『源平闘諍録』読み下し 漢字仮名交じり版

源平闘諍録 八之下
P2380
 〈目 録〉
『源平闘諍録』巻第八下
一、義経、平家征伐の為(ため)に西国下向の事
二、一谷・生田(いくた)の森合戦の事
三、熊替(くまがへ)、大夫(たいふ)成盛(なりもり)を討つ事
四、備中守の船、清九郎兵衛踏み還(かへ)す事
五、後藤兵衛落つる事
六、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)、梶原(かぢはら)に生け取らるる事
七、越前三位(さんみ)通盛(みちもり)、討たるる事
八、小宰相(こざいしやうの)局(つぼね)、身を投げらるる事
九、卿相(けいしやう)の頸、獄門の木に懸けらるる事
十、〈 後 〉重衡(しげひら)、源空を請ひ、持戒せらるる事
十一、〈 前 〉重衡(しげひら)、内裏女房を呼び奉(たてまつ)る事
十二、重衡(しげひら)、関東(くわんとう)下向の事
十三、惟盛、熊野参詣の事 付けたり 那智の〓に身を投げらるる事
P2382
一、義経、平家征伐の為(ため)に西国下向の事
 寿永(じゆえい)二年十二月廿九日、九郎義経、平家征伐の為(ため)、西国に下向すべき由(よし)風聞(ふうぶん)有り。仍(よつ)て六条殿に義経を召され、仰せ下されて称(い)へらく、「神の代より相(あ)ひ伝へて三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)有り。神璽(しんじ)・宝剣・内侍所是(こ)れなり。彼(か)の神璽(しんじ)とは、崇神天皇(しゆじんてんわう)の御時、大和国志城(しき)の上の郡(こほり)にて造り鋳奉(たてまつ)りたまへり。是(こ)れ則(すなは)ち帝王の印(しるし)なり。又王法伝(わうぼふでん)の箱とも云(い)へり。汝義経、相(あ)ひ構へて彼(か)の神器(しんぎ)事之由(ことゆゑ)無(な)く都へ入れ奉(たてまつ)るべし」とぞ、仰せ下されける。
P2385
二、一谷・生田(いくた)の森合戦の事
 然(さ)る程に、平家は播磨国の室山、備中国の水嶋、二ケ度(にかど)の合戦に勝つことを得(え)しかば、山陽・南海十三ケ国の住人等、悉(ことごと)く靡(なび)き随ひて、其の勢既(すで)に十万余騎に及べり。
 元暦元年〈 甲辰(きのえたつ) 〉正月十日、摂津国一の谷に城郭を構へ、後陣は即(すなは)ち播磨国の明石・高砂・室山に至(いた)るまで、軍兵(ぐんびやう)多く充(み)ち満ちたり。
二月四日、福原にて故太政(だいじやう)入道(にふだう)の忌日(きにち)とて仏事(ぶつじ)を行はる。其の次(つい)でに、叙位(じよゐ)・除目(ぢもく)・僧司(そうし)なんど行はれける間、僧俗倶(とも)に官を成す。大外記(だいげき)中原の師直の子息(しそく)周防介(すはうのすけ)師澄、大外記(だいげき)に成る。兵部少輔(ひやうぶのせう)尹明(まさあきら)は五位の蔵人(くらんど)に成され、蔵人允(くらうどのじよう)とぞ申しける。「昔将門(まさかど)、東八ヶ国(とうはつかこく)を随へ、下総国(しもふさのくに)相馬郡(さうまのこほり)に都を立て、吾(わ)が身は平親王(へいしんわう)と号されて、百官(ひやくくわん)を成(な)したりけるが、暦の博士計(ばか)りこそ置かれざりけれ。其れには似るべからず。三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)し、君も此れに御坐(おはしま)せば、今は此れこそ都(みやこ)と為(し)、叙位(じよゐ)・除目(ぢもく)行はるる事、僻事(ひがこと)とも覚えず」とぞ申しける。
 然(さ)る程に、権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)惟盛は、月日(つきひ)の漸(やうや)く重なる間(ママ)に、都に留め置いたる人々の事をのみ恋しく思食(おぼしめ)す処に、商人(あきんど)の便りに、北の方の御文有り。少(をさな)き者共も斜(なの)めならず恋しがり奉(たてまつ)る上、我が身にも尽きせぬ歎き止み難き由(よし)、書き遣(や)りたまひたる間、惟盛太々(いとど)為方(せんかた)無(な)く、涙も更(さら)に堰(せ)き敢(あ)へざりけり。
P2387
 平家は、源氏の打手(うつて)迫(せ)め下る由(よし)一定(いちぢやう)と聞えしかば、摂津国と播磨との堺、一の谷と云ふ所に城郭を構へ、戦場を固め、岡には馬を〓(か)ひ、艟(いくさぶね)を浮かべてぞ相(あ)ひ待ちける。
 同じき二月七日、大手は摂津国より寄せ懸けけり。
 蒲の冠者(くわんじや)範頼(のりより)大将軍と為(し)て浜路(ハマぢ)に向かひけり。相(あ)ひ随ふ輩には、武田の太郎信義・加々見の次郎遠光・小笠原(をがさはら)の次郎長清・一条(いちでう)の次郎忠頼・板垣(いたがき)の三郎(さぶらう)兼信・武田の兵衛有義・伊沢(いさは)の五郎信光・梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)・嫡子(ちやくし)源太(げんだ)景季・同じく平次(へいじ)景高・武蔵国(むさしのくに)の住人畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)次郎重忠・舎弟(しやてい)中野(なかの)の三郎(さぶらう)重清(しげきよ)・従父(をぢ)稲毛(いなげ)の三郎(さぶらう)重成(しげなり)・同じく四郎重朝(しげとも)・同じく五郎行重(ゆきしげ)・山野(やまの)の小四郎(こしらう)義行・小野寺(をのでら)の太郎通綱・讃岐(さぬき)の四郎大夫(たいふ)弘綱(ひろつな)・村上(むらかみ)の次郎判官代(はんぐわんだい)幹国(もとくに)・海老名(えびな)の助(スケ)太郎季光・中条(ちゆうでう)の藤次(とうじ)家長・相馬の次郎師常・同じく国分の五郎胤通(たねみち)・千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)・嫡子(ちやくし)太郎頼胤〈 
将也(まさなり) 〉・孫の小太郎成胤(しげたね)・堺の平次(へいじ)常秀・椎名(しひな)の次郎胤平・庄の三郎(さぶらう)忠家・同じく四郎高家・同じく五郎弘方(ひろかた)・猪俣(ゐのまた)の小平六(こへいろく)則綱・勅使河原(てしがはら)の権三郎有直(ありなほ)・中村(なかむら)の小三郎(こさぶらう)時綱〈 経 〉・河原(かはら)の太郎高直・同じく次郎高家・秩父の武者四郎行綱(ゆきつな)・渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)・同じく馬允(うまのじよう)重資・安保(あんぼ)の次郎実光(さねみつ)・塩谷の五郎惟広・藤田(ふぢた)の三郎(さぶらう)大夫(たいふ)高重・小代(をしろ)の八郎(はちらう)行平・久下(くげ)の次郎重光、此れ等を始めと為(し)て五万余騎、同じく二月四日卯の時に都を立つて、同じき日申の尅(こく)に、摂津の小屋野(こやの)に陣を取る。
 搦手(からめで)の大将軍九郎冠者(くわんじや)義経に相(あ)ひ随ひ、一の谷へ向かふ輩は、遠江(とほたふみの)守(かみ)義定・大内(おほうち)の太郎維義(これよし)・斎院(さいゐん)の次官(しくわん)親能・山名(やまな)の三郎(さぶらう)親則・田代の冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)・土屋の三郎(さぶらう)宗遠・同じく男小次郎義清・三浦の介義澄(よしずみ)・和田(わだ)の小太郎義盛・佐原(さはら)の十郎義連(よしつら)・土肥(とひ)の次郎実平(さねひら)・嫡子(ちやくし)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)・山名(やまな)の三郎(さぶらう)義範(よしのり)・天輪(あまわ)の次郎直経(なほつね)・多々良(たたら)の五郎義春・同じく次郎光義(みつよし)・糟屋(かすや)の権守(ごんのかみ)守常・後藤兵衛実基(さねもと)・同じく男基清(もときよ)・平山(ひらやま)の武者所季重・河越(かはごえ)の太郎重頼(しげより)・同じく小太郎重房・熊谷の次郎直実(なほざね)・子息(しそく)小次郎直家・原の三郎(さぶらう)清益(きよます)・大河戸(おほかはど)の太郎弘行・小河(をがは)の小次郎助安(すけやす)・同じく三郎(さぶらう)助
義(すけよし)・山田(やまだ)の太郎重澄・金子の十郎家忠(いへただ)・同じく与一家貞〈 後に近則(ちかのり)と云ふ 〉・渡柳(わたりやなぎ)の弥五郎(いやごらう)清忠(きよただ)・別府(べつぷ)の太郎清高(きよたか)・源八弘綱(ひろつな)・片岡の小次郎親常・長井の小太郎吉兼・筒井(つつゐ)の次郎吉行・足名(あしな)の太郎清隆(きよたか)・枝の源三・熊井(くまゐ)の太郎・武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)・奥州(あうしう)の佐藤(さとう)三郎(さぶらう)次信・同じく四郎忠信(ただのぶ)・伊勢の三郎(さぶらう)義盛・成田(なりだ)の五郎を始めと為(し)て一万余騎、同じき日同じき時に都を立つて、二日路(ふつかぢ)を一日(いちにち)に打(う)つて行く。戌(いぬ)の時計(ばか)りに、丹波(たんば)と播磨との堺なる三草山(みくさのやま)の東の口に馳せ付く。
P2393
 平家は数万騎の軍兵(ぐんびやう)を率して之(これ)を相(あ)ひ待つ間、源氏の兵(つはもの)十分之一にも及ばず。其の上、彼(か)の一の谷は口狭くして奥広し。南は海、北は山、〓(がけ)高くして屏風(びやうぶ)を立てたるが如(ごと)し。水深くして雲南(うんなん)に向かへるに似たり。寔(まこと)に人も馬も通ひ難き城郭なり。赤旗(あかはた)其の数を知らず立て並べたり。春の風に吹かれて飄〓(へうえう)として、火焔(かえん)の煙(も)え上がるかとぞ謬(あやま)ちける。城中には唱立(おびたた)(ヲビタタ)しく石弩(いしゆみ)を張り設(まう)けたりければ、実(まこと)に敵(かたき)も憶(おく)しぬべくぞ見えたりける。
 平家の大将軍は、小松殿の二男(じなん)新三位(しんざんみ)の中将(ちゆうじやう)資盛(すけもり)・小松の少将(せうしやう)有盛・備中守師盛、侍(さぶらひ)大将軍には、平内兵衛(へいないびやうゑ)清家等を始めと為(し)て、其の勢惣じて七千余騎、三草山(みくさのやま)の西の山口(やまぐち)に陣を取る。三里(さんり)の山を中を隔てて、源平互ひに戦場を卜(シ)む。九郎義経は宵より宿りたりける山口(やまぐち)の在家に火を懸けたり。此れを始めと為(し)て、野にも山にも火を著(つ)け
たりければ、日中(につちゆう)にも劣らずぞ照らしける。源氏の軍兵(ぐんびやう)、夜半計(ばか)りに打(う)ち出で、三里(さんり)の山を夜と与(トモ)にぞ越えにける。平家は夜半に至(いた)るまで用心(ようじん)しけるが、「只今(ただいま)は世(よ)も寄せじ」とて、物の具脱いで臥(ふ)したる所に、上の山より謳(おう)と謳(ヲメ)いて寄せたりければ、平家俄(にはか)に驚き澆(あわ)て騒ぐこと、六趣(ろくしゆ)震動(しんどう)に異ならず。源氏は矢の一(ひと)つも射ずして、一千余騎を追ひ落とし、終夜(よもすがら)山を越えて、西の山口(やまぐち)に陣を取る。平家は三草山(みくさのやま)を責め落とされ、面目(めんぼく)無(な)き間、一の谷へは向かはれず、室山より船に乗り、讃岐(さぬき)の八嶋(やしま)に越えにけり。
P1398
 平内兵衛(へいないびやうゑ)清家、一の谷に参り、右(かく)と申しければ、大臣殿(おほいとの)大きに驚きたまひ、使者(ししや)を以つて能登守の陣へ申されけるは、「一の谷へは盛国(もりくに)・貞能(さだよし)を遺し候ひぬれば、然(さ)りとも別(べち)の事は非じと覚え候ふ。生田(いくた)の森へは新中納言・本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)向かはれ候へば能(よ)かりぬべしと覚え候ふ。三草山(みくさのやま)は九郎冠者(くわんじや)此(こ)の暁(あかつき)落として有んなれば、進疾(ススドキ)男(をのこ)にて、今は此(こ)の陣へ近づき候ふらん。山の手へは盛俊向かふべき由(よし)申して候へば、君達(きんだち)一人副(そ)へらるべき旨申し候ふに、誰々も皆辞退し候ふ。然(サリトテ)は度々(どど)の合戦にこそ疲れて渡らせたまへども、向かはせ給ふべくや候ふらん。」能登守此(こ)の事を聞いて、「畏(かしこま)つて承(うけたまは)り候ふ。左様(さやう)に人々の悪(にく)み申され候ふこそ物躰無(もつたいな)く覚え候へ。軍と申すは、身一人の大事と為(スル)だにも、動(やや)もすれば叶ひ難(がた)し。彼へは向かはじ、此れへ向かはんと、身
を全(まつた)うせんと思はれば、墓々(はかばか)しからじと覚え候ふ。教経(のりつね)においては、何度(いくたび)なりとも強(こは)からん方へ向け給へ。命の候はん程は破るべく候ふ」と申されければ、大臣殿(おほいとの)斜(なの)めならず悦(よろこ)びて、「哀(あは)れ、世を立て直し、能登殿を世に有らせ奉(たてまつ)らばや」とぞ言(のたま)ひける。
 五日(いつか)も暮れにけり。夜に入つて見渡せば、源氏は小屋野(こやの)方に陣を取りければ、所々(ところどころ)(前々)に陣の火を焼(た)きけり。生田(いくた)の森にも此れを見て、対(むか)へ火を焼けとて、形の如(ごと)くぞ明かしける。
P2400
 越前三位(さんみ)通盛(みちもり)卿、弟能登守の仮屋(かりや)に物の具脱ぎ置き、女房を呼んでぞ御坐(おはしま)しける。能登守此れを見て言ひけるは、「恐れ有る申し事にて候へども、教経(のりつね)の不調(ふでう)をば仰せを蒙(かうぶ)るべきに、御事をば教経(のりつね)こそ申し候はんずれ。他人は目に余り心に余るとも、誰か一言(ひとこと)も口入(こうじゆ)申すべきや。此(こ)の手は強(こは)かるべしとて、教経(のりつね)を向けられ候ひ畢(をは)んぬ。身の如勇(ゆゆ)しきには非(あら)ず候ふ。人の辞し申すに依(よ)つてなり。実(まこと)に強(こは)かるべく候ふ。中にも坂東の奴原(やつばら)は馬上(ばしやう)には達者(たつしや)なり。上の重(カサ)より見理(みやり)て都(どつ)と落とし候はば、取る物も取り敢(あ)へず候ふ。善く善く御思慮(ごしりよ)有るべく候ふ」と申されければ、見(げ)にもとや思はれけん、怱(いそ)ぎ物の具して、女房をば還(かへ)されけり。上西門院(しやうさいもんゐん)に侍(さぶら)ひける小宰相(こざいしやう)殿の局(つぼね)是(こ)れなり。此(こ)の時夢の様に行き合はれ、互ひに其れぞ最後なりける。
 然(さ)る程に、五日(いつか)の暮れに及びて、越中前司(せんじ)が楯(たて)の前を、男鹿(をじか)一(ひと)つ妻鹿(めじか)二つ連(つ)れて、西の方へ走り通りけり。人々「袷(あは)や袷(あは)や」と云ひければ、伊与国(いよのくに)の住人武市(たけチ)の武者清則(きよのり)、元より鹿の上手なり、射付けの馬には乗つたり、「殿原(とのばら)に鹿を射て見せ奉(たてまつ)らん」とて、上矢(うはや)の鏑(かぶら)を抜き出だして打(う)ち番(つが)ひ、鞭を当て鐙(あぶみ)を掻き合はせて、一二の矢にて妻鹿(めじか)二つ射倒したり。男鹿(をじか)は本の山へ還(かへ)り付きにけり。清則(きよのり)取つて還(かへ)して、「心ならず狩りをしたり」と申したりければ、人々「可惜(アタラ)矢で敵(かたき)をば射で」と云ひければ、「何物なりとも弓箭(きゆうせん)取りの前を生きて通らんずる者を、前を通す事無(な)し」とぞ申しける。越中前司(せんじ)此れを見て、「異左(いさ)とよ。殿原(とのばら)、此れこそ心得(え)ね。山の鹿の人に近づかざる事をば菩提(ぼだい)に譬(たと)へたり。此れにも人数(ひとかず)多く有り。音鳴りに恐れて太々(いとど)
山深くこそ入るべきに、此(こ)の鹿の走り出づる様こそ子細有るらめ。三草山(みくさのやま)破(やぶ)れたると聞えし。源九郎が近づきたると覚ゆるぞ。殿原(とのばら)、用心(ようじん)せらるべし」とて、馬の腹帯(はるび)を固め、甲の緒を卜(し)めけり。
 源氏は東西の木戸口(きどぐち)に、矢合せは七日の卯の時と定めければ、更(さら)に以つて怱(いそ)がず。此(こ)こに陣を取り馬を息(やす)め、彼(かし)こに引(ひ)かへて人を休む。
