栄花物語詳解巻十四
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〔栄花物語巻第十四〕 あさみどり
二月になりぬれば、大(おほ)殿(との)の尚侍殿内(うち)へ参(まゐ)らせ給(たま)ふ。よろづの事(こと)整(ととの)へさせ給(たま)へり。大人(おとな)四十人(にん)・わらは六人(にん)・下仕(しもづかへ)同(おな)じかずなり。始(はじ)めの宮々(みやみや)摂政殿などに、皆(みな)人々(ひとびと)参(まゐ)りて、いまはえしもと思(おぼ)し召(め)しつれど、いづれもはぢなき人々(ひとびと)多(おほ)く参(まゐ)りこみたり。わらはゝ其(そ)のよ車(くるま)よするまでえり整(ととの)へさせ給(たま)へる推(お)し量(はか)るべし。ふた宮(みや)の御参(まゐ)りのおりの事(こと)をぞ、よがたりに人々(ひとびと)聞(き)こえさすめるを、これはいま少(すこ)しまさりたる世(よ)の中(なか)の。人(ひと)の御をきてきのふに今日(けふ)はまさりてのみみゆるわざなれば、よろづそれにしたがひてめでたし。御門(みかど)の御有様(ありさま)よりは、かんのとのこよなく大人(おとな)びさせ給(たま)へり。御かたちいみじうおかしげにあいぎやうづきいろあひより始(はじ)めなべてならずみえさせ給(たま)ふ。御ぐしいみじうめでたくて、御たけにすこしぞあまらせ給(たま)へる。上(うへ)の御(お)前(まへ)の御(み)髪(ぐし)より始(はじ)め。ふた宮(みや)の御(み)髪(ぐし)よにたぐひなうながくめでたくおはしますに、この御(お)前(まへ)をぞこころもとなげに思(おぼ)し召(め)したるに、これもいと美(うつく)しげにぞおはします。やへかうばいつゆかかりながら、をし
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おりたるやうなるにほひなり。いづれの物語(ものがたり)にかは。人(ひと)の御むすめ女御(にようご)后(きさき)を、悪(わろ)しと聞(き)こえさせたる。其(そ)のなかにもこの御(お)前(まへ)達(たち)は。御かたちこそさもおはしまさめ。御こころをきて有様(ありさま)などいかでかうこたいならずいまめかしうさりとてはしちかになとやはおはします。いかでかう様々(さまざま)めでたくおはしますにかとみえさせ給(たま)ふ。まいておはしましあつまらせたまへるおりは。ゑをかきたるもかたくなしきまじりたり。これは聞(き)こえさせんかたなくおはしませば、とのも上(うへ)も御めほかへやらせ給(たま)はず。まぼり奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。かくて参(まゐ)らせ給(たま)へれば、御しつらひ有様(ありさま)など例(れい)のおどろ<しうたまを磨(みが)きたてさせ給(たま)へり。御門(みかど)いと若(わか)くおはしましていかゞと世(よ)の人(ひと)聞(き)こえ思(おも)へり。さき<”もおぼつかなからず見(み)奉(たてまつ)りかはさせ給(たま)へる御(おん)中(なか)なれど、かんのとのは。さしならび奉(たてまつ)らせ給(たま)はん事(こと)を、かたはらいたく思(おぼ)し召(め)して、御門(みかど)はひたみちに恥(は)づかしう思(おぼ)し召(め)しかはす。しぶ<にのぼらせ給(たま)へるは、よるのおとどにいらせ給(たま)ふ程(ほど)、いみじう慎(つつ)ましうわりなう思(おぼ)し召(め)されて、いかにもうごかでゐさせ給(たま)へれば、近江(あふみ)の三位参(まゐ)りて、あなものぐるをしなどかうてはとて御帳のもとにおはしまさすれば、上(うへ)をきゐさせ給(たま)ひて、御そでをひかせ給(たま)ふ程(ほど)。かんのとのむけにしらせ給(たま)はざらん中よりもまばゆく恥(は)づかしく思(おぼ)し召(め)さるべし。さていらせ給(たま)ひぬれば、とのの上(うへ)おはしまして、御ふすま参(まゐ)らせ給(たま)ふ程(ほど)げにめでたき御有様(ありさま)
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にて、理(ことわり)にみえさせ給(たま)ふ。いらせ給(たま)ひて後(のち)の事(こと)はしりがたし。御乳母(めのと)達(たち)。み帳のあたりに候(さぶら)ふ。とのの御(お)前(まへ)よろづおぼしつゞくるに、ゆゝしうて御めのごはせ給(たま)ふ。暁(あかつき)にはおりさせ給(たま)ふ。さて夜頃(ごろ)のぼらせ給(たま)ひて、よき日してあへい事(こと)ども、物せさせ給(たま)ふ。御乳母(めのと)達(たち)の贈(おく)り物(もの)の上(うへ)の女房(にようばう)たち。女官までものたまはすれば、よろこびかしこまりて、祈(いの)り申しつゞくるもおかしくなん。をそくのぼらせ給(たま)ふおりは、よふくるまでおはしまして、まちつけ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ程(ほど)なとこそ、猶(なほ)心(こころ)異(こと)におはしますわざなめれ。御方(かた)に渡(わた)らせ給(たま)へれば、ならひ聞(き)こえさせ給(たま)へる程(ほど)、殊(こと)の外(ほか)にいかにと世(よ)人(ひと)も申を、かんのとのもとよりさゞやかに人(ひと)ざま若(わか)うおかしげにおはしませば、なすらひに美(うつく)しうみえさせ給(たま)ふ。上(うへ)あさましうおよすけさせ給(たま)へり。