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◎〔みこたち〕第八
 (六八)源氏の御息所 S0801 卅 源氏のみやすどころ
みかどの御おほぢにはおはせねど、春宮やみやたちの、御母におはせしは、後三條院の女御にて、侍従の宰相、基平の御むすめこそおはせしか。その宰相は、小一条院の御子におはしき。その源氏のみやす所、御名は基子女御とぞ申しし。その御せうとにては、春宮太夫季宗、大蔵卿行宗など申しておはしき。みな三位のくらゐにぞおはせし。大蔵卿は八十ばかりまでおはせしかば、ちかくまできこえ給ひき。哥よみにおはしき。ふたりながら、からのふみなどもつくり給ふとぞきゝ侍りし。良頼の中納言のむすめのはらのきんだちなり。女御もおなじ御はらからにおはす。又そのはらに、平等院の僧正行尊とて、三井寺におはせしこそ、なだかき験者にておはせしか。少阿闍梨など申しけるをりより、おほみねかつらぎはさることにて、とをき國々山々など、ひさしくおこなひたまひて、白河院鳥羽院、うちつゞき護持僧におはしき。仁和寺の女院の女御まゐりにや侍りけん。御物のけそのよになりておこらせ給ひて、にはかに大事におはしましけるに、この僧正いのり申し給ひければほどなくおこたらせ給ひて、御くるまに
たてまつりて、いでさせ給ひにけるあとにものつきに、ものうたせてゐさせたまへりけるこそ、いとめでたく侍りけれど、つたへうけ給はりしか。僧正哥よみにおはして、代々の集どもにも、おほくいりたまへるとこそきゝ侍れ。笙のいはやにて、
@ 草のいほを何露けしと思ひけんもらぬいはやも袖ぞぬれける W102
なとよみ給へり。つたへきく人の袖さへしぼりつべくなんきこえ侍る。おほみねにて、後冷泉院うせさせ給ひて、よのうきことなど、おもひみだれてこもりゐて侍りけるに、後三条院くらゐにつかせ給ひてのち、七月七日まゐるべきよし、おほせられければよめる、
@ もろともにあはれと思へ山桜花よりほかにしる人もなし W103
なとよみたまへる。哥よまざらんは、ほいなかるべき事なるべし。いとゞ御こゝろもすみまさり給ひけんかし。てかきにもおはして、かなの手本など、よにとゞまり侍るなり。ことはら<”にも、勧修寺僧正、光明山の僧都など申しておはしき。その女御の御はらに、御子あまたおはしき、春宮と申して、延久三年二月にむまれ給ひて、同四年十二月に、御としふたつと申しし。東宮にたち給ひき。永保元年八月に、御元服
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せさせ給ふ。應徳二年十一月八日、十五におはしましゝに、かくれさせ給ひにき。平等院の僧正は、女御の御せうとなれば、東宮の御いみにこもり給ひて、御はてすぎて、人々ちりけるに、ひたちのめのとに、おくり給ふときこえ侍りし、
@ おもひきやはるのみや人なのみして花よりさきに散らむ物とは W104
とよみ給ひたりける、返し御めのと、
@ 花よりもちり<”になる身をしらでちとせのはると頼みける哉 W105
とぞきゝ侍りし。これは白川院のことはらの御おとうと、後三条院の第二の御子也。東宮とおなじはらに、第三の御子おはしき。輔仁親王と申しき。延久五年正月にむまれ給へり。承保二年十二月に、親王のせんじかぶり給ふ。この御子はざえおはして詩などつくり給ふこと、むかしのなかつかさの宮などのやうにおはしき。哥よみ給ふことも、すぐれ給へりき。円宗寺の花をみたまひて、
@ うゑおきしきみもなき世に年へたるはなやわがみのたぐひ成るらん W106
とよみ給へるこそ、いとあはれにきこえ侍りしか。かやうの御哥ども、むくのかみのえらびたてまつれる金葉集に、輔仁のみことかきたりければ白河院は、いかに
こゝに見むほど、かくはかきたるぞと、おほせられければ三宮とぞかきたてまつれる。御なからひはよくもおはしまさゞりしかども、御おとうとゝなればなるべし。詩などはかずしらずめでたく侍る也。よろこびもなし、うれへもなし。世上の心とかやつくり給へりけるを、中御堂と申しておはせしが、のたまひけるは、うれへこそあはれとの給はせけれど、くらゐにはかならずしも、みかどの御子なれど、つぎ給ふことならねば、ものしり給へる人は、なげきとおぼすべからず。かの仁和寺の宮の、利口にこそあれ。なにごとかは御のぞみもあらむな。
