栄花物語詳解巻八
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栄花物語詳解 巻四
和田英松・佐藤球 合著
〔栄花物語巻第八〕 初花(はつはな)
殿(との)の若君(わかぎみ)たづぎみ十二ばかりになり給(たま)ふ。今年(ことし)の冬(ふゆ)枇杷(びは)殿(どの)にて御かうぶりせさせ給(たま)ふ。引き入れには閑院(かんゐん)の内大臣(ないだいじん)ぞおはしましける。すべて残(のこ)る人(ひと)なく参(まゐ)りこみ給(たま)へりける。御贈(おく)り物(もの)・引き出で物(もの)など思(おも)ひ遣(や)るべし。さて其(そ)の年(とし)暮れぬれば、又(また)の年(とし)になりぬ。司召(つかさめし)に少将(せうしやう)にならせ給(たま)ひて、二月に春日(かすが)の使(つかひ)に立(た)ち給(たま)ふ。殿(との)の始(はじ)めたる初事(うひごと)におぼされて、いといみじう急(いそ)ぎ立(た)たせ給(たま)ふも理(ことわり)なり。万(よろづ)にかひ<”しき御有様(ありさま)なり。何(なに)となくふくらかにて美(うつく)しうおはすれば、限(かぎ)り無き物(もの)にぞ見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。
春日(かすが)の御供(とも)には、世(よ)に少(すこ)しおぼえある四位(しゐ)・五位(ごゐ)・六位(ろくゐ)、残(のこ)り無く参(まゐ)らせ給(たま)ふ。殿(との)は内(うち)にて御(お)前(まへ)にて見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。又(また)みちの程(ほど)御車(くるま)にても見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ程(ほど)、哀(あは)れに見(み)えさせ給(たま)ふ。立(た)たせ給(たま)ひぬる又(また)の日(ひ)、雪のいみじう降りたれば殿(との)の御(お)前(まへ)、
@若菜(わかな)摘(つ)む春日(かすが)の野辺(のべ)に雪降れば心(こころ)づかひを今日(けふ)さへぞやる W054。
御かへし、四条(しでう)大納言(だいなごん)公任、
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@身をつみておぼつかなきは雪やまぬ春日(かすが)の野辺(のべ)の若菜(わかな)なりけり W055。
これ聞(き)こし召(め)して、花山(くわさん)の院(ゐん)、
@我すらに思(おも)ひこそやれ春日野(かすがの)の雪間(ゆきま)をいかで鶴(たづ)の分(わ)くらん W056。
など聞(き)こえさせ給(たま)ふ。又(また)の日(ひ)はいつしかと殿(との)の御まうけいと心(こころ)異(こと)なり。舎人(とねり)どもの思(おも)ひかしづき、いつかと取(と)り見(み)奉(たてまつ)りたる様(さま)に見ゆるも、其(そ)のかたにつけておかしう見ゆ。
内(うち)には宮々(みやみや)の数多(あまた)おはしますを、御門(みかど)なん一宮をば中宮(ちゆうぐう)の御(み)子(こ)に聞(き)こえつけさせ給(たま)ひて、此(こ)の御方(かた)がちにもてなし聞(き)こえさせ給(たま)ふ。一宮・二宮などのいと美(うつく)しうおはしますを、疎(おろ)かならず見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつゝ、昔(むかし)を哀(あは)れに思(おも)ひ出(い)で聞(き)こえさせ給(たま)はぬ時無し。故関白(くわんばく)殿(どの)の四の御方(かた)は、御(み)櫛笥(くしげ)殿(どの)とこそは聞(き)こゆるを、此(こ)の一宮の御事(こと)を故宮(みや)万(よろづ)に聞(き)こえつけさせ給(たま)ひしかば、たゞ此(こ)の宮(みや)の御母代(ははしろ)に万(よろづ)後見(うしろみ)聞(き)こえさせ給(たま)ふとて、上(うへ)なども繁(しげ)う渡(わた)らせ給(たま)ふに、自(おの)づからほの見(み)奉(たてまつ)りなどせさせ給(たま)ひける程(ほど)に、其(そ)の程(ほど)をいかゞありけん。睦(むつ)まじげにおはしますなど言(い)ふ事(こと)、自(おの)づから漏れ聞(き)こえぬ。中宮(ちゆうぐう)は万(よろづ)まだ若(わか)うおはしまして、何事(なにごと)も思(おぼ)し入れぬ御有様(ありさま)なれど、彼の御方(かた)には此(こ)の御事(こと)をいと煩(わづら)はしう慎(つつ)ましげに思(おぼ)ししづむべかめり。帥(そち)殿(どの)も中納言(ちゆうなごん)殿(どの)もあはれなりける御宿世(すくせ)かなと思(おぼ)して、人(ひと)知れぬ御祈(いの)りなどせさせ給(たま)ふべし。上(うへ)もいとど哀(あは)れに思(おぼ)し召(め)したるべし。御(み)櫛笥(くしげ)殿(どの)も万(よろづ)
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峯(みね)の朝霧(あさぎり)に又(また)かく思(おぼ)し嘆(なげ)かるべし。
帥(そち)殿(どの)も中納言(ちゆうなごん)殿(どの)も宮中におはしませば、思(おも)ひのまゝにえ参(まゐ)り給(たま)はず。夜(よる)忍(しの)びて参(まゐ)り給(たま)ひては、人(ひと)にも知(し)られ給(たま)はで、二三日などぞやがて候(さぶら)ひ給(たま)ひける。宮(みや)達(たち)の御有様(ありさま)の様々(さまざま)美(うつく)しうおはしますに、万(よろづ)を思(おぼ)し慰(なぐさ)めつゝぞ過(す)ぐし給(たま)ひける。此(こ)の程(ほど)に上(うへ)渡(わた)らせ給(たま)ふ折などさべきには忍(しの)びて御物語(ものがたり)など宣(のたま)はせ奏(そう)し給(たま)ふべし。中納言(ちゆうなごん)は大(おほ)殿(との)に常(つね)に参(まゐ)り給(たま)ひて、又(また)見(み)え給(たま)はぬ折は、度々(たびたび)呼びまつはし聞(き)こえ給(たま)ひつゝ、にくからぬ物(もの)に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひて、此(こ)の君(きみ)はにくき心(こころ)やは有(あ)る。帥(そち)殿(どの)のかしこさのあまりの心(こころ)にひかるゝにこそなどぞ思(おも)ほし召(め)しける。宣耀殿(せんえうでん)東宮(とうぐう)には数多(あまた)の宮(みや)達(たち)ひきゐて候(さぶら)はせ給(たま)ふにも、おぼろげならぬ御宿世(すくせ)にやと見(み)えたり。大殿(との)内侍(ないし)の督(かん)の殿(との)必(かなら)ず参(まゐ)らせ給(たま)ふべき様(さま)に、世(よ)の人(ひと)申すめり。されど殿(との)の御心(こころ)をきてのさきざきの殿(との)ばらの御やうに、人(ひと)をなきになし給(たま)ふ御心(こころ)のなければ、其の折もなどてかとて参(まゐ)らせ聞(き)こえさせ給(たま)ふ。
中宮(ちゆうぐう)には此(こ)の頃(ごろ)殿(との)の上(うへ)の御はらからにて、くらうのべんと言(い)ひし人(ひと)のむすめいと数多(あまた)ありけるを、中の君(きみ)、帥(そち)殿(どの)の北(きた)の方(かた)の御はらからの則理(のりまさ)にむこどり給(たま)へりしかども、いと思(おも)はずにて絶えにしかば、此(こ)の頃(ごろ)中宮(ちゆうぐう)に参(まゐ)り給(たま)へり。かたち有様(ありさま)いと美(うつく)しう、誠(まこと)におかしげに物(もの)し給(たま)へば、殿(との)の御(お)前(まへ)御目とまりければ、物(もの)など宣(のたま)はせける程(ほど)に、御志(こころざし)有(あ)りておぼさ
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れければ、誠(まこと)しう覚(おぼ)し物(もの)せさせ給(たま)ひけるを、殿(との)の上(うへ)は他人(ことひと)ならねば、思(おぼ)し許(ゆる)してなん。過(す)ぐさせ給(たま)ひける。見る人(ひと)ごとに則理(のりまさ)の君(きみ)は、あさましきめをこそ見ざりけれ。これを疎(おろ)かに思(おも)ひけるよなどぞ言(い)ひ思(おも)ひける。大納言(だいなごん)の君(きみ)とぞつけさせ給(たま)へりける。
かくてあり渡(わた)る程(ほど)に、彼の御(み)櫛笥(くしげ)殿(どの)はたゞにもあらずおはして、御(おん)心地(ここち)なども悩(なや)ましう世とゝもにおぼされければ、其(そ)の御気色(けしき)を上(うへ)もいみじう哀(あは)れにおぼされば内(うち)にもいかに<と思(おぼ)し召(め)しける程(ほど)に、四五月ばかりになりぬれば、かくと聞(き)こえ有(あ)りて奏(そう)せ給(たま)ふ事(こと)こそなけれど、煩(わづら)はしうてまかでさせ給(たま)ふ。上(うへ)もいみじうあはれと思(おぼ)し宣(のたま)はせける程(ほど)に、いたう悩(なや)ましげにおはするを、いかに<と思(おぼ)し召(め)されけり。帥(そち)殿(どの)などはたゞならんよりは御(み)子(こ)むまれ給(たま)はんもあしかるべき事(こと)かはと思(おも)ほして、万(よろづ)に祈(いの)らせ給(たま)ふ。里(さと)にて宮々(みやみや)のおぼつかなさこひしさなどを思(おぼ)しみだるゝに、御(おん)心地(ここち)も誠(まこと)に苦(くる)しうせさせ給(たま)ひて、起臥(おきふし)悩(なや)ませ給(たま)ふ。帥(そち)殿(どの)我が御許(もと)に迎(むか)へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、何事(なにごと)も万(よろづ)につかうまつり給(たま)ひけれど、にはかに御(おん)心地(ここち)おもりて、五六日ありて失(う)せ給(たま)ひぬ。御年(とし)十七八ばかりにやおはしましつらん。
御かたち心(こころ)ざまいみじう美(うつく)しうおかしげにおはしまして、故宮(みや)の御有様(ありさま)にも劣(おと)らず、かいひそめおかしうおはしましつるを、またかうたゞにもおはせでさへと、様々(さまざま)帥(そち)殿(どの)も中納言(ちゆうなごん)殿(どの)
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も思(おぼ)し嘆(なげ)く事(こと)も疎(おろ)かなりや。哀(あは)れに心(こころ)憂(う)し。内(うち)<の悲(かな)しさよりも、よそのきゝみみを恥(は)づかしう憂き事(こと)に思(おも)ほし忍(しの)ぶれど、かく本意(ほい)なき事(こと)に、此(こ)の殿(との)の御有様(ありさま)をまづ人(ひと)は聞(き)こえさすめり。内(うち)には人(ひと)知れず打(う)ちしほれさせ給(たま)ひて、御志(こころざし)有(あ)りて思(おぼ)し召(め)されけりと見るにつけても、いと口(くち)惜(を)しう心(こころ)憂(う)し。はかなく後(のち)<の御事(こと)共(ども)などして、御忌(いみ)などはてゝぞ、帥(そち)殿(どの)も中納言(ちゆうなごん)殿(どの)も内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひつゝ、宮(みや)達(たち)の御有様(ありさま)をつきず思(おぼ)し見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御櫛笥(くしげ)殿(どの)のおはせぬ事(こと)を、一宮とりわき忍(しの)びこひ聞(き)こえさせ給(たま)ふも、疎(おろ)かならず哀(あは)れに悲(かな)しうのみなん。
かく言(い)ふぼどに、寛弘二年になりぬ。司召(つかさめし)など言(い)ひて、殿(との)の君達(きんだち)、此(こ)の御はらのおとゝぎみ。高松(たかまつ)殿(どの)の御はらいはぎみなど皆御かうぶりし給(たま)ひて、ほど<の御官(つかさ)共(ども)、少将(せうしやう)・兵衛(ひやうゑ)の佐(すけ)など聞(き)こゆるに、春日(かすが)のつかひの少将(せうしやう)は中将(ちゆうじやう)になり給(たま)ひて、今年(ことし)の祭(まつり)のつかひせさせ給(たま)ふ。殿(との)は一条(いちでう)の御ざしきの屋なが<とつくらせ給(たま)ひて、ひはだぶき・かうらんなどいみじうおかしうせさせ給(たま)ひて、此(こ)の年(とし)頃(ごろ)御(ご)禊(けい)より始(はじ)め、祭(まつり)を殿(との)も上(うへ)も渡(わた)らせ給(たま)ひて、御覧(ごらん)ずるに、今年(ことし)はつかひの君(きみ)の御事(こと)を、世(よ)の中(なか)ゆすりて急(いそ)がせ給(たま)ふ。其(そ)の日(ひ)になりぬれば、皆御ざしきに渡(わた)らせ給(たま)ひぬ。殿(との)はつかひの君(きみ)の御出(い)で立(た)ちの事(こと)御覧(ごらん)じはてゝぞ。御ざしきへはおはします。多(おほ)くの殿(との)ばら・殿上人(てんじやうびと)引き具(ぐ)しておはします。さしもあらぬだに此(こ)のつかひに出(い)で立(た)ち給(たま)ふ君(きみ)だちは、これをいみじき事(こと)におやたちは急(いそ)ぎ
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給(たま)ふわざなれば、まいて万(よろづ)理(ことわり)に見(み)えさせ給(たま)ふ。御供(とも)の侍(さぶらひ)・ざうしき・小(こ)舎人(どねり)・御むまぞひまでしつくさせ給(たま)ふ程(ほど)に、えぞまねばぬや。
今年(ことし)は此(こ)のつかひのひゞきにて、帥(そち)の宮・花山(くわさん)の院(ゐん)などわざと御車(くるま)したてゝ物(もの)を御覧(ごらん)じ、御ざしきのまへ数多(あまた)渡(わた)らせ給(たま)ふ。帥(そち)の宮の御車(くるま)のしりには、いづみを乗せさせ給(たま)へり。花山(くわさん)の院(ゐん)の御車(くるま)はきんのうるしなど言(い)ふやうに塗らせ給(たま)へり。あじろの御車(くるま)をすべてえもいはずつくらせ給(たま)へり。さばかうもすべかりけると見(み)えたり。御供(とも)に大どうじのおほきやかに年(とし)ねびたる。四十人(にん)、中どうじ廿人(にん)、めし次(つぎ)どもはもとのぞくどもつかうまつれり。御車(くるま)のしりに殿上人(てんじやうびと)引きつれて、いろ<様々(さまざま)にて、あかきあふぎをひろめかしつかひて、御ざしきのまへ数多(あまた)度(たび)渡(わた)りあるかせ給(たま)ふ程(ほど)、たゞの年(とし)ならばかからでもと殿(との)見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつべけれど、つかひの君(きみ)の御物(もの)のはへに思(おも)ほされて、上達部(かんだちめ)打(う)ちほゝゑみ、殿(との)の御(お)前(まへ)猶(なほ)気色(けしき)おはします院(ゐん)なりかしな。此(こ)の男(をとこ)のづかひにたつとしわれこそ見はやさめと宣(のたま)はすときゝしもしるくゆくりかにも出(い)で給(たま)へるかなと、皆けうじ聞(き)こえ給(たま)ふ。
皆事(こと)共(ども)なりてつかひの君(きみ)何(なに)となうちいさくふくらかに美(うつく)しうて渡(わた)り給(たま)ふ。殿(との)の御(お)前(まへ)御涙(なみだ)たゞこぼれにこぼれさせ給(たま)へば、子の悲(かな)しさ知(し)り給(たま)へる殿(との)ばら皆同(おな)じ様(さま)に思(おぼ)ししるべし。世(よ)の中(なか)の宮(みや)・殿(との)ばら・家(いへ)<のめのわらはべを今(いま)の世(よ)の事(こと)ゝしては、物(もの)ぐるをしういくへとも知らぬまできせたる。十廿人(にん)、二三十人(にん)押しこり
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て渡(わた)れば、いづくの人(ひと)ぞと必(かなら)ず召(め)し寄せて御覧(ごらん)じとはせ給(たま)へば、其(そ)の宮(みや)の彼の殿(との)の何(なに)のかみの家(いへ)など申すを、よきをば見けうじ、又(また)さしもなきをば笑(わら)ひなどせさせ給(たま)ふも、様々(さまざま)いとおかしう今(いま)めかしき有様(ありさま)になんありける程(ほど)に、むげに帥(そち)殿(どの)の御位(くらゐ)もなき定(さだ)めにておはするを、いとどおしき事(こと)なりなど殿(との)思(おぼ)していとおしがりて、准大臣の御位(くらゐ)にて御封など得させ給(たま)ふ。中納言(ちゆうなごん)はひとゝせより中納言(ちゆうなごん)にて兵部(ひやうぶ)卿(きやう)とぞ聞(き)こゆめる。世(よ)の人(ひと)はとめ安(やす)き事(こと)によろこび聞(き)こえたり。今年(ことし)の十一月(じふいちぐわつ)に内(うち)焼けぬれば、五節(ごせつ)もえ参(まゐ)るまじうなりぬ。かく内(うち)の繁(しげ)う焼くるを、御門(みかど)いみじき事(こと)に思(おぼ)し嘆(なげ)きて、いかで猶(なほ)さもありぬべくば、とくおりなんとのみ思(おぼ)し急(いそ)ぎたり。寛弘三年(さんねん)になりぬ。今年(ことし)は大殿(との)御岳(みたけ)精進(しやうじ)せさせ給(たま)ふべき御年(とし)にて、正月より御ありきなど心(こころ)解けてもなけれど、次(つぎ)<例(れい)の作法(さほふ)にて過(す)ぎもてゆく。今年(ことし)は不用にやなど思(おぼ)し召(め)されて、四五月にもなりぬ。
五月には例(れい)の卅講(かう)など上(かみ)の十五日つとめ行(おこな)はせ給(たま)ひて、下(しも)の十五日あまりには競馬(くらべむま)せさせんとて、土御門(つちみかど)殿(どの)の馬場屋(むまばや)・埒(らち)などいみじうしたてさせ給(たま)ふ。行幸(ぎやうがう)・ぎやうけいなど思(おぼ)し召(め)しつれど、此(こ)の頃(ごろ)雨(あめ)がちにて事(こと)共(ども)えしあふまじき様(さま)なれば、さばたゞならんよりはとて、花山(くわさん)の院(ゐん)をぞ忝(かたじけな)くともおはしまして、馬(むま)の心地(ここち)など御覧(ごらん)ぜんに、