 時しも衣更着(キサラギ)の始めなれば、流石(サスガ)に春とは云ひながら、余寒(よかん)も未(いま)だ尽き遣(や)らず。嵩々(たけだけ)の下に残れる雪を花と見る処も有り。霞める野辺(のべ)を見渡せば、雪間を分けて萌(も)え出づる若草(わかくさ)の角組(ツノグム)所も有り。谷の鶯(うぐひす)音信(おとづ)れて一(ヲボロケ)に聞ゆる所も有り。何(いづ)れも何(いづ)れも取り取りに、艶(えん)ならざるは無かりけり。
P2403
 六日(むゆか)、夜に入つて、九郎義経、鵯越(ひよどりごえ)と云ふ深き山路へ打(う)ち入つたれば、木々(きぎ)の梢(こずゑ)も森にけり。馬の足立(あしだ)ちも見えず。「哀(あは)れ、此(こ)の勢の中に案内者有るらん。参つて前打(う)ち仕れかし」と義経言ひければ、音する人も無(な)き処に、武蔵(むさし)の住人平山(ひらやま)の武者所季重進み出でて、「某(それがし)こそ知つて候へ。御前打(う)ち仕らん」と申しければ、義経此れを聞いて、「何(いか)に、平山(ひらやま)は武蔵国(むさしのくに)の者なり。而(しか)も初京上(うヒきやうじやう)ぞかし。始めて見る西国の山の案内をば、争(いかで)か知るべき」と言ひければ、諸人(しよにん)聞きも敢(あ)へず、抜(ばつ)と笑ひけり。平山(ひらやま)申しけるは、「敵(かたき)の籠(こも)つたる山の案内をば、剛(かう)の者こそ知つて候へ。指(さ)せる咒師(しゆし)か猿楽(さるがく)か、意得(こころえ)ぬ殿原(とのばら)の笑ひ様かな」と、少しも返事為(せ)ば組み落として勝負(しようぶ)しぬべき気色(けしき)にて、悪々(にくにく)と申しければ、一言(ひとこと)の返事為(す)る者更(さら
)に無(な)し。義経「尤(もつと)も然(しか)るべし」と言ひける上は、敢(あ)へて尤(とが)むる輩も無かりけり。
 然(さ)る程に、或(あ)る山の洞(ホラ)に立(た)ち入り、小家(せうけ)より若き男を尋ね出だしたり。父と覚(おぼ)しきは七十有余の老翁(らうおう)なり。平山(ひらやま)、彼(か)の少冠(せうくわん)を囚(とら)へ、「先に立つて此(こ)の山の道知るべ為(せ)よ」とて打(う)ちけり。彼(か)の少冠(せうくわん)申しけるは、「明(アカ)う成り候ふとも御馬(おんうま)の鼻を向くまじく候ふ。」源九郎此れを聞いて、「此(カウ)云ふ者は何者ぞ」と言ひければ、「此(こ)の山の下に〓(カセキ)する者にて候ふ」と申しければ、「其れは何の為(ため)に是(こ)れまで参つたるぞ。」「三(サン)候(ザウロ)ふ。平山(ひらやま)殿とかや、山の道知るべ為(せ)よとて囚(とら)はれて参つて候ふ」と申しければ、其の時笑ひつる者共、「道理(だうり)にてこそ平山(ひらやま)は、知らぬ山の前打(う)ち為(せ)んと申しける。吾(われ)等加様(かやう)の計(はか)りことまでは思ひも寄らず。恐ろし恐ろし」とぞ申しける。
 御曹司、彼(か)の男を近く召し、「此れより一の谷へは幾程遠き」と言ひければ、少冠(せうくわん)申しけるは、「此れより西国三里(さんり)計(ばか)り候ふらん」と申しけり。「道は悪所(あくしよ)か。」「三(さん)候(ざうら)ふ。此(こ)の山は鶴越(つるごえ)とて、屏風(びやうぶ)を立てたるが如き十五丈の谷、二十丈の岩懸け有り。人の通ふべき様無(な)し。増(まし)て馬なんどは思ひも寄るまじく候ふ。其の上、矢を立て菱(ひし)をも殖(う)ゑてぞ待ち奉(たてまつ)り候ふ覧(らん)」と申しければ、「耶礼(やれ)、此(こ)の山に鹿は無(な)きか。」「鹿は多く候ふ。青陽(せいやう)の春にも作(な)れば隙間(すま)・明石の浦風を慕ひつつ、丹波(たんば)の鹿は播磨へ越え、野分(のわき)臥(ふ)す秋には丹波(たんば)へ通ひ候ふ間、必ず通ひ路有つて候ふ」と申しければ、「此(こ)は何(いか)に、鹿の通はん路は馬の馬場(ばば)や。汝疾々(とうとう)道知るべ為(し)て指南(しなん)せよ」と言ひければ、「承(うけたまは)り候ひぬ」とぞ申しける。
 此(こ)の少冠(せうくわん)を見れば、皃気(みメ)色肝際(きもぎは)善き男なり。御曹司目を懸けて思はれければ、「汝が親をば何(なン)と云ふぞ。汝が名をば誰と云ふぞ」と此れを問へば、「父をば猿尾(ましを)の庄司(しやうじ)と申し候ふ。某(それがし)は猿尾(ましを)の三郎(さぶらう)と申し候ふ」と答へけり。御曹司、彼を道の指南(しなん)に為(シ)て、鵯越(ひよどりごえ)へ向かはれけり。其れより猿尾(ましを)の三郎(さぶらう)、軈(やが)て御曹司に思ひ付き奉(たてまつ)り、陸奥(むつ)まで下り、最後の共仕りけるは、此(こ)の猿尾(ましを)の三郎(さぶらう)の事なり。
 御曹司「例の大続松(おほついまつ)に火を付けよ」と言ひければ、「承(うけたまは)る」とて、土肥(とひ)の次郎実平(さねひら)、宿りたりける在家に火を懸く。此れを始めと為(し)て、野にも山にも草木にも付けたりければ、日中(につちゆう)にも相(あ)ひ劣らず。「此(こ)の明かりに老馬(らうば)こそ道を知るらめ」とて、葦毛(あしげ)なる馬二匹(にひき)に手綱(たづな)結ひ懸けて追はれければ、歩(あゆ)みも違はず、三里(さんり)の山を越えられけり。御曹司、或(あ)る塔の下に馬を引(ひ)かへ、「搦手(からめで)の勢は多からずとも苦しかるまじ。然(しか)も巌石(がんぜき)の山路なり。夜に入つては叶ふまじ」とて、一万余騎を引き分け、三千余騎は西の大手へ向けられ、七千騎をば相(あ)ひ具して打たれけり。
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 爰(ここ)に武蔵国(むさしのくに)の住人熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)、近く子息(しそく)小次郎直家を呼んで、「耶己礼(やうれ)小次郎、軍(いくさ)は明日の卯の時の矢合せと聞く。明日の軍(いくさ)は打(う)ち籠(こ)みにて、誰前(さき)為(し)たりとも聞えじ。今度(こんど)一方(いつぱう)の前(さき)をも懸け、鎌倉殿に聞かれ奉(たてまつ)らんと思ひしに、搦手(からめで)の大将軍に属(つ)きたり。心早(せ)くとも馬次第にて、前(さき)為(せ)んとも覚えず。聞ゆる播磨路の渚へ打(う)ち下つて、一の谷へ前(さき)に寄せん」と申しければ、小次郎「左(さ)承(うけたまは)り候ひぬ。軍(いくさ)は此れを始めにて候ふ。広みにて思ふ様に懸け、心の剛憶(かうおく)をも羨さうとこそ存じ候ひしに、馬次第は口惜しく候ふ。然(サラ)ば疾々(とうとう)夜深(ふ)け候はぬに、思食(おぼしめ)し立(た)ち候へ」と進めければ、熊替(くまがへ)「去来也(いざや)、然(さ)らば平山(ひらやま)に前せられじ」とて、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)小袴(こばかま)に、黒皮威の鎧、権太栗毛(ごんだくりげ)と云ふ馬にぞ乗つたりける。子息(しそく)
小次郎直家は、面高(おもだか)を一入(ひとしほ)摩(す)つたる直垂(ひたたれ)に、洗革(あらひがは)の腹巻鎧を著(き)、三枚甲(さんまいかぶと)の緒を卜(し)め、黄河原(きかはら)なる馬にぞ乗つたりける。旗差(はたさし)共(ども)に只(ただ)三騎、大勢の中より打(う)ち紛れ、一の谷へ打(う)ち下り、南を指(さ)して打(う)つて行く。熊替(くまがへ)は平山(ひらやま)に前を為(せ)られじと思ひ、平山(ひらやま)は熊替(くまがへ)に前を懸けられじと、互ひに目を懸けけり。
P2411
 平山(ひらやま)、一の谷へ廻(めぐ)らばやと思ひし処に、熊谷親子私語(ささや)き合つて出でけるを見て、「袷(あは)れ、僕原(やつばら)は西の大手へ廻るごさんめれ」と目を懸け、此れも西へぞ廻(まは)りける。又同国(どうこく)の住人成田(なりだ)の五郎も、熊替(くまがへ)・平山(ひらやま)出で立(た)ちぬるを奇(アヤシ)うで、此れも一の谷へぞ向かひける。
 平山(ひらやま)一の谷を打(う)ち下り、下早(シタハヤ)に打(う)つて行く程に、夜も深(ふ)け方に成りにけり。二月六日(むゆか)の夜なれば、余寒(よかん)も未(いま)だ余波(なごり)有り。馬の跡(あと)凹(くぼ)みにたりければ、薄氷(うすごほり)の、馬二三匹の跡(あと)と覚(おぼ)しくて、歩(あゆ)み破(やぶ)つてぞ通りたる。平山(ひらやま)此れを見て、「安からぬ。熊替(くまがへ)前(さき)に行きにけり」と思ひて、下早にこそ怱(いそ)ぎけれ。
 深(ふ)け行く間(ママ)に、「小次郎、耶己(やうれ)、此(こ)の道は歩(あゆ)み違へてや有るらん。近くとこそ聞きつるに、今夜(こよひ)も既(すで)に明け方に成りぬらんに、渚も未(いま)だ見えず。搦手(からめで)をば離れ、大手には付かず。軍(いくさ)に落ちたりとか云はれん。」小次郎申しけるは、「此(こ)の道は違はじと覚え候ふ。枝道の有らばこそ歩(あゆ)み違ふる事も候へ。知らぬ山路なり。然(しか)も夜で候へばこそ、遠き様には候へ。千鳥の鳴いて候ひつるは、浦近く候ふにや」と云ひも終(は)てず、都(つ)と南の渚へ出でたり。熊替(くまがへ)「海と渚と分く方は無(な)し。如何(いかが)すべき。」小次郎「身方(みかた)も既(すで)に次(ツヅ)くらん。此(ココ)を通らば身方(みかた)騒ぎて世(よ)も通さじ。搦手(からめで)を棄てて此れへ向かひつるは、前を懸けんと欲(おも)ひてなり。此(こ)の義ならば何(ナジ)かは搦手(からめで)を棄てけん。」小次郎澳(おき)の方を瞻(まも)つて、「道は候ふ。浪(なみ)の織り様、之(これ)を見るに、此(こ)の海は遠浅と覚え候ふ。海へ打(う)ち下つて打たせ給へ。御方(みかた)は世(よ)も知り候
はじ。轡(くつばみ)の音を鳴らし候ふまじ」とて、馬より飛んで下り、渚の藻芥(もくづ)を取り、〓房を引き抜き、水付(みづつき)の閇金(とぢかね)に押し掻き押し掻き、之(これ)を結ひ付け、又馬に飛び乗り、轡(くつばみ)を掴(つか)み具し、小次郎前を為(し)て打(う)つて行く。案の如(ごと)く遠浅にて、馬の太腹(ふとばら)・烏頭(からすがしら)には過ぎず。思ひの如(ごと)く、熊替(くまがへ)敵(かたき)御方(みかた)の間に打(う)ち入り、人馬の気(いき)をぞ息(やす)むる。
 熊替(くまがへ)云ひけるは、「敵(かたき)も御方(みかた)も只今(ただいま)静まりたり。明けに成つてこそ名乗らめ。且(かつ)うは御方(みかた)近づいたらん時こそ聞かれめ。」小次郎申しけるは、「只(ただ)称(なの)らせたまへ。敵(かたき)を証人(しようにん)に立てよと云ふ事は此れに候ふ。御方(みかた)近づいたらん時は、前(さき)に称(なの)つたる熊替(くまがへ)と、之(これ)を称(なの)らせたまひ候はば、特に善うこそ候はんずれ。」熊替(くまがへ)、子に教えられ、見(げ)にもとや思ひけん、敵(かたき)の木戸口(きどぐち)近く打(う)ち寄せ、「音にも聞くらん、今は目にも見よ。武蔵国(むさしのくに)の住人熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)、同じく子息(しそく)小次郎直家。今日(けふ)の軍(いくさ)の一番(いちばん)なり」と称(なの)りけれども、敵(かたき)も御方(みかた)も音もせず。
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 然(さ)る程に、明けに成つて之(これ)を見れば、渚の方に武者こそ、旗差共に二騎、打(う)ち連(つ)れて出でたれ。熊替(くまがへ)此れを見て、「哀(あは)れ、平山(ひらやま)は打籠(うちこみ)の軍(いくさ)をば好まぬ者なれば、其れにてぞ有るらん」と之(これ)を思ふ処に、近づくを見れば、其れなりけり。三つ重目結(シゲめゆひ)の直垂(ひたたれ)小袴(こばかま)に、萌木糸摺(もえぎいとをどし)の鎧を著(き)て、目糟毛(めかすげ)と云ふ射付けの馬にこそ乗つたりけれ。
 熊替(くまがへ)此れを見て、「袷(あれ)は平山(ひらやま)殿か。」「季重よ。熊替(くまがへ)殿か。」「直実(なほざね)よ。」「何(いつ)より。」「宵より。」平山(ひらやま)此れを聞き、「耶(や)給へ、熊替(くまがへ)殿。然(さ)ればこそ疾(とう)に来るべかりつるを、成田(なりだ)の五郎妻(め)に誘(こしら)へ引(ひ)かれて、殿も見つらう、一の谷を打(う)ち下り、西の小坂(こざか)へ向かひ、吾(われ)一人と欲(おも)ひて打(う)ち登りつれば、後ろに物が小音(こごゑ)に『平山(ひらやま)殿、平山(ひらやま)殿』と呼びつる時、誰ぞと欲(おも)ひ、此れを引(ひ)かへて聞けば、成田(なりだ)の五郎が声と聞き成(な)して、『成田(なりだ)殿か。』『然(サ)ぞかし。』『何事ぞ。』『後継ぎをば待たで抜け懸けは詮(せん)無(な)し。命生きてこそ高名をも為(セ)め。大勢の中に取り籠(こ)められて討たれなば、努々(ゆめゆめ)人之(これ)を知るべからず。理(ことわり)を枉(マ)げて御方(みかた)を後ろに当てたまへ』と云ひつる時、尤(もつと)もと欲(おも)ひて、馬の頭を下に成(な)して此れを待つ程に、成田(なりだ)下早に打(う)ち上
りつる程に、並うで打(う)つべきかと欲(おも)ひければ、然(さ)は無(な)くて、文(アヤ)無(な)く打(う)ち通る。僕(きやつ)は出し抜くよと意得(こころえ)て、『和君(わぎみ)は吾(われ)を出し抜くか。其の儀ならば後ろ影は見ざる者を』とて、目糟毛(めかすげ)には乗つたり、四五町計(ばか)りは継(つづ)いて見えつるが、其の後は見えず。其れも今は近づくらん」と語りつつ、熊替(くまがへ)・平山(ひらやま)、旗差共に五騎に成つてぞ引(ひ)かへたる。
 熊替(くまがへ)、敵(かたき)の城の構へを見れば、北は山、南は海、崖(がけ)高うして屏風(びやうぶ)を峙(そばだ)てたるが如(ごと)し。巌石(がんぜき)峨々(がが)として人跡(じんせき)久しく絶えたり。北の山際より南の海の遠浅まで、岩を崩して山を突(ツ)き、木戸口(きどぐち)一(ひと)つを開いて、大木を切つて逆茂木(さかもぎ)を塞(ふさ)ぐ。蚊(か)虻(あぶ)猶(なほ)通ひ難(がた)し、況んや馬の蹄(ひづめ)においてをや。聖人(しやうにん)殆(ほとん)ど越え難(がた)し、況んや凡夫(ぼんぶ)においてをや。木戸(きど)の上には高矢倉(たかやぐら)を掻き、兵(つはもの)比子(ひし)と並(な)み居たり。下には郎等眷属(けんぞく)〓(シコロ)を傾けて数を知らず。矢倉(やぐら)の後ろには鞍置馬を十重(とへ)廿重(はたへ)に引つ立てたり。海の深きには大船(おほぶね)を浮かべ、数千の船の中に矢倉(やぐら)を掻いてぞ守らせける。若(も)しの事も有らば用意の為(ため)なり。赤旗(あかはた)・赤験(あかじるし)数を知らず立て並べたり。春の風に吹かれて天に飄〓(へうえう)し、火焔(かえん)の焼(も)え上がるが如(ごと)し。寔(ま
こと)に唱立(おびたた)しくぞ覚えたる。敵(かたき)も此れを見て憶(おく)しぬ計(ばか)りにぞ覚えける。
 熊替(くまがへ)、数数有る木戸口(きどぐち)近くに打(う)ち寄つて、大音声(だいおんじやう)を放つて申しけるは、「先に称(なの)つたりつる熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)此れに有り。去歳(こぞ)の冬、相模国(さがみのくに)鎌倉を立(た)ちし日より、命をば兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿に奉(たてまつ)る。名をば後代(こうだい)に留め、骸(かばね)をば摂津国一の谷に曝(さら)し置くべし。平家方の大将軍は誰ぞや、称(なの)らせたまへ。音なきは懼(お)(ヲ)ぢたか。越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)・上総(かづさ)の五郎兵衛・弟七郎兵衛等、実(まコト)か、備中国水嶋・播磨国室山両度(りやうど)の合戦に高名為(し)たりと云(い)へども、何(いか)に、敵(かたき)に依(よ)つてこそ高名は為(ス)れ、人毎(ごと)に遭うては世(よ)も為(せ)じ者を。直実(なほざね)に遭うて高名為(し)たらんこそ実(まこと)の高名よ。能登守殿は在(ましま)さぬか。穴(あな)無慚(むざん)の殿原(とのばら)かな。阿弥陀仏(あみだぶつ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と恥(は)ぢしめられて、越中の前司(せんじ)盛俊、陣の口に立(た)ち出で、「成敗しけん
者を。〓(きび)しく城の戸口(とぐち)を固めよ。敵(かたき)の矢種(やだね)尽きさせて馬の足を臘(つから)かすべし」とぞ申しける。
