栄花物語詳解巻十三


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〔栄花物語巻第十三〕 木綿四手
かくて前斎宮いと若(わか)き御(おん)心地(ここち)に、此(こ)の事(こと)聞(き)きにくゝ思(おぼ)さるれば、いかにせんと人(ひと)知(し)れずおぼしなげかれて、御覧(ごらん)ぜし伊勢(いせ)の千尋(ちひろ)の底(そこ)の空(うつ)せ貝(がひ)のみ恋(こひ)しく思(おぼ)されて、しほたれ渡(わた)らせ給(たま)ふ。わりなき御ぬれぎぬもこころ苦(ぐる)しきに三位中将(ちゆうじやう)はあとたえてわりなくのみ思(おも)ひ乱(みだ)れてかぜにつけたりけるにや、かくて参(まゐ)らせたり
@さかきばのゆふしでかけし其(そ)のかみに押(を)し返(かへ)しても似(に)たる頃(ころ)かな W132。
人(ひと)知(し)れぬ事(こと)ども多(おほ)かりけれど世(よ)に聞(き)こえねばまねびがたし。また高欄(かうらん)に結(むす)び付(つ)けたりける
@陸奥(みちのく)の緒絶(をだ)えの橋(はし)やこれならん踏(ふ)みゝ踏(ふ)まずみ心(こゝろ)惑(まど)はす W133。
宮(みや)はふるのやしろのなども思(おぼ)されてあはれなるゆふぐれに御てづからならせ給(たま)ひぬ哀(あは)れに昔(むかし)物語(ものがたり)ににたる事(こと)どもなり。皇后宮(くわうごうぐう)は聞(き)きにくかりつれどいみじう悲(かな)しう思(おぼ)さるとも疎(おろ)かなり。院(ゐん)に聞(き)こし召(め)して、おゝしき御こころはあへなんめさましかりつるよりはと思(おぼ)されけり。御悩(なや)み重(おも)らせ
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給(たま)ひて、院源(ゐんげん)僧都(そうづ)召(め)して御(み)髪(ぐし)おろさせ給(たま)ふ程(ほど)、中宮(ちゆうぐう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、宮々(みやみや)いみじうよになげかしき事(こと)に思(おぼ)し召(め)して、涙(なみだ)にしづませ給(たま)へり。皇后宮(くわうごうぐう)はよそにきかせ給(たま)ふおぼつかなさを添(そ)へて、いみじうおぼし惑(まど)はせ給(たま)ふ。殿(との)の御(お)前(まへ)もいみじう歎(なげ)かせ給(たま)ふ。一院(ゐん)とておはしまさんにたへたる御こころをきてを、口(くち)惜(を)しうこころ細(ぼそ)く思(おぼ)し召(め)せどかひなし。同(おな)じ院(ゐん)と申しながら、御こころくるはしくもののはへおはしましつるものを、姫宮(ひめみや)などの大人(おとな)びさせ給(たま)へらん程(ほど)の。御こころをきてもゆゝしかりつるをと、かへすがへすおぼしつゞけさせ給(たま)ふ。さはかうでも平(たひら)かにだにおはしまさばなどぞ見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御もののけどもいとこころあはただしきけはひなれば御命(いのち)のかたはさりともと思(おぼ)さる。うちつけにや少(すこ)しかろませ給(たま)ひければ、うちたゆみて誰(たれ)もこころのどかに思(おぼ)さるゝも理(ことわり)にみゆるを、宮々(みやみや)いかにと哀(あは)れによるひる惑(まど)はれつかうまつらせ給(たま)ふぞいとめでたき。東宮(とうぐう)はいとゆかしき御有様(ありさま)ををとにきかせ給(たま)ふにつけても、いみじう御胸(むね)塞(ふた)がりて、悲(かな)しう思(おぼ)し召(め)さる。かくて日頃(ひごろ)こころのどかなるにたゆませ給(たま)へりつるに、寛仁元年五月九日のひるつかたあさましくならせ給(たま)ひぬ。院(ゐん)の中どよみてののしるとも疎(おろ)かなりや。宮々(みやみや)こゑを惜(を)しませ給(たま)はぬに、中宮(ちゆうぐう)は御衣(ぞ)をひきかづきてものもおぼえさせ給(たま)はず。橘三位言(い)ひつゞけて泣(な)く泣(な)く
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きえいりて、ふし給(たま)へるもいみじうめづらかなる悲(かな)しさなり。年(とし)頃(ごろ)の女房(にようばう)達(たち)殿上人(てんじやうびと)いへば疎(おろ)かにまどひたり。姫宮(ひめみや)の御(お)前(まへ)いつゝにぞならせ給(たま)ふ。御ぐしはゐだけばかりにぞおはします。世をいとこころあはただしげに思(おぼ)し召(め)して、もののかくれによりて、御涙(なみだ)ををしのごひておはしますを、見(み)奉(たてまつ)る人々(ひとびと)御乳母(めのと)などやらんかたなく悲(かな)し。唯(ただ)の人(ひと)などは何(なに)ともしらぬ程(ほど)を、いかにおぼしわかせ給(たま)ふにかと疎(おろ)かならず。大人(おとな)のなき騒(さわ)ぐにかたへばあはただしう思(おぼ)さるゝなるべし。殿(との)の御(お)前(まへ)いみじうおぼし歎(なげ)かせ給(たま)ひて、御忌(いみ)にこもりつかうまつらせ給(たま)はぬ事(こと)を思(おぼ)し召(め)す。摂政にて世をまつりこたせ給(たま)へば、いかでかはよろづのだいじどものさしあひたれば、いと本意(ほい)なく思(おぼ)し召(め)せど、よそながらよろづをしらせ給(たま)ふも同(おな)じ事(こと)なり。十一日に御葬送せさせ給(たま)ふ。一条(いちでう)の院(ゐん)のおはしましゝいはかげにおはしけり。さみだれもいみじきころにてむつかしけれど、げにそれに障(さは)るべき事(こと)ならねばせさせ給(たま)へるぞいみじう哀(あは)れに悲(かな)しき。東宮(とうぐう)はよろづもおぼえさせ給(たま)はず。皇后宮(くわうごうぐう)もここらの年(とし)頃(ごろ)の御なからひなれば、聞(き)こえさするも疎(おろ)かなり。猶(なほ)こころよきはやむごとなけれど、よそ<におはしますみともになん。限(かぎ)りなき御みなれど、同(おな)じ煙(けぶり)とならせ給(たま)ふもいみじう悲(かな)し。ある人(ひと)思(おも)ひ遣(や)り聞(き)こえさせて一人(ひとり)ごちけれど、其(そ)のひとゝしるさ
