議(ふしぎ)さよ」。五郎(ごらう)聞(き)きて、「其(そ)の最後(さいご)所が大事(だいじ)にて候(さうら)ふぞ。心(こころ)得(え)給(たま)へ」といさむれば、古里(ふるさと)の名残(なごり)や惜(を)しかりけん、我(わ)が方(かた)の空(そら)をはるばるとながむれば、只(ただ)雲(くも)のみうすけぶり、何処(いづく)を其処(そこ)共(とも)知(し)らねども、「煙(けぶり)少(すこ)し見(み)えたるは、もし曾我(そが)にてや候(さうら)ふらん」。道三郎(だうざぶらう)、是(これ)を顧(かへり)みて、「煙(けぶり)は余所(よそ)にて候(さうら)ふ。其(そ)れよりも南のくろき森(もり)に、雲のかかりて候(さうら)ふこそ、曾我(そが)にて候(さうら)へ」と申(まう)しければ、古き事(こと)共(ども)の思(おも)ひ出(で)られて、
曾我林(そがはやし)霞(かすみ)なかけそ今朝(けさ)ばかり今(いま)を限(かぎ)りの道(みち)と思(おも)へば W031
と打(う)ちながめ、涙ぐみけり。五郎(ごらう)、此(こ)の有様(ありさま)を見(み)て、此(こ)の心(こころ)に同心(どうしん)しては、はかばかしきことあらじ、いさめばやと思(おも)ひければ、しかり声(ごゑ)に成(な)りて、「殿こそ、大磯(おほいそ)・小磯(こいそ)P301や古里(ふるさと)をもながめ給(たま)へ。時宗におきては、思(おも)ふ事(こと)こそ、忙(いそが)はしく候(さうら)へ」とて、駒(こま)引(ひ)き寄(よ)せ、掛(か)け出(い)だし、二町(ちやう)計(ばかり)掛(か)け通(とほ)りぬ。十郎(じふらう)、興(きよう)さめて思(おも)ひながら、駒(こま)掛(か)け出(い)だし、追(お)ひ付(つ)きけり。五郎(ごらう)又(また)、引(ひ)き下(さ)がりくどきけるは、「人界(にんがい)に生(しやう)をうくる者(もの)、誰かは後(あと)の名残(なごり)惜(を)しからで候(さうら)ふべき。鬼王(おにわう)・道三郎(だうざぶらう)が心(こころ)をも、御(おん)兼(か)ね候(さうら)へかし。彼(かれ)等(ら)をば、曾我(そが)へ返(かへ)し候(さうら)ふべし。此(こ)の事(こと)適(かな)ひて候(さうら)はば、申(まう)すに及(およ)ばず。し損(そん)ずる物(もの)ならば、此(こ)の人々(ひとびと)が、此処(ここ)にて歌(うた)を詠(よ)み、彼処(かしこ)にては詩(し)を詠(えい)じて、しもたてぬ事(こと)なんどあざけらんも、口惜(くちを)し。如何(いか)ばかりとか思(おぼ)し召(め)し候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、理(り)に攻(せ)められて、其(そ)の後、歌をも読(よ)まず、横目(よこめ)をもせで、打(う)ちける程(ほど)に、大崩(くづれ)にこそ付(つ)きけれ。
@〔二宮(にのみや)の太郎にあひし事(こと)〕S0707N113
道の末(すゑ)を見(み)渡(わた)しければ、馬(むま)乗(の)り五六騎(ごろつき)出(い)で来(き)たる。十郎(じふらう)見(み)て、「二宮(にのみや)殿(どの)と覚(おぼ)えたり。いざや、此(こ)の事(こと)一(ひと)はし語(かた)らん」と言(い)ふ。五郎(ごらう)聞(き)きて、余(あま)りの事(こと)なれば、返事(へんじ)もせず。やや有(あ)りて申(まう)しけるは、「如何(いか)で斯様(かやう)の大事(だいじ)、聟(むこ)には知(し)らせ候(さうら)ふべき。異姓(いしやう)他人(たにん)にては候(さうら)はずや。如何(いか)なる人か、世(よ)に無(な)き我(われ)等(ら)が死(し)にに行(ゆ)くと語(かた)らはんに、同意(どうい)する者(もの)や候(さうら)ふべき。対面(たいめん)計(ばかり)にて、御(おん)通(とほ)り候(さうら)へ」。十郎(じふらう)聞(き)きて、「御分(ごぶん)の心(こころ)を見(み)んとてこそ」と雑談(ざふたん)して、間(あひ)近(ちか)くなりP302ければ、此(こ)の人々(ひとびと)、馬(うま)より下(お)り、弓取(と)り直(なほ)し、色代(しきだい)す。「人々(ひとびと)、何処(いづく)へ行(ゆ)き給(たま)ふぞや」「鎌倉(かまくら)殿(どの)、富士野御狩(みかり)と承(うけたまわり)、狩座(かりくら)の体(てい)見(み)参(まゐ)らせて、末代(まつだい)の物語(ものがたり)にと思(おも)ひ立(た)ちて、罷(まか)り出(い)で候(さうら)ふ」と申(まう)す。義実(よしざね)聞(き)きて、「哀(あは)れ、人々(ひとびと)、無用(むよう)の見物(けんぶつ)かな。馬・鞍(くら)見(み)苦(ぐる)しくての見物(けんぶつ)、然(しか)るべからず。是(これ)より帰(かへ)り給(たま)へ。某(それがし)をも、御供(おんとも)と申(まう)されつるを、見(み)苦(ぐる)しさに、風気(かざけ)の由(よし)、梶原(かぢはら)が方(かた)へ申(まう)して遣(つか)はし候(さうら)ふぞ。面々(めんめん)も、只(ただ)是(これ)より帰(かへ)り給(たま)ひて、二宮(にのみや)に逗留(とうりう)し、笠懸(かさかけ)など射(い)て、遊(あそ)び給(たま)へ」と申(まう)しければ、十郎(じふらう)、「もつ共(とも)畏(かしこ)まり存(ぞん)じ候(さうら)へ共(ども)、斯様(かやう)の事(こと)、有(あ)り難(がた)し、見物(けんぶつ)と存(ぞん)じ、既(すで)に思(おも)ひ立(た)ち候(さうら)ふ。馬は山をば引(ひ)かせ候(さうら)ふべし。帰(かへ)りには参(まゐ)り、しばし逗留(とうりう)仕(つかまつ)り候(さうら)ふべし。まうけ肴(さかな)御用意(ごようい)候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「此(こ)の上(うへ)は、御(おん)帰(かへ)りをこそ待(ま)ち申(まう)すべし」とて、馬(うま)引(ひ)き寄(よ)せ打(う)ち乗(の)り、東西(とうざい)へ打(う)ち別(わか)れけり。只(ただ)世(よ)の常(つね)とは思(おも)へ共(ども)、是(これ)ぞ最後なりける。扨(さて)も、我(われ)等(ら)討(う)ち死(じ)にの後、形見(かたみ)共(ども)送(おく)りなん。其(そ)の時(とき)、男子(をのこご)なりせば、一道にこそ成(な)るべきに、女(をんな)の身(み)の悲(かな)しさは、其(そ)れこそ適(かな)はずとも、道より最後(さいご)のことづてだにも無(な)かりつるよと恨(うら)み給(たま)はん事(こと)、疑(うたが)ひ無(な)し。志(こころざし)の程(ほど)こそ、無慙(むざん)なれ。
@〔矢立(やたて)の杉(すぎ)の事(こと)〕S0708N114P303
「とても捨(す)つべき命、遅速(ちそく)同(おな)じ事(こと)也(なり)。さりぬべき便宜(びんぎ)もこそあらめ、一時も急(いそ)げや」とて、駒(こま)め早(はや)めて打(う)つ程(ほど)に、矢立(やたて)の杉(すぎ)にぞつきにける。此(こ)の杉(すぎ)と申(まう)すは、もとは湯本(ゆもと)の杉(すぎ)と言(い)ひけるを、九州(きうしう)に阿蘇(あそ)の平(へい)権守(ごんのかみ)とて、虎狼臣(こらうしん)有(あ)り。九国を打(う)ち従(したが)へて、きちやうする事(こと)、四か年也(なり)。軍(いくさ)する事(こと)、五十余度也(なり)。其(そ)の時(とき)、生年(しやうねん)七十二歳(さい)也(なり)。剰(あまつさ)へ天下(てんが)を悩(なや)まし奉らんとて、国(くに)を催(もよほ)す聞(き)こえ有(あ)りければ、六孫王(ろくそんわう)の御時(とき)、其(そ)の討手(うつて)の為(ため)に、関東(くわんとう)の兵を召(め)されて上(のぼ)りしに、此(こ)の杉(すぎ)のもとに下(お)り居(ゐ)て、祈(いの)りけるは、「九州(きうしう)に下(くだ)り、権守(ごんのかみ)を打(う)ち従(したが)へ、難無(な)く都に帰(かへ)り上(のぼ)り、名を後代(こうたい)に上(あ)ぐべくは、一(いち)の矢受(う)け取(と)り給(たま)へ」とて、各(おのおの)射(い)けるに、一人も射(い)損(そん)ぜず。扨(さて)、筑紫(つくし)に下(くだ)り、合戦(かつせん)するに、難(なん)無(な)く打(う)ち勝(か)つて、帰(かへ)り上(のぼ)りぬ。其(そ)の時よりして、矢立(やたて)の杉(すぎ)と申(まう)しけり。「門出(かどいで)めでたき杉とて、上下旅人(たびびと)、心(こころ)有(あ)るも無(な)きも、此(こ)の木(き)に上矢(うはや)を参(まゐ)らせぬは無(な)し。況(いはん)や、我(われ)等(ら)、思(おも)ふ事(こと)有(あ)りて行(ゆ)く者(もの)ぞかし。如何(いか)で、上矢(うはや)を参(まゐ)らせざらんとて、十郎(じふらう)、一(いち)の枝(えだ)に止(とど)む。五郎(ごらう)は、二の枝(えだ)にぞ射(い)たてたる。何(なに)と無(な)く射(い)留(とど)めけれ共(ども)、十郎(じふらう)は、宵(よひ)に打(う)たれ、五郎(ごらう)は、朝(あした)切(き)られにけり。此(こ)の瑞相(ずいさう)現(あらは)れて、一二の枝(えだ)の隔(へだ)て、不思議(ふしぎ)也(なり)とて、思(おも)ひ合(あ)はせける。さて、駒(こま)を早(はや)めて打(う)つ程(ほど)に、箱根の御山にぞ付(つ)きにける。
P304曾我物語巻第八
@〔箱根にて暇乞(いとまごひ)の事(こと)〕S0801N116
抑(そもそも)、彼(か)の箱根山と申(まう)すは、関東(くわんとう)第一(だいいち)の霊山(れいさん)なり。後(うし)ろには、高山(かうざん)峨々(がが)と連(つら)なりて、真如(しんによ)の月影(かげ)を宿(やど)す。前には、生死(しやうじ)の海漫々(まんまん)として、波煩悩(ぼんなう)の垢(あか)をすすげば、無始(むし)の罪障(ざいしやう)も消滅(せうめつ)すと覚(おぼ)えたり。本地文殊師利菩薩(ほんぢもんじゆしりぼさつ)、衆生(しゆじやう)を化度(けど)し給(たま)へば、有為(うゐ)の都(みやこ)と名付(なづ)けたり。然(さ)れば、一度縁(えん)を結(むす)ぶ者(もの)は、長(なが)く悪所に落(お)とさじと誓(ちか)ひ給(たま)ふ事(こと)、頼(たの)もしくぞ覚(おぼ)えける。此(こ)の人々(ひとびと)は、御前(おんまへ)に参(まゐ)り、「帰命(きみやう)頂礼(ちやうらい)、願(ねが)はくは、浄土(じやうど)に向(む)かへ取(と)り給(たま)へ。時致(ときむね)十一より、此(こ)の御山に参(まゐ)り、今(いま)に至(いた)るまで、毎日(まいにち)に三巻(さんぐわん)づつ、普門品(ふもんぼん)怠(おこた)らず読(よ)み奉(たてまつ)るも、只(ただ)此(こ)の為(ため)なり。哀(あは)れみ給(たま)へ」と念誦(ねんじゆ)して、別当(べつたう)の坊(ばう)へぞ行(ゆ)きたりける。 行実(ぎやうじつ)、やがて出(い)で合(あ)ひ給(たま)ひて、古(いにしへ)今の物語(ものがたり)し給(たま)ふ。「男(をとこ)になり給(たま)へばとて、昔(むかし)に代(か)はりて思(おも)ふべきにあらず、御身(おんみ)こそよそがましくし給(たま)へ、面々(めんめん)の心中(しんちゆう)、始(はじ)めより詳(くは)しくP305知(し)りて候(さうら)ふぞ。哀(あは)れにのみこそ思(おも)ひ奉(たてまつ)れ。如何(いか)でか恨(うら)み申(まう)すべき。人に頼(たの)まるる事(こと)は、在家(ざいけ)出家(しゆつけ)によるべからず、愚僧(ぐそう)も、年だに若(わか)く候(さうら)はば、などかは頼(たよ)りにならざるべき」とて、墨染(すみぞめ)の袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)て、さめざめと泣(な)き給(たま)へば、十郎(じふらう)承(うけたまは)り、「御意(ぎよい)は、畏(かしこ)まり入(い)り候(さうら)へ共(ども)、更(さら)に野心(やしん)の候(さうら)はず。時宗も、其(そ)の後、やがて罷(まか)り上り、男(をとこ)に成(な)りて候(さうら)ふ怠(おこた)りをも申(まう)すべきにて候(さうら)ひしを、母(はは)には不孝(ふけう)せられ候(さうら)ひぬ。又(また)、恐(おそ)れをなし奉(たてまつ)る故(ゆゑ)、今におそなはり候(さうら)ふ」。別当(べつたう)聞(き)き給(たま)ひ、「祈祷(きたう)は頼(たの)もしく思(おも)ひ給(たま)へ。千騎万騎の方人(かたうど)と思(おぼ)し召(め)せとて、酒(さけ)取(と)り出(い)だして、三三九度(ど)すすめ給(たま)ひつつ、 「何(なに)を以(もつ)てか、方々(かたがた)の門出(かどいで)いははん」とて、鞘巻(さやまき)一腰(こし)取(と)り出(い)だし、十郎(じふらう)に引(ひ)かれけり。「此(こ)の刀(かたな)と申(まう)すは、木曾(きそ)義仲(よしなか)の三代相伝(さうでん)とて、三(み)つの宝(たから)有(あ)り。第一(だいいち)に、竜王(りゆうわう)作の長刀(なぎなた)、第二(だいに)に、雲落(お)としと言(い)ふ太刀、第三に、此(こ)の刀也(なり)。名をば微塵(みぢん)と言(い)ふ。通(とほ)らぬ物無(な)ければなり。然(さ)れば、此(こ)の三(み)つの宝(たから)を秘蔵(ひさう)して持(も)たれたり。御子清水(きよみづ)御曹司(ざうし)、鎌倉(かまくら)殿(どの)の聟(むこ)になり給(たま)ひて、国(くに)の大将軍(たいしやうぐん)賜(たま)はりて、海道(かいだう)を攻(せ)め上り給(たま)ひ候(さうら)ふ由(よし)聞(き)こえければ、彼(か)の宝(たから)を祈(いの)りの為(ため)とて、此(こ)の御山へ参(まゐ)らせらる。宝殿(ほうでん)の事(こと)は、一向(いつかう)別当(べつたう)の計(はから)ひたるに依(よ)りて、是(これ)を御分(ごぶん)に奉(たてまつ)る。高名(かうみやう)し給(たま)へ」とて、引(ひ)かれけり。五郎(ごらう)には、兵庫鎖(ひやうごくさり)の太刀(たち)を一振(ふ)り取(と)り出(い)だし、引(ひ)かれけり。「此(こ)の太刀(たち)と申(まう)すは、昔(むかし)頼光(らいくわう)の御時(とき)、大国(たいこく)よりぶあく大夫(たいふ)と言(い)ふ莫耶(ばくや)を召(め)し、三ケ月に作(つく)らせ、一月にみがかせ二尺(しやく)八寸(すん)に打(う)ち出(い)だす。P306秘蔵(ひさう)並(なら)ぶ物無(な)くして持(も)たれける。或(あ)る時(とき)、此(こ)の太刀(たち)を枕にたてられし時(とき)、俄(にはか)に雨風ふきて、此(こ)の太刀(たち)をふき動(うご)かしければ、刃風(はかぜ)に、側(そば)なりける草紙(さうし)三帖(でう)が紙(かみ)数七十枚(まい)きれたりけり。頼光(らいくわう)、てうかと名付(なづ)けて持(も)たれたり。其(そ)れより、河内守(かはちのかみ)頼信(よりのぶ)のもとへ譲(ゆづ)られぬ。其(そ)れにての不思議(ふしぎ)に、此(こ)の太刀(たち)をぬかれければ、四方(しはう)五段(たん)ぎりの虫(むし)も、翼(つばさ)もきれ落(お)ちにければ、虫(むし)ばみとぞ付(つ)けられける。其(そ)れより、頼義(らいぎ)のもとへ譲(ゆづ)られたり。其(そ)れにての不思議(ふしぎ)には、折々(をりをり)御所(ごしよ)中(ぢゆう)震動(しんどう)して、人死(し)にうする事(こと)、度々なり。或(あ)る時(とき)、頼義(らいぎ)、此(こ)の太刀(たち)を枕(まくら)にたてられしに、例(れい)の如(ごと)くに、雷電(らいでん)はげしくして、御所(ごしよ)中(ぢゆう)騒(さわ)がし。此(こ)の太刀(たち)、己(おのれ)とぬけ出(い)でて、大地(だいぢ)一丈(いちぢやう)が底(そこ)に入(い)り、斯(か)かる悪事仕(つかまつ)る大蛇(だいじや)の尾頭(をかしら)九尋(いろ)有(あ)りけるを、四(よ)つにこそは切(き)りたりける。其(そ)の後よりぞ、御所(ごしよ)中(ぢゆう)の狼籍(らうぜき)も止(とど)まりける。あやしみて、跡(あと)を尋(たづ)ね尋(たづ)ねて見(み)給(たま)へば、斯(か)かる不思議(ふしぎ)をしたりければ、毒蛇(どくじや)と名付(なづ)けて、持(も)たれたり。其(そ)れよりして、八幡(はちまん)殿(どの)へ譲(ゆづ)られける。其(そ)れにての不思議(ふしぎ)には、其(そ)の頃(ころ)、宇治(うぢ)の橋姫(はしひめ)の、あれて人を取(と)ると。或(あ)る夕暮(ゆふぐれ)に、八満(はちまん)殿(どの)、宇治(うぢ)へ参(まゐ)られけるに、人の申(まう)すに違(たが)はず、川(かわ)の水(みづ)波しきりにして、十八九計(ばかり)なる美女(びぢよ)一人、橋(はし)の上に上(あ)がりて、八満(はちまん)殿(どの)を馬(むま)よりいだき下(お)ろし、川(かわ)の中(なか)へ入(い)れんとす。彼(か)の太刀(たち)、己(おのれ)とぬけ出(い)でて、橋姫(はしひめ)の弓手(ゆんで)の腕(かひな)を切(き)り落(お)とす。力(ちから)及(およ)ばず、川(かは)へ飛(と)び入(い)りぬ、其(そ)れより、宇治(うぢ)の狼籍(らうぜき)も止(とど)まりけり。然(しか)れば、此(こ)の太刀(たち)、姫切(ひめきり)と名付(なづ)けて、持(も)たれたり。其(そ)れより、P307六条(ろくでう)の判官(はんぐわん)為義(ためよし)のもとへ譲(ゆづ)られたる。其(そ)れにての奇特(きどく)には、此(こ)の太刀(たち)に六寸(ろくすん)ばかり勝(まさ)りたる太刀を立(た)て添(そ)へて置(お)かれたり。夜(よ)に入(い)りぬれば、切(き)り合(あ)ひける。判官(はんぐわん)、此(こ)の由(よし)聞(き)き給(たま)ひて、予(かね)てより様(よう)有(あ)る物(もの)をとて、五夜までこそ立(た)て添(そ)へて置(お)かれけれ。五夜の間(あひだ)、隙無(な)く戦(たたか)ひて、六夜と申(まう)すに、我(わ)が寸(すん)に勝(まさ)りたるを、安(やす)からずとや思(おも)ひけん、余(あま)る六寸(ろくすん)を切(き)り落(お)とす。然(さ)れば、友切(ともきり)と名付(なづ)けて、持(も)たれたり。源氏(げんじ)重代(ぢゆうだい)にも伝(つた)ふべかりしを、保元(ほうげん)の合戦(かつせん)に、為義(ためよし)切(き)られ給(たま)ひ、嫡子(ちやくし)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の手(て)へ渡(わた)りけるに、仏法(ぶつぽふ)守護(しゆご)の仏とて、鞍馬(くらま)の毘沙門(びしやもん)に込(こ)め給(たま)ふ。然(さ)れども、過(す)ぎにし合戦(かつせん)に、父(ちち)を切(き)り給(たま)ひしかば、多聞(たもん)も受(う)けずや思(おぼ)し召(め)しけん、合戦(かつせん)に打(う)ち負(ま)け、東国(とうごく)差(さ)して落(お)ち給(たま)ふ。尾張(をはり)の国(くに)知多郡(ちたのこほり)野間(のま)の内海(うつみ)と言(い)ふ所(ところ)にて、相伝(さうでん)の家人鎌田兵衛(かまだびやうゑ)正清(まさきよ)が舅(しうと)、長田(をさだ)の四郎(しらう)忠致(ただむね)に打(う)たれ給(たま)ひて後、伝(つた)ふべき人無(な)かりしに、義朝(よしとも)の末(すゑ)の子九郎判官(はんぐわん)殿(どの)、未(いま)だ牛若殿(うしわかどの)にて、鞍馬(くらま)の東光坊(とうくわうばう)のもとに、学問(がくもん)して御座(おは)しけるが、如何(いか)にして聞(き)き給(たま)ひけん、折々、毘沙門(びしやもん)に参(まゐ)り、「帰命(きみやう)頂礼(ちやうらい)、願(ねが)はくは、父義朝(よしとも)の太刀、此(こ)の御山に込(こ)められて候(さうら)ふ。父(ちち)の形見(かたみ)に、一目(ひとめ)見(み)せしめ給(たま)へ」と、祈念(きねん)申(まう)されければ、多聞(たもん)、哀(あは)れとや思(おぼ)しけん、此(こ)の太刀(たち)を下(くだ)し給(たま)ふと、夢想(むさう)を蒙(かうぶ)り、喜(よろこ)びの思(おも)ひをなし、急(いそ)ぎ参(まゐ)りて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)へば、現(うつつ)に御戸(と)開(ひら)き、此(こ)の太刀有(あ)り。盗(ぬす)み出(い)だし、深(ふか)く隠(かく)し置(お)きて、十三になり給(たま)ひける年(とし)、相伝(さうでん)の郎等(らうどう)、奥州(あうしう)の秀衡(ひでひら)を頼(たの)み、P308商人(あきんど)に伴(ともな)ひて、下(くだ)り給(たま)ひけるに、美濃(みの)の国(くに)垂井(たるゐ)の宿にて、商人(あきうど)の宝(たから)を取(と)らんとて、夜討(ようち)の多(おほ)く入(い)りたりしか共(ども)、おきあふ者(もの)も無(な)かりしに、牛若殿(うしわかどの)一人おき合(あ)ひ、究竟(くつきやう)の兵(つはもの)十二人切(き)り止(とど)め、八人に手(て)を仰(おほ)せて、多(おほ)くの強盗(がうだう)追(お)つ返(かへ)す、高名(かうみやう)したる太刀也(なり)とて、奥州(あうしう)まで秘蔵(ひさう)せられけるに、十九の年(とし)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)謀叛(むほん)を起(お)こし給(たま)ふと聞(き)こし召(め)し、鎌倉(かまくら)に上り、見参(げんざん)に入(い)り、幾程(いくほど)無(な)くして、西国(さいこく)の大将軍(たいしやうぐん)にて、発向(はつかう)せられけるに、今度(こんど)の合戦(かつせん)に打(う)ちかたせ給(たま)へとて、此(こ)の御山へ参(まゐ)らせられ給(たま)ひて候(さうら)ふ。自然(しぜん)に僻事(ひがこと)し出(い)だし候(さうら)ひて、上(かみ)より御(おん)尋(たづ)ねあらば、法師(ほふし)が御辺(へん)に奉(たてまつ)りて、狼籍(らうぜき)なりと、御不審(ふしん)あらん時(とき)は、京(きやう)に上(のぼ)り、四条町(でうまち)にてかひ取(と)りたる由(よし)申(まう)さるべし。御分(ごぶん)男(をとこ)になり給(たま)へば、今は見参(げんざん)には入(い)りたくは無(な)けれども、志(こころざし)を思(おも)ひ遣(や)られて、哀(あは)れなるぞとよ。祈祷(きたう)頼(たの)もしく思(おも)ひ給(たま)へ。此(こ)の法師(ほつし)が息(いき)の通(かよ)はん程(ほど)は、明王(みやうわう)攻(せ)め奉(たてまつ)らんに、何(なに)の疑(うたが)ひか有(あ)るべき」と宣(のたま)ひける。時致(ときむね)承(うけたまは)りて、「仰(おほ)せ忝(かたじけな)けれ共(ども)、更(さら)に野心(やしん)の儀(ぎ)は候(さうら)はず。御不審(ふしん)の条(でう)、もつともにて候(さうら)へども、恐(おそ)れ奉(たてまつ)りて参(まゐ)らぬなり。狩場(かりば)よりの帰(かへ)りには、参(まゐ)るべく候(さうら)ふ。又は、思(おぼ)し召(め)し合(あ)はする事(こと)も候(さうら)ひなん」とて、罷(まか)り立(た)ち、然(さ)らぬ体(てい)にはもてなせども、今(いま)を限(かぎ)りなれば、忍(しの)びの涙(なみだ)を流(なが)しける。別当(べつたう)も、縁(えん)まで立(た)ち出(い)で給(たま)ひて、はるばる見(み)送(おく)りつつ、名残(なごり)惜(を)しくぞ思(おも)はれける。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、駒(こま)に鞭(むち)を上(あ)げて、急(いそ)がれける程(ほど)に、三島(みしま)P309近(ちか)く成(な)り、
@〔三嶋にて笠懸(かさかけ)いし事(こと)〕S0802N119
十郎(じふらう)、道にて申(まう)しけるは、「只今(ただいま)の別当(べつたう)の御(おん)言葉(ことば)、偏(ひとへ)に御託宣(たくせん)と覚(おぼ)えたり。其(そ)の上、我(われ)等(ら)に権現(ごんげん)より剣(つるぎ)一(ひと)つづつ賜(たま)はり候(さうら)ふ上(うへ)は、今度(こんど)敵(かたき)を打(う)たん事(こと)、疑(うたが)ひ有(あ)るべからず」と喜(よろこ)びて、三島(みしま)の大明神(だいみやうじん)の御前(ごぜん)にこそつきにけれ。此(こ)の人々(ひとびと)、畳紙(たたふがみ)をはさみ、七番づつの笠懸(かさかけ)を射(い)て、法楽(ほふらく)し奉(たてまつ)り、敵(かたき)の事(こと)、心(こころ)の儘(まま)にぞ祈(いの)られける。「誠(まこと)、思(おも)ふ事(こと)適(かな)はずは、我(われ)等(ら)敵(かたき)の手(て)に掛(か)けて、足柄(あしがら)を東へ二度返(かへ)し給(たま)ふべからず、南無(なむ)三嶋大明神(だいみやうじん)」とぞ念(ねん)じける。皆人(みなひと)、神(かみ)や仏(ほとけ)に参(まゐ)りては、或(ある)いは寿命(じゆみやう)長遠(ちやうおん)と祈(いの)り、諸病悉除(しよびやうしつじよ)とこそ祈(いの)るに、此(こ)の人々(ひとびと)の明(あ)け暮(く)れは、「父(ちち)の為(ため)、命を召(め)せ」とのみ申(まう)しけるこそ、無斬(むざん)なる。斯様(かやう)の事(こと)共(ども)をも、最後の文(ふみ)に詳(くは)しく書(か)きて、富士(ふじ)より曾我(そが)へぞ返(かへ)しける。母(はは)見(み)給(たま)ひて、五つや三(み)つより思(おも)ひ寄(よ)りけるとも知(し)られける。 さても、御寮(れう)は、浮島(うきしま)が原(はら)に御座の由(よし)承(うけたまは)り、曾我(そが)兄弟(きやうだい)も、急(いそ)ぎ追(お)つ付(つ)き奉(たてまつ)りぬ。其(そ)の夜、其(そ)れにて、便宜(びんぎ)を狙(ねら)へ共(ども)、用心(ようじん)隙(ひま)も無(な)かりければ、力(ちから)無(な)し。其(そ)の夜(よ)も、其処(そこ)にて窺(うかが)へども、北条(ほうでう)殿(どの)の警固(けいご)にて、隙(ひま)も無(な)し。P310
@〔富士野(ふじの)の狩場(かりば)への事(こと)〕S0803N121
御寮(れう)は、合沢(あひざは)の御所(ごしよ)に坐(ま)しましける。梶原(かぢはら)源太(げんだ)左衛門(さゑもん)を召(め)して、仰(おほ)せ下(くだ)されけるは、「昨日(きのふ)の狩場(かりば)より、富士野はひろければ、勢子(せこ)少(すく)なくては適(かな)ふまじ。其(そ)の由(よし)、相(あひ)ふれよ」。承(うけたまは)りて、人々(ひとびと)にふれ、射手(いて)を揃(そろ)へけり。先(ま)づ武蔵(むさし)の国(くに)には、畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)次郎(じらう)重忠(しげただ)、三浦(みうら)和田(わだ)の左衛門(さゑもん)義盛(よしもり)、三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)、下総国(しもつふさ)の国(くに)には、千葉介(ちばのすけ)、古郡(ふるこほり)左衛門(さゑもん)兼忠(かねただ)、武田(たけだ)の太郎信義(のぶよし)、下野(しもつけ)の国(くに)には、宇都宮(うつのみや)の弥三郎(やさぶらう)朝綱(ともつな)、横山(よこやま)の藤馬允(とうまのじよう)、相模(さがみ)の国(くに)に、松田(まつだ)、川村の人々(ひとびと)を先(さき)として、以上、三百余人(よにん)なり。若侍(わかさぶらひ)には、畠山(はたけやま)の二郎(じらう)重保(しげやす)、梶原(かぢはら)源太(げんだ)左衛門(さゑもん)景季(かげすゑ)、朝比奈(あさいな)の三郎(さぶらう)義秀(よしひで)、同(おな)じく彦太郎(ひこたらう)、御所(ごしよ)の太郎、毛利(もり)の五郎(ごらう)、林(はやし)の四郎(しらう)、小山(をやま)の三郎(さぶらう)、葛西(かさい)の六郎(ろくらう)、板垣(いたがき)の弥三郎(やさぶらう)、本間(ほんま)の彦七(ひこしち)、渋谷(しぶや)の小五郎(ごらう)、愛甲(あいきやう)の三郎(さぶらう)を始(はじ)めとして、四百五十余人(よにん)なり。総(そう)じて、弓持(も)ち、馬(うま)に乗(の)る侍(さぶらひ)、三百万騎も有(あ)るらんと見(み)えし。其(そ)の後、勢子(せこ)を山へ入(い)れけるに、東は足柄(あしがら)の峰(みね)をさかひ、北は富士野裾野(すその)を限(かぎ)り、西は富士川(ふじがは)を際(きは)として、引(ひ)きまはされけり。勢子(せこ)は、雲霞(うんか)の如(ごと)し。峰(みね)に上(のぼ)り、谷(たに)に下(くだ)り、野干(やかん)を平野(ひらの)に追(お)ひ下(くだ)し、思(おも)ひ思(おも)ひに射(い)止(とど)めけり。御寮(れう)の其(そ)の日の御装束(しやうぞく)には、羅綺(らき)の重衣(ちようい)の富士松(ふじまつ)の、風折(かざをり)したる立烏帽子(たてえぼし)、御狩衣(かりぎぬ)は柳(やなぎ)色、大紋(もん)のP311指貫(さしぬき)に、熊(くま)の皮(かは)の行縢(むかばき)、芝打長(しばうちなが)に召(め)し、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(うま)の五尺(しやく)に余(あま)りたるに、白鞍(しろくら)置(お)かせ、厚総(あつぶさ)の鞦(しりがひ)掛(か)けてぞ召(め)されたる。御剣(けん)の役(やく)、江戸(えど)の太郎、御笠(かさ)の役(やく)は、豊島(としま)の新五郎(ごらう)、沓(くつ)の役(やく)は、小山(をやま)の五郎(ごらう)、御敷皮(しきがは)、金子(かねこ)の十郎なり。其(そ)の外(ほか)、一人(いちにん)当千(たうぜん)の兵(つはもの)六七百人、御馬まはりと見(み)えたりし。其(そ)の中に、殊(こと)にすぐれて見(み)えたりしは、五郎丸(ごらうまる)なり。萌黄威(もよぎをどし)の胴丸(どうまろ)に、一尺(しやく)八寸(すん)の大刀差(さ)し、四尺(しやく)八寸(すん)の太刀をはき、鉄(くろがね)の棒(ぼう)の、三人して持(も)ちけるを、本(もと)かろげにつきて、御馬の先(さき)にぞ立(た)ちたりける。御陣(ぢん)の左右(さう)には、和田(わだ)・畠山(はたけやま)、何(いづれ)も鷹(たか)をぞ据(す)ゑさせける。馬(むま)うち静(しづ)かにして、又(また)並(なら)ぶ人無(な)くぞ見(み)えし。其(そ)の外(ほか)、数千騎の出立(いでたち)、花(はな)ををり、月を招(まね)く装(よそほ)ひ、ひろき富士野も、所無(な)く見(み)えし。かくて、山より鹿(しか)共多(おほ)く追(お)ひ下(お)ろし、思(おも)ひ思(おも)ひに止(とど)めて、御寮(れう)の御見参(ごげんざん)にぞ入(い)れにける。畠山(はたけやま)の六郎(ろくらう)重保(しげやす)、左手(ゆんで)右手(めて)に相(あひ)付(つ)けて、鹿(しか)二頭(かしら)止(とど)む。宇都宮(うつのみや)は、五頭(かしら)、一条(いちでう)・板垣(いたがき)、五頭(かしら)、武田(たけだ)・小山(をやま)の人々(ひとびと)も、五頭(かしら)こそ止(とど)めけれ。其(そ)の狩場(かりば)の物数(かず)は、此(こ)の人々(ひとびと)とぞ聞(き)こえし。此処(ここ)に、葛西(かさい)の六郎(ろくらう)清重(きよしげ)、日の暮(く)れ方(がた)に至(いた)るまで、鹿(しか)一頭(かしら)も止(とど)めずして、勢子(せこ)にもるる鹿(しか)もやと、しげみしげみに、目(め)を懸(か)けてまはりける折節(をりふし)、左手(ゆんで)のしげみより、鹿(しか)一頭(かしら)出(い)で来(き)たる。願(ねが)ふ所(ところ)と見(み)渡(わた)せば、矢(や)ごろに少(すこ)しのびたり。鐙(あぶみ)に鞭(むち)を打(う)ち添(そ)へて、下(くだ)り様(さま)にぞ落(お)としける。既(すで)に二三段(だん)ぎり違(ちが)へて、弓(ゆみ)打(う)ち上(あ)げて、引(ひ)かんとする所(ところ)に、思(おも)はぬ岩石(がんぜき)に馬を乗(の)り掛(か)けて、四足(あし)一(ひと)つに立(た)て兼(か)ねて、わななきP312てこそ立(た)ちたりけり。下(お)ろすべき様(やう)も無(な)く、又(また)上(のぼ)すべき所(ところ)も無(な)く、進退(しんだい)此処(ここ)にきはまれり。上下万民(ばんみん)、是(これ)を見(み)て、只(ただ)、「それそれを」とぞ申(まう)しける。今は、馬人諸(もろ)共(とも)に、微塵(みぢん)に成(な)るとぞ見(み)えたりける。清重(きよしげ)、手綱(たづな)を静(しづ)かに取(と)り、とねりなしを結(むす)びおき、かがみの鞭(むち)を打(う)ち添(そ)へて、二(ふた)つ一(ひと)つの捨(す)て手綱(たづな)はちて、後(うし)ろに下(お)り立(た)つたり。馬は、手綱(たづな)を捨(す)てられて、まなごと共(とも)に落(お)ちて行(ゆ)く。主(ぬし)は、つきたる弓の本(もと)、岩角(いはかど)にゑりたてて、しばしこらへて、立(た)ちなほる。諸人(しよじん)、目をこそ澄(す)ましけれ。「乗(の)りたり、下(お)りたり、すへたりや、こらへたり」と、しばしなりも鎮(しづ)まらず。君(きみ)の、御感(ぎよかん)の余(あま)りにや、常陸(ひたち)の国(くに)小栗庄(おぐりのしやう)三千七百町(ちやう)下(くだ)されけり。時の面目(めんぼく)、日の高名(かうみやう)、何事(なにごと)か是(これ)にしかんと、感(かん)ぜぬ人こそ無(な)かりけれ。 斯(か)かる所(ところ)に、上(うへ)のしげみより、鹿(しか)一頭(かしら)出(い)で来(き)たり、梶原(かぢはら)源太(げんだ)ひかへたる左手(ゆんで)を取(と)つてぞ下(くだ)りける。景季(かげすゑ)、幸(さいは)ひにやと喜(よろこ)びて、鹿矢(ししや)を打(う)ちつがひ、よつぴいてはなつ。おつさま、筋(すぢ)違(ちが)ひに首(くび)を掛(か)けずつつとぞ射(い)抜(ぬ)きたる。され共(ども)、鹿(しか)は物(もの)ともせず、思(おも)ふしげみに飛(と)び下(くだ)り、二の矢を取(と)つてつがひ、鞭(むち)打(う)ち下(くだ)す所(ところ)に、伏木(ふしき)に馬(むま)を乗(の)り掛(か)けて、足並(あしなみ)乱(みだ)るる所(ところ)に、下(お)り立(た)ちて馬(うま)ひつ立(た)つ。其(そ)の隙に、畠山(はたけやま)の六郎(ろくらう)重保(しげやす)、馳(は)せ並(なら)べて、よつぴいてはなつ。源太(げんだ)には、したたかにいられぬ。鹿(しし)は、少(すこ)しも働(はたら)かず、二(ふた)つの矢(や)にてぞ止(とど)まりける。重保(しげやす)、馬(うま)打(う)ち寄(よ)せ見(み)る所(ところ)に、源太(げんだ)が馬も掛(か)け寄(よ)せP313て、「其(そ)の鹿(しし)は、景季(かげすゑ)が止(とど)めて候(さうら)ふぞ」。重保(しげやす)聞(き)きて、「心(こころ)得(え)ぬ事(こと)を宣(のたま)ふ物(もの)かな。鹿(しし)は、重保(しげやす)が矢(や)一(ひと)つにて止(とど)めたる鹿(しか)を、誰人(たれびと)か主(ぬし)有(あ)るべき」。源太(げんだ)、弓取(と)り直(なほ)し、あざ笑(わら)ひて申(まう)す様(やう)、「狩場(かりば)の法(ほふ)定(さだ)まれり。一(いち)の矢、二の矢(や)の次第(しだい)有(あ)り。矢目(やめ)は二(ふた)つもあらばこそ、一二の論(ろん)も有(あ)るべけれ」。景季(かげすゑ)も、まさしく射(い)つる物(もの)をとて見(み)れば、実(げ)にも矢目(やめ)は一(ひと)つならでは無(な)かりけり。さりながら、抑(おさ)へて取(と)らるる物(もの)ならば、時の恥辱(ちじよく)に思(おも)ひければ、源太(げんだ)、大(おほ)きに怒(いか)りをなし、「勢子(せこ)の奴(やつ)原(ばら)は無(な)きか。よりて此(こ)の鹿(しし)取(と)れ」。重保(しげやす)も、駒(こま)打(う)ち寄(よ)せ、「雑人(ざふにん)は無(な)きか。重保(しげやす)が止(とど)めたる鹿(しし)の皮(かは)たて」。源太(げんだ)も、然(さ)る者(もの)なりければ、少(すこ)しもひるむ気色(けしき)は無(な)し。「臆(おく)したる奴(やつ)原(ばら)かな。景季(かげすゑ)が止(とど)めたる鹿(しか)の皮(かは)たて、書(か)きて取(と)れ」。重保(しげやす)、然(さ)らぬ体(てい)にて、駒(こま)掛(か)けまはし、「雑色(ざふしき)共(ども)は、など鹿(しか)をば取(と)らぬぞ」と、はや事実(じじつ)なる詰論(つめろん)なり。源太(げんだ)、手綱(たづな)かいくり、駒(こま)打(う)ち寄(よ)せ、小声(こごゑ)に成(な)りて言(い)ふ様(やう)、「恋路(こひぢ)に迷(まよ)ふ隠(かく)し文、遣(や)る者(もの)こそ主(ぬし)候(さうら)ふよ」。重保(しげやす)聞(き)きて、「やさしく宣(のたま)ふ例(たと)へかな。思(おも)ひの色の数、読(よ)まで空(むな)しく返(かへ)すには、返(かへ)し得(え)たるぞ、主(ぬし)と成(な)る」。源太(げんだ)打(う)ち笑(わら)ひ、「吉野(よしの)・立田(たつた)の花紅葉(もみぢ)、誘(さそ)ふ嵐(あらし)は主(ぬし)ならずや」。重保(しげやす)聞(き)きて、「言(い)はれずや、誘(さそ)ふ嵐(あらし)も其(そ)の儘(まま)に、遂(つひ)につれて行(ゆ)かばこそと宣(のたま)ふ。立田の川波(かはなみ)に、ちりて雲(くも)は花の雪(ゆき)、紅葉(もみぢ)の錦(にしき)渡(わた)りなば、中や絶(た)えなん、さりながら、流(なが)れてとまる所(ところ)こそ、誠の主(ぬし)と思(おも)はるれ」「実(げ)に故(ゆゑ)有(あ)りて聞(き)こえたる。波にもつれて行(ゆ)かP314ばこそ。斯(か)かる堰(いせき)も、主(ぬし)なるべき」「堰(いせき)も、止(とど)めはてばこそ。流(なが)れてとまる水門(みなと)こそ、誠の主とは覚(おぼ)えたれ」。源太(げんだ)、此(こ)の言葉(ことば)を打(う)ち捨(す)てて、「ふけ行(ゆ)く月の傾(かたぶ)くをも、ながらむる者(もの)こそ主(ぬし)となれ」。重保(しげやす)聞(き)きて、たからかに打(う)ち笑(わら)ひ、「世界(せかい)をてらす日月を、主(ぬし)と宣(のたま)ふ、過分(くわぶん)也(なり)」「過分(くわぶん)は、人による物(もの)を、御分(ごぶん)一人(ひとり)に帰(き)すかと」。重保(しげやす)、たまらぬ男(をのこ)にて、「一人(ひとり)に帰(き)すか、帰(き)せざるか、手並(てなみ)の程(ほど)を見(み)せん」とて、既(すで)に矢をこそ抜(ぬ)き出(い)だす。源太(げんだ)も、しらまぬ者(もの)なれば、「案(あん)の内(うち)よ」と言(い)ふ儘(まま)に、既(すで)に中差(なかざし)抜(ぬ)き出(い)だす。梶原(かぢはら)が郎等(らうどう)は言(い)ふに及(およ)ばず、時の綺羅(きら)並(なら)ぶ物無(な)かりしかば、知(し)るも知(し)らぬも押(お)しなべて、梶原(かじはら)方(がた)へぞ馳(は)せ寄(よ)りける。三浦(みうら)の人々(ひとびと)も、是(これ)を見(み)て、源太(げんだ)に意趣(いしゆ)有(あ)る上は、秩父(ちちぶ)方(がた)へは所縁(そえん)なり、みはなすまじとて、馳(は)せ寄(よ)りける。いけの人、児玉(こだま)の人々(ひとびと)は、梶原(かじはら)方(がた)へぞ寄(よ)り来(き)ける。みま・本間(ほんま)の人々(ひとびと)は、秩父(ちちぶ)方(がた)へぞ与力(よりき)する。駿河(するが)の国(くに)の人々(ひとびと)は、梶原(かじはら)方(がた)へぞよりにける。伊豆(いづ)の国(くに)の人々(ひとびと)は、北条(ほうでう)殿(どの)を先(さき)として、秩父(ちちぶ)方(がた)へぞ馳(は)せ寄(よ)りける。安房(あは)と上総(かづさ)の侍(さぶらひ)は、二(ふた)つにわれてよりにける。常陸(ひたち)・下総国(しもつふさ)の人々(ひとびと)は、秩父(ちちぶ)方(がた)へぞ集(あつ)まりける。東八ケ国(はつかこく)のみにあらず、日本国(につぽんごく)中(ぢゆう)に知(し)らるる程(ほど)の侍(さぶらひ)、魚鱗(ぎよりん)に重(かさ)なり、鶴翼(くわくよく)に連(つら)なりて、ひたひしめきにひしめきける。畠山(はたけやま)殿は、始(はじ)めより知(し)り給(たま)ひしが、如何(いかが)思(おも)はれけん、知(し)らぬ由(よし)にてぞ坐(ま)しましける。頼朝(よりとも)、是(これ)を御覧(ごらん)じて、「あれあれ、義盛(よしもり)、鎮(しづ)め候(さうら)へ」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、和田(わだ)殿(どの)、両陣(りやうぢん)のP315間(あひ)へ馬(うま)掛(か)け入(い)れ、「上意(じやうい)にて候(さうら)ふぞ。鹿(しか)論(ろん)の事(こと)、互(たが)ひに其(そ)の理(り)有(あ)り。所詮(しよせん)、鹿(しか)をば上へ召(め)され候(さうら)ふ。両人(りやうにん)御前(ごぜん)へ参(まゐ)られよとの御諚(ごぢやう)にて候(さうら)ふ」と、大音声(だいおんじやう)にて言(い)ひ、其(そ)の後(のち)、勢子(せこ)を召(め)し、彼(か)の鹿(しし)をかかせ、六郎(ろくらう)と源太(げんだ)と引(ひ)きつれ、御前(ごぜん)差(さ)して参(まゐ)られけり。扨(さて)こそ、両陣(りやうぢん)は破(やぶ)れにけり。危(あや)ふかりし事(こと)也(なり)。然(さ)ればにや、君(きみ)の御(おん)恵(めぐ)みあまねく、御(おん)哀(あは)れみの深(ふか)くして、事(こと)鎮(しづ)まりぬ。 曾我(そが)の人々(ひとびと)は、哀(あは)れ、事(こと)の出(い)で来(き)たれかし、方人(かたうど)する風情(ふぜい)にて、狙(ねら)ひ寄(よ)りて、一刀差(さ)さんとて思(おも)ひける。かくて、日も暮(く)れ方(がた)になりしかば、今日(けふ)を限(かぎ)りと、傾(かたぶ)く日影(ひかげ)を惜(を)しみける。 此処(ここ)に、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)新田(につた)の四郎(しらう)忠綱(ただつな)、未(いま)だ鹿(しか)にあはずして、落(お)ち来(く)る鹿(しか)を相(あひ)待(まつ)所(ところ)に、幾(いく)年ふる共(とも)知(し)らざる猪(ゐのしし)が、ふし草かか十六つきたるが、主(ぬし)をば知(し)らぬ鹿矢(ししや)共(ども)、四五(よついつつ)立(た)つたりしが、大(おほ)きにたけつて掛(か)けまはる。例(たと)へば、養由(やういう)が術弓(じゆつきゆう)、李廣(りくはう)しんへんも、及(およ)ぶべしとは見(み)えざりけり。近付(ちかづ)く者(もの)をたければ、落(お)ちあふ者(もの)も無(な)くして、徒(いたづ)らに中をあけてぞ通(とほ)しける。忠綱(ただつな)、是(これ)を幸(さいは)ひと掛(か)け寄(よ)せけり。御前(ごぜん)ちかうなりければ、「よしや、新田(につた)、よしや、忠綱(ただつな)」とぞ仰(おほ)せ下(くだ)されけり。