 熊替(くまがへ)親子を討たんとて、越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)・上総(かづさ)の五郎兵衛忠光・同じく悪七兵衛忠家・飛彈(ひだ)の三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経(かげつね)・後藤兵衛定綱已下(いげ)廿三騎、城の戸口(とぐち)を開き懸け出でたり。中にも越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)は特に勝(すぐ)れて見分けたり。紺村濃(こんむらご)(こんむらゴ)の直垂(ひたたれ)に、赤摺(あかをどし)の鎧を著(き)、白葦毛(しらあしげ)の馬にぞ乗つたりける。熊替(くまがへ)間近く寄り遭へども落ち合はず。廿三騎左右(さう)無(な)く並べて組まざりけり。二段(にたん)計(ばか)りを隔て間(アヒ)、熊替(くまがへ)親子も破られじと尖矢形(とがりやがた)に立て成(な)して、〓(しころ)を傾けて引(ひ)かへたり。「何(いか)にや何(いか)に、懸けよや懸けよ」と熊替(くまがへ)云ひければ、悪七兵衛係(か)け出でんと欲(す)。盛次(もりつぎ)引(ひ)かへて申しけるは、「君の御大事此れに限るまじ。又も無(な)き命を捨てば、善き大将に遭うてこそ捨てめ。僧〓の様なる者に遭うて命を棄てて甘従(いかんせん)。鳴〓(をこ)の事
なり」と云ひながら、之(これ)を取り留めけり。
P2418
 爰(ここ)に平山(ひらやま)、馬の腹帯(はるび)を固め、旗指共に二騎打(う)ち連(つ)れて、「武蔵国(むさしのくに)の住人平山(ひらやま)の武者季重」と称(なの)つて、木戸口(きどぐち)を開きたる間に、城の内へ懸け入る。城中の者共散々に係(か)け散らされ、或(ある)いは谷の奥へ迯(に)ぐるも有り、或(ある)いは大路を東へ迯(外)(に)ぐるも有り。各(おのおの)蜘(知)(くも)の子を散らすが如(ごと)し。矢倉(やぐら)の上の兵共(つはものドモ)、矢倉(やぐら)の下の郎等共、矢を放たんと進めども、敵(かたき)は二騎にて馳せ行く。敵(かたき)を射ば身方(みかた)を射つべき間、只(ただ)詞計(ばか)りにて「引き落とせや、殿原(とのばら)、押し並べて組めや組めや」と〓(ののし)りけれども、敢(あ)へて組む者無かりけり。
 熊替(くまがへ)勝(かつ)に乗つて、「穢(きたな)し、耶(や)殿原(とのばら)、後ろ質(すがた)は見苦しや、還(かへ)せや還(かへ)せや」と云ひければ、飛彈(ひだ)の三郎左衛門尉(さぶらうざゑもんのじよう)、「還(かへ)さんに難(かた)かるべきか」とて、渚を西へ係く。五郎兵衛、三郎左衛門(さぶらうざゑもん)が手綱(たづな)を引(ひ)かへて、「詮(せん)無(な)し、耶(や)殿(との)、君の御大事今日(けふ)に限るべきに非(あら)ず」と制しければ、其れをば押さへても係(か)けず。廿三騎も、奥深(おくぶか)に打(う)ち入りたる平山(ひらやま)を左様(ひだりさま)に成(な)してぞ闘ひける。熊替(くまがへ)に打(う)ち合ふ者こそ無かりける。雨の降る様に射係くる矢に、熊替(くまがへ)馬を射させて歩武者(かちむしや)に成つて闘ひけり。
 小次郎は親をば打(う)ち捨てて、楯際(たてギワ)近く打(う)ち寄つて、「熊替(くまがへ)の小次郎直家、生年(しやうねん)十六歳、軍(いくさ)は此れぞ始めなる。我と欲(おも)はん殿原(とのばら)は、直家に組めや」と称(なの)りけるが、右の小肱(こひぢ)を袖を加へて射付けられ、父直実(なほざね)が前(まへ)に並んでぞ立つたりける。「小次郎手を負ひたるか。」「三(さん)候(ざうら)ふ。右の小肱(こひぢ)を袖を加へて射付けられ、弓を引くべき様(やう)無(な)く候ふ。矢を抜いて給(タマ)へ。」「且(しばら)く待て。間(ひま)無(な)し。若武者は手を負ひて緋(あケ)を引きたればこそ皃(みメ)善けれ。〓(ヨロイ)を振り上げて物を見るな。矢倉(やぐら)の上より内甲を射さすな。鎧抵(よろひヅキ)を常に為(す)べし。余りに傾けて天変(てつぺん)射さすな。敵(かたき)は千万(せんまん)有りとも、人に討たせず吾(われ)一人して討たんと欲(おも)へ。係(か)けては死ぬとも、引(ひ)かへて資(たす)からんと思ふな。悪(あ)しくは人手(ひとで)には係(か)けじ、直実(なほざね)が手に係(か)けうずるぞ」と諌(いさ)められて、生まれ付きた
る剛(かう)の者なれば、少しも後ろ足を履まず、太々(いとど)金生(こんじやう)にてぞ見えたりける。
 熊替(くまがへ)親子が射落とされけるを見て、又平山(ひらやま)入れ違へて闘ひけり。其の間に熊替(くまがへ)乗代(のりかへ)にて打(う)つ立つ。此(こ)の間に又平山(ひらやま)馬を息(やす)むる処に、平山(ひらやま)が旗指敵(かたき)に組み落とされ、頸を取られんと欲(し)ければ、平山(ひらやま)落ち合ひて敵(かたき)を討ち、旗差を資(たす)けて引き退く。平山(ひらやま)が二度(にど)の係(か)けとは是(こ)れなり。
 其の後、成田(なりだ)の五郎卅騎計(ばか)りにて馳せ来たつて闘ひけり。
 其の後、秩父・足利・三浦・鎌倉の輩、横山・児玉(こだま)・猪俣(ゐのまた)・野伊与(のいよ)・山口党(やまぐちタウ)の者共、吾(われ)も吾(われ)もと嘔(をめ)いて懸け入る。源平互ひに乱れ合ひて闘ひけり。暫(しばら)く時を遷(うつ)す程に、彼此(かれこれ)共(とも)に討たるる者、其の数を知らず。凡(およ)そ一の谷の奥の篠原は皆紅にぞ成りにける。
P2422
 東の大手生田(いくた)の森は、卯の時の矢合せと定めたりければ、梶原(かぢはら)平三景時(かげとき)、前(さき)を係(か)けて寄せけり。梶原(かぢはら)が手に河原(かはら)の太郎高直・同じく次郎盛直、逆茂木(さかもぎ)を乗り越え、太刀(たち)を打(う)ち振ひ、大勢の中へ係(か)け入りけり。平家方に此れを見て、「穴(あな)勇(ゆゆ)し、中坂東の者の心の武(たけ)さや。只(ただ)二人して此(こ)の大勢の中へ入つたらば、何(いか)計(ばか)りの事の有るべき」と云ひ合ひけり。備中国の住人真名部(まなべ)の四郎・同じく五郎、何(いづ)れも精兵(せいびやう)の勇士(ゆうし)為(た)る間、兄をば一の谷、弟をば生田(イクた)の森に置かれたり。真名部(まなべ)の四郎、矢倉(やぐら)の上より之(これ)を射ければ、河原(かはら)の太郎が右の膝(ひざ)節を射られければ、矢を引き抜いて之(これ)を棄てける間に、太刀(たち)を杖(ツヘニツ)き立(た)ちけり。河原(かはら)の次郎走り寄つて、兄を肩に引つ係(か)け、逆茂木(さかもぎ)を乗り越えけり。真名部(まなべ)が二の矢に、弟の弓手(ゆんで)の股を射られければ、兄弟(きやうだい)一(ひと
)つ所に辷(まろ)びければ、真名部(まなべ)が郎等二人落ち合ひて、河原(かはら)兄弟(きやうだい)が頸を取りけり。
 其の時、梶原(かぢはら)平三、五百余騎にて馳せ来たり、「疎(うた)て有る殿原(とのばら)かな。後次(あとつ)ぎ無(な)くて河原(かはら)兄弟(きやうだい)を討たせつ」とて、逆茂木(さかもぎ)を取り除け、五百余騎を尖矢形(とがりやがた)に立て成(な)し、嘔(をめ)いて係(か)け入る。新中納言知盛(とももり)・子息(しそく)武蔵(むさしの)守(かみ)知章(ともあきら)・本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)を大将軍と為(し)て二千余騎、梶原(かぢはら)の五百余騎を最中(まんなか)に取り籠(こ)め、「一騎(いつき)も漏(も)らさず打(う)ち取れ」とて、一時(いつとき)計(ばか)り闘ひけり。梶原(かぢはら)無勢(ぶぜい)なる間、叶はじとや欲(おも)ひけん、大勢の中を打(う)ち破(やぶ)つて出でけるが、「身を全(まつた)うして君に仕ふるは臣の一の忠なり」とて、引き退きけるが、跡(あと)を見還りて、「源太(げんだ)は何(いか)に」と問ひければ、「大勢の中に取り籠(こ)められて見えたまはず」と申しければ、「然(さ)らば討たれたるか。源太(げんだ)を討たせては、景時(かげとき)命生きても何(いか)にかは為(
せ)ん」とて、取つて還(かへ)して懸け入り、此れを見れば、源太(げんだ)卅騎計(ばか)りが中に取り籠(こ)められ、六人の敵(かたき)に打(う)ち合ひ、甲をば打(う)ち落とされ、我が身は受け太刀(たち)に成つて、今は更(かう)とぞ見えたりける。「源太(げんだ)未(いま)だ討たれず」とて、梶原(かぢはら)押し寄せて称(なの)りけるは、「八幡殿(はちまんどの)の後三年の闘ひに、出羽国金沢(かねざは)の城を責めし時、生年(しやうねん)十六歳、敵(かたき)に右の眼を射させ、其の矢を抜かずして答(たふ)の矢を射て名を上げ、今は御霊(ごりやう)の社と云はれたる、鎌倉の権五郎景政が末葉(ばつえふ)、相模国(さがみのくに)の住人梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)、一人当千の兵(つはもの)とは知らずや」とて、謳(をめ)いて係く。一人当千の名にや恐れけん、敵(かたき)左右(さう)へ引き退く。其の時、敵(かたき)と源太(げんだ)の中へ馳せ入り、源太(げんだ)を後ろに成(な)して三々(さんざん)に闘ひけり。且(しばら)く気(いき)を息(やす)め、「去来(いざ)源太(げんだ)」とて、引き具して出でにけり。
 源太(げんだ)猶(なほ)甲の緒を卜(し)め、射向の袖を矢共に折懸けにし、吾(わ)が身は薄手(うすで)負ひ、「梶原(かぢはら)の源太(げんだ)此れに有り。此れに有り」とて、奥深(おくぶか)に馳せ入つて闘ひけり。大将軍範頼(のりより)此れを見て、父景時(かげとき)の許(もと)へ云ひ遣(や)られけるは、「余りに源太(げんだ)の早りたり。『謬(あやま)ちすな。人を下知(げぢ)せよ、吾(わ)が身は引(ひ)かへよ』と云ひ含むべき」由(よし)言ひければ、源太(げんだ)を招いて、「大将軍の仰せにて有るぞ。且(しばら)く馬の気(いき)を息(やす)めよ」と云ひければ、源太(げんだ)取り敢(あ)へず、右(かく)計(ばか)り、
「昔与梨取伝多留阿徒佐弓 引天和人能返須毛能加波
   〈昔より取り伝へたるあづさ弓 引きては人の返すものかは〉
左古曾(とこそ)見参(げんざん)に入れ御坐(おはしま)し候へ」とて、又取つて返して謳(をめ)いて係く。
 又梶原(かぢはら)、桜の面白かりけるを腰に差(さ)して馳せ行きけるを、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)此れを見て、
  物武能桜狩古曾与志奈希礼
   〈もののふの桜狩りこそよしなけれ〉
左(と)云ひ送られたりければ、景時(かげとき)取り敢(あ)へず、
  生取土覧多免土思江波
   〈生け取りとらんためと思へば〉
左楚(とゾ)申しける。
 又武蔵国(むさしのくに)の住人畠山(はたけやま)の次郎重忠、五百余騎にて押し寄せて、一時計(ばか)り闘ひけり。射白(いしら)まされて引き退く。凡(およ)そ大手計(ばか)りは人種尽くとも破(やぶ)れ難くぞ見えたりける。
P2428
 搦手(からめで)の大将軍九郎義経、鵯越(ヒヨどりごえ)の上壇(じやうだん)に打(う)ち上がり、東西の木戸口(きどぐち)を見たまへば、白旗赤旗(あかはた)相(あ)ひ交(ま)じりて、入り乱れてぞ闘ひける。義経言ひけるは、「武蔵坊(むさしばう)、袷(あれ)を見よ。此れ程の見物有りしや。」「類(たぐ)ひ候はず」とぞ申しける。御曹司「去来(いざ)、彼を落とさん」と云ひければ、武蔵坊(むさしばう)「尤(もつと)も然(しか)るべく候ふ」とて、大きなる石を谷の方へ向けて転(まろ)ばしけり。始めは見えて、落ち付く所を未(いま)だ知らず。御曹司「此れ計(ばか)りにては争(いかで)か知るべき。『老馬(らうば)は道を知る』と云ふ本文有り」とて、老馬(らうば)の瓦毛(かはらげ)なるを二疋尋ね出だして、手綱(たづな)結んで打(う)ち懸け、谷の方へ向けて之(これ)を追ひ落とす。半(なか)ば計(ばか)りは人に追はれて落ちけるが、其の後は谷の方にも馬嘶(いなな)きければ、声を合はせて走り下る。
 御曹司言ひけるは、「袷(あは)れ、殿原(とのばら)、善(よ)かんずるは。瓦毛(かはらげ)は足を損じて立(た)ちも上がらず。一疋は難無(な)く落ち付いて、身振ひして立(た)ちたり。主乗つて落とさば世(よ)も損ぜじ。只(ただ)落とすべし。吾(わ)が身先に係(か)けん」とて、落とされければ、七千余騎皆連(つづ)いて落ちぬ。凡(およ)そ此(こ)の谷は、是(こ)れ小石(こいし)交(ま)じりの白砂に、苔(こけ)生ひ重なり、滑りければ、馬の足も砂も共に須琉璃(するり)須琉璃(するり)と流れけり。落とす程に少し畝村(うねむら)なる所に落ち付き、立つて引(ひ)かへたり。
 底を見れば、巌(いはほ)聳(そび)えて屏風(びやうぶ)を立てたるが如(ごと)し。登るべき路も無(な)く、下るべき方も無し。「如何(いか)が為(せ)ん」と言ひければ、三浦大介(おほすけ)が末子(ばつし)に、佐原(さはら)の十郎善連(よしつら)進み出でて申しけるは、「此れ程の所を巌石(がんぜき)と申し、猿手(さて)止(とど)むべく候ふか。三浦の方にて、鹿一(ひと)つをも越し、鳥一(ひと)つをも立てたるは、此れに劣らぬ所を馳せ行くか。此れ等は三浦の馬場(ばば)かな。義連(よしつら)落として見参(げんざん)に入れん」とて、手勢(てぜい)五百余騎真先(マツサキ)に係(か)けて雑(ざつ)と落とす。御曹司次(つづ)いて落としたまへば、誰か独(ひと)りも憚るべき。七千余騎皆共に難無(な)く下へぞ落としける。
 上(ウヘ)の山の木闇(こぐれ)の間(ひま)より、七千余騎一同(いちどう)に時を俄(にはか)に作りけり。嵩々(たけだけ)峯々に響く声、十万余騎とぞ聞えける。称(なの)りも終(は)てず、白旗卅流れ指(さ)し上げ、暇(いとま)も与へず係(か)け入りけり。
P2434
 越中の前司(せんじ)三百余騎にて闘へども、源氏の大勢に蹴(け)散らされ引き退く。能登守範経(のりつね)、毎度(まいど)の高名人に勝(すぐ)れて御座(おはしま)しけれども、此(こ)の度(たび)は何(いか)が思はれけん、一軍(ひといくさ)も為(せ)ず、薄墨(うすずみ)と云ふ明馬(めいば)に乗り、陬間(すま)の関屋(せきや)に落ち、尓(それ)より小船に乗り、淡路(あはぢ)の岩屋へ渡られけり。
 越中の前司(せんじ)計(ばか)りは、思ひ切つて闘ひけり。弓杖(ゆんづゑ)に係(スガ)り、仰甲(のけかぶと)に成つて引(ひ)かへたり。爰(ここ)に猪俣(ゐのまた)の小平六(こへいろく)則綱此れを見て、「縦(たと)ひ大将軍に非(あら)ずとも、平家の侍(さぶらひ)に然(しか)るべき者なり」とて、「武蔵国(むさしのくに)の住人猪俣(ゐのまた)の小平六(こへいろく)則綱」と称(なの)つて、押し並べて引き組んだり。何(いづ)れも共に大力(だいぢから)なれば、二疋の馬堪(た)へずして、膝(ヒザ)掻き折つて臥(ふ)しにけり。二人の者共、二疋の間(アヒ)に落ち立つたり。小平六(こへいろく)は勁(つよ)かりけれども十人計(ばか)りの所為(しよゐ)をこそ為(す)れ、盛俊は人目には廿人計(ばか)りが所為(しよゐ)を為(す)れども、内々(ないない)は六七十人が力とぞ聞えし。小平六(こへいろく)を取つて抑(おさ)へ、頸を掻き切らんと欲(す)。小平六(こへいろく)、刀は抜いたりといへども、大の男の大力(だいぢから)に敷き結(つ)められて間(ひま)無(な)し。
 則綱下に臥(ふ)しながら、少しも騒がず申しけるは、「敵(かたき)を討つは仮名(けみやう)・実名(じつみやう)を聞いたればこそ善けれ。名も知らぬ頸を取つたりとも何(いか)にか為(せ)ん」と申しければ、安平(あんべい)に覚えて、「早(ハヤ)称(なの)れ」と云ひければ、「吾(われ)は是(こ)れ武蔵国(むさしのくに)の住人、猪俣(ゐのまた)の小平六(こへいろく)則綱とて、足(た)り上戸(じやうご)、名誉(めいよ)の者なり。和君(わぎみ)は誰ぞ。」「平家の侍(さぶらひ)に越中の前司(せんじ)盛俊と云ふ者なり。」「猿手(さて)は和殿(わとの)は落人(おちうど)にこそ。主の世に在(ましま)さばこそ、頸を取つて勲功(くんこう)も有らめ。平家の運命已に傾きぬ。日本国を敵(かたき)に受けて如何(いか)がしたまふべき。我を助けたまへ。殿の命計(ばか)りは、則綱が勲功(くんこう)に申し替へて、助け申すべし」と云ひければ、盛俊東西を見廻しけり。源氏の兵(つはもの)充(み)ち満ちて遁(のが)れ遣(や)るべき方(かた)無(な)き間、見(げに)もとや思ひけん、「一定(いちぢやう)か。」