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ず、
@日のもとをてらしゝ君(きみ)がいはかげのよはの煙(けぶり)となるぞ悲(かな)しき W134。
かくて事(こと)はてゝかへらせ給(たま)ひぬ。此(こ)の後(のち)御念仏などにそうのさるべき限(かぎ)り候(さぶら)ひ給とりはらひて、ほとけかけ奉(たてまつ)りさるべきそうなどのなれ候(さぶら)ふもいと忝(かたじけな)し。さるべき所々(ところどころ)のいたども放(はな)ちて、宮々(みやみや)つち殿(どの)におはしまし、中宮(ちゆうぐう)もさやうにおはします。御衣(ぞ)のいろなど皆(みな)こく奉(たてまつ)り渡(わた)るに、あさましきものなどを、宮々(みやみや)の奉(たてまつ)りてなぬか<の御ときせさせ給(たま)ふも、いみじう哀(あは)れに悲(かな)し。さるべき殿上人(てんじやうびと)殿(との)ばらうたなどよみたれどかきとめずだうめいあざりのばかりぞ人(ひと)かたりける
@あしひきのやにほとゝぎす此(こ)の頃(ごろ)はわがなくねをや聞(き)き渡(わた)るらん W135。
とぞありける。此(こ)の院(ゐん)も御そうふんもなくてうせさせ給(たま)ひにけり。冷泉(れいぜい)の院(ゐん)の御れうの所々(ところどころ)多(おほ)く侍(はべ)りしも、此(こ)の院(ゐん)にえりすぐりてしらせ給(たま)ひけり。またおほ入道(にふだう)殿(どの)の御むまごの宮(みや)たちの御(おん)中(なか)に、此(こ)の院(ゐん)をいみじうまたなきものに思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へりければ、昔(むかし)も猶(なほ)しらせ給(たま)ひし程(ほど)の事(こと)もすべて所々(ところどころ)をば、唯(ただ)此(こ)の院(ゐん)に奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、さき<”の院(ゐん)よりも、此(こ)の院(ゐん)にはやむごとなき所々(ところどころ)多(おほ)くぞ候(さぶら)ひける。されは此(こ)の頃(ごろ)ぞ殿(との)の御(お)前(まへ)せさせ給(たま)ひける。おはしましゝおりも、姫宮(ひめみや)をいかで
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と思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひて、かくいと幼(をさな)くおはしますを、一品(いつぽん)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしも、いと哀(あは)れに思(おも)ひいで聞(き)こえさせ給(たま)ひて、此(こ)の中宮(ちゆうぐう)の姫宮(ひめみや)東宮(とうぐう)皇后宮(くわうごうぐう)。いま三(み)所(ところ)の宮斎宮姫宮(ひめみや)などよくかぞへたてゝ、様々(さまざま)わかち奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ御用意(ようい)。ありがたくおはしますと人(ひと)聞(き)こえさす。かのおはしましゝおりの御思(おも)ひのほどをしりつゝぞわかち奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。其(そ)のなかにもおほ入道(にふだう)殿(どの)より渡(わた)りたりし所々(ところどころ)をぞ。ほかざまにはせさせ給(たま)はざりける。それもさるべき事(こと)に人(ひと)申しけり。三条(さんでう)院(ゐん)をば一品(いつぽん)宮(みや)の御れうにぞ。其(そ)のおり宣(のたま)はせければせさせ給(たま)へれど、そこにはおはしますまじ。寝殿(しんでん)はてらになさせ給(たま)へければ、御忌(いみ)の程(ほど)過(す)ぎなば、こぼたせ給(たま)ふべしとぞ思(おぼ)し召(め)しける。中宮(ちゆうぐう)は御忘(わす)れはつるまでいと思(おぼ)し召(め)しながら、此(こ)の院(ゐん)のもののけ、いと恐(おそ)ろしければ、あひなし。いつごまでも疎(おろ)かなるべき事(こと)かはとて、暫(しば)しありて一条(いちでう)殿(どの)にわたし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひてげり。御法事(ほふじ)やがて此(こ)の院(ゐん)にて、六月廿五日にせさせ給(たま)ふ。その程(ほど)の事(こと)ともいといかめし。四宮またわらはにておはしまして、かかるおりにやなと思(おぼ)し召(め)す事(こと)もありけれど、大方(おほかた)いとのどかに大人(おとな)しき御こころにて、此(こ)のおりならずとも、自(おの)づからこころあはただしきやうなりなどおぼしのどむるを、おはしまさましかば
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かうだに思(おも)ひかけまじやと、人(ひと)知(し)れず思(おぼ)さるべし。中宮(ちゆうぐう)は一条(いちでう)殿(どの)にて明(あ)け暮(く)れの御行(おこな)ひにて過(す)ぐさせ給(たま)ふ月日のすぐるにつけても姫宮(ひめみや)のあはてありかせ給(たま)ふ。あやうすものなども奉(たてまつ)らで、唯(ただ)のきぬをあこめにて、うすいろなどにてありかせ給(たま)ふ。御(み)髪(ぐし)ながくてちいさきわらはべのやうにおはしますも、哀(あは)れにいみじきものに思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へりしものをと、御乳母(めのと)達(たち)かけ奉(たてまつ)らぬおりなうこひなき奉(たてまつ)る。姫宮(ひめみや)みゝすかきにせさせ給(たま)へる。これいかであての御もとに奉(たてまつ)らんと宣(のたま)はするにつけても、ほとゝぎすにやつけましと、哀(あは)れに御覧(ごらん)ぜらる。あてはまろをば恋(こひ)しとは思(おぼ)さぬか。