人もこそ多(おほ)き中(なか)に、斯様(かやう)の御諚(ごぢやう)かうむる事(こと)、生前(しやうぜん)の面目(めんぼく)、何事(なにごと)か是(これ)にしかんと存(ぞん)ずる間(あひだ)、鉄銅(てつどう)をまろめたる猪(しし)なりとも、余(あま)さじ物(もの)をと思(おも)ひければ、大(だい)の鹿矢(ししや)を抜(ぬ)き出(い)だし、P316只(ただ)一矢に問(と)ひ来(き)てはなつ所(ところ)に、矢よりも先(さき)に飛(と)び来(き)たり、乗(の)りたる馬を主(ぬし)共(とも)に中にすくうて投(な)げ上(あ)げ、落(お)ちば掛(か)けんとする所(ところ)に、適(かな)はじとや思(おも)ひけん、弓も手綱(たづな)も打(う)ち捨(す)てて、向(む)かう様(さま)にぞ乗(の)り移(うつ)る。され共(ども)、逆様(さかさま)にこそ乗(の)りたりけれ。鹿(しし)は乗(の)られて、腹(はら)をたて、馬を彼処(かしこ)へ掛(か)け倒(たふ)し、雲霞(かすみ)に分(わ)け入(い)りて、虚空(こくう)をとんでまはりしは、周(しう)の穆王(ぼくわう)、釈尊(しやくそん)の教法(けうぼふ)を聞(き)かんと、八匹(ひつ)の駒(こま)に鞭(むち)を上(あ)げ、万里の道、刹那(せつな)に飛(と)び付(つ)きしも、是(これ)には如何(いか)で勝(まさ)るべき、新田(につた)は、習(なら)ひし綱(つな)の様(やう)、腰(こし)もきれよとはさみ付(つ)け、尾筒(をづつ)を手綱(たづな)に取(と)り、楽天(らくてん)の伝(つた)へし三頭(かしら)、王良(りやう)が秘(ひ)せし手綱(たづな)、是(これ)なりけりと、こらへけれ共(ども)、詮方(せんかた)無(な)くぞ見(み)えたりけり。鹿(しし)は、いよいよたけりをかき、木(き)の下(もと)、草(かや)の下、岩(いは)、岩石(がんぜき)を嫌(きら)はずして、宙(ちう)に取(と)つてまはりしかば、烏帽子(えぼし)・竹笠(たけがさ)・沓(くつ)・行縢(むかばき)、一度にきれて落(お)ちにけり。大童(わらは)に成(な)りて、只(ただ)落(お)ちじとばかりぞこらへける。大(おほ)きに猛(たけ)き猪(ゐのしし)も、数多(あまた)手(て)はおひぬ。新田(につた)が威(い)にやおされけん、御前(ごぜん)近(ちか)き枯株(かれくゐ)に、つまづき弱(よわ)る所(ところ)に、過(あやま)たず腰(こし)の刀(かた)なを抜(ぬ)き、胴中(どうなか)につきたて、肋骨(あばらぼね)二三枚(まい)かき切(き)りければ、鹿(しし)は、四足(そく)を四五寸(すん)土に踏(ふ)み入(い)れて、立(た)ちずくみにこそなりにけれ。新田(につた)は、急(いそ)ぎ飛(と)び下(お)りて、数(かず)の止(とど)めをさす。上下の狩(かり)人、是(これ)を見(み)て、「前代未聞(ぜんだいみもん)の振舞(ふるま)ひかな。面白(おもしろ)くも止(とど)めたり。乗(の)りも乗(の)りたり、こらへたり」と、感(かん)ぜぬ者(もの)こそ無(な)かりけれ。君(きみ)も、此(こ)の由(よし)御覧(ごらん)じて、「狩場(かりば)の内の高名(かうみやう)は、是(これ)にしかじ」と、御感(ぎよかん)有(あ)り。富士のP317下方(しもがた)にて、五百余町を賜(たま)はりにけり。勢(いきほひ)余(あま)りてぞ見(み)えし。然(さ)れども、此(こ)の鹿(しし)は、富士(ふじ)の裾(すそ)、かくれいの里と申(まう)す所(ところ)の、山の神にてぞ坐(ま)しましける。凡夫(ぼんぶ)の身(み)の悲(かな)しさは、夢(ゆめ)にも是(これ)を知(し)らずして、止(とど)めにけり、御(おん)咎(とが)めにや、やがて、其(そ)の夜、曾我(そが)の十郎に打(う)ち合(あ)ひ、数多(あまた)手(て)負(お)ひ、危(あや)ふかりし命、幾程(いくほど)無(な)くて、田村(たむら)の判官(はんぐわん)が謀叛(むほん)同意(どうい)の由(よし)、讒言(ざんげん)せられて、打(う)たるべかりしを、重保(しげやす)に付(つ)き申(まう)し開(ひら)き、御目(め)にかからんとて、参(さん)じける折節(をりふし)、召(め)しの御馬(うま)離(はな)れたりしが、御庭(には)狭(せば)しと馳(は)せまはる。日本一(につぽんいち)の荒馬(あらうま)なれば、追(お)ひまはす人々(ひとびと)、是(これ)を見(み)て、「よしや、新田(につた)、取(と)れや、忠綱(ただつな)、縄(なは)を掛(か)けよ、過(あやま)ちすな」と、声々(こゑごゑ)に呼(よ)ばはりて、庭上(ていしやう)騒動(さうどう)す。新田(につた)が郎等(らうどう)、門外(もんぐわい)に集(あつ)まりて、「我(われ)等(ら)が主(しゆう)、只今(ただいま)搦(から)め取(と)らるるぞや。主(しゆう)の打(う)たるるを捨(す)てて、何処(いづく)まで逃(のが)るべき」とて、思(おも)ひ切(き)りたる兵二三十人抜(ぬ)きつれて、御前(ごぜん)差(さ)してきつて入(い)る。新田(につた)が運(うん)の極(きは)め也(なり)。御所(ごしよ)方(がた)の人々(ひとびと)、是(これ)を見(み)て、「新田(につた)が謀叛(むほん)誠(まこと)也(なり)。余(あま)すな、方々(かたがた)」とて、日番・当番(たうばん)の人々(ひとびと)出(い)で合(あ)ひて、火(ひ)出(い)づる程(ほど)こそ戦(たたか)ひけれ。御所(ごしよ)方(がた)の人々(ひとびと)、数多(あまた)打(う)たれしかば、新田(につた)が陳法(ちんぽふ)逃(のが)れずして、二十七にて打(う)たれけり。不便(ふびん)なりし事(こと)共(ども)なり。是(これ)も、しかしながら、富士の裾野(すその)の猪(ゐのしし)の咎(とが)めなりと、舌(した)をまかぬは無(な)かりけり。 梶原(かぢはら)源太(げんだ)左衛門(さゑもん)景季(かげすゑ)は、未(いま)だ鹿(しし)にあはずして、落(お)ち来(く)る鹿(しし)を待(ま)ち掛(か)けつつ、掛(か)け並(なら)べ、よつぴきてはなつ。され共(ども)、上(うへ)を遙(はる)かに射(い)こして通(とほ)しけり。景季(かげすゑ)、取(と)り敢(あ)へP318ずかくこそ申(まう)しけれ。夏草(なつくさ)のしげみが下(した)を行(ゆ)く鹿(しか)のそての横矢(よこや)は射(い)にくかりける W032君(きみ)聞(き)こし召(め)して、神妙(しんべう)なりとて、是(これ)も富士(ふじ)の裾野(すその)百余町をぞ賜(たま)はりけり。人々(ひとびと)、是(これ)を見(み)聞(き)きて、「鹿(しし)射(い)はづし、歌(うた)詠(よ)みてだに、恩賞(おんしやう)に預(あづ)かる。まして、よく止(とど)めたらん輩(ともがら)は如何(いか)に」とぞ申(まう)しける。御寮(れう)は、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)祐経を召(め)して、「不審(ふしん)なる事有(あ)り、用心(ようじん)せよ」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、畏(かしこ)まり存(ぞん)じ候(さうら)ふ由(よし)を申(まう)しける。此処(ここ)に、梶原(かぢはら)源太(げんだ)景季(かげすゑ)、侍(さぶらひ)の所司(しよし)にて、総奉行(そうぶぎやう)なる上(うへ)、わざん第一(だいいち)の者(もの)にて、上の御諚(ごぢやう)を承(うけたまは)り、曾我(そが)の人々(ひとびと)を近付(ちかづ)けて申(まう)しけるは、「神妙(しんべう)に御供(おんとも)申(まう)されて候(さうら)ふ。奉公(ほうこう)は、いづれも同(おな)じ事(こと)、御宿(やど)に、大事(だいじ)の御物(もの)の具(ぐ)有(あ)り。留守(るす)の御宿直(おんとのゐ)申(まう)されよ。いか様(さま)、今度(こんど)鎌倉へ入(い)らせ坐(ま)しまして、御免(ごめん)蒙(かうぶ)り給(たま)ふべし。奉公(ほうこう)心(こころ)に入(い)れられよ。」と申(まう)しければ、祐成(すけなり)、是非(ぜひ)に及(およ)ばずして、「畏(かしこ)まり入(い)り候(さうら)ふ。よき様(やう)に御申(おんまうし)候(さうら)へ。頼(たの)み奉(たてまつ)る」とぞ、返事(へんじ)しける。源太(げんだ)、重(かさ)ねて申(まう)す様(やう)、「御給仕(きうじ)に依(よ)りて、本領(ほんりやう)子細(しさい)あらじと存(ぞん)じ候(さうら)ふ」と言(い)ひてこそ、帰(かへ)りにけれ。時致(ときむね)、是(これ)を聞(き)きて、「哀(あは)れ、源太(げんだ)、我々(われわれ)をすかさんと思(おも)ひたる気色(きしよく)の差(さ)し現(あらは)れたる奴(やつ)かな。蛇(じや)は一寸(いつすん)を出(い)だして、其(そ)の大小(せう)を知(し)り、人は一言(ごん)を以(もつ)て、其(そ)の賢愚(けんぐ)を知(し)る。狐(きつね)の子(こ)は、子狐(ぎつね)より、父(ちち)が孫(そん)を継(つ)ぎて、此(こ)の冠者(くわんじや)が面(つら)の白(しろ)さよ。いつの奉公(ほうこう)に依(よ)りてか、御気色(ごきしよく)もよかるべき。定(さだ)めて、P319御寮(れう)の仰(おほ)せには、其(そ)の冠者(くわんじや)原(ばら)は、誰が許(ゆる)して、狩場(かりば)へは出(い)でけるぞ。よくよくすかし置(お)きて、首(くび)をきれとの御諚(ごぢやう)か、流罪(るざい)せよとの仰(おほ)せにてぞ有(あ)るらん。実(げ)にや、古(ふる)き言葉(ことば)を案(あん)ずるに、国(くに)の賢(けん)を以(もつ)て興(こう)し、へつらひを以(もつ)て衰(おとろ)ふ。君(きみ)は忠(ちゆう)もて安(あん)じ、偽(いつは)りを以(もつ)て危(あや)ふし。人は、たくみにして偽(いつは)らむよりも、つたなうして誠(まこと)有(あ)るにはしかず。此(こ)の者(もの)の振舞(ふるま)ひ・言葉(ことば)、世(よ)のわづらひともなりぬべし。其(そ)の上(うへ)、奉公(ほうこう)申(まう)すべき為(ため)ならず。哀(あは)れ、身(み)に思(おも)ひだに無(な)かりせば、此(こ)の冠者(くわんじや)が面(つら)、一太刀きつて慰(なぐさ)まんずる物(もの)を」とぞ申(まう)しける。さて、兄弟(きやうだい)は、見(み)えがくれにつれつ離(はな)れつ、心(こころ)をつくし狙(ねら)ひけるこそ、無慙(むざん)なれ。十郎(じふらう)が其(そ)の日の装束(しやうぞく)には、萌黄(もえぎ)にほひの裏(うら)打(う)ちたる竹笠(たけがさ)、村千鳥(むらちどり)の直垂(ひたたれ)に、夏毛(なつげ)の行縢(むかばき)脇(わき)深(ふか)く引(ひ)きこうで、鷹(たか)うすべうの鹿矢(ししや)、筈高(はづだか)に取(と)つて付(つ)け、重籐(しげどう)の弓(ゆみ)のまん中(なか)取(と)り、葦毛(あしげ)なる馬に、貝鞍(かひくら)置(お)きてぞ乗(の)りたりけり。五郎(ごらう)が其(そ)の日の装束(しやうぞく)には、薄紅(うすぐれなゐ)にて裏(うら)打(う)つたる平紋(ひやうもん)の竹笠(たけがさ)、まぶかにきて、唐貲布(からさいみ)に、蝶(てう)を三(み)つ二(ふた)つ所々(ところどころ)に付(つ)けたる直垂(ひたたれ)に、紺小袴(こんこはかま)、秋毛(げ)の行縢(むかばき)、たぶやかにはき下(くだ)し、鶴(つる)の本白(もとじろ)の征矢(そや)、筈高(はづだか)に追(お)ひ成(な)し、二所籐(ふたところどう)の弓(ゆみ)のまん中(なか)取(と)り、鹿毛(かげ)なる馬に、蒔絵(まきゑ)の鞍(くら)を聞(き)きて乗(の)りたり。遙(はる)かに遠(とほ)く敵を見(み)付(つ)けて、十郎(じふらう)に告(つ)げ、互(たが)ひに、心(こころ)を通(かよ)はしけり。人は皆(みな)、鹿(しか)に心(こころ)を入(い)れ、如何(いか)にもして、上の見参(げんざん)に入らんと、峰(みね)に上(のぼ)り、谷(たに)に下り、野(の)を分(わ)け、里を尋(たづ)ねけれ共(ども)、余所目(よそめ)如何(いかが)と思(おも)ひしP320に、勢子(せこ)を破(やぶ)りて、鹿(しし)こそ三頭(かしら)出(い)で来(き)たりけれ。是(これ)は如何(いか)にと見(み)る所(ところ)に、彼(か)の祐経(すけつね)こそ、おつすがひては落(お)としけれ。其(そ)の日(ひ)の装束(しやうぞく)、花やかなり。浮線綾(ふせんれう)の直垂(ひたたれ)に、大斑(まだら)の行縢(むかばき)に切斑(きりう)の矢おひ、吹寄籐(ふきよせどう)の弓のまん中(なか)取(と)り、金紗(きんしや)にて裏(うら)打(う)ちたる浮紋(うきもん)の竹笠(たけがさ)、嵐(あらし)にふき靡(なび)かせ、くろき馬の太(ふと)くたくましきに、白覆輪(しろぶくりん)の鞍(くら)置(お)きてぞ乗(の)りたりける。馬(うま)も聞(き)こふる名馬(めいば)なり、主(ぬし)も究竟(くつきやう)の乗(の)り手(て)なり。三(み)つ有(あ)る鹿(しか)に隔(へだ)たりぬ。馬(うま)の掛(か)け場(ば)もよかりける。十郎(じふらう)、是(これ)を見(み)て、「此(こ)の鹿(しか)は、埒(らち)の外(ほか)に、勢子(せこ)を破(やぶ)りて落(お)ち来(き)たるにや、追(お)つ返(かへ)して奉(たてまつ)らん」とて、十三束(ぞく)の大(だい)の中差(なかざし)取(と)りてつがひ、矢所(やどころ)多(おほ)しと雖(いへど)も、奥野(おくの)の狩(かり)の帰(かへ)り様(さま)に、父(ちち)の射(い)られけん鞍(くら)の山形(がた)の端(はづれ)、行縢(むかばき)の引(ひ)き合(あ)はせ、むくいの知(し)らする恨(うら)みの矢(や)、余(よ)の所(ところ)をば言(い)ふべからず。如何(いか)なる金山鉄壁(きんざんてつぺき)とも、志(こころざし)のなどか通(とほ)らざらんと、左手(ゆんで)になしてぞ下(くだ)りける。五郎(ごらう)も、同(おな)じく中差(なかざし)取(と)りてつがひ、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)が首(くび)の骨(ほね)に目(め)を懸(か)け、大磐石(だいばんじやく)を重(かさ)ねたりと言(い)ふとも、などかきつて捨(す)てざらんと、鞭(むち)に鐙(あぶみ)をも見(み)添(そ)へて、右手(めて)に相(あひ)付(つ)け馳(は)せ並(なら)べ、三(み)つ有(あ)る鹿(しか)と左衛門(さゑもん)をまん中(なか)に取(と)り込(こ)め、矢先(やさき)を左衛門(さゑもん)に差(さ)し当(あ)てて、引(ひ)かんとする所(ところ)に、祐経がしばしの運(うん)や残(のこ)りけん、祐成(すけなり)が乗(の)りたる馬を、思(おも)はぬ伏木(ふしき)に乗(の)り掛(か)けて、真逆様(まつさかさま)にころびけり。過(あやま)たず弓の本(もと)をこして、馬(むま)の頭(かしら)に下(お)り立(た)つたり。五郎(ごらう)は、是(これ)を知(し)らずして、矢筈(はづ)を取(と)り立(た)ち上(あ)がりける。兄(あに)の有様(ありさま)一目(ひとめ)見(み)て、目(め)もくれ、心(こころ)も消(き)えP321にけり。此(こ)の隙に、敵(かたき)は、遙(はる)かに馳(は)せのびぬ。鹿(しか)をも、人に射(い)られけり。五郎(ごらう)、空(むな)しく引(ひ)き返(かへ)し、急(いそ)ぎ馬(むま)より下(お)り立(た)つて、兄(あに)を介錯(かいしやく)しける心(こころ)の内こそ悲(かな)しけれ。「哀(あは)れ、実(げ)に我(われ)等(ら)程(ほど)、敵(かたき)に縁(えん)無(な)き者(もの)あらじ。只今(ただいま)は、さりともとこそ思(おも)ひしに、馬(むま)強(つよ)かりせば、斯様(かやう)には成(な)り行(ゆ)かじ。是(これ)も、只(ただ)貧(ひん)より起(お)こる事(こと)なり。人(ひと)を恨(うら)むべきにもあらず。適(かな)はぬ命(いのち)ながらへて、物(もの)を思(おも)はんよりも、自害(じがい)して、悪霊(あくりやう)死霊(しりやう)にも成(な)りて、本意(ほんい)を遂(と)げん」とぞ悲(かな)しみける。十郎(じふらう)、是(これ)を聞(き)きて、「暫(しばら)く待(ま)ち給(たま)へ。夫(そ)れ泰山(たいざん)の霤(らい)は、石(いし)をうがつ。うんてくの■(つるべのなわ)は、幹(いげた)を立(た)つ。水(みづ)は、石鑽(いしのみ)にあらず。索(なは)は、木(き)の鋸(のこぎり)にあらず。せんひのしからしむる所(ところ)なり。只(ただ)心(こころ)を述(の)べて、功(こう)をつみ給(たま)へ。今宵(こよひ)は命を待(ま)ち給(たま)へ」とて、馬(うま)引(ひ)き寄(よ)せ打(う)ち乗(の)りけり。 其(そ)の後は、人々(ひとびと)如何(いか)に見(み)るらんとて、十郎(じふらう)かくれば、五郎(ごらう)ひかへ、五郎(ごらう)行(ゆ)けば、十郎止(とど)まり、余所目(よそめ)をも包(つつ)みけりは、時(とき)移(うつ)り、事(こと)のび行(ゆ)きければ、其(そ)の日も、既(すで)に暮(く)れなんとす。畠山(はたけやま)殿は、程(ほど)近(ちか)く坐(ま)しませば、兄弟(きやうだい)の有様(ありさま)をつくづくと御覧(ごらん)じて、今まで本意(ほんい)を遂(と)げぬぞや、哀(あは)れ、平家(へいけ)の御代と思(おも)はば、などか矢(や)一(ひと)つ訪(とぶら)はざらん。当(たう)君(きみ)の御代には、斯様(かやう)の事(こと)も適(かな)はず、重忠(しげただ)も、若(わか)き子供(こども)を持(も)ちぬれば、人の上(うへ)とも思(おも)はずして、誠(まこと)無慙(むざん)に覚(おぼ)えたり。梶原(かぢはら)触状(ふれぢやう)には、明日、鎌倉(かまくら)へ入らせ給(たま)ふべきなれば、今宵(こよひ)、打(う)たでは適(かな)ふまじ、此(こ)の由(よし)知(し)らせんと思(おも)ひ給(たま)へども、P322人々(ひとびと)数多(あまた)有(あ)りければ、歌(うた)にてぞ弔(とぶら)ひ給(たま)ひける。まだしきに色(いろ)づく山の紅葉(もみぢ)かな此(こ)の夕暮(ゆふぐれ)を待(ま)ちて見(み)よかし W033とながめ給(たま)ひて、涙(なみだ)ぐみ給(たま)ひけり。折節(をりふし)、梶原(かじはら)源太(げんだ)左衛門(さゑもん)がちかうひかへたりしが、「何事(なにごと)にや、曾我(そが)の殿(との)原(ばら)に、「まだしきに色(いろ)づく」と詠(えい)じ給(たま)ふは、心(こころ)得(え)ず」。重忠(しげただ)聞(き)きて、「夏山(なつやま)に夕(ゆふ)日影(ひかげ)の残(のこ)る、風情(ふぜい)、初紅葉(はつもみぢ)に似(に)ずや。此(こ)の夕暮(ゆふぐれ)こそ、猶(なほ)も移(うつ)り行(ゆ)かば、誠(まこと)秋にや成(な)り行(ゆ)かん」。源太(げんだ)は、猶(なほ)も言葉(ことば)有(あ)り顔(がほ)なりしを、君(きみ)より急(いそ)ぎ召(め)されしかば、掛(か)け通(とほ)るとて、「重忠(しげただ)の御歌(うた)の不審(ふしん)残(のこ)りて」と言(い)ひながら、馳(は)せ付(つ)きければ、人々(ひとびと)聞(き)きて、「今(いま)に始(はじ)めぬ梶原(かぢはら)が和讒(わざん)とは言(い)ひながら、殊(こと)にかかりて見(み)えぬるをや」と申(まう)し合(あ)ひける。重忠(しげただ)仰(おほ)せけるは、「「命(いのち)を養(やしな)ふ者(もの)は、病(やまひ)の先(さき)に薬(くすり)を求(もと)め、代ををさむる者(もの)は、乱(みだ)れの先(さき)に賢(けん)を習(なら)ふ」と、さんふろんに見(み)えたり。其(そ)れまでこそ無(な)くとも、斯様(かやう)のえせ者(もの)を近(ちか)く召(め)し使(つか)ひて、末(すゑ)の世如何(いかが)」とぞ仰(おほ)せける。其(そ)の後、曾我(そが)の人々(ひとびと)を近付(ちかづ)けて、「今夜、重忠(しげただ)が所(ところ)へ坐(ま)しませ。歌の物語(ものがたり)申(まう)さん」と宣(のたま)へば、畏(かしこ)まり存(ぞん)ずる由(よし)、返事(へんじ)して、十郎(じふらう)、弟(おとと)に言(い)ひけるは、「畠山(はたけやま)殿は、情(なさけ)を以(もつ)て、はや、此(こ)の事(こと)を知(し)り給(たま)ひけるぞや。「耳(みみ)を信(しん)じて、目(め)を疑(うたが)ふ者(もの)は、耳(みみ)の常(つね)の弊(へい)なり。尊(たつと)みて、近付(ちかづ)くを賎(いや)しむる者(もの)は、人の常(つね)の情(なさけ)」と、抱朴子(はうぼくし)に見(み)えたり。然(さ)れば、歌(うた)の心(こころ)は如何(いか)に」と問(と)へば、「知(し)らず」と言(い)ふ。十郎(じふらう)は、P323万(よろづ)に情(なさけ)深(ふか)くして、歌(うた)の心(こころ)をえたり。「「思(おも)ふ事(こと)あらば、今宵(こよひ)限(かぎ)り」と告(つ)げ給(たま)ふぞや。君(きみ)は明日、伊豆(いづ)の国府(こう)、明後日、鎌倉(かまくら)へ入(い)らせ坐(ま)します由(よし)、其(そ)の聞(き)こえ有(あ)り。思(おも)ひ定(さだ)め給(たま)ふべき」と言(い)ふ。「珍(めづら)しくも思(おも)ひ定(さだ)め候(さうら)ふべきか」「申(まう)すにや及(およ)ぶ」とぞ申(まう)しける。元来(ぐわんらい)剛(かう)なる時宗が、重忠(しげただ)にいさめられ、いよいよ今宵(こよひ)を限(かぎ)りとぞ定(さだ)めける。予(かね)てより思(おも)ひ定(さだ)めし事(こと)なれ共(ども)、差(さ)しあたりての心(こころ)細(ぼそ)さ、思(おも)ひ遣(や)られて無慙(むざん)なる。日暮、君(きみ)、井出(ゐで)の屋形(やかた)へ入(い)り給(たま)ひしかば、国々の大名(だいみやう)・小名(せうみやう)、御供(おんとも)してぞ帰(かへ)りける。曾我(そが)の兄弟(きやうだい)も、人(ひと)なみなみに、柴(しば)の庵(いほり)へぞ帰(かへ)りける。
@〔屋形(やかた)まはりの事(こと)〕S0804N128
道(みち)にて、十郎(じふらう)が申(まう)す様(やう)は、「御所(ごしよ)は、屋形(やかた)へ帰(かへ)り給(たま)ふべし。二人つれては、人もあやしく思(おも)ひなん。祐成(すけなり)計(ばかり)行(ゆ)きて、屋形(やかた)の案内(あんない)見(み)て帰(かへ)らん」とて、太刀ばかり持(も)たせ、屋形(やかた)屋形(やかた)をめぐりけり。思(おも)ひ思(おも)ひの幕(まく)の紋(もん)、心々 (こころごころ)の屋形(やかた)の次第(しだい)、中々(なかなか)言葉(ことば)も及(およ)ばれず。此処(ここ)に、二(ふた)つ木瓜(もつかう)の幕(まく)打(う)ちたる屋形(やかた)有(あ)り。誰(た)が幕(まく)やらん、是(これ)は、我(われ)等(ら)が家(いへ)の紋(もん)也(なり)、近(ちか)き頃(ころ)は、伊東(いとう)の一門(いちもん)、御敵と成(な)り滅(ほろ)びぬ、伊東(いとう)と名乗(なの)る者(もの)無(な)ければ、此(こ)の幕(まく)打(う)つべき者(もの)無(な)し、誰(たれ)なるらんと、不思議(ふしぎ)にて立(た)ち寄(よ)り、幕(まく)のほころびより見(み)入(い)れP324て見(み)れば、敵(かたき)左衛門(さゑもん)が屋形(やかた)なり。是(これ)は如何(いか)に、一木瓜(ひとつもつかう)の幕(まく)をこそ打(う)つべきに、心(こころ)得(え)ぬ物(もの)かな、誠(まこと)や、人々にあらず、知(し)るを以(もつ)て人とし、家家(いへいへ)にあらず、何処(いづく)を以(もつ)てか家(いへ)とす、つぐべきをばつがで、すずろなる曾我(そが)のなにがしと呼(よ)ばれぬる上(うへ)は、家(いへ)の紋(もん)入(い)るべからず、祐経(すけつね)は、誠(まこと)とやらん、我々(われわれ)が先祖(せんぞ)の知行(ちぎやう)せし所領(しよりやう)を知(し)るに依(よ)りて、斯様(かやう)に成(な)り行(ゆ)く物(もの)をや、哀(あは)れ昔(むかし)、斯様(かやう)には無(な)かりし物(もの)をと、見(み)入(い)れて通(とほ)りけるに、 祐経が嫡子(ちやくし)犬房(いぬばう)見(み)付(つ)けて、「只今(ただいま)、此(こ)の前を十郎(じふらう)殿(どの)通(とほ)り候(さうら)ふ」。左衛門(さゑもん)聞(き)きて、「玉井(たまのい)の十郎か、横山(よこやま)の十郎か」と問(と)ふ。「曾我(そが)の十郎(じふらう)殿(どの)」と言(い)ふ。「是(これ)は、祐経(すけつね)が屋形(やかた)にて候(さうら)ふ。立(た)ち寄(よ)り給(たま)へ」と言(い)はせければ、祐成(すけなり)、少(すこ)しも憚(はばか)らず、屋形(やかた)の内(うち)へ入(い)り見(み)れば、手越(てごし)の少将(せうしやう)は、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)が君(きみ)と見(み)えたり。黄瀬川(きせがは)の亀鶴(かめづる)は、備前(びぜん)の国(くに)吉備津宮(きびつみや)の王藤内(わうとうない)が君(きみ)と見(み)えたり。嫡子(ちやくし)犬房(いぬばう)に酌(しやく)とらせ、酒盛(さかもり)しける折節(をりふし)也(なり)。幾(いく)程(ほど)の栄華(えいぐわ)なるべき、今宵(こよひ)の夜半(やはん)に引(ひ)きかへん事(こと)の無慙(むざん)さよと思(おも)ひながら、座敷(ざしき)にぞなほりける。祐経(すけつね)、敷皮(しきがは)をさりて、「是(これ)へ」と言(い)ふ。十郎(じふらう)、「かくて候(さうら)はん」とて、押(お)しのけ居(ゐ)たり。祐経が初対面(しよたいめん)の言葉(ことば)ぞこはかりける。「誠や、殿(との)原(ばら)は、祐経(すけつね)を敵(かたき)と宣(のたま)ふなる。努々(ゆめゆめ)用(もち)ひ給(たま)ふべからず。人の讒言(ざんげん)なりと覚(おぼ)えたり。差(さ)しあたる道理(だうり)に任(まか)せて、人の申(まう)すも理(ことわり)なり。伊東(いとう)は、嫡々(ちやくちやく)なる間(あひだ)、祐経(すけつね)こそもつべき所(ところ)を、面々(めんめん)祖父(おほぢ)伊東(いとう)殿(どの)横領(わうりやう)し、P325一所をも分(わ)けられざりしかば、一旦(いつたん)は恨(うら)むべかりしを、第一(だいいち)養父(やうぶ)なり、第二(だいに)に叔父(をぢ)なり、第三に烏帽子親(えぼしおや)也(なり)、第四に舅(しうと)なり、第五(だいご)に一族(いちぞく)の中の老者(おとな)なり、一方(ひとかた)ならざるに依(よ)りて、こらへて過(す)ぎしに、是(これ)は只(ただ)、「高(たか)きにのぞみ上(のぼ)らざれ、賎(いや)しきをそしり笑はざれ」と言(い)ふ本文(ほんもん)を捨(す)てて、我(われ)等(ら)を員外(いんぐわい)に思(おも)ひ給(たま)ふ故(ゆゑ)なり。面々(めんめん)の父(ちち)河津(かはづ)殿(どの)、奥野(おくの)の狩場(かりば)帰(かへ)りに打(う)たれ給(たま)ひぬ。猟師(れうし)多(おほ)き山なれば、峰(お)ごしの矢(や)にやあたり給(たま)ひけん。又は、伊豆(いづ)・駿河(するが)の人々(ひとびと)、多(おほ)く打(う)ち寄(よ)り、相撲(すまふ)取(と)りて、遊(あそ)び給(たま)ひけるに、股野(またの)の五郎(ごらう)と勝負(しようぶ)を争(あらそ)ひ、当座(たうざ)にて喧嘩(けんくわ)に及(およ)びしを、御寮(れう)の御成敗(ごせいばい)に依(よ)り鎮(しづ)まりぬ。然様(さやう)の宿意(しゆくい)にてもや、打(う)たれ給(たま)ひけんを、在京(ざいきやう)したる祐経(すけつね)に掛(か)けて、申(まう)されけるなれども、更(さら)に知(し)らず。剰(あまつさ)へ、祐経が郎等(らうどう)共(ども)、数多(あまた)失(うしな)ひぬ。其(そ)の時分(ぶん)、やがて対決(たいけつ)を遂(と)げたりせば、逃(のが)るべかりしを、幾程(いくほど)無(な)くして、当(たう)御代と成(な)りて、面々(めんめん)親(した)しき人々(ひとびと)、皆(みな)御敵(かたき)とてそんし給(たま)ひぬ。只(ただ)祐経(すけつね)一人に成(な)りて、遂(つひ)に此(こ)の事(こと)さんだんせずしてやみぬ。然(しか)れば、只(ただ)祐経(すけつね)がしたるに成(な)りて、年月(としつき)をへ候(さうら)ふ。是(これ)、不祥(ふしやう)と言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。よく聞(き)き給(たま)へ、十郎(じふらう)殿(どの)」。祐成(すけなり)聞(き)きて、とかく言(い)ふに及(およ)ばず、只(ただ)つしんで居(ゐ)たり。「是(これ)なる客人(きやくじん)をば知(し)り給(たま)ふにや」「今日始(はじ)めて、見参(げんざん)に入(い)り候(さうら)へば、如何(いか)でか見(み)知(し)り奉(たてまつ)るべき」「あれこそ、備前(びぜん)の国(くに)吉備津宮(きびつみや)の王藤内(わうとうない)とて、然(さ)る人なるが、今年(ことし)七年、君(きみ)の御不審(ふしん)を蒙(かうぶ)り、所領(しよりやう)召(め)されて有(あ)りつるP326を、此(こ)の三が年、祐経取(と)り継(つ)ぎ申(まう)しつる間(あひだ)、御免(ごめん)を蒙(かうぶ)り、所領(しよりやう)に安堵(あんど)して、蒲原(かんばら)まで下(くだ)り給(たま)ひぬるが、祐経(すけつね)に名残(なごり)惜(を)しまんとて、帰(かへ)り給(たま)ふ。斯様(かやう)に、他人(たにん)にだにも、申(まう)し承(うけたまは)れば、親(した)しく成(な)るぞかし。まして、殿(との)原(ばら)と祐経(すけつね)は、従兄弟甥(いとこをひ)と言(い)ふ者(もの)なれば、今(いま)は親(おや)とも思(おも)ふべし。便宜(びんぎ)然(しか)るべく候(さうら)はば、上様(さま)へ申(まう)し入(い)れ候(さうら)ひて、奉公(ほうこう)をも申(まう)し、一所賜(たま)はりて、馬の草かひ所(どころ)をもし給(たま)へ。殿(との)原(ばら)は、祐経(すけつね)が思(おも)ひ奉(たてまつ)る様(やう)には思(おも)ひ給(たま)はじ。北条(ほうでう)は、つねに越(こ)えて遊(あそ)び給(たま)へ共(ども)、何(なに)を恨(うら)みてか、更(さら)に伊豆(いづ)へは見(み)え給(たま)はず。しもたてぬ賢人(けんじん)せんよりも、我(われ)等(ら)にむつびて、若(わか)き者(もの)共(ども)に背(そむ)かれずして坐(ま)しませ。面々(めんめん)の馬(うま)の様(やう)を見(み)るに、やせ弱(よわ)り候(さうら)ふ。伊東(いとう)に駒(こま)共(ども)数多(あまた)候(さうら)へば、乗(の)り付(つ)けて乗(の)り給(たま)へ。なましひに人の言(い)ふ事(こと)について、祐経(すけつね)打(う)たんと思(おも)ひ給(たま)はん事(こと)、今生(こんじやう)にては適(かな)ふまじ。曾我(そが)殿(との)原(ばら)」とぞ広言(くわうげん)しける。如何(いかが)思(おも)ひけん、言葉(ことば)をかへて言(い)ひけるは、「酔狂(すひきやう)の余(あま)り、言失(ごんしつ)仕(つかまつ)ると覚(おぼ)えたり。今(いま)より始(はじ)めて、互(たが)ひの遺恨(いこん)をたやして、親子(おやこ)の契たるべし」とて、盃(さかづき)取(と)り寄(よ)せ、客人(きやくじん)なればとて、王藤内(わうとうない)に始(はじ)めさせ、其(そ)の盃(さかづき)、珍(めづら)しさとて、十郎にさす。其(そ)の盃(さかづき)、少将(せうしやう)にさす。其(そ)の盃(さかづき)、祐経にさす。其(そ)の盃(さかづき)、亀鶴(かめづる)にさす。其(そ)の盃(さかづき)を十郎(じふらう)にさす。酒(さけ)を八分(ぶん)に受(う)けて、思(おも)ひけるは、にくき敵の広言(くわうげん)かな、身不肖(ふせう)なり、何事(なにごと)か有(あ)るべきと、思(おも)ひこなし、初対面(しよたいめん)に散々(さんざん)に言(い)ひつるこそ、奇怪(きくわい)なれ、此(こ)のP327君(きみ)共(ども)が耳(みみ)こそ、東(とう)八か国の侍(さぶらひ)の聞(き)く所(ところ)、日頃(ひごろ)は親(おや)の敵、只今(ただいま)は日(ひ)の敵(かたき)、襖(あを)に衣(ころも)を重(かさ)ねても、逃(のが)すべきにあらず、哀(あは)れ、受(う)けたる盃(さかづき)、敵の面(おもて)にいつ掛(か)けて、一刀(かたな)差(さ)し、如何(いか)にもならばやと、千度(ちたび)百度(ももたび)すすめども、心(こころ)をかへて思(おも)ふ様(やう)、まてしばし、兄弟(きやうだい)と言(い)ひながら、祐成(すけなり)・時致(ときむね)は、父(ちち)の敵(かたき)に志(こころざし)深(ふか)くして、一所(ひとところ)にてとにもかくにもと契(ちぎ)りしに、心(こころ)はやりの儘(まま)に、祐成(すけなり)如何(いか)にもなるならば、五郎(ごらう)空(むな)しく搦(から)められ、恨(うら)みん事(こと)こそ不便(ふびん)なれ、此処(ここ)はこらふる所(ところ)と思(おも)ひ鎮(しづ)めて、止(とど)まりしは、情(なさけ)深(ふか)くぞ覚(おぼ)えける。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、神(かみ)ならぬ身(み)の悲(かな)しさは、我(われ)を心(こころ)にかくるとは、夢(ゆめ)にも知(し)らずして、「十郎(じふらう)殿(どの)、盃(さかづき)如何(いか)にほし給(たま)はぬ。御前(ごぜん)達(たち)、数多(あまた)坐(ま)しませば、肴(さかな)待(ま)ち給(たま)ふと覚(おぼ)えたり。今様(いまやう)うたひ給(たま)へ」と言(い)ひければ、二人の君(きみ)、扇拍子(あふぎひやうし)を打(う)ちながら、蓬莱山(ほうらいさん)には千年(ちとせ)ふる千秋(せんしう)万歳(ばんぜい)重(かさ)なれり松の枝(えだ)には鶴(つる)住(す)み巖(いはほ)の上(うへ)には亀(かめ)遊(あそ)ぶ W034と言(い)ふ一声(せい)を返(かへ)し、二辺(へん)までこそうたひけれ。其(そ)の時(とき)、盃(さかづき)取(と)り上(あ)げて、三度(さんど)までこそほしたりけれ。其(そ)の土器(かはらけ)祐経(すけつね)こうて、「方々(かたがた)は何(なに)とか思(おも)ひ給(たま)ふらん、知(し)らねども、P328今日(けふ)よりして、親子(しんし)の契約(けいやく)有(あ)るべし。あの童(わつぱ)めを弟(おとと)と思(おぼ)し召(め)され、汝(なんぢ)も兄(あに)と思(おも)ひ奉(たてまつ)れ。他人(たにん)の悪(あ)しからんは、恨(うら)みにあらず。親(した)しき中(なか)のうときをば、神明(しんめい)もにくみ給(たま)ふ事(こと)なれば、今(いま)より後(のち)、互(たが)ひに憚(はばか)り有(あ)るべからず。其(そ)の御盃(さかづき)賜(たま)はりて、いはひ候(さうら)はん。但(ただ)し、所望(しよまう)候(さうら)ふぞや。十郎(じふらう)殿(どの)は、乱拍子(らんびやうし)の上手(じやうず)と聞(き)けども、未(いま)だ見(み)ず。一(ひと)つ舞(ま)ひ給(たま)へ。一(ひと)つは客人(きやくじん)の為(ため)、一(ひと)つは祐経(すけつね)がいはひのあやにく、如何(いかが)有(あ)るべき。御前(ごぜん)達(たち)、面白(おもしろ)く候(さうら)ふ、はやはや」と攻(せ)めければ、犬房(いぬばう)、はやしぞたてたりける。祐成(すけなり)、子細(しさい)に及(およ)ばずして、持(も)ちたる扇(あふぎ)さつと開(ひら)きて、「君(きみ)がすむ亀(かめ)のふか山の滝(たき)つ瀬(せ)は」と言(い)ふ一声(せい)を上(あ)げて、しばし舞(ま)ひけるが、父(ちち)に心(こころ)を通(かよ)はして、とやせん、かくやせんと、思(おも)ひ乱(みだ)るる舞(まひ)の手(て)に、夜ふけば入(い)り候(さうら)ふべき道、つがひはづさん、長舞(ながまひ)に、此処(ここ)より入(い)り、彼処(かしこ)にめぐらん、彼処(かしこ)はつまり、此処(ここ)は通(かよ)ひ路(ぢ)、忍(しの)びて入(い)らば、音(おと)は立(た)たじ、入(い)る共(とも)知(し)らじ、さす腕(かひな)、袖の返(かへ)しに目(め)を使(つか)ひ、半時(はんし)ばかりぞ舞(ま)ひたりける。座敷(ざしき)に連(つら)なる人々(ひとびと)は、見(み)知(し)る証(しるし)の無(な)き儘(まま)に、興(きよう)を催(もよほ)す計(ばかり)也(なり)。君(きみ)共(ども)を始(はじ)めとして、はやすも覚(おぼ)えぬ風情(ふぜい)なり。かくて、十郎(じふらう)舞(ま)ひ入(い)りければ、祐経、盃(さかづき)思(おも)ひ返(かへ)しとて、十時に差(さ)したりければ、十郎(じふらう)取(と)り上(あ)げ、三度(さんど)ほして、扇(あふぎ)取(と)り直(なほ)し、畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「今宵(こよひ)は、是(これ)に御宿直(おんとのゐ)申(まう)したく候(さうら)へども、北条(ほうでう)殿(どの)に申(まう)し合(あ)はする子細(しさい)候(さうら)ふ。いかさま、明日参(まゐ)りて、つねづね宿直(とのゐ)申(まう)すべし」P329と、暇(いとま)こうて出(い)でにけり。祐成(すけなり)、案者(あんじや)第一(だいいち)の男(をのこ)なり、敵何(なに)とか言(い)ふらんと思(おも)ひ、小柴垣(こしばがき)に立(た)ち隠(かく)れ聞(き)く事(こと)は知(し)らず、王藤内(わうとうない)、「此(こ)の殿(との)原(ばら)の父(ちち)をば、誠(まこと)打(う)ち給(たま)ひけるか」と問(と)ふ。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)聞(き)きて、「今(いま)は、彼(かれ)が聞(き)かばこそ。以前(いぜん)、つぶさに申(まう)しつる様(やう)に、我(われ)等(ら)嫡孫(ちやくそん)にてもつべき所領(しよりやう)を、彼(かれ)等(ら)が祖父(おほぢ)に横領(わうりやう)せられぬ。某(それがし)在京(ざいきやう)ながら、田舎(ゐなか)の郎等(らうどう)共(ども)に申(まう)し付(つ)けて、彼(かれ)等(ら)が父(ちち)河津(かはづ)の三郎(さぶらう)と言(い)ひし者(もの)打(う)たせしなり。人もやさぞ知(し)りて候(さうら)ふらん。此(こ)の者(もの)共(ども)の子孫(しそん)、皆(みな)謀叛(むほん)の者(もの)、君(きみ)に失(うしな)はれ奉(たてまつ)り、今(いま)祐経(すけつね)一人に罷(まか)りなる。然(しか)れども、君不便(ふびん)の者(もの)に思(おぼ)し召(め)され、先祖(せんぞ)の所領(しよりやう)拝領(はいりやう)の上(うへ)は、祐経(すけつね)に狭(せば)められ、思(おも)ひながらぞ候(さうら)ふらん。彼(かれ)が此(こ)の頃(ごろ)分限(ぶんげん)にて、祐経(すけつね)に思(おも)ひかからんは、蟷螂(たうらう)が斧(をの)を取(と)りて、隆車(りうしや)に向(む)かひ、蜘蛛(ちちゆう)が網(あみ)をはりて、鳳凰(ほうわう)をまつ風情(ふぜい)也(なり)。哀(あは)れなる」とぞ申(まう)しける。王藤内(わうとうない)聞(き)きて、「其(そ)れこそ僻事(ひがこと)よ。世(よ)に有(あ)る人は、所領(しよりやう)財宝(ざいほう)に心(こころ)がとまり、思(おも)ふ事(こと)はとどこほるなり。然(さ)れば、寸(すん)の金(かね)を切(き)る事(こと)無(な)し。貧(ひん)なる侍(さぶらひ)と鉄(くろがね)とは、あなづらぬ物(もの)をや。何(なに)とやらん、悪様(あしざま)に仰(おほ)せつる時に、しきりに目(め)を懸(か)け奉(たてまつ)り、刀(かたな)の柄(つか)に手(て)を掛(か)け、片膝(かたひざ)押(お)したてつる時(とき)、事(こと)出(い)で来(き)ぬと見(み)えしが、され共(ども)、色(いろ)には少(すこ)しも出(い)ださず。よき兵かな」とぞほめたりける。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、是(これ)を聞(き)き、「何程(ほど)の事(こと)か仕(つかまつ)るべき。竜(りゆう)ねぶりて、本体(ほんたい)を現(あらは)す。人酔(ゑ)ひて、本心(ほんしん)を現(あらは)す。思(おも)ふ事(こと)こそ言(い)はれ候(さうら)へ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とぞ申(まう)しける。後に思(おも)ひ合(あ)はすれば、P330是(これ)や最後の念仏(ねんぶつ)と、哀(あは)れにぞ覚(おぼ)えし。十郎(じふらう)、かく言(い)ふを立(た)ち聞(き)きて、即(すなは)ち、屋形(やかた)への内(うち)に走(はし)り入(い)り、如何(いか)にもならばやと思(おも)ひしか共(ども)、五郎(ごらう)に憂(う)き身(み)の惜(を)しまれて、只(ただ)空(むな)しくて帰(かへ)りける、心(こころ)の内こそ、無慙(むざん)なれ。抑(そもそも)、只今(ただいま)の言葉(ことば)共(ども)、よくよく思(おも)へば、只(ただ)王藤内(わうとうない)が言(い)はする言葉(ことば)也(なり)。今夜は、落(お)ちば落(お)とさんと思(おも)ひつれども、今(いま)の言葉(ことば)の奇怪(きくわい)なれば、一(いち)の太刀(たち)には左衛門(さゑもん)、二の太刀(たち)には王藤内(わうとうない)と思(おも)ひ定(さだ)めて、屋形(やかた)よりこそ帰(かへ)りけれ。 五郎(ごらう)、兄(あに)を待(ま)ち兼(か)ねて、心(こころ)許(もと)無(な)くして、たたずみける所(ところ)へ、十郎(じふらう)来(き)たりて、「如何(いか)に待(ま)ちどほなるらん」。五郎(ごらう)聞(き)きて、「然(さ)らぬだに、人を待(まつ)は悲(かな)しきに、愚(おろ)かにや思(おぼ)し召(め)す」「祐成(すけなり)も、さ存(ぞん)ずるを、敵(かたき)左衛門(さゑもん)が屋形(やかた)へ呼(よ)び入(い)れられ、酒(さけ)をこそのみたりつれ」「さて、如何(いか)に候(さうら)ひける。便宜(びんぎ)悪(あ)しく候(さうら)ひけるか」「言(い)ふにや及(およ)ぶ。乱舞(らつぶ)の折節(をりふし)、哀(あは)れと思(おも)ひしかども、御分(ごぶん)一所にこそと存(ぞん)じて、こらへつる志(こころざし)、推(お)し量(はか)り給(たま)へ」。五郎(ごらう)も聞(き)きて、「御(おん)ふちは然(さ)る事(こと)にて候(さうら)へども、是(これ)程(ほど)よりつかずして、心(こころ)をつくす。便宜(びんぎ)よく候(さうら)はば、御(おん)うち候(さうら)ふべき物(もの)を。さりながら、一太刀づつともどもに切(き)りたく候(さうら)ふぞかし。其(そ)の屋形(やかた)の次第(しだい)、道(みち)すがらの様、御覧(ごらん)じ候(さうら)ひけるにや」「其(そ)の為(ため)、案内(あんない)は、よく見(み)おき候(さうら)ひぬ。但(ただ)し、屋形(やかた)の数(かず)多(おほ)くして、見(み)知(し)りたる人は、所々(ところどころ)にこそ候(さうら)ひつれ」。