「一定(いちぢやう)よ。吾(われ)を助けたらん人をば、争(いか)でか助け奉(たてまつ)らざるべき。」盛俊申しけるは、「殿も上戸(じやうご)なりと言ひたり。盛俊も平家の侍(さぶらひ)には一番(いちばん)の上戸(じやうご)よ。助けたまへ。呑(ノ)うで見せ奉(たてまつ)らん。子共・家の子廿余人有り。助けたまへ」とて、引き起こすに、後ろは泥(どろ)の深き田、前は畠(はたけ)の様なる畝(うね)に、一人足を指(さ)し下して、気(いき)を息(やす)めて居たり。
 爰(ここ)に、横山党に人見の四郎と云ふ者、黒皮摺(くろかはをどし)の鎧に、葦毛(あしげ)の馬に乗つて出でたり。越中の前司(せんじ)、恠気(アヤシげ)に思ひて、「是(こ)れは誰(た)候ふぞ」と問ひければ、小平六(こへいろく)立(た)ち上(アガ)り、之(これ)を見て申しけるは、「苦(クルシ)う候はず。則綱が従父(をぢ)に人見の四郎と申す者にて候ふ。聞え候ふ大力(だいぢから)の精兵(せいびやう)よ。則綱が三十人の所為(しよゐ)を為(す)る者なり。〈 唐言(からごん)を構へて云(い)へるなり。 〉則綱討たれ候ふとも敵(かたき)を取るべき者にて候ふ。則綱の資(たす)け奉(たてまつ)る由(よし)聞く程にては、努々(ゆめゆめ)手を係け奉(たてまつ)るまじき者で候ふ。心安く思食(おぼしめ)されよ」と申しけり。然(さ)れども、猪俣(ゐのまた)には意(こころ)を打(う)ち与へ、今来(ク)る者を奇(アヤシゲ)に思ひて、目を放さず此れを見る。
 盛俊は大の男の太(フトリ)極(きは)まりたるが、細き畝(うね)に尻を懸け、胸返りなる様にて居たり。「僕(キヤツ)が胸板を突いたらんに、何(なじ)か突き込まざるべき。殺さん」と思ひ、今来たる者を見る様にて、力足を立て課(おほ)せ、只(ただ)一刀(ひとかたな)に贔負(えい)と突く。案の如(ごと)く、後ろの深田(ふかた)に最逆(まさかさま)に突き入りけり。草摺(くさズリ)の返す所を掴(つか)み、〓(ツカ)も拳(こぶし)も徹(とほ)れ徹(とほ)れと三刀(みかたな)差(さ)して頸を取りけり。
P2438
 山の手も早破(やぶ)れぬ、一の谷は熊替(くまがへ)・平山(ひらやま)に破られぬ。大勢次第に責め入れば、平家の軍兵(ぐんびやう)海へぞ馳せ入りける。渚々に設(まう)け船多けれども、一艘宛(ヅツ)には乗らずして、物の具為(シ)たる武者共、船一艘に一二千人込み乗りければ、何(なじ)かは沈(流)まざるべき、親(まのあたり)に大船(おほぶね)二三艘沈みて、底の藻塵(もクヅ)と成りぬ。先帝・二位殿以下(いげ)然(しか)るべき人々の召されたる船共に、澆(あわ)て迷ひ乗らんと欲(し)ければ、大臣殿(おほいとの)、越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)に仰せ付け、船縁(ふなばた)を〓(ナガ)せければ、或(ある)いは腕(うで)を打(う)ち落とされ、或(ある)いは肱(かひナ)を打(う)ち落とされ、渚々に倒れ臥(ふ)し、謳(をめ)き叫ぶぞ無慚(むざん)なる。
 信濃国(しなののくに)の住人村上(むらかみ)の次郎判官代(はんぐわんだい)、西の大手より馳せ入り、陬間(すま)・板屋戸の在家・仮屋(かりや)に火を懸けたりければ、西の風劇(はげ)しく吹いて、黒煙(くろけぶり)東へ押し係(か)けたり。「袷(あ)れ見よや。西の手は破られぬ」と、取る物も取り敢(あ)へず、吾(われ)先にと落ち迷ひけり。大将軍も散々に成りければ、生田(いくた)の森も破(やぶ)れにけり。
P2439
 下総国(しもふさのくに)の住人豊田が郎等、皆輪(みなわ)の次郎・同じく八郎(はちらう)、「善(よ)からん敵(かたき)もがな」と待つ所に、黒皮摺(くろかはをどし)の鎧著(き)たるが、甲を打(う)ち落とされたる武者一騎(いつき)、従類(じゆうるい)も無(な)くて出で来たり。皆輪(みなわ)の次郎、誰とは知らず、敵(かたき)に押し並べ、抜き儲けたる太刀(たち)なれば、踊(ヲド)り係つて支度(しと)と打(う)つ。皆輪(みなわ)の次郎打(う)ちも終(は)てず、髻(モトドリ)を掴(つか)んで鞍の前輪(まへわ)に引き付け、頸掻き切つてぞ取つたりける。
 此(こ)の頸を鳥付(とりつけ)に付け、馬に打(う)ち乗つて、弟の八郎(はちらう)を見るに無(な)し。馳せ廻つて之(これ)を尋ぬる程に、古井(ふるゐ)の崩れて浅く成つたるに、武者二人組んで臥(ふ)したり。上なるを見れば上臈(じやうらふ)と覚えたり。朽葉(くちば)の綾(あや)の直垂(ひたたれ)に、萌木糸威(もえぎいとをどし)の鎧に、白星(しらほし)の甲を著(き)、長幅輪(輪輪)(ながフクリン)の太刀(たち)を帯(は)きたり。下なる武者は黒糸威(くろいとをどし)の鎧を著(き)たり。次郎「八郎(はちらう)か」と問へば、「然(サ)ぞかし」と云ふ。次郎馬より下り、上なる敵(かたき)を掴(つか)み引けども、実(げ)に以つて勁(つよ)かりけり。皆輪(みなわ)の次郎、左の手(テ)にて天変(てつぺん)の穴(あな)に手を入れ、右の手を以つて〓子(シこロ)を掴(つか)み、贔負声(えいやごゑ)を出だして此れを引いたりければ、敵(かたき)頭(かしラ)を一振り振る。次郎弓杖(ゆんづゑ)一枚(いちまい)計(ばか)り投(ナ)げられけるが、甲の緒を引き切り、飛びながら起き上がりて髻(もとどり)を掴(つか)みたりければ、引き上(アゲ)て頸を掻き
切つて取り、弟の八郎(はちらう)を引き起こす。後に此れを尋ぬれば、修理大夫(しゆりのだいぶ)常盛(つねもり)の末子(ばつし)、無官(むくわんの)大夫(たいふ)敦盛(あつもり)とぞ聞えける。
P2442
 薩摩守忠度(ただのり)は岡部の六矢太(ろくやた)が為(ため)に討たれたまひぬ。陬磨(すま)の関屋(せきや)は忠度(ただのり)の知行所(ちぎやうしよ)なれば、行平中納言の跡(あと)を追ひ、常に彼(か)の所へ下られけり。或(あ)る辻堂(つじだう)の住持(ぢゆうぢ)の僧、形の如(ごと)く腰折を為(ス)る間、御会(ごくわい)毎(ごと)に召されつつ、情け有る言(ことば)を懸けたりしかば、此(こ)の御骸(かばね)を尋ね出だし、葬送(さうそう)・茶毘(ダび)の儀式を務(イトナ)み、様々(さまざま)の孝養(けうやう)を致す。然(さ)れば、人は世に在(あ)る時は、尤(もつと)も情け有る言を人に係くべき者をとぞ覚えし。
P2444
三 熊替(くまがへ)、大夫(たいふ)成盛(なりもり)を討つ事
 熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)は未(いま)だ分取りもせず、「袷(あは)れ、善(よ)からう敵(かたき)もがな。打(う)ち取らん」と欲(おも)ひ、陬間(すま)の関屋(せきや)へ打(う)ち寄せて、〓(おき)の方を見遣(や)れば、助け船共を漕(コギ)散らせり。「定めて落人(おちうど)此れへぞ来るらん」と欲(おも)ひ、引き上げたりける大船(おほぶね)の陰に、左(と)計(ばか)り有りて、轡(くつわ)の音聞ゆる間、船の弛(はづ)より指(さ)し望(のぞ)いて此れを見れば、紫地に練糸を以つて根篠(ねしの)を縫ひたる直垂(ひたたれ)に、紫下濃(スソゴ)の鎧を著(き)、上帯(うはおび)には漢竹(かんちく)の篳篥(ヒチリキ)を此(こ)の紫檀(しだん)の矢立(やたて)に入れて差(さ)したり。又小巻物(こまきもの)を差(さ)し具したり。後に此れを見れば、彼(カク)ぞ書いたりける。
 桜梅桃李(あうばいたうり)の春の朝(あした)に成りぬれば、妻よ妻よと囀(さへず)る鶯(うぐひす)の、野辺(のべ)に阿娜(あだ)めく忍び音や、野辺(のべ)の霞に顕れて、外面(そとも)の桜何(いか)計(ばか)り、重ね開(サ)くらん八重(やへ)桜。九夏三伏(きうかさんぷく)の天にも成りぬれば、藤波(ふぢなみ)厭(いと)ふ郭公(ほととぎす)、夜々(よよ)の蚊遣火(かやりび)下燃えて、忍ぶる恋の心地(ここち)かな。黄菊紫蘭(きぎくしらん)の秋の暮れにも成りぬれば、壁に吟(スダ)く蟋蟀(きりぎりす)、尾上の鹿、龍田(たつた)の紅葉(もみぢ)哀(あは)れなり。玄冬素雪(けんとうそせつ)の夕(ゆふ)べにも成りぬれば、谷の小河(をがは)の通ひ路も、皆白妙(しろたへ)に成り渡る。差(さ)しも余波(なごり)の惜しかりし、旧里(ふるさと)の木々(きぎ)の梢(こずゑ)を見棄てつつ、一の谷の苔(こけ)の下に埋もれん悲しさよ。
とぞ書かれたる。
P2446
 内甲は白々(しろじろ)として、渡りの船を瞻(マブ)つて、波の中へ打(う)ち入りけるを、熊谷此れを見て、「此許(ココもト)を懸くるは大将軍とこそ見奉(たてまつ)れ。大将軍程の人の、敵(かたき)に後ろを見する様や候ふ。穴(あな)見苦しや。返させ給へ」と申しければ、打(う)ち笑つて引き返しけるが、「善うこそ見けれ。和君(わぎみ)は誰そ」と言へば、「武蔵国(むさしのくに)の住人、熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)」とぞ申しける。「汝に遭うては称(なの)るべからず。只(ただ)頸を取つて人に見せよ」と言ひければ、熊替(くまがへ)引つ組んで渚に落ちぬ。
 熊替(くまがへ)引き仰(あふの)(アヲノ)けて此れを見れば、十六七(じふろくしち)の若殿上人の、太眉に作り、金黒(かねぐろ)なり。小次郎に見合はせて此れを見るに、境節(をりふし)小次郎見えざりければ、討たれてや有るらんと、覚塚無(おぼツカな)かりければ、「山野(さんや)の獣(けだもの)、江河(がうが)の鱗(うろくづ)までも、恩愛(おんあい)の道は切なり。況(いはん)や人倫(じんりん)においてをや。争(いか)でか思ひ知らざるべき。此(こ)の殿の親、此(こ)の殿を討たせて歎きたまはん事、直実(なほざね)が小次郎を討たせて歎かんも、何(いづ)れか勝劣(しようれつ)有るべき。放ち奉(たてまつ)らばや」と欲(おも)ひて、四方(しはう)を見れば、身方(みかた)の者共之(これ)多し。「縦(たと)ひ直実(なほざね)助け奉(たてまつ)るとも、余人は世(よ)も助け奉(たてまつ)らじ。人手(ひとで)に係(か)け奉(たてまつ)り、『熊替(くまがへ)の打(う)ち漏(も)らしぬるを打(う)つたり』と云はれなば、後代(こうだい)の恥辱(ちじよく)なり。詮ずる所、此(こ)の殿を打(う)ち、後世(ごせ)を訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)らばや」
 と思ふ間、「重ねて御名を承(うけたまは)らん」とて、申しけるは、「別(べち)の議にては候はず。鎌倉殿の仰せに、『平氏(へいじ)の大将軍を討つたらん者は、高下(かうげ)を言はず、国主(こくしゆ)に成すべき』由(よし)、張文(ハリぶみ)に押されて候ふ。君を討ち奉(たてまつ)らん勲功(くんこう)の故(ゆゑ)に、直実(なほざね)程の乏少(ぼくせう)愚闇(ぐあん)の身が国主(こくしゆ)と成り候はん事、莫太(ばくたい)の御恩に非(あら)ずや。其の報功(はうこう)には、善根(ぜんごん)を修(シユ)し僧を供養(くやう)し奉(たてまつ)るとも、誰(た)が為(ため)にも廻向(ゑかう)し奉(たてまつ)らざる事、無念(むねん)に覚え候へば、加様(かやう)には申し候ふなり」と申しければ、此(こ)の殿言ひけるは、「重代相伝の家人(けにん)にも非(あら)ず、日来(ひごろ)の好(よし)みも無(な)しといへども、此れ程に思ふことこそ神妙(しんべう)なれ。打(う)ち任せては汝に遭うて称(なの)るべきに非(あら)ずといへども、此(こ)の言(ことば)の有り難さに称(なの)るなり。我は是(こ)れ太政(だいじやう)入道(にふだう)の弟、門脇の平中納言
教盛(のりもり)の三男(さんなん)、蔵人(くらんど)の大夫(たいふ)成盛(なりもり)とて、自(みづか)らは今年(ことし)十六歳、早々頸を取れ」とぞ言ひける。
 熊替(くまがへ)申しけるは、「君は御一門共に一業(葉)(いちごふ)所感(しよかん)の御身にて、疾(と)き遅きこそ候はんずれ、直実(なほざね)を恨みさせたまふな」とて、甲(カブト)を取つて之(これ)を引き仰(あふの)(アヲノ)けて見れば、翠(ミドリ)の黛(まゆずみ)汚(アセ)に匂ひ、暮気々々(ぼけぼけ)と見えけり。何(いづ)くに刀を当つべしとも覚えず、泣(な)く泣(な)く頸をぞ取りにける。
 此(こ)の頸を鳥付(とりつけ)に付け、馬に打(う)ち乗り、身方(みかた)に逢ふ毎(ごと)に、「此れ御覧候へ、殿原(とのばら)。門脇殿の三男(さんなん)、蔵人(くらんど)の大夫(たいふ)とて、十六歳に成りたまふを討つたるぞや」とて、泣き行きけり。鎌倉殿世を取りたまひて後、幾程無(な)くて遂(つひ)に出家して、西山の聖人(しやうにん)法然坊(ほふねんばう)の弟子に成り、遂(つひ)に往生(わうじやう)の素(索)懐(そくわい)を遂げにけり。
P2451
四 備中守の船、清九郎兵衛踏み還(かへ)す事
新中納言の侍(さぶらひ)に、清九郎兵衛と申しける者、主には追ひ放れぬ、大の男の太く極(きは)めたるが、甲斐(かひ)無(な)き馬には乗つたり、跡(あと)より敵(かたき)は追つ係くる。〓(おき)の方を見れば、船一艘漕いで通る。備中守の船と見成(な)して、「此(こ)こを通らせたまふは備中守殿の御船とこそ見奉(たてまつ)り候へ。申され候ふは、新中納言殿の御内(みうち)に、清九郎兵衛家俊と申す者にて候ふ。助け御坐(おはしま)せ」と申しければ、人々口々(くちぐち)に「只(ただ)漕ぎ通らせ給へ」と申しければ、備中守言ひけるは、「敵(かたき)なりとも助けよと云はれなば助くべし。況(いはん)や御方(みかた)なり。然(しか)も新中納言の最愛(さいあい)の者なり。若(も)し千に一(ひと)つも助かりたらば、後に云はれんことこそ恥(はづ)かしけれ。只(ただ)此(こ)の船を指(さ)し寄せよ」とて、寄せられたり。家俊高き処に登り上がつて待ち係(か)けたり。間纔(わづ)かに三丈計(ばか)りなり。敵(かたき)は近づく、余りに早(はや)く見えければ、備中守言ひけるは、「家俊飛べかし。」「左承(うけたまは)り候ふ」と、憚りながら贔負(えい)と飛び
けるが、飛び弛(はづ)して、船縁(ふなばた)を履んで履み返す。此れを見て、馳せ寄つて、船をば熊手に係(か)けて引き寄せけり。備中守は討たれたまひぬ。家俊も失せにけり。
P2453
五 後藤兵衛落つる事
 本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿は、黒褐(カチン)に白き糸を以つて村千鳥(むらちどり)を縫ひたる直垂(ひたたれ)に、萌木糸威(もえぎいとをどし)の鎧著(き)て、乗替共に二騎連(つ)れて、西に向かつて、助け船を志(こころざし)して落ちられける程に、梶原(かぢはら)の平三、大将軍と目を係(か)け、「袷(あれ)は何(いか)に。大将軍とこそ見奉(たてまつ)れ。御後ろ質(スガタ)見苦しう候ふ。返させたまへ」と申しければ、聞かぬが船と扶持(もてナシ)て落つる処に、梶原(かぢはら)が乗つたる馬は乗り疲れて追ひ付き難(がた)し、中差(なかざし)取つて番(つが)ひ、遠矢に射たりけり。重衡(しげひら)の召されたる童子鹿毛(どうじかげ)の三途(さんづ)の下に、箆(ノ)深うこそ射籠(コ)うだり。究竟(くつきやう)の明馬(めいば)なれども、矢を立てぬれば、事の外に弱りにけり。
 重衡(しげひら)秘蔵(ひさう)の馬に夜目無月毛(よめなしつきげ)をば、乗代(のりかへ)の為(ため)に、乳子(めのとご)後藤兵衛を乗せられたり。「童子鹿毛(どうじかげ)に矢立(た)ちぬれば、此(こ)の馬定めて召されんずらん。言(ことば)の懸からぬ先に」と欲(おも)ひ、馬の鼻を北の方へ引き向けて落ち行きけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)此れを見て、「耶己(やうれ)、盛長。其の馬参らせよ。重衡(しげひら)の馬、手を負ひたり。日来(ひごろ)は然(サ)は契らざりし者を。恨めしくも吾(われ)を棄つるかな」と仰せられけれども、虚(ソラ)聞かずして、射向けの袖なる赤験(あかじるし)を抜き捨て、鞭鐙(むちあぶみ)を合はせて馳せ迯(に)げぬ。
P2455