などかいとひさしく渡(わた)らせ給(たま)はぬなどかきつゞけさせ給(たま)ふも、涙(なみだ)とどめがたう御(お)前(まへ)にも思(おぼ)し召(め)し候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も思(おも)へり。宮(みや)たちおぼつかなからず渡(わた)り見(み)奉(たてまつ)らせけり。東宮(とうぐう)よりもはかなき御あそびものなどまづ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。殿(との)の御(お)前(まへ)一条(いちでう)宮(みや)つれ<におはしますらんとて、われもつねに御宿直(とのゐ)せさせ給(たま)ふ。殿(との)ばらもつねに参(まゐ)らせ給(たま)ふべう申(まう)させ給(たま)ふ。院(ゐん)のおはしまさぬかたこそいみじけれども、大方(おほかた)の御有様(ありさま)は、殿(との)のおはしませば、同(おな)じ事(こと)になん。其(そ)のおりの殿上人(てんじやうびと)こころよせの殿(との)ばらなどは、つねに参(まゐ)り給(たま)ふ。斯(か)かる程(ほど)に東宮(とうぐう)何(なに)の御こころにかおはしますらん。かくて限(かぎ)りなき御みを何(なに)とも思(おぼ)されず。昔(むかし)の御忍(しの)びありきのみ恋(こひ)しく思(おぼ)されて、とき<につけて、はな紅葉(もみぢ)も御こころに
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まかせて御覧(ごらん)ぜんとのみ。猶(なほ)いかでさやうにてもありにしかなと思(おぼ)さるゝ。御こころよるひるきうにわりなくて、皇后宮(くわうごうぐう)に一生はいくばくに侍(はべ)らぬに、猶(なほ)かくて侍(はべ)るこそいぶせく侍(はべ)れ。さるべきにや侍(はべ)るらん。いにしへの有様(ありさま)に、こころ安(やす)くこそ侍(はべ)らまほしけれなどおり<に聞(き)こえさせ給(たま)へれば、宮(みや)はいとこころうき御こころなり。御もののけの思(おも)はせ奉(たてまつ)るならん。故院(ゐん)のあべき様(さま)にしすへ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし御事(こと)を、いかにおぼしてやがて御あとをつかす。世(よ)の例(ためし)にもならんとは思(おぼ)し召(め)すぞ。こころうき事(こと)なりとつねにいさめ申(まう)させ給(たま)ひて、御もののけのかうは思(おも)はせ奉(たてまつ)るなりとて、所々(ところどころ)に御祈(いの)りをせさせ給(たま)ふ。おぼしあまりては、わかやかなる殿上人(てんじやうびと)の。申あくがらすならんとて、召(め)し仰(おほ)せなどせさせ給(たま)ふ。されど殿(との)の御(お)前(まへ)にさるべき人(ひと)して、かうやうになどまねび申(まう)させ給(たま)ふ。殿(との)の御(お)前(まへ)いとあるまじき御事(こと)なり。さは故院(ゐん)の御次(つぎ)はなくてやませ給(たま)ふべきか。いみじかりし御もののけなれば、それがさ思(おも)はせ奉(たてまつ)るならんと宣(のたま)はせて、さゝいれさせ給(たま)はぬを、いかでたいめせんと度々(たびたび)聞(き)こえさせ給(たま)へば、殿(との)参(まゐ)らせ給(たま)へり。おぼつかなきよの御物語(ものがたり)など聞(き)こえさせ給(たま)ひて、猶(なほ)此(こ)の宿世(すくせ)の悪(わろ)きにや侍(はべ)るらん。かくうるはしき有様(ありさま)こそ、いとむつかしけれ。いかでおり侍(はべ)りて、一院(ゐん)といはれて侍(はべ)るらんと聞(き)こえさせ給(たま)へば、
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さらにあさましき御こころをきてにおはします。故院(ゐん)よろづに御後見(うしろみ)つかうまつるべきよし仰(おほ)せられしかば、皆(みな)さ思(おも)ひ給(たま)ひながら、えさらぬ事(こと)多(おほ)くはへる。うちにも当代いと幼(をさな)くおはしませば、よろづいとまなう候(さぶら)ひてなん。なかにつきて此(こ)の一品(いつぽん)宮(みや)の御ためを思(おも)ひ給れは、こころのどかに世をもおぼしたもたせ給(たま)ひて、おはしまさんのみこそ、頼(たの)もしく嬉(うれ)しく候ふべけれ。唯(ただ)これはこと<”ならし御もののけの思(おぼ)さるゝなめりと、申(まう)させ給(たま)へば、なでうもののけにかあらん。唯(ただ)もとよりあそびのこころのみありならひにければ、かくあるかいとむつかしくおぼえて、こころにまかせてならんと思(おも)ひ侍(はべ)るなり。それに猶(なほ)えあるましう思(おぼ)されば、もとのほいもありさるべき様(さま)にてあらんとなんおもふと申(まう)させ給(たま)ふ。いとふびんなる事(こと)なり。出家(しゆつけ)とまで思(おぼ)し召(め)されば、いと殊(こと)の外(ほか)に侍(はべ)り。さらばさるべき様(さま)につかうまつるべきにこそはへるなれ。一院(ゐん)にておはしまさんも、御みはいとめでたき事(こと)におはします。よにめでたきものは、太上皇にこそおはしますめれなどよくこころのどかに聞(き)こえさせ給(たま)ひてまかでさせ給(たま)ひぬ。其(そ)のまゝにやがて大宮(おほみや)にいらせ給(たま)ひて、かう<の事(こと)をなん。東宮(とうぐう)度々(たびたび)宣(のたま)はすれど。さらにうけひき申(まう)さぬに、召(め)して宣(のたま)ひつるやうなどこまやかに申(まう)させ給(たま)ふ。摂政(せつしやう)殿(どの)もおはします人(ひと)のこれをとかく思(おも)ひ聞(き)こえさする事(こと)ならばこそあらめ。わかた安(やす)くならは