 (六九)花のあるじ S0802 はなのあるじ
三宮の御子は、中宮太夫師忠の大納言の御むすめのはらに、はなぞのゝ左のおとゞとておはせしこそ、ひかる源氏なども、かゝる人をこそ申さまほしくおぼえ給へしか。まだをさなくおはせしほどは、わか宮と申ししに、御のうも御みめも、しかるべきことゝみえて、人にもすぐれ給ひて、つねにひきもの、ふき物などせさせ給ひ、又詩つくり、うたなどよませ給ひけるに、庭の桜さかりなりけるころ、こきむらさきの御さしぬきに、なほしすがたいとをかしげにて、われもよませ給ひ、人にもよませさせ給ふとて、
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@ をしと思ふ花のあるじをおきながら我がものがほにちらすかぜ哉 W107
とよみ給ひたりければちゝの宮みたまひて、まろをおきながら、花のあるじとは、わか宮はよみ給ふかなど、あいし申し給ひけるとぞ人のかたり侍りし。御とし十三になり給ひし時、うゐかぶりせさせ給ひしは、白河院の御子にし申させ給ひて、院にて基隆の三位の、はりまのかみなりし、はつもとゆひしたてまつり、右のおとゞとてこがのおとゞおはせし、御かうぶりせさせたてまつり給ひけり。御みめのきよらかさ、おとなのやうに、いつしかおはして、みたてまつる人、よろこびのなみだも、こぼしつべくなんありける元永二年にや侍りけん。なかの秋のころ、御とし十七とや申しけん。はじめて源氏の御姓たまはりて、御名は有仁ときこえき。やがてその日、三位中将になり給ひて、そのとしの十一月のころ、中納言になり給ひて、やがて中納言中将ときこえき。むかしもみかどの御子、一の人のきんだちなどおはすれど、かく四位五位などもきこえ給はで、はじめて三位中将になり給ふ。としのうちに中納言中将などは、いとありがたくや侍らん。又そのつぎのとし、保安元年にや侍りけん。大納言になり給ひて、としをならべて右近大将かけ給ひき。よの人宮大将など申して、みゆきみる人は、
これをなんみものにしあへることに侍りし。白河の花見の御幸とて侍りし和哥の序は、この大将殿かきたまへりけるをば、世こぞりてほめきこえ侍りき。
@ 低枝をりてささげもたれば、紅蝋のいろてにみてり。 落花をふみて佇立すれば、紫麝の気衣に薫ず。
などかき給へりける、その人のしたまへることゝおぼえて、なつかしういうにはべりけるとぞ。御哥もおぼえ侍る、
@ かげきよき花のかゞみとみゆる哉のどかにすめる白川の水 W108
とぞきゝ侍りし。管絃はいづれもし給ひけるに、御びは笙のふえぞ、御あそびにはきこえ給ひし。すぐれておはしけるなるべし。御てもよくかき給ひて、しきしかた、てら<”のがくなどかきたまへりき。中納言になり給ひしをりにや。三のみこかくれ給ひにしは、法皇の御子とて、御ぶくなどもし給はざりけるとかや。又うすくてやおはしけむ。院うせさせ給ひしにぞいろこくそめ給へりける。まだつかさなども、きこえ給はざりしほどは、つねに法皇の御くるまのしりにぞのり給ひて、みゆきなどにもおはしける。さやうの御つゞきをおぼしいだしけるにや。院の御いみのほどまゐり給ひて
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有りけるとき、みなみおもてのかたに、ひとりおはして、さめ<”と、なきたまひて、御てして、なみだをふりすてつゝおはしける、ものゝはざまよりのぞきて、あはれなりしと人のかたり侍りし。寛能のおとゞは、きたのかたのせうとにおはして、あさゆふなれあそびきこえ給ひければ左兵衛督など申しけるほどにや五月五日大将殿、
@ あやめ草ねたくも君がとはぬ哉けふは心にかゝれと思ふに W109