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いかがなど申(まう)させ給(たま)へば、いといみじう物(もの)にはへある心様(こころざま)にて、むげにむもれたりつる心地(ここち)晴れ侍(はべ)りぬべかめり。さば其(そ)の日(ひ)になりてと聞(き)こえさせ給(たま)へれば、院(ゐん)のおはしますべき御用意(ようい)共(ども)有(あ)り。彼の院(ゐん)の御供(とも)の僧ども、殿上人(てんじやうびと)など禄取らせではいかでか。いと忝(かたじけな)からん。又(また)御贈(おく)り物(もの)には何(なに)をがなと思(おぼ)しまうけて、其(そ)の日(ひ)になりぬれば、今日(けふ)の事(こと)には院(ゐん)のおはしますをめでたき事(こと)におぼされて、いみじうもてはやし聞(き)こえさせ給(たま)ふ。院(ゐん)もいと興(けう)ありと思(おぼ)し召(め)したり。さて左右の乱声などの勝負(かちまけ)の程(ほど)もいときゝ苦(ぐる)しうおどろ<しきまであるも、はしたなげなり。
さて其(そ)の事(こと)共(ども)果てぬれば、院(ゐん)かへらせ給(たま)ふ。御贈(おく)り物(もの)などある内(うち)にも世(よ)に珍(めづら)しきつきげの御むまにえもいはぬ御くらなど置かせても、又(また)いみじき御車牛(くるまうし)そへて引き出(い)で奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。院(ゐん)夜に入りてかへらせ給(たま)へば、殿(との)御送りにおはします程(ほど)猶(なほ)院(ゐん)の御有様(ありさま)棄(す)つれど棄(す)てられぬわざとやむごとなく哀(あは)れに見(み)えさせ給(たま)ふ。これを始(はじ)めて殿(との)いと御(おん)中(なか)心(こころ)よげにおはします。
院(ゐん)此(こ)の宮(みや)達(たち)の忍(しの)びがたく哀(あは)れにおぼえ給(たま)へば、中務(なかつかさ)が腹(はら)の一の御(み)子(こ)、むすめの腹(はら)の御(み)子(こ)ふた宮(みや)を殿(との)に申(まう)させ給(たま)ひて、これ冷泉(れいぜい)の院(ゐん)の内(うち)に入れさせ給(たま)へとある御消息(せうそく)度々(たびたび)あれば、殿(との)あはれ、おぼろげに思(おも)ほせばこそかくも宣(のたま)はすらめ。院(ゐん)におはしまさんからに、子の悲(かな)しさをしろしめす
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べからずはこそあらめ。われ苦(くる)しからぬ事(こと)なり。などかあらざらむとてうけ給(たま)はりぬ。今(いま)さらば事(こと)の由(よし)奏し候ひてなど申(まう)させ給(たま)ひつ。花山(くわさん)の院(ゐん)は冷泉(れいぜい)の院(ゐん)の一の御(み)子(こ)。只今(ただいま)の東宮(とうぐう)は二宮、故弾正宮は三の御(み)子(こ)、今(いま)の帥(そち)の宮の御(み)子(こ)にぞおはしますかし。されば内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて事(こと)の由(よし)奏せさせ給(たま)ひて、よき日して宣旨(せんじ)くださせ給(たま)ふ。親腹(おやばら)の御(み)子(こ)をば五の宮(みや)、むすめばらの御(み)子(こ)をば六(ろく)の宮(みや)とて、各(おのおの)皆なべての宮(みや)達(たち)の得給(たま)ふ程(ほど)の御封どもたまはらせ給(たま)ふ。くに<”に御封どもわかち奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、宣旨(せんじ)くだりぬる由(よし)。殿(との)より院(ゐん)に奏せさせ給(たま)へれば、物(もの)にあたらせ給(たま)ひて、御つかひに何(なに)をも<と取(と)りうづみかつげさせ給(たま)ふ。御つかひかへり参(まゐ)りたれば、殿(との)おはしまいて物(もの)よかりけるまうとかな。いみじう多(おほ)く物(もの)を給(たま)はりたるとぞ笑(わら)はせ給(たま)ひける。
かうやうなる事(こと)共(ども)有(あ)りて過(す)ぎもてゆくに、月日(ひ)もはかなく暮れぬるを、殿(との)口(くち)惜(を)しう御岳(みたけ)精進(しやうじ)を今年(ことし)は始(はじ)めずなりぬる事(こと)ゝ思(おぼ)し召(め)して、されど年(とし)だにかへりなばと思(おぼ)し召(め)されける。三月ばかり花山(くわさん)の院(ゐん)には五六宮をもてはやし聞(き)こえさせ給(たま)ふとて、とりあはせせさせ給(たま)ひて見せ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。親腹(おやばら)の五の宮(みや)をばいみじうあいし思(おぼ)し。むすめばらの六(ろく)の宮(みや)をば殊(こと)の外(ほか)にぞおぼされける。斯(か)かる程(ほど)に世(よ)の中(なか)の京わらはべかたりきゝて、とり<”ののしる人(ひと)のくにまでゆきて、いさかひののしりけり。斯(か)かる今(いま)めく事(こと)共(ども)を、殿(との)聞(き)こし召(め)して、かいひそめて
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おはしますこそよけれ。いでやと思(おぼ)しきゝ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ程(ほど)に、院(ゐん)の内(うち)の有様(ありさま)、をきて給(たま)ふ事(こと)共(ども)、いとおどろ<しういみじ。其(そ)の日(ひ)になりぬれば、左右のがくやつくりて様々(さまざま)の楽・舞など整(ととの)へさせ給(たま)へり。殿(との)の君達(きんだち)おはすべう御消息(せうそく)あれば、皆参(まゐ)り給(たま)ふ。さるべき殿(との)ばらなども参(まゐ)り給(たま)ふて、今(いま)は事(こと)共(ども)なりぬるきはに、此(こ)のとりの左の頻(しき)りに負け、右のみ勝つにむげに、物(もの)はらだゝしう心(こころ)やましうおぼされて、たゞむつかりにむつからせ給(たま)へば、見きゝ給(たま)ふ人々(ひとびと)も心(こころ)の内(うち)おかしう思(おぼ)し見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。左万(よろづ)におぼえむつかりて、ことなる物(もの)のはへなくてそれにけり。いとこそおかしかりけれ。
かくて内(うち)も焼けにしかば、御門(みかど)は一条(いちでう)の院(ゐん)におはしまし。東宮(とうぐう)は枇杷(びは)殿(どの)にぞおはしましける。かくて宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)、女(をんな)二(ふた)所(ところ)男(をとこ)宮(みや)四(よ)所(ところ)にならせ給(たま)ひぬ。此(こ)の頃(ごろ)の斎宮には式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)の御むすめぞ。いと幼(をさな)くて居(ゐ)させ給(たま)ひにしまゝにおはしましける。世(よ)の中(なか)ともすればいと騒(さわ)がしう、人(ひと)死(し)になどす。さるは御門(みかど)の御心(こころ)もいとうるはしくおはしまし。殿(との)の御まつりごともあしうおはしまさねど、世(よ)のすゑになりぬればなめり。年(とし)ごとには世(よ)の中(なか)心地(ここち)おこりて人(ひと)もなくなり、あはれなる事(こと)共(ども)のみ多(おほ)かり。かくて冬(ふゆ)にもなりぬれば五節(ごせつ)・臨時(りんじ)の祭(まつり)をこそ、冬(ふゆ)の公(おほやけ)ごとにすめるも過(す)ぎもてゆきて、寛弘四年になりぬ。はかなうすぐる月日(ひ)につきても哀(あは)れになん。
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正月も朔日(ついたち)より万(よろづ)忙(いそ)がしうて過(す)ぎぬ。二月になりて殿(との)の御(お)前(まへ)御岳(みたけ)精進(しやうじ)始(はじ)めさせ給(たま)はんとするに、四五月にぞさらば参(まゐ)らせ給(たま)ふべき。猶(なほ)秋山(あきやま)なん、よく侍(はべ)るなど人々(ひとびと)申して御精進(しやうじ)延べさせ給(たま)ひて、万(よろづ)慎(つつし)ませ給(たま)ふ。あふぎの中納言(ちゆうなごん)と言(い)ふ人(ひと)の家(いへ)にぞ出(い)でさせ給(たま)ひける。殿(との)かき籠らせ給(たま)へれば、世(よ)の中(なか)いみじうのどかなり。さて籠りおはしませど、世(よ)のまつりごとは猶(なほ)知(し)らせ給(たま)ふ。八月にぞ参(まゐ)らせ給(たま)ひける。万(よろづ)したくし覚(おぼ)し志(こころざ)し参(まゐ)らせ給(たま)ふ程(ほど)も疎(おろ)かならず。推(お)し量(はか)りて知(し)りぬべし。さべき僧ども様々(さまざま)の人々(ひとびと)、多(おほ)くきをひつかうまつる。君達(きんだち)おほう、族(ぞう)広(ひろ)げおはしませば、此(こ)の程(ほど)いかにも恐(おそ)ろしう思(おぼ)しつれど、いと平(たひら)かに参(まゐ)り着かせ給(たま)ひぬ。年(とし)頃(ごろ)の御本意(ほい)はこれよりほかの事(こと)なく思(おぼ)し召(め)さる。これを又(また)世(よ)の公(おほやけ)ごとに思(おも)へり。十二月(じふにぐわつ)にもなりぬれば何事(なにごと)も心(こころ)のあはただしげなる人(ひと)の気色(けしき)を、いつしかうら<とならなんと誰(たれ)も待(ま)ち思(おも)ふ程(ほど)も、あながちに生きたらん身の程(ほど)も知らぬ様(さま)にあはれなり。
寛弘五年になりぬれば、夜の程(ほど)にみねのかすみも立(た)ちかはり、万(よろづ)行末(ゆくすゑ)はるかにのどけき空の気色(けしき)なるに、京極(きやうごく)殿(どの)には督(かん)の殿(との)と聞(き)こえさするは、中姫君(なかひめぎみ)におはします。其(そ)の御方(かた)の女房(にようばう)。小姫君(こひめぎみ)の御方(かた)など、いと様々(さまざま)にいまめげなる有様(ありさま)にて候(さぶら)ふ。殿(との)の御(お)前(まへ)督(かん)の殿(との)の御方(かた)におはしまして見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、十四五ばかりにおはしまして、
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いみじう美(うつく)しげにしつらひすへ奉(たてまつ)らせ給(たま)へり。いろ<の御衣(ぞ)共(ども)をぞ奉(たてまつ)りてゐさせ給(たま)へる。御ぐしのこうばいの織物(おりもの)の御衣(ぞ)のすそにかからせ給(たま)へる程(ほど)、ひまなうやうじかけたるやうにて、御たけには七八寸ばかりはあまらせ給(たま)へらんかしと見(み)えさせ給(たま)ふ。御かほの薫(かをり)めでたくけだかく、あいぎやうづきておはしますものから、はな<”とにほはせ給(たま)へり。うたてゆゝしきまで見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふ。御(お)前(まへ)には若(わか)き人々(ひとびと)七八人(にん)ばかり候(さぶら)ひて、心地(ここち)よげにほこりかなる気色(けしき)共(ども)なり。
また小姫君(こひめぎみ)は九(ここの)つ十ばかりにていみじう美(うつく)しうひいなのやうにて、こなたかなたまぎれあるかせ給(たま)ふ。美(うつく)し。御衣(ぞ)共(ども)にもへぎのこうちぎを奉(たてまつ)りて、御いろあひなどのよもの此(こ)のはだちのやうにて見(み)えさせ給(たま)ふものから、それは唯(ただ)しろくのみこそあれ。これはにほひさへそはせ給(たま)ひて、少納言(せうなごん)の乳母(めのと)いと美(うつく)しうまもり奉(たてまつ)るにも、よその人目(ひとめ)にあらうらやましと見(み)えたり。おと姫君(ひめぎみ)ふたつみつばかりにておはしませば、殿(との)の御(お)前(まへ)御いただきもちゐさせ給(たま)はんとするに、御さうぞくまだ奉(たてまつ)らねば、暫(しば)しと宣(のたま)はす。此(こ)の御有様(ありさま)共(ども)に御目うつりて、とみも出(い)でさせ給(たま)はず。をそく内(うち)にも参(まゐ)らせ給(たま)ふとて、御つかひ頻(しき)りなり。上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)多(おほ)く参(まゐ)りて、やがて御供(とも)に内(うち)へはと覚(おぼ)したり。
出(い)でさせ給(たま)ふまゝにうるはしき御よそひにて、いと若君(わかぎみ)の御いただきもちゐせさせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御乳母(めのと)の小式部(こしきぶ)の君(きみ)いとわかやかにてかき抱(いだ)き奉(たてまつ)りて参(まゐ)りむかふ有様(ありさま)、なべてにはあら
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ぬかたちなり。殿(との)の上(うへ)はかう君(きみ)だち数多(あまた)出(い)で給(たま)へれど、只今(ただいま)の御有様(ありさま)廿ばかりに見(み)えさせ給(たま)ふ。さゞやかにおかしげにふくらかに、いみじう美(うつく)しき御様(さま)すがたにおはしまして、御ぐしの筋(すぢ)こまやかにきよらにて、御うちぎのすそばかりにてすゑぞ細(ほそ)らせ給(たま)へる。しろき御衣(ぞ)共(ども)をかずわかぬ程(ほど)に奉(たてまつ)りて、御けうそくに押しかかりておはします程(ほど)、いとめでたう見(み)えさせ給(たま)ふ。中宮(ちゆうぐう)の御有様(ありさま)とり<”に見(み)えさせ給(たま)ふ。御(お)前(まへ)に候ふ人々(ひとびと)もゑましう見(み)奉(たてまつ)るに、したんの御ずずのちゐさやかなるを、わざとならぬ御念誦(ねんず)に、御をびしどけなくかけて御けうそくに押しかかりておはします程(ほど)、いはんかたなく見(み)えさせ給(たま)へば、殿(との)の御(お)前(まへ)若君(わかぎみ)抱(いだ)き奉(たてまつ)る。御乳母(めのと)の君(きみ)を、見よ。彼のはゝの御有様(ありさま)はいかゞ見(み)奉(たてまつ)る。なか<御むすめの君達(きんだち)の御様(さま)にはおとらぬ御有様(ありさま)にこそわかやぎ給(たま)ふべけれ。猶(なほ)御ぐしの有様(ありさま)よといと思(おも)はしげに打(う)ちゑみ、見やり聞(き)こえさせ給(たま)へるもおかしう思(おも)ふ。小姫君(こひめぎみ)のいたうまぎれさせ給(たま)ふを、あなあはただしと制し申(まう)させ給(たま)ふ。かくて殿(との)の御(お)前(まへ)出(い)でさせ給(たま)ふて、むげに日(ひ)たかふこそなりにけれとて急(いそ)がせ給(たま)ひて、やがてここらの殿(との)ばらの御車(くるま)ひきつゞけて内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)ふ。
宮(みや)は上(うへ)の御つぼねにおはします。御手習(てならひ)などせさせ給(たま)ふは、うたなどにやとぞ。只今(ただいま)の御年(とし)廿ばかりにこそおはしませど、いと若(わか)うぞおはします。もとよりいとさゞやかにおはしますめり。さらに猶(なほ)いと心(こころ)もとなき
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までさゝやがせ給(たま)へり。御ぐし同(おな)じやうなる事(こと)なれど、えもいはずこまやかにめでたくて、御たけに二尺ばかりあまらせ給(たま)へり。御いろしろくうるはしうほゝづきなどを吹きふくらめてすへたらんやうにぞ見(み)えさせ給(たま)ふ。なべてならぬくれなゐの御衣(ぞ)共(ども)の上(うへ)に、しろきうきもんの御衣(ぞ)をぞ奉(たてまつ)りたる。御手習(てならひ)にそひふさせ給(たま)へり。御ぐしのこぼれかからせ給(たま)へる程(ほど)ぞ、あさましうめでたう見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。女房(にようばう)所々(ところどころ)に打(う)ち群れつゝ七八人(にん)づゝをしこりて候(さぶら)ふ。いろ許(ゆる)されたるはさる物(もの)にて、ひらからぎぬ・むもんなど様々(さまざま)おかしう見(み)えたり。いにしへの后(きさき)は、わらは遣(つか)はせ給(たま)はざりけれど今(いま)の世は御このみにて様々(さまざま)遣(つか)はせ給(たま)ふ。やどりぎ・やすらひなど言(い)ふが、ちゐたくはあらぬが、かみながうやうたいおかしげにて、かざみばかりをぞ着せさせ給(たま)へる。上(うへ)の袴(はかま)は着ず。其(そ)のすがた有様(ありさま)ゑに書きたるやうにてなまめかしうおかしげなり。さるべき御物語(ものがたり)など暫(しば)し打(う)ち申(まう)させ給(たま)ひて、殿上へ参(まゐ)らせ給(たま)ひぬ。例(れい)の作法(さほふ)のごとくもありて、いと今(いま)めかしうおかし。上(うへ)の御つぼねの有様(ありさま)につけても、京極(きやうごく)殿(どの)の御かたがたまづ思(おも)ひ出(い)で聞(き)こえさせ給(たま)ふ。
中宮(ちゆうぐう)も怪(あや)しう御(おん)心地(ここち)例(れい)にもあらずなどおはしまして、物(もの)も聞(き)こし召(め)さずなどあれど、おどろ<しうももてなし騒(さわ)がせ給(たま)はねど、思(おぼ)しつゝみて、師走(しはす)も過(す)ぎさせ給(たま)ひにけり。正月にも同(おな)じ事(こと)におぼされて、いとねぶたうなどせさせ給(たま)へば、上(うへ)おはしまして、こぞの師走(しはす)に例(れい)の