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せ給(たま)へる御こころなれば、一院(ゐん)とて御こころにまかせてあらんと思(おぼ)し召(め)したるも、あらまほしき事(こと)なり。さても東宮(とうぐう)には三宮こそはゐさせ給(たま)はめと申(まう)させ給(たま)へば、大宮(おほみや)げにそれはさる事(こと)に侍(はべ)れと、式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)のさておはしまさんこそよく侍(はべ)らめ。それこそ御門(みかど)にもすへ奉(たてまつ)らまほしかりしかど、故院(ゐん)のせさせ給(たま)ひし事(こと)なれば、さてやみにき。此(こ)の度(たび)はかの宮(みや)のゐさせ給(たま)はんは、故院(ゐん)の御こころのうちにおぼしけんほいもあり、宮(みや)の御ためにもよくなんあるべき。若宮(わかみや)は御宿世(すくせ)にまかせてあらばやとなん思(おも)ひ侍(はべ)ると聞(き)こえさせ給(たま)へば、殿(との)げにいとありがたう哀(あは)れに仰(おほ)せらるゝ事(こと)に侍(はべ)れど。故院(ゐん)もこと<”ならず。唯(ただ)後見(うしろみ)なきにより、かしこうおはすれど、かやうの御有様(ありさま)は唯(ただ)後見(うしろみ)がらなり。帥(そち)の中納言(ちゆうなごん)だに京になきこそなどあるまじき事(こと)におぼし定(さだ)めつ。かくて八月九日東宮(とうぐう)立(た)たせ給(たま)ひぬ。始(はじ)めの東宮(とうぐう)をば、小一条(こいちでう)院(ゐん)と聞(き)こえさす。院(ゐん)いと思(おぼ)し召(め)す様(さま)に、やさしく思(おぼ)し召(め)されて、十二人(にん)の御随身えり整(ととの)へさせ給(たま)ふ。のるべきむまくらのそろへをせさせ給(たま)ふ。故院(ゐん)の御随身どもの。世(よ)のなかをいとあえなく思(おも)ひたりつるに、さるべうびゞしきなどは、皆(みな)参(まゐ)りあつまりぬ。殿上人(てんじやうびと)のさるべくつかひつけさせ給(たま)へる人々(ひとびと)。いみじうけうありと思(おも)へる。皇后宮(くわうごうぐう)あかぬ事(こと)に口(くち)惜(を)しう思(おぼ)せど、また一院(ゐん)とて年官年爵えさせ給(たま)ふ。蔵人(くらうど)判官代(はんぐわんだい)何(なに)くれ定(さだ)めあるにつけても、あしく
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はおはしまさず。いまめかしう御こころやりあらまほしげなるかたは、月頃(ごろ)の御有様(ありさま)にまさらせ給(たま)へり。さは故院(ゐん)の御次(つぎ)は、かくてやませ給(たま)ひぬるにやと、思(おぼ)し召(め)すかたぞいと悲(かな)しかりける。東宮(とうぐう)の御乳母(めのと)達(たち)つゐの事(こと)ながら、たちまちの事(こと)ゝは思(おも)はざりつるに、あさましく嬉(うれ)しきにせんかたなし。東宮(とうぐう)大夫には、大(おほ)殿(との)の高松(たかまつ)のはらの大納言(だいなごん)なり給(たま)ひぬ。ごん大夫には、法住寺の大臣殿(どの)の。ひやうゑのかう公信の君(きみ)なり給(たま)ふ。東宮(とうぐう)傅には、閑院(かんゐん)の右のおほい殿(どの)なり給(たま)ひぬ。宮司(みやづかさ)帯刀(たちはき)などは、われも<ときをひ給(たま)へど、大(おほ)殿(との)えらびなさせ給(たま)ひつ。よろづあなめでたとみえさせ給(たま)ふ。帯刀(たちはき)どもいとものきよき人(ひと)の事(こと)もさにもなさせ給(たま)ふ。猶(なほ)大宮(おほみや)の御さいはひは、世(よ)にいみじくおはします。式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)、此(こ)のかたはむげにおぼしたえにしかど、此(こ)の度(たび)のひまには、必(かなら)ずたちいで給(たま)ひぬべかりつるを、御宿世(すくせ)はしらせ給(たま)はず。猶(なほ)怪(あや)しうとはいかでか思(おぼ)し召(め)さゞらん。よとゝもにはればれしからぬ御けしきも、こころ苦(ぐる)しうなん。前東宮(とうぐう)の帯刀(たちはき)ども、てにすゑたるたかをそらしたるなど言(い)ふやうにおもふべし。いまの東宮(とうぐう)のをのぞみ申すたぐひともあべかめれど、殊(こと)の外(ほか)の事(こと)にて聞(き)こし召(め)しいれず。それも理(ことわり)にいま<しく思(おぼ)されぬべき事(こと)なり。前東宮(とうぐう)は御年(とし)廿四にならせ給(たま)ひにけり。いまの東宮(とうぐう)は九にぞおはしましける。御門(みかど)も東宮(とうぐう)も御行末(ゆくすゑ)はるかにおはしますにつけてもいとめでたし。かくて高松(たかまつ)殿(どの)の姫君(ひめぎみ)の御事(こと)
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あるべしとぞ世(よ)には言(い)ふめる。さて其(そ)のころ殿(との)の上(うへ)。やはたにまうでさせ給(たま)へりければ、中宮(ちゆうぐう)より聞(き)こえさせ給
@色々(いろいろ)の紅葉(もみぢ)にこころうつるとも都(みやこ)のほかにながゐすな君(きみ) W136。
御かへしありけんかし。これにおちたるなるべし。かくて十月ばかりに聞(き)こし召(め)せば、雅通の中将(ちゆうじやう)日頃(ひごろ)煩(わづら)ひてうせ給(たま)ひぬとののしる。殿(との)の上(うへ)哀(あは)れに聞(き)こし召(め)す。故上(うへ)のいみじうおぼしたりしものをと思(おぼ)し召(め)すなりけり。いまは小少将(せうしやう)をこそは、とり重(かさ)ねおもふべかめれとぞ宣(のたま)はせける。世(よ)の中(なか)のはかなき様(さま)も哀(あは)れにのみなん。皇后宮(くわうごうぐう)には前斎宮いとおかしげなるあまにて行(おこな)はせ給(たま)へば、御持仏など様々(さまざま)にて奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。中将(ちゆうじやう)の乳母(めのと)は、かの三位中将(ちゆうじやう)のもとにと聞(き)こし召(め)しゝかど、いまはそこにもなかなれば、哀(あは)れにいかで<と斎宮は人(ひと)知(し)れず思(おぼ)し召(め)されけり。皇后宮(くわうごうぐう)にはわれこそかやうにあるべきに、此(こ)の姫宮(ひめみや)の世(よ)の中(なか)を、いとこころ細(ぼそ)げにおぼしたるか。こころ苦(ぐる)しさにえおぼし立(た)たぬ程(ほど)も、わりなく思(おぼ)さる。二三の宮(みや)もいまだやもめにて宮(みや)にさしあつまらせ給(たま)へり。さるべきわたりに宣(のたま)はするは、つれなくまたいでやなど思(おぼ)し召(め)すは、すゝみ聞(き)こえざる程(ほど)に、自(おの)づから月日すぐるなるべし。御衣(ぞ)どものいろも冬(ふゆ)になるまゝに、いとどさし重(かさ)なり、いろこき様(さま)に様々(さまざま)おはしますを、此(こ)の御様(さま)をゑにかかばやしこそ哀(あは)れにみえさせ給(たま)ひけれ。一条(いちでう)宮(みや)には、こころのどかに思(おぼ)し召(め)さ