おはしまして御ぐしのはこのうちより始(はじ)め。よろづをさがし御覧(ごらん)ずるに、いとおかしうみどころありて、けうせさせ給(たま)ふ。み調度(てうど)ゞもめでたうおかしきをぞ。明(あ)け暮(く)れの御あそびに御覧(ごらん)じける。かんのとのは猶(なほ)いと恥(は)づかしう人目(ひとめ)おぼしたれど、上(うへ)はいとようむつひ聞(き)こえさせ給(たま)ふ程(ほど)もおかしくなん。斯(か)かる程(ほど)に故あはた殿(どの)の姫君(ひめぎみ)は今はむけに大人(おとな)になりはて給(たま)へれば、はゝ北(きた)の方(かた)いかでわがあるおりに、頼(たの)もしうさるべき様(さま)にみをき奉(たてまつ)らんとおぼし宣(のたま)へど、さべき事(こと)のめ安(やす)きかあるべきにもあらず。さりとてなべての事(こと)をあり<てすべきにもあらず。いかにせましとおぼし煩(わづら)ふ程(ほど)に、このかんのとのよりせち
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に度々(たびたび)御消息(せうそく)聞(き)こえさせ給(たま)ふ。何(なに)かと思(おぼ)すべきにもあらず、つれ<”の慰(なぐさ)めにかたらひ聞(き)こえさせむとぞある。とのの上(うへ)の御消息(せうそこ)聞(き)こえさせ給(たま)ふを、この北(きた)の方(かた)いかにせまじとおぼし乱(みだ)れて姫君(ひめぎみ)にをのが行末(ゆくすゑ)も残(のこ)りすくなければいかにも<して、いかでうしろ安(やす)くと思(おも)ひ聞(き)こえさすめるに、かのわたりにせちに宣(のたま)はすめるを、いかゞ思(おぼ)すと聞(き)こえ給(たま)へば、姫君(ひめぎみ)ともかくも宣(のたま)はで、うちそばみてゐ給(たま)へるを、見(み)奉(たてまつ)り給(たま)へば、御涙(なみだ)のこぼるゝなりけり。北(きた)の方(かた)いとどせきもあへ給(たま)はず、あかき宮(みや)これをよき事(こと)ゝてにはあらず、人(ひと)のせちに宣(のたま)ふ事(こと)なれば、故とのうた物語(ものがたり)をかき御調度(てうど)をしまうけてまち奉(たてまつ)り給(たま)ひしかど、御かほをだにも見(み)奉(たてまつ)り給(たま)はずなりにし事(こと)と言(い)ひつゞけなき給(たま)へば、御(お)前(まへ)なる人々(ひとびと)もゆゝしきまでなきあへる程(ほど)に、二位(にゐ)宰相(さいしやう)参(まゐ)り給(たま)へり。北(きた)の方(かた)この事(こと)どもを聞(き)こえ給(たま)へば、宰相(さいしやう)うちなき給(たま)ひて、かかる事(こと)なんいと苦(くる)しう侍(はべ)る。いたうとれはと言(い)ふやうに、故とのの御こころをきてのまゝにてはあへておぼしかくべきにはあらねど。いまの世(よ)の事(こと)いと様(さま)殊(こと)になりにて侍(はべ)れば、かくせちに申(まう)させ給(たま)ふを、いなともはへらばなにがしなどがためこそひなう侍(はべ)らめ。この御有様(ありさま)のつぐべき世ともみえ侍(はべ)らねば、人(ひと)のためよき事(こと)はかたうあしき事(こと)は安(やす)くなんなど聞(き)こえ給(たま)へば、北(きた)の方(かた)さる事(こと)なりとおぼしたちて、あるべき事(こと)ゝ定(さだ)め給(たま)ふに、宰相(さいしやう)
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大人(おとな)十人(にん)・わらは二人(ふたり)下仕(しもづかへ)さやうにてあへ侍(はべ)りなん。帥(そち)殿(どの)の御方(かた)、大宮(おほみや)に参(まゐ)り給(たま)ひし、さやうになん聞(き)き給(たま)ふべしと申し給(たま)ひて、なびき聞(き)こえ給よしの御かへり聞(き)こえ給(たま)ひつ。姫君(ひめぎみ)をみやり奉(たてまつ)り給(たま)へば、いとちいさやかにさゞやかにて、しだりやなきたちてゐ給(たま)へる。御調度(てうど)ゞもは故とのの様々(さまざま)しまうけ給(たま)ひしどもゝあめり。しろがねの御ぐしのはこさへあるこそとて、またなき給よに限(かぎ)りなき御御門(みかど)こそ思(おも)ひ給(たま)ひけめとて、またなき給(たま)ひぬ。よろづものの例(ためし)めきぬ。あはれなる事(こと)どもかな。かくて宰相(さいしやう)いで給(たま)ひぬ。大(おほ)殿(との)にはこの御かへりを御覧(ごらん)じてければ、よろこびながら人(ひと)の御身にいるべきもの。様々(さまざま)大人(おとな)しきまで奉(たてまつ)れさせ給(たま)へれば、さはかうにこそとは急(いそ)ぎ立(た)たせ給(たま)ふにつけても、北(きた)の方(かた)ともすれば、いやめなるちごどものやうにうちひそまれ給(たま)ふ。堀河(ほりかは)のおとどにかかる事(こと)なんあると申し給(たま)へば、すべてまつにものなの給そ。何事(なにごと)もおぼえ侍(はべ)らずと言(い)ふかひなき御いらへなり。かくて故との度々(たびたび)夢(ゆめ)にみえさせ給(たま)ふもののけにもいで給ふなどすれど、さりとておぼしとまるべき事(こと)にもあらぬを、姫君(ひめぎみ)いでやあまにやなりなましなど人(ひと)しれずおぼしみだるれど、まめやかなる御こころなどのあめるに、またいまさらにけしからぬやうにやはと思(おぼ)すも哀(あは)れになん。其(そ)のよになりて、二位(にゐ)宰相(さいしやう)頭中将(ちゆうじやう)など参(まゐ)りあつまり給(たま)ふ。また昔(むかし)より志(こころざし)ありて、したう思(おぼ)されし。