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事(こと)もなかりし。此(こ)の月も廿日ばかりにもなりぬるは、ここちも例(れい)ならずと宣(のたま)はすめりとあれば、知らず、たゞならぬ事(こと)なめり。おとどやはゝなどに聞(き)こえんと宣(のたま)はすれば、物(もの)ぐるをしとはぢさせ給(たま)ふに、殿(との)参(まゐ)らせ給(たま)へる折、いなや、物(もの)は知(し)り給(たま)はぬかと申(まう)させ給(たま)へば、宮(みや)わりなく恥(は)づかしげに思(おぼ)し召(め)したり。何事(なにごと)にか候(さぶら)ふらんと奏せさせ給(たま)へば、此(こ)の宮(みや)はここち例(れい)にもあらずとは知(し)り給(たま)はぬか。例(れい)はさらにいなども寝(ね)給(たま)はず、いみじき宿直(とのゐ)人(びと)と見(み)え給(たま)へるに、此(こ)の頃(ごろ)はおぼろげならでなんおどろき給(たま)ふめると宣(のたま)はすれば、殿(との)の怪(あや)しくおも痩せ給(たま)へりとは見(み)奉(たてまつ)り侍(はべ)れど、かくうけ給(たま)ふ事(こと)も候(さぶら)はざりつるに、さばげにたゞならぬ御(おん)心地(ここち)にやとて、大輔(たいふ)命婦(みやうぶ)に忍(しの)びて召(め)しとはせ給(たま)へば、師走(しはす)と霜月(しもつき)とのなかになん。例(れい)の事(こと)は見(み)えさせ給(たま)ひし。此(こ)の月はまだ廿日に候(さぶら)へば、今(いま)暫(しば)し試(こころ)みてこそは、御(お)前(まへ)にも聞(き)こえさせめと思(おも)ふ給(たま)へてなん。すべて物(もの)はしもつゆ聞(き)こし召(め)さず、かう悩(なや)ましげに例(れい)ならずおはします。殿(との)に聞(き)こえさせんと啓(けい)しつれば、いとおどろおどろしうこそは思(おぼ)し騒(さわ)がめ。暫(しば)しな聞(き)こえさせそ。誠(まこと)に悲(かな)しからん折こそとおほせらるればと聞(き)こえさすれば、殿(との)の御(お)前(まへ)何(なに)となく御目に涙(なみだ)のうかせ給(たま)ふにも、御心(こころ)の内(うち)には御岳(みたけ)の御験(しるし)にやと、哀(あは)れに嬉(うれ)しうおぼさるべし。司召(つかさめし)など言(い)ひて、此(こ)の月も立(た)ちぬれば、此(こ)の御事(こと)まことになりはて
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させ給(たま)ひぬ。殿(との)の上(うへ)も其(そ)の日(ひ)きかせ給(たま)ふまゝに参(まゐ)らせ給(たま)ひて、いとどしういたはしうやさしげに扱(あつか)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ふ。
斯(か)かる程(ほど)に二月になりて、花山(くわさん)の院(ゐん)いみじう煩(わづら)はせ給(たま)ふ。いみじうあはれいかにときゝ奉(たてまつ)る程(ほど)に、御瘡(かさ)の熱せさせ給(たま)ふなりけり。哀(あは)れに限(かぎ)りと見ゆる御(おん)心地(ここち)を、医師(くすし)など頼(たの)みすくなく聞(き)こえさす。此(こ)のむすめばら・親腹(おやばら)に数多(あまた)の子たちおはするに、各(おのおの)女(をんな)宮(みや)二人(ふたり)づゝぞおはしける。われ死ぬる物(もの)ならばまづ此(こ)の女(をんな)宮(みや)達(たち)をなん、忌(いみ)の内(うち)に皆とりもてゆくべきと言(い)ふ事(こと)をのみ宣(のたま)はすれば、御(み)櫛笥(くしげ)殿(どの)もむすめも様々(さまざま)に涙(なみだ)ながし給(たま)ふ。親腹(おやばら)のおと宮(みや)をば、其(そ)のはらからのひやうぶの命婦(みやうぶ)にぞむまれ給(たま)ひけるまゝに、これは己(おのれ)が子にせよ。われは知らずと宣(のたま)はせければ、やがてしか思(おも)ひてぞやしなひける。斯(か)かる程(ほど)に院(ゐん)の御(おん)心地(ここち)ふかくになりて、二月八日に失(う)せ給(たま)ひぬ。御年(とし)四十一にぞおはしましける。年(とし)頃(ごろ)馴れつかうまつる僧俗(そうぞく)哀(あは)れに悲(かな)しう惜(を)しみ奉(たてまつ)る事(こと)限(かぎ)り無し。殿(との)などもさすがにいたうおはしましつる院(ゐん)を口(くち)惜(を)しうさうざうしきわざかなとぞ聞(き)こえさせ給(たま)ひける。御さうそうの夜、恐(おそ)ろしげなる物(もの)を着るとて命婦(みやうぶ)、
@こぞの春さくらいろにと急(いそ)ぎしを今年(ことし)はふぢのころもをぞ着る W057。
とぞよみける。あはれなる事(こと)共(ども)多(おほ)かり。誠(まこと)に御忌(いみ)の程(ほど)此(こ)のひやうぶ命婦(みやうぶ)のやしなひ宮を放(はな)ち奉(たてまつ)りて、女(をんな)宮(みや)達(たち)は片端(かたはし)より皆失(う)せ給(たま)ひにければ、よき人(ひと)の御心(こころ)はいと恐(おそ)ろしき物(もの)にぞ思(おも)ひ聞(き)こえ
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させける。ひやうぶ命婦(みやうぶ)のをばわれ知らずと宣(のたま)はせければ、思(おぼ)し放(はな)ちてけるなるべしとぞ言(い)ひつゝなき嘆(なげ)きける。
斯(か)かる程(ほど)に三月にも成りぬれば、中宮(ちゆうぐう)の御気色(けしき)奏せさせ給(たま)ふべきを、朔日(ついたち)には御灯の御清(きよ)まりなべければ、それ過(す)ぐして奏せさせ給(たま)ふべきなりけり。殿(との)の御(おん)心地(ここち)世(よ)に知らずめでたう嬉(うれ)しう思(おぼ)し召(め)さるゝ事(こと)も疎(おろ)かなり。今(いま)よき日(ひ)して山々(やまやま)寺々(てらでら)に御祈(いの)りどもいみじ。里(さと)へ出(い)でさせ給(たま)ふべきに、四月にととどめ奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、其(そ)の程(ほど)など過(す)ぐさせ給(たま)ふ。此(こ)の御事(こと)今(いま)は漏り聞(き)こえぬれば、帥(そち)殿(どの)の御胸つぶれておぼさるべし。世(よ)の人(ひと)ももし男(をとこ)におはしまさば、うたがひなげにこそは申し思(おも)ひためれど、其(そ)の程(ほど)は定(さだ)めなし。されど殿(との)の御さいはひの程(ほど)を見(み)奉(たてまつ)るに、まさに女(をんな)におはしまさんやとて世(よ)の人(ひと)申し騒(さわ)ぎためる。斯(か)かる程(ほど)に内(うち)の女二宮いみじう煩(わづら)はせ給(たま)へば、里(さと)に出(い)でさせ給(たま)ひて、万(よろづ)の御祈(いの)り様々(さまざま)の御修法・御読経。内(うち)にも万(よろづ)にをきてさせ給(たま)ふに、さらにいといみじうおはします由(よし)のみ聞(き)こし召(め)すに、しづごゝろなくいかに<と思(おぼ)しみだれさせ給(たま)ふ。
かくて四月朔日(ついたち)に中宮(ちゆうぐう)出(い)でさせ給(たま)ふ。其(そ)の程(ほど)の御有様(ありさま)いへば疎(おろ)かなり。京極(きやうごく)殿(どの)のいとど行末(ゆくすゑ)頼(たの)もしき松(まつ)の木だちもめでたう思(おぼ)し御覧(ごらん)じ、様々(さまざま)の御祈(いの)りかずを尽くしたり。御修法今(いま)より三壇(だん)をぞ常(つね)の事(こと)にせさせ給(たま)へるに、又(また)ふだんの御読経ども言(い)ひやる方なし。殿(との)の御(お)前(まへ)しづ心(こころ)なう、
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安(やす)きいも大(おほ)殿(との)ごもらず、御岳(みたけ)にも今(いま)は平(たひら)かにとのみ御祈・御願を立(た)て給(たま)ふ。斯(か)かる程(ほど)に女二宮むげにふかくに限(かぎ)りにておはしましけるに、岩倉(いはくら)の文慶あざり参(まゐ)りて、御すほうつかまつりけるに、あさましうおはしましける御(おん)心地(ここち)、かきさましをこたらせ給(たま)ひぬ。いはん方なく嬉(うれ)しき事(こと)に内(うち)にも思(おぼ)し召(め)して、律師になさせ給(たま)へれば、ほとけの御験(しるし)はかやうにこそとうらやましう思(おも)ふたぐひども多(おほ)かるべし。
かくて四月の祭(まつり)とかりつる年(とし)なれば、廿余(よ)日(にち)の程(ほど)より例の卅講行(おこな)はせ給(たま)ふ。五月五日にぞ五巻の日(ひ)に当たりければ、ことさらめきおかしうてさゝげ物(もの)の用意(ようい)かねてより心(こころ)異(こと)なるべし。御(み)堂(だう)に宮(みや)も渡(わた)りておはしませば、つゞきたるらうまで御簾(みす)いとあをやかにかけわたしたるに、御几帳(きちやう)の裾(すそ)共(ども)かはかぜにすゞしさまさりて、なみのあやもけざやかに見(み)えたるに、五巻のその折なりぬれば、さき<”の年(とし)などこそわざとせさせ給(たま)ひしが、今(いま)は常(つね)の事(こと)になりたれば事(こと)そがせ給(たま)ひつれど、今日(けふ)の御さゝげ物(もの)はおかしうおぼえたれば、事(こと)このましき人々(ひとびと)は自(おの)づからゆへ<しうしたり。それは制あるべき事(こと)ならねばにこそあらめ。きたなげなき六位(ろくゐ)・ゑぶなどたきぎこり。みづなどもたるおかし。殿(との)ばら・僧俗(そうぞく)あゆみつゞきたるは、様々(さまざま)おかしうめでたう、たうとくなん見(み)えける。苦空無我のこゑにてありける讃嘆のこゑにて、やりみづのをとさへ流(なが)れあひて、万(よろづ)にみのりを説(と)くと聞(き)こえなさる。法華経(ほけきやう)の説(と)かれ
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給(たま)ふ。哀(あは)れに涙(なみだ)とどめがたし。御簾(みす)ぎはのはしらもとそば<などよりわざとならず出(い)でたる袖口(そでぐち)こぼれ出(い)でたるきぬのつまなど菖蒲(さうぶ)・楝(あふち)のか・なでしこ・ふぢなどぞみだるかみにはひまなくふかれたるあやめも事(こと)折に似ずおかしうけだかし。
かねてより聞(き)こえしえだの気色(けしき)も誠(まこと)におかしう見(み)えたるに、ごん中納言(ちゆうなごん)しろがねの菖蒲(さうぶ)にくすだま付け給(たま)へり。若(わか)き人々(ひとびと)は目とどめたり。大方(おほかた)世(よ)の常(つね)のわけさらなど言(い)ふ物(もの)、由(よし)あるえだどもにつけたるもおかし。殿(との)のう〔ち〕有様(ありさま)常(つね)のおかしさにもさるべうとりせさせ給(たま)ふ事(こと)、猶(なほ)ほかには似ずめでたし。かくて宮(みや)の御さゝげ物(もの)は、殿上人(てんじやうびと)共(ども)ぞとりたる。皆わけさらなるべし。諸大夫(しよだいぶ)、たちくだれるきはの上官どもなどまで、なほ<しき人(ひと)のたとひに言(い)ふときのはなをかざす心(こころ)ばへにや。いろ<のうすやうに押しつゝみたる心(こころ)ばへの物(もの)をも持(も)て消(け)たす。さゝげつゝかしづく。御簾(みす)の内(うち)を用意(ようい)したるこそおかしけれ。それまで目とまる人(ひと)もなしかし。内(うち)の御つかひには、式部(しきぶ)の蔵人(くらんど)さだすけ参(まゐ)りて、事(こと)果てゝ御返給(たま)はる。禄は菖蒲襲(さうぶがさね)の織物(おりもの)に濃き袴(はかま)なるべし。よるになりて宮(みや)また御(み)堂(だう)におはします。内侍(ないし)の督(かん)の殿(との)など御物語(ものがたり)なるべし。池のかがりびにみあかしのひかりどもゆきかひ照りまさり、御覧(ごらん)ぜらるゝに、菖蒲(さうぶ)の香も今(いま)めかしうおかしう薫(かを)りたり。暁(あかつき)に御(み)堂(だう)よりつぼね<にまかづる女房(にようばう)達(たち)。廊(らう)・渡(わた)殿(どの)・西(にし)の対(たい)のすのこ・寝殿(しんでん)など渡(わた)りて、上(うへ)の御方(かた)の御読経、宮(みや)の御方(かた)のふだん
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の御読経などのまへ渡(わた)りする程(ほど)も、わたくしにものべまうでゝ。若(わか)き人々(ひとびと)数多(あまた)して人(ひと)はをぢねど我が心(こころ)の限(かぎ)りは人(ひと)めかしうもてなして、みちはらはせなどしてしたりがほにくつすりありくも猶(なほ)物(もの)恥(は)づかしうて、はる<と渡(わた)りあるく程(ほど)こそ、あはれなるわざなめれと思(おも)ひ知(し)るたぐひどもあめるかし。
かくて過(す)ぎもていきて、かうも果てぬれば、心(こころ)のどかに思(おぼ)し召(め)され、人々(ひとびと)も思(おも)ふにかくて彼の女二宮はいとあやうくおはしまして、岩倉(いはくら)のりしかうしてやめ奉(たてまつ)りてほとけの御験(しるし)嬉(うれ)しうなりしに、此(こ)の頃(ごろ)にはかに御(おん)心地(ここち)おこらせ給(たま)ひて、此(こ)の度(たび)は程(ほど)もなく重(おも)らせ給(たま)ひて、失(う)せさせ給(たま)ひにけり。今年(ことし)はここのつにぞおはしましける。哀(あは)れに悲(かな)しう思(おぼ)し召(め)す。大方(おほかた)の惜(を)しさよりも、故女院(にようゐん)のいみじう悲(かな)しき物(もの)に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へりし程(ほど)思(おぼ)しつづけさせ給(たま)ふにぞ、いみじう思(おぼ)し召(め)されける帥(そち)殿(どの)・中納言(ちゆうなごん)殿(どの)などあさましう泪おほうおはしける身どもがなと見(み)え給(たま)ふ。一品宮今(いま)は少(すこ)し物(もの)思(おぼ)し知(し)らせ給(たま)ふ程(ほど)なれば、哀(あは)れにこひしき事(こと)を思(おぼ)し知(し)りたり。猶(なほ)<此(こ)の御(お)前(まへ)達(たち)の御ゆかり残(のこ)りなうならせ給(たま)ふにつけても、いかなりける御事(こと)にかと、返々かたぶき思(おも)ふ人(ひと)のみ多(おほ)かるべし。あさましと言(い)ひての宮(みや)はとて、さべき様(さま)におさめ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふにつけても哀(あは)れに悲(かな)し。中将(ちゆうじやう)命婦(みやうぶ)故院(ゐん)のえり参(まゐ)らせさせ給(たま)ひし程(ほど)など思(おも)ひつゝげ泣く程(ほど)、物(もの)ふるからぬ人(ひと)も涙(なみだ)とどめがたし。
かく
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言(い)ふ程(ほど)にはかなう七月にもなりぬ。中宮(ちゆうぐう)の御気色(けしき)も今(いま)はわざと御腹のけはひなども苦(くる)しげにおはしまし、たは安(やす)からぬ様(さま)におぼされたるも、見(み)奉(たてまつ)る人(ひと)心(こころ)苦(ぐる)しう思(おも)ひ聞(き)こえさす。内(うち)よりは御つかひのみぞ頻(しき)りに参(まゐ)る。猶(なほ)ほかよりは承香殿に御志(こころざし)あるとぞ、自(おの)づから聞(き)こゆれど、すべていづれの御方(かた)も参(まゐ)らせ給(たま)ふ事(こと)いとかたし。一品宮内(うち)におはしませば、たゞ其(そ)の御方(かた)に渡(わた)らせ給(たま)ひてぞ、御心(こころ)も慰(なぐさ)めさせ給(たま)ふ。此(こ)の二宮の御事(こと)をぞかへすがへす思(おぼ)し召(め)しける。秋(あき)の気色(けしき)に入り立(た)つまゝに、土御門(つちみかど)殿(どの)の有様(ありさま)いはん方なくいとおかし。いけの辺(わた)りのこずゑ・やり水のほとりのくさむら各(おのおの)いろづき渡(わた)り、大方(おほかた)のそらの気色(けしき)のおかしきに、ふだんの御読経のこゑ<”あはれまさり、やう<すゞしきかぜのけはひに、例のたえせぬみづのをとなる夜もすがらきゝ通(かよ)はさる。一日まではほこ院(ゐん)の御八講とののしりし程(ほど)に、たなばたの日(ひ)にもあひわかれにけりとぞ。いく其(そ)のひつじのあゆみを過(す)ぐし来ぬらんとのみこそおぼえけれ。
かくて宮(みや)の御事(こと)は九月にこそあたらせ給(たま)へるを、八月にとある御祈(いの)りどもあれど、又(また)それさべきにもあらず。斯(か)かる御事(こと)は月日(ひ)限(かぎ)りあるわざなりと聞(き)こえ給(たま)ふ人々(ひとびと)もあれば、げにも思(おぼ)し召(め)さる。程(ほど)近(ちか)うならせ給(たま)ふまゝに、御祈(いの)りどもかずをつくしたり。五大尊の御すほうを行(おこな)はせ給(たま)ふ。様々(さまざま)其(そ)の法にしたがひてのなり有様(ありさま)共(ども)、さばかうこそはと見(み)えたり。くはんをん院(ゐん)そうじやう、廿人(にん)の伴僧、とり<”
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にて御加持参(まゐ)り給(たま)ふ。むまばのおとど・文殿などまで皆様々(さまざま)にしゐつゝ、それより参(まゐ)りちがひあつまる程(ほど)、御(お)前(まへ)のからはしなどを老いたる僧のかほみにくきが渡(わた)る程(ほど)も、さすがに目たてらるゝものから、猶(なほ)たうとし。ゆへ<しきからはしどもを渡(わた)り、此(こ)の間を分けつゝかへり入る程(ほど)もはるかに見やらるゝ心地(ここち)してあはれなり。心誉阿闍梨は、軍陀利の法なるべし。あかぎぬ着たり。清禅阿闍梨は大威徳をゐやまひてこしをかゞめたり。仁和寺(にわじ)のそうじやうは孔雀経の御ずほうを行(おこな)ひ給(たま)ひ、とく<と参(まゐ)りかはれば、夜も明けはてぬ。様々(さまざま)みゝかしがましうけ恐(おそ)ろしき事(こと)ぞ物(もの)にも似ざりける。心(こころ)よはからん人(ひと)はあやまりぬべき心地(ここち)し胸はしる。
かく言(い)ふ程(ほど)に八月廿余(よ)日(にち)の程(ほど)よりは、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、さるべきは皆宿直(とのゐ)がちにて、はしの上(うへ)・対のすのこ・わだ殿(どの)などにうたゝねをしつゝ明(あ)かす。そこはかとなきわか君達(きんだち)などは読経あらそひ、いまやううたどもこゑをあはせなどしつゝ、ろんじ給(たま)ふもおかしう聞(き)こゆ。ある折は宮(みや)の大夫・左の宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)・左兵衛督(さひやうゑ)の督・美濃の少将(せうしやう)などしてあそび給(たま)ふ。それは誠(まこと)におかしうて、そらざれの何(なに)となきは、まめだちたるもさすがに心(こころ)苦(ぐる)し。此(こ)の頃(ごろ)薫物(たきもの)あはせさせ給(たま)ひつる人々(ひとびと)にくばらせ給(たま)ふ。御(お)前(まへ)にて御火とりども取(と)り出(い)でて、様々(さまざま)のを試(こころ)みさせ給(たま)ふ。
