増鏡 尾張徳川家本

岩波文庫 増鏡 和田英松 校訂 岩波書店 
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増鏡(ますかがみ) 上巻 〔序〕
二月(きさらぎ)の中(なか)の五日は、鶴(つる)の林(はやし)に薪(たきぎ)尽(つ)きにし日なれば、彼(か)の如来二伝(にでん)の御形見(かたみ)の睦(むつ)ましさに、嵯峨の清涼寺(しやうりやうじ)に詣(まう)でて、常在霊鷲山(じやうざいりやうじゆせん)など心の内(うち)に唱(とな)へて、拝(をが)み奉(たてまつ)る。傍(かたは)らに、八十(やそぢ)にもや余(あま)りぬらんと見(み)ゆる尼(あま)一人(ひとり)、鳩(はと)の杖(つえ)に掛(か)かりて参(まゐ)れり。とばかり有(あ)りて、「猛(たけ)く思(おも)ひ立(た)ちつれど、いと腰(こし)痛(いた)くて堪(た)へ難(がた)し。今宵(こよひ)は、此(こ)の局(つぼね)に打(う)ち休(やす)みなん。坊へ行(ゆ)きて御燈(みあかし)の事(こと)など言(い)へ」とて、具(ぐ)したる若(わか)き女房の、つきづきしき程(ほど)なるをば、返(かへ)しぬめり。「釈迦牟尼仏(しやかむにぶつ)」と度々(たびたび)申して、夕日(ゆふひ)の花(はな)やかに差(さ)し入(い)りたるを打(う)ち見(み)遣(や)りて、「あはれにも山(やま)の端(は)近(ちか)く傾(かたぶ)きぬめる日影(かげ)かな。我(わ)が身の上(うへ)の心地(ここち)こそすれ」とて、寄り居(ゐ)たる気色、何(なに)と無(な)く艶(なま)めかしく、心有(あ)らんかしと見(み)ゆれば、近(ちか)く寄りて、「何処(いづく)より詣(まう)で給(たま)へるぞ。有(あ)りつる人の帰(かへ)り来(こ)ん程(ほど)、御伽(おんとぎ)せんは如何(いかが)」など言(い)へば、「此(こ)の渡(わた)り近(ちか)く侍れど、年の積(つ)もりにや、いと遙(はる)けき心地(ここち)し侍る、あはれになん」と言(い)ふ。「さても、幾(いく)つにか成(な)り給(たま)ふらん」と問(と)へば、「いさ。よくも我ながら思(おも)ひ給(たま)へ別(わか)れぬ程(ほど)になん。百年(ももとせ)にもこよなく余(あま)り侍(はべ)りぬらん。来(こ)し方(かた)行(ゆ)く先(さき)、例(ためし)も有(あ)り難(がた)かりし世の騒(さわ)ぎにも、此(こ)の御寺ばかり、恙(つつが)なく御座(おは)します。猶(なほ)、止(や)む事(ごと)無(な)き
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如来の御光なりかし」など言(い)ふも、古代(こだい)にみやびやかなり。年(とし)の程(ほど)など聞(き)くも、珍(めづら)しき心地(ここち)して、斯(か)かる人こそ昔(むかし)物語(ものがたり)もすなれと、思(おも)ひ出(い)でられて、まめやかに語(かた)らひつつ、「昔(むかし)の事(こと)の聞(き)かまほしき儘(まま)に、年の積(つ)もりたらん人もがなと思(おも)ひ給(たま)ふるに、嬉(うれ)しき業(わざ)かな。少(すこ)し宣(のたま)はせよ。自(おの)づから古(ふる)き歌など書(か)き置きたる物の片端(かたはし)見るだに、其(そ)の世にあへる心地(ここち)するぞかし」と言(い)へば、〔打(う)ち〕すげみたる口(くち)打(う)ちほほゑみて、「いかでか聞(き)こえん。若(わか)かりし世に見(み)聞(き)き侍(はべ)りし事(こと)は、ここらの年頃(としごろ)に、むばたまの夢ばかりだに無(な)くおぼほれて、何(なに)のわきまへか侍らん」とは言(い)ひながら、けしうは有(あ)らず、あへなんと思(おも)へる気色なれば、いよいよ言(い)ひはやして、「彼(か)の雲林院(うんりんゐん)の菩提講(ぼだいかう)に参(まゐ)りあへりし翁(おきな)の言(こと)の葉をこそ、仮名(かんな)の日本紀にはすめれ。又彼(か)の世継(よつぎ)が孫(うまご)とか言(い)ひし、つくも髪(がみ)の物語(ものがたり)も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様(おんありさま)の様(やう)なる人にこそ有(あ)りけめ。猶(なほ)宣(のたま)へ」など賺(すか)せば、さは心得(う)べかめれど、いよいよ口(くち)すげみがちにて、「其(そ)のかみは、げに人の齢(よはひ)も高(たか)く機(き)も強(つよ)かりければ、それに従(したが)ひて、魂(たましひ)も明(あき)らかにてや、しか聞(き)こえ尽(つ)くしけむ。あさましき身は、徒(いたづ)らなる年(とし)のみ積(つ)もれるばかりにて、昨日(きのふ)今日(けふ)と言(い)ふばかりの事(こと)だに、目(め)も耳(みみ)もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪(あや)しき僻事(ひがこと)共(ども)にこそは侍らめ。そも然様(さやう)に御覧(ごらん)じ集(あつ)めける古言(ふること)共(ども)は、如何(いか)にぞ」と言(い)ふ。「いさ。只(ただ)おろおろ見(み)及(およ)びし者共(ども)は、水鏡(みづかがみ)と言(い)ふにや。神武天皇の御代より、
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いとあららかにしるせり。其(そ)の次(つぎ)には、大鏡(おほかがみ)、文徳の古(いにしへ)より、後一条の御門(みかど)まで侍(はべ)りしにや。又世継(よつぎ)とか、四十帖(でう)の草子(さうし)にて、延喜より堀川(ほりかは)の先帝(せんてい)まで、少(すこ)し細(こま)やかなめる。又某(なにがし)の大臣(おとど)の書(か)き給(たま)へると聞(き)き侍(はべ)りし今鏡(いまかがみ)に、後一条より高倉院(たかくらのゐん)まで有(あ)りしなめり。誠(まこと)や、いや世継(よつぎ)は、隆信(たかのぶ)の朝臣の、後鳥羽院(ごとばのゐん)の位の御程(ほど)までをしるしたりとぞ見(み)え侍(はべ)りし。其(そ)の後(のち)の事(こと)なん、〔いと〕おぼつかなくなりにける。覚(おぼ)え給(たま)へらん所々(ところどころ)までも宣(のたま)へ。今宵(こよひ)誰(たれ)も御伽(おんとぎ)せん。斯(か)かる人に会(あ)ひ奉(たてまつ)れるも、然(しか)るべき御契有(あ)らん物ぞ」など語(かた)らへば、「其(そ)のかみの事(こと)は、いみじうたどたどしけれど、誠(まこと)に事(こと)の続(つづ)きを聞(き)こえざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少(すこ)しなん。僻事(ひがこと)ぞ多(おほ)からんかし。そは差(さ)し直(なほ)し給(たま)へ。いといと傍(かたは)らいたき業(わざ)にも侍るべきかな。彼(か)の古言(ふること)共(ども)に、なぞらへ給(たま)ふまじうなん」とて、おろかなる心や見(み)えん増鏡(ますかがみ)古(ふる)き姿(すがた)に立ちは及(およ)ばでとわななかし出(い)でたるもにくからず、いと古代(こだい)なり。「さらば、今(いま)宣(のたま)はん事(こと)をも、又(また)書(か)きしるして、彼(か)の昔(むかし)の面影(おもかげ)にひとしからんとこそは思(おぼ)すめれ」といらへて、今(いま)も又(また)昔(むかし)を書(か)けば増鏡(ますかがみ)ふりぬる代々の跡に重(かさ)ねん
第一 おどろのした
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御門(みかど)始(はじ)まり給(たま)ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院(ごとばのゐん)と申(まう)す御座(おは)しましき。御諱(いみな)は尊成(たかなり)、これは高倉院(たかくらのゐん)第四の御子(みこ)、御母七条院と申しき。修理大夫信隆(のぶたか)の主(ぬし)の娘(むすめ)也。高倉院(たかくらのゐん)位の御時(とき)、后(きさい)の宮(みや)〈 建礼門院(けんれいもんゐん) 〉の御方に、兵衛(ひやうゑ)の督(かん)の君とて仕(つかうまつ)られし程(ほど)に、忍(しの)びて御覧(ごらん)じ放(はな)たずや有りけん、治承四年七月十五日(じふごにち)生(む)まれさせ給(たま)ふ。其(そ)の年(とし)の春の頃(ころ)、建礼門院(けんれいもんゐん)后(きさい)の宮(みや)と聞(き)こえし御腹(おんはら)の第一の御子(みこ)〈 安徳天皇 〉、三(み)つに成(な)り給(たま)ふに位を譲りて、御門(みかど)は降(お)り給(たま)ひにしかば、平家の一族(ひとぞう)のみいよいよ時(とき)の花をかざし添(そ)へて、花やかなりし世なれば、掲焉(けちえん)にももてなされ給(たま)はず。又の年(とし)養和元年正月十四日、院さへ隠(かく)れさせ給(たま)ひしかば、いよいよ位などの御望(のぞ)み有(あ)るべくも御座(おは)しまさざりしを、彼(か)の新帝平家の人々(ひとびと)にひかされて、遙(はる)かなる西(にし)の海にさすらへ給(たま)ひにし後(のち)、後白河法皇、御孫の宮達(たち)渡(わた)し聞(き)こえて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふ時、三の宮を次第の儘(まま)にて思(おぼ)されけるに、法皇をいといたう嫌(きら)ひ奉(たてまつ)りて、泣(な)き給(たま)ひければ、「あなむつかし」とて、率(ゐ)て放(はな)ち給(たま)ひて、「四の宮此処(ここ)にいませ」と宣(のたま)ふに、やがて御膝(ひざ)の上に抱(いだ)かれ奉(たてまつ)りて、いと睦(むつ)ましげなる御気色なれば、「これこそ誠(まこと)の孫に御座(おは)しけれ。故(こ)院(ゐん)の児(ちご)生(お)ひにも、まみなど覚(おぼ)え給(たま)へり。いとらうたし」とて、寿永二年(にねん)八月二十日、御年四(よ)つにて位につかせ給(たま)ひけり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣は、譲位(じやうゐ)の時必(かなら)ず渡(わた)る事(こと)なれど、先帝筑紫(つくし)へ率(ゐ)て御座(おは)しにければ、こたみ初(はじ)めて三種(みつ)の神器(しんぎ)無(な)くて、
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珍(めづら)しき例(ためし)に成(な)りぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱(はこ)ばかり帰(かへ)り上(のぼ)りにけれど、宝剣は遂(つひ)に、先帝の海に入(い)り給(たま)ふ時(とき)、御身に添(そ)へて沈(しづ)みたるこそ、いと口惜(くちを)しけれ。かくて此(こ)の御門(みかど)、元暦(げんりやく)元年(ぐわんねん)七月二十八日御即位(そくゐ)、其(そ)の程(ほど)の事、常(つね)の儘(まま)なるべし。平家の人々(ひとびと)、未(いま)だ筑紫(つくし)にただよひて、先帝と聞(き)こゆるも御兄(このかみ)なれば、彼処(かしこ)に伝(つた)へ聞(き)く人々(ひとびと)の心地(ここち)、上下さこそは有(あ)りけめ、思(おも)ひ遣(や)られて、いと忝(かたじけな)し。同年(どうねん)十月二十五日御禊(ごけい)、十一月十八日に大嘗会(だいじやうゑ)なり。主基方(すきがた)の御屏風の歌、兼光の中納言と言(い)ふ人、丹波国長田村とかやを、
神世より今日(けふ)の為(ため)とや八束穂(やつかほ)に長田(ながた)の稲(いね)のしなひ初(そ)めけむ
御門いとおよすげて賢(かしこ)く御座(おは)しませば、法皇もいみじう美(うつく)しと思(おぼ)さる。文治(ぶんぢ)二年(にねん)十二月一日、御書始(ふみはじ)めせさせ給(たま)ふ。御年七(なな)つなり。同(おな)じ六年、女御参(まゐ)り給(たま)ふ。月輪(つきのわ)の関白殿兼実の御娘(むすめ)なり。后立(きさきだち)有(あ)りき。後(のち)には宜秋門院(ぎしうもんゐん)と聞(き)こえし御事(こと)なり。此(こ)の御腹(おんはら)に、春花門院と聞(き)こえ〔給(たま)ひ〕し姫宮(ひめみや)ばかり御座(おは)しましき。建久二年(にねん)正月三日、十一にて御元服し給(たま)ふ。同(おな)じき三年三月十三日、法皇隠(かく)れさせ給(たま)ひにし後(のち)は、御門(みかど)偏(ひとへ)に世(よ)を知(し)ろし召(め)して、四方(よも)の海波(なみ)静(しづか)に、吹(ふ)く風(かぜ)も枝をならさず、世治(をさ)まり民安(やす)うして、あまねき御うつくしびの波(なみ)、秋津島(あきつしま)の外まで流(なが)れ、繁(しげ)き御恵(めぐ)み、筑波山(つくばやま)のかげよりも深(ふか)し。万(よろづ)の道々(みちみち)に明(あき)らけく
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御座(おは)しませば、国に才(ざえ)有(あ)る人多(おほ)く、昔(むかし)に恥(は)ぢぬ御世にぞ有りける。中(なか)にも、敷島(しきしま)の道(みち)なん、勝(すぐ)れさせ給(たま)ひける。御歌数(かず)知(し)らず人の口(くち)に有(あ)る中(なか)にも、
奥山(おくやま)のおどろの下(した)を踏(ふ)み分(わ)けて道有(あ)る世ぞと人に知(し)らせん
と侍るこそ、〔政(まつりごと)大事(だいじ)と思(おぼ)されける程(ほど)しるく聞(き)こえて、〕いといみじう止(や)む事(ごと)無(な)くは侍れ。建久九年正月、第一の御子(みこ)四(よ)つになり給(たま)ふに、御位譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ひて、降(お)り居(ゐ)給(たま)ふ。位に御座(おは)しますこと十五年なり。今日(けふ)明日(あす)、二十(はたち)ばかりの御齢(おんよはひ)にて、いとまだしかるべき御事(こと)なれど、万(よろづ)所せき御有様(おんありさま)よりは、中々安(やす)らかに、御幸(みゆき)など御心(おんこころ)の儘(まま)ならんとにや。世を知(し)ろし召(め)す事(こと)は今(いま)も変(か)はらねば、いとめでたし。鳥羽殿・白河殿なども修理せさせ給(たま)ひて、常(つね)に渡(わた)り住(す)ませ給(たま)へど、猶(なほ)又水無瀬(みなせ)と言(い)ふ所に、えも言(い)はず面白(おもしろ)き院づくりして、しばしば通(かよ)ひ御座(おは)しましつつ、春秋の花紅葉(はなもみぢ)につけても、御心(おんこころ)行(ゆ)く限(かぎ)り世を響(ひび)かして、遊(あそ)びをのみぞし給(たま)ふ。所がらも、遙々(はるばる)と川にのぞめる眺望、いと面白(おもしろ)くなむ。元久の頃、詩に歌を合(あ)はせられしにも、取(と)りわきてこそは、
見(み)渡(わた)せば山もとかすむ水無瀬川(みなせがは)夕は秋と何(なに)思(おも)ひけむ
かやぶきの廊(らう)・渡殿(わたどの)など、遙々(はるばる)と艶(えん)にをかしうせさせ給(たま)へり。御前の山(やま)より滝(たき)落(お)とされて、石のたたずまひ、苔(こけ)深(ふか)き深山木(みやまぎ)に枝に差(さ)しかはしたる庭の小松も、げに千世を込(こ)めたる霞の洞(ほら)なり。前栽(せんざい)つくろはせ給(たま)へる頃、人々(ひとびと)数多(あまた)召(め)して、御遊(あそ)びなど有(あ)りける後、定家(ていか)の中納言、未(いま)だ
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下臈(げらふ)なりし時、奉(たてまつ)られける。
有(あ)りへけむもとの千年(ちとせ)にふりもせで我(わ)が君契(ちぎ)る千世(ちよ)の若松
君が代にせき入(い)るる庭を行く水の岩越(こ)す数は千世も見(み)えけり
今(いま)の御門の御諱(いみな)は為仁と申しき。御母は能円法印と言(い)ふ人の娘(むすめ)、宰相の君とて仕(つかうまつ)られける程(ほど)に、此(こ)の御門生(む)まれさせ給(たま)ひて後には、内大臣通親(みちちか)の御子になり給(たま)ひて、末(すゑ)には承明門院(しようめいもんゐん)と聞(き)こえき。彼(か)の大臣(おとど)の北(きた)の方(かた)の腹にて御座(おは)しければ、もとより後(のち)の親(おや)なるに、御幸(さいは)ひさへ引(ひ)き出(い)で給(たま)ひしかば、誠(まこと)の御娘(むすめ)に変(か)はらず。此(こ)の御門もやがて彼(か)の殿にぞ養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。かくて、建久九年三月三日御即位(そくゐ)、十月二十七日御禊、十一月は例(れい)の大嘗会(だいじやうゑ)、元久二年(にねん)正月三日御冠(かうぶり)し給(たま)ひ、いと艶(なま)めかしく美(うつく)しげにぞ御座(おは)します。御本性(ごほんじやう)も、父(ちち)の御門よりは、少(すこ)しぬるく御座(おは)しましけれど、情(なさ)け深(ふか)う、物のあはれなど聞(き)こし召(め)しすぐさずぞ有(あ)りける。今(いま)の摂政は、院の御時の関白〈 普賢寺殿基通 〉の大臣(おとど)。其(そ)の後(のち)は後京極(ごきやうごく)殿(どの)良経と聞(き)こえ給(たま)ひし、いと久(ひさ)しく御座(おは)しき。此(こ)の大臣(おとど)はいみじき歌の聖(ひじり)にて、院の上同(おな)じ御心(おんこころ)に、和歌の道(みち)をぞ申し行(おこな)はせ給(たま)ひける。文治の頃、千載集有(あ)りしかど、院未(いま)だきびはに御座(おは)しまししかばにや、御製(ぎよせい)も見(み)えざめるを当代(たうだい)位の御程(ほど)に、又集(あつ)めさせ給(たま)ふ。土御門(つちみかど)の内の大臣(おとど)の二郎君右衛門督通具と言(い)ふ人を始(はじ)めにて、有家の三位・定家(ていか)の中将(ちゆうじやう)・
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家隆(いへたか)・雅経などに宣(のたま)はせて、昔(むかし)より今(いま)までの歌を、広(ひろ)く集(あつ)めらる。各(おのおの)奉(たてまつ)れる歌を、院の御前にて、自(みづか)ら磨(みが)き整(ととの)へさせ給(たま)ふ様(さま)、いと珍(めづら)しく面白(おもしろ)し。此(こ)の時も、先(さき)に聞(き)こえつる摂政殿、取(と)り持(も)ちて行(おこな)はせ給(たま)ふ。大方(おほかた)、古(いにしへ)奈良(なら)の御門の御代に、はじめて、右大臣橘の朝臣勅を承(うけたまは)りて、万葉集を撰(えら)びしより此(こ)の方(かた)、延喜の聖(ひじり)の御時の古今集、友則(とものり)・貫之(つらゆき)・躬恒(みつね)・忠岑(ただみね)。天暦の賢(かしこ)かりし御代にも、一条の摂政殿謙徳公、未(いま)だ蔵人(くらうど)の少将など聞(き)こえける頃(ころ)、和歌所の別当とかやにて、梨壺(なしつぼ)の五人に仰(おほ)せられて、後撰集は集(あつ)められけるとぞ、ひが聞(ぎ)きにや侍らん。其(そ)の後(のち)、拾遺抄は、花山の法皇の自(みづか)ら撰(えら)ばせ給(たま)へるとぞ。白河院の位の御時は、後拾遺集は、通俊(みちとし)の治部卿承(うけたまは)る。崇徳院(しゆとくゐん)の詞花集は、顕輔(あきすけ)の三位撰(えら)ぶ。又、白河院降(お)り居(ゐ)させ給(たま)ひて後(のち)、金葉集重(かさ)ねて俊頼の朝臣に仰(おほ)せて撰(えら)ばせ給(たま)ひしこそ、初(はじ)め奏(そう)したりけるに、輔仁(すけひと)の親王(しんわう)の御名乗(なの)りを書(か)きたる。悪(わろ)しとて返(かへ)され、又奉(たてまつ)るにも、何事(なにごと)とかや有(あ)りて、三度(みたび)奏(そう)して後(のち)こそ納(をさ)まりにけれ。斯様(かやう)の例(ためし)も、自(おの)づからの事(こと)なり。押(お)しなべては、撰者(せんじや)の儘(まま)にて侍(はべ)るなれど、こたみは、院の上自(みづか)ら、和歌の浦に降(お)り立(た)ちあさらせ給(たま)へば、誠(まこと)に心異(こと)なるべし。此(こ)の撰集より先(さき)に、千五百番の歌合(うたあはせ)せさせ給(たま)ひしにも、勝(すぐ)れたる限(かぎ)りを撰(えら)ばせ給(たま)ひて、其(そ)の道(みち)の聖(ひじり)達(たち)判じけるに、やがて院も加(くは)はらせ給(たま)ひながら、猶(なほ)此(こ)のなみには立(た)ち及(およ)び難(がた)しと卑下(ひげ)せさせ給(たま)ひて、
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判の言葉(ことば)をばしるされず、御歌にて優(まさ)り劣(おと)れる志(こころざし)ばかりをあらはし給(たま)へる、中々いと艶(えん)に侍(はべ)りけり。上(かみ)の其(そ)の道を得(え)給(たま)へれば、下も自(おの)づから時(とき)を知(し)る習(なら)ひにや、男(をとこ)も女も、此(こ)の御世にあたりて、良(よ)き歌よみ多(おほ)く聞(き)こえ侍(はべ)りし中(なか)に、宮内卿の君と言(い)ひしは、村上の帝の御後(おんのち)に、俊房(としふさ)の左の大臣(おとど)と聞(き)こえし人の御末(すゑ)なれば、早(はや)うはあて人なれど、官(つかさ)浅(あさ)くて打(う)ち続(つづ)き、四位ばかりにて失(う)せにし人の子也。まだいと若(わか)き齢(よはひ)にて、そこひも無(な)く深(ふか)き心ばへをのみ詠(よ)みしこそ、いと有(あ)り難(がた)く侍(はべ)りけれ。此(こ)の千五百番の歌合(うたあはせ)の時、院の上(うへ)宣(のたま)ふやう、「こたみは、皆(みな)世に許(ゆ)りたる古(ふる)き道の者(もの)共(ども)なり。宮内はまだ然(しか)るべけれども、けしうは有(あ)らずと見(み)ゆめればなん。構(かま)へてまろが面(おもて)起(お)こすばかり、良(よ)き歌仕(つかうまつ)れ」と仰(おほ)せらるるに、面(おもて)打(う)ち赤(あか)めて、涙ぐみて候(さぶら)ひける気色(けしき)、限(かぎ)り無(な)き好(す)きの程(ほど)、あはれにぞ見(み)えける。さて其(そ)の御百首(ひやくしゆ)の歌(うた)、いづれもとりどりなる中(なか)に、
薄(うす)く濃(こ)く野辺の緑(みどり)の若草(わかくさ)に跡まで見(み)ゆる雪の村消(むらぎ)え
草の緑(みどり)の濃(こ)き薄(うす)き色にて、去年(こぞ)の古雪(ふるゆき)遅(おそ)く疾(と)く消(き)えける程(ほど)を、推(お)し量(はか)りたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思(おも)ひ寄(よ)り難(がた)くや。此(こ)の人、年(とし)積(つ)もるまで有(あ)らましかば、げに如何(いか)ばかり、目(め)に見(み)えぬ鬼神(おにがみ)をも動(うご)かしなましに、若(わか)くて失(う)せにし、いといとほしくあたらしくなん。かくて、此(こ)の度(たび)撰(えら)ばれたるをば、新古今(しんこきん)と言(い)ふなり。元久二年(にねん)三月二十六日、竟宴(きやうえん)と言(い)ふ事、春日殿にて行(おこな)は
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せ給(たま)ふ。いみじき世(よ)の響(ひび)きなり。彼(か)の延喜の昔(むかし)思(おぼ)しよそへ〔られ〕て、院(ゐん)の御製(ぎよせい)、
石(いそ)の上(かみ)古(ふる)きを今(いま)に並(なら)べこし昔(むかし)の跡を又尋(たづ)ねつつ
摂政殿良経の大臣(おとど)、
敷島(しきしま)や大和言(こと)の葉海にして拾(ひろ)ひし玉は磨(みが)かれにけり
次々(つぎつぎ)、順(ずん)流(なが)るめりしかど、さのみはうるさくてなん。何(なに)と無(な)く明(あ)け暮(く)れて、承元二年(にねん)にもなりぬ。十二月二十五日、二(に)の宮(みや)御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。修明門院の御腹(おんはら)なり。此(こ)の御子を、院限(かぎ)り無(な)く愛(かな)しき物に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひつれば、二(に)無(な)く清(きよ)らを尽(つ)くし、いつくしうもてかしづき奉(たてまつ)り給(たま)ふ事斜(なのめ)ならず。遂(つひ)に同(おな)じ四年十一月に、御位に即(つ)き奉(たてまつ)り給(たま)ふ。もとの御門、今年(ことし)こそ十六にならせ給(たま)へば、未(いま)だ遙(はる)かなるべき御盛(さか)りに、斯(か)かるを、いとあかずあはれに思(おぼ)されたり。永治の昔(むかし)、鳥羽法皇、崇徳院の御心(おんこころ)もゆかぬに下(お)ろし聞(き)こえて、近衛院をすゑ奉(たてまつ)り給(たま)ひし時は、御門(みかど)いみじうしぶらせ給(たま)ひて、其(そ)の夜になるまで、勅使を度々(たびたび)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつつ、内侍所・剣璽(けんじ)などをも渡(わた)し兼(か)ねさせ給(たま)へりしぞかし。さて其(そ)の御憤(いきどほ)りの末(すゑ)にてこそ、保元の乱(みだ)れも引(ひ)き出(い)で給(たま)へりしを、此(こ)の御門(みかど)は、いとあてにおほどかなる御本性(ごほんじやう)にて、思(おぼ)しむすぼほれぬには有(あ)らねども、気色にも漏(もら)し給(たま)はず。世にもいと敢(あ)へ無(な)き事(こと)に思(おも)ひ申(まう)しけり。承明門院(しようめいもんゐん)などは、まいて、
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いと胸(むね)痛(いた)く思(おぼ)されけり。其(そ)の年の十二月(しはす)に、太上天皇の尊号有(あ)りて、新院と聞(き)こゆれば、父(ちち)の御門(みかど)をば、今(いま)は本院と申(まう)す。猶(なほ)、御政(まつりごと)は変(か)はらず。今(いま)の御門は十四になり給(たま)ふ。御諱(いみな)守成と聞(き)こえしにや。建暦(けんりやく)二年(にねん)十一月十三日、大嘗会(だいじやうゑ)なり。新院の御時(とき)も仕(つかうまつ)られたりし資実(すけざね)の中納言に、此(こ)の度(たび)も悠紀方(ゆきがた)の御屏風の歌召(め)さる。長楽山(ながらやま)、
菅(すが)の根(ね)のながらの山(やま)の峰の松(まつ)吹(ふ)きくる風(かぜ)も万代の声
斯様(かやう)の事(こと)は、皆人の知(し)ろし召(め)したらん。こと新(あたら)しく聞(き)こえなすこそ、老(お)いの僻事(ひがこと)ならめ。此(こ)の御世には、いと掲焉(けちえん)なる事多(おほ)く、所々(ところどころ)の行幸繁(しげ)く、好(この)ましき様(さま)なり。建保(けんぽう)二年(にねん)、春日社に行幸有(あ)りしこそ、有(あ)り難(がた)き程(ほど)いどみ尽(つ)くし、面白(おもしろ)うも侍(はべ)りけれ。さて其(そ)の又の年(とし)、御百首歌(ひやくしゆうた)よませ給(たま)ひけるに、去年(こぞ)の事思(おぼ)し出(い)でて、内の御製(ぎよせい)、
春日山(かすがやま)こぞのやよひの花の香(か)に染(そ)めし心は神ぞ知(し)るらん
御心(おんこころ)ばへ、新院よりも少(すこ)しかどめいて、あざやかにぞ御座(おは)しましける。御才(ざえ)も、やまともろこし兼(か)ねて、いと止(や)む事(ごと)無(な)く物(もの)し給(たま)ふ。朝夕(あさゆふ)の御営(いとな)みは、和歌の道(みち)にてぞ侍(はべ)りける。末(すゑ)の世に、八雲など言(い)ふ物作(つく)らせ給(たま)へるも、此(こ)の御門の御事(こと)なり。摂政殿の姫君(ひめぎみ)参(まゐ)り給(たま)ひて、いと花やかにめでたし。此(こ)の御腹(おんはら)に、建保六年十月十日、一の御子(みこ)生(む)まれ給(たま)へり。いよいよ物合(あ)ひたる心地して、世の中(なか)ゆすりみちたり。十一月二十一日、やがて親王(みこ)に
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成(な)し奉(たてまつ)り給(たま)ひて、同(おな)じ二十六日、坊に居(ゐ)給(たま)ふ。未(いま)だ御五十日(いか)だに聞(き)こし召(め)さぬに、いちはやき御もてなし、珍(めづら)かなり。心もと無(な)く思(おぼ)ほされければなるべし。今(いま)一入(ひとしほ)、世の中(なか)めでたく、定(さだ)まり果(は)てぬる様(さま)なり。新院は、いでやと思(おぼ)さるらんかし。かくて院の上(うへ)も、ややもすれば水無瀬殿(みなせどの)にのみ渡(わた)らせ給(たま)ひて、琴笛(ことふえ)の音につけ、花紅葉(はなもみぢ)の折々(をりをり)にふれて、万(よろづ)の遊(あそ)び業(わざ)をのみ尽(つ)くしつつ、御心(おんこころ)行(ゆ)く様(さま)にて過(す)ごさせ給(たま)ふ。誠(まこと)に万世(よろづよ)も尽(つ)きすまじき御世(よ)の栄(さか)え、次々(つぎつぎ)今(いま)よりいと頼(たの)もしげにぞ見(み)えさせ給(たま)ふ。御囲碁うたせ給(たま)ふついでに、若(わか)き殿上人共(ども)召(め)して、此(これ)彼(かれ)心のひきひきに、いどみ争(あらそ)はせさせ給(たま)へば、あるは小弓・双六(すぐろく)など言(い)ふ事(こと)まで、思(おも)ひ思(おも)ひに勝負(かちまけ)をさうどきあへるも、いとをかしう御覧じて、様々(さまざま)の興(きよう)ある賭物(のりもの)共(ども)取(と)う出(で)させ給(たま)ふとて、某(なにがし)の中将(ちゆうじやう)を御使(つか)ひにて、修明門院の御方(かた)へ、「何(なに)にても、男(をのこ)共(ども)に賜(たま)はせぬべからん賭物(のりもの)」と申(まう)されたるに、取(と)り敢(あ)へず、小(ちひ)さき唐櫃(からびつ)の金物(かなもの)したるが、いと重(おも)らかなるを、参(まゐ)らせられたり。此(こ)の御使(つか)ひの上人(うへびと)、何(なに)ならんと、いといぶかしくて、片端(かたはし)ほのあけて見るに銭なり。いと心得(え)ずなりて、さと面(おもて)打(う)ち赤(あか)みて、あさましと思(おも)へる気色しるきを、院御覧(ごらん)じおこせて、「朝臣こそ、むげに口惜(くちを)しくは有りけれ。かばかりの事、知(し)らぬ様(やう)やはある。古(いにしへ)より、殿上の賭弓(のりゆみ)と言(い)ふ事(こと)には、これをこそ賭物(かけもの)にせしか。然(さ)れば、今(いま)、賭物(かけもの)と聞(き)こえたるに、これをしも出(い)だされたるなむ、古(いにしへ)
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の事知(し)り給(たま)へるこそ、いたき業(わざ)なれ」とほほゑみて宣(のたま)ふに、「さは悪(あ)しく思ひけり」と、心地(ここち)騒(さわ)ぎて覚(おぼ)ゆべし。大方(おほかた)、此(こ)の院の上(うへ)は、万(よろづ)の事(こと)に至(いた)り深(ふか)く、御心(おんこころ)も花やかに、物に詳(くは)しうなどぞ御座(おは)しましける。夏(なつ)の頃、水無瀬殿(みなせどの)の釣殿(つりどの)に出(い)でさせ給(たま)ひて、氷水(ひみづ)召(め)して、水飯(すいはん)様(やう)の物など、若(わか)き上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)共(ども)に賜(たま)はせて、大御酒(おほみき)参(まゐ)るついでにも、「あはれ、古(いにしへ)の紫式部(むらさきしきぶ)こそいみじくは有(あ)りけれ。彼(か)の源氏(げんじ)の物語(ものがたり)にも、「近(ちか)き川の鮎(あゆ)、西川(にしかは)より奉(たてまつ)れるいしぶし様(やう)の物、御前にて調(てう)じて」と書(か)けるなむ、勝(すぐ)れてめでたきぞとよ。只今(ただいま)然様(さやう)の料理(れうり)仕(つかうまつ)りてんや」など宣(のたま)ふを、秦(はた)の某(なにがし)とか言(い)ふ御随身(みずいじん)、勾欄(かうらん)のもと近(ちか)く候(さぶら)ひけるが、承(うけたまは)りて、池の汀(みぎは)なる篠(ささ)を少(すこ)し敷(し)きて、白(しろ)き米(よね)を水に洗(あら)ひて奉(たてまつ)れり。「拾(ひろ)はば消(き)えなん」とにや。これもけしかる業(わざ)かな」とて、御衣(ぞ)ぬぎてかづけさせ給(たま)ふ。御土器(かはらけ)度々(たびたび)聞(き)こし召(め)す。其(そ)の道(みち)にも、いとはしたなう物(もの)し給(たま)ふ。何事(なにごと)も愛敬(あいぎやう)づき、めでたく見(み)えさせ給(たま)ふ御有様(おんありさま)、千年(ちとせ)経(ふ)とも飽(あ)く世あるまじかめり。又(また)、清撰の御歌合(うたあはせ)とて、限(かぎ)り無(な)く磨(みが)かせ給(たま)ひしも、水無瀬殿(みなせどの)にての事(こと)なりしにや。当座に衆議判なれば、人々(ひとびと)の心地(ここち)、いとど置(お)き所無(な)かりけむかし。建保二年(にねん)七月(ながつき)の頃、勝(すぐ)れたる限(かぎ)りぬき出(い)で給(たま)ふめりしかば、いづれかおろかならん。中(なか)にもいみじかりし事(こと)は、第七番に、左、院の御歌、
明石潟(あかしがた)浦路(うらぢ)晴(は)れ行(ゆ)く朝(あさ)なぎに霧に漕(こ)ぎ入(い)る海士(あま)の釣舟(つりぶね)
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と有(あ)りしに、北面(きたおもて)の中(なか)に、藤原秀能(ひでよし)とて、年頃も此(こ)の道に許(ゆ)りたるすき物なれば、召(め)し加(くは)へらるる事常(つね)の事(こと)なれど、止(や)む事(ごと)無(な)き人々(ひとびと)の歌だにも、あるは一首二首三首には過(す)ぎざりしに、此(こ)の秀能九首まで召(め)されて、しかも院の御かたてに参(まゐ)る。さて有(あ)りつる海士(あま)の釣舟(つりぶね)の御歌の右に、
契(ちぎ)りおきし山(やま)の木の葉の下紅葉(もみぢ)染(そ)めし頃(ころ)にも[B 「にも」に「もにイ」と傍書]秋風ぞ吹(ふ)く
と詠(よ)めりしは、其(そ)の身の上(うへ)に取(と)りて、長(なが)き世の面目(めいぼく)、何かは有(あ)らん、とぞ聞(き)き侍(はべ)りし。昔(むかし)の躬恒(みつね)が、御階(はし)のもとに召(め)されて、「弓張(ゆみはり)としも言(い)ふ事(こと)は」と奏(そう)して、御衣(ぞ)賜(たま)はりしをこそ、いみじき事(こと)には言(い)ひ伝(つた)ふめれ。又、貫之(つらゆき)が家に、枇杷(びは)の大臣(おとど)、魚袋(ぎよたい)の歌の返(かへ)し、訪(とぶら)ひに御座(おは)したりしをも、道の高名(かうみやう)とこそ、日記には書(か)きて侍れ。近(ちか)き頃(ころ)は、西行法師(ほふし)ぞ北面(きたおもて)の者(もの)にて、世にいみじき歌の聖(ひじり)なめりしが、今(いま)の代の秀能(ひでよし)、ほとほと古(ふる)きにも立(た)ち勝(まさ)りてや侍らん。此(こ)の度(たび)の御歌合(うたあはせ)、大方(おほかた)、いづれと無(な)く打(う)ち見(み)渡(わた)して、勝(すぐ)れたる限(かぎ)りを撰(え)り出(い)でさせ給(たま)ひしかば、各(おのおの)むらむらにぞ侍(はべ)りける。吉水(よしみづ)の僧正慈円と聞(き)こえし、又類(たぐひ)無(な)き歌聖(ひじり)にていましき。それだに四首ぞ入(い)り給(たま)ひにける。さのみは事ながければもらしぬ。此(こ)の僧正、世(よ)にもいと重(おも)く、山(やま)の座主にて物(もの)し給(たま)ふ事(こと)も年(とし)久(ひさ)しかりし其(そ)の程(ほど)に、止(や)む事(ごと)無(な)き高名数(かず)知(し)らず御座(おは)せしかば、崇(あが)められ給(たま)ふ様(さま)も、二(に)無(な)く物(もの)し給(たま)ひしかど、猶(なほ)、飽(あ)かず思(おぼ)す事(こと)や有(あ)りけん。院に
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奉(たてまつ)られける長歌(ながうた)、
さても如何(いか)に鷲(わし)のみ山(やま)の月の影(かげ)鶴(つる)の林(はやし)に入(い)りしより経(へ)にける年を数(かぞ)ふれば二千年(ふたちとせ)をも過(す)ぎ果(は)てて後(のち)の五(いつ)つの百年(ももとせ)になりにけるこそ悲(かな)しけれあはれ御法(みのり)の水(みづ)泡(あは)の消(き)え行(ゆ)く頃(ころ)になりぬればそれに心を澄(す)ましてぞ我(わ)が山川に沈(しづ)み行(ゆ)く心争(あらそ)ふ法(のり)の師は我(われ)も我(われ)もと青柳(あをやぎ)のいと所(ところ)せく乱(みだ)れきて花も紅葉(もみぢ)も散(ち)り行(ゆ)けば梢(こずゑ)跡無(な)きみ山辺の道(みち)に惑(まど)ひて過(す)ぎながら一人(ひとり)心をとどむるもかひもなぎさの志賀(しが)の浦(うら)跡(あと)垂(た)れましし日吉(ひよし)のや神のめぐみを頼(たの)めども人の願(ねが)ひをみつかはの流(なが)れも浅(あさ)くなりぬべし峰(みね)の聖(ひじり)の住処(すみか)さえ苔(こけ)の下(した)にぞ埋(う)もれ行(ゆ)く打(う)ち払(はら)ふべき人もがなあなうの花の世の中(なか)や春の夢路(ゆめぢ)は空(むな)しくて秋の梢(こずゑ)を思(おも)ふより冬の雪をも誰(たれ)か問(と)ふかくてや今(いま)はあと絶(た)えむと思(おも)ふからにくれはとり怪(あや)しき夜(よる)の我(わ)が思(おも)ひ消(き)えぬばかりを頼(たの)みきて猶(なほ)さりともと花の香(か)にしひて心を
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筑波山(つくばやま)繁(しげ)き歎(なげ)きの根(ね)を尋(たづ)ね沈(しづ)む昔(むかし)の魂(たま)を問(と)ひ救(すく)ふ心(こころ)は深(ふか)くして勤(つと)め行(ゆ)くこそあはれなれ深山(みやま)の鐘(かね)をつくづくと我(わ)が君が世を思(おも)ふにも峰(みね)の松風(まつかぜ)のどかにて千世に千年(ちとせ)をそふる程(ほど)法(のり)のむしろの花の色(いろ)野にも山(やま)にも匂(にほ)いてぞ人を渡(わた)さむはしとしてしばし心をやすむべき遂(つひ)には如何(いかが)飛鳥川(あすかがは)あすより後や我(わ)が立(た)ちし杣(そま)のたつきの響(ひび)きより峰(みね)の朝霧(あさぎり)晴(は)れのきて曇(くも)らぬ空に立(た)ち帰(かへ)るべき
返歌(かへしうた)
さりともと思(おも)ふ心ぞ猶(なほ)深(ふか)き絶(た)えて絶(た)え行(ゆ)く山川の水
定家(ていか)の中将(ちゆうじやう)、折節(をりふし)御前に候(さぶら)ひければ、此(こ)の返(かへ)しせよとて、さし給(たま)はするに、いと疾(と)く書(か)きて、御覧(ごらん)ぜさせけり。
久方(ひさかた)の天地(あめつち)ともに限(かぎ)り無(な)き天(あま)つ日つぎを誓(ちか)ひてし神諸共(もろとも)にまもれとて我(わ)が立(た)つ杣(そま)を祈(いの)りつつ昔(むかし)の人のしめてける峰の杉むら色かへず幾(いく)年々(としどし)を隔(へだ)つとも八重の白雲(しらくも)ながめ遣(や)る都(みやこ)の春をとなりにて御法(のり)の花も
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衰(おとろ)へず匂(にほ)はん物と思(おも)ひおきし末葉(すゑば)の露も定(さだ)め無(な)きかやが下葉(したば)に乱(みだ)れつつもとの心のそれならぬうきふし繁(しげ)き呉竹(くれたけ)になく音をたつる鴬(うぐひす)のふるすは雪(ゆき)にあらしつつ跡絶(た)えぬべき谷(たに)がくれこりつむ歎(なげ)き椎柴(しひしば)のしひて昔(むかし)にかへされぬ葛(くず)のうら葉は恨(うら)むとも君は三笠(みかさ)の山高(たか)み雲井の空にまじりつつ照(てる)日(ひ)を世々(よよ)に助(たす)けこし星(ほし)の宿(やど)りを振(ふ)り捨(す)てて一人(ひとり)出(い)でにし鷲(わし)の山(やま)よにも稀(まれ)なるあととめて深(ふか)き流(なが)れに結(むす)ぶてふ法(のり)の清水(しみづ)の底(そこ)澄(す)みて濁(にご)れる世(よ)にも濁(にご)り無し沼(ぬま)の葦間(あしま)に影(かげ)宿(やど)す秋の半(なか)ばの月なれば猶(なほ)山(やま)の端(は)を行(ゆ)きめぐり空吹(ふ)く風(かぜ)を仰(あふ)ぎても空(むな)しくなさぬ行(ゆ)く末(すゑ)をみつの川波(かはなみ)立(た)ち返(かへ)り心のやみをはるくべき日吉(ひよし)の御影(かげ)のどかにて君を祈(いの)らん万世(よろづよ)に千代を重(かさ)ねて松が枝(え)を翼(つばさ)にならす鶴(つる)の子の譲(ゆづ)る齢(よはひ)は和歌(わか)の浦(うら)や今(いま)は玉藻(たまも)をかきつめて例(ためし)もなみに磨(みが)きおく我(わ)が道(みち)までも絶(た)えせずば言(こと)の葉ごとの色々(いろいろ)に後見(み)む人も恋(こ)ひざらめかも
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反歌(はんか)
君を祈(いの)る心深(ふか)くは頼(たの)むらん絶(た)えては更(さら)に山川の水
新院も、のどかに御座(おは)します儘(まま)に、御歌をのみ詠(よ)ませ給(たま)へど、万(よろづ)の事、もて出(い)でぬ御本性(ごほんじやう)にて、人々(ひとびと)など集(あつ)めて、わざとある様(さま)をば好(この)ませ給(たま)はず。建保の頃、内々(うちうち)百首(ひやくしゆ)の御歌詠(よ)み給(たま)へりしを、家隆(いへたか)の三位、又定家(ていか)の治部卿のもとなどへ、言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)き児(ちご)の詠(よ)めるとて、遣(つか)はして見(み)せられしに、いづれもめでたく様々(さまざま)なる中(なか)に、懐旧の御歌に、
秋の色を送(おく)り迎(むか)へて雲の上になれにし月も物忘(わす)れすな
とある所に、定家(ていか)の君驚(おどろ)き畏(かしこ)まりて、裏書(うらがき)に、「あさましく計(はか)られ奉(たてまつ)りける事」などしるして、
あかざりし月もさこそは思(おも)ふらめ古(ふる)き涙も忘(わす)られぬ世(よ)に
と奏(そう)せられたり。院も縁(えん)有(あ)りて御覧(ごらん)ずべし。げに如何(いかが)御心(おんこころ)動(うご)かずしも御座(おは)しまさむとぞ、〔其(そ)の〕世の事忝(かたじけな)くなむ。今(いま)も少(すこ)し、世の中(なか)隔(へだ)たれる様(さま)にてのみ御座(おは)しますこそ、いといとほしき御有様(おんありさま)なめれとぞ。




増鏡 尾張徳川家本

第二 新島守(にひしまもり)
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猛(たけ)き武士(もののふ)の起(お)こりを尋(たづ)ぬれば、古(いにしへ)の田村、利仁など言(い)ひけん将軍共(ども)の事(こと)は、耳遠(みみどほ)ければ差(さ)し置(お)きぬ。其(そ)のかみより今(いま)まで、源平(げんぺい)の二流(ふたなが)れぞ、時(とき)により折(をり)に従(したが)ひて、公(おほやけ)の御守(まも)りとは成(な)りにける。桓武天皇と聞(き)こえし御門(みかど)をば、柏原(かしはばら)とも申(まう)しけり。其(そ)の御子に式部卿(しきぶきやう)の親王(みこ)と聞(き)こえしより五代の末(すゑ)に、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)と言(い)ふ人、維衡(これひら)・維時(これとき)とて、二人(ふたり)の子を持(も)たりけり。間近(まぢか)く栄(さか)えし西八条の清盛の大臣(おとど)は、彼(か)の太郎維衡(これひら)より六代の末(すゑ)なりき。其(そ)の一(ひと)つ門(かど)亡(ほろ)びしかば、此(こ)の頃(ごろ)は、僅(わづ)かにあるか無(な)きかにぞ、さまよふめる。さて彼(か)の維時が名残(なごり)は、ひたすら民と成(な)りて、平四郎時政と言(い)ふ者(もの)のみぞ、伊豆(いづ)の国北条の郡(こほり)とかやにあ(ン)める。それも維時には六代の末(すゑ)なるべし。又(また)源氏武者と言(い)ふも、清和の御門(みかど)、あるは宇多院(うだのゐん)などの御後(おんのち)共(ども)なり。二条院の御時、平治の乱(みだ)れに、伊豆の国(くに)蛭(ひる)が島へ流(なが)されし兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝は、清和の御門(みかど)より八代の流(なが)れ、六条の判官(はうぐわん)為義(ためよし)と言(い)ひし者(もの)の孫なり。左馬頭(さまのかみ)義朝が三郎になむ有(あ)りける。西八条の入道大臣(おとど)、漸(やうや)う栄花衰(おとろ)へんとて、後白河院(ごしらかはのゐん)を悩(なや)まし奉(たてまつ)りしかば、安(やす)からず思(おも)ほされて、彼(か)の頼朝を召(め)し出(い)でて、軍(いくさ)を起(おこ)し給(たま)ひしに、然(しか)るべき時(とき)や至(いた)りけむ、平家の人々(ひとびと)は、寿永の秋の木枯(こがら)しに散(ち)り果(は)てて、遂(つひ)にわたつ海(うみ)の底(そこ)のもくづと沈(しづ)みにし後、いよいよ頼朝権(けん)を施(ほどこ)して、更(さら)に君の御後見(おんうしろみ)を仕(つかうまつ)る。相模(さがみ)の国鎌倉(かまくら)の里(さと)と言(い)ふ所に居(を)りながら、世(よ)をば掌(たなごころ)の中(なか)に思(おも)ひき。皆人(みなひと)知(し)り給(たま)へる事(こと)なれば、今更(いまさら)に申(まう)すも中々なれど、院の上(うへ)、位につか
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せ給(たま)ひし始(はじ)めより、世(よ)の固(かた)めと成(な)りて、文治元年(ぐわんねん)四月、二の階(はし)を上(のぼ)りしも、八島(やしま)の内の大臣(おとど)宗盛を生捕(いけど)りの賞と聞(き)こえき。建久の初(はじ)めつ方(かた)、都に上(のぼ)る。其(そ)の勢(いきほ)ひのいかめしき事(こと)、言(い)へば更(さら)なり。道すがら遊(あそ)び者(もの)共(ども)参(まゐ)る。遠江(とほたふみ)の国(くに)橋本(はしもと)の宿に着(つ)きたるに、例(れい)の遊女、多(おほ)くえも言(い)はず装束(さうぞ)きて参(まゐ)れり。頼朝打(う)ちほほゑみて、
橋本(はしもと)の君に何(なに)をか渡(わた)すべき
と言(い)へば、梶原(かぢはら)平三影時(かげとき)と言(い)ふ武士、取(と)り敢(あ)へず、
只(ただ)杣山(そまやま)のくれで有(あ)らばや W
いとあいだちなしや。馬(うま)鞍(くら)紺(こん)括(くく)り物(もの)など運(はこ)び出(い)でて引(ひ)けば、喜(よろこ)び騒(さわ)ぐ事限(かぎ)り無(な)し。其(そ)の年(とし)十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼(か)ねたり。十二月(しはす)の一日(ついたち)頃(ごろ)、喜(よろこ)び申(まう)しして、同(おな)じき四日、やがて官(つかさ)をば返(かへ)し奉(たてまつ)る。此(こ)の時(とき)ぞ、諸国の総追捕使(そうついぶくし)と言(い)ふ事承(うけたまは)りて、地頭職(ぢとうしき)に、我(わ)が家の兵(つはもの)共(ども)をなし集(あつ)めける。此(こ)の日本国の衰(おとろ)ふる初(はじ)めは、是(これ)よりなるべし。さて東(あづま)に帰(かへ)り下(くだ)る頃(ころ)、上下色々(いろいろ)のぬさ多(おほ)かりし中(なか)に、年頃も祈(いの)りなどし給(たま)ひし吉水(よしみづ)の僧正、彼(か)の長歌(ながうた)の座主、宣(のたま)ひ遣(つか)はしける。
東路(あづまぢ)の方(かた)に勿来(なこそ)の関の名(な)は君を都に住(す)めとなりけり W
御返(かへ)し、頼朝、
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都(みやこ)には君に相坂(あふさか)近(ちか)ければ勿来(なこそ)の関は遠(とほ)きとを知(し)れ W
其(そ)の後(のち)も、又(また)上(のぼ)りて、東大寺の供養にも詣(まう)でたりき。かくて新院御位の初(はじ)めつ方(かた)、正治元年(ぐわんねん)正月、東(あづま)にて頭(かしら)下(お)ろして、同(おな)じ十三日に、年五十三にて隠(かく)れにけり。治承四年より天(あめ)の下(した)に用(もち)ゐられて、二十年(はたとせ)ばかりや過(す)ぎぬらん。北(きた)の方(かた)は、先(さき)に聞(き)こえつる北条の四郎時政が娘(むすめ)なり。其(そ)の腹(はら)に男(をのこ)二人(ふたり)有(あ)り。太郎をば頼家と言(い)ふ。弟(おとうと)をば実朝と聞(き)こゆ。大将隠(かく)れて後(のち)、兄(あに)はやがて立(た)ち継(つ)ぎて、建仁元年(ぐわんねん)六月二十二日従二位、同(おな)じ日、将軍の宣旨を賜(たま)はる。又(また)の年(とし)、左衛門督になさる。かかれども、少(すこ)し落(お)ち居(ゐ)ぬ心ばへなど有(あ)りて、漸(やうや)う兵(つはもの)も背(そむ)き背(そむ)きにぞ成(な)りにける。時政は遠江守(とほたふみのかみ)と言(い)ひて、故(こ)大将の有(あ)りし時(とき)より私(わたくし)の後見(うしろみ)なりしを、まいて今(いま)は孫の世(よ)なれば、いよいよ身重(おも)く勢(いきほ)ひそふ事限(かぎ)り無(な)くて、うけばりたる様(さま)なり。子二人(ふたり)有(あ)り。太郎は宗時と言(い)ふ。二郎(じらう)義時と言(い)ふは、心(こころ)も猛(たけ)く魂(たましひ)勝(まさ)れるが、左衛門督をばふさはしからず思(おも)ひて、弟(おとうと)の実朝の君に付(つ)き従(したが)ひて、思(おも)ひかまふる事(こと)なども有(あ)りけり。督(かみ)は、日に添(そ)へて人にも背(そむ)けられ行(ゆ)くに、いといみじき病(やまひ)をさへして、建仁三年九月十六日、年(とし)二十二にて頭(かしら)下(お)ろす。世(よ)の中(なか)残(のこ)り多(おほ)く、何事(なにごと)もあたらしかるべき程(ほど)なれば、さこそ口惜(くちを)しかりけめ。幼(をさな)き子の一万と言(い)ふにぞ、世(よ)をば譲(ゆづ)りけれど、うけひく者(もの)無(な)し。入道は、彼(か)の病(やまひ)つくろはんとて、鎌倉より伊豆(いづ)の国へ出(い)で湯(ゆ)あびに越(こ)えたりける
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程(ほど)に、彼処(かしこ)の修善寺と言(い)ふ所(ところ)にて、遂(つひ)に討(う)たれぬ。一万もやがて失(うしな)はれけり。是(これ)は、実朝と義時と、一(ひと)つ心(こころ)にてたばかりけるなるべし。さて、今(いま)は偏(ひとへ)に、実朝、故(こ)大将の跡(あと)をうけ継(つ)ぎて、官(つかさ)・位(くらゐ)とどこほる事無(な)く、万(よろづ)心(こころ)の儘(まま)なり。建保元年(ぐわんねん)二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏作(つく)れる賞とぞ聞(き)き侍(はべ)りし。同(おな)じ六年、権大納言に成(な)りて、左大将を兼(か)ねたり。左馬寮をさへぞ付(つ)けられける。其(そ)の年(とし)やがて内大臣に成(な)りても、猶(なほ)大将ももとの儘(まま)なり。父(ちち)にもやや立(た)ち勝(まさ)りていみじかりき。此(こ)の大臣(おとど)は、大方(おほかた)、心ばへうるはしく、猛(たけ)くもやさしくも、万(よろづ)目(め)安(やす)ければ、理(ことわり)にも過(す)ぎて、武士(もののふ)の靡(なび)き従(したが)ふ様(さま)も代々に越(こ)えたり。如何(いか)なる時(とき)にか有(あ)りけむ、
山(やま)はさけ海はあせなん世(よ)なりとも君に二心我(わ)が有(あ)らめやも W
とぞ詠(よ)みける。時政は建保三年隠(かく)れにしかば、義時は跡(あと)を継(つ)ぎけり。故(こ)左衛門督の子にて公暁(くげう)と言(い)ふ大徳(だいとこ)有(あ)り。親(おや)の討(う)たれにし事(こと)を、如何(いか)でか安(やす)き心有(あ)らん。如何(いか)ならむ時(とき)〔に〕かとのみ思(おも)ひ渡(わた)るに、此(こ)の大臣、又(また)右大臣に上(あ)がりて、大饗(たいきやう)など、珍(めづら)しく東(あづま)にて行(おこな)ふ。京より尊者を始(はじ)め上達部(かんだちめ)・殿上人多(おほ)く訪(とぶら)ひいましけり。さて、鎌倉(かまくら)に移(うつ)し奉(たてまつ)れる八幡(はちまん)の御社(みやしろ)に、神拝に詣(まう)づる、いといかめしき響(ひび)きなれば、国々の武士(ぶし)は更(さら)にも言(い)はず、都(みやこ)の人々(ひとびと)も扈従(こせう)し〔たり〕けり。立(た)ち騒(さわ)ぎ罵(ののし)る者(もの)、見(み)る人も多(おほ)かる中(なか)に、彼(か)の大徳(だいとこ)、打(う)ち紛(まぎ)れ
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て、女(をんな)のまねをして、白(しろ)き薄衣(うすぎぬ)引(ひ)き折(を)り、大臣(おとど)の車より降(お)るる程(ほど)を、差(さ)しのぞく様(やう)にぞ見(み)えける。あやまたず首(くび)を打(う)ち落(お)としぬ。其(そ)の程(ほど)のとよみいみじさ、思(おも)ひ遣(や)りぬべし。かく言(い)ふは、承久元年(ぐわんねん)正月二十七日なり。そこら集(つど)ひ集(あつ)まれる者(もの)共(ども)、只(ただ)あきれたるより外(ほか)の事無(な)し。京にも聞(き)こし召(め)し驚(おどろ)く。世(よ)の中(なか)火を消(け)ちたる様(さま)なり。扈従(こせう)に西園寺の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)実氏も下(くだ)り給(たま)ひき。さならぬ人々(ひとびと)も、泣(な)く泣(な)く袖を絞(しぼ)りてぞ上(のぼ)りける。未(いま)だ子も無(な)ければ、立(た)ち継(つ)ぐべき人も無(な)し。事鎮(しづ)まりなん程(ほど)とて、故(こ)大臣(おとど)の母(はは)北(きた)の方(かた)二位殿と言(い)ふ人、二人(ふたり)の子をも失(うしな)ひて、涙(なみだ)ほす間(ま)も無(な)く、しをれ過(す)ぐすをぞ、将軍に用(もち)ゐける。かくてもさのみは如何(いかが)にて、君達(きんだち)一所(ひとところ)下(くだ)し聞(き)こえて、将軍になし奉(たてまつ)らせ給(たま)へ」と、公経の大臣(おとど)に申(まう)し上(のぼ)せければ、あへなんと思(おぼ)す所(ところ)に、九条の左大臣殿の上(うへ)は、此(こ)の大臣(おとど)の御娘(むすめ)なり。其(そ)の御腹(おんはら)の若君(わかぎみ)、二(ふた)つに成(な)り給(たま)ふを、下(くだ)し聞(き)こえんと、九条殿宣(のたま)へば、御孫ならんも同(おな)じ事(こと)と思(おぼ)し定(さだ)め給(たま)ひぬ。其(そ)の年(とし)の六月に、東(あづま)に率(ゐ)て奉(たてまつ)る。七月十九日に御座(おは)しまし着(つ)きぬ。むつきの内(うち)の御有様(おんありさま)は、只(ただ)形代(かたしろ)などを祝(いは)ひたらん様(やう)にて、万(よろづ)の事(こと)、さながら右京権大夫(ごんのだいぶ)義時の朝臣心(こころ)の儘(まま)なれど、一の人の御子、将軍に成(な)り給(たま)へるは、是(これ)ぞ初(はじ)めなるべき。彼(か)の平家の亡(ほろ)びがた近(ちか)く、人の夢に、「頼朝が後(のち)は、其(そ)の御太刀(たち)預(あづ)かるべし」と、春日(かすが)大明神仰(おほ)せられけるは、此(こ)の今(いま)の若君(わかぎみ)の御事(こと)にこそ有(あ)りけめ。かくて世(よ)を靡(なび)かし、
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したため行(おこな)ふ事(こと)も、ほとほと古(ふる)きには越(こ)えたり。まめやかにめざましき事(こと)も多(おほ)く成(な)り行(ゆ)くに、院の上(うへ)、忍(しの)びて思(おぼ)し立(た)つ事(こと)あるべし。近(ちか)く仕(つかうまつ)る上達部・殿上人、まいて北面の下臈(げらふ)・西面(にしおもて)など言(い)ふも、皆(みな)此(こ)の方(かた)にほのめきたるは、あけくれ弓矢(ゆみや)兵仗(ひやうぢやう)の営(いとな)みより外(ほか)の事無(な)し。剣(つるぎ)などを御覧じ知(し)る事(こと)さへ、如何(いか)で習(なら)はせ給(たま)へるにか、道の者にもやや立(た)ち勝(まさ)りて、賢(かしこ)く御座(おは)しませば、御前にて良(よ)きあしきなど定(さだ)めさせ給(たま)ふ。斯様(かやう)の紛(まぎ)れにて、承久も三年に成(な)りぬ。四月二十日、御門降(お)りさせ給(たま)ふ。春宮四(よ)つにならせ給(たま)ふに譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ふ。近頃(ちかごろ)、皆(みな)此(こ)の御齢(おんよはひ)にて受禅有(あ)りつれば、是(これ)もめでたき御行(ゆ)く末(すゑ)ならんかし。同(おな)じ二十三日、院号の定(さだ)め有(あ)りて、今(いま)降(お)りさせ給(たま)へるを、新院と聞(き)こゆれば、御兄(あに)の院をば中(なか)の院(ゐん)と申(まう)し、父(ちち)御門をば本院とぞ聞(き)こえさする。此(こ)の程(ほど)は、家実の大臣(おとど)関白にて御座(おは)しつれど、御譲位の時(とき)、左大臣道家の大臣(おとど)、摂政に成(な)り給(たま)ふ。彼(か)の東(あづま)の若君(わかぎみ)の御父(ちち)なり。さても院の思(おぼ)し構(かま)ふる事(こと)、忍(しの)ぶとすれど、漸(やうや)う漏(も)れ聞(き)こえて、東(ひんがし)様(ざま)にも、其(そ)の心(こころ)遣(づか)ひすべかんめり。東(あづま)の代官にて伊賀(いが)の判官光季(みつすゑ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。かつがつ彼(かれ)を御勘事(かうじ)の由(よし)仰(おほ)せらるれば、御方(みかた)に参(まゐ)る兵(つはもの)共(ども)押(お)し寄(よ)せたるに、逃(の)がるべきやう無(な)くて、腹(はら)切(き)りてけり。先(ま)づいとめでたしとぞ、院は思(おぼ)し召(め)しける。東(あづま)にも、いみじうあわて騒(さわ)ぐ。「然(さ)るべくて身の失(う)すべき時(とき)にこそあんなれ」と思(おも)ふ物(もの)から、
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「討手(うつて)の攻(せ)め来(き)たりなん時(とき)に、はかなき様(さま)にて屍(かばね)をさらさじ、公(おほやけ)と聞(き)こゆとも、自(みづか)らし給(たま)ふ事(こと)ならねば、かつは我(わ)が身の宿世(しゆくせ)をも見(み)るばかり」と思(おも)ひ成(な)りて、弟(おとうと)の時房(ときふさ)と泰時と言(い)ふ一男と、二人(ふたり)を頭(かしら)として、雲霞の兵(つはもの)をたなびかせて、都(みやこ)に上(のぼ)す。泰時を前(まへ)に据(す)ゑて言(い)ふやう、「己(おのれ)を此(こ)の度(たび)都(みやこ)に参(まゐ)らする事(こと)は、思(おも)ふ所(ところ)多(おほ)し。本意の如(ごと)く清(きよ)き死をすべし。人に後(うし)ろ見(み)えなんには、親(おや)の顔(かほ)、又(また)見(み)るべからず。今(いま)を限(かぎ)りと思(おも)へ。賎(いや)しけれども、義時、君(きみ)の御為(ため)に後(うし)ろめたき心(こころ)やはある。然(さ)れば、横(よこ)さまの死をせん事(こと)はあるべからず。心(こころ)を猛(たけ)く思(おも)へ。己(おのれ)打(う)ち勝(か)つならば、二度(ふたたび)此(こ)の足柄(あしがら)・箱根山(はこねやま)は越(こ)えつべし」など、泣(な)く泣(な)く言(い)ひ聞(き)かす。「誠(まこと)にしかなり。又(また)親(おや)の顔(かほ)拝(をが)まむ事(こと)もいと危(あや)ふし」と思(おも)ひて、泰時も鎧(よろひ)の袖を絞(しぼ)る。形見(かたみ)に今(いま)や限(かぎ)りと哀(あは)れに心(こころ)細(ぼそ)げなり。かくて打(う)ち出(い)でぬる又(また)の日、思(おも)ひ掛(か)けぬ程(ほど)に、泰時只(ただ)一人(ひとり)、鞭(むち)を上(あ)げて馳(は)せ来(き)たり。父(ちち)、胸(むね)打(う)ち騒(さわ)ぎて、「如何(いか)に」と問(と)ふに、「軍(いくさ)のあるべき様(やう)、大方(おほかた)の掟(おきて)などは、仰(おほ)せの如(ごと)く其(そ)の心(こころ)を得(え)侍(はべ)りぬ。もし道の辺(ほとり)にも、計(はか)らざるに、忝(かたじけな)く鳳輦(ほうれん)を先(さき)立(だ)てて、御旗(はた)を上(あ)げられ、臨幸(りんかう)の厳重(げんぢゆう)なる事(こと)も侍らんに参(まゐ)りあへらば、其(そ)の時(とき)の進退(しんだい)は如何(いかが)侍(はべ)るべからん。此(こ)の一事(いちじ)を尋(たづ)ね申(まう)さんとて、一人(ひとり)馳(は)せ侍(はべ)りき」と言(い)ふ。義時、とばかり打(う)ち案(あん)じて、「賢(かしこ)くも問(と)へる男(をのこ)かな。其(そ)の事(こと)なり。まさに君の御輿(こし)に向(むか)ひて弓を引(ひ)く事(こと)は、如何(いかが)有(あ)らん。さばかりの時(とき)は、兜(かぶと)を脱(ぬ)ぎ弓の弦(つる)を切(き)りて、偏(ひとへ)に畏(かしこ)まりを
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申(まう)して、身を任(まか)せ奉(たてまつ)るべし。さは有(あ)らで、君は都(みやこ)に御座(おは)しましながら、軍兵を賜(たま)はせば、命を捨(す)てて千人が一人になるまでも戦(たたか)ふべし」と、言(い)ひも果(は)てぬに急(いそ)ぎ立(た)ちにけり。都(みやこ)にも思(おぼ)し設(まう)けつる事無(な)ければ、武士(もののふ)共(ども)召(め)しつどへ、宇治・勢多の橋(はし)ひかせて、敵(かたき)を防(ふせ)くべき用意(ようい)、心(こころ)異(こと)なり。公経の大将一人(ひとり)のみなむ、御孫の事(こと)も然(さ)る事(こと)にて、北(きた)の方(かた)は、一条の中納言能保(よしやす)と言(い)ふ人の娘(むすめ)なり。其(そ)の母(はは)北(きた)の方(かた)は、故(こ)大将のはらからなれば、一方(ひとかた)ならず東(あづま)を重(おも)く思(おぼ)して、さしいらへもせず、院の御心(おんこころ)の軽(かろ)き事(こと)と、危(あぶ)ながり給(たま)ふ。七条院の御縁(ゆかり)の殿原、坊門(ばうもん)の大納言忠信・尾張(をはり)の中将(ちゆうじやう)清経(きよつね)・中御門(なかみかど)の大納言宗家、又(また)修明門院の御はらからの甲斐(かひ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)範茂など、次々(つぎつぎ)数多(あまた)聞(き)こゆれど、さのみはしるし難(がた)し。軍(いくさ)に交(ま)じり立(た)つ人々(ひとびと)、此(こ)の外(ほか)上達部にも殿上人にも、数多(あまた)有(あ)りき。御修法(みしゆほふ)共(ども)数(かず)知(し)らず行(おこな)はる。止(や)む事(ごと)無(な)き顕密の高僧も、斯(か)かる時(とき)こそ頼(たの)もしき業(わざ)ならめ。各(おのおの)心(こころ)を致(いた)して仕(つかうまつ)る。御自(みづか)らもいみじう念ぜさせ給(たま)ふ。日吉(ひよし)の社に忍(しの)びて詣(まう)でさせ給(たま)へり。大宮(おほみや)の御前に、夜もすがら御念誦(ねんず)し給(たま)ひて、御心(おんこころ)の内(うち)に、いかめしき願共(ども)を立(た)てさせ給(たま)ふ。夜少(すこ)し更(ふ)け鎮(しづ)まりて、御社(みやしろ)すごく、燈籠(とうろ)の光(ひかり)かすかなる程(ほど)に、幼(をさな)き童(わらは)の臥(ふ)したりけるが、俄(にはか)におびえ上(あ)がりて、院の御前に只(ただ)参(まゐ)りに走(はし)り参(まゐ)りて、託宣(たくせん)しけり。「忝(かたじけな)くもかく渡(わた)り御座(おは)して、愁(うれ)へ給(たま)へば、聞(き)き過(す)ごし難(がた)く侍れど、一とせの輿振(こしふ)りの時(とき)、情(なさ)け無(な)く防(ふせ)がせ
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給(たま)ひしかば、衆徒己(おのれ)を恨(うら)みて、陣の辺(ほとり)に振(ふ)り捨(す)て侍(はべ)りしかば、空(むな)しく馬牛の蹄(ひづめ)に掛(か)かりし事(こと)は、未(いま)だ恨(うら)めしく思(おも)ひ給(たま)ふるにより、此(こ)の度(たび)の御方人(かたうど)は、え仕(つかうまつ)り侍(はべ)るまじ。七社の神殿を、黄金(こがね)白銀(しろがね)に磨(みが)きなさんと承(うけたまは)るも、もはら受(う)け侍らぬなり」と罵(ののし)りて、息(いき)も絶(た)えぬる様(さま)にて臥(ふ)しぬ。聞(き)こし召(め)す御心地(ここち)、物(もの)に似(に)ずあさましう思(おぼ)さるるに、只(ただ)御涙(なみだ)のみぞ出(い)で来(く)る。過(す)ぎにし方(かた)悔(くや)しう取(と)り返(かへ)さまほし。様々(さまざま)怠(おこた)り畏(かしこ)まり申(まう)させ給(たま)ふ。山(やま)の御輿(こし)防(ふせ)き奉(たてまつ)りけん事(こと)、必(かなら)ずしも自(みづか)ら思(おぼ)し寄(よ)るには有(あ)らざりけめど、「責(せ)め一人に」と言(い)ふらん事(こと)にやと、あぢきなし。中(なか)の院(ゐん)は、あかで位をすべり給(たま)ひしより、言(こと)に出(い)でてこそ物(もの)し給(たま)はねど、世(よ)のいと心(こころ)やましき儘(まま)に、斯様(かやう)の御騒(さわ)ぎにも、殊(こと)にまじらひ給(たま)はざ(ン)めり。新院は、同(おな)じ御心(おんこころ)にて、万(よろづ)軍(いくさ)の事(こと)なども掟(おきて)仰(おほ)せられけり。いつの年(とし)よりも五月雨(さみだれ)晴(は)れ間(ま)無(な)くて、富士川(ふじがは)・天龍など、えも言(い)はずみなぎり騒(さわ)ぎて、如何(いか)なる龍馬(りゆうめ)も打(う)ち渡(わた)し難(がた)ければ、攻(せ)め上(のぼ)る武士(ぶし)共(ども)も、怪(あや)しく悩(なや)めり。かかれども、遂(つひ)に都近(ちか)づく由(よし)、聞(き)こゆれば、君の御武者も出(い)で立(た)つ。其(そ)の勢(いきほ)ひ、六万余騎とかや。宇治(うぢ)・勢多(せた)へ分(わ)かち遣(つか)はす。世(よ)の中(なか)響(ひび)き罵(ののし)る様(さま)、言(こと)の葉(は)も及(およ)ばず学(まね)び難(がた)し。あるは、深(ふか)き山(やま)へ逃(に)げ籠(こも)り、遠(とほ)き世界(せかい)に落(お)ち下(くだ)り、すべて安(やす)げ無(な)く騒(さわ)ぎ満(み)〔ち〕たり。「如何(いかが)有(あ)らん」と君も御心(おんこころ)乱(みだ)れて思(おぼ)し惑(まど)ふ。予(かね)ては猛(たけ)く見(み)えし人々(ひとびと)も、誠(まこと)の際(きは)に成(な)りぬれば、いと心(こころ)あわただしく、色を失(うしな)ひたる様(さま)共(ども)、頼(たの)もしげ無(な)し。
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六月二十日余(あま)りにや、いくばくの戦(たたか)ひだに無(な)くて、遂(つひ)に御方(みかた)の軍(いくさ)敗(やぶ)れぬ。荒(あら)き磯(いそ)に高潮(たかしほ)などの差(さ)し来(く)る様(やう)にて、泰時と時房(ときふさ)と、乱(みだ)れ入(い)りぬれば、言(い)はん方(かた)無(な)くあきれて、上下只(ただ)物(もの)にぞあたり惑(まど)ふ。東(あづま)より言(い)ひおこする儘(まま)に、彼(か)の二人(ふたり)の大将軍計(はか)らひ掟(おき)てつつ、保元の例(ためし)にや、院の上、都の外(ほか)に移(うつ)し奉(たてまつ)るべしと聞(き)こゆれば、女院・宮々、所々(ところどころ)に思(おぼ)し惑(まど)ふ事更(さら)なり。本院は隠岐(おき)の国に御座(おは)しますべければ、先(ま)づ鳥羽殿へ、網代車(あじろぐるま)の怪(あや)しげなるにて、七月六日入(い)らせ給(たま)ふ。今日(けふ)を限(かぎ)りの御歩(あり)き、あさましう哀(あは)れなり。「物(もの)にもがな」と思(おぼ)さるるも甲斐(かひ)無(な)し。其(そ)の日やがて御髪(みぐし)下(お)ろす。御年(おんとし)四十に一二や余(あま)らせ給(たま)ふらん。まだいとほしかるべき御程(ほど)なり。信実(のぶざね)の朝臣召(め)して、御姿(すがた)写(うつ)しかかせらる。七条院へ奉(たてまつ)らせ給(たま)はんとなり。かくて、同(おな)じ十三日に御船(ふね)に奉(たてまつ)りて、給(たま)ふ。遙(はる)かなる波路をしのぎ御座(おは)します御心地(ここち)、此(こ)の世(よ)の同(おな)じ御身とも思(おぼ)されず。〔古(いにしへ)、〕如何(いか)なりける代々の報(むく)ひにかと恨(うら)めしく、新院も佐渡国に移(うつ)らせ給(たま)ふ。誠(まこと)や七月九日、御門(みかど)をも下(お)ろし奉(たてまつ)りき。此(こ)の卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢の様(やう)なる七十余日にて降(お)り給(たま)へる例(ためし)も、是(これ)や初(はじ)めなるらん。唐土(もろこし)にぞ、四十五日とかや位(くらゐ)に御座(おは)する例(れい)有(あ)りけると、唐(から)の書(ふみ)読(よ)みし人の言(い)ひし心地(ここち)する。それも斯様(かやう)の乱(みだ)れや有(あ)りけん。さて上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、それより下(しも)はた残(のこ)り無(な)く、此(こ)の事(こと)に触(ふ)れにし類(たぐひ)は、重(おも)く軽(かろ)く罪(つみ)にあたる様(さま)、いみじげなり。中(なか)の院(ゐん)
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は初(はじ)めより知(しろ)し召(め)さぬ事(こと)なれば、東(あづま)にもとがめ申(まう)さねど、父(ちち)の院、遙(はる)かに移(うつ)らせ給(たま)ひぬるに、のどかにて都に有(あ)らん事(こと)、いと恐(おそ)れ有(あ)りと思(おぼ)されて、御心(おんこころ)もて、其(そ)の年閏(うるふ)十月十日、土佐国の幡多(はた)と言(い)ふ所に渡(わた)らせ給(たま)ひぬ。去年(こぞ)の二月(きさらぎ)ばかりにや、若宮(わかみや)出(い)で来(き)給(たま)へり。承明門院の御兄(せうと)に、通宗(みちむね)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)とて、若(わか)くて失(う)せ給(たま)ひにし人の娘(むすめ)の御腹(おんはら)なり。やがて、彼(か)の宰相の弟(おとうと)に、通方と言(い)ふ人の家に止(とど)め奉(たてまつ)り給(たま)ひて、近(ちか)く候(さぶら)ひける北面の下臈(げらふ)一人、召次(めしつぎ)などばかりぞ、御供(とも)仕(つかまつ)りける。いと怪(あや)しき御手輿(たごし)にて下(くだ)らせ給(たま)ふ。道(みち)すがら雪かき暗(くら)し風吹(ふ)き荒(あ)れ吹雪(ふぶき)して、来(こ)し方(かた)行(ゆ)く先(さき)も見(み)えず、いと堪(た)へ難(がた)きに、御袖もいたく氷(こほ)りて、わりなき事多(おほ)かるに、
浮(う)き世(よ)にはかかれとてこそ生(う)まれけめ理(ことわり)知(し)らぬ我(わ)が涙かな W
せめて近(ちか)き程(ほど)にも、東(あづま)より奏(そう)したりければ、後には阿波(あは)の国に移(うつ)らせ給(たま)ひにき。さても、此(こ)の度(たび)世(よ)の有様(ありさま)、げにいとうたて口惜(くちを)しき業(わざ)なり。あるは、父の王を失(うしな)ふ例(ためし)だに、一万八千人まで有(あ)りけりとこそ、仏も説(と)き給(たま)ひたんめれ。まして、世下(くだ)りて後、唐土(もろこし)にも〔日の本(もと)にも、〕国を争(あらそ)ひて戦(たたか)ひをなす事(こと)、数(かぞ)へ尽(つ)くすべからず。それも皆(みな)、一節(ひとふし)二節(ふたふし)の寄(よ)せは有(あ)りけむ。もしは、筋(すぢ)異(こと)なる大臣、さらでも、公(おほやけ)ともなるべききざみの、少(すこ)しの違(たが)ひ目(め)に、世(よ)に隔(へだ)たりて、其(そ)の恨(うら)みの末(すゑ)などより、事起(お)こるなりけり。今(いま)のやうに、むげの民と争(あらそ)ひて、君の亡(ほろ)び給(たま)へる例(ためし)、
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此(こ)の国には、いと数多(あまた)も聞(き)こえざめる。然(さ)れば、承平の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和の義親、いづれも皆(みな)猛(たけ)かりけれども、宣旨(せんじ)には勝(か)たざりき。保元に崇徳院の世(よ)を乱(みだ)り給(たま)ひしだに、故院の、御位にて打(う)ち勝(か)ち給(たま)ひしかば、天照大神(あまてるおほむかみ)も、御裳濯川(みもすそがは)の同(おな)じ流(なが)れと申(まう)しながら、猶(なほ)、時(とき)の国王を守(まも)り給(たま)はする事(こと)は、強(つよ)きなめりとぞ、古(ふる)き人々(ひとびと)も聞(き)こえし。又(また)、信頼の衛門督(ゑもんのかみ)、おほけなく二条院をおびやかし奉(たてまつ)りしも、遂(つひ)に、空(むな)しき屍(かばね)をぞ、道の辺(ほとり)に捨(す)てられける。かかれば、旧(ふ)りにし事(こと)を思(おも)ふにも、猶(なほ)さりとも、如何(いか)でか三皇今上数多(あまた)御座(おは)します皇城(わうじやう)の、徒(いたづ)らに亡(ほろ)ぶるやうは有(あ)らんと、頼(たの)もしくこそ覚(おぼ)えしに、かくいとあや無(な)き業(わざ)の出(い)で来(き)ぬるは、此(こ)の世一(ひと)つの事(こと)にも有(あ)らざめども、迷(まよ)ひの愚(おろ)かなる前(まへ)には、猶(なほ)いと怪(あや)し。四(よ)つにて位につき給(たま)ひて、十五年御座(おは)しましき。降(お)り給(たま)ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶(なほ)天(あめ)の下は同(おな)じ事(こと)なりしかば、すべて二十八年か程(ほど)、此(こ)の国の主(あるじ)として、万機の政(まつりごと)を御心(おんこころ)一(ひと)つにをさめ、百(もも)の官(つかさ)を従(したが)へ給(たま)へりし其(そ)の程(ほど)、吹(ふ)く風の草木を靡(なび)かすよりも優(まさ)れる御有様(おんありさま)にて、遠(とほ)きを哀(あは)れみ、近(ちか)きを撫(な)で給(たま)ふ御恵(めぐ)み、雨の脚(あし)よりも繁(しげ)ければ、津(つ)の国(くに)のこやの隙(ひま)無(な)き政(まつりごと)を聞(き)こし召(め)すにも、難波(なには)の葦(あし)の乱(みだ)れざらん事(こと)を思(おぼ)しき。藐姑射(はこや)の山(やま)の峰の松(まつ)も、漸(やうや)う枝を連(つら)ねて、千世(よ)に八千世(よ)を重(かさ)ね、霞(かすみ)の洞(ほら)の御すまひ、幾(いく)春をへても、空行(ゆ)く月日の限(かぎ)り知(し)らずのどけく御座(おは)しましぬべかりつる世(よ)を、ありありて、
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由(よし)無(な)き一節(ひとふし)に、今(いま)はかく花(はな)の都をさへ立(た)ち別(わか)れ、おのがちりぢりにさすらへ、磯(いそ)の苫屋(とまや)に軒(のき)を並(なら)べて、自(おの)づから言(こと)問(と)ふ者(もの)とては、浦(うら)に釣(つり)する海士小舟(あまをぶね)、塩(しほ)焼(や)く煙(けぶり)の靡(なび)く方(かた)をも、我(わ)が故郷(ふるさと)のしるべかとばかり、眺(なが)め過(す)ごさせ給(たま)ふ御住居(すまひ)共(ども)は、それまでと月日を限(かぎ)りたらんだに、明日(あす)知(し)らぬ世(よ)の後(うし)ろめたさに、いと心(こころ)細(ぼそ)かるべし。まして、いつを果(は)てとか、めぐりあふべき限(かぎ)りだに無(な)く、雲の波(なみ)煙(けぶり)の波の幾重(いくへ)とも知(し)らぬさかひに、代を尽(つ)くし給(たま)ふべき御様(さま)共(ども)、口惜(くちを)しと言(い)ふもおろか也(なり)。此(こ)の御座(おは)します所は、人離(はな)れ里遠(とほ)き島の中(なか)〔なり。海づら〕よりは少(すこ)し引(ひ)き入(い)りて、山陰(やまかげ)にかた添(そ)へて、大(おほ)きやかなる巌(いはほ)のそばだてるを便(たよ)りにて、松(まつ)の柱(はしら)に葦(あし)葺(ふ)ける廊(らう)など、気色(けしき)ばかり事そぎたり。誠(まこと)に、「柴(しば)の庵(いほり)の只(ただ)しばし」と、仮初(かりそめ)に見(み)えたる御宿(やど)りなれど、然(さ)る方(かた)に艶(なま)めかしく故(ゆゑ)づきてしなさせ給(たま)へり。水無瀬(みなせ)殿(どの)思(おぼ)し出(い)づるも夢のやうになん。遙々(はるばる)と見(み)遣(や)らるる海の眺望(てうばう)、二千里の外(ほか)も残(のこ)り無(な)き心地(ここち)する、今更(いまさら)めきたり。潮風(しほかぜ)のいとこちたく吹(ふ)き来(く)るを聞(き)こし召(め)して、
我(われ)こそは新島(にひじま)もりよ隠岐(おき)の海(うみ)の荒(あら)き波風(なみかぜ)心(こころ)して吹(ふ)け W
同(おな)じ世(よ)に又(また)すみの江の月や見(み)ん今日(けふ)こそ余所(よそ)に隠岐(おき)の島守(しまもり) W
年も返(かへ)りぬ。所々(ところどころ)浦(うら)々、哀(あは)れなる事(こと)をのみ思(おぼ)し歎(なげ)く。佐渡院、明(あ)けくれ御行(おこな)ひをのみし給(たま)ひつつ、猶(なほ)、さりともと思(おぼ)さる。隠岐(おき)には、浦より遠(をち)の遙々(はるばる)と霞(かす)み渡(わた)れる空を眺(なが)め入(い)り
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て、過(す)ぎにし方(かた)、かき尽(つ)くし思(おも)ほし出(い)づるに、行方(ゆくへ)無(な)き御涙(なみだ)のみぞ止(とど)まらぬ。
羨(うらや)まし長(なが)き日影の春にあひて潮(しほ)汲(く)む海士(あま)も袖やほすらん W
夏に成(な)りて、茅葺(かやぶ)きの軒端(のきば)に、五月雨の滴(しづく)いと所せきも、御覧(ごらん)じなれぬ御心地(ここち)に、様(さま)変(か)はりて珍(めづら)しく思(おぼ)さる。
あやめ吹(ふ)く茅(かや)が軒端(のきば)に風過(す)ぎてしどろに落(お)つる村雨の露 W
初秋風(はつあきかぜ)の立(た)ちて、世(よ)の中(なか)いとど物(もの)悲(がな)しく露けさ勝(まさ)るに、言(い)はん方(かた)無(な)く思(おぼ)し乱(みだ)る。
故郷(ふるさと)を別(わか)れ路(ぢ)に生(お)ふる葛(くず)の葉(は)の秋はくれども帰る世(よ)も無(な)し W
たとしへ無(な)く眺(なが)めしをれさせ給(たま)へる夕暮(ぐ)れに、沖(おき)の方(かた)に、いと小(ちひ)さき木の葉(は)の浮(う)かべると見(み)えて漕(こ)ぎ来(く)るを、海士(あま)の釣舟(つりぶね)と御覧(ごらん)ずる程(ほど)に、都(みやこ)よりの御消息(せうそこ)なりけり。墨染(すみぞめ)の御衣(おんぞ)、夜の御ふすまなど、都の夜寒(よさむ)さに思(おも)ひ遣(や)り聞(き)こえさせ給(たま)ひて、七条院より参(まゐ)れる御文(ふみ)、引(ひ)きあけさせ給(たま)ふより、いといみじく、御胸(むね)もせきあぐる心地(ここち)すれば、ややためらひて見給(たま)ふに、「あさましく、かくて月日経(へ)にける事。今日(けふ)明日(あす)とも知(し)らぬ命(いのち)の中(なか)に、今(いま)一度(ひとたび)、如何(いか)で見奉(たてまつ)りてしがな。かくながらは、死出(しで)の山路も越(こ)え遣(や)るべうも侍らでなん」など、いと多(おほ)く乱(みだ)れ書(か)き給(たま)へるを、御顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、
たらちねの消(き)え遣(や)らで待(ま)つ露の身を風より先(さき)に如何(いか)で問(と)はまし W
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八百(やほ)よろづ神も哀(あは)れもたらちねの我(われ)待(ま)ち得(え)んと絶(た)えぬ玉の緒(を) W
初雁(はつかり)の翼(つばさ)に付(つ)けつつ、此処(ここ)彼処(かしこ)より哀(あは)れなる御消息(せうそこ)のみ常(つね)は奉(たてまつ)るを御覧ずるに〔付(つ)けても〕、あさましういみじき御涙の催(もよほ)しなり。家隆の二位は、新古今(しんこきん)の撰者にも召(め)し加(くは)へられ、大方(おほかた)、歌の道に付(つ)けて、睦(むつ)まじく召(め)し使(つか)ひし人なれば、夜(よる)昼(ひる)恋(こ)ひ聞(き)こゆる事限(かぎ)り無(な)し。彼(か)の伊勢より須磨(すま)に参(まゐ)りけんも、かくやと覚(おぼ)ほゆるまで、巻(ま)き重(かさ)ねて書(か)き連(つら)ね参(まゐ)らせたり。「和歌所の昔(むかし)の面影(おもかげ)、数々(かずかず)に忘(わす)れ難(がた)う」など申(まう)して、つらき命(いのち)の今日(けふ)まで侍(はべ)る事(こと)の恨(うら)めしき由(よし)など、えも言(い)はず哀(あは)れ多(おほ)くて、
寝覚(ねざ)めして聞(き)かぬを聞(き)きてわびしきは荒磯波(あらいそなみ)の暁の声(こゑ) W
とあるを、法皇もいみじと思(おぼ)して、御袖いたく絞(しぼ)らせ給(たま)ふ。
波間無(な)き隠岐(おき)の小島の浜庇(はまびさし)久しく成(な)りぬ都隔(へだ)てて W
木枯(こがらし)の隠岐(おき)のそま山吹(ふ)きしをり荒(あら)くしをれて物(もの)思(おも)ふ頃(ころ) W
折々(をりをり)詠(よ)ませ給(たま)へる御歌共(ども)を書(か)き集(あつ)めて、修明門院へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。其(そ)の中(なか)に、
水無瀬山(みなせやま)我(わ)が故郷(ふるさと)は荒(あ)れぬらむ籬(まがき)は野(の)らと人も通(かよ)はで W
かざし折(を)る人も有(あ)らばや言(こと)問(と)はん隠岐(おき)の深山(みやま)に杉(すぎ)は見(み)ゆれど W
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限(かぎ)りあればさても堪(た)へける身のうさよ民のわら屋に軒を並(なら)べて W
斯様(かやう)の類(たぐひ)、すべて多(おほ)く聞(き)こゆれど、さのみは年の積(つ)もりにえなん。今(いま)又(また)思(おも)ひ出(い)でば、ついで求(もと)めてとて。