六 本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)、梶原(かぢはら)に生け取らるる事
重衡(しげひら)力及び給はず、海へ馳せ入りたまへど、其れも遠浅にて、沈みも得(え)たまはず。腰刀を抜いて上帯(うはおび)を切り捨てたまひけるは、自害を為(せ)んとや、又海に入らんとや見えし程に、梶原(かぢはら)程無(な)く馳せ来たり、馬より飛び下り、歩走(かちばし)りに持たせたる〓刀(なぎなた)を取つて、「君に渡らせたまふと見奉(たてまつ)る。相模国(さがみのくに)の住人、梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)、参つて候ふ。御共仕らん」とて、隙(ひま)無(な)く走り寄り、取り奉(たてまつ)つて吾(わ)が馬に乗せ奉(たてまつ)り、後輪(しづわ)前輪(まへわ)に警(いまし)め付け、吾(わ)が身は乗代(のりかへ)に乗つて引き具し奉(たてまつ)り、大手の方へぞ向かひける。
 景時(かげとき)申しけるは、「何(いか)に袷躰(あレてい)の侍(さぶらひ)をば召し具せられ候ひけるぞ。景時(かげとき)が様に候はん者を召し具せられ候はんは、此れ程の事候はじ」と辱(はぢ)しめ奉(たてまつ)る。三位中将(さんみのちゆうじやう)後に人に語りたまひけるは、「景時(かげとき)に辱(はぢ)しめられし事、百千の鉾を以つて胸を指されんも、此れには過ぎじ」と言ひけり。
 後藤兵衛は、後には熊野法師(ほふし)に尾中(をなかの)法橋(ほつけう)と申しける後家尼(ごけに)の許(もと)に、後見(うしろみ)を為(シ)たりけるが、訴訟の為(ため)に上洛(しやうらく)したりければ、京中の貴賤此れを見て、「穴(あな)無慚(むざん)や、三位中将(さんみのちゆうじやう)殿の差(さ)しも糸惜(いとほ)しく思食(おぼしめ)されたりし者(モノ)の、一所(いつしよ)にて左右(トモかう)も成らで、思ひも懸けぬ尼公の尻舞(しりまひ)して、晴(ハレ)振舞(ふるまひ)するこそ無慚(むざん)なれ」と、爪弾きを為(し)て悪(にく)み合ひければ、其の後隠れにけり。
 新中納言知盛(とももり)・子息(しそく)武蔵(むさしの)守(かみ)知明(ともあきら)、侍(さぶらひ)には監物(けんもつ)の太郎頼賢(よりかた)、三騎連(つ)れて船に付かんと馳せられけるに、打輪(うちわ)の旗差(さ)したる児玉党(こだまたう)にや有りけん、五六騎(ごろくき)計(ばか)りにて嘔(をめ)いて懸く。此れを見て、監物(けんもつ)の太郎極(きは)めたる弓の上手なれば、旗差が頸の骨を射串(いぬ)く。旗差馬より逆さまに落ちにけり。
 新中納言知盛(とももり)、弓長(ゆんだケ)の程近著(ちかづ)けども、子息(しそく)武蔵(むさしの)守(かみ)知章(ともあきら)、十七歳に成られけるが、父を敵(かたき)に組ませじと、中に隔てて与(く)んで落(おと)(ヲト)し、取つて押へて頸を切る。敵方の童(わらは)、落ち合ひて、武蔵(むさしの)守(かみ)をば差(さ)し殺す。監物(けんもつ)の太郎頼賢(よりかた)、膝(ヒザ)の節を射させて、立(た)ちも上がらざりければ、腹を掻き切つて死ににけり。
 新中納言は、此(こ)の隙(すき)に逃げ延びにけり。井上黒(ゐのうへぐろ)といふ究竟(くきやう)の馬に乗り、海の面廿余町游(ヲヨガ)せて、船に著(つ)きたり。彼(か)の船には馬の立つべき様も無かりければ、阿波(あは)の民部(みんぶ)成能(しげよし)申しけるは、「可惜馬(アタラ)、敵(かたき)の物に成(ナンヌ)べし。射留め候はん」と申しければ、「任他(さもあらばあれ)、畜生といへども、吾(われ)を資(たす)けたらん馬をば、争(いか)でか殺すべき」とて、渚に向けて追ひ返す。
 新中納言、此(こ)の馬の為(ため)に、月に一度泰山府君(たいざんぶくん)をぞ祭られける。其の故(ゆゑ)にや、彼(か)の馬に資(たす)けられ給ひにけり。九郎判官(はうぐわん)、彼(か)の馬を取つて院へ参らせたりければ、名の高き馬なれば、一の御厩(みうまや)に立てられけるが、黒き馬の太く唐皇(たくま)しければ、井上黒(ゐのうへぐろ)とも申しけり。河越(かはごえ)の太郎が取つたりければ、河越黒(かはごえぐろ)とも名づく。
P2460
 知盛(とももり)卿、大臣殿(おほいとの)に向かひ奉(たてまつ)り、涙を流して申されけるは、「只(ただ)一人持(も)ちて候ふ武蔵(むさしの)守(かみ)にも後(おく)れ候ひぬ。監物(けんもつ)の太郎も討たれ畢(をは)んぬ。命は善く惜しい者で候ひけり。只(ただ)独(ひと)り持つたる子が、親の命に替らんと敵(かたき)に組みつるに、引きも返さざりけり。外の人の見る所こそ慙(はずか)しけれ」とて泣かせたまへば、大臣殿(おほいとの)仰せられけるは、「哀(あは)れなるかな。武蔵(むさしの)守(かみ)は手も聞き、心も武(たけ)く、善き大将にて御坐(おはしま)しつる者を」と云ひながら、御子右衛門督(うゑもんのかみ)の顔を見奉(たてまつ)り、讐眼(さうがん)より涙を浮けたまひけり。此れを見奉(たてまつ)る兵(つはもの)共(ども)も各(おのおの)袖をぞ絞(しぼ)りける。
 武蔵(むさし)の三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国・伊賀(いが)の平内左衛門(へいないざゑもん)家長、此れ等二人は新中納言一二の者共にて、互ひに契り深(ふか)ければ、一所(いつしよ)に死なんとぞ欲(おも)ひける。
P2463
七 越前三位(さんみ)通盛(みちもり)、討たるる事
門脇平中納言教盛(のりもり)の嫡子(ちやくし)、越前三位(さんみ)通盛(みちもり)卿、湊縁(みなトはた)に就(つ)き落ちられけり。近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の三郎(さぶらう)盛綱此れを見奉(たてまつ)り、七騎の勢にて追つ懸けて行く。勲太(くんだ)瀧口(たきぐちの)時員(ときかず)と云ふ侍(さぶらひ)、前(まへ)に塞(ふさ)がつて、「君は落ちさせたまへ。防(ふせ)ぎ矢仕り候はん」と申しければ、「何(いか)に、汝は日来(ひごろ)云ひつる契りをば違はんと欲(ス)るぞ。此(こ)の女房をば、吾(われ)左(と)も右(かう)も成らば、都へ送り奉(たてまつ)れ。其れぞ最後の共(とも)為(し)たると思ふべし」と言ひける間、流石(さすが)に命も惜しければ、薮(ヤブ)の中へぞ入りける。三位(さんみ)、運や尽きたまひにけん、馬逆さまに倒れければ、七騎が中に取り籠(こ)めて、討ち奉(たてまつ)る。頸をば太刀(たち)の切端(きつサキ)に差(さ)し連ぬき、「門脇平中納言の嫡子(ちやくし)、越前三位(さんみ)殿をば、近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の三郎(さぶらう)盛綱討つたり」と、瀧口(たきぐち)が居たる前を
呼びて通る。時員(ときカズ)走り出でて取り付き度(タク)は欲(おも)へども、且(かつ)うは遺言(ゆいごん)をも違へじと、泣(な)く泣(な)く居たるぞ無慚(漸)(むざん)なる。瀧口(たきぐち)夜に入つて、北の方に参り、此(こ)の由(よし)を申しければ、「夢か現(うつつ)か、実(まこと)か耶(や)」とて、引き覆(かづ)いて臥(ふ)したまひぬ。
P2466
一の谷・生田(いくた)の森にて討たれし人々は幾千万(いくせんまん)といふことを知らず。湊河(みなとがは)東の浜路より、西は塩谷口(しほやぐち)に至(いた)るまで、五十余町の間に、比次(ひし)と頸をぞ切り係(か)けたる。加之(しかのみならず)、利刀(りたう)を含みて地に倒れ、流れ矢に当たつて死にたる類(たぐひ)、只(ただ)算を散らせるが如(ごと)し。其の外、水に沈み、山に隠れたる輩、幾千万(いくせんまん)か有るらんと、哀(あは)れなりし事共なり。
P2473
八 小宰相(こざいしやうの)局(つぼね)、身を投げらるる事
 抑(そもそも)、此(こ)の度(たび)討たれぬる人々の北の方、皆、様をぞ替へられける。
 本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)の北の方は、五条大納言郡綱(くにつな)の御娘、大納言の典(スケ)殿とぞ申しける。内の御母(おんめのと)にて御坐(おはしま)しければ、大臣殿(おほいとの)制しける間、尼にも成りたまはず。
 越前三位(さんみ)通盛(みちもり)卿の北の方は、故藤刑部卿(とうぎやうぶきやう)憲方(ノリかた)の御娘、上西門院(しやうさいもんゐん)〈 鳥羽院の御娘、後白河(ごしらかはの)法王の后 〉の小宰相(こざいしやう)殿と申しける女房なり。通盛(みちもり)互ひに志(こころざし)深かりければ、古京を立(た)ち出で、八重(やへ)の塩路に越えたまひしより、波の上、船の内にても、一日片時(いちにちへんし)なれども相(あ)ひ離れず。明日打(う)ち出でんとての夜、弟の能登守の仮屋(かりや)に呼び、能登守に諌(いさ)められたまひしも、此(こ)の人の御事なり。一定(いちぢやう)討たれたまへりと聞きたまひしかば、引き覆(かづ)きて臥(ふ)したまふ。哀(あは)れなるかな、恋慕(暮)(れんぼ)の涙は枕の上の露を浮かべ、愁歎(しうたん)の炎は肝の中の朱(しゆ)を焦(コガ)す。
 今度(こんど)討たれたまへる人々の北の方、何(いづ)れも歎きは浅からねども、此(こ)の北の方は理(ことわり)に過ぎて深かりけり。日数の経(ふ)る間(ママ)に深く思ひ入りたまひて、湯水をだにも聞召(きこしめ)し入れず。乳母子(めのとご)の女房只(ただ)一人付き添(そ)ひ奉(たてまつ)るも、同じく枕を並べ臥(ふ)し淪(しづ)むるが、「右(か)くて渡らせたまはんには、何と懸けてか露の命も永らへたまふべき」と思ひける間、此(こ)の女房泣(な)く泣(な)く誘引(こしら)へ申しけるは、「今は何(いか)に思食(おぼしめ)すとも叶ふまじ。御身子(みみ)と成らせたまひて後、少(をさな)き人をも長(そだ)て奉(たてまつ)り、故殿の忘れ形見(ガタミ)とも御覧ぜよ。其れ尚(なほ)御〓(なぐさ)め無(な)くは、御形勢(さま)を替へ、彼(か)の後生(ごしやう)をも訪(とぶら)ひ御坐(おはしま)せかし。生死(しやうじ)は常の習ひ、今始めて驚き思食(おぼしめ)すべきに非(あら)ず」と〓(なぐさ)め申せども、只(ただ)偏(ひと)へに泣(な)くより外の事は無(な)し。
 十三日の夜、人静まり更(かう)深(ふ)けて、乳母子(めのとご)の女房を呼び起こして言ひけるは、「明日打(う)ち出でんとての夜、通夜(よもすがら)心細き事共語り次(つづ)けて、『明日の軍(いくさ)には討たれんと心細く覚ゆ』とて、涙を流したまひしかば、吾(わ)が身も『何(いか)に彼(カク)云ふやらん』と心〓(さはぎ)(サワギ)して思ひしかども、必ず然(しか)るべしとも思はざりき。又言ひし事の糸惜(いとほ)しさよ。『我若(も)し討たれなん後は、云何(いカン)為(し)て御(おは)すらん。世の習ひは然(サ)てしも非じ。何(いか)なる人に見えたまふとも、吾(われ)な忘るな』と云ひし事の無慚(むざん)なれば、水の底へも入らんと欲(おも)ふぞとよ。又世に永(ながら)へて有るならば、心ならぬ事もぞ有る。己(おのれ)が独(ひと)り歎かんことこそ糸惜(いとほ)しけれ。又日来(ひごろ)は恥(は)づかしさに云はざりしかども、今を限りと思ひしかば、『日来(ひごろ)悩む事の有りしを、人に問へば、徒(タダ)ならずとこそ聞け』と云ひたりしかば、斜(なの)めならず之(これ)を悦(よろこ)び、『已(すで)に卅に成りなんとするに、子と云ふ者無かり
つるに、始めて此れを見ん事の慶(うれ)しさよ』と云ひける事の益(やく)無さよ。愚かなりける兼言(かねごと)かな。何(いか)なる男なれば生きての別(わか)れを悲しみ、何(いか)なる女なれば男に後(おく)れて頬無(つれな)かるべき。此(こ)の者を人と生(そだ)てて、見(ミ)ん境々毎(ヲリヲリごと)には、昔の人のみ恋しくて、思ひの数は増るとも、忘るる事は世(よ)も有らじ。今は中々(なかなか)、見染め見え染めし雲の上の其の夜の契り悔しくて、彼(か)の源氏の大将の、朧月夜(おぼろづきよ)の内侍督(ないしのかみ)、弘徽殿(こキでん)の細殿も、吾(わ)が身の上と悲しきぞ」と、泣(な)く泣(な)く言ひけり。
 乳母子(めのとご)の女房胸打(う)ち騒ぎ、霊(あやし)かりければ、「見(げに)も思食(おぼしめ)し立(た)ち候はば、千尋(ちひろ)の底へも引き具してこそ入らせたまへ。永くは後(おく)れ奉(たてまつ)らじ者を」と、泣(な)く泣(な)く申しければ、此(こ)の事悪(あ)しく聞かれたるかと覚(おぼ)されけん、言(ことば)を替へて言ひけるは、「凡(およ)そ人の別(わか)れの悲しさ、世の恨めしさを思ふには、身を投げんと云ふ事、尋常(よのつね)の習ひぞかし。然(さ)れども如何(いか)で正(まさ)しく身をば空しく為(す)すべき。縦(たと)ひ何(いか)なる事を思ひ立つとも、争(いか)でか其(ソコ)には知らせで有るべき。心安く思はれよ」と言ひければ、見(げニ)もとや思ひけん、少(スコ)し睡(マドロ)み入りけるに、竊(ひそか)に蜿(ハイ)出でて、最後の出で立(た)ちをぞ為(シ)たまひける。
 三位(さんみ)殿の雙紙箱(さうしばこ)を開き、此れを見れば、鏡(かがみ)は隠(クモリ)無けれども、移りし人の陰も無(な)し。然(サル)間(ママ)に古き歌一首口〓(くちずさ)み給ふ。
  古土和梨耶具母(毎)礼波古曾波末須鏡 宇津里志影毛美江須奈留良免
   〈ことわりやくもればこそはます鏡(かがみ) うつりし影もみえずなるらめ〉
 源氏六十帖の中に、常に手馴したまひける巻物(まきもの)五六巻(ごろくくわん)を取り、左右(さう)の脇に入れ、船縁(ふなばた)に望みたまひ、何(いづ)くか西なるらんと見たまへば、曼々(まんまん)たる海中(かいちゆう)にて、何(いづ)くを西とは知らねども、月の入る其(サノ)山の端(は)を、其方(そなた)の空と思ひ遣(や)り、〓(おき)の白洲(しらス)に鳴く千鳥、友迷(マドハ)すかと哀(あは)れなり。海人(あま)の遠(ト)渡る梶枕、幽(かす)かに聞ゆる贔負声(えいやごゑ)、涙を催(もよほ)す妻と作(な)る。西に向かひ言ひけるは、「縦(たと)ひ三位(さんみ)、闘諍(とうじやう)合戦の道に趣きて、命を捨つるは罪深き身なりとも、弥陀如来は悪業(あくごふ)の輩をも引接(いんぜふ)したまふなれば、吾(われ)等夫妻(ふさい)を迎へたまへ」とて、忍びて念仏(ねんぶつ)百遍(ひやつぺん)計(ばか)り唱(とな)へつつ、手を合はせて海へ飛び入りぬ。
P2479
 夜半の事なれば、人寝入(ネイ)りて見奉(たてまつ)らず。梶取(かんどり)一人驚きて、「女房の海に入りたまひぬる」と〓(ののし)る間、乳母子(めのとご)の女房起き上がり、「穴(あな)心憂(こころう)や」とて、傍(かたは)らを探(さぐ)れども、見えたまはず。「穴(あな)無慚(むざん)や」とて謳(をめ)き叫ぶ。水手(すいしゆ)・梶取(かんどり)を下(お)ろし浸(ヒタ)して尋ね奉(たてまつ)れども、月は朧に幽(かす)かなり、鳴戸(ナルト)の〓(おき)の早塩なれば、波の花も白し、著(き)たまへる衣(きヌ)も白ければ、尋ぬれども尋ぬれども、急(とみ)にも見付け奉(たてまつ)らず。遥かに程を経て、取り上げ奉(たてまつ)れば、練緯(ねりぬき)の二つ衣(ぎぬ)に白き袴、長(たけ)なる髪を始めて塩々と湿(ヌ)れて、御気(いき)計(ばか)り通ふ間、御乳母(おんめのと)の女房此れを見て、伏し辷(まろ)び、啼(な)く泣(な)く御手を取つて、顔に当てて申しけるは、「吾(われ)老いたる親に離れ、少(をさな)き子を棄てて付き添(そ)ひ奉(たてまつ)る甲斐(かひ)も無(な)く、水底(みなそこ)へも引き具しては入りたまはずして、恨めしくも独(
ひと)り空しく成らせ給ひつる者かな。吾(わ)が君、今一度御声を聞かせたまへ」とて、臥(ふ)し辷(まろ)びて悲しめども、一言(ひとこと)の返事も無(な)し。夜も漸(やうや)う明け行けば、通ひし気(イキ)も絶え終(は)てぬ。
 然(さ)る間(まま)に、残り留めたまひたりける越前三位(さんみ)の服背(きせなが)一領(いちりやう)、浮かびもぞ為(ス)るとて、押し纏(まと)ひ奉(たてまつ)り、海へ帰し入れにけり。乳母(めのと)の女房も、後(おく)れじと海へ飛び入らんと欲(し)けるを、人々多(あま)た取り留めければ、船中(せんちゆう)に臥(ふ)し辷(まろ)び、謳(をめ)き叫ぶこと限り無(な)し。自(みづか)ら髪をば〓(ハサミ)落ろしければ、門脇平中納言教盛(のりもり)の御子、中納言の律師(りつし)忠快(ちゆうくわい)、髪を剃り除(のぞ)き、大乗戒(だいじようかい)を授けたまひけり。
