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校定 今鏡読本 下
◎〔むらかみの源氏〕第七
 (五九)うたたね S0701 廿七△うたゝね
ふぢなみの御ながれの、さかえたまふのみにあらず、みかど一の人の御はゝかたには、ちかくは源氏の君だちこそ、よきかんだちめどもはおはすなれ。ほりかはのみかどの御母、賢子の中宮は、おほとのゝ御子とて、まゐり給へれど、まことは六条の右のおとゞの御むすめなり。きさきの御ことはみかどのついでに申し侍りぬ。そのゆかりのありさま、みなもとをたづぬれば、いとやんごとなくなん侍る。むらかみのみかどの御子になかつかさのみこと申ししは、六条の宮とも後中書王とも申す。この御ことなり。ふみつくらせ給ふこと、よにすぐれたまへりき。御哥も世々の集どもにみえ侍るらん。その御子に、つちみかどの右のおとゞと申ししは、はじめて、みなもとの姓えさせ給ひて、師房のおとゞときこえさせ給ひき。御身のざえも
たかく、文つくらせたまふかたもすぐれ給ひて、野のみかりのうたの序など人のくちにはべるなり。又月のうたこそ、こゝろにしみてきこえ侍りしか。
@ 有明の月まつほどのうたゝねは山のはのみぞゆめにみえける W093
すき<”しきかたのみにあらず、土御門の御日記とて、世の中のかゞみとなんうけ給はる。みかど一の人の御よそひども、その中にぞおほく侍るなる。御堂の御むすめは、おほくきさき、國母にてのみおはしますに、このとのゝきたのかたのみこそ、たゞ人はおはしませば、いと<やんごとなし。その御はらに、ほりかはの左のおとゞ俊房、六条の右のおとゞ顯房と申して、あにおとうとならびたまへりき。ほりかはどのは、さいかくたかくおはして、ふみつくりたまふこと、すぐれてきこえ給ひき。六条殿は、うたよみにぞおはして、判などし給ひき。よのおぼえあによりもまさり給ひて、大納言の大将、中宮のおほんおやにておはせしに、大臣あきて侍りけるを、白川のみかど、おぼしわづらはせ給ひて、日ごろすぎけるに、匡房の中納言に、おほせられあはせければほりかはの大納言をなさせ給へと、うちいだして申しければみかどおほせられけるは、おとうとゝなれども、右大将中宮の御おやにて、このたびならずは、法師にならんといふなり。又上らうども有りて、
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われこそなるべけれなどいへば、それもすてがたきなりと、おほせられければ大納言大臣になり侍ることは、かならずしも一二といふこと侍らず。なるべき人をえりて、なされ侍るなり。又國のつかさへたる人いかゞなど申し侍りければすがはらのおとゞもさぬきのかみぞかしとおほせられければ江帥申しけるは、はかせはべちのことに侍り。又さいかくたかく侍らんあにを大臣になさせ給はんに、出家するおとうともよに侍らじと申しければ堀川殿はなり給へりけるとぞ。六条のおとゞは、そのゝちにぞなり給ひし。中宮の御おや、ほりかはのみかどの御おほぢにていとめでたくおはしき。のちには大将をば、太政のおとゞの大納言におはせしに、ゆづり申し給ひて、行幸につかうまつり給へりしこそ、いとめづらかに侍りしか。おそくまゐり給ひて、道にて車よりおりて、馬にのり給ひしかば、大将殿よりはじめて、みなおり給へりしに、盛重といひしが、左衛門尉なりしと、行利といふ随身の、陣につかうまつりしを、あがり馬にのせて、さきにぐせさせたまへりければなほ大将にてわたり給ふとぞみえける。このあにおとうとのおほいどの、少将におはしけるとき、隆俊治部卿、御むこにとり申さんと思て、そのときめしひたる相人ありけるに、かのふたりいかゞさうしたてまつりたる
と問はれければともによくおはします。みな大臣にいたり給ふべき人なりといひけるを、いづれかよにはあひ給ふべきと、とはれけるに、おとうとはすゑひろく、みかど一の人も、いでき給ふべきさうおはすと申しければ六条殿をとり申したるとぞきゝ侍りし。そのかひありて、みかど関白も、その御すゑよりいでき給へり。ゆきふりのみゆきに、おそくまゐり給ひて、ゆきみんとしもいそがれぬかな。とよみたまへるこそ、いとやさしく、むかしの心ちし侍れ。よる女のもとにわたり給へりけるに、かねてもなくて、かどにくるまのたえずたちければそれをめしていでたまひければもりしげといひしが、いでさせたまふみちに、つねはふしたりければかならずおくれたてまつることなかりけるに、ゐ中さぶらひと、もりしげとふたりともにぐして、いでたまひけるに、馬にのれりけるものゝ、おりざりければゐ中人、ともしたるついまつして、うちおとさんとしけるを、たけきものゝふども、おほくぐしたりけるが、御くるまによらんとしけるを、もりしげ御車のもとにて、皇后宮太夫殿のおはしますぞ。あやまちつかうまつるなといひければまどひおりて、さな<まかりのきねといひければすぎ給ひにけり。つぎの日のゆふぐれに、頼治といひしむさの、おほいどのはまゐりて、御門のかたにて、もりしげたづねいだして
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よべかしこく御おんかぶりて、あやまちをつかうまつるらんにとて、かしこまり申しにまゐりたる也。かくとはな申したまひそといひけれど、おほいどのに申したりければめしてみきすゝめなどしたまひけるとぞ。盛重が子盛道といひしはかたりける。