校註 増鏡

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第三 藤衣(ふぢごろも)
其の頃(ころ)、いと数(かず)まへられ給(たま)はぬ古宮(ふるみや)御座(おは)しけり。守貞(もりさだ)の親王(しんわう)とぞ聞(きこ)えける。高倉院(たかくらのゐん)第三の御子也。隠岐(おき)の法皇の御兄(このかみ)なれば、思(おも)へばやむごとなけれど、昔(むかし)、後白河(ごしらかは)の法皇、安徳院の筑紫へ御座(おは)しまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣(な)き給(たま)ひしによりて、位にも即(つ)かせ給(たま)はざりしかば、世(よ)の中(なか)物怨(うら)めしきやうにて過(す)ごし給(たま)ふ。さびしく人目(ひとめ)まれなれば、年を経(へ)て荒(あ)れまさりつつ、草深(ふか)く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心(こころ)細(ぼそ)くながめ御座(おは)するに、建保の頃、宮(みや)の内(うち)の女房の夢に、冠(かうぶり)したる物あまた参(まゐ)りて、「剣璽(けんじ)を入(い)れ奉(たてまつ)るべきに、各(おのおの)用意(ようい)して候(さぶら)はれよ」といふと見てければ、いと怪(あや)しう
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覚(おぼ)えて、宮に語(かた)り聞(きこ)えけれど、「いかでかさ程(ほど)の事あらん」と、思(おぼ)しもよらで、遂(つひ)に御髪(みぐし)をさへおろし給(たま)ひて、此(こ)の世の御望(のぞ)みは絶(た)ち果てぬる心地(ここち)して物し給(たま)へるに、此(こ)の乱(みだ)れ出(い)で来(き)て、一院の御族(ぞう)は、皆(みな)様々(さまざま)にさすらへ給(たま)ひぬれば、おのづから小(ちひ)さきなど残(のこ)り給(たま)へるも、世にさし放(はな)たれて、さりぬべき君も御座(おは)しまさぬにより、東(あづま)よりのおきてにて、彼(か)の入道の親王(みこ)の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即(つ)け奉(たてまつ)る。父(ちち)の宮をば太上天皇になし奉(たてまつ)りて、法皇と聞(きこ)ゆ。いとめでたく、横(よこ)さまの御幸(さいは)ひ御座(おは)しける宮なり。
孫王(そんわう)にて位に即(つ)かせ給へる例(ためし)、光仁天皇より後は絶(た)えて久(ひさ)しかりつるに、珍(めづら)しくめでたし。其の十二月(しはす)一日に御即位(そくゐ)、明くる年(とし)貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱(いみな)茂仁(もちひと)と申(まう)す。御かたちもなまめかしくあてにぞ御座(おは)します。御母、基家の中納言の女、北白河院(きたしらかはのゐん)と申しき。家実(いへざね)の大臣(おとど)、又摂政になり返らせ給(たま)ひて、万(よろづ)おきて宣(のたま)ふも、様々(さまざま)に引き返(かへ)したる世なりかし。又の年(とし)五月の頃、法皇かくれさせ給(たま)ひぬれば、天下(てんか)皆(みな)黒(くろ)み渡(わた)りぬ。上(うへ)
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も御服(ぶく)奉(たてまつ)る。きびはなる御程(ほど)に、いといみじうあはれなる御事な(ン)めり。
前(さき)の御門(みかど)は、四にて廃(はい)せられ給(たま)ひて、尊号などの沙汰(さた)だに無し。御母后東一条院も、山里(やまざと)の御住居(すまひ)にて、いと心(こころ)細(ぼそ)くあはれなる世(よ)を、つきせず思(おぼ)し歎(なげ)く。此(こ)の宮は故摂政殿後京極(ごきやうごく)良経の姫君(ひめぎみ)にて物し給(たま)へば、歌の道(みち)にもいと賢(かしこ)う渡(わた)らせ給(たま)へど、大方(おほかた)奥(おく)深(ふか)うしめやかに重(おも)き御本性(ごほんじやう)にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給(たま)はず。御琴なども、限(かぎ)りなき音を引きとり給(たま)へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世(よ)もなく、余(あま)りなるまで埋(う)もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限(かぎ)りなき御志の中に、飽(あ)かずなん思(おも)ひ聞(きこ)えさせ給(たま)ひける。彼(か)の遠(とほ)き御別(わか)れの後は、いみじう物をのみ思(おぼ)しくだけつつ、いよいよ沈(しづ)み臥(ふ)して御座(おは)しますに、古(ふる)く仕(つか)うまつりける女房の、里に篭(こも)り居(ゐ)たりけるもとより、あはれなる御消息(せうそこ)を聞(きこ)えて、十月一日の頃(ころ)、御衣がへの御衣(ぞ)を奉(たてまつ)りたりける御返事(かへりごと)に、
思(おも)ひ出(い)づるころもはかなし我も人も見(み)しにはあらずたどらるる世(よ)に
又、御手習(なら)ひのついでに、からうじて洩(も)れけるにや、
消(き)えかぬる命ぞつらき同(おな)じ世にあるも頼(たの)みはかけぬ契(ちぎり)を
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さこそは、げに思(おぼ)し乱(みだ)れけめ。おろかなる契(ちぎ)りだに、かかる筋(すぢ)のあはれは浅(あさ)くやは侍(はべ)る。いかばかりの御心の中にて過し給(たま)ふらんと、いと忝(かたじけ)なし。
はかなく明(あ)け暮(く)れて、貞応(ぢやうおう)もうち過(す)ぎ、元仁・嘉禄・安貞(あんてい)などいふ年も程(ほど)なく変(か)はりて、寛喜元年になりぬ。此(こ)の程(ほど)は光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)道家又関白にて御座(おは)す。此(こ)の御娘(むすめ)女御に参(まゐ)り給ふ。世の中めでたく花(はな)やかなり。これより先(さき)に、三条の太政大臣公房の姫君(ひめぎみ)参(まゐ)り給(たま)ひて后だちあり。いみじう時めき給(たま)ひしを、おしのけて、前の殿〔家実(いへざね)〕の御女、未(いま)だ幼(をさな)くて御座(おは)する、参(まゐ)り給(たま)ひにき。これはいたく御覚(おぼ)えもなくて、三条の后(きさい)の宮(みや)、浄土寺とかやに引き篭(こも)りて渡(わた)らせ給ふに、御消息(せうそこ)のみ日に千度(せんたび)といふばかり通(かよ)ひなどして、世(よ)の中(なか)すさまじく思(おぼ)されながら、さすがに后だちはありつるを、父(ちち)の殿摂〓(せうろく)変(か)はり給(たま)ひて、今(いま)の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返(かへ)り給(たま)ひぬれば、又此(こ)の姫君(ひめぎみ)入内ありて、もとの中宮はまか(ン)で給(たま)ひぬ。珍(めづら)しきが参(まゐ)り給(たま)へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土(もろこし)には、三千人なども候(さぶら)ひ給(たま)ひけるとこそ、伝(つた)へ聞(き)くにも、しなじなしからぬ心地(ここち)すれど、いかなるにかあらん。後には各(おのおの)院号(ゐんがう)ありて、三条殿(さんでうどの)の后は安喜門院、中の度(たび)参り給ひ
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し殿の女御は、鷹司院とぞ聞(きこ)えける。今(いま)の女御もやがて后だちあり。藤壺(ふぢつぼ)わたり今(いま)めかしく住(す)みなし給(たま)へり。御はらからの姫君(ひめぎみ)も、かたちよく御座(おは)するに、引きこめ難(がた)しとて、内侍のかみになし奉(たてまつ)り給ふ。
同(おな)じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣(おとど)に譲(ゆづ)り聞(きこ)え給(たま)ひて、我が御身は大殿(おほとの)とて、后(きさい)の宮(みや)の御親(おや)なれば、思(おも)ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄(さか)え給ふ様(さま)、例(ためし)なき程(ほど)なり。東(あづま)の将軍、山(やま)の座主、三井寺(みゐでら)の長吏、山階寺(やましなでら)の別当、仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)、皆(みな)此(こ)の殿(との)の君達(きんだち)にて御座(おは)すれば、すべて、天下(てんか)はさながらまじる人少(すく)なう見えたり。いとよそほしく重々(おもおも)しげにて、内の御宿直所(とのゐどころ)などに、常(つね)はうちとけ候(さぶら)ひ給(たま)へば、関白殿、次々(つぎつぎ)の御子どもも大臣などにて、立(た)ち変(か)はり御前に絶(た)えず物し給(たま)ひて、世の政事(まつりごと)など聞(きこ)え給ふ。北の方(かた)は公経の大臣(おとど)の御女なれば、まして世の重(おも)く靡(なび)き奉(たてまつ)る様(さま)、いとやんごとなし。
誠(まこと)や、其の年十一月十一日、阿波(あは)の院かくれさせ給(たま)ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例(れい)ならず思(おぼ)されければ、御髪(みぐし)おろさせ給(たま)ひにけり。ここら物をのみ思(おぼ)して、今年は三十七にぞならせ給(たま)ひける。今(いま)一度(ひとたび)、都(みやこ)をも御覧(ごらん)ぜ
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ずなりぬる、いみじう悲(かな)しきを、隠岐(おき)の小島(こじま)にも聞(き)こしめし歎(なげ)く。承明門院(しようめいもんゐん)は、様々(さまざま)のうき事を見尽(つく)して、猶(なほ)ながらふる命(いのち)のうとましきに、又かく、同(おな)じ世をだに去(さ)り給(たま)ひぬる御歎(なげ)きの、いはん方(かた)なさに、「など先(さき)立(だ)たぬ」と、口惜(くちを)しう思(おぼ)しこがるる様(さま)、ことわりにも過(す)ぎたり。かしこにて召使(めしつか)ひける御調度(てうど)、何(なに)くれ、はかなき御手箱(てばこ)やうの物を、都(みやこ)へ人の参(まゐ)らせたりける中に、たまさかに通(かよ)ひける隠岐(おき)よりの御文、女院の御消息(せうそこ)などを、一(ひと)つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目(め)もきりふたがる心地(ここち)し給ふ。家隆(いへたか)の二位の女、小宰相と聞(きこ)えしは、おのづからけぢかく御覧(ごらん)じなれけるにや、人よりことに思(おも)ひ沈(しづ)みて、御服(ぶく)など黒(くろ)う染(そ)めけり。
うしと見(み)しありし別(わかれ)は藤衣やがて着(き)るべき門出(かどで)なりけり
今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家(ていか)の中納言承(うけたまは)りて、撰集の沙汰(さた)ありつるを、此(こ)の程(ほど)御門(みかど)降(お)りさせ給ふべき由(よし)聞(きこ)ゆればにや、いととく十月二日奏(そう)せられける。一年(ひととせ)の内(うち)に奏(そう)せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞(きこ)ゆ。「元久に新古今出(い)で来(き)て後(のち)、程(ほど)なく世の中も引きかへぬるに、又新
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の字うち続(つづ)きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍(はべ)りけるとかや。
さて同(おな)じき四日、降(お)り居(ゐ)させ給ふ。御悩(なや)み重(おも)きによりて也けり。去年(こぞ)の二月、后(きさい)の宮(みや)の御腹(おんはら)に、一の御子出(い)で来(き)給(たま)へりしかば、やがて太子に立(た)たせ給(たま)ひしぞかし。例(れい)の人の口(くち)さがなさは、彼(か)の承久の廃帝(はいたい)の、生(うま)れさせ給ふとひとしく坊に居(ゐ)給(たま)へりしは、いと不用(ふよう)なりしを」などいふめり。上(うへ)は降(お)りさせ給(たま)ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩(なや)み猶(なほ)怠(おこた)らず。大方、世(よ)も静(しづ)かならず。此(こ)の三年(みとせ)ばかりは、天変しきり地震(なゐ)ふりなどして、さとししげく、御慎(つつし)みおもきやうなれば、いかが御座(おは)しまさむと、御心ども騒(さわ)ぐべし。今上は二歳にぞならせ給(たま)ふ。あさましき程(ほど)の御いはけなさにて、いつくしき十善(じふぜん)の主(あるじ)に定(さだ)まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前(さき)の世ゆかしき御有様(ありさま)なり。昔(むかし)、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給(たま)へりし、いづれもいと心ゆかぬ例(ためし)なり。閑院殿の清涼殿(せいりやうでん)にて、まづ御袴(はかま)奉(たてまつ)る。十二月五日、御即位(そくゐ)はことなく果(は)てぬれば、めでたくて年も変(か)はりぬ。
中宮も御物(もの)の怪(け)に悩(なや)ませ給(たま)ひて、常(つね)はあつしう御座(おは)しますを、院はいとど晴(は)れ間(ま)なく
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思(おぼ)し歎(なげ)く。卯月の頃、年号改(あらた)まる。天福といふなるべし。其の同(おな)じ頃、中宮も位去(さ)り給(たま)ひて、藻璧門院(さうへきもんゐん)とぞ聞(きこ)ゆなる。今年(ことし)も又例(れい)ならず悩(なや)ませ給(たま)へば、めでたき御事の数(かず)そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭(まつ)り祓(はら)へ、何(なに)くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程(ほど)近(ちか)くなりては、天(あめ)の下(した)やすき空なく、山々寺々社々、御祈(いの)りひびき騒(さわ)げども、御物(もの)のけこはくて、いみじうあさまし。遂(つひ)に、九月十八日に、かくれさせ給(たま)ひぬ。其の程(ほど)のいみじさ、推(お)し量(はか)りぬべし。今年(ことし)二十五にならせ給ふ。若(わか)く清(きよ)らに美(うつく)しげにて、盛(さか)りなる花の御姿(すがた)、時の間(ま)の露と消(き)え果て給(たま)ひぬる、いはん方(かた)なし。殿・上(うへ)思(おぼ)し惑(まど)ふ様(さま)、悲(かな)しともいへば更(さら)なり。院に候(さぶら)ふ民部卿の典侍(すけ)と聞(きこ)ゆるは、定家(ていか)の中納言の娘(むすめ)なり。此(こ)の宮の御方にも、け近(ぢか)う仕(つか)うまつる人なりけり。限(かぎ)りなく思(おも)ひ沈(しづ)みて、頭(かしら)おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問(と)へる御返事(かへりごと)に、
悲(かな)しさはうき世のとがとそむけども只(ただ)恋しさのなぐさめぞなき
当代(たうだい)の御母(はは)后にて御座(おは)しつれば、天下(てんか)皆(みな)一(ひと)つ墨染(すみぞ)めにやつれぬ。此(こ)の御歎(なげ)き
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に、いよいよ院は沈(しづ)みまさらせ給(たま)ひて、うち絶(た)えて御湯(ゆ)などをだに御覧(ごらん)じいるる事なくて、月日(つきひ)つもらせ給(たま)へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残(のこ)りなく勤(つと)めののしる。医師(くすし)・陰陽師(おんやうじ)、祭(まつ)り・祓(はら)へなど、天(あめ)の下(した)騒(さわ)ぎ満(み)ちたり。又年号変(か)はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝(はいたい)、十七になり給(たま)へるも、五月二十日に失(う)せ給(たま)ひぬ。いと若(わか)き御程(ほど)に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐(おき)にも、うち続(つづ)きあはれなる事どもを、聞(き)こしめし歎(なげ)くべし。佐渡には、まして心憂(う)くあさましと思(おぼ)さる。此(こ)の御さしつぎの宮、猶(なほ)御座(おは)しますは、修明門院養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給ふめり。
かくいひしろふ程(ほど)に、院の御悩(なや)み日々に重(おも)くならせ給(たま)ひて、八月六日、いとあさましうならせ給(たま)ひぬ。世のおもしにて御座(おは)しますべき事の、かくあへなき御有様(おんありさま)、口惜(くちを)しなど聞(きこ)ゆるもなのめなり。大方(おほかた)、御本性(ごほんじやう)も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美(うつく)しうととのほりて、二十(はたち)に三つばかりや余(あま)らせ給(たま)ふらん。若(わか)う盛(さか)りの御程(ほど)に、御才(ざえ)なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事(なにごと)につけても、いとあたらしう御座(おは)しませば、世の人の惜(を)しみ聞(きこ)ゆる様(さま)限(かぎ)り無し。只(ただ)くれ惑(まど)へる心地(ここち)どもなり。後堀川院とぞ申(まう)しける。故宮の御果て
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だに過(す)ぎず、又とり重(かさ)ねて、諒闇(りやうあん)の三年(みとせ)までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人(みなひと)思(おも)ふべし。御契(ちぎ)りの程(ほど)のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊(ごけい)・大嘗会(だいじやうゑ)なども、いとど延(の)びぬ。只(ただ)ここもかしこも、高(たか)きも下(くだ)れるも、都も遠(とほ)きも、島々(しまじま)も、涙(なみだ)にうき沈(しづ)みてぞ過し給(たま)ひける。
うち続(つづ)き、かくのみ世の中(なか)騒(さわ)がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変(か)はりて、嘉禎(かてい)元年といふ。誠(まこと)や、三月の末(すゑ)つかたより、〔洞院(とうゐん)の〕摂政殿〔教実〕重(おも)くわづらひ給ふ。故院の御位の程(ほど)より、大殿(おほとの)の、御譲(ゆづ)りにて、関白と聞(きこ)えしが、御門幼(をさな)く御座(おは)しませば、此(こ)の頃は摂政殿(どの)と申(まう)すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたく御座(おは)しましつるに、いとあへなく失(う)せ給(たま)ひぬれば、大殿(おほとの)の御歎(なげ)きたとへん方(かた)無し。二十六にぞなり給(たま)ひける。いと悲(かな)しくし給(たま)ふ姫君(ひめぎみ)・若君(わかぎみ)など物し給ふをも、今(いま)は峰殿のみひとへにはぐくみ聞(きこ)え給(たま)ひけり。摂政にも、大殿(おほとの)立(た)ちかへり成(な)り給(たま)ひぬ。かくて三度(みたび)政事(まつりごと)ををさめ給(たま)ひぬるにや。北政所の御父(ちち)は、公経の大臣(おとど)なれば、彼(か)の殿と一(ひと)つにて、世(よ)は弥(いよいよ)御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改(あらた)まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会(だいじやうゑ)行(おこな)はる。
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様々(さまざま)めでたくもあはれにも色々(いろいろ)なる都の事どもを、ほのかに伝(つた)へ聞(き)こしめして、隠岐(おき)にはあさましの年(とし)のつもりやと、御齢(おんよはひ)に添(そ)へても、尽(つ)きせぬ御歎(なげ)きぐさのみしげりそふ慰(なぐさ)めには、思(おぼ)しなれにし事とて、敷島(しきしま)の道(みち)にのみぞ御心をのべける。都(みやこ)へも、たよりにつけつつ題を遣(つか)はし、歌を召(め)せば、あはれに忘(わす)れがたく恋ひ聞(きこ)ゆる昔(むかし)の人々、我(われ)も我(われ)もと奉(たてまつ)れるを、つれづれに思(おぼ)さるる余(あま)りに、自(みづか)ら判じて御覧(ごらん)ぜられにけり。家隆(いへたか)の二位も、今(いま)まで生(い)ける思(おも)ひ出(い)でに、これをだにとあはれに忝(かたじけ)なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集(あつ)めて参(まゐ)らせける。昔(むかし)の秀能は、ありし乱(みだ)れの後(のち)、頭(かしら)おろして深(ふか)く篭(こも)り居(ゐ)たり。如願(によぐわん)とぞいひける。それも此(こ)の度(たび)の御歌合に召(め)せば、今更(いまさら)に、其のかみの事、さこそは思(おも)ひ出(い)づらめ。例(れい)のかずかずはいかでか。只(ただ)片端(かたはし)をだにとて、左、御製(ぎよせい)、
人心うつり果てぬる花の色(いろ)に昔(むかし)ながらの山の名もうし
右、家隆(いへたか)の二位、
なぞもかく思(おも)ひそめけん桜花山とし高(たか)く成(な)りはつるまで
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秀能、
わたの原八十島(やそしま)かけてしるべせよ遙(はる)かに通(かよ)ふおきの釣り船
山家といふ題にて、また、左、御製(ぎよせい)、
軒端(のきば)あれて誰(たれ)か水無瀬(みなせ)の宿の月すみこしままの色やさびしき
右、家隆(いへたか)、
さびしさはまだ見(み)ぬ島の山里(やまざと)を思(おも)ひやるにもすむ心地(ここち)して
法皇御自(みづか)ら判の言葉(ことば)を書(か)かせ給(たま)へるに、「まだ見(み)ぬ島を思(おも)ひやらんよりは、年久(ひさ)しく住(す)みて思(おも)ひ出(い)でんは、今(いま)少(すこ)し志深(ふか)くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給(たま)へる、いとあはれにやさしき御事な(ン)めり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏(あみだぼとけ)の御勤(つと)めなどに、まぎらはしてぞ御座(おは)します。また、御手習のついでに、
我(われ)ながらうとみ果てぬる身の上(うへ)に涙ばかりぞ面(おも)がはりせぬ。
故郷(ふるさと)は入(い)りぬる磯(いそ)の草よ只(ただ)夕潮(ゆふしほ)満(み)ちて見らく少(すく)なき
此(こ)の浦に住(す)ませ給(たま)ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十(むそぢ)にてかくれさせ給(たま)ひぬ。今(いま)一度(ひとたび)都へ帰(かへ)らんの御志深(ふか)かりしかど、遂(つひ)に
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空(むな)しくてやみ給(たま)ひにし事、いと忝(かたじけ)なく、あはれに情(なさ)けなき世(よ)も、今更(いまさら)心うし。近(ちか)き山にて例(れい)の作法(さほふ)になし奉(たてまつ)るも、むげに人少(ずく)なに、心(こころ)細(ぼそ)き御有様(おんありさま)、いとあはれになん。御骨をば、能茂(よしもち)といひし北面の、入道して御供(とも)に候(さぶら)ひしぞ、首(くび)にかけ奉(たてまつ)りて都に上(のぼ)りける。さて大原の法花堂(ほつけだう)とて、今(いま)も、昔(むかし)の御庄(みさう)の所々(ところどころ)、三昧料(さんまいれう)に寄(よ)せられたるにて、勤(つと)め絶(た)えず。彼(か)の法花堂(ほつけだう)には、修明門院の御沙汰(さた)にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿(みなせどの)を渡(わた)されけり。今(いま)はのきはまで持(も)たせ給(たま)ひける桐(きり)の御数珠(ずず)なども、かしこに未(いま)だ侍るこそ、あはれに忝(かたじけ)なく、拝(をが)み奉(たてまつ)るついでのありしか。始(はじ)めは顕徳院と定(さだ)め申(まう)されたりけれど、御座(おは)しましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃(ころ)ぞ、後鳥羽院(ごとばのゐん)とは更(さら)に聞(き)こえ直(なほ)されけるとなむ。




増鏡 尾張徳川家本

第四 三神山
さても、源大納言(だいなごん)通方の預(あづ)かり奉(たてまつ)られし阿波(あは)の院の宮は、おとなび給(たま)ふ儘(まま)に、御心(おんこころ)ばへもいと警策(きやうざく)に、御形(かたち)もいとうるはしく、けだかく止(や)む事(ごと)無(な)き御有様(おんありさま)なれば、なべて世(よ)の人(ひと)もいとあたらしき事(こと)に思(おも)ひ聞(き)こえけり。大納言(だいなごん)さへ、暦仁(りやくにん)の頃失(う)せにしかば、いよいよ真心(まごころ)に仕(つかうまつ)る人も無(な)く、心(こころ)細(ぼそ)げにて、何(なに)を待(ま)つとしも無(な)く、かかづらひて御座(おは)しますも、人悪(わる)くあぢきなう思(おぼ)さるべし。御母(はは)は、土御門(つちみかど)の内大臣通親の御子に、宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)通宗とて、若(わか)くて失(う)せにし人の御娘(むすめ)なり。それさへ隠(かく)れ給(たま)ひにしかば、宰相のはらからの姫君(ひめぎみ)ぞ、御乳母(めのと)のやうにて、瞿曇弥(けうどんみ)の釈迦仏養(やしな)ひ奉(たてまつ)りけん心地(ここち)して、御座(おは)しける。
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二(ふた)つにて父(ちち)御門には別(わか)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひしかば、御面影(おもかげ)だに覚(おぼ)え給(たま)はねど、猶(なほ)此(こ)の世(よ)の中(なか)に御座(おは)すと思(おぼ)されしまでは、自(おの)づから相(あひ)見(み)奉(たてまつ)るやうもやなど、人知(し)れず幼(をさな)き御心(おんこころ)に掛(か)かりて思(おぼ)し渡(わた)りけるに、十二の御年(おんとし)かとよ、隠(かく)れさせ給(たま)ひぬと伝(つた)へ聞(き)き給(たま)ひし後は、いよいよ世(よ)のうさを思(おぼ)しくんじつつ、いとまめだちてのみ御座(おは)しますを、承明門院(しようめいもんゐん)は心(こころ)苦(ぐる)しう悲(かな)しと見奉(たてまつ)り給(たま)ふ。はかなく明(あ)け暮(く)れて、仁治二年(にねん)にも成(な)りにけり。御門は今年(ことし)は十一にて、正月五日、御元服し給(たま)ふ。御諱(いみな)秀仁と聞(き)こゆ。其(そ)の年の十二月に、洞院(とうゐん)の故(こ)摂政殿教実の姫君(ひめぎみ)、九(ここの)つに成(な)り給(たま)ふを、祖父(おほぢ)の大殿(おほとの)、御伯父(をぢ)の殿原など居(ゐ)立(た)ちて、いとよそほしく有(あ)らまほしき様(さま)に響(ひび)きて、女御参(まゐ)り給(たま)へば、父(ちち)の殿(との)一人(ひとり)こそ物(もの)し給(たま)はねど、大方(おほかた)の儀式(ぎしき)万(よろづ)飽(あ)かぬ事(こと)無(な)くめでたし。上もきびはなる御程(ほど)に、女御もまだかく小(ちひ)さう御座(おは)すれば、雛遊(ひひなあそ)びのやうにぞ見(み)えさせ給ひける。天(あめ)の下はさながら大殿(おほとの)の御心(おんこころ)の儘(まま)なれば、いとゆゆしくなん。土御門(つちみかど)〔殿(どの)〕の宮(みや)〔は〕二十(はたち)にも余(あま)り給(たま)ひぬれど、御冠(かうぶり)の沙汰(さた)も無(な)し。城興寺(じやうこうじ)の宮僧正真性と聞(き)こゆる、御弟子にと語(かた)らひ申(まう)し給(たま)ひければ、然様(さやう)に〔もと〕思(おぼ)して、女院にもほのめかし申(まう)させ給(たま)ひけるを、いとあるまじき事(こと)とのみ諌(いさ)め聞(き)こえさせ給(たま)ふ。其(そ)の冬の頃、宮いたう忍(しの)びて、石清水(いはしみづ)の社に詣(まう)でさせ給(たま)ひ、御念誦のどかにし給(たま)ひて、少(すこ)し微睡(まどろ)ませ給(たま)へるに、神殿の内(うち)に、「椿葉(ちんえふ)の影(かげ)二度(ふたたび)改(あらた)まる」と、いとあざやかにけだかき声(こゑ)にて、打(う)ち誦(ずん)じ
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給(たま)ふと聞(き)きて、御覧(ごらん)じ上(あ)げたれば、明(あ)けがたの空澄(す)み渡(わた)れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。如何(いか)に見(み)えつる御夢ならんと怪(あや)しく思(おぼ)さるれど、人にも宣(のたま)はず。とまれかくもあれと、いよいよ御学問(がくもん)をぞせさせ給(たま)ふ。年も返(かへ)りぬ。春の初(はじ)めは、押(お)しなべて、程々(ほどほど)に付(つ)けたる家々(いへいへ)の身の祝など、心行(こころゆき)誇(ほこ)らしげなるに、正月の五日より、内の上(うへ)例(れい)ならぬ事(こと)にて、七日の節会にも、御帳(みちやう)にもつかせ給(たま)はねば、いとさうざうしく人々(ひとびと)思(おぼ)しあへるに、九日の暁、隠(かく)れさせ給(たま)ひぬとて、罵(ののし)りあへる、いとあさましとも言(い)ふばかり無(な)し。皆人(みなひと)あきれ惑(まど)ひて、中々涙だに出(い)でこず。女御も未(いま)だ童遊(わらはあそ)びの御様(さま)にて、何心(なにごころ)無(な)くむつれ聞(き)こえさせ給(たま)へるに、いとうたていみじければ、打(う)ちしめり屈(くん)じて居(ゐ)給(たま)へる、いと幼(をさな)げにらうたし。大殿(おほとの)の御心(おんこころ)の中(うち)、思(おも)ひ遣(や)るべし。御兄(せうと)の若君(わかぎみ)も殿上し給(たま)へる。只(ただ)御門の同(おな)じ御程(ほど)にて、騒(さわ)がしきまでの御遊(あそ)びのみにて明(あ)かし暮(く)らさせ給(たま)ひけるに、かいひそみて群(むら)がり居(ゐ)つつ、鼻(はな)打(う)ちかみ、打(う)ち泣(な)く人より外(ほか)は無(な)し。かくのみあさましき御事(こと)共(ども)の続(つづ)きぬるは、如何(いか)にも、彼(か)の遠(とほ)き浦々にて沈(しづ)み果(は)てさせ給(たま)ひにし、御霊(りやう)共(ども)にやとぞ、世(よ)の人(ひと)もささめきける。御悩(なや)みの始(はじ)めも、なべての筋(すぢ)には有(あ)らず、余(あま)りいはけたる御遊(あそ)びより、損(そこ)なはれ給(たま)ひにけるとぞ。未(いま)だ御次(つぎ)も御座(おは)しまさず、又(また)御はらからの宮なども渡(わた)らせ給(たま)はねば、世(よ)の中(なか)如何(いか)に成(な)りゆかんずるにかと、Xたどりあへる様(さま)なり。さてしもやはにて、東(あづま)へぞ
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告(つ)げ遣(や)りける。将軍は大殿(おほとの)の御子(こ)、今(いま)は大納言(だいなごん)殿(どの)と聞(き)こゆる。御後見(おんうしろみ)は、承久に上(のぼ)り〔たり〕し泰時の朝臣なり。時房(ときふさ)と一所にて、小弓(こゆみ)射(い)させ酒(さか)もりなどして、心(こころ)とけたる程(ほど)なりけるに、「京よりの走(はし)り馬」と言(い)へば、何事(なにごと)ならんと驚(おどろ)きながら、使(つか)ひ召(め)し寄(よ)せて聞(き)くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其(そ)の席(むしろ)よりやがて神事始(はじ)めて、若宮(わかみや)の社にて、くじをぞ取(と)りける。其(そ)の程(ほど)、都には、いとうかびたる事(こと)共(ども)、心(こころ)のひきひき言(い)ひしろふ。「佐渡院の宮達(たち)にや」など聞(き)こえければ、修明門院にも、心(こころ)時(とき)めきして、内々(うちうち)其(そ)の御用意(ようい)などし給(たま)ふ。承明門院(しようめいもんゐん)も、もしやなど、様々(さまざま)御祈(いの)りし給(たま)ふ。東(あづま)の使(つか)ひ、都(みやこ)に入(い)る由(よし)聞(き)こえける日は、両女院より白河(しらかは)に人を立(た)てて、何方(いづかた)へか参(まゐ)ると、見(み)せられけるぞ理(ことわり)に、げに今(いま)見(み)ゆべき事(こと)なれども、物(もの)の心(こころ)許(もと)無(な)きは、Xさ覚(おぼ)ゆる業(わざ)ぞかしと、例(れい)の口(くち)すげみてほほゑむ。日(ひ)ぐらし待(ま)たれて、城介(じやうのすけ)義景(よしかげ)と言(い)ふ者(もの)、三条河原に打(う)ち出(い)でて、「承明門院(しようめいもんゐん)の御座(おは)しますなる院は何処(いづく)ぞ」と、彼(か)の院より立(た)てられたる青侍(あをざぶらひ)の、いと怪(あや)しげなるにしも問(と)ひければ、聞(き)く心地(ここち)、うつつとも覚(おぼ)えず。しかじかと申(まう)す儘(まま)に、土御門(つちみかど)殿(どの)へ参(まゐ)りたれど、門はむぐら強(つよ)く固(かた)め、扉(とびら)もさびつき柱根(はしらね)くちて、開(あ)かざりけるを、郎等(らうどう)共(ども)にとかくせさせて、内に参(まゐ)りて見(み)まはせば、庭は草深(ふか)く青き苔(こけ)のみむして、松風(まつかぜ)より外は、こたふるもの無(な)く、人の通(かよ)へる跡(あと)も無(な)し。故(こ)通宗宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)の御弟(おとと)を子にし給(たま)へりし定通の大臣(おとど)ばかりぞ、何(なに)と無(な)く、
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自(おの)づからの事(こと)もやと思(おも)ひて、なえばめる烏帽子(えぼし)直衣(なほし)にて候(さぶら)ひ給(たま)ひけるが、中門に出(い)でて対面(たいめん)し給(たま)ふ。義景(よしかげ)は、切戸(きりど)の脇(わき)に畏(かしこ)まりてぞ侍(はべ)りける。「阿波(あは)の院の御子、御位に」と、申(まう)して出(い)でぬ。院の中(なか)の人々(ひとびと)、上下夢の心地(ここち)して、物(もの)にぞあたり惑(まど)ひける。仁治三年正月十九日の事(こと)なり。世(よ)の人(ひと)の心地(ここち)、皆(みな)驚(おどろ)きあわてて、押(お)し返(かへ)し此方(こなた)に参(まゐ)り集(つど)ふ馬(うま)車(くるま)の響(ひび)き騒(さわ)ぐ世(よ)のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物(もの)思(おぼ)し勝(まさ)るべし。又(また)の日、やがて御元服せさせ給(たま)ふ。ひき入(い)れに、左大臣良実参(まゐ)り給(たま)ふ。理髪、頭弁定嗣仕(つかうまつ)りけり。御諱(いみな)邦仁、御年(おんとし)二十三、其(そ)の夜やがて冷泉(れいぜい)万里小路(までのこうじ)殿(どの)へ移(うつ)らせ給(たま)ひて、閑院殿より剣璽(けんじ)など渡(わた)さる。践祚の儀式(ぎしき)、いと珍(めづら)し。其(そ)の後(のち)こそ、閑院殿には追号の定(さだ)め、御業(わざ)の事(こと)など定(さだ)め有(あ)りけれ。二十五日に東山の泉湧寺(せんゆうじ)とかや言(い)ふ辺(ほとり)にをさめ奉(たてまつ)る。四条院と申(まう)すなるべし。やがて彼(か)の寺へ御庄(みさう)など寄(よ)せて、今(いま)に御菩提(ぼだい)を祈(いの)り申(まう)し侍るも、前(さき)の世(よ)の故(ゆゑ)有(あ)りけるにや。此(こ)の御門、未(いま)だ物(もの)などはかばかしく宣(のたま)はぬ程(ほど)の御齢(おんよはひ)なりける時(とき)、誰(たれ)とかや、「前(さき)の世(よ)は如何(いか)なる人にてか御座(おは)しましけん」と、只(ただ)何(なに)と無(な)く聞(き)こえたりけるに、彼(か)の泉湧寺の開山の聖(ひじり)の名(な)をぞ、確(たし)かに仰(おほ)せられたりける。又(また)、人の夢にも、此(こ)の御門隠(かく)れさせ給(たま)ひて後、彼(か)の上人(しやうにん)、「我(われ)すみやかに成仏すべかりしを、由(よし)無(な)き妄念(まうねん)を起(お)こして、今一度人界(にんがい)の生をうけ、帝王の位に至(いた)りて、帰(かへ)りて我(わ)が寺を助(たす)けんと思(おも)ひしに、果(は)たして
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かくなん」とぞ見(み)えける。誠(まこと)に、其(そ)の余執(よしう)の通(とほ)りけるしるしにや、御庄共(ども)も、寄(よ)りけむとぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。さて仁治三年三月十八日〔過(す)ぎて〕御即位(そくゐ)、万(よろづ)あるべき限(かぎ)りめでたく過(す)ぎもて行(ゆ)く。嘉禎三年よりは、岡(をか)の屋(や)の大臣(おとど)兼経、摂政にていませしかば、其(そ)の儘(まま)に、今(いま)の御代の始(はじ)めも関白と聞(き)こえつれど、三月二十五日、左の大臣(おとど)良実に渡(わた)りぬ。此(こ)の殿も、光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)の御二郎君なり。神無月(かみなづき)に成(な)りぬれば、御禊とて世(よ)の中(なか)ひしめき立(た)つも、思(おも)ひ寄(よ)りし事(こと)かはとめでたし。大嘗会(だいじやうゑ)の悠紀方(ゆきがた)の御屏風、三神山(みかみやま)、菅(くわん)宰相(さいしやう)為長仕(つかうまつ)られける。
古(いにしへ)に名(な)をのみ聞(き)きて求(もと)めけん三神の山(やま)は是(これ)ぞ其(そ)の山(やま) W
主基方(すきがた)、風俗の歌、経光の中納言に召(め)されたり。
末(すゑ)遠(とほ)き千代の影(かげ)こそ久(ひさ)しけれまだ二葉なる岩崎(いはさき)の松(まつ) W
当代(たうだい)かくめでたく御座(おは)しませば、通宗の宰相も左大臣従一位贈(おく)られ給(たま)ふ。御娘(むすめ)も后の位贈(おく)り申(まう)されし、いとめでたしや。誠(まこと)や、此(こ)の頃、〔前(さき)の〕右大臣と聞(き)こゆるは、実氏の大臣(おとど)よ。其(そ)の御娘(むすめ)、十八に成(な)り給(たま)ふを、女御に奉(たてまつ)り給(たま)ふ。六月三日、入内の儀式(ぎしき)有様(ありさま)、二(に)無(な)く清(きよ)らを尽(つ)くさる。母(はは)北(きた)の方(かた)は、四条の大納言(だいなごん)隆衡(たかひら)の娘(むすめ)なり。女御の君、いとささやかに、愛敬(あいぎやう)づきてめでたく物(もの)し給(たま)へば、御覚(おぼ)え、いとかひがひしく、万(よろづ)打(う)ち合(あ)ひ、思(おも)ふ様(さま)なる世(よ)の気色、飽かぬ事無(な)し。同(おな)じ年八月九日、后に立(た)ち給(たま)ふ。其(そ)の程(ほど)の
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めでたさ、言(い)へば更(さら)なり。源大納言(だいなごん)の家に、無品親王(むほんしんわう)にて、〔怪(あや)しう心(こころ)細(ぼそ)げなりし御程(ほど)には、たはぶれにも〕思(おも)ひ寄(よ)り聞(き)こえ給(たま)はざりけんと、めでたきに付(つ)けても、人の口(くち)安(やす)からず、さはとかく聞(き)こゆべし。




第五 内野(うちの)の雪(ゆき)〔おほうち山とも〕

今(いま)后の御父(ちち)は、先(さき)にも聞(き)こえつる右大臣〈 実氏 〉の大臣(おとど)、其(そ)の父(ちち)殿〈 公経 〉の太政大臣(おほきおとど)、其(そ)のかみ夢見給(たま)へる事有(あ)りて、源氏(げんじ)の中将(ちゆうじやう)わらはやみまじなひ給(たま)ひし北山の辺(ほとり)に、世(よ)に知(し)らずゆゆしき御堂(みだう)を建(た)てて、名(な)をば西園寺(さいをんじ)と言(い)ふめり。此(こ)の所は、伯(はく)の三位(さんみ)資仲の領なりしを、尾張国松枝と言(い)ふ庄にかへ給(たま)ひてけり。もとは、田(た)畠(はたけ)など多(おほ)くて、ひたぶるに田舎(ゐなか)めきたりしを、更(さら)に打(う)ち返(かへ)しくづして、艶(えん)ある園(その)に造(つく)りなし、山(やま)のたたずまひ木深(こぶか)く、池の心ゆたかに、わたつ海(うみ)をたたへ、峰より落(お)つる滝(たき)の響(ひび)きも、げに涙(なみだ)催(もよほ)しぬべく、心ばせ深(ふか)き所(ところ)の様(さま)なり。本堂は西園寺(さいをんじ)、本尊の如来誠(まこと)に妙(たへ)なる御姿(すがた)、生身(しやうじん)もかくやと、いつくしうあらはされ給(たま)へり。又(また)、善積院(ぜんしやくゐん)は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にて御座(おは)す。池の辺(ほとり)に妙音堂、滝(たき)のもとには不動尊。此(こ)の不動(ふどう)は、津(つ)の国(くに)より生身の明王、簔笠(みのかさ)うち奉(たてまつ)りて、差(さ)し歩(あゆ)みて御座(おは)したりき。其(そ)の簔笠(みのかさ)、宝蔵(ほうざう)に込(こ)めて、三十三年に一度出(い)ださるとぞ承(うけたまは)る。石橋(いしばし)の上には五大堂。成就心院と言(い)ふは愛染王(あいぜんわう)の座さまさぬ秘法(ひほふ)取(と)り行(おこな)はせらる。供僧(ぐそう)も紅梅の衣、袈裟(けさ)数珠(ずず)の糸まで、同(おな)じ色にぞ侍(はべ)るめる。
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又(また)、法水院(ほすゐん)・化水院(けすゐん)、無量光院とかやとて、来迎(らいがう)の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空(こくう)に現じ給(たま)へる御姿(すがた)も侍(はべ)るめり。北の寝殿(しんでん)にぞ大臣(おとど)は住(す)み給(たま)ふ。めぐれる山(やま)の常盤木(ときはぎ)共(ども)、いと旧(ふ)りたるに、なつかしき程(ほど)の若木(わかき)の桜(さくら)など植(う)ゑ渡(わた)すとて、大臣(おとど)うそぶき給(たま)ひける。
山桜(やまざくら)峰にも尾にも植(う)ゑ置(お)かん見(み)ぬ世(よ)の春を人や忍(しの)ぶと W
彼(か)の法成寺(ほふじやうじ)をのみこそ、いみじき例(ためし)に世継(よつぎ)も言(い)ひためれど、是(これ)は猶(なほ)山(やま)の気色さへ面白(おもしろ)く、都(みやこ)離(はな)れて眺望そひたれば、言(い)はん方(かた)無(な)くめでたし。峰殿の御舅(しうと)、東(あづま)の将軍の御祖父(おほぢ)にて、万(よろづ)世(よ)の中(なか)御心(おんこころ)の儘(まま)に、飽(あ)かぬ事無(な)くゆゆしくなん御座(おは)しける。今(いま)の右(みぎ)の大臣(おとど)、をさをさ劣(おと)り給(たま)はず、世(よ)の重(おも)しにて、いと止(や)む事(ごと)無(な)く御座(おは)するに、女御さへ御覚(おぼ)えめでたく、いつしか只(ただ)ならず御座(おは)すると聞(き)こゆる、奥(おく)床(ゆか)しき御程(ほど)なるべし。〔仁治三年〕九月十二日、佐渡院隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。世(よ)の中(なか)移(うつ)り変(か)はりしきざみ、もしやなど思(おぼ)されしも空(むな)しくて、いよいよ隔(へだ)たり果(は)てぬる世(よ)を、心(こころ)細(ぼそ)く思(おぼ)し歎(なげ)きける積(つ)もりにや、〔いと〕さしも取(と)り立(た)てたる御悩(なや)みなどは無(な)くて、失(う)せさせ給(たま)ふ〔に〕、〔折(をり)〕哀(あは)れなる御事(こと)共(ども)なり。四十六にぞならせ給(たま)ひける。明(あ)くる年は、寛元元年(ぐわんねん)なり。六月十日頃に、中宮今出川(いまでがは)の大殿(おとど)にて、其(そ)の御気色あれば、殿の内(うち)立(た)ち騒(さわ)ぐ。白(しろ)き御装(よそ)ひに改(あらた)めて、母屋(もや)に移(うつ)らせ給(たま)ふ程(ほど)、いと面白(おもしろ)し。大臣(おとど)・北(きた)の方(かた)・御兄(せうと)の殿(との)原(ばら)達(たち)、添(そ)ひかしづき聞(き)こえ奉(たてまつ)る
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様(さま)、限(かぎ)り無(な)くめでたし。御修法(みしゆほふ)の壇共(ども)数(かず)知(し)らず。医師(くすし)・陰陽師(おんやうじ)・かんなぎ、各(おのおの)かしがましきまで響(ひび)き合(あ)ひたり。いと暑(あつ)き程(ほど)なれば、只(ただ)ある人だに汗(あせ)に押(お)しひたしたるに、后(きさい)の宮(みや)いと苦(くる)しげにし給(たま)ひて、色々(いろいろ)の御物(もの)の怪(け)共(ども)名乗(なの)り出(い)でつつ、わりなく惑(まど)ひ給(たま)へば、大臣(おとど)・北の方(かた)、いかさまにせんと御心(おんこころ)を惑(まど)はし給(たま)ふ様(さま)、哀(あは)れに悲(かな)し。斯様(かやう)のきざみ、高(たか)きも下(くだ)れるも、おろかに思(おも)ふ人やは有(あ)らん。なべて皆(みな)かうのみこそあれど、げに差(さ)しあたりたる世(よ)の気色(けしき)を取(と)り具(ぐ)して、類(たぐひ)無(な)く思(おぼ)さるらんかし。内よりも、如何(いか)に如何(いか)にと御(おん)使(つか)ひ、雨の脚(あし)よりも繁(しげ)う走(はし)り違(ちが)ふ。〔内の〕御乳母(めのと)大納言(だいなごん)二位殿、大人(おとな)大人(おとな)しき内侍(ないし)の典侍(すけ)など、さるべき限(かぎ)り参(まゐ)り給(たま)へり。今日(けふ)も猶(なほ)心(こころ)許(もと)無(な)くて暮(く)れぬれば、いと恐(おそ)ろしう思(おぼ)す。伊勢(いせ)の御(み)てぐら使(つか)ひなど立(た)てらる。諸社の神馬(じんめ)、所々(ところどころ)の御誦経(ずきやう)の使(つか)ひ、四位五位数(かず)を尽(つ)くして鞭(ぶち)をあぐる様(さま)、言(い)はずとも推(お)し量(はか)るべし。大臣(おとど)とりわき春日(かすが)の社(やしろ)へ拝して、御馬・宮の御衣(おんぞ)など奉(たてまつ)らる。内には更衣腹(かういばら)に若宮(わかみや)御座(おは)しませど、此(こ)の事(こと)を待(ま)ち聞(き)こえ給(たま)ふとて、坊定(さだ)まり給(たま)はぬ程(ほど)なり。仮令(たとひ)平(たひ)らかにし給(たま)へりとも、女宮(をんなみや)にて御座(おは)しまさばと、まがまがしきあらましを思(おも)ふだに〔も〕、胸(むね)つぶれ口惜(くちを)し。かつは、御身の宿世(しゆくせ)見(み)ゆべき際(きは)ぞかしと思(おぼ)せば、いみじう念じ給(たま)ふに、既(すで)に事(こと)成(な)りぬ。先(ま)づ何(なに)にかと心(こころ)騒(さわ)ぐに、御兄(せうと)の大納言(だいなごん)公相、「皇子御誕生(たんじやう)ぞや」と、〔いと〕高(たか)らかに宣(のたま)ふを、余(あま)りの事(こと)に皆(みな)あきれて、「誠(まこと)か誠(まこと)か」と大臣(おとど)宣(のたま)ふ儘(まま)に、
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喜(よろこ)びの御涙(なみだ)ぞ落(お)ちぬる。哀(あは)れなる御気色、見(み)る人も事忌(ことい)み〔も〕しあへず。御修法(みしゆほふ)の僧共(ども)を始(はじ)め、道々(みちみち)の禄(ろく)賜(たま)はる。したり顔(がほ)に汗(あせ)押(お)し拭(のご)ひつつまかづる気色、今(いま)一際(きは)めでたく罵(ののし)り立(た)ちて、更(さら)に物(もの)も聞(き)こえず。げに此(こ)の頃の響(ひび)きに、女(をんな)にて御座(おは)しまさましかば、如何(いか)にしほしほと口惜(くちを)しからまし。きらきらしうもし出(い)で給(たま)へるかし。然(さ)れば、大臣(おとど)、年たけ給(たま)ふまでも、其(そ)の折(をり)の嬉(うれ)しう忝(かたじけな)かりしを思(おも)ひ出(い)づれば、見(み)奉(たてまつ)るごとに涙ぐまるるとぞ、後深草院をば常(つね)に申(まう)されける。御湯殿(おゆどの)の儀式(ぎしき)は更(さら)にも言(い)はず、人々(ひとびと)の禄(ろく)、何(なに)くれと、例(れい)の作法(さほふ)に事(こと)を添(そ)へて、いみじう世(よ)の例(ためし)にもなるばかりと尽(つ)くし給(たま)ふ。御はかし参(まゐ)る。心(こころ)許(もと)無(な)かりつる儘(まま)に、二十八日、親王(しんわう)の宣旨(せんじ)有(あ)りて、八月十日、すがやかに、太子に立(た)ち給(たま)ひぬ。大臣(おとど)御心(おんこころ)落(お)ち居(ゐ)て、すずしうめでたう思(おぼ)す事限(かぎ)り無(な)し。かくて、又(また)の年、東(あづま)の大納言(だいなごん)頼経の君、悩(なや)み給(たま)ふ由(よし)聞(き)こえて、御子の六(む)つに成(な)り給(たま)ふに譲(ゆづ)りて、都(みやこ)へ御返(かへ)りあれば、若君(わかぎみ)に其(そ)の日やがて将軍の宣旨(せんじ)下(くだ)され、少将(せうしやう)に成(な)り給(たま)ふ。頼嗣と名乗(なの)り給(たま)ふべし。泰時の朝臣、一昨年(をととし)入道して、孫(うまご)の時頼に世(よ)を譲(ゆづ)りにしかば、此(こ)の頃は天(あめ)の下の御後見(おんうしろみ)、此(こ)の相模(さがみ)の守(かみ)時頼の朝臣仕(つかうまつ)る。いと心(こころ)賢(かしこ)くめでたき聞(き)こえ有(あ)りて、兵(つはもの)も靡(なび)き従(したが)ひ、大方、世(よ)も静(しづ)かに治(をさ)まりすましたり。かくて寛元も四年に成(な)りぬ。正月二十八日、春宮に御位譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ふ。此(こ)の御門も〔又(また)〕四(よ)つにぞならせ給(たま)ふ。めでたき御例(ためし)共(ども)なれば、行(ゆ)く末(すゑ)も
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推(お)し量(はか)られ給(たま)ふ。光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)の御三郎君左大臣〔実経〕の大臣(おとど)、御年(おんとし)二十四にて摂政し給(たま)ふ。いとめでたし。御はらから三人まで摂録(せうろく)し給(たま)へる例(ためし)、古(ふる)くは謙徳公・忠義公・東三条(とうさんでう)の大入道殿兼家、其(そ)の又(また)御子共(ども)中(なか)の関白殿・粟田殿・法成寺(ほふじやうじ)の入道殿これ二度(ふたたび)なり。近(ちか)くは、法性寺殿の御子共(ども)六条殿基実・松殿(まつどの)基房・月輪殿(つきのわどの)兼実、是(これ)ぞやがて今(いま)の峰殿(みねどの)の御祖父(おほぢ)よ。斯様(かやう)の事(こと)、いとたまたまあれど、粟田殿も宣旨(せんじ)被(かうぶ)り給(たま)へりしばかりにて、七日にて失(う)せ給(たま)へりしかば、天下(てんか)執行し給(たま)ふに及(およ)ばず。松殿の御子師家の大臣(おとど)、一代にてやみ給(たま)ひにき。いづれも御末(すゑ)までは御座(おは)せざりしに、此(こ)の三所、流(なが)れ絶(た)えず、久(ひさ)しき藤波(ふぢなみ)にて立(た)ち栄(さか)え給(たま)へるこそ、類(たぐひ)無(な)き止(や)む事(ごと)無(な)さなめれ。末(すゑ)の世(よ)にも有(あ)り難(がた)くや侍らん。今(いま)の摂政をば、後には円明寺殿と〔ぞ〕聞(き)こゆめりし。一条殿の御家の始(はじ)めなり。かくて御即位(そくゐ)・御禊(ごけい)も過(す)ぎぬ。大嘗会(だいじやうゑ)の頃、信実の朝臣と言(い)ひし歌(うた)詠(よ)みの娘(むすめ)少将(せうしやう)の内侍(ないし)、大内の女工所(によくどころ)に候(さぶら)ふに、雪(ゆき)いみじう日頃(ひごろ)降(ふ)りて、いかめしう積(つ)もりたる暁(あかつき)、太政(おほき)大臣(おとど)実氏宣(のたま)ひ遣(つか)はしける。
九重(ここのへ)の大内山の如何(いか)ならん限(かぎ)りも知(し)らず積(つ)もる雪(ゆき)かな W
御返(かへ)し、少将(せうしやう)の内侍(ないし)〔信実の朝臣娘(むすめ)〕、
九重(ここのへ)の内野(うちの)の雪(ゆき)に跡(あと)付(つ)けて遙(はる)かに千代の道を見(み)るかな W
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〔院の〕上(うへ)は、いつしか所々(ところどころ)に御幸(みゆき)繁(しげ)う、御遊(あそ)びなどめでたく、今(いま)めかしき様(さま)に好(この)ませ給(たま)ふ。中宮も位去(さ)り給(たま)ひて、大宮(おほみや)女院とぞ聞(き)こゆる。安(やす)らかに、常(つね)は一(ひと)つ御車などにて、只人(ただひと)のやうに花(はな)やかなる事(こと)共(ども)のみ隙(ひま)無(な)く、万(よろづ)有(あ)らまほしき御有様(おんありさま)なり。院の上、石清水(いはしみづ)の社に詣(まう)でさせ給(たま)へば、世(よ)の人(ひと)残(のこ)り無(な)く仕(つかうまつ)る。然(さ)るべき事(こと)とは言(い)ひながら、猶(なほ)いみじ。御心(おんこころ)にも一年(ひととせ)の事思(おぼ)し出(い)でられて、殊(こと)に畏(かしこ)まり聞(き)こえさせ給(たま)ふべし。
石清水(いはしみづ)木(こ)がくれたりし古(いにしへ)を思(おも)ひ出(い)づればすむ心(こころ)かな W
宝治の頃(ころ)、神無月(かみなづき)二十日余(あま)りなりしにや、紅葉(もみぢ)御覧(ごらん)じに、宇治に御幸(みゆき)し給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)・殿上人、思(おも)ひ思(おも)ひ色々(いろいろ)の狩衣(かりぎぬ)、菊・紅葉(もみぢ)の濃(こ)き薄(うす)き、縫物(ぬひもの)・織物(おりもの)・綾錦(あやにしき)、すべて世(よ)に無(な)き清(きよ)らを尽(つ)くし騒(さわ)ぐ、いみじき見物(みもの)なり。殿上人の舟に楽器(がき)設(まう)けたり。橘(たちばな)の小島(こじま)に御船(みふね)差(さ)しとめて、物(もの)の音(ね)共(ども)吹(ふ)き立(た)てたる程(ほど)、水(みづ)の底(そこ)も耳(みみ)立(た)てぬべく、そぞろ寒(さむ)き程(ほど)なるに、折知(をりし)り顔(がほ)に空さへ打(う)ち時雨(しぐ)れて、真木(まき)の山風(やまかぜ)有(あ)らましきに、木の葉(は)共(ども)の色々(いろいろ)散(ち)りまがふ気色、言(い)ひ知(し)らず面白(おもしろ)し。女房の船(ふね)に、色々(いろいろ)の袖口(そでくち)、わざとなくこぼれ出(い)でたる、夕日に輝(かかや)き合(あ)ひて、錦(にしき)を洗(あら)ふ九の江かと見(み)えたり。平等院に中(なか)一日渡(わた)らせ給(たま)ひて、様々(さまざま)の面白(おもしろ)き事(こと)共(ども)数(かず)知(し)らず。網代(あじろ)に氷魚(ひを)の夜(よる)もさながら罵(ののし)り明(あ)かして、帰(かへ)らせ給(たま)ふ。鳥羽殿も近頃(ちかごろ)はいたう荒(あ)れて、池も水草(みくさ)がちに埋(う)もれたりつるを、いみじう修理し磨(みが)かせ給(たま)ひて、はじめて御幸(みゆき)
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成(な)りし時(とき)、「池の辺(ほとり)の松」と言(い)ふ事講ぜられしに、太政大臣(おほきおとど)、序書(か)き給(たま)へりき。
祝(いは)ひ置(お)く始(はじ)めと今日(けふ)を松(まつ)が枝の千年(ちとせ)の影(かげ)に澄(す)める池水(いけみづ) W
院の御製(ぎよせい)、
影(かげ)映(うつ)す松(まつ)にも千代の色見(み)えて今日(けふ)すみそむる宿(やど)の池水(いけみづ) W
大納言(だいなごん)の典侍(すけ)と聞(き)こえしは、為家(ためいへ)の民部卿の娘(むすめ)なりしにや。
色かへぬ常盤(ときは)の松(まつ)の影(かげ)添(そ)へて千代に八千代(やちよ)に澄(す)める池水(いけみづ) W
順(ずん)流(なが)るめりしかど、例(れい)のうるさければなん。御前の御遊(あそ)び始(はじ)まる程(ほど)、反橋(そりはし)のもとに、龍頭鷁首(りようとうげきす)寄(よ)せて、いと面白(おもしろ)く吹(ふ)き合(あ)はせたり。斯様(かやう)の事(こと)、常(つね)の御遊(あそ)び、いと繁(しげ)かりき。又(また)、太政(おほき)大臣(おとど)の津(つ)の国(くに)吹田(すいた)の山荘にも、いとしばしば御座(おは)しまさせて、様々(さまざま)の御遊(あそ)び数(かず)を尽(つ)くし、如何(いか)にせむと持(も)てはやし申(まう)さる。河に臨(のぞ)める家なれば、秋深(ふか)き月の盛(さか)りなどは、殊(こと)に艶(えん)有(あ)りて、門田(かどだ)の稲(いね)の風(かぜ)に靡(なび)く気色、妻(つま)どふ鹿(しか)の声(こゑ)、衣うつ砧(きぬた)の音、峰の秋風(あきかぜ)、野辺の松虫、取(と)り集(あつ)め、哀(あは)れそひたる所(ところ)の様(さま)に、鵜飼(うかひ)など下(お)ろさせて、篝火(かがりび)共(ども)ともしたる川の面(おもて)、いと珍(めづら)しうをかしと御覧(ごらん)ず。日頃(ひごろ)御座(おは)しまして、人々(ひとびと)に十首歌召(め)されしついでに、院の御製(ぎよせい)、
川舟(かはふね)のさして何処(いづく)か我(わ)がならむ旅とは言(い)はじ宿(やど)と定(さだ)めて W
と講(かう)じ上(あ)げたる程(ほど)、主(あるじ)の大臣(おとど)いみじう興(きよう)じ給(たま)ふ。「此(こ)の家の面目(めいぼく)今日(けふ)に侍(はべ)る」とぞ
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宣(のたま)はする。げに然(さ)る事(こと)と、聞(き)く人皆(みな)誇(ほこ)らしくなん。降(お)り居(ゐ)給(たま)へる太上天皇など聞(き)こゆるは、思(おも)ひ遣(や)りこそ、大人(おとな)びさだ過(す)ぎ給(たま)へる心地(ここち)すれど、未(いま)だ三十(みそぢ)にだに満(み)たせ給(たま)はねば、万(よろづ)若(わか)う愛敬(あいぎやう)づき、めでたく御座(おは)するに、時(とき)のおとなにて重々(おもおも)しかるべき太政大臣(おほきおとど)さへ、何業(なにわざ)をせんと、御心(おんこころ)に適(かな)ふべき事(こと)をのみ思(おも)ひまはしつつ、如何(いか)で珍(めづら)しからんと、持(も)て騒(さわ)ぎ聞(き)こえ給(たま)へば、いみじうはえばえしき頃(ころ)なり。御門、まして幼(をさな)く御座(おは)しませば、はかなき御遊(あそ)び業(わざ)より外(ほか)の営(いとな)み無(な)し。摂政殿さへ若(わか)く物(もの)し給(たま)へば、夜(よる)昼(ひる)候(さぶら)ひ給(たま)ひて、女房の中(なか)にまじりつつ、乱碁(らんご)・貝(かい)おほひ・手(て)まり・へんつきなどやうの事(こと)共(ども)を、思(おも)ひ思(おも)ひにしつつ、日を暮(く)らし給(たま)へば、候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も、打(う)ち解(と)けにくく心(こころ)遣(づか)ひすめり。節会(せちゑ)・臨時(りんじ)の祭(まつ)り、何(なに)くれの公事(くじ)共(ども)を、女房に学(まね)ばせて御覧(ごらん)ずれば、太政大臣(おほきおとど)興(きよう)じ〔申(まう)し〕給(たま)ひて、ことさら、小(ちひ)さき笏(しやく)など作(つく)らせて数多(あまた)奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、上も喜(よろこ)び思(おぼ)す。入道太政大臣(おほきおとど)の御娘(むすめ)大納言(だいなごん)の三位殿と言(い)ふを関白になさる。按察(あぜち)の典侍(すけ)隆衡(たかひら)の娘(むすめ)・大納言(だいなごん)の典侍(すけ)・中納言(ちゆうなごん)の典侍(すけ)・勾当(こうたう)の内侍(ないし)・弁(べん)の内侍(ないし)・少将(せうしやう)の内侍(ないし)、斯様(かやう)の人々(ひとびと)、皆(みな)男(をとこ)の官(つかさ)にあてて、其(そ)の役(やく)を勤(つと)む。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍(すけ)を権大納言(だいなごん)実雄の君になさるるに、「したうづはく事(こと)、如何(いか)にも適(かな)ふまじ」とて、曹司(ざうし)に下(お)るるに、上もいみじう笑(わら)はせ給(たま)ふ。弁の内侍(ないし)、葦(あし)の葉(は)に書(か)きて、彼(か)の局(つぼね)に差(さ)し置(お)かせける。
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津(つ)の国(くに)の葦(あし)の下根(したね)の如何(いか)なれば波にしをれて乱(みだ)れ顔(がほ)なる W
返(かへ)し、
津(つ)の国(くに)の葦(あし)の下根(したね)の乱(みだ)れわび心(こころ)も波にうきてふるかな W
五月五日、所々(ところどころ)より御兜(かぶと)の花・薬玉(くすだま)など、色々(いろいろ)に多(おほ)く参(まゐ)れり。朝餉(あさがれひ)にて、人々(ひとびと)此(これ)彼(かれ)引(ひ)きまさぐりなどするに、三条の大納言(だいなごん)公親の奉(たてまつ)れる、根(ね)に露置(お)きたる蓬(よもぎ)の中(なか)に、深(ふか)きと言(い)ふ文字(もじ)を結(むす)びたる、糸(いと)の様(さま)もなよびかに、いと艶(えん)有(あ)りて見(み)ゆるを、上も御目(め)止(とど)めて、「何(なに)とまれ、言(い)へかし」と宣(のたま)ふを、人々(ひとびと)も、およすげて見奉(たてまつ)る。弁の内侍(ないし)、
〔あやめ草底(そこ)知(し)ら沼(ぬま)の長(なが)き根(ね)に深(ふか)きと言(い)ふや蓬生(よもぎふ)の露 W
と、有(あ)りつる使(つか)ひ、はや帰(かへ)りにければ、蔵人を召(め)して、殿上より遣(つか)はしつ。御返(かへ)し、公親、〕
あやめ草底知(し)ら沼(ぬま)の長(なが)き根(ね)を深き心(こころ)に如何(いかが)くらべん W
又(また)其(そ)の頃(ころ)、天王寺に院詣(まう)でさせ給(たま)ふついでに、住吉(すみよし)へも御幸(みゆき)有(あ)り。「神は嬉(うれ)し」と、後三条院仰(おほ)せられけん例(ためし)、思(おも)ひ出(い)でられ侍(はべ)りき。大宮院も御参(まゐ)りなれば、出車(いだしぐるま)共(ども)、色々(いろいろ)の袖口(そでくち)共(ども)、春秋の花紅葉(はなもみぢ)を、一度(ひとたび)に並(なら)べて見(み)る心地(ここち)して、いと美(うつく)しく、目(め)も輝(かかや)くばかりいどみ尽(つ)くされたり。上達部・若(わか)き殿上人などは、例(れい)の狩襖(かりあを)、裾濃(すそご)の袴(はかま)など、珍(めづら)しき姿(すがた)共(ども)を、心々(こころごころ)に打(う)ち混(ま)ぜたり。釣殿(つりどの)の簀子(すのこ)に、人々(ひとびと)候(さぶら)ひて、数多(あまた)聞(き)こえしかど、さのみは如何(いか)でか。太政大臣実氏、
今日(けふ)や又(また)更(さら)に千年(ちとせ)を契(ちぎ)るらん昔(むかし)にかへる住吉の松 W
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さても、院の第一の御子(みこ)は、右中弁(うちゆうべん)平(たひら)の棟範(むねのり)の主(ぬし)の娘(むすめ)、四条院に兵衛の内侍(ないし)とて候(さぶら)ひしが、剣璽(けんじ)につきて渡(わた)り参(まゐ)れりしを、忍(しの)び忍(しの)び御覧(ごらん)じける程(ほど)に、其(そ)の御腹(おんはら)に出(い)で物(もの)し給(たま)へりしかど、当代(たうだい)生(う)まれさせ給(たま)ひにし後(のち)は、押(お)し消(け)たれて御座(おは)しますに、又(また)建長元年(ぐわんねん)、后腹(きさきばら)に二(に)の宮(みや)さへ差(さ)し続(つづ)き光(ひか)り出(い)で給(たま)へれば、いよいよ今(いま)は思(おも)ひ絶(た)えぬる御契(ちぎ)りの程(ほど)を、私物(わたくしもの)にいと哀(あは)れと思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ふ。源氏(げんじ)にやなし奉(たてまつ)らましなど思(おぼ)すも、猶(なほ)飽(あ)かねば、只(ただ)御子(みこ)にて、東(あづま)の主(あるじ)になし聞(き)こえてんと思(おぼ)して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。御門の御元服にもほとほと劣(おと)らず。内蔵寮(くらづかさ)何(なに)くれ、清(きよ)らを尽(つ)くし給(たま)ふ。やがて三品の加階(かかい)賜(たま)はり給(たま)ふ。御年(おんとし)十一なるべし。中務(なかづかさ)の卿(かみ)宗尊親王(しんわう)と申(まう)すめり。同(おな)じ二月十九日、都(みやこ)を出(い)で給(たま)ふ。其(そ)の日将軍の宣旨(せんじ)被(かうぶ)り給(たま)ふ。斯(か)かる例(ためし)は未(いま)だ侍らぬにや。上下、珍(めづら)しく面白(おもしろ)き事(こと)に言(い)ひ騒(さわ)ぐべし。御迎(むか)へに東(あづま)の武士共(ども)数多(あまた)上(のぼ)る。六波羅(ろくはら)よりも名(な)ある者(もの)十人、御送(おく)りに下(くだ)る。上達部・殿上人・女房など、数多(あまた)参(まゐ)るも、「院中の奉公にひとしかるべし。彼処(かしこ)に候(さぶら)ふとも、限(かぎ)り有(あ)らん官(つかさ)冠(かうぶり)などは、障(さは)りあるまじ」とぞ仰(おほ)せられける。何事(なにごと)も、只(ただ)人柄(ひとがら)によると見(み)えたり。きはことによそほしげなり。誠(まこと)に公(おほやけ)と成(な)り給(たま)はずば、是(これ)より勝(まさ)る事(こと)、何(なに)か有(あ)らんと、にぎははしく花やかさは並(なら)ぶ方(かた)無(な)し。院の上も、忍(しの)びて、粟田口の辺(ほとり)に御車
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立(た)てて御覧じ送(おく)りけるこそ、哀(あは)れに忝(かたじけな)く侍れ。きびはに美(うつく)しげにて、遙々(はるばる)と御座(おは)しますを、御母の内侍(ないし)も、哀(あは)れに忝(かたじけな)しと思(おも)ひ聞(き)こゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)は、其(そ)の四月に都へ上(のぼ)り給(たま)ひぬ。いとほしげにぞ見(み)え給(たま)ひける。さて、今(いま)下(くだ)り給(たま)へるを、持(も)て崇(あが)め奉(たてまつ)る様(さま)、言(い)はん方(かた)無(な)し。宮中(きゆうちゆう)のしつらひ、御設(まう)けの事(こと)など限(かぎ)りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。斯様(かやう)にて今年(ことし)は暮(く)れぬ。明(あ)くる年は建長五年なり。正月三日御門御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。御年(おんとし)十一、御諱(いみな)久仁と申(まう)す。いとあてに御座(おは)しませど、余(あま)りささやかにて、又(また)御腰(こし)などの怪(あや)しく渡(わた)らせ給(たま)ふぞ、口惜(くちを)しかりける。いはけなかりし御程(ほど)は、猶(なほ)いとあさましう御座(おは)しましけるを、閑院の内裏焼(や)けける紛(まぎ)れより、うるはしく立(た)たせ給(たま)ひたりければ、内の焼(や)けたるあさましさは何(なに)ならず、此(こ)の御腰(こし)の直(なほ)りたる喜(よろこ)びをのみぞ、上下思(おぼ)しける。院の上、鳥羽殿に御座(おは)します頃、神無月(かみなづき)の十日頃、朝覲(てうきん)の行幸し給(たま)ふ。世(よ)にある限(かぎ)りの上達部(かんだちめ)・殿上人仕(つかうまつ)る。色々(いろいろ)の菊紅葉(もみぢ)をこき混(ま)ぜて、いみじう面白(おもしろ)し。女院も御座(おは)しませば、拝し奉(たてまつ)り給(たま)ふを、太政大臣(おほきおとど)見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふに、喜(よろこ)びの涙ぞ人悪(わろ)き程(ほど)なる。
例(ためし)無(な)き我(わ)が身よ如何(いか)に年たけて斯(か)かる御幸(みゆき)に今日(けふ)仕(つか)へぬる W
げに、大方の世(よ)に付(つ)けてだに、めでたく有(あ)らまほしき事(こと)共(ども)を、我(わ)が御末(すゑ)と見給(たま)ふ大臣(おとど)の
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心地(ここち)、如何(いか)ばかりなりけむ。来(こ)し方(かた)も例(ためし)無(な)きまで、高麗(こま)・唐土(もろこし)の錦綾(にしきあや)を立(た)ち重(かさ)ねたり。太政(おほき)大臣(おとど)ばかりぞねび給(たま)へれば、裏表(うらおもて)白(しろ)き綾(あや)の下襲(したがさね)を着(き)給(たま)へるしも、いとめでたく艶(なま)めかし。池には、うるはしく唐(から)の装(よそ)ひしたる御船(みふね)二艘(にさう)漕(こ)ぎ寄(よ)せて、御遊(あそ)び様々(さまざま)の事(こと)共(ども)めでたく罵(ののし)りて、帰(かへ)らせ給(たま)ふ響(ひび)きのゆゆしきを、女院も御心(おんこころ)行(ゆ)きて聞(き)こし召(め)す。其(そ)の頃(ころ)ほひ、熊野の御幸(みゆき)侍(はべ)りしにも、良(よ)き上達部数多(あまた)仕(つかうまつ)らる。都出(い)でさせ給(たま)ふ日、例(れい)の桟敷(さじき)など、心(こころ)殊(こと)にいどみかはすべし。車は立(た)てぬ事(こと)なりしかども、大宮院ばかり、それも出車は無(な)くて、只(ただ)一両にて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ひしこそ、止(や)む事(ごと)無(な)さも面白(おもしろ)く侍(はべ)りけれ。弁(べん)の内侍(ないし)、
折(を)りかざすなぎの葉風の賢(かしこ)さに一人(ひとり)道ある小車の跡 W
御幸(みゆき)、熊野の本宮につかせ給(たま)ひて、それより新宮の川舟(かはふね)に奉(たてまつ)りて差(さ)し渡(わた)す程(ほど)、川の面(おもて)所(ところ)狭(せ)きまで続(つづ)きたるも、御覧(ごらん)じなれぬ様(さま)なれば、院(ゐん)の上、
熊野川(くまのがは)瀬切(せぎ)りに渡(わた)す杉舟の辺波(へなみ)に袖のぬれにけるかな W
其(そ)の後(のち)も、又(また)程(ほど)無(な)く御幸(みゆき)有(あ)りしかば、女院も参(まゐ)り給(たま)ひけり。皆人(みなひと)知(し)ろし召(め)したらん〔事(こと)〕、中々にこそ。