斯(か)かる程(ほど)に、九月にもなりぬ。なが月の九日もきのふ暮れてちよをこめたるまがきのきくも、行末(ゆくすゑ)はるかに頼(たの)もしき気色(けしき)なるに、よべより御(おん)心地(ここち)悩(なや)ましげに
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おはしまししかば、よなかばかりよりかしがましきまでののしる。十日ほの<”とするに白御帳にうつらせ給(たま)ひ、其(そ)の御しつらひかはる。殿(との)より始(はじ)め奉(たてまつ)り、君達(きんだち)四位(しゐ)・五位(ごゐ)たち騒(さわ)ぎて、御几帳(きちやう)のかたびらかけかへ御たゝみなどもて騒(さわ)ぎ参(まゐ)る程(ほど)、いと騒(さわ)がし。日(ひ)ひとひ苦(くる)しげにてくらさせ給(たま)ふ。御物(もの)のけども様々(さまざま)駆(か)り移(うつ)し、あづかり<に加持しののしる。月頃(ごろ)殿(との)の内(うち)にそこら候(さぶら)ひつる僧はさらなり。いはず。山々(やまやま)寺々(てらでら)の僧の少(すこ)しも験(しるし)あり行(おこな)ひすると聞(き)こし召(め)すをば、残(のこ)らずたづね召(め)しあつめたり。内(うち)にはいと<おぼつかなくいかなればかと思(おぼ)し召(め)して、年(とし)頃(ごろ)かやうの事(こと)もなれしりたる女房(にようばう)共(ども)、一車(くるま)にて参(まゐ)れり。御物(もの)のけ各(おのおの)屏風(びやうぶ)をつぼねつゞけんざどもあづかり<にかぢしののしりさけびあひたり。其(そ)の程(ほど)のかしがましさ物(もの)騒(さわ)がしさ、推(お)し量(はか)るべし。こよひもかくて過(す)ぎぬ。
いと怪(あや)しき事(こと)に恐(おそ)ろしう思(おぼ)し召(め)して、いとゆゝしきまで殿(との)の御(お)前(まへ)物(もの)思(おぼ)しつゞけさせたまて、物(もの)のまぎれに涙(なみだ)を打(う)ちのごひ<、つれなくもてなさせ給(たま)ふ。少(すこ)し物(もの)の心(こころ)知(し)りたる大人(おとな)達(たち)は皆泣きあへり。同(おな)じ屋なひとところかへさせ給(たま)ふやうありなど申し出(い)でて、きたのひさしにうつらせ給(たま)ふ。年(とし)頃(ごろ)の大人(おとな)達(たち)皆御(お)前(まへ)近(ちか)く候(さぶら)ふ。今(いま)はいかに<とある限(かぎ)りの人(ひと)心(こころ)を惑(まど)はして、え忍(しの)びあえぬたぐひ多(おほ)かり。ほうしやうじの院源(ゐんげん)僧都(そうづ)御願書よみ。此(こ)の世(よ)にひろまり給(たま)ひし事(こと)などなく<申しつゞけ
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たり。哀(あは)れに悲(かな)しきものから、いみじうたうとくて頼(たの)もし。おんやうじとて世(よ)にある限(かぎ)り召(め)しあつめつゝやを万(よろづ)のかみもみゝ振り立(た)てぬはあらじと見(み)え聞(き)こゆ。御誦経(じゆぎやう)のつかひども立(た)ち騒(さわ)ぎ暮(くら)し、其(そ)の夜も明けぬ。
さて御戒(かい)受(う)けさせ給(たま)ふ程(ほど)などぞいとゆゝしく思(おぼ)し惑(まど)はるゝ。殿(との)の打(う)ちそへて法華経(ほけきやう)念じ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。何事(なにごと)よりも頼(たの)もしくめでたし。いたく騒(さわ)ぎて平(たひら)かにせさせ給(たま)ふ。上下今(いま)一(ひと)つの御事(こと)のまだしきに額(ぬか)づきたる程(ほど)、はた思(おも)ひ遣(や)るべし。平(たひら)かにせさせ給(たま)ひてかきふせ奉(たてまつ)りて後(のち)、殿(との)始(はじ)め奉(たてまつ)りて、そこらの僧俗(そうぞく)哀(あは)れに嬉(うれ)しくめでたき内(うち)に、男(をとこ)にしさへおはしませば、そのよろこびなのめなるべきにあらず、めでたしとも疎(おろ)かなり。今(いま)は心(こころ)安(やす)く殿(との)も上(うへ)も御方(かた)に渡(わた)らせ給(たま)ひて、祈(いの)りの人々(ひとびと)おんやうじ・僧などに皆禄給(たま)はせ、其(そ)の程(ほど)は御(お)前(まへ)に年(とし)ふり、斯(か)かる筋(すぢ)の人々(ひとびと)皆候(さぶら)ひて、物(もの)若(わか)き人々(ひとびと)は、け遠(どほ)くて所々(ところどころ)に休(やす)み臥(ふ)したり。
御湯(ゆ)殿(どの)の事(こと)など儀式(ぎしき)いみじう事(こと)整(ととの)へさせ給(たま)ふ。かくて御臍(ほぞ)の緒(を)は、殿(との)の上(うへ)これは罪(つみ)得(う)る事(こと)ゝかねては思(おぼ)し召(め)ししかど、只今(ただいま)の嬉(うれ)しさに何事(なにごと)も皆思(おぼ)し召(め)し忘(わす)れさせ給(たま)へり。御乳つけには有国の宰相(さいしやう)のつま、御門(みかど)の御乳母(めのと)の橘三位参(まゐ)り給(たま)へり。御湯(ゆ)殿(どの)などにも年(とし)頃(ごろ)睦(むつ)まじうつかうまつりなれたる人(ひと)をせさせ給(たま)へり。御湯(ゆ)殿(どの)の儀式(ぎしき)いへば疎(おろ)かにめでたし。誠(まこと)に内(うち)より御剣(はかし)即(すなは)ち
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持(も)て参(まゐ)りたり。御つかひにはよりさだの中将(ちゆうじやう)なり。禄など心(こころ)異(こと)なりつらんを、さるは伊勢のみてぐらづかひもまだかへらざりつれば、内(うち)の御つかひえひたゝけて参(まゐ)らず。女房(にようばう)のしらさうぞくどもと見(み)えたり。つゝみぶくろ・からうづなど持(も)て来(き)騒(さわ)ぐ。
御湯(ゆ)殿(どの)とりのときとぞある。其の儀式(ぎしき)有様(ありさま)。え言(い)ひつゞけず。火ともして、宮(みや)のしもべども、みどりのきぬの上(うへ)にしろきたうじきどもにてみゆ参(まゐ)る。万(よろづ)の物(もの)にしろきおほひどもしたり。宮(みや)の侍(さぶらひ)のおさなかのぶ舁きて、御簾のもとに参(まゐ)る。御(み)厨子(づし)二人(ふたり)うるはしくさうぞきて、とりいれつゝむめて御ほどきにいる。十六(ろく)の御ほとぎなり。女房(にようばう)皆しろきしやうぞくどもなり。御湯(ゆ)殿(どの)のいまきなど皆同(おな)じ事(こと)なり。御湯(ゆ)殿(どの)はさぬきの宰相(さいしやう)の君(きみ)、御むかへ湯は大納言(だいなごん)の君(きみ)なり。宮(みや)は殿(との)抱(いだ)き奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御はかしこざいしやうの君(きみ)、とらのかしらは、宮(みや)の内侍(ないし)とりて御さきに参(まゐ)る。御弦打(つるうち)五位(ごゐ)十人(にん)。六位(ろくゐ)十人(にん)。御文のはかしには、蔵人(くらんど)弁広業かうらんのもとに立(た)ちて史記のだいのまきをぞ読む。護身にはじやうどでら僧都(そうづ)候(さぶら)ひ給(たま)ふ。雅通の少将(せうしやう)うちまきをしののしりて、僧都(そうづ)に打(う)ちかけてをほゝれ給(たま)ふおかしき。
しらさうぞくどもの様々(さまざま)なるは、たゞすみゑの心地(ここち)していとなまめかし。日頃(ひごろ)われも<とののしりつるしらさうぞくどもを見れば、いろ許(ゆる)されたるも織物(おりもの)のも・からぎぬ同(おな)じうしろきなれば何(なに)とも見(み)えず。許(ゆる)されぬ人(ひと)も少(すこ)し大人(おとな)びたるはいつへのうちぎに織物(おりもの)のむもんなどしろう着たるも、さる方に見(み)えたり。あふぎなどもわざとめきて耀(かかや)かさねど、よしばみかくし
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て心(こころ)ばへある本文など書きたる。なか<いとめ安(やす)し。若(わか)き人々(ひとびと)は縫物(ぬひもの)・螺鈿など袖口(そでぐち)に置口(をきくち)を、銀(しろがね)の左右の糸(いと)して伏組(ふせぐみ)し、万(よろづ)にし騒(さわ)ぎあへり。雪(ゆき)深(ふか)き山を月の明(あか)きに見渡(わた)したるやうなり。まねびやるべき方なし。
三日にならせ給(たま)ふ夜は宮司(みやづかさ)大夫(だいぶ)より始(はじ)めて御産養(うぶやしなひ)つかうまつる。左衛門(さゑもん)のかうは御(お)前(まへ)の物沈のかけばん・しろがねの御さらどもなどくはしくは見ず。源中納言(ちゆうなごん)、藤宰相(さいしやう)・御衣(ぞ)御襁褓(むつき)・ころもばこの折り立(た)て・いれかたびら・つゝみ・おほひしたるつくゑなど同(おな)じしろさなれど、しざま人(ひと)の心(こころ)<”見(み)えてしつくしたり。
五夜は殿(との)の御産養(うぶやしなひ)せさせ給(たま)ふ。十五夜の月くもりなく、秋(あき)深き露のひかりにめでたき折なり。上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)参(まゐ)りたり。ひんがしのたいに、にし向きにとをかみにて着き給(たま)へり。みなみのひさしにきた向きに殿上人(てんじやうびと)の座はにしをかみなり。しろきあやの御屏風(びやうぶ)をもやの御簾にそへて立(た)てわたしたる。月のさやけきに、池のみぎはも近(ちか)うかゞりびどもともされたるに、くはんがく院(ゐん)の衆ども、あゆみて参(まゐ)れり。見参(けざん)の文ども啓(けい)す。禄ども給(たま)はす。こよひの有様(ありさま)、殊(こと)におどろ<しう見ゆ。物(もの)のかずにもあらぬ上達部(かんだちめ)の御供(とも)のをのごども、随身・宮(みや)のしもべなどここかしこにむれみつゝ打(う)ちゑみあへり。あるはそゝかしげに急(いそ)ぎ渡(わた)るもかれが身には何(なに)ばかりのよろこびかあらん。されどあたらしく出(い)で給(たま)へる。ひかりもさやけくて御かげにかくれ奉(たてまつ)るべきなめりと思(おも)ふが、嬉(うれ)しうめでたきなるべし。所々(ところどころ)
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のかかりび・たち明(あ)かし・月の光(ひかり)もいと明(あか)きに殿(との)の内(うち)の人々(ひとびと)は何(なに)ばかりのかずにもあらぬ五位(ごゐ)なども、こし打(う)ちかゞめ世(よ)にあひ顔(がほ)にそこはかとなくゆきちがふも哀(あは)れに見ゆ。若(わか)うさべきひ安(やす)き程(ほど)の女房(にようばう)八人(にん)物(もの)参(まゐ)る。同(おな)じ心(こころ)に髪(かみ)上(あ)げて、皆(みな)白(しろ)き元結(もとゆひ)したり。白(しろ)き御盤(ばん)共(ども)取(と)り続(つゞ)きすまはる。こよひの御まかなひ宮(みや)の内侍(ないし)物(もの)<しうやむごとなきけはひしたり。髪(かみ)上(あ)げたる女房(にようばう)若(わか)き人々(ひとびと)のきたなげなきどもなれば見るかひありておかしうなん。
上達部(かんだちめ)共(ども)殿(どの)を始(はじ)め奉(たてまつ)りてだ打(う)ち給(たま)ふにかみの程(ほど)の論(ろん)きゝにくゝらうがはし。うたなどあり。されど物(もの)騒(さわ)がしさに紛(まぎ)れたる、尋(たづ)ぬれど、しどけなう事(こと)繁(しげ)ければ、え書きつゞけ侍(はべ)らぬ。女房(にようばう)さかづきなどある程(ほど)にいかゞはと思(おも)ひやすらはる。
@珍(めづら)しきひかりさしそふさかづきはもちながらこそちよをめぐらめ W058。
とぞむらさきさゝめき思(おも)ふに、四条(しでう)大納言(だいなごん)簾(す)のもとに居(ゐ)給(たま)へれば、うたよりも言(い)ひ出(い)でん程(ほど)のこはづかひ恥(は)づかしさをぞ思(おも)ふべかめる。かくて事(こと)共(ども)はてゝ。上達部(かんだちめ)には女(をんな)のさうぞくにおほうちきなどそへたり。てん上の四位(しゐ)には、袷(あはせ)の一襲(ひとかさね)・袴(はかま)五位(ごゐ)にはうちぎ一重(かさ)ね六位(ろくゐ)に袴(はかま)・ひとへなり。例(れい)の有様(ありさま)共(ども)なるべし。夜ふくるまで内(うち)にも外(と)にも様々(さまざま)めでたうてあけぬ。十六日には又(また)明日(あす)はいかにとよべのなりどもしかうべき用意(ようい)共(ども)ありけり。其(そ)の夜(よ)は物(もの)のどやかにて、女房(にようばう)達(たち)船(ふね)に乗(の)りて遊(あそ)び、左宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)殿(どの)
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の少将(せうしやう)ぎみなど、乗りまじりてありき給(たま)ふ。様々(さまざま)おかしう心(こころ)ゆく様(さま)の事(こと)共(ども)多(おほ)かり。
又(また)七日の夜は公(おほやけ)の御産養(うぶやしなひ)なり。蔵人(くらんど)少将(せうしやう)道雅を御つかひにて参(まゐ)り給(たま)へり。松(まつ)ぎみなりけり。物(もの)の数(かず)書(か)きたる文(ふみ)、柳筥(やないばこ)に入(い)れて参(まゐ)れり。やがて啓(けい)し給ふ。具し給(たま)ひつる。出納小(こ)舎人(どねり)にいたるまで、ろくども給(たま)はせてぞかへり給(たま)ひける。くはんがく院(ゐん)の衆どもあゆみて参(まゐ)れる。見参(けざん)の文又(また)啓(けい)し、禄ども給(たま)ふべし。こよひの有様(ありさま)一夜(ひとよ)の事(こと)にまさりて、おどろ<しう気色(けしき)ことなり。内(うち)の女房(にようばう)達(たち)皆参(まゐ)る。藤三位を始(はじ)めさべき命婦(みやうぶ)・蔵人(くらんど)、二車(ふたくるま)にてぞ参(まゐ)りたる。ふねの人々(ひとびと)も皆をびえて入りぬ。内(うち)の女房(にようばう)達(たち)に殿(との)あはせ給(たま)ひて、万(よろづ)思(おも)ふ事(こと)なげなる御気色(けしき)のゑみのまゆをひらけさせ給(たま)へれば、見(み)奉(たてまつ)る人々(ひとびと)げに<と哀(あは)れに見(み)奉(たてまつ)る。贈(おく)り物(もの)どもしな<”に給(たま)ふ。
又(また)日(ひ)の有様(ありさま)今日(けふ)はいと心(こころ)殊(こと)に見(み)えさせ給(たま)ふ。御帳の内(うち)にいとさゞやかに打(う)ちおも痩せて臥させ給(たま)へる。いとど常(つね)よりもあへかに見(み)えさせ給(たま)ふ。大方(おほかた)の事(こと)共(ども)は一夜(ひとよ)の同(おな)じ事(こと)なり。上達部(かんだちめ)の録は御簾のうちより出ださせ給(たま)へば、左右の頭(とう)二人(ふたり)取(と)り次(つ)ぎて、奉(たてまつ)れる。例の女のしやうぞくに、宮(みや)の御衣(ぞ)をぞ添(そ)へたべき。殿上人(てんじやうびと)は常(つね)のごとく公(おほやけ)方のはおほうちきふすまこしさしなど例の公(おほやけ)ざまなるべし。御乳つけの三位には、女のさうぞくに織物(おりもの)のほそなか添(そ)へて、しろがねの衣ばこにてつゝみなども、やがてしろきに又(また)つゝませ給(たま)へる物(もの)など添(そ)へさせ給(たま)ふ。
八日人々(ひとびと)いろ<にさうぞきかへたり。九日の夜は東宮(とうぐう)こん大夫(だいぶ)つかうまつり給(たま)ふ。様(さま)殊(こと)に又(また)し給(たま)へり。こよひ
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は上達部(かんだちめ)御簾の際(きは)に居(ゐ)給(たま)へり。白き御つしひとよろひ参(まゐ)りすへたり。儀式(ぎしき)いと様(さま)殊(こと)に今(いま)めかしう。しろがねの御衣箱、海賦を打(う)ちて、ほうらいなども例の事(こと)なれど、こまやかにおかしきを取(と)り放(はな)ちにはまねび尽くすべき方もおぼえぬこそ悪(わろ)けれ。こよひは御几帳(きちやう)みな例の様(さま)にて人々(ひとびと)濃きうちぎをぞ着たる。珍(めづら)しくなまめきて透きたるからぎぬどもつや<と押しわたして見(み)えたり。
かくて日頃(ひごろ)ふれど猶(なほ)いと慎(つつ)ましげに思(おぼ)し召(め)されて、神無月の十日あまりまでは御丁より出(い)でさせ給(たま)はず。殿(との)、よるひるわかずこなたに渡(わた)らせ給(たま)ひつゝ、宮(みや)を御乳母(めのと)二(ふた)所(ところ)よりかき抱(いだ)き給(たま)ひて、えもいはず思(おぼ)したるもげに<と見(み)え給(たま)ふ。御しとなどにぬれても嬉(うれ)しげにぞおぼされたる。かく言(い)ふ程(ほど)に行幸(ぎやうがう)も近(ちか)うなりぬれば、殿(との)の内(うち)を万(よろづ)につくろひみがゝせ給(たま)ふ。見どころあり見るに、怪(あや)しう法華経(ほけきやう)のおはすらんやうに、おいさかり命(いのち)延(の)ぶらんとおぼゆる殿(との)の有様(ありさま)になん。かくて若宮(わかみや)をおぼつかなうゆかしう内(うち)に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ふによりての行幸(ぎやうがう)なれば、さき<”のよりも、殿(との)の御(お)前(まへ)いみじう急(いそ)ぎたち、いつしかとのみ思(おぼ)し急(いそ)がせ給(たま)ふに、安(やす)きいも御殿(との)ごもらず、此(こ)の事(こと)のみ。御心(こころ)にしみおぼさるゝぞ、げにさもありぬべき御事(こと)の有様(ありさま)なるや。かみな月の晦日(つごもり)の事(こと)ゝなん。かくてこたみの料(れう)とて造らせ給(たま)へる船ども寄せて御覧(ごらん)ず。りやうどうげきしゆの生けるかたち、思(おも)ひ遣(や)られてあざやかに
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うるはし。