など心やりたまへるも、いとなつかしく、この大将殿は、ことのほかに、えもんをぞこのみ給ひて、うへのきぬなどのながさみじかさなどのほどなど、こまかにしたゝめ給ひて、そのみちにすぐれたまへりける。おほかたむかしは、かやうのこともしらで、さしぬきもなかふみて、えぼうしも、こはくぬることもなかりけるなるべし。このころこそ、さびえぼうし、きらめきえぼうしなど、をり<かはりて侍るめれ。白川院は、御さうぞくまゐる人など、おのづからひきつくろひなどしまゐらせければさいなみ給ひけるときゝ侍りし。いかにかはりたるよにかあらむ。とばの院このはなぞのゝおとゞ、おほかたも御みめとり<”に、すがたもえもいはずおはしますうへに、こまかにさたせさせて、世のさがになりて、かたあてこしあて、えぼしとゞめ、かぶりとゞめなどせぬ人なし。又せでもかなふ
べきやうもなし。かうぶりえぼうしのしりは、くもをうがちたれば、さらずはおちぬべきなるべし。ときにしたがへばにや。このよにみるには、そでのかゝりはかまのきはなど、つくろひたてたるはつき<しく、うちとけたるは、かひなくなんみゆる。えもんの雑色などいひて、蔵人になれりしも、この御いへの人なり。うへの御せうとの君たち、わか殿上人ども、たえずまゐりつゝあそびあはれたるはさることにて、百大夫とよにはつけて、かげぼしなどのごとく、あさゆふなれつかうまつる。ふきもの、ひきものせぬはすくなくて、ほかよりまゐらねど、うちの人にて御あそびたゆることなく、伊賀大夫、六条太夫などいふ、すぐれたる人どもあり。哥よみ、詩つくりもかやうの人どもかずしらず。越後のめのと、小大進などいひて、なだかきをんなうたよみ、いへの女房にてあるに、きんだちまゐりては、くさりれんがなどいふことつねにしらるゝに、三条のうちのおとゞの、まだ四位少将などのほどにや。
@ ふきぞわづらふしづのさゝやを、
とし給ひたりけるに中務少輔實重といふもの、つねにかやうのことに、めしいださるゝものにて、
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  月はもれ時雨はとまれとおもふには W110、
とつけたりければいとよくつけたりなど、かんじあひ給ひける。又ある時、
@ ならのみやこをおもひこそやれ。
といはれはべりけるに、大将殿、
  やへざくら秋のもみぢやいかならむ。
とつけさせ給ひけるに、ゑちごのめのと、
  しぐるゝたびに色やかさなる W111。
とつけたりけるものちまでほめあはれ侍りけり。かやうなること、おほく侍りけり。そのゑちごは、さこそはかりの人はつらけれといふうたなどこそ、やさしくよみてはべりけれ。かやうなること、かずしらずこそきこえ侍りしか。
 (七十)伏し柴 S0803 ふしゝば
大将殿としわかくおはして、なにごともすぐれたる人にて、御心ばへもあてにおはして、むかしはかゝる人もやおはしけん。この世にはいとめづらかに、かくわざとものがたりなどに、つくりいだしたらんやうにおはすれば、やさしくすき<”しきことおほくて、これかれ、
そでよりいろ<のうすやうにかきたるふみの、ひきむすびたるがなつかしきかしたる、ふたつみつばかりづゝとりいだして、つねにたてまつりなどすれば、これかれ見給ひて、あるは哥よみ、いろこのむ君だちなどに、みせあはせ給ひて、このてはまさりたり。うたなどもとり<”にいひあへり。あるはみせ給はぬもあるべし。又兵衛のかみや、少将たちなど、まゐり給へば、かたみに女のことなど、いひあはせつゝ、あまよのしづかなるにも、かたらひ給ふをりもあるべし。月あかき夜などは、車にて御随身ひとりふたりばかり、なに大夫などいふひとゝもにかはる<”かちよりあゆみ、御車にまゐりかはりつゝ、ふるきみやばら、あるはいろこのむ所々にわたり給ひつゝ、人にうちまぎれてあそびたまふに、びは笙のふえなどは、人もきゝしりなんとて、ことひきふえなどぞし給ひける。あるをりは、うたよむごたちまうでかよひける中に、ほいなかりけるにや。女、
@ かねてより思ひし物をふしゝばのこるばかりなるなげきせんとは W112
とてたてまつりたりければやがてふししばとつけ給ひて、をりふしには、おとづれたてまつりければこよひはふししばは、おとすらむものをなどあるに、すぐさず哥よみてたてまつりなど