第六 おりゐる雲

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春過(す)ぎ夏たけて、年去(さ)り年(とし)来(き)たれば、康元元年(ぐわんねん)にも成(な)りにけり。太政大臣(おほきおとど)の第二の御娘(むすめ)〈 東二条院公子 〉女御に参(まゐ)り給(たま)ふ。女院の御はらからなれば、過(す)ぐし給(たま)へる程(ほど)なれど、斯(か)かる例(ためし)は数多(あまた)侍(はべ)るべし。十二月十七日、豊の明(あ)かりの頃(ころ)なれば、内わたり花やかなるに、いとど打(う)ち添(そ)へて今(いま)めかしうめでたく、其(そ)の日御消息(せうそこ)を聞(き)こえ給(たま)ふ。
夕暮をまつぞ久(ひさ)しき千年(ちとせ)まで変(か)はらぬ色の今日(けふ)の例(ためし)を W
関白書(か)かせ給(たま)ひけり。紅(くれなゐ)の匂(にほ)ひの箔(はく)も無(な)きに、X重(かさ)ねたるを、結(むす)びて包(つつ)まれたり。時成(な)りぬとて人々(ひとびと)まう上(のぼ)り集(あつ)まる。女御の君、裏(うら)濃(こ)き蘇芳(すはう)七(なな)つ・濃(こ)き一重(ひとへ)・蘇芳(すはう)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)・〔濃(こ)き袴(はかま)奉(たてまつ)れり。准后添(そ)ひて参(まゐ)り給(たま)ふ。〕皆(みな)紅(くれなゐ)の八(や)つ・萌黄(もえぎ)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)着(き)給(たま)ふ。出車十両、皆(みな)二人(ふたり)づつ乗(の)るべし。一の車、左に一条殿大殿(おほとの)の娘(むすめ)、右(みぎ)に二条殿公俊(きんとし)の大納言(だいなごん)の娘(むすめ)、二の左按察(あぜち)の君(きみ)〈 □□の妹(いもうと) 〉、右(みぎ)に中納言の君実任(さねたふ)の娘(むすめ)、三(さん)の左に民部卿殿、右別当殿、其(そ)の次々(つぎつぎ)くだくだしければ止(とど)めつ。御童(わらは)・下仕(しもづか)へ・御はした・御雑仕(ざふし)・御ひすましなど言(い)ふ物(もの)まで、形(かたち)良(よ)きを択(え)り整(ととの)へられたる、いみじう見所(みどころ)あるべし。御兄(せうと)の殿原、右大臣公相・内大臣公基参(まゐ)り給(たま)ふ。限(かぎ)り無(な)くよそほしげなり。院の御子にさへし奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、いよいよいつかれ給(たま)ふ様(さま)、言(い)はん方(かた)無(な)し。侍賢門院の、白河院の御子とて、鳥羽院に参(まゐ)り給(たま)へりし例(ためし)にやとぞ、心(こころ)当(あ)てには覚(おぼ)え侍(はべ)りし。御門の一(ひと)つ御腹(おんはら)の姫宮(ひめみや)、此(こ)の頃(ごろ)皇后宮とて、其(そ)の御方(かた)の内侍(ないし)ぞ、御(おん)使(つか)ひに参(まゐ)り、まう上(のぼ)り
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給(たま)ふ程(ほど)も、女御はいとはづかしく、似(に)げ無(な)き事(こと)に思(おぼ)いたれば、とみにえ動(うご)かれ給(たま)はぬを、人々(ひとびと)そそのかし申(まう)し給(たま)ふ。御太刀(たち)一条殿、御几帳(きちやう)按察殿、御火(ひ)取(と)り中納言持(も)たれたりけり。上(うへ)は十四に成(な)り給(たま)ふに、女御は二十五にぞ御座(おは)しける。御門、きびはなる御程(ほど)を、中々、あなづらはしき方(かた)に思(おも)ひなし聞(き)こえ給(たま)ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞(き)こえ掛(か)かり給(たま)ふを、准后は美(うつく)しと見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御衾(ふすま)は、紅(くれなゐ)のうち八四方(やつよはう)なるに、上(かみ)にはうはざしの組(くみ)有(あ)り。糸(いと)の色など、清(きよ)らにめでたし。例(れい)の事(こと)なれば、准后奉(たてまつ)り給(たま)ふ。太政(おほき)大臣(おとど)も、三日が程(ほど)は候(さぶら)ひ給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)に勧盃(けんぱい)有(あ)り。二十三日、又(また)御消息(せうそこ)参(まゐ)る。御(おん)使(つか)ひ頭(とう)の中将(ちゆうじやう)通世、こたみも殿書(か)かせ給(たま)ふめり。此(こ)の頃、殿(との)と聞(き)こゆる太政大臣兼平の大臣(おとど)、岡(をか)の屋(や)殿(どの)の御弟(おとうと)ぞかし。後(のち)には照念院殿と申(まう)しけり。御手勝(すぐ)れてめでたく書(か)かせ給(たま)ひしよ。鷹司殿(たかつかさどの)の御家の始(はじ)めなるべし。
朝日(あさひ)影(かげ)今日(けふ)よりしるき雲の上(うへ)の空にぞ千代の色も見(み)えける W
御返(かへ)し、太政大臣(おほきおとど)聞(き)こえ給(たま)ふ。
朝日(あさひ)影(かげ)あらはれそむる雲の上(うへ)に行(ゆ)く末(すゑ)遠(とほ)き契(ちぎ)りをぞしる W
女(をんな)の装束(しやうぞく)、細長(ほそなが)添(そ)へてかづけ給(たま)ふ。今日(けふ)はじめて、内(うち)の上(うへ)、女御の御方(かた)に渡(わた)らせ給(たま)ふ。御供(とも)には関白殿・右大臣公相・内大臣公基・四条の大納言(だいなごん)隆親・権大納言(だいなごん)実雄良教通成・
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右大将基平など、押(お)しなべたらぬ人々(ひとびと)参(まゐ)り給(たま)ふ。餅(もちひ)の使(つか)ひ、頭(とう)の中将(ちゆうじやう)隆顕仕(つかうまつ)る。太政大臣(おほきおとど)、夜(よる)の御殿(おとど)より取(と)り入(い)れ給(たま)ふ。御心(おんこころ)の中(なか)のいはひ、如何(いか)ばかりかはと推(お)し量(はか)らる。人々(ひとびと)の禄(ろく)、紅梅(こうばい)の匂(にほ)ひ・萌黄(もえぎ)の表着(うはぎ)・葡萄染(えびぞ)めの唐衣(からぎぬ)・袿(うちき)・細長(ほそなが)・こしざしなど、しなじなに従(したが)ひて、けぢめあるべし。かくて今年(ことし)は暮れぬ。正月、いつしか后に立(た)ち給(たま)ふ。只人(ただひと)の御娘(むすめ)の、かく后・国母にて立(た)ち続(つづ)き候(さぶら)ひ給(たま)へる、例(ためし)稀(まれ)にや有(あ)らん。大臣(おとど)の御栄(さか)えなめり。御子二人(ふたり)大臣にて御座(おは)す。公相・公基とて、大将にも左右(さう)に並(なら)びて御座(おは)せしぞかし。是(これ)も、例(ためし)いと数多(あまた)は聞(き)こえぬ事(こと)なるべし。我(わ)が御身太政大臣にて、二人(ふたり)の大将を引(ひ)き具(ぐ)して、最勝講なりしかとよ、参(まゐ)り給(たま)へりし御勢(いきほ)ひのめでたさは、珍(めづら)かなる程(ほど)にぞ侍(はべ)りし。后・国母の御親(おや)、御門の御祖父(おほぢ)にて、誠(まこと)に其(そ)の器物(うつはもの)に足(た)らぬと見(み)え給(たま)へり。昔(むかし)後鳥羽院(ごとばのゐん)に候(さぶら)ひし下野(しもつけ)の君は、然(さ)る世(よ)の古(ふる)人(ひと)にて、大臣(おとど)に聞(き)こえける。
藤波(ふぢなみ)の影(かげ)差(さ)し並(なら)ぶ三笠山(みかさやま)人にこえたる梢とぞ見(み)る W
返(かへ)し、大臣(おとど)、
思(おも)ひ遣(や)れ三笠(みかさ)の山(やま)の藤の花咲(さ)き並(なら)べつつ見(み)つる心(こころ)は W
斯(か)かる御世の栄(さか)えを、自(みづか)らも止(や)む事(ごと)無(な)しと思(おぼ)し続(つづ)けて詠(よ)み給(たま)ひける。
春雨は四方の草木をわかねども繁(しげ)き恵(めぐ)みは我(わ)が身也(なり)けり W
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正嘉元年(ぐわんねん)の春の頃より、承明門院(しようめいもんゐん)御悩(なや)み重(おも)らせ給(たま)へば、院もいみじう驚(おどろ)かせ給(たま)ひて、御修法(みしゆほふ)何(なに)かと聞(き)こえつれど、遂(つひ)に七月五日、御年(おんとし)八十七にて隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。理(ことわり)の御年(おんとし)の程(ほど)なれど、昔(むかし)の御名残(なごり)と哀(あは)れにいとほしう、いたづき奉(たてまつ)らせ給(たま)へるに、敢(あ)へ無(な)くて、御法事(ほふじ)など懇(ねんご)ろにおきて宣(のたま)はする、いとめでたき御身なりかし。明(あ)くる年八月七日、二の御子(みこ)〈 亀山の院 〉坊にゐ給(たま)ひぬ。御年(おんとし)十なり。万(よろづ)定(さだ)まりぬる世(よ)の中(なか)、めでたく心(こころ)のどかに思(おぼ)さるべし。其(そ)の又(また)の年、〔正嘉三年〕三月二十日なりしにや、高野御幸こそ、又(また)来し方(かた)行(ゆ)く末(すゑ)も例(ためし)有(あ)らじと見(み)ゆるまで、世(よ)の営(いとな)み、天(あめ)の下(した)の騒(さわ)ぎには侍(はべ)りしか。関白殿・前(さき)の右大臣・内大臣・左右(さう)の大将・検非違使(けんびゐし)の別当を始(はじ)めて、残(のこ)りは少(すく)なし。馬・鞍、随身(ずいじん)・舎人(とねり)・雑色・童(わらは)の、髪(かみ)・形(かたち)・たけ・姿(すがた)まで、かたほなる無(な)く択(え)り整(ととの)へ、心(こころ)を尽(つ)くしたる装(よそ)ひ共(ども)、数々(かずかず)は筆にも及(およ)び難(がた)し。斯(か)かる色も有(あ)りけりと、珍(めづら)しく驚(おどろ)かるる程(ほど)になん。銀(しろかね)・黄金(こがね)を延(の)べ、二重(ふたへ)三重(みへ)の織物(おりもの)・うち物(もの)、唐(から)・大和(やまと)の綾錦(あやにしき)、紅梅(こうばい)の直衣(なほし)、桜(さくら)の唐(から)の木の紋(もん)・裾濃(すそご)・浮線綾(ふせんりよう)、色々(いろいろ)様々(さまざま)の直衣(なほし)・上(うへ)の衣(きぬ)・狩衣(かりぎぬ)、思(おも)ひ思(おも)ひの衣を出(い)だせり。如何(いか)なる龍田姫(たつたひめ)の錦(にしき)も、斯(か)かる類(たぐひ)は有(あ)り難(がた)くこそ見(み)え侍(はべ)りけれ。形見(かたみ)に語(かた)らふ人も有(あ)らざりけめど、同(おな)じ紋(もん)も色も侍らざりけるぞ、不思議(ふしぎ)なる。余(あま)りに珍(めづら)しくて、某(なにがし)の中将(ちゆうじやう)とかや、紺村濃(こんむらご)の指貫(さしぬき)をさへ着(き)たりける。それしも珍(めづら)かにて、いやしくも見(み)え
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侍らざりけるとかや。院の御様(さま)形(かたち)、所がらはいとど光(ひかり)を添(そ)へて、めでたく見(み)え給(たま)ふ。後土御門(ごつちみかど)の内大臣定通の御子顕定の大納言(だいなごん)、大将望(のぞ)み給(たま)ひしを、院もさりぬべく仰(おほ)せられければ、除目(ぢもく)の夜、殿(との)の内(うち)の者共(ども)も心(こころ)遣(づか)ひして、侍(はべ)るを心(こころ)許(もと)無(な)く思(おも)ひあへるに、引(ひ)き違(たが)へて、先(さき)に聞(き)こえつる公基の大臣(おとど)にて御座(おは)せしやらん、成(な)り給(たま)へりしかば、恨(うら)みに堪(た)えず、頭(かしら)下(お)ろして、此(こ)の高野に籠(こも)り居(ゐ)給(たま)へるを、いとほしく敢(あ)へ無(な)しと思(おぼ)されければ、今日(けふ)の御幸(みゆき)のついでに、彼(か)の室(むろ)を尋(たづ)ねさせ給(たま)ひて、御対面(たいめん)あるべく仰(おほ)せられ遣(つか)はしたるに、昨日まで御座(おは)しけるが、夜の間(ま)に、彼(か)の庵(いほり)をかき払(はら)ひ、跡(あと)も無(な)くしなして、いと清(きよ)げに、白(しろ)き砂(すなご)ばかりを、ことさらに散(ち)らしたりと見(み)えて、人も無(な)し。我(わ)が身は桂(かつら)の葉室の山庄へ逃(に)げ上(のぼ)り給(たま)ひにけり。其(そ)の由(よし)奏(そう)すれば、「今更(いまさら)に見(み)えじとなり、いとからい心(こころ)かな」とぞ、宣(のたま)はせける。かくのみ所々(ところどころ)に御幸(みゆき)繁(しげ)う、心(こころ)行(ゆ)く事隙(ひま)無(な)くて、いささかも思(おぼ)し結(むす)ぼるる事無(な)く、めでたき御有様(おんありさま)なれば、仕(つかうまつ)る人々(ひとびと)までも、思(おも)ふ事無(な)き世(よ)なり。吉田(よしだ)の院にても、常(つね)は御歌合(うたあはせ)などし給(たま)ふ。鳥羽殿には、いと久(ひさ)しく御座(おは)します折(をり)のみ有(あ)り。春の頃、行幸有(あ)りしには、御門も御鞠(まり)に立(た)たせ給(たま)へり。二条の関白良実上鞠(あげまり)し給(たま)ひき。内(うち)の女房など召(め)して、池の船(ふね)に乗(の)せて、物(もの)の音(ね)共(ども)吹(ふ)き合(あ)はせ、様々(さまざま)の風流(ふりう)の破子(わりご)・引(ひ)き物(もの)など、こちたき事(こと)共(ども)も繁(しげ)かりき。又(また)嵯峨(さが)の亀山(かめやま)の麓(ふもと)、大井川(おほゐがは)の北(きた)の岸(きし)にあたりて、ゆゆしき院をぞ造(つく)らせ給(たま)へる。小倉の山(やま)の
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梢、戸無瀬(となせ)の滝(たき)も、さながら御垣(みかき)の内(うち)に見(み)えて、〔わざと〕つくろはぬ前栽(せんざい)も、自(おの)づから情(なさ)けを加(くは)へたる所がら、いみじき絵師(ゑし)と言(い)ふとも、筆及(およ)び難(がた)し。寝殿(しんでん)の並(なら)びに、乾(いぬゐ)にあたりて、西に薬草院、東(ひんがし)に如来寿量院など言(い)ふも有(あ)り。橘(たちばな)の大后の昔(むかし)建(た)てられたりし壇林寺と言(い)ひし、今(いま)は破壊(はゑ)して礎(いしずゑ)ばかりに成(な)りたれば、其(そ)の跡(あと)に浄金剛院と言(い)ふ御堂を建(た)てさせ給(たま)へるに、道観上人を長老になされて、浄土宗を置(お)かる。天王寺の金堂うつさせ給(たま)ひて、多宝院とかや建(た)てられたり。川に臨(のぞ)みて桟敷(さじき)殿(どの)造(つく)らる。大多勝院(だいたしようゐん)と聞(き)こゆるは、寝殿(しんでん)の続(つづ)き、御持仏すゑ奉(たてまつ)らせ給(たま)へり。斯様(かやう)の引(ひ)き離(はな)れたる道は、廊(らう)・渡殿(わたどの)・反橋(そりはし)などを遙(はる)かにして、すべていかめしう三葉(みつば)四葉(よつば)に磨(みが)き立(た)てられたる、いとめでたし。正元元年(ぐわんねん)三月五日、西園寺(さいをんじ)の花盛(はなざか)りに、大宮院、一切経供養せさせ給(たま)ふ。年頃(としごろ)は、思(おぼ)しおきてけるを、いたく知(し)ろし召(め)さぬに、女(をんな)の御願にて、いと賢(かしこ)く、有(あ)り難(がた)き御事(こと)なれば、院も同(おな)じ御心(おんこころ)に居(ゐ)立(た)ち宣(のたま)ふ。楽屋(がくや)の者共(ども)、地下も殿上も、なべてならぬを択(え)り整(ととの)へらる。其(そ)の日に成(な)りて行幸有(あ)り。春宮も同(おな)じく行啓(ぎやうげい)なる。大臣・上達部、皆(みな)上(うへ)の衣(きぬ)にて、左右(さう)に別(わか)ちて、御階(はし)の間の勾欄(かうらん)に着(つ)き給(たま)ふ。法会の儀式(ぎしき)、いみじさめでたき事(こと)共(ども)、学(まね)び難(がた)し。又(また)の日、御前に御遊(あそ)び始(はじ)まる。御門〈 後深草院 〉御琵琶(びは)、春宮御笛、まだいと小(ちひ)さき御程(ほど)に、みづら結(ゆ)ひて、御形(かたち)まほに美(うつく)しげにて、吹(ふ)き立(た)て給(たま)へる音の、雲井を響(ひび)かして、余(あま)り恐(おそ)ろしき
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程(ほど)なれば、天(あま)つ乙女(をとめ)もかくやと覚(おぼ)えて、太政大臣(おほきおとど)実氏、事忌(ことい)みもえし給(たま)はず、目(め)押(お)し拭(のご)ひつつためらひ兼(か)ね給(たま)へるを、理(ことわり)に、老(お)いしらへる大臣・上達部など、皆(みな)御袖共(ども)うるひ渡(わた)りぬ。女院の御心(おんこころ)の内(うち)、まして置(お)き所(どころ)無(な)く思(おぼ)さるらんかし。前(さき)の世(よ)も、如何(いか)ばかり功徳(くどく)の御身にて、かく思(おぼ)す様(さま)にめでたき御栄(さか)えを見給(たま)ふらんと、思(おも)ひ遣(や)り聞(き)こゆるも、ゆゆしきまでぞ侍(はべ)りし。御遊(あそ)び果(は)てて後(のち)、文台召(め)さる。院の御製(ぎよせい)、
色々(いろいろ)に袖を連(つら)ねて咲(さ)きにけり花(はな)も我(わ)が世(よ)も今(いま)盛(さか)りかも W
あたりを払(はら)ひて、際(きは)無(な)くめでたく聞(き)こえけるに、主(あるじ)の大臣(おとど)の歌さへぞ、掛(か)け合(あ)ひて侍(はべ)りしや。
色々(いろいろ)に重(かさ)ねて匂(にほ)へ桜花我(わ)が君々(きみぎみ)の千代のかざしに W
末(すゑ)まで多(おほ)かりしかど、例(れい)のさのみはにて、止(とど)めつ。いかめしう響(ひび)きて帰(かへ)らせ給(たま)ひぬる又(また)の朝、無量光院の花(はな)のもとにて、大臣(おとど)、昨日(きのふ)の名残(なごり)思(おぼ)し出(い)づるもいみじうて、
此(こ)の春ぞ心(こころ)の色は開(ひら)けぬる六十(むそぢ)余(あま)りの花(はな)は見(み)しかど W
其(そ)の年(とし)の八月二十八日、春宮十一にて御元服し給(たま)ふ。御諱(いみな)恒仁(つねひと)と聞(き)こゆ。世(よ)の中(なか)に様々(やうやう)ほのめき聞(き)こゆる事あれば、御門、飽(あ)かず心(こころ)細(ぼそ)う思(おぼ)されて、夜居(よゐ)の間(ま)の静(しづ)かなる御物語(おんものがたり)のついでに、内侍所(ないしどころ)の御拝の数(かず)を数(かぞ)へられければ、五千七十四日なりけるを承(うけたまは)り
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て、弁(べん)の内侍(ないし)、
千代と言(い)へば五(いつ)つ重(かさ)ねて七十(ななそぢ)に余(あま)る日数(ひかず)を神は忘(わす)れじ W
かくて、十一月二十六日、降(お)り居(ゐ)させ給(たま)ふに、〔夜、〕空の気色さへ哀(あは)れに、雨打(う)ちそそぎて、物(もの)悲(がな)しく見(み)えければ、伊勢の御(ご)が、「あひも思(おも)はぬももしきを」と言(い)ひけん古言(ふること)さへ、今(いま)の心地(ここち)して、心(こころ)細(ぼそ)く覚(おぼ)ゆ。上も思(おぼ)し設(まう)け給(たま)へれど、剣璽(けんじ)の出(い)でさせ給(たま)ふ程(ほど)、常(つね)の御幸(みゆき)に御身を離(はな)れざりつる習(なら)ひ、十三年の御名残(なごり)、引(ひ)きわかるるは、猶(なほ)いと哀(あは)れに、忍(しの)び難(がた)き御気色(けしき)を、悲(かな)しと見(み)奉(たてまつ)りて、弁(べん)の内侍(ないし)、
今(いま)はとて降(お)り居(ゐ)る雲の時雨(しぐ)るれば心(こころ)の内(うち)ぞかき暗(くら)しける W
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増鏡(ますかがみ) 中巻

第七 北野(きたの)の雪(ゆき)
正元-元年(ぐわんねん)-十一月-二十六日、譲位(じやうゐ)〈 後深草院 〉の儀式常の如(ごと)し。十二月-二十八日御即位(そくゐ)、〈 亀山院 〉万(よろづ)めでたく、あるべき-限(かぎ)りにて、年も返(かへ)りぬ。おりゐの-御門は、十二月(しはす)の-二日、太上天皇の尊号有(あ)りて新院と聞(き)こゆ。本院と常は一(ひと)つに渡(わた)らせ給(たま)ひて、御遊(あそ)び繁(しげ)う心(こころ)-遣(や)りて、中々いとのどやかに目(め)-安(やす)き御有様(おん-ありさま)に、思(おぼ)し-慰(なぐさ)むやうなり。中宮も、院号(ゐんがう)の後は、東二条院と聞(き)こゆ。二条-富小路(とみのこうぢ)にぞ渡(わた)らせ給(たま)ふ。太政大臣(おほきおとど)も入道-し給(たま)ひぬ。常盤井とて、大炊御門(おほひの-みかど)-京極(きやうごく)なる所にぞ、折々(をりをり)住(す)み給(たま)ふ。此(こ)の入道殿の御弟(おとと)に、其(そ)の-頃、右大臣-実雄と聞(き)こゆる、姫君(ひめぎみ)数多(あまた)持(も)ち給(たま)へる中(なか)に、勝(すぐ)れたるをらうたき物(もの)に思(おぼ)し-かしづく。今上の女御代に出(い)で給(たま)ふべきを、やがて其(そ)のついで、文応-元年(ぐわんねん)、入内あるべく思(おぼ)し-おきてたり。院にも御気色賜(たま)はり給(たま)ふ。入道殿の御孫の姫君(ひめぎみ)も、参(まゐ)り給(たま)ふべき聞(き)こえはあれど、さしもやはと、押(お)し-立(た)ち給(たま)ふ。いと猛(たけ)き御心(おん-こころ)なるべし。此(こ)の姫君(ひめぎみ)の御兄(せうと)数多(あまた)物(もの)し給(たま)ふ中(なか)の兄(このかみ)にて、中納言-公宗と聞(き)こゆる、如何(いか)なる御心(おん-こころ)か有(あ)りけむ、下(した)-たく煙(けぶり)にくゆり-わび給(たま)ふ
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ぞ、いとほしかりける。然(さ)るは、いとあるまじき事(こと)と思(おも)ひ-放(はな)つにしも、従(したが)はぬ心(こころ)の苦(くる)し-さを、起(お)き-臥(ふ)し葦(あし)の音(ね)-泣(な)き-がちにて、御-急(いそ)ぎの近(ちか)づくに付(つ)けても、我(われ)-かの気色にてのみほれ-過(す)ぐし給(たま)ふを、大臣(おとど)は又(また)いかさまにかと苦(くる)しう思(おぼ)す。初秋風(はつあきかぜ)の気色-立(だ)ちて、艶(えん)ある夕暮に、大臣(おとど)渡(わた)り給(たま)ひて見給(たま)へば、姫君(ひめぎみ)、薄色(うすいろ)に女郎花(をみなへし)など引(ひ)き-重(かさ)ねて、几帳(きちやう)に少(すこ)しはづれてゐ給(たま)へる様(さま)-形(かたち)、常よりも言(い)ふ由(よし)無(な)く、あてに匂(にほ)ひ満(み)ちて、らうたく見(み)え給(たま)ふ。御髪(み-ぐし)いとこちたく、五重(いつへ)の扇(あふぎ)とかやを広(ひろ)げたらん様(さま)-して、少(すこ)し色なる方(かた)にぞ見(み)え給(たま)へど、筋(すぢ)こまやかに、額(ひたい)より裾(すそ)までまがふ筋(すぢ)無(な)く美(うつく)し。只人(ただひと)には、げに惜(を)しかりぬべき人柄(ひとがら)にぞ御座(おは)する。几帳(きちやう)押(お)し-遣(や)りて、わざと-なく拍子(ひやうし)打(う)ち-ならして、御箏(こと)弾(ひ)かせ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。折(をり)しも中納言参(まゐ)り給(たま)へり。「こち」と宣(のたま)へば、打(う)ち-畏(かしこ)まりて、御簾(み-す)の内(うち)に候(さぶら)ひ給(たま)ふ様(さま)-形(かたち)、此(こ)の-君しもぞ又(また)いとめでたく、あくまでしめやかに、心(こころ)の-底(そこ)ゆかしう、そぞろに心(こころ)-遣(づか)ひ-せらるるやうにて、こまやかに艶(なま)めかしう、澄(す)みたる様(さま)-して、あてに美(うつく)しう、いとど持(も)て-鎮(しづ)めて、騒(さわ)ぐ御胸(むね)を念(ねん)じつつ、用意(ようい)を加(くは)へ給(たま)へり。笛少(すこ)し吹(ふ)きなどし給(たま)へば、雲井に澄(す)み-上(のぼ)りて、いと面白(おもしろ)し。御箏(こと)の音のほのかにらうた-げなる、かき-合(あ)はせの程(ほど)、中々聞(き)きもとめられず、涙浮(う)きぬべきを、つれなくもてなし給(たま)ふ。撫子(なでしこ)の露もさながらきらめきたる小袿(こうちき)に、御髪(み-ぐし)はこぼれ-懸(か)かりて、少(すこ)し傾(かたぶ)き-掛(か)かり給(たま)へる傍目(かたはらめ)、まめやかに、
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光(ひかり)を放(はな)つとは、斯(か)かるをやと見(み)え給(たま)ふ。よろしきをだに、人の-親(おや)は如何(いかが)は見なす。ましてかく類(たぐひ)-無(な)き御有様(おん-ありさま)-共(ども)なめれば、世(よ)に-知(し)らぬ心(こころ)の-闇(やみ)に迷(まよ)ひ給(たま)ふも、理(ことわり)なるべし。十月-二十二日、参(まゐ)り給(たま)ふ儀式(ぎしき)、是(これ)もいとめでたし。出車十両、一の-車左大宮殿二位の-中将(ちゆうじやう)-基輔(もとすけ)の-娘(むすめ)、三位の-中将(ちゆうじやう)-実平の-娘(むすめ)とぞ聞(き)こえし。二の-左春日(かすが)の-新-大納言(だいなごん)、此(こ)の新-大納言(だいなごん)は、為家(ためいへ)の-大納言(だいなごん)の娘(むすめ)とかや聞(き)きしにや。それよりも下(しも)、ましてくだくだしければむつかし。御雑仕(ざふし)、青柳(あをやぎ)・梅が-枝(え)・高砂(たかさご)・貫川(ぬきがは)と言(い)ひし。此(こ)の貫川(ぬきがは)を、御門忍(しの)びて御覧(ごらん)じて、姫宮(ひめみや)一所(ひとところ)出(い)で-物(もの)し給(たま)ひき。其(そ)の姫宮(ひめみや)は、末(すゑ)に近衛(このゑ)の-関白〈 家基 〉の北(きた)の政所(まんどころ)に成(な)り給(たま)ひにき。万(よろづ)の事(こと)よりも、女御の御-様(さま)-形(かたち)、めでたく御座(おは)しませば、上も思(おも)ほし-付(つ)きにたり。女御は十六にぞ成(な)り給(たま)ふ。御門は十二の御年(おん-とし)なれど、いと大人(おとな)しくおよすげ給(たま)へれば、目(め)-安(やす)き御-程(ほど)なりけり。彼(か)の下(した)-くゆる心地(ここち)にも、いと嬉(うれ)しき物(もの)から、心(こころ)は心(こころ)として、胸(むね)のみ苦(くる)しきさまなれば、忍(しの)び-はつべき心地(ここち)-し給(たま)はぬぞ、遂(つひ)に如何(いか)に成(な)り給(たま)はんと、いとほしき。程(ほど)-無(な)く后立(きさきだ)ち有(あ)りしかば、大臣(おとど)、心(こころ)-行(ゆ)きて思(おぼ)さるる事限(かぎ)り-無(な)し。西園寺(さいをんじ)の-女御も、差(さ)し-続(つづ)きて参(まゐ)り給(たま)ふを、いかさまならんと御胸(むね)-つぶれて思(おぼ)せど、さしも有(あ)らず。是(これ)も九(ここの)つにぞ成(な)り給(たま)ひける。冷泉(れいぜい)の-大臣(おとど)公相(きんすけ)の御娘(むすめ)なり。大宮院の御子にし給(たま)ふとぞ聞(き)こえし。いづれも離(はな)れぬ御中(なか)に、いどみ-きしろひ給(たま)ふ程(ほど)、いと聞(き)き-にくき事(こと)もあるべし。宮仕(づか)ひの習(なら)ひ、斯(か)かるこそ昔(むかし)の人は面白(おもしろ)くはえ-ある事(こと)にし給(たま)ひけれ
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ど、今(いま)の世(よ)の-人(ひと)の御心(おん-こころ)-共(ども)も、余(あま)りすくよかにて、雅(みやび)をかはす事(こと)の御座(おは)せぬなるべし。是(これ)も后(きさき)に立(た)ち給(たま)へば、もとの中宮は上(あ)がりて、皇后宮とぞ聞(き)こえ給(たま)ふ。今后(いまぎさき)は遊(あそ)びにのみ心(こころ)-入(い)れ給(たま)ひて、しめやかにも見(み)え奉(たてまつ)らせ給(たま)はねば、御覚(おぼ)え劣(おと)り-様(ざま)に聞(き)こゆるを、思(おも)はずなる事(こと)に、世(よ)の-人(ひと)も言(い)ひ-沙汰(さた)-しける。父(ちち)-大臣(おとど)も、心(こころ)-やましく思(おぼ)せど、さりともねび-行(ゆ)き給(たま)はばと、只今(ただいま)は恨(うら)み所(どころ)-無(な)く思(おぼ)し-のどめ給(たま)ふ。かくて、弘長-三年-二月(きさらぎ)の頃、大方(おほかた)の世(よ)の気色もうららかに霞(かす)み-渡(わた)るに、春風ぬるく吹(ふ)きて、亀山(かめやま)-殿(どの)の御前の桜(さくら)ほころび-そむる気色の、常(つね)より異(こと)なれば、行幸あるべく思(おぼ)し-おきつ。関白二条殿-良実(よしざね)、此(こ)の三年(みとせ)ばかり〔又(また)〕返(かへ)り-なり給(たま)へば、御随身(み-ずいじん)-共(ども)花(はな)を折(を)りて、行幸より先(さき)に参(まゐ)り-設(まう)け給(たま)ふ。其(そ)の-外(ほか)の上達部(かんだちめ)は、例のきらきらしき限(かぎ)り、残(のこ)るは少(すく)なし。新院も両女院も渡(わた)らせ給(たま)ふ。御前の汀(みぎは)に船-共(ども)浮(う)かべて、をかしき様(さま)なる童(わらは)、四位の若(わか)きなど乗(の)せて、花(はな)の木蔭(こかげ)より漕(こ)ぎ-出(い)でたる程(ほど)、二(に)-無(な)く面白(おもしろ)し。舞楽(まひがく)様々(さまざま)曲など手を尽(つ)くされけり。御遊(ぎよ-いう)の後、人々(ひとびと)歌奉(たてまつ)る。「花(はな)に-遐年(かねん)を-契(ちぎ)る」と言(い)ふ題なりしにや。内の-上の御製(ぎよ-せい)、
尋(たづ)ね-来てあかぬ心(こころ)に任(まか)せなば千年(ちとせ)や花(はな)のかげに過(す)ごさん W
斯様(かやう)の方(かた)までも、いとめでたく御座(おは)しますとぞ、古(ふる)き人々(ひとびと)申(まう)すめりし。帰(かへ)らせ給(たま)ふ日、御贈(おく)り物(もの)-共(ども)、いと様々(さまざま)なる中(なか)に、延喜の御手本を、鴬のゐたる梅の造(つく)り枝に付(つ)けて、奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ
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とて、院〈 後嵯峨 〉の-上(うへ)、
梅が-枝(え)に代々の昔(むかし)の春掛(か)けて変(か)はらず来(き)-居(ゐ)る鴬(うぐひす)の声(こゑ) W
御返事(かへりごと)を忘(わす)れたるこそ、老(お)いの積(つ)もり、うたて口惜(くちを)しけれ。其(そ)の-年にや、五月の頃、本院、亀山(かめやま)-殿(どの)にて御如法経書(か)かせ給(たま)ふ。いと有(あ)り-難(がた)くめでたき御事(こと)ならんかし。後白河院(ごしらかはの-ゐん)こそ斯(か)かる御事(こと)はせさせ給(たま)ひけれ。それも御髪(み-ぐし)-下(お)ろして後(のち)の事(こと)なり〔けり〕。いとかく思(おぼ)し-立(た)たせ給(たま)へる、いみじき御願なるべし。然(さ)るは、数多(あまた)-度(たび)侍(はべ)りしぞかし。男(をとこ)は、花山院(くわさんゐん)の-中納言-師継(もろつぐ)一人候(さぶら)ひ給(たま)ひける。止(や)む事(ごと)無(な)き顕密の学士-共(ども)を召(め)しけり。昔(むかし)、上東門院も行(おこな)はせ給(たま)ひたりし例(ためし)にや、大宮院、同(おな)じく書(か)かせ御座(おは)しますとぞ承(うけたまは)りし。十種-供養果(は)てて後(のち)は、浄金剛院へ御自(みづか)ら納(をさ)めさせ給(たま)へば、関白・大臣・上達部歩(あゆ)み-続(つづ)きて御供(とも)仕(つかうまつ)られけるも、様々(さまざま)珍(めづら)しく面白(おもしろ)くなん。其(そ)の-年(とし)九月-十三夜、亀山(かめやま)-殿(どの)の桟敷(さじき)-殿(どの)にて、御歌合(うたあはせ)-せさせ給(たま)ふ。斯様(かやう)の事(こと)は、白河殿にても鳥羽殿にても、いと繁(しげ)かりしかど、如何(いか)でかさのみはにて、皆(みな)もらしぬ。此(こ)の-度(たび)は、心(こころ)-殊(こと)に磨(みが)かせ給(たま)ふ。右(みぎ)は関白殿にて歌-共(ども)撰(え)り-整(ととの)へらる。左は院の御前にて、歌御覧(ごらん)ぜられけり。此(こ)の-程(ほど)殿と申(まう)すは、円明寺殿の御事(こと)なり。新院の御位の初(はじ)めつ方(かた)、摂政にていませしが、又(また)此(こ)の二年(ふたとせ)ばかり、帰(かへ)らせ給(たま)へり。前(さき)の-関白殿は、院の御方に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。其(そ)の-外(ほか)勝(すぐ)れたる限(かぎ)り、
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右(みぎ)は関白殿・今出川(いまでがは)の-太政大臣(おほきおとど)・皇后宮の御父(ちち)左大臣殿よりも下(しも)、皆(みな)此(こ)の道の上手(じやうず)-共(ども)なり。左は大殿(おほとの)よりかずだて作(つく)りて、風流(ふりう)の州浜(すはま)、沈(ぢん)にて作(つく)れる上(うへ)に、白金の舟(ふね)二(ふた)つに、色々(いろいろ)の色紙(しきし)を巻(ま)き-重(かさ)ねてつまれたり。数も沈(ぢん)にて作(つく)りて舟(ふね)に入(い)れらる。左右(さう)の読師、一度(いちど)に御前に参(まゐ)りて読(よ)み-あぐ。左具氏(ともうぢ)の-中将(ちゆうじやう)、右行家なり。山紅葉(やまもみぢ)、本院の御製(ぎよ-せい)、
外(よそ)よりは時雨(しぐれ)も如何(いかが)染(そ)めざらん我(わ)が植(う)ゑて見(み)る山(やま)の紅葉葉(もみぢば) W
遂(つひ)に、左御勝(か)ちの数(かず)勝(まさ)りぬ。披講果(は)てて夜更(ふ)け-行(ゆ)く程(ほど)、御遊(あそ)び始(はじ)まる。笛花山院(くわさんゐん)の-中納言-長雅・茂道の-中将(ちゆうじやう)、笙(しやう)公秋(きんあき)の-中将(ちゆうじやう)にて御座(おは)せしにや。篳篥(ひちりき)忠輔(ただすけ)の-中将(ちゆうじやう)、琵琶は太政大臣(おほきおとど)〈 公相 〉、具氏(ともうぢ)の-中将(ちゆうじやう)も弾(ひ)きけるとぞ。御簾(み-す)の内(うち)にも御箏(こと)-共(ども)かき-合(あ)はせらる。東(ひんがし)の-御方(かた)と聞(き)こえしは、新院の若宮(わかみや)の御母君にや。刑部卿の-君も弾(ひ)かれけり。楽のひまひまに、太政大臣(おほきおとど)・土御門(つちみかど)の-大納言(だいなごん)-通成など朗詠-し給(たま)ふ。忠輔(ただすけ)・公秋(きんあき)、声(こゑ)加(くは)へたる程(ほど)面白(おもしろ)く、川波(かはなみ)も更(ふ)け-行(ゆ)く儘(まま)にすごう、月は氷を敷(し)ける心地(ここち)-するに、嵐の-山(やま)の紅葉(もみぢ)、夜(よる)の-錦(にしき)とは誰か言(い)ひけん、吹(ふ)き-下(お)ろす松風(まつかぜ)に類(たぐ)ひて、御前の簀子(すのこ)にて、御酒(みき)参(まゐ)る土器(かはらけ)の中(うち)などに散(ち)り-掛(か)かる、わざと艶(えん)ある事(こと)のつまにしつべし。若(わか)き人々(ひとびと)は、身にしむばかり思(おも)へり。打(う)ち-乱(みだ)れたる様(さま)に、各(おのおの)御-土器(かはらけ)-共(ども)数多(あまた)-度(たび)下(くだ)る。明(あ)け-行(ゆ)く空も名残(なごり)多(おほ)かるべし。誠(まこと)や、此(こ)の年頃、前(さき)の-内大臣〈 基家 〉、為家(ためいへ)の-大納言(だいなごん)-入道・〔侍従(じじゆう)の-二位-〕行家・光俊の-弁(べん)の-入道など、承(うけたまは)りて、撰歌の沙汰(さた)有(あ)りつる、只(ただ)今日(けふ)-明日(あす)広(ひろ)まるべしと
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聞(き)こゆる、面白(おもしろ)うめでたし。彼(か)の元久の例(ためし)とて、一院自(みづか)ら磨(みが)かせ給(たま)へば、心(こころ)-殊(こと)に、光そひたる玉-共(ども)にぞ侍(はべ)るべき。年月(としつき)に添(そ)へては、いよいよ、外(ほか)-様(ざま)に分(わ)くる方無(な)く、栄(さか)えのみ勝(まさ)らせ給(たま)ふ御有様(おん-ありさま)のいみじきに、此(こ)の集の序にも、「やまと-島根(しまね)はこれ我(わ)が-世(よ)なり、春風に徳を仰(あふ)がんと願(ねが)ひ、和歌の-浦も又(また)我(わ)が-国也(なり)、秋の月に道をあきらめん」とかや書(か)かせ給(たま)へる、げにぞめでたきや。金葉集ならでは、御子(みこ)の御名(な)のあらはれぬも侍らねど、此(こ)の-度(たび)は、彼(か)の東(あづま)の中務(なかづかさ)の-宮(みや)の御名乗(なの)りぞ書(か)かれ給(たま)はざりける、いと止(や)む事(ごと)無(な)し。新古今(しんこきん)の時有(あ)りしかばにや、竟宴(きやうえん)と言(い)ふ事行(おこな)はせ給(たま)ふ、いと面白(おもしろ)かりき。此(こ)の集をば、続古今(しよくこきん)と申(まう)すなり。又(また)の-年、文永三東(あづま)に心(こころ)-よからぬ事出(い)で-来(き)て、中務(なかづかさ)の-御子(みこ)宮、うへ上(のぼ)らせ給(たま)ふ。何(なに)と-無(な)く、あわたたしきやうなり。御後見(おん-うしろみ)は、猶(なほ)時頼の-朝臣なれば、例(れい)のいと心(こころ)-賢(かしこ)うしたため-なほしてければ、聞(き)こえし程(ほど)の面白(おもしろ)き事(こと)などは無(な)ければ、宮は御子の惟康(これやす)の-親王(しんわう)に将軍を譲(ゆづ)りて、文永-三年-七月-八日、上(のぼ)らせ給(たま)ひぬ。御下(くだ)りの折(をり)、六波羅(ろくはら)に建(た)てたりし桧皮屋(ひはだや)一(ひと)つ有(あ)り。そこにぞ初(はじ)めは渡(わた)らせ給(たま)ふ。いとしめやかに、引(ひ)き-かへたる御有様(おん-ありさま)を、年月(としつき)の習(なら)ひに、さうざうしく物(もの)-心(ごころ)-細(ぼそ)う思(おぼ)されけるにや。
虎(とら)とのみ用(もち)ゐられしは昔(むかし)にて今(いま)は鼠のあな-う世(よ)の-中(なか) W
院にも、東の聞(き)こえをつつませ給(たま)ひて、やがては御対面(たいめん)も無(な)く、いと心(こころ)-苦(ぐる)しく思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひけり。経任(つねたふ)の-大納言(だいなごん)、未(いま)だ下臈(げらふ)なりし程(ほど)、御(おん)-使(つか)ひに下されて、何事(なにごと)かと仰(おほ)せられなどし
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て後ぞ、苦(くる)しからぬ事(こと)になりて、宮も土御門(つちみかど)−殿承明門院(しようめいもんゐん)の御跡(あと)へ入(い)らせ給(たま)ひけり。院へも常(つね)に御参(まゐ)りなど有(あ)りて、人々(ひとびと)も仕(つかうまつ)る。御遊(あそ)びなどもし給(たま)ふ。雪(ゆき)のいみじう降(ふ)りたる朝明(あさあ)けに、右近(うこん)の-馬場のかた御覧じに御座(おは)して、御心(おん-こころ)の-内(うち)に、
猶(なほ)頼(たの)む北野(きたの)の雪(ゆき)の朝(あさ)ぼらけ跡(あと)-無(な)き事(こと)に埋(うづ)もるる身も W
世(よ)を乱(みだ)らむなど思(おも)ひ-寄(よ)りける武士の、此(こ)の御子(みこ)の御歌勝(すぐ)れて詠(よ)ませ給(たま)ふに、夜々(よるよる)[B 昼(ひる)か ]いと睦(むつ)ましく仕(つかうまつ)りける程(ほど)に、自(おの)づから同(おな)じ心(こころ)なる物(もの)など多(おほ)くなりて、宮の御気色あるやうに言(い)ひ-なしけるとかや。然様(さやう)の事(こと)-共(ども)の響(ひび)きにより、かく御座(おは)しますを、思(おぼ)し-歎(なげ)き給(たま)ふなるにこそ。日頃(ひごろ)なる雨(あめ)降(ふ)りて、少(すこ)し晴(は)れ間(ま)見(み)ゆる程(ほど)、空の気色しめやかなるに、二条-富(とみ)の-小路(こうぢ)-殿(どの)に、本院・新院一(ひと)つに渡(わた)らせ給(たま)ふ頃(ころ)、ことごとしからぬ程(ほど)の御遊(あそ)び有(あ)り。大宮院・東二条院も、御几帳(きちやう)ばかり隔(へだ)てて御座(おは)します。御前に、太政大臣(おほきおとど)−公相、常盤井(ときはゐ)の-入道殿−実氏、〔前(さき)の-〕左の-大臣(おとど)−実雄、久我(こが)の-大納言(だいなごん)-雅忠など、睦(むつ)ましき限(かぎ)り候(さぶら)ひ給(たま)ひて、御酒(みき)参(まゐ)る。数多(あまた)-下(くだ)り流(なが)れて、上下少(すこ)し打(う)ち-乱(みだ)れ給(たま)へるに、太政大臣(おほきおとど)、本院の御-杯(さかづき)賜(たま)はりて、持(も)ちながら、とばかり休(やす)らひて、「公相、官位共(とも)に極(きは)め侍(はべ)りぬ。中宮御座(おは)しませば、もし皇子降誕も有(あ)らば、家門の栄花いよいよ衰(おとろ)ふべからず。実兼(さねかぬ)もけしうは-侍らぬ男(をのこ)なり。後(うし)ろめたくも思(おも)ひ侍らぬを、一(ひと)つの憂(うれ)へ心(こころ)の底(そこ)になん侍(はべ)る」と申(まう)し給(たま)へば、人々(ひとびと)、
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何事(なにごと)にかと覚束無(おぼつかな)く思(おも)ふ。左の-大臣(おとど)は、中宮の事(こと)、掛(か)け給(たま)ふを、まだきよりもと耳(みみ)止(と)まりて、打(う)ち-思(おぼ)すにも、心(こころ)の-中(うち)安(やす)-げ-無(な)し。一院は、「如何(いか)なる憂(うれ)へにか」と宣(のたま)ふに、「如何(いか)にも、入道-相国に先(さき)-立(だ)ちぬべき心地(ここち)なんし侍(はべ)る。「恨(うら)みの至(いた)りて恨(うら)めしきは、盛(さか)りにて親(おや)に先(さき)-立(だ)つ恨(うら)み、悲(かな)しみの切(せち)に悲(かな)しきは、老(お)いて子に後(おく)るる悲(かな)しみには過(す)ぎず」などこそ、澄明(すみあきら)に後(おく)れたる願文にも書(か)きて侍(はべ)りしか」など聞(き)こえて、打(う)ち-しをれ給(たま)へば、皆(みな)いと哀(あは)れと思(おぼ)さる。入道殿はまいて、墨染(すみぞ)めの御袖絞(しぼ)るばかりに見(み)え給(たま)ふ。さて、其(そ)の-後幾(いく)-程(ほど)-無(な)く悩(なや)み給(たま)ふ由(よし)聞(き)こゆれど、さしもやはと覚(おぼ)えしに、いとあや無(な)く失(う)せ給(たま)ひぬ。冷泉(れいぜい)の-太政大臣と申(まう)し侍(はべ)りし事(こと)也(なり)。入道殿の御心(おん-こころ)の-中(うち)、さこそは御座(おは)しけめ。中宮も御服(ぶく)にてまかで給(たま)ひぬ。皇后宮は日に添(そ)へて御覚(おぼ)えめでたくなり給(たま)ひぬ。姫宮(ひめみや)・若宮(わかみや)など出(い)でもし給(たま)ひしかど、やがて失(う)せさせ給(たま)へるを、御門を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、誰(たれ)も-誰(たれ)も思(おぼ)し-歎(なげ)きつるに、今年(ことし)、又(また)其(そ)の御気色あれば、いとど思(おぼ)し-騒(さわ)ぎ、山々(やまやま)寺々(てらでら)に御祈(いの)りこちたく罵(ののし)る。こたびだに、実(げ)に又(また)打(う)ち-はづしては、いかさまにせんと、大臣(おとど)・母(はは)-北の方(かた)も、安(やす)き寝(い)も寝(ね)給(たま)はず、思(おぼ)し-惑(まど)ふ事限(かぎ)り-無(な)し。程(ほど)近(ちか)くなり給(たま)ひぬとて、土御門殿(つちみかどどの)の、承明門院(しようめいもんゐん)の御跡(あと)へ移(うつ)ろひ給(たま)ふ。世(よ)の-中(なか)響(ひび)きて、天下(てんか)の人、高(たか)きも下(くだ)れるも、官(つかさ)ある程(ほど)のは、参(まゐ)り-こみてひしめき-立(た)つに、殿の内(うち)の人々(ひとびと)は、まして心(こころ)も〔心(こころ)ならず、〕あわたたし、大臣(おとど)限(かぎ)り-無(な)き願-共(ども)を立(た)て、
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賀茂の-社にも、彼(か)の御調度(てうど)-共(ども)の中(なか)に、勝(すぐ)れて御宝(たから)と思(おぼ)さるる御手箱に、后(きさい)の-宮自(みづか)ら書(か)かせ給(たま)へる願文(ぐわんふみ)入(い)れて、神殿に込(こ)められけり。それには、「仮令(たとひ)御末(すゑ)までは無(な)くとも、皇子一人」とかや侍(はべ)りけるとぞ承(うけたまは)りし、誠(まこと)にや侍(はべ)りけん。かく言(い)ふは、文永-四年-十二月-一日なり。例(れい)の御物(もの)の怪(け)-共(ども)あらはれて、叫(さけ)び-とよむ様(さま)、いと恐(おそ)ろし。然(さ)れども、御祈(いの)りのしるしにや、えも-言(い)はずめでたき玉の-男(をのこ)-御子(みこ)生(う)まれ給(たま)ひぬ。其(そ)の-程(ほど)の式(しき)、言(い)はずとも推(お)し-量(はか)るべし。上(うへ)も、限(かぎ)り-無(な)き御志(おん-こころざし)に添(そ)へて、いよいよ思(おぼ)す様(さま)に嬉(うれ)しと聞(き)こし召(め)す。大臣(おとど)も今(いま)ぞ御胸(むね)-あきて心(こころ)-落(お)ち-居(ゐ)給(たま)ひける。新院の若宮(わかみや)〈 伏見院 〉も、此(こ)の殿の御孫-ながら、其(それ)は東二条院の御心(おん-こころ)の-中(うち)推(お)し-量(はか)られ、大方も又(また)うけ-ばり止(や)む事(ごと)無(な)き方には有(あ)らねば、万(よろづ)聞(き)こし召(め)し-消(け)つ様(さま)なりつれど、此(こ)の今宮(いまみや)は、本院も大宮院も、きはことに持(も)て-はやしかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。是(これ)も中宮の御-為(ため)、いとほしからぬには有(あ)らねど、如何(いか)でかさのみは有(あ)らんと、西園寺(さいをんじ)-様(ざま)にぞ、一方(ひとかた)ならず思(おぼ)し-結(むす)ぼほれ、すさまじう聞(き)き給(たま)ひける。




第八 飛鳥川(あすかがは)

隙(ひま)行(ゆ)く駒(こま)の足(あし)に任(まか)せて、文永も五年に成(な)りぬ。正月二十日、本院の御座(おは)します富(とみ)の小路殿
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にて、今上の若宮(わかみや)、御五十日(いか)聞(き)こし召(め)す。いみじう清(きよ)らを尽(つ)くさるべし。今年(ことし)正月に閏(うるふ)有(あ)り。後の二十日余(あま)りの程(ほど)に、冷泉院(れいぜいゐん)にて舞御覧有(あ)り。明(あ)けむ年(とし)、一院、五十(いそぢ)に満(み)たせ給(たま)ふべければ、御賀有(あ)るべしとて、今(いま)より世(よ)の急(いそ)ぎに聞(き)こゆ。楽所(がくしよ)始(はじ)めの儀式(ぎしき)は、内裏にてぞ有(あ)りける。試楽、二十三日と聞(き)こえしを、雨ふりて、明(あ)くるつとめて、人々(ひとびと)参(まゐ)り集(つど)ふ。新院は予(かね)てより渡(わた)らせ給(たま)へり。寝殿(しんでん)の御階(はし)の間に、一院の御座(おまし)設(まう)けたり。其(そ)の西(にし)に寄(よ)りて、新院の御座、東(ひんがし)は大宮院・東二条院、皆(みな)白(しろ)き御袴(はかま)に、二(ふた)つ御衣(おんぞ)奉(たてまつ)り、聖護院の法親王・円満院など参(まゐ)り給(たま)ふ。土御門(つちみかど)の中務(なかづかさ)の宮(みや)も参(まゐ)り給(たま)ふ。上達部・殿上人、数多(あまた)御供(とも)し給(たま)へり。仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)・梶井(かぢゐ)の法親王なども、すべて残(のこ)り無(な)く集(つど)ひ給(たま)ふ。月花門院・花山院(くわさんゐん)の准后などは、大宮院の御座(おは)します御座に御几帳(きちやう)押(お)しのけて渡(わた)らせ給(たま)ふ。寝殿(しんでん)の第四の間に、袖口(そでくち)共(ども)心(こころ)殊(こと)にて押(お)し出(い)ださる。大納言(だいなごん)の二位殿・南の御方など、止(や)む事(ごと)無(な)き上臈(じやうらふ)は、院の御座(おは)します御簾(みす)の中(なか)に、引(ひ)きさがりて候(さぶら)ひ給(たま)ふ。いづれも、白(しろ)き袴(はかま)に二(ふた)つ衣(ぎぬ)なり。東(ひんがし)の隅(すみ)の一間は、大宮院・月花門院の女房共(ども)参(まゐ)り集(つど)ふ。西(にし)の二間に、新准后候(さぶら)ひ給(たま)ふ。御前の簀子(すのこ)に、関白を始(はじ)め右大臣〔基忠〕・内大臣〔家経〕・兵部卿隆親・二条の大納言(だいなごん)良教・源大納言(だいなごん)通成・花山院(くわさんゐん)の大納言(だいなごん)師継・右大将通雅・権大納言(だいなごん)基具・一条の中納言公藤・花山院(くわさんゐん)の中納言長雅・左衛門督通頼・中宮の権大夫隆顕・
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大炊御門(おほひのみかど)の中納言信嗣・前(さき)の源宰相(さいしやう)有資・衣笠宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)経平・左大弁(さだいべん)の宰相(さいしやう)経俊(つねとし)・新宰相の中将(ちゆうじやう)具氏(ともうぢ)・別当公孝(きんたか)・堀川(ほりかは)の三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)具守・富小路三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)公雄、皆(みな)御階(みはし)の東(ひんがし)に着(つ)き給(たま)ふ。西の第二の間より、又(また)、〔前(さき)の〕左大臣実雄・二条の大納言(だいなごん)経輔(つねすけ)・前(さき)の源大納言(だいなごん)雅家(まさいへ)・中宮の大夫雅忠・藤大納言(だいなごん)為氏(ためうじ)・皇后宮の大夫定実・四条の大納言隆行・帥(そち)の中納言経任、此(こ)の外(ほか)の上達部、西東の中門の廊(らう)、それより下(しも)様(ざま)、透渡(すいわた)殿(どの)・打橋(うちはし)などまで着(つ)き余(あま)れり。皆(みな)、直衣(なほし)に色々(いろいろ)の衣重(かさ)ね給(たま)へり。時なりて、舞人(まひびと)共(ども)参(まゐ)る。実冬の中将(ちゆうじやう)、唐織物(からおりもの)の桜(さくら)の狩衣(かりぎぬ)、紫の濃(こ)き薄(うす)きにて梅を織(お)れり。赤地(あかぢ)の錦の表着(うはぎ)・紅の匂(にほ)ひの三(み)つ衣(ぎぬ)・同(おな)じ単(ひとへ)・しじらの薄色(うすいろ)の指貫(さしぬき)、人よりは少(すこ)しねびたりしも、あな清(きよ)げと見(み)えたり。大炊御門(おほひのみかど)の中将(ちゆうじやう)冬輔(すけ)と言(い)ひしにや、装束(さうぞく)先(さき)のに変(か)はらず。狩衣(かりぎぬ)はから織物(おりもの)なり。花山院(くわさんゐん)の中将(ちゆうじやう)家長(いへなが)〈 右大将の御子 〉魚綾(ぎよりよう)の山吹(やまぶき)の狩衣(かりぎぬ)、柳桜(やなぎさくら)を縫(ぬ)ひ物(もの)にしたり。紅の打衣(うちぎぬ)を輝(かかや)くばかりだみ返(かへ)して、萌黄(もえぎ)の匂(にほ)ひの三(み)つ衣(ぎぬ)・紅の三重(みへ)の単(ひとへ)、浮織物(うきおりもの)の紫の指貫(さしぬき)に、桜を縫(ぬ)ひ物(もの)にしたり。珍(めづら)しく美(うつく)しく見(み)ゆ。
花山院(くわさんゐん)の少将(せうしやう)忠季(ただすゑ)〈 師継(もろつぐ)の御子也(なり) 〉桜の結(むす)び狩衣(かりぎぬ)、白(しろ)き糸(いと)にて水(みづ)を隙(ひま)無(な)く結(むす)びたる上(うへ)に、桜柳を、それも結(むす)びて付(つ)けたる、艶(なま)めかしく艶(えん)なり。赤地(あかぢ)の錦(にしき)の表着(うはぎ)、金(かね)の文(もん)を置(お)く。紅の二(ふた)つ衣(ぎぬ)・同(おな)じ単(ひとへ)・紫の指貫(さしぬき)、是(これ)も柳桜(やなぎさくら)を縫(ぬ)ひ物(もの)に色々(いろいろ)の糸(いと)にてしたり。中宮の権亮の少将(せうしやう)公重(きんしげ)〈 実藤(さねふぢ)の大納言(だいなごん)の子 〉唐織物(からおりもの)の桜萌黄(さくらもえぎ)の狩衣(かりぎぬ)・紅の打衣(うちぎぬ)の紫の匂(にほ)ひの三(み)つ衣(ぎぬ)・紅の単(ひとへ)、指貫(さしぬき)例(れい)の紫に桜を白(しろ)く縫(ぬ)ひたり。堀川(ほりかは)の少将(せうしやう)基俊(もととし)
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〔基具(もととも)の大納言(だいなごん)の子(こ)、〕唐織物(からおりもの)、裏山吹(うらやまぶき)、三重(みへ)の狩衣(かりぎぬ)の、柳だすきを青(あを)く織(お)れる中(なか)に桜を色々(いろいろ)に織(お)れり。萌黄(もえぎ)の打衣(うちぎぬ)、桜(さくら)をだみ付(つ)けにして、輪(わ)違(ちが)へを細(ほそ)く金(かね)の文(もん)にして、色々(いろいろ)の玉をつく。匂(にほ)ひつくしの三(み)つ衣(ぎぬ)、紅(くれなゐ)の三重(みへ)の単(ひとへ)、是(これ)も箔(はく)散(ち)らす。二条の中将(ちゆうじやう)経俊〈 良教(よしのり)の大納言(だいなごん)の御子也(なり) 〉是(これ)も唐織物(からおりもの)の桜萌黄(さくらもえぎ)・紅の衣・同(おな)じ単(ひとへ)なり。皇后宮の権亮(ごんのすけ)中将(ちゆうじやう)実守、是(これ)も同(おな)じ色(いろ)の樺桜(かばざくら)の三(み)つ衣(ぎぬ)・紅梅(こうばい)の〔匂(にほ)ひの〕三重(みへ)の単(ひとへ)、右馬頭隆良(たかよし)〈 隆親(たかちか)の子にや 〉緑苔(ろくたい)の赤色(あかいろ)の狩衣(かりぎぬ)の玉のくくりを入(い)れたる、青(あを)き魚綾(ぎよりよう)の表着(うはぎ)・紅梅の三(み)つ衣(ぎぬ)・同(おな)じ二重(ふたへ)の単(ひとへ)・薄色(うすいろ)の指貫(さしぬき)、少将(せうしやう)実継(さねつぐ)、松がさねの狩衣(かりぎぬ)・紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)・紫(むらさき)の二(ふた)つ衣(ぎぬ)、是(これ)も色々(いろいろ)の縫(ぬ)ひ物(もの)・置(お)き物(もの)など、いとこまかに艶(なま)めかしくしなしたり。陵王(りようわう)の童(わらは)に、四条の大納言(だいなごん)の子、装束(しやうぞく)常(つね)の儘(まま)なれど、紫の緑苔(ろくたい)の半尻(はんじり)、金(かね)の文(もん)、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の狩衣(かりぎぬ)、青(あを)き魚綾(ぎよりよう)の袴(はかま)、笏木(しやくぎ)のみなゑり骨(ぼね)、紅の紙(かみ)にはりて持(も)ちたる用意(ようい)気色、いみじく持(も)て付(つ)けて、めでたく見(み)え侍りけり。笛茂通(もちみち)・隆康(たかやす)、笙(しやう)公顕(きんあき)・宗実、篳篥(ひちりき)兼行(かねゆき)、太鼓(たいこ)教藤(のりふぢ)、鞨鼓(かつこ)あきなり、三(さん)の鼓(つづみ)のりより、左万歳楽(まんざいらく)、右地久、陵王(りようわう)、輪台(りんだい)、青海波(せいがいは)、太平楽(たいへいらく)、入綾(いりあや)、実冬いみじく舞(ま)ひすまされたり。右落蹲(らくそん)、左春鴬囀(しゆんあうてん)、右古鳥蘇(ことりそ)、後参(ごさん)、賀殿(かてん)の入綾(いりあや)も実冬舞(ま)ひ給(たま)ひしにや。暮(く)れ掛(か)かる程(ほど)〔にて〕、何(なに)のあやめも見(み)えずなりき。御方々(かたがた)宮達(たち)、あかれ給(たま)ひぬ。同(おな)じ二月十七日に、又(また)、新院富(とみ)の小路殿にて舞(まひ)御覧。其(そ)の朝(あした)、大宮院先(ま)づ忍(しの)びて渡(わた)らせ給(たま)ふ。一院の御幸(みゆき)は、日たけてなる。冷泉(れいぜい)殿(どの)より只(ただ)這(は)ひ渡(わた)る程(ほど)なれば、楽人・舞人(まひびと)、今日(けふ)の装束(しやうぞく)にて、上達部など、
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皆(みな)歩(あゆ)み続(つづ)く。庇(ひさし)の御車にて、御随身(みずいじん)十二人、花(はな)を折(を)り錦を立(た)ち重(かさ)ねて、声々(こゑごゑ)、御(み)先(さき)花(はな)やかに追(お)ひ罵(ののし)りて、近(ちか)く候(さぶら)ひつる、二(に)無(な)く面白(おもしろ)し。新院は、御烏帽子(えぼし)直衣(なほし)・御袴(はかま)際(きは)にて、中門にて待(ま)ち聞(き)こえさせ給(たま)へる程(ほど)、いと艶(えん)にめでたし。御車中門に寄(よ)せて、関白殿、御佩刀(はかせ)取(と)りて、御匣(みくしげ)殿(どの)に伝(つた)へ給(たま)ふ。二重(ふたへ)織物(おりもの)の萌黄(もえぎ)の御几帳(きちやう)のかたびらを出(い)だされて、色々(いろいろ)の平文(ひやうもん)の衣共(ども)、物(もの)の具(ぐ)は無(な)くて押(お)し出(い)ださる。今日(けふ)は正親町の院も御堂の隅(すみ)の間より御覧ぜられる。大臣・上達部(かんだちめ)、有(あ)りしに変(か)はらず。猶(なほ)参(まゐ)り加(くは)はる人は多(おほ)けれど、漏(も)れたるは無(な)し。実冬は、今日(けふ)は、花田(はなだ)うら山吹(やまぶき)の狩衣(かりぎぬ)、二重(ふたへ)うち萌黄裏(もえぎうら)など、思(おも)ひ思(おも)ひ心々(こころごころ)に、前(さき)には皆(みな)引(ひ)きかへて、様々(さまざま)尽(つ)くしたり。基俊(もととし)の少将(せうしやう)、此(こ)の度(たび)は、桜萌黄(もえぎ)の五重の狩衣(かりぎぬ)・紅の匂(にほ)ひの五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)はやりつき、山吹(やまぶき)の匂(にほ)ひ、浮織物(うきおりもの)の三重(みへ)単(ひとへ)・紫(むらさき)の綾(あや)の指貫(さしぬき)、中(なか)に勝(すぐ)れてけうらに見(み)え給(たま)へり。此(こ)の度(たび)は、多(おほ)く緑苔(ろくたい)の衣を着(き)たり。万歳楽を吹(ふ)きて楽人・舞人(まひびと)参(まゐ)る。池の汀(みぎは)に桙(ほこ)を立(た)つ。春鴬囀・古鳥蘇(ことりそ)・後参(ごさん)・輪台(りんだい)・青海波・落蹲(らくそん)など有(あ)り。日暮(ひぐ)らし面白(おもしろ)く罵(ののし)りて、帰(かへ)らせ給(たま)ふ程(ほど)に、赤地(あかぢ)の錦の袋(ふくろ)に御琵琶入(い)れて奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。刑部卿の君、御簾(みす)の中(なか)より出(い)だす。右大将取(と)りて、院の御前に気色ばみ給(たま)ふ。胡飲酒(こんじゆ)の舞(まひ)は、実俊の中将(ちゆうじやう)と予(かね)ては聞(き)こえしを、父(ちち)大臣(おとど)の事(こと)に止(とど)まりにしかば、近衛(このゑ)の前(さき)の関白殿の御子三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)と聞(き)こゆる、未(いま)だ童(わらは)にて舞(ま)ひ給(たま)ふ。別(べつ)して、此(こ)の試楽より先(さき)なりしにや、内々白河殿にて
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試(こころ)み有(あ)りしに、父(ちち)の殿も御簾(みす)の内(うち)にて見給(たま)ふ。若君(わかぎみ)いと美(うつく)しう舞(ま)ひ給(たま)へば、院めでさせ給(たま)ひて、舞(まひ)の師忠茂(ただもち)、禄(ろく)賜(たま)はりなどしける。斯様(かやう)に聞(き)こゆる程(ほど)に、蒙古(むくり)の軍(いくさ)と言(い)ふ事起(お)こりて、御賀止(とど)まりぬ。人々(ひとびと)口惜(を)しく本意(ほい)無(な)しと思(おぼ)す事(こと)限(かぎ)り無(な)し。何事(なにごと)も打(う)ちさましたるやうにて、御修法(みしゆほふ)や何(なに)やと、公家・武家、只(ただ)此(こ)の騒(さわ)ぎなり。然(さ)れども、程(ほど)無(な)く鎮(しづ)まりて、いとめでたし。かくて、今上の若宮(わかみや)、六月二十六日親王(しんわう)の宣旨(せんじ)有(あ)りて、同(おな)じき八月二十五日、坊に居(ゐ)給(たま)ひぬ。かく花やかなるに付(つ)けても、入道殿はめざましく思(おぼ)さる。故(こ)大臣(おとど)の先(さき)立(だ)ち給(たま)ひし歎(なげ)きに沈(しづ)みてのみ物(もの)し給(たま)へど、「斯(か)かる世(よ)の気色(けしき)を、賢(かしこ)く見給(たま)はぬよ」と思(おぼ)し慰(なぐさ)む。中宮は、御服(ぶく)の後(のち)も参(まゐ)り給(たま)はず。万(よろづ)引(ひ)き返(かへ)し物(もの)恨(うら)めしげなる世(よ)の中(なか)なり。一院は、御本意(ほい)遂(と)げん事(こと)を漸(やうや)う思(おぼ)す。其(そ)の年の九月十三夜、白河殿にて月御覧ずるに、上達部・殿上人、例の多(おほ)く参(まゐ)り集(つど)ふ。御歌合(うたあはせ)有(あ)りしかば、内の女房共(ども)召(め)されて、色々(いろいろ)の引(ひ)き物(もの)、源氏(げんじ)五十四帖の心、様々(さまざま)の風流(ふりう)にして、上達部・殿上人までも分(わ)かち賜(たま)はす。院(ゐん)の御製(ぎよせい)、
我(われ)のみや影も変(か)はらん飛鳥川(あすかがは)同(おな)じ淵瀬(ふちせ)に月はすむとも W
予(かね)てより袖も時雨(しぐ)れて墨染(すみぞ)めの夕べ色ます峰の紅葉葉(もみぢば) W
此(こ)の御歌にてぞ、御本意(ほい)の事思(おぼ)し定(さだ)めけり〔と〕、〔皆人(みなひと)、袖を絞(しぼ)りて、声(こゑ)も変(か)はりけり。〕哀(あは)れにこそ。民部卿入道為家(ためいへ)、判(はん)ぜさせられける
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にも、「身をせめ心(こころ)を砕(くだ)きて、かき遣(や)る方(かた)も侍らず」とかや奏(そう)しけり。かくて神無月(かみなづき)の五日、亀山(かめやま)殿(どの)へ御幸(みゆき)なる。今日(けふ)を限(かぎ)りの御旅(たび)なれば、心(こころ)殊(こと)に整(ととの)へさせ給(たま)ふ。新院も例(れい)の御座(おは)します。大宮・東二条、一(ひと)つ御車にて、同(おな)じく渡(わた)らせ給(たま)ふ。大宮女院は白菊の御衣(おんぞ)、東二条院は青紅葉(あをもみぢ)の八(や)つ、菊の御小袿(こうちき)奉(たてまつ)る。先(ま)づ、北野(きたの)・平野の社(やしろ)へ御参(まゐ)りあれば、御随身(みずいじん)共(ども)花(はな)を織(お)り尽(つ)くし、今日(けふ)を限(かぎ)りと、様(さま)あしきまで装束(さうぞ)きあへる。両社(りやうしや)にて、馬上(あ)げさせられけり。神も如何(いか)に名残(なごり)多(おほ)く見給(たま)ひけん。空さへ打(う)ち時雨(しぐ)れて、木の葉(は)誘(さそ)ふ嵐(あらし)も折知(をりし)り顔(がほ)に物(もの)悲(がな)しう、涙争(あらそ)ふ心地(ここち)し給(たま)ふ人々(ひとびと)多(おほ)かるべし。中務(なかづかさ)の御子(こ)、「今日(けふ)の袂さぞ時雨(しぐ)るらん」と宣(のたま)ひし御返(かへ)し、中将(ちゆうじやう)、
袖濡(ぬ)らす今日(けふ)をいつかと思(おも)ふにも時雨(しぐ)れてつらき神無月(かみなづき)かな W
やがて其(そ)の夜御髪(みぐし)下(お)ろす。御戒(かい)の師には、青蓮院(しやうれんゐん)の法親王参(まゐ)り給(たま)ふ。其(そ)の頃やがて、御逆修(ぎやくしゆ)始(はじ)めさせ給(たま)へば、其(そ)の程(ほど)、女院色々(いろいろ)の御捧持(ほうもつ)共(ども)奉(たてまつ)らせ給(たま)へり。今(いま)は弥(いよいよ)法の道をのみもてなさせ給(たま)ひつつ、或(あ)る時(とき)は止観(しくわん)の談義(だんぎ)、或(あ)る時(とき)は真言(しんごん)の深(ふか)き沙汰(さた)・浄土の宗旨などを尋(たづ)ねさせ給(たま)ひつつ、万(よろづ)に通(かよ)ひ暗(くら)からず物(もの)し給(たま)へば、何事(なにごと)も、前(さき)の世(よ)より賢(かしこ)く御座(おは)しましける程(ほど)現(あらは)れて、今(いま)行(ゆ)く末(すゑ)も、げに頼(たの)もしく、めでたき御有様(おんありさま)なり。かくて今年(ことし)も暮(く)れぬ。又(また)の年(とし)三月(やよひ)の一日(ついたち)、月花門院、俄(にはか)に隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。法皇
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も女院も、限(かぎ)り無(な)く思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひつるに、いとあさまし。然(さ)るは誠(まこと)にや有(あ)らん、又(また)、人違(たが)へにや、とかく聞(き)こゆる御事(こと)共(ども)ぞ、いと口惜(くちを)しき。四辻の彦仁(ひこひと)の中将(ちゆうじやう)、忍(しの)びて参(まゐ)り給(たま)ひけるを、基顕(もとあき)の中将(ちゆうじやう)、彼(か)の〔御〕まねをして、又(また)参(まゐ)り加(くは)はりける程(ほど)に、あさましき御事(こと)さへ有(あ)りて、それ故(ゆゑ)隠(かく)れさせ給(たま)へるなど、ささめく人も侍(はべ)りけり。猶(なほ)さまでは有(あ)らじとぞ思(おも)ひ給(たま)ふれど、如何(いかが)有(あ)りけん。法皇は、又(また)文永七年神無月(かみなづき)の頃(ころ)、御手づから書(か)かせ給(たま)へる法華経一部、供養〔せ〕させ給(たま)ふ。御八講(はかう)、名高(だか)く才(ざえ)勝(すぐ)れて賢(かしこ)き僧共(ども)を召(め)したり。世(よ)の中(なか)の人残(のこ)り無(な)く仕(つかうまつ)る。新院予(かね)てより渡(わた)り給(たま)へり。然(さ)るべき御事(こと)とは申(まう)しながら、何(なに)に付(つ)けても、御心(おんこころ)ばへのうるはしくなつかしう御座(おは)しまして、院の思(おぼ)いたる筋(すぢ)の事(こと)は、必(かなら)ず同(おな)じ御心(おんこころ)に仕(つかうまつ)り、いささかも、いでやと打(う)ち思(おぼ)さるる一節(ひとふし)も無(な)く物(もの)し給(たま)ふを、法皇もいと美(うつく)しう忝(かたじけな)しと思(おぼ)されけり。第二日の夜に入(い)りて行幸もなる。五の巻の日の御捧物(ほうもつ)共(ども)参(まゐ)り集(つど)ふ。様々(さまざま)学(まね)び尽(つ)くし難(がた)し。内の御捧物(ほうもつ)は、紙屋紙(かみやがみ)に黄金(かね)を包(つつ)みて、柳箱(やないばこ)に据(す)ゑて、頭弁(とうのべん)ぞ持(も)ちたる。次(つぎ)に新院・女院達(たち)、宮々御方々(かたがた)、皆(みな)そなた様(ざま)の宮司(みやづかさ)・殿上人など持(も)て続(つづ)きたり。関白・大臣などは座につき給(たま)ふ。大中納言・参議・四位五位などは、自(みづか)らの捧物(ほうもつ)を持(も)ちて渡(わた)る。各(おのおの)心々(こころごころ)にいどみ尽(つ)くして、様々(さまざま)をかしき中(なか)に、兵部卿隆親は、糸鞋(しがい)をはきて、鳩(はと)の杖(つゑ)をつきて出(い)でたり。此(こ)の杖(つえ)をやがて捧物(ほうもつ)に
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となりけり。銀(しろかね)にてひた打(う)ちにして、先(さき)は黄金(こがね)なり。結願(けちぐわん)の日は、舞楽(ぶがく)などいみじく面白(おもしろ)くて過(す)ぎぬ。又(また)の年正月に、忍(しの)びて新院と御方(かた)分(わ)かちの事(こと)し給(たま)ふ。初(はじ)めは法皇御負(ま)けなれば、御勝(か)ちむかひに、上達部皆(みな)五節(ごせち)のまねをして、色々(いろいろ)の衣あつづまにて、「思(おも)ひの津(つ)に船(ふね)の寄(よ)れかし」とはやして参(まゐ)る。新院引(ひ)き繕(つくろ)ひて渡(わた)り給(たま)ふ。御酒(みき)幾(いく)返(かへ)りと無(な)く聞(き)こし召(め)さる。一番(ひとつがひ)づつの御引出物、伊勢物語の心(こころ)とぞ聞(き)こえし。黄金(かね)の地盤(ぢばん)に、銀(しろかね)の伏籠(ふせご)に、焚(た)き物(もの)くゆらかして、「山(やま)は富士(ふじ)の嶺(ね)いつと無(な)く」と、又(また)、銀(しろかね)の船(ふね)に麝香(ざかう)の臍(へそ)にて、蓑(みの)着(き)たる男(をとこ)作(つく)りて、「いざ言(こと)問(と)はむ都鳥(みやこどり)」など、様々(さまざま)いと艶(なま)めかしくをかしくせられけり。態(わざ)とことごとしき様(さま)には有(あ)らざりけり。こたみは、新院よりこそねたみには、新院一年(ひととせ)人のまねをして、「梵王(ぼんなう)は頸(くび)にのる。杯(さかづき)は花(はな)にのる」とかやはやして、法皇の御迎(むか)ひに参(まゐ)る。上達部の大人(おとな)び給(たま)へるなどは、少(すこ)し軽々(きやうきやう)にや見(み)えけんと推(お)し量(はか)らる。此(こ)の度(たび)は、源氏(げんじ)の物語(ものがたり)の心(こころ)にや有(あ)りけむ、唐(から)めいたる箱(はこ)に、金剛子(こんがうし)の数珠(ずず)入(い)れて、五葉の枝に付(つ)けたり。又(また)、斎院よりの黒方(くろばう)、梅の散(ち)り過(す)ぎたる枝に付(つ)けなど、是(これ)もいとささやかなる事(こと)共(ども)になむ有(あ)りける。男(をとこ)・女房、乱(みだ)りがはしく強(し)ひ交(か)はして、御琴(こと)共(ども)召(め)して、拍子(ひやうし)打(う)ち鳴(な)らしなどして明(あ)けぬ。斯様(かやう)の事(こと)にのみ心遣(や)りて明(あ)かし暮(く)らさせ給(たま)ふ程(ほど)に、又(また)の年(とし)の秋になりぬ。東二条院、日頃(ひごろ)只(ただ)にも御座(おは)しまさざりつる、其(そ)の気色有(あ)りとて、世(よ)の中(なか)騒(さわ)ぐ。
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院の内(うち)にてせさせ給(たま)へば、いよいよ人参(まゐ)り集(つど)ふ。大法(だいほふ)・秘法(ひほふ)、残(のこ)り無(な)く行(おこな)はる。七仏薬師・五壇(ごだん)の御修法(みしゆほふ)・普賢延命(ふげんえんめい)・金剛童子(こんがうどうじ)・如法(によほふ)愛染(あいぜん)など、すべて数(かず)知(し)らず。御験者(げんじや)には、常住院(じやうぢゆうゐん)の僧正参(まゐ)り給(たま)ふ。八月二十日宵(よひ)の事(こと)なり。既(すで)にかと見(み)えさせ給(たま)ひつつも、二日・三日になりぬれば、ある限(かぎ)りの物(もの)覚(おぼ)ゆる人も無(な)し。いと苦(くる)しげにし給(たま)へば、仁和寺(にんわじ)の御室の、如法(によほふ)愛染(あいぜん)の大阿闍梨(だいあざり)にて候(さぶら)ひ給(たま)ふを、御枕上(まくらがみ)に近(ちか)く入(い)れ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、「いと弱(よわ)う見(み)え侍(はべ)るは、如何(いか)なるべきにか」と、院も添(そ)ひ御座(おは)しまして、扱(あつか)ひ聞(き)こえ給(たま)ふ様(さま)、おろかならねば、哀(あは)れと見奉(たてまつ)り給(たま)ひて、「さりとも、けしうは御座(おは)しまさじ。定業(ぢやうごふ)の亦能転(やくのうてん)は、菩薩(ぼさつ)の誓(ちか)ひなり。今更(いまさら)妄語(まうご)有(あ)らじ」とて、御心(おんこころ)を致(いた)して念(ねん)じ給(たま)ふに、験者の僧正も「一持(いちぢ)秘密(ひみつ)」とて、数珠(ずず)押(お)し揉(も)みたる程(ほど)、げに頼(たの)もしく聞(き)こゆ。御誦経(ずきやう)の物(もの)共(ども)、運(はこ)び出(い)で、女房の衣など、こちたきまで押(お)し出(い)だせば、奉行(ぶぎやう)取(と)りて、殿上人、北面の上下、あかれあかれに分(わ)かち遣(つか)はす。そこらの上達部は、階(はし)の間の左右(さう)に着(つ)きて、王子誕生(たんじやう)を待(ま)つ気色なり。陰陽師(おんやうじ)・巫女(かんなぎ)立(た)ちこみて、千度(せんたび)の御祓(はら)ひ勤(つと)む。御随身(みずいじん)・北面の下臈(げらふ)などは、神馬(じんめ)をぞ引(ひ)くめる。院拝(はい)し給(たま)ひて、二十一社に奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。すべて上下・内外罵(ののし)り満(み)ちたるに、御気色只(ただ)弱(よわ)りに弱(よわ)らせ給(たま)へば、今(いま)一入(ひとしほ)心(こころ)惑(まど)ひして、さと時雨(しぐ)れ渡(わた)る袖の上(うへ)とも、いとゆゆし。院もかき暗(くら)し悲(かな)しく思(おぼ)されて、御心(おんこころ)の内(うち)には、石清水(いはしみづ)の方(かた)を念じ給(たま)ひつつ、御手をとらへて泣(な)き給(たま)ふに、候(さぶら)ふ限(かぎ)りの人、皆(みな)え心(こころ)強(づよ)から
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ず。いみじき願共(ども)〔を〕立(た)てさせ給(たま)ふ験(しるし)にや、七仏の阿闍梨(あざり)参(まゐ)りて、「見者(けんじや)歓喜(くわんぎ)」と打(う)ち上(あ)げたる程(ほど)に、辛(から)うじて生(う)まれ給(たま)ひぬ。何(なに)と言(い)ふ事(こと)も聞(き)こえぬは、姫宮(ひめみや)なりけりと、いと口惜(くちを)しけれど、むげに無(な)き人と見(み)え給(たま)へるに、平(たひ)らかに御座(おは)するを喜(よろこ)びにて、如何(いかが)はせむと思(おぼ)し慰(なぐさ)む。人々(ひとびと)の禄(ろく)など常(つね)の如(ごと)し。法皇も、中々、いたはしく止(や)む事(ごと)無(な)き事(こと)に思(おぼ)して、いみじく持(も)てはやし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。いでやと口惜(くちを)しく思(おも)へる人々(ひとびと)多(おほ)かり。斯(か)かるにしも、実雄(さねを)の大臣(おとど)の御宿世(しゆくせ)現(あらは)れて、片(かた)つ方(かた)には、心(こころ)落(お)ち居(ゐ)給(たま)ふも、世(よ)の習(なら)ひなれば、理(ことわり)なるべし。五夜・七夜など、殊(こと)に花(はな)やかなる事(こと)共(ども)にて、過(す)ぎもて行(ゆ)く。其(そ)の頃(ころ)ほひより、法皇時々御悩(なや)み有(あ)り。世(よ)の大事(だいじ)なれば、御修法(みしゆほふ)共(ども)いかめしく始(はじ)まる。何(なに)くれと騒(さわ)ぎ合(あ)ひたれど、怠(おこた)らせ給(たま)はで、年(とし)も返(かへ)りぬ。正月(むつき)の始(はじ)めも、院の内(うち)かいしめりて、いみじく物(もの)思(おも)ひ歎(なげ)きあへり。十七日、亀山(かめやま)殿(どの)へ御幸なる。是(これ)や限(かぎ)りと、上下心(こころ)細(ぼそ)し。法皇も御輿(こし)なり。両女院は例の一(ひと)つ御車に奉(たてまつ)る。尻(しり)に御匣(みくしげ)殿(どの)候(さぶら)ひ給(たま)ふ。道にて参(まゐ)るべき御煎(せん)じ物(もの)を、胤成(たねなり)・師成(もろなり)と言(い)ふ医師(くすし)共(ども)、御前にてしたためて、銀(しろかね)の水瓶(みづがめ)に入(い)れて、隆良(たかよし)の中納言承(うけたまは)りて、北面の信友(のぶとも)と言(い)ふに持(も)たせたりけるを、内野の程(ほど)にて、参(まゐ)らせんとて召(め)したるに、此(こ)の瓶(かめ)に露程(ほど)も無(な)し。いと珍(めづら)かなる業(わざ)なり。さ程(ほど)の大事(だいじ)の物(もの)を、悪(あ)しく持(も)ちて、打(う)ちこぼすやうは、如何(いか)でか有(あ)らん。法皇も、いとど御臆病(おくびやう)そひて、
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心(こころ)細(ぼそ)く思(おぼ)されけり。新院は、大井川(おほゐがは)の方に御座(おは)しまして、隙(ひま)無(な)く、男(をとこ)・女房、上下と無(な)く、「今(いま)の程(ほど)如何(いか)に如何(いか)に」と聞(き)こえさせ給(たま)ふ御(おん)使(つか)ひの、行き帰(かへ)る程(ほど)を、猶(なほ)いぶせがらせ給(たま)ふに、正月(むつき)も立(た)ちぬ。いかさまに御座(おは)しますべきにかと、誰(たれ)も誰(たれ)も思(おぼ)し惑ふ事限(かぎ)り無(な)し。予(かね)てより、斯様(かやう)の為(ため)と思(おぼ)しおきてける寿量院へ、二月七日渡(わた)り給(たま)ふ。此処(ここ)へは、おぼろけの人は参(まゐ)らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて、法(のり)の道ならでは宣(のたま)ふ事(こと)も無(な)し。六波羅(ろくはら)北南、御訪(とぶら)ひに参(まゐ)れり。西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)実兼(さねかぬ)、例の奏し給(たま)ふ。十一日、行幸有(あ)り。中(なか)一日渡(わた)らせ給(たま)へば、泣(な)く泣(な)く万(よろづ)の事(こと)を聞(き)こえ置(お)かせ給(たま)ふ。新院も御対面(たいめん)有(あ)り。御門は、御本上(ほんじやう)いと花やかに賢(かしこ)く、御才(ざへ)なども昔(むかし)に恥(は)ぢず、何事(なにごと)も整(ととの)ほりてめでたく御座(おは)します。世(よ)を治(をさ)めさせ給(たま)はん事(こと)も、後(うし)ろめたからず思(おぼ)せば、聞(き)こえ給(たま)ふ筋(すぢ)異(こと)なるべし。十七日の朝(あした)より、御気色変(か)はるとて、善智識(ぜんぢしき)召(め)さる。経海(けいかい)僧正・往生院(わうじやうゐん)の聖(ひじり)など参(まゐ)りて、ゆゆしき事(こと)共(ども)聞(き)こえ知(し)らつべし。遂(つひ)に、其(そ)の日の酉(とり)の時(とき)に、御年(おんとし)五十三にて隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。後嵯峨院とぞ申(まう)すめる。今年(ことし)は文永九年なり。院の中(なか)くれふたがりて、闇(やみ)に迷(まよ)ふ心地(ここち)すべし。十八日に薬草院に送(おく)り奉(たてまつ)り給(たま)ふ。仁和寺(にんわじ)の御室・円満院・聖護院・菩堤院・梶青蓮院(しやうれんゐん)、皆(みな)御供(とも)仕(つかまつ)らせ給(たま)ふ。内より頭(とう)の中将(ちゆうじやう)、御(おん)使(つか)ひに参(まゐ)る。三十年が程(ほど)、世(よ)をしたためさせ給(たま)ひつるに、少(すこ)しの誤(あやま)り無(な)く、思(おぼ)す儘(まま)に、新院・
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御門・春宮、動(うご)き無(な)く、又(また)外(ほか)様(ざま)に分(わ)かるべき事(こと)も無(な)ければ、思(おぼ)し置(お)くべき一節(ひとふし)も無(な)し。無(な)き御跡(あと)まで、人の靡(なび)き仕(つかうまつ)れる様(さま)、来(き)し方(かた)も例(ためし)無(な)き程(ほど)なり。二十三日、御初七日に、大宮院御髪(みぐし)下(お)ろす。其(そ)の程(ほど)、いみじく悲(かな)しき事多(おほ)かり。天(あめ)の下(した)、押(お)しなべて黒(くろ)み渡(わた)りぬ。万(よろづ)しめやかに哀(あは)れなる世(よ)の気色に、心(こころ)有(あ)るも心(こころ)無(な)きも、涙催(もよほ)さぬは無(な)し。院・内の御歎(なげ)き〔は〕、然(さ)る事(こと)にて、朝夕(あさゆふ)睦(むつ)ましく仕(つかうまつ)りし人々(ひとびと)の、思(おも)ひ沈(しづ)みあへる様(さま)、理(ことわり)にも過(す)ぎたり。其(そ)の中(なか)に、経任の中納言は、人より殊(こと)に御覚(おぼ)え有(あ)りき。年も若(わか)からねば、定(さだ)めて頭(かしら)下(お)ろしなんと、皆人(みなひと)思(おも)へるに、なよらかなる狩衣(かりぎぬ)にて、御骨(こつ)の御壺(つぼ)持(も)ち参(まゐ)らせて参(まゐ)れるを、思(おも)ひの外(ほか)にもと、見る人思(おも)へり。権中納言公雄と聞(き)こゆる〔は〕、皇后宮の御兄(せうと)なり。早(はや)うより、故(こ)院いみじくらうたがらせ給(たま)ひて、夜(よる)昼(ひる)御傍(かたは)ら去(さ)らず候(さぶら)ひて、明(あ)け暮(く)れ仕(つかうまつ)られ給(たま)ひしかば、限(かぎ)り有(あ)る道にも後(おく)らかし給(たま)へる事(こと)を、若(わか)き程(ほど)に、遣(や)る方(かた)無(な)く悲(かな)しと思(おも)ひ入(い)り給(たま)へり。西の対(たい)の前(まへ)なる紅梅の、いと美(うつく)しきを折りて、具氏(ともうぢ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)、彼(か)の中納言に消息(せうそこ)聞(き)こゆ。
梅の花春は春(はる)にも有(あ)らぬ世(よ)をいつと知(し)りてか咲(さ)き匂(にほ)ふらん W
返(かへ)し、
心(こころ)有(あ)らばころも浮(う)き世(よ)の梅の花折(をり)忘(わす)れずば匂(にほ)はざらまし W
「夜さり、対面(たいめん)に、何事(なにごと)も聞(き)こえん」と言(い)へるを、此(こ)の中将(ちゆうじやう)も、故(こ)院の御いとほしみの人にて、同(おな)じ心(こころ)
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なる友に覚(おぼ)えければ、いと哀(あは)れにて、悲(かな)しき事(こと)も語(かた)り合(あ)はせんと、日ぐらし待(ま)ち居(ゐ)たるに、遂(つひ)に見(み)えず。怪(あや)しと思(おも)ふに、はや其(そ)の夜頭(かしら)下(お)ろしてけり。齢(よはひ)も盛(さか)りに、今(いま)も皇后宮の御兄(せうと)、春宮の御伯父(をぢ)なれば、世の覚(おぼ)え劣(おと)るべくも有(あ)らず。思(おも)ひなしも頼(たの)もしく、誇(ほこ)りかなるべき身にて、かく捨(す)て果(は)つる程(ほど)、いみじく哀(あは)れなれば、皆人(みなひと)、いとほしく悲(かな)しき事(こと)に言(い)ひあつかふめり。経任の中納言にはこよなき心ばへにや。父(ちち)大臣(おとど)も、院の御事(こと)を尽(つ)きせず歎(なげ)き給(たま)ふに打(う)ち添(そ)へて、いみじと思(おぼ)す。公宗の中納言も、甲斐(かひ)無(な)き物(もの)思(おも)ひの積(つ)もりにや、はかなくなり給(たま)ひぬ。又(また)此(こ)の中納言さへかく物(もの)し給(たま)ひぬるを、様々(さまざま)に付(つ)けて心(こころ)細(ぼそ)く思(おぼ)すに、幾(いく)程(ほど)無(な)く皇后宮さへ又(また)失(う)せ給(たま)ひぬ。いよいよ臥(ふ)し沈(しづ)みてのみ御座(おは)する程(ほど)に、いと弱(よわ)う成(な)り増(ま)さり給(たま)ふ。春宮の御代をもえ待(ま)ち出(い)づまじきなめりと、哀(あは)れに心(こころ)細(ぼそ)う思(おぼ)し続(つづ)けて、
はかなくもおふの浦(うら)なし君が代にならばと身をも頼(たの)みけるかな W
歎(なげ)きにたへず、遂(つひ)に失(う)せ給(たま)ひにけり。物(もの)思(おも)ふには、げに命も尽(つ)くる業(わざ)なりけり。哀(あは)れに悲(かな)しと言(い)ひつつも、止(と)まらぬ月日(つきひ)なれば、故(こ)院の御日数(ひかず)も程(ほど)なう過(す)ぎ給(たま)ひぬ。世(よ)の中(なか)〔は〕、新院かくて御座(おは)しませば、法皇の御代(か)はりに引(ひ)きうつして、さぞ有(あ)らんと世(よ)の人(ひと)も思(おも)ひ聞(き)こえけるに、当代(たうだい)〔の〕御一(ひと)つ筋(すぢ)にて有(あ)るべき様(さま)の御掟(おきて)なりけり。長講堂領(ちやうがうだうりやう)、又(また)播磨(はりま)の国、尾張(をはり)
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の熱田(あつた)の社などをぞ、御処分(そぶん)有(あ)りける。いづれの年なりしにか、新院、六条殿に渡(わた)らせ給(たま)ひし頃(ころ)、祇園(ぎをん)の神輿互(たが)ひの行幸有(あ)りし時(とき)、御対面(たいめん)のやうを、故(こ)院へ尋(たづ)ね申(まう)されたりしにも、「我(われ)とひとしかるべき御事(こと)なれば、朝覲(てうきん)になぞらへらるべし」と申(まう)されける。一(ひと)つ腹(はら)の御兄(このかみ)にても御座(おは)します。方々(かたがた)理(ことわり)なるべき世(よ)を、思(おも)ひの外(ほか)にもと、思(おも)ふ人々(ひとびと)も多(おほ)かるべし。「いでや位に御座(おは)しますにつきて、差(さ)しあたりの御政(まつりごと)などは理(ことわり)なり。新院にも若宮(わかみや)御座(おは)しませば、行(ゆ)く末(すゑ)の一節(ひとふし)は、などかは」など、言(い)ひしろふ。かかれば、いつしか、院方(がた)・内方(がた)と、人の心々(こころごころ)も引(ひ)き別(わか)るるやうに、うちつけ事(ごと)共(ども)出(い)で来(き)けり。人一人(ひとり)御座(おは)しまさぬあとは、いみじき物(もの)にぞ有(あ)りける。朝(てう)の御守(まぼ)りとて、田村の将軍より伝(つた)はり〔参(まゐ)り〕ける御佩刀(はかし)などをも、彼(か)の御気色のしか御座(おは)しましけるにや、御隠(かく)れの後(のち)、やがて内裏へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひにしかば、それなどをぞ、女院〔の〕恨(うら)めしき御事(こと)には、院も思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひける。さてしもやはなれば、此(こ)の由(よし)をも関の東(ひがし)へぞ宣(のたま)ひ遣(つか)はしける。内には、花山院(くわさんゐん)の太政大臣(おほきおとど)、後院(ごゐん)の別当になされて、世(よ)の中(なか)も自(みづか)らしたためさせ給(たま)ふ。もとよりいと花やかに、今(いま)めかしき所(ところ)御座(おは)する君にて、万(よろづ)かどかどしうなん。皇后宮隠(かく)れさせ給(たま)ひにし後は、尽(つ)きせぬ御歎(なげ)きさめ難(がた)うて、所(ところ)狭(せ)き御有様(おんありさま)もよだけう、如何(いか)で本意(ほい)をも遂(と)げてばやなどまで思(おぼ)されけり。故(こ)院の御果(は)ても過(す)ぎさせ給(たま)へば、世(よ)の中(なか)、色(いろ)改(あらた)まりて、花やかに、
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人々(ひとびと)の御歎(なげ)きの色も薄(うす)らぎ行(ゆ)くしも、哀(あは)れなる習(なら)ひなりかし。其(そ)の夏、春宮例にも御座(おは)しまさで日頃(ひごろ)ふれば、内の上(うへ)、御胸(むね)つぶれて、御修法(みしゆほふ)や何(なに)やと騒(さわ)がせ給(たま)ふ。和気(わけ)・丹波(たんば)の医師(くすし)〈 氏成・春成(はるなり)、 〉共(ども)、夜(よる)昼(ひる)候(さぶら)ひて、御薬(くすり)の事(こと)、色々(いろいろ)に仕(つかうまつ)れど、只(ただ)同(おな)じ様(さま)にのみ御座(おは)す。如何(いか)なるべき御事(こと)にかと、いとあさましうて、上(うへ)も、つと此(こ)の御方に渡(わた)らせ給(たま)ひて見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、御目(め)の内(うち)、大方(おほかた)、御身の色なども、事(こと)の外(ほか)に黄に見(み)えければ、いと怪(あや)しうて、御大壺(つぼ)を召(め)し寄(よ)せて御覧ぜらる。紙(かみ)をひたして見(み)せらるるに、いみじう濃(こ)く出(い)でたる黄皮(きはだ)の色なり。いとあさましく、などかばかりの事(こと)を知(し)り聞(き)こえざらんとて、御気色あしければ、医師(くすし)共(ども)、いたう畏(かしこ)まり、色を失(うしな)ふ。かばかりになりては、御灸(きう)無(な)くては、まがまがしき事(こと)出(い)で来(く)べきと、各(おのおの)驚(おどろ)き騒(さわ)ぐ。未(いま)だ例無(な)き事(こと)は、如何(いかが)有(あ)るべきと、定(さだ)め兼(か)ねらる。位にては、只(ただ)一度(ひとたび)例(ためし)有(あ)りけり。春宮にては、未(いま)だ然(さ)る例無(な)かりけれど、如何(いかが)はせむとて、思(おぼ)し定(さだ)む。七(なな)つにならせ給(たま)へば、さらでだに心(こころ)苦(ぐる)しき御程(ほど)なるに、まめやかにいみじと思(おぼ)す。医師(くすし)と大夫定実の君一人(ひとり)召(め)し入(い)れて、又(また)、人も参(まゐ)らず。御門(みかど)の御前(まへ)にて、五所ぞせさせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。御乳母(めのと)共(ども)、いと悲(かな)しと思(おも)ひて、いぶかしうすれど、をさをさ許(ゆる)させ給(たま)はず。宮いと熱(あつ)くむつかしう思(おぼ)せど、大夫につと抱(いだ)かれ給(たま)ひて、上(うへ)の御手をとらへ、万(よろづ)に慰(なぐさ)め聞(き)こえさせ給(たま)ふ御気色の、哀(あは)れに忝(かたじけな)さを、幼(をさな)き御心(おんこころ)に思(おぼ)し知(し)るにや、いとおとなしく念(ねん)じ給(たま)ふ。
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かくて後(のち)、程(ほど)無(な)く怠(おこた)らせ給(たま)ひぬれば、めでたく御心(おんこころ)落(お)ち居(ゐ)給(たま)ひぬ。大方(おほかた)、今年(ことし)は地震(なゐ)繁(しげ)くふり、世(よ)の中(なか)騒(さわ)がしきやうなれば、つつしみ思(おぼ)されて、十月十五日(じふごにち)より、円満院の二品親王(しんわう)、内〈 万里小路(までのこうじ)殿(どの) 〉に候(さぶら)ひ給(たま)ひて、尊星王(そんしやうわう)の御修法(みしゆほふ)勤(つと)め給(たま)ふに、二十日の宵(よひ)、二の対(たい)より火出(い)で来(き)たり。あさましとも言(い)はむ方(かた)無(な)し。上下立(た)ち騒(さわ)ぎ罵(ののし)る様(さま)、思(おも)ひ遣(や)るべし。大宮院も内々御座(おは)しましける頃(ころ)にて、急(いそ)ぎ出(い)でさせ給(たま)ふ。御車の棟木(むねき)にも、既(すで)に火燃(も)え尽(つ)きけるを、又(また)差(さ)し寄(よ)せて、春宮奉(たてまつ)りけり。其(そ)の夜しも、勾当(こうたう)の内侍(ないし)里(さと)へ出(い)でたりければ、御塗籠(ぬりごめ)の鍵(かぎ)をさへ求(もと)め失(うしな)ひて、いみじき大事(だいじ)なりけるを、上(うへ)聞(き)こし召(め)して、荒(あら)らかに踏(ふ)ませ給(たま)ひたりければ、さばかり強(つよ)き戸の、まろびて開(あ)きたりけるぞ恐(おそ)ろしき。さ無(な)くば、いとゆゆしき事(こと)〔共(ども)〕ぞ有(あ)るべかりける。故(こ)院の御処分(そうぶん)の入(い)りたる御小唐櫃(こからびつ)、何(なに)くれの御宝(たから)、事(こと)故(ゆゑ)無(な)く取(と)り出(い)だされぬ。それだにも、余(あま)り騒(さわ)ぎて、御勘文(かもん)・御産衣(うぶぎぬ)などの入(い)りたる物(もの)は焼(や)けにけり。上(うへ)は、腰輿(えうよ)にて、押小路(おしこうぢ)殿(どの)へ行幸なりぬ。法親王は、「修法(しゆほふ)の強(つよ)き故(ゆゑ)に、斯(か)かる事(こと)は有(あ)るなり」とぞ宣(のたま)はせける。此(こ)の四月に、御わたまし有(あ)りつるに、幾(いく)程(ほど)なく斯(か)かるは、げにいみじき業(わざ)なれど、昔(むかし)も、三条院、位の御時(とき)かとよ、大内造(つく)り立(た)てられて、御わたましの夜こそ、やがて火出(い)で来(き)て焼(や)けにし事(こと)もあれば、是(これ)より重(おも)き大事(だいじ)も有(あ)るべかりけるに、変(か)はりたらんは如何(いかが)はせん。かくて今年(ことし)も暮(く)れぬ。上(うへ)は、いよいよ世(よ)の中(なか)の〔心(こころ)〕あわたたしう思(おぼ)されて、降(お)り居(ゐ)
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なんの御心(おんこころ)遣(づか)ひすめり。位に御座(おは)しましては、十五年ばかりにやなりぬらん。未(いま)だ三十(みそぢ)にも遙(はる)かに足(た)らぬ程(ほど)の御齢(おんよはひ)なれば、今(いま)ぞ盛(さか)りに、若(わか)う清(きよ)らなる御程(ほど)なめる。