 薩摩守忠度(ただのり)・但馬守経正の北の方、何(いづ)れも劣らぬ歎きなれども、更(さら)に吾(わ)が身をば失はず。昔も今も様(タメシ)少(すく)なかりし事なり。彼(か)の東天(とうてん)の節女(せつぢよ)が跡(あと)までも思ひ残す事無(な)し。
 一歳(ひととせ)、保元の合戦の時、六条判官(はんぐわん)為義(ためよし)が女房、夫に後(おく)れ身を投げけるこそ有り難(がた)しと思ひしに、此れを聞く者袖を絞(しぼ)らぬは無かりけり。「賢人(けんじん)は二君(じくん)に仕へず、貞女(ていぢよ)は両夫(りやうふ)に嫁(トツ)がず」と云(い)へり。彼は是(こ)の文に違はず、実(まこと)なるかな。権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)惟盛卿、此(こ)の形勢(ありさま)を聞(キ)いて、「加様(かやう)に独(ひと)り明かし暗(くら)すは倦(ものう)けれども、賢(かしこ)うぞ此れ等を都に留め置きてける。親(まのあたり)に彼(かか)らまし」とぞ言ひける。
P2483
九 卿相(けいしやう)の頸、獄門の木に懸けらるる事
 然(さ)る程に、元暦元年二月十日、一の谷にて打たれし平氏(へいじ)の頸共、京に入る由(よし)、〓(ののし)り会(あ)へり。其の類(たぐひ)の人々、都に隠れ居たりけるが、肝を消し心を迷はし会(あ)へり。同じき十三日、大夫(たいふ)判官(はんぐわん)仲頼(なかより)以下(いげ)の検非違使(けんびゐし)、六条河原に出で向かひ、平氏(へいじ)の頸を請(う)け取つて、東の洞院(とうゐん)大路を北へ渡し、左様(ひだりざま)の獄門の木に懸けてけり。
 権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛(これもり)の北の方は、源氏の討手(うつて)西国へ下る由(よし)聞く度毎(たびごと)に、肝を消し心を寒くしたまふ処に、一の谷にて平家残り少(すく)なく討たれたまへる上、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)も生きながら武士に取られて上洛(しやうらく)し、并びに平氏(へいじ)の頸共多く都へ召されける由(よし)聞えければ、北の方、「定めて吾(わ)が人も此(こ)の内には漏(も)れじ」と云ひながら泣きたまへば、若君・妃君(ひめぎみ)も共に泣きたまふこと限り無(な)し。
 越前三位(さんみ)通盛(みちもり)・薩摩守忠度(ただのり)・但馬守経正・武蔵(むさしの)守(かみ)知章(ともあきら)。門腋(かどわき)の平中納言教盛(のりもり)の末子(ばつし)業盛(なりもり)・修理大夫(しゆりのだいぶ)経〔盛〕の子息(しそく)敦盛(あつもり)、此(こ)の二人は未(いま)だ無官(むくわん)にて、只(ただ)大夫(たいふ)とぞ申しける。侍(さぶらひ)には越中前司(せんじ)盛俊の頸も渡されけり。
 此(こ)の頸共各(おのおの)大路を渡し、獄門の木に懸けらるべき由(よし)、範頼(のりより)・義経共に之(これ)を申しける間、法皇思食(おぼしめ)し煩ひて、蔵人(くらんど)の左衛門権佐(ごんのすけ)定長を以つて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左大臣・右大臣・堀河の大納言に御尋(おんたづ)ね有りければ、各(おのおの)一同(いちどう)に申されけるは、「先帝の御時〈 安(五)徳(あんとく)天皇 〉、此(こ)の輩は爵〓(セキリ)の臣と為(し)て朝家(てうか)に仕へき。就中(なかんづく)、卿相(けいしやう)の頸を大路を渡し獄門の木に懸けらるること、未(いま)だ其の例を聞かず。其の上、範頼(のりより)・義経が申し状、強(アナガチ)に御許容(ごきよよう)有るべからず」と申されければ、渡さるまじかりけるを、範頼(のりより)・義経重ねて申しけるは、「父義朝(よしとも)の頸、大路を渡して獄門の木に懸けられたること顕然(けんぜん)なり。而(しかる)を父の恥(はぢ)を雪(すす)がんが為(ため)に、身命(しんみやう)を捨てて合戦せしむる所なり。且(かつ)うは朝敵なり、且(かつ)うは私敵なれば、申し請(う)くる所、御許(ゆる)し無
(な)きにおいては、自今(じこん)以後(いご)何の勇み有つてか朝敵を追討すべき」と、義経殊に之(これ)を憤(いきどほ)り申しければ、大路を渡し懸けられにけり。
 彼(か)の義経は、二歳の時父義朝(よしとも)を討たれ、其の行柄(ゆくへ)を知らず、廿五年の星霜(せいざう)を送り、父の敵(かたき)を亡ぼしけること、父子(ふし)自然(しぜん)の理(ことわり)なり。
P2489
十 重衡(しげひら)、内裏女房を呼び奉(たてまつ)る事
 十四日、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿、六条を東へ渡さる。藍摺(アイズリ)の直垂(ひたたれ)に、小八葉(こばちえふ)の車の前後の簾(スダレ)を巻き上げ、左右(さう)の物見を開きてぞ渡されける。痛はしく思ひ入りたる気色(けしき)なり。見えじとは為(せ)られけれども、涙更(さら)に留まらず。見る人其の数を知らず。只(ただ)夢の心地(ここち)ぞ為(せ)られける。
 人々申しけるは、「糸惜(いとほ)しや、此(こ)の殿は、入道(にふだう)殿にも二位殿にも覚えの子にて御坐(おはせ)(ヲハセ)しかば、世(よ)も重んじ奉(たてまつ)り、親しき人々も所を置き、内へ参りたまふにも、老若(らうにやく)詞を懸け奉(たてまつ)り、吾(わ)が身も痛はし気(げ)に、口嗚呼(くちヲカシ)き事をも云ひ置き、人にも慕はれたまひし者を。此れは南都を亡ぼしたまひぬる伽藍(がらん)の罰にこそ」と申し逢へり。
 六条河原まで渡して、八条堀河の御堂に入れ奉(たてまつ)る。土肥(とひ)の次郎真平(サネヒラ)、随兵(ずいひやう)卅騎計(ばか)りを相(あ)ひ具して之(これ)を守護し奉(たてまつ)る。
 院の御所より、蔵人(くらんど)の左衛門権佐(ごんのすけ)定長を御使ひと為(し)て、重衡(しげひら)の許(もと)へ罷(まか)り向かふ。赤衣(せきい)に笏(しやく)をぞ持つたりける。三位中将(さんみのちゆうじやう)は練緯(ねりぬき)の二つ小袖に、紺村濃(こんむらご)(こむらゴ)の直垂(ひたたれ)、折烏帽子(をりえぼし)引き立ててぞ御坐(おはしま)しける。「昔は何とも思はざりし定長を、今は冥途にて冥官(みやうくわん)を見(ミ)んも此れには過ぎじ」とぞ思はれける。院宣の趣、条々(でうでう)此れを仰せ含む。「所詮(せんずるところ)、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)都へ還(かへ)し入れ奉(たてまつ)らば、西国へ還(かへ)し遣(つか)はすべき勅定(ちよくぢやう)有り」と申しければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)申されけるは、「今は此(かか)る身に成つて候へば、親しき者に面を合はすべしとも覚えず候ふ。其の上、主上(しゆしやう)都へ還御(くわんぎよ)無からんには、争(いか)でか神器(しんぎ)計(ばか)りを還(かへ)し入れらるべき。若(も)し女心(をんなごころ)にて候へば、母なんどや無慚(むざん)とも欲(おも)ひ候ふらん。然
(さ)りながら、若(も)しやと西国へ申して見候はん」とて、前の左衛門尉(さゑもんのじよう)重国(しげくに)を下し遣(つか)はしけり。
P2492
 三位中将(さんみのちゆうじやう)の年来(としごろ)召し仕はれける木工(ムクの)馬允(うまのじよう)友則、土肥(とひ)の次郎が許(もと)へ来て申しけるは、「此(こ)の年来(としごろ)召し仕はれ候ひし木工馬允(うまのじよう)と申す者で候ふが、八条院(はつでうのゐん)へ兼参(けんざん)して、彼(かか)る身にて西国へも下り候はず。今日(けふ)大路を渡され給ひつるを見奉(たてまつ)り、哀(あは)れに悲しく候ふ。御免(ゆるされ)を蒙(かうぶ)つて、御心を〓(なぐさ)め奉(たてまつ)り候はん。此れ御覧候へ、腰の刀をだにも差さず候へば、努(ゆめ)僻事(ひがこと)すまじく候ふ」と、泣(な)く泣(な)く申しければ、土肥(とひ)の次郎情け有る者にて、速やかに此れを免してけり。
 友則参つたれば、三位中将(さんみのちゆうじやう)斜(なの)めならず慶(うれし)げに覚食(おぼしめ)し、来し方行く末を物語したまひ、互ひに涙をぞ流したまひける。「抑(そもそも)、汝為(し)て時々(ときどき)文を遣(つか)はしたりし内裏の人は云何(いか)に」と言へば、「内裏に御渡り候ふが、『常に忘れ奉(たてまつ)らず』と仰せられ候ふとこそ承(うけたまは)り候へ」と申しければ、「西国へ下りし時も汝無(な)き間、文をも遣(や)らず、物をも云ひ置かざりしかば、日来(ひごろ)の契り詐(いつは)りに成りぬとこそ思ひけめ」とて、文を書いて遣(つか)はさる。武士共危(あや)しみ申しければ、此(こ)の文を見せければ、即(すなは)ち赦(ゆる)しけり。
 朝時(アサどき)、内裏に持(も)ち参りて窺(うかが)へども、昼は人目の繁(しげ)ければ、日を暮らして後、内裏へ紛(マギ)れ入る。此(こ)の女房の御局(おんつぼね)辺りへ俳徊(たたず)み、立(た)ち聞きしければ、女房の声にて泣(な)く泣(な)く言ひけるは、「何の罪の報(ムクイ)に依(よ)つてか、三位中将(さんみのちゆうじやう)計(ばか)りしも生きながら取られ、大路を渡され、憂(う)き名を流すらん」とて、泣きたまへば、「穴(あな)無慚(むざん)や、此(こ)こにも思はれける者を」と欲(おも)ひて、近く立(た)ち寄り、「物申さん」と云ふ。女童(めのわらは)走り出でて、「何(いづ)くより」と問ひければ、「本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)殿より、先々参り候ひし木工馬允(うまのじよう)なり」と申しければ、「御文は有るか。」「候ふ」とて指(さ)し上げたり。
 年来(としごろ)は恥(は)ぢて見えざりつる女房の、端(はし)近く指(さ)し出でて、文を取り上げ、此れを見たまへば、御文の奥に一首の歌を書かれたり。
 涙河憂名於奈加須身奈札止毛 今一入毛合瀬登裳加那
  〈涙河憂(う)き名をながす身なれども 今ひとしほも合ふ瀬ともがな〉
 急ぎて御返事有りければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)此れを披見(ひけん)しければ、此れも御文の奥に此(か)く計(ばか)り、
 君遊恵尓我毛憂名於流勢土毛 底能美久津土成怒辺幾哉
  〈君ゆゑに我も憂(う)き名を流せども 底のみくづと成りぬべきかな〉
 此(こ)の文を手箱(てばこ)の中に取つて置き、常に見てこそ〓(なぐさ)まれけれ。
 三位中将(さんみのちゆうじやう)、土肥(とひ)の次郎に言ひけるは、「彼(カカル)身にて旁(かたがた)其の憚り有れども、後世(ごせ)の礙(さはり)と成るべければ、申し候ふ所なり。一日(いちにち)の文の主を見候はばや」と言ひければ、「何(なに)か苦しく候ふべき」とて免し奉(たてまつ)る。
 三位中将(さんみのちゆうじやう)悦(よろこ)びたまひて、友時(ともとき)為(し)て車を尋ね、内裏へ遣(つか)はされければ、女房急ぎ来たりけり。武士共蔵(かく)れて見奉(たてまつ)れば、憚りて、車宿りに遣(や)り寄せ、簾を打(う)ち覆(おほ)ひ、手を取り組んで、来し方行く末の事共互ひに言ひ次(つづ)けたまひ、袂を絞(しぼ)られけり。人目を取つて忍びたまへども、音は車の外(ヨソ)まで聞えけり。裏(つつ)むに堪(た)えぬ涙は文簾に懸かる露と成る。
 中将(ちゆうじやう)言ひけるは、「幾月日(いくつきひ)をば重ぬとも、余波(なごり)は更(さら)に尽くし難(がた)し。当時は大路狼藉なり。夜も深(ふ)けなば悪(あ)しかりなん。疾々(とうとう)返らせ給へ」とて、御車(みくるま)を遣(や)り出だす。袖を引(ひ)かへて、三位中将(さんみのちゆうじやう)此(か)く計(ばか)り、
 蓬事毛露命毛諸共 今夜計登思加奈志左
   〈逢ふ事も露の命ももろともに 今夜(こよひ)計(ばか)りと思ふかなしさ〉
 女房取り敢(あ)へず、
  加幾梨登天立別那八露能身能 君与里左起忍消怒辺幾哉
   〈かぎりとて立(た)ち別(わか)れなば露の身の 君よりさきに消えぬべきかな〉
左手(トて)、出で給ふ。
 其の後は武士免し奉(たてまつ)らねば、対面も無かりけり。時々(ときどき)文計(ばか)りぞ通ひける。
P2497
十一 重衡(しげひら)、源空を請ひ、持戒せらるる事
 然(さ)る程に、左衛門尉(さゑもんのじよう)平の重国(しげくに)、讃岐(さぬき)へ渡り、平家の人々に院宣を付け奉(たてまつ)る。同じく廿七日、重国(しげくに)帰洛して、内大臣(ないだいじん)の返状(へんじやう)を申す。定長、院の御所へ参つて此(こ)の由(よし)を奏聞す。内大臣(ないだいじん)の返状(へんじやう)に云はく、
 勅定(ちよくぢやう)の上は、尤(もつと)も内侍所をば都へ入れ奉(たてまつ)るべしといへども、吾(わ)が君は高倉院の第一(だいいち)皇子(わうじ)、受禅(じゆぜん)有つて後已(スデ)に四ヶ年(しかねん)に及び給へり。而(しかる)に、謀臣の讒奏(ざんそう)に依(よ)つて、故清盛入道(にふだう)度々(どど)の奉公(ほうこう)を思食(おぼしめ)し忘れ、剰(あまつさ)へ当家を棄てさせ給ひ、源家を以つて責めらるべき由(よし)、風聞(ふうぶん)に及ぶ間、其の難を退かせたまふやとて、都を出でさせ給へり。若(も)し亡父(ばうふ)の奉公(ほうこう)を思食(おぼしめ)し忘れずは、御幸を西国へ成すべし。若(も)し然(さ)らば、西国の兵(つはもの)雲霞(うんか)の如(ごと)く集まつて、凶賊(きようぞく)を平らげん事疑ひ無(な)し。其の時、主上(しゆしやう)諸共(もろとも)に、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)都へ入れ奉(たてまつ)る事安かるべし。若(も)し会稽の恥(はぢ)を雪(すす)がずは、鬼界・高麗(かうらい)に至(いた)るまで落ち行き、遂(つひ)に異国の財(たから)とは成すとも、争(いか)でか重衡(しげひら)が命には替へ奉(たてま
つ)るべき。
とぞ申されける。
P2499
 三位中将(さんみのちゆうじやう)、出家の志(こころざし)を申されければ、「頼朝に見せて後に」と院宣を下されければ、重衡(しげひら)又土肥(とひ)の次郎に言ひけるは、「無心(むしん)の所望多く積もるといへども、最後の所望此(こ)の事のみに有り。善知識(ぜんぢしき)を請(しやう)じ奉(たてまつ)り、後世(ごせ)の事を申し誂(あつら)へばや」と云ひければ、「何(いか)なる聖人(しやうにん)ぞ」と問ひ奉(たてまつ)りければ、「法然房(ほふねんばう)」と仰せられければ、「安き事なり」とて、法然(ほふねん)上人(しやうにん)を呼び奉(たてまつ)る。
 中将(ちゆうじやう)、上人(しやうにん)に申されけるは、「南都を亡ぼすこと、重衡(しげひら)が所行(しよぎやう)なりと申し合はせて候へば、上人(しやうにん)も然(サ)ぞ思食(おぼしめ)され候ふらん。全(まつた)く其の儀は無(な)く候ふ。悪党(あくたう)多き中に、何(いか)なる者や火を出だしぬらん、一宇に付けて多くの伽藍(がらん)殄(ほろ)びたまひぬ。責(セメ)一人(いちじん)に帰(き)すとかや申すなれば、重衡(しげひら)一人が罪に成り、無間(むげん)の業(ごふ)疑ひ無(な)し。就中(なかんづく)、世に在(あ)りし時は、楽しみに奢(ホコ)り、後世(ごせ)を知らず。都を出でて後は、朝夕(あさゆふ)軍(いくさ)の出で立(た)ちのみ有つて、人を滅ぼし我が身を生(たス)からんとのみ欲(おも)ひ、大〓慢(だいけうまん)の外(ほか)従(ヨリ)は他事(たじ)無(な)し。今生(こんじやう)の悪業(あくごふ)を欲(おも)へば、未来(みらい)の苦報(クほう)疑ひ無(な)し。皆人の生身(しやうじん)の如来と仰ぎ奉(たてまつ)り候ふ上人(しやうにん)に再び見参(げんざん)に入ること、此れ然(しか)るべき善縁(ぜんえん)なり。出家は許