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して、いたきものとて、つねに申しかはす女ありけり。つちみかどのさきのいつきの御もとに中将のごとかいひけるものとかや。きたのかたは、てかきうたよみにおはして、いというなる御なからひになむありける。あまりほかにやおはしけんときこえしは、鳥羽院くらゐの御ときに、大将殿きくをほりにやりて、たてまつり給ひけるに、うすやうにかきたるふみの、むすびつけてみえければみかど御らんじつけて、かれはなにぞ。とりてまゐれと、蔵人におほせられけるに、おほい殿は、ふと心えていろもかはりて、うつふしめになりたまへりけるほどに、みかどひろげて御らんじければ、
@ こゝのへにうつろひぬとも菊の花もとのまがきを忘ざらなん W113
とぞありける。きさいの御あねにおはすればとき<”まゐりかよひ給ふにつけつゝ、しのびてきこえ給ふことなども、おはしけるなるべし。むかしのみかどの御よにも、かやうなる御ことはきこえて、なほ<などおほせられければあまりなることもはべりけるやうに、これもおはしけるにや。とのゝいろこのみ給ふなど、おほかたうへはのたまはせず、へだてもなくて、ふみどもとりいれて、哥よむ女房にかへしせさせなどし、うへのめのとのくるまにてぞ女おくりむかへなどしたまひける。殿もこゝかしこにありき給ひ
ける、いへの女房どもゝ、をとこのもとよりえたるふみをも、そのきたのかたに申しあはせて、うたの返しなどし給ひける。小大進などいふいろごのみのをとこのもとよりえたる哥とて申しあはせける、あまたきこえしかど、わすれておぼえ侍らず。あぜちの中納言とかいふ人の、おほやうなるも、哥などつかはしけるかへりごとに、小大進、
@ なつ山のしげみがしたの思ひぐさ露しらざりつこゝろかくとは W114
などきゝ侍りし。くちとく哥など、をかしくよみて、いづみ式部などいひしものゝやうにぞ侍りし。伊与のごとて侍りしも、中院の大将のわかくおはせしほどに、ものなどのたまひてのちには、やましろとかいふ人に、物いふときゝ給ひて、さきにも申し侍りつる、みとせもまたで、といふ哥よみ給へりしぞかし。かやうにいろこのみたまへるごたち、おほくこそきこえ侍りしか。
 (七一)月の隠るる山のは S0804 月のかくるゝ山のは
このおとゞの御子のおはせぬぞ、くちをしけれど、かへりてはあはれなるかたもありて、なごりをしく侍りて、われものたまはせけるは、いとしもなき子などのあらむは、いとほいなかるべし。むらかみのみかどのすゑ、なかつかさの宮のうまごといふ人々みる
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に、させることなき人々どもこそおほくみゆめれ。わがこなどありとも、かひなかるべしなどぞ有りける。ひめぎみこそおはすなれ。きたのかたの御はらにはあらで、うちにつかひ給へりけるわらはの、おほくの人のなかに、いかなるすぐせにか、うみきこえたるとなん。上西門院にぞおはすときこえ給ふ。ことびはなども、ひき給ふともしられておはしけるに、月あかきよ、しのびてかきならし給ひけるより、あらはれ給ひけるとかや。又ことはらに、女君きこえ給ふは、たかまつの院にまゐりかよひ給ひて、殿上人の車などつかはして、むかへなどせさせ給ふとかやぞきこえ給ふ。大将殿、いづれのほどにか侍りけん。としごろすみたまひし、れんぜい、ひんがしのとうゐんよりにや侍りけん。なゝ夜、かちより御そくたいにて、いはしみづのみやに、まゐり給ひけるに、光清とかきこえし別當、御まうけたか房とかいふにして、御きそくきこえけれど、ことさらにたちやどることなくて、このたびはまゐらむと、心ざしたれば、えなむいるまじきとて、より給はざりけるに、なゝ夜まゐりはて給ひけるよ、みつといふところにおいて、たてまつりける。
@ さいはいとさんぞのおまへふしをがみなゝよのねがひとをながらみて W115
とよめるを、御神のみことゝたのまんとて、御ふところにをさめさせ給ひて、
かへさにのり給ふ御むまをくらおきながらぞ、ひきて給はせける。その御とも人など、いかばかりなる御心ざしにて、かくかちの御ものまうで、よをかさねさせ給ふらん。あら人神、むかしのみかどにおはしませば、ながれのとだえさせ給ふ御ことにやなど、おぼつかなくおぼえけるに、臨終正念往生極楽、としのびてとなへさせ給ひける御ねぎごとにてぞあはれにかなしくうけ給はりしときこえはべりける。おほいどの、ゝちには大将もじゝ給ひて、たゝ左のおとゞとておはしき。仁和寺にはなぞのといふところに、山里つくりいだしてかよひ給ふに、四十にあまりてや、うせ給ひにけむ。ちかくなりては、御ぐしおろし給ひけるに、すがたはなほ昔にかはらず、きよらにて、すこしおもやせてぞみえ給ひける。いわくらなるひじりよびて、えぼうしなほしにていでゝ、御ぐしおろし給ひける、いとかなしく、みたてまつる人も、なみだおさへがたくなんありける。ゑちごのめのと、かぜいたみけるころ、はなにさして、