第九 草枕(くさまくら)

文永十一年正月二十六日、春宮に位譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ふ。二十五日の夜、先(ま)づ、内侍所(ないしどころ)・剣璽(けんじ)引(ひ)き具(ぐ)して、押小路殿へ行幸(ぎやうがう)なりて、又(また)の日、ことさらに二条内裏へ渡(わた)されけり。九条(くでう)の摂政殿〈 忠家 〉参(まゐ)り給(たま)ひて、蔵人召(め)して、禁色(きんじき)仰(おほ)せらる。上(うへ)は八(や)つにならせ給(たま)へば、いと小(ちひ)さく美(うつく)しげにて、びづらゆひて、御引直衣(ひきなほし)・打御衣(うちおんぞ)・はり袴(ばかま)奉(たてまつ)れる御気色、おとなおとなしうめでたく御座(おは)するを、花山院(くわさんゐん)の内大臣、扶持(ふち)し申(まう)さるるを、故(こ)皇后の御兄(せうと)公守(きんもり)の君などは、哀(あは)れに見給(たま)ひつつ、故(こ)大臣(おとど)・宮などの御座(おは)せましかばと思(おぼ)し出(い)づ。殿上に人々(ひとびと)多(おほ)く参(まゐ)り集(あつ)まりて、御膳(ぜん)参(まゐ)る。其(そ)の後上達部の拝(はい)有(あ)り。女房は朝餉(あさがれひ)より行末(ゆくすゑ)まで、内大臣公親の娘(むすめ)を始(はじ)めにて、三十余人(よにん)並(な)み居(ゐ)たり。いづれと無(な)くとりどりにきよげなり。二十八日よりぞ、内侍所(ないしどころ)の御拝(はい)始(はじ)められける。かくて新院、二月七日行幸(ぎやうがう)始(はじ)めせさせ給(たま)ふ。大宮院の御座(おは)します中御門(なかみかど)京極(きやうごく)実俊(さねとし)の中将(ちゆうじやう)の家へなる。御直衣(なほし)、唐庇(からびさし)の御車、上達部・殿上人残(のこ)り無(な)く、上(うへ)の衣(きぬ)にて仕(つかうまつ)る。同(おな)じ十日、やがて菊(きく)の網代庇(あじろびさし)
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の御車奉(たてまつ)り始(はじ)む。此(こ)の度(たび)は、御烏帽子(えぼし)・直衣(なほし)、院へ参(まゐ)り給(たま)ふ。同二十日、布衣の御幸始(はじ)め、北白河殿へ入(い)らせ給(たま)ふ。八葉の御車、萌黄(もえぎ)の御狩衣(かりぎぬ)・山吹(やまぶき)の二(ふた)つ御衣(おんぞ)・紅の御単(ひとへ)・薄色(うすいろ)の織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)奉(たてまつ)る。本院は、故(こ)院の御第三年の事思(おぼ)し入(い)りて、正月(むつき)の末(すゑ)つ方(かた)より、六条殿の長講堂にて、哀(あは)れに尊(たふと)く行(おこな)はせ給(たま)ふ。御指(ゆび)の血(ち)を出(い)だして、御手づから法華経など書(か)かせ給(たま)ふ。僧衆も十余人(よにん)が程(ほど)召(め)し置(お)きて、懺法(せんぼふ)など読(よ)ませらる。御掟(おきて)の思(おも)はずなりしつらさをも、思(おぼ)し知(し)らぬには有(あ)らねど、それも然(さ)るべきにこそは有(あ)らめと、いよいよ御心(おんこころ)を致(いた)して、懇(ねんご)ろに孝(けう)じ申(まう)させ給(たま)ふ様(さま)、いと哀(あは)れ也(なり)。新院もいかめしう御仏事(ぶつじ)嵯峨(さが)殿(どの)にて行(おこな)はる。三月二十六日は御即位(そくゐ)、めでたくて過(す)ぎもて行(ゆ)く。十月二十二日御禊なり。十九日より官(くわん)の庁へ行幸(ぎやうがう)有(あ)り。女御代、花山院(くわさんゐん)より出(い)ださる。糸毛(いとげ)の車、寝殿(しんでん)の階(はし)の間(ま)に、左大臣殿・大納言(だいなごん)長雅寄(よ)せらる。みな紅のX五衣、同(おな)じ単(ひとへ)、車の尻(しり)より出(い)ださる。十一月十九日、又官(くわん)の庁へ行幸(ぎやうがう)、二十日より五節(ごせち)始(はじ)まるべく聞(き)こえしを、蒙古(むくり)起(お)こるとて止(と)まりぬ。二十二日、大嘗会(だいじやうゑ)、廻立殿(くわいりふでん)の行幸(ぎやうがう)、節会ばかり行(おこな)はれて、清暑堂の御神楽も無(な)し。新院は、世(よ)を知(し)ろし召(め)す事変(か)はらねば、万(よろづ)御心(おんこころ)の儘(まま)に、日頃(ひごろ)ゆかしく思(おぼ)し召(め)されし所々(ところどころ)、いつしか御幸繁(しげ)う、花(はな)やかにて過(す)ぐさせ給(たま)ふ。いと有(あ)らまほしげなり。本院は、猶(なほ)いと怪(あや)しかりける御身の宿世(すくせ)を、人の思(おも)ふらん事(こと)もすさまじう思(おぼ)し結(むす)ぼほれて、世(よ)を背(そむ)かんの設(まう)けにて、
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尊号をも返(かへ)し奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、兵仗(ひやうぢやう)をも止(とど)めて、御随身(みずいじん)共(ども)召(め)して、禄かけ、暇(いとま)賜(たま)はる、いと心(こころ)細(ぼそ)しと思(おも)ひあへり。大方(おほかた)の有様(ありさま)、打(う)ち思(おも)ひめぐらすもいと忍(しの)び難(がた)き事多(おほ)くて、内外、人々(ひとびと)、袖共(ども)うるひ渡(わた)る。院もいと哀(あは)れなる御気色にて、心強(づよ)からず。今年(ことし)三十三にて御座(おは)します。故(こ)院の、四十九にて御髪(みぐし)下(お)ろし給(たま)ひしをだに、さこそは誰(たれ)も誰(たれ)も惜(を)しみ聞(き)こえしか。東(ひんがし)の御方(かた)も、後(おく)れ聞(き)こえじと御心(おんこころ)遣(づか)ひし給(たま)ふ。さならぬ女房・上達部の中(なか)にも、とりわき睦(むつ)ましう仕(つかまつ)る人、三、四人(さんよにん)ばかり、御供(とも)仕(つかまつ)るべき用意(ようい)すめれば、程々(ほどほど)に付(つ)けて、私(わたくし)も物(もの)心(ごころ)細(ぼそ)う思(おも)ひ歎(なげ)く家々(いへいへ)有(あ)るべし。斯(か)かる事(こと)共(ども)、東(あづま)にも驚(おどろ)き聞(き)こえて、例の陣の定(さだ)めなどやうに、此(これ)彼(かれ)数多(あまた)、東(あづま)の武士共(ども)、寄(よ)り合(あ)ひ寄(よ)り合(あ)ひ評定しけり。此(こ)の頃は、有(あ)りし時頼の朝臣の子、時宗、X相模守と言(い)ふぞ、世(よ)の中(なか)計(はか)らふ主(ぬし)なりける。故(こ)時頼の朝臣は、康元元年(ぐわんねん)に頭(かしら)下(お)ろして後、忍(しの)びて諸国(しよこく)を修行(しゆぎやう)し歩(あり)きけり。それも国々の有様(ありさま)、人の愁(うれ)へなど、詳(くは)しくあなぐり見(み)聞(き)かんの謀(はかりこと)にて有(あ)りける。怪(あや)しの宿(やど)りに立(た)ち寄(よ)りては、其(そ)の家主(いへぬし)が有様(ありさま)を問(と)ひ聞(き)き、理(ことわり)ある愁(うれ)へなどの埋(うづ)もれたるを聞(き)き開(ひら)きては、「我(われ)は怪(あや)しき身なれど、昔(むかし)、よろしき主(しゆう)を、持(も)ち奉(たてまつ)りし、未(いま)だ世(よ)にや御座(おは)すると、消息(せうそこ)奉(たてまつ)らん。持(も)て詣(まう)でて聞(き)こえ給(たま)へ」など言(い)へば、「なでう事(こと)無(な)き修行者(しゆぎやうじや)の、何(なに)ばかりかは」と思(おも)ひながら、言(い)ひ合(あ)はせて、其(そ)の文を持(も)ちて東(あづま)へ行(ゆ)きて、しかじかと教(をし)へし儘(まま)に言(い)ひて見(み)れ
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ば、入道殿(どの)の御消息(せうそこ)なりけり。「あなかまあなかま」とて、長(なが)く愁(うれ)へ無(な)きやうに、計(はか)らひつ。仏神〔など〕の現(あら)はれ給(たま)へるかとて、皆(みな)額(ぬか)をつきて喜(よろこ)びけり。斯様(かやう)の事(こと)、すべて数(かず)知(し)らず有(あ)りし程(ほど)に、国々(くにぐに)も心(こころ)遣(づか)ひをのみしけり。最明寺の入道とぞ言(い)ひける。それが子なればにや、〔今(いま)の〕時宗の朝臣もいとめでたき者(もの)にて、「本院のかく世(よ)を思(おぼ)し捨(す)てんずる、いと忝(かたじけな)く哀(あは)れなる御事(こと)なり。故(こ)院の御掟(おきて)は、やうこそ有(あ)らめなれど、そこらの御兄(このかみ)にて、させる御誤(あやまり)も御座(おは)しまさざらん、如何(いか)でかは、忽(たちま)ちに、名残(なごり)無(な)くは物(もの)し給(たま)ふべき。いと怠々(たいだい)しき業(わざ)なり)とて、新院へも奏(そう)し、彼方(かなた)此方(こなた)宥(なだ)め申(まう)して、東(ひんがし)の御方(かた)の若宮(わかみや)〈 伏見院 〉を坊に奉(たてまつ)りぬ。十月五日、節会(せちゑ)行(おこな)はれて、いとめでたし。かかれば、少(すこ)し御心(おんこころ)慰(なぐさ)めて、此(こ)の際(きは)は、強(し)ひて背(そむ)かせ給(たま)ふべき御道心(だうしん)にも有(あ)らねば、思(おぼ)し止(と)まりぬ。是(これ)ぞ有(あ)るべき事(こと)と、あいなう世(よ)の人(ひと)も思(おも)ひ言(い)ふべし。御門(みかど)よりは、今(いま)二(ふた)つばかりの御兄(このかみ)なり。儲(まう)けの君、御年(おんとし)勝(まさ)れる例(ためし)、遠(とほ)き昔(むかし)はさて置(お)きぬ、近頃(ちかごろ)は三条院・小一条院・高倉院(たかくらのゐん)などや御座(おは)しましけん。高倉院の御末(すゑ)ぞ今(いま)もかく栄(さか)えさせ御座(おは)しませば、賢(かしこ)き例(ためし)なめり。古(いにしへ)の天智天皇と天武天皇とは、同(おな)じ御腹(おんはら)の御はらからなり。其(そ)の御末(すゑ)、しばしは、打(う)ち変(か)はり打(う)ち変(か)はり世(よ)を知(し)ろし召(め)しし例(ためし)などをも、思(おも)ひや出(い)でけむ。御二流(ふたなが)れにて、位にも御座(おは)しまさなむと思(おも)ひ申(まう)しけり。新院は、御心(おんこころ)行(ゆ)くとしも無(な)くや有(あ)りけめど、大方の人目(ひとめ)に
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は、御中(なか)いとよくなりて、御消息(せうそこ)も常(つね)に通(かよ)ひ、上達部(かんだちめ)なども、彼方(かなた)此方(こなた)参(まゐ)り仕(つかまつ)れば、大宮院も目(め)安(やす)く思(おぼ)さるべし。誠(まこと)や、文永の初(はじ)めつ方(かた)下(くだ)り給(たま)ひし斎宮は、後嵯峨院の更衣腹(かういばら)の宮ぞかし。院隠(かく)れさせ給(たま)ひて後、御服(ぶく)にて降(お)り給(たま)へれど、猶(なほ)御暇(いとま)許(ゆ)りざりければ、三年(みとせ)まで伊勢に御座(おは)しまししが、此(こ)の秋の末(すゑ)つ方(かた)御上(のぼ)りにて、仁和寺(にんわじ)に衣笠(きぬがさ)と言(い)ふ所に住(す)み給(たま)ふ。月花門院の御次(つぎ)には、いと尊(たふと)く思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)へりし昔(むかし)の御心(おんこころ)掟(おきて)を、哀(あは)れに思(おぼ)し出(い)でて、大宮院、いと懇(ねんご)ろに訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。亀山殿に御座(おは)します。十月ばかり、斎宮をも渡(わた)し奉(たてまつ)り給(たま)はんとて、本院をも入(い)らせ給(たま)ふべき由(よし)御消息(せうそこ)あれば、珍(めづら)しくて御幸有(あ)り。其(そ)の夜は、女院の御前にて、昔(むかし)今(いま)の物語(ものがたり)など、のどやかに聞(き)こえ給(たま)ふ。又(また)の日夕(ゆふ)づけて、衣笠殿へ御迎(むかへ)に、忍(しの)びたる様(さま)にて、殿上人一二人、御車二(ふた)つばかり奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。寝殿(しんでん)の南面(みなみおもて)に、御褥(しとね)共(ども)引(ひ)き繕(つくろ)ひて、御対面(たいめん)有(あ)り。とばかりして、院の御方(かた)へ御消息(せうそこ)聞(き)こえ給(たま)へれば、やがて渡(わた)り給(たま)ふ。女房に、御佩刀(はかし)持(も)たせて、御簾(みす)の内(うち)に入(い)り給(たま)ふ。女院は香(かう)の薄(うす)にほひの御衣(ころも)、香染(かうぞ)めなど奉(たてまつ)れば、斎宮、紅梅(こうばい)の匂(にほ)ひに、葡萄染(えびぞ)めの御小袿(こうちき)なり。御髪(みぐし)いとめでたく盛(さか)りにて二十に一、二(ふた)つや余(あま)り給(たま)ふらんと見(み)ゆ。花(はな)と言(い)はば、霞(かすみ)の間(ま)の樺桜(かばざくら)〔も〕、猶(なほ)匂(にほ)ひ劣(おと)りぬべく、言(い)ひ知(し)らずあてに美(うつく)しう、あたりも薫(かを)る御様(さま)して、珍(めづら)かに見(み)えさせ給(たま)ふ。
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院は、われもかう乱(みだ)れ織(お)りたる枯野の御狩衣(かりぎぬ)、薄色(うすいろ)の御衣(おんぞ)、紫苑色(しをんいろ)の御指貫(さしぬき)、なつかしき程(ほど)なるを、いたくたきしめて、えならず薫(かを)り満(み)ちて渡(わた)り給(たま)へり。上臈(じやうらふ)だつ女房、紫(むらさき)の匂(にほ)ひ五(いつ)つに、裳(も)ばかり引(ひ)き掛(か)けて、宮の御車に参(まゐ)り給(たま)へり。神世(よ)の御物語(おんものがたり)など良(よ)き程(ほど)にて、故(こ)院の今(いま)はの頃(ころ)の御事(こと)など、哀(あは)れに懐(なつ)かしく聞(き)こえ給(たま)へば、御いらへも慎(つつ)ましげなる物(もの)から、〔いぶせからぬ程(ほど)に、ほのかに物(もの)打(う)ち宣(のたま)へる御様(さま)なども、〕いとらうたげなり。をかしき様(さま)なる御酒(みき)・御果物(くだもの)・強飯(こはいひ)などにて今宵(こよひ)は果(は)てぬ。院も我(わ)が御方(かた)に帰(かへ)りて、打(う)ちやすませ給(たま)へれど、微睡(まどろ)まれ給(たま)はず。有(あ)りつる御面影(おもかげ)、心(こころ)に懸(か)かりて覚(おぼ)え給(たま)ふぞいとわりなき。「差(さ)しはへて聞(き)こえんも、人聞(ぎ)きよろしかるまじ。如何(いかが)はせん」と思(おぼ)し乱(みだ)る。御はらからと言(い)へど、年月(としつき)余所(よそ)にて生(お)ひ立(た)ち給(たま)へれば、うとうとしく習(なら)ひ給(たま)へる儘(まま)に、慎(つつ)ましき御思(おも)ひも薄(うす)くや有(あ)りけん、猶(なほ)ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜(くちを)しと思(おぼ)す。けしからぬ御本性(ごほんじやう)なりや。某(なにがし)の大納言(だいなごん)の娘(むすめ)、御身近(ちか)く召(め)し使(つか)ふ人、彼(か)の斎宮にも、然(さ)るべき縁(ゆかり)有(あ)りて睦(むつ)ましく参(まゐ)りなるるを、召(め)し寄(よ)せて、「馴(な)れ馴(な)れしきまでは思(おも)ひ寄(よ)らず。只(ただ)少(すこ)しけ近(ぢか)き程(ほど)にて、思(おも)ふ心(こころ)の片端(かたはし)を聞(き)こえん。かく折(をり)良(よ)き事(こと)もいと難(かた)かるべし」と切(せち)にまめだちて宣(のたま)へば、如何(いかが)たばかりけむ、夢うつつとも無(な)く近(ちか)づき聞(き)こえ給(たま)へれば、いと心(こころ)憂(う)しと思(おぼ)せど、あえかに消(き)え惑(まど)ひなどはし給(たま)はず。らうたくなよなよとして、哀(あは)れなる御けはひなり。鳥もしばしば驚(おどろ)かすに、心(こころ)あわたたしう、
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さすがに人の御名(な)のいとほしければ、夜深(ぶか)く紛(まぎ)れいで給(たま)ひぬ。日たくる程(ほど)に大殿籠(おほとのごも)り起(お)きて、御文(ふみ)奉(たてまつ)り給(たま)ふ。うはべは、只(ただ)大方(おほかた)なるやうにて、「ならはぬ御旅寝(たびね)も如何(いか)に」などやうに、すくよかに見せて、中(なか)に小(ちひ)さく、
夢とだにさだかにも無(な)きかり臥(ぶ)しの草の枕(まくら)に露ぞこぼるる W
いとつれなき御気色の、聞(き)こえん方(かた)なさに」こそあめれ。悩(なや)ましとて、御覧(ごらん)じも入(い)れず。強(し)ひて聞(き)こえんもうたてあれば、「なだらかに持(も)てかくしてを、おこたらせ給(たま)へ」など、聞(き)こえしらすべし。さて御方々(かたがた)御台(みだい)など参(まゐ)りて、昼(ひる)つ方(かた)又御対面(たいめん)共(ども)有(あ)り。宮はいと恥(は)づかしうわりなく思(おぼ)されて、「如何(いか)で見(み)え奉(たてまつ)らんとすらん」と思(おぼ)し休(やす)らへど、女院などの御気色のいとなつかしさに、聞(き)こえかへ給(たま)ふべきやうも無(な)ければ、只(ただ)おほどかにて御座(おは)す。今日(けふ)は、院の御経営(けいめい)にて、善勝寺(ぜんしようじ)の大納言(だいなごん)隆顕、桧破子(ひわりご)やうの物(もの)、色々(いろいろ)にいと清(きよ)らに調(てう)じて参(まゐ)らせたり。三めぐりばかりは、各(おのおの)別(べち)に参(まゐ)る。其(そ)の後(のち)「余(あま)りあいなう侍れば忝(かたじけな)けれど、昔(むかし)様(ざま)に思(おぼ)しなずらへ、許(ゆる)させ給(たま)ひてんや」と、御気色(けしき)とり給(たま)へば、女院の御土器(かはらけ)を斎宮参(まゐ)る。其(そ)の後(のち)、院聞(き)こし召(め)す。御几帳(きちやう)ばかりを隔(へだ)てて、長押(なげし)の下(しも)へ、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)実兼、善勝寺(ぜんしようじ)の大納言(だいなごん)隆顕召(め)さる。簀子(すのこ)に、長輔(ながすけ)・為方・兼行(かねゆき)〔・資行(すけゆき)〕など候(さぶら)ふ。数多(あまた)度(たび)流(なが)れ下(くだ)りて、人々(ひとびと)そぼれがちなり。「故(こ)院の御事(こと)の後(のち)は、斯様(かやう)の事(こと)もかき絶(た)えて侍(はべ)りつる
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に、今宵(こよひ)は珍(めづら)しくなん。心(こころ)とけて遊(あそ)ばせ給(たま)へ」など、打(う)ち乱(みだ)れ聞(き)こえ給(たま)へば、女房召(め)して、御箏(こと)共(ども)かき合(あ)はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺(さいをんじ)もひき給(たま)ふ。兼行(かねゆき)篳篥(ひちりき)、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしも面白(おもしろ)し。こたみは、先(ま)づ斎宮の御前に、院自(みづか)ら御銚子(てうし)を取(と)りて聞(き)こえ給(たま)ふに、宮いと苦(くる)しう思(おぼ)されて、とみにもえ動(うご)き給(たま)はねば、女院「此(こ)の御土器(かはらけ)の、いと心(こころ)許(もと)無(な)く見(み)え侍(はべ)るめるに、こゆるぎの磯(いそ)ならぬ御さかなや有(あ)るべからん」と宣(のたま)へば、「売炭翁(ばいたんおきな)は哀(あは)れなり。おのが衣は薄(うす)けれど」と言(い)ふ今様(いまやう)をうたはせ給(たま)ふ。御声(こゑ)いと面白(おもしろ)し。宮聞(き)こし召(め)して後(のち)、女院御杯(さかづき)を取(と)り給(たま)ふとて、「天子には父母無(な)しと申(まう)すなれど、十善(じふぜん)の床(ゆか)を踏(ふ)み給(たま)ふも、賎(いや)しき身の宮仕(みやづか)ひなりき。一言(ひとこと)報(むく)ひ給(たま)ふべうや」と宣(のたま)へば、「さらなる御事(こと)なりや」と、人々(ひとびと)目(め)をくはせつつ忍(しの)びてつきじろふ。「御前(おまへ)の池なる亀岡(かめをか)に、鶴(つる)こそ群(む)れ居(ゐ)て遊(あそ)ぶなれ」とうたひ給(たま)ふ。其(そ)の後(のち)、院聞(き)こし召(め)す。〔善勝寺(ぜんしようじ)〕[* 底本 空白]「せれうの里」を出(い)だす。人々(ひとびと)声(こゑ)加(くは)へなどして、らうがはしき程(ほど)になりぬ。かくていたう更(ふ)けぬれば、女院も我(わ)が御方(かた)に入(い)らせ給(たま)ひぬ。其(そ)の儘(まま)のおましながら、仮初(かりそめ)なるやうにて寄(よ)り臥(ふ)し給(たま)へば、人々(ひとびと)も少(すこ)し退(しりぞ)きて、苦(くる)しかりつる名残(なごり)に程(ほど)無(な)く寝(ね)入(い)りぬ。明日(あす)は宮も御帰(かへ)りと聞(き)こゆれば、今夜ばかりの草枕(くさまくら)、猶(なほ)結(むす)ばまほしき御心(おんこころ)の鎮(しづ)め難(がた)くて、いとささやかに御座(おは)する人の、御衣(おんぞ)など、然(さ)る心(こころ)して、なよらかなるを、まぎらはし過(す)ぐし
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つつ、忍(しの)びやかに振舞(ふるま)ひ給(たま)へば、驚(おどろ)く人も無(な)し。何(なに)やかやと、なつかしう語(かた)らひ聞(き)こえ給(たま)ふに、靡(なび)くとは無(な)けれども、只(ただ)いみじうおほどかに、やはらかなる御様(さま)して、思(おぼ)しほれたる御気色を、余所(よそ)なりつる程(ほど)の御心(おんこころ)惑(まど)ひまでは無(な)けれど、らうたくいとほしと思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ひけり。長(なが)き夜なれど、更(ふ)けにしかばにや、程(ほど)なう明(あ)けぬる夢の名残(なごり)は、いとあかぬ心地(ここち)しながら、後朝(きぬぎぬ)になり給(たま)ふ程(ほど)、女宮(をんなみや)も心(こころ)苦(ぐる)しげにぞ見(み)え給(たま)ひける。其(そ)の後(のち)も、折々(をりをり)は聞(き)こえ動(うご)かし給(たま)へど、差(さ)しはへて有(あ)るべき御事(こと)ならねば、いと間遠(まどほ)にのみなん。「負(ま)くる習(なら)ひ」までは有(あ)らずや御座(おは)しましけん。あさましとのみ尽(つ)きせず思(おぼ)し渡(わた)るに、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)、忍(しの)びて参(まゐ)り給(たま)ひけるを、人柄(ひとがら)もきはめていと懇(ねんご)ろに思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)へれば、御母代(ははしろ)の人なども、如何(いかが)はせんにて、漸(やうや)う頼(たの)みかはし給(たま)へば、ある夕つ方(かた)、「内よりまかでんついでに、又(また)必(かなら)ず参(まゐ)りこん」と頼(たの)め聞(き)こえ給(たま)へりければ、其(そ)の心(こころ)して誰(たれ)も待(ま)ち給(たま)ふ程(ほど)に、二条の師忠の大臣(おとど)、いと忍(しの)びて歩(あり)き給(たま)ふ道(みち)に、彼(か)の大納言(だいなごん)、扈従(こせう)など数多(あまた)して、いときらきらしげにて行(ゆ)き合(あ)ひ給(たま)ひけるに、〔むつかしと思(おぼ)して、此(こ)の斎宮の御門(みかど)あきたりけるに、〕女宮(をんなみや)の御もとなれば、ことごとしかるべき事(こと)も無(な)しと思(おぼ)して、しばし、彼(か)の大納言の車遣(や)り過(す)ごしてんに出(い)でんよと思(おぼ)して、門(かど)の下(した)に遣(や)り寄(よ)せて、大臣(おとど)、烏帽子(えぼし)直衣(なほし)のなよらかなるにて降(お)り給(たま)ひぬ。内(うち)には、大納言(だいなごん)の参(まゐ)り給(たま)へると思(おぼ)して、例は、忍(しの)びたる事(こと)なれば、門(もん)の内(うち)へ車を引(ひ)き入(い)れて、対(たい)のつまより降(お)りて参(まゐ)り給(たま)ふに、門
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参(まゐ)り給(たま)ふに、門より降(お)り給(たま)ひぬ。怪(あや)しうとは思(おも)ひながら、たそかれ時(どき)のたどたどしき程(ほど)、何(なに)のあやめも見(み)えわかで、妻戸(つまど)はづして人の気色見(み)ゆれば、何(なに)と無(な)くいぶかしき心地(ここち)し〔給(たま)ひ〕て、中門の廊(らう)に上(のぼ)り給(たま)へれば、例(れい)のなれたる事(こと)にて、をかしき程(ほど)の童(わらは)歩(あゆ)み出(い)でて、気色ばかりを聞(き)こゆるを、大臣(おとど)は覚(おぼ)え無(な)き物(もの)から、をかしと思(おぼ)して、尻(しり)につきて入(い)り給(たま)ふ程(ほど)に、宮も〔待(ま)ち聞(き)こえ給(たま)へと思(おぼ)して、御几帳(きちやう)にはづれて、〕何心(なにごころ)無(な)く打(う)ち向(むか)ひ聞(き)こえ給(たま)へるに、大臣(おとど)もこは如何(いか)にとは思(おぼ)せど、何(なに)くれとつきづきしう、日頃(ひごろ)の志(こころざし)有(あ)りつる由(よし)聞(き)こえなし給(たま)ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思(おも)ひ加(くは)はり給(たま)ひにけり。大納言(だいなごん)は、此(こ)の宮をさしてかく参(まゐ)り給(たま)ひけるに、例(れい)ならず、男(をとこ)の車より降(お)るる気色見(み)えければ、あるやう有(あ)らんと思(おぼ)して、「御随身(みずいじん)一人、其(そ)の渡(わた)りに、さりげなくてをあれ」とて、止(とど)めて帰(かへ)り給(たま)ひにけり。男君(をとこぎみ)は、いと思(おも)ひの外(ほか)に心(こころ)起(お)こらぬ御旅寝(たびね)なれど、人の御気色を見給(たま)ふも、有(あ)りつる大納言の車など思(おぼ)し合(あ)はせて、「如何(いか)にも此(こ)の宮にやう有(あ)るなめり」と心得(こころえ)給(たま)ふに、「いと好(す)き好(ず)きしき業(わざ)なり。由(よし)なし」と思(おぼ)せば、更(ふ)かさで出(い)で給(たま)ひにけり。〔彼(か)の〕残(のこ)し置(お)き給(たま)へりし随身(ずいじん)、此(こ)の様(やう)よく見(み)てければ、しかじかと聞(き)こえけるに、いと心(こころ)憂(う)しと思(おぼ)して、「日頃(ひごろ)も斯(か)かるにこそは有(あ)りけめ」と、いとをこがましう、「彼(か)の大臣(おとど)の心(こころ)の中(うち)も如何(いか)にぞや」と、数々(かずかず)思(おぼ)し乱(みだ)れて、かき絶(た)え久(ひさ)しく訪(おとづ)れ給(たま)はぬをも、此(こ)の宮には、かう残(のこ)り無(な)く見(み)現(あらは)されけんとも知(し)ろし召(め)さねば、怪(あや)しながら過(す)ぎもて行(ゆ)く程(ほど)に、
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只(ただ)ならぬ御気色〔に〕さへ悩(なや)み給(たま)ふをも、大納言(だいなごん)殿は一筋(すぢ)にしも思(おぼ)されねば、いと心(こころ)やましう思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ひけるぞわりなき。然(さ)れども、さすが思(おぼ)しわく事(こと)や有(あ)りけむ、其(そ)の程(ほど)の事(こと)共(ども)も、いと懇(ねんご)ろに訪(とぶら)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひけり。異(こと)御腹(おんはら)の姫宮(ひめみや)をさへ、御子になどし給(たま)ふ。御処分(そぶん)も有(あ)りけるとぞ。幾(いく)程(ほど)無(な)くて、弘安七年二月十五日(じふごにち)に、宮隠(かく)れさせ給(たま)ひにしをも、大納言(だいなごん)殿(どの)、いみじう歎(なげ)き給(たま)ひめるとや。〔誠(まこと)や、〕新院には、一とせ、近衛(このゑ)〈 基平 〉の大殿の姫君(ひめぎみ)、女御に参(まゐ)り給(たま)ひにしぞかし。女御と聞(き)こえつるを、此(こ)の程(ほど)院号(ゐんがう)有(あ)り、新陽明門院(しんやうめいもんゐん)とぞ聞(き)こゆめる。建治二年(にねん)の冬の頃(ころ)、近衛殿(このゑどの)にて若宮(わかみや)生(う)まれさせ給(たま)ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜(さんや)・五夜・七夜・九夜など、いかめしく聞(き)こえて、御子(こ)もやがて親王(しんわう)の宣下(せんげ)など有(あ)りき。




第十 老(お)いのなみ

建治三年正月三日、内の上(うへ)御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。十一にぞならせ給(たま)ふらんかし。御諱(いみな)、世仁と聞(き)こゆ。引(ひ)き入(い)れの関白太政大臣〔照念院〕殿兼平、理髪(りはつ)頭(とう)の中将(ちゆうじやう)基顕、御総角(そうかく)大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)信嗣の君仕(つかうまつ)られけり。御遊(あそ)び始(はじ)まる。琵琶玄象(げんしやう)今出川(いまでがは)の大納言(だいなごん)実兼、和琴鈴鹿(すずか)信嗣大納言(だいなごん)、箏(しやう)の琴(こと)殿の大納言(だいなごん)兼忠の君にて御座(おは)せしなんめり。屯食(とんじき)・禄(ろく)などの事(こと)、常(つね)の如(ごと)し。二十二日、朝覲の行幸(ぎやうがう)、亀山殿へなりしかば、上達部・殿上人、例(れい)の色々(いろいろ)のえり、下襲(したがさね)・織物(おりもの)・打物(うちもの)、めでたくゆゆしかり
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き。御前(おまへ)の大井河に、龍頭鷁首(りようとうげきす)浮(う)かめらる。夜に入(い)りて、鵜飼(うかひ)共(ども)召(め)して、篝火(かがりび)ともして乗(の)せらる。御前の御遊(あそ)び・地下(ぢげ)の舞(まひ)など、様々(さまざま)の面白(おもしろ)き事(こと)共(ども)、例の事(こと)なれば、うるさくて、さのみもえ書(か)かず。同(おな)じ三月二十六日、石清水(いはしみづ)の社へ行幸(ぎやうがう)、四月十九日、賀茂の社へ行幸(ぎやうがう)、いづれもめでたかりき。人々(ひとびと)定(さだ)めて記しおき給(たま)ひつらんと、譲(ゆづ)りてとめ侍(はべ)りぬ。春宮〈 伏見院 〉の御元服、八月と聞(き)こえしを、奈良(なら)の興福寺の火のXX事(こと)により、延(の)びて十二月十九日にぞせさせ給(たま)ひける。十六日に、先(ま)づ内裏行啓(ぎやうげい)なる。清涼殿(せいりやうでん)の東(ひんがし)の廂(ひさし)の倚子(いし)立(た)てらる。御門も倚子につかせ給(たま)ふ。引(ひ)き入(い)れの左大臣師忠、理髪(りはつ)春宮の権大夫具守勤(つと)めらる。御諱(いみな)煕仁(ひろひと)と申(まう)しき。持明院殿より、女房、二(に)無(な)く清(きよ)らにし立(た)てて、十二人参(まゐ)り、東(ひんがし)の御方〈 玄輝門院御事 〉も院の御車にて、殿上人・北面・召次(めしつぎ)など、いと美々(びび)しうて参(まゐ)り給(たま)へり。御門(みかど)・春宮、いづれもいと美(うつく)しき御上(あ)げ勝(まさ)り也(なり)。新院は、尽(つ)きせず、皇后宮の御座(おは)しまさましかばとのみ、しほたれがちに、思(おぼ)し忘(わす)るる世無(な)き御心(おんこころ)や慰(なぐさ)むと、此(これ)彼(かれ)参(まゐ)らすれど、をさをさなずらへなるも無(な)く、新陽明門院(しんやうめいもんゐん)も、初(はじ)めは御覚(おぼ)えあるやうなりしかど、次第(しだい)にかれがれなる御事(こと)にて、御一人(ひとり)寝(ね)がちなり。故(こ)皇后宮の御(おん)はらからの中(なか)の君も、御面影(おもかげ)や通(かよ)ひたらんと、なつかしさに、忍(しの)びて懇(ねんご)ろに宣(のたま)ひしかば、参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り給(たま)へれども、いとしも無(な)くて、姫宮(ひめみや)一所(ひとところ)ばかり取(と)り出(い)で給(たま)へりし儘(まま)にてやみにき。姫宮(ひめみや)をば、
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大宮院の御傍(かたは)らにぞ、かしづき聞(き)こえ給(たま)ふ。かくて弘安元年(ぐわんねん)になりぬ。十月ばかり、又(また)二条内裏に火出(い)で来(き)て、いみじうあさまし。万里小路(までのこうじ)殿(どの)は、有(あ)りし火の後又(また)造(つく)られて、今年(ことし)の八月に御わたましにて、新院住(す)ませ給(たま)へれど、内裏焼(や)けぬれば、此(こ)の院又(また)内裏に成(な)りぬ。打(う)ち続(つづ)き火の繁(しげ)さいと恐(おそ)ろし。其(そ)の頃、大宮院いと久(ひさ)しく悩(なや)ませ給(たま)ひつつ、本院も新院も常(つね)に渡(わた)り給(たま)ひて、夜なども御座(おは)しませば、異(こと)御腹(おんはら)の法親王、姫宮(ひめみや)達(たち)なども、絶(た)えず御訪(とぶら)ひに詣(まう)でさせ給(たま)ふ中(なか)に、故(こ)院の位の御時(とき)、勾当(こうたう)の内侍(ないし)と言(い)ひしが腹に出(い)で物(もの)し給(たま)へりし姫宮(ひめみや)、後(のち)には五条院と聞(き)こえし、未(いま)だ宮の御程(ほど)なりしにや、いと盛(さか)りに美(うつく)しげにて、切(せつ)に隠(かく)れ奉(たてまつ)り給(たま)ふを、新院あながちに御心(おんこころ)に掛(か)けて、うかがひ聞(き)こえ給(たま)ふ程(ほど)に、此(こ)の御悩(なや)みの頃、如何(いかが)有(あ)りけん、いみじう思(おも)ひの外(ほか)にあさましと思(おぼ)し歎(なげ)く。彼(か)の草枕よりは誠(まこと)しう、にがにがしき御事(こと)にて、姫宮(ひめみや)まで出(い)で来(き)させ給(たま)ひにき。限(かぎ)り無(な)く人目(ひとめ)を包(つつ)む事(こと)なれば、怪(あや)しう、誰(た)が御腹(おんはら)と言(い)ふ事(こと)も無(な)くて、院の御乳母(めのと)の按察(あぜち)の二位の里(さと)に渡(わた)し奉(たてまつ)り給(たま)へり。幼(をさな)き御心(おんこころ)にも、如何(いかが)心得(え)給(たま)ひけん、「宮の御母君をば誰(たれ)とか申(まう)す」と人の問(と)ひ聞(き)こゆれば、「言(い)はぬ事」とのみぞ、いらへさせ給(たま)ひける。御心(おんこころ)のあくがるる儘(まま)に、御覧(ごらん)じ過(す)ぐす人無(な)く、乱(みだ)りがはしきまで、たはぶれさせ給(たま)ふ程(ほど)に、腹々の宮達(たち)、数(かず)知(し)らず出(い)で来(き)給(たま)ふ。大方(おほかた)、十三の御年(おんとし)より、宮は出(い)で来(き)初(そ)めさせ給(たま)ひしが、年々(としどし)に多(おほ)くのみなり給(たま)へば、いとらうがはしきまで
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ぞ有(あ)るべき。故(こ)皇后宮の御雑仕(ざふし)にて、貫川(ぬきがは)と言(い)ひし、御霊(ごりやう)とかや聞(き)こゆる社の御子(みこ)にてぞ有(あ)りける。先(さき)にも聞(き)こえしやうに、位の御程(ほど)に度々(たびたび)召(め)されて、姫宮(ひめみや)生(う)まれ給(たま)へりしを、それも御乳母(めのと)の按察(あぜち)の二位殿の里に、彼(か)の五条院の御腹(おんはら)のと二所(ふたところ)、同(おな)じ御かしづき草にて御座(おは)せし程(ほど)に、近衛殿(このゑどの)入(い)らせ給(たま)ひぬれば、殿はもと御座(おは)せし北(きた)の政所(まんどころ)をもすさめ給(たま)ひて、此(こ)の宮を類(たぐひ)無(な)く思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ふ程(ほど)に、かひがひしく若君(わかぎみ)〈 左大臣経平 〉出(い)で来(き)給(たま)へるをも、いみじうかしづきいたはり給(たま)ひて、前(さき)の北(きた)の政所(まんどころ)の御腹(おんはら)の太郎君、中将(ちゆうじやう)ばかりにて物(もの)し給(たま)ふをも、よくせずは、押(お)しのけぬべうもてなし奉(たてまつ)り給(たま)ひけるを、新院聞(き)かせ給(たま)ひて、いといとほしき事(こと)なり。是(これ)は未(いま)だ稚児(ちご)なり。もと大人(おとな)しうなり給(たま)へるをば、如何(いか)でか引(ひ)き違(たが)へるやうは有(あ)らん」と宣(のたま)はせて、其(そ)の弟(おとと)は、遂(つひ)に御家も保(たも)たせ給(たま)へりしなり。又(また)、北白河殿の女院に、大納言(だいなごん)の君とて候(さぶら)ひし人の曹司(ざうし)に、下野(しもつけ)と言(い)ひし者(もの)は、田楽とかや言(い)ふ事する怪(あや)しの法師(ほふし)の、名(な)をば玄駒(げんく)と言(い)ふが娘(むすめ)なりき。彼(か)の女院は、新院の御母代(ははしろ)にて、常(つね)に御幸もなりしかば、自(おの)づから御覧(ごらん)じ初(そ)めけるにや、事(こと)の外(ほか)に時(とき)めき出(い)でて、此(こ)の院に召(め)し渡(わた)されて、花山院(くわさんゐん)の太政(おほき)大臣(おとど)の御子になされ、廊(らう)の御方(かた)とぞ付(つ)けさせ給(たま)ふ。其(そ)の御腹にも宮生(う)まれ給(たま)ひぬ。大宮(おほみや)の女院に讚岐とて候(さぶら)ひし、西園寺(さいをんじ)の御家の者(もの)景房(かげふさ)と言(い)ひしが娘(むすめ)なり。いみじう思(おぼ)いて、是(これ)も召(め)し取(と)りて、西園寺(さいをんじ)の大臣(おとど)の御子になし
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て、二品の加階(かかい)賜(たま)はる。若宮(わかみや)生(う)まれ給(たま)ひにき。帥(そち)の中納言為経の娘(むすめ)の帥(そち)の典侍(すけ)殿(どの)と言(い)ひしが御腹(おんはら)にも、数多(あまた)生(う)まれ給(たま)ふ。九条(くでう)殿(どの)の北(きた)の政所(まんどころ)、又梨本(なしもと)・青蓮院(しやうれんゐん)の法親王などは、大納言(だいなごん)の典侍(すけ)の御腹(おんはら)、昭慶門院(せうけいもんゐん)中納言の典侍(すけ)、十楽院(じふらくゐん)の慈道法親王は帥(そち)の典侍(すけ)殿(どの)の腹(はら)、斯様(かやう)にすべて多(おほ)く物(もの)し給(たま)ふ。昔(むかし)の嵯峨天皇こそ、八十余人(よにん)まで御子持(も)給(たま)へりけると、承(うけたまは)り伝(つた)へたるにも、ほとほと劣(おと)り給(たま)ふまじかめり。内には中々女御・更衣(かうい)も候(さぶら)ひ給(たま)はず。いとさうざうしき雲の上(うへ)なり。西園寺(さいをんじ)女御参(まゐ)り給(たま)ふべしと聞(き)こえながら、如何(いか)なるにか、すがすがとも思(おぼ)し立(た)たぬは、思(おも)ふ心御座(おは)するなめりとぞ、世(よ)の人(ひと)もささめきける。新院の御位の時(とき)参(まゐ)り給(たま)へりし西園寺(さいをんじ)の中宮は、院号(ゐんがう)有(あ)りて、今出川(いまでがは)の院と聞(き)こゆなり。彼(か)の御覚(おぼ)えなどのいと口惜(くちを)しかりしより、此(こ)の院の御方様(かたざま)をつらく思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ふなめりなどぞ、言(い)ひなす人も侍(はべ)りけるとぞ。三月(やよひ)の末(すゑ)つ方(かた)、持明院殿の花盛(はなざか)りに、X新院渡(わた)り給(たま)ふ。鞠(まり)の掛(か)かり御覧(ごらん)ぜんとなりければ、御前の花(はな)は梢(こずゑ)も庭も盛(さか)りなるに、外(ほか)の桜(さくら)さへ召(め)して、散(ち)らし添(そ)へられたり。いと深(ふか)う積(つも)りたる花(はな)の白雪(ゆき)、跡(あと)つけ難(がた)う見(み)ゆ。上達部・殿上人、いと多(おほ)く参(まゐ)り集(あつ)まる。御随身(みずいじん)・北面の下臈(げらふ)など、いみじうきらめきて候(さぶら)ひあへり。態(わざ)とならぬ袖口(そでくち)共(ども)押(お)し出(い)だされて、心(こころ)殊(こと)に引(ひ)き繕(つくろ)はる。寝殿(しんでん)の母屋(もや)に、御座(おまし)対座(たいざ)に設(まう)けられたるを、新院入(い)らせ給(たま)ひて、「故(こ)院の御時、定(さだ)め置(お)かれし上(うへ)は、今更(いまさら)にやは」とて、長押(なげし)の下(しも)
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へ引(ひ)き下(さ)げさせ給(たま)ふ程(ほど)に、本院〔は〕出(い)で給(たま)ひて、「朱雀院の行幸(ぎやうがう)には、主(あるじ)の座をこそ直(なほ)され侍(はべ)りけるに、今日(けふ)の御幸(みゆき)には、御座(ござ)下(お)ろさるる、いと異様(ことやう)に侍り」など聞(き)こえ給(たま)ふ程(ほど)、いと面白(おもしろ)し。うべうべしき御物語(おんものがたり)は少(すこ)しにて、花(はな)の興(きよう)に移(うつ)りぬ。御土器(かはらけ)など良(よ)き程(ほど)の後、春宮〈 伏見院 〉御座(おは)しまして、掛(か)かりの下(した)に皆(みな)立(た)ち出(い)で給(たま)ふ。両院・春宮立(た)たせ給(たま)ふ。半(なか)ば過(す)ぐる程(ほど)に、客人(まらうど)の院上(のぼ)り給(たま)ひて、御襪(したうづ)など直(なほ)さるる程(ほど)に、女房別当(べつたう)の君、又上臈(じやうらふ)だつ久我(こが)の太政(おほき)大臣(おとど)の孫とかや、樺桜(かばざくら)の七(なな)つ・紅のうち衣・山吹(やまぶき)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)・すずしの袴(はかま)にて、銀(しろかね)の御杯(つき)、柳箱(やないばこ)に据(す)ゑて、同(おな)じひさげにて、柿(かき)ひたし参(まゐ)らすれば、はかなき御たはぶれなど宣(のたま)ふ。暮(く)れ掛(か)かる程(ほど)、風少(すこ)し打(う)ち吹(ふ)きて、花(はな)も乱(みだ)りがはしく散(ち)りまがふに、御鞠(まり)数(かず)多(おほ)く上(あ)がる。人々(ひとびと)の心地(ここち)いと艶(えん)有(あ)り。故(ゆゑ)有(あ)る木蔭(こかげ)に立(た)ち休(やす)らひ給(たま)へる院の御形(かたち)、いと清(きよ)らにめでたし。春宮も若(わか)う美(うつく)しげにて、濃(こ)き紫の浮(う)き織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)、なよびかに、気色ばかり引(ひ)き上(あ)げ給(たま)へれば、花(はな)のいと白(しろ)く散(ち)り掛(か)かりて、文(もん)のやうに見(み)えたるもをかし。御覧(ごらん)じ上(あ)げて、一枝押(お)し折(を)り給(たま)へる程(ほど)、絵(ゑ)にかかまほしき夕(ゆふ)ばえ共(ども)なり。其(そ)の後(のち)も、御酒(みき)など、らうがはしきまで、聞(き)こし召(め)しさうどきつつ、夜(よ)更(ふ)けて帰(かへ)らせ給(たま)ふ。六条殿の長講堂も、焼(や)けにしを造(つく)られて、其(そ)の頃、御わたましし給(たま)ふ。卯月(うづき)の初(はじ)めつ方(かた)より、院の上(うへ)、庇(ひさし)の御車にて、上達部・殿上人・御随身(みずいじん)、え
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も言(い)はず清(きよ)らなり。女院の御車に、姫宮(ひめみや)も奉(たてまつ)る。出車(いだしぐるま)数多(あまた)、皆(みな)白(しろ)きあはせの五衣(いつつぎぬ)・濃(こ)き袴(はかま)・同(おな)じ単(ひとへ)にて、三日過(す)ぎてぞ、色々(いろいろ)の衣共(ども)、藤・躑躅(つつじ)・撫子(なでしこ)など着(き)かへられける。しばし此(こ)の院に渡(わた)らせ給(たま)へば、人々(ひとびと)絶(た)えず参(まゐ)り集(つど)ふ。西園寺(さいをんじ)の殿(との)原(ばら)なども、日ごとに参(まゐ)り給(たま)ふ。御壺(つぼ)分(わ)かたせ給(たま)ひて、前栽合(あ)はせ有(あ)りしにも、をかしう珍(めづら)しき事(こと)共(ども)多(おほ)かりき。某(なにがし)の朝臣の、槙(まき)の島の気色を造(つく)りて侍りけるを、平(へい)大納言(だいなごん)経親、未(いま)だ下臈(げらふ)にて、兵衛佐など言(い)ひける程(ほど)にや、其(そ)の宇治川(うぢがは)の橋(はし)を盗(ぬす)みて、我(わ)が繕(つくろ)ひたる方(かた)に渡(わた)して侍(はべ)りける、いと恐(おそ)ろしく心(こころ)賢(かしこ)くぞ侍(はべ)りける。例の五月の供花(くうげ)、やがて打(う)ち続(つづ)きければ、女院達(たち)宮々など、夜(よる)の御時(おほんとき)に閼伽(あか)奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、御堂のかをり、名香(みやうかう)の香も、外(ほか)には多(おほ)く勝(まさ)りて、いとしみ深(ふか)う艶(なま)めかしう面白(おもしろ)し。大方(おほかた)、いづれも年に二度(ふたたび)は昔(むかし)よりの事(こと)にて、いみじう経営(けいめい)し給(たま)へば、世(よ)の人(ひと)の靡(なび)き仕(つかうまつ)る様(さま)限(かぎ)り無(な)し。日に二度(ふたたび)院の出(い)で居(ゐ)させ給(たま)ふに、関白・大臣ばかり、止(や)む事(ごと)無(な)き人々(ひとびと)絶(た)えず候(さぶら)ひ給(たま)ふ。大中納言・二位三位・非参議・四位五位などは、まして数(かず)知(し)らず。すべて前(さき)の司の人の、道なども参(まゐ)る事(こと)なれば、時(とき)ならず院の御前とも無(な)く、いみじう花(はな)やかに面白(おもしろ)う尊(たふと)し。昔の後二条の関白師通と聞(き)こえしは、「おりゐの御門(みかど)の門に、車の立(た)つべき事(こと)なし」と、そしり給(たま)ひけるに、今(いま)の世(よ)を見給(たま)はばと思(おも)ひ出(い)でらる。九月の供花(くうげ)には、新院さへ渡(わた)り物(もの)し
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給(たま)へば、いよいよ女房の袖口(そでくち)心(こころ)殊(こと)に用意(ようい)加(くは)へ給(たま)ふ。御花果(は)つれば、両院一(ひと)つ御車にて、伏見殿へ御幸なる。秋山の気色御覧(ごらん)ぜさせんとなりけり。上達部・殿上人、彼方(かなた)此方(こなた)押(お)し合(あ)はせて、色々(いろいろ)の狩衣姿(かりぎぬすがた)、菊紅葉(もみぢ)こき混(ま)ぜて打(う)ち群(む)れたる、見所(みどころ)多(おほ)かるべし。野山の気色(けしき)色づき渡(わた)るに、伏見山(ふしみやま)、田の面(も)に続(つづ)く宇治の川波(かはなみ)、遙々(はるばる)と見(み)渡(わた)されたる程(ほど)、いと艶(えん)有(あ)るを、若(わか)き人々(ひとびと)などは、身にしむばかり思(おも)へり。鷹司殿の大殿も参(まゐ)り給(たま)ふべしと聞(き)こえけるを、御物忌(い)みとて止(と)まり給(たま)ひければ、五葉の枝に付(つ)けて奏(そう)せられける。
伏見山(ふしみやま)幾万代も枝添(そ)へて栄(さか)へん松(まつ)の末(すゑ)ぞ久(ひさ)しき W
御返(かへ)し、
栄(さか)ふべき程(ほど)ぞ久(ひさ)しき伏見山(ふしみやま)おひそふ松(まつ)の枝を連(つら)ねて W
又(また)の日は、伏見津(ふしみつ)に出(い)でさせ給(たま)ひて、鵜舟御覧(ごらん)じ、白拍子御船(みふね)に召(め)し入(い)れて、歌うたはせなどせさせ給(たま)ふ。二、三日御座(おは)しませば、両院の家司(けいし)共(ども)、我(われ)劣(おと)らじといかめしき事(こと)共(ども)調(てう)じて参(まゐ)らせあへる中(なか)に、楊桃(やまもも)の二位兼行(かねゆき)、桧破子(ひわりご)共(ども)の、心ばせ有(あ)りて仕(つかうまつ)れるに、雲雀(ひばり)と言(い)ふ小鳥(ことり)を荻の枝に付(つ)けたり。源氏(げんじ)の松風(まつかぜ)の巻(まき)を思(おも)へるにや有(あ)りけん。為兼(ためかぬ)の朝臣を召(め)して、本院「彼(かれ)は如何(いかが)と見る」と仰(おほ)せらるれば、「いと心得(え)侍らず」とぞ申(まう)しける。誠(まこと)に、定家(ていか)の中納言入道が書(か)きて侍(はべ)る源氏(げんじ)の本には、荻とは見(み)え侍らぬとぞ承(うけたまは)りし。斯様(かやう)に御仲(なか)いとよくて、
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はかなき御遊(あそ)び業(わざ)など〔も〕、いどましき様(さま)に聞(き)こえかはし給(たま)ふを、目(め)安(やす)き事(こと)に、なべて世(よ)の人(ひと)も思(おも)ひ申(まう)しけり。或(あ)る時(とき)は、御小弓射(い)させ給(たま)ひて、「御負(ま)け業(わざ)には、院の内(うち)に候(さぶら)ふ限(かぎ)りの女房を見せさせ給(たま)へ」と、新院宣(のたま)ひければ、童(わらは)の鞠(まり)蹴(け)たる由(よし)を作(つく)りなして、女房共(ども)に水干(すいかん)〔を〕着(き)せて出(い)だされたる事(こと)も侍(はべ)りけり。新院の御賭物(おんのりもの)には、亀山殿にて、五節(ごせち)のまねに、舞姫(まひひめ)・童(わらは)・下仕(しもづか)へまでぞなされけり。上達部、直衣(なほし)に衣出(い)だして、露台(ろだい)の乱舞(らんぶ)・御前の召(め)し・北の陣(ぢん)・推参(すいさん)まで尽(つ)くされ侍(はべ)り〔ける〕とぞ承(うけたまは)りし。此(こ)の御代にも、又勅撰の沙汰(さた)、一昨年(をととし)ばかりより侍(はべ)りし、為氏(ためうじ)の大納言(だいなごん)撰(えら)ばれつる、此(こ)の十二月(しはす)にぞ奏(そう)せられける。続拾遺集と聞(き)こゆ。「たましひある様(さま)にはいたく侍らざめれど、艶(えん)には見(み)ゆる」と、時(とき)の人々(ひとびと)申(まう)し侍(はべ)りけり。続古今(しよくこきん)の引(ひ)きうつし、おぼろけの事(こと)は、立(た)ち並(なら)び難(がた)くぞ侍(はべ)るべき。かくて年月(としつき)変(か)はりぬ。其(そ)の頃、新陽明門院(しんやうめいもんゐん)、又只(ただ)ならず御座(おは)しますと聞(き)こえし、五月ばかり、御気色あれば、珍(めづら)しう思(おぼ)す。内々(ないない)、殿にてせさせ給(たま)ふに、天下(てんか)の人々(ひとびと)参(まゐ)り集(つど)ふ。前(さき)の度(たび)、生(う)まれさせ給(たま)へる若宮(わかみや)は、隠(かく)れさせ給(たま)ひにしを、新院本意(ほい)無(な)しと思(おぼ)されけるに、又かく物(もの)し給(たま)へば、めでたう思(おも)ふ様(さま)なる御事(こと)も有(あ)らばと、今(いま)より思(おぼ)しかしづくに、いとかひがひしう若宮(わかみや)生(う)まれさせ給(たま)へれば、限(かぎ)り無(な)く思(おぼ)さる。八月、御子(みこ)の御歩(あり)きぞめとて、万里小路(までのこうじ)殿に渡(わた)らせ給(たま)ふ。唐庇(からびさし)の御車に、後嵯峨院の更衣腹(かういばら)の姫宮(ひめみや)、聖護院の法親王の一(ひと)つ御腹(おんはら)とかや、御母代(ははしろ)にて添(そ)ひ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。
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又(また)、三条の内大臣公親の御娘(むすめ)、内の上の御乳母(めのと)なりしも、めでたき御肖物(あえもの)とて、御車に二人(ふたり)乗(の)り給(たま)ふ。女院は、院の上(うへ)一(ひと)つ御車に、菊(きく)の網代(あじろ)の庇(ひさし)に奉(たてまつ)る。宮の御車に遣(や)り続(つづ)けて、よそほしくめでたき御事(こと)なり。其(そ)の頃、倹約(けんやく)行(おこな)はるとかや聞(き)こえし程(ほど)にて、下簾(したすだれ)短(みじか)くなされ、小金物(こかなもの)抜(ぬ)かれける。物(もの)見(み)る車共(ども)のも、召次(めしつぎ)寄(よ)りて切(き)りなどしけるをぞ、「時(とき)しもや、斯(か)かるめでたき御事(こと)の折節(をりふし)」など、つぶやく人も有(あ)りけるとかや。此(こ)の宮も親王(しんわう)の宣旨(せんじ)有(あ)りて、いとめでたく聞(き)こえし程(ほど)に、明(あ)くる年九月、又隠(かく)れ〔させ〕給(たま)ひにし、いと口惜(くちを)しかりし御事(こと)なり。弘安も四年になりぬ。夏(なつ)の頃、後嵯峨〔院〕の姫宮(ひめみや)、隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。後の堀川〔院〕の御娘(むすめ)にて神仙門院と聞(き)こえし女院の御腹(おんはら)なれば、故(こ)院もいとおろかならずかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけり。御形(かたち)も類(たぐひ)無(な)く美(うつく)しう御座(おは)しまして、「人の国より女(をんな)の本(ほん)を尋(たづ)ねんには、此(こ)の宮の似絵(にせゑ)を遣(や)らん」などぞ、父(ちち)の御門(みかど)仰(おほ)せられけり。御乳母(めのと)隆行の家に御座(おは)しましける程(ほど)に、御乳母子(めのとご)隆康(たかやす)、忍(しの)びて参(まゐ)りける故(ゆゑ)に、あさましき御事(こと)さへ出(い)で来(き)て、是(これ)も御うみながら、俄(にはか)に失(う)せさせ給(たま)ひけりとぞ聞(き)こえし。其(そ)の頃、蒙古(もうこ)起(お)こるとかや言(い)ひて、世(よ)の中(なか)騒(さわ)ぎ立(た)ちぬ。色々(いろいろ)様々(さまざま)に恐(おそ)ろしう聞(き)こゆれば、「本院・新院は東(あづま)へ御下(くだ)り有(あ)るべし。内・春宮は京に渡(わた)らせ給(たま)ひて、東(あづま)の武士共(ども)上(のぼ)りて候(さぶら)ふべし」など沙汰(さた)有(あ)りて、山々(やまやま)寺々(てらでら)〔に〕、御祈(いの)り、数(かず)知(し)らず。伊勢の勅使に、経任(つねたふ)の大納言(だいなごん)
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参(まゐ)る。新院も八幡(やはた)へ御幸なりて、西大寺の長老召(め)されて、真読(しんどく)の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、「我(わ)が御代にしも斯(か)かる乱(みだ)れ出(い)で来(き)て、誠(まこと)に此(こ)の日本の損(そこ)なはるべくは、御命を召(め)すべき」由(よし)、御手(て)づから書(か)かせ給(たま)ひけるを、大宮院、「いとあさましき〔事(こと)〕なり」と、猶(なほ)諌(いさ)め聞(き)こえさせ給(たま)ふぞ、理(ことわり)に哀(あは)れなる。東(あづま)にも、言(い)ひ知(し)らぬ祈(いの)り共(ども)こちたく罵(ののし)る。故(こ)院の御代にも、御賀の試楽の頃(ころ)、斯(か)かる事有(あ)りしかど、程(ほど)無(な)くこそ鎮(しづ)まりにしを、此(こ)の度(たび)は、いとにがにがしう、牒状(てふじやう)とかや持(も)ちて参(まゐ)れる人など有(あ)りて、わづらはしう聞(き)こゆれば、上下思(おも)ひ惑(まど)ふ事限(かぎ)り無(な)し。然(さ)れども、七月一日、おびたたしき大風吹(ふ)きて、異国の舟六万艘(ろくまんさう)、兵(つはもの)乗(の)りて筑紫(つくし)へ寄(よ)りたる、皆(みな)吹(ふ)き破(わ)られぬれば、或は水(みづ)に沈(しづ)み、自(おの)づから残(のこ)れるも、泣(な)く泣(な)く本国へ帰(かへ)りにけり。石清水(いはしみづ)の社にて、大般若供養のいみじかりける刻限(こくげん)に、晴(は)れたる空に、黒雲(くろくも)一村俄(にはか)に見(み)えてたなびく。
彼(か)の雲の中(なか)より、白き羽にてはげたる鏑矢(かぶらや)の大(だい)なる、西をさして飛(と)び出(い)でて、鳴(な)る音おびたたしかりければ、彼処(かしこ)には、大風の吹(ふ)き来(く)ると兵(つはもの)の耳(みみ)には聞(き)こえて、波(なみ)荒(あら)く立(た)ち海の上(うへ)あさましくなりて、皆(みな)沈(しづ)みにけるとぞ。猶(なほ)我(わ)が国に神の御座(おは)します事(こと)、験(あらた)に侍(はべ)りけるにこそ。さて為氏(ためうじ)の大納言(だいなごん)、伊勢の勅使にて上(のぼ)る道(みち)より、申(まう)し送(おく)りける。
勅として祈(いの)る験(しるし)の神風に寄(よ)せ来(く)る波(なみ)はかつ砕(くだ)けつく W
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かくて静(しづ)まりぬれば、京にも東(あづま)にも、御心(おんこころ)共(ども)落(お)ち居(ゐ)て、めでたさ限(かぎ)り無(な)し。彼(か)の異国の御門(みかど)、心(こころ)憂(う)しと思(おぼ)して、湯水をも召(め)さず、「我(われ)如何(いかが)して、此(こ)の度(たび)日本の帝王に生(う)まれて、彼(か)の国を滅(ほろ)ぼす身とならん」とぞ誓(ちか)ひて死に給(たま)ひけると聞(き)き侍(はべ)りし、誠(まこと)にや有(あ)りけむ。同(おな)じ六年正月六日、日吉(ひよし)の社の訴訟(そせう)勅裁無(な)しとて、御輿は都へ入(い)らせ給(たま)ふ。六波羅(ろくはら)の武士共(ども)、気色ばかり防(ふせ)き奉(たてまつ)りけれど、まめやかに、神には向(む)かひ奉(たてまつ)りて弓射(い)る者(もの)も無(な)ければ、紫宸殿・清涼殿(せいりやうでん)などに振(ふ)り捨(す)て参(まゐ)らせて、山法師(やまほふし)は上(のぼ)りぬ。御門は急(いそ)ぎ対(たい)の屋(や)に出(い)でさせ給(たま)ひて、腰輿(えうよ)にて近衛殿(このゑどの)へ行幸(ぎやうがう)なる。殿上人共(ども)柏挟(かしはばさ)みして仕(つかうまつ)りけり。七日の節会も、まほには行(おこな)はれず。それより三条坊門(ばうもん)万里小路(までのこうじ)の通成の大臣(おとど)の家へ行幸(ぎやうがう)なりて、しばし内裏になりし時、万里小路(までのこうじ)面(おもて)の四足は建(た)てられ侍(はべ)りき。斯(か)かりし程(ほど)に、此(こ)の家に、石清水(いはしみづ)の若宮(わかみや)をいはひ参(まゐ)らせたる社御座(おは)しますに、狐(きつね)多(おほ)く侍(はべ)りけるを、滝口の某(なにがし)とかや、過(あやま)ちたりける御とがめにて、万(よろづ)わづらはしく、かうがうしき事(こと)共(ども)有(あ)りければ、万里小路(までのこうじ)殿(どの)へ帰(かへ)らせ給(たま)ひにき。此(こ)の御門(みかど)は、ねび給(たま)ふ儘(まま)に、いと賢(かしこ)く、御才(ざえ)なども勝(すぐ)れさせ給(たま)へれば、なべて世(よ)の人(ひと)も目出(めでた)き事(こと)に思(おも)ひ聞(き)こゆ。はかばかしき女御・后なども候(さぶら)ひ給(たま)はで、いと徒然(つれづれ)なるに、新陽明門院(しんやうめいもんゐん)の御方に、堀川(ほりかは)の大納言(だいなごん)の御娘(むすめ)、東(ひんがし)の御方とて候(さぶら)ひ給(たま)ふを、忍(しの)び忍(しの)び御覧じける程(ほど)に、弘安八年二月ばかり、若宮(わかみや)出(い)で物(もの)し給(たま)へり。いと止(や)む事(ごと)無(な)き御宿世(しゆくせ)
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なるべし。今年(ことし)、北山の准后、九十に満(み)ち給(たま)へば、御賀の事(こと)、大宮院思(おぼ)し急(いそ)ぐ。世(よ)の大事(だいじ)にて、天下(てんか)かしがましく響(ひび)き合(あ)ひたり。かく罵(ののし)る人は、安元の御賀に青海波(せいがいは)舞(ま)ひたりし隆房(たかふさ)の大納言(だいなごん)の孫(うまご)なめり。鷲(わし)の尾(を)の大納言(だいなごん)隆衡(たかひら)の娘(むすめ)ぞかし〔な〕。大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣(おほきおとど)の北(きた)の方(かた)にて、天(あめ)の下(した)皆(みな)此(こ)の匂(にほ)ひならぬ人は無(な)し。いと止(や)む事(ごと)無(な)かりける御幸(さいはひ)なり。昔(むかし)、御堂殿(みだうどの)の北(きた)の方(かた)鷹司(たかつかさ)殿(どの)と聞(き)こえしには劣(おと)り給(たま)はず。大方(おほかた)、此(こ)の大宮院の御宿世(すくせ)、いと有(あ)り難(がた)く御座(おは)します。すべて古(いにしへ)より今(いま)まで、后・国母多(おほ)く過(す)ぎ給(たま)ひぬれど、かくばかり取(と)り集(あつ)めいみじき例(ためし)は、未(いま)だ聞(き)き及(およ)び侍らず。御位の初(はじ)めより選(えら)まれ参(まゐ)り給(たま)ひて、争(あらそ)ひきしろふ人も無(な)く、三千の寵愛(てうあい)一人(ひとり)にをさめ給(たま)ふ。両院打(う)ち続(つづ)き出(い)で物(もの)し給(たま)へりし、いづれも平(たひ)らかに、思(おも)ひの如(ごと)く、二代の国母にて、今(いま)は既(すで)に御孫の位をさへ見給(たま)ふまで、いささかも御心(おんこころ)にあはず思(おぼ)し結(むす)ぼるる一節(ひとふし)も無(な)く、めでたく御座(おは)します様(さま)、来(き)し方(かた)も類(たぐひ)無(な)く、行(ゆ)く末(すゑ)にも稀(まれ)にや有(あ)らん。古(いにしへ)の基経の大臣(おとど)の御娘(むすめ)、延喜の御代の大后宮(おほきさいのみや)、〔朱雀・村上の二代の国母にて御座(おは)せしも、初(はじ)め出(い)で来(き)給(たま)ひて〕殊(こと)に悲(かな)しうし給(たま)ひし前坊に後(おく)れ聞(き)こえ給(たま)ひて、御命の内(うち)は、絶(た)えぬ御歎(なげ)き尽(つ)きせざりき。九条(くでう)の大臣(おとど)の御娘(むすめ)、天暦の后にて御座(おは)せし、冷泉(れいぜい)・円融、両代の御母なりしかど、めでたき御代をも見奉(たてまつ)り給(たま)はず、御門にも先(さき)立(だ)ち給(たま)ひて失(う)せ給(たま)ひにき。御堂
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の御娘(むすめ)上東門院、後一条・後朱雀の御母にて、御孫後冷泉(ごれいぜい)・後三条まで見奉(たてまつ)り給(たま)ひしかども、皆(みな)先(さき)立(だ)たせ給(たま)ひしかば、逆様(さかさま)の御歎(なげ)き絶(た)ゆる世(よ)無(な)く、御命余(あま)り長(なが)くて中々人目(ひとめ)を恥(は)づる思(おも)ひ深(ふか)く御座(おは)しましき。是(これ)も皆(みな)一の人にて、世(よ)の親(おや)と成(な)り給(たま)へりしだに、やうをかへて様々(さまざま)の御身の愁(うれ)へは有(あ)りき。只人(ただひと)には、大納言(だいなごん)公実(きんざね)の御娘(むすめ)こそ、待賢門院とて、崇徳・後白河(ごしらかは)の御母にて御座(おは)せしかど、それも後白河(ごしらかは)の御世(よ)をば御覧(ごらん)ぜず、讚岐(さぬき)の院の御末(すゑ)も御座(おは)しまさず。然(さ)れば、今(いま)の程(ほど)に、只人(ただひと)の御身にて、三代の国の重(おも)しといつかれ、両院とこしなへに仰(あふ)ぎ捧(ささ)げ奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、前(さき)の世(よ)も如何(いか)ばかりの功徳御座(おは)しまし、此(こ)の世(よ)にも、春日(かすが)大明神を初(はじ)め、万(よろづ)の神明仏陀の擁護あつく物(もの)し給(たま)ふにこそと、有(あ)り難(がた)くぞ推(お)し量(はか)られ給(たま)ふ。かくて御賀は二月三十日頃(ごろ)なり。本院・新院・東二条院・遊義門院〈 未(いま)だ宮(みや)と申(まう)す、 〉皆(みな)予(かね)てより北山に渡(わた)らせ給(たま)ふ。新陽明門院(しんやうめいもんゐん)も新院の一(ひと)つ御車にて御座(おは)します。二十九日の夜、先(ま)づ行幸(ぎやうがう)〈 後宇多 〉有(あ)り。雅楽寮(うたづかさ)楽を奏す。院司左衛門督公衡(きんひら)、事(こと)の由(よし)申(まう)して後、中門に寄(よ)せらる。其(そ)の後、春宮〈 伏見 〉行啓(ぎやうげい)、中門より下(お)りさせ給(たま)ふ。傅の大臣(おとど)二条、御車に参(まゐ)り給(たま)へり。其(そ)の日に成(な)りぬれば、寝殿(しんでん)の東面(ひがしおもて)の母屋(もや)・廂(ひさし)まで取(と)り払(はら)ひて、釈迦如来の絵像(ゑざう)掛(か)け奉(たてまつ)る。道場の飾(かざ)り、誠(まこと)の浄土の荘厳〔も〕、かくこそと、めでたく清(きよ)らを尽(つ)くされたり。御経の箱(はこ)二合、金泥(こんでい)の寿命経九十巻・法華経入(い)れ
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らる。名香(みやうかう)、柳の織物(おりもの)に藤を縫(ぬ)ひたるにて包(つつ)みて、御経の机(つくゑ)に寄(よ)せかく。御簾(みす)の中(なか)に、西の一間に繧繝(うげん)二帖、唐錦(からにしき)の褥(しとね)敷(し)きて、内の上の御座(ござ)とす。同(おな)じ御座(ござ)の北に、大文の高麗(かうらい)一帖敷(し)きて、春宮渡(わた)らせ給(たま)ふ。西の廂(ひさし)に、是(これ)も屏風を添(そ)へて、繧繝(うげん)二帖、錦(にしき)の褥(しとね)に、准后ゐ給(たま)へり。同(おな)じ廂(ひさし)に、東二条院渡(わた)らせ給(たま)ふ。遙々(はるばる)と、纐纈(かうけち)の几帳(きちやう)のかたびら出(い)だして、色々(いろいろ)の袖口(そでくち)共(ども)、御方々(かたがた)けぢめ別(わか)れて押(お)し出(い)でたる程(ほど)、龍田姫(たつたひめ)も斯(か)かる錦(にしき)の色は如何(いか)でかと、いみじう好(この)ましげなり。事(こと)なりぬるにや、両院・御門・春宮・大宮院・東二条院・今出川(いまでがは)の院・春宮の大夫など打(う)ち続(つづ)く、誦経(ずきやう)の鐘(かね)の響(ひび)きも、耳驚(おどろ)くばかり所(ところ)狭(せ)う聞(き)こゆ。衆僧集会(しふゑ)の鐘(かね)うちて後、上達部御前の座につく。階より東(ひんがし)に、関白〔兼平公〕・左大臣〔師忠公〕・内大臣〔家基公〕・花山院(くわさんゐん)の大納言(だいなごん)長雅・源大納言(だいなごん)通頼・大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)信嗣・右大将通基・春宮の大夫実兼・左大将公守(きんもり)・三条の中納言実重・花山院(くわさんゐん)の中納言家教・右衛門督公衡(きんひら)など候(さぶら)ひ給(たま)ふ。階より西(にし)に、四辻殿大納言(だいなごん)隆親・春宮の権大夫具守・権中納言宗冬・四条の宰相(さいしやう)隆保・右衛門の督為世(ためよ)など、祗候(しこう)せられたり。内の上、御引直衣(ひきなほし)・すずしの御袴(はかま)、本院御烏帽子(えぼし)直衣(なほし)・青鈍(あをにび)の御指貫(さしぬき)、新院、御直衣(なほし)・綾(あや)の指貫(さしぬき)、春宮、桜の御直衣(なほし)・霰(あられ)に〓(くわん)の紫(むらさき)の御指貫(さしぬき)、言(い)ひ知(し)らず艶(なま)めかしう見(み)え給(たま)ふ。今日は皆(みな)御簾(みす)の中(なか)に御座(おは)します。大女院、白き綾(あや)の三御衣(みつおんぞ)、東二条院、唐織物(からおりもの)の柳桜
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の八(や)つ・紅梅のひねりあはせの御単(ひとへ)・樺桜(かばざくら)の御小袿(こうちき)奉れり。姫宮(ひめみや)〈 遊義門院 〉、紅の匂(にほ)ひ十・紅梅の御小袿(こうちき)・萌黄(もえぎ)の御単(ひとへ)・赤色(あかいろ)の御唐衣(からぎぬ)・生絹(すずし)の御袴(はかま)奉(たてまつ)れる、常(つね)よりも殊(こと)に美(うつく)しうぞ見(み)え給(たま)ふ。御座(おは)しますらんと思(おも)ほす間のとほりに、内の上、常に御目(おま)じり只(ただ)ならず、御心(おんこころ)遣(づか)ひして御目(め)止(とど)め給(たま)ふ。楽人・舞人(まひびと)、鳥向楽(てうかうらく)を奏す。鶏婁(けいろう)を先(さき)だてて、乱声(らんじやう)、左右(さう)桙(ほこ)を振(ふ)る。其(そ)の後、壱越調(いちこつてう)の調子を吹(ふ)きて、楽人・舞人(まひびと)、衆僧集会(しふゑ)の所に向(むか)ひて、安楽塩(あんらくえん)を吹(ふ)く。衆僧、左右(さう)に分(わ)かれて参(まゐ)る。階(はし)の間より昇(のぼ)りて座に着(つ)く。講師、法印憲実。読師、僧正守助。導師、高座に上(のぼ)りぬれば、堂童子(だうどうじ)、花籠(けこ)を分(わ)かつ。杖とりの使(つか)ひ、公敦(きんあつ)の朝臣、杖(つえ)を退(しりぞ)けて舞(まひ)を奏する程(ほど)、気色ばかり打(う)ちそそぎたる春の雨、青柳の糸(いと)に玉ぬくかと見(み)えたり。一の舞、久資(ひさすけ)と言(い)ふ者、少(すこ)しねびていとよしよししう、面(おも)もち足踏(あしぶ)みかうさびて面白し。万歳楽(まんざいらく)・賀殿(かてん)・陵王(りようわう)、右、地久(ちきう)・延喜楽(えんぎらく)・納曾利(なつそり)。久忠二の物(もの)にて、勅禄の手と言(い)ふ事仕(つかうまつ)る時、右(みぎ)の大臣(おとど)座を立(た)ちて賞仰(おほ)せらるれば、承(うけたまは)りて拝し奉(たてまつ)る程(ほど)、いと艶(えん)なり。久資(ひさすけ)・正秋(まさあき)など言(い)ふ者(もの)共(ども)も、賞承(うけたまは)りて、笛を持(も)ちながら起(お)き伏(ふ)し拝する様(さま)も、つきづきしう故(ゆゑ)有(あ)りて見(み)ゆ。講讚の言葉(ことば)めでたういみじ。今(いま)の世(よ)には富楼那(ふるな)尊者(そんじや)の如(ごと)く言(い)はるる者(もの)なれば、心(こころ)止(とど)めて人々(ひとびと)聞(き)き給(たま)ふに、涙止(とど)め難(がた)き事(こと)共(ども)を言(い)ひ続(つづ)く。高座果(は)てて後、楽人、酒胡子(しゆこし)を奏す。其(そ)の程(ほど)に僧の禄(ろく)を給(たま)ふ。頭(とう)の中将(ちゆうじやう)公敦より始(はじ)めて、思(おも)ひ思(おも)ひ
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の姿(すがた)にて禄(ろく)を取(と)る。或(ある)は闕腋(わきあけ)に平胡〓(ひらやなぐひ)、縫腋(もとをし)の袍に革緒の剣など、心々(こころごころ)なり。俊定・経継などは、巡方(じゆんぱう)の帯をさしたり。衆僧まかりつる程(ほど)に、廻忽(くわいこつ)・長慶子(ちやうげいし)奏して、楽人・舞人(まひびと)も退(しりぞ)きぬる後、大宮院・准后の御台(みだい)参(まゐ)る。陪膳(はいぜん)権中納言、役送実時・宗冬・実躬・信輔・俊光など仕(つかうまつ)る。かくて、又(また)の日は三月(やよひ)の一日(ついたち)なり。寝殿(しんでん)の装(よそ)ひ昨日の儘(まま)なり。舞台・楽屋ばかりを取(と)りのけて、母屋(もや)の四方に壁代(かべしろ)をかく。両院・内の上の御簾(みす)の役(やく)、関白候(さぶら)ひ給(たま)ふ。春宮のは、傅遅(おそ)く参(まゐ)り給(たま)へば、大夫実兼勤(つと)め給(たま)ふ。内の上(うへ)、今日は例の御直衣(なほし)・紅〔の〕うちたる綿(わた)厚(あつ)き御衣(おんぞ)・織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)、いとめでたき御匂(にほ)ひなり。本院、かた織物(おりもの)の薄色(うすいろ)の御指貫(さしぬき)・少(すこ)し薄(うす)らかなる御直衣(なほし)、新院、雲に鶴(つる)の浮織物(うきおりもの)の御直衣(なほし)・同(おな)じ御指貫(さしぬき)・紅の今(いま)少(すこ)し色変(か)はれるを奉(たてまつ)る。有(あ)らまほしき程(ほど)にねび整(ととの)ほり、しうとくに、物々(ものもの)しき御様(さま)形(かたち)、あなきよげ、今(いま)ぞ盛(さか)りに見(み)え給(たま)ふ。春宮は色濃(こ)き御直衣(なほし)・浮線綾(ふせんりよう)の御指貫(さしぬき)・紅のうちたるあはせを奉(たてまつ)れり。とりどりにめでたく清(きよ)らに御座(おは)します御形(かたち)共(ども)の、いづれと無(な)くあな美(うつく)しと、打(う)ち見(み)奉(たてまつ)る人の心地(ここち)さへ、そぞろに笑(ゑ)まし。大宮院など〔は〕、〔まして〕何事(なにごと)をかは思(おぼ)すらむと推(お)し量(はか)られ給(たま)ふ。彼方(かなた)此方(こなた)の御随身(みずいじん)共(ども)、近(ちか)く候(さぶら)ひつるを、院出(い)でさせ給(たま)ひぬれば、退(しぞ)きて、御階(はし)の西に並(な)み居(ゐ)たる装束共(ども)、色々(いろいろ)の花(はな)をつけ、高麗(こま)・唐土(もろこし)の綾錦(あやにしき)、黄金(こがね)・銀(しろかね)を延(の)べたる様(さま)、いと余(あま)りうたて
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ある程(ほど)にぞ見(み)ゆる。今日は、内・春宮・両院、御膳参(まゐ)る。陪膳(はいぜん)花山院(くわさんゐん)の大納言(だいなごん)〔長雅、〕役送四条の宰相・三条の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)、本院の陪膳大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)信嗣、新院のは春宮の大夫など勤(つと)めらる。其(そ)の後、御遊(あそ)び始(はじ)まる。内の上(うへ)御笛、柯亭と言(い)ふ物(もの)とかや。御箱(はこ)に入(い)れたるを、忠世持(も)ちて参(まゐ)れるを、関白取(と)りて御前に奉(たてまつ)る。春宮、御琵琶玄象(げんしやう)、宮(みや)の権亮(ごんのすけ)親定持(も)ちて参(まゐ)れるを、大夫御前に置(お)かる。上達部の笛の箱(はこ)別に有(あ)り。笛兵部卿良教・花山院(くわさんゐん)の大納言(だいなごん)〈 長雅 〉、笙(しやう)源大納言(だいなごん)通頼・左衛門督、篳篥兼行(かねゆき)の朝臣、琵琶春宮の大夫、琴左大将・洞院(とうゐん)の三位の中将(ちゆうじやう)実泰(さねやす)、和琴大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)、拍子徳大寺(とくだいじ)の中納言公孝(きんたか)、末(すゑ)の拍子宗冬、皆(みな)人々(ひとびと)、直衣(なほし)に色々(いろいろ)の衣(きぬ)を出(い)だす。例(れい)の安名尊・席田(むしろだ)・鳥破急(とりのはきふ)・律(りつ)青柳・万歳楽・三台急(さんだいのきふ)。御遊(あそ)び果(は)てぬれば、殿上の五位共(ども)参(まゐ)りて、管絃の具を分(わ)かつ。御方々(かたがた)、冠(かうぶり)賜(たま)はり給(たま)ふ。道々(みちみち)の師共(ども)、加階(かかい)賜(たま)はる。其(そ)の後、和歌の披講始(はじ)まる。為道の朝臣、縫腋(もとをし)の袍に、壺(つぼ)負(お)いて、弓に懐紙を取(と)り具(ぐ)して、上達部の座の前を通(とほ)りて、階(はし)の間より入(い)りて、文台の上(うへ)に置(お)く。其(そ)の外の殿上人共(ども)の歌は、一(ひと)つに取(と)り集(あつ)めて、信輔一度(いちど)に文台に置(お)く。文台の東に円座を敷(し)きて、春宮披講の程(ほど)渡らせ給(たま)ふ。内宴などと言(い)ふ事(こと)にぞかくは有(あ)りけると、古(ふる)き例(ためし)も面白(おもしろ)くこそ。上達部皆(みな)色々(いろいろ)の衣を出(い)だす。右大将通基、魚綾(ぎよりよう)の山吹(やまぶき)の衣(きぬ)着(き)給(たま)へり。笏に歌を持(も)ち具(ぐ)し給(たま)ふ。内の上(うへ)の御歌は殿ぞ書(か)き給(たま)ひける。
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行(ゆ)く末(すゑ)を猶(なほ)長(なが)き代と契(ちぎ)るかな弥生(やよひ)にうつる今日(けふ)の春日に W
新院の御製(ぎよせい)は内大臣書(か)き給(たま)ふ。
百色(ももいろ)と今(いま)や鳴(な)くらん鴬も九(ここの)返(かへ)りの君が春へて W
春宮のは、左大将に書(か)かせらる。
限(かぎ)り無(な)き齢(よはひ)は未(いま)だ九十(ここのそぢ)猶(なほ)千代遠(とほ)き春にも有(あ)るかな W
製(せい)に応(おう)ずと、上文字載(の)せられたるも、内宴の例(ためし)とかや。次々(つぎつぎ)、例の多(おほ)けれど、むつかしくてもらしつ。春宮の大夫こそ、いとうけばりてめでたく侍(はべ)りしか。
代々の跡(あと)に猶(なほ)立(た)ち上(のぼ)る老(お)いの波(なみ)寄(よ)りけん年は今日(けふ)の為(ため)かも W
其(そ)の後(のち)、東向(ひんがしむき)の鞠(まり)の掛(か)かりある方へ渡(わた)らせ給(たま)ふ。御方々(かたがた)の女房、色々(いろいろ)の衣(きぬ)、昨日(きのふ)には引(ひ)きかへて、珍(めづら)しき袖口(そでくち)を思々(おもひおもひ)に押(お)し出(い)でたり。紫(むらさき)の匂(にほ)ひ・山吹(やまぶき)・青鈍(あをにび)・かうじ・紅梅・桜萌黄(さくらもえぎ)などは女院の御あかれ、内の御方は、内侍(ないし)の典侍(すけ)より下(しも)、皆(みな)松がさね・白格子(しろがうし)・うら山吹(やまぶき)、院の御方(かた)、葡萄染(えびぞ)めに白筋(しろすぢ)・樺桜(かばざくら)〔の〕青筋(あをすぢ)、春宮の女房、上(うへ)〔の〕紫格子(むらさきがうし)・柳(やなぎ)など、様々(さまざま)に目(め)もあやなる清(きよ)らを尽(つ)くされたり。同(おな)じ文(もん)も色もまじらず、心々(こころごころ)に変(か)はりて、いみじうぞ侍(はべ)りける。後嵯峨院、蓮花王院御幸有(あ)りし時、両貫首同(おな)じやうに、藤の下襲(したがさね)・山吹(やまぶき)の上(うへ)の袴(はかま)なりしをば、いと念無(な)き事(こと)に世(よ)の人(ひと)も言(い)ひ侍(はべ)りしにや。御方々
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の女房共(ども)、八十余人(よにん)押(お)しこりて候(さぶら)はるる、いづれとも無(な)く目(め)うつりして、いみじう形(かたち)も気色も目(め)安(やす)く持(も)て付(つ)けたり。後鳥羽院(ごとばのゐん)建仁の例(ためし)とて、新院御上鞠(あげまり)三足(みあし)ばかり立(た)たせ給(たま)ひて、落(お)とされぬ。内の上(うへ)、御直衣(なほし)・紺地(こんぢ)の御袴(はかま)、始(はじ)めは御草鞋(さうかい)を奉(たてまつ)りけれど、後には御沓、片足(かたあし)変(が)はりの御襪(したうづ)、藍白地竹(あゐしらぢだけ)・紫白地桐(きり)の文(もん)、紫革(むらさきかは)の御結緒(ゆひを)也(なり)。春宮、御直衣(なほし)・紫の御指貫(さしぬき)・同(おな)じ色革(いろかは)の御襪(したうづ)、新院、織物(おりもの)の御直衣(なほし)・御指貫(さしぬき)・文(もん)無(な)き紫(むらさき)の御襪(したうづ)、関白文(もん)無(な)きふすべ革(かは)、内の大臣(おとど)紫革(むらさきかは)に菊を縫(ぬ)ひたり。藤大納言(だいなごん)為氏(ためうじ)無文(むもん)のふすべ革(かは)、其(そ)の外色々(いろいろ)〔の〕錦革(にしきかは)・藍革(あゐかは)・藍白地(あゐしらぢ)、各(おのおの)けぢめわかるべし。為兼(ためかぬ)紫革(むらさきかは)、為道は藍白地(あゐしらぢ)なりけり。為兼(ためかぬ)とは、為氏(ためうじ)の大納言(だいなごん)の弟(おとと)兵衛督(ひやうゑのかみ)為教と言(い)ひしが子なり。為道は大納言(だいなごん)の孫(うまご)、為世(ためよ)の太郎なり。離(はな)れぬ中(なか)にて、いといたくいどみかはしたり。内の上(うへ)は、白骨(しらほね)の御扇、左の御手に持(も)たせ給(たま)ひて、花(はな)のいみじく面白(おもしろ)き木蔭(こかげ)に立(た)ち休(やす)らひ給(たま)へる御形(かたち)、いとゆゆしきまで清(きよ)らに見(み)え給(たま)ふ。飽(あ)かず名残(なごり)多(おほ)く思(おぼ)さるれど、春の司召(つかさめ)し・御燈など言(い)ふ事(こと)共(ども)あれば、行幸(ぎやうがう)は今夜帰(かへ)らせ給(たま)ふ。御贈(おく)り物(もの)に御本参(まゐ)る。明(あ)くる日、午(うま)の時(とき)ばかり、寝殿(しんでん)より西園寺(さいをんじ)まで筵道(えんだう)敷(し)きて、両院御烏帽子(えぼし)直衣(なほし)、春宮御括(くく)り上(あ)げて堂々拝(をが)ませ給(たま)ふ。左衛門督、新院の御はかせ持(も)給(たま)へり。権亮(ごんのすけ)親定、春宮の御はかし持(も)たれたり。妙音堂に御参(まゐ)り有(あ)るに、遅(おそ)き桜(さくら)一木ほころび初(そ)めて、今日の御幸を待(ま)ち顔(がほ)なり。仏の御前(まへ)に、仮初(かりそめ)の御座(おまし)ながら、
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皆(みな)渡(わた)らせ給(たま)ふ。廂(ひさし)に上達部つきて、御遊(ぎよいう)の具召(め)す。笛花山院(くわさんゐん)の大納言(だいなごん)、笙(しやう)左衛門督、篳篥兼行(かねゆき)、春宮御琵琶、大夫笙(しやう)、大鼓(たいこ)具顕(ともあき)、鞨鼓範藤(のりふぢ)、盤渉調(ばんしきてう)に調(しら)べ整(ととの)へて、採桑老(さいさうらう)・蘇合(そがふ)・白柱(はくちゆう)・千秋楽(せんしゆうらく)など、いみじう面白(おもしろ)し。うるはしき事(こと)よりも中々艶(えん)なり。兼行(かねゆき)、「花(はな)は上苑に明(あき)らかなり」と、打(う)ち出(い)だしたるに、いとど物(もの)の音(ね)持(も)てはやされて、えも言(い)はず聞(き)こゆ。具顕(ともあき)・範藤など「羅綺(らき)の重衣(ちようい)」と、二返(かへ)りばかり言(い)へるに、「情(なさ)け無(な)き事(こと)を機婦にねたみ」と本院加(くは)へ給(たま)へば、新院、御声(こゑ)助(たす)け給(たま)ふ程(ほど)、そぞろ寒きまで艶(えん)なり。帰(かへ)らせ給(たま)ひても、又(また)、昨日の花(はな)の蔭(かげ)にて、鞠(まり)御覧(ごらん)ぜられつつ、それよりやがて御船(みふね)に奉(たてまつ)りて押(お)し出(い)でたれば、遙(はる)かなる海づらに漕(こ)ぎ離(はな)れたらん心地(ここち)して、いとをかし。小(ちひ)さき舟(ふね)に上達部乗(の)りて、橋(はし)に付(つ)けられたり。飽(あ)かざりつる妙音堂の調子をうつされて、有(あ)りつる同(おな)じ人々(ひとびと)仕(つかうまつ)る。春宮又御琵琶。箏(しやう)の琴(こと)は右衛門督と言(い)ふ女房、御舟(ふね)に参(まゐ)れるに弾(ひ)かせらる。舟の中(うち)の調(しら)べはいと艶(えん)なり。蘇合の五帖・輪台・青海波・竹林楽・越殿楽(ゑてんらく)など、幾(いく)返(かへ)りとも無(な)く面白(おもしろ)し。兼行(かねゆき)「山(やま)又山(やま)」など打(う)ち誦(ずん)じたるに、「変態(へんたい)繽紛(ひんぷん)たり」と両院遊(あそ)ばしたるに、水(みづ)の底(そこ)も怪(あや)しきまで、身の毛(け)立(だ)ちぬべく〔は〕聞(き)こゆ。中島に御舟(ふね)差(さ)しとめて見(み)れば、旧苔(きうたい)年旧(ふ)りたる松(まつ)の枝(え)差(さ)しかはせる岩(いは)のたたずまひ、いと暗(くら)がりたるに、池の水浪、心(こころ)のどかに見(み)えて、名(な)も知(し)らぬ小鳥(ことり)共(ども)乱(みだ)れ飛(と)ぶ気色、何(なに)と無(な)くをかし。遠(とほ)きさかひに臨(のぞ)める心地(ここち)するに、めぐれる山(やま)の滝(たき)つ岩根(いはね)、
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遙(はる)かに霞(かす)みて見(み)渡(わた)さるる程(ほど)、仙の洞(ほら)もかくやとぞ覚(おぼ)ゆる。「二千里の外(ほか)の心地(ここち)こそすれ」など宣(のたま)ひて、新院、
雲の波(なみ)煙(けぶり)の波(なみ)を分(わ)けてけり
誰(たれ)にか有(あ)らん、女房の中(なか)より、
行(ゆ)く末(すゑ)遠(とほ)き君が御代とて W
春宮の大夫、
昔(むかし)にも猶(なほ)立(た)ち越(こ)ゆる貢(みつ)ぎ物(もの)
具顕(ともあき)の中将(ちゆうじやう)、
曇(くも)らぬ影(かげ)も神のまにまに W
春宮、
九十(ここのそぢ)に猶(なほ)も重(かさ)ぬる老(お)いのなみ
本院、
たちゐ苦(くる)しき世(よ)の習(なら)ひかな W
暮(く)れ果(は)つる程(ほど)に、釣殿(つりどの)へ御舟(ふね)寄(よ)せて、降(お)りさせ給(たま)ひぬ。春宮、今夜(こよひ)帰(かへ)らせ給(たま)へば、御贈(おく)り物(もの)に、和琴(わごん)一(ひと)つ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。誠(まこと)や、准后にも恵果(けいくわ)和尚の三(み)つ衣(ぎぬ)、紺地(こんぢ)の錦(にしき)に包(つつ)みて、銀(しろかね)
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の箱(はこ)に入(い)れて参(まゐ)る。いづれも大宮院の御沙汰(さた)なり。掃部寮(かもんれう)、火繁(しげ)うともして、打(う)ち群(む)れつつゐたる様(さま)も、艶(なま)めかしう雅(みやび)かなり。ここ彼処(かしこ)には、此(こ)の御賀の事(こと)共(ども)書(か)きつけしるす人のみぞ多(おほ)かめれば、片端(かたはし)だに、いとかたくなならんとあさまし。何(なに)と無(な)く過(す)ぎ行(ゆ)く程(ほど)に、弘安も十年になりぬ。此(こ)の御門(みかど)、位に即(つ)かせ給(たま)ひて、十三年ばかりに成(な)りぬらん。本院、待(ま)ち遠(どほ)に思(おぼ)さるらんと、いとほしく推(お)し量(はか)り奉(たてまつ)るにや、
例の東(あづま)より奏する事有(あ)るべし。新院の御方様(かたざま)には、心(こころ)細(ぼそ)う聞(き)こし召(め)し悩(なや)むべし。去年(こぞ)の春、御乳母(めのと)の按察(あぜち)の二位殿失(う)せにしかば、一めぐりの仏事(ぶつじ)に亀山殿へ御座(おは)しまして、いかめしう八講行(おこな)はせ給(たま)ふ日、雪(ゆき)いたう降(ふ)りければ、九条(くでう)の二位(にゐ)隆博、桧扇(ひあふぎ)のつまを折(を)りて、
跡(あと)とめて問(と)はるる御代の光(ひかり)をや雪(ゆき)の内(うち)にも思(おも)ひ入(い)るらん W
女房の中(なか)に聞(き)こえたるを、院御覧じて、返(かへ)しに宣(のたま)ふ。
無(な)き人の重(かさ)ねし罪(つみ)も消(き)えねとて雪(ゆき)の中(なか)にも跡(あと)を問(と)ふかな W
万(よろづ)飽(あ)かず思(おぼ)さるる程(ほど)なれど、其(そ)の年(とし)の十月に降(お)り居(ゐ)させ給(たま)ふ。もとの上(うへ)は二十一にぞならせ給(たま)ひける。御本性(ごほんじやう)もいとうるはしく、のどめたる様(さま)に思(おぼ)して、すくよかに、御才(ざえ)も賢(かしこ)うめでたく御座(おは)しませば、御政(まつりごと)なども漸(やうや)う譲(ゆづ)りや聞(き)こえましなど思(おぼ)されつるに、いと敢(あ)へ無(な)く移(うつ)ろひぬる世(よ)を、すげなく新院は思(おぼ)さるべし。春宮、位に
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即(つ)き給(たま)ひぬれば、天(あめ)の下(した)本院に推(お)し移(うつ)りぬ。世(よ)の中(なか)押(お)し別(わか)れて、人の心(こころ)共(ども)も、斯(か)かる際(きは)にぞ現(あらは)れける。今(いま)の御門も、故(こ)山階(やましな)の大臣(おとど)の御孫にて渡(わた)らせ給(たま)へば、彼(か)の殿(との)原(ばら)のみぞ、何方(いづかた)にもすさめぬ人にて御座(おは)しける。