扇(あふぎ)開(ひら)きてこそはかぞへけれ。「先(ま)づ、君(きみ)の御屋形(やかた)に並(なら)べて打(う)ちたりP331しは、北条(ほうでう)の四郎(しらう)時政(ときまさ)、御一門(いちもん)に、一条(いちでう)・板垣(いたがき)・逸見(へんみ)・武田(たけだ)・小笠原(おがさわら)・南部(なんぶ)・下山(しもやま)・山名(やまな)・里見(さとみ)の人々(ひとびと)、石山(いしやま)・やまかた・梶原(かじはら)、屋形(やかた)並(なら)べて候(さうら)ふなり。東(ひがし)には、和田(わだ)・畠山(はたけやま)・黒戸(くろど)・姉崎(あにさき)・本田(ほんだ)・榛沢(はんざは)・池辺(いけのべ)・児玉(こだま)・小沢(おざは)・山口(やまぐち)・丹(たん)・横山(よこやま)・紀清(きせい)の両党(りやうたう)・岡部(をかべ)・はんさう・金子(かねこ)・村山(むらやま)・むらおり・なかさや・おかはら・比企(ひき)・中条(ちゆうでう)・三田(みた)・むろの人々(ひとびと)、屋形(やかた)を並(なら)べて候(さうら)ふなり。常陸(ひたち)の国(くに)には、佐竹(さたけ)・山内(やまのうち)・志太(しだ)・同地(どうち)・鹿島(かしま)・行方(なめかた)・こくは・宍戸(ししど)・森山(もりやま)・ちちわの殿(との)原(ばら)、下総国(しもつふさ)の国(くに)には、千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)・相馬(そうま)の二郎師胤(もろたね)・武石(たけし)の三郎(さぶらう)胤盛(たねもり)・国分(こくぼ)の五郎(ごらう)胤通(たねみち)・東(とう)の六郎(ろくらう)胤兼(たねかぬ)・葛西(かさい)の三郎(さぶらう)清重(きよしげ)・あふ・猿島(さしま)・大原・小原(はら)、屋形(やかた)を並(なら)べ候(さうら)ふなり。上野(かうづけ)の国(くに)には、伊北(いほう)・伊南(いなん)・庁北(ちやうほく)・庁南(ちやうなん)・印東(いんどう)・金岡(かなをか)・小寺(こでら)・深栖(ふかず)・山上(やまがみ)・大こし・大室(むろ)、上総(かづさ)の国(くに)には、桐生(きりう)・黒川(くろかは)・多胡(たんご)・片山(かたやま)・新田(につた)・園田(そのだ)・玉村(たまむら)、安房(あは)の国(くに)には、安西(あんざい)・神余(かなまる)・東条(とうでう)、信濃(しなの)の国(くに)には、内藤(ないとう)・片桐(かたぎり)・くろた・すわう・さいたう・村上(むらかみ)・井上・高梨(たかなし)・海野(うんの)・望月(もちづき)、屋形(やかた)を並(なら)べて候(さうら)ふ也(なり)。下野(しもつけ)の国(くに)には、小山(をやま)・宇都宮(うつのみや)・結城(ゆうき)・長沼(ながぬま)・氏家(うぢいへ)・塩谷(しほのや)・木村(きむら)・皆河(みながは)・あしから・まのたの人々(ひとびと)、屋形(やかた)を並(なら)べ候(さうら)ひぬ。相模(さがみ)の国(くに)には、座間(ざんま)・本間(ほんま)・土屋(つちや)・愛甲(あいきやう)・土肥(とひ)の二郎(じらう)父子(ふし)・糟屋(かすや)藤五(とうご)・渋谷(しぶや)・さとう・波多野(はだの)の右馬丞(むまのじよう)・岡崎(をかざき)・三浦(みうら)の人々(ひとびと)、伊豆(いづ)の国(くに)には、入江(いりえ)・藁科(わらしな)・吉川(きつかは)・船越(ふなこし)・大森(もり)・葛山(かつらやま)、遠江(とほたふみ)の国(くに)には、いしあま・しとつ、三川(みかは)の国(くに)には、設楽(しだら)・中条(ちゆうでう)、尾張(をはり)の国(くに)には、大宮司(ぐうじ)・宮(みや)の四郎(しらう)・関(せき)の太郎、美濃(みの)の国(くに)には、高嶋(たかしま)・まつ井、P332近江(あふみ)の国(くに)には、山本(やまもと)・柏木(かしわぎ)・たつい・錦織(にしごり)・佐々木党(ささきたう)、屋形(やかた)を並(なら)べ候(さうら)ふ也(なり)。当番(たうばん)の人々(ひとびと)には、結城(ゆうき)の七郎・河越(かはごえ)・高坂(たかさか)・大胡(おうご)・おしむろ・難波(なんば)の太郎・上総介(かづさのすけ)父子(ふし)、屋形(やかた)を並(なら)べし也(なり)。坂東(ばんどう)八か国、海道(かいだう)七か国のみにあらず、三年(みとせ)の大番(おほばん)、訴訟人(そしようにん)と言(い)ふ程(ほど)の者(もの)の屋形(やかた)、雲霞(うんか)の如(ごと)くなり。さて、君(きみ)の御座所をばまん中(なか)に、四角(かく)四面(めん)に瑠璃(るり)を延(の)べ、五十九間に飾(かざ)られたり。面々(めんめん)思(おも)ひ思(おも)ひの屋形(やかた)づくり、色々(いろいろ)の幕(まく)の紋(もん)、金銀(きんぎん)をちりばみてこそ飾(かざ)られけれ。凡(およ)そ屋形(やかた)の数、二万五千三百八十(にまんごせんさんびやくはちじふ)余間(よけん)也(なり)。総(そう)じて上下の屋形(やかた)の数(かず)、十万八千間(じふまんはつせんげん)、軒(のき)を並(なら)べて小路を遣(や)り、甍(いらか)を並(なら)べて打(う)ちたりけり。東(ひがし)にそうたるは、梶原(かじはら)平三(へいざう)景時(かげとき)、西(にし)のはづれは、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)祐経(すけつね)が屋形(やかた)なり。幾程(いくほど)とこそ思(おも)ひけん」。五郎(ごらう)聞(き)きて、「さて、客人(きやくじん)は、何処(いづく)の国、如何(いか)なる人にて候(さうら)ひける」「備前(びぜん)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)吉備津宮(きびつのみや)の王藤内(わうとうない)、手越(てごし)の少将(せうしやう)、黄瀬川(きせがは)の亀鶴(かめづる)を並(なら)べ置(お)きて、酒盛(さかもり)半(なか)ばなりしに呼(よ)び入(い)れ、祐成(すけなり)も、舞(まひ)を舞(ま)ふ程(ほど)の事(こと)なりつるに、面(おもて)にあてて、広言(くわうげん)共(ども)しつる無念(むねん)さよ。一刀(かたな)差(さ)し、如何(いか)にもと思(おも)ひつるを、わ殿(との)に命が惜(を)しまれて、手に握(にぎ)りたる敵(かたき)を逃(のが)しつるこそ、無念(むねん)なれ」。五郎(ごらう)聞(き)きて、「是(これ)や、宝(たから)の山に入(い)りて、手を空(むな)しくする風情(ふぜい)なり。嬉(うれ)しくも、御(おん)こらへ候(さうら)ふ物(もの)かな。余(あま)し候(さうら)ふべきにも候(さうら)はず、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とぞ申(まう)しける。
P333曾我之物語巻第九
@〔和田(わだ)の屋形(やかた)へ行(ゆ)きし事(こと)〕S0901N131
「来(き)たつて暫(しばら)くも止(とど)まらざるは、有為(うゐ)転変(てんべん)の里(さと)、さりて二度帰(かへ)らざるは、冥途(めいど)隔生(きやくしやう)の別(わか)れなり。哀傷(あいしやう)恋慕(れんぼ)の悲(かな)しみ、今に始(はじ)めぬ事(こと)なれ共(ども)、日本国(につぽんごく)に我(われ)等(ら)程物(もの)思(おも)ふ者(もの)あらじと案(あん)ずるに、劣(おと)らず歎(なげ)きをする者(もの)の有(あ)るべきこそ、不便(ふびん)なれ」。五郎(ごらう)聞(き)き、「誰やの者(もの)か、我(われ)等(ら)に勝(まさ)りて候(さうら)ふべき」「然(さ)ればこそとよ、備前(びぜん)の王藤内(わうとうない)が、七年御不審(ふしん)を蒙(かうぶ)り、此(こ)の度、安堵(あんど)の御下文(くだしぶみ)を給(たま)はると言(い)ふ使(つか)ひ、先(さき)に下(くだ)り、かくと言(い)はば、国(くに)に止(とど)まる親類(しんるい)集(あつ)まり、喜(よろこ)び合(あ)はん所(ところ)に、又(また)人下(くだ)りて、打(う)たれぬと言(い)ふならば、さこそ歎(なげ)かんずらんと、深(ふか)き言葉(ことば)を案(あん)ずるに、人としてのふ有(あ)る物(もの)は、天の加護(かご)に依(よ)り、人としてさい有(あ)る者(もの)は、歎(なげ)きによると見(み)えたり。然(さ)れば、王藤内(わうとうない)助(たす)けばやとは思(おも)へども、雑言(ざふごん)余(あま)りに奇怪(きくわい)なれば、祐成(すけなり)におきては余(あま)すべからず。御分(ごぶん)ももらすな」と申(まう)しければ、「承(うけたまは)る」とぞ言(い)ひける。「かくて、夜P334のふけん程(ほど)待(ま)たんも、遙(はる)かなり。いざや、和田(わだ)殿の屋形(やかた)へ行(ゆ)き、最後(さいご)の対面(たいめん)せん」「然(しか)るべし」とて、二人打(う)ちつれ、義盛(よしもり)の屋形(やかた)へぞ行(ゆ)きける。やがて、義盛(よしもり)出(い)で合(あ)ひて、「如何(いか)に殿(との)原(ばら)達(たち)、遙(はる)かにこそ存(ぞん)ずれ。狩座(かりくら)の体(てい)、是(これ)が始(はじ)めにてぞ坐(ま)しますらん。何(なに)とか思(おも)ひ給(たま)ひけん。見物(けんぶつ)には上(うへ)や有(あ)るべき」。十郎(じふらう)、扇(あふぎ)笏(しやく)に取(と)り直(なほ)し、畏(かしこ)まつて、「さん候(ざうらふ)。斯様(かやう)の事(こと)は、珍(めづら)しき見事、末代(まつだい)の物語(ものがたり)に、あの冠者(くわんじや)に見(み)せ候(さうら)はん為(ため)、二三日の用意(ようい)にて、罷(まか)り出(い)で候(さうら)ふが、余(あま)りの面白(おもしろ)さに、斧(をの)の柄(ゑ)のくつるを忘(わす)れ、曾我(そが)へ人おこして候(さうら)ふ、其(そ)の程(ほど)と存(ぞん)じて、参(まゐ)りて候(さうら)ふ」と言(い)ひければ、和田(わだ)聞(き)きて、なんでふ其(そ)の儀(ぎ)有(あ)るべき、日頃(ひごろ)の本意(ほんい)を遂(と)げんとするが、一家(か)の見(み)はてに、義盛(よしもり)に今(いま)一度対面(たいめん)せんとてぞ来(き)たりぬらんと、哀(あは)れに思(おも)ひければ、「さぞ思(おぼ)すらん、数多(あまた)見(み)て候(さうら)ふだにも、面白(おもしろ)く候(さうら)ふ。まして、若(わか)き人々(ひとびと)の始(はじ)めて見(み)給(たま)はんに、さぞ思(おぼ)し召(め)すらん。嬉(うれ)しくも来給(たま)ふ物(もの)かな。予(かね)てより知(し)り奉(たてまつ)りなば、始(はじ)めより申(まう)すべかりつるを」とて、酒(さけ)取(と)り出(い)だし、すすめられけり。盃二三度(さんど)めぐりて後、和田(わだ)宣(のたま)ひけるは、「相(あひ)かまひて、せばよくし給(たま)へ。し損(そん)じなば、一家(か)の恥辱(ちじよく)なるべし。後楯(うしろだて)にはなり申(まう)すべし。頼(たの)もしく思(おも)ひ給(たま)へ」とて、盃(さかづき)差(さ)されけり。折節(をりふし)、梶原(かぢはら)源太(げんだ)、屋形(やかた)の前を通(とほ)りけるが、かく言(い)ふを聞(き)き付(つ)けて、「何事(なにごと)ぞや、和田(わだ)殿(どの)。曾我(そが)の人々(ひとびと)に、「せばよくせよ」と仰(おほ)せられつる、不審(ふしん)なり。御耳(おんみみ)にや入(い)れ候(さうら)ふべき」と言(い)ふ。和田(わだ)殿(どの)聞(き)きて、こP335は如何(いか)に、曲者(くせもの)通(とほ)りけるよ、さりながら陳(ちん)じて見(み)んと思(おも)ひければ、「自然(しぜん)の物語(ものがたり)、何(なに)と聞(き)きて、御分(ごぶん)、御耳(おんみみ)に入(い)れんとは宣(のたま)ふぞ。此(こ)の面々(めんめん)、我(われ)に親(した)しき事(こと)、上にも知(し)ろし召(め)されたり。其(そ)れに付(つ)き、「御狩(みかり)と承(うけたまは)り、必(かなら)ず召(め)しは無(な)けれども、末代(まつだい)の見物(けんぶつ)に、忍(しの)びて御供(おんとも)仕(つかまつ)り候(さうら)ふ。若(わか)き者(もの)の習(なら)ひ、黄瀬川(きせがは)にて、女(をんな)共(ども)と遊(あそ)びて候(さうら)ひしが、君合沢(あひざは)の御所(ごしよ)に御入の由(よし)承(うけたまは)り、急(いそ)ぎ参(まゐ)り候(さうら)ひし間(あひだ)、引出物(ひきでもの)をせず候(さうら)ふ。帰(かへ)りに何(なに)にても候(さうら)へ、とらせん」と申(まう)し候(さうら)ふ間(あひだ)、「道(みち)の者(もの)は恥(は)づかしきぞ。引出物(ひきでもの)せばよくせよ、し損(そん)じなば一家(か)の恥(はぢ)ぞ」と申(まう)しつるが、此(こ)の事(こと)ならでは、何(なに)申(まう)したりとも覚(おぼ)えず、急(いそ)ぎ御申(まう)し有(あ)りて、義盛(よしもり)失(うしな)ひ給(たま)へ」と、高声(かうしやう)也(なり)ければ、景季(かげすゑ)も、「一興(いつきよう)にこそ申(まう)し候(さうら)へ。何(なに)とてか、和田(わだ)殿は、某(それがし)にあひ給(たま)へば、由(よし)無(な)き事(こと)にも、角(かど)をたてて宣(のたま)ふらん。是(これ)は苦(くる)しからぬ事(こと)なり」とて、そら笑(わら)ひして通(とほ)りけり。猶(なほ)も和讒(わんざん)の者(もの)にて、何(なに)とか言(い)ふと思(おも)ひ、しばしたたずむ。是(これ)をば知(し)らで、和田(わだ)宣(のたま)ひけるは、「水(みづ)をよく泳(およ)ぐ者(もの)はむもれ、馬(うま)によく乗(の)る物(もの)は落(お)ち、日はちう中に移(うつ)る、月はみつるに傾(かたぶ)く、高天(かうてん)にせくぐまれ、厚地(かうち)に抜(ぬ)き足(あし)せよと有(あ)るをや。此(こ)の者(もの)は、十分(じふぶん)に過(す)ぎて、如何(いかが)ぞと覚(おぼ)ゆる」。五郎(ごらう)、是(これ)を聞(き)きて、「御陳法(ちんぽふ)を用(もち)ひず、通(とほ)る者(もの)ならば、何程(ほど)の事(こと)すべき。しや細首(ほそくび)ねぢ切(き)りて、捨(す)て候(さうら)ふべきを」と申(まう)しければ、梶原(かぢはら)立(た)ち聞(き)きて、誠(まこと)や、此(こ)の者(もの)は、朝比奈(あさいな)にみぎは勝(まさ)りの大力(だいぢから)、をこの者P336と聞(き)きたり、此処(ここ)にて、喧嘩(けんくわ)し出(い)だし、勝負(しようぶ)せんよりも、上(かみ)へ申(まう)し上(あ)げて、我(わ)が力(ちから)もいらで失(うしな)はん事(こと)、安(やす)かるべしと思(おも)ひ定(さだ)めて、聞(き)かざる由(よし)にて、帰(かへ)りにけり。和田(わだ)宣(のたま)ひけるは、「今(いま)暫(しばら)くも候(さうら)ひて、こまかに物語(ものがたり)申(まう)したけれ共(ども)、源太(げんだ)と申(まう)す曲者(くせもの)が、御前(おんまへ)に参(まゐ)りつるが、いか様(やう)にか申(まう)し上(あ)げ候(さうら)はんずらん。相(あひ)構(かま)へてし損(そん)じ給(たま)ふな」と言(い)ひ置(お)きて、和田(わだ)は、御前(ごぜん)へぞ参られける。此(こ)の人々(ひとびと)は、屋形(やかた)に帰(かへ)る。夜(よ)のふくるを待(ま)ちけるが、やや有(あ)りて、十郎(じふらう)申(まう)しけるは、「件(くだん)の梶原(かぢはら)が、御分(ごぶん)が言(い)ひつる事(こと)を立(た)ち聞(き)きけるが、いか様(さま)、大勢(おほぜい)にて寄(よ)せぬと覚(おぼ)ゆる。屋形(やかた)をかへん」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)聞(き)きて、「源太(げんだ)程(ほど)の奴(やつ)、何十人(なんじふにん)も候(さうら)へ、一々(いちいち)に切(き)りふせなん」と申(まう)す。十郎(じふらう)聞(き)きて、「身(み)に大事(だいじ)だに無(な)くは、言(い)ふに及(およ)ばず。只(ただ)某(それがし)に任(まか)せ候(さうら)へ」とて、
@〔兄弟(きやうだい)屋形(やかた)をかゆる事(こと)〕S0902N132
柴(しば)の庵(いほり)を引(ひ)き払(はら)ひ、思(おも)はぬ所(ところ)へ寄(よ)り居(ゐ)つつ、時を待(まつ)こそ哀(あは)れなる。是(これ)をば知(し)らで、源太(げんだ)百余人(よにん)の兵者(つはもの)引(ひ)きつれて、人々(ひとびと)の屋形(やかた)へぞ押(お)し寄(よ)せたる。然(さ)れども、人は無(な)かりければ、「日本(につぽん)一(いち)の不覚人(ふかくじん)、斯様(かやう)に有(あ)るべしと思(おも)ひしに違(たが)はず、人にては無(な)かりけり」と、広言(くわうげん)して帰(かへ)りしは、をこがましくぞ見(み)えし。是(これ)や、鼠(ねずみ)深(ふか)く穴(あな)P337をほりて、くんきん害(がい)を逃(のが)れ、鳥(とり)高(たか)くとんで、さうめい害(がい)をさけるとは、斯様(かやう)の事(こと)なり。あやしかりし事(こと)なり。
@〔曾我(そが)へ文書(か)きし事(こと)〕S0903N133
扨(さて)、兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、ふけ行(ゆ)く夜はを待(ま)ち兼(か)ねて、十郎(じふらう)言(い)ひける、「いざや、此(こ)の暇(ひま)に、幼少(えうせう)よりの思(おも)ひし事(こと)を詳(くは)しく文(ふみ)に書(か)きて、曾我(そが)へ参(まゐ)らせん」「然(しか)るべし」とて、各々(おのおの)文(ふみ)を書(か)きける。「我(われ)等(ら)五つや三(み)つよりして、父敵(てき)に打(う)たれし事(こと)、忘(わす)るる隙(ひま)無(な)くて、七(なな)つ・九(ここの)つと申(まう)せしに、月の夜(よ)に出(い)でて、雲井(くもゐ)の雁(かり)がねを見(み)て、父(ちち)をこひ、明(あ)くれば、小弓に小矢(こや)を取(と)り添(そ)へて、障子(しやうじ)を射(い)通(とほ)し、敵(てき)の命になずらへ、彼(かれ)を打(う)たん事(こと)を願(ねが)ひ泣(な)きしを、母(はは)の制(せい)し給(たま)ひし事(こと)、又(また)、父(ちち)の恋(こひ)しき時(とき)は、一ま所にて、二人は語(かた)りて慰(なぐさ)めども、人々(ひとびと)には言(い)はざりし也(なり)。祐成(すけなり)は、十三にて元服(げんぶく)し、五郎(ごらう)は、十一より箱根に上(のぼ)り、学問(がくもん)せしに、十二月の末(すゑ)つ方(かた)、里々よりの衣裳(いしやう)音物(ゐんぶつ)取(と)り添(そ)へ取(と)り添(そ)へ送(おく)りしに、箱王(はこわう)が里(さと)よりは贈(おく)り物(もの)も無(な)し。まして、父(ちち)の文も無(な)し。明(あ)け暮(く)れ、只(ただ)父(ちち)を恋(こひ)しく思(おも)ひ、権現(ごんげん)へ参(まゐ)り、敵(かたき)を見(み)んと祈(いの)りしに、程無(な)く、御前(ごぜん)にて祐経(すけつね)を見(み)そめし事(こと)、不思議(ふしぎ)なりとて、法師(ほふし)に成(な)るべかりしが、此(こ)の事(こと)に依(よ)りて、只(ただ)一人夜(よ)にまぎれ、P338曾我(そが)へ逃(に)げ下(くだ)りしなり。男(をとこ)に成(な)りて、母(はは)の御勘当(かんどう)蒙(かうぶ)りし事(こと)、出(い)でし時(とき)、互(たが)ひの形見(かたみ)賜(たま)はり参(まゐ)らせ置(お)きて出(い)でし事(こと)、信濃(しなの)のみ狩(かり)に、かちにて下(くだ)り狙(ねら)ひし事(こと)、虎(とら)に契(ちぎ)りを込(こ)めし事(こと)、鞠子川(まりこがわ)、湯坂峠(ゆざかのとうげ)、箱根寺、大崩(おほくづれ)までの有様(ありさま)、矢立(やたて)の杉(すぎ)にての事(こと)共(ども)、今(いま)の様(やう)に覚(おぼ)えたり。思(おも)ふ事(こと)共(ども)詳(くは)しく書(か)き、命(いのち)をば父(ちち)に回向(ゑかう)申(まう)し、読誦(どくじゆ)の経文(きやうもん)をば母(はは)にたむけ奉(たてまつ)る。親(おや)は一世(せ)の契(ちぎ)りと申(まう)せども、是(これ)を形見(かたみ)にて、来世(らいせ)にて参(まゐ)り合(あ)はん」と、同(おな)じ心(こころ)に書(か)き止(とど)めければ、大(おほ)きなる巻物(まきもの)一(ひと)つづつぞ書(か)きたりける。十郎(じふらう)は言葉(ことば)の末(すゑ)、五郎(ごらう)に代(か)はりたるは、大磯(おほいそ)の虎(とら)の事(こと)也(なり)。五郎(ごらう)が言葉(ことば)の、十郎(じふらう)に代(か)はりたるは、箱根(はこね)の別当(べつたう)の事(こと)なり。さては、いづれも同(おな)じ文章(ぶんしやう)也(なり)。哀(あは)れにこそ覚(おぼ)えし。
@〔鬼王(おにわう)・道三郎(だうざぶらう)帰(かへ)りし事(こと)〕S0904N134
さて、鬼王(おにわう)・道三郎(だうざぶらう)を呼(よ)びて、「汝(なんぢ)、急(いそ)ぎ曾我(そが)へ帰(かへ)るべし。小袖(こそで)をば、上へ参(まゐ)らせよ。馬鞍(むまくら)は、曾我(そが)殿(どの)に奉(たてまつ)れ。自然(しぜん)の時(とき)は、御前(ごぜん)に代(か)はり参(まゐ)らせべき由(よし)、随分(ずいぶん)心(こころ)に懸(か)けしを、父(ちち)の敵(てき)に志(こころざし)深(ふか)くして、先(さき)立(だ)ち申(まう)す事(こと)、無念(むねん)に存(ぞん)じ候(さうら)へ共(ども)、恐(おそ)れながら、二人の子供(こども)の形見(かたみ)に御覧候(さうら)へ。五つ・三(み)つよりして、左右(さう)のP339御膝(ひざ)にて、育(そだ)てられ参(まゐ)らせし御恩(ごおん)、忘(わす)れ難(がた)くこそ存(ぞん)じ候(さうら)へ。はだの守(まも)りと、鬢(びん)の髪(かみ)をば、弟(おとと)共(ども)の形見(かたみ)に御覧(ごらん)じ候(さうら)へとて、二宮(にのみや)殿に参(まゐ)らせよ。弓と矢は、汝(なんぢ)等(ら)に取(と)らするぞ。なき後(あと)の形見(かたみ)に見(み)候(さうら)へ。鞭(むち)と弓懸(ゆがけ)をば、二人の乳母(めのと)が方へ遣(や)るべし。沓行縢(くつむかばき)は、もり育(そだ)てし二人が守(もり)にとらせよ。夜(よ)もこそふくれば、是(これ)を持(も)ちて落(お)ち候(さうら)へ」と有(あ)りければ、二人の者(もの)共(ども)、次第(しだい)の形見(かたみ)を受(う)け取(と)りて、申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)、相模(さがみ)を出(い)でしより、自然(しぜん)の事(こと)候(さうら)はば、君(きみ)より先(さき)に命を捨(す)て、死出(しで)・三途(さんづ)の御供(おんとも)とこそ存(ぞん)じ候(さうら)ふに、下郎(げらう)をば命(いのち)を惜(を)しむ者(もの)と思(おぼ)し召(め)し、斯様(かやう)に承(うけたまは)り候(さうら)ふ、只(ただ)具(ぐ)せられ候(さうら)へ。ゆゆしき御用(ごよう)までこそたち申(まう)さずとも、志(こころざし)計(ばかり)の御供(おんとも)」と申(まう)しければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「各々(おのおの)が思(おも)ひ寄(よ)る所(ところ)、誠(まこと)に神妙(しんべう)也(なり)。斯様(かやう)なる者(もの)共(ども)を、世(よ)に無(な)ければ、恩(おん)をもせで、離(はな)れん事(こと)こそ無念(むねん)なれ。憂(う)き世(よ)の中、何事(なにごと)も思(おも)ふ様(やう)ならば、如何(いか)で適(かな)はぬ事(こと)あらん。しくんは三世(ぜ)の縁(えん)有(あ)り。来世(らいせ)にて此(こ)の恩(おん)をば報(ほう)ずべし。只(ただ)此(こ)の形見(かたみ)共(ども)をことごとく曾我(そが)へとどけたらんには、最後の供(とも)に勝(まさ)りなん。狩場(かりば)に事(こと)出(い)で来(こ)ぬと聞(き)こえなば、物思(おも)ふ子供(こども)、待(ま)ち給(たま)へる母(はは)の、我(わ)が子供(こども)やらんと歎(なげ)き給(たま)はんに、急(いそ)ぎ参(まゐ)りて、此(こ)の由(よし)かくと申(まう)すべし。今(いま)少(すこ)しもとく急(いそ)げや」と有(あ)りければ、道三郎(だうざぶらう)承(うけたまは)りて、「帰(かへ)り候(さうら)ふまじ、聞(き)こし召(め)せ、君(きみ)をば乳(ち)の内(うち)より、某(それがし)こそ取(と)り上(あ)げ奉(たてまつ)りては候(さうら)へ。然(さ)れば、九夏(きうか)三伏(さんぷく)のあつき日は、扇(あふぎ)の風を招(まね)き、玄冬(けんとう)素雪(そせつ)の寒(さむ)き夜(よ)は、衣を重(かさ)ねて、膚(はだへ)をあたためP340参(まゐ)らせ、胆(きも)心(こころ)も尽(つ)くし育(そだ)て、月とも、星(ほし)共(とも)、明(あ)け暮(く)れは見(み)上(あ)げ、見(み)下(くだ)し、頼(たの)み奉(たてまつ)り、御世(よ)にも出(い)でさせ給(たま)ひ候(さうら)はば、誰やの者(もの)にか劣(おと)るべき。頼(たの)もしくも、いとほしくも思(おも)ひ、奉(たてまつ)り、今まで影形(かげかたち)の如(ごと)く、付(つ)き添(そ)ひ参(まゐ)らせたる験(しるし)に、情(なさけ)無(な)く落(お)ちよと承(うけたまは)る。仮令(たとひ)罷(まか)り帰(かへ)りて候(さうら)ふとも、千年(せんねん)万年を保(たも)ち候(さうら)ふべきか。只(ただ)御供(おんとも)に召(め)し具(ぐ)せられ候(さうら)へ」とて、幼(いとけな)き子(こ)の親(おや)の跡(あと)をしたふ如(ごと)くに、声も惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)も、心(こころ)弱(よわ)くぞ見(み)えける。如何(いか)にもして返(かへ)すべき物(もの)をと、声(こゑ)を高(たか)くして、「如何(いか)に未練(みれん)なり。君臣(くんしん)の礼(れい)黙(もだ)し難(がた)けれども、心(こころ)に従(したが)ふを以(もつ)て、孝行(かうかう)とせり。其(そ)の上、遂(つひ)に添(そ)ひはつまじき身(み)なれば、名残(なごり)の惜(を)しき事(こと)、つくべきにあらず。急(いそ)ぎ出(い)で候(さうら)へ」とて、あららかにこそ承(うけたまは)る。鬼王(おにわう)居(ゐ)なほり、畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「某(それがし)も、母(はは)の胎内(たいない)を出(い)で、竹馬(ちくば)に鞭(むち)をあてしより、君(きみ)につき添(そ)ひ申(まう)し、成人(せいじん)の今(いま)に至(いた)るまで、片時(へんし)も離(はな)れて奉(たてまつ)る事(こと)無(な)し。其(そ)の験(しるし)にや、落(お)ちよとの仰(おほ)せこそ、誠(まこと)に御(おん)恨(うら)めしくは候(さうら)へ。捨(す)てられ参(まゐ)らせて後、何(なに)にかかりて、片時(へんし)のながらへも有(あ)るべき。憂(う)き身(み)のはてか」とて、さめざめと泣(な)き居(ゐ)たり。志(こころざし)の誠(まこと)、なじみの久(ひさ)しさ、互(たが)ひに語(かた)り語(かた)れば、身(み)の憂(う)きに付(つ)けても、夜(よ)や明(あ)け、日や暮(く)れむ。「既(すで)に明方(あけがた)近(ちか)く成(な)る物(もの)を、急(いそ)げや、汝(なんぢ)等(ら)、早(はや)くも行(ゆ)けと、重(かさ)ね重(がさ)ね攻(せ)めければ、二人の者(もの)共(ども)言(い)ひ兼(か)ねて、「御供(おんとも)申(まう)すべき命、何処(いづく)も同(おな)じ遂(つひ)の住(す)み処(か)、おくれ先(さき)立(だ)つP341道芝(しば)の、変(か)はらぬ露のぬれ衣、払(はら)ひて、御供(おんとも)申(まう)さん」とて、二人が袖を引(ひ)き違(ちが)へ、既(すで)に刀をぬかんとす。時宗、早(はや)くも座敷(ざしき)を立(た)ち、二人が間に押(お)し入(い)りて、涙(なみだ)と共(とも)に言(い)ひけるは、「誠(まこと)に汝(なんぢ)等(ら)が志(こころざし)切(せつ)也(なり)。然(しか)りとは雖(いへど)も、我(われ)等(ら)、是(これ)程(ほど)に、篇目(へんもく)をたてて、制(せい)するを聞(き)かで、狼藉(らうぜき)を致(いた)す物(もの)ならば、浅間(せんげん)大菩薩(だいぼさつ)も御覧(ごらん)ぜよ、未来(みらい)永劫(えいごふ)不孝(ふけう)すべし。我(われ)等(ら)に命を捨(す)つると言(い)ふとも、故郷(こきやう)へ形見(かたみ)を付(つ)けずは、長(なが)く志(こころざし)にうくべからず。此(こ)の上は、制(せい)するに及(およ)ばず」と、あららかにこそ語(かた)りけれ。あかぬは君(きみ)の仰(おほ)せなり。次第(しだい)の形見(かたみ)を賜(たま)はりて、曾我(そが)へとてこそ帰(かへ)りけれ。互(たが)ひの心(こころ)の内、さこそは悲(かな)しからめと、思(おも)ひ遣(や)られて哀(あは)れなり。
@〔悉達(しつだ)太子(たいし)の事(こと)〕S0905N135
是(これ)や、悉題(しつだ)太子(たいし)の、十九にて、菩提(ぼだい)の志(こころざし)を起(お)こし、檀特山(だんどくせん)に入(い)り給(たま)ひしに、車匿舎人(しやのくとねり)、■陟駒(こんでいこま)を賜(たま)はり、王宮(わうくう)へ帰(かへ)りし思(おも)ひ、今更(いまさら)に思(おも)ひ知(し)られたり。鞍(くら)の上(うへ)空(むな)しき駒(こま)の口(くち)を引(ひ)き、古里(ふるさと)へとは急(いそ)げども、心(こころ)は後(あと)にぞ止(とど)まりける。五月雨(さみだれ)の雲間(くもま)も知(し)らぬ夕暮(ゆふぐれ)に、何処(いづく)を其処(そこ)とも知(し)らねども、そなたばかりを顧(かへり)みて、涙(なみだ)と共(とも)に歩(あゆ)みける、心(こころ)の内(うち)ぞ、無慙(むざん)なる。P342 さても、此(こ)の人々(ひとびと)は、「郎等(らうどう)共(ども)はこしらへ返(かへ)しぬ、今は、思(おも)ひ置(お)く事(こと)も無(な)し。いざや、最後の出立(いでたち)せん」「然(しか)るべし」とて、十郎(じふらう)が其(そ)の夜(よ)の衣裳(いしやう)に、白(しろ)き帷子(かたびら)の腋(わき)深(ふか)くかきたるに、村千鳥(むらちどり)の直垂(ひたたれ)の袖(そで)を結(むす)びて、肩(かた)に掛(か)け、一寸(いつすん)斑(まだら)の烏帽子懸(えぼしかけ)を強(つよ)く掛(か)け、黒鞘巻(くろざやまき)・赤銅(しやくどう)づくりの太刀をぞ持(も)ちたる。同(おな)じく五郎(ごらう)が衣裳(いしやう)には、袷(あわせ)の小袖(こそで)の腋(わき)深(ふか)くかきたるを、狩場(かりば)の用(よう)にやしたるらん、唐貲布(からさゆみ)の直垂(ひたたれ)に、蝶(てふ)を三(み)つ二(ふた)つ所々(ところどころ)に書(か)きたるに、紺地(こんぢ)の袴(はかま)のくくりゆるらかに寄(よ)せさせ、袖(そで)をば結(むす)びて、肩(かた)に掛(か)け、平紋(ひやうもん)の烏帽子懸(えぼしかけ)を強(つよ)く掛(か)け、赤木(あかぎ)の柄(つか)の刀を差(さ)し、源氏(げんじ)重代(ぢゆうだい)の友切(ともきり)肩(かた)に打(う)ち掛(か)け、誠(まこと)にすすめる姿(すがた)、ふきうが昔(むかし)とも言(い)ひつべし。頼(たの)もしとも余(あま)り有(あ)り。十郎(じふらう)、松明(たいまつ)振(ふ)り上(あ)げて、「此方(こなた)へ向(む)き候(さうら)へや、時致(ときむね)。あかぬ顔(かほ)ばせ見参(げんざん)せん」と言(い)ふ。五郎(ごらう)聞(き)きて、敵(てき)にあひ、刹那(せつな)の隙(ひま)も有(あ)るまじければ、是(これ)こそ、最後(さいご)の見参(げんざん)の為(ため)なるべし。誠(まこと)に、祐成(すけなり)を兄(あに)と見(み)奉(たてまつ)らんも、今計(ばかり)かと思(おも)ひければ、兄が顔(かほ)をつくづくと守(まも)りけり。十郎(じふらう)も又(また)、弟(おとと)を見(み)んも、是(これ)を限(かぎ)りと思(おも)ひければ、松明(たいまつ)差(さ)し上(あ)げ、つくづく見(み)、涙ぐみけり。互(たが)ひの心(こころ)の内、推(お)し量(はか)られて哀(あは)れなり。「今は是(これ)まで候(さうら)ふ。御(おん)急(いそ)ぎ候(さうら)へ」とて、五郎(ごらう)、「先(さき)にすすみけるを、十郎(じふらう)、袖をひかへて、「女(をんな)共(ども)数多(あまた)有(あ)るべきぞ。太刀の振(ふ)りまはし心(こころ)得(え)候(さうら)へ。罪(つみ)作(つく)りに、手(て)ばしかくるな。後日(ごにち)の沙汰(さた)も、憚(はばか)り有(あ)り」と言(い)ひければ、「左右(さう)にや及(およ)び給(たま)ふ」とて、足早(あしばや)P343にこそ急(いそ)ぎける。
@〔屋形(やかた)屋形(やかた)にて咎(とが)められし事(こと)〕S0906N137
此処(ここ)に、座間(ざんま)と本間(ほんま)と、屋形(やかた)数十間(すじつけん)、向(む)かひ合(あ)ひてぞ打(う)ちたりける。彼(か)の両人(りやうにん)が郎等(らうどう)、篝(かがり)を数多(あまた)所にたかせ、木戸(きど)をゆひ重(かさ)ね、辻(つじ)を固(かた)め、通(とほ)るべき様こそ無(な)かりけれ。如何(いかが)せんとやすらふを見(み)て、「何者(なにもの)ぞや。是(これ)程(ほど)に夜ふけて通(とほ)るは。殊(こと)に其(そ)の体(てい)事がましく出(い)で立(た)ちたり。あやしや。通(とほ)すまじ」とぞ咎(とが)めける。「苦(くる)しからぬ者(もの)也(なり)。是(これ)も用心(ようじん)の形(かたち)、人をこそ咎(とが)むべけれ」「いや、誰にても坐(ま)しませ。五つ以後の通(かよ)ひ、適(かな)ふべからずとの御(おん)掟(おきて)なり。通(とほ)すまじき」とぞ支(ささ)へける。十郎(じふらう)打(う)ち向(む)かひて、「御(おん)咎(とが)め有(あ)るまじき物(もの)なり。是(これ)は、土屋(つちや)殿(どの)より愛甲(あいきやう)殿(どの)への御(おん)使(つか)ひ也(なり)。通(とほ)し給(たま)へ」と言(い)ひければ、「然(さ)らば通(とほ)せ」と許(ゆる)しけり。此処(ここ)をば過(す)ぎぬれど、未(いま)だ幾(いく)つの木戸(きど)、幾重(いくへ)の関(せき)、警固(けいご)をか通(とほ)るべき。事(こと)むつかしき折節(をりふし)かなと、足早(あしばや)に行(ゆ)きけるに、千葉介(ちばのすけ)が屋形(やかた)の前をぞ通(とほ)りける。此処(ここ)にも、木戸(きど)をきぶくたてて、半装束(しやうぞく)の警固(けいご)の者(もの)数十人(すじふにん)、是(これ)も、篝(かがり)をたきてぞ固(かた)めける。「何物(なにもの)なれば、是(これ)程(ほど)夜ふけて通(とほ)るらん。遣(や)るまじき」とぞ咎(とが)めける。五郎(ごらう)打(う)ち寄(よ)りて、「御内方(うちがた)のP344者(もの)なり。苦(くる)しからず」とて打(う)ち寄(よ)り、木戸(きど)を押(お)し開(ひら)く。「抑(おさ)へて通(とほ)るは、様(やう)有(あ)り。我(われ)等(ら)が知(し)らぬ人有(あ)るまじ。御内方(うちがた)とは誰なるらん。名字(みやうじ)を名乗(なの)れ」とぞ咎(とが)めける。「我(われ)等(ら)は、名字(みやうじ)も無(な)き者(もの)なり。通(とほ)し給(たま)へ」と言(い)ひければ、「御内方(うちがた)へとは、大様(やう)也(なり)。やはか通(とほ)る」と広言(くわうげん)して、木戸(きど)をあらくぞ押(お)したてたる。五郎(ごらう)は、木戸(きど)をたてられて、大(おほ)きにいかつて言(い)ひけるは、「苦(くる)しからねば、通(とほ)る也(なり)。苦(くる)しき者(もの)の振舞(ふるま)ひを見(み)よ。是(これ)こそ、然(さ)る所(ところ)へ強盗(がうどう)に入(い)る者(もの)よ。止(とど)めんと思(おも)はん奴(やつ)原(ばら)は、組(く)み止(とど)めよ。手(て)には掛(か)けまじき物(もの)を」と言(い)ひければ、番の者(もの)共(ども)、是(これ)を聞(き)き、「夜番の兵士(ひやうじ)は、何(なに)の用(よう)ぞや、斯様(かやう)の狼藉(らうぜき)鎮(しづ)めん為(ため)也(なり)。打(う)ち止(とど)めよ」と追(お)ひ掛(か)けたり。五郎(ごらう)も、「心(こころ)得(え)たりや、ことことし。かかりて見(み)よ」と言(い)ふ儘(まま)に、太刀取(と)り直(なほ)し、待(ま)ち掛(か)けたり。十郎(じふらう)、少(すこ)しも騒(さわ)がず、しづしづと立(た)ち帰(かへ)り、「是(これ)は、更(さら)に苦(くる)しからぬ者(もの)にて候(さうら)ふ。庁南(ちやうなん)殿(どの)より北条(ほうでう)殿(どの)へ、大事(だいじ)の御物(もの)の具(ぐ)の候(さうら)ふ、取(と)りに参(まゐ)り候(さうら)ふが、夜ぶかに候(さうら)ふ間(あひだ)、人をつれて候(さうら)へば、若(わか)き者(もの)にて、酒(さけ)に酔(ゑ)ひ候(さうら)ひて、雑言(ざふごん)申(まう)し候(さうら)ふ。只(ただ)某(それがし)に御免(ごめん)候(さうら)へ」と、打(う)ち笑(わら)ひてぞ言(い)ひたりける。御免(ごめん)と言(い)ふに、勝(か)つに乗(の)り、「然(さ)ればこそとよ、不審(ふしん)也(なり)。其(そ)の儀(ぎ)ならば、事(こと)安(やす)し。庁南殿(ちやうなんどの)へ尋(たづ)ね申(まう)すべし。其(そ)の程(ほど)待(ま)ち給(たま)へ」とぞ怒(いか)りける。十郎(じふらう)聞(き)きて、斯(か)かる勝事(しようし)こそ無(な)けれ、さりながら、陳(ちん)じて見(み)んと思(おも)ひければ、此(こ)の者(もの)共(ども)、怒(いか)りける其(そ)の中へ、ながながと立(た)ち交(まじ)はり、「御分(ごぶん)達(たち)、我々(われわれ)P345をば見(み)知(し)り給(たま)はずや。庁南(ちやうなん)殿(どの)の御内(みうち)に、弥源次(いやげんじ)・弥源太(いやげんた)とて、兄弟(きやうだい)の馬屋(うまや)の者(もの)也(なり)。いつぞや、宇都宮(うつのみや)殿(どの)、北山への御出(おいで)の時(とき)、見参(げんざん)に入(い)り候(さうら)ひしをば、忘(わす)れ給(たま)ひ候(さうら)ふや」と言(い)ふ。其(そ)の中(なか)に、おとなしき雑色(ざふしき)歩(あゆ)み出(い)でて、十郎(じふらう)が顔(かほ)をつくづくと守(まも)りけり。祐成(すけなり)、こはしと思(おも)へば、松明(たいまつ)少(すこ)し脇(わき)へまはし、眼(め)を少(すこ)しすがめて居(ゐ)たりけり。此(こ)の者(もの)共(ども)、よくよく守(まぼ)りて、「誠(まこと)に思(おも)ひ出(い)だしたり、片瀬(かたせ)よりせきとのへ御(おん)帰(かへ)りに、寄(よ)り合(あ)ひたる様(やう)に覚(おぼ)ゆるぞや」。十郎(じふらう)、事(こと)こそよけれと思(おも)ひければ、「さぞかし、殿(との)原(ばら)、其(そ)の時(とき)の酒盛(さかもり)には、座敷(ざしき)の狂(くる)ひ人ぞかし。忘(わす)れ給(たま)ふか」と言(い)ひければ、「実(げ)に、其(そ)の人にて坐(ま)しましけり。わ殿(との)は、人をば宣(のたま)へども、二王舞(にわうまひ)をばし給(たま)はぬか」。側(そば)なりける男(をとこ)が、「是(これ)程(ほど)の知音(ちいん)にて坐(ま)しましけるや。御(おん)使(つか)ひなるに、急(いそ)ぎ通(とほ)し給(たま)へ」と言(い)ふ。「哀(あは)れ、濁(にご)り酒(ざけ)一桶(をけ)あらば、如何(いか)なる御(おん)使(つか)ひなりとも、得手(えて)の二王舞(にわうまひ)を所望(しよまう)申(まう)さぬか。一番(いちばん)見(み)たし」と言(い)ひければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「同(おな)じ御心(おんこころ)也(なり)。さりながら、後日(ごにち)に参(まゐ)り合(あ)はん」とて、余所目(よそめ)に懸(か)けてぞ通(とほ)りけり。此(こ)の者(もの)共(ども)打(う)ち寄(よ)りて、「過(あやま)ちしたりけん。通(とほ)り給(たま)へや、人々(ひとびと)」とて、木戸(きど)を開(ひら)きて押(お)し出(い)だす。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、鰐(わに)の口を逃(のが)れたる心地(ここち)して、十郎(じふらう)言(い)ひけるは、「斯様(かやう)の所(ところ)にては、如何(いか)にも、降(かう)をこふべきに、御分(ごぶん)の雑言(ざふごん)心(こころ)得(え)ず。孔子(くじ)の言葉(ことば)をば聞(き)き給(たま)はずや。「事(こと)を見(み)ては、いさむ事(こと)無(な)かれ。大事(だいじ)の前に、少事無(な)し」とこそ見(み)え候(さうら)へ。身(み)ながらP346も、よくこそ陳(ちん)じぬれ。是(これ)や、富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)にて、くわうの憤(いきどほ)りを止(や)めけるも、今に知(し)られたり」とぞ申(まう)しける。
@〔波斯匿王(はしのくわう)の事(こと)〕S0907N138
