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◎〔ふぢなみの下〕第六
(四八)絵合の歌 S0601 廿二ゑあはせのうた
たかつかさ殿の御はらの公だちの御ながれみな申し侍りぬ。たかまつの御はらの、ほりかはの右大臣よりむねのおとゞこそ、関白にはなり給はざりしかども、女御たてまつりなどし給ひ、すゑのきみたちも、ちかくまでくらゐたかくおはする、あまたきこえたまひしが、このおとゞみだうの第二の御子におはす。御はゝは、西宮の左大臣高明のおとゞの御むすめ也。永承二年八月一日、内大臣になり給ふ。御年五十四、大将もとのまゝにかけたまひき。康平三年に右大臣になり給ひき。御とし七十三ときこえき。和哥のみちむかしにはぢずおはしき。哥よみは貫之かねもり、ほりかはのおほい殿、千載の一過とかやある人申し侍りけると申しいだしたる、人はえきゝはべらず。御集にもすぐれたる哥おほくきこえ、撰集にもあまだいり給へり。いたく人のくちならし侍御哥は、はなもみぢたなばた千鳥など、かずしらずきこえ侍るめり。中にも恋のうたは、いたく人のくちずさびにもし侍る、おほくよみ給へりき。こひはうらなしなどよみ給へるぞかし。この御哥のさまは、
めづらしき心をさきにし給へるなるべし。帥のうちのおとゞの御むすめのはらに、君だちあまたおはしき。後朱雀院の御時、女御にたてまつり給へりし、れいけいでんの女御と申すなるべし。みかどかくれさせ給ひてのち、さとにまかりいで給へりけるに、うゑおき給へりけるはぎを、またのとしの秋、人のをりて侍りけるをみ給ひて、よみ給ひける、
@ こぞよりも色こそこけれはぎの花涙の雨のかゝる秋には W073
その女御のうみたてまつり給へりけるひめ宮、かものいつきときこえ給ひき。このみやえあはせし給ひしに、卯の花さけるたまがはのさとゝ、相模がよめるはなだかき哥にはべるめり。三のきみは後三条院の春宮と申ししとき、みやすどころにまゐり給へりき。このおとゞの太郎にては、兼頼中納言おはしき。御はゝは、女御のひとつ御はらなり。いとすゑのはか<”しきもおはせぬなるべし。つぎには右大臣としいへのおとゞ、大宮の右のおとゞときこえ給ひき。この御すゑおほくさかえさせ給ふめり。その御子は宗俊の大納言、御母は宇治大納言隆國のむすめ也。管絃のみちすぐれておはしましける、時光といふ笙のふえふきにならひ給ひけるに、大食調の入調をいま<とて、としへてをしへ申さゞりけるほどに、あめかぎりなくふりて、くらやみしげかりける夜いできて、こよひかのものをしへたてまつら
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んと申しければ、よろこびてとくとの給ひけるを、とのゝうちにてはおのづからきく人も侍らん。大極殿へわたらせ給へといひければさらにうしなどとりよせておはしけるに、御ともには人侍らでありなん。時光ひとりとて、みのかさきてなん有りける。大極殿におはしたるに、なほおぼつかなくはべりとて、ついまつとりて、さらに火ともしてみければはしらにみのきたるものゝたちそひたる有りけり。かれはたれぞと、とひければ武能となのりければさればこそとてその夜はをしへ申さで、かへりにけりと申す人もありき。またかばかり心ざし有りとて、をしへけりともきこえ侍りき。それはひが事にや侍りけん。かの武能もそのみちの上手なりけるに、たれにかおはしけん。一の人のたれにならひたるぞととはせ給ひければ道のものにもあらぬ法師とかよくならひたるものありけるになん、つたへてはべるなど申しければ猶時光がでしになるべきなりとおほせうけ給はりて、みやうぶかきてかれがいへにいたりて、それがしまゐりたりといはせければいどみて、としごろかやうにもみえぬものとて、おどろきてよびいれければ時光ははなちいでに、ふえつくろひてゐたりけるに、たけよし庭にゐてのぼらざりければそでのはたをひきて、のぼせていかにとゝひければとのゝおほせにて、
御弟子にまゐりたるなりといへば、いと心ゆきて、なにをかならひ給ふべきといふに、大食調の入調なん、まだしらぬものにてうけ給はらんと、思たまふなどいふに、けしきかはりて、太郎子に侍りける公里がまへなりけるを、このわらはにをしへ侍りてのちにこそこと人にはさづけたてまつらめ。これはたちまちにおぼしよるまじきことゝいひければこのきみつたへられんこと、たちまちのことにあらじとて、みやうぶとりかへして、かへりいでゝとしへけるのち、心ふかくうかゞひて、きかんとするなりけり。昔の物のしは、かくなん心ふかくて、たはやすくもさづけざりける。その大納言はさやうにみちをたしなみて、やんごとなくなんおはしける。
(四九)唐人の遊び S0602 から人のあそび
あぜちの御こにては、備中守實綱といひし、はかせのむすめのはらに、右大臣宗忠のおとゞ又堀川の左のおとゞの御むすめのはらに、太政のおとゞ宗輔など、ちかくまでおはしき。右のおとゞは中御門のおとゞとて、催馬楽の上手におはして、御あそびなどには、つねに拍子とり給ひけり。才学おはして尚歯會とて、としおいたる時の詩つくりのなゝたりあつまりて、ふみつくることおこなひ給ひき。からくにゝては、白楽天ぞ序かきたまひ
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て、おこなひ給ひけり。このくにゝはこれくはへて、みたびになりにけり。からくにゝは、ふたゝびまでまさりたることにきこえ侍りしに、ちかくわたりたるから人の、またのちにおこなひたる、もてわたりたりけるとぞきゝ侍りし。としのおいたるを、上らふにてにはにゐならびて、詩つくりなどあそぶ事にぞはべるなる。このたびは、諸陵頭為康といふおきな一の座にて、そのつぎにこのおとゞ、大納言とておはしけん。いとやさしく侍りし、蔵人頭よりはじめて、殿上人垣下してから人のあそびのごとくこのよのことゝもみえざりけり。おとうとの宗輔のおほきおとゞはふえをぞきはめ給ひける。あまり心ばへふるめきて、この世の人にはたがひたまへりけり。菊や牡丹など、めでたくおほきにつくりたてゝこのみもち、院にもたてまつりなどして、こと<のよのようじなど、いと申し給ふことなかりけり。あまりあしそはやくおはすとて、御ともの人もおひつき申さゞりける。思ひかけぬことには、はちといひて、人さすむしをなんこのみかひ給ひける。かうなるかみなどにみつぬりてささげてありき給へば、いくらともなくとびきてあそびけれど、おほかたつゆさしたてまつることせざりけり。あしだか、つのみじか、はねまだらなんどいふなつけて、よばれければめしにしたがひてきゝしりてなんきつゝ、むれゐける。うへなどいふ人もいとさだめ給はざり
けるにや、をさなきめのわらはべをぞあまた御ふところにはふせておはしける。しり給ふところより、なにもてくらんともしり給はで、あづかりたるものなどとりいづることあれば、こはいづくなりつるぞなどいひて、よによろこびたまひけりとぞ、おやは大臣にもなり給はざりしかども、このふたりはたかくいたり給へりき。中御門の右大臣宗忠の御子は、宗能の内大臣ときこえ給ふ。みのゝかみゆきふさのむすめのはらにやおはすらん。大臣もじしたまひて、御ぐしおろして、まだおはすとぞうけたまはる、おとなしき人だにこの世にはおはせず。いかなるにかわかきひとのみ、上達部にもおはするよにやとせにやあまり給ひぬらん。ひとりのこりたまへるとぞ。宰相中将など申ししほど、なほしゆるされておはしけるとかや。さぬきのみかどの御時、御身したしき上達部にもおはせぬに、思かけずなどきこえき。さきの關白かなど、あざける人などもおはしけるとかや。おほかたはことにあきらかに、はか<”しくおはして、御さかしらなども、したまへばなるべし、やすきことなれども、をさなくおはしますみかどなど、つねには五節の帳臺の試みなどにいでさせ給ふことまれなるに、さぬきのみかど、おとなにならせ給ひて、はじめていでさせ給ひしに、御さしぬきは、なにのもんといふことも、をさめどのゝ蔵人、おぼつかなく