増鏡 尾張徳川家本

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増鏡(ますかがみ) 下巻
第十一 さしぐし
正応元年(ぐわんねん)三月十五日(じふごにち)、官庁(くわんちやう)にて御即位(そくゐ)有(あ)り。此(こ)の程(ほど)は、香園院(かうをんゐん)の師忠(もろただ)左の大臣(おとど)関白にて御座(おは)しき。其(そ)の後(のち)、近衛殿(このゑどの)家基(いへもと)、又九条(くでう)の左大臣殿忠教(ただのり)、其(そ)の後(のち)、又近衛殿(このゑどの)かへりなり給(たま)ひき。猶(なほ)後(のち)に、歓喜園院(くわんきをんゐん)など、いと繁(しげ)う変(か)はり給(たま)ふ。おりゐの御門を、今(いま)は新院と聞(き)こゆれば、太上天皇三人(みたり)世(よ)に御座(おは)します頃なり。いと珍(めづら)しく侍(はべ)るにや。御門(みかど)の御母〈 玄輝門院(げんきもんゐん) 〉三位(さんみ)し給(たま)ふ。其(そ)の御はらからの姫君(ひめぎみ)、御傍(かたは)らに候(さぶら)ひ給(たま)ふを、上(うへ)いと忍(しの)びたる御むつび有(あ)るべし。東二条院の御例(ためし)にやなどささめく人もあれど、さばかりうけばりては、えしもや御座(おは)せざらむ。三位殿の御兄(せうと)の公守(きんもり)の大納言(だいなごん)の姫君(ひめぎみ)も、幼(をさな)くよりかしづきて候(さぶら)ひ給(たま)ふ。それも余所(よそ)ならぬ御契(ちぎ)りなるべし。此(こ)の君をぞ、父(ちち)の殿(との)も、いとうるはしき様(さま)にても、参(まゐ)らせまほしう覚(おぼ)えつれど、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)実兼の姫君(ひめぎみ)、いつしか参(まゐ)り給(たま)へば、きしろふべきにも有(あ)らず。其(そ)の年(とし)六月二日入内有(あ)り。其(そ)の夜先(ま)づ御裳着(もぎ)し給(たま)ふ。前(さき)の御代にもあらましは聞(き)こえしかど、如何(いか)なるにか、さも御座(おは)せざりしに、
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いつしかかうも有(あ)りけるは、猶(なほ)、思(おぼ)す心有(あ)りけるなめりとぞ、打(う)ち付(つ)けにひがひがしう言(い)ひなす人も侍(はべ)りける。此(こ)の姫君(ひめぎみ)の母(はは)北(きた)の方(かた)は、三条坊門(ばうもん)通成(みちなり)の内(うち)の大臣(おとど)の娘(むすめ)なり。候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も、押(お)しなべたらぬ限(かぎ)り択(え)り整(ととの)へ、いみじう清(きよ)らなるにと思(おぼ)し急(いそ)ぐ。万(よろづ)、人の心(こころ)も昨日に今日(けふ)は勝(まさ)り行(ゆ)くめれば、いや珍(めづら)に好(この)ましうめでたし。大方(おほかた)大宮(おほみや)の院の御参(まゐ)りの例(れい)を思(おぼ)しなずらふべし。院の御子(こ)に是(これ)も又なり給(たま)ふとて、東二条院御腰(こし)結(ゆ)はせ給(たま)ひて、時なりぬれば、唐庇(からびさし)の御車に奉(たてまつ)りて、上達部(かんだちめ)十人・殿上人十余人(よにん)・本所の前駆(ぜんくう)二十人、つい松(まつ)ともして、御車の左右(さう)に候(さぶら)ふ。出車(いだしぐるま)十両、一の左に母(はは)北(きた)の方(かた)の御妹(いもうと)一条殿、右(みぎ)に二条殿、実顕(さねあき)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)の娘(むすめ)を、大納言(だいなごん)の子にし給(たま)ふとぞ聞(き)こえし。二(に)の車の左に久我(こが)の大納言(だいなごん)雅忠(まさただ)の娘(むすめ)、三条とつき給(たま)ふを、いとからい事(こと)に歎(なげ)き給(たま)へど、皆人先(さき)立(だ)ちてつき給(たま)へれば、あきたる儘(まま)とぞ慰(なぐさ)められ給(たま)ひける。右(みぎ)に近衛殿(このゑどの)、源大納言(だいなごん)雅家(まさいへ)の娘(むすめ)。三(さん)の左に大納言(だいなごん)の君、室町(むろまち)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)公重(きんしげ)の娘(むすめ)、右(みぎ)に新大納言(だいなごん)、同(おな)じ三位(さんみ)兼行(かねゆき)とかやの娘(むすめ)。四の左宰相(さいしやう)の君、坊門(ばうもん)の三位(さんみ)基輔(もとすけ)の娘(むすめ)、右(みぎ)は治部卿兼倫(かねとも)の三位の娘(むすめ)也(なり)。それより下(しも)は例(れい)のむつかしくてなん。多(おほ)くは本所の家司(けいし)、何(なに)くれが娘(むすめ)共(ども)なるべし。童(わらは)・下仕(しもづか)へ・御雑仕(ざふし)・端者(はたもの)に至(いた)るまで、髪(かみ)形(かたち)目(め)安(やす)く親(おや)打(う)ち具(ぐ)し、少(すこ)しもかたほなる無(な)く整(ととの)へられたり。其(そ)の暮(く)れつ方(かた)、頭(とう)の中将(ちゆうじやう)為兼(ためかぬ)の朝臣、御消息(せうそこ)持(も)て参(まゐ)れり。内の上(うへ)、自(みづか)ら遊(あそ)ばし
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けり。
雲の上(うへ)に千代をめぐらん初(はじ)めとて今日(けふ)の日影(ひかげ)もかくや久(ひさ)しき W
紅(くれなゐ)の薄様(うすやう)に、同(おな)じ薄様(うすやう)にぞ包(つつ)まれたんめる。関白殿、「包(つつ)むやう知(し)らず」とかや宣(のたま)ひけるとて、花山に心得(え)たると聞(き)かせ給(たま)ひければ、遣(つか)はして包(つつ)ませられけるとぞ承(うけたまは)りしと語(かた)るに、又此(こ)の具(ぐ)したる女、「いつぞやは、御(おん)使(つか)ひ、実教の中将(ちゆうじやう)とこそは語(かた)り給(たま)ひしか」と言(い)ふ。女御の御装(よそ)ひは、蘇芳(すはう)のはり一重(ひとへ)がさね・濃(こ)きうらのひへぎ・濃(こ)き蘇芳(すはう)の御表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の御唐衣(からぎぬ)・濃(こ)き御袴(はかま)・地摺(ぢずり)の御裳(も)奉(たてまつ)る。女房の装(よそ)ひ、押(お)しなべて皆(みな)蘇芳(すはう)のはり一重(ひとへ)がさね・紅(くれなゐ)のひへぎ・濃(こ)き袴(はかま)・蘇芳(すはう)の表着(うはぎ)・青朽葉(あをくちば)の唐衣(からぎぬ)・薄色(うすいろ)の裳(も)・三重(みへ)だすき、上下(かみしも)同(おな)じ様(さま)也(なり)。参(まゐ)り給(たま)ひぬれば、蔵人左衛門権佐俊光(としみつ)承(うけたまは)りて、手車(てぐるま)の宣旨(せんじ)有(あ)り。殿上人参(まゐ)りて御車引(ひ)き入(い)れ、御兄(せうと)の中納言公衡(きんひら)、別当兼(か)ね給(たま)へり。上(うへ)の御甥(をひ)の左衛門督通重(みちしげ)、御兄(せうと)になずらうる由(よし)聞(き)こゆれば、御屏風・御几帳(きちやう)立(た)てらる。昼(ひ)の御座(ござ)へ御車寄(よ)せらる。御衾(ふすま)、二位殿参(まゐ)らせ給(たま)ふ。御台(みだい)参(まゐ)りて、やがて夜(よる)の御殿(おとど)へまう上(のぼ)り給(たま)ふ。此(こ)の御衾(ふすま)は、京極院(きやうごくゐん)のめでたかりし例(れい)とかや聞(き)こえて、公守(きんもり)の大納言(だいなごん)、沙汰(さた)し申(まう)されけるとかや承(うけたまは)りしは、誠(まこと)にや侍(はべ)りけん。三夜(さんや)の餅(もちひ)も、やがて彼(か)の大納言(だいなごん)沙汰(さた)し申(まう)さる。内の上(うへ)の、夜(よる)の御殿(おとど)へ召(め)して入(い)らせ給(たま)ひたる御草鞋(さうかい)をば、二位殿取(と)りて出(い)で給(たま)ひて、大納言(だいなごん)殿(どの)と二人(ふたり)の御中(なか)
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に抱(いだ)きて寝(ね)給(たま)ふと聞(き)こえし。さきざきも然(さ)る事(こと)にてこそは侍(はべ)りけめな。八日、御所(ところ)現(あらは)しとて、上(うへ)渡(わた)らせ給(たま)へば、袖口(そでくち)共(ども)心(こころ)殊(こと)にて、わざとなく押(お)し出(い)ださる。今日(けふ)は、各(おのおの)紅(くれなゐ)の一重(ひとへ)がさね・青朽葉(あをくちば)の表着(うはぎ)・二藍(ふたあゐ)の唐衣(からぎぬ)なり。大納言(だいなごん)殿(どの)も候(さぶら)はせ給(たま)ふ。上(うへ)も御台(みだい)参(まゐ)る。二位殿御陪膳(はいぜん)、女御のは一条殿仕(つかまつ)り給(たま)ふ。女御の君は、蘇芳(すはう)のはり一重(ひとへ)がさね・紅(くれなゐ)のひへぎ・青朽葉(あをくちば)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)二重(ふたへ)織物(おりもの)・唐(から)の薄物(うすもの)の御裳(も)・濃(こ)き綾(あや)の御袴(はかま)、御髪(みぐし)いとうるはしくて盛(さか)りにねび整(ととの)ほり給(たま)へる、いと見所(みどころ)多(おほ)くめでたし。御共(とも)に参(まゐ)り給(たま)へる人々(ひとびと)、右大臣・内大臣・大納言(だいなごん)の左大将(さだいしやう)・花山院(くわさんゐん)の中納言・権大夫・殿上人共(ども)、数多(あまた)此処(ここ)彼処(かしこ)の打橋(うちはし)・渡殿(わたどの)などに、気色(けしき)ばみつつ群(む)れ居(ゐ)たるも、艶(えん)なる心地(ここち)すべし。上達部(かんだちめ)の勧盃(けんぱい)果(は)てて後、内の御方(かた)の御乳母(めのと)を始(はじ)めて、内侍(ないし)・女官(にようくわん)共(ども)、かなへ殿まで禄(ろく)賜(たま)はる。十日の夕つ方(かた)、下大所の御覧(ごらん)有(あ)り。台盤所(だいばんどころ)の北の御壺(つぼ)へ参(まゐ)る。同(おな)じそばの間(ま)にて、内の御方(かた)御覧(ごらん)ぜらる。やがて東(ひがし)面(おもて)より女御も御覧(ごらん)ず。二位殿・一条殿・二条殿を始(はじ)めて、上臈(じやうらふ)だつ人々(ひとびと)、数多(あまた)候(さぶら)ひ給(たま)ふ。御簾(みす)の外(と)にも、上達部(かんだちめ)数多(あまた)候(さぶら)はる。いとはればれし。十四日、又内の上(うへ)入(い)らせ給(たま)ひて、此方(こなた)にて初(はじ)めて御酒(みき)聞(き)こし召(め)せば、南面(みなみおもて)へ出(い)でさせ給(たま)ふ。女御、蘇芳(すはう)の御一重(ひとへ)がさね・萩の経青(たてあを)の御表着(うはぎ)・朽葉(くちば)の御小袿(こうちき)、皆(みな)二重(ふたへ)織物(おりもの)・綾(あや)の織物(おりもの)、生絹(すずし)の御袴(はかま)、御紋(もん)竹立涌(たけたてわけ)を織(お)る。上(うへ)
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は、御引直衣(ひきなほし)・生絹(すずし)の御袴(はかま)、櫑子(らいし)参(まゐ)る。御陪膳(はいぜん)は一条殿、今日(けふ)よりは打(う)ちとけたる心地(ここち)にて、女房共(ども)色々(いろいろ)の一重(ひとへ)がさね・唐衣(からぎぬ)、様々(さまざま)珍(めづら)しき色共(ども)を尽(つ)くして、生絹(すずし)の袴(はかま)に着(き)かへたる、今(いま)少(すこ)し見所(みどころ)そひて、なつかしき様(さま)也(なり)。得選(とくせん)、櫑子(らいし)を持(も)て参(まゐ)る。次第(しだい)に取(と)りつぎて参(まゐ)らす。金(かね)の御ごき・銀(しろがね)の片口(かたくち)の御銚子(てうし)、一条殿御陪膳(はいぜん)、其(そ)の後(のち)、女御殿(どの)も御銚子(てうし)に手掛(か)けさせ給(たま)ふ事侍(はべ)りけり。今宵(こよひ)二位殿、今出川(いまでがは)へまかで給(たま)ひて、車(くるま)の宣旨(せんじ)許(ゆ)り給(たま)ふ。御送(おく)りに御子の公衡(きんひら)の中納言。御甥(をひ)の通重(みちしげ)の左衛門(さゑもん)の督(かみ)など、殿上人共(ども)数多(あまた)也(なり)。縫殿(ぬひどの)の陣(ぢん)より出(い)で給(たま)ふ気色(けしき)、いとよそほし。誠(まこと)や、御入内の夜の御(おん)使(つか)ひ、勾当(こうたう)の内侍(ないし)参(まゐ)れりし禄(ろく)に、表着(うはぎ)・唐衣(からぎぬ)を賜(たま)はる。御消息(せうそこ)に御(おん)使(つか)ひに参(まゐ)れりし上人(うへびと)も、女(をんな)の装束(しやうぞく)かづきながら帰(かへ)り参(まゐ)りて、殿上の口(くち)に落(お)とし捨(す)つ。主殿寮(とのもりづかさ)ぞ取(と)る習(なら)ひなりけり。後朝(こうてう)の御(おん)使(つか)ひには、実連(さねつら)の中将(ちゆうじやう)なりし。公衡(きんひら)の中納言対面(たいめん)して、勧盃(けんぱい)の後(のち)、是(これ)も女(をんな)の装束(しやうぞく)かづけらる。かくて八月二十日、后に立ち給(たま)ふ。予(かね)てより今出川(いまでがは)の御家(いへ)へまかで給(たま)ひて、節会(せちゑ)の儀式(ぎしき)、引(ひ)き移(うつ)し待(ま)ち取(と)り給(たま)ふ様(さま)、いとめでたく、今更(いまさら)ならぬ事(こと)なれど、父の殿も遂(つひ)の御位(くらゐ)はさこそなれど、只今(ただいま)差(さ)しあたりては、未(いま)だ浅(あさ)く御座(おは)するに、すがやかに后妃(こうひ)の位(くらゐ)に定(さだ)まり給(たま)ふ事(こと)、限(かぎ)り無(な)き御世覚(おぼ)えと、めでたく見(み)ゆ。大宮院・本院・東二条院、皆(みな)渡(わた)り御座(おは)しまして、見奉(たてまつ)り給(たま)ふさへぞ止(や)む事(ごと)無(な)き。今日(けふ)は、紅(くれなゐ)のはり一重(ひとへ)がさね・ひへぎ・女郎花(をみなへし)の表着(うはぎ)・二藍(ふたあゐ)
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の唐衣(からぎぬ)・薄色(うすいろ)の裳(も)、すべて二十人、同(おな)じ色の装(よそ)ひ也(なり)。此(こ)の外(ほか)、威儀(ゐぎ)の女房八人、白(しろ)きはり一重(ひとへ)がさね、濃(こ)きひへぎ、同(おな)じ袴(はかま)、女郎花(をみなへし)の衣にて候(さぶら)ふ。いづれと無(な)く、形(かたち)共(ども)きよげに目(め)安(やす)し。其(そ)の年(とし)の十一月八日ぞ、后(きさい)の宮(みや)の御父(ちち)、右大将になり給(たま)ひぬる。同(おな)じ二十五日、正(しやう)二位し給(たま)ふ。此(こ)の程(ほど)は、大嘗会(だいじやうゑ)・五節(ごせち)など罵(ののし)る。前(さき)の御世(よ)には引(ひ)きかへて、中宮〈 永福門院(えいふくもんゐん) 〉、皇后〈 遊義門院(いうぎもんゐん) 〉、宮、院達(たち)、あかれあかれ多(おほ)く御座(おは)しませば、殿上人共(ども)推参(すいさん)の所多(おほ)く、頭(かしら)痛(いた)きまでめぐり歩(あり)く。其(そ)の年(とし)十二月に、御門(みかど)の御母三位殿、院号(ゐんがう)有(あ)り。朝に准后の宣旨(せんじ)有(あ)りて、同(おな)じ日の夕べに玄輝門院(げんきもんゐん)と申(まう)す。めでたくいみじかりき。年(とし)返(かへ)りて、正応も二年(にねん)になりぬ。万(よろづ)めでたき事(こと)共(ども)多(おほ)くて、三月二十三日、鳥羽殿へ朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)なる。本院は、予(かね)てより鳥羽(とば)殿(どの)に御座(おは)しまして、池の水草(みくさ)かき払(はら)ひ、いみじう磨(みが)かれて、例(れい)のことごとしき唐(から)の御船(みふね)浮(う)かめられて、二十四日〔に〕舞楽(まひがく)有(あ)りき。六日にぞ返(かへ)らせ給(たま)ひける。さても、去年(こぞ)の三月三日かとよ、経氏(つねうじ)の宰相の娘(むすめ)〈 中そのの准后 〉の御腹(おんはら)に、若宮(わかみや)出(い)で来(き)させ給(たま)へりしを、太子〈 後伏見 〉に立(た)て奉(まつ)らせ給(たま)ふ。いと賢(かしこ)き御宿世(しゆくせ)也(なり)。中宮の御子にぞなし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。同(おな)じうは、誠(まこと)にて御座(おは)せしかばとぞ、大将殿など思(おぼ)しけんかし。おりゐの御門(みかど)〈 後宇多 〉、御子数多(あまた)御座(おは)しませば、坊になど思(おぼ)しけるを、引(ひ)き避(よ)ぎぬる、いと本意(ほい)無(な)し。十月五日に、一院〈 後深草 〉の御所にて、真魚(まな)聞(き)こし召(め)す。いとめでたき事(こと)共(ども)、罵(ののし)り過(す)ぎもて行(ゆ)く。同(おな)じ
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三年三月四日五日の頃(ころ)、紫宸殿(ししんでん)の獅子(しし)・狛犬(こまいぬ)、中(なか)より割(わ)れたり。驚(おどろ)き思(おぼ)して御占(うら)有(あ)るに、「血(ち)流(なが)るべし」とかや申(まう)しければ、如何(いか)なる事(こと)の有(あ)るべき〔に〕かと、誰(たれ)も誰(たれ)も思(おぼ)し騒(さわ)ぐに、其(そ)の九日の夜、衛門(ゑもん)の陣より、恐(おそ)ろしげなる武士(もののふ)三、四人(さんよにん)、馬に乗(の)りながら九重(ここのへ)の中(なか)へ馳(は)せ入(い)りて、上(うへ)に昇(のぼ)りて、女嬬(によず)が局(つぼね)の口(くち)に立(た)ちて、「やや」と言(い)ふ〔者(もの)〕を見(み)上(あ)げたれば、丈(たけ)高(たか)く恐(おそ)ろしげなる男(をとこ)の、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の鎧(よろひ)直垂(ひたたれ)に、緋(ひ)をどしの鎧(よろひ)着(き)て、只(ただ)赤鬼(あかおに)などのやうなる面付(つらつき)にて、「御門(みかど)は何処(いづく)に御(お)寝(よ)るぞ」と問(と)ふ。「夜(よる)の御殿(おとど)に」といらふれば、「何処(いづく)ぞ」と又問(と)ふ。「南殿(なんでん)より東(ひんがし)北の隅(すみ)」と教(をし)ふれば、南(みなみ)様(ざま)へ歩(あゆ)み行(ゆ)く間(ま)に、女嬬(によず)、内(うち)より参(まゐ)りて、権大納言(だいなごん)の典侍(すけ)殿(どの)・新内侍殿などに語(かた)る。上(うへ)は、中宮の御方に渡(わた)らせ給(たま)ひければ、対(たい)の屋(や)へ忍(しの)びて逃(に)げさせ給(たま)ひて、春日(かすが)殿(どの)へ、女房のやうにて、いと怪(あや)しき様(さま)を作(つく)りて、入(い)らせ給(たま)ふ。内侍(ないし)、剣璽(けんじ)を取(と)りて出(い)づ。女嬬(によず)は玄象(げんしやう)・鈴鹿(すずか)取(と)りて逃(に)げけり。春宮をば、中宮の御方(かた)の按察(あぜち)殿(どの)抱(いだ)き参(まゐ)らせて、常盤井(ときはゐ)殿(どの)へ徒歩(かち)にて逃(に)ぐ。其(そ)の程(ほど)の心(こころ)の中(うち)共(ども)言(い)はん方無(な)し。此(こ)の男(をとこ)をば、浅原(あさはら)の某(なにがし)とか言(い)ひけり。からくして、夜(よる)の御殿(おとど)へ尋(たづ)ね参(まゐ)りたれども、大方(おほかた)人も無(な)し。中宮の御方(かた)の侍(さぶらひ)の長(をさ)景政(かげまさ)と言(い)ふ者(もの)、名乗(なの)り参(まゐ)りて、いみじく戦(たたか)ひ防(ふせ)きければ、疵(きず)被(かうぶ)りなどしてひしめく。斯(か)かる程(ほど)に、二条京極(きやうごく)の篝屋(かがりや)備後(びんご)の守(かみ)とかや、五十余騎(よき)にて馳(は)せ参りて時(とき)を作(つく)るに、合(あ)はする声(こゑ)、はつかに聞(き)こえければ、心(こころ)安(やす)くて内に参(まゐ)る。御殿共(ども)の格子(かうし)
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引(ひ)きかなぐりて乱(みだ)れ入(い)るに、適(かな)はじと思(おも)ひて、夜(よる)の御殿(おとど)の御褥(しとね)の上(うへ)にて、浅原(あさはら)自害(じがい)しぬ。太郎なりける男(をのこ)は、南殿(なんでん)の御帳(みちやう)の内(うち)にて自害(じがい)しぬ。弟(おとと)の八郎と言(い)ひて十九になりけるは、大床子(だいしやうじ)の足(あし)の下(した)にふして、寄(よ)る者(もの)の足(あし)を斬(き)り斬(き)りしけれども、さすが、数多(あまた)して搦(から)めんとすれば、適(かな)はで自害(じがい)するとて、腸(はらわた)をば皆(みな)繰(く)り出(い)だして、手(て)にぞ持(も)たりける。其(そ)の儘(まま)ながら、いづれをも六波羅(ろくはら)へ舁(か)き続(つづ)けて出(い)だしけり。ほのぼのと明(あ)くる程(ほど)に、内・春宮、御車にて忍(しの)びて帰(かへ)らせ給(たま)ひて、昼(ひる)つ方(かた)ぞ、又(また)更(さら)に春日(かすが)殿(どの)へなる。大方、雲の上(うへ)汚(けが)れぬれば、如何(いかが)にて、中宮の昼(ひ)の御座(ござ)へ腰輿(えうよ)寄(よ)せて、兵衛の陣より出(い)でさせ給(たま)ふ。春宮は糸毛(いとげ)の御車にて、又常盤井(ときはゐ)殿(どの)へ渡(わた)らせ給(たま)ふ。中宮も春日(かすが)殿(どの)へ行啓(ぎやうげい)なる。世(よ)の中(なか)ゆすり騒(さわ)ぐ様(さま)、言(こと)の葉(は)も無(な)し。此(こ)の事(こと)、次第(しだい)に六波羅(ろくはら)にて尋(たづ)ね沙汰(さた)する程(ほど)に、三条の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)実盛(さねもり)も召(め)しとられぬ。三条の家に伝(つた)はりて、鯰尾(なまづを)とかや言(い)ふ刀(かたな)の有(あ)りけるを、此(こ)の中将(ちゆうじやう)、日頃(ひごろ)持(も)たれたりけるにて、彼(か)の浅原(あさはら)自害(じがい)したるなど言(い)ふ事(こと)共(ども)出(い)で来(き)て、中(なか)の院(ゐん)〈 亀山、後宇多歟 〉も知(し)ろし召(め)したるなど言(い)ふ聞(き)こえ有(あ)りて、心(こころ)憂(う)くいみじきやうに言(い)ひあつかふ、いとあさまし。中宮の御兄(せうと)権大納言公衡(きんひら)、一院の御前(まへ)にて、「此(こ)の事(こと)は、猶(なほ)、禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)の御心(おんこころ)合(あ)はせたるなるべし。後嵯峨院の御処分(そぶん)を引(ひ)き違(たが)へ、東(あづま)よりかく当代(たうだい)をも据(す)ゑ奉(たてまつ)り、世(よ)を知(し)ろし召(め)さする事(こと)を、心(こころ)よからず思(おぼ)すによりて、世(よ)を傾(かたぶ)け給(たま)はんの御本意(ほんい)なり。さてなだらかにも御座(おは)しまさば、勝(まさ)る事(こと)や出(い)で詣(まう)でこ
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ん。院を先(ま)づ六波羅(ろくはら)に移(うつ)し奉(たてまつ)らるべきにこそ」など、彼(か)の承久の例(ためし)も引(ひ)き出(い)でつべく申(まう)し給(たま)へば、いといとほしうあさましと思(おぼ)して、「如何(いか)でか、さまでは有(あ)らん。実(じち)ならぬ事(こと)をも、人はよく言(い)ひなす物(もの)也(なり)。故(こ)院の無(な)き御影(かげ)にも、思(おぼ)さん事(こと)こそいみじけれ」と涙ぐみて宣(のたま)ふを、心(こころ)弱(よわ)く御座(おは)しますかなと、見奉(たてまつ)り給(たま)ひて、猶(なほ)内(うち)よりの仰(おほ)せなど、厳(きび)しき事(こと)共(ども)聞(き)こゆれば、中(なか)の院(ゐん)〈 亀山 〉も新院〈 後宇多 〉も思(おぼ)し驚(おどろ)く。いとあわたたしきやうになりぬれば、如何(いかが)はせんにて、知(し)ろし召(め)さぬ由(よし)誓(ちか)ひたる御消息(せうそこ)など、東(あづま)へ遣(つか)はされて後ぞ、事(こと)鎮(しづ)まりにける。〔さて〕九月(ながつき)の初(はじ)めつ方(かた)、中(なか)の院(ゐん)は御髪(みぐし)下(お)ろさせ給(たま)ふ。いと哀(あは)れなる事(こと)共(ども)多(おほ)かるべし。禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)にて、やがて御如法経(によほふきやう)など書(か)かせ給(たま)ふ。一院の世(よ)の中(なか)恨(うら)み思(おぼ)されし時、既(すで)にと聞(き)こえしは、さも御座(おは)しまさで、かくすがやかにせさせ給(たま)ひぬる、いと定(さだ)め無(な)し。しばしは禅僧にならせ給(たま)ふとて、緑衫(ろうさう)の御衣(ころも)に掛絡(くわら)と言(い)ふ袈裟(けさ)掛(か)けさせ給(たま)へり。四十一にぞ物(もの)し給(たま)ひける。御法名(ほふみやう)金剛覚(こんがうかく)と申(まう)すなり。新陽明門院(しんやうめいもんゐん)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、色々(いろいろ)の御召人(めしうど)共(ども)、廊(らう)の御方(かた)・讚岐(さぬき)の二位殿など、寂(さび)しき院に残(のこ)りて、或(ある)は様(さま)かへ、或(ある)は里(さと)へまかでなど、様々(さまざま)散(ち)り散(ぢ)りになる程(ほど)、いと心(こころ)細(ぼそ)し。中務(なかづかさ)の宮(みや)の御娘(むすめ)は、もとよりいとあざやかならぬ御覚(おぼ)えなりしかば、世(よ)を捨(す)てさせ給(たま)ふ際(きは)とても、取(と)りわきたる御名残(なごり)も無(な)かるべし。禅林寺(ぜんりんじ)の上(うへ)の院の、人離(はな)れたる方(かた)に据(す)ゑ聞(き)こえさせ給(たま)へれば、殊(こと)に触(ふ)れて、いと寂(さび)しく、
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心(こころ)細(ぼそ)き御有様(おんありさま)なるを、自(おの)づから言(こと)問(と)ひ聞(き)こゆる人も無(な)し。源氏(げんじ)の末の君に、中将(ちゆうじやう)ばかりなる人、院に親(した)しく仕(つかうまつ)りなれて、家もやがて其(そ)の渡(わた)りにあれば、程(ほど)近(ちか)き儘(まま)に、折々(をりをり)此(こ)の宮の御宿直(とのゐ)など心(こころ)に掛(か)けて仕(つかまつ)るを、候(さぶら)ふ人々(ひとびと)もいと有(あ)り難(がた)くもと思(おも)ふ。宮の御方(かた)は、此(こ)の頃(ごろ)いみじき御盛(さか)りの程(ほど)にて、まほに美(うつく)しう御座(おは)しますを、あたらしう見奉(たてまつ)りはやす人の無(な)き事(こと)と思(おも)ひあへり。七月ばかり、風あららかに吹(ふ)き、稲妻(いなづま)けしからずひらめきて、神鳴(な)り騒(さわ)ぐ、常(つね)よりも恐(おそ)ろしき夜、はかばかしき人も無(な)ければ、上下(かみしも)いとあわたたしく、心(こころ)細(ぼそ)う思(おぼ)し惑(まど)ふ。法皇は、亀山(かめやま)殿(どの)に過(す)ぎにし頃(ころ)より御座(おは)しませば、近(ちか)きあたりにだに人のけはひも聞(き)こえず。哀(あは)れなる程(ほど)の御有様(おんありさま)にて、墨(すみ)をすりたらむやうなる空の気色(けしき)のうとましげなるを、眺(なが)めさせ給(たま)ふ程(ほど)に、例(れい)の中将(ちゆうじやう)、そぼち参(まゐ)りて、侍(さぶらひ)めく者(もの)一(ひとり)、二人(ふたり)、弓をなど持(も)たせて、「御宿直(とのゐ)仕(つかまつ)らせ侍(はべ)るべし。某(なにがし)も、侍(さぶらひ)の方(かた)に侍(はんべ)らん」など申(まう)すにぞ、いささか頼(たの)もしくて、人々(ひとびと)慰(なぐさ)め給(たま)ふ。御座(おは)します母屋(もや)にあたれる廂(ひさし)の勾欄(かうらん)に押(お)し掛(か)かりて、香染(かうぞ)めのなよらかなる狩衣(かりぎぬ)に、薄色(うすいろ)の指貫(さしぬき)打(う)ちふくだめたる気色(けしき)にて、しめじめと物語(ものがたり)しつつ、いたう更(ふ)け行(ゆ)くまで、つくづくと候(さぶら)ひ給(たま)へば、御簾(みす)の中(なか)にも心(こころ)遣(づか)ひして、はかなきいらへなど聞(き)こゆ。暁(あかつき)がたになりぬれば、御几帳(きちやう)引(ひ)き寄(よ)せて、御殿(との)ごもりぬる傍(かたは)らに、いと馴(な)れ顔(がほ)に添(そ)ひふす男(をとこ)有(あ)り。夢かやと思(おぼ)して御覧(ごらん)じ上(あ)げたれば、「年月(としつき)、思(おも)ひ聞(き)こえ
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つる様(さま)、おほけなく有(あ)るまじき事(こと)と思(おも)ひかへさひ、ここら忍ぶるに余(あま)りぬる程(ほど)、只(ただ)少(すこ)し、かくて胸(むね)をだに休(やす)め侍らんばかり」など、いみじげに聞(き)こゆるは、早(はや)う有(あ)りつる中将(ちゆうじやう)なりけり。いとうたて、心(こころ)憂(う)の業(わざ)やと思(おぼ)すに、御涙もこぼれぬ。近(ちか)き手(て)あたり御もてなしのなよびかさなど、まして思(おも)ひ沈(しづ)むべうも無(な)ければ、いといとほしう、ゆくりなき事(こと)とは思(おも)ひながら、残(のこ)りなうなりぬ。身のうさの限(かぎ)りなうも有(あ)るかなと、前(さき)の世(よ)も恨(うら)めしう、言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)き事(こと)を思(おぼ)し続(つづ)けて、よよと泣(な)き給(たま)ふ様(さま)、いよいよらうたし。見(み)るとしも無(な)き夢のただぢを打(う)ち驚(おどろ)かす鐘(かね)の声(こゑ)・鳥の音も、人遣(や)りならぬ心(こころ)づくしに、え出(い)で遣(や)らず。
起(お)き別(わか)れ行(ゆ)く空も無(な)き道芝(みちしば)の露より先(さき)に我(われ)や消(け)なまし W
出(い)でがてに休(やす)らひたる面影(おもかげ)も、何(なに)の御目(め)止(と)まるふしも無(な)し。さばかりいみじかりし院の御目(め)うつりに、こよなの契(ちぎ)りの程(ほど)やと、思(おぼ)し知(し)らるるもつらければ、いらへもし給(たま)はず。あさましうも心(こころ)憂(う)くも、様々(さまざま)思(おぼ)し乱(みだ)るるに、御心地(ここち)もまめやかに損(そこ)なはれぬべし。按察(あぜち)の君(きみ)と言(い)ふ人、語(かた)らひとられけるなめり。忍(しの)びて御消息(せうそこ)繁(しげ)う聞(き)こゆるをも、いとうたて、心(こころ)づきなう思(おぼ)されながら、さてしも果(は)てぬ習(なら)ひにや、いと又哀(あは)れなる事(こと)さへ物(もの)し給(たま)ひけり。斯(か)かるに付(つ)けても、此(こ)の世一(ひと)つには有(あ)らざりける御契(ちぎ)りの程(ほど)、浅(あさ)からず推(お)し量(はか)らる。中将(ちゆうじやう)も世(よ)と共(とも)にあくがれ勝(まさ)りて、夢の通(かよ)ひ路(ぢ)、足(あし)も休(やす)めず成(な)り行(ゆ)く。此(こ)の御気色も漸(やうや)うしるき程(ほど)になり給(たま)へ
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ば、空恐(おそ)ろしと、忍(しの)びて御乳母(めのと)だつ人の家など言(い)ひなして、白河(しらかは)わたり、かごやかにをかしき所用意(ようい)して、率(ゐ)て渡(わた)し奉(たてまつ)りつつ、猶(なほ)自(みづか)らは、さすがに世(よ)のつつましければ、忍(しの)びつつぞ御宿直(とのゐ)しける。そこにてこそ御子も生(う)み給(たま)ひけれ。此(こ)の中将(ちゆうじやう)、才(ざへ)賢(かしこ)くて、末の世(よ)には、事(こと)の外(ほか)にもてなされて、先(ま)づ一品(いつぽん)して、しばし御座(おは)せし頃(ころ)、御百首(ひやくしゆ)の歌に、
位山(くらゐやま)上(のぼ)り果(は)てても峰(みね)に生(お)ふる松(まつ)に心(こころ)を猶(なほ)残(のこ)すかな W
さて遂(つひ)に内大臣まで昇(のぼ)られき。さて元応の頃(ころ)かとよ、百首歌(ひやくしゆうた)奉(たてまつ)りし中(なか)に、
集(あつ)めこし窓(まど)の蛍(ほたる)の光もて思(おも)ひしよりも身をてらすかな W
と詠(よ)まれ侍(はべ)りき。有房(ありふさ)と聞(き)こえしが、若(わか)くての世(よ)の異(こと)なるべし。新陽明門院(しんやうめいもんゐん)も、禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)の下(しも)の放(はな)ち出(い)でに、徒然(つれづれ)として御座(おは)します程(ほど)に、松殿宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)兼嗣(かねつぐ)、如何(いかが)したりけん、常(つね)に参(まゐ)り給(たま)ひし程(ほど)に、果(は)てには、其(そ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)の御子に、世(よ)を逃(のが)れたる人有(あ)りき。其(そ)の御房に思(おぼ)しうつりて、限(かぎ)り無(な)く思(おぼ)したりし程(ほど)に、御子をさへ生(う)み給(たま)ふ。其(そ)の姫君(ひめぎみ)は、始(はじ)めは富(とみ)の小路の中納言季雄(すえを)の北(きた)の方(かた)にて御座(おは)せしが、後には歓喜園(くわんきをん)の摂政と聞(き)こえ給(たま)ひし末の御子に、基教(もとのり)の三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)と聞(き)こえし上(うへ)になりて、失(う)せ給(たま)ふまで御座(おは)しき。故(こ)女院いとほしくし給(たま)ひしかば、御処分(そうぶん)など、いといと猛(まう)に有(あ)りき。「さのみ斯(か)かる御事(こと)共(ども)をさへ聞(き)こゆるこそ、物(もの)言(い)ひさが無(な)き罪(つみ)去(さ)り所(どころ)無(な)けれど、よしや昔(むかし)も然(さ)る事有(あ)りけりと、此(こ)の頃(ごろ)の人の御有様(おんありさま)
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も、自(おの)づから軽(かろ)き事有(あ)らば、思(おも)ひ許(ゆる)さるる例(ためし)にもなりてん物(もの)をぞと思(おも)へば、遠(とほ)き人の御事(こと)は、今(いま)は何(なに)の苦(くる)しからんぞとて、少(すこ)しづつ申(まう)すなり」と、打(う)ち笑(わら)ふもはしたなし。「いづら。此(こ)の頃(ごろ)は、誰(たれ)か悪(あ)しく御座(おは)する」と問(と)へば、「いないなそれは空恐(おそ)ろし」とて、頭(かしら)をふるもさすがをかし。さても、石清水(いはしみづ)の流(なが)れを分(わ)けて、関(せき)の東(ひんがし)にも、若宮(わかみや)と聞(き)こゆる社(やしろ)御座(おは)しますに、八月十五日(じふごにち)、都(みやこ)の放生会(はうじやうゑ)を学(まね)びて行(おこな)ふ。其(そ)の有様(ありさま)、誠(まこと)にめでたし。将軍も詣(まう)で、位ある兵(つはもの)・諸国(しよこく)の受領(ずりやう)共(ども)など、色々(いろいろ)の狩衣(かりぎぬ)、思(おも)ひ思(おも)ひの衣重(かさ)ねて出(い)で立(た)ちたり。赤橋(あかはし)と言(い)ふ所に、将軍御車(くるま)止(とど)めて降(お)り給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)は、上(うへ)の衣(きぬ)なるも有(あ)り。殿上人などいと多(おほ)く仕(つかうまつ)る。此(こ)の将軍は、中務(なかづかさ)の宮(みや)の御子なり。此(こ)の頃(ごろ)権中納言にて、右大将兼(か)ね給(たま)へれば、御随身(みずいじん)共(ども)、花(はな)を折(を)らせてさうぞきあへる様(さま)、都(みやこ)めきて面白(おもしろ)し。法会の有様(ありさま)も、本社に変(か)はらず。舞楽(ぶがく)・田楽(でんがく)・獅子(しし)がしら・流鏑馬(やぶさめ)など、様々(さまざま)所にし付(つ)けたる事(こと)共(ども)面白(おもしろ)し。十六日にも、猶(なほ)斯様(かやう)の事(こと)なり。桟敷(さじき)共(ども)いかめしく造(つく)り並(なら)べて、色々(いろいろ)の幔幕(まんまく)など引(ひ)き続(つづ)けて、将軍の御桟敷(さじき)の前(まへ)には、相模(さがみ)の守(かみ)を初(はじ)め、そこらの武士(ぶし)共(ども)並(な)み居(ゐ)たる気色(けしき)、様(さま)変(か)はりて、好(この)ましううけばりたる、心地(ここち)よげに、所に付(つ)けては又無(な)くは見(み)えたり。其(そ)の後(のち)、幾(いく)程(ほど)無(な)く、鎌倉(かまくら)中(うち)騒(さわ)がしき事(こと)出(い)で来(き)て、皆人(みなひと)肝(きも)をつぶし、つぶし、ささめくと言(い)ふ程(ほど)こそあれ、将軍都(みやこ)へ流(なが)され給(たま)ふとぞ聞(き)こゆる。珍(めづら)しき言(こと)の葉(は)なりかし。近(ちか)く仕(つかうまつ)る
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男(をとこ)女、いと心(こころ)細(ぼそ)く思(おも)ひ歎(なげ)く。例(たと)へば、御位などの変(か)はる気色(けしき)に異(こと)ならず。さて上(のぼ)らせ給(たま)ふ有様(ありさま)、いと怪(あや)しげなる網代(あじろ)の御輿(みこし)を逆様(さかさま)に寄(よ)せて、乗(の)せ奉(たてまつ)るも、げにいとまがまがしき事(こと)の様(さま)也(なり)。打(う)ち任(まか)せては、都(みやこ)へ御上(のぼ)りこそ、いと面白(おもしろ)くもめでたかるべき業(わざ)なれど、かく怪(あや)しきは珍(めづら)か也(なり)。御母御息所(みやすどころ)は、近衛殿(このゑ)の大殿と聞(き)こえし御娘(むすめ)也(なり)。父(ちち)御子(みこ)の、将軍にて御座(おは)しましし時(とき)の御息所(みやすどころ)也(なり)。先(さき)に聞(き)こえつる禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)の宮(みや)の御方(かた)も、同(おな)じ御腹(おんはら)なるべし。文永三年より今年(ことし)まで二十四年、将軍にて、天下(てんか) の固(かた)めといつかれ給(たま)へれば、日の本の兵(つはもの)を従(したが)へてぞ御座(おは)しましつるに、今日(けふ)は彼(かれ)等(ら)にくつ返(がへ)されて、かくいとあさましき御有様(おんありさま)にて上(のぼ)り給(たま)ふ。いといとほしう哀(あは)れなり。道すがらも思(おぼ)し乱(みだ)るるにや、御たたう紙(がみ)の音(おと)繁(しげ)う漏(も)れ聞(き)こゆるに、猛(たけ)き武士(もののふ)も涙落(お)としけり。さて、此(こ)の代(か)はりには、一院の御子(みこ)、三条の内大臣公親の御娘(むすめ)、御匣(みくしげ)殿(どの)とて候(さぶら)ひ給(たま)ひし御腹(おんはら)也(なり)。当代(たうだい)の御はらからにて、今(いま)少(すこ)し寄(よ)せ重(おも)く止(や)む事(ごと)無(な)き御有様(おんありさま)なれば、〔只(ただ)〕受禅の心地(ここち)ぞする。もとの将軍御座(おは)せし宮をば造(つく)り改(あらた)めて、いみじう磨(みが)きなす。兵(つはもの)の勝(すぐ)れたる七人、御迎(むか)へに上(のぼ)る中(なか)に、飯沼(いひぬま)の判官(はうぐはん)と言(い)ふ者、前(さき)の将軍上(のぼ)り給(たま)ひし道(みち)もまがまがしければ、あとをも越(こ)えじとて、足柄山(あしがらやま)をよぎて上(のぼ)るとぞ、余(あま)りなる事(こと)にや。御子(みこ)は十月三日御元服し給(たま)ふ。久明の親王(しんわう)と聞(き)こゆ。同(おな)じ十日、院よりやがて六波羅(ろくはら)の北方、さきざきも宮の
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渡(わた)り給(たま)ひし所へ御座(おは)して、それよりぞ東(あづま)に赴(おもむ)かせ給(たま)ふ。同(おな)じ二十五日、鎌倉(かまくら)へ着(つ)かせ給(たま)ふにも、御関迎(せきむか)へとて、ゆゆしき武士共(ども)打(う)ちつれて参(まゐ)る。宮は菊(きく)のとれんじの御輿(こし)に御簾(すだれ)上(あ)げて、御覧(ごらん)じならはぬ夷(えびす)共(ども)の打(う)ち囲(かこ)み奉(たてまつ)れる、頼(たの)もしく見(み)給(たま)ふ。しのぶを乱(みだ)れ織(お)りたる萌黄(もよぎ)の御狩衣(かりぎぬ)・紅(くれなゐ)の御衣(おんぞ)・濃(こ)き紫(むらさき)の指貫(さしぬき)奉(たてまつ)りて、いと細(ほそ)やかに艶(なま)めかし。飯沼(いひぬま)の判官(はうぐわん)、とくさの狩衣(かりぎぬ)、青毛(あをげ)の馬に、黄金物(きかなもの)の鞍(くら)置(お)きて、随兵(ずいびやう)いかめしく〔召(め)し具(ぐ)〕して、御輿(こし)の際(きは)にうちたるも、都(みやこ)に例(たと)へば、行幸(ぎやうがう)に然(しか)るべき大臣などの仕(つかまつ)り給(たま)へるによそへぬべし。三日が程(ほど)は、椀飯(わうばん)と言(い)ふ事(こと)、又馬(うま)御覧(ごらん)、何(なに)くれといかめしき事(こと)共(ども)、鎌倉(かまくら)中(うち)の経営(けいめい)也(なり)。宮の中(うち)の飾(かざ)り御調度(てうど)などは更(さら)にも言(い)はず、帝釈(たいしやく)の宮殿(くうでん)もかくやと、七宝(しちぽう)を集(あつ)めて磨(みが)きたる様(さま)、目(め)も輝(かかや)く心地(ここち)す。いと有(あ)らまほしき御有様(おんありさま)なるべし。関(せき)の東(ひんがし)を都(みやこ)の外(ほか)とて、おとしむべくも有(あ)らざりけり。都に御座(おは)しますなま宮達(たち)の、拠(よ)り所(どころ)無(な)くただよはしげなるには、こよなく勝(まさ)りて、めでたくにぎははしく見(み)えたり。時宗の朝臣と言(い)ひしも、又頭(かしら)下(お)ろして、円覚寺の入道とて、いと尊(たふと)く行(おこな)ひて、世(よ)をもいろはず、貞時(さだとき)と言(い)ふ太郎、相模(さがみ)の守にぞ、万(よろづ)言(い)ひ付(つ)けける。上(のぼ)り給(たま)ひにし前(さき)の大将殿は、嵯峨(さが)の辺(ほとり)に御髪(おぐし)下(お)ろし、いとかすかに寂(さび)しくて御座(おは)す。かくて年(とし)変(か)はりぬれば、又(また)の年(とし)二月(きさらぎ)の頃(ころ)、一院御髪(みぐし)下(お)ろす。年月(としつき)の御本意(ほい)なれど、たゆたい過(す)ぐし給(たま)ひけるに、禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)、去年(こぞ)の秋思(おぼ)し立(た)ちにしに、
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いとど驚(おどろ)かされ給(たま)ひぬるにや有(あ)りけん。二月十一日、亀山殿にて、御いむ事受(う)けさせ給(たま)ふ。四十八にぞならせ給(たま)ふ。御法名(ほふみやう)素実と申(まう)す也(なり)。正月(むつき)一日(ついたち)、節会(せつゑ)など果(は)てて、夕つ方(かた)、内の上(うへ)、皇后宮の御方へ渡(わた)らせ給(たま)へれば、宮は〔中(なか)〕濃(こ)き紅梅(こうばい)の〔十二の〕御衣(おんぞ)に、同(おな)じ色の御単(ひとへ)・紅(くれなゐ)のうちたる・萌黄(もえぎ)の御表着(うはぎ)・葡萄染(えびぞ)めの御小袿(こうちき)・花山吹(はなやまぶき)の御唐衣(からぎぬ)、唐(から)の薄物(うすもの)の御裳(も)気色(けしき)ばかり引(ひ)き掛(か)けて、御髪(みぐし)ぞ少(すこ)し薄(うす)らぎ給(たま)へれど、いとなよびかに美(うつく)しげにて、常(つね)よりも殊(こと)に匂(にほ)ひ加(くは)はりて見(み)え給(たま)ふ。御前(まへ)に御匣(みくしげ)殿(どの)、花山院(くわさんゐん)の内大臣師継(もろつぐ)の娘(むすめ)、二藍(ふたあゐ)の七(なな)つに紅(くれなゐ)の単(ひとへ)・紅梅(こうばい)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)・地摺(ぢずり)の裳(も)、髪(かみ)うるはしく上(あ)げて候(さぶら)ひ給(たま)ふ。かんざし・やうだい、是(これ)もけしうは有(あ)らず見(み)ゆ。あたらしき年(とし)の御喜(よろこ)びなど少(すこ)し聞(き)こえ給(たま)ひて、例(れい)の只(ただ)ならぬ御事(こと)共(ども)打(う)ちささめきがちにて、是(これ)より公守(きんもり)の大納言(だいなごん)の娘(むすめ)の曹司(ざうし)差(さ)しのぞかせ給(たま)へば、いとささやかにて、衣がちにて、花桜(はなざくら)のあはひおかしきに、山吹(やまぶき)の表着(うはぎ)、裳(も)引(ひ)き掛(か)けて、寄(よ)り臥(ふ)し給(たま)へる、あてにらうたし。こまやかに打(う)ち語(かた)らひ聞(き)こえ給(たま)ふ。玄輝門院(げんきもんゐん)の御そばにかしづき聞(き)こえ給(たま)ひし習(なら)ひにや、押(お)しなべての上宮仕(うへみやづか)への様(さま)よりは、思(おも)ひ上(あ)がれる気色(けしき)なり。今(いま)一所〈 顕親門院(けんしんもんゐん) 〉の御曹司(ざうし)も近(ちか)き程(ほど)なれば、そなた様(ざま)に歩(あゆ)み御座(おは)して、いと心(こころ)静(しづか)ならねど、此(こ)の君をば、押(お)しなべての際(きは)ならず思(おぼ)すめり。此(こ)の御腹(おんはら)に、御子(みこ)達(たち)数多(あまた)御座(おは)しましき。かくめぐらせ給(たま)ふ程(ほど)に、いたく更(ふ)けてぞ、中宮上(のぼ)らせ給(たま)ふ。此(こ)の御代にも、いみじき行幸(ぎやうがう)ども、
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ゆゆしき事多(おほ)かりしかど、年(とし)の積(つ)もりに何事(なにごと)もさだかならず、月日(つきひ)などおぼろに侍れば、中々聞(き)こえず。程(ほど)無(な)く明(あ)け暮(く)れて、永仁も六年になりぬ。七月二十二日、春宮に位譲(ゆづ)りて、降(お)り給(たま)ひぬ。霜月になりて、五節(ごせち)の頃(ころ)、去年(こぞ)を思(おぼ)し出(い)でて、其(そ)の折(をり)に関白にて御座(おは)せし兼忠(かねただ)の大臣(おとど)に、櫛(くし)遣(つか)はすとて、新院、
乙女子(をとめご)がさすや小櫛(をぐし)の其(そ)のかみに共(とも)に馴(な)れこし時(とき)ぞ忘(わす)れぬ W
御返(かへ)し、歓喜園(くわんきをん)の前(さき)の摂政殿、
いとど又こぞの今宵(こよひ)ぞ忍(しの)ばるるつげの小櫛(をぐし)を見(み)るに付(つ)けても W
堀川(ほりかは)の具守の大臣(おとど)の娘(むすめ)の御腹(おんはら)に、前(さき)の新院の若宮(わかみや)〈 後二条 〉生(う)まれ給(たま)へりし、六月二十七日に、御元服(げんぶく)して、八月十日春宮に立(た)ち給(たま)ひぬ。御諱(いみな)邦治(くにはる)と聞(き)こゆ。是(これ)も、内(うち)より〔は〕御年(おんとし)三(み)つ勝(まさ)り給(たま)へり。今(いま)の御門(みかど)は十一になり給(たま)ふ。御諱(いみな)胤仁(たねひと)と聞(き)こゆ。あてに艶(なま)めかしう御座(おは)します。中宮の御腹(おんはら)には、大方(おほかた)、宮も物(もの)し給(たま)はねば、此(こ)の御門をぞ、御子にし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。譲位(じやうゐ)の後は、宮も降(お)りさせ給(たま)ひて、永福門院(えいふくもんゐん)と聞(き)こゆめり。皇后宮も此(こ)の頃(ごろ)は遊義門院(いうぎもんゐん)と申(まう)す。法皇の御傍(かたは)らに御座(おは)しましつるを、中(なか)の院(ゐん)〈 後宇多 〉、如何(いか)なる便(たよ)りにか、ほのかに見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、いと忍(しの)び難(がた)く思(おぼ)されければ、とかくたばかりて、盗(ぬす)み奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、冷泉(れいぜい)万里小路(までのこうじ)殿(どの)に御座(おは)します。又(また)無(な)く思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へる事限(かぎ)り無(な)し。
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正安二年(にねん)正月三日、御門、御元服し給(たま)ふ。今年(ことし)十三にならせ給(たま)へば、御行(ゆ)く末(すゑ)遙(はる)かなる程(ほど)也(なり)。又(また)の年正月(むつき)の頃、内侍所(ないしどころ)の御しめの下(お)り給(たま)へるは、如何(いか)なるべき事(こと)にかなど、忍(しの)びてささめく程(ほど)こそあれ、東(あづま)より御(おん)使(つか)ひの上(のぼ)るとて、世(よ)の中(なか)騒(さわ)ぎて、禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふ世(よ)にとや、正月二十一日、春宮〈 後二条 〉位に即(つ)かせ給(たま)ひぬ。おりゐの御門(みかど)十四にて、太上天皇の尊号(そんがう)有(あ)り。いときびはにいたはしき御事(こと)なるべし。僅(わづ)かに三年(みとせ)にて降(お)り居(ゐ)させ給(たま)へれば、何事(なにごと)のはえも無(な)し。此(こ)の春は、春日(かすが)の社(やしろ)に御幸など有(あ)るべしとて、世(よ)の中(なか)まだきより面白(おもしろ)き事(こと)に言(い)ひあへりつるも、かいしめりていとさうざうし。さて此(こ)の君を新院と申(まう)せば、父の院をば中(なか)の院(ゐん)と聞(き)こゆ。御門の御父(ちち)は一(いち)の院と申(まう)す。法皇も此(こ)の頃(ごろ)は一(ひと)つに御座(おは)しますなめり。一(いち)の院、世(よ)の政(まつりごと)聞(き)こし召(め)せば、天下(てんか)の人、又押(お)し返(かへ)し、一方(ひとかた)に靡(なび)きたる程(ほど)も、さも目(め)の前(まへ)に移(うつ)ろひ変(か)はる世(よ)の中(なか)かなと、あぢきなし。土御門(つちみかど)の前(さき)の内の大臣(おとど)定実、六月に太政大臣になり給(たま)ふ、いとめでたし。故(こ)大納言(だいなごん)入道顕定(あきさだ)の、本意(ほい)無(な)かりし御面(おもて)おこし給(たま)へる、いとどゆゆし。院の御覚(おぼ)えの人なる上(うへ)、才(ざえ)も賢(かしこ)く御座(おは)すれば、世(よ)に用(もち)ゐられ給(たま)へり。御子の大納言(だいなごん)雅房(まさふさ)・中納言親定(ちかさだ)とて、いづれも才(ざえ)ある人にて御座(おは)しき。持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)には、世(よ)の中(なか)すさまじく思(おぼ)されて、伏見殿に籠(こも)り御座(おは)しますべく宣(のたま)へれど、二の御子(みこ)坊に定(さだ)まり給(たま)へば、又めでたくて、なだらかにて御座(おは)しますべし。
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先(さき)に聞(き)こえつる御母女院の御はらからの姫君(ひめぎみ)、顕親門院(けんしんもんゐん)と聞(き)こえし御腹(おんはら)也(なり)。八月十五日(じふごにち)、先(ま)づ親王(しんわう)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、同二十四日に春宮〈 花園院 〉に立(た)ち給(たま)ひぬ。かくて新帝〈 後二条 〉は十七になり給(たま)へば、いと盛(さか)りに美(うつく)しう、御心(おんこころ)ばへもあてにけだかう澄(す)みたる様(さま)して、しめやかに御座(おは)します。三月二十四日御即位(そくゐ)、此(こ)の行幸(ぎやうがう)の時、花山院(くわさんゐん)の三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)家定(いへさだ)、御剣(けん)の役(やく)を勤(つと)め給(たま)ふとて、逆様(さかさま)に内侍(ないし)に渡(わた)されけるを、今出川(いまでがは)の大臣(おとど)御覧(ごらん)じとがめて、出仕止(とど)めらるべき由(よし)申(まう)されしかど、鷹司の大殿、「中々沙汰(さた)がましくてあしかりなん。只(ただ)音(おと)無(な)くてこそ」と申(まう)し止(とど)め給(たま)へりしこそ、情(なさ)け深(ふか)く侍(はべ)りしか。後(のち)に思(おも)へば、げにあさましき事(こと)の験(しるし)にや侍(はべ)りけん。十月二十八日御禊(ごけい)、此(こ)の度(たび)の女御代にも、堀川(ほりかは)の大臣(おとど)の姫君(ひめぎみ)いで給(たま)へり。今(いま)の上(うへ)も、源氏(げんじ)の御腹(おんはら)にて物(もの)し給(たま)ふ。いと珍(めづら)しく止(や)む事(ごと)無(な)し。然(さ)れど、うけばりたる様(さま)には御座(おは)せぬぞ、心(こころ)許(もと)無(な)かめる。又(また)の年(とし)は乾元元年(ぐわんねん)、六月十六日亀山院へ行幸(ぎやうがう)有(あ)り。法皇〈 亀山院 〉、いと珍(めづら)しく美(うつく)しと見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。暁(あかつき)帰(かへ)らせ給(たま)ひぬる後(のち)、法皇より内に聞(き)こえさせ給(たま)ふ。
したはるる名残(なごり)に堪(た)えず月を見(み)れば雲の上(うへ)にぞ影はなりぬる W
御返(かへ)し、内の上(うへ)、
君はよし千年(ちとせ)の齢(よはひ)保(たも)てれば相(あひ)見(み)ん事(こと)の数(かず)も知(し)られず W
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一院は、忠継(ただつぐ)の宰相の娘(むすめ)の中納言の典侍(すけ)殿(どの)と言(い)ふ腹(はら)にも、男(をとこ)女(をんな)御子(みこ)達(たち)数多(あまた)物(もの)し給(たま)ふ中(なか)に、勝(すぐ)れ給(たま)へる内親王を、いと悲(かな)しき物(もの)にかしづき聞(き)こえさせ給(たま)ふ。此(こ)の御世(よ)にも、又(また)、為世(ためよ)の大納言(だいなごん)承(うけたまは)りて撰集(せんじゆ)有(あ)り。新後撰集と聞(き)こゆ。嘉元元年(ぐわんねん)披露(ひろう)せらる。かくて、又(また)の年(とし)春の頃(ころ)より、東二条院、御悩(なや)み日々(ひび)におもり給(たま)ひて、今(いま)はと見(み)えさせ給(たま)へば、伏見殿へ出(い)でさせ給(たま)ひて、遂(つひ)に失(う)せさせ給(たま)ひぬ。七十に余(あま)らせ給(たま)へば、理(ことわり)の御事(こと)なり。法皇〈 後深草 〉も其(そ)の御歎(なげ)きの後(のち)、をさをさ物(もの)聞(き)こし召(め)さずなど有(あ)りしを始(はじ)めにて、打(う)ち続(つづ)き心(こころ)よからず、御わらはやみなど聞(き)こゆる程(ほど)に、七月十六日、二条富(とみ)の小路(こうぢ)殿にて、隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。六十二にぞならせ給(たま)ひける。いと哀(あは)れに悲(かな)しき事(こと)共(ども)、言(い)へば更(さら)也(なり)。御孫(まご)の春宮も一(ひと)つに御座(おは)しましつれば、急(いそ)ぎて外(ほか)へ行啓(ぎやうげい)なりぬ。御修法(みしゆほふ)の壇(だん)共(ども)こぼこぼと毀(こぼ)ちて、くづれ出(い)づる法師(ほふし)原(ばら)の気色(けしき)まで、今(いま)を限(かぎ)りと、とぢめ果(は)つる世(よ)の有様(ありさま)、いと悲(かな)し。宵(よひ)過(す)ぐる程(ほど)に、六波羅(ろくはら)の貞顕(さだあき)・憲時(のりとき)二人(ふたり)、御訪(とぶら)ひに参(まゐ)れり。京極(きやうごく)表(おもて)の門の前(まへ)に、床子(しやうじ)に尻(しり)掛(か)けて候(さぶら)ふ。従(したが)ふ者(もの)共(ども)左右(さう)に並(な)み居(ゐ)たる様(さま)、いとよそほしげ也(なり)。又(また)の日、夜に入(い)りて、深草(ふかくさ)殿(どの)へ率(ゐ)て渡(わた)し奉(たてまつ)る。御車差(さ)し寄(よ)せて、御棺(くわん)に乗(の)せ奉(たてまつ)る程(ほど)、内外(うちと)とよみ合(あ)ひたる、いと理(ことわり)に、心(こころ)をさむる人も無(な)し。院〈 伏見殿 〉の御前(まへ)・宮達(たち)など、藁履(わらぐつ)とかや言(い)ふ物(もの)奉(たてまつ)りて、門まで御送(おく)り仕(つかまつ)らせ給(たま)ひて、とみにえ上(のぼ)らせ給(たま)はず、御直衣(なほし)の袖を押(お)し当(あ)てて、遙(はる)かに程(ほど)経(へ)
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てぞ、御車に奉(たてまつ)りて、伏見殿への御送(おく)りもせさせ給(たま)ひける。院の中(うち)ゆゆしきまで泣(な)きあへり。後深草院とぞ聞(き)こゆめる。御日数(ひかず)の程(ほど)は、伏見殿に宮達(たち)・遊義門院(いうぎもんゐん)など御座(おは)します。秋さへ深(ふか)く成(な)り行(ゆ)く儘(まま)に、夜(よ)とともの御涙(なみだ)、干(ひ)る間(ま)無(な)く思(おぼ)し惑(まど)ふ。遊義門院(いうぎもんゐん)、
物(もの)をのみ思(おも)ひ寝覚(ねざ)めにつくづくと見(み)るも悲(かな)しき燈(とも)し火の色(いろ) W
春きてし霞(かすみ)の衣ほさぬまに心(こころ)もくるる秋霧(あきぎり)の空 W
年(とし)返(かへ)りぬれば、嘉元も三年になりぬ。万里小路(までのこうじ)殿(どの)の法皇、又御悩(なや)みとて、亀山殿へぞ移(うつ)らせ給(たま)ふ。色々(いろいろ)に、御修法(みしゆほふ)や何(なに)くれ御祈(いの)り共(ども)、こちたくせさせ給(たま)へるも験(しるし)無(な)くて、九月十五日(じふごにち)の曙(あけぼの)に遂(つひ)に隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。去年(こぞ)・今年(ことし)の世(よ)のさがなさ、打(う)ち続(つづ)きたる人々(ひとびと)の御歎(なげ)き共(ども)、言(い)はん方(かた)無(な)し。世(よ)を背(そむ)かせ給(たま)ひにし初(はじ)めつ方(かた)は、いと際(きは)だけう聖(ひじり)だちて、女房など御前(まへ)にだに参(まゐ)らぬ事(こと)なりしかど、後には有(あ)りしより猶(なほ)たはれさせ給(たま)ひし程(ほど)に、永福門院(えいふくもんゐん)の御差次(さしつぎ)の姫君(ひめぎみ)、はや御盛(さか)りも過(す)ぐる程(ほど)なりしを、此(こ)の法皇に参(まゐ)らせ奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしが、かひがひしく「水(みづ)の白波」に若(わか)やがせ給(たま)ひて、やがて院号(ゐんがう)有(あ)りしかば、昭訓門院と聞(き)こえつる、其(そ)の御腹(おんはら)に、一昨年(をととし)ばかり、若宮(わかみや)生(う)まれ給(たま)へるを、限(かぎ)り無(な)く悲(かな)しき物(もの)に思(おぼ)されつるに、今(いま)少(すこ)しだに見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)はずなりぬるを、いみじう
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思(おぼ)されけり。さてしも有(あ)らぬ習(なら)ひなれば、同(おな)じ十七日に、御業(わざ)の事(こと)せさせ給(たま)ふ。理(ことわり)と言(い)ひながら、いといかめしう人々(ひとびと)仕(つかうまつ)り給(たま)ふ。網代庇(あじろびさし)の御車、前(さき)の右大臣殿寄(よ)せさせ給(たま)ふ。烏帽子(えぼし)直衣(なほし)袴(はかま)際(きは)にて参(まゐ)り給(たま)ふ。院の上(うへ)も庭に下(お)りさせ給(たま)ふ。法親王達(たち)三人、山(やま)の座主・聖護院(しやうごゐん)、十楽院(じふらくゐん)の法親王などは、わらうづをぞ奉(たてまつ)る。上の山(やま)まで御供(とも)せさせ給(たま)ふ。上達部には、前(さき)の右(みぎ)の大臣(おとど)公衡(きんひら)・西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公顕(きんあき)・万里小路(までのこうじ)大納言(だいなごん)師重(もろしげ)・源中納言有房(ありふさ)・三条の前(さき)の中納言実躬・宗氏(むねうぢ)の二位・重経(しげつね)の二位・為雅(ためまさ)の宰相・経守(つねもり)・為行・親氏など也(なり)。殿上人は頼俊(よりとし)の朝臣・忠氏(ただうぢ)・為藤・国房(くにふさ)・経世(つねよ)・泰忠(やすただ)・光忠(みつただ)、皆(みな)、狩衣(かりぎぬ)の袖を絞(しぼ)り絞(しぼ)り参(まゐ)る気色(けしき)さへ、哀(あは)れを添(そ)へたり。院も御供(とも)にひきさがりて参(まゐ)り給(たま)ふ。花山院(くわさんゐん)の権大納言(だいなごん)・西園寺(さいをんじ)の中納言・土御門(つちみかど)の大納言(だいなごん)、御子親実(ちかざね)の少将(せうしやう)、御太刀(たち)持(も)ちて御供(とも)せられたり。よそほしかりつる御有様(おんありさま)も、いと程(ほど)無(な)く、只(ただ)時(とき)の間(ま)の煙(けぶり)にて上(のぼ)り給(たま)ひぬれば、誰(たれ)も誰(たれ)も夢の心地(ここち)して、ほのぼのと明(あ)け行(ゆ)く程(ほど)に、各(おのおの)まかで給(たま)ふ。三条の大納言(だいなごん)入道公実(きんざね)・万里小路(までのこうじ)大納言(だいなごん)師重(もろしげ)などは、とりわき御志(おんこころざし)深(ふか)くて、御荼毘(だび)の果(は)つるまで、墨染(すみぞ)めの袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てつつ候(さぶら)ひ給(たま)ふ。予(かね)てより山道作(つく)られて、木草切(き)り払(はら)ひなどせられつれど、露けさぞ分(わ)けん方(かた)無(な)き。涙の雨の添(そ)ふなるべし。内よりの御(おん)使(つか)ひに、始(はじ)め長親(ながちか)の朝臣、雅行(まさゆき)・有忠(ありただ)の朝臣など、三度(みたび)参(まゐ)る。古(ふる)き例(れい)なるべし。同(おな)じき二十六日、院の上(うへ)、御素服(そふく)奉(たてまつ)る。御座(おは)します
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殿(でん)には、黒(くろ)き草にて編(あ)みたる簾(すだれ)を掛(か)けける。浅黄縁(あさぎべり)の御座(ござ)に、上(うへ)の御衣(おんぞ)黒(くろ)き、上(うへ)の御袴(はかま)、裏(うら)は柑子色(かんじいろ)、御下襲(したがさね)も黒(くろ)し。同(おな)じひへぎ、浅黄(あさぎ)の御桧扇(ひあふぎ)、御台(みだい)参(まゐ)る〔も〕、皆(みな)黒(くろ)き御調度(てうど)共(ども)なり。此(こ)の御ついでに、御方々(かたがた)も御素服(そふく)奉(たてまつ)る人数、昭訓門院(せうきんもんゐん)、昭慶門院(せうけいもんゐん)は御娘(むすめ)、近衛殿(このゑどの)の北(きた)の政所(まんどころ)、関白殿〈 九条(くでう)殿(どの) 〉の北(きた)の政所(まんどころ)、良助(りやうじよ)法親王、覚雲(かくうん)・順助(じゆんじよ)・慈道(じだう)・性恵(しやうゑ)・行仁(ぎやうにん)・性融(しやうゆう)の法親王達(たち)、上達部(かんだちめ)も、御山(おやま)の御供(とも)し給(たま)ふ人々(ひとびと)皆(みな)漏(も)れず。院の二の御子の御母も、近頃(ちかごろ)は法皇召(め)し取(と)りて、いと時(とき)めきて、准后(じゆんこう)など聞(き)こえつるも、思(おも)ひ歎(なげ)き給(たま)ふべし。昭訓門院、やがて御髪(みぐし)下(お)ろす。法皇は五十七にぞならせ給(たま)ひける。御骨(こつ)も、此(こ)の院に法華堂(ほつけだう)を建(た)てさせ給(たま)へば、亀山の院とぞ申(まう)すべかめる。禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)をば、御座(おは)しましし時(とき)より禅院になされき。南禅院と言(い)ふは是(これ)なめり。院の二の御子(みこ)、忠継(ただつぐ)の宰相の娘(むすめ)、今(いま)は准后(じゆんこう)の御腹(おんはら)に御座(おは)します。此(こ)の頃(ころ)帥宮(そちのみや)と聞(き)こゆるを、法皇とりわき御傍(かたは)ら去(さ)らず馴(な)らはし奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじうらうたがり聞(き)こえさせ給(たま)ひしかば、人より殊(こと)に思(おぼ)し歎(なげ)くべし。頃(ころ)さへ時雨(しぐれ)がちなる空の気色(けしき)に、山(やま)の木の葉(は)も涙争(あらそ)ふ心地(ここち)して、いと悲(かな)し。所がらしもいとど哀(あは)れを添(そ)へたり。川波(かはなみ)の響(ひび)き、戸無瀬(となせ)の滝(たき)の音(おと)までも、取(と)り集(あつ)めたる御心(おんこころ)の中(うち)共(ども)なり。御日数(ひかず)の程(ほど)は、帥(そち)の宮一(ひと)つ御腹(おんはら)の内親王なども、此(こ)の院に御座(おは)します程(ほど)、徒然(つれづれ)なる儘(まま)に、はかなし事(ごと)など聞(き)こえかはして、花紅葉(はなもみぢ)に付(つ)けて
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も、睦(むつ)ましく馴(な)れ聞(き)こえ給(たま)ふべし。帥(そち)の御子(みこ)は、大多勝院(だいたしようゐん)に、西(にし)の廂(ひさし)に渡(わた)らせ給(たま)ふ。御前(まへ)の松(まつ)の木に這(は)ひかかれる蔦(つた)の、紅葉(もみぢ)にいたう染(そ)めこがしたるを取(と)りて、九月三十日の夕つ方(かた)、昭訓門院の御方(かた)へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。
あすよりの時雨(しぐれ)も待(ま)たで染(そ)めてけり袖の涙や蔦(つた)の紅葉葉(もみぢば) W
木(こ)の葉(は)よりももろき御涙は、ましていとどせき兼(か)ね給(たま)へり。御返(かへ)し、
四方(よも)は皆(みな)涙の色に染(そ)めてけり空にはぬれぬ秋の紅葉葉(もみぢば) W
哀(あは)れに見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつつ、名残(なごり)もいみじく眺(なが)められて、勾欄(かうらん)に押(お)し掛(か)かり給(たま)へる夕(ゆふ)ばえの御形(かたち)、いとめでたし。有(あ)りつる紅葉(もみぢ)を、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公顕(きんあき)の宿直所(とのゐどころ)へ遣(つか)はす。
雨と降(ふ)る涙の色や是(これ)ならん袖より外(ほか)に染(そ)むる紅葉葉(もみぢば) W
女院の御兄(せうと)なれば、しめやかなる御山ずみの心(こころ)苦(ぐる)しさに、候(さぶら)ひ給(たま)ふなりけり。御返(かへ)し、
いくしほか涙の色に染(そ)めつらん今日(けふ)を限(かぎ)りの秋の紅葉葉(もみぢば) W
時雨(しぐれ)はしたなく、風あららかに吹(ふ)きて暮(く)れぬれば、宮、内に入(い)り給(たま)ひて、御殿油(とのあぶら)近(ちか)く召(め)して、昼(ひる)御覧(ごらん)じさしたる御経(きやう)など読(よ)み給(たま)ふ程(ほど)に、若(わか)殿上人共(ども)打(う)ち連(つ)れて、此方(こなた)の御宿直(とのゐ)に参(まゐ)れり。昼(ひる)の蔦(つた)の葉(は)の散(ち)りぼひたるを、人々(ひとびと)見(み)るに、宮、「それに各(おのおの)歌書(か)きて」と