@ われはたゞ君をぞをしむ風をいたみ散なん花は又も咲なん W116
とよみたまひけるを、めのとはつねにかたりつゝ、こひ申しける。この大将殿、みかどのうまご宮の御子にて、たゞ人になり給へる、このよにはめづらしく、きゝたてまつるに、
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なさけおほくさへおはしける。いとありがたく、きゝたてまつりしに、まださかりにて、雲かくれ給ひにけむ。いとかなしくこそ侍れ。かのはなぞのも、雲けぶりとのぼりて、あとさへのこらぬときゝ侍こそ、あはれに心うけれ。そのわたりにまうでかよひける人、
@ いづくをかかたみともみんよをこめてひかり消にし山のはの月 W117
三のみこの御子には、また信證僧正とて、仁和寺におはしき。鳥羽院御ぐしおろさせ給ひし時、御戒師におはしき。又山にも僧都のきみなどいひてきこえ給ひき。一定にもなかりしにや。院よりおほい殿にたづね申させ給ひけるとかや。御むすめは、おほい殿のひとつはらに、伊勢のいつきにてくだり給へりき。のちはふしみの齋宮と申しし、これにやおはすらん。又行宗の大蔵卿のむすめのはらに、斉院もおはするなるべし。このころむそぢなどにや、あまり給ふらん。そのいつきにおはせしころ、おほい殿本院にありすがはのもとのさくらのさかりなりけるにおはして、うたなどよみ給ひけるに、女房の哥とて、
@ ちる花を君ふみわけてこざりせばにはのおもてもなくやあらましW118
とぞきこえし。
 (七二)腹々のみこ S0805 卅一はら<”の御子
きさいの宮、女御更衣におはせねど、御子うみたてまつり給へるところ<”、ちかきみよにあまたきこえ給ひき。きさきばらのみやたちは、みな申し侍りぬ。ちり<”にうちつゞきおはしますおほくきこえ給ふ。白川院のきさきばらの女宮、みところの外に、承香殿の女御のうみたてまつり給ひしは、伊勢のいつきにおはしき。それは女四宮なるべし。女五宮も、天仁元年しも月のころ、みうらにあひたまひて、齋宮ときこえ給ひき。御はらはいづれにかおはしけん。ひがことにや侍らん。季實とかきこえし、むすめにやおはしけむ。勢賀院の齋院と申しゝも、おなじころ、たち給ふときこえき。それは頼綱ときこえし、源氏のみかはのかみなりしが、むすめのはらにおはすときこえき。七十にあまり給ひて、まだおはすときこえ給ひき。からさきのみそぎ、上西門院せさせ給ひしころ、そのつゞきに、院の御さたにて、殿上人などたてまつらせ給ひけり。とのもりのかみなにだいふとか名ありし人、御うしろみにて、御くるまのしりに、あやのさしぬき、院のおろしてきてわたるなど、きこえき。をとこはこのよには、おほくほとけの道にいり給ひて、御元服も
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かたくて、うへの御ぞのいろなども、たづねえ侍らぬをり<も侍るとかや。くらゐおはしまさぬほどは、淺黄と日記に侍るなるをば、あをきいろか。きなるか。なほおぼつかなくて、はなぞのゝおほいどのに、たづねたてまつられけるも、をさなくておぼえ給はぬよし申したまふなどきこえし。一宮の御元服のは、きなるをたてまつれりけるなるべし。くらゐまだえさせ給はねば、きなるころもにぞまことにもおはしますらむ。無位の人は、黄袍なるべければをのゝたかむらが、をきよりかへりて、つくりたる詩にも、こふきみきくをあいせば、我をみるべし。しろきことはかうべにあり。きなることはころもにあり。などぞきこえ侍りし。神のやしろのきかりぎぬなども、くらゐなきうへのきぬの心なるべし。かやうのついでに、ある人の申されけるは、つるばみのころもは、王の四位のいろにて、たゞ人の四位と王五位とはくろあけをき、たゞ人の五位、あけの衣にてうるはしくはあるべきを、いまの人心およすげて、四位は王の衣になり、五位は四位のころもをきるなるべし。けびゐし上官などは、うるはしくてなほあけをあらためざるべしとぞ侍りける。仏のみちにいりたまへるは、このころうちつゞかせ給へり。仁和寺に覚行法親王ときこえたまひしは、白河の院のみこにおはす。御ぐしおろさせ給ひて、やう<おとなに