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これかれなど参(まゐ)れり。御こころむかへには。大納言(だいなごん)殿(どの)の御車(くるま)をぞゐて参(まゐ)れる。これを御急(いそ)ぎとおぼし急(いそ)ぐにつけても、世(よ)の中(なか)のあはれぞまづ知(し)られける。さて参(まゐ)らせ給(たま)へれば、二条(にでう)とのの御方(かた)とて、いみじうかしづきすへ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、たは安(やす)くとのの君達(きんだち)参(まゐ)り給(たま)はず、いとやんごとなきものに、もてなし聞(き)こえ給(たま)ふ。この御参(まゐ)りをばさるものにて帥(そち)殿(どの)の姫君(ひめぎみ)の御参(まゐ)りあはれなる事(こと)ぞかし。すべてこのとのの御えだ<に、つゆかかり給(たま)はぬ人(ひと)なくなりはて給(たま)ひぬ。@@03 「昨日(きのふ)の淵(ふち)ぞ今日(けふ)の瀬(せ)となる」 [かな: きのふのふちぞけふのせとなる ] B03と言(い)ふもまことゝみえたり。一条(いちでう)宮(みや)には。御(お)前(まへ)のさくらのをそき事(こと)を御(お)前(まへ)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて、こころもとなき事(こと)におぼし宣(のたま)はすれば、土御門(つちみかど)の御(み)櫛笥(くしげ)殿(どの)
@さきさかずおぼつかなしやさくらばなほかのみるらん人(ひと)にとはばや W156。
べんの乳母(めのと)
@大方(おほかた)のさくらもしらずこれを唯(ただ)まつよりほかの事(こと)しなければ W157。
べんの乳母(めのと)其(そ)のころ里(さと)にまかつるに、三条(さんでう)院(ゐん)の前(まへ)を渡(わた)れば、こだかかりしまつのこずゑもすこしいろかはりて、心地(ここち)よげなり。ついひぢには何(なに)となきもの。繁(しげ)うはひかかりたれば、いみじう哀(あは)れに昔(むかし)思(おも)ひいでられて、こぢじうの君(きみ)の里(さと)にあるに言(い)ひやる。車(くるま)とどめたる程(ほど)も過(す)ぎておかしきに
@昔(むかし)みしまつのこずゑはそれながらむぐらはかどをさしてげるかな W158。
かへし小侍従の君(きみ)
@君(きみ)なくてあれまさりつゝむぐらのみさすべきかどと思(おも)ひかけきや W159
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三月廿日の程(ほど)に一条(いちでう)宮(みや)にさくら参(まゐ)らせてだうめいあざり
@いかならんきかばやしでの山(やま)ざくら思(おも)ひこそやれ君(きみ)がゆかりに W160。
とあれば中将(ちゆうじやう)の乳母(めのと)かへし
@君(きみ)ゆへは悲(かな)しきけさのにほひかないかなるはるかは猶(なほ)おりけん W161。
かくてとのの中将(ちゆうじやう)此(こ)の頃(ごろ)十五ばかりにおはする。御かたちいと美(うつく)し。年(とし)頃(ごろ)とのの上(うへ)のとりわき御(み)子(こ)にし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御おぼえなども心(こころ)異(こと)なるを、只今(ただいま)いみじき人(ひと)の御むこの程(ほど)におはすれば、さやうに思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ひにたり。おほかへけれどえさしもあらぬに、侍従中納言(ちゆうなごん)のむかひばらの姫君(ひめぎみ)十二ばかりなるを、またなう思(おも)ひかしづき給(たま)ふ。むまれ給(たま)ひけるより心(こころ)異(こと)におぼしをきてたりけるを、この中将(ちゆうじやう)の君(きみ)をさてあらせ奉(たてまつ)らばやとおぼして、さるべきたよりして、とのの御けしき給(たま)はらせ給(たま)へば、ひいなあそびのやうにておかしからんと宣(のたま)はせて、にくげならぬ御けしきを伝(つた)へ聞(き)き給(たま)ひて、とのも北(きた)の方(かた)も、いみじう嬉(うれ)しうおぼして、にはかに急(いそ)ぎたち給(たま)ふ。年(とし)頃(ごろ)も何(なに)をかしづきぐさにおほひたりつればさるべき御調度(てうど)ゞもはあれど、唯(ただ)あざやかに御帳御几帳(きちやう)のかたびらばかりをせさせ給(たま)ふ。さるべき若(わか)き人々(ひとびと)のなり整(ととの)へて、三月廿余(よ)日(にち)におぼし定(さだ)めたるに、其(そ)の日いはしみづの臨時(りんじ)の祭(まつり)のつかひに、この君(きみ)おはすべかりければ、とのの御(お)前(まへ)他人(ことひと)にさしかへさせ給(たま)ふ程(ほど)の御こころをきてを、中納言(ちゆうなごん)は疎(おろ)かならずおぼしよろこびたり。よろづ
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の事(こと)整(ととの)へ給(たま)ひてひるつかた中将(ちゆうじやう)殿(どの)より
@ゆふぐれはまちどをにのみ思(おも)ほえていかでこころのまづはゆくらん W162。