宣(のたま)へば、中将(ちゆうじやう)為藤の朝臣、
紅葉葉(もみぢば)になく音(ね)絶(た)えずば空蝉(うつせみ)のからくれなゐも涙とや見(み)ん W
清忠(きよただ)の朝臣、
山姫(やまひめ)の涙の色も此(こ)の頃(ごろ)はわきてや染(そ)むる蔦(つた)の紅葉葉(もみぢば) W
光忠(みつただ)の朝臣、
世(よ)の中(なか)の歎(なげ)きの色を知(し)らねばや去年(こぞ)に変(か)はらぬ蔦(つた)の紅葉葉(もみぢば) W
此(これ)等(ら)を取(と)り集(あつ)めて、北殿(きたどの)の内親王の御方(かた)へ奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、
さすが猶(なほ)色は木(こ)の葉(は)に残(のこ)りける形見(かたみ)も悲(かな)し秋の別(わか)れ路(ぢ) W
雨打(う)ちそそきて、けはひ哀(あは)れなる夜、いたう更(ふ)けて、帥(そち)の宮、例(れい)の北殿(きたどの)へ参(まゐ)り給(たま)へれば、姫君(ひめぎみ)も御殿(との)ごもりぬ。候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も皆(みな)静(しづ)まりぬるにや、格子(かうし)などたたかせ給(たま)へど、開(あ)くる人も無(な)ければ、空(むな)しく帰(かへ)らせ給(たま)ふとて、書(か)きて挿(さしはさ)ませ給(たま)ふ。
自(おの)づから眺(なが)めやすらむとばかりにあくがれ来(き)つる有明(ありあけ)の月 W
御返(かへ)し、又(また)の日、
徒(いたづ)らに待(ま)つ宵(よひ)すぎし村雨は思(おも)ひぞ絶(た)えし有明(ありあけ)の月 W
月日(つきひ)程(ほど)無(な)く移(うつ)り過(す)ぎぬれば、院も宮々も、各(おのおの)ちりぢりにあかれ給(たま)ふ程(ほど)、今(いま)少(すこ)し、
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物(もの)悲(がな)しさ勝(まさ)る御心(おんこころ)のうち共(ども)は尽(つ)きせねど、世(よ)の習(なら)ひなれば、さのみしもは如何(いかが)。昭慶門院(せうけいもんゐん)は、数多(あまた)の宮達(たち)の御中(なか)に、勝(すぐ)れて悲(かな)しき物(もの)に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひしかば、御処分(そうぶん)などもいとこちたし。大井川(おほゐがは)に向(む)かいて、離(はな)れたる院の有(あ)るをぞ奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、そこに御座(おは)しましし程(ほど)に、川端殿(かはばたどの)の女院など、人は申(まう)し侍(はべ)りし。彼(か)の所は臨川寺(りんせんじ)と言(い)ふ。都(みやこ)にも土御門(つちみかど)室町(むろまち)に有(あ)りし院、いづれも此(こ)の頃(ごろ)は寺に成(な)りて侍(はべ)るめりとぞ。めでたくも哀(あは)れなる。



第十二 浦千鳥(うらちどり)

院の上(うへ)は、御位に御座(おは)せし程(ほど)は、中々然(さ)るべき女御・更衣(かうい)も候(さぶら)ひ給(たま)はざりしかど、降(お)りさせ給(たま)ひて後(のち)、心(こころ)の儘(まま)にいとよく紛(まぎ)れさせ給(たま)ふ程(ほど)に、此(こ)の程(ほど)は、いどみ顔(がほ)なる御方々(かたがた)数(かず)そひ給(たま)ひぬれど、猶(なほ)遊義門院(いうぎもんゐん)の御志(おんこころざし)に立(た)ち並(なら)び給(たま)ふ人はをさをさ無(な)し。中務(なかづかさ)の宮(みや)の御娘(むすめ)も、押(お)しなべたらぬ様(さま)にもてなし聞(き)こえ給(たま)ふ。勝(すぐ)れたる御覚(おぼ)えには有(あ)らねど、姉(あね)宮(みや)の、故(こ)院に渡(わた)らせ給(たま)ひしよりは、いと重々(おもおも)しう思(おぼ)しかしづきて、後には院号(ゐんがう)有(あ)りき。永嘉門院(えいかもんゐん)と申(まう)し侍(はべ)りし御事(こと)也(なり)。又(また)一条の摂政殿(せつしやうどの)〈 実経公 〉の姫君(ひめぎみ)も、当代(たうだい)堀川(ほりかは)の大臣(おとど)の家(いへ)に渡(わた)らせ給(たま)ひし頃(ころ)、上臈(じやうらふ)に、
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十六にて参(まゐ)り給(たま)ひて、はじめつ方(かた)は、基俊(もととし)の大納言(だいなごん)、うとからぬ御中(なか)にて御座(おは)せしかば、彼(か)の大納言(だいなごん)東下(あづまくだ)りの後(のち)、院に参(まゐ)り給(たま)ひし程(ほど)に、事(こと)の外にめでたくて、内侍(ないし)のかみになり給(たま)へり。昔(むかし)覚(おぼ)えて面白(おもしろ)し。加階(かかい)し給(たま)へりし朝(あした)、院より
其(そ)のかみに頼(たの)めし事(こと)の変(か)はらねばなべて昔(むかし)の世(よ)にや帰(かへ)らん W
御返(かへ)し、内侍(ないし)のかんの君。〓子(たまこ)とぞ聞(き)こゆめりし。
契(ちぎ)り置(お)きし心(こころ)の末(すゑ)は知(し)らねども此(こ)の一言(ひとこと)や変(か)はらざるらむ W
露霜重(かさ)なりて、程(ほど)無(な)く徳治二年(にねん)にもなりぬ。遊義門院(いうぎもんゐん)、そこはかとなく御悩(なや)みと聞(き)こえしかば、院の思(おぼ)し騒(さわ)ぐ事限(かぎ)り無(な)く、万(よろづ)に御祈(いの)り・祭(まつ)り・祓(はら)へと罵(ののし)りしかど、甲斐(かひ)無(な)き御事(こと)にて、いとあさましく敢(あ)へ無(な)し。院もそれ故(ゆゑ)御髪(みぐし)下(お)ろして、ひたぶるに聖(ひじり)にぞならせ給(たま)ひぬる。其(そ)の程(ほど)、様々(さまざま)の哀(あは)れ思(おも)ひ遣(や)るべし。悲(かな)しき事(こと)共(ども)多(おほ)かりしかど、皆(みな)見落しつ。明(あ)くる年(とし)の春、八幡(やはた)の御幸の御帰(かへ)るさより、東寺に三七日御座(おは)しまして、御潅頂(くわんぢやう)の御加行(けぎやう)とぞ聞(き)こゆる。仁和寺(にんわじ)の禅助(ぜんじよ)僧正を御師範(しはん)にて、彼(か)の寛平(くわんぺい)の昔(むかし)をや思(おぼ)すらん、密宗(みつしゆう)をぞ学(がく)せさせ給(たま)ひける。六月には亀山殿にて御如法経書(か)かせ給(たま)ふ。御髪(みぐし)下(お)ろして後(のち)は、〔大方(おほかた)、〕女房は仕(つかうまつ)らず。男、番(ばん)に下(お)りて、御台(みだい)なども参(まゐ)らせ、万(よろづ)に仕(つかうまつ)る。いつも御持斎(ぢさい)にて御座(おは)します。いと有(あ)り難(がた)き善知識(ぜんぢしき)にてぞ、故(こ)女院は御座(おは)しける。嵯峨(さが)の今林(いまばやし)殿(どの)にて、御仏事(ぶつじ)共(ども)、
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日々に怠(おこた)らずせさせ給(たま)ふ。此(こ)の今林(いまばやし)は、北山の准后(じゆんこう)貞子の御座(おは)せし跡(あと)なり。遊義門院(いうぎもんゐん)の御髪(みぐし)にて、梵字(ぼんじ)縫(ぬ)はせ給(たま)へり。彼(か)の御手(て)のうらに、法華経一字三礼(さんらい)に書(か)かせ給(たま)ひて、摂取院(せつしゆゐん)にて供養(くやう)せらる。大覚寺(だいかくじ)の僧正御導師なり。故(こ)女院の御骨(こつ)も、今林(いまばやし)に法華堂(ほつけだう)建てられて、置(お)き奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、月ごとに二十四日には必(かなら)ず御幸有(あ)り。思(おぼ)し入(い)りたる程(ほど)は、いみじかりき。かくて八月の初(はじ)めつ方(かた)より、内〈 後二条 〉の上(うへ)例(れい)ならず御座(おは)しますとて、様々(さまざま)の御修法(みしゆほふ)、五壇(ごだん)・薬師・愛染(あいぜん)、色々(いろいろ)の秘法(ひほふ)共(ども)、諸社の奉幣(ほうへい)神馬(じんめ)、何(なに)かと罵(ののし)り騒(さわ)ぎつれど、むげに不覚(ふかく)にならせ給(たま)ひて、二十三日御気色(けしき)変(か)はるとて、世(よ)の響(ひび)き言(い)はん方(かた)無(な)く、馬・車走(はし)り違(ちが)ひ、所も無(な)きまで人々(ひとびと)は参(まゐ)りこみたれど、いと甲斐(かひ)無(な)く、二十五日子(ね)の時(とき)ばかりに、果(は)てさせ給(たま)ひぬ。火の消(き)えぬる様(さま)にて、かき暗(く)れたる雲の上(うへ)の気色(けしき)、言(い)はずとも推(お)し量(はか)られなん。誠(まこと)や、中宮は、徳大寺(とくだいじ)の公孝(きんたか)の太政(おほき)大臣(おとど)の娘(むすめ)ぞかし。珍(めづら)しく、あの御家(いへ)に斯(か)かる事(こと)のいたく無(な)かりつるに、御覚(おぼ)えもめでたくて候(さぶら)ひ給(たま)へるに、あさましとも言(い)はん方(かた)無(な)し。二十八日にまかで給(たま)ふ。先帝も御業(わざ)の沙汰(さた)有(あ)り。院号(ゐんがう)有(あ)りて後二条院(にでうのゐん)とぞ聞(き)こゆる。堀川(ほりかは)の右大将具守(とももり)、御車寄(よ)せらる。心(こころ)の中(うち)如何(いか)ばかりか御座(おは)しけん。大将になり給(たま)へるも、此(こ)の御門の、西花門院(せいくわもんゐん)睦(むつ)ましうも仕(つかうまつ)り給(たま)へるに、いとほしき御事(こと)也(なり)。御素服(そふく)を〔着(き)〕給(たま)はざりしをぞ、思(おも)はずなる事(こと)に世(よ)の人(ひと)も言(い)ひ沙汰(さた)しける。内侍(ないし)のかんの君も様(さま)変(か)はり給(たま)ふ。中宮も院号(ゐんがう)有(あ)りて、
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長楽門院(ちやうらくもんゐん)と聞(き)こゆ。万(よろづ)哀(あは)れなる事(こと)のみ、書(か)き尽(つ)くし難(がた)し。春宮は正親町殿(おほぎまちどの)へ行啓(ぎやうげい)なりて、剣璽(けんじ)渡(わた)さる。八月二十六日践祚(せんそ)なり。十二にぞならせ給(たま)ふ。夢の内(うち)の心地しつつも、程(ほど)無(な)く過(す)ぎうつる御日数(ひかず)さへ果(は)てぬれば、尽(つ)きせぬ哀(あは)れはさむる世無(な)けれど、人々(ひとびと)もおのが散(ち)り散(ぢ)りになる程(ほど)、今(いま)一入(ひとしほ)堪(た)えがたげ也(なり)。持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)には、いつしかめでたき事(こと)共(ども)のみぞ聞(き)こゆる。大覚寺(だいかくじ)殿(どの)には、遊義門院(いうぎもんゐん)の御事(こと)に打(う)ち添(そ)へて、御涙のひる世(よ)無(な)く思(おぼ)さるべし。中務(なかづかさ)の御子(みこ)の御事(こと)を、東(あづま)へ宣(のたま)ひ遣(つか)はしたる、「相違(さうい)無(な)し」とて、九月十九日、立太子(りつたいし)の節会(せちゑ)有(あ)りて、坊(ばう)にゐ給(たま)ひぬ。今(いま)はと世(よ)をとぢむる心地(ここち)しつる人々(ひとびと)、少(すこ)し慰(なぐさ)みぬべし。其(そ)の年(とし)十月、大(だい)なりつるを、保元の例(れい)とかやとて、十一月一日(ついたち)に宣下(せんげ)せられたり。あたらしき御代にあたりて、月日(つきひ)さへ改(あらた)まりにけり。十一月十二日御即位(そくゐ)、摂政は、後照念院(ごせうねんゐん)殿(どの)冬平、今日(けふ)御悦申(よろこびまうし)有(あ)りて、やがて行幸(ぎやうがう)に参(まゐ)り給(たま)ふ。有(あ)るべき限(かぎ)りの事(こと)共(ども)、古(ふる)きに変(か)はらで、めでたく過(す)ぎ行(ゆ)く。延慶(えんきやう)二年(にねん)十月二十一日御禊、同(おな)じ二十四日、大嘗会(だいじやうゑ)、応長元年(ぐわんねん)正月三日、御年(おんとし)十五にて御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。御諱(いみな)富仁(とみひと)と聞(き)こゆ。引(ひ)き入(い)れ関白殿、理髪(りはつ)家平(いへひら)仕(つかうまつ)り給(たま)ふ。南殿(なんでん)の儀式(ぎしき)果(は)てて、御装(よそ)ひ改(あらた)めて、更(さら)に出(い)でさせ給(たま)ふ。清涼殿(せいりやうでん)にて御遊(あそ)び始(はじ)まる。摂政殿箏(こと)、ふしみと言(い)ふ物(もの)、右大将公顕(きんあき)琵琶玄上(げんじやう)、土御門(つちみかど)の大納言(だいなごん)通重笙(しやう)きさぎえ、和琴(わごん)大炊御門(おほひのみかど)中納言冬氏(ふゆうぢ)、笛西園寺(さいをんじ)の中納言兼季、別当季衡(すゑひら)も笙(しやう)の笛(ふえ)吹(ふ)き給(たま)ひけり。篳篥(ひちりき)は公守(きんもり)の朝臣、拍子(ひやうし)有時(ありとき)、めでたく様々(さまざま)面白(おもしろ)くて明(あ)け
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ぬ。五日後宴(ごえん)とて、今(いま)少(すこ)しなつかしう面白(おもしろ)き事(こと)共(ども)有(あ)りき。此(こ)の御門(みかど)をば、新院の御子になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひてしかば、朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)の御拝(はい)なども、此(こ)の御前にてぞ有(あ)りける。広義門院(くわうぎもんゐん)も、同(おな)じく国母の御心地(ここち)にて、万(よろづ)めでたかりき。院(ゐん)の上(うへ)、さばかり和歌の道(みち)に御名高(たか)く、いみじく御座(おは)しませば、如何(いか)ばかりかと思(おぼ)されしかども、正応に撰者(せんじや)共(ども)の事故(ゆゑ)に、わづらひ共(ども)有(あ)りて、撰集も無(な)かりしかば、いとど口惜(くちを)しう思(おぼ)されて、
我(わ)が世(よ)には集(あつ)めぬ和歌(わか)の浦千鳥(うらちどり)空(むな)しき名(な)をやあとに残(のこ)さむ W
など詠(よ)ませ御座(おは)しましたりしを、今(いま)だにと急(いそ)ぎ立(た)たせ給(たま)ひて、為兼(ためかぬ)の大納言(だいなごん)承(うけたまは)りて、万葉より此方(こなた)の歌共(ども)集(あつ)められき。正和元年(ぐわんねん)三月二十八日奏(そう)せらる。玉葉集とぞ言(い)ふなる。此(こ)の為兼(ためかぬ)の大納言(だいなごん)は、為氏(ためうじ)の大納言(だいなごん)の弟(おとと)に為教(ためのり)の兵衛督(ひやうゑのかみ)と言(い)ひしが子也(なり)。限(かぎ)り無(な)き院(ゐん)の御覚(おぼ)えの人にて、かく撰者(せんじや)にも定(さだ)まりにけり。そねむ人々(ひとびと)多(おほ)かりしかど、さはらんやは。此(こ)の院(ゐん)の上(うへ)、好(この)み詠(よ)ませ給(たま)ふ御歌(うた)の姿(すがた)は、前(さき)の藤大納言(だいなごん)為世(ためよ)の心(こころ)には、変(か)はりてなん有(あ)りける。御手(て)もいとめでたく、昔(むかし)の行成(かうぜい)の大納言(だいなごん)にも勝(まさ)り給(たま)へるなど、時(とき)の人申(まう)しけり。やさしうも強(つよ)うも書(か)かせ御座(おは)しましけるとかや。正和も二年(ふたとせ)になりぬ。今年(ことし)御本意(ほい)遂(と)げなんと思(おぼ)さる。長月(ながつき)の暮(く)れつ方(かた)、賀茂(かも)に忍(しの)びて御籠(こも)りの程(ほど)、をかしき様(さま)の事(こと)共(ども)侍(はべ)りけり。近(ちか)く候(さぶら)ふ女房共(ども)も、打(う)ちしほたれつつ、つごもりがたの空の気色(けしき)、いと物(もの)哀(あは)れなるに、御製(ぎよせい)、
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長月(ながつき)や木の葉(は)も未(いま)だつれなきに時雨(しぐ)れぬ袖の色や変(か)はらん W
又(また)、
我(わ)が身こそ有(あ)らずなるとも秋の名残(なごり)惜(を)しむ心(こころ)はいつも変(か)はらじ W
人々(ひとびと)も、さと時雨(しぐ)れ渡(わた)り、袖の上(うへ)、今日(けふ)を限(かぎ)りの秋の名残(なごり)よりも忍(しの)び難(がた)し。大納言(だいなごん)の三位(さんみ)為子、撰者(せんじや)のはらからなり。
一筋(すぢ)に暮(く)れ行(ゆ)く秋を惜(を)しまばや有(あ)らぬ名残(なごり)を思(おも)ひ添(そ)へずて W
又誰にか、
如何(いか)にこひ如何(いか)に惜(を)しまん年々の秋には勝(まさ)る秋の名残(なごり)を W
十月十五日(じふごにち)、伏見殿へ御幸、限(かぎ)りの旅(たび)と思(おぼ)せば、えも言(い)はず引(ひ)き繕(つくろ)はる。庇(ひさし)の御車也(なり)。上達部(かんだちめ)・殿上人、数(かず)知(し)らず仕(つかうまつ)り給(たま)ふ。世(よ)の政(まつりごと)なども、新院に譲(ゆづ)り奉(たてまつ)らせ給(たま)ひにしかば、心(こころ)静(しづ)かにのみ思(おぼ)されて、伏見殿がちにのみぞ御座(おは)しましし程(ほど)に、そこはかと御悩(なや)み月日(つきひ)へて、文保元年(ぐわんねん)九月三日、隠(かく)れさせ給(たま)ひにき。伏見院と申(まう)しき。御母(はは)玄輝門院(げんきもんゐん)、永福門院(えいふくもんゐん)などの御歎(なげ)き思(おも)ひ遣(や)るべし。御門(みかど)は御軽服(きやうぶく)の儀(ぎ)なれば、天下(てんか)も色変(か)はらず。此(こ)の院(ゐん)、姫宮(ひめみや)数多(あまた)御座(おは)しまししかど、院号(ゐんがう)は章義門院(しやうぎもんゐん)・延命門院(ゑんめいもんゐん)ばかりにて御座(おは)します。二条富小路の昔(むかし)の院(ゐん)のあとに、東(あづま)より造(つく)りて奉(たてまつ)る内裏(だいり)、此(こ)の頃(ごろ)御わたまし
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有(あ)りしなど、いといと面白(おもしろ)かりき。近(ちか)き事(こと)は、人皆(みな)御覧(ごらん)ぜしかば、中々にて止(とど)めつ。



第十三 秋のみ山

文保二年(にねん)二月二十六日、御門(みかど)降(お)り居(ゐ)させ給(たま)ふ。春宮は既(すで)に、三十(みそぢ)に満(み)たせ給(たま)へば、待(ま)ち遠(どほ)なりつるに、めでたく思(おぼ)さるべし。法皇、都(みやこ)に出(い)でさせ給(たま)ひて、世(よ)の中(なか)知(し)ろし召(め)す。亀山殿は然(さ)る事(こと)にて、近頃(ちかごろ)は、大覚寺(だいかくじ)の辺(ほとり)に御堂(みだう)建(た)てて籠(こも)り御座(おは)しましつつ、いよいよ密教(みつけう)の深(ふか)き心ばへをのみ勤(つと)め学(まな)ばせ給(たま)へば、自(おの)づからも京に出(い)でさせ給(たま)ふ事無(な)く、又(また)参(まゐ)り通(かよ)ふ人も稀(まれ)なるやうにて、神(かう)さび〔たり〕つるを、引(ひ)きかへ事(こと)繁(しげ)き世(よ)に、行(おこな)ひも懈怠(けだい)して、むつかしく思(おぼ)さる。三月二十九日御即位(そくゐ)也(なり)。行幸(ぎやうがう)の当日(たうじつ)に、左大将内経(うちつね)・花山院(くわさんゐん)の右大将家定(いへさだ)、行列(ぎやうれち)を争(あらそ)ひて、随身(ずいじん)共(ども)わわしく罵(ののし)れば、御輿(こし)を押(お)さへて、職事(しきじ)奏(さう)し下(くだ)しなどすめり。左大将の父君(ちちぎみ)は、内実の大臣(おとど)と聞(き)こえし。嘉元の頃(ころ)、俄(にはか)に隠(かく)れ給(たま)ひにしかば、摂〓(せうろく)もしあへ給(たま)はざりしにより、今(いま)は只人(ただひと)にてこそいますべければとて、かく争(あらそ)ふとぞ聞(き)こえし。神無月(かみなづき)二十七日大嘗会(だいじやうゑ)、清暑堂(せいしよだう)の御神楽(みかぐら)の拍子(ひやうし)の為(ため)に、綾(あや)の小路(こうぢ)の宰相(さいしやう)有時と言(い)ふ人、大内へ参(まゐ)るを、車より降(お)るる程(ほど)に、いとすくよかなる田舎(ゐなか)侍(ざぶらひ)めく物(もの)、太刀を抜(ぬ)きて走(はし)り寄(よ)る儘(まま)に、あや無(な)く討(う)ちてけり。さばかり立(た)ちこみたる人の中(なか)にて、〔いと珍(めづら)かに〕あさまし。さて拍子(ひやうし)俄(にはか)に異人(ことひと)承(うけたまは)る。大事(だいじ)の事共(ども)
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果(は)てて後(のち)、尋(たづ)ね沙汰(さた)ある程(ほど)に、紙屋川(かいかは)の三位(さんみ)顕香(あきか)と言(い)ふものの、此(こ)の拍子(ひやうし)をいどみて、我(われ)こそ勤(つと)むべけれと思(おも)ひければ、斯(か)かる事(こと)をせさせけり。道(みち)に好(す)ける程(ほど)はやさしけれども、いとむくつけし。さて彼(か)の三位は流(なが)されぬ。かくて今年(ことし)は暮(く)れぬ。誠(まこと)や、こたみの春宮には、後二条院(にでうのゐん)の一の御子(みこ)定(さだ)まり給(たま)ひぬれば、御門(みかど)坊にて御座(おは)しましし時(とき)の儘(まま)に、冷泉(れいぜい)万里小路(までのこうじ)殿(どの)寝殿(しんでん)に移(うつ)り住(す)ませ給(たま)へるに、二月(きさらぎ)の頃、軒の桜盛(さか)りにをかしき夕(ゆふ)ばえを御覧(ごらん)じて、内に奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。彼(か)の花(はな)に付(つ)けて、
なれにける花(はな)は心(こころ)や移(うつ)すらん同(おな)じ軒端(のきば)の春にあへども W
御返(かへ)しは、南殿(なんでん)の桜(さくら)に差(さ)しかへ給(たま)ふ。
花(はな)はげに思(おも)ひ出(い)づらん春をへてあかぬ色香(いろか)に染(そ)めし心(こころ)を W
おりゐの御門(みかど)は、御兄(このかみ)の本院と一(ひと)つ持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)に住(す)ませ給(たま)ふ。もとより御子の由(よし)にて御座(おは)しませば、まいて、一(ひと)つ院(ゐん)の内(うち)にて、いささかも隔(へだ)て無(な)く聞(き)こえさせ給(たま)ふ。いと思(おも)ふやうなる御有様(おんありさま)也(なり)。さべき御中(なか)と言(い)へども、昔(むかし)も今(いま)も御腹(おんはら)など変(か)はりぬるは、如何(いか)にぞや、そばそばしき事(こと)も打(う)ちまじり、くせある習(なら)ひにこそ有(あ)るを、此(こ)の院(ゐん)の御あはひ、まめやかに思(おも)ほしかはしたる、いと有(あ)り難(がた)うめでたし。本院は、広義門院(くわうぎもんゐん)の御腹(おんはら)の一の御子(みこ)を、此(こ)の度(たび)の坊にやと思(おぼ)されしかど、引(ひ)き過(す)ぎぬれば、いと遙(はる)けかるべき世(よ)にこそと、さうざうしく
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思(おぼ)さるべし。御歌合(うたあはせ)のついでなりしにや、
色々(いろいろ)に都(みやこ)は春の時(とき)にあへど我(わ)がすむ山(やま)は花(はな)も開(ひら)けず W
大覚寺(だいかくじ)殿(どの)には、引(ひ)きかへ、馬(うま)・車(くるま)の立(た)ち混(こ)みたるを御覧(ごらん)じて、法皇詠(よ)ませ給(たま)ひける。
我(われ)住(す)めば寂(さび)しくも無(な)し山里(やまざと)もあさまつりごと怠(おこた)らずして W
今(いま)の上(うへ)は、早(はや)うより、西園寺(さいをんじ)の入道大臣(おとど)実兼の末の御娘(むすめ)、兼季の大納言(だいなごん)の一(ひと)つ御腹(おんはら)に物(もの)し給(たま)ふを、忍(しの)びて盗(ぬす)み給(たま)ひて、わく方(かた)無(な)き御思(おも)ひ、年(とし)に添(そ)へて止(や)む事(ごと)無(な)う御座(おは)しつれば、いつしか女御の宣旨(せんじ)など聞(き)こゆ。程(ほど)も無(な)く、やがて八月に后だちあれば、入道殿も、齢(よはひ)の末(すゑ)にいと賢(かしこ)くめでたしと思(おぼ)す。北山にまかで給(たま)へる頃(ころ)、行幸(ぎやうがう)有(あ)り。八月十五日(じふごにち)の夜、名(な)をえたる月も殊(こと)に光を添(そ)へ、所がら折(をり)から面白(おもしろ)く、めでたき事(こと)共(ども)花(はな)やかなるに、御姉(あね)の永福門院(えいふくもんゐん)より、今(いま)の后の御方(かた)へ、御消息(せうそこ)聞(き)こえ給(たま)ふ。
今宵(こよひ)しも雲井の月も光そふ秋のみ山(やま)を思(おも)ひこそ遣(や)れ W
御返(かへ)しは、「まろ聞(き)こえん」と宣(のたま)はせて、内の上、
昔(むかし)見(み)し秋のみ山(やま)の月影を思(おも)ひ出(い)でてや思(おも)ひ遣(や)るらん W
御門(みかど)の同(おな)じ御腹(おんはら)の前(さき)の斎宮も、皇后宮に立(た)たせ給(たま)ふ。御母准后も院号(ゐんがう)有(あ)り
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て、談天門院(だんてんもんゐん)とぞ聞(き)こゆめる。万(よろづ)花(はな)やかにめでたき事(こと)共(ども)繁(しげ)う聞(き)こゆ。内には、万里小路(までのこうじ)〈 北畠と申す也、 〉大納言(だいなごん)入道師重(もろしげ)と言(い)ひしが娘(むすめ)、大納言(だいなごん)の典侍(すけ)とて、いみじう時(とき)めく人有(あ)るを、堀川(ほりかは)の春宮の権大夫具親(ともちか)の君、いと忍(しの)びて見(み)初(そ)められけるにや、彼(か)の女、かき消(け)ち失(う)せぬとて、求(もと)め尋(たづ)ねさせ給(たま)ふ。二三日こそあれ、程(ほど)無(な)く其(そ)の人と現(あらは)れぬれば、上(うへ)いとめざましく憎(にく)しと思(おぼ)す。止(や)む事(ごと)無(な)き際(きは)には有(あ)らねど、御覚(おぼ)えの時(とき)なれば、厳(きび)しく咎(とが)めさせ給(たま)ひて、げに須磨(すま)の浦へも遣(つか)はさまほしきまで思(おぼ)されけれども、さすがにて、官(つかさ)皆(みな)止(とど)めて、いみじう勘(かう)ぜさせ給(たま)へば、畏(かしこ)まりて、岩倉(いはくら)の山庄に籠(こも)り居(ゐ)ぬ。花(はな)の盛(さか)りに面白(おもしろ)きを眺(なが)めて、
うき事(こと)も花(はな)にはしばし忘(わす)られて春の心(こころ)ぞ昔(むかし)なりける W
典侍(すけ)の君は返(かへ)り参(まゐ)れるを、つらしと思(おぼ)す物(もの)から、「うきに紛(まぎ)れぬ恋(こひ)しさ」とや、いよいよらうたがらせ給(たま)ふを、さしもあかず正身(さうじみ)は猶(なほ)好(す)き心(ごころ)ぞ絶(た)えず有(あ)りけんかし。
絶(た)え果(は)つる契(ちぎ)りを一人(ひとり)忘(わす)れぬも憂(う)きも我(わ)が身の心(こころ)なりけり W
とて、一人(ひとり)ごたれける。末(すゑ)様(ざま)には、公泰(きんやす)の大納言(だいなごん)、未(いま)だ若(わか)う御座(おは)せし頃(ころ)、御心(おんこころ)〔と〕許(ゆる)して給(たま)はせければ、思(おも)ひかはして住(す)まれし程(ほど)に、彼処(かしこ)にて失(う)せにき。御門(みかど)の御母女院、十一月失(う)せ給(たま)ひにしかば、内の上(うへ)御服(ぶく)奉(たてまつ)る。天下(てんか)一(ひと)つに染(そ)め渡(わた)し
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て、葦(あし)簾(すだれ)とか、いとまがまがしき物(もの)共(ども)掛(か)け渡(わた)したるも、哀(あは)れにいみじくぞ見(み)ゆる。五節(ごせち)も止(と)まりぬ。若(わか)き人々(ひとびと)などさうざうしく思(おも)へり。当代(たうだい)も又(また)敷島(しきしま)の道もてなさせ給(たま)へば、いつしかと勅撰の事(こと)仰(おほ)せらる。前(さき)の藤大納言(だいなごん)為世(ためよ)承(うけたまは)る。玉葉のねたかりしふしも、今(いま)ぞ胸(むね)あきぬらんかし。此(こ)の大納言(だいなごん)の娘(むすめ)、権大納言(だいなごん)の君とて、坊の御時(とき)限(かぎ)り無(な)く思(おぼ)されたりし御腹(おんはら)に、一の御子(みこ)・女(をんな)三(さん)の御子(みこ)・法親王など、数多(あまた)物(もの)し給(たま)ふ。彼(か)の大納言(だいなごん)の君も、早(はや)う隠(かく)れにしかば、此(こ)の頃(ころ)三位贈(おく)らせ給(たま)ふ。贈(ぞう)従三位(さんみ)為子とて、集にもやさしき歌多(おほ)く侍(はべ)るべし。さて大納言(だいなごん)は、人々(ひとびと)に歌(うた)すすめて、玉津島の社に詣(まう)でられけり。大臣・上達部(かんだちめ)より始(はじ)めて、歌詠(よ)むと思(おも)へる限(かぎ)り、此(こ)の大納言(だいなごん)〔の〕風を伝(つた)へたるを、もるるも者(もの)無(な)し。子共(ども)孫(うまご)共(ども)などは、勢(いきほ)ひ殊(こと)に響(ひび)きて下(くだ)る。先(ま)づ住吉(すみよし)へ詣(まう)づ。逍遙(せうえう)しつつ罵(ののし)りて、九月にぞ玉津島へ詣(まう)でける。歌共(ども)の中(なか)に、大納言(だいなごん)為世(ためよ)、
今(いま)ぞ知(し)る昔(むかし)にかへる我(わ)が道(みち)の誠(まこと)を神も守(まも)りけりとは W
かくて、元応二年(にねん)四月十九日、勅撰(ちよくせん)は奏(そう)せられけり。続千載(しよくせんざい)と言(い)ふなり。新後撰集と同(おな)じ撰者(せんじや)の事(こと)なれば、多(おほ)くは彼(か)の集に変(か)はらざるべし。為藤の中納言、父(ちち)よりは少(すこ)し思(おも)ふ所加(くは)へたる主(ぬし)にて、今(いま)少(すこ)し、此(こ)の度(たび)は心(こころ)憎(にく)き様(さま)也(なり)などぞ、時(とき)の人々(ひとびと)沙汰(さた)しける。院(ゐん)にも内にも、朝政(あさまつりごと)のひまひまには、御歌合(うたあはせ)のみ繁(しげ)う聞(き)こえし中(なか)に、元亨元年(ぐわんねん)八月十五夜(じふごや)
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かとよ。常(つね)より殊(こと)に月面白(おもしろ)かりしに、上(うへ)、萩(はぎ)の戸に出(い)でさせ給(たま)ひて、異(こと)なる御遊(あそ)びなども有(あ)らまほしげなる夜なれど、春日(かすが)の御榊(さかき)、うつし殿に御座(おは)します頃(ころ)にて、糸竹(しちく)の調(しら)べは折(をり)あしければ、例(れい)の只(ただ)内々(うちうち)御歌合(うたあはせ)有(あ)るべしとて、侍従(じじゆう)の中納言為藤召(め)されて、俄(にはか)に題奉(たてまつ)る。殿上に候(さぶら)ふ限(かぎ)り、左右(さう)同(おな)じ程(ほど)の歌詠(よ)みを択(え)らせ給(たま)ふ。左は、内の上(うへ)・春宮の大夫公賢(きんかた)・左衛門佐公敏(きんとし)・侍従(じじゆう)の中納言為藤・中宮の権大夫師賢・宰相(さいしやう)維継・昭訓門院の春日(かすが)為世(ためよ)の娘(むすめ)、右(みぎ)は藤大納言(だいなごん)為世(ためよ)・富小路大納言(だいなごん)実教・X洞院(とうゐん)の中納言季雄(すゑを)・公修(きんなか)の宰相(さいしやう)、実任(さねたふ)の少将(せうしやう)、内侍(ないし)〈 為信の娘(むすめ) 〉、忠定の朝臣・為冬、忠守など言(い)ふ医師(くすし)も、此(こ)の道の好(す)き物(もの)なりとて、召(め)し加(くは)へらる。衛士のたく火も月の名だてにやとて、安福殿(あんぷくでん)へ渡(わた)らせ給(たま)ふ。忠定の中将(ちゆうじやう)、昼(ひ)の御座(ござ)の御佩刀(はかし)を取(と)りて参(まゐ)る。殿上のかみの戸を出(い)でさせ給(たま)ひて、無名門より右近(うこん)の陣の前(まへ)を過(す)ぎさせ給(たま)へば、遣水(やりみづ)に月のうつれる、いと面白(おもしろ)し。安福殿(あんぷくでん)の釣(つり)殿(どの)に床子(しやうじ)立(た)てて、東南(ひんがしみなみ)に御座(おは)します。上達部は簀子(すのこ)の勾欄(かうらん)に背中(せなか)押(お)し当(あ)てつつ、殿上人は庭に候(さぶら)ひあへるもいと艶(えん)也(なり)。池の御船(みふね)差(さ)し寄(よ)せて、左右(さう)の講師(かうし)隆資(たかすけ)・為冬乗(の)せらる。御酒(みき)など参(まゐ)る様(さま)も、うるはしき事(こと)よりは、艶(えん)に艶(なま)めかし。人々(ひとびと)の歌いたく気色(けしき)ばみて、とみにも奉(たてまつ)らず、いと心(こころ)許(もと)無(な)し。照(て)る月波も、曇(くも)り無(な)き池の鏡(かがみ)に、言(い)はねどしるき秋のもなかは、げにいと異(こと)なる空の気色(けしき)に、月も傾(かたぶ)きぬ。明(あ)けがた近(ちか)うなりにけり。上(うへ)の御製(ぎよせい)、
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鐘(かね)の音(おと)もかたぶく月にかこたれて惜(を)しと思(おも)ふ夜(よ)は今宵(こよひ)也(なり)けり W
と講(かう)じ上(あ)げたる程(ほど)、景陽(けいやう)の鐘(かね)も響(ひび)きを添(そ)へたる、折(をり)からいみじうなん。いづれもけしうは有(あ)らぬ歌共(ども)多(おほ)く聞(き)こえしかど、御製(ぎよせい)の鐘(かね)の音(おと)に勝(まさ)れるは無(な)かりしにや。かくて今年(ことし)も又暮(く)れぬ。明(あ)くる春元亨二正月三日、朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)あり。法皇は御弟(おとうと)の式部卿(しきぶきやう)の親王(みこ)の御家大炊御門(おほひのみかど)京極(きやうごく)常盤井(ときはゐ)殿(どの)と言(い)ふにぞ御座(おは)します。内裏(だいり)は二条万里(まで)の小路(こうぢ)なれば、陣の中(なか)にて、大臣以下かちより仕(つかまつ)らる。関白内経・太政大臣通雄・左大臣実泰(さねやす)・右大将兼季・左大将冬教・中宮の大夫実衡(さねひら)、〔中納言には〕具親(ともちか)・公敏(きんとし)・為藤・顕実(あきざね)・経定、宰相(さいしやう)実任(さねたふ)・冬定・公明(きんあきら)・光忠、公泰・資朝(すけとも)、殿上人は頭(とう)の中将(ちゆうじやう)為定・修理大夫冬方を始(はじ)めて、残(のこ)るは少(すく)なし。此(こ)の院(ゐん)は、池のすまひ、山の木立(こだち)、もとより由(よし)あるさまなるに、時(とき)ならぬ花(はな)の梢(こずゑ)をさへ造(つく)り添(そ)へられたれば、春の盛(さか)りに変(か)はらず咲(さ)きこぼれたるに、雪(ゆき)さへいみじく降(ふ)りて、残(のこ)る常盤木(ときはぎ)も無(な)し。州崎(すさき)に立(た)てる鶴(つる)の気色(けしき)も、千代を込(こ)めたる霞(かすみ)の洞(ほら)は、誠(まこと)に仙人(やまびと)の宮(みや)もかくやと見(み)えたり。京極(きやうごく)表(おもて)の棟門(むねもん)に御輿(こし)を抑(おさ)へて、院司(ゐんし)事(こと)の由(よし)を奏(そう)す。乱声(らんじやう)の後、中門に御輿(こし)を寄(よ)す。中門の下より出(い)づる遣(や)り水(みづ)に、小(ちひ)さく渡(わた)されたる反橋(そりはし)の左右(さう)に、両大将跪(ひざまづ)く。剣璽(けんじ)は権(ごん)の亮(すけ)宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)公泰勤(つと)められしにや。関白、公卿(くぎやう)の座の妻戸(つまど)の御簾(みす)をもたげて入(い)り奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。とばかり有(あ)りて、寝殿(しんでん)の母屋(もや)の御簾(みす)皆(みな)上(あ)げ渡(わた)して、法皇出(い)でさせ給(たま)へ
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り。香染(かうぞ)めの御衣(おんぞ)、同(おな)じ色の御袈裟(けさ)なり。御袈裟(けさ)の箱(はこ)、御そばに置(お)かる。内(うち)の上(うへ)、公卿(くぎやう)の座より勾欄(かうらん)を経(へ)給(たま)ふ。御供(とも)に関白候(さぶら)ひ給(たま)ふ。階(はし)の間(ま)より出(い)で給(たま)ひて、廂(ひさし)に御座(おまし)奉(たてまつ)りたれば、御拝し給(たま)ふ程(ほど)、西東(にしひんがし)の中門の廊(らう)に、上達部(かんだちめ)多(おほ)く立(た)ち重(かさ)なりて見(み)遣(や)り奉(たてまつ)る中(なか)に、内の御乳母(めのと)の吉田の前(さき)の大納言(だいなごん)定房(さだふさ)、まみいたう時雨(しぐ)れたるぞ哀(あは)れに見(み)ゆ。其(そ)のかみの事(こと)など思(おも)ひ出(い)づるに、めでたき喜(よろこ)びの涙ならんかし。御拝(はい)終(をは)りぬれば、又もとの道を経(へ)給(たま)ひて、公卿(くぎやう)の座に入(い)らせ給(たま)ひぬ。法皇も内(うち)に入(い)り給(たま)ひて、しばし有(あ)りて、左右(さう)の楽屋の調子(てうし)整(ととの)ほりて後(のち)、又御門(みかど)入(い)らせ給(たま)ふ。法皇も同(おな)じ間(ま)の内(うち)に、御褥(しとね)ばかりにて御座(おは)します。末(すゑ)の廂(ひさし)に、内(うち)より参(まゐ)れる女房共(ども)候(さぶら)ふ。一(いち)の車に小大納言(せうだいなごん)の君〈 師重の娘 〉、「うきも我(わ)が身の」と詠(よ)みし人の妹(いもうと)なり。帥典侍(そちのすけ)資茂の娘(むすめ)、讚岐(さぬき)・こいまとかや。二の左に新兵衛、中宮の内侍(ないし)、後に准后(じゆんこう)と聞(き)こえにき。しりに夏びき・いはねを。三(さん)の車に少将(せうしやう)の内侍(ないし)・尾張(をはり)の内侍(ないし)、しりに青柳(あをやぎ)・今参(いままゐ)りなど聞(き)こゆ。上達部、御前(まへ)の座に着(つ)きて後(のち)、御台(みだい)参(まゐ)る。役送(やくそう)公泰宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)、陪膳(はいぜん)右大将兼季、其(そ)の程(ほど)、舞人(まひびと)跪(ひざまづ)く。地下の舞(まひ)は目(め)なれたる事(こと)なれど、折(をり)からにや、今日(けふ)は殊(こと)に面(おも)もち足(あし)ぶみもめでたく見(み)ゆ。院(ゐん)の御覚(おぼ)えにて、寿王(ずわう)と言(い)ふ人、松殿の某(なにがし)とかやが子也(なり)。落蹲(らくそん)など舞(ま)ふと聞(き)きしかど、夜も更(ふ)け雪(ゆき)も事(こと)にかき暗(くら)して、何(なに)のあやめも見(み)えざりき。其(そ)の後(のち)御前(まへ)の御遊(あそ)び始(はじ)まる。頭(とう)の太夫冬方、御箱(はこ)の蓋(ふた)に御笛入(い)れて持(も)ちて参(まゐ)る。関白取(と)り
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て御前(まへ)に参(まゐ)らせ給(たま)ふ。右大将も笛、中宮の大夫琵琶、大宮(おほみや)大納言(だいなごん)笙(しやう)、春宮の大夫琴(こと)、右宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)和琴(わごん)、光忠宰相篳篥(ひちりき)、兼高(かねたか)も吹(ふ)きしにや。拍子(ひやうし)は左大臣、末(すゑ)は冬忠(ふゆただ)の宰相なり。更(ふ)け行(ゆ)く儘(まま)に、上(うへ)の御笛(ふえ)の音(ね)すみ上(のぼ)りて、いみじくさえたり。左の大臣(おとど)の安名尊(あなたふと)・伊勢の海(うみ)、限(かぎ)り無(な)くめでたく聞(き)こゆ。事(こと)共(ども)果(は)てぬれば、御贈(おく)り物(もの)参(まゐ)る。錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れたる御笛(ふえ)、箱(はこ)の蓋(ふた)に据(す)ゑらる。左大臣取(と)り次(つ)ぎて関白に奉(たてまつ)る。御前(まへ)に御覧(ごらん)ぜさせて、冬方を召(め)して賜(たま)はす。次に唐(から)の赤地(あかぢ)の錦(にしき)の袋(ふくろ)に琵琶入(い)れて参(まゐ)る。其(そ)の後(のち)、御馬(うま)、殿上人口(くち)を取(と)りて、御前(まへ)に引(ひ)き出(い)でたり。ほのぼのと明(あ)くる程(ほど)にぞ帰(かへ)らせ給(たま)ひぬる。法皇は、ややもすれば、大覚寺(だいかくじ)殿(どの)にのみ籠(こも)らせ御座(おは)します。人々(ひとびと)、世(よ)の中(なか)の事(こと)共(ども)奏(そう)しに参(まゐ)り集(つど)ふ。今(いま)は一筋(すぢ)に御行(おこな)ひにのみ御心(おんこころ)入(い)れ給(たま)へるに、いとうるさく思(おぼ)せば、其(そ)の夏(なつ)の頃(ころ)、定房の大納言(だいなごん)、東(あづま)へ遣(つか)はさる。御門(みかど)に天(あめ)の下(した)の事(こと)、譲(ゆづ)り申(まう)さむの御消息(せうそこ)なるべし。大方(おほかた)は、いとあさましう成(な)り果(は)てたる世(よ)にこそあめれ。かばかりの事(こと)は、父(ちち)御門(みかど)の御心(おんこころ)にいと安(やす)く任(まか)せぬべき物(もの)をと、めざまし。然(さ)れど、昨日今日(けふ)始(はじ)まりたるにも有(あ)らず、承久より此方(こなた)は、かくのみ成(な)り持(も)て来(き)にければなめり。内に近(ちか)く候(さぶら)ふ上達部(かんだちめ)などの、なま腹(はら)ぎたなき、我(わ)が思(おも)ふ事(こと)のとどこほりなどするを、猶(なほ)法皇をうれはしげに思(おも)ひ奉(たてまつ)りて、此(こ)の事如何(いか)で東(あづま)より許(ゆる)し申(まう)す業(わざ)もがなと、祈(いの)りなどをさへぞしける。かくて、大納言(だいなごん)
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程(ほど)無(な)く帰(かへ)り上(のぼ)りぬ。御心(おんこころ)の儘(まま)なるべく奏(そう)したりとて、院(ゐん)の文殿、議定所(ぎぢやうしよ)にうつされ、評定衆(ひやうぢやうしゆ)など、少々(せうせう)変(か)はるも有(あ)り。さて世(よ)をしたためさせ給(たま)ふ事(こと)、いと賢(かしこ)う明(あき)らかに御座(おは)しませば、昔(むかし)に恥(は)ぢずいとめでたし。御才(ざえ)もいとはしたなう物(もの)し給(たま)へば、万(よろづ)の事曇(くも)りなかんめり。三史(さんし)五経の御論議(ろんぎ)なども隙(ひま)無(な)し。六月(みなづき)の頃、中殿の作文(さくもん)せさせ給(たま)ふ。題は式部(しきぶ)の大輔藤範奉(たてまつ)る。久しかるべきは賢人(けんじん)の徳(とく)とかや聞(き)こえしにや。女(をんな)の学(まね)ぶべき事(こと)ならねばもらしつ。上達部(かんだちめ)・殿上人三十余人(よにん)参(まゐ)れり。関白殿〔房実〕ばかり直衣(なほし)にて御几帳の後(うし)ろに候(さぶら)はせ給(たま)ふ。上(うへ)は御引直衣(ひきなほし)、御琵琶(びは)玄象(げんしやう)ひかせ給(たま)ふ。右大将実衡(さねひら)琵琶(びは)、春宮の大夫箏(こと)、権大納言(だいなごん)親房笙(しやう)、権中納言氏忠和琴(わごん)、左(ひだり)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)公泰笙(しやう)〔の笛(ふえ)、〕右衛門督嗣家(つぎいへ)笛、右(みぎ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)光忠篳篥(ひちりき)、拍子(ひやうし)は例(れい)の左の大臣(おとど)実泰(さねやす)、末(すゑ)は冬定なりしにや。上(うへ)の御琵琶(びは)の音(ね)、言(い)ひ知(し)らずめでたし。右大将は何(なに)にか有(あ)らん、心(こころ)とけてもかき立(た)てられざりき。御遊(あそ)び果(は)てて後、文台(ぶんだい)召(め)さる。蔵人内記俊基(としもと)、人々(ひとびと)の文(ふみ)を取(と)り集(あつ)めて、一度(いちど)に文台(ぶんだい)の上(うへ)に置(お)く。披講(ひかう)の終(を)はる程(ほど)に、短(みじ)か夜もほのぼのと明(あ)け果(は)てぬ。御製(ぎよせい)を左の大臣(おとど)返(かへ)す返(がへ)す誦(じゆ)して、うるはしく朗詠(らうゑい)にし給(たま)ふ。声(こゑ)いと美(うつく)し。折節(をりふし)郭公の一声(こゑ)名乗(なの)り捨(す)てて過(す)ぎたるは、いみじく艶(えん)也(なり)。斯様(かやう)の誠(まこと)しき事(こと)は、予(かね)て人々(ひとびと)も心(こころ)遣(づか)ひすれば、あやまち無(な)かるべし。時(とき)に臨(のぞ)みて、俄(にはか)に難(かた)き題(だい)を賜(たま)はせて、内々(うちうち)詩(し)を作(つく)らせ歌を詠(よ)ませて、賢(かしこ)く愚(おろ)かなると御覧(ごらん)じわくに、いとからい事多(おほ)く、地(ち)ゆるび無(な)き世(よ)なり。
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其(そ)の七月七日、乞巧奠(きかうでん)、いつの年(とし)よりも御心(おんこころ)止(とど)めて、予(かね)てより人々(ひとびと)に歌〔も〕召(め)され、ものの音(ね)共(ども)も試(こころ)みさせ給(たま)ふ。其(そ)の夜は、例(れい)の玄象(げんしやう)ひかせ給(たま)ふ。人々(ひとびと)の所作、有(あ)りし作文(さくもん)に変(か)はらず。笛(ふえ)・篳篥(ひちりき)などは、殿上人共(ども)、鳴板(なるいた)の程(ほど)に候(さぶら)ひて仕(つかうまつ)る。中宮も上(うへ)の御局(みつぼね)にまう上(のぼ)らせ給(たま)ふ。御簾(みす)の内(うち)にも琴(こと)・琵琶(びは)数多(あまた)有(あ)りき。播磨(はりま)の守(かみ)長清(ながきよ)の娘(むすめ)、今(いま)は左大臣の北(きた)の方(かた)にて三位殿と言(い)ふも、箏(こと)ひかれけり。宮の御方(かた)の播磨(はりま)の内侍(ないし)も、同(おな)じく琴(こと)ひきけるとかや。琵琶(びは)は権大納言(だいなごん)の三位殿師藤大納言(だいなごん)の娘(むすめ)、いみじき上手(じやうず)に御座(おは)すれば、めでたう面白(おもしろ)し。蘇香(そかう)・万秋楽(まんじうらく)、残(のこ)る手(て)無(な)く幾(いく)返(かへ)りと無(な)く尽(つ)くされたる明(あ)け方(がた)は、身にしむばかり若(わか)き人々(ひとびと)めであへり。さらでだに、秋の初風は、げにそぞろ寒(さむ)き習(なら)ひを、理(ことわり)にや。御遊(あそ)び果(は)てて文台召(め)さる。此(こ)の度(たび)は和歌の披講(ひかう)なれば、其(そ)の道の人々(ひとびと)、藤大納言(だいなごん)為世(ためよ)、子共(ども)孫(うまご)共(ども)引(ひ)き連(つ)れて候(さぶら)へば、上(うへ)の御製(ぎよせい)、
笛竹(ふえたけ)の声(こゑ)も雲井に聞(き)こゆらし今宵(こよひ)手むくる秋の調(しら)べは W
順(ずん)ながるめりしかど、いづれも只(ただ)天(あま)の川、鵲(かささぎ)の橋(はし)より外の珍(めづら)しきふしは聞(き)こえず。誠(まこと)、実教の大納言(だいなごん)なりしにや、
同(おな)じくは空まで送(おく)れ焚(た)き物(もの)の匂(にほ)ひを誘(さそ)ふ庭の秋風 W
げにえならぬ名香(みやうかう)の香(か)共(ども)ぞ、めでたくかうばしかりし。花(はな)も紅葉(もみぢ)も散(ち)り果(は)てて、雪(ゆき)積(つ)もれる日数(ひかず)
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の程(ほど)なさに、又年(とし)変(か)はりて正中元年(ぐわんねん)と言(い)ふ。三月(やよひ)の二十日余(あま)り、石清水(いはしみづ)の社に行幸(ぎやうがう)し給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)・殿上人いみじき清(きよ)らをつくせり。関白殿〔房実〕は御車也(なり)。右大将実衡(さねひら)、松がさねの下襲(したがさね)、鶴(つる)の丸(まろ)を織(お)る。蘇芳(すはう)の固紋(かたもん)の衣(きぬ)。左大将経忠(つねただ)、桜萌黄(さくらもえぎ)の二重(ふたへ)織物(おりもの)の御下襲(したがさね)桜(さくら)に蝶(てふ)を色々(いろいろ)に織(お)る。花山吹(はなやまぶき)の上(うへ)の袴(はかま)・紅(くれなゐ)のうちたる御衣(おんぞ)、人より殊(こと)にめでたく見(み)え給(たま)ふ。御形(かたち)〔も〕、匂(にほ)ひやかにけだかき様(さま)して、誠(まこと)に、一の人とは斯(か)かるをこそ聞(き)こえめと、あかぬ事(こと)無(な)く見(み)え給(たま)ふ。土御門(つちみかど)の中納言顕実(あきざね)、花桜(はなざくら)の下襲(したがさね)なりき。花山院(くわさんゐん)の中納言経定などぞ、上臈(じやうらふ)の若(わか)き上達部(かんだちめ)にて、如何(いか)にも珍(めづら)しからんと、世(よ)の人(ひと)も思(おも)へりしかど、家のやうとかや何(なに)とかやとて、只(ただ)いつもの儘(まま)也(なり)。公泰宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)剣璽(けんじ)の役(やく)勤(つと)めらる。桜萌黄(さくらもえぎ)の上(うへ)の袴(はかま)・樺桜(かばざくら)の下襲(したがさね)・山吹(やまぶき)の浮織物(うきおりもの)の衣(きぬ)・紅(くれなゐ)のうちたる単(ひとへ)を重(かさ)ねられたり。白(しろ)くまろく肥(こ)えたる人の、眉(まゆ)いとふとくて、おひかけのはづれ、あなきよげと頼(たの)もしくぞ見(み)えられし。頭亮(とうのすけ)藤房、樺桜(かばざくら)の下襲(したがさね)・蘇芳(すはう)の浮織物(うきおりもの)の衣(きぬ)、弟(おとうと)の職事(しきじ)季房(すゑふさ)も、山吹(やまぶき)の下襲(したがさね)・紅(くれなゐ)の衣。衛府のすけ共(ども)は、打(う)ちこみたれば見(み)も別(わか)ず。別当左兵衛督(さひやうゑのかみ)資朝(すけとも)、はしり下部(しもべ)とかや言(い)ふ物(もの)八人に、地は皆(みな)銀(しろかね)を延(の)べたるにやと見(み)ゆるに、鶴(つる)の丸を黄(き)に磨(みが)きたる、好(この)もしうきよげ也(なり)。舞人(まひびと)にも、良(よ)き家の子共(ども)を選(えら)び整(ととの)へられたり。一(いち)の左に、中(なか)の院(ゐん)の前(さき)の大納言(だいなごん)道顕の子通冬少将(せうしやう)、まだいとちいさきに、童(わらは)なども同(おな)じ程(ほど)なるを、好(この)み整(ととの)へて、いと清(きよ)らにいみじうし立(た)て
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て、秦(はた)の久俊(ひさとし)と言(い)ふ御随身(みずいじん)をぞ具(ぐ)せられたる。右(みぎ)に久我(こが)の少将(せうしやう)通宣、いたく過(す)ぐしたる程(ほど)にて、ひげがちに、ねび給(たま)へる形(かたち)して、ちいさきに立(た)ち並(なら)ばれたる、いとたとしへ無(な)くぞ見(み)えし。それより次々(つぎつぎ)は、むつかしさに忘(わす)れぬ。大将の随身(ずいじん)共(ども)こそ、昔(むかし)の事(こと)はげには見(み)ねば知(し)らず、いとゆゆしく、誠(まこと)に花(はな)を折(を)るとは是(これ)にやと、めでたう面白(おもしろ)かりし。左大将殿の随身(ずいじん)は、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の色も文(もん)も目(め)なれぬ様(さま)に好(この)もしきを、情(なさ)け無(な)きまでさながらだみて、ませに山吹(やまぶき)を、銀(しろかね)にてうち物(もの)にして、ひしと付(つ)けたり。花(はな)の色、重(かさ)なりなどまで、こまかに美(うつく)し。露を水晶(すいしやう)の玉にて置(お)きたる、朝日(あさひ)に輝(かかや)きて、すべていみじうぞ見(み)ゆる。西園寺(さいをんじ)の随身(ずいじん)も、同(おな)じ錦(にしき)なれど、松(まつ)を結(むす)びて、鶴(つる)の丸(まろ)を白と黄(き)とにうちて付(つ)けたる、山吹(やまぶき)よりは匂無(な)く見(み)えき。様々(さまざま)の神宝(しんぽう)・神馬(じんめ)・御てぐらなど、夜もすがら罵(ののし)りあかして、又(また)の日の暮(く)れつ方(かた)返(かへ)らせ給(たま)ひぬ。同(おな)じ卯月(うづき)十七日、賀茂の社に行幸(ぎやうがう)なる。上達部(かんだちめ)など多(おほ)くは先(さき)に同(おな)じ。衣がへの下襲(したがさね)共(ども)、けぢめ無(な)くすずしげ也(なり)。別当の下部(しもべ)、此(こ)の度(たび)は十二人、かちんに雉(きじ)の尾(を)を白(しろ)く打(う)ち違(ちが)へて付(つ)けたる、是(これ)も掲焉(けちえん)に好(この)ましげ也(なり)。明(あ)くる日は祭(まつり)なれば、神館(かんだち)の方(かた)、打(う)ち続(つづ)き花やかに面白(おもしろ)し。今日(けふ)の使(つか)ひは、徳大寺(とくだいじ)の中将(ちゆうじやう)公清也(なり)。春宮の大夫公賢(きんかた)の聟(むこ)にて御座(おは)すればにや、左大臣の大炊御門(おほひのみかど)富小路の御家よりぞ出(い)で立(た)たれける。人柄(ひとがら)と言(い)ひ、万(よろづ)めでたく見(み)ゆ。萌黄(もえぎ)の下襲(したがさね)、
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御家の紋(もん)のもかうを色々(いろいろ)に織(お)りたりしにや。近頃(ちかごろ)の使(つか)ひには似(に)ず、いといみじくきらめき給(たま)へり。中宮の使(つか)ひは亮(すけ)の藤房なり。此(こ)の頃(ごろ)、時(とき)にあひたる物(もの)なれば、いときよげに劣(おと)らぬ様(さま)也(なり)。其(そ)の二十七日に任大臣の節会(せちゑ)行(おこな)はる。左大将経忠、右大臣にならせ給(たま)ふ。内大臣冬教、左にうつり給(たま)へば、右大将実衡(さねひら)内大臣になさる。又(また)の日やがて右大臣殿、大饗(たいきやう)行(おこな)はせ給(たま)へば、尊者(そんじや)に内大臣参(まゐ)り給(たま)ふ。近衛殿(このゑどの)、近頃(ちかごろ)は御悩(なや)みがちにてのみ臥(ふ)し給(たま)へれど、今日(けふ)の御悦に珍(めづら)しく出(い)で居(ゐ)させ給(たま)へり。法皇は、今(いま)は大覚寺(だいかくじ)殿(どの)にのみ御座(おは)しませば、大炊御門(おほひのみかど)の式部卿(しきぶきやう)の親王(みこ)の御家を、内大臣殿申(まう)し受(う)けて、同(おな)じ日大饗(たいきやう)し給(たま)ふ。尊者(そんじや)には右(みぎ)の大臣(おとど)、やがて我(わ)が御家の大饗(たいきやう)果(は)つる儘(まま)に、引(ひ)き連(つ)れて渡(わた)り給(たま)へり。主(あるじ)も客人(まれびと)も、大将兼(か)ね給(たま)へれば、随身(ずいじん)共(ども)えならず経営(けいめい)して、形見(かたみ)に気色(けしき)取(と)りかはしたる、いと面白(おもしろ)し。主(あるじ)の大臣(おとど)琵琶、右衛門督兼高(かねたか)篳篥(ひちりき)、隆資(たかすけ)の朝臣笙(しやう)、室町(むろまち)三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)公春琴(こと)、教宗(のりむね)の朝臣笛、有頼宰相拍子(ひやうし)取(と)りて、遊(あそ)び暮(く)らし給(たま)ふ。御前(まへ)の物(もの)共(ども)など、常(つね)の作法(さほふ)に事(こと)を添(そ)へて、こまかに清(きよ)ら也(なり)。其(そ)の後(のち)幾(いく)程(ほど)無(な)く、右大臣殿の御父君(ちちぎみ)前(さき)の関白殿家平(いへひら)、御悩(なや)み重(おも)くなり給(たま)ひて、御髪(みぐし)下(お)ろす。俄(にはか)なれば、殿の内(うち)の人々(ひとびと)いみじう思(おも)ひ騒(さわ)ぐ。大方(おほかた)、若(わか)くてぞ、少(すこ)し女(をんな)にも睦(むつ)ましく御座(おは)しまして、此(こ)の右大臣殿なども出(い)で来(き)給(たま)ひける。中頃よりは、男(をとこ)をのみ御傍(かたは)らに臥(ふ)せ給(たま)ひて、法師(ほふし)のちごのやうに語(かた)らひ給(たま)ひつつ、ひと渡(わた)りづつ、いと花(はな)やか
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に時(とき)めかし給(たま)ふ事(こと)、けしからざりき。左兵衛督(さひやうゑのかみ)忠朝(ただとも)と言(い)ふ人も、限(かぎ)り無(な)く御覚(おぼ)えにて、七八年が程(ほど)、いとめでたかりし。時過(す)ぎて其(そ)の後(のち)は、成定と言(い)ふ諸大夫(しよだいぶ)いみじかりき。此(こ)の頃は〔又(また)、〕隠岐(おき)の守(かみ)頼基(よりもと)と言(い)ふもの、童(わらは)なりし程(ほど)より、いたくまとはし給(たま)ひて、昨日今日(けふ)までの召人(めしうど)なれば、御髪(みぐし)下(お)ろすにも、やがて御供(とも)仕(つかうまつ)りけり。病おもらせ給(たま)ふ程(ほど)も、夜(よる)昼(ひる)御傍(かたは)ら放(はな)たず遣(つか)はせ給(たま)ふ。既(すで)に限(かぎ)りになり給(たま)へる時(とき)、此(こ)の入道も御後(うし)ろに候(さぶら)ふに、寄(よ)り掛(か)かりながら、きと御覧(ごらん)じ返(かへ)して、「哀(あは)れ、諸(もろ)共(とも)に出(い)で行(ゆ)く道ならば、嬉(うれ)しかりなん」と、宣(のたま)ひも果(は)てぬに、御息(いき)止(と)まりぬ。右大臣殿も御前に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。かくいみじき御気色(けしき)にて果(は)て給(たま)ひぬるを、心(こころ)憂(う)しと思(おぼ)されけり。さて其(そ)の後(のち)、彼(か)の頼基(よりもと)入道も病(やまひ)づきて、あと枕(まくら)も知(し)らずまどいながら、常(つね)は人に畏(かしこ)まる気色(けしき)にて、衣引(ひ)き掛(か)けなどしつつ、「やがて参(まゐ)り侍(はべ)る参(まゐ)り侍(はべ)る」と一人(ひとり)ごちつつ、程(ほど)無(な)く失(う)せぬ。粟田(あはた)の関白の隠(かく)れ給(たま)ひにし後(のち)、「夢見(み)ず」と、歎(なげ)きし者(もの)の心地(ここち)ぞする。故殿のさばかり思(おぼ)されたりしかば、召(め)し取(と)りたるなめりとぞ、いみじがりあへり。