ならせ給ふほどに、いとかひ<”しくおはしければさらに親王の宣旨かぶり給ふとぞきこえ侍りし。おほ御むろとておはしまししは、三条院の御子、師明親王ときこえ給ひし、まだちごにおはしまして、御子の御名えたまひければ法師のゝちも、親王のせんじかぶり給はず。その宮につけたてまつりたまひしに、御でしのみやはわらはにても、親王の御名えたまはねども、親王のせんじかぶり給へり。後二条のおとゞ出家のゝちは、れいなきよし侍りけれども、白川院、内親王といふこともあれば、法親王もなどかなからんとてはじめて法師ののち、親王ときこえ給ひしなり。かくてのちぞ、うちつゞきいづくにも出家のゝちの親王ときこえ給ふめる。そのおとうとにて、覚法々親王ときこえたまひしは、六条の右のおとゞの御むすめのうみたてまつり給へりし、法性寺のおとゞのひとつ御はらからにおはす。さきに申し侍りぬ。みかどの御子、関白など、ひとつはらにおはします、いとかたきことなるべし。この御むろは、おほきにこゑきよらかなる人にぞおはしける。真言の道よくならひ給ひ、又てかきにてもおはしけり。みだうのしきしかたなどかき給ふときこえ給ひき。高野の大師の、てかきにおはしければにや。御むろたちも、うちつゞき、てかきにぞおはすなる。かうや
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へまうでたまひけるみちにて、
@ さだめなきうき世の中としりぬればいづくもたびの心ちこそすれ W119
とよみたまへりけるとぞ。横河の覚超僧都の、よろづのことをゆめとみるかな。といふ哥おもひいでられて、あはれにきこえ侍る御哥也。又仁和寺に花蔵院の宮とてもおはしましき。それはこと御はらなるべし。御母は大宮の右のおとゞの御子に、なでしこの宰相とかきこえ給ひしむすめとぞ、六条殿とかきこえ給ひて、のちには九条の民部卿とおはしけるとかや。このみやはいみじくたふとき人ときこえ給ひき。長尾の宮とも申しき。また三井寺大僧正行慶ときこえたまひしもおはしき。備中守政長ときこえし人の、むすめのはらにおはす。これも真言よくならひ給へるなるべし。この院も、この僧正にぞおこなひのことうけさせ給ふときこえし。法性寺のおとゞ、御ぐしおろしたまひて、御かいの師にし給ふともきこえき。こまの僧正とも申すなるべし。天王寺へまうでたまひけるに、なにはをすぎ給ふとて、
@ ゆふぐれになにはわたりを見渡せばたゞうすゞみのあしで成りけり W120
となむきこえし。ことゝころのゆふべののぞみよりも、なにはのあしでとみえん。げにと
きこえはべり。かへるかりのうすゞみ、ゆふぐれのあしでになりたるも、やさしくきこえ侍り。又若御前法眼ときこえ給へりしも、白川院の御子にやおはしけむ。みちのおくのかみ、有宗といひしがむすめのはらにおはすとぞ。ほりかはのみかどの宮たちは、やまに法印などきこえたまひし、のちには座主になりて、親王のせんじかぶり給ひて、座主の宮ときこえき、伊勢の守時經とて、傅の大納言のすゑときこえし、むすめのうみたてまつれるとぞ。又仁和寺の花蔵院の大僧正と申ししは、あふみのかみ隆宗ときこえしがむすめのはらとぞきこえ給ひし。僧正御身のしづみ給へることを、おもほしける時よみたまへりける、
@ さみだれのひまなき比のしづくには宿もあるじも朽にける哉 W121
とぞきこえ侍りし。みをしるあめ、時にもあらぬしぐれなどや、御そでにふりそひたまひけむと、いとあはれにきこえ侍り。女宮は、大宮の斎院ときこえ給ふおはしき。やがてかの大宮の女房の、うみたてまつれりけるとなん。又さきの斎宮も、ほりかはの院の御むすめときこえ給ふ。またこのころもおはするなるべし。とばの院の宮は、女院ふたところの御はらのほかに、三井寺の六宮、山の七宮とておはします。御はゝ