行幸(ぎやうがう)はとらの時とあれば、夜(よる)より安(やす)くもあらずけさうじ騒(さわ)ぐ。上達部(かんだちめ)の御座は西(にし)の対(たい)なれば、此(こ)の度(たび)はひんがしのたい人々(ひとびと)少(すこ)し心(こころ)のどかに思(おも)ふべし。督(かん)の殿(との)御方(かた)の女房(にようばう)は、此(こ)の女房(にようばう)は此(こ)の御方(かた)よりもまさざまに急(いそ)ぐと聞(き)こゆ。寝殿(しんでん)の御しつらひなど様(さま)かへしつらひなさせ給(たま)ひて、御丁のにしのかたに御椅子立(た)てさせ給(たま)へり。それよりひんがしの方に当たれるきはに、きたみなみのつまに御簾かけわたして、女房(にようばう)ゐたるみなみのはしのもとに、すだれあり。少(すこ)し引きあげて内侍(ないし)二人(ふたり)いづ。かみあげ、うるはしきすがたども、たゞからゑがごとしは、天人(てんにん)のあまくだりたるかと見(み)えたり。弁内侍(ないし)・左衛門(さゑもん)の内侍(ないし)などぞ参(まゐ)れる。とりどり様々(さまざま)なるかたちなり。きぬのにほひいづれもすべてありがたう美(うつく)しう見(み)えたり。近衛(このゑ)の官(つかさ)いと次(つぎ)<しきすがたして、事(こと)共(ども)行(おこな)ふ。とうの中将(ちゆうじやう)よりさだの君(きみ)、御はかしとりて内侍(ないし)に伝(つた)へなどす。
御簾の内(うち)を見わたせば、例の色許(ゆる)されたるは、あをいろあかいろのからぎぬに、ぢずりの裳、表着(うはぎ)は押しわたしてすわうの織物(おりもの)なり。打(う)ち物(もの)共(ども)濃きうすき紅葉(もみぢ)こきまぜたるやうなり。又(また)例の青う黄なるなどまじりたり。色許(ゆる)されぬは、むもん、ひらぎぬなど様々(さまざま)なり。したぎ皆同(おな)じ様(さま)なり。大海(おほうみ)の摺裳(すりも)、みづの色あざやかになどして、これもいとおかしう見ゆ。内(うち)の女房(にようばう)も宮にかけたるは、四五人(にん)参(まゐ)りつどひたり。内侍(ないし)二人(ふたり)、命婦(みやうぶ)二人(ふたり)。御まかなひの人(ひと)一人(ひとり)。おもの参(まゐ)るとて、皆髪あげて、内侍(ないし)の出(い)でつる御簾ぎはより出(い)で入り
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参(まゐ)り。御まかなひ藤三位、あかいろのからぎぬに黄なるからのあやのきぬ、きくのうちぎ表着(うはぎ)なり。ちくぜん・左京なども様々(さまざま)みなしたり。はしらがくれにてまほにも見(み)えず。
殿(との)若宮(わかみや)抱(いだ)き奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、御(お)前(まへ)にゐて奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御こゑいと若(わか)し。弁の宰相(さいしやう)の君(きみ)御はかしとりて参(まゐ)り給(たま)ふ。母屋のなかの戸のにしに、殿(との)の上(うへ)のおはします方にぞ、若宮(わかみや)はおはしまさせ給(たま)ふ。上(うへ)の見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ御(おん)心地(ここち)、思(おも)ひ遣(や)り聞(き)こえさすべし。これにつけても一の御(み)子(こ)のむまれ給(たま)へりし折、とみにも見ず聞(き)かざりしはや。猶(なほ)筋(すぢ)なし。斯(か)かる筋(すぢ)には、たゞ頼(たの)もしう思(おも)ふ人(ひと)のあらむこそかひ<”しうあるべかめれ。いみじき国王の御位(くらゐ)なりとも、後見(うしろみ)もてはやす人(ひと)なからんは、わりなかるべきわざかなとおぼさるゝよりも、行末(ゆくすゑ)までの御有様(ありさま)共(ども)の思(おぼ)しつゞけられて、まづ人(ひと)知れず哀(あは)れに思(おぼ)し召(め)されけり。
宮(みや)と御物語(ものがたり)など万(よろづ)心(こころ)のとがに聞(き)こえさせ給(たま)ふ程(ほど)に、むげに夜に入りぬれば、まんざいらく・たいへいらく・賀殿などまひ、様々(さまざま)に楽のこゑおかしきに、ふえのねもつゞみのをともおもしろきに、まつかぜ吹きすまして、いけのなみもこゑをとなへたり。百歳楽のこゑにあひて若宮(わかみや)の御こゑをきゝて、右大臣(うだいじん)もてはやし聞(き)こえ給(たま)ふ。左衛門(さゑもん)のかう、
右衛門(うゑもん)の督、万歳千秋などそのこゑにてずむじ給(たま)ふ。あるじの大(おほ)殿(との)、さき<”の行幸(ぎやうがう)をなどてめでたしと思(おも)ひ侍(はべ)りけん。斯(か)かる事(こと)もありける物(もの)をと、打(う)ちひそみ給(たま)ふをさしなる事(こと)なりと、
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殿(との)ばら同(おな)じ心(こころ)に御目(め)拭(のご)ひ給(たま)ふ。
かくて殿(との)は入らせ給(たま)ひ、上(うへ)は出(い)でさせ給(たま)ひて、右大臣(うだいじん)を御(お)前(まへ)に召(め)して、ふでとりて書き給(たま)ふ。宮司(みやづかさ)・殿(との)のけいし、さるべき限(かぎ)り加階す。頭弁して案内(あんない)啓せさせ給(たま)ふめり。あたらしき御(み)子(こ)の御よろこびに、氏の上達部(かんだちめ)引き連れて拝し奉(たてまつ)り給(たま)ふ。ふぢうぢなりし。門わかれたるは例にも立(た)ち給(たま)はず。次(つぎ)に別当になり給(たま)へる宮大夫右衛門(うゑもん)の督(かみ)。権大夫中納言(ちゆうなごん)、権亮(すけ)侍従宰相(さいしやう)など加階し給(たま)ひて、みな舞踏す。宮(みや)の御方(かた)に入らせ給(たま)ひて、程(ほど)なきに夜いたう更けぬ。御こし寄すとののしれば、殿(との)も出(い)でさせ給(たま)ひぬ。
又(また)のあしたに内(うち)の御つかひ、朝霧(あさぎり)も晴れぬに参(まゐ)れり。若宮(わかみや)の御こひしさにこそはあらめと推(お)し量(はか)らる。其(そ)の日(ひ)ぞ若宮(わかみや)の御ぐし始(はじ)めて奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。ことさらに行幸(ぎやうがう)の後(のち)とてあるなりけり。やがて其の日(ひ)若宮(わかみや)の家司・御許人(おもとびと)・別当・職事など定(さだ)めさせ給(たま)ふ。日頃(ひごろ)の御しつらひのらうがはしく様(さま)殊(こと)なりつるを、押しかへしうるはしう耀(かかや)かし給(たま)ふ。殿(との)の上(うへ)年(とし)頃(ごろ)心(こころ)もとなうおぼされける御事(こと)の成り給(たま)へるを、思(おぼ)す様(さま)に嬉(うれ)しうて、明(あ)け暮(く)れ参(まゐ)り見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふも、あらまほしき御気色(けしき)なり。
かく言(い)ふ程(ほど)に、御五十日霜月(しもつき)の朔日(ついたち)の日(ひ)になりにければ、例の女房(にようばう)様々(さまざま)心(こころ)<”にしたて参(まゐ)りつどひたる様(さま)。さべき物(もの)あはせのかたわきにこそ似ためれ。御帳のひんがしの方の御座(おまし)の際(きは)に、北(きた)より南(みなみ)の柱(はしら)まで暇(ひま)もなう御几帳(きちやう)を立(た)てわたして、みなみ面(おもて)には御(お)前(まへ)の物(もの)参(まゐ)りすへたり。
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西によりては大宮(おほみや)のをもの、例のぢんのおしきに何(なに)くれどもならんかし。若宮(わかみや)の御(お)前(まへ)の小(ちひ)さき御台六、御さらより始(はじ)め、万(よろづ)美(うつく)しき御はしのたいのすはまなどいとおかし。おほ宮(みや)の御まかなひ、弁宰相(さいしやう)君、女房(にようばう)、皆かみ上げて参(まゐ)りさしたり。若宮(わかみや)の御まかなひ、大納言(だいなごん)の君(きみ)なり。ひんがしの御簾少(すこ)し上げて、弁内侍(ないし)・中務(なかつかさ)命婦(みやうぶ)・大輔(たいふ)命婦(みやうぶ)・中将(ちゆうじやう)君など、さるべき限(かぎ)り取(と)りつゞき参(まゐ)らせ給(たま)ふ。さぬきのかみ大江きよみちがむすめ、左衛門(さゑもん)の佐源為善が女、日頃(ひごろ)参(まゐ)りたりつる、こよひぞ色許(ゆる)されける。
殿(との)の上(うへ)御丁の内(うち)より御(み)子(こ)抱(いだ)き奉(たてまつ)りてゐざり出(い)でさせ給(たま)へり。あかいろのかしの御衣(ぞ)に、ぢずりの御裳うるはしくさうぞきておはしますも、哀(あは)れに忝(かたじけな)し。おほ宮(みや)はえびぞめのいつへの御衣(ぞ)、すわうの御こうぢぎなどをぞ奉(たてまつ)りたる。殿(との)、もちひ参(まゐ)らせ給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)すのこに参(まゐ)り給(たま)へり。御座は例のひんがしのたいなりつれど、近(ちか)う参(まゐ)りてゑいみだれたり。右のおとど、内(うち)おとども皆参(まゐ)り給(たま)へり。大(おほ)殿(との)の御方(かた)よりおりびつ物(もの)など、さべきさうしぎみたちとりつゞき参(まゐ)る。かうらんにつゞけすへわたしたり。たち明(あ)かしの心(こころ)もとなければ、四位(しゐ)の少将(せうしやう)やさべき人々(ひとびと)など〔をよびよせて〕、紙燭(しそく)さして御覧(ごらん)じて、内(うち)の台盤所(だいばんどころ)にもて参(まゐ)るべきに、明日(あす)よりは御物(もの)忘(わす)れとて、こよひ皆もて参(まゐ)りぬ。宮(みや)の大夫御簾のもとに参(まゐ)りて、上達部(かんだちめ)御(お)前(まへ)にめさんと啓し給(たま)ふ。聞(き)こし召(め)すとあれば、殿(との)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて皆参(まゐ)り給(たま)ひて、はしらのひんがしのまをかみにて、ひんがしのつま殿(どの)まへまで
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ゐ給(たま)へり。
女房(にようばう)をしこりてかず知らずゐたり。其(そ)の座にあたりて、大納言(だいなごん)の君(きみ)・宰相(さいしやう)の君(きみ)・宮(みや)の内侍(ないし)とゐ給(たま)へるに、右のおとど寄りて、御几帳(きちやう)のほころび引きたちみたれ給(たま)ふを、さしもさせ給(たま)はでもありぬべけれど、それしもぞおかしうおはする。あふぎをとり、戯(たはぶ)れごとのはしたなき多(おほ)かり。大夫かはらけとりてこなたに出(い)で給(たま)へり。三輪の山(やま)もとうたひて、御遊様(さま)かはりたれどいとおもしろし。其(そ)の次(つぎ)のまのはしらもとに、うだいしやう寄りてきぬのつま・袖口(そでぐち)かぞへ給(たま)へる気色(けしき)など人(ひと)よりことなり。さかづきのめぐりくるを、大将(だいしやう)はをぢ給(たま)へど、例の事(こと)なしびにちとせ万代にて過(す)ぎぬ。三位のすけにかはらけ取れなどあるに、侍従宰相(さいしやう)、内大臣(ないだいじん)のおはすれば、しもより出(い)で給(たま)へるを見て、おとどゑひなきし給(たま)ふ。内(うち)なる人(ひと)さへ哀(あは)れに見けり。
け恐(おそ)ろしかるべき世(よ)のけはひなめりと見て、事(こと)はつるまゝに、宰相(さいしやう)君と言(い)ひあはせてかくれなんとするに、ひがし面(おもて)に殿(との)の君達(きんだち)・宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)など入りて騒(さわ)がしければ、二人(ふたり)御木丁のうしろにゐかくれたるを、二人(ふたり)ながらとらへさせ給(たま)へり。うた一(ひと)つつかうまつれと宣(のたま)はするに、いとわびしう恐(おそ)ろしければ、
@いかにいかゞかぞへやるべきやちとせのあまりひさしき君(きみ)がみよをば W059。
あはれつかうまつれるかなとふた度(たび)ばかりずんぜさせ給(たま)ひて、いと疾く宣(のたま)はせける、
@あしたづのよはひしあらば君(きみ)が代はちとせのかずもかぞへとりてん W060。
さばかりゑは
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せ給(たま)へれど、思(おぼ)す事(こと)筋(すぢ)なれば、かくつゞけさせ給(たま)ひつると見(み)えたり。かくて例の作法(さほふ)の禄どもなどありて、いとしどけなげにてよろぼひまかでさせ給(たま)ひぬ。殿(との)の御(お)前(まへ)、宮(みや)をむすめにてもち奉(たてまつ)りたる、まろはぢならず。まろをちゝにてもち奉(たてまつ)りたる、まろはぢならず。まろをちゝにてもち給(たま)へる、宮(みや)悪(わろ)からず。又(また)はゝもいとさいはひあり、よき男(をとこ)も給(たま)へりなど、戯(たはぶ)れ宣(のたま)はするを、上(うへ)はいとかたはらいたしと思(おぼ)して、あなたに渡(わた)らせ給(たま)ひぬ。
かくて十七日は入らせ給(たま)ふべければ、其(そ)の事(こと)共(ども)女房(にようばう)をしかへし急(いそ)ぎたちたり。其(そ)の夜になりぬれば、例の里(さと)のも皆参(まゐ)りつどひたり。かたへはかみ上げなどしてうるはしきすがたなり。四十余(よ)人(にん)ぞ候(さぶら)ひける。いたう更けぬれば、そゝきたちて入らせ給(たま)ひぬ。女房(にようばう)の車(くるま)きしろひもありけれど、例の事(こと)なり。きゝ入れぬ物(もの)なりと宣(のたま)はせて殿(との)は聞(き)こし召(め)しけちつ。御こしには、宣旨(せんじ)右乗り給(たま)ふ。いとげの御車(くるま)には、殿(との)の上(うへ)、少将(せうしやう)の乳母(めのと)、若宮(わかみや)抱(いだ)き奉(たてまつ)りて乗る。次(つぎ)<の事(こと)共(ども)あれど、うるさければ書かずなりぬ。よべの御贈(おく)り物(もの)、けさぞ心(こころ)のどかに御覧(ごらん)ずれば、御ぐしのはこ一よろひたうちの事(こと)共(ども)、見尽くしやらん方なし。御てばこ一よろひ、かたつかたにはしろきしきしつくりたるさうしども、こきん・ごせん・しういなど五まきにつくりつゝ、侍従中納言(ちゆうなごん)行成と延幹とをのをのさうし一(ひと)つに四まきをあてつ書かせ給(たま)へり。かけごのしたには元輔・能宣(よしのぶ)やうのいにしへのうたよみの家(いへ)<の集どもをかきて入れさせ給(たま)へり。
かやうにて日頃(ひごろ)
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も経(へ)ぬる程(ほど)に、五節(ごせつ)廿日参(まゐ)る。侍従宰相(さいしやう)とあるは内大臣(ないだいじん)の子、さねなり宰相(さいしやう)なるべし。まひびめのさうぞく遣(つか)はす。右宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)の五節(ごせつ)に御かづらさうまれたるつゐでに、はこ一よろひに薫物(たきもの)入れて遣(つか)はす。心葉(こころば)梅(むめ)の枝なり。今年(ことし)の五節(ごせつ)いみじういどみかはすなど聞(き)こえあり。ひがしの御(お)前(まへ)にむかひたるたてじとみに、ひまもなく打(う)ちわたしつゝともしたる火のひかりにつれなうあゆみ参(まゐ)る様(さま)共(ども)ゝはしたなけれど、其(そ)のみちにえさらぬ筋(すぢ)共(ども)なればこそと見(み)えたり。業遠朝臣(あそん)のかしづきににしきのからぎぬ着せたりとののしるも、げに様(さま)殊(こと)にさもありぬべかりけりと聞(き)こゆ。あまりきぬあつく着せてたかやかならぬ様(さま)なりと言(い)ふもどきはあれど、それ今(いま)の世(よ)の事(こと)には悪(わろ)からず。右宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)もあるべき限(かぎ)りしたり。ひすまし二人(ふたり)整(ととの)へたるすがたぞまどひたりと人(ひと)ほゝゑみたりし。内(うち)の大臣(おとど)の藤宰相(さいしやう)の、はた今(いま)少(すこ)し今(いま)めかしきはまさりて見ゆ。かしづき十人(にん)。またひさしの御簾おろしてこぼれ出(い)でたるきぬのつまどもしたてがほに思(おも)へる様(さま)共(ども)よりは見どころまさりて、ほかげにおかしう見(み)えたり。又(また)東宮(とうぐう)大夫の五節(ごせつ)に、宮(みや)より薫物(たきもの)遣(つか)はす。おほきやかなるしろがねのはこに入れさせ給(たま)へり。おはりのかみまさひらもいだしたれば、殿(との)の上(うへ)ぞそれは遣(つか)はしける。
其(そ)の夜は御(お)前(まへ)の試(こころ)みなども過(す)ぎて、わらは・しもづかへの御覧(ごらん)いかゞとゆかしきに、例(れい)の時(とき)の程(ほど)になれば皆あゆみつゞき参(まゐ)りいづる程(ほど)、内(うち)にも外(と)にも目(め)をつけ騒(さわ)ぎたり。上(うへ)渡(わた)らせ給(たま)ひて
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御覧(ごらん)ず。若宮(わかみや)おはしませば、うちまきしののしるけはひす。業遠のわらはにあをきしらつるばみのかざみを着せたり。おかしと思(おも)ひたるに、藤宰相(さいしやう)のわらはには、あかいろのかざみを着せ、しもづかへのからぎぬにあをいろを着せたる程(ほど)押しかへしねたげなり。宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)のもいつへのかざみ、おはりはゑびぞめをみへにてぞ着せたる。衵(あこめ)皆(みな)濃(こ)き薄(うす)き心(こころ)<”なり。侍従宰相(さいしやう)の五節(ごせつ)のつぼね。宮(みや)の御(お)前(まへ)たゞ見わたすばかりなり。たてじとみのかみよりすだれのはしも見ゆ。人(ひと)の物(もの)言(い)ふこゑもほのかに聞(き)こゆ。