抑(そもそも)、富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)にて、くわうの怒(いか)りを止(や)めける来歴(らいれき)を尋(たづ)ぬるに、昔(むかし)、釈尊(しやくそん)、霊山(りやうぜん)にて法(ほふ)をとき給(たま)ひしに、波斯匿王(はしのくわう)、聞法(ききほふ)結縁(けちえん)の為(ため)に、参(まゐ)らせられたり。富楼那尊者(ふるなそんじや)と申(まう)すは、弁舌(べんぜつ)第一(だいいち)の仏弟子(ぶつでし)にて坐(ま)しましけり。然(しか)れども、彼(か)のくわうの臣下(しんか)の子(こ)也(なり)。教法(けうぼふ)に心(こころ)を染(そ)めて、くわうの方(かた)をだに見(み)遣(や)り給(たま)はざりける。くわう、怒(いか)りをなして曰(いは)く、「扨(さて)も、尊者(そんじや)は、自(みづか)ら仏前(ぶつぜん)に有(あ)りつるを、遂(つひ)に其(そ)れとだにも見(み)られざりつる奇怪(きくわい)さよ。此(こ)の度、参(まゐ)らむ時(とき)は、其(そ)の色みすべし」とて、幸臣(かうしん)数(かず)相(あひ)具(ぐ)し、怨敵(おんでき)をふくみて、参(まゐ)られける時(とき)、富楼那尊者(ふるなそんじや)は、路中にて行(ゆ)き合(あ)ひ給(たま)ひ、「如何(いか)に尊者(そんじや)、何処(いづく)へ」と問(と)ふ。尊者(そんじや)聞(き)き給(たま)ひて、殊(こと)の外(ほか)に恭敬(くぎやう)して、「過(す)ぎにし仏(ほとけ)の御説法(せつぽふ)の時(とき)、君参(まゐ)り給(たま)ひしか共(ども)、法門(ほふもん)歓喜(くわんぎ)のみぎり、身(み)を忘(わす)れ、他(た)を知(し)らざりし事(こと)なれば、其(そ)の礼(れい)更(さら)に無(な)かりしなり」。くわうは、未(いま)だ真俗(しんぞく)残(のこ)り、是非(ぜひ)に携(たづさ)はり給(たま)ひき。其(そ)れ又(また)、理(ことわり)無(な)きにあらず。御(おん)憤(いきどほ)り黙(もだ)し難(がた)し。王宮(わうくう)よりの御(おん)たくみ、さぞとP347知(し)られて、急(いそ)ぎ参(まゐ)りたる。「誠(まこと)に此(こ)の理(ことわり)わきまへ給(たま)ふにや。真如(しんによ)、禅定(ぜんぢやう)の時(とき)は、無二(むに)亦(やく)無三(むさん)ととかれてこそ候(さうら)へ。然(さ)るにおきて、自(じ)も無(な)く他(た)も無(な)く、法界(ほふかい)平等(びやうどう)なり。何者(なにもの)か有(あ)りて、しやうとも又正(しやう)とも隔(へだ)てん。万法(まんぼふ)一如(によ)にして、阿字本不生(あじほんふしやう)の観(くわん)をなし給(たま)へ」と示(しめ)し給(たま)ひければ、くわう、猶(なほ)しも邪(じや)に入(い)りて、「自(みづか)らが言葉(ことば)徒(いたづ)らに成(な)りて、無礼(ぶれい)にひとしく候(さうら)ふべきにや」。いよいよ怒(いか)りを高(たか)くして、尊者(そんじや)の理(り)に受(う)け候(さうら)はず。これ偏(ひとへ)に驕慢(けうまん)瞋恚(しんゐ)の外道(げだう)と、あさましくこそ覚(おぼ)えけれ。其(そ)の時(とき)、富楼那(ふるな)、「「にやくいしきたんが、ひおんしんしやうくが、斯様(かやう)の人は、まさに邪道(じやだう)を行(ぎやう)じて、如来(によらい)を見(み)る事(こと)適(かな)ふべからず」とこそとかれて候(さうら)へ。色(いろ)にふける、言葉(ことば)に尋(たづ)ねんは、無縄自縛(むじやうじばく)かんかんと見(み)えたるをや」。くわう、猶(なほ)承(うけたまは)つて、「其(そ)の縄(なは)は誰(たれ)か致(いた)しける」「其(そ)の心(こころ)に帰(かへ)りて尋(たづ)ね給(たま)へど、外(ほか)には無(な)し」と宣(のたま)ひける所(ところ)に、くわう、一理(り)を受(う)けて、恭敬(くぎやう)礼拝(らいはい)して、仏果(ぶつくわ)に成(じやう)じ給(たま)ふ。即(すなは)ち、尊者(そんじや)引(ひ)き具(ぐ)し、霊山(りやうぜん)に参(まゐ)り給(たま)ふ。「実(げ)にや、本文(ほんもん)に、「私(わたくし)の志(こころざし)を忘(わす)れ、誠(まこと)の恭敬(くぎやう)によつて、波斯匿王(はしのくわう)も、方便(はうべん)の教化(けうけ)によれる、返(かへ)す返(がへ)す私(わたくし)無(な)し」とこそしめされてこそ候(さうら)へ。但(ただ)し、梶原(かぢはら)と言(い)ふ曲者(くせもの)の屋形(やかた)の前、如何(いかが)すべき。我(われ)等(ら)を見(み)知(し)りたる者(もの)なり。然(さ)れども、帰るべき道(みち)にもあらず。浮沈(ふちん)、此処(ここ)にきはまれり。運(うん)に任(まか)せよ」とて通(とほ)る。案(あん)の如(ごと)く、辻(つじ)がための兵数十人(すじふにん)、長具足(ながぐそく)立(た)て並(なら)べ、誠(まこと)に厳(きび)しく見(み)えたり。P348詮方(せんかた)無(な)くして、南無(なむ)二所(にしよ)権現(ごんげん)、助(たす)け給(たま)へ」と祈念(きねん)して、知(し)らぬ様(やう)にて通(とほ)りける。然(さ)れども、神慮(しんりよ)の御(おん)助(たす)けにや、咎(とが)むる者(もの)も無(な)かりけり。「すはや、よきぞ」とささやきて、足早(あしばや)にこそ通(とほ)りけれ。只事(ただこと)ならずとぞ見(み)えける。
@〔祐経、屋形(やかた)を返(かへ)し事(こと)〕S0908N139
既(すで)に祐経(すけつね)が屋形(やかた)近(ちか)く成(な)りて、此処(ここ)ぞと言(い)へば、打(う)ちうなづきて、既(すで)に屋形(やかた)へ入(い)らんとしける時(とき)、十郎(じふらう)、弟(おとと)が袖(そで)をひかへて、「我々(われわれ)、敵(てき)に打(う)ち合(あ)ひなば、刹那(せつな)の隙(ひま)も有(あ)るまじ。今こそ最後(さいご)の際(きは)なれ。心(こころ)静(しづ)かに念仏(ねんぶつ)せよ」と言(い)ひければ、「然(しか)るべし」とて、兄弟(きやうだい)、西に向(む)かひ手(て)を合(あ)はせ、「臨命終(りんみやうじう)の仏達(たち)、親(おや)の為(ため)に回向(ゑかう)する命、諸尊(しよそん)も知(し)り給(たま)はん。安楽(あんらく)世界(せかい)に向(む)かへ給(たま)へ」と祈念(きねん)して、屋形(やかた)の内へぞ入(い)りにける。然(さ)れども、王藤内(わうとうない)が申(まう)す様(やう)に従(したが)ひ、祐経(すけつね)、思(おも)はざる所(ところ)に屋形(やかた)をかへたりければ、只(ただ)空(むな)しく土器(かはらけ)踏(ふ)み散(ち)らして、人一人も無(な)かりけり。是(これ)は如何(いか)にと、松明(たいまつ)振(ふ)り上(あ)げ見(み)れば、屋形(やかた)も同(おな)じ屋形(やかた)、座敷(ざしき)も宵(よひ)の所(ところ)なり。人は多(おほ)く伏(ふ)したれども、狩(かり)に疲(つか)れ、酒(さけ)に酔(ゑ)ひ伏(ふ)したりければ、「誰(た)そ」と咎(とが)むる者(もの)も無(な)し。此(こ)の人々(ひとびと)は、力(ちから)無(な)く屋形(やかた)を立(た)ち出(い)でて、天(てん)に仰(あふ)ぎ、地に伏(ふ)し、悲(かな)しみけるぞ、理(ことわり)なり。「敵に縁(えん)P349無(な)き者(もの)を尋(たづ)ぬるに、我(われ)等(ら)には過(す)ぎじ。今宵(こよひ)は、さりともと思(おも)ひしに、余(あま)しぬるこそ、口惜(くちを)しけれ。斯様(かやう)に有(あ)るべしと知(し)るならば、曾我(そが)へ返(かへ)すまじきに、さ無(な)き物(もの)故(ゆゑ)に、世間(せけん)に披露(ひろう)せられんこそ、悲(かな)しけれ。自害(じがい)して失(う)せなん」とて、立(た)ちたりける。 然(さ)れども、御屋形(やかた)の東のはづれは、秩父(ちちぶ)の屋形(やかた)なりけり。折節(をりふし)、本田(ほんだ)の二郎(じらう)、小具足(こぐそく)差(さ)し固(かた)め、夜まはりの番(ばん)也(なり)しが、庭上(ていしやう)に、「今宵(こよひ)も余(あま)しけるよ」と、小声(こごゑ)に言(い)ふ音(おと)しけり。いかさま、伊豆(いづ)・駿河(するが)の盗賊(とうぞく)の奴(やつ)原(ばら)にて有(あ)るらん、打(う)ち止(とど)め、高名(かうみやう)せんと思(おも)ひ、太刀の鍔元(つばもと)、二三寸(ずん)すかし、足早(あしばや)に歩(あゆ)み寄(よ)りけるが、心(こころ)をかへて思(おも)ふ様(やう)、一定(いちぢやう)、曾我(そが)の殿(との)原(ばら)の、日頃(ひごろ)の本意(ほんい)遂(と)げんとて、夜昼(よるひる)付(つ)けめぐりつる、然様(さやう)の人にてもやと、障子(しやうじ)の隙(すき)より、忍(しの)びて見(み)れば、案(あん)にも違(たが)はず、兄弟(きやうだい)は、敵のかへたる屋形(やかた)を知(し)らで、あきれてこそは居(ゐ)たりけれ。いたはしく思(おも)ひて、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)が伏(ふ)したる屋形(やかた)の妻戸(つまど)を、秘(ひそ)かに押(お)し開(ひら)き、何(なに)共(とも)物(もの)をば言(い)はずして、扇(あふぎ)を出(い)だして招(まね)きたり。五郎(ごらう)、此(こ)の由(よし)きつと見(み)て、本田(ほんだ)が我(われ)等(ら)を招(まね)きつるは、様(やう)こそあれと思(おも)ひ、松明(たいまつ)脇(わき)に引(ひ)きそばめ、広縁(ひろえん)にづんど上(あ)がり、「何事(なにごと)ぞや、本田(ほんだ)殿(どの)」とささやきければ、本田(ほんだ)、小声(こごゑ)に成(な)りて、「夜陰(いん)の名字(みやうじ)は詮(せん)無(な)し。波にゆらるる沖(おき)つ船(ふね)、しるべの山は此方(こなた)ぞ」と、言(い)ひ捨(す)ててこそ忍(しの)びけれ。「其処(そこ)とも知(し)らぬ夜(よ)の波(なみ)、風を頼(たよ)りの湊(みなと)入(い)り、心(こころ)有(あ)るよ」とたはぶれて、屋形(やかた)の内(うち)へぞ入(い)りにける。兄弟(きやうだい)共(とも)に立(た)ち添(そ)ひて、松明(たいまつ)振(ふ)り上(あ)げ、P350よく見(み)れば、本田(ほんだ)が教(をし)へに違(たが)はず、敵は、此処(ここ)にぞ伏(ふ)したりける。二人が目(め)と目(め)を見(み)合(あ)はせ、あたりを見(み)れば、人も無(な)し。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)は、手越(てごし)の少将(せうしやう)と伏(ふ)したり。王藤内(わうとうない)は、畳(たたみ)少(すこ)し引(ひ)きのけて、亀鶴とこそ伏(ふ)したりけれ。十郎(じふらう)、敵を見(み)付(つ)けて、弟(おとと)に言(い)ひけるは、「わ殿は、王藤内(わうとうない)を切(き)り給(たま)へ。祐経(すけつね)をば、祐成(すけなり)に任(まか)せて見(み)よ」とぞ言(い)ひたりける。時宗聞(き)きて、「愚(おろ)かなる御(おん)言葉(ことば)かな。我々幼少(えうせう)より、神仏に祈(いの)りし事(こと)は、王藤内(わうとうない)を打(う)たん為(ため)か。彼(か)の者(もの)は、にがすべし。立(た)て合(あ)はば、切(き)るべし。祐経(すけつね)をこそ、千太刀も百太刀も、心(こころ)の儘(まま)に切(き)るべけれ。はや切(き)り給(たま)へ。切(き)らん」とて、すぞろきてこそ立(た)ちたりけれ。果報(くわほう)めでたき祐経(すけつね)も、無明(むみやう)の酒(さけ)に酔(ゑ)ひぬれば、敵(てき)の入(い)るをも知(し)らずして、前後も知(し)らでぞ伏(ふ)したりける。二人の君(きみ)共(ども)をば、衣(きぬ)に押(お)しまき、畳(たたみ)より押(お)し下(お)ろし、「己(おのれ)、声立(た)つな」と言(い)ひて、松明(たいまつ)側(そば)に差(さ)しおき、十郎(じふらう)、枕にまはりければ、五郎(ごらう)は、後(あと)にぞめぐりける。二人の君(きみ)共(ども)、始(はじ)めより、知(し)りたりけれども、余(あま)りの恐(おそ)ろしさに、音(おと)もせず。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、祐経(すけつね)を中(なか)に置(お)きて、各々(おのおの)目(め)と目(め)を見(み)合(あ)はせて、打(う)ちうなづきて喜(よろこ)びけるぞ、哀(あは)れなる。「三千年に花さき実(み)成(な)る西王母(せいわうぼう)の園(その)の桃(もも)、優曇華(うどんげ)よりも珍(めづら)しや。優曇華(うどんげ)をば、拝(をが)みてをると言(い)ふなれば、其(そ)れにたとふる敵なれば、拝(をが)みてきれやきれや」とて、喜(よろこ)びける。さて、二人が太刀を左衛門(さゑもん)の尉(じよう)にあてては引(ひ)き、引(ひ)きてはあて、七八度こそあてにけれ。P351やや有(あ)りて、時致(ときむね)、此(こ)の年月(としつき)の思(おも)ひ、只(ただ)一太刀にと思(おも)ひつる気色(けしき)現(あらは)れたり。十郎(じふらう)、是(これ)を見(み)て、「まてしばし、ね入(い)りたる者(もの)を切(き)るは、死人(しにん)を切(き)るに同(おな)じ。起(お)こさん物(もの)を」とて、太刀(たち)のきつ先(さき)を、祐経が心(こころ)もとに差(さ)し当(あ)て、「如何(いか)に左衛門(さゑもん)殿(どの)、昼(ひる)の見参(げんざん)に入(い)りつる曾我(そが)の者(もの)共(ども)参(まゐ)りたり。我(われ)等(ら)程(ほど)の敵(てき)を持(も)ちながら、何(なに)とて打(う)ちとけて伏(ふ)し給(たま)ふぞ。おきよや、左衛門(さゑもん)殿(どの)」と起(お)こされて、祐経も、よかりけり、「心(こころ)得(え)たり。何程(なにほど)の事(こと)あふるべき」と言(い)ひもはてず、おき様(さま)に、枕元(もと)にたてたる太刀を取(と)らんとする所(ところ)を、「やさしき敵の振舞(ふるま)ひかな。おこしはたてじ」と言(い)ふ儘(まま)に、左手(ゆんで)の肩(かた)より右手(めて)の脇(わき)の下(した)、板敷(いたじき)までも通(とほ)れとこそは、切(き)り付(つ)けけれ。五郎(ごらう)も、「えたりや、おう」と罵(ののし)りて、腰(こし)の上手(うはて)を差(さ)し上(あ)げて、畳(たたみ)板敷(いたじき)切(き)り通(とほ)り、下もちまでぞ打(う)ち入(い)れたる。理(ことわり)なるかな、源氏(げんじ)重代(ぢゆうだい)友切(ともきり)、何物(なにもの)かたまるべき。あたるにあたる所(ところ)、続(つづ)く事(こと)無(な)し。「我(われ)幼少(えうせう)より願(ねが)ひしも、是(これ)ぞかし。妄念(まうねん)払(はら)へや、時致(ときむね)。忘(わす)れよや、五郎(ごらう)」とて、心(こころ)の行(ゆ)く行(ゆ)く、三太刀づつこそ切(き)りたりけれ。無慙(むざん)なりし有様(ありさま)なり。 後(あと)に伏(ふ)したる王藤内(わうとうない)、ねおびれて、「詮(せん)無(な)き殿(との)原(ばら)の夜ちうのたはぶれかな。過(あやま)ちし給(たま)ふな。人違(たが)ひし給(たま)ふな。人々(ひとびと)をば見(み)知(し)りたり。後日(ごにち)に争(あらそ)ふな」とは言(い)ひけれども、刀をだにも取(と)らずして、たかばひにしてぞ、逃(に)げたりける。十郎(じふらう)追(お)ひ掛(か)けて、「昼(ひる)の言葉(ことば)にはにざる物(もの)かな。何処(いづく)まで逃(に)ぐるぞ。余(あま)すまじ」とて、P352左の肩(かた)より右の乳(ち)の下掛(か)けて、二(ふた)つに切(き)りて、押(お)しのけたり。五郎(ごらう)走(はし)り寄(よ)り、左右(さう)の高股(たかもも)二(ふた)つに切(き)りて、押(お)しのけたり。四十余(あま)りの男(をとこ)なりしが、時(とき)の間(ま)に、四(よ)つに成(な)りてぞ、失(う)せにける。にがすべかりつる者(もの)、かい伏(ふ)しては逃(に)げずして、なましひなる事(こと)を言(い)ひて、四(よ)つに成(な)るこそ、無慙(むざん)さよ。五郎(ごらう)、王藤内(わうとうない)が果(はて)を見(み)て、一首(しゆ)取(と)り敢(あ)へず詠(よ)みたりける。馬(むま)はほえ牛(うし)はいななく逆様(さかさま)に四十の男(をとこ)四(よ)つになりけり W035「よくよく仕(つかまつ)り候(さうら)ふかな。一期(いちご)詠(えい)じても、是(これ)程(ほど)こそ詠(よ)み候(さうら)はんずれ。詩歌(しいか)においては、時宗、集(しう)にもめととなん。思(おも)ふ本意(ほんい)をば遂(と)げぬ。今は憚(はばか)る事(こと)無(な)し」と、高声(たかごゑ)に言(い)ひ散(ち)らし、どつと笑(わら)ひて、出(い)でけるが、
@〔祐経(すけつね)に止(とど)め差(さ)す事(こと)〕S0909N142
十郎(じふらう)言(い)ひけるは、「祐経に止(とど)めを差(さ)さざりけるか。止(とど)めは、敵(かたき)を打(う)つての法(ほふ)也(なり)。実検(じつけん)の時(とき)、止(とど)めの無(な)きは、敵打(う)ちたるにいらず」「然(さ)らば、止(とど)めをさし候(さうら)はん」とて、五郎(ごらう)立(た)ち帰(かへ)り、刀(かたな)を抜(ぬ)き取(と)りて抑(おさ)へ、「御辺(ごへん)の手(て)より賜(たま)はりて候(さうら)ふ刀(かた)な、確(たし)かに返(かへ)し奉(たてまつ)る。取(と)らずと論(ろん)じ給(たま)ふな」とて、柄(つか)も拳(こぶし)も通(とほ)れ通(とほ)れとさす程(ほど)に、P353余(あま)りにしげく差(さ)しければ、口(くち)と耳(みみ)と一(ひと)つになりにけり。扨(さて)こそ、後に人の申(まう)しけるは、「宵(よひ)に悪口(あつこう)せられし其(そ)のねたに、わざと口(くち)をさかるる」とぞ申(まう)しける。「幼少(えうせう)より、敵(かたき)を見(み)んと、箱根に祈誓(きせい)申(まう)し、御前(ごぜん)にて祐経を見(み)染(そ)むるのみならず、一腰(こし)の刀(かたな)をえたる、今(いま)止(とど)めを差(さ)したる刀(かたな)、是(これ)也(なり)。権現(ごんげん)の御(おん)恵(めぐ)みとて感(かん)じける。さすがに離(はな)れぬ一門(いちもん)の中、哀(あは)れとや思(おも)ひけん、「我、過去(くわこ)の宿業(しゆくごふ)と言(い)ひながら、一念(いちねん)の瞋恚(しんい)に依(よ)り、敵御方(みかた)とは隔(へだ)たるなり。慚愧(ざんぎ)懺悔(さんげ)の力(ちから)に依(よ)り、六根(こん)の罪障(ざいしやう)を消滅(せうめつ)し、因果(いんぐわ)の輪廻(りんゑ)を只今(ただいま)つくしはてて、一念(いちねん)の菩提心(ぼだいしん)誤(あやま)り給(たま)はで、一蓮(ひとつはちす)の縁(えん)となし給(たま)へ。阿弥陀仏」と回向(ゑかう)して、屋形(やかた)をこそ出(い)でたりけれ。十郎(じふらう)は、庭上(ていしやう)に立(た)ちて、五郎(ごらう)を待(ま)ち得(え)て言(い)ひけるは、「我(われ)名乗(なの)りて、人々(ひとびと)に知(し)られん」「もつとも」とて、大音声(だいおんじやう)にて罵(ののし)りける。「遠(とほ)からん人は、音(おと)にも聞(き)け。近(ちか)からん者(もの)は、目(め)にも見(み)よ。伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊藤(いとう)の二郎(じらう)祐親(すけちか)が孫(まご)、曾我(そが)の十郎(じふらう)祐成(すけなり)、同(おな)じく五郎(ごらう)時致(ときむね)とて、兄弟(きやうだい)の者(もの)共(ども)、君(きみ)の屋形(やかた)の前(まへ)にて、親(おや)の敵、一家(か)の工藤(くどう)左衛門(さゑもん)の尉(じよう)祐経(すけつね)を打(う)ち取(と)り、罷(まか)り出(い)づる。我(われ)と思(おも)はん人々(ひとびと)は、打(う)ち止(とど)め高名(かうみやう)せよ」と雖(いへど)も、昼(ひる)の狩座(かりくら)につかれければ、音(おと)もせず。小柴垣(こしばがき)のもとに躍(をど)り寄(よ)り、猶(なほ)声を上(あ)げて、呼(よ)ばはりけれども、東西(とうざい)南北(なんぼく)に音(おと)もせず。三浦(みうら)の屋形(やかた)には、予(かね)てより知(し)りたれば、わざと出(い)づる者(もの)も無(な)し。次(つぎ)の屋形(やかた)に聞(き)き付(つ)けて、榛沢(はんざは)・あかさは・柏原(かしはばら)を始(はじ)めとして、むねとの者(もの)共(ども)、出(い)でんとする所(ところ)を、重忠(しげただ)聞(き)き、P354「余(あま)りな騒(さわ)ぎそ。一定(いちぢやう)、曾我(そが)の人々(ひとびと)が、本意(ほんい)をとぐると覚(おぼ)えたり。如何(いか)に嬉(うれ)しく思(おも)ふらん。心(こころ)静(しづ)かによくさせよ。然(さ)らぬだに、若(わか)き者(もの)は、心(こころ)騒(さわ)ぎて、し損(そん)ずる事有(あ)りぬべし。鎮(しづ)まり候(さうら)へ」と有(あ)りければ、出(い)づる者(もの)こそ無(な)かりけれ。兄弟(きやうだい)の人々(ひとびと)は、しばしやすらひ、敵をまて共(ども)、無(な)かりければ、十郎(じふらう)言(い)ひけるは、「いざや時宗、ひとまづ落(お)ちて、今(いま)一度母(はは)にあひ奉(たてまつ)り、思(おも)ふ事(こと)をも語(かた)り申(まう)し、猶(なほ)事(こと)のびば、髻(もとどり)切(き)り、如何(いか)ならん野(の)の末(すゑ)、山の中にも閉籠(へいろう)し、父(ちち)の孝養(けうやう)をもせん。其(そ)れ適(かな)はずは、心(こころ)静(しづ)かに念仏(ねんぶつ)申(まう)し、自害(じがい)するまで」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)聞(き)き、余(あま)りのにくさに音(おと)もせず、やや有(あ)りて、「此(こ)の仰(おほ)せこそ、条々(でうでう)然(しか)るべしとも覚(おぼ)えず候(さうら)へ。弓矢(ゆみや)取(と)る者(もの)の習(なら)ひには、仮初(かりそめ)にも一足(あし)も逃(に)ぐると言(い)ふ事(こと)、口惜(くちを)しき事(こと)にて候(さうら)ふ。命(いのち)の惜(を)しき者(もの)こそ、入道をもし、山林(さんりん)に閉籠(へいろう)し候(さうら)はんずれ。幼少(えうせう)より思(おも)ひし事(こと)はとぐるなり。何事(なにごと)を思(おも)ひ残(のこ)して、落(お)ち候(さうら)ふべき。母(はは)に対面(たいめん)の事(こと)、科(とが)を奉(たてまつ)るべき為(ため)か。させる孝養(けうやう)報恩(ほうおん)こそ贈(おく)らざらめ、科(とが)も無(な)き母(はは)さへいたまれ、「子供(こども)の行(ゆ)き方知(し)らぬ事(こと)あらじ」とぞ攻(せ)め問(と)はれ、禁獄(きんごく)死罪(しざい)にも行(おこな)はれば、我(われ)等(ら)が出(い)ださずして適(かな)ふまじ。なましひに逃(に)げ隠(かく)れて、彼処(かしこ)此処(ここ)より搦(から)め出(い)だされ、剰(あまつさ)へ諸国(しよこく)の侍(さぶらひ)共(ども)に、「幾程(いくほど)の命(いのち)惜(を)しみて、曾我(そが)の物(もの)共(ども)が髻(もとどり)切(き)り、乞食(こつじき)をす」と、沙太(さた)せられん事(こと)は恥(は)づかし。其(そ)の上、一旦(いつたん)隠(かく)れ得(え)たりと言(い)ふとも、東は奥州(あうしう)外浜(そとのはま)、西は鎮西(ちんぜい)鬼界島(きかいがしま)、南は紀伊路(きいのぢ)熊野山(くまのさん)、P355北は越後の荒海(あらうみ)までも、君(きみ)の御息(おんいき)の及(およ)ばぬ所有(あ)るべからず。天(てん)に掛(か)けり、地(ち)に入(い)らざらん程(ほど)は、一天(いつてん)四海(しかい)の内に、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御権威(けんい)の及(およ)ばざる事(こと)無(な)し。只(ただ)羅網(らまう)の鳥(とり)、つりをふくむ魚(うを)の如(ごと)し。真実(しんじつ)の仰(おほ)せとも覚(おぼ)えず。時宗におきては、向(む)かふ敵(てき)あらば、太刀(たち)の目釘(めくぎ)のこらへん程(ほど)は、命(いのち)こそ限(かぎ)りなれ」と申(まう)しければ、十郎(じふらう)聞(き)きて、「わ殿(との)が試(こころ)みんとてこそ言(い)ひたれ、祐成(すけなり)が心(こころ)も、予(かね)てより知(し)りぬらん。一足(あし)も引(ひ)き候(さうら)ふまじき」と語(かた)らひ、よする敵を待(ま)ち掛(か)けたり。
@〔十番ぎりの事(こと)〕S0910N143
然(さ)る程(ほど)に、夜討(ようち)の時(とき)、恐(おそ)ろしさに声(こゑ)もたてざりし二人の君(きみ)共(ども)が、「御所(ごしよ)中(ぢゆう)に、狼藉人(らうぜきにん)有(あ)りて、祐経(すけつね)も打(う)たれたり。王藤内(わうとうない)も打(う)たれたる」と、声々(こゑごゑ)にこそ呼(よ)ばはりけれ。鎧(よろひ)・兜(かぶと)・弓矢(ゆみや)・太刀、馬(むま)よ、鞍(くら)よと、ひしめきあわつる程(ほど)に、具足(ぐそく)一領(りよう)に、二三人取(と)り付(つ)きて、引(ひ)きあふ者(もの)も有(あ)り、つなぎ馬(うま)に乗(の)りながら、打(う)ちあふる者(もの)も有(あ)り。某(それがし)、かれがしと罵(ののし)る音(おと)は、只(ただ)六種(ろくしゆ)震動(しんどう)にも劣(おと)らず。やや有(あ)りて、武者(むしや)一人出(い)で来(き)て、申(まう)しけるは、「何物(なにもの)なれば、我(わ)が君(きみ)の御前(ごぜん)にて、斯(か)かる狼藉(らうぜき)をば致(いた)すぞ。名乗(なの)れ」とぞ言(い)ひける。十郎(じふらう)打(う)ち向(む)かひて、「以前(いぜん)名乗(なの)りぬれば、定(さだ)めて聞(き)きつらん。P356かく言(い)ふ者(もの)は、如何(いか)なる者(もの)ぞ」「是(これ)は、武蔵(むさし)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)大楽(たいらく)の平(へい)右馬助(むまのすけ)」と名乗(なの)る。祐成(すけなり)聞(き)きて、「薫蕕(くんゆ)は、入物(もの)同(おな)じくせず、梟鸞(けうらん)は、翼(つばさ)をまじへず、我(われ)等(ら)にあひて、斯様(かやう)の事(こと)は、過分(くわぶん)なり。是(これ)こそ、曾我(そが)の物(もの)共(ども)よ。敵(てき)打(う)ちて出(い)づるぞ。止(とど)めよ」と言(い)ひて、追(お)ひ掛(か)けたり。右馬助(むまのすけ)、言葉(ことば)には似(に)ず、かひふつて逃(に)げけるが、押付(おしつけ)のはづれに、胛(かひがね)掛(か)けて打(う)ちこまれ、太刀を杖(つゑ)にて、引(ひ)き退(しりぞ)く。二番に、是(これ)等(ら)が、姉聟(あねむこ)横山(よこやま)党(たう)愛甲(あいきやう)の三郎(さぶらう)と名乗(なの)りて、押(お)し寄(よ)せたり。五郎(ごらう)打(う)ち向(む)かひ、言(い)ひけるは、「紫燕(しゑん)は、柳樹(りうじゆ)の枝(えだ)にたはぶれ、白鷺(はくろ)は、蓼花(れうくわ)の陰(かげ)に遊(あそ)ぶ。斯様(かやう)の鳥類(ちやうるい)までも、己(おのれ)が友(とも)にこそ交(まじ)はれ。御分(ごぶん)達(たち)、相手(あひて)には不足(ふそく)なれども、人を選(えら)ぶべきにあらず。時致(ときむね)が手並(てなみ)の程見(み)よ」とて、紅(あけ)にそまはりたる友切(ともきり)、まつこうに差(さ)しかざし、電(いなづま)の如(ごと)くに、とんで掛(か)かる。適(かな)はじとや思(おも)ひけん。少(すこ)しひるむ所(ところ)を、すすみかかりて打(う)ちければ、五郎(ごらう)が太刀を受(う)けはづし、左手(ゆんで)の小腕(こがひな)を打(う)ち落(お)とされて、引(ひ)き退(しりぞ)く。三番に、駿河(するが)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)岡部(をかべ)の弥三郎(やさぶらう)、十郎(じふらう)に走(はし)り向(む)かひて、左(ひだり)の手(て)の中指(なかゆび)二(ふた)つ打(う)ち落(お)とされて逃(に)げけるが、御所(ごしよ)の御番の内に走(はし)り入(い)り、「敵は二人ならでは無(な)く候(さうら)ふ。いたくな御(おん)騒(さわ)ぎ候(さうら)ひそ」と申(まう)しければ、「神妙(しんべう)に申(まう)したり。いしくも見(み)たり」とて、高名(かうみやう)の御意(ぎよい)にぞ預(あづ)かりける。四番(ばん)に、遠江(とほたふみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)原(はら)の小次郎、切(き)られて、引(ひ)き退(しりぞ)く。五番(ばん)に、御所(ごしよ)の黒弥五(くろやご)と名乗(なの)り押(お)し寄(よ)せ、十郎(じふらう)に追(お)つたてられ、小鬢(こびん)切(き)られて、引(ひ)き退(しりぞ)く。P357六番(ろくばん)に、伊勢(いせ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)加藤(かとう)弥太郎(やたらう)攻(せ)め来(き)て、五郎(ごらう)が太刀受(う)けはずし、二の腕(うで)切(き)り落(お)とされて、引(ひ)き退(しりぞ)く。七番(ばん)に、駿河(するが)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)船越(ふなこし)の八郎押(お)し寄(よ)せ、十郎(じふらう)に高股(たかもも)切(き)られて、引(ひ)き退(しりぞ)く。八番に、信濃(しなの)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)海野(うんの)小太郎(こたらう)行氏(ゆきうぢ)と名乗(なの)りて、五郎(ごらう)に渡(わた)り合(あ)ひ、しばし戦(たたか)ひけるが、膝(ひざ)をわられて、犬居(いぬゐ)に伏(ふ)す。九番に、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)宇田(うだ)の小四郎(こしらう)押(お)し寄(よ)せ、十郎(じふらう)に打(う)ち合(あ)ひけるが、如何(いかが)しけん、首(くび)打(う)ち落(お)とされて、二十七歳(さい)にて失(う)せにけり。十番(ばん)に、日向(ひうが)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)臼杵(うすき)の八郎押(お)し寄(よ)せ、五郎(ごらう)に渡(わた)り合(あ)ひ、まつかうわられて、失(う)せにけり。此(こ)の次(つぎ)に、安房(あは)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)安西(あんざい)の弥七郎と名乗(なの)りて、「敵は何処(いづく)に有(あ)るぞや」とて立(た)ちける。十郎(じふらう)打(う)ち向(む)かひて、「人々(ひとびと)、やさしく、下(お)りてふかで、討死(うちじ)にしたるは見(み)つらん。愚人(ぐにん)は、銅(あかがね)を以(もつ)て鏡(かがみ)とす。君子(くんし)は、友(とも)を以(もつ)て鏡(かがみ)とす。引(ひ)くな」と言(い)ひて、打(う)ち合(あ)ひける。弥七(やしち)も、然(さ)る者(もの)なり、「左右(さう)にや及(およ)ぶ」と言(い)ひも敢(あ)へず、とんで掛(か)かる。十郎(じふらう)、足(あし)を踏(ふ)み違(ちが)へ、側目(そばめ)に懸(か)けて、ちやうど打(う)つ。肩先(かたさき)より高紐(たかひも)のはづれへ、切先(きつさき)を打(う)ちこまれ、引(ひ)き退(しりぞ)くとは見(み)えしかど、其(そ)れも、其(そ)の夜(よ)に死(し)ににけり。頃(ころ)しも、五月二十八日の夜(よ)なりければ、暗(くら)さは暗(くら)し、ふる雨は、車軸(しやぢく)の如(ごと)くなり。敵(てき)は何処(いづく)に有(あ)るぞや」とて、走(はし)りめぐる所(ところ)を、小柴垣(こしばがき)に立(た)ち隠(かく)れて、出(い)づるをちやうど切(き)りては、陰(かげ)に引(ひ)き籠(こも)り、向(む)かふ者(もの)をば、はたと切(き)る。切(き)られて引(ひ)き退(しりぞ)く者(もの)を後陣(ごぢん)に受(う)け取(と)りて、御方(みかた)打(う)ちする所(ところ)も有(あ)り。二人のP358物(もの)共(ども)、呼(よ)ばはりけるは、「武蔵・相模(さがみ)のはや物(もの)共(ども)は、如何(いか)に。是(これ)も重代(ぢゆうだい)、是(これ)も重代(ぢゆうだい)と思(おも)ふ太刀と刀(かたな)の鉄(かね)の程(ほど)をも見(み)せよかし。敵は十人有(あ)る、二十人有(あ)ると、後日(ごにち)に沙太(さた)するな。我(われ)等(ら)兄弟(きやうだい)計(ばかり)ぞ。火(ひ)を出(い)だせ。其(そ)のあかりにて名乗(なの)り合(あ)はん。むげなる物(もの)共(ども)かな」と呼(よ)ばはりければ、御厩(むまや)の舎人(とねり)とくたけと言(い)ふ者(もの)、傘(からかさ)に火(ひ)を付(つ)けて投(な)げ出(い)だす。是(これ)を見(み)て屋形(やかた)屋形(やかた)より、我(われ)劣(おと)らじと、雑人(ざふにん)の、蓑(みの)に火(ひ)を付(つ)けて投(な)げ出(い)だす。二千間(にせんげん)の屋形(やかた)より松明(たいまつ)出(い)だしければ、万燈会(まんどうゑ)の如(ごと)し、白昼(はくちう)にも似(に)たり。彼(かれ)等(ら)二人は、素膚(すはだ)にて敵にあはんと走(はし)りまはる有様(ありさま)、小鷹(こたか)の鳥(とり)にあふが如(ごと)し。斯(か)かる所(ところ)に、武蔵(むさし)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)新開(しんかい)の荒四郎(あらしらう)と名乗(なの)り掛(か)けて、すすみ出(い)でて申(まう)しける、「敵(てき)は何十人(なんじふにん)もあれ、某(それがし)一人にやこゆべき。出(い)であへや、対面(たいめん)せん」とぞ言(い)ひける。十郎(じふらう)打(う)ち向(む)かひて、「やさしく聞(き)こゆる物(もの)かな、「大匠(たいしやう)に代(か)はりて仕(つか)へる者(もの)は、必(かなら)ず手(て)を破(やぶ)る」とは、文選(もんぜん)の言葉(ことば)なるをや。引(ひ)くな」と言(い)ひて、とんで掛(か)かる。言葉(ことば)は、主の恥(はぢ)を知(し)らず、「御免(ごめん)あれ」とて逃(に)げけるを、十郎(じふらう)、しげく追(お)ひ掛(か)けたり。余(あま)りに逃(に)げ所無(な)くして、小柴垣(こしばがき)を破(やぶ)りて、たかばひにして逃(に)げにける。次(つぎ)に、甲斐(かひ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)に、市河党(いちかはたう)に、別当(べつたう)の二郎(じらう)、すすみ出(い)でて申(まう)しけるは、「如何(いか)なるしれ者(もの)なれば、君(きみ)の御前(ごぜん)にて、斯(か)かる狼藉(らうぜき)をば致(いた)すぞ、名乗(なの)れ、聞(き)かん」と言(い)ふ。五郎(ごらう)申(まう)しけるは、「事(こと)あたらしき男(をとこ)の問(と)ひ様(やう)かな。曾我(そが)の冠者(くわんじや)原(ばら)が、親(おや)の敵打(う)ちて出(い)づると、幾度(いくたび)言(い)ふべきP359ぞ。臆(おく)して耳(みみ)がつぶれたるか。親(おや)の敵(かたき)は、陣(ぢん)の口(くち)を嫌(きら)はず。さて、斯様(かやう)に申(まう)すは誰人(たれびと)ぞ。聞(き)かん」と言(い)ふ。「是(これ)は、甲斐(かひ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)市河党(いちかはたう)の別当(べつたう)の大夫(たいふ)が次男(じなん)、別当(べつたう)の次郎(じらう)定光(さだみつ)とぞ答(こた)へける。五郎(ごらう)聞(き)きて、「わ殿(との)は、盗人(ぬすびと)よ。御坂(みさか)・かた山・都留(つる)・坂東(ばんどう)に籠(こも)り居(ゐ)て、京(きやう)鎌倉(かまくら)に奉(たてまつ)る年貢(ねんぐ)御物(みもつ)の兵士(ひやうじ)少(すく)なきを、遠矢(とほや)に射(い)て追(お)ひ落(お)とし、片山里(かたやまざと)の下種(げす)人の立(た)て合(あ)はざるを、夜打(ようち)などにし、物(もの)取(と)る様(やう)は知(し)りたりとも、恥(はぢ)有(あ)る侍(さぶらひ)に寄(よ)り合(あ)ひ、はれの軍(いくさ)せん事(こと)は、如何(いか)でか知(し)るべき。今(いま)、時致(ときむね)にあひて習(なら)へ。教(をし)へん」とて、躍(をど)りかかりて打(う)つ太刀に、高股(たかもも)切(き)られて、引(ひ)き退(しりぞ)く。是(これ)等(ら)を始(はじ)めとして、兄弟(きやうだい)二人が、手(て)に掛(か)けて、五十余人(よにん)ぞ切(き)られける。手(て)負(お)ふ者(もの)は、三百八十余人(よにん)なり。数々(かずかず)出(い)づる松明(たいまつ)も、一度(ひとたび)消(き)えて、元(もと)の闇(やみ)にぞなりにける。人は多(おほ)く有(あ)りけれども、此(こ)の人々(ひとびと)の気色(けしき)を見(み)て、此処(ここ)や彼処(かしこ)にむら立(だ)ちて、よする者(もの)こそ無(な)かりけれ。
@〔十郎(じふらう)が討(う)ち死(じ)にの事(こと)〕S0911N144
やや暫(しばら)く有(あ)りて、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、新田(につた)の四郎(しらう)に、十郎(じふらう)打(う)ち向(む)かひ、「如何(いか)に曾我(そが)の十郎(じふらう)祐成(すけなり)か」「向(む)かひ誰(た)そ」「新田(につた)の四郎(しらう)忠綱(ただつな)よ」「さては、御分(ごぶん)と祐成(すけなり)は、正(ただ)しき親類(しんるい)なり」「其(そ)の儀(ぎ)ならば、互(たが)ひに後(うし)ろばし見(み)るな」「左右(さう)に及(およ)ばず。今夜、未(いま)だ尋常(じんじやう)P360なる敵にあはず。ゆひかひ無(な)き人の、郎等(らうどう)の手(て)にかからんずらんと、心(こころ)にかかりつるに、御辺(へん)にあふこそ嬉(うれ)しけれ」「一家(か)の験(しるし)に、同(おな)じくは、忠綱(ただつな)が手(て)に掛(か)けて、後日に勧賞(くわんじやう)に行(おこな)はれ給(たま)はば、御辺(へん)の奉公(ほうこう)と思(おも)ひ給(たま)へ」と言(い)ひて、打(う)ち合(あ)ひける。十郎が太刀は、少(すこ)し寸(すん)のびければ、一(いち)の太刀は、新田(につた)が小臂(こひぢ)にあたり、次(つぎ)の太刀(たち)に、小鬢(こびん)を切(き)られけり。然(さ)れども、忠綱(ただつな)、究竟(くつきやう)の兵(つはもの)なれば、面(おもて)もふらず、大音声(だいおんじやう)にて罵(ののし)りけるは、「伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、新田(につた)の四郎(しらう)忠綱(ただつな)、生年(しやうねん)二十七歳(さい)、国(くに)を出(い)でしより、命(いのち)をば君(きみ)に奉(たてまつ)り、名(な)をば、後代(こうたい)に止(とど)め、屍(かばね)をば富士の裾野(すその)にさらす。さりとも、後(うし)ろを見すまじきぞ。御分(ごぶん)も引(ひ)くな」と言(い)ふ儘(まま)に、互(たが)ひに鎬(しのぎ)をけづり合(あ)ひ、時(とき)を移(うつ)して戦(たたか)ひけるに、新田(につた)の四郎(しらう)は、新手(あらて)也(なり)。十郎(じふらう)は、宵(よひ)の疲(つか)れ武者(むしや)、多(おほ)くの敵に打(う)ち合(あ)ひて、腕(かひな)下(さ)がり、力(ちから)も弱(よわ)る。太刀(たち)より伝(つた)ふ汗(あせ)に血(ち)と、手(て)の打(う)ちしげくまはりければ、太刀をひらめてうくる所(ところ)に、十郎(じふらう)が太刀(たち)、鍔(つば)本よりをれにけり。忠綱(ただつな)、かつのつて打(う)つ程(ほど)に、左(ひだり)の膝(ひざ)を切(き)られて、犬居(いぬゐ)に成(な)りて、腰(こし)の刀(かたな)を抜(ぬ)き、自害(じがい)に及(およ)ばんとする所(ところ)に、太刀(たち)取(と)り直(なほ)し、右の臂(ひぢ)のはづれを差(さ)して通(とほ)す。忠綱(ただつな)、今(いま)はかうと思(おも)ひ、屋形(やかた)を差(さ)して帰(かへ)りけるを、十郎(じふらう)伏(ふ)しながら、掛(か)けたる言葉(ことば)ぞ、無慙(むざん)なる。「新田(につた)殿(どの)、帰(かへ)るか、まさなし。同(おな)じくは首(くび)を取(と)りて、上(かみ)の見参(げんざん)に入(い)れよ。親(した)しき者(もの)の手(て)にかからんは、本意(ほんい)ぞかし。返(かへ)せ、や、殿(との)、忠綱(ただつな)」と呼(よ)ばはられて、実(げ)にもとや思(おも)ひけん、即(すなは)ちP361立(た)ち帰(かへ)り、乳(ち)の間(あひだ)切(き)りてぞふせたる。祐成(すけなり)が最後の言葉(ことば)ぞ、哀(あは)れなる。「五郎(ごらう)は、何処(いづく)に有(あ)るぞや。祐成(すけなり)、既(すで)に新田(につた)が手(て)にかかり、空(むな)しく成(な)るぞ。時致(ときむね)は、未(いま)だ手(て)負(お)ひたる共(とも)聞(き)こえず、如何(いか)にもして、君(きみ)の御前(ごぜん)に参(まゐ)り、幼少(えうせう)よりの事(こと)共(ども)、一々(いちいち)に申(まう)し開(ひら)きて死(し)に候(さうら)へ。死出(しで)の山にて待(ま)ち申(まう)すべきぞ。追(お)ひ付(つ)き給(たま)へ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と言(い)ひもはてず、生年(しやうねん)二十二歳(さい)にして、建久(けんきう)四年(しねん)五月二十八日の夜半(やはん)計(ばかり)に、駿河(するが)の国(くに)富士(ふじ)の裾野(すその)の露と消(き)えにけり。弓矢(ゆみや)取(と)る身(み)の習(なら)ひ、今(いま)に始(はじ)めぬ事(こと)なれども、親(おや)の為(ため)に命(いのち)をかろくし、屍(かばね)は路逕(ろけい)の岐(ちまた)に捨(す)つれども、名(な)をば、竜門(りやうもん)の雲井(くもゐ)に上(あ)ぐる、哀(あは)れと言(い)ふも愚(おろ)か也(なり)。五郎(ごらう)は、兄(あに)が最後の言葉(ことば)を聞(き)きて、死骸(しがい)なりとも、今(いま)一目(ひとめ)見(み)んと思(おも)ひ、又(また)、忠綱(ただつな)を打(う)つとや思(おも)ひけん、太刀振(ふ)りまはし、大勢(おほぜい)の中を切(き)り分(わ)けて、走(はし)り寄(よ)り、兄が死骸(しがい)にまろびかかり、「恨(うら)めしや、時宗をば、誰に預(あづ)けおき、いついつまでいきよとて、捨(す)てて御座(おは)するぞや。ながらへはつべき憂(う)き身(み)にもあらず。つれて坐(ま)しませや」と打(う)ちくどき、涙(なみだ)にむせびて、伏(ふ)したりけり。実(げ)にや、同(おな)じ兄弟(きやうだい)と言(い)ひながら、互(たが)ひの志(こころざし)深(ふか)ければ、別(わか)れの涙(なみだ)さぞ有(あ)るらんと、推(お)し量(はか)られて哀(あは)れ也(なり)。此処(ここ)に又(また)、堀(ほり)の藤次(とうじ)と名乗(なの)りて、武者(むしや)一人出(い)でて、「五郎(ごらう)は、何処(いづく)へ行(ゆ)きたるぞや。兄(あに)の打(う)たるるを見(み)捨(す)てて、落(お)ちけるぞや。未練(みれん)なり」とぞ尋(たづ)ねける。五郎(ごらう)、此(こ)の言葉(ことば)を聞(き)きて、おき上(あ)がり、太刀取(と)り直(なほ)し、「や、殿(との)、藤次(とうじ)殿(どの)、P362兄(あに)の打(う)たるるを見(み)捨(す)てて、何処(いづく)へ落(お)つべき。祐成(すけなり)は、新田(につた)が手(て)にかかりぬ。時致(ときむね)をば、わ殿が手(て)に掛(か)けて、首(くび)を取(と)れ。惜(を)しまぬ身(み)ぞ」と言(い)ひければ、藤次(とうじ)は、五郎(ごらう)が太刀影(かげ)を見(み)て、かひ伏(ふ)して逃(に)げにけり。五郎(ごらう)追(お)ひ掛(か)け、「己(おのれ)は、何処(いづく)まで逃(に)ぐるぞ」とて、追(お)つ掛(か)けければ、余所(よそ)へ逃(に)げては、適(かな)はじとや思(おも)ひけん、御前(ごぜん)差(さ)して逃(に)げにけり。五郎(ごらう)も、続(つづ)きて入(い)りければ、親家(ちかいへ)、幕(まく)つかんで投(な)げ上(あ)げ、御侍所(さぶらひどころ)へ走(はし)り入(い)り、五郎(ごらう)も、幕(まく)を投(な)げ上(あ)げて、親家(ちかいへ)をつかまんつかまんと思(おも)ひける装(よそほ)ひは、只(ただ)、てんまの雷(いかづち)の落(お)ち掛(か)かるかとぞ覚(おぼ)えける。