 (六十)堀河の流れ S0702 ほりかはのながれ
ほりかはの左のおとゞの御子は、太郎にては師頼大納言とておはせし、御母中将実基のきみの御むすめなり。ふみなどひろくならひ給ひて、ざえおはする人にておはしき。中弁より宰相になり給ひて、ひら宰相にて、前の右兵衛督とて、とし久しくおはしき。としよりてぞ中納言大納言などにひきつゞきて、ほどなくなり給ひし。このゑのみかど、春宮にたゝせ給ひしかば母ぎさきの御ゆかりにて、太夫になり給へりき。うたをぞくちとくよみ給ひける。はやくけさうし給ふ女の百首よみ給ひたらば、あはんといふありけるに、だいをうちよりいだしたりけるにしたがひて、よひよりあか月になるほどに、よみはて給ひたりけるに女かくれにけるぞ、いとくちをしかりける。周防内侍がゆかりなりければ内侍のとがにぞきく人申しける。大納言の御子は師能の弁とて、わかさのかみ通宗のむすめのはらにおはしき。そのあにおとゞに、師教師光などきこえ給ふ、三井寺に
證禅已講とて、よき智者おはしける、うせ給ひにけり。もろみつは小野宮の大納言能実のうまごにて、をのゝをみやの侍従など申すにや。大納言のつぎの御おとうとも、師時の中納言と申しし、そのはゝ侍従宰相基平のむすめなり。それも詩などよくつくり給ふなるべし。大蔵卿匡房と申ししはかせの申されけるは、このきみは、詩の心えてよくつくり給ふとぞ、ほめきこえける。からのふみものし給へることは、あにゝはおとり給へりけれど、日記などはかりなく、かきつめ給ひて、このよにさばかりおほくしるせる人なくぞはべるなる。そのふみどもは、うせ給ひてのち、鳥羽院めして、鳥羽の北殿におかせ給へりけるに、権太夫とかきつけられたるひつども、かずしらずぞ侍りける。宗茂菅軒などいひしがくさうの、上官なりしときはこのきみでしにおはして、くるまなどかしたまへりければ外記のくるまは、上らうしだいにこそたつなるを、中将殿のくるまとて、うしかひ一にたてゝ、あらそひなどしける、哥よみにもおはして、あにの大納言も、この君も、堀河院の百首などよみ給へり。為隆宰相は、大弁にて中納言にならんとしけるにも、宰相中将なれども、大弁におとらず、何ごともつかへ、除目の執筆などもすれば、うれへとゞめなどし給ひける。おほかたのものゝ上ずにて、鳥羽の御堂のいけほり、山づくりなど、とりもちてさたし給ふ
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とぞきこえ侍りし。ゆゝしくうへをぞおほくもち給へると、うけたまはりし、六七人ともち給へりけるを、よごとにみなおはしわたしけるとかや。冬はすみなどをもたせて、火おこしたる、きえがたにはいでつゝよもすがらありきたまひて、あさいをむまときなどまでせられけるとぞ。さてそのうへどもみななかよくていひかはしつゝぞおはしける。この中納言の御子は、中宮太夫師忠のむすめのはらに、師仲中納言とておはする、右衛門督のいくさおこしたりしをり、あづまにながされたまひて、かへりのぼりておはすとぞ、このあにども、少納言大蔵卿などきこゆる、あまたおはしき。おほいどのゝ御子は、入道中納言師俊とておはしき。大弁の宰相より中納言になりて、治部卿など申ししほどに、御やまひによりて、かしらおろし給ひて、たうのもとの入道中納言とぞきこえ給ひし。それもものよくならひ給ひて、詩などよくつくり給ふ。詩よみにもおはしき。このあにおとうとたち、かやうにおはすることわりと申しながら、いとありがたくなん。延喜天暦二代のみかど、かしこき御よにおはしますうへに、ふみつくらせ給ふかたも、たへにおはしますに、なかつかさの宮、又すぐれ給へりけり。つちみかどとの、ほりかはどの、あひつぎて、御身のざえふみつくらせ給ふかたも、すぐれ給へるに、つちみかど殿は、ざえすぐれ
ほりかは殿は、ふみつくり給ふこと、すぐれておはすとぞきこえ給ひける。この大納言中納言たちかくつかへ給ひて、六代かくおはする、いと有がたくやんごとなし。この大納言中納言殿たちの詩も哥も、集どもにおほく侍らん。中納言の御子は、少納言になり給へりし、のちは大宮亮とぞきこえける。そのおとうとは、寛勝僧都とて、山におはしけるこそ、あめつちといふ女房の、みめよきがうみきこえたりければにや。みめもいときよらに、心ばへもいとつき<しき学生にて、山の探題などいふこともしたまひけるに、あるべかしくいはまほしきさまに、いとめでたくこそおはしけれ。説法よくし給ひけるに人にすぐれても、きこえ給はざりしかど、あるところにて、阿弥陀仏しやくし給ひしこそ、法文のかぎりし給へば、きゝしらぬ人は、なにとも思ふまじきを、をとこも、女も、身にしみてたふとがり申して、きゝしりたるは、かばかりのことなしとおもひあへり。天台大師の經をしやくし給ふに、四の法文にて、はじめ如是より、經のすゑまでくごとにしやくし給へば、そのながれをくまん人のりをとかん。そのあとを思ふべければとて、はじめには因縁などいひて、さま<”の阿弥施仏をときて、むかし物がたりときぐしつゝ、なにごとも我心よりほかのことものやはある。
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ことの心をしらぬは、いとかひなし。あさゆふによそのたからをかぞふるになんあるべきなどとき給ひし、おもひかけず、うけたまはりしこそ、よゝのつみもほろびぬらんかしとおぼえ侍りしか。