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おもへるに、あられぢにくわんのもんぞかしなど、蔵人の頭におはせし時、の給ひなどして、さやうのことあきらかにおはしき。みかどの御さしぬきたてまつることは、ひとゝせにたゞひとたびぞおはしませば、おぼつかなくおもへるもことわりなるべし。このおとゞもさいばらの上手におはして、御こゑめでたくおはすとぞ、その御子は、贈左大臣長實の御むすめのはらに、中納言とておはすとぞ。右のおとゞの御子は、宗成のさ大弁の宰相とておはしき。又刑部少輔宗重とて、びはひき給ふ人ぞおはしける。何事の侍りけるにか。よる河原にて、はかなくなり給ひにけり。いかなるかたきをもち給へりけるにか。またやましな寺に覚静僧都と申ししも、みなおなじ御はらなるべし。その僧都こそ、すぐれたる智者におはすとうけ給はりしか。のりもよくとき給ふとて、鳥羽院などにても、御講つとめたまひき。むねすけのおほきおとゞの御子は、前中納言兵部卿と申すとかや。ふえもおやの殿ばかりはおはせずやあらん。ふき給ふとぞ申すめる。大宮の右のおとゞのきんだちあまたおはしき。宰相中将諸兼と申ししその御子に、少将おはしき。宰相のおとうとに、基俊の前左衛門佐と申ししは、下野守順業ときこえしむすめのはらにやおはしけん。そのさゑもんの佐は、哥よみ詩つくりにておはすときこえ侍りしが、
さばかりの人の、五位にてやみ給ひにしこそ口をしくあまりすぐれて、人ににぬ事などのけにや有りけん。いはもるし水いくむすびしつなどよみ給へるぞかし。九十ばかりまでおはしき。なゝのおきなにもいり給へりけるとぞきこえ侍りし。山の座主寛慶ときこえしも、大宮のおとゞの御子とぞきこえし。大乗坊とかや申しけん。
(五十)旅寝の床 S0603 廿三△たびねのとこ
すゑのこにやおはしけむ。大納言宗通の民部卿と申ししこそ、大宮どのゝ御子には、むねとときめき給ひしか。すゑもひろくさかえ給へり。白河院の御おぼえにおはしき。あこまろの大納言とぞきこえ侍りし。哥をもをかしくよみ給ひけるにこそ。行尊僧正のよゐして、とこわすれ侍りけるを、つかはすとてよみ給ふこそ、いとむかしの心ちして、
@ 草枕さこそかりねのとこならめけさしもおきてかへるべしやは W074
かへしはをとりたりけるにや。えきゝ侍らざりき。その公達は、顕季の三位のむすめのはらにおほくおはしき。信通宰相中将と申しし、ふえの上手にておはしけり。是は世おぼえおはすときこえ給ひき。白河院の殿上人に、むさのさうぞくせさせて御らんじける
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に、しげめゆひのすいかんきて、やなぐひおひ給へりけるこそ、しなすぐれておはしけるにや。こと人はともひとの様にて、このきみこそこあるじなどいはむやうにおはしけると人の申しし、ひがことにや。わらはやみしてうせ給ひにけりとぞきゝ侍りし。いと人のしなぬやまひにこそ、つねはきゝ侍るに、おほかたはこのすゑの御ものゝけこはくおはするにや。民部卿のうせ給ひけるほどにも、いへまさがありつるは、まだあるかなどの給はせければさも侍らず。はかなくなりてとしへ侍りにしものは、いかでか侍らんなど人申しければうやかきてまさしくありつるものをとの給ひけるは、そのいへまさといふがおやのゆづりたるところをとり給ひけるを、からくおもひけるほどに、よせふみをたてまつれ。あづけんなど侍りければよろこびてたてまつりけれど、あづからざりけるとぞ聞侍りし。いへまさとはさねしげとて、式部大夫とかきこゆるがをぢになんきこえし、故宰相うせ給ひけるにも、卿殿おはしまさねば、候はんとてなんどいひていできたりけるとかや。さてそのところは、むすめたづねいだしてかへざるなどきこえ侍りし。のちいかゞ侍りけん。これならず大宮のおほいどのゝ、ものゝけなどいふものも侍るが、としおいたりける僧のしる所侍りけるを、それもさまたげ給ひければまゐりて、中門の
らうにつとめてより、ひたくるまでゐたりけれど、いへ人も御けしきにやよりけん。申しもつがざりけるを、民部卿をさなくて、うつくしきわか君の、あそびありき給ふに、この僧のいとをしくつく<”とをりければとぶらひてわれ申さんとて、殿に申し給ひければ人いだしてとはせ給ひけるに、しか<”の所のこと、こたへ申し侍るなど申しければそのよしあることなどこまかにいひいだし給へりけるを、ことわりの侍らんは、とかく申すべくも侍らず。としごろもしるべくてこそ、ひさしくもしり侍らめ。なにかは申すべからず。いのちのたえ侍りなむずることのかなしくてと申しければいはれのあればとて、かなひ侍らざりければいかにもいのちたえ侍りなんとす。たゞしわかぎみをばなさけおはしませば、まぼりたてまつらんと申しければ、それもゝのゝけにいでけるを、まもらんといひしはなどありければさ申しちぎりおもふたまふれば、まもりたてまつるに、その御ゆかりとおもふによりて、おのづからまいりよるなりとぞいひける。宰相中将の公だちは、基隆三位のむすめのはらに行通中将ときこえ給ひし、つかさもじゝ給へりし、ほふしになりておはするとぞ、ことはらのいまひとりおはするとかや。ふたりながら、いよの入道とぞきこえ給ひし。おもひかけぬやうなる御なゝるべし。
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(五一)弓の音 S0604 ゆみのね
そのむねみちの大納言の次郎におはせし、太政大臣伊通のおとゞおはしき。詩などつくり給ふかた、いとよくおはしけり。てもよくかき給ひけり。よきかんだちめとておはしけるに、あまりいちはやくて、よのものいひにてぞおはしける。こもりゐ給へりしをりも、御幸などみ給ひては、百大夫へんじて、百殿上人になりにけりなどのたまひ、またこもりゐたるはくるしからねど、よにまじろはまほしきことは、人のいたくゑぼしのしりたかくあげたるに、うなじのくぼにゆひていでんとおもふなりなど、世ににぬやうにのたまひけり。また信頼右衛門督、むさおこしてのち、除目をおこなへりし、み給ひては、などゐはつかさもならぬにかあらん。ゐこそ人はおほくころしたれなど、かやうのことをのみの給ふ人になんおはしける。こもりゐ給ひしことは、宰相におはせしに、われより上らう四人中納言になれるに、われひとりのこりたり。たとひ上らうなりとも、のちに宰相になりたる人もあり。われこそなるべきに、ひとりならずとて宰相をも、兵衛督をも中宮権太夫をも、みなたてまつりて、ひさしくこもり給へりき。人にきこえられたることもなし。こと人ならばさてもおはすべけれども、はらだちてこもり
給へりしに、為通宰相の太郎子におはせし、さぬきの御かどの、御おぼえにおはせしほどに、太政大臣さきの宰相にて、なりもかへらで、中納言になり給ひき。陣の座の除目に、かんだちめになる例は、これやはじめにて侍りけんとぞきゝ侍りし。内より院に申させ給ひ、はからはせ給へと關白におほせられよなど申させ給ひけるにや。さまで御気色もあしくもなかりければなさむとせさせ給ふを、法性寺のおとゞ関白にて、あるまじきことゝたび<申させ給ひければいつとなくしぶらせ給ひけれど、院にたび<御つかひなどありて、陣の座にて中納言になり給ひにき。御前にておこなはるゝ除目にこそ、かんだちめはなさるなるに、これよりはじまりて、このころはさてなさるゝとぞきこえ侍る。うへの御せうとなれば、殿にはさりがたくおはすべけれど、れいなきことゝ申させ給ひけるにこそ。つかさをもかへしたてまつりて、いりこもり給ひけるとき、びりやうげの車やぶりて、いへのまへの大宮おもてのおほぢにて、とりいだしてやきうしなひ給ひけるは、節會の日にて侍りけるとかや。さてこんのすいかんに、くれなゐのきぬとかきて、馬にてかはじりへ、かねとかいふあそびがりおはしけるみちに、鳥羽の樓をなんすき給ひける。かくて年月をわたりてありかんと思ふと、