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るゝまゝに、御行(おこな)ひがちにて過(す)ぐさせ給(たま)ふ。ごやのかねのをともおどろ<しく聞(き)こし召(め)されければ、みかうしををしあけて御覧(ごらん)じて
@皆(みな)人(ひと)のあかずのみみる紅葉葉(もみぢば)をさそひにさそふこがらしのかぜ W137。
とぞ宣(のたま)はせける。かくて世(よ)の中(なか)に五節(ごせつ)や何(なに)やとののしるなれど、此(こ)の御方(かた)にはありし昔(むかし)をおぼしいでつゝ、よろづをおぼしやるに、さるべき殿上人(てんじやうびと)参(まゐ)りたるつゐでに、若(わか)き人々(ひとびと)いであひて、物語(ものがたり)するもおかしきに、殿(との)の君達(きんだち)などぞいま少(すこ)しものこまやかなる事(こと)どもはかたらせ給(たま)ふめる。かもの行幸(ぎやうがう)まだなかりければ、廿余(よ)日(にち)ばかりにあるべければ、此(こ)の一条(いちでう)殿(どの)のきたの御門(みかど)のまへよりぞ渡(わた)らせ給(たま)ふべかなれば、宮(みや)の御(お)前(まへ)にも候(さぶら)ふ人々(ひとびと)もゆかしがり思(おも)へど、ものはなやかならんも人目(ひとめ)慎(つつ)ましう思(おぼ)し召(め)されて、唯(ただ)御門(みかど)のもとよりはいくらばかりかは御覧(ごらん)ぜられんなどあるも、いとこころもとなかるべきを、日頃(ひごろ)人々(ひとびと)いと聞(き)きにくゝ申し思(おも)へる程(ほど)に、殿(との)参(まゐ)らせ給(たま)ひて、いかにぞ行幸(ぎやうがう)は御覧(ごらん)ぜんとや。此(こ)のきたの御門(みかど)よりこそは渡(わた)らせ給(たま)ふべかめれなど申(まう)させ給(たま)へば、いさやさやうに此(こ)の人々(ひとびと)は言(い)ふめれといかでかと宣(のたま)はすれば、怪(あや)しの事(こと)や。ざしきをつくりはなやかせ給(たま)はゞこそは、人(ひと)のそしりもあらめ、御(お)前(まへ)より渡(わた)らせ給(たま)はん事(こと)を、御かほふたがせ給(たま)ふべき事(こと)かはと申(まう)させ給(たま)ひて、唯(ただ)さりげなくきたのついぢをくづさせ給(たま)ひて、御覧(ごらん)ずべきよしを申しをかせ給(たま)ひて、出(い)でさせ給(たま)ひ
P1403
ぬれば、若(わか)き人々(ひとびと)よろこび聞(き)こえさす。さて御覧(ごらん)ずるにいみじうめでたし。大宮(おほみや)御こし奉(たてまつ)りて、女ぼう車(ぐるま)えならずして、渡(わた)らせ給(たま)ふ程(ほど)えもいはずめでたく御覧(ごらん)ぜらる。よろづはてゝ後(のち)に、大(おほ)殿(との)渡(わた)らせ給(たま)ふこそ、あないみじやとみえさせ給(たま)へ。又(また)の日此(こ)の宮(みや)より大宮(おほみや)に聞(き)こえさせ給(たま)ふ
@みゆきせしかものかはなみかへるさにたちやとまるとまち明(あ)かしつる W138。
大宮(おほみや)御かへし
@たちかへりかものかはなみよそにてもみしやみゆきの験(しるし)なるらん W139。
さて院(ゐん)の御事(こと)今日(けふ)明日(あす)あるべしとののしるは、誠(まこと)にやあらん。堀河(ほりかは)の女御(にようご)、此(こ)の事(こと)を聞(き)きて御むねふたがりておぼし嘆(なげ)くべし。さて師走(しはす)にぞむことり奉(たてまつ)らせ給(たま)ふべき。其(そ)の御用意(ようい)心(こころ)異(こと)なり。此(こ)の御(お)前(まへ)をば、月頃(ごろ)御(み)櫛笥(くしげ)殿(どの)とぞ聞(き)こえさせける。御かたち有様(ありさま)あべい限(かぎ)りおはします。御心様(こころざま)など人(ひと)はめでたしとぞ申すめる。さるべき人々(ひとびと)えり整(ととの)へさせ給(たま)ふ。宮々(みやみや)などに参(まゐ)りこみて、宮(みや)と思(おぼ)し召(め)しつれど、はぢなき人々(ひとびと)多(おほ)く参(まゐ)りつどひたり。まづは故院(ゐん)に候(さぶら)ひ給(たま)ひし三位のはらから山井の大納言(だいなごん)のむすめといはれ給(たま)ひし大納言(だいなごん)の君(きみ)とて候(さぶら)ひ給(たま)ふめり。何(なに)くれのみやかの殿(との)ばらの女御(にようご)などさるべき人々(ひとびと)多(おほ)かり。すべてえり整(ととの)へたる限(かぎ)り廿人(にん)わらは下仕(しもづかへ)四人(にん)づゝなり。
P1404
御しつらひより始(はじ)め、あたらしう磨(みが)きたてさせ給(たま)へれば、耀(かかや)きてぞみゆる。其(そ)のよになりて院(ゐん)渡(わた)らせ給(たま)ふ。御せんにさべうこころよせある。殿上人(てんじやうびと)をえらせ給(たま)へり。またなかりつる御なからひ有様(ありさま)の程(ほど)。あらまほしき事(こと)の例(ためし)になりぬべし。殿上人(てんじやうびと)のけしきいへば疎(おろ)かに、さかりならんさくらなどの心地(ここち)したり。御車(くるま)のしりに大蔵卿(おほくらきやう)つかまつり給(たま)へり。さておはしましたれば、此(こ)の御はらからの左衛門(さゑもん)のかう。二位(にゐ)中将(ちゆうじやう)などしそくさしいれ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。殿(との)はおはしますなれど、忍(しの)びてうちのかたにぞおはしますべき殿(との)の御せんどもはうちむれてあるに院(ゐん)の御供(とも)の人々(ひとびと)忍(しの)びさせ給(たま)へと、いと多(おほ)くぞ候(さぶら)ふ。御随身とものけしきえもいはずやさしう思(おも)へり。いらせ給(たま)へれば、御となぶらあるかなきかにほのめきたれど、にほひ有様(ありさま)よめにもしるし。