 (六一)夢のかよひ路 S0703 ゆめのかよひぢ
ほりかはどのゝきんだち、大臣になりたまはぬぞくちをしき。春宮太夫は、一の大納言にてときにあひ給へりしに、なり給ふべかりしにをりふし、あきあふことなくえならでうせ給ひにき。わかくおはしける時に、御ゆめに採桑老といふまひをし給ふとみて、かたり給へりけるを、ものに心えぬ人の、宰相にてひさしくやおはしまさんずらむと、あはせたりける。いとあさまし。さいさうといふことはありとても、さい相とやは心うべき。くわといふ木をとるおきなといふ心とも、そのきをとりて、おひたりともいふにつきてぞ心うべきを、かゝるひがことのある也。されば大納言はらだちて、のたまひければにやありけん。さいひける人も、とくうせにけり。又大納言殿もまことに宰相にてひさしくおはしき。むかし九条の右のおとゞの御ゆめを、あしくあはせたりけんやうなることなり。宰相にてひさしくおはせざらましかば、大臣にはなり給ひなまし。又おほい殿の
いつきをとりすゑたまへりしかばにや、御すゑのつかさのぼりがたくおはすると申す人もあるとかや。九条どのゝ北の方の宮も、ひんなきことなれど、それはたゞ宮ばかりにおはしき。これはいつきにゐたまへる人を、こめすゑ申したまへりし、たぐひなくや。業平の中将もゆめかうつゝかのことにてやみにけり。道雅の三位も、ゆふしでかけしいにしへに、などいひて、しのびたることにこそ侍りけれ。これはぬすみいだして、とりすゑ給へれど、業平の中将にはかはりて、さきのなれば、さまであやまりならずやあらん。齋宮の女御なども、又いつきのおり給ひて、きさきになり給へるもおはせずやはある。又大臣までぬしのぼり給ひしかば、すゑのかたかるべきにあらず。おのづからのことなるべし。ほりかはどのは、僧子もおほくおはしき。小野法印、山の座主などきこえ給ひき。姫君は、ふけの入道おとゞの北の方にておはせし、のちには、御堂の御前などきこえて、御ぐしおろし給へりき。おとうとのひめぎみは、こにし給ひて、みだうをもゆづり給へるは、ほりかはの大納言の子の弁にぐし給へりけるとかや。それもさまかへておはするとぞ。又このゑのみかどの御はゝ女院も、左のおとゞの御むすめのうみたてまつり給へるときこえ給ひき。このほりかはどのは、七十になり給ふとし、御子
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のほりかはの大納言殿の、右兵衛督と申しし、ちゝのおとゞの御賀せさせ給ふとて、長治元年しはすの廿日あまり、ほりかはどのにて、御賀したてまつり給ふときゝ侍りしこそ、むかしのこときゝ侍るやうにおぼえ侍りしか。その殿にまゐる僧のかたり侍りしは、るりのみくにのほとけの、人のたけにおはします、かきたてまつりてこそ、かのきしのみのりに、かねのもじになゝまき、たゞのもじの御經なゝそぢ、うつしたてまつりて、僧綱有職など七人、請せさせ給ひて、くやうしたてまつらせ給ふ。一家の上達部殿上人、太政のおほいどの、内大臣と申ししよりはじめてわたり給ひて御仏くやうのゝち、舞人楽人など、左右のまひなどして、のちには御あそびせさせ給ふ。御みき聞こえかはしなどして、いひしらずめでたくきゝたまへりしが、中院の大将わかぎみにおはしける、十八ばかりにて、さうのふえふき給ひけるこそ、その日のめづらしく、なみだもおとしつべきことに侍りけれ。このおとゞよりは、六条大臣殿は、さきにうせ給ひにしかば、その御子の太政のおとゞはほりかはのおとゞに、なにごともたづねならひ給ひて、おやこのごとくなんおはしける。それにひかれて、こときんだちみななびき申し給ひけりとぞきゝ侍りし。
 (六二)根合 S0704 廿八△ねあはせ
六条の右のおとゞのきんだちは、まづほりかはのみかどの御母中宮その御はらに、前坊と、ほりかはのみかどと、をのこみやうみたてまつり給へり。をんなみやは、〓子の内親王と申すは、白川院の第一の御むすめ、いせのいつきにおはしましゝ、中宮うせさせ給ひにしかば、いでさせ給ひて、ほりかはのみかどのあねにて、御はゝぎさきになぞらへて、皇后宮にたゝせ給ふ。院号ありて郁芳門院と申しき。寛治七年五月五日、あやめのねあはせゝさせ給ひて、哥合の題菖蒲、郭公、五月雨、祝、恋なん侍りける。こまかには、哥合の日記などに侍るらん。判者は六条のおほい殿せさせ給へり。周防内侍恋の哥、
@ こひわびてながむるそらのうき雲や我下もえの煙成るらん W094
とよめりけるを、判者あはれつかうまつりたるうたかなと侍りければ右哥人かちぬとてこのうた詠じてたちにけるとなん。二位大納言の宰相におはせしにかはりて、孝善が、ひくてもたゆくながきねの、とよみとゞめ侍ぞかし。永長元年八月七日、かくれさせ給ひにき。そのとし、おほ田楽とてみやこにも、みちもさりあへず、神のやしろやしろ、このことひまなかりける、御ことあるべくてなどよに申しける。この御ことを、白河院なげかせ給ふこともおろかなり。これによりて、御ぐしおろさせたまへり。
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あさましなど申すもおろかなり。御めのとごの、まだわかくて、廿一とかきこえしも、法師になり侍りし。かなしさはことわりと申しながらも、わかきそらにいとあはれに、ありがたき心なるべし。日野といふところに、すむとぞきゝ侍りし。つぎのとしのあき、むかしの御こと思いでゝ、そのとものぶの大とこ