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院の御おぼえなりし中納言に消息し給ひければさもとおぼしめしけれど、うちまかせてもえなくても、みかどのせさせ給ふありざるなりけるなるべし。さきの宰相にて中納言になる例なき事なれど、隆國の宇治にこもりゐて、前中納言より大納言になりたることのなぞらへつべきによりてぞなり給ひける。宰相にまづかへしなさんと御氣色ありけるを、さては有かんともなかりければかたき事なりとはべりけるなるべし、さていりこもり給ひしとき、中院大将まだ中納言など申ししをりにや。そのゆみをかり給へりけるが、つかさたてまつりてかへしたまふとて、
@ とゝせあまりてならしたりしあづさ弓かへすにつけてねぞなかれける W075
とはべりけるかへしに中の院、
@ さりとても思ひなすてそあづさ弓ひきかへすよも有もこそすれ W076
と侍りけるかひありて、右衛門督になり給へりき。御むすめこのゑのみかどの御時、女御にまゐり給へりし、后にたち給ひて、みかどかくれさせ給ひにしかば、御ぐしおろし給ひてけり。九条院と申すなるべし。法性寺殿の御子とてまゐり給へれど、まことにはこの御子なれば、いとめでたき御名なり。きさきにはたち給へれど、院の御むすめ、
一の人などならぬはかたき事にてはべるなる。御みめも御けはひも、いとらうある人になんおはすとて、鳥羽院もいと有がたくとぞほめさせ給ひける。このゑのみかどのかくれさせ給ひて、御ぐしおろしたまひてまたのとし、さ月のいつかの日、皇嘉門院にたてまつらせ給ひける、
@ あやめ草ひきたがへたるたもとには昔をこふるねぞかゝりける W077
御かへし
@ さもこそはおなじたもとの色ならめかはらぬねをもかけてける哉 W078
と侍りけるとぞきこえ侍りし。太政のおとゞの太郎にておはせし、さいしやうとてうせ給ひにき。その宰相は二郎か太郎かにおはすとて、おほぢの大納言殿、自他君とわらはなつけ申し給ひけり。その宰相の御子は、このころやすみちの少将と申すなる、侍従大納言の子にし給ひておはしけり。またも御子はおはすとて、伊實中納言と申ししは、顕隆の中納言のむすめのはらにて、むかひ腹とてむねとし給ひしかば、あにの宰相よりもときめき給ひき。あにおとゝみなふえをぞふき給ひし。ふたりながらおほい殿よりさきにかくれたまひにき、これざねの中納言の子に、少将侍従など申して
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おはす也。むねみちの大納言の三郎にて、季通前備後守とておはしき。文のかたもしり給ひき。箏のことびはなど、ならびなくすぐれておはしけるを、兵衛佐より四位し給ひて、この御中にかんだちめにもなり給はざりしこそくちをしく、さやうのみちのすぐれ給へるにつけても、色めきすぐし給へりけるにや。
(五二)雁がね S0605 かりがね
かの九条の民部卿四郎にやおはしけん。侍従大納言成通と申すこそ、よろづの事、能おほくきこえ給ひしか。笛哥詩など、そのきこえおはしていまやううたひ給ふ事、たぐひなき人におはしき。またよりあしにおはすることもむかしもありがたきことになん侍りける。おほかたことにちからいれ給へるさま、ゆゝしくおはしけり。まりも千日かゝずならし給ひけり。いまやうもごばんにご石を百かぞへおきて、うるはしくさうぞくし給ひて、おびなどもとかで、釈迦のみのりはしなどにといふおなじうたを一夜にももかへりかぞへて、百ようたひ給ひなどしけり。むまにのり給ふ事もすぐれておはしけり。白河の御幸に、馬の川にふしたりけるに、くらのうへにすぐにたち給ひて、つゆぬれ給ふところおはせざりけるも、こと人ならば水にこそうちいれられましか。おほかたはやわざをさへならびなくし給ひ
ければそりかへりたるくつはきて、かうらんのほこぎのうへあゆみ給ひ、車のまへうしろ、ついぢのうらうへとゞこほるところおはせざりける、あまりにいたらぬくまもおはせざりければ宮内卿有賢ときこえられし人のもとなりける女房に、しのびてよる<さまをやつしてかよひ給ひけるを、さぶらひどもいかなるものゝふの、つぼねへいるにかと思て、うかゞひてあしたにいでんをうちふせんといひ、したくしあへりければ女房いみじくおもひなげきて、れいの日くれにければおはしたりけるに、なく<この次第をかたりければいと<くるしかるまじきことなり。きとかへりこんとていで給ひにけり。女房のいへるごとくにかどゞもさしまはして、さき<”にもにず、きびしげなりければ人なかりけるかたのついぢを、やす<とこえておはしにけり。女房はかくきゝておはしぬれば、またはよもかへり給はじとおもひけるほどに、とばかりありてふくろをてづからもちて、又ついぢをこえてかへりいり給ひにけり。あしたにはこのさぶらひども、いづら<とそゞめきあひたるに、日さしいづるまでいで給はざりければさぶらひどもつえなどもちてうちふせんずるまうけをして、めをつけあへりけるに、ことのほかに日たかくなりて、まづおりえぼうしのさきをさしいだし給ひけり。
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つぎにかきのすいかんのそでのはしをさしいだされければあはすでにとて、おの<すみやきあへりけるほどに、そのゝちあたらしきくつをさしいだして、えんにおき給ひけり。こはいかにとみるほどに、いときよらかなるなほしに、おりものゝさしぬきゝてあゆみいで給ひければこのさぶらひどもにげまどひ、つちをほりてひざまづきけり。くつをはきてにはにおりて、きたのたいのうしろをあゆみまゐりければつぼね<”たてさわぎけり。中門の廊にのぼり給ひけるに、宮内卿もたゝずみありかれけるが、いそぎいりてさうぞくして、いであひまうされてこはいかなることにかとさわぎければべちのことには侍らず。日ごろ女房のもとへ、とき<”しのびてかよひ侍りつるを、さぶらひのうちふせんと申すよしうけたまはりて、そのおこたり申さんとてなんまゐりつると侍りければ宮内卿おほきにさわぎて、このとがはいかゞあがひ侍るべきと申されければべちの御あがひはべるまじ。かの女房を給はりて、いで侍らんとありければ左右なきことにて御くるまどもの人などは、かちにてかどのとにまうけたりければ、ぐしていで給ひけり。女房さぶらひ、すべていへのうちこぞりて、めづらかなることにてぞ侍りける。からくにゝ江都王など申しけん人も、かくやおはしけむ。おほかたは心わかくなどおはして、
はじめて人のむこにおはせしをりも、てうどのづしかきいだして、呪師のわらはの、御おぼえなるに給ひなどし給ひけり。かんだちめになり給ひても、かもまうでにびりやうにあをすだれかけなどし給ひし、はじめたる事にはあらねども、さやうにこのみ給ひけるなるべし。わかざかりは左中将とて、すきものやさしき殿上人、なだかきにておはしき。五節などには雲のうへ、みなその御まゝなるやうにぞ侍りける。いづれのとしにか。五節に蔵人頭たちのまひ給はざりければ殿上人たちはやみていかにぞやうたうたひ給ひけるに、右兵衛督公行の、まだ別当の兵衛佐など申しけん。その人をおもてにおしたてゝ、成通の中将かくれてうたひ給ひけるを、頭弁うれへ申されたりければそのをりにぞ御かしこまりにて、しばしこもりゐたまへりし。白河院には御いとほしみの人にておはしき。殿上人の中には、たゞひとりいろゆるされておはすとぞきこえ給ひし、雪ふりの御幸に、ひきわたのかりごろもをき給へりとて、心えぬ事におほせらるゝときゝて、資遠とて侍りしけびゐしの、まだわらはにて御まへにも、ちかくつかはせ給ひしに、わび申すよしきかせまゐらせよとの給ひければはかなくうちいだして、なりみちこそひきわたの事、かしこまりて申し候へと申したりければあしよし
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の御けしきはなくて、まことにきくわいなりとぞ、おほせられける。近衛のすけなどは、かとりうすものなど、はなのいろもみぢのかたなど、そめつけらるべかりけるを、ひきわたのあら<しく、おもほしめしけるにや。讃岐院のくらゐの御とき、十五首の哥人々によませ給ひけるに、述懐といふ題をよみ給ふとて、
@ しらかはのながれをたのむ心をばたれかはくみてそらにしるべき W079