東宮(とうぐう)にておはしましゝに、参(まゐ)らせ給(たま)はましかば、例(れい)の作法(さほふ)にぞあらまし。これはいまめかしうけぢかきものから、又(また)いとやむごとなし。女君(をんなぎみ)十八九ばかりにやおはしますらむとぞおぼえたる。御けはひ有様(ありさま)いとかひありて思(おぼ)さるべし。それにつけても堀河(ほりかは)女御(にようご)。思(おも)ひいでられ給(たま)ふもこころ苦(ぐる)し。かの女御(にようご)も御かたちよくこころはせおはすれば、年(とし)頃(ごろ)いみじう思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へりつれど、只今(ただいま)何事(なにごと)もあたらしうめでたき御有様(ありさま)は、いま少(すこ)しいたはしう思(おぼ)さるゝも、われながら理(ことわり)しる様(さま)に思(おぼ)さる。冬(ふゆ)のよなれど
P1405
はかなくあけぬれば、いてさせ給(たま)ふもいとあかぬ様(さま)に思(おぼ)さる。御供(とも)の御随身御車(くるま)副舎人(とねり)まで只今(ただいま)其(そ)のまゝにて位(くらゐ)につかせ給(たま)へらましよりもけに思(おも)ひたり。かへらせ給(たま)ひぬれば、女御(にようご)の君(きみ)御帳よりも出(い)でさせ給(たま)はず。院(ゐん)よりやがておはしましけるまゝにやとみゆる程(ほど)に、御つかひあり二位(にゐ)中将(ちゆうじやう)などいであひ給(たま)ひて、えもいはずゑはし給(たま)ふ。女房(にようばう)のかはらけさゑいつる袖口(そでぐち)などこそめもあやなれ。御かへり給(たま)ひて、女の装束えびぞめの小褂添(そ)へて給(たま)はりて参(まゐ)りぬ。さてくるゝもこころもとなくておはしましぬ。四五日ありてぞ御露顕(ところあらはし)ありける。院(ゐん)皇后宮(くわうごうぐう)に申(まう)させ給(たま)ふ。よさりいかに恥(は)づかしう侍(はべ)らんずらん。かしこにまかれば、二位(にゐ)中将(ちゆうじやう)三位中将(ちゆうじやう)などかまちむかふるに、いとすずろはしきに、こよひはもちいのよとか聞(き)き侍(はべ)りつる。おとどもものせらるべきやうにこそ聞(き)き侍(はべ)りしかど。聞(き)こえさせ給(たま)へば、げにいかにと思(おぼ)し召(め)して、御装束どもにえならぬかどもしめさせ給(たま)ふ。さやうのかたはなべてならぬ宮(みや)の御有様(ありさま)に、心(こころ)異(こと)に恥(は)づかしう思(おぼ)し召(め)してしたてさせ給(たま)ふ程(ほど)推(お)し量(はか)るべし。かくて御もとに参(まゐ)る人々(ひとびと)。少(すこ)しもかたくなしきはえりすてさせ給おはしましていらせ給(たま)へば、左衛門(さゑもん)のかうなど例(れい)の君達(きんだち)参(まゐ)らせ給(たま)へば、なますゞろはしう思(おぼ)し召(め)されていらせ給(たま)ふ。殿上人(てんじやうびと)のざには、かけばんのものどもいみじうしすへたり。御随身所(どころ)めしつぎどころかずしらず。机のものどもしすへたり。
P1406
もてなし給様(さま)こころゆく様(さま)なり。ゑましくさすがにみゆ。いらせ給(たま)へば御となぶら、ひるのやうにあかきに、女房(にようばう)三四人(にん)五六人(にん)づゝうちむれつゝ、えもいはぬ有様(ありさま)どもにて、こほりふたがりたるあふぎどもをさしかくして、なみ候(さぶら)ふ程(ほど)いみじうおどろ<しきものから、恥(は)づかしげなり。御しつらひ有様(ありさま)。耀(かかや)くとみゆ。院(ゐん)の御(おん)心地(ここち)年(とし)頃(ごろ)堀河(ほりかは)のわたりの有様(ありさま)。御めうつりにまつおぼしいでらるべし。かくてもの参(まゐ)らせ給まかなひは、左衛門(さゑもん)のかうつかうまつり給(たま)ふ。とりつぎ給(たま)ふ事(こと)は、二位(にゐ)中将(ちゆうじやう)三位中将(ちゆうじやう)などせさせ給(たま)ふ。御たい参(まゐ)りての程(ほど)に、大(おほ)殿(との)出(い)でさせ給(たま)ひて、うるはしき御よそひにて、御かはらけ参(まゐ)らせ給(たま)ふ程(ほど)いへば疎(おろ)かにめでたし。院(ゐん)は御衣(ぞ)ども御直衣(なほし)などのいろを、いと慎(つつ)ましうかたはらいたう思(おぼ)せと、かやうの事(こと)はそれをゆゝしくと宣(のたま)はせぬ事(こと)なればいかにぞや。やつれたる様(さま)を恥(は)づかしう思(おぼ)し召(め)せど。なか<それしも夜めに御いろのあはひもてはやされて、けざやかにおかしうみえさせ給(たま)ふも、ことさらめきかくもありぬべき事(こと)なりけりとぞみえさせ給(たま)ふ。御けはひにほひなどぞしみかへらせ給(たま)へる。御かたちけぢかくあいぎやうづきおかしくおはします。こよひの御有様(ありさま)。必(かなら)ずゑにかかまほし。御年(とし)廿三四におはしませば、さかりにめでたくひげなど少(すこ)しけはひつかせ給(たま)へる。あなあらまほしめでたやとぞみゆる御有様(ありさま)なめる。かくて御供(とも)の人々(ひとびと)の禄ども、例(れい)の作法(さほふ)に
P1407
いま少(すこ)しまさせ給(たま)へり。御随身所(どころ)めしつぎどころ。御車(くるま)副舎人(とねり)ども様々(さまざま)いとおどろ<しうおぼしをきてたり。大(おほ)殿(との)はとくかへらせ給(たま)ひぬ。もちにや御わりごのふた御帳のうちにさしいれておはしましぬる程(ほど)。物忌(ものいみ)すまじう哀(あは)れにみえさせ給(たま)ふ。かくてかの堀河(ほりかは)の女御(にようご)其(そ)のままにむねふたがりて、つゆばかり御ゆをだに参(まゐ)らでふさせ給(たま)へり。おとどもきえいりぬばかりにて、ふし給(たま)へるに、一の宮(みや)おはしましておとどやゝおきよ<むまにせんとおこし奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、われにもあらずおきあかり給(たま)ひて、たかはひしてむまにのせ奉(たてまつ)り給(たま)ひてありかせ給(たま)へば、一の宮(みや)例(れい)よりはうごかぬむまかなとて、御あふぎしてとく<とうち奉(たてまつ)らせ給(たま)ふを、女御(にようご)みやり奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、めくるゝ心地(ここち)せさせ給(たま)へば、いとどしき御こころのやみもまさらせ給(たま)ひて、御衣(ぞ)をひきかづきてふさせ給(たま)へり。