@〔五郎(ごらう)召(め)し取(と)らるる事(こと)〕S0912N145
此処(ここ)に、五郎丸(ごらうまる)とて、御寮(れう)の召(め)し使(つか)ふ童(わらは)有(あ)り。もとは、京(きやう)の者(もの)なりしが、叡山(えいざん)に住(ぢゆう)して、十六の年、師匠(ししやう)の敵(かたき)を打(う)ち、在京(ざいきやう)適(かな)はで、東国(とうごく)に下(くだ)り、一条(いちでう)の二郎(じらう)忠頼(ただより)を頼(たの)みたりしに、忠頼(ただより)、御敵とて打(う)たれ給(たま)ひて後(のち)、此(こ)の君(きみ)に参(まゐ)りたりしが、究竟(くつきやう)の荒馬(あらうま)乗(の)りの者(もの)、七十五人が力(ちから)持(も)ちけり。宵(よひ)の程(ほど)は、夜討(ようち)と雖(いへど)も、音(おと)もせず。御前(ごぜん)近(ちか)く祗候(しこう)せしに、五郎(ごらう)が親家(ちかいへ)をおうて入(い)るを見(み)て、薄衣(うすぎぬ)引(ひ)きかづき、幕(まく)の際(きは)に立(た)ちけり。五郎(ごらう)は、一目(ひとめ)見(み)たりけれども、屋形(やかた)を出(い)でし時(とき)、「女房(にようばう)に手(て)ばしかくるな」と、兄(あに)がP363言(い)ひし言葉(ことば)有(あ)りければ、太刀の背(むね)にて、通(とほ)り様(さま)に、一太刀あててぞ過(す)ぎける。五郎丸(ごらうまる)と知(し)るならば、只(ただ)一太刀に失(うしな)はんと、危(あや)ふくこそ覚(おぼ)えけれ。時致(ときむね)は、猶(なほ)も親家(ちかいへ)を手(て)どりにせんとおふ所(ところ)を、五郎丸(ごらうまる)、我(わ)が前を遣(や)り過(す)ごし、続(つづ)きて掛(か)かる、腕(かひな)をくはへて取(と)り、「えたりや、おう」とぞいだきける。五郎(ごらう)は、大力(だいぢから)にいだかれながら、物(もの)ともせず、「こは如何(いか)に、女(をんな)にては無(な)かりけり、物々しや」と言(い)ひつつ、引(ひ)きて中(なか)へぞ入(い)りにける。五郎丸(ごらうまる)、適(かな)はじとや思(おも)ひけん、「敵(てき)をば、かうこそいだけ、斯様(かやう)にこそいだけ」と、高声(かうしやう)也(なり)ければ、彼(かれ)等(ら)が傍輩(はうばい)、相模(さがみ)の国(くに)のせんし太郎丸(まる)走(はし)り寄(よ)り、「にがすな」とて取(と)り付(つ)く。其(そ)の後、屋(うまや)の小平次を始(はじ)めとして、手がらの者(もの)共(ども)走(はし)り出(い)でて、五四人取(と)り付(つ)きけれども、五郎(ごらう)は、物(もの)ともせず、二三人をばけころばかし、大庭(おほには)に躍(をど)り出(い)でんと志(こころざし)けるが、板敷(いたじき)こらへずして、五郎(ごらう)は、足(あし)を踏(ふ)み落(お)とし、立(た)たん立(た)たんとする所(ところ)に、小平次・弥平次おき上(あ)がり、左右(さう)の足(あし)に取(と)り付(つ)きければ、其(そ)の外(ほか)の雑色(ざつしき)共(ども)、「余(あま)すな、もらすな」とて、かなぐり付(つ)く。是(これ)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「百足(むかで)は、死(し)に至(いた)れども、たはふれすな」と也(なり)。心(こころ)は猛(たけ)く思(おも)へども、多勢に適(かな)はずして、空(むな)しく搦(から)め取(と)られけり。無慙(むざん)なりし有様(ありさま)也(なり)。君(きみ)も、此(こ)の由(よし)聞(き)こし召(め)して、糸毛(いとげ)の御腹巻(はらまき)に、御住代の鬚切(ひげきり)抜(ぬ)き、出(い)でさせ給(たま)ひける。相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、大友(おほとも)の左近将監(さこんのしやうげん)が嫡子(ちやくし)、一法師丸(いちぼふしまる)とて、生年(しやうねん)十三になりけるが、御前(おんまへ)然(さ)らぬ物P364なるが、こざかしく、御寮(れう)の御袖をひかへ奉(たてまつ)り、「日本国(につぽんごく)をだにも、君(きみ)は居(ゐ)ながら従(したが)へ給(たま)ふべきに、是(これ)は、わづかなる事(こと)ぞかし。いか様、若(わか)き殿(との)原(ばら)の酔狂(すひきやう)か、女(をんな)又は盃論(ろん)か、宿論(ろん)か。いづれにて候(さうら)はんに、御座ながら、尋(たづ)ね聞(き)こし召(め)され候(さうら)へ」と止(とど)め申(まう)しければ、実(げ)にもとや思(おぼ)し召(め)し候(さうら)ひけん、止(とど)まり給(たま)ひけり。さしも出(い)でさせ給(たま)ひて、五郎(ごらう)に見(み)え給(たま)ふ物(もの)ならば、危(あや)ふくぞ覚(おぼ)えけり。後に、御恩賞(おんしやう)にぞ預(あづ)かりける。古(ふる)き言葉(ことば)を見(み)るに、大象(ぞう)兎径(とうけい)に遊(あそ)ばず、君子(くんし)文旨(ぶんし)にかかはらずと言(い)ふ事(こと)こそ思(おも)ひ知(し)られたり。其(そ)の後、小平次、御前(ごぜん)に参(まゐ)り、畏(かしこ)まつて申(まう)し上(あ)げけるは、「曾我(そが)の五郎(ごらう)をば搦(から)め取(と)りて候(さうら)ふ。十郎(じふらう)は打(う)たれて候(さうら)ふ」と申(まう)したりければ、「神妙(しんべう)に申(まう)したり。五郎(ごらう)をば、汝(なんぢ)に預(あづ)くるぞ」と仰(おほ)せ下(くだ)されけり。哀(あは)れなりし次第(しだい)なりけり。
P365曾我物語巻第十
S1001N146
扨(さて)も、仰(おほ)せを承(うけたまは)りて、小平次罷(まか)り出(い)で、御馬屋(おんうまや)の下部(しもべ)、総追(そうつゐ)国光(みつ)、五郎(ごらう)を預(あづ)かり、既(すで)に御馬屋(おんうまや)の柱(はしら)にしばり付(つ)けて、其(そ)の夜、守(まも)り明(あか)しければ、「大将殿より尋(たづ)ね聞(き)こし召(め)さるべき事(こと)有(あ)り。曾我(そが)の五郎(ごらう)つれて参れ」との御(おん)使(つか)ひ有(あ)りければ、小平次、縄(なは)取(と)りにて参(まゐ)りけるを、母方の伯父(をぢ)、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、小川(をがは)の三郎(さぶらう)祐定(すけさだ)申(まう)しけるは、「如何(いか)に小平次、侍(さぶらひ)程(ほど)の者(もの)に、縄(なは)付(つ)けず共(とも)、具(ぐ)して参(まゐ)れかし。山賊(ぞく)海賊(ぞく)の族(やから)にもあらざれば、逃(に)げうすべきにもあらず。事(こと)に依(よ)り、人にこそよれ。むげに情(なさけ)無(な)し」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)笑(わら)ひて、「誰一言(げん)の情(なさけ)をも残(のこ)す者(もの)の無(な)きに、御分(ごぶん)の芳志(はうし)嬉(うれ)しさよ。さりながら、御分(ごぶん)、時宗に親(した)しき事(こと)は、皆人(みなひと)知(し)れり。斯様(かやう)の身(み)に成(な)りて、親類入(い)るべからず。詮(せん)無(な)き沙汰(さた)して人に聞(き)かれ、方人(かたうど)したと言(い)はれ給(たま)ふな。人の上をよく言(い)ふ者(もの)は無(な)きぞとよ。時致(ときむね)、盗(ぬす)み強盗(がうだう)せざれば、千筋(すぢ)の縄(なは)は付(つ)くとも恥(はぢ)ならず、是(これ)は、父(ちち)の為(ため)に読(よ)み奉(たてまつ)りし法花経の紐(ひも)よ」とて、事(こと)とも思(おも)はざる気色(きしよく)して、御坪(つぼ)の内へぞ引(ひ)き入(い)れられける。「其(そ)の上、敵(かたき)の為(ため)にとらはるる者(もの)、時致(ときむね)一人にも限(かぎ)らず、殷湯(いんたう)は、夏台(かたい)にとらはれ、P366文王(ぶんわう)は、■里(ゆうり)にとらはる。是(これ)、更(さら)に恥辱(ちじよく)にあらず」とて、打(う)ち笑(わら)ひてぞ居(ゐ)たりける。哀(あは)れとは言(い)はぬ者(もの)ぞ無(な)き。五郎(ごらう)、御前(おんまへ)に参(まゐ)りければ、君御覧(ごらん)ぜられて、「是(これ)が曾我(そが)の五郎(ごらう)と言(い)ふ者(もの)か」「某(それがし)が事(こと)候(さうら)ふよ」とて、立(た)ち上(あ)がり、縄(なは)取(と)りを宙(ちう)に引(ひ)きたてければ、警固(けいご)の者(もの)共(ども)、狼籍(らうぜき)也(なり)とて、引(ひ)き据(す)ゑたり。其(そ)の時(とき)、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)あらうみ四郎(しらう)真光(さねみつ)、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)、座敷(ざしき)を立(た)ちて、「申(まう)し上(あ)ぐる事(こと)あらば、急(いそ)ぎ申(まう)し候(さうら)へ」と言(い)ふ。時致(ときむね)聞(き)きて、大(だい)の眼(まなこ)を見(み)出(い)だして、彼(かれ)をはたとにらみて、「見(み)苦(ぐる)しし、人々(ひとびと)、御前(ごぜん)遠(とほ)くは、さも有(あ)りなん、近(ちか)ければ、直(ぢき)に申(まう)すべし。さ様(やう)なれば、問(と)はれて申(まう)す白状(はくじやう)に似(に)たり。問(と)はるるに依(よ)りて、申(まう)すまじき事(こと)を申(まう)すべきにあらず。面々(めんめん)、骨折(ほねをり)にのき候(さうら)へ」とて、あざ笑(わら)つてぞ居(ゐ)たりける。君(きみ)、聞(き)こし召(め)され、「神妙(しんべう)に申(まう)したり。各々(おのおの)のき候(さうら)へ。頼朝(よりとも)、直(じき)に聞(き)くべし」と仰(おほ)せ下(くだ)されけり。扨(さて)、五郎(ごらう)居(ゐ)なほり、顔(かほ)振(ふ)り上(あ)げて、たからかに申(まう)しけるは、「兄(あに)にて候(さうら)ふ十郎(じふらう)が、最後(さいご)に申(まう)し置(お)きて候(さうら)ふ。我(われ)等(ら)が父(ちち)を祐経(すけつね)に打(う)たせ候(さうら)ひしより此(こ)の方(かた)、年月(としつき)狙(ねら)ひ候(さうら)ひし心(こころ)の内(うち)、如何(いか)ばかりとか思(おぼ)し召(め)され候(さうら)ふ。其(そ)れに付(つ)きては、一年君(きみ)御上洛(しやうらく)の時(とき)、酒匂(さかは)の宿(しゆく)よりつき奉(たてまつ)りて、祐経(すけつね)が御供(おんとも)して候(さうら)ひしを、泊々(とまりとまり)にやすらひ、便宜(びんぎ)を窺(うかが)ひ候(さうら)ひしかども、適(かな)はで京(きやう)に上(のぼ)り、四条(しでう)の町(まち)にて、鉄(かね)よき太刀をかひ取(と)り、昨夜(ゆふべ)の夜半(やはん)に、御前(おんまへ)にて本意(ほんい)を遂(と)げ候(さうら)ひぬ。今は、何(なに)を思(おも)ひ残して、命も惜(を)しく候(さうら)ふべき。御恩(ごおん)には、今(いま)一時も、とく首(かうべ)をはねられP367候(さうら)へ」とぞ申(まう)しける。京(きやう)へは上(のぼ)らざりしかども、箱根の別当(べつたう)に契約(けいやく)せし故(ゆゑ)に、太刀の由来(ゆらい)をも隠(かく)し、又は別当(べつたう)の罪科(ざいくわ)もやと思(おも)ひ、斯様(かやう)にぞ申(まう)したりける。君聞(き)こし召(め)され、「此(こ)の太刀の出所、隠(かく)さん為(ため)にこそ申(まう)すらん。更(さら)に別当(べつたう)の科(とが)にあらず。先祖(せんぞ)重代(ぢゆうだい)の太刀(たち)、箱根(はこね)の御山に込(こ)めし由(よし)、予(かね)てより伝(つた)へ聞(き)き、如何(いか)にもして取(と)り出(い)ださばやと思(おも)ひしを、神物(じんもつ)に成(な)る間(あひだ)、力(ちから)及(およ)ばざりつるに、只今(ただいま)、頼朝(よりとも)が手(て)に渡(わた)る事(こと)、偏(ひとへ)に正(しやう)八満大菩薩(だいぼさつ)の御(おん)はからひと覚(おぼ)えたり。斯様(かやう)の事(こと)無(な)くは、如何(いか)にして二度主に成(な)るべき」とて、自(みづか)ら御頂戴(ちやうだい)有(あ)りて、錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れ、深(ふか)くをさめ給(たま)ふ、御重宝(ちようほう)の其(そ)の一(ひと)つなり。代々伝(つた)はりけるとかや。やや有(あ)りて、君仰(おほ)せられけるは、「此(こ)の事(こと)、曾我(そが)の父母に知(し)らせけるか」。五郎(ごらう)承(うけたまは)りて、「日本(につぽん)の大将軍の仰(おほ)せとも存(ぞん)じ候(さうら)はぬ物(もの)かな。当代(たうだい)ならず、いづれの世(よ)にか、継子(けいし)が悪事くはたてんとて、暇(いとま)こひ候(さうら)はんに、「神妙(しんべう)也(なり)、急(いそ)ぎ僻事(ひがこと)して、我(われ)惑(まど)ひ物(もの)になせ」とて、出(い)だし立(た)つる父(ちち)や候(さうら)ふべき、又(また)、母(はは)の慈悲(じひ)は、山野の獣(けだもの)、江河(がうがは)の鱗(うろくづ)までも、子(こ)を思(おも)ふ志(こころざし)の深(ふか)き事(こと)は、父(ちち)には母(はは)はすぐれたりとこそ申(まう)し候(さうら)へ。況(いはん)や、人界(にんがい)に生を受(う)けて、二十(はたち)余(あま)りの子供(こども)が、命死なんとて、母(はは)に知(し)らせ候(さうら)はんに、急(いそ)ぎしにて物(もの)思(おも)はせよと、喜(よろこ)ぶ母(はは)や候(さうら)ふべき。御景迹(けいしやく)」とぞ申(まう)しける。「さて、親(した)しき者(もの)共(ども)には、如何(いか)に」「身貧(ひん)にして、世(よ)に有(あ)る人々(ひとびと)に、かくと申(まう)し候(さうら)はんは、只(ただ)手(て)を捧(ささ)げて、是(これ)をしばらせ、首(くび)を延(の)べて、是(これ)をきれとP368こそ申(まう)し候(さうら)はんずれ。誰(たれ)かは頼(たの)まれ候(さうら)ふべき。愚(おろ)かなる御諚(ごぢやう)候(さうら)ふかな」とぞ申(まう)しける。君(きみ)、実(げ)にもとや思(おぼ)し召(め)しけん、「父母類親(るいしん)に至(いた)るまでも、子細(しさい)無(な)し。又(また)、祐経は、伊豆(いづ)より鎌倉(かまくら)へ、しげく通(かよ)ひしに、道(みち)にては、狙(ねら)はざりつるか」「さん候(ざうらふ)、此(こ)の四五ケ年の間(あひだ)、足柄(あしがら)・箱根・湯本(ゆもと)・国府津(かうづ)・酒匂(さかは)・大磯(おほいそ)・小磯(いそ)・砥上原(とがみがはら)・もろこし・相模河(さがみがは)・懐(ふところ)嶋・八的原(やまとがはら)・腰越(こしごえ)・稲村(いなむら)・由比(ゆひ)の浜(はま)・深沢辺(ふかさはへん)にやすらひ、野路・山路(やまぢ)・宿々(しゆくじゆく)・泊々(とまりとまり)にて狙(ねら)ひしかども、敵のつるる時は、四五十騎、つれざる時(とき)も、二三十騎、我々は、つるる時(とき)は、兄弟(きやうだい)二人、つれざる時(とき)は、只(ただ)一人、思(おも)ひながらも、空(むな)しく今までのび候(さうら)ひぬ」。又(また)、「祐経(すけつね)は、敵(かたき)なれば、限(かぎ)り有(あ)り。何(なに)とて、頼朝(よりとも)がそぞろなる侍(さぶらひ)共(ども)をば、多(おほ)く切(き)りけるぞ」「其(そ)れこそ、理(ことわり)にて候(さうら)へ。御所(ごしよ)中(ぢゆう)に参(まゐ)りて、斯(か)かる狼藉(らうぜき)を仕(つかまつ)る程(ほど)にては、千万騎(ぎ)にて候(さうら)ふとも、余(あま)さじと存(ぞん)ずる所(ところ)に、こざかしく、「敵(かたき)は何処(いづく)に有(あ)るぞ」と尋(たづ)ね候(さうら)ふ間(あひだ)、公(かう)には忠(ちゆう)をつくし、忠(ちゆう)には命(いのち)を捨(す)つる習(なら)ひ、神妙(しんべう)に存(ぞん)じて、「是(これ)に有(あ)り」と申(まう)す声(こゑ)に驚(おどろ)きて、足(あし)のたて所も知(し)らず、逃(に)げ候(さうら)ひし間(あひだ)、罪作(つみつく)りと存(ぞん)じて、おひて切(き)り殺(ころ)すに及(およ)ばず、只(ただ)かうばかりの側太刀(そばだち)、形(かた)の如(ごと)くあてたるまでにて候(さうら)ふ。面傷(おもてきず)はよも候(さうら)はじ。只今(ただいま)召(め)し出(い)だして御覧(ごらん)候(さうら)へ」と申(まう)しければ、やがて、御(おん)使(つか)ひして、聞(き)こし召(め)されけるに、申(まう)す如(ごと)く、面(おもて)の傷(きず)は稀(まれ)なり。面目(めんぼく)無(な)くぞ聞(き)こえける。又(また)、「王藤内(わうとうない)を何(なに)とて打(う)ちける」「恐(おそ)れ入(い)りて候(さうら)へ共(ども)、年頃(としごろ)の傍輩(はうばい)のうたP369れ候(さうら)ふを、見(み)捨(す)てて逃(に)ぐる不覚人(ふかくじん)や候(さうら)ふべき。誠(まこと)にけなげに振舞(ふるま)ひ候(さうら)ひつる物(もの)をや。「人と見(み)て、古郷(こきやう)に帰らざるは、錦(にしき)をきて、夜行(ゆ)くが如(ごと)し」と言(い)ふ古(ふる)き言葉(ことば)をや知(し)りけん、所領(しよりやう)安堵(あんど)の証(しるし)に、本国(ほんごく)へ下(くだ)りしが、祐経に暇(いとま)こはんとて、道より帰(かへ)りての討死(うちじに)、不便(ふびん)なり」とぞ申(まう)しける。此(こ)の言葉(ことば)に依(よ)り、「神妙(しんべう)也(なり)。是(これ)も、頼朝(よりとも)が先途(せんど)に立(た)ちけるよ」とて、「本領(りやう)、子孫(しそん)において子細(しさい)無(な)し」と、御判(はん)重(かさ)ねて下(くだ)されける。是(これ)も、兄(あに)の十郎(じふらう)が屋形(やかた)を出(い)でし時(とき)、「王藤内(わうとうない)が妻子(さいし)、さこそ歎(なげ)かんずらん、無慙(むざん)なり」と、言(い)ひし言葉(ことば)の末(すゑ)にぞ申(まう)しける。偏(ひとへ)に、時宗が情(なさけ)に依(よ)つて、所領(しよりやう)安堵(あんど)す、有(あ)り難(がた)しとぞ感(かん)じける。やや有(あ)りて、「頼朝(よりとも)を敵(かたき)と思(おも)ひけるか」と御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、五郎(ごらう)承(うけたまは)りて、「さん候(ざうらふ)、身(み)に思(おも)ひの候(さうら)ひし時は、木(き)も草(かや)も恐(おそ)ろしく、命も惜(を)しく存(ぞん)じ候(さうら)ひしが、敵(かたき)打(う)つての後(のち)は、如何(いか)なる天魔(てんま)疫神(やくじん)なり共(とも)と存(ぞん)じ候(さうら)ふ。まして其(そ)の外(ほか)は、いきたる者(もの)とも思(おも)ひ候(さうら)はず。然(さ)れば、千万人の侍(さぶらひ)よりも、君一人をこそ思(おも)ひ掛(か)け奉(たてまつ)りしかども、御果報(くわほう)めでたき御事(おんこと)に渡(わた)らせ給(たま)へば、御運(ごうん)におされて、斯様(かやう)に罷(まか)り成(な)りて候(さうら)ふ」と申(まう)したりければ、君聞(き)こし召(め)され、「敵(かたき)打(う)つての後(のち)、身(み)をかろく思(おも)ふは理(ことわり)也(なり)。頼朝(よりとも)をば、何(なに)とて敵(かたき)と思(おも)ひけるぞ」「自業(じごふ)自得果(じとくくわ)とは存(ぞん)じ候(さうら)へ共(ども)、伊藤(いとう)入道が謀叛(むほん)に依(よ)り、我(われ)等(ら)長(なが)く奉公(ほうこう)をたやすのみならず、子孫(しそん)の敵(かたき)にては渡(わた)らせ給(たま)はずや。又は、閻魔王(えんまわう)の前にて、「日本(につぽん)の将軍鎌倉(かまくら)殿(どの)を手(て)に掛(か)け奉(たてまつ)りぬ」と申(まう)さば、P370一(いち)の罪(つみ)や許(ゆる)さるべきと、随分(ずいぶん)窺(うかが)ひ申(まう)して候(さうら)ひつれ共(ども)」と申(まう)す。「扨(さて)、五郎丸(ごらうまる)には、如何(いか)にしていだかれけるぞ」「其(そ)れは、彼(か)の童(わらは)を女(をんな)と見(み)成(な)し、何事(なにごと)候(さうら)はんと存(ぞん)じて、不慮(ふりよ)に取(と)られて候(さうら)ふ。斯様(かやう)なるべしと存(ぞん)ずる物(もの)ならば、只(ただ)一太刀の勝負(しようぶ)にて候(さうら)はんずる物(もの)をと、後悔(こうくわい)益(えき)無(な)し。是(これ)、偏(ひとへ)に宿運(しゆくうん)のつきぬる故(ゆゑ)也(なり)。実(げ)にや、「羅網(らまう)の鳥は、高(たか)くとばざるを恨(うら)み、呑鉤(どんこう)の魚(うを)は、海を忍ばざるを歎(なげ)く」とは、要覧(えうらん)の言葉(ことば)なるをや、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られたる。君(きみ)の御佩刀(はかせ)の鉄(かね)の程(ほど)をも見(み)奉(たてまつ)り、時宗がくたり太刀(たち)の刃(やいば)の程(ほど)をもためし候(さうら)はんずる物(もの)を」と、言葉(ことば)をはなちてぞ申(まう)しける。君聞(き)こし召(め)されて、「猛将(まうしやう)勇士(ゆうし)も、運(うん)のつきぬるは」と仰(おほ)せられ、双眼(さうがん)より御涙(なみだ)を流(なが)させ給(たま)ひて、「是(これ)聞(き)き候(さうら)へ。日来(ひごろ)は、更(さら)に思(おも)はぬ事(こと)なれ共(ども)、今、頼朝(よりとも)に問(と)はれて、当座(たうざ)の構(かま)への言葉(ことば)なり。適(かな)はぬまでも、逃(のが)れんとこそ言(い)ふべきに、露程(ほど)も命を惜(を)しまぬ者(もの)かな。世(よ)に有(あ)りなば、思(おも)ひ止(とど)まる事(こと)も有(あ)りぬべし。余(よ)の侍(さぶらひ)、千万人よりも、斯様(かやう)の者(もの)をこそ、一人なりとも召(め)し使(つか)ひたけれ。無慙(むざん)の者(もの)の心(こころ)やな。惜(を)しき武士(ぶし)かな」とて、御袖を御顔(かほ)に押(お)し当(あ)てさせ給(たま)ひければ、御前(ごぜん)祗候(しかう)の侍(さぶらひ)共(ども)、心(こころ)有(あ)るも無(な)きも、涙(なみだ)を流(なが)さぬは無(な)かりける。やや有(あ)りて、君御涙(なみだ)を抑(おさ)へさせ給(たま)ひて、十郎(じふらう)が振舞(ふるま)ひを聞(き)こし召(め)すに、「何(いづ)れを分(わ)けて言(い)ひ難(がた)し。誠(まこと)に打(う)たれたるやらん」と仰(おほ)せられければ、「新田(につた)に御尋(たづ)ね候(さうら)へ。黒鞘巻(くろざやまき)に赤胴作(しやくどうづくり)の太刀、村千鳥(むらちどり)の直垂(ひたたれ)ならば、誠(まこと)にP371候(さうら)ふ」と申(まう)す。「然(さ)らば実検(じつけん)有(あ)るべし」とて、新田(につた)の四郎(しらう)を召(め)されければ、黒鞘巻(くろざやまき)に赤胴作(しやくどうづくり)の太刀、村千鳥(むらちどり)の直垂(ひたたれ)に、首(くび)を包(つつ)みて、童(わらは)に持(も)たせ、五郎(ごらう)が左手(ゆんで)の方(かた)を間(あひ)近(ちか)く、首(くび)を見(み)せてぞ通(とほ)りける。五郎(ごらう)、今までは、思(おも)ふ事(こと)無(な)く、広言(くわうげん)して見(み)えけるが、兄(あに)が首(くび)を一目(ひとめ)見(み)て、肝(きも)魂(たましひ)を失(うしな)ひ、涙(なみだ)にむせぶ有様(ありさま)は、さかりなる朝顔(あさがほ)の、日影(ひかげ)にしをるる如(ごと)くにて、無慙(むざん)と言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。やや有(あ)りて申(まう)しける、「羨(うらや)ましくも、先(さき)立(だ)ち給(たま)ふ物(もの)かな。同(おな)じ兄弟(きやうだい)と申(まう)しながら、幼少(えうせう)より、親(おや)の敵に志(こころざし)深(ふか)くして、一所とこそ契りしに、如何(いか)なれば、祐成(すけなり)は、昨夜(ゆふべ)夜半(やはん)に打(う)たれ給(たま)ふに、時宗が心(こころ)ならず、今までながらふる事(こと)の無念(むねん)さよ。誰か此(こ)の世(よ)にながらへはて候(さうら)ふべき。死出(しで)の山にて待(ま)ち給(たま)へ。追(お)つ付(つ)き奉(たてまつ)り、三途(さんづ)の河を、手(て)と手(て)を取(と)り組(く)みて渡り、閻魔(えんま)王宮(わうくう)へは諸(もろ)共(とも)に」と、言(い)ひもはてず、涙(なみだ)にむせびけり。袖(そで)にて顔(かほ)をも抑(おさ)へたけれ共(ども)、高手(たかて)小手(こて)に戒(いまし)められければ、左手(ゆんで)の方(かた)へ傾(かたぶ)き、右手(めて)の方(かた)へうつぶき、こぼるる涙(なみだ)をば、膝(ひざ)に顔(かほ)を持(も)たせ、只(ただ)おめおめとこそ泣(な)き居(ゐ)たり。和田(わだ)・畠山(はたけやま)を始(はじ)めとして、皆(みな)袖をぞ濡(ぬ)らされける。斯(か)かる所(ところ)に、十郎(じふらう)がをり太刀を御侍(さぶらひ)に取(と)り渡(わた)し、「よきぞ、悪(あ)しきぞ」と申(まう)し合(あ)ひけり。中にも、昨夜(ゆふべ)追(お)つたてられて、柴垣(しばがき)破(やぶ)りて逃(に)げたりし新海(しんかい)の荒四郎(あらしらう)真光(さねみつ)、すすみ出(い)でて申(まう)しけるは、「曾我(そが)の者(もの)共(ども)は、敵をば打(う)ちて、高名(かうみやう)はしたれ共(ども)、太刀こそわるき太刀(たち)を持(も)ちたれ。是(これ)程(ほど)の太刀(たち)を持(も)ちて、我(わ)が君(きみ)の御前(ごぜん)P372にて、斯(か)かる大軍しける不思議(ふきぎ)さよ」と言(い)ひければ、時宗聞(き)きて、眼(まなこ)を見(み)出(い)だして、荒四郎(あらしらう)をはたとにらみて、「何処(いづく)を見(み)て、其(そ)れをえせ太刀(だち)とは申(まう)すぞ。只今(ただいま)、御前(ごぜん)にて申(まう)して、無用(むよう)の事(こと)なれども、男(をとこ)のわろき太刀(たち)持(も)ちたるは、恥辱(ちじよく)にて候(さうら)ふ間(あひだ)、申(まう)すなり。其(そ)れこそ、や、殿(との)、よく聞け、平家(へいけ)に聞(き)こえし新(しん)中納言(ぢゆうなごん)の太刀(たち)よ。八嶋(やしま)の合戦(かつせん)に、如何(いかが)しけん、船(せん)中に取(と)り忘(わす)れ給(たま)ひしを、曾我(そが)の太郎取(と)りて、九郎判官(はんぐわん)へ参(まゐ)らせしを、義経(よしつね)、「神妙(しんべう)なり、さりながら、御分(ごぶん)、高名(かうみやう)して、取(と)りたる太刀(たち)なれば、汝(なんぢ)に取(と)らする」とて、賜(たま)はりたる太刀(たち)也(なり)。奥州丸(あうしうまる)と言(い)ふ太刀よ。祐成(すけなり)が元服(げんぶく)せし時(とき)、曾我(そが)殿(どの)のたびたるぞとよ。其(そ)れに付(つ)きては、思(おも)ひの儘(まま)に、敵を打(う)ち取(と)りぬ。兄弟(きやうだい)して切(き)り止(とど)むる者(もの)、一二百人もこそ有(あ)るらん。是(これ)程(ほど)こらへたる太刀を、如何(いか)でかえせ太刀(だち)なるべき」。真光(さねみつ)、猶(なほ)も止(とど)まらで、「既(すで)に太刀(たち)をれぬる上(うへ)は」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)、からからと打(う)ち笑(わら)ひ、「人の太刀(たち)わろしと言(い)ふ人、定(さだ)めてよき太刀は持(も)ちぬらん。あのえせ太刀におはれて、小柴垣(しばがき)を破(やぶ)りて逃(に)げしは如何(いか)に。御分(ごぶん)のよき太刀(たち)も、心(こころ)にくからず」と言(い)ひければ、聞(き)く人、皆(みな)汗(あせ)を流(なが)さぬは無(な)かりけり。真光(さねみつ)は、なましひなる事(こと)を言(い)ひ出(い)だし、赤面(せきめん)してぞ立(た)ちにける。是(これ)や、三思(さんし)一言(げん)、思慮(しりよ)有(あ)るべきにや。P373
@〔犬房(いぬばう)が事(こと)〕S1002N147
此処(ここ)に、祐経(すけつね)が嫡子(ちやくし)犬房(いぬばう)とて、九つになりける童(わらは)有(あ)り。御前(ごぜん)然(さ)らぬ切(き)り者(もの)にてぞ有(あ)りける。傍(かたはら)にて、父(ちち)が事(こと)をよくよく聞(き)き、さめざめと泣(な)き居(ゐ)たりしが、思(おも)ひやかねけん、走(はし)りかかり、五郎(ごらう)が顔(かほ)を二(ふた)つ三(み)つ扇(あふぎ)にてぞ打(う)ちたりける。時宗打(う)ち笑(わら)ひ、「己(おのれ)は、祐経が嫡子(ちやくし)犬房(いぬばう)な。其(そ)の年(とし)の程(ほど)にて、よくこそ思(おも)ひ寄(よ)りたれ。打(う)てや打(う)てや、打(う)つべし打(う)つべし、犬房(いぬばう)よ。我々(われわれ)も、幼少(えうせう)にして、汝(なんぢ)が親(おや)に、父(ちち)を打(う)たせぬ。年頃(としごろ)の思(おも)ひ、如何(いか)ばかりぞや。今更(いまさら)思(おも)ひ知(し)られたり。古(いにしへ)を思(おも)へば、打(う)つ杖(つゑ)をいたまずして、弱(よわ)る親(おや)の力(ちから)を歎(なげ)きし志(こころざし)、五郎(ごらう)が今に知(し)られたり」。打(う)たるる杖(つゑ)をばいたまずして、主(ぬし)が心(こころ)を思(おも)ひ遣(や)る五郎(ごらう)が心(こころ)ぞ哀(あは)れなる。「珍(めづら)しからぬ事(こと)なれども、果報(くわほう)程(ほど)勝劣(しようれつ)有(あ)る物(もの)は無(な)し。我々(われわれ)、祐経(すけつね)を思(おも)ひ掛(か)けて、此(こ)の二十余年(よねん)の春秋を送(おく)りしに、汝(なんぢ)は、いみじき生(う)まれ性(じやう)にて、昨夜(ゆふべ)打(う)ちたる親(おや)の敵(かたき)を、只今(ただいま)心(こころ)の儘(まま)にする事(こと)の羨(うらや)ましさよ。其(そ)れに付(つ)きても、前生(ぜんじやう)の宿業(しゆくごふ)こそつたなけれ。現在(げんざい)の果(くわ)を以(もつ)て、未来(みらい)を知(し)る事(こと)なれば、来世(らいせ)又(また)如何(いか)ならん、阿弥陀仏」とぞ申(まう)しける。犬房(いぬばう)は、猶(なほ)も打(う)たんとよりけるを、「まさなしや、のき給(たま)へ」と、縄(なは)取(と)りの者(もの)共(ども)言(い)ひけれども、聞(き)かざりけり。御寮(れう)御覧(ごらん)ぜられて、「犬房(いぬばう)のき候(さうら)へ。猶(なほ)物問(と)はん」と仰(おほ)せられけれP374ば、其(そ)の時のきにけり。是(これ)や、禽鳥(きんてう)百(もも)をかぞふると雖(いへど)も、一鶴(くわく)にしかず、数星(すせい)相(あひ)連(つら)なると雖(いへど)も、一月(げつ)にしかず、君(きみ)の御(おん)言葉(ことば)一(ひと)つにてぞのきにける。
@〔五郎(ごらう)が切(き)らるる事(こと)〕S1003
君仰(おほ)せられけるは、「汝(なんぢ)が申(まう)す所(ところ)、一々(いちいち)に聞(き)き開(ひら)きぬ。然(さ)れば、死罪(しざい)をなだめて、召(め)し使(つか)ふべけれ共(ども)、傍輩(はうばい)是(これ)をそねみ、自今(じこん)以後、狼藉(らうぜき)たゆべからず。其(そ)の上(うへ)、祐経が類親(るいしん)多(おほ)ければ、其(そ)の意趣(いしゆ)逃(のが)れ難(がた)し。然(しか)れば、向後(きやうかう)の為(ため)に、汝(なんぢ)を誅(ちゆう)すべし。恨(うら)みを残(のこ)すべからず。母(はは)が事(こと)をぞ思(おも)ひ置(お)くらん、如何(いか)にも不便(ふびん)にあたるべし。心(こころ)安(やす)く思(おも)へ」とて、御硯(すずり)を召(め)し寄(よ)せ、「曾我(そが)の別所(べつしよ)二百余町を、彼(かれ)等(ら)兄弟(きやうだい)が追善(ついぜん)の為(ため)に、頼朝(よりとも)一期(いちご)、母(はは)一期(いちご)」と自筆(じひつ)に御判(はん)を下(くだ)され、五郎(ごらう)に頂(いただ)かせ、母(はは)が方(かた)へぞ送(おく)られける。実(げ)にや、心(こころ)のたけさ、情(なさけ)の深(ふか)き事(こと)、人にすぐるるに依(よ)り、屍(かばね)の上(うへ)の御恩(ごおん)有(あ)り難(がたし)と感(かん)じける。是(これ)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「晋(しん)の文王(ぶんわう)は、其(そ)の仇(あた)を親(した)しみて、諸侯(しよこう)を悟(さと)り、斉(せい)の桓公(くわんこう)は、其(そ)の仇(あた)を用(もち)ひて、天下(てんが)をただす」とは、今の御世(よ)に知(し)られたり。五郎(ごらう)、詳(くは)しく承(うけたまは)りて、「首(くび)を召(め)されんにおいては、逃(のが)るる所有(あ)るべからず。暫(しばら)くもなだめられ申(まう)さん事(こと)、深(ふか)き愁(うれ)へと存(ぞん)ずべし。母(はは)が事(こと)は、忝(かたじけな)くP375仰(おほ)せ下(くだ)され候(さうら)へ共(ども)、故郷(こきやう)を出(い)でし日よりも、一筋(ひとすぢ)に思(おも)ひ切(き)り候(さうら)ひぬ。御恩(ごおん)に、今(いま)一時もとく、首(くび)を召(め)され候(さうら)へ。兄(あに)が遅(おそ)しと待(ま)ち候(さうら)ふべし。急(いそ)ぎ追(お)ひ付(つ)き候(さうら)はん」とすすみければ、力(ちから)無(な)く、御馬屋(おんうまや)の小平次に仰(おほ)せ付(つ)けられ、切(き)らるべかりしを、犬房(いぬばう)が、「親(おや)の敵(かたき)にて候(さうら)ふ」とて、ひらに申(まう)し受(う)けければ、渡(わた)されにけり。口惜(くちを)しかりし次第(しだい)也(なり)。祐経(すけつね)が弟(おとと)に、伊豆(いづ)の二郎(じらう)祐兼(すけかね)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。五郎(ごらう)を受(う)け取(と)りて、出(い)でにけり。時致(ときむね)、東西(とうざい)を見(み)渡(わた)し、「某(それがし)が姿(すがた)を見(み)ん人々(ひとびと)は、如何(いか)にをこがましく思(おも)ふらん。さりながら、親(おや)の為(ため)に捨(す)つる命、天衆(てんじゆ)地類(ぢるい)も納受(なふじゆ)し給(たま)ふべし。付(つ)けたる縄(なは)は、孝行(かうかう)の善(ぜん)の綱(つな)ぞ。各々(おのおの)結縁(けちえん)にて掛(か)け候(さうら)へ」と申(まう)しければ、実(げ)にもと言(い)はぬ人ぞ無(な)き。其(そ)の後、五郎(ごらう)を浜(はま)すかにつれて、松崎(まつがさき)と言(い)ふ所(ところ)の岩間(いはま)に引(ひ)きすゑ、切(き)らんとす。時宗見(み)帰(かへ)り申(まう)しけるは、「構(かま)へてよく切(き)り候(さうら)へ。人(ひと)もこそ見(み)るに、悪(あ)しく切(き)り給(たま)ひ候(さうら)はば、悪霊(あくりやう)と成(な)りて、七代まで取(と)るべし」と言(い)ひければ、祐兼(すけかね)聞(き)きて、誠(まこと)に切(き)り損(そん)じなば、如何(いか)なる悪霊(りやう)にも成(な)るべしと思(おも)ひしより、膝(ひざ)振(ふ)るひ、太刀の打(う)ち共(ども)覚(おぼ)えざりける所(ところ)に、筑紫(つくし)の仲太(なかた)と申(まう)しけるは、御家人(ごけにん)訴訟(そしよう)の事(こと)有(あ)りて、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)につきけるが、訴訟(そしよう)適(かな)ふべき頃(ころ)、祐経(すけつね)打(う)たれければ、是(これ)等(ら)が所為(しよい)とや思(おも)ひけん、わざと太刀にては切(き)らで、苦痛(くつう)をさせん為(ため)に、にぶき刀(かたな)にて、かき首(くび)にこそしたりけれ。さしたる親類・知音(ちいん)にあらざる者(もの)も、別(わか)れを惜(を)しみ、名残(なごり)を悲(かな)しまずと言(い)ふ事(こと)無(な)し。然(しか)るに、P376勇士(ゆうし)のいたつて猛(たけ)きは、破(やぶ)り館(たち)落(お)とし、軍(いくさ)の先(さき)をかくる故(ゆゑ)に、敵(てき)の為(ため)に取(と)らるると雖(いへど)も、芸(げい)を感(かん)じ、身(み)を助(たす)け、情(なさけ)をかくるは、先規(せんぎ)なり。伝(つた)へ聞(き)く、紀信(きしん)が軍車(ぐんしや)に乗(の)りしも、武意(ぶい)を感(かん)じ、楚王(そわう)、将(しやう)になさんと言(い)ひしかども、自(みづか)ら死(し)をのぞみ、沛公(はいこう)、軍(いくさ)を破(やぶ)り、片時(かたとき)もいきん事(こと)を悲(かな)しみて、戦場(せんぢやう)の石(いし)に、脳(なづき)を砕(くだ)きて失(う)せにき。よつて、勇士(ゆうし)、敵(てき)の為(ため)に、命(いのち)を暫(しばら)くも又(また)失(う)せざるは、古今(こきん)の例(れい)なり。然(しか)れば、五郎(ごらう)も、宵(よひ)にや失(う)せんと思(おも)ひけん、覚束無(おぼつかな)し。
@〔伊豆(いづ)の二郎(じらう)が流(なが)されし事(こと)〕S1004N149
扨(さて)も、悪事千里を走(はし)る習(なら)ひにて、伊豆(いづ)の二郎(じらう)未練(みれん)なりと、鎌倉(かまくら)中(ぢゆう)に披露(ひろう)有(あ)りければ、秩父(ちちぶ)の重忠(しげただ)、御前(ごぜん)にて此(こ)の事(こと)を聞(き)き、「曾我(そが)の五郎(ごらう)をば、重忠(しげただ)賜(たま)はりて、重代(ぢゆうだい)のかうひらにて、誅(ちゆう)し候(さうら)ふべきを、不覚(ふかく)第一(だいいち)の伊豆(いづ)の二郎(じらう)に下(くだ)し賜(たま)はりて、かはゆき次第(しだい)と承(うけたまは)り、口惜(くちを)しさよ」と申(まう)されければ、君聞(き)こし召(め)し、「斯様(かやう)の不覚人(ふかくじん)にて有(あ)るべくは、誰にても仰(おほ)せ付(つ)けらるべき物(もの)を」とて、伊豆(いづ)の二郎(じらう)は、御不審(ふしん)をかうふり、奥州(あうしう)外浜(そとのはま)へ流(なが)されしが、幾程(いくほど)無(な)くて、悪(あ)しき病(やまひ)を受(う)けて、当(たう)年の九月に二十七歳(さい)にして失(う)せにけり。これ偏(ひとへ)に、五郎(ごらう)が憤(いきどほ)りむくふ所(ところ)にやと、口びるを返(かへ)さぬは無(な)かりP377けり。時致(ときむね)は、五月に切(き)られければ、祐兼(すけかね)は、九月に失(う)せにけり。不思議(ふしぎ)なる例(ためし)、因果(いんぐわ)歴然(れきぜん)とぞ見(み)えける。
@〔鬼王(おにわう)・道三郎(だうざぶらう)が曾我(そが)へ帰(かへ)りし事(こと)〕S1005N150