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石清水のながれとなん、きゝたてまつりし。としよりの撰集に、鹿のうたなどいりて侍り。光清法印とかいひける、別當のむすめとなむ。小侍従などきこゆるは、小大進がはらにて、これはさきのはらからなるべし。白河院の御時より、ちかくさぶらひて、とばの院には、御子あまたおはしますなるべし。又そのおなじはらに、あや御前ときこえさせ給ふ、御ぐしおろして、雙林寺といふ所にぞおはしますなる。てらの宮は、ひとゝせうせ給ひにき。やまのは、法印など申しし、親王になり給ふとぞ、又宰相の中将家政ときこえし御むすめ、待賢門院におはしけるも、とばの院の御子うみたてまつり給へりし、吉田の斎宮と申しき。それもうせ給ひて、八九年にもやなりはべりぬらん。あまにならせ給ひて、ちゑふかく、たふとくきこえさせ給ひき。その御母こそは、あさましくてうせ給ひにしか。かうちのかみなにがしとかいひしがこなるをとこのいかなることのありけるにか。うしなひたてまつりたるとて、おやもつみかぶりて、みやこにもすまざりき。又徳大寺の左のおとゞの御むすめとて、とばの女院に候ひ給ひけるも、女三のみこうみたまひて、かすがのひめ宮ときこえ給ふ。冷泉のひめみやと申すにや、そのはゝをかすが殿と申すなるべし。又せが院のひめみや、斎院のひめ宮、たかまつの宮など、きこえさせ給ふも、
おはしますなるべし。とばの院の宮たちは、をとこ女きさきばら、たゞのなどゝりくはへたてまつりて、をとこ宮八人、女宮八九人ばかり、おはしますなるべし。さぬきの院の一のみこときこえたまひしは、重仁親王と申しけるなるべし。その御はゝ、院にぐしたてまつりて、とをくおはしたりけるが、かへりのぼり給へるとぞきこえ給ふ。みかどくらゐにおはしましし時、きさいの宮、一の人の御むすめにておはしますに、うちの女房にて、かの御はゝ、みやづかへ人にてさぶらひ給ひしが、ことの外にときめき給ひしかば、きさきの御かたの人は、めざましくおもひあひて、人の心をのみはたらかし、世の人も、あまりまばゆきまでおもへるなるべし。さりとて、御うしろみのつよきもおはせず。たゞ大蔵卿行宗とて、とし七十ばかりなるが、うたよみによりて、したしくつかうまつりなれたるを、おやなどいひて、兵衛佐などつけ申したるばかりなれば、さるべきかた人もなし。まことのおやは、をとこにはあらで、むらさきのけさなど給はりて、白河のみてらのつかさなりけり。それもうせて、としへにけり。しかるべき人のこなりけれど、をとこならねば、かひなかるべし。つねにさぶらふ、なにの中将などいふ人の、かたこゝろあるなども、めをそばめらるゝやうにて、はしたなくなんありける。されど、たぐひなき御心ざしを
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さりがたきことにてすぐし給ふほどに、をのこぎみうみいだしたまへれば、中宮にはまだかゝることもなきに、いとめづらしく、いとゞやすからぬつまなるべし。御おほぢの一院もきかせ給ひて、むかへとり給ひて、女院の御かたにやしなひ申させ給ふ。やう<うちの御めのとごの、はりまのかみ、はゝきのかみなどいふ人ども、かのさとや、つぼねなどの女房などかみしものことゞも、とりさたすべきよしうけ給はりて、つかうまつり、わか宮の御めのと刑部卿などいひて、大貳の御めのとのをとこときこゆ。みこも親王の宣旨などかぶり給ひて、御元服などせさせ給ひぬ。かくてとし月すぐさせたまふほどに、くらゐさらせ給ひて、新院とておはしますにも、よにたぐひなくて、すぐさせたまへは、きさいの宮、殿の御わたりには、心よからずうときことにてのみおはします。本院の御まゝなれば、よをこゝろにまかせさせ給はず、うち、中宮、殿などに、ひとつにて、世の中すさまじきことおほくて、おはしますべし。かやうなるにつけても、わたくしものに、おもほしつゝ、すぐさせ給ふに、法皇かくれさせ給ひぬるのち、世の中にことゞもいできて、さぬきへとをくおはしましにしかば、やがて御ふねにぐしたてまつりて、かのくにゝとしへたまひき。一のみこも、御ぐしおろし給ひて、仁和寺大僧正寛暁と申ししにつかせ給ひて、真言など