とかうぜられけるとき、むしろこぞりて、あはれとおもひあへりけり。なみだぐむ人もありけるとかや。おほかた、哥などもをかしくよみ給ひき。かへるかりのうたに、
@ こゑせずはいかでしらまし春がすみへだつるそらに帰雁がね W080
などよみ給へるも、きよらかにきこえ侍り。恋の哥どもゝこひせよとてもむまれざりけり。また、ふる白雪のかたもなくなど、わが心より思ひいだし給へるなるべしときこえていとをかし。詩などもよく心えたまへりけるなるべし。左大弁宰相顕業といふはかせのかたられけるは、詩のことなどは、いはるゝきけばなにがし千里などもつくりたるいふにきこえて、心すむわざになんある。万里といふになりぬれば、またいふにもおよばすなどあるはと、けふありなどぞ侍りける。あまりねなきやすき
やうにぞおはしける。鳥羽にて、白河院のやぶさめといふこと御らんじけるに、たきぐちなにがしとかいふもの、いむとしけるに、あにゝにてつはものゝおぼえある家のものにてはべるなるがまとたてはべりけるをみておとうとのいるに、あにのまとたてによるか。いとやさしきことなりとて、なき給ひければ二条帥は行兼かやぶさめいむに、公兼がまとたてん、あはれなるべきことかはとぞ侍りける。またある源氏のむさの、やさしく哥よみあそびなどしけるに、さしぬきのくゝりのせばくみえければおのづからのこともあらば、さは、きとあげんずるかなどいひても涙ぐみ給ひけり。また三井寺に侍りける山ぶしの、ほけうになれりけるとかたらひ給ひても、山ぶしゆかしくは、それがしみよなどいふらんこそ、おほみねのすがた、ゆかしけれなどいひても、うちしぐれ給ひけりときこえ給ひき。やすきこともゝのをほむる心にて、かくなんおはしける。おとうとの按察の大納言重通ときこえ給ひしは、みめなどはにかよひ給へりけるが、いますこしにほひありて、あひつかはしきやうにぞおはしける。いと能などはおはせねども、笙のふえふき、びはひき給ひき。法性寺殿にぞつねはしたしくさぶらはせ給ひけるに殿もこの大納言も、すぎておはするのちなども、なつかしくさとかほるかぞおはし
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ける。にほふ兵部卿かをる大将などおぼえ給ひける成るべし。このふたりの大納言たち、御子もおはせで、みな人の子をぞやしなひ給ひける。
(五三)ますみの影 S0606 廿四ますみのかげ
閑院の春宮太夫と申すも、たか松の御はらなり。贈太政大臣よしのぶと申す。白河院の御おほぢ贈皇后宮の御おやにて、まことの御むすめにこそおはしまさねども、いとやんごとなし。このとのは詩などつくらせ給ひけるとて、人のかたり侍りしは、はるにとめる山の月は、かうべにあたりてしろしとぞきこえ侍りし、またわすれ侍らぬ、これはふみを題にてつくり給へるに、呉漢とかいふひとゝぞいひし。ところの名などをも、さすがに、たど<しくなん申しし、また御哥もうけ給はりき。
@ くもりなき鏡の光のます<にてらさんかげにかくれざらめや W081
と白河院の御事を、伊勢大輔よみ侍りける、その御返しとぞきこえ侍りし。白川院ひとつ御はらの御いもうとは、仁和寺の一品宮とて、ちかくまでおはしましき。聡子内親王と申すなるべし。後三条院うせさせ給ひし時、その日御ぐしおろさせ給ひて、仁和寺にすませ給ひき。さておはしましゝかども、としごとに、つかさくらゐなど
たまはらせ給ひき。その御おとゝに、伊勢のいつきにておはせし、三品したまへり。俊子内親王ときこえき。ひぐちの斎宮と申すなるべし。つぎにかものいつき、佳子の内親王ときこえ給ひし、御なやみによりて、延久四年七月にまかりいで給ひき。とみの小路の斎院とぞ申すめりし。斎宮はしはすにいで給ひき。そのおとうとにて篤子の内親王と申ししも、みなおなじ御はらからなり。はじめ延久元年、賀茂のいつきにたち給ひて、同五年に院うせさせ給ひしかば、前斎院にておはしましゝに、おばの女院の御ゆづりにて准三后みふなど給はらせ給へりしほどに、堀川のみかどの御とき、きさきにたち給ひき。みかどよりは、御としことのほかにおとなにおはしければよにうたふうたなん侍りけるとかや。春宮太夫殿はまことの御こもおはせねば、三条の内大臣能長のおとゞのをひにおはするをぞ、こにしたてまつり給ひける。まことにはほりかは殿の御子におはす。これも帥殿の御むすめのはらなり。このうちのおとゞの御子は、中納言基長と申ししは、贈三位済政のむすめのはらなり。弾正の尹になり給へりしかば、尹の中納言とぞ申しし。三井寺に僧都とて御子おはすとて、尹の中納言のおとうと、大蔵卿長忠と申すおはしき。母は昭登の親王の女なり。大弁の宰相より、中納言になりておはせしほどに、中納言
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をたてまつりて、われ大蔵卿になり、子を弁になされ侍りき。石山弁とぞ申すめりし。賀茂にぞかぎりなくつかうまつられし。中納言までなど、夢にみられたりけるとかや。そのこは左少弁能忠と申しし、詩などよくつくり給ひ、心さとき人になんおはしける。わかくてとくうせ給ひにき。少将入道有家ときこえし人のこに、この弁のおなじなつきたるが、わづらひけるほどに、公伊法印といふ人に、いのりをつけたりけるがおなじ名にてとりかへられたるとぞ、よにはいひあへりし。そのとりかへ人は、まだおはすとかや大蔵卿のおとうとに、やまの座主仁豪と申すもおはしき。南勝房とぞ申し侍りし。又律師などいひて、二人ばかりおはしき。また四位の侍従宗信と申すもおはしき。そのこは仁和寺に〓喜僧正とて、東寺長者にてこのころおはすとぞ、尹中納言のおなじはらにおはせし、三条のおとゞの御むすめは、白川の院東宮におはしましゝとき、みやすどころときこえ給ひし、みかどくらゐにつかせ給ひて、延久五年女御の宣旨かうぶり給ひき。道子の女御ときこえき。ひめみやうみたてまつりてのち、内へもまゐり給はずなりにき。承香殿の女御とや申しけん。御むすめの善子の内親王に伊勢にいつきにてくだらせ給ひしに、ぐしたてまつりてぞおはしける。七十にあまりてうせ給ひにき。この女御は、
またなにとかや申すをんなおはしき。春宮の太夫の御おとうとにおなじ高松の御はらの、無動寺の馬頭入道顕信のきみときこえ給ひし、その御名は長襌とぞ申すなる。十八にてこの世をおぼしすてゝ、ひえの山にこもらせ給ひし、たふとくあはれになど申すもおろかなり。むかしの物がたりどもにこまかにはべれは、さのみやはくりかへし申し侍らん。長家の民部卿と申すもやがて高松の御はら也。御哥どもこそうけ給はりしか。にはしろたへの霜とみえつゝなどよみ給へるも、この御哥とこそきゝ侍りしか。この大納言御こ忠家大納言、祐家中納言など申しておはしき。母はみなみのゝかみ基貞のむすめとぞ、大納言の御子にて、もとたゝ、俊忠二人の中納言おはしき。それは經輔の大納言のむすめの御はらなり。俊忠の中納言は、それも哥よみ給ふときこえ給ひき。堀川の院の御とき、をとこ女のふみかはしにもよみ給へるとこそきゝ侍りしか。その中納言の公達は、民部大輔忠成ときこえ給ひし、又俊成三位とてもおはす也。伊与守敦家のむすめのはらとぞ、その三位の御哥も、このころの上手におはすとかや。哥の判などし給ふとこそきゝ侍れ。この三位、さぬきのみかどの御時、殿上人におはしけるが、みかどくらゐおり給ひてのち、院の殿上をし給はざりければ、
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@ 雲ゐよりなれし山ぢを今更にかすみへだてゝなげくはる哉 W082
とよみて、教長の卿につけて、たてまつられ侍りければ御返事はなくて、やがて殿上おほせくだされけるとぞ。撰集にはあやしやなにのくれを待らん。とかやいふ哥ぞいりて侍るなる。そのあにゝ山の大僧正とて、經たふとくよみ給ふおはすなりときこえ給ふ。
(五四)竹のよ S0607 廿五たけのよ