第十四 春の別(わか)れ

四月(うづき)の末つ方(かた)より、法皇御悩(なや)み重(おも)くならせ給(たま)へば、天下(てんか)の騒(さわ)ぎ思(おも)ひ遣(や)るべし。御門(みかど)
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もいみじく思(おぼ)し歎(なげ)く。御修法(みしゆほふ)なども、いとこちたく、又々始(はじ)め加(くは)へさせ給(たま)へど、験(しるし)も無(な)くて日々に重(おも)らせ給(たま)へば、夜(よる)昼(ひる)と無(な)く「如何(いか)に如何(いか)に」と訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。若(わか)き上達部(かんだちめ)などは、直衣(なほし)に柏(かしは)ばさみして、夜中暁(あかつき)と無(な)く、遙(はる)けき嵯峨野(さがの)を、寮(れう)の御馬(うま)にて馳(は)せ歩(あり)き給(たま)ふめり。今(いま)はむげに頼(たの)み無(な)き由(よし)聞(き)こゆれば、大覚寺(だいかくじ)殿(どの)へ行幸(ぎやうがう)、有(あ)りしこと思(おぼ)し出(い)づ。万(よろづ)の事(こと)共(ども)聞(き)こえさせ給(たま)ふ。上(うへ)の一(ひと)つ御腹(おんはら)の二品法親王性円と聞(き)こゆるを、いと悲(かな)しき物(もの)に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひて、此(こ)の大覚寺(だいかくじ)に、そこらの御庄(みさう)・御牧(みまき)などを寄(よ)せ置(お)かる。法(ほふ)の主(あるじ)として御座(おは)しますべく思(おぼ)し掟(おき)てけり。然様(さやう)の事(こと)など、見給(たま)へざらんあと、後(うし)ろめたからぬ様(さま)などぞ聞(き)こえさせ給(たま)ひける。其(そ)の後(のち)、御孫(うまご)の春宮行啓(ぎやうげい)有(あ)り。世(よ)を知(し)ろし召(め)さむ時(とき)の御心(おんこころ)遣(づか)ひなど、今(いま)少(すこ)し、こまやかに聞(き)こえ知(し)らせ給(たま)ふ。宮は先帝(せんだい)〈 故二条院(にでうのゐん) 〉の御代(か)はりにも、如何(いか)で心(こころ)の限(かぎ)り仕(つかうまつ)らんと、あらまし思(おぼ)されつるに、あかず口惜(くちを)しうて、いたうしほたれさせ給(たま)ふ。御門(みかど)の御なからひ、上(うへ)はいとよけれど、まめやかならぬを、いと心(こころ)苦(ぐる)しと思(おぼ)さるれど、言(こと)に出(い)で給(たま)ふべきならねば、只(ただ)大方(おほかた)に付(つ)けて、世(よ)に有(あ)るべき事(こと)共(ども)、又此(こ)の頃少(すこ)し世(よ)に恨(うら)みあるやうなる人々(ひとびと)の、我(わ)が御心(おんこころ)に〔は〕、哀(あは)れと思(おぼ)さるるなど数多(あまた)有(あ)るをぞ、御心(おんこころ)の儘(まま)なる世(よ)にもなりなん時(とき)は、必(かなら)ず御用意(ようい)有(あ)るべくなど、聞(き)こえ給(たま)ひける。中御門(なかみかど)の大納言(だいなごん)経継(つねつぐ)・六条の中納言有忠・右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞(き)こえし人々(ひとびと)の事(こと)にや有(あ)りけん。さて
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其(そ)の夜は止(と)まり給(たま)へるも知(し)ろし召(め)さで、夜(よ)打(う)ち更(ふ)けて、少(すこ)し驚(おどろ)かせ給(たま)ひて、「春宮はいつ返(かへ)り給(たま)ひぬるぞ」と宣(のたま)ふに、打(う)ち声(こわ)づくりて、近(ちか)く参(まゐ)り給(たま)へれば、「未(いま)だ御座(おは)しましけるな」とて、いとらうたしと思(おぼ)されたる御気色(けしき)哀(あは)れ也(なり)。大方(おほかた)の気色(けしき)、院(ゐん)の内(うち)のかいしめりたる有様(ありさま)など、万(よろづ)思(おぼ)しめぐらすに、いと悲(かな)しきこと多(おほ)かれば、宮、打(う)ち泣(な)き給(たま)ひぬ。心(こころ)細(ぼそ)ういみじとのみ思(おぼ)さるるに、正中元年(ぐわんねん)六月二十五日、遂(つひ)に隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。御年(おんとし)五十八にぞならせ給(たま)ひける。後宇多院と申(まう)すなるべし。御門又御服(ぶく)奉(たてまつ)る。あけくれ懇(ねんご)ろに孝(けう)じ奉(たてまつ)り給ふ様(さま)、いと忝(かたじけな)し。御娘(むすめ)の皇后宮と聞(き)こえし、今(いま)は達智門院と申(まう)すも、まいて一所(ひとところ)をのみ頼(たの)み聞(き)こえさせ給(たま)へるに、心(こころ)細(ぼそ)ういみじと思(おぼ)し歎(なげ)くこと限(かぎ)り無(な)し。昔(むかし)の内侍(ないし)のかんの殿、近頃(ちかごろ)院号(ゐんがう)有(あ)りて万秋門院と聞(き)こゆるも、故(こ)院(ゐん)の御影(かげ)にてのみ過(す)ぐし給(たま)へれば、拠(よ)り所(どころ)無(な)く哀(あは)れげ也(なり)。御四十九日は八月十日余(あま)りの程(ほど)なれば、世(よ)の気色(けしき)何(なに)と無(な)く哀(あは)れ多(おほ)かるに、女院・宮達(たち)の御心(おんこころ)の中(うち)共(ども)、朝霧(あさぎり)よりも晴(は)れ間(ま)無(な)し。十五夜の月さへかき曇(くも)れるに、故(こ)院(ゐん)の位の御時(とき)に、宰相(さいしやう)の典侍(すけ)とて候(さぶら)ひしは、雅有(まさあり)の宰相の娘(むすめ)也(なり)。其(そ)の世(よ)の古(ふる)き友(とも)なれば、同(おな)じ心(こころ)ならんと思(おぼ)し遣(や)るも睦(むつ)ましくて、万秋門院宣(のたま)ひ遣(つか)はす。
仰(あふ)ぎ見(み)し月も隠(かく)るる秋なれば理(ことわり)知(し)れと曇(くも)る空かな W
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いと哀(あは)れに悲(かな)しと見(み)奉(たてまつ)りて、御返(かへ)し、宰相(さいしやう)の典侍(すけ)、
光無(な)き世(よ)は理(ことわり)の秋の月涙添(そ)へてや猶(なほ)曇(くも)るらむ W
永嘉門院(えいかもんゐん)・西花門院(せいくわもんゐん)など、いづれも思(おぼ)し歎(なげ)く人々(ひとびと)多(おほ)かり。春宮もいと恋(こひ)しく哀(あは)れとのみ思(おも)ひ聞(き)こえ給ふ儘(まま)に、御法事(ほふじ)をぞまめやかに勤(つと)めさせ給(たま)ひける。大覚寺(だいかくじ)にては、性円法親王取(と)り持(も)ちて行(おこな)はせ給(たま)ふ。御門・春宮の御法事(ほふじ)は、亀山殿の大多勝院(だいたしようゐん)にて勤(つと)めらる。哀(あは)れ哀(あは)れと言(い)ひつつも、過(す)ぎやすき月日(つきひ)のみ移(うつ)り変(か)はりて、年も返(かへ)りぬ。一昨年(をととし)ばかりより、又重(かさ)ねて撰集(せんじゆ)のこと仰(おほ)せられしを、為世(ためよ)の大納言(だいなごん)、二度(ふたたび)になりぬればにや、為藤の中納言に譲(ゆづ)りしを、幾(いく)程(ほど)無(な)く彼(か)の中納言悩(なや)みて失(う)せぬ。いといとほしう哀(あは)れなり。故(こ)為道の朝臣の失(う)せにし、只(ただ)年月(としつき)ふれど、絶(た)えぬ恨(うら)みなるに、又かく取(と)り重(かさ)ねたる歎(なげ)き、大納言(だいなごん)の心(こころ)の中(うち)言(い)はん方(かた)無(な)し。春宮よりしばしば訪(とぶら)はせ給(たま)ふ御消息(せうそこ)のついでに、
後(おく)れゐる鶴(つる)の心(こころ)も如何(いか)ばかり先(さき)だつ和歌(わか)の恨(うら)みなるらん W
御返(かへ)し、大納言(だいなごん)為世(ためよ)、
思(おも)へ只(ただ)和歌(わか)の浦(うら)には後(おく)れ居(ゐ)て老(お)いたるたづの歎(なげ)く心(こころ)を W
世(よ)に歌詠(よ)むと思(おぼ)しき人の、哀(あは)れがり歎(なげ)かぬは無(な)し。「せめて勅撰の事撰(えら)び果(は)つるまで、などかは」
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とぞ、一族(ひとぞう)の歎(なげ)き、いとほしげ也(なり)。故(こ)為道の中将(ちゆうじやう)の二郎為定と言(い)ふを、故(こ)中納言とりわき子にして、何事(なにごと)も言(い)ひ付(つ)けしかば、撰歌(せんか)の事(こと)もうけつぎて、沙汰(さた)すべきなどぞ聞(き)こゆる。大納言(だいなごん)は、末の子為冬少将(せうしやう)と言(い)ふをいたくらうたがりて、此(こ)の紛(まぎ)れに引(ひ)きや越(こ)さましと思(おも)へる気色(けしき)有(あ)りとて、為定も恨(うら)み歎(なげ)きて、山伏(やまぶし)姿(すがた)に出(い)で立(た)ちて、修行(しゆぎやう)に失(う)せぬなど言(い)ひ沙汰すれば、人々(ひとびと)いとほしう哀(あは)れになど持(も)てあつかへど、さすが求(もと)め出(い)だして、もとのやうにおだしく定(さだ)まりぬとなん。其(そ)の頃、長月(ながつき)ばかり、まだしののめの程(ほど)に、世(よ)の中(なか)いみじく騒(さわ)ぎ罵(ののし)る。何事(なにごと)にかと聞(き)けば、美濃(みの)の国の兵(つはもの)にて、土岐(とき)の十郎とかや、又多治見(たぢみ)の蔵人(くらうど)など言(い)ふ者共(ども)忍(しの)びて上(のぼ)りて、四条わたりに立(た)ち宿(やど)りたる事有(あ)りて、人に隠(かく)れて居(を)りけるを、早(はや)う又告(つ)げ知(し)らする物(もの)有(あ)りければ、俄(にはか)に其(そ)の所へ六波羅(ろくはら)より〔押(お)し〕寄(よ)せて、搦(から)め捕(と)る也(なり)けり。現(あらは)れぬとや思(おも)ひけん、彼(か)の物(もの)共(ども)は、やがて腹(はら)切(き)りつ。又(また)、別当資朝(すけとも)・蔵人の内記俊基(としもと)、同(おな)じやうに武家へ捕(と)られて、厳(きび)しく尋(たづ)ね問(と)ひ、守(まも)り騒(さわ)ぐ。事(こと)の起(お)こりは、御門世(よ)を乱(みだ)り給(たま)はんとて、彼(か)の武士(もののふ)共(ども)を召(め)したる也(なり)とぞ、言(い)ひあつかふめる。さて、其(そ)の宣旨(せんじ)なしたる人々(ひとびと)とて、此(こ)の二人(ふたり)をも東(あづま)へ下(くだ)して、戒(いまし)むべしとぞ聞(き)こゆる。いかさまなる事(こと)の出(い)で来(く)べきにかと、いと恐(おそ)ろしくむつかし。「故(こ)院御座(おは)しましし程(ほど)は、世(よ)ものどかにめでたかりしを、いつしか、斯様(かやう)の事(こと)も出(い)で来(き)ぬるよ」と、人の口(くち)安(やす)からざる
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べし。正応にも、浅原(あさはら)と言(い)ひし騒(さわ)ぎは、後嵯峨院の御処分(そうぶん)を、東(あづま)より引(ひ)き違(たが)へし御恨(うら)みとこそは聞(き)こえしか。今(いま)も其(そ)の御憤(いきどほ)りの名残(なごり)あるべし。過(す)ぎにし頃、資朝(すけとも)も山伏(やまぶし)のまねして、柿(かき)の衣(ころも)にあやゐ笠(がさ)と言(い)ふ物(もの)着(き)て、東(あづま)の方(かた)へ忍(しの)びて下(くだ)りしは、少(すこ)しは怪(あや)しかりし事(こと)也(なり)。早(はや)う斯(か)かる事(こと)共(ども)に付(つ)けて、あなたざまにも、宣旨(せんじ)を受(う)くる者(もの)の有(あ)りけるなめり。俊基も紀伊国へ湯浴(ゆあみ)に下(くだ)るなど言(い)ひなして、田舎(ゐなか)歩(あり)き繁(しげ)かりしも、今(いま)ぞ皆人(みなひと)思(おも)ひ合(あ)はせける。然(さ)る儘(まま)には、言(い)ひ知(し)らず聞(き)こゆる事(こと)共(ども)あれば、まだきに、いと口惜(くちを)しう思(おぼ)されて、此(こ)の事(こと)を、事(こと)を、先(ま)づおだしく止(や)めむと思(おぼ)せば、彼(か)の正応に有(あ)りしやうなる誓(ちか)ひの御消息(せうそこ)を遣(つか)はす。宣房(のぶふさ)の中納言、御(おん)使(つか)ひにて東(あづま)に下(くだ)る。大方(おほかた)、古(ふる)き御世(よ)より仕(つか)へきて、年(とし)もたけたる上(うへ)、此(こ)の頃(ころ)は、天(あめ)の下にいさぎよくむべむべしき人に思(おも)はれたる頃なれば、此(こ)の事(こと)更(さら)に御門(みかど)の知(し)ろし召(め)さぬ由(よし)など、けざやかに言(い)ひなすに、荒(あら)き夷(えびす)共(ども)の心(こころ)にも、いと忝(かたじけな)き事(こと)となごみて、無為(ぶい)なるべく奏(そう)しけり。此(こ)の御(おん)使(つか)ひの賞(しやう)にや、宣房(のぶふさ)、大納言(だいなごん)になされぬ。いといみじき幸(さいは)ひ也(なり)。親(おや)は三位ばかりにて入道して、子(こ)共(ども)などさへいときよげにて、数多(あまた)あめり。然(さ)れば、公(おほやけ)は知(し)ろし召(め)さぬにても、彼(か)の人々(ひとびと)は逃(のが)るべき方(かた)無(な)しとて、別当は佐渡(さど)の国へ流(なが)されぬ。俊基は、如何(いか)にして逃(のが)れぬるにか、都(みやこ)へ返(かへ)りぬれど、有(あ)りしやうには出(い)で仕(つか)へず、籠(こも)り居(ゐ)たる由(よし)なり。斯様(かやう)にて、事(こと)無(な)く静(しづ)まりぬれば、いとめでたけれど、上(うへ)の御心(おんこころ)の中(うち)は、猶(なほ)
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安(やす)からず、如何(いか)ならむ時(とき)とのみ思(おぼ)し渡(わた)るべし。月日(つきひ)程(ほど)無(な)く移(うつ)り行(ゆ)きて、嘉暦元年(ぐわんねん)になりぬ。三月(やよひ)の初(はじ)めつ方(かた)より、春宮例(れい)ならず御座(おは)しまして、日々に重(おも)らせ給(たま)ふ。様々(さまざま)の御修法(みしゆほふ)共(ども)始(はじ)め、御祈(いの)り、何(なに)やかやと、伊勢にも御(おん)使(つか)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)へど、甲斐(かひ)無(な)くて、三月二十日、遂(つひ)にいとあさましくならせ給(たま)ひぬ。宮の内(うち)、火を消(け)ちたる心地(ここち)して、惑(まど)ひあへり。御乳母(めのと)の対(たい)の君と言(い)ふ人、夜(よる)昼(ひる)御傍(かたは)ら去(さ)らず候(さぶら)ひなれたるに、いみじき心(こころ)惑(まど)ひ、誠(まこと)にをさめがたげなり。限(かぎ)りと見(み)え給ふ御顔(かほ)に差(さ)し寄(よ)りて、「かく残(のこ)りなき身を御覧(ごらん)じ捨(す)てては、え御座(おは)しまし遣(や)らじ。今(いま)一度(ひとたび)、御声(こゑ)なりとも聞(き)かせさせ給(たま)ひて、何方(いづかた)へも御供(とも)に率(ゐ)て御座(おは)しましてよ」と、声(こゑ)も惜(を)しまず泣(な)き入(い)り給(たま)へる様(さま)、いと哀(あは)れ也(なり)。すべて、宮の内(うち)とよみ悲(かな)しむ様(さま)、言(い)はん方(かた)無(な)し。永嘉門院(えいかもんゐん)は御子も御座(おは)しまさねば、年月(としつき)此(こ)の宮を故(こ)院聞(き)こえ付(つ)けさせ給(たま)ひしかば、今(いま)も一(ひと)つ院(ゐん)に御座(おは)します。御息所(みやすどころ)にも、やがて、故(こ)院(ゐん)の姫宮(ひめみや)を女院の御傍(かたは)らにかしづき聞(き)こえ給(たま)ひしを、合(あ)はせ奉(たてまつ)り給(たま)へれば、又なき様(さま)に思(おぼ)しかはして過(す)ぐさせ給(たま)へるなど、いみじう沈(しづ)み入(い)り給(たま)へり。さて有(あ)るべきならねば、常(つね)の行啓(ぎやうげい)の様(さま)にて、先帝(せんだい)の御座(おは)しましし北白河殿へぞ入(い)れ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひぬる。土用(どよう)の程(ほど)にて、しばし彼処(かしこ)に御座(おは)しますさへいと悲(かな)し。院号(ゐんがう)などの沙汰(さた)も有(あ)るべくこそ。然(さ)れど、御座(おは)しましし時(とき)に、其(そ)の事(こと)は由(よし)無(な)かるべく仰(おほ)せられ置(お)きしかば、内よりも聞(き)こし召(め)しすぐしけり。昼(ひ)の御座(ござ)の
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装(よそ)ひ取(と)り毀(こぼ)ち、火(ひ)たき屋(や)などかき払(はら)ふ程(ほど)、猶(なほ)うつつとも覚(おぼ)えず。堀川(ほりかは)の女御の、「見(み)えし思(おも)ひの」など宣(のたま)ひけんは、此(こ)の世ながら御心(おんこころ)との御あかれなれば、羨(うらや)ましくさへ覚(おぼ)ゆ。差(さ)しあたりての哀(あは)れは差(さ)し置(お)きて、先帝(せんだい)の位(くらゐ)ながら失(う)せ給(たま)ひにしだに有(あ)るを、又かく、半(なか)ばなるやうにて、あさましければ、世(よ)の人(ひと)の思(おも)ふらん事(こと)も心(こころ)憂(う)く、一方(ひとかた)ならぬ歎(なげ)きに添(そ)へたる憂(うれ)へ、言(い)はん方(かた)無(な)し。大方、我(わ)が身を限(かぎ)り果(は)てぬると思(おも)ふ人のみ多(おほ)かりき。有忠(ありただ)の中納言、先坊(せんばう)の御(おん)使(つか)ひにて東(あづま)に下(くだ)りにし、いつしかと思(おも)ふ様(さま)ならん事(こと)をのみ待(ま)ち聞(き)こえつつ、践祚(せんそ)の御(おん)使(つか)ひの都(みやこ)に参(まゐ)らんと同(おな)じやうに上(のぼ)らんとて、未(いま)だ彼処(かしこ)にも乗(の)せられつるに、かくあやなき事(こと)の出(い)で来(き)ぬれば、いみじとも更(さら)なり。三月三十日(つごもり)、やがて彼処(かしこ)にて頭(かしら)下(お)ろす。心(こころ)のうちさこそはと悲(かな)し。
大方(おほかた)の春の別(わか)れの外(ほか)に又我(わ)が世つきぬる今日(けふ)のくれかな W
都(みやこ)にも、前(さき)の大納言(だいなごん)経継・四条の三位(さんみ)隆久・山の井の少将(せうしやう)敦季(あつすゑ)・五辻少将(せうしやう)長俊(ながとし)・公風(きんかぜ)の少将(せうしやう)・左衛門佐俊顕(としあき)など、皆(みな)頭(かしら)下(お)ろしぬ。女房には、御息所(みやすどころ)の御方(かた)・対(たい)の君・帥君(そちのきみ)・兵衛督(ひやうゑのかみ)・内侍(ないし)〔の君〕など、すべて男(をとこ)女、三十余人(よにん)様(さま)変(か)はりてけり。止(や)む事(ごと)無(な)き君の御時(とき)も、かくばかりの事(こと)はいと有(あ)り難(がた)きを、仏などの現(あら)はれ給(たま)ひて、ことさらに迷(まよ)ひ深(ふか)き衆生を導(みちび)き給(たま)ふかとまで見(み)えたり。御本上(ほんじやう)のいとなごやかに御座(おは)しまししかば、近(ちか)う仕(つかうまつ)る限(かぎ)りの人は、日頃(ひごろ)の御名残(なごり)
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を思(おも)ふも忍(しの)び難(がた)き上(うへ)、大方(おほかた)の世(よ)にも差(さ)し放(はな)れて、身をえう無(な)き物(もの)に思(おも)ひ捨(す)つる類(たぐひ)など、様々(さまざま)に付(つ)けて、厭(いと)ひ背(そむ)くなるべし。若宮(わかみや)三所、姫宮(ひめみや)なども御座(おは)しましけり。御息所(みやすどころ)の御腹(おんはら)には有(あ)らねど、いづれをも今(いま)は昔(むかし)の御形見(かたみ)と哀(あは)れに見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。卯月(うづき)の末つ方(かた)、夏木立(なつこだち)心(こころ)よげに茂(しげ)り渡(わた)れるも、羨(うらや)ましく眺(なが)めさせ給(たま)ふ。暁(あかつき)がた、ほととぎすの鳴(な)き渡(わた)るも、「如何(いか)に知(し)りてか」と、御涙の催(もよほ)しなり。
諸(もろ)共(とも)に聞(き)かまし物(もの)を郭公枕(まくら)並(なら)べし昔(むかし)なりせば W
誠(まこと)や、例(れい)の先(さき)に聞(き)こゆべき事(こと)を、時違(たが)へ侍(はべ)りにけり。兵衛督(ひやうゑのかみ)為定、故(こ)中納言のあとを受(う)けて撰(えら)びつる撰集の事(こと)、正中二年(にねん)十二月の頃(ころ)、先(ま)づ四季(しき)を奏(そう)する由(よし)聞(き)こえし残(のこ)り、此(こ)の程(ほど)世(よ)に広(ひろ)まれる、〔いと〕面白(おもしろ)し。御門(みかど)、事(こと)の外(ほか)にめでさせ給(たま)ひて、続後拾遺とぞ言(い)ふなる。中宮の大夫師賢(もろかた)承(うけたまは)りて、此(こ)の度(たび)の集のいみじき由(よし)、様々(さまざま)仰(おほ)せ遣(つか)はしたる御返(かへ)しに、為定、
今(いま)ぞ知(し)る集(あつ)むる玉(たま)の数々(かずかず)に身を照(て)らすべき光有(あ)りとは W
御返(かへ)し、内の御製(ぎよせい)
数々(かずかず)に集(あつ)むる玉の曇(くも)らねば是(これ)も我(わ)が世(よ)の光(ひかり)とぞなる W
此(こ)の大夫は、もとより中(なか)良(よ)きどちにて、常(つね)に消息(せうそこ)など遣(つか)はすに、かく世(よ)にほめらるるを、
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いとよしと思(おも)ひて、兵衛督(ひやうゑのかみ)のもとへ言(い)ひ遣(や)る。
和歌(わか)の浦(うら)の波(なみ)も昔(むかし)に帰(かへ)りぬと人より先(さき)に聞(き)くぞ嬉(うれ)しき W
返(かへ)し、
和歌(わか)の浦や昔(むかし)に返(かへ)る波ぞとも通(かよ)ふ心(こころ)に先(ま)づぞ聞(き)くらむ W
此(こ)の為定のはらから、中宮に宣旨(せんじ)にて候(さぶら)ふも、上(うへ)、例(れい)の時めかし給(たま)ひて、若宮(わかみや)出(い)で物(もの)し給(たま)へり。其(そ)の宮の御乳母(めのと)は、師賢の大納言(だいなごん)承(うけたまは)りて、いみじうかしづき奉(たてまつ)らる。又宮の内侍(ないし)の御腹(おんはら)にも、次々(つぎつぎ)、いと数多(あまた)御座(おは)します。一の御子(みこ)は、藤大納言(だいなごん)の御腹(おんはら)、吉田の大納言(だいなごん)定房の家に渡(わた)らせ給(たま)ふ。二の御子(みこ)も、いときらきらしうて、源大納言(だいなごん)親房の御預(あづ)かりなり。かく様々(さまざま)に御座(おは)しますを、此(こ)の度(たび)如何(いか)で坊にと思(おぼ)しつれど、予(かね)てより、催(もよほ)し仰(おほ)せられし事(こと)なれば、東(あづま)より人参(まゐ)りて、本院の一の宮(みや)を定(さだ)め申(まう)しつ。いとけやけく聞(き)こし召(め)せど、如何(いかが)はせむにて、七月二十四日、皇太子の節会(せちゑ)行(おこな)はる。陣の座より引(ひ)き渡(わた)して、持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)に人共(ども)参(まゐ)る。院(ゐん)の殿上にて禄(ろく)など賜(たま)はる。常(つね)の事(こと)なれど、俄(にはか)にいとめでたし。八月になりて、陽徳門院(やうとくもんゐん)の土御門(つちみかど)東(ひんがし)の洞院(とうゐん)殿(どの)へ行啓(ぎやうげい)始(はじ)め有(あ)り。先坊の宮は鷹司(たかつかさ)なれば、間近(まぢか)き程(ほど)に、世(よ)のおとなひ聞(き)こし召(め)す入道(にふだう)の宮〈 先坊御息所(みやすどころ) 〉・女院などの御心(おんこころ)の中(うち)、今更(いまさら)にいと悲(かな)し。
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本院・新院一(ひと)つ御車に奉(たてまつ)りて、先(さき)立(だ)ちて入(い)らせ給(たま)ふ。行啓(ぎやうげい)は東(ひんがし)の洞院(とうゐん)面(おもて)の棟門(むねもん)に御車止(とど)めて、中門まで筵道(えんだう)を敷(し)きて歩(あゆ)み入(い)らせ給(たま)ふ。御びんづら結(ゆ)いて、いときびはに美(うつく)しげ也(なり)。十四ばかりにや御座(おは)しますらん。宮司(みやづかさ)共(ども)、院(ゐん)の殿上人など多(おほ)く仕(つかうまつ)れり。花開(ひら)けたる心地(ここち)〔共(ども)〕すべし。哀(あは)れなる世(よ)の習(なら)ひなりかし。かくて今年(ことし)も暮(く)れぬれば、嘉暦も二年(にねん)に成(な)りぬ。一の宮御冠(かうぶり)し給(たま)ひて、中務(なかづかさ)の卿(かみ)尊良(たかよし)の親王(しんわう)と聞(き)こゆ。去年(こぞ)より内に御宿直所(とのゐどころ)して渡(わた)らせ給(たま)ふ。正月(むつき)の十六日の節会(せちゑ)に珍(めづら)しく出(い)で給(たま)ふ。御門(みかど)も、徳治の頃、帥(そち)にて、七日の節に出(い)でさせ給(たま)へりし例(ためし)、思(おぼ)し出(い)づるにや。大方(おほかた)、古(ふる)くは、皆(みな)さこそ有(あ)りけれど、近頃(ちかごろ)は、いたく斯様(かやう)には無(な)かりつるを、御子達(たち)、御冠(かうぶり)の後は、いづれも昔(むかし)覚(おぼ)えて、然(さ)るべき折々(をりをり)出(い)で仕(つか)へさせ給(たま)ふめり。今日(けふ)の節会(せちゑ)は、常(つね)より殊(こと)に引(ひ)き繕(つくろ)はるるなるべし。親王(みこ)は蘇芳(すはう)の上(うへ)の衣(きぬ)奉(たてまつ)れり。左大臣冬教・右大臣経忠・内大臣基嗣・右大将公賢(きんかた)・権大納言(だいなごん)顕実(あきざね)・藤中納言実任(さねたふ)・別当充経・三条の中納言実忠・左衛門督公泰・権中納言藤房、宰相惟継(これつぐ)・親賢(ちかかた)・為定・冬信(ふゆのぶ)・国資など参(まゐ)れり。二(に)の宮(みや)は西園寺(さいをんじ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)実俊の娘(むすめ)の御腹(おんはら)也(なり)。帥(そち)の御子(みこ)世良の親王(しんわう)と聞(き)こゆ。照慶門院(せうけいもんゐん)、とりわき養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。此(こ)の宮は、御乳母(めのと)源大納言(だいなごん)親房也(なり)。それも内々(うちうち)、上(うへ)の御衣(おんぞ)にて、御門(みかど)南殿(なんでん)へ出(い)でさせ給(たま)へば、御供(とも)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。又常盤井(ときはゐ)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)は、亀山院
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の御子なれど、当代(たうだい)といと懇(ねんご)ろなる御中(なか)にて、此(こ)の御子達(たち)と同(おな)じやうに、常(つね)は打(う)ちつれ御宿直(とのゐ)などせさせ給(たま)ふ。今日(けふ)も御参(まゐ)り有(あ)りて、御子(みこ)達(たち)歩(あゆ)み続(つづ)かせ給(たま)へる、いと面白(おもしろ)し。若(わか)き女房など〔は〕、心(こころ)遣(づか)ひ異(こと)なる頃(ころ)ならんかし。二月(きさらぎ)になれば、漸(やうや)う故(こ)宮(みや)の御一めぐりの事(こと)共(ども)、永嘉門院(えいかもんゐん)には営(いとな)ませ給(たま)ふも、哀(あは)れ尽(つ)きせず。鷹司(たかつかさ)の大殿も失(う)せ給(たま)ひぬ。此(こ)の頃(ごろ)の世(よ)には、いと重(おも)く止(や)む事(ごと)無(な)く物(もの)し給(たま)へるに、いとあたらし。北(きた)の政所(まんどころ)は中(なか)の院(ゐん)の内の大臣(おとど)通重(みちしげ)の御はらからなり。それも様(さま)変(か)はり給(たま)ひぬ。近頃(ちかごろ)、良(よ)き人々(ひとびと)多(おほ)く失(う)せ給(たま)ふ様(さま)こそ、いと口惜(くちを)しけれ。




第十五 むら時雨(しぐれ)

竹の園生(そのふ)は繁(しげ)けれど、秋の宮(みや)の御腹(おんはら)には、只(ただ)一品(いつぽん)内親王〈 宣政門院 〉ばかり物(もの)し給(たま)ふを、いとあかず思(おも)ほし渡(わた)るに、此(こ)の頃(ごろ)珍(めづら)しき御悩(なや)みの由(よし)聞(き)こゆれば、いとめでたく有(あ)らまほしき御事(こと)なるべきにやと、上(うへ)もいみじく思(おぼ)されて、予(かね)てより御修法(みしゆほふ)共(ども)こちたく始(はじ)めらる。まして、其(そ)の程(ほど)近(ちか)くならせ給(たま)ひぬれば、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の常盤井殿(ときはゐどの)へ出(い)でさせ給(たま)ひて、上(うへ)も二、三日隔(へだ)てず通(かよ)ひ御座(おは)します。陣の内(うち)なれば、上達部(かんだちめ)・殿上人、夜(よる)昼(ひる)と無(な)く袴(はかま)のそば取(と)りて参(まゐ)り違(ちが)ふ。御兄(せうと)の兼季の大臣(おとど)も、絶(た)えず候(さぶら)ひ給(たま)ふ。いみじき世(よ)の騒(さわ)ぎ
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なり。故(こ)入道殿、今(いま)しばし御座(おは)せましかばと、思(おぼ)し出(い)づる人々(ひとびと)多(おほ)かり。山・三井寺(みゐでら)・山階寺(やましなでら)・仁和寺(にんわじ)、すべて大法(だいほふ)・秘法(ひほふ)・祭(まつ)り・祓(はら)へ、数(かず)を尽(つ)くして罵(ののし)る様(さま)、いと頼(たの)もし。七仏薬師(やくし)の法(ほふ)は、青蓮院(しやうれんゐん)の二品法親王慈道(じだう)勤(つと)めさせ給(たま)ふ。金剛童子(こんがうどうじ)は、常住院(じやうぢゆうゐん)の道昭(だうせう)僧正、如意輪の法は、道意(だうい)僧正、五壇(ごだん)の御修法(みしゆほふ)の中壇(ちゆうだん)は、座主(ざす)の法親王行(おこな)はせ給(たま)ふ。如法(によほふ)仏眼〔の法〕は、昭訓門院(せうきんもんゐん)の御志(おんこころざし)にて、慈勝(じせう)僧正承(うけたまは)りぬ。一字金輪(きんりん)は、浄経(じやうきやう)僧正、如法(によほふ)尊勝は桓守(くわんしう)僧正、愛染王(あいぜんわう)は賢助僧正、六字法は聖尋僧正、准胝法(じゆんでいほふ)は達智門院の御沙汰にて信耀(しんえう)僧正勤(つと)めらる。其(そ)の外、猶(なほ)本坊にて様々(さまざま)の法共(ども)行(おこな)はせらる。六月ばかりいみじう暑(あつ)き程(ほど)に、壇(だん)共(ども)軒(のき)をきしりて、護摩(ごま)の煙満(み)ち満(み)ちたる様(さま)、いとおどろおどろしきまでけぶたし。社々の神馬(じんめ)は更(さら)にも言(い)はず、医師(くすし)・陰陽師(おんやうじ)・巫(かんなぎ)共(ども)立(た)ち騒(さわ)ぎ、世(よ)の響(ひび)く様(さま)、めでたくゆゆしきにも、もし皇子(わうじ)にて御座(おは)しまさざらん折(をり)、如何(いか)にと思(おも)ふだに、胸(むね)つぶるるに、X如何(いか)なる御事(こと)にか、怪(あや)しう、然(さ)るべき程(ほど)も打(う)ち過(す)ぎ行(ゆ)けば、猶(なほ)しばしはさこそあれなど、待(ま)ち聞(き)こゆれど、更(さら)につれなくて、十七八、二十、三十月にも余(あま)らせ給(たま)ふまで、ともかくも御座(おは)しまさねば、今(いま)はそらごとのやうにぞなりぬる。大方、上下(かみしも)の人の心地(ここち)、あさましとも言(い)ふべき際(きは)ならず。御産屋(うぶや)の儀式(ぎしき)、有(あ)るべき事(こと)共(ども)など、こちたきまで催(もよほ)し置(お)かれ、よろしき家の子共(ども)、二親(ふたおや)打(う)ち具(ぐ)したる選(えら)ばれしかど、ここらの月頃(ごろ)には、或(ある)は服(ぶく)になり、其(そ)の主(ぬし)も病(やまひ)して頭(かしら)下(お)ろしなどして、すべて
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万(よろづ)あいなく珍(めづら)かなれば、言(い)はん方(かた)無(な)し。前坊(ぜんばう)のはじめつ方(かた)、中(なか)の院(ゐん)の内(うち)の大臣(おとど)通重(みちしげ)の御娘(むすめ)参(まゐ)り給(たま)ひて、十八月にて若宮(わかみや)生(う)まれ給(たま)へりしかど、やがて御子(みこ)も母御息所(みやすどころ)も失(う)せ給(たま)ひにしかば、いみじうあさましき事(こと)に言(い)ひ騒(さわ)ぎし程(ほど)に、又其(そ)の後、此(こ)の止(と)まり給(たま)へる入道の宮参(まゐ)り給(たま)へりしも、十七月ばかりにや、只(ただ)ならず御座(おは)しまして、既(すで)に御気色(けしき)有(あ)りとて、宮の中(なか)立(た)ち騒(さわ)ぐ程(ほど)に、只(ただ)ゆくゆくと水(みづ)のみ出(い)でさせ給(たま)ひて、昔(むかし)の弘徽殿(こきでん)の女御の、太秦(うづまさ)にて有(あ)りけんやうにてやみき。折節(をりふし)、賀茂(かも)の祭(まつり)の頃(ころ)にて、春宮(とうぐう)の使も止(とど)まりなどして、然様(さやう)の折々(をりをり)、人の口(くち)さがなさ、せめても、先坊の御方様(かたざま)の事(こと)を、おとしめざまに言(い)ひ悩(なや)みし人々(ひとびと)も、此(こ)の頃(ごろ)ぞ、又かく勝(まさ)る例(ためし)も有(あ)りけりと、はしたなく思(おも)ひ合(あ)はせける。さのみやは、さてしも御座(おは)しますべきならねば、内へ返(かへ)らせ給(たま)ふにも、いとあさましう珍(めづら)かなる事(こと)を、思(おぼ)し歎(なげ)くべし。御修法(みしゆほふ)共(ども)も、有(あ)りしばかりこそ無(な)けれど、猶(なほ)少(すこ)しづつは絶(た)えず、いつを限(かぎ)りにかと見(み)えたり。其(そ)の頃(ころ)、左の大臣(おとど)実泰(さねやす)も失(う)せ給(たま)ひぬ。世(よ)の中(なか)いみじく歎(なげ)きあへり。かくて元徳元年(ぐわんねん)にもなりぬ。今年(ことし)如何(いか)なるにか、しはぶきやみ流行(はや)りて、人多(おほ)く失(う)せ給ふ中(なか)に、伏見院の御母玄輝門院(げんきもんゐん)、前坊(ぜんばう)の御母代(ははしろ)の永嘉門院(えいかもんゐん)、近衛殿(このゑ)の大北(おほきた)の政所(まんどころ)〈 亀山院宮 〉など、止(や)む事(ごと)無(な)き限(かぎ)り、打(う)ち続(つづ)き隠(かく)れ給(たま)ひぬれば、此処(ここ)彼処(かしこ)の御法事(ほふじ)繁(しげ)くて、いと哀(あは)れなり。斯様(かやう)の事(こと)共(ども)にて、今年(ことし)も又暮(く)れぬ。明(あ)くる春の頃、内には、
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中殿にて和歌(わか)の披講(ひかう)有(あ)り。序(じよ)は源大納言(だいなごん)親房書(か)かれけり。予(かね)てよりいみじう書(か)かせ給(たま)へば、人々(ひとびと)心(こころ)遣(づか)ひすべし。題は「花(はな)に万春(ばんしゆん)を契(ちぎ)る」とぞ聞(き)こえし。御製(ぎよせい)、
時知(し)らぬ花(はな)も常盤(ときは)の色に咲(さ)け我(わ)が九重(ここのへ)は万世(よろづよ)の春 W
中務(なかづかさ)の卿(かみ)尊良(たかよし)の親王(しんわう)、
のどかなる雲井(くもゐ)の花(はな)の色にこそ万世(よろづよ)ふべき春は見(み)えけれ W
帥(そち)の御子(みこ)世良、
百敷(ももしき)の御垣(みかき)の桜咲(さ)きにけり万世(よろづよ)までのX千代のかざしに W
次々(つぎつぎ)多(おほ)かれども、むつかし。三月(やよひ)の頃(ころ)、春日(かすが)の社(やしろ)に行幸(ぎやうがう)し給(たま)ふ。例(れい)のいみじき見物(みもの)なれば、桟敷(さじき)共(ども)えも言(い)はずいどみ尽(つ)くしたり。其(そ)の後(のち)、日吉(ひよし)の社にも参(まゐ)らせ給(たま)ひき。今年(ことし)も人多(おほ)くにわか病(や)みして死(し)ぬる中(なか)に、帥(そち)の御子(みこ)〔も〕重(おも)く悩(なや)ませ給(たま)ひて、いと敢(あ)へ無(な)く失(う)せ給(たま)ひぬ。内の上(うへ)、思(おぼ)し歎(なげ)く事おろかならず。一の御子(みこ)よりも御才(ざえ)などもいと賢(かしこ)く、万(よろづ)警策(きやうざく)に物(もの)し給(たま)へれば、今(いま)より記録所(きろくじよ)へも御供(とも)にも出(い)でさせ給(たま)ふ。議定(ぎぢやう)など言(い)ふ事(こと)にも参(まゐ)り給(たま)ふべしと聞(き)こえつるに、いとあさまし。御乳母(めのと)の源大納言(だいなごん)親房(ちかふさ)、我(わ)が世尽(つ)きぬる心地(ここち)して、取(と)り敢(あ)へず頭(かしら)下(お)ろしぬ。此(こ)の人のかく世(よ)を捨(す)てぬるを、親王(しんわう)の御事(こと)に打(う)ち添(そ)へて、方々(かたがた)いみじく、御門(みかど)も口惜(くちを)しく思(おぼ)し歎(なげ)く。世(よ)にもいとあたらしく惜(を)しみあへり。同(おな)じ年(とし)の冬の頃、平野北野(きたの)
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両社(りやうしや)に一度(ひとたび)に行幸(ぎやうがう)なる。勧修寺(くわんじうじ)の殿(との)原(ばら)、昔(むかし)より近衛司(このゑづかさ)などにはならぬ事(こと)にて有(あ)りつれど、内の御乳母(めのと)吉田の大納言(だいなごん)定房、過(す)ぎにし頃(ころ)従一位して、いと珍(めづら)しくめでたければ、今(いま)は上臈(じやうらふ)とひとしきにや、幼(をさな)き子の宗房と言(い)ふも少将(せうしやう)になさる。色許(ゆ)りなどして、此(こ)の平野の行幸(ぎやうがう)の舞人(まひびと)に参(まゐ)る。土御門(つちみかど)の大納言(だいなごん)顕実(あきざね)の子に、通房の中将(ちゆうじやう)、堀川(ほりかは)の大納言(だいなごん)の子具雅(ともまさ)の中将(ちゆうじやう)など、皆(みな)良(よ)き君達(きんだち)舞人(まひびと)にさされて、いづれも清(きよ)らに美(うつく)しう出(い)で立(た)ちて仕(つかうまつ)られたり。其(そ)の外(ほか)は、くだくだしければ、例(れい)の止(とど)めつ。斯様(かやう)のめでたき紛(まぎ)れにて過(す)ぎもて行(ゆ)く。又(また)の年の春、三月(やよひ)の初(はじ)めつ方(かた)、花御覧(ごらん)じに北山に行幸(ぎやうがう)なる。常(つね)より殊(こと)に面白(おもしろ)かるべい度(たび)なれば、彼(か)の殿にも心(こころ)遣(づか)ひし給(たま)ふ。先(ま)づ中宮行啓(ぎやうげい)、又(また)の日行幸(ぎやうがう)、前(さき)の右(みぎ)の大臣(おとど)兼季参(まゐ)り給(たま)ひて、楽所(がくしよ)の事(こと)などおきて宣(のたま)ふ。康保の花(はな)の宴(えん)の例(ためし)など聞(き)こえしにや。北殿(きたどの)の桟敷(さじき)にて、内々(うちうち)試楽(しがく)めきて、家房の朝臣舞(ま)はせらる。御簾(みす)の内(うち)に大納言(だいなごん)二位殿、播磨(はりま)の内侍(ないし)など、琴(こと)かき合(あ)はせて、いと面白(おもしろ)し。六日の辰(たつ)の時(とき)に事(こと)始(はじ)まる。寝殿(しんでん)の階(はし)の間(ま)に御褥(しとね)参(まゐ)りて、内の上(うへ)御座(おは)します。第二の間(ま)に后(きさい)の宮(みや)、其(そ)の次(つぎ)〔に〕永福門院(えいふくもんゐん)・昭訓門院も渡(わた)らせ給(たま)ひけるにや。階(はし)の東(ひんがし)に、二条の前(さき)の殿(との)道平・堀川(ほりかは)の大納言(だいなごん)具親(ともちか)・春宮の大夫公宗・侍従(じじゆう)の中納言公明(きんあきら)・御子(みこ)左(ひだり)中納言為定・中宮の権大夫公泰(きんやす)など候(さぶら)はる。右(みぎ)の大臣(おとど)兼季琵琶、春宮の権大夫冬信(ふゆのぶ)笛、源中納言具行笙(しやう)、治部卿篳篥(ひちりき)、琴は室町(むろまち)宰相公春、琵琶は
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薗(その)の宰相(さいしやう)基氏など聞(き)こえしにや。「其(そ)の日のこと見給(たま)へねば、さだかには無(な)し。幼(をさな)きわらはべなどの、しどけなく、語(かた)りし儘(まま)也(なり)。此(こ)の内(うち)に御覧(ごらん)じたる人も御座(おは)すらむ。承(うけたまは)らまほしくこそ侍れ」と言(い)ふ。御簾(みす)の内(うち)にも、大納言(だいなごん)二位殿琵琶、播磨(はりま)の内侍(ないし)箏(こと)、女蔵人(によくらうど)高砂(たかさご)と言(い)ふも、琴(こと)ひくとぞ聞(き)きし。誠(まこと)にや有(あ)りけむ。中務(なかづかさ)の宮(みや)も参(まゐ)り給(たま)へり。兵仗賜(たま)はり給(たま)ひて、御直衣(なほし)に太刀(たち)はき給(たま)へり。御随身(みずいじん)共(ども)、いと清(きよ)らにさうぞきて、所得(え)たる様(さま)也(なり)。万歳楽より納蘇利(なつそり)まで十五帖手(て)を尽(つ)くしたる、いと見所(みどころ)多(おほ)し。青海波(せいがいは)を地下(ぢげ)ばかりにてやみぬるぞ、あかぬ心地(ここち)しける。暮(く)れ掛(か)かる程(ほど)、花(はな)の木の間(ま)に夕日花(はな)やかにうつろひて、山(やま)の鳥も声(こゑ)惜(を)しまぬ程(ほど)に、陵王(りようわう)の輝(かかや)き出(い)でたるは、〔えも言(い)はず面白(おもしろ)し。其(そ)の程(ほど)、上(うへ)も御引直衣(ひきなほし)にて、倚子(いし)に着(つ)かせ給(たま)ひて、御笛(ふえ)吹(ふ)かせ給(たま)ふ。常(つね)より殊(こと)に雲井を響(ひび)かす様(さま)也(なり)。宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)顕家(あきいへ)、陵王(りようわう)の入綾(いりあや)をいみじう尽(つ)くしてまかづるを、召(め)し返(かへ)して、前(さき)の関白殿御衣(おんぞ)取(と)りてかづけ給(たま)ふ。紅梅(こうばい)の表着(うはぎ)・二色の衣(きぬ)なり。左の肩(かた)に掛(か)けていささか一曲舞(ま)ひてまかでぬ。右(みぎ)の大臣(おとど)大鼓(たいこ)打(う)ち給(たま)ふ。其(そ)の後、源中納言具行採桑老(さいしやうらう)を舞(ま)ふ。是(これ)も紅(くれなゐ)のうちたる、かづけ給(たま)ふ。又(また)の日は、無量光院(むりやうくわうゐん)の前(まへ)の花(はな)の木蔭(こかげ)に、上達部(かんだちめ)立(た)ち続(つづ)き給(たま)ふ。廂(ひさし)に倚子(いし)立(た)てて、上(うへ)は御座(おは)します。御遊(ぎよいう)始(はじ)まる。拍子治部卿参(まゐ)る。上(うへ)も桜人(さくらびと)うたはせ給(たま)ふ。御声(こゑ)いと若(わか)く花(はな)やかにめでたし。去年(こぞ)の秋頃(ごろ)かとよ、資親(すけちか)の中納言に、此(こ)の曲は受(う)けさせ給(たま)ひて、賞(しやう)に正二位許(ゆる)させ給(たま)ひしも、今日(けふ)の為(ため)とにや有(あ)りけんと、いと艶(えん)也(なり)。ものの音(ね)共(ども)整(ととの)ほりて、いみじうめでたし。其(そ)の後(のち)歌共(ども)召(め)さる。花(はな)を結(むす)びて文台(ぶんだい)にせられたるは、保安の例(ためし)とぞ言(い)ふめりし。春宮の大夫公宗序書(か)かれけり。海内艾安之世、城北花開之春、我(わ)が君震臨(しんりん)を此(こ)の所(ところ)に促(うなが)し、調楽厥(そ)の中(なか)に懸(かか)れり、重(かさ)ねて六義(りくぎ)の言葉(ことば)を課(くわ)し、屡(しばしば)数柯(すうか)の濃花(のうくわ)を賞(しやう)す、奉梢出雲(いづも)の昔(むかし)の雲(くも)再(ふたた)び懸(かか)れるかと疑(うたが)ひ、満庭廻雪(くわいせつ)の昨日(きのふ)の雪(ゆき)の猶(なほ)残(のこ)れるかと省(かへり)みる、小風情(せうふぜい)と言(い)へども憖〕露詠(ろえい)を瀝(れき)す、其(そ)の詞(ことば)に曰(いは)く、
時(とき)をえて御幸(みゆき)甲斐(かひ)有(あ)る庭の面に花(はな)も盛(さか)りの色や久(ひさ)しき W
御製(ぎよせい)、
代々の御幸(みゆき)のあとと思(おも)へば W
此(こ)の上(かみ)忘(わす)れ侍(はべ)る。後にも見(み)出(い)だしてとぞ。
中務(なかづかさ)の御子(みこ)、
代々をへて絶(た)えじとぞ思(おも)ふ此(こ)の宿(やど)の花(はな)に御幸(みゆき)の跡(あと)を重(かさ)ねて W
誰(たれ)も誰(たれ)も、此(こ)の筋(すぢ)にのみまとはれて、花(はな)の御幸(みゆき)の外は、珍(めづら)しきふしも無(な)ければ、さのみも記(しる)し難(がた)し。万(よろづ)あかず名残(なごり)多(おほ)かれど、さのみはにて、九日に返(かへ)らせ給(たま)ひぬ。其(そ)の
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夏の頃(ころ)、御門(みかど)例(れい)ならず御座(おは)しまして、御薬(くすり)の事(こと)など聞(き)こゆ。いと重(おも)くのみならせ給(たま)ふとて、世(よ)の中(なか)あわてたる様(さま)なり。時(とき)しもあれや、彼(か)の一年(ひととせ)捕(と)られたりし俊基(としもと)を、又(また)如何(いか)に聞(き)こゆる事(こと)の出(い)で来(き)たるにか、搦(から)めとらんとしければ、内(うち)へ逃(に)げて参(まゐ)るを、追(お)ひ騒(さわ)ぎて、陣の辺(ほとり)まで武士(もののふ)共(ども)打(う)ち囲(かこ)みて罵(ののし)れば、こは何事(なにごと)と聞(き)きわくまでも無(な)し。いと物(もの)騒(さわ)がしく肝(きも)つぶれて、ある限(かぎ)り惑(まど)ひあへり。上(うへ)も物(もの)覚(おぼ)え給(たま)はぬ御有様(おんありさま)にて、おほとのごもれるに、斯(か)かる由(よし)奏(そう)すれば、いみじう思(おぼ)さる。遂(つひ)に、又(また)の日、六波羅(ろくはら)へ遣(つか)はしたれば、東(あづま)へ率(ゐ)て下(くだ)りぬ。上(うへ)は御悩(なや)み怠(おこた)らせ給(たま)ひて、いとど安(やす)からず思(おぼ)すこと勝(まさ)れり。日頃(ひごろ)も御心(おんこころ)に掛(か)けさせ給(たま)へる事(こと)なれば、すみやかに此(こ)のあらまし遂(と)げてんと、ひたぶるに思(おぼ)し立(た)ちて、忍(しの)びて此処(ここ)彼処(かしこ)に、〔其(そ)の〕用意(ようい)すべし。后(きさい)の宮(みや)の御腹(おんはら)の一品(いつぽん)内親王、御占(うら)に合(あ)はせ給(たま)ひて、去年(こぞ)の冬頃(ごろ)より、御きよまはり有(あ)りつる、今日(けふ)明日(あす)、斎宮にゐ給(たま)ふ。八月二十日、先(ま)づ川原に出(い)でさせ給(たま)ひて、やがて野(の)の宮(みや)に入(い)らせ給(たま)ふ。其(そ)の程(ほど)の事(こと)共(ども)、いみじう清(きよ)ら也(なり)。此(こ)の御急(いそ)ぎ過(す)ぎぬれば、先(ま)づ六波羅(ろくはら)を御かうじ有(あ)るべしとて、予(かね)てより宣旨(せんじ)に従(したが)へりし兵(つはもの)共(ども)を忍(しの)びて召(め)す。源中納言具行、取(と)り持(も)ちて事(こと)行(おこな)ひけり。昔(むかし)、亀山院(かめやまゐん)に、御子(みこ)など生(う)み奉(たてまつ)りて候(さぶら)ひし女房、此(こ)の頃(ごろ)は、后(きさい)の宮(みや)の御方(かた)にて、民部卿三位と聞(き)こゆる御腹(おんはら)に、当代(たうだい)の御子(みこ)も出(い)で物(もの)し給(たま)へりし、山(やま)の前(さき)の座主にて、今(いま)は大塔(だいたふ)の二品法親王尊雲(そんうん)と聞(き)こゆる、如何(いか)で
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習(なら)はせ給(たま)ひけるにか、弓ひく道(みち)にも猛(たけ)く、大方(おほかた)御本上(ほんじやう)はやりかに御座(おは)して、此(こ)の事(こと)をも同(おな)じ御心(おんこころ)におきて宣(のたま)ふ。又(また)、中務(なかづかさ)の御子(みこ)の一(ひと)つ御腹(おんはら)に、妙法院の法親王尊澄と聞(き)こゆるは、今(いま)の座主にて物(もの)し給(たま)へば、方々(かたがた)、比叡(ひえ)の山(やま)の衆徒(しゆと)も、御門(みかど)の御軍(いくさ)に加(くは)はるべき由(よし)奏(そう)しけり。包(つつ)むとすれど、事(こと)広(ひろ)くなりにければ、武家(ぶけ)にもはやう漏(も)れ聞(き)きて、さにこそ有(あ)れと用意(ようい)す。先(ま)づ九重(ここのへ)を厳(きび)しく固(かた)め申(まう)すべしなど定(さだ)めけり。かく言(い)ふは、元弘元年(ぐわんねん)八月二十四日也(なり)。雑務(ざふむ)の日なれば、記録所(きろくじよ)に御座(おは)しまして、人の争(あらそ)ひ愁(うれ)ふる事(こと)共(ども)を行(おこな)ひ暮(く)らさせ給(たま)ひて、人々(ひとびと)もまかで、君も本殿にしばし打(う)ち休(やす)ませ給(たま)へるに、「今夜(こよひ)既(すで)に武士共(ども)競(きほ)ひ参(まゐ)るべし」と、忍(しの)びて奏(そう)する人有(あ)りければ、取(と)り敢(あ)へず雲の上(うへ)を出(い)でさせ給(たま)ふ。中宮の御方(かた)へ渡(わた)らせ給(たま)ひても、しめやかに〔も〕有(あ)らず、いとあわたたし。予(かね)て思(おぼ)し設(まう)けぬには有(あ)らねども、事(こと)の逆様(さかさま)なるやうになりぬれば、万(よろづ)うきうきと、我(われ)も人もあきれゐたり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)ばかりをぞ、忍びて率(ゐ)て渡(わた)させ給(たま)ふ。上(うへ)はなよらかなる御直衣(なほし)奉(たてまつ)りて、北の対(たい)よりやつれたる女車の様(さま)にて、忍(しの)び出(い)でさせ給(たま)ふ。彼(か)の二条院(にでうのゐん)の昔もかくやと思(おも)ひ出(い)でらる。日頃(ひごろ)の御本意(ほんい)には、先(ま)づ六波羅(ろくはら)を攻(せ)められん紛(まぎ)れに、山へ行幸(ぎやうがう)有(あ)りて、彼処(かしこ)へ兵(つはもの)共(ども)を召(め)して、山(やま)の衆徒(しゆと)をも相(あひ)具(ぐ)し、君の御固(かた)めとせらるべしと定(さだ)められければ、彼(か)の法親王達(たち)も其(そ)の御心(おんこころ)して、坂本(さかもと)に待(ま)ち聞(き)こえ給(たま)ひけれど、今(いま)は斯様(かやう)にこと違(たが)いぬれ
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ば、あいなしとて、俄(にはか)に道(みち)をかへて、奈良(なら)の京へぞおもむかせ給(たま)ふ。中務(なかづかさ)の宮(みや)も、御馬(うま)にて追(お)いて参(まゐ)り給(たま)ふ。九条(くでう)わたりまで御車にて、それより、御門(みかど)もかりの御衣(おんぞ)にやつれさせ給(たま)ひて、御馬に奉(たてまつ)る程(ほど)、こは如何(いか)にしつる事(こと)ぞと、夢(ゆめ)の心地(ここち)して思(おぼ)さる。御供(とも)に按察(あぜち)の大納言(だいなごん)公敏(きんとし)・万里小路(までのこうじ)の中納言藤房・源中納言具行・四条の中納言隆資(たかすけ)など参(まゐ)れり。いづれも怪(あや)しき姿(すがた)にまぎらはして、暗(くら)き道(みち)をたどり御座(おは)する程(ほど)に、げに「闇(やみ)のうつつ」の心地(ここち)して、我(われ)にも有(あ)らぬ様(さま)也(なり)し。丑(うし)三ばかりに、木幡山(こはたやま)過(す)ぎさせ給(たま)ふ。いとむくつけし。木津(きづ)と言(い)ふ渡(わた)りに御馬(うま)とめて、東南院の僧正のもとへ御消息(せうそこ)遣(つか)はす。それより御輿(こし)を参(まゐ)らせたるに奉(たてまつ)りて、奈良(なら)へ御座(おは)しまし着(つ)きぬ。此処(ここ)に中(なか)一日有(あ)りて、二十七日、和束(わづか)の鷲峰山(じゆぶうせん)へ行幸(ぎやうがう)有(あ)りけれども、そこも然(さ)るべくや無(な)かりけん、笠置寺(かさぎでら)と言(い)ふ山寺へ入(い)らせ給(たま)ひぬ。所の様(さま)、容易(たやす)く人の通(かよ)ひぬべきやうも無(な)く、よろしかるべしとて、木(き)の丸(まる)殿(どの)の構(かま)へを始(はじ)めらる。是(これ)よりぞ人々(ひとびと)少(すこ)し心地(ここち)取(と)り静(しづ)めて、近(ちか)き国々(くにぐに)の兵(つはもの)など召(め)しに遣(つか)はす。さて都(みやこ)には、二十四日の夜、六波羅(ろくはら)より常陸(ひたち)の守(かみ)時知(ときとも)馳(は)せ参(まゐ)りて、百敷(ももしき)の中(なか)をあさり騒(さわ)ぐ。其(そ)の程(ほど)、人の曹司(ざうし)などに、自(おの)づから落(お)ち残(のこ)りたる女房(にようばう)の心地(ここち)、言(い)はん方(かた)無(な)し。御座(おは)します殿を見(み)れば、近(ちか)き御厨子(づし)・御調度(てうど)共(ども)、何(なに)かれ、硯(すずり)なども、さながら打(う)ち散(ち)りて、只今(ただいま)まで御座(おは)しましけるあとと見(み)えながら、宮人などだに一人も無(な)し。女房の曹司(ざうし)曹司(ざうし)より、樋洗(ひすま)しめく女(め)の童(わらは)など、我(われ)先(さき)にと走(はし)り出(い)で、調度(てうど)共(ども)運(はこ)び騒(さわ)ぎ、
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くづれ出(い)づる気色(けしき)共(ども)、いとあさましく、目(め)もあやなり。錦(にしき)の几帳(きちやう)の内(うち)にいつかれ坐(ま)しましつる后(きさい)の宮(みや)も、何(なに)の儀式(ぎしき)も無(な)く、忍(しの)びてあわて出(い)でさせ給(たま)ひぬれば、あたりあたりかき払(はら)ひ、時(とき)の間(ま)にいとあさましく、御簾(みす)几帳(きちやう)など、踏(ふ)みしだき引(ひ)き落(お)として、火の影(かげ)もせず。此処(ここ)も彼処(かしこ)も暗(くら)がりて、打(う)ち荒(あ)れたる心地(ここち)す。今朝(けさ)まで、九重(ここのへ)の深(ふか)き宮の内(うち)に出(い)で入(い)り仕(つか)へつる男(をとこ)女、一人(ひとり)止(と)まらず、えも言(い)はぬ武士(もののふ)共(ども)打(う)ち散(ち)り、あらあらしげなるけはひに、続松(ついまつ)高(たか)く捧(ささ)げて、細(ほそ)殿(どの)・渡殿(わたどの)、何(なに)くれ、まかげさして、あさりたる気色(けしき)、けうとくあさまし。世(よ)は憂(う)き物(もの)にこそと、時(とき)の間(ま)に、げに、心(こころ)有(あ)らむ人は、やがて修行(しゆぎやう)の門出(かどい)でにもなりぬべくぞ覚(おぼ)ゆる。中宮は、忍(しの)びて野の宮殿(どの)の傍(かたは)らにぞ御座(おは)しまし着(つ)きにける。宣房(のぶふさ)の大納言(だいなごん)の二郎季房(すゑふさ)の宰相ばかり、御宿直(とのゐ)に候(さぶら)ふ。二十五日の曙(あけぼの)に、武士(ぶし)共(ども)満(み)ち満(み)ちて、御門(みかど)の親(した)しく召(め)し使(つか)ひし人々(ひとびと)の家々(いへいへ)へ押(お)し入(い)り押(お)し入(い)り捕(と)りもて行(ゆ)く様(さま)、獄卒(ごくそつ)とかやの現(あらは)れたるかと、いと恐(おそ)ろし。万里小路(までのこうじ)の大納言(だいなごん)宣房(のぶふさ)・侍従(じじゆう)の中納言公明(きんあきら)・別当実世・平(へい)宰相(ざいしやう)成輔(なりすけ)、一度(いちど)に皆六波羅(ろくはら)へ率(ゐ)て行きぬ。斯様(かやう)の事(こと)を見(み)るに、いとど肝(きも)心(ごころ)も失(う)せて、自(おの)づから取(と)り残(のこ)されたる人も、心(こころ)と皆(みな)かきけち行(ゆ)き隠(かく)るる程(ほど)に、主(ぬし)無(な)き宿(やど)のみぞ多(おほ)かる。坂本(さかもと)には行幸(ぎやうがう)を待(ま)ち聞(き)こえ給(たま)ひけるに、引(ひ)き違(たが)へ南(みなみ)様(ざま)へ御座(おは)しましぬれば、其(そ)の由(よし)衆徒(しゆと)に聞(き)かれなばあしかりぬべし。又とまれかくまれ、誠(まこと)の御座(おは)しまし所を、左右(さう)なく武家へ知(し)らせじのたばかりにや有(あ)りけん、
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花山院(くわさんゐん)の大納言(だいなごん)師賢(もろかた)を山(やま)へ遣(つか)はして、忍(しの)びて御門(みかど)の御座(おは)します由(よし)にもてないて、彼(か)の両法親王、事(こと)行(おこな)ひ給(たま)ひつつ、六波羅(ろくはら)の兵(つはもの)共(ども)の囲(かこ)みをも防(ふせ)かせ給(たま)ふ。其(そ)の日は、大納言(だいなごん)も、大塔(だいたふ)の前(さき)の座主の宮(みや)も、うるはしき武士(もののふ)姿(すがた)に出(い)で立(た)たせ給(たま)ふ。卯(う)の花をどしの鎧(よろひ)に鍬形(くはがた)の兜(かぶと)奉(たてまつ)りて、大矢(おほや)負(お)いてぞ御座(おは)する。妙法院の宮(みや)は、生絹(すずし)の御衣(おんぞ)の下(した)に、萠黄(もえぎ)の御腹巻(はらまき)とかや着(き)給(たま)へり。大納言(だいなごん)は、唐(から)の香染(かうぞ)めの薄物(うすもの)の狩衣(かりぎぬ)に、けちえんに赤(あか)き腹巻(はらまき)をすかして、さすがに蒔絵(まきゑ)の細太刀(ほそたち)をぞはき給(たま)ひける。六波羅(ろくはら)より、御門(みかど)此処(ここ)に御座(おは)しますと心得(え)て、武士(ぶし)共(ども)海東(かいとう)とかや言(い)ふ兵(つはもの)多(おほ)く参(まゐ)り囲(かこ)む。山法師(やまほふし)も戦(たたか)ひなどして、海東(かいとう)とかや言(い)ふ兵(つはもの)討(う)たれにけり。「事(こと)の初(はじ)めに、東(ひんがし)失(う)せぬる、めでたし」などぞ言(い)ふめる。かかれども、御門(みかど)笠置(かさぎ)に御座(おは)します由(よし)、程(ほど)無(な)く聞(き)こえぬれば、計(はか)られ奉(たてまつ)りにけりとて、山(やま)の衆徒(しゆと)もせうせう心(こころ)変(が)はりしぬ。宮々も逃(に)げ出(い)で給(たま)ひて笠置(かさぎ)へぞ詣(まう)で給(たま)ひける。大納言(だいなごん)は都(みやこ)へ紛(まぎ)れ御座(おは)すとて、夜(よ)深(ぶか)く志賀(しが)の浦(うら)を過(す)ぎ給(たま)ふに、有明(ありあけ)の月くま無(な)く澄(す)み渡(わた)りて、寄(よ)せ返(かへ)す波(なみ)の音(おと)も寂(さび)しきに、松吹(ふ)く風の身にしみたるさへ、取(と)り集(あつ)め心(こころ)細(ぼそ)し。思(おも)ふこと無(な)くてぞ見(み)ましほのぼのと有明(ありあけ)の月の志賀(しが)の浦波(うらなみ) W其(そ)の後(のち)、辛(から)うじてぞ、笠置(かさぎ)へはたどり参(まゐ)られける。斯様(かやう)の事(こと)共(ども)も、例(れい)の早馬(はやむま)にて東(あづま)へ告(つ)げ遣(や)りぬ。只今(ただいま)の将軍は、昔(むかし)式部卿(しきぶきやう)久明親王(しんわう)とて下(くだ)り給(たま)へりし将軍の御子也(なり)。守邦(もりくに)の親王(しんわう)
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とぞ聞(き)こゆる。相模(さがみ)の守(かみ)高時(たかとき)と言(い)ふは、病(やまひ)によりて、未(いま)だ若(わか)けれど、一年(ひととせ)入道して、今(いま)は世(よ)の中(なか)大事(だいじ)共(ども)いろはねど、鎌倉(かまくら)の主(ぬし)にてはあめり。心ばへなども如何(いか)にぞや、うつつ無(な)くて、朝夕(あさゆふ)好(この)む事(こと)とては、犬(いぬ)くひ・田楽(でんがく)などをぞ遊(あそ)ばしける。是(これ)は最勝円寺(さいしようゑんじ)入道貞時(さだとき)と言(い)ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。此(こ)の頃(ころ)、私(わたくし)の後見(うしろみ)には、長崎(ながさき)入道円基(ゑんき)とかや言(い)ふ者(もの)有(あ)り。世(よ)の中(なか)の大小事(だいせうじ)、只(ただ)皆(みな)此(こ)の円基(ゑんき)が心(こころ)の儘(まま)になれば、都(みやこ)の大事(だいじ)、かばかりになりぬるをも、彼(か)の入道のみぞ取(と)り持(も)ちて、おきて計(はか)らひける。重(おも)き武士(ぶし)共(ども)多(おほ)く上(のぼ)すべしと聞(き)こゆ。大方(おほかた)、京も鎌倉(かまくら)も、騒(さわ)ぎ罵(ののし)る様(さま)、けしからず。承久の昔(むかし)もかくやと、今更(さら)に思(おも)ひ遣(や)らる。持明院殿(どの)には、春宮御座(おは)しませば、思(おも)ひの外(ほか)にめでたかるべき事(こと)なれど、今日(けふ)明日(あす)は、未(いま)だ軍(いくさ)の紛(まぎ)れにて、何(なに)の沙汰(さた)も無(な)し。御宿直(とのゐ)の物(もの)の、うべうべしきも無(な)くて、離(はな)れ御座(おは)しますも、危(あぶ)なき心地(ここち)すればにや、せめても六波羅(ろくはら)近(ちか)くとて、六条殿(どの)へ、本院・新院・春宮引(ひ)き続(つづ)きて移(うつ)らせ給(たま)ひぬれど、日に添(そ)へて、天(あめ)の下(した)騒(さわ)ぎ満(み)ち、恐(おそ)ろしき事(こと)をのみ聞(き)こゆれば、猶(なほ)是(これ)も危(あや)ふしとて、六波羅(ろくはら)の北に、代々の将軍の御料(れう)とて造(つく)りおける桧皮屋(ひはだや)一(ひと)つ有(あ)るに、両院・春宮入(い)らせ給(たま)ふ。大方(おほかた)は、いと物(もの)しきやうなれど、よろしき時(とき)こそあれ、かばかりの際(きは)には、何(なに)の儀式(ぎしき)も無(な)かるべし。笠置(かさぎ)殿(どの)には、大和・河内・伊賀(いが)・伊勢などより、兵(つはもの)共(ども)参(まゐ)り集(つど)ふ中(なか)に、事(こと)の始(はじ)めより頼(たの)み思(おぼ)されたりし楠(くす)の木兵衛正成(まさしげ)と言(い)ふ者(もの)
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有(あ)り。心(こころ)猛(たけ)くすくよかなる物(もの)にて、河内国に、おのが館(たち)のあたりをいかめしくしたためて、此(こ)の御座(おは)します所、もし危(あや)ふからん折(をり)は、行幸(ぎやうがう)をもなし聞(き)こえんなど、用意(ようい)しけり。東(あづま)の夷(えびす)共(ども)も、漸(やうや)う攻(せ)め上(のぼ)る由(よし)聞(き)こゆ。もとより京にある武士(ぶし)共(ども)も、我(われ)先(さき)にと競(きほ)ひ参(まゐ)る。木(き)の丸(まる)殿(どの)には、さこそ言(い)へ、むねむねしき物(もの)も無(な)し。如何(いか)に成(な)り行(ゆ)くべきにかと、いと心(こころ)細(ぼそ)く思(おぼ)し乱(みだ)る。我(わ)が御心(おんこころ)もての御事(こと)なれば、かこつかた無(な)けれど、故郷(ふるさと)の空も哀(あは)れに思(おぼ)し出(い)でらる。秋も深(ふか)く成(な)り行(ゆ)く儘(まま)に、山(やま)の木の葉(は)の打(う)ち時雨(しぐ)れ、谷(たに)の嵐の訪(おとづ)るるも、あたの競(きほ)ふかと、肝(きも)を消(け)す消(け)す御住居(すまひ)、いつしか御身をかへたる心地(ここち)し給(たま)ふもあぢきなし。
憂(う)かりける身を秋風に誘(さそ)はれて思(おも)はぬ山(やま)の紅葉(もみぢ)をぞ見(み)る W
既(すで)に、東(あづま)の武士(ぶし)共(ども)、雲霞(かすみ)の勢(いきほ)ひをたなびかし上(のぼ)る由(よし)聞(き)こゆれば、笠置(かさぎ)にもいみじう思(おぼ)し騒(さわ)ぐ。もとよりいと険(けは)しき山(やま)の深(ふか)きつづらをりを、えも言(い)はず木戸(きど)・逆茂木(さかもぎ)・石弓(いしゆみ)など言(い)ふ事(こと)共(ども)したためらる。さりとも、容易(たやす)くは破(やぶ)れじと頼(たの)ませ給(たま)へるに、後(うし)ろの山(やま)より、御敵(かたき)くづれ参(まゐ)りて、木戸(きど)共(ども)焼(や)き払(はら)ひ、御座(おは)しますあたり近(ちか)く、既(すで)に煙も掛(か)かりければ、今(いま)は如何(いかが)せんにて、怪(あや)しき御姿(すがた)にやつれて、たどり出(い)でさせ給(たま)ふ。座主の法親王尊澄(そんてう)、御手(て)をひき奉(たてまつ)り給(たま)へるも、いとはかなげなる御有様(おんありさま)也(なり)。中務(なかづかさ)の御子(みこ)・大塔(だいたふ)の宮(みや)などは、予(かね)てより此処(ここ)を出(い)でさせ給(たま)ひて、楠(くす)の木が館(たち)に御座(おは)しましけり。行幸(ぎやうがう)もそなた様(ざま)にやと思(おぼ)し志(こころざ)し
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て、藤房・具行両中納言、師賢(もろかた)の大納言(だいなごん)入道、手(て)を取(と)りかはして、炎(ほのほ)の中(なか)を免(まぬが)れ出(い)づる程(ほど)の心地(ここち)共(ども)、夢(ゆめ)とだに思(おも)ひも別(わか)れず、いとあさまし。少(すこ)し延(の)びさせ給(たま)ひてぞ、御馬(うま)尋(たづ)ね出(い)でて、君ばかり奉(たてまつ)りぬれど、ならはぬ山路(やまぢ)に御心地(ここち)も損(そこ)なはれて、誠(まこと)に危(あや)ふく見(み)えさせ給(たま)へば、高間(たかま)の山(やま)と言(い)ふ渡(わた)りに、しばし御心地(ここち)をためらふ所に、山城(やましろ)の国の民(たみ)にて、深栖(ふかす)の五郎入道とか言(い)ふ物(もの)、参(まゐ)り掛(か)かりて、案内(あんない)聞(き)こえたるしも、いとめざましう口惜(くちを)し。上達部(かんだちめ)、思(おも)ひ遣(や)るかた無(な)くて、只(ただ)目(め)を見(み)かはして、いかさまにせんとあきれたるに、東(あづま)より上(のぼ)れる大将軍(たいしやうぐん)にて、陸奥国(みちのくに)の守(かみ)貞直(さだなう)と言(い)ふ物(もの)、大勢(おほぜい)にて参(まゐ)れり。今(いま)は只(ただ)、ともかくも宣(のたま)はすべきやう無(な)ければ、遂(つひ)に甲斐(かひ)無(な)くて、敵(かたき)の為(ため)に御身を任(まか)せぬる様(さま)也(なり)。やがて宇治(うぢ)に行幸(みゆき)有(あ)るべき由(よし)奏(そう)すれば、御心(おんこころ)にも有(あ)らで、ひかされ御座(おは)します程(ほど)に、心(こころ)憂(う)しと言(い)ふも斜(なのめ)なり。具行・藤房・忠顕(ただあき)の少将(せうしやう)など、やがておのが手(て)の物(もの)共(ども)に従(したが)へさせつ。大納言(だいなごん)入道、御馬(うま)のしりに走(はし)り後(おく)れて、此処(ここ)彼処(かしこ)の岩(いは)かげ、木のもとに休む(やす)みつつ、とかくためらふ程(ほど)に、それも見(み)付(つ)けられて捕(と)られぬ。君をば宇治(うぢ)へ入(い)れ奉(たてまつ)りて、先(ま)づ事(こと)の由(よし)六波羅(ろくはら)へ聞(き)こゆる程(ほど)、一(ひとひ)、二日(ふつか)御逗留(とうりう)有(あ)り。かく言(い)ふは九月三十日なれば、空の気色(けしき)さへ時雨(しぐれ)がちに、涙催(もよほ)し顔(がほ)なり。平等院(びやうどうゐん)の紅葉(もみぢ)御覧(ごらん)じ遣(や)らるるも、かからぬ御幸(みゆき)ならばと、あいなし。後冷泉院(ごれいぜいゐん)かとよ、此処(ここ)に行幸(ぎやうがう)し給(たま)ひて、三、四日(さんよつか)御座(おは)しましける、其(そ)の世(よ)の人の心地(ここち)、上下(かみしも)何事(なにごと)かはと、羨(うらや)ましく哀(あは)れに思(おぼ)さ
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る。十月三日、都(みやこ)へ入(い)らせ給(たま)ふも、思(おも)ひしに変(か)はりて、いとすさまじげなる武士(もののふ)共(ども)、衛府(ゑふ)のすけの心地(ここち)して、御輿(こし)近(ちか)く打(う)ち囲(かこ)みたり。鳳輦(ほうれん)には有(あ)らぬ網代輿(あじろごし)の怪(あや)しきにぞ奉(たてまつ)れる。六波羅(ろくはら)の北(きた)なる桧皮屋(ひはだや)には、もとより両院・春宮御座(おは)しませば、南(みなみ)の板屋(いたや)のいと怪(あや)しきに、御しつらひなどして御座(おは)しまさするも、いとほしう忝(かたじけな)し。間近(まぢか)き程(ほど)に、万(よろづ)聞(き)こし召(め)し御覧(ごらん)じふるることごとに付(つ)けても、如何(いか)でか御心(おんこころ)動(うご)かぬやうは有(あ)らん、口惜(くちを)しう思(おぼ)し乱(みだ)る。ならはぬ御宿(やど)りに、時雨(しぐれ)の音(おと)さへはしたなくて、
まだなれぬ板屋(いたや)の軒のむら時雨(しぐれ)音(おと)を聞(き)くにもぬるる袖(そで)かな W
中務(なかづかさ)の宮(みや)は、正成(まさしげ)がもとに御座(おは)しましつれど、御門(みかど)のかくならせ給(たま)ひぬれば、今(いま)は甲斐(かひ)無(な)しとて、それも都(みやこ)へ入(い)らせ給(たま)ひて、佐佐木(ささき)の判官(はうぐわん)時信(ときのぶ)と言(い)ふ物(もの)の家(いへ)に渡(わた)らせ給(たま)ひぬ。徒然(つれづれ)と、物(もの)思(おぼ)し乱(みだ)るるより外(ほか)の事無(な)し。
世(よ)のうさを空にも知(し)るや神無月(かみなづき)理(ことわり)すぎて降(ふ)る時雨(しぐれ)かな W
此(こ)の御子は、藤大納言(だいなごん)為世(ためよ)の孫(うまご)にて物(もの)し給(たま)へば、彼(か)の家に常(つね)は住(す)み給(たま)ひし程(ほど)に、大納言(だいなごん)の末の娘(むすめ)、大納言(だいなごん)の典侍(すけ)と聞(き)こゆるに御覧(ごらん)じ付(つ)きて、其(そ)の御腹(おんはら)に姫宮(ひめみや)など出(い)で来(き)給(たま)へり。又(また)、中宮の御匣(みくしげ)殿(どの)は、宮の御兄(せうと)の右(みぎ)の大臣(おとど)公顕(きんあき)と聞(き)こえし御娘(むすめ)也(なり)。其(そ)の御腹(おんはら)にも男(をとこ)御子(みこ)など御座(おは)します。思(おも)ふ儘(まま)なる世(よ)をも待(ま)ち出(い)で給(たま)はばと、誰(たれ)も行(ゆ)く末(すゑ)頼(たの)もしく思(おも)ひ聞(き)こえつるに、かく
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思(おも)ひの外(ほか)にあさましき事(こと)の出(い)で来(き)ぬるを、深(ふか)う思(おも)ひ歎(なげ)く人々(ひとびと)数(かず)知(し)らず。御匣(みくしげ)殿(どの)は失(う)せ給(たま)ひにしかば、此(こ)の頃(ごろ)は、只(ただ)此(こ)の典侍(すけ)の君をのみ又(また)無(な)き物(もの)に思(おぼ)しかはしつるに、吹(ふ)き交(か)ふ風も間近(まぢか)き程(ほど)には御座(おは)すれど、御対面(たいめん)は思(おも)ひも寄(よ)らず、覚束無(おぼつかな)さの慰(なぐさ)むばかりなる御消息(せうそこ)などだに、通(かよ)ふ事(こと)も適(かな)はぬ御有様(おんありさま)を、哀(あは)れにいぶせう思(おぼ)し結(むす)ぼほれたり。一(ひと)つ御腹(おんはら)の座主の法親王も、長井の高広(たかひろ)とかや言(い)ふ物(もの)、預(あづ)かり奉(たてまつ)りぬ。御門遠(とほ)く移(うつ)らせ給(たま)はん程(ほど)、此(こ)の御子(みこ)達(たち)も、おのが散(ち)り散(ぢ)りになり給(たま)ふべしなど聞(き)こえけり。春宮は世(よ)をつつしみて、六波羅(ろくはら)に渡(わた)らせ給(たま)ふ。先帝はあたの為(ため)に、同(おな)じ御宿(やど)り、葦垣(あしがき)ばかりを隔(へだ)てにて、御座(おは)しませば、主(ぬし)無(な)き院(ゐん)の内(うち)、いと寂(さび)しくて、衛士(ゑじ)のたく火も影(かげ)だに見(み)えず。内(うち)には、いつしか怪(け)しかる物(もの)など住(す)み着(つ)きて、或(あ)る時(とき)は、紅(くれなゐ)の袴(はかま)長(なが)やかに踏(ふ)みたれて、火ともしたる女、見(み)る儘(まま)に、丈(たけ)は軒(のき)とひとしくなりて、後にはかき消(け)ちて失(う)するも有(あ)り。又いみじう光を放(はな)ちて、髪(かみ)を前(まへ)に乱(みだ)し掛(か)けたる童(わらは)なども見(み)えけり。鬼(おに)殿(どの)などはかくや有(あ)りけんと恐(おそ)ろし。人住(す)まで年(とし)経(へ)荒(あ)れぬる所などにこそ、斯(か)かる事(こと)も自(おの)づから有(あ)りけれ。僅(わづ)かに一月二月の中(うち)に、斯(か)かるべきに有(あ)らぬを、此(これ)彼(かれ)いと怪(あや)しき業(わざ)なるべし。さて例(れい)の東(あづま)より御(おん)使(つか)ひのぼれり。代々の例(ためし)とかやとて、秋田(あいた)の城(じやう)の介(すけ)高景(たかかげ)、二階堂(にかいだう)の出羽の入道道雲(だううん)とかや言(い)ふ物(もの)ぞ参(まゐ)れる。西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公宗に事(こと)の由(よし)申(まう)して、春宮御位
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に即(つ)き給(たま)ふ。然(さ)るべき御中(なか)と言(い)ひながら、今日(けふ)明日(あす)とは見(み)えざりつるに、いとめでたし。さて六波羅(ろくはら)より、此(こ)の度(たび)は世(よ)の常(つね)の行啓(ぎやうげい)の儀式(ぎしき)にて、持明院殿へ入(い)らせ給(たま)ふ。両院も引(ひ)き繕(つくろ)ひたる御幸の由(よし)なり。ひしめき立(た)ちぬる世(よ)の音(おと)なひを聞(き)こし召(め)す先帝(せんてい)の御心地(ここち)、たとしへ無(な)くねたく人悪(わろ)し。もとの内裏(だいり)へ新帝移(うつ)らせ給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)残(のこ)り無(な)く仕(つかうまつ)る。院(ゐん)も常盤井(ときはゐ)殿(どの)へ御座(おは)しまいて、世(よ)の政(まつりごと)聞(き)こし召(め)せば、後宇多院の昔(むかし)思(おも)ひ出(い)でられて哀(あは)れ也(なり)。いつしか十月十二日綸旨(りんじ)下されて、前(さき)の御代の人々(ひとびと)大中納言・宰相すべて十人、宣房(のぶふさ)・公明(きんあきら)・藤房・具行・隆資(たかすけ)・実世・実治・季房(すゑふさ)・隆重(たかしげ)・忠顕(ただあき)、官(つかさ)止(や)めらるる由(よし)聞(き)こゆるも、昨日まで時(とき)の花(はな)と見(み)えし人々(ひとびと)、つかの間(ま)の夢かと哀(あは)れ也(なり)。斯(か)かるに付(つ)けては、一(ひと)つ御族(ぞう)のみ、今(いま)はわく方(かた)無(な)く定(さだ)まり給(たま)ふべきかと、世(よ)の人(ひと)も思(おも)ひ聞(き)こゆる程(ほど)に、亀山院の御流(なが)れ絶(た)ゆべきには有(あ)らずとにや、先坊(せんばう)の一の宮(みや)を太子に立(た)てまつる。御乳母(めのと)の雅藤(まさふぢ)の宰相の法性寺の家(いへ)に渡(わた)らせ給(たま)へるを、土御門(つちみかど)高倉(たかくら)の先坊の御跡(あと)へ入(い)れ奉(たてまつ)りて、十一月八日坊に定(さだ)まり給(たま)ふ。今(いま)は思(おも)ひ絶(た)えぬる心地(ここち)しつるに、いとめでたし。松(まつ)が浦島(うらしま)に年(とし)経(へ)給(たま)ひぬる入道の宮(みや)も、御親(おや)の心地(ここち)にて御座(おは)しますべければ、太上天皇になずらへて崇明門院(しゆめいもんゐん)と聞(き)こゆ。万(よろづ)斧(おの)の柄(え)の朽(く)ちにし昔(むかし)を改(あらた)めたる宮の内(うち)也(なり)。有(あ)りし後、おのが様々(さまざま)まかで散(ち)りにし古(ふる)女房(にようばう)・上達部(かんだちめ)・殿上人など、世(よ)の中(なか)屈(くん)じいたくて、此処(ここ)彼処(かしこ)に籠(こも)り居(ゐ)たりしも、
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いつしかと参(まゐ)り集(つど)ふ様(さま)、谷の鴬(うぐひす)の春待(ま)ち付(つ)けたる心地(ここち)して、いと頼(たの)もしげ也(なり)。傅には、久我(こが)の右(みぎ)の大臣(おとど)長通(ながみち)、大夫には中(なか)の院(ゐん)の大納言(だいなごん)通顕(みちあき)なり給(たま)ふ。なべて世(よ)に年頃(としごろ)埋(うづ)もれたりし人々(ひとびと)、いつしかと官位(つかさくらゐ)様々(さまざま)に、思(おも)ふ儘(まま)なる気色(けしき)共(ども)、目(め)の前(まへ)に移(うつ)り変(か)はる〔世(よ)の〕有様(ありさま)、今更(いまさら)ならねど、いとしるく掲焉(けちえん)なるもあぢきなし。かくて年(とし)も暮(く)れぬ。



第十六 久米(くめ)の佐良山(さらやま)