かくてくるゝやをそきとおはしたればみんふのたゆふ君(きみ)おはり権守などしそくさしていれ奉(たてまつ)る。さて其(そ)の上(うへ)とのも北(きた)の方(かた)も、何事(なにごと)あらんとけぢかき程(ほど)に、いもねてあかさせ給(たま)ふ。哀(あは)れにおぼしつゞけらる。きて暁(あかつき)にいで給(たま)ひて、すなはち御ふみあり
@けさはなどやがてね暮(くら)しおきずしておきてはねたくくるゝまをまつ W163。
とありとのの御(お)前(まへ)の御くちつきとしるく思(おぼ)さる。家(いへ)なりぞ御つかひなりける。たゆふの君(きみ)いであひてもてはやし給(たま)ふ次(つぎ)に女房(にようばう)のかはらけ度々(たびたび)になりたれば、いとたえがたけなり。女房(にようばう)の装束に、さくらの織物(おりもの)のうちきそへ給(たま)ふ
@あさみどりそらものどけき春の日はくるゝひさしきものとこそ聞(き)け W164。
姫君(ひめぎみ)恥(は)づかしうおぼいたれど、猶(なほ)御てづからおぼいて、北(きた)の方(かた)せちにそゝのかし聞(き)こえ給(たま)へば、わりなけれどかき給(たま)へるを、大(おほ)殿(との)御覧(ごらん)ずるに、唯(ただ)中納言(ちゆうなごん)の御ての若(わか)きとみえて、えもいはずおかしげなれば、哀(あは)れに御覧(ごらん)ぜらる。其(そ)の後(のち)おはし通(かよ)はせ給(たま)ふに、よろづつくりあはせたるやうなる御なからひなり。女君(をんなぎみ)いと幼(をさな)くおはすれど、御(み)髪(ぐし)はきばかりにてかたちいと美(うつく)しうおはす。男君(をとこぎみ)御(おん)中(なか)いと恥(は)づかしうおぼしつゝみだるものから、哀(あは)れにこころさしふかう。思(おも)ひかはし聞(き)こえ
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給(たま)へりけれど、それも幼(をさな)うおはすれば、男君(をとこぎみ)はやがて侍(さぶらひ)にうたゝねし給(たま)ふ。女君(をんなぎみ)は手習(てならひ)し給(たま)ふまゝに、ふでとりながらねなどし給(たま)ひければ、うちにもとにも人(ひと)ぞ抱(いだ)きて御帳にいれ奉(たてまつ)るおり<多(おほ)かりける。其(そ)の年(とし)の祭(まつり)のつかひに、このとのいで給(たま)へば、大(おほ)殿(との)にもこのとのにもさらなり摂政(せつしやう)殿(どの)までおぼし急(いそ)がせ給(たま)ふ。し奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、しうとめの北(きた)の方(かた)見(み)奉(たてまつ)りにいで給(たま)ひて、何(なに)ともなく唯(ただ)かひをつくり給(たま)へば、候(さぶら)ふ人々(ひとびと)おこがましくと笑(わら)ひ聞(き)こゆるもおかしくなん。このとのただこの君(きみ)の御扱(あつか)ひよりほかの事(こと)なきを、理(ことわり)にみえたり。大姫君(おほひめぎみ)男(をとこ)君達(きんだち)の御はゝ。このいまの北(きた)の方(かた)のあねにものし給(たま)ふ。女君(をんなぎみ)二人(ふたり)男君(をとこぎみ)はみんぶのたゆふさねつね・おはりごんのかみよしつねの君(きみ)。中君はいまは近江(あふみ)のかみつねよりの北(きた)の方(かた)。大姫君(おほひめぎみ)はさやうにほのめかし聞(き)こゆる人々(ひとびと)あれど、中納言(ちゆうなごん)これはおもふやうありと惜(を)しみ聞(き)こえ給(たま)ふ程(ほど)に、いたうさかり過(す)ぎゆくに、このちごのやうにおはする君(きみ)の御事(こと)をもて騒(さわ)げば、故北(きた)の方(かた)の御もののけいできて、この姫君(ひめぎみ)をあへてあらせ奉(たてまつ)るべくもあらず。ゆゝしうつねに言(い)ひをどせば、しづごゝろなく思(おも)ほされける。一条(いちでう)宮(みや)には。四月晦日(つごもり)に御服ぬがせ給(たま)ひてしかば、よろづあらたまりはなやかなりされど猶(なほ)はなやかなるいろは。奉(たてまつ)らず。五月五日院(ゐん)より姫君(ひめぎみ)の御方(かた)にとて、くすだま奉(たてまつ)らせ給(たま)へり
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@此(こ)の頃(ごろ)を思(おも)ひいづればあやめぐさ流(なが)るゝ同(おな)じねにやともみよ W165。
御かへし
@いにしへをかくる袂(たもと)はみるごとにいとどあやめのねこそしげゝれ W166。
九日は御正日にて御覧(ごらん)ずるもいとあはれなり。はかなうて六月にもなりぬ。京極(きやうごく)とのはおとゝしの七月にやけにしを、其(そ)の八月よりよるをひるにてつくらせ給(たま)へれば、いできて今日(けふ)明日(あす)渡(わた)らせ給(たま)ふ。大宮(おほみや)はうちにおはしませばとのの御(お)前(まへ)上(うへ)かんのとの渡(わた)らせ給(たま)ふ。いよのかみよりみつぞ。とののうちの事(こと)すべてさながらつかうまつる。とのの御(お)前(まへ)の御調度(てうど)ゞも、上(うへ)のかんのとのの御事(こと)などすべて残(のこ)るものなく、つかうまつれり。女房(にようばう)のさうしの蔵人(くらうど)所(どころ)御随身所(どころ)迄すべてとののうちにこのものこそなけれとおぼし宣(のたま)ふべきやうなし。いかでかう思(おも)ひよりけんと御覧(ごらん)ぜらるゝぞ。いみじうめでたき。御帳御几帳(きちやう)御屏風(びやうぶ)のしさま厨子(づし)辛櫃のまきゑをきくちめづらかなるまでつかうまつれる。いかでかくしけんと、とのも仰(おほ)せられ、とのばらもかんじ給(たま)ふ。三日の程(ほど)よろづのとのばら参(まゐ)りまかでうちあけあそび給(たま)ふ。御(お)前(まへ)にきぬやつくりてあめうしいたはりかはせつねの事(こと)ゝ言(い)ひながら、めとゝめられたるとののつくり様(さま)、始(はじ)めはこたいに昔(むかし)づくりなりしかば、やのだけ短(みじか)ううちあはぬ事(こと)多(おほ)かりしを、こたみはとのの御こころのうちあふ限(かぎ)りつくらせ給(たま)へれば、世(よ)にいみじき見ものなり。山(やま)のおほきなる木どもうせにしこそ口(くち)惜(を)しき