みかど關白につぎたてまつりては、御はゝかたの君だちをこそ、みなよにしかるべき人にておはすめれ。九条殿の御子の中に、三郎におはしましゝ、關白たえずせさせ給ふ。十郎にあまり給へりし、閑院のおほきおとゞのすゑこそ、關白はし給はね共、うちつゞきみかどのおほんをぢにて、さるべき人々おはすめれば、その御ありさま申さんとてまづみかどの御はゝかたを申しつゞけ侍る也。朱雀院村上の御おほぢは、堀河殿、冷泉院、円融院の御おほぢは九条殿、花山院のは一条殿、一条ゐん、三条院のは東三条殿、後一条院、後朱雀院、後冷泉院この三代の御おほぢはみだうの入道殿、この十代のみかどは昭宣公と申す堀川殿のひとつ御すゑなり。後三条院こそ、はゝかたもみかどの御まごにておはしませど、御はゝ陽明門院は、みだうの御まごにておはしませば、ひとつ御ながれ
なり。白河院の御おほぢ、閑院の春宮太夫のおなじながれにおはしますを、まことの御おやは、閑院の左兵衛督公成、このおなじ御ながれなれど、東三条殿の御すゑにはおはせで、その御おとうとの、閑院のおとゞの御すゑなり。この閑院のおほきおとゞの御うまごにおはせし、左兵衛のかみの御すゑよりつゞき、御かどの御おほぢにおはす。このきんなりの左兵衛督の御子あぜちの大納言さねすゑは、鳥羽の院の御おほぢなり。この大納言の太郎には、春宮太夫公實と申しき。經平の大貳のむすめのはらにおはす。みめもきよらかに、和哥などもよくよみ給ふときこえ給ひき。ふえふきことひきなどし給はざりけれど、こうばいのみちのくにかみにまきたるふえ、こしにさして、ことつめおぼしてぞおはしける。こと人のさやうにおはせば、人もあざけるべきに、よくなり給ひぬれば、とがなくいうにぞみえ侍りし。わかくおはしけるほどにや。右近のむまばに郭公たづねに、夜をこめておはしたりければ女房ぐるまのざしき一人ぐしたる、さきにたてりけるに、ほとゝぎすはなかで、やう<あけゆくほどに、くひなのたゝきければ女のくるまより、
@ いかにせんまたぬくひなはたゝくなり
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といひおくり侍りければ、
やまほとゝぎすかゝらましかば W083
とつけてかへしたまひにけり。女はたれにかありけん。ゆりばなにやとぞうけ給はりし。いかにもやさしく侍りけることかな。このよには、さやうのことありがたくそあるべき。よみ給へる哥おほかる中にいとやさしくきこえ侍りしは、
@ おもひいづやありしそのよのくれ竹のあさましかりしふしどころ哉 W084
とよみ給へるこそ、いづくにかいばみ給ひけるにか侍りけん。からうすのおとしてたうらいだうしなどや、をがみけむとさへおもひやられはべる。そのおほい君は、つねざねの大納言のうへ、そのつぎは、花ぞのゝ左のおとゞのきたのかた、三のきみは待賢門院におはします。つぎざまに、まさり給へることをまろがあねあらましかば、夫などいひて、たきゞおへるしづのをにぐする人にやあらましなどの給はせけるときこえし。さしもの給はぬことを、人のいはせ侍るにも有りけん。またさやうのことはたはぶれたまはん、さも侍りけん。みなこの御はゝ光子の二位の御はら也。春宮太夫の太郎にては、侍従中納言實隆と申しておはしき。その御はゝ美濃守基貞の御むすめなり。この中納言人がらは
よくおはしけるにや。院に和哥の會せさせ給ひけるに、哥人にまじりて哥かきたるむねにもいれ、ひきそばめなどはし給はで、いつとなくささげておはしければ御おとうとの、太政のおとゞ、そのをりまだ中納言などにやおはしけん。み給ひて、この人は哥などもよみ給はぬにとおぼつかなくて、御哥み給へはべらばやと申し給ひければなにごとの給ふぞ。前左衛門佐ひがことせられんやはとの給ひける、をかしかりしとぞ侍りける。基俊のきみ、すぐれたるうたよみなん。よき哥なるべしとの給ふにこそとはきこゆれど、哥の道はよきにつけ、あしきにつけて、しゝあひて、我もたび<に、人にもみせあはせなどすることを、わがえぬことはかくおはする事也。そのこにて、れいぜいの宰相公隆とておはせし、わかくて後少将ときこえし、わか殿上人のいうなるにておはしき。そのおとうとに、兵衛佐成隆とておはしける、まだをさなくて、かくれ給ひにき。こと御はらにや。ならに覚珍法印と申ししは、たうじおはす。ざへある人ときこえ給ひ、春宮太夫の二郎におはせしにや。大宮のすけ實兼とかきこえて、のちには刑部卿など申すおはしき。この御なかにかんだちめなどにえなり給はざりき。その御むすめのあはのかみ朝綱ときこえし、むすめのはらにおはしける、女院にまゐり給へりける
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が、鳥羽院しのびてものなどおほせらるゝ事ありとて、ほふわうのいださせ給ひけるとぞきこえ侍りし。
(五五)梅の木の下 S0608 むめのこのもと
春宮太夫の三郎にやあたり給ふらん。これもみのゝかみのむすめのはらにおはせし、太政大臣さねゆきのおとゞは、がくもんもし給ひたる人にておはせしうへに、たちゐのふるまひなど、めでたく、よきかんだちめにておはしける。四位し給ひて、前少納言にていつとなくおはしければおやの春宮の太夫殿は、身のざえなどもあり。よきものにてあるに、くちをしくとのみなげき給ひけるに、うせ給ひてのち、中弁にも、蔵人頭にもなり給ひければみのときなかりしをのみ、みえたてまつりてとぞ、思いでつゝの給はせける。おやの御やまひのほどなども、まろぶしにて、つねはあつかひきこえ給ひけるに、うせ給ひてのち、基俊のきみとぶらひにおはして、梅のえだにむすびつけられける、
@ むかしみしあるじがほにて梅がえの花だに我に物語せよ W085
とはべりければこのおとゞの御かへし、
@ ねにかへる花の姿のゆかしくはたゞこのもとをかたみとはみよ W086
とぞ侍りにける。おとうとの左衛門督より下らうにて、頭にてならび給へるに、頭中将は上らふにておはしけれど、このあにはざえもおはし、いのちもながくて、おほきおとゞまでいたり給へる、いとめでたし。院くらゐにおはしましゝ時、内宴おこなはせ給ふに、詩つくりてまゐらんとし給ふを、御このうちのおとゞは、さらではべりなん。としもあまりつもり給ひ、御ありきもかなひ給はぬに、みぐるしといさめ申し給ひければ中院入道おとゞに、内大臣かく申し侍るはいかゞと申しあはせ給ひければかならずまゐらせ給ふべきことなり。おぼろげに侍らぬことなるに、みかどの御をぢにおはしましゝ、おほきおとゞのまゐらせ給はざらん、くちをしく侍りなどはべりければうまごの実長の大納言の、宰相中将と申ししに、かゝりてこそまゐり給ひけれ。御ぐしおろし給ひしも、中院かくと申し給ひければしか侍まじきことにやとこそ、思ひ給へてすぎ侍れ。おぼしめしたつならば、いとめでたきことに侍り。おなじくはさはりなきほどにとく侍らん。めでたきことゝの給はせければ入道し給ひてぞうせ給ひにし。おとうとの左衛門督は、御こゑめでたく、うたをよくうたひ給ひて、成道の大納言にも、とり<”にぞ申しける。その左衛門督通季と申ししは、春宮太夫の四郎にておはせしなるべし。
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みめもきよらに、おほきにふとりたる人にておはしき。はゝは二位の御子にて、むかひばらにておはせしかば、あにをもこえて、頭中将、頭弁にて、ならびておはしき。ことのほかによにあひたる人にて、通季、信通とて、ひとてにておはせしに、たちならび給ひけるに、信通の君はちひさく、これはおほきにおはすれば、はゝの二位殿、これはいづれかかたはと申し給ひければ白河院はをとこのおほきなるは、あしきことかはとぞおほせられける。実行の太政のおとゞの御子は、内大臣公教と申しき。すりのかみ顕季と申ししむすめのはらにおはす。その御はゝはうたよみにおはしき。少将公教のはゝとて、集などにおほくおはすめり。ときはの山は春をしるらん。などこそいうにきこえ侍れ。内のおとゞは、わかくよりみめ心ばへも、思ひあがりたるけしきにぞおはしける。蔵人の少将、四位の少将など申ししほど、左右の御てのうらにかうになるまでたきものしめて、月いだしたるあふぎに、なつかしきほどにそめたるかりぎぬなどき給ひて、さきはなやかにおはせて、ゆふつかたなどに、つねに三条むろまち殿に、院女院などおはしますかた<”にまゐり給へば、女房などは、四位少将の時になりにたりなどぞいはれけるとぞきこえし。ざえなどもおはし、ふえもよくふき給ひき。心ばへなどおとなしくて、公事などもよく