元弘二年(にねん)の春にもなりぬ。あたらしき御代の年(とし)の始(はじ)めは、思(おも)ひなしさへ、花(はな)やかなり。上(うへ)も若(わか)う清(きよ)らに御座(おは)しませば、万(よろづ)めでたく、百敷(ももしき)の内(うち)、何事(なにごと)も変(か)はらず。然(さ)るべき公事(くじ)の折々(をりをり)、さらでも、院・内(うち)同(おな)じ陣の内(うち)なれば、一(ひと)つに立(た)ち込(こ)みたる馬(うま)車(くるま)、隙(ひま)無(な)くにぎははしけれど、見(み)し世(よ)の人は一人(ひとり)もまじろはず、参(まゐ)りまかづる顔(かほ)のみぞ変(か)はれる。先帝(せんてい)は、未(いま)だ六波羅(ろくはら)に御座(おは)します。二月(きさらぎ)の頃(ころ)、空の気色(けしき)のどやかに霞(かす)み渡(わた)りて、ゆるらかに吹(ふ)く春風に、軒の梅なつかしく香(かを)りきて、鴬(うぐひす)の声(こゑ)うららかなるも、うれはしき御心地(ここち)には、物(もの)憂(う)かる音(ね)にのみ聞(き)こし召(め)しなさる。異様(ことやう)なれど、彼(か)の上陽人(じやうやうじん)の宮の中(うち)思(おも)ひよそへらる。長(なが)き日影(ひかげ)もいとど暮(く)らし難(がた)き御慰(なぐさ)めにとや聞(き)こえ給(たま)ひけん、中宮より御琵琶(びは)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふついでに、いささかなるもののはしに、
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思(おも)ひ遣(や)れ塵(ちり)のみ積(つ)もる四(よつ)の緒(を)に払(はら)ひも敢(あ)へず掛(か)かる涙(なみだ)を W
げにと思(おぼ)し遣(や)るに、いと悲(かな)しくて、玉水の流(なが)るるやうになん。御返(かへ)し、
かき立(た)てし音(ね)をたち果(は)てて君恋(こ)ふる涙の玉の緒(を)とぞなりける W
彼(か)の承久の例(ためし)にとや、東(あづま)より御(おん)使(つか)ひには、長井の右馬の助(すけ)高冬(たかふゆ)と言(い)ふ者(もの)なるべし。是(これ)は、頼朝(よりとも)の大将の時(とき)より、鎌倉(かまくら)に重(おも)き武士(もののふ)にて、未(いま)だ若(わか)けれども、斯(か)かる大事(だいじ)にも上(のぼ)せけるとぞ申(まう)しける。遂(つひ)に隠岐(おき)の国(くに)へ移(うつ)し奉(たてまつ)るべしとて、三月(やよひ)の初(はじ)めの七日に、都(みやこ)を出(い)でさせ給(たま)ふ。今(いま)はと聞(き)こし召(め)す御心(おんこころ)惑(まど)ひ共(ども)、言(い)へば更(さら)也(なり)。所々(ところどころ)の歎(なげ)き、近(ちか)う仕(つか)まつりし人々(ひとびと)の心地(ここち)共(ども)、置(お)き所(どころ)無(な)く悲(かな)し。御門(みかど)も限(かぎ)り無(な)く御心(おんこころ)悩(なや)むべし。いとかうしも人に見(み)えじと、かつは思(おぼ)し沈(しづ)むれど、あやにくにすすみ出(い)づる御涙(なみだ)を、持(も)てかくしつつ御座(おは)します。旧(ふ)りにし事(こと)を思(おぼ)し出(い)づるにも、立(た)ち返(かへ)り又(また)世(よ)を安(やす)く思(おぼ)さん事(こと)のいとかたければ、万(よろづ)今(いま)をとぢめにこそと、思(おぼ)しめぐらすに、人(ひと)遣(や)りならず、口惜(くちを)しき契(ちぎ)り加(くは)はりける前(さき)の世(よ)のみぞ、尽(つ)きせず恨(うら)めしき。
遂(つひ)にかく沈(しづ)みはつべき報(むく)ひ有(あ)らば上(うへ)無(な)き身とは何(なに)生(う)まれけん W
巳(み)の時(とき)ばかりに出(い)でさせ給(たま)ふ。網代(あじろ)の御車に、御前(ぜん)共(ども)などは、故(こ)院(ゐん)の御世(よ)より仕(つかうまつ)りなれにし物(もの)共(ども)、ある限(かぎ)り参(まゐ)れり。御車寄(よ)せに西園寺(さいをんじ)の中納言公宗(きんむね)候(さぶら)ひ給(たま)ふ。
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上(うへ)は、御冠(かうぶり)に世(よ)の常(つね)の御直衣(なほし)・指貫(さしぬき)・白綾(あや)の御衣(おんぞ)一重(かさ)ね奉(たてまつ)れり。去年(こぞ)の今日(けふ)は、北山にて花(はな)の宴(えん)せさせ給(たま)ひしも、哀(あは)れに思(おぼ)し出(い)でられて、其(そ)の日の事(こと)、かき連(つら)ね恋(こひ)しく思(おぼ)さる。人々(ひとびと)の禄(ろく)にこそは賜(たま)はせしを、今日(けふ)は御旅衣(たびごろも)に裁(た)ち換(か)ふるも、哀(あは)れに定(さだ)め無(な)き世(よ)の習(なら)ひ、今更(いまさら)心(こころ)憂(う)し。御車に奉(たてまつ)るとて、日頃(ひごろ)御座(おは)しましつる傍(かたは)らの障子(さうじ)に、書(か)き付(つ)けさせ給(たま)ふ。
いさ知(し)らず猶(なほ)憂(う)き方(かた)の又(また)も有(あ)らば此(こ)の宿(やど)とても忍(しの)ばれやせん W
御供(とも)には、内侍(ないし)の三位殿・大納言(だいなごん)〔の君〕、小宰相など、男(をとこ)には、行房の中将(ちゆうじやう)・忠顕の少将(せうしやう)ばかり仕(つかまつ)る。おのがじし、都(みやこ)の名残(なごり)共(ども)言(い)ひ尽(つ)くし難(がた)し。六波羅(ろくはら)よりの御送(おく)りの武士(ぶし)、さならでも名(な)有(あ)る兵(つはもの)共(ども)、千葉の介(すけ)貞胤(さだたね)を始(はじ)めとして、覚(おぼ)え異(こと)なる限(かぎ)り、十人選(えら)び奉(たてまつ)る。色々(いろいろ)の綾錦(あやにしき)の水干(すいかん)・直垂(ひたたれ)など言(い)ふもの、様々(さまざま)に織(お)り尽(つ)くし染(そ)め尽(つ)くして、いみじき清(きよ)らを好(この)み整(ととの)へたれば、かくてしも、世(よ)に珍(めづら)しき見物(みもの)なり。六波羅(ろくはら)より、七条を西(にし)へ、大宮(おほみや)を南(みなみ)へ折(を)れて、東寺の門の前(まへ)に御車抑(おさ)へらる。とばかり御念誦(ねんじゆ)有(あ)るべし。物見(み)車所(ところ)狭(せ)き程(ほど)なり。よろしき女房も壺装束(つぼさうぞく)などして、徒歩(かち)の物(もの)共(ども)も打(う)ちまじれり。若(わか)きも、老(お)いたるも、尼(あま)法師(ほふし)、怪(あや)しき山賎(やまがつ)まで立(た)ち込(こ)みたる様(さま)、竹の林(はやし)に異(こと)ならず。各(おのおの)目(め)押(お)し拭(のご)ひ、鼻(はな)すすりあへる気色(けしき)共(ども)、げに、浮(う)き世(よ)の極(きは)めは、今(いま)に尽(つ)くしつる心地(ここち)ぞする。崇徳院
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の讚岐(さぬき)に御座(おは)しましけん程(ほど)の有様(ありさま)、後鳥羽院(ごとばのゐん)〔の〕、隠岐(おき)に移(うつ)らせ給(たま)ひけむ時(とき)なども、さこそは有(あ)りけめなれど、つてにのみ聞(き)きて、見(み)ねば知(し)らず。是(これ)を始(はじ)めたる心地ぞする。日頃(ひごろ)は、何(なに)の御匂(にほ)ひにも触(ふ)れず、数ならぬ人、及(およ)ばぬ身までも、今日(けふ)の御別の哀(あは)れには、置(お)き所(どころ)無(な)げにぞ惑(まど)ひあへるかし。君も御簾(すだれ)少(すこ)しかき遣(や)りて、此(こ)のも彼(か)のも御覧(ごらん)じ渡(わた)しつつ、御目(め)止(とど)まらぬ草木も有(あ)るまじかめり。岩木(いはき)ならねば、武士(もののふ)の鎧(よろひ)の袖(そで)共(ども)も、しほれりとぞ見(み)ゆる。都(みやこ)の梢(こずゑ)を隠(かく)るるまで御覧(ごらん)じ送(おく)るも、猶(なほ)夢かと覚(おぼ)ゆ。鳥羽殿に御座(おは)しまし着(つ)きて、御装(よそ)ひ改(あらた)め、破子(わりご)など参(まゐ)らせけれど、気色ばかりにてまかづ。是(これ)より御輿(こし)に奉(たてまつ)れば、止(と)まるべき御前(ぜん)共(ども)の、空(むな)しき御車を、泣(な)く泣(な)く遣(や)り返(かへ)るとて、くれ惑(まど)ひたる気色(けしき)、いと堪(た)えがたげ也(なり)。かくて、君は遙(はる)かに赴(おもむ)かせ給(たま)ふ。淀(よど)の渡(わた)りにて、昔(むかし)八幡(やはた)の行幸(ぎやうがう)有(あ)りし時、橋渡(はしわた)しの使(つか)ひなりし佐々木(ささき)の佐渡の判官(はうぐわん)と言(い)ふ物(もの)、今(いま)は入道して、今日(けふ)の御送(おく)り仕(つかまつ)れるに、其(そ)の世(よ)の事思(おぼ)し出(い)でられて、いと忍(しの)びがたさに賜(たま)はせける。
しるべする道(みち)こそ有(あ)らずなりぬとも淀(よど)の渡(わた)りは忘(わす)れしもせじ W
又(また)の日は、中務(なかづかさ)の御子(みこ)、土佐国へ御座(おは)します。御供(とも)に為明の中将(ちゆうじやう)参(まゐ)る。日頃(ひごろ)、かく怪(あや)しき御宿(やど)りに物(もの)し給(たま)ふを、忝(かたじけな)く思(おも)ひ聞(き)こえつるに、遙(はる)かなる世界(せかい)にさへ出(い)で御座(おは)しませば、ましていかさまなる業(わざ)をして御覧(ごらん)ぜられんと、主(あるじ)時信、経営(けいめい)し騒(さわ)ぐ。宮既(すで)に立(た)た
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せ給(たま)ふとて、瓶(かめ)にさしたる花(はな)を折(を)りて、
花(はな)は猶(なほ)止(と)まる主(あるじ)に語(かた)らへよ我(われ)こそ旅(たび)に立(た)ち別(わか)るとも W
同(おな)じ日、やがて妙法院の座主尊澄法親王も、讚岐(さぬき)の国へ御座(おは)します。先帝は今日(けふ)津(つ)の国(くに)昆陽(こや)の宿(しゆく)と言(い)ふ所に着(つ)かせ給(たま)ひて、夕づく夜(よ)ほのかにをかしきを、眺(なが)め御座(おは)します。
命あればこやの軒ばの月も見(み)つ又如何(いか)ならん行(ゆ)く末(すゑ)の空 W
昆陽(こや)より出(い)でさせ給(たま)ひて、武庫川(むこがは)・神崎(かんざき)・難波(なには)、住吉(すみよし)など過(す)ぎさせ給ふとて、御心(おんこころ)の内(うち)に思(おぼ)す筋(すぢ)有(あ)るべし。広田(ひろた)の宮(みや)の渡(わた)りにても、御輿(こし)止(とど)めて、拝(をが)み奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。葦屋(あしや)の松原・雀(すずめ)の松原・布引(ぬのひき)の滝(たき)など御覧(ごらん)じ遣(や)らるるも、古(ふる)き御幸(みゆき)共(ども)思(おぼ)し出(い)でらる。生田(いくた)の里をば訪(と)はで過(す)ぎさせ給(たま)ひぬめり。湊川(みなとがは)の宿(しゆく)に着(つ)かせ給(たま)へるに、中務(なかづかさ)の宮(みや)は、昆陽野(こやの)の宿(しゆく)に御座(おは)します程(ほど)、間近(まぢか)く聞(き)き奉(たてまつ)らせ給(たま)ふも、いみじう哀(あは)れに悲(かな)し。宮、
いとせめてうき人遣(や)りの道(みち)ながら同(おな)じ止(と)まりと聞(き)くぞ嬉(うれ)しき W
福原(ふくはら)の島(しま)より、宮は御舟に奉(たてまつ)る。御門(みかど)は、和田(わだ)の岬(みさき)・刈藻川(かるもがは)を打(う)ち渡(わた)して、須磨(すま)の関(せき)にかからせ給(たま)ふ。彼(か)の行平の中納言、「関(せき)吹(ふ)きこゆる」と言(い)ひけんは、浦(うら)より遠(をち)なるべし。哀(あは)れに御覧(ごらん)じ渡(わた)さる。源氏(げんじ)の大将の、「泣(な)く音(ね)にまがふ」と宣(のたま)ひけん浦波(うらなみ)、今(いま)もげに御袖(そで)に掛(か)かる心地(ここち)するも、様々(さまざま)御涙の催(もよほ)し也(なり)。播磨(はりま)の国へ着(つ)かせ給(たま)ひて、塩屋(しほや)、
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垂水(たるみ)と言(い)ふ所をかしきを、問(と)はせ給(たま)へば、「さなん」と奏(そう)するに、「名(な)を聞(き)くよりからき道(みち)にこそ」と宣(のたま)はせて、差(さ)しのぞかせ給(たま)へる御様(さま)形(かたち)、旧(ふ)り難(がた)く艶(なま)めかし。けぢかき限(かぎ)りは、哀(あは)れにめでたうもと思(おも)ひ聞(き)こゆべし。大倉谷と言(い)ふ所少(すこ)し過(す)ぐる程(ほど)にぞ、人丸の塚(つか)は有(あ)りける。明石(あかし)の浦を過(す)ぎさせ給(たま)ふに、「島(しま)がくれ行(ゆ)く舟」共(ども)、ほのかに見(み)えて哀(あは)れ也(なり)。
水(みづ)の泡(あは)の有(あ)りて浮(う)き世(よ)を渡(わた)る身に羨(うらや)ましきは海士(あま)の釣舟(つりぶね) W
野中の清水(しみづ)・ふたみの浦(うら)・高砂(たかさご)の松(まつ)など、名(な)有(あ)る所々(ところどころ)御覧(ごらん)じ渡(わた)さるるも、かからぬ御幸(みゆき)ならば、をかしうも有(あ)りぬべけれど、万(よろづ)かき暗(くら)す御乱(みだ)り心地(ここち)に、御目(め)止(と)まらぬも、我(われ)ながらいたう屈(くつ)しにけるかなと思(おぼ)さる。いと高(たか)き山(やま)の峰(みね)に、花面白(おもしろ)く咲(さ)き続(つづ)きて、白雲(しらくも)を分(わ)け行(ゆ)く心地(ここち)するも艶(えん)なるに、都(みやこ)の事数々(かずかず)思(おぼ)し出(い)でらる。
花(はな)は猶(なほ)浮(う)き世(よ)もわかず咲きにけり都(みやこ)も今(いま)や盛(さか)りなるらむ W
あと見(み)ゆる道(みち)のしをりの桜花此(こ)の山人の情(なさ)けをぞ知(し)る W
十二日に、加古河(かこがは)の宿(しゆく)と言(い)ふ所に御座(おは)します程(ほど)に、妙法院の宮、讚岐(さぬき)へ渡(わた)らせ給(たま)ふとて、同(おな)じ道(みち)、少(すこ)し違(ちが)ひたれど、此(こ)の川の東(ひんがし)、野口(のぐち)と言(い)ふ所(ところ)まで参(まゐ)り給(たま)へる由(よし)奏(そう)せさせ給(たま)へば、いと哀(あは)れに相(あひ)見(み)まほしう思(おぼ)さるれど、御送(おく)りの兵(つはもの)共(ども)許(ゆる)し聞(き)こえねば、宮空(むな)しく帰(かへ)ら
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せ給(たま)ふ御心(おんこころ)の中(うち)、堪(た)へ難(がた)く乱(みだ)れ勝(まさ)るべし。更(さら)なる事(こと)なれど、かばかりの事(こと)だに、御心(おんこころ)に任(まか)せずなりぬる世(よ)の中(なか)、いへばえに、つらく恨(うら)めしからぬ人無(な)し。十七日、美作(みまさか)の国に御座(おは)しまし着(つ)きぬ。御心地(ここち)悩(なや)ましくて、此(こ)の国に二、三日休(やす)らはせ給(たま)ふ程(ほど)、仮初(かりそめ)の御宿(やど)りなれば、もの深(ふか)からで、候(さぶら)ふ限(かぎ)りの武士(もののふ)共(ども)、自(おの)づからけぢかく見奉(たてまつ)るを、哀(あは)れにめでたしと思(おも)ひ聞(き)こゆ。君も思(おも)ほし続(つづ)くる事有(あ)りて、
哀(あは)れとは汝(なれ)も見るらん我(わ)が民(たみ)と思(おも)ふ心(こころ)は今(いま)も変(か)はらず W
御座(おは)しますに続(つづ)きたる軒のつまより、煙の立(た)ち来(く)れば、「庵(いほり)にたける」と打(う)ち誦(じゆん)ぜさせ給(たま)へるも艶(えん)なり。
余所(よそ)にのみ思(おも)ひぞ遣(や)りし思(おも)ひきや民(たみ)のかまどをかくて見(み)んとは W
二十一日、雲清寺と言(い)ふ所にて、いと面白(おもしろ)き花(はな)を折(を)りて、忠顕少将(せうしやう)奏(そう)しける。
変(か)はらぬを形見(かたみ)となして咲く花(はな)の都(みやこ)は猶(なほ)も忍(しの)ばれぞする W
御返(かへ)し、
色も香も変(か)はらぬしもぞ憂(う)かりける都(みやこ)の外(ほか)の花(はな)の梢(こずゑ)は W
又(また)、小山(をやま)の五郎とかや言(い)ふ武士(ぶし)に、同(おな)じ花(はな)を遣(や)るとて、少将(せうしやう)、
うき旅(たび)と思(おも)ひは果(は)てじ一枝も花(はな)の情(なさ)けの斯(か)かる折(をり)には W
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かくて猶(なほ)御座(おは)しませば、来(こ)し方(かた)はそこはかとなく霞(かす)み渡(わた)りて、「哀(あは)れに遠(とほ)くも来(き)にけるかな」と、日数(ひかず)に添(そ)へて、都(みやこ)のいとど隔(へだ)たり果(は)つるも、心(こころ)細(ぼそ)う思(おぼ)さる。ほのかに咲(さ)きそむと見(み)えし花(はな)の梢(こずゑ)さへ、日数(ひかず)も山(やま)も重(かさ)なるに添(そ)へて、うつろひ勝(まさ)りつつ、上(のぼ)り下(くだ)るつづらをりに、いと白(しろ)く散(ち)り積(つ)もりて、むら消(ぎ)えたる雪(ゆき)の心地(ここち)す。
花(はな)の春又(また)見(み)ん事(こと)のかたきかな同(おな)じ道(みち)をば行(ゆ)き返(かへ)るとも W
いとかたしとは思(おぼ)す物(もの)から、なほさりとも平(たひ)らかにだに有(あ)らば、自(おの)づから御本意(ほんい)とぐるやうも有(あ)りなんなど、御心(おんこころ)もて慰(なぐさ)め思(おぼ)すもはかなし。久米(くめ)の佐良山(さらやま)と言(い)ふ所越(こ)えさせ給(たま)ふとて、
聞(き)き置(お)きし久米(くめ)の佐良山(さらやま)越(こ)えゆかん道(みち)とは予(かね)て思(おも)ひやはせし W
逢坂(あふさか)と言(い)ふは、東路(あづまぢ)ならでも有(あ)りけりと聞(き)こし召(め)して、
立(た)ち返(かへ)り越(こ)え行(ゆ)く関と思(おも)はばや都(みやこ)に聞(き)きし逢坂(あふさか)の山 W
三日月(みかづき)の中山にて、昔(むかし)後鳥羽院(ごとばのゐん)の仰(おほ)せられけん事思(おぼ)し出(い)づるさへ、げに憂(う)かりける例(ためし)なり。
伝(つた)へ聞(き)く昔(むかし)がたりぞうかりける其(そ)の名旧(ふ)りぬる三日月(みかづき)の松 W
御道(みち)半(なか)ばになりぬれば、御送(おく)りの物(もの)共(ども)、上下(かみしも)、都(みやこ)出(い)でしよりも猶(なほ)花(はな)やかに、今(いま)めかしう装束(さうぞ)きかへたり。大方(おほかた)は、怪(あや)しう様(さま)異(こと)なる御幸なれど、道(みち)すがらの御設(まう)け、国々(くにぐに)に心(こころ)遣(づか)ひし
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たる気色(けしき)などは、〔かうざまの御歩(あり)きとは〕見(み)えず、いと止(や)む事(ごと)無(な)くなん。さは言(い)へど、今(いま)まで国の主(あるじ)にて、世(よ)をもいみじう治(をさ)めさせ給(たま)へりつる名残(なごり)にや有(あ)らん、いと懇(ねんご)ろにのみ仕(つかまつ)れり。古(いにしへ)の御幸(みゆき)共(ども)には、かうは有(あ)らざりけりと〔ぞ〕、古(ふる)き事知(し)れる人々(ひとびと)言(い)ひ侍(はべ)りける。四月一日の頃(ころ)、百敷(ももしき)の宮の中(うち)思(おぼ)し出(い)でられて、
さもこそは月日(つきひ)も知(し)らぬ我(われ)ならめ衣がへせし今日(けふ)にやは有(あ)らぬ W
出雲(いづも)の国八杉(やすぎ)の津(つ)と言(い)ふ所より、御舟に奉(たてまつ)る。大舟二十四艘(にじふしさう)、小舟共(ども)、はしに数(かず)知(し)らず付(つ)けたり。遙(はる)かに押(お)し出(い)だす程(ほど)、今(いま)一霞(かすみ)心(こころ)細(ぼそ)う哀(あは)れにて、誠(まこと)に「二千里の外(ほか)」の心地(ここち)するも、今更(いまさら)めきたり。彼(か)の島(しま)に御座(おは)しまし着(つ)きぬ。昔(むかし)の御跡(あと)は、それとばかりの験(しるし)だに無(な)く、人の住処(すみか)も稀(まれ)に、自(おの)づから海士(あま)の塩(しほ)やく里(さと)ばかり遙(はる)かにて、いと哀(あは)れなるを御覧(ごらん)ずるにも、御身の上(うへ)は差(さ)し置(お)かれて、先(ま)づ彼(か)の古(いにしへ)の事(こと)思(おぼ)し出(い)づ。斯(か)かる所に世(よ)を尽(つ)くし給(たま)ひけん御心(おんこころ)の内(うち)、如何(いか)ばかりなりけんと、哀(あは)れに忝(かたじけな)く思(おぼ)さるるにも、今(いま)はた、更(さら)にかくさすらへぬるも、何(なに)により思(おも)ひ立(た)ちし事(こと)ぞ、彼(か)の御心(おんこころ)の末(すゑ)や果(は)たし遂(と)ぐると思(おも)ひし故(ゆゑ)也(なり)。苔(こけ)の下にも哀(あは)れと思(おぼ)さるらんかしと、万(よろづ)にかき集(あつ)め尽(つ)きせずなん。海(うみ)づらよりは少(すこ)し入(い)りたる国分寺と言(い)ふ寺(てら)を、よろしき様(さま)に取(と)り払(はら)いて、御座(おは)しまし所に定(さだ)む。今(いま)はさは、かくて有(あ)るべき御身ぞかしと、思(おぼ)し静(しづ)まる程(ほど)、猶(なほ)夢の心地(ここち)して、言(い)はん方(かた)無(な)し。そこら参(まゐ)り
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し兵(つはもの)共(ども)もまかづれば、かいしめりのどやかになりぬる、いとど心(こころ)細(ぼそ)し。昔(むかし)こそ、受領(ずりやう)共(ども)も、任の程(ほど)其(そ)の国をしたため行(おこな)ひしか。此(こ)の頃(ごろ)は只(ただ)名(な)ばかりにて、何処(いづく)にも守護(しゆご)と言(い)ふ物(もの)の、目代よりはおぞましきを据(す)ゑたれば、武家(ぶけ)の目(ま)びきにてのみ、公様(おほやけざま)の事(こと)は、万(よろづ)おろそかにぞしける。葛城(かつらぎ)の大君(おほきみ)を、陸奥国(みちのくに)へ遣(つか)はしたりけんも、かくやと哀(あは)れ也(なり)。中務(なかづかさ)の御子(みこ)も、土佐に御座(おは)しまし着(つ)きて、御送(おく)りの武士に賜(たま)はせける。
思(おも)ひきや恨(うら)めしかりし武士(もののふ)の名残(なごり)を今日(けふ)は慕(した)ふべしとは W
斯様(かやう)の類(たぐひ)、数多(あまた)聞(き)こえしかど、何(なに)かはさのみ。皆人(みなひと)もゆかしからず思(おぼ)さるらんとてなん。都(みやこ)には、三月二十二日御即位(そくゐ)の行幸(ぎやうがう)なれば、世(よ)の中(なか)めでたく罵(ののし)る。本院・新院一(ひと)つに奉(たてまつ)りて、待賢門(たいけんもん)の辺(ほとり)に御車立(た)てて見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。万(よろづ)有(あ)るべき様(さま)に、整(ととの)ほりてめでたし。誠(まこと)や、中宮は其(そ)の儘(まま)に御ぐしもたぐる時(とき)も無(な)く、沈(しづ)み給(たま)へる御有様(おんありさま)、いと理(ことわり)に、遠(とほ)き御別の悲(かな)しさに打(う)ち添(そ)へて、御胸(むね)の安(やす)き隙(ひま)無(な)く思(おぼ)しこがる。后の位(くらゐ)も止(とど)められ給(たま)ひて、院号(ゐんがう)の定(さだ)めなど、人の上(うへ)のやうにほのかに聞(き)こし召(め)すも、嬉(うれ)しからぬ世(よ)也(なり)。礼成門院(れいしやうもんゐん)〈 後京極院(ごきやうごくゐん)の事(こと)也(なり)、 〉とかや申(まう)す也(なり)。年月(としつき)は、御身の人わらへなる様(さま)にて、天下(てんか)の騒(さわ)がれなりしをこそ思(おぼ)し歎(なげ)き、御門(みかど)も苦(くる)しき殊(こと)に思(おぼ)し宣(のたま)はせけるに、今(いま)は中々其(そ)の筋(すぢ)の事(こと)、掛(か)けても思(おぼ)さず、様々(さまざま)なりし御修法(みしゆほふ)の壇(だん)共(ども)
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も、あとかた無(な)く毀(こぼ)ち果(は)てて、かきさましぬ。ひたすらに、只(ただ)斯(か)かる世(よ)の憂(う)さをのみ思(おぼ)し惑(まど)ふに、日頃経(ふ)れど、御湯(ゆ)なども絶(た)えて御覧(ごらん)じ入(い)れねば、そこはかとなく、いとど損(そこ)なはれ勝(まさ)りて、ながらふべくも見(み)え給(たま)はず。隠岐(おき)よりは、たまさかの御消息(せうそこ)などの通(かよ)ふばかりにて、覚束無(おぼつかな)くいぶせき事多(おほ)く積(つ)もり行(ゆ)くも、いつをあふせの限(かぎ)りとも無(な)く、定(さだ)め無(な)き世(よ)に、やがてかくてやとぢめんとすらんと、形見(かたみ)にいみじう思(おぼ)さる。彼処(かしこ)に参(まゐ)り給(たま)へる内侍(ないし)の三位の御腹(おんはら)にも、御子(みこ)達(たち)数多(あまた)御座(おは)します。いづれも未(いま)だいはけなき御程(ほど)にはあれど、物(もの)思(おぼ)し知(し)りて、いみじう恋(こ)ひ聞(き)こえ給(たま)ひつつ、折々(をりをり)は忍(しの)びて打(う)ち泣(な)きなどし給(たま)ふ。幼(をさな)う物(もの)し給(たま)へば、遠(とほ)き国までは移(うつ)し奉(たてまつ)らねど、もとの御後見(おんうしろみ)をば改(あらた)めて、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公宗の家にぞ渡(わた)し奉(たてまつ)る。八(や)つになり給(たま)ふぞ御兄(このかみ)ならんかし。北山に御座(おは)する程(ほど)、夕暮の空いと心(こころ)すごう、山風(やまかぜ)あららかに吹(ふ)きて、常(つね)よりも物(もの)悲(がな)しく思(おぼ)されければ、
庭松緑老(お)いて秋風冷(ひや)やかに蘭竹葉(は)繁(しげ)くして白雪(ゆき)埋(うづ)む W
つくづくと眺(なが)め暮(く)らして入相(いりあひ)の鐘(かね)の音(おと)にも君ぞ恋(こひ)しき W
幼(をさな)き御心(おんこころ)にも、はかなく打(う)ちひそみ給(たま)へる、いと哀(あは)れなり。此処(ここ)も彼処(かしこ)も尽(つ)きせず思(おぼ)し歎(なげ)く様(さま)、言(い)はずとも皆(みな)推(お)し量(はか)るべし。宮の宣旨(せんじ)も、いたう時(とき)めきて、三位(さんみ)してき。其(そ)の御腹(おんはら)の若宮(わかみや)、花山院(くわさんゐん)の大納言(だいなごん)師賢(もろかた)御乳母(めのと)にて、事(こと)の外(ほか)にかしづか
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れ給(たま)ひしも、此(こ)の頃(ごろ)は、引(ひ)き忍(しの)びて御座(おは)します。母君も世(よ)の憂(う)さに堪(た)えず、様(さま)かへて、心(こころ)深(ふか)く打(う)ち行(おこな)ひつつ、涙ばかりを友(とも)にて、明(あ)かし暮(く)らすに、おば北(きた)の方(かた)さへ失(う)せたるを聞(き)きて、時々言(い)ひかはしけるなま女房のもとより、程(ほど)経(へ)て後(のち)なりければ、
うきに又重(かさ)ぬる夢を聞(き)きながら驚(おどろ)かさでも歎(なげ)き来(こ)しかな W
返(かへ)し、宣旨(せんじ)の三位殿、
うきに又(また)重(かさ)なる夢を聞(き)きながら驚(おどろ)かさではなど歎(なげ)きけん W
此(こ)の兄(せうと)の為定の中納言も、前(さき)の御世(よ)には、覚(おぼ)え花(はな)やかにて、いと時(とき)なりしに引(ひ)き返(かへ)、しめやかに徒然(つれづれ)と籠(こも)り居(ゐ)たれば、祖父(おほぢ)の大納言(だいなごん)為世(ためよ)、度々(たびたび)院(ゐん)の御気色(けしき)賜(たま)はられけれど、いとふようなれば、心(こころ)許(もと)無(な)う思(おも)ひわびて、春宮の大夫通顕の君して、重(かさ)ねて奏(そう)しける。
和歌(わか)の浦(うら)に八十(やそぢ)余(あま)りの夜の鶴(つる)の子(こ)を思(おも)ふ声(こゑ)のなどか聞(き)こえぬ W
大夫は、うけばりたる伝奏(でんそう)などにてはいませざりけれど、此(こ)の大納言(だいなごん)、歌の弟子にて、去(さ)り難(がた)き上(うへ)、事(こと)の様(さま)も故(ゆゑ)有(あ)る業(わざ)なれば、直衣(なほし)の懐(ふところ)に引(ひ)き入(い)れて参(まゐ)り給(たま)へりけるに、院(ゐん)の上(うへ)のどやかに出(い)で居(ゐ)させ給(たま)ひて、世(よ)の御物語(おんものがたり)など仰(おほ)せらる。折(をり)よくて、思(おも)ひ歎(なげ)く様(さま)など、懇(ねんご)ろに語(かた)り申(まう)して、有(あ)りつる文引(ひ)き出(い)でつつ、御気色(けしき)とり給(たま)ふ。大方(おほかた)、いとなごやか
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に御座(おは)します君の、まいて何(なに)ばかり罪(つみ)ある人ならねば、勘(かう)じ思(おぼ)すまでは無(な)けれど、いささかも武家よりとり申(まう)さぬ事(こと)を、御心(おんこころ)に任(まか)せ給(たま)はぬにより、かくとどこほるなるべし。「いと不便(ふびん)にこそ」と宣(のたま)はせて、やがて御返(かへ)し、
雲の上(うへ)に聞(き)こえざらめや和歌(わか)の浦に老(お)いぬる鶴の子を思(おも)ふ声(こゑ) W
今年(ことし)は祭(まつり)の御幸有(あ)るべければ、珍(めづら)しさに、人々(ひとびと)常(つね)よりも物見(み)車心(こころ)遣(づか)ひして、予(かね)てより桟敷(さじき)などもいみじう造(つく)れり。使共(ども)も、如何(いか)で人に勝(まさ)らむと、形見(かたみ)にいどみかはすべし。本院・新院・広義門院(くわうぎもんゐん)・一品(いつぽん)の宮(みや)も忍びて入(い)らせ給(たま)ふなどぞ聞(き)こえし。御車寄(よ)せには、菊亭(きくてい)の右(みぎ)の大臣(おとど)の御子実尹(さねまさ)の中納言参(まゐ)り給(たま)へり。殿上人も、良(よ)き家の君達(きんだち)共(ども)、色許(ゆ)りたる限(かぎ)り、いと清(きよ)らに好(この)ましう出(い)で立(た)ち仕(つかうまつ)れり。御随身(みずいじん)なども、花(はな)を折(を)れる様(さま)也(なり)。出(い)だし車に、色々(いろいろ)の藤・躑躅(つつじ)・卯(う)の花(はな)・なでしこ・かきつばたなど、様々(さまざま)の袖口(そでくち)こぼれ出(い)でたる、いと艶(えん)に艶(なま)めかし。祭(まつり)など過(す)ぎて、世(よ)の中(なか)のどやかになりぬる程(ほど)に、先帝(せんてい)の御供(とも)なりし上達部(かんだちめ)共(ども)、罪(つみ)重(おも)き限(かぎ)り、遠き国に遣(つか)はしけり。洞院(とうゐん)の按察(あぜち)の大納言(だいなごん)公敏(きんとし)、頭(かしら)下(お)ろして忍(しの)び過(す)ぐされつるも、猶(なほ)許(ゆ)り難(がた)きにや、小山の判官(はうぐわん)秀朝(ひでとも)とかや言(い)ふ物(もの)具(ぐ)して、下野国へと聞(き)こゆ。花山院(くわさんゐん)の大納言(だいなごん)師賢は、千葉介貞胤(さだたね)後(うし)ろみにて、下総(しもつふさ)へ下(くだ)る。五月十日余(あま)りに都(みやこ)出(い)でられけり。思(おも)ひ掛(か)けざりし有様(ありさま)共(ども)、いみじとも更(さら)也(なり)。
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別(わか)るとも何(なに)か歎(なげ)かん君住(す)までうき故郷(ふるさと)となれる都(みやこ)を W
北(きた)の方(かた)は花山院(くわさんゐん)の入道右(みぎ)の大臣(おとど)家定の御娘(むすめ)なり。其(そ)の御腹(はら)にも、又異腹(ことはら)にも、君達(きんだち)数多(あまた)あれど、それまでは流(なが)されず。上(うへ)のいみじう思(おも)ひ歎(なげ)き給(たま)へる様(さま)、哀(あは)れに悲(かな)しけれど、今(いま)は限(かぎ)りの対面(たいめん)だに許(ゆる)されねば、はるくるかた無(な)く口惜(くちを)し。万(よろづ)に思(おも)ひめぐらされて、いと人悪(わろ)し。
今(いま)はとて命を限(かぎ)る別(わか)れ路(ぢ)は後(のち)の世(よ)ならでいつを頼(たの)まん W
源中納言具行も同(おな)じ頃(ころ)東(あづま)へ率(ゐ)て行(ゆ)く。数多(あまた)の中(なか)に取(と)りわきて重(おも)かるべく聞(き)こゆるは、様(さま)異(こと)なる罪(つみ)に当(あ)たるべきにや有(あ)らん。内に候(さぶら)ひし勾当(こうたう)の内侍(ないし)は、経朝(つねとも)の三位(さんみ)の娘(むすめ)也(なり)き。早(はや)うは、御門(みかど)睦(むつ)ましく御座(おは)しまして、姫宮(ひめみや)などとうで奉(たてまつ)りしを、其(そ)の後(のち)、此(こ)の中納言未(いま)だ下臈(げらふ)なりし時(とき)より許(ゆる)し賜(たま)はせて、此(こ)の年頃(としごろ)、二(ふた)つ無(な)き物(もの)に思(おも)ひかはして過(す)ぐしつるに、かく様々(さまざま)に付(つ)けてあさましき世(よ)を、なべてにやは。日に添(そ)へて歎(なげ)き沈(しづ)みながらも、同(おな)じ都(みやこ)に有(あ)りと聞(き)く程(ほど)は、吹(ふ)き交(か)ふ風の便(たよ)りにも、さすが言(こと)問(と)ふ慰(なぐさ)めも有(あ)りつるを、遂(つひ)に然(さ)るべき事(こと)とは、人の上(うへ)を見(み)聞(き)くに付(つ)けても、思(おも)ひ設(まう)けながら、猶(なほ)今(いま)はと聞(き)く心地(ここち)、例(たと)へん方(かた)無(な)し。此(こ)の春、君の都(みやこ)別(わか)れ給(たま)ひしに、そこら尽(つ)きぬと思(おも)ひし涙も、げに残(のこ)り有(あ)りけりと、今一入(ひとしほ)身も流(なが)れ出(い)でぬべく覚(おぼ)ゆ。中納言は、「もの
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にもがなや」と悔(くや)しうはしたなき事(こと)のみぞ、そこには、千々(ちぢ)に砕(くだ)くめれど、めめしう人に見(み)えじと忍(しの)び返(かへ)しつつ、つれなく作(つく)りて、思(おも)ひ入(い)りぬる様(さま)也(なり)。去年(こぞ)の冬の頃(ころ)、数多(あまた)聞(き)こえし歌の中(なか)に、
ながらへて身は徒(いたづ)らに初霜(はつしも)の置(お)くかた知(し)らぬ世(よ)にもふるかな W
今(いま)ははや如何(いか)になりぬる憂(う)き身ぞと同(おな)じ世(よ)にだに問(と)ふ人も無(な)し W
佐々木の佐渡の判官入道伴(ともな)ひてぞ下(くだ)りける。逢坂(あふさか)の関にて、
帰(かへ)るべき時(とき)し無(な)ければ是(これ)や此(こ)の行(ゆ)くを限(かぎ)りの逢坂(あふさか)の関(せき) W
柏原(かしはばら)と言(い)ふ所にしばし休(やす)らひて、預(あづ)かりの入道、先(ま)づ東(あづま)へ人を遣(つか)はしたる返事(かへりごと)待(ま)つなるべし。其(そ)の程(ほど)、物語(ものがたり)など情(なさ)け情(なさ)けしう打(う)ち言(い)ひかはして、「何事(なにごと)も然(しか)るべき前(さき)の世(よ)の報(むく)ひに侍(はべ)るべし。御身一(ひと)つにしも有(あ)らぬ身なれば、まして甲斐(かひ)無(な)き業(わざ)にこそ。かく猛(たけ)き家(いへ)に生(う)まれて、弓矢(ゆみや)取(と)る業(わざ)にかかづらひ侍(はべ)るのみ、うきものに侍(はべ)りけれ」など、まほならねどほのめかすに、心得(え)果(は)てられぬ。隠岐(おき)の御送(おく)りをも仕(つかまつ)りし者(もの)なれば、御道(みち)すがらの事(こと)など語(かた)り出(い)でて、「忝(かたじけな)ういみじうも侍(はべ)りしかな。まして、朝夕(あさゆふ)近(ちか)う仕(つかうまつ)り馴(な)れ給(たま)ひけん御心(おんこころ)共(ども)、さながらなん推(お)し量(はか)り聞(き)こえさせ侍(はべ)りき。何事(なにごと)も昔(むかし)に及(およ)び、めでたう御座(おは)しましし御事(こと)にて、世下(くだ)り時衰(おとろ)へぬる末には、余(あま)りたる御有様(おんありさま)にや、かくも御座(おは)しますらんとさへ、せめては思(おも)ひ
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給(たま)へよらるる」など、大方(おほかた)の世(よ)に付(つ)けても、げにと覚(おぼ)ゆる節々(ふしぶし)加(くは)へて、のどやかに言(い)ひをるけはひ、おのが程(ほど)には過(す)ぎにたる、御酒(みき)など、所に付(つ)けてことそぎあらあらしけれど、然(さ)る方(かた)にしなして、良(よ)き程(ほど)にて、下(くだ)しつ。東(あづま)よりの使(つか)ひ、帰(かへ)り来(き)たる気色(けしき)、しるけれど、ことさらに言(い)ひ出(づ)る事(こと)も無(な)し。如何(いか)ならむと胸(むね)打(う)ちつぶれて覚(おぼ)ゆるも、かつはいと心(こころ)弱(よわ)しかし。何処(いづく)の島守(しまもり)となれらんもあぢきなく、誰(たれ)も千年(ちとせ)の松(まつ)ならぬ世(よ)に、中々心(こころ)づくしこそ勝(まさ)らめ。遂(つひ)に逃(のが)るまじき道は、とてもかくても同(おな)じ事(こと)、其(そ)の際(きは)の心(こころ)乱(みだ)れ無(な)くだに有(あ)らば、すずしき方(かた)にも赴(おもむ)きなんと思(おも)ふ心(こころ)は心(こころ)として、都(みやこ)の方(かた)も恋(こひ)しう哀(あは)れに、さすがなる事(こと)ぞ多(おほ)かりける。万(よろづ)に付(つ)けて、事(こと)の気色(けしき)を見(み)るに、行(ゆ)く末(すゑ)遠(とほ)くは有(あ)るまじかめりと悟(さと)りぬ。預(あづ)かりがほのめかししも、情(なさ)け有(あ)りて思(おも)ひ知(し)らすれば、同(おな)じうはと思(おも)ひて、又(また)の日「頭(かしら)下(お)ろさんとなん思(おも)ふ」と言(い)へば、「いと哀(あは)れなる事(こと)にこそ。東(あづま)の聞(き)こえや如何(いかが)と思(おも)ひ給(たま)ふれど、なんでふ事(こと)かは」とて、許(ゆる)しつ。かく言(い)ふは、六月(みなづき)の十九日也(なり)。彼(か)の事(こと)は今日(けふ)なめりと、気色(けしき)見(み)知(し)りぬ。思(おも)ひ設(まう)けながら〔も〕、猶(なほ)例(ためし)無(な)かりける報(むく)ひの程(ほど)、如何(いかが)浅(あさ)くは覚(おぼ)えん。
消(き)えかかる露の命の果(は)ては見つさても東(あづま)の末(すゑ)ぞゆかしき W
猶(なほ)〔も〕、思(おも)ふ心(こころ)の有(あ)るなめりと、憎(にく)き口(くち)つきなりかし。其(そ)の日の暮(く)れつ方(かた)、遂(つひ)にそこにて失(うしな)はれにけり。今(いま)はの際(きは)のさこそ心(こころ)の中(うち)は有(あ)りけめど、いたく人悪(わろ)うも無(な)く、有(あ)るべき事(こと)と思(おも)へる様(さま)
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になん見(み)えける。内侍(ないし)の待(ま)ち聞(き)く心地(ここち)、如何(いか)ばかりかは有(あ)りけん。やがて様(さま)かへて、近江(あふみ)の国高島(たかしま)と言(い)ふ渡(わた)りに、昔(むかし)の縁(ゆかり)の人々(ひとびと)尊(たふと)く行(おこな)ひて住(す)む寺にぞ、立(た)ち入(い)りぬる。万里小路(までのこうじ)の中納言藤房は、常陸(ひたち)の国に遣(つか)はさる。父の大納言(だいなごん)、母(はは)〔の〕おもとなど、老(お)いの末に引(ひ)き別(わか)るる心地(ここち)共(ども)、言(い)へば更(さら)也(なり)。身にかへても止(とど)めまほしう思(おも)へど甲斐(かひ)無(な)し。弟(おとうと)の季房(すゑふさ)の宰相も、頭(かしら)下(お)ろしたりしかど、猶(なほ)下野(しもつけ)の国へ流(なが)さる。平(へい)宰相(ざいしやう)成輔(なりすけ)は東(あづま)へと聞(き)こえしかど、それも駿河(するが)の国とかやにてぞ失(うしな)はれける。又元亨の乱(みだ)れの初(はじ)めに流(なが)されし資朝(すけとも)の中納言をも、未(いま)だ佐渡の島に沈(しづ)みつるを、此(こ)の程(ほど)のついでに、彼処(かしこ)にて失(うしな)ふべき由(よし)、預(あづ)かりの武士(ぶし)に仰(おほ)せければ、此(こ)の由(よし)を知(し)らせけるに、思(おも)ひ設(まう)けたる由(よし)言(い)ひて、都(みやこ)に止(とど)めける子のもとに、哀(あは)れなる文書(か)きて、預(あづ)けけり。既(すで)に斬(き)られける時(とき)の頌(じゆ)とぞ聞(き)き侍(はべ)りし。
四大本(もと)主(しゆ)無(な)く五蘊本来空なり頭(かしら)をもつて白刃(はくじん)に傾(かたぶ)くれば但夏風(なつかぜ)を鑚(き)るが如(ごと)し W
いと哀(あは)れにぞ侍(はべ)りける。俊基(としもと)も同(おな)じやうにぞ聞(き)こえし。かくのみ、皆(みな)様々(さまざま)に罪(つみ)にあたり、遠(とほ)き世界(せかい)に放(はな)ち捨(す)てらるる、各(おのおの)思(おも)ひ歎(なげ)き共(ども)、筆(ふで)も及(およ)び難(がた)し。大塔(だいたふ)の尊雲(そんうん)法親王ばかりは、虎(とら)の口(くち)を逃(のが)れたる御様(さま)にて、此処(ここ)彼処(かしこ)さすらへ御座(おは)しますも、安(やす)き空無(な)く、如何(いか)で過(す)ぐし果(は)つべき御身ならんと、心(こころ)苦(ぐる)しく見(み)えたり。隠岐(おき)の小島(こじま)には、月日(つきひ)ふる儘(まま)に、いと忍(しの)び難(がた)う思(おぼ)さるる事(こと)のみぞ数そひける。如何(いか)ばかりの怠(おこた)りにて、斯(か)かる憂目(うきめ)を見(み)るらん
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と、前(さき)の世(よ)のみつらく思(おぼ)し知(し)らるるにも、如何(いか)で其(そ)の罪(つみ)をも報(むく)ひてんと思(おぼ)して、打(う)ちたへ御精進(いもひ)にて、朝夕(あさゆふ)勤(つと)め行(おこな)はせ給(たま)ふ。法(ほふ)の験(しるし)をも試(こころ)みがてらと、かつは思(おぼ)すなるべし。自(みづか)ら護摩(ごま)などもたかせ給(たま)ふに、いと頼(たの)もしき事(こと)、夢(ゆめ)にもうつつにも多(おほ)くなん有(あ)りける。徒然(つれづれ)に思(おぼ)さるる折々(をりをり)は、廊(らう)めく所に立(た)ち出(い)でさせ給(たま)ひて、遙(はる)かに浦(うら)の方(かた)を御覧(ごらん)じ遣(や)るに、海士(あま)の釣舟(つりぶね)ほのかに見(み)えて、秋の木の葉(は)の浮(う)かべる心地するも、哀(あは)れに、「何処(いづく)をさしてか」と思(おぼ)さる。
志(こころざ)す方(かた)を問(と)はばや浪(なみ)の上(うへ)に浮(う)きてただよふ海士(あま)の釣舟(つりぶね) W
「浦漕(こ)ぐ船のかぢを絶(た)え」と打(う)ち誦(じゆ)して、御涙〔の〕こぼるるを、何(なに)と無(な)くまぎらはし給(たま)へる、言(い)ふ由(よし)無(な)く心(こころ)深(ふか)げ也(なり)。ねび給(たま)ひにたれど、艶(なま)めかしうをかしき御様(さま)なれば、所に付(つ)けては、まして止(や)む事(ごと)無(な)きあたらしさを、自(みづか)らいと忝(かたじけな)しと思(おぼ)さる。京には、十月になりて、御禊(けい)・大嘗会(だいじやうゑ)などの急(いそ)ぎに、天(あめ)の下(した)物(もの)騒(さわ)がしう、内蔵寮(くらづかさ)・内匠寮(たくみづかさ)・打(うち)殿(どの)・染(そめ)殿(どの)、何(なに)くれの道々(みちみち)に付(つ)けて、かしがましう響(ひび)き合(あ)ひたるも、片(かた)つ方(かた)は涙の催(もよほ)し也(なり)。悠紀(ゆうき)・主基(しゆき)の御屏風の歌、人々(ひとびと)に召(め)さる。書(か)くべき者(もの)の無(な)ければ、彼処(かしこ)へ参(まゐ)れる行房中将(ちゆうじやう)をや召(め)し返(かへ)されましなど、定(さだ)め兼(か)ね給(たま)ふを、まだきに伝(つた)へ聞(き)こし召(め)しければ、宵(よひ)の間(ま)の静(しづ)かなるに、御前(まへ)に殊(こと)に人も無(な)く、此(こ)の朝臣ばかり候(さぶら)ひて、昔今(むかしいま)の御物語(おんものがたり)宣(のたま)ふついでに、「都(みやこ)に言(い)ふなる事(こと)は、如何(いかが)有(あ)らんとすらん。さも有(あ)らば、いとこそ羨(うらや)ましからめ」と、打(う)ち仰(おほ)せられて、火を
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つくづくと眺(なが)めさせ給(たま)へる御まみの、忍(しの)ぶとすれど、いたう時雨(しぐ)れさせ給(たま)へるを見(み)奉(たてまつ)るに、中将(ちゆうじやう)も心(こころ)強(づよ)からず、いと悲(かな)し。「如何(いか)ばかりの道(みち)ならば、斯(か)かる御有様(おんありさま)を見(み)おき聞(き)こえながら、憂(う)き故郷(ふるさと)には如何(いか)で帰(かへ)らん」と思(おも)ふも、え聞(き)こえ遣(や)らず。後夜の御行(おこな)ひに、さながら御座(おは)しませば、潮風(しほかぜ)いと高(たか)う吹(ふ)き来(く)るに、霰(あられ)の音(おと)さへ堪(た)え難(がた)く聞(き)こえて、いみじう寒(さむ)き夜(よ)〔の〕、氷を打(う)ちたたきて、閼伽(あか)奉(たてまつ)るも、山寺の小法師(こほふし)原(ばら)などの心地(ここち)ぞするや。少将(せうしやう)、此(こ)の中将(ちゆうじやう)など、しきみ折(を)りて参(まゐ)れるも、いつ習(なら)ひてかと、哀(あは)れに御覧(ごらん)ぜらる。「今(いま)一度(ひとたび)、如何(いか)で世(よ)を御心(おんこころ)に任(まか)する業(わざ)もがな」と、人の心(こころ)のけぢめ別(わか)るるに付(つ)けても、深(ふか)う思(おぼ)し勝(まさ)る事(こと)のみ数知(し)らず。都(みやこ)には、十月二十五日御禊(けい)の行幸(ぎやうがう)有(あ)り。女御代には大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)冬信(ふゆのぶ)の娘(むすめ)出(い)ださると聞(き)こゆ。十一月十一日より五節(ごせち)始(はじ)まる。前(さき)の御代には、談天門院(だつてんもんゐん)の御忌月にて、止(と)まりにしかば、さうざうしかりしに、珍(めづら)しくて、若(わか)き上人(うへびと)共(ども)など、心(こころ)殊(こと)に思(おも)へり。隠岐(おき)の御門(みかど)の御乳母(めのと)なりし吉田の一品(いつぽん)宣房(のぶふさ)も、当代(たうだい)に仕(つか)へて、五節(ごせち)など奉(たてまつ)る心(こころ)の中(うち)ぞ哀(あは)れに推(お)し量(はか)らるる。宣房(のぶふさ)の大納言(だいなごん)も、然(さ)るべき雑務(ざふむ)の事(こと)などには、出(い)で仕(つか)へけり。春宮の大夫は内大臣になりて、大嘗会(だいじやうゑ)の時(とき)も、高御座(たかみくら)の行幸(ぎやうがう)に、前行とかや何とかや言(い)ふ事(こと)など勤(つと)め給(たま)ふ。右(みぎ)の大臣(おとど)兼季も太政大臣になりて、清暑堂(せいしよだう)の神楽に、琵琶(びは)仕(つかうまつ)りなど聞(き)こえて、万(よろづ)めでたく有(あ)らまほしくて、年(とし)も暮(く)れぬ。誠(まこと)
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や、此(こ)の卯月(うづき)の頃より、年(とし)の名変(か)はり〔に〕しぞかし。正慶とぞ言(い)ふなる。大塔(だいたふ)の法親王・楠(くす)の木の正成(まさしげ)などは、猶(なほ)同(おな)じ心(こころ)に、世(よ)を傾(かたぶ)けん謀(はかりこと)をのみめぐらすべし。正成(まさしげ)は、金剛山(こんがうさん)千早(ちはや)と言(い)ふ所に、いかめしき城(じやう)をこしらへて、えも言(い)はず猛(たけ)き物(もの)共(ども)多(おほ)く籠(こも)りにたり。さて大塔(だいたふ)の宮(みや)の令旨(りやうじ)とて、国々の兵(つはもの)を語(かた)らひければ、世(よ)に恨(うら)みある物(もの)など、此処(ここ)彼処(かしこ)に隠(かく)ろへばみてをる限(かぎ)りは、集(あつ)まり集(つど)ひけり。宮は熊野(くまの)にも御座(おは)しましけるが、大峰を伝(つた)ひて、吉野にも高野にも御座(おは)しまし通(かよ)ひつつ、さりぬべき隈々(くまぐま)にはよく紛(まぎ)れ物(もの)し給(たま)ひて、猛(たけ)き御有様(おんありさま)をのみ現(あらは)し給(たま)へば、いと賢(かしこ)き大将軍にておはすべしとて、付(つ)き従(したが)ひ聞(き)こゆる物(もの)、いと多(おほ)く成(な)り行(ゆ)きければ、六波羅(ろくはら)にも東(あづま)にも、いと安(やす)からぬ事(こと)と、持(も)て騒(さわ)ぎて、猶(なほ)彼(か)の千早(ちはや)を攻(せ)めくづすべしと言(い)へば、兵(つはもの)など上(のぼ)り重(かさ)なると聞(き)こゆ。正成(まさしげ)は、聖徳太子の御堂(みだう)の前(まへ)を軍(いくさ)の園(その)にして、出(い)であひ駆(か)けひき、寄(よ)せつ返(かへ)しつ、潮(しほ)の満(み)ち引(ひ)く如(ごと)くにて、年(とし)は只(ただ)暮(く)れに暮(く)れ果(は)てぬれば、春になりて、事(こと)共(ども)有(あ)るべしなど言(い)ひしろふも、いとむつかしう、心(こころ)ゆるび無(な)き世(よ)の有様(ありさま)なり。さても日野の大納言(だいなごん)俊光(としみつ)と言(い)ひしは、文保の頃、はじめて大納言(だいなごん)になりにしを、いみじき事(こと)に時(とき)の人言(い)ひ騒(さわ)ぐめりしに、其(そ)の子、此(こ)の頃(ごろ)、院(ゐん)の執権(しつけん)にて資名と言(い)ふ。又大納言(だいなごん)になりぬ。めでたく度(たび)をさへ重(かさ)ねぬる、いといみじかめり。前(さき)の御代にも、定房一品(いつぽん)して、宣房(のぶふさ)大納言(だいなごん)になされなどせしをば、かうざまにぞ人思(おも)ひ言(い)ふめりし。内には女御
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も未(いま)だ候(さぶら)ひ給(たま)はぬに、西園寺(さいをんじ)の故(こ)内大臣殿の姫君(ひめぎみ)、広義門院の御傍(かたは)らに、今(いま)御方(おんかた)とかや聞(き)こえて、かしづかれ給(たま)ふを、参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り給(たま)へれば、是(これ)や后がねと、世(よ)の人(ひと)もまだきにめでたく思(おも)へれど、如何(いか)なるにか、御覚(おぼ)えいとあざやかならぬぞ口惜(くちを)しき。三条の前(さき)の大納言(だいなごん)公秀の娘(むすめ)、三条とて候(さぶら)はるる御腹(おんはら)にぞ、宮々数多(あまた)出(い)で物(もの)し給(たま)ひぬる、遂(つひ)の儲(まう)けの君にてこそ御座(おは)しますめれ。



第十七 月草の花

彼(か)の島(しま)には、春来(き)ても、猶(なほ)浦風(うらかぜ)さえて波あらく、渚(なぎさ)の氷(こほり)も解(と)け難(がた)き世(よ)の気色(けしき)に、いとど思(おぼ)し結(むす)ぼるる事尽(つ)きせず。かすかに心(こころ)細(ぼそ)き御住居(すまひ)に、年(とし)さへ隔(へだ)たりぬるよと、あさましく思(おぼ)さる。候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も、しばしこそあれ、いみじく屈(くつ)しわたる。今年(ことし)は正慶二年(にねん)と言(い)ふ。閏(うるふ)二月有(あ)り。後の二月(きさらぎ)の初(はじ)めつ方(かた)より、取(と)りわきて密教の秘法(ひほふ)を試(こころ)みさせ給(たま)へば、夜も大殿(おほとの)ごもらぬ日数(ひかず)へて、さすがに、いたう困(こう)じ給(たま)ひにけり。心(こころ)ならず微睡(まどろ)ませ給(たま)へる暁(あかつき)がた、夢(ゆめ)うつつともわかぬ程(ほど)に、後宇多院、有(あ)りしながらの御面影(おもかげ)さやかに見(み)え給(たま)ひて、聞(き)こえ知(し)らせ給ふ事多(おほ)かりけり。打(う)ち驚(おどろ)きて、夢(ゆめ)なりけりと、思(おぼ)す程(ほど)、言(い)はん方(かた)無(な)く名残(なごり)悲(かな)し。御涙もせき敢(あ)へず、「さめざらましを」と思(おぼ)すも甲斐(かひ)無(な)し。源氏(げんじ)の大将、須磨(すま)の浦にて、父(ちち)御門見(み)奉(たてまつ)りけん
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夢の心地(ここち)し給(たま)ふも、いと哀(あは)れに頼(たの)もしう、いよいよ御心(おんこころ)強(づよ)さ勝(まさ)りて、彼(か)の新発意(しぼち)が御迎(むか)へのやうなる釣舟(つりぶね)も、便(たよ)り出(い)で来(き)なんやと、待(ま)たるる心地(ここち)し給(たま)ふに、大塔(だいたふ)の宮(みや)よりも、海人(あまびと)の便(たよ)りに付(つ)けて、聞(き)こえ給ふ事絶(た)えず。都(みやこ)にも猶(なほ)世(よ)の中(なか)静(しづ)まり兼(か)ねたる様(さま)に聞(き)こゆれば、万(よろづ)に思(おぼ)し慰(なぐさ)めて、関守(せきもり)の打(う)ち寝(ね)る隙(ひま)をのみ窺(うかが)い給(たま)ふに、然(しか)るべき時(とき)の至(いた)れるにや、御垣守(みかきもり)に候(さぶら)ふ兵(つはもの)共(ども)も、御気色をほの心得(え)て、靡(なび)き仕(つかうまつ)らんと思(おも)ふ心つきにければ、然(さ)るべき限(かぎ)り語(かた)らひ合(あ)はせて、同(おな)じ月の二十四日の曙(あけぼの)に、いみじくたばかりて、隠(かく)ろへ率(ゐ)て奉(たてまつ)る。いと怪(あや)しげなる海士(あま)の釣舟(つりぶね)の様(さま)に見せて、夜深(ぶか)き空の暗(くら)き紛(まぎ)れに押(お)し出(い)だす。折(をり)しも、霧(きり)いみじう降(ふ)りて、行(ゆ)く先(さき)も見(み)えず。いかさまならんと危(あや)ふけれど、御心(おんこころ)を静(しづ)めて念じ給(たま)ふに、思(おも)ふ方(かた)の風さへ吹(ふ)きすすみて、其(そ)の日(ひ)の申(さる)の時(とき)に、出雲国に着(つ)かせ給(たま)ひぬ。此処(ここ)にてぞ、人々(ひとびと)心地(ここち)鎮(しづ)めける。同(おな)じ二十五日、伯耆(ははき)の国稲津(いなづ)の浦と言(い)ふ所へ移(うつ)らせ給(たま)へり。此(こ)の国に、名和(なわ)の又太郎長年(ながとし)と言(い)ひて、怪(あや)しき民なれど、いと猛(まう)に富(と)めるが、類(るい)広(ひろ)く、心(こころ)もさかさかしく、むねむねしき物(もの)有(あ)り。彼(かれ)がもとへ宣旨(せんじ)を遣(つか)はしたるに、いと忝(かたじけな)しと思(おも)ひて、取(と)り敢(あ)へず、五百余騎(よき)の勢(いきほ)ひにて、御迎(むか)へに参(まゐ)れり。又(また)の日、賀茂(かも)の社(やしろ)と言(い)ふ所に立(た)ち入(い)らせ給(たま)ふ。都(みやこ)の御社(やしろ)思(おぼ)し出(い)でられて、いと頼(たの)もし。それより船上寺(ふなのうへでら)と言(い)ふ所へ御座(おは)しまさせて、九重(ここのへ)の宮になずらふ。是(これ)よりぞ、国々の兵(つはもの)共(ども)に、御敵(かたき)
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を滅(ほろ)ぼすべき由(よし)の宣旨(せんじ)遣(つか)はしける。比叡(ひえ)の山(やま)へも上(のぼ)せられけり。かくて、隠岐(おき)には、出(い)でさせ給(たま)ひにし昼(ひる)つ方(かた)より騒(さわ)ぎ合(あ)ひて、隠岐(おき)の前(さき)の守(かみ)追(お)いて参(まゐ)る由(よし)聞(き)こゆれば、いとむくつけく思(おぼ)されつれど、此処(ここ)にも其(そ)の心(こころ)して、いみじう戦(たたか)ひければ、引(ひ)き返(かへ)しにけり。京にも東(あづま)にも、驚(おどろ)き騒(さわ)ぐ様(さま)思(おも)ひ遣(や)るべし。正成(まさしげ)が城(じやう)の囲(かこ)みに、そこらの武士(ぶし)共(ども)、彼処(かしこ)に集(つど)ひをるに、斯(か)かる事(こと)さへ添(そ)ひにたれば、いよいよ東(あづま)よりも上(のぼ)り集(つど)ふめり。三月にもなりぬ。十日余(あま)りの程(ほど)、俄(にはか)に世(よ)の中(なか)いみじう罵(ののし)る。何(なに)ぞと聞(き)けば、播磨(はりま)の国より、赤松の某(なにがし)入道円心(ゑんしん)とかや言(い)ふ物(もの)、先帝の勅に従(したが)ひて攻(せ)め来(く)るなりとて、都(みやこ)の中(うち)あわて惑(まど)ふ。例(れい)の六波羅(ろくはら)へ行幸(ぎやうがう)なる。両院も御幸とて、上下(かみしも)立(た)ち騒(さわ)ぎ、馬(うま)車(くるま)走(はし)り違(ちが)ひ、武士(ぶし)共(ども)の打(う)ち込(こ)み罵(ののし)りたる様(さま)、いと恐(おそ)ろし。然(さ)れど六波羅(ろくはら)の軍(いくさ)強(つよ)くて、其(そ)の夜は、彼(か)の物(もの)共(ども)引(ひ)き返(かへ)しぬとて、少(すこ)し静(しづ)まれるやうなれど、斯様(かやう)に言(い)ひ立(た)ちぬれば、猶(なほ)心(こころ)ゆるび無(な)きにや、其(そ)の儘(まま)〔に〕院(ゐん)も御門(みかど)も御座(おは)しませば、春宮も離(はな)れ給(たま)へる、よろしからぬ事(こと)とて、二十六日六波羅(ろくはら)へ行啓(ぎやうげい)なる。内の大臣(おとど)御車に参(まゐ)り給(たま)ふ。傅は久我(こが)の右(みぎ)の大臣(おとど)にいますれど、大方(おほかた)の儀式(ぎしき)ばかりにて、万(よろづ)、此(こ)の内大臣〔殿〕、後見(うしろみ)仕(つかまつ)り給(たま)へば、未(いま)だきびはなる御程(ほど)を後(うし)ろめたがりて、宿直(とのゐ)にもやがて候(さぶら)ひ給(たま)ふ。御修法(みしゆほふ)の為(ため)に、法親王達(たち)も候(さぶら)はせ給(たま)へり。此処(ここ)も彼処(かしこ)も軍(いくさ)とのみ聞(き)こえて、日数(ひかず)
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ふるに、院(ゐん)よりの仰(おほ)せとて、上達部(かんだちめ)・殿上人までも、程々(ほどほど)に従(したが)ひて兵(つはもの)をめせば、弓(ゆみ)ひく道もおぼおぼしき若侍(わかさぶらひ)などをさへぞ奉(たてまつ)りける。げに臂(ひぢ)も折(を)りぬべき世(よ)の中(なか)也(なり)。斯様(かやう)に言(い)ひしろふ程(ほど)に、三月(やよひ)も暮(く)れぬ。四月(うづき)の十日余(あま)り、又東(あづま)より武士(もののふ)多(おほ)く上(のぼ)る中(なか)に、一昨年(をととし)笠置(かさぎ)へも向(む)かいたりし治部(ぢぶ)の大輔源高氏(たかうぢ)上(のぼ)れり。院(ゐん)にも頼(たの)もしく聞(き)こし召(め)して、彼(か)の伯耆(ははき)の船の上へ向(む)かふべき由(よし)、院宣賜(たま)はせけり。東(あづま)を立(た)ちし時(とき)も、後(うし)ろめたく二心(ふたごころ)有(あ)るまじき由(よし)を、おろかならず誓言(ちかごと)の文書(ふみ)、置(お)きてけれども、底(そこ)の心(こころ)や如何(いかが)有(あ)らむ、とかく聞(き)こゆる筋(すぢ)も有(あ)りけり。此(こ)の高氏(たかうぢ)は、古(いにしへ)の頼義(らいぎ)の朝臣(あそん)の名残(なごり)なりければ、もとのねざしは止(や)む事(ごと)無(な)き武士(ぶし)なれど、承久より此(こ)の方(かた)、頭(かしら)差(さ)し出(い)だす源氏(げんじ)も無(な)くて、埋(うづ)もれ過(す)ぐしながら、類(るい)広(ひろ)く勢(いきほ)ひ四方(よも)に満(み)ちて、国々に心(こころ)寄(よ)せの物(もの)多(おほ)かれば、斯様(かやう)に国の危(あや)ふき折(をり)を得(え)て、思(おも)ひ立(た)つ道(みち)もや有(あ)らんなど、したにささめくもしるく、伯耆(ははき)の国へ向(む)かふべしと言(い)ひなして、先(ま)づ西山(にしやま)大原わたりに一(ひと)泊(とま)りして、五月七日、ほのぼのと明(あ)くる程(ほど)より、大宮(おほみや)の木戸(きど)共(ども)〔を〕押(お)し開(ひら)きて、二条よりしも、七条の大路を東(ひんがし)様(ざま)に、七手(て)に別(わか)れて、旗(はた)を差(さ)し続(つづ)けて、六波羅(ろくはら)をさして雲霞の如(ごと)くたなびき入(い)るに、更(さら)に面(おもて)〔を〕向(むか)ふる物(もの)無(な)し。此(こ)の治部(ぢぶ)の大輔、早(はや)うより先帝の勅(ちよく)を承(う)け給(たま)ひてければ、逆様(さかさま)に都(みやこ)を滅(ほろ)ぼさむとする也(なり)けり。時(とき)作(つく)るとかや言(い)ふ声は、雷(いかづち)の落(お)ち掛(か)かるやうに、地の底(そこ)も響(ひび)き、梵天(ぼんてん)の宮(みや)の中(なか)も聞(き)き驚(おどろ)き給(たま)ふらんと思(おも)ふばかり、
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とよみ合(あ)ひたる様(さま)、来(き)し方(かた)行(ゆ)く先(さき)くれて、物(もの)覚(おぼ)ゆる人も無(な)し。御門(みかど)・春宮・院(ゐん)の上(うへ)・宮達(たち)など、まして一人(ひとり)さかしきも御座(おは)しまさず。糸竹(いとたけ)の調(しら)べをのみ聞(き)こし召(め)しならいたる御心(おんこころ)共(ども)に、珍(めづら)かにうとましければ、只(ただ)あきれ給(たま)へり。武士(ぶし)共(ども)も、半(なか)ばを分(わ)けて、金剛山(こんがうさん)へ向(む)かひたれば、さならぬ残(のこ)り、都(みやこ)にある限(かぎ)りは戦(たたか)ひをなす。今(いま)を限(かぎ)りの軍(いくさ)なれば、手(て)を尽(つ)くして罵(ののし)る程(ほど)、学(まね)び遣(や)らんかた無(な)し。雨の脚(あし)よりも繁(しげ)く走(はし)り違(ちが)ふ矢にあたりて、目(め)の前(まへ)に死(し)を受(う)くる物(もの)数(かず)を知(し)らず。一日一夜いり揉(も)みとよみあかすに、両六波羅(ろくはら)、残(のこ)る手(て)無(な)く防(ふせ)きつれど、遂(つひ)に陣の内(うち)破(やぶ)れて、今(いま)はかくと見(み)えたり。日頃(ひごろ)候(さぶら)ひ籠(こも)り給(たま)へる上達部(かんだちめ)・殿上人なども、今日(けふ)と思(おも)ひ設(まう)けたらんだに、君の御座(おは)しまさん限(かぎ)りは、如何(いか)でかまかでも散(ち)らん。まして、予(かね)てよりかく構(かま)へけるをも知(し)ろし召(め)さで、昨日かとよ、当代(たうだい)の宣旨(せんじ)を賜(たま)はりし物(もの)の、〔かく〕うら返(がへ)りぬれば、誰(たれ)か思(おも)ひ寄(よ)らん。すべて上下(かみしも)と無(な)く一(ひと)つに立(た)ち込(こ)みて、あわて惑(まど)ひたり。日暮(ぐ)らし、八幡(やはた)・山崎(やまざき)・竹田・宇治(うぢ)・勢多(せた)・深草(ふかくさ)・法性寺など、燃(も)え上(あ)がる煙(けぶり)共(ども)、四方の空に満(み)ち満(み)ちて、日(ひ)の光(ひかり)も見(み)えず。墨(すみ)をすりたるやうにて暮(く)れぬ。此処(ここ)にも火掛(か)かりて、いとあさましければ、いみじう固(かた)めたりつる後(うし)ろの陣(ぢん)を辛(から)うじて破(やぶ)りて、それより免(まぬが)れ出(い)でさせ給ふ御心地(ここち)共(ども)、夢路(ゆめぢ)をたどるやうなり。内の上(うへ)も、いと怪(あや)しき御姿(すがた)にことさらやつし奉(たてまつ)る、いとまがまがし。両院、御手(て)を取(と)りかはすと言(い)ふ
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ばかりにて、人に助(たす)けられつつ出(い)でさせ給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)・大臣達(たち)〔は〕、袴(はかま)のそば取(と)りて、冠(かうぶり)などの落(お)ち行(ゆ)くも知(し)らず、空を歩(あゆ)む心地(ここち)して、或(ある)は川原を西(にし)へ東(ひんがし)へ、様々(さまざま)散(ち)り散(ぢ)りになり給(たま)ふ。両六波羅(ろくはら)仲時(なかとき)・時益(ときます)、東(ひんがし)をさして東(あづま)へと心(こころ)がけて落(お)ちければ、御幸も同(おな)じ様(さま)になる。西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公宗は、北山へ御座(おは)しにけり。右衛門督経顕(つねあき)・左兵衛督(さひやうゑのかみ)隆蔭(たかかげ)・資明(すけあきら)の宰相などは、御幸の御共に参(まゐ)る。按察(あぜち)の大納言(だいなごん)資名は、足(あし)を損(そこ)なひて、東山(ひんがしやま)わたりに止(と)まりぬなど言(い)ひしは、如何(いかが)有(あ)りけん。内大臣殿は、御子の別当通冬伴(ともな)ひ〔給(たま)ひ〕て、八日の曙(あけぼの)の未(いま)だ暗(くら)き程(ほど)に、我(わ)が御家の三条坊門(ばうもん)万里小路(までのこうじ)に御座(おは)しまし着(つ)きたるに、歩(あゆ)み入(い)り給(たま)ふ程(ほど)も心(こころ)許(もと)無(な)くて、北(きた)の方(かた)、門(かど)へ走(はし)り出(い)でて、平(たひ)らかに帰(かへ)り御座(おは)したると思(おも)ふ嬉(うれ)しさに、急(いそ)ぎて見(み)れば、大臣(おとど)は御直衣(なほし)に指貫(さしぬき)引(ひ)き上(あ)げ給(たま)へれば、しるく見(み)え給(たま)ふ。別当は、道(みち)の程(ほど)のわりなさに、折烏帽子(をりえぼし)に布直垂(ぬのひたたれ)と言(い)ふ物(もの)打(う)ち着(き)て、細(ほそ)やかに若(わか)き人の、御前(ぜん)共(ども)に紛(まぎ)れたるは、とみにも見(み)えず。火などもわざとなければ、暗(くら)き程(ほど)のあやめ別(わか)れぬに、早(はや)う如何(いか)にもなり給(たま)へるにやと、心地(ここち)惑(まど)ひて、「御方(かた)は如何(いか)に如何(いか)に」と、声(こゑ)もわななきて聞(き)こえける、いと理(ことわり)に、いみじう哀(あは)れ也(なり)。さて御幸は近江(あふみ)の国に御座(おは)します程(ほど)に、伊吹(いぶき)と言(い)ふ辺(ほとり)にて、某(なにがし)の宮(みや)とかや、法師(ほふし)にていましけるが、先帝の御心(おんこころ)寄(よ)せにて、斯様(かやう)の方(かた)もほの心得(え)侍(はべ)りけるにや、待(ま)ち受(う)けて矢を放(はな)ち給(たま)ふ。又京より〔も〕追手(おひて)掛(か)かるなど聞(き)こえければ、六波羅(ろくはら)の北と言(い)ひ
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し仲時(なかとき)、内・春宮・両院具(ぐ)し奉(たてまつ)り、番馬(ばんば)と言(い)ふ所の山(やま)の内(うち)に入(い)れ奉(たてまつ)りけり。手(て)の物(もの)共(ども)〔も〕、猶(なほ)残(のこ)りて従(したが)ひ付(つ)きけれども、戦(たたか)ひも適(かな)はずや有(あ)りけん、遂(つひ)に此(こ)の山(やま)にて腹(はら)切(き)りにけり。同(おな)じき南(みなみ)時益(ときます)と言(い)ひしは、是(これ)までも参(まゐ)らず、守山の辺にて失(う)せにけるとぞ聞(き)こえし。あや無(な)くいみじき事(こと)の様(さま)也(なり)。御所々(ところどころ)の御供(とも)には、俊実(としざね)の大納言(だいなごん)・経顕の中納言・頼定(よりさだ)の中納言・資名の大納言(だいなごん)・資明の宰相、〔隆蔭(たかかげ)〕などぞ残(のこ)り候(さぶら)ひける。俊実(としざね)・資名・頼定(よりさだ)などは、やがてそこにて髻(もとどり)切(き)りてけり。一院よりも、帰(かへ)り入(い)らせ給ふ。御門(みかど)に御文(ふみ)を奉(たてまつ)り給(たま)ひて、「面々(めんめん)に御出家有(あ)るべし」などまで申(まう)されけれども、思(おも)ひ寄(よ)らぬ由(よし)を、かたく申(まう)されけるとかや、とぞ聞(き)こえし。伯耆(ははき)の御所へは、人々(ひとびと)参(まゐ)り集(つど)ふ。上達部(かんだちめ)・殿上人数(かず)知(し)らず。然(さ)る程(ほど)に、東(あづま)にも予(かね)て心(こころ)しけるにや、尊氏の末(すゑ)の一族(ひとぞう)なる新田(につた)の小四郎義貞(よしさだ)と言(い)ふ物(もの)、今(いま)の尊氏の子四(よ)つになりけるを大将軍にして、武蔵国より軍(いくさ)を起(お)こしてけり。此(こ)の頃(ころ)の東(あづま)の将軍は、守邦(もりくに)の親王(しんわう)にて御座(おは)します。御後見(おんうしろみ)仕(つかうまつ)る高時(たかとき)入道・貞顕(さだあき)入道・城介(じやうすけ)入道円明・長崎(ながさき)入道円喜(ゑんき)など言(い)ふ物(もの)共(ども)、驚(おどろ)き騒(さわ)ぎて、高時(たかとき)の入道の弟(おとと)に四郎左近大夫泰家(やすいへ)と言(い)ひし、今(いま)は入道したるをぞ、大将に下(くだ)しける。五月十四日、鎌倉(かまくら)を立(た)ちて向(む)かふ。其(そ)の勢(せい)十万余騎(よき)、高時(たかとき)入道の一族(ひとぞう)、付(つ)き従(したが)ふ物(もの)そこら〔満(み)ち〕広(ひろ)ごりて、鎌倉(かまくら)始(はじ)まりし頼朝(よりとも)の世、時政(ときまさ)より今(いま)に至(いた)るまで、多(おほ)くの年月(としつき)をつめり。僅(わづ)かなる新田(につた)など言(い)ふ国人に、容易(たやす)く如何(いか)でかは滅(ほろ)ぼさるべきと覚(おぼ)えしに、程(ほど)無(な)く十五日(じふごにち)
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に、敵(かたき)既(すで)に鎌倉(かまくら)に近(ちか)づく由(よし)聞(き)こえて、家々(いへいへ)を毀(こぼ)ち騒(さわ)ぎ罵(ののし)る。世(よ)の既(すで)に滅(め)するにやと覚(おぼ)えしとぞ、人は語(かた)り侍(はべ)りし。四郎左近大夫入道、軍(いくさ)に打(う)ち負(ま)けけるにや、従(したが)ふ武士(ぶし)共(ども)、残(のこ)り無(な)く新田(につた)が方(かた)へ付(つ)きぬれば、えさらぬ物(もの)共(ども)ばかり五、六百騎(き)にて、十六日の夜に入(い)りて、鎌倉(かまくら)へ引(ひ)き返(かへ)り、僅(わづ)かに中(なか)一日にて、かくなりぬる事(こと)、夢(ゆめ)かとぞ覚(おぼ)えし。かくて日々に軍(いくさ)〔に〕打(う)ち負(ま)けければ、同(おな)じき二十二日、高時(たかとき)以下、腹(はら)切(き)りて失(う)せにけり。さて都(みやこ)には、伯耆(ははき)よりの還御とて、世(よ)の中(なか)ひしめく。先(ま)づ東寺へ入(い)らせ給(たま)ひて、事(こと)共(ども)定(さだ)めらる。二条の前(さき)の大臣(おとど)道平召(め)し有(あ)りて参(まゐ)り給(たま)へり。こたみ内裏へ入らせ給(たま)ふべき儀、重祚などにて有(あ)るべけれども、璽(しるし)の箱(はこ)を御身に添(そ)へられたれば、只(ただ)遠(とほ)き行幸(ぎやうがう)の還御の式(しき)にて有(あ)るべき由(よし)定(さだ)めらる。関白を置(お)かるまじければ、二条の大臣(おとど)、氏の長者(ちやうじや)を宣下(せんげ)せられて、都(みやこ)の事(こと)、管領(くわんれい)有(あ)るべき由(よし)、承(うけたまは)る。天(あめ)の下(した)只(ただ)此(こ)の御計(はか)らひなるべしとて、此(こ)の一(ひと)つ御あたり喜(よろこ)びあへり。六月六日、東寺より、常(つね)の行幸(ぎやうがう)の様(さま)にて、内裏へぞ入(い)らせ給(たま)ひける。めでたしとも、言(こと)の葉(は)〔も〕無(な)し。「去年の春いみじかりしはや」と思(おも)ひ出(い)づるも、たとしへ無(な)し。今(いま)も御供(とも)の武士共(ども)、有(あ)りしよりは、猶(なほ)、幾重(いくへ)とも無(な)く打(う)ち囲(かこ)み奉(たてまつ)れるは、いとむくつけき様(さま)なれど、こたみは、うとましくも見(み)えず。頼(たの)もしくめでたき御守(まも)りかなと覚(おぼ)ゆるも、うちつけ目(め)なるべし。世(よ)の習(なら)ひ、時(とき)に付(つ)けて移(うつ)る心(こころ)なれば、皆(みな)さぞ有(あ)るらし。先陣は二条富(とみ)の小路の内裏(だいり)に着(つ)かせ給(たま)ひぬれど、後陣の兵(つはもの)は、猶(なほ)、東寺の門まで続(つづ)き
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ひかへたるとぞ聞(き)こえしは、誠(まこと)にや有(あ)りけん。正成(まさしげ)も仕(つかうまつ)れり。彼(か)の那波の又太郎、伯耆(ははき)の守(かみ)になりて、それも衛府(ゑふ)の物(もの)共(ども)に打(う)ち混(ま)じりたる、珍(めづら)しく様(さま)変(か)はりて、ゆすりみちたる世(よ)の気色(けしき)、「かくも有(あ)りけるを、などあさましくは歎(なげ)かせ奉(たてまつ)りけるにか」と、めでたきに付(つ)けても、猶(なほ)前(さき)の世(よ)のみゆかし。車などたち続(つづ)きたる様(さま)、有(あ)りし御下(くだ)りにはこよなく勝(まさ)れり。物(もの)見(み)ける人の中(なか)に、
昔(むかし)だに沈(しづ)む恨(うら)みを隠岐(おき)の海(うみ)に波立(た)ち返(かへ)る今(いま)ぞ賢(かしこ)き W
昔(むかし)の事(こと)など思(おも)ひあはするにや有(あ)りけん。金剛山(こんがうさん)なりし東武士(あづまぶし)共(ども)も、さながら頭(かうべ)を垂(た)れて参(まゐ)り競(きほ)ふ様(さま)、漢(かん)の初(はじ)めもかくやと見(み)えたり。礼成門院も又中宮と聞(き)こえさす。六日の夜、やがて内裏へ入(い)らせ給(たま)ふ。いにし年(とし)御髪(みぐし)下(お)ろしにき。御悩(なや)み猶(なほ)怠(おこた)らねば、いつしか五壇(ごだん)の御修法(みしゆほふ)始(はじ)めらる。八日より議定行(おこな)はせ給(たま)ふ。昔(むかし)の人々(ひとびと)残(のこ)り無(な)く参(まゐ)り集(つど)ふ。十三日、大塔(だいたふ)の法親王、都(みやこ)に入(い)り給(たま)ふ。此(こ)の月頃(つきごろ)に、御髪(みぐし)おほして、えも言(い)はず清(きよ)らなる男(をとこ)になり給(たま)へり。唐(から)の赤地(あかぢ)の錦(にしき)の御鎧(よろひ)直垂(ひたたれ)と言(い)ふ物(もの)奉(たてまつ)りて、御馬(うま)にて渡(わた)り給(たま)へば、御供(とも)にゆゆしげなる武士(もののふ)共(ども)打(う)ち囲(かこ)みて、御門(みかど)の御供(とも)なりしにも、程々(ほとほと)劣(おと)るまじかめり。すみやかに将軍(しやうぐん)の宣旨(せんじ)を被(かうぶ)り給(たま)ひぬ。流(なが)されし人々(ひとびと)、程(ほど)無(な)く競(きほ)ひ上(のぼ)る様(さま)、枯(か)れにし草木の春にあへる心地(ここち)す。其(そ)の中(なか)に、季房(すゑふさ)の宰相(さいしやう)入道のみぞ、預(あづ)かりなりける物(もの)の、情(なさ)け無(な)き心ばへや有(あ)りけん、東(あづま)
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のひしめきの紛(まぎ)れに失(うしな)いてければ、兄(あに)の中納言藤房は返(かへ)り上(のぼ)れるに付(つ)けても、父の大納言(だいなごん)、母の尼上(あまうへ)など歎(なげ)き尽(つ)きせず、胸(むね)あかぬ心地(ここち)してけり。四条の中納言隆資(たかすけ)と言(い)ふも、頭(かしら)下(お)ろしたりし、又髪(かみ)おほしぬ。もとより塵(ちり)を出(い)づるには有(あ)らず、敵(かたき)の為(ため)に身を隠(かく)さんとて、仮初(かりそめ)に剃(そ)りしばかりなれば、今(いま)はた更(さら)に眉(まゆ)を開(ひら)く時(とき)になりて、男(をとこ)になれらん、何(なに)の憚(はばか)りか有(あ)らむとぞ、同(おな)じ心(こころ)なるどち言(い)ひ合(あ)はせける。天台座主にていませし法親王だにかく御座(おは)しませば、まいてとぞ。誰(たれ)にか有(あ)りけん、其(そ)の頃(ころ)聞(き)きし。
墨染(すみぞめ)の色をもかへつ月草(つきくさ)の移(うつ)れば変(か)はる花(はな)の衣(ころも)に W

増鏡 終