@ かなしさに秋はつきぬと思ひしをことしも虫のねこそなかるれ W095
とよみて、筑前のごとて、はくのはゝときこえしがもとに、つかはしたりければ筑前かへし、
@ 虫のねはこの秋しもぞなきまさる別のとほくなる心ちして W096
と侍りしを、金葉集には、きゝあやまりたるにや。かきたがへられてぞ侍るなる。六条院に御堂たてさせ給ひて、むかしおはしましゝやうに、女房さぶらひなど、かはらぬさまに、いまだおかれ侍るめり。御かなしみ、むかしもたぐひあれど、かゝること侍らず。御庄御封など、よにおはしますやうに、しおかせ給へれば、すゑ<”のみかどの御ときにも、あらためさせ給ふことなくて、このころも、さきの齊宮、つたへておはしますとぞ、きこえさせ給ふめる。
 (六三)有栖川 S0705 ありすがは
この中宮のひめみや、二条の大宮とて、女院の御おとうとおはしましゝ、令子内親王とて、齊院になり給ひて、後には鳥羽院の御母まで、皇后宮になり給ひて、大宮にあがらせ給ひにき。いと心にくき宮のうちときゝ侍りしは、侍従大納言三条のおとゞなど、まだげらうにおはせしとき、月のあかゝりける夜、さまやつして、みやばらをしのびてたちぎゝたまひけるに、あるはみなねいりなどしたるも有りけり。このみやにいりたまひければにしのたいのかた、しづまりたるけしきにて、人々みなねたるにやと、おぼしかりけるに、おくのかたに、わざとはなくて、さうのことの、つまならしして、たえ<”きこえけり。いとやさしくきこえけるに、きたのかたのつまなるつぼね、つまどたてたりければ月もみぬにやとおぼしけるに、うちに源氏よみて、さかきこそいみじけれ。あふひはしかありなどきこえけり。だいばんどころのかたには、さゞれいしまきて、らんごひろふおとなどきこえけるをぞむかしのみやばらも、かくやありけんとはべりける。またふるきうたよみ、摂津の子といふ、又六条とてわかきうたよみなどありて、をりふしにつけて、心にくきごたち、おほく侍りけり。為忠といひしが子の、為業といひしにや。いづれにかありけん。かの
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宮によるまゐりて、ごたちとあそびけるに、ためたゞ國にまかりけるほどなりけるに、とし老いたるこゑにて、やつはしとあまのはしだてと、いづれまさりておぼえさせ給ひしと、たよりにつたへ給へなどいひけるを、のちに又あるごたち、かくことづてし給ふ人をば、たれとかしりたまひたるといひければやつはし、あまのはしだてなど侍りけるに、心え侍りぬといひけるを、つぎの日よべ心えたりといはれしこそ、猶そのひとのことゝおぼゆるなどいひけるをきゝて、つのごとりもあへず、心えずのことや。ゝつはしなどいはんからに、われとや心うべき。ながらのはしといはゞこそ、われとはしらめといひけるも、をかしく、又つちみかどの齋院と申して、〓子内親王と申しておはしき。その齋院は、つねにのりのむしろなどひらかせ給ひて、法文のことなど、僧まゐりあひて、たふときことゞも侍りけり。雅兼入道中納言などまゐりつゝ、もてなしきこえ給ひけるとかや。哥なども、人々まゐりてよむをりも侍りけり。水のうへの花といふ題を、ときのうたよみども、まゐりてよみけるに、女房の哥、とり<”にをかしかりければむくのかみとしよりも、むしろにつらなりて、このうたは、囲碁ならばかたみせむにてぞよく侍らんなど、とり<”にほめられけるとぞ。ゝのひとりは、ほりかはのきみとて、顕仲伯のむすめの
おはせしうた、
@ 雪とちる花のしたゆく山水のさえぬや春のしるし成るらん W097

@ 春かぜにきしの桜の散まゝにいとゞ咲そふ浪の花哉 W098
このほかもきゝ侍りしかど、忘れにけり。入道治部卿の、あらしやみねをわたるらん。とよみ給ふ、そのたびの哥なり。白河院哥どもめしよせて、御らんじなどせさせ給ひけり。一院の御むすめなればにや。ことのほかに、あるべかしくぞ、宮のうち侍りける。女房中らうになりぬれば、みづからさぶらひにものいひなどはせざりけりとぞ、きこえ侍りし。この齋院かくれさせ給ひてのち、そのあとに、ほりかはの齋院つぎて、すみ給ひけるこそ、むかしおぼしいでゝ中院の入道おとゞよみ給ひける、
@ ありすがはおなじながれと思へども昔のかげのみえばこそあらめ W099。
 (六四)紫のゆかり S0706 廿九△むらさきのゆかり
中宮の御せうとたち、をとこもそうもさま<”おほくおはしましき。太政大臣雅実のおとゞと申ししは、中宮のひとつ御はらからにて、六条の右のおとゞの太郎におはし
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き。その御はゝ治部卿隆俊の中納言のむすめなり。こが のおほきおとゞと申しき。いと御身のざえなどはおはせざりしかど、よにおもく、おもはれたる人にぞおはせし。ちゝおとゞ、わがまゝなる御心にて、ひが<しきことも、したまひけるにも、このおとゞまゐり給ひければとゞまりたまひけり。白川院も、はぢさせ給へりけるとこそ、きこえ侍りしか。醍醐より、僧正の申さるゝことなど侍りけるを、このおとゞに、おほせられあはせければしる所などいくばくも侍らねば、さぶらふものどもに申しつけて、しもづかさなどいふことは、えしり給はぬことになんなど侍りければいとはづかしくあるかなと、おほせられけり。ほりかはのみかどの御とき、この少将とて、入道右のおとゞ、いはしみづのまひ人し給ふべかりけるに、中のみかどの内のおとゞ少将とておはするは、上らうなりけれど、一のまひは、中院ぞおほせられむずらんと、おぼしけるに、ちそく院の太殿の、関白におはするに、みかどもはゞかりて、むねよしの一のまひし給へりければ久我のおとゞきゝつけ給ひて、この少将をばよびとゞめてはらだちてこもり給ひければみかどもいださせ給ひて、心ゆるさむとて、かゝいを給はせたりければしかあらば、いでありかざらんもびんなしとて、よろこび申しなどせられけるに、関白殿