つとめ給ふ。世のさだなどもよくおはせしを、世の人のやうに、あながちなるついぜうもし給はずなどおはしければにや。いへなどはかなひ給はでぞ有りける。蔵人頭けびゐしの別當などし給ひしもいとよくおはしけり。左大将なんど申すほど、鳥羽院の御うしろみ、院のうちとりさたし給ひしかども、われとくにひとつもしり給はず。賢人にぞおはすめりし。てゝの太政のおとゞよりも、さきにうせ給ひにし、おほかたおとなしきやうにふるまひて、蔵人の頭になり給へりしに、おとうとにおはせし公行の、弁にはじめてなりて、あつひたいのかぶりになし給ひければわれもいまはあつひたひにせんとて、おなじやうにして、うちにまゐり給へるに、成通宰相の中将にはじめてなりて、しばしはすきひたいのかぶりにてとやおぼしけん。うちにまゐり給ひて、頭中将のかぶりをみ給ひて、ひたいにあふぎさしかくして、まかりいで給ひて、やがてあつひたひになりておはしける。成通の御心ばへは、よのさだをばいたくもこのみ給はで、公事などは識者におはせしかど、よのまめなることはとりいられぬ御心にや。蔵人頭も、けびゐしの別當もへ給はず。侍従大納言などいひてすぎ給ひにき。公教のおほい殿は、三条の内大臣ともたかくらのおとゞとも申すなるべし。三条のおとゞは能長のおとゞを申ししかば、いひかぶるなるべし。
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高倉のおとゞのひめぎみ、清隆の中納言のむすめのはらにおはする院の女御にたてまつり給へり。いまむめつぼの女御と申すなるべし、御名こそいとやさしくきこえ侍れ。そのおとうとのひめぎみは、ちゝおとゞうせ給ひてのち、おほぢのおほきおとゞ、さたし給ひて、今の摂政殿、右のおとゞなどきこえさせ給ひしときまゐり給ひて、きたのまん所とぞきこえ給ふ。おのこ公達は、おなじ御はらにおはする、大納言實房と申すこそ、うちのおとゞうせ給ひて後、三位の中将になり給ふ。ことの外の御さかえなるべし。すゑのこにおはすれど、むかひばらなれば、あにふたりにまさり給へるなるべし。左衛門督実國と申すは中納言にておはす也。このころみめよきかんだちめときこえ給ふ。またふえもふき給ひて、御おやのあとつぎ給ふとぞ。みかどの御師にもおはすときこえ給ふ。かぐらなどもうたひ給ひて、せいそだうの御かぐらにも、拍子とり給ふときこえ給ふ。その御あにゝて左大弁の宰相實綱と申すなるふみなどにたづさはり給ひて、弁にもなり給ふなるべし。僧公達も法眼など申して、山におはす也。又石山の座主などもきこえ給ふ。うちのおとゞの御つぎに、右兵衛督公行と申しし、御おとうとのおはせし宰相までなり給ひて、わかくてかくれ給ひにき。ざえなどもおはしけるにや。弁などにてもつかへ給ひき。
うたこそよくよみ給ひけれ。その御子にあきちかのはりまのかみのむすめのはらに、前大納言實長と申すおはす也。みめよきかんだちめにぞおはすなる。いりこもり給へる、わかき人たちのいかに侍よにか。実慶法眼とて山におはしけるも、うせ給ひにけり。右兵衛督の御おとうとに民部大輔公宗ときこえ給ふおはしき。うつしごゝろもなくて、つねにはものゝけにてうせ給ひにき。みめなどもよくおはしけるときこえ給ひき。みなおなじ御はらからにぞおはしける。顕季の三位のむすめの御はらにおはしけり。左衛門督通季と申しし中納言の御こにあぜちの大納言公通と申すおはす也。詩などもつくり給ふなり。くびの御やまひおもくおはすればにや。たび<つかさもじゝ給ひて、前大納言にておはすとぞ、その御子に、中将侍従などおはす也。通基大蔵卿のむすめのはらにおはすとぞ、前少将公重と申すも、左衛門督の御子なり。哥よみ給ふとぞ。また山に法印など申しておはす也。この人々の御いもうとに、廊の御かたと申して、白川院の御おぼえし給ふ人におはせし、後には徳大寺の左のおとゞの御子、二人うみ給へりき。いまの公保の大納言におはす也。いまひとりは、山に僧都と申すとぞ。左衛門督のつぎには、山の座主仁實と申しし、おなじ御はらにおはせしかば、山僧などは
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二位僧正などぞ申すなる。いとのうはすぐれたるもおはせざりけれども、心ばへかしこくおはせしかばにや、世のおぼえなどもすぐれ給へりけるにや。よのすゑに、さばかりの天台座主はかたくなん侍る。やまのやんごとなき堂どものやぶれたるも、おほくつくりたて、大衆などの中に、すこしもふようなるをば、よくしたゝめなどせられければよのため、かの山のため、その時はおだやかになんきこえ侍りし。伝教大師のふたゝびむまれ給ふといふ事も侍りけるとかや。白川院のかくれさせ給ひけるに、七月七日にはかに御心ちそこなひて、つとめてより御くわくらんなどきこえて、さだかにものなどおほせられざりけるに、いまはかくとみえさせ給ひけるとき、かねてより忠盛のぬしに、念佛かならずすゝめよと、おほせられおきたりければかくなんうけ給はりしと、為業といふがはゝして、たび<申しけれど、仁和寺の宮など、仏頂尊勝陀羅尼とのみおほせられて、これおなじことなりとの給はせけれど、かねてうけ給はりたるに、たがひておぼえけるに、この僧正の南無阿弥陀佛とたかく申し給へりけるなん、うれしかりしとこそのちにきこえけれ。その僧正は、ざすなどもじゝ給ひて、さかもとに梶井といふところにこもりゐて、四十にあまりてうせ給ひにけり。
(五六)花散る庭の面 S0609 廿六花ちるにはのおも
春宮大夫の六郎にやおはすらん。左大臣實能のおとゞ、これも左衛門督山の座主、女院なんどのひとつ御はらからにて、二位の御子におはす。大井のみかどのおとゞとも徳大寺のおとゞとも申すなるべし。御みめも心ばへもたをやかに、いとよき人におはしき。あによりもなつかしく、いうなる人におはせしを、ふみなどつくり給ふことはおはせねど、哥などよくよみ給ひき。恋の哥のなかにも、いうにきこえ侍りしは、うつゝにつらき心なりとも、また命だにはかなからずはなどもきこえ侍りき。又思ふばかりのいろにいでばなど、よき哥とこそきゝ侍れ。又あひみしよはのうれしさになどもきこえ侍りき。こゑもよくおはしけるにや。御あそびにはひやうしとり給ふなどぞうけ給はりし。にはこそ花のなどいふもこの御哥とこそおぼえ侍れ。世のおぼえもことの外におはしき。むかひばらにておはするうへに、人がらよくおはすればにや。三位中将へ給へるもことのほかの御おぼえなり。このころこそ、おほくきこえたまへ。關白つぎ給ふべき人などはなちては、さることも侍らぬにいとめづらしく侍りき。大納言の大将になり給へりしも、ちかくたゞびとのなり給ふこともなきに、
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いとめづらかになん侍りし。左大臣までなり給へる、閑院のおとゞの後は四代なりたえ給へるに、このとのゝ大将になりはじめ給ひて、あにの太政のおとゞ、この左のおとゞ、右大臣内大臣になりはじめ給ひて、公達もおの<なり給へり。あにの太政のおとゞ、あぜちの大納言とておはせし、大将おとうとになられてこもり給ひしに、一の大納言忠教、二の大納言実行、三にて雅定、第四實能の大納言おはせし、上らう三人をおきて、大将になり給ひしかば、實行、雅定ふたりはいりこもりておはせしを、中院の源大納言雅定、左大将に成り給ひてのちこそ、實行雅定右大臣内大臣になり給ひしか。いづれの中納言とかのまづ右のおとゞの御よろこびに、おはしたりければそのいへのかどに、うま車おほくたちなみて、にはかによつあしたつとて、ことかどよりいりたるにみやりたればかくれのかたまでひきつくろひて、をとこ女いろ<にとりさうずきて、はきのごひなどして、ゆゝしくはなやかにみえけるに、かくと申しいれたれば、ひさしうありて、えぼしなほしにてものがたりまめやかにきこえて、院の御心ざし、かたじけなくなどいひて、はなうちかみて、よろこびのなみだおしのごひつゝしのびあへぬ御けしきなるに、ほどもへぬれば、やう<しりぞきいでゝ、つぎに中院にわたりて、うちのおとゞの、