いみじうあはれなる御有様(ありさま)どもなるに、女御(にようご)は若(わか)うおはすれはいとよしや。殿(との)の御年(とし)さばかりなるに、いかにつみえさせ給らんと見(み)奉(たてまつ)る人々(ひとびと)も、あはれこころうしとおもふべし。日頃(ひごろ)ありて院(ゐん)堀河(ほりかは)におはしまして御覧(ごらん)ずれば、わざとみちもみえぬまであれたり。あはれと御覧(ごらん)じていらせ給(たま)へれば、女御(にようご)殿(どの)は御帳のまへに、御すゞりのはこをまくらにてふさせ給(たま)へる。御(お)前(まへ)に女房(にようばう)二三人(にん)ばかり候つれど、おはしましつれば、皆(みな)いりにけり。め安(やす)き人々(ひとびと)候(さぶら)ひしかど。此(こ)の頃(ごろ)皆(みな)いではてゝ。
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えさらぬ人々(ひとびと)ぞ候(さぶら)ひける。見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、しろき御衣(ぞ)ども、いつゝむつばかり奉(たてまつ)りて、御こしの程(ほど)に御ふすまをひきかけておはします。御(み)髪(ぐし)はいとうるはしくて、すそ細(ほそ)くてたけに一尺ばかりあまらせ給(たま)へる程(ほど)なり。御かたちきよけにて只今(ただいま)は卅ばかりにおはしますらんかし。されどいみじう若(わか)う清(きよ)げにみえさせ給(たま)ふ。猶(なほ)ふりがたきかたちなりかしと御覧(ごらん)じて、やゝとをどろかし奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、何(なに)ごころもなく見あげ給(たま)へるに、院(ゐん)のおはしませば、あさましくて御かほひきいれ給(たま)へば、御かたはらにそひふさせて、よろづになきみ笑(わら)ひみ慰(なぐさ)め聞(き)こえさせ給(たま)へど。それにつけてもむねふたがりて、御涙(なみだ)のみ流(なが)れいづれば、院(ゐん)はよろづに聞(き)こえさせ給(たま)へどかひなし。いづら一の宮(みや)はと聞(き)こえ給(たま)へば、おはしましてうちはぢらひておはしませば此(こ)の宮(みや)も皆(みな)はぢけるものをとて御涙(なみだ)ををしのごはせ給(たま)ふもいみじうあはれなり。女御(にようご)の御そばのかたに、たたうがみのやうなるもののあるをとりて御覧(ごらん)ずれば、おぼしける事(こと)どもをぞかき給(たま)へる
@過(す)ぎにける年(とし)月何(なに)を思(おも)ひけんいましももののなげかしきかな W140。
また
@うちとけて誰(たれ)もまだねぬ夢(ゆめ)のよに人(ひと)のつらさを見るぞ悲(かな)しき W141
@ちとせへん程(ほど)をばしらずこぬひとをまつはなをこそひさしかりけれ W142
P1409
@恋(こひ)しさもつらさもともにしらせつる人(ひと)をばいかゞうしと思(おも)はぬ W143
@とくとだにみえずもあるかな冬(ふゆ)のよのかたしくそでにむすぶこほりの W144。
などかかせ給(たま)へるいみじうあはれなり。かくものを思(おも)はせ奉(たてまつ)る事(こと)、などかとき<はこころにもとまらざらん。されど人(ひと)のいみじうもてなしおぼいたる事(こと)の煩(わづら)はしければ、只今(ただいま)はいかでかはいま暫(しば)しもありてこそはなど思(おぼ)すもいとあはれなり。むすぶこほりのとかき給(たま)へるかたはらにかかせ給(たま)ふ
@あふ事(こと)のとどこほりつゝ程(ほど)ふればとくれどとくるけしきだになし W145。
よろづに唯(ただ)わが御命(いのち)しらぬ事(こと)をのみ。えもいはず聞(き)こえさせ給(たま)ひて、出(い)でさせ給(たま)ふ。宮(みや)たちのたち騒(さわ)ぎみをくり奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、又(また)御涙(なみだ)のこぼるれば、ついゐさせ給(たま)ひて慰(なぐさ)め奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御乳母(めのと)ども召(め)して抱(いだ)かせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、殿(との)の御方(かた)におはしまさせ給(たま)ひて、少(すこ)しこころ安(やす)くて出(い)でさせ給(たま)ふ。みちのそらもなく、いみじう思(おぼ)さるべし。御供(とも)の人々(ひとびと)もとまらせ給(たま)はゞ。いかにひなからんと思(おも)ひけるに、出(い)でさせ給(たま)へばいと嬉(うれ)しく思(おも)ひたるも、いとこころうし。高松(たかまつ)殿(どの)におはしましたれば、たとしへなき事(こと)ども多(おほ)かり。こたみの絶間(たえま)いとこよなし。女御(にようご)いまは唯(ただ)此(こ)の嘆(なげ)きには、わがみのなからんにのみぞたゆべきと心(こころ)一(ひと)つをとなしかうなしいつまでぐさのとのみ。おぼしみだる。あはた殿(どの)の北(きた)の方(かた)は、年(とし)頃(ごろ)此(こ)の殿(との)の北(きた)の方(かた)
P1410