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事(こと)なれど、いまひきうへさせ給(たま)へる。小木の行末(ゆくすゑ)はるかにおいさき頼(たの)もしき若枝多(おほ)くみどころまさりてなんありける。とのはこれにつけても、ひは殿(どの)の遅(をそ)げなる事(こと)を思(おぼ)し召(め)すべし。いまはかれを急(いそ)がせ給(たま)ふ。はかなくあきになりぬれば、かぜのをともこころ細(ぼそ)きに、堀河(ほりかは)の女御(にようご)。まつかぜのをとを聞(き)こし召(め)して
@まつかぜはいろやみどりにふきつらんものおもふ人(ひと)の身にぞしみける W167。
と思(おぼ)されけり。かやうにて過(す)ぎもてゆきて、かみなづきにもなりぬ。いつしかと初雪(はつゆき)ふりわたり。例(れい)にもにずいととき事(こと)を人々(ひとびと)けうじ思(おぼ)すに、二位(にゐ)中納言(ちゆうなごん)殿(どの)より一条(いちでう)の宮(みや)に
@ふりがたくふりつるけさの初雪(はつゆき)をみけたぬ人(ひと)もあらせてしがな W168。
とあればかへし命婦(みやうぶ)の乳母(めのと)
@きえかへり珍(めづら)しとみるゆきなればふりてもふりぬ心地(ここち)こそすれ W169。
かくてかんのとのはこの二月にこそ参(まゐ)らせ給(たま)ひしが。此(こ)の頃(ごろ)后(きさき)に立(た)たせ給(たま)ひて、よにののしりたり。世(よ)の人(ひと)いかでかさのみはあらん。内大臣(ないだいじん)の御むすめにて二(ふた)所(ところ)ならばせ給(たま)へる例(ためし)だになくて、此(こ)の頃(ごろ)いみじき事(こと)に申すめるに、いさいかなるべき事(こと)にかはあらんと、うちかたぶき思(おも)ひ言(い)ふ人々(ひとびと)上下あるべし。さ言(い)ひしかど。よき日してののしるものか。寛仁二年十月十六日中宮(ちゆうぐう)ふぢはら威子と聞(き)こえさす。ゐさせ給(たま)ふ程(ほど)の
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儀式(ぎしき)有様(ありさま)、さき<”の同(おな)じ事(こと)なり。いまは中宮(ちゆうぐう)をば、皇太后宮(くわうだいこうくう)と聞(き)こえさす。尚侍にはいま姫君(ひめぎみ)ならせ給(たま)ひぬ。大夫(だいぶ)にはごん中納言(ちゆうなごん)能宣(よしのぶ)の君(きみ)なり給(たま)ひぬ。次(つぎ)<の宮司(みやづかさ)、さき<”のやうにきをひのぞむ人々(ひとびと)多(おほ)かるべし。いまはこたいの事(こと)なれば、かくて三后のおはします事(こと)を、よに珍(めづら)しき事(こと)にて、とのの御さいはひ、このよの事(こと)ゝみえさせ給(たま)はず。この御(お)前(まへ)達(たち)のおはしましあつまらせ給(たま)へるおりは。わがめに見(み)奉(たてまつ)りあまらせ給(たま)ひては。只今(ただいま)ものみしりいにしへの事(こと)おぼえたらん人(ひと)に、もののはざまよりかいはませ。奉(たてまつ)らばやとまでぞ宣(のたま)はせける。かくて霜月(しもつき)になりぬ。大将(だいしやう)殿(どの)の姫君(ひめぎみ)は五つ、小姫君(こひめぎみ)は三(み)つにならせ給(たま)ひにければ、御袴(はかま)きせ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。京極(きやうごく)殿(どの)に渡(わた)らせ給(たま)ひて、西(にし)の対(たい)いみじうしつらひゐさせ給(たま)へり。とのの御(お)前(まへ)御こしは。ゆひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふときなりてとの渡(わた)らせ給(たま)へり。大姫君(おほひめぎみ)を見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、御ぐしせなかなかばばかりにていみじうけたかうおかしげにおはす。小姫君(こひめぎみ)は。御(み)髪(ぐし)ふりわけにて、御かほつきらうたけに美(うつく)し。様々(さまざま)美(うつく)しう見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。大姫君(おほひめぎみ)。てゝもはゝも、誰(たれ)も<われをのみこそ思(おも)ひ給(たま)へれ。小姫君(こひめぎみ)をば思(おも)ひ給(たま)はぬぞかしと聞(き)こえ給(たま)へば、あるにかさばかり美(うつく)しき人(ひと)をとぞ宣(のたま)はせける。さてとのの御贈(おく)り物(もの)より始(はじ)め、とののうちの男(をとこ)女(をんな)、さるべき様(さま)にしたがひつゝ、残(のこ)りなく何事(なにごと)もせさせ給(たま)へりいみじうめでたし。そこに二日おはしまして、