彼の弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御方(かた)の女房(にようばう)なん、かしづきにてあると言(い)ふ事(こと)をほのぎゝて、あはれ昔(むかし)ならしけんもゝしぎを物(もの)のそばにゐかくれて見るらん程(ほど)も哀(あは)れに、いさ、いと知らぬがほなるは悪(わろ)し。言(こと)一(ひと)つ言(い)ひやらんなど定(さだ)めて、こよひかひつくろひいづかたなりしぞ。それなど宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)宣(のたま)ふ。源少将(せうしやう)も同(おな)じごとかたり給(たま)ふ。猶(なほ)清(きよ)げなりかしなどあれば、御(お)前(まへ)にあふぎ多(おほ)く候ふ中に、蓬莱つくりたるをば、筥(はこ)の蓋(ふた)にひろかて日(ひ)がけをめぐりてまろめ置(お)きて、其(そ)のなかに螺鈿(らでん)したる櫛(くし)共(ども)を入(い)れて、白(しろ)い物(もの)などさべい様(さま)に入れなして公(おほやけ)ざまにかほ知らぬ人(ひと)して、中納言(ちゆうなごん)君(きみ)の御つぼねより、さきやうの君(きみ)の御(お)前(まへ)にといはせてさし置(お)かせつれば、かれ取(と)り入れよなど言(い)ふは彼の我(わ)が女御(にようご)殿(どの)より給(たま)へるなりと思(おも)ふなりけり。またさ思(おも)はせんとたばかりたる事(こと)なれば、あんにははかられにけり。薫物(たきもの)を立文(たてぶみ)にしてかみに書きたり、
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@多(おほ)かりし豊(とよ)の宮人(みやびと)さし分けてしるき日(ひ)かげをあはれとぞ見し W061。
彼のつぼねにはいみじう恥(は)ぢけり。宰相(さいしやう)もたゞなるよりは心(こころ)苦(ぐる)しう思(おぼ)しけり。小忌(をみ)の夜(よ)は、宰相(さいしやう)の五節(ごせつ)にわらはのかざみ、大人(おとな)のからぎぬに皆(みな)青摺(あをずり)をして、あかひもをなんしたりけると言(い)ふ事(こと)を、後(のち)に斎院(ゐん)に聞(き)こし召(め)しておかしうもと思(おぼ)し召(め)して召(め)したりければ御覧(ごらん)じて、げにいと今(いま)めかしう思(おぼ)し召(め)して、青(あを)き紙(かみ)の端(はし)にて袂(たもと)にむすびつけてかへさせ給(たま)へり、
@かみよゝり摺(す)れる衣(ころも)と言(い)ひながらまた重(かさ)ねても珍(めづら)しきかな W062。
かくて臨時(りんじ)の祭(まつり)になりぬ。つかひには殿(との)の権中将(ちゆうじやう)出(い)で給(たま)ふ。其(そ)の日(ひ)は内(うち)の御物忌(ものいみ)なれば、殿(との)も上達部(かんだちめ)も、舞人(まひびと)の君達(きんだち)も皆よひにこもり給(たま)ひて、内(うち)辺(わた)り今(いま)めかしげなる所々(ところどころ)あり。殿(との)の上(うへ)もおはしませば、御乳母(めのと)の命婦(みやうぶ)もおかしき御あそびに、目もつかでつかひの君(きみ)をひとへにまぼり奉(たてまつ)り。かくて此(こ)の臨時(りんじ)の祭(まつり)の日(ひ)。藤宰相(さいしやう)の御随身ありし筥(はこ)の蓋(ふた)を此(こ)の君(きみ)の随身にさしとらせていにけり。ありし筥(はこ)の蓋(ふた)にしろがねの筥(はこ)の蓋(ふた)にかゞみ入れて、沈のくし・白がねのかうがいを入れて、つかひの君(きみ)のびんかき給(たま)ふべき具と思(おぼ)しくてしたり。此(こ)のはこの内(うち)にでいにてあしでを書きたるは有(あ)りしかへしなるべし、
@日(ひ)かげぐさ耀(かかや)く程(ほど)やまがひけんますみのかゞみくもらぬ物(もの)を W063。
師走(しはす)にも
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なれば、残(のこ)りすくなきあはれなり。花蝶(はなてふ)と言(い)ひつる程(ほど)に、年(とし)も暮れぬ。かくて若宮(わかみや)のいと物(もの)あざやかにめでたう、山(やま)の端(は)よりさし出(い)でたる望月(もちづき)などのやうにおはしますを、帥(そち)殿(どの)の辺(わた)りにはむねつぶれいみじうおぼえ給(たま)ひて、人(ひと)知れぬ年(とし)頃(ごろ)の御心(こころ)の内(うち)のあらましごとどもゝ。むげにたがひぬる様(さま)におぼされて、猶(なほ)此(こ)の世(よ)には人(ひと)笑(わら)はれにてやみぬべき身にこそあめれ。あさましうもあるかな。めづらかなる夢(ゆめ)など見てし後(のち)はさりともと頼(たの)もしう、ことなる事(こと)なき人(ひと)の例(ためし)のはて見てはなどこそは言(い)ふなれば、さりともとのみ、其(そ)のまゝにさうじ・いもゐをしつゝあり過(す)ぐし、ひたみちに仏神を頼(たの)み奉(たてまつ)りてこそありつれ。今(いま)はかうにこそあめれと、御心(こころ)の内(うち)の物(もの)嘆(なげ)きにおぼされて、あいなだのみにてのみ世を過(す)ぐさんは、いとおこがましき事(こと)など出(い)できて、いとど生けるかひなき有様(ありさま)にこそあべかめれ。いかゞすべきなど御おぢの明順(あきのぶ)・道順(みちのぶ)などに打(う)ちかたらひ給(たま)へば、げに世(よ)の有様(ありさま)はさのみこそおはしますめれ。さりとて又(また)いかゞはせさせ給(たま)はんとする。たゞ御命(いのち)だに平(たひら)かにておはしまさばとこそは頼(たの)み聞(き)こえさすれなどあはれなる事(こと)共(ども)を打(う)ち泣きつゝ聞(き)こえさすれば殿(との)もかくてつく<”とつみをのみつくりつむも、いとあぢきなくこそあべけれ。物(もの)のいんぐは知らぬ身にもあらぬものから、何事(なにごと)を待つにかあらんと思(おも)ふに、いとはかなしや。猶(なほ)今(いま)は出家(しゆつけ)して、
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暫(しば)し行(おこな)ひて後(のち)の世(よ)の頼(たの)みをだにやと思(おも)ふに、ひたみちにおこしたる道心にもあらずなどして、山林にゐてきやうを読み行(おこな)ひをすとも、此(こ)の世(よ)の事(こと)共(ども)を思(おも)ひ忘(わす)るべきやうもなし。さて万(よろづ)に攀縁しつゝせん。念誦(ねんず)・読経はかひはあらんとすらんやはと思(おも)ふに、まだえ思(おも)ひ立(た)たぬなりなど言(い)ひつゞけさせ給(たま)ふ。いみじうあはれなる事(こと)なりかし。中納言(ちゆうなごん)・僧都(そうづ)なども、世を同(おな)じう思(おぼ)しながら、あさはかに中<心(こころ)やすげに見(み)え給(たま)ふ。此(こ)の殿(との)ぞ万(よろづ)に世とゝもに思(おぼ)しみだれたる。世(よ)の憂さなめれば、いとど心(こころ)苦(ぐる)しうなん。
斯(か)かる程(ほど)に年(とし)かへりぬ。寛弘六年になりぬ。世(よ)の有様(ありさま)常(つね)のやうなり。若宮(わかみや)いみじう美(うつく)しうおい出(い)でさせ給(たま)ふを、上(うへ)宮(みや)の御(おん)中(なか)にゐてあそばせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひては、御門(みかど)の宣(のたま)はする猶(なほ)思(おも)へど、昔(むかし)内(うち)に幼(をさな)き子どもをあらせずして、宮(みや)達(たち)のかく美(うつく)しうなどあらんをいつゝなゝつなどにて御たいめんとてののしりけんこそ、今(いま)の世(よ)に万(よろづ)の事(こと)のなかにいとたへがたかりける事(こと)はありけれ。かう見ても見てもあかぬ物(もの)を思(おも)ひ遣(や)りつゝ、明けくらさんはこひしかべいことなりや。此(こ)の一(いち)の宮(みや)をこそいとひさしう見ざりしが有様(ありさま)を人(ひと)づてにきゝて、けしからぬまでゆかしかりし事(こと)など打(う)ちかたらひ聞(き)こえさせ給(たま)ふもいとめでたし。
斯(か)かる程(ほど)に、正月も暮れぬ。宮(みや)其(そ)のまゝに此(こ)の月頃(ごろ)せさせ給(たま)ふ事(こと)なかりしに、十二月(じふにぐわつ)廿日の程(ほど)にぞ唯(ただ)験(しるし)ばかり御覧(ごらん)じたりけるまゝに、
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今年(ことし)かう今(いま)ゝでせさせ給(たま)はねば、猶(なほ)彼の折の御なごりにやと思(おぼ)しもよらぬに、こぞの此(こ)の頃(ごろ)の御(おん)心地(ここち)ぞせさせ給(たま)ひける。いかなりけるにかと思(おぼ)し召(め)す程(ほど)に、候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も又(また)事(こと)のおはしますべきにこそとさゞめき聞(き)こえさすれば、かたへはいつの程(ほど)にかさおはしまさんと言(い)ふもあり。又(また)あるはさやうの物(もの)ぞ。又(また)さしつづき同(おな)じ様(さま)にてはて給(たま)へる事(こと)はさこそはあれ、あり<ていかにめでたからんなど申し思(おも)へり。殿(との)も上(うへ)も皆聞(き)こし召(め)して気色(けしき)だち思(おぼ)し召(め)したり。かくは言(い)ふ程(ほど)に三月にもなりぬれば、誠(まこと)にさやうの御気色(けしき)になりはてさせ給(たま)ひぬ。殿(との)の御有様(ありさま)えもいはぬ様(さま)なり。
かく言(い)ふ程(ほど)に、自(おの)づから世(よ)にも漏り聞(き)こえぬ。年(とし)頃(ごろ)の女御(にようご)達(たち)たゞなるよりは物(もの)恥(は)づかしう思(おぼ)し知(し)るべし。右のおとど内(うち)のおとどこは斯(か)かるべき事(こと)かは、われしも同(おな)じ筋(すぢ)にはあらずや。かう殊(こと)の外(ほか)なる恥(は)づかしき宿世(すくせ)なりとおぼさるべし。三月晦日(つごもり)に出(い)でさせ給(たま)ひなむとあれど、御門(みかど)いとあるまじき御事(こと)に聞(き)こえさせ給(たま)へば、暫(しば)しは過(す)ぐさせ給(たま)ふ。
斯(か)かる程(ほど)に殿(との)の三位殿。左衛門(さゑもん)の督(かみ)にならせ給(たま)ひにけり。中宮(ちゆうぐう)の御祈(いの)りは猶(なほ)里(さと)にてと思(おぼ)し急(いそ)がせ給(たま)ひて、四月十余(よ)日(にち)程(ほど)に出(い)でさせ給(たま)ふ。内(うち)にはいかにおぼつかなう此(こ)の度(たび)は若宮(わかみや)の御こひしささへ添(そ)ひて、いぶせく思(おぼ)しみだれさせ給(たま)ふ。さて京極(きやうごく)殿(どの)に出(い)でさせ給(たま)へれば内侍(ないし)の督(かん)の殿(との)。若宮(わかみや)をいつしかと待(ま)ちむかへ、
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見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。其(そ)の後(のち)御乳母(めのと)達(たち)はたゞ御乳(ち)参(まゐ)る程(ほど)ばかりにて、たゞ督(かん)の殿(との)抱(いだ)き慈(うつく)しみ奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、御乳母(めのと)達(たち)もいと嬉(うれ)しきに思(おも)ひ聞(き)こえさせたり。中宮(ちゆうぐう)の御祈(いの)りどもさきのごどし。万(よろづ)し残(のこ)させ給(たま)ふ事(こと)なし。いづれのふしかはと思(おぼ)しいづる御有様(ありさま)なりしかば、さき<”の僧ども、同(おな)じ様(さま)の御祈(いの)りにをきてさせ給(たま)へば、其(そ)のまゝにたがはぬ事(こと)共(ども)をつかうまつる。こたみは男(をとこ)女の御有様(ありさま)あながちなるまじけれど、猶(なほ)さしならばせ給(たま)はん程(ほど)のたけさはこよなかるべければ、同(おな)じ様(さま)を思(おぼ)し志(こころざ)すべし。
彼の花山(くわさん)の院(ゐん)の四の御方(かた)は院(ゐん)失(う)せさせ給(たま)ひにしかば、たかづかさ殿(どの)に渡(わた)り給(たま)ひにければ、殿(との)聞(き)こし召(め)して、かれをもがなとは思(おぼ)し召(め)しけれど、思(おぼ)しも立(た)たぬ程(ほど)に殿(との)の上(うへ)ぞ常(つね)にをとなひ聞(き)こえさせ給(たま)ひけれども、いかなるべい事(こと)にか思(おぼ)したちがたかりけり。斯(か)かる程(ほど)に、殿(との)の左衛門(さゑもん)の督(かみ)をさべき人々(ひとびと)いみじう気色(けしき)だち聞(き)こえ給(たま)ふ所々(ところどころ)あれども、まだともかうも思(おぼ)し召(め)し定(さだ)めぬ程(ほど)に、六条(ろくでう)の中務(なかつかさ)の宮(みや)と聞(き)こえさするは、故村上(むらかみ)のせんていの御七の宮(みや)におはします。麗景殿(れいけいでん)の女御(にようご)の御腹の宮(みや)なり。北(きた)の方(かた)はやがて村上(むらかみ)の四の宮(みや)ためひらの式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)の御(おん)中(なか)姫君(ひめぎみ)なり。はゝ上(うへ)は故源帥(そち)の大臣(おとど)の御むすめなり。斯(か)かる御(おん)中(なか)より出(い)で給(たま)へる女(をんな)宮(みや)三(み)所(ところ)。男(をとこ)宮(みや)二(ふた)所(ところ)ぞおはします。其(そ)の姫宮(ひめみや)えならずかしづき聞(き)こえさせ給(たま)ふ。いさゝかかたほなる事(こと)もなく、物(もの)きよき御なからひなり。
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中務(なかつかさ)の宮(みや)の御心(こころ)もちゐなど世(よ)の常(つね)になべてにおはしまさず。いみじう御才(ざえ)賢(かしこ)うおはするあまりに、陰陽道も医師のかたも、万(よろづ)にあさましきまで足(た)らはせ給(たま)へり。作文・和哥などの方、世(よ)にすぐれめでたうおはします。心(こころ)にくゝ恥(は)づかしき事(こと)限(かぎ)りなくおはします。
其(そ)の宮(みや)、此(こ)の左衛門(さゑもん)の督殿(どの)を志(こころざし)聞(き)こえさせ給(たま)へば、大(おほ)殿(との)聞(き)こし召(め)していと忝(かたじけな)き事(こと)なりと、かしこまり聞(き)こえさせ給(たま)ひて、男(をのこ)は妻(め)がらなり。いとやむごとなきあたりに参(まゐ)りぬべきなめりと聞(き)こえ給(たま)ふ程(ほど)に、内(うち)内(うち)に思(おぼ)しまうけたりければ今日(けふ)明日(あす)になりぬ。さるは内(うち)などに思(おぼ)し志(こころざ)し給(たま)へる御事(こと)なれど、御宿世(すくせ)にや思(おぼ)し立(た)ちてん事(こと)も奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御有様(ありさま)今(いま)めかし。女房(にようばう)二十人(にん)、わらは・しもづかへ四人(にん)づゝ、万(よろづ)いといみじう奥(おく)深(ぶか)く心(こころ)にくき御有様(ありさま)なり。今(いま)の世(よ)に見(み)え聞(き)こゆる香(かう)にはあらで、げにこれをやいにしへの薫衣香(くのえかう)など言(い)ひて世(よ)にめでたき物(もの)に言(い)ひけんは、此(こ)の薫(かをり)にやとさて押しかへし珍(めづら)しうおぼさる。姫宮(ひめみや)御年(とし)十五六ばかりの程(ほど)にて、御ぐしなど督(かん)の殿(との)の御有様(ありさま)に、いとよう似させ給(たま)へる心地(ここち)せさせ給(たま)ふに、めでたき御かたちと推(お)し量(はか)り聞(き)こえさせ給(たま)ふべし。中務(なかつかさ)の宮(みや)いみじう御気色(けしき)疎(おろ)かならず哀(あは)れに見(み)えさせ給(たま)ふ。
かくて日頃(ひごろ)ありて御露顕(ところあらはし)なれば、御供(とも)に参(まゐ)るべき人々(ひとびと)皆殿(との)の御(お)前(まへ)選(え)り定(さだ)めさせ給(たま)へり。其(そ)の夜の有様(ありさま)いさゝか心(こころ)もとなくしつくさせ給(たま)へり。
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男君(をとこぎみ)の御志(こころざし)の程(ほど)・有様(ありさま)のめでたさ。御しな・程(ほど)によるわざにもあらずのみこそはあめれ。されど此(こ)の御なからひいとめでたし。宮(みや)いとかひありて思(おぼ)し見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。六条(ろくでう)に明(あ)け暮(く)れの御歩(あり)きも、路(みち)の程(ほど)などに、夜行の夜なども自(おの)づからありあふらん。いとうしろめたき事(こと)なりと思(おぼ)して、上(かみ)つ方(かた)にさべき御様(さま)にと掟(おき)て聞(き)こえさせ給(たま)ふ。中務(なかつかさ)の宮(みや)今(いま)は心(こころ)安(やす)くなりぬるをいまだにいかで本意(ほい)遂(と)げなんと思(おぼ)しならせ給(たま)ふ。事(こと)にふれてやむごとなき御有様(ありさま)をだに、さべき折節(をりふし)、珍(めづら)しきせちゑなどには、いといだし奉(たてまつ)らまほしうのみ、公(おほやけ)に思(おぼ)し召(め)さるゝ事(こと)こ度(たび)のみにあらねど、すべてさやうに思(おぼ)しかけさせ給(たま)はず。世(よ)に口(くち)惜(を)しき事(こと)になん。
かくて督(かん)の殿(との)、東宮(とうぐう)に参(まゐ)らせ給(たま)はん事(こと)も、いと近(ちか)うなりて急(いそ)ぎ立(た)たせ給(たま)ひにたり。かく参(まゐ)り給(たま)ふべしとある事(こと)を宣耀殿(せんえうでん)にはあべい事(こと)の今(いま)ゝで斯(か)かる年(とし)思(おぼ)し召(め)せば、ともかくも思(おぼ)し宣(のたま)はせぬに、いと怪(あや)しうも思(おぼ)し入れぬかなと候(さぶら)ふ人々(ひとびと)聞(き)こえさすれど、今(いま)はたゞ宮(みや)達(たち)の御扱(あつか)ひをし、其(そ)のひまには行(おこな)ひをこそ思(おも)へ。宮(みや)の御ためにいとおしき事(こと)にこそあれ。さやうならん事(こと)こそよかべかめれなどいといと疎(おろ)かに猶(なほ)思(おも)ひ忍(しの)び給(たま)へど、それに障(さは)らせ給(たま)ふべき事(こと)にもあらぬ物(もの)から、ただ怪(あや)しき人(ひと)だにいかゞは物(もの)は言(い)ふとありがたふ見(み)えさせ給(たま)ふ。