ならはせ給ひけるに、さとくめでたくおはしましければむかしの真如親王もかくやとみえさせたまひけるに、御あしのやまひおもくならせ給ひて、ひとゝせうせさせ給ひにけり。御とし廿二三ばかりにやなり給ひけん。さぬきにも、御なげきのあまりにや。御なやみつもりて、かしこにてかくれさせ給ひにしかば、みやの御はゝものぼり給ひて、かしらおろして、醍醐のみかどの御はゝかたの、御寺のわたりにぞすみ給ふなる。かの院の御にほひなれば、ことわりと申しながら、哥などこそ、いとらうありてよみ給ふなれ。のぼり給ひたりけるに、ある人のとぶらひ申したりければ、
@ 君なくてかへるなみぢにしほれこしたもとを人の思ひやらなん W122
とはべりけるなん、さこそはと、いとかなしくおしはかられ侍りし。院の御おとうとの、仁和寺の宮おはしましゝほどは、とぶらはせ給ふときこえしに、みやもかくれ給ひて、心ぐるしくおもひやりたてまつるあたりなるべし。そのとをくおはしましたりける人の、まだ京におはしけるに、白河にいけどのといふ所を人のつくりて、御らんぜよなど申しければわたりてみられけるに、いとをかしくみえければかきつけられけるとなむ。
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@ おとはがはせきいれぬやどの池水も人の心はみえける物を W123
とぞきゝ侍りし。又さぬきの院の皇子はそれも仁和寺のみやにおはしますなる、法印にならせ給へるとぞ、きこえさせたまふ。それも真言よくならはせ給ひて、つとめおこなはせ給へりとぞ、上西門院御子にし申させ給へるとぞ。その御はゝは、もろたかの大蔵卿の子に、参河権守と申す人おはしけるむすめの、さぬきのみかどの御とき、ないしのすけにて候はれしが、うみたてまつり給へるとぞ、きこえさせ給ふ。さぬきの法皇、かくれさせ給へりけるころ、御ぶくは、いつかたてまつると、御むろよりたづね申させ給へりければ、
@ うきながらその松山のかたみにはこよひぞふぢの衣をばきる W124
とよませ給へりける。いとあはれにかなしく、又御おこなひはてゝ、やすませたまひけるに、あらしはげしく、たきのおとむせびあひて、いと心ぼそくきこえけるに、
@ 夜もすがら枕におつるおときけば心をあらふたにがはのみづ W125
とよませたまへりけるとぞきこえ侍りし。むかしのかぜふきつたへさせ給ふ。いとやさしく、女宮はきこえさせ給はず。いまの一院のみやたちは、あまたおはしますとぞ。きさきばらのほかには、たかくらの三位と申すなる御はらに、仁和寺の宮の御むろつたへて
おはしますなり。まだわかくおはしますに、御おこなひのかたも、梵字なども、よくかゝせ給ふときこえさせ給ふ。つぎに御元服せさせ給へる、おはしますなるも、御ふみにもたづさはらせ給ひ、御てなど、かゝせ給ふときこえさせ給ふ。その宮も、みやたちまうけさせ給へるとぞ。おなじ三位の御はらに、女宮もあまたおはしますなるべし。伊勢のいつきにてあねおとうとおはしますと、きこえさせたまひし、おとうとのみやは、六条の院のせんじ、やしなひたてまつりて、かの院つたへておはしますとぞきこえさせ給ふ。又賀茂のいつきにもおはするなるべし。また女房のさぶらひ給ふなる、御おぼえの、なにがしのぬしとかきこえし、いもうとのはらにも、みやたちあまたおはしますなるべし。三井寺に法印僧都などきこえさせ給ふ。又女宮もおはしますとぞ、おほいのみかどの右のおとゞの御むすめも、ひめ宮うみたてまつり給へる、おはしますときこえ給ふ。又ことはらの宮々もあまたおはしますなるべし。二条のみかどの宮たちも、をとこ宮女宮きこえさせ給ふ。その女みやは、内の女房うみたてまつりたまへるとぞ。なかはらのうぢのはかせのむすめにぞおはすなる。をとこ宮は源氏のうまのすけとかいふ、むすめのはらにおはしますとかきこえ給ふ。又徳大寺のおとゞの御むすめのはらとかきこえ
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給ふは、くらゐにつかせたまへりし、さきに申し侍りぬ。又かんのきみの御おとうとにおはしけるが、うみたてまつり給へる、おはしますときこえさせたまふ。かくいまの世のことを申しつゞけ侍る。いとかしこく、かたはらいたくもはべるべきかな。