にておはすれは、此(こ)の頃(ごろ)は上(うへ)などの聞(き)こえ給(たま)ふ事(こと)も殿(との)は聞(き)きいれさせ給(たま)はずいみじとのみものをおぼしたるか哀(あは)れになん。晦日(つごもり)になりぬれば、高松(たかまつ)殿(どの)にはやがてそれにぞ院(ゐん)の御乳母(めのと)達(たち)にさべき事(こと)どもせさせ給(たま)ふ。装束ひきくたり織物(おりもの)のきぬまた唯(ただ)のきぬなとそへさせ給(たま)へるにまた院(ゐん)の御衣(ぞ)どもそへさせ給(たま)ふにまたあるものもあるべし。一条(いちでう)宮(みや)には御のさきの事(こと)するにつけても夢(ゆめ)とのみ思(おぼ)し召(め)さる。夜の程(ほど)にか。はかりぬるそらのけしきも、いとはればれしくこころのどかにてうらゝゆかしげなり。よろづもののはへなき年(とし)なれば、例(れい)参(まゐ)り給上達部(かんだちめ)臨時(りんじ)のきやく同(おな)じ事(こと)なり。されど女房(にようばう)などのいてゐもなくひきいりたる御有様(ありさま)も口(くち)惜(を)しうぞ高松(たかまつ)殿(どの)には女房(にようばう)の事(こと)もあらため心地(ここち)よなれと院(ゐん)の御衣(ぞ)のいろ異(こと)なれば、もののはへなき事(こと)どもなり。よろづよりも御門(みかど)の御年(とし)十一にならせ給(たま)へば、正月五日御元服の事(こと)あり。其(そ)の程(ほど)の有様(ありさま)思(おも)ひ遣(や)るべし。此(こ)の廿余(よ)日(にち)の程(ほど)は摂政殿の大饗あるへければ、御屏風(びやうぶ)せさせ給(たま)ふ。さるべき人々(ひとびと)に皆(みな)うたくばり給(たま)はするに、大(おほ)殿(との)われもよまんと仰(おほ)せられてよの急(いそ)ぎに御いとまもおはしまさねど。ともすればはしちかにうちながめて、うめかせ給(たま)ふ程(ほど)。様々(さまざま)にめでたく、人(ひと)の御さいはひ御心様(こころざま)もつねの事(こと)ながら、かばかりいそがしき御こころにかかる事(こと)をさへ忘(わす)れすてさせ給(たま)はぬ。御こころの程(ほど)も
P1411
聞(き)こえさせんかたなくおはします。すべてうた八十ぞいできたりつれど、いりたる限(かぎ)りにつくしかかず。やまとのかみすけたゞの朝臣(あそん)うづえを
@ときは山(やま)おいつくなれどたまつばき君(きみ)がさかゆくつえにとぞきる W146。
大饗したる所(ところ)
@君(きみ)がりとやりつるつかひきにけらし野辺(のべ)のきゞすはとりやしつらん W147
春日(かすが)のつかひたつところいづみ
@春日野(かすがの)に年(とし)もへぬべしかみのますみかさの山(やま)にきたりと思(おも)へば W148。
やまざとにみづある家(いへ)に、まらうとのきたるさいす輔親(すけちか)
@此(こ)のやどにわれをとめなんいけみづのふかきこころにすみ渡(わた)るべく W149。
五月節すけたゞ
@くらぶべきこまもあやめのくさも皆(みな)みづのみまきにひけるなりけり W150。
九月九日殿(との)の御(お)前(まへ)
@かくのみもきくをぞ人(ひと)は忍(しの)びけるまがきにこめてちよを思(おも)へば W151。
四条(しでう)大納言(だいなごん)べちに二首奉(たてまつ)り給(たま)へり。さくらのはな見る女(をんな)車(ぐるま)あるところ
@はるのはなあきの紅葉(もみぢ)も色々(いろいろ)にさくらのみこそひとゝきもみれ W152。
また紅葉(もみぢ)ある山(やま)ざとに男(をとこ)きたり
@やまざとの紅葉(もみぢ)みにとやおもふらんちりはてゝこそとふべかりけれ W153。
いと多(おほ)かれ
P1412
どかかず。大饗の日寛仁二年正月廿三日なり。有様(ありさま)言(い)ふも疎(おろ)かにめでたし尊者には閑院(かんゐん)右大臣(うだいじん)ぞおはしましける。上(うへ)の御有様(ありさま)などいとあらまほしくめでたき殿(との)なり。式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)の姫宮(ひめみや)むまれ給(たま)ひしより。やがてとり放(はな)ちてやしなひ奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、いと美(うつく)しげにておはします。堀河(ほりかは)の院(ゐん)にはかの上陽人の、@@01 『春(はる)往(ゆ)き秋(あき)来(く)れども年(とし)を知(し)らず [かな: はるゆきあきくれどもとしをしらず]』 B01と言(い)ふやうに、あけくるゝもしらせ給(たま)はす。あさましうおぼし嘆(なげ)きてねざめつゝにやあらん。大(おほ)殿(との)ごもらねば、残(のこ)りのともしびのかべにそむける嘆(なげ)きも、こころ細(ぼそ)く思(おぼ)さるゝに、御(お)前(まへ)のむめのこころようひらけにけるも、これをいまゝでしらざりける。わがみ世(よ)にふるなどながめられ給(たま)ひて
@いづこよりはるきたりけんみし人(ひと)のたえにしやどにむめぞにほへる W154。
@@02 『鴬(うぐひす)のうら若(わか)き初音(はつこゑ)もうれはしければ聞(き)くを厭(いと)ふ [かな: うぐひすのうらわかきはつこゑもうれはしければきくをいとふ ] 』 B02などありけんも、誠(まこと)なりけりとおぼししらる。よろづかはらぬ御有様(ありさま)なるに宮(みや)たちの御衣(ぞ)ばかりをぞあさやけさせ給(たま)ひて、〔ゐ〕んの御をきてあれば、宮(みや)たちに御節供参(まゐ)れり。よろづあはれなる世を、殿(との)は小袴きてあしだはかせ給(たま)ひてつえをつきて、みちのまゝにありかせ給(たま)ふ。御(お)前(まへ)の小木どものおいさきつくろはせ給(たま)へば、一の宮(みや)は人(ひと)に抱(いだ)かれさせ給(たま)ふ。つゞきあるかせ給(たま)ふ程(ほど)に哀(あは)れにすごげなり高松(たかまつ)殿(どの)の有様(ありさま)を、院(ゐん)いかに御覧(ごらん)じくらぶらんと、御めうつりの程(ほど)も思(おも)ひ遣(や)られて恥(は)づかしう。すずろはしう思(おぼ)さるる御こころのうち理(ことわり)ながらあながちなり。
P1413
枇杷(びは)殿(どの)の宮(みや)には、故院(ゐん)の御ふえを此(こ)の宮(みや)。ごんだいぶとあるは、けん中納言(ちゆうなごん)にこれかたがひたるところつくろひてとてあづけさせ給(たま)へりけるを、ものの中よりみ出(い)でてかう<侍(はべ)りしを、忘(わす)れていままで参(まゐ)らせ侍(はべ)らざりける事(こと)ゝて、御(お)前(まへ)に参(まゐ)らせ給(たま)ふとて、やがて少(すこ)しふきならさせ給(たま)ふを聞(き)きて、命婦(みやうぶ)の乳母(めのと)
@ふえたけの此(こ)のよをながくわかれにし君(きみ)がかたみのこゑぞ恋(こひ)しき W155。