此処(ここ)に、此(こ)の人々(ひとびと)の二人の郎等(らうどう)、鬼王(おにわう)・道三郎(だうざぶらう)は、富士の裾野(すその)井出(ゐで)の屋形(やかた)より、次第(しだい)の形見(かたみ)を取(と)り、曾我(そが)の里へぞ急(いそ)ぎける。然(さ)れども、惜(を)しみし名残(なごり)なれば、心(こころ)は後(あと)にぞ止(とど)まりける。実(げ)にや、幼少(えうせう)より取(と)り育(そだ)て奉(たてまつ)り、世(よ)にも出(い)で給(たま)はば、我々ならでは、誰か有(あ)るべきと、人も思(おも)ひ、我(われ)も又(また)頼(たの)もしかりつるに、斯様(かやう)に成(な)り行(ゆ)き給(たま)ひしかば、したひあくがれしも適(かな)はで、泣(な)く泣(な)く曾我(そが)へぞ帰(かへ)りける。思(おも)ひの余(あま)りに、道(みち)の辺(ほとり)にしばしやすらひ、富士野(ふじの)の空(そら)を顧(かへり)みしかば、松明(たいまつ)多(おほ)く走(はし)り、只(ただ)万燈会(まんどうゑ)の如(ごと)し。今(いま)こそ事(こと)出(い)で来(き)ぬると見(み)えければ、我(わ)が君(きみ)の御命(おんいのち)、如何(いかが)渡(わた)らせ給(たま)ふらんと、心(こころ)許(もと)無(な)さ限(かぎ)り無(な)し。只(ただ)二人坐(ま)しませば、大勢(おほぜい)に取(と)り込(こ)められ、如何(いか)に隙(ひま)無(な)く坐(ま)しますらん、今は御身(おんみ)も疲(つか)れ給(たま)ふらんと思(おも)へば、走(はし)り帰(かへ)りて、御最後(さいご)見(み)奉(たてまつ)らまほしきも、隔(へだ)たりぬれば、適(かな)はず、只(ただ)泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。暫(しばら)く有(あ)りて、たい松の数も、次第(しだい)に少(すく)なく成(な)り、火(ひ)の光(ひかり)も、うすく成(な)り行(ゆ)けP378ば、君(きみ)の御命(おんいのち)もかくやと、火(ひ)の光(ひかり)も、名残(なごり)惜(を)しく思(おも)ひければ、道の辺(べ)に倒(たふ)れ伏(ふ)し、声も惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。馬も、生(しやう)有(あ)る者(もの)なれば、人々(ひとびと)の別(わか)れをや惜(を)しみけん、富士野(ふじの)の空(そら)を顧(かへり)みて、二三度(さんど)までぞいばへける。扨(さて)有(あ)るべきにあらざれば、をちこちのたづきも知(し)らぬ山中に、覚束無(おぼつかな)きは、富士野(ふじの)なり。泣(な)く泣(な)く空(むな)しき駒(こま)の口を引(ひ)き、古里(ふるさと)へとは急(いそ)げども、行(ゆ)きも遣(や)られぬ山道の、末(すゑ)もさだかに見(み)えわかず。此処(ここ)に、人の使(つか)ひと思(おぼ)しくて、文(ふみ)持(も)ちたる者(もの)、後(あと)より急(いそ)ぎ来(き)たる。道三郎(だうざぶらう)、袖をひかへて、「出(い)での御屋形(やかた)には、今宵(こよひ)、何事(なにごと)の有(あ)りければ、松明(たいまつ)の数(かず)の見(み)え候(さうら)ひつる」と問(と)ひければ、「然(さ)ればこそとよ。知(し)り給(たま)はずや。曾我(そが)の十郎・五郎(ごらう)殿(どの)と言(い)ふ人、兄弟(きやうだい)して、一族(いちぞく)の工藤(くどう)左衛門(さゑもん)の尉(じよう)殿(どの)を、親(おや)の敵(かたき)とて打(う)ち給(たま)ひぬ。剰(あまつさ)へ、御所(ごしよ)の内まで切(き)り入(い)りて、日本国(につぽんごく)の侍(さぶらひ)共(ども)の、切(き)られぬ者(もの)は候(さうら)はず、手負(ておひ)・死人(しにん)二三百人も候(さうら)ふらん。然(さ)れども、兄(あに)の十郎(じふらう)は、夜半(やはん)に討死(うちじに)し給(たま)ひぬ。弟(おとと)の五郎(ごらう)殿(どの)は、暁(あかつき)に及(およ)び、生捕(いけど)られ給(たま)ひき。此(こ)の人々の振舞(ふるま)ひは、天魔(てんま)・鬼神(きじん)のあれたるにや、斯(か)かるおびたたしき事(こと)こそ候(さうら)はざりつれ。斯様(かやう)の事(こと)を、大磯(おほいそ)の虎御前(とらごぜん)の妹(いもうと)、黄瀬川(きせがは)の亀鶴(かめづる)御前(ごぜん)より、大磯(おほいそ)へ告(つ)げさせ給(たま)ふ御(おん)使(つか)ひなり」とて、走(はし)り通(とほ)りけり。二人の物(もの)共(ども)聞(き)きて、し損(そん)じ給(たま)ふべしとは思(おも)はねども、一期(いちご)の大事(だいじ)なれば、心(こころ)許(もと)無(な)く思(おも)ひ奉(たてまつ)りしに、何事(なにごと)無(な)く本意(ほんい)を遂(と)げ給(たま)ひぬるよと、歎(なげ)きの中(なか)の喜(よろこ)びにて、次第(しだい)の形見(かたみ)P379を面々(めんめん)に奉(たてまつ)り、
@〔同(おな)じく彼(か)の者(もの)共(ども)遁世(とんせい)の事(こと)〕S1006N151
我(わ)が家(いへ)にも帰(かへ)らず、高野山(かうやさん)に尋(たづ)ね上(のぼ)り、共(とも)に髻(もとどり)切(き)り、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)の色(いろ)に心(こころ)をなし、一筋(ひとすぢ)に此(こ)の人々(ひとびと)の後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を弔(とぶら)ひけるぞ有(あ)り難(がた)き。
@〔曾我(そが)にて追善(ついぜん)の事(こと)〕S1007N152
さても、母(はは)、子供(こども)の返(かへ)したる小袖(こそで)を取(と)り、各々(おのおの)顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、其(そ)の儘(まま)倒(たふ)れ伏(ふ)し、消(き)え入(い)りにけり。女房(にようばう)達(たち)、やうやう介錯(かいしやく)し、薬(くすり)など口にそそき、養生(やうじやう)しければ、わづかに目(め)計(ばかり)持(も)ち上(あ)げ給(たま)ひけり。せめての事(こと)に、文を開(ひら)きて読(よ)まんとすれ共(ども)、目(め)もくれ、心(こころ)も心(こころ)ならねば、文字(もじ)も更(さら)に見(み)えわかず。「恨(うら)めしや、童(わらは)を」とばかり言(い)ひて、胸(むね)に引(ひ)き当(あ)て、また打(う)ち伏(ふ)しぬ。やや有(あ)りて、息(いき)の下(した)にてくどきけるは、「誠(まこと)に凡夫(ぼんぶ)の身ほどはかなき事(こと)は無(な)し。此(こ)の小袖(こそで)をこひ、長(なが)き世(よ)までの形見(かたみ)と思(おも)ひて、時折節(をりふし)こそ有(あ)るに、二人つれて来(き)たりこひける者(もの)を知(し)らずして、返(かへ)せといひP380けむ悔(くや)しさよ。五郎(ごらう)も、限(かぎ)りと思(おも)ひてや、此(こ)の度、強(つよ)く言(い)ひけるぞや。幾程(いくほど)無(な)き物(もの)故(ゆゑ)に、不孝(ふけう)して、年頃(としごろ)添(そ)はざりける、悲(かな)しさよ。猶(なほ)も、心(こころ)強(づよ)く許(ゆる)さざりせば、一目(ひとめ)も見(み)ざらまし。久(ひさ)しく添(そ)はざりしに、珍(めづら)しくも、頼(たの)もしくも覚(おぼ)えし物(もの)を、せめて三日とも打(う)ち添(そ)はで、名残(なごり)惜(を)しさよ。なつかしかりつる面影(おもかげ)を、何(いつ)の世(よ)にかは相(あひ)見(み)ん」とて、声(こゑ)を惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。如何(いか)なる賎(しづ)の男(を)、賎(しづ)の女(め)に至(いた)るまで、涙(なみだ)を流(なが)さぬは無(な)かりけり。二宮(にのみや)の女房(にようばう)を始(はじ)めとして、親(した)しき人々(ひとびと)馳(は)せ集(あつ)まりて、泣(な)き悲(かな)しむ事(こと)、なのめならず。思(おも)ひの余(あま)りに、母(はは)は、十郎(じふらう)が居(ゐ)たりける所(ところ)に倒(たふ)れ入(い)り、「此処(ここ)に住(す)みし物(もの)を」と計(ばかり)にて、うかり伏(ふ)しぬ。傍(かたはら)に書(か)きたる筆(ふで)のすさみを見(み)れば、「一切(いつさい)有為法(うゐほふ)、如夢幻泡影(によむげんはうやう)、如露亦如電(によろやくによでん)、応作如是観(おうさによぜくわん)」とぞ書(か)きたりける。我(わ)が身(み)を有(あ)りとも思(おも)はぬ口(くち)ずさみ、見(み)るに涙(なみだ)も止(とど)まらず。此(こ)の押板(おしいた)には、古今(こきん)・万葉(まんえふ)を始(はじ)めとして、源氏(げんじ)・伊勢物語(いせものがたり)に至(いた)るまで、数(かず)の草子(さうし)をつみたれども、今(いま)より後の慰(なぐさ)みには、誰かは是(これ)を見(み)るべきと、見(み)るに思(おも)ひぞ勝(まさ)りける。文(ふみ)をば、二宮(にのみや)の女房(にようばう)ぞ、泣(な)く泣(な)く読(よ)み連(つら)ねける。聞(き)くに付(つ)けても、心(こころ)は心(こころ)とも覚(おぼ)えず。「人の習(なら)ひ、神や仏(ほとけ)に参(まゐ)りては、命(いのち)を長(なが)く福幸(ふくさいはひ)をこそ祈(いの)るに、此(こ)の者(もの)共(ども)は、只(ただ)明(あ)け暮(く)れしに失(う)せんとのみ申(まう)しければ、此(こ)の度逃(のが)れたりとも、遂(つひ)に添(そ)ひはつまじきぞや。其(そ)れに付(つ)けても、箱王(はこわう)を年頃(としごろ)不孝(ふけう)して、添(そ)はざりし事(こと)の悔(くや)しさよ。其(そ)れP381は、草の陰(かげ)にても聞(き)け、誠(まこと)には不孝(ふけう)せず。例(たと)へば、法師(ほふし)になさんとせし事(こと)の適(かな)はぬに、不孝(ふけう)と言(い)ひしを、ついで無(な)くして、何(なに)と無(な)く、月日(つきひ)を重(かさ)ねしばかりなり。小袖(こそで)直垂(ひたたれ)をきせし事(こと)も、日頃(ひごろ)に変(か)はらざりしを、二宮(にのみや)の女房(にようばう)のきする様(やう)にてとらせしを、誠と思(おも)ひ、童(わらは)をば、つらき者(もの)にや思(おも)ひけん。よし、中々(なかなか)に今は歎(なげ)きの便(たよ)り也(なり)。打(う)ち添(そ)ひなるる身(み)なりせば、いよいよ名残(なごり)も惜(を)しかるべし。かくても、我(わ)が身(み)、何(なに)にかはながらへはてん、憂(う)き命、有(あ)るもあられぬ例(ためし)かな」と、悶(もだ)え焦(こ)がれける。曾我(そが)の太郎も、幼(をさな)き時より育(そだ)てて、わり無(な)き事(こと)なれば、実子(じつし)にも劣(おと)らず、心(こころ)様(ざま)、又(また)さかしかりしかば、梅兄竹弟(ばいきやうちくてい)の思(おも)ひをなし、朝夕(あさゆふ)愚(おろ)かならざりしかども、所領(しよりやう)ひろからざれば、一所(いつしよ)をわくる事(こと)も無(な)し。其(そ)の上(うへ)、御勘当(かんだう)の人々(ひとびと)の末(すゑ)なれば、清(きよ)げならんも恐(おそ)れ有(あ)り。きよくほく幸(さいは)ひに、各々(おのおの)かるる事(こと)もこそと、思(おも)ひし事(こと)も夢(ゆめ)ぞかし。今更(いまさら)後悔(こうくわい)、益(えき)無(な)しとぞ歎(なげ)きける。母(はは)は、日(ひ)の暮(く)れ、夜(よ)の明(あ)くるに従(したが)ひて、いよいよ思(おも)ひぞ勝(まさ)りける。「惜(を)しからざりし憂(う)き身(み)なれども、彼(かれ)等(ら)が行方(ゆくへ)、もしやと思(おも)ふ故(ゆゑ)にこそ、つらき命(いのち)も惜(を)しかりつれ。今は、浄土(じやうど)にて生(う)まれ合(あ)ひ、今(いま)一度(ひとたび)見(み)ん」とて、湯水(ゆみづ)をたち、伏(ふ)し鎮(しづ)みければ、露命も危(あや)ふくぞ見(み)えし。親(した)しき人々(ひとびと)集(あつ)まりて、「浮(う)き世(よ)の習(なら)ひ、御身(おんみ)一(ひと)つの歎(なげ)きにあらず。さしも、繁昌(はんじやう)し給(たま)ひし平家(へいけ)の公達(きんだち)も、一度(いちど)に十二十人、目(め)の前(まへ)にて海中(かいちゆう)P382に沈(しづ)み、九泉(きうせん)に携(たづさ)はり給(たま)ひし憂(う)き別(わか)れ共(ども)、日数(ひかず)積(つ)もり、年月(としつき)隔(へだ)たりぬれば、さてのみこそ過(す)ぎ候(さうら)ひしか。今の世(よ)にも、或(ある)いは父母におくれ、或(ある)いは夫妻(ふさい)に別(わか)れ、又は親子(おやこ)兄弟(きやうだい)に離(はな)れ、歎(なげ)く者(もの)のみこそ多(おほ)く候(さうら)へ共(ども)、忽(たちま)ち命を捨(す)つる者無(な)し。誠(まこと)に御子(こ)の為(ため)、御身(おんみ)を捨(す)て給(たま)はん事(こと)、逆様(さかさま)なる罪(つみ)の深(ふか)さ、如何(いか)計(ばかり)と思(おぼ)し召(め)す。泣(な)く涙(なみだ)も、猛火(みやうくわ)と成(な)りて、子(こ)に掛(か)かるとこそ聞(き)きけれ、まして、子(こ)の為(ため)に、正(せう)命を失(うしな)ひ給(たま)はん事(こと)、罪業(ざいごふ)の程(ほど)を知(し)らず。如何(いか)にも身(み)をまたくして、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を問(と)ひ給(たま)へ」と、様々(さまざま)に申(まう)しければ、わづかに湯水(ゆみづ)ばかりぞ聞(き)き入(い)れ給(たま)ひける。さて有(あ)るべきならねば、僧(そう)達(たち)を遣(や)り奉(たてまつ)り、成等正覚(じやうどうしやうがく)、頓証(とんしよう)菩提(ぼだい)とぞ取(と)りをさめける。母(はは)、猶(なほ)訪(とぶら)はるべき身(み)の、逆様(さかさま)なる事(こと)に歎(なげ)き悲(かな)しみける。実(げ)にや、世(よ)の中の定(さだ)め無(な)き、涙(なみだ)の種(たね)とぞなりにける。箱根(はこね)の別当(べつたう)も、此(こ)の事(こと)を聞(き)き、急(いそ)ぎ曾我(そが)に下(くだ)り、諸(もろ)共(とも)に歎(なげ)き給(たま)ふ。「箱王(はこわう)が出(い)でし時(とき)の面影(おもかげ)、愚老(ぐらう)が涙(なみだ)の袖に止(とど)まり、師弟(してい)親子(おやこ)の別(わか)れ、変(か)はるべきにあらず」とて、さめざめと泣(な)き給(たま)ふ。其(そ)の後、持仏堂(ぢぶつだう)に参(まゐ)り、彼(か)の菩提(ぼだい)を弔(とぶら)ひ給(たま)ひけり。七日(なぬか)七日(なぬか)、四十九日まで、怠(おこた)らぬ追善(ついぜん)有(あ)り。誠(まこと)に弥陀(みだ)の誓願(せいぐわん)は、十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)の大罪(ざい)をも、一念(いちねん)十念(ねん)の力(ちから)を以(もつ)て、来迎(らいかう)引接(いんぜふ)し給(たま)ふべき他力(たりき)の本願(ほんぐわん)、頼(たの)もしかりけり。此(こ)の人々(ひとびと)は、父(ちち)の為(ため)に身(み)を捨(す)てける志(こころざし)無(な)ければ、罪(つみ)にして、しかも罪(つみ)にあらず、其(そ)の上(うへ)、在世(ざいせ)の時も、仁義(じんぎ)を乱(みだ)さP383ざりしかば、後の世(よ)までも、悪道には堕罪(だざい)せられじと、頼(たの)もしく覚(おぼ)えける。
@〔禅師(ぜんじ)法師(ほふし)が自害(じがい)の事(こと)〕S1008N153
又(また)、此(こ)の人々(ひとびと)の弟(おとと)に、御房(おんばう)とて、十八に成(な)る法師(ほふし)有(あ)り。故(こ)河津(かはづ)三郎(さぶらう)が忌(いみ)の内(うち)に生(う)まれたる子(こ)也(なり)。母(はは)、思(おも)ひの余(あま)りに、捨(す)てんとせしを、叔父(をぢ)伊藤(いとう)九郎養(やう)じて、越後(ゑちご)の国(くに)国上(くがみ)と言(い)ふ山寺に上(のぼ)せ、伊東(いとう)の禅師(ぜんじ)とぞ言(い)ひける。九郎、平家(へいけ)へ参(まゐ)りて後(のち)、親(した)しきに依(よ)り、源(みなもと)の義信(よしのぶ)が子(こ)と号(かう)して、折節(をりふし)、武蔵(むさし)の国(くに)に有(あ)りけるを、頼朝(よりとも)、聞(き)こし召(め)し、義信(よしのぶ)に仰(おほ)せ付(つ)けて、召(め)されければ、力(ちから)無(な)く、家(いへ)の子郎等(らうどう)数十人(すじふにん)下(くだ)されし事(こと)、不便(ふびん)なりし次第(しだい)也(なり)。大方、兄弟(きやうだい)とは申(まう)しながら、乳(ち)の内(うち)より他人(たにん)に養(やう)ぜられ、しかも、出家(しゆつけ)の身(み)なり。是(これ)も、只(ただ)普通(ふつう)の儀(ぎ)なりせば、彼(かれ)等(ら)まで御尋(たづ)ね有(あ)るまじきを、兄(あに)共(ども)の世(よ)に越(こ)え、名(な)を万天(ばんてん)に上(あ)げし故(ゆゑ)ぞかし。義信(よしのぶ)の使(つか)ひは、彼(か)の本坊(ほんばう)に来(き)たりて、斯様(かやう)の次第(しだい)を言(い)ふ。禅師(ぜんじ)聞(き)きて、「心(こころ)憂(う)や、弓矢(ゆみや)取(と)りの子(こ)が、我(わ)が家(いへ)を捨(す)てて、他(た)の親(おや)につく事(こと)は、努々(ゆめゆめ)有(あ)るまじき事(こと)也(なり)。斯様(かやう)の罪過(ざいくわ)は、其(そ)の源(みなもと)をただされけるをや。同(おな)じ死する命、兄弟(きやうだい)三人、一(ひと)つ枕に討死(うちじに)せば、如何(いかが)人目(ひとめ)もうれからまし」。今更(いまさら)後悔(こうくわい)すれども適(かな)はず、仏前に参(まゐ)り、御経開(ひら)き読(よ)まんとすれども、文字(もじ)も見(み)えざりければ、まきをさめ、P384数珠(じゆず)をさらさらと押(お)し揉(も)み、「南無(なむ)平等(びやうどう)大慧(ゑ)、一乗(いちじよう)妙典(めうでん)、願(ねが)はくは、法華(ほつけ)読誦(どくじゆ)の功力(くりき)に依(よ)り、刹那(せつな)の妄執(まうしう)を消滅(せうめつ)し、安楽(あんらく)世界(せかい)に向(む)かへ取(と)り給(たま)へ」と祈誓(きせい)して、剣(けん)を抜(ぬ)き、左手(ゆんで)の脇(わき)につきたて、右手(めて)へ引(ひ)きまはさんとする所(ところ)を、同宿(どうじゆく)早(はや)く見(み)付(つ)けて、「是(これ)は如何(いか)に」と、取(と)り付(つ)き抑(おさ)へければ、「のき候(さうら)へ。まさなしや。人手(ひとで)にかからんより、清(きよ)き自害(じがい)して見(み)せ申(まう)さん。一(ひと)つは、同朋(どうぼう)達(たち)の思(おぼ)し召(め)さるる所。空(むな)しく鎌倉(かまくら)へ取(と)られん事(こと)は、寺中(じちゆう)坊中(ばうちゆう)の名(な)をり、はなし給(たま)へ」と怒(いか)りけれ共(ども)、大勢(おほぜい)なれば、いよいよ弱(よわ)りはてにけり。人々(ひとびと)は、数多(あまた)有(あ)り、働(はたら)かさず、自害(じがい)を半(はん)にぞしたりける、無念(むねん)と言(い)ふも愚(おろ)かなり。御(おん)使(つか)ひは、庭上(ていしやう)に充満(じゆうまん)して攻(せ)めければ、力(ちから)及(およ)ばず、上意(じやうい)黙(もだ)し難(がた)くして、渡(わた)されにけり。口惜(くちを)しかりし次第(しだい)なり。御(おん)使(つか)ひ受(う)け取(と)り、輿(こし)に乗(の)せて、鎌倉(かまくら)へこそ上りけれ。君聞(き)こし召(め)されて、御前(ごぜん)へ召(め)されければ、かかれて参(まゐ)りけり。君御覧(ごらん)ぜられて、「わ僧(そう)は、河津(かはづ)が子(こ)か」と、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、禅師(ぜんじ)は、前後(ぜんご)も知(し)らざりけるが、君(きみ)の仰(おほ)せを聞(き)き、両(りやう)の手(て)をおして、おき上(あ)がらんと志(こころざ)しけれ共(ども)、適(かな)はで、頭(かしら)を持(も)ち上(あ)げ、「さん候(ざうらふ)、伊東(いとう)が為(ため)には、孫(まご)候(さうら)ふ」と申(まう)す。さて、「兄(あに)共(ども)が、敵(かたき)打(う)ちけるをば知(し)らざりけるか」「おほそれながら、将軍(しやうぐん)の仰(おほ)せとも存(ぞん)じ候(さうら)はず。一腹(いつぷく)一生(いつしやう)の兄(あに)共(ども)が、親(おや)の敵(かたき)打(う)つとて知(し)らせ候(さうら)はんに、黒衣(こくえ)にて候(さうら)ふとも、同意(どうい)せぬ畜生(ちくしやう)や候(さうら)ふべき。御推量(すいりやう)も候(さうら)へ」とぞ申(まう)し上げたりける。「汝(なんぢ)が眼(まな)ざしP385を見(み)るに、頼朝に意趣(いしゆ)有(あ)りと見(み)えたり。事(こと)を尋(たづ)ねん為(ため)に召(め)しつるに、楚忽(そこつ)の自害(じがい)、所存の外(ほか)也(なり)」「楚忽(そこつ)とは、如何(いか)でか承(うけたまは)り候(さうら)ふ。既(すで)に御(おん)使(つか)ひ賜(たま)はりて、召(め)し取(と)れとの御諚(ごぢやう)を承(うけたまは)りて、其(そ)の用心(ようじん)仕(つかまつ)らぬ事(こと)や候(さうら)ふべき。哀(あは)れ、兄共(ども)が知(し)らせて候(さうら)はば、二人の者(もの)をば、祐経(すけつね)に押(お)し向(む)け、愚僧(ぐそう)は、一人にて候(さうら)ふとも、君(きみ)を一太刀窺(うかが)ひ奉(たてまつ)りて、後生(ごしやう)の訴(うつた)へに仕(つかまつ)るべきか」とて、御前(ごぜん)をにらみ、言葉(ことば)をはなちてぞ申(まう)しける。君聞(き)こし召(め)して、「頼朝(よりとも)には、何(なに)の宿意(しゆくい)有(あ)りけるぞ」「我(われ)等(ら)先祖(せんぞ)の敵、又は兄弟(きやうだい)の敵にて候(さうら)はぬか。果報(くわほう)の勝劣(しようれつ)程(ほど)、憂(う)き物(もの)は候(さうら)はず。只(ただ)御威勢(いせい)におされて、斯様(かやう)に罷(まか)り成(な)りて候(さうら)ふ。おほそれながら、身(み)が身(み)にて候(さうら)はば、源平(げんぺい)両氏(りやうじ)、何(いづ)れ甲乙(かうおつ)候(さうら)ふべき」と申(まう)しければ、君(きみ)、暫(しばら)く物(もの)をも仰(おほ)せられず、やや有(あ)りて、猶(なほ)も心(こころ)を見(み)んと思(おぼ)し召(め)しけん、「其(そ)の手(て)にても、いきてんや。さも思(おも)はば、助(たす)くべき」由(よし)仰(おほ)せ下(くだ)されければ、禅師(ぜんじ)承(うけたまは)りて、からからと打(う)ち笑(わら)ひ、「よくよく人共(とも)思(おぼ)し召(め)され候(さうら)はざりける。御(おん)助(たす)け有(あ)る程(ほど)ならば、如何(いか)で、是(これ)まで召(め)さるべき。もしさもとや申(まう)す、聞(き)こし召(め)されん為(ため)か。まさなや、人に依(よ)りてこそ、然様(さやう)の御(おん)言葉(ことば)は候(さうら)ふべけれ。口惜(くちを)しき仰(おほ)せかな」とぞ申(まう)しける。御寮(れう)聞(き)こし召(め)し、此(こ)の法師(ほふし)も、兄(あに)には劣(おと)らざりけり。助(たす)け置(お)きなば又(また)大事(だいじ)を起(お)こすべき者(もの)也(なり)。よくぞ召(め)し寄(よ)せたりけると思(おぼ)しける。禅師(ぜんじ)、重(かさ)ねて申(まう)しけるは、「とても助(たす)かるまじき身(み)、刹那(せつな)のながらへも苦(くる)しく候(さうら)ふ。急(いそ)ぎ首(くび)を召(め)さP386れ候(さうら)へ」と、しきりに申(まう)しければ、生年(しやうねん)十八にして、遂(つひ)に切(き)られにけり。無慙(むざん)なりし次第(しだい)なり。君(きみ)、此(こ)の者(もの)の気色(けしき)を御覧(ごらん)じて、「剛(かう)なる者(もの)の孫(そん)は、剛(かう)なり。哀(あは)れ、彼(かれ)等(ら)に世(よ)の常(つね)の恩(おん)をあたへ、召(め)し使(つか)はば、思(おも)ひ止(とど)まる事(こと)も有(あ)りなまし。弓矢(ゆみや)取(と)る者(もの)は、誰(たれ)劣(おと)るべきにはあらねども、か程(ほど)の勇士(ゆうし)、天下(てんが)にあらじ」と仰(おほ)せも敢(あ)へず、御涙(おんなみだ)をこぼさせ給(たま)ひしかば、御前(おんまへ)祗候(しかう)の侍(さぶらひ)共(ども)、袖(そで)を濡(ぬ)らさぬ無(な)かりけり。
@〔京(きやう)の小二郎(こじらう)が死(しする)事(こと)〕S1009N155
又(また)、此(こ)の人々(ひとびと)に語(かた)らはれ、同意(どうい)せざりし一腹(いつぷく)の兄(あに)、京(きやう)の小二郎(こじらう)も、同(おな)じ八月に、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御一門(いちもん)、相模守(さがみのかみ)の侍(さぶらひ)に、ゆらの三郎(さぶらう)が謀叛(むほん)起(お)こして出(い)でけるを、止(とど)めんとて、由比(ゆひ)の浜(はま)にて、大事(だいじ)の傷(きず)を蒙(かうぶ)り、曾我(そが)に帰(かへ)り、五日をへて、死にけり。同(おな)じくは、さんぬる五月に、兄弟(きやうだい)共(ども)と一所に死(し)にたらんは、如何(いかが)よかるべきとぞ申(まう)し合(あ)ひける。
@〔三浦(みうら)の与一(よいち)が出家(しゆつけ)の事(こと)〕S1010N156
P387 三浦(みうら)の与一(よいち)も、与(くみ)せざりしが、幾程(いくほど)無(な)くして、御勘当(かんだう)を蒙(かうぶ)り、出家(しゆつけ)してげり。人は只(ただ)不孝(ふかう)の道(みち)をば、正(ただ)しくすベき事(こと)や。
P388曾我物語巻第十一
@〔虎(とら)が曾我(そが)へ来(き)たる事(こと)〕S1101N157
抑(そもそも)、建久(けんきう)四年(しねん)長月(ながつき)上旬(じやうじゆん)の頃(ころ)、つながぬ月日(つきひ)も移(うつ)り来(き)て、昨日(きのふ)今日(けふ)とは思(おも)へ共(ども)、憂(う)き夏も過(す)ぎ、秋も漸々(やうやう)立(た)ちぬれば、賓鴈書(ひんがんしよ)を掛(か)けて、上林(しやうりん)の霜(しも)にとぶ、貞女(ていぢよ)何処(いづく)んにか有(あ)る、くはんしよ衣を打(う)ちて、良人(りやうじん)未(いま)だ帰(かへ)らざる所(ところ)に、せんき尼(あま)一人、濃(こ)き墨染(すみぞめ)の衣(ころも)に、同(おな)じ色(いろ)の袈裟(けさ)を掛(か)けて、葦毛(あしげ)なる馬に、貝鞍(かひくら)おき、引(ひ)かせて来(き)けり。何者(なにもの)ぞと見(み)れば、十郎(じふらう)が通(かよ)ひし大磯(おほいそ)の虎(とら)也(なり)。彼(かれ)等(ら)が母(はは)のもとに行(ゆ)き、間近(まぢか)き所(ところ)に立(た)ち入(い)り、使(つか)ひして言(い)ひけるは、「此(こ)の人々(ひとびと)の百ケ日の孝養(けうやう)、大磯(おほいそ)にても、形(かた)の如(ごと)く営(いとな)むべけれ共(ども)、箱根の御山にて有(あ)るべしと承(うけたまは)り候(さうら)へば、此(こ)の仏事(ぶつじ)をも聴聞(ちやうもん)申(まう)し、我(わ)が身(み)の営(いとな)みをも、其(そ)の次(つぎ)にして、一しゆの諷誦(ふじゆ)をも捧(ささ)げばやと思(おも)ひ、参(まゐ)り候(さうら)ふ」と言(い)ひければ、母(はは)聞(き)きて、「嬉(うれ)しくも思(おも)ひ寄(よ)り御座(おは)します物(もの)かな。十郎(じふらう)有(あ)りし方(かた)へ入(い)らせ給(たま)へ。やがて見参(げんざん)に入(い)るべし」と、あれたる住(す)み処(か)の扉(とぼそ)をあけて、P389呼(よ)び入(い)りにけり。虎(とら)は、十郎(じふらう)が住(す)み所(どころ)へ立(た)ち入(い)り見(み)れば、いつしか庭(には)の通(かよ)ひ路(ぢ)に草茂(しげ)り、跡(あと)踏(ふ)み付(つ)くる人も無(な)し。塵(ちり)のみ積(つ)もる床(ゆか)の上(うへ)、打(う)ち払(はら)ひたる気色(けしき)も見(み)えず。今はの別(わか)れの暁(あかつき)まで、見(み)なれし所(ところ)なれば、変(か)はる事(こと)は無(な)けれども、主(ぬし)は無(な)し。思(おも)ひしより、過(す)ぎ方(かた)のゆかしく、我(わ)が身(み)はもとの身(み)なれども、心(こころ)は有(あ)りし心(こころ)ならず。月やあらぬ、春や昔のかこち草、古(ふる)き名残(なごり)の尽(つ)きせねば、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。まろび入(い)りたる其(そ)の儘(まま)にて、しばしはおきも居(ゐ)ざりけり。枕(まくら)も袖(そで)もうくばかり、立(た)ち添(そ)ふ物(もの)は面影(おもかげ)の、其(そ)れとばかりの情(なさけ)にて、涙(なみだ)も更(さら)に止(とど)まらず。やや暫(しばら)く有(あ)りて、母(はは)出(い)で合(あ)ひけり。虎(とら)を一目(ひとめ)見(み)しより、何(なに)と物(もの)をば言(い)はで、袖(そで)を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、さめざめと泣(な)きけり。虎(とら)も、母(はは)を見(み)付(つ)けて、有(あ)りし顔(かほ)ばせの残(のこ)り止(とど)まる心地(ここち)して、打(う)ち傾(かたぶ)き、声(こゑ)も惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。夫(おつと)の歎(なげ)き、子(こ)の別(わか)れ、さこそは悲(かな)しかりけめ、推(お)し量(はか)られて、哀(あは)れ也(なり)。母(はは)、涙(なみだ)を抑(おさ)へて言(い)ひけるは、「かく有(あ)るべしと思(おも)ひなば、十郎(じふらう)が有(あ)りし時(とき)、恥(は)づかしながら、見(み)奉(たてまつ)るべかりし物(もの)を、身(み)の貧(ひん)なるに依(よ)り、親(した)しむべきにもうとし、語(かた)らふべきにも、さもあらで、万(よろづ)思(おも)ふ様(やう)にも候(さうら)はで、打(う)ち過(す)ぎし事(こと)の悔(くや)しさよ。十郎(じふらう)、浅(あさ)からず思(おも)ひ奉(たてまつ)りし事(こと)なれば、只(ただ)十郎(じふらう)に向(む)かふ心地(ここち)して、なつかしく思(おも)ふ」と、泣(な)く泣(な)く語(かた)りければ、虎(とら)も又(また)、「身(み)の数(かず)ならぬに依(よ)りて、御見参(ごげんざん)申(まう)さず」とて、是(これ)も涙(なみだ)を流(なが)しけり。「形見(かたみ)とてP390残(のこ)し置(お)かれし馬・鞍(くら)、見(み)る度(たび)ごとに、目もくれ、仏(ほとけ)の御名を唱(とな)ふる障(さは)りとなり候(さうら)へば、なき人の御(おん)為(ため)も然(しか)るべからず。此(こ)の度(たび)の御仏事(ぶつじ)の御布施(ふせ)に思(おも)ひ定(さだ)めて候(さうら)ふ」と、言(い)ひもはてず、打(う)ち傾(かたぶ)きけり。「仰(おほ)せの如(ごと)く、形見(かたみ)は由(よし)無(な)き物(もの)にて、是(これ)等(ら)が狩場(かりば)より返(かへ)したる小袖(こそで)を見(み)る度(たび)に、殊(こと)に心(こころ)乱(みだ)れ候(さうら)ふぞや。是(これ)も、此(こ)の度の御布施(ふせ)に思(おも)ひ向(む)けて候(さうら)ふ。御身(おんみ)は、十郎(じふらう)が事(こと)ばかりこそ歎(なげ)き給(たま)へ。童(わらは)ほど罪(つみ)深(ふか)き者(もの)は候(さうら)はじ。河津(かはづ)殿(どの)におくれたりし時(とき)、一日(いちにち)片時(へんし)の命(いのち)もながらへ難(がた)かりしに、つれなき身(み)のながらへ、百日の内に、数多(あまた)の子(こ)におくれたり。如何(いか)ばかりとか思(おぼ)し召(め)す。殊(こと)に彼(かれ)等(ら)二人は、身(み)をはなさで、左右(さう)の膝(ひざ)にすゑ育(そだ)て、父(ちち)の形見(かたみ)と思(おも)へば、憂(う)き時(とき)も、彼(かれ)等(ら)にこそは慰(なぐさ)みしか。今より後(のち)は、誰(たれ)を見(み)、何(なに)に心(こころ)の慰(なぐさ)むべき。箱王(はこわう)は、法師(ほふし)にならざりしを、仮初(かりそめ)に「不孝(ふけう)」と言(い)ひし其(そ)の儘(まま)、「許(ゆる)せ」と言(い)ふ人も無(な)し。身(み)の貧(ひん)なるに、何(なに)と無(な)く打(う)ち過(す)ぎ、月日(つきひ)を送(おく)り、年頃(としごろ)添(そ)はざりし、今更(いまさら)悔(くや)しく候(さうら)ふぞとよ。打(う)ち出(い)でし時(とき)、兄がつれて来(き)たり、限(かぎ)りと思(おも)ひてや、「許(ゆる)せ」と申(まう)せしに、「然(さ)らば」と言(い)ひし言(こと)の葉(は)を、嬉(うれ)しげなりし顔(かほ)ばせの、現(あらは)れたりし無慙(むざん)さよ。親(おや)ならず、子(こ)ならずは、おいたる童(わらは)が言葉(ことば)の末(すゑ)、誰か重(おも)く思(おも)ふべきと、頼(たの)もしく思(おも)ひて、つくづくと罷(まか)りしに、盃(さかづき)取(と)り上(あ)げ、傾(かたぶ)く程(ほど)、涙うかみて候(さうら)ひしを、不孝(ふけう)を許(ゆる)す嬉(うれ)しさの涙(なみだ)と思(おも)ひて候(さうら)へば、P391斯様(かやう)に成(な)るべきとて、限(かぎ)りの涙(なみだ)にて候(さうら)ひけるを、凡夫(ぼんぶ)の身(み)の悲(かな)しさは、夢(ゆめ)にも知(し)らで、なつかしかりける顔(かほ)ばせ、何(なに)しに年月(としつき)不孝(ふけう)しけんと、過(す)ぎにし方(かた)まで悔(くや)しきに、せめて三日打(う)ち添(そ)はで、帰(かへ)れとばかりのあらましを、如何(いか)に哀(あは)れに思(おも)ひけん。いつの世(よ)にか相(あひ)見(み)て、憂(う)きを語(かた)りてまし」とて、又(また)打(う)ち伏(ふ)して泣(な)きけり。虎(とら)も、涙(なみだ)にむせびつつ、しばしは物(もの)をも言(い)はざりけり。互(たが)ひの心(こころ)の内、さこそと思(おも)ひ遣(や)られたり。「是(これ)なる御経(きやう)は、彼(かれ)等(ら)が最後(さいご)に富士野より送(おく)りたる文(ふみ)の裏(うら)にかき奉(たてまつ)りて候(さうら)ふ。此(こ)の文を読(よ)まんとすれば、文字(もじ)も見(み)えず。近(ちか)く居(ゐ)寄(よ)りて読(よ)み給(たま)へ。聞(き)き候(さうら)はん」とて差(さ)し出(い)だす。十郎(じふらう)が文(ふみ)と聞(き)けば、なつかしくて、読(よ)まんとすれば、目(め)もくれ、いつを其処(そこ)とも見(み)えわかず、只(ただ)胸(むね)にあてて、泣(な)くばかりにてぞ有(あ)りし。流(なが)れをたつる習(なら)ひ、か程(ほど)の志(こころざし)有(あ)るべしとは思(おも)はざりしを、やさしくも見(み)ゆる也(なり)けりと思(おも)ふに、涙(なみだ)ぞまさりける。「今宵(こよひ)は、是(これ)に止(とど)まりて、心(こころ)静(しづ)かに物語(ものがたり)申(まう)すべきを、箱根(はこね)への用意(ようい)させ候(さうら)ふべし。暁(あかつき)に出(い)で候(さうら)ふべし。聞(き)き給(たま)ひぬるや、是(これ)等(ら)が孝養(けうやう)せよとて、君(きみ)よりは所領(しよりやう)賜(たま)はり候(さうら)ふ。世(よ)には、敵(かたき)打(う)つ者(もの)こそ多(おほ)く候(さうら)ふなれども、心様(こころざま)人にすぐるるに依(よ)り、斯様(かやう)の御恩(ごおん)に預(あづ)かり候(さうら)ふ。如何(いか)に言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)しとも、彼(かれ)等(ら)が安穏(あんをん)ならんこそ、嬉(うれ)しくも」とて、「是(これ)や昔(むかし)、上東門院(しやうとうもんゐん)の御時(とき)、和泉(いづみ)式部(しきぶ)が、娘(むすめ)小式部(しきぶ)の内侍(ないし)におくれて、悲(かな)しみけるに、君(きみ)、哀(あは)れに思(おぼ)し召(め)して、母(はは)が心(こころ)を慰(なぐさ)めんとP392思(おぼ)し召(め)し、衣を下(くだ)されしに、和泉(いづみ)式部(しきぶ)、
諸(もろ)共(とも)に苔(こけ)の下(した)にもくちずしてうづもれぬ名(な)を聞(き)くぞ悲(かな)しき W036
斯様(かやう)に詠(よ)みたりし事(こと)まで思(おも)ひ知(し)られて、忝(かたじけな)く覚(おぼ)え候(さうら)ふぞや。其(そ)れにつき候(さうら)ひては、此(こ)の度(たび)仏事(ぶつじ)、心(こころ)の及(およ)び、営(いとな)むべきにて候(さうら)ふ。此(こ)の辺(ほとり)には、さりぬべき導師(だうし)も候(さうら)はねば、別当(べつたう)を導師(だうし)に定(さだ)め参(まゐ)りて候(さうら)ふ。五郎(ごらう)が事(こと)忘(わす)れず、御(おん)歎(なげ)き候(さうら)へば、一入(ひとしほ)懇(ねんご)ろなるべし。暁(あかつき)は、伴(ともな)ひ奉(たてまつ)るべし」とて、帰(かへ)りにけり。虎(とら)は、母(はは)が後姿(うしろすがた)を見(み)送(おく)り、十郎(じふらう)が装(よそほ)ひ思(おも)ひ出(い)でられて、是(これ)も名残(なごり)は惜(を)しかりけり。然(さ)らぬだに、秋の夕は寂(さび)しきに、一人(ひとり)ふせ屋の軒(のき)の月、涙(なみだ)にくもる折(をり)からや、折(をり)知(し)り顔(がほ)の鹿(しか)の声、枕に弱(よわ)る蟋蟀(きりぎりす)、軒端(のきば)の荻(おぎ)を吹(ふ)く風に、古里(ふるさと)思(おも)ひ知(し)られつつ、時(とき)しも長(なが)き夜(よ)もすがら、明(あ)かし兼(か)ねたる思(おも)ひねの、あふ夢(ゆめ)だにも無(な)ければや、形(かた)しく閨(ねや)の枕(まくら)に置(お)き添(そ)ふ露の重(かさ)なれば、現(うつつ)の床(ゆか)もうくばかり、明(あ)け方(がた)の雁(かり)がねの友(とも)を語(かた)らひ泣(な)く声(こゑ)も、羨(うらや)ましくぞ思(おも)ひ遣(や)る。余所(よそ)の砧(きぬた)を聞(き)くからに、身(み)にしむ風のいとどしく、鐘(かね)聞(き)く空(そら)に明(あ)けにけり。
@〔母(はは)と虎(とら)、箱根(はこね)へ上(のぼ)りし事(こと)〕S1102N160
P393 あれぬる宿(やど)とは思(おも)へ共(ども)、枕(まくら)並(なら)べし睦言(むつごと)の、出(い)でぬる別(わか)れ路(ぢ)は、今も打(う)ち添(そ)ふ心地(ここち)して、おきもせず、ねもせで、物(もの)を思(おも)ひ居(ゐ)たる所(ところ)に、馬に鞍(くら)おきひつ立(た)つる、使(つか)ひは来(き)たり木幡山(こはたやま)、君(きみ)を思(おも)へば心(こころ)から、上(うは)の空(そら)にや籠(こも)るらん。母(はは)も立(た)ち出(い)でて、急(いそ)ぐと言(い)へば、打(う)ち出(い)でぬ。自(おの)づから成(な)る道(みち)の辺(ほとり)、我(わ)が方(かた)遠(とほ)く成(な)り行(ゆ)けば、其処(そこ)とも知(し)らぬ鞠子河(まりこがは)、け上(あ)げて波や渡(わた)るらん。湯坂峠(ゆざかのたうげ)を上(のぼ)るにも、別(わか)れし人、此(こ)の道を、かくこそ通(かよ)ひなれしと、思(おも)ひ遣(や)らるる梓弓(あづさゆみ)、矢立(やたて)の杉(すぎ)を見(み)上(あ)げつつ、其(そ)の人々(ひとびと)の射(い)ける矢(や)も、此(こ)の木の枝(えだ)に有(あ)るらんと、梢(こずゑ)の風(かぜ)もなつかしく、山路(やまぢ)はるばる行(ゆ)く程(ほど)に、箱根(はこね)の坊(ばう)につきけり。やがて、別当(べつたう)出(い)で合(あ)ひ給(たま)ひて、「さても、御(おん)歎(なげ)きの日数(ひかず)の、哀(あは)れにて」と仰(おほ)せられければ、此(こ)の人々(ひとびと)にも、仏事(ぶつじ)の本意(ほんい)を申(まう)しけり。別当(べつたう)、虎(とら)を見(み)給(たま)ひて、「何処(いづく)よりの客人(きやくじん)にや」と問(と)ひければ、母(はは)、有(あ)りの儘(まま)に語(かた)り奉(たてまつ)る。別当(べつたう)も、有(あ)り難(がた)き志(こころざし)とて、墨染(すみぞめ)の袖を濡(ぬ)らし給(たま)ふ。やや有(あ)りて、別当(べつたう)、涙(なみだ)を止(とど)めて、仰(おほ)せられけるは、「法師(ほふし)が思(おも)ひとて、方々(かたがた)に劣(おと)り奉(たてまつ)らず。さかりなる子(こ)を先(さき)に立(た)つる親(おや)、わかうして夫(おつと)におくるる妻(つま)、世(よ)の常(つね)多(おほ)しと申(まう)し候(さうら)へ共(ども)、師(し)に先(さき)立(だ)つ弟子(でし)は、稀(まれ)なり。其(そ)れも先規(せんぎ)無(な)きにあらず。遠(とほ)く震旦(しんだん)を思(おも)へば、顔回(がんくわい)は、貫首(くわんじゆ)の弟子(でし)にて、才智(さいち)並(なら)ぶ人無(な)かりしかども、二十五歳(さい)にて、先(さき)立(だ)ち給(たま)ふ。我(わ)が朝(てう)の慈覚(じかく)大師(だいし)の御弟子、大師(だいし)に先(さき)立(だ)ち奉(たてまつ)る。西方院(さいはうゐん)の座主(ざす)院源(ゐんげん)僧正(そうじやう)は、りやうゐんP394大徳(とく)におくれ給(たま)ふ。斯様(かやう)の事(こと)を思(おも)ひ出(い)だせば、愚僧(ぐそう)一人が歎(なげ)き也(なり)。げにげに曠劫(くわうごふ)をへても、相(あひ)見(み)ん事(こと)有(あ)るまじき別(わか)れの道(みち)、歎(なげ)き給(たま)ふも、理(ことわり)なり。歎(なげ)くべし歎(なげ)くべし」とて、御涙(おんなみだ)をはらはらと流(なが)し給(たま)ふ。「思(おも)へば、誰も劣(おと)るべきにはあらね共(ども)、大磯(おほいそ)の客人(きやくじん)の御志(おんこころざし)こそ、誠(まこと)有(あ)り難(がた)くこそ候(さうら)へ。相(あひ)構(かま)へて、深(ふか)く歎(なげ)き給(たま)ふべからず。是(これ)を誠の善知識(ぜんちしき)として、他念(たねん)無(な)く菩提心(ぼだいしん)を起(お)こし給(たま)へ。一念(いちねん)の随喜(ずいき)だにも、莫大(ばくだい)にて候(さうら)ふぞかし。斯様(かやう)に思(おも)ひ切(き)り、誠(まこと)の道(みち)に入(い)り給(たま)ひ候(さうら)はば、余念(よねん)無(な)く行(ぎやう)じ給(たま)ひ候(さうら)へよ。仏も六年、仙人(せんにん)に給仕(きうじ)きやうしてこそ、法花をば授(さづ)かり給(たま)ひし。構(かま)へて、悪念(あくねん)を捨(す)て給(たま)ふべし。人々(ひとびと)を打(う)ちける人を恨(うら)めしと思(おも)ひ給(たま)はば、瞋恚(しんい)の妄執(まうしう)と成(な)りて、輪廻(りんゑ)の業(ごふ)つくべからず。あながち、手(て)を下(お)ろして殺(ころ)し、行(ゆ)きて盗(ぬす)まざれども、思(おも)へば、其(そ)の科(とが)ををかすにて候(さうら)ふぞ。構(かま)へて構(かま)へて、殺生(せつしやう)を心(こころ)にのぞき給(たま)ふべし。然(さ)れば、第一(だいいち)の戒(かい)にて候(さうら)ふぞ。女(をんな)は、殊(こと)に執情(しうじやう)深(ふか)きに依(よ)りて、三途(さんづ)の業(ごふ)つきず候(さうら)ふぞや。聞(き)き給(たま)へ。
@〔鬼の子(こ)取(と)らるる事(こと)〕S1103N161
