『幕末の江戸風俗』校訂余話


たぶさ

『歴史の教訓』(東亞堂書房。大正四年)所収「五十年前」36ページ1行目に
大髷(おほたぶさ)
とある。
『江戸沿革私記』(明治22年8月26日)10ページ8行目に
大髷(おほたぶさ)
とある。
『太陽』第四巻第七号(明治31年4月5日)所収「思ひ出る儘の記」146ページ本文2行目に
大髻(おほたぶさ)の大髷(まげ)
とある。
『東京日日新聞』明治34年1月1日十九面「江戸の暮と正月」に
大髻(おほたぶさ)
とある。
前二者と後二者、どちらが正しいか。
『日本国語大辞典』には、
たぶさ【髻】
まげ【髷】
とある。
『新大字典』には、
【髻】①もとどり。たぶさ。髪をたばねる。くしあげ。②竈の神。
【髷】まげ。わげ。もとどりのあまりをたばねて結ったもの。
とある。
これにより、前二者は「大髻」と訂正した。文庫本28ページ後から2行目と200ページ9行目である。







『太陽』第四巻第八号(明治31年4月20日)所収「思ひ出る儘の記」146ページ本文2行目に
兵杖(へいじやう)
とある。
普通は「兵仗」と書くのではないかと思い、『新大字典』を見ると、
【仗】ほこ。つわもの。うちもの。武器の総称/つえ。杖に通ず/守り/よる。頼む。/持つ。
【杖】①つえ。つえをつく/うつ。たたく。むちうつ/五刑の一/ほこの柄。②とる。もつ。よる。
とある。
【仗】に「つえ」の意味はあるが、【杖】に「武器」の意味はない。よって、ここは「兵仗」と訂正した。文庫本55ページ7行目。






丹波山

『文章世界』四巻十一号(明治42年8月15日)所収「兵馬倥偬の人」16ページ上段から下段にかけて、
大山の(相州)後ろの丹波山
とある。
日本に「丹波山」という山はないのではないか。山梨県東北部に「丹波山(たばやま)村」という所があるから、この辺に「丹波山」というのがあったかもしれないが、形跡は残っていない。
そもそも大山と丹波山村とでは50キロ以上と離れすぎている。大山の「後ろ」は10キロぐらい離れた「丹沢山」とするのが常識だろう。
筑摩書房・明治文学全集89「明治歴史文学集(一)」では、『文章世界』そのままに「丹波山」としているが、間違いである。
文庫本104ページ3行目。




つぎはぎ


『みつこしタイムス』第八巻第十二号(明治43年11月)掲載「江戸時代の手習師匠」29ページに、
継(つ)ぎ剝(は)ぎ
とある。
しかし、国語辞典には「継ぎ接ぎ」とある。
「はぐ」には2種類ある。
【剝ぐ・禿ぐ】は、「はがす」「はぎとる」。
【接ぐ・綴ぐ】は、「つなぎあわせる」。
「つぎはぎ」とは、「つなぎあわせたり、はぎとったり」という意味ではなく、「継ぎ合わせたり、はぎ合わせたりすること」なので、ここは「継ぎ剝ぎ」ではなく、「継ぎ接ぎ」とすべきである。
文庫本166ページ9行目。




生前


『国学院雑誌』第十七巻第二号(明治44年2月15日)掲載「江戸時代の文教」182ページに、
諸君の御生前から筆を執つて、居るだらうと思ふ
とある。
意味するところはわかるのだが、よく考えるとおかしな表現だ。
「生前」とは、死んだ人について使う言葉。
『日本国語大辞典』「生きていた時。死ぬ前」
『広辞苑』「(亡くなった人が)生存していた時。存命中」
目の前の聴衆に向って「あなたたちが生きていた時」というのはオカシイ。
渋柿園が「あなたたちが生まれる前」と言いたいのだ、ということは分かる。しかし、どうも落ち着かないので、
諸君の御誕生前から
と修正した。文庫本168ページ本文1行目。






ため


『江戸沿革私記』(明治22年8月26日)10ページ7行目に
大に偸惰の風を驕(た)めたり
とある。
意味は「今までの、安楽を求めて怠ける風を矯正した(改めた、改善した)」ということ。
ところが、『新大字典』で「驕」を見ると、
①高さ六尺の馬/廼馬/馬が疾走する/さかんなさま/おごる(動)。ほこる(動)。あなどる。たかぶる/馴れない/ほしいままにする。放縦/寵愛する/口の短い犬/あざむく。
②馬の行くさま/ほしいまま。
とあって、該当する意味がない。
「驕める」は「矯める」の間違いであろう。
文庫本200ページ8行目。




2018年8月17日公開

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