(ゆる)され無ければ、剃刀(かみそり)計(ばか)りを頂(いただ)きに当てて、戒(かい)を持(たも)ち度(た)く候ふ」と申されければ、上人(しやうにん)泣(な)く泣(な)く言ひけるは、「有難くこそ思食(おぼしめ)したれ。此(こ)の程までは、阿弥陀仏(あみだぶつ)は罪深き者に慈悲殊に深くして、恃(たの)みを懸けぬれば往生(わうじやう)を遂ぐ。名を唱(トナウ)れば往くへ易(やす)し。然(さ)れば『極重(ごくぢゆう)悪人(あくにん)無他(むた)方便(はうべん)、唯称(ゆいしよう)念仏(ねんぶつ)得生(とくしやう)極楽(ごくらく)』とも云(い)へり。又『一声(いつしやう)称念(しようねん)罪(ざい)皆除(ざいかいぢよ)』とも見え、『専称(せんしよう)名号(みやうがう)至(し)西方(さいはう)』とも述べたり。今は日来(ひごろ)の悪心(あくしん)を翻(ひるがへ)し、懺悔(さんげ)念仏(ねんぶつ)したまはば、往生(わうじやう)何の疑ひか有らん。凡(およ)そ世間の無常(むじやう)を見るに、厭(いと)ふべきは此(こ)の世、欣(ねが)ふべきは浄土なり。此(こ)の世界(せかい)の習ひ、長命(ちやうめい)栄花(えいぐわ)を感ずといへど
も、限り有れば磨滅に帰す。極楽(ごくらく)浄土の有様、無苦無悩(むくむのう)の所にして、永く生死(しやうじ)を離れたり。只(ただ)偏(ひと)へに心に懸けて帰命(きみやう)を至(いた)し、念仏(ねんぶつ)したまふべし」と教化(けうげ)に時を遷(うつ)ししかば、御頂(いただ)きに剃刀(かみそり)を当て、戒(かい)を授け奉(たてまつ)る。
 御布施(おんふせ)と覚(おぼ)しくて、如何(いかが)為(し)て取り落とされたりけるやらん、年来(としごろ)通ひたまひし侍(さぶらひ)の許(もと)に、雙紙箱(さうしばこ)の有りけるを、境節(をりふし)之(これ)を進(まゐ)らせたりければ、「早晩(いつしか)も御念仏(ねんぶつ)怠(おこた)らぬ御事なれども、此れを常に御目の前(まへ)に置きたまひ、御念仏(ねんぶつ)の次(つい)でには必ず思食(おぼしめ)し出ださるべし」とて、此れを奉(たてまつ)りければ、源空世にも哀(あは)れ気にて、墨染の袖をぞ絞(しぼ)り給ひける。「源空後生(ごしやう)をば訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)らんずれば、雖然(さりとも)と思食(おぼしめ)すべし」とて、黒谷へぞ帰られける。
P2503
十二 重衡(しげひら)、関東(くわんとう)下向の事
 又兵衛佐(ひやうゑのすけ)、重衡(しげひら)卿を申し請はれければ、三月十日、梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)奉(うけたまは)りて、此れを相(あ)ひ具して関東(くわんとう)へ下りけり。
 賀茂(かも)の河原(かはら)を打(う)ち通り、王城の方を見たまへば、然(さら)ぬだに猶(なほ)霞む空の、弥生(やよひ)の上(かミ)の十日なれば、涙に暮れて見も分かず。朝夕(あさゆふ)龍顔(りようがん)に近づきしかば、雲上(うんしやう)の交りも流石(さすが)に思ひ出でられて、都は此れを限りなりと、立(た)ち離れ給ひける余波(なごり)、云何(いか)に惜しかりぬらんと、推(お)し量られて哀(あは)れなり。遠山の花をば路に残し、見捨てて行くこそ悲しけれ。
 四の宮河原(がはら)の袖校(そでクラベ)・合坂山(あふさかやま)の真葛(サネかづラ)、人知らぬ路ならば、来ると誰かは思ふべき。大津(おほつ)・打出(うちで)を過ぎたまへば、友無(な)き千鳥の音信(おとづ)れけるを、吾(わ)が身の上と哀(あは)れなり。辛崎(からさき)の松・比叡(ひえ)の山、見るに付けても心細し。霞に陰(クモ)る鏡山、太々(いとど)涙に見えばこそ、比良(ひら)の高根に懸かる雲、伊吹(いぶき)の嵩(だけ)より下(おろ)(ヲロ)す風、吾(わ)が身に入つて思はれけり。美濃の中山(なかやま)・禁加(きんが)の里、身の行く末に有りと聞く、老薗(おいそ)の森にも近づきぬ。荒(あ)れて中々(なかなか)艶(やさ)しきは、不破(ふは)の関屋(せきや)の板日廂(いたびさし)、月の漏(も)るとは無けれども、間荒(まバラ)に今は成りにけり。玉の井の宿(しゆク)・黒田(くろだ)の宿、心の月の澄み渡り、思へば暗(ヤミ)の空なりけり。
 吾(わ)が身の尾(毛)張(をはり)悲しくて、熱田(アツた)の宮に参りつつ、「願はくは大明神、鎌倉へ付かしめたまはずして、道にて命を召したまへ」と、祈念の袖を合はせ給ふこそ、責めての事にやと哀(あは)れなり。何(いか)に鳴見(なるミ)の塩干方(しほひがた)、渡りに袖は絞(しぼ)りつつ、在原の業平(なりひら)が、「唐衣(からころも)著(き)つつ懐(ナレニ)し」と詠(なが)めける、三河の八橋(やつはし)にも付きぬれば、蜘手(くもで)に物をぞ思はれける。浜名(はまな)の橋をも過ぎければ、池田(いけだ)の宿にぞ付きたまふ。
 其の宿(しゆく)の長者に、侍従と云ふ遊君(いうくん)有り。元より情け有りまの遊女(いうぢよ)なりければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)の御心中推(お)し量(はか)りける哀(あは)れさに、
  旅空半臥乃小屋能伊布勢左忍 伊賀忍都野恋加留覧
   〈旅の空はにふの小屋(こや)のいぶせさに いかに都の恋しかるらん〉
左(と)、此れを読み遣(つか)はしたりければ、中将(ちゆうじやう)「此(こ)は何者ぞ。艶(やさ)しき者かな」と仰せられければ、梶原(かぢはら)の平三申しけるは、「此(こ)の宿の長者に侍従と申す君にて候ふ。此(こ)の君の事候ふぞかし。一年(ひととセ)、花見の為(ため)に都へ上つて候ひけるが、聊(いささ)かの事有つて、弥生(やよひ)十日余りに、吾(わ)が宿所(しゆくしよ)に罷(まか)り下りけるに、或(あ)る人の方より、『何(いか)に都の春を残して御下り候ふぞや。花を見棄てて帰る事、鴈(かり)一(ひと)つにも限らざりけり』と云ひ懸けられて、
  伊賀尓世無都乃春毛於志気礼土 奈礼志東乃華耶遅類羅無
   〈いかにせむ都の春もをしけれど なれし東(あづま)の華(はな)やちるらむ〉
左(と)、読み候ひし者なり」と申しければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)「然(さ)る事聞きしと覚えたり」とて、
御返事に此(か)く計(ばか)り、
  旧里毛恋志久毛奈志旅空 何毛遂乃寿美加奈良祢波
   〈ふるさとも恋しくもなし旅の空 いづくもつひのすみかならねば〉
左(と)、御返事有りければ、侍従、哀(あは)れに艶(やさ)しき事に思ひ、中将(ちゆうじやう)誅(ちゆう)されたまひて後、此(こ)の歌を見る毎(ごと)に、念仏(ねんぶつ)申し廻向(ゑかう)しけるとぞ聞えし。
 夜も已(すで)に明けければ、天龍河(てんりゆうがは)も渡り過ぎ、名古曾(なこそ)の関をも越えにけり。佐谷(さや)の中山(なかやま)中々(なかなか)に、露の命も恃(たの)み無(な)し。宇津(うつ)の山辺(やまべ)の〓(つた)の道、心の中は晴れねども、月も清見が関を過ぎければ、富士の裙野(すその)に到(倒)(つ)きにけり。「時知らぬ山は富士の根」と口〓(くちずさ)みてぞ過ぎられける。「恋為(せ)ば疲(ヤせ)ぬべし」と明神の謌(うた)ひ始め給ひけん足柄(あしがら)の関をも過ぎければ、小振(こゆるぎ)の磯・相模河・八松(やツまツ)が原・十神(トがみ)が原、此れ等も漸(やうや)く過ぎければ、鎌倉へこそ入りたまひぬ。
 梶原(かぢはら)参つて、「三位中将(さんみのちゆうじやう)已(すで)に入りたまひぬ」と申しければ、急ぎ対面有り。
 右兵衛佐(うひやうゑのすけ)殿言ひけるは、「頼朝父の恥(はぢ)を雪(すす)がんが為(ため)、君の御憤(いきどほ)(墳)りを慰(なぐさ)め奉(たてまつ)らんが為(ため)に、運を天に任せて大事を思ひ立つ処に、親(まのあたり)に右(カク)見参(げんざん)に入り候ひぬる事、如勇(ゆゆ)しき高名とこそ存じ候へ。此(こ)の定(ぢやう)では、八嶋(やしま)の大臣殿(おほいとの)にも見参(げんざん)に入り候ひぬと覚え候ふ」と言へば、三位中将(さんみのちゆうじやう)言ひけるは、「一族の運尽き、都を迷ひ出でし後は、骸(かばね)を山野(さんや)に曝(さら)し、名を西海(さいかい)に流すべく存じ候ひしかども、此(か)く罷(まか)り下る事、敢(あ)へて思ひも寄らざりき。但(ただ)し、世に住む習ひ、敵(かたき)に囚(とら)はるる事、恥(はぢ)にて恥(はぢ)ならず。『殿王(でんわう)は夏台(かたい)に囚(とら)はれ、文皇(ぶんわう)は項利(カウり)に取らる』と云ふ本文有り。大国(だいこく)の上古(しやうこ)猶(なほ)斯(か)くの如(ごと)し。況んや吾(わ)が朝の愚庸(ぐよう)においてをや。詮ずる所、御芳恩(ごはうおん)には疾々(とうとう
)頸を切らるべし」と言ひけり。
 右兵衛佐(うひやうゑのすけ)殿、道理(だうり)至極(しごく)の間、又打(う)ち返し言ひけるは、「御一門においては、私の意趣無(な)く候ふ。度々(たびたび)院宣を下されける上は、力無(な)き次第なり」と言ひけり。重衡(しげひら)卿其の後は、狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)にぞ預(あづ)け置かれける。
P2513
十三 惟盛、熊野参詣の事 付けたり 那智の〓に身を投げらるる事
 然(さ)る程に、権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛(これもり)は、与三兵衛(よさうびやうゑ)重景・石童丸(いしどうまる)、武里と云ふ舎人(とねり)を相(あ)ひ具して、讃岐(さぬき)の八嶋(やしま)を立(た)ち出でて、阿波国結城(ゆき)の浦より鳴戸の〓(おき)を漕ぎ渡り、和謌の浦・吹上の浜・玉津嶋(たまつしま)の明神・日前(にちぜん)・国玄(こくけん)の御前を思ひ遣(や)り、紀伊国由羅(ゆら)の湊(みなと)に著(つ)きたまふ。其れより古郷(ふるさと)へ還(かへ)り行き、恋しき人々をも見たく思食(おぼしめ)しけれども、本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう)の生きながら取らるるだにも心憂(こころう)きに、維盛(これもり)が身さへ憂(う)き名を流すべきかと、百度(ももたび)千度(ちたび)進めども、心に心を諌(いさ)められ、泣(な)く泣(な)く高野(詣)(かうや)へ参詣したまふ。
 三条(さんでう)の斎藤(さいとう)左衛門大夫(たいふ)茂頼(モチより)の子息(しそく)、斎藤(さいとう)瀧口(たきぐちの)時頼は、故小松の内大臣(ないだいじん)殿の侍(さぶらひ)にて、如勇(ゆゆ)しき武士と聞えしが、父、世に在(あ)る人の聟(むこ)に成さんと欲しけるを、時頼、横笛(よこぶえ)と云ふ美女(びぢよ)を思ひ棄てざりければ、父大きに此れを制す。時頼計らひ遣(や)りたる方も無(な)く、心中に思ひけるは、「父の命を背(そむ)けば不孝(ふかう)の罪業(ざいごふ)遁(のが)れ難(がた)し。親の心に随はば二世(にせ)の契り朽(く)ちぬべし。不如(しかじ)、次(つ)いでに出家して憂(う)き世の中を厭(いと)はんには」と、念(おも)ひの余りに出家して、五六年より以後(このかた)、此(こ)の山に籠(こも)り居て行ひける所に、尋ね入り給ひけり。
P2515
時頼入道(にふだう)、維盛(これもり)を見奉(たてまつ)り、肝魂(きもたましひ)も身に添(そ)はず、〓(あわ)て騒ぎ申しけるは、「云何(いかん)と為(し)て此れまでは御渡り候ふぞや。夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か、弁(わきま)へ難(がた)し」と申しながら、墨染の袖絞(しぼ)る計(ばか)りに泣きければ、維盛(これもり)言ひけるは、「都にて左(と)も右(かう)も成らずして、憖(なまじひ)に西国へ落ち下り、終(はて)は此(カカル)身に罷(まか)り成る。旧里(ふるさと)に留め置きし人より外には、心に懸かる事も無(な)し。世の中何と無(な)く〓(アヂキナ)き程に、大臣殿(おほいとの)『池の大納言の如(ごと)く、維盛(これもり)存知の旨有り』と思食(おぼしめ)され、打(う)ち解けたまはざる間、弥(いよいよ)此(こ)の世に心を留めず、俄(にはか)に八嶋(やしま)を立(た)ち出でて、出家の為(ため)に尋ね来たれり。古郷(ふるさと)へ還(かへ)り、今一度替らぬ質(すがた)も見え度(た)く思ひけれども、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の生きながら武士に取られ、京・鎌倉に恥(はぢ)を曝(さら)すだに悲しきに、維盛(これも
り)さへ父の死骸(しがい)に血を〓(あや)さんこと、口惜しう思ふ故(ゆゑ)に、只(ただ)一筋(ひとすぢ)に思ひ切つて、此(こ)の山にて髪を剃り、水の底に入らんと欲(おも)ふ」と言ひながら、涙更(さら)に掻き敢(あ)へず。時頼入道(にふだう)諸共(もろとも)に泣(な)くより外の事は無(な)し。
P2517
 [二重]\彼(か)の高野山(かうやさん)と申すは、是(こ)れ帝都を去つて二百里(じはくり)、青嵐(せいらん)梢(こずゑ)を鳴らし、音枕に響き、心〓(アヂキナ)し。京里(きやうり)を離れて無人声(むにんじやう)、白雲(はくうん)嶺(みね)に聳(そび)えける、色窓(まど)より見るに物静(サビ)し。
 時頼入道(にふだう)を先立てて、維盛(これもり)堂々(だうだう)を巡礼(じゆんれい)し、奥の院へ参詣し、大師の御廟(ごべう)を礼し奉(たてまつ)る。抑(そもそも)、彼(か)の大師の御入定(ごにふぢやう)は、去(スギニ)し仁明(にんみやう)天皇の御時、承和(しようわ)二年三月廿一日、寅(トラ)の一天(いつてん)の尅(こく)なりければ〈 仁明(にんみやう)天皇は嵯峨(さがの)天皇第二の御子に御(おは)します。 〉、過ぎにし方は三百余年の星霜(せいざう)なり。今行く末も遥かにして、五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんざい)を送りたまふべし。慈尊(じそん)の出世(しゆつせ)三会(さんゑ)の暁(あかつき)を待ちたまふらんこそ久しけれ。
P2520
 「維盛(これもり)が身は雪山(せつせん)の鳥の鳴くが如(ごと)く、今日(けふ)か明日かと思ふこそ悲しけれ」と言ひながら、泣きたまふこそ糸惜(いとほ)しけれ。其の夜は時頼入道(にふだう)の庵室(あんじつ)に留り、通夜(よもすがら)物語為(し)て、泣(な)くより外の事ぞ無(な)き。
 抑(そもそも)、聖(ひじり)の行儀(ぎやうぎ)を披見(ひけん)すれば、至極(しごく)甚深(じんじん)の床の上には真理(しんり)の珠(たま)をや磨くらん、夜と与(トモ)に聞く閼伽(あか)の音、聞くに心も澄み渡る。後夜(ごや)・晨朝(じんでう)の鐘(領)(かね)の声には、無明(むみやう)の睡(ねむ)りも覚(さ)めぬべし。遁(のが)れぬべくんば、右(かく)ても又有間慕(あらまホシ)くぞ覚(おぼ)されける。
P2521
 明けにければ、戒(かい)の師を請(しやう)じて出家の務め有り。維盛(これもり)、与三兵衛(よさうびやうゑ)・石童丸(いしどうまる)を召し寄せて言ひけるは、「維盛(これもり)こそ思ひ切つたれば此(カク)成るとも、己等(おのれら)は都へ立(た)ち還(かへ)り、身命(しんみやう)計(ばか)りを助くべし。」
 重景泣(な)く泣(な)く申しけるは、「父景康は平治の合戦の時、故大臣殿(おほいとの)の御供(おんとも)申し、義朝(よしとも)が郎等鎌田兵衛(かまだびやうゑ)に与(く)み合ひて、悪源太(げんだ)義平(よしひら)に討たれ候ひき。其の時に重景は二歳なり。母は七歳の年死去(しきよ)仕りぬ。然(しか)る間、哀(あは)れむべき人も無かりしを、故大臣殿(おほいとの)『吾(わ)が命に代る者の子なり』と仰せられて、殊に不便(ふびん)の事に思はれ奉(たてまつ)る。重景九歳の時、君御元服(ごげんぶく)の夜、忝(かたじけな)くも理髻(もとどり)を取り上げられ奉(たてまつ)り、『盛の字は平将軍貞盛より以来(このかた)、先祖重代の文字(もじ)なり。重の字は松王に給ふ』と仰せられて、重景と仰せを蒙(かうぶ)りき。又童名(わらはな)を松王と云はれしことは、『此(こ)の家をば小松と名づけたれば、祝(いは)ひて松王と云ふべし』とぞ仰せられき。彼(か)の御元服(ごげんぶく)の年より始めて君に召し仕はれ奉(たてまつ)り、今年(ことし)既(すで)に十七年に罷(まか)り成る。一日片時(いちにちへんし)も相(あ)ひ離れ奉(たてまつ)らず奉公(ほうこう)