昔(むかし)、天竺(てんぢく)に、鬼子母(きしも)という鬼有(あ)り。大阿修羅王(あしゆらわう)が妻(つま)なり。五百人の子(こ)を持(も)ち、是(これ)をP395養(やしな)はんとて、物(もの)の命をたつ事(こと)、恒河沙(がうがしや)の如(ごと)し。殊(こと)に親(おや)の愛(あい)する子(こ)を好(この)み、取(と)りくふ罪(つみ)つくし難(がた)し。仏(ほとけ)、是(これ)を悲(かな)しみ思(おぼ)し召(め)し、如何(いかが)して此(こ)の殺生(せつしやう)を止(とど)めんとて、智慧(ちゑ)第一(だいいち)の迦葉(かせう)尊者(そんじや)に告(つ)げ給(たま)ふ。迦葉(かせう)、仏(ほとけ)に申(まう)させ給(たま)ひけるは、「彼(かれ)が五百人持(も)ちて候(さうら)ふ子(こ)の中に、殊(こと)に自愛(じあい)を御(おん)隠(かく)し候(さうら)ひて、御覧(ごらん)ぜられ候(さうら)へ」と、御申(まう)し有(あ)りければ、「然(しか)るべし」とて、五百人の乙(おと)子取(と)り、御鉢(はち)の下(した)に隠(かく)し給(たま)ふ。父母の鬼(おに)、是(これ)を尋(たづ)ねけり。神通(じんづう)自在(じざい)の物(もの)なりければ、上(かみ)は非想(ひさう)非非想天(ひひさうてん)、六欲天(よくてん)の雲(くも)の上、下(した)は九山(せん)、八海(かい)、竜宮(りゆうぐう)、奈落(ならく)の底(そこ)までも、くもり無(な)く尋(たづ)ねけれども、無(な)かりけり。鬼共(ども)、力(ちから)を失(うしな)ひ、大地(だいぢ)に伏(ふ)しまろび、泣(な)き悲(かな)しみけるぞ、愚(おろ)かなる。思(おも)ひの余(あま)りに、仏(ほとけ)に参(まゐ)り申(まう)しけるは、「我、五百人の子(こ)を持(も)ちて候(さうら)ふ、其(そ)の中(なか)にも、乙(おと)子(ご)こそ、殊(こと)に不便(ふびん)に候(さうら)ひしを、物(もの)に取(と)られ失(うしな)ひて候(さうら)ふ。余(あま)りに悲(かな)しみ候(さうら)ひて、至(いた)らぬ隈(くま)も無(な)く、尋(たづ)ねて候(さうら)へども、我(われ)等(ら)が神通(じんづう)にては、尋(たづ)ね出(い)だすベしとも覚(おぼ)えず。然(しか)るべくは、御慈悲(じひ)を以(もつ)て、教(をし)へさせ給(たま)ひ候(さうら)へ」とて、黄(き)なる涙(なみだ)を流(なが)しけり。其(そ)の時(とき)、仏宣(のたま)はく、「さて、子(こ)を失(うしな)ひて尋(たづ)ぬるは、悲(かな)しき物(もの)か」「申(まう)すにや及(およ)び候(さうら)はず。是(これ)だにも出(い)で来(き)候(さうら)はば、我(われ)等(ら)二人は、如何(いか)になり候(さうら)ふとも、余(あま)りにかはゆく候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「然様(さやう)に、子(こ)は悲(かな)しく、無慙(むざん)なる者(もの)ぞとよ。汝(なんぢ)、五百人の子(こ)を養(やしな)はんが為(ため)に、者(もの)の命(いのち)を殺(ころ)す事(こと)、いか程(ほど)とか思(おも)ふ。其(そ)の殺(ころ)さP396るる者(もの)の中に、親(おや)も有(あ)り、子(こ)も有(あ)り、兄弟(きやうだい)親類(しんるい)、いか程(ほど)の歎(なげ)きとか思(おも)ふ。思(おも)ひ知(し)れりや、汝(なんぢ)今、只(ただ)一人失(うしな)ひてだにも、斯様(かやう)に悲(かな)しむにや。まして、他人(たにん)如何(いかが)」と、示(しめ)し給(たま)ひければ、鬼共(ども)、首(かうべ)をうなだれ、涕泣(ていきゆう)して、先非(せんぴ)をくいけり。「如何(いか)に汝(なんぢ)等(ら)、猶(なほ)しも者(もの)の命(いのち)をやたつべき。止(とど)まるならば、有(あ)り所(どころ)知(し)らせん」と仰(おほ)せられければ、鬼(おに)、大(おほ)きに喜(よろこ)び、「今より後(のち)は、更(さら)に殺生(せつしやう)すまじくて候(さうら)ふ。失(うしな)ひし子(こ)の有(あ)り所(どころ)教(をし)へ給(たま)へ」と、たひはう申(まう)しけり。「然(さ)らば、かたく約束(やくそく)有(あ)りて、殺生(せつしやう)止(とど)めよ」と仰(おほ)せられければ、鬼(おに)、重(かさ)ねて申(まう)す様(やう)、「肉食(にくじき)をたやしては、我(われ)等(ら)身命(しんみやう)助(たす)かり難(がた)し。御慈悲(じひ)の方便(はうべん)に預(あづ)からん」と申(まう)す。仏(ほとけ)、御思案(しあん)有(あ)りて、「然(さ)らば、一切(いつさい)衆生(しゆじやう)の用(もち)ひる飯(はん)の上(うへ)を、少(すこ)し生飯(さば)取(と)り、汝(なんぢ)等(ら)に与(あた)ふべし。其(そ)れにて命を継(つ)ぎ候(さうら)へ」と、仏勅(ぶつちよく)有(あ)りければ、鬼(おに)承(うけたまは)り、「我(われ)等(ら)は、悪業(あくごふ)煩悩(ぼんなう)にて、身(み)をまろめたり。仮令(たとひ)仏説(ぶつせつ)の如(ごと)く、頂戴(ちやうだい)申(まう)すと言(い)ふとも、肉食(にくじき)を止(とど)めては、命(いのち)あらじ」と申(まう)しければ、「然(さ)らば、一口(ひとくち)の飯(はん)に、人(ひと)の肉(にく)をすりぬりて与(あた)ふべし」と、御約束(ごやくそく)有(あ)りけり。今(いま)に至(いた)りて、生飯(さば)とて、飯(いひ)の上(うへ)を少(すこ)し取(と)り、掌(たなごころ)にあてておく事(こと)は、此(こ)のいはれにてぞ有(あ)りける。斯様(かやう)に、かたく御誓約(せいやく)有(あ)りて、御鉢(はち)の下より、子鬼を取(と)り出(い)だし給(たま)ひけり。此(こ)の時(とき)、鬼(おに)申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)、神通(じんづう)を越(こ)えたりと思(おも)へ共(ども)、仏(ほとけ)の方便(はうべん)に及(およ)び難(がた)し。まして、後世(ごせ)こそ恐(おそ)ろしけれ」とて、即(すなは)ち、御弟子と成(な)り、P397仏果(ぶつくわ)をえるとかや。剰(あまつさ)へ、法華(ほつけ)守護神(しゆごじん)と成(な)り、法花経を擁護(おうご)せんと誓(ちか)ひ給(たま)ふ。抑(そもそも)此(こ)の鬼子母(きしも)は、形(かたち)世(よ)に越(こ)えければ、帝釈(たいしやく)、是(これ)を奪(うば)ひ取(と)り給(たま)ひぬ。阿修羅王(あしゆらわう)、大(おほ)きに怒(いか)り、瞋恚(しんゐ)の猛火(みやうくわ)をはなち、既(すで)に須弥(しゆみ)の半腹(はんぷく)まで攻(せ)め上(のぼ)り、戦(たたか)ふ事(こと)、恒河沙(ごうがしや)のをふるとも、作(つく)る事(こと)無(な)し。其(そ)の時(とき)、帝釈(たいしやく)は、善法堂(ぜんぽふだう)に立(た)て籠(こも)り、仁王経(にんわうぎやう)を講(かう)じ給(たま)ひつつ、四しゆ五わうの印(いん)を結(むす)び給(たま)ふ。時に、虚空(こくう)より、磐石(ばんじやく)雨の如(ごと)くに降(ふ)り下(くだ)り、修羅(しゆら)の大敵を粉灰(こはひ)に打(う)ち砕(くだ)き、然(さ)れども、業因(ごふいん)つきざれば、又よみ帰(かへ)り、大苦(く)を受(う)けたりと伝(つた)へたり。然(しか)れども、鬼子母(きしも)は、仏弟子となりしかば、苦悩(くなう)をはなるるのみならず、法花の守護神(しゆごじん)となり給(たま)ふ。斯様(かやう)に鬼神だにも、随喜(ずいき)すれば、かくの如(ごと)し。
@〔箱根にて仏事(ぶつじ)の事(こと)〕S1104N162
ましてや、人の身(み)として願(ねが)はんに、何(なに)の疑(うたが)ひ候(さうら)ふべき。既(すで)に斯様(かやう)の法者(ほふしや)と成(な)り給(たま)へば、身(み)の為(ため)、他(た)の為(ため)、未来(みらい)永々(えいえい)有(あ)り難(がた)き御事(おんこと)なり。法師(ほふし)とて、御導師(だうし)に成(な)るべき身(み)にあらねども、有(あ)り合(あ)ひ、如何(いか)でか空(むな)しかるらん。其(そ)の上(うへ)、五郎(ごらう)は、寵愛(ちようあい)なじみにて、御(おん)思(おも)ひ、共(とも)に劣(おと)らねば、一入(ひとしほ)弔(とぶら)ひ奉(たてまつ)るべし。誰か、P398僧(そう)達(たち)を請(しやう)じ申(まう)せ。持仏堂(ぢぶつだう)の荘厳(しやうごん)せよ。客殿(きやくでん)の塵(ちり)取(と)れ」と、様々(さまざま)下知(げぢ)し給(たま)ひけり。虎(とら)は、別当(べつたう)の教化(けうけ)を聞(き)き、身(み)ながらも嬉(うれ)しくぞ思(おも)ひける。其(そ)の後、数(かず)の僧(そう)達(たち)集(あつ)まり給(たま)ふ。御経(きやう)多(おほ)しと雖(いへど)も、殊(こと)にすぐれたる一乗(いちじよう)妙典(みやうでん)八巻(くわん)、同音(どうおん)に読誦(どくじゆ)し給(たま)ふ。五十展転(てんでん)の功力(くりき)だにも有(あ)り難(がた)し。受持(じゆぢ)読誦(どくじゆ)の結縁(けちえん)頼(たの)もしかりけり。御経(きやう)やうやうはてしかば、別当(べつたう)高座(かうざ)に上(のぼ)り、彼(かれ)等(ら)が追善(ついぜん)の鐘(かね)打(う)ちならし、施主(せしゆ)の志(こころざし)を計(はか)り給(たま)へば、先(ま)づ、御涙(なみだ)にむせびつつ、説法(せつぽふ)の御声(おんこゑ)も出(い)だし給(たま)はず。やや有(あ)りて、別当(べつたう)涙(なみだ)を抑(おさ)へ、花房(はなぶさ)を捧(ささ)げ、「其(そ)れ、生死(しやうじ)の道は殊(こと)にして、をつれをいづれの方(はう)にか通(つう)ぜん。分段(ぶんだん)境(さかひ)を隔(へだ)つ、はいきをいつの時(とき)にか期(ご)せん。二十三年(にじふさんねん)の夢(ゆめ)、暁(あかつき)の月と空(そら)に隠(かく)れぬ。千万端(たん)の愁(うれ)へ、夕(ゆふべ)の嵐(あらし)、一人(ひとり)吟(ぎん)じて、雲と成(な)り、雨と成(な)り、哀憐(あいれん)の涙(なみだ)、かわく事(こと)無(な)し。朝(あした)を向(む)かへ、夕(ゆふべ)を送(おく)りて、懐旧(くわいきう)の腸(はらわた)絶(た)えなんとす。所作(しよさく)未(いま)だやまざるに、百日の忌景(きけい)、既(すで)にみてり。悲(かな)しみ至(いた)りて悲(かな)しきは、おいて子(こ)におくれ、恨(うら)みの殊(こと)に恨(うら)めしきは、さかんにして夫(おつと)におくるる程(ほど)の愁(うれ)へ無(な)し。老少(らうせう)不定(ふぢやう)を知(し)ると雖(いへど)も、猶(なほ)、前後(ぜんご)の相違(さうゐ)に迷(まよ)ふ事(こと)、歎(なげ)けども適(かな)はず、惜(を)しめ共(ども)験(しるし)無(な)し。然(さ)れば、仏も愛別離苦(あいべつりく)ととき給(たま)ふ。一生(いつしやう)は夢(ゆめ)の如(ごと)し、誰か百年の齢(よはひ)を保(たも)たん。万事(ばんじ)は皆(みな)空(むな)し、いづれか常住(じやうぢゆう)の思(おも)ひをなさん。命(いのち)は、水(みづ)の上(うへ)の泡(あは)の如(ごと)し。魂(たましひ)は、籠(こ)の内の鳥、開(ひら)くを待(ま)ちて、然(さ)るに同(おな)じ。きゆるものP399は、二度(ふたたび)見(み)えず、然(さ)る者(もの)は、重(かさ)ねて来(き)たらず。恨(うら)めしきかなや、釈迦(しやか)大士(し)の慇懃(おんごん)の教化(けうけ)忘(わす)れ、悲(かな)しきかなや、閻魔(えんま)法王(ほふわう)の呵責(かせき)の言葉(ことば)を聞(き)く。名利(みやうり)は、身(み)を助(たす)くと雖(いへど)も、未(いま)だ北■(ほくばう)の屍(かばね)を養(やしな)はず。恩愛(おんあい)の心(こころ)悩(なや)ませども、誰黄泉(くわうせん)の攻(せ)めをまぬかれん。是(これ)に依(よ)つて馳走(ちそう)す、所得(しよどく)幾何(いくばく)の利(り)ぞや。是(これ)が為(ため)に追求(ついぐ)す、所作(しよさ)多罪(たざい)也(なり)。暫(しばら)く目(め)をふさぎて、往事(わうし)を思(おも)ふに、きゆふ皆(みな)空(むな)し。指(ゆび)ををりて、薨人(こうじん)をかぞふれば、親疎(しんそ)多(おほ)く隠(かく)れぬ。時移(うつ)り、事(こと)さりて、今(いま)何(なん)ぞ渺茫(べうばう)たらんや。人(ひと)止(とど)めて、我(われ)行(ゆ)き、誰(たれ)か又(また)しやうしやせん、三界(さんがい)無安(むあん)、猶如(ゆによ)火宅(くわたく)と見(み)れば、王宮(わうくう)も、これ夢(ゆめ)なり。天子(てんし)と言(い)ふも、四苦(しく)の身(み)なり。況(いはん)や、下劣(れつ)貧賎(ひんせん)の輩(ともがら)、などか其(そ)の罪(つみ)かろかるべき。死(し)に苦(くる)しみをまし、業(ごふ)に悲(かな)しみを添(そ)ふべし。思(おも)ひ取(と)らぬぞ、愚(おろ)かなる。「まさに今(いま)こんかく塵(ちり)深(ふか)くして、竹簡(ちくかん)幾何(いくばく)の千巻(せんくわん)ぞ。苔■(たいれう)雲静(しづ)かにして、松風(せうふう)只(ただ)一声(ひとこゑ)、てんちうくわせつ、相(あひ)伝(つた)ふるに、主(あるじ)を失(うしな)ふ。七月半(なか)ばの盂蘭(うら)盆、のぞむ所(ところ)、誰(たれ)にかあらん」と、泣(な)く泣(な)く当座(たうざ)にぞ書(か)きける。誠(まこと)理(ことわり)きはまりけり。然(さ)れば、親(おや)の子(こ)を思(おも)ふ志(こころざし)の深(ふか)き事(こと)、父(ちち)の恩(おん)を須弥(しゆみ)に例(たと)へ、母(はは)の恩(おん)を大海(だいかい)に同(おな)じと言(い)へり。もし我(われ)一劫(ごふ)の間(あひだ)とく共(とも)、父母(ふぼ)の恩(おん)、作(つく)る事(こと)無(な)しと見(み)えたり。胎内(たいない)に宿(やど)り、身(み)を苦(くる)しめ、心(こころ)をつくし、月を重(かさ)ね、日を送(おく)り、生(う)まるる時(とき)は、桑(くわ)の弓(ゆみ)・蓬(よもぎ)の矢(や)を以(もつ)て、天地四方(しはう)を射(い)、身体(しんてい)髪膚(はつぷ)を父母(ぶも)に受(う)け、敢(あ)へてそこなひ破(やぶ)らP400ざるを、孝(かう)の始(はじ)めとす、襁褓(きやうほう)の嚢(ふくろ)に包(つつ)まれしより、今(いま)に至(いた)るまで、昼夜(ちうや)に安(やす)き事(こと)無(な)し。人の親(おや)の習(なら)ひ、我(わ)が身(み)の衰(おとろ)へをば知(し)らずして、子(こ)の成人(せいじん)を願(ねが)ひしぞかし。此(こ)の恩(おん)を捨(す)て、未(いま)ださかりにもみちずして、母(はは)に先(さき)立(だ)ちぬ。然(さ)れば、孝経(けうぎやう)に曰(いは)く、「君(きみ)は尊(たつと)くして親(した)しからず、母(はは)は親(した)しくして尊(たつと)からず、尊親(そんしん)共(とも)に是(これ)をかねたるは、父一人(ひとり)なり」と雖(いへど)も、四の恩(おん)の中(なか)には、二親(しん)なれば、母(はは)の歎(なげ)きも切(せつ)なれども、あたる所(ところ)を恥(は)ぢ、父(ちち)の敵に身(み)を捨(す)て、各々(おのおの)命を失(うしな)ふ。人の親(おや)の子(こ)を思(おも)ふ闇(やみ)に迷(まよ)ふ道(みち)、愚(おろ)かなる子(こ)もいとしほしく、かたはなるも悲(かな)しきに、此(こ)の人々(ひとびと)は、弓馬(きゆうば)の家(いへ)に生(う)まれ、武略(ぶりやく)共(とも)にかしこし。後代(こうたい)に止(とど)む事(こと)、遠(とほ)きも近(ちか)きも、知(し)らぬ人無(な)し。同(おな)じ兄弟(きやうだい)と雖(いへど)も、中の悪(あ)しきも有(あ)るぞかし。此(こ)の殿(との)原(ばら)は、幼少(えうせう)竹馬(ちくば)の昔(むかし)より、なれむつぶる事(こと)、類(たぐひ)無(な)し。浄蔵(じやうざう)・浄眼(じやうげん)の古(いにしへ)にも恥(は)ぢず、早離(さうり)・速離(そくり)の昔(むかし)にも似(に)たり。遂(つひ)に富士の裾野(すその)にして、同(おな)じ草葉(くさば)の露と消(き)え給(たま)へり。彼(か)の一条(いちでう)摂政(せつしやう)謙徳公(けんとくこう)の二人の御子、前少(ぜんしやう)、後少将(ごせうしやう)とて御座(おは)しける、朝夕(あしたゆふべ)に失(う)せ給(たま)へり。斯(か)かる例(ためし)もあれば、生死(しやうじ)無常(むじやう)の理(ことわり)、始(はじ)めて驚(おどろ)くべきにあらず。今、開眼(かいげん)供養(くやう)の御経(きやう)、人々(ひとびと)の手跡(しゆせき)の裏(うら)也(なり)。斯様(かやう)に書(か)き置(お)きしを、余所(よそ)にて見(み)るだにも悲(かな)しきに、まして御身(おんみ)にあて、御心中(しんちゆう)、さぞ思(おぼ)し召(め)すらめ。是(これ)は、親子(おやこ)の別(わか)れの事(こと)、兄弟(きやうだい)の契(ちぎ)りのわり無(な)きを、一言(ごん)述(の)べて候(さうら)ふ。又(また)、夫(おつと)に別(わか)るる歎(なげ)き、今(いま)一入(ひとしほ)色(いろ)深(ふか)きP401事(こと)なり。虚弓(こきう)止(とど)まりて、閨(ねや)に寄(よ)せ立(た)つ、上弦(しやうげん)の月、空(そら)に暮(く)れぬ。三年のなじみ、忽(たちま)ちつき、孤枕(こしん)床(ゆか)に上(のぼ)りて、虞氏(ぐし)が古(いにしへ)にあらねども、数行(すかう)が涙(なみだ)、袂(たもと)をうるほすらん。しやう蘭(らん)のにほひ、そらだき物(もの)とぞなりにける。宵暁(よひあかつき)の鐘(かね)の声、枕(まくら)を並(なら)べし音(おと)には似(に)ず、おきゐに見(み)れば、なれ来(こ)し人はよも添(そ)はじ。山の端(は)出(い)づる月影(かげ)を、心(こころ)苦(ぐる)しく待(ま)ち得(え)ても、見(み)し面影(おもかげ)にはことなれば、是(これ)ぞ、慰(なぐさ)み給(たま)ふ事(こと)あらじ。誠(まこと)、夫婦(ふうふ)の別(わか)れ、忍(しの)び難(がた)けれども、昔(むかし)今も、力(ちから)に及(およ)ばざる道なれば、思(おも)ひ慰(なぐさ)み給(たま)ふべし。彼(か)の唐(たう)の玄宗(げんそう)の楊貴妃(やうきひ)も、はつかに事(こと)を蓬莱宮(ほうらいきゆう)の波に伝(つた)ふらん、穆公(ぼつこう)の弄玉(ろうぎよく)をおもんぜしも、徒(いたづ)らに鳳凰台(ほうわうだい)の月によす。彼(かれ)を思(おも)ひ、是(これ)を思(おも)ふに付(つ)けても、昔を今(いま)になずらへて、一仏(いちぶつ)浄土(じやうど)の縁(えん)を結(むす)び、願(ねが)はくは、九品(くほん)往生(わうじやう)ののぞみを遂(と)げ、七世の父母(ぶも)、六親(りくしん)眷属(けんぞく)成仏(じやうぶつ)」と、回向(ゑかう)の鐘(かね)をならし、別当(べつたう)高座(かうざ)を下(お)り給(たま)ふとて、
定(さだ)め無(な)き浮(う)き世(よ)といとど思(おも)ひしに問(と)はるべき身(み)の問(と)ふに付(つ)けても W037
と詠(えい)じ給(たま)ひければ、聴聞(ちやうもん)の貴賎(きせん)、哀(あは)れを催(もよほ)し、袖を絞(しぼ)らぬは無(な)かりけり。供養(くやう)もやうやう過(す)ぎしかば、僧(そう)達(たち)も、皆々(みなみな)帰(かへ)り給(たま)ひぬ。やや暫(しばら)く有(あ)りて、「急(いそ)ぎ下(くだ)り度(たく)候(さうら)へ共(ども)、たまたま上りて候(さうら)へば、五郎(ごらう)が幼(をさな)くて住(す)み候(さうら)ひし方(かた)を見(み)候(さうら)はん」と申(まう)されければ、別当(べつたう)宣(のたま)ひけるは、「男(をとこ)に成(な)りて後、其(そ)の形見(かたみ)と思(おも)へば、P402人をも置(お)かず、わざと破(やぶ)れをも修理(しゆり)せず、昔(むかし)に少(すこ)しも違(たが)はず候(さうら)ふ。いざさせ給(たま)へ。墓所(はかどころ)をもつきて候(さうら)へば、御覧(ごらん)ぜよ」とて、つれて行(ゆ)き、立(た)ち寄(よ)り見(み)給(たま)へば、墓(はか)の上に草おひけるを、別当(べうたう)見(み)給(たま)ひて、「君見(み)ずや、北■(ほくばう)の暮(ゆふべ)の雨、でうでうたる青塚(せいちよ)の色(いろ)を。また見(み)ずや、とうはうの秋の風(かぜ)、歴々(れきれき)たる白楊(はくやう)の声(こゑ)を」と、古(ふる)き詩(し)を思(おも)ひ出(い)で給(たま)ふ。是(これ)は、もとの住(す)み処(か)と宣(のたま)へば、軒(のき)の荵(しのぶ)は、紅葉(もみぢ)して、思(おも)ひの色を現(あらは)せり。歎(なげ)きは、いつも尽(つ)きせねば、しげる甲斐(かひ)無(な)き忘(わす)れ草、其(そ)の名(な)計(ばかり)は、由(よし)ぞ無(な)き。長月(ながつき)上旬(じやうじゆん)の事(こと)なれば、よもの紅葉(もみぢ)の色は、袖の涙(なみだ)を染(そ)むるかと見(み)え、世(よ)に古里(ふるさと)は苦(くる)しきに、安(やす)くも過(す)ぐる初(はつ)時雨(しぐれ)、羨(うらや)ましくぞ覚(おぼ)えけり。壁(かべ)に書(か)きたる筆のすさみを見(み)れば、
出(い)でていなば心(こころ)かろしと言(い)ひやせん身(み)の有様(ありさま)を人(ひと)の知(し)らねば W038
と言(い)ふ古歌(ふるうた)の端(はし)を、「箱王(はこわう)丸(まる)」とぞ書(か)きたりける。師匠(ししやう)に暇(いとま)をもこはず、人にも行方(ゆきがた)を知(し)らせず、只(ただ)一人出(い)づる事(こと)、思(おも)ひ寄(よ)りて語(かた)り、幼(をさな)かりし面影(おもかげ)、只今(ただいま)の心(こころ)して、由(よし)無(な)き所(ところ)へ来(き)たりけると、絶(た)え焦(こ)がれければ、胸(むね)を焦(こ)がす焔(ほのほ)は、咸陽宮(かんやうきゆう)の夕(ゆふべ)の煙(けぶり)にことならず。袂(たもと)に落(お)つる涙(なみだ)の、竜門原上(りゆうもんげんしやう)の草葉(くさば)を染(そ)むる、おもての涙(なみだ)とも言(い)ひつべし。名残(なごり)は尽(つ)きすまじ。さてしも有(あ)るべきにあらざれば、泣(な)く泣(な)く母(はは)は、曾我(そが)に下(くだ)り、虎(とら)は、大磯(おほいそ)に帰(かへ)らんとす。別当(べつたう)も五郎(ごらう)に別(わか)るる心(こころ)して、「扨(さて)も、此(こ)の度(たび)の御仏事(ぶつじ)、有(あ)り難(がた)くこそ候(さうら)へ。過去(くわこ)幽霊(いうれい)、定(さだ)めて正覚(しやうがく)なり給(たま)ふべし。又(また)、大磯(おほいそ)の客人(きやくじん)の御志(こころざし)P403こそ、世(よ)にすぐれては候(さうら)へ。構(かま)へて構(かま)へて、怠(おこた)らず弔(とぶら)ひ給(たま)へ」と仰(おほ)せられければ、虎(とら)も、涙(なみだ)を抑(おさ)へて、「仏事(ぶつじ)と承(うけたまは)り候(さうら)へば、誠(まこと)に恥(は)ぢ入(い)る心(こころ)し、あかぬ別(わか)れの道(みち)、いつかは怠(おこた)り候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「数多(あまた)の宝(たから)をつまんより、誠(まこと)の志(こころざし)にはしかずと承(うけたまは)る。
@〔貧女(ひんぢよ)が一燈(とう)の事(こと)〕S1105N165
其(そ)の古(いにしへ)を思(おも)ふに、天竺(てんぢく)の阿闍世王(あじやせわう)は、常々(つねづね)仏(ほとけ)を請(しやう)じ奉(たてまつ)り、数(かず)の宝(たから)を捧(ささ)げ給(たま)ふ。或(あ)る時(とき)、仏の御(おん)帰(かへ)り、夜(よ)に入(い)りければ、王宮(わうくう)より、祇園精舎(ぎをんしやうじや)まで、十方(じつぱう)国土(こくど)の油(あぶら)を集(あつ)めて、万燈(まんどう)をともし給(たま)ひけり。此処(ここ)に、貧(ひん)なる女(をんな)有(あ)り、如何(いか)にもして、此(こ)の燈明(とうみやう)の数(かず)に入(い)らばやと思(おも)ひけれども、朝夕(あさゆふ)の営(いとな)みだにも無(な)き貧女(ひんぢよ)なれば、一燈(とう)の力(ちから)も無(な)し。涙(なみだ)を流(なが)し、如何(いか)にもと方便(はうべん)すれども、適(かな)はで、東西(とうざい)に馳走(ちそう)し、自(みづか)ら髪(かみ)を切(き)り、銭(ぜに)二文(もん)にぞうりたりけり。是(これ)にてもやと思(おも)ひければ、油(あぶら)を彼(か)の銭(ぜに)にてかひ、わぶわぶ一燈(とう)ともして、くどきけるは、「我、前業(ぜんごふ)如何(いか)なりければ、百千燈(とう)をだにともす人の有(あ)るに、一燈(とう)をだにともし兼(か)ねたる、憂(う)き身(み)の程(ほど)の恨(うら)めしさよ」とて、彼(か)の燈明(とうみやう)の下に泣(な)き伏(ふ)しけり。此(こ)の志(こころざし)を現(あらは)さん為(ため)にや、折節(をりふし)、山風(かぜ)あらくふきて、数の燈明(とうみやう)P404を一度(いちど)にふき消(け)しけり。然(さ)れば、貧女(ひんぢよ)が一燈(とう)ばかりは消(き)えず。目連(もくれん)、不思議(ふしぎ)に思(おぼ)し召(め)し、袈裟(けさ)にて仰(あふ)がせ給(たま)ひけれども、消(き)えざりけり。其(そ)の時(とき)、目連(もくれん)、仏に問(と)ひ給(たま)ふ、「多(おほ)くの燈明(とうみやう)の消(き)ゆる中(なか)に、如何(いか)なれば、一燈(とう)消(き)えざる」と申(まう)させ給(たま)へば、仏(ほとけ)宣(のたま)はく、「阿闍世王(あじやせわう)が万燈(まんどう)の光(ひかり)、愚(おろ)かにはあらね共(ども)、貧女(ひんぢよ)が志(こころざし)の深(ふか)き事(こと)を現(あらは)さむが為(ため)に、万燈は消(き)えて、一燈(とう)は残り」と示(しめ)し給(たま)ふ。然(さ)ればにや、此(こ)の貧女(ひんぢよ)成仏(じやうぶつ)して、須弥(しゆみ)燈光(とうくわう)如来(によらい)と申(まう)すは、此(こ)の貧女(ひんぢよ)の事(こと)なり。「長者(ちやうじや)の万燈(まんどう)より、貧女(ひんぢよ)が一燈(とう)」と申(まう)し伝(つた)へたるは、此(こ)の事(こと)也(なり)。御志(こころざし)をはげまし候(さうら)へ。返(かへ)す返(がへ)す」と仰(おほ)せられければ、虎(とら)も、母(はは)諸(もろ)共(とも)に、深(ふか)き追善(ついぜん)し、諸仏(しよぶつ)哀(あは)れみ給(たま)ふらんと嬉(うれ)しくて、各々(おのおの)暇(いとま)申(まう)して、帰(かへ)りにけり。母(はは)申(まう)しけるは、「今より後は、常々(つねづね)来(き)たり、我(わら)はを御覧(ごらん)候(さうら)へ。自(みづか)らも又(また)、十郎(じふらう)が名残(なごり)に見(み)奉(たてまつ)りなん。暫(しばら)く曾我(そが)に坐(ま)しまして、慰(なぐさ)み給(たま)へ」などと語(かた)りて行(ゆ)きけるが、虎(とら)申(まう)しけるは、「嬉(うれ)しくは承(うけたまは)り候(さうら)へ共(ども)、此(こ)の人々(ひとびと)の御(おん)為(ため)に、毎日(まいにち)法花経六部あて六人して、第三年まで六部(ぶ)の志(こころざし)候(さうら)ふ。我(わら)は無(な)くては、無沙汰(ぶさた)有(あ)るべし。詳(くは)しく申(まう)し付(つ)けて参(まゐ)るべし」と申(まう)しければ、母(はは)は、「誠の御志(おんこころざし)、有(あ)り難(がた)くこそ候(さうら)へ。構(かま)へて構(かま)へて、絶(た)えず問(と)ひ問(と)はれ参(まゐ)らすベし」とて、泣(な)く泣(な)く打(う)ち別(わか)れにけり。実(げ)にや、有為(うゐ)転変(てんべん)の世(よ)の習(なら)ひ、花は根(ね)に帰(かへ)り、鳥は、古巣(ふるす)に入(い)り、日月天(てん)に傾(かたぶ)き、松柏(せうはく)の青(あを)き色(いろ)も、遂(つひ)には五衰(ごすい)の時(とき)有(あ)り、蜉蝣(ふゆう)のあだなる形(かたち)、芭蕉(ばせう)風に破(やぶ)るる例(ためし)、P405歎(なげ)きても余(あま)り有(あ)り、悲(かな)しみてもたへず。只(ただ)一筋(ひとすぢ)に仏道を願(ねが)ふ時(とき)は、草木国土(こくど)悉皆(しつかひ)成仏(じやうぶつ)とぞ見(み)えける。さても、大将(たいしやう)殿(どの)御出(おいで)に依(よ)り、富士の裾野(すその)の御屋形(やかた)、甍(いらか)を並(なら)べ、軒(のき)を知(し)りて、数(かず)有(あ)りしかども、御狩(みかり)過(す)ぎしかば、一宇(いちう)も残(のこ)らず、元(もと)の野原になりにけり。然(さ)れども、残(のこ)る者(もの)とては、兄弟(きやうだい)の瞋恚(しんゐ)執心(しうしん)、或(あ)る時は、「十郎(じふらう)祐成」と名乗(なの)り、或(あ)る時は、「五郎(ごらう)時致(ときむね)」と呼(よ)ばはり、昼夜(ちうや)戦(たたか)ふ音(おと)絶(た)えず。思(おも)はず通(とほ)り合(あ)はする者(もの)、此(こ)の装(よそほ)ひを聞(き)き、忽(たちま)ちに死する者(もの)も有(あ)り、やうやういきたる者(もの)は、狂人(きやうじん)と成(な)りて、兄弟(きやうだい)の言葉(ことば)を移(うつ)し、「苦悩(くなう)離(はな)れ難(がた)し」と歎(なげ)くのみなり。君聞(き)こし召(め)されて、不便(ふびん)なりとて、ようぎやう上人(しやうにん)とて、めでたき法者(ほふしや)を請(しやう)じ、「如何(いかが)せん」と仰(おほ)せられければ、
@〔菅丞相(かんせうじやう)の事(こと)〕S1106N166
上人(しやうにん)聞(き)こし召(め)し、「昔も、然(さ)る例(ためし)こそ多(おほ)く候(さうら)へ。忝(かたじけな)くも、菅丞相(かんせうじやう)の昔(むかし)、讒言(ざんげん)の瞋恚(しんい)、くはういとなり給(たま)ひて、都(みやこ)を傾(かたぶ)け給(たま)ひけるを、天台(てんだい)の座主(ざす)、一字(じ)千金(きん)の力(ちから)を以(もつ)て、やうやうなだめ奉(たてまつ)り、神(かみ)といはひ奉(たてまつ)る、威光(いくわう)あらたに坐(ま)します、天満大自在天神、此(こ)の御事(おんこと)なり。其(そ)の外(ほか)、怒(いか)りをなして、神と崇(あが)められP406給(たま)ふ御事(こと)、承平(しようへい)の将門(まさかど)、弘二(こうにん)の仲成(なかなり)此(こ)の方(かた)、其(そ)の数(かず)多(おほ)し。此(こ)の人々(ひとびと)をも、神にいははれ候(さうら)へ」と仰(おほ)せられければ、
@〔兄弟(きやうだい)、神(かみ)にいははるる事(こと)〕S1107N167
「然(しか)るべし」とて、即(すなは)ち勝名(しようめい)荒人宮(くわうじんぐう)と崇(あが)め奉(たてまつ)り、やがて富士(ふじ)の裾野(すその)に、まつかぜと言(い)ふ所(ところ)を、長(なが)く御寄進(きしん)有(あ)りけり。よつて、彼(か)の上人(しやうにん)を開山(かいさん)として、寺僧(じそう)を定(さだ)め、禰宜(ねぎ)・神主(かんぬし)をすゑ、五月二十八日には、殊(こと)に読経(どつきやう)、神楽(かぐら)、色々(いろいろ)の奉幣(ほうへい)を捧(ささ)ぐる事(こと)、今に絶(た)えず。其(そ)れよりして、彼(か)の所(ところ)の戦(たたか)ひ絶(た)えて、仏果(ぶつくわ)を証(しよう)する由(よし)、神人(じんにん)の夢(ゆめ)に見(み)えけり。あらたに尊(たつと)し共(とも)、言(い)ふ計(はか)り無(な)し。然(さ)れば、今(いま)に至(いた)るまでも、敵(かたき)打(う)たんと思(おも)ふ者(もの)は、此(こ)の神(かみ)に参(まゐ)り、祈誓(きせい)すれば、思(おも)ひの儘(まま)なりとて、遠国(をんごく)・近国(きんごく)の輩(ともがら)、歩(あゆ)みを運(はこ)びけり。上下(じやうげ)万民(ばんみん)、仰(あふ)がぬは無(な)かりけり。
P407曾我物語巻第十二
@〔虎(とら)、箱根にて暇乞(いとまごひ)して、行(ゆ)き別(わか)れし事(こと)〕S1201N169
然(さ)る程(ほど)に、大磯(おほいそ)の虎(とら)は、十郎(じふらう)祐成(すけなり)討(う)ち死(じ)にの由(よし)を聞(き)きて、如何(いか)なる淵(ふち)河(かは)にも入(い)らばやと思(おも)ひけれども、なき人の菩提(ぼだい)のつとにも成(な)るまじければ、偏(ひとへ)に浮(う)き世(よ)を背(そむ)きはてて、彼(か)の人(ひと)の後世(ごせ)弔(とぶら)はんと思(おも)ひ立(た)ち、袈裟(けさ)、衣など調(ととの)へて、箱根山に上り、百ケ日の仏事(ぶつじ)のついでに、泣(な)く泣(な)く翡翠(ひすい)のかんざしをそり落(お)とし、五戒(ごかい)を保(たも)ちけり。さしも、美(うつく)しかりつる花の袂(たもと)を引(ひ)きかへて、墨(すみ)の衣(ころも)にやつしはてける、志(こころざし)の程(ほど)こそ、類(たぐひ)少(すく)なき情(なさけ)なれ。母(はは)、是(これ)を見(み)て、「我(われ)も、同(おな)じ墨(すみ)の袂(たもと)に成(な)りて、彼(かれ)等(ら)が菩提(ぼだい)をも弔(とぶら)ふべし、今(いま)、此(こ)のつくも髪(がみ)を付(つ)けても、何(なに)にかはせん」とぞ歎(なげ)き悲(かな)しまれける。別当(べつたう)、様々(さまざま)に教訓(けうくん)して、申(まう)し止(とど)められける。母(はは)御前(ごぜん)力(ちから)無(な)く、五郎(ごらう)が遺跡(ゆいせき)なれば、名残(なごり)惜(を)しくは思(おも)へども、此処(ここ)にて、日を送(おく)るべき事(こと)ならねば、別当(べつたう)に暇(いとま)をこひ、帰(かへ)るとて、虎(とら)御前(ごぜん)に申(まう)されけるは、「曾我(そが)へいざさせ給(たま)へ、十郎(じふらう)が形見(かたみ)P408に見(み)参(まゐ)らせ候(さうら)はん」と言(い)はれければ、虎(とら)、「もつとも御供(おんとも)申(まう)し候(さうら)ひて、形見(かたみ)にも見(み)え参(まゐ)らせたくは候(さうら)へ共(ども)、是(これ)より善光寺(ぜんくわうじ)への志(こころざし)候(さうら)ふ。下向(げかう)にこそ参(まゐ)り候(さうら)はめ」とて、行(ゆ)き別(わか)れぬ。
@〔井出(ゐで)の屋形(やかた)の跡(あと)見(み)し事(こと)〕S1202N170
虎(とら)は、只(ただ)一人、十郎の空(むな)しくなりし富士(ふじ)の裾(すそ)、井出(ゐで)の屋形(やかた)の跡(あと)を志(こころざ)して、箱根(はこね)を後(うし)ろになして行(ゆ)く程(ほど)に、其(そ)の日も、やうやう暮(く)れぬれば、三嶋の拝殿(はいでん)に通夜(つや)申(まう)し、明(あ)くれば、三嶋を出(い)でて、車(くるま)返(かへ)しに立(た)ちやすらひ、千本の松原、心(こころ)細(ぼそ)く歩(あゆ)み過(す)ぎ、浮島原(うきしまがはら)にも出(い)でぬ。南は、蒼海(さうかい)漫々(まんまん)として、田子(たご)の浦波(うらなみ)滔々(たうたう)たり。北は、松山(まつやま)高々(かうかう)として、裾野(すその)の嵐(あらし)颯々(さつさつ)たり。未(いま)だ旅(たび)なれぬ事(こと)なれば、彼処(かしこ)を何処(いづく)とも知(し)らねども、志(こころざし)をしるべにて、やうやう歩(あゆ)み行(ゆ)く程(ほど)に、井出(ゐで)の里に近付(ちかづ)きぬ。虎(とら)は、里(さと)の翁(おきな)にあひて、問(と)ひけるは、「過(す)ぎにし夏の頃(ころ)、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御狩(みかり)の時(とき)、親(おや)の敵(かたき)打(う)ちて、同(おな)じく打(う)たれし曾我(そが)の人々(ひとびと)の跡(あと)や知(し)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふ。教(をし)へさせ給(たま)へ」と言(い)ひければ、此(こ)の翁(おきな)、心(こころ)有(あ)る者(もの)にて、虎(とら)が顔(かほ)を、つくづくと見(み)て、「もし御縁(ゆかり)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふか。いたはしき御有様(おんありさま)かな、人をもつれさせ給(たま)ひ候(さうら)はず、只(ただ)一人、是(これ)まで御(おん)尋(たづ)ね候(さうら)ふP409事(こと)、なほざりの御志(おんこころざし)とも覚(おぼ)えず。もし十郎(じふらう)殿(どの)、御志(こころざし)深(ふか)く渡(わた)らせ給(たま)ひし、大磯(おほいそ)の虎御前(とらごぜん)にて御座(おは)しまし候(さうら)ふか。有(あ)りの儘(まま)に承(うけたまは)り候(さうら)はば、教(をし)へ参(まゐ)らせん」と言(い)ひければ、虎(とら)は、是(これ)を聞(き)き、別(わか)れの涙(なみだ)、未(いま)だかわかぬに、又(また)打(う)ち添(そ)へて、賎(しづ)の男(を)が情(なさけ)の言葉(ことば)に、愁(うれ)への色(いろ)現(あらは)れて、問(と)ふにつらさの涙(なみだ)、忍(しの)びも敢(あ)へぬ気色(けしき)を見(み)て、翁(おきな)、然(さ)ればこそと思(おも)ひて、共(とも)に袖(そで)をぞ絞(しぼ)りける。「然(さ)らば、いざさせ給(たま)へ」とて、北へ六七町(ちやう)、遙(はる)かに野(の)を分(わ)け行(ゆ)けば、なき人のはてにける草葉(くさば)の露(つゆ)かとなつかしく、「洲蘆(しうろ)の夜(よ)の雨、他郷(たきやう)の涙(なみだ)、岸柳(がんりう)の秋の風の、遠塞(ゑんさい)の情(こころ)」とかやも思(おも)ひ出(い)でられて、何処(いづく)とも無(な)く行(ゆ)く程(ほど)に、日も夕暮(ゆふぐれ)の峰(みね)の嵐(あらし)、心(こころ)細(ぼそ)くぞ聞(き)こえける。翁(おきな)、或(あ)る方(かた)を爪(つま)ざして、「あれこそ、出(い)での屋形(やかた)の跡(あと)にて候(さうら)へ。あの辺(へん)こそ、工藤(くどう)左衛門(さゑもん)殿(どの)打(う)たれさせ給(たま)ひ候(さうら)ふ所(ところ)にて候(さうら)へ。又(また)、彼処(かしこ)は、十郎(じふらう)殿(どの)の打(う)たれさせ給(たま)ひ候(さうら)ふ所(ところ)、此処(ここ)は、五郎(ごらう)殿(どの)御生害(しやうがい)の所(ところ)、扨(さて)又(また)、あれに見(み)え候(さうら)ふ松(まつ)の下(もと)こそ、二人の死骸(しがい)を隠(かく)し参(まゐ)らせたる所候(さうら)ふよ」と、懇(ねんご)ろに教(をし)へければ、虎(とら)、涙(なみだ)を抑(おさ)へ、かつうは嬉(うれ)しく、かつうは悲(かな)しくて、只(ただ)泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。彼(か)の一むら松(まつ)の下(もと)に立(た)ち寄(よ)り見(み)れば、実(げ)にも、うづもれて覚(おぼ)え候(さうら)ふ土(つち)の、少(すこ)し高(たか)く見(み)えければ、過(す)ぎにし五月の末(すゑ)の事(こと)なれば、花薄(すすき)、蓬(よもぎ)、葎(むぐら)おひ茂(しげ)り、其(そ)の跡(あと)だにも見(み)えざりけれども、なき人の縁(ゆかり)と聞(き)くからに、なつかしく覚(おぼ)えて、塚(つか)の辺(ほとり)に伏(ふ)しまろび、我(われ)も同(おな)じP410苔(こけ)の下(した)にうづもれなば、今更(いまさら)斯(か)かる思(おも)ひはせざらまし、黄泉(くわうせん)、如何(いか)なる住(す)み処(か)なれば、行(ゆ)きて二度(ふたたび)帰(かへ)らざると、伏(ふ)し鎮(しづ)みける有様(ありさま)、例(たと)へん方(かた)こそ無(な)かりけれ。翁(おきな)も、心(こころ)有(あ)る者(もの)なれば、共(とも)に涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。諸(もろ)共(とも)にかくては適(かな)はじとや思(おも)ひけん、「御(おん)歎(なげ)き候(さうら)ふとも、其(そ)の甲斐(かひ)有(あ)るまじく候(さうら)ふ。夜(よ)になれば、此(こ)の所(ところ)には、狼(おほかめ)と申(まう)す物(もの)、道(みち)行(ゆ)く人を悩(なや)まし候(さうら)ふ。御(おん)止(とど)まり候(さうら)ひて、適(かな)ふまじく候(さうら)ふ。是(これ)より御(おん)帰(かへ)り候(さうら)ひて、今宵(こよひ)は、賎(しづ)が伏屋(ふせや)なりとも、御(おん)止(とど)まり候(さうら)ひて、一夜(いちや)をあかさせ給(たま)ひ候(さうら)へ。旅(たび)は、何(なに)か苦(くる)しく候(さうら)ふべき」と申(まう)しければ、「嬉(うれ)しくも宣(のたま)ふ物(もの)かな。此(こ)の辺(あたり)、懇(ねんご)ろに教(をし)へ給(たま)ふに、宿まで思(おも)ひ寄(よ)り給(たま)ふ事(こと)の嬉(うれ)しさよ。然様(さやう)に恐(おそ)ろしき者(もの)の候(さうら)ひて、身(み)を捨(す)てても、何(なに)にかはすベき」とて塚(つか)の辺(ほとり)にて念仏(ねんぶつ)申(まう)し、「過去(くわこ)幽霊(いうれい)、成仏(じやうぶつ)得脱(とくだつ)」と回向(ゑかう)すれば、十郎の魂霊(こんれい)も、如何(いか)計(ばかり)嬉(うれ)しと思(おぼ)すらんと、思(おも)ひ遣(や)られて、哀(あは)れ也(なり)。虎(とら)、涙(なみだ)の隙(ひま)より、かくぞ連(つら)ねける。
露(つゆ)とのみ消(き)えにし跡(あと)をきて見(み)れば尾花(おばな)が末(すゑ)に秋風ぞ吹(ふ)く W039
浮(う)き世(よ)ぞと思(おも)ひ染(そ)めにし墨衣(すみごろも)今(いま)又(また)露の何(なに)と置(お)くらん W040
かくて、井出(ゐで)の辺(ほとり)を行(ゆ)き別(わか)れ、其(そ)の夜(よ)は、翁(おきな)の所(ところ)に止(とど)まり、明(あ)けぬれば、野原の露(つゆ)にしをれつつ、足(あし)に任(まか)せて行(ゆ)く程(ほど)に、富士の煙(けぶり)を見(み)ても、つらき思(おも)ひにたぐへつつ、其処(そこ)とも知(し)らぬ道(みち)の辺(べ)の、草むらごとの虫(むし)までも、鳴(な)く音(ね)を添(そ)へて、哀(あは)れなり。P411実(げ)に、只(ただ)だにも、秋(あき)の思(おも)ひは悲(かな)しきに、やつしはてぬる旅衣(たびごろも)、いとどつらさを重(かさ)ねつつ、たどり行(ゆ)く程(ほど)に、手越(てごし)の宿(しゆく)にぞつきにける。
@〔手越(てごし)の少将(せうしやう)にあひし事(こと)〕S1203N171