たいめんし給ひて、ことのついでなれば申すぞ。大饗にはおとゞ尊者に申さむずるなり。そのよしきこえしるべきなりなどありて、たのみておはしけるほどに、その日になりて、みせにつかはしたりければ御ものいみにて、かどさしておはしければ俊明の大納言をぞ尊者にはよび給ひける。四条の宮は、むげにくだりたるよかなとて、なかせ給ひけるとかや。りんじのまつりの一のまひ、少将のし給はぬ、やすからぬ心にて、かくたがへ給ふなりけり。その入道右のおとゞ、宰相の中将と申しゝ時、さねよしのおとゞの、三位中将とておはせし、こえて中納言になり給ひけるにも、太政のおとゞ、院をうらみ申し給ふときかせ給ひて、中宮のせうとにて、うちのせさせ給ふ。すぢなきことかなと、おほせられながら、長忠の宰相、左大弁にて中納言になりたりけるを、こを弁になさんと申しけるものをとて、中納言にて七八日ばかりやありけん。ながたゝをば、大蔵卿になしてこの能忠をば弁になしてぞ中院の宰相中将は、中納言になり給ふとうけ給はりし。待賢門院中宮にたゝせ給ひけるにや。白河院盛重とてありしを御使にて、太政のおとゞに、なにごとも、おもふことのかなはぬはなきに、上らう女房なん、心にかなはぬことはあるを、思ひかけず、上らう女房をまうけたることなん侍と、
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おほせられたりければいかなる人のことにかととひ給ふに、ほかばらのひめぎみのおはしける御ことなりけり。それをきゝ給ひて、御うしろみよびて、そのひめぎみのもとへ、さたしやることゞもはおこたらぬかとゝひ給へば、さらにおこたり侍らずと申すに、いまはそのさたあるまじとありければ御つかひもうしろみも、いとおもはずに思へりけり。御かへりいかゞと申しければうけ給はりぬとばかり申し給ひけり。院はともかくものたまはざりけりとなん。かやうに院にも関白にもはゞかり給はぬ人におはしけり。御心のあてなるあまりに、ものゝかずも、こまかにしり給はざりけるにや。をさめどのするさぶらひ人のもとに、きぬせさせにやれとありければふたつがれうには二ひきなんつかはしつると申しければひとつをこそ、二ひきにてはすれとの給ひて、おどろきたまひけるに、たくみのすけなにがしといふに、とひ給ひければおなじさまに申しけるにこそ、さはえしらざりけるにこそと、をれ給ひけれ。これをいへ人、かたりあひけるをきゝて、兼延といふ近衛とねりは、いづれのくにのきぬとかを、こまかにきりなどせさせ給ふところも、おはしますものをなどいひける、いとはづかしくこそ。このおほいまうちぎみ、おこり心ちわづらひ給ひけるに、白川院より平等院の僧正をつかはして、いのらせ
給ひけるに、おこたりたるふせにむまをひき給ひける。おほかたいひしらぬあくめになん侍りければ院きこしめして、われこそふせもうべけれど、もりしげといひしをつかはしておほせられければ院にありがたきものまゐらせんとて、むさしの大徳隆頼がつくりたる、こゆみのゆづかの、しもひとひねりしたるをとりいでゝ、うるしのきらめきたるさしてすりまはして、にしきのゆづるとりすてゝ、みちのくにかみしてひきまきて、にしきのふくろにもいれず、たゞみちのくにかみにつゝみて、たてまつられたりければいとめづらしきものなりと、たちかへりおほせられけるとぞきゝ侍りし。
 (六五)新枕 S0707 にひまくら
このおとゞの御子は、大納言顕通と申してちゝおとゞよりもさきにうせ給ひにき。その御子は、いまの内大臣まさみちの大将と申すなるべし。この大将の御はゝは、よしとしの治部卿のむすめにやおはすらん。又この御あにに、つのかみ廣綱のむすめのはらに、やまのざす明雲権僧正とて、いまだおはすなるこそ、よのすゑには、かやうなる天台座主はおはしがたくうけ給はれ。わがみちの法文をも、ふかくまなび給ふ。かた<”よにたふとくて、御心ばへもおもくおはするにや。山のうへこぞりて、もちゐたてまつりたるとかや。
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うちつゞきたもつ人、ありがたくきこえ給ふに、大衆などかねならして、おこることだに侍らぬとかや。又太政のおとゞの御子にては右大臣雅定と申して、さきにもまひ人のこと申し侍る。中院のおとゞとておはしき。御はゝは加賀兵衛とかいひしがいもうとにて、下らう女房におはせしかど、あにの大納言よりも、おぼえもおはしもてなし申し給ひき。このおとゞは、ざえもおはして、公事などもよくつかへ給ひけり。さうのふえなどすぐれ給へりける、時元とて侍りしを、すこしもたかへず、うつし給へるとぞ。まじりまろといふふえをも、つたへ給へり。まじりまろとは、からのたけ、やまとのたけのなかに、すぐれたるねなるを、えらびつくりたるとなん。まじりまろといふさうのふえは、ふたつぞ侍るなる。ときもとがあにゝて、時忠といひしもつくりつたへ侍るなり。むらといひて、いなりまつりなどいふまつりわたるものゝ、ふきてわたりけるふえのひゞきことなるたけのまじりてきこえ侍りければさじきにて時忠よびよせて、かゝるはれには、おなじくは、かやうのふえをこそふかめとて、わがふえにとりかへて、我をばみしりたるらん。のちにとりかへんといひければむらのをのこよろこびて、みなみしりたてまつれりとて、とりかへたりけるを、すぐれたるひゞきありけるたけをぬきかへて、えならずしらべたてゝ