仕りき。故大臣殿(おほいとの)の御遺(遣)言(ごゆいごん)にも『能々(よくよく)重景よ、宮仕へて少将(せうしやう)殿の御心に違ふこと勿(なか)れ』と仰せを蒙(かうぶ)りき。君に後(おく)れ奉(たてまつ)りて後は、重景争(いかで)か世に有るべき」と、自(みづか)ら理髻(もとどり)推(お)し切り、時頼入道(にふだう)に剃らせけり。
 此れを見て、石童丸(いしどうまる)も髪を切つて剃りにけり。此(こ)の童(わらは)も八歳(はつさい)より中将(ちゆうじやう)殿に属(つ)き奉(たてまつ)り、今年(ことし)已(すで)に十一年なり。此れも不便(ふびん)の仰せを蒙(かうぶ)りしかば、重景が思ひにも相(あ)ひ劣らず。
 此(こ)の者共が維盛(これもり)に先立つて髪を剃るを御覧じて、三位中将(さんみのちゆうじやう)涙も更(さら)に擺(か)き敢(あ)へず。戒(かい)の師已(すで)に三宝(さんぽう)を礼して、「流転三界中(るてんさんがいちゆう)、恩愛(おんあい)不能断(ふのうだん)、棄恩入無為(きおんにふむゐ)、真実報恩者(しんじつほうおんじや)」左(と)、三度唱(とな)へて、御髪(みグシ)を剃り除(おろ)す。三位中将(さんみのちゆうじやう)・与三兵衛(よさうびやうゑ)共に以つて二十七歳(にじふしちさい)、石童丸(いしどうまる)は十八なり。
 維盛(これもり)、武里に仰せられけるは、「吾(われ)死去(しきよ)の後、汝は都へ行くべからず。維盛(これもり)失せぬる由(よし)、北の方此れを聞かば、思ひに絶えずして形(戒)勢(さま)を替へん事も糸惜(いとほ)し。少(をさな)き者共(ども)の恋ひ悲しまんことも不便(ふびん)なり」と言ひながら、涙を流したまひけり。又泣(な)く泣(な)く言ひけるは、「此れより八嶋(やしま)へ還(かへ)つて、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛(すけもり)・左中将(さちゆうじやう)有盛に申すべし。抑(そもそも)、唐革(からかは)と云ふ鎧、小烏(こがらす)と云ふ太刀(たち)有り。当家には嫡々相(あ)ひ伝へて維盛(これもり)に至(いた)るまで八代なり。彼(か)の鎧・太刀(たち)をば肥後守(ひごのかみ)が許(もと)に預け置けり。此れを取り寄せて、三位中将(さんみのちゆうじやう)殿に奉(たてまつ)るべし。若(も)し世の中不思議(ふしぎ)にも立(た)ち直る事も有らば、六代に給ふべし」とぞ言ひける。
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 維盛(これもり)泣(位)々(ナクナク)其れよりして熊野へ参られけり。時頼入道(にふだう)も諸共(もろとも)に山臥(やまぶし)修行(しゆぎやう)の有様為(し)て、紀伊国山頭(さんどう)と云ふ所へ出で、藤代(ふぢしろ)の王子(わうじ)より参詣有つて、千里(ちり)の浜の南、岩代(いはしろ)の王子(わうじ)の程にて、狩装束(かりしやうぞく)の者共七八騎(しちはつき)計(ばか)り行き合ひたり。搦め取らるべきかと思食(おぼしめ)しければ、腰の刀を抜いて腹を切らんと欲(す)。御共(とも)の人々も同じく刀に手を懸けけり。然(しか)るに、彼等下馬(げば)しながら深く恐れて通りければ、「吾(われ)を見知りたる者にこそ。誰人ならん」と、浅猿(あさまし)く思食(おぼしめ)しける処に、湯浅権守(ごんのかみ)入道(にふだう)宗重の子息(しそく)、湯浅の次郎兵衛(じらうびやうゑ)宗光なり。郎等共、「此(こ)の山臥(やまぶし)は何人(なにびと)にて候ふ」と問へば、宗光答へけるは、「此れこそ小松の大臣の御子、権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)殿よ。何と為(し)て八嶋(やしま)よりは漏(も)り出でさせ給ひぬらん。御前に参り見参
(げんざん)に入るべけれども、憚り思食(おぼしめ)すべしと存じつる間、知らぬ様にて罷(まか)り過ぎぬ」と語りながら、袖を顔に当てて泣(な)く。郎等共も泣き逢へり。
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 漸(やうや)く日数を経(ふ)る間(ママ)に、岩田河にぞ著(つ)きたまふ。三位中将(さんみのちゆうじやう)言ひけるは、「抑(そもそも)、此(こ)の河を渡る者は、悪業(あくごふ)煩悩(ぼんなう)、無始(むし)の罪障(ざいしやう)消滅(しやうめつ)すと。此れを聞けば、只今(ただいま)渡るも恃(たのも)しきよ」とぞ言ひける。然(さ)る程に、本宮證誠殿(しやうじやうでん)に参り、御前に突い跪(ひざまづ)き、父大臣の「命を召して後生(ごしやう)を助けたまへ」と申されし事、思ひ出でては哀(あは)れなり。「證誠(しやうじやう)一所(いつしよ)は本地(ほんぢ)弥陀如来、本願(ほんぐわん)誤たず西方(さいはう)浄土へ引接(いんぜふ)し、旧里(ふるさと)に留め置きし妻子安穏に守らせ給へ」と祈るぞ哀(あは)れなる。誠に、生死(しやうじ)を厭(いと)ひ菩提(ぼだい)を欣(ねが)ふ人、尚(なほ)妄執(まうじふ)は尽きず。
 既(すで)に本宮を出で、苔路を差(さ)して新宮へ伝ひ、雲取(くもとり)・鹿の峯と云ふ嶮(けは)しき山を外(よそ)に越えて見、那知(なち)の御山(おやま)へ参りたまふ。三所の参詣事由(ことゆゑ)無(な)く遂げられ畢(をは)んぬ。
 三月廿八日、御船に召して遥かの〓(おき)に艚(こ)ぎ出だしければ、妻子の事共は思ひ切つたれども、恩愛(おんあい)の習ひ猶(なほ)心に懸かつて思食(おぼしめ)されけり。春の天既(すで)に暮れて、海の面に霞散
り、沽洗(こせん)時移り、風和(やは)らかなる比(ころ)(此)、〓(おき)漕ぐ釣船の波の底に入るかと見ゆるに付けても、吾(わ)が身の上かと思食(おぼしめ)して、弥(いよいよ)無常(むじやう)の思ひを作(な)し、此路(こしぢ)へ帰る鴈(かり)の音連(おとづ)れ渡るを聞いても、玉章(たまづさ)を事告(ことヅ)けたくぞ思食(おぼしめ)されける。
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 良(やや)久しくあつて、思ひ直して西に向かひ、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)唱(とな)へたまへども、尚(なほ)旧里(ふるさと)の事を思ひ出だして、泣(な)く泣(な)く言ひけるは、「只今(ただいま)を維盛(これもり)が最後とも知らずして、音信(おとづれ)をこそ聞慕(きかまほ)しく欲(おも)ふらめ。糸惜(いとほ)し糸惜(いとほ)し。」又念仏(ねんぶつ)を留めて言ひけるは、「人の身に妻子をば持つまじかりける者かな。今生(こんじやう)に物を思は為(す)るのみに非(あら)ず、来世(らいせ)の菩提(ぼだい)の妨(さまた)げと成る。吾(われ)髪を剃り除(おろ)して菩提(ぼだい)の道に入れども、尚(なほ)(ナヲ)妄執(まうじふ)尽きざりければ、本宮證誠殿(しやうじやうでん)の御前にて、旧里(ふるさと)に留め置く妻子安穏にと祈り奉(たてまつ)る事、浅猿(あさまし)浅猿(あさまし)。思ふ事を身の内に込めて開かざれば、罪深き故(ゆゑ)に、此(か)くの如(ごと)く懺悔(さんげ)するなり。」
 此れを聞いて、時頼入道(にふだう)涙を押へて申しけるは、「恩愛(おんあい)の道は上下(じやうげ)を論ぜず、貴賤を云はず、其の思ひ一(ひと)つなり。一夜(いちや)の枕を傾け契るだに、猶(なほ)是(こ)れ五百生(しやう)の宿縁なり。況んや一期(いちご)の眤(ムツビ)をや。凡(およ)そ夫と為(な)り妻と為(な)ること、今生(こんじやう)一世(いつせ)の事にも非(あら)ず。多生曠劫(たしやうくわうごふ)の約束(やくそく)なり。然(さ)れども、生者必滅(しやうじやひつめつ)は娑婆(しやば)の定まれる理(ことわり)、会者定離(ゑしやぢやうり)は閻浮(えんぶ)の常の習ひなり。縦(たと)ひ遅速(ちそく)有りとも遂(つひ)に一度は別(わか)るべし。詮ずる所、一仏(いちぶつ)浄土の縁を願ひ給ふべきなり。彼(か)の第六天(だいろくてん)の魔王(まわう)は欲界(よくかい)の六天(ろくてん)を領じて、其の中の衆生(しゆじやう)の、生死(しやうじ)を離れ、仏道(ぶつだう)を成さんことを惜しむ故(ゆゑ)に、諸方便(しよはうべん)を廻(めぐ)して此れを妨(さまた)ぐる。中にも妻子と云ふ外道(げだう)は、殊に生死(しやうじ)を離れぬ紲(きづ
な)なり。此れに依(よ)つて、仏も深く戒(いまし)め給へり。但(ただ)し、其の妄念(まうねん)絶えずといへども、御信心(ごしんじん)実(まこと)有らば、必ず生死(しやうじ)を離れ御座(おはしま)すべし。昔、伊与(いよ)入道(にふだう)頼義(よりよし)は、十二年の合戦に人の頭を剪(キ)ること一万五千人、山野(さんや)の禽獣(きんじう)・江河(がうが)の鱗(うろくづ)の命を絶つこと幾千万(いくせんまん)といふことを知らず。然(さ)れども、一度(ひとたび)菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)し、弥陀の名号(みやうがう)を唱(とな)へ奉(たてまつ)るに依(よ)つて、往生(わうじやう)することを得(え)たりと申し伝へて候ふ。此れ躰(てい)の悪人(あくにん)尚(なほ)往生(わうじやう)を遂ぐるに、況んや君強(あながち)に罪業(ざいごふ)を造り給はず。其の上出家の功徳(くどく)有(まし)ます。争(いかで)か御往生(わうじやう)无(な)からんや。就中(なかんづく)、弥陀如来は十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)を嫌はず、名号(みやうがう)を唱(とな)ふれば必ず引摂(いんぜふ)を垂れたまふ。然(さ)れば則(すなは)ち、只今(ただいま)
の御念仏(ねんぶつ)に依(よ)つて、弥陀如来、廿五の菩薩を引き具し、西方(さいはう)浄土より此(こ)の所へ来迎(らいかう)し、観音・勢至(せいし)も紫金台(しこんだい)を捧げ、君を乗せ奉(たてまつ)らんずれば、滄海(さうかい)の底に沈むと思食(おぼしめ)すとも、紫雲(しうん)の上に登り、遂(つひ)に浄土に往生(わうじやう)したまひ、娑婆(しやば)の旧里(ふるさと)に還来(げんらい)し、恋しき人々をも迎へ取り奉(たてまつ)るべし」と教化(けうげ)し奉(たてまつ)れば、維盛(これもり)入道(にふだう)忽(たちま)ちに妄心(まうしん)を翻(ひるがへ)し、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)したまひつつ、即(やが)て海に入りにけり。
 与三兵衛(よさうびやうゑ)・石童丸(いしどうまる)も次(ツヅヒ)て海へぞ入りにける。
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 舎人(とねり)武里も此れを見て、悲しさの余りに海に入らんと擬(ギ)しければ、時頼入道(にふだう)申しけるは、「何(いか)に御遺言(ごゆいごん)をば違ふるぞ。下臈(げらふ)の身計(ばか)り口惜しき事は無(な)し」と之(これ)を恥(はぢ)しむる間、泣(なくな)く思ひ留まつて、只(ただ)臥(ふ)し辷(まろ)びて泣き叫ぶ。是(こ)れを物に譬(たと)ふれば、悉達太子(しつだたいし)の王宮(わうぐう)を出でて檀徳山(だんどくせん)に入りたまひしに、舎〓(しやのク)舎人(とねり)が太子(たいし)に別(わか)れ奉(たてまつ)る歎きも、此れには過ぎじとぞ覚えける。
 時頼入道(にふだう)も泣き悲しめば、墨染の袖も絞(しぼ)り敢(あ)へず。彼(か)の人々若(も)し浮き上がりたまふかと、しばし之(これ)を見る程に、三人ながら水の底に淪(しづ)み、遂(つひ)に見えたまはず。日も漸(やうや)く暮れければ、海の面も見えざりけり。時頼入道(にふだう)空しき船に棹(サヲサ)し、泣(な)く泣(な)く岸へぞ漕ぎ還(かへ)る。櫂(かい)の滴(シヅク)と袖の〓(シタタリ)と、何(いづ)れも劣らずぞ見えたりける。時頼入道(にふだう)は高野山(かうやさん)へ帰る。武里は御遺言(ごゆいごん)に任せて、八嶋(やしま)へ還(かへ)り、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)殿に申しければ、資盛(すけもり)「穴(あな)心憂(こころう)や。吾(われ)に知らせず、此(か)く成りたまひぬる事の恨めしさよ」と泣きたまふ事限り無(な)し。然(さ)る程に、源氏、八嶋(やしま)を迫(せ)めんと欲(し)けれども、船無ければ、土肥(とひ)の二郎実平(さねひら)・梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)を以つて、播磨・美作(みまさか)・備前・備中・備後(びんご)等を守護せしめ、山陽道を守る。平家は西国及び九国(くこく)二嶋(じ
たう)を管領(くわんりやう)す。
 同じき三月廿九日、三河守(みかはのかみ)範頼(のりより)大将軍と為(し)て、数万騎の軍兵(ぐんびやう)を引率して、西国へ下向しける程に、室(むろ)・高砂に留まり居て、遊君(いうくん)・遊女(いうぢよ)を召し集め、遊戯(いうゲ)を宗(むね)と為(し)て日を送る間、国の費(つひ)え民の煩ひ限り無(な)し。
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 同じき十一月廿八日、梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)、竊(ひそか)に九郎判官(はうぐわん)の許(もと)に参向して申しけるは、「三河守(みかはのかみ)殿大将軍と為(し)ては、年月を経(ふ)といへども、更(さら)に平家を迫(せ)め落とすべからず。君は次将、吾(われ)等は末将なり。数万騎の軍兵(ぐんびやう)を以つて八嶋(やしま)の館へ押し寄せ、怱(いそ)ぎ平家を打(う)ち落とさん」と申しければ、義経言ひけるは、「鎌倉殿より大将軍の仰せを蒙(かうぶ)らざれば、争(いか)でか兄三河守(みかはのかみ)を越えて八嶋(やしま)を迫(せ)むべきや。其の儀有らば、汝子息(しそく)一人関東(くわんとう)へ差(さ)し下し、事の子細を申さるべし」。
 義経の命に依(よ)つて、景時(かげとき)の甥(をひ)生田(いくた)の次郎景幹(かげもと)、関東(くわんとう)へ下さる。鎌倉殿子細を聞食(きこしめ)されて言ひけるは、「範頼(のりより)合戦の道を延引(えんいん)せしめければ、自今(じこん)以後(いご)においては、九郎冠者(くわんじや)を大将軍と為(せ)よ。実平(さねひら)には頼朝が旗を差(さ)し、軍(いくさ)の成敗を加へ、平家を亡ぼすべし」。但(ただ)し、関東(くわんとう)守護の為(ため)、留め置く所の武士等、重ねて鎌倉より差(さ)し遣(つか)はす輩は、足利の蔵人(くらんど)義兼(よしかね)〈 源氏 〉・北条の小四郎(こしらう)義時(よしとき)・千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)・同じく新介胤将(たねまさ)・同じく大須加(おほすが)の四郎胤信・嫡孫(ちやくそん)小太郎成胤(しげたね)・同じく堺の平次郎(へいじらう)常秀・武石(たけいし)の次郎胤重・三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)・同じく子息(しそく)平六(へいろく)義村(よしむら)・八田(はつた)の四郎武者朝家(ともいへ)・同じく太郎朝重・葛西(かさい)の三郎(さぶらう)清重・小山(をやま)の小四郎(
こしらう)兵衛朝政(ともまさ)・同じく長沼(治)(ながぬま)の五郎宗政・同じく結城(ゆふき)の七郎朝光(ともみつ)・比企(ひき)の藤四郎(とうしらう)能員(よしカズ)・和田(わだ)の小太郎義盛・同じく三郎(さぶらう)宗実・同じく四郎義胤・大多和(おほたわ)の次郎義成(よしなり)・安西(あんざい)の三郎(さぶらう)景益・小太郎明景・工藤(くどう)の一臈(いちらふ)祐経(すけつね)・同じく三郎(さぶらう)祐茂(すけもち)・伊豆の藤内(とうない)遠景・一品坊(いつぽんばう)昌寛(しやうくわん)・土佐坊(とさばう)昌俊(しやうしゆん)等是(こ)れなり。

源平闘諍録 巻第八下