かくて中宮(ちゆうぐう)の御事(こと)のかくおはしませば、しづ心(こころ)なく殿(との)の
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御(お)前(まへ)思(おぼ)し召(め)す程(ほど)に、はかなく秋(あき)にもなりぬ。二月よりさはおはしませば、十一月(じふいちぐわつ)にはと思(おぼ)し召(め)したれば、いと物(もの)騒(さわ)がしうて、督(かん)の殿(との)の御参(まゐ)り冬(ふゆ)になりぬべう思(おぼ)し召(め)しけり。斯(か)かる程(ほど)に帥(そち)殿(どの)の辺(わた)りより若宮(わかみや)をうたて申し思(おも)ひ給(たま)へる様(さま)の事(こと)、此(こ)の頃(ごろ)出(い)で来て、いときゝにくき事(こと)多(おほ)かるべし。誠(まこと)にしもあらざらめど、それにつけてもけしからぬ事(こと)共(ども)出(い)で来て、帥(そち)殿(どの)いとど世(よ)の中(なか)すゞろばしう思(おぼ)し嘆(なげ)きけり。明順(あきのぶ)が知(し)る事(こと)なりなど大(おほ)殿(との)にも召(め)しておほせられて、かくあるまじき心(こころ)なもたりそ。かく幼(をさな)うおはしますとも、さべうてむまれ給(たま)へらば、四天王守(まも)り奉(たてまつ)り給(たま)ふらん。たゞのわらはだに人(ひと)のあしうするには、もはら死(し)なぬわざなり。いはんやおぼろげの御くはほうにてこそ人(ひと)の言(い)ひ思(おも)はん事(こと)によらせ給(たま)はめ。まうとたちはかくては天のせめをかぶりなん。われともかくも言(い)ふべき事(こと)ならずとばかり御(お)前(まへ)に召(め)して宣(のたま)はせたるに、いといみじう恐(おそ)ろしう忝(かたじけな)しと、かしこまりて、ともかくもえ述べ申(まう)さでまかでにけり。其(そ)の後(のち)やがて心地(ここち)あしうなりて五六日(にち)ばかりありて死(し)にけり。
これにつけても帥(そち)殿(どの)世を慎(つつ)ましき物(もの)に思(おぼ)しまさる。同(おな)じ死(し)にといへども、明順(あきのぶ)も折(をり)心(こころ)憂くなりぬる事(こと)を、世(よ)の人(ひと)口(くち)安(やす)からずと言(い)ひ思(おも)ひけるに、帥(そち)殿(どの)いかにか世をありにくゝ、憂き物(もの)になん思(おぼ)しみだれければにや。御(おん)心地(ここち)例にもあらずのみおぼされて、御台(だい)など
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も参(まゐ)らぬにはあらでなか<常(つね)よりも物(もの)をいそがしう参(まゐ)りなどせさせ給(たま)ひけるに、例ならぬ御有様(ありさま)を、上(うへ)も殿(との)も恐(おそ)ろしき事(こと)に思(おぼ)し嘆(なげ)きけり。此(こ)の年(とし)頃(ごろ)御ありきなかりつる程(ほど)に、こきん・ごせん・しういなどをぞ、皆まうけ給(たま)へりける。それにつけても猶(なほ)人(ひと)よりけに殊(こと)に御才(ざえ)の限(かぎ)りなればなりけり。
斯(か)かる程(ほど)に中宮(ちゆうぐう)の御事(こと)、御修法・御読経、万(よろづ)の御祈(いの)りはかなき事(こと)も、さきの例を思(おぼ)しをきてさせ給(たま)ふに、十一月(じふいちぐわつ)廿五日(にち)の程(ほど)に御気色(けしき)ありて悩(なや)ましげに思(おぼ)し召(め)したり。例の聞(き)きにくきまでなりみちたり。されど御物(もの)のけなど大人(おとな)し。其(そ)のかたの心(こころ)のどかにおはしますも、限(かぎ)りなき御祈の験(しるし)なるべし。いみじく平(たひら)かに程(ほど)なく御(み)子(こ)むまれ給(たま)ひぬ。万(よろづ)よりも又(また)後(のち)の御事(こと)とののしらせ給(たま)ふも程(ほど)なくて物(もの)せさせ給(たま)ひつ。いとめでたき〔こ〕とを思(おぼ)し召(め)しよろこびたるに、さきにおとらぬ男(をとこ)さへうまれ給(たま)へれば、殿(との)を始(はじ)め奉(たてまつ)り。いと斯(か)かる事(こと)にはあまりあさましうそらごとかとまでぞ思(おぼ)し召(め)されける。内(うち)にも聞(き)こし召(め)していつしかと御はかしあり。すべて何事(なにごと)もたゞ始(はじ)めの例を一(ひと)つたがへずひかせ給(たま)ふ。女房(にようばう)のしろぎぬなど此(こ)の度(たび)は冬(ふゆ)にてうきもん・かたもん・織物(おりもの)・からあやなどすべていはんかたなし。此(こ)の度(たび)は袴(はかま)をさへしろうしたればかくもありぬべかりけりとしろたへのつるのけごろもめでたうちとせの程(ほど)推(お)し量(はか)られたり。御湯(ゆ)殿(どの)の有様(ありさま)など始(はじ)めのにて知(し)りぬべければ、書きつゞけ
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ず。御文のはかせも同(おな)じ人(ひと)参(まゐ)りたり。すべて世(よ)にいみじうめでたき御有様(ありさま)に、ましやらん方なし。三日・五日・七日夜などの御作法(さほふ)、なか<まさざまにこそ見ゆれ。此(こ)の度(たび)は事(こと)なれぬと事(こと)そがせ給(たま)ふ事(こと)なし。
帥(そち)殿(どの)は日頃(ひごろ)みづがちに、御たいなどもいかなる事(こと)にかとまで聞(き)こし召(め)せど怪(あや)しうありし人(ひと)にもあらず細(ほそ)り給(たま)ひにけり。御(おん)心地(ここち)もいと苦(くる)しう悩(なや)ましうおぼさる。うちはへ御ときにて過(す)ぐさせ給(たま)ひしときは、いみじうこそふとり給(たま)へりしが。今(いま)は例の人(ひと)の有様(ありさま)にて過(す)ぐさせ給(たま)へど、斯(か)かる御事(こと)をいかなる事(こと)にかと心(こころ)細(ぼそ)しとおぼさるゝまゝに、まつぎみの少将(せうしやう)何事(なにごと)にも人(ひと)よりまさりておぼさるゝも、いかゞならんとすらんと哀(あは)れに心(こころ)苦(ぐる)しう思(おぼ)し嘆(なげ)くも、理(ことわり)にいみじうあらぬ世を哀(あは)れにのみおぼさるゝも、げにとのみ見(み)え聞(き)こゆ。内(うち)には若宮(わかみや)御こひしさも今(いま)の御ゆかしさも、猶(なほ)疾く入らせ給(たま)へとのみ聞(き)こえさせ給(たま)ふ。
内(うち)も焼けにしかば、御門(みかど)は今(いま)だいりにおはします。東宮(とうぐう)は枇杷(びは)殿におはします。師走(しはす)になりぬれば、督(かん)の殿(との)の御参(まゐ)りなり。日頃(ひごろ)思(おぼ)し志(こころざ)しつる事(こと)なれば、おぼろげならで参(まゐ)らせ給(たま)ふ。いとあさましうなりぬる世(よ)にこそあめれ。年(とし)頃(ごろ)の人(ひと)のめこなども、皆参(まゐ)りあつまりて、大人(おとな)四十人(にん)・わらは六人(にん)・しもづかへ四人(にん)。督(かん)の殿(との)の御有様(ありさま)聞(き)こえつづくるも、例のことめきて同(おな)じ〔こ〕となれども、またいかゞは少(すこ)しにてもほの聞(き)こえさせぬやうはあらんな。御年(とし)十六に
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ぞおはしましける。此(こ)の御(お)前(まへ)達(たち)、いづれも御ぐしめでたくおはしまさすなかにも、此(こ)の御(お)前(まへ)すぐれ、いとこちたきまでおはしますめり。東宮(とうぐう)いとかひありていみじうもてなし聞(き)こえさせ給(たま)へり。内(うち)辺(わた)りいとど今(いま)めかしさそひぬべし。はかなき具(ぐ)共(ども)ゝ中宮(ちゆうぐう)の参(まゐ)らせ給(たま)ひし折こそ、耀(かかや)く藤壺(ふぢつぼ)と世(よ)の人(ひと)申しけれ。此(こ)の御参(まゐ)りまねぶべき方なし。其(そ)の折よりこなた十ねんばかりになりぬれば、いで其(そ)の事(こと)共(ども)かはかはりたる。其(そ)の程(ほど)推(お)し量(はか)るべし。
かくて参(まゐ)らせ給(たま)ひつれば、東宮(とうぐう)むげにねびはてさせ給(たま)へれば、いと恥(は)づかしうもやむごとなくも様々(さまざま)御心(こころ)づかひ疎(おろ)かならず。年(とし)頃(ごろ)宣耀殿(せんえうでん)をまたなき物(もの)に思(おぼ)し見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつるに、あさましうこよなき程(ほど)の御よはひなれば、たゞ我が御姫宮(ひめみや)達(たち)をかしづきすへ奉(たてまつ)らせ給(たま)へらむやうにぞおぼされける。日頃(ひごろ)にならせ給(たま)ふまゝに、やう<馴れおはします御気色(けしき)も、いとどえもいはず美(うつく)しう思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ふ。夜ごとの御宿直(とのゐ)はたさらにもいはず。今(いま)はたゞ此(こ)の御方(かた)にのみおはします。御具(ぐ)共(ども)を片端(かたはし)よりあけひろげて御目とどめて御覧(ごらん)じわたすに、これは<とみどころあり、めでたう御覧(ごらん)ぜらる。御ぐしの箱の内(うち)のしつらひ、こばこどものいり物(もの)どもはさらなり。殿(との)の上(うへ)、君達(きんだち)などのわれも<といどみし給(たま)へるどもなれば、いみじうけうありて御覧(ごらん)ず。中宮(ちゆうぐう)の御参(まゐ)りのもかやうにこそは思(おぼ)しをきてさせ給(たま)ふめりしが。宣耀殿(せんえうでん)に故村上(むらかみ)の御門(みかど)の、彼の
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昔(むかし)の宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)にし奉(たてまつ)らせ給(たま)へりけるは、まきゑの御ぐしのはこひとよろひはつたはりそ。今(いま)の宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)の御方(かた)にぞ候(さぶら)ふを、其(そ)の内(うち)をいみじう御覧(ごらん)じけうぜさせ給(たま)ひしを、これに御覧(ごらん)じあはするに、かれは殊(こと)の外(ほか)にこたいなりけり。
さるは村上(むらかみ)のせんていの様々(さまざま)の御心(こころ)をきて、此(こ)の世(よ)の御門(みかど)の御心(こころ)よりもすぐれさせ給(たま)へりけるも、我が御口(くち)・筆(ふで)しておほせられてつくもどころの物(もの)ども御覧(ごらん)じては、直(なほ)しせさせ給(たま)へるを、これは猶(なほ)いとこよなふ御覧(ごらん)ぜらるゝに、時世(ときよ)に従(したが)ふ目移(めうつ)りにやと御心(こころ)ながら思(おぼ)し召(め)せど、猶(なほ)これはいとめでたければ、殿(との)の心様(こころざま)のあさましきまで何事(なにごと)にもいかでかくとぞ思(おぼ)し召(め)しける。其(そ)の御具(ぐ)共(ども)の屏風(びやうぶ)共(ども)は、為氏(ためうぢ)・常則(つねのり)などが書(か)きて、たうふうこそはしきしがたは書(か)きたれ。いみじうめでたしかし。其(そ)の上(かみ)の物(もの)なれど只今(ただいま)のやうにちりばまず、あざやかにもちゐさせ給(たま)へりしに、これはひろたかゞ書(か)きたる屏風(びやうぶ)共(ども)に、侍従中納言(ちゆうなごん)の書(か)き給(たま)へるにこそはあめれ。いづこかはこれにおとりまさりのあるべきなど御心(こころ)の内(うち)に思(おぼ)し召(め)しあまりては、殿(との)や左衛門(さゑもん)の督などの参(まゐ)り給(たま)へると宣(のたま)ひ定(さだ)めさせ給(たま)へるにつけても、御年(とし)などもねびさせ給(たま)ひにたれば、何事(なにごと)も見ゑり。物(もの)のはへおはしますにこそいと恥(は)づかしう、いとど何事(なにごと)につけても其(そ)の御用意(ようい)心(こころ)異(こと)なり。
そこらの女房(にようばう)えもいはぬなりさうぞくにて、えならぬ織物(おりもの)のからぎぬを、おどろ<しき大海(おほうみ)の摺裳(すりも)共(ども)を引(ひ)きかけわたし
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て、あふぎどもをさしかくし。打(う)ちむれ<ゐては、何事(なにごと)にかあらん、打(う)ち言(い)ひつゝさざめき笑(わら)ふも恥(は)づかしきまで思(おも)ほされて、此(こ)の御方(かた)に渡(わた)らせ給(たま)ふ折は、心(こころ)げさうぜさせ給(たま)ひけり。はかなう奉(たてまつ)りたる御衣(ぞ)のにほひ・薫(かをり)なども、宣耀殿(せんえうでん)よりめでたうしたてゝ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけり。御門(みかど)東宮(とうぐう)と申すは若(わか)くいはけなくおはしますだに、心(こころ)殊(こと)にいみじき物に人(ひと)思(おも)ひ聞(き)こえさするに、まいて此(こ)の御(お)前(まへ)は御年(とし)も大人(おとな)びさせ給(たま)ひ、御有様(ありさま)などもなべてならずいとおしうらう<じうおはしませば、いと恥(は)づかしげなる事(こと)なむ多(おほ)くおはしますに、督(かん)の殿(との)も他(こと)御かたがたよりもはかなう奉(たてまつ)りたる御衣(ぞ)の袖口(そでぐち)・重(かさ)なりなどのいみじうめでたうおはしませば、殿(との)の御(お)前(まへ)もいとどめでたうのみ重(かさ)ね聞(き)こえさせ給(たま)ふめり。
宣耀殿(せんえうでん)には他人(よそびと)も近(ちか)きもいかに思(おぼ)し召(め)すらん。安(やす)くは大(おほ)殿(との)ごもるらんやなど聞(き)こゆれば、年(とし)頃(ごろ)かうべい事(こと)のかからざりつれば、宮(みや)の御ためにいと心(こころ)苦(ぐる)しくみ奉(たてまつ)れば、今(いま)なん心(こころ)安(やす)く見(み)奉(たてまつ)るなど宣(のたま)はせて、御さうぞくを明(あ)け暮(く)れめでたうしたてさせ給(たま)ひ、御薫物(たきもの)など常(つね)に合(あは)せつゝ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。宮(みや)はたゞ母后(ははぎさき)などぞ思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へるも、げにとのみ見(み)えさせ給(たま)ふ。殿(との)の上(うへ)は中宮(ちゆうぐう)と此(こ)の女御(にようご)殿(どの)とをおぼつかなからず渡(わた)り参(まゐ)らせ給(たま)ふ程(ほど)に、いとあらまほしうなん。年(とし)もかへりぬ。寛弘七年とぞ言(い)ふめる。万(よろづ)例(れい)の有様(ありさま)にて過(す)ぎもて行くに、帥(そち)殿(どの)は今年(ことし)となりては、いとど
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御(おん)心地(ここち)おもりて今日(けふ)や<と見(み)えさせ給(たま)ふ。何事(なにごと)も月頃(ごろ)しつくさせ給(たま)へれば、今(いま)はいかゞすべきと思(おぼ)し嘆(なげ)き。さるはおとゝしよりは、御封なども例(れい)の大臣(おとど)の定(さだ)めに得させ給(たま)へど、くに<”の守(かみ)もはか<”しくすがやかに奉(たてまつ)らばこそあらめと、いとおしげなり。御(おん)心地(ここち)いみじうならせ給(たま)へば、此(こ)の姫君(ひめぎみ)二(ふた)所(ところ)蔵人(くらんど)少将(せうしやう)とをなめすへて、北(きた)の方(かた)に聞(き)こえ給(たま)ふ。己(おのれ)なくなりなば、いかなる振舞(ふるまひ)どもをかし給(たま)はんずらん。世(よ)の中(なか)に侍(はべ)りつる限(かぎ)りは、とありともかかりとも、女御(にようご)后(きさき)と見(み)奉(たてまつ)らぬやうはあるべきにあらずと、思(おも)ひとりてかしづき奉(たてまつ)りつるに、命(いのち)堪(た)えずなりぬれば、いかゞし給(たま)はんとする。今(いま)の世(よ)の事(こと)とていみじき御門(みかど)の御むすめや。太政(だいじやう)大臣(だいじん)のむすめといへど、皆みやづかへに出(い)で立(た)ちぬめり。此(こ)の君達(きんだち)をいかにほしと思(おも)ふ人(ひと)多(おほ)からんとすらむな。それはたゞこと<”ならず。をのがための末の世(よ)のはぢならんと思(おも)ひて、男(をとこ)にまれ、何(なに)の宮(みや)、かの御方(かた)よりとて事(こと)ようかたらひよせては、故とのの何(なに)とありしかばかかかるぞかしと心(こころ)をつかひしかばなどこそは、世(よ)にも言(い)ひ思(おも)はめ。はゝとておはするか人(ひと)、はた此(こ)の君達(きんだち)の有様(ありさま)をはかばかしう後見(うしろみ)もてなし給(たま)ふべきにあらず。などて世にありつる折、かみにもをのがある折さきにたて給(たま)へと祈(いの)り請(こ)はざりつらんと思(おも)ふが悔(くや)しき事(こと)。さりとて尼(あま)になし奉(たてまつ)らんとすれば、人(ひと)ぎゝ物(もの)ぐるをしきものから、怪(あや)しの法師(ほふし)の具(ぐ)共(ども)になり
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給(たま)はんずかし。哀(あは)れに悲(かな)しきわざかな。麿(まろ)が死(し)なん後(のち)、人(ひと)笑(わら)はれに人(ひと)の思(おも)ふばかりの振舞(ふるまひ)有様(ありさま)をきて給(たま)はゞ、必(かなら)ずうらみ聞(き)こえんとす。夢(ゆめ)<まろがなからん世(よ)の面(おもて)ぶせ。まろを人(ひと)に言(い)ひ笑(わら)はせ給ふなよなど泣く<申し給(たま)へば、大姫君(おほひめぎみ)・小姫君(こひめぎみ)、涙(なみだ)をながし給(たま)ふも疎(おろ)かなり。たゞあきれておはす。北(きた)の方(かた)もいらへ給(たま)はん方もなく、たゞよゝと泣き給(たま)ふ。