たびたりければよろこびてかへしえてなん侍りける。そのまじりまろは、時忠がこの時秀といひしがつたへ侍りしを、こも侍らざりしかば、このころはたれかつたへ侍らん。ときたゝは刑部丞義光といひし源氏のむさのこのみ侍りしにをしへて、そのふえを、もとよりとりこめて侍りけるほどに儀光あづまのかたへまかりけるに、時忠もいかでか、としごろのほいにおくり申さざらんとて、はる<”とゆきけるを、このふえのことを思ふにやとや心えけん。わがみはいかでも有りなん。みちの人にて、このふえをいかでかつたへざらんとて、かへしたびたりければそれよりこそ、いとまこひてかへりのぼりにけれ。そのふえをかくたしなみたれども、時元わかゝりけるとき、武能といひて、えならずふえしらぶるみちのものありけるが、としたけてよるみちたど<しきに、時元てをひきつゝ、まかりければ、いとうれしくおもひてえならずしらぶるやうどもつたへて侍りければにや。いとことなるねあるふえになん侍るなる。この右のおとゞ、かゝるつたへおはするのみにもあらず、家のことにて胡飲酒まひ給ふこと、いみじく、そのみちえ給ひて、心ことにおはしける、そのまひも、資忠とてありしまひ人の、政連といひしといどみて、祇園の會に、はやしの日とか。ころされにければ忠方近方などいひしも、まだいといはけなくて、
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ならひもつたへぬぞ、太政のおとゞの、忠方にはをしへ給へるぞかし。しかあれども、このおほいどのばかりは、えつたへざるべし。政連はいづもにながされて、かのくにのつかさのくだりたるにもをしへ、又この友貞とかいふも、京へのぼりて、顯仲とかいひし中納言にも、をしへなどすときゝしかども、このおほいどのゝつたへ給へるばかりは、いかでか侍らん。あにの忠方は胡飲酒をつたへ、おとうとの近方は、採桑老を天王寺の公貞といひしにつたへて、このころは、そのこどものあにおとうと、すぢわかれてまひ侍るとなん。たゞかたちかゝだ、落蹲といふまひし侍りしは、おとうとは、あにのかたをふまぬさまにまひ侍りしは、めづらしき事に侍りしを、こどもはいかゞ侍るらんと、ゆかしくこの右のおとゞは、御心ばへなど、すなほにて、いとらうある人にておはしけるうへに、のちのよの事など、おぼしとりたる心にや。わづらはしきこともおはせで、いとをかしき人にぞおはせし。まだわかくおはせしころにや。いよのごといふをんなを、かたらひ給ひけるに、ものし給ひ、たえてほどへぬほどに、やましろのさきのつかさなる人になれぬときゝて、やり給へりける御哥こそ、いとらうありて、をかしくきゝ侍りしか。
@ まことにやみとせもまたで山城の伏見の里ににひ枕する W100
と侍りける。むかし物がたりみる心ちして、いとやさしくこそうけ給はりしか。おほかた哥よみにおはしき。殿上人におはせしとき、いはしみづのりんじのまつりの使、したまへりけるに、その宮にて、御かぐらなどはてゝ、まかりいで給ひけるほどに、まへのこずゑに郭公のなきけるをきゝたまひて、としよりの君の、陪従にておはしけるに、むくのかうの殿、これはきゝ給ふやと、侍りければ思ひかけぬはるなけばこそはべめれと、心とくこたへ給ひけるこそ、いとしもなき哥よみ給ひたらむには、はるかにまさりてきこえける。四条中納言、このれうによみおき給ひけるにやとさへおぼえて、又きゝ給ひておどろかし給ふも、いうにこそ侍りけれ。かやうにおはせん人、いとありがたく侍り。出家などし給ひしこそ、いときよげに、めでたくうけ給はりしか。べちの御やまひなどもなくて、たゞこのよはかくて、後の世の御ためとて、右大臣左大将かへしたてまつりて、かはりたまはらんなどいふ御まうけもなくて、中院にてかしらおろして、こもりゐたまへりしこそ、いと心にくゝ侍りしか。御こもおはせねば、あにの御こ、いまの内のおとゞ、又雅兼の入道中納言の御こ、定房の大納言、やしなひ給へるかひありて、くらゐたかく、おの<なり給へり。御のうどもをつぎ給はぬぞくちをしく侍る。内のおとゞ
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の御こも少将とてふたりおはすなり。
 (六六)武蔵野の草 S0708 むさしのゝくさ