さて、或(あ)る小家(こいへ)に立(た)ち寄(よ)りて、主(あるじ)のをうなをやとひて、少将(せうしやう)御前(ごぜん)を呼(よ)び出(い)だして、「旅人(たびびと)の、是(これ)にて、申(まう)すべき事(こと)の候(さうら)ふと申(まう)し給(たま)へ」と言(い)ひければ、「安(やす)き御事(こと)」とて、呼(よ)び出(い)だして来(き)たる。少将(せうしやう)は、虎(とら)が変(か)はれる姿(すがた)を見(み)て、言(い)ひ出(い)づべき言(こと)の葉(は)も無(な)くて、只(ただ)涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。やや有(あ)りて、虎(とら)、泣(な)く泣(な)く申(まう)しけるは、「彼(か)の祐成(すけなり)に相(あひ)なれて、既(すで)に三年(みとせ)になり候(さうら)ふ。宿縁(しゆくえん)深(ふか)き故(ゆゑ)にや、又(また)余(よ)の人を見(み)んと思(おも)はざりつるなり。此(こ)の人失(う)せ給(たま)ひぬると聞(き)きし時は、同(おな)じ苔(こけ)の下(した)に、うづもればやと思(おも)ひしかども、つれなき命、ながらへて候(さうら)ふぞや。然(さ)れば、世(よ)を渡(わた)る遊(あそ)び者(もの)の習(なら)ひは、心(こころ)に任(まか)せぬ事(こと)も侍(はんべ)るべしと思(おも)ひて、百ケ日の仏事(ぶつじ)のついでに、箱根にて、髪(かみ)を下(お)ろして、只(ただ)一人(ひとり)迷(まよ)ひ出(い)で、富士野(ふじの)裾野(すその)の井手の辺(ほとり)にて、其(そ)の跡(あと)ばかりなりとも見(み)え、憂(う)かりし心(こころ)をも慰(なぐさ)みて、ついでに、此(こ)の辺(あたり)近(ちか)く御座(おは)しければ、見参(げんざん)に入(い)り、物語(ものがたり)をも申(まう)し、此(こ)の姿(すがた)をも見(み)え参(まゐ)らせむと思(おも)ひて、是(これ)まで来(き)たりて候(さうら)ふ」と語(かた)りければ、P412少将(せうしやう)も、涙(なみだ)を抑(おさ)へて、「げにげに、如何(いか)ばかり御(おん)歎(なげ)き」と思(おも)ひ遣(や)られて、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。少将(せうしやう)言(い)ひけるは、「過(す)ぎにし夏の頃(ころ)、工藤(くどう)左衛門(さゑもん)に呼(よ)ばれて、酒(さけ)のみし時(とき)、十郎(じふらう)殿(どの)をも呼(よ)び入(い)れ参(まゐ)らせしかば、始(はじ)めて見参(げんざん)に入(い)りしなり。工藤(くどう)左衛門(さゑもん)の悪口(あつこう)に、此(こ)の殿(との)の思(おも)ひ切(き)り給(たま)へる色(いろ)現(あらは)れ見(み)えて、只今(ただいま)事(こと)出(い)で来(き)ぬべしと、座敷(ざしき)もすさまじく候(さうら)ひしに、何(なに)と思(おも)はれけん、酒(さけ)のみ、押(お)し鎮(しづ)めて立(た)たれし事(こと)、只今(ただいま)の心地(ここち)して、哀(あは)れに候(さうら)ふぞや。立(た)ち出(い)で、かくと申(まう)したく候(さうら)ひしかども、御身(おんみ)と親(した)しき事(こと)、人に知(し)られんも、憚(はばか)り有(あ)りしかば、さてのみ過(す)ぎしなり。其(そ)の夜、祐経(すけつね)の宿直(とのゐ)の事(こと)、乳母(めのと)の童(わらは)にて、知(し)らせ参(まゐ)らせ候(さうら)ひし事(こと)、不思議(ふしぎ)に覚(おぼ)え候(さうら)ふ。仮令(たとへ)一夜(いちや)の妻(つま)なりとも、互(たが)ひに情(なさけ)を思(おも)ふべきに、如何(いか)なる事(こと)にや、如何(いか)にもして、打(う)たせ参(まゐ)らせんと思(おも)ひし事(こと)、只(ただ)偏(ひとへ)に御身(おんみ)故(ゆゑ)ぞかし」と語(かた)りければ、虎(とら)は、此(こ)の事(こと)を始(はじ)めて聞(き)き、十郎(じふらう)殿(どの)最後の時(とき)、斯(か)かる教(をし)へを如何(いか)ばかり嬉(うれ)しく思(おも)ひ給(たま)ひけん、此(こ)の告(つ)げ無(な)かりせば、如何(いか)でか本意(ほんい)を遂(と)げさせ給(たま)ふべきと、いよいよ涙(なみだ)にむせびける。
@〔少将(せうしやう)出家(しゆつけ)の事(こと)〕S1204N172
又(また)、少将(せうしやう)申(まう)しけるは、「生死(しやうじ)無常(むじやう)のはかなき事(こと)、人の言(い)はねども、現(あらは)れ候(さうら)ふぞや。P413然(さ)らぬだに、人は、五障(ごしやう)三従(さんじゆう)の罪(つみ)深(ふか)しと申(まう)すに、同(おな)じ女人と言(い)ひながら、我(われ)等(ら)は、罪(つみ)深(ふか)き身(み)なり。其(そ)の故(ゆゑ)は、只(ただ)一生(いつしやう)、人をたぶらかさんと思(おも)ふ計(ばかり)なれば、心(こころ)を行(ゆ)ききの人に掛(か)け、身(み)を上下(じやうげ)の輩(ともがら)に任(まか)す、日も西山(せいざん)に傾(かたぶ)けば、夢(ゆめ)の内(うち)のかりなる姿(すがた)を飾(かざ)り、月東嶺(とうれい)に出(い)でぬれば、誰(たれ)とも知(し)らぬ人をまつ。夜(よ)ごとに変(か)はる移(うつ)り香(が)、身(み)に止(とど)めて、心(こころ)を悩(なや)まし、朝(あさ)な朝(あさ)なの手枕(たまくら)の露(つゆ)に、名残(なごり)を惜(を)しみつつ、胸(むね)をのみ焦(こ)がす事(こと)、返(かへ)す返(がへ)すも、口惜(くちを)しき憂(う)き身(み)なり。此(こ)の世(よ)は、遂(つひ)の住(す)み処(か)にあらず、草葉(くさば)に結(むす)ぶ露よりも危(あや)ふく、水(みづ)に宿(やど)れる月よりもはかなし。折節(をりふし)、此(こ)の人々(ひとびと)の事(こと)を承(うけたまは)り、御身(おんみ)の姿(すがた)を見(み)て、いよいよ浮(う)き世(よ)に心(こころ)も止(とど)まらず。咋日(きのふ)は、曾我(そが)の里に花やかなりし姿(すがた)、今日(けふ)は、富士野(ふじの)の露(つゆ)と消(き)ゆ。「朝(あした)に紅顔(こうがん)有(あ)つて、世路(せいろ)に誇(ほこ)れ共(ども)、暮(ゆふべ)には白骨(はつこつ)と成(な)りて、郊原(かうげん)にくちぬ」とは、言(い)ふも理(ことわり)也(なり)。然(さ)れば、万事(ばんじ)無益(むやく)なり。御身(おんみ)は、十郎(じふらう)善知識(ぜんぢしき)として、浮(う)き世(よ)を背(そむ)く。我(われ)は又(また)、御身(おんみ)の姿(すがた)を善知識(ぜんぢしき)として、衣を墨(すみ)に染(そ)めんと思(おも)ひ候(さうら)ふ」とて、やがて、翡翠(ひすい)のかんざしを切(き)り、花の袂(たもと)を脱(ぬ)ぎかへて、濃(こ)き墨染(すみぞめ)にあらためつつ、年二十七と申(まう)すに、駿河(するが)の国(くに)手越(てごし)の宿(しゆく)を立(た)ち出(い)でにける。世(よ)を捨(す)つる身(み)と言(い)ひながら、心(こころ)強(づよ)く、住(す)みなれし故郷(ふるさと)を立(た)ち離(はな)れけん心(こころ)の内(うち)、誠(まこと)にやさしく哀(あは)れなり。P414
@〔虎(とら)と少将(せうしやう)、法然(ほふねん)にあひし事(こと)〕S1205N173
然(さ)る程(ほど)に、二人打(う)ちつれ、麻衣(あさごろも)、紙(かみ)の衾(ふすま)を肩(かた)に掛(か)けて、諸国(しよこく)を修行(しゆぎやう)し、信濃(しなの)の国(くに)の善光寺(ぜんくわうじ)に、一両年(いちりやうねん)の程(ほど)、他念(たねん)をまじへず、念仏(ねんぶつ)申(まう)し、過去(くわこ)聖霊(しやうりやう)、頓証(とんしよう)菩提(ぼだい)と祈(いの)り、又(また)都(みやこ)に上(のぼ)り、法然(ほふねん)上人(しやうにん)にあひ奉(たてまつ)り、念仏(ねんぶつ)の法門(ほふもん)を承(うけたまは)り、
@〔虎(とら)、大磯(おほいそ)に取(と)り籠(こも)りし事(こと)〕S1206N174
其(そ)れより又(また)、山々寺々拝(をが)みめぐりけるが、虎(とら)、さすがに古里(ふるさと)や恋(こひ)しかりけん、又(また)、十郎の有(あ)りし辺(ほとり)やなつかしく思(おも)ひけん、大磯(おほいそ)に帰(かへ)り、高麗寺(かうらいじ)の山の奥(おく)に入(い)り、柴(しば)の庵(いほり)に閉(と)ぢ籠(こも)り、一向(いつかう)専修(せんじゆ)の行(ぎやう)を致(いた)して、九品(くほん)往生(わうじやう)ののぞみ怠(おこた)らず、二人の尼(あま)、一庵(ひとついほり)に床(ゆか)を並(なら)べ、行(おこな)ひすましてぞ候(さうら)ひける。
@〔二宮(にのみや)の姉(あね)、大磯(おほいそ)へ尋(たづ)ね行(ゆ)きし事(こと)〕S1207N175
さて、曾我(そが)の母(はは)御前(ごぜん)は、一日(いちにち)片時(へんし)も、世(よ)にながらへべき心地(ここち)は無(な)けれ共(ども)、力(ちから)及(およ)ばP415ぬ浮(う)き世(よ)の習(なら)ひなれ、思(おも)はずに年月(としつき)をぞ送(おく)りける。人の子(こ)の、同(おな)じ齢(よはひ)なるを見(み)ても、二人が面影(おもかげ)身(み)に添(そ)ひて悲(かな)しく、人の病(やまひ)にて死(し)するをも、彼(かれ)等(ら)がせめてかくあらば、取(と)り扱(あつか)ひし物(もの)をとも言(い)ふべきに、仮初(かりそめ)に立(た)ち出(い)でて、二度(ふたたび)帰(かへ)らぬ別(わか)れこそ、神(かみ)ならぬ身(み)のつらさなれ。余(あま)りの恋(こひ)しさの折々(をりをり)は、常(つね)に二宮(にのみや)の姉(あね)を呼(よ)び、憂(う)き事(こと)共(ども)を語(かた)り合(あ)はせて、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)し。つながぬ月日(つきひ)なれば、第三年も送(おく)り、七年(ねん)にあたる程(ほど)に、五月二十八日、二宮(にのみや)の姉(あね)を呼(よ)び、言(い)ひけるは、「今日(けふ)は、此(こ)の者(もの)が七年忌(ねんき)にあたり候(さうら)へば、追善(ついぜん)を営(いとな)み、弔(とぶら)ひ侍(はべ)るなり。さても、十郎(じふらう)が契(ちぎ)り深(ふか)かりし大磯(おほいそ)の虎(とら)、百ケ日の仏事(ぶつじ)のついでに、箱根にて尼(あま)に成(な)り、御山より行(ゆ)き別(わか)れしが、善光寺(ぜんくわうじ)に、一両年(いちりやうねん)籠(こも)り、其(そ)の後、諸国(しよこく)を修行(しゆぎやう)して、当時(たうじ)は、大磯(おほいそ)に帰(かへ)り、高麗寺(かうらいじ)の山の奥(おく)に、行(おこな)ひすまして候(さうら)ふ也(なり)。いざさせ給(たま)へ、虎(とら)が住(す)所(どころ)見(み)ん」と言(い)ひければ、「童(わらは)も、さこそ思(おも)ひ候(さうら)ふに、御供(おんとも)申(まう)さん」とて、二人、曾我(そが)の里を立(た)ち出(い)でて、中村(なかむら)を通(とほ)り、山彦山(やまひこやま)を打(う)ち越(こ)えて、高麗寺(かうらいじ)の奥(おく)に尋(たづ)ね入(い)り、夏草(なつくさ)のしげみが末(すゑ)を分(わ)け行(ゆ)く程(ほど)に、袖は涙(なみだ)、裾(すそ)は露(つゆ)にしをれつつ、彼(か)の辺(あたり)なる里の翁(おきな)に問(と)ひけるは、「虎(とら)御前(ごぜん)と申(まう)せし人の、尼(あま)に成(な)りて住(す)み給(たま)ふ所(ところ)は、何処(いづく)にて候(さうら)ふやらん」と問(と)ひければ、「あれに見(み)え候(さうら)ふ山の奥(おく)に、森(もり)の候(さうら)ふ所(ところ)こそ、彼(か)の人の草庵(さうあん)にて候(さうら)へ」と教(をし)へければ、嬉(うれ)しく分(わ)け入(い)り見(み)れば、誠(まこと)にかすかなる住(す)まひにて、垣(かき)には蔦(つた)・朝顔(あさがほ)はひかかり、軒(のき)にP416は荵(しのぶ)まじりの忘(わす)れ草、露(つゆ)深(ふか)く、物思(おも)ふ袖(そで)にことならず。庭(には)には蓬(よもぎ)おひ茂(しげ)り、鹿(しか)のふしどかとぞ見(み)えし。瓢箪(へうたん)しばしば空(むな)し、草(くさ)顔淵(がんゑん)が巷(ちまた)にしげし、藜■(れいでう)深(ふか)くとざせり、雨(あめ)原憲(げんけん)が枢(とぼそ)をうるほすとも見(み)えたり。誠(まこと)に心(こころ)細(ぼそ)く、人の住(す)み処(か)とも見(み)えず。
@〔虎(とら)出(い)で合(あ)ひ、呼(よ)び入(い)れし事(こと)〕S1208N176
やや久(ひさ)しく立(た)ちめぐり、此方(こなた)彼方(かなた)を見(み)ければ、内(うち)にかすかなる声(こゑ)にて、日中の礼讚(らいさん)もはてぬと思(おぼ)しくて、念仏(ねんぶつ)忍(しの)び忍(しの)びに、心(こころ)細(ぼそ)く申(まう)しけるを聞(き)き、尊(たつと)く覚(おぼ)え、戸(と)を叩(たた)き、「物申(まう)さん」と言(い)へば、虎(とら)立(た)ち出(い)でて、「誰(た)そ」と答(こた)ふるを見(み)れば、未(いま)だ三十にもならざるが、殊(こと)の外(ほか)にやせ衰(おとろ)へ、いつしかおいの姿(すがた)に打(う)ち見(み)えて、濃(こ)き墨染(すみぞめ)の衣に、同(おな)じ色の袈娑(けさ)を掛(か)け、青(さを)なる数珠(じゆず)に、紫(むらさき)の蓮華(れんげ)取(と)り具(ぐ)して、香(かう)の煙(けぶり)にしみ帰(かへ)り、かしこくも思(おも)ひ入(い)りたる其(そ)の姿(すがた)、竹林(ちくりん)の七賢(けん)、商山(しやうざん)に入(い)りし四皓(しかう)も、是(これ)には如何(いか)で勝(まさ)るべきと、羨(うらや)ましくぞ覚(おぼ)えける。此(こ)の人々(ひとびと)を只(ただ)一目(ひとめ)見(み)て、夢(ゆめ)の心地(ここち)して、「あら珍(めづら)しと、御(おん)渡(わた)り候(さうら)ふや。更(さら)に現(うつつ)共(とも)覚(おぼ)えず候(さうら)ふ。先(ま)づ内(うち)へ入(い)らせ給(たま)へ」とて、二間(ま)なる道場(だうぢやう)を打(う)ち払(はら)ひ、「是(これ)へ」と請(しやう)じ入(い)れつつ、なき人P417の母(はは)や姉(あね)ぞと見(み)るよりも、流(なが)るる涙(なみだ)抑(おさ)へ難(がた)し。母(はは)も姉(あね)も、泣(な)く泣(な)く庵室(あんじつ)の体(てい)を見(み)まはせば、三間(げん)に作(つく)りたるを、二間(けん)をば道場(だうぢやう)にこしらへ、阿弥陀の三尊(ぞん)を東向(む)きに掛(か)け奉(たてまつ)り、浄土(じやうど)の三部経(ぶきやう)、往生要集(わうじやうえうしふ)、八軸(ぢく)の一乗(いちじよう)妙典(めうでん)も、机(つくえ)の上(うへ)に置(お)かれたり。又(また)、傍(かたはら)に、古今(こきん)、万葉(まんえふ)、伊勢物語(いせものがたり)、狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の草子(さうし)共(ども)、取(と)り散(ち)らされたり。仏の御前(おんまへ)に、六時(じ)に花香(かう)あざやかにそなへ、二人の位牌(ゐはい)の前(まへ)にも、花香(かう)同(おな)じくそなへたり。二宮(にのみや)の姉(あね)言(い)ひけるは、「あら有(あ)り難(がた)の御志(おんこころざし)の程(ほど)や。是(これ)を忘(わす)るまじき事(こと)と思(おも)ひ給(たま)ひて、二人の位牌(ゐはい)を安置(あんぢ)し、弔(とぶら)ひ給(たま)ふ事(こと)よ。偕老(かいらう)の契(ちぎ)り浅(あさ)からずと申(まう)すも、今こそ思(おも)ひ知(し)られて候(さうら)へ。但(ただ)し、是(これ)に十郎(じふらう)殿(どの)ばかりをこそ弔(とぶら)ひ給(たま)ふべきに、五郎(ごらう)殿(どの)まで弔(とぶら)ひ給(たま)ふ事(こと)の有(あ)り難(がた)さよ。童(わらは)は、現在(げんざい)の兄弟(きやうだい)にて候(さうら)へども、是(これ)程(ほど)までは思(おも)ひ寄(よ)らず、いずれも前世(ぜんぜ)の宿執(しゆくじう)にて、善知識(ぜんぢしき)となり給(たま)ひぬ」と言(い)ひもはてず、涙(なみだ)を流(なが)しければ、母(はは)も少将(せうしやう)も、声(こゑ)立(た)つる計(ばかり)にぞ悲(かな)しみける。やや有(あ)りて、母(はは)言(い)ひけるは、「十郎(じふらう)が事(こと)、忘(わす)れる事(こと)も候(さうら)はねば、常(つね)にも参(まゐ)り見(み)奉(たてまつ)りたく候(さうら)ひしかども、心(こころ)にも任(まか)せぬ女(をんな)の身(み)なれば、人の心(こころ)をも憚(はばか)るなどとせし程(ほど)に、今まで斯(か)かる御(おん)住(す)まひをも見(み)参(まゐ)らせず候(さうら)ふ。彼(か)の者(もの)共(ども)が七年(ねん)の追善(ついぜん)、曾我(そが)にて取(と)り営(いとな)み、又(また)、御有様(おんありさま)をも見(み)参(まゐ)らせたく候(さうら)ひて、是(これ)なる女房(にようばう)を誘(さそ)ひ、是(これ)まで来(き)たりて候(さうら)ふぞや。又(また)、親子(しんし)恩愛(おんあい)のいたつて切(せつ)なる事(こと)、人の申(まう)し習(なら)はすをも、我(わ)が身(み)の上(うへ)P418かと思(おも)はれ候(さうら)ふ。年月(としつき)やうやう過(す)ぐれども、忘(わす)るる事(こと)も候(さうら)はず。然(さ)れば、様(さま)をかへんと思(おも)ふも、おさない者(もの)共(ども)捨(す)て難(がた)くて、思(おも)ひも切(き)らず候(さうら)ふ。是(これ)と申(まう)すも、志(こころざし)のいたつて切(せつ)ならざるかと、我(わ)が身(み)ながらも、うたてく覚(おぼ)え候(さうら)ふ。御身(おんみ)も、さして久(ひさ)しき契(ちぎ)りにても坐(ま)しまさず。其(そ)の上(うへ)、所領(しよりやう)持(も)ちて、頼(たよ)り有(あ)る事(こと)ならねば、思(おも)ひ出(で)がましき事(こと)も無(な)し。只(ただ)偏(ひとへ)に前世(ぜんぜ)の宿執(しゆくじう)に引(ひ)かれて、互(たが)ひに善知識(ぜんぢしき)になり給(たま)ひぬと、余(あま)りに尊(たつと)く、哀(あは)れに覚(おぼ)えて、我(われ)等(ら)までも、一蓮(ひとつはちす)の縁(えん)を結(むす)ばばやと思(おも)ひ候(さうら)ふ也(なり)。凡(およ)そ、人間の八苦(く)、天上(てんじやう)の五衰(ごすい)、今に始(はじ)めぬ事(こと)にて候(さうら)へ共(ども)、前業(ぜんごふ)のつたなき身(み)なれば、無常(むじやう)の理(ことわり)にも驚(おどろ)かず、つれなく浮(う)き世(よ)にながらへ候(さうら)ふ。我(わ)が身(み)ながらも、あさましく候(さうら)ふ。然(しか)るに、五障(ごしやう)三従(さんじゆう)の身(み)ながらも、幸(さいは)ひに仏法(ぶつぽふ)流布(るふ)の世(よ)に生(う)まれて、出離(しゆつり)生死(しやうじ)の道(みち)を求(もと)むべく候(さうら)へども、女人の愚(おろ)かさは、其(そ)れも適(かな)はず候(さうら)ふ。面々(めんめん)は、此(こ)の程(ほど)思(おも)ひ取(と)り給(たま)ふ事(こと)なれば、後生(ごしやう)の助(たす)かるべき事(こと)をも知(し)らせ給(たま)ひて候(さうら)ふらん。哀(あは)れ、語(かた)らせ給(たま)へかし。適(かな)はぬまでも、心(こころ)に懸(か)けて見(み)候(さうら)はん」と言(い)ひければ、虎(とら)、涙(なみだ)を止(とど)めて申(まう)しけるは、「誠(まこと)に是(これ)まで御(おん)入(い)り、夢(ゆめ)の心地(ここち)して、御志(こころざし)、有(あ)り難(がた)く思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)ふ。斯(か)かる身(み)と成(な)りはてぬるも、しかしながら、十郎(じふらう)殿(どの)故(ゆゑ)と思(おも)ひ奉(たてまつ)れば、時(とき)の間(ま)も、忘(わす)るる事(こと)も侍(はんべ)らず。此(こ)の世(よ)は不定(ふぢやう)の境(さかひ)、其(そ)れは愛別離苦(あいべつりく)の悲(かな)しみを翻(ひるがへ)して、菩提(ぼだい)の彼岸(ひがん)に至(いた)る事(こと)もやと、聖教(しやうげう)の要文(えうもん)共(ども)、P419少々(せうせう)尋(たづ)ね求(もと)め、然(しか)るべき善知識(ぜんぢしき)にもあひ奉(たてまつ)るかと、諸国(しよこく)を修行(しゆぎやう)し、都に上(のぼ)り、法然(ほふねん)上人(しやうにん)にあひ奉(たてまつ)り、念仏(ねんぶつ)一行(かう)を受(う)け、一筋(ひとすぢ)に浄土(じやうど)を願(ねが)ひ候(さうら)ふなり。あの尼(あま)御前(ごぜん)は、我(わ)が姉(あね)にて坐(ま)しまし候(さうら)ふ。自(みづか)らをうらやみて、同(おな)じともに様をかへ、一庵(ひとついほり)に閉(と)ぢ籠(こも)り、行(おこな)ひ候(さうら)ふなり。今(いま)思(おも)ひ候(さうら)へば、此(こ)の人は、発心(はつしん)の便(たよ)りなりけりと、嬉(うれ)しく覚(おぼ)え候(さうら)ふ。其(そ)の上(うへ)、我(われ)等(ら)、不思議(ふしぎ)に釈尊(しやくそん)の遺弟(ゆいてい)に連(つら)なりて、比丘尼(びくに)の名(な)を汚(けが)す、忝(かたじけな)くも、本願(ほんぐわん)の勝妙(しようめう)を頼(たの)み、三時(じ)に六根(こん)を清(きよ)め、一心(いつしん)に生死(しやうじ)を離(はな)れん事(こと)を願(ねが)ひ候(さうら)ふ。本願(ほんぐわん)如何(いか)でか誤(あやま)り給(たま)ふべきと、疑(うたが)ひの心(こころ)も候(さうら)はず。五郎(ごらう)殿も、同(おな)じ煙(けぶり)と消(き)え給(たま)ひしかば、二人共(とも)に、成仏(じやうぶつ)得脱(とくだつ)と弔(とぶら)ひ奉(たてまつ)らん為(ため)に、二人の位牌(ゐはい)を安置(あんぢ)して候(さうら)ふなり。諸法(しよほふ)従縁起(じゆうえんぎ)とて、何事(なにごと)も縁(えん)に引(ひ)かれ候(さうら)ふなれば、二人共(とも)に、順縁(じゆんえん)逆縁(ぎやくえん)に、得道(とくだう)の縁(えん)とならん事(こと)、疑(うたが)ひ有(あ)るべからず。凡(およ)そ、分段(ぶんだん)輪廻(りんゑ)の郷(さと)に生(う)まれて、必(かなら)ず死滅(しめつ)の恨(うら)みをえ、妄想(まうさう)如幻(によげん)の家(いへ)に来(き)ては、遂(つひ)に別離(べつり)の悲(かな)しみ有(あ)り。出(い)づる息(いき)の、入(い)る息(いき)を待(ま)たぬ世(よ)の中に生(う)まれ、剰(あまつさ)へ、あひ難(がた)き仏教(ぶつきやう)にあひながら、此(こ)の度(たび)、空(むな)しく過(す)ぐる事(こと)、宝(たから)の山に入(い)りて、手を空(むな)しくするなるべし。急(いそ)ぐべし急(いそ)ぐべし、頭燃(づねん)払(はら)ふ如(ごと)くと見(み)えて候(さうら)へば、相(あひ)構(かま)へ相(あひ)構(かま)へ、仏道に御心(おんこころ)を懸(か)け、浄土(じやうど)へ参(まゐ)らんと思(おぼ)し召(め)すべきなり」と申(まう)しければ、母(はは)も、二宮(にのみや)の姉(あね)も、渇仰(かつがう)肝(きも)に銘(めい)じて、随喜(ずいき)の涙(なみだ)を流(なが)して、申(まう)しけるは、「世路(せいろ)に交(まじ)はるP420習(なら)ひ、世(よ)の中の営(いとな)みに心(こころ)を懸(か)け、二度(ふたたび)三途(さんづ)の故郷(こきやう)に帰(かへ)り、如何(いか)なる苦患(くげん)をかうけ候(さうら)はんずらんと、予(かね)て悲(かな)しく候(さうら)ふ。然(さ)れば、尊(たつと)きにもあひ奉(たてまつ)り、女人の得道(とくだう)すべき法門(ほふもん)、聞(き)かまほしく候(さうら)へ共(ども)、然(しか)るべき縁(えん)無(な)ければ、とかく過(す)ぎ行(ゆ)き候(さうら)ふ所(ところ)に、今(いま)の法門(ほふもん)を承(うけたまは)り候(さうら)へば、尊(たつと)く思(おも)ひ奉(たてまつ)り候(さうら)ふ。念仏(ねんぶつ)申(まう)すとて、人なみなみに唱(とな)へ申(まう)せども、何(なに)と心(こころ)を持(も)ち、如何様(いかやう)なる趣(おもむき)にて、往生(わうじやう)すべく候(さうら)ふや、かつて思(おも)ひ分(わ)けたる事(こと)も候(さうら)はず。同(おな)じくは、ついでに、詳(くは)しく承(うけたまは)り候(さうら)はば、如何(いか)ばかり嬉(うれ)しく候(さうら)ひなん」と言(い)ひけれ。
@〔少将(せうしやう)法門(ほふもん)の事(こと)〕S1209N177
虎(とら)、少将(せうしやう)の方(かた)を見(み)遣(や)り、少(すこ)し打(う)ち笑(わら)ひ、「あにこそ、念仏(ねんぶつ)の法門(ほふもん)共(ども)知(し)らせ給(たま)ひて候(さうら)へ。申(まう)して聞(き)かせ参(まゐ)らせ給(たま)へ」と申(まう)しければ、「童(わらは)も、詳(くは)しき事(こと)は知(し)り参(まゐ)らせず候(さうら)ふ。一年(ひととせ)、都(みやこ)にて、法然(ほふねん)上人(しやうにん)仰(おほ)せしは、「抑(そもそも)、生死(しやうじ)の根源(こんげん)を尋(たづ)ね候(さうら)へば、只(ただ)一念(いちねん)の妄執(まうしう)にかどはされて、由(よし)無(な)く法性(ほつしやう)の都(みやこ)を迷(まよ)ひ出(い)でて、三界(さんがい)六道に生(う)まれ、衆生(しゆじやう)とはなれり。然(さ)れば、地獄(ぢこく)の八寒(かん)八熱(ねつ)の苦(くる)しみ、餓鬼(がき)の饑饉(ききん)の愁(うれ)へ、畜生(ちくしやう)残害(ざんがい)の思(おも)ひ、其(そ)の外(ほか)、天上(てんじやう)の五衰(ごすい)、人間(にんげん)の八苦(く)、一(ひと)つとして受(う)けずと言(い)ふ事(こと)無(な)く、上は有頂点(うちやうてん)P421を限(かぎ)り、下(しも)は阿鼻(あび)を際(きは)として、出(い)づる期(ご)は無(な)きが故(ゆゑ)に、流転(るてん)の衆生(しゆじやう)とは申(まう)すなり。然(しか)りと雖(いへど)も、宿善(しゆくぜん)や催(もよほ)しけん、今(いま)人間に生(う)まれぬ。内に、本有(ほんう)の仏性(ぶつしやう)有(あ)り、外(ほか)に、諸仏(しよぶつ)の悲願(ひぐわん)有(あ)り。人木石(ぼくせき)にあらず、発心(ほつしん)せば、などか成仏(じやうぶつ)得脱(とくだつ)無(な)からん。其(そ)れについて、修行(しゆぎやう)まちまちなりと雖(いへど)も、我(われ)等(ら)が如(ごと)きの衆生(しゆじやう)は、諸教(しよけう)の徳(とく)に適(かな)ひ難(がた)し。先(ま)づ、法然(ほふねん)房(ばう)が如(ごと)くは、七千(せん)余巻(よくわん)の経蔵(きやうざう)に入(い)りて、つらつら出離(しゆつり)の要義(えうぎ)を案(あん)ずるに、顕(けん)に付(つ)け密(みつ)に付(つ)け、開悟(かいご)安(やす)からず、事(こと)と言(い)ひ理(り)と言(い)ひ、修行(しゆぎやう)成就(じやうじゆ)し難(がた)し。一実(いちじつ)円融(ゑんゆう)の窓(まど)の前(まへ)には、即是(そくぜ)の妙観(めうくわん)に疲(つか)れ、三密同体(さんみつどうたい)の床(ゆか)の上(うへ)には、又(また)現世(げんぜ)の証入(しようにふ)現(あらは)し難(がた)し。然(しか)る間(あひだ)、涯分(がいぶん)を計(はか)りて、浄土(じやうど)を願(ねが)ひ、他力(たりき)を頼(たの)み、名号(みやうがう)を唱(とな)ふ。誠(まこと)に、浄土(じやうど)の経文(けうもん)は、直至(ぢきし)道場(だうぢやう)の目足(もくぞく)なり。有智(うち)無智(むち)、誰(たれ)の人(ひと)か帰(き)せざらんや。既(すで)に正像(しやうざう)早(はや)くくれて、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学(がく)は名(な)のみ残(のこ)りて、有教無人(うけうむにん)、有名無実(うみやうむしつ)なり。殊(こと)に女人は、五障(ごしやう)三従(さんじゆう)とて、障(さは)り有(あ)る身(み)なれば、即身(そくしん)成仏(じやうぶつ)は、先(ま)づ置(お)きぬ、聞法(もんぼふ)結縁(けちえん)の為(ため)に、霊仏(れいぶつ)霊社(れいしや)にまうづるさへ、踏(ふ)まざる霊地(れいち)有(あ)り、拝(はい)せざる仏像(ぶつざう)有(あ)り。天台山(てんだいさん)は、桓武(くわんむ)の起願(きぐわん)、伝教(でんげう)の建立(こんりう)なり。一乗(いちじよう)の峰(みね)高(たか)うして、真如(しんによ)の月ほがらかなりと雖(いへど)も、五障(ごしやう)の闇(やみ)をてらす事(こと)無(な)し。高野山(かうやさん)は、嵯峨(さがの)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)、弘法(こうぼふ)大師(だいし)の地(ち)を示(しめ)し、八葉(はちえふ)の峰(みね)、八の谷(たに)、冷々(れいれい)として、水(みづ)いさぎよしと雖(いへど)も、三従(さんじゆう)の垢(あか)をばすすがず。其(そ)の外(ほか)、金峰(きんぷ)の雲の上(うへ)、醍醐(だいご)霞(かすみ)の底(そこ)、深(ふか)し、白山(しらやま)、書写(しよしや)のP422寺、斯様(かやう)の所々(ところどころ)には、女人(によにん)近付(ちかづ)く事(こと)も無(な)し。然(さ)れば、或(あ)る経(きやう)の文(もん)には、『三世の諸仏(しよぶつ)眼(まなこ)は、大地(だいぢ)に落(お)ちてくつとも、女人成仏(じやうぶつ)する事(こと)無(な)し』と言(い)へり。又(また)、或(あ)る経(きやう)の文(もん)には、『女人は、地獄(ぢごく)の使(つか)ひなり、よく仏(ほとけ)の種(たね)をたつ。外(ほか)の面(かほ)は、菩薩(ぼさつ)に似(に)たれども、内の心(こころ)は、夜叉(やしや)の如(ごと)し』と言(い)へり。然(さ)れば、内典(ないでん)・外典(げでん)に嫌(きら)はれたる所(ところ)に、弥陀(みだ)如来(によらい)、『極重(ごくぢゆう)悪人(あくにん)、無他(むた)方便(はうべん)』と誓(ちか)ひ給(たま)ひて、別(べつ)に又(また)、女人成仏(じやうぶつ)の願(ぐわん)有(あ)り。か程(ほど)に、懇(ねんご)ろに哀(あは)れみ給(たま)ふ事(こと)を、信(しん)ぜず行(ぎやう)ぜずして、又(また)三途(さんづ)に帰(かへ)らん事(こと)、例(たと)へば、耆婆(ぎば)が万病(まんびやう)をばいやす薬(くすり)、諸々(もろもろ)の薬(くすり)、何両(なんりやう)合(あ)はせたりと知(し)らざれども、服(ぶく)すれば、即(すなは)ちいゆ。病(やまひ)極(きは)めて重(おも)き者(もの)の、薬(くすり)ばかりにてはと疑(うたが)ひて、服(ぶく)せずは、耆婆(ぎば)が医術(いじゆつ)も、扁鵲(へんじやく)が医方(いはう)も、益(えき)有(あ)るべからず。其(そ)の如(ごと)く、煩悩(ぼんなう)悪業(あくごふ)は、極(きは)めて重(おも)し。此(こ)の名号(みやうがう)にては如何(いかが)と疑(うたが)ひて、信(しん)ぜず行(ぎやう)ぜざらんは、弥陀(みだ)本願(ほんぐわん)も、釈迦(しやか)の説教(せつきやう)も、空(むな)しかるべし。抑(そもそも)、薬(くすり)をえて、服(ぶく)せずして死せんの事(こと)、崑崙山(こんろんさん)に行(ゆ)きて、玉(たま)を取(と)らずして帰(かへ)り、栴檀(せんだん)の林(はやし)に入(い)りて、梢(こずゑ)を待(ま)たずしてはてなば、後悔(こうくわい)するとも、由(よし)無(な)し。其(そ)の上(うへ)、五劫(ごこふ)思惟(しゆい)、兆載(てうさい)永劫(えいごふ)の万善(まんぜん)万行(ぎやう)、諸波羅蜜(しよはらみつ)の功徳(くどく)を三字(じ)にをさめ給(たま)へり。然(さ)れば、『阿字(あじ)十方(じつぱう)三世仏、弥字(みじ)一切(いつさい)諸菩薩(しよぼさつ)、陀字(だじ)八万(はちまん)諸聖教(しよしやうげう)』と言(い)ふ時(とき)は、八万(はちまん)教法(けうぼふ)、諸仏(しよぶつ)菩薩(ぼさつ)も、名号(みやうがう)たひないの功徳(くどく)となれり。然(さ)れば、天台(てんだい)には、法報(ほつほう)王(わう)の三身(さんじん)、空仮中(くうげちゆう)の三諦(さんだい)なりと釈(しやく)し坐(ま)しまし候(さうら)ふ。森羅万象(しんらまんざう)、山河(せんが)大地(だいぢ)、弥陀(みだ)P423に漏(も)れたる事(こと)無(な)し。是(これ)に依(よ)りて、只(ただ)もつぱら弥陀(みだ)を以(もつ)て、法門(ほふもん)の主(あるじ)とすと釈(しやく)し給(たま)へり。正依(じやうゑ)の経(きやう)には、『いとくたり大りそくせんしやうくとく』ととき、傍依(はうゑ)の経(きやう)には、『一万三千仏(ぶつ)を高(たか)さ十丈(ぢやう)に金(こがね)を以(もつ)て十度作(つく)り、供養(くやう)せんより、一返(ぺん)の名号(みやうがう)はすぐれたり』と言(い)へり。善知識(ぜんぢしき)の教(をし)へを深(ふか)く信(しん)じて、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』と唱(とな)ふれば、三祇(ぎ)百大劫(ごふ)の修行(しゆぎやう)をも越(こ)え、塵沙(ぢんじや)無明(むみやう)の惑(わく)をも断(だん)ぜず、致使凡夫念即生(ちしぼんぶねんそくしやう)、不断煩悩得涅槃(ふだんぼんなうとくねはん)とて、終焉(しゆうえん)の時(とき)は、一さんいの心(こころ)を変化(へんげ)して、観音(くわんおん)・勢至(せいし)、無数(むしゆ)の聖衆(しやうじゆ)、化仏菩薩(けぶつぼさつ)、踊躍(ゆやく)歓喜(くわんぎ)して、須臾(しゆゆ)の間(あひだ)に、無為(むゐ)の報土(ほうど)へ参(まゐ)りなば、無辺(むへん)の菩薩(ぼさつ)を同学(どうがく)とし、上界(じやうかい)の如来(によらい)を師(し)として、宝池(ほうち)に遊(あそ)び、樹下(じゆげ)に行(ゆ)きて、鸚鵡(あふむ)・舎利(しやり)・迦陵頻伽(かれうびんが)の声を聞(き)き、苦(く)・空(くう)・無常(むじやう)・無我(むが)の四徳(とく)、波羅蜜(はらみつ)の悟(さと)りを開(ひら)き給(たま)ひなば、過去(くわこ)の恩(おん)、所生(しよしやう)所生(しよしやう)の父母(ぶも)、妻子(さいし)眷属(けんぞく)、有縁(うえん)の衆生(しゆじやう)を導(みちび)かん為(ため)に、洞然(とうねん)猛火(みやうくわ)の焔(ほのほ)に交(まじ)はり、紅蓮(ぐれん)大紅蓮(ぐれん)の氷(こほり)に入(い)り給(たま)ふ共(とも)、解脱(げだつ)の袂(たもと)は安楽(あんらく)として、済度(さいど)利生(りしやう)し給(たま)ふべし。但(ただ)し、往生(わうじやう)の定(ぢやう)不定(ふぢやう)は、信心(しんじん)の有無(うむ)によるべし。努々(ゆめゆめ)疑(うたが)ふ事(こと)無(な)かれ」と宣(のたま)ふを、我々は聴聞(ちやうもん)申(まう)して候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、母(はは)、感涙(かんるい)を抑(おさ)へて、言(い)ひけるは、「今の法門(ほふもん)、聴聞(ちやうもん)申(まう)し候(さうら)へば、信心(しんじん)肝(きも)に銘(めい)じて、有(あ)り難(がた)く候(さうら)ふ。今より後は、方々(かたがた)の御弟子(でし)にて候(さうら)ふべし」とて、三度(さんど)伏(ふ)し拝(をが)み、P424
@〔母(はは)、二宮(にのみや)行(ゆ)き別(わか)れし事(こと)〕S1210N178
然(さ)る程(ほど)に、日もやうやう傾(かたぶ)きて、高麗寺(かうらいじ)の入相(あひ)も聞(き)こゆれば、名残(なごり)尽(つ)きせず思(おも)へども、各々(おのおの)立(た)ち出(い)でて、二宮(にのみや)の里(さと)へとてこそ帰(かへ)りけれ。虎(とら)、少将(せうしやう)は門送(かどおく)りして、後(うし)ろのかくるる程見(み)送(おく)り、涙(なみだ)と共(とも)に、庵室(あんじつ)に帰(かへ)り、初夜(しよや)の礼讚(らいさん)始(はじ)めて、念仏(ねんぶつ)心(こころ)細(ぼそ)くぞ申(まう)しける。其(そ)の後、人々(ひとびと)の行方(ゆくへ)を聞(き)けば、各々(おのおの)宿所(しゆくしよ)に帰(かへ)り、聞(き)きつる法門(ほふもん)の如(ごと)く、造次顛沛(さうしてんぱい)、一心(いつしん)不乱(ふらん)に念仏(ねんぶつ)す。昔(むかし)は、夫婦(ふうふ)偕老(かいらう)の別(わか)れをしたひ、今(いま)は、兄弟(きやうだい)のかく成(な)り行(ゆ)く事(こと)の思(おも)ひや積(つ)もりけん、老病(らうびやう)と言(い)ひ、歎(なげ)きと言(い)ひ、六十の暮方(くれがた)に、念仏(ねんぶつ)申(まう)して、遂(つひ)に往生(わうじやう)しけるとぞ聞(き)こえける。扨(さて)、二人の尼(あま)御前(ごぜん)、或(あ)る夜(よ)の夢(ゆめ)に、十郎(じふらう)、五郎(ごらう)打(う)ちつれ来(き)たり、頭(かうべ)には、玉(たま)の冠(かぶり)をき、身(み)には、瓔珞(やうらく)を飾(かざ)り、光明(くわうみやう)赫奕(かくやく)として、各々(おのおの)を伏(ふ)し拝(をが)み、申(まう)しけるは、「此(こ)の間(あひだ)、念仏(ねんぶつ)申(まう)し、経(きやう)読(よ)み、懇(ねんご)ろに弔(とぶら)ひ給(たま)ふ故(ゆゑ)に、兜率(とそつ)の内院(ないゐん)にまうづ。是(これ)、しかしながら、夫婦(ふうふ)偕老(かいらう)の契(ちぎ)り深(ふか)きに依(よ)りて、無為(むい)心じつの解脱(げだつ)の因(いん)と成(な)る。其(そ)の恩徳(おんどく)、億々(おくおく)万劫(まんごふ)にも報(ほう)じ難(がた)し」とて、虚空(こくう)へ飛(と)びさりぬ。虎(とら)、夢(ゆめ)さめて、只(ただ)現(うつつ)の心地(ここち)して、思(おも)ひけるは、「五重(ごぢゆう)の闇(やみ)はれ、三明(みやう)の月ほがらかに坐(ま)します大聖(だいしやう)釈尊(しやくそん)さへ、耶輸陀羅女(やしゆだらによ)の別(わか)れを思(おぼ)し召(め)す。況(いはん)や我(われ)等(ら)、此(こ)の年月(としつき)恋(こひ)しと思(おも)ふ所(ところ)に、まのあたり兄弟(きやうだい)を夢(ゆめ)に見(み)て、昔恋(こひ)しくなりP425ぬ。然(さ)れば、夜(よる)の猿(さる)は、傾(かたぶ)く月にさけび、秋の虫(むし)は、枯(か)れ行(ゆ)く草に悲(かな)しむとかや。鳥獣(けだもの)までも、愛別離苦(あいべつりく)を悲(かな)しむと見(み)えたり。然(しか)れば、此(こ)の道は、迷(まよ)はば、共(とも)に悪道(だう)の輪廻(りんゑ)絶(た)ち難(がた)し、悟(さと)らば、皆(みな)成等(じやうどう)菩提(ぼだい)因縁(いんえん)なりぬべし。偕老(かいらう)同穴(とうけつ)の契(ちぎ)り、誠(まこと)あらば、九品(くほん)蓮台(れんだい)の上(うへ)にては、もとの契(ちぎ)りを失(うしな)はず、一蓮(ひとつはちす)に座(ざ)を並(なら)べ、解脱(げだつ)の袂(たもと)を絞(しぼ)るべし」とて、少将(せうしやう)も共(とも)に、涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。扨(さて)、彼(か)の二人の尼(あま)、志(こころざし)浅(あさ)からず、虎(とら)、峰(みね)に上りて、花をつめば、少将(せうしやう)、谷(たに)に下(くだ)りて、水を結(むす)び、一人、花をそなふれば、一人は、香(かう)をたき、共(とも)に一仏(いちぶつ)浄土(じやうど)の縁(えん)を結(むす)ぶ。谷(たに)の水(みづ)、峰(みね)の嵐(あらし)、発心(ほつしん)の媒(なかだち)と成(な)り、花の色、鳥(とり)の声(こゑ)、自(おの)づから観念(くわんねん)の頼(たよ)りと成(な)る。つくづく思(おも)へば、はつふつ転変(てんべん)の理(ことわり)、四相(しさう)遷流(せんる)の習(なら)ひ、三界(さんがい)より下界(げかひ)に至(いた)るまで、一(ひと)つとして逃(のが)るべきやう無(な)し。日月天にめぐりて、有為(うゐ)を旦暮(たんぼ)に現(あらは)し、寒暑(かんしよ)時(とき)を違(たが)へずして、無常(むじやう)を昼夜(ちうや)につくす。然(さ)れば、漢(かん)の高祖(かうそ)の三尺(さんじやく)の剣(つるぎ)も、遂(つひ)に他(た)の宝(たから)と成(な)り、秦(しん)の始皇(しくわう)のはりの都も、自(おの)づから荊棘(けいきよく)の野辺(のべ)と成(な)る。彼(かれ)を思(おも)ひ、是(これ)を見(み)るにも、只(ただ)偏(ひとへ)に浮(う)き世(よ)を逃(のが)れ、誠(まこと)の道に入(い)るべき物(もの)をや。かかりし程(ほど)に、二人の尼、行業(ぎやうごふ)積(つ)もり、七旬(しつしゆん)の齢(よはひ)たけ、五月の末(すゑ)つ方(かた)、少病(せうびやう)少悩(せうなう)にして、西(にし)に向(む)かひ、肩(かた)を並(なら)べ、膝(ひざ)を組(く)み、端座合掌(たんざがつしやう)して、念仏(ねんぶつ)百返(ぺん)唱(とな)へて、一心(いつしん)不乱(ふらん)にして、音楽(おんがく)雲に聞(き)こえ、異香(いきやう)薫(くん)じて、聖衆(しやうじゆ)来迎(らいかう)し給(たま)ひて、ねむるが如(ごと)く、往生(わうじやう)の素懐(そくわい)を遂(と)げにけり。P426高(たか)きも賎(いや)しきも、老少(らうせう)不定(ふぢやう)の世(よ)の習(なら)ひ、誰か無常(むじやう)を逃(のが)るべき。富宝(とみたから)も、遂(つひ)に夢(ゆめ)の内(うち)の楽(たの)しみなり。殊(こと)に女人は、罪(つみ)深(ふか)き事(こと)なれば、念仏(ねんぶつ)に過(す)ぎたる事(こと)有(あ)るべからず。斯様(かやう)の物語(ものがたり)を見(み)聞(き)かん人々(ひとびと)は、狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の縁(えん)に依(よ)り、あらき心(こころ)を翻(ひるがへ)し、誠(まこと)の道(みち)に趣(おもむ)き、菩提(ぼだい)を求(もと)むる頼(たよ)りとなすべし。其(そ)の心(こころ)も無(な)からん人は、斯(か)かる事(こと)を聞(き)きても、何(なに)にかはせん。よくよく耳(みみ)に止(とど)め、心(こころ)に染(そ)めて、無(な)き世(よ)の苦(くる)しみを逃(のが)れ、西方(さいはう)浄土(じやうど)に生(う)まるべし。P427