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よさりぞかへらせ給(たま)ふ。こたみあかぬ事(こと)は、おほ上(うへ)のあまにおはしませば、そひて渡(わた)らせ給(たま)はずなりにし事(こと)を口(くち)惜(を)しう思(おぼ)されたり。君達(きんだち)の御乳母(めのと)女房(にようばう)どもいみじうしたてさせ給(たま)へりけり。かくて高松(たかまつ)殿(どの)には、此(こ)の頃(ごろ)御うぶやの事(こと)あるべうおぼし急(いそ)ぎて、御祈(いの)りなどいみじかりつればにや、いと平(たひら)かにえもいはぬ男(をとこ)御(み)子(こ)むまれさせ給(たま)へり院(ゐん)の御(おん)心地(ここち)にも、様々(さまざま)いと嬉(うれ)しう思(おぼ)されたり。かひありてめでたし。七日の程(ほど)の御有様(ありさま)、御門(みかど)がねといみじうかしづき聞(き)こえさせ給(たま)ふ。よろづめでたき事(こと)どもは推(お)し量(はか)るべし。宮々(みやみや)関白(くわんばく)殿(どの)より、皆(みな)あべい事(こと)どもいみじうせさせ給(たま)へり。女房(にようばう)のなりなどいみじうこのましうて、七日も過(す)ぎぬ。こころのどかに思(おぼ)さるゝ程(ほど)に、このいま宮(みや)御ゆよりあがらせ給(たま)ひて、唯(ただ)きえにきえさせ給(たま)へば、御もののけかとて、かぢしゆすり騒(さわ)ぐ。よろづのものを御誦経(じゆぎやう)にし騒(さわ)がせ給(たま)ふに験(しるし)なし。とのの御(お)前(まへ)も急(いそ)ぎ渡(わた)らせ給(たま)へれど、すべてあさましうつゆにてきえはてさせ給(たま)ひぬ。院(ゐん)のうちあさましうこころうき事(こと)に、おぼし歎(なげ)かせ給(たま)へどかひなし。こころうくいみじき事(こと)を思(おぼ)し召(め)して、またかうこのなかにあへなき事(こと)なかりつと、おぼし歎(なげ)かせ給(たま)ふ。院(ゐん)もいとうしと思(おぼ)し召(め)して、御ありきもたえてこもりおはしませば、堀河(ほりかは)のわたりいとどうとくならせ給(たま)ふ。堀河(ほりかは)の女御(にようご)はかかる事(こと)を、唯(ただ)なるよりは苦(くる)しうきかせ給(たま)ふべし。とのには此(こ)の頃(ごろ)御はかうせさせ給(たま)はんとて、よろづこたみはわかたからふるひて
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んと宣(のたま)はせて、いみじき事(こと)どもせさせ給(たま)ふ。院(ゐん)の御(み)子(こ)の御事あれど、これはさやうの事(こと)におぼし障(さは)るべきならねば急(いそ)がせ給(たま)ふ。われも七宝をつくさせ給(たま)ふ。御さゝげもの宮々(みやみや)とのばらいといみじうかねてよりせさせ給(たま)ひつねのかかる御事(こと)どものなかにも、いみじうひゞかせ給(たま)ふ。せいせういみじうめでたうつかまつれり。御きやうも御てづからかかせ給(たま)へればにや、いみじうめづらかなる事(こと)ども言(い)ひつゞけためり。とのばらいといみじう聞(き)こし召(め)しはやし給(たま)ふ。@@04 るりの経巻は霊鷲山の暁(あかつき)のそらよりもあをし。わうごんのもじは上品上のはるのはやしよりもきなり [かな: るりのきやうくわんはりやうじゆせんのあかつきのそらよりもあをし。わうごんのもじは、じやうほんじやうのはるのはやしよりもきなり] B04などいみじうしもてゆけば。とのの御(お)前(まへ)御はかしを御てづから給(たま)はする程(ほど)、おぼえ有様(ありさま)いはんかたなくめでたし。せいせうのさいはひのいみじき事(こと)、これにつけても人々(ひとびと)宣(のたま)ひあひける。五巻の日は御あそびあるべく、ふねのがくなどよろづ其(そ)の御用意(ようい)かねてよりあるに、明日(あす)とくのゆふがた聞(き)こし召(め)せば、式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)うせ給(たま)ひぬとののしる。あさまし、こはいかなる事(こと)ぞ。日頃(ひごろ)悩(なや)ませ給(たま)ふなど言(い)ふ事(こと)もなかりつるをとて、とのの御(お)前(まへ)まつはしり参(まゐ)らせ給(たま)へれどむげに限(かぎ)りになりはてさせ給(たま)ひぬとあれば、あさましういみじうてかへらせ給(たま)ひぬ。明日(あす)の御あそびとどまりぬ。口(くち)惜(を)しながら日頃(ひごろ)ありて御はかうもはてぬ。かへすがへすいかなりつる日頃(ひごろ)の御有様(ありさま)にかと、おぼし宣(のたま)はすれどかひなし。あさましうこころうがりける人(ひと)の御筋(すぢ)かなと、よろづをかぞへつゞけ、