六条の右のおとゞは、おほかたきんだちあまたおはしき。太政のおとゞにつぎたてまつりては、大納言雅俊とておはしき。御はゝはみのゝかみ良任ときこえしむすめのはらなり。京極に九躰の丈六つくり給へり。その御子は、はら<”にをとこ女あまたおはしき。伊与のかみ為家のぬしのむすめのはらに、神祇伯顯重と申しき。もとはさきの少将ひぜんのすけにてぞひさしくおはせし。そのおなじはらに、四位の侍従顯親と申して、後は右京権太夫、はりまのかみなどきこえき。おなじ御はらに、かうづけのかみあきとしとておはしき。中宮の御おほぢにやおはすらん。憲俊の中将ときこえし、のちには、大貳になり給へりき。百郎と御わらはなきこえ給ひき。又摩尼ぎみときこえ給ひし左馬権頭など申しき。このほかにも、かうづけ、越中などになり給へるきこえき。又そう子もおほくおはするなるべし。大納言のおなじ御はらに、中納言國信と申しておはしき。ほりかはの院の御をぢの中にことにしたしくさぶらひ給ひけるとぞきこえ侍りし。哥よみにおはして、百首の哥人にもおはすめり。この中納言のひめぎみ、おほいぎみは、ちかくおはしましゝ摂政殿の御はゝ、
二位と申すなるべし。つぎには、入道どのにさぶらひ給ひて、さりがたき人におはすなり。第三のきみは、いまのとのゝ御はゝにおはします。三位のくらゐえ給へる成るべし。うちつゞき二人の一の人の御おほぢにて、いとめでたき御すゑなり。この中納言の御子に、四位の少将顯國とておはしき。そのはゝは、さきの伊与のかみ泰仲のむすめときこえき。その少将、いとよき人にて、哥などよくよみ給ひき。とくうせ給ひにき。少将のひとつはらのおとうとにやおはしけん。備前前司修理権太夫、越後守などきこえ給ひき。又六条殿の御子に、顯仲伯ときこえたまふ、大納言中納言などのあにゝやおはしけん。そのはゝは肥前のかみ定成のむすめのはらにやおはすらん。哥よみ、笙のふえの上手におはしけり。きんさとゝいひしが、調子をすぐれてつたへたりけるを、うつしならひ給へりけるとぞ。その御子、あはぢのかみ宮内大輔などきこえき。覚豪法印とて、法性寺殿の、仏のごとくにたのませ給へるおはしき。そうこもあまたおはするなるべし。女子はほりかはのきみ、兵衛のきみなどきこえ給ひて、みな哥よみにおはすときこえ給ひし。あね君はもとは前齋院の六条と申しけるにや。金葉集に、
@ 露しげき野べにならびてきり<”す我たまくらの下に鳴也 W101
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とよみたまへるなるべし。ほりかはとはのちに申しけるなるべし。かやうなる女哥よみは、よにいでき給はんこと、かたく侍べし。又やまもゝの大納言顯雅とて、六条のおほい殿の御子おはしき。そのすゑいとおはせぬなるべし。御むすめそ、鳥羽の女院の皇后宮の時、みぐしげどのとておはせし。女院の御せうとの、ひごのぜんじときこえしは、大納言のむこにおはせしかばなるべし。その大納言の御くるまのもんこそ、きらゝかにとをしろく侍りけれ。おほかたばみのふるきゑに、弘高金岡などかきたりけるにや。それをみてせられけるとぞ。いまはのり給ふ人も、おはせずやあらん。ものなどかき給ふことも、おはせざりけるにや。行尊僧正のもとに、やり給へりけるふみのうはがきには、きゝざうはうとうゐんの僧正の御ばうにとぞありける。かんなゝらば、きん<上なくてもあるべけれど、えかき給はぬあまりにやありけん。ことのはもえきこえ給はざりけり。たゞ車をぞなべてよりよくしたてゝ、うしざうしきゝよげにてありき給ひける、車などよくするは、まさなきことゝて、はげあやしくなれども、にはかにかきすゑたるこそ、しかるべき人はさもすると申すこともあるべし。これも又ひとつのやうにて、つやゝかにしたまひけるにこそ。かぜなどのおもくおはしけるにや。ひがことぞつねにしたまひける。
雨のふるに、車ひきいれよといはんとては、くるまふる。しぐれさしいれよと侍りければくるまのさま<”そらよりふらん、いとおそろしかるべしなど、思ひあへりける。かやうのことを、ほりかはの院きこしめして、ひがことこそ、ふびんなれ。いのりはせぬかと、おほせられければ御返事申されけるほどに、ねずみのはしりわたりければさればとう身のねずみつくらせ候ふと、申されければおほかたいふにもたらずとなんおほせられける。これはしなのゝかみ伊綱のむすめのはらにおはするなるべし。おなじはらに信雅のみちのくのかみとておはしき。かゞのかみ家定とて、久しくおはせしが、のちにみちのくにはなり給へりし也。その子は成雅のきみとて、知足院の入道おとゞ、てうし給ふ人におはすときこえき。のちにはあふみの中将ときこえしほどに、みやこのみだれ侍りしをり、左大臣殿のゆかりに法師になりて、こしのかたに、ながされ給ふときこえし、かへりのぼり給へるなるべし。そのなりまさの中将のあにゝもおとうとかにて、房覚僧正とて三井寺にげんざおはすとぞきこえ給ふ。又六条どのゝ御子に、いなばのかみ惟綱のむすめの内侍のはらに、雅兼の治部卿と申す中納言おはしき。さいかくすぐれ給ひ、公事につかへ給ふことも、むかしもありがたき人になんおはしける。詩つくり、うたよみにおはしき。たかくもいたり給ふべかり