御よろこび申し給ひければ中門のらうにいぬのあしがたやつこゝのつありて、さりげなるけしきもせず、さぶらひよびいだして、申しいれたれば、つかひにとりつゞきて、はんしりなるかりぎぬにていで給ひて、よろこびにわたり給へるか。大臣は大饗など申してだいじおほかり。なにかとぶらひ給ふなどいひちらしてやみ給ひにけり。ふたりの人のかはられたりしさまこそとかたられけるとなん。徳大寺のおとゞの御子は、右大臣公能のおとゞ、その御はゝ按察中納言顕隆ときこえしむすめにおはす。此のおとゞ、管絃もみのざえも、かた<”おはすときこえき。おやおほぢなどはざえおはせぬに、詩などつくり給ひ、みめも心ばへも、いというなる人にぞおはしける。中納言の大将になりて、右大臣までなり給へりき。このおとゞは、わかくよりこゑもうつくしく蔵人少将などいひて、五節のえんすいのいまやうなどに、権現うたひ給ひける。内侍所のみかぐらの、拍子とりなどし給ひけるも、ほそき御こゑ、いとをかしくぞ侍りける。むねとは詩つくり給ふ事をこのみて、中将などきこえ給ひしとき、きたのゝ人のゆめに、ひさしくこそ、詩などかうずる人なけれとの給はすとて、野径只青草とかいふ詩、はかせ学生など、あまたまうでゝかうじけるに、とし二十にすこしあまり給へる、わかき殿上人の、みめはいと
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をかしくて、うへの御ぞなどなよらかにきなしたまへるに、ほそたちひらをなど、しなやかにて、まじり給へる、神もいかゞごらんとぞおぼえける。しだいに朗詠したまへりけるなかに、はなやかなる御こゑして、羅綺の重衣たるとうちいでたまへりける、としおいたる人など、なみだをさへながして、むしろこぞりて、めでおもへり。又讃岐のみかど、くらゐにおはしましけるとき、きさいのみやの御かたにて、管絃する殿上人どもめして、よもすがらあそばせ給ひけるに、おほとのもおはしまして、朗詠つかまつれとおほせられけるに、このおとゞの中将など申しけるときに、大公望か周文にあへるといだし給へりけるこそ。御こゑもうつくしう、みかど一の人の事にて、そのよしあることのいうにきこえ侍りける。蔵人の頭より宰相になり給ひしに、中将をぞもとのことなれば、かけ給ふべかりしにみちをへんとにや右大弁になり給へりき。いと身にもおひ給はずなど、思ふ人もありけるに、侍従になりそへ給ひて、たちはき給へるなど、心のまゝにおはせしさま、ことにつけてあらまほしくおはしき。蔵人頭におはせし時も、殿上の一寸物し日記のからひつに、日ごとに日記かきていれなどして、ふるきことをおこさんとし給ふとぞきこえ給ひし。
(五七)宮城野 S0610 みやぎの
このおとゞの御むすめ、俊忠中納言のむすめのはらに、四人おはすときこえ給ふ。おほいぎみはいまの皇后宮におはしますとぞ、この院の位の御時に、きさきにたち給ひし、御名は忻子と申すなるべし。そのつぎにひめぎみおはしき。きさきふたりの中にておぼろげの御ふるまひあるまじ。ほとけのみちにこそは、いらせ給はめと、こおほい殿のたまはせければそれにたがはず、わかくおはすなるに、御ぐしおろし給ひたるときゝ侍る、いとあはれに、この御ことをたれがよみ給へるとかや。
@ みやぎのゝ秋の野中のをみなへしなべての花にまじるべきかは W087
とぞきゝ侍りし。まことにいとありがたく、ちぎりおき給ふ共、そのまゝにおぼしなり給ふ、いと<ありがたくものし給ふ御心なるべし。三の君は宇治の左のおとゞのきたのかたの、ちゝおとゞの御いもうとにおはすれば、御こにしたてまつり給ひて、近衛の御かどの御とき、あねみやよりさきに、十一にてきさきにたち給へり。このゑのみかども此の宮も、そのかみまだをさなくおはしましゝほどに、九条のおほきおとゞの御むすめを、鳥羽院、女院などの御さたにて、女御にたてまつり給へり。法性寺のおとゞの
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きたのかたは、九条のおほきおとゞの御いもうとにおはすれば、御子とてうらうへより心をひとつにて、たてまつり給へりしに、宇治の左のおとゞ、としごろはあにの法性寺のおとゞよりも、よにあひ給へりしに、あまりにおはせしけにやさすがにひとつにもおしはり給はざりしに、いまゝゐり給ひたる中宮のみ、ひとつにおはしますことにて、ちゝの伊通のおとゞも大納言など申して、つねにさぶらひ給ふ。關白殿も宇治のおとゞも、心よからぬさまにてへだておほかりけるほどに、みかどもかくれさせ給ひ、左のおとゞもうせ給ひて、としふるほどに、二条のみかどの御時、あながちに御せうそこ有りければちゝおとゞにも、かた<”申しかへさせ給ひけれども、しのびたるさまにて、まゐらせたてまつり給へりけるに、むかしの御すまひもおなじさまにて、雲ゐの月も、ひかりかはらずおぼえさせ給ひければ、
@ 思ひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲ゐの月をみんとは W088
とぞおもひかけず、つたへうけ給はりし。かやうにきこえさせ給ひしほどに、みかども又かくれさせ給ひて、よも心ぼそくおぼえさせ給ひけるに、れいならずおはしませばなどきこえて、御ぐしおろさせ給ひてける、御とし廿五六ばかりの御ほどに、おはし
けるにやとぞきこえさせ給ひし。この宮なにごともえんなるかた、なさけおほくおはしまして、御てうつくしくかゝせ給ふ。ゑをさへなべてのふでだちにもあらずなん、おはしますなる。またほにいでゝことびはなどひかせ給ふことは、きこえさせ給はねど、すぐれたる人にもをとらせ給はず。ものゝねも、よくきゝしらせ給ひたるとかや。御せうとたちまゐり給ひたるにも、御丁おましなどこそあらめ。さぶらふ人々までよろづめやすく、もてつけたるさまにて、ひとまゐるとて、いまさらにだいばん所とかくひきつくろひ、御木丁おしいでなどせで、かねてよういやあらん。心にくゝぞおはしますなる。こ左のおとゞも中にとりわきて、御心につかせ給ふとてぞ御子にやしなひ申させ給ひける。かやうになさけおほく、おはしますことをやきかせ給ひけん。二条院の御時もあながちに御けしき侍りけるなるべし。この宮たち、おやの御子におはしませば、ことわりとは申しながら、なべてならぬ御すがたなんおはしますなる。たれもと申しながら、院の御あねにおはしますなる、女院こそすぐれて、おはしますさまは、ならぶ御かた<”かたくおはしますなるに、いまの皇后宮にや。いづれにかおはしますらん。まゐらせ給へりけるに、人のみくらへまゐらせけるこそ、とり<”にいとをかしく、
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みえさせ給ひけれ。女院はしろき御ぞ、十にあまりてかさなりたるに、きくのうつろひたるこうちぎ、しろきふたえおり物のうはぎたてまつりて、三尺のみき丁のうちにゐさせ給へりけるに、皇后宮はうへあかいろにて、したざまきなるはじもみぢの、十ばかりかさなりたるに、うはぎにおなじいろに、やがてこきゑびぞめのこうちぎのいろ<なるもみぢうちゝりたるふたえおり物たてまつりたりけるを、みまゐらせたる人のかたりけるとなん。さてこのおほいのみかどの右のおとゞのをのこ君は太郎にては三位中将と申しし、宮たちのおなじ御はらにおはする、大納言實定と申すなる。つかさもじゝ給ひて、こもり給へるとかや。さばかりの英雄におはするに、人をこそこえ給ふべきを、人にこえられ給ひければくらゐにかへてこえかへし給へる、いとことわりときこえ侍り。詩などもつくり給ひ、哥もよくよみ給ふとぞ、御こゑなどもうつくしうて、おやの御あとつぎ給ひて、御かぐらのひやうしなどもとり給ひ、いまやうなどもよくうたひ給ふなるべし。こもり給へるもあたらしくはべることかな。つぎに三位中将さねいへと申すなるは、蔵人頭より、宰相になり給ひたらんにも、中<まさりて、なべてならずきこえ侍り。やまとごとなどよくひきたまひ、御こゑもすぐれて、これもいまやうかぐら、うたひ給ふ