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いみじう恥(は)づかしげにのみ世(よ)人(ひと)申し思(おも)へり。帥(そち)の中納言(ちゆうなごん)さへはるかにおはする折(おり)、こころうくとおぼし宣(のたま)はす。誰(たれ)何事(なにごと)もこまかにつかうまつるらんと哀(あは)れに思(おも)ひ聞(き)こえさする人々(ひとびと)多(おほ)かり。げん中納言(ちゆうなごん)ぞ一品(いつぽん)宮(みや)の御事(こと)もつかうまつり給(たま)へば、よそなからもさるべき様(さま)にをきてつかうまつり給(たま)ふ。また関白(くわんばく)殿(どの)ぞ上(うへ)の御ゆかりに、よろづ扱(あつか)ひ聞(き)こえ給(たま)ふ。若(わか)うおはしましつれど、御こころいとありがたうめでたうおはしましつる有様(ありさま)に、かく上(うへ)の御方(かた)のゆかりとは言(い)ひながらも、ゆゝしきまでおぼし扱(あつか)はせ給(たま)ふになん一品(いつぽん)の宮(みや)も明(あ)け暮(く)れの御たいめんこそなかりつれど、よろづに頼(たの)もしきものに思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へるに、こころうくあさましき事(こと)を思(おも)ほし惑(まど)はせ給(たま)ひて、わが御みもありと宣(のたま)はせ給(たま)ひてもあらず御涙(なみだ)のひまなくおぼし歎(なげ)かせ給(たま)ふ。みなみの院(ゐん)の上(うへ)、いみじうおぼし惑(まど)はせ給(たま)ふ。姫宮(ひめみや)はもとより関白(くわんばく)殿(どの)の御(み)子(こ)にし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、日頃(ひごろ)もかのとのにおはしましつれば、よくそやり奉(たてまつ)らざりけるとぞおぼし宣(のたま)はせける。うちにも若(わか)き御こころなれど、いと哀(あは)れに聞(き)き奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。大宮(おほみや)はたいみじう哀(あは)れにおぼし歎(なげ)かせ給(たま)ふ。様々(さまざま)のものども、いと多(おほ)く奉(たてまつ)らせ給(たま)へり。かうおはしますにつけても、大宮(おほみや)はこたみの東宮(とうぐう)の御事(こと)、あらましかばとかへすがへすこころ苦(ぐる)しう。思(おも)ひ聞(き)こえさせ歎(なげ)かせ給(たま)ふもこと<”ならず故院(ゐん)の御事(こと)を疎(おろ)かならず思(おぼ)し召(め)し聞(き)こえさせ給(たま)ふにより、この宮々(みやみや)の御事(こと)も、かく思(おぼ)し召(め)さるゝなるべし。故院(ゐん)の私物(わたくしもの)に思(おも)ひ聞(き)こえ
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させ給(たま)へりしものをあはれと思(おも)ひいできさせ給(たま)ふにつけても、いみじう哀(あは)れに思(おぼ)し召(め)されて、御涙(なみだ)とどめがたう歎(なげ)かせ給(たま)ふも、猶(なほ)ありがたき御こころふかさをのみぞ。世(よ)のはかなきにつけても、とのは猶(なほ)いかでほいとげなんと、かんのとの東宮(とうぐう)に参(まゐ)らせ奉(たてまつ)る事(こと)をせはやと世をあやうく思(おぼ)し召(め)す。宮(みや)の上(うへ)はやがてこの御忌(いみ)の程(ほど)に、あまになりなんとおぼし宣(のたま)へどとのの上(うへ)も、只今(ただいま)さしておはしましなんとおぼし申(まう)させ給(たま)ふ。尼上(あまうへ)もあるまじき事(こと)におぼしたれば、口(くち)惜(を)しう思(おぼ)さる。一品(いつぽん)宮(みや)いかにものこころ細(ぼそ)く思(おぼ)さるらんとて、うちよりも大宮(おほみや)よりもつねに、御消息(せうそこ)聞(き)こえさせ給(たま)ひつゝ、いまはうちにおはしまさせんとぞおぼし宣(のたま)はせける。はかなく年(とし)もくれぬれど、宮(みや)の御事(こと)を上(うへ)はつきせずおぼしたり。二月朔日(ついたち)頃(ごろ)にぞ。御法事(ほふじ)あるべかりける。法興院(ゐん)に故関白(くわんばく)殿(どの)の。べちにたてさせ給(たま)へりし御(み)堂(だう)もやけにし後(のち)はまたつくらせ給(たま)はねば。唯(ただ)法興院(ゐん)にてそせさせ給(たま)ひける。何事(なにごと)も大宮(おほみや)こころもとなからす推(お)し量(はか)りとぶらひ聞(き)こえさせ給(たま)へり。あはた殿(どの)の北(きた)の方(かた)あまになり給(たま)ひて、いまは中宮(ちゆうぐう)の姫君(ひめぎみ)に、さるべきところ奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、そこに渡(わた)り給(たま)ひて、姫君(ひめぎみ)の御扱(あつか)ひをのみし給(たま)ふ。堀河(ほりかは)のおとど。一人(ひとり)ずみにて世(よ)の哀(あは)れにこころ細(ぼそ)き事(こと)を思(おぼ)すべし。女御(にようご)は渡(わた)り給(たま)ひつゝすませ給(たま)へば、源宰相(さいしやう)の出で入(い)り給(たま)ふこそ、頼(たの)もしき御有様(ありさま)なめれども、もとより御(おん)中(なか)よろしからざりしかば、御たいめもたは安(やす)からずおぼつかなげにのみなん。此(こ)の堀河(ほりかは)の