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しを、御やまひにより出家し給ひて、ひさしくおはしき。鳥羽院大事おほせられあはせんとてつねはめしいでゝ、たいめんせさせ給ふをりども侍りけり。この入道中納言のきんだちぞ、この御ながれには、かんだちめなどにてもあまたきこえ給ふ。右中弁雅綱ときこえ給ひし、よくつかへ給ふとて、四位少将などに、めづらしくなりおこし給へりし、とくうせ給ひにき。その御おとうとに、能俊の大納言のむすめの御はらに、たうじ中納言雅頼ときこえ給ふこそ、入道治部卿の御子には、ふみなどつたへ給ふらめ。いへをつぎ給へる人にこそ。おなじ御はらに、そのつぎに大納言と申すは、入道右大臣の御子にしたまひて、たかくのぼり給へるなるべし。その御おとうと、四位少将通能と申すなるは、琴ひき給ふとぞきこえ給ふ。清暑堂のみかぐらにも、ひき給ひけるとなん。師能の弁とておはせし、やしなひ申し給へるときゝ侍りし、これにやおはすらん。六条のおほいどのゝきんだちなど、僧もおほくおはすれど、さのみ申しつくしがたし。山に相覚僧都とて、おほはらにすみたまふおはしき。だいごには、大僧正定海とて、さぬきのみかどのごぢそうにおはしき。なかには山しなでらの隆覚僧正、東大寺の覚樹僧都と申ししは、東南院ときこえ給ひき。みなやんごとなき学生におはしき、又覚雅僧都とてもおはしき。哥よみにぞ
おはせし。すゑの世の僧などさやうによまんは有がたくや侍らん。白川院の、いとしもなくおぼしめしたる人にておはしけるに、としよりのきみ、金葉集えらびてたてまつりたりけるはじめにつらゆき、はるたつことをかすがのゝ、といふ哥、そのつぎに、覚雅法師とていり給へりけるを、つらゆきもめでたしといひながら、三代集にももれきて、あまりふりたり。覚雅法師も、げにもともつゞきおぼえずなど、おほせられければふるき上手どもいるまじかりけり。またいとしもなくおぼしめす人、のぞくべかりけりとて、おぼえの人をのみとりいれて、つぎのたびたてまつりければこれもげにともおぼえずとおほせられければまたつくりなほして、源重之をはじめにいれたるをぞとゞめさせ給ひけるは、かくれてよにもひろまらで、なかたびのが世にはちれるなるべし。又山におはせし妙香院の清覚内供などきこえ給ひし、その内供のひとつはらにやはたの御はらにや治部大輔雅光ときこえ給ひしうたよみおはしき。人にしられたる哥、おほくよみ給へりし人ぞかし。あふまでは思ひもよらず。又身をうぢがはのはしはしら、などきこえ侍るめり。その御子には、實寛法印とて山におはす。六条殿の御子は、又をとこも、たんばのぜんじ、いづみのぜんじなど申して、おはしき。はか<”しきすゑもおはせぬなる
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べし。
 (六七)藻塩の煙 S0709 もしほのけぶり
二条のみかどの御時、ちかくさぶらひ給ひてかうのきみとかきこえ給ひしはことの外にときめき給ふときこえ給ひしかば、ないしのかみになり給へりしにやありけん。たゞまたかうの殿など申すにや。よくもえうけ給はりさだめざりき。それこそは、六条殿の御子の季房のたんばの守のこに、太夫とか申して、いせにこもりゐたまへる御むすめときこえ給ひしか。かの御時、女御きさき、かた<”うちつゞきおほくきこえ給ひしに、御心のはなにて一時のみさかりすくなくきこえしに、これぞときはにきこえ給ひて家をさへにつくりて給はり、よにもゝてあつかふほどにきこえ給ひて、みかどの御なやみにさへ、とがおひ給ひしぞかし。御めのとの大納言の三位なども、いたくなまゐり給ひそなど侍りけるにや。あるをりはつねにもさぶらひたまはずなどありけるとかや。かつは御おぼえの事など、いのりすぐし給へるかたもきこえけるにや。かつはきゝにくゝもきこえけるとぞ。おもらせたまひけるほどに、としわかき人なれば、おはしまさゞらんには、いかにもあらんずらん。御せうそこども、かへしまゐらせよとありければ、
なく<とりつかねてまゐらせければ信保などいふ人うけ給はりて、かきあつめさせたまへる、もしほのけぶりとなりけむも、いかにかなしくおぼしけん。御ぐしのたけにあまり給へりけるも、そぎおろさばやとぞきこえけれど、心づよき事かたくて月日へけるほどに、御心ならずもやありけん。むかしにはあらぬことゞもいできて、わかき上達部の、時にあひたるところにこそ、むかへられ給ひてと、きこえ侍るめれ。めし返させ給ひけん、やんごとなきみづぐきのあとも、いまやおぼしあはすらん。いとかしこくこそ。
六条のおとゞいとあさましく、すゑひろくおはします。昔よりふぢなみのながれこそ、みかどの御おほぢにては、うちつゞき給へるに、ほりかはの院の御おほぢに、めづらしくかくすゑさへひろごらせたまへる一の人の御おほぢに、うちつゞきておはしますめり。六条殿の御むすめは、ほりかはの院の御時、承香殿と申しけるは、女御のせんじなどはなかりけるにや。だいごにおはすときこえしちかくうけ給ひにき。ほりかはどの、六条どのゝ御おとうとに、中宮太夫師忠の大納言おはしき。その御はゝは、ほりかはのよりむねの右のおとゞの御むすめなり。この大納言の御こは、左馬頭師澄とて、千日のかうひさしくおこなひ給ひて、
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のちは大蔵卿と申しき。その御おとうとは、師親の四位の侍従など申しておはしき。又大納言の御こには、仁和寺の大僧正寛遍と申すおはしき。備中の守まさなかのむすめのはらにやおはしけん。たかまつの院の中宮とて、御ぐしおろさせ給ひし、かいの師におはしけり。東寺の長者にて、ちかくうせたまひにけり。中宮太夫の御おとうと廣綱とておはしき。四位までやのぼり給ひけん。摂津の守など申しゝにや。又ほりかは殿などのおなじはらにやおはしけん。仁覚大僧正と申しし、山の座主おはしき。それは中宮の太夫のあにゝやおはしけん。またことはらに、やましなでらの實覚僧正など申しておはしき。荘厳院の僧都と申ししなるべし。