ときこえ給ふ。この御おとうとに頭中将さねもりときこえ給ふも、やまとごとなどならひつたへたまへり。この君だち、みなざえなどもおはして、からやまとのふみなどつくり給ふ。御みめもむかしのにほひのこりて、このころすぐれ給へる御ありさまどもにおはすときこえ給ひ、又いづれの御はらにかおはすらん。やまに法眼とておはすときこえ給ふ。又院のひめみやうみたてまつり給へるひめぎみもおはすとぞ、まことやきたのかたの御はらにや。侍従とておはすなるは頭中将御子にし給ふとぞ、徳大寺のおとゞの二郎には、なかのみかどのみぎのおとゞの御むすめのはらに、公親宰相中将とておはしき。とくうせ給ひにき。つぎに一条の大納言公保と申すなる、左衛門督のひめ君、らうの御かたと申す御はら也。當時大納言におはすなり。ちゝおとゞに御みめはすこしに給へるとかや。おなじ御はらに公雲僧都とてやまにおはすなり。ことはらの御こ僧にて三井寺などにおはすとぞ、春宮の太夫のすゑの御こは民部卿季成と申しておはしき。あづまごとにてぞ御あそびにはまじり給ひけるときゝ侍りし。右京のかみ道家のむすめのはらにおはす。ふみのかたもならひ給へりけり。その御こに、左衛門督公光と申すなるこそ、ざえなどもおはして、詩つくり給ひ、哥もよみてよき人ときゝたてまつるに、これもさきの中納言などうけ給はる
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こそ、いかに侍るよの中にか。この御はゝ顕頼の民部卿のむすめとぞ、みめもことによきかんだちめにて、ちゝの大納言にはまさり給へりとぞ。きこえよくかぐらなどもうたひ給ふとか。これもゆゝしく、おほきなる人にて、御をぢのみちすゑ左衛門督の御たけに、いとをとり給はずとぞうけ給はる。すべてよき人にこそ、わかくても、てゝの世おぼえよりはことのほかに殿上にゆるされたる、このゑづかさにてぞおはしける。
(五八)志賀のみそぎ S0611 志賀のみそぎ
春宮太夫の御すゑのかくさかえ給ふことも、みかどの御ゆかりなれば、女院の御ことをこそ申し侍るべけれど、その御ありさまは、さきに申し侍りぬ。そのうみたてまつり給へるみや<は一のみこはさぬきの院におはします。二のみこは御めくらくなり給ひて、をさなくてかくれ給ひにき。三のみこはわかみやと申しておはしましゝ、をさなくよりなえさせ給ひて、おきふしも人のまゝにて、ものもおほせられておはしましゝ、十六にて御ぐしおろさせ給ひて、うせさせ給ひにき。御みめもうつくしう、御ぐしもながくおはしましけり。むかし朝綱宰相の日本紀の哥に、
@ たらちねはいかにあはれと思ふらんみとせに成りぬあしたゝずして W089
とよまれたるも、蛭子におはしましける、みやのことゝこそはきこえさせ給へ。むかしもかゝるたぐひおはせぬにはあらぬにや。さがのみかどの御子に、隠君子と申しけるみこは御みゝにいかなることのおはしけるとかや。さてさがにこもりゐたまひて、ひきものゝうちにたれこめて、人にも見え給はで、わらはにてぞおはしける。このころならば、法師にぞなり給はまし。むかしはかくぞおはしける。心もさとくいとまもおはするまゝに、よろづのふみをひらきみ給ひければ身の御ざえ人にすぐれ給ひておはしましけるに、やんごとなきはかせのみちをとけ給ひける時廣相の宰相ときこえける人の、かのはかせになり給ひけるに、小屋とかいふところ、たちよりとぶらひたてまつられけるに、かたきこと侍りけるをば、こまをはやめて、かのさがにまうでゝぞとひたてまつりける。みかどの御こにも、かやうなるさま<”おはしけり。これは仏のみちにいらせ給ひたれば、のちのよのちぎりはむすばせ給ふらん。この宮あかごにおはしましけるとき、たえいり給へりければ行尊僧正いのりたてまつられけるに白川院くらゐもつき給ふべくはいきかへりたまへと、おほせられけるほどになほらせ給ひければたのもしく人もおもひあへりけるに、そのかひなくおはしましける、いかにはべるにか。なえさせ給ひたりとも、御いのちはとをにあまり
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ておはしますべく、又ひとのしるしもたふとくおはすればなほらせ給へども、くらゐはべちのことなるべし。第四のみこは、いまの一院におはします。第五のみこは本仁の親王と申しし、わらはより出家し給ひて、仁和寺の法親王と申すなるべし。きさきばらのみや、法師にならせ給ふこと、ありがたきことゝ申せども、仏の道をおもくせさせ給ふ、いとめでたきことなるべし。この宮いとよき人におはして、真言よくならひ給ひ、御てもかゝせたまひ、詩つくり哥よみなどもよくし給ひき。その御うたおほく侍る中に、みのをにこもりていで給ひけるに、有明の月おもしろかりけるに、
@ このまもる有明の月のおくらずは独や秋のみねをこえまし W090
とよみ給へるとかや。又、
@ 夏のよはたゞときのまもながむればやがて有明の月をこそみれ W091
などよませ給へり。またわかくおはせしに、この一二年がさきに、うせさせ給ひにき。四十一二にやおはしけん。をしくもおはします御よはひに、さだめなきよのうらめしきなるべし。また何事も、よにおはぬほどの人ときゝたてまつりしけにやうせたまはんとてのころ、金泥の一切經かきいだして、かうやにて供養し給ひけるに、ひえの山の澄憲僧都を、
院に申しうけさせ給ひて、導師にて供養せさせ給ひけり。そのとき院に御ものまうでに、ぐせさせ給ふべかりけるとかや。ことにえらびたまひて、あらぬかたのそうなりともよくときつべきをとおぼしけんもいとたふとし。こがねの文字をも、院女院などはなちたてまつりては、ありがたきことを、おぼろげの御心ざしにはあらざるべし。女宮は一品宮とておはしましゝは、禧子の内親王とて賀茂のいつきにたち給へりし、御なやみにてほどなくいでたまひにき。長承二年十月十一日御とし十二にてかくれさせ給ひにき。いつきのほどなくおりさせ給ふためしありとも、まだ本院にもつがせ給はで、かくいでさせ給ふ事はいとあさましきことゝぞきこえ侍りし。廿七日薨奏とて、このよし内裏に奏すれば、三日は廃朝とて、御殿のみすもおろされ、なに事もこゑたてゝ、そうすることなど侍らざりけり。みかどは御いもうとにおはしませば、御ぶくたてまつりなどしけり。もんもなき御かぶり、なはえいなどきこえて、年中行事の障子のもとにてぞたてまつりける。みかどは日のかずを、月なみのかはりにせさせ給ふなれば、三日御ぶくとぞきこえける。つぎのひめ宮は、又さきの斎院とて、詢子の内親王と申しし、のちには〓子とあらためさせ給ひたるとぞきこえさせ給ひしは、大治元年七月廿三日
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にむまれさせたまひて、八月に親王の宣旨かぶり給ひて、長承元年六月卅日、いつきいでさせ給ひて保元三年二月、皇后宮にたゝせ給ふ。上西門院と申すなるべし。永暦二年二月十七日、御ぐしおろさせ給ふときこえき。きさきにたゝせ給ふときこえしは、みかどの御はゝに、なぞらへ申させ給ふとぞきこえさせ給ふ。六条院のれいにや侍らん。この女院のさきの斎院とてからさきの御はらへせさせ給ひし時、御をぢの太政のおとゞのよみ給へる、
@ 昨日までみたらし川にせしみそぎしがの浦波たちぞかへたる W092
と侍りけるとなん。秋の事なりけるに、かりごろもおの<はぎ、りうたんなどいとめづらしきに、あふさかのせきうちこえて、やまのけしきみづうみなど、いとおもしろくて、御はらへのところには、かたのやうなるかりやにいがきのあけのいろ、水のみどりみえわきて、心あらん人は、いかなることのはも、いひとゞめまほしきに、おとゞの御うたたけたかくいとやさしくこそきこえ侍りしか。
校定 今鏡読本 中終