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院(ゐん)をば、始(はじ)めはこの女御(にようご)に奉(たてまつ)り給(たま)へりけれど、宰相(さいしやう)の事(こと)の後(のち)は、院(ゐん)の女御(にようご)に奉(たてまつ)り給(たま)へれど、一条(いちでう)の院(ゐん)にしろし召(め)してつくらせ給(たま)ひしところなれば、院(ゐん)の女御(にようご)はえしり給(たま)はじと、大宮(おほみや)なとこころよせ聞(き)こえ給(たま)ふやうに聞(き)き侍(はべ)りしかば、上人大宮(おほみや)の御こころよせをぞ煩(わづら)はしげに申すめりし。源宰相(さいしやう)をも殊(こと)の外(ほか)に思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ふべき人(ひと)かは。小式部(こしきぶ)きやう宮(みや)のいみじきものにおぼしたりし。うちにも只今(ただいま)の関白(くわんばく)殿(どの)の尼上(あまうへ)は御いもうとにおはしませば、いとおぼえありてこそおはすめれ。なのめにてもありぬべかりし御事(こと)どものあまりけざやかなりし程(ほど)に、かくこの御(おん)中(なか)もあるなめり。院(ゐん)の御有様(ありさま)の殊(こと)の外(ほか)にならせ給(たま)へるを、唯(ただ)なるよりは嬉(うれ)しう思(おぼ)さるべかめるも、人(ひと)の御はらからこそこころうきものはあれとぞ。世(よ)人(ひと)聞(き)こゆめりし。南院(ゐん)には御法事(ほふじ)など過(す)ぎにしかば、いと哀(あは)れにこころ細(ぼそ)くおぼし残(のこ)す事(こと)なし。かくつれ<にものせさせ給(たま)へば、この式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)のおほ上(うへ)も、かよひておはします。堀河(ほりかは)の女御(にようご)殿(どの)は唯(ただ)いつまでぐさとのみ哀(あは)れにものをおぼし明(あ)かしくらさせ給(たま)ふ。院(ゐん)も疎(おろ)かならずおぼしくらさせ給(たま)ふ事(こと)も、暫(しば)しこそあれ男(をとこ)の御こころは、やう<月日頃(ひごろ)へ崇(たたり)ゆくまゝに、うとくこそなりまさらせ給(たま)へ。いまはいかゞとのみみえさせ給(たま)ふを左大臣(さだいじん)殿(どの)もいみじき事(こと)におぼしいりたるのみぞこの
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よはさるものにて、後(のち)の世(よ)の御有様(ありさま)も、いとこころ苦(ぐる)しう。われにより身をいたづらになさせ給(たま)へる事(こと)ゝ、いみじういとおしう思(おぼ)さる。宮(みや)たちおよすけもておはしますまゝにゐむの近(ちか)うおはしまさぬをいみじうおぼしくつしたる御けしきとも悲(かな)しうおぼし見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、三条(さんでう)院(ゐん)の四の宮はまだわらはにておはします。院(ゐん)ぞ御(み)子(こ)にし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御元服などおぼしをきてさせ給(たま)ふ程(ほど)に、中務(なかつかさ)の宮(みや)の御ため院(ゐん)なさけなうみえさせ給(たま)ふ事(こと)ありていみじううらみ聞(き)こえさせ給(たま)ひければ、これを御覧(ごらん)じて四の宮(みや)いみじう頼(たの)み奉(たてまつ)りたる。院(ゐん)の御こころをきてかばかりにこそおはしますめれと、こころうく思(おぼ)されて忍(しの)びて仁和寺(にわじ)におはしましにけり。僧正の御もとにおはしまして年(とし)頃(ごろ)出家(しゆつけ)のほいふかう侍(はべ)るをなさせ給(たま)へと聞(き)こえさせ給(たま)ひければ、僧正ともかくも聞(き)こえさすべきにあらず。なし奉(たてまつ)るばかり院(ゐん)宮(みや)などやひなう思(おぼ)し召(め)さんと聞(き)こえさせ給(たま)へば、それは苦(くる)しう思(おぼ)さるべき事(こと)ならず唯(ただ)いかでとうなりなばやとなん思(おも)ひ侍(はべ)ると宣(のたま)はすれば、若(わか)き御こころにかう宣(のたま)はする事(こと)ゝ、いみじうなき給(たま)ひて、わが御衣(ぞ)どものまだき給(たま)はざりけるをとり出(い)でて奉(たてまつ)り給(たま)ひて、なし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひてげり。この事(こと)ども聞(き)こえて、宮々(みやみや)さるべきとのばら皆(みな)参(まゐ)りこみて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふ。院(ゐん)もおはしましていみじうなかせ給(たま)ふ。皇后宮(くわうごうぐう)にはさてもいかにおぼしとらせ給(たま)ひてかくと
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悲(かな)しういみじうおぼして、泣(な)く泣(な)く御装束して奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。いみじうあはれなる御事(こと)どもなり。皇太后宮(くわうだいこうくう)よりも御装束して奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。僧正いみじきものに思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へり。猶(なほ)このてらにさるべくやんごとなき人(ひと)のたえさせ給(たま)ふまじきと思(おぼ)されけり美(うつく)しかりし御(み)髪(ぐし)を剃(そ)がせ給(たま)ひてしこそ口(くち)惜(を)しかりしかとぞ。