まつぎみの少将(せうしやう)などを、取(と)り分(わ)きいみじき物(もの)に言(い)ひ思(おも)ひしかど、位(くらゐ)もかばかりなるを見置きて死ぬる事(こと)、われにをくれてはいかゞせんとする。たましゐあればさりともとは思(おも)へども、いかにせんとすらんな。いでや、世にあり煩(わづら)ひ、官(つかさ)位(くらゐ)人(ひと)よりは短(みじか)し。人(ひと)と等(ひと)しくならんなど思(おも)ひて、世(よ)にしたがひ、物(もの)おぼえぬ追従(ついしょう)をなし、なは得うちしなどをば、世(よ)に片時(かたとき)あり廻(めぐ)らせじとす。其の定(さだ)めならば、たゞ出家(しゆつけ)して山林に入りぬべきぞなど泣く<言(い)ひつゞけ給(たま)ふを、いみじう悲(かな)しと思(おも)ひ惑(まど)ひ給(たま)ふ。げに理(ことわり)に悲(かな)しとも疎(おろ)かなり。中納言(ちゆうなごん)殿(どの)哀(あは)れにきゝ惑(まど)ひ給(たま)ひて、何(なに)かかくは思(おぼ)しつゞくる。げに皆さる事(こと)共(ども)には侍(はべ)れど、などてかいと殊(こと)の外(ほか)には誰(たれ)も思(おも)はせんなどいみじう泣き給(たま)へば、君(きみ)をこそは年(とし)頃(ごろ)子のやうに思(おも)ひ聞(き)こえ侍(はべ)りつれど、とかくわれも人(ひと)もはか<”しからでやみぬる事(こと)の、哀(あは)れに口(くち)惜(を)しき事(こと)、道雅を猶(なほ)よく言(い)ひをしへ給(たま)へなど万(よろづ)に言(い)ひつゞけ泣き給(たま)ふ。一品宮・一宮も、此(こ)の御(おん)心地(ここち)をいかに<と思(おぼ)し嘆(なげ)く程(ほど)に、
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正月はつかあまりになれば、世(よ)には司召(つかさめし)とて、むま車(くるま)のをとも繁(しげ)く、殿(との)ばらの内(うち)に参(まゐ)り給ふなども聞(き)こゆれば、哀(あは)れにいみじ。
おほ姫君(ひめぎみ)は只今(ただいま)十七八ばかりにて、御ぐしこまやかにいみじう美(うつく)しげにて、たけに四五寸ばかりあまり給(たま)へり。御かたち有様(ありさま)、あいぎやうづきけぢかうらうたげに、いろあひなどいみじう美(うつく)しうて、しろき御衣(ぞ)共(ども)の上(うへ)に、かうばいのかたもんの織物(おりもの)を着給(たま)ふて、濃き袴(はかま)を着給(たま)へる、哀(あは)れにいみじう美(うつく)しげなり。中姫君(ひめぎみ)十五六ばかりにて、おほ姫君(ひめぎみ)よりは少(すこ)しおほきやかにて、いとしうとくに物(もの)<しう、あなきよげの人(ひと)やと見(み)え給(たま)ひて、御ぐしはたけに三寸ばかり足らぬ程(ほど)にて、いみじうふさやかに頼(たの)もしげに見(み)えたり。いろいろの御衣(ぞ)なよゝかに皆重(かさ)なりたる、朔日(ついたち)の御装束(さうぞく)共(ども)のなえたる程(ほど)と見(み)えたり。いみじう哀(あは)れに美(うつく)しげなる御かたちどもに、はゝ北(きた)の方(かた)さざやかにおほどかなる様(さま)にて、只今(ただいま)廿余ばかりにぞ見(み)え給(たま)ふ。それも又(また)いと清(きよ)げにておはす。蔵人(くらんど)の少将(せうしやう)いといろあひ美(うつく)しう、かほつきよげにあべき限(かぎ)り、ゑに書きたる男(をとこ)の様(さま)して、香(かう)にうす物(もの)のあをき襲(かさ)ねたるかりあをに、濃紫(こむらさき)のかたもんの指貫(さしぬき)着て、くれなゐの打衣(うちぎぬ)などぞ着給(たま)へる。いろあはひ何(なに)となくにほひ給(たま)へるに、ましていたう泣き給(たま)へれば、面(おもて)赤(あか)み給(たま)へり。
帥(そち)殿(どの)もかたち・身のかた、世(よ)の上達部(かんだちめ)にあまり給(たま)へりとまでいはれ給(たま)へるが、年(とし)頃(ごろ)の御物(もの)思(おも)ひにふとりこちたうおはしましつるを、此(こ)の月頃(ごろ)悩(なや)み給(たま)ひて、やゝ打(う)ち細(ほそ)り
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給(たま)へるが、いろあひなどのさらにかはり給(たま)はぬをぞ、人々(ひとびと)恐(おそ)ろしき事(こと)に聞(き)こゆる。此(こ)の姫君(ひめぎみ)達(たち)のおはすれば、忝(かたじけな)がりて、御烏帽子(えぼうし)引(ひ)き入(い)れて臥(ふ)し給(たま)へり。わかやかなる女房(にようばう)四五人(にん)ばかり、うすいろのしびらども、かごとばかり引(ひ)き結(ゆ)ひ付(つ)けたり。何事(なにごと)もしめり哀(あは)れにおかし。つゐに正月廿九日(にち)に失(う)せ給(たま)ひぬ。御年(とし)卅七にぞおはしける。此(こ)の姫君(ひめぎみ)達(たち)、少将(せうしやう)などさりともと思(おぼ)しけるに、あさましう物(もの)もおぼえ給(たま)はず。たゞをくれじ<と泣(な)き惑(まど)ひ給(たま)へど、かひある事(こと)ならばこそあらめ。いといみじうあはれとも疎(おろ)かなり。只今(ただいま)いとかくしもおはしますまじき程(ほど)に、かくはかなき様(さま)になりぬるは、年(とし)頃(ごろ)さりともの御頼(たの)みに、万(よろづ)心(こころ)のどかに思(おぼ)し渡(わた)りけるを、中宮(ちゆうぐう)の若宮(わかみや)いま宮(みや)さしつゞきて、月日(ひ)のごとくにてひかり出(い)で給(たま)へるに、すべて筋(すぢ)なう今(いま)はかうにこそ思(おぼ)しつるに、御やまひもつき御命(いのち)もつゞめてげるにや。
此(こ)の殿(との)の君達(きんだち)はさらなり。中納言(ちゆうなごん)や頼親(よりちか)の内蔵頭(くらのかみ)、周頼の中務(なかつかさ)大輔(たいふ)など言(い)ふは、此(こ)の御はらからども、哀(あは)れに思(おも)ひ嘆(なげ)き給(たま)へり。一品宮・一宮などの御気色(けしき)も疎(おろ)かなるべきにもあらず。思(おも)ひ遣(や)るべし。哀(あは)れにいみじきなり。いとど言(い)ふかひなくてはなどぞ。人(ひと)も聞(き)こえける。中納言(ちゆうなごん)いとど世(よ)の中(なか)を憂き物(もの)に思(おぼ)したるにつけても、僧都(そうづ)の君(きみ)と打(う)ち語(かた)らひ給(たま)ふつゝ、猶(なほ)世(よ)を捨(す)てまほしうのみ思(おぼ)し語(かた)らひ聞(き)こえ給(たま)ふ。憂き
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世(よ)のなかに、今(いま)はたゞ。みづからの事(こと)になりぬる心地(ここち)のみすれば、いかにせましと思(おぼ)すに遠資がむすめのはらの女(をんな)君達(きんだち)のあはれさに万(よろづ)をえ捨て給(たま)はぬ。あはれなり。
小一条(こいちでう)の中の君(きみ)と聞(き)こゆるは、宣耀殿(せんえうでん)の御おとうとの君(きみ)、殿(との)も上(うへ)もともかうもなさで失(う)せ給(たま)ひにしかば、いかで女御(にようご)殿(どの)におとらぬ様(さま)の事(こと)をなど思(おぼ)しかまへて、東宮(とうぐう)のおとうとの帥(そち)の宮に聞(き)こえつげ給(たま)へりしかば、南院(ゐん)にむかへ給(たま)へりしかど、年(とし)月にそへて、御志(こころざし)浅(あさ)うなりもて行(い)きて、和泉守(いづみのかみ)みちさだがめを覚(おぼ)し騒(さわ)ぎて、此(こ)の君(きみ)をば殊(こと)の外(ほか)に思(おぼ)したりしかば、ゐ煩(わづら)ひて小一条(こいちでう)のをば北(きた)の方(かた)の御もとにかへり給(たま)ひにしぞかし。されば東宮(とうぐう)も、宣耀殿(せんえうでん)も、此(こ)の事(こと)を我がくち入れたらましかば、いかにきゝにくからまし。知らぬ事(こと)なれば、心(こころ)安(やす)しとぞ思(おぼ)し宣(のたま)はせける。御さいはひ同(おな)じ御はらからと見(み)え給(たま)はず。いづみをば、故弾正宮(みや)もいみじき物(もの)に思(おぼ)したりしかば、かく帥(そち)殿(どの)もうけとり思(おぼ)すなりけり。故関白(くわんばく)殿(どの)の三君帥(そち)の宮(みや)の上(うへ)も一条(いちでう)辺(わた)りに心(こころ)得ぬ御様(さま)にてぞおはする。又(また)小一条(こいちでう)の中君もいかゞとぞ人(ひと)推(お)し量(はか)り聞(き)こゆめる。斯(か)かる程(ほど)に、六条(ろくでう)の宮(みや)も失(う)せ給(たま)ひにしかば、左衛門(さゑもん)の督殿(どの)ぞ万(よろづ)思(おぼ)し扱(あつか)ひ聞(き)こえ給(たま)ふも本意(ほい)あり。あはれなる御事(こと)なり。
まこと花山(くわさん)の院(ゐん)かくれさせ給(たま)ひにしかば、一条(いちでう)殿(どの)の四君は、たかづかさ殿(どの)に渡(わた)り給(たま)ひにしを殿(との)の上(うへ)の御消息(せうそこ)度々(たびたび)ありて、むかへ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、姫君(ひめぎみ)の御具(ぐ)になし聞(き)こえ給(たま)ひに
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しかば、殿(との)万(よろづ)に思(おぼ)しをきて聞(き)こえ給(たま)ひし程(ほど)に、御志(こころざし)いとどまめやかに思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ふ。家司(けいし)なども皆定(さだ)め誠(まこと)しうもてなし聞(き)こえ給(たま)へば、いとあべい様(さま)にあるべかしうて過(す)ぎさせ給(たま)ふめれば、院(ゐん)の御ときこそ御はらからたちも知(し)り聞(き)こえ給(たま)はざりしが。此(こ)の度(たび)はいとめでたくもてなし聞(き)こえ給(たま)へりけり。
中宮(ちゆうぐう)の若宮(わかみや)、いみじういと美(うつく)しうてはしりありかせ給(たま)ふ。今年(ことし)は三(み)つにならせ給(たま)ふ。四月には、殿(との)、一条(いちでう)の御ざしきにて若宮(わかみや)に物(もの)御覧(ごらん)ぜさせ給(たま)ふ。いみじうふくらかに白(しろ)う愛敬(あいぎやう)づき美(うつく)しうおはしますを、斎院(ゐん)の渡(わた)らせ給(たま)ふ折、大(おほ)殿(との)これはいかゞとて若宮(わかみや)を抱(いだ)き奉(たてまつ)り給(たま)ひて、御簾(みす)をかかげさせ給(たま)へれば、斎院(ゐん)の御こしのかたびらより。御あふぎをさし出(い)でさせ給(たま)へるは、見(み)奉(たてまつ)らせ給ふなるべし。かくて暮れぬれば、又(また)の日(ひ)、斎院(ゐん)より、
@ひかりいづるあふひのかげを見てしかば年(とし)へにけるも嬉(うれ)しかりけり W064。
御かへし、殿(との)の御(お)前(まへ)、
@もろかづら二葉(ふたば)ながらも君(きみ)にかくあふ日(ひ)や神(かみ)の験(しるし)なるらん W065
とぞ聞(き)こえさせ給(たま)ひたる。若宮(わかみや)・いま宮(みや)打(う)ちつゞきはしりありかせ給(たま)ふも、おぼろげの御功徳(くどく)の御身と見(み)えさせ給(たま)ふ。中宮(ちゆうぐう)を殿(との)はいみじみやむごとなき物(もの)に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)へるも、理(ことわり)にこそ、
かくて東宮(とうぐう)の一の宮(みや)をば式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)とぞ聞(き)こえさするを、広幡(ひろはた)の中納言(ちゆうなごん)
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は今(いま)は右のおとどぞかし。承香殿の女御(にようご)の御弟(をとゝ)の中姫君(ひめぎみ)に、此(こ)の宮(みや)むこどり奉(たてまつ)り。いでや古体(こたい)にこそなど思(おも)ひ聞(き)こえとせ給(たま)ふに、それさしもあらずはと、目安(やす)き程(ほど)の御有様(ありさま)なり。殿(との)も殊(こと)にわかくよりおぼえこそおはせざりしかど、めでたうののしり給(たま)ひし閑院(ゐん)の大将(だいしやう)は大納言(だいなごん)にてこそは失(う)せ給(たま)ひにしが。此(こ)の殿(との)はかく命(いのち)長くて、大臣までなり給(たま)へれば、いとめでたし。式部(しきぶ)卿(きやう)の宮(みや)、さばかりにやと思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ひしかども、いと思(おも)ひの外(ほか)に女君(をんなぎみ)も清(きよ)げにようおはし、御(おほん)心(こころ)ざまなどもあらまほしう、何事(なにごと)も目安(やす)くおはしましければ、御なからひの志(こころざし)、いとかひある様(さま)なれば、只今(ただいま)は女御(にようご)をまた無き物(もの)に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひしちゝおとど此(こ)の宮(みや)の上(うへ)を、いみじき物(もの)に思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)へり。宮(みや)もいみじう御心(こころ)の本躰たはれ給(たま)ふけれど、此(こ)の女君(をんなぎみ)を只今(ただいま)はいみじう思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)へれば、いと思(おも)はずなる事(こと)にぞ、人々(ひとびと)聞(き)こえける。
彼の帥(そち)殿(どの)のおほ姫君(ひめぎみ)にはたゞ今の大(おほ)殿(との)の高松(たかまつ)殿(どの)ばらの三位中将(ちゆうじやう)かよひ聞(き)こえ給(たま)ふとぞ言(い)ふと、世(よ)に聞(き)こえたる。あしからぬ事(こと)なれど、殿(との)の思(おぼ)しをきてしにはたがひたり。中将(ちゆうじやう)いみじういろめかしうて、万(よろづ)の人(ひと)たゞに過(す)ぐし給(たま)はずなどして、御かたがたの女房(にようばう)に物(もの)宣(のたま)ひ、子をさへ産ませ給(たま)ひけるに此(こ)の御あたりにおはし初(そ)めて後(のち)はこよなき御心(こころ)もちゐなれど、猶(なほ)おり<の物(もの)のまぎれぞ、いと心(こころ)づきなうおはしける。哀(あは)れに志(こころざし)のあるまゝに万(よろづ)に
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扱(あつか)ひ聞(き)こえ給(たま)へば、つかうまつる人(ひと)も打(う)ち泣き、女君(をんなぎみ)も恥(は)づかしきまで思(おぼ)しけり。はゝ北(きた)の方(かた)もとより中の君(きみ)をぞいみじく思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)へりければ、万(よろづ)に此(こ)の御ためには疎(おろ)かなる様(さま)に見(み)え給(たま)ひける。中君をば中宮(ちゆうぐう)よりぞ、度々(たびたび)御消息(せうそこ)聞(き)こえ給(たま)へど、昔(むかし)の御遺言(ゆいごん)の片端(かたはし)よりやぶれんいみじさに、ただ今(いま)思(おぼ)しもかけざめれど、目安(やす)き程(ほど)の御振舞(ふるまひ)ならば、さやうにやと、心(こころ)苦(ぐる)しうぞ見(み)え給(たま)ひける。あはれなる世(よ)の中(なか)は、寝(ぬ)るが内(うち)の夢(ゆめ)に劣(おと)らぬ様(さま)なり。あさましき事(こと)は帥(そち)の宮の思(おも)ひもかけざりつる程(ほど)に、はかなう煩(わづら)はせ給(たま)ひて、失(う)せ給(たま)ひにしこそ、猶(なほ)<哀(あは)れにいみじけれ。
内(うち)の一の宮(みや)御げんぶくせさせ給(たま)ひて、式部(しきぶ)卿(きやう)にと思(おぼ)せど、それは東宮(とうぐう)の一宮さておはします、中務(なかつかさ)にても二の宮(みや)おはすれば、只今(ただいま)あきたるまゝに、今上の一の宮をば、帥(そち)の宮(みや)とぞ聞(き)こえける。御才(ざえ)深(ふか)う心(こころ)深(ふか)くおはしますにつけても、上(うへ)は哀(あは)れに人(ひと)知れぬ私物(わたくしもの)に思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひて、万(よろづ)に飽(あ)かずあはれなるわざかな。かうは思(おも)ひしとのみぞ打(う)ちまもり聞(き)こえさせ給(たま)へる。御志(こころざし)のあるまゝにとて、一品(いつぽん)にぞなし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。万(よろづ)を次第(しだい)のまゝに思(おぼ)し召(め)しながら、はか<”しき御後見(うしろみ)もなければ、其(そ)の方(かた)にもむげに思(おぼ)し絶えはてぬるにつけても、かへすがへす口(くち)惜(を)しき御宿世(すくせ)にもありけるかなとのみぞ、悲(かな)しう思(おぼ)し召(め)しける。中宮(ちゆうぐう)は御気色(けしき)を見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、ともかくも世に
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おはしまさん折は、猶(なほ)いかでか此(こ)の宮(みや)の御事(こと)をさもあらせ奉(たてまつ)らばやとのみぞ、心(こころ)苦(ぐる)しう思(おぼ)し召(め)しける。此(こ)の頃(ごろ)となりては、いかで<疾くおりなばやと思(おぼ)し宣(のたま)はすれば、中宮(ちゆうぐう)物(もの)を心(こころ)細(ぼそ)う思(おも)ほしたり。されど美(うつく)しくさしつゞかせたまへる御有様(ありさま)をぞ頼(たの)もしうめでたき事(こと)に世(